>>345 > 同じ人間を「聖」と「俗」に分類することは、オットーなどが唱えたようなキリスト教的概念。
キリスト教誕生以前から、インドはもとより、世界中あらゆる所での宗教的事象には、
この「聖」と「俗」という【区分】は存在する。日本には別のニュアンスとして「ハレ」と「ケ」という概念も存在する。
何でもかんでもキリスト教と結び付けりゃいいってもんでもないw
そして、この≪「聖」と「俗」、「ハレ」と「ケ」、「非日常」と「日常」、「稀」と「頻」、「異」と「同」、「あちら」と「こちら」≫等は、
「光と闇」や「明暗」、「善悪」のような二項対立ではない。
そこに価値の上下や優劣はない。あってもそれは流動的であり、TPOで大きく変容する。
それらは並列されるものであり、【その、在り様が、性質が、役割が、期待されるものが違う】のだ。
だから、区分されるのだ。だから 『結界』 という言葉・概念が存在するのだ。
列挙した≪「聖」と「俗」、「ハレ」と「ケ」、「非日常」と「日常」、「稀」と「頻」、「異」と「同」、「あちら」と「こちら」≫のような言い方、
それぞれ意味がある。歴史的、地域的、文化的視点で、価値の変転事例が見いだせる筈だ。
そして、(古代インドに於いて)、遊行者が、沙門が、どこに位置づけられるか、
聡明な貴方ならお分かりでしょう?
古代インドに限らず、《宗教的領域に属する事柄、人、物、(思想)》が、どこに位置づけられるか、
(→《人々にどのように受け止められるか》)、お分かりでしょうw