【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】15

このエントリーをはてなブックマークに追加
723神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 04:43:41 ID:wyf/pUst
>>721
>あなたは、もし明日地球が消滅し、月を観測するものが全くいなくなれば
>月自体も消滅すると考えますか?

その、「考えますか?」という設問そのものにすでに答えが含まれてるね。
724キャップテスト:2009/09/22(火) 06:32:19 ID:/eWLVIUK
もうこのスレも一杯ですか?
もうこのスレは終了ですか?
725 ◆ULtDL9BE8Dme :2009/09/22(火) 06:40:46 ID:/eWLVIUK
>>724
トリップと間違えました。失礼。

田上論文も紹介されたし、本スレも終わりですか?

次のスレタイ候補
「原始仏典から大乗仏典への差異が生じた真因?」

726 ◆0X0XQc1Pepx3 :2009/09/22(火) 06:53:28 ID:/eWLVIUK
何度転生しても、名前やトリップを変えても、アートマンは変わらず
すぐ誰だか分かってしまいますね。

私は衆生救済の為の宗教だった仏教が段々と仏教哲学になってしまった
真因をあの方だと仮定しております。

哲学では悩める人々の心を救うことができますでしょうか?
病気は「気を病む」という意味もあり、心が救われれば、更に自然な
食物を食していれば改善するものも多いかと存じます。

あの方とは「君らは私がいない方がよいと思うか?」と辞世のセリフを
残して一人寂しく去った方です。
彼を慕い、同じ生き方をトレースする方々も多いかと存じます。


727 ◆0X0XQc1Pepx3 :2009/09/22(火) 07:02:19 ID:/eWLVIUK
>>726
>哲学では悩める人々の心を救うことができますでしょうか?

中論の視点では、衆生救済を発願すること自体が間違いだと明言する
方も本スレでは見受けました。

衆生済度を発願した菩薩達も全てパロディー化されてしまうという「縁」
で、悩める現代人が伝統仏教に魅力を失っていく仏教離れが「起」って
いるようにも見えます。

そのような伝統仏教の状況を正しく見ずに、勢いのある新興の教団を
皆カルト扱いして満足しても、伝統仏教の改革には無明でしょうか。
728神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 07:06:42 ID:IWY7geMk
シュレーディンガーの猫のパラドックスは今も解決されたわけじゃない
>月を観測するものが全くいなくなれば月自体も消滅すると考えますか?という問いに「その通り」という答えることもじゅうぶん自然な答えだ
誰も(月自身も)対象に意識を向けていない時 全てのものは波動関数の重ね合わせの中にある スープのようなものをイメージしてもいい
ところが観測者が対象に意識を向けた瞬間 スープのように溶け合った状態から特定の状態へと固定される
まるで「達磨さんが転んだ」でもしているかのように
それは観測機器を使っている場合も同じだ(そもそもその機械は誰が作ったのか 観測結果を確認認識するのは誰か)
宗教においても哲学においても科学においても意識抜きで存在を語ることはできないし意識は物質の中にだけ存在するものでもない
729机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/22(火) 07:24:42 ID:ij7lny6u
>>699
おもしろい書き込みですのでレスポンスします。

「非我」は、我に非ず、ですから我の否定のニュアンスです。
(否定というのは肯定の意味も含まれる)
「無我」というのは、もともと我という概念の滅侭のニュアンス。
どちらかというと、拙者は「無我」のがスッキリ逝く。

田上氏のURLは読んでませんけど、
スレの流れだと、田上はブラフマン肯定か?(ファジーな部分で)

ブラフマン肯定でも、ブラフマン否定でも、中論で解釈すれば同じこと。
例えば、如来蔵思想だと
「森羅万象仏の当体」とか逝ったりするが、
非当体というのが存在しなければ、それは当体にも非当体にも成り得ない。
ってことですから、空以上の勝義諦はそもそも想定するのは不可ってことです。
(如来蔵思想の場合は、ここの見解は違いますけど)

どちらにしても、森羅万象という見地からしますと、
そもそも「我」という概念が入り込む余地が全くない。
よって、改めて「非我」と、
我を否定する意味も消滅する。
730神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 07:36:14 ID:tzcm0+OY
>>722 
>で、「認識に依存しない」「『月の存在』自体」が
存在することをどうやって“認識”したわけ?
こういうのを「極めて不合理」と称する。

これもこの説のパターンどおりのレスですね。
「存在論」と「認識論」を混同してしまっています。
すなわち、存在には認識が必要条件であるとの誤謬です。
「存在」には「認識」を必要としません。もし「存在」に「認識」が
必要であるならば、「未知の物」全てが存在しないことになりますね。
例えば、現在まで人類は数多くの元素を発見してきましたが、それらは
皆、発見と同時に出現したことになり、それ以前はそれらの元素はこの
「宇宙に存在してなかった」ことになりますね。
「存在することをどうやって“認識”したわけ?」これが、典型的な
論点のすり替えです。「存在には認識が必要」との前提にたち
「存在論」を「認識論」へと転換しています。

この説によるならば、「認識により存在する」すなわち「認識しないものは
存在しない」となりますが、全てのものは私達が認識した瞬間に出現することに
なってしまいます。
そして、この説の主張者たちは、「それならば私達が存在する以前は宇宙は
なかったのか?」   決してこの矛盾に答えようとしません。
さらに、また >>721 で提示した矛盾にも
>>あなたは、もし明日地球が消滅し、月を観測するものが全くいなくなれば
>月自体も消滅すると考えますか?

>その、「考えますか?」という設問そのものにすでに答えが含まれてるね

このように決して答えず誤魔化します。
731 ◆0X0XQc1Pepx3 :2009/09/22(火) 07:36:36 ID:/eWLVIUK
「風の中のアミダ、草原のミロク、
 街角のヤクシ、みんな何処へ行った」

衆生済度を発願した如来も菩薩達も全てパロディー化してしまっては
祈りが通じなくなるのも縁起ですね。
732机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/22(火) 07:38:00 ID:ij7lny6u
>>726>>727
自作自演ですか?

>衆生済度を発願した菩薩達も全てパロディー化されてしまうという「縁」
>で、悩める現代人が伝統仏教に魅力を失っていく仏教離れが「起」って
>いるようにも見えます。

そんなことはないです。

そもそも、衆生済度で、済度する人間が2人かち合ったら、
どちらが済度する側で、どちらが済度される側になりますか?
2人で話し合って決めるのですか?

こういう場合は、カルマのこともありますから、
善行の押し売りになるんじゃないでしょうか?
あまり余計なことはせんでいい。
ってことですよ
えらい迷惑してるんですからね><
733神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 08:14:18 ID:tzcm0+OY
>>728 え〜とですね、ここはスレ違いなので詳しくは論じませんが
ほとんど間違ってますよ。特に「観測者の意識が個々の状態に干渉する」
以前はこのようなトンでも説を言ってた人も確かにいましたが、現在は
一人もいませんよ。観測問題は単に確率の収束にすぎません。
734析空:2009/09/22(火) 09:13:46 ID:Ywoz+tct
>>711
解脱へ至る道→仏道→八正道

「みんなが出家すれば、解脱できない」という前提が間違い。

涅槃とは、八正道である。by舎利佛
735宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/09/22(火) 10:10:57 ID:HwB4dvka
どなたか、もう1スレ立てませんか?
次シリーズの議題を決めては如何でしょうか?
------------------------------------------------------
>>725
>次のスレタイ候補
>「原始仏典から大乗仏典への差異が生じた真因?」

違いがあるから、
「原始」or「大乗」なんだから、
どうせなら、「大乗仏教発生の真因とその必要性 !?」って感じではどう?
736宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/09/22(火) 10:14:23 ID:HwB4dvka
>>654
>経典からの引用は可能ですか?

無理でしょう。仏典においてはすべて、
五蘊や六根などを使った「無常」や「無我」の説法があるだけだろうと思います。
自分でヴェーダーンタ哲学とか知るならば理解されるものと思います。
私から見れば、ヴェーダーンタの「マーヤー」(幻力/幻影)と
仏教の「無常/空」は本質的に同じことを示そうとしています。


>>676
>更に、ニルヴァーナについての有我見的疑義に対しては、Sn1073-1076等が明確に説かれる。

現象界の基準、つまり「有・無」によっては示せない、といっているだけです。

>第二に、SN35.23では、十二処を一切とし、他の一切を説くならば、
>ありもしないものを説いていると明言している。

しかし、分らないですねぇ・・・(涙)
仏教でいう「一切」というのは、もうそれ自体が仏教独自の用語なのであって、
日常で我々が普通に生活で使っているところの「一切」とは、かなり違う性質のものです。

 『比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。
鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。比丘たちよ、これ
を名づけて一切というのである。
 比丘たちよ、もし人ありて、<わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言う
ものがあったならば、それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明でき
ないばかりか、さらに困難に陥るだろう。何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを
語っているからである。』(SN.35:23)
737宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/09/22(火) 10:15:27 ID:HwB4dvka
“それ以外の一切”などという勝手な話しをしているのではありません。
別に、「一切」の内容を変えているわけではないのです。
仏教における「一切」とは現象界の性質に“限定するもの”であり、
「一切」と「一切外」の二つがあるのですよ。

このSN.35:23の中身を読めば、それは瞭然でしょう!
「六根」「六境」を上げて、それらは現象界を捉えるものであるとして、
“それ”が「一切」であるとして教えているのです。

そして、この“現象界の一切”(有為)と“
一切ではない世界(一切外)”である涅槃(=無為)を説くのです。
“「現象界」と「それではないもの」がある”と説いているのが、『ウダーナ8:3』ですよ。
涅槃は一切外であるから現象界の基準では測れないし、
それを指し示すことができないと教えているわけです。
無いのではなくて在るんだれど、それを示す手段がないということ。
であるから、体験によって知りなさいというのが仏教の立場です。

もう、私は「一切」についての説明はしません。
どうぞ好きにやって下さい!
738宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/09/22(火) 10:22:20 ID:HwB4dvka
>>704>>706
その「出家」と「在家」の関係についていわせていただくと、
どうも出家者は在家者が支える関係というのが絶対のものだという話しになっていますね。
そもそも、そこが全く間違っているものと思います。

出家の根本義とは家無き生活に入ることであり、社会生活からの遠離のことです。
何か在家がいないと食が得られずに餓死するとかの発想が間違っている。
自分で生存すべく山野に入り、木の実や果物、野草を摂るという。
本来はサバイバルですよ。

僧院が形成されて、出家者を在家が支えるとか、
それが在家者の功徳になるとか・・いつしかそんなシステムが確立していった・・。
それは遙か後代の整備された関係のことです。

元々、本来は独りで山野に篭る。これが出家の姿です。
生存しながら修行生活を維持したければ、もちろん必死に自分で食を得る。
意味はそれだけのことですよ。

在家がいないと(托鉢で食を得ないと)餓死する
といった発想は本来の出家とは意味が異なります。
在家がいなくたって餓死なんかしません。
739神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 10:27:56 ID:ESC/E/BY
>>737
> もう、私は「一切」についての説明はしません。
> どうぞ好きにやって下さい!

なぁ〜に一人で興奮してるんですかぁ?w

> 仏教における「一切」とは現象界の性質に“限定するもの”であり、

というのは原始仏教の話にすぎないということが貴方の投稿から
明らかじゃ、あ〜〜りませんか。

> 「一切」と「一切外」の二つがあるのですよ。

でもって、原始仏教においては「一切外」に真我があるとか言うのは
「頭がおかすぃ!」というレッテルが貼られちゃってるわけじゃないですか。
ちゃんちゃん!
740宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/09/22(火) 10:39:51 ID:HwB4dvka
>>739
>というのは原始仏教の話にすぎないということが貴方の投稿から
>明らかじゃ、あ〜〜りませんか。

当たり前です。
原始仏教の教えに遡ろうとしているのですから。

>でもって、原始仏教においては「一切外」に真我があるとか言うのは
>「頭がおかすぃ!」というレッテルが貼られちゃってるわけじゃないですか。
>ちゃんちゃん!

一切外にあるのものとは“涅槃の境地”です。これが仏典の説くもの。
ただし、明確に真我が涅槃において顕れる、といった解説はありまぜん。
私は、「アートマン」(バラモンが説くような)を教えたなどとはいっていません。
ただし、説いてないから「無い」ことにはならない。
741神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 11:02:32 ID:ni3qtVe+
神智学的に現象界と非現象界を妄想し、
非現象界を永遠不滅の清浄なる“ある”ものを
戯論しとかないと「宗教」にならんから、
神智学的に執着してるだけ。 簡単な手口でしゅ。
カルトとしては、実証不能のそーゆー構造でないと
逆に反証可能となって、お召し上げしにくい。

仏教以外の「宗教」はこういう構造になっているから簡単だが、
仏教はー特に中観はー手ごわい。そんな幼稚な哲理ではなかった。
鎧袖一触。
宝珠の、仏教とくに中観のレイプは大失敗に終わりますた。
言辞を弄するほどに、どつきまわされてボロボロになっております。
742旧7:2009/09/22(火) 11:21:13 ID:Ws0NLxwH
ID:tzcm0+OYさんの片方の問い(>>721)は、畢竟こういうことになる。

≪もし、認識論の方向で徹底するならば、
  (たとえば、「(私が)認識するから(私にとっては)月が(―仏教的には、所縁により仮設されたものとして、だが―)ある」というような時)、
 仏教は(或いは唯識教学は)『独我論』を超えられるのか?≫ というものだ。
≪もし、>>717>>719>>723(或いは過去スレの遣り取りから拾った方が良いかもしれんが)のように、
 認識論的に先鋭化させるなら、『仏教(或いは唯識教学)は独我論である』という言明・評(≒批判?)は
 受け入れられるものかどうか?≫ と・・・。
≪仏教は、その出発点及び本義に於いて、
 実存的教え、認識、受け止め、頷き、(そして実践、到達)なのであるから、独我論的で当然、寧ろ名誉(?)なこと≫
と言えるかどうか?
また、
上の例で、「月が、所縁により仮設されたものとして、ある」と言う時、
その縁の中に認識者の知覚認識が関わっている(―根境識の和合、或いは接触を縁としてと言われる部分―な)わけだが、
認識論的に先鋭化した場合、「境との和合」とはどういうことか?「受」とはどういうことか?
「識」の対象としての「境」は、「受(感受)」と「“(完全)同時に”生起する」ものなのか?
「感受以前に識としてある」という言明を却下するなら、「境(対象)」の生起は「受(感受)」と同時ということになる。
これが、『(縁起の)相依性、相互依存性』であり、『これあれば、かれあり』『これなければ、かれなし』であり、
華厳教学、法界縁起にまで研磨されていくのだろうが、《同時》ということは許容し得るものだろうか?
ここを簡単に許容し得るものとするのが、実存的捉え方を踏まえた独我論的方向性となるわけだが、
≪仏教に於いて、認識論的方向性の先鋭化は、極限まで進めてしまってもいいのか?≫という問いとも言える。
743神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 11:26:22 ID:ni3qtVe+

「仏教」の神智学的歪曲・曲解 ←これが宝珠のすべて

もっとも、到彼岸でないと現観とはならないだろう。
744神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 12:03:50 ID:NWamSZLm
「弟子たちよ、『梵(ブラフマン)』と『我(アートマン)』や『我がもの』などは、
 真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は(梵と一如となって)、
死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22改)



本当に釈迦がこのような事を言ったのだろうか?死後何百年、500年ほど経てから編集された経典なんでしょ?

仮にこのようなことを本当に言ってたのだとしたら、ヒンズー教徒とは相容れないわな

さも、釈迦の言葉であるように創作してるなら罪深い
745神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 12:17:39 ID:5IVrNgMF
>>721
>強度の人間原理

そう考えるのも人間w。

人間界におけるすべての知覚、認識、思考は、すべて人間による。「強度」も
「弱度」もない。

目の前にこのPCが実在することの証明は、「人間の五感で知覚できる」こと
以外にはない。人間界は本質的に共同体だから、不特定多数人のほぼ同一の知
覚により知覚できるものでなければならない。さもなければ、「幻覚」「妄想」
になる。

過去に知覚できなかった対象が実在した、ということは、「現在知覚できるもの
からの推測」であり、実在の「証明」ではない。人間は、知覚(即ち、物の
実在)を記憶し、また言語によって他の成員に伝達することができる。

ものの実在のテストは、「人間の生命の維持に直接関係するか否か」である。
生命がなければ、いかなる知覚、認識、思考も不可能であるからである。

「神」は、煮て食うことも、衣服にして寒気を防ぐこともできないから、非実在、
空想である。路上の石ころは、投げて外敵を防ぎ、また積み上げて塀や家屋を
作ることも出来るから、実在である。

すべての人間が死に絶えたと仮定した場合、この世界は実在するか。その実在
は、誰が、どうやって証明するのか。
746神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 12:31:34 ID:6tahbdKn
>>745 今から40億年前、地球上に未だ生命が誕生していないころ、地球は存在したか?
747神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 12:37:31 ID:5IVrNgMF
>>746
「現在知覚できる対象」から、存在したと「推測」されている。

生命発生前の地球のGCなどは、あくまで「想像画」w。
748神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 12:44:02 ID:5IVrNgMF
佛教の偉大さは、その「強度の人間原理」にある。釈迦は、「人間が
考ええも無意味なものは考えるな。涅槃に到らず」と説いた。
749神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 12:47:24 ID:6tahbdKn
>>747 いえ、論理的帰結です。現在、存在する数多くの生命はその誕生において、
「誕生しうる『場』の存在が大前提」です。
誕生する場がないのでは、誕生そのものがなりたちません

あなたも、人間の誕生と同時に地球も誕生したと主張するトンデモさんですか?
750神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 13:28:36 ID:MEoHDkd9
>>744
>仮にこのようなことを本当に言ってたのだとしたら、ヒンズー教徒とは相容れないわな
ヒンズー教ができたのは仏教よりずっと後のことだろ。インドの正統宗教はバラモン教だった。
バラモン教が仏教やジャイナ教の思想に感化されてできたのがヒンズー教だろ。
751神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 13:45:27 ID:wyf/pUst
>>730 
>「存在論」と「認識論」を混同してしまっています。
>すなわち、存在には認識が必要条件であるとの誤謬です。

認識論的反省が皆無なことと、縁起への無知。


>もし「存在」に「認識」が必要であるならば、「未知の物」全てが存在しないことになりますね。

『二十論』の論敵と同じこと言ってる。『二十論』読もうね、ただし自分で。


>>で、「認識に依存しない」「『月の存在』自体」が
存在することをどうやって“認識”したわけ?
>>その、「考えますか?」という設問そのものにすでに答えが含まれてるね
>このように決して答えず誤魔化します。

で、「認識に依存しない」「『月の存在』自体」が存在することを
どうやって“認識”したの? 「誤魔化」さずに早く答えようよ。
752神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 13:45:38 ID:MEoHDkd9
無神教の仏教を神智学で理解するのはもともと無理だろ。
人智学ならいざ知らず。仏教は仏教学で理解すればいいじゃん。
753机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/22(火) 14:14:04 ID:ij7lny6u
>>730
存在論と、仏教の認識論は全然違いますね。

月はそれ自体が自性としては存在してない。
存在してる、ってのは認識対象化させなければ存在していることにはならないんで、
そもそも対象化させる認識主体が前程となる。

仮設として、認識対象と認識主体がマッチングして、
そこで初めて「月の存在」って仮設が成りたつ。
(これを仏教では無自性としている)
だけど、認識対象、および認識主体がそれぞれ無自性ですから、
あくまでも「月の存在」は仮設として成り立つもんで、
実際、実在論とは程遠いもんです。

「原始仏教は素朴実在論」。と逝ってた電波氏(コテハン)も、あれは大間違い。

>>あなたは、もし明日地球が消滅し、月を観測するものが全くいなくなれば
>月自体も消滅すると考えますか?

月自体が消滅するどころか、そもそも月は存在してない。
縁起において存在(現認)することもある。
これが正解です。
754神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 14:40:45 ID:ni3qtVe+
>>744
>仮にこのようなことを本当に言ってたのだとしたら、ヒンズー教徒とは相容れないわな

14世紀にヴェーダ聖典権威絶対主義のヒンドゥ教のマーダヴァが著した『全哲学綱要』によれば、
最低最悪なのは、唯物論(ご隠居):そもそも精神の独自性を認めないから
2番目に劣っているのは、仏教:ヴェーダもアートマンも認めないから
3番目に劣っているのは、ジャイナ教:アートマンは認めるがヴェーダを認めないから。
 
こーゆーよーに徹底研究したヒンドゥのエライサンからもお墨付きを頂いているのだから、
本スレのテーマについては結論は明白。


755旧7:2009/09/22(火) 15:01:25 ID:Ws0NLxwH
>>735  テーマ及びスレタイ案

大乗仏教の特性:その長所と短所
【長所】大乗仏教の誕生と発展及び意義【短所】

「涅槃」或いは「悟り」或いは「縁起」或いは「苦」の主観的限界。客観性を持たせ得るか?
 (→結局は、どこまで行っても、『自身にとってどうなのか』でしかない。 →他者には当てはめ得ない。)
《畢竟『仏教は「自覚の宗教」』であり、言及できる部分(分野、領域)は極端に少ない》。
【主観?】「涅槃」及「苦」は個人的自覚【妄想?】

仏教に於いて、(現在その全てが(理念通り)履行されているかどうかはともかく)、
《「聖」と「俗」》《「勝義諦」と「世俗諦」》
《「隠棲」と「市井」》《「脱社会」と「社会性の維持」》
《「非生産者」と「生産者」》《「法施」と「財施(=食施)」》
《「無所有」と「所有」》《「社会的責務の免除」と「社会的責務の遵守」》
などの区分(≒結界)は本当に必要か?
 (→在家無き仏教はあり得るか? 逆に出家(者)の無い仏教はあり得るか?
   寧ろ、両者のハイブリッドこそが理想形か?)
或いは《「聖なる領域」は「世俗の最大・最高規範」の上位に位置づけ得るか?》
或いは《他の宗教に於ける「聖と俗の対比」と、どこが相似し、どこが異なるのか?》
【出家】「聖」と「俗」の交錯点【在家】

『三世に跨る業報の不完全性』、『因果の取捨選択は枠組み次第(≒恣意的)』
『「転生」という概念の曖昧さ』、『過去生の想起は果たして可能なのか』
《当人の自覚以上のことを、他者、第三者が断定し、告げ、思い込ませていいのか?》
【輪廻】その果は何を因としているのか?【業報】
【自覚】その果は何を因としているのか?【告知】
【授記】その果は何を因としているのか?【断罪】
756神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 16:08:41 ID:ni3qtVe+

 大切なことは、社会を生きてゆく上での
 ブッダの教えの現代の実践的意義だろう。

 単なる知的興味にとどまるなら学問、哲学としての意味しかない。
 ここにいる皆さんは、仏教を生きていくうえで、どう生かされているか聞きたい。
757 ◆4yy3YEx6Zc :2009/09/22(火) 16:13:39 ID:WSmlJ2T/
一切の現われが唯の認識に過ぎなくとも、
その顕現に強制力があるなら、存在自体が存在する、と言ってもいいような気がする

たとえば
後ろからいきなりぶん殴られた時
認識と1刹那前の殴打の関係を合理的に説明した上で抗議するのには無理が出てくる。

「殴られるその刹那を目撃していない」「『殴る行為の存在』自体」が存在することを
どうやって”認識”したの?

生じたことについて異義を立てない。
殴られても報復しない。
その姿勢が前提にある坊さんなら問題ないのだろうけど。
一切の過去の”苦”の認識について、あるいは既に積んだ業対象ならば喜んで合意するが
一般化されるとどうも。

伝統的な釈を聞くと諧謔としか受け取れない部分がある。
とくに帰ビョウ法厨の坊様の釈は、受けを絶対に狙ってるw
もっとも反語や含みは釈尊以来の伝統ともいえる部分なんだよね。
758神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 16:42:49 ID:W7yy3w33
>>756
単なる知的興味なら、学問、哲学、そして宗教としての意味もないね。

そのような宗教批判は、生きる意味と力を与えてくれるw。
759神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 17:01:17 ID:tzcm0+OY
>>751
>認識論的反省が皆無なことと、縁起への無知。
「存在」に「認識論的反省」が必要なことが論証されていないので無意味です。
「縁起への無知」→これも「存在には認識が必須」との見解に何故、縁起が
関係してくるのかの説明が全くありません。
佛教でいうところの「縁起」とは、「全ての存在は自性が欠如していて、無限の
関係性の上においてのみ意味をもつものである。我々が通常、『存在している』と
誤認しているものは『五蘊の仮和合によって仮設されたもの』に過ぎない」
と、こういうものだと思いますが、これによると「認識」も「無限にある関係性、
諸要因」のひとつに過ぎず、これが失われたからといって、その『仮設されているもの』を
成り立たせている「縁起」が、消失するわけではありません。

>『二十論』の論敵と同じこと言ってる。『二十論』読もうね、ただし自分で。
このレスも全くダメです。返答に詰まったときに使われる常套手段です。
「まずは〜を読んで来い。話はそれからだ」 逃げの常套句です。
このような掲示板では、誰もが共通認識として了解している事項以外は、
「著書名」「学者名」を挙げるだけでは、全く無意味であり、その著書、
あるいは学者は、「〜のように述べている」と記述しなければ、単に逃げて
いるに過ぎません。最低限、そのくらいのことは理解しましょう。
760神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 17:02:14 ID:tzcm0+OY
>で、「認識に依存しない」「『月の存在』自体」が存在することを
どうやって“認識”したの? 「誤魔化」さずに早く答えようよ。
これも、自己の回答不能を誤魔化すための手段にすぎません。
私は『存在に認識は不要』と主張しているにも、かかわらず
「どうやって『認識』したの?」と、私に『認識法』の説明を求めます。
一見、関係があるように見える無関係な話題を振り(あるいは逆質問を提示し)
自己の回答を回避する典型的手法です。

「存在に認識は必須である。認識なくしては存在はあり得ない」との説の
反証を以下にあげておきます。
「もし、上記の説をとるならば、認識主体の存在が大前提ですね。『存在
していると言えるには、それを認識しているものがいなくてはならない』
これがこの説の中核思想だからです。さて、それではこの認識主体が誕生
するには、その誕生する『場』が、なければなりません。(例えば、この
認識主体を人間としたとき、人間が誕生する地球というものがなければ
「誕生」そのものがあり得ません)
それでは、この認識主体が誕生する『場』というものは存在しているのでしょうか?
人間は誕生以前には、地球を認識できませんから、地球は存在しないことになります。
しかし、地球が存在しないのであれば、認識主体の人間そのものが誕生できません。
??????  わかりますか?  この説の論理矛盾が。  『認識により存在が
成立する』とするのであれば、必然的に認識によらないものの存在を許容しなければならなくなります。

この説は大昔からある「人間原理」と呼ばれる説で、とっくにその論理矛盾が
指摘されて消え去ったものです。未だにこの説を主張する者がいること自体が
驚きなんですが。
761神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 17:12:23 ID:tzcm0+OY
>>755 次回のスレたいのテーマですか。大変興味深いですね。
個人として、「佛教における主観と客観」に関するものを望みたいですね。
どこまで佛教に普遍性を求め得るか?みたいなやつ。

佛教は他の宗教と違い論理的整合性を重視する側面があると思いますが
それがどこまで可能なのか?  には興味がありますね。
762 ◆4yy3YEx6Zc :2009/09/22(火) 17:12:57 ID:WSmlJ2T/
場の論理による唯識批判w
763机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/22(火) 17:31:36 ID:ij7lny6u
>>760
>人間は誕生以前には、地球を認識できませんから、地球は存在しないことになりま。
>しかし、地球が存在しないのであれば、認識主体の人間そのものが誕生できません。

これは昔聞いたような記憶がありますが、今、思いだしましましたよw
ゴルバチョフが逝ってました。
「人間が誕生する以前に地球があったから、唯物論は正しい」。
つまり物質世界における派生として生命が誕生した。
この理論は、当時、最も合理的な考えとして、
直ぐ唯物思想は全世界に拡大し、イデオロギーとして学生運動の理論武装となっていった。
そして、60年・70年安保になっていく。
764神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 18:15:10 ID:wyf/pUst
>>759-760
>これも、自己の回答不能を誤魔化すための手段にすぎません。
>私は『存在に認識は不要』と主張しているにも、かかわらず
>「どうやって『認識』したの?」と、私に『認識法』の説明を求めます。
>一見、関係があるように見える無関係な話題を振り(あるいは逆質問を提示し)
>自己の回答を回避する典型的手法です。

これこそ、「自己の回答不能を誤魔化すための手段にすぎません。
一見、関係があるように見える無関係な話題を振り(あるいは逆質問を提示し)
自己の回答を回避する典型的手法です。」
さあ、「自己の回答を回避」し「誤魔化」し続けないで、
>>で、「認識に依存しない」「『月の存在』自体」が存在することを
>>どうやって“認識”したの?
に早く答えようよ。
ところで、『二十論』が何かすらも分かってない?


>認識により存在が成立する』とするのであれば、
>必然的に認識によらないものの存在を許容しなければならなくなります。

「許容」即ち「認識」を介さずして↑とどうやって“認識”したのですか?
「??????  わかりますか?  この説の論理矛盾が。」
こうした「論理矛盾」を「誤魔化」すことを「認識論的反省」が皆無だと言っている。
765神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 18:21:01 ID:ni3qtVe+
ご参考に

[認識方法と認識対象の]二つは自立的に存在しない。
もし認識方法とその対象との二つが本体[実体]として存在しているなら、
認識方法[がある]、認識対象[がある]などと言われることもできよう。
しかるに、[相互に]依存して存在しているということは相互に成立させあうという意味であって、
それは自立的存在[客観的実在]ではないのである。
(ナーガールジュナ、梶山訳、『ヴァイダルヤ論』、2)
766神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 18:22:12 ID:ni3qtVe+
やばい、もうすぐ終わりや 496KB
767神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 18:28:43 ID:wyf/pUst
>>765
もちろん、同箇所を知っております。『廻諍論』の量批判も。
だいたい、例えば『三十頌』等は、能取が実在するなんて言っていないわけですよ。
所取が無いから能取も無い。
768神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 18:39:20 ID:ESC/E/BY
>>740
> 一切外にあるのものとは“涅槃の境地”です。これが仏典の説くもの。

あ〜、これ間違いね。「一切外にあるもの」なんて説いてないんだな。これが。
煩悩の「滅び」や煩悩が尽きるという表現があるだけで、「一切外」に「ある」なんてものはぁ〜なぃわけ。

そーゆー「一切外」に「あるもの」なんて概念は、原始仏教には「無い」わけですよ。
一切外という概念もなければ、そこに「あるもの」という概念も無いんだから、あるわけないんだよね。
ぜぇ〜んぶ、新興宗教の人の「ね・つ・ぞ・う」なんだから!
いい加減にしたらって思うんですよぉ。

> ただし、明確に真我が涅槃において顕れる、といった解説はありまぜん。
> 私は、「アートマン」(バラモンが説くような)を教えたなどとはいっていません。
> ただし、説いてないから「無い」ことにはならない。

なんかさぁ、そういうのって右目が腫れ上がったボクサー相手に右に右に回り込んでいくのに
似てるよね〜。そーやって、死角に死角に逃げていくのって情けなくないのかな?かな?
見えてなければ「何言ってもおっけー!」ってわけにはいかないんですよ。ざぁ〜んねん!!

説いていなどころか、これ以上ないくらいハッキリと「愚かな教えである」と明言されてんのですよ。
もー、何をいっても無駄なことに気づいてほしいな〜〜
いや〜見苦しい、見苦しいw
769神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 18:43:38 ID:h8pRTKor
>>755のテンプレをつくってスレ立てに挑戦してみましたが無理でした・・・


【長所】大乗仏教の誕生と発展及び意義【短所】
---論題---
 無霊魂論としての仏教
   ttp://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/seminar2.pdf

前シリーズ、【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】に続き、
今回は、大乗仏教の誕生と発展及び意義について議論します。
引用をする際には出典を(なるべく正確に)明らかにして下さい。
相手を○○教徒認定するなどのレッテル貼りは不毛なのでおやめください。
このスレでやることに意義を感じない方は他に有効な時間の使い方を探してはいかがでしょうか。

*仏陀の教説として最も信頼性が高いとされる原始仏典からの引用と解説は特に歓迎します。
(投稿「750-800」を目安に善意の方どなたか次スレを立てて下さいm(__)m)

前スレ 【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】15
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1252710272/l50
 **全過去スレ/リンク集 http://houjugusya.web.fc2.com/link.html
 「2ch DAT落ちスレミラー変換機」 ttp://www.geocities.jp/mirrorhenkan/

まとめwiki.   .: ttp://www28.atwiki.jp/buddha/
パーリ三蔵.  .: ttp://www.tipitaka.org/cell/mainlist.html
大正蔵経DB .: ttp://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/
770旧7:2009/09/22(火) 18:48:02 ID:Ws0NLxwH
>>769
>*仏陀の教説として最も信頼性が高いとされる原始仏典からの
おいおいw
大乗仏教のの発展なんだから、中心となるのは『大乗仏典の変遷』だろwww
百歩譲って、その萌芽がどの辺りにあるかを検討するくらいだ。
この一文は無意味。
771神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 19:04:18 ID:h8pRTKor
>スレ立てされる方

「仏陀の教説として最も信頼性が高いとされる原始仏典からの」
を削るか
「大乗仏典と、また比較対照としてパーリ仏典からの」
みたいな感じの文言といれかえるかして頂けると助かります。

772神も仏も名無しさん
>>764 
全くダメですね。あなたは、オウム返しによるレスという最も稚拙な方法
と単なる使用語彙の揚げ足とりしか、行わないのですね。
「許容」という語が気に入らないのであれば、「前提」でも同じことです。

どちらにしろ、あなたは自己の主張の論証を一切せず、また、こちらの問いに
全く答えようとする姿勢が見えません。オウム返しと揚げ足取りでは、どうしようも
ありませんので、終了します。