1 :
考える名無しさん:
『私』『自我』『主体』『主観』『主観性』、
デカルト的懐疑の到達点、
各種宗教的アプローチの底に見出されるもの、
等は、どのような記述が可能なのか?
その記述方法は、唯物的な事象の羅列で十分か不十分か?
その記述方法は、一通りか?それとも何種類もあるか?
それら記述方法の分類・仕分けはどのようなものか?
まだやるのw
4 :
考える名無しさん:2007/06/12(火) 08:43:54 0
ごめんなさいボクがきちがいでした
5 :
考える名無しさん:2007/06/13(水) 03:49:19 O
(爆笑)王こと哲学者最高位の降臨はまだかな?(爆笑)
6 :
考える名無しさん:2007/06/13(水) 14:17:18 0
<今>の私はひとつである。
過去や未来の私は複数ある。
7 :
考える名無しさん:2007/06/13(水) 14:22:23 0
私が生まれる前から私はあった。
>>1が意味不明。
雰囲気だけ繕ってるが書いた本人が何を論じたいのかよくわかってない典型。
私を記述しろ、ってもしかして自己紹介スレか?
9 :
考える名無しさん:2007/06/13(水) 17:24:03 0
自己が自己だと思っている「私」とは何かということでしょう。
10 :
考える名無しさん:2007/06/13(水) 17:31:18 0
池田晶子「14歳からの哲学」読め。
ぶっちゃけこのスレは
>>1はどうでもいいんだけどねw
「あなたはとても多くの言葉を学び、とても多くの言葉を話してきた。
あなたはすべてを知っている。だが、あなた自身を知らないのだ。
なぜなら、自己が言葉を通して知られることはないからだ。
ただ直接の洞察だけが自己を露にする。
内側を見なさい。内側を探求するのだ。」
「言葉にはそれ自体のかぎられた有益性がある。
だが、言葉に制限を与えてこなかったことが、私たちを崩壊の淵へと追いやったのだ。
私たちの高尚な考えは、不名誉な行為によって絶妙に相殺されてきた。
私たちは神、真理、愛について語る。だが直接の体験の代わりに定義を蓄えてきた。
行為を広め、そして深めていく代わりに、定義づけに忙しかったのだ。
そして定義できることを、私たちは知っていると想像してきたのだ。」
「今まで、あなたはマインドを知る者として見なしてきた。だが、そうではないのだ。
マインドはイメージと観念をあなたに詰めこんできた。それは記憶に傷跡を残すのだ。
あなたは覚えていることを知識だと思いこんできた。
真の知識とはつねに新鮮で、新しく、予期できないものだ。それはあなたの内面から湧きあがってくるのだ。
あなたがあなたで在るものを知るとき、あなたはまた、あなたが知るものでも在る。
知ることと在ることの間にへだたりはないのだ。」
「質問者 私は何度も試み、そして失敗してきたのです。
マハラジ もう一度、試みなさい。あなたが試みつづけるなら、何かが起こるだろう。
試みなければ、あなたは立ち往生するだけだ。
あなたはすべての正しい言葉を知り、聖典を引用し、討論において優秀であるかもしれない。
しかしそれでも、ただの薄っぺらな人間のままだ。
あるいはあなたは目立たない、謙虚な、取るに足りない人かもしれない。
それでも愛に満ちた優しさと、深い智慧に輝いているかもしれないのだ。」
『I AM THAT 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話』
98自己同一化からの自由
99知覚されたものは知覚者ではありえない より
13 :
考える名無しさん:2007/06/13(水) 20:33:29 0
だから、池田晶子「14歳からの哲学」読め。
14 :
考える名無しさん:2007/06/14(木) 05:12:54 O
それ漫画?漫画じゃないと読みたくない。どんな内容なの?
15 :
考える名無しさん:2007/06/16(土) 14:54:37 0
何だ、過疎ってるじゃないか。ネタ切れか。
池田晶子さんでもよいから、紹介すれば。
16 :
考える名無しさん:2007/06/16(土) 15:05:26 0
コピペ
「今ここにいる」という、最も当たり前で単純なことを、いかに分かっ
ていないかに気が付けば、まず「なぜだろう」と考えますね。そうする
と、生き方に対する考え方も当然、変わるはずです。例えば、人が死ぬ
のが当たり前と思っていたのが「いや、死ぬということは存在しないん
じゃないか」って考えれば、生き方も変わってきますよね(笑)。
池田晶子
「何も分からない」一方、「今ここにいる」ことは、厳然たる事実なわ
けですから、そこに一瞬一瞬の確信が生まれます。自分が何も分かって
いないことを知っている「無知の知」の力強さが出てくるわけです。
私=キンタマ
私はキンタマである。
キンタマである理由はキンタマである以外ありえない。
つまり私はキンタマである。
しかし、コレを読んでいる人も私である。つまり読んでいる君もキンタマ。
即ち
>>1=キンタマ
18 :
3時で1時:2007/06/17(日) 11:00:50 0
自我がソファーに座るだろうか?
自我があなたに問いかけるだろうか?
自我が掲示板に書き込むだろうか?
これを読むであろう見知らぬ「あなた」は人間たる身ではく
自我として存在しているのだろうか?
「私」は自我として存在しているわけではない。
「私」は「自我たるあなた」に問いかけているのではない。
自我が有ると仮定しても、ここに居るのは、この身である。
自我意識は持っているが、それは自我が存在するということを意味しない。
人体に自我意識を生じさせる仕組みがあるのかは、まずは関係ない。
意識を生じさせる仕組みが脳に有ろうと、霊魂に有ろうと、異次元に有ろうと、
「在る」ものとして知覚できるものはこの人体であり、その人体である。
コミュニケーションにおいて必須なのは「私」が「この身」であり、他者が
「その身」であったり、「あの身」であることを分かっていることである。
自我は、生命の恣意性であるとか、認識作用とか、外界と区別して
意識される自分であるとか、霊魂であるとか、いろいろと解釈されるけれども、
「私」が「誰かである」のは「この身」においてである。
19 :
,b:2007/06/17(日) 11:43:32 0
21 :
考える名無しさん:2007/06/17(日) 17:16:54 0
何かを考えているところの主体とされる私は常に無である
私が無であるからこそ、そこにおいてある何らかの思考が存在する
存在は無ゆえに存在し、無は存在によって無である
存在とは無であり、無とは存在である
色即是空
>>22 この言い回し(構造)を、エルニーニョ現象や、富士山、山、島に応用してみましょう。
A:
「エルニーニョ現象」という言葉 の事を言ってるんじゃないぞ バカ
「エルニーニョ現象」という【そこに生じている事象】の話です
他人が、いくら【それ】を指す意味で「エルニーニョ現象」という言葉を使おうとね
そんなのはやっぱり「このエルニーニョ現象」とは別の【呼称】であって、「このエルニーニョ現象」でない【ラベル】
すなわち「名前」でしかないんだよ
B:
「富士山」という言葉 の事を言ってるんじゃないぞ バカ
「富士山」という【そこにある地面の盛り上がり】の話です
他人が、いくら【それ】を指す意味で「富士山」という言葉を使おうとね
そんなのはやっぱり「この富士山」とは別の【呼称】であって、「この富士山」でない【ラベル】
すなわち「名前」でしかないんだよ
C:
「山」という言葉 の事を言ってるんじゃないぞ バカ
「山」という【そこにある地面の盛り上がり】の話です
他人が、いくら【それ】を指す意味で「山」という言葉を使おうとね
そんなのはやっぱり「この山」とは別の【呼称】であって、「この山」でない【ラベル】
すなわち「名前」でしかないんだよ
D:
「島」という言葉 の事を言ってるんじゃないぞ バカ
「島」という【海面から突起した部分】の話です
他人が、いくら【それ】を指す意味で「島」という言葉を使おうとね
そんなのはやっぱり「この島」とは別の【呼称】であって、「この島」でない【ラベル】
すなわち「名前」でしかないんだよ
実は、
>>23には重大な過誤がある。(お解りになりますか?w >>最高位)
元の文と、ABCDには、決定的な違いがある。
それは、ABCDは外在的なものについてであり、
『存在性』は、自己の内部における「実感」が基となっているということだ。
3行目と4行目で、語の変換に伴い文意の変換も生じているからだ。
(余談になるが、ちなみに、原文の4行目5行目に対しては、
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1181057968/863が反論となる。
自分の思惟は自分としてしか実感しない。
他人を実感するなどということはありえない。実感された時点でそれは既に自分だからだ。)
それはともかく、
そこで、もう一度改変してみる。
E:
「存在性」という言葉 の事を言ってるんじゃないぞ バカ
「存在性」という【○△×□】の話です
他人が、いくら【『私』】を指す意味で「存在性」という言葉を使おうとね
そんなのはやっぱり「この存在性」とは別ものであって、「この存在性」でない存在性
すなわち【「普遍的存在性」】でしかないんだよ
しかし、まだ原文の肝の部分には迫りきっていない。
原文3行目 >他人が、いくら自分を指す意味で「私」という言葉を使おうと は、
上の余談(及び
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1181057968/863)と関連し、
認識・実感の、閉じた限界を示している。
Aさんの『私』・『存在性』は、Aさんの『私』・『存在性』であり、
決してBさんの『私』・『存在性』ではないということだ。
Aさんにとっての『私』・『存在性』は、この『私A』・『存在性A』しかなく、
Bさんの『私B』・『存在性B』は、上記改変文ABCDにおける
「そこに生じている事象」「そこにある地面の盛り上がり」「海面から突起した部分」等等
と同じで、【Aさんにとっては】外部であり他者である。
その意味で、原文4行目5行目は、当たり前も当たり前で、決して覆ることの無い論理的必然となる。
自身に実感される『思惟している事実』を『私』・『存在性』というのだから(定義したのだから!)当然のことだ。
しかし、これは【Aさんにとって】ということであり、
【Bさんからしてみれば】、Aさんにとって確実である筈の『私A』・『存在性A』が、
「そこに生じている事象」「そこにある地面の盛り上がり」「海面から突起した部分」等等
と同じで、【Bさんにとっては】外部であり他者であるということだ。
唯一絶対で確かなものである筈の『私A』・『存在性A』が、
一転して懐疑の対象となり、不確かなものとなる。外部となり他者となる。
唯識氏が、普遍普遍とうるさく言っていた意味が解りますか?
まあいいです。ピントを絞って、ズームインして、個別な『私A』・『存在性A』に注目しましょう。
普遍的『私』・『存在性』は包括的グループであり、
個別の『私A』・『存在性A』を指してはいない、という反論は受け入れられる。
また、「私の『私』」、「私の『存在性』」が、唯一個別のものであることも頷ける。
が、それは、『動き』とか『時間』(或いは『社会』『共同体』)とかのような、【抽象的在り方・在り様】ではないか。
写真に撮るように切り取ったり、果物の種を取るように切り取り取り出せるものではなかろう。
生憎と、私はまだふさわしい適切な言葉・ラベルを見つけてはいない。
どうやら、【意識・精神活動】でもないようだし、
【思考している事実】/【そこ(ここ)に在ること(居ること)】でもないらしい。
※(『存在性』と呼ぶのみならば後者が近似な説明かもしれないが、『私』という表現に於いては抜け落ちる部分がある・・。)
【思考しているという実感(そのもの)】でもないらしい。
【思考そのもの】bでもないらしい。
【(在るという)性質】でもないらしい。
≪a【自身によってのみ、「在る(居る)」と実感される対象】≫とでも言うべきか・・・。(循環してるなぁ・・・。)
≪b【思考するもの】≫とでも言うべきか・・・。(絶対的根拠には弱いなぁ・・・。)
≪c【思考という動態(=自己を見出しているという動態)】≫とでも言うべきか・・・。
最高位自身「在るとしかいえないもの」と言うように≪d【今まさにここにいるもの】≫とでも言うべきか・・・。
『私』と表現せざるを得ないニュアンスがわからないわけではない。
※(≪a〜c≫辺りは龍樹、≪d≫は禅、を参考にして掘り下げると面白いかもしれない・・・。)
しかしながら、
たとえ『私』・『存在性』が、【現に思考しつつあるもの】であっても、
(経験的事実との整合性を無視できないならば)、
≪【ある条件によって、ここ(この肉体)に顕われている】≫という一文を、
『私』や『存在性』に付加することが不可能とは思われない。
そこで指し示される対象は在るであろう。が、その在り方から、不安定な危うさを払拭することはできない。
※(懐疑の果ての「その実感」は、どこまで確実なものとしてありうるだろうか・・・。)
そして、抽象的・具象的に関わらず、種々の条件の複合的結果ならば、場合や文脈によって、
「ない」とか「仮設されたもの」とか「不確かなもの」とか「泡沫の如し」とか「夢幻の如し」とか、
こうした言辞も可能となる。
久しぶりに、チラシの裏してみた。
あまりまとまってはいないが、かなり最高位サイドの視点を盛り込んである。
誤解している方も多いようだが、私と最高位氏は、まだ本格的対立には至っていない。
その前段階での齟齬(前提?)が、なかなか埋まらないだけです。
いつか、ポイントを網羅し、私と最高位氏の類似点、相違点をまとめてみたいとは思っている。
そしてそれは、
アートマンでもなく、一般的日常の自己でもなく、意識という主体としての自己でもない「自己」
について、仏教がどのような位置付けをすべきか・・
という、私の(この話題への参戦理由としての)興味を満たすものとなるだろうから・・・。
(本音を言うとそれこそ、「虚妄だw」と言い捨ててしまいたい所ではあるが・・・w (´ー`)y━~~ )
29 :
ネコの味方:2007/06/19(火) 22:41:57 0
>>素人さん
「私A」とか「私B」といった表現が“超越的”なのです。この種の逸脱は
感歎子さんにも感じることがあります。
もし「私」を語るのなら首尾一貫して素人さんの「私」でなければおかしい
でしょう?
30 :
素人:2007/06/19(火) 23:45:49 0
>>29 貴方には、なぜ普遍が必要か、返答した筈ですが?
ちょっと失望しました。
また、私は常に
「自分を観察した結果から推察されること」と「自分が今知っている現代的知見」とを
摺り合せながら発言しています。伝わっていなければ悲しいことですが、
それは私の文才の無さ・拙さに起因するのでしょう。
お釈迦さんが菩提樹の下から立ち上がった理由の一つは、
「自分の見た自身の姿が、他の人にも援用できる」と考えたからです。
私A私B(田中さんでも鈴木さんでもジェームスでもいいですが)として考察し得るからそれを語り、
聞いた者は自身の縁起に気が付けるのです。
31 :
3時で1時:2007/06/20(水) 02:24:14 0
存在を比較し、区別できるためには、それらの性質がその根底において同一で
あるという前提が必要だろう。まったく類を異にし、その間に共通点見いだせ
無かったなら、比較区別は不可能である。
植物であっても、動物であっても、素粒子であっても、比較するためには、同
一の方式を適用しなければならない。
人間と砂を比較区別するためには、物質という側面において両者は共通してい
るとしなければならないだろう。
私が、「この私であって、他人じゃない」と言い得るには、いずれも人体であ
り、類として存在しなければならない。
人間が唯一の誰かであるためには、その人がそのことを認識する必要はないだ
ろう。空間を専有する人体として発見されるだけで十分である。
私が見知らぬ土地で意識を失って倒れていたとしても、他者は唯一である「私
たる人体」を見つけ、「誰かが倒れている」と言うであろう。
ただ、私・自分とこの人体を一致させるには、自我意識が求められる。
自我意識はこの私なのではなく、存在でもない。この人体における不可視で精
神的な「働き」である。働きは、「在る」のではなく、「有る」というべきな
のである。私が誰かである限りにおいて、精神はこの私では有り得ない。
>>29 >もし「私」を語るのなら首尾一貫して素人さんの「私」でなければおかしいでしょう?
素人さん ではない ネコの味方さんが
素人さんの「私」 でなければおかしい
というのはおかしくないの?
33 :
ネコの味方:2007/06/20(水) 09:43:39 0
>>30 田中さんや鈴木さんを考察し、何かを読み取ることはできる。が、それは一切
私(観察者)の意識内の出来事でしょう。それを“普遍”と言い切るためには、
相当の手続きを経なければならない。
哲学史に詳しくないけれども、それに過不足なく成功した哲学者はいるの?
そもそも、あなたの言う“普遍”が具体的に何を指しているのか、失望するw
前に、その説明をすべきである。
>>32 素人さんの語り口が「客観的」なので、そこを突っ込んだだけです。それを
やっているかぎり、いつまでも最高位から「そうみているのは、そう感じて
いるのは、そう考えているのは、だれ?」と切り返されるだけでしょう?
述べているのは、すべて私の主観ですよ。それが前提でしょう? 違う?
>>33 >述べているのは、すべて私の主観ですよ。それが前提でしょう? 違う?
素人さんの主観 、ネコさんの主観
私A、私B
…何が違うんですか?
>素人さんの語り口が「客観的」なので
これはどういう事でしょう?
語り口によって客観的になったりならなかったりするんですか?
>>34 >素人さんの主観 、ネコさんの主観
>私A、私B
>…何が違うんですか?
視点が違う。
36 :
ネコの味方:2007/06/20(水) 11:26:21 0
>>34 Aの主観、Bの主観、Cの… と言明するためには、それらを見渡せる視点を
要する。易やすと、そこに立ってそれらにつき語れるのは神のみwwでしよう。
つまり素人さんの語り口は、さながら神の視点から(客観的に)述べているかの
ようだ、ということです。
すばり言えば、素人さんの主観にしか過ぎないものを、客観(普遍?)と勘違い
してるのではないか、ということです。(他人にも主観があるだろうことは、私
も主観的に信じています)
37 :
3時で1時:2007/06/20(水) 13:34:51 0
>>36 横レスで申し訳ないが、
人間という類(普遍)を認めるということは、あなたの言う「見渡せる視点」を持つこと
だと思います。あなたが「他人にも主観があるだろう」とか「主観的に信じる」という時、
「人間」や思う・考える・意識する働きが「広くあてはまる」ことを前提としている。
「広くあてはまる」のでないならば、「主観的に」という言表を「個人的な考えとして」
に言い換えることはできず、思う・考える・意識するという言表は無意味となる。
すべてを懐疑しつくすというのは不可能だ。懐疑するには土台が必要だからである。
ことばや知識、感覚内容、イメージといったものを一切疑い始めたら、懐疑は不能になる。
>>36 他人がどういう視点を取れるとか取れないとか何故そんな事が判るのですか?
>>36 Aの主観、Bの主観、Cの… と言明するために、それらを見渡せる視点
…そこに立てないのは世界中であなた一人かもしれない
とか考えてみたりした事はないのですか?
何故他人も立てない事にしてしまうのでしょうね?
【私】を記述してください。【私の存在性】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1144214403/85 > このように両極をきちんと『見る・知る』ことができれば、
> 『個性・尊厳を尊重しつつ、全ては等価である。全ては等価であり、且つ、かけがえのない個別性を持つ』
> ことに素直に頷くことができる。
> 「普遍寄り」である理由は、視野狭窄を避け、
> 全て(『私』をも含む!)が平等であること(→縁起するものであること)を原点とするからです。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1144214403/385 > いずれにせよ、『【複数の】対象が、同様に保持している要素』として大きな集合たりえる。
> だから、『私』は『存在性』であると言った場合には、(【『私』の普遍性がはっきりしていない段階では】)、
> ≪『存在性』を持つものはたくさんあり、その中の幾つか(或いは一つが)『私』である≫
> ≪『「男」という要素』を持つものはたくさんあり、その中の幾つか(或いは一つが)「私」である≫
> という読みが、常識的読みとなる。
> そして、上で【『私』の語義或いは普遍性がはっきりしていない段階では】という補足書きをしたが、
> 『【複数の】対象が、同様に保持している要素』が『私』であるなら、
> 『私』は普遍性(少なくとも複数、いろんなところに見られるもの)となる。
> 「AはBである」と言った場合に、BによってAの持つ要素の一つが規定されることもあるということだ。
〔以下、“類推”に関して〕
【私】を記述してください。【私の存在性】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1144214403/86 > たとえ経験・類推のみに拠るものであったとしても、外界を把握しなければ我々は生きていけないでしょう?
> 知覚・経験を疑う姿勢を非難するのではありません。
> 我々にそれしか手段が無いとしたら、多くのデータを集め、突合せ、類推し、輪郭を描き出してゆく、
> そうした作業によって得られた外界を(他者を)信用せずに何を信用すべきか。
◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない92◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1177677748/329 > そして、この考え方の極限は、「人は、そのフィルターの向こう側を知ることはできない」という、
> 大きな断絶を抱え込むこととなります。外界というもの自体が懐疑の対象となります。
> 大胆に言えば、自分が水槽の中の脳なのか肉体を持っているのか、ロボットなのか、判らないということです。
> 類推によって「おそらくこうであろう」と推定するしかありません。
> ですから、類推によって「私と同じように、田中さんにも鈴木さんにも、それぞれを中心とした世界があるであろう」
> と想定するのです。
>>33 あなたが指摘することは十分自覚しています。けれども、ESPでもない我々が、外界や他者を思う時、
種々の情報により、類推により、
(
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1181057968/860-861のように)
帰納的に確定してゆくほかにどんな方法があるというのか。
また、超越的に(→自分を蚊帳の外に於いて)語るつもりはありません。
常に、語られる『私A』・『存在性A』は自身に置き換え可能なものとしての位置付けを忘れてはいません。
ただ、文脈・対話の流れ・議題によっては不都合を招いたり、対話・語りそのものの無意味さを示してしまう。
私は、認識の断絶に屈服することを良しとしない。
貴方が指摘するように、私の(素人の)『私』・主観・実感のみで語るならば、
「それは、あなただけに通用するものでしょ?w あなたについてしか言えないことでしょ?w」
と返された時、沈黙する以外に無い。いや寧ろ最初の最初から、語り得ることなど何一つ無い。
君が言っているのはそういうことだよ。
そうならない為に、カテゴライズや分類、共通項を見出すという作業が必要だと思う。
そして、そうしたときの括りが「普遍」ということであり、共通項が「普遍的要素(性質)」である、
と、私は理解している。
47 :
ネコの味方:2007/06/20(水) 22:40:48 0
>>38 他人の主観(群)を見渡せる視点は取れまい、というのは私の主観です。だから、
「それは間違っている」という人がいても不思議ではありません。
>>39 世界中で私一人かもしれませんし、そうでないかもしれません。
客観なるものが相互主観的に妥当された仮設のそれであることは、ご存知でしょう?
>>37 その土台は私が持っているように、あなたもそうであろうと推測される“主観”では
ないでしょうか。
48 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 00:24:59 0
>>47 その土台は私が持っているように、あなたもそうであろうと推測される“主観”では
ないでしょうか。
主観という意味は、
一般的には人間個々の「思い・考え」であり、認識の差異と言うことになる。
一方、作用や性質等を担うところの基体であるとか、自我、先験的意識という意味に
もなる。
主観が、「現実を分ける」ということ、「このようなものである」との言表であるな
らば、その土台になっているものは、ことばや知識、感覚内容、イメージといったも
のであるということです。
「現実を分ける」ためには浮かび上がった感覚・知覚内容・イメージを否定し得ない
し、表現・判断のためのことばや知識を否定し得ないということである。
「なぜ、このような質感をともなって現れるのか」
「なぜ、私はあの娘のしぐさがカワイイという印象をもったのか」
「なぜ、このような意味・価値を持ち得るのか」
そのような意識をもつことに、私的必然性はない。つまり、理由・動機があってその
ように意識するのではない。しかし、原因的根拠を求めたところに主観という解釈が
あった、ということなのだろう。
49 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/21(木) 00:30:03 0
皆さんの意見が食い違っている自体が良く分からないのですが・・・・
Aの「私」とBの「私」は話し合わなければ分からないということでは?
主観は他の主観と接して初めて普遍になったり、変人になったりする。
それが実際であり、複数の主観の問題はそんな風な結論で支障は無いのでは?
ネコの言いたいことは、
客観は厳密にはあり得ないということ。
そこには、(場合によっては意図的な!)捨象(≒無視)が働いているでしょ? ということ。
それは狡猾に過ぎやしませんか? ということ。
勝手な解釈を採用しているに過ぎないのでは? ということ。
知り得ないものを知っているかのように語るのは、傲慢な偽証ではないか? ということ。
>>50で合ってるよな?w >>ネコ
( ̄ー ̄)ニヤリ
52 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 01:47:57 O
今日本語の私は不在
53 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/21(木) 01:48:08 0
>>50 :考える名無しさん:
>客観は厳密にはあり得ないということ。
この「客観」と言うのはもともと主観に対する用語なんでしょう。
主体と客体みたいな。 subjectに対するobjectとして。
普遍性ということはあっても指摘のような客観は存在すると考える人はもともと少ないんじゃあないですか。
客観報道と言うNHKくらいしか。
>
54 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 01:48:57 0
最高位はもうこっちへは来ないのかな
55 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 02:00:11 0
間主観性でええよ。
56 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/06/21(木) 02:22:49 0
普遍という事
それは共通、共有というところから始めればいいのでは?
57 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 08:44:07 0
>>56 ネコの言いたいことは、
(自身の)主観という、ただ一方向の視線、一ヶ所からの視線しかないのに、
共通していることがなぜ確認できるのですか? ということ。
確認もできないのに、なぜ共通している・共有されていると言えるのですか? ということ。
(知覚・感受という)フィルターを通ったものしか知りえないのに、
なぜ、共通していると断言できるのですか? ということ。
共有できないとは断言できるのだろうか?
共有できないのだとしたら、
「共有できない」と訴える事にはどういう意味があるのだろうか?
「共有できない」という意味を共有する事を期待しているように思えるのだが…
61 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 10:44:08 0
共有できるかもしれないね。でも確認はできないね。
共有って、「何と」「何が」共有するのですか。
「この私」と「他の私」が何かを共有するのだとしたら、
できるできないの以前に、すでに「他の私」の存在が前提されているのでは。
>>62 そういう話じゃないでしょ
普遍についての話の流れだから
>>62は、今の流れのもう一つ先の話。
「自分(の主観)以外のものは、本当に存在しているのだろうか・・?」
「私一人が、妄想を続けているだけではなかろうか・・・?」
と。
今の流れは、
自分(の主観)以外にも主観があったとして、
「それぞれに映じる・生じる何ものかは、共有できるのか?」
ということ。
私に生じた価値Aは、彼に生じた(と彼から申告される)価値Bと
同じと言えるのか?近似していると言えるのか?
憶測で、希望として、思い込みとして、「同じだ」「似ている」と決め付けているだけなんじゃないか?
と・・・。
>>62-63 というか、「自分以外にも主観(私)がある」ということが「可能である」
「意味がある」と考え、自分の主観に映じる・生じる何かと「それ」に
映じる・生じる何かが「共有できる・共通する」ということが「可能である」
「意味がある」と考える時点で、すでに客観的というか超越的というか「神の視点」
に立っているのではないか、ということなのですが。
もっと言えば、「私でない何か」の存在を認める時点で、すでにある種の
「神の視点」に立っているというか、立たざるを得ないと思います。
(神の視点というと大げさに聞こえますが、いわゆる三人称の叙述はある意味
すべて神の視点です。)
そうでないのなら、純然たる独我論しかないのではないでしょうか。ただ、
その場合はそもそも「私」とか「主観」という言葉も存在できないと思いますが。
(あるいは、「あらかじめ共有されたもの」としての言語の存在によって、初めて
「私」も「他人」も存在できる、というような論じ方もできるのかもしれません。)
ネコの味方さんの
>>36に即して言えば
「他人にも主観があるだろうと主観的に信じる」のは無理なのではないか、
ということです。
実際にそれが共有されているのかいないのか、というのは、極論するとあまり
大した問題ではない、とすら言えると思います。「共有することが可能な何か」
として自分の外部に認められるのが「他の主観(私)」という存在なのですから、
それが「ある」と認めるということは、すなわちあらかじめ「どうも共有されて
いるように思える」と判断しているということではないでしょうか。
「いや、本当は共有されていないかもしれない?」とか、「よく話合ったり
調べたりしたら、どうも共有していないようだ。」というのは、その後の話では。
たとえ、
対象X1、X2、・・・の性質についてだとしても、
X1の○○という情報とX2の△△という情報にしろ、
自身の感受という手順を通過している以上、真に共通するものかはわからない。
もう一つは、(ネコの本意はこちらだろうが)、
内面(主観)に関することであれば、
主観(A)主観(B)について語られるとき、
主観(自)は、主観(自)についてしか確実に知りえないのに
(→主観(A)主観(B)がどのようであるかわからないのに)、
主観(自)を主観(A)主観(B)に援用するのは
(→主観(自)と主観(A)主観(B)とが似ている・共通していると判断するのは)、
希望的観測による博打のようではありませんか?と・・・。
そして、素人に突きつけているのは、
「主観(A)主観(B)を語る際に、主観(自)を無視してませんか?」ということ。
「あなたの知り得ない主観(A)主観(B)を、さも知っているかのように語るのは詐欺じゃありませんか?」と。
『あなたは、主観(A)主観(B)を語る前に、まず主観(自)を捕捉し、それについて語るべきではありませんか?』と。
そして、「そうは言いながらも、どんなに主観(自)を語っても、主観(A)主観(B)を語ったことにはならないでしょう・・・」と・・・w
67 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/21(木) 11:54:49 0
普遍だ! という主張に対して
普遍を前提する以前の問題があるだろ と言う人がいるのだが
普遍とは という内容にすりかえられようとしている
普遍が根源的問題に対する解答である と主張するなら
普遍を前提として主張する以前に、その根拠が必要だろ
>>61 「確認できる」かどうかなんて主観の思い次第ではないのか?w
それとも思いとは別に「ある事」なのか?
何故、「疑う」のだろうな?
71 :
ネコの味方:2007/06/21(木) 14:27:52 0
>>51>>66 舌足らずの表現をわかりやすくまとめていただいて、感謝します。
ところで、あなたは? まぁ、いいか。
72 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 14:27:58 0
>>69 そう。
共有できる(できている)のかもしれない、けど確かめようがない。
共有できない(できてない)のかもしれない、けど確かめようがない。
共有できている、と見做すしかない。
共有できていない、と見做すしかない。
どちらを選ぶかは人それぞれ。
共有できていることが確認できた、と見做すしかない。
共有できていないことが確認できた、と見做すしかない。
結局、「確認できたことにしておこうw」という、主観的判断でしかない。
73 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 14:33:13 0
>>66 >『あなたは、主観(A)主観(B)を語る前に、まず主観(自)を捕捉し、それについて語るべきではありませんか?』と。
>そして、「そうは言いながらも、どんなに主観(自)を語っても、主観(A)主観(B)を語ったことにはならないでしょう・・・」と・・・w
捕捉された時点で、主観(自)は、客観になっていると思うがw
>>72 >どちらを選ぶかは人それぞれ。
どうしてそこで人それぞれなんて出てくるの?って話よ
私の事だけだろうにw
>>73 そうだよね。
主観 『を』 語る
って時点でねw
76 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 15:59:06 0
>>74 主客の問題には結局、正解はないということですか。
>>73 だから、データを集め、包囲網を張って輪郭を描き、中身を捕らえたことにする。(捕らえた気になっておくw)。
客観だけれども、主観と近似であろうと見做す。それを「主観(自)」と『認定する』。
が、畢竟、主観は語りえないものなのかもしれない。語り得るものなど何一つ無いのかもしれない。
(維摩の逸話は、もっと(西洋)哲学界に知られててもいいw)
この点に於いて、禅は狡猾だw
種々の言辞を重ね合わせて輪郭を描きはするが、(→不立文字と言いながら膨大な語録・公案がある理由)
対象そのものに触れ得ないこと(→自分は相手自身に触れ得ず、相手もまた自分に触れ得ないこと)を自覚したあとは、
相手に気付かせるのに『そこだ!』『それだ!』、或いはぶん殴って『そこだ!』と、
自分を示す際に『これだ!』『ここだ!』、或いは『(無言で)俺を見ろ!』、と言わんばかりに胸を張る、
最終的にそういう提示の仕方を採る。
データも輪郭もはじき飛ばし、即今只今の自身を相手にぶつけることで自身の存在を相手に示す。
これでもかこれでもかと言辞を重ね、矛盾する言辞を重ね、或いは否定に否定を重ね続け、包囲し、その輪を狭めてゆく。
そうして散々迷わせておいて、「あと一歩先は、自身で確かめろ」と・・・w
指差して示しはするが、示す先を確認するのはお前だ、と・・。
そして、他者だろうが外部の対象だろうが自己だろうが、アプローチ法はそれほど変わらない。
素朴実在論『的』であるがゆえに、外部の対象については、比較的到達し易いが・・・。
禅で言う「本来の自己」は、ここでいう『私』と同じではないだろう。
しかし、アプローチの方法としては援用が可能かもしれないw
基本的に禅をわかってないみたいね。
中と外…ねぇ
>>79 そうですねw
所詮、想像ですから・・・w
或いは、敢えて理屈・解説をつけていけば・・ということですから・・・w
この時点で不遜・無理解・無資格ですねw
「『私』にアプローチする」ってときの『私』ってなに?
83 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 18:30:40 0
>>79 では、あなたの理解しているところを、さわりだけでいいから、語ってみて。
84 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 18:32:00 0
>>79 では、あなたの理解しているところを、さわりだけでいいから、語ってみて。
語ってみて厨うぜー!
86 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 18:53:32 0
>>82 『私の本質』にアプローチしようとする『私の本質ではない私』。
さっぱりわかりません・・・
88 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 19:09:51 0
もしかしてからかわれてるのでせうか?
>>89 だいじょうぶ。
すぐにそれが快感に変わるから。
91 :
3時で1時:2007/06/21(木) 20:26:17 0
>>82 >>87 この存在者の何であるかという「本質」は、その存在「実存」から把握されなければ
ならない、という実存主義の考え方を言ってるのでしょう。
「意識」優先思想といえるかも。
だめだこりゃ・・・。
93 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 21:06:02 0
脱輪しやがって、へぼ。
94 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/22(金) 00:26:46 0
>>57 :考える名無しさん:
>普遍と客観的真理は、ほぼ同じですか。
まったく違います。
客観的真理があると信じている人は少数です。
例は機械さんとか・・・
私に言わせると「客観的真理など無い」と言うのは人類の普遍的観念だと思います。
例は日本古来の無常観とか・・。
>
95 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 00:29:39 0
それはそれでしかない。
96 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/22(金) 00:33:22 0
>>62 :考える名無しさん:
>すでに「他の私」の存在が前提されているのでは。
話の順番は、まず自分の「私」がある。
世界に私だけが居ると思ったら、向こうから「私が・・・」と叫んでいる他人を発見する。
そこで意識(観念)をすり合わせ普遍化する必要性が生まれた。
だから「前提」ではなくやむをえない他人との人間関係と言う現実に対する適応である。
97 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/22(金) 00:40:06 0
>>65 :考える名無しさん:
>共有できる・共通する」ということが「可能である」 「意味がある」と考える時点で・・・
そんなことを考える人は少ない。
人と人が分かり合えないのは普遍的真理。
したがって・・・・・・・・・
>「すでに客観的というか超越的というか「神の視点」に立っているのではないか
客観的な神の視点などあるわけは無い。
98 :
佃煮マニア:2007/06/22(金) 01:22:04 0
>>97 私の主観に対する究極の超越的存在として仮想された客観性を、
神の視点と命名してるんでしょ?
神って漢字に神経を逆なでされる人もいるかとは思うけど
実際にあり得なくても、主観について綿密に語る上では必要なアイテムだんうぇ
前提と現実に対する適応は特に対立するわけではありません。
客観的な神の視点、には完全なというような意味は含んでないと思われます。
100 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/06/22(金) 01:36:47 0
観測対象に普遍を見出す事と
己に普遍を見出す事。
101 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/22(金) 01:56:00 0
>>98 :佃煮マニア:
>私の主観に対する究極の超越的存在として仮想された客観性・・・・・・
ですからそのような客観性の存在は無いと言っています。
あるのは主観の対象となった「客観」object だけです。
客観は主観を超越できません。
102 :
佃煮マニア:2007/06/22(金) 02:28:14 0
>>101 客観性っていってもそれ自体が空想の産物だから
結局議論は主観と主観のぶつかり合いでしかないし、
リアルな神の視点からの観測ってものを人間はぜんぜんシュミレート出来ないんだけど、
何かについて断じる時、「これはただの感想じゃないです結構マジです」というニュアンスで
「神の視点からすると○○であろう」と使うんじゃないか?
>>65はそういうフランクな使い方をしようと言ってるんじゃないかな
103 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 02:37:18 0
『客観』というのは
他の主観を前提とする場合の、他の主観から見た立場の事であって
当然これも、他の『主観』の事である
自分による客観 というのは、あくまでも『客観的』な思考の角度なのであって
当然これも『主観』の粋を出る事はありえない
『主観性』でない『客観』など、ありえません
あくまでも「主観性による客観的角度」であり、主観性でない客観など、ありえません
104 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 03:05:24 0
「それってお前の主観だろ?」というツッコミのし方があり、
なぜか主観はひとりごとと同等に軽視されがちだから、
私が何かを述べる時に、「客観的に見て」と一言入れる。
そうすっと、
それが主観である事をぼかし、私の立ち位置を曖昧にして周りからのツッコミを避け、
ひとりごとに普遍性の影をチラつかせ説得力を上げられる
>「主観性による客観的角度」
これも、
「この角度から眺めれば一目瞭然である」と言うと、それがどんな内容でも聞く方は納得してしまいがちになるが
「この角度から眺めれば私にとっては一目瞭然である」とするとグダグダになり、「だから何だよ」と突っ込まれる
「私にとっては」は省いた方が説得力は上がる
しかし何故こんなに主観が軽視されるのか
105 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 03:11:41 0
なぜみんな、そんなに悩んでるのかわからんのだが
『客観』というのは『他の主観』の事であり
他の主観を前提したものを、自分(すなわち主観性)が、客観的に考えた事にすぎない
『観』といえば、それは全て『主観性』 なのである
107 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 03:23:03 0
>>106 じゃぁ、どういう話なん?
何が問題なん?
108 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 07:35:43 0
>>105 数学の客観性は、自分の主観も他人の主観も関係ない。
109 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 08:13:16 0
”=”なんて人間の主観だろ??
>>107 >何が問題なん?
半歩譲って、「客観は角度」でもいい。
だとしたら、それまで「客観」と呼んでいたものを「対象」と言い換えよう。
問題となっているのは、「知る・見る・考える・観察する・見做すetc.」等の行為が、
対象を必要とする、対象についてなされるものであることだ。
(→まさに、貴方が時折言う「動詞には主語がいる」と同様に・・・w)
もともと(外部にあり)対象であったものである場合何の問題も無い。
が、そうした行為の主体を考察しようとした場合、
それまで主体であったものが、一転して対象となる。
主体について考察すると言った場合、それは対象となり、
もう一つ『その主体を考察する主体』が自動的に要請される。
上記の各種動詞に見られるような行為を行う場合、避けられぬこととして
常に、より高次の(深次の)主体が必要となる。(それが、ヒトという種の避けられぬ思考の癖かもしれないが・・)。
貴方は、まさにこのことによって主体の必要性・絶対性・存在性を説く。
だが、
≪その主体を考察する、或いは語る時、それは主体ではなく対象になり、
別の主体から見た客体になってしまうのではないですか?(これが延々続くのではないですか?)
主体については何一つ語れないのではありませんか?≫
というのが、ネコの発言からのスレの流れ。
※このループへの解決法の一つが、
≪主体が在るのではなく、「知る・見る・考える等」の行為のみがある」とすること。事象のみがある≫とすること。
(思考に於いて、一度に二つの行為が無いとすれば)、
「知る時には知覚しているということだけがある」「見る時には見ているということだけがある」
「思考している時には思考のみがある」等々・・・。(←かなり大雑把な物言いだがw)
111 :
ネコの味方:2007/06/22(金) 09:00:40 0
>>じいさん
他者とのあいだでスリ合わされ同意(調)を得た考え方(観念)が「普遍的」
というわけですか。
あなたはその一例として「客観的真理などない」を挙げている。が、これには
機械氏が反対するだろうことを、あなたも認めている。
これは変でしょう。それとも「普遍性」は多数決で決まるのでしょうか。
>>111 >それとも「普遍性」は多数決で決まるのでしょうか。
(若干のズレ(言い回しの不備)はあるでしょうが)
ほぼその通りだと思いますよw
113 :
短パン:2007/06/22(金) 09:24:06 0
>>107 問題を投げかけるしか脳のないバカが、今に置いて
>何が問題なん?
とは。流石の俺でも受け入れられないテーゼだ。
俺は。あいつを別に好きではないけれど。
「ぴかぁー」の二束の草鞋は、奴だけの特権で、多分君がやると、自分が業火に
燃え尽くされるぞ?
・・・・大丈夫?あんたw
介錯人を選びな。
それで、オワリにしてやるぜ?
いつでも・・・・。
ま。それを望んでいるのならば。の。話だがな・・・・
はは。茶番もたいがいにしろよ・・・。ハゲ
114 :
ネコの味方:2007/06/22(金) 10:04:30 0
>>97 こちらは、かなり揚げ足とり的ですけど…
あなたは、こうも述べている。「人と人が分かり合えないのは普遍的真理」と。
もしそうだとしたら、他者とスリ合わせて観念上の同意を得ることは不可能
ということになります。つまり人が相互了解的な“普遍”に達することはあり
えないという結論になります。
“客観的な神の視点などない”との意見には賛成です。そもそも、素人さんの
言表に“客観的視点”の匂いが感じられたので突っ込んだわけです。
とはいえ「神の視点などない」との考え方に、普遍性があるとは思えません。
これも語り手(あなた、あるいは私)の主観的言明にすぎず、たまたま相互(間)
主観的に妥当を得ただけでしょう?
どうも“普遍”の意味が理解できません。
115 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 10:08:30 0
>>110 私が存在しないなら、どうなん?(笑
私がこの世に存在しない状態で
他人がいくら対象を認識し、それについて考察しようとも
そんなものは全く私とは関係が無く
他人が、そう思っている事すら、私が認識する事はありえない
私が、そう思っている という事は、すでに私が存在する という事なんだよ
キミは「自分が存在しない状態」というものを想像し
前提して考察してみる作業をする能力がないから
そういうレベルの低い事を考えて、平気で結論づけてしまうんだろな
「我思う故に我あり」だよ
デカルトからやり直した方がいい
116 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 10:15:09 0
>>112 それならば
もはや哲学的な議論など必要が無いでしょう
全て関西のおばちゃんに、多数決で決めていただきましょう(爆笑
117 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 10:16:53 0
>デカルトからやり直した方がいい
残念。「我思う故に我あり」はデカルト以前のスコラ哲学者の
間で、すでに流通していた言葉だ。デカルトを勉強したことの
ないひとが、デカルトのものだと思いこんでしまう
118 :
117:2007/06/22(金) 10:22:01 0
>私が、そう思っている という事は、
>すでに私が存在する という事なんだよ
本当はこっちのほうが残念。「私が、そう思っている」は、実は誰かがみている
夢なのではないのか、と自問したとき、どう考えるか。
デカルト的懐疑はもっと徹底している
119 :
ネコの味方:2007/06/22(金) 10:24:04 0
>>112 えっ、そうなんですか。多数の同意や支持を得た考え方(観念)は
“一般的”と称されるのではないですか。
たとえば、この国では唯物論は“一般的”な思想でしょう?ただし
普遍的かどうか。それがあちらのスレの争点でしょう?w
>>115 それは唯識氏が繰り返し言われたこと
既に議論に挙がった内容は控えるように
今ここでは普遍性について議論をしている
121 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 10:28:02 0
普遍と一般は同じような意味だな。
唯物論が一般的とは驚いたな。
物心二元論的に考えるのが一般的かと思っていたが。
123 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 10:33:36 0
>>117 くだらん
内容に反論できんから、哲学史の知識で対抗かい?(爆笑
>>118 >「私が、そう思っている」は、
>実は誰かがみている夢なのではないのか、と自問したとき、どう考えるか。
はぁ?
「私がみている夢なのではないか」 ならわかるが
「誰かがみている」 って、わけがわからんな
しかも「誰か」 なのに「自問」 って
キミ、真剣にヤバイぞ
病院に行った方がいい
124 :
117:2007/06/22(金) 10:38:57 0
日常的な意味では
一般的…広く行き渡っていること
普遍的…すべてに含まれていること
哲学では、ドゥルーズと柄谷によれば、一般性は特殊性の反対、
普遍性は単独性の反対とされる。
特殊性とは、例えば、私はこういう名前で、何歳で、身長いくらで、
職業はこれで、というように、私についての事実をたくさん並べてみても、
それは「私がいかに特殊か」を言うだけに終わるような意味あい。
単独性とは、私などありふれた人間であると知っているが、それにも
関わらず、私は他の誰でもない、と感じている。というようなときの
「この私」の個体性を、直接指示するような意味あい。
この特殊−単独という反対の概念から、一般性−普遍性は分けられる。
NGワード
最高位
>>115 >私が、そう思っている という事は、すでに私が存在する という事なんだよ
≪思っているという状態・事象・現象がある。それが『私』。≫
これでも、貴方の考え方とは抵触しない筈なんですけどねw
『存在するから思っている』でなく『思っているから存在している』とは考えられませんか?
思っているとか考えているとか、そうした(貴方が言う「主体のあとに設定される」)動詞(動き・働き)のない、
そうした動き・働きが始まる前の『私』はどうなるのでしょう?
もし、そうした動き・働き無しに、何ものもありえないならば、
(この場合、)
「『私』として自覚している、そういう思考がある」という言明に、さほど不都合はありませんw
>キミは「自分が存在しない状態」というものを想像し
>前提して考察してみる作業をする能力がないから
>そういうレベルの低い事を考えて、平気で結論づけてしまうんだろな
キミは「(思っている)などの動き・働きのない状態」というものを想像し
前提して考察してみる作業をする能力がないから
そういうレベルの低い事を考えて、平気で結論づけてしまうんだろな
127 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 10:42:36 0
128 :
117:2007/06/22(金) 10:43:58 0
>>123 まあ、我思う故に我あり、はデカルトの言葉だと普通教えられるから
、それはそれでいいよ。デカルトからやり直したほうがいいよ、なんて
言ってるから、デカルト読んだことあるのかな?って思っただけ
>「私がみている夢なのではないか」 ならわかるが
>「誰かがみている」 って、わけがわからんな
デカルト知ってるみたいだから、言うけど、彼の方法的懐疑は、
「私」という主体性が自明ではない世界で行われている。
これは徹底していて、私がまだ成立してない以上、他我問題が
意味をなさないような懐疑の仕方をする。
そこから明証かつ判然とした「私」の確実性にいたる道筋。
129 :
ネコの味方:2007/06/22(金) 10:46:23 0
>>121 たとえば、ある時期まで天動説は一般的な考え方(見方)でしたが、それは
普遍的でもあったわけですか。
唯物論が一般的と思っていましたが、あなたの言うように二元論が一般的
なのかもしれません。関西のオバちゃんの決をとってみたいですね。
いずれにせよ、勝ったほうが普遍的というわけですね?
>>128 あーカン違いしないように
彼はそうやって他人様の格言を利用してるだけだからw
131 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 10:47:46 0
>>128 デカルトは懐疑論に終始したわけじゃないから
君が何を言いたいのかわからない。
132 :
117:2007/06/22(金) 10:49:16 0
>>127 普通の意味合いでは、仰るとおり、普遍の対義語は特殊。
あくまでドゥルーズ=柄谷による整理ね。
133 :
117:2007/06/22(金) 10:50:56 0
>>131 懐疑論に終始したなんて誰もいってない。
デカルトにおいては、私の確実性を担保するためには、
徹底した方法的懐疑が必要とされた、ということ
134 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 10:51:12 0
>>129 用法がおかしいかな。
そういう意味では普遍とは普通言わない。
普遍の対義語が特殊だからといって、
すべての用法に当てはまるわけではないのは言うまでもないよ。
135 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 10:51:36 0
>>124 ふむ
今回はマトモだな
しかし、なんで
>>118みたいな、とんでもない事を言っちゃうのか意味がわからん・・・
>>126 >≪思っているという状態・事象・現象がある。それが『私』。≫
いやいや
それは一般的には、私ではなく他人になる
『私』というのは、あくまでも『私』という存在性であり
一般論的に語りつくす事など、できはしない
キミ達は『私』の特殊性、独在性を見落としている
136 :
マルト:2007/06/22(金) 10:55:36 0
「私」が物理的要素でない、というのと、「私」の物理的要素を「私」が
知り得ないというのは全く別であって、「私」が世界そのものではなくて
主観でしかない以上は、前者が正しいとは言い切れない。よって唯物論
(事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。)
の敗北はない。
最高位さん 反論どうぞ
普遍について議論しているのではないのか?
最高位が少し黙っててもらえないか?
138 :
マルト:2007/06/22(金) 10:59:04 0
あ、スレ違いでしたね。スマソ
139 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 11:03:11 0
>>127 彼は違いを述べただけで
べつに対義語だとは言っていないんじゃないか?
>>128 だから、一旦は、あらゆる角度から我の存在を疑って疑って疑ってみたのだが
疑えば疑うほどに、疑っている我自身が、より強く浮かび上がる結果となり
どうやっても否定するキッカケすらつかめない
すなわち、疑いえない という事であって
『誰かかも知れない』などという根拠をもってして、疑える などと言っているのではない
デカルトの結論は、「我の存在は、疑いえない」ですからね
私に反論するのならば、我の存在を疑いうるものだと 証明していただきたい
140 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 11:05:55 0
>>137 このスレは最高位“のために”わざわざ立てられたものなので、氏の発言はその一切が
許されています。
>>139 ここは議論する場な?
主張する場じゃないんだな
Ok?
最高位さんよお
悪いんだけどここ読もうな
◆ 哲学板 ローカルルール ◆
--------------------------------------------------------------------------------
◇当掲示板の趣旨
学問カテゴリーに属する哲学を扱う掲示板です。
「 学術的な哲学 」から「 一般教養としての哲学 」
「 個々の経験、人生観、世界観からの哲学へのアプローチ 」なども趣旨にふくみます。
ただし、あからさまな人生相談や単なる自己主張といった類のものは、趣旨の対象外です。
144 :
マルト:2007/06/22(金) 11:19:36 0
別に哲学なんだからいいのでは?単なる自己主張というのとは全く別の
ものでしょう。
>>144 はあ?なんでもいいなんて書いてないぞw
146 :
マルト:2007/06/22(金) 11:28:38 0
なんでもいいとは言ってないけど?
>>146 >単なる自己主張といった類のものは、趣旨の対象外です
自己主張した挙句、暴言を吐き捨てスレの進行を妨害する
最高位そのものだろう。
148 :
マルト:2007/06/22(金) 11:35:41 0
哲学の議論で主張が含まれない、というのはほぼ無いでしょ?
最高位さんの発言が
「あからさまな人生相談や単なる自己主張といった類のもの」
とは到底思えないし、むしろ君達の発言からはダークサイドに通じる
ものがあるように思うんだけど?
149 :
マルト:2007/06/22(金) 11:39:23 0
ああ、まあ確かに相手をわざと冷静にさせなくするような発言はあるね。
それを注意するのはおkだと思うけど、
>>142はおかしいなと思っただけ。
疑いうることを証明しろとか知能の低い発言はもう勘弁してほしい。
他人に甘えてるだけじゃねぇか。
主張したいなら自分でWeb立ち上げればいい
ここはみんなが使える掲示板だ
案の定、普遍の議論は止まったね
152 :
3時で1時:2007/06/22(金) 11:44:56 0
「思い・疑い・認識している我」というのは、どこまでも後退していく。
「疑っている我」を認識しているのは誰? それをまた疑っているのは誰? というように。
そして「誰」という存在に着地させようとすると、それは空間時間を前提としなければな
らない。空間時間を思い認識しているのが「思う我」なのに、存在へと落ち込むのである。
153 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 11:45:44 0
>>148 ほう、いいことを言いますね。連中の悪意のすごさ、その由来には理解
しがたいところがあります。
>>148 単なる自己主張そのものでしょう
気に入らないレスには居ちゃもんつけて煽るし
155 :
117:2007/06/22(金) 11:53:02 0
なんかレスしちゃまずいみたいなので、これで最後に。
>あらゆる角度から我の存在を疑って疑って疑ってみたのだが
>疑えば疑うほどに、疑っている我自身が、より強く浮かび上がる結果となり
>どうやっても否定するキッカケすらつかめない
「我思う」の「我(Cogito)」を、素朴日常的な「自分」のことだと
思ってませんか。当たり前だけど、デカルトのコギトの意味合いは
それとは違いますね。
>デカルトの結論は、「我の存在は、疑いえない」ですからね
これも残念。デカルトの結論は、神の存在証明だよ。
>私に反論するのならば、我の存在を疑いうるものだと
>証明していただきたい
充分、疑いうるものでしょう。 デカルト以後に方法的懐疑を真似るのは
馬鹿げてますけど、主体を含めて、世界全体を疑える契機のあるものだと
確信しない限り、例えば20世紀の現象学は成立しなかったでしょう。
フッサールは自分の現象学的還元の態度を「新デカルト主義」とまで
言ってますけど…
>我の存在を疑いうるものだと証明していただきたい
ちょっと気になったので、ちなみにですけど、方法的懐疑から
コギトの確実性に至る道筋は、なんら「証明」ではないです
私の確実性に依拠されてるみたいなので、その場合は、「証明」という
言葉には敏感なほうがいいと思います。あと「主体の立ち上げ」を
軽視しないほうがいいと思います。
頑張ってください。では。
>>96 >話の順番は、まず自分の「私」がある。
>世界に私だけが居ると思ったら、向こうから「私が・・・」と叫んでいる他人を発見する。
いや、まず「私」と「世界」を分離して「世界」の存在を認め、しかも世界の内部に
「私」を位置付け、さらに「私でない人間」「他の私候補」として「他人」の存在を
認めるためには、「超越的」「客観的」な「神の視点」を導入することが必要不可欠
なのではないか、ということなのです。
デカルトの話が出ていますが、デカルトが「我」以外の存在を認めるためには神様を
導入する必要があったことを見ても、それは明白だと思われます。
話の順番としては
1.まず「私」「主観」がある。
2.「私」に対峙する客観的な「世界」がある(構築される)。
3.「世界」の内部に、誰某という「人間の個体」がある。それがすなわち
「この私」「この主観」であるとしか思えない。
4.「世界」の内部には、誰某以外の無数の「人間の個体」がある。
5.それらが「私が…」と叫んでいる。どうもそれらは「他の私」「他の主観」で
あるように思える。
6.「他の私」「他の主観」が見たり聞いたり感じたり考えたりしていることと、
私が見たり聞いたり感じたり考えたりしていることとは、同じなのか違うのか?
だと思われます。
そして、決定的な飛躍というか超越は1と2、あるいは2と3の間にあるので
あって、そこでは超越的な神の視点の導入は不可欠ではないか、ということです。
「神の視点」などというと大げさに聞こえますが、要するに大人なら誰でも
当たり前のように導入しているものであって、逆にそれを文字通り拒否して
1あるいは2の段階にとどまるなら、社会的には狂人として扱われるしか
ないでしょう。
(続き)
>>97 >そんなことを考える人は少ない。
>人と人が分かり合えないのは普遍的真理。
基本的に「人」という言葉がすでに「普遍」です。つまりまず「この私」が
客観的な世界内部のある物体と同定され、その物体と種類・性質が「同じ」
と考えられた他の物体群がすなわち「人」なのですから、基本的には
「他人」とは「私の同類」「他の私」「私と分かり合える可能性がある存在」
としてあらかじめ認められているわけです。
たとえば「赤い物」を見る場合は、他人も同じ色を見ている、というのが
共通了解ですし(それが本当に同じなのかどうか、というのはその後の話)、
他人が顔を真っ赤にして怒鳴っていたら、「怒っている」と考えるのが
共通了解ですし(本当に怒っているのかどうか、はその後の話)、
「犬」という言葉では互いに同じ対象を意味している、というのが
共通了解です(本当に同じなのかどうか、はその後の話)。
このように、あらかじめ「分かり合える」というのが前提で、「いや本当は
分かり合えない部分の方が大きい」という日常的な知見とか、
「いや本当は全く分かり合っていないのかもしれない、いやそもそも
他人はみなゾンビかもしれない」という哲学的な疑問などは、
その後の話ではないか、ということです。
デカルト的な方法的懐疑はけっして乗り越えられたわけではなく
現代の哲学者たちは解決されたと誤解しているか
避けているだけですよ。
この問題は単純にみえてなかなか理解することが難しいようです。
ふつうのひとが簡単に理解できることもあれば
まったく理解できていない哲学者もいます。
159 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 12:27:25 0
>>156 神の視点が「(私によって)想定される」必要があるというのは納得。
ただ、
>>97でじいさんが言ってる
>客観的な神の視点などあるわけは無い。
というのは、その「神の視点」が想定されたものに
過ぎないというところにあるのかもしれない。
>>157 その共通了解は、私がつくりだした共通了解かも?
つまり、他人に言葉を語らせているのは、私である…ってことで。
160 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 13:29:30 0
>>156 神の視点なんて必要ないだろ。
「我(私)」と「汝(あなた)」が常に入れ替わっている現実を見れば、
神の視点なんて考えるまでもなく、誰にでもふつうに推測できる。
そもそも
>1.まず「私」「主観」がある。
というところからおかしい。
「私」は「あなた」(他)に対して「私」(自)であるんだから、
「私」(自)だけがまず初めにあるわけじゃない。
161 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 14:03:10 0
>>136 >「私」が物理的要素でない、というのと、「私」の物理的要素を「私」が
>知り得ないというのは全く別であって、
これは私の発言の本質的な意味を誤読している
「私」を特定できる物理的要素
「私」が存在した事に対する原因的要素
は、物体である「体」の側には存在しえない という事
しかも結果論的に、「この体」であったからといって
「この体による物理現象である」 と結論づけるのは早合点であって
その他の可能性を否定する根拠になどなりえない
さらに
>「私」の物理的要素を「私」が知り得ないというのは全く別であって、
単に「知りえない」 からというのではなく
ありえないのですよ
何度も説明しますが、どんなに物質をこねくり返そうとも
何をどうやったって、たとえ全く同じ要素の物体を作成しても
私はココにいるのであって
作成されたソレは、絶対に「私」にはならないのですからね
もっともっと、よく考えて下さい
「私」を物理的要素に特定する事は、絶対に100%不可能なんです
162 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 14:04:52 0
>>143 > 「 個々の・・・・世界観からの哲学へのアプローチ 」なども趣旨にふくみます。
と書いてあるじゃないか ボケが
小学校の現代国語から勉強しなおして来い
哲学的な持論を『論理的』に主張するのと
「単なる自己主張」は、別だろ バカ(笑
>>150 はぁ???
私は「疑いえない」と主張してるんだから
それに対して反論するなら、疑いえる可能性がある事を証明する以外にないだろ(笑
可能性が見出せていないのに反論するなんて、笑止千万 意味不明 (爆笑
163 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 14:09:31 0
>>155 >なんかレスしちゃまずいみたいなので、これで最後に。
まずいなんて事はありませんよ
ただ、批判するなら言葉尻ではなく、ちゃんと全体を把握してからにして欲しいですね
あなたは単に、勘違いしておられたのだと思います
>「我思う」の「我(Cogito)」を、素朴日常的な「自分」のことだと思ってませんか
ん? まさか別人だと思っていないですよね?
という事は、コギトが存在するならば、素朴日常的な?「自分」も存在するんじゃありませんか?
コギトは疑いえないが、素朴日常的に自覚されている「自分」は疑いうる という説につながる理屈が見えません
>>デカルトの結論は、「我の存在は、疑いえない」ですからね
>
>これも残念。デカルトの結論は、神の存在証明だよ。
ん??? デカルトは、「我思う故に我あり」を、ひとつの結論として主張し、そこから神の存在証明につなげたのではないのですか?
それとも「我の存在は疑いえる けれども神だけは存在する」 と主張してるのですか?デカルトは
>ちょっと気になったので、ちなみにですけど、方法的懐疑から
>コギトの確実性に至る道筋は、なんら「証明」ではないです
これは証明する必要などない事なんですよ
証明 と言った瞬間に、それは「誰が」 とか、「誰に」という前提に立ちます
我を前提に立てなければ、証明という概念すらなりたちませんからね
それぐらい基本的な事柄です
哲学史を学ばれる事も必要でしょうが、もっと自分で哲学されてはいかがでしょうか
あと、断片的な部分部分に反応するのではなく、総合的に主張の方向性を把握するようにしたいですね
164 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 14:10:48 0
>>158 そのようですね
あなたは、よくわかっておられるようだ
>>162 だから疑いうることをどうやって「証明」するんだよ。
やり方だけでも教えてくれ。
しろっていうんだから、そういう方法が確立されているんだろう?
俺は無知だから知らないんだ。教えてくれ。
166 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 14:37:33 0
>>165 ん?
疑いうる「可能性」を示せばいいだけだよ?
それ以前に
「我」以外については「疑いうる」としている根拠を考えればいい
我以外は疑いうるのに、なぜ「我」は疑いえないのか
その辺ちゃんと、わかってんの?
わかってて参加してるとは、とても思えんな
基礎からやり直しだキミは
167 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 14:37:35 0
::::::::::| 〈 !
::::::::::| ヽニニ二二二ヾ } ,'⌒ヽ
::::::::::| '´ !o_シ`ヾ | i/ ヽ !
::::::::::|! `' '' " ||ヽ l |
::::::::::| |ヽ i !
::::::::::| |ノ /
::::::::::| ,、 ! , ′
::::::::::|‐ ゙ レ'
::::::::::| /
::::::::::|  ̄ ` / |
::::::::::|─‐ , ′ !
哲学者最高位
168 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 14:40:34 0
哲学者最高位
Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
169 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 14:43:00 0
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 哲学者最高位
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
>>166 165のは皮肉だよ。
いいか? お前は「証明」しろと言った。
可能性とか根拠とかより曖昧なものに言い換えても駄目なんだぜ。
自分の言葉に責任もてよボケ。
だから甘えん坊の馬鹿だって言ってんだよ。
171 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 14:52:19 0
>>170 くだらんな
正面から反論できないから
そんなことしか言えんのだな(爆笑
哀れ〜
>>171 しまいには罵倒か。そんなんばっかだな。
ところで言葉や言語がなくても「私」はあるのか?
だいたい哲学のような一般性の高い問題に
数学的な証明概念を持ち込むこと自体まちがっています。
「証明」という自然言語にはさまざまな意味があり
より広い「間違いないことを明らかにすること」
という意味も持ちます。哲学において使用された際は
このくらいの意味だと思ったほうがいいでしょうね。
174 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/22(金) 15:07:44 0
>>172 おいおい
自分の事は棚にあげるのか?
↓
>自分の言葉に責任もてよボケ。
>だから甘えん坊の馬鹿だって言ってんだよ。
なんなんだ?こりゃ
もう少し、自分を客観的に分析できるようになってから来いや カス
>>174 いや、単にお前の言いたいことが意味不明だから聞いたんだが。
お前は意味不明なことを理解しろ証明しろと言ってるから甘えてるって言ってんだよ。
「私」の定義を示してないだろ。のらりくらりとしているだけで。
この問いは重要だぜ。
「私」が言語に関係ないなら、石ころにも「私」があることになる。
関係あるなら、「私」は言語が発端になってるってことだ。
どっちよ?
176 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 15:22:39 0
お前らもう寝ろ
>>160 本当はその通りなのですが、これはあくまでもデカルト的な「私」
(それは言語以前の存在なので「私」などと表現するのがおかしいのですが)、
から出発したら…という話なので。
>「我(私)」と「汝(あなた)」が常に入れ替わっている現実を見れば、
>「私」は「あなた」(他)に対して「私」(自)であるんだから
そういう現実を見たり、そういう言語理解をするためには、すでに「超越的な神の視点」
を経由していなければならないのでは、ということです。というと大げさですが、
要するに「自分の体と他人の体」「一人称と三人称」を区別できる人は、
全員この視点を経由しているわけで、まあ、「常識」に過ぎません。
だから、本当は逆にこの「常識」を無理やりに疑って、当たり前のように身に
ついている「神の視点」を力ずくで引き剥がして行く作業をやらないと、
純粋な「我」など出てこない、ということで、むしろこちらの方を「超越的な
我の視点」と呼ぶべきでしょう。
当然、哲学などに興味のない大多数の人にとっては全く無関係な話です。
のみならず、本当はデカルトにしろ「私」とか「私以外の存在としての悪霊」
とか、それが私を「欺く」とか、客観世界の中で学んだ言語や概念を使って
考えていますし(そうせざるを得ないでしょうが)、懐疑の果てに残った「我」
以外の「世界」の存在を認めるためには、一度引き剥がしたはずの「神の視点」を
再び導入せざるを得ないわけで、思考実験としても不徹底だと思うのですが。
178 :
佃煮マニア:2007/06/22(金) 16:36:19 0
人間のもつ考えと言語だけについて言うけど
脳の志向や感覚は、身体的個性と密接に結びついていて、制約を受ける事が少なくきわめて主観的。
共同体の中で生活している我々は日常それを概念化して言語に変換する。他人と共通了解をしなければいけない。
共通了解の為には、、、
概念化あるいは言語化の段階で、互いに共約し得ないと予測出来る私の主観のあちこちが、トリミングを余儀なくされる
トリミングされ、すり合わせ仕様に洗練された「私(の意見)」は、パターン化された「個」でしかあり得ない
その文字列からかすかな個別性を読み取る事はできても、
言語という定型にはまっているので、私が感覚で捉えた時のイメージ程には鮮明さや生々しさが伺えない。
>「私」を特定できる物理的要素
>「私」が存在した事に対する原因的要素
>は、物体である「体」の側には存在しえない
共約が難しく、言語化され得なかった私の思考は頭蓋の中に留まるしかないが、
それらに露出の機会さえ与えれば蓋然的に、言語より雄弁に純度の高い「私」の存在を示してくれる
>>177 そうでしょうか。
>当はデカルトにしろ「私」とか「私以外の存在としての悪霊」 とか、
>それが私を「欺く」とか、客観世界の中で学んだ言語や概念を使って
> 考えていますし(そうせざるを得ないでしょうが)、
方法的懐疑を遂行する際にアポステリオリな概念を使用することは
とくに矛盾はありませんよ。むしろここにおいてはあらゆる論理的可能性を
考慮にいれるべきなのです。
>>178 「私」の存在が言語より雄弁で純度が高く感じられるのは言語のお陰だけどな。
181 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/22(金) 23:46:51 0
>>103 :哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :
客観はあくまでも主観に対する客観だと考えます。
世界はとらえる主観と捕らえられる客観で構成されている。
主観とは独立して第三者的客観が存在すると言うのは唯物論の誤謬だと考えます。
姿が目に写ったり、声が聞こえたりする他人の主観などは、唯の景色の一つに過ぎません。
182 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/22(金) 23:54:58 0
>>105 :哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :
>『客観』というのは『他の主観』の事であり・・・・・・・・・・・
そうではない、客観はあくまでも自分の客観。
>『観』といえば、それは全て『主観性』 なのである
と言うより全て自分の世界だから。
自分の世界は自分の主観と自分の客観で構成されているから。
183 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/23(土) 00:17:05 0
>>111 :ネコの味方:
>他者とのあいだでスリ合わされ同意(調)を得た考え方(観念)が「普遍的」
というわけですか。
そのとおりです。普遍と言う言葉を使えば「第三者的見方としての客観性」などと言う誤解を生む表現はいらない。
【相互主観性】 《(ドイツ)Intersubjektivitt》フッサールの用語。複数の主観の間で共通に成り立つこと。事物などの客観性を基礎づけるものとされる。間主観性。共同主観性。
と言う言い方があるようですが、わざわざ回りくどい表現にしただけのこと。
「普遍性」と言う言葉で判り易い。
>機械氏が反対するだろうことを・・・・・・・・・・・
これは機械さんが普遍的でない、変わり者だと決め付けているだけです。
多数決でない私の独断です。
184 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/23(土) 00:36:04 0
>>114 :ネコの味方:
>人と人が分かり合えないのは普遍的真理」と。
>もしそうだとしたら、他者とスリ合わせて観念上の同意を得ることは不可能 ・・
違います、人を分かると言うのはその人の心の奥底を理解することです。
それは機械さんにしか出来ません。
しかしある限定的な観念に関してはおぼろげにでも共通認識が有り得ます。
互いの客観の共有とでも申しましょうか。
それが普遍の始まりです。
>「神の視点などない」との考え方に、普遍性があるとは思えません。
はい、私のいい過ぎでした、「客観的な神の視点」に普遍性は無いだけのことです。
185 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/23(土) 00:52:23 0
>>156 :考える名無しさん:
>まず「私」と「世界」を分離して「世界」の存在を認め・・・・
まずここが納得できません、私と分離した世界など在るのでしょうか?
それなら123の話の順番にならない。
1、まず世界ありき・・・・
の順番になってしまう。世界を客観として私と分離したら3、と矛盾してしまう。
世界は主観と客観で構成されると言うのは古来「一般的」な考えではないのでしょうか?
コレも私であり、コレを私と呼べ。
私とはオカルトの範囲であって定義するものではない。
つまり私とは、私を定義した各自の定義こそが私なのである。
また時間により私の定義は変化するものでもある。
つまんねー
187 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/23(土) 01:00:59 0
>>157 :考える名無しさん:
>その後の話ではないか・・・・・
貴方の・・・
>基本的には「他人」とは「私の同類」「他の私」「私と分かり合える可能性がある存在」
などと言う見方が哲学的なんであって・・・・後の話です。
赤い夕日の富士山と真っ赤に怒る他人は同列の客観です。
188 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/23(土) 01:12:45 0
>「私」を物理的要素に特定する事は、絶対に100%不可能なんです
・・・・・
>>161 :哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :
これはいかにも当たり前で常識的なことだと思いますが、機械さんたちには理解できないんでしょうか?
私なりにこのことを違った言い方をして見ます。
観念論者は唯物論者とは思想が違います。
ですから彼らは科学的でない「私」と言う変てこな観念をひねくりだしました。
ですから之は物質に還元できないし、「私」を科学的に考察する必要も無いのです。
「私」は自然物ではなく人工的な観念なので科学の対象外なのです。
189 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 01:25:12 0
じいさんのピントのズレ方は最高位と肩を並べるなw
都合の悪いレス、理解できない文章に対するスルーっぷりまでそっくりだw
190 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 01:33:52 0
>>188 そもそも私を特定する理由など唯物論にはない。
馬鹿最高位は勝手に理由をつけて集るチンピラの下卑たゴミため
191 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 01:42:38 0
>>190 >そもそも私を特定する理由など唯物論にはない。
ですねw
共通する要素・性質・在り様に着目し、抽出し、カテゴライズするという行為を推し進め、
その輪をどんどん拡げてゆき、一切を包み込んだ世界観が唯物論なのでしょうし・・・。
その輪の中に見られる個別性は、包んでいる風呂敷を破ることはない・・・w
192 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/23(土) 05:50:40 0
>>175 >いや、単にお前の言いたいことが意味不明だから聞いたんだが。
違う違う(笑
キミが
>しまいには罵倒か。そんなんばっかだな。
と言うから
>自分の言葉に責任もてよボケ。
と、先にキミが私を罵倒した事実を貼り付けただけだよ
せめて普通に会話できる能力ぐらい身につけてから話しかけてくれ
>「私」が言語に関係ないなら、石ころにも「私」があることになる。
>関係あるなら、「私」は言語が発端になってるってことだ。
おいおいマジかよ
言語は、「私」が使用している道具だろ
なんで道具が「自我」である「私」という存在性を発生させるのか
意味がわからん
理由を説明してくれ
オレには「病院に行った方がいいぞ」としか思えんわ
あ
いまだに「自我」と「自我意識」という根本的な区別がついていないのかな?
>>181 >じいさん
その独特な書き方をやめて、みんなと同じようにしてくれないか?
誰の書き込みなのかコピペななのか、ややこしくてかなわん
193 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/23(土) 06:02:13 0
>>190 >そもそも私を特定する理由など唯物論にはない。
なんで?
理由を述べよ
>>191 みんな、ほかでもない「自分の哲学」を探求しているのにな(爆笑
キミらは単に、科学や実存主義と、唯物論の区別がついていないんだよ
それじゃ「物理学は物理的な範疇で解明すればよい」と言っているだけの話でね
キミらは錯覚しているけど、そんなのは総合哲学じゃないのだよ(笑
まぁ物理哲学というところじゃないか?
物理学のあり方を哲学すればよいのであってね
「私」に言及できないと認めるのなら、それはそれでokだから
それは公言すべきだね
「唯物論は、人間の精神の根源には言及できません」とね
越境して来ないようにヨロシク
194 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 07:15:05 O
カテゴライズがまちがってんだろな。
意識は単純馬鹿だからな。
195 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/23(土) 07:46:04 0
見落としてた
>>126 >>キミは「自分が存在しない状態」というものを想像し
>>前提して考察してみる作業をする能力がないから
>>そういうレベルの低い事を考えて、平気で結論づけてしまうんだろな
>
>キミは「(思っている)などの動き・働きのない状態」というものを想像し
>前提して考察してみる作業をする能力がないから
>そういうレベルの低い事を考えて、平気で結論づけてしまうんだろな
普遍 という話題だったから、その観点で説明してみようかな
多くの人は、まず『私』がいない状態 というものが想像できないから、『私』がいる事は当たり前の事であって
当然、『特殊』である『私』から離れて客観的に思考してみる事ができない
すなわち『私』を基本に『普遍的事実』を考察する
『私』に起こっている事は、当たり前の普遍的事実である とね
そこからしか出発できないワケだ
これは普通の人の思考回路なのであって、かつては私も、そういう観点で物事を見ていた
しかし
『私』が存在しない状態を想像できるようになると、違います
完全な客観的視点に立って考えると、「(思っている)などの動き・働き」をしている状態 があるからといって『私』になるとは限らない
それが『私』になる可能性は、無限分の1 であった事が理解できるはずだ
しかし、ゼロではなく1であった事がまた、重要な要素であり事実
この1とは何ぞや という事だな
まぁこの1は、『存在する』という事でもある
この1が無けりゃ、「(思っている)などの動き・働き」をしている状態 が、いくらあったとしても、それは他人であって私にはならない
であるからして
>>126 >≪思っているという状態・事象・現象がある。それが『私』。≫
とは、ならない事が理解できるであろう
196 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 09:44:54 0
>>195 863 考える名無しさん 2007/06/19(火) 10:37:34 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1180813863/ 59 考える名無しさん sage New! 2007/06/18(月) 17:41:07 0
自分として実感・認識・自覚されるなら、それは「自分としてしか」ありえない。
他人であった場合などありえない。それは、(そこに於ける自己認識は)常に「自分」でしかない。
「なぜ自分は自分として・・・」など、問い自体がナンセンス。
それが、「これこれこういう肉体的特徴、環境・境遇に生まれたのはなぜか?」ならば、
問う意味も生じよう。
しかし、意識としての「自分」であるなら、自分以外を実感し、自覚することはない。
思惟自体は、常に「自分でしかない」。
思惟が他人であることはない。自己フィードバック的に実感・自覚・思惟された時点で、それは「自分」となる。
精神病の症状としてはどうなんだろうか・・・。専門家はいるかな・・。
「神の視点」云々言ってる人は、自己意識のことを
神の視点と混同してるのでは?
自分と他人を、その自分とは別の視点から客観的に
見る意識が自己意識だよ。
自己意識は、それを意識する意識、さらにそれを
意識する意識って無限背進するわけだが。
実在性を認める場合に「神の視点」が登場するのだ。
例えば唯物論は「神の視点」に立つと言えるね。
198 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 10:49:46 0
>>193 すいません、「総合哲学」と「物理哲学」について教えてください
あと、「人間の精神の根源」って何ですか?
よろしくお願いします
199 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 10:49:55 0
>>193 >キミらは単に、科学や実存主義と、唯物論の区別がついていないんだよ
あのぅ、実存主義と実在論の区別がついてますか????
200 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 10:59:00 0
>>195 すいません、「完全な客観的視点」に立って考えると(思っている)
などの動き・働きをしている状態が『私』になる可能性は、無限分の
1であった事が理解できるのはなぜですか?
201 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 11:06:01 0
>>195 >完全な客観的視点に立って考えると、
最高位さんは完全な客観的視点に立てるんだね。
202 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 11:19:06 0
「客観的視点」というと誰の観点でもないような視点と解釈できるだろうか。
「完全な」と付くと、もはやすべての全てを超越した、というようなことかww
203 :
202:2007/06/23(土) 11:25:11 0
すべての全て…というのは
すべての人間のすべての視点…という意味です。ごめんね。
204 :
196:2007/06/23(土) 11:49:02 0
>>195 ◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない92◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1177677748/ 933 考える名無しさん sage 2007/05/11(金) 17:34:21 0
他人である事を経験した事のない私が他人の知にとやかく言うのは何故でしょうね
939 903 sage 2007/05/11(金) 18:10:51 0
他人であることを経験するのはありえないでしょ。
「他人であることを経験している時」、それは(その時は)もはや「『他人』ではない」。
経験は、「私」のみにされる(知覚される)ものだろ?違う?
経験できてしまった時点で、すでに「その経験は『他人であること』ではなくなってしまう」。
>>193 しつこいぞ
唯物論と私なんて関係ないって言ってるだろ
説明責任もなにもない
「できないだろ、だから論破」て言ったって
そもそも関係ない。
206 :
ネコの味方:2007/06/23(土) 13:38:55 0
>>191 そこがおかしいと、このスレの初めに指摘したのです。
「一切を包み込んだ世界」を“観”ている主体?は何ですか。そもそも、どこ
から観ているのですか。“一切”の外?内?w
その最後の一行こそが典型的な“超越的”言辞です。あなたは一切をみたこと
があるの?
最高位やじいさんは、そこを主観あるいは観念として意識の場に“超越論的”に
転倒させます。どちらか忘れたけれども、「客観は主観を超えない」と、言って
いなかったかな? 謙虚な言明だと思います。
207 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 13:45:09 0
>>192 「私」は言語から発生してないのなら、石ころにも「私」はあるということだな。
石ころにも「私」があるなら何にでも「私」はあるな。
まさか脳がないと「私」が発生しないと言うわけじゃないよな?
「私」は脳という物質に依存していることになるからな。
そしてなんにでも「私」があるなら、結局、「私」はないってことだ。はい終了。
あと、言語は「私」が使用している道具だって?
言語がないと「私」とも表現できないのに?
それでいいの?w
猫を呼ぶと、ニャ〜ンと言って走ってくる。
209 :
ネコの味方:2007/06/23(土) 14:00:44 0
>>じいさん
「普遍」についてのあなたの定義、あるいは解釈はわかりました。
とすると、普遍的であり、かつ相対的ということもありうる?
たとえば、100人のうち何人の同意を得れば普遍的と言えるのでしょうか?
ネームスペースの概念は、哲学ではなんというのだろうか。
211 :
ネコの味方:2007/06/23(土) 14:16:16 0
>>207 事物を対象化する「私」と、その「私」を対象化する『私』に分裂した【私】
の発祥と言語のそれは同期では? この【私】なしに言語を持ちえたかどうか?
むろん、その逆も言えます。
しかし流れの速いスレだ
>>211 そういう複雑な認識ができるのも言語のお陰であると。
つまり、「私」はいかにも根源的な風に振る舞っているが、それは言語による
錯覚である可能性も無視できない。
そしてなぜ「私」なのか? という問いも、?T私?Uという文字あっての表記であるし、
そもそも意味が混在しやすい(私)という表現が適切であるかという根本的な問題に
対してはあまりに無防備になる。
同様に、この「私」なしに言語を持ち得たか? という問いそのものが言語であるため、
やはり「私」は言語の賜物であるという疑惑は拭えない。
というか、言語がなければそんなこと考えもしない。
考えないものは存在しない。
つまり「私」はない。前に誰か言ってたよな? そういうこと。
214 :
196:2007/06/23(土) 14:46:32 0
>>206 >「一切を包み込んだ世界」を“観”ている主体?は何ですか。そもそも、どこ
>から観ているのですか。“一切”の外?内?w
「一切を包みこんんだ世界」は『見られるのではありません』。
『ある』のです。『ある』それだけなのです。
言葉を語る以外のアクションを一切起こさない廃人同士の会話なのか?
216 :
196:2007/06/23(土) 15:07:50 0
>>206 >「一切を包み込んだ世界」を“観”ている主体?は何ですか。そもそも、どこ
>から観ているのですか。“一切”の外?内?w
「一切を包み込んだ世界」の外に出ることはできません。
我々ヒトにできるのは、ただ類推することだけです。
それに納得ができないならば、
ヒトをやめて、神様にでもなったら宜しかろうw
217 :
,b:2007/06/23(土) 17:35:12 0
218 :
ネコの味方:2007/06/23(土) 17:59:19 0
>>216 わかりやすく言いましょう。
「一切を包み込んだ世界」なるものが、あなたの主観だと言っているのです。
じいさんなら、観念と呼ぶでしょう。
そもそも、それが類推の代物であることは、あなたも認めている。むろん、
それはあなたの類推(主観)でしょう?
別に、わざわざ神様を招待する必要はありません。
>>214 で、あなたが「ある」「ある」と強調していることも、あなたの主観
でしかありません。
>>213 なら、それ(一切の世界)は“言語”だと言うのでは
ないでしようか。
219 :
ネコの味方:2007/06/23(土) 18:44:26 0
>>213 そう断定しているわけではないけれども、あなたは「言語は私(たち)に対して
“贈与”されたもの」とみているのでしょうか。
私が先か言語が先か。水掛け論に終わるのではないでしょうか。「同期する」と
しか言いようがないのでは?
220 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 19:10:37 0
>>218 主観だと何か不都合でも?w
また、少しビーンボールを投げさせて貰えば、
以前、源氏物語の価値はどこにあるか?還元できるか?モナリザの価値は?ガンダム一話の情報はどこに?
還元できないじゃん。
という流れがあったと思います。還元云々はこの際措くとして、
もし、『主観しかなく、「主観の外」を「主観外の視点で」語ること(≒客体化すること)が傲慢なものであるなら、
そうした情報や価値は、どのように共有され、どのように伝達されればいいのか?
いや、もっと根源的に、≪価値や情報は、主観の中にしか存在しない≫という言明となるが?
「価値の共有・情報の共有」は、不可能であり、幻想であり、思い込みであり、
淡く儚い夢物語であり、疑いを持ったら最後、誰も何も信じられず、
暗闇に閉じこもり、心臓が止まるのを待つしかないのじゃありませんか?
(こういう極論のやりとりも面白いなw)
221 :
ネコの味方:2007/06/23(土) 20:04:14 0
>>220 全然、不都合ではありません。極論すれば、それしかないだろう、と言って
いるのです。
そのことを前提に(客観的真理に超越せずに)どう外部(他者)と渡りあうかが
一つのテーマでしょうが、なにせこちらの大御所が「それよりも唯物論を叩
きつぶすほうが先決」と彼らとのレッスルに注力し、そのほうが観るのも参加
する面白いので、ついつい私も…ww
その流れのなかで唯物論や科学主義に異議を申したてるべく、源氏やモナリザ
などを例にあげたことはありますが、所詮、私は質問役なので、情報、価値、
コミュニケーションなどが話題になったとき、その役割をつとめさせていただ
きます。
外部を想定するためには超越的な視点に立たないといけないのではないだろうか。
223 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 20:49:44 0
>>206 >その最後の一行こそが典型的な“超越的”言辞です
>最高位やじいさんは、そこを主観あるいは観念として意識の場に
>“超越論的”に転倒させます
すいません。「超越的」と「超越論的」の違いについて教えてください
>>221 了解しましたw
マターリ逝きましょうw
>>219 同期してるの意味が分からん。曖昧過ぎ。
「私」と言語が一緒に育つってこと?
それでは言語なくして「私」なしってことになるが。
>>225 ある意味、そのように言えるかもしれません。
はっきりと自他が区分された私であるならば、そうかもしれません。
たとえば、
幼児は怒られた時、恥ずかしくてはにかむ時、(その他多くの場面でもそうですが)、
すぐに(頼れる人・好きな人に)抱きつきます。
たとえ怒られているときでも、
その怒っている人(母や父等、やっぱり、好きな人・頼れる人)に抱きつき、しがみつこうとします。
なぜでしょう?
乳を飲む赤子の自他は、一体どのようなものであろうか・・・・。
227 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 22:01:03 0
>>223 楽観的な、あるいは無邪気な客観主義的な態度、それが超越的。その例が
>>222 である。
どうやって超越的な視点に立つのだろうか。
そのことの不可能性を踏まえて、主観が意識に与えられている“事物”の表徴を、
実在として信憑(妥当)する条件や構造を捉えようとするのが超越論的。
自覚的・方法的独我論の構えをとりながら、その内側からそれを食い破る態度と言ってもいい。
ネコに難しい質問をしないように。彼は単なる聞き役なので。(笑)
228 :
哲学者最高位 ◆aR/NjQEjK2 :2007/06/23(土) 22:05:39 0
>>199 あー、すまんすまん間違えた
それだ
実在論だ(笑
>>200 まず「完全な客観的視点」に立って
そして何を考えるのかというと
「でもオレは、この人間という立場に生まれてきている」
「なんでだろ」なんだよ
キミ達は「完全な客観的視点」と聞いて
んなアホな
またバカな事を言ってるな
と頭から思い込んでいるみたいだけどね
いい事を教えてあげるよ
蟻ンコの社会を想像すればいいんだよ
キミは蟻じゃないだろ
そして今後もアリとして生まれて来ない という事も容易に想像できるだろ?
だからアリの社会に対して「完全な客観的視点」に立てるわけだ
それを今度は、アリの社会じゃなく
そのまんま、人間社会にして考えてみればいいんだよ
でも「しかし人間として生まれてきているのは、なぜだ???」となる
そして、その根拠を、物理的要素に求めてみるといい
ありえんから(笑
まぁ
私の哲学は、完全な客観的視点に立ったり、完全な主観的立場に立ったり忙しいからね(笑
知能が低い人が、画一的な視点からのみ考えたって
そりゃ理解しろと言う方が、ハナから無理かもだけどね
こうやって説明してれば、理解できる人は、少しずつ理解しちゃうだろうね
>>227 「超越論的」というのも結局のところ「超越的」に思われる。
「内部」は「外部」がなければ、「主観」は「客観」がなければ
概念として成立しない。
そのときの思考は既に「内部」および「主観」を超えている。
でも客観なんてあるのかという疑問もよくされるな。
客観視する対象は主観の範疇を超えないのかもしれない。
231 :
ネコの味方:2007/06/23(土) 22:32:34 0
>>229 そのとおりである。だから“超越論的主観”と言う。その「超えている」ことを
確信するのは、やはり主観だからである。
“概念”を論じているのではなく、意識内の出来事の話しをしているのです。
232 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 22:44:40 0
>>231 >だから“超越論的主観”と言う
すいません。誰が言ってるんですか?
>>227 >主観が意識に与えられている“事物”の表徴を
事物が意識に「与えられている」って、どうして主観にわかるのよ。
234 :
哲学者最高位 ◆aR/NjQEjK2 :2007/06/23(土) 22:52:54 0
>>205 理由を書かなきゃね
何の反論にもならんのだよ
>>207 『私』という存在性は、言語によって発生してるって???(笑
ワケわからんな
私は言語なんて使わなくたってね
便所に行って帰ってくるぐらいの作業なら簡単に『イメージ』で段取りが組めるぞ?(笑
それに
「ションベンしたい!」と言語化する という事は
すでにその前に、実際にションベンがしたいから だと思うぞ(笑
あと
キミはスポーツとかした事ないのか?
瞬間的なやり取りの中で、イチイチ言語化なんてしているヒマないんだよ
言語なんて使わなくても、その前に『私』は存在しているのだが
キミが、なぜ『私』は言語によって発生している なんて言うのか理解に苦しむな
>>234 じゃあ、言語の話さないあらゆるものにも「私」があるってことになるけどいいのか?
脳の有無は関係ないんだろ? 他スレで「私」は物理現象ではないみたいなこと言ってたからさ。
脳は物質だし、脳機能は物理現象だからな。当然脳は関係ないよな?
あと、「私」の発生が言語に関係ないなら、どうして「私」という表現を選んだの?
関係ないんだろ? 「A」でも「アレ」でも何でもいいわけだ。
どうして言語的に意味の強い「私」を使ってきたの?
>>233 おそらく、
≪『主観が』、『「意識に与えられている“事物”の表徴」を』、『実在として信憑(妥当)する』≫
≪条件や構造を≫捉えようとするのが超越論的。
という文章構造と思われ・・・。
簡略表現すれば
≪主観が、表徴を実在として信憑してしまう条件・構造≫を捉えようと・・・・。
237 :
考える名無しさん:2007/06/23(土) 23:07:39 0
>>228 すいません。「完全な客観的視点」に立って考えることが
「でもオレは、この人間という立場に生まれてきている」
「なんでだろ」なのはなぜですか?
あと総合哲学と物理哲学について教えて下さい
「人間の精神の根源」って何ですか?
だいたい、私が人間に生まれることができて蟻に生まれることができない
理由がどこかにあるのか?
239 :
ネコの味方:2007/06/23(土) 23:18:36 0
>>232 カンで述べているので、私もよく知りません。w
>>233 “事物”が与えられるとは言っていません。
それはともかく、いま私はコップをみて(意識して)いますが、私(の主観)の
他にだれかこのことがわかるのですか。
240 :
235:2007/06/23(土) 23:19:58 0
>>234 書き忘れた。
小便したいって「私」が思う(思ってしまう)のは、「私」が身体構造、つまり物理的構造に従っている証拠だな。
人間の構造上、小便は出さないとならないからな。
あれ? もしかして「私」は物理現象の奴隷なのか?
196 考える名無しさん 2007/06/23(土) 09:44:54 0
>>195 863 考える名無しさん 2007/06/19(火) 10:37:34 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1180813863/ 59 考える名無しさん sage New! 2007/06/18(月) 17:41:07 0
自分として実感・認識・自覚されるなら、それは「自分としてしか」ありえない。
他人であった場合などありえない。それは、(そこに於ける自己認識は)常に「自分」でしかない。
「なぜ自分は自分として・・・」など、問い自体がナンセンス。
それが、「これこれこういう肉体的特徴、環境・境遇に生まれたのはなぜか?」ならば、
問う意味も生じよう。
しかし、意識としての「自分」であるなら、自分以外を実感し、自覚することはない。
思惟自体は、常に「自分でしかない」。
思惟が他人であることはない。自己フィードバック的に実感・自覚・思惟された時点で、それは「自分」となる。
精神病の症状としてはどうなんだろうか・・・。専門家はいるかな・・。
204 196 2007/06/23(土) 11:49:02 0
>>195 ◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない92◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1177677748/ 933 考える名無しさん sage 2007/05/11(金) 17:34:21 0
他人である事を経験した事のない私が他人の知にとやかく言うのは何故でしょうね
939 903 sage 2007/05/11(金) 18:10:51 0
他人であることを経験するのはありえないでしょ。
「他人であることを経験している時」、それは(その時は)もはや「『他人』ではない」。
経験は、「私」のみにされる(知覚される)ものだろ?違う?
経験できてしまった時点で、すでに「その経験は『他人であること』ではなくなってしまう」。
243 :
哲学者最高位 ◆aR/NjQEjK2 :2007/06/23(土) 23:23:25 0
>>235 >じゃあ、言語の話さないあらゆるものにも「私」があるってことになるけどいいのか?
なんで?
>あと、「私」の発生が言語に関係ないなら、どうして「私」という表現を選んだの?
表現するのに言語を使うからだよ
そろそろ病院いくか?
>>237 あんた人間じゃないの?
>>238 ご自由に、蟻に生まれて来て下さい
その前に病院で相談してみられる事を、お勧めしますが・・・
244 :
235:2007/06/23(土) 23:34:33 0
>>243 なんでって、脳と「私」は関係ないんだろ? なら何にでも「私」はあるといえる。
俺は「私」が物質である脳と関係があると思ってるけどな、お前は違うと思ってるんだろ?
表現するのに言語を使うのは分かってんだよw
なぜ世間一般で使う『私』という漢字を使用したんだって聞いてるんだよ。
誤解を招く表現なのにわざわざ使い続けたってことは理由があるんだろ?
あと、
>>240の返答もお願いねv
245 :
119:2007/06/23(土) 23:36:09 0
>>288 >キミ達は「完全な客観的視点」と聞いて ・・・・
・・・・・・・・
あなたに対する「キミ達」って、どのような人たちを指すのでしよう?
あなた以外の投稿者すべて?唯物論者?ひとつの思考に凝り固まった人?
>「でもオレは、この人間という立場に生まれてきている」
>「しかし人間として生まれてきているのは、なぜだ???」
「人間という立場」というのは意味不明です。
結局、「人間として生まれた」運命や宿命があるのだと、おっしゃりたいのですか?
唯物論的思考ばかりじゃなく、スピリチュアルな思考もしてみろよ、とか?
まあ、いろいろな視点に立って(振りではありますが)、無責任に
ああでもない、こうでもないと論ずるのはそんなに難しいことではないですね。
「蟻」の視点に立つことは無理だと思いますが。
246 :
119:2007/06/24(日) 00:04:58 0
いまは、「人間として生まれている」けど、前には、「何かだった」のかな?
>哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2
>哲学者最高位 ◆aR/NjQEjK2
「蟻」の視点に立つのが無理なら、「人間」の視点に立つのも無理だろ。
可能なのは「この視点」だけだろ。
249 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 00:22:11 0
うちの飼い犬も
『イメージ』で段取り組んで、オシッコしてるのだろうな〜、きっと。
250 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/24(日) 00:22:17 0
>>244 >なんでって、脳と「私」は関係ないんだろ? なら何にでも「私」はあるといえる。
べつに、いえんだろ
その他に理由があるかも知れんしね
脳の他には理由がない とする理由を述べよ
>なぜ世間一般で使う『私』という漢字を使用したんだって聞いてるんだよ。
なんで漢字で表現しちゃイカンのかね?
>誤解を招く表現なのにわざわざ使い続けたってことは理由があるんだろ?
どんな誤解かな?
あと
>>240?
まぁ、奴隷かどうかは知らんが
感知する という事と、発生している という事は違うだろ
なんで、その辺をゴッチャにするのか理解に苦しむ
>>245 >あなたに対する「キミ達」って、どのような人たちを指すのでしよう?
>あなた以外の投稿者すべて?唯物論者?ひとつの思考に凝り固まった人?
おいおい、会話ぐらい普通に理解してくれよ
キミと同じような間違いをおかしている人が複数いるみたいなんだが
名無しだから、私には見えんのよ
>「蟻」の視点に立つことは無理だと思いますが。
誰が蟻の視点に立つって?
もう少し、マトモな読解力をつけてから参加してくれないか?
251 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/24(日) 00:26:55 0
あ、基地外さんが多いなと思ったら
今日は土曜日か・・・・納得
253 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 00:37:45 0
>>最高位
いい加減煽るのやめたら?
254 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 00:42:56 0
>>243 すいません。「完全な客観的視点」に立って考えることが
「でもオレは、この人間という立場に生まれてきている」
「なんでだろ」なのはなぜですか?
あと総合哲学と物理哲学について教えて下さい
「人間の精神の根源」って何ですか?
255 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/24(日) 00:44:32 0
>>253 まともなら言うつもりないんだけどさ
煽りではないよ
率直な感想です
自覚して欲しいから、つい言ってしまうんだよね
256 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 00:50:11 0
自覚して欲しいからといって何でも率直に言うのはいいことだと
考えているわけね?
257 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/24(日) 00:52:54 0
>>256 >何でも
って何?
お〜い、マトモに会話できる人は、いないのか〜い
258 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 00:53:30 0
259 :
235:2007/06/24(日) 00:53:33 0
>>250 言えるんだなこれが。否定する要素がない以上、そう言って差し支えない。
これで終了か?
漢字で表現することはいけなくないよ。そんなこと言ったか?
これは答えられないで終了だな。
「私」が尿意を感知して、排尿したんだから一連には関連性はある。
小便したいと思ってしまうことに逆らえない「私」ってことで、どうにも「私」は
物質的構造の支配下におかれるってことで終了。
261 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 00:55:40 0
「つい」言ってしまうと言いうが、掲示板は現実の会話とは違って書き込む前に
自分の言った事を変更できるだろ。相手をわざと冷静にさせないようにして
どうする。
262 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 00:58:30 0
>>257 すいません。「完全な客観的視点」に立って考えることが
「でもオレは、この人間という立場に生まれてきている」
「なんでだろ」なのはなぜですか?
あと総合哲学と物理哲学について教えて下さい
「人間の精神の根源」って何ですか?
263 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 00:58:47 0
物理哲学講座
長期コース 年7回 10万円(消費税込み)
だって。
264 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 01:02:59 0
自分だって数え切れないほどの誤読をしておいて、他人に病院行けとか…
どうなってんだこいつ。指摘するにしてもこいつの明らかに相手の
神経を逆撫でするような言い方は煽りでしかない。自覚してないのか?
>>231 「客観は知り得ないから主観内部で真理の妥当な形式を探る」
という主張は、いったん謙虚さを示した後で客観を密輸入している感が否めない。
言い換えれば、「客観的立場」というと「超越論的主観」というと、
やってることは同じなんではないかと。
これは、私が現象(認識後の世界)−実体(認識前の世界)の二元論を
採用しており、自説の弱点を自覚しているから言うことなのだ。
名前が哲学者最高位なんだぜ?
察してやれよ。
267 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 01:14:45 0
「自覚しろよ」とさんざん言われて、それがトラウマになっている人は、
「自覚しろよ」と必死になって唱えていないと、自分が保てないのです。
268 :
119:2007/06/24(日) 01:37:43 0
自我は卵の殻のようなものでしょうか。
頑固なようで、もろくもありますね。
269 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 01:45:34 O
心理板住人に最高位をプロファイリングしてもらったら面白そうな診断が出そうw
270 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 02:14:09 0
心理哲学ってのもあるんですよ。
271 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/24(日) 03:25:36 0
>>259 >否定する要素がない以上、そう言って差し支えない。
神も否定する要素がないから、いる と言って差し支えない
と主張するのと同じだが、じゃぁどっちが正しいんだ?(笑
どっちもか?
否定する要素がなければ、何でも正しいんか?(爆笑
まぁ私は、実際には論理的に否定し終わっているわけだがね
>漢字で表現することはいけなくないよ。そんなこと言ったか?
だったら誤解を受けるとか、ゴチャゴチャ言うなや
>「私」が尿意を感知して、排尿したんだから一連には関連性はある。
>小便したいと思ってしまうことに逆らえない「私」ってことで、どうにも「私」は
>物質的構造の支配下におかれるってことで終了。
関連性 があるからといって、私が存在する原因的要素とはならないだろ
キミは尿意によって存在しているのか?(爆笑
272 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 03:51:23 0
誤解を受ける表現というより、お前の誤読であって、ただ真意を読み取れて
ないだけ。
>>259が前に言ったことは非常に簡単だと思うが?
273 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 03:55:14 0
全てが物質的構造の支配下に置かれてると唱える者は
自殺についてはどう考えるんだろうか
274 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 04:35:36 0
>>関連性 があるからといって、私が存在する原因的要素とはならないだろ
>>キミは尿意によって存在しているのか?(爆笑
そんなことはどうでもいい。「私」が物理的要素によって影響を受けていると
いうことは「私」もモノで出来ているということを意味するのが重要なんだ。
「私」の存在性と「私」自体は別問題であって、「私」の存在性が説明できないこと
からといって精神問題を物理現象で扱えないとするのは間違っている。
もし反論があるなら、出来ないという理由を「わかりやすく」説明してみろ。
275 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 04:44:03 0
うん。まあ、彼の中では論理的に帰結しているらしいけど、
出来ないという理由を「わかりやすく」説明されたためしがないなぁ。
いつ、言うのかず〜と待ってるんだがなぁ。
276 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 04:52:32 0
「彼女」かもしれないという噂もあるけどね。でも遺言に発表するのとか
はやめてほしいな。
277 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/24(日) 05:17:50 0
>誤解を受ける表現というより、
レス付けてくるのはいいが、まず
>>244から読み直しましょうね
>>274 精神 というのは、主観性であってね
他でもない『私』の精神なんだよ
精神を論じる際に、『私』を抜きにして語るのは本質を無視しているワケだ
私の精神が物理現象だと主張するのなら、私の精神を現象させる物理的要素が無ければならない
しかし、物体をいかに捏ねくり返そうとも、何をどうやったって
たとえ全く同じ要素の物質を作成しても
私はココにいて、唯一絶対であるのだから、物理的要素で私を現象させる事はできないんだよ
絶対にね
私の精神を発生せしめる物理的要素など、無いんだよ
278 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 06:19:59 O
最高位はカップラーメンを食べる?食べるなら、汁は全部飲む方?
279 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 07:05:31 0
>>私の精神を現象させる物理的要素
自分の脳だろ。
280 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/24(日) 09:00:50 0
>>279 自分の脳 と全く同じ分子構造の物体を作成したところで、それは私にはならないんだよ
では私は、いかなる構造によって現象しているのかな?
281 :
235:2007/06/24(日) 09:01:27 0
>>271 おいおい女々しい泣き言ばっかじゃんか。
なんで神の話になってるんだw 話を逸らしてどうするんだよ。
いまは「私」の話だから、否定できないなら終わりだろ。はい終了な。
誤解って、あんな簡単なこと理解できないんならどうしようもないわ。
これはもう答えられないで終了だな。
関連性があるんなら「私」は物理的要素によって発生してるでいいじゃないか。
それとも、霊的な要素が絡んでるとでも? まあ、それはそれでいいけどさ。
あと、
>>277のやつだけど、同じものがつくれないのは何でも同じだぞ。
唯一なのも何でも同じ。「私」もその条件に合致するから、
物理現象でないとはならない。いや、だからこそ物理的なことと合致しちゃうなこれ。
もっと、脳を破壊しても思考できるとか言わないとムリポですわ。
さて、そろそろ終わりかな。話を逸らし始めたらもう駄目だしな。
細かい言い逃れなら延々と続けられるし。
282 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/24(日) 09:19:40 0
>>281 ん?
否定できなきゃ何でも正しいのか?と聞いているんだが?
>あと、
>>277のやつだけど、同じものがつくれないのは何でも同じだぞ。
ん? なんで同じ分子構造の物体が、作れないんだ??
技術的にはまだ無理でも、原理的には作れるだろ
283 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 09:34:58 0
脳に電極ぶっこんで電気流すと色々な反応するところまでは判明しているが、
それでは脳が自我に深く関連している事の証明までしにかならん。
結局の所、思考や情報は脳内の科学反応によって発生しているのか
魂として大気中を浮遊する事も出来る情報群が肉体に一時的に宿っているのか
どちらかを断言する術は現状ではまだ無い。
284 :
235:2007/06/24(日) 09:35:41 0
>>282 何でも正しいかは知らんけど、「私」の件に関しては否定がないから正しいだろ?
技術的に無理なら無理じゃん。SFの話かよ。
SFの話でも時空を考慮すれば全く同じものはつくれん。意味ないし。
他の理由もあるかもしれんがな。つか、「私」と分子が同列に扱えるのか?
285 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 09:45:23 0
ちなみに自我は脳だ脳だとよく言う奴がまだ居るがそれは誤り。
近年では皮膚や各臓器で物事の趣向を判断している事が分かってきた。
臓器から一定の物質を分泌→脳に到達→それに応じた物質を脳が〜
要するに痛みのサイクルと同じだな。
我々の自我は独立して存在しているものではない。脳、皮膚、内臓器官、
それらが相互に依存して存在している。
故に魂があるとしても脳や心臓とかではなく、全身に憑依しているんだろうな。
相変わらずここは無知な連中があーだこーだ言ってるな
おまえら少しは勉強というものをしろよ
〜とされている、〜と分かっている と述べるんだったら
せめて典拠くらい示せよ
アホかおまいは
わざわざ示さねばならん程
まだ世に触れまわってない話でもないだろうに
人に頼まんと自分で調べてみな
288 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 10:05:38 0
>>自分の脳 と全く同じ分子構造の物体を作成したところで、それは私にはならないんだよ
他人の脳だから当たり前だと思うが?
>>では私は、いかなる構造によって現象しているのかな?
構造というより別物だから「私」が生じている。コピーを作って
もそれは「二つある」時点で他方と区別できる。
>原理的には作れるだろ
厳密に言うと無理
心頭滅却すれば火もまた涼し、という考え方は
臓器からの伝達物質により影響されない部分がまだ私として存在していることを言ってるよね。
臓器など無意識の制御下にある自律神経に自我を置くことは、
新たな発見ではなくて、むしろ動物化するポストモダンのほうに近い考え方に進んでいるのだと思うが。
ふ〜ん、心頭〜ってそういうロジックだったんだ
そうなると、意識の方向とか集中って何なんだろうかね
291 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/24(日) 10:39:09 0
>>284 >技術的に無理なら無理じゃん。SFの話かよ。
現在の技術の話な
論理の話であって、哲学の話な
>SFの話でも時空を考慮すれば全く同じものはつくれん。意味ないし。
たとえばH2Oは、時空に関係なくH2Oな
そこに違いは無く
同じ環境、条件で実験するならば
日本で行おうととアメリカで行おうと
時や場所に関係なく同じ現象が起こる
「私」が物理現象であるならば
同じ分子構造から「私」は現象しなければおかしいだろ(爆笑
抽象的な事ばかり言ってないで
もっとちゃんと、唯物的に、具体的に答えなさいよ(笑
>>288 >他人の脳だから当たり前だと思うが?
まぁそうなんだよ(笑
そこでだ
なんで、この脳が「私」なのか が問題
それを物理的要素で特定しなさいって事だ
そしてその特定された要素を再現して「私」を作成してみなさい って事(爆笑
しかし、ならんだろ当たり前だが
ようするに
この体の、物理的要素で「私」だったのではなかった っていう事なんだよ
知能の低すぎる人には理解できんみたいだけどね
とりあえずどの要素でなら私を表現出来るのかも書いといた方が良いとオモ
293 :
素人:2007/06/24(日) 10:54:04 0
>>291 まったく・・・w
厳密な意味での事象の一回性について、
何度、色んな人から説明があったと思っているんですか?w
本来、それぞれが一回性である唯一の事象であるにもかかわらず、再現できていると見做せるのは、
その事象が成立する際の要素・条件の幾つかが、捨象可能であるからだ。
そして、その捨象のレベル・度合いは、状況によって違う。
化学の実験で言えば、小学校レベルの理科の実験に於いては再現できていると見做せても、
薬品会社の製品開発に於いては、そのレベルでは再現できたとは見做せないだろう。
そして、この捨象の構造は、自己同一性についても同様である。
(これは、感嘆子さんが、繰り返し丁寧に述べているw)
言っている意味がわかるかな?w
>たとえばH2Oは、時空に関係なくH2Oな
二つのH2O分子は、「同じ性質の別の物質」ですが…
295 :
235:2007/06/24(日) 11:08:09 0
>>291 現在も何も、出来てないんだろ? ならそれだけだ。
あらゆる実験は厳密にはそれぞれ異なる結果を出す。
あらゆるものは唯一なんだよ。時空を考慮に入れればそれがすぐに分かる。
296 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 11:09:20 0
>>294 H2Oはどれでも同じものと見なすのが科学なんじゃないの?
それを否定することは科学の本質を否定することじゃないのか?
298 :
ネコの味方:2007/06/24(日) 11:15:53 0
>>265 「正しい」と確信していることも所詮、私の関心(欲望)によって染め上げた
“私物”に過ぎないとの自覚だけが、辛うじて“客観的真理”へのいざない
を遮断してくれるのではないでしょうか。
たぶん私も“二元論的”だと思います。ただ“実体”という言葉が…しっくり
こないのです。
少し前に“普遍”にイチャモンをつけました。相互主観的に同意を得たにすぎ
ない想念や観念(共同主観)をそう呼んでいるだけでは?という疑問です。
たぶん、この言葉が“客観的真理”を彷彿させるからでしょう。そして“実体”
も客観世界を連想させるのですが…。
299 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 11:18:52 0
>>297 違うなぁ。
「捨象」というんじゃないよ。
科学は「説明」だよ。
純粋なH2Oが現実には存在しないことなんて
誰だってわかりきっている。
わかりきっていても、水をH2Oとして「説明」
するのが科学だよ。
300 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 11:29:59 0
だいたい、再現性の問題は条件の選択とかそういう話じゃないと思うけど。
>>298 正当化を止めればいいだけの話ではないのだろうか?
本当に客観的真理への誘いを遮っているのなら、何かについて「正しい」
という必要も関心もなかろう。
302 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 11:33:37 0
だいたい、客観的真理、なんてものがなぜ必要なの?
>>302 「なぜ」と問うことが既に客観的真理を前提としている。
そこには正しい答えがあるという期待だ。
客観的真理を必要としない人は「なぜ」と問うこともしないであろう。
なぜなら、その人にとって、客観的真理が必要かどうかはどうでもいいことだからだ。
304 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 11:39:39 0
>>299 その「説明」に一貫性、整合性を付与するために、この水とあの水の個別性(差異)を
捨象するのではないの?
305 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 11:46:02 0
>>304 捨象するっていうことじゃないだろ。
科学はもともと、
>>293が言っているような「一回性」を見ているんじゃない。
もとから「普遍」(H2O)を扱うのが科学の本質だろ。
306 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 11:50:28 0
>>303 >「なぜ」と問うことが既に客観的真理を前提としている。
そうかな、自分はそうは思わない。
>そこには正しい答えがあるという期待だ。
客観的真理じゃなくても、十分正しい答え、はあるんじゃないの?
そして、それで、十分な場合もあるんじゃないの?
>客観的真理を必要としない人は「なぜ」と問うこともしないであろう。
「鳥は、なぜ、空を飛べるのだろう」という問いかけがあったとする。
たいていの人では、この問いかけは、「空を飛びたい」という欲求の表れで、
「客観的真理」なんてものを求めてのことではない。
ある仮説で飛行機が設計可能で、それで実際に空が飛べれば、
その仮説が客観的真理かどうかなんてどうでもよいはず。
>なぜなら、その人にとって、客観的真理が必要かどうかはどうでもいいことだからだ。
そう、「なぜ」という問いかけは、必要十分な答えが得られればいいのであって、
そのことが客観的真理かどうかなんてどうでもいい。
307 :
素人:2007/06/24(日) 11:51:20 0
>>305 話になりませんねw
ネコタソ、出番ですよw
ノシ
308 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 11:56:22 0
>>307 感じ悪い人だなぁ。
もともと普遍を扱うのが科学の本質だって、
当たり前のことを言っただけなのにね。
さよなら。
309 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 12:08:15 0
最高位の話には・・・無理がある・・・
自我は物理現象でしかない。
>>306 私が「客観的真理は必要である」というときの「必要である」というのは
手に入らなければならないということではない。
思考の前提としてどこかに仮設しておく必要があるということだ。
あるいは、もう一歩引いて、それが便利だということでもよい(私はどちらかというと、
便宜的に客観的真理を認める立場である)。
例えば、「十分正しい」というのを「真理ではないが真理に近そうな仮説」と定義する
ならば、先に真理の存在を認めておくのが便利である(かつ、この場合はそれが
必要ですらあるように思われる)。
>そう、「なぜ」という問いかけは、必要十分な答えが得られればいいのであって、
>そのことが客観的真理かどうかなんてどうでもいい。
これは正確ではない。
客観的真理を求めたい人にとってはそれはどうでもいい質問ではない。
客観的真理を求めたくない人にとってはそれはどうでもいい質問である。
311 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 12:13:10 0
>>310 >思考の前提としてどこかに仮設しておく必要があるということだ。
オーライ。
では、すでに我々は、「客観的真理」を必要十分な形で持っているということだ。
だから、
>客観的真理を求めたい人にとってはそれはどうでもいい質問ではない。
上で、書いたように、あなたのいう必要については我々は、十分客観的真理を持っているだろう?
これ以上なぜ求める必要があるの?
312 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 12:19:09 0
私が物理現象でないというために
物理的な見方と主観的な見方が一致することはないという論法を使うのは卑怯だす。
「私」を崇める最高位教団にあなたも入信しませんか?
といってるようなもんだぞよ。
313 :
ネコの味方:2007/06/24(日) 12:24:04 0
>>301 関心や欲望は内発するものです。それに沿い、それを満たすものが
「正しい」のです。“正当化”の根拠は私的であり、そこに客観性は
ありません。
>>3時で1時さん
ところで記憶ちがいかもしれぬが、このスレの初めに3時1時さんが
この内発性を身体に帰していました。たしかに尿意は身体(自然)の摂理
による。しかし贅沢、名誉、権力などへの欲求は身体の必要性から発せ
られるものではあるまい。最高位の言う「私(の存在性)」が吟味される
べきは、この関心や欲望との相関においてではないでしょうか。
314 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 12:26:22 0
>>291 >なんで、この脳が「私」なのか
脳からお前の「私」が生まれたからだ。他の脳からお前の「私」は生まれないだろ。
>それを物理的要素で特定しなさいって事だ
物理駅要素?自分の脳と他人の脳が区別できるだろ。
>そしてその特定された要素を再現して「私」を作成してみなさい
再現した時点で他人の脳だろうが。
>ようするに
>この体の、この体の、物理的要素で「私」だったのではなかった っていう事なんだよ
すべての物理的要素の独自性にによってお前の「私」ではなかっただけだろ。
315 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 12:33:37 0
ようするに最高位は
この体の、物理的要素で「私」だったのではなかったのだと思いたいようだが
物理的要素で私の同一性は維持されている。
つまり私の同一性維持は機能の一つであって存在性などではない。
物理的「要素」で特定はできないが、物理的「機能」であることは間違いない。
どちらにしろ唯物論を破壊できていない中途半端すぎる愚論。
こうして最高位は病院へ収容されましたとさ。
めでたしめでたし。
317 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 12:38:55 0
物理現象以外の現象が存在しないのなら、
物理現象という言葉には、分類としての意味はないよね。
つまり、「私は物理現象である」という記述は、
「私は現象である」といっているのと変わらない。
>>313 充足の有無も私的だとすると最高位氏の理論は「正しい」のではないか?
少なくとも、最高位氏は彼の自説に何らかの不充足を見出していない。
それをあなたが喝破できるというのは、正しさの私的性から見て奇妙では
ないだろうか。最高位の私的な正しさとあなたの私的な正しさの比較考察
は外部的な視点を必要とする。
それとも、充足の有無だけは第三者の立場から行われるのだろうか。
自我が物理現象だと言う人に聞きたい
自我ってなにで出来てるの?
またつまんない書き込みが来たw
>>319 では、愛や友情は何でできてるの?
ホームランは何でできてるの?
サッカーの試合は何でできてるの?
国家は何でできてるの?
321 :
ネコの味方:2007/06/24(日) 13:01:47 0
>>307 素人さん、だから言ったでしょう。唯物論は一つの思想にすぎず、相対的です。
この思想がキリスト教徒やイスラム教徒を折伏して、世界性(普遍性)を獲得する
可能性はあまりないでしょう。
しかし、科学主義の“普遍”はイデア(よくできたフィクション)であるにもかか
わらず、事実めかすのが巧みです。こちらが要注意なのです。
>>320 それらのほとんどは一定の動作に名前付けてるだけだよ。
例えば、ウィトゲンシュタイン後期の解決法についてどう思うわけ?
これに対して、自我の構成要素は別の問題。
それに対してホームランを出してくるところが、この問題の
要点(自己言及になるということ)が見えてない証拠だな。
「私はホームランとは〜だと思う」
「私は私とは〜だと思う」
323 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 13:04:33 0
というか、科学を理解してない人間が、事実と誤解するだけのことだろう。
自分の認識の間違いを棚に上げて、誰かが故意に騙そうとしている
かのように言うのはみっともない。
唯物論は悪くないけど勝手に騙される人と勝手に事実だと思って使う人が
多いんだと思うよ
325 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 13:10:00 0
悪くないとは?
326 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 13:10:59 O
今頃何いってんのー。
相変わらず楽しいスレですねw
328 :
ネコの味方:2007/06/24(日) 13:16:42 0
>>318 非唯物論者でもあり、一貫して最高位シンパです。
そもそも、どのような思想も他を完全には喝破、論破しえないという
立場です。(この点は最高位と違います)
吟味し、相互主観的に同意し合うことはあるでしょう。
>>328 相互主観的に同意し合うことを認めるのは外部的視点を必要とする。
これは私が昨日から主張しているところの「主客図式が既に外部視点による
言説なのだ」という論点とも絡んでいる。
330 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 13:33:43 0
>>322 >ウィトゲンシュタイン後期の解決法
って何ですか?
>>286 「ゆとり教育」ってやつ?
自己が仮象である、とかそういうレベルにもなってないわけで
でも名物としてこういうのもあってもいいかと
332 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 13:53:01 0
そんなにレベルが違うなら堂々と論破して上げればいいのに
どうして当り障りの無い事しか言わないのだろうか
イナゴ呼ばわりしてる某スレ主よりマシかとw
>>319 なんでできてるかって、別に物でできてると考えられてるわけじゃなくて
でも例えば人間の場合だと自我に限らず心的現象全般は脳内の神経の活動として理解される(あるいはしよう)、
というのが唯物論的な考え方になるだろうと思う。
これ、哲学的には結構難しい問題を抱えてるらしいけど
世間一般的には今やほぼ「常識」なのかもしれん。
>>308 あとから捨象がどうとか余計なつっこみがきたからわかりにくくなってるけど、
たぶん
>>294が言いたかったのは普遍の中の個別事例の話だと思う。
だから「もともと普遍を扱うのが科学の本質」ということと矛盾はしないと思うけど。
335 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 14:21:02 0
そりゃ世間一般ではそれが常識だけど、
厳密に考えると結局未だに確たる根拠が無いんだよね。
ついでに言うと食べ物や人物の好き嫌い、趣向は脳だけじゃないと知られてきたし。
↑でも書いたけど内臓や皮膚など各器官相互の反応だ、とね。
そりゃ世間一般ではそれが常識だけどさ、
厳密に考えると結局未だに確たる根拠が無いんだよね。
ついでに言うと食べ物や人物の好き嫌い、趣向は脳だけじゃないと知られてきたし。
↑でも書いたけど内臓や皮膚など各器官相互の反応だ、とね。
細胞記憶でググればなんかそれらしいの見つかるんでない?
詳しく知りたいなら自分で調べてね。
だから魂はあるんだーとかって現代で言う所の神秘主義も、
事、自我に関しての唯物論も
あまり特定出来るほど情報が集まってないと思うけど
336 :
考える名無しさん:2007/06/24(日) 14:26:19 O
世界は広いよな〜。
337 :
3時で1時:2007/06/24(日) 15:02:51 0
>>313 > ところで記憶ちがいかもしれぬが、このスレの初めに3時1時さんがこの内発性を
>身体に帰していました。
俺の基本的な考えは「存在するものは、ボディである」ということです。
「私」とは、この人間たる身のことである。
『自我』が実体であるなら、非物質的な「何か」としてどこかに着地せねばならない
だろう、ということです。
デカルト的な「コギト・我思う」は、まさに存在や現れを「思う・認識する」ことで
あるのに、「存在する」ということによって、時間空間を前提とする客体(思惟体)
として扱われてしまう。それゆえ、「コギト・思う我」は認識作用なのであり、「在
る」のではなく、「有る」と言うべきなのだ、と言いました。
単に「有る」というのであれば、意識に対しての、生ける身体の主観性も論じられる。
「関心」とか「欲望」というものが語られるのは、人間という類・種を前提としてい
るからではないですか?生きている人体を見ただけで、「この人も」何かに関心があ
るだろうし、欲望もあるだろうと類推してしまうという事実性は認められませんか?
「関心」や「欲望」に関しては、「分からない」とすでに何遍も言っています。
「私が何かを意識したり、ある印象をもったり、関心を持ったりすることに、私的必
然性はなく」、「このように分かると言うことが分からない」ということが「分かっ
ている」にすぎないというような内容も何回か投稿しています。
「関心」や「欲望」が心的な営為であるとは言えますが、心が実在するとも言えず、
かといって、生理学的・物理的現象であるとも言い得ません。
「私」には解からないのだから、唯物論者でもないし、かといって否定もし得ない。
けれども、「誰かであるところの私」とは、結局この人間たる身のことを指し示して
いるのでありませんか?ということです。
「ここ」に存在するのは、思う我や精神、あるいは霊魂ではないでしょう?
人間たる身でなくして、他者ではないとか、「誰である」とか、1人しかいないと
言えないと思いますが?
338 :
3時で1時:2007/06/24(日) 15:05:27 0
『自我』というのはカント等の表現を借りるならば、「仮象」であり、人間にとって、
同時に自己と身体であるような、一つの存在という観念を必要とするということ
なのではないだろうか?
自分・自我が観念的存在であることは、決定論スレにはじめて投稿した時から言って
います。「仮託の存在」はおおむね不評だったようですがw、人間は、常に自我を形
成し続けていかなければならないし、これは観念の「身体化」とも表現されます。
ゲイ・ベッカー的には「日常の安定性は、絶え間なく、また信頼できる自己といった
仮定を要求する」ということでしょう。
「誰が形成しているのか?」といえば、やはり、人間たるこの身であるとしか言い得
ない。
存在とは、絶えざる変化のことであるが、時間的
な差異のお互いを承認することによる変化かと。
最高位には、
>>241についての感想が欲しいとこなんだけどな・・・。
なんでスルーするんだろ?
341 :
314:2007/06/24(日) 23:26:31 0
まあ、都合の悪いレスは無視していかないと、
コテハン続けるのは大変だろうからね。
342 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 00:00:03 O
最高位と処刑ライダーは典型的なクソコテ
343 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/25(月) 01:00:04 0
>>209 :ネコの味方:
>普遍的であり、かつ相対的ということもありうる?
意味が良く分かりません?
「格差」は社会で普遍的ですが、相対的でもありますかな・・・・?
>100人のうち何人の同意を得れば普遍的と言えるのでしょうか?
100人全員です。
344 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 01:08:24 0
それでも地球は回っている
345 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/25(月) 01:11:02 0
>>329 :夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :
>相互主観的に同意し合うことを認めるのは外部的視点を必要とする。
まったく必要としません。
外部の視点を考えない為にわざわざ「相互主観」と言っているのでしょう。
外部視点があるのなら、相互はその外部視点を共有したと言う表現になるでしょう。
現実はそれぞれの主観が他人の主観を思いやっただけです。
この事は「共感」と呼ばれます。
主観が共感しあうだけで、外部視点なるものは存在しません。
346 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/25(月) 01:35:56 0
>>306 :考える名無しさん:
>そうかな、自分はそうは思わない。
いいえちがう。
「なぜと問うことが既に客観的真理を前提としている。」は正しい。
>・・・・十分正しい答え・・・・・・・・
それが客観的真理そのもの。
>「空を飛びたい」という欲求の表れ・・・・・・
もし鳥がそのような欲求を本当に持っていたら、人類史上最大の「客観的真理」の発見である。
人は何故生きるのか?
「生きる欲求を持っているから」と断言できればそれは真理と言うほかは無い。
>ある仮説で飛行機が設計可能で、それで実際に空が飛べれば
その仮説は明らかに飛行機が飛ぶ為の客観的真理でしょう。
>「なぜ」という問いかけは、必要十分な答えが得られればいい・・・
そのとおり、そしてその必要十分な答えのことを客観的真理と言う。
付記:何故生きる欲求があるかの必要十分な答え(客観的真理)はない。
347 :
314:2007/06/25(月) 05:24:22 0
>>346 >いいえちがう。
いや、「君が」「なぜ」とう場合は、そうだろうさ。
私が「なぜ」と問う場合は違う。
普遍的にどちらかだなんて、誰にも決められない。
>それが客観的真理そのもの。
とすれば、客観的真理というのは、人によって違うわけだ。
必要は人によって違うから。
つまり、君における「客観」とは、属人的なものなんだ。
じゃあ、それは「主観」と何が違う?
>もし鳥がそのような欲求を本当に持っていたら、人類史上最大の「客観的真理」の発見である。
>人は何故生きるのか?
>「生きる欲求を持っているから」と断言できればそれは真理と言うほかは無い。
もしかすると、そうかもしれんけど、そのことと今の議論にどんな関係があるの?
>その仮説は明らかに飛行機が飛ぶ為の客観的真理でしょう。
君の定義ではそうなるかもね。
>そのとおり、そしてその必要十分な答えのことを客観的真理と言う。
なら、それでいいじゃん。
何が言いたい?
>付記:何故生きる欲求があるかの必要十分な答え(客観的真理)はない。
繰り返しになるが、そのことと今の議論に何か関係があるの?
348 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/25(月) 10:11:48 0
>>293 キミら、本当に頭悪いんだよ
話の趣旨、論点の本質が全く理解できていない
呆れ果てて言葉を失うよ・・・・
「『私』は物理的な何の要素なのか」 という問いなのに
「一回性だから」 では、何の回答にもなっていないんだよ
なんでわからんのかねぇ・・・・
それで反論できていると思ってるのが不思議でたまらん
そろそろ基地外のフリするの、やめてもらえませんか?
>>294 アホだなぁ
分子の個別性までも同じにしても『私』にはならないんだよ
もっといろいろ、シュミレートして考えてみればいい
脳内の分子を一個ずつ入れ替えたら とかね
よく考えてみなさい
体内の分子は常に入れ替わっているしね
今日飲んだ水は、昨日は太平洋の真ん中にあったのかも知れないんだよ?(笑
物質の側に『私』の存在を決定できる要素など、ありえないんです
だいたい水の分子Aなら『私』になり、水の分子Bなら『私』にならない
という理由が、ワケわからん
体内の水の分子など、常に入れ替わっているでしょう
という事は、代替が利くんだよ
H2OはH2Oで、同じ性質だからね
それが科学というもんだ
350 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/25(月) 10:43:12 0
>>295 同じ条件下でも、常に違う現象が起こるんだったら
怖くてクルマの運転もできんぞ
時空が違うから という理由で
毎回ブレーキの利きが変わったりしたら大変だろ(爆笑
あとね
違うから、では『私』の存在理由にはならんのだよ
いいかげん気づけよ
>>314 >>なんで、この脳が「私」なのか
>脳からお前の「私」が生まれたからだ。
しかしケッサクだな
「なんで」と聞いてるのに、「生まれたからだ」って(苦笑
知能の低さがにじみ出ている回答だな
哲学以前だなこりゃ
>>320 ホームランとかね
そんなのは私の価値観でしかないんだよ
だから価値観の主体が無ければ観念としても存在しえない事なんだよ
その価値観の主体が『私』なんであってね
『私』とは何か? という究極的な哲学的課題についての話なのに
全くついて来れていないんだよな
ホームランて・・・・(苦笑
「ホームランは存在するのか」と「私は存在するのか」という問いは
全く次元の異なる事柄である事に気づいて下さい
それが理解できないと、話にならない
351 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 10:43:28 0
馬鹿すぎる、なぜ分子で比べるんだ。パーツで比べろ。
>>348 最高位氏、まだおわかりにならないのですかw?
同じ種類の「素粒子A」と「素粒子B」は物質的要素が全く同じだと
されていますが(どうやって確認するのか私にはわからないのですが)、
両者は「全く別の物質」です。前者を移動させても、後者は移動しません。
「水分子A」と「水分子B」の物質的要素が仮に全く同じだとしても、
両者は「全く別の物質」です。前者が沸騰したとしても、後者は沸騰しません。
「人体A」と「人体B」の物質的要素が仮に全く同じだとしても、
両者は「全く別の物質」です。前者を殺しても、後者は死にません。
「自我A」と「自我B」の精神的要素が仮に全く同じだとしても、
両者は「全く別の私」です。互いに相手の感じていることなどわかりません。
以上は、「個物は抽象的・一般的・普遍的な何かの要素によって個物である
わけではない」という話であって、唯物論の是非とは全く関係ないのです。
「私」という言葉は、「結果的にこの体から発生した自我」のことであって、
他の意味は持ちません。ですから「私はなぜこの体であって他の体でなかったのか?」
という問いは、「富士山はなぜ日本の山であって他の国の山ではなかったのか?」
とか、「哲学者最高位はなぜ日本人であって他の国の人ではないのか?」
という問いと全く同様に、無意味なのです。これまた唯物論の是非とは全く
関係ありません。
唯物論の是非を調べたければ、「この体」と「私」の関係性を調べるしか
ありません。この体の水分子を別の水分子と入れ替えても影響はないでしょうが、
ある程度の数の水分子が「この体」から失われれば、「私」に非常に重大な
影響が及びます。さらに失われると、「私」の存在が不可逆的に失われることも
ある、と通常は考えられています。
「物質の側に『私』の存在を決定できる要素など、ありえないんです」などと
言えるはずもないことは、この一事をもってしても明白なのです。
353 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:07:32 0
どの脳にも「私」が生まれ、それぞれの脳で世界を認識して「私」が育って
いくだけだろ?
なぜ今の「私」が彼に宿っていないのかという馬鹿な疑問を最高位はするが
彼にも「私」がある。どの「私」の性質も同じで、ただ脳に入ってる情報が
違うだけ
354 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:12:46 0
>>352 >「物質の側に『私』の存在を決定できる要素など、ありえないんです」などと
>言えるはずもないことは、この一事をもってしても明白なのです。
話がずれてない?w
最高位は、物質の影響は皆無だという意味で言ってるんじゃないでしょww
355 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/25(月) 11:17:47 0
>>352 あれ?
私の精神は物理現象なのではないのですか?(笑
物理現象である ならば
どうやったら現象させる事ができるのですか? と聞いているんですよ
>「自我A」と「自我B」の精神的要素が仮に全く同じだとしても、
>両者は「全く別の私」です。互いに相手の感じていることなどわかりません。
当たり前でしょう(爆笑
しかし、そんな事を言っているんじゃないんですよ
それは
「他人」と「他人」は別人だ
という事しか言っていないわけで
『私』の存在理由には言及できていません
なんで、こんな事がわからんのか、理解に苦しみます
>「私」という言葉は、「結果的にこの体から発生した自我」のことであって、
私という言葉の話ではなく、私自身の話ですよ
>唯物論の是非を調べたければ、「この体」と「私」の関係性を調べるしか
>ありません。
いやいや
関係がある なんてのは、誰でもわかってるんですよ
そんな子供みたいな事を言っているようじゃ話になりません
私の正体
私の原因的要素の話です
それは、いかなる物理的要素によってもたらされているのか という具体的な話です
356 :
353:2007/06/25(月) 11:18:31 0
この「私」はどの脳にもある。
この意味が最高位にはわからんのだろうな
357 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:22:01 0
おれは小学校・中学校ではずっと一番でやってきた。
高校にあがってからは
一番になることにはすっかり飽きてしまって、勉強もほとんどしなくなった。
結果、定期テストではあまり冴えない成績(学年で10位とか)になったけれども
全国規模の実力テストなんかすると、いきなり学年トップになることがあった。
きめられた範囲でしか好成績をとれない凡人とは一味ちがうことが再確認されたわけだ。
ということで、おれは何をどうあがいても一番になる宿命である。
まわりにいるのはどうしよもない平凡人ばかりなのだ。
こいつらがいかに努力しても、おれの足元にも及ばない。
最初のうちは、それで優越感を感じて楽しい気分になるけれど
すぐに飽きてしまうのだ。それより
なんで、こいつらはこんなにバカなのかとイラつくようになる。
おれに比べれば大多数の人間は知的障害者のようなものだ。
おれはサルの群れにまぎれこんでしまったただ一人の人間だ。
358 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/25(月) 11:24:03 0
>>356 それぞれに『自我』があっても
それは『他人』なのであって、私であるわけがないだろ
大丈夫ですか??
359 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:31:36 0
既知外ほっとけ
361 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:35:17 0
いや、そこで止ってしまうのがお前の馬鹿なところ。
353をもう一度読み直せ。もう少し考えろ。
お前もう詰んだよ。
362 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:39:46 0
>>352 >同じ種類の「素粒子A」と「素粒子B」は物質的要素が全く同じだと
>されていますが(どうやって確認するのか私にはわからないのですが)、
>両者は「全く別の物質」です。
個物性を無視しないとそもそも実験って意味なくならないか?
東京でやった実験と大阪でやった実験が『全く別の物質』の実験
だとしたら二つの実験は『全く別の実験』になっちゃうからねぇww
363 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:40:23 0
>>355 現象させることの代わりに、消滅させるって考えるとわかりやすい。
物理的な操作で、消滅させることは可能。
364 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:41:20 0
>>362 全く別の物質だが、性質が同じというだけでしょう。問題ありません。
365 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:44:34 0
>>364 それじゃあ『全く別』の意味が全くわかりませんがww
366 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:47:22 0
367 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:48:59 0
座標っていうのはおかしいか。存在する場所が違うってことね。
368 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:49:46 0
>>366 同じ位置にもってくれば全く同じになるということ?
369 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:52:24 0
>>368 そうそう。同じ時間に同じ場所でね。まあ無理だけどな。
370 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:59:10 0
なるほどね。
最高位の
>という事は、代替が利くんだよ
>H2OはH2Oで、同じ性質だからね
>それが科学というもんだ
が正しそうだね。
371 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 11:59:15 0
場所や座標なんか関係ないだろ
372 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 12:05:34 0
>>370 代替がきくのはそうだろうな。同一のものといったら変だが。
373 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/25(月) 12:08:49 0
>>353 キミは問題そのものが、丸っきり理解できていないんだよ
『自我』や『自我意識』といいものは普遍性がある ようだ
しかし
その自我であるところの『この私』は、唯一絶対であって
100%純粋な特殊性 なんだよ
キミらは、自分が存在する事が、当たり前だと思っているでしょう
存在した という結果から出発すれば、まぁそりゃ当たり前なんだが
人間は知能が高いから、自分の原因 という事柄に思索をめぐらせる事ができる
ある程度、人間並みの知能を有する人は、原因的な事柄を考えるものなんですよ
結果的な事しかみえず、そこから原因について発想しない人は
ある意味、知能のレベルが動物に近いんでしょうね
まぁ、それでも生活には支障はきたしませんよ
だが、哲学のような人間特有の営みを理解するのは、不可能でしょうね
374 :
353:2007/06/25(月) 12:26:03 0
>キミは問題そのものが、丸っきり理解できていないんだよ
それで解決したつもりか?お前は353の内容を読んでも何も気が付かない
だけだ。373のお前の説明を読んでも何一つ新しい視点は無い。
お前は一度自分が「私」の問題について発見したときの見方に縛られてるな。
お前の最後のお決まりの煽りを読んでも哀れに思うだけだぞ?
>>354 無論、物質の側に私の「存在」を決定する要素があるかもしれない、という話です。
>>355 >物理現象である ならば
>どうやったら現象させる事ができるのですか? と聞いているんですよ
最高位氏、あなたが通常やっているように、その体に呼吸させたり飲食させたり
して生命を維持して意識を保つことによって現象させ続けることができるのです。
まことに簡単な話でありましょうw
「この私をもう一つ現象させる」話なら、すでに存在している個物(個現象w)を
もう一つ現象させることは、全知全能の神様でも不可能でありますw
「水分子A」でも「哲学者最高位という人体」でも「富士山」でも、同じことなのです。
>私の原因的要素の話です
>それは、いかなる物理的要素によってもたらされているのか という具体的な話です
それはまさしく抽象的・普遍的な話ではなく、非常に「具体的な話w」なのです。
それは、「哲学者最高位という人体」によってもたらされているわけです。
ちなみに、「哲学者最高位という人体」は個物なので、抽象的・普遍的な要素によって
「哲学者最高位という人体」なのではありません。まことに簡単な話ですねw
>>362 >個物性を無視しないとそもそも実験って意味なくならないか?
それは全く逆でして、個物性を無視してはそもそも実験や観察は成立しません。
たとえば「水は100℃で沸騰する」という命題を検証するには、「いくつかの水」
を用意する必要があります。
「水A」は50℃、「水B」は80℃、「水C」は100℃に熱して、その状態の
違いを観察する必要があるわけです。
無論「水A」「水B」「水C」が「同じ水という名前の別の物質」であることが
この実験の前提です。
素粒子を加速する実験でも同じことであって、「同一の素粒子」の速度が変化
したことを示さないと、加速したことになりません。同じ種類の「別の素粒子」
を観測したのでは、結果的に実験は失敗だった、ということになります。
同じ種類の「別の実験」を何回も繰り返して、「水は100℃で沸騰する」
とか「ある種の素粒子はある種の条件でどれだけ加速する」とかいう命題を
導きだすときに、初めて、対象であった水や素粒子や実験の「個物性を捨象する」
ことになるわけです。そうしないと、上のような一般的・普遍的な記述は不可能です。
(だからこそ、そういう普遍的記述についてはヒューム的な懐疑が常に
つきまとい、「本当に正しいと言えるのか」という疑問が有り得るわけです。)
377 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 12:36:48 O
自意識イドと心的願望リビドーは、同レベルで横軸、自我エゴと超自我スーパーエゴは同レベルで縦軸にあり、各点の結ぶ四角形の評価で総合判断される。
378 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 12:44:34 0
>>373 いかなる物理的要素も『私』の原因になりえないんだったら、
私の母親は、私の身体だけ産んだと言うことだな。
身体には『私』の原因になるような要素は全くなかったのだから、
やっぱ、私はその身体に宿ったんだとしか考えられんだろ。
霊魂の世界にいらっしゃい。
379 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 12:44:40 0
流 れ 速 い し 長 文 多 く て も う 読 ん で ら ん な い
380 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 12:52:05 0
>>373 最高位さん
「自我であるところの『この私』は、唯一絶対であって
100%純粋な特殊性」であることと、
「自分の原因」に考察を向けることとの繋がりがわかりません
教えてください
論破されてることに気付けない能力はある意味幸せだな。
最高位が羨ましい・・・・・
382 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 13:05:14 0
「100%純粋な存在性」から「100%純粋な特殊性」に代えたなww
383 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 13:18:31 0
あいつは自分の知能にそうとうコンプレックスを持っているんだな。
かわいそうに。
384 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/25(月) 13:18:46 0
>>374 ん?
>>353は、だいたい中学生ぐらいの発想だな
私も、そういうような事を考えていた
しかし私とキミの違いは
最後に「そうなのか?」というクエスチョンマークが、常に点灯していた という事だな
だってそうだろ
それじゃ『私』の存在性の根拠に、言及できていないだろ
>>375 >最高位氏、あなたが通常やっているように、その体に呼吸させたり飲食させたり
>して生命を維持して意識を保つことによって現象させ続けることができるのです。
>まことに簡単な話でありましょうw
原因 と言ってるのに
維持活動の話をしたりして、何考えてんでしょうね
>「この私をもう一つ現象させる」話なら、すでに存在している個物(個現象w)を
>もう一つ現象させることは、全知全能の神様でも不可能でありますw
じゃぁ、死んでから生き返らせる方法 でいいよ
それなら、もう一つ じゃないだろ(爆笑
あと
まだ『富士山』なんて言ってんのか?
今度子犬が産まれたら、名前を『富士山』にしようかと思うんだけどな
その後に、『富士山』が爆発して跡形も無くなったら
そしたら『富士山』は、どうなるんかね(爆笑
富士山は、ある地形の『状態』に対して人間が『価値観』によって便宜上で付けた名前にすぎないのであって
存在性ではない と、何度説明してあげたら理解できるのかねぇ・・・
385 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 13:30:08 0
>>363 つまり、物理的に現象しているものだから壊せるわけだ。
作ることが著しく困難とういだけで、物理的なものであることの証明になるね。
確かに脳がぶっ飛んだら思考も自我もありゃせんわな。
物理的なものであるのは間違いなかろう。
387 :
353:2007/06/25(月) 13:42:18 0
>そういうような事を考えていた
そのあと「?」ばかりで解決できなかった馬鹿がお前だろ?
まあいいや。おそらく前に聞いたのと同じだと思うけど
その?の内容を言ってみてくれ。
388 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 13:46:35 0
存在の定義にもよる。
389 :
考える名無しさん:2007/06/25(月) 13:56:02 0
>>384 >原因 と言ってるのに
>維持活動の話をしたりして、何考えてんでしょうね
最高位氏、「私の存在の維持」の「原因」についてお話しているのですぞ。
何の問題がありますのでw?
以前、何度も「私は現在この瞬間存在すればそれで十分なのだ」と繰り返して
おられたでしょう。「現在の私の存在の原因」とは、常識的にはすなわち
「発生した私が消滅せずに維持されている原因」なのですよ。
おわかりになりませんかw?
無論、発生時までさかのぼっても同じことであって、この私が発生した原因は、
まさに「この体」がつつがなく生まれたことでありましょう。もし「この体」
の首に臍の尾が巻き付いて窒息死していたら、あなたの『私』は存在しなかった、
というのが、常識的な理解なのです。
>今度子犬が産まれたら、名前を『富士山』にしようかと思うんだけどな
最高位氏、ご自分が
>>355で
>私という言葉の話ではなく、私自身の話ですよ
と言われたのを、お忘れですかw? 無論、「富士山という言葉ではなく、
富士山という言葉で指示される富士山自身の話」なのですw
同じでなくても単に似ているというだけで、「富士」と呼ばれている山は
現に数々ございます。榛名富士とか薩摩富士とか。力士の名前にも多いですね。
北の富士氏は元横綱で今は毒舌で鳴る名解説者であります。むろん、
これらの名前が指し示すのは間違っても「富士山」ではなく、全く別の
「個物」なのです。ちなみに、あなたの論法によればこれらはすべて唯名論で
存在性がないのですがw、しかし物理的要素で「作り出す」「現象させる」
ことは金輪際不可能であります。
(続き)
>富士山は、ある地形の『状態』に対して人間が『価値観』によって
>便宜上で付けた名前にすぎないのであって 存在性ではない
最高位氏、「存在性wであるかどうか」など、今は全く問題ではありません。
物理的要素によって「作り出す」「現象させる」ことができるかどうか、
だけが問題なのです。
そして、その地形の状態や肉の状態を寸分違わずに再現しても、
それらは「富士山のコピー」「北の富士のコピー」に過ぎず、決して
「富士山そのもの」「北の富士本人」ではありません。「それら自体」を
もう一つ作り出すことは、全知全能の神様でも不可能なのです。
>じゃぁ、死んでから生き返らせる方法 でいいよ
>それなら、もう一つ じゃないだろ(爆笑
最高位氏、この話も以前さんざんいたしましたでしょうw
一度死んだ人間を生き返らせることができるかどうか、とは、すなわち個物の
通時的同一性についてどう考えるか、ということであって、それは結局
解釈次第なのです。これは同一性一般についてある程度言えることですが、
通時的同一性は「存在するものと存在しないものの同一性」の話なので、解釈次第の
度がはるかに強い、と言わざるを得ません。(過去は、すでに存在しないので。)
(続き)
たとえば神様が刑死する寸前の吉田松蔭の肉体の状態を寸分違わず現在に再現した、と
いたします。唯物論が正しければ、吉田松蔭の精神も自我も寸分違わず再現されます。
こうしてできた「それ」自身は、主観的には間違いなく「自分は幕末に生きた
吉田松蔭である」と考え、「辞世の句も詠み終えて今まさに処刑されるところ
だったのに、一体何が起こったのだ!?」と途方に暮れることでしょう。
現代の日本の姿を見て彼がどう考えるか、彼の死後に日本がたどった歴史を聞いて
彼がどういう見解を持つか、聞いてみたいものです。
しかし、客観的に「それ」を見ている他人は、「吉田松蔭が生き返った」と
考えるか、「吉田松蔭はあくまでも死んだままで、これはコピーだ」と考えるか、
これは微妙であって、要するに解釈次第なのです。通常は、まさしく個物としての
肉体の通時的同一性の有無が問題となり、それは時空的連続性で判断するしか
ないため、同一性を認めず「コピーだ」とする見解の方が有力でありましょう。
こうして『私』の同一性についてすら、唯名論wで存在性がないはずの「肉体の
同一性」によって判断されるというのが実情なのであります。
(一応お断りしますと、もし現実に上のようなことが起こったら、事情を
知らない人々は「それ」は記憶喪失の狂人だとみなす可能性が高いですが。)
393 :
235:2007/06/25(月) 17:24:38 0
>>350 もっと理解力を上げような。「厳密」にはって書いてあるぞ?
存在理由? 物質があるからでいいだろ。
「私」は物質で出来ている脳(肉体)あってのものだと言ってるんだからな。
>>384 >じゃぁ、死んでから生き返らせる方法 でいいよ
>それなら、もう一つ じゃないだろ(爆笑
その自我であるところの『この私』は、唯一絶対であって
100%純粋な特殊性
…が死ぬとはどういう事を指すのでしょう?
意味不明ですね。
「死ぬ」とは一般的な人間に起こる事だと思いますが?
『私』が他人と同じように死に得る存在であるならば、
特別な絶対的な存在ではありませんよねw
最高位理論だと、他人は物理的に生き返らせる事も
複製する事も可能www
他人は一般性だからな
397 :
ネコの味方:2007/06/26(火) 00:29:29 0
最高位と感嘆子の論争には入らないのがマナーなので、別の質問をします。
感嘆子の粘り強い書き込みを酔頭で読むのは大変ですが、氏は“生命”につき
少し触れています。「身体は個物だが【私】を包括する生命はありふれている」
ということでしょうか。
それに対して最高位は、こう切り返しています。「生命は一般的だが、そこに
顕現する【私】は唯一無二である」
この議論は延々とやっていただくとしてw、私がお聴きしたいのは“生命”は
いかなる原因によって、どのような経路を経て現出したのか。もし定説があれば、
どなたでも結構ですので、教えてください。
返答を期待するよりググッた方がいいと思うが。
399 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 00:48:22 0
>>397 教えて君じゃいつまでも真理に近づけんよw
400 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 01:22:15 0
地球の生命は、無から生まれた、というのが定説。
生命は、地球の「原初のスープ」から化学的に生まれた。
パスツールの実験と違って、十分な時間と雷や宇宙線のエネルギーがあれば、
無機物から有機物ができるのだという。この定説を「化学進化説」と呼ぶ。
ほぼコピペ。やれやれ。
401 :
ネコの味方:2007/06/26(火) 01:23:07 0
>>398 多少はググったけれども、ここの識者たちwの意見を聴いてみたいだけ。
>>399 ほぅ、君はどうやって単独で(教えてもらわずに)真理wに近づいたの?
とにかく教える気がないのなら、無視して鎮まっとれや。
402 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/26(火) 01:29:23 0
>>347 :314
>客観的真理というのは、人によって違うわけだ。
だから客観的真理などと言うものは無いと言っているでしょ。
>君における「客観」とは、属人的なものなんだ。
属人的???
主観に対する客観です。
>そのことと今の議論に何か関係があるの?
客観的真理を認めると 「私の存在性」は真理として自然界に存在する、その真理を求めるのが科学だ哲学だとか言う話になる。
そのことを否定したわけです。
>>401 398だが、草生やす態度で人にものを尋ねて恥ずかしくないのか。
最悪だなマジで。最高位とは別の意味で駄目だわ。
最高位は肉体が消滅したら思考も何もできないことが怖いのか
405 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/26(火) 02:38:14 0
>>390 維持 というのは、すでに存在しているから維持なんだろ
そもそもの存在原因の話だと言ってるんだよ
知能が低いなぁ
いい加減に気づけよ
あと
北の富士って誰?
北の海じゃないのか?
それとも千代の富士?
いずれにせよ
富士山は、私による価値観なのであって観念だよ
富士山に転がっている石ころは、富士山の一部なのであって
それを含めて富士山だと言えるわけだが
その石ころを持ち上げた瞬間
その石ころは、富士山の一部ではなくなり、単なる石ころになる
『富士山』などというものは、コレだと決まっていないのであり
状態に対して『私』が、そう呼んでいるにすぎない存在であり
『私』とは完全に異質なものなんだよ
いい加減に、理解できろよ
406 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/26(火) 02:39:07 0
>>393 >存在理由? 物質があるからでいいだろ。
>「私」は物質で出来ている脳(肉体)あってのものだと言ってるんだからな。
ホントに知能が低いな
じゃぁ他人は物質ではないのかい?(爆笑
>>394 へぇ!
『私』は死なないのですか(爆笑
>>395 なんで?
それ何ていう宗教?
>>396 あれ?
他人も、それぞれの『私』だと、理解できたんじゃなかったのか?
また逆戻り?
ホントに知能が低いなぁキミ達は・・・
レスアンカだらけ
最高位はかまってちゃんの骨頂だな
まあただの馬鹿だが
まあ荒らしとして削除依頼をコテハンで出すわ
どうみても煽り荒し
409 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 05:57:29 0
>>じゃぁ他人は物質ではないのかい?
他人も物質、自分も物質。それぞれ脳に「私」があり、それぞれの脳が
同じ点で特別を主張する。私だけが独自なものではない。
なぜ「私」が彼に宿らなかったのか?いや、彼にも一人称の「私」がある。
彼も彼の主観性で世界を見ている。私だけが特別なのではない。
よって「私」の存在性などというものは存在しない。存在しないものの
根拠はもちろんない。
最高位 価値観って何だよ
言葉を間違えてないか
富士山が私の価値観w
411 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 06:04:45 0
無いものの根拠を物理的要素で示せと爆笑クン(以後この呼び方で統一しないか?)
は言っているのだというのが↑の主張です。
というか一人で爆笑はできないよ。
別のスレでも言ったけど、大勢が一斉に笑わないと爆笑にならない。
最高位は沢山いるのかもしれないけどね。
最高位は日本語が不得意か、沢山いるかのどっちか。
413 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 06:26:12 0
ていうか、そもそも笑ってないけど煽りのため(自覚してないだろいうが)
に爆笑と書いているだけなんだろうな。こいつのことを最高位なんて
呼びたくないから別のあだ名を考えたい。爆笑君でも別にいいが。
実はよくできたスクリプトだったりして
415 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 09:23:04 0
>>403
人間としてどっちがダメかしらぬが、このスレにとってはキミなんかよりも最高位のほうがずっと価値がある。
キミはいてもいなくて同じだけど、最高位が消えれば数人は淋しがるだろう。
バカかもしれぬが、ネコの味方クンだってキミよりはマシ。
オノレの存在価値のなさに気づかないキミのような頓珍漢を恥しらずといいます。
417 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 09:59:46 0
>>376 >「水A」は50℃、「水B」は80℃、「水C」は100℃に熱して、その状態の
>違いを観察する必要があるわけです。
>無論「水A」「水B」「水C」が「同じ水という名前の別の物質」であることが
>この実験の前提です。
50℃の水と80℃の水が違うのはあたりまえじゃないかww
そういう話をしてるんじゃないの。
おととい渋谷区円山町10-3の浴槽にあった50℃の水と、
きのう道玄坂二丁目22-1の浴槽にあった50℃の水を、
同じ50℃の水と見なして実験するのが科学だっていってるのw
個物っていうのは、「いま」「ここ」にある語りえないものだよ。
記号と符号と数字っていう普遍を使って、科学がそういう個物を
扱かおうとしているとは思えないがw
君が言ってる「個物」は個物といっても、
かなり普遍的なものなんだろうなww
418 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 10:04:14 0
水じゃなくてお湯だけどね hot water w
自分より優れたやつを見ると
賞賛するのではなくて
ただヒガンデやっかんで
ひたすらケチをつけたがるような
卑しいやつが
2chには多いよなあ
>>419 アンチ最高位のこと?
最高位が優れてるとは思わんが、
相手のほとんどが馬鹿すぎる…
逆だろw
422 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 11:19:57 0
>>417 >個物っていうのは、「いま」「ここ」にある語りえないものだよ
なぜそう主張できるんだよ
423 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 11:29:00 0
>>422 語り得るものは、共通性があるから語り得るんじゃないの?
それが普遍というものだ。
俺が言ってるのは個と普遍の「個」のことだが
君らにはわからんかもしれんw
424 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 11:29:37 0
最近思うんだが
最高位って「プロ固定」じゃないの?
425 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 11:30:14 0
>>423 なに言ってんだよ
わかるように説明しみろよ
426 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 11:32:38 0
プロ固定ってなに?
427 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 11:37:45 0
>>426 2ちゃんのアクセス数を増やすために、ひろゆき氏に雇われて多くのレスが付くように煽りやネタを書き込み、その成果に応じて報酬を貰っているプロがいるとの噂
428 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 11:40:18 0
トン!そんなのいるのか!!多くのレスが付くと2chが儲かるってこと?
それとも〇消費upが目的?
429 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 11:44:37 0
いずれにせよ、それが実在するなら爆笑君はプロ固定じゃないかと俺も思う。
>>417 >個物っていうのは、「いま」「ここ」にある語りえないものだよ。
そんなことはないでしょうw
日常言語によって語られるのはほとんど個物であります。
「お前風呂の火消して来たか」「ちょっとそこの書類を取ってくれ」
「このパンを食ったのは誰だ」「俺です」
ここにおける「お前」「風呂の火」「そこの書類」「このパン」「俺」
などの言葉で語られているのは、まぎれもない個物にほかなりません。
「富士山」や「哲学者最高位」などの「固有名詞」が個物を語るものであることは
言うまでもありません。
家庭生活であれ会社の仕事であれ、個物の特定は非常に重大です。
裁判などにおいては、「このナイフは本当に現場に落ちていたそのナイフなのか」
「被害者が飲んだそのコップに毒が入っていたのは確実なのか」
「現場で誰々に目撃されたのは、本当に被告人本人なのか」等々、
まさに個物の特定によって人間の運命が決まってしまうことも少なくありません。
学問言語であっても、歴史学などは個物の個物性をそのまま扱います。
(だから、「普遍的な法則も導き出せないものが、本当に科学と言えるのか?」
という疑問がつきまとうわけですが。)
>おととい渋谷区円山町10-3の浴槽にあった50℃の水と、
>きのう道玄坂二丁目22-1の浴槽にあった50℃の水を、
>同じ50℃の水と見なして実験するのが科学だっていってるのw
「同じ水」とみなして実験するのではありません。あくまでも
「同じ水という記号で表現でき、同じ水という性質を持った別個の個物」として
実験するのです。もちろん実験そのものが「同じ本質を持った別の実験」です。
そうでないと、「追験」になりません。科学の実験というのは、一回的な
出来事としての歴史の一部です。
(続き)
そのような「別個独立の実験」を繰りした結果として、別個の個物でも、同じ
「H2O」という記号で表現でき、同じ「水」という性質を持つ物質である限りは、
一定の条件で沸騰する、というような普遍的命題が導き出されるわけです。
その段階で、初めて「個物性」が捨象されるのです。
まさに、個物や個別の現象に関する観察と経験と実験の集積から、
記号と符号と数字という普遍を使って普遍的な命題を導き出すのが
科学でしょう。だから、当然そこにはある種の「飛躍」があることは否定でき
ないわけです。「帰納に根拠はあるのかないのか」という大問題です。
「すべての人間は死ぬ」という命題も、要するに従来「人間」と呼ばれる
個物で死ななかった例が観察されていない、というだけなので、私は死なないかも
しれないしw、ある時期を境に人間はみな不死になるかもしれません。
現実には、日々人々が死んで行くことによって、上の命題は絶えず「追験」
されて、より実際的な説得力を増して行くわけです。
その意味では、「私は物理現象かどうか」という問いも、答えが一律でなければ
ならない根拠はどこにもありません。たとえば最高位氏の私は物理現象だが私の私は
そうではない、とか(その逆とか)、昨日までの私は物理現象だったが
今日からはそうではない、とか(その逆とか)、という事態だとて、
有り得ないとは言えません。そもそも、全く別個の個物、全く別個の存在、全く
別個の現象を、共通の性質・共通の要素に着目して「私」「自我」「人間」「生命」
等の記号で記述しているだけなのですから(というか、本当は他人の私など存在を
確認する方法さえないのですから)、そのすべてが本質を同じくしなければならない、
という保証など、どこにもないのです。
432 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 12:22:54 0
>>430 >ここにおける「お前」「風呂の火」「そこの書類」「このパン」「俺」
>などの言葉で語られているのは、まぎれもない個物にほかなりません。
だから君が言っている「個物」は個と普遍の「個」ではないのさ。
普遍的なものだね。
個と普遍の「個」は風呂とかパンとかっていう普遍概念に
分類されるものじゃないのさ。分類されるならそれは普遍。
他との共通性をもたないのが個。
個を見ているつもりで普遍を見ているということだろうねw
>科学の実験というのは、一回的な
>出来事としての歴史の一部です。
どうも辻褄が合わないなw
共通性があるから実験が普遍性をもつんであって、
共通性がない一回的な出来事だったら実験の意味が
ないって言ってるのだが、意味がわからないかな…
>そのような「別個独立の実験」を繰りした結果として、別個の個物でも、同じ
>「H2O」という記号で表現でき
「個」をいくら観察してもその結果H2Oなんてでてこないよ。
H2Oは水のイデアw または約束事みたいなこと
>そもそも、全く別個の個物、全く別個の存在、全く
>別個の現象を、共通の性質・共通の要素に着目して「私」「自我」「人間」「生命」
>等の記号で記述しているだけなのですから
共通の性質に着目した時点で普遍になってるのがわかりませんかw
433 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 12:49:45 0
まぁ個を見ているつもりで普遍を見てるっていうのは
君に限ったことじゃない。たいていはそうだよ。
個の一回性を見ようとしてる人の例として
芸術家を考えて見ればいいかも。
写真家とか俳人とかは、一期一会の一回性を見てるよね。
それと比べれば科学がいかに普遍を扱ってるのはわかるだろ。
434 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 13:09:00 0
>>433 >個物っていうのは、「いま」「ここ」にある語りえないものだよ
なぜそう主張できるのかな。説明してね
435 :
ネコの味方:2007/06/26(火) 13:16:55 0
>>432 あなたの言う“個”と感嘆子の“個”の意味がかなり、というか根底的に
違っているようです。
たとえば、私の眼前にコップがある。感嘆子はそれを個物と呼んでいる。
感嘆子は「世界は個物の連鎖であり、その集大成」とみているようです。
それに対して、コップはそう名指された瞬間に“普遍性”を帯びてしまう、
というのがあなたの意見でしょう? 換言すれば、あなたの『個』とは名指
される前の(前言語的)な“裸形の存在”ということになるのでしょうか。
同じ水なら何でも同じってのは分かるが、二つのコップがあればそれぞれに入っている水はやっぱ違うわけで。
料理屋で出された連れの分の水を横取りして飲んだら変なのと同じなんじゃね。
おいおい自分の目の前のを飲めよってつっこまれるだろう。
水だから何でも同じって言ったらそれが当たり前になる。
437 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 14:20:04 0
>>435 彼(彼女)も個と普遍を対立させて使ってるからね。
個と普遍を対立させるんなら、彼が言う個物は
普遍だよと俺は言ってるのw
彼は科学は個物を扱うと言うが、科学が個物を
扱ってないのは、芸術を考えればわかるだろとw
>それに対して、コップはそう名指された瞬間に“普遍性”を帯びてしまう、
>というのがあなたの意見でしょう?
そうでもない。
俳人の例を挙げたじゃない。
よくみれば なづな花さく 垣ねかな
一期一会の個物との出会いだねw
438 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 14:34:54 0
>>8 こら在日
どさくさまぎれに
ハゲハゲと
2chで書き込んでるだろ
在日
ハゲにたかる商売は
ほとんどすべて
在日企業である
最近の代表的なものは
リーブ21で
CMに出てるババアも在日タレントである
ちなみに
この2チョンネルも
在日が運営している
>>432 恐らく言葉の意味が違うだけで、言っていることは同じであるように思えますが。
手元にこれしかなかったのでw新明解国語辞典を引くと
【個物】〔哲学で〕感覚で認識される、一つひとつの対象。⇔普遍
【普遍】〔哲学で〕ある範囲のすべての物に共通する性質。⇔個物
とあります。言葉として対義語だからといって、両者は別段相矛盾するわけでも
相容れないわけでもなく、複数の個物が共通の普遍的性質を持っている、という
のが常識的理解ではないでしょうか(その共通性や普遍性が対象の側に
存在するのか、主観の側あるいは言葉の上だけで存在するのか、の考え方の
対立はあるでしょうが)。共通の性質や普遍性を持つからといって、個物が個物で
なくなる理由がどこにあるのか、わかりかねます。
>個と普遍の「個」は風呂とかパンとかっていう普遍概念に
>分類されるものじゃないのさ。分類されるならそれは普遍。
これも同じことであって、およそ言語というのは、「これ、それ、私、あなた」
等の指示代名詞と「富士山」「哲学者最高位」等の固有名詞以外は、すべて
普遍的な性質・普遍概念を表わすものです。普遍概念で記述したり分類される
からといって、個物が個物でなくなる理由はないでしょう。
ただし、普遍概念による記述だけで個物を特定する(記述し切る?)ことは
できないので、指示代名詞か固有名詞、要するに他の個物との関係性の記述が
ないと、個物を特定することはできないとは思います。「全く同じ普遍的な
性質を持った他の個物」は、原理的には幾つでも存在し得るからです。
(続き)
>>433 >それと比べれば科学がいかに普遍を扱ってるのはわかるだろ。
科学は普遍を扱うというより普遍を目標にするのであって、その検証のために
扱うのはあくまでも個物だと思います。というか、科学の根拠は経験であって、
直接経験できるのは(新明解の言うとおりw)個物だけではないでしょうか。
個物から普遍を導き、個物によって普遍を再検証するのです。
普遍を直接取り扱うのは、数学か論理学(両方とも私はよくわからないので
違うかもしれませんが)だけではないかと思われます。物理学であれ何であれ、
経験科学が普遍を直接取り扱うわけにはいかないでしょう。
あるいは、「芸術は個物を他との関係性抜きで、それ自体として取り扱うが、
科学は個物を他との関係性によって、普遍的な文脈でのみ取り扱う」という
意味でしょうか。
あるいは、「実験や観察を行う際には、すでに言語的な了解、すなわちある種の
普遍性が先取りされていなければならない」というのが趣旨でしょうか。
それなら、別段何の異論もありません。
「ある種の普遍が存在するという前提的な了解がなければ、そもそも実験も
観察もできない」という意味なら、これもその通りだと思います。
441 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 15:02:44 0
>>439 >共通の性質や普遍性を持つからといって、個物が個物で
>なくなる理由がどこにあるのか、わかりかねます。
君は水の実験をするにはいくつか全く別の水を
用意する必要があると書いてたね。でそれが「個物性」だと。
違うと思うなぁ。科学はこのものをこのものとして扱う
んじゃなくて、一般者の代表として扱うんだよ。
君の言う「個物性」がどういうことなのか
俺にはほとんど意味不明だね。
>個物から普遍を導き、個物によって普遍を再検証するのです。
だから個物を個物としていくら見つめても
H2O(符号と数字の約束事)は導かれないってw
>あるいは、「芸術は個物を他との関係性抜きで、それ自体として取り扱うが、
>科学は個物を他との関係性によって、普遍的な文脈でのみ取り扱う」という
>意味でしょうか。
まぁそんな意味だね。
なにより君の考える「個物性」が意味不明ww
個物性って端的に物質同士が重なり合わないことからきてるんじゃ?
だとしたら全ては個物でそのことが普遍なのは道理だと思うけど……。
>>442 >全ては個物でそのことが普遍なのは道理だと思うけど……。
個物が先か普遍が先かは哲学の主要テーマの一つだ。
ここは哲学板なんだから・・・
444 :
ネコの味方:2007/06/26(火) 15:58:39 0
>>437 その句は初めから終わりまで、あなたの言う普遍的(一般的、共通的)言葉
によって表現されています。にもかかわらず、全体として個物性(一期一会)
を感じさせるのはなぜ? 語りえぬはずの“一期一会性”を表出し、そのうえ
読み手をしてそれを追体験させ、共有化させる。これは、あなたの論旨から
みれば“奇跡”ということになりますね? 作者が偉大だから?w
445 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 16:09:39 0
そろそろスコトゥスによる脱構築ですよw
446 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 16:10:21 0
早く働けよwwwwww
447 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 16:30:31 0
じゃあヒントw
haecceitas、存在の一義性
>>423 言ってる事に共通性がないんだったら、
そりゃ判るはずないわなw
>>423はさ、自分が使ってるような普遍と個の用法の出典を示せばいいんでないの?
>>406 >へぇ!
>『私』は死なないのですか(爆笑
日本語が不自由な方でしょうか?
「『私』は死なない」とはどこにも書いてありませんが?
それ以前に、あなたの言う「『私』が死ぬ」という事が
意味不明だと言っているのですが、
理解出来る知能は持ち合わせていないのですか?
もし理解出来るのであれば、
「『私』が死ぬ」とはどういう事態を言ってるのか説明願います。
「人が死ぬ」というような一般的な意味とは当然異なる意味ですよね?
>>406 >他人も、それぞれの『私』だと、理解できたんじゃなかったのか?
他人も『私』なんですか?
以前、
「それは他人であって『私』ではない」
と言ってませんでした?
一貫性のない人ですね。
452 :
235:2007/06/26(火) 18:41:34 0
>>406 ん……? よく分からんが、一体いつ誰が他人は物質でない(何か日本語変だぞ)
って言ったんだ? 意味不明なんだが、大丈夫か?
曲解してるのか誤解してるのか、どっちにしてももうダメポだろ……。
453 :
考える名無しさん:2007/06/26(火) 18:59:57 0
最高位は今度から爆笑くんと呼んであげてください。
454 :
302:2007/06/26(火) 19:00:39 0
>>402 すまん、314 はウソだった。ステハン着け間違い。
>だから客観的真理などと言うものは無いと言っているでしょ。
とういうことは、
>いいえちがう。
>「なぜと問うことが既に客観的真理を前提としている。」は正しい。
とあわせて考えると、「なぜ問うことは無いものの存在を前提としている」と君は主張しているわけ?
さらに、
>>・・・・十分正しい答え・・・・・・・・
>
>それが客観的真理そのもの。
は、どういう意味なの?
十分正しい答えさえも、無い、と君は主張しているの?
>客観的真理を認めると 「私の存在性」は真理として自然界に存在する、
「私の存在性」ってどういうことですか?
455 :
素人:2007/06/26(火) 19:37:17 0
う〜ん・・・
今の流れも、私はほぼ感嘆子派だな・・・
なぜだろう・・・w
456 :
ネコの味方:2007/06/26(火) 22:35:07 0
>>455 まぁ、あなたが感嘆子派であるのは当然wとして、このスレは素人さんの
「普遍」との発言に対して私が得意の言いがかりをつけることから始まり
ました。
で、普遍の意味がわかりましたか。もう一つ、理解できません。たとえば、
ある言明に普遍性があるとされる場合、それは客観的真理とどこが違うの?
それはともかく“個物”については、感嘆子の説明のほうがわかりやすいよね。
>>437 の“個物性”は、例の「モノじたい」のニュアンスを感じるのだけど?
これは、位相が違うでしょう?
また、何か述べて。いちゃもんをつけますので。w
457 :
素人:2007/06/26(火) 23:20:13 0
>>456 どう当然なんだか・・・w
基本的な所は、上のまとめだからなぁ・・・。
あとは、
≪「共通要素」を基準として括った時の枠(或いは枠内)が普遍≫
という感じかな・・・。
>それは客観的真理とどこが違うの?
真理かどうかは知らないが、(少なくとも反例がない場合は)「その括りは妥当である」と見做せるのでは?
共通要素の採り方で、グループのメンバー構成は変わってくる。
(勿論、裏を返して言えば、貴方の嫌いなw“捨象”の仕方に依るとも言えるw)
リンゴ的なものを、なぜ、我々は「同じリンゴ」として受けとめ得るのか?
(注:言葉・名称の問題にすり替えないようにw)
幼稚園児が、都度都度指導されながら、サッカーをしている。
世界レベルのちゃんとした試合からしたら、「そんなものはサッカーじゃない」と言うことは可能だ。
が、同時に、ある程度のルール等に則って行われているゲームなので、
サッカーという枠組みで括ることも又可能だ。
モンゴル相撲を「相撲じゃない」と括ることもできるし、相撲というカテゴリーで括ることもできる。
ピント・焦点をどこに合わせるか?ぼかしてもいい部分はどこか?
こうした行為が行われた時に、普遍は出現する。
生命>動物>人間>日本人>男性>神奈川県在住>年齢>・・・・・>素人
個別性の捨象(及びその度合い)が普遍へと向かうベクトルではあるが、
逆向きに、個別性をとことんまで拾い上げた先にもまた、普遍は出現する・・・w
458 :
ネコの味方:2007/06/26(火) 23:53:16 0
>>457 なるほど。少し、わかりました。
結局、ここでの対立は「言葉の問題」すなわち定義や意味をめぐって
なされることが多いですよね。
本日は、これで失礼します。
459 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 01:05:40 0
ヒント:『判断力批判』共通感覚
460 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/27(水) 01:09:40 0
>>454 :302:
>「なぜ問うことは無いものの存在を前提としている」と君は主張しているわけ?
何故鳥が空を飛ぶか・・・それは飛びたい欲求があるから・・・何故欲求するかと問えばそれは本能だから。
かくして「何故」と言う問いかけが「鳥には飛行の本能がある」と言う客観的真理に到達する。
私は鳥の本能などの存在を否定している。
私は「何故」とは問いかけない、鳥が空を飛ぶのに理由は無いからである。
人間の主観で「飛びたがっている」と想像しているだけである。
>十分正しい答えさえも、無い、と君は主張しているの?
人は「何故?」と問うときにある程度の(生存の為の最小限)の知識だけでは満足できなくて客観的真理なるものを求めていると私は考えるからです。
たとえば「何故人は存在するのか?」などというときは、存在の客観的真理を求めているのは明らかでしょう。
存在に理由など無くても人は生きてゆけます。
最小限生きる為には理由など必要ないからです。
それを最小限でなく十分な理由を欲しがること、それが「私の存在の真理」を求めることでしょう。
私は「人は最小限で生きなければならない。」
「存在の客観的真理は無い。」
「私の存在性については記述できないし、しようとしてはならない。」
と言っています。
461 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 01:23:49 O
誰がピントを合わせると普遍が出現するって?
462 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 01:29:29 O
理想から現実を評価判断し、そして否定すること。
くだらねー。
463 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/06/27(水) 01:59:23 0
差別性(分け比べる)を超えて個々の違いを観察すること
これこそ普遍なのでは。
464 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/27(水) 02:58:11 0
>>450 私は、長く生きても
おそらく100歳前後で死ぬと思いますが?
多分、幼稚園ぐらいになると理解できると思うんですが
意味がわからないと言われましても、困りますねぇ・・・
>>451 他人も自身の事を私と言う
だが
もちろん私とは別人だ
↑ ↑ ↑
この文章の意味がわかりませんか??(爆笑
マジで、わからんのですか???
>>452 話の流れを整理してみてよ
理解できると思うよ?
私の存在理由は、物質でできてるから
とか言うんだよね?
でも他人も物質でできているんじゃないの?
だったら、なんで他人じゃなく私だったのか の理由にすらならないじゃんか
という事だよ
なんでこんな事が理解できんの???
ちょっと知能が低すぎるんじゃないか?
少しは反省して、自覚してくれ
465 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/27(水) 03:17:26 0
>>409 >彼も彼の主観性で世界を見ている。私だけが特別なのではない。
>よって「私」の存在性などというものは存在しない。
なぜ「よって」なのか
文章的つながりがない
論理的にメチャクチャだ
病的だな
しかも、当然の事ながら
デカルトすら理解できていないしね
ホント、マジで病院に行った方がいいですよ
466 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/27(水) 03:41:06 0
キミ達の多くは
二つのコップに入っている水は、それぞれに独立した別の個物だと思っているようだね
しかし、それは人間の、いい加減な認識による価値観なんだよ
一つのコップをミクロの世界で分析してみると
その中の水は、常に水蒸気となって空気と混ざり合い
どこからが水で、どこからが空気なのか
ハッキリとは線引きできない状態になっているんだよ
物理世界は、境目なく常に混ざり合っているんだな
んで、夏場なんかだとコップの水は数時間で蒸発してなくなってしまう
隣接した二個のコップの水は、実際には空気中で混ざり合っちゃってるんだな(笑
「コレが、このコップの水だ!」 なんて思ってるのは、単なるイデアなんだよ
「コレ!」 なんて言っても、蒸発して行っちゃってるのにね(爆笑
個物だと思って線引きできるのは
人間の目が、いい加減だからだよ
もしミクロの世界まで正確に見えるんだったら「コレ」と特定しようとしても
「うわぁ! どんどん蒸発して行ってしまって、逆に空気も混ざってきて、何が何だかわからないや!」ってなるだろうよ(笑
467 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 03:53:52 0
>>爆笑くん
>なぜ「よって」なのか
>文章的つながりがない
>論理的にメチャクチャだ
>病的だな
>しかも、当然の事ながら
>デカルトすら理解できていないしね
お前はほんとに自分の都合のいい解釈しかできないんだなw
お前には理解できんさww
一生自分の問いによがって死ねw
468 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 04:04:24 0
最高位に質問!
犬は主観性をを持っているのですか。
赤ん坊は主観性を持っているのですか。
>>466 お前みたいな糞バカは見た事が無いよwよく考えろよ、
な。お前は「この体にこの私。あの体にこの私ではな
い」とテメエで言っている。ところがお前のその理屈だ
と、この体もあの体も線引き出来ない事になる。そうな
ると、この体にこの私とも言えなくなる。
この体もあの体も無いし、全部私ってことになって、お前の
論理は矛盾だらけで全て崩壊。死ねよ低脳。
お前は頭の弱いゴキブリなんだから、糞でも食って大人しく
してろボケwお前の理屈は穴だらけのゴミ理屈。
470 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 04:05:47 0
下品この上ない人間だな、爆笑くん
471 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 04:06:38 0
最高位にデカルトを理解することは無理だろうね。
472 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/27(水) 04:07:55 0
>>467 >病的くん
文章的つながりを説明してみろや(爆笑
>>468 残念ながら、それはわかりません
473 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 04:11:35 0
>>472 >残念ながら、それはわかりません
成人の人間についてはわかるのですか。
474 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/27(水) 04:18:45 0
>>469 言うまでもなく「この体」はイデアだよ
便宜上で、そう呼んでいるだけだ バカ(笑
だから物体であるところの「この体」と「私」は根本的に異質なものである
という事も言えるわけだ
もうちょっと頭使えや(爆笑
>>470 下品て、言うまでもなく
>>469←コイツの事だよな?(笑
>>473 わかるのは
少なくとも私は、私という主観性そのものな存在性である という事です
哲学最高というコテの人は哲学を始めたばかりの厨房で
しょ。思いつきだけで書いているようだけど落ち着いて。
476 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/27(水) 04:23:09 0
>>475 キミたちは、私の思いつきにすら
病的な反論しかできてないじゃないか(爆笑
もう少し、まともなこと言ってもらえませんか
477 :
473:2007/06/27(水) 04:23:37 0
最高位は自分の考えを正しく主張するということよりも
自分の考えを他人に押し付けることに精力を向けているように思える。
478 :
473:2007/06/27(水) 04:29:20 0
最高位の言う『私』というものが何を意味しているのかいまだにわからん。
きのうの私は『私』なのか?
479 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 04:32:58 0
最高位の主張ってつまりは私の発生原因がよく分からんってことだろ?
よく分からんものなんて世にいくらでもあるし、なにも言ってないのと同じじゃね?
実際、馬鹿っぽいところしか証明できてないし。よく分からんなんて幼児でも言えますよと。
あと煽ってばっかだし、精神疾患でもあるんじゃないの?端から見て異常。
480 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 04:35:12 0
最高位は最高位の主観の中にしか存在しない。
したがって
だまってろ。
481 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/27(水) 04:38:49 0
>>478 >きのうの私は『私』なのか?
さぁね
>最高位の言う『私』というものが何を意味しているのかいまだにわからん。
うむ
現代哲学の最先端だからね
過去の哲学の範疇では、理解する事は不可能
出来る限りわかりやすく説明しているつもりだが、簡単には理解できないかも知れない
まぁ最低限、理解しようと必死で努力しないと、無理だろうね
482 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 04:43:12 0
>現代哲学の最先端だからね
>過去の哲学の範疇では、理解する事は不可能
キモいやつだな、おまえは
ぴかぁが最近の哲学板はレベルが低いって嘆いてたけど
おまえの頭の悪さはすげえな
483 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/27(水) 04:44:02 0
>>479 よくわからん じゃなくて
少なくとも、物理的要素にはありえない だね
あまりにも読解力がなさすぎるから
正直に「普通に読解力をつけてから来て下さい」と言っているだけだよ
キミ達にこそ、冷静になってもらいたいんだがね
>>480 オマエモナー (爆笑
484 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 04:46:34 0
>>465 >しかも、当然の事ながら
>デカルトすら理解できていないしね
おまえのデカルト理解を教えてみろよ
485 :
473:2007/06/27(水) 04:47:05 0
>>481 あなたは現代哲学の最先端を突っ走っている人なのですね。すばらしい。
私がフェルマーの最終定理を理解できないようにあなたの言うことも
私には理解できないと思います。
しかし、アンドリュー・ワイルズは世間で有名なのにあなたは世間で有名でないのは
なぜでしょうね。
486 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 04:48:30 0
生まれる前を思いだすのじゃ(禅語)
これ、豆知識な
>>483 だってありえないことを他人が分かるように証明できてないでしょ?
そうだからそうなんだってことしか言ってないし、それはよく分かってないんだよ。
よく分からんものをよく分からんまま他人に聞いて爆笑ってやっぱおかしいよ。
普通はよく分からんものを分かる方向に向かわせるもので、他人にも分かるように説明できてから話すもの。
うまく整理できてないのに他人に聞くって子供の学習方法そっくりなんだけど……。
ちょっと否定されてもすぐに罵倒を繰り返すでしょ?
やっぱり少し変な兆候でてるよ。2ちゃんだからってその態度は異様にうつる。
488 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 04:59:26 0
>>460 >しかし、それは人間の、いい加減な認識による価値観なんだよ
>「コレが、このコップの水だ!」 なんて思ってるのは、
>単なるイデアなんだよ
おまえ、この「価値観」とか「イデア」とか、意味分かって使ってんのか?
言葉の使い方からしておかしいぞ?
>>481 >現代哲学の最先端だからね
>過去の哲学の範疇では、理解する事は不可能
当たり前だろう。おまえの哲学を理解したやつは誰だよ?
しかしこのスレ初めてきたけど、すげえコテがいるんだな
大真面目で書き込んでるんだとしたら基地外としか思えん
489 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 05:29:59 0
>>2ちゃんだからってその態度は異様にうつる。
たぶん精神疾患かと。
>>464 >私は、長く生きても
>おそらく100歳前後で死ぬと思いますが?
>多分、幼稚園ぐらいになると理解できると思うんですが
>意味がわからないと言われましても、困りますねぇ・・・
やはり、日本語が不自由な方でしたか。
最先端哲学での「『私』〜唯一絶対であって100%純粋な特殊性〜が死ぬ」
というのは幼稚園児レベルの思いつきという事だったのですね。
ところで、100歳前後の私というのは『私』なんでしょうか?w
>>464 >私の存在理由は、物質でできてるから
>とか言うんだよね?
>でも他人も物質でできているんじゃないの?
>だったら、なんで他人じゃなく私だったのか の理由にすらならないじゃんか
>という事だよ
>なんでこんな事が理解できんの???
>ちょっと知能が低すぎるんじゃないか?
私の存在理由は、主観性とか言うんだよね?
でも他人にも主観性があるんじゃないの?
だったら、なんで他人じゃなく私だったのか の理由にすらならないじゃんか
という事だよ
なんでこんな事が理解できんの???
ちょっと知能が低すぎるんじゃないか?
492 :
ばあさん ◆eK.vmLC6rg :2007/06/27(水) 06:38:40 O
>>488 反論・批判したいなら、どこがどう違うのか言わないと、あんたがレスした相手はあんたにレス出来んじゃろ
494 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 09:03:13 0
最高位氏は、今スレの流れも見えて無いようです。
(もし、煽って代価を貰ってるとしたら、かなり優秀な方でしょうw
以前から、巧妙な釣りではないか・・・? と感じ続けてもいますし・・・w)
たとえば、
>>466(
>>474)などは、
多くの、様々な要素・条件を捨象してゆくから、
「全ては繋がっている(→≒一色である・濃淡があるに過ぎない)」と言える。
種々の要素・条件を拾い上げていけば、(境目なく繋がっていたものに)境界がはっきりとしてくる。
要素・条件の種類によっては、かなり明確に線引きできる境界もあろう。
別段おかしなことではないのだが・・・。
また、
「イデア」だなんだといっても、そのイデアに個別性があるのかどうか?
【イス】という一なる(完全同一な)イデアがあるから、皆が皆イスをイスとして捉え得るのか?
個々人の【イス】というイデアにも個別性があり、それぞれ唯一の【イス】だけど、
共通項があるから、皆が皆イスをイスとして捉え得るのか?
あれ・・?上の方の普遍の流れと関係してきちゃったw
また、もう少し揚げ足を取るならw
>言うまでもなく「この体」はイデアだよ
>便宜上で、そう呼んでいるだけだ
1:便宜上そう呼ばれている対象「そのもの」がイデアなのですか?
2:それとも、呼ぶための呼称がイデアなのですか?
3:それとも、呼んだ時に自身の中に生じる「対象の影・表象」がイデアなのですか?
もし3だとするならば、「この体そのもの」は勝手に区分されたものであって、
人によっては、指先一メートルの範囲の空気も「この体」と呼んでも良いのですね?
これを推し進めるとジャイアン理論ですよ。「俺のものは俺のもの。お前のものは俺のもの。」とね・・・(爆
頭の悪い私に、是非懇切丁寧に御教示願いたいw
495 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 09:33:52 0
>>494 そんなこと聞いて楽しいか?
馬鹿は相手にすんな
496 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/27(水) 10:51:10 0
>>482 >ぴかぁが最近の哲学板はレベルが低いって嘆いてたけど
ん? 言っておくけど
ぴかぁって、バカだぞ(苦笑
>>484 「我思う故に我あり」
私の存在は疑いえない だな
>>485 知らんがな(爆笑
>>488 >おまえ、この「価値観」とか「イデア」とか、意味分かって使ってんのか?
うむ
それはなんとなく、雰囲気だな(爆笑
>大真面目で書き込んでるんだとしたら基地外としか思えん
ひとつひとつ整理しようか?
ではコレから→
>>465 > >彼も彼の主観性で世界を見ている。私だけが特別なのではない。
> >よって「私」の存在性などというものは存在しない。
>
> なぜ「よって」なのか
特別でなければ存在しない という理屈が理解できないんだけどさ
本人から返事がないんだけど、代わりにキミに説明して頂きたい
そして私の基地外さを教えて下さい
497 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 10:57:38 0
すげえな。ドットコムとかってヤツと対決させたいな
498 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/27(水) 11:02:29 0
>>489 誰に言ってるの?
大丈夫か?
>>490 私は死ぬと思いますか?って聞いたら
まぁたぶん100人中100人が死ぬでしょう と答えると思うけどな
大丈夫?
>>491 >私の存在理由は、主観性とか言うんだよね?
そんなこと、誰が言ってるの?
頭大丈夫ですか?
>>494 >種々の要素・条件を拾い上げていけば、(境目なく繋がっていたものに)境界がはっきりとしてくる。
>要素・条件の種類によっては、かなり明確に線引きできる境界もあろう。
その線引き がイデア だと言ってるんだよ
個物 を特定するには線引きが不可欠であるが
現実世界では、完全な線引きなど不可能
にもかかわらず、個物は個物として存在している と思っているのなら
それは観念によって作られた価値基準なのである という事だよ
単なるかまってちゃん
無視でよろ
500 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 11:35:32 0
>>444 >作者が偉大だから?w
そうだよw
「薺」って名指されたら一様に普遍になるわけでもないし、
逆に「薺」っていう言葉の先にいつも個物があるわけでもないw
芭蕉の「なづな」には個物との出会いの一回性があるが、
生物学の「薺」はそんな一回性をそもそも見ようとしてないw
個と普遍がわかりにくかったら、
その見方が個を見ようとしてる見方なのか
普遍を見ようとしてる見方なのか
っていう方向性を考えてみればいい。
線引きできないものは、方向性で考える! ww
>>466 >二つのコップに入っている水は、それぞれに独立した別の個物だと思っているようだね
>しかし、それは人間の、いい加減な認識による価値観なんだよ
最高位氏、ここで「人間」などと言ってはいけません。あなたの理屈だと、
「二つの肉の塊は、それぞれに独立した別の人間という個物だと思っているようだね。
しかし、それは『私』の、いい加減な認識による価値観なんだよ」
といわざるを得ないからです。
現に、
>>474で
>言うまでもなく「この体」はイデアだよ
>便宜上で、(『私』が)そう呼んでいるだけだ バカ(笑
と、(大胆にもw)明言されているわけです。
さて、この理屈ですと、とにかく絶対確実な存在として『私』があり、その外部に
境目なく一つにつながった物質世界があり、『私』がいい加減な認識による価値観wで
それをテキトーに区切って「このコップ」とか「あの水」とか「富士山」とか
「哲学者最高位」とか「ネコの味方」とか「素人」とか、便宜上呼んでいるに
過ぎない、ということになります。
(続き)
この世界観においては、
「『私』は人間である」とか「『私』は哲学者最高位という人間個体である」とか、
言えるはずがないのです。そもそも「人間」とか「哲学者最高位」とかいうのは
『私』のテキトーな価値観、イデアwに過ぎず、存在性がないのですから、
そんなものが『私』で有り得る道理がありません。現に
>>474で
>物体であるところの「この体」と「私」は根本的に異質なものである
と述べておられますね。
「他人」も同様です。一つながりの物質を『私』がテキトーに区切って呼んでいる
という点では、「このコップの水」と何らの違いもありません。ですから、
「私はこの体であって、他の体(他人)ではない」と言える理由もありません。
こうして、あなたの世界観において存在するのは『私』と「一つながりの物質世界」
だけであって、「他の私」など存在する余地はないのです。実際にあるかどうか、
の以前に、そんなものが「あるかもしれない」という発想自体、出て来る理由が
ありません。
「人間は100歳前にほとんど死ぬ」などということも、言える理由がありません。
そもそもそれが「人間」かどうかが『私』のテキトーな価値観に過ぎないの
ですから、それが生きているのか死んでいるのかも、『私』の価値観次第という
ほかはないでしょう。
いかがw?
503 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 12:16:43 0
お互い譲らねえのに議論して楽しいか
両方馬鹿だな
みなさん!頭のいい
>>503が
これから最高位と感嘆子をみごとに止揚するそうです。
507 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 15:56:23 0
>>488 >おまえ、この「価値観」とか「イデア」とか、意味分かって使ってんのか?
>言葉の使い方からしておかしいぞ?
そうだよね。
コップとかこの体というような感覚的事物は、イデア界の影にすぎない、
というのならまだわかる。しかし、「いうまでもなくイデア」というのは
どう考えても、意味を勘違いしているとしか思えない。
コップやこの体がなんで超時空的であり、非物質的な完全抽象なのかねぇ。
508 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 16:13:46 0
>>507 奴は
うむ
それはなんとなく、雰囲気だな(爆笑
と言って必死にごまかしてます。(スレの住民 大爆笑
このスレはなんつうか・・・
揚げ足とり合戦だな
510 :
507:2007/06/27(水) 17:07:49 0
>>498 >その線引き がイデア だと言ってるんだよ
「イデア」は、普通、「現象」と対置される。
真に存在するもの・本質というような意味だよ。
いいかげん、覚えようね。ぼうや。
511 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 17:12:34 0
>>510 線引きがイデアでもおかしくないよ。
イデアに沿って線引きしてるといえば
なおいいけど。
で、君は形相と質料は知ってるのか? ww
512 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 17:18:55 0
>>511 >イデアに沿って線引きしてるといえば
線引き行為と、イデアは違うだろ。ww
513 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 17:23:00 0
>>512 そういう揚げ足とりしかできないから
最高位に馬鹿にされても仕方ないんだよw
514 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 17:26:51 0
イデアって本質ってことなんだろ?
本質に沿って線引きができるなら本質を捉えてるってことにならんのかね。
本質があやふやなのに仮に線引きしたって結局あやふやなのでは。
516 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 17:34:39 0
最高位の主張によると、
『私』が、いい加減な認識による価値観で
>>466 『私という個物』は『私という個物』として存在していると思っているが、
それは観念によって作られた価値基準なのであり
>>498 『自我』による、いい加減な認識によって、
「唯一絶対の特殊性をもつ存在性『私という個物』
>>373」だと考えているんだね。
「『私』存在性」、なんて、単なる非実在で仮想の「イデア」なんじゃないの?
517 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 17:43:56 0
しかし匿名掲示板で哲学の議論する場なのだから
つまり、書き込まれた言葉でやりとりしているわけだから、
言葉はあやふやに使わないでほしいね
共通了解がとれてるだろうと思われる哲学用語は特にね
言葉尻をとらえて本質的議論ではないところで議論するのは
「あげあし取り」だけれど、議論の大切なところで使われている
言葉にオヤ?って思うことがあるなら、それを問い正すのは
あげあし取りではないでしょう。そこは区別しよう
まあはっきり言って
>>466みたいなこと言われても、
最高位は寝ぼけた目でものを見てるんだなってことしか分からんしなあ。
過去のレスを見てもやっぱりボケてる内容が多いし、万が一言い分が通っても、
結局あやふやなんですねって話で終わって全く建設的じゃない。
「私」についても具体的な内容は全然出てないしなあ。
釣りにしても熱心さが異常だし、不思議極まりないな最高位は。
ここの人たちは、最高位が哲学用語など一切知らない、という事実を知らないのか。
521 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 18:10:18 0
最高位は、いい加減な認識による価値観で
テキトーなこと言っている事を告白したんだから、
もうこれ以上何も出てこんでしょw
あとはテキトーなハッタリかまし続けるだけw
実に薄っぺらい
みなさん目も当てられないレベルの方たちですね。
中高生が多いみたいねw
525 :
235:2007/06/27(水) 20:13:33 0
>>464 なんで他人じゃなく私だったのかって? あらゆるものが唯一だからじゃね。
つかその質問を他人にすること自体、頭イッてるな。自分では気付けないんだろうがな。
最高位はバカ
最高位はバカ。
528 :
302:2007/06/27(水) 22:45:13 0
>>460 >人間の主観で「飛びたがっている」と想像しているだけである。
いや、「君が」「なぜ」とう場合は、そうだろうさ。
私が「なぜ」と問う場合は違う。
普遍的にどちらかだなんて、誰にも決められない。
529 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 22:56:38 0
機械と最高位が同時に消え、純一が姿を現した・・・・。
530 :
考える名無しさん:2007/06/27(水) 23:27:51 0
>>529 それは考えすぎ。最高位は消えていない。
機械は向こうのスレで出番をなくしているだけ。いまの流れでは何か喋っても浮くだけ。
最高位がこちらに主軸を移し、感嘆子、素人、ネコの味方、さらには反最高位の雑魚たちまで
大挙して追随したため、あっちは過疎化しつつあるようだ。
純一はピカに粘着したいだけだろう。
>>530 てか、
そこに名前が挙がってる人たちは、
最高位にレスしてただけで、スレのテーマでレスしてたわけじゃなさそうだしw
相手が最高位なら、場所はどこでもいいって人たちなんじゃない?w
532 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/28(木) 00:41:49 0
>>528 :302:
>私が「なぜ」と問う場合は違う。
あなたの場合の「なぜ」とはどう違うのですか???
533 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/28(木) 01:42:26 0
>>501 >>502 何の反論にもなってない としか思えないんだけど
結局、いったい何が言いたいの?
>>507 え? イデア界って、ホントに実際に、あるの?(笑
>>510 >「イデア」は、普通、「現象」と対置される。
>真に存在するもの・本質というような意味だよ。
ん? そんなもの、いったいドコにあるの???
そんなものは、人間が作り出した観念にすぎない と思うけどな
あんたプラトンを信じてるわけ?(苦笑
>>516 >「『私』存在性」、なんて、単なる非実在で仮想の「イデア」なんじゃないの?
あはは(笑
イデアは、どこまでいっても、私のイデア なのであってね
>「『私』存在性」、なんて、単なる非実在で仮想の「イデア」
なんて言っても
仮想している『私』あっての仮想だろ バカ(爆笑
>>517 お前ら全員 アホ
お前ら全員アホとか普通にワロてしまった。
小学生かよwww
535 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/28(木) 02:06:05 0
>>525 >なんで他人じゃなく私だったのかって? あらゆるものが唯一だからじゃね。
ぶっ!(爆
「唯一だから『私』だった」 って、どんな理屈なんだよ(苦笑
それで納得できるんだから、ある意味すごいな
もうちょっと、まともな考え方を持てよ
>>534 ウケた?(笑
機械と最高位は同じ人が書いてるらしいよ。
>>533 >あんたプラトンを信じてるわけ
おいおい、おまえがイデアって言い出したんだぞ
それより基地外最高位、おまえこいつ↓と対戦してくれよ
>哲学は道理にあかるいことを希求するものですから物事の理を悟れば哲学の
>目的が達成するのは当たり前です。
>何故、道理にあかるいことを哲学は希求するのかの理由は人の脳は道理に
>あかるく成らなければ知能が育たず智恵を産みだせない仕組みに成って
>いるからです
これ↑もけっこう基地外だからおまえとどっちが1番か決めようぜ
負けたほうの母親を東南アジアにでも売り飛ばそう
中古品すぎて売れねえかw
538 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/28(木) 03:38:42 0
>>536 一緒にすんなって
というか、キミが機械くんか?(笑
>>537 >負けたほうの母親を東南アジアにでも売り飛ばそう
言うまでもなく、お前が一番基地外だ
まぁ、私の言ってる事が理解できずに絡んでくるヤツって
ほとんどが、こんな感じに、程度の低いヤツなんだろうな・・・
>>538 基地外、冗談だよ、悪かったよ、怒るなよ
基地外を怒らせると怖いぞ。
541 :
素人:2007/06/28(木) 08:43:35 0
>>533 >>501-502が反論と感じないようでは、
読解力が足りないと言われても仕方が無いのではありませんか?
(彼はいつもそうですがw)こんなにも明解丁寧に記されているのに・・・。
>>535 だから、
>>241についての貴方の所感をお聞きするのです。
貴方が、どこに同意できず、どのように思われるのか?
貴方の考え方は如何なるものですか?と・・・。
最高位はなんでこんなに人気あるんだろうね。
最高位に興味がないものにとってはここは糞スレだな。
543 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 09:55:10 0
>>542 人気の秘密は、唯物論的に説明できない。
また科学的方法によっても解明できない。
最高位の存在は、それらを超越している。ww
最高位ってハッピ着て高い下駄を履いてるイメージがある
545 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 10:00:00 0
最高位氏の実力に嫉妬して
昔はもっと悪罵吐き捨てをしていく者も多かったが
最近は哲学の知識が皆無の荒らし屋が来るだけとなった。
ヴィトゲンシュタインによれば自我は世界の限界だが。
547 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 10:08:04 0
548 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 10:57:18 0
>>546 ヴィトではなく、ウィトだろう。最近の傾向は。
NG馬鹿ワード
哲学者馬鹿最高位
(/・ω・\)<マユゲボーン
551 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 11:55:23 0
_人_
(___)
(_____)
(______)
( )
( `ー'ー'ヽ`ー'ー'ヽ )
( ノ '''''' '''''':::::::ヽ )
( . )(●), 、(●)、.:( ) +
( ) ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::( )
. ヽ ) `-=ニ=- ' .:::::::|ノ +
\ `ニニ´ .:::::/ +
,,.....イ.ヽヽ、ニ__ ーーノ゛-、.
: | '; \__
在日・ネット右翼の哲学者最高位さん
最高位はベンジョ神!
553 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/28(木) 12:24:17 0
>>551 >在日・ネット右翼
昔から疑問に思ってる事があるんだけださ
よく右翼の街宣車に、韓国の国旗がついていたりするけど
なんで右翼なのに、韓国なんだ???
どう考えても、日本の国旗だけでいいだろ
その方面に知り合いがいないので、この疑問が解けないんだけどさ
誰か教えてくれませんか
554 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 12:36:44 0
>>533 最高位だろ?他人をあてにせず
自分で調べろ。なんでも知ってるんだろw
555 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 12:57:15 0
>>553 それは統一教会系ではないの?それとも別の旗と見まちがったか。
ただ、最高位もご存知かと思われる、昔ブリブリいわせた柳川組の創始者は
韓国出身でありながら、右翼(というより亜細亜主義)の組織を持ち、日韓両国の親善に挺身していた事実も…。
また、東京の町井一家の親分も在日ながら、児玉に私淑していたのではなかったかな?
まぁ、こういった流れを汲む組織なら日韓両国旗が掲げられていても不思議ではないか、と。
556 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/28(木) 13:13:50 0
>>541 なんでキミは、いまだに自信満々なのか理解に苦しむ
いい加減に、少しは気づいてもよさそうなもんだが・・・・
>>501>>502だろ?
>>二つのコップに入っている水は、それぞれに独立した別の個物だと思っているようだね
>>しかし、それは人間の、いい加減な認識による価値観なんだよ
>
>最高位氏、ここで「人間」などと言ってはいけません。あなたの理屈だと、
>「二つの肉の塊は、それぞれに独立した別の人間という個物だと思っているようだね。
>しかし、それは『私』の、いい加減な認識による価値観なんだよ」
>といわざるを得ないからです。
ん? いい加減な価値観で、人間と言う
それをちゃんと認識できていて、分別がついていれば
それでいいじゃんか(笑
>現に、
>>474で
>>言うまでもなく「この体」はイデアだよ
>>便宜上で、(『私』が)そう呼んでいるだけだ バカ(笑
>と、(大胆にもw)明言されているわけです。
うむ、その通り
>さて、この理屈ですと、とにかく絶対確実な存在として『私』があり、その外部に
>境目なく一つにつながった物質世界があり、『私』がいい加減な認識による価値観wで
>それをテキトーに区切って「このコップ」とか「あの水」とか「富士山」とか
>「哲学者最高位」とか「ネコの味方」とか「素人」とか、便宜上呼んでいるに
>過ぎない、ということになります。
557 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/28(木) 13:14:49 0
>(続き)
>この世界観においては、
>「『私』は人間である」とか「『私』は哲学者最高位という人間個体である」とか、
>言えるはずがないのです。そもそも「人間」とか「哲学者最高位」とかいうのは
>『私』のテキトーな価値観、イデアwに過ぎず、存在性がないのですから、
『私』のテキトーな価値観、イデアである として言えるだろ
>そんなものが『私』で有り得る道理がありません。現に
>>474で
>>物体であるところの「この体」と「私」は根本的に異質なものである
>と述べておられますね。
『私』という存在性が、『私』の体を認識してるんだろ バカ
>「他人」も同様です。一つながりの物質を『私』がテキトーに区切って呼んでいる
>という点では、「このコップの水」と何らの違いもありません。ですから、
>「私はこの体であって、他の体(他人)ではない」と言える理由もありません。
>
>こうして、あなたの世界観において存在するのは『私』と「一つながりの物質世界」
>だけであって、「他の私」など存在する余地はないのです。実際にあるかどうか、
>の以前に、そんなものが「あるかもしれない」という発想自体、出て来る理由がありません。
他人の体というものは、物体であって、コレという存在性ではないが
他人の自我までも否定する理屈にはならんだろ
>「人間は100歳前にほとんど死ぬ」などということも、言える理由がありません。
>そもそもそれが「人間」かどうかが『私』のテキトーな価値観に過ぎないの
>ですから、それが生きているのか死んでいるのかも、『私』の価値観次第というほかはないでしょう。
>いかがw?
テキトーな価値観だよ? 『私』のね
それのドコがイカンの? 何の反論なのか意味がわからん
558 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/28(木) 13:21:55 0
>>555 韓国人が日本で、韓国の国旗を掲げて右翼活動するって・・・
理屈から考えて、それは右翼と言えないでしょ
他の活動でしょ どう考えても
559 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 15:05:29 0
560 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 17:52:44 0
>>557 >『私』という存在性が、『私』の体を認識してるんだろ バカ
意味不明だなぁ。こんな表現あり?
「オレの言うことちゃんと理解しろよ」って言っているバカ親父と同じ?
>>560 相手にしない。自分だけの殻に閉じこもってる人だから。
562 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 18:06:19 0
>>561 やっぱりそうなんですか?
目立ちたがり屋さんかな。変わった表現したがる人って。
>>562 ただの構ってちゃん
荒しだからレスつけない。
564 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 18:22:31 0
>>563 はい。
うちの近所にも「生命は、波動性だよ」と説教してまわるおじいちゃんが
居て、なんとなく似てるなぁ、と。
それだけでした。
似たようなものだな。
なんという阿呆ばかりがお集まりになられたのか痛々しい限りですのー。
最高位はんが標的としているのは機械的唯物論者が立てた決定論のスレどすぞ。
つまり機械のスレをぶっ潰しちまえば最高位も退散するのよう。
なんせ奴の理論は唯物論をぶっ潰す用のもんだからのう。
言っておくがのう、機械的唯物論のスレが消えねえかぎりは最高位も消えねえどす。
567 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 18:56:47 0
>>566 機械が消えても、スレは俺が続ける。最高位がいてもいなくても関係ない。
そういうすれ荒しはアク禁で消滅
>>535 まあ、最高位なら仕方ないな。時空の話も理解できないみたいだし。
そしてお前自身は私が他人でない理由が分からないんだろ?
ようは俺は分かってお前は分からん訳だ。もう一生悩んでればいいんじゃね?
最高位は、ここ数年で読んだ本が、養老孟司のバカの壁
その他数冊のみというレベルの初老の男なんだよ?
レスの介護の人は、よくこんな男を相手してやってるね
初老なのか……。三十前後くらいかと思ってたな。
俺の倍くらい生きてる大先輩じゃないか。
なんか反論するのも悪いように感じるな……。
572 :
佃煮マニア:2007/06/28(木) 22:41:28 0
私の存在性がその身体性による所が大きいのは、
その視点にあるよね
私がこの世界を認識するのは、頭蓋に固定された眼球からしか出来ない。
他人を含む複数の知覚意識活動をを、私がリアルタイムで共有して世界を認識する事は出来ない。
世界の各存在(私の存在も含む)は、常に宇宙全体とつながりを持っているだろうし、
一つの個体が宇宙全体のあり方と切り離せないのは事実かも知れない。
しかし、私の認識する世界は、認識する為の「視点」が独立して存在する限り、
私がどんなに観点をずらしてみても、私という個体のなかに限定されている。
573 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/28(木) 23:03:05 0
>>559 いやいや
外国人が、その本人の国の国旗を掲げて、日本で政治的な活動をする
というのは、どう考えたって右翼活動とは正反対の活動でしょう
また、日本人が外国の国旗を掲げるのは、それは国際親善のセレモニーの時だけでいいのであって
日常的に他国の国旗を掲げて活動するのは、どう考えたっておかしい
どういう理屈なのでしょうか
理解に苦しみます
574 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/28(木) 23:22:40 0
>>560 理解しにくいかな?
では、『私』という主観性が、『私』の体を認識してるんだろ バカ
ではどうでしょうか
または
『私』が『私』の体を認識してるんだろ バカ
とか
『私』が『この体』を認識してるんだろ バカ
うん
これなら、いくらなんでも理解できるでしょ?(笑
>>569 では、時空がどうだから『私』は存在したのか
その理由を論理的に説明してもらいましょうかね(爆笑
そんなもん、全然次元の違う話なんだよ バカ
>>570 >最高位は、ここ数年で読んだ本が、養老孟司のバカの壁
ん? そんな本、読んでないぞ?(爆笑
早く妄想癖から立ち直れよ! がんば!
てか
誰が初老なんだよ基地外
いい加減にしろ
>>572 う〜む
やはり、何度説明しても、どうしても原因的要素 という観点が理解できない人がいるんだよな・・・
高度な哲学を理解するには、致命的なんだけどね
575 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 23:23:43 0
>>572 「個体のなかに限定されている」と、まことしやかに語っている君は
どこにいるの?
個体のなかから、個体のなかに限定されている自己について言及しているわけ?
それを変だと露とも思わない君は、私についてではなく、どこの佃煮がうまいか
を喋ったほうが、みんなも喜ぶと思うよ。
主観性の体?
578 :
302:2007/06/29(金) 00:11:28 0
>>532 とりあえず、私は鳥の本能の存在を否定も肯定もしない。
なぜという問いも、必要がなければ抱かない。
>>574 時空の話はもうしただろw ちゃんと話の流れ読めてるのか?
あと全然違う次元の話だって言うんなら、説明を必要とするより、
もうお前が論理的に間違いを証明しなければならない段階だろ。
なんか言ってること無茶苦茶だぞ?
なんかもう底が知れたな。もっと面白いこと言えよ。
煽りもワンパターンで詰まんねぇよw
馬鹿はほっとけ。
581 :
考える名無しさん:2007/06/29(金) 14:37:54 0
>>464 >私の存在理由は、物質でできてるからとか言うんだよね?
>でも他人も物質でできているんじゃないの?
>だったら、なんで他人じゃなく私だったのか の理由にすらならないじゃんかという事だよ
という最高位の理屈が理解できないんだけど?
個々の体は別の個物だから、他人の体に、自分とは異なる他人の自我があるのは
必然としか思えないんだけど。
『私という存在性、主観性』とは、脳から生成された構成物であると思えるから。
『他人じゃなく私だったのか』が、唯物論を補強する。
自我発生のメカニカルな解明には、まだまだ時間がかかるが、
体から自我が発生しているわけだから、生成された構成物(自我)は、
生成系に対して基底と見なされ、概念の源ととして閉包であると理解されるだろう。
『他人じゃなく私だったのか』は、唯物論の補強証拠となるよ。
582 :
考える名無しさん:2007/06/29(金) 16:46:09 0
馬鹿はほっとけ。 故にほっておけない馬鹿は存在する。
最高位を放置しろと言い続けてるバカがいるがそいつが最も放置されているというパラドックス。
だって最高位ってプロ專だぞ?
585 :
考える名無しさん:2007/06/29(金) 19:21:05 0
馬鹿は放置されるべきである。
馬鹿をかまうのは馬鹿がすることである。
かまう馬鹿を見過ごせないオレも馬鹿である。
馬鹿は連鎖する。
586 :
考える名無しさん:2007/06/29(金) 19:24:39 0
>>581 ベタベタ唯物論。それが真理なら、だれも(有名哲学者なら随意に)
苦労はしないよ。
最高位がプロだって何だっていいんだが、馬鹿なのだけはどうにかしてくれ。
明らかに論破されまくってる奴が煽っても涙を誘うだけだろ。
588 :
考える名無しさん:2007/06/29(金) 20:12:28 0
ボコボコにされているという自覚ないから、さらにボコボコに。
589 :
考える名無しさん:2007/06/29(金) 22:09:35 O
>>585 はじめが馬鹿だと、最期まで馬鹿か。
お〜決定論だ。
馬鹿は真理だ。
590 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/30(土) 00:45:06 0
>>578 :302:
>なぜという問いも、必要がなければ抱かない。
それなら「なぜと問いたくなったら発言してください。
>>528 :302:
>私が「なぜ」と問う場合は違う。
などと言わないように。
591 :
302:2007/06/30(土) 01:07:19 0
>>590 >それなら「なぜと問いたくなったら発言してください。
とりあえず、私のステハンの元レスを読んでください。
592 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/30(土) 01:47:26 0
>>591 :302:
>とりあえず、私のステハンの元レスを読んでください。
どのレスのどういう内容ですか。
話が分かりにくくなっています。
594 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/30(土) 02:19:59 0
>>593 :考える名無しさん:
>>302に決まってんじゃんw 馬鹿か?
ううむ・・・302 と言うと・・・
>>だいたい、客観的真理、なんてものがなぜ必要なの?
と「なぜ・・・?」と言っているが・・・??
595 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 02:22:14 0
>>579 ん?
どうでもいいけどさ
『私』時空がどうだから『私』は存在したのかな?
こうだったから、こうだった とかいう結果報告でなく
唯物的に、原因的要素でお答え下さい
>>581 >個々の体は別の個物だから、他人の体に、自分とは異なる他人の自我があるのは
>必然としか思えないんだけど。
えっとね
>個々の体は別の個物だから、
うむ、そうだね
しかし、別だから といって『私』にはならないんですよ
普通は『他人』と『他人』になるのです
なぜ、この物体(この体)が、『私』であったのか という根本問題があるのです
その原因的要素を、唯物的に説明する事は、不可能なんです
596 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 02:24:47 0
ミス
>>595の本文3行目
最初の『私』は、必要なし
>>595 >しかし、別だから といって『私』にはならないんですよ
>普通は『他人』と『他人』になるのです
何故?
598 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 05:19:13 0
>>597 >何故?
え?
マジで、わからないんですか???
AさんとBさんは別人です
では、どちらが私なのでしょうか?
あなたの発想だと、どちらかが『私』である という前提か
または、私はCさんかも知れないし、Zさんなのかも知れない といったふうに
いずれにせよ、私が存在して当たり前 という『前提』から出発しています
しかし
まだ生まれていないか、そもそも存在しないかも知れないわけです
他人は無限に存在しています
そして私が生まれてくるまでは、他人だけで成り立って来たと一般的には考えられていますよね
だから、他人である とか、別人だから という理由では『私』になる根拠にはならないのですよ
普通は『私』ではない人、すなわち『他人』になります
私が存在しなければ世界は成り立たない という発想は、独我論ですよ(笑
>>598 いや、
「普通は『他人』と『他人』になるのです」
これは何故?
私は、フランシス・フクヤマの本を読んでいて、これだけは、書き留めておきたくなったなあ、
ということがある。それはネイティビズム対ビヘイビアリズムの巨大な対決ということだ。
ネイティビズム「固有主義あるいは生来主義」とビヘイビアリズム「(アメリカ)行動(科学)主義」
の対決ということだ。
このネイティビズムとビヘイビアリズムの対決は近代(現代)学問500年の、成否を決するぐらいの大きな
大決だ。このことを日本の知識人のほとんどが知らない。
このネイティビズム対ビヘイビアリズムの対立というのが西洋学問で、一番大きな対立図式だ、ということを、
日本の知識人でしっているのは、私の他に、この国に何人いるだろうか。
(中略)
私は日本の知識人で、世界基準だと考える優れた学者には、すでに弟子入りしている。
だからそれ以外は、みんな、アホ扱いすることになる。本当にそう思っている。
私は好き嫌いの感情で動かされる人間ではない。世界水準に達して優れている学者と、
そうでないもの、は、はっきりと点数がつくぐらいに区別がつく人間だ。
(中略)
ネイティビズム対ビヘイビアリズムの対立、というきわめて簡単な図式が分かると、
もしかしたら私の読者でも、一気に、ひらめくように、この世界がどのようになっていて、
どのように人間(人類)は考えてきたのか、とか、この近代500年の西洋学問(サイエンス)の
全体像が、ハッと分かるかもしれない。
副島隆彦「属国日本論を超えて」P51〜52
AとBが別人だから私なんじゃね?別って思ってるのが私だし、どっちがとか意味ないし。
他人とかがいないと私はありえないってことになって、私は常に他人以外になるとか。
けっきょく別じゃないと私にならんじゃんけ。
「普通は『他人』と『他人』になるのです」
何故?
根拠は?
何が原因で?
603 :
302:2007/06/30(土) 06:51:31 0
>>594 つまり、私は、「なぜと問いたくなった」から発言しているのであって、
ステハンがそれをあらわしているわけですよ。
ですから、
>それなら「なぜと問いたくなったら発言してください。
といわれても、「はい、いままさにそうしています」としかいいようがないわけです。
604 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 06:57:05 0
>>602 まず逆に
『私』になる根拠、原因を考えれば理解できるんじゃないですか?
そんなものは無い という事です
この結論は、いいですか?
605 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 07:03:02 0
>>601 うむ
「我思う故に我あり」
まず『私』という主観性の存在は否定できないからね
しかし
我がいない世界、状態を想定する事もできない というのは
少し応用ができなさすぎじゃないかな
607 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 07:11:10 0
>>606 だったら一つの結論がでてるじゃないですか
要するに
『私』が存在した原因的根拠は
当然、物理的要素にも無く
すなわち
唯物論は間違いなのである
この結論はいいですか?
>>607 は?
まず結論があるから結論が出てるという事ですか?w
で、
「普通は『他人』と『他人』になるのです」
これは何故?
根拠は?
何が原因で?
「普通は『他人』と『他人』になるのです」
原因的根拠を述べないとこれも間違いになっちゃうよ〜w
>>605 私がおるから状況を想定できるんじゃんけ。してそれは他者がいてこその想定じゃ。
あれはこれとは違うぞな。これとあれは別じゃんけ。
そうして私はつくられるのじゃ。
受精からして十の月。それを隔てて徐々に他者ではなくなってゆく。
それが私なのじゃよ。
今の流れは、
>>241に大きく関係すると思いますが? >>最高位
612 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 09:30:38 0
>>608 ん?
なぜ正面から反論しないのかな? (爆笑
まぁいいや
『私』は唯一絶対なんですよ
だから、その他の人間は『私』ではない人間
すなわち『他人』だという事になります
『私』が生まれてくる可能性は、無限分の一
AさんとBさんのうち、どちらかが『私』である可能性は
無限分の一であり
AさんとBさんが互いに別人であるならば
それは
普通は『他人』と『他人』である と考えるのが妥当でしょう
『私』と『他人』になる可能性は、無限分の一だからです(笑
>>609 原因的根拠は、無いのです
もちろん物理的要素にも無いのです
無いけれども、『私』が存在し『他人』が存在しているのです
故に
唯物論は、間違いなのです
>>610 独我論ですかな?(笑
>>611 存在する自分が思惟している という結果的な事を分析しているのだから当たり前の事だよ
しかし、なぜ自分は存在しているのか という原因的な観点には立てていないわけであってね
それが想像すらできない人 というのは
私からすれば、あまりにも知能が低い と言わざるをえない
>>612 >無いけれども、『私』が存在し『他人』が存在しているのです
いや結果報告はいいですからw
「普通は『他人』と『他人』になるのです」
これは何故ですか?
いかなる根拠で?
>>612 >『私』は唯一絶対なんですよ
これも原因的根拠は?w
>>556 >ん? いい加減な価値観で、人間と言う
>それをちゃんと認識できていて、分別がついていれば
>それでいいじゃんか(笑
最高位氏、「認識」するのは「事実」なのです。だからこそ、その認識は正しいとか
間違っているとか、客観的に問題にできる(と普通は考えられている)わけです。
ご自分で思わず「ちゃんと」とか「分別」とか言ってしまっているではありませんかw
まさに、それが「二つの肉の塊」であって一つながりではなく、それぞれに独立した
別の個物であって一つながりではない、というのが、「対象の側に存在する客観的な
事実」である、とあなた自身が考えているわけです。だからこそ、
「そこに二人の人間がいる」という事実を「ちゃんと」「分別をもって」認識できる
人は正しくて、そうでない人は間違っている、ということになるわけです。
以前、ご自分で「そこに便器があると何回も確かめたけれども、現実にはなかった」
というような話もされておられましたね。
つまり、「そこに便器がある・ない」というのは、決して「私のいい加減でテキトーな
価値観」で決まるものではなく、むしろ対象の側から私の認識に強制される・対象の
側の在り方によって否応もなく決まる、客観的な事実である、ということです。
こうして「この体」「あの体」「このコップの水」「あのたらいの水」「富士山」
等々の名前で指示されている個物は「唯名論で存在性がない」のではなく、
一つながりの物質を私がいい加減でテキトーな価値観で区切っているのでもなく、
すべて客観的に存在している、ということになります。
そう考えて、初めて「私が動かそうとすると、この体は動くが、他の物質は動かない」
とか「私はこの体の目では見ることができるが、他の物質では見ることができない」
という経験が可能になり、「『私』は否応もなく『この体』であって、他のどんな物質でも
ない。それは私の価値観によって変えることはできない。」という認識が可能になります。
次の段階として「『この体』と共通点を持つ個物(人間と総称される個物)が世界には
たくさんある。もしかしたらそれらは『別の私(自我)であるのかもしれない」
という思考に進むことも可能になるわけです。
616 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 10:40:48 0
>>613 >>612に書いてある
>>614 これもって何が?
意味不明
言っておくけど
604 :哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 06:57:05 0
>>602 まず逆に
『私』になる根拠、原因を考えれば理解できるんじゃないですか?
そんなものは無い という事です
この結論は、いいですか?
↑ ↑
これが理解できた時点で、唯物論は論破されている
もがいても無駄だよ
(続き)
従来のあなたの主張のように、「物質はすべて切れ目なく一つながりであり、
それを私がいい加減でテキトーな価値観で区切って呼んでいるだけだ。」
とするなら、「私は物質世界と無関係だ」と言ってもいいし、
「直径100メートルの球が私の体だ」と言ってもいいし、「長さ1光年の
直方体が私の体だ」でも「地球が私だ」でも「1センチくらいのヒトデ形が私だ」
でも、「全宇宙が私だ」でもいいわけです。もちろん「私は哲学者最高位という
人間である」でもいいのですが、それが「正しい」ということはできません。
何しろ「本来物質は一つで、それを区切るのは私の自由でいい加減でテキトーな
価値観wに過ぎない」のですから。まさに「どこまでが私かは私の勝手である」
としか、言いようがないのですw
>>557 >他人の体というものは、物体であって、コレという存在性ではないが
>他人の自我までも否定する理屈にはならんだろ
最高位氏、他人というのは、私から見ればどこまで行っても「物体」であって、
それ以外の何でもないのですぞ。その点では、「コップの水」とか「富士山」
と何の違いもありません。(だからこそ、心身関係が謎なわけです。)
ですから、とにかく「他人」には自我があり、「富士山」や「ロボットA」
には自我がない、と主張するためには、まずもって「他人A」「富士山」
「ロボットA」が客観的に別個の個物である、という前提が必要なのですよ。
さらに、「他ならぬこの私が、この体である」という否応もない事実と
照らし合わせ、「この体」と「他人A」と「富士山」の個物としての
性質を比較して、初めて「他人Aという個物は自我を持ち、富士山という
個物は自我を持たないのではないか」という思考が可能になるわけです。
おわかりになりますでしょうかw?
>>612 最高位氏、それは
1.哲学者最高位という人間が存在する前は、誰にとっても哲学者最高位が
『私』である可能性はゼロである。
2.哲学者最高位という人間が存在した後は、哲学者最高位にとって
哲学者最高位が『私』である可能性は100%である。
3.哲学者最高位という人間が存在した後は、哲学者最高位以外の人間にとって
哲学者最高位が『私』である可能性はゼロである。
これだけのことです。何の不思議もありません。
619 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 10:55:15 0
正直言って最高位が言ってることのほうが
真実に近いような感じがするな。
620 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 10:57:06 0
>>615 ん?
何を考えてんの?
>「対象の側に存在する客観的な事実」である、
>とあなた自身が考えているわけです。
これが根拠で?
>対象の側から私の認識に強制される・対象の側の在り方によって
>否応もなく決まる、客観的な事実である、ということです。
これが結論???
明らかに論理的な飛躍があるよな
>「対象の側に存在する客観的な事実」である、
>とあなた自身が考えているわけです。
「考えている」んだから
観念にすぎない んだよ?
それで何で
>事実である
と決まるの???
便器だって、あると認識していたのに、実際にはなかったんだよ?
まぁ、これは懐疑論の話であって、「唯名論であって、存在性ではない」という話とは、別なんだよ
キミはいまだに、丸っきり理解できていないなぁ・・・・
621 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 11:06:54 0
>>618 で?
誰も不思議だなんて言ってないが?
>>616 何度も言わせないで下さいよw
『私』が現時点で何人いるとか、
『他人』が何人いるとか、
そういった結果報告はいいですから、
あなたの言った
「普通は『他人』と『他人』になるのです」
この原因的根拠を述べて下さい。
もし根拠がないのでしたら、
あなたの言説は間違いという結論になります。
今現在『他人』が何人いようとも、私が何人いようとも、
次の一人がどちらである根拠もありませんからねw
623 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 11:11:30 O
感覚にとって、最も邪魔な物は古い感覚(記憶)だ。
では私を感じてみよう。
ん〜。
見分けが難しい〜。
624 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 11:13:01 0
最高位論は独我論を語りながら、
独我論であるという自覚がないからどうしようもないね。
デカルトの「我」を疑いえないという点からスタートすれば
どうしても自我が認識している世界のみという独我論になっちゃう。
個々の人間がいるということなどすっとばすことも可能だということよ。
非人間思想につながるんだよね。
625 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 11:13:59 0
馬鹿にレスつけんな
>>616 >まず逆に
>『私』になる根拠、原因を考えれば理解できるんじゃないですか?
>そんなものは無い という事です
>この結論は、いいですか?
↑ ↑
>これが理解できた時点で、唯物論は論破されている
>もがいても無駄だよ
正気ですか?
私の質問に何も答えないで
「まずは結論です。いいですか?」ですか?
論点先取はいいですからw
答えて下さいよ。
今の話は、
「私が存在して当たり前 という『前提』から出発しない」
話じゃないですかw
627 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 11:15:41 0
馬鹿にレスつけんな
628 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 11:19:41 0
「独我論」って最近よく見かけるけれど、
永井均が流行ったせいなのかな?
独我論って言われたのはバークリーぐらいでしょ。
バークリーなんて、たいした哲学者じゃないし・・・
最高位よ、こんなスレはいいから、「心の仕組みドットコム」と
対決してくれ。北朝鮮を擁護しているケシカラン奴だぞお前としては
放ってはおけまい。
どんなことになるか、見物だw
630 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 11:24:32 O
つまり発達した感覚に対して、遅れている自己保
存の意識が、唯物論の固定化を許したのか〜。
631 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 11:32:24 0
史的唯物論を除けば唯物論なんて
ほとんど哲学とは認められてないだろ。
私の存在性の根拠は無い?
話にならんな。
633 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 11:36:33 O
智恵遅れは認めているな。
634 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 11:43:02 0
>>622 はぁ?
自我に原因的根拠など無い
だから唯物論は間違いだ と言ってるんだよ
頭悪いなぁ
>>624 話をすり替えるなって
>>626 ん?
コレ、キミだろ?
↓ ↓
606 :考える名無しさん:2007/06/30(土) 07:03:16 0
>>604 いいですよ。それで?
撤回するのか?(笑
>今の話は、
>「私が存在して当たり前 という『前提』から出発しない」
>話じゃないですかw
何言ってんのか良くわからんが
キミらは『私』が存在しない状態 という前提に立てないだろ?
知能低いからね
なんで私はいたんだろうか とか
そういう疑問は、思いつかないんだろ?(爆笑
635 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 11:47:04 0
馬鹿にレスつけんな
レスアンカーつけるやつほどかまってチャンだよなw
>>634 私は存在しないなどはすでに唯識氏が何度も説明しているが。
638 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/30(土) 12:07:31 0
>>637 ん?
彼は何一つ説明してないぞ?
それに
「我思う故に我あり」を論理的に否定して下さい と頼んだとたん
黙ったままだしね
「我思う故に我あり」
これって否定する必要あるのw
ていうかこれと唯物論って関係ねえだろ
640 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 12:17:51 O
ぃ〜まさら〜。
この最高位ってやつは誰かの言葉に依存していかなきゃ
書き込みすらできんということだな
デカルト、ここの住人も含め
無視でいいや
642 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 12:22:51 O
連戦連敗か。
>>620 >「考えている」んだから
>観念にすぎない んだよ?
>それで何で
>>事実である
>と決まるの???
最高位氏、個物の存在が客観的「事実である」と「考えている」のですよw
(いかなる考えも観念にすぎない、というのは、当たり前です。ほとんど同語反復の
ようなものです。)
>便器だって、あると認識していたのに、実際にはなかったんだよ?
これも同じです。「あると認識していたのに、実際にはなかった」・実際には
なかったというのが「事実である」・実際にはなかったと考えるのが「正しい」、
と、「考えている」のですw
そういう「観念を持っている」でも、同じことであります。
もし、本気で「一つながりの物質を私が勝手でテキトーな価値観で区切って
便器と呼んでいる」と「考えている」のなら、私があるときは便器があるという
価値観を勝手に持ち、次のときには便器がないという価値観を勝手に持った、
と「考える」だけです。「実際にはなかった」などと「考える」ことは、できない
のであります。
まさに、「この体という個物が客観的に存在している」・それが「事実である」・
そう考えるのが「正しい」、と、「考えて」いなければ、
「私はこの体である」とか「他の体(他人)は他の私である」とか「富士山は
絶対に他の私ではない」とかいう考えが「正しい」と「考える」ことは不可能である、
ということです。もちろん、それらはすべて「私」の「勝手でテキトーな価値観」
に過ぎず、「正しい」わけではない、というのなら結構ですが、そんなことを
他人に説明しても、あまり意味はないのですw
かみ合わねえんだからムダな議論はやめ
645 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 13:20:39 O
他人がそんなに大事か。事実崇拝は。
646 :
ネコの味方:2007/06/30(土) 13:24:33 0
>>617 ちょっと横スレを。
仮りに地球を一つの物体とする。地球は陸と海、平地と山が截然と客観的に分別
されているわけではない。それらは、最高位が強調するように一つながりである。
それを差異化したのは、私(たち)だろう。
私(たち)が便宜上、換言すれば実践的関心・欲望(最高位ふうに言えば価値観)に
沿って分節化したものにすぎない。したがって、どこまでが平地でどこからが山か
は便宜上の区分でしかない。
富士山もしかり。もし、それが本来的に“個物”なら境があるだろう。どこまでが
富士山か、だれも知らないのではないか。
その意味で、たしかに最高位の言うように“富士山という存在性”はない。存在と
いう言葉を使うのなら、不二山は観念的(主観的、もしくは共同主観的)な存在だと
言えよう。
まぁ、地球じたいがそうなんだけどね。
最高位ってなんでここに粘着してんの?
明らかに自分が合ってると確かめられたんならもういいんじゃないか?
648 :
647:2007/06/30(土) 13:28:47 0
それとも自分が間違ってる可能性がまだあると考えてるの?
でも最高位の考えって何か穴がありそうな気がするんだよな、直感
でしかないんだけどね。
649 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 13:31:32 0
横スレwwwwwwwwww
650 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 13:35:14 O
対象相互の差異化+私という差異。
差異は対立ではなく自立なのか。
651 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 13:41:01 0
652 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 13:46:49 O
つまり知恵とは無限の差異の生成。
653 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 13:57:09 O
一瞬さえ、無限に差異化している時間。
>でも最高位の考えって何か穴がありそうな気がするんだよな
穴以外の何があるんだよw
655 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 14:33:38 O
対立の存在は互を否定するが為に他を必要とする。
自立の存在は自らを肯定している為に他を否定してもしなくてもよい。
656 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 14:54:12 0
原因的根拠が知りたいのなら自我が何なのか、説明しろや。
人によって自我の捉え方はちがうからね。
657 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 15:20:52 0
地球という言葉はいつからつかわれるようになったんだろう?
信長はその意味をしっていたらしいが、一般的には明治以降かね?
658 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 16:03:55 0
>>646 それなら『私』だって同じだろう?。
唯一絶対だの何だのと『私』を差異化している物は何だよ?。
659 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 16:37:04 0
実存でいんじゃね。
>>595 原因的要素はもう言ったぞ。お前は違うって言ったんだから、
お前がその根拠を言うところまできてるのよ?
もしかして、もう頭がわけわかめになってるのか?
つか、すぐに反論できないならもう終わりだろ。
かなり釣られてやったんだから感謝しろよ。
661 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 17:16:00 0
もう終わりだ。
と言って終わりにしたいのならば、
終わりにすればいい。
662 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 19:55:41 0
ガンバレ!ガンバレ!最高位!
負けるな!負けるな!最高位!
ファイトだ!ファイトだ!最高位!
ガンバレ!ガンバレ!最高位!
負けるな!負けるな!最高位!
ファイトだ!ファイトだ!最高位!
ガンバレ!ガンバレ!最高位!
負けるな!負けるな!最高位!
ファイトだ!ファイトだ!最高位!
663 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 20:16:46 0
ガンバレ!ガンバレ!最高位!
キミが根拠を述べる番だ!!
まぁ、気持ちは分かるで。
しっかりしぃや。
665 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 21:34:17 0
はたして、客観は主観より上なのか?
それは証明できるのか?
ほとんどの人は、客観の出来事で、幸、不幸を決めているが、
それは、無意識に客観を主観より上に見ているからだろ。
主観が上なら、各自、心の中で、億万長者になったり、
イケメンになったりして、幸福になればよい。
虚しいとか馬鹿にする奴もいるだろうが、
どうせ、客観の優位性を証明できない奴なんだろうから、放っておけばよい。
666 :
1:2007/06/30(土) 22:47:02 0
基地外、「我思う故に我あり」の否定は一応あるんだよ。基地外は哲学的教養が
ゼロだから知らないだけの話だ。でもこれを教養ないやつに説明するのは大変
面倒くさい。ヒューム、カントは避けて、スピノザ=柄谷ラインで述べてみる。
『省察』によれば、デカルトの思考実験は方法的懐疑、あらゆるものを
疑う、という姿勢に貫かれる。自分が正しいと考えていることも、自分が属して
いる共同体の習慣に過ぎないのではないか、自分がいま感じているこの世界も、
本当は夢の中の出来事ではないのか、つまり彼の疑いは、自分が属している共同体
や、この世界の「外」を意識することと切り離せない。また彼はこの作業をフランスを
出て、オランダで行なう。つまり現実にも彼は外に出て疑っている。難しい
言い方で、これを「外部的実存」という。
デカルト自身に混同があって、「疑う主体=外部的実存」を彼は最初に提起
しながら、それを単なる思考主体に還元してしまったという批判がされる。
すでにデカルトの後継のスピノザがそう考えている。スピノザの『デカルト
の哲学原理』によれば、「我思う故に我あり」とは、「我は思惟しつつある」
ということを意味する。つまり、外部的実存である限りにおいて、「我は
ある」と言える、ということになる。これはコギト解釈の問題のように見えるけど、
一応、デカルト的思惟主体を否定しないと出てこない考えだ。ここから分かる
ように、「我」といっても、最初のデカルト自身の着想やスピノザにおいては
コギトというのは外部的実存として把握される。それを日常の心理的自己のように
表象するのは完全に間違いだ。基地外のいままでの発言を見てると、「我」を
日常的な「私」=主体として捉えてるみたいだけど、それは勘違い。
667 :
2:2007/06/30(土) 22:48:06 0
このコギトの考察は90年代の日本でも展開された。柄谷『探究2』の有名な
議論を復習すれば、「我思う故に我あり」(Cogito ergo sum)の「コギト」は
外部的実存であるが、自分の思考は諸習慣に従って、そう考えさせられている
のではないのか、と疑う自己は、共同体の習慣に属しながら、
共同体的真理を疑う、奇妙な自己だ。これを「超越論的自己」という。
私が属しているシステムの外側に出ること、実際には外には出られない、しかし
システムを疑うことはできる、この疑っている限りにおいて、自己は「ある」
と言える。ここでも、コギトを単なる思惟主体、日常的な心理的自己に
還元したデカルトは批判される。
ではこの疑いはどこからくるのか、超越論的自己を促すものを、「超越論的動機」
という。デカルトは自ら進んで方法的懐疑を始めたのではなく、超越論的動機に
促されている。それは「意志」でできることではない。ソクラテスが、「共同で
真理を探究する」ためにアテナイで「対話」を始めたのは、デルフォイの神託に
促されたからであって、デカルトの場合も、それに似ている。彼はすべてを疑うが、
なぜそうするのかを説明できない。よってコギトの明証性はすぐに根拠付けが必要となる。
だからデカルトはすぐに神の存在証明に向う(もはやキリスト教的神ではないが)
つまり「我思う故に我あり」の「コギト」は、誤解を生む言い方だが、「審級の違い」
がある。単に日常的・心理的な「私」を根拠づける・定立するようなデカルト的
「我思う故に我あり」は以上のように「我」の審級の違いから否定される。
基地外が理解できることを祈る。
668 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 23:29:10 0
別に俺は、各自、自分が生きやすい思考方法をセレクトすればいいと思うだけだし。
自分だけが真理をわかっている、なんて、真のキチガイになりたくないしw
669 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 23:34:13 0
真理は人間には把握できないという考えが常識人。
人間が真理を把握できるなんて傲慢にも程がある。
思想なんて便宜上のものにすぎんのよwww
670 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 23:59:04 0
真理がわかった、なんていう奴は、どうせ、他人の本の受け売りなだけだろwww
671 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 00:00:07 0
長文のわりに咀嚼されていない。柄谷のそれも全体の流れから
突如として抽象的、独断的になりすぎるところがあるが、
それでも彼のほうがわかりやすい。
有名人の言葉で権威付けをして、真理を説明する、なかなか、いい心がけだ。
673 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 00:07:46 0
柄谷を借りてきて、彼よりもわかりにくい文章を書いてどないするん?
柄谷やスピノザに最高位を否定させて、なんの意味があるん? おまえさんがやらんかい。
最高位がデカルト持ち出してんだから別にいいんじゃね。
まあ、否定されてしまった訳だが。
675 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 00:27:49 0
>>646 おおお!
とても、わかりやすい説明ですね
てか、なんで他の人は
これぐらいの事が理解できないんだろうか・・・・
>>666 >「我思う故に我あり」の否定は一応あるんだよ。
と言いながら、最後に
>「我」を日常的な「私」=主体として捉えてるみたいだけど、それは勘違い。
勘違いしているとしても、勘違いしているのは『私』であってね
勘違いしている存在、すなわち『我』を前提した結論で締めくくっている
まったく否定できていませんな(笑
否定できた! と思っている事こそ、勘違い なんじゃないの???(爆笑
問題は、「ある」んか「ない」んか であって、否定する為には「ある」を否定しなきゃならん
デカルトが混乱していようが、していまいが、あんまり関係ないんだよ
この「勘違いしているとされている存在」そのものを否定できなきゃ「我あり」が否定できた事にはならない
キミらの批判は、的外れだっていう事(笑
>「我は思惟しつつある」
まぁこれも
「我は」思惟しつつある
なんだよな(笑
我思ったとて我ありにはならんって話なんじゃね。
だから否定になると。
677 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 00:42:29 0
>>675 富士山も物理現象。私も物理現象。
私も作れないが、富士山も作れない。
唯物論で何も問題ない。
みんな、最高位は話せば分かる馬鹿な人だと思って
いるようだが、そんな甘いものではない。
彼はパラノイアという精神病。体系だった頑固な
妄想にとらわれている病気の人。
ちゅうか、我思うの我自体がもうおかしいわな。
何でいきなり我なのよ?っていう。予定調和かよってな。
おまけに後の我ありも、前提がおかしいから繋がらんし、我があると認識するには超越なんとかなわけだ。
でもそれって他人を認識してるのと変わらないような?
だから我ありの我は名ばかりで、想像的な自己っぽい何かにしか過ぎんわけか。
結局どっちの我も何かが思った結果にしか過ぎず、我の存在証明は無理だということか?
よく分からんが。
680 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/07/01(日) 01:04:33 0
最高位さんは唯物論の論破を主張されるのか
私の存在性を主張するのか
分からなくなってきましたね。
681 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 01:17:03 0
>>676 我が思っているのに、なんで?
>>678 いやいや
それはキミ自身の事だと自覚せねばね(爆笑
私は、論理的にスジの通った話なら理解できるよ?
我はいない とかね
実際ワケのわからん理屈だろ
明らかにいるだろ「我」
我が我を認識しているだろ
我がよ
いない可能性を示しなさい と言っても、明確な答えはナシ
話をすり替えるばかり(苦笑
なんでそんなに必死なの? と、問いたい
論理的に考えれば、わかるだろ
>>679 と、思っているのは、いったい誰ですか?
キミも、病院に行った方がいいんじゃないですかね
>>680 あんたホントにアホだな
唯物論を破壊する事こそが彼の存在証明
それをやめたら彼はこの世から消えてしまうんよ
>>681 いや誰とかって話にもならんって言ってんだこの○○○野郎がァ!
・・・って話をしてるんだが、理解できてないだろ?
ああ、ちなみに
>>676と同一人物だよん。
684 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 01:28:09 0
>>683 ん?
そう思ってるのは、いったい誰なの?
みんな「オリジナルな思考」に対する信仰が強すぎw
自分の考えてることくらい、長い歴史のなかで
他の人間も考えてるだろう、という謙虚さで歴史や哲学史を
学ばないと。自前の思想なんてそう簡単には出てこない。
686 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/07/01(日) 01:34:11 0
再度申し上げますが
思っているのも考えているのも身体の働きですね。
本来という言葉を遣うのならば
私なるものは存在しないという事です。
>>680最高位さん
ではどちらが重要なのでしょう?
それによって最高位さんの哲学に対する本質が見えてくるというものです。
687 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/07/01(日) 01:35:00 0
>>684 だから誰とか以前の話だっていっとろーがァ!この○○○○○が!
・・・・って話なんだろ?
我思うの我すら胡散臭いんだから、我ありなんて夢のまた夢なのか・・・?
あるいは思うって表現自体いまいちか?言語を匂わせてしまうしな。
感じるとか盛り上がるでもいいかもしれんな。
そしてそれはどこからともなくやってきて去ってゆく・・・。
に、肉のせいか!?
690 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 01:58:36 0
>>686 >思っているのも考えているのも身体の働きですね。
いいえ
思っている というのは、私の観念です
体の働きである と結論付ける前に
まずその体と、私という主観性との関係性が示されなければなりません
無数にある他人の体と、私の思考は関係がないからです
なぜ、この体が私であるのか
それがまず重要な課題です
しかし、その関係性は物理的要素で説明する事は絶対に不可能
私の存在性は物理現象などで解明する事は不可能である
という一連の論理性を以ってして、唯物論は間違いである という結論が出ている という事ですよ
何回も言ってるんだから、いい加減に人の言っている事を理解しなさいよ
こんな簡単な事も理解できないんだから、偉そうに批判などしてこないで下さい
>>688 と、思っているのはキミだろ
他人か?
それともキミじゃない単なる物理現象なのか?
しかし
「キミ達は、哲学的ゾンビなのか?」と聞くと
あわてて「そんな事は言っていない!!!」と、自我のある事を訴えるよな(爆笑
なんなんだよマッタク(苦笑
>>690 物理現象・・・
ありうるなァ・・・
おれはこの肉のせいで盛り上がってる、盛り上げられてるのかもしれん・・・
我より先に肉あり・・・か・・・・
692 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/07/01(日) 02:13:40 0
>>690最高位さん
唯物論は精神を説明する事ではないというのが大方の意見ですし
私もそれに賛同致します。
最高位さん流で唯物論をそういう思想にしなくてはならないのは
私の存在性のためでしょうか?
観念も主観性もこの身体あるが故に思考できるものであることは間違いない事です。
ですから不可分であり分けて論じる必要はありません
相互に依存しあっていると言ってもよろしいでしょう。
さて、このように書きますと「唯物論者ですか?」と返ってきそうですが
この身体、物質とよばれるもの、或いはこの現象世界
これは第八識「阿頼耶識」という「こころ」なんですね。
無数にある身体は誰しも平等とし、そこにある私に違い、差別を求め
またその理由と言われるならば、それこそ唯識思想の重要なテーマである
「自我」という領域です。
693 :
1:2007/07/01(日) 02:19:32 0
>>675 基地外、スピノザを読んでみそ。共感できたらいいけど。
我の位相が違うというのは感受性かも知れないからな。
あと、デカルトがどう思ってたか関係ないとか言うんだったら
他人からの批判に対して「デカルト以前ですね」とか言うのやめろ
基地外は、端的に「ある」んか「ない」んかが欲しいのか。
じゃあ蓋然性の関係だったらどう?
「我思う故に我あり」は「我思う」なので「我あり」である。
この関係を普通、因果関係と言う。AならばBをA→Bとする。
Aを行なうと、毎回Bになった。そこで因果関係A→Bについて考えた
ところ、法則Cが分かった。法則Cは数学的に完璧に記述できた。
よって科学法則が1つ発見された。
694 :
2:2007/07/01(日) 02:21:27 0
しかしこれは正しくない。Aを行なうと継起的にBとなる。Aのあとに
Bが起こる。何回もAのあとにBが起こるので、私たちは「習慣」として
「Aの次にB」ということを知る。しかし私たちの認識能力では、
AとBとのあいだにどんな関係があるのか本当は知ることができない。
A→Bとなる「現象」を受けて、「後から」AとBを関係付ける理屈を
考えることはできる。それが法則である。こうした法則を見出した
からといって、この法則が、Aの次にBが起こることを、実は保証
してくれない。「Aの次にBが起こらない可能性を、私たちは原理的に
否定できない」よって、あらゆる因果関係は正しい認識ではない。
「我思う」からといって必ず「我」が「ある」とは限らない。
言い換えれば、「我思う」故に「我あり」は常に蓋然的である。
よって「我思う」は必ずしも「我あり」とはならない。
『知覚の束』までいきたいけど、もう遅いのでまた
もうきりがないからやめよう
696 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 02:34:48 0
>>692 >唯物論は精神を説明する事ではないというのが大方の意見ですし
はぁ???
心身問題における唯物論の主張は
「人間の精神は物理現象にすぎない」というものですよ?
何を考えてるんですか
ホントいい加減にしましょうね
私が言っているのは
「じゃぁ、どうやったら、この私は現象するのかな?」 ということです
唯物論者は、何も説明する事ができません
>観念も主観性もこの身体あるが故に思考できるものであることは間違いない事です。
これは信仰です
「わからん」が正しい
思い込みで、短絡的な結論を出してはいけません
>これは第八識「阿頼耶識」という「こころ」なんですね。
>無数にある身体は誰しも平等とし、そこにある私に違い、差別を求め
>またその理由と言われるならば、それこそ唯識思想の重要なテーマである
>「自我」という領域です。
論理的な説明になっていません
宗教の押し売りはやめましょう
しかも、あなたの仏教観が正しい という根拠もありませんしね
私から見ると、あなたは仏教徒のふりをした唯物論者にしか見えません
とにかく、哲学板で意見するなら
論理性で説明して頂かないと困ります
697 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/07/01(日) 02:50:17 0
最高位さん
それではこれはもう見解の相違ということになります。
少なくとも宗教の押し売りでは有りませんね。理論ですから
それを信じる、信じないに到ってこそ宗教というものです。
>思っている というのは、私の観念です
これも信仰ではないでしょうか?
やはりご自分の意見に反する者は唯物論者ということですか。
私も哲学スレは長いですから他の方にご判断を願いましょう。
ご質問があればお答えします。
698 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 02:55:49 0
>>691 肉屋に吊られている肉も、あんたか?(爆笑
違うだろ?
だったら、なんでその肉は、あんただったのかな?
>>693 >>694 しかしキミは病的だなぁ
本気で医師に相談した方がいい
厳密に言えば、デカルトは関係ないんだよ
私が
我思う故に我ありは否定できないだろ?と言ってるんだ
今更、デカルト本人に
「これはこういう意味で言ってるの?」と確認できないだろ
だから私の解釈で、デカルトの言葉を使って、更に高度な哲学につなげているだけだからね
論旨、論点が重要なのであって、キミ達みたいに
哲学史の解釈という観点ではないわけだよ
要するに、キミらは的外れな事を一生懸命にやっている
見ていて気の毒だね
哀れっつーかね
>「我思う」からといって必ず「我」が「ある」とは限らない。
我思う と言った時点で、我はあるだろ
「我思う」だぞ?(爆笑
何考えてんでしょね・・・
たぶん、大方の意見は正しいと云う理論か。
>>696 おまえごまかすのもえぇ加減にせえよ
上で説明できんから唯物論はまちがいって言ってるじゃねえか
だったら「人間の精神は物理現象にすぎない」というものですよ
でええやん
701 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 02:59:21 0
>>697 >ご質問があればお答えします。
全然ありません
あなたと話してると、こっちまで頭がおかしくなりそうです
なーるほど。最高位のための唯物論でそれを壊すために
これまた私の存在性を持ち出したというわけか
最高位だけの唯物論論破説のからくりは最高位自身の願望なんだな
704 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/07/01(日) 03:04:54 0
>>701最高位さん
いえ、最高位さんに限らず、という事です。
705 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 03:19:53 0
だいたい
>やはりご自分の意見に反する者は唯物論者ということですか。
こういうワケのわからん事を言われても
頭おかしいんかな としか思えませんしね
全然論理的でない宗教教義を、何の根拠もなく
単に「論理ですから」 と言われても
やっぱり頭が悪いんかな としか思えませんしね
>>705 説明不足の唯識もかなりあれだがおまえ唯識が言ってる事とか仏教とか勉強したことあんの?
>>698 肉は肉を欲する・・・
肉がなければ盛り上がらない・・・盛り下がらない・・・
この○○○が!その肉とはどの肉だぁ?その認識自体肉作用だろうがァ!
・・・思ったが、認識できるもんは全部物理現ショーなんじゃないのかい?
そうでないと目が見えんからな・・・触っても感じないからな・・・
ア・タ・シも物理現象なんじゃないのかい?認識できちゃうんだから・・・
肉・・・・・・
大方の意見は正しいと云う理論では、ちと理論と
しては。。。。。。
で、この場合どっちが正しいの?
>>698 なんだ、結局他人の格言のつまみ食いじゃねえか
正しい事にどういう意味がある?
俺ならどっちがおもしろそうか。
最高位は実は理想主義なんじゃないか?
唯識はよく読んでみるとかなーり現実主義っぽいぞ
713 :
佃煮マニア:2007/07/01(日) 04:17:17 0
住民が「私らしきもの」の提示をする。
50こいたおっさんである最高位がお姫様よろしくイヤイヤをする
「それは他人になる」っつっても説明は一切ない
これじゃあね
綿密な議論にならず単なる荒らし行為になっちゃうんだから
はぁ〜くだんねえええ
714 :
素人:2007/07/01(日) 07:04:33 0
>>712 >唯識はよく読んでみるとかなーり現実主義っぽいぞ
当たり前でしょうw
仏教は、その出発点として、(そして、いつだって)
「ここに、今まさに生きている自分自身」を主題としているのだから・・w
715 :
素人:2007/07/01(日) 07:24:41 0
>>646 ほらw
君が、作為的に「ある部分」を削除して文章作るから利用されてしまったw(
>>675)
A>それを差異化したのは、私(たち)だろう。
B>私(たち)が便宜上、換言すれば実践的関心・欲望(最高位ふうに言えば価値観)に沿って分節化したものにすぎない。
>したがって、どこまでが平地でどこからが山かは便宜上の区分でしかない。
C>富士山もしかり。もし、それが本来的に“個物”なら境があるだろう。
>どこまでが富士山か、だれも知らないのではないか。
君が646で述べるように、「この体」も、
・『私』という主観によって差異化され(A)
・便宜上分節化されたものに過ぎず、どこまでが「この体」でどこからが「この体」でないのかもまた、
便宜上の区分でしかない(B)
・「この体」もしかり。もし、それが本来的に“個物”なら境があるだろう。
どこまでが「この体」か、だれも知らないのではないか。
と、このようにも述べなければならなかった。
646は、あまりにも狡猾な言い回しだw
716 :
素人:2007/07/01(日) 07:43:34 0
付言するなら、
>それを差異化したのは、私(たち)だろう。
その「差異化」は、本当に(私(たち)の価値観で)「勝手に差異化され」たのだろうか?
差異化される対象の側に、「それを誘引する何らかの要素」があるのではないか?
こういう疑問は湧かないのか?ということ。
感嘆子は、これについても何度か述べている。
最高位に言わせれば「私たち」はおかしいよ
100%ありえない
一つしかないらしいからw
たくさんいるのは「他人たち」だねw
719 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 08:43:57 O
差異は自立相互間に発生する。
これがあるから我々は境界として見分けがつく。個性と個性の境界に主張が、関係が、互いにされる。
ただ意識は対立した概念を用いる。
弁証法を価値ありとする。
720 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 08:53:52 0
>>696 >心身問題における唯物論の主張は
>「人間の精神は物理現象にすぎない」というものですよ
何でたらめ言ってんの?ソース示してごらん
>>698 >厳密に言えば、デカルトは関係ないんだよ
>>115であなた言ってるんですけど(笑
>「我思う故に我あり」だよ
>デカルトからやり直した方がいい
>我思う と言った時点で、我はあるだろ
>「我思う」だぞ
おいおい、そんなこと言い出したら自分が持ち出した
「我思う故に我あり」の意味がなくなってしまうぞ
我思うだけでいいってことだな(爆笑
>>705 >全然論理的でない宗教教義
何言ってるんですか?仏教は二項対立をディコンストラクトする
きわめて論理的な狭義ですけど
無知なのにでたらめ言うのいいかげん、やめてくれるかな?(爆笑
722 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 09:28:38 O
空が差異を差別と考えて、境界を取り去るのは無
痛状態を目指す為か。
私的には感覚の否定に、ニヒズムに見えるが。
723 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 09:33:05 O
空とい思想において、創造にはどのような意味が
あるのだろ。
724 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 09:42:09 O
仏教は人間がもつ感情、喜怒哀楽を欠いているといわれているが本来は気高いものだと思う。日本仏教の音経なんかをみると確かに人間の核ともいえる感情を無くしているようで嫌いだが本当は気高い精神と高説が本質で仏陀は情に熱くよく泣いた人だと思うよ
ついでに丸山圭三郎の文章も引用しておきましょう。
【走っている電車の中でした。ガラガラの座席に母親とともに坐っていた三歳ぐらいの女の子が、
「デンシャ、デンシャ」と習いたての単語を一生懸命口の中でつぶやいては、、、、「ママ、デン
シャって人間なの?それともお人形なの?」コトバを覚えはじめたばかりの幼児にとっては、毎日
の瞬間、瞬間が新しい分節、意味づけ意味づけられる行為の連続なのです。コトバ以前に、もちろ
ん感覚=運動的な知能による分節行為はあります。しかし、言語習得によって見に付けるものは、
そういう自然の分節行為ではなくて、まことに非自然な分節行為です。ですから、なかなか本能的
納得というものは得られません。「デンシャって人形なのか人間なのか」という妙な質問も出てく
るわけです。つまり感覚=運動的な知能から思考的な知能へと移行していく象徴化過程煮あって、
この女の子の世界の中では「電車」という語を知る以前は、こういうふうに分かれていたのでしょ
う。「動くもの、そして柔らかく温かい感触をもつもの」と、「動かないもの、そして固く冷たい
感触をもつもの」という対立によって生じたカテゴリーにおいては、「人間」と「人形」という概
念が無理なく処理されていました。「人間」というのは「動いて柔らかくて温かいカテゴリー」に
すっぽり入っていましたし、「人形」はいくら人間と似ていても、「動化ないし、さわれば固いカ
テゴリー」に属しています。ところが「デンシャ」というコトバを習い、同時にその対象を認識し
たとき、「動きはするが、さわってみると冷たく固い感触をもつ」新しい指向対象(レフェラン)
が登場しました。この子が混乱した理由はよくわかります。彼女は次第に象徴の森という名の文化
のフェティズムに入っていく。 】
http://web.sfc.keio.ac.jp/~nysuzu/file1.html ちなみにこのての言語論は入試現代文に頻出だよ! w
726 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 10:39:07 O
境界は発生している。
常に。(=時間)
そして、我々が厳密に言えば、時間の生成は見えない。
見えるのは生成から産出されたもの。
ごめん。慶応の学生なのに誤字が多すぎるな。
引用したあとで読んでみて気づいたw
728 :
302:2007/07/01(日) 11:24:24 0
>>711 それは、命題の有為性による。
なんらかの目的について有意な命題であれば、
正しい答えによって、正しい予測が可能となり、
目的を達成するのに役立つ。
しかし、正しくても間違っていても、有為な差異の無い
命題では、正しいことにはなんの意味もない。
729 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 11:33:13 O
正しいって事は、そこで行き着く。止まる。
有為とは、止まらない更新かと。
730 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 11:40:10 0
>>713 どこが50こいてるんや? ボケが
>>714 だから何度も聞いてるんだけどさ
他人ではない自分自身は、いかなる物理的要素によって現象しているのかな?
明確に、具体的にお答えください
>>715 厳密に考えりゃわかるだろ
体表からは常に水分とかが蒸発してるんだよ
この水分は、私の体なのかね
体内の水分と、体表の水分と、すでに蒸発した水分
これらは何が違うのかね?
>>720 >>心身問題における唯物論の主張は
>>「人間の精神は物理現象にすぎない」というものですよ
>
>何でたらめ言ってんの?ソース示してごらん
では聞くが
心身問題における湯物論の立場とは、いかなるものなの?
いったい何を主張してるわけ?(爆笑
あー、みなさん
私と、ちゃんと議論するつもりでしたら、せめてコテぐらいつけて下さいね
名無しの人は、最初から逃げ道を作っていると判断させてもらいます
>>730 あー今仏教関係の話ね
流れ読めんのなら黙っててくれんか
732 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 11:56:02 0
>>730 では聞くがじゃねえ
ソース出せつってんだろがごみくず
733 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 11:57:05 0
>>731 どうぞ勝手に仏教の話でも何でもやって下さい
私は、私に関係するレスに返事しただけだからね
関係ないのに、いちいち喋りかけてくんな ボケが
734 :
ネコの味方:2007/07/01(日) 11:57:08 0
>>715 身体は特別な存在(個物)ではないでしょう。自然(たぶん宇宙)と一つながりのw
物体です。身体と他との境目も便宜上のものです。
この一つながりの(身体を含む)事物に差異の網目を引いたのが【私】でしょう?
この【私】は“私”をも差異化します。
ここで“言語”につき語るべきでしょうが、シニィフィアンとかシニィフィエとか
言いはじめると、私には手が負えないので、だれかお願いします。
狡猾でありたいとは思っていますが、そこまでアタマが…。w
735 :
302:2007/07/01(日) 12:01:11 0
>>729 有為とは、そういうポエムではないよ。
現実に具体的な結果が得られること。
行きたい場所に行けるとか欲しいものができるとか。
単に、形而上の概念を脳の中で更新し続けているだけなら
それは俗に言う「下手の考え休むに似たり」というやつだ。
736 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 12:02:53 0
差異の網目を、意識がカテゴリーに変換したとか。
自立から対立へ。
唯物論へ。
私の有為は、閉塞の打破です。
最高位はもう基地害だな
740 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 12:18:08 0
逃げまどう哲学者
見てておもしろいわ
741 :
ネコの味方:2007/07/01(日) 12:27:26 0
>>716 たとえば富士山やオーロラに関する情報を一切持たずに、それを初めて目のあたり
にしたら、震撼させられ「特別の差異化を誘引させられる」かもしれません。
しかし、その場合、富士山やオーロラが目撃者を驚かせ「差異化を誘引している」と
本当に思いますか?w それらは、ただあるがままにあるだけでしょう。
むろん、それらに「誘引する要素がある」と思い込むのは勝手ですけどね。
742 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 12:42:31 0
>>717 「私(たち)」としたほうが文章上、坐りがいいのです。
この“たち”は“超越論的主観”に映じた「他人」です。ww
743 :
素人:2007/07/01(日) 12:50:55 0
>>741 なぜいつも、「この体」の場合を除外するんだ?
なぜ、富士山とかオーロラとか遠い所のものにしか言及しないのだ?
姑息だな。
ちなみに、この場合の差異化に於いて、私は言語と結びつけて考えてはいません。
>>725が、近似として示唆的だと思います。
思惟する以上、言語(概念)を鍛えるが肝要かと。
手段は意識しかないのだから。
感覚に追いつくにも。
745 :
素人:2007/07/01(日) 13:25:49 0
>>730 >だから何度も聞いてるんだけどさ
何度もお答えした筈ですが?w
もう一度、ゆっくり思い出して下さい。
>厳密に考えりゃわかるだろ
そう。【厳密に考えれば】ねw
「貴方自身が条件付けをし、その中で(その条件の上に於いて)これこれである」
という限定的視点であることに気が付きませんか?
(※この点に関しては、また機会を見て言及しましょう。最高位氏の『無自覚な捨象』について・・・w)
>体表からは常に水分とかが蒸発してるんだよ
>この水分は、私の体なのかね
>体内の水分と、体表の水分と、すでに蒸発した水分
>これらは何が違うのかね?
そう。その疑問が大切なのですよw
(水分に限らず、骨でも、肉でも、皮でも、髪の毛でもよいが、)
『何が違うのか』、『なぜ、そのように区分してしまうのか』、
貴方は、この疑問に関して全く無頓着ですね。
(※言語・言語化の話に逃げないように・・・w)
746 :
ネコの味方:2007/07/01(日) 13:49:41 0
>>743 「この体」って、どの体ですか。一応、便宜的に「私の体」と称している
これのこと? それとも便宜上、他人と呼んでいる「あの体」のことですか。
むろん、私の実践的関心wによってそれぞれ「この」と「あの」を差異化して
います。w そう言っているでしょう?
狡猾とか姑息とか、暑さでイラついているのか。それとも私生活上、面白くない
ことがあったのか。w
音楽。
明確な差異的時間。
境界にある関係(意味)多様な音が同時にある非実存。
748 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 15:14:24 0
>>745 >『何が違うのか』、『なぜ、そのように区分してしまうのか』、
>貴方は、この疑問に関して全く無頓着ですね。
んなアホな(苦笑
無頓着なのはキミだよ
私は、厳密に考えれば考えるほど
物質世界に境目は無い という事が理解できる と言ってるんだよ?
コレ と思っているのは、テキトーな人間の価値観であって、観念なわけだよ
私は幼い頃は、『胃』と言えば、あのカタマリ全部が胃だと認識していたわけだが
学校に行くようになったら、胃というのは筒状なのであって、中身は胃ではない事がわかった
ようするに
そう認識しているからといって、そういうモノである とは言えない
『ソレ』は決まっているのではなく、存在性ではない という事さ
749 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 15:30:24 0
>>743 むしろ、あなたの言い方はヒトの“身体”に特権性を与えることになります。
それは唯物論的でも仏教的でもないでしょう?
と、さらに攻撃的にたたみこんでみる。ww
750 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 15:34:50 0
「胃」が消化等の機能という観点から考えられるように、
「自我」も思うとか認識とかいう観点から考えられた機能概念。
いいかげんにせえよ。
751 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/07/01(日) 15:47:15 0
>>750 アホだなぁ
自我が機能概念にはなりえないだろ
誰の概念なんだよマッタク
自我による機能概念 ならわかるがね
ホント知能が低いなぁ・・・・
今日はここまでだ
私に対して反論しようとすると、アホな方向にしか行かんぞ(苦笑
理解しようと頑張りなさい
752 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 15:55:37 0
誰というのが概念でなくて何なんだよマッタク アホ
753 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 15:58:13 0
>私に対して反論しようとすると、アホな方向にしか行かんぞ(苦笑
分かっているようだな・・・・
アホにはつきあうな・・・・と。
754 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 16:01:09 0
おまえだけの概念だったら、誰が理解するんだよ マッタク
キチガイにもほどがあるぞい。
755 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 16:01:57 0
自我が機能概念かどうかなんて個人で考えが違うだろマッタク
756 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 16:08:03 0
宗教の実体概念から機能概念へ
757 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 16:14:08 0
自我を実体として前提しなけりゃ
自我による機能概念にはならんだろ。ぼけ。
アホだなぁ
この大地が動いてるわけないだろ。
759 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 16:22:35 0
天帝様がいらっしゃる
天が動いてるわけないだろ。・・・・ というものありだな。
760 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 16:25:04 0
私とは何だろうと考えれば考えるほど頭がおかしくなっていく
これほど頭がおかしくなる疑問は初めてだ
みんな良くこの苦痛に耐えられるね
761 :
素人:2007/07/01(日) 16:38:07 0
>>746 だから、「お前らは“ジャイアン理論派”なの?」と以前尋ねたのだよw
ほんとに言ってる意味が解らないのか?重症だぞw
君にも提示しておこう。
>これらは何が違うのかね?
そう。その疑問が大切なのですよw
(水分に限らず、骨でも、肉でも、皮でも、髪の毛でもよいが、)
『何が違うのか』、『なぜ、そのように区分してしまうのか』、
貴方は、この疑問に関して全く無頓着ですね。
(※言語・言語化の話に逃げないように・・・w)
>>749 とんでもない!w
めちゃくちゃ仏教的ですよw
そこに特権を見ても構わないが、ただし、条件付きの特権だろうがねw ( ̄ー ̄)ニヤリ
762 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 16:43:53 0
頭がおかしくなるって自覚があるんだったら、いいんじゃね。
自己の保全って何なのかね。
いろいろな概念をもちだせば、とりあえず解釈は成り立つだろうけど。
最高位は基本的にわかってますね。
ほかの人たちは勉強はしてるんだけど根本的にわかってない人と
勉強してないしまったくわかってない人の2種類いますね。
764 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 17:15:18 0
最高位が
>>605、
>>598で言うように、俺も「自我が存在しない状態や世界」を仮定して、
思索を続けて来たけど、その結果、「唯物論は正しい」と結論したんだけど。
俺は「自我がなくては世界は成立しない」という従来の考えに疑問を感じていて、
「自我とは無関係に、世界は物理的に実在する」という考え方をしている。
自我は物質から生成された構成物で、意識によって生成系に対し、仮想的に「名目としての基底」として感覚される。
「私となる根拠がない
>>604」と感じるのは、自我が非実在の「イデア」のようなものだからじゃないの。
自我の根源は物質で、自我の生成は、物質の運動や性質などの法則にあるとしか思えないんだ。
自我が仮想ではなく、本当に存在するとしたら、その根拠を最高位に教えてほしい。
「私がいるから、私がある」なんて答えじゃ駄目だよ。どうやって、自分の脳を自分で知覚するの。
自我の存在する根拠など、本当はないんじゃないの。
765 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 17:46:57 0
無駄だよ、最高位はトートロジーを振り回して悦に入るだけの
ただの低脳だからな。
766 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 17:55:20 0
>>761 そのように区分(差異化)するのが私(自我)のサガ(機能)です。なぜ区分して
しまうのか。ある論者は気遣いによって、他の人は関心によって、別の人は
欲望によってそうする、と述べています。
最高位なら、価値観によって、あるいは“テキトウに”wというのではないの?
たぶん、あなたは“仏教的観点”からそうしているのでしょうね。
767 :
素人:2007/07/01(日) 18:16:28 0
>>766 まな板の上のサンマを「この体」ではない、と
区分する理由は、仏教的でもなんでもないw
768 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 18:29:59 0
>>767 食べたい(欲望)からでしょう? ナマグサ坊主め。w
対象相互がなぜ区分されるのか、それは私の性だ
からです。
とのことですが。
対象相互間に関係があるように、たぶん私と対象
相互間にも関係がある。
「私」が難しいのはそうやって私は変化しうる。
私が強ければ積極的。
弱ければ受動的。
かな。
770 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 18:37:10 0
この体をぶんなぐったら、ぶんなぐった体をぶんなぐりかえす。w
771 :
素人:2007/07/01(日) 18:57:12 0
>>769 まじめに話す気はないということか・・・。
ならば、もう君と会話する必要はない。
いくつか、同じ内容の文を提示する。
被っている帽子を「この体」ではない、と区分する理由は何か?
首から下がったネックレスを「この体」ではない、と区分する理由は何か?
差している傘を「この体」ではない、と区分する理由は何か?
運転している車を「この体」ではない、と区分する理由は何か?
手に持った箸を「この体」ではない、と区分する理由は何か?
目の前を通り過ぎる電車を「この体」ではない、と区分する理由は何か?
散髪屋で床に散らばった髪の毛を「この体」ではない、と区分する理由は何か?
カップに揺れるコーヒーを「この体」ではない、と区分する理由は何か?
遠く霞む山脈を「この体」ではない、と区分する理由は何か?
足元に揺れる野草を「この体」ではない、と区分する理由は何か?
こうした区分は、本当に(私(たち)の価値観で)「勝手に区分され」ているのだろうか?
(
>>716 >その「差異化」は、本当に(私(たち)の価値観で)「勝手に差異化され」たのだろうか?)
772 :
素人:2007/07/01(日) 19:00:27 0
773 :
769:2007/07/01(日) 19:03:12 O
素人さん。
何のことでしょう。
774 :
769:2007/07/01(日) 19:06:39 O
素人さん。
了解です。
問題は、>769のような純粋な差異からの関係性が
、意識に内に捉えられると逆転したりする。かな。
規範や理想、べき論。
真理。唯物論。
固定的だ。
776 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 22:51:06 0
キッチリとテキトーの境目があるのか。
テキトーなご意見求む。
777 :
考える名無しさん:2007/07/01(日) 23:09:17 0
デカルト哲学の経験を可能とする自我。
西田哲学の、自我概念を含まぬ「純粋経験」。
デカルト・・・か・・・
彼は我について・・・言及できていなかったのか・・・?
779 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 00:52:09 0
用語解説
【最高位のイデア論】
目前のコップの水が蒸発してワシントン上空の雲と繋がっている
ように、全ては一つながりである。人間が勝手に切れ目を入れて
いるだけである。ワシントンの空の雲と繋がる水を、目前の
コップの水という「イデア」で切れ目を入れているのだ。
ゆえに、「この体」「あの体」も存在しない。人間がイデアに
よって勝手に作ったのだ。
【最高位の唯物論破壊】
同じ物質的要素から成る「この体とあの体」。
しかし、「この体」にこの私である。「あの体」にこの私では
ない。ゆえに、この私と物質的要素とは関係ないという結論を
導き出せる。ここで唯物論は、この私最高位によって初めて
破壊されたのである。
【最高位の世界最先端哲学】
現在、世界最先端をいく哲学が最高位の哲学である。それは
上記の最高位の唯物論破壊と最高位のイデア論の二つによって
成る。
780 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 01:59:55 0
最高位という人の物質観というのはスーラの点描画のようだな。
781 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 02:12:57 0
1というイデアは自我にもあてはまるな。
782 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 02:59:30 0
全てが一つながりであるなら、同じ物体をもう1つ作るって言う話は
テキトーな話だったわけか。
783 :
実存主義者:2007/07/02(月) 03:34:39 0
当たり前のことだが「私」などという実体はない。
ああでもありこうでもある、というそれだけ。
784 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 04:56:49 0
それでは今日から「私」という言葉は使わないことに
しようではありませんか
かわりに「ああだこうだ」と命名しましょう
「僕」って言ってるよ。私だと公的な自分で、僕だと公的とまでは
いかないけど、相手に対してややへりくだった言い方だから。
みんなが俺と言っている場では俺。相手に合わせて使い分ける。
前近代的な発想だけど。関西ではどうなのかな。
僕は決してへりくだった言い方ではないが。
教養がないですね。僕は「シモベ」とも読む。シモベとは、
身分が低くて人に雑用で使われる者。
僕は現在では対等以下の相手に使うもんだろ。
子供ならありだが。
789 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 09:00:26 0
「私」とか「僕」とか一人称の問題は関係ないと散々やってきたのに。
やはりずっとここに居る人じゃないと議論が進まないね。
新しい人が来ては昔議論し尽くした話題が再燃する。
教養がないですねえ。
791 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 09:05:36 0
>>790 煽ってもだめだよ。
住民はそんなことには慣れっこさ。
>ずっとここに居る人じゃないと議論が進まないね
ワロタ
つまりコテハンの専売特許か
794 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 09:24:34 0
最高位もついに自スレを持てるようになったか。
メデタシメデタシ。
∩___∩
| ノ ヽ
/ > ● |
| ( _●_) ミ ただいまクマー♪
彡、 |∪| )
/ ヽノ //
ヽ| /
| /
ヽ / /
/ /ヽ
(´_ /ヾ_)
>>771 >こうした区分は、本当に(私(たち)の価値観で)「勝手に区分され」ているのだろうか?
>(
>>716 >その「差異化」は、本当に(私(たち)の価値観で)「勝手に差異化され」たのだろうか?)
自分の体に関しては、本能的なものによる差異化が大きいのでは?
自己保存本能みたいなものがあるんだろうから。
>>725で俺が引用した丸山圭三郎の文章中にも次のように書いてあったでしょ。
【コトバ以前に、もちろ ん感覚=運動的な知能による分節行為はあります。
しかし、言語習得によって身に付けるものは、 そういう自然の分節行為では
なくて、まことに非自然な分節行為です。】
つまり分節行為にもいろんな段階があって、本能的なものによる分節とか、
言語的・文化的分節とか、個人的な性格や好みによる分節とか、
いろいろあるわけだろう。
797 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 10:08:35 0
>>796は本能を認めるのか。
言語以前の本能による文節を認めるのか。
じゃあ、本能ってどうやって出来たんだ?
本能ってあるのか?
いろいろあるわけだろうって、いい加減すぎて
哲学として欠陥品だぞ。
>>797 >いろいろあるわけだろうって、いい加減すぎて
>哲学として欠陥品だぞ。
ここで俺の哲学を披露しようとしてるわけじゃないからw
ところで、哲学はすべてを解明できるわけじゃない。
あたりまえのことだけどね。
>>771の
>足元に揺れる野草を「この体」ではない、と区分する理由は何か?
のような問いは、基本的には答えられない問いだろう。
言いかえればいろんな理由づけが可能。
その中で比較的有力だと思われる理由づけとして俺は
自己保存本能を挙げたわけだが、君は自己保存の本能
のようなものがあるとは思わないの?
いい感じで話が進んでいきそうなので、暫く発言は控えますが、
一言二言添えておきます。
>>798 >>足元に揺れる野草を「この体」ではない、と区分する理由は何か?
>のような問いは、基本的には答えられない問いだろう。
そうだろうか・・?
簡単ではないにしても、
「殆どの人が、同じように、何の疑問もなく、【自然と(!)】区分してしまっている」ことを考えれば、
そこには、重要で決定的な理由がありそうだ。
逆に、
『足元に揺れる野草【をも】「この体」である(≒自分である)』という視点を持つことの方が困難だし、
それは、宗教的領域に足を踏み入れることとなる。(※禅は、このようなベクトルを持つのであるが・・・)
『足元の野草は「この体」ではない』という視点は、ほぼ全ての人間が理解し実感しうる視点だと思う。
その視点を持つために特殊なスキル・思考方法・視線が必要なわけではないだろう。
その意味で、(生来的に備わっている知覚認識の仕組みで)、本能的であると言うならば、
大きく外れてはいないかもしれない。
ただ、それだけでは、上の「私の価値観で【勝手に】区分している」という言い方とさほど変わらない。
「対象の側に何らかの差異があるからこそ、「私」はその差異を知覚し区分できるのではないか?」
というのが、
>>771等での話題提起です。
ノシ
>>799 >『足元に揺れる野草【をも】「この体」である(≒自分である)』という視点を持つことの方が困難だし・・・
それは自分とその他を区分する見方が根深く身についているということだろうね。
本能的・生理的なものと文化的・教育的なものの割合がそれぞれどれぐらいなのかは分からないが。
>「対象の側に何らかの差異があるからこそ、「私」はその差異を知覚し区分できるのではないか?」
>というのが、
>>771等での話題提起です。
知覚の差異は、対象の側の差異によって生じるという考え方は、
文化や言語によって差異化が異なることを見れば根拠が薄弱になるね。
では対象の側に差異がないのかといえば、そうとも言えないけど。
>>646 >仮りに地球を一つの物体とする。地球は陸と海、平地と山が截然と客観的に分別
>されているわけではない。それらは、最高位が強調するように一つながりである。
>それを差異化したのは、私(たち)だろう。
「截然と」分別されているわけではない、というのが「正しい」と考えるためには、
「客観的に」分別されていなければならないわけです。それを差異化したのは私の主観
ですが(私たち、は論点先取ではないでしょうか)、それは対象に「客観的に」存在する
差異を認識した、あるいは対象から働きかけられて(というか相互作用の結果として)
否応もなく差異化させられた、と考える以外はありません。
あらかじめ「地球」という個物が何であり、「陸」「海」「平地」「山」という
概念で表現される個物が何であり、どこで分別されるかを客観的に知っているからこそ、
それらの境界が概念上は必ずしも一意的に決まらない、という「客観的事実」を語ることが
できるわけです。そうではなく、文字通り私が勝手でテキトーな価値観によって差異化
しているのならば、「截然と分別されているともいないともどうとでも言える、すべては
私の価値観次第」と考える以外ないはずなのです。
(あなたのように老獪ではないw)最高位氏などはもっとわかりやすくて、
>>730で
>厳密に考えりゃわかるだろ
>体表からは常に水分とかが蒸発してるんだよ
と述べていますが、そもそも個物としての「体」、個物としての「水」がどこで分別される
かがあらかじめわかっていなければ、そんなことを言えようはずがありません。もちろん
「私の勝手でテキトーな価値観」としてなら言えますが、氏は明らかにこれを
「誰もが認めざるを得ない客観的事実」として語っているわけです。
(続き)
>私(たち)が便宜上、換言すれば実践的関心・欲望(最高位ふうに言えば価値観)に
>沿って分節化したものにすぎない。したがって、どこまでが平地でどこからが山か
>は便宜上の区分でしかない。
本当は、「実践的関心・欲望」というのは、私がこの体であって、この体が
さまざまな他の個物に取り囲まれ影響されている、という認識と相互規定的ではないか
と思えますが、それはともかく、「この体」という個物が存在して、それがまぎれもなく
私である、というのは、まさに客観的な・否応もない・外部から私に押し付けられた
事実であって、実践的関心・欲望によって変えることはできません。
言いにくいことではありますが、私が病気や怪我に苦しんでいるときに、私の実践的関心・
欲望はその全力をあげて「この体が私である」事実を否定しにかかりますが、ついに
できないわけです。苦しみを和らげたければ、それが厳然たる事実であるのを認めた上で、
個物としての「この体」の物質的性質を変化させるべく努める以外はありません。
(むろん、「私」の側を変化させる方法もあるのですが、凡人にはまあ無理です。)
>富士山もしかり。もし、それが本来的に“個物”なら境があるだろう。どこまでが
>富士山か、だれも知らないのではないか。
まさに、だれでも「富士山」を知っているからこそ、「下方向では地面とつながっていて、
その境界は一意的には決められない」という客観的事実も語ることができるわけです。
富士山は富士山という個物であって、浅間山でも琵琶湖でもこの体でもありません。
浅間山に用事があって間違って富士山に登ってしまった人(そんな間抜けはいない
でしょうがw)や、富士山で道に迷ってのどの渇きに苦しんでいる人が、
いかに「実践的関心・欲望」によって「ここは浅間山である。浅間山と富士山は
一つながりだ」とか「ここは川だ。なぜなら山も川も一つながりなんだから」とか
思い込もうとしても、そこが富士山であるという事実を変えることはできないわけです。
(続き)
また、瀕死の病人が病室の窓から富士山を眺めながら「この体と富士山は一つながり
だから、私は富士山でもある。だからこの体が死んでも富士山が残る限り私は
消えない」と考えても、残念ながら私的な慰め以上のものにはなり得ません。
ただ、本当はこのような話は私の関心とは余り関係がありません。私の関心は
1.すでに存在する個物は物質的に作り出すことはできない。個物が二つある、
という事態は論理的矛盾であって、不可能である。
2.私が個物としての「この体」である、という客観的事実の認識を前提にしないと、
世界に「他の私」が存在するかもしれない、という発想は生じない。
の二つだけなのです。どちらにとっても、個物の境界が判明なものかどうかも、
個物が最高位氏用語wによる「純粋な存在性」であるかどうかも、
個物が「実在する」かどうかすら、あまり関係がありません。
思考実験として、文字通り物質界に一切の差異が存在しない状態を考えてみます。
「完全な真空」でも「完全な充溢」でもいいのですが、「私」の前にこのような
物質世界が与えられているときに(本当はこのような状態では「私」は存在し得ない
と思われますが)、文字通り一つながりの全く差異のない世界を、私の勝手で
テキトーな価値観によって区切って名前を付けることはできます。「地球」とか
「富士山」とか「あの水分子」とか「この体」とか。白紙の画用紙に様々な
絵を思い浮かべるようなものです。
(そんな概念をどこから持ってきたか、という疑問は抜きで。)
しかし、そこにおいても、「富士山」が同時に複数あるとか「この水分子」が同時に
複数ある、という事態は矛盾であって、想定不可能であることに、変わりはありません。
また、そのような世界において、「私はこの体である」などという発想は、出て来る
はずがありません。したがって、「他の体は他の私であるかもしれない」などという
発想も、浮かびようがありません。「私たち」とか「共同主観」など、問題にも
ならないわけです。
805 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/02(月) 13:17:36 0
>>751 :哲学者最高位
>自我が機能概念にはなりえないだろ
>>757 :考える名無しさん:
>自我を実体として前提しなけりゃ
>自我による機能概念にはならんだろ。ぼけ。
以上のお二方に・・・・・・・・
私は
>>750 のように「自我は機能概念」だと思います。
心臓で言えば循環に当たります。
脳の機能が心であり、「私の脳」の機能が「私の心」であり「自我」です。
ですから自我には構造としての実体はありません。
しかし機能概念としての実体は存在するといえなくも無いでしょう。
循環が存在すると言おうと思えば言えなくも無いように。
>>804 日常言語において論理的に思考する際にその判断の根拠になるのは
その対象となる概念の内容であったりします。
あなたが
>1.すでに存在する個物は物質的に作り出すことはできない。個物が二つある、
> という事態は論理的矛盾であって、不可能である。
という時に
その根拠は現代の物理学なのではないでしょうか。
つまり物理学における同一性概念をここで適用しているのです。
そうでなければ同じものが二つ存在していていけない理由はどこにもありません。
二つのものが同じであるとすればいいだけの話だからです。
それから後半の思考実験ですが
もしかしたら私は完全に充溢した世界に存在しているのかもしれません。
あるいは完全に空虚な世界に。
そこで私に感じられる観念の数々は悪魔のいたずらによって
(そんな概念をどこから持ってきたか、という疑問は抜きで。)
生じているのかもしれません。
すくなくともデカルトに帰せられる方法的懐疑によれば
このように考えることもできます。
807 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 13:31:09 0
>>806 > そうでなければ同じものが二つ存在していていけない理由はどこにもありません。
そうじゃねーよw
二つあったら別物だということだよ。
最高位並みの頭の悪さだなw
808 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/02(月) 13:37:13 0
>>806 :考える名無しさん:
>二つのものが同じであるとすればいいだけの話だからです。
? ?
>>804 が言っているのは同じものが二つあるものは「個物」とは言わないという事でしょ?
他にも同じものがあると「個物」の定義に論理的に反すると言うことでしょ。
>>802-804 >まさに、だれでも「富士山」を知っているからこそ、「下方向では地面とつながっていて、
>その境界は一意的には決められない」という客観的事実も語ることができるわけです。
「客観的事実」っていう言葉の使い方がおかしいような…
(全体的に、「事実」とか「知っている」とかの使い方がへんだと思うw)
>そこが富士山であるという事実を変えることはできないわけです。
そこが富士山であるのが事実なんではなくて、
そこをほとんどの人が富士山として見ているだけのことだと思う…
これも文化的なものだね。
アホかいな。
何かが「同じ」と言う時に、時空が「異なる存在」が、
「分類名が同一」だから同じだというのと、時空が同一の存在
だから同じだと言うのと、ゴチャゴチャにするな。
最高位も含めて、ゴチャゴチャに語るアホが多い。
>>804 >また、瀕死の病人が病室の窓から富士山を眺めながら「この体と富士山は一つながり
>だから、私は富士山でもある。だからこの体が死んでも富士山が残る限り私は
>消えない」と考えても、残念ながら私的な慰め以上のものにはなり得ません。
私的な慰めじゃなくて、それが「客観的事実」かも?ww
では内山興正老師の詩をひとつw
【生死
手桶に水を汲むことによって 水が生じたのではない
天地一杯の水が 手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を 大地に撒いてしまったからといって 水が無くなったのではない
天地一杯の水が 天地一杯のなかに ばら撒かれたのだ
人は生まれることによって 生命を生じたのではない
天地一杯の生命が 私という思い固めのなかに 汲みとられたのである
人は死ぬことによって 生命が無くなるのではない
天地一杯の生命が 私という思い固めから 天地一杯のなかに ばら撒かれるのだ】
ぐぐってみた。
澤木興道の直弟子っすかw
道理で気が利いているw
813 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 15:45:10 0
いい詩だね。
天地一杯の○○とか宇宙の○○とか宇宙一杯の○○エネルギー
とか宇宙に広がる○○の波動とかに名前を変えれば、
何にでも使えちゃうよな、それ。
>>806 >その根拠は現代の物理学なのではないでしょうか。
>つまり物理学における同一性概念をここで適用しているのです。
すいません、適用したくても、私は物理学は全く知らないのでw
むしろ現代の物理学は、素粒子等について「同一性概念」を否定することがある
という話を聞いたことがあるのですが(意味はさっぱりわかりませんがw)、
どうなのでしょうか。
それと、後半の話は、まさに物質世界が「現実には」一様な空虚であっても充実で
あっても、あるいは全く存在しなくても、別に構わないわけです。
要は、そこで「私に感じられる観念の数々」が、私の「外部から」やってくる
ものだ、と「感じられる」必要がある、ということです。それが「善意の神様」
からでも「欺く悪魔」からでも「不可知の物自体」からでも、あるいは最高位氏の
言うような(というか現代人の常識の通りの)「拡散するツブツブの物質世界」
からでも、それはどうでもよいのです。
いや、私の外部からでなくてもよいのですが、そうでなければ(というかそう
感じられなければ)、その結果として構築される世界(幻でも何でも)が、
「客観世界」に成り得る理由がないと思われます。観念の数々が私の内部から
やってくると感じられるなら、構築される世界はまさに「主観世界」「私の内容」
であって、世界=私、にしかならないと思うのですが。
それでは、「世界の中に、私と同格の他の私、他者が存在する」というような発想は、
出て来ようがないように思えます。出て来なくてもいい、というのなら、
それはそれでも一向に構わないのですが、個人的にそういう考えは
馬鹿馬鹿しいとしか思えないもので。
>>809 >「客観的事実」っていう言葉の使い方がおかしいような…
>(全体的に、「事実」とか「知っている」とかの使い方がへんだと思うw)
すいません。正確には「客観的事実であることを知っている、としか思えない、
という私の主観的観念」です。もちろん私はどうやっても主観的観念の
外に出ることはできませんので。
>そこが富士山であるのが事実なんではなくて、
>そこをほとんどの人が富士山として見ているだけのことだと思う…
実際にはそれはそうなのでしょうが、これもそう発想するためには、
まずもって「他人」が存在して「何かを見ている」とか、
私も他人も見ているのが同一の個物・「そこ」だという前提(もちろん私の観念)が
必要だと思われます。
現実には、発達心理学(よく知りませんが)等の実証的見地からすれば、
まず他の私が存在して、言語的な環境の中で生育することによって初めて「私」に
なることができ、既存の文化的影響の中で身体的言語的体験を積み重ねることに
よって世界を文節化して個物の集合として認識するに至る、というようなのが正しい
のかと思いますが、そういう話はあまり興味がないので。
>>811 すいません。そういう仏教的?というか詩的な境地は私とは程遠いので、
何もわかりません。
ただ、その詩の文句で言えば「水」や「天地」や「手桶」という概念が指し示す
個物があらかじめわかっていて、「水」と呼ばれる個物は天地の様々な場所に
広く存在するが「この手桶」や「この天地」はこれ一つしかない、という認識を
前提にして、初めて意味があるのではないでしょうか。
そうでないなら
「手桶に水を汲むことによって 手桶が生じたのではない
天地一杯の手桶が 水を汲みとったのだ」でも、
何でもいいことになってしまうと思われます。
>>815 >それでは、「世界の中に、私と同格の他の私、他者が存在する」というような発想は、
>出て来ようがないように思えます。
最高位がそういうことを書いてるの?
私と同格の他の私ってどういう意味だろ。
どこで書いてるか教えて。
最高位に代表されるような何でも自分の意識に還元してしまう
独我論者は永遠に堂々巡りを続ける。
最高位から「私の存在性」を奪ったら唯識論になるのかな?
820 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 17:07:00 0
ものごとの差異は客観的にあるか、私との相互作用から成るか
そもそも私とものごとには超えがたい壁があるか
分別知は利の供与のためにこそ必要であるという考えは、
利と利を享受するものとの間に価値付けるられるものと
価値付けるものとの差異が既にある
キノコと毒キノコ、牛肉と豚肉を別個のものと捉える知
は利の享受主体にとってのみ有効となるのであり、
真の欠如した利の追求は偽装をも善とし得る
価値の細分化と普遍化の方向性は価値付ける側の要請如何で
決まりそうだが、価値は価値付けられる側の個物無くしては
成り立ちそうもない
やはり、私とものごとの間には超えがたい壁が実存するという
ことなのか
動かざる事 ことわりの如し
821 :
考える名無しさん:2007/07/02(月) 17:17:34 0
牛肉と豚肉の概念を磨り潰し、混ぜ合わせ、油で止揚して
できたのがコロッケ
>>815 >むしろ現代の物理学は、素粒子等について「同一性概念」を否定することがある
>という話を聞いたことがあるのですが(意味はさっぱりわかりませんがw)、
>どうなのでしょうか。
そのようですね。わたしも全然知りませんが、
「ふたつのものがいくら似通っていてもそれは同じではない。
それらを構成する素粒子や位置が異なる以上、同一とはみなさない」
というのは現代の物理学の考え方にほかならないのではないでしょうか。
構築された世界が「私の内容」であることになんの矛盾もありません。
自分で見ている夢は私の内部から発生していますが、私が完全に制御できるものでは
ありません。同様に私の感じ取っている世界が私に由来するものであるという可能性を
捨てきることはできません。
もちろんあなたのようにそのような独我論を馬鹿馬鹿しく思うひともいるでしょう。
しかし方法的懐疑とその帰結としてのコギトは過去にさまざまな反論がありましたが
決定的なものはないという考え方もあります。わたしもそう考えています。
論理的に突き詰めると「私」は独我論的な起点から認識を出発せざるを得ない。
それがもっともシンプルで包括的に世界を認識する方法だということです。
そこから、「私」に制御できないものを何と名付けるか、
その感じをどういうものと考えるかは後の話です。
それが受け入れがたいものであるならば、実はそのような帰結を生んだ「論理」
そのものに問題があるのかもしれません。
感嘆子が二人になったみたいだw
まるで、古のヤング博士コピーヤング博士のようだ。
ワロスwww
幾つか茶々入れしたい所もあるが、もう少し静観。
今日は早めに就寝するので、場合によっては書き込むかもしれない。
が、最近の勢いなら、一晩で170は行かないよね?w
825 :
3時で1時:2007/07/02(月) 18:57:21 0
その人の〈自我〉は、躾や教育、学問では問題になりうるが、
〈自我〉は知覚されないゆえに他者に対して閉じている。
それは人間存在が有する「何か」である。
それが「認識作用」であれ「意識された自分」であれ、「思う精神」であれ、「生きること
のわがまま」であれ、他者に対して開かれているのは〈人体たるこの身〉である。
〈人体たるこの身〉によって「私」は誰かであり得、ここに存在しうる。
それゆえ、〈人体たるこの身〉が曖昧であることは許されない。
その人が(私が)何者なのか、何を語るか、何を書き著すか、どういう動作をするか、どう
いう行動をとるかが問題なのであり、何者なのかは〈人体たる身〉において表現される。
「思う」という心的営為も、他者に対して開かれた「人体であるところの私」が引き受ける。
「私」が「自分」として指し示す先は「人体であるところのこの私」である。
そうだ。
一つ、面白い古語を紹介しておこう。
「礼は玉帛にあらざれば表れず、楽は鐘鼓にあらざれば伝わらず」
>>816 >実際にはそれはそうなのでしょうが、これもそう発想するためには、
>まずもって「他人」が存在して「何かを見ている」とか、
>私も他人も見ているのが同一の個物・「そこ」だという前提(もちろん私の観念)が
>必要だと思われます。
それはもちろん。
他人が自分と同じものを見ているっていう思い込みが
なかったら、社会生活は成りたちにくいからね。
で、なんでそこが富士山であることが「事実」になっちゃうの?w
社会的な一般通念っていう意味なのかな?
>すいません。そういう仏教的?というか詩的な境地は私とは程遠いので、
>何もわかりません。
了解w
あの詩のキーワードは「思い固め」つまり思い込みだろうね。
「手桶」は「思い固め」のことだから、個物としての
手桶の認識なんて前提してないだろうw
「認識」=「思い込み」なら分かるが、そうだとすると
君の言いたいことがますます分からなくなる。
君の言う「客観的」とか「知っている」とか「認識」というのは
思い込みの強さを表現してるわけ?ww
>>822 >論理的に突き詰めると「私」は独我論的な起点から認識を出発せざるを得ない。
>それがもっともシンプルで包括的に世界を認識する方法だということです。
根拠が書かれていないが…
まぁそれが君にとって「論理」と思われ、
君にとって「シンプル」に見えるということだろうねw
「閉じる」、
「閉じている」という事に取り敢えずしておくと、
区切りがついて、一息付けて都合がいいって事だと思うんだよね
>>817 最高位が書く「キミ」は、それに当たりますねw
「キミ」と「私」は同格にはならないのでは?
「キミ」と「私」を一応同格のものと見なすのは
社会的な約束事みたいなものによるのかも知れない。
近代的個人の思想の影響とかもあるのかな。
833 :
ネコの味方:2007/07/02(月) 22:51:16 0
うーむ、仕事を終えて覗いてみると、議論が白熱化しているではないか。
俺の“幻の左(突っ込み)”もなかなかじゃん。相当に酔っているので、
感嘆子等に対するレスは改めてさせていただきます。
>>809 がおおよそ、というか私よりも上手に私の言いたいことを述べている
と思います。やっぱりアタマのいい人はちがいますね。w
よろしければ、捨てスレでも使ってください。
ネコが寄って(酔って?)きたので、
>>809に一言だけ。
>>そこが富士山であるという事実を変えることはできないわけです。
この言い方に不備があるとは私も思う。
「そこが≪【(周囲と比べて!)】盛り上がっている場所≫であるという事実を変えることはできないわけです。」
とでもすると、少しは伝わるかな?w
ノシ
差異。
例えば、暖かい空気と冷たい空気の境目にあるの
は、風(=関係)。
837 :
ネコの味方:2007/07/02(月) 23:56:40 0
>>834 そもそも「盛り上がる」といった表現が成立するためには『上』という
観念が共同主観的に了解を得ていなければならない。
そもそも『上』とは何? これほど観念的な言葉はないでしょう。月は
上にあるの、下にあるの。w
「盛り上がる」は、この『上』を前提としたこれまた観念用語です。
“事実”ではありません。w
827は哲学ではなくて、ただの馬鹿だと思う。
『最先端』もそうですか?
『私』もそうでしょうね?
842 :
ネコの味方:2007/07/03(火) 00:40:58 0
そもそも“最高”とか“最先端”なる「事実」があったら教えていただきたい。w
最高位がその種の表現を用いるとき、テキトウに、挑発的に、彼の主観(価値観)に
よるものだというのは、本人も言明しているでしょう?
それがどの程度の“共同性”を得ているかは知るよしもありません。
挑発して凹まされてるのは馬鹿の極みだけどな……
>>842 >本人も言明しているでしょう?
それは事実なん?
845 :
ネコの味方:2007/07/03(火) 01:35:01 0
846 :
素人:2007/07/03(火) 06:42:35 0
>>837 君にも言おう。
月を指差した時、その指でなく、指の先の月を見なさい(想像しなさい)。
847 :
素人:2007/07/03(火) 06:52:00 0
付言しよう。
>>837 >観念が共同主観的に了解を得ていなければならない
そんな必要はない。
この世に自分ただ一人であっても、
≪そこが(周囲と比べて)盛り上がっているかどうか≫は区分されるということだ。
そこに第三者を持ってくる必要はない。
>そもそも『上』とは何?
わざわざ【( )】で添え書きしたのに無視か?w
だんだん最高位に似てきたぞw
上も下も、比較されて生じる概念であることを忘れるな。
848 :
ネコの味方:2007/07/03(火) 08:19:26 0
>>847 ただ一人で「盛り上がってる」と感じたのなら、それは単なる“主観”です。
「事実」とは呼ばない、と言っているのです。
上も下も、ある視線によって見られた観念にすぎず、もともと「自然」に上も
下もないのは自明でしょう。
最高位ふうに、その比較をしているのはだれ?と訊いておきましょう。w
観念という便利用語を連呼する奴は大概何も考えてない。
否定に否定を重ねて結局意味不明でアボン。
>>848 >「事実」とは呼ばない、と言っているのです。
認識の壁によって、「わからない」だけだろ?w
>もともと「自然」に上も下もないのは自明でしょう。
ああ、ああ、私の言い方が悪かったよ。
≪AはBのそっちの方にあり。CはAのそっちの方にある≫ならどうだ。
てか、そもそも「盛り上がっている」と言う時の上とか下とかは、
『自分に対しての』上下ではない。(「盛りあがっている」と書けば良かったかな?w)
【( )】書きの部分を、まだ無視するのか?
>比較をしているのはだれ?と訊いておきましょう。w
誰もいなかったら「差異はない」と、こう言うわけだな?
問い返そう。 「比較できるのはなぜだい?」
851 :
ネコの味方:2007/07/03(火) 09:23:46 0
>>850 だれもいなければ、自然(宇宙)があるだけでしょう?(むろん、これは私の
想像です)
比較できるのは、あなたが対象に何らかの関心(価値観w)を抱くからです。
その視線を通して、あなたは“不二”と叫んだのです。w
平仮名で「あがる」と記しても同じです。「あがる」の意味を考えればいい。
もし“上下の通念”がなければ、別の表現をするでしよう。
>>849 観念なんて、たいした代物ではないでしょう?“思い込み”くらいの
意味でしょう? だから、便利用語になるのです。
私が異をさしはさむのは、主観的(もしくは共同主観的)な思い込みに
すぎぬのに、あたかも“客観的事実”であるかのように言いくるめる
言説に対してです。
852 :
考える名無しさん:2007/07/03(火) 10:06:12 0
>上も下も、ある視線によって見られた観念にすぎず、もともと「自然」に上も
>下もないのは自明でしょう。
それは客観的事実なのか主観なのか、どっちなんだ?
853 :
素人:2007/07/03(火) 10:08:09 0
>>851 >だれもいなければ、自然(宇宙)があるだけでしょう?
まったく同意ですよ。
ただ、今の流れの中で「自然(宇宙)」という大きな(≒最大の)括りを出してくるところに、
私は、貴方の狡さを見るのです。
差別即平等・平等即差別、一即多(一切)・一切即一、煩悩即菩提、
などの言説を、まことしやかに語ることができる理由はそこにあります。
貴方が上で「自然(宇宙)」という語を出してくるところ、「自然(宇宙)」という表現を用いているそこに、
貴方の嫌うw「捨象」が行われていることに気がつきませんか?
貴方にも、最高位氏と同様「無自覚な捨象」があります。
宇宙は差異に満たされている。が、だからこそ全ては同なのだよw
貴方の二段目“不二”は、誤変換か意図的か知らないが、思わず( ̄ー ̄)ニヤリとしてしまったよ。
で、相変わらず【( )】の部分は無視なんだなw (´ー`)y━~~
テキトウな言明と称する者に何を言わんや
差異(様々な関係という関係)が同じだけで、差
異発生元の対象相互が同じでは差異ができない。かな。
856 :
ネコの味方:2007/07/03(火) 19:04:36 0
>>852 もちろん、主観でしかないでしょう。テキトウな言明です。w
>>853 「誰もいなかったら…」という奇妙な(背理の)仮定の質問を投げかけて
きたのは、あなたです。だれもいなかったら(観測者をすべて捨象したら)、
だれがその質問をする(疑問を持つ)のですか。
とはいえ、却下するのも失礼なので、その流れに沿って答えただけ。
自然や宇宙といった言葉は便宜上使っているだけであって、私の主観に
映じている“主観的世界”の別名にすぎぬことは言うまでもないでしょう。
あなたが喧しく騒いでいる【()】は、比較について述べたときに間接的に
説明したはずです。
それは難しく言うと“地と絵”の問題。あなたは盛り上がっているところを
【絵】とし、その周囲を“地”と決めつけている。つまり、すでに差異化は
終わっているのです。主観による心的操作の終了後に比べても、主観に主観
の屋上屋を重ねるだけです。
ここに参加して、最高位のように(失礼)狡くなったとしたら、少しは大人に
なったというものです。w
857 :
素人:2007/07/03(火) 20:50:46 0
>>856 >>46 君は、この断絶から逃げるのか?
私は嫌だ。
君の言辞は、その断絶の周りで舞い踊り、断絶を崇め奉る「懐疑教・独我教」のようだ。
>それは難しく言うと“地と絵”の問題。あなたは盛り上がっているところを
>【絵】とし、その周囲を“地”と決めつけている。
世界は(宇宙は)エネルギーの濃淡だ、という言説をよく見かける。
エネルギー云々はよくわからないが、濃淡という表現は秀逸だ。
エアブラシで赤地に赤を吹き付ける。吹き付ける濃度が濃ければ、そこにグラデーションが生じる。
噴射の角度が広ければ、境界はより不鮮明となり、
グラデーションはゆるやかだ。角度を狭くすると、境界はどんどん明確になる。
併せて、吹き付ける色の濃度が濃くなれば、その差はどんどん顕著になる。
どちらがどうというのではない(濃いとか薄いとかいうのではない)。
そこには、差異があるのではありませんか? と、ずっと問い続けているのだよ。
私の主観は関係ない。意味が分かるか?
この肉体と、この空気を分けているのは、主観か?肉と空気の差異か?
そこにあるグラデーションは、どのような境界だろうか? と・・・。
> つまり、すでに差異化は
>終わっているのです。主観による心的操作の終了後に比べても、主観に主観
>の屋上屋を重ねるだけです。
主観による心的操作があろうがあるまいが、そこに、地面の凹凸はあるのではないか?
グラデーションはグラデーションとしてそこにあるのではないか? と・・・。
>自然や宇宙といった言葉は便宜上使っているだけであって、私の主観に
>映じている“主観的世界”の別名にすぎぬことは言うまでもないでしょう。
【今の流れの中で】、この文章にどれほどの意味があるのか?理解に苦しむ。
858 :
ネコの味方:2007/07/03(火) 21:32:51 0
>>857 あなたが述べていることと、私が語っていることのどちらに意味があるかは、
あなた(や私)が云々することではないのです。
客観的に地面に凹凸があるなどと臆面もなく語れるところに、あなたの滑稽さ
がよく表れています。凹凸って、典型的な観念(思い込み)です。視点しだいで、
あるいは状況しだいで、簡単に反転します。
こになところでクダを巻いていないで、専門分野に帰ったほうが精神衛生上、
ずっといいのではないですか。w
859 :
素人:2007/07/03(火) 21:52:53 0
>>858 >>46、
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1144214403/86 類推による妥当性が六割以上なら、対象そのもの(と近似である)と見做す(=客観とする)人もいれば、
九割以上の妥当性がないと対象そのもの(と近似である)と見做さない(=客観としない)人もいよう。
私は、八九割あれば良しとする(→語りに於いては煩雑冗長になるので断定口調になる)。
貴方は、十割を満たすことはあり得ないので、対象そのもの(近似なもの)については語らない。
それだけの違いでしょう。
貴方が、私の断定口調が気に入らなければ以降スルーしてください。
私も貴方をスルーすることにします。
>簡単に反転します。
そう。主観の内でね。 ( ̄ー ̄)ニヤリ
>>856 だったら「自明です」なんぞと「あたかも“客観的事実”であるかの
ように言いくるめる言説」を弄してはいかんだろw
おまえらフツーに話できねーの?
お互いが結果を知ってる会話のことか。
>>862 そういう、身も蓋もない台詞で水を差さなくても・・・w
あれはあれで多少の餌にはなるのではなかろうかと・・・・w
って、誰も喰い付かないって?
(;´ー`)y━~~ ・・・・・
差異は、区別であり、関係であるならば、影響とも言えるか。
影響を受けたり、与えたり。
しかし、なんでも出来るという分けでもないだろ。
自由に、眠くなったり腹が減ったり出来ない分けだ。
位というのがあるのだろう。
または出来るのだろう。
865 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/04(水) 01:46:10 0
>>853 :素人:
>>851 >>だれもいなければ、自然(宇宙)があるだけでしょう?
>まったく同意ですよ。
まったく、不同意です。
何かがあるかもしれません、しかし貴方の言う「宇宙」があるとはいえません。
貴方が見ていないのですから。
貴方の言うところの「宇宙」があるとは分かりません。
何があるのかは論じ得ないのです。
存在しないものが存在を語ることは禁止されています。
>>860 >だったら「自明です」なんぞと「あたかも“客観的事実”であるかの
>ように言いくるめる言説」を弄してはいかんだろw
そういうのは揚げ足取り(というかたぶん勘違い)。
“客観的事実”は知り得ないと考える人が「自明です」と言ってるんだから
それが“客観的事実”を指しているはずがないだろ。
感嘆子も同じ様な揚げ足取りをするが。
(揚げ足取りだということに気づいてないのかも)
(自分の頭の中で勝手に「客観的事実」に変換してしまっているんだろう)
そりゃ独我論だな、じいさん。
俺が生まれる1000年前は、地球上に人類は存在しないで、
タコにそっくりの生物が地表にベタリと貼り付く様に
生活して地球を支配してたかもしれないというキチガイと
同じようなものだ。存在しないものが語るのを禁止て。
>>857 >そこには、差異があるのではありませんか? と、ずっと問い続けているのだよ。
>私の主観は関係ない。意味が分かるか?
>この肉体と、この空気を分けているのは、主観か?肉と空気の差異か?
>そこにあるグラデーションは、どのような境界だろうか? と・・・。
>>859 >類推による妥当性が六割以上なら、対象そのもの(と近似である)と見做す(=客観とする)人もいれば、
>九割以上の妥当性がないと対象そのもの(と近似である)と見做さない(=客観としない)人もいよう。
>私は、八九割あれば良しとする
八九割の妥当性っていうのは、どういう意味での妥当性なの?
哲学的妥当性?w
日常的・常識的には「肉と空気の差異」があると見なして生活してる人が
ほぼ全員だとは思うが…
人間の主観や、ハエとかゴキブリとかの「主観」を取り去った「客観的事実」
については、「わからない」と考えておくのが哲学的には「妥当」なのでは…w
人間の日常的・常識的な意識にとって、「肉と空気の差異」がどうやって
生じてきたかについても、生理的なものや文化的なものが入り混じっていて
ほんとうのところ(「客観的事実」?)は「わからない」と考えておくのが
「妥当」なのでは…w
869 :
考える名無しさん:2007/07/04(水) 09:16:24 0
>>868 ふ〜む、いつも聡明ですね。(過去にも言ったことがあるような…)
俺が特異の“幻の左(といっても単なるネコ・パンチ)”を繰り出し意表を衝き、
あなたが右クロスで決める、といったオモムキがありますね。w
>>868 >哲学的妥当性?w
>ほんとうのところ(「客観的事実」?)は「わからない」と考えておくのが
>「妥当」なのでは…w
哲学的妥当性がどういうものか判りませんが、
『哲学的な枠の中で』『厳密な描写』をするなら(望むなら)、まさに仰る通りでしょう。
が、それは、(外部について)語ることを放棄することにならないのかな? と思うわけです。
仙人のように山奥で隠遁するなら別ですが・・・w
あ、でも、山奥だろうと何だろうと庵でも作らなければ風雨に打たれて風邪引きそうだな。
あ、でも、主観によって「風邪ひいた」と見做しているだけなんだから、
(心頭滅却してw)主観に於いて「自分は風邪をひいてない」とすればいいわけだ。
当然、悪化して死ぬということもない。全てはひと繋がりで、私は宇宙そのものなのだろう。
てか、そもそも、雨とか風邪とかいう区分や現象だって
主観によって(【自在に】)区分・見做されているのだから、
雨に打たれるとか風邪をひくとかいうことがそもそもないわけだ。
庵を作るということもないし、雨が降るということもない。
私の体ということもない。 全ては一なのだから・・・。
(なんだか華厳の世界みたいになってきたなw)
>>868 >日常的・常識的には「肉と空気の差異」があると見なして生活してる人が
>ほぼ全員だとは思うが…
そうですね。そこが重要な部分だと思います。
(この世がマトリックス的世界であったとしても、その外が知り得ない・知る者がいない以上・・・。)
その意味で、私の(この場合での)妥当性は、(哲学的?)思索に於いてでなく、
日常に於いての受けとめ方を主軸として展開する際の「確からしさ」とでもいうようなものになるでしょうか・・・。
>ほんとうのところ(「客観的事実」?)は「わからない」と考えておくのが
>「妥当」なのでは…w
ほんとうのところが判らないからと言って、
飛行機に乗ることを恐れて拒んだり、
空気と各種食物はひと繋がりだから空気を吸って食べて生きていこう・生命を維持しようとか、
道行く女だって自我があるかどうか本当のところはわからないんだから
拉致監禁して陵辱しまくって、飽きたらコンクリートで固めて捨てればいい、
などとは考えません。(いや、そもそも男とか女とかも主観的区分なわけで・・・以下略w)
どれも、経験や情報の集積により、「確からしさ」を信じて生きるしかありません。
(※勿論ここで、その基準を具体的に示すことはできません。そこまで頭良くないですからw
でも、例外の無さ(少なさ)によってその確からしさを信じてゆくほかに術はありません。
だからこそ、教育・経験は重要だと思うのです。大人の責任は重い。)
>>868 私は、
日常的・常識的視点も採るし
ミクロな顕微鏡的視点も採るし
マクロな衛星画像的視点も採る、
動き・様相(変化・在り様)に注視する視点も採るし
静止させた構造に注視する視点も採る、
大きく大胆に捨象した視点も採るし
捨象せず、あるがままを見る視点も採る、
微妙な差異に着目することもあれば
共通項に着目することもある、
場面によって枠組みを使い分ける。
統一理論なるものがあるかどうか知らないが、
あったとしても、それは、複数の枠組みの総合ではないかと思ったりもする。
信仰告白をすれば、私は
私の経験と他者の経験の申告との間に生じた整合性を、
フィードバックしてきた私の行為の結果を信じている、
ということなのかもしれない。
それを哲学的でないというなら、そうなのだろう。別に構わない。私は哲学してるわけではないのだから・・。
いささかとりとめのない独白になったが、
どうやら、私の態度が気に食わない人が大勢いるようなので少し表明してみた。
それでも気に入らないというのであれば仕方が無い。
スルーするのも嫌だというなら、立ち去るだけだ。
873 :
素人:2007/07/04(水) 11:26:40 0
補:
>人間の日常的・常識的な意識にとって、「肉と空気の差異」がどうやって
>生じてきたかについても、生理的なものや文化的なものが入り混じっていて
そうですね。
けど、『そこに差異は無い』と言うことは、
ある何らかの枠組みに於いて見た時には差異が無いということであって、
別の枠組みで見た場合は、差異は歴然としているかもしれない。
或いは、
何らかの捨象が為されるから、差異を無視できるということかもしれない。
もし、拾い上げなければならない差異があったとしたら、捨象の方法・度合いを変えねばならないのではないか。
その差異を差異として拾う枠組みの選択が必要となるのではないか。
(場面場面で、)使用する枠組みのコンセンサスを無視するなら、対話は成り立たない。
ちょうど、最高位氏が牛若丸をするように・・・。
>>817 最高位氏とは付き合いが長いwのでよく知っているのですが、彼が唯物論破壊を
志したそもそもの動機は、「唯物論は人間を単なる肉の塊とみなし、スイカを
割るのも人間の頭を割るのも同じだとみなす非道な思想である」というものなのです。
ですから、最初から彼の関心は「人間一般」にあるのです。
「人間の精神の奥底に『私』という純粋な存在性がとぐろを巻いていて、それは
絶対に物質的な要素では説明できない」というような発言も再三ありました。
「人間一般」の話でなく「これ」一つの話なら、そもそも他人にとっては唯物論は
正しいかもしれない、ということになってしまうので、本来は意味がないわけです。
(一応個人的見解を述べておきますと、歴史上の唯物論者に極悪非道としか思えない人間が
少なからずいたことは別として、また唯物論がそこに影響していたかどうかも別として、
唯物論が論理的に非道な思想だ、というのはあまり賛成できない、というより、
唯物論自体からはどんな倫理的価値も出て来ようがないと思いますが。)
>>822 >論理的に突き詰めると「私」は独我論的な起点から認識を出発せざるを得ない。
>それがもっともシンプルで包括的に世界を認識する方法だということです。
独我論的な基点から認識を出発するのは一向に構わないのですが、私がわからないのは、
独我論の外にどうやって出るのか、その筋道です。それについてのきちんとした
説明を聞いたことがありません。デカルトにしろバークリーにしろ「神」という超越を
引っ張り出さない限り無理だとしか思えないのですが。それだったら、最初から
「客観」とか「物質」という超越によっても同じことではないかと思えるわけです。
「出ない」というのなら、最終的には「私=世界」である、と考えるしかないと
思います。
(続き)
>>866 >感嘆子も同じ様な揚げ足取りをするが。
>(揚げ足取りだということに気づいてないのかも)
>(自分の頭の中で勝手に「客観的事実」に変換してしまっているんだろう)
誤解されていますが、私の論敵(本当は敵などとは思っておらず、むしろ親しみを
感じております。コテハンをつけろとうるさいので「最高位の友」としようかと
思ったこともあるくらいなのですがw)は最高位氏なので、ネコの味方氏では
ありません。ネコ氏は最高位氏よりはるかに老獪なのでwその真意はよくわかり
ませんが、私の頭で理解できる限りでは、「一切が私のいい加減でテキトーな
価値観に過ぎない」という考え方のようです(たぶん違うでしょうがw)。
ですから、
「地球は陸と海、平地と山が截然と客観的に分別されているわけではない。」
「“富士山という存在性”はない。」(
>>646)
「身体は特別な存在(個物)ではなく、自然と一つながりの物体である。」(
>>734)
「この体が私であって、他の体は私ではない。」(
>>746)
「自然に上も下もない。」(
>>848)
「だれもいなければ、自然があるだけである。」(
>>851)
これらの命題もまた、すべて、客観的な事実でもなければ正しい命題でもなく、
「私のいい加減でテキトーな価値観」に過ぎない、ということになります。
「対象である自然の側に客観的に存在する差異」については、一切知ることも語る
ことも不可能である(というか僭越である)、ということです。
「他人の価値観との共通性」を持ち出しても、そもそも「他人」の存在も、
視覚や聴覚や触覚の差異の体系としての言語も、みな「私の勝手でテキトーな
価値観に過ぎず」客観性がないので、「客観性」や「正しさ」の根拠になり得ません。
(続き)
私はこういう考え方は突き詰めれば独我論にしかなり得ないと思うのですが
(ネコ氏の真意はたぶんもっと深いものだと思いますが)、
それはともかく、最高位氏は、決してこういう考え方をしていないのです。
そんなことをすると、「確かに存在するのは私だけで、この世界も地球も
富士山も人間も、私が勝手でテキトーな価値観によって差異化してやって
いるから存在しているように見えるだけで、本当は存在するともしないとも
どうとでも言える。もちろんそれらが"他の私"であるかどうかも、私次第だ」
ということになってしまうからです。
これでは、唯物論以上に非道な結論になりかねません。
(無論、独我論者だから悪人だ、などとは言えません。現実には、唯物論者だろう
が観念論者だろうが独我論者だろうが、要するにその人が悪人なら悪人だし、
良い人なら良い人だ、というだけのことで、哲学の影響などあったとしても
微々たるものだと思いますがw)
ですから、最高位氏の思想を貫徹するためには、まずもって物体としての「他人」
が客観的に確固として存在する必要があると思われます。しかるのちに、
他の自然界と「他人」の「客観的な差異」から、他人が私と同格の「他の私」であり
「超越論的主観」(の意味はよくわからないので違うかもしれませんが)ですら
有り得る、という結論を導くほうが(要するに唯物論的に考えた方が)、
氏の「人間はすべて私だから尊い」という思想にはふさわしいのではないか、
と思えるわけです。そしてまた、氏自身が本当はそういう風に考えている、
としか思えない節が多々あるのです。
>>825の3時で1時氏の書き込みも、あるいはこの考えに近いのかもしれません。
(お断りしておきますが、唯物論が論理的に正しいかどうかは、私は全くわかりません。)
ですから、最高位氏に対してその種の指摘をするのは決して「揚足取り」ではなく、
かなり本質的な問題提起のつもりでやっていることなのです。
>>876 >私はこういう考え方は突き詰めれば独我論にしかなり得ないと思うのですが
>(ネコ氏の真意はたぶんもっと深いものだと思いますが)、
>それはともかく、最高位氏は、決してこういう考え方をしていないのです。
>そんなことをすると、「確かに存在するのは私だけで、この世界も地球も
>富士山も人間も、私が勝手でテキトーな価値観によって差異化してやって
>いるから存在しているように見えるだけで、本当は存在するともしないとも
>どうとでも言える。もちろんそれらが"他の私"であるかどうかも、私次第だ」
>ということになってしまうからです。
なんで勝手に「突き詰めて」、「独我論」にしてまうの…w
どこをどう突き詰めているんだろう…w
「独我論」にしたいわけでもあるの?w
>>877 >どこをどう突き詰めているんだろう
最高位やネコが、
『【厳密に見れば】境目など無く、ひと繋がりだ』
と言う時の【厳密に見れば】と同様だと思います。
>>874 独我論とは外は無いという考え方ではないのでしょうか。
「私=世界」であるというのは独我論の帰結でなく出発点ですよ。
しかしながら「私=世界」であることは世界を私が思うままに制御できる
ということを必ずしも含意しません。
それからデカルトやバークリが「神」を引っ張り出してきたのは
認識の確実性を求めてのことです。
可謬論的な認識論(皮肉なことに自然科学もそうですね)を採用することによって
そのような超越者は不必要になるのではないでしょうか。
「私=世界」
なんか唯識が言ってたような
>>878 世界を厳密に見るのと
人の考え方を勝手に突き詰めるのは
違うと思うが
>>881 なぜ、一行目を
「世界を【勝手に】厳密に見る」と表現しなかったのですか?
>>882 相手が人以外なら勝手に見るしかないから
「勝手に」は言うまでもないw
>>868 ワロス
>日常的・常識的には「肉と空気の差異」があると見なして生活してる人が
>ほぼ全員だとは思うが…
ほぼ十割?
>人間の主観や、ハエとかゴキブリとかの「主観」を取り去った「客観的事実」
>については、「わからない」と考えておくのが哲学的には「妥当」なのでは…w
人間全般について?
>人間の日常的・常識的な意識にとって、
何故「私の常識」と言わないの?w
「私の主観以外は何も分かりません」
だけ言ってればいいのに
何故「他の人間」まで含めてしまうのだろうね?w
>>883 人も世界も、人繋がりで
区分する理由は無いのではありませんか?
なぜ、世界に対しては勝手に見ても良く、人に対しては勝手に見てはいけないのですか?
てか、そもそも、人そのものではなく、その概念を拡張するとという意味合いであった筈で、
だとするならば余計に、世界と概念を区分する理由はないでしょう。
世界を勝手に見てもいいなら、(他人の)概念も勝手に見ても構わないのでは?
世界=人じゃないのか?
人のいない世界なんて前提自体おかしいだろ
一行目訂正
>>883 人も世界も、ひと繋がりで
区分する理由は無いのではありませんか?
なぜ、世界に対しては勝手に見ても良く、人に対しては勝手に見てはいけないのですか?
てか、そもそも、人そのものではなく、その概念を拡張するとという意味合いであった筈で、
だとするならば余計に、世界と概念を区分する理由はないでしょう。
世界を勝手に見てもいいなら、(他人の)概念も勝手に見ても構わないのでは?
>>884 >「私の主観以外は何も分かりません」
>だけ言ってればいいのに
そんな主張をしてるのはだれ?
>>885 >人も世界も、人繋がりで
>区分する理由は無いのではありませんか?
そんな主張をしてるのはだれ?
>世界を勝手に見てもいいなら、(他人の)概念も勝手に見ても構わないのでは?
対話する気がないなら勝手にどうぞw
勝手に突き詰めちゃう人だらけだな・・・
890 :
考える名無しさん:2007/07/04(水) 14:44:01 0
>>878 最高位はともかく、ネコが厳密に見ているわけがあるまい。w
>>素人さん
あなたに悪意を持っている人なんか、ここにはいないでしょう。私も一貫して
敬愛wを表してきました。
多少の売り言葉、買い言葉があったとしても「去る」なんぞと言わないように。
それよりも、最近、少し被害者意識、猜疑心が強くなっていません?
>>888 あなたは
>>877さんですか?
877が言いがかりだとは思いませんか?
ある考え方「A」が提示された際に、「A」が(無矛盾に)成立する為に、
必要な特徴の整理をすると、それはもはや「a」になりませんか?
という発言だと思うが如何か?
「勝手に」突き詰めたのではなく、
「A」は、その有する特徴による必然としての(論理的帰結としての)「a」化を余儀なくされないだろうか?
或いは、
見られる特徴に注目すると、「a」を(各部に於いて)曖昧にしたものが「A」なのではないか?
「A」は「a」の亜種ではないか?
ということではなかろうか。
だから、「厳密に見れば」という表現と同様の位置付けが可能な言い方であろう、と言ったのです。
だとするなら、「理由なく勝手に」なされたものという発言は言いがかり以外の何物でもない。
892 :
考える名無しさん:2007/07/04(水) 15:00:39 0
457 :名無しさん@八周年:2007/06/
■朝鮮人左翼による日本女性レイプ事件◆戦後史の闇■
かつて、在日朝鮮人活動家たちによる<日本女性レイプ事件>が多発した時代があった。
1960年代から1970年代にかけて、左翼運動の陰で起きていた『闇のレイプ事件』である。
古い資料だが、『マルコポーロ』1993年9月号に、梁石日、崔洋一、鄭義信の鼎談が掲載されていた。
崔「一時流行ったんだな。左翼の日本人少女を口説くときは日帝三十六年史で落とせというのが(笑)」
鄭「いまだにそんな手を使っている人、いるんだよね」
梁「男の風上にもおけんなあ」
崔「梁さん、唇、震えてますよ(笑)」
映画監督の崔洋一は笑っているが、笑い事ではないのである。
朝鮮問題に関わる政治運動をしている日本人女性たちが、在日朝鮮人活動家に警戒心を無くし、
朝鮮人と二人きりになった時にレイプされるという事件が、少なくなかったのである。
そして、彼女たちは「反体制意識」を持っていたがゆえに、警察に通報することもなく、泣き寝入りした。
周囲の日本人からは、運動団体内でフリーセックスが流行っていると思われていたが、実態は朝鮮人左翼による
日本女性のレイプであった。
「我々は人権を重んじる」と自ら主張していた在日朝鮮人の活動家たちが、何故そんなことをするのか。
また、日本の女性たちは、左翼活動家とはいえ在日朝鮮人男性が訪ねてくると、なぜ警戒心を無くして
部屋に上げてしまったのか。
今はどうなのか知らないが、昔はそういう時代であったのである。
【『歴史と国家』雑考■「朝鮮人左翼による日本女性レイプ事件」】
ttp://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuunanadai ■犯罪者は、一般人とは、思いもよらない拉致方法を考えている。
甘い考えしか持てない者は、あれでも餌食になる。 気を付けたい。
>>891 「勝手に」が気にくわないなら、
勝手にでない理由を示せばいいだけのこと。
894 :
考える名無しさん:2007/07/04(水) 15:08:53 0
>>感嘆子
ネコは単に「哲学的素養」がないため却って狡猾にみえたり、その真意が深い
ようにみえるだけ。w
ところで、知ったかぶりして“差異化”などと申していますが、これは主体的に
「対象を差異化する」というよりも、被主体的に「差異化させられる」と言った
ほうがいいのかもしれません。
>>890 喧嘩腰のマジレスが重なれば、
多少は横槍も多くなるんじゃないかと思う。
現に、時折目を見張る単発レスが入ったりもする。
私に対してマジレスしてくる人は今まで皆無だったから。
唯一、長期に亘りやりとりしたのは一言さんくらいか・・・w
3時1時さんとかは、少しあったかもしれない。
いずれにせよ、このやりとりのおかげで、(この件への)参加者増えてないか?(増えてないか・・・w)
また、「認識の断絶」を知りながら、尚問い続けることの意味と方法は、重要だと思うから、
敢えて、野次馬が集まり易い喧嘩腰を続けているとも言える。
>>893 日本語不自由な方ですか?
>>891がその理由として書かれたものですが?
>>895 >日本語不自由な方ですか?
>
>>891がその理由として書かれたものですが?
あんたこそ日本語不自由そうだな。
>>891のどこが独我論なんだよ。
>>890 >「去る」なんぞと言わないように。
けど、おいら申年だからなぁ・・・
>>898 >対話などあなたの勝手な妄想ですよw
なんで?
901 :
ネコの味方:2007/07/04(水) 16:23:14 0
問題は、感嘆子の
>>875 「対象である自然の側に客観的に存在する差異」と
いう表現。素人さんも主観の認識よりも先に、それがあるかのように妄執w
する。
それを私は認識上の“遠近法的倒錯”と揶揄しているわけだ。
対象の差異(意味)は、主観の分節化によって生じる。その場合、カントならw
対象自体(客観世界)には触れ得ないと言うだろう。ただし、これは“客観世界”
の存在を前提にしている。もう“世界”は産出ずみであり、それにヒト(の認識)
がどこまで近づけるかという話しになる。
もう一つは“世界”は生成し(され)つつあり、確たる客観的対象はなく、私は
それに巻き込まれながら、そのつど対象を私の関心に沿って編みなおすだけと
いうことになる。
“確たる客観世界”はあるの?ないの?
902 :
素人:2007/07/04(水) 17:08:05 0
>>901 >対象の差異(意味)は、・・・・
この( )書きの時点で、論点先取とはならないのだろうか・・?
(と、自分の論点先取部分を棚に上げてツッコんでみるw)
ま、それはともかく、
貴方は「差異」を「意味」である、と言う。
私は、「差異」は「差異」である、と言う。
(意味こそが、感受された後に(主観によって(或いは主観の内に))形成されるものではなかろうか?・・と。)
微妙だが、大きな違いだと思う。
>“確たる客観世界”はあるの?ないの?
我々は、「あると見做して生きてゆく」ほかに術を持たないのでは?
「ないと見做して生きること、ないと見做した場合の日常」がどのようなものとなるか、想像はなかなか困難だ。
(※私は、唯識思想には詳しくないし距離を置いているので、今の所は触れずにおく※)
客観世界はあるかない分からないが、主観として
もその中で影響(力)が働く。
真の自由は、何でもありではないだろ。
904 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/04(水) 23:48:48 0
>>867 :考える名無しさん:
>そりゃ独我論だな、じいさん。 俺が生まれる1000年前は・・・・
ですから、貴方が1000年後に生まれたから話題にしているわけです。
永遠に貴方が生まれなければ話題にならないわけです。
>だれもいなければ、自然(宇宙)があるだけでしょう?
誰も居ないのだから(永遠に)論じてはならないのです。
有り得ない机上の空論は禁止です。
>>904 >誰も居ないのだから(永遠に)論じてはならないのです。
自分の誕生より過去は語るな、ってこと?
他の誰かがいて語られた情報が残っているから語ってもいい?
人類誕生以前のことを研究している学者さんたちは馬鹿ってこと?
映画を見る上で、優先する事。
1.俳優
2.その他
大体俳優がストーリーをつくって行くから。
作者は背後霊みたいなもんだ。
スクリーンに見えなくていい。邪魔なだけだ。
哲学は作者にあたる?
907 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/05(木) 01:15:46 0
>>905 :考える名無しさん:
>自分の誕生より過去は語るな、ってこと?
誕生したんだから「居る」わけでしょう。
>>853 :素人:
>>851 >>だれもいなければ、自然(宇宙)があるだけでしょう?
これは「誰も居ない」と言っているのだから誕生しないんでしょう。
だから分からないことは語れないと言っている。
908 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 01:23:34 0
>>907 別の銀河を見れば、誕生していない世界も、人類が誕生していない過去も観測できる。
じいさん。人類誕生って何だよw
人類が誕生した瞬間に哲学的反省意識があったなんて証拠は
ないぞw
910 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/05(木) 01:57:41 0
>>908 :考える名無しさん:
>別の銀河を見れば・・・・・・・・・・・
あのう・・この・・・「見れば」というのは誰が見てるの?
観察できるの?
その世界や過去は、その見ている主観、観察している主観に「規定」される。
911 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/05(木) 01:59:54 0
>>909 :考える名無しさん:
>じいさん。人類誕生って何だよw
はい、何なんでしょうかね???
言い出した人に聞いてください。
912 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 02:06:08 0
>>911 >その世界や過去は、その見ている主観、
>観察している主観に「規定」される。
主観という物があって、一方的に主観という物が→世界を規定する
のか?では、主観を動かす物は何なんだよ。
913 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 02:06:10 0
>>910 でも、主観によって過去が変わるわけじゃないよ。
他人が見ても、銀河は同じ。
914 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/05(木) 02:09:29 0
>>912 :考える名無しさん:
その世界や過去は、その「見ている主観、観察している主観」に「規定」される。
915 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 02:11:22 0
>>914 観測しなければ、存在しないとでも思っているの?
コンピュータが観測した場合はどうなの?
観念構築の累積の上に「人類誕生」も「ビッグバン」もあるわけで
その妥当性や検証は自然科学に委ねられている。
つまり、哲学のテーマではない(かもしれない)
917 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 02:14:25 0
>>914 その世界や過去の観念は、その「見ている主観、観察している主観」に「規定」される。
の間違いじゃないか?
918 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/05(木) 02:16:08 0
>>913 :考える名無しさん:
>他人が見ても、銀河は同じ。
そうそのとおり(正確には少し違うが銀河はある)。
だれか人間(主観を持つ者)が見れば良い。
>>853 :素人:
>>851 >>だれもいなければ、自然(宇宙)があるだけでしょう?
これはいかなる人間も居ないと言うことでしょう?
だから反論している。
よく読んでね。
919 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 02:17:57 0
920 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/05(木) 02:19:56 0
>>915 :考える名無しさん:
>コンピュータが観測した場合はどうなの?
ひどすぎる。
そのコンピューターは誰が作って解析したの???
>>910 分からないことは語れないんだろ?主観なんだから分かっているか
どうかも分からない。じゃあオマエは今後は何も語るなよ。
それでもオマエは語る。つまりオマエは、主権であり、分からない
ことを平然と語っているわけだ。冒頭の宣言と矛盾する。
はい、あんた終わり。
922 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 02:22:05 0
>>920 別に宇宙人でもいいし、自然発生してもいい。
量子論的には少ないだけで、確率は0じゃないから、理論的には存在可能。
923 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/05(木) 02:22:50 0
>>919 :考える名無しさん:
>何故人間に限定するの?
自然(宇宙)・・・・・・
等と騒いでいるのは人間だけだから。
その人間が「誰も居ない」のなら自然(宇宙)を語るのは空論。
924 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 02:24:07 0
>>923 でも、過去はいなかったのだから、過去に限っては空論でもなんでもない。
925 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/05(木) 02:27:22 0
>>921 :考える名無しさん:
>主観なんだから分かっているかどうかも分からない。
主観と言うのは「分かっている」と主張することです。
「分かった」と言うからには主観が必要です。
客観は絶対に分かったとは言いません。
>>923 はあ?自然、宇宙と言っているのは漢字圏の人間だけ、それも主に
日本人。
それに宇宙という言葉はもともと日本に無かったよ。
たかだか何百年前に宇宙という漢字を組み合わせて日本人が
宇宙という言葉を作ったんだ。
927 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 02:32:59 0
>>925 じゃあ、自分が生まれる前の世界の主観も主観なのだから
「分かってる」と言えるじゃん。オマエの言い分だと、
すべて主観なのだから、分からないことは何一つ無いという
事になるw
分からないことは語れないが、分からないことは何一つ無い
んだから、すべて語れるw
はい、アンタ終わり。
928 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 02:37:26 0
じいさんは、今当たり前に使っているかなりの数の言葉が、
江戸後期、明治期に漢字を組み合わせて作られた事を
知らないだろ。宇宙なんて言葉は無かった。
自分が生まれていない過去は分からないから語ってはいけない。
すべての世界は主観で規定する。
自分の主観で語って良い。
主観とは分かっていること。世界は所詮、主観。
自分が生まれていない過去も分かってるから語ってよい。
じいさん沈没w
自分が生まれていない過去は分からないから語ってはいけない。
すべての世界は主観で規定する。
自分の主観で語って良い。
主観とは分かっていること。世界は所詮、主観。
自分が生まれていない過去も分かってるから語ってよい。
じいさん沈没w
931 :
ネコの味方:2007/07/05(木) 09:01:15 0
>>じいさん
あなたとは主観・客観の意味が微妙に違うが、それはともかく背理であっても
“机上の空論”をしてしまうのが私(の主観)です。それを禁止することは、だれも
できません。
私(たち)はヒト誕生以前についても、天国や地獄についても、それどころか神に
ついてさえ語ります。なぜなら、それらは語りえないものではなく、語りうるから
です。ただ、その言明の真偽の判定を下せないだけです。
つまり、私(たち)にはタワゴトを言う(想像する)自由wがあるということです。
932 :
ネコの味方:2007/07/05(木) 10:13:36 0
あっ、間違いです。全体的には、じいさんの主張に賛成。ただ、禁止云々に
ついてだけ“異論あり”です。
じいさんの論旨は誤解されています。「私の生まれていない過去については
語れない」と述べているのではなく、「私が生まれていなかったら、私は語れ
ない」という意味。当然だよね。
タネを撒いたのはアホの「素人と私」の舌足らず問答。許されよ。
>>902 >>“確たる客観世界”はあるの?ないの?
>我々は、「あると見做して生きてゆく」ほかに術を持たないのでは?
>「ないと見做して生きること、ないと見做した場合の日常」がどのようなものとなるか、想像はなかなか困難
だ。
>
>(※私は、唯識思想には詳しくないし距離を置いているので、今の所は触れずにおく※)
日常的で常識的な差別の世界に生きることと、その現実の根源(深層)にある
生成の世界、無差別の世界などを洞察することは、両立するのでは?
>>721に引用した井筒俊彦は次のように書いていた。
【しかし、それよりもっと大事なことは、東洋的哲人の場合、事物間の存在論的無差別性を覚知しても、
そのままそこに坐りこんでしまわずに、またもとの差別の世界に戻ってくるということであります。
つまり、一度はずした枠をまたはめ直して見る、ということです。そうすると、当然、千差万別の事物が
再び現われてくる。外的には以前とまったく同じ事物、しかし内的には微妙に変質した事物として。】
仏教(少なくとも大乗仏教)は、日常的現実を遊離した思想ではない。
「哲学は常識を破らずに常識を超えることだ」と言った哲学者がいたが、
それは哲学だけでなくて、仏教にもそのまま当てはまるだろう。
君のように、“確たる客観世界”を「ないと見做して生きる」って言うより、
根源(深層)的にはそれが無いことを洞察しつつも、我々有限な存在者は
それをあるかのように見做して生きざるを得ないと言えばいいのかな…
存在の深層にある縁起と空を悟った坊さんにとっても
富士山は富士山であるw
>>933 円相が十牛図の最後ではないですからね。
>>932 「主張」が「誤解される」とはこれいかに?
936 :
考える名無しさん:2007/07/05(木) 16:59:26 0
じいさんは理屈がわからないまま
覚えたての言葉使ってみたいだけなんだろな
>>934 >両立するのでは?
はい、そうですね。両立すると思っています。(百尺の竿頭は、歩を進めて初めて竿頭たるw)
ただ、今(このスレで)は、そこへ行く手前の話がなされているわけで・・・。
古人の語録のように、煙に巻くように言い捨てることは簡単です。
また、ある程度仏教の素養がある人との間なら、たいして説明は要りません。
けど、ここはそうではない。室内でもなければ師家の提唱でもない。
(勿論今は、室内でも提唱でも解説はされるわけだが、それでも、
このスレでなされているようなものではない。ここまで煩瑣ではないw)
事細かな、現代社会の語彙・語義に則したところから進んでゆかなければ、
下手するとふざけてると思われるだろうw 誤解・誤読されるリスクの方がはるかに大きいw
(また、ピンポイントで済む所を、一つ一つの用語の解説を逐次・同時にしていかなきゃならない。)
で、結局、屋上屋を架すが如く解説に解説を重ねなければならない。
だったら、最初から(なるべく仏教用語を使わずに)一つ一つ石を積み上げていくように
相手の理解を確認しながら言葉を重ねていっても同じでしょう。(その方が自分の勉強にもなるしw)
最高位氏はともかく、ネコという害獣(w)もいますので・・・w
また何より、ここは仏教スレではないので・・・・。
(もっとも、仏教で用いられる手法は有効だと思うので、
仰るように(仏教という枠を超えて)両立させてゆくことも可能とは思いますが、
そういう西洋哲学(或いは思想)はどんなものがあるんでしょう。歴史的に有名なのは誰?
部分的に、ここは誰某ここは誰某というのは聞くが、シンクロする人は・・どうなんだろう・・?)
>君のように、“確たる客観世界”を「ないと見做して生きる」って言うより、
逆ですよw 私は「あると見做して生きましょう」と言っているのです。
ただ、「縁起という世界観」を把握した上で、「見做している」という自覚をもって、
敢えて見做しで生きてゆく、とでも言えるでしょうか・・w
なぜだろ。
仏教用語はテンションが下がるな。
940 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/05(木) 23:44:37 0
>>931 :ネコの味方
>あなたとは主観・客観の意味が微妙に違うが・・・
主観と客観は相対的観念であり・・・・
「 観察・認識などの精神活動の対象となるもの。」と言うことです。
>私(たち)はヒト誕生以前についても、天国や地獄についても、それどころか神についてさえ語ります。
はい同感です。
私が空論だと言っているのは、私たち(人類)が居なければ世界はどうかと言う議論です。
ヒトが居て初めて過去(歴史)があり神も仏も意味があります。
そのほかの空論は「ヒトの心をコピーしたら・・」とか「もう一人自分が居たら」とかです。
さらに「私」を記述しようとすることも禁止されています。
>>939 仏教でテンション上がってちゃいかんだろ。
だから面白くないのか。
943 :
考える名無しさん:2007/07/06(金) 10:28:00 0
>>937 “差異”だと「みなしている」という自覚があるのなら、
文句なんぞねーんだよ。あたかも、それがもともとあった「客観的事実」
であるかのようにウタウからイチャモンつけてんだよ。(害獣・談)
ところで唯識氏によると、「客観世界」は仮象と言うことでしょう?
それは「自我」の“心模様”ということになるのかな?
それをまた「空」かなにかに反転させるわけ?
例によってカンだけで述べたので、このあたりのことをシロートにも
わかるように説明してちょうだい。
差別する側とされる側、問題(告発)にするのは
どっち側。
仏教はそっち側の思想?差異が差別となるには。
追加。
差異が差別となる嘆かわしさ。
機械より始末が悪いか。
>>937 >また何より、ここは仏教スレではないので・・・・。
>(もっとも、仏教で用いられる手法は有効だと思うので、
>仰るように(仏教という枠を超えて)両立させてゆくことも可能とは思いますが、
>>933で言いたかったのは、仏教でも哲学でも、「常識を破らずに常識を超えること」
をしようとすれば、現実に対する日常的な見方と、その深層への洞察との二重性が
生じるということ(本当は二重性ではないのかも知れないが、少なくとも常識的な見方
からすれば二重性と見える)。その場合、二重写しに見ることで微妙に変化しはするが
日常的な見方が破られるわけではないということ。
なんでそんなことを言おうとしたかというと、このスレにいる幾人かの人(よく読ん
でいないのでよく分からないw)がそういう二重性を無視しているような気がしたから
でもあるが、直接的には君の、【「ないと見做して生きること、ないと見做した場合の
日常」がどのようなものとなるか、想像はなかなか困難だ。】へのレス。
例えばニーチェによれば、世界は「生成」(これは「変化」という意味ではなく、
変化する事物もない「生成」)であるが、我々は生きるための有用性から、
固定した事物を想定して生きている。ニーチェはこういう生成の固定化を、
「あらゆる有機体の根本誤謬」であると言う。
ここにも二重性があることがすぐ分かる。
「根本誤謬」(常識的・日常的な見方)の真っ只中に生きていながら、
世界の深層(真相)を洞察しているw
哲学とはそういうものではないだろうか…
>そういう西洋哲学(或いは思想)はどんなものがあるんでしょう。歴史的に有名なのは誰?
ハイデガーはその中心概念の幾つかが、「性起」「放下」などの仏教語が
訳語として定着しているぐらいだから、仏教との親近性があると思う。
>>943 >ところで唯識氏によると、「客観世界」は仮象と言うことでしょう?
>それは「自我」の“心模様”ということになるのかな?
>それをまた「空」かなにかに反転させるわけ?
主観に対する「客観世界」そのものは、仏教にとっては、
語るに値しないもの(「無記」)なのではないかと思うが…
仏教では世界の本来の姿のことを「真如」とか「如実」とか言うけど、
それはそういう意味での「客観世界」について言ってるんじゃないだろうね。
一切のものは連関し合っている(縁起)んだから、その連関の中から
自分を切り離すことなんてできない。
自分抜きに真如はあらわにはならない。
だから仏教では修行(座禅とかだけでなく精進、作務、布施など
も含めていろんな意味での修行、つまり自分の行為)が重視される。
(こういう書き方にも、上で書いた二重性が現れてしまう。
とくに「自分」という語w)
まさにホワイトヘッドだね。
949 :
考える名無しさん:2007/07/06(金) 16:21:28 0
何の根拠もなく、仏教は正しいと言れても
頭が悪いんかな、としか思えません。
哲学用語は共通了解がとれてないから、使わないでほしいね。
宗教板へいけよ。
950 :
考える名無しさん:2007/07/06(金) 16:21:59 0
じいさんは馬鹿だからレスしなくてもいいよ。
哲学の知識が皆無の荒らし屋でしかないし。
哲学ではなくて、ただの馬鹿だ。
951 :
素人:2007/07/06(金) 16:30:56 0
二重性の底に差別を見るのはペシミストかと。
仏教用語がわからなけりゃ調べりゃいいだろ
>仏教では世界の本来の姿のことを「真如」とか「如実」とか言うけど、
>それはそういう意味での「客観世界」について言ってるんじゃないだろうね。
客観世界でなければ何なの。「世界の本来の姿」なんか、人間にわかる理由が
ないんじゃあ。
しかし、漢字ってのは良くできてるな。
私の事を自分と呼ぶ。
誰だ発明者は。
広辞苑には、「おのが分」という説明があった。
深いな・・・。
957 :
考える名無しさん:2007/07/07(土) 01:06:34 0
江戸時代の浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』に、「・・・千五百石の御自分様でも・・・」という
部分があるので、「自分」を二人称に対して使う言い方は、古くからあったと推察される。
欧米文化圏からすれば、日本語は摩訶不思議な言語だろうな。
958 :
考える名無しさん:2007/07/07(土) 01:14:11 0
『「じぶん」を「わたし」の意味に使うことは避けたい』
昭和27年の国語審議会「これからの敬語」
959 :
考える名無しさん:2007/07/07(土) 01:17:30 0
>>925 >客観は絶対に分かったとは言いません
主観的には分かったけど、客観的に分かったとまでは言えない
という状態が確かにあるから、逆に客観的に分からなければ、
主観的に分かっただけでは意味がないと思える。
960 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/07(土) 02:30:27 0
>>959 :考える名無しさん:
分かるというのは主観があって始めて出来る事。
主観の無い物質には「分かる」事は出来ない。
従って「客観的に分かる」と言う事の意味は不可解です。
それは如何なる主観も介在しないで「分かった」と言うことなのですか??
961 :
考える名無しさん:2007/07/07(土) 03:21:32 O
日蓮宗(特に正宗の分派)系の諸君不受不施派をご存知か
962 :
考える名無しさん:2007/07/07(土) 04:09:50 0
千葉県多古町に 成等山正覚寺という寺あり。
日蓮宗不受不施派の寺である。
不受不施派は、キリシタンとともに江戸幕府から弾圧されるという受難の歴史を持つ宗派。
寛文5年(1665)から明治9年までのあいだ、表向き寺を持つことができなかったという。
じいさんは人に質問する前に自分で考えたほうがよくね?
言葉の表面にとらわれないで言葉の指し示す意味や関係を
よく考えるべき。
964 :
権藤有二郎 ◆EN8cDNURt. :2007/07/07(土) 06:15:42 0
私を代名詞としてありとあらゆるものに当てはめる
ならばそのすべてに当てはまるものとして
「私は私」である
このことの深さを考えていただきたい
965 :
考える名無しさん:2007/07/07(土) 06:55:39 0
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.,,i´ `'i、\ ゙!, ._,-'"ン'` 、、`_,/`,i´ _,___,ニ='" .'゙、゙".゙l,,-'`
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: |,,r ゙l, 、 i、、、、:,,_,xl!ヴi,、 、、っ,,,, 、`',,,,、`、`、|、
|、 、"| .i、 lrr-''"゙,,ハ;、-'"゙゙'''''''"丶ヽ.,,冫``~`"`"~"``` `/ `''''
`''r,,、 、 、、 .、丶、.``ヽ,レ"° `` .j゚'=∠、````,,,,,∠ ~'ヽ```````、_,r‐'ヘi、
`゙'ーi,,_、、、、、: :._,,,r〃 " /^゚"'广 ,/ .,/゙゙゙'''ヶ―''''″ `
`゙^""""''"'" ` ′ ′ ."
私は(・ω・)私である
966 :
考える名無しさん:2007/07/07(土) 12:11:44 0
>>947 本来の姿・真如とは一切が(因果的に)縁起している“相”を指しているので
しょう? 仏教徒の課題?は、それを体得(認識)することですか?
そこで、質問。
真如といい、如実といい、真や実には「到っていない」ということでしょう?
関係の項の一つである「自分」が関係の総体を把握するのは不可能、との諦念が
そこには籠められているのでしようか。
ここから『空』といった絶対的認識(境地)に到達できるのですか。
仏教に執着する心が、理性を奪い誤謬を生む。
今の仏教はメンタルヘルスむけの、心理カウンセリングでしかないよ。
宗教の勧誘なら宗教板へいけよ。
969 :
考える名無しさん:2007/07/07(土) 18:24:52 O
私は、世界と見解を異とする。
生粋。
>>966 >真如といい、如実といい、真や実には「到っていない」ということでしょう?
その「如」は、「異ならず」という意味だと思う。
>関係の項の一つである「自分」が関係の総体を把握するのは不可能、との諦念が
>そこには籠められているのでしようか。
そういうわけじゃないだろう。そのように「部分と全体」として考えれば、
部分が全体を「客観的な対象」として把握することはできない。
だが部分は他との関係によって成り立ち、他によってあらしめられているんだから、
部分の中には全体が宿っていると考えられる。
(西洋哲学でもライプニッツ、ヘーゲルなんかは、部分の中に全体があると考える。)
(部分の中に全体が宿っていることの華厳的説明は「鏡灯の比喩」のあたりがわかりやすい。
http://www.furugosho.com/nomadologie/izutsu1-resume.htm 道元の、「仏道をならふは、自己をならふなり」もそれと同じようなことで、
自己の行為は自己がすることではあるが、根源的に見れば、「真如」そのものの
働きであるからそういうことが言われる。
(だからこの前書いたように仏教では自分の個々の具体的な行為が重視される。
無限なものが無限なままに有限な具体性の中に現れる。)
だがその無限な働きは、ハイデガーの「存在そのもの」と同じく、それを見ようと
すれば(客観化・対象化しようとすれば)隠れて消え去ってしまうようなものなのだが。
「自己をはこびて、万法を修証するを迷いとす、万法すすみて、自己を修証するは、さとりなり 」
(道元)
「無は存在そのものであり、人間がそれの真理を委ねられるのは、人間が主観としての自己を
克服した時、そしてしたがって、存在者をもはや客観として表象しなくなった時である」
(ハイデガー)
唯識来ないな
972 :
考える名無しさん:2007/07/09(月) 15:26:02 0
仏教者は仏教概念の内部に固執し、
外部から見ようとしないので、仏教の固定観念に縛られるんだ。
仏教という概念枠を超えて、外部観点から仏教思想を観察すれば、
仏教の持つ傲慢さに気づき、不遜さを理解するでしょう。
973 :
素人:2007/07/09(月) 15:45:09 0
>>972 おうおうw
吼えとる吼えとるw
ヽ ガンバレー!/
(´ー`)y━~~
974 :
考える名無しさん:2007/07/09(月) 17:00:11 0
自我の記述方法は自然科学に委ねられ、哲学のテーマではない。
宗教を前提にしても、一般的妥当性が得られない。
まして仏教の空虚な禅問答など、共通了解がとれない。
禅は詐欺師の言葉であって、共同性などない。
まあ科学の言葉で書かれるのが一番だとは思うんだけど、
肝心の「私を記述する」ということがどういうことなのか皆ようわかっとらんわけよ。
つうか、もはやスレタイとか
>>1はどうでもいい感じでスレは進んでるんやけども。
976 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/10(火) 00:56:53 0
>>974 :考える名無しさん:
>自我の記述方法は自然科学に委ねられ、哲学のテーマではない。
では今すぐ科学的に記述してください。
出来ないのですか?
では「自然科学は現時点では私を記述できない」と言うことになる。
しかし今現在世界は動いている、人間も活動している、それなのに「私を記述」については科学は無能であると言うことになる。
一般的妥当性どころの騒ぎでないだろう、詐欺師にもなれない。
もっとも嘘よりは無知のほうがまだましと言う趣旨なのかな?
977 :
考える名無しさん:2007/07/10(火) 01:52:35 0
>>976 >出来ないのですか?
出来ていても理解できない馬鹿もいるし、認めない馬鹿もいる。
自己認識ぐらい今のAIでもできている。
>>974 >禅は詐欺師の言葉であって、共同性などない。
アホだなぁ。
詐欺師の言葉に共同性がないとでも?
979 :
考える名無しさん:2007/07/10(火) 16:14:05 0
人間の処女から神の子が生まれた、といった(いまから振り返れば)子供騙しの
詐弁も、たいへんな共同性を得ることがある。ひとたび共同性を獲得すると、
ヒトの歴史を左右する。その意味では、共同主観は“実体”なのだろう?
980 :
考える名無しさん:2007/07/10(火) 16:28:48 0
>>979 その種のことはオームや某宗教団体で、いまも厳然と
繰り広げられている。
ひと昔前には、相当の知識人たちがマルクス主義という宗教に
身も心も入れあげたそうである。
その前には、天皇万歳、八紘一宇などというのも。
もっと前には、尊王攘夷なるものも。
う〜む、機械的唯物論は上記とは逆に人心を萎えさせる“思想”らしい。
981 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/10(火) 23:57:21 0
>>977 :考える名無しさん:2007/07/10(火) 01:52:35 0
>出来ていても・・・・・・・
是非、貴方に「自我の記述」を示してもらいたい。
>自己認識ぐらい今のAIでもできている。
是非、今のAIでどう自己認識しているかを例示して欲しい。
982 :
考える名無しさん:2007/07/10(火) 23:59:29 0
983 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 00:14:57 0
>>981 まず、こちらの質問に答えてください。
非決定の根拠、非決定の仕組みはどうのようなものだとお考えですか?
原因を知らないこととはどう違うのでしょうか?
984 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/07/11(水) 00:30:55 0
>>983 :考える名無しさん:
>非決定の根拠、非決定の仕組みはどうのような・・・・
簡単でしょ。
思考実験でサイコロを振ってください。
次にでる目は決定していますか?
確率と言う仕組みしかないんです、でた目の原因は無いと言えます。
985 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 00:39:15 0
>>984 >思考実験でサイコロを振ってください。
>次にでる目は決定していますか?
サイコロと環境を取り巻く状態で知らない要素がなければ、決定していますね。
原因を知らないと、非決定に見えるだけの例ですね。
>確率と言う仕組みしかないんです、でた目の原因は無いと言えます。
確率というものは事象ではなく、情報の仕方です。
完全に既知で決定してるものでも、確率というのは使われます。
出た目の原因は必ずあります。
986 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 07:58:43 0
結果から見れば、偶然も必然。
987 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 09:15:22 0
>>985 しかし「知らない要素がなくなった」ことを知ることはできない。
「すべて原因がわかったら…」というのは、もし全知全能だったら
というのと同じ。
988 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 10:06:27 0
>>987 そうだよ。だから決定論を否定することは原理的に不可能。
知らない何かで決まっていることには変わりないからね。
全知全能であることは原理的に不可能。
だから決定論は否定される。
990 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 11:43:45 0
>>989 >全知全能であることは原理的に不可能。
これはいいとしても、
>だから決定論は否定される。
これは間違い。
PCの中のキャラクターが、全知全能になれないからといって、
その世界が決定されている事を否定することは出来ない。
>>990 じゃあ言い直そうか。
全知全能であることは原理的に不可能。
だから決定論は主張できない。
992 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 11:54:12 0
>>991 主張できるよ。
それとも過去が存在することも主張できないと思っているの?それなら別だけど。
993 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 12:01:36 0
>>991 決定論の世界と全知全能の存在の関係が必要十分条件だと思っているなら馬鹿。
そう思っていなくても、逆は真ならずということを理解していないならやっぱり馬鹿。
それを理解しているのに、決定論を否定しているなら、自分が何を書いているかもわからない馬鹿。
994 :
ネコの味方:2007/07/11(水) 12:05:07 0
>>992 何を主張してもいいよ。「処女から神が生まれた」でも「一切は空」
でも。何を信じても文句はない。w
995 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 12:07:02 0
>>994 論理を用いるなら、必ずそこに決定論が入り込む。
論理を用いないなら、そもそも何も証明も議論もできない。
996 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 12:11:21 0
決定論の世界の中でも、見かけ上の非決定の世界はあり得るし、
論理に正しさが存在するという意味でも、決定論の立場はメリットがあり、デメリットは存在しない。
根源的なところに非決定性を持ち込むと、それを基盤とする全てのものがデタラメになる可能性が生じ、
論理的なことは実質上、一切言えなくなる。言おうとしても瓦解するから。
非決定論に何のメリットもない。
997 :
ネコの味方:2007/07/11(水) 12:20:51 0
>>995 その“論理”なるものは、世界を言語に閉じ込めたときに成立するもの。
しかし、世界は言語ではなさそうなのでね。
998 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 12:27:27 0
>>997 >その“論理”なるものは、世界を言語に閉じ込めたときに成立するもの。
それはそうだが、その人間の論理が「世界(人間の認識上)を言語に閉じ込めたときに成立」するのは、
人間を存在たらしめている世界に、論理(仕組み)があるからに他ならない。
それがなければ、どうやっても世界を言語に閉じ込めることすら不可能だろうから。
結局決定論の否定にはならないってこと。
非決定の根拠、非決定の仕組みはどうのようなものだとお考えですか?
原因を知らないこととはどう違うのでしょうか?
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