>>557 > あのですね、これは初めから「極論における思考実験」でしょ?
でしたら、
>>333(或いは
>>437)の返答で全て終了でしょう?
極論に於ける思考実験で極論としての問いならば、
極論としての、定型的な答えがでるのは当然です。
(さりながら貴方自身が、その定型外のことを問うているように見えたのです。)
> それなのに、何故このような発言がでるのですか?
ただ、それでは満足されていないようなので、違う答え方をする為に、
極論としてのレベルを一旦少し下げました。その上で、もう一度定型的答えに戻った形になります。
また、何よりも、
>>554に於ける
> それの障害になる「在家への解脱の薦め」などは、もちろん拒否。
や、
> 2は、「自己の修行が最優先。その妨げになるなら、出家を薦めること自体をしない。」
という言い方が、(問いとは別に!)極論だと感じたのです。
なぜなら、少なくとも私は、「自己の修行の【障害・妨げになるから】」とは言っていない筈です。
また、
> 「もし問われるならば」仏法を説くこともしよう。しかし、自ら進んで仏法を
> 説いて回ったりはしないし、ましてや在家に仏道を勧めたり、その最善の形態と
> 考えられる出家を薦めたりすることは、もちろん行わない。
これも、極端な誤解である、と。
問われずとも説く。そして、相手が現状で良いと考えるなら、それはそれで尊重する。
なんとなれば、「おしえ」は、その殆どが【出家の素晴らしさを讃える】ものだからです。
だから、その上で、出家を望む者には「来なさい」と言うし、
そうでない者には「善をなし悪を為さないようにしなさい」と言われるのです。
出家に関することを、秘匿し、私物化し、外へ出さないということはありません。
出家は常に薦められているのです。
>>557 > あなた自身が
>>526でかいているでしょ?
(私の書き方のせいでしょうが・・)誤読です。
受験の倍率を下げるような形で他者を排除するものではない。
結果として餓死が待っていようとも、受験を望むものに受験をあきらめろとは言わない。
倍率が上がることを已む無しとして受け入れる。
> 建前の裏に「自己満足」や「自分の救済」が強固な前提と と記した後、(・・・この文ですね?w)
なぜ、《【自己の精進に】【付随する】もの》 という言い方をしたかと言えば、
『他者の向上を排除するものではない』ことを示したかったからだ。そのよう利己的なものではないからだ。
単純に、「噂ではあの店、美味しいらしいよ?」ではなく「あの店は確かに美味しいよ」だからです。
この違いが解って頂けるだろうか・・・。
> 自己の解脱以外に優先する価値を設定するのであれば、
優先順位が1番2番であったとしても、そして、たとえ極論に於いても2番を却下はしないのです。
1番と2番はセット物です。少なくとも、そのように考えることが、
釈尊が菩提樹下から立ち上がった意義を伝承してゆくことだからです。
ですから
> 結局、1と同じになりますね。
その通りです。
>>555最後の行となるわけです。