>> 505
> 最高位の「私」の種類は、一つでしょう?「私の存在性」という基点、それを起点とした心的営為。
> あなたの「私の種類は?」との問いは、様々な心的現象の差異に関するものでしょう?
> それは、いかようにも分類できるのではないか。
> 感覚、感情、思惟、認識…
> ただし、それらを“意識”に繋ぎとめているのが「私」(という基点)である。 というふうに
そうですね。(彼は、あなたのように解り易く述べてはくれませんが・・w)
ですから、【認識されることにより世界は出現する】という意味での基点ではないか?
というのは多くの人が指摘しているし、私もそうではないかと感じている。
また、私が「種類」を問うたのは、彼がよく用いる「存在性」という語と絡んで、
もし、【意識・心】【精神活動】等が【そこ(ここ)にあること】であるならば、それは、容易に「普遍的『私』」となり、
個別性は問答無用に捨象されるからです。AさんでもBさんでも、ヤング博士でもコピーヤング博士でも同じことです。
もし、ただ【そこ(ここ)にあること】であるならば、それは容易に「普遍的『存在』」となり、
個別性は更に捨象され、石ころでもたんぽぽでも、富士山でも入道雲でも、概念でも価値でも(!)同じことです。
(※入道雲が、その存在の境界が曖昧なように、(実はAさんでもBさんでも、コピーAさんでも同様ですが)
『私』についても、その境界が設けられねばなりません。
その境界を成立させているものは何か?について、最高位は明確にしていない。)
概念・価値等であっても、それが【どこにどのように】存在するのかについては、
「存在性」という言い方からは導けない。(源氏物語・最後の晩餐の話は興味深いのですがね・・w)
もし、個別性を採りあげるなら、対象が他と区分される要素がそこに盛り込まれねばならない。
そこを捨象して個別性は無い。 その際の「他と区分される要素」について、
最高位がどういう見解を持っているのか知りたくて、私は「種類」を訊ねたのです。
ちなみに、「『私』【の】存在性」「『私』【という】存在性」「『私』【は】存在性【である】」
という言明は、それぞれ違うはずだ。(これに関しては最近レスした記憶があるが・・w)