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3時で1時:
「ここ」「この」や「このように」が、主観性・精神性を示しているのは解るが、
この主観性・精神性が何を原因としてあるかが問題である。
「認識システムたる私」と観念するのは簡単だが、「いかなる認識システムなのか」
を直接認識することはできない。
「思う精神・霊魂」であるとか、身体(脳)の機能であるとか、宇宙意識の局在で
あるとか、解釈はいろいろできるが、「この身」有ってのことなら、「この身たる
私が思っている」のだとしても、差し支えない、と思う。
「私はどっちの方向を向いているか?」といえば、顔の向きであったり、気持ちの
向きであったりするが、社会的に機能している「私」といえば、「この身」のこと
だろう。この身体でなかったなら、「相手」は存在を確認し得ず、言葉や表情や身
振りによるコミュニケーションも成り立たないだろう。
「私」は、本来的な意味からして、社会的存在であり、1人の人間である。
そのように了解しているのは、「この私」だが、社会的存在だとの了解があるから
「この私だ」と言える。人間という普遍(類)が棲むこの世界を認めないことには、
「この私」は無い。
社会的存在であることが、「誰」ということだ。他者と共有しうる名前・所在地・
人間観の関係・行為の事実などの情報が「誰」になり、「いかなる人ぞ?」が認識
される。共有できなければ、「誰」は社会的に意味がない。
人間社会は、他人同士の世界である。だから、「この私」は「キミ」「あの人」と
も呼ばれる。類としての人間たちの群れがあるから、「私たち」というのだろう。