しかし、決してそれだけではありません。部派仏教といえども、在家による多くの帰依を受けなければ、
その存続はありません。そして、法施を軸として、外への働きかけが欠けるということもありません。
「利他」のない仏教なぞ無いのです。
また、「自利」無き「利他」もまたありえません。なんとなれば、自身の理解や頷き、或いは強い「信」がなければ、
他者への薦めもないからです。「自身で確かめた(≒信じた)信頼性」の無い推奨ほど無責任なことはないからです。
その意味で、「自利」と「利他」は不即不離でもあります。傾向の差異こそあれ、蔑称は所詮蔑称であり、
大乗側による、自説(自群)を優位にする為のテクニックであった側面を忘れてはなりません。
初期仏教に於いても小乗仏教(部派仏教に於いても、或いは上座部に於いても)、
「利他」の側面はそこかしこに見られます。ただ、大乗仏教のように、
それが「前面に押し出され」、「看板・スローガンとして掲げられ」、「一押し商品とされ」てはいないだけです。
*(ここ(看板とされていること)こそが、大乗仏教の特徴と言うこともできます。)
そこで、貴方の次の問い(9三行目)とリンクした話となります。
この意味で、大乗仏教は、
≪それまでの《「自己を救うこと」「自己の苦悩の解決」に特化した(【それを幹としていた】)仏教の在り方》を
《「他者を救うこと」「他者の苦悩の解決」を至上とした(【それを幹とした在り方】》へと転換させた≫ もの、
と言えるわけです。その意味で、初期仏教と比しても、【変容があった】とは言い得るわけです。
或いは、
≪《精舎(僧窟)に腰を据え、「教理の玩弄」に目を奪われた在り方》を、
《市井に出て、「衆生へ視線を注ぐ」在り方》へと転換させた(回帰させた)≫ もの、と言えるわけです。
【「換骨奪胎」(→教えの本質を「自利」から「利他」へシフトさせたという意味で)】という評も、頷ける部分があるのです。
問題は、奈良・三枝両氏の謂いが、上のようなことなのか、貴方の言うような、
《(初期仏教までも含めて!w)、「否定、離脱し、新基軸を打ち出した」ものなのかどうか》ということです。
*(もし、上記TPOで触れたように《「小乗仏教」が、有部を始め各種部派仏教を指す》ものなれば、
『否定的換骨奪胎』がなされたとの言明は、私がこんなレスをする必要も無くw、当を得ているでしょう。)
> 「この二つは異なった宗教」「大乗は小乗を換骨奪胎した」という、奈良氏や三枝氏の指摘にどう反論できるか。
おそらく下記二つのことを言っているのだと思いますが、
違っていたら、改めて、ソースと共に提示お願い致します。
>>338 なるほど。確かに言ってるわw
引用文のみ見れば、その一文は貴方と全く同じ考え方ということになりますね。
(それ以降の文は、貴方の意見と真っ向対立するものですが・・w)
で、私としては、やはり、
≪ >【完全なる相依にもとづく縁起説】として ≫に異を唱えることとなります。
それは、「中論がそうであるかどうか」ではなく、(縁起一代は一蹴しましたがw)、
その考え方は『改悪』である、と見るわけです。(勿論、貴方は『改善』と見ているのでしょうが・・・w)
理由は、
>>327、★
>>328-329、(
>>325)(
>>345)に尽きます。
≪「完全なる相依性、相互依存」のみであるなら、それは「縁起」ではないし、
【また、「縁起」である必要もありません】≫。
なぜなら、
≪「時間的因果」こそが「縁起」の【定義】であり、【原義】であるから≫です。
貴方は、そして多くの学者は、初手に於いて「そこを見落とし、見誤っている」のです。
奈良さんの発言に関しては、ソースの提示がされてなかったようですね。
ログで辿れる一番古いものは↓だが、
【根本仏教】中観仏教について語ろう【龍樹】U
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1254219116/530 ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1254219116/530 > 奈良氏も「釈迦佛教と大乗仏教は違った宗教」という趣旨のことを言っていましたね。
貴方の書き方から推察しても、
「違っている(→変容している)」ということを言ってるだけで、「換骨奪胎」ということではありませんね。
ましてや「否定」なんて意味合いは、「釈尊シンパの奈良さん」wに於いて、あろう筈も無い発言ということになりますw
確かに述べていたと言うならば、複数でも構わんのでw、ソース提供を宜敷w
また、上で述べてきたように『所謂「大乗」の特色』というものを考えるならば、
それは明らかに初期仏教(貴方の言う「釈迦仏教」)とは、大きく違ったものとなっていますが、
以上のようなことを考慮すれば、奈良さんが、
「【貴方の意図するような意味で】それを言った」ということにはなりません。
*(だから、釈尊マンセーでもあるw奈良さんは、「大乗仏教は釈尊の教えから随分と変容しているけれども
しっかりと、そのスピリッツを継承している。」として、「仏教風呂敷論」という語を用い、
「エッセンスの共通性」を、仏教か仏教でないかの線引き基準の一つにしているのです。)
また、(奈良さんに関しては、原文がどういうものであったかわかりませんので憶測にしかなりませんが)、
もし「小乗」という語を用いていたなら、上のTPOの所で触れたように、
【両氏ともに、原始仏教(初期仏教(→釈迦仏教))を視野に入れていない】ことは明らかです。
寧ろ、【所謂「部派仏教」「学問仏教」、「衆生を置き去りにした感のある歴史的一群」を指して、
そこからの変革であった】、という意味だと読むべきでしょう。
さらに言うならば、(小乗仏教という呼称を用いて対比するならば余計に)、
《龍樹は、原点回帰、初期仏教(≒阿含への回帰)、即ち、釈尊への回帰であった》
というのが、学界仏教界共通した見方でもあります。