その他雑感:
私は、「自未得度先度他」という言葉が昔から嫌いだった。「自未得度」なら、共に歩むべきだろう。
自分がまだ確認していない所へ他者を誘い背中を押すのはどうかと思った時期もあったw
そんな風に思っていた。 (今はさすがにそこまでないけれどもw)、それでもあまり意義を感じない。
嫌味な批判者なら「毒味をさせてるのかよw」「偵察させて安全かどうか確かめてるのかよw」とか言うかもしれないw
しかし、その側面があることは自覚されねばならない。まさに
>>527で触れたようなものであるべきだろう。
大乗の菩薩が、自らの意思で仏陀とならないのだとしても、そこには、
《実質的には完遂した上で、共に歩む》、そうした菩薩像がイメージされていよう。
大乗の、《「菩薩という位階」の改訂》による最大の売りは、そこにあるだろうと思うから・・・。
そして、(「未だ菩薩でもない」w)学びの途上にある凡夫は、共に学ぶ仲間を大切にせねばならないだろうし、
時に支え合い、時に叱咤し合い、時に励まし合い、共に向上の道を歩み続けることになろう。
たとえ、その果てに餓死があろうとも、そのような、同じく学びを望む者をどうして拒むことができようか。
(※勿論、ここには輪廻(≒次の生がある)という保険が有効に働くわけだが・・・。)
余談w:
さて・・、人類全てが悟り、解脱するような事態が、不可能な、あり得ない、想像上のこととするなら、
維摩居士の病気はいつ治るのだろうか・・・?w
(維摩経ベースにあれこれ考察するのも面白いかもしれん・・w)