> 9 仏教に、「根本分裂」が起こらざるを得なかった理由は、どう考えるか。
ほんとに貴方は何も知らないんですね・・。 orz
貴方は、根本分裂が「教義の根幹に於ける考え方の違い」から起こったとでも思ってるんですか?
いったい仏教史の何を見ているんでしょう?
岩波仏教辞典「部派分裂」の項2〜4行目、
『 > マウリヤ王朝のアショーカ王(阿育王)の治世に、仏教教団は【教義の解釈をめぐって】 云々 』
とあるのを言っているのかもしれませんが、それ以降その項のどこにも、【教義の違い】であったとは記されていません。
*(だから、「岩波辞書といっても、たいしたことないw」と私も言うのです。)
寧ろ、(14行目に)ちゃんと『 > 戒律に関する10の新しい意見をめぐって 』とあります。
これは、「十事」という、南伝が伝える【最初の分裂原因】です。
*(岩波辞書が、従来の漢訳・北伝寄り(中国仏教的)ではなく、
南伝も視野に入れたインド仏教寄りへシフトした辞書であることを示す事例の一つといえます。)
同様に北伝が伝えるのが、「大天の五事」と言われるものです。 これは、
≪「阿羅漢の悟り」は、《五つの理由(事象或いは生理現象)によって『完全ではない』》という主張であり、
これにより最初の分裂が起こった≫ とされるものです。
実に大乗的(【既に「阿羅漢」よりも上位の存在が希求されている)な気もしますがw、意味する所は、
≪【悟りのレベル(達成度)と、その証左】に於いて【阿羅漢はそれを満たしていない】、
【「阿羅漢」と「仏陀」(如来)とは違う】≫ というものです。
いずれにしろ、【どちらも】、(貴方が期待するようなw)【《根本的教義の違い》ではない】のです。
まだその時代は、仏陀の教えは大きく共有されていたのです。
「大天の五事」にしろ、それは、《「阿羅漢」にだってこうした欠点があるじゃないか》という疑義であるだけです。
それは、【「仏陀観(如来観)」に於ける完全性の導入、希求】ではあっても、
(各種)「おしえ」(≒教義)の差異とはなっていないのです。
*(ちなみに、「完全性への希求」は、以降、大乗仏教に於ける「仏陀像」「如来像」を決定付けていきます。)
また、その後の分裂に於いても、多くは確かに
《「教義面」(→「おしえ」の解釈)の食い違い及び「発展の仕方」「援用のさせ方」の差異》 によるものですが、
それとて(一部を除き)瑣末なことでしかありません。
(かなり突っ込んで仏教学を学んでも微妙な差異だったりするわけです。)
*(一部とは、勿論「無我(非我)」を巡ってのことです。勿論、宝珠氏ほどの主張は存在しませんが・・w)
「三法印」「縁起」「四諦」「業果」「禅定」「持律」、これらを欠いている仏教は近代に到るまで存在しませんでした。
仏教を教理的に研究する場合(→「律」(或いは戒)に注視するのでなければ)、
根本分裂より、寧ろ多数出現してからの差異を見ることの方が人気があるわけです。(特に「中観vs有部」あたりがねw)
> 「小乗」と「大乗」との根本的相違は何か。
まず、「小乗」「大乗」というのが、【便宜上の呼称である】ということを理解していますか?
《「大乗」とは自称であり、「小乗」とは相手に対する蔑称》である。これはいいですね?
《【「大乗」を自称する潮流】があり、【「小乗」と揶揄される潮流】があった》、このことは事実です。
だから現在でも、学者は
・《その研究領域によって【そのような潮流の別】を指し示さねばならない時》、
・《潮流の【別、差異がテーマとなる時】》
には、「大乗」「小乗」という呼称を用います。
或いは、
・《「それぞれの潮流」と【同じ要素を有する】ものに、それぞれ「大乗的」「小乗的」と冠する》こともあります。
或いは、
・《歴史的にそれぞれの潮流の【系譜に連なっている】ものには、それぞれの呼称を用いる》こともあります。
*(別に、「場面場面による語の使用」自体については、特段良し悪しはないのです。)