1 :
神も仏も名無しさん:
輪廻転生だの霊魂の存在だの、そんなインチキはどうでもいい。ナーガールジュナ(龍樹)が説いた【空】を突き詰めた中観仏教について語ろう。
スレ立て乙。落ちないようにこれからもボチボチ覗きます。
良スレになればいいですね。
3 :
神も仏も名無しさん:2008/12/24(水) 09:50:32 ID:uNHqTHK6
自分は昔から霊魂とか輪廻転生とか神の存在だのはあるわけないと思ってた。だから概してそういう事を説く宗教とは無縁だと思ってた。
ところがいつも霊魂や輪廻転生を否定してた宮崎哲弥氏が自らを仏教者だと称していた。彼は今の日本の仏教などは本来の仏教からは程遠い別物と主張してて、根本仏教とはナーガールジュナが中論で【空】思想を説いた中観派だと主張してる。
中論は素人の自分にはよくわからない。ただちょっとかじって思うのは仏教とは所謂「信仰」とは違う教えだなと思う。自分はまだこれから勉強したいと思うので、知っている方は教えて下さい。
4 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/12/24(水) 22:49:24 ID:WF9A0qUG
俺が答えて良いのか判らんが、
まぁ、信仰ってのは、信じて無い者から見たら理解は出来んわな。
今の日本社会はなんちゃってキリスト教社会だから、
そのイメージで信仰を理解してたら、仏教、殊に中観派は仏教哲学の真骨頂だから素人には難しいわな。
因みに、
龍樹菩薩も、中論で冒頭に帰依を表記されています。
自力も最近よいと思えるようになってきた
神社の神の力ですがすがしい状態に引き上げてもらっていたけど
6 :
神も仏も名無しさん:2008/12/24(水) 23:45:32 ID:uNHqTHK6
>>4なるほどね。中観派の教えは自分みたいな合理主義者に向いてると思った。因みに初心者向けの本ないかな?中観派は般若経が基盤らしいけど難し過ぎてさっぱりだわ。
>>5自分には無理だけど、人間は思い込む事で救われる部分もあるんだろね。それはわかる。
7 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/12/25(木) 00:03:20 ID:5HUTgviD
>6
俺も独学だから、詳しくは解らん。
因みに俺の場合、
テキストは、中村博士の「龍樹」だが、(講談社文庫から¥1400で出てま♪)
その前に5年ほど仏門に居た事がある。
9 :
神も仏も名無しさん:2008/12/25(木) 00:20:22 ID:ZTIKhxOe
>>7中村元さんの事だよね。図書館で読んだが難しいよね。中村さんの弟子と宮崎哲弥が対談してるのは読んだけど、核心部分がよくわからず…【空】って何かね?諸行無常と言われりゃそれまでだけど、難しい。
>>8あの〜その手の話は別スレでやったらどうかな?
10 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/12/25(木) 01:18:52 ID:5HUTgviD
>9
先ず、信仰だから、頭だけで理解するのとは違うって点を踏まえてくれよ?
テキストのU‐7の256にある様に、
「空と縁起と中道とを同一の意義を持ったものだと説き給うた、かの無比なる仏に敬礼し奉る」
と廻ジョウ論にあるそうです。
この三つは、語意としては別(少なくとも縁起と中道は)ですから、その境界を指すと私は仮定してます。
更に般若経には
「無自性なるが故に空である」
(同244)
とあるとの事ですので、
空=無自性と仮定できます。
無自性の記述は、
(同231)多少解りづらいですが、
その前の説一切有部の法有に関する記述を踏まえて見れば解るでしょう。
(^。^)
要するに、科学法則が存在してるとか言うボケに、
んなもんは仮説だろうが!
って言ってる様な話だ♪
霊とかエランヴィタルに仮定して捉えれば余裕でわかる
霊がわからなければ何もわからないだろう
12 :
神も仏も名無しさん:2008/12/25(木) 12:47:30 ID:ZTIKhxOe
>>10ありがとう。読んでみるね。
>>11多分自分には永久にわからないと思うよ
13 :
神も仏も名無しさん:2008/12/25(木) 14:37:06 ID:eRLQmIeV
>輪廻転生だの霊魂の存在だの、そんなインチキはどうでもいい。
そんな動機ではमद्यमिकは理解できませんよw
言葉の定義は空ですねぇ
15 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/12/25(木) 17:27:22 ID:5HUTgviD
>13
先ずは、中論を理解しましょうね?(笑
16 :
神も仏も名無しさん:2008/12/25(木) 23:28:29 ID:ZTIKhxOe
仏教の根本である【空】を突き詰めれば、輪廻転生など有り得ないと思うのだが。
輪廻転生を認める宗派の僧侶もそこは説明できないんじゃなかろうか。
17 :
神も仏も名無しさん:2008/12/26(金) 14:46:38 ID:W8UgZBIa
>13
मद्यमिकでなくमध्यमिकね。
>15
先ずは、संस्कृतを理解しましょうねw
そして次の言葉を味わいましょうw
अतो भावाभावान्तद्वयरहितत्वात्
सर्वस्वभावानुत्पत्तिलक्षणा
शून्यता मध्यमा प्रतिपन्मध्यमो
मार्ग इत्युच्यतो
18 :
神も仏も名無しさん:2008/12/26(金) 17:00:13 ID:q8f02M2j
別に霊だの輪廻だの信じんの勝手だけど、ここは中観派の教えについて語る所だから、そういう話はよそでやればいい。
20 :
神も仏も名無しさん:2008/12/27(土) 10:16:36 ID:hdi800gm
>19
では
まず以下のチャンドラキールティの言葉のアンタなりの解釈を語ってみw
अतो भावाभावान्तद्वयरहितत्वात्
सर्वस्वभावानुत्पत्तिलक्षणा
शून्यता मध्यमा प्रतिपन्मध्यमो
मार्ग इत्युच्यतो
21 :
神も仏も名無しさん:2008/12/27(土) 13:22:59 ID:hdi800gm
例えば
नादिं परितः सुवर्णः कमलानि रोहन्ति
と言う文章がある。
サンスクリットを全く知らない人にとっては
ただの模様にしか過ぎず、認識すらできない。
しかし、知っている人には、蓮の咲いた情景がありありと思い浮かぶ。
われわれの認識は言語によって限定され、
かつ言語なくしては何も認識できない。
かくして言語に覆われたものは真ではない。
22 :
神も仏も名無しさん:2008/12/27(土) 19:59:36 ID:2RmwShS9
帰謬論証派と自立論証派 の違いをわかりやすく教えて貰えませんか?
「確固たる実体を持ったものなど存在せず、全ては縁起で成り立っている」
ことを悟ることで、執着・苦しみから解き放たれた涅槃の境地に至ることを
目指すのが、仏教ですが、少し考えればわかるように、このような「執着拒否」は、
一歩間違えると、「現実軽視」「現実否定」、要するに「何がどうなってもいいじゃん」
といった危ういNihilism(虚無主義)や、錯乱に行き着きます。
その懸念から生まれたのが中観派の発想で、「空観」「仮観」「中観」の「一心三観」
で語られます。
空観=根本的には、全ては確固たる実体が無い、空だ
仮観=だけれども、縁起で成り立っている仮の実体であるそれぞれの存在は、
それはそれで尊重しておこう
この2つの観点を同時に併せ持つことが中観というわけです。
空観だけだと、Nihilismや錯乱に至るriskを抱える。
仮観だけだと、仏教最高の悟りである「無我」「空」以前の、個物に執着した
水準から抜け出せない。
それゆえに、この2つを同時に達成することが重要だ、そういう折衷的な発想ですね。
孔子やAristotle(アリストテレス)が「中庸」を推奨したように、思想が高度化すると、
極論に走る連中の反省の下に、折衷的に「真ん中あたりと取るのがいい」という発想に
落ち着くようになるわけです。
24 :
神も仏も名無しさん:2008/12/28(日) 17:46:02 ID:7Q4rBXGt
>>23堀井さんの説明はとてもわかりやすいです。中観の名前の由来もそういう事だったんすね。
やはり中観派が1番優れた宗派なんでしょうかね?
あと、空観を悟るにはどうしたらいいんですかね?理屈ではわかってても中々…
25 :
神も仏も名無しさん:2008/12/28(日) 19:26:01 ID:cPLVr6FF
ここはスレの立て主から「輪廻論イコール霊魂論」みたいな思い込みががんじがらめですね。
「不変・不滅の霊魂」「不変・不滅の自我の実体」は仏教は説きません。
原因と結果の仕組みがこの時空間の全てで
絶えず全ては因果律で変わり続け
その仕組みにあって不変の自我などない
「諸行無常」「諸法無我」が仏教の印(法印)です。
今この環境での自我の意識を持ったことにも「自業自得」の因果律の流れの中にあると考えるのが仏教の科学的な点です。
原因のない結果はありません。全ては結果がある原因です。
全ては原因であり同時に結果なのです。
そこに自我を感じる幸不幸・苦楽の自業自得があります。
一秒前・今・一秒後、一分前・今・一分後、
一時間前・今・一時間後・・・という因果律の枠の一つの形に
前世・現世・来世があります。
霊魂などの話ではありません。霊魂は無です。
輪廻説は科学的な姿勢で「自我」を言ってるだけです。
「原因→結果=原因→結果」の繰り返しが「時間」の正体です。
善因善果・悪因悪果が基本です。ただし、
善因にも「悪縁」という罠があり悪果に落ちる悲劇があります。
悪因にも「良縁」という希望があり善果を得る期待を持てます。
善因を生かし向上するには油断なく注意し続けること。
悪因を厭い幸せになりたいなら慚愧の心から離れず懺悔していくことです。
>>24 大乗仏教の中では、中観派の発想が一番まともだと思いますよ。
もうひとつ、この中観派から派生した唯識派っていうのがあって、
この2つが、大乗仏教の2大潮流と言われてます。
唯識派の発想は、「自分の外部に存在している仮の実体を捉える」
という中観派の発想に対し、「仮の実体は外部に存在している
のではなく、我々の認識能力がそう捉えてるに過ぎない」、
つまり、その名の通り「ただ、認識があるのみ」というものです。
これに加えて、密教とか、禅とか、その他様々な経典が、
段階的に中国に伝わり、様々な宗派が生まれ、それが日本に
伝わるという形になってます。
ですから、中観派の祖であるNagarjuna(龍樹)は、日本の多くの
宗派でも、大乗仏教を大成した共通の祖として崇められてますが、
その発想は非常に薄められた形でしか継承されていません。
ですから、宮崎哲弥のように、「これこそが仏教の本質的な教義だ」と、
中観を称揚する人が出てくるのは、自然の成り行きでしょう。
空観に関しては、「化学」(Chemistry)の発想で十分です。
つまり、我々1人1人も、確固たる実体として存在しているようだけれども、
実際は分子、原子、素粒子から成り立っていて、死ねば分解されて消滅し、
別の化学的生成物になるわけです。「仮の存在」なんですね。
自分も、自分の愛する人も事物も、嫌いな人も事物も、全てがそういう儚い
存在に過ぎない。(諸行無常)
そのことが分かっていれば、何かに執着して苦しむこともなくなるわけです。
それが涅槃の境地です。
しかし、これだと、先程も述べたように「何がどうなったっていいや」といった
Nihilismに陥る者も出てくる。だから、そういう者達を、目の前の世界に
つなぎ留めておくために、中観派が「仮観」を加えた「中観」を持ち出すことに
なるわけです。
28 :
神も仏も名無しさん:2008/12/28(日) 22:06:47 ID:7Q4rBXGt
何故、仏教の根本を説いている中観派なのに、日本ではこんなにも知名度がないんでしょうね。2ちゃんにもスレ無かったですし。
あと堀井さんの説明で空観は理解できました。ただ理解はしてもやはり執着からは逃れられない。具体的にはどうしたらいいんでしょう?例えば禅宗なら座禅を奨めるでしょうし。中観派はそこはどう教えているんですか?
>>28 >何故、仏教の根本を説いている中観派なのに、
>日本ではこんなにも知名度がないんでしょうね。
まあそれは、日本仏教の大きな宗派が、禅の曹洞宗とか、
浄土信仰の浄土宗・浄土真宗、法華経の日蓮宗といった、
その本流から反れたものばかりだからでしょうね。
時代を経るごとに、地域を経るごとに、余分なものがくっついて、
変質してしまうのはしょうがないことです。
Roman Catholic(カトリック)が、初期のChristianity(キリスト教)
とかけ離れたものになってしまった(ゆえに、宗教改革が起きた)
のと同じ話ですね。
宮崎哲弥が中観派を推奨するのも、一種の宗教改革
(原点立ち返り運動)と言えますね。
>ただ理解はしてもやはり執着からは逃れられない。
それが健全です。
そもそも執着から逃れて、涅槃の境地に至って、「だから
何なんだ?」って話になるでしょう。それが仏教の限界です。
仏教はBrahmanism(バラモン教)の伝統を批判的に継承
しつつ、釈迦が「苦しみから逃れるために」生み出したもの
であって、一種の心理療法みたいなものです。
「苦しんでいたとしたら、執着があるからで、それを取り除けば、
楽になりますよ」と言っているに過ぎません。その先に何か
あるわけじゃない。
だから、精神的に苦しい時に、仏教的な俯瞰的な視座に
立ち返って、楽になるといった使い方は有益でしょうが、
常日頃から執着を捨て去ろうと努力してたら、残念ながら、
世捨て人的な無気力な人間になってしまうだけです。
仏教に限らず、全ての宗教は、所詮は人間が作ったもの
であり、それが作られた時代背景、目的・動機があり、
それゆえの限界があります。
それを踏まえた上で、道具(tool)として利用するのが
賢明でしょうね。特に伝統宗教や、それを権威付けに利用
した新興宗教の類はね。
31 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 11:03:07 ID:nmp14H/z
>>24「空観を悟るにはどうしたらいいんですかね?」
「行」が必要ですね。
どんな行かを話せばこのスレから逸脱しかねませんから
考えないほうがいいと思います。
ただひたすら、一切世界の在り方を考えるべきかと。
ま、仏教なんだから、人間の在り方についてですけど。
32 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 11:08:29 ID:Lo6T+dPS
堀井さん。わかりやすい説明ありがとうございます。まさに自分は今、色々と苦しい時期でして…。だから仏教に興味があったんですよ。ですから堀井さんに教えて頂いたように仏教の限界もわかった上で道具として利用したいと思います。
ところで中観派には帰謬論証派と自立論証派という二つの派があるんですよね。中観派の正しさを証明する方法論なんですか?どう違うんですかね?
33 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 12:05:50 ID:it3O8BFL
>>32 空観というのは、そもそも三昧状態で用いて始めて意味あるものですから。
戒律によって意識の散乱条件(因縁)を軽減し、
禅定によって意識を集中して三昧に入った状態(サマタ、止)で、
縁起・空観(ヴィパサナ、観)を行うことで智慧がでるものです。
ただ机に向かって本を読んで縁起・空観をしても執着から逃れられないのは
あたりまえ。三昧の体験もないからです。
帰謬派と自立論証派というのはチベット仏教の中で分類された概念で、インドにはなかったと思います。
両派とも三論宗と同じで破邪顕正のために行います。
破邪顕正というのは我見という邪見を壊し、縁起・空という正しい見方を表すという意味です。
我見というのは現代語でいえば実在論です。
その破邪顕正の方法として自立論証派は、当時インドに流通していた論理学を用いて相手との共通認識として世俗的に一旦、実在を認め、
論証の中で実在がなく全て縁起・空であると説きます。
これに対して帰謬派は、論理学も含めた世俗の言語習慣をそのまま用い帰謬法によって実在が成立せず、全て縁起・空であると説く方法です。
大雑把に言えばこんなところでしょう。
細かく言うと自立論証派にも帰謬派にもいろんな解釈があります。
この板は盲人が盲人の手を引く構図ばかりですね
くるくる回ってバターにな〜れ〜
>>32 帰謬論証派というは、自説をそのまま持ち出さず、
帰謬法(背理法)で説明していく人達、つまり、他の説の
矛盾を挙げていって、自分達の正しさを浮かび上がらせる
論法を採る人達のこと。
自立論証派というは、まんま自説の正当性を主張していく
論法を採る人達のこと。
説明手法の違いの話です。
37 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 16:20:13 ID:nmp14H/z
38 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 16:38:28 ID:weh56+Kv
>説明手法の違いの話です。
違います。
二諦に対する見解の違いです。
39 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 17:03:29 ID:it3O8BFL
>>38 >>説明手法の違いの話です。
>違います。
>二諦に対する見解の違いです。
ゲルクみたいですね。説明願います。
40 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 19:26:57 ID:EQyN00zA
>>36 出典を挙げながら発言してくれませんか。原典やその邦訳に拠ってるのか、
概説書に拠ってるのか、私見なのか区別出来ませんし、発言の妥当性も確認出来ません。
例えば、
>>23 >その懸念から生まれたのが中観派の発想で、
「空観」「仮観」「中観」の「一心三観」で語られます。
空観=根本的には、全ては確固たる実体が無い、空だ
仮観=だけれども、縁起で成り立っている仮の実体であるそれぞれの存在は、
それはそれで尊重しておこう
と言いますが出典は? 『中論』24.18ですか、であれば誤読です。
24.18と同様のことを『廻諍論』礼拝偈でも、「空性と縁起と中道は一義」と明言してます。
つまり、天台宗的三諦偈解釈は不当です。
それにそもそも、「縁起で成り立っている」ことが空なのであって「実体」などありません。
更に、「空観だけだと、Nihilismや錯乱に至るriskを抱える」というのは、
縁起と空性への誤解そのものです。こうした誤解は『中論』24章と『廻諍論』で論破されています。
>この中観派から派生した唯識派っていうのがあって、この2つが、大乗仏教の2大潮流と言われてます。
唯識派の発想は、「自分の外部に存在している仮の実体を捉える」という中観派の発想に対し、
「仮の実体は外部に存在しているのではなく、我々の認識能力がそう捉えてるに過ぎない」、
つまり、その名の通り「ただ、認識があるのみ」というものです。
「唯識派」が「中観派から派生した」というのは聞いたことがありません。
また、「「自分の外部に存在している仮の実体を捉える」という中観派の発想」と言いますが出典は?
「自分」が存在しないのに「外部」って何でしょう?
ちなみに、「ただ、認識があるのみ」というのは、所取は無いが「識」は実在します、
ということではありません(『三十頌』27-29)。
41 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 19:34:01 ID:weh56+Kv
ゲルクみたい?
逆でしょう。ゲルクがチャンドラキールティみたい・・・・でしょうw
別にジェ・リンポチェの注釈に頼らなくても
『プラサンナパダー』や『入中論』で
明確にバーヴァヴィヴェーカは批判されております。
邦文部分訳、英語完訳はいくらでもあるので、ぜひご一読ください。
>>38>>40 解釈ごっこ仕掛けてオナニーしたいようにしか見えないな。
あと数年勉強してから、このthreadの書き込みを再度読んでみて下さい。
つまらないオナニーしてる自分が見えてきますよ。
43 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 19:58:11 ID:it3O8BFL
>>41 いえいえ、それは知ってますよ。
ジェ・リンポチェのいう帰謬派と月称菩薩の見解は違うでしょう。
コォラムチャンパが『タワ・ゲンセル』で指摘されたように。
ということで、どう違うか説明してくださいよ。
44 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 20:35:46 ID:weh56+Kv
自称「分かっている」人の相手は本当はしたくないのですが・・・
>他の説の矛盾を挙げていって、自分達の正しさを浮かび上がらせる
>論法
これはप्रसज्यप्रतिषेध (མེད པར དགས པ )ではなく
पर्युदासप्रतिषेध( མ ཡིན པར དགས པ )でしょう。
帰謬論証派以前に中観ではないw
話になりません。
さようなら。
45 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 20:40:55 ID:weh56+Kv
>43
あなた、それだけ知っているなら
どこぞの優れたゲシェーにでも聞いてくださいw
46 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 20:44:00 ID:weh56+Kv
>མེད པར དགས པ
フォントうち間違えましたw
わかってると思うけど、
突っ込まないでくださいねw
47 :
40:2008/12/29(月) 20:48:46 ID:EQyN00zA
>>42 私は、出典を挙げ、『廻諍論』を引用までして述べています。
他方、貴方様は、出典を一つも挙げられず、まともに返答出来ず
>>42です。
誰こそが「解釈ごっこ」に過ぎないか一目瞭然ですね。
48 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 20:54:54 ID:it3O8BFL
>>44 なんでこんなペダンティックな書き方するんでしょうか?
しかも綴りも違ってますよ。
dags(/dgas) ではなく dgag ですね。
パリュダーサでなくパリュダーサ・プラティシェーダとは『翻訳名義集』以外で見た事ありませんが。どこにあるのでしょうか?
49 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 21:04:12 ID:it3O8BFL
>>45 それは残念。月称菩薩が清弁菩薩を批判したのは、
自立論証なので世俗で実在を認めてしまったことでしょう。
世俗で実在を認めては中観ではないと月称菩薩が反論した。
これは重要な点ですが、二諦が異なると見るのはゲルクだけではないでしょうか。
たしかに世俗は異なるかもしれないけれど、
それを二諦が異なると見るかどうか?
私は方便の違いと見ますが。
50 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 21:05:22 ID:it3O8BFL
>>44 話にならないのはそっちだよw
衒学オナニーに耽ることしかできないようだし。
52 :
40:2008/12/30(火) 09:34:47 ID:Dcjw9Xlw
>>51 ですから、何処がどのようにか、私が出典を挙げ引用しながら具体的に述べたように
貴方様も大至急述べて下さい。
出典を一つも挙げられず、まともな返答も出来ず、挙句の果てには、
>>51の如き発言を繰り返すのだから、「話にならない」「衒学」なのは、
貴方様御自身であることが、貴方様御自身によって証明されるだけです。
>>51の如き雑言を何度繰り返しても、根拠を挙げて具体的に述べ得ない限りは、
貴方様こそが「話にならない」「衒学」であることを自ら証明し続けるだけです。
>>52 いや、私が書いてるのは
>>44に対してであって、
あなたは単純に読解力が無いだけだから。
>>40の自分の書き込みを何度も何度も読み返してみて。
私の書き込みに対する何の批判にもなってないから。
54 :
神も仏も名無しさん:2008/12/30(火) 10:07:57 ID:09LpKL9h
>>52 http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/mahavagga.html > 『アングッタラ・ニカーヤ』V.67(PTS Text,Vol.1,pp.197-8)
> 3.討論を通じて、(相手の)人がともに語
> るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。
> もしある人が質問されて、
> よりどころとよりどころでないものをはっきりと立てず、仮定
> とするものをはっきりと立てず、了解した論議をはっきりと立てず、
> 方法をはっきり立てないならば、このようである人は、比丘たちよ、
> ともに語るにふさわしい人ではない。
>
> 4.討論を通じて、(相手の)人がともに語
> るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。
> もしある人が質問されて、矛盾して答え、他の方に話題をそらし、
> 不機嫌になって敵意を示し不信をあらわにする※ならば、
> このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。
> ※PTS Dic.'he shows forth ill-temper,malice and mistrust'による。
>
> 5.討論を通じて、(相手の)人がともに語
> るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
> 比丘たちよ。もしある人が質問されて、ののしったり、威圧したり、
> あざけり笑ったり、口ごもったのをあげつらったりするならば、
> このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。
55 :
神も仏も名無しさん:2008/12/30(火) 15:16:49 ID:S2pGBGGt
>49
デーヴァナーガリーやチベット文字を使うと衒学的でカタカナならそうでない?
まあ語るに値しない人のためのフィルターなんですけどねw
私をゲルク関係と思ってらっしゃるようですが、ごめんなさい、
ゲルクの教義どころかチベット仏教自体専門外で知りません。
>世俗で実在を認めてしまったことでしょう
そう思います。
チャンドラキールティがバーヴァヴィヴェーカを批判したのは
勝義諦を二つに分け、世俗的勝義つまりは勝義的世俗を認めたからでしょうね。
要は勝義へ悟入するための方便としての世俗をどう解釈するかの違いだと思いますが。
チャンドラキールティにとって世俗は決して真理でははく唯世俗ですからね。
しかし勝義と世俗のアンタは両者とも重なるでしょう。
そもそも中観派がみな二諦の解釈が完全に一致しているとは思いません。
56 :
40:2008/12/30(火) 15:47:26 ID:Dcjw9Xlw
>>53 >私が書いてるのは
>>44に対して
この点については、御詫びします。
>私の書き込みに対する何の批判にもなってないから。
そうすると、「何も批判」されていないのに、罵詈雑言(
>>42)したわけですか?
そもそも「批判」されてもいないならば、罵詈雑言以外の対応が幾らもあるはずですが。
とりあえず、
>>40に具体的に返答する能力が無いことは分かったので、
貴方様がまたも無出典に「衒学」した際に、再び出典付きで対応することにします。
その方が色々分かり易い。
>>54 「よりどころ」(出典)を「はっきりと立てず」に「衒学」し、
それを「よりどころ」付きで批判されると、「不機嫌になって敵意を示し不信をあらわに」して、
罵詈雑言する投稿者は、確かに「ともに語るにふさわしい人ではない」ですね。
>>55 > >49 デーヴァナーガリーやチベット文字を使うと衒学的でカタカナならそうでない?
横からすみません。
IDを見る限り、昨日の
>>49さんと
>>51の堀井氏は別の投稿者です。
57 :
神も仏も名無しさん:2008/12/30(火) 16:52:27 ID:09LpKL9h
>>55 ここで不特定多数の人に向けて書いているのは、できるだけ仏教を正確に理解してもらいたいという意識で書いています。
もちろん、自分の無理解は棚上げしてのことです。
なので、多少、厳密さに欠けてもなるべく誰でも分かるように書こうと思ってます。
なので二諦が一致してるどころか、論争がたくさんあるのはもちろん知ってますが、
そういった争点より基本的なことを述べた方がよいのではないかと思います。
もちろん、私は悟ってるわけではありませんから、「オナニー」的衒学行為があったり、
巧く話しができなかった時は、感情的になったりしますが、
そういうことは、なるだけしたくありません。
あなたは、どんな動機で書いているのでしょうか?
58 :
神も仏も名無しさん:2008/12/30(火) 16:59:23 ID:09LpKL9h
>>56 >「よりどころ」(出典)を「はっきりと立てず」に「衒学」し、
>それを「よりどころ」付きで批判されると、「不機嫌になって敵意を示し不信をあらわに」して、
>罵詈雑言する投稿者は、確かに「ともに語るにふさわしい人ではない」ですね。
無駄だと思わないんですか?
よく分かってらっしゃるんですから、もっと別の形で書かれたらよいと思うのですが。
59 :
神も仏も名無しさん:2008/12/31(水) 11:45:54 ID:hpk2kFKV
>できるだけ仏教を正確に理解してもらいたいという意識
なぜそう思うのですか?慈悲ですか?
>あなたは、どんな動機で書いているのでしょうか?
もちろん知っているんでしょ?
ナーガリーを使ったのはwindowsにそういう機能が付いていることに最近気がついたからw
そして、おそらく3種の反応があると思いました。
一つは無視、無関心、
一つは「ちょっと知ってるからっていい気になりあがって、どうせハッタリだろ」と言う下から目線。
一つは「ちょっと齧ったくらいで天狗になりあがって、俺のほうがもっと知ってる。その鼻を
へし折ってやる」と言う上から目線。
この試みは図らずもこの後者2種の「話すに値しない人」をふるいにかけることに成功しました。
中観思想は学べば誰でも理解できる思想だと思います。
しかし、このネットの世界はただの文字の羅列。たとえ正しい理解を書き込んだとしてもです。
そもそも聴聞の力なくしては理解できないと思います。
「綴りの間違いに気づく」と言うことは、語の意味をすでに理解していると言うことです。
つまり「語の目的」はすでに達成されている。それをわざわざ指摘するのはどういう意図でしょうか?
「そんなの分かっている」人にも残念ながら興味がありません。
私も未だ途上ですが、2ちゃんで悟りを得ようとは思いませんし、
教えを乞うつもりもありませんし、まして教えを垂れるつもりもありません。
それではごきげんよう。
予想通りの衒学オナニーでしたね。
61 :
神も仏も名無しさん:2008/12/31(水) 12:09:38 ID:gyfuw/Jk
>>59 >>できるだけ仏教を正確に理解してもらいたいという意識
>なぜそう思うのですか?慈悲ですか?
仏教が素晴らしい、と信じるからです。
残念ですね。40さんと一緒に有意義な会話ができると思うのですが。
気が向いたら、誤りを指摘したりご意見をください。
よいお年を。
頭で理解することを目的とする人、
頭で理解できたらそれで終わりとするような人は仏教やめたほうがいいね。
神秘主義はゴミ宗教の最後の逃げ場なり。
神秘主義じゃなくて釈尊のいうことを実践できるひと。
それが仏教にわかっている人じゃない?
仏教に>仏教を
なんにせよ頭で理論考えるのは所詮全部オナニー
というオナニーをあなたがしてるんですね、わかります。
さてね。あなたのホームページのオナニーは素晴らしいですな。
ほんと煽り耐性無いな、この板の人達はw
そんな素朴さで仏教者を騙ったら、釈迦がわかいそうですよw
そんな素朴さで仏教者を騙ったら、釈迦がかわいそうですよw
そうですね。あなたの理論はさぞかし賛同者がおおいのでしょうね。
オナニーじゃないなら。
煩悩が多いですな。修行が足りませんぞw
さあ。いろいろ悩むべきじゃないのかな。
74 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/01(木) 07:42:58 ID:Qahz3v6b
>73
悩んでるのと、変態オナニストは別けて考えなきゃな。(笑)
縁起を観るって事は甚深だ。
我等凡夫が空見に是非を説いても時間の無駄でしかない。
あ
76 :
神も仏も名無しさん:2009/01/02(金) 03:38:17 ID:dogRDnQl
中観派とテーラワーダは近いですか?どこが違うんですか?
全く違いますよ。というか間逆です。
釈迦の実践形式を忠実に守ろうとするのが、
上座部仏教(Theravada)で、
釈迦が何を言いたかったのかを検討して
拡張に拡張を重ねたのが大乗仏教(Mahayana)。
そのひとつの捉え方として中観仏教(Madhyamaka)
が存在している、そういう関係になります。
作者不詳の般若経(Prajna sutra)がMahayanaの
基本的な経典になっていて、それを基に
龍樹(Nagarjuna)が大成したのがMadhyamakaですが、
それが本当に釈迦が言いたかったことである
保証は、もちろんどこにもありません。
78 :
神も仏も名無しさん:2009/01/02(金) 09:27:57 ID:X+QFTE+d
>>76 >中観派とテーラワーダは近いですか?どこが違うんですか?
近いと言えば近いでしょうか? 何と比較するかの問題ですから。
違う所は、見解、修行法、果という点から考えてみます。
見解については、
テーラワーダが四諦・十二縁起を有法(自性法)の縁起として説明した
無常・無我・仮設として捉えるいわゆる人無我の見解なのに対して、
中観派は有法(自性法)の縁起を誤解として、無自性空の縁起として
無常・無我・空・仮設として捉えるいわゆる人・法無我の見解であること
が大きな違いでしょうか?
修行法については、
テーラワーダが八正道、三十七菩提分法を実践し、戒律、禅定を
段階的に修行して精神集中であるサマタが完成した状態で
ヴィパサナ、つまり縁起観などに依って無我を悟る方法。
中観派は、これに加えて六ハラミツを実践して利他を行い、
菩提心が重視される。これが大きな違いですね。
果については、
テーラワーダは、アルハットの解脱、涅槃が目的であるのに対して、
中観派は、ブッダの悟りを目的として無住処涅槃で普賢行を
実践するという違いがあります。
以上の根拠は、テーラワーダについては『摂アビダンマ義論』と『清浄道論』
中観派については『勧戒王頌』『宝行王正論』『入中論』『入菩提行論』です。
その他、『三論玄義』『八宗綱要』『十住心論』でクシャ宗と三論宗の違いや
インド・チベットの綱要書で有部と中観の違いを見てもいいでしょう。
ただし、この場合は、テーラワーダと有部で微妙な違いはありますが、
大差ないと思います。
79 :
76:2009/01/03(土) 01:38:19 ID:IsbTp+NE
ありがとうございます。でも自分には難し過ぎてわかんないです。このスレに書き込むの百年早かったです
(┰_┰)
80 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/03(土) 10:35:34 ID:fa6AZPPl
>79
諦めるのか?
(^。^)もう少し粘れば?
まあ、難しいことをもっともらしくいう奴に限って、ニセモンだよな♪
しょうきょうとかw
82 :
神も仏も名無しさん:2009/01/03(土) 16:31:06 ID:YUl8W6GN
>>79 それは失礼しました。それでは日本語の概説書をご紹介いたします。
石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』
これは非常に優れた解説書で龍樹菩薩の見解が如何に釈尊の教えに沿っているかを明解に解き明かしています。ただし、それが所謂、後代の中観派と全く一致するかどうかは疑問です。
梶山雄一『空の論理』角川文庫ソフィア
この第一部も優れています。中観派とは何かという概説にはぴったりです。
梶山雄一『中観思想』春秋社
この諸論も参考になると思います。
83 :
40:2009/01/03(土) 20:18:53 ID:Gjd0dH7N
素朴な嫉妬心を顕わにする人ですね。
しかもそれでそのように論理が支離滅裂になるようでは
お話にならない。
そうですね。
黒人差別発言しておいて、人類全体主義ってとても矛盾してますよね。
ことほどさように、嫉妬の炎を燃やすものは、盲目的になります。
88 :
神も仏も名無しさん:2009/01/04(日) 08:14:36 ID:9VNKCHlH
ことほどさように、嫉妬の炎を燃やすものは、盲目的になります。
90 :
神も仏も名無しさん:2009/01/04(日) 08:19:15 ID:9VNKCHlH
「ほんと煽り耐性無いな」教祖様。
うまいうまいw
92 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/04(日) 08:25:22 ID:IyIMpSnB
93 :
神も仏も名無しさん:2009/01/04(日) 08:25:42 ID:9VNKCHlH
さすがは、カルトの教祖様ですねw
94 :
神も仏も名無しさん:2009/01/04(日) 08:26:43 ID:9VNKCHlH
方々で“布教”してるみたいですよ。
95 :
神も仏も名無しさん:2009/01/04(日) 08:46:21 ID:2XBSKElU
堀井って、阿保陀羅経のもっと病気が進んだようなのか?
96 :
神も仏も名無しさん:2009/01/04(日) 09:04:16 ID:el+2H8U2
宗教やって狂っちゃう奴が時々いるのは何でかね?
元々狂ってるだけ?
97 :
神も仏も名無しさん:2009/01/04(日) 09:51:17 ID:vQpbCbWT
自尊心プライドが人よりも強く、それでいて自身の価値が周りで正当に評価されていないと
「思われる」時、
まま、このような人間が生じます。
そうなると自分が神になることで現実から逃避するしかないw
まあ、一種のコミュニケーション障害の類でしょうか・・・・w
自己慰撫的関心ばかりが強すぎるな、あなた達はw
99 :
神も仏も名無しさん:2009/01/04(日) 12:35:31 ID:9VNKCHlH
自己慰撫的関心ばかりが強すぎるな、教祖様はw
100 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/05(月) 06:37:11 ID:dr9pMpYx
ホリイって人気あるなぁ。(笑)
チョイと質問♪
或に曰く
「六不は諸戯を断つ」と。
例えば、ホリイが如き空見に対して、其の用や如何♪
(^。^)誰かヤって♪
101 :
無神論無宗教 ◆konbu//XQ6 :2009/01/05(月) 12:07:59 ID:yFAm2QxN
人気というよりもキティーとしての座を確定してるんだね。
なんで、怪しい英語好きなのかはイミフ♪
102 :
神も仏も名無しさん:2009/01/05(月) 17:30:52 ID:PUNckz+b
堀井君
中観ではかなわないので、よそで遊んでもらってるようだねw
103 :
神も仏も名無しさん:2009/01/07(水) 03:12:13 ID:iN2uee3C
中観派が1番レベル高い教えなの?
104 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/07(水) 06:27:38 ID:11khOqAB
>103
勿論、お釈迦さんがアタマな訳だが、
その教えを論理的に再統合したのが中論。
所謂大乗は、この中論を始めとする中観派の延長線上に位置している。
中村元先生の「龍樹」を借りて読んでいるのですが、難しいですね。。
もう少し初心者用にお薦めの本はないでしょうか?
106 :
神も仏も名無しさん:2009/01/11(日) 19:12:26 ID:n5TEi6Wm
大乗仏典〈1〉般若部経典―金剛般若経・善勇猛般若経 (中公文庫)
は如何ですか?
龍樹の思想から三輪身の概念が出てくるのは違和感無いんでしょうか?
108 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/11(日) 20:31:36 ID:4QdxVY0c
>107
二つは以前からあるから、三つ目を問題とされているのでしょうが、
アレは習合の副産物であり、直接的に中観から導き出された訳ではありませんので。
>>108 レスどうもです。
曖昧に書いてすみません。
具体的に書きますと、自性輪身に違和感があります。
龍樹や釈迦がこれに触れた記述はあるのでしょうか?
ど素人考えだと、自性論身の概念が入ると急に陳腐化してしまう気がしまして・・・。
110 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/11(日) 22:01:28 ID:4QdxVY0c
>109
順番を誤解されているのでは?
先ず、仏陀という民間信仰があり、
次に、お釈迦さんが法を説かれ、
次いで、菩薩という概念が生まれ、
それから、ヒンドゥーとの習合として密教が生まれ、
その論理統合の過程で三輪身が生まれるのです。
中論には、涅槃に入るという概念について、深い洞察が記されています。
興味がお有りならご一読あれ。
>>106 ありがとうございます。借りて読んでみます。
>>110 釈迦、龍樹に自性論身の概念は無かったという事で良いのでしょうか?
中論は、今日、注文したところです。
その前に入門書読めと怒られそうですね・・・。
113 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/11(日) 23:08:00 ID:4QdxVY0c
>112
他者がイカに認識しているかは、自身でお考え下さい。
m(_ _)m
因みに、私は中論をある程度納得出来るまでに数年掛かりました。(笑)
>>113 数年ですか・・・。
とりあえず、一度通読してまた来ます・・・。
色々教えていただき、ありがとうございました。
115 :
無神論無宗教 ◆konbu//XQ6 :2009/01/12(月) 01:50:51 ID:bmBRR/AK
>>113 > 因みに、私は中論をある程度納得出来るまでに数年掛かりました。(笑)
タコ♪
116 :
神も仏も名無しさん:2009/01/12(月) 11:16:43 ID:UN7XHLhH
>>105 中村さんの『龍樹』よりも、梶山さんの『空の論理』角川ソフィア文庫とか、
瓜生津さんの『龍樹 空の論理と菩薩の道』大法輪閣
もっと簡単なのであれば、竹村さんの『インド仏教の歴史』講談社学術文庫
『中論』は三枝さんの『中論』レグルス文庫、
その他の諸論は、梶山・瓜生津さんの『龍樹論集』中公文庫
後者も絶対に読むべきですよ。
『中論』だけで「分かりました」とはならないので。
例えば、十二支縁起(『中論』26章)が副次的なものではないことなども
後者所収の『縁起心論(漢訳名因縁心論)』を読めばわかることですから。
>>116 ありがとうございます。図書館で探してみます。
今は「龍樹」の中で自分が理解できそうな部分だけを読んでいます^^;;
118 :
神も仏も名無しさん:2009/01/12(月) 22:24:01 ID:RFw/4+/k
図書館ではダメ。
買って常に手元に置いておく!
食事と大便と起床後と就寝前に読むくらいでなきゃ!
119 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/12(月) 22:42:08 ID:oRvBYY3v
たぶん>118は、学生か坊主だろうな。(笑)
120 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 03:35:01 ID:5kX2eZPb
般若心経からでもいいやん
121 :
マリ:2009/01/19(月) 21:59:08 ID:lNMd1vqC
有漏さま、ここでよろしいのでしょうか?ここか、私のトピのどちらかにご連絡ください。
122 :
マリ:2009/01/19(月) 22:00:11 ID:lNMd1vqC
有漏さま、ここでよろしいのでしょうか?ここか、私のトピのどちらかにご連絡ください。
123 :
有漏:2009/01/19(月) 22:18:58 ID:YUIzijq2
>>122 以後、宜しく御願いします。
上記のように「>>」+「投稿番号」で、当該番号投稿にリンク可能です。
124 :
有漏:2009/01/19(月) 22:31:49 ID:YUIzijq2
125 :
マリ:2009/01/20(火) 02:07:04 ID:bRz0SpjB
テスト
126 :
マリ:2009/01/20(火) 02:30:37 ID:bRz0SpjB
有漏さま、ご親切にほんとうにありがとうございます。
2ちゃんねるを開くのが初めてなので、「取りに行ったけどなかった。次は一時間後に取りに行くです。」の意味がわかりません。
わたしのトピで紹介してもらった『空海たちの般若心経』ー六人の名僧が説く智慧と空の世界ー(公方俊良)を読みました。
同じ経典でも、各人各様の捉え方があって面白い反面、一体どれを信じればよいのか迷うところもあります。こうなると、般若心経も「自分の般若心経」を打ち立てることがゆるされるのではないでしょうか?
これは空観についても、法についても、基本的には同様のことが言えるように思われます。
結局、自分自身の仏教の捉え方の問題になりそうです。
127 :
南無大師遍照金剛:2009/01/20(火) 06:22:14 ID:ylxwZWb/
またずいぶん過疎ってるな、ここは。
129 :
無神論無宗教 ◆konbu//XQ6 :2009/01/21(水) 01:06:37 ID:XZk0se+v
宗教板は、過疎って、長く続く方がまとも。
それは言えてるかもね。
しかし、このthreadは、やりとりが続いてないようだけども。
131 :
無神論無宗教 ◆konbu//XQ6 :2009/01/21(水) 07:08:08 ID:XZk0se+v
自分で言うのもなんだが、ここんところで連続したコテが登場してるスレは、みんな・・・・・・・・・・・・・・・・・・
132 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/21(水) 20:44:58 ID:nZamGD4g
(^。^)暇人が、タコを弄ってんなぁ。(笑)
133 :
無神論無宗教 ◆konbu//XQ6 :2009/01/21(水) 21:20:33 ID:XZk0se+v
カブトガニに、蟹味噌はないけどね♪
134 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/21(水) 21:45:36 ID:nZamGD4g
無いのか?
タラバガニにもあるなら、有りそうだが。
(^。^)てか、中論について話すスレだが?
135 :
神も仏も名無しさん:2009/01/21(水) 22:28:51 ID:CW54ZgG8
>中論について話すスレ
『中論』10章についてどう思いますか?
中村先生の『龍樹』の2部はこの章を見事に無視していますね。
136 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/21(水) 23:28:53 ID:nZamGD4g
>135
アートマンと五蘊の段ですか。
(^。^)面倒臭かったんじゃないかな?(笑)
因みに、私も、
輪廻する魂は無いと思ってます。
霊はいると思ってますがね。
137 :
神も仏も名無しさん:2009/01/21(水) 23:52:30 ID:CW54ZgG8
>アートマンと五蘊の段ですか
いえ、8-13偈です。
だから中村さんの『龍樹』U部が無視していると言及したわけです。
138 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/22(木) 00:06:36 ID:fGXX1OoK
>137
10章の「火と薪との考察」では無く、
8章の「行為と行為主体との考察」の13ですか?
(^。^)次はドコかな?(笑)
139 :
神も仏も名無しさん:2009/01/22(木) 00:26:46 ID:4Jt14JRW
違う違う。10章の8偈-13偈だから。
君の15偈に言及した投稿へのレスで、しかも、『龍樹』U部絡み、
という文脈だから分かると思ったのだが…。
140 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/22(木) 00:57:07 ID:fGXX1OoK
(^。^;)おっと、失敬。
最近、変態オヤジしか相手してくれなかったもんだから、つい、な♪
んで?
薪の燃焼という現象は、
三つの相互作用に依る発光発熱現象であり、火が薪の中には無い
のでは無いとでも宣いますか?
141 :
神も仏も名無しさん:2009/01/22(木) 11:01:03 ID:4Jt14JRW
>>140 >薪の燃焼という現象は、三つの相互作用に依る発光発熱現象であり、
火が薪の中には無いのでは無いとでも宣いますか?
@誰が? A「三つ」って何?
B「薪の燃焼」は「相互作用に依る」、と8偈-13偈に書いてある、
と君は認識してるの?
142 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/22(木) 13:49:16 ID:fGXX1OoK
質問の意図が良くわかりませんが、
火と言う自性は無いって話だと思ってます。
三つ云々は、理科の教科書の話です♪(笑)
143 :
神も仏も名無しさん:2009/01/22(木) 14:48:40 ID:4Jt14JRW
>火と言う自性は無い
↑は当然だけど、当該偈には「相互作用に依る」故にだ、とはないよね。
それともあると君は読んだの?
>>140からは、そう感じたからBで聞いたわけ。
もしあると読んだなら、こっちからふりながら悪いけど、終わりにしよう。
他の人にあたりたい。
144 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/22(木) 19:41:40 ID:fGXX1OoK
>143
その方が良いかと。
145 :
マリ:2009/01/25(日) 19:47:47 ID:CdrLsJQu
中論(仏教)は一面極めて哲学的です。そこでみなさまにお伺いしたい。
仏教は哲学でしょうか、それとも宗教でしょうか?
もし釈尊に質問しても「私のあずかり知らぬこと」と答えそうです。
なぜなら、哲学や宗教という分類は釈迦とは無縁な西洋の概念ですからです。
釈尊はそういう二分法(分別)にすら興味がありません。
それをわかった上で、あえて現代人のみなさまに質問します。
仏教は哲学か、それとも宗教か?
答えは仏教をどのように定義するかによって変わるでしょう。
自分はこういう定義のもとに、こうだと思うという論証で、
それぞれご意見を述べていただけませんか?
仏教とは実践です。以上
147 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/25(日) 20:38:34 ID:ANefuhqT
>145
仏教は、求道者の為に説かれたので、
勿論中論は仏教です。
(^。^)なんといっても、八十や厨房には理解出来ない内容ですから♪
148 :
神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 21:04:06 ID:xG8wvtQd
>>145 哲学を、アルケーを追求するものと考えとしても、
分析哲学のように言語の整理と考えるとしても、
より簡潔で完璧な体系が釈尊と龍樹菩薩によって提示されていると思います。
それよりスコラ的な分析記述体系を構築したものがアビダルマと唯識だと思います。
豊潤で高い見解は、香象大師、弘法大師と勝者ロンチェンパによって提示されていると思います。
宗教をリリジョンという意味ではなく、真実を求める体系だと考えるなら、
これまた完璧な体系が釈尊と龍樹菩薩によって提示されていると思います。
美しく高い体系が弘法大師と勝者ロンチェンパによって提示されていると思います。
その他、様々な方々によって様々な道が提示されよりどりみどりなのが仏教と、感動しています。
>>145 『中論』が哲学的なのは、『中論』24.10で示されるように、
言語慣習に依拠しなければ、勝義は説示し得ないからです。
勝義に到達しなければ、ニルヴァーナは証得できません。
空性は、言語慣習と勝義の両者において妥当します(『廻諍論』28頌釈)。
「死」を扱うものが宗教と定義すれば仏教は宗教でしょう。
哲学は「知」を扱うから・・・。
151 :
神も仏も名無しさん:2009/01/26(月) 11:03:40 ID:+nwkxq94
哲学という概念がある人から見れば哲学なのでしょう。
哲学を学んでいない人にすれば教えなのでしょう。
前者は、そういった概念にとらわれているため
そういった発想をしてしまうのでしょう。
後者はそういう概念が存在しないから
>>146の言うようにそうとらえることができるのでしょう。
「毒矢の喩え」のように、
「仏教は哲学か実践か」なんてどうでもいいことなんです。
やっぱり、そういった学問体系を決めることは西洋の影響なのでしょうか
仏教で最も大切なのは
瞑想=定です。
153 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/29(木) 06:38:42 ID:V3m4QSKF
>152
いいえ、般若です。
154 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 06:50:06 ID:4yHuzuaU
戒→定→慧だと思うけどね。
ただし、定なくして慧も無いけど。
一足飛びにパンニャは得られません。
156 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/29(木) 20:45:57 ID:V3m4QSKF
大智度論に拠れば、般若の無い五波羅は意味がないんだって。
157 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 21:05:55 ID:4yHuzuaU
チューダパンタカもいることだし。一概には何とも。
158 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/30(金) 06:31:47 ID:4oVX356X
なんで梵名?
俺は周利槃特って名前の方が分かり易いんだが。
(^。^)因みに落語の茗荷って話の方です。
159 :
無神論無宗教 ◆konbu//XQ6 :2009/01/30(金) 06:58:47 ID:WcxBTKKl
まあ、このスレの結論として、中観は語ってもしかたないということで、オケ?
160 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/01/30(金) 07:08:41 ID:4oVX356X
>159
そう。
(有る程度の実践をしてからでなければ、)
語っても無意味です。
161 :
神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 08:12:00 ID:Ta/HiVv7
語るにオチましたか。
オチがよろしいようで。
162 :
神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 11:09:23 ID:uiOLQHG9
>>149 言語→勝義→涅槃… うむなる程 ということは中観の目指す境地とは現実の人間世界から離れて どこかに有るってゆうものではないということですね そこまでは理解できた
163 :
神も仏も名無しさん:2009/02/01(日) 04:43:19 ID:rEBLKZ+z
何故仏教最高峰の中観派は日本ではマイナー宗派扱いなんすか?
164 :
神も仏も名無しさん:2009/02/01(日) 09:37:17 ID:MJjMdhyV
>>163 いろいろ要素はありますが、より見解の高い天台宗、華厳宗、真言宗があるからでしょう。
中観派の三論宗は、平安時代に真言宗に併合されたという側面もあります。
そこで突然ですが、他スレでの話題からここに以下を書き込みます。
『宝行王正論』1.49ab 諸本の訳
短が無ければそれ自体として長であることはない。(梵本)
長が有るならそれ自体として短であることはない。(デルゲ、チョーネ)
長を見るならそれ自体として短であることはない。(ナルタン、北京、ラサ)
長が無ければそれ自体として短であることはない。(ショル版)
先ず長があって、後に短となることはない。それ自体(が長短)ではないからである。(真諦訳)
165 :
神も仏も名無しさん:2009/02/01(日) 09:38:56 ID:MJjMdhyV
『宝行王正論アジタミトラ註』の訳はまだ納得できてないので、不明な部分が結構あります。
(1.47で)真実として発生が否定された。それに対して、ある人が「それでは、此縁性も否定される」と
反論するのに答えて、此縁性とは「これがあるからこれが生じる」ということである。
「これ」とは因である。「あるから」とは「有る時に」である。「これ」とは果である。これは例えば、
「長があれば短(もある)ように」とは、まさにその意味を別の実例で立証するのである。
つまり「これ」とは因である。「これ」とは果である。あとの文は理解しやすい(ので注釈しない)。
この直後は論破である。言語習慣として先にくる長に応じて短と説明する意味は何か?
それは、真実として長は無いから、短それ自体が無いために、それに応じる短も無いのである。
それでも、短という名称が無くても名称の対象(実在)はあるに違いないというなら、それも適切ではない。
なぜなら、真実として生起が無いからである。つまり、両者(名称と対象/実在)ともありえない。
同様に「これが生じたから、これが生じる。例えば、灯火が起こる時、光が起こるように」と
灯火についても述べられるのである。見たままや、因果が生起することは真実ではないのである。
では、何かというなら。言語習慣である。と直後に示される。「因と果」とは、因と諸果である。
つまり、それらの生起である。「観察」というのは、知覚し認識する。「あるがまま」とは、
それ自体あるがままである。「それ自体」とは何かというなら。「戯論(言語能力/想像力)から生じて」
と説かれる。つまり「戯論」とは分別を具体的に述べることで詳しく言語習慣を仮設するという意味である。
そして「戯論から生じたのである」真実としては発生はないけれども、無であることを認めず、
(無の見解に)近寄らない。つまり、無の見解を取らないのである。
166 :
神も仏も名無しさん:2009/02/01(日) 09:42:27 ID:MJjMdhyV
以上、諸本とインド註によれば、長短の順番が有力ですが、
これに対抗する見解が、石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』101頁以下に
述べられています。石飛先生の見解は非常に説得力があります。
167 :
380:2009/02/01(日) 09:58:40 ID:9+5ThHKe
>163
中論のすばらしい点は、勝義は言語によって表されない。
ということを明確に示したことです。
つまり、がんばって修行して悟らなきゃだめ、ということを
論理的に明らかにした点です。
もとより論理に不向きな日本語でしたから、日本の祖師方は
論理ではなく体験としてそれを理解していたのだと思います。
また、「理論的に言葉で証明しなければ俺は納得できない」と
だだを捏ねる人も少なく、次第に三論宗は下火になったのではないでしょうか?
ちなみに龍樹菩薩も月称菩薩も偉大な成就者だったと、蔵伝では言われております。
168 :
神も仏も名無しさん:2009/02/01(日) 17:35:21 ID:j4RDywq/
169 :
マリ:2009/02/02(月) 19:42:23 ID:X/M5Anej
法とは何か?教えてください・
仏の教を仏法とする。その法とは何かを巡って仏教徒はさまざまな定義を試みてきました。それは今日でも多くの研究者を悩ましている課題でもあるようです。
仏教徒が三宝に帰依を表明するときの「法宝」を説明した古くからの定型句も、いまひとつわかりません。龍樹の使う「法」の概念もわかりにくい。
「縁起を見るものは法を見る」「法を見るものは仏を見る」だの「依法依不人」だの「法燈明」だの、簡単に言いますが、実際はさまざまな場面でその意味内容を使い分けているようです。
専門家はわかるのでしょうが、素人にはわかりません。それでは仏法自体を理解しないまま仏教徒だといっているようなものです。
もし僧侶の方がおられましたら、簡潔に説明していただければと思います。
170 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/02/02(月) 20:31:13 ID:LcJTNXJR
諸悪莫作
諸善奉行
自浄其意
是諸仏法♪
171 :
神も仏も名無しさん:2009/02/03(火) 16:03:39 ID:QHwEA1M5
>>169 >法とは何か?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
語根ドゥリ(保持する)から作られた名詞です。だから多義なのだと思います。
ナーガールジュナよりも後代の『倶舎論』1.2a釈に
「自相を保持するからダルマ」という定義もあります。
>龍樹の使う「法」
『中論』では、因や果だと思います。
果は無論、因も縁って起ったものです。
>「縁起を見るものは法を見る」「法を見るものは仏を見る」「依法依不人」「法燈明」
この場合、法性です。
如来が出世しようがしまいが定まっている類です(『SN』12.20、『稲芋経』)。
それでは法性とは何か、縁起です(同)。
172 :
神も仏も名無しさん:2009/02/03(火) 21:34:50 ID:aY704kGy
>>169 核心的問いですね。頭のいい方ですね。
法とは「釈尊が再発見し説かれた理法」で十分ではないかというのが現在の私の理解です。
これは石飛道子先生の『ブッダと龍樹の論理学』46頁に依っています。
石飛先生は、天才ですね。仏教の難問を美しく整理して再現しているようです。
>仏教徒が三宝に帰依を表明するときの「法宝」を説明した古くからの定型句も、
定型句とは「法は1.世尊によって善く説かれ、2.自ら見るべく、3.無時的で、
4.来たり見るべく、5.導き、6.識者が各自に覚知すべきものである」でしょうか?
この1.が正に「釈尊が説かれたこと」でしょう。2., 4., 6.は自分で体験する、
3.は行ずれば即時的に結果が出る、5.虚妄ならざる真実に導く教えである。
ということで、1.以外は、全て釈尊が説かれた教えの属性、特性を示しているので、
この定型句は明らかに法とは釈尊の教えであるということで問題ないと思います。
以上に関してはご覧になっていると思いますが、
水野弘元『仏教要語の基礎知識』初版98頁以下で再確認してください。
ブッダゴーサの四分法も「釈尊が説かれたこと」を基本に特性を述べたと考えられるでしょう。
その水野先生の解釈は圧巻です。素晴らしい!
173 :
神も仏も名無しさん:2009/02/03(火) 21:35:50 ID:aY704kGy
>「縁起を見るものは法を見る」「法を見るものは仏を見る」だの「依法依不人」だの「法燈明」だの、簡単に言いますが、実際はさまざまな場面でその意味内容を使い分けているようです。
上の用例は、「見る」を体験、体得すると考えれば、全て教えと置き換えて問題ないでしょう。
原始仏典で「 x は法である」とは、定型句の1〜6の特性を全て釈尊が認めたということです。
逆に釈尊が人に質問されて「私はそうは説かない」と仰る場合は、1〜6を満たさないので認めない。
つまり、悟り、解脱に導かない体験できない結果のでないので法と認められないことです。
問題は、「一切法」「諸法」という用例です。これはよく諸現象とか物事、万物という
意味に解されますが、原始仏教に限ってはどうも誤解のようです。
では、何か。これも釈尊が縁起を悟ったことで明らかになった様々なことと考えると、
釈尊が悟った時に「諸法顕現せり」と伝承されることも理解できるでしょう。
そしてこの明らかになった様々なこと、つまり悟りの体系は、釈尊の意識内の出来事でしたが、
それを人に説く時に、「一切法」「諸法」などと呼ばれました。
つまり、「一切法」「諸法」は釈尊が悟った体系を、人に説いたもの。
釈尊が悟り、解脱に役にたつと認めたことが、法というわけです。
以上については、村上真完<最初の仏語「諸々の法が明らかになるpatubhavanti dhamma」考>印度學佛教學研究 54に依っています。以下で読めますのでご覧ください。
http://ci.nii.ac.jp/search/servlet/Kensaku 村上先生のこの解釈も素晴らしいものだと思います。
他に「滅法」といった要素、性質と訳される場合も、
滅と「釈尊が説かれたこと」が要素、性質という意味であると考えれば問題ないと思います。
その後、部派仏教時代にたぶん行のために「一切法」をまとめる論書が出現し、
分析探求、論理構築が進んで複雑なアビダルマ体系になったと思います。
このアビダルマを見ると、非常に難解で異説が多いので混乱すると思います。
174 :
神も仏も名無しさん:2009/02/03(火) 21:36:46 ID:aY704kGy
>龍樹の使う「法」の概念もわかりにくい。
龍樹菩薩『廻諍論自註』対55偈を訳してみました、
以下のように上の考え方で問題ないと思います。
それでも「諸善法の善それ自体が何にも依らずに発生し、
不善などについても同様」と考えるなら、梵行(聖なる状態)に住しなくなる。
なぜか? であれば、縁起を捨ることである。
縁起を捨てるため、縁起を観ることを捨てる。
つまり、縁起が有るのではないと観る。
縁起を観ることが無ければ、法を観ることは無い。
(だから)世尊が「ビクよ!縁起を見るものは法を観る」と説かれたのである。
法を観ることがないから、梵行に住することはないのである。
さらに、縁起を捨てることは、苦の集起(寄り集まって発生すること)を捨てることである。
なぜなら、苦の集起とは縁起(依りて発生すること)なのだから。
苦の集起を捨てることは、苦(諦)を捨てることである。
なぜなら、集(諦)がなければ、何から苦が集起する(と納得する)だろうか?
苦を捨てるため、集を捨てるため、苦を滅することを捨てるのである。
なぜなら、苦と集の二つが無ければ、何を断じて滅するのだろうか?
苦を滅することが無ければ、何を得て苦を滅する道になるのだろうか?
以上、聖なる四諦が無いから、シャモン果が無くなる。
なぜなら、真実(諦)を観るからシャモン果が正しく得られるのだから。
シャモン果が無いから、梵行に住しなくなる。
175 :
神も仏も名無しさん:2009/02/03(火) 21:40:05 ID:aY704kGy
月称菩薩『六十頌如理論註』対13偈も訳してみました。
発生しないというのは実体から発生したり、
実体として存在していたものが消滅するのではなく、縁起するという意味です。
愚者たちの認識領域の限界は輪廻とネハンである。その二つも発生しないから、
本体によって発生することは無いので、輪廻とネハン(本体があるのではないから)は一つである。
よって、ネハンと異ならないから、縁起も法という。
なぜなら、それを観ることでネハンも観るから「縁起を見るものは法を観る」のである。
法の本体と仏世尊は違いないから、法を観ることで、仏を観る。
以上、縁起であって、発生がないことを感知する法を知ることによって、
拠り所である三諦は縁起するもので本体によって発生したのでなく、
ネハン(滅諦)も、そ(縁起)の本体であると観ることだから納得(現観)するのは同じ。
以上について縁起を感知する法を知ることは、苦の発生が無いことや滅がないことを
判断することそのものが、苦が完全に分かることである。
業と煩悩の発生と消滅が無いことを判断すること、それが集が分かることである。
縁起の発生が無いことと消滅がないことを判断すること、これが滅が分かることである。
道諦も縁起であるから、本体によって発生が無いことと消滅がないことを判断すること、
それが道が分かることである。
以上のようであれば、法が分かるから一瞬で縁起を観るので、
以前観なかった見るべきものは他にありえない。
木村泰賢:原始仏教思想論を以下にアップしときました。
http://www1.axfc.net/uploader/O/so/73709.pdf DL-key: buddha
紙頁90以下、PDF63以下も大変よいと思います。
そしてこの木村先生の記述と石飛先生の記述ないようが大きな意味で一致すると思います。
それと本気で仏教を学ぶなら、ビルマかチベットの優れた師に学ぶべきだと思います。
176 :
マリ:2009/02/04(水) 00:33:53 ID:HHqnX6VM
法についてのご教授ありがとうございます。お陰さまでまだ理解するまでに到ったとはいえませんが、大分わかりかけてきました。
それ以上に手がかりを与えていただき感謝しています。自ら学んでいきたいと思います。
「宝法」定型句はおっしゃるとおりですが、解釈いただきよくわかりました。
173、村上真完先生、174・木村泰賢先生のURLがパソコン不調のため開けずいらいらしています。
他のキーワードでご紹介の部分が開けましたら宜しく。
君等瞑想やってるの?
178 :
神も仏も名無しさん:2009/02/04(水) 00:56:12 ID:9/LlhU7K
中観派って瞑想すんの?
つうか瞑想に価値を持つ奴って、超初心者だよ。
ここは馬鹿の吹き溜まりかww
さよならww
181 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/02/04(水) 06:00:50 ID:xyg0/Zv+
>180
二度と来るなよ♪(^。^)ノシ
182 :
神も仏も名無しさん:2009/02/04(水) 06:43:35 ID:iJ0Gg3r3
>>178 戒定慧は、仏教修行の基本です。
瞑想というと、意味がよく分からないと思うんですがいかがでしょう。
たぶん、精神集中を意味する定、禅定、三昧などと呼ばれること、
慣れ、馴染み、習慣づけを意味する修習などと呼ばれること、
何かをイメージする観想などと呼ばれること、
などの総称だろうと思うのですが、
中観派も当然、定や修習は行います。
特に『中論』で説かれている内容は、観(ヴィパシャナー)なので、
定が進んでないと意味を理解しても効果がないのではないかと思います。
その点、『勧戒王頌』『宝行王正論』『四百論』『入中論』『入菩提行論』
などは戒定慧の形で説かれているので全体の体系が見えると思います。
そしてその体系は、原始仏教、部派仏教のものと基本的に変わりないと思います。
変わるのは、始めに発菩提心、行が六ハラミツ、最後に廻向が加わり、
行が普賢行の誓願に基づいていることです。
日本にある中観のお寺を教えてください。
そこで実践されていることも。
184 :
神も仏も名無しさん:2009/02/05(木) 21:00:20 ID:1zFsTwRe
>>183 日本で中観の寺を自称してるのはこちらぐらいみたいです。
http://www.daianji.or.jp/04-jin.html シナ・日本で中観といえば三論宗です。
何かで読んだ記憶によると三論宗の伝統は、
真言宗と浄土宗で、伝承されているとありました。
しかしながら、シナで中観は天台宗と華厳宗で応用され、
より高度な見解になっていますので、天台宗と華厳宗でも
学べるかもしれません。
いずれにしろ、日本で三論や中観の伝統は非常にマイナーです。
平安時代に真言宗に吸収されたようですから。
理屈習ったって何にもならん。
時間の無駄。
186 :
神も仏も名無しさん:2009/02/06(金) 22:40:15 ID:Fjt22319
>>185 では、釈尊はなぜ、縁起、四諦、八正道などの理を説かれたのでしょう?
釈尊は軽い冗談のつもりだったが阿難が本気にしたから
>>186 釈尊はね、説法で人を解脱に導く
力があったんだよ。
現代では正定即ち瞑想をやらなければ
進めないよ。
189 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/02/07(土) 06:51:51 ID:hpj7ACP3
コレをしなければならない、などと言う強制は、初心者レベルの話ではある。
チュウガンでどうやって悟るの?
191 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 08:52:12 ID:TCKNPIOR
どの寺でやってるの?
修行に行くよ。
193 :
brown:2009/02/08(日) 01:28:36 ID:rSjLaQaj
>>190 中観の見方,考え方によると,思考が留まらないんですよ。
どこかある考え方に留まらない。留まるものを否定するから。
否定すると,通常はその否定に留まることになるんだけど,それを否定する。
「有る」「無い」という両極端を否定するので,「中観」と呼ばれるんだ
けど,「有る」を否定しても「無い」にはならない。「無い」を否定する
から。そうして,「有る」にも「無い」にも留まらないので,ずっと動き
続ける。思考が。あれも無い,これも無い。何にも無いといっていると,
思考停止を教えていると思うかもしれないけれど,実際はその逆で,
思考不停止ですね。どこにも留めない。
そうすることで,心が徹底的に洞察で磨かれていくんですよ。
その徹底的考察プロセス自体が禅定で,そのじっくりとした着実なステップが
究極的な最頂点の心境まで導いてくれるんです。一発で。
要するに,解脱への直接的なアプローチなんですよ。
一発でおまえが逝けよ。解脱へ。
>>713 貴方の精神をしっかり立て直すことが
先決です。
↑誤爆御免
198 :
マリ:2009/02/09(月) 22:09:43 ID:Z0XXDm3k
[定」と「瞑想」の違いを語って下さい。
ついでに自分はどちらが好みかも。
199 :
神も仏も名無しさん:2009/02/09(月) 23:01:23 ID:cZAA5bA4
200 :
神も仏も名無しさん:2009/02/10(火) 18:55:15 ID:09JOAk+e
200
201 :
神も仏も名無しさん:2009/02/12(木) 05:03:37 ID:NmxrvE+m
中観派より高等な教えはありますか?
202 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/02/12(木) 05:32:39 ID:WcZvkjZp
>201
高等、下等の分別は自心に依るので、
例えばキリスト教から見れば下等ですね。
そして勿論、中観派を信仰する者にとっては、その様な設問自体に因縁を付ける訳です♪(笑)
203 :
神も仏も名無しさん:2009/02/12(木) 07:35:50 ID:S3x7jGc/
認識も頼りにならん、思考だって刹那もとどまらない、
空ってなんなのと聞けばその問い自体がナンセンスだと突っ込まれる
ある意味、とてつもなく不安で踏んだりけったりで自棄起こしたくなるな
中観派からすると唯識派のどの辺が「甘い」の?
205 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 09:07:37 ID:5mIuDQXR
>>204 >空ってなんなのと聞けばその問い自体がナンセンスだと突っ込まれる
空とは、我々が実体視している自分自身や知覚するものすべてが
中身無い幻のようなもので、縁起しているだけであるということです。
>中観派からすると唯識派のどの辺が「甘い」の?
心を実体視していることでしょう。
論理学を導入した唯識派が世俗でも自相を勝義有としたことでしょう。
現代的視点からいえば、中観派が釈尊の教えに忠実なのに対して、
アビダルマがヴァイシェーシカなどから考え方を拝借して原子論的分類説を構築したように
唯識はサーンキャなどから考え方を拝借して唯心論的説明体系を構築したことと思われます。
ですが、どれも理解のための方便と見ればありだと思います。
>>202 キリスト教が高等ってお前w
未だに進化論すら否定する連中だぞ。
ついこの前までは地動説も否定していたんだからw
いつまで居もしない神の奴隷やってんだよあいつら。
207 :
神も仏も名無しさん:2009/02/16(月) 01:37:42 ID:5qmOoyPh
>>201>>203 すべては等価=無価=空・中道なのに高等もへちまもないだろう。
今宵は満月 雪の三千大千世界
ブッダを眠らせ ブッダの屋根に 泡雪降りつむ
イエスを眠らせ イエスの屋根に 沫雪降りつむ
これが仏の教えさ。
208 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/02/16(月) 06:32:08 ID:EALKAiEl
>206
(^。^)日本語判らんのか?(笑)
腐れヤソから見たら、って条件付けしてンだろうが。(笑)
>>207 美しいなw
ちょっと感動した。
雪国乙。気を付けて・・・。
210 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/02/18(水) 06:21:08 ID:2KTV2Vpx
(^。^)美醜不二也♪
211 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/02/20(金) 20:03:42 ID:uKdDqv7B
ちょっとズレた質問ですが、
維摩経と中論と大般若経の成立した順番って推定されてるのですか?
維摩→中論→大般若経で良いの?
212 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 22:21:38 ID:OSnEs7iU
縁起の法とは
人間存在
である。
213 :
神も仏も名無しさん:2009/02/24(火) 03:40:43 ID:UtwTG4Px
保守
214 :
無名:2009/02/24(火) 13:43:03 ID:3oTHrkPW
>>172 :神も仏も名無しさん
>石飛先生は、天才ですね。
天才??
215 :
神も仏も名無しさん:2009/02/24(火) 13:58:21 ID:BSOUlUNG
216 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/02/27(金) 22:54:15 ID:kRbp5SVJ
(^。^)天才とは相対的価値観であり、イカ略♪
消えゆくスレッドだな
218 :
悪寛:2009/03/04(水) 17:30:15 ID:C+a9xLed
一切行(業)無常
219 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/05(木) 06:29:59 ID:55T7JvGn
(^。^)宗教無情♪諸法盲従♪ネーチャンに欲情♪
220 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/13(金) 18:26:34 ID:LB9n7eTX
(^。^)もう荒らしませんから、誰か何か書け♪(笑)
221 :
神も仏も名無しさん:2009/03/18(水) 18:52:33 ID:mSBpht/7
「空」に過剰な反応を示す人の心理を知りたい
222 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/18(水) 18:57:10 ID:WqT7rRCG
>221
(^。^;)え?俺か?
223 :
神も仏も名無しさん:2009/03/18(水) 19:28:04 ID:mSBpht/7
いや、承狂くんじゃなくて
他スレで「空」のくの字でも出そうもんなら鬼の首でも取ったかのように語りたがる人がいるもんで
224 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/18(水) 19:56:29 ID:WqT7rRCG
>223
(`o´)君いうな!
空とは、般若と並び立つ仏教哲学の根底であり、
仏教徒にとっては、非常に重要な概念です。
従って、仏教を判ったつもりの名無駄とか名無駄とか名無駄は、(笑)
自分の理解している「空」こそ絶対に正しいと信じてる訳ですね。
ちょうど、ヤソにとっての神の意思みたいなもんです。(笑)
225 :
神も仏も名無しさん:2009/03/18(水) 20:18:33 ID:mSBpht/7
>>224 神の意志て‥‥〜もう絶対的概念を持つ時点で破綻してるような
その人は話したくて仕方ない様子には見えたが敢えて無視したw
226 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/18(水) 20:37:06 ID:WqT7rRCG
(^。^;)まぁ、偉そうに宇宙意思とか言ってたら、近寄るべきでは無いわな♪(笑)
227 :
神も仏も名無しさん:2009/03/18(水) 21:37:20 ID:mSBpht/7
あ、で承狂サンに質問なんだが、唯識派はアラヤ識やアートマンの存在を認めた教義なの?
だとすれば本来無我説を説く仏教の根本が揺らぐような気がするんだが。と考えると中観のがしっくりくるんだ。
素人質問ですまん。
228 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/18(水) 21:49:28 ID:WqT7rRCG
>227
(^。^;)その辺は俺も理解出来ないんだよなぁ。
仏閣のヤツだったか、なんか、アラヤシキは仮設の存在だから、無我と矛盾しないとか言ってたが、訳ワカメだよなぁ。
因みに、唯識三十ジュにも、何の論拠も無いんだよ。
だから、俺的には、中観までが仏教で、法相以降は他との習合としか思えないと言う訳だ。
229 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/18(水) 21:56:46 ID:97gE3bFG
九識かね?w
230 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/18(水) 22:00:22 ID:WqT7rRCG
>229
(^。^)おう♪
9でも10でも構わんで、異熟の論拠を御教授下され♪
231 :
神も仏も名無しさん:2009/03/18(水) 22:03:37 ID:mSBpht/7
>>228 うーん、仮説の存在なら存在しないか‥こうなるともはや解釈次第でどうとでもみたいな気がするし、頭がこんがらがる。
なんかそのあたりからヒンドゥー思想飲み込まれたのかなとも考える。
レス有難う。
232 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/18(水) 23:16:42 ID:97gE3bFG
阿頼耶識について調べてみたんだが・・。。
九識とは物事を識別する作用に9種あるということ。
阿頼耶識は、その中の8番目にあたるもの。
阿頼耶とは蔵の意であり無没識、蔵識と訳される。
これには能蔵、所蔵、執蔵の三義がある。
この中の執蔵は所執蔵の略で、第7末那識によって阿頼耶識があたかもアートマンのような
我として執着されることをいう。
更に、諸法を生起させる種子を蔵するゆえに種子蔵ともいい、
森羅三千の諸法は阿頼耶識によって縁起するとの説をたてている。
ということで、九識そのものが物事を識別する心の作用であるなら、
その中の一つである阿頼耶識は否定されていないでしょう。
ただ、アートマン(我)は無我を説く佛教では否定されるだろうね。
233 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/18(水) 23:37:21 ID:WqT7rRCG
>232
(^。^;)その程度の知識はググれば判るっつーの。(笑)
唯識三十ジュなどでも示されて無い異熟=アラヤシキの仏教的論拠を御存じかと聞いているのだがな。
知らないなら知らないと言えよな。(笑)
234 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/18(水) 23:37:23 ID:97gE3bFG
仏陀の悟りの下地は古代インド文化の流れの中にあるもので、
バラモン教を下地とした古代インド文化の影響を受けることは当然でしょうね。
235 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/18(水) 23:50:17 ID:97gE3bFG
玄奘訳唯識三十論頌のことかね?w
236 :
神も仏も名無しさん:2009/03/18(水) 23:53:12 ID:1rFIsLcs
>異熟=アラヤシキの仏教的論拠
『摂論』所知依分を読んだらどうかな。
237 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/19(木) 00:05:56 ID:WqT7rRCG
>236
Thanks♪
昔、斜め読みして放り捨てたなぁ。(笑)
(^。^;)暇と金が出来たらリベンジしてみる。
238 :
神も仏も名無しさん:2009/03/19(木) 15:37:12 ID:IRhy/9pl
古代インド文化に再び迎合していったのですかね。密教にタントリズムがあるみたいなものか。
これも仏教の包括性だろうか。
中観の説く仏教をそのまま伝える宗派が日本にはあるのかな?
日本では受け入れられづらいような気がするが‥
239 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/19(木) 19:03:59 ID:/ptUp1+C
佛教の立場は古代インド思想の輪廻思想を批判する立場にある。
古代インドの輪廻観は、死後人間が実的存在として何処か定まった場所で
何らかの形態を具して生まれ変るということである。
佛教はこの思想に対して、一体、死後に輪廻すると言われている実的存在は何であるか、
我であるのか、霊魂であるのか、と批判をしている。
仏陀は作用論者であり業論者であり、また精進論者であった。(アンダッタラ・ニカーヤ、一巻 P287)
業論とは、行為についての作用性を基礎的原理としているもの。
この佛教内に限定された作用は古代インドにおける宇宙的シャクティの分割である。
業は宇宙的シャクティの人間における分割動作であった。動きを本質とする根源力(シャクティ)の上に人間的行為がある。
それゆえに、行為もまた、作用であり精進を促進するものである。
一切は動かない物体でなくして、絶えず動きにおいて存在する。
一切は常住の物体ではなく常ならざる無常であり、動的、流転的なのだ。
これは、ギリシャのヘラクリトスの言うパンタ・レイ(万物流転する)に同じ発想だ。
万物と同じく、人間の生命もまた永遠に流れ、そして動く。
輪廻の原語サムサーラは「動く」「流れる」を原意としている概念である。
佛教は輪廻を生命の無限性のシンボルと捉え、内的、心理的に意識の奥において捉えた。
心は刹那的であり、もっとも動き易いものとして考えられていた。
輪廻論もまた、生命の動きである限り、動きを本質とする心の次元で捉えている。これは佛教の合理性を示すものに他ならない。
240 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/19(木) 19:13:49 ID:/ptUp1+C
中観派の思想を継承してした宗派としては、
中国や日本の三論宗がありますね。
241 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/19(木) 19:43:45 ID:/ptUp1+C
竜樹が説いたのは、一言で言えば空と中の思想であり、
これは、縁起思想の徹底的な探究が伴われており、
中論はそれらの集大成でもある。
中観は中論によって空観を宣揚した学派で喩伽派と共にインドにおける二大乗佛教とされている。
中観派は後に仏護系と清弁系の見解の対立により分裂した。
その後、中観派は喩伽派と交流するようになり、中観喩伽派が形成された。
喩伽派とは
喩伽唯識の説を唱える学派で、弥勒を始祖とし、無着・世親によって大成された派。
242 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/19(木) 19:58:26 ID:/ptUp1+C
唯識
己心の外にあると思われる諸現象は、ただ心の映じ出された表象のみである、との意。
万法は心の本体である識の変現にして、心識だけが実有であるとする法相宗の説。
認識する対象は阿頼耶識に含蔵される種子(諸法を生ずる可能性を植物の種子をもって例えたもの)から
変じてきた影像に過ぎないから、識以外のあらゆる存在・現象は識の働きによって作り出されたものであり、
識のみが実有である。
唯識は法相宗の根本教義。
243 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/19(木) 20:04:27 ID:K80AhG1z
(^。^)なーんか、胡散臭いカキコするヤツだな。(笑)
244 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/19(木) 20:06:36 ID:/ptUp1+C
まず、タタキ台としての基本ベースを置いておかないと、
議論するにしても、マスターベーションで終わってしまうのではないのかと。
この他に、「中」や「空」の概念も後で挙げておく予定。
縁起・空・中の思想にドコまで肉薄できるか・・・だな。w
245 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/19(木) 20:32:23 ID:/ptUp1+C
>>243 クォリティなら任せてくれ、、、と。
G1仕様で発進だなw
246 :
238:2009/03/19(木) 20:58:48 ID:IRhy/9pl
きみら仲良いな〜
247 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/19(木) 21:29:13 ID:K80AhG1z
>246
(^。^;)誰と誰が?(笑)
248 :
238:2009/03/19(木) 21:47:10 ID:IRhy/9pl
承狂クンと哲氏に決まってる(笑)
般若経典、般若波羅蜜の解釈を主眼とし、空の思想を理論化して、一切法は縁起によって成立しており、普遍の独自性は持たないとする見方に立つわけだから
ナーガールジュナが説一切有部や、普遍の実在を説くヴァイシェーシカなどを鋭く批判するのも分かるな。
249 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/19(木) 22:24:35 ID:K80AhG1z
>248
(^。^)そいつぁ心外だな♪
んで、中論信者としては、そんな教科書通りのカキコでは、
ツッコミ入れられなくて、大変不満な訳だが♪(笑)
250 :
神も仏も名無しさん:2009/03/19(木) 22:40:15 ID:IRhy/9pl
>>249 つか俺はひけらかす知識すら持ってないからさw
ちゅうがんを学ぼうとしてるだけだよ。
ツッコミ入れようと、てぐすね引いて待たなくてよろしいわ(笑)
251 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/19(木) 23:04:51 ID:K80AhG1z
(T.T)・・・
252 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/20(金) 02:26:54 ID:nTl/HL4z
まあ、訓コ解釈師もよろしいが、
仏道の本義は実践とみえたりw
253 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/20(金) 06:21:03 ID:Xc+VCm8V
>252
ほほう♪
そんな科白を言える立場なのかね?
254 :
神も仏も名無しさん:2009/03/20(金) 08:19:40 ID:y3apylwV
哲氏の実践とはどのようなものかね?
255 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/20(金) 09:40:01 ID:UYjt0h40
まあ、そう言った視点・角度も必要かとw
256 :
哲学丸 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/20(金) 11:38:16 ID:UYjt0h40
行住坐臥全てが精進と言いたいところだが、
そうもいかんよねw 凡人には難しいところだw
257 :
神も仏も名無しさん:2009/03/20(金) 12:17:37 ID:y3apylwV
あたしゃ先ず教義を頭に叩きこまないと実践に移せませんわ
258 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/20(金) 16:41:34 ID:Xc+VCm8V
>257
(^。^)わしゃぁ、教義を叩きこんでも実践出来なんだ♪(笑)
259 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/20(金) 17:34:51 ID:67vCzxQx
鼻っから仏道を舐めているんじゃないのかのうw
260 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/20(金) 17:45:24 ID:Xc+VCm8V
機根不同なるが故に応機の善逝は八万の法門を開き給う。
得法縁共尚、染着深き故に未だ不能具戒。
誠に慚愧也。
(^。^)って、大きなお世話だ♪(笑)
261 :
神も仏も名無しさん:2009/03/20(金) 18:59:59 ID:YMWImk5y
>>220 >誰か何か書け
先ず君が書いたら? 例えば、君の理解する龍樹における縁起・空性・中道を、
“出典付き”で書いてくれ。そうしたら、能力の範囲内で出典付きで対応する用意がある。
そのときには、先の10.8-13が絡んでくるかもしれない。
262 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/20(金) 19:18:22 ID:QfNTj0dO
>>260 末法の衆生の機根はすこぶる悪いと仏典にある。
戒律自体も効をなさず、破壊坊主が溢れ四足肉食、邪淫など何でもありありの世界であろう。
263 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/20(金) 19:20:51 ID:QfNTj0dO
>縁起・空性・中道
ボチボチ展開しょうと思っているのだが、今し方心の準備が。。フゥ〜w
264 :
神も仏も名無しさん:2009/03/20(金) 19:38:43 ID:y3apylwV
>>哲氏
末法思想ってハルマゲドンみたいな解釈で宜しいの?
265 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/20(金) 21:43:13 ID:Xc+VCm8V
>261
(^。^)おう♪
その節はどうも。
オイラは、もう自説の展開は止めて4月で2ちゃんも止めるツモリだ。
哲氏とやらとでも宜しくやってくれ♪
266 :
神も仏も名無しさん:2009/03/20(金) 21:57:04 ID:y3apylwV
>>承狂氏
引退かよ。とか言って瞬く間にカムバックてオチじゃないのかw
よくあること
267 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/21(土) 06:39:52 ID:fg5K1D39
(^。^)しゅあ♪あずゆーらいく♪(笑)
268 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/22(日) 12:48:28 ID:fPgb7Qa8
「末法」
末世・末代の法のこと。
ただ、仏の教のみ存在して、証果(修行の結果として悟りにはいること)のない時期のこと。
三時(正・像・末)の一つ。
釈迦滅後2000年以降1万年間をいう(中観論疏巻一末・法華玄論巻十)
比丘は戒律を修めず、争そいばかり起して邪見がはびこり、釈迦の仏法がその効力をなくしてしまう時代。
(大集経巻五十五所説・闘諍堅固)
269 :
ど〜も君:2009/03/22(日) 13:48:21 ID:mRcOFlmb
こんにちわ
通りすがりの素人です。
唯識って、中観にプラス ヨガ的瞑想 って感じすか?
シャマタビバシャナとか?
中観の理論は完璧だけど、インドでは、理論だけでは、ちょっと〜〜という感じ?
で、観想をいれました〜〜
で、宇宙のありようは、「識」が作る虚構です。ということでいいだろか?
これって、瞑想者のための方便のような気がするんですけど、どうでしょう?
270 :
哲氏 ◆FVy0/WJrcA :2009/03/22(日) 19:08:22 ID:M9v1LUPQ
>>269 そんな突っ込みをする素人がドコにいると・・w
271 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/22(日) 22:35:11 ID:yQ7cQWmT
(^。^)アザナが「通りすがりの素人」なんだろ?
イミナか?(笑)
272 :
どーも君:2009/03/22(日) 23:40:31 ID:en4NwkHv
いえいえ 本当に通りすがりの者でございます。
ちょっと 唯識に興味を持ち始めたばかりなもので。
273 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/03/23(月) 06:00:49 ID:Hkq9jTDS
ほほう♪
残念ながら、私は唯識は全く理解出来ませんので、見物させていただきます♪
テツ氏なら、もうちょっと弄ってあげたら、
きっと説明して下さるでしょう。(笑)
274 :
神も仏も名無しさん:2009/03/25(水) 22:51:53 ID:c4pohMUV
>>269 違います。中観は理論だけではありません。
『宝行王正論』『四百論』『入中論』『入菩提行論』を見てください。
中観は、ヴィパシャナです。もちろん、シャマタが前提となっています。
唯識は、サーンキャやニヤーヤが入ってます。
275 :
神も仏も名無しさん:2009/03/28(土) 14:10:05 ID:7yXIedue
とどのつまり一言で言うと「細かい事は気にするな」って教えだろ?(笑)
276 :
神も仏も名無しさん:2009/03/28(土) 14:17:45 ID:Ccw319aU
277 :
どーも君:2009/03/29(日) 08:33:53 ID:AO6VsC4D
274 ありがとうございます。(^ω^)
宝行王正論あたりから読んでみようと思います。
サーンキャ、ニヤーヤということは、インド思想への回帰ということなんでしょうか?
278 :
神も仏も名無しさん:2009/03/29(日) 09:09:39 ID:Np1JLcSn
>>277 読んでみてください。
インド思想への回帰というより、ニヤーヤの場合は流行してたので
取り入れざる得なかったということだと思います。
論理学が、共通言語になりつつあったので、です。
アビダルマがヴァイシェーシカの原子論、範疇論の影響を受けているようなものです。
サーンキャは、所謂アラヤ識縁起を構築する場合にお手本としたと思われます。
ただし、これは実際、そのように体験するからという面もありますが、
言語化にあたって十二縁起のような円環ではなく、アラヤ識を基盤として
縁起するというようになっているというのが私の理解です。
十二縁起も二元論サーンキャではなく一元論サーンキャの影響を受けているか受けてないかを巡って論争があったぐらいですから、
一元論サーンキャは、ヨーガとともにインド宗教の源流と考えられます。
しかしながら、こういった思想史的関係はあまり意味があると思えません。
言語化するさいの言語習慣、言い慣わしとして釈尊や行者が利用したと考えております。
279 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/04/05(日) 13:51:45 ID:5JcmXZyl
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1211038645/ ○●Я親鸞仏教質問箱R(その4)●○
↑
これにノルトントラップが張られた可能性があります。ノルトントラップは以前にも仕掛けられています。
ノルトンアンチウィルスを使用していていて、PCに異常を起こした方、
↓
http://ansitu.xrea.jp/guidance/?Trap#NortonTrap を見てください。
なお、ノルトントラップはノルトンアンチウィルスだけを攪乱するおもちゃです。ノルトンアンチウィルス
を使用していなければ異常を起こしません。
蓮如と親鸞の主張の相違を問題にした書き込みの直後に仕掛けられました。この種の議論に脅威を
感じる一群が、社会に、そして2ちゃんねるのこの宗教板にいるということでしょう
浄土真宗は教えがわかりにくい宗教だと言われる。真宗の環境内に、わかりやすくなることに脅威を感じ
る勢力がいます。親鸞・蓮如を自分たちの操り人形として神格化している集団が、社会に知られた
くないと思っている議論とはどんなものか、ここを見てください。
↓
ブログ親鸞仏教
www.しんらん.jp
保守
281 :
神も仏も名無しさん:2009/04/11(土) 21:19:10 ID:XiNHEF+4
空思想を学ぶと浄土真宗に行き着くとどっかのスレで言われたが、どういう意味?
どうも腑に落ちない‥
282 :
神も仏も名無しさん:2009/04/12(日) 00:18:46 ID:28a1Bgj/
>>281 それは真宗のこじつけでしょう。たしか真宗の学者はそんな説を述べる人が多いと思う。
283 :
神も仏も名無しさん:2009/04/12(日) 10:34:53 ID:ll1U3ydC
何が正で何が誤かは知らないけども、我々こそ絶対であるという主張は、原理主義的で驕りみたいなものを感じる
284 :
神も仏も名無しさん:2009/04/14(火) 18:51:24 ID:ezMwsS3k
真宗て阿弥陀如来だか神様みたいな何かが救ってくれる教えだろ。「空」とは真逆の思想なんじゃないの?
承狂タンは完全撤収謀った訳ではあるまいw
286 :
神も仏も名無しさん:2009/04/15(水) 13:41:43 ID:At2yz8Fa
承狂くんへ
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァハー
>>284 両極端は、相通ずということかもしれんが、
論理的に説明することは極めて困難だと思う。
むしろ、空思想を学んだ結果、阿弥陀に行き着いたという体験論だろうな。
浄土宗・浄土真宗というのは、
どんなに修行しても悟りを開けなかった人(法然)、
その修行すら満足にできなかった人(親鸞)が開祖。
普通の高僧なら適当にごまかすところを、
率直に認めて煩悶した挙句、
時代的な背景もあって、念仏に行き着いた。
それは、論理必然的ではなく、特殊な体験だと思う。
しかし、後世その教えをひろめるなり研究するとなれば、
必然であることにしたいわな。
幼稚な修行を卒業したら念仏に行き着いたんだろうな。
念仏の底は二重底、三重底になってていて、ヘタなヨーガ行者レベルでは
一生かかってもたどり着けない。例え全てのチャクラが開いたとしてもね。
289 :
神も仏も名無しさん:2009/04/15(水) 14:27:17 ID:fnN/FsKb
念仏は民衆救済 運動として価値があったんじゃまいか。
自己洗脳としては、ありかな
290 :
神も仏も名無しさん:2009/04/15(水) 14:40:36 ID:At2yz8Fa
伝言ゲームみたいなもんだね
上戸彩が終いにゃ綾戸智絵になってたみたいな
確かに、辿り着けないですね
つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。
すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。
しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。
正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。
かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。
常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。
寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。
無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。
無為法身はすなはちこれ実相なり。
実相はすなはちこれ法性なり。
法性はすなはちこれ真如なり。
真如はすなはちこれ一如なり。
しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。(『教行信証』「証巻」 聖典註釈版 p.307)
真言と空は相容れないなどと思ってる時点で
どちらかを取り違えてるわ
真言なんか全て空だろ。いっぱい種類がある意味がわからん。
295 :
神も仏も名無しさん:2009/04/15(水) 15:21:28 ID:Oj6ChiZb
296 :
神も仏も名無しさん:2009/04/15(水) 15:29:43 ID:At2yz8Fa
五蘊皆空(一切皆空)すか
全ての認識は、脳内で作られているんだから、空だよ。
虚無とは全然意味が違うがね。
もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。
一切は真実(そのようにある)である」、「一切は真実ではない」、「一切は真実であって且つ真実ではない」、「一切は真実であるのではなく且つ真実ではないのでもない」。これが、もろもろの仏の教説である。
300 :
神も仏も名無しさん:2009/04/15(水) 17:04:02 ID:At2yz8Fa
うむ。しかしアプリオリを掲げる宗教やそれを命題とする人には、到底理解できない教えに見えるのかもよ。
301 :
神も仏も名無しさん:2009/04/16(木) 11:19:59 ID:xu9o44Ew
>>297 >全ての認識は、脳内で作られているんだから、空だよ。
脳内で作られてるから空ってどうしていえる?
あまいのあたまは空っぽか?
>>301 だから虚無の無と空とは違うといってるだろ。
中論嫁。
303 :
神も仏も名無しさん:2009/04/16(木) 11:41:12 ID:xu9o44Ew
虚無って虚じゃないということか?
虚無と真空は違うのか?
「空」「縁起」、理論として理解するに至っても、解脱を目標としている訳だからそれにはまだ遠いということになる。
言葉で「空」「縁起」だと言っても、真に望むその対象を表すことはできない。
確かにそうかもしれないが、先ず言葉を介して理解しないことには始まらない訳でもあるまいか。
305 :
神も仏も名無しさん:2009/04/16(木) 12:01:02 ID:+JepJ3BS
「空」とは空っぽで虚無であるということへの執着をなくせば、心は安定するだろうみたいなw
306 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 12:12:47 ID:qor76T/I
ナーガールジュナは輪廻転生についてはどのような見解だったのかな?
307 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 13:24:20 ID:CcsPeIgg
>>306 当然、認めてます。『中論』26, 27章『宝行王正論』I-35~39, 43~45
『勧戒王頌』23, 31, 58~104から明らかです。
真作かどうか疑われている『大乗二十頌論』6~9, 20『因縁心論』
も同様です。もちろん勝義では輪廻も現在の我々の知覚感覚も我々自身もありません。
これらは通仏教であって、世俗において輪廻を認めない仏教は伝統的にありません。
308 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 15:25:10 ID:qor76T/I
石飛道子さんの龍樹と輪廻転生という解説を読んでみた。
それによると、因縁心論の註釈で、彼は、師が口に唱えるものを弟子がまた唱え、というように師資相承の教えの伝達を喩えとして持ち出すという。
師の唱えるものが、臨終の意識にあたるとすれば、弟子の唱えるものは、その次に続いて生ずる意識となる。
口伝の教えが代々伝わるように、識もこの世からかの世へ伝達され輪廻する。
これを見てみると、スピリチュアルさんやニューエイジが謳う輪廻思想とは全く別物で、どちらかといえばDNA等の現代科学に近いものを感じたがどうだろうか。
309 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 15:40:34 ID:CcsPeIgg
>>308 >これを見てみると、スピリチュアルさんやニューエイジが謳う輪廻思想とは全く別物で、どちらかといえばDNA等の現代科学に近いものを感じたがどうだろうか。
「スピリチュアルさんやニューエイジが謳う輪廻思想」が、何か実体があってそれが輪廻するという意味でしょうか?
「DNA等の現代科学」が、諸条件によって生成認識されるという意味なら近いと思います。
310 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 16:46:53 ID:qor76T/I
>>309 そういう考えを持っているというか、それが普通なんだという人があまりにも多いことに驚いただけです。
彼ら(自称霊能力を持つ)の言い分は、存在は有るが実体は証明できないという感じではないでしょうかね。結局最後は言葉の定義による論争にしかならないんだけど。
実は私の知り合いが現在前世占いの類いに洗脳されてしまっている。客観的に誰の目から見ても本人の利益にはなっていない。
そこで中観派の解説がしてあるサイトや、空思想が書いてある著書を勧めたんだけど、どうやら虚無と勘違いしてるようだし、ますます聞く耳を持たなくなった。
>>307 > これらは通仏教であって、世俗において輪廻を認めない仏教は伝統的にありません。
それはそうだろうな。
輪廻があることを前提にしないと、
何を苦しんで修行するんだということになるな。
ただ、輪廻というものが当然のように存在することを前提にしても、
それが永遠に続くものかどうかという疑問だと思うんだな。
それについてナーガールジュナが明確な答えを出しているんだろうか?
312 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 18:15:00 ID:qor76T/I
輪廻については解るんだがそれに転生が付くとイマイチ解せないんだよね。
まあ私の理解力の問題なんだろうけど。
だからね、輪廻なんて証明できないんだから、妄想とみなせばいいんだよ。
龍樹に頼るな。
仏教を捨てよ。
心の弱い人はあらぬ妄想を夢見て、輪廻を信じて、
スピリチュアリズムに、いとも簡単に騙される。
314 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 18:31:01 ID:qor76T/I
証明というか、苦しみや悩みの繰り返しを輪廻という言葉として捉えてるだけでしょう。
頼るとかではなく、ただ私はたまたま中論と考えが一致することが多かったんで学んでいるだけ。
315 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 19:45:00 ID:qor76T/I
量子論など、現代物理学とはきわめて相性がいい仏教哲学だと思うんだけどね
316 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 20:21:34 ID:CcsPeIgg
>>315 そうそう、仏教以外の存在論は実体・本質を想定・要請するので現代物理学とは相性が悪い、
縁起以外に説明体系は見いだせないと思います。
317 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 20:50:45 ID:xpd/Uowu
再掲
佛教の立場は古代インド思想の輪廻思想を批判する立場にある。
古代インドの輪廻観は、死後人間が実的存在として何処か定まった場所で
何らかの形態を具して生まれ変るということである。
佛教はこの思想に対して、一体、死後に輪廻すると言われている実的存在は何であるか、
我であるのか、霊魂であるのか、と批判をしている。
仏陀は作用論者であり業論者であり、また精進論者であった。(アンダッタラ・ニカーヤ、一巻 P287)
業論とは、行為についての作用性を基礎的原理としているもの。
この佛教内に限定された作用は古代インドにおける宇宙的シャクティの分割である。
業は宇宙的シャクティの人間における分割動作であった。動きを本質とする根源力(シャクティ)の上に人間的行為がある。
それゆえに、行為もまた、作用であり精進を促進するものである。
一切は動かない物体でなくして、絶えず動きにおいて存在する。
一切は常住の物体ではなく常ならざる無常であり、動的、流転的なのだ。
これは、ギリシャのヘラクリトスの言うパンタ・レイ(万物流転する)に同じ発想だ。
万物と同じく、人間の生命もまた永遠に流れ、そして動く。
輪廻の原語サムサーラは「動く」「流れる」を原意としている概念である。
佛教は輪廻を生命の無限性のシンボルと捉え、内的、心理的に意識の奥において捉えた。
心は刹那的であり、もっとも動き易いものとして考えられていた。
輪廻論もまた、生命の動きである限り、動きを本質とする心の次元で捉えている。これは佛教の合理性を示すものに他ならない。
318 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 20:54:24 ID:xpd/Uowu
思考停止厨には是非とも読んでいただきたいものだ
319 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 21:18:38 ID:CcsPeIgg
>>317 >佛教の立場は古代インド思想の輪廻思想を批判する立場にある。
一部の仏教学者の誤解です。仏教で輪廻を前提にしないものは、現代日本とタイ以外に存在しません。
>佛教はこの思想に対して、一体、死後に輪廻すると言われている実的存在は何であるか、
>我であるのか、霊魂であるのか、と批判をしている。
誤解です。恒常不変な実体・本質を否定し、縁起・無我を説くだけで、
輪廻は批判しません。
>仏陀は作用論者であり業論者であり、また精進論者であった。(アンダッタラ・ニカーヤ、一巻 P287)
これはそうです。ですが以下のようには解釈しません。
>業論とは、行為についての作用性を基礎的原理としているもの。
>この佛教内に限定された作用は古代インドにおける宇宙的シャクティの分割である。
>業は宇宙的シャクティの人間における分割動作であった。動きを本質とする根源力(シャクティ)の上に人間的行為がある。
>それゆえに、行為もまた、作用であり精進を促進するものである。
>万物と同じく、人間の生命もまた永遠に流れ、そして動く。
>輪廻の原語サムサーラは「動く」「流れる」を原意としている概念である。
サムサーラは、確かに「動く」「流れる」という語根から派生した言葉ですが、
生まれ変わり死に変わりの生の経巡りを意味する輪廻の意味です。
>佛教は輪廻を生命の無限性のシンボルと捉え、内的、心理的に意識の奥において捉えた。
誤解です。
ま、状況証拠(記述自体)からは、
≪「輪廻」は、間に「肉体の滅」を挟んだ上での「生存」の「(新規)更新」≫
として読める。
あくまでも状況証拠でしかないという反論も不可能ではないが・・。
321 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 21:53:48 ID:zqNF4YTe
>>319 単に否定だけでは話が進まないのだが
出来れば「何故」そうなのか説明して貰えたらありがたいのですが
322 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 22:16:24 ID:CcsPeIgg
323 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 22:17:54 ID:qor76T/I
輪廻転生も有るものでもなく、無いというものでもない、空のようなものだみたいな解釈がしっくりくるのは素人考えかな
もし事実だと認めてしまうとなんだかややこしくなりそうな‥
324 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 22:29:18 ID:CcsPeIgg
>>323 「有るものでもなく、無いというものでもない、空」というのは我々自身、知覚、対象も同じです。
それと同じリアリティ、存在なのが輪廻です。
>>324 >有るものでもなく、無いというものでもない
そのような「空」という視線と、サンジャヤの姿勢との違いはどこにあるのでしょうか?
326 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 22:40:16 ID:CcsPeIgg
>>325 サンジャヤの思想は、反論者の断片のみなのでよく分かりませんが、
少なくとも仏教は縁起によって因果も示せるところが大いに違うと思います。
>>326 「因により縁により固定的でないが故に、(あるでもなく無いでもない)という表現になる」と。
その点で(単なる)「判断保留」とは違う、という理解で良いのかな。
>>319 >誤解です。恒常不変な実体・本質を否定し、縁起・無我を説くだけで、
>輪廻は批判しません。
書き方が悪かったか輪廻の実態なるモノは否定したが輪廻そのものは否定はしていないです
それで、佛教的にとらえると「業」を次生に継承するのは何だと思いますか?
329 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 23:14:00 ID:CcsPeIgg
>>327 それでいいと思います。なぜなら、言語は習慣に基づくとりあえずの本質を適当に設定しないと機能しないからです。
ですが、本来、これが何であるかという本質はないというのが縁起であり、
空であり、無我なので言語表現を超えているということと思ってます。
現在、最も論理的かつ本質的にこの問題を述べているのが石飛先生だと思います。
330 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 23:14:49 ID:CcsPeIgg
>>319 タイにもあるんですか。どういうものですか?
アンベードカルも輪廻否定だったと思います。
333 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 23:27:01 ID:CcsPeIgg
>>331 そうですね。インド新仏教もそうですね。伝統のないものです。
タイはブッダダーサ比丘という方の新派です。
>>330 >縁起です。
業を受け継ぐ記憶装置が「縁起」とは?
縁によって「業」が引き出されるのは判るのですが
全ての事象は因縁の関係性の中でしか生じないというのが佛教でいう基本原理ですよね
335 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 23:52:00 ID:CcsPeIgg
>>334 記憶装置、倉庫、基盤といったものがなく、
縁起していくということです。関係性というものも実体と実体、
個体と個体の関係で成り立つという原子論的な古典物理的なものではなく、
行為と縁起によって連続していくということです。
例えば、十二縁起では各支分が説かれますが、それも単に仮設されただけのことと思ってます。
方便としてアーラヤや、プトガラ、種子などを設定してもいいのですが、
あくまで仮設であり方便です。
>>335 なるほど、分かりやすい説明ですね
とすると、他スレで取りざたされている「死後の世界」は空の状態として捉えている訳ですね
その状態では極楽(天国)や業苦に苛まれる地獄の世界も方便と捉えているのですか?
その帳尻を合わせるのはあくまで生在る現世で報われる・・ですね?
337 :
神も仏も名無しさん:2009/04/18(土) 00:09:20 ID:ZPnHzfsu
>>336 死後の世界も現在も連続して輪廻し且つ縁起するものだから空です。
違います。現在も来世も過去世も行為の結果、縁起したものです。
分かりやすく仮設すると心の投影です。といって心という実体があるわけではありません。
以上が私の現在の理解です。
338 :
神も仏も名無しさん:2009/04/18(土) 00:15:06 ID:SERggkk8
肉体を離れた魂は霊界で修行を積み、やがてこの世に‥なんて当たり前のように輪廻転生観を語る愚かしい輩が多いよね
339 :
神も仏も名無しさん:2009/04/18(土) 08:47:39 ID:IxteueYg
中論は同じ仏教の中の派閥である説一切有部派のアビダルマコーシャの
批判議論がほとんどだね。
340 :
神も仏も名無しさん:2009/04/18(土) 08:53:02 ID:ZPnHzfsu
>>339 アビダルマコーシャは、中論より数世紀後の成立です。
341 :
神も仏も名無しさん:2009/04/18(土) 09:27:42 ID:lq/AAMjM
そうだね。説一切有部への批判だけど。
アビダルマコーシャはバスパンドゥーが4世紀ころに書いた書物だもんね。
うつの人に対して中観思想をつかって解放に向かわせるにはどうすればよいですか?
343 :
暁:2009/05/02(土) 09:29:08 ID:qUYzmVsd
>>342 中論をすすめてみるのはちょっとした賭けだよね
解釈次第では虚無感に益々拍車が掛かる恐れがある
俺の友人にもボーダーがいる。そのような人は大概御利益を喧伝するカルトに依る傾向があるよね
先ずは軽いジャブ程度にアプローチしてみたら?
344 :
神も仏も名無しさん:2009/05/16(土) 17:37:15 ID:/9k6dewg
帰敬偈の八不の縁起は果たして相依か?
345 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/05(金) 21:29:15 ID:kqmX7FnY
一切は相依性なるが故に八不を以て諸戯を断てり♪
(^。^)ホントかどうかは知らんけど♪(笑)
346 :
神も仏も名無しさん:2009/06/07(日) 19:18:41 ID:c/mU/yyr
生生(生を生じさせるもの)は、単に本生(根本の生)のみを生ずる。
そしてまた、〔その〕本生は生生を生じさせる。7.4(論敵)
汝の説で、もしも生生が本生を生じさせるならば、
いまだ本により生ぜられていないそれ(生生)が、
どうして、それ(本生)を生じさせるのか。7.5
汝の説で、もしも本によって生ぜられたそれ(生生)が本を生じさせるというならば、
それ(生生)によってまだ生ぜられていないその本が、
どうして、それ(生生)を生じさせるのであろうか。7.6
汝の説で、もしもこのまだ生じていないもの(本生)が、
それ(生生)を生じさせることができるならば、
この現に生じつつあるもの(本生)が、望みのままに、
それ(生生)を生じさせることになるだろう。7.7
これを読んで相依に何の疑問も感じない?
347 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/07(日) 20:00:27 ID:V9oB3H4U
2章18
去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるというのは正しくない。また、去る主体が去るはたらきからも異なっているというのも正しくない。
って事だから、
生じるはたらきなるものが、すなわち生じる主体であるというのは正しくない。また、生じる主体が生じるはたらきからも異なっているというのも正しくない。
訳だな。
(^。^)え?意味不明?(笑)
348 :
神も仏も名無しさん:2009/06/07(日) 20:33:01 ID:c/mU/yyr
たとえ(他に)依存して成立しているとしても、(それは)存在するものか、存在しないものか、(その二性質を合わせもつ)両性者かであろう。
そのうちまず存在するものは、すでに存在しているのだから、(他のものを)必要とするものではない。というのは、存在している壺は他のものである粘土等を必要としない。
また存在しないものも、まさに存在しないのだから、(他のものを)必要としない。(もしそうでなければ、実在しない)兎角なども(他のものを)必要とするという誤りに陥るであろうからである。
そして、両性者も(上述の)二つの欠点を具えているわけであるから、(他のものを)必要としない。『広破論』三節自註
という訳だな。(^。^)え?意味不明?(笑)
しょうがないなぁ。自性も他性も不可能だから、一即多なんてないよ(笑)。
一義でもなく、多義でもない、というのは、一義かつ多義、という意味ではないよ。
中村さんを鵜呑みにしてるとどうしても誤解するよね(^。^)。
349 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/07(日) 20:58:28 ID:V9oB3H4U
>348
(^。^;)すまん、ホントに意味不明だわ。(笑)
確か、陶器は粘土中のガラス質を融解、冷却して任意の形状に加工する技術だが、
必ずしもン千万相当の壷の加工技術や炉や粘土が無くとも、
例えば泥岩が削られて偶々出来たものでもそんな壷のイメージと同じならソイツにはその壷な訳だが、
割れれば同じゴミだぁな。(笑)
(^。^)て、返してみた♪(笑)
350 :
神も仏も名無しさん:2009/06/08(月) 15:42:18 ID:sQXOWMIj
>(^。^;)すまん、ホントに意味不明だわ。(笑)
仕方ないな。では、一から確認するしていくしかないな。
7.4-7を読みどう考え、2.18を何故引用したのか、
先ずここを具体的に書いてね。
>例えば泥岩が削られて偶々出来たものでもそんな壷のイメージと同じならソイツにはその壷な訳だが、
割れれば同じゴミだぁな。(笑)
偶々? それでは他生で外道そのものだよ。
まさか『広破論』が何かも分かってない、なんてことはないよな(^。^;)
351 :
暁:2009/06/08(月) 18:15:01 ID:l76zqGJ4
>>348は承狂氏と同じじゃないのな
顔文字が同じだけどよく見たらID違ったw
352 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/08(月) 19:16:28 ID:eRUULuaM
(^。^;)ハゲか学者か知らんけど、鼻息荒いなぁ。(笑)
>350
7章はウイのコーサツであり、
同章の14段で生じるものは生じない事は去るものは去らない事について云々てな事が書いてあったからな。
コウハ論は読んで無い♪(笑)
中論群はまだまだ勉強中なのさ。
泥岩云々はなんであれ、縁起を説くならば論に拘る事は無かろうってのと、
泥丸に掛けてたんだが、まぁ気にするな♪(笑)
353 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/08(月) 19:17:07 ID:eRUULuaM
>351
(^。^;)負けそうです。(笑)
354 :
暁:2009/06/08(月) 20:15:20 ID:l76zqGJ4
広破論てチベット訳だけ存在するんだっけ?
同じく呼んでません(笑)
355 :
暁:2009/06/08(月) 20:18:00 ID:l76zqGJ4
広破論てチベット訳だけ存在するんだっけ?
同じく読んでない(笑)
356 :
暁:2009/06/08(月) 20:19:33 ID:l76zqGJ4
ちょw
誤爆サーセンw
357 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/08(月) 20:27:21 ID:eRUULuaM
(^。^)ニヤニヤ
358 :
神も仏も名無しさん:2009/06/08(月) 21:03:35 ID:sQXOWMIj
>(^。^;)ハゲか学者か知らんけど、鼻息荒いなぁ。(笑)
で、お前さんは禿げでヒマなの? ここにどっぷりで中毒みたいだけど(笑)。
>7章はウイのコーサツであり、同章の14段で生じるものは生じない事は去るものは去らない事について云々てな事が書いてあったからな。
つまり、7.4-7の趣旨がまるで分かってないわけだな(^。^;)。
単に、7.14絡みで引用してみただけ、と。
すまん、深読みし過ぎた。お前さんのレヴェルを誤解してたわ(笑) 。
>コウハ論は読んで無い♪(笑) 中論群はまだまだ勉強中なのさ。泥岩云々はなんであれ、
だったら、中村さんにのっかって相依、相依と連呼してないで、『龍樹論集』嫁って。
>縁起を説くならば論に拘る事は無かろうってのと、泥丸に掛けてたんだが、まぁ気にするな♪(笑)
おいおい(^。^;)。
お前さんの言う通りなら、『広破論』も『廻諍論』も、そして『中論』もいらねえよな。
なんで、龍樹はこれだけ拘ってるんだろうな。アールヤデーヴァなんて殺されたけど。
359 :
神も仏も名無しさん:2009/06/08(月) 21:06:31 ID:sQXOWMIj
>>351 宝珠氏のところで、9章絡みで発言したものですよ。結局、カラス氏は、貴方の方に絡んだみたいだけど。
>広破論てチベット訳だけ存在するんだっけ?
そうですよ。『龍樹論集』に梶山訳が所載ですよ。
360 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/08(月) 21:14:09 ID:eRUULuaM
>583
(^。^)うむ♪
残念ながら、三世門破としか理解出来ない。(笑)
龍樹論集は、暇が出来たらのんびり読むつもり。
一般社会で肉体労働してると、思索に耽る余裕なんてナカナカ無いんだよ。
361 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/08(月) 21:21:46 ID:eRUULuaM
(^。^;)アンカーミス。
>360のは>358です。
m(__)m
362 :
暁:2009/06/08(月) 22:30:16 ID:l76zqGJ4
>>359 あら、あれは貴方だったんですか。
機会があれば広破論読んでみます。
アートマンスレは大乗少ないからね。良ければコテ付けて発言してくださいなw
363 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/14(日) 18:12:25 ID:ETh9msIg
保守♪
ヽ(^。^)ノ三世もんぱ〜☆
364 :
コーヒー:2009/06/16(火) 12:51:30 ID:5LXTlqol
こんにちは
お邪魔します
中観理論は言葉で語り得ない妙境を(又は空を)論理的知性でギリギリにアプローチしたもの(≠空)
でよろしいですか?
365 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/16(火) 20:52:52 ID:cU13KvaY
>364
空については諸説ありますが、
私は、空とは一切が縁起する仮設であり、相依性であると聞いています。
(^。^)因みに、中観は派で、中論は龍樹の記した論又は同系統の論の総称です。
366 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/18(木) 20:29:20 ID:WGF8WWs9
(^。^)暇だ♪
誰か遊んでくれ♪
てか、>358はもう来ないのか?
三世門破以外の何なのか、微妙に気になるんだが。(笑)
367 :
神も仏も名無しさん:2009/06/18(木) 20:41:24 ID:euP8gHB/
>相依性であると聞いています
7.4-7も『龍樹論集』読まずに、↑と言ってしまうお前さんの相手をしろというのかね?
自己評価がどうなっているのか分からないが、宝珠スレの教証も理証も無視して好き放題やる有我論者どもと変わりがない。
368 :
神も仏も名無しさん:2009/06/18(木) 20:46:32 ID:CtRMSR1U
唯識の考え方がニューエイジと親和性が高いのってどう思いますか?
あと、唯識って弥勒信仰ともちょっとつながりありますよね
369 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/18(木) 20:47:42 ID:WGF8WWs9
>367
(^。^)しろ、とは言って無いと思うが。(笑)
まぁ、反論が無いなら三世門破と思う事にするよ。(笑)
ダライ・ラマの「仏教入門」を読んでいるのですが、ちょっと理解できない部分があります。
中観派の分かりやすい入門書はあるでしょうか?
372 :
神も仏も名無しさん:2009/06/19(金) 21:17:17 ID:qVkUOYXi
>>369 >まぁ、反論が無いなら三世門破と思う事にするよ。(笑)
…反論って(^。^;) 何への?(笑) 過去ログ見れば明かだけどもう終ってるよ。
やっぱり意味が分からない?(笑) しょうがないなぁ…(笑)
先ず、
>>346では、7.4-7を引用して「これを読んで相依に何の疑問も感じない?」と質問しているわけね。
次に、
>>352に拠ると、お前さんは引用内容がまるで理解出来んから、7.14経由で「三世門破」と連呼しているわけね。
つまりさ、お前さんはね、全く文脈を理解してないのよ。そもそも「三世門破」か否かが問題なのではないのよ(笑)
例えば、「この花は何色?」と質問されたのに「この花は赤です」と答えるようなもの。これの何処が“反論”なのかな?(笑)
やっぱ、お前さんは有我論者どもの同類だわ。この点、反論が無いようだから同類と思うことするよ(笑)
で、「暇」なのだろう。『龍樹論集』読もうね(笑)
373 :
神も仏も名無しさん:2009/06/19(金) 21:34:37 ID:qVkUOYXi
>>372 誤字を訂正
×例えば、「この花は何色?」と質問
〇例えば、「この花の名前は?」と質問
374 :
神も仏も名無しさん:2009/06/21(日) 07:47:59 ID:5nYIhZhe
>>370 それは素晴らしい本です。
>>371 梶山雄一『空の論理』角川文庫
石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』『龍樹と語れ!』
特に石飛先生の本が分かりやすいと思います。中観は通常の実体的、実在的論理では理解できないことが明解にわかるでしょう。
>>372 その方はスルーするのがよいと思われます。中論が輪廻否定だと思ってる方ですから。
375 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/06/21(日) 20:32:46 ID:hgVbmJDg
(^。^)わははは♪(笑)
俺は好き勝手に解釈しているのだぁ♪(笑)
376 :
暁:2009/06/23(火) 23:02:54 ID:TWJXb61d
377 :
神も仏も名無しさん:2009/06/25(木) 00:00:05 ID:ADEj9rr/
伝記を読むとインドの数学者ラマヌジャンの業績が神業であるのはわかる。
同じインドの天才ナガールジュナに興味がわき中村元の「龍樹」に挑戦した。
IIのナガールジュナの思想のところで理解不能となった。
石飛道子の「龍樹と語れ!」でも雰囲気はわかったが結局は理解不能。
当時仏教集団本流だった上座部に新興宗教である大乗仏教が理論的に挑戦した歴史の一幕という程度の理解。
実際の衆生の心の平安は 創出された諸仏の超能力への信仰>>龍樹の思想の理解
だったのではないかと思う。
自然科学では先駆者の間違いはその都度訂正され真理に近づくのですが
仏教哲学では先駆者の間違いはないという前提で、拡大解釈・補足が主体なので、
仏教哲学は歴史を経るごとに難解になったような気がします。
378 :
神も仏も名無しさん:2009/06/25(木) 13:01:47 ID:T63fyKzh
>>377 一回で理解できないからって諦めず何回も読んだほうがいいよ
381 :
神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 09:42:34 ID:ij0Yx+ti
382 :
神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 09:46:41 ID:ij0Yx+ti
>>378 え! >337 に対して佐倉さんを読めと言ってるわけ?
そりゃないよ。中観は、輪廻を否定してません。
実在論的に何かが自性・本質を持って思考されること、 妄想されることを
否定して、
妄想・戯論の寂滅を目指すものです。
佐倉さんは、がんばってるけどまだまだな理解。
383 :
神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 10:27:44 ID:xwPeV4KG
384 :
神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 10:28:23 ID:xwPeV4KG
佐倉哲さんは、純粋に学問レベル(ロジック)での理解には役立つよね。
385 :
神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 11:02:16 ID:ij0Yx+ti
>>383 そういうことですか。了解。
>>384 入門、手がかりとしてはいいのではないかという記憶があります。
ただ中村元先生同様、中観に理解はないと思う。
私は梶山雄一先生の諸訳と、石飛道子先生の諸論がよいと思います。
386 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/06/30(火) 12:30:27 ID:52LZuxqA
(^。^)質問するが、中論に、輪廻転生を肯定するなんて話が出てるのか?(笑)
見逃したから、何章のどこか教えて♪(笑)
>>386 どこに書いてあるの?とかいってる時点で教えても無駄感が漂ってる…
(自性が)無我であるから輪廻(世間)がある。みたいな。
389 :
神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 12:50:56 ID:ij0Yx+ti
>>386 君は『中論』を全く逆に誤解しているからね。
確か前にも輪廻スレで教えてあげたと思うんだけど、単純に第26章。
他にもよく読めば分かるとこがあるよ。
>>389 >386は
>輪廻転生を肯定する
と聞いている。輪廻の状態が良いものである。のかどうか聞いてるの。
輪廻があるか、ないか。ではなくて仮にあるなら、それを肯定するかどうか聞いてるの。
だったらそれは良くないでしょ。暗に涅槃と比べているのだから。
実践の面では承狂さんや旧7さんに自分は敵わないし、文献学や語学では
>>389に敵わない。
仲良くすればお互いに利があると半端なワタシは思いますけど。仲裁もうしないのでよろしく。
392 :
神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 13:59:04 ID:ij0Yx+ti
>>390 なるほど、そういう問いならば仏教には輪廻を素晴らしいもの、よいものとする見解は一切ないということができるでしょう。
輪廻涅槃不二といった高度な見解は、とりあえず置いて。
しかしながら、彼は常に『中論』は輪廻、生まれ変わりがあることを否定するという発言をしているので、
その読みはありえません。
旧7さんとは仲良くやってるつもりですよ。
彼は、誤った見解で断定的に語るので、そういうことは止めた方がいいと思うだけで、特に争う気はありません。
393 :
神も仏も名無しさん:2009/07/01(水) 05:25:24 ID:Rznqcm6l
どなたか、宝珠氏のアートマンスレで、竜樹の「空」について講義してください。
仏教徒なのに、誰も、竜樹の「空」を正確に理解できている人がいないようです。
394 :
神も仏も名無しさん:2009/07/01(水) 07:19:38 ID:1m4Pxzmi
>>393 君が理解できないだけ。いいかげん、誤解だということに気付。
395 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/01(水) 13:14:26 ID:a8y1KjJd
>389
26章については、三世両重とは限らないだろって前に書いたがな。(笑)
まぁ、認識と対象の考察の二
「二つは自立的に存在はしない」
ってのは無視して、相依性を否定できちゃう人だからなぁ。(笑)
>391
(^。^;)買いかぶり過ぎです。
口戒も満足に守れない、単なる在家オヤジです。
(^。^)てか、単に輪廻転生の肯定者をからかいたいだけだから、気にするな。(笑)
>393
(^。^;)そんな人は、2ちゃんなんてしないで、リアルで活動してると思うが。
396 :
神も仏も名無しさん:2009/07/01(水) 15:25:53 ID:iPxPqORt
>26章については、三世両重とは限らないだろって前に書いたがな。(笑)
やれやれ(^。^;) 『龍樹論集』嫁って(^。^)
>まぁ、認識と対象の考察の二 「二つは自立的に存在はしない」
ってのは無視して、相依性を否定できちゃう人だからなぁ。(笑)
一-二節は相依を利用して論敵を批判し、三節はその相依すらも批判しているわけ。
“だからこそ”引用したのよ。本当に度し難いな(笑)
ちなみに、
>>389様は私ではない。
397 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/01(水) 20:27:44 ID:a8y1KjJd
>396
同じ名無しだ。似た様なもんだろ。(笑)
んで、ヴァイダルヤは、二で方法と対象が相互にって話で三は対象の話だろうに。
(^。^)ドチラかが日本語を勉強し直す必要があるな。(笑)
まぁ、君らは輪廻転生するって話らしいから、頑張ってソッチを極めてくれよ♪(笑)
398 :
暁:2009/07/02(木) 10:29:05 ID:DMKJrbZ6
輪廻という言葉が読み手を混乱させるのかね
遺伝子の伝達などの様相をそのように解釈してる
俺はね
人が迷ってる状態が生死輪廻とし、それを超越する
のがニルバーナと…
転生はようわからん。転生が付くとカルト臭いが(笑)
399 :
神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 15:04:57 ID:Vs0tavOC
>>398 仏教やナーガールジュナが輪廻転生を認めているか否かと、それを読む自分が認めるか否かは違うのです。
ここで飛躍して、自分が認めたくないからナーガールジュナも同様だ、こういう姿勢では話にならないのです。
400 :
神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 16:04:30 ID:Vs0tavOC
>>399補足
「話にならない」とは、
>>398氏ではなく、
「日本語を勉強し直す必要がある」類を指してます。
>>399 通常、転生を認めない人には毒を飲んだり、盗みで捕まる比喩が使われる。
転生の有無を知らない人でも毒としりつつ毒を飲んで死を早めたり
盗みで捕まると知りつつ盗んだりする人はいない。
転生が無くとも、そのように悪を離れ、善に近寄れば合理的で損がないと説くわけ。
そんなことは皆分っていて、でも困ってるから悪事も成すし自棄になって酒も飲むの。
じゃなんで困るの?自棄になるの?で怒りや強欲や道の話にいくよね。それで充分なの。
転生を否定しても善業をなせば三善趣。イスラム教徒でも唯物論者でも
転生があると知っても悪事をなせば来世は三悪趣。坊さんでも行者でも
(説得する側として転生肯定派にとって大事なのは)
転生や縁起を否定する人が善事を為す後押しすることなのよ。そうすればその人に次の大小のチャンスがあるから。
ある人が善事を勧めるならその人に反対する理由はないの。転生を認める立場にかぎってはね。下士の道だっけ?
『転生というのは一種の方便』という言葉は、こうゆう文脈から出てくるの。判ってると思うけど中途半端に
ある人に転生を納得させてその上でその人が悪をなしたら、転生を知らない人より大きな悪因を積ませることになるよ。
402 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/02(木) 21:42:07 ID:yMRTt3OD
>401
(^。^)はうえば〜♪
このご時世に輪廻を肯定し、あまつさえプトガラを龍樹が肯定したなどという者達を中論を奉じる者として擁護出来るか否かという問題は据え置く事は出来まいて♪
(^。^)てか、弄り甲斐があるわな♪(笑)
403 :
神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 22:59:59 ID:tzLgvcpA
>>402 >このご時世に輪廻を肯定し、あまつさえプトガラを龍樹が肯定したなどという者達を中論を奉じる者として擁護出来るか否かという問題は据え置く事は出来まいて♪
問題は「このご時世に輪廻を肯定」することを非常識、非科学的などと考える幼稚な先入観ですね。
先入観、あるいは無意識の形而上学的前提による偏見なのにそれに気がつかない。
もし、科学が輪廻について対象外として沈黙するなら真っ当な態度です。
それは形而上学的選択ともいえるし、語り得ぬものに沈黙する科学的態度だからです。
しかし、科学の立場で「輪廻がない」というなら、それこそ科学的態度ではないでしょう。
なぜなら、体系的に説明する理論を持たないのに、根拠なく断定するからです。
ですから、ただの非科学的信仰表明以外のなにものでもありません。
だれかプトガラが輪廻すると言った人がいたでしょうか?
そんなことは言ってないはずです、相手が言ってないことを読み込むのは止めましょう。
プトガラのような実体的な輪廻主体を立てることは、龍樹菩薩が最も強調して否定した部分です。
そのように読み込むことが、なによりあなたが『中論』についても縁起・空についても理解がないことを示しています。
そして、輪廻を認めないなら、縁起が成立しないことも論理的に簡単に気づくはずですが、それも分からないようですね。
もし、前世がないとすれば、意識が縁起することなく、無原因から創発するから、物質から創発することになってしまいます。
これは明確に『中論』で否定される実体的な因果関係です。
量子論以外の実在論的前提を持つ宇宙論や、脳科学がこのような仮説を立てていますが、それは仏教が否定することです。
いいでしょう。きっちり、『中論』が輪廻を説くことを論証しましょう。
ちょっと時間がかかりますが気長にお待ち下さい。
404 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/02(木) 23:13:55 ID:yMRTt3OD
>403
(^。^;)どうも、言葉の定義が違うらしいな。
俺は、輪廻=輪廻転生の意味で使ってるんだがな。
輪廻する個人主体(=プトガラ)の無い輪廻って何を意味するんだ?
以前にも、妙な理屈をこねてた名無しが居たが、
「」付きでもなく、普通の文脈で輪廻って使ったら、普通は輪廻転生の意味だろ?(笑)
輪廻転生の好きな幸福の科学とかの、カルト信者も居る宗教板だと特にな。
(^。^;)転生の無い輪廻って言われてもなぁ。
ハゲの言い訳にしか聞こえんがなぁ。(笑)
405 :
神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 23:47:29 ID:tzLgvcpA
>>404 もちろん、輪廻は生まれ変わり死に変わりの転生を意味します。
>輪廻する個人主体(=プトガラ)の無い輪廻って何を意味するんだ?
プトガラを立てるのはトクシ部のみでしょう。
そういった実体的思考をしてるってことは、縁起も中論も何も分かってないという証拠。
406 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/02(木) 23:53:02 ID:yMRTt3OD
(^。^;)判って無いとか教えてやったとか好きな教団だな。(笑)
やっぱしアホの幸福の科学信者か?(笑)
良いから論述しろよな。(笑)
407 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/03(金) 00:00:14 ID:yMRTt3OD
(^。^)あ、あと出来たらレスの最初に
「幸福の科学はカルト宗教♪」
って書いてね♪(笑)
カルト信者相手じゃ無かったら、ちゃんと手加減しますから♪(笑)
408 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 00:10:24 ID:+MJRzi1y
いや、あなたに手加減などいりませんよ。全力でがんばってください。(^^)
そうそう和辻以来、無我だから輪廻しないという珍説がありますが、
全く逆、無我だから輪廻する。空であり縁起するから輪廻する。
根拠は中論全体ですが、特に24.14
空ならば全てがなり、空ならざれば全てならぬ。
これが基本です。これが分かれば中論が言っていることはほとんど分かる。
もちろん、空だから輪廻する。
今回の論は、あなたのためではなく、
今後、あなたの断見によって初心者が惑わされないためです。
ということで論証に反論できなかったら、もう初心者に教えることは止めてくださいね。
409 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/03(金) 00:39:54 ID:JTou1syU
>408
(^。^;)いや、実は大川りゅうほーの妄執程度に騙される程度の人相手で全力なんだよ。(笑)
ハゲをあんまりからかうと霊的にもヤバイしな。(笑)
所で、君たちはいつも
某章の何節に曰くなんちゃら。
これが解ればうんちゃら。
としか書けないみたいだが、メタボの大川ちゃんがそんな風なのか?(笑)
プトガラの無い輪廻転生って法を中論以外でもいいから出してみ?(笑)
無自性を、相依性を、そして「縁起」を、
ひっくり返せるならひっくり返してみな?(笑)
(^。^)ついでにちょっと真似してみる♪
27章三節に曰く♪
「過去世において、我は有った」というこのことは成立しない。何となれば前の生涯で有ったものは、そのまま〔われ〕では無いからである。
この章が判るなら、輪廻転生するとは言えない筈だがな♪(笑)
410 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/03(金) 01:17:47 ID:JTou1syU
あ、そうそう♪
勿論、中論がしっかり判ってらっしゃる皆様には常識レベルの話ですが♪
仏法を誹謗中傷し、或いは仏法と偽り妄執を説く事は、非常に重い悪業とされています♪
(^。^)来世は大変だね♪(笑)
アババくらいで済めばメッケモンだ♪(笑)
>仏法を誹謗中傷し、或いは仏法と偽り妄執を説く事は、非常に重い悪業とされています♪
断滅論に陥ったあなたのことですね。
あとやたら(笑)や♪を使うのは馬鹿みたいだから
やめたほうがいいですよ。
>>408さん期待しています。
>>402 とても荒い話で言えば、今は輪廻なの。
自分はもちろん、承狂さんにも煩悩があるわけで生きているこの世界は輪廻として顕現しているわけ。
その意味では輪廻があると肯定するしかない。
龍樹菩薩はプトガラを説くものを「ああ、この人達はプトガラがあると思ってるのね?ふーん、そうなんだ。」
その位は思われたかもしれない。www
輪廻が顕れているなら、それを受け取るものは誰なの?
↑こうゆう風な問いの立て方をすると無限後退に落ちやすい。これを断つのが唯識なの。
唯識は置いといて、出発点に戻って
輪廻の顕れと自性(無自性)の関係はどうなっているの?
↑これが中観。この問いの立て方なら部派、大乗両方に通じる空相を抑えられる。
>>388をふくらますとこうなります。みたいな。
413 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 08:03:11 ID:+MJRzi1y
414 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 08:10:29 ID:nJvvbzhJ
415 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 09:32:35 ID:pQNMvUJF
>>412 >輪廻が顕れているなら、それを受け取るものは誰なの?
それは、私の心です。心があるから輪廻があるのです。
なにも難しい問題ではないね。
416 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 11:47:19 ID:WC6G4XRw
瓜生津隆真という人の「龍樹 空の論理と菩薩の道」を読んでますが、
中論を解説しているところがまったくわかりません。
「歩く」ことの不成立(観去来品第二)とかの証明がまったく理解できません。
どなたかわかりやすく説明してもらえませんか
その本は持ってないんだけど、中論は基本的に一回読んで
わかると思わない方がいいのでは。
自分の場合、絶対理解してやる、理解するまで何度でも読む
って決めてから読んだ。
そしたらすんなり理解できた(理屈の部分は)。
でもそれでわかった気になってしまうから、それがまた危ない。
418 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 12:29:41 ID:XJ8rLZAh
「非我=無我」という強烈な洗脳をかけた人は誰ですか?
そこで手を上げているのは龍樹さんですか。
419 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 12:52:13 ID:pQNMvUJF
>>418 龍樹はアートマンについて、こういっている。
・もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、
「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマン
なるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
(中論 18−6)
実に明解ではないか。
420 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 13:20:46 ID:0GGK8o4L
>>419 >実に明解ではないか。
そうですね、衆生済度ではなく、衆生混乱の為の教えだという
ことが表明されましたね。
421 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 13:25:44 ID:0GGK8o4L
>・もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、
> 「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマン
> なるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
衆生混乱の教えであることを証明する方法を示しましょう。
貴兄の言葉を女子高生100人に説明してから、理解できたか
確認してみて下さい。
「おじさん、頭大丈夫?」か「きもー」が寒露の雨の如しでしょう。
422 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 15:38:19 ID:5zCueNja
>仏法と偽り妄執を説く事は、非常に重い悪業とされています♪
「非我=無我」という強烈な洗脳をかけた人は如何ですか?
423 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 16:33:41 ID:0ZDAyE5c
>>422>>418 やっぱりなw
ID確認したら一在家か・・・。お前らしいレスだよ・・・w
宝珠と言い、お前と言い、どーしよーもねーな・・・ orz
424 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 16:41:22 ID:6qUCjCwt
>>421 「関係性故の無自性」として説明すれば、中学生でも理解できる。
425 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 16:44:28 ID:6qUCjCwt
>>421 頭の良い子なら、「関係性ゆえの無自性」として説明すれば、小学生
でも理解できる。
426 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 18:07:11 ID:pQNMvUJF
>>421 >貴兄の言葉を女子高生100人に説明してから、理解できたか
女子高生なら集合論のいい例題になるだろ。
ベン図書いて説明すりゃ一目瞭然だね。
427 :
一出張者:2009/07/03(金) 20:22:40 ID:0GGK8o4L
>・もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、
> 「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマン
> なるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
衆生混乱の教えであることを証明する方法を示しましょう。
貴兄の言葉を女子高生100人に説明してから、理解できたか
確認してみて下さい。
「おじさん、頭大丈夫?」か「きもー」が寒露の雨の如しでしょう。
>頭の良い子なら、「関係性ゆえの無自性」として説明すれば、小学生
>でも理解できる。
>女子高生なら集合論のいい例題になるだろ。
>ベン図書いて説明すりゃ一目瞭然だね。
私は女子高生の評価の高さにびっくりしました。
頭の良い小学生でも分るそうですが、中論メンバー以外で同意しますか?
428 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 20:27:17 ID:+MJRzi1y
>>427 あまり内容のない感情的な話は、続けてもしょうがないと思いますが。
429 :
一出張者:2009/07/03(金) 20:46:47 ID:5zCueNja
>>428 「空」の認識のし易さの見解の違いが分りましたので、出張から帰ります。
430 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 21:01:51 ID:cZBi3sj0
>>429 素朴な古代人が、物事をそんなに難しく、複雑にに考えるわけがない。現象界
の原理を、直感的に把握していると思う。
直感で悟るものだったのを、龍樹が論証したってだけの話でしょう
直感的にわかる人はそもそも中論なんて読む必要無いんじゃないですかね
432 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 21:36:23 ID:WC6G4XRw
中論は簡単にはわからないものですか。
論理がほんとに通ってるのか、疑問に思うぐらいです。
論理が通ってないなら、とっくに専門家に否定されてるだろうから、
そんなことはないんでしょうけどね。
たとえば、
「歩く」が成立するには、主体(歩く人)と作用(歩く)が必要で、
そうすると、2つの歩くができるからおかしい。
という話がありましたが、
2つの歩くができてもいいのではないか、
あるいは、主体を(歩く人)ではなく(人)とすればいいのではないか。
何かとんでもなく勘違いしてますか。
433 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 22:09:46 ID:+MJRzi1y
435 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/03(金) 22:15:21 ID:JTou1syU
>432
(^。^;)つーか、完璧に中論を体得出来てたら大力の菩薩だろ?(笑)
このスレに
そんな奴ぁいねぇ!
わな♪(笑)
みんな勘違いしてると思って間違い無いぜ。(笑)
他のは後日にレスします。
(^。^)ノシこの時期は忙しいんだよ。
わたしも石飛さんの本、読んでるところです。
佐倉さんの説明は、常識の範囲で理解できるロジックから入って
いるので、その次に石飛さんの本を読んだら、敷居の高さが
あまり気になりませんでした。
いきなり石飛さんって、けっこうきつくありません?
437 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 22:31:29 ID:+MJRzi1y
>>436 石飛先生の著作は、前提となる知識がほとんどなくても読めるように書いてあるので難しくないと思います。
抵抗がある人は、実体的、実在的思考法に確信している人だと思います。
私は逆に佐倉さんのような知識を持ってからだと抵抗があるような気がします。
それは例えば、アビダルマ、倶舎を長年やって馴染んだ人は中観が理解しずらく、
ただの詭弁のように見えることと同じだと思います。
もし、石飛先生の二著が難解であれば、『ブッダの優しい論理学』から読むという手もいいかもしれません。
この本は本当に読みやすくて簡明です。
確かに、佐倉さんの説明は把握しやすい反面、断見、断滅論に陥りやすいですね。
439 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 22:43:57 ID:+MJRzi1y
>>438 ずいぶん昔にざっと読んだ印象ですが、そう思います。
440 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 22:52:56 ID:FBZPpy3q
>>438 >確かに、佐倉さんの説明は把握しやすい反面、断見、断滅論に陥りや
>すいですね。
あなた自身の、佐倉さんとは逆の意味での断見、断絶論が、そう思わせて
いるのだと思う。
論理的には、佐倉さんを超えることはできないのではないか。
441 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 22:55:51 ID:WC6G4XRw
みなさん、いろいろ資料教えてくださりありがとうございます。
手に入れて読んでみます。
中論と唯識はほんとうに難しい。
444 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 23:26:22 ID:+MJRzi1y
445 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 23:39:14 ID:FBZPpy3q
>>444 石飛さんの紹介だけ読んだが、彼女には確かに、女性らしい、感情的・非論理的
な面はあるようだな。竜樹を知ったからといって、べつに「椅子から転げ落ち
そうになる」必要はなかろうw。
>>444 すばやい対応も石飛先生の魅力ですね。
批判に対する反論、自分ものちほど楽しく読ませていただこうと思います。
情報提供ありがとうございます。
447 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 23:56:38 ID:FBZPpy3q
>>446 初めから「特定の思い込み」「自分が必死で守るべきもの」があったら、石飛
先生も、到底理解できないよw。
とはいえ特定の思い込みを0にすることはなかなかに難しいww
はっきり言うがナーガルジュナもヴァスバンディも
悟りには邪魔なだけ。
ほんとに悟りたい人は軽く流して
瞑想に励んだ方がよい。
450 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 00:38:48 ID:gQTWIliA
>>446 よく読んでください。素早い反応ではないんです。
三浦さんの書評は2006年、そのあいだほとんど沈黙されて、
論拠を出版して、根拠を整えてから反論してるんです。
この冷静さ、恐るべし! 三浦さんの書評はかなり感情的です。
石飛先生の冷静な反論はすごい。
とはいえ、私にも石飛先生は、学者に対する反応・言い方はちょっと冷たいものを感じます。
そこは確かに僅かに残ったエゴかもしれないですが、総じて彼女の文にエゴを感じることは少ないですね。
>>447 そうですね。あなたのように思い込みだけで書いてては何も分からないでしょう。
>>449 瞑想とはなんでしょう? 悟りたい人は、なにより悟った師に就かねばなりません。
道は、師を探すことから始まります。
そんなことやってたら
いつ修行を始められるのですか?
人生は短いという事を
お忘れなく。
あと貴方はエゴと言う言葉を
厳密に使わなくてはいけませんよ。
452 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 00:54:54 ID:gQTWIliA
>>451 一応、25年前に始めてます。無常は毎日、修習してます。
たしかに、明日、一瞬後、死ぬかもしれません。
厳密に、どういう意味なんでしょう?
私は怒り、愛着、蒙昧などに基づくこと、あるいは自分と自分のものを護り、
自分のものにするという動機に基づくことをエゴと適当に使ってます。
言葉は、適当なものである程度の妥当性しか持ちえないものですから。
定義ができると考えるのは、間違いです。これが縁起の考え方です。
厳密に本質を規定できるとするのは、実在論や本質主義に基づく倒錯です。
453 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 01:06:33 ID:gQTWIliA
>>451 ああ、失礼。そんなこととは師探しですか。
師を得ずに仏教を修行しても、それは修行にならないでしょう。
それは確信をもっていえることです。
なぜなら、人は自分の間違いに気がつかないものだからです。
例えば、行の果がでなくても、なにか間違ってるとは考えず、その状態を肯定する理論を考え出して勝手に納得したりします。
また、行の果がちょっと出ると、その境地を悟りと勘違いすることが多いです。
どちらも道を歩んでないことは分かるでしょう。
おはよう
>真言氏に提案
昔のようには埒外の基地外はいないし、殺す勢いで人格否定に走る人もいない。
そろそろハンドルをつけてもいい時期のような。
一時、転生を認める伝統派は基地外のように叩かれていたが今はそれもない。
自分も名無しの頃は2度3度と、電波男氏に55氏認定されたことがある。
書き込み際して必ずキャップをつけるようになった切っ掛けは
自分の場合は現実での人との出会いとネット上ではサロメおたぁ氏、承狂氏の存在が大きかった。
承狂氏が2Chやめたら自分もやめるかも。現在は基督教のパルルン牧師の存在もアンカーになっている。
時期について、もう少し書くとテラワダの伸張が2重にプラスに働いていると思います。
1)浮かれ者の祭り好きが、経験の少ない騙しやすい初心者を求めてテラワダに群がっていること。
それに随って口のうるさい親切な皆さんもそちらに移動していること
2)テラワダは仏教の根本乗なので当然、大乗に通底している部分があり、ビパサナの実習を通じて
地に足の着いた唯識、中観への潜在需要が高まりつつあること。
般若心経は間違い? アルボムッレ・スマナサーラ著作
この本は賛否両論あると思いますが少し距離をおいてみれば2)、
>>430>>431の傍証にも受け取れます。
くわえて
中観は我性の非常に細かいところまで否定しつくすのでカルトの人には極端に受けが悪いこと。
この事も落ち着いて議論をすすめるのにプラスに働くと思います。
実はもう一つ懸念がありまして
仏教の実習がない哲学オンリーの人の難癖をどうするか?という問題があります。
この近辺の話題は私も今勉強中の事なので明言しずらいのですが、
菩提心と中観、出離と中観は非常に密接に組み合っています。
>>390の一見突然な強弁の由来ですW
実践として中観を話す時に、
>>430のように、あるいは大学でのスマ氏のように、
あるいは伝統各派の実習者が感覚的に把握し論理化はしていなくとも手足はそれに違わず活きている状態と、
本のみで中観に精通したとする人と対したとき、浮上してくる問題群をどうするか?
もともと中観は部派、唯識を押さえなければ、その必要性すら実感できないものなので、
伝統的に言えば、問題視すること自体無い物ねだりで、この懸念も不善業に分類されるかもしれませんw
石飛先生の活動はこの視点から見ても興味深い。
ご本人は大変でしょうけどなにしろ菩薩様なんでしょうし頑張って欲しいです。本は買います。
457 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 10:22:47 ID:gQTWIliA
>>454 もうその名前は忘れてください。コテつけないのは、不便でしょうが、
内容で読んで貰いたいことと、名に執着したくないからです。
>書き込み際して必ずキャップをつけるようになった切っ掛けは
>自分の場合は現実での人との出会いとネット上ではサロメおたぁ氏、承狂氏の存在が大きかった。
>承狂氏が2Chやめたら自分もやめるかも。現在は基督教のパルルン牧師の存在もアンカーになっている。
この部分を詳しく教えてください。納得できれば、あるいは私も付けるかもしれません。
458 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 10:38:44 ID:gQTWIliA
>>455 >時期について、もう少し書くとテラワダの伸張が2重にプラスに働いていると思います。
日本の仏教は転換期に来ていると思います。
いままでの趣味や生涯学習の慰めみたいなポジションではなく、
悟りや心の安定を目指す本当に効果的なものに向かいつつあるのではないでしょうか?
西洋からの逆輸入という形が大きいでしょう。
>1)浮かれ者の祭り好きが、経験の少ない騙しやすい初心者を求めてテラワダに群がっていること。
> それに随って口のうるさい親切な皆さんもそちらに移動していること
テーラワーダ自体は素晴らしい伝統だと思います。特にビルマ系。
ですが、日本テーラワーダ協会の方針には疑問があります。
自分たちが正しく、他は間違っているという姿勢で攻撃することです。
こういった方向では、いずれ事件が起きることが予想されます。
正しい仏教は、宥和的で平和に解決してきたように思います。
>2)テラワダは仏教の根本乗なので当然、大乗に通底している部分があり、ビパサナの実習を通じて
> 地に足の着いた唯識、中観への潜在需要が高まりつつあること。
これは仰る通りです。
> 般若心経は間違い? アルボムッレ・スマナサーラ著作
>この本は賛否両論あると思いますが少し距離をおいてみれば2)、
読むまでもなく、誤解です。色即是空を空性を包括概念、色をその下部概念と捉える。
部派的な思考で、実体的縁起観で、低い見解だと思います。
>中観は我性の非常に細かいところまで否定しつくすのでカルトの人には極端に受けが悪いこと。
>この事も落ち着いて議論をすすめるのにプラスに働くと思います。
そういう面はありますね。プラーナとか光明、神通はあまりでてきませんから。
459 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 11:03:00 ID:gQTWIliA
>>456 >仏教の実習がない哲学オンリーの人の難癖をどうするか?という問題があります。
不肖ながらズットそのスタンスでやってきたつもりです。
そして石飛先生のスタンスが正にそれです。
常識や実在論的前提をまじえずに虚心にテキストを読んでみようという方法です。
まあ、私の場合は、信仰が入っているのは否定できませんが、
できるだけ、テキストのみに依って論じてきたつもりです。
>この近辺の話題は私も今勉強中の事なので明言しずらいのですが、
>菩提心と中観、出離と中観は非常に密接に組み合っています。
>>390の一見突然な強弁の由来ですW
それは最も私の特異な分野です。『勧戒王頌』や『四百論』『入中論』『入菩提行論』に明らかです。
特に『入菩提行論』は菩提心に関して素晴らしい。
>実践として中観を話す時に、
>>430のように、あるいは大学でのスマ氏のように、
>あるいは伝統各派の実習者が感覚的に把握し論理化はしていなくとも手足はそれに違わず活きている状態と、
>本のみで中観に精通したとする人と対したとき、浮上してくる問題群をどうするか?
それは人それぞれに縁起的に対応すればいいだけでしょう。
本のみの人にはテキストだけによって、伝統とか体験を持ち出さない。
それと古代人が素朴というのは、誤解ですね。
そういう先入観でテキスト読んでも何も分からない。
龍樹菩薩を詭弁論者と断定する人が、だいたいこういった読み方です。
自分の理解力や知力が足りないとは思わない。
現実の人との出会いでは
●●般若心経の意味について議論するスレ●●
h
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1220972387/615 ↑こちらにも書きましたが、
本当に菩提心を起こしている人にあったため。
また時期が少しずれますが経典で示されている空相の状態を非常に純粋に体現している方にであいました。
お二人ともただの人といえばただの人なのです。世間的にも無名です。でも私はたいへん勇気つけられました。
もちろん環境が変わってきたことも必要条件となります。その上でサロメ氏や承狂氏は根がある感じがします。
2chにいるのが良いか悪いかは状況によって変わるのですが、この人がいる内は大丈夫かも?などと思っています。
2ch滞在の分かれ目を他人に預けた分、気楽になってコテハンの荷が苦にならなくなったといいますか、そんな感じです。
名無し
461 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 11:05:10 ID:gQTWIliA
>もともと中観は部派、唯識を押さえなければ、その必要性すら実感できないものなので、
>伝統的に言えば、問題視すること自体無い物ねだりで、この懸念も不善業に分類されるかもしれませんw
私も最初の頃はそう思っていたのですが、現在は中観が釈尊の仏教の復古だと思います。
ただし、部派など新しい戯論を寂滅させるために勝義を強調したのだと思います。
それに『入菩提行論』は、これだけでほとんど完結していて、
部派、唯識を押さえなくても修行はできますよ。
確かに九章に、いろいろな見解がでてきますが、特に追求する必要なく、
本質や実在を想定してしまう自分の思考法、戯論、妄想を鎮めればいいだけですから。
>石飛先生の活動はこの視点から見ても興味深い。
>ご本人は大変でしょうけどなにしろ菩薩様なんでしょうし頑張って欲しいです。本は買います。
いや、立派な方です。このような方が日本で出るとは、驚きです。
462 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 11:19:43 ID:gQTWIliA
>>460 >現実の人との出会いでは
>●●般若心経の意味について議論するスレ●●
>h
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1220972387/615 >↑こちらにも書きましたが、
>本当に菩提心を起こしている人にあったため。
>また時期が少しずれますが経典で示されている空相の状態を非常に純粋に体現している方にであいました。
>お二人ともただの人といえばただの人なのです。世間的にも無名です。でも私はたいへん勇気つけられました。
なるほどそのような吉祥な縁起があったのですか。それは素晴らしい。
菩提心で行動している人を見ると、ほんとに癒されるというか、
幸せな気分になりますね。
そのスレは見られませんでした。
それと生井智紹先生の『菩提心論を読む』は素晴らしい内容ですよ。
>もちろん環境が変わってきたことも必要条件となります。その上でサロメ氏や承狂氏は根がある感じがします。
>2chにいるのが良いか悪いかは状況によって変わるのですが、この人がいる内は大丈夫かも?などと思っています。
>2ch滞在の分かれ目を他人に預けた分、気楽になってコテハンの荷が苦にならなくなったといいますか、そんな感じです。
どういうことでしょう?
出かけますのでかいつまんで。
>>485 般若心経は間違い? アルボムッレ・スマナサーラ著作: 私もスマ長老は全体としては誤読しているとおもいます。
しかし文中でスマ長老にしては、龍樹菩薩、中論にたいして良い評価をだしていると思います。
経からの引用で唯識批判をしていますが近年のトランスパーソナル心理学などと絡めた唯識理解ではなく
世親菩薩の提出した唯識を充分理解したうえでということが言葉使いから読み取れます。
ようするにワザと隙をつくって誘っている、あるいは読み手の大乗理解の程度を計る姿勢が読み取れるのです。
あの本を読んで怒り出す自称大乗仏教徒は不勉強な人がほとんどだと思います。
>>461 >それに『入菩提行論』は、これだけでほとんど完結していて、
>部派、唯識を押さえなくても修行はできますよ。
時間は限られていてやることは多いのですが、やはり一通りの流れをつかむ必要はあるとおもいます。
入菩提行論はすばらしいですが、正しく伝えてくれる人なしで読むと某華厳ちゃんみたいになっちゃいますw
>>身のない心、肉体のない
>精神は妄想である。
>仏教は霊肉二元論ではなく、五蘊仮和合説である
五蘊=色(身体)・受(感覚)・行(意志)・想(想像)・識(認識)
これらが仮にある条件のもとで和合してつくられているのがこの私というもので、
これらを統合するような第六のものがあるわけではなく
誤解多い、仏教の基礎が無いから仕方ないが。
この人は仏教の基礎が無いといっているが
この定義で私はいいと思うのですが、
詳しい人の意見を聞かせてください。
465 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/04(土) 22:17:05 ID:WYcQGFhA
(^。^)遅くなったな。
>413
要するに、君たちが、中論しか見ていないって事だな♪(笑)
普通の人に中論は輪廻を説く、なんて言ったら龍樹は輪廻転生を説いたと思うに決まってンだろうに。(笑)
勿論、当時の常識としての輪廻転生があり、ソレを踏まえてお釈迦さんや龍樹さんが説かれた事位は知ってるが、
2ちゃんで見てるだけの非仏教徒並びに大部分の仏教徒にも判る様にしろよな。
輪廻が仏教用語であり、カルトが輪廻を曲解して金儲けに利用しているんだから、
学術論文やサークルならいざ知らず、輪廻はあるとか肯定しているなんて誤解させる記述はやめろ。
>>465 ホント、
「不良ぶってるけど、実はいい奴」の典型だなw 小嬌は・・・w
ま、そういうとこが可愛いんだけどなw
>454
一辺止めようと思って、戻って来ちゃったから当分止められそうに在りません。
(^。^;)てか、誤解してると思うぞ。
俺は根なし草だ♪(笑)
>>467 またまたぁ・・w
照れちゃってw
(これでイケメンだったら、男も女もほっとかないと思うぞw)
469 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/04(土) 22:30:35 ID:WYcQGFhA
>466
その幼稚な感性は、腐れヤソと紙一重だぜ。(笑)
公や信ってものを軽く考えてるのが見え見えだな。(笑)
470 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 22:36:58 ID:gQTWIliA
>>465 全く逆だ。君はもう発言するな。
要するに思い込みで、経典を読んで、思い込みで仏教にかこつけてエゴを楽しませてるだけだ。
なんも分かってないし、態度も言葉遣いも全く仏教的でない。
輪廻というのは仏教の基本的前提だ。
そこから苦が認識され、出離の気持ちが起き、慈悲や菩提心が生まれる。
輪廻しなければ、一切皆苦という苦諦を受け入れたなら、
自殺すれば終わりになる。このように仏教は輪廻という前提をなしにしたら、
いろんなところで、矛盾だらけの不合理体系に陥る。
そういうことがなにも分からず、適当に中論読んで勘違いして断見を他人に吹き込むな。
471 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/04(土) 22:40:50 ID:WYcQGFhA
>470
(^。^)どうした?涙目だぞ?(笑)
てか、そうまでして俗諦を弘めたいか?(笑)
何の為の仏教だよ。(笑)
(^。^)てか、荒しにマジレスしてバカか?(笑)
>>470 何故貴方の意見に反対する人間がいるのか
不思議でなりません。
一切は苦であると理解し、なおかつ輪廻は無いと
いう人はなぜ生きて2ちゃんをやっているのでしょう?
自決すれば全ての苦から解放されるのに・・・
>>470 そこの所が、私と貴方の分水嶺なんでしょうね・・・。
勿論、【伝統的に】【仏教という枠内で】【倫理道徳、或いは厭悪、或いは向上、の動機付け】
として有効であることに異論はない。そのように用いることは可能だ。
が、【倫理道徳、或いは厭悪、或いは向上、の動機付け】に用いることができるものは、それだけじゃないと考え、
≪寧ろ、それ以外の手法の方が適しているのではないか?≫という異議が挙がっている、と理解しては貰えないのだろうか・・・。
474 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/04(土) 22:47:46 ID:WYcQGFhA
>472
(^。^)誠に仏教徒らしい立派な対応に感服しました♪(笑)
476 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 22:50:38 ID:gQTWIliA
>>471 中論で輪廻が前提となっていることは、きっちり論証した。
屁理屈が返ってきた。それで言うことは言った。もう言うべきことは何もない。
>>472 答えは非論理的だから。あるいは、仏教を信じてないから。
この何れかでなければ、自己欺瞞でしょう。
釈迦が論争はするなって言ってるのに、論争しまくってる馬鹿共は中論以前の問題ですね
479 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/04(土) 22:58:58 ID:WYcQGFhA
>473
(^。^;)落ちを言うなよなぁ。
もうちょいツツイテ遊んでみたかったのに。(笑)
まぁ、>476は笑えたから良いや♪(笑)
暫くROMってますね♪(笑)
>>479 ちょw
俺が、KYな悪者かよwww たまらんなw
もう少し、野次で済ましておいた方が良かったか?w
481 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 23:03:05 ID:gQTWIliA
>>473 >≪寧ろ、それ以外の手法の方が適しているのではないか?≫という異議が挙がっている、と理解しては貰えないのだろうか・・・。
それは大天の十事よりも誤った道だと思う。
個別的な方便としてはアリだと思います。
しかし、仏教の王道というか本道は輪廻を認識することから始まるのは、
どんな時代のどんな地域の仏教でも変わらなかった。
現代日本とインドの仏教を除いては。
しかし、輪廻のない仏教なんて、ただのオタク話か生涯学習みたいな
あってもなくてもあまり変わりがないもので生命常識教となんら変わらなくなってしまうでしょう。
そんな仏教に意味があるとは思えません。
仏教は本当に効果的で素晴らしい内容をもったものなんです。
このことは西洋の方が最近では評価されているようです。
西洋では修行した学者や僧が、文献学でなく実践的に学ぶという形で取り入れられていて、
苦を除き楽を与えるという意味でめざましい効果を上げていると聞いています。
その前提には輪廻が必要であるというのが大乗・小乗の一致した声です。
そもそも輪廻を疑う仏教なんて、かつてなかったので、他国の仏教徒は
みな驚きを隠せないようです。
482 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 23:05:25 ID:gQTWIliA
>>481 別スレなんで、別な話をするが、SFに、こういう設定(ストーリー)がある。
『外宇宙へ、生命の痕跡を探しに調査の網が広げられる。
が、どこにも、何一つ、生命のせの字の痕跡さえ見つけられずに何百年と過ぎる。
そして、荒野のような或る惑星の上で、学者の一人は言う。
「宇宙は全て、こう(荒野)かもしれない」(→生命は地球上の我々だけかもしれない)と・・・。』
これと同じことが、生物としてのヒトに言えないと貴方は言えますか?
(勿論、貴方は信じているんでしょうが)、
「輪廻や転生が無いかもしれない」という可能性を考慮する気は無い、と・・・。
(これは、キリスト教が抱えるジレンマと同じだと思いますよ。)
>それは大天の十事よりも誤った道だと思う。
ほう。
片山さんの「十事について」という論文は読んだことありますか?
484 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 00:03:35 ID:gQTWIliA
>>483 >「輪廻や転生が無いかもしれない」という可能性を考慮する気は無い、と・・・。
まあ、いろいろ体験して信じてるってこともありますが、
そういう問題でなく、仏教を学ぶのに輪廻を抜いたら教えが成立しないってこと。
輪廻の認識から始まるから。
それと、もしこの宇宙で生命が観測できなくても、仏教には他宇宙や、
天界、地獄、餓鬼など現代物理学で観測不可能な世界がありますから。
しかも、縁起によれば宇宙も六道も、自立的に存在しているのではなく、
ただ、それぞれの縁起によって、そのように認識されているだけですから。
片山先生の論文は、読んだことありません。
>>465 了解。
自分も基本はその考えと同様(
>>401)で短くない2ch生活で初めて肯定面からコメントしたのが
>>412です。
カルトの皆さんがいるかぎり、この板でこの論法は封印しましょう。
>gQTWIliA
もう少し承狂さんを苦しめるます?w
承狂さんのは断見ではなく出離で発心なんです。あなたも毎日唱えるでしょ?
>>470 >そこから苦が認識され、出離の気持ちが起き、慈悲や菩提心が生まれる。
>輪廻しなければ、一切皆苦という苦諦を受け入れたなら、自殺すれば終わりになる。
あなたは無上ヨガという方便を御存知だから、この台詞を言えるのです。
根本乗である上座部、禅や浄土の方は正に一人一人がこの問題に今も哲学的な形で立ち向かっているんです。今もです。
禅定の技術の上では、この疑問を不思議にも乗り越えたから小乗から大乗への乗り越えが起こるのです。
この問題を若き時のスマ氏は既に乗り越えていた、だからこそ上座部のスマ氏が中論に対して理解を示す、
一見理解不能なことが起こるのです。
世で普通信じられている事に従う。
他国の仏教徒も大半はこれです。
なぜなら本当に輪廻を信じたらそれだけで一切の悪業を成せなくなりますからね。
あなたが過去そうだった様に、宝珠の人が頑なに拒否しているように
輪廻を認めるのは難事なんです。
>>484 桶。 (だから、私は「外道」のレッテルを返上しないのですよw)
貴方のような、その核(コア)が宝珠やカラスには見えないんですよね・・。
向こうのレスも見ました。 (貴方は2chに来るべき人じゃないw)
リアルで言葉を紡ぐべきだ。
(貴方に、2chの時間は必要ない。サンプル収集や言葉の紡ぎ方のシミュレーションも不要でしょう。)
貴方の行く末に幸あらんことを・・。
>読んだことありません。
面白いと思うよ。
・十事(dasavatthuni)について/パーリ学仏教文化学第3号/1990-05-01
その他、
・パーリ仏教における相対的基準(T) kappiyaの原義/駒沢大学仏教学部論集19/1988-10-31
・パーリ仏教における相対的基準(U) kappiyaとニカーヤ/駒沢大学仏教学部論集47/1989-03
そして、前シリーズも含め、このスレ的面白さとしてw、
・原始仏典の表現法 ‐vyaJjanapada・atthapada‐/駒澤大学仏教学部研究紀要34/1976-03
・パーリ仏教における涅槃/駒澤大学仏教学部研究紀要59/2001-04-01
なんかもね・・w
貴方のレスを読めて良かったと思ってるよ。
おやすみ ノシ
>>487 あ、「このスレ」じゃなくて「あっちのスレ」だなw すまん ノシ
489 :
暁:2009/07/05(日) 00:35:01 ID:FVRJmnRv
専門スレにそれぞれ散らばったみたいだね
アートマンスレが止まってからw
>gQTWIliA
あなたは充分に苦しんでいますし、宝珠氏は本当に貴方をうらやましいと思っている。
一連の私のレスで本当に苦しいのは承狂さんですw。承狂さんがお利巧さんになるように祈ってください。
2chに見切りをつけるほどお利巧さんになったら困りますがww
>カルトのみなさんへ
>>485はカルトの皆さんへの呪詛ではありません。鷹は小鳥を食し、小鳥は虫をついばむものです。
そしてフン転がしは糞を食います。 私如きのフン転がしの言うことは見逃してくださいますように。
皆さんが幸せになりますように。
491 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 04:52:44 ID:tn73/9xh
>>490 >>カルトのみなさんへ
君が一番のカルトだと思えるね。
492 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 06:43:04 ID:7CnhRCSG
◆4yy3YEx6Zcの発言が気持ち悪い件について。
メンヘラだろ。
493 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 06:49:51 ID:Vfy8jMto
>>470 >輪廻しなければ、一切皆苦という苦諦を受け入れたなら、
>自殺すれば終わりになる。このように仏教は輪廻という前提をなしにしたら、
>いろんなところで、矛盾だらけの不合理体系に陥る。
私も似た見解なので、横レスをば。
もし「因果応報」かつ「輪廻しない(または現世六道)」ならば、
若い頃に悪事をしてはなりません。
悪事は晩年にすれば悪果を受けず人生を終われる可能性が高いでしょう。
494 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 07:22:59 ID:Vfy8jMto
それから現代の青年達は「無」関心、「無」感動、「無」気力です。
彼らに「四諦」や「空」をうまく説かないとやばいことが悟れるでしょう。
495 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 08:30:34 ID:nqw6d3Vw
496 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 08:38:14 ID:yzwsL9Hb
>>463 >ワザと隙をつくって誘っている、あるいは読み手の大乗理解の程度を計る姿勢が読み取れるのです。
なるほど、そう読むわけですね。しかし、私は偶然、長老に2度ほどあったことがあって、あまりいい印象は2回とも受けませんでした。
>>485 >承狂さんのは断見ではなく出離で発心なんです。あなたも毎日唱えるでしょ?
どういうことでしょう? 出離や発心に彼の言動が結びつくとは思えません。
どういう部分がということが抜けているので、不明なのです。
>>485 >根本乗である上座部、禅や浄土の方は正に一人一人がこの問題に今も哲学的な形で立ち向かっているんです。今もです。
「この問題」とは何を指しているのでしょう。
◆4yy3YEx6Zcさんの文章は、結合関係がつかみずらいので、工夫してくれると助かります。
497 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 08:43:08 ID:yzwsL9Hb
>>486 >世で普通信じられている事に従う。
私の言う意味は、言語活動などあるがままの習慣に合わせるという意味です。
本質的には全く逆です。苦なのに楽と見、空なのに実と見るからです。
>他国の仏教徒も大半はこれです。
>なぜなら本当に輪廻を信じたらそれだけで一切の悪業を成せなくなりますからね。
どういうことでしょうか?
>あなたが過去そうだった様に、宝珠の人が頑なに拒否しているように
>輪廻を認めるのは難事なんです。
過去の私も宝珠さんも輪廻は受け入れやすかったと思いますし、現に認めてますよ彼も。
認めがたいのは実在としてのアートマンがないことです。
498 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 08:47:53 ID:Qfowyn/8
◆4yy3YEx6Zcの一連の発言の真意はこうだ。
「私の仏教理解と境涯は、あなたより優れている。全てを俯瞰的に見ることが出来るので夫々の立場はよく解る。
承狂の気持ちもよくわかるし、旧7もいい人。真言さんは勉強家それぞれ良い線いってるけど、まだちょっと足りないね。」
自分の全能振りを誇っているのさね。
はっきり言って、この人は精神病んでる。
499 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 08:52:09 ID:yzwsL9Hb
>>487 いえいえ、そんなにいいもんじゃありません。
いまだエロエロだし。
論文紹介、ありがとうございます。
あのレスは、『梵網経』と自分の経験とあのスレがほとんど同じだということを知って欲しかったものです。
それによって『梵網経』の普遍性や凄さの一端がちら見できるのではないかなあと。
それと、生命常識教やアートマン論者の考えていることは、そんなもんなんだと分かってほしかったんですが、
こっちは無理かな?
あれだとかっこよく読めちゃうところが、私の限界ですね。
師だと自分の笑い話を混ぜながら決して自分をかっこよく見せません。
まあ、そこが私からするとたまらなくかっこいいわけですが。(^^)
500 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 09:03:00 ID:yzwsL9Hb
>>493 仏教の因果なら、果は何時熟するか分からないから、
その論理はちょっと厳しいかも。でも、悪いことしてなければ苦はでないわけだから、それはアリですね。
>>494 若い人が無気力なのは分かります。感受以外にほとんど信じられるものがないからです。
しかも、その楽も常に楽ではなく求めれば求めるほど苦になりがちだから。
私は四諦より慈悲や菩提心の方が受け入れられるんじゃないかなと思ってます。
なぜなら、慈悲や菩提心を持つことによって簡単に楽や安心が得られるから。
感受しか信じない人には、この楽や安心の価値は高いと思うのです。
ただ、ツカミはどうするか? が問題だと思います。
ダライラマ猊下を利用してツカミ、実際に楽や安心を体験してもらうと
結構、いいんじゃないかな? ぐらいしか思いつきませんね。
501 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 09:51:36 ID:IiW3AaqR
>>493 >悪事は晩年にすれば悪果を受けず人生を終われる可能性が高いでしょう。
悪事をしたい頃にはカラダがうごかないエロ爺だけど。
悪事は若いときするものだ。悪果でも果であることに代わりは無い。
悪人正機というではないか?
502 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 09:58:16 ID:IiW3AaqR
>>470 >輪廻というのは仏教の基本的前提だ。
そうだね。しかし転生はいらない。現世六道輪廻だけでよい。
それが中論の主張だと理解する。
503 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 11:11:11 ID:yzwsL9Hb
504 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 11:25:54 ID:KAsmsueL
>仏教やナーガールジュナが輪廻転生を認めているか否かと、それを読む自分が認めるか否かは違うのです。
>ここで飛躍して、自分が認めたくないからナーガールジュナも同様だ、こういう姿勢では話にならないのです。
ここら辺ごっちゃにする人、多いですね。
「仏教やナーガールジュナは輪廻転生を認めている」
「でも俺は認めない」これでいいのにね。
505 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 11:36:35 ID:oCnVXmlH
>>504 >「仏教やナーガールジュナは輪廻転生を認めている」
>「でも俺は認めない」これでいいのにね。
宗教者とは、教典の「言葉」だけに執着して、思考停止しているから、
そのような自分の自由な発想が不可能な人々のことをいうのですw。
506 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 11:48:44 ID:yzwsL9Hb
>>505 >宗教者とは、教典の「言葉」だけに執着して、思考停止しているから、
>そのような自分の自由な発想が不可能な人々のことをいうのですw。
こういう人は大抵、常識を一歩も出てません。
なぜなら、自分がテキストに書かれていることを理解できないこと、
さらにはテキスト自体を読んでないことの言い訳として上の発言が為されるからです。
507 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 11:59:50 ID:oCnVXmlH
>>506 教典の言葉ばかりに執着して思考停止することなく、自分の頭で自由に
発想が可能なことの証拠だよw。
そのためにこそ、釈迦は、自灯明を遺言として、すべての弟子に残した
のである。
そもそも、真偽も明らかでない大昔のテキストに「書かれたこと」だけ
依存することは、大きな倒錯だとは思わないのかね。
508 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 12:09:01 ID:yzwsL9Hb
>>507 その自灯明ということ自体が、誤読だと何度も指摘されているのに
一向に改めず、自分の妄想を繰り返すのみの貴方のどこに自由があるのでしょうか?(^^)
509 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 12:34:05 ID:IiW3AaqR
>>503 引用したURLからは三世に渡る輪廻すなわち転生はないとしか読めないが・・・。
510 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 12:38:18 ID:IiW3AaqR
>>509 >引用したURLからは三世に渡る輪廻すなわち転生はないとしか読めないが・・・。
引用したURLからは「中論では」三世に渡る輪廻すなわち転生はないとしか読めないが・・・。
に訂正する。
現在の科学から考えても生まれ変わりなどありえないしね。
511 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 13:19:57 ID:yzwsL9Hb
>>510 >引用したURLからは「中論では」三世に渡る輪廻すなわち転生はないとしか読めないが・・・。
どういう読みしてんの? 生まれ変わりがキッチリ説かれてるでしょ。
>現在の科学から考えても生まれ変わりなどありえないしね。
科学は沈黙するのみ。説明体系を持たないものについて判断を下すなら、
それは科学と言えません。ただの亜科学信仰、あるいは素朴実在論。
512 :
暁:2009/07/05(日) 13:35:13 ID:FVRJmnRv
龍樹は認めたというより、説いたという表現がしっくりくる
ここで輪廻転生を否定する人は、カルトが教義に掲げる、
霊界の階層制や、未来永劫続く不変の魂や、捩曲げられて
解釈された空について批判しているのだと思う
圧倒的な差別を生む生まれ変わりの論理てことね
中論から感じとれる輪廻は「生まれ変わり」
って感じはしないな
514 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 15:24:55 ID:yzwsL9Hb
>>513 なんででしょう? 以下のように過去世、生まれ変わりを述べてます。
否定するのは実体として、自性としての我です。
『中論』27.3:「私は存在した、過ぎ去った時に」ということはありえない。
[なぜなら]何らか過去世に存在したもの、それ自体がこれではない[からである]。
自註とされる『無畏註』:
「私は過ぎ去った時に存在した」ということ、それはありえない。
なぜなら、何らか過去世に存在したもの、それ自体が現在のこの私ではないからである。
もし、何らかの諸過去世に存在していたもの、それが自体が現在のこの私であるなら、
どんな欠陥になるのかと思うなら、次のように説明される。
もし、何らかの諸過去世に存在していたもの、それが自体が現在のこの私であり、
且つ、[過去世に存在していたものと]同じ取蘊が消滅したなら、
[過去世に存在していたものと]別の取蘊になっても、取蘊以外に我があることにもなってしまう。
それについて、取蘊以外に貴方の我が何らかであると言うことができるとしても、
私にはどんな形でも、ありえないと分かる。
『青目註』:
「私は過去世に存在した」ということ、それはありえない。
なぜなら、前世の私は、現在の私ではないからである。そして常見の過失があるから。
もし、[我・私が]恒常なら無量の過失がある。なぜか。
ある人が福徳を積んだ因縁によって、神になり、その後で人になる場合、
もし、前世の私が現在の私であるなら、神は人である。
また、ある人が悪業を積んだ因縁によって、チャンダーラになり、その後でバラモンになる場合、
もし、前世の私が現在の私であるなら、チャンダーラはバラモンである。
515 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 15:33:31 ID:IiW3AaqR
>>514 生まれ変わりがあるためには過去と現在で変わっていない「我」
成るものがなければならい。ところが自性としての「我」が存在
しないのだから、生まれ変わりがあるというのは不合理である。
この論証は生まれ変わりが無いことを証明してるだろ。
帰謬論証という証明法を知らないまたは忘れたのかな?
516 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 15:35:26 ID:2MpkguS7
>>514 ID:Lr6FGSyAは「私」が生れ変りをしていると勘違いしている。
縁起し変化しながら消滅している一連の流れが「私」という一時の姿を現していることを示しているのが解らないのですよ。
517 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 15:38:44 ID:5jV7t/0+
>>499 了解。
(以下は余談。茶飲み話として聞いてくれw)
貴方は、≪「仏教という枠組み」を構築し終え、その中に坐し、腰を据え、そこからの見え方≫を語っている。
が、他の方達はそうじゃない。貴方の視界・視線どころか、坐すべき枠組みすら見えていない。
もし、その枠組みを、仮構築でもいから立て、「そこからならばどのように見えるのか」を想定できたら、
やりとりの密度や濃度、意義深さは、随分と変わってくるだろう。
宝珠氏は、《「そのような(自分は使用しない)枠組み」があることは容認しても、そこからの見え方を認めていない》、
といった感じでしょうか・・・。
カラス氏は、《似てはいるが、「異形の枠組み」を使用しており、しかも「建立場所が(微妙に)ずれている」》、
といった感じでしょうか・・・。
そして、そうした枠組みの構築に際し、「新建材を使い、新工法を採用するかどうか」もまた、別な形での相違点となる。
この時、新建材の使用が9割を超え、ほぼ全ての部分で新工法が採られている(極端な例が)御隠居の系譜となる。
(そこまで変えちゃうと寧ろ別物に近いよ・・・(´・ω・`)、と。)
勿論、貴方は、《伝統的素材で、伝統的工法で枠組みを構築している(純)正統派》ということだ。
※キリスト教もイスラム教も、その他様々な宗教も、また、同じ仏教での伝統各宗派も、
それぞれの枠組みがあり、そこからの視線・視界が教義であり、各宗固有の世界観となっている。
これを認め合いましょう、というのが世界宗教者会議等の(これからの時代の)意義の一つでしょう。
(決して、『宗教的大統一理論』の構築が目指されるわけではないと思うのだ。不可能だろうとも思うし・・。)
で、私はどうなのか? とw
またズルイ!姑息だ!と罵倒されそうだがw、だいたい判るでしょう?どのあたりに位置付けられるか・・w
>>499 向こうのスレで、『所詮は観客』『継承者としての選手ではない』という意見があった。
まったくもってその通り。正当継承者でない限り、どうがんばっても最後1%の負い目・弱みは残る。
が、野次の飛ばし方で、それなりの効果が出せるなら、それはそれでアリかな、と。
野次が無くなることで、同意や許容、肯定評価と思われないためにも・・。
また、フリーランスであるが故の(先入観を持たれずに済むという)利点もあるだろう。
520 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 15:41:01 ID:yzwsL9Hb
>>515 では、今現在、あなた自身に我があると仏教は説くでしょうか?
我がないと生まれ変わりが成立しないというのは、
和辻哲郎が輪廻批判に使って以来、日本の文献学者の一部が主張するものですが、
これが縁起を理解しないただの誤解であることは明らかでしょう。
我という実体が成立せずに我と仮設された五蘊が縁起してそれを我と思い込むように、
死後も輪廻するというのが仏教で、釈尊以来の説です。
>>517 中論の最初に 「生じないし」「滅しもしない」とあっただろ
だから、生滅とか言ってる時点でおかしい
死という縁によって、何らかの現象が起こる だけでしょ
522 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:01:28 ID:yzwsL9Hb
>>518 それなら、例えば私が積水ハウスだとしましょう。
ところが、パナホームとか大和ハウスの人が、積水ハウスですと言ってるのは困るということです。
積水ハウスは積水ハウスです。
パナホームとか大和ハウスの建築思想で積水ハウスを語られたら困る。
そこで違いを言ってみたというわけです。
お互いに違う点とか、似た点は確認できるわけです。
ここは違うねとか、これは同じだよねとか。
しかし、パナホームとか大和ハウス、積水ハウスを離れて、
建築はこうでなければいけないとか、その前提で話されてもね。
石飛先生の『龍樹と語れ!』にここらへんは明解ですよ。
特に私は、宝珠さんには素質を感じてこの人なら導けるなんて慢心したわけです。
よく考えれば、偉大な師でさえ五年もかかったのに、半年で無理なんです。
師に中観を習った時、実在と仮象解釈にとらわれていた私は、
今のアートマン論者のように「中観は、〜であると言わないのでは、
どうしていいか分からない」みたいなことをいったような記憶があります。
その時、師は「それはあなたが未熟だからです」と言っただけでした。
やっぱり、自分で納得するまでヒントぐらいしか言えないと勉強になりました。
523 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:03:02 ID:IiW3AaqR
>>520 >では、今現在、あなた自身に我があると仏教は説くでしょうか?
生きてるなら五蘊の自己はあるだろ。だから輪廻は今生限りの
六道輪廻であってそれは単なる自己の心変わりだ、というのが
中論の輪廻だろ。だから、中論第二十六章で12支縁起を肯定
しているのも今生限りの輪廻としてだね。
転生や再生は認めない。
524 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:08:22 ID:Tk0JAVF5
>>521 言葉尻の問題だから、あんたがそれでよければ、それでいいよ。
525 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:12:08 ID:yzwsL9Hb
>>519 >向こうのスレで、『所詮は観客』『継承者としての選手ではない』という意見があった。
>まったくもってその通り。正当継承者でない限り、どうがんばっても最後1%の負い目・弱みは残る。
それ全日が譬えでしたね。それだと新興宗教じゃないですか。
やっぱ、レスリングが伝統でプロレスはショーじゃないでしょうか。
それはともかく、2chも学会もみんな観客でしょう。
継承者と言うべきなのは、悟った師から教えなさいと言われた人ですよね。
禅宗だと印可ですか。今でもちゃんと機能してるのでしょうか?
真言宗は伝法灌頂というものが、かつてはそうだったのですが、
現在はただの形式になっています。
個人的には動機が重要だと思います。エゴなのか利他なのか?
それを本当に見極めるのは非常に難しいのですが、
とりあえず、あらかさまにエゴイスティックなのは、
そう思えば防げるわけです。例えば、自慢とか自演とか。
526 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:16:24 ID:yzwsL9Hb
>>523 それじゃ無我も無常もなにも分かってないし。
現代の常識と全く変わらないよ。
なにを根拠に、そう思うの。たぶん常識か?
最初に現代科学とかあったから。
だったら常識を信じればいいだけで、仏教を説かなければいいのですが、
なんで分かってると思っちゃうんでしょう?
527 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:19:44 ID:wE6sXN9T
>>525 >禅宗だと印可ですか。今でもちゃんと機能してるのでしょうか?
機能してるよ。正師との出会いが無いのは、単に弟子の求道心がうすい為。
弟子が師を選ぶのが三国伝統の仏教。
ろくでもない先達としか出会わないのは、己が咎。
528 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:32:05 ID:yzwsL9Hb
>>527 「機能してるよ」以外は、全く同感です。
すいません。私が聞いているのは臨済宗の法脈に連なっていることが
確かなと思われる方へであって、名無しの方にではなかったのですが?
529 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:38:01 ID:IiW3AaqR
>>526 >なにを根拠に、そう思うの。
中論ですね。一切法空論証するのが空論だね。
530 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:43:43 ID:KguRg3Zk
>>528 失礼。
私も末葉ながら法系にありますがね。
看話・黙照いずれにしても、極々細々とですがね。
531 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:45:02 ID:yzwsL9Hb
>>529 じゃ、以下はどう読んでるでしょうか?
『中論』27.3:何らか過去世に存在したもの
梵本:janmasu puurves.u
蔵訳:sngon tshe rnams su
漢訳:過去世
532 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:48:38 ID:yzwsL9Hb
>>530 そうですか。私が印可が機能しているかどうか伺ったのは、
悟った者が、弟子をお前は人に教えていいよと認めることが、
機能しているかという意味です。機能しているなら、それはめでたいことです。
533 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:49:17 ID:5BCYwzSE
>>529 中論を根拠とすれば、中論を信じる人間だけにしか通用しない。従って
普遍的ではない。
宗教も、人間の多くの営みのうちの一つに過ぎないのだから、「普遍的、
即ち真理」であり得る為には、「すべての人間に共通する普遍の基盤」
に基づかなければ、無意味な営みに過ぎない。勿論、普遍でも真理でも
ありえない。単に、百人百様の妄言にしか過ぎない。
534 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:49:43 ID:fS6Ofj4S
難しいですねえ
535 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 16:59:29 ID:5BCYwzSE
>>534 別に難しいことではないと思う。「すべての人間に共通する普遍の事実」
を見出せばよいのだから。
思考は、その基盤次第で、百人百様となり得る。何を思考するかの前に、
まず、何を思考の普遍の基盤とするかを思考して、決定するのが、先決で
ある。
536 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:04:12 ID:yzwsL9Hb
>>535 常識生命教さんは、お引き取りください。
テキストに基づいて中観を語る場なので。
537 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:08:31 ID:keeyR0pF
>>532 中身は存ぜぬが、伝統的形式ならば、臨済宗では印可証明された師家以外には公案による指導は出来ない。
はたして今の禅林に覚者が存在するかどうかだね。
539 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:11:04 ID:keeyR0pF
>>537 付け足しておくが、「中身」とは悟りの内容のこと。
それぞれの師家が、どの様な法を伝えているのかまでは知らない。
540 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:11:46 ID:yzwsL9Hb
>>537 中身が問題なんです。形骸化してたら意味がない。
541 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:14:15 ID:yzwsL9Hb
>>538 いえ、そこまでは言ってません。いらっしゃると思います。
ただ、悟ってないのに印可を与えるというような形骸化してないか?
ということです。真言宗の伝法灌頂は完全にそうでした。
ですが、真言宗にも悟ってる方は、何人かいらっしゃるようです。
>>541 真言では宗門自身が空海は悟っていなかった、
といっているそうです。
そういう宗派で覚者が輩出されるものでしょうか。
真言の行ではかなり深い変性意識には入れるでしょうが、
所詮そこまで、と考えておりましたが・・
543 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:20:57 ID:5BCYwzSE
>>536 真偽も定かでない大昔のテキストの「言葉」(思想や内容ではない)に
やたらと執着する、思考停止者の「集団オナニー」の現場だったのですかw。
気持ちワリーw。
544 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:22:13 ID:keeyR0pF
>>538 「世に伯楽あって、しかるが後に千里の馬あり」
弟子も師も出会いです。
出逢えるまでが修行。
出逢えてからも修行。
未逢の道人は
未来の正師に出会えた時に眼鏡がかなうように、あせらずさわがず自分を磨きましょう。
あ、失礼しました。
伝法灌頂を受けたということは
アジャリ位にあるかたですね。
>>524 中論においては基本的に抑えておくべき前提だろうが
あんたが言葉尻の問題としか思わないならそれでいいけど
547 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:32:09 ID:tjwI/GG+
>>541 貴家の伝法灌頂なる行法がどのようなものか存じませんが、公案禅ならば一通り済ますために朝晩参禅しても10年やそこらはかかるので、一通りの型にはめることは可能です。
しかしながら、見性に至るかどうかは、それこそ縁次第。
548 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:40:48 ID:5BCYwzSE
>>544 師の誤りはどうやって発見し、正すのかね。釈迦は、自灯明を教えて
いるのだが。
オウムも、「正師」麻原を見出し、「修行」して「自分を磨き」、結局は、
何を悟ったのかね。
あなたは、オウムの信者?
549 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:52:35 ID:V18Pq0aH
>>548 師は敵(仇)に就け。とも教わりました。
自に必要なものを知らないのが弟子。
しかしながら、邪なものから無知な弟子が、我が身を護る術は一つしかない。
下座して徳を磨くこと。
550 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:57:11 ID:IiW3AaqR
>>548 >師の誤りはどうやって発見し、正すのかね。
法によってだろ。それが法灯明だね。
オームも法律で裁判されているだろ。
551 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 17:58:51 ID:5BCYwzSE
>>549 >下座して徳を磨くこと。
オウムは、我が身を護れなかった今でもまだ、それを熱心に、大真面目に
やっているのは何故でしょうかw。宗教心理学的に説明してください。
552 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 18:04:23 ID:09PX6iPX
>>550 宗教が扱うべき問題じゃないものは、警察におまかせするべきですね。
>>551 生命教的には如何ですか?
万能にして最高の教えなら容易いのでは?
553 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 18:38:05 ID:Xgf0KyZ+
>>552 >生命教的には如何ですか?
>万能にして最高の教えなら容易いのでは?
簡単ですよ。「生物的生存本能(生命)」という「すべての人間に共通する
唯一の普遍の事実」という基盤を離れた、現実上の根拠皆無な「観念」を信じ
込んだためです。
これは、「原理的には」、すべての宗教にそのまま共通します。
> それ全日が譬えでしたね。それだと新興宗教じゃないですか。
> やっぱ、レスリングが伝統でプロレスはショーじゃないでしょうか。
いやw 始点がズレてる。『(ショーとしての)プロレスの伝統』という意味だから全日でおK。
詳しい内容は忘れたが、夢枕獏が、ブッダの方舟という対談集で、プロレス界の部派分裂を語っていた。
(で、確か、根本分裂に比されるのが猪木イズムの発生だったような・・w)
> 禅宗だと印可ですか。今でもちゃんと機能してるのでしょうか?
形式としては機能しています。(
>>547、
>>537-539、
>>527>>530の通り。)
私個人の感想ですが、禅宗は、最も異端であるが故に最も直系足り得ている稀少な例だと思っている。
その意味で、過去多くの人物が出ているが、それが「所謂(伝統的)“阿羅漢”」かというと違うと思う。
「既に変性を終了した《禅という世界観》の中での覚者(≒見性した者)」となら言えるし、今も、輩出は続いていると思う。
(勿論、印可を受けた時点で全て終了!でなく、その後も成長の日々ではある。)
ただ、547にあるように、今は『全公案の把握&“理解(!)”』が条件となっているので、
それ以外の、人格的個性の面で、色々言われる方もいらっしゃらないわけではない・・。
寧ろ「一枚貰ってはいないけど、素晴らしい」という方も野生には居らっしゃるw
いずれにしろ、547の「>一通りの型」にハマる形で、「既に変性を終了した《禅という世界観》」での成就なら、
今でも可能だろうと思います。(それが、釈尊及び初期の弟子達の境地とどこまで被るかは解りませんが・・・w)
(またその時、師の個性やスタンスの色合いは引き継がれることもあれば、真逆のベクトルが採られることもあるでしょうw)
しかし、貴方の期待するような「聖者としての継承、師弟関係」は、既に無いだろうと思います。
>>554も
>>525宛。
>>525 > 個人的には動機が重要だと思います。エゴなのか利他なのか?
そこを大乗は「初発心時便成正覚」と評したのでは?w(勿論、そんな単純な話ではない筈だが・・・w)
(こういう、大乗の用いる心理面でのテクニカルな技も、嫌いではないw)
───────────────
このスレは、私のテリトリー外なので、そろそろ退散させていただきます。
お邪魔しました。 ノシ
556 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 19:44:42 ID:yux+xqBS
>>553 そのお題目を唱えることが生命教の教えですか?
それが何か役に立ちますか?
557 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 20:02:38 ID:yzwsL9Hb
>>542 それは初耳です。弘法大師は、三地の菩薩の化身です。
日本で最も高い見解を美しく明解に残された方で、様々な行為も各分野で、
日本一に思えます。私が知る限り宗門でそんなことを言う人はいません。
おそらく、他派の発言でしょう。
>>547 年、期間はあまり関係ないと思います。
表面的な所作は身に付くでしょうが。
>>554 やっぱり、そういう印象があります。
日本は基本的に江戸時代に檀家制などでボディブローを受けて弱体化し
明治時代に廃仏毀釈で瀕死になり、戦後教育でほとんど脳死状態になっている
ように思います。
>>555 大乗は動機主義ですから。動機、菩提心があればオケーといった。
どうもです。
558 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 20:16:48 ID:KAsmsueL
>それは初耳です。弘法大師は、三地の菩薩の化身です。
「菩薩は阿羅漢じゃないから悟っていない」とかいう上座部的な理屈なんじゃない?
大乗では 菩薩>阿羅漢 となっているのを故意に無視しているんじゃないのかな?
559 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 21:58:03 ID:Xgf0KyZ+
>>556 最も根源的な教義と言う意味で、大いに役立つ。神概念も教義も経典も、すべて
生命の機能に過ぎず、生命には従属する要素だからである。
故意というより普通に無視しています。
観想ではやはり悟れないと思います。
一行目と矛盾するようですが
私見では日本最高の境地に到った方は
道元禅師です。
561 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 22:39:52 ID:Xgf0KyZ+
>>560 道元は、世界最大の思想家であると評価する哲学者もいる。
カルトは、何故だか道元を避け、白隠を好む。
ところで、駒沢大学は曹洞宗だと思うが、大乗である道元の研究のほかに、
原始仏教の研究もやってるのですかね。水野さんが元総長だから、その影響
なのだろうか。卒業生である、旧7さんにも、ご回答をお願いします。
562 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 22:40:31 ID:yzwsL9Hb
>>558 どうも情報源が怪しい噂のようですね。
>>560 >観想ではやはり悟れないと思います。
インド大乗仏教に一番近く、正確な理解をされる方が弘法大師です。
密教の観想では止観が同時にできるのです。
そして、日本だけでなくインド・チベットでたくさん悟った方が出ています。
逆に禅定つまり止だけでは、仏教にならないというのが
あらゆる時代、あらゆる地域共通認識です。
私は禅にも観はあると思いますが。
>私見では日本最高の境地に到った方は
>道元禅師です。
そうですか。和辻以降、そういう方がたくさんいます。
しかし、和辻の仏教理解は話にならないものです。
563 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 22:48:54 ID:Xgf0KyZ+
>>562 >しかし、和辻の仏教理解は話にならないものです。
随分と傲慢な発言ですね。どういう角度から、「話にならない」のですか。
オウムや外国の原始佛教カルトの角度からですか。
あなた自身の佛教理解が「話にならない」可能性はないのかね。
あなたは一体、ご自分を何様だと思っているのか。
>>561 わたしにはわかりません。すみません。
>>562 わたしもカーギュ派の4代は覚者だと思っています。
しかしどうでしょう。アジカンや月輪観で
本当の観が成立するのでしょうか。
護摩などは信者を変性意識に導くという意味では
本邦最高の技術をもった宗派ではありますが、
こと悟りと言う事に関しては疑問があります。
やはり大師は願望達成法をやるべきでは
無かったと、強く確信しています。
>>561>>564 |
|゚) <現在は(というか遥か昔から)総合大学化してはいる。(ここ何十年、女子学生の何と多いことかw)
| 創立当初は知らんが、少なくとも、宗学だけでなく
仏教全体を学び、研究する場としては、大学としての性格が打ち出されて以来、
禅学部・仏教学部の二本柱は確立されてたんじゃないかな。詳しくは知らんけど。
で、出身学生が研究者として大成していく流れの中、
ある意味、仏教学(特にインド・原始仏教系)に関しては、
トップクラスを維持することとなる。(つっても、東大印哲を凌ごうかという勢いは、昭和後期の話かもしれん。)
昭和24年、仏教学部、文学部、商経学部の3学部9学科で再スタートだってさ。
| てか、少しは自分で調べろよwww
>>561 |
ttp://www.komazawa-u.ac.jp/cms/enkaku/ |
|彡サッ
|
566 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 23:52:02 ID:yzwsL9Hb
>>563 単純に言えば自分の趣味にあわない記述を切り捨てる態度。
輪廻、無明、律の内容
このことは別に私だけの特殊な説でなくて、学会の暗黙の了解なんです。
明言したのは梅原猛、津田真一、下田正弘の三人ぐらいが有名です。
少なくとも和辻よりはマシだと確信してます。
そして、少なくともあなたのようなインチキ本からの妄想ではなく、
文献的根拠がありますよ。
生命常識教さんは、ここに来てもしかたないと思わないの?
567 :
神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 23:58:18 ID:yzwsL9Hb
>>564 >わたしもカーギュ派の4代は覚者だと思っています。
ペマ・カルポですか? それともカルマパ・テシンシェクパですか?
>しかしどうでしょう。アジカンや月輪観で
>本当の観が成立するのでしょうか。
します。
>護摩などは信者を変性意識に導くという意味では
護摩は変性意識のためのものではなく利他行です。
変性意識という意味では禅定・三昧が同じことです。
意識から色受想行識を消していくわけですから。
ただし、禅定・三昧では悟れない。
>やはり大師は願望達成法をやるべきでは
>無かったと、強く確信しています。
祈祷という意味ですか? それはただの方便です。
密教についてはここでは話したくないのでこれ以上言いませんが、
ただの誤解です。
和辻さんて輪廻否定論者でしたっけ?
だとしたら論外ですね。
569 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 00:04:14 ID:MYzOK8gw
>>566 >単純に言えば自分の趣味にあわない記述を切り捨てる態度。
記述ではなくても、自分の趣味に合わない思想を切り捨てることは、あ
なた自身が現にやっていることではないか。
恐らくは、あなたよりはるかに研究と思索を積んだ学者の著書だけを
読んでいますが。文献の片言隻語に執着して自前の思考ができないので
は、「学問」とはいえない。和辻氏は、少なくとも「自前の思考」をや
ったはず。
梅原氏は、単なる宗教オタク。今まで感銘を受けたことは、一度も無い。
私は、カルト化の恐れのあるスレには、常に住み着きますよw。
570 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 00:10:52 ID:8nM07T2W
>>568 最も論理的に強靱な輪廻否定をした人です。
その後、輪廻否定している人はほとんど彼のヘタな真似で、
感情先行で論理的に矛盾している人ばかりです。
571 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 02:22:10 ID:AKXUytkt
輪廻や転生はいいとして、この地球に別の生命として生まれ変わる
という意味だとするとのは、釈尊の教えのスケールに比べると、
なにかこう、なんでわざわざという不自然な発想だよね
572 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 02:28:40 ID:MYzOK8gw
>>571 そもそも、善も悪もやった人間(すべての人間がそうでしょう)の来世
はどうなるかについて答えられないのですから、輪廻転生論は、そこで
既に崩壊しています。しかも「輪廻転生」で信者を「脅迫」するのは、
最大の悪です。「輪廻転生」で信者を脅迫した者の来世がどうなるかは、
明白ではありませんか。「脅迫」によってなした善は、自由意志に基づく
ものではないから、むしろ悪そのものなのです。
573 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 06:25:46 ID:pHcu6+dx
百万の論を繰り返しても、つまるところ人は、なにも変わらない。
人間に自由意志がある、と思っていることが痛い。
575 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 07:17:30 ID:KupLbyt1
>>551 世間からつまはじきされてるからだろ。
さびしくて、身を寄せ合うしかない、へたれのつどい
がオウムだね。心理学的にはこのように見えるね。
576 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 07:40:49 ID:w//ovzTm
577 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 08:02:23 ID:VAguyXyc
ここにも張っとこう
華厳スレより
355 :神も仏も名無しさん:2009/06/26(金) 12:26:46 ID:HXmBR13O
仏が説いたお経を、そのまま読んだら間違いで、
あとから仏の弟子であるお坊さんに
あれこれ理由つけて解釈してもらわないといけないとしたら、
もとのお経は不完全なのでは?
教祖様が「あいつをポアしてこい」と言って、
そのまま素直にポアしたら間違いで、
弟子達があとから
「いや、あれは一種のたとえ話でありまして、本当の意味は…」
と言い繕う必要があるのだったら、
その教祖は、弟子にフォローしてもらわないと
満足に言いたいことも表現できないような能力なのか、
あるいは、弟子が教祖の教えを本心では信じられないから
一般的に信じやすい無難な教えにゆがめてるのか、
そのどっちかでしょう。
578 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 08:16:53 ID:8nM07T2W
>>571 別にこの地球どころか、この宇宙に限定されていません。
579 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 08:18:52 ID:8nM07T2W
>>577 本来、お経は読むものではなく悟った師から聞くものですから。
580 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 08:19:32 ID:R8v4ZL5Y
古に覚者があって、弟子から弟子へと器に水を移す如く伝法があった。
何時ごろかわからんが、今は形骸化している。
ということは、具体的に誰かの世代で伝法しなかった事実があるということになる。
覚者たる人物が弟子の中身を見抜けなかったという事実が単純に判明する。
ということは、覚者と言われる人でも他人の悟りはわからんということか。
581 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 08:36:25 ID:8nM07T2W
>>580 日本は形骸化しているのであって、ビルマやチベットでは脈々と伝えられています。
師は弟子を選びません。ただ一人も悟った弟子を育てられなかったとか、
悟った弟子が早世しちゃったり、戦乱や飢饉などの要因で伝承が中断することもありますが、
サンガ、教団の政治化や世襲化が大きいと思います。
こうなると悟りと関係なく、良家出身者が中枢に付いたり、自分の子供が嗣ぐわけですから。
582 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 08:48:28 ID:gNhqMM5B
>>581 教団内の政治的力学はたしかにあるでしょうが、伝統教団ならば、覚者として伝法している(とされている)人物の発言力はかなり大きいでしょう。
空海が認めた弟子が連綿と続いたのなら、覚者(といわれる)弟子たちは組織の中枢で大きな発言権を持っていたはずです。
にもかかわらず、形骸化してしまったのなら、覚者といえど他者の悟りはわからない。
とはいえませんか?
もっとも、こんなこと言い出したら仏教自体崩壊するでしょうが。
583 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 09:09:42 ID:8nM07T2W
>>582 歴史を見ると少なくとも平安期まではちゃんとした伝承が行われていたようです。
特に天台本覚門が出た頃の平安末期の天台宗は、名僧を輩出しています。
覚者は他者の悟りは分かります。ですが、教団がどのようになっていくかは縁起によるので、それは覚者の力だけではどうしようもないのです。
これは釈尊がご自身の出身であるシャカ族が殲滅されるのを、
二三度止めたけど、縁起なので殲滅されるのを傍観したことに象徴されるでしょう。
弘法大師の場合は、どうも最も目を掛けていた弟子が早世されたようなのです。
この縁起が真言宗には大打撃だったのかもしれません。
584 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 09:18:45 ID:KupLbyt1
>>582 >もっとも、こんなこと言い出したら仏教自体崩壊するでしょうが。
どうして?
仏教は無師独悟が基本だろ。
お釈迦様がそういってるのだから、それは間違いないだろ。
585 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 09:24:34 ID:bftGlgnD
>>583 >覚者は他者の悟りは分かります。ですが、教団がどのようになっていくかは縁起によるので、それは覚者の力だけではどうしようもないのです。
つまり、弟子が革靴を履いたかどうかは判るが、大きな入れ物はわからないと。
ちょっとまってください。
伝法は、師〜弟子の間で行う親密なものであるはずです。(真言宗は存じません)
その間では、教団云々はまったく関係ないことでしょう?
にもかかわらずあなたは、伝法が形骸化したのは教団内部の力学によるものだ仰る。
矛盾がありませんか?
586 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 09:26:24 ID:KupLbyt1
>>574 >人間に自由意志がある、と思っていることが痛い。
人間に自由意志が無ければ宗教はいらない。
587 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 09:27:46 ID:bftGlgnD
>>584 はいはい。
お悟りが開けた立派なかたは、上座で大人しくして下さいね。
しもじもは勝手にやってますから。
588 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 09:39:49 ID:8nM07T2W
>>584 誤解、無師独悟は釈尊だけの例外。
私が知る限り仏教史では師のいない人はいません。
なぜなら、仏法僧の三宝帰依が仏教徒と呼ばれる条件であり、
この三宝帰依を師の前で唱えて始めて仏教徒となるからです。
大乗の場合は自誓受戒も可能だったと思いますが、
その場合も仏法僧が師として機能します。
日本の場合は、真宗がこの場合特殊ですね。
589 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 09:42:27 ID:KupLbyt1
>>398 >遺伝子の伝達などの様相をそのように解釈してる
遺伝子の遺伝は輪廻じゃなく転生でしょう。
親子は同じ「我」ではありえない。
親と子は別の生命個体とはいえども遺伝子を通して相続している。
まさに生命が転じた転生ではないか?
中論の輪廻は確かに輪廻転生ではないね。
あくまでも生死輪廻であり六道輪廻であり現生だけの輪廻だね。
そしてその輪廻は涅槃とまったく異ならない、というのが中論の主張だね。
(中論25−19)
590 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 09:47:26 ID:KupLbyt1
>>588 >私が知る限り仏教史では師のいない人はいません。
法華経に独覚・縁覚やビャクシ仏が出てくるから、釈迦だけが
独覚ということはありえないね。
ブッダは釈迦だけだとするのは後世のブッダの神格化だろ。
ブッダは唯一神ではない。
591 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 09:50:29 ID:8nM07T2W
>>585 いえ、そう話は単純ではありません。縁起ですから。
縁起であることを理解せず、決定論的に考えると現実と食い違います。
私の説は、伝授は正しく行われていたが、様々な因縁によって
形骸化したのでしょうということです。
政治とか世襲化は、その一例です。
592 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 09:53:01 ID:8sdQY1u+
593 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 10:00:17 ID:KupLbyt1
>>588 >私が知る限り仏教史では師のいない人はいません。
それだったら、現代の修行僧のつどい(サンガ)では
大パリニッバーナ経の「23臨終のことば」に伝承された
ゴータマ・ブッダの遺言を守っていないということだね。
サンガに師を立ててはいけない、長老は修行年数だけの
年功序列をもってつきあえ、「自灯明 法灯明」とせよ、
とくどいくらい遺言してるのに。
594 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 10:07:57 ID:8nM07T2W
>>590 >法華経に独覚・縁覚やビャクシ仏が出てくるから、釈迦だけが
独覚・縁覚は仏教徒ではないですね。
ビャクシ仏は独覚・縁覚と同じ意味です。
一世界一仏という考えは最初からありますよ。
過去七仏とか過去四仏や未来仏、千仏という考え方も同じことです。
過去七仏とか過去四仏や未来仏、千仏の場合、一度仏教が滅んで、宇宙が生滅を繰り返した時間での過去や未来を言います。
この他に多元宇宙論で同時間に多仏が出現するという考え方もあります。
ですが、いづれにしろ現在のシャカムニ・ブッダの仏教が存続する期間、世界ではブッダは釈尊のみと考えられています。
第二のブッダや小シャカといった尊称は、ただの譬喩です。
595 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 10:12:32 ID:8nM07T2W
596 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 10:33:36 ID:wH0wa0lV
>>593 仏教徒は皆、「弟子」ですが。
妙な解釈をしてサンガ・アナーキストになれと仏が仰ったように言うのは、笑えないジョークです。
597 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 10:39:22 ID:KupLbyt1
>>595 >どう読んだらそう誤解できるのでしょうか?
三世に渡って輪廻の主体となるものすなわち我が存在しないから
でしょ。
598 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 10:45:27 ID:8nM07T2W
>>593 ただのあなたの誤解です。
「自灯明 法灯明」ではなく、今の法を実践できる人身を
輪廻の暴流を渡る中州として、仏法という舟に乗って
涅槃の彼岸へ渡れという意味だとなんど言ったら分かるのでしょう。
599 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 10:48:29 ID:8nM07T2W
>>597 >三世に渡って輪廻の主体となるものすなわち我が存在しないから
>でしょ。
現在の私たちも主体となる我は存在しませんが、縁起して連続してます。
それと同じで死後も縁起して連続するけど我はないということです。
あなたは、無我も縁起も中論も全く理解してないどころが逆に解釈してるのです。
コテがあればスル〜できるのですが
600 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 11:02:41 ID:KupLbyt1
>>594 >世界ではブッダは釈尊のみと考えられています。
仏教とは「ブッダすなわち仏になるための教え」ではないとな?
成道・成仏がやはり仏教のめざすとこだろ。
それとも死んだら誰でも「仏」=ほとけだというのが本来の仏教だとでも
おもってるのかな?
601 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 11:08:46 ID:KupLbyt1
>>599 >現在の私たちも主体となる我は存在しませんが、縁起して連続してます。
それは自己には身体があり、生命の担い手として身体が相続してるからですね。
だから、その生命が滅すればもはや輪廻する担い手は無い。
602 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 11:16:45 ID:8nM07T2W
>>601 >それは自己には身体があり、生命の担い手として身体が相続してるからですね。
つまり自己が我であり、生命である。その主体は身体という物質だということですね。
これは全く仏教ではなく、ローカーヤタというインドの唯物論とほとんど同じです。
ですから、あなたは仏教を否定して唯物論を説いているだけなんです。
批判するにしても、トンデモ本じゃなくて真っ当な本を、読んでから来てくださいね。
誤読の王様、生命常識教さん。
603 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 12:02:02 ID:cDfJyUvs
しかし、隠居の執念はすごいなw
隠居の説を借りるなら、隠居の生物的生命が終われば隠居の妄想は終わるのだが、仏教の立場からすれば、隠居の生物的生命が無くなっても、似たようなのがごろごろ出てくると言うことかw
604 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 12:44:32 ID:KupLbyt1
>>602 >つまり自己が我であり、生命である。その主体は身体という物質だということですね。
なにが、つまったのだ。(笑い)
人の文章を勝手に言い換えないで欲しい。
主体なんて言葉はどこにも使ってないでしょ。
私は一切法空の立場だから、主体などどこにも無いよ。
自己は五蘊で身体=色はそのひとつの要素だという
釈迦の説をそのまま肯定するからね。
>ローカーヤタというインドの唯物論とほとんど同じです。
ローカヤタは現世の輪廻も認めないだろ。おれは中論と同じで
現世の輪廻は認めている。よく
>>589を読んでくれ。
605 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 15:03:49 ID:KupLbyt1
>>603 俺がここにアップした「情報」は俺の身体を離れて一人歩きしてる。
どこかのサーバやPCのメモリに記録されてる限りそれを感受した人に
何らかの相互作用を及ぼすだろう。しかし、これは縁起ではあっても
輪廻ではないね。
606 :
神も仏も名無しさん:2009/07/06(月) 20:11:47 ID:iyPFqikA
御都合主義の妄想狂に餌を与えて肥え太らしているだけだな。
607 :
神も仏も名無しさん:2009/07/07(火) 09:16:44 ID:YQf/TrfH
遊びやせむと 生まれける。
608 :
神も仏も名無しさん:2009/07/07(火) 12:35:25 ID:kJqs8anQ
釈尊は、生きることは苦であり、苦の原因は欲望であると悟った。
苦から逃避する方法も数々提案した。
1、欲望を掻き立てる世俗から離れ、無為に暮らすやり方
2、すべては実体のない幻だからどうでもいいわ、と納得するやり方
3、何かをひたすら唱えラリってしまうやり方
4、この世の苦を我慢しておけば来世でシアワセになれるという妄想に浸るやり方
5、わざと余計な苦痛を自分に与え、もともとの苦を忘れるやり方
6、現在のことをひたすら実況中継して苦を考えないようにするやり方
今2と6が流行している。
本気で言ってるのか?
610 :
神も仏も名無しさん:2009/07/07(火) 13:19:53 ID:kJqs8anQ
ま、実際に方法を提案したのは釈尊以降の人間だけどな
611 :
神も仏も名無しさん:2009/07/07(火) 13:36:28 ID:XLt1CsTc
>>608 >釈尊は、生きることは苦であり、苦の原因は欲望であると悟った。
>苦から逃避する方法も数々提案した。
釈尊が説かれてた道を一つと見るか、多数と見るかは難しい。
だけど、以下は表層的に過ぎて全く部外者が矮小化して捉える典型的認識ですね。
>1、欲望を掻き立てる世俗から離れ、無為に暮らすやり方
出家の梵行を言っているのでしょうが、それは最も初期の段階の戒のみを見ているに過ぎません。
その後で、定慧を修習しないとあまり意味ないです。
>2、すべては実体のない幻だからどうでもいいわ、と納得するやり方
これが定慧の誤解です。凡夫の意識とは違います。
>3、何かをひたすら唱えラリってしまうやり方
密教のことを言っているのでしょうが、何も分かってませんね。
>4、この世の苦を我慢しておけば来世でシアワセになれるという妄想に浸るやり方
これは浄土、それも妄想ではありません。
>5、わざと余計な苦痛を自分に与え、もともとの苦を忘れるやり方
>6、現在のことをひたすら実況中継して苦を考えないようにするやり方
この二つは仏教ではありません。
613 :
神も仏も名無しさん:2009/07/10(金) 15:09:44 ID:txg0iigU
ものごとが相互依存関係であることを理解するとなぜ執着を絶つことができるのでしょう。
614 :
神も仏も名無しさん:2009/07/10(金) 15:37:23 ID:ObQlhbBk
>>613 通常の意識で縁起や空を論理的に正確に理解しても執着は断てません。
三昧状態で縁起や空を理解することで執着が断たれます。
なぜなら、本質や実体などが実在しないことが体感・直観できるからです。
615 :
神も仏も名無しさん:2009/07/10(金) 17:05:32 ID:txg0iigU
三昧で執着を断つとその状態は永続するのでしょうか。
執着を断った状態は、酩酊状態とは違い頭はクリアで
あるといいますが、そのクリアな状態で次に何をするのでしょうか
>>608 いまの仏教をコンパクトにまとめている。参考になりました。
アートマンスレにコピペしたい。
617 :
神も仏も名無しさん:2009/07/10(金) 20:01:43 ID:y02+xRAH
>>613 >ものごとが相互依存関係であることを理解するとなぜ執着を絶つことができ
>るのでしょう。
自性のないものに執着しても、仕方が無いからですw。
618 :
神も仏も名無しさん:2009/07/10(金) 20:01:59 ID:ObQlhbBk
>>615 三昧だけでは執着は断てません。
三昧の精神集中状態で縁起や空を観じることで実体視を断つのです。
この状態を経験したら、できるだけその状態を持続することを続け、
最後は、その状態が自然な状態になります。
>>615 お釈迦様は「すべてをなし終えた。もう何もすることはない」
と仰っています。体験する以外に方法はありません。
>>614 さんは99%OKです。
三昧、サマディ、禅定から一たん出て
から観察の行が始まります。
620 :
神も仏も名無しさん:2009/07/10(金) 21:26:09 ID:ObQlhbBk
>>619 >三昧、サマディ、禅定から一たん出て
>から観察の行が始まります。
そうではありません。三昧中に観察するのです。
この観察が縁起観であり、空観で、ヴィパシャナー、ヴィパサナと言われるものです。
ちなみにヴィパシャナー、ヴィパサナは、三昧状態で行わないとほとんど効果ありません。
禅定から出て観察する方は、より高度な方です。
意識状態が禅定によらずとも、ある程度安定集中している方です。
体験する前に師を探すことが必要です。
師から教えを聞いて実践し、自分では気がつかない欠点を叩いてもらったりします。
師なしに三昧や観察などやっても何も起こらないか、起こっても勘違いするのが関の山だと言われます。
簡単に言うとサマタとヴィパッサナーはまったく別物です。
三昧=サマディ状態では一つの対象に
没入しきっているので
観=ヴィパサナは原理的に出来ません。不可能です。
ご自分で言葉の定義をもう一度調べた方がいいでしょう。
では、失礼。
622 :
神も仏も名無しさん:2009/07/10(金) 23:00:01 ID:ObQlhbBk
>>621 三昧が意識の一点集中(エーカーグラター)というのはよく理解しているつもりです。
しかしながら、そのような一点集中状態でないとヴィパサナになりません。
これは通仏教的理解です。
但し、ニューウェーヴ・テーラワーダでいうヴィパサナは、
ヴィパサナといっても四念処と思われます。
これだと、通常の意識状態、つまり散乱した意識で何かに念ずることから始めます。
これをヴィパサナと言っているようですが、本来は念(サティ)に他なりません。
念(サティ)を続けることで、その内、サマタ・三昧状態になり、
その時始めて、ヴィパサナになるのです。
人に意見する場合のでしたら、もう少し広い視野を持った方がいいと思います。
623 :
神も仏も名無しさん:2009/07/12(日) 20:16:35 ID:7QHmSyTj
624 :
神も仏も名無しさん:2009/07/14(火) 17:02:29 ID:JpoyN7bU
625 :
神も仏も名無しさん:2009/07/14(火) 17:42:19 ID:vj+/qFdN
age
おれもシャマタとビバシャナは矛盾しないと思うわ
>>622 スッキリしましたか?
オナニスト君。。
>>622 まあ、マジメに言うと君が初禅のレベルに
到ったなら君自身の誤りがおのずと理解されよう。
初禅に到っているのかな?
>>626 ぼくも矛盾しないと思う。
ソースはスマさんの沙門果経をとアビダンマ講義だが、それによると
釈尊の時代の出家比丘の方々の多くは、色界第四禅定に入ってから
観瞑想をして悟ったとされているそうだ。
それくらいの集中力が必要なんだと。
五根=信(saddha)、精進(viriya)、念(sati)、定(samadhi)、慧(panna)
止(samatha)
観(vipassana)
禅定(jhana)
そのとうりです。正確には無色界第4禅定まで行かれました。
釈尊は非想非非想所定という
サマタの究極を極めてなお悟れず
ヴィパッサナーを開発して悟られました。
631 :
神も仏も名無しさん:2009/07/14(火) 21:51:00 ID:4za+87J9
>>630 >ヴィパッサナーを開発して悟られました。
その「ヴィパッサナー」とやらを言葉で説明できたら釈迦の上に
なれると思わないか?
やってごらん!!!
632 :
神も仏も名無しさん:2009/07/15(水) 04:59:49 ID:xJxRmnvu
>>623 もう、その名前は忘れてください。
アーガマとは部派の伝承経典という意味ですよね。
私は、もともと大乗ですし、なんでも完全に知っているわけではありません。
特にパーリは弱いのです。
以上のように極めて偏狭な知識であることをご理解していただいた上で、
所見をのべるなら恒常な実体としてネハンが説かれることはないように思います。
633 :
神も仏も名無しさん:2009/07/15(水) 06:19:20 ID:xJxRmnvu
>>626 >>629 矛盾しないというより、ビパサナはサマタを前提にしていると言った方が正確でしょう。
>>629 そうです、サマタの集中力がなくてはビパサナにならないということです。
>>630 >無色界第4禅定
普通は「色界第4禅定」と言いますね。
例えば『種徳経』渡辺研二訳、
「第四禅にはいっています。かれは、その身体を、清浄で純粋な心で見たし、浸し、充満させ、あまねく満たしています。かれの前進は清浄で純粋な心でいっぱいになります」
「〔またこのようにして心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れのない、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、そのもの自身が堅固不動なものになると、〕かれは、知識による洞察に心を傾け、心を向けるのです」
まさに以下の通りです。
>>629 >釈尊の時代の出家比丘の方々の多くは、色界第四禅定に入ってから
>観瞑想をして悟ったとされているそうだ。
634 :
神も仏も名無しさん:2009/07/15(水) 07:45:17 ID:vmL5lXjy
>>632 >もう、その名前は忘れてください。
了解致しました。すみませんでした。
>所見をのべるなら恒常な実体としてネハンが説かれることはないように思います。
了解致しました。
∧∧ γ⌒'ヽ 空
(*゚ー゚) 〜i ミ(二i を
/ ,l 〜ヽ、,,_| |ノ 感
〜(__,UU r-.! !-、 じ ろ
`'----'
636 :
神も仏も名無しさん:2009/07/15(水) 18:20:08 ID:VBEZh8Z4
age
637 :
神も仏も名無しさん:2009/07/15(水) 20:00:48 ID:xJxRmnvu
638 :
神も仏も名無しさん:2009/07/16(木) 11:42:12 ID:HgyN4xOH
sage
さげ
640 :
神も仏も名無しさん:2009/07/16(木) 19:35:40 ID:43fAGlva
保守
相互依存関係のことを縁起だと思ってたけど、違うな。
紺碧のくう
643 :
神も仏も名無しさん:2009/07/17(金) 08:12:35 ID:MBjIcT4T
hosyu
サンスクリットについて教えて下さい。
<pratiitya>という言葉は<pratii>と<tya>という風に、二つの単語に分解できるのですか?
645 :
神も仏も名無しさん:2009/07/18(土) 10:07:07 ID:mE0zumzh
>>644 ちがいます。<prati>と<itya>に分解されます。
形態素分析すると{prati}+√i+{tya}となります。
{prati}は、動詞前接辞などといわれるもので方向、反対、反復、手段、方法といった意味を加えます。
√i 「行く」という意味の語根、日本語では√ik+u の√ik
{tya} 絶対詞を作る形態素、日本語では連用√ik+i あるいは√ik+te>itte の i あるいは te
日本語はあくまで譬喩で、似たようなかんじであって厳密に一致するのではありません。
646 :
神も仏も名無しさん:2009/07/18(土) 20:37:02 ID:Ihrd3Up/
age
647 :
神も仏も名無しさん:2009/07/19(日) 07:57:36 ID:dmfp4OEA
>>641 仰る通りです。
少なくとも、可逆的相依は無謬ではない、とは言い得ると思います。
空について?目的から入るべきだ。
本物について語ることはできないが、
(個々の事例での)
本物と偽物の違いについては語れる。
これは、誰でもある程度できることだ。
では、人によって何が違うのか?
本物と偽物という同じ話題なのに。
それが本物のつもりで渡したのに、
相手はそれが偽物だという事もある。
何が起きている?本物はどこにある?
どうやって見分ける?見た事もないなら。
これらが空に関する全ての法の主題だ。
端的に言えば、空とは本物という事だ。
その実現においての内部の構造は、
個々の事例に即してのみ現れる。
まず先に、実例を集める。
空の名は不要。
内実だ。
仏教での空においては、特に形容詞類や
易経の吉などが空に関連する諸機能の
運用例として役立つだろう。空以外との
関連については、あらゆる仮想世界、
特に、パワーゲームを通用させない
制約を実現したものを選ぶといい。
仮想敵の選択にも重要なヒントがある。
何の為に、何を変えようとしたのか?
どうやって?それでなぜ効果が?
649 :
神も仏も名無しさん:2009/07/21(火) 00:53:51 ID:ssyWnDur
空思想は、インドの上座部同様、
潔癖すぎて、衰退しただけの話だろ?
この世の栄耀栄華を望む俗物や、
神のふりして信者から金をむしりとろうとする俗物カルト共の
共感なんて一切いらないから(笑)
650 :
神も仏も名無しさん:2009/07/21(火) 08:08:50 ID:ssyWnDur
梵天だのアートマンだの、口先や、小手先のことで、
何をやろうとしてるのかねえ(笑)
カルトのカスどもは(笑)
651 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/26(日) 20:20:34 ID:fwnciJ+7
(^。^)保守してみたりする。
廓然無聖
653 :
神も仏も名無しさん:2009/08/07(金) 05:35:16 ID:Dx8nCLuL
654 :
析空:2009/08/17(月) 21:49:05 ID:7vsGiz61
いまさらですが「去りつつあるものは去らない」という説明は、正しいのでしょうか?
そもそも、<去りつつあるもの>に<運動>が付随しているという考えは、間違いでは?
アインシュタインの相対性理論によれば、去りつつあるものが静止していて、
観測者が運動している場合、物理法則的には全く同じ。
つまり、去りつつあるものは運動していない。
655 :
析空:2009/08/17(月) 22:01:19 ID:7vsGiz61
>>645 つづき
<運動>というものは、物体の移動という現象で、観測されるが、
<運動>という実体がある訳では無い。(空である)
「去りつつあるもが去る」という場合、去るという運動が二重に有ることになるが、
そもそも去るという運動は実有ではないから、何重にもかさなることが可能である。
従って、「去りつつあるものは去る」というのが正しい。
656 :
析空:2009/08/17(月) 22:11:46 ID:7vsGiz61
>>655のアンカーは
>>645ではなく
>>654でした。申し訳ありません。
おまけ
「未だ去らないもの」は、諸行無常であるが故に、やがて去る。つまり現在「去りつつある」。
「既に去ったもの」は、見えない所で、更に「去りつつある」。
「去りつつある」ものは、正にその故に「去りつつある」
657 :
神も仏も名無しさん:2009/08/17(月) 22:12:31 ID:F5nEpE35
>>655 二つの動きを相対化できた点で、竜樹のほうが上。
658 :
析空:2009/08/18(火) 16:14:57 ID:MaFqQhZC
>>857 竜樹は、「去りつつあるもの」に、<去る主体>と、<去る働き>を認めている。
アインシュタインの相対性理論によれば、「去りつつあるもの」に<去る働き>は存在しない。
659 :
神も仏も名無しさん:2009/08/18(火) 18:20:14 ID:PuWRvHPr
>>658 アインシュタインは、「去る」も「留まる」も「相対関係」であることを
見落としている。いずれも、縁起(関係性)により「働いている」のである。
相対性理論とか、読まずに思いこみで批判するのはやめましょう。
661 :
神も仏も名無しさん:2009/08/18(火) 21:25:41 ID:9Gzec2tK
>>654 >いまさらですが「去りつつあるものは去らない」という説明は、正しいのでしょうか?
これは中論第二章の命題ですね。
これについては日本語の翻訳された文章で考えるとナーガルジュナが
何を矛盾と考えているのかわからないという論証があります。
桂紹隆著「インド人の論理学」(中公新書)のページ206から210
に解説があります。
662 :
神も仏も名無しさん:2009/08/18(火) 21:29:40 ID:89pkCsnV
663 :
神も仏も名無しさん:2009/08/18(火) 22:32:56 ID:9Gzec2tK
「去りつつあるものはさらない」なんて日本語にならない
命題にあったらモズは原語でどういう意味だろうと解釈するのは
論理学の基本だね。論理とは言葉の論理なんだから。
664 :
神も仏も名無しさん:2009/08/18(火) 22:40:38 ID:89pkCsnV
>>663 論理学及び言葉こそが、障害になっていると思わないの?
665 :
神も仏も名無しさん:2009/08/20(木) 18:36:19 ID:KBlLPFtK
また、ものが他によって存在することが空性の意味である、とわれわれは言うのである。
他による存在には本体〔自性、以下同〕はない。〔『廻諍論』22〕
君はものが空であるということの意味を確かめないで、私のことばに本体がないから、
ものの本体は否定されない、と非難を投げかけているのである。このばあいには、
ものが他によって存在していることこそが空性である。なぜか。本体をもたないからである。
実に、他によって生じているものは、本体(自己存在)をもって存在しているのではない。
(それらには)自己存在性がないからである。なぜかというと、
(それらは)質料因や補助因に依存しているものであるからである。もし、
ものが本体として存在するならば、質料因と補助因とを取り除いてしまっても、それは存在するであろう。
しかし実際には、そのような場合には、ものは存在しない。それゆえに、
(ものは)本体のないものであり、本体がないから空である、と宣言されるのである。こうして、
私のことばさえも、他によって生じてきたものであるから本体をもたず、
本体をもたないから空であるということになる。
しかし、車とか壺とか布などは、他によって生じてきたものであるために本体が空であるけれども、
(それらはそれぞれに)木や草や土を運んだり、蜜や水やミルクを盛ったり、
寒さや風や暑熱から人を保護するというようなそれぞれのはたらきを行うのである。
『廻諍論』22及び自註 梶山雄一・瓜生津隆真訳注『龍樹論集』p157-158〔 〕は引用者補足。
自性(本体)とは、作られたのではないもの(非所作)であり、
また、他に依存(因待)しないもの(『中論』15.2)
例えば、もしも雷雨が本体を持つならば、雲等の諸条件に依存しませんから、雲が無くとも降ります。
したがって、雷雨が降ったり止んだりするならば、雷雨は本体を持っていません。
666 :
神も仏も名無しさん:2009/08/20(木) 19:59:41 ID:0yathhj9
>>664 言葉で表現されない物事は論理ではないだろ。
物の理は物理だし、心の理は心理だ。
論理は言葉の理だね。いかに言葉で物事の理を的確に
表現かだろ。
667 :
神も仏も名無しさん:2009/08/20(木) 20:14:17 ID:epJj8m+7
>>666 だから、言葉や論理の限界、有効性の範囲、その根本的欠陥などを
考えずに論理を盲信するなら、仏教は分からないでしょう。
>>667 やめときなさいよ。
この人達には一生仏教などわからないよ、多分。
>>666 仏書よりもヴィトゲンシュタインを読むのが
先だね。君の場合は。
670 :
神も仏も名無しさん:2009/08/20(木) 21:20:38 ID:epJj8m+7
>>669 それ案外いいかも?
黒崎宏本のウィトゲンシュタインから読んで中論を読む、
次に石飛道子先生の龍樹菩薩本を読む。
これなら、結構、分かるかも?
671 :
神も仏も名無しさん:2009/08/20(木) 21:44:53 ID:0yathhj9
次いで尊師は、ある人々は筏を求め、ある人々は筏を結んで、
あちらとこちらへ往き来しようとしているのを見た。
そこで尊師はこのことを知って、そのときこの感興のことば
をひとりつぶやいた。
沼地に触れないで、橋をかけて、広い深い海や湖を渡る人々もある。
木切れや夏草を結びつけて筏をつくって渡る人々もある。
聡明な人々は、すでに渡り終わっている。(大パリニッバーナ経)
こんな経典なんか読むだけですらすら解るじゃんか。
ほとんどの仏典はこんなもんだろ。
仏教の説法は哲学でも論理学でもない。
672 :
神も仏も名無しさん:2009/08/20(木) 22:06:52 ID:epJj8m+7
>>671 ダンマパダとかスッタニパータが難しいのが、分かってないな。
確かに、今のままでは一生、倫理ぐらいしか分からんだろう。
釈尊が『梵網経』で嘆かれたようにw
>>672 梵網経って偽経なの知らないんでしょうか?
君にとってはそんなもんかも知れないが、特にダンマパダとかスッタニパータ
は簡単なお経ですが。
何か?
>>671 ある意味で正しい。
674 :
神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 02:53:23 ID:A7uAwJlW
>>673 なんも知らんのは困るよ。
この文脈で『梵網経』と言えばパーリ『梵網経』であって
漢文『梵網経』を意味しない。
ダンマパダとかスッタニパータ、まさか中村訳で理解できると思ってないよな?
あれで理解できると思ったなら読解力を疑った方がいいよ。
誤解多いし。
675 :
神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 11:20:29 ID:Hg15enEP
仏教って、邪教です。
>>674 自分勝手にこの文脈って言われてもプ
君は何を読んだのかね?
答えられまい。
あのーあなたまさか、パーりーが読めないと仏教は解らないとか言い出さない
でしょうね。
ダンマパダやスッタニパータが解らないのは国語の授業サボってないかい?
とにかく、逃げてないで自分が読んだ出典も必ず記すようにしたほうが
いいぞい。
あれはダメこれもダメ、僕ちゃん何がいいんだか知りたいんでしゅが?
677 :
神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 14:00:58 ID:A7uAwJlW
>>676 なんのために書き込みしてんの?
>>671に対して
>ダンマパダとかスッタニパータが難しいのが、分かってないな。
>確かに、今のままでは一生、倫理ぐらいしか分からんだろう。
>釈尊が『梵網経』で嘆かれたようにw
という文脈だよ。この時点で話題の対象がパーリであることが分かるだろう。
パーリ『梵網経』と華厳系『梵網経』を知っている人なら容易にパーリ『梵網経』だと了解できる。
『梵網経』は、蔵パ漢と読んだよ。出典は以下だ。これは私が書いたものだから、出典を挙げても君には分からんからあげないだけなんだが。
これを読んでハッキリと釈尊が常識しか意識にない人がほとんど仏教を理解できないことを自覚されたし。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html
>これを読んでハッキリと釈尊が常識しか意識にない人がほとんど仏教を理解できないことを自覚されたし。
日本語でOK
なんだ学部の学生か?
よくあるタイプだな、自分が理解出来ない事を他人が易々と理解しちゃうと
嫉妬にもだえちゃう。
ブッダの教説はそんなに小難しいもんじゃありませんよ。
誰にも解り易いんだが、もう少しすれば解ると思う。
679 :
神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 15:48:22 ID:A7uAwJlW
>>678 そう思うのは勝手ですが、その思い込みを人に強制しないでくださいね。
『梵網経』でハッキリと釈尊は凡夫には小欲知足や品行方正みたいな
つまらないことしか理解できないと明言されてますから。
つまり、戒定慧でいえば戒に相当することしか理解できない。
中村訳などを読んで釈尊の教えが難しくないなどというのは、
甚だ不遜な話。結構集中力のついた禅定体験がなければ定慧については
何も理解できないのはハッキリしています。
精々、譬喩とか神話などと言って常識的に分かったつもりになるのが関の山。
これ以上は何も言いませんから。
680 :
神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 17:06:05 ID:7w5+3Vbo
>梵網経って偽経なの知らないんでしょうか?
梵網経に限らず
偽経か否かの判定はどういう基準なんでしょうか。
詳しい方おられましたら教えてください。
サンスクリット原本がないとか
訳文に、印度には無くて
訳出された当時の中国にしか無いものが出てくるとか、
というのは聞いたことがあります。
681 :
神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 17:28:29 ID:tWTZ0hPR
>>680 「偽経」か否か?と問う前に「真経」と言えるものがあるかどうかを
考えてみるべきだと思います。
釈尊在世当時にその言葉を直に記録したものがあれば、かなりの信頼性において
それが釈尊の真意と考えられるでしょうが、現存している
最古の経典でさえ、釈尊死後、数百年を経過しております。その間は口伝による伝承でした。
よって、所謂「経典」に記載されている事柄を全て、釈尊の教説と見なす
ことはもとより、「この経典に書いてあるのだから」という理由だけで、それを
釈尊の真意と解するのもいかがなものかと考えます。要は、個々それぞれにおいで真偽判断が必要だと思います。
682 :
神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 17:36:43 ID:A7uAwJlW
>>679 歴史実証主義に立つ仏教文献学では、インドで成立していない仮託された経典を一応、偽経としているようです。
ですが、縁起の立場に観れば、聖者であれば法身や受用身から教えを受けることも可能ですから、その教えによって悟りや解脱がもたらされるかもたらせないかという結果に基づいて偽経かどうかを判定するのが本来だと思います。
つまり、この立場では華厳系『梵網経』を偽経としません。
多くの解脱者、成就者を過去に出した縁起があるからです。
683 :
神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 17:49:21 ID:7w5+3Vbo
仏教文献学認の元で把握されると思うが法身や応身説法になると
無限に増えてしまう(笑い)
>>679 小欲知足や品行方正は詰らぬ事では無い深い禅定体験は戒の厳守が無ければ
成就しません。
むしろ瞑想より持戒が仏教では大切で瞑想は必ずしも必要とは言えん。
オウム的瞑想者は浜の真砂。
仏教には瞑想は要らないんですか。
八正道の正定はどうなるんでしょう?
へえ〜w
686 :
神も仏も名無しさん:2009/08/23(日) 21:17:17 ID:7C+FozUd
>>685 瞑想とはどういう意味で用いてますか?
精神集中の意味なら禅定・三昧・正定が正にそれです。
観想・ビジュアリゼーションの意味なら、もちろんその技法として使います。
心・意識の訓練という意味なら、全ての行がそうです。
そして『中観』の観というのは観法の意味です。
有身見、我見と呼ばれる実体視、実在視を遮断します。
これは三昧の集中力があることが前提になっていて、
凡人の散乱した意識で論理的に考えるだけでは、機能しません。
仏典を読んでいると特別、瞑想をしなくても悟った阿羅漢は数多く居ます
瞑想で悟る人も聴聞で悟る人もおるのじゃ。
八正道の正定も人間の普通の集中力でもいいんですよ。
瞑想を否定しているわけじゃないよ。
多様性があるって言いたいだけね。
688 :
神も仏も名無しさん:2009/08/24(月) 03:52:22 ID:nptrES/x
>>687 >八正道の正定も人間の普通の集中力でもいいんですよ。
無理、中には生まれながら集中している人もいるかもしれないけれど、
普通は無理。そういった勝手な解釈が仏教を混乱をもたらすので止めましょう。
仏典で教えを聞いて直ぐ悟った人というのは
それまでに禅定を治めていた人です。
初転法輪の五ビク、サーリプッタ長老などは、正にその例。
事実誤認です不通の在家の人たちもブッダの説法で悟ってるよ。
今生だけの修行とは限らないよね。
まさか輪廻否定の外道様ではないでしょう?
691 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 21:38:47 ID:VBDNX5/A
>>689 >事実誤認です不通の在家の人たちもブッダの説法で悟ってるよ。
在家だから三昧や集中力がないとは限らないでしょう。
現在でも在家で三昧の深い人や悟った人は沢山いますが、
だれも普通の集中力でいいという伝統仏教の先生を私は知りません。
事実誤認というなら、典拠を示してください。
仏教は、禅定による集中力を付けた後で、縁起観などによって無我・空を悟ることでずっと一貫しています。
色々な人がいるので、仏教以前に集中力を身につけた人は沢山いたと予想されます。
出家と在家の絶対的差異のヒント。
・牛飼いダニヤ、悪魔との対話
・出家の生活は負債の無い生活 (下の在家の生活と対の関係)
・在家の生活(日常生活、仕事)を営む上で、(種々の人間関係も含め)一切合財を捨て切ることは不可能
・遊行という形態から精舎での生活・定住・共同生活へ、という歴史的変容
・如来にも生じる煩わしさ(≒サンガ運営上の諸問題の発生)
・精舎生活という形態の在家生活という形態への漸近(→その極限形態としての現代日本仏教)
・出家者にできるのは99(或いは98)%までの捨断。在家者にできるのは97%の捨断。
brownさんどうしてるんだろーな
brown研究所に居るんじゃない
695 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 00:12:34 ID:3qfLWbk0
保守
箒で掃いた小石が竹を弾く。
竹が小石を弾く。
小石が竹を弾く。
竹は小石によって弾かれる。
小石は竹によって弾かれる。
あなたと小石と竹と、
すでに小石でない過去に小石だった物の影と
すでに竹でない過去に竹だった物の影と
すでにあなたでない過去にあなただった記憶の影と
なにも残っていない今
30棒だな。
698 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/09/05(土) 02:12:03 ID:+7FlYYs1
>>687 基本的に瞑想無しでは解脱できないでしょう。
瞑想しなくても“悟った”というのは解脱じゃないです。
「悟った=解脱」という誤解が起きるから、それは止めた方がいいです。
仏典中の弟子の話しに出てくる多くの悟ったという逸話は、
単にその一つの事柄やわだかまりが解けて正しい認識に至った、
というものに過ぎない。
「悟れたか?はい、悟りました!(或いは、まだです)」
なーんていう話は解脱(レベル)の境地とはまったく違う話です。
>>698 >基本的に瞑想無しでは解脱できないでしょう。
何当たり前なこと言ってんだ。
700 :
神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 13:40:33 ID:Cz7iC+Tl
スマナサーラ、小池龍之介、ティク・ナット・ハンの本がお薦め
701 :
神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 20:24:50 ID:bG87IxKR
>>700 どういう本勧めてんの? スレ違いも甚だしい。
702 :
暁:2009/09/08(火) 21:39:20 ID:Q3ks/Bgn
スマナサーラは般若経には否定的見解だろw
布教すな
703 :
神も仏も名無しさん:2009/09/09(水) 10:58:02 ID:VdEY+lKD
釣られないで冷静にしましょう
704 :
析空:2009/09/13(日) 21:36:05 ID:LhTlkuAp
いまさらですが、「去りつつあるものは去らない」という命題?は、
どのような意義があるのですか?
不去であるということは、何を意味しているのでしょうか?
705 :
神も仏も名無しさん:2009/09/14(月) 00:56:00 ID:p2UgGp9Y
706 :
神も仏も名無しさん:2009/09/14(月) 05:31:53 ID:DqozD+wS
>>704 中論の頌に書かれているとおりではないでしょうか。「去りつつある」には
「去る」という意味が既に含まれており、それが「去る」と言えば、「去る」
という動作を二度していることになります。言葉の論理矛盾を指摘したもの
です。
英語でも、"A walking man walks"としたら、英語になりません。
707 :
析空:2009/09/14(月) 11:10:49 ID:mhUOKiTZ
>>706 ご回答ありがとうございます。
「去りつつあるものが去る」のは【言葉の上】で矛盾するとしても、
【現実】には、【去りつつあるものは(やがて)去る】と言うことができます。
中論が詭弁だといわれるのはこの辺ですが、
【不去】ということが、それほど重要なのでしょうか?
708 :
神も仏も名無しさん:2009/09/14(月) 11:24:19 ID:oykZeNPa
>>707 アビダルマが自相とか自性という概念を導入して本質主義、実在論に傾斜した。
それが本質的な誤りで、それでは縁起も無我も空も理解できない、
つまり、悟れないので、正しい観法、ヴィパシャナーの方法を
明解に釈尊の教え通りに論理的に極限を尽くして説いたのが中論。
去るという言葉の対象として自相とか自性という本質はない、
というのが意味。
現在、最も正確な石飛先生の諸著と梶山先生の諸翻訳を読め。
中論自体は、ろくな訳がないから国訳にしとけ。
709 :
析空:2009/09/14(月) 11:24:47 ID:mhUOKiTZ
アインシュタインの相対性理論によれば、
去りつつあるものに、「去るという運動」は付属しません。
たとえば、宇宙船Aから宇宙船Bが去りつつある場合、宇宙船Bから見れば
宇宙船Aが去りつつあるのであって、このとき宇宙船Bには運動が付属していません。
宇宙船Aに去るという運動があるということが出来ます。
したがって「去るという運動が二重にあることには、ならない」ということが
言えます。
710 :
神も仏も名無しさん:2009/09/14(月) 11:38:44 ID:oykZeNPa
>>709 そういう他の思想を譬喩以外の根拠として持ち出さないようにしようね。
711 :
神も仏も名無しさん:2009/09/14(月) 14:12:03 ID:RQW8kfJJ
>>707 >中論が詭弁だといわれるのはこの辺ですが、
>【不去】ということが、それほど重要なのでしょうか?
「不去」は、「相互依存性・相対性」を説く中論では、少し浮いている感じ。
むしろ、日常言語上の論理矛盾を指摘した、戯論破壊の導入部だろう。相互
依存と無自性に直接関係付けるのは難しいと思う。強いて言えば、「去る」
という動作は、あくまで「去らない」との相対関係においてありうる、従って
無自性という意味か。
しかし、折空氏が、
>>708氏が引用するような学者たちの「借り物」の見解では
なく、自分の頭で考えよとされている努力は、価値あることだと思う。
712 :
析空:2009/09/14(月) 20:21:43 ID:mhUOKiTZ
>>705 ご紹介いただきありがとうございます。
大変参考になりましたが、不去との関連がよくわかりませんでした。
713 :
神も仏も名無しさん:2009/09/15(火) 18:36:32 ID:TXAx+U37
>>712 先の『六十頌如理論』19を応用すれば、
それやこれを得て生ぜられた「去ること」は、自性としては生ぜられたものではない。
自性として生ぜられたものではないならば、そのものが「去る」とどうして称し得ようか。
ということです。
714 :
神も仏も名無しさん:2009/09/15(火) 19:30:03 ID:huycyfn6
>>713 「それやこれや」とは、具体的には何ですか。誰の説明かは知らないが、
その説明では意味が全く不明です。「去るものは」と「去らない」との関係は?
715 :
神も仏も名無しさん:2009/09/15(火) 19:48:28 ID:oJ5FLW0M
時点t1の「去りつつあるもの」と、それより後の時点t2の「去ったもの」とが、時点t1→t2を貫いて「同じもの」であるか?
同じでないとすれば、「去りつつあるもの」は「去ったもの」にならない、すなわち「去らない」。
716 :
神も仏も名無しさん:2009/09/15(火) 21:03:04 ID:huycyfn6
>>715 それは、竜樹自身の説明とは違うね。竜樹は、「去りつつあるもの」には「去る」
という意味が既に含まれているから、それが「去る」と言えば、同時に二つの動作
をしていることになるという矛盾を指摘している。"A walkingman walks"では、
英語にならないのと同じ。
竜樹は、「時間的縁起」は否定しているのではないか。
同時に二つの動作をしていることが、どうして「矛盾」なの?
718 :
神も仏も名無しさん:2009/09/15(火) 22:36:10 ID:huycyfn6
>>717 「同じ動作」を、同時に二つやることが矛盾なのだよ。実施上、不可能。
??
(1)「動作A」をするものは、「動作A」をしない。←これが矛盾なのは分かるが、
(2)「動作A」をするものは、「動作A」をする。 ←これは矛盾か??単なる同語反復ではないの??
≪「○○を」「する」【もの】≫ という言い方が、そもそもアウトなんじゃね?
そこにあるのは、
≪○○≫のみなんじゃね?
722 :
神も仏も名無しさん:2009/09/16(水) 05:38:38 ID:oHruG1mj
723 :
神も仏も名無しさん:2009/09/16(水) 08:49:57 ID:HSQ6r/OS
>>715 中論では刹那滅をみとめないの?
中論も因中無果論ではないの?
724 :
神も仏も名無しさん:2009/09/16(水) 08:52:27 ID:oHruG1mj
>>723 認めません。違います。なぜなら、縁起・空・仮設だから。
725 :
析空:2009/09/16(水) 13:13:22 ID:ggyergS7
>>715 >>721 t1→t2は「おなじもの」だと想います。
現実にはt1の「去りつつあるもの」とt2の「去ったもの」はおなじですよね。
経典ふうの言い方をすれば、
「去りつつあるものがる」と言うことはできない。
しかし、「去りつつあるものは去る」のです。
726 :
神も仏も名無しさん:2009/09/16(水) 13:51:12 ID:oHruG1mj
>>725 おいおい、それじゃ無我・空はおろか、無常でさえも否定されちまうぜw
完全な反仏教思想だ。アビダルマさえ理解してない。
727 :
析空:2009/09/16(水) 15:59:06 ID:ggyergS7
>>726 縁起、空、無我、無常を否定するつもりはありません。
(どうしてそうなるのですか?)
竜樹のいう不去が、意味不明なだけです。
【無我というものは無い】と竜樹がいいましたが、これは、無我を、
何か実体のある<もの>という捕らえ方を否定していると解釈しています。
無我には自性は無いという意味です。
728 :
神も仏も名無しさん:2009/09/16(水) 16:09:02 ID:oHruG1mj
>>727 >【無我というものは無い】と竜樹がいいましたが、これは、無我を、
>何か実体のある<もの>という捕らえ方を否定していると解釈しています。
>無我には自性は無いという意味です。
それと同じこと。去るという自性はないということ。
去るという言葉が指示する実体、本質、自性、自相などと呼ばれるものが
縁起した仮設であって、無我・空に他ならないということ。
それだけ。中論1-25章は殆どそれだけをいろんな角度から説いている。
それは非常に高度で、パーリ・ニカーヤに殆ど共通する
北伝系アーガマを根拠として説かれています。
729 :
神も仏も名無しさん:2009/09/16(水) 16:29:06 ID:5BimcKg9
>>728 中論の頌での、竜樹の「不去」の説明とは、少し違うね。
竜樹は、「相互依存性・相対性」故に「無自性」と言っている。釈迦の
「これがあるから、あれがある」を正当に批判している。単なる「因果
関係」と誤解されるからであろう。
「相互依存性・相対性・関係性」という言葉を省略したら、竜樹の「空」
は充分には理解できない。
730 :
神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 02:58:58 ID:cAoR5nvX
>>729 >竜樹は、「相互依存性・相対性」故に「無自性」と言っている。釈迦の
>「これがあるから、あれがある」を正当に批判している。単なる「因果
>関係」と誤解されるからであろう。
では、テキストではどこ?
>>725 「去りつつある」は現在進行形ですよね?
「去る」という動作はまだ完了していません。
「去る」は「去りつつある」が完了したわけですから未来の動作です。
「去りつつあるものが去る」では、現在と未来が同居していることになります。
732 :
神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 03:17:15 ID:dMWil7JE
>>730 >では、テキストではどこ?
中論の頌、特にその1:10
「(実在性のないものに)これがあるとき彼があるというこの(法則)
は、得られないのである。」
釈迦の「これがあるから、あれがある」では、「これ」と「あれ」との
実在性が否定できない。少なくとも、否定されていない。だから、「業
報」などと誤解する者が出てくる。
733 :
析空:2009/09/17(木) 08:48:29 ID:qzAeDSPT
>>731 「現在進行形」と「過去形」という【記号】では、「現実を記述できない」ということではありませんか?
「言葉の上で矛盾するから」→「去りつつあるものは去らない」
とするなら、「単に言葉が現実を記述できていない」
→「言葉の限界」ということではありませんか?」
なぜなら、「去ったもの」ですら、見えない所でなお「去りつつある」ですから。
「去ったものは去りつつある」
734 :
神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 18:57:16 ID:1qNgUiFP
>>717 >同時に二つの動作をしていることが、どうして「矛盾」なの?
同時に二つの「去ること」が有るならば、
「去る主体」の無い「去ること」は不可能であるから、
一人が去るとき、二人の去る主体がいることになります(『中論』2.6参照)。
735 :
神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 19:00:39 ID:1qNgUiFP
>>725 第一に、前掲の
>>705、
>>713を念頭して下さい。
第二に、『中論』15.2に拠れば、自性とは他に因待(依存)しないものです。
そして、2.4を参照するならば、「現に去られつつあるもの」は「現に去られる」
即ち、「現に去られつつあるもの」に「現在の去る用き」が有る、ならば、
「現に去る用き(縁)」無くして、「現に去られつつある(果)」が有ることになるわけです。
736 :
暁:2009/09/17(木) 19:16:02 ID:bV6wzgOW
去りつつあるものが去るには二つの去る働きが随伴すると龍樹は主張する。
このような命題は、形式論理学においては誤謬を含まず、問題ないらしい。
例えば、「日本人は人である」のような命題を見てもわかる。
この「日本人は人である」の主語は「日本人」、この概念の中に述語の「人」とい
う概念がすでに含まれている。主語を分析して述語を導くわけだから不合理ではない。
つまりこれは分析的判断てことだ。
龍樹はこの「去りつつあるものが去る」という命題に、二つの去るはたら
きが付随するという。要するに彼は「去りつつあるもの」の「去」と、「去る」の
「去」は意味が異なるとみてたわけですね。だから分析的判断ではなく、拡張的
判断をしたと考えていたとか。
737 :
神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 19:16:12 ID:1qNgUiFP
>>732 >中論の頌、特にその1:10
>「(実在性のないものに)これがあるとき彼があるというこの(法則)は、得られないのである。」
>釈迦の「これがあるから、あれがある」では、「これ」と「あれ」との実在性が否定できない。
>少なくとも、否定されていない。だから、「業報」などと誤解する者が出てくる。
「此」と「彼」が実在しなければ、「此が有る故に彼が有る」が成立しない、
また、「此有故彼有」が実在する、というのは有部そのものです。
この偈はそうした邪見を批判しています。
「此」「彼」即ち「因」「果」は、『相応部』12.20系、『縁起心論』4、前掲「十喩釈」が説くように、
空法=(実在ではなく無常なる)縁已生法です。
1.10では、「この「これが有るときにかれが有る」ということは、どうしても成立しない」のは、
「自性の無い諸存在に有性は存在しないから」だとされます。
そして、「諸存在」が何故「無自性」なのかについては、「“縁って生じるもの”は、
何者も自性としては寂滅している(7.16)」からです。
つまり、有部の邪見批判、また、還滅門です。
738 :
神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 19:23:47 ID:1qNgUiFP
>>733 >なぜなら、「去ったもの」ですら、見えない所でなお「去りつつある」ですから。
>「去ったものは去りつつある」
桂先生の『インド人の論理学』p206-210には、2.1についての語釈が出ています。
それに拠れば、2.1の「已に去られたもの」は「現に去られない」の
「已に去られたもの」とは、過去の去る行為が進行しているときの対象ですから、
それが現在去られることはありえません。
詳細は、同書の同箇所を精読して下さい。
739 :
神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 19:30:56 ID:1qNgUiFP
「現に去られつつあるもの」は「現に去られる」というときの、
述語「現に去られる」は、主語「現に去られつつあるもの」を説明したもの、
と考えるならば、二重作用批判を免れる、と誤解する方もいるでしょう。
しかし、説明する/知らしめられるためには、
知らしめられるべき出来事が起らねばならない。
つまり「現に歩かれている道」が「現在歩かれる」という出来事が。
その場面で、二重作用批判が生じるわけです。
更に言えば、現に説明されるものが現に説明される、ならば、
結局、この場面でも二重作用化批判が付随します。
740 :
神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 19:35:52 ID:1qNgUiFP
>>723 >中論では刹那滅をみとめないの?
刹那の如き、極小の延長(拡がり、同一性、連続性)を設定するならば、
それが有でも、無でも、有かつ無でも、無常になりません。
2章等を応用すれば、現に同一であるものが現に同一ではない、とか、
現に同一ではないものが現に同一ではない、とかはありえませんからです。
>中論も因中無果論ではないの?
因中無果で結果するならば、果は無関係なものからも起ります。
喩えば、ヨーグルトは乳と無関係な砂からでも起るでしょう。
それは、縁起ではありません。
741 :
神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 20:11:04 ID:1qNgUiFP
>>735修正
×「現に去る用き(縁)」無くして、「現に去られつつある(果)」が有ることになる
〇「現在の去る用き(縁)」無くして、「現に去られつつあるもの(果)」があることになる
742 :
神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 20:24:04 ID:qDllNgnT
>>740 >現に同一であるものが
その「現」というのは何だ?
現がなければ同一も異も問題にできないね。
743 :
析空:2009/09/19(土) 11:28:04 ID:OzcZ714u
>>735 ご教授ありがとうございました。
ようやく意味がわかりました。
去るものとして見えているものは【自性としては不去】ということですね。
あくまでも【去るもの】は仮説(縁起)だと。
それならば中論の説明「去る働きが二重になる」とかいうのは、
いささか不適切な気がします。
【自性としては不去】 って、どういうことですかね?
745 :
析空:2009/09/19(土) 18:31:04 ID:OzcZ714u
>>744 「去るもの」に自性が無いのだから、「なにものも去らない」ってことですね。
>>745 つまり 「去るもの」 は幻だから、去っているように見えるけど
実は去るものなど存在しない、ということですか?
747 :
析空:2009/09/19(土) 21:45:09 ID:OzcZ714u
>>746 その通りです。
中論の主張する内容は、去るものは幻であり、なにものも去らないと。
現実に去っていく<もの>は縁起生であって、
その<もの>には実体は無いということです。
実体の無い<もの>が<去る>とは言えない、と中論は言っているのです。
748 :
神も仏も名無しさん:2009/09/19(土) 22:21:40 ID:9K9zSWGC
>>747 >中論の主張する内容は、去るものは幻であり、なにものも去らないと。
そんなことより、やはり、論理上の相互依存の概念を中核として、言語論理の
矛盾を極めて厳密に指摘しその結果として戯論であることを立証しているので
はないか。「幻」なら、主体と行為について、これほど厳密な分析は必要ないはず。
749 :
神も仏も名無しさん:2009/09/20(日) 03:51:38 ID:mBL1cpnc
「ブッダは輪廻を説かなかったか?」を全面展開した本をいつか石飛先生が執筆してくれることを願っています。
750 :
神も仏も名無しさん:2009/09/20(日) 05:24:46 ID:EjZPzjXM
>>747 おやおや、ちょっと前まで分からなかったのに、もはや断定ですか。
>>748 幻でないなら縁起・空でないんだが。
君の発想はただの実在論で思い込みに過ぎない。
>>749 そんな分かり切ったこと石飛先生が書く必要なし。
輪廻なくして仏教なし。既にそう石飛先生も書いてるし。
749
ただ自分としては石飛先生の考えている十二支の各支の具体的イメージが知りたいんですよね。
ちなみにreverieって人のサイトの輪廻についての見解が面白かったです。
752 :
神も仏も名無しさん:2009/09/20(日) 14:18:19 ID:RUG3tpAT
>>750 >幻でないなら縁起・空でないんだが。
>君の発想はただの実在論で思い込みに過ぎない。
「幻」なら、「相互依存・相対性」など、どこからも出てこない。竜樹を、君
と同様な「夢遊病者」「妄想患者」扱いにすべきではない。
「幻」どころか、竜樹は、厳然として実在する現実界の透徹した観察に基づき、
その「構成原理」を見出したのである。それは、万物に適用される、むしろ
「自然科学の基礎」である。「幻」なら、「すべて幻」で終わり。相互依存も
へちまもない。「相互依存性」の「説明のための便宜」として、「幻の如きもの」
と言っただけ。「幻」だなどとは、どこにも言っていない。
誤解してはならない。
753 :
神も仏も名無しさん:2009/09/20(日) 20:18:18 ID:EjZPzjXM
>>751 なるほど、これは失礼。それは私も読みたい。
>>752 わろた。オレは、インド註全てと、吉蔵註に、いくつかのチベット註と、
主要な文献学者の説を一通り読んだ上で言ってるだが、
君は何を根拠にそんな珍説を強く断定するんだ。
言っとくが現代語訳の中論にろくなものはないぞ。
754 :
析空:2009/09/20(日) 20:20:31 ID:iJOQel8u
>>750 理解するまで膨大な時間がかかっていますから。
自性や縁起、空、相互依存などは、すでに了解してます。
不去が意味不明だったのです。
【幻】の意味は、まだ検討の余地がありますね。
755 :
神も仏も名無しさん:2009/09/20(日) 20:50:52 ID:EjZPzjXM
>>754 いや、不去が分かってないってことは縁起も空も分かってないってことですぜ。
幻は仮設されたものでしょう。
756 :
神も仏も名無しさん:2009/09/20(日) 22:44:08 ID:xIMimA99
>>753 当時の学者は、当時の社会常識と知識水準で解釈した。
その解釈が、現代では通用しない(妥当ではない)という疑問は生じないのかね。
現代人は、現代人として解釈すべきであろう。
757 :
析空:2009/09/21(月) 09:17:12 ID:0KHMXxLz
>>755 竜樹の説く【八不】の意味が分からないだけです。
竜樹以前の空は理解しています。
【竜樹以前の空】→【析空観】
竜樹が、仮設された<もの>を幻と呼んでいることは、了解しました。
ことばによって現す事の限界と矛盾を
突いてるだけにすぎないのにアインシュタインとか持ち出されてもw
>>753 751
念の為付言しときますが
>>749は石飛先生のサイトにある小論の題名です。
断滅論でも恒常論でもない輪廻とか十二支と輪廻との関係とかがテーマです。
あと中論の注釈本を是非とも書いてほしいですね。
ブッダと龍樹の論理学には「自分の示した指針があれば中論は読めるはず」と書いてありますが常人には無理です!!
760 :
神も仏も名無しさん:2009/09/21(月) 11:54:32 ID:UFvhVHnY
>>727 マンガのひとコマひとコマのようなもんでは?
去りつつある者が描かれている1コマ目の絵と、
去った場面が描かれている2コマ目の絵とでは、違う絵(違う物体)ですよね。
私達が認識する現象は、瞬間瞬間が1コマ1コマの絵のように、
新しい受・想ですよね。
761 :
析空:2009/09/21(月) 15:08:09 ID:0KHMXxLz
>>760 最初のひとこまを、
近くで見る→未去
離れつつ見る→去時
遠くで見る→已去
という見方をすれば、未去も去時も已去も、
すべて同じ<ひとこま>です
762 :
神も仏も名無しさん:2009/09/21(月) 16:09:02 ID:CDfK84XN
>>760 それは、ゼノン的な、「動く対象」に対する時間的分析(「飛ぶ矢は飛ばない」
に過ぎない。竜樹は、一歩進んでいる。
竜樹の理論では、静止した対象も、一瞬ごとの新たな知覚により成立する。
一瞬ごとの、相互依存関係による「新たな」現実である。そこには、時間や
変化は介入しない。従って、「無常」を「変化」と解するのは、誤り。「変化」
は「変化しない実体」を前提とするからであり、「無常」に変化の観念を入れ
れば、「空」は成立しない。
764 :
神も仏も名無しさん:2009/09/21(月) 16:28:50 ID:UXsrxTkY
お前さんたちには悟りは無理だな。
766 :
神も仏も名無しさん:2009/09/21(月) 16:31:41 ID:UXsrxTkY
>>743 >それならば中論の説明「去る働きが二重になる」とかいうのは、いささか不適切な気がします。
>>738-739 を参照して下さい。
767 :
神も仏も名無しさん:2009/09/21(月) 19:03:34 ID:PWaLp6PN
>>759 ども、書いて欲しいですね。
一応、分かるつもりですが、石飛先生が書くと明解なんで。
768 :
神も仏も名無しさん:2009/09/21(月) 21:20:45 ID:KxBPWWih
>>767 他人の「借り物」の見解に頼らないで、現代人としての常識と知識に基づき、
自分の頭で考え、自分の見解を作り上げることはできないのかね。
そのために、釈迦は、自灯明・法灯明を教えた。それを実行したのが竜樹だと
いえるであろう。
769 :
神も仏も名無しさん:2009/09/21(月) 21:57:29 ID:PWaLp6PN
「種」と「芽」は 「不一不異」でいいんだよね?
771 :
神も仏も名無しさん:2009/09/21(月) 23:43:34 ID:UXsrxTkY
>>770 >「種」と「芽」は 「不一不異」でいいんだよね?
その通りですが、「不一不異」とは、「一義且つ多義」といった
中間的何某かではないことを注意して下さい。
>>771 レスありがとうございます。
>中間的何某かではないことを注意して下さい。
中間的なものじゃなくて、中道ということですね。
773 :
神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 02:12:19 ID:kDCXX1Tf
>>762 なんかめんどくさくなってきた。
身不浄・受苦・心無常・法無我の四念処で充分な気がする。
774 :
神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 02:40:27 ID:hyiGeBwH
>>773 >身不浄・受苦・心無常・法無我の四念処で充分な気がする。
それから、「縁起・空」の原理が、どうやって出てくるのか。
775 :
神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 15:15:15 ID:kDCXX1Tf
>>774 何をおっしゃいますやら。
目的は執着しないこと、煩悩を滅することです。
「縁起・空」ゆえに執着するなということ。
不浄・苦・無常・無我(空)であるがゆえに執着するなということ。
「縁起」は、苦・無常・無我(空)を説明するための理論として有効です。
一切は因縁により成り立っているから、無常・無我(空)と説明できる。
一切(十八界)は因縁により変化するから、
落ち着かない、満足しない、苦しい、
いてもたってもいられない刺激の波が押し寄せてくるのです。
独立して不動であれば、刺激が入力されないから、
刺激にいちいち反応する必要がないのです。
776 :
神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 15:22:24 ID:kDCXX1Tf
たとえば私が、誰かのレスを目にする。
目に画面の光が入ったら、それを文字に変換せずにはいられない。
変換したら、文章として読まずにはいられない。
読んだら今度はレスをしたくなる。
刺激に操られているかのように、次から次へと反応してしまう。
まるで、熱せられた鉄板の床の上で、
「熱い熱い」と足を上げて踊りを踊らざるをえないかのように。
なんて虚しいのでしょうか。
生きるということは、このように、ただただ刺激に踊らされているだけです。
命なんて、たかがそんなものです。
因縁により入ってきた刺激に、反応せずにはおれない、
反応しないことには満足できない。
苦しみの連続なのです。
苦しみがなくなったら、落ち着いて、もう踊る必要がなくなるのです。
777 :
借:2009/09/22(火) 23:10:00 ID:Ws0NLxwH
779 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/09/23(水) 06:54:28 ID:ptFkKkDc
780 :
閻魔大王:2009/09/23(水) 10:39:16 ID:lry1i1Qn
781 :
神も仏も名無しさん:2009/09/24(木) 12:15:26 ID:tLbNkLuZ
井筒俊彦先生の「大乗起信論を読む」は面白かった。「意識と本質」と同様な視点だけど。
782 :
神も仏も名無しさん:2009/09/24(木) 12:26:37 ID:Uwd8z5Ib
>>781 井筒先生は『意識と本質』まではよかったが『意識の形而上学』で逸脱した。
それについては津田先生の大乗仏典『十住心論』解説での批評がだいたい的を得ていたように思える。
自分に引きつけすぎのかんは否めないが。
783 :
神も仏も名無しさん:2009/09/24(木) 12:29:31 ID:XDqwxD+T
皆、「文献」から語るのではなく、「動物としての人間の身体」を基盤
として語れ。順序が狂っているぞ。
>>782 面白そうだね。調べてみるわ。
津田先生はまさに自分の経験以外信じないって感じだもんね。
反密教は途中で挫折した。あまりに文体、内容が濃すぎて。いつか
再チャレンジしたい。
>>783 座禅をたまに組むくらいだなー。これが真理につながるってのは全然ピンと来ないけど妙に気持ちよくて精神衛生上すごくいい。
785 :
神も仏も名無しさん:2009/09/24(木) 14:27:49 ID:TgAGez5b
自性によらないのであるならば、実在の自性によって、自性でないものが生じたらならば
、自性でないものが去る姿は、実在の自性なるものが、自性でない存在を追うことはでき
るのであるから、この世を去ることも実在の自性なる存在によって見ることはできる。
なぜなれば、実在の自性なる存在によって、自性でないものを創造すれば、実在の自性な
る存在によって、消すことも可能であります。
故に実在の自性なる存在の手の中に、自性でないものがあるからであります。
786 :
析空:2009/09/24(木) 14:34:03 ID:o/yDA+ob
>>783 動物としてではないでしょう?
あえていうなら「人間として語れ」ですか?
動物とは何か?
人間とは何か?
787 :
神も仏も名無しさん:2009/09/24(木) 15:40:50 ID:XDqwxD+T
>>786 アホですか。人間は、動物の一種。動物分類を参照されたし。
788 :
神も仏も名無しさん:2009/09/24(木) 16:38:39 ID:TgAGez5b
>>784 :神も仏も名無しさん
>座禅も心の健康に良いものですよ。
心のざわつきが落ちて、心がシンプルになるからいいですね。
789 :
析空:2009/09/24(木) 22:11:31 ID:o/yDA+ob
>>787 動物の一種?
類人猿の一種?
哺乳類の一種?
二足の歩行種?
生物の一種でもありますね?
なぜ「生物として」ではなく「動物として」なのですか?
「人間」は「動物」としてくくるより「人間」として括った方がいいのでは?
>>789 意識ではコントロール出来ない無意識的・身体的なものが人間の行動の大部分を規制していることに自覚的になれってことじゃないでしょうか。栗本慎一郎の言う暗黙知みたいなものが。そこに自覚的になることが無我の実感にも繋がっていくと。
791 :
析空:2009/09/25(金) 22:02:32 ID:Ze8VM1Gp
【動物】という発言に、人間としての【理性】を否定し、【本能】を重要視しているような、
【こだわり】を感じたので、ちょっと指摘してみました。
六十頌如理論〔龍樹著〕・・・法の本性と尊き師仏陀とは異ならないから、それを見
る者は仏陀を見るのである。真実には本性は一つに帰するのである。依存関係による生
起という、解脱に導き不生不滅である真実のすがた(法性)を知るならば、最も深遠な
涅槃という法を知るのである。世界は空性として一味のものであるから、空性には種々
さまざまのものがあるのでない。
[解説];生きとし生けるものの生命が「一如平等(本覚如来)」であることが
『空諦』の本義です。大宇宙と言う「一如なる普遍的な大生命」の中で、個々の
生命=『仮諦』が発現していますが、個々の生命は互いに切磋琢磨しながら仏へ
と進化しています。この調和と進化の絶妙な円融こそが『中諦』です。これが
「三諦円融(一心三観)」の極理妙理と考えられます。法華経においては、仏
敵とされるダイバダッタさえも天王如来として授記されています。そしてこの
<目覚め>こそが[妙覚]。具体的には、観世音菩薩は三十三身に姿を現し説法
しますが、三十三身説法とは、他ならない生きとし生けるもののことです。そ
して時に観世音菩薩は、我々の前に煩悩障・所知障として現れて仏道へと導く
のです。
http://nanbadenwa.sarashi.com/shugyou%20.htm
793 :
神も仏も名無しさん:2009/09/25(金) 23:27:27 ID:cwHIObmG
>>792 >生きとし生けるものの生命が「一如平等(本覚如来)」であることが
>
>『空諦』の本義です。大宇宙と言う「一如なる普遍的な大生命」の中で、個々の
>
>生命=『仮諦』が発現していますが、個々の生命は互いに切磋琢磨しながら仏へ
>
>と進化しています。この調和と進化の絶妙な円融こそが『中諦』です。これが
ただのアートマン説です。リンク先も同様。
密教も本覚門もそのようなものではありません。
八千頌般若経「第十章」(訳)・・・如来が見ないものは何もなく、聞かないものは何もなく、
わからないものは何もなく、知らないものは何もない。「第十二章」(訳)・・・如来の真如と、
(身心の五)要素の真如と、すべてのものの真如と、すべての聖なる声聞や独覚の真如とは
一つの同じ真如であり、存在や無存在という多元性を離れたものである。「第三十一章」(訳)
・・・あらゆるものの真如、および如来の真如とは、まったく同一の真如である。
http://nanbadenwa.sarashi.com/
>真如
・・・はアートマンではありません。そもそも八千頌般若経がアートマン説
など説くわけがないでしょう。真如は大乗起心論などにもあるように、法界
と同義。法界は、個にして個にあらず。多にして多にあらず。不一不異なる
をもって法界となす。詮ずれば八不中道となる。
六十頌如理論〔龍樹著〕・・・真実には本性は一つに帰するのである。
ちなみに、無霊魂説は断見といって、外道の教え。
八不中道においては、不断不常。すなわち霊魂説も常見と言って間違い。
真如においては、不断不常。断見にも常見にもとらわれない自在なる生命。
797 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 00:43:41 ID:te3ZBhux
>>795 そりゃ『般若』や龍樹菩薩はアートマンは説かないでしょ。
しかし、君の以下の解釈は、アートマンという記号は使わなくてもほとんど同じことを指しているんだが。大宇宙、マクロコスモスがブラフマンとどう違うのか?
>>793 >>生きとし生けるものの生命が「一如平等(本覚如来)」であることが
>>
>>『空諦』の本義です。大宇宙と言う「一如なる普遍的な大生命」の中で、個々の
>>
>>生命=『仮諦』が発現していますが、個々の生命は互いに切磋琢磨しながら仏へ
>>
>>と進化しています。この調和と進化の絶妙な円融こそが『中諦』です。これが
>>796 >ちなみに、無霊魂説は断見といって、外道の教え。
>八不中道においては、不断不常。すなわち霊魂説も常見と言って間違い。
>真如においては、不断不常。断見にも常見にもとらわれない自在なる生命。
ヒンドゥーも同じようなことを言うんだな。有無を越えたブラフマンとか。
それと「自在なる生命」はどう違うんだ?
大日如来とか法身という場合、空だぞ、それを生命なんて決していわないからな。
これは単なる記号の問題ではない。
論点が多いのでまず、本覚について・・・
金剛三昧経「序品第一」・・・爾の時尊者大衆に囲遶され、諸大衆の為に
一味真実無相無生決定実際本覚利行と名づくる大乗経を説けり。若し是
の経を聞き、乃至一四句の偈を受持すれば、是の人、則ち仏智地に入る
を為し、能く方便を以て衆生を教化し、一切衆生の為に大知識と作らん。
http://nanbadenwa.sarashi.com/ >一味真実無相無生決定実際本覚利行
これが「本覚」という文字が経典に出てくる最初といわれている。
>宇宙
八千頌般若経に説く、「すべてのもの(の真如)」とは、まさに全てのもの
で=宇宙と同義でしょう。宇宙とはまさに全てのものだから。
以下の、「聖なる声聞や独覚の真如とは一つの同じ真如であり」とは、宇宙
と仏弟子の真如が同一、という義である。これを生命と解してもおかしくな
い。事実、高野山真言宗などでも、「大日如来を宇宙の生命」認めている。
真言宗醍醐派・長福寺のサイトより引用
http://www.chofuku-ji.com/introduce.html 「仏の放つ光明が遍く照らすことから遍照、または大日と呼ばれる大日如来は、
宇宙生命の本体、あるいは宇宙一切の存在を仏様としたものです。その名前は
太陽を形象してつけらえているのですが、その智慧の光そして慈悲の働きが、
昼夜を問わず、また影・日向をつくることなく、ありとあらゆる人々に及ぼし、
太陽をも超越したものであるということから、大日と名付けられているのです」
以上、引用終了。これはこのサイトだけではなくて、ほとんどの真言宗では、
大日如来を宇宙生命の本体と同義に扱っています。いちいち紹介できなくて残念。
有名な密教学者である、宮坂宥勝著『密教思想論』(筑摩書房、1984年、p. 174)
にも・・・
「マンダラの実践的な意図とするところは、宇宙生命によって象徴され、宇宙生命
それじたいを本体とする法身大日如来と自己との合一をめざす(我則大日)ところ
の、いわゆる即身成仏の実現にある」
・・・とあります。法身大日如来が宇宙生命であることは、常識中の常識で、それ
を否定するのは、いかがなものか。
te3ZBhuxは、ちゃんと仏教関係の書籍を読んでないようですね。いわゆる
野狐禅のような自分勝手な悟り。
>法身大日如来が宇宙生命であることは、常識中の常識
一神教であり仏教ではあり得ませんな。
中論の西洋哲学者による注釈書、矢島羊吉「空の哲学」はとっかかりとしてはオススメ。薄くて読みやすいし独創的。
最後の二章が龍樹と別人説なのはやや疑問。
中村元氏、黒崎宏氏もたしか別人説だった。
804 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 07:08:45 ID:te3ZBhux
>>798 >金剛三昧経「序品第一」・・・爾の時尊者大衆に囲遶され、諸大衆の為に
>
>これが「本覚」という文字が経典に出てくる最初といわれている。
http://iriz.hanazono.ac.jp/frame/data_f00a_077.html >古来、一味真実無相無生決定実際本覚利行を説くものとして法華部に入れ、
>特に「入実際品第五」の理入と行入の説は、菩提達摩の「二入四行論」の
>根拠とされてきたが、水野弘元の「菩提達摩の二入四行説と金剛三昧経」
>(『印仏研究』六、昭和30年)によって、唐代初期の偽経であろうとされる。
>古来の「経録」に北涼失訳とするのと、本経の内容をなす九識説や、
>般若呪が時代的に新しすぎるからであり、新羅の元暁が『金剛三昧経論』一巻を作るまで、
>この経について言及した人はない。初期禅宗と本経との交渉は、
>新出の敦煌資料によっても裏づけることができ、
>特に古いチベット訳の存することも注目されはじめている。 (禅籍解題 77)
水野先生論文:
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006992202 と説かれるように、実証主義的歴史の立場を取るなら『金剛三昧経』は使えない。
テルマを認めるような立場に立つなら歴史を語ることは意味をなさない。
さて、君はどっちにする?
チベット訳は東北135であるが、翻訳跋文を欠くので不明だが、シナからの訳と思われる。
これについてはよく調べないと断定できないが。どうも『プトゥン史』にも載っていないようだ。
805 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 07:16:17 ID:te3ZBhux
>>798-800 多くの真言宗は近代以降、ブラフマン説を採っているので話にならない。
これは近代真宗教学がアミダ仏をキリスト教の神のように解釈したのと大体同じ。
どちらも方便としてはありかもしれないが、本来の仏教から逸脱している。
我則大日とか入我我入というのはインドのグル・ヨーガと同じで、
もちろん正しいが、そのグルや大日如来は空なのである。
それを有とか生命、プルシャなどとするのは近代真言宗と
チベットのチョナン派ぐらいで、間違いなくアートマン説で話にならない。
806 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 07:22:16 ID:te3ZBhux
>>803 別人説は根拠がない。ただ自分が読めないだけ。
全てのインド註はもちろん同人説。
私は1-25は勝義的、26-27は世俗的論法と解釈する。
つまり、1-25で悟れないものは26-27で地道に学べという慈悲に満ちた論なのである。
このようなトップダウン的教え方は、アティシャの口伝を
チェーカワが文字化したと言われる『ロジョン・トゥンドンマ』に明瞭である。
807 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 08:22:16 ID:l0cXWCti
>>805 同意。
大日如来などは、個我への執着を大我に置き換えただけで、
存在したい、消えたくない、という執着からは脱却できていない。
大我を仏とみなすことで、宇宙や生命を美化して
ポジティブな意味づけをしたがる。
それも「わたし」が存在することへの執着だと思います。
生きることは苦しみです。
生きることから卒業させてくれるのが仏教であり、
生きることを美化して、生きものを生かすような行為を仏はしないはず。
大我は私達を生かすもの。
大我(大日)はむしろ仏敵です。
大日は、仏の皮をかぶった悪魔です。
無常、苦、無我が大乗式に無常、空、縁起に変わったときから
密教の大楽思想がそこに内包されていたんだよ。
だから容易にヒンデゥーと融合した。
こうした各人の解釈のやりとりができることが2ちゃんの最大のメリットだね。
マイナー分野だと周りに仲間がいないし
誰もが大学で仏教研究するわけにもいかない。
あなたはうまく2ちゃんを使っている
賢いひとですね。
>>806 石飛さんは順観が輪廻の過程、逆観が解脱の過程と対応させてますね。806さんの考えに近いかも。
>>810 他板でたまに血が逆流するほど頭に来て罵りあったりもしますw
>金剛三昧経
については了解。しかし、以下の趣旨は明らかに本覚思想に通じると思うのだが?
>八千頌般若経に説く、「すべてのもの(の真如)」とは、まさに全てのもの
>で=宇宙と同義でしょう。宇宙とはまさに全てのものだから。
>以下の、「聖なる声聞や独覚の真如とは一つの同じ真如であり」とは、宇宙
>と仏弟子の真如が同一、という義である。これを生命と解してもおかしくな
>い。事実、高野山真言宗などでも、「大日如来を宇宙生命」と認めている。
813 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 14:11:34 ID:qLeWpXqq
ここのスレの流れとして、空=実体がない、と無=存在がない、を
混同しているのではないかと思う。空=実体がないとは、存在が消
滅してしまうことではない。それではアビダルマ教学の「灰身滅智」
と同じで完全な唯物論になってしまう。そういうアビダルマ教学の
間違いを正すために、龍樹は「中論」を説いて、そういった極論を
排除したのに、その「中論」が唯物論のように解釈されては本末転
倒といわざるを得ない。
涅槃
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
『このような「さとり」が灰身滅智、身心都滅である。灰身滅智(けしんめっち)
とは、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう。身心都滅(しんしんとめつ)
とは、肉体も精神も一切が無に帰したすがたをいう。このことから、これらは一種
の虚無の状態であると考える事ができるため、初期の仏教が、正統バラモンから他
の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、naastika)と呼ばれたのは、この辺り
に原因が考えられる。
ナースティカとは呼ばれたが、釈迦が一切を無常・苦・無我であると説いたのは、
単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚
したからである。
この立場で、のちに無住処涅槃という。「さとり」の世界では、無明を滅して智
慧を得て、あらゆる束縛を離れて完全な自在を得る。そこでは、涅槃を一定の世
界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだ
りするのではなく、全てに思いのままに活動して衆生を仏道に導く。
このような涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではな
く、煩悩が転化され、慈悲となって働く積極的な世界である。その転化の根本は
智慧の完成である。ゆえに「さとり」が智慧なのである』
>多くの真言宗は近代以降、ブラフマン説を採っているので話にならない。
大日如来はブラーフマンと考えられなくもないので、使用には注意している。
大日如来は、原語でマハービルシャナブッダ。華厳経で説かれる毘留遮那
仏の根源的な存在と言われている。華厳経で説かれている、毘留遮那仏は、
華厳経学で言うところの、事〃無碍円満(重々無尽法界縁起)思想を根底に
持っており、ヒンヅゥ教のブラーフマン思想とはまったく違う概念。その違いも
理解できないとは、笑止w しょせん野狐禅の輩w
現実の真言宗は仏教のヒンデゥー化と
言ってよい。
795 :神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 00:28:17 ID:qLeWpXqq
>真如
・・・はアートマンではありません。そもそも八千頌般若経がアートマン説
など説くわけがないでしょう。真如は大乗起心論などにもあるように、法界
と同義。法界は、個にして個にあらず。多にして多にあらず。不一不異なる
をもって法界となす。詮ずれば八不中道となる。
六十頌如理論〔龍樹著〕・・・真実には本性は一つに帰するのである。
796 :神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 00:31:24 ID:qLeWpXqq
ちなみに、無霊魂説は断見といって、外道の教え。
八不中道においては、不断不常。すなわち霊魂説も常見と言って間違い。
真如においては、不断不常。断見にも常見にもとらわれない自在なる生命。
ウダーナ・・・パーリ語のみ伝わる小部の計15経の第三。その重要性はきわめて高い。
『ウダーナ(小部経典1,1より)』〔増谷文雄著:仏教講義〕・・・まこと熱意を
こめて思惟する聖者に、かの万法のあきらかとなれるとき、彼の疑惑はことごとく
消え去れり。縁起の法を知れるがゆえなり。
http://nanbadenwa.sarashi.com/ 『かの万法のあきらかとなれるとき』・・・とは、あらゆる存在(宇宙)の本質論こ
とで、釈迦が存在の無を説いたなど、ありえない。
819 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 17:10:18 ID:Kd+sfCtC
>>818 >六十頌如理論〔龍樹著〕・・・真実には本性は一つに帰するのである。
これ第何偈ですか?
瓜生津訳を簡単に確認した限り、該当箇所が無い。
>六十頌如理論〔龍樹著〕・・・真実には本性は一つに帰するのである。
『大乗仏典』〈14〉龍樹論集(中央公論社)瓜生津隆真・梶山雄一共訳
821 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 17:28:37 ID:Kd+sfCtC
>>820 >六十頌如理論〔龍樹著〕・・・真実には本性は一つに帰するのである。
>『大乗仏典』〈14〉龍樹論集(中央公論社)瓜生津隆真・梶山雄一共訳
そんなこと知ってるよ。
>>819で「瓜生津訳」と言ったろ。
で、『六十頌如理論』の第何頌かね? と聞いている。
六十頌如理論〔『大乗仏典』〈14〉龍樹論集(中央公論社)瓜生津隆真・梶山雄一共訳〕
・・・法の本性と尊き師仏陀とは異ならないから、それを見る者は仏陀を見るのである。真
実には本性は一つに帰するのである。依存関係による生起という、解脱に導き不生不滅であ
る真実のすがた(法性)を知るならば、最も深遠な涅槃という法を知るのである。世界は空
性として一味のものであるから、空性には種々さまざまのものがあるのでない。
http://nanbadenwa.sarashi.com/
823 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 17:48:20 ID:Kd+sfCtC
>>822 君さ、日本語が読解出来無いの?
質問は、「第何頌」か、と聞いている。
それも出来無いなら、せめて頁数を示すのが当然。
というか、君の引用文は、龍樹『六十頌如理論』ではなく、それに対する月称釈だろ。
つまり『六十頌如理論』として引用されるべきものではない。
ここは中観スレなのだが、違いも分からん? なのに御高説?
八千頌般若経「第十二章」(訳)・・・(すべてのものの真如は)一でもなく、
多でもなく、尽きることもなく、変化することもなく、不二であって、二つ
に分けられないものだからである。「第二十七章」(訳)・・・存在してもいな
いし認識されてもいない、(不生であり真如である)有情たちのために、
菩薩大士は甲冑(=空)で身を固める。「第二十八章」(訳)・・・虚空が無尽
であり、あらゆるものが不生であるから、知恵の完成は無尽なのである。
如来蔵経(訳)…(仏が世に出現しようとしまいと)一切の衆生は常に仏をその
内に蔵している。
http://nanbadenwa.sarashi.com/
>(すべてのものの真如は)不二であって、二つに分けられないものだからである。
やはり般若の立場からは、「万法一如」と言う結論が導き出される。それはウダーナ
でお釈迦様が、『かの万法のあきらかとなれるとき』と説かれたのと機を一にする。
『ウダーナ(小部経典1,1より)』〔仏教講義―根本仏教と大乗仏教の会通を語る
増谷文雄著 (校正出版社)
まこと熱意をこめて思惟する聖者に、
かの万法のあきらかとなれるとき、
彼の疑惑はことごとく消え去れり。
縁起の法を知れるがゆえなり。
827 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 19:03:42 ID:te3ZBhux
>>808 誤解ですね。
>>811 石飛先生は最も尊敬する文献学者です。
近いというか、解釈上多大な影響を受けてます。
>>821 どうもとんでもないドキュンかもw
頁数も言えないで、内容適当に読みかえてたりしてw
829 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 20:19:53 ID:te3ZBhux
>>828 そんな適当な言語記号の一致だけで大雑把に断定されてもなw
君の見解と石飛先生の見解は全く違うぞ。
>>六十頌如理論〔龍樹著〕・・・真実には本性は一つに帰するのである。
>>『大乗仏典』〈14〉龍樹論集(中央公論社)瓜生津隆真・梶山雄一共訳
この頁数を明示できないんなら、もう発言しないでくれるかな?
君のはただの妄想だよw
830 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 20:32:21 ID:nI8rId9i
さて?龍樹の思想は一如なのか否か?
部外者ですが、ちょっと興味がありますね。
わかりやすく論証してもらえるとありがたいです。
>龍樹の思想は一如なのか否か?
ってゆうか、般若の思想が「一如」だから。龍樹は八千頌般若経等の仏典から
「八不中道」を抽出したのだから、原典は八千頌般若経等の仏典に求めるべき
で、龍樹の思想がどうかなんて最終的に関係ない。仏教はお釈迦さまの言葉こ
とが唯一真実の教法で、弟子の教説などに興味はない。
832 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 21:30:33 ID:nI8rId9i
>>831 「龍樹の思想なんて関係ない」
ここは中論スレなのでは?
大樂金剛不空眞實三摩耶經
般若波羅蜜多理趣品
時薄伽梵無量無邊究竟如來爲欲加
持此ヘ令究竟圓滿故復説平等金剛
出生般若理趣所謂般若波羅蜜多無
量故一切如來無量般若波羅蜜多無
邊故一切如來無邊一切法一性故般
若波羅蜜多一性一切法究竟故般若
波羅蜜多究竟金剛手若有聞此理趣
受持讀誦思惟其義彼於佛菩薩行皆
得究竟
>一切法一性
一切の法(存在)が一つの性・・・ということは、約めれば「萬法一如」
となる。
だから密教はいらんつうの。
無量義経説法品第二
一切諸法はおのずから本・来・今、性相空寂にして、無大・無小・無生・無滅
・非住・非動・不進・不退、なお虚空のごとく二法あることなしと観察すべし。
>一切諸法は…二法あることなし
これも、一切の諸法(存在)は、不生不滅等の相対を絶したることを意味して
いる。存在の認識不可得性…「萬法一如」を説く。
理趣経
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
玄奘訳の『大般若波羅蜜多経・第十会・般若理趣分』が『理趣経』の異訳と見做
されるため、『理趣経』は「般若経」系テキストを原流として、『真実攝経』を
編纂したグループが密教経典として発達させたものであると考えられている。
…理趣経が密教だなんて誰が決めた?
禅で読むか?真宗で読むか?法華で読むか?
このうつけものが!
真言で朝夕読んでるのを知らんのか、愚か者めが!
妙法蓮華経安楽行品第十四
そのときに文殊師利法王子菩薩摩訶薩、仏に白して言さく、
(中略)
一切の法を観ずるに、みな所有無し。なお虚空のごとし。堅固なることあるこ
となし。不生なり不出なり。不動なり不退なり。常住にして一相なり。これを
近処と名づく。
>一切の法を観ずるに…常住にして一相なり。
これも、一切の諸法(存在)は、不生不滅等の相対を絶したることを意味して
いる。存在の認識不可得性…「萬法一如」を説く。
839 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 22:09:03 ID:te3ZBhux
>>836 不空三蔵、弘法大師以来のシナ・日本密教、
チベット仏教でも少なくともプトゥン以来ずっと密教だぞw
インドでもアーナンダガルバが密教として注釈してるしな。
だから、何? 密教は全部間違っているとでも言いたいわけ?
密教の経典であろうが、何であろうが、経典であることには違いがなかろうが。
>>841 おまえの立場はどこにあるんだ?
ナーガルジュナなのか、空海なのか?
そもそも理趣経を読めるのか?漢音だぞ。呉音じゃないぞ。
意味わかってるのか?では
密教の何処が優れているのか述べてみよ。
今日は寝るが明日読む。
朝まで調べてみよ。
↑失礼。840宛て
大方広仏華厳経
了三世法平等 智身普入一切世間之身 妙音遍至一切世界 不可窮尽猶如虚空
>了三世法平等
三世の法(存在)が平等であることを観じ了った…とは、平等を一如と
解すればまさに、「萬法一如」となる。
仏説観普賢菩薩行法経
ときにもろもろの世尊、大悲光明をもって行者のために無相の法を説きたもう。
行者、第一義空を説きたもうを聞きたてまつらん。行者聞きおわって心驚怖せ
ず。ときに応じてすなわち菩薩の正位に入らん。
>無相の法 >第一義空
空も無相も三解脱門と呼ばれ、詮ずるところ、森羅万象の認識不可得性…
すなわち「萬法一如」を説く。無生法忍と同義。
846 :
神も仏も名無しさん:2009/09/26(土) 22:32:10 ID:te3ZBhux
>>842 どうみても、もう唯一の生命理論で何でも無理矢理読んじゃう人なんで、
スル〜するのが最良でしょ。
なんも知らんし。誤り指摘されても開き直ってるし。
真如
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真如 (しんにょ、tathata、 bhUtatathatA भूततथता)は、「あるがままであること」
という意味があり、真理のことを指す。
金剛般若経 のサンスクリット本に出て、「真如性」と訳されている。「真」とは真
実、「如」とは如常の意味である。諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、
常住であり不変不改であるから如と言うとされる。
真如はまた、自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性と同体
異名であるとされる。
一真如
大乗起信論 に、「真生未分の一心」とあり、一真法界には差別がないことを言う。
どうせ、このスレは、人格攻撃しかできない人間ばっかりのスレだとわかったから、
相手にしないよ。
重箱の隅をつついたり、知っていることをひけらかして勝ったような気分に
なりたいんだろ?
>>846 開き直るっていうか
おれ無視されてるもんね(笑
こいつも清き菩薩の位なんだろうね、
密教では。。
おやすみ
>大乗起信論 に、「真生未分の一心」とあり、一真法界には差別がないことを言う。
差別なき、一真法界とは、まさに「萬法一如」のことではないか。一つの真なる法界
=宇宙には差別がなく、平等なる存在こそが、真如の義。
松本史朗先生の「縁起と空」の十二縁起説についての文を読んだ時に衝撃が走った。
本自体はダチュバータ批判以外は素人にはいまいち関心が持てない内容が多かったんだけど。
学説の解釈云々じゃなくて松本先生の体験した濃密な時間、一回きりの絶対的な時間が伝わって来てそれ以来仏教が自分の関心の中心になった。
読み返してもなぜか追体験できない。
>松本史朗先生
この人は、学者としては優秀だが、仏教徒としては最悪で、へたすると地獄に
堕ちる可能性がある。と言うと釈迦は、地獄など死後の生命を説いてない、と
反論されるかもしれないが、中村元訳の原始経典「スッタニパータ」を読んで
から、その反論をすべきである。原始経典「スッタニパータ」には地獄や天界
の詳細な記述が何度も出てくる。それを全部バラモン教の影響と言って排除す
るならば、全ての経典が信用できなくなる。
妙法蓮華経譬喩品第三
もし人信ぜずして この経を毀謗せば すなわち一切世間の仏種を断ぜん
あるいはまた顰蹙して 疑惑を懐かん 汝まさに この人の罪報を説くを
聴くべし
…いずれにせよ、如来蔵思想を否定することはたやすいが、それの報いを
受ける覚悟ありや否や、を問いたい。
「ブッダのことば スッタニパータ」〔中村元訳:岩波文庫〕
第3 大いなる章661番
嘘を言う人は地獄に堕ちる。また実際にしておきながら「私はしませんでした」と
いう人もまた同じ。両者共に行為の卑劣な人であり、死後にはあの世で同じよう
な運命を受ける。(地獄に堕ちる)
667番
(地獄に堕ちたものは)、鉄の串を突き刺されるところに至り、鋭い刃のある鉄
の槍に近づく。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、(昔
つくった業に)ふさわしい当然なことである。
668番
(地獄の獄卒どもは「捕らえよ」「打て」などといって)、誰もやさしい言葉を
かけることなく、(温顔をもって)向かってくることなく、頼りになってくれな
い。(地獄に堕ちたものどもは)、敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃
えさかる火炎の中に入る。
以下略
スッタニパータ・・・パーリ語の文法に対応しない東部マガダ語とみられる用語が
含まれていることから仏典の中でも最古層に位置づけられている。
>「ブッダのことば スッタニパータ」〔中村元訳:岩波文庫〕
この最も古い経典さえも疑うというならば、スッタニパータよりも何十年も後
に編集された般若経典など、どうやって信じろというのか。釈迦が死後の生命
を否定したというが、それはバラモン教徒に対する「無記」を以って形而上学
を否定しただけであって、死後の生命を否定したわけではない。
何度も言うが、「空」と「無」は意味が違う。実体が無いというのは、存在し
ないという意味の無ではない。
大乗非仏説って知ってる。
法華経初め般若経典等の大乗経典は
釈尊が説いたものではないよ。
知ってるよね。
857 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 06:57:24 ID:iBqIc2A+
>>853 学者としても二流である。チベット文献を読んで、
チベット人学者の説を自分の発見のように説いて名を揚げたが、
そのトリッキーで誤読ばかりな内容はほとんど参照するに足りないことが
明らかになりつつある。釈尊も仏教を知らないとかいう名言を残した人である。
858 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 07:31:25 ID:iBqIc2A+
>>856 大乗非仏説は縁起が分からない、実在史観による誤謬です。
縁起が分かれば、大乗経典もテルマもありだと分かるはず。
w
書店で石飛の「論理学」云々の書籍を手にとってみたことあるけど「?」
の状態。これ仏教書? 意味わかんなーーーい。で、元の書棚へwww
いろんな仏教書を読んできたけど、結局、人生観・価値観の向上が伴わ
ない書籍は、選択してこなかった。仏教は知的な遊戯でないんだからね。
単なる屁理屈と勘違いされちゃうと悲しいよね
862 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 18:48:43 ID:iBqIc2A+
>>861 悲しいですね。石飛先生の仕事はインド学最大の成果ですから。
六十頌如理論〔『大乗仏典』〈14〉龍樹論集(中央公論社)瓜生津隆真・梶山雄一共訳P39〜〕
・・・それゆえに、およそ無知の人はごく微細なる存在にも実体として生起があると妄想して、そのこと
からも、依存関係による生起が、「本性上生起がなく一味であること」を意味するのを知らない。
http://nanbadenwa.sarashi.com/
たしかにブッダ論理学7つの難問の方はいまだ著者の主張が伝わりにくくそうした感想をもつ人もいるかもしれませんね。
ただブッダと龍樹の論理学の方は生きる苦しみを乗り越える為の論理学を難解ながらもしっかりと展開していると思えました。
後者を読んでから前者を読むとまた印象が変わるでしょう。
ハッキリ言ってあげるが、解脱にナーガルジュナなんて
必要ないよ。
>依存関係による生起が、「本性上生起がなく一味であること」
「真実には本性は一つに帰するのである」も六十頌如理論P39に説
かれているが、一味といい、意としては「一如」と同義であると思う。
また、龍樹が使用している『法身』という言葉もブラーフマンという
意味で使っているのではないはず。ならば密教で、この法身を大日如来
と呼ぶことが何故、ブラーフマン説になるのか、さっぱりわからない。
868 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 19:41:30 ID:zsbQ0Jqn
>>863 >六十頌如理論〔『大乗仏典』〈14〉龍樹論集(中央公論社)瓜生津隆真・梶山雄一共訳P39〜〕
>・・・それゆえに、およそ無知の人はごく微細なる存在にも実体として生起があると妄想して、そのこと
>からも、依存関係による生起が、「本性上生起がなく一味であること」を意味するのを知らない。
やっとだな。
第一に、なんで
>>822と違う箇所を挙げるの?
>>822の箇所の頁数は?
第二に、
>>823で指摘したように、やはり月称釈ではないか。
だから、
>>863のように「六十頌如理論」とか、
>>820みたいに
「“六十頌如理論〔龍樹著〕”」とかいう具合に、引用するのは不適切なのだ。
なぁ、ここは中観スレなのだから、ナーガールジュナの本頌と
それに対するチャンドラキールティの釈の区別をするのは当然だ。
それすらも分からなんのに、なんで御高説なの?
やはり他の方がいうようにスルー対応が吉か。
自分でHPを持っているなら、そこに掲示板つけるか、
それも嫌なら別にスレ建てて、そこで好きにしたら?
>月称釈
残念。ハズレ。
間違いなく龍樹説です。
870 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 19:55:10 ID:zsbQ0Jqn
>>869 >・・・それゆえに、およそ無知の人はごく微細なる存在にも実体として生起があると妄想して、そのこと
>からも、依存関係による生起が、「本性上生起がなく一味であること」を意味するのを知らない。
↑は文庫版p43相当だが、↑はチャンドラキールティの釈であって、
ナーガールジュナの本頌=『六十頌如理論』ではないのよ。
「凡例」(文庫版p8)を良く読もうね。
ま、どうせ、お前さん日本語読めないみたいだから、無意味なのだろうけどね。
>文庫版p8
あれ? そうなの? それはどうも失礼。
どうしたものかなあ。チャンドラキールティ釈と表記すべきかどうか。
しかし、表題は、「龍樹論集」だから、混乱するよな。
873 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 20:03:42 ID:tAb4lyz2
宮崎哲弥氏はいずれ出家したいとの事を言ってるけど
すろとしたらどこに出家するのかな
輪廻を認めていない宗派だから
日本にはないね。
それにあんなの仏門にはいらない。
日本大乗でもいらない、というだろうよ。
>>874 外国ですか
今日、中観派がある国どこですか
日本に法相宗ってなかったかなぁ。
878 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/09/27(日) 20:22:12 ID:mOT/gB6g
あ、ちがうなぁ。
面倒だから君が探せよ。。
880 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 21:16:01 ID:iBqIc2A+
>>872 君がなんも知らんだけだw
さあ、とっとと謙虚に質問して誤解を訂正するか、
それができないなら、でってった、でってった。
881 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 21:17:26 ID:iBqIc2A+
>>876 日本に細々、チベット、ブータン、モンゴル、シッキム、ネパール、インドに沢山あるよん。
龍樹を、あーでもない、こーでもないと論理学をこぜくり廻せば
悟りが開けるわけ?
アホですか>ALL
死ぬまで論理学を論じればれば成仏できるんですか?
バカですか>ALL
まず君が去ることだ。
死ぬ直前の人間に、チャンドーラキルティがどうたら
こうたらと論理学を解説して、引導を渡すことができ
ると思っているの? そんなのかえって迷いの原因で
すよw 引導すら渡せない仏教って無意味だろw
>>882 中論の最初に書いてある
戯論寂滅の意味を考えたらいいよ
886 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 21:53:53 ID:iBqIc2A+
>>882 見解は正しく理解しなければ意味がない。
その見解で修行するからだ。
あーでもないこーでもないなどとは言ってない。
君があまりにものを知らなすぎるので親切に訂正してやってるだけだ。
君のは適当な妄想によって適当に諸聖典からその妄想に合致する部分を
つなぎ合わせてるだけ。その方法で修行してもよくて、天界に転生する境地が得られるだけだ。
887 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 21:56:48 ID:iBqIc2A+
>>884 その言葉が、そのまま君の頭に振り返る。
「死ぬ直前の人間に」君の妄想を「解説して、引導を渡すことができ
ると思っているの? そんなのかえって迷いの原因で
すよw 引導すら渡せない仏教って無意味だろw」
もっとも君のは誰にとっても迷いの原因だがw
つーか、龍樹は論争を禁止していたのではないのか?
仮論に仮論を積み重ねて、砂上の楼閣を築いて何が楽しいの?
君等修行してるつもりなのw
ややこしいから、南無阿弥陀仏でいいよ。これで極楽往生できるんだから、
龍樹いらね。
892 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 22:18:38 ID:iBqIc2A+
龍樹 「十住毘婆沙論」
>帰った、帰った。
このスレ、お前の物か? 所有権・占有権を主張するわけ?
>帰った、帰った。
まずこのスレの投稿を排除する権利を有している証明をしなさい。
896 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 22:38:26 ID:iBqIc2A+
君の言うことが妄想だということを指摘されて、
>>891 >龍樹いらね。
なんて言ってるなら、スレ違いだ帰った、帰ったってこった。
龍樹 「十住毘婆沙論」
これじゃまるで、このスレは論争による阿修羅界じゃないですか
__、
,r´⌒ヽ,⌒ヽ,ヽ
(⌒)、 .人 λ\、 ._____
\. \ 、 ヽ./ ー ー\
|\ \ ヽ./ ( ●) ( ●)
| \ \ / (__人__) \
|. \ | ` ⌒´ | 阿修羅界に入っちゃいましたよ。どーもすいません。
. |. |.\_ノ\ /
. |. | | \______/
. | ) .| . . ̄ ̄
. | | .|
| |.| .|
. | | .| .|
/ / / ヽ,
(__ノ ヽ、__つ
/.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:l l
/.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:| l
/.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:| l
\.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:弋.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.__ゝ
r-ヾーー ¨´ -=ミ `ヽ、.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:`ヽ、
{ fヽl::::::/ :::::::::`ー-r ,,.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.
丶 l::::/ ィひ`ゞ ::::::::::::::l`丶、::::::::::::::::::::::/
ヽ ヾ `二彡 l::::::::::::l  ̄ ̄ ̄
/::::`ヽ l::::::::::j
ヾ::::::::} { }:::::/
/ヾ:::} ⌒ー /
r───<::::::::rァ} \ __ ー_ーァ/::::::::ヽ しょせん、言語による悟りなんてこんなもんだよ。行き着くところは阿修羅界さ
{::::::::::::::::::::ヽ//{ \ ゝニニノー、::::::::\
}:::::::::::::::::::::::{ ノ `ヽ、__/ ヽ::::::::::::\
/:::::::::::::::::::::::::::} { / }::::::::::::::::\
901 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 22:52:17 ID:7laAtNMV
龍樹オワターーーー♪
∧_∧
∧_(∧ω^ )
∧ ^∧^ ) >
♪ ( ^∧^_∧>/ 龍樹オワターーーー♪
( ^∧^__∧
ヽ( ^∧^_∧
< ( ^ω^ ) ♪
| < >
(_/ /ヽヽ 龍樹オワターーーー♪
(_) (__)
>>892 そのままでは、阿修羅界行き。ヤクザやチンピラと同じ波長だから。
>>7laAtNMV
荒らし行為もよくないけどな。
>まず君が去ることだ。
菩薩が言う言葉ではないな(笑) ヤクザかチンピラの使う言葉ですな(笑)
905 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 23:44:09 ID:iBqIc2A+
>>902 慈悲によるご忠告ありがとう。だが、心配ご無用(^^)
>しょせん、言語による悟りなんてこんなもんだよ。
龍樹の言ってることってむしろ逆じゃないの?
言語の限界を示すために、言語を用いてるってだけで。
人の解釈にあれこれ言えるほど勉強したわけじゃないけど、
そこは大前提だと思うんだけど。
そうでなければ、タダの屁理屈合戦だし
907 :
神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 23:55:58 ID:iBqIc2A+
>>906 その通り、言葉によって妄想言語機能を止滅すること。
それが目的、中論八不偈に明かです。
>>907 そうだよねえ
なんか逆にとられる事が多いようですな
去る働きがどーとか考える前に
まず八不のところをよく読むべきですね
909 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 00:14:51 ID:75BvZzMf
>>908 中論関係は、思想的方面では伝統説を除いて、国訳と梶山・石飛以外は読まない方がいいのではないかと思います。
混乱の原因は、仏教文献学者ができが悪い人が多いことにあると思います。
>>906 臨済宗で殴られて来い。
言語の限界を簡単に理解できるから。
>>910 デキの悪い頭であれこれ考えるより
それがいいかもしれませんね
検討してみます
912 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 00:30:07 ID:75BvZzMf
>>910 そういう体育会系の方法は、師匠次第、師匠が良ければそれでいいだろうが、
信の強さが問題になる。
ここはあくまで中観に関するスレなんで、言語による言語妄想破壊、
妄想戯論による妄想展開の終息を論理の筋道で跡づけようといった趣旨じゃないのか?
それを突き詰めたのが公案である。
しかし現在の臨済宗の劣化は激しく
イジメの巣窟となり殴られて
身体障害者となる者もいるらしい。
南無
イジメられて障害者にはなりたくないので、
検討するの止めます
915 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 00:51:00 ID:75BvZzMf
>>913 それはよく分かる。禅定で集中した中で、非論理、プラサンガみたいなもので、
戯論を終息させる。それは方法としては最良でしょう。顕教のなかで、
あるいは中観の本道かもしれません。
ですが、それは行者のもの、師弟の間でのもの。
ここでいっても、それだと机とか淫嘘になりがちでしょう。
916 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 01:10:43 ID:JVq2HxRG
>>909 >国訳
これは、『国訳一切』の羽渓訳、或は『国訳大蔵』の宇井訳
ということでしょうか?
917 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 01:14:46 ID:75BvZzMf
>>916 そうです。その書き下し文の方で、両者のサンスクリット和訳ではありません。
918 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 01:28:17 ID:JVq2HxRG
しかし、経典を戯論というのはどうもいただけませんな。
経典を読まないで悟り得るものかどうか。
それこそ外道の謗りは免れ得まい。
ナーガルジュナがそんな外道とは思えません。
日蓮が言うように禅は天魔の仕業かもしれません。
釈迦の魂ともいわれる縁起の法さえも戯論というなら
それこそバラモン外道にも劣る腐った芋虫ども
と、石飛道子やこのスレの住人を誹謗さぜるを得まい。
>>919 どこをどう読んだらそう思うのか意味不明ですよ?
龍樹は中論帰敬偈でのっけから釈迦に対する帰依を表明しまくってるし、
読み進めても、縁起に基づいたことしか書いてないのに。
>>920 このスレでは、仏典を引用すると石飛信者からよってたかって袋叩きに遭うようですから。
帰れ帰れと、石飛信者から嫌がらせを受けている人がいますよ。
883 :神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 21:48:23 ID:kr4ySKlS
まず君が去ることだ。
892 :神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 22:18:38 ID:iBqIc2A+
>>891 はいはい、帰った、帰った。
924 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 03:36:46 ID:o2qY/vjc
862 :神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 18:48:43 ID:iBqIc2A+
>>861 悲しいですね。石飛先生の仕事はインド学最大の成果ですから。
たしかに(藁
iBqIc2A+は石飛教信者(藁
確かに帰れ帰れは良くないかもしれませんが、
端から見たらどっちもどっちじゃないですか
ID:7laAtNMVさんがそう言われたのは、
仏典を引用したからじゃなくて
>>860で石飛さんの書籍を
「知的な遊戯」と決めつけ
一方的に馬鹿にしたことが発端だと思いますし
>「知的な遊戯」
しかし、それは馬鹿にしてるというより、素直な書感でしょ。
やっぱり、宗教だよ。しかもカルトっぽい(藁
石飛教だな(藁 批判すると信者がファビョる(藁
896 :神も仏も名無しさん:2009/09/27(日) 22:38:26 ID:iBqIc2A+
君の言うことが妄想だということを指摘されて、
>>891 >龍樹いらね。
なんて言ってるなら、スレ違いだ帰った、帰ったってこった。
ここで、
>君の言うことが妄想だということを指摘されて、
とありますから、やはり経典の引用する行為に対しての嫌がらせでしょう。
石飛信者でファビョってるのは1人だけだし、
ファビョってるのはID:7laAtNMVさんも同じでしょう
石飛さんの書籍は確かにこのスレで評判良いですが、
スレ全体をそういう目でみるのはやめていただきたい
929 :
あのー:2009/09/28(月) 04:02:06 ID:N0yXaOSG
>スレ全体をそういう目でみるのはやめていただきたい
イジメを放置するのは、イジメに参加しているのと同じこと。
それに、ID:7laAtNMVさんは帰れ帰れで、逆切れしただけのこと。
930 :
あのー:2009/09/28(月) 04:08:51 ID:N0yXaOSG
>iBqIc2A+は石飛教信者(藁
結局、論理学を学んでも感情のコントロール一つできないでは、無意味でしょ?
931 :
あのー:2009/09/28(月) 04:10:44 ID:N0yXaOSG
やはり、ちゃんとビパシャナー瞑想をきちんとやらないと、悟れない、
ということか・・・
うーん、
自分からみたらどっちもどっちに見えるんですけどねえ
ID:7laAtNMVさんは帰れ帰れ言われる前に、
このスレの全員に向けて
>>882でアホですか?とか言ってるわけだし
喧嘩腰であったことは事実でしょう
はっきり言って空観無しでも無常、苦、無我があれば
悟れると思います。
縁起は執着は苦を生むでいいし、
あとはアナパナ、ヴィパサナで十分と考えます。
学者で悟ったと言う人を聞いたことがありません。
934 :
暁:2009/09/28(月) 05:50:47 ID:6/UDvRQY
お、暫く見ない間にこのスレも900越えたか。
石飛さんの著作も何冊か読んでるが、それだけでなんとかなるような代物(龍樹)ではないだろ。
中観哲学とはインド哲学における歴史の中でも、最も難解なもののひとつだとされてるわけだし。
935 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 05:51:30 ID:75BvZzMf
>>919 言葉というのはすべからく戯論なんですけど。
戯論の意味は、人間の本質的妄想力のことだよ。
この妄想力がないと言葉は使えない。
言葉は本質的に妄想の産物だからだ。
このことは『中論』18-5, 9 に明か。
936 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 06:12:46 ID:75BvZzMf
自分的には怒りの感情のコントロールはスマナサーラさんの本が一番効果がありました。
「怒らないコツはただ怒らないこと」っていうのはほんとに目から鱗。
怒った時に「怒らない怒らない・・」と繰り返すかお腹の動きにただ集中するだけでかなり治まります。
慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想の2つだけは1日1回1日1分でもなるべくやろうと決めるだけで随分昔の自分よりましになれました。
938 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 06:25:02 ID:75BvZzMf
939 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 06:38:08 ID:75BvZzMf
940 :
暁:2009/09/28(月) 13:22:31 ID:6/UDvRQY
>>937 スマナサラに関しては専門スレに行かれたら宜しい。
中観スレでわざわざ能書き垂れてもあまり意味が無いだろう。
941 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 14:23:34 ID:3b967V4Q
中観派の評論家の宮崎さんが雑誌でスマナサーラさんの「無常の見方」という本を絶賛してたね。
あいつは輪廻無い派だからどうでもいい。
943 :
あのー:2009/09/28(月) 15:00:07 ID:N0yXaOSG
俺たちは芋虫みたいな仏教学者になりたいわけではない。だから、龍樹
か月称かなんてどうでもいいこと。その内容が真理かどうか、が重要な
の。だから、作者がどうとか、関係ない。そういうのにこだわるのって、
偏執狂としか言えない。
944 :
あのー:2009/09/28(月) 15:08:33 ID:N0yXaOSG
>その内容が真理かどうか、が重要なの。
だからこそ、他の仏典を引用して整合性を確認している。
そこにスタンスの違いがある。原理主義的に仏教をとらえると、密教
はヒンドウー教だから仏教ではない、とか言って毛虫のように忌み嫌
うことになる。
中観思想とは、いわゆる原理主義者の集いではないのか? だから、
どうでも好いことにこだわってみたり、他宗派を排斥してみたり・・・
とすると、中観思想はイスラム教原理主義みたいなものか、と思って
しまう。
945 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 15:21:47 ID:75BvZzMf
>>943 最後は自演してオレを非難して印象操作で自分擁護か。N0yXaOSG
矛盾と誤認ばっかなのは仕方ない。誤りが認められないことも許そう。
それを正当化するために誹謗中傷するのも、まあ仕方ないが、
自演したら終わりだな、仏教以前の問題だよ、君の場合。
946 :
あのー:2009/09/28(月) 15:24:57 ID:N0yXaOSG
947 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 17:09:14 ID:75BvZzMf
>>946 お前、石飛先生にまで飛び火か、最低だな〜、恥ずかしいヤツだ。
886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。
ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、
「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、
これらに依存して(他の説を)蔑視し、
(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、
「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、
自己を<真理に達した人>であるという。
かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、
他人を蔑視し、そのように語る。
889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、
自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。
かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、
愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。
また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、
諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。
>>944 >原理主義的に仏教をとらえると、密教
はヒンドウー教だから仏教ではない、とか言って毛虫のように忌み嫌
うことになる。
おれは中観には興味はないが、一言いっておく。
新義真言宗の一派が(といっても二派しかないが)
「活かせ!生命!」をスローガンにしている。
既出の理趣経もどうどうと男女の性の交わりを
「菩薩の位」だと宣言している。
原理主義とか以前に普通の人が読んだって
仏教ではあるまい?
釈尊は自慢する心が菩薩だと言ったか?
すぐにでも女とヤリタイという心が菩薩だと言ったか?
理趣経は十七清浄句とう有名な部分で
このようなことを宣言しているのだぞ。
日本に入ってからは坊主どもは
衆生に意味がわからぬように
漢音で読経していたのだ。
密教は教義が優れているのではない。
技法が優れているのだ。
しかもその技法も解脱に直結するものではない。
よくよく研鑽あれ。
950 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 20:11:35 ID:75BvZzMf
>>949 >おれは中観には興味はないが、一言いっておく。
>新義真言宗の一派が(といっても二派しかないが)
>「活かせ!生命!」をスローガンにしている。
これって高野山真言宗だよね。
>既出の理趣経もどうどうと男女の性の交わりを
>「菩薩の位」だと宣言している。
>
>原理主義とか以前に普通の人が読んだって
>仏教ではあるまい?
密教は、普通の人には分からないんですよ。
>密教は教義が優れているのではない。
>技法が優れているのだ。
>しかもその技法も解脱に直結するものではない。
いや、それは誤解。密教は見解も高く、悟りも高い。
密教は、凡人の認識領域ではないから、ここで論じる対象ではないでしょう。
951 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 21:06:24 ID:75BvZzMf
>>949 なんだ、セブンか。宮崎は仏教についてほとんど分かってないだろw
だって、山口瑞鳳とか松本史朗とかが根拠だもんな、似非インテリって彼らが好きだよな〜
「新義真言宗」とわざわざ言ってるのに
「高野山真言宗」ってなによ?
普通の人には密教はわからない
といいつつ、密教の見解と悟りは高いのだろう?
お主は「わたしは只者ではない」と断言した訳だ。
ならば密教の見解と悟りのどこが高いのか
じっくりと語ってくれ。
ま、宗派もわからん奴だからな(苦笑、失笑、嘲笑w
953 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 21:40:49 ID:75BvZzMf
>>952 そりゃ語れんがな、サマヤの問題だ。
密教について語ってるヤツは、おかしいよ。
954 :
暁:2009/09/28(月) 21:46:01 ID:6/UDvRQY
宮崎哲弥の語りは帰謬法ぽいけどね。
昔田原の代わりに朝生の司会やってたときはよかったよ。
でも最近は鬱みたいで、仕事減らしてサブカルの批評家に戻るて話だが。
印や真言を教えろ、というのなら
「越法になるので・・」と逃げられるが
見解と悟りについて語っても一向に
越法にはならんのだが?
では宮坂先生や金岡先生は密教について
語っているからオカシな奴なのか?
おまえさんは密教について何もしらない。
恥を知ったほうが良いのではないか?
956 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 22:11:03 ID:75BvZzMf
>>955 本質的に何も知らないと言って良いだろう。
伝統学者は、加藤精神先生や長谷宝秀先生あたりで終わってるように思う。
じゃ、しょうがないから一つだけ教えとくは、
密教は色即是空空即是色が前提になっている、
五蘊を始めとする一切法が空であり、不浄な煩悩の現れが清浄な智慧の現れに縁起させることこそ密教の本質、少なくともヨーガ・タントラ以上はそう。
本覚門になると現象を意図的に変えることすらしない。
その見方の高さが見解の高さ。思想・哲学的に高いという意味も多少あるが本質的にこっち。
それが分からず、思想的なものと捉えるのは何も分かってない証拠。
日本密教の文献学者は大抵、所作タントラ的理解で儀礼そこ密教と思ってるから、
話にならない。
数すくない例外が羽田野伯猷先生、羽毛田義人先生、生井智紹先生だと思う。
もちろん、他にもいらっしゃるだろうが私は知らない。
サマヤ汚れたぞ
>密教は色即是空空即是色が前提になっている、
五蘊を始めとする一切法が空であり、不浄な煩悩の現れが清浄な智慧の現れに縁起させることこそ密教の本質
一行目は仏教ならどの宗派でも当たり前の解釈。
二行目はわざわざご教義頂くまでもなく
理趣経を少し読めば明らか。
こんなもので汚れる法ならば無用。
釈尊がやるなと仰った焚き火、占い、呪術、マントラを
積極的に受け入れてきたのが密教。
厭離せよ、と仰った生を賛美するのが密教。
ついでに大日を立て一体化を狙うに到っては
梵我一如であり概に仏教とは言えまい。
960 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 23:55:57 ID:N0yXaOSG
「秘密曼荼羅十住心論」弘法大師著
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.html 第七住心
覚心不生心(かくしんふしょうしん)
「八不に戯を絶ち、一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり。」
はっぷにけをたち、いちねんにくうをみれば、しんげんくうじゃくにして、むそうあんらくなり。
あらゆる現象の実在を否定することで、実在からの迷妄を断ち切り、ひたすら空を観じれば
なんらの相(すがた)なく安楽である。
「空」の論理によって一切の実在を否定する「空観」の段階(三論宗)。
心は何ものによっても生じたのではない。すべての相対的判断を否定し、心の原点に立ち返って空寂の自由の境地
〔中道〕に入ることを目指す。法相宗の心を示す。
心の本性は生じることもなければ、滅びもしないと悟り、また
森羅万象は全て縁によって起こる、即ち空(くう)と観て中道(ちゅうどう)を歩みだす段階。
物質に実体性がない(無我)だけではなく、自分の心に起こることも、実体がなく、本来不生であると悟る。三論宗の境地。
「心に映るものは本来生じたり滅したりせず、心は本来静かに澄みわたっている。」
この時、心主(心の主体)は自由自在になり、物の有る無しに迷うこともなく、自利・利他の行為を心のままに成すことができる。
この絶対の自由の状態を心王という。
それを悟れば、「遂にとうとう、阿字門(万有一切の本源を不生阿字で象徴する部門)にはいったのである」と
大師は説かれる。本来生起しないとは、「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来」の八つの不の意味である。
寂滅平等の真実の智恵に住して失うことがない。
961 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 00:04:00 ID:q1LfDAX0
「秘密曼荼羅十住心論」弘法大師著
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.html 第八住心
一通無為心(いちどうむいしん)
「一如本浄にして、境智倶に融す。この心性を知るを、号して遮那という。」
いちじょほんじょうにして、きょうちともにゆうす。このしんしょうをしるを、ごうしてしゃなという。
現象はすべて清浄であって、認識としての主観も客観もともに合一している。
そのような心の本性を知るものを、仏(報身の大日如来)という。
「空・仮・中」の唯一絶対の真理、「空性無境」の「法華一乗」の段階(天台宗)。
万物は真実そのものであり、本来清浄なものである。
この境地に入るとき、従来の教えは一道に帰するはずである。法華、天台の境地。
「一念三千(いちねんさんぜん)」や「十界互具(じゅっかいごぐ)」を説く法華経の世界。
凡ての人に仏性、悟りの可能性を観ることが出来る境地。
「白蓮花のような『法華経』の教えによる精神統一」という瞑想にはいって、人びとが本来もっている徳性は汚れに
染まらないと観想し、全ての人の心が清浄であることを知る。
止と観の観想を行なう。(この止観は、澄みきった水そのものと事物を映し出す水のはたらきとの関係のようなものである)
静かであってよく照らし、照らしていて常に静かである。
この時、心の認識する対象(境)は、悟り(心)であり、悟りの智恵が認識の対象であることを知る。
「自分の心は清らかであり、心は外にもなく、内にもなく、その中間にもない。心は欲の世界のものでもなく
物の世界のものでもなく精神世界のものでもない。」ことがわかる。
「心は眼・耳・鼻・身・意の世界にもなく、見るものでもなく、顕現するものでもない。
心は虚空と同じであり思慮や思慮のないことを離れたものである。
自分の心そのままが、真実世界の心と同じである。それは、そのまま悟りと同じ。
心と虚空と菩提とは一つのものである。慈悲を根本として、他の者を救う手段(方便)を満足する。
菩提とは、「ありのままにみずからの心を知ることであると悟る。」と弘法大師はこの状態を説明されている。
無常の哲学って本、面白そうな雰囲気はあるんだけど難しいなー。
チャンドラキルティって人についての本なんだけど。
「秘密曼荼羅十住心論」弘法大師著
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.html 第九住心
極無自性心(ごくむじしょうしん)
「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」
みずはじしょうなし、かぜにおうてすなわちなみたつ。ほうかいはきょくにあらず、けいをこうむってたちまちにすすむ。
水はそれ自体定まった性はない。風にあたって波が立つだけ。
さとりの世界は、この段階が究極ではないという戒めによって、さらに進むものである。
対立を超え一切万有が連関し合う、重々無尽の「法界縁起」の段階(華厳宗)。
世界には一つとして固定的本性はなく、すべてがそのまま真実そのものであるとみる境地。華厳宗の心の段階。
「法界縁起(ほうかいえんぎ)」や「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」を説く華厳経の世界。
宇宙のなかの全ては互いに交じり合いながら流動していることを悟る境地。
仏は空の悟り(無為)がまだ究極ではないことをさとす。
華厳経には、海印という精神統一に入り、法の性質が互いに溶け合っていることを悟る。
一人の修業者の心が大なる仏の心に等しいことを知る。「一と多が互いに融合している。」
一人一人の心が、仏と何も変わらず、同一のものであると悟る。一つ一つの心が互いに溶け合っている。
初めて悟りを求める心を起こした瞬間に悟りの世界にはいる。という華厳三昧の世界である。
しかし、この三昧はまだ完全な悟りではなく、一切如来より「鼻先に月輪を想い、月輪の中にオン字の
観を成さずして成仏を得ることはない。」と知らしめられる。
>ついでに大日を立て一体化を狙うに到っては
>梵我一如であり概に仏教とは言えまい。
一体化を狙っているんではなく、衆生は元から仏という立場=本覚思想。
しかし、ここでいう仏性とはウパニシャッドなどが言う「我(アートマン)」
ではない。やはり、仏性といえども『空(無我)』なんだが、この場合の
の『空(無我)』は、「法界縁起」という縁起思想に翻訳されている。つ
まり華厳思想が密教のベースにあるというのは、僕が最初から主張している。
目が覚めて見てみたら随分カキコがあった。
手間かかったろ。
おいらは基本的に大乗非仏説に立ち
本覚思想を否定する立場にある。
どんなに理屈を述べてみても
やってることは三密を使って本尊と一体化することだ。
「十住心論」は理屈である。
大乗が崩壊の危機に瀕し
所謂超能力開発をとりいれたのが始まりであろう。
純密として理論を備えたとしてもそれほど
評価に値するとは思えない。
煩悩を切らずに念をかけるから
立川流という邪教も生み出してしまった
971 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 06:15:17 ID:/f9d9hND
>>957 縁起させると捉えるか、アートマンと合一させると捉えるかで天地の開きがある。
方便を巧みに使うのは大乗以来。密教は生を賛美などしてない。
そんなこというのは何も分かってない証拠。
煩悩を遮断、抑止する小乗の教えと違って、煩悩を智慧に変えるのが密教の本質。
>>958 大日如来を始めとする様々な本尊も空と捉えるのが本来、
それを実在的に解釈するのが現代日本真言宗やチベットのチョナン派で、
それは誤った見解。
972 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 06:19:19 ID:/f9d9hND
>>957 >>密教は色即是空空即是色が前提になっている、
>一行目は仏教ならどの宗派でも当たり前の解釈。
そんなことないぞ。テーラワーダは空即是色を認められないだろう。
一切法現象するのは空だから縁起できるということが理解できない。
あるいは、三昧状態で空は体験できるが、
三昧から立って現象が現れた状態で、その現象そのものが空であることが
常に持続できない違いがある。
973 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 06:30:07 ID:/f9d9hND
>>964 ダルマキールティについての本ですね。
その本はハッタリ本なんで、あんまり読んでもしょうがないと思う。
ハッタリな証拠は引用には大抵頁数が明記されているが、
三浦俊彦『虚構世界の存在論』についての引用に頁数が書かれてない。
なんと帯からの引用だった。つまり、読まずに帯を使って読んでますと言っているわけで、
こういうことをする人は内容もハッタリだと予想できる。
詳細は憶えていないが、分析哲学との比較はあまり内容がなかったように記憶する。
ダルマキールティについては赤松明彦先生、戸崎広正先生、稲見正浩先生あたりを読むといいよ。
974 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 06:33:03 ID:/f9d9hND
>>970 縁起を理解するなら大乗非仏教は、ただの実在論になるよ。
ただただ理解が浅いだけ。
975 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 06:42:41 ID:/f9d9hND
AqoLmfZK はセブンじゃなかったのか。
ああ、なんてことしてしまった。無駄な。
>>971 理趣経では明らかに賛美している。詭弁である。
現在小乗仏教とよばれるものは存在しない。
煩悩を智慧に昇華する方法論について聞きたい。
流をみれば真言宗について語っていることは
わかるだろう。
>>972 >テーラワーダは空即是色を認められないだろう。
ここは訂正する。確かに認められない。
「花は空である。故に空は花である」これは
誤りであろう。
哲学と実践の違いだと思う。
ただしヴィスッディマッガには
42の立場で一切は空であると観じる瞑想がある。
理屈ではない実践法がある。
>>974 大乗が非仏説であるのは理解云々ではなく
史実。
実践の伴わない思弁哲学は無力。
学者が悟ったと聞いたことはない。
ご用心。
977 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 07:59:39 ID:/f9d9hND
>>976 >理趣経では明らかに賛美している。詭弁である。
ただの誤解。
>煩悩を智慧に昇華する方法論について聞きたい。
それはちゃんとした先生から直接聞くべき、こんなとこで言えないよ。
>大乗が非仏説であるのは理解云々ではなく
>史実。
史実とすると、それら全ては縁起・空ではなく実在になりますね。
歴史というのは知覚者による認識であることは、
例えば新大陸の発見が、原住民にとっては略奪者の侵入に他ならないことからも分かるでしょう。
仏教はもっと微細なレベルまで全て縁起による認識と説くので、
知覚者によって認識が違う。大乗や密教の知覚者、教えを聞いた人の認識レベルが凡夫とは違うんです。
これはシナ、日本、チベットではっきりと確認できインドでは伝説とされているけれど、
シナ、日本、チベットの現象からインドでも、そう縁起したことが明かでしょう。
以下の水野先生論文で『金剛三昧経』と元暁から分かると思います。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006992202 実在論的立場では『金剛三昧経』は偽経でしょうが、元暁はそうとらない。
ここが分かれ目です。信じないのは結構ですが、誹謗するのは止めることを勧めます。
978 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 08:04:54 ID:/f9d9hND
>実践の伴わない思弁哲学は無力。
>学者が悟ったと聞いたことはない。
>ご用心。
もちろん。仏教文献学で悟ったなどという人はいまだ聞いたことがありません。
悟りたいなら、きっちりした先生から学ぶ必要があり、
真剣に努力する必要があります。
確かに、悟りたいならこんなことろで書かずに篭もって行に専念すべきですが。
>>977 17清浄句を説明して欲しい所だが
「こんな所では言えない。師に就け」と
言われるでしょうね。しかし
字が読める人にはタントリズムだとわかる。
世界大戦が存在したのは史実だ。
というレベルで大乗非仏説は史実だと
言ってるんです。
「密教は仏教のヒンデゥー化である」
これは誹謗ではなく批判です。
980 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 09:11:49 ID:/f9d9hND
>>979 >世界大戦が存在したのは史実だ。
>というレベルで大乗非仏説は史実だと
>言ってるんです。
それも縁起でみれば、そんなに強固な事実ではないでしょう。
>「密教は仏教のヒンデゥー化である」
>これは誹謗ではなく批判です。
現在最も流通している密教史は、漢訳年代をそのまま成立年代にしているだけなので信じるに足りません。
例えば、ダルマキールティの『量評釈自註』に所謂後期タントラと呼ばれる、
母タントラが引用されていることから、それは裏付けられるでしょう。
そこで、タントラという名称は、どうも仏教から起こったようであるという説があります。
これは『金剛頂経』はスートラと書かれますが、その後分がタントラと呼ばれるのです。
そしてこのタントラの考え方が、密教の基本となっていてヒンドゥーもジャイナもタントラという名称を用いるようになったのではないかということです。
ということで、仏教のヒンドゥー化というのはあまり当たらない。
儀礼とか文化的要素は、そこにあったから象徴として利用しただけで、あまり意味がないことですよ。
現に、チベットへ行けばチベットの儀礼も利用するし、日本に来れば日本の儀礼も利用してます。
そのような現象や象徴を利用するのは釈尊以来のヴォーハーラ、その場その時の習慣をそのまま用いるやり方ですよ。
ただ一端、利用すると縁起があるから、それ以降はそれを使うということだと思います。
>>980 >それも縁起でみれば、そんなに強固な事実ではないでしょう。
どうやらあなたは現実を認識するのに
いささか不都合な脳をお持ちらしい。
事実に軟弱と強固がある、という考え方は初めてしりました。
>タントラという名称は、どうも仏教から起こったようであるという説があります
どのような説があってもいいでしょう。
現実には密教を仏教と認めるかどうかで
学説もわかれているわけですから。
中期密教でヒンデゥーに対抗する形で理論武装をしたが
叶わず後期密教ではヒンデゥーのタントラ教理、性交などを
取り入れていったことは、いかに詭弁を弄しようとも事実であろう。
もっともあなたにとっては「強固な事実」ではないだろうが
多分大方の認めるところであろう。
ついでに空海はとっそてんで修行中で
弥勒と共に下生するらしいので
涅槃には入っていないのでしょう?
宗祖が涅槃に入れないのに
その弟子は・・・
983 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 12:42:59 ID:/f9d9hND
>>981 >どうやらあなたは現実を認識するのに
>いささか不都合な脳をお持ちらしい。
>事実に軟弱と強固がある、という考え方は初めてしりました。
縁起から考えれば、あらゆる現象はただの認識で空に過ぎないと言うことです。
これは仏教であればそう考えるはずですが違いますか?
それとも現象が自立的に実在して我々がそれを認識するとでもw
それなら、ただの素朴実在論ですよ。
歴史というのは、共通の存在にとってある程度の共通認識があるということに過ぎません。
>どのような説があってもいいでしょう。
>現実には密教を仏教と認めるかどうかで
>学説もわかれているわけですから。
これは密教を認めたくない学者の恣意的、あるいは政治的な説でしょう。
現実には、インド、ネパール、チベット、ブータン、モンゴル、シナ、日本で
密教が仏教として縁起し、共通認識されてきた縁起があるだけです。
984 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 12:44:14 ID:/f9d9hND
>中期密教でヒンデゥーに対抗する形で理論武装をしたが
>叶わず後期密教ではヒンデゥーのタントラ教理、性交などを
>取り入れていったことは、いかに詭弁を弄しようとも事実であろう。
いやいや、その説は初期の文献学でドラヴァレ・プサンなどの時代のもので、
今、そんなことを言う学者は笑われるだけです。
なにせ、仏教に先行するタントラは見つかってないはずですよ。
実在史観的にもパンチャラートラ、シャイヴァ、ジャイナもタントラの成立は遅いはずです。
まあ、この辺は最近はリサーチしてないので確信ありませんが。
密教にしろ仏教にしろテルマですよ。『金剛三昧経』と同じ。
実在史観的に言うなら、『華厳経』のサマンタバドラ・チャリヤー・マンダラ、普賢行が一切智成就の因であることに対して、
『華厳経』の浄観を一切法空本性清浄という本質に従って、
身による行でなく意による行によって行う高度なものが密教です。
985 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 12:45:53 ID:/f9d9hND
>>982 大乗の菩薩は涅槃に入らず、利他を行うんです。
これを普賢行とか菩薩行とかいいます。
ダライラマ猊下が化身するのもそれです。
勝儀と世俗。
>縁起から考えれば、あらゆる現象はただの認識で空に過ぎないと言うことです
こんなことは言いたくはないがオウムを彷彿とさせます。
>いやいや、その説は初期の文献学でドラヴァレ・プサンなどの時代のもので、
今、そんなことを言う学者は笑われるだけです。
なにせ、仏教に先行するタントラは見つかってないはずですよ。
実在史観的にもパンチャラートラ、シャイヴァ、ジャイナもタントラの成立は遅いはずです。
まあ、この辺は最近はリサーチしてないので確信ありませんが。
密教にしろ仏教にしろテルマですよ。『金剛三昧経』と同じ。
実在史観的に言うなら、『華厳経』のサマンタバドラ・チャリヤー・マンダラ、普賢行が一切智成就の因であることに対して、
『華厳経』の浄観を一切法空本性清浄という本質に従って、
身による行でなく意による行によって行う高度なものが密教です。
いやいや縁起から見ればそれほど強固な事実ではないでしょう。
>大乗の菩薩は涅槃に入らず、利他を行うんです。
これを普賢行とか菩薩行とかいいます。
ダライラマ猊下が化身するのもそれです。
これを信じられる感性が凄いですね。
でも縁起からみれば強固な事実ではない・・・でしょう?
987 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 14:31:12 ID:/f9d9hND
>>986 あれ、あなたはテーラワーダを信仰する方ではないのですか?
縁起なんだから宗派だって空なんですよ。
たとえテーラワーダの人間だって
縁起から見れば強固な事実ではないでしょう?
それにヴィスッデマッガにも空は実践として
説かれていますよ。
989 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 14:57:54 ID:/f9d9hND
>>988 テーラワーダの教義は信じますか、信じませんか?
信じる、信じないの二辺を離れております。
991 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 15:12:55 ID:/f9d9hND
>>990 私は世俗的言語習慣の中で聞いているのですが。
>>世界大戦が存在したのは史実だ。
>というレベルで大乗非仏説は史実だと
>言ってるんです。
それも縁起でみれば、そんなに強固な事実ではないでしょう。
わたしも世俗的言語習慣のなかで発言しましたが?学習しました。
さて、助さん、角さん、もういいでしょう。
993 :
神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 15:49:04 ID:/f9d9hND
>>992 言語習慣の中でも大乗非仏説はありえません。
大乗非仏説は実在論に基づくからであって、大乗非仏説のような縁起はない。
では、あなたは輪廻は認めるのですか?
妙法蓮華経「如来寿量品第十六」 ・・・あるいは己身を説き、あるいは他身を説き、
あるいは己身を示し、あるいは他身を示し、あるいは己事を示し、あるいは他事を示す。
もろもろの言説するところはみな実にして虚しからず。(中略) 実に非ず、虚に非ず、
如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るがごとくならず。かくのごときの事、如来明か
に見て錯謬あることなし。
http://nanbadenwa.sarashi.com/ 釈迦は”あらゆる存在”が本質において物質性を離れ(無生法忍)、あらゆる存在は相
互に”一如”であり、自分の生命も宇宙の生命も一如であることを悟ったのです(自分の
生命も宇宙の生命も一如であるからこそ、釈迦は肉体[時間空間]に束縛された自我から解
放され[無我]、生きとし生けるもの・在りとし在らゆるもの、すなわち仏性として働きか
けることができる)
http://nanbadenwa.sarashi.com/
どなたか次スレをおねがいします
>大乗非仏説
まあ、上座仏教(説一切有部)が唯物論に堕ちいったことを考えると、
大乗非仏説は原理主義的になって、結局、釈迦の根本義を曲げることに
も成りかねない、と思う。
大乗非仏説を採用しているのが、日本では阿含宗とアーレフ(元オウム)
というのもあるが・・・
>十七清浄句を説明して欲しい所だが
そのままでしょ。般若理趣経の立場は、空→不空ですから、現実肯定主義。
男女の営みもそのまま菩薩の位である。それでこそ在家の修行も可能とな
るのであって、出家して梵行(非接触)しなければ悟れない、とする従来
の仏教に対するアンチテーゼでしょ。
それが何か?
>『華厳経』の浄観を一切法空本性清浄という本質に従って、
>身による行でなく意による行によって行う高度なものが密教です。
同意。
そもそも、チベット密教の主流派はツォンカパ大師を祖とする「中観帰謬論証派」
だからね。「中観思想」と密教が並存していけることが実証されている。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。