◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない90◆
同一性の一連の流れから雑感。
日常会話は勿論、ある程度ツッコんだ議論においても、
話題に上るAとB(・C・D・E・・・・など)が括られる時の同一性は、
暗黙のうちに話者の間で前提とされている。
(それは、同じ社会(共同体)で、育ち、経験し、「相似した価値観」を学んできているからなのだが・・)
大概の場合それでいい。もし無理に、そこから(微妙な)差異を抽出すると、
カテゴライズ自体が無効になる。
(人間-男・女、動物-哺乳類・爬虫類・鳥類等、野球選手-巨人の選手・阪神の選手等、・・・etc.etc.)
また、同一性を究極まで突き詰めれば「存在するものは全て【生命(いのち)】として」括ることもできる。
針供養・人形供養・刃物供養等を自然に行なう事が出来るのは、
そうした視点を人が持ち得るということだ。
とは言いながらも、議論の本質・焦点が、その微妙な差異に関わるとき、
微妙な差異への視点、つまり、
『それらの同一性(或いは差異)は【何に拠っているか・どこに拠っているか】に対する
慎重な姿勢が要求される。
だから私は最高位に、
『あなたは、「私」を何種類にみてますか?』『「私」を特徴付ける要素・性質は何ですか?』
『あなたの言う「私」は、普遍(として括れるもの)ですか?』
『あなたの言う「私」が唯一そこ(ここ)にしかないのはわかりました。
では、それは【どのようにして】そこにあるのですか?』などを再三たずねている。
唯識氏も(感嘆子氏も)、個と普遍の問題を何度も彼に投げかけている。