>>375 > 往時は、食料も少なかったから、餓死する貧困者も多数いたと推定される。
> 出家すれば、布施という「安定収入」があるから、餓死することはあるまい。
或る意味格差社会的になっていた筈だからね。
社会全体が貧しかったわけじゃない。
ただ、貧しい者の出家は、教えへの感銘よりも貧しさの比重の方が大きかったかもしれん。
> 今で言えば「就職」である。従って、出家も「自己の生物的生命の維持」のための手段であった。
だから何?w
いいじゃんw 出家して、サンガに入り、修行するうちに目覚めればそれでいい。
(現にそういう人はいたと思うが・・・。長老偈とかに無かったかな・・。)
> 現代の職業分類でも、僧侶、神主、神父、牧師等の宗教者は「職業」である。
行政上ね。
だって、そうしないと市政・県政・国政が円滑にいかないでしょ。
東南アジアのように、そうした文化的・行政的・社会的基盤が無いんだから・・・w
> そして、出家者も、托鉢に応じてくれる者がいなければ生きられないのだから、
> 「共同体」の概念は、しっかりと存在する。
その最小単位が「サンガ(僧伽)」でしょ?w 「精舎」でしょ?w
だから、(上でも述べたが)遊行が推奨されるんじゃねーの?www
自分が属するわけではなくとも、自分の生活領域と重なる村という共同体を大切にしてた筈だよ?
> 当時、家族もその成員の出家に反対せず、むしろ安心し、誇りに思ったのではないか。
そういうこともあるだろうね。 特に「九族生天」は大乗でウケてるよね。
> 出家者も、自分が「特別の存在」だと思い上がらず、
必要な姿勢でしょうねw
> 「食うための手段」「職業」と割り切るべきであろう。
勿論その通りです。手段としての托鉢でしょう?w
以下3行は、巧妙な批判・皮肉になってしまっているなwww