蒙古来襲

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1名無しさん
当時の世界、日本はどうだったのでしょうか.
2日本@名無史さん:2001/01/20(土) 13:35
少し前にリーグニッツの戦いで、ドイツ、ポーランド諸侯連合軍は
モンゴルに鎧袖一触で敗れ去った、少し後の元寇では、文永の役では、
鎌倉武士の抵抗が元軍に九州上陸後一日での撤退を決意させ、弘安の
役では、台風の時期まで本格的上陸を許さなかった。
アインジャールートの戦いでマムルーク朝のバイバルスは、モンゴル軍
を破って撃退した。
3世界@名無史さん:2001/01/20(土) 13:42
猛虎7番勝負 第7戦
タイガーマスク X−O エル カネック
4世界@名無史さん:2001/01/20(土) 14:23
なんで昔の人は遠く朝鮮半島から元が侵攻してくるしてくるのを
知ったのですか?
5世界@名無史さん:2001/01/20(土) 14:33
侵攻してくるしてくるのを知ったのはそりゃ当時も外交ってもんが
あったからですよ。
それに朝鮮半島ならそんなに遠くはないよ。
6日本@名無史さん:2001/01/20(土) 16:36
>>4
文永の役以前から、高麗から元(当時はまだ蒙古)への服属を進める
国書を携えた使者が来たから。
7名無しさん@1周年:2001/01/20(土) 20:35
ルイ9世の十字軍があった頃か?
8世界@名無史さん:2001/01/20(土) 21:12
>>1 >>7
つーか、人にいちいち聞かねえで年表見ろよ
9地球@名無史さん:2001/01/24(水) 12:50
モンゴルがエルサレムを制圧してたとしたら、
十字軍と戦っても負けなかっただろうな
10世界@名無史さん:2001/01/24(水) 12:54
バイバルス以下の諸マムルーク朝カリフたちは
イラク方面からのモンゴル軍、地中海東岸からの十字軍の両軍を
ものの見事に撃退していたよね。
11世界史@名無史さん:2001/01/24(水) 13:01
奴隷王萌え。マムルーク朝って妙に強えぇな。
12世界@名無史さん:2001/01/24(水) 13:30
モンゴルで内紛は必然だったから、
帝国の急速な瓦解も必然。
あとは、偉大なロシアに次々と支配されていった。
13世界@名無史さん:2001/01/24(水) 14:33
モーホ来襲だったら怖いよね。
14世界@名無史さん:2001/01/24(水) 15:04
>>10
揚げ足取りで悪いが
マムルーク朝カリフ→マムルーク朝スルタン
だな。
マムルーク朝の君主はアッバース朝カリフの末裔を
カイロでお飾りのカリフに立て、
その承認でスルタンとしての支配の正当性を確保した。
カリフとスルタンじゃ全然別物だよ。
15世界@名無史さん:2001/01/24(水) 15:22
14>
それって南北朝時代の足利がやったようなことか。
16世界史@名無史さん:2001/01/24(水) 16:03
スルタン=カリフ制は日本の幕府政治に酷似している、とは
よく言われる話だな。
17名無し:2001/01/24(水) 16:09
バグダットが陥ちたとき、アッバース・カリフは自決したのですか?それとも首チョンパに?
生かしておいても問題になるだけだったかもしれませんが。
18世界@名無史さん:2001/01/24(水) 17:44
>>17
たしか皮袋に縫い込められてその上を騎兵一団に踏ませて殺したんじゃ
ないのかな。高貴な人は地面に血を流さずに殺すというやつね。
19世界@名無史さん:2001/01/24(水) 19:11
何はともあれ大河ドラマのOPはひどすぎる…一瞬コーエーの
「蒼き狼と白き雌鹿」の新作か?と思ったのは私だけ?
20世界@名無史さん:2001/01/25(木) 12:21
派手でいいじゃん。とりあえず21世紀初の大河ドラマってことで
奮発したんでしょ
あれの、水没してる博多の土塁の次に出てくるのって、
レグニッツァ(ワールシュタット)砦?
21異邦人さん:2001/01/25(木) 13:19
>>16
そうかなぁ?
スルタンが実権をにぎってカリフを飼い殺しにしてる状態なら
似てないこともないけど、スルタン=カリフ制となると似てると
は思えんけどなあ。どの辺が似てると思う?

22世界@名無史さん:2001/01/25(木) 14:00
祭政分離ってところじゃない?
23世界@名無史さん:2001/01/25(木) 14:51
>>19
そうだね。人物や馬くらいは、実写を使って合成すればいいのにね。
去年のやつとかは、なかなか良く出来てたと思ったけど。
24世界@名無史さん:2001/01/25(木) 18:36
スルタン=カリフ制はオスマン帝国の君主(スルタン)が
俗権の行使者であるスルタンであると同時に
宗教上の権威であるカリフである、とする制度。
その起源は16世紀初頭にマムルーク朝がオスマン帝国に滅ぼされた際、
カイロにいたアッバース朝末裔の「カリフ」が
オスマン帝国のスルタンにカリフ権を「禅譲」したことにあるとされる。
ただ、実際には19世紀に君主権の再興をはかるスルタンが
帝国内外のイスラム教徒への影響力を高めるために
「創作」した伝説であったらしい。

ということで「スルタン=カリフ制」を日本で比すなら
明治維新の王政復古と国家神道の普及にあたるかな。
2524:2001/01/25(木) 18:43
スレにあんまり関係ない話で申し訳ない。

結局マムルーク朝時代のアッバース朝カリフや
オスマン帝国のスルタン=カリフに
ムハンマド〜正統4カリフ〜ウマイヤ朝〜アッバース朝と続く
「預言者のカリフ(代理人)」の正統性はなくなってしまっていたとは思う。
モンゴルのバグダート破壊はイスラム世界の大転機と言えるだろうね。
26蒙古放送BBC:2001/01/25(木) 23:37
こちらは蒙古高原BBC放送です。
ただいまから日本語放送をお送りします。

ホラタイはチューリップを火曜日に買う・・・・坂の魚は拳骨がお好き・・・・
秋の日のヴィオロンの響き・・・・

・・・くりかえします。

・・・秋の日のヴィオロンの響き・・・・われひたぶるにうら悲しい・・・
27名無しさん:2001/01/26(金) 00:40
>>24
なぜスルタン=カリフ制を明治維新に結び付けるのかが理解できない。
日本の天皇は維新前も維新後も、カリフではあってもスルタンとは言えない。
明治維新が17〜18世紀のヨーロッパのような絶対王政を目指したのなら話は別だが。
28世界@名無史さん:2001/01/26(金) 00:46
>>13
10万のモーホの大軍…確かにコワい。
29世界@名無史さん:2001/01/26(金) 01:27
女は殺せ!男は犯せ! ・・・イヤァー!!!!!
3024:2001/01/26(金) 04:22
>>27
そりゃ無理矢理当てはめたからねえ。
ふつうオスマン帝国で明治維新と比較されるのはタンジマートですね。

明治維新は理念上「王政復古」でしょ?
スルタン=カリフ制も実質的な君主独裁が達成され得たのは
せいぜい19世紀末のアブデュルハミト2世くらいのもので、
それ以前のスルタンたちは官僚に実権を握られていた。
そのアブデュルハミトも青年トルコ人革命で権力を奪われている。
結局オスマン帝国のスルタン=カリフも「お飾り」だった面は大きい。

たびたびスレ違いで悪い。
31名無しさん:2001/01/26(金) 15:55
>>30
それをいったら、ヨーロッパの市民革命だって理念上は古代への回帰。
32異邦人さん:2001/01/26(金) 19:51
私が>>21で余計な突込みを入れたので話しが脱線してしまい申し訳ないです。

今のところ>>16氏の反論も無いようですから、スレの本筋に戻していただけない
でしょうか。
33なんじゃこら:2001/01/26(金) 20:37
1 : 左翼の筆下ろし (6)  2 : 朝鮮が世界にした事 (3)  3 : 鮮人による欺瞞の数々(1)  4 : サヨクの愉快な仲間たち、ついでに近況報告 (9)  5 : 主体思想をみんなで覚えよ! (5)  6 : 何故日本人と朝鮮人はこんなにも顔が違うのか? (39)  7 : 地球分割計画 (17)  8 : 共産主義は (78)  9 : 今、日本で一番優れた歴史学者は誰? (48)  10 : 南京大?虐殺について (31)  11 : 第二次太平洋戦争開戦の詔 (29)  12 : 厨房作家、田中芳樹は歴史を正確に知っているか? (519)  13 : あやめちゃんファンクラブ!!!!! (269)  14 : 蒙古来襲 (28)  15 : ☆世界史何でも質問箱☆ (549)  16 : なぜ台湾は親日で、韓国は反日なのか (228)  17 : なんで白人って偉いと思ってるの? (213)  18 : フリーメイソンって何? (111)  19 : 本来北朝鮮は中国の一部、統一反対! (2)  20 : 韓国への謝罪、慰謝料の支払い

荒らし襲来
3424:2001/01/26(金) 21:25
>>31
ヨーロッパのことは触れてませんけど?

>>32
ああ、すまん。ムキになって反論しちゃダメだね。
たぶん>>16の人が言ってるスルタンとカリフが日本に云々ってのは、
セルジューク朝からマムルーク朝期にイスラム世界各地に乱立した
諸「スルタン」がカリフによってスルタンに任命されるという
手続きを踏んだことを日本の天皇と将軍の関係にたとえるよね、
という話がしたかったんだと思うよ。
無論、それは「スルタン=カリフ制」ではないが。

さて…本題に戻したいのだが…
誰か陳興道とかそのあたりについて講釈してくれないかな。
東南アジア方面は全然知らんので。
35世界@名無史さん:2001/01/26(金) 21:34
ジャワ遠征に行ったモンゴル(元)軍、シンガーサリ朝を倒そうとしたのだが、遠征軍が海にいる間に内乱が起こって自滅してしまった。
36名無しさん:2001/01/26(金) 22:01
蒙古というよりも元だろう.
指揮官は元だが、兵士は支邦人と朝鮮人だ.
37日本@名無史さん:2001/01/27(土) 13:10
お馬さんに乗ってたんだろうかね。>元の指揮官
38サルベージ:2001/02/07(水) 22:10
文永・弘安の時に来たモンゴル軍て、馬も連れて来てたのかな?
「蒙古襲来絵詞」に出てくるのって、歩兵ばっかだったように記憶してるんだけ
ど。あれって、>>36が言うようにモンゴル人は指揮官だけだったの?
39世界@名無史さん:2001/02/07(水) 23:40
指揮官クラスでも洪茶丘みたいなのが交じってるからなあ。
たしか洪茶丘って元に亡命した高麗人だったんでしょ?
40異邦人さん:2001/02/08(木) 03:08
女真族の部隊も来てたらしいっすね。馬の件は判りませんけど。
41世界@名無史さん:2001/02/08(木) 19:04
海外遠征は、馬を運べなかったのが痛かった。
42あやめ:2001/02/28(水) 18:46
>34
陳興道は名を國峻といい陳の太宗の甥に当たり、後に興道王に封ぜられたので陳
興道と通称されるようになったのです。1257A.D.のモンゴルの最初の侵入に北辺
を防守したのを手始めに、1282の第2回の侵入では脱驩の50万の軍を迎え、清野
の策をもって苦しめ85には反攻して萬劫にこれを破りました。87の侵攻では白藤
江に元の水軍を覆滅し征交趾行省平章の奥魯赤と元帥の烏馬児を捕らえ、これら
の大功により89に大王に進封され1300病没後に仁武興道大王を追贈されました。
43酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/02/28(水) 19:06
蒙古人、漢人(当時の「南人」を含む)、女真人、高麗人を
皆殺しにせよ!神洲萬歳!御家人萬歳!
44酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/02/28(水) 19:08
北條時宗には、高麗征伐を実行してもらいたかった。
武士と比べれば、高麗人は勿論、蒙古兵も屁のようなもの。
45酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/02/28(水) 19:27
ただ、海戦と山岳戦では日本の方が上手でも、
大陸の平野ではやはり蒙古かな。
46世界@名無史さん:2001/03/01(木) 01:44
蒙古襲来絵詞にも馬に乗ってるのでてくるよ。鎧きて、馬に乗ってる蒙古人がのってたはず。
47世界@名無史さん:2001/03/01(木) 02:20
良く言われる事で
和弓とモンゴル弓で和弓は射程が長く威力があり
モンゴル弓は射程に劣る分速射性に優れていてコレで日本を苦しめた
とか言いますよね。
48>46:2001/03/01(木) 21:01
うんにゃ、あの絵詞は、現地でたたかった武士達が自分たちの功績を鎌倉に伝えて、少しでも恩賞をたくさんもらえるように、おおげさに描かせたものだよ。真実味はあまりない。
49世界@名無史さん:2001/03/02(金) 03:01
>>48
んー。でも、一人二人だよ?。全体の中で。
50世界@名無史さん:2001/03/02(金) 03:02
実際高級士官クラスは乗っててもおかしくないとおもうけど。
51酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/02(金) 11:28
対馬や壱岐の人達には元寇の際の強姦沙汰で蒙古人・支那人・
朝鮮人・満洲人(女真人)の血が混じってしまっているのかな?
52世界@名無史さん:2001/03/02(金) 11:29
それほど誇張した描きかたしてるかね?>蒙古襲来絵詞
53世界@名無史さん:2001/03/02(金) 13:25
>51
俺達ゃ皆混血だよ。へんな、煽り入れんなよ。
54世界@名無史さん:2001/03/02(金) 14:02
日本人ほど混血が進んでいる民族は世界でも稀なのでは?
日本民族というのは、要するに、中国・朝鮮・シベリア・東南アジアが全部混ざったものなんでしょ。
ひょっとしたら白人なんかも入ってるかもね。ヨーロッパから東進し続けてきて、ユーラシアの東端の日本列島にたどりついたとか。
55名無的発言者:2001/03/02(金) 14:16
モンゴル兵の強いところは、全員馬に乗れる、集団で戦う、弓を使う。
こんなもんかな。こんな軍隊と平原で戦えばアウトボクシングをされ
反撃も出来ないだろうな。現代で言えば戦車に小銃で刃向かうようなもん。
しかし、日本ではモンゴル軍の有利になる地形はなかった。
56世界@名無史さん:2001/03/02(金) 14:52
だからモンゴルじゃなくて朝鮮兵でしょ。
57世界@名無史さん:2001/03/02(金) 15:09
>55
そーゆのは関係ないよ。軍事的には元軍側が橋頭堡の確保に失敗したことが敗因。
また、よく言われる日本軍の戦術(一騎打ち等々)は初日でやめちゃってるよ。
橋頭堡の確保に失敗し、多大の損害を出した元軍が船に引き上げざるをえなくなり
暴風雨の為全滅てこと。
一般に思われている以上に日本側の戦術、戦力、軍事技術は優れていたのさ。
58世界@名無史さん:2001/03/02(金) 15:12
>>51
当時の壱岐・対馬の住民は皆殺しになったという話を聞いた事があります。
正確な資料では無いのですが。民間の伝承みたいなもので読みました。
5955:2001/03/02(金) 15:49
>56>57
だから日本ではモンゴルの戦術である騎馬戦術が出来なかったのは
日本の地形によると言ってるんだ。水田があり、少し走れば山がある。
こんな地ではモンゴル流の戦術は通用しない。だから夜襲を恐れ
船に閉じこもっているより仕方なかった。モンゴル流の戦術が通用
するのは大陸だけ、モンゴルはベトナムでも負けているのと違う。
日本の武士の名誉のために言っておくが、暴風のために勝ったのではないぞ。
当時の絵図を良く見てみろ。敵味方の鎧が全く違うだろ。
日本の鎧は相手の矢を通さないよ、引き換えモンゴルの鎧は皮鎧で
日本刀にかかれば一刀の下に引き裂かれる。神風のせいにするなよ。
60世界@名無史さん:2001/03/02(金) 16:22
だからモンゴル兵でなくて、大半は朝鮮・中国兵なの。
6155:2001/03/02(金) 16:41
>60
指揮官まで朝鮮、中国兵か?
62酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/02(金) 17:16
私はモンゴル・ラバーの方だが、当時の蒙古・元を
弁護するのは誤り。元寇ましてや文永の役の際には
指揮官はほとんどが蒙古人、兵士にも蒙古人の割合が高かった。
弘安の役では、南宋出身の支那人が多く狩り出されたが。
63酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/02(金) 17:19
ナポレオン1世のモスクワ遠征も、プロイセン兵など
ドイツ人が多く参加していたからといって、
ドイツ人によるモスクワ遠征になるか?
あくまで、フランス帝国によるモスクワ遠征。
64世界@名無史さん:2001/03/02(金) 17:45
兵の大半が朝鮮兵なら騎馬戦のやりようがない。
65世界@名無史さん:2001/03/02(金) 17:54
元軍が仮に九州を制圧しても瀬戸内海には命知らずの水軍が
おったし、そこから畿内に上陸しても楠正成ばりの悪党が
手ぐすねひいてまっており、なぶり殺しにされただろうから
神風はむしろ元にとっての神風だったと故山本七平はいってた。
66>>65:2001/03/02(金) 19:01
秀吉の朝鮮出兵もゲリラに手も足も出なかったしね。
6757:2001/03/02(金) 19:25
>55
元の敗因が騎馬戦術が使用の可否ではないといっているのだよ。日本側は元軍の侵攻を
予想して北九州一帯の御家人に警戒体制をとらせていた。壱岐、対馬を襲ったことは、
数日のうちに大宰府に届けられて軍を博多湾に集結している。監視、も有事即応体制も
できてたの、上陸戦で一番重要なのは船を降りる時、この時点で敵に叩かれるのが一番
弱い。事実、戦闘は砂浜及び内陸数キロ以内、大半は湾周辺なのよ、55の言う水田、山地
は関係ない。元軍の作戦は上陸後内陸に宿営陣地を構築しそこを根拠地にして、大宰府を
占領するというもの(日本側予測済み)上陸完了後の戦闘での敗因なら55の言うとうりに
なるが、それ以前の問題。
>ベトナム戦の失敗
戦闘前に暴風雨で難破したの。騎馬戦術は関係ない。


>日本の武士の名誉のために言っておくが、暴風のために勝ったのではないぞ。
当時の絵図を良く見てみろ。敵味方の鎧が全く違うだろ。
日本の鎧は相手の矢を通さないよ、引き換えモンゴルの鎧は皮鎧で
日本刀にかかれば一刀の下に引き裂かれる。神風のせいにするなよ

そんなことは、常識です。日本の軍事技術は優秀といっているだろ。
日本刀は馬ごと敵兵を切り裂いたんだよ。
一言たりとも、日本が「神風」で勝ったとは書いてないぞ。
海戦に無知な元軍の幕僚が夜間の船団での宿営をした為、海は昼と夜では別物
なんだよ。

6857:2001/03/02(金) 19:32
結論としては、元軍が「海」に無知なことが敗因。
69酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/02(金) 19:36
それプラス、御家人(主に九州と関東の武士)や水軍の底力。
70世界@名無史さん:2001/03/02(金) 20:34
プラス山岳型地形への無理解、侵攻地域に対する情報収集り欠如
71世界@名無史さん:2001/03/02(金) 20:39
プラス、日本側に、モンゴルに寝返るような
勢力の分裂がなかったこと。
72世界@名無史さん:2001/03/02(金) 20:40
+戦力差
鎌倉幕府の動員兵力は20万以上はあるはずだから、たかだか4.5マン
じゃ勝負にならんでしょう。
73世界@名無史さん:2001/03/02(金) 20:45
プラス、元軍(高麗が用意した)軍船が中古船とか多くて脆弱だった。
嵐に弱い。
74世界@名無史さん:2001/03/02(金) 20:49
プラス 蒙古の補給が貧弱。短弓の矢を一日で射尽くしちゃったそうだよ。
75世界@名無史さん:2001/03/02(金) 21:11
なんでも捕虜にした敵兵のうち、南宋兵は助けたけど
蒙古、高麗兵は皆殺しにしたらしいね。
76酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/02(金) 21:50
あれだけの事をした(又は行おうとした)のだから、
蒙古人・高麗人・(かつての金領に居住していた)「漢人
(漢民族のみならず、女真人など)」を打首に処するのは
当然の事。南人(南宋に居住していた漢人)は嫌々来たの
だから情状酌量の余地が有る。
77世界@名無史さん:2001/03/02(金) 22:50
日本はちゃんと敵が誰だか判ってたんだ。
78世界@名無史さん:2001/03/02(金) 23:20
これが2ch世界史板の実力なの?
悲しい・・・
79世界@名無史さん:2001/03/02(金) 23:28
>>78
自説をどうぞ
80世界@名無史さん:2001/03/03(土) 00:40
>>67日本刀は馬ごと敵兵を切り裂いたんだよ。
  
  日本刀にそんな真似は出来ません、後世の脚色です
  それに文永の役では博多を占領され日本軍は成す術がありませんでした。
 
81世界@名無史さん:2001/03/03(土) 01:02
てつはう、がかなり効いたらしいっすね。
82世界@名無史さん:2001/03/03(土) 01:20
>>79最近こう言う奴増えたよねえ
  スレの住人ヴァカにして自分だけ気持ち良くなってるやつ。
83世界@名無史さん:2001/03/03(土) 11:25
蒙古アゲ
84世界@名無史さん:2001/03/03(土) 11:47
79サンのレベルの高い御説を是非とも聞いてみたいなあ♪
85世界@名無史さん:2001/03/03(土) 11:48
79→78ね
86世界@名無史さん:2001/03/03(土) 12:08
78さん、俺は過去スレ読んでいたたけだが、こんな相手を茶化したようなレスで、自分のうっぷん晴らすなら、自説を披露してくれ。
犬の遠吠えみたいで、痛々しい。
87世界@名無史さん:2001/03/03(土) 12:28
あの78なんかほっといて元冠の話ししませんか?
具体的な戦闘に詳しい人もいるみたいですし。
88世界@名無史さん:2001/03/03(土) 18:14
あ?
89世界@名無しさん:2001/03/03(土) 19:21
馬ごと切り落とすなんてのは無理すぎるが(w
実際のところモンゴル軍の剣は日本刀で一撃も加えられると折れるくらい脆かったらしい。
切りあいを前提として作られた日本刀と
騎馬戦を重視して軽く作られた蒙古刀の差かな。

だから日本軍が繰り返した小船での夜襲はかなりの効果があった。
9078:2001/03/03(土) 20:02
遅れてスマソ、リーマンなもんで、寝てしまいました。

俺も詳しい訳じゃ無いけどおかしい点を幾つか。

>弓
モンゴル弓は短弓だけど材質がいいらしく有効射程は230〜270m
日本の長弓は当時180〜200m、室町後期に改良されて200〜230m

>地形
山岳戦はイランや四川で十分経験済み、川、田も南宋で経験済み
得意でなくとも不得意とわ言えない
特に襄陽では南宋の艦隊を破ってる(破ったのは漢人だけど)

>組織戦
御家人の集合隊なのに、訓練も無く組織戦てできるのか。

>動員兵力20万
そんなに動員できるのならなぜ、弘安の役の時6千足らずしか
集まらなかったのか。
第一日本の武士(雑兵含む)は常備軍じゃ無い。
戦国時代も戦争するのは農閑期だけ。
武器・食料も自分持ち、長期戦には耐えられない。

ただ、日本に来たのは15000のキタイ・漢混合部隊(上級指揮官モンゴル)
と8000の高麗人。馬も連れてきてないけどね。

91世界@名無史さん:2001/03/03(土) 20:36
被征服民族が一般戦闘員を構成しているのに、遠く離れた島国で、善戦を期待できるのか。
蒙古襲来時における、日本軍の北九州防衛線で、地形をあれこれ言うのは無意味。そもそも、夜間には艦隊に引き上げているのだから、問題にすべきは蒙古軍の橋頭堡。
長期戦に耐えられないのは、蒙古軍。

92世界@名無史さん:2001/03/03(土) 20:43
列島攻略の戦略が全く見えてこない。
そもそも彼らは日本を本当に征服したかったのか。九州程度でお茶を濁すつもりだったのか。
数万もの上陸軍を派遣しておきながら、彼らを支えるべき、ロジスティックスについては何の言及もない。
例え九州の現地住民から食糧を略奪してしのいだとしても、せいぜい数週間。
日本を征服し植民地にするために、蒙古人の非戦闘員を連れてきていたという記述があるが、事実か。どなたか詳細キボン
93世界@名無史さん:2001/03/03(土) 20:52
>90
日本軍が組織戦を戦えるかどうかはたいした問題ではない。元来個人戦術なわけだから集団戦法を採る蒙古軍がそうなら大変だが。
山岳戦に経験があったとしても、それこそせいぜい経験程度。九州は日本御家人のホームグラウンド。地の利が日本側にあるのは明らか。

94世界@名無史さん:2001/03/03(土) 21:05
>90
弓に関してはモンゴルの弓は鯨のひげを材料にして
作られており、威力は日本のものと段違いだったと
読んだことはある。組織戦に関しては、明らかに
モンゴル優位。日本の武士のそのときの戦のスタイル
はほぼ個人戦だったらしいから。

>92
一回目はよく知らないけど、2度目のときは南宋からの
棄民、移民目的のものが多数いたらしい。実際日本軍も
南宋人は助けている。それでも史実どおりなら、モンゴル
側の死者の数はすさまじい。(弘安の時)

僕なりの結論:
まあモンゴル軍が思いっきり本気でなかったとしても、
日本側も、特に一回目はほぼ九州の地元侍達だけで、
戦ったわけで、かなり善戦したなという感じ。神風つき
でもね。ドイツ、ポーランド連合軍のケースとよく
似ていると思う。
95世界@名無史さん:2001/03/03(土) 21:16
92も言っているが、兵站面がほとんど無いに等しいことを考えると、放っておいても自滅していたような気がする。
96>95:2001/03/03(土) 21:21
その辺、俺もよくわからないんだけど、モンゴル軍の
兵站てどうなってたのかな?日本攻め込む時だけじゃなくて
それ以外の時も、補給面がどうなっていたのか?
97世界@名無史さん:2001/03/03(土) 21:24
>96 あのあたりの国って現地調達主義じゃないのですか
9815:2001/03/03(土) 21:28
基本的に馬、羊が生きていける環境なら遊牧民は生きていける。
遊牧民の行動範囲が極端に広いのはこれによる。

だからこそ遼が一度滅亡した後
その残党が西に移動して西遼(カラ=キタイ)を再興したりすることも可能だった。
(もちろん遊牧民以外に国が滅亡した後移動して再興した例は皆無ではないが)

略奪による補給と部隊と一緒に移動する家畜がモンゴル軍の食料だったのでしょう。
99>97:2001/03/03(土) 21:28
いやそういったケースももちろんあったろうけど、
それだけじゃとてもああいった巨大なことは成し遂げられない
よ。実際中国や中央アジアでの戦闘なんてすごく
緻密だし、その後の内政面のやる気も尋常ない。
まあ長くは続かなかったけどね。
10078:2001/03/03(土) 22:01
>91
確かに漢・高麗兵に戦意は無かったと思う
やる気が合ったのはキタイ兵だけ、しかも司令官も一戦して撤退を
言い出したらし。
橋頭堡は一日の戦いで太宰府まで後退させてるから、そのまま占領地
を確保していれば十分だったと思う。
しかし、なぜか司令官(忻都)は船団まで後退(部下は反対した)
そのまま退却。 なぞである。

>92弘安の役は、東路軍は前回と一緒 で南路軍が南宋の投降兵
それも、一番程度の悪い集団10万。
杉山教授によれば、実戦部隊は東路軍だけで、南路軍は余剰兵力
の整理のため日本に送ったそうな、何と武器は積まずに鋤、鍬を
積んでいたとか。
事実かどうか知りません。
101ぐうぐう:2001/03/04(日) 01:00
>100
橋頭堡は一日の戦いで太宰府まで後退させてるから、そのまま占領地
を確保していれば十分だったと思う。

元軍の作戦目標大宰府は鎌倉軍にとっても最重要拠点、鎌倉側も大宰
府防衛の為南北に城を築き、博多湾側に水城という土塁を築いている。
鎌倉軍が後退したのはここまで、博多の町は「戦略的」後退により
放棄されたものです。両軍の戦力比は鎌倉6000騎+従者各1名以上で
1万2千、3千ぐらいで元が2万5千ぐらい、倍近い戦力比だから有利
な水城を主戦場にしようとしたもの。

元軍はこのまま、撤退するつもりでは?
博多湾の上陸戦の前に対馬、壱岐、鷹島と戦い。博多での戦闘で結構被害が大きかった
のではないでしょうか。「矢種が尽きた」という話も聞くので、一旦引き上げて体制を
整えるつもりではなかったのでしょうか。そう考えると蒙古人司令の判断も納得できる
ものがあります。


10278:2001/03/04(日) 02:29
>101

>鎌倉側も大宰 府防衛の為南北に城を築き、
>博多湾側に水城という土塁を築いている。

それは、文永の役(第1回)の後に作られたもの
前回俺のレスが解りづらかったよう、スマソ
弘安の役(第2回)蒙古は上陸に失敗し、上陸
地点(例えば長崎)変更すべく協議中暴風雨
に会い、壊滅。

>鎌倉6000騎+従者各1名以上で1万2千、
>3千ぐらいで

6000騎じゃありません。
全部で6000人です。

見方を変えれば、この人数で良くやったとも。
103ぐうぐう:2001/03/04(日) 09:07
>102

それは、文永の役(第1回)の後に作られたもの

いいえ、文永の役後に作られた石塁と水城は別物です。大宰府周辺の
防衛網は白村江後、唐新羅の来襲に備え整備されたもの、西の水城に
南の基い城、北の大野城により大宰府を防衛するもの。
博多湾石塁地は「海岸線」に作られたもの。

鎌倉側の兵力は「元寇紀略」に5千300騎の騎乗兵力とされていたもの、
騎馬には従者がつくのが常識なので、それ+と見ています。
6000は私の記憶違いです。
全体の人数は1万2.3千だと思います。
104>78:2001/03/04(日) 11:23
>>動員兵力20万
そんなに動員できるのならなぜ、弘安の役の時6千足らずしか
集まらなかったのか。
第一日本の武士(雑兵含む)は常備軍じゃ無い。
戦国時代も戦争するのは農閑期だけ。
武器・食料も自分持ち、長期戦には耐えられない。

>>20万て鎌倉幕府が動員できる全兵力のことでしょう。上陸阻止部隊の兵力ではないよ。
上陸戦時に6000でも時間とともに増員されるし、九州、中国、近畿と攻めあがっていくには、
元軍の戦力はすくなすぎるんじゃないの?
それに、戦国期を例にしているけど自国領土内での防衛戦と戦国期の他国への侵攻戦は、同列
にはあつかえない。例としては不適当です。

105世界@名無史さん:2001/03/04(日) 11:41
文永の役の元軍の行動は日本占領を目的としたものというより、威力偵察だったのでは?
夜に船団に引き上げたのも、威力偵察なら合点がいくし、元軍が増援を用意してなかった
のもその必要がないから判る。
元側も文永の役当時は南宋の攻略中なので、南宋を支援しそうな又は南宋朝が逃げ込みそうな
日本に対し牽制と偵察の意味ではなかったのかな。
106日本@名無史さん:2001/03/04(日) 13:17
考えれば、考えるほど、蒙古軍による日本制圧は無理というような気がしてきた。
仮に九州全土を制圧したとしても、占領地の維持には途方もない人員が必要となるだろう。
本土から増援を呼び寄せる間にも、山岳地帯ではゲリラ活動も熾烈を極めるだろうし、
瀬戸内海から水軍が殺到して、補給路を絶つだろう。
開拓民を連れてきていないことも考えると、105が正しいのではないかと思われる。

いったん、北九州に打撃を与えておいて撤収し、後は艦隊をピストン輸送して波状攻撃をかけて、じりじりと浸透し計略地を拡大していくつもりだったのでないだろか。
そういう状況で兵站がどれほど持つかは、疑問だが。
107世界@名無史さん:2001/03/04(日) 13:55
もし日本人が卑屈で自尊心がなくてすぐに屈服しちゃうような性質だったら
日本制圧も可能だったんだろうけど…
108日本@名無史さん:2001/03/04(日) 14:22
いや、日本人自身の気質もあるだろうが、蒙古人による植民地経営のスタイルも問題になっただろう。
現地住民の農民の上層を上手い具合に懐柔して、御家人に反抗させるように仕向けたら、北九州の防衛線を突破して内陸に雪崩れ込んでも少しはいけただろうが、
日本人は皆、対馬・壱岐での蒙古軍の蛮行を知っていたから、農民達ですら武装しようとしていたのさ。
109世界@名無史さん:2001/03/04(日) 14:25
>>107

「今の」日本人なら、すぐ制圧されてしまうね。
110世界@名無史さん:2001/03/04(日) 14:36
>>108
鎌倉時代の土地所有上層農民って、武士じゃなかったっけ?
兵膿分離はもっと後のことだと思うが。
111日本@名無史さん:2001/03/04(日) 14:44
うむ。
当時の農民は相当虐げられていた。兵農分離が進むのは200年後だ。
「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉ができたのはこの頃だが、地頭は武士が兼ねていた。
112日本@名無史さん:2001/03/04(日) 14:48
だから、農民上層の懐柔というのは間違っていました。
ここですべきは、下層農民を統括すべき地位にあり、なおかつ、武士の横暴に悩まされている人々の懐柔です。
11378:2001/03/04(日) 17:34
>103
俺の勉強不足のよう
前に6千人弱って読んでんで、総兵力かと思った
太宰府の件も俺の間違いのよう 重ねてスマソ

以後引っ込むことにする。
114七資産:2001/03/04(日) 20:56
大河では「ほじゅこう」をイスラム系白人が演じてたね。
考証的に正しいの?
115ぐうぐう:2001/03/04(日) 22:06
日本に挙国一致体制を取らさず、離反勢力を見つけるとしたら、公家勢力と商人
になるでしょう。農民層はそれ自体が支配階層と一体化(武士は自立武装農民)
しているのでそれを離反させるには宗教がらみとかの要素が必要。
商人層(海運業者等も含む)鎌倉幕府からは犯罪者扱いされていた層であり、彼ら
への利益誘導、名誉の復権などの政策により離反を誘う。
公家勢力はお分かりのとうり。
しかし、離反勢力としてはどれもかなり弱いので、日本占領後公家勢力を傀儡に
古代の律令体制を本場中国式を強力に施行する必要があるでしょう。
もっとも、土地に根を降ろす武家は全土で頑強に抵抗するのは避けられない。

結構、日本占領て難しそうです。
116酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/04(日) 22:20
天子様を始め朝廷が元などに服属する訳なかろうが。
幕府・武家層と団結して、元軍に抵抗したであろう。
臨時首都を鎌倉に移してでもね。
117酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/04(日) 22:23
武士、公家、農民、の挙国一致の護国体制になったはず。
118世界@名無史さん:2001/03/04(日) 22:50
島原の乱でもオランダ船に砲撃をやらしたが城方は言うに
及ばず、寄せ手の幕府軍からも非難がでてやめたという
話があるし、いくら反目しあっても外国勢力に手貸すことは
ありえないだろう。
そのへんが中国人と日本人の違いだと思うね。
119世界@名無史さん:2001/03/04(日) 22:52
元寇を撃退できたのが、単に天候のおかげなのではないのは
よくわかったが、神風のおかげであるかのような巷説がまか
り通ってきたのはなぜなのだろう?
日本は神の国という戦前の教育のせい?
120世界@名無史さん:2001/03/04(日) 22:54
>115
高麗を例に見ると、天皇&公家を味方に付けたかもしれないね
あそこも王と武士(みたいな軍人)が対立してて、武力の無い王室が
フビライと同盟したから。
でも、それより反北条勢力って事で、足利や、佐々木みたいな源氏
と手お結ぶ可能性が高いもでは
元じたい、日本を領土に組み入れるのでなく、属国或は朝貢国にす
れば十分なのだから。
121世界@名無史さん:2001/03/04(日) 23:04
モンゴルに征服された日本を舞台に、強大なモンゴル軍相手に
楠木正成がゲリラ戦をしかけ、後醍醐天皇が陰謀を巡らせ、
ついには足利尊氏や新田義貞が立ち上がる……っていうような
荒唐無稽な架空戦記、誰か書かないかね? NHKが北条時宗
やってる今年がチャンスだぞ。
122世界@名無史さん:2001/03/04(日) 23:10
>120
反北条勢力と結ぶといっても元がそこまで日本の内情に精通して
いたかどうか疑問。
それに後世からみれば足利が反北条とか位置付けできるけど
当時では婚姻関係とか錯綜していてそんなにきっちり色分け
できたとは思えない。
123世界@名無史さん:2001/03/04(日) 23:40
時の鎌倉幕府は大陸にスパイを潜り込ませて
元軍の動向を見守ってたとか聞いたんだけど。
124世界@名無史さん:2001/03/04(日) 23:55
元軍>>>>>>>>>>>>>>>日本軍と思ってたよ。
125世界@名無史さん:2001/03/04(日) 23:59
>122
足利の方からスリヨっていたんじゃない。
6代後にとか、ワシの代では無理だから死んで倅の代にとか
かなり怨んで様だから、表面上は遜ってたけどね。

>123
与太じゃない?
もしそうなら使節殺したりしなだろう。
返礼使送って、貢物差し出せば攻めてこないんだから。
戦争すれば金掛かるくらい北条でも解る
結局元寇のせいで北条滅びちゃうんだからもし知ってて
戦争したなら大馬鹿じゃん
126世界@名無史さん:2001/03/05(月) 00:02
あの、教科書なんかでは元軍の使う鉄砲に驚かされて
日本軍は苦戦しまくったとか書かれてますけど
実際のところどれだけ効果があったんでしょうか?
127世界@名無史さん:2001/03/05(月) 00:11
>124
元軍>>>>>日本軍 位だろ もしフビライが本気まらね。
だけど、フビライにとっては東の蛮族より西の同族
フブライを大カーンとして認めないオゴティ・チャガタイ汗国
の方が大事、主力部隊は総を日本遠征なんかに使えない。
128日本@名無史さん:2001/03/05(月) 00:13
最初はかなりびびったらしい。見た事なかったからね。
だけど、実質的な殺傷能力はあまりなかったと聞く。
音と光を発するだけだとか。

>119
蒙古軍襲来時、日本は曲がりなりにも挙国一致体制を採っていたわけで、寺社も日本勝利を祈願していた。
ところが実際は武士団がほとんど独力で蒙古を撃退してしまったわけで、それでは自分達の立つ瀬がない。後々の発言権もあるからね。だから都合よく到来した台風を自分達の祈願のおかげと宣伝したわけ。

129世界@名無史さん:2001/03/05(月) 00:14
× 主力部隊は総を日本遠征なんかに使えない。
○ 主力部隊を日本遠征なんかに使えない。
失礼

130世界@名無史さん:2001/03/05(月) 00:17
>文永の役
日本軍が強かったわけ無いよ
あれは元の国内事情から撤退したもの
実際には元軍の損耗はそれほど大きかった訳じゃない
ヘンな誇張しないように。
131世界@名無史さん:2001/03/05(月) 00:31
元軍は基本的に征服国の軍隊を吸収しながら
戦争していたので別に日本遠征軍だけ主力を使わなかった
訳じゃないよ。>127
132世界@名無史さん:2001/03/05(月) 12:22
蒙古襲来絵詞って元軍の模写が細かいですねえ
当時の日本人も戦争しつつも案外モンゴルファンが多かったのかも。
133名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/05(月) 12:44
それだけインパクトがあったわけ。
134世界@名無史さん:2001/03/05(月) 14:15
モンゴリアンチョップで九州武士を悩ませました。
135名無しさん@1周年:2001/03/05(月) 14:55
そう言えば、竹崎季長は、モンゴル軍の船に自ら飛び込んで
死闘をしたらしいけど、
源平合戦の時の源義経の真似か?
136名無しさん@1周年:2001/03/05(月) 15:00
>>128,>>119
九州武士団とモンゴル海軍の死闘より、
神風の方が誇張されて伝えられるのは、朝廷の工作もあるんじゃない?
モンゴル侵略に対抗して、鎌倉幕府は西国武士への指示、京都朝廷は寺社への祈願命令
を敷いたわけだけど、幕府側が実際に役に立ったという事実が広まれば、
寺社だけでなくて朝廷側も立つ瀬がないわけで、
幕府の株を上げさせないために神風の話を広めさせたとも考えられる
137世界@名無史さん:2001/03/05(月) 17:06
文永の役での博多占領って日本軍の戦略的撤退だったんですね
じゃあその後大宰府から奪還作戦でも行ったんでしょうか?
その辺の戦闘ってあまり知られてないから。
138ぐうぐう:2001/03/05(月) 18:43
>137
元軍と鎌倉軍の戦闘は1日(先遣隊との戦闘が前日に1日)だけ、早朝から
日没までの間。その日の夜元軍は船団に引き上げ、宿営してます。
鎌倉軍の夜襲を恐れてとの説からも、軍として「敗走」したというより
「後退」して軍の体制を立て直した(敗走したなら夜襲を恐れるはずない)
と考えられます。
そして、その夜に撤退したか「神風」にあったかした訳です。
「神風」に関しては、文永の役では「吹かなかった」という説もあります。
139>134:2001/03/05(月) 21:05
というこちは天山広吉はモンゴル人の血をひいている訳っすね。

道理でアタマ悪そうだと思った。

140世界@名無史さん:2001/03/06(火) 02:03
>138要するに1日の戦闘では決着がつかなかったんですね
   その後の神風については元軍の船は僅かしか沈まなかったそうで
   誰かが言ってたように威力偵察が目的だったのかもしれませんね。
141世界@名無史さん:2001/03/06(火) 02:40
http://japan-ranking.virtualave.net/korea/korea.htm
元軍2万人、高麗軍1万人からなる元軍が10月3日に朝鮮半島の合浦の(ガッポ)を
出発し、途中、すでに5日に対馬、14日に壱岐を襲った。
両島とも守備の武士が奮戦したが衆寡適すべくもなく一蹴された。
対馬では、農民の男は殺され、女は集められて手の平に穴を開けられて
縄を通され船縁に吊るされたという。
142世界@名無史さん:2001/03/06(火) 02:56
対馬、壱岐の日本側の兵力数を誰か知りませんか?
143世界@名無史さん:2001/03/06(火) 03:21
たしか百人じゃなかった?
自信無い。
144>141:2001/03/06(火) 11:44
てーゆーことは、
過去に日本は朝鮮から侵略うけてるんぢゃない?

国家賠償請求!!(藁
145世界@七資産:2001/03/06(火) 15:33
ところで、その船縁磔はいったい何の意味が?>141
やっぱり、九州武士に遠くから矢を容易に射させないための人質?
146世界@名無史さん:2001/03/06(火) 16:16
上陸後に食料として食べるために吊るしてたのと
威嚇が目的でしょう。
147世界@七資産:2001/03/06(火) 17:03
食用って・・・・中華民族は確かにそうだけど
モンゴルと高麗にはその習慣は無いよいな・・・
148世界@七資産:2001/03/06(火) 17:03
無いような
149世界@名無史さん:2001/03/06(火) 17:48
単なる遊び心で繋いでたんだろう。
150世界@名無史さん:2001/03/06(火) 19:51
>女は集められて手の平に穴を開けられて
>縄を通され船縁に吊るされたという。

なんだかなあ。ほっといたら体重の重みで
手が裂けて落ちると思うんだが。
151世界@名無史さん:2001/03/06(火) 19:53
吊るされたのは全て女性だったんで体重で落ちる事は無いと思う。
152世界@名無史さん:2001/03/06(火) 20:00
結局文永の役の時、途中で撤退したのは何故なんでしょうね
兵力が消耗したからなのか、他の目的が出来たからなのか。
153世界@名無史さん:2001/03/06(火) 21:11
>152
遊牧民族の基本として、不利な戦いは速やかに引くんだそうです。
日本の戦争みたく力押しはしないようで・・・
154世界@名無史さん:2001/03/07(水) 03:53
なんで日本が力押しだなんて決めつけんのよ
何を根拠にしてんの?
日本に恨みでもあるの?
155日本@名無史さん:2001/03/07(水) 19:32
別に日本が戦争のやり方が下手だって恥じることじゃない。
そりゃモンゴルみたいに年がら年中戦争やってりゃ退き方もうまくなるってものよ。
156【^▽^】クマソ:2001/03/07(水) 21:01
吾らクマソから見ればモーコもコーライもヤマトも軟弱者。
157世界@名無史さん:2001/03/08(木) 01:14
じゃあ北方民族にやられまくってた支那人も戦争弱いのか
日本が戦争下手なんてどんな理由で決め付けてんだか。
158世界@名無史さん:2001/03/08(木) 13:43
朝鮮出兵の時も、人員物資がもう少し潤沢だったら、
李氏に勝利してたと思うけどね。
国際的には、日本の戦争技術はそんなに悪くないと思う。
159世界@名無史さん:2001/03/08(木) 13:59
結局なんの根拠も無いレッテル張りだったのね>戦争下手
160日本@名無史さん:2001/03/08(木) 14:14
日本の戦争のレベルはかなり高いです。
文永の役でも押されてはいたけど、敗退してないし翌日以降戦いがあったら
元を敗退させたでしょう。
弘安の役では、元の作戦は日本側に完全予測されていた。博多の石塁。
門司の防備。また、戦術面でも一騎打ちなんてやめて、夜襲中心のゲリラ戦
にしてる。
国、地域が違えば戦争の形態が違うのは当たり前、要は未知の敵にであった
時にどれだけ柔軟に対応できたか?それからしたら、その当時の武士は
充分以上評価できるでしょう。
161世界@名無史さん:2001/03/08(木) 14:41
無理に博多を死守せずに一度大宰府まで引いて体勢を整えたのは
賢い方法でした>文永の役
162世界@山師さん:2001/03/08(木) 15:30
もし仮に、太宰府を掌握できてたら、その後はどんな構想を立ててたんだろう?
そのまま大陸から元の援軍を呼び込んで京、鎌倉まで進撃するか、
九州での地盤固めの方に専念するか、選択肢はあると思うけど。
163日本@名無史さん:2001/03/08(木) 15:41
>>158
アレは勝って当然。にもかかわらず膠着状態になってしまった・・・
164世界@名無史さん:2001/03/08(木) 15:47
援軍が来るまで大宰府を確保しつづけるかが鍵ですね
しばらくは江南の水軍を待って水軍が来たら瀬戸内海制圧に
乗り出すんじゃないですか。
165世界@名無史さん:2001/03/08(木) 15:48
事前調査無しで攻めてったもんね。
そら、膠着して当然。あとは、朝鮮をなめすぎ。
各方面軍指揮官がそのまま占領地の地方長官を兼ねるシステムだったから、非効率きわまりない。
もうちょっと、まともにやってれば軽く勝てた戦だったのに。
166【^▽^】チョーテー&バクフ:2001/03/08(木) 15:50
>162
元に限らないが、当時 大軍を海路で送り込む事は不可能。
地中海じゃないのだから。
また、九州での地盤固めも武士の反撃、地元民の抵抗で無理。
それこそ、幕府が全国から大軍を送り込んでくる。
167世界@名無史さん:2001/03/08(木) 16:13
中規模の援軍を順次、大宰府に送り込んで、
少しずつ武力や物資を増強する算段だったのでは?名軍師の妖枢の戦略次第だけど。
後、あれが本格的侵略の先兵だったのか、単なる威力偵察だったのかは今をもって謎。

まぁ、対馬での大虐殺があるから、
モンゴルがそれまで大陸でやってきた、
地元民の支持を得る地盤確保の術は使えないだろうね。
168世界@名無史さん:2001/03/08(木) 16:33
秀吉が途中で死んじまったのもある
実際、末期の明朝軍は初期の精鋭部隊の損耗が激しく
京城で徴発した質の低い現地兵で構成されていた。
169【^▽^】加藤清正:2001/03/08(木) 16:43
>168
ん!?スレ違いでは?
170世界@名無史さん:2001/03/08(木) 16:47
おっとっと、そうでしたね。
171名無しさん@1周年:2001/03/08(木) 16:53
もうそろそろ朝鮮出兵の話はここでは閉じた方が良いかもしれないけど、
家康や光成は、秀吉の後を継いで大陸で領土拡大しようとは
思わなかったのかな?
江戸幕府の軍なら京城も攻め落とせたと思うけど。
172世界@名無史さん:2001/03/08(木) 17:24
まあまあ、そろそろこの話しはおしまいにしましょう。
173名無しさん@1周年:2001/03/08(木) 18:02
元が日本を攻めてた時代、
キプチャクはポーランドやハンガリー、
イルはサウジアラビア、
オゴタイ・チャガタイはインドを同じように攻めあぐねてたんだろうか?
174世界@名無史さん :2001/03/08(木) 18:06
ポーランド、ハンガリーが蒙古に敗北してる上では
ドイツ(神聖ローマ帝国)やオーストリアにも脅威が行ってたのでは・・・
175Miss名無しさん:2001/03/08(木) 18:54
>174
無難にいけばウィーンぐらいまでは楽に落とせたんじゃないか?

バトゥの遠征の時にオゴタイが死んでいなけりゃいったろうな。
へたすりゃパリやローマも落ちたんじゃない?
で、そこに何とかハーン国とか作るわけじゃない?
176世界@名無史さん:2001/03/08(木) 19:10
朝鮮出兵の話は別にスレッド立てるか。
177世界@名無史さん:2001/03/09(金) 16:54
仮に、イギリスの前まで蒙古が迫ってたなら、
同じ島国の王国としては、イギリスと日本のどっちが攻めにくかったんでしょうか?
178世界@名無史さん:2001/03/09(金) 23:52
玄界灘と英仏海峡の広さを比較すると、日本の方が攻めにくそうだけど。
179Miss名無しさん:2001/03/10(土) 00:07
日本の方が攻め難いだろう。
ドーバーなら大軍を渡らせる事もできそうだしね。
180世界@名無史さん:2001/03/10(土) 01:27
ノルマンコンクエストは成功したわけだし。
ノルマン人にできたことが、モンゴル人にできないはずがない。
あ、でも、ナポレオンとヒトラーは失敗したんだっけ。
181世界@名無史さん:2001/03/10(土) 05:16
 対日交渉に当たって金正日書記は「表面上は高圧姿勢を取り、内部的に
引き込め」と指示、「日本は戦争を恐れているので押せば譲歩するし、
(北朝鮮が)少し譲歩すれば喜ぶ」と金日成主席時代からの方針を踏襲している。

 北朝鮮は日本と韓国を離反させるため、従軍慰安婦や歴史教科書問題などが
持ち上がるたびに、両国関係を悪化させるよう工作している。

 黄元書記は、外国がコメ支援以外の経済援助や投資を行わなければ
「北朝鮮は五年で内部崩壊する」と予測。日本が賠償金を出すことは
「死にかけている蛇に桃の実を与えるようなものだ」とした。

http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9709/html/0926side03.html
182世界@名無史さん:2001/03/12(月) 03:01
コノ、ハ〜ゲ
183世界@名無史さん:2001/03/13(火) 00:28
玄海灘の荒波は簡単には渡れない
184名無しさん@1周年:2001/03/13(火) 14:54
ドーヴァー海峡も波は荒そう。
185世界@名無史さん:2001/03/13(火) 15:47
>>183
そうかあ? ちょっと前に堂本剛とか勝俣だかが、モーターボートで
博多から対馬経由で釜山まで渡ったバラエティ番組があったぞ。
それ見てて意外と簡単に行けるもんだと思ったもんだ。
それともあの番組は、ヤラセなのかなあ…
186世界@名無史さん:2001/03/13(火) 16:34
それは、モーターボートだからじゃないのか?
187世界@名無史さん:2001/03/13(火) 19:46
モンゴル軍の水兵は江南人だったよねえ?
彼らの航海能力からしたらそんなに難しいことでもないでしょ
実際に神風が吹いても損害は僅かだったのに。
188世界@名無史さん:2001/03/13(火) 20:27
その通り、元軍の神風による損害は皆無。とどめを刺したのは
時宗がキモキモ宮将軍より先に発見した荷電粒子砲の一撃。
189世界@名無史さん:2001/03/14(水) 22:04
NHKage
190世界@名無史さん:2001/03/14(水) 22:12
玄海灘があってよかった
日中韓の間に英仏独のような相互依存的関係は全く存在しなかった
いいにくいことだがそれが我々の最大の幸運だった
191世界@名無史さん:2001/03/14(水) 23:13
今日のNHK見て思い出したが、「毒矢」「連射できるいしゆみ」
もあったよな。
192名無しさん@1周年:2001/03/15(木) 16:04
>毒矢と連射弓
後、爆弾ね。当時『てつはう』と呼び称されたらしい。
193世界@名無史さん:2001/03/15(木) 16:45
後に焙烙玉として村上水軍とかが使った。
ということは、蒙古の生き残りは少なからず日本に溶け込んでいったってことか?
194名無しさん@1周年:2001/03/15(木) 16:49
そう言えば、国家間の戦争の時、
勝ち負けに関係なく、敵国の人間が
移住したり、捕虜になったりすることで
お互いの国で混血や文化流入が始まるケースは多い・・・

ヨーロッパに紙が伝わったのも、
もとはイスラム・中国の戦争中に、
中国の紙職人が西側に捕まったからだし。
195Miss名無しさん:2001/03/15(木) 19:27
同時代にイスラム帝国と唐が巨大帝国を打ち立てて、
版図を拡大したからこそタラス河畔の戦いが起こった。

偶然に近い出来事かもね。
唐やイスラムが勢力拡大に意欲をみせなければ紙の技術の伝播は
遅れただろうな!!!!
196【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/15(木) 19:35
東洋人ことに中国人に感謝すべし。>中世ヨーロッパ人
197世界@名無史さん:2001/03/16(金) 14:32
>196
確かに。ヨーロッパの場合、中世期の技術文明基盤の半分以上は
中国・イスラムや、最盛期のアフリカの各王朝の受け売りだから。

その点日本文化は、中国や朝鮮の文化に頼る所が少なくないと聞くが・・・

198地球@名無史さん:2001/03/19(月) 13:11
鎌倉幕府も、第一次襲来の後、
宋がモンゴルに滅ぼされたのを知って、また脅威が来る前に
逆に元寇の北側前線基地の高麗に「異国征伐」を仕掛ける計画を考えてたらしい。

平頼綱と安達泰盛が揉めてるうちに案件見送りになったらしいけど。
鎌倉幕府下の日本の軍事技術で、実際に高麗征伐が行われてたら、
成功したんだろうか?
199世界@名無史さん:2001/03/19(月) 16:38
アゲトコウ
200名無しさん┃】【┃Dolby:2001/03/19(月) 19:06
>>198
それって、ロシアの脅威に対抗するため朝鮮進出っていうのと
一緒だ…。

で、当時の軍事技術でどうかですけど、倭寇のような海賊行為
ならともかく、本格的な侵略戦争となると。しかも、この場合
は鉄砲がないわけで…。

ただ、秀吉の朝鮮の役と違うのは、現地住民の支援を得る可能性
があることでしょう。
201世界@名無史さん:2001/03/19(月) 22:49
やはり、攻められるにしろ攻めるにしろ玄海灘の存在
は大きいんでしょうね特に近世までは
良い意味でも悪い意味でも日本は専守防衛型の国防体系を取らざる得ない。
202世界@名無史さん:2001/03/19(月) 22:53
>90
>モンゴル弓は短弓だけど材質がいいらしく有効射程は230〜270m
>日本の長弓は当時180〜200m、室町後期に改良されて200〜230m

本当ですか?子供の時、近所もおじさんから、日本の弓が世界一だと聞かされて
いたもんで驚きました。日本の弓て世界的にも大きい方なんでしょ。

誰か詳しい人教えて下さい。
203世界@名無史さん:2001/03/22(木) 01:17
さあて?
204名無しさん:2001/03/22(木) 01:24
蒙古来襲って元寇のことですか?
イマイチ理解出来てません(苦
205世界@名無史さん:2001/03/22(木) 01:51
>>202
和弓は確かに無意味にでかいが、飛距離にはほとんど貢献
しとらんぞ。上下非対称な形は命中精度の低下に大いに
貢献してるが。
206205:2001/03/22(木) 01:53
付け加えるなら、和弓は世界的に見ても最低の部類に入ると思うぞ。
207世界@名無史さん:2001/03/22(木) 05:27
最低なら西洋のロングボウの方だと思うよ
有効射程150m。
208世界@名無史さん:2001/03/22(木) 05:37
>>206
君、もうここに書き込まないって言ってたんじゃなかったのかよ?
上のレスに書いてあったぞ
それとも別人とか言い出すんじゃないだろな?オイ
209205:2001/03/22(木) 06:20
ふにゃ?実際別人なんだけど。
と言うか、面食らってこのスレを一通り調べたんだけどどの発言の事を
指してるのか分からなかった。すまん。

>>206は一応弓道経験者としての実感を書いたんだけど何か気に障ったのかな・・・。
210205:2001/03/22(木) 06:52
ついでだから書くけど、今の和弓は近的競技で約28m先にある
直径36cmの的を狙い、中たった回数を競う。
和弓の競技と言えばほとんどがこれ。
遠的と呼ばれるものは普通60m先の直径1mの的を狙い、やはり
中たった回数を競う。

1mの的を狙っても中たるか中たらないかだぞ。
アーチェリーなんかと比べると情けなくなる気持ちが分かって
もらえると思うんだけど。
211世界@名無史さん:2001/03/22(木) 06:59
飛距離と殺傷力が比例するわけじゃないでしょ?
矢が違うし。
212世界@名無史さん:2001/03/22(木) 08:42
アーチェリー用の弓についてるスタビライザーなんかは
13世紀にもあったのかな?近代に入ってから取り入れられた
と思ってたけど。
213世界@名無史さん:2001/03/22(木) 11:47
和弓と複合弓を比べるのは可哀想だって。
和弓が射程が短いから火縄銃が普及したという程らしいから。

あと、距離の優位があるから元軍の方が当然不利ですね。

船にくくりつけてうんぬんは、相手を挑発して砂浜での戦いに
持ち込みたかったからだと思います。
214弓といえば:2001/03/22(木) 14:19
対モンゴル戦の総責任者だった北条時宗の、母親は
当時の鎌倉武家髄一の弓道の名手だったと聞くが。
215世界@名無史さん:2001/03/22(木) 20:50
>>210 213も言ってる通り
今のアーチェリーは軽くて固いGFRPやGFRP+CFRPなんかの化学繊維
で作られてます。
中世から変わらない古流の造りを守り通してきた和弓と比べるのは余りにもナンセンスと言うものですよ。

216世界@名無史さん:2001/03/22(木) 21:21
火縄銃は50〜100mから撃ちかけてたそうだから
有効射程は弓とあまり変わらなかったんじゃない?
やはり威力の差だと思う。
和弓の性能は諸外国の長弓と比べても遜色ないよ
ただ現代の洋弓と比べると劣ってしまうけど。

217202:2001/03/24(土) 20:38
弓対決、面白いですね。シナ、朝鮮の弓と比べてどうかな?
でも材質が木であればどれも似たようなものなのでしょうか?
218205:2001/03/24(土) 23:55
う〜む、確かに和弓とアーチェリーを比べたのはちとマズかった。
で、ちっとは冷静に和弓を分析すると、アレは威力と飛距離を
追求するために命中精度を犠牲にした弓なんじゃないかな。

和弓って、狙った所に矢を飛ばすには非常に不合理な構造を
してるのよ。特に、下が短く上が長い構造。弓の下の部分が
上より早く返るので当然矢はビヨ〜ンと上に飛んでいってしまう。
これを調整するために親指の付け根で上押しというのをかけるんだけど、
これは経験と勘の世界だな。
それから、弓自体がでかいので、一杯まで弓を引くと蔓を引く方の
手が耳の後ろまで来てしまう。
これだと、矢が向いている方向が分からず狙いが付け辛い事この上ない。
(実際、和弓の練習では狙いは他の人に見て貰って修正し、その状態を
 体で覚えるんだな)
この辺は、多分外国の弓には無い特徴だと思う。

まあ、実際の武士達はこの不合理さを技でカバーしていた訳だけどな

飛距離や威力は経験ではどうにもならない部分もあるが、狙いは
練習すれば調整がつくからな。そう考えると、和弓も思ったよりは
合理的なのかも知れんな。今の命中率主体の和弓の競技だけを
やっていると滅茶苦茶不合理な弓に見えるけどな。
219205:2001/03/25(日) 00:09
>>202

ちなみに、和弓は木材を竹でサンドイッチしたような構造になってる。
尤も今では竹の部分がグラスファイバーになってるけど、一応竹弓を
使ってる気合の入ったヤツも居たよ。
木材の部分に焦がした竹ひごを通して反発力を強くしたものもあるな。

中国、朝鮮の弓は知らんが、どちらも木材、竹は容易に手に入りそうだな。
材質的には似たようなものか?
モンゴルや西洋の弓は竹って感じじゃないような気がするが、一体
何でできてるんだ?単なる木材か?
220世界@名無史さん:2001/03/25(日) 00:57
つーか当時のモンゴル弓が飛びぬけて才能が良かっただけなんじゃないの?
だからこそあれだけの領土を獲得できたんだしさ。
221:2001/03/30(金) 14:22
>>219
> 何でできてるんだ?単なる木材か?

竹(木材かもしれんが)に動物の腱とかをにかわとかで、貼り付けて乾かして
ああやら、こうやらするそうだ。
222名無しさん@1周年:2001/03/30(金) 14:47
>>220
飛びぬけた機動力だと思う。
223世界@名無史さん:2001/04/12(木) 10:36
モンゴルの矢には毒が塗ってあったという話は本当ですか?
本当だったとしたら、毒の種類とかも判っているのでしょうか?
224与六:2001/04/12(木) 20:57
歴史群像シリーズ64 北条時宗 日本の弓VS蒙古の弓で比較検証しています。内容は…立ち読みでもしてください。
225世界@名無史さん:2001/04/13(金) 05:34
どんな内容か簡単に説明してちょ。
226世界@名無史さん:2001/04/13(金) 06:18
西洋のロングボウはトリネコや樫の合成で出来てたそうです。
性能的には和弓と大差ないですがロングボウの方が若干射程が短いそうです
あ、これは現在のアーチェリーとは別物ですよ。
227世界@名無史さん:2001/05/29(火) 23:55
本で読んだんだが、なんでも蒙古は一撃必倒の
「見たこともない闘技」を武器として大陸を席巻したらしいぞ。
228nanasi:2001/05/30(水) 11:16
馬上から首を飛ばすとか?
229世界@名無史さん:2001/06/24(日) 09:28
age
230アマノウヅメ:2001/06/25(月) 01:53
博多を捨てて大宰府に籠もったというのは戦略的には
すぐれていると思います。
当時は博多のすぐ東は箱崎松原でその先は入り江になってたし、
西は川を隔てて生の松原です。

松原では身動きがとれないでしょう。
陸上戦をやろうとしたら、足止め食ったはずです。
231世界@名無史さん
>>226
ロングボウより和弓の方が優れてる??
おいおいドキュソもいい加減にしてくれよ。
和弓のヘタレぶりは有名だぞ。
それに比べてイギリスのロングボウはすげえ優秀な弓だってことで
有名だ・・・

ネタじゃないとしたら勘弁してくれ