869 :
神も仏も名無しさん:2010/12/28(火) 14:41:25 ID:+ByLxetT
>>868 机か?
机とか生命教は、何も読めない妄想家なんだから、
困るよね。
870 :
神も仏も名無しさん:2010/12/28(火) 15:52:08 ID:P5VI+Jcq
>867
>「護教的」というのは、「>(釈迦の絶対性)」ではなく「【おしえ】(そのもの)、
>つまり【内容】の正統性」なのです。
「かの有名な釈迦が言ったから」正統だと思っているだけ。横丁のご隠居や日雇い
労働者が同じことを言っても、決して正統だとは思わないよなw。
非信者から見れば、正統でも何でもない。矛盾だらけの精神病者の言葉に過ぎない。
まさに「釈迦による洗脳信者」の言葉。ダニヤもそれで洗脳された。
>>870 同じことを言っていれば、それは「正統」なのです。
横丁のご隠居でも日雇い労働者でも、それは「正しく仏法を伝える者」ですw
もし、それが受け売り伝聞でなく、自らの理解納得、頷きの上の発話であるならば、
彼は紛れも無く仏弟子(釈子)であるわけです。法眼を開いたと見做し得るのです。
舎利弗目連は言うに及ばず、龍樹もまたそうなのですw
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1286586010/616 >> 397
> 「一切皆苦」「釈迦は常に正しい」。
だからwww
「○○が言ったから正しい」なんて誰も言ってないのw
(確認した上で)「内容が正しい」と言ってるだけなのw
たまたま最初に説いたのがお釈迦さんだっただけなのw
で、論証の成立不成立の話はどこへ行ったので?w
>>869 典籍の読みが(以前にくらべれば、)素直にできている。
>861
>名称&形態の寂滅こそが彼岸到達
など。
ある種の空虚にも似た要素を仮の目標として使っていく仏教のやり口・姿勢は
初心者には呑み込みにくい
なぜ空性が言挙げされねばならないか、まだ理解していないようだが勉強はしているようだ。
873 :
神も仏も名無しさん:2010/12/28(火) 17:25:15 ID:fSLm/paP
>>871 釈迦の誤りや矛盾が一切指摘できないところで、既に終わっている。それを
「宗教による洗脳」と呼ぶ。
「正しいことを言う人が、皆、仏弟子」という論理は、どこからも出てこない。
循環論法に過ぎない。
竜樹はちゃんと指摘してるぞ。中論を熟読して探してみよ。
>>873 > 釈迦の誤りや矛盾が一切指摘できないところで、
誤りも無ければ矛盾もありませんw
世俗の一般的価値観との相違があるだけです。
語弊を恐れず例えれば、
欧米人にとっては、家へ上がる時に靴を脱ぐのは「非常識」で、土足のまま上がるのは「常識」なわけです。
日本人にとっては、家へ上がる時に靴を脱ぐのは「常識」で、土足のまま上がるのは「非常識」なわけです。
そのような価値観、世界観の相違と同じなのです。
これも、詳細に説明して差し上げましたがスルーでしたねw
世俗の価値観との間にどのような齟齬が生じるのか、どこが反発を受けるのかも、
詳細に解答して差し上げましたよね?(これもスルーでしたが・・w)
*(あ、これは他の方との議論の過程だったかもしれません。)
いずれにしろ、ホント、プチ仙石、プチ民主なんですよw
> 「正しいことを言う人が、皆、仏弟子」という論理は、どこからも出てこない。
ハァ?(゚∀゚)
「Aという考え方」があり、後代・別の時空間で、また「Aという考え方」を述べる者がいれば、
それは「正しくAという考え方を語る者」である、という単純な構図を示しているだけですが?w
ちなみに、「何が正しいことか」という正しさの中身については(今は)何も触れていませんし、関係ありませんよ?w
事象の継続、再提示に於ける、単純な時系列の話です。
> 竜樹はちゃんと指摘してるぞ。中論を熟読して探してみよ。
そんな所はありません。
全て、原始仏教に回帰可能な言説です。
それどころか、貴方は何一つ『論証』できていないんですよ?w
貴方がしているのは、貴方自身が先程来「論証にならない」と否定・批判した
「盲目的強弁」に他ならないのです。
875 :
神も仏も名無しさん:2010/12/28(火) 20:09:28 ID:N9NdD5kz
>>872 >なぜ空性が言挙げされねばならないか、
空性といふのは、つまりゲームで言ったらリセットなんですね。
ですからリセットにおける意味付与は必要はないです。
>まだ理解していないようだが勉強はしているようだ。
おそれいります。
セブン氏もお元気そうで、なによりでつ。
876 :
神も仏も名無しさん:2010/12/28(火) 20:28:15 ID:+ByLxetT
877 :
神も仏も名無しさん:2010/12/28(火) 20:42:05 ID:ZGI6pT4J
>>874 >誤りも無ければ矛盾もありませんw
>世俗の一般的価値観との相違があるだけです
典型的な宗教盲信患者だな。会話は不可能。
あなたは、生まれてからいつごろ、どうしてそうなったかを、ノートに書き綴
ってご覧。幼い頃は、決してそうではなかったはずだ。
世間の一般的価値観からの著しい相違を、「狂気」と呼ぶのだよ。
人間は、オギャーと生まれただけでは「人間」にはなれない。「世間の一般的
価値観」を身につけて、初めて人間になれる。一挙手一投足がそれに合致しな
ければ、共同体において、人間は生存できない。せいぜい、精神病院に強制入院
させられるだけだ。
君の論理なら、宗教による大虐殺や争いも、「世間の一般的価値観との相違」で
すべて正当化できることになる。それがまさに宗教戦争・紛争の原因。
>全て、原始仏教に回帰可能な言説です。
何故、そうでなければならないのか。何故、大乗仏教が発生しなければならな
かったのか。
釈迦が「双極性障害(躁うつ病)」であったことは、本格的な精神医学の最新
の教科書を数冊読めば自明のこと。何故それほど精神病者に惹かれるのか。
「精神病は感染する(感応精神病)」ことを、忘れてはならない。
「世間の一般的常識」から大きく逸脱した宗教は、治療の対象以外の何物でも
ない。
靴を脱ぐ、脱がないは、それぞれ、「現実生活上の」即ち「生存のための」
合理的理由があるのだよ。宗教には、一切それがない。
>>877 > 合理的理由があるのだよ。
そうです。まさに、それぞれの立場で、きちんとした整合性が成り立っているのです。
そして、郷に入っては郷に従えと言うように、反社会的であってはならないのです。
*(古代インド及び東南アジア、スリランカ、中央アジア、チベット等に於いては、
文化的に又習俗的に許容されていたわけです。
日本に於いても、そう古くない昔まではそうでした。
近現代日本に於いて初めて、宗教的価値観が害悪視され、世俗が聖性を嫌悪・排除したので、
日本仏教は世俗化し、僧侶は葬祭業のタレント・出演者と化したわけですw
時給に直せば法外な金額を少しの読経で得られる、ボロ儲けな職業に成り下がったわけです。
貴方はそれを良しとするのでしょうが・・w
伝統的聖性が力を失った故に、オカルト、スピリチュアリズムの台頭を許すことになったのです。)
だから、立場の違いが明確にされ、【役割分担を担う形】で共存してきたのです。
貴方の主張こそが、まさに「悪しき共産主義・社会主義」なのです。
医者は医者の価値観、信念、道義に則って、医者たる役割で社会と関わるのです。
小説家は小説家の価値観、信念、道義に則って、小説家たる役割で社会と関わるのです。
ルポライターはルポライターの価値観、信念、道義に則って、ルポライターたる役割で社会と関わるのです。
僧侶(比丘)、宗教者もまた、宗教者の価値観、信念、道義に則って、宗教者たる役割で社会と関わるのです。
貴方が知らないのも当然ですがw、
仏教がいかに社会と価値観を共有許容し合いながら共存してきたか、仏典を読めば明々白々なのです。
読んでいない、一次資料とまでは言わないまでも二次資料三次資料すら一顧だにしない貴方に、
何を論証・主張する術がありましょうやw まさに、貴方が上の方で批判した如く、
「根拠無き」非科学的妄想の羅列でしかないのです。それが貴方の姿です。
880 :
神も仏も名無しさん:2010/12/28(火) 23:41:07 ID:ZGI6pT4J
>>878 >>879 >内容に普遍性があるからですw
内容に、普遍性が「ない」からこそ、精神病なのだよ。「一切皆苦」は、単なる鬱病の
症状。「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」が人間にとっての普遍。
家庭を大切にし、誠実に生きているダニヤを洗脳する釈迦の姿は、まさに悪質なカルト教祖
の姿ではないか。
>ボロ儲けの職業
彼等は人の嫌がる死後の始末をすることにより、社会に貢献している。君も死ねばお世話に
ならなければならない。小乗は、葬式もやらないのか。他人の儲けをうらやむのは醜悪で
ある。それは、羨望と嫉妬という賎しい感情。
>世俗が聖性を嫌悪・排除
同じ人間を聖と俗に分けるのは「人間差別」だから、嫌悪・排除されるのは当然。
>「医者が・・・」「小説家が・・・」「ルポライターが・・・」「宗教者が・・・」
彼等も世間によって「生かされている」のだから、「世間の一般的常識」に従うことが
優先する。
>>880 また都合のいいとこだけつまみ出して返レスですか・・w
ほんとに、姑息で下劣で卑怯で腐り切った人格ですな・・。
貴方のような人間を偽善者と言うのですよ。
貴方のレイプ肯定発言を、私も忘れてはいませんよ?w
この880の内容全て、詳細に返答、論破済みです。
貴方はそれに対して何の反応もしていません。
異「論」・反「論」が無いということは、御自分の支離滅裂ぶりをお認めになったと解しますが宜しいですか?www
882 :
神も仏も名無しさん:2010/12/29(水) 00:26:12 ID:2QWLWNda
金萬光無上了義如意宝論問答 大慧禅師造
問ふ。中観不共の勝法とは是れ如何。
答ふ。此れは是れ金萬光なり。
問ふ。中観不共の勝法とは是れ義にして、金萬光は名なり、如何。
答ふ。中観不共の勝法とは義に非ず。空性義に非ず、金萬光とは空性の名也。
金萬光を唱へたてまつらば、諸法空ず、諸法空ずれば中観不共の勝法顕然ならずや。
問ふ。何ぞ必ずしも金萬光に限らんや。空性に名無し、如何。
答ふ。金萬光は無名の名なれば、空性に契合す。此れ三世諸仏の密意也。
(卍続蔵48巻)
>>880 中観を勉強する前に、まず世俗諦を徹底的に勉強するべし。
あなたに、中観はまだはやい!
釈迦も龍樹も涙を流してるよきっと…
884 :
神も仏も名無しさん:2010/12/29(水) 01:52:08 ID:8hUjz+0r
>>882 >答ふ。金萬光は無名の名なれば、空性に契合す。此れ三世諸仏の密意也。
これは深い。
釈迦、竜樹、仏典、悟り、解脱などの「名」を唱うる者は、未だ空に至らず。
885 :
神も仏も名無しさん:2010/12/29(水) 01:56:20 ID:8hUjz+0r
>>883 >あなたに、中観はまだはやい!
君には、はやくなかったのかねw。世俗諦をどれほど勉強したのかねw。
886 :
神も仏も名無しさん:2010/12/29(水) 02:13:21 ID:8hUjz+0r
>>881 異論、反論がないのは、君の論証に説得力がない、ということだよ。重箱の
隅を突くような議論ばかりで、「大きな流れ」が全く見えない。
ところで、君が小乗に嵌った経緯の質問については回答がない。病気の診断は、
病歴の聴取から始まる。やはり、テラワダの恩師による洗脳であると推測するが
如何?
887 :
1/2:2010/12/29(水) 10:59:47 ID:3pj4bZyW
>>886 > ところで、・・・・・如何?
私の話ではなかったんですがねぇ・・w
問われたことを無視して別のことを語る。いつも通りの姑息な答弁です。
まあいいでしょう。他のROM者の爲に、試論的提示だけしておきます。
若き日のシッダッタに「鬱の気(け)」があったことは想像ができます。
しかしそれは、貴方が何度か言及した記述から推測されるわけではありません。
貴方は、《「一切皆苦」というフレーズと晩年臨終間際での「○○(場所・景色)は美しい、楽しい」という発言》
を根拠として用いましたが、それ以外を判断材料とした形跡はないようです。
(読んでないのですから当たり前ではありますが・・w)
後者「○○(場所・景色)は美しい、楽しいという発言」は、最晩年の(死期間近な時期の)ものであることがポイントです。
「振り子の極としての、悲観的心情の揺り戻し的発語」ではなく、
たとえば、お年寄りが孫や幼児の様子・姿を見て、人間の生の営みへの感動と称賛をするようなものです。
紅葉や桜吹雪や新緑に自然のダイナミズムを見、讃嘆するようなものです。
相対(あいたい)する事象への、中立的視線と素直な述懐なわけです。
*(「アーナンダへの“ほのめかし”」という要素は今は措く。)
前者「一切皆苦というフレーズ」は、全生涯を通じて貫かれているもの、
少なくとも成道後に、正確に提起されたものであることがポイントです。
つまり、諸法の縁起することの別表現であるからです。最大カテゴリとして再構築されたものだからです。
成道前(出家前)に関しては、苦悩の原因解明として後から遡及されているものだからです。
(詳細はもう述べません。〔仏教議論スレッド 6
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1282465343/374〕に
一連のやりとりのURLが集積してあります。)
888 :
2/2:2010/12/29(水) 11:00:42 ID:3pj4bZyW
よって、貴方のように診断の決め手とするには、材料として甚だ弱いのです。
*(数多いる研究者の中でも(それほど多くはないでしょうが)、シッダッタの性格に言及する際、
そのようなアプローチをする者はいないのです。少なくとも、西洋的或いはキリスト教的視点から、
総体としての仏教という思想のペシミズムを論ずるもの以外は。)
*(↑これは管見の狭さから正確さに欠けますので、詳しい方の添削を依願しておきます。)
(何度か少しだけ触れたかもしれませんが)、
多くの研究者が、その若きシッダッタの苦悩、性向について言及する時に用いるのは、
回想として語られた部分に依るのです。(当たり前のことですが・・w)
或いは他の仏典外の資料も含めた、当時の文化思想的風俗・民俗との照合に依るのです。
「生母の不在」「自国(自族)を巡る社会情勢」「自らの恵まれた環境(とその虚構性)」
「巷に溢れる様々な思想の精神的救済に関する不備」「当時の(爛熟した)社会状況・世相」
「出家遊行者の存在、及び解脱の希求が社会的価値観として常識的なものだったこと」
などに依っているのです。(ヤサを始め過去七仏も、ほぼ同様な青年時代として描写されている点も、
そうした若き日の心的在り様・環境が、出家の縁の重要な一つとなっていることの証左とも言えましょう。)
ここを踏まえた上で、求道・解脱への思い(大乗的に言えば発心ですが)とリンクさせて初めて、
(当時のインドにおける思想的潮流全てに共通する面でもありますが)、
「解脱、苦脳の解決」と「個々人の性格・性向、心理的バイアス」との関係に言及することができるのです。
*(貴方の大好きなw中村元も同様です。)
*(こここそが、貴方の言う診断材料たるものなのです。
貴方はこうした情報・資料を一顧だにしないどころか、知らないし知ろうともしていないのです。
そんな貴方に、何を言う資格がありましょうや。)
>>886 > 異論、反論がないのは、君の論証に説得力がない、ということだよ。
反論のしようがないことの言い逃れである可能性を消せませんねw 言うだけなら誰でもできます。
(結局また、「論証成立の為の要件」についての話は有耶無耶なまま闇に葬られるわけですね・・。
相も変わらず姑息で愚劣なことで・・w)
> 「大きな流れ」が全く見えない。
それは貴方でしょう?w
稚拙な継ぎ接ぎ・矛盾の故に、各論が個々に断絶していて、とても「大きな流れ」になっていません。
貴方の発言の多くを、詳細に検証して差し上げてきた筈ですが?w
> 重箱の隅を突くような
大きな流れを成立させる為の細部の論というのもまた必要なことなのです。
小さな積み木を重ねるようなものです。重ね終わった時の全体像が歪んでしまっては意味がありません。
絵画のデッサンの話もしたでしょうか・・。全体図と細部とは、双方が常にチェックされねばなりません。
最初に全体像を描いて(大きな仮説を立て)、細部を重ねてゆく手法は勿論アリです。有効な手法です。
しかしながら、その用いるピース、積み方、等に誤りや歪みがあった時、
出来上がった全体像が、最初に描いたものから大きくずれることもあるでしょう。
この時、「ピース(細部)そのものや積み方が不適切である」のか「最初に描いた全体像に不備がある」のかは
それはそれで議論の対象ですが、貴方の場合、最初の全体像の歪みもピースの不適切さも顕著なのです。
(不適切どころか、不足・欠乏と言っていいくらいだがw)
そこで、全体像の歪みが指摘されることが多いので、随分前から、私は細部の指摘に切り替えているだけです。
(全体像の歪みは勿論のことですがw)、貴方の発言の矛盾や支離滅裂な点は、
その多くが、細部のでたらめさに依ってもいるからです。
ま、これももういいです。
前スレがDAT落したり、スレが変われば、自分の瑕疵を無かったことにして
素知らぬ顔で変わり映えのしない戯言を垂れ流す愚劣な品性は、ここでも明らかになったと思います。
スレ汚し失礼しました。 m(_ _)m >>ALL
890 :
神も仏も名無しさん:2010/12/29(水) 13:18:21 ID:XS8jNUTH
>>887 >>888 >>889 キリスト教の場合と同様、釈迦自身が書いた仏典は、唯の一つもない(これは
不可思議なことであるが)。すべて、数十年、数百年後の、「信者」たちの伝聞と
解釈によるもの。いかに細部や全体像を論じてみても、それが「正しい」ことの
保証は「皆無」である。そのような、伝承上の、信者の伝聞・解釈上の、極言
すれば空想上の釈迦を、あたかも現存の人物の如く信じ込み、崇敬することに、
基本的な誤りがある。
私は、このような「仏典上の釈迦」についてのみ論じている。従って、それが
真実であることの保証は、勿論皆無である。
従って、著者や著作の真正が不明な原始仏典よりも、むしろ、実在と著作の真
正が確認されている、後代の多くの人々の「思索」こそ重視すべきであろう。
贅沢三昧な生活をしながら、城門を一歩出た途端に「無常を知る」ということ
も、極めて異常。城門外のすべての人々は、とっくに知っていたこと。しかし
彼等は、鬱病患者以外は、「一切皆苦」にあえいで生きていたのでは決して
あるまい。苦労に満ちた生活であっても、生きることの中に「ささやかな喜び」
を見出して、その中でひたむきに生存を続けていたことには違いはあるまい。
さもなければ、人類はとっくに滅亡していたはずだ。これが、人間にとっての
「普遍」である。「一切皆苦」などという心理状態は、「普遍の人間性」では
決してない、異常者(病者)の心理に過ぎない。昔も今も、病気は病気である。
それに、釈迦の「悟り」とは具体的に何かが、さっぱり分らない。すべて釈迦の
「自称」「自作自演」ではないか。仏典上は、すべて釈迦が自分で言ってる
ことになっている。その客観的検証は「皆無」である。あまり大真面目に考え、
信じ込むのは誤りであることは、自明であろう。人物に限りらず、大昔のこと
について正確に知ることは、絶対に不可能。歴史は「参考程度」に留めるべき。
「見てきたかのように」語るのは、滑稽そのものである。
891 :
神も仏も名無しさん:2010/12/29(水) 14:05:33 ID:nWez6+0z
なんだかなぁ・・・w orz
>>890 >それが「正しい」ことの保証は「皆無」である。
これまで論じてきたのは、「仏典上」「伝承上」の「正しさ」であって、その外部の正しさとは別物です。
それは、たとえば、夏目漱石の小説に「我輩は猫である。名前はまだない」というフレーズがあるが、
この時、【「漱石研究」の一環として】「猫がそのように考える筈がない、喋る・語るわけがない」という指摘をするなら、
それは「正しくない」わけです。ましてや『「・・・我輩は犬である、名前はまだない」という書き出しから始まるこの小説は・・・』
『「・・・我輩は猫である、渾名はまだない」という書き出しから始まるこの小説は・・・』
などという書評を書けば、それは「正しくない」わけです。(捏造ですw)
また、漱石の小説を一冊も読まずに、その表現方法とテーマについて論ずることも正確さを欠くわけです。
解説では意味がありません。そこには、テーマと表現の連関が抜け落ちるからです。
貴方は、こうした誤りを犯しているわけです。
*(引用が多くされているものもあるわけですが、それでも、
原文(―この場合は、一次資料としての原典に限るわけではありませんが―)参照を経ていないという
謙虚さを忘れてはなりません。書評にしろ、古文研究にしろ、そうした点を疎かにしている研究や評論は
評価されていないわけです。その言葉や研究成果の信憑性を得られないのです。
当該書籍を読んでいないブックレビューがあり得ると思いますか?w)
或いはまた、こうも言えます。人の心の在り様、変遷に於いて、その実像を提示したという点で、
万人に当てはまる「正しさ」を持っているわけです。
だから、類似した事案として、「因果」についての議論の際、
「貴方の生(人生、日常)に因果は無いのですか?」と問うたのです。一向にお答えがありませんが・・w
期待せず問うておきましょうw 「貴方の心は縁起していないのですか?」 と・・。
*(ちなみに、ここでの「正しい」が、「生命教でいう正しさ」と無関係なのは言うまでもありませんw
仏教が大切にしているのは、「所謂」個々の命であって、「生命教由来の『生命』」でないこともね。)
>>890 >私は、このような「仏典上の釈迦」についてのみ論じている。
それは、(この際全部とは言いませんがw)多くの仏典を精査した上で初めて言い得ることです。
一つも読んでいない貴方に、論ずる資格があろう筈もありませんw
漱石の著作を読んでいない者が漱石作品の論評をする滑稽さと同じです。
>・・・・・・後代の多くの人々の「思索」こそ重視すべきであろう
後代の多くの人々の思索は、どこに依拠して成されてきたかを忘れていますねw
◎→●→○→□・・・といった流れに於いて、○を起点とする愚かしさが自覚できませんか?
文字化されているかどうかではないのですw
耕運機の発展を歴史的に見た時、その改良の歴史と未来を考える時、マシンとしての初出だけでは意味がありません。
それが、人力による鍬・鋤から発していることを無視しては成立しないのです。
田植え機も同様です。手作業で植える際の機微が重要なのであって、そこを無視した開発などあり得ないのです。
参:〔文献(原文)や過去の解釈、或いは別の読み方無視の俺様基準〕
仏教 議論スレッド その3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/108 このURL集にあるように、貴方のイイカゲンさは、こちらが恥ずかしくなるほどの支離滅裂ぶりなわけです。
>城門を一歩出た途端に
オーバーな文学的表現としては許容しても、今の議論の流れに於いては暴論になるわけです。
プロセスの重要性を議論している時に、そのプロセス無視の発言が無意味であることくらいお解りでしょう?w
>「無常を知る」ということ
この流れで「無常」限定の言い回しは、ミスリード(mislead)以外の何ものでもありませんねw
>のすべての人々は、とっくに知っていたこと
そのようなことは、どんな資料を見ても導けません。貴方の願望・思い込みでしかないのですw
>>890 >釈迦の「悟り」とは具体的に何かが、さっぱり分らない
あちこちに記されているんですけどねぇ・・w
読んでいないのだから知らなくても当然ですよねぇ・・w
漱石の著作を読んでいない者が漱石作品の論評をする滑稽さと同じです。
>仏典上は、すべて釈迦が自分で言ってることになっている。
そんなことはありませんw 貴方が仏典を一つも読んでいないことが明白ですね。
漱石の著作を読んでいない者が漱石作品の論評をする滑稽さと同じですw
>「見てきたかのように」語るのは
見てきたかのように語っているのは寧ろ貴方でしょう?www
(歴史上多くの伝承者は言うに及ばず)、多くの人が、
《「自らの心の在り様の観察」により、「検証し、確認し、理解し、納得し」た上で》、発言しているわけです。
まさに、追体験として「見てきた」から「知られた」から、正しいものとして語られてきたのです。
《「症状の感応」ではなく、「観察、検証、確認」による継承である》ことを貴方は無視しているのです。
当然、【龍樹も同様】ですよ?w
以上、極一部ですが、(一言一句指摘してもいいが、徒労の繰り返しにしかならんので参考程度に。)
いずれにしろ、このレス890もまた、全てが「無知」「独善」「思い込み」なわけです。
最も下劣な点は、読んでもいない、確認してもいないことを、自分の妄想に基づいて断じている点でしょう。
愚かの極みと言わざるを得ませんw
上の887-889とは別の要素が現れていたので、補足レスとします。
ツッコミ所満載なのは、俺へのサービスか?w なかなか手を引けないじゃないかwww
もうすぐ500KBだ。DAT落が近くて良かったなw>>隠居
895 :
神も仏も名無しさん:2010/12/29(水) 16:03:37 ID:XS8jNUTH
>>893 >多くの仏典を精査した上で初めて言い得ることです
真実性の保証は皆無な、大昔の、しかも外国語の古語・死語の膨大な仏典を読
むような暇人ではない。そんな時間があるのなら、やるべきことは他に無数に
ある。中村博士の「仏伝」(筑摩書房)を読めば、釈迦の生涯については大体
分る。
要するに、「歴史」とは、常に「参考程度」だ。大真面目に信じ込むものではない。
>「貴方の生(人生、日常)に因果は無いのですか?」
現実生活には「因果関係」はあふれている。物理現象として馬鹿でも分ることだ。
心(精神)は、現実という「因」に適応して生存を維持するため、自由自在に
変化する。「心だけの因果関係」など考えることは無意味。それを考えるのも、
同じ「自分の心」なのだから、判断の正確さの担保は「ゼロ」である。心は、
現実という厳然として実在する「因」との関連においてのみ、意味がある。
ひたむきに現実を生きている者は、自分の心など意識しないものだ。自分の心
で自分の心を探索する(自分探し)という無意味な行為を行うのは、幼稚な
人間か、暇人か、釈迦のように心が病んでいる者だけ。
896 :
神も仏も名無しさん:2010/12/29(水) 16:41:31 ID:XS8jNUTH
>>892 >仏教が大切にしているのは、「所謂」個々の命であって、「生命教由来の
>『生命』」でないこともね。
ほほう。生命(生命現象を現す肉体)に違った種類があるとでも。それでは、
普遍的自然科学としての「医学」「生理学」「解剖学」は成立しない。
釈迦もイエスも、解剖すれば、内臓は他のすべての人間と同じ。「内臓反転症」
という先天的病気はあるが。チンパンジーとも殆ど変わりはない。その生理
作用は、マウスと殆ど同じ。
ミスリード連発ですねw
>>895 >要するに、「歴史」とは、
歴史的視座、手法は必須ですが、「歴史」についての議論ではないでしょう?w
なんでいきなり無関係な話に飛躍するんですか?www
>中村博士の
予想通りのレスが返って来て笑えますね。(ホント「権威名声大好きっ子」ですね・・w)
>解説では意味がありません(
>>892) と釘を刺しておいたのに・・w
*(892全文読みました?www 再度問うておきましょう。
「当該書籍を読んでいないブックレビューがあり得ると思いますか?」w)
その解説本で触れられていない点についてはどうするのですか?w
また、異説がある場合に中村説を支持する根拠は何ですか?彼が「大学者」「権威」だからですか?
新たな資料や研究成果が続々出てきているのに?w
また、原語で読めとも言ってませんし、他にやることがあるのに、ここまで仏教スレに執着するのはなぜです?w
仏教に関わることが「やるべきことの一つ」なら、その為の調査無しに何ができるのですか?www
言っておきますが、解説本・概説本では調査資料になりませんよ?w
それらは既にフィルターを介し、篩に掛けられた後のものなのですから・・。
一般の研究調査でも、サンプル収集に関するそうした手法(サンプル結果の二次計算三次計算)
は精度を著しく下げるということもお解りですよね?
ほんと、口先だけの詐欺師ですな。だから、今の民主政権と同じだと何度も評するのですよ。
材料無しに口先だけで料理を作るようなものです。絵に描いた餅にすらならない。
>真実性の保証は皆無
それは、中村本でも同じでしょう?www いったい貴方はどこまで馬鹿なんでしょう?w
>「心だけの因果関係」など考えることは
また、他人の発言を捏造するw どこの誰が、「だけ」と言いましたか?
具体的事象物は環境等によって個々様々なバリエーションがあるから、
特に心理面を抽出したんじゃないですかw それとも、心の在り様も人類共通ではないとでも?
(それは、貴方の生命論にも抵触しそうですがね・・w)
>>895 >判断の正確さの担保は「ゼロ」である
>自分の心で自分の心を探索する(自分探し)という無意味な行為
それ以外にどんな方法があると?w
まさか、精神科医・心理学者による心理テストだなんて言い出しませんよね?w
(その方が、よっぽど正確さは落ちるのですがね・・・。)
>心は、現実という厳然として実在する「因」との関連においてのみ、意味がある。
外面との関わりが重要であることはその通りですが、内部フィードバックな状態が無いとでも?
記憶や思い出による心理的影響は、いかなる外部からの影響で?
「既に消失してしまった外部」の記憶が作用している時、その記憶は『「貴方の言う」「実在」』ですか?w
>厳然として実在する「因」との
例の「因果と実在」に関した議論から逃げ出したままで、
そのようなことを恥ずかしげも無く言える神経が信じられませんね。
「因も果も、(所謂一般的)実在とは限らない」ことを、貴方は反証し得ていないのですよ。
誤った前提から誤った結論を導いて得意顔とは、呆れかえるばかりですねw
>現実生活には・・・・・・病んでいる者だけ。
貴方は、諸法の縁起すること(即ち空なること)に於いて因果(時間性)は無い、
竜樹の空は相互依存(のみ)である、と言い切っていたのですよ?
竜樹は現実を(現実生活を)根拠にしていると言っていたのですよ?
竜樹は現実の因果関係を無視して、「空」を標榜していたということですか?
「竜樹の空」は、現実を考慮していない机上の空論だと言われるので?
御自身の過去の発言を、そっくりひっくり返されるので?w
またその場凌ぎの言い逃れが矛盾のミルフィーユを形成しましたね・・。
>896
>ほほう。生命(生命現象を現す肉体)に違った種類があるとでも
何度目ですか?その発言はw
『貴方の言う生命』が妄想であり、一般的に広く認知されているものとは別物なんですよ。
その意味では、最低でも2種類あると言えるでしょうねw
「貴方の言う『生命』」と「一般的に言われる『生命』」との二つがねwww (分類表も作って差し上げたでしょう?)
*(途中から《「肉体」である》と思想転換した際の矛盾や無理も、多くの方から指摘されていた筈ですが、
やっぱりお忘れになっているようですね・・。 現時点での貴方の考え方は
「生命とは肉体のことである」ということで宜しいので?w)
今回もまた、無根拠な妄想が羅列されただけとなりました。
貴方の面の皮は、いったいどれくらい厚いのでしょうね・・・。
900 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2010/12/29(水) 18:27:52 ID:zB2SE091
>>890 >キリスト教の場合と同様、釈迦自身が書いた仏典は、唯の一つもない(これは
>不可思議なことであるが)。
私は不思議だと思わないですね。
釈尊が悟った中道とは論理未分でありますから、それを仏典に残すほど本道から離れる。
(仏典は論理を前程とする)→これが世俗諦
中論は冒頭から論理否定してます。→これは注意が必要ですね。
中論解釈には非常に重要ですから。
あのですね、西洋論理と印度論理は全く別ものです。
それを承知で石飛が実験的に著作を書いたのは承知のとおりですね。
石飛について評価が別れるのは、
「やはり無理」って御仁だったり・・・
「それでもよくやった」という御仁だったり・・・
人それぞれですけど、
龍樹にしてもやはりそうなんです、
あえて無理なことでも、超一級の論法であるから評価されるんであって、
龍樹の本義が解せるなら、
もう既に中論は読む必要性は全くないんです。
そこに龍樹の大乗の祖としての意義がある。
901 :
神も仏も名無しさん:2010/12/29(水) 20:09:12 ID:kESXh+4o
>>900 >あのですね、西洋論理と印度論理は全く別ものです。
果たしてそうでしょうか。私は「中論の頌」は、「もろもろの存在の『構成原理』」を
解明したものだと思います。万物は常に変動していますから、「時間」を考慮に入れる
とその「構成」は確定できません。「時間」とは、「事物の変化」のことです。
「今この刹那」における観察でなければなりません。
その結果、「もろもろの存在は、相対性によって構成されており、相対性とは関係性と
いう「抽象概念」ですから、そのもの固有の自性はない」ということを「発見」した
のです。中論に一貫して流れるのは、この「相対性」の観念です。「因果関係」とは、
似て非なる観念です。「相対性」とは、文字通り「お互いに影響しあう」ということ
です。「一方向の因果関係」では、「相対性」は成立しません。換言すれば、「個は、
他との関連においてのみ存在し得る」という原理です。
この「発見」は万物に通用しますから(すべての物質は、原子や素粒子の相対的結合
です)、「普遍の論理」であり、中論の頌をうまく翻訳すれば、西洋人にも充分理解
できるのではないでしょうか。古今東西、この原理を「発見」した宗教者や哲学者が
皆無だっただけです。
道元の「現成公案」も、竜樹に通じるのではないでしょうか。
ゼノンの「飛ぶ矢は飛ばない」の命題は、単に「刹那」を考えただけで、「相対性」の
概念はありませんから、竜樹のほうがはるかに優れています。
諸賢の、「従来の注釈書には頼らない」ご意見やご批判を請う次第です。
902 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2010/12/30(木) 08:54:18 ID:lUWkvGeS
>>901 印度論理について初歩的解説をいたします。
まず、「去る」といふのは「去らない」ことを前程とする論理基軸をもって成立します。
また「去らない」というのは「去る」ことを前程としなければならんのです。
そうしますとこれが無限ループに陥ってしまいますね。
じゃあ、「去る」も「去らない」も成立せん、その原初は何たるか?
ってとこまで究明する必要があります。
中論とはまさに、この論理矛盾を前程としての有部アンチ論としての意義が甚大なんでありんす。
つまり中論においての結果論は全くないのです。
それでも中論に惹かれるのは何故でしょう?
これは思議を越えるものですね。→これを不可思議といふ。
空とは、この不可思議を透過した心象のありかたを言うのであって、
仏教2500年の歴史において、それは普遍性なる法として一寸たりとも変化はないのです。
903 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2010/12/30(木) 15:27:12 ID:lUWkvGeS
(つづき)
中論・序章・抜粋
__________________________
一切のものは、新たに来ることがなく、
一切のものは、新たに去ることがない。
__________________________
「来る」は、「来ることがない」ことが絶対条件で、
それを基軸として「来る」が成り立ち、
先ず「来る」ことはそれ以前に「来ることがない」ことがあって、
“新たに”「来る」といふ論理が成立しますが、
ここでお気づきかと思いますが、それ自体が論理破綻してしまいます。
何故か?
「来ることがない」といふことは、それ以前は「来ることがあった」ということになりますね。
ですから、先ず新たに「来る」ことはない。つうことになります。
中論序章は、中論全体のエッセンスです。
先ずはここが登竜門になりますから、よくよく吟味して、
この意を解せたら・・・それから第一章へと逝ってください。
話はそれからでつ。
また暇があったら、おいおい書込みしとう存じまふ。
904 :
神も仏も名無しさん:2010/12/30(木) 15:42:53 ID:B7eZtCau
>>902 その「無限ループ」「原初などない」のが、まさに「相対性」であり、
「空の思想」ではありませんか。「原初」もまた無限ループしている
のですから。
それが、ニーチェの「永劫回帰(永遠の反復)」、道元の「現成公案」、
「あるがままの現実」、「今ここの生命による認識」です。
905 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2010/12/30(木) 16:25:12 ID:lUWkvGeS
>>904 >その「無限ループ」「原初などない」のが、まさに「相対性」であり、
>「空の思想」ではありませんか
いんや、そうじゃぁありませんでつね。
相対性つうのは、つまり二項における関係性のことですから、
「初めに二項ありき」でもって成立する論法ですが、
印度論理はこの論法にアンチの立場ですね。
しかしながらそれでは話にならんですから、つまり二項を仮に設定する。
(これを仮設などと言ったりする)
つまりあくまでの論法上における論理であって、それが印度論理にはならんですね。
これを哲学的には帰納法と逝ったりしますが、あくまでも西洋哲学論法における方法論に過ぎんのでつよ。
(これを仮の説示、仮説などと逝ったりします)
仏教的にはこれは方便です。
じゃあ、仏教とは一元論か?ってたら、そうでもないです。
一元論でもなければ、二元論でもない。
これをなんとおっさたらいいのか?
空ですね。
906 :
神も仏も名無しさん:2010/12/30(木) 17:14:43 ID:B7eZtCau
>>905 その二項も、それぞれが相対です。どこまで行っても相対。「絶対(自性)」
はない。これが竜樹の「空の思想」だと思う。
「結果は<縁から成立したもの>と言えるとして、その縁は、自己成立のもの
ではない。もし結果が、自己成立でないもの(縁)から生じるとすれば、その
結果がどうして<縁から成立したもの>と言うことができようや。」(中論1:13)
907 :
神も仏も名無しさん:2010/12/30(木) 17:25:29 ID:B7eZtCau
このように、空の思想には、「因」も「果」もないのです。すべては、
相対性という関係性。従って、石飛氏の「因果関係」は誤り。釈迦教徒
の彼女が「業報論」を導くためのもの。
908 :
神も仏も名無しさん:2010/12/30(木) 17:51:24 ID:B7eZtCau
石飛氏は、釈迦教徒であることとともに、多分、「既存の注釈書」の読み過ぎ
だろう。
909 :
神も仏も名無しさん:2010/12/30(木) 18:26:44 ID:hlPy3LHf
>>906-908 また新しい妄想家の登場か、自分が何も読めないものだから、
読み過ぎで誤読かよ
>>909 次スレどうする?いるならテンプレつくるが?
912 :
神も仏も名無しさん:2010/12/30(木) 20:19:20 ID:hlPy3LHf
>>911 反対はしないw しかし中論需要あるのかね?
>>913 良いねぇ。
要はそこよ。
ここに書き込んで居る人たちは、何のために中観を勉強しているの?
915 :
神も仏も名無しさん:2010/12/30(木) 20:50:02 ID:e3anSqmA
>>901に対しては、机師以外は誰も反論できないな。「従来の注釈書」には書いてない
からだろw。
中論は、宗教の「脱洗脳」に最適。すべての宗教は、竜樹の「空の思想」で吹っ飛ぶ。
>>912 了解しました
>>914 私は自分のため。
五蘊の観察でも空観は生じるし、より正しい姿勢で五蘊を観察するのに中論は役に立つ
>>915 あなたが901なら外人や哲学者を馬鹿にしすぎだと思う。
実際に寺や教会、大学にいって話してみたらどうですか?
917 :
神も仏も名無しさん:2010/12/30(木) 21:33:11 ID:e3anSqmA
>>916 そんなこと言わないで、「自分の頭」で
>>901に徹底的に反論してみたら。
「本に書いてない」から、出来ないのだろw。
「借り物の見解」は無意味。まず、自分自身で中論の頌を読んで、「自分の
理解と解釈」を作り上げることだ。
竜樹は、古今東西、比肩する者の皆無な大哲学者だ。
918 :
神も仏も名無しさん: