>そして宝女王が皇后になれたのは×
>そして宝女王が皇后になったのは○
宝女王を皇后にしたのは舒明天皇の意志であろう
自分の皇子、葛城皇子と大海人皇子を産んだ宝女王を
皇后にする事で、葛城、大海人両皇子の皇族としての地位は
格段に高まる(皇后所生の皇子は最有力の皇位継承権者)
これは用明皇統である山背大兄王及び上宮王家や、敏達&推古両天皇の
皇子である尾張皇子に皇位は渡さないという決意表明と思われる
ちなみに尾張皇子の娘である橘大郎女(橘女王)は、厩戸皇子に妃であり
尾張皇子自身は、その婚姻関係から上宮王家よりだと思われます
>>938 田眼皇女に対する日本書紀の記述は
田村皇子ではなく、舒明天皇に嫁したと記述されているから
少なくとも田村皇子の即位後までは生存していたと思われます
>>938 それと宝女王を蘇我の血筋というには無理があります
宝女王の父は彦人大兄皇子の子である茅渟王で、母は吉備姫王
そして吉備姫王の父は欽明天皇の皇子である桜井皇子
従って蘇我馬子の孫である山背大兄王(母は蘇我刀自古)の方が
はるかに蘇我氏の血が濃厚であるから、蝦夷が蘇我氏の利益を
第一に考えるのなら、田村皇子ではなく甥の山背大兄王を即位させたと
思われます
日本書紀の記述でも山背大兄王は、蝦夷を叔父として頼みに思い
蝦夷の支持を得ようとしたところから見て、山背大兄は自分に流れる蘇我の血に
多大な期待していた事が良く分かります
>>940-941 レスありがd。
あの説はあまり根拠の無い憶測だったのかな。
うろ覚えなのでその推測の詳しい根拠は忘れちゃいましたが、
宝女王が蘇我の血筋というのは吉備姫王の父は欽明天皇と堅塩媛の皇子なので、
宝皇女は蘇我稲目の曾曾孫だって事だったかと。
でも確かに山背の方が蘇我の血が濃いですね。
>>939 >皇后所生の皇子は最有力の皇位継承権者
確かにそうかもしれないが、直子相承ではなく兄弟相承が行なわれていた当時としては必ずしも即位の順番まで優先されていたわけではないと思う。
舒明の皇子のなかでは、乙巳の変までは古人即位の可能性は高かったのではないかな?
僕は孝徳が皇位につけたのも天皇の弟としての立場からとみている。
舒明没後に皇后所生の葛城皇子が即位出来ずに、中継ぎとして宝皇后は
即位して皇極天皇になった背景には、葛城皇子、古人大兄皇子、山背大兄王の
三者が拮抗して、三人の中の誰もが即位出来なかった為だと思われます
日本書紀の記述から推測するには、蝦夷は舒明没後には山背大兄王の即位も
考えていた可能性があり、入鹿は古人大兄皇子、敏達系皇族の多数は
葛城皇子の即位を望んでいたと思われます
また軽王が天皇に即位出来たのは、指摘の通り姉の宝が天皇になった事で
天皇の弟という立場になり、敏達系皇族内での地位が上昇した為だと思われます
入鹿が山背大兄王と上宮王家滅亡を謀ったのは、蝦夷の山背大兄王即位の
意図を砕き、古人大兄皇子即位の地固めを狙ったものと推測します
山背大兄王即位の可能性が無ければ、入鹿が上宮王家滅亡を謀る動機が
存在しない事になりますから、皇極朝においても山背大兄王は依然として
用明皇統+蘇我系皇族の代表として、即位の可能性が多いにあったと思われます
946 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 02:49:57
>>944 舒明没後に中大兄が即位できなかったのは若過ぎたからじゃない?
15才ほどだよね?
>>946 日本書紀の記述なら16歳だけど
その他の史料では28歳説もある
また文武天皇は15歳で即位してるから
16歳なら即位可能な年齢
やはり、古人大兄皇子や山背大兄王と
三竦み状態になったからだと思われます
葛城皇子即位派:敏達系皇統に連なる皇族集団+中臣鎌足?
古人大兄皇子即位派:蘇我入鹿
山背大兄王即位派:用明皇統に連なる皇族集団+蘇我蝦夷?
948 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 12:06:22
しかし年少の葛城皇子は古人皇子より順位は劣後になる。舒明天皇存命中に山背王を滅ぼしていれば、古人即位の可能性が高かったが、
皇極即位で結果的に軽皇子の順位が高まり、山背王襲撃は孝徳即位を利することになった
蝦夷が入鹿の行為を非難したのはそういう背景もあったと思う。
確かに皇極天皇の誕生は、葛城皇子、古人大兄皇子、山背大兄王の他に
新たなる有力皇位継承者である軽皇子を誕生させる事に繋がった事になったと
思われます
敏達皇統である軽皇子と葛城皇子
敏達系皇統+蘇我系皇族である古人大兄皇子
用明系皇統+蘇我系皇族である山背大兄王
これで4人の有力皇位継承権者が、皇極朝において存在した事になります
>>947 文武天皇と天智天皇では、「他の皇族」の力が違うと思うが。
よくわからないのですが、蝦夷・入鹿父子が対立していたことを示す資料はありますか?
もしかして入鹿は蝦夷の実子ではなかったのかも。林臣鞍作が本名?
>>951 日本書紀には、入鹿が行った上宮王家滅亡に対して、蝦夷が激怒して
「入鹿の大馬鹿者、悪逆を行ったお前の命は脆いものだ」と罵ったと
書かれています
つまり日本書紀によると、上宮王家を滅ぼす事悪逆であり
蘇我宗家も、それによって脆くなると、蝦夷は考えていたようです
確かに山背大兄王は蝦夷にとって甥であり、上宮王家は蘇我宗家の
血を受け継いだ皇族集団であります
上宮王家の滅亡で、蘇我宗家の持ち札(皇族)は、古人大兄皇子だけになり
その上、上宮王家滅亡から僅か2年で、脆くも大和第一の豪族蘇我宗家は滅亡しました
>>950 高市皇子の死を待っていたかのような文武天皇の即位から見て
高市存命中には、文武の即位はなかったかも知れません
高市皇子自身は、母が卑母である為に即位の可能性はなかったと
思われますが、太政大臣という官職、浄広壱という草壁皇太子と
同じ位階、食封五千戸という経済力、壬申戦争の英雄という名誉と実績を
持っていましたから、高市存命中の珂瑠の即位は持統天皇を以ってしても
難しかったと思われます
もし持統の方が高市より先に死んだとしたら、歴史は変わったかも知れません
持統の方が高市より年上ですから、その可能性は充分にあったと思われます
>>953 おっしゃることに意義はありませんが、その上で、
「若い頃の天智天皇」と「即位したときの文武天皇(て言うか後見の祖母、母、叔母)」では、他の皇族の力が違うのではないでしょうか?
てか、持統天皇って、孫の即位の時生きてた?
この人何言ってんの?
日本書紀の天武、持統天皇の時代は実質、大友皇子と高市皇子の時代だろうが
8世紀に橘氏系の天皇が成立するのかは
蝦夷・入鹿対立論には無理があると思うが。古人擁立はともに利益がある。
蘇我系王族の二枚のカードを温存するか、切り捨てるかの戦術的な違いだけでないか。
>>951 フルネームは蘇我大朗林臣鞍作。
蘇我氏の支族としては林臣を称していた。
って門脇禎二氏の本で読んだ。
日本書紀に大臣の児ってあるらしいし。
>>954 おっしゃることに意義はありませんが
↓
おっしゃることに異議はありませんが
じゃないですか?
意義だと
>>953のレスを否定する意味になる。
>>957 蘇我宗家の持ち札を古人大兄皇子一枚に限定する入鹿の戦略と
上宮王家を蘇我宗家の持ち札として温存しておく蝦夷の戦略とでは
皇族対策として著しく異なると思われ
そして、やはり蝦夷が入鹿の上宮王家滅亡させた行動を、怒り罵ったという
日本書紀の記述は無視できない
その上、日本書紀を読むと蝦夷と山背大兄王の個人敵の関係は、決して悪くない
蝦夷が田村皇子を推したのは、あくまでも推古の遺言を実行する為であり
最後は山背大兄も、叔父の意向を認め、己の即位を断念したと日本書紀には
記述されている
つまり日本書紀の記述から見て、山背大兄王は叔父である蝦夷の支持が
ない限りは、強引に即位を求めるようには思えない
その事は、中継ぎである皇極の次に、蘇我蝦夷が山背大兄王を即位させる
という意向があった可能性に繋がると思われ
そして入鹿の強引とも言える上宮王家滅亡作戦と、それに対する蝦夷の激怒を
考えると、入鹿と蝦夷との間に皇極の次の皇位に関して、充分な意思疎通がなかった
という結論に、日本書紀の記述を読んで至った
>>959 ・・・指摘されるまで変換ミスに気がつかなかった・・・
そう、その通り。
962 :
958:2006/01/05(木) 05:23:10
私もミスってたorz
大朗→大郎でした。
>>960 なるほどね。皇極即位の背景に蘇我父子の対立があったというのはおもしろい考え方かも
上宮王家滅亡後に対立は解消し蝦夷も古人擁立に動いたということかな。
その古人大兄皇子は実に頼りない存在だった
入鹿の暗殺で葛城皇子や軽皇子の軍門に簡単に降った小物
これが山背大兄王なら上宮王家(甥)と蘇我宗家(蝦夷・叔父の連携で
葛城皇子や軽皇子に対抗したと思われ
葛城が舒明天皇の皇子だと言うのなら、山背大兄は聖徳太子の長子
大和の豪族の中には、上宮王家+蘇我宗家に組みする豪族も居たはずだから
上宮王家+蘇我宗家連合軍が、葛城皇子と軽皇子、それに組みする豪族を討ち
皇極天皇を退位させて山背大兄王が即位したかも知れない
そんなことあるわけないだろw
山背大兄こそヘタレの最たる者だろうが。
山背大兄王が秦河勝と東国壬生を頼みに反撃すれば、滅亡を免れた可能性はある
ただし彼自身が語ったとされるように、かなりの大乱となって民を疲弊させることになったろう
河勝は動かなかったかもしれないが、アゲハの幼虫の新興宗教を鎮圧しているしかなりの実力者と思う
日本書紀を読めば山背大兄王がヘタレだとはとても思えない
山背大兄がヘタレなら、入鹿が上宮王家を滅ぼす必要もないし
上宮王家が滅亡してから、僅か2年で蘇我宗家は滅びるはずもない
結局、上宮王家と蘇我宗家は運命共同体で、どちらが欠けても
敏達系皇統である葛城皇子と軽皇子、そして中臣鎌足を利する事になる
それを入鹿は理解出来てなかったから蝦夷に怒り罵られたのである
蘇我入鹿が大馬鹿だった証拠は敵を完全に見誤っていたこと
入鹿は山背大兄王と上宮王家を倒せば古人大兄皇子を即位さられると
考えていたようだが、本当の敵は葛城皇子や軽皇子、そして中臣鎌足
敵・味方の区別が出来ない馬鹿者が暗殺されるのは当然である
蘇我宗家の滅亡は、入鹿が本来は味方である用明皇統で
蘇我系皇族集団、上宮王家を滅ぼした点に尽きる
入鹿は皇極・軽皇子に乗せられて上宮王家滅亡に手を出してしまったとかないのかな。
見返りに古人を葛城の前に即位させるとかの裏取引で。
入鹿が望んでいたのは蘇我系の皇子の即位ではなくて、蘇我のロボットとなる皇子の即位でしょうから
勢力がある上宮王家を排除する動機はあると思うけど親父に無断で自分のみの判断でやるかな?
上宮王家攻撃の際に動因された兵ってどこに所属していたものでしょう?
970 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 23:42:30
上宮王家襲撃には軽皇子も参加していましたから、入鹿単独による集兵でなかったはず。
というか僕も軽皇子が、自らの立場を有利にするために入鹿をたきつけたように思えてなりません。
中臣鎌子が最初軽皇子に接近したと家伝に伝えるのも、次期天皇と目していたからでは?
軽皇子が敏達と彦人の遺産の大半を相続してたからでは?
972 :
衣笠宮:2006/01/08(日) 08:37:06
>>971:軽皇子が敏達と彦人の遺産の大半を相続してたからでは?
実は、孝徳天皇こそ敏達天皇系の後継者ではなかったか
との説もありますよ。
父親の茅渟王は、舒明天皇の兄にあたるわけだから
敏達天皇-押坂彦人皇子-茅渟王-孝徳天皇(596年誕生)
敏達天皇-押坂彦人皇子-舒明天皇(593年誕生)-天智天皇
遺産といえば馬子ゆかりの嶋宮がありましたよね。
嶋宮は皇極・孝徳に受け継がれた可能性はありますか?
受け継いだとしたら糠手姫と吉備姫ですが
蘇我宗家滅亡後から中大兄の手にあったと思われます。
>>970 その可能性は多いにありますね
軽皇子が山背大兄王を皇位継承のライバルと考えていれば
その存在は疎ましく排除したい対象だったと思われ
敏達天皇→押坂彦人大兄皇子→茅渟王→軽皇子
用明天皇→聖徳太子(厩戸皇子)→山背大兄王
敏達系皇統と用明系皇統はライバル関係にあったと思われ
敏達天皇没後、嫡子である押坂彦人大兄皇子は即位出来ず
敏達の異母弟の用明天皇が即位
推古天皇の皇太子には用明皇統の厩戸皇子が立太子
推古没後に即位した舒明天皇は敏達系皇統で
押坂彦人大兄皇子の息子
つまり敏達皇統と用明皇統は皇位を巡り常に対立関係にあった
そして用明皇統は、血と思想(仏教信仰)で蘇我氏と強い絆があった
それを愚かにも、入鹿が上宮王家は滅ぼす事でその絆を破壊し
日本書紀によると父である蝦夷に怒り罵られた
976 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 18:30:19
>>974 皇極・孝徳は吉備姫王の子供だから受け継いだって事は無いっすか?
二人の諱から皇極・孝徳の養家は東漢氏系だと思います。
吉備姫は皇極2年に薨去していますが、それ以前から相続
していたと考えられるでしょうか?嶋宮の世帯主は馬子が
亡くなった後はずっと糠手姫と姉の太姫だったのでしょう。
明示された史料は知りませんが太姫は吉備姫の母君だと
思います。そーゆーわけで吉備姫は伯母様と嶋宮に住んで
いたのだと思うんです。糠手姫は長生きなのでその間
誰かに受け継がれることはなかったでしょう。
すると
>>974で立てた乙巳の変以降、中大兄の手にあった
という仮説は否定されることになるねぇ。。。
巨勢徳太や高向国押の動きをみると、上宮王家打倒は敏達系と入鹿の共通目標だったようにみえる。
石川麻呂が敏達系に接近したことからみて、蘇我氏の内紛もからんで
入鹿ひとりがはめられたといえる。
天智天皇と天武天皇の全御子達の生没年がわかる方いませんか?
有名な皇子皇女は自分で調べてわかったのですが、
有名じゃない皇子皇女は調べてみても全くわかりません。どなたか教えて下さい。
>>979 天智の子で没年齢不明な子は
健皇子
志貴皇子
大田皇女
大江皇女
新田部皇女
御名部皇女
山辺皇女
明日香皇女
泉皇女
水主皇女
天武の子で没年齢が不明な子は
磯城皇子
穂積皇子
長皇子
弓削皇子
新田部皇子
泊瀬部皇女
但馬皇女
紀皇女
多紀皇女
田形皇女
以上のように天皇の皇子・皇女でも没年齢不明な者は多い
追加
天武の皇子の忍壁皇子も没年齢不明
御方大野の父も
天武の皇子は、高市、草壁、大津、忍壁、磯城、穂積、長、弓削、舎人
新田部の10人しか史料上確認できない
直木孝次郎は御方大野の父を、天武の皇子で唯一没年不明の
磯城皇子だと推定している
984 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 19:44:56
>>977 天智称制3年に死んだ嶋皇祖母命は糠手姫のことですか?
吉備姫王は大きな貸稲田を領有していたとも伝えるので、敏達系の女系はかなりの経済力があったようですね
>>985 スレタイとスレ立て主に多少難ありだが、われわれで有効活用はできそうだ。次スレ酸性
987 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 21:20:24
>>966 大生部多ですね。もう少し時代が遅くて、仏教系なら役小角や行基みたいな
立場になれたかもしれないのに、後々名前が知られたのは河勝の方。
988 :
979:
>>980-3 どうもありがとうございます。
うわー。生年がわかってない皇子皇女のほうが多いんですね。もう俺には調べようがないっす‥。
もしどなたか天智天武の子供について書いてある、お勧め本をご存じでしたら教えて下さい・。それを読んで参考にします