【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】15

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3664a/6 旧7
>>345
> 同じ人間を「聖」と「俗」に分類することは、オットーなどが唱えたようなキリスト教的概念。
 キリスト教誕生以前から、インドはもとより、世界中あらゆる所での宗教的事象には、
 この「聖」と「俗」という【区分】は存在する。日本には別のニュアンスとして「ハレ」と「ケ」という概念も存在する。
 何でもかんでもキリスト教と結び付けりゃいいってもんでもないw
 そして、この≪「聖」と「俗」、「ハレ」と「ケ」、「非日常」と「日常」、「稀」と「頻」、「異」と「同」、「あちら」と「こちら」≫等は、
 「光と闇」や「明暗」、「善悪」のような二項対立ではない。
 そこに価値の上下や優劣はない。あってもそれは流動的であり、TPOで大きく変容する。
 それらは並列されるものであり、【その、在り様が、性質が、役割が、期待されるものが違う】のだ。
 だから、区分されるのだ。だから 『結界』 という言葉・概念が存在するのだ。
 列挙した≪「聖」と「俗」、「ハレ」と「ケ」、「非日常」と「日常」、「稀」と「頻」、「異」と「同」、「あちら」と「こちら」≫のような言い方、
 それぞれ意味がある。歴史的、地域的、文化的視点で、価値の変転事例が見いだせる筈だ。
 そして、(古代インドに於いて)、遊行者が、沙門が、どこに位置づけられるか、
 聡明な貴方ならお分かりでしょう?
 古代インドに限らず、《宗教的領域に属する事柄、人、物、(思想)》が、どこに位置づけられるか、
 (→《人々にどのように受け止められるか》)、お分かりでしょうw
3674b/6 旧7:2009/09/18(金) 01:26:33 ID:YIwpV8RG
 それらが、なぜ【自分達の世界と違う領域のこととされる】のか?
 なぜ、【そこに、区分が(結界が)設けられねばならない】のか?
 少し考えてみられたら如何でしょう?(人類学や民俗学の話になっても来ますが・・・w)
 この理由こそが、仏教の、「出家」と「在家」という二面性であり、「経」と「律」というニ本柱の理由であり、
 「法」と「僧」という両輪が敬うべき三宝の内に収められている理由とも繋がっているのです。
 この理由が、それらを支えているのです。
 「聖」と「俗」は(世界各地どんな宗教的事象に於いても)互いに補助し合うものなのです。
 互いができないことをサポートし合っているのです。
 決して、対立するものではありません。原初的に優劣のあるものではありません。
 「主観的『頷き』」と「向上の想い」の上に(解脱や涅槃を基準とした時に)初めて、優劣が生じるのです。
  (或いは、俺が俺が、という自己愛・自己保身が基準となった時、優劣が生じるのです。)
 「優劣」(【という価値観の別】)が先にあるのではなく、初めにあるのは(単なる)「違い」のみなのです。
 その「違い」に、「優劣」がまとわりついてゆくのです。(これも、人の心の動きの、見据えるべき姿です。)