>>382 >>358>>359>>362>>367 理由:
「(人称代名詞としての)私」と「男」においては、
既存の知識として、男が「私」を包含しうる大きな集合であることが自明だから、
=が間違いだとすぐに気付く。
(実は、文脈によっては成立するものでもあるが、今はそれは措く)
しかし、(今ここで言われている)『私』と『存在性』との関係については、
その語義が確定されなければ関係性もまた確定できない。
「――性」という言い方から連想される(既存の知識の援用の)パターンとしては、
「存在性」とは、
『在るということ(→「【在る】という性質・特徴・要素」)』 (・・・
>>82)
『「在る」ことが可能となる性質、要素』 (・・・
>>82)
『何ものかを(○○を)「在らしめる」性質、要素』 (・・・
>>82)
といったものになる。そしてそれは、何か対象一つに限られる狭い集合ではなく、
(何か唯一のものに付属する性質ではなく)、「男」や「人類」「動物」などのように大きな集合となっている。
或いは、「粘性」「習い性」「可能性」「弾力性」etc.etc.の方が例としてはよいか・・。
いずれにせよ、『【複数の】対象が、同様に保持している要素』として大きな集合たりえる。
だから、『私』は『存在性』であると言った場合には、(【『私』の普遍性がはっきりしていない段階では】)、
≪『存在性』を持つものはたくさんあり、その中の幾つか(或いは一つが)『私』である≫
≪『「男」という要素』を持つものはたくさんあり、その中の幾つか(或いは一つが)「私」である≫
という読みが、常識的読みとなる。
そして、上で【『私』の語義或いは普遍性がはっきりしていない段階では】という補足書きをしたが、
『【複数の】対象が、同様に保持している要素』が『私』であるなら、『私』は普遍性(少なくとも複数、いろんなところに見られるもの)となる。
「AはBである」と言った場合に、BによってAの持つ要素の一つが規定されることもあるということだ。