さて、問題はこの後ですw
勿論、大乗経典群に於いて、それ以前の教えは全て小乗と括られています。
しかし、それは、「大乗」と自称する以上当然の帰結で、内容や歴史的推移は考慮されません。
自分達の内容以外は、全て小乗なのですから。
しかし、後代の私達は(或いは学者は)そうは見ません。
大乗仏教運動が起こっていた時点での、【当時の対論相手の一群のみを】「小乗仏教」と称するのです。
当然、「初期仏教・原始仏教・根本分裂以前の仏教」に対して「小乗」の語を用いることはありません。
*(これは龍樹に於いても同様でしょう。)
また、時代が下って分派後期のものに対しても、
(系譜に大きなズレがあれば、或いは時代が下り過ぎていれば)用いません。(たとえば現行上座部がそうです。)
また、歴史性を重視するならば、根本分裂直後についても、用いることはあまりありません。
*(だから、その辺のコンセンサスが取れていない場合、文脈上まだ明らかになっていない場合、
『「小乗仏教」という語で何を指しているのか』が不透明になるのです。)
以上は「大乗」「小乗」を対比させて語る際のTPOについてです。
その使用が適切な場合とはどういうものか、ということです。
貴方が、《「かつて大乗を自称し小乗と皮肉った潮流」の末席を自負し、その信念の下、
対論者に対して「小乗」とラベリングする》のであれば、そのこと自体を責めるつもりはありません。
往時の大乗仏教徒達も同様であったろうと思うからです。
しかしながら、もし、多少でも歴史的視座を導入する気があるなら、その使用には慎重であるべきです。
上で述べたように、但し書き(及び揶揄・侮蔑の意図)無きところに「小乗仏教」と出てきたら、
【通常は】、【《説一切有部》及び《その、時代的周縁の部派仏教》のこと】だと受け止めるのです。
(特に教理面に於いては・・・。)
さて、問いそのものに戻りましょう。
> 「小乗」と「大乗」との根本的相違は何か。
小乗は hIna-yAna、大乗は mahA-yAna、文字通り「小さな乗り物、劣った乗り物」「大きな乗り物、優れた乗り物」
ということです。 ま、聞きたいのはこういうことではないのでしょうw
この呼称の導入時の意味・意義は、
彼らの(=これまでの)教えは、
「学問的で、難解で、学び理解した者だけを悟りへ導く」『小さな【一人乗りの】乗り物』である、
対して、我々の(=この)教えは、
「平易で、誰もが理解し得、分け隔てなく悟りへ導く」『大きな【大勢の乗れる】乗り物』である、というものです。
そして、「教えの【働き】」に着目した場合、次のような対比となります。
彼らの(=これまでの)教えは、「学び、理解した【自分だけを】悟りへ導く」『小さな【一人乗りの】乗り物』である、
我々の(=この)教えは、「他者、【自分以外の者をも】また悟りへ導く」『大きな【他の者も乗せる】乗り物』である、
というものです。
*(これが発展すると、『自分は乗らず、他者を乗せる』というところまで向かいます。)
このような点が、基礎的意味、差異となります。
人口に膾炙している定型的謂いをすれば、
《「小乗」は「自利」》(→「自分を悟らせるもの」、「自分だけを悟らせるもの」)。
《「大乗」は「利他」》(→「自分以外も悟らせるもの」、寧ろ「自分以外【をこそ】悟らせるもの」)。
という【自負】と批判が、大乗小乗という呼称の骨子となります。
一応、これが問いへの簡潔な答えとなります。
*(また、「根本分裂」の所で触れた「仏陀観如来観の神格化」に着目すれば、
『「超人的存在として仏陀や如来を扱う」というのが大乗仏教の特色だ』という説も成立します。
『仏陀を、人間から遠い存在へ押し上げる形で変革した、換骨奪胎した』とも言い得るわけですw)
**(当然、着目する要素が変われば、また違った『変革の意味』を見ることができます。)
最初に、この呼称は『「一方からの」自称と蔑称』だと言いました。
特に部派仏教が、(或いは上座部の源流にも言い得ることですが)、
哲学的に煩瑣になり、学問的探求、考察が主軸となり、その整理・理解が至上とされ、
「エリートのみが(この場合「聡明な者のみが」という意味に特化します)近付き得る」
「自己の悟りを、まず第一とする、優先・最上とする」傾向を持ったということは
事実として認めて構いません。これは、釈存在世時でさえも有していた傾向です。
*(上記「エリート」の今一つの意味は、『豊かで、考察の機会・時間を多く持つ者』、
『心理的不安・苦悩に注視する余裕のある者』が、門を敲くことが多かった、ということです。
これは、隠居の指摘に適切な側面があることを意味します。)
*(聡明な者が多くなるということは、「教えの整理」等に際して中心となってゆく、ということでもあります。
それは、学問仏教・アビダルマ仏教への流れに棹を差すこととなります。)
ですから、ここに対して「自利」(或いは「哲学的傾向」)という批判を当てることは、必ずしも100%不当なことではありません。
寧ろその視点からは、大乗仏教の興起は、起こるべくして起こった、歴史的にも必要だったムーブメントと言えます。