【初心者】スレッド立てる前に質問をPart19【歓迎】
1 :
日本@名無史さん:
3 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 08:59:31
東京都長官と東京都知事と東京府知事と東京市長の違いを教えて。
4 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 11:02:33
日本史板の質問スレがどうして一本化されないのか教えてください
にほん史版だからです。
ざぶとん1枚
7 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 04:02:20
なんでも質問スレッドで答えを貰えなかった質問をこっちでもしていいですか?
だめだったら諦めます……。
9 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 10:09:42
後の付く天皇、後醍醐とか後一条・後嵯峨等、それ以前に後の付かない天皇が居る分は良
いんですが、後奈良とか後柏原とか後西とかの奈良・柏原・西ってなんですか?
あと後冷泉とか後陽成みたいに縁起の悪いのは何を思って付けたんですか?
>>9 奈良は平城天皇、柏原は桓武天皇のこと。
奈良も縁起悪いな。
桓武と平城ですか、どうもありがとうございます。
しかし醍醐・村上・一条・嵯峨あたりはまあ一応名君的な評価が有りますが、
さすがに安徳とか崇徳とかまでは使わなかったけど、
どうも縁起とか評判とかあまり気にしてないみたいですね。
12 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 11:37:26
徳川3代目前後あたりの時代での言葉使いについて質問なんですが
美男美女を指す言葉はどういうものが使われていたんでしょうか?
あの人はイケメンだ、とかあの人美人だ、という時です
美しいとか美丈夫だとか佳人だとかはわかるんですが…
他にバリエーションがあればもっと知りたいです
「美形だ」という言葉があったんですが、少し違和感感じたけど
江戸時代にも使われていました?
14 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 21:49:34
よく考えてみたら何で別称なんでしょうね?
後桓武や後平城では何かまずかったんでしょうか?画数が悪い?
あと後深草・後小松・後水尾も誰かの別称ですか?
それと余談ですが、自分で選んだらしい後醍醐、実子の後一条・後伏見・後桜町・後桃園、
外孫として外祖父に対する思いが有ったらしい後三条、こういった例はともかく、
後の付く天皇ってあまり後付かない天皇と縁がない場合も多いですね。
後冷泉・後朱雀・後光明・後二条・後陽成とか先祖でさえないし。
先祖では有っても特に事績が似ているわけでもないことが多いし、
一体どんな基準で選んでいるんでしょうね。
>>14 深草→仁明、小松→光孝、水尾→清和
そもそも歴代天皇の呼称をかっちりと一対一対応で決めたのは
明治に入ってからだろ。
あと、それぞれどうしてその呼称になったのかの理由はとりあえず
Wikipediaでも読め。
>>11>>14 安徳や崇徳は諡号なので後加号にはしない。
後加号は追号にのみ行うものという解釈が既にあったもよう。
まあ諡号というのはその天皇の事績に基づいて贈られるものだから当然ではある。
後奈良や後柏原は時代背景を考えると分かるよ。
当時は即位の礼はおろか、葬儀も行えなかった時代だからね。
追号も多分に適当(というのは言いすぎかもしれないが)にならざるをえなかった模様。
ちなみに後加号は名君になぞらえるかどうかというのはあまり関係ない。
後醍醐天皇のように遺諡(生前から追号を自分で決めておくこと)を残したケースは
別として、平安朝の後加号は単純に西洋の〜二世に近いつけ方。
鎌倉時代の後深草などは意味あっての遺諡のようだ。説明すると長くなるのでそれは割愛。
また後陽成→後水尾は親子の確執から派生した後加号。
後加号についてまとめると…
・基準などはない。
・遺諡によるもの、追号によるものなど決定者もばらばら。
・時代背景によって天皇の位置付けも異なる。
・ゆえに時代によって諡号・追号の概念や感覚も異なる。
したがって全体を通して考えるのではなく、個々の事例をみていく方がよい。
何か具体的に知りたい事例ある?
霜月騒動に出てくる、内管領の平頼綱って何者なんですか?
清盛一家の末裔か何かなんですか?
にしても、名字+名前が一般化してた鎌倉後期に氏+名前なんて珍しいですね。
ウィキにその辺の事情が詳しく載ってるよ
20 :
14:2007/03/20(火) 19:17:13
>>15-17 どうもいろいろとご丁寧な解説ありがとうございます。
疑問がはれてすっきりしました。
22 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 22:04:53
もうって言うか、過去にも勝てた時はないような気がするけど。
あれっ大誤爆。失礼しました。
24 :
7:2007/03/21(水) 01:49:10
自己解決したのでやっぱいいです
25 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 12:42:12
1万石の大名に仕える側用人は、大体どのぐらいの禄高を貰っていたのでしょうか?
ヨロシクお願いいたします。
26 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 21:47:30
織田信長は足利将軍を追放した後、どのような大義名分というか政治的正統性をもって領国を統治したのでしょうか。
一般的な戦国大名なら自分の領国を支配するのに守護代や守護職を幕府に申請したりしたでしょう。
本来朝廷が持つべき支配権を武士達が持っていられるのは、幕府があってこそのはずです。
それなのに武士達の朝廷に対する窓口ともいうべき幕府をつぶしてしまって、果たして諸国民を統治していられるのでしょうか?
> 一般的な戦国大名なら自分の領国を支配するのに守護代や守護職を幕府に申請したりしたでしょう。
朝廷が任命する国司とごっちゃになってない?
28 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 22:52:38
>27
たとえば駿河守護職を認めてもらおうとした小鹿範満あたりですね。まだ戦国時代とはいえませんが。
国司については織田、今川による三河守の猟官運動など幾つかの事例は知っていますが、質問の焦点がブレる恐れがあるので敢えて書きませんでした。
ここは天正前後の織田信長政権について絞ってお願いします。
>それなのに武士達の朝廷に対する窓口ともいうべき幕府をつぶしてしまって、果たして諸国民を統治していられるのでしょうか?
朝廷への任官に関してでなく、守護職などに関してならば幕府が朝廷の窓口ではないと思いますけど。
当時の領国支配に守護職が必須だとも思えません。
(無いに越したことはないと思いますが)
例えば守護出身の戦国大名である武田家が少なくとも一部は支配していた信濃や駿河、上野の守護職を要求したりしてないと思います。
30 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 23:05:34
先土器時代と旧石器時代って同じ時代ですか?
>26
>織田信長は足利将軍を追放した後、どのような大義名分というか政治的正統性をもって領国を統治したのでしょうか。
不明
>一般的な戦国大名なら自分の領国を支配するのに守護代や守護職を幕府に申請したりしたでしょう。
競合勢力との力の差が無ければ有用ではあるが地域勢力が存続するのに不可欠な要素では無い
>本来朝廷が持つべき支配権を武士達が持っていられるのは、幕府があってこそのはずです。
?
>それなのに武士達の朝廷に対する窓口ともいうべき幕府をつぶしてしまって、
>果たして諸国民を統治していられるのでしょうか?
諸国民はそんな事を考えてはいない
自己の権能が及ぶと考える範囲を他者から容喙されなければ誰にも異論はない
秀吉の官職(?)についてなのですが、筑前守なんてものは本当に朝廷から叙任されたものだったのでしょうか?
家康さんの三河守になるための必死だなな工作を知ってから疑問に思っています。
【質問】
むかしの人ってエライ人の名前とかどれくらい認識してたんですか。
江戸時代の町民は今の将軍が何代目で誰々だとか知ってたんですか。
要するに「今は五代目で綱吉さまだ」って知ってたもんですか。
35 :
名無し募集中。。。:2007/03/25(日) 03:00:13
水戸藩の大日本史は今読んでも日本史の勉強になりますかね?
書いてることが一々豊富な史料に基づいているところが感心させられます
36 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 04:20:26
>>11 「後」を付けることができるのは追号だけ。
「安徳」や「崇徳」は追号じゃなくて諡号だから、「後」を付けることは
できない。
なお「桓武」「仁明」「光孝」も諡号であるが、これについては後世に
「桓武」「仁明」「光孝」のそれぞれ異称である「柏原」「深草」「小松」に
それぞれ「後」を付けた追号が登場した。
また「平城」「淳和」「清和」については、これ自体も追号であるが、さらに
それぞれの異称である「奈良」「西院」「水尾」に「後」を付けた追号が
出現した(後西院=後西)。
因みに「後鳥羽」には当初「顕徳」という諡号が贈られたが、のちにこれを
やめて「後鳥羽」の追号に改めている。
さらに「後花園」の崩御の際には、当初「後文徳」という追号が贈られるという
話が出たが、「文徳」は追号ではなく諡号であるという指摘がなされたため、
「後花園」に改められたという話もある。
37 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 04:38:28
>>16 後加号には、「三条」と「後三条」のように明らかに後者が前者の継承を
意識しているようなものも多いな。
「後醍醐」「後村上」の場合も、彼らが理想としていた「醍醐」「村上」に
敢えてしたという感じだよね。
38 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 04:49:30
>>16 >また後陽成→後水尾は親子の確執から派生した後加号。
「清和(水尾)→陽成」の親子関係が、「後陽成→後水尾」というふうに
後加号では逆になっているわけね。
反対に、後加号の親子関係がもとの追号の親子関係と対応しているのは、
「嵯峨→仁明(深草)」と「後嵯峨→後深草」、
「宇多→醍醐→村上」と「後宇多→後醍醐→後村上」、
「桓武(柏原)→平城(奈良)」と「後柏原→後奈良」、
の3例かな?
39 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 04:57:20
>>26 むしろ足利将軍家を立てなくても、朝廷を直接推戴すればそれで十分に自らの
正統性は担保できると判断したからこそ、義昭を追放したのではないかと。
もっとも義昭を追放してもなお足利将軍家を担いで正統性を維持し続けようと
するなら、14代義栄の実家である阿波公方系を連れてくる選択肢も
あったはずではあるが、これをしなかったことからしても、信長は朝廷さえ
自分が掌握していれば問題ないと踏んでいたのだと思うよ。
40 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 05:02:53
>>28 当時の幕府は結局小鹿範満を駿河守護とは認めなかった。
義忠が死ぬと早々に龍王丸(のちの氏親)に対して家督相続を認める旨の
御教書が出されている。
もっともこれには、氏親の伯父である伊勢盛時(北条早雲)の幕府内での工作も
あっただろうし、実際には幕府の意向と関係なく小鹿範満は現地で守護として
振る舞っていたような形跡もあるけどね。
41 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 14:40:34
>>34 江戸の庶民とか天領の住民は知ってたんじゃないかな。
でも名前をいちいち綱吉様とかは呼ばず
総じて公方様とか今公方とかだったんじゃないかと思うが。
根拠ゼロですまんね
戦国時代で大名と家臣が条約を結ぶ時に、紙に円を書きそれにそって氏名を連ね、
誰が上の者かわからなくする条約ってなんですか?
>>42 国人一揆の時の唐傘連判状を言ってるのかな?
東大寺にあったといわれる100M越えの木製の塔や出雲の空中大社とか
本当の話なんですか?建築学的に無理じゃないですか?
>>38 そう。後水尾は父帝をひどく恨んでいたから
悪帝と言われる陽成を後加号としただけでなく
親子関係をひっくり返すために自らは後水尾と遺諡したと言われるね。
後嵯峨→後深草はまさに嵯峨から仁明への継承になぞらえて
持明院統の正当性を主張するための追号と考えられている。
一方、大覚寺統の亀山は嵯峨天皇ゆかりの地である嵯峨亀山の地を
根拠とする追号とすることでこちらもその正当性を表現した。
>>37 そもそも後加号は村上朝で生まれたわけだが、
兄弟相続が多かった村上朝において一統としての皇位継承を強調、
正当化するために後加号を用いたと考えるから自ずとそう見える。
後醍醐天皇の遺諡は有名でしょ。宋代の君主専制を目指した後醍醐にとって
延喜・天暦の治の醍醐・村上は当然目指すべき皇祖であったわけだから。
水戸徳川家は、幕府の旗本以上に名門の血筋の人間を召抱えていますが
これはどういう風潮から来たものですか?朱子学的な問題ですか?
天狗党の武田伊賀守とかが有名ですよね。
>>46 ・17世紀初め、主なし武家の多くは再仕官か帰農かの選択を迫られていたこと
・関東では特にそうだが、名門武家が多かったこと
・水戸藩は元々が新設の為、子飼いの臣が少なかったこと
・水戸藩は格式が優先されていたこと
…などが理由と思われる。
>>43 唐傘連判状でしたか。ありがとうございます(´▽`)
昔、学校の日本史で、「漢委奴国王」の金印は「かんのわのなこくおう」
と読み、倭が委になってるのは技術不足などの諸説があるって
習ったんですけど、本当は「かんのいわこくおう」で漢が統治を委ねる奴国王って読むのが
正しいと思うんですけど、ちがうんですか?
>>49 ハンコを作る場合、分かるなら偏を略す場合がある。
さすがに漢は略せないのかw
>本当は「かんのいわこくおう」で漢が統治を委ねる奴国王って読むのが正しいと思うんですけど、ちがうんですか?
何で正しいと思ったのか根拠を聞かせて欲しいところですが。
中国の王朝が、外国に送った印章は他にもあるので、それらと比較して「かんのわのなこくおう」と読むという説が有力になっていると思ったんですが。
「かんのいとこくおう」(漢の伊土国王)と読むとかいう説もあるけど
>>49 同形式、すなわち<(王朝名)+委+(国名)+国王>の印が他にもあるようならその可能性もあるでしょう。
>>49 そもそもハンコというのは、捺した人が誰か、誰が捺したかを示すアイテムです。
だから刻されるのは、必ずその人の名か肩書き、あるいはその人を示す記号です。
そうでないと意味がないのです。
ですから「委の奴国」ではなく「委奴国」と読むのはアリですが(初めはこの説だったらしい)
「漢、(汝を)奴国王に委ぬ」という文ともとれる形式で刻され使用されることはほぼ考えられない。
委任の一文ではないのだから。現実、中華の公印においてそのような形式のものは
後にも先にもないでしょう。
また、中華王朝が外国を「委〇国」と記した国も、私は寡聞にして知りません。
明治時代、南朝正統になると後南朝はどういう扱い方したの?
南朝の公家の子孫とかが騒ぎ起こした事あったよね?
56 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 14:05:41
熊沢天皇
57 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 14:10:44
>>57 >>54が言っている>あるいはその人を示す記号 じゃないの?
信長が自分の政治姿勢を表すスローガンを古典から選んだわけだから。
>>44 出雲大社については、高層建築だった時代の柱が出土した記憶があるけど。
ただ、御指摘のように、こんなもん当時の技術で堅固に作れるはずもないので、
古来、何回も倒壊したという記録があったはず。
>>55 南北朝合一のときに神器が北朝に移り、これをもって以後は北朝が正統なんだ、
という整理をしたんでしょ。だから、後南朝及びその子孫を名乗る人たちには
実質上も名目上も正統性はなく、騒いでも当然のように無視された、と。
61 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 23:16:01
●『隋書』倭国伝中の「倭国の王は暗い内は自分が仕事をし、明ければ、弟にそれを委ねている」は何を表現しているのか忘れました。
「天皇は神(日)の子であり、その位は代々血統で引き継がれる」というつもりで小野妹子は言ったのでしたっけ?
●外国人に「聖徳太子は日本で初めて法律によって国を治めました」と説明したところ、「それ以前は、人々はどうやって日本を治めていたのですか?」と質問されました。なんと答えれば適切でしょうか?
それと↑のようなことも含めて聖徳太子について英語で紹介されているページはありませんか?
いろいろ検索してみましたが、Wikipediaもさほど詳しくはなかったのです。
>>61 >●外国人に「聖徳太子は日本で初めて法律によって国を治めました」と説明したところ、「それ以前は、人々はどうやって日本を治めていたのですか?」と質問されました。なんと答えれば適切でしょうか?
十七条の憲法は、心構えを説いたようなものなので社是とか校訓みたいなイメージで捉えればよく、規則・法律ではないと思います。
体系化された法律が制定されたのは大宝律令で、それ以前は慣習法だったり、体系化されずに個別に法律を作り適用していた とかでいいのでは。
63 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 15:31:42
>>52 この時期の中国漢字音で、「いと」の音訳として「委奴」を当てることは
あり得ないというのは言語学の世界では常識。
64 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 17:06:30
>>16 >後奈良や後柏原は時代背景を考えると分かるよ。
>当時は即位の礼はおろか、葬儀も行えなかった時代だからね。
>追号も多分に適当(というのは言いすぎかもしれないが)にならざるをえなかった模様。
政治的に混乱している時代だからこそ、平安建都の初心に還って平安時代の
最初の天皇である桓武や平城の名前を使ったんじゃない?
むしろその前の後花園や後土御門の名前のほうが微妙。
増鏡を読みたいが色んな出版社から色々出てるからどれがいいかわからん
原文と現代訳がついてて出来れば解説もほしいがどこの増鏡を買えばいいでしょうか?
よろしくおねがいします
66 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 20:20:15
率直な質問です。郷士と地侍って何が違う?
67 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 21:06:21
地侍=中世史における用語
郷士=近世史における用語
地侍
:中世後期、郷村に勢力をもった侍・武士。幕府や守護の家臣ではなく
国人以下の階層。用水の管理や加地子の集積などで郷村の実質的支配者と
なり、下剋上の風潮の中で、郷民の一揆の主役となった。戦国大名の下で
下級家臣となったが、兵農分離により近世社会では郷士などとして存続した。
>>64 元々後花園は「後文徳」の予定を「文徳は諡号だから後加号出来ない」と知って慌てて決めた筈。
70 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 01:48:10
神社は中に入るのに無料なところが多いのに寺は有料が多いのは何故なんですか?
71 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 02:14:44
系図ヲタです。いろいろ系図の本をみていますが、近代以降、生母の記入がないのがほとんどです。
けれどWikipediaとかをみると『生母は家女房の〇〇氏』と書いてあるのが、かなりあります。
一体どうやって調べているのでしょうか?
お薦めの本とかあったら教えて下さい。お願いしますm(__)m
72 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 02:49:10
>>44 転載で申し訳ありませんが、
出雲大社の現在の高さは24m、
社伝による古代の高さが16丈(48m)です。(現在の東大寺の屋根ぐらいに社がくる高さ)
当初はこのような高層建築は現実的にありえないとされてきました。
構造は、出雲大社の平面図を書いた「金輪御造営差図」によれば、
3本の木を金輪(鉄の輪)で1つに束ねた太さ1丈(3m)にもなる柱が9本
使われていたそうです。
工学博士・福山敏男と建設会社・大林組プロジェクトチームによる検証では
当時の技術でも建設可能であると答えが出ましたが、記録では
平安時代の中期から鎌倉時代のはじめまでの200年間で、6度ないし7度倒れたとの事です。
その後の平成11年9月からの発掘調査で、3本をたばねて1本とした巨大な柱の根本部分が見つかりました。
1本の木の直径が約1.3mで、3本をたばね1本とした直径は約3mで
まさに『金輪御造営差図』の通りでした。
さらにその後の調査で、心御柱(しんのみはしら)(岩根御柱とも呼ばれる中心の柱)と
もう1本の側柱(がわばしら)が出土しました。どちらも3本の柱材をたばねて、1本の巨大な柱としています。
>>69 「後文徳」の話は
>>36で既出。
せめて最新50レスくらいは読んでから書きなよ。
それに貴方のレスは「後花園の追号が微妙」といってる
>>64に対する答えにも
なってないだろう。たぶん。
>>64 いやそれは無理があると思うんだよ。
少なくとも平安に立ち返るという発想であれば後奈良はないだろう。
奈良帝は文字通り平安朝へのアンチテーゼとしての位置付けであるし、
その後の天皇も嵯峨帝を皇統の根拠としているところを見ても。
後花園や後土御門の方が微妙、というのは何が微妙ということなのかな。
76 :
74:2007/04/02(月) 13:52:06
ちがうよ。なんでそうなるんだ。
77 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 14:50:09
>>74 「後奈良」の追号は、「後柏原」のあとを受けて、元の追号の親子関係を
後加号でも踏襲したからだろう。
「嵯峨」の後加号は既に使われていたから、それ以外で桓武の皇子に当たる
天皇ということになると、平城か淳和になるわけだが、完全に断絶して子孫の
いない淳和よりは、嵯峨と同腹で子孫もいる平城のほうがいいというような
判断だったと思う。
子孫もいる平城、とは言っても臣籍に下ってるし。
まあこのへんの追号に関しては資料がないので全て憶測の域を出ないのだが、
多分そこまで深い意味があったわけでなく、先帝が後柏原だったから単純に
後奈良としたのかと推測してるのだが。葬儀やらなんやらでさえどうにもならない
時代だし、追号もその程度だったんじゃないかと。
79 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 15:13:01
近世の石高制について質問。
石高の少ない村って、本当に貧しかったのでしょうか。
だって、石高って課税価値でしょう。
だったら、石高が低かったら、それだけ年貢に取られる分が少なくって済むってことでしょう。
漁村なんかの場合、実際の所得は漁獲高で変わるのだから、
石高が低い漁村って、大漁になれば、年貢にも取られず、丸もうけってことにならないの?
80 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 15:46:13
81 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 05:23:02
安土城の天守閣は建築学的に建設が不可能って本で読んだんですけど
本当なんでしょうか?一階から三階に吹き抜けがある建物は当時は作れないと。
それだと、鉄鋼船とかはもっと不可能では?
82 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 07:34:59
修学旅行等で奈良の東大寺に行ったことはありますか?
全長15メートル(四階建相当)の大仏が 寺の中にすっぽり収まっています。
寺の吹き抜けは最低でも20メートルはあり
8世紀の時点で48メートル、
現存においても世界最大の木造建築を建設する事ができました。
83 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 08:15:04
八尾の浅吉 ってなんと読むのか教えてください。
84 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 09:16:46
… 07/04/02(月)23:16:01 IP:58.0.96.* No.616855
吉宗の時代のアラブ馬を輸入する時の発注書が面白かったね。
絵付きで、額に縦線の馬に「×」(笑)。
この模様はかっこ悪かったらしい。
額に白丸の馬に「○」。そういう柄が当時のファッションだったのか。
この馬の子孫は明治天皇の乗馬にまでなったらしい。
こんなレスがあったが、詳細きぼん
85 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 10:45:18
>それだと、鉄鋼船とかはもっと不可能では?
安土城の復元案が実現不能だと、なんで鐵甲船(信長が九鬼嘉隆に作らせたやつだよね)が不可能なんだ?
鉄甲船は当時一般的だった安宅船に鉄板貼り付けて防火性向上させたやつだろ?
大型で重くて、機動性悪いので使い勝手が悪くて(信長も本願寺包囲のためにしか使用させていない)
一般化しなかっただけで構造上特別な点は何もないと思うが。
安土の復元案はいくつかあるけど、吹き抜け構造のやつが構造的に不可能って話は
上部構造の重量を、復元案にある柱だけじゃ、支えきれないという計算から出たんだと思うけど。
87 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 14:46:26
88 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 14:27:46
国民の歴史
新しい歴史教科書を作るかいって真面目な本ですか?
とんでも学説の本?
>>79 「石高の少ない村」と書いている事から根本的な勘違いをされているようです。
課税は村に対してではなく戸別です。
検地によって戸別の課税額を決めますから農民に余裕は出ません。
各農民がどれだけ納税できるかを判断し必死に働き出した成果の内、
死なない程度を残し全て徴収する事が徴税です。
また各大名家も幕府から締め付けられていましたから、
家臣の禄を削減しなければならないほど財政は厳しくなっていました。
>>88 冗談で活動しているわけではなく、会員の方は真面目に活動しています。
それと内容が正しいかどうかは別問題。
数学と違って、事実がから導き出される内容(その原因とか影響とか)が人によって違うことがあるので。
だから、内容については、賛成の人も反対の人もいます。
91 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 03:22:00
なぜ源姓ばかり与えたんですか?
94 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 11:31:48
国民の歴史
新しい歴史教科書を作るかい
真面目かどうかではなくどの程度信ぴょう性があるのか知りたいです
トンでもなのかそれなりに信用できるのか
>>94 市販されているので、買うなり図書館で読むなりしてはどうですか?
96 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:38:56
最近テレビで歴史が実は違ってた!
とかいうのを見るけど、何であんなに地震満々に語ってるの?
97 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 15:00:30
大一大万大吉の意味を教えてください
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
99 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 19:23:07
戦後60年、現在にいたるまで、日本に「(内)親王」「女王」はいても
「王」はいないのに、皇室典範から「王」が削除されないのは何故?
事実上、空文化している無意味な規定だと思うんですが。
100 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:03:00
現皇太子が天皇として在位中に、
悠仁親王が男子を儲けたら、
「王」の規定を復活させねばならなくなり、
面倒くさいから。
吉原では遊女が身篭ると死産させると聞きましたが、
一方では、遊女に子供を生ませ、その子供を遊郭の労働力にするという説もあるようなんですが、
実際のところ、どちらの説が有力なんでしょうか?
どちらも正しい場合、死産させる子と生むことの出来る子とでは、なにかしらの区分があったのでしょうか?
>>99 たまたまこれまで王が出てきてないってだけで、
現行皇室典範における「王」が出てくる可能性が1%でも考えられる以上、
削除することはできんだろ。
三笠宮家、高円宮家は女王しかいないけど、この中の1人が男だった場合を考えてみろ。
さらに、もしも削除してしまったあと、王となるべき男子が産まれたら
そいつの称号はどうするんだ。
103 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 05:00:35
ソフトバンクにいます。
104 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:16:35
>もしも削除してしまったあと、王となるべき男子が産まれたら
現状から判断するに、それは絶対にありえないな。
105 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 14:00:02
「絶対に」って何故???
>>100のケースが十分あり得るだろうに
106 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 14:06:12
ユージンは次の天皇だから、その男子は親王になる。
107 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 14:15:11
それは秋篠宮が即位した時点での話だろ。
今の皇太子が天皇の時ユージンに王子が生まれたら、
その子は「王」だぞ。
108 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 15:06:26
廃太子
>>107 ところで、もし秋篠宮が即位したら、悠仁親王の男子は親王に宣下されるの?
110 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 16:07:29
宣下ではなく、皇室典範の規定により、身分が王から親王に変わる。
可能性の議論だけで言うと、例えばヒゲの殿下が離婚して若い女と
再婚し、その女との間に男子が産まれても王になるよ。
条文を1本削除するのだって、手続上は
有識者会議なんかを開催して議論の上削除について合意を得る→
改正案を宮内庁が作成して内閣が国会に提出→衆参両院で審議して
法案成立→公布→施行
と、それだけで軽く1年近くの時間とコストがかかるのに、誰が
好きこのんで必要性もないのに皇室典範を改正するのか、と。
112 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:20:40
将来また「王」が現れるかも知れないのに削除なんてするかよ。
江戸時代は、藩という言葉が一般的じゃなかったって言うけど、
それじゃあ、なんて称していたの?
たとえば、江戸時代は松代藩の藩主真田某は、公称上なんて書くの?
ねえねえ。
114 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 15:34:09
昨日テレビで菅原道真は勉強できなくて落第寸前だったと言ってたんですが、
そんな資料があったんですか?
115 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 16:11:40
116 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 16:19:21
「示巳る」これの読み方教えて下さいm(_ _)m
>>113 官位でしょうね。
例えば「○○播磨守」とか「××上野介」とか。
公文書にはさらに「松(松平)薩摩守」とか、
「源○○」と書名していたのもあったっけ。
忘れちった。
詳しい人フォローよろしく。
119 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 17:06:38
公家の家号なら「〜家」でよいが、武家の苗字の場合は普通は「〜氏」と書く。
>>118 官位を叩き売りして生活していた天皇や公家は下衆であると京の人々や武家に見られていた。
京の町を通りがかれば官位が拾える程度の価値。下層の者達でさえ官位を名乗るほど。
私の書き込みで不十分でしたら御自分で調べられると良いと思います。
>>120 私も詳しいとは言えないので認識不足なら申し訳ないが、
江戸時代朝廷の官位と武家の官位は別物(官位録に載せず、公家の定員にも影響しない)とされて、
朝廷の官位を武家が買うと言うこともなくなったのでは?
120はただ朝廷の権威を貶めたいだけの賤民だから
120は某コテっぽいが?
124 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 03:24:18
武家官位は定員外という考え方は、既に南北朝・室町の頃から出始めているが、
それを完全に制度化したのは近世になってから。
『公卿補任』からも元和7年以降は、武家の記載が消える。
125 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:17:00
武家の官位っていうのは、そもそも鎌倉時代以来、武家政権のトップである
将軍を通して申請するものであって、一武家クラスが直接朝廷に申請することは
原則ないはずだが。
台所まかない用人ってどういう仕事?
127 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:22:14
128 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:56:49
よく名前の一部を部下にあげるのあるけど、見返りの相場ってのはどのくらいなんですか?
たとえば足利将軍の場合。
129 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:19:15
「義」の字か下の字かで異なる。
130 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 03:13:23
てか徳川将軍が「家」の字を与えるケースってどのくらいあるの?
江戸初期の最上家親と島津家久くらいしか思い浮かばないのだが。
>>130 ほぼ皆無と言っていい。「家」の字を与えたのは家康のみで、
それ以降一字授与がシステム的に確立してからは、必ず将軍の下の名前を
上につける。
132 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:16:52
室町幕府みたいに将軍の上の字を与えるか下の字を与えるかで大名の格付けを
しようという発想はなかったの?
ない。家を名乗れるのは徳川宗家だけ。他との隔絶をはかるため。
他にもいたんじゃ隔絶の度合いが弱まる。
綱吉、吉宗、慶喜のようにそのままというケースもあるけど、
傍系の人が将軍職につくと、「家」を含む名前に改名する場合があるよね。
綱豊→家宣、慶福→家茂
これは、「家」の字は原則として将軍が用いるもの、という意識の
現れのように思われる。
室町幕府の場合、足利氏以外の清和源氏系の名門氏族も
「義」の字を使いまくっているから、
「義」を将軍家独占とするわけにもいかなかったのだろうと思う。
(例:佐竹、里見、畠山、斯波、一色、吉良)
>>133-134 尾張家は「義」、紀伊家は「頼」が一応の通字。
水戸家は結構バラバラだが一応「頼」ってところ。
「家」は徳川本家だけの通字でしょうね。
江戸時代にハングライダーみたいなの作ってテスト飛行してたら
役人に捕まった町人がいたって本当ですか?
今日読んだ新聞に陳瞬臣が
「倭寇は略奪行為を働き、人身売買をしていた。島津家も倭寇に働きかけて人身売買に加担していた」
というようなことが書いていましたが、これは事実なのでしょうか?
140 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:58:02
後醍醐天皇は何故、吉野の地を南朝に選んだんですか?
141 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:43:21
壬申の乱
142 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:56:22
>>134 江戸幕府で傍流から将軍になった人については、前将軍の死後に後継者に
決まった人は名前はそのままで、前将軍の生前に後継者に決まっていた人は
「家○」という名前に改名するのが基本だと思う。
だから綱吉・吉宗・慶喜は改名せずに将軍に就任したが、家宣・家斉・家茂は
将軍の後継者に決まった時点で「家○」の名前になっている。
また室町期の大名に見られる「義○」の名前については代々の通字のように
見える家でも一応原則は将軍からの偏諱であったはず。
そのため「義○」という名前は比較的見られても、「○義」という名前は
まずいない。
もっとも偏諱を貰った場合に、貰った字を必ず上に付けるようにということが
徹底されるのは、義満時代の後半くらいからなので、初期の頃はその限りではない。
143 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 01:05:55
元祖 汚ギャルの平安姫君に萌えるスレって無いですか?
無ければ作るので、テンプレ考えて!
144 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 01:16:44
「胤」の文字は千葉氏の流れなの?
145 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:25:14
147 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:10:27
>>142 その通りだと思います。しかし、家光→家綱とか、家重→家治は、現将軍から頂くという考えもありますが、綱吉→家宣、吉宗→家重とかだと、そういう事にはなりませんね。
(慶喜→家達も?)「家」という字の継承の際は、やはり家康を意識しているような気がしますが何か論拠のようなものをご存じでしょうか?
幕府の始祖(開祖)という意味なら、足利家は尊氏でしょうが、将軍家が代々引き継いでいるのは「義」ですし。
148 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:23:33
家康の「家」は今川から独立して「元」を捨てて改めた記念すべき字だし、松平姓から徳川姓に改姓したのが家康だから徳川氏の太祖でもある。
一方、足利尊氏は足利氏の太祖ってわけじゃないし(太祖は義康)、元々の諱は高氏で、北条高時から貰ったものだし、「尊」は後醍醐天皇から貰ったもので、将軍家の通字として不適切だと思われたんじゃないかな。
だから、徳川氏も豊臣の大名として続いてたら、秀忠みたいに偏諱を貰って「家」が通字として定着しなかったかもね。
まぁ、憶測だけど。
149 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 01:13:31
徳川家康の「家」って、八幡太郎義家の「家」から取ったというのは本当ですか?
>>148 足利の場合、鎌倉期の通字は「氏」、室町期に「義」になるけど、
「義」は清和源氏の嫡流、というイメージがあるので北条氏に
遠慮して鎌倉期は避けていたのでは。。。
まったくの憶測ですが。
あるいは、逆に鎌倉期にそのような配慮はなかったけど、
鎌倉幕府を滅ぼしてから足利が「武家の棟梁」というイメージを
自ら作り出すために、源氏のイメージのある「義」を使ったのかも
しれません。
>>150 そうなると新田義貞の「義」は?という話になってくると思うが…
まあ関東側に「氏」を与え、京都側に「義」を与えたというところも
考えると、少なくとも別の家にしたという意図があったのだろうから、
それはいえることなのかもしれないな。
152 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 09:06:08
日本の歴史書で最も古い歴史書はなんで西暦何年に成立したものですか?
153 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 09:08:35
仁徳天皇陵は西暦何年に作られたのでしょうか?
154 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 09:13:56
清和源氏においては「義」と並んで「頼」も多いですが。
「義」という文字が尊ばれたのは、鎌倉後期くらいから日本にも入ってきた宋学(朱子学)の影響もあるでしょうかね。
儒教はある意味、宗教改革期で、日本にもそれが波及していましたし、後醍醐天皇なんかも朱子学の影響を受けています。
こういうのは、一種の流行り廃りもあると思います。
不思議と、戦国時代に多いのが「信」ですね。なかなか人を信じられない時代ですが。
この頃だと、室町幕府はマイナスイメージが強くなっていったので、清和源氏の象徴「義」も廃れたのでしょうか。
(大内義興、今川義元、武田義信・・・それ以降は・・・)
徳川家康の「家」は斬新ですね。「家」自体は当時は珍しくなかったでしょうが、これを家光以降継承していく発想は新しい流れだったと思います。
155 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 11:00:01
>>152 古事記(712年)
日本書紀(720年)
が現存最古になる。両方合わせて記紀と呼ばれることも多い。
推古天皇の時に聖徳太子と蘇我馬子が天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部并公民等本記を編纂したが、大化の改新で蘇我宗家が滅んだ際、そのほとんどが焼失したとされてる。
156 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 11:18:07
>>153 だいたい5世紀(西暦400年代)の始めから中ごろだと推定されている。
天皇陵の発掘許可が下りればもっと正確な年代が特定できるかもしれないけどね。
>>154 >(大内義興、今川義元、武田義信・・・それ以降は・・・)
彼らの名前は将軍から一字貰ったからだから、はやり廃りとは関係ないです。
将軍の権威・実力が下落しているので、これらの家ではそれまで家格上もらえなかった「義」の字がもらえた。
今川氏「輝」の次が「義」元、武田「晴」信の次が「義」信、
158 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 15:57:20
「荘園公領制」についてちゃんと知りたいのですが、何を読めばいいですか。
教えてください。
159 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 19:03:30
武田晴信の当主時代に一字を拝領した人は「信○」と名乗ったのでしょうか?
「信」は武田一族の通字なので、一門以外ではあまりいないと思われるのですが。
また、勝頼の時代には「頼○」と名乗る家臣はほとんどいなかったようですが、
一字拝領は行われなかったのでしょうか?
勝頼は、諏訪勝頼だから、武田とは別枠
161 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 20:09:12
なぜ「頼勝」ではなく「勝頼」になったんだろう。
>武田晴信の当主時代に一字を拝領した人は「信○」と名乗ったのでしょうか?
拝領したと推定できる人物はいないのでは。
武田一族以外だと小山田信茂とか真田信綱がいますが、小山田氏は通字が信みたいだし、
真田氏もその可能性があると思う。(信綱の息子も、甥(昌幸)の息子・孫も信がつく)
代わりに晴信・勝頼時代の武田家臣に多いのが「昌」字ですが、これが晴信から与えられたとはっきり示す史料はなかったような。
あと、勝頼の「頼」は諏訪氏の通字で、勝頼が諏訪氏の血統でその後継者であることを示すために付けられた名前と思うので
普通は「頼」字ではなく「勝」字を与えるでしょう。
163 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 01:10:51
仁徳天皇陵を掘り返すと始皇帝陵みたいな兵馬俑がでてきたりするんでしょうか?
164 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 01:16:24
埴輪ならいっぱい出てくるだろうね。
165 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 16:57:06
>>148 6代将軍義教が「義宣」から「義教」に改名する際に、「尊国」という名が
候補に挙がったことがある。
>>150-151 新田義貞の家系も義貞以前は3代続けて「○氏」という名前。
しかし義貞のところで突然「義○」という名前に戻った。
また足利尊氏には、高義という早世した兄がいる。
よって足利流・新田流ともに、鎌倉末期に通字が「氏」から「義」に変わったと
いう可能性が推測される。
なお高氏(尊氏)の場合は、本来次男だったから元の通字である「氏」が
使われたという可能性が高い。
>>154 室町・戦国期に守護クラスで「義」を使っている名前は、原則として全て
足利将軍家からの偏諱(てか既出)。
武田義信あたりを最後として、「義」を使う名前が少なくなるのは、
室町幕府自体がなくなってしまったからじゃないの?
もっとも、前代からの由緒を強調するためか、それ以降も「義」の字を通字の
ようにして使い続ける例もあるが(吉良とか佐竹とか)。
あと山名なんかは不思議なことに江戸中期くらいになってから通字をわざわざ
「豊」から「義」に変えているw
166 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 17:24:28
>>149>>154 徳川家康の「家」は、それ以前から足利流や新田流など、源義家を直接的な
祖先とする諸家では比較的よく使われる字ではあった。
それまでの鎌倉幕府・室町幕府の将軍の通字である「頼」や「義」を避けたと
すれば、「家」を使うことは徳川氏が義家に繋がる清和源氏を自認する限りに
おいては、極めて自然な発想。
そして徳川氏の本家が「家」を名乗る代わりに、前代の将軍家の通字であった
「頼」「義」を御三家の通字にした。
>>157 戦国期の足利将軍家からの偏諱の場合は、その際に支払う謝礼の額によって、
「義」の字になるか下の字になるかが決まっていた(但し幕府内での家格も
ある程度影響する)。
だから幕府や将軍家の権威の低下などとはあまり関係ない(そもそもこの件に
関して権威が著しく低下していたのなら、大名たちは将軍から偏諱を貰うこと
自体に価値を見いださなくなるはず)。
なお今川氏輝が将軍義輝の偏諱ということはあり得ない。
氏輝が死んだ段階でも、まだ将軍は義晴だし、義輝に関しては「菊幢丸」という
幼名を名乗っている元服前の子供。
さらにこの時代には、貰った偏諱を名前の下の字に使うことは普通あり得ない。
今川氏に関しては、氏親の父の義忠が8代将軍義政から偏諱を貰っており、
既に「義」の字を貰った先例がある。
今川氏は、永享の乱のときの範忠(義忠の父)の功績が影響して、「義」の字を
貰える家格を手に入れたと考えられる。
167 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 17:37:19
中世の中国との貿易についてお尋ねします。
日宋貿易で日本が宋から輸入した代表的品目は銅銭と「絹織物」であるのに対して、
日明貿易では銅銭と「生糸」ですが、なぜ宋の時代は生糸を輸入しなかったんでしょうか?
168 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 17:47:34
>>162 甲斐武田氏は、当主が「信○」の場合は、家格の高い者には「信」、
それほどでもない者には「○」(下の字)を与えるという形になっていたと
考えられる。
しかし当主が「晴信」になると、それまで下の字を与えていた者たちに「信」を
与えるわけにもいかず、やむを得ず「昌」の字を偏諱に准ずるような位置付けで
与えたのだと思う。
「昌」は晴信の曾祖父である信昌の「昌」が念頭に置かれていると考えられる。
晴信の場合、当主になったときの経緯から考えて父信虎の「虎」は使えないし、
当主であった期間も短く病弱だったとされる祖父信縄の「縄」も不適当と
考えたとすれば、甲斐武田氏中興の英主とされる信昌の「昌」を使うことは
妥当なところだろう。
もちろん、元々「信」を貰う家格であった者には「信」を与えるから、家中で
別格的な真田や小山田、さらに嫡流に近い一族なんかは「信」なのだろう。
真田に関しては、もともと偏諱であったものが、のちに通字化した可能性も
あり得る。
>>167 絹織物の日本における発達が近世以降だから。
ちなみに絹糸も中国産の方が勝っていたが江戸期の管理貿易体制で
国費の流出を防ぐために国産化が奨励され、各藩の殖産事業と合致して
日本の絹織物業の基盤を築いた。
170 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 19:42:17
日元貿易(建長寺船とか天竜寺船)のときは、もう生糸は輸入されてましたか?
>.168
>当主が「信○」の場合は、家格の高い者には「信」、
親族衆の木曽氏でも「昌」なのに小山田氏や真田氏が「信」貰えるほど家格が高いの?
武田氏の支流以外での具体的な例を教えてください。
>真田に関しては、もともと偏諱であったものが、のちに通字化した可能性
このような例(偏諱を家の通字にした)ってあるの?真田氏でなくてもいいけど。
貰った一字を勝手に、息子や孫につけるってことですよね。
武田の場合滅亡しているからいいとして、主家が存続してたらまずいことにならないですか?
172 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:07:09
徳川の譜代大名に「康」とか「忠」を通字にしてる家が多いけど、
あれも家康や秀忠の偏諱を家の通字にしたの?
173 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:12:59
中津藩主奥平家の通字「昌」って、信玄からもらった字が通字化したの?
>>173 Wikipediaの奥平氏のところをみると、15世紀後半ころの当主に貞昌ってのがいます。
これから来ているのではないかな。
家康の娘と信長の「信」を貰った信昌より前の一族だと「貞」字がついている人物が多い。
信昌以降だと「昌」。
175 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:40:55
戦国時代中期以降、ほとんどの地方では多くの地域を平定する大名が出現するか、そうでなくても有力家の下で連合のように一勢力としてまとまっていきましたが、
東北地方はいつまでも小勢力が小競り合いを繰り広げてなかなか有力大名が出現せず、地域統合へ進んでいかなかった、進んだとしてもその時期が遅れたように思えるのですが、
この原因としてはどういったことが考えられるでしょうか?
>>175 ・一年の三分の一以上は雪に閉ざされる
・その時期農民兵は当然動かせない。雪が解けたら農作業。暇じゃない
・だから大規模な交通や貿易も発達しなかった
というところでは。
>>175 冬季(農閑期)に戦闘を行えないので、なかなか長期間城攻めできない、敵を攻めてもなかなか決着がつかないからって説明を聞いたことがある。
北陸や山陰は戦国大名化しているじゃないかと思ったけど。
面積だけみると、戦国大名といっていいレベルを支配していたりするけどね。東北の大名。南部とか。
178 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:27:55
>>171 小山田や真田は最後まで半独立って感じの状態でしょ。
真田に至っては武田の滅亡にも巻き込まれていないし。
木曽は武田からの偏諱の人物いたっけ?
鎌倉や南北朝の頃ならいざ知らず、この時期には貰った偏諱は必ず上につけると
いう慣習ができているわけだけど。
>>175 親戚関係が入り組んでいてにらみあいになっていたと聞いた
180 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:33:17
>>172 というか「忠」の字は家康以前の松平氏の通字。
親忠−長忠(長親)−信忠−清忠(清康)−広忠−家康
だから元々代々「忠」の字を貰っていた譜代の家の場合には、徳川将軍家が
「忠」を使わなくなったのちも、それが家の通字のようになって残ったという
可能性はあるね。
譜代の大名に徳川将軍家から偏諱を与えなくなった代わりに、「康」や「忠」を
彼らが通字として使うことを容認していたのかも。
181 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:37:54
>>177 東北地方でも太平洋側の積雪は大したことない。
それに南東北の大名は、元々他の地域の一国守護と同等レベルくらいの
支配地(面積と生産力の両面で)を持っている者も多い。
北東北の場合は、支配している土地は広くても人口密度や生産力はスカスカ。
>>170 基本的に日本での絹織物が古代の一時期を除けば国産化できたのが15世紀以降。
あるいは日明貿易も初期は絹織物も輸入品目としては大きかったかもしれない。
183 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 03:26:06
>>157は今川氏輝の「輝」が足利義輝からの偏諱だと思っていたわけか。
久々に究極のバカを見た。w
>>175 >>181でも触れられているとおり、積雪を問題にすると、
北陸、山陰の有力大名の存在、東北の太平洋岸の有力大名の不在を
説明できない。
やはり、経済力の差と考えるのが妥当なんじゃないの。
寒冷地のため農業の生産性は低く、中央から遠いから商業もさほど発達しない。
こういう状況で大軍団を抱えたり大きい軍事行動を起こすだけの
経済力のある勢力が出てこなかったから、
いつまでたっても群雄割拠だった、と。
185 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 05:47:44
東北の大名の中では明らかに最有力である伊達氏が、本拠地をわざわざ
陸奥国伊達郡から出羽国置賜郡に移していることから考えても、積雪量自体は
大した問題ではないってことだろう。
東北以外で考えても、北近江や越前なんかは積雪が多くても生産性はかなり高い。
>鎌倉や南北朝の頃ならいざ知らず、この時期には貰った偏諱は必ず上につけると
>いう慣習ができているわけだけど。
吉良頼康(おお、画像つながりで武田につながった)
年齢は調べてないけど、氏綱の婿だから氏康とほぼ同年代なのでは?
他に思い当たらなかったので特別な例かもしれない。
北条家中で家格が高いどころか、吉良>北条でしょうから。
逆に吉良頼康に一字貰って氏康なのか?
187 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 14:01:49
貰った偏諱は必ず上につけるというのを徹底させたのは足利義満。
義満はある時期からこれを徹底させるようになった。
なお鎌倉公方の足利氏満に関しても、京都側では勝手に満氏に改名したことに
させられた。
てゆうかちゃんと史料読んでこの時代を研究している人なら、このくらいは
常識的に知っているだろ。
188 :
143:2007/04/16(月) 15:43:41
あと、足利義氏の場合は兄貴が先に「藤」の一字を貰ったからというだけ。
191 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:25:20
名前が漢字二文字というのは何故なんですか?
東アジアの伝統?
>>191 一応、そう。
正確に言うと、五胡十六国/六朝時代後半からの中国の伝統。
それ以前は諸葛亮孔明みたいな、諱一文字、字ニ文字の形式。
それが諱ニ文字になって時代が下り、日本に導入されたという次第。
193 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 01:15:14
>>192 字の意味で考えて良字2文字という名前の付け方が普及するのは平安初期から。
最初は漢文漢籍ヲタだった嵯峨天皇が、自分の子供たちを名付ける際に、
皇族籍に残す者は漢字2文字、臣下に落とす者は漢字1文字とした。
ただその際に、音読みでは味気ないので漢字の字ごとに人名訓が考案された。
その後、貴族社会では漢字2文字の名前のほうが一般的となったため、結局
漢字1文字は嵯峨源氏だけになった。
>>191 東アジア圏の伝統ではあるが、通字を親子間で使うのは日本独特。
台湾とか今もそうなんだけど、基本は兄弟間・従兄弟間で字を揃え、
親子間では不孝に当たるので同じ字は使わない。
(例:趙匡胤、趙匡義兄弟)
日本も平安中期までは兄弟間の通字が用いられていたが、
(例:嵯峨天皇の皇籍に残った皇子の通字は「良」、清和源氏の初期の
系図見ても、経基の子は「満」、満仲の子は「頼」が通字)
のちに代々通字を継承していく方式に変化していった。
195 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 03:05:44
>>194 平安後期以降の公家の場合は、兄弟間の通字と親子間の通字との中間形態と
いうべき通字の使われ方をするケースがよくある。
つまり家の通字が2種類あり、1代おきに交互に用いるケース。
摂関家における「実」と「通」、閑院流における「実」と「公」、
日野流における「光」と「資」など。
摂関家においては早くに崩れたけど、家によっては近世までこの状態を
保っていることもある。
松平・徳川家が<康><忠>を交互に使っていたけど、武家では珍しいのかな。
また毛利家は嫡男が<○元>それ以外が<元○>だったが、将軍家と御三家がこれと似た関係
徳川って意外に公家だったりしてw
198 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 09:25:00
徳川の葵紋は京の賀茂神社の神紋だし、公家社会と関係あるかも
199 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 09:39:21
>>196 家康以前の松平氏は、ほぼ代々「忠」だろ。
親忠−長忠(長親)−信忠−清忠(清康)−広忠−家康
毛利氏の場合、嫡子は誰かから偏諱を受けることが多いから、通字の「元」が
下になる。
熙元・・・山名時熙からの偏諱
豊元・・・山名持豊からの偏諱
弘元・・・大内政弘からの偏諱
興元・・・大内義興からの偏諱
隆元・・・大内義隆からの偏諱
輝元・・・足利義輝からの偏諱
200 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 09:41:57
あと通字を上にするか下にするかでいえば、菅原氏高辻流の公家の家は、
通字の長を上につける人物と下につける人物が1代おきに交互に出てくる。
これも
>>195のパターンのバリエーションの一つだろう。
>>199 信忠−清康−広忠−家康-秀忠
<忠><康>の交互といえるでしょ。
あなたが言っているのも正しいけど。
専門じゃないので辞書とネットでから推測した程度だけど清忠・長忠はほとんど使用していないのでは?
202 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 14:04:05
むしろ一次史料からは「長忠」「清忠」が正しい名前であることを推測させるようなものしか出てこなく、「長親」「清康」の名前は殆ど後世の文献にしか現れない。
「清康」の名前については、この名前で出されている発給文書が一通あるが、偽文書の可能性を排除できないようなものという。
そのため、家康の「康」がどこから来たのかを説明するためのこじつけとして後世になって「清忠」が「清康」に書き換えられた可能性も濃厚らしい。
俺も戦国期の松平氏は専門外なので、この辺りが専門の人が喋っているのを飲み会の席で小耳に挟んだ程度だが。
203 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 15:32:08
てか実は「長忠」「清忠」だって話は、2chの松平関連スレでも常識として扱われてなかった?
204 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 00:05:49
>>201 辞書というのは『国史大辞典』クラスのもので調べたのですか?
205 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 09:12:57
まあ素人歴史ヲタは専門家には常識レベルのことでも分かってないこと多い。
興味のベクトルに学問的観点がなくて100%マニア的な観点だからしゃーないが。
206 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 19:14:38
初心者質問スレで何言ってんだ。
世間の人間や歴史板に出入りしてるヤツがみんなプロのわけねーだろ。
自称のプロの傲慢さが鼻につく。自称プロなんてヲタのなれの果てで実質失業者じゃんw
207 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 19:31:12
>>205 スレタイを声を出して百回読んで見ような。
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart19【歓迎】
>>205 日常で誰にも相手にされない憂さ晴らしを初心者相手にネットでか。
哀れだな。近所の幼稚園児に知識ひけらかしとけ。
209 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 23:49:49
210 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 00:40:55
中世から近世にかけて、神社ってどんな役割を果たしてどう運用されていたんでしょうか?
仏閣は歴史にも登場するし、民話や物語にも数多く登場しますが、
神社はとにかく影が薄いです。
廃仏毀釈以前の神社ってどんな感じだったのでしょう?
211 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 01:20:36
大半が神宮寺だろう。
212 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 02:41:37
教師に、明治以前の大阪を表記するときは、「大坂」と書くように指導されました。
納得できません。
地名の表記法が、現代と近世で変わっている場所は、他にもたくさんあるでしょう。
いちいち、歴史地名辞典で確認して、その時代の表記法に合わせるなんてことしていないのに、
なぜ、近世の大阪だけ、近世の表記法を用いなくてなはならないのでしょうか。
213 :
210:2007/04/19(木) 06:30:52
>>211 なるほど。
ということは、今の神社のように神職がいたのではなく、
坊さんがいたのですね。
>>212 納得できない?
それはあなtがバカだからです。
216 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 19:18:38
参勤交代の折、島津や細川は舟で行ったそうですが江戸まで舟?
217 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 19:26:24
>>212 日本中のあらゆる地名に精通しろとまでは要求してないだろう。
大坂とかメジャーなところを押えておけばよい
論文とかなら、なるべく当時の表記に近づけるべき
219 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 20:03:09
江戸時代に栄えた、もしくは人口の多かった国ベスト4を教えて頂けないでしょうか?
221 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 03:14:56
例えば今は立派な春日大社も、昔は膨大な興福寺の領域内にある
ちっぽけなものだった。
廃仏毀釈でそれは全く逆転した。明治前後で社寺の景観は一変した
と言っていい。現在の様子からはなかなか近世以前を想像しにくい。
223 :
210:2007/04/20(金) 06:52:39
>>221 そうなんですか。今だと神職は袴を着ているから、
袈裟を着ていては神職のイメージはなかなかわかないですね。
>>222 成程。
神仏習合とは言っても、仏教中心だったんですね。
皇族が仏教に帰依したのだから当然かもしれませんが。
224 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 11:28:56
>>212 ではあなたは、徳川家康は東京に幕府を開いたと?
225 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 21:04:18
江戸時代に散らばった寺を一ヶ所に集めて寺町造った、尼崎の例もあるよ。
>>224 その喩えはなんか違う気がする。
おおさかは今も昔もおおさかじゃん。いや、昔はあふさかかも知れんけど。
227 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 23:48:01
高校の「日本史B」と「世界史B」の問題集をAmazon.co.jpで探している
のですが、次の二つの条件を満たすオススメの本がありましたら教えてください。
ア. 参考書みたいに要点がまとまっていてわかりやすい
イ. なるべく問題が多い
よろしくお願いします。
まあ大坂のように歴史上重要な都市で
かつ公式的な表記変更の時期と理由が明確な地名くらいは
時代によって使い分けるくらいなんの障害でもないがね。
小中学生に歴史を教えてるんならまだしも。
明治維新によって大坂も江戸もその位置付けが大きく変容したわけだから
江戸を事例に出すにもさほど無理もない気がするけどね。
229 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 08:38:03
富山藩の足軽の息子安田善次郎は、幕末に江戸に出て商家に丁稚奉公したんだが、
江戸時代に武士の息子が商家に奉公するってありえたの?
富山藩の慣習が分からないんだが、足軽だったらね。
幕末でなくても、絵描きもの書きに武士の出身は多かったんじゃね。
反対に、勝海舟の何代か前は、なんとか検校とかではなかったか。
231 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 11:07:56
しかし、明治以降ならともかく、江戸時代に武士の子が商家に丁稚奉公するのは、
ものすごく勇気がいるというか、抵抗があったんじゃないかな。
232 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 11:53:45
>>228 逆の事例を言うなら室町幕府かな。
当初は六波羅にあり、義満の頃室町に移転しているが、「足利尊氏は室町幕府を開いた」という表現は受け入れられている。
鎌倉幕府も所在地は移転しているが、鎌倉幕府とひっくるめて言っているが、それなら足利幕府は「京(都)幕府」だろうか。
江戸時代以前は、政治の中心地が時代名だが、おかしなのは「安土桃山時代」。
安土はともかく、桃山はねぇ。
「安土大坂時代」が正しいようだが、これも「大坂」「大阪」の表記が紛らわしいのが災いしているような気もするが。
233 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 13:10:58
秀吉が大坂城にいた期間って、そんなに長くないだろ。
天下人になってからは聚楽第だし、隠居後は伏見城や名護屋城だし。
秀次に関白と聚楽第を譲ってからは伏見城で最高権力者として君臨してたから、
桃山時代というのは不正確だが間違いというわけではない。
>>232 幕府や時代名と地名との比較する理由が分からないんだが。
幕府名や時代名は後世の研究家が便宜上そういう名称をつけたわけであって
その時代の呼称ではないだろうに。
地名の話題はそういうことじゃないでしょ。
235 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 16:47:22
>>233 そう考えると、大坂城って壮大な浪費だったのかも
236 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 16:56:20
237 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 17:37:28
なぜ秀吉は関白職を引退したあと、大坂城を居城にしなかったのでしょう。
わざわざ伏見城を(二度も)作らなくても、大坂城という立派な城があったのに。
238 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 17:44:12
日本と言う名称の由来は隋の皇帝に送った国書の「日出ずる処の天子」だそうですが、
誰の記した文章で誰が送った国書なんですか?
また日本と言う名称の由来が隋の皇帝に送った国書の「日出ずる処の天子」と言うのは正しいのでしょうか?
239 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 17:48:08
何で教科書には、日本の初代首都は645年難波宮(大阪市)
になってるのですか?
それ以前は首都とは呼ばないのですか?
240 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 19:49:10
>>237 聚楽第は秀次に与え、
淀城は淀君のに与え、
大坂城は秀頼に与えたので、
自分の居城がなかったので、わざわざ作ったんでは?
241 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:04:50
大阪人は、大坂城を太閤はんの城と思ってるけど、
実際には秀吉の数ある持ち城のひとつにすぎないんだよね。
関白時代は聚楽第、太閤になってからは伏見城が本拠地だし、
大坂にいた時代なんて実際はほんの一時期。
秀吉死後の秀頼の居城ではあっても、豊臣政権の本拠地とはいえない。
>>236 だよなだよな。
そもそも別の名前を付けた例とか、「位置づけが大きく変容したから妥当な例」とか、
わけのわからんこと言っちゃいかん。
>>239 その教科書を書いた人は、645年を「日本」という国の始まりだと
思っているのであって、首都の始まりだと思ってるわけじゃないと思う。
国がなきゃ首都もないと。
243 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:10:07
歴史資料として神社や仏閣に納められた起請文や願文──たとえば足利尊氏が「現世の権力は直義に与え、自分はただ出家遁世して来世の平安を願いたく云々」と書いたやつ──がありますが、これらはどのような経緯で世にでてきたのでしょうか。
もし寺社が自主的に学会やら研究者に提出したのなら、それは(いかに歴史上重要な資料であるとはいえ)故人が神仏への信仰心ゆえに、言い換えればその寺社を信頼して納めた文書を他者へ公開することであり、著しい背教行為ではないのでしょうか。
244 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:18:54
近代史板とちょっとかぶっているかもしれませんがお願いします!
「秀吉が家康を始め大名や家臣たちに官位を与えたとき」及び「明治政府の創立期、黒田や山縣といった薩長の武士達が兵部大輔といった官職を貰ったとき」
それまで官位を持っていなかった人間達に大量に官位が与えられたわけですが、以前にそれらの官位を持っていた公家達は(その官位の定員から追い出されて)大量にリストラされたのでしょうか?
もちろん名ばかりの官位ではあったでしょうが、そういった家格を表す「箔」を奪われて心穏やかでいられたのでしょうか?
>>244 その通りだったから大変だったのだ。
だから江戸時代は武家と公家のポスト定員を別枠にした。
246 :
武陽陰士:2007/04/21(土) 21:53:27
>>243 そうですね。
あなたのような方がたくさんおられれれば、
夥しい数の古墳の破壊、遺跡の破壊もなかったことでしょ。
世の中では高松塚古墳のカビで大騒ぎですが、貴重な古墳及び遺跡が
開発のため何十何百以上と破壊されている(いた)ことには、心を
痛めません。
昔の人々の信仰を蔑ろにしてますね。
>>243 数百年前の起請文や願文が発見されるのは、
一概には言えないが幾つか思いつくのをあげると、
1.仏像などを解体修理するときに発見される胎内文書。
2.経塚などの埋経遺物のように発掘されたもの。
3.例えば天井裏なんかに俵で詰めてあるのをばらしたら、出てきた。
→金沢文庫の称名寺聖教類なんかはこれだよね。
4.寺院などが相伝してきたもの。
背信行為はちょっと考えすぎなんでは。
現代では一応学術調査とはいえ、
仏像などは修理してもとにもどすんですから。
あと足りない分とかフォローよろしくお願いします。
248 :
247:2007/04/21(土) 22:08:08
>>246 ああ、それはそうだねぇ。
考古専攻だった旧友もそう言ってたよ、
ジレンマだって。
まあ歴史学だって、うがった見方をすれば「現在の視点から過去を裁く」というおこがましい点があるしね。
でも他の分野でも「経済発展か自然保護か」「ユダヤ人の幸福かパレスチナ人の幸福か」といった白黒つけがたい命題はあるのだから、適当に折り合っていくのが和を以って貴しと為す日本人の知恵ってもんだよ。
突き詰めすぎると石田三成みたくなっちゃうぜ。
250 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:39:19
>>226 「大阪」も「大坂」も旧かな表記では「おほさか」ですがw
251 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:40:21
因みに「逢坂」なら「あふさか」だけどね。
dat落ちしたスレ、どうやって読むんですか?
253 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:44:21
「おほさか」と「あふさか」を間違へるやうな奴は、たぶん以下の2つの文の
意味の違ひは分からないだらう。
・キャウはいい天気だ。
・ケフはいい天気だ。
問題:この2つの文のカタカナを漢字に直し、それぞれ意味の通る文にしなさい。
>>250 あぅぅ、すまん。[oo]と[ou]なのね。
知るも知らぬも知らんかったあふさかの関。 orz
255 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 00:05:47
昔の人ってどんな喋り方をしてたのでしょう?
和歌みたいな言葉のまま?
それについてのスレはありますか?
256 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 01:19:18
どっかにあったかもしれないけど、現代語はどのくらい前まで通じるか?
とかいうのあった。
>>254 その程度の知識しかないんだから
自分の知らないトピックにいちいち絡んで来なくていいんだよ
258 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 02:35:54
>>255-256 言語学板には腐るほどあるが、日本語の発音の変遷について手っ取り早く知りたければ、
橋本進吉「古代国語の音韻について」を読むのが一番分かりやすい。
仮名遣いと口語発音との間にどうして差が生じていったのかが分かりやすく解説されている。
259 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 02:36:50
260 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 02:37:38
>>254 >あぅぅ、すまん。[oo]と[ou]なのね。
俺には、この貴方のレスが何をいわんとしているのか分からない。
>>255 「昔」の度合いによるが、奈良時代ならほぼ表記通りです。
やたらにパピプペポやファフィフフェフォが多くて、
我々現代人が聞くと何か間抜けで笑えます。
>>261 いわゆる歴史的仮名遣い通りの発音なのは、平安中期頃。
奈良時代の場合は、さらにア行とヤ行の「エ」の区別とかが出てくるし、
上代特殊仮名遣いの問題(古代日本語が8母音言語だったこと)が出てくる。
263 :
261:2007/04/22(日) 03:41:11
だから表記通りって言ってんじゃん。
甲乙ちゃんと表記分けてんじゃん。
>>263 そうかすれはすまなかった。平に謝るよ。
でも貴方のレスが上代特殊仮名遣いの甲乙を前提にして言っているとは、
このスレの流れからは分からなかった。
まあ俺は文脈を読むのが苦手な大馬鹿者なんで許してくれ。
>>261 >やたらにパピプペポやファフィフフェフォが多くて
現在でもそういう言語空間がありますな。
例えばコミケとか…
信長は足利義昭を追放した後、どんな大義名分で政権を朝廷及び幕下の諸大名に対し認めさせたのでしょうか?
たとえば細川政元が管領という幕府内の職を利用したように、幕府か朝廷の官職(右大臣とか?)を利用したのでしょうか。
なんというか、ただの田舎大名が簒奪をして非合法政権を打ち立てた、というイメージがあるのですが。
267 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 14:18:33
>>266 朝廷を手中に収めたことだろうな。
朝廷が織田政権を公認し、信長の官途を公卿身分まで上昇させた一方、信長に
敵対する勢力への叙位・任官を停止したことは大きい。
268 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 14:30:59
なんで山川の日本史の教科書は
他の会社のとは別格に扱われるの?
>>266 ヘンなツッコミと思われるかもしれんが、簒奪するとは
不当な手段で合法政権のトップに座ることであって、
「簒奪して非合法政権を立てる」という文は明らかに
矛盾しているぞ。小説の読み過ぎだ。
270 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 15:33:24
矛盾ではなく「カブっている」ということでしょうね。
ナンバー番号みたいなw
簒奪して合法政権を立てる・・・なら矛盾です。
271 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 16:06:22
西暦620年に成立した天皇記より
古い書物は歴史書でなくてもいいから日本には存在しないのでしょうか?
272 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 16:38:47
1547年武田軍が上杉憲政靡下の軍と戦った場所に関連して「笛吹峠」という知名が
出てくるのですが、これは今のどこか分かりませんか。
井上靖の風林火山では、板垣信方の出陣に際して、山本勘助が笛吹峠を越えるよう
と念押ししているんで、諏訪から中山道沿いに地図を見たのですが、見つかりませ
ん。創作かと思ったんですが、ぐぐると小田井の戦い関連で地名は出て来る。
273 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 17:24:13
新田義貞の鎌倉侵攻ルートにも笛吹峠というのがあったな。
274 :
272:2007/04/22(日) 17:41:56
>>273 それは埼玉県の槻川(嵐山町辺)の峠でしょう。
岩手遠野にもある。山口県にもあるという。
碓氷峠を駆け上って(西進して)来る敵を討つのに、埼玉はないでしょうね。
>>258 質問した方とは別人ですが、ぐぐった所 電子文庫されて公開されているし
興味深い話なので読んでみます。ありがとう!
277 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 18:59:17
日本の初代首都は何年のどこですか?
278 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:46:12
紀元前660年の橿原。
>>276 アサヒ紙工長野工場の裏に「笛吹峠」があるってことですね。
感謝。
志賀城と碓氷峠の間に割り込めってことだったのですねえ。
280 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 00:17:23
この板の人ってIMEと辞書ってどういう組み合わせで使ってるの?
ATOK+山川の歴史用語変換辞書が主流なのかな?
281 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 00:51:45
後醍醐天皇が居なくて、北条高時が利口だったら鎌倉幕府はもう少し長く続いたでしょうか?
それとも、時代の流れで、やはりすぐに滅亡してしまったでしょうか。
>>277 BC667から一百七十九萬二千四百七十餘歳前の高千穂
283 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 17:46:05
日本の賭博の歴史について知りたいのですが、
おすすめの本とか教えてくれませんか?
284 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 09:38:19
>>281 北条高時が優れた政治家の「資質」を持っていたとしても、あの状況(得宗被官による体制)に対してなす術はなかったと思われます。
また、実をいうと、劣っていた政治家ということも確定できません。
勝者によって評価された結果ですから。
そして、同様に後醍醐天皇は優れた天皇とも言えないですが、「天皇」だから倒すための存在になれたと思います。
ちょっと面倒な考え方になります。
鎌倉時代末期という時点では、「幕府(後の呼称ではあるが、征夷大将軍を頂点とするそのような武家政権)」というものは滅亡したことがなかったのです。
これは、天皇が現在でも滅びていないというのとも関わってきますが、日本人は、中国のような「易姓革命」や西洋のような「市民革命」によって政権を打倒するという発想がありません。
それは「正統性」というものを転換するという発想がないからだと考えられます。ですから日本では天皇を打倒してまったく違う政権を作ろうという発想は原則的に生まれません。
幕府も基本的には「滅ぼす対象」として考えられることはなかったでしょう。ですから、将軍が機能しなければ執権が、それも機能しなくなれば得宗被官が、という具合に、組織上層を形骸化してなんとか実質的に運用してきた訳です。
そういった運営が限界点に来たときでも、「上を倒す」発想がない日本人には、原則「なす術がない」のです。
しかし、ここで「天皇」という、幕府を超える権威のある人間が現れ、「倒せ」と言ったらどうでしょうか。
そこで初めて多くの人々の「倒す」というコンセンサスが形成されると考えられます。
ちなみに。蛇足ですが。
江戸幕府を倒すという契機も「尊皇(尊王)」が関わっています。この発想がなければ、どんなに行き詰っても、江戸幕府は倒れなかったでしょう。
ですから、室町幕府がどんなに無力になってもなかなか滅亡しなかったのです。天皇も無力、幕府も無力。いつまで経っても同じ状況で、日本は戦国という四分五裂状態になってしまいました。
ここに織田信長の苦心があったと思います。実力で倒したとしても、「正統性」を認めてもらえないのです。
何とかして正統性を確保しなければなりません。
かくして、・・・信長は「神」と称せざるを得なくなったと考えられます。
>>284 つまり、彼らより上の権威…すなわち後醍醐天皇がいなかったら、そして後醍醐天皇が
幕府打倒を唱えなければ、あのとき鎌倉幕府は倒される動きすらなかったろう。
高時の有能無能にかかわらず、ということだな。
考えてみれば平家のときもそうだし、あるいは現在においても…国鉄や公社の
民営化という難事業などは、更に上の権威あるものによって行われているっけ。
こうして考えると、日本は至極真っ当な世界だなとつくづく思う。
室町幕府だけれど、元々あの北朝は幕府が支持推戴した朝。
幕末で言う公武合体の世界だったわけだから、朝廷のサイドから潰せという話など
あろうはずもなかったろうね。
286 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 13:45:51
大和朝廷の中心地は畿内なのに出雲大社が山陰にあるのは何故ですか
天皇は神道の総領だからお膝元に作るのが当然だと思ったけど、この発想自体が思い込みなのでしょうか
>>285 的を射た見方だね。
人がものを言うとき「天地神明に誓って」とか、生活共同体の同意を神前で行う
とか、いくさの旗揚げをお宮で行うとか、なんか人を超える(と皆が思う)もの
を引き合いに出したがる、民族性なのかな。
もしそうなら、これはどこから来たんだろう。
>>287 そういうことは、人類普遍の感性。
「神の御心の」とか「天命」とか、色々言い方はあるけれどね。
ただ、それを人に求められたか、あるいは、求められなくなったかが分かれ道になるんじゃないかな。
つまり人間の理性あるいは強い理性を人間に求めれらるか、求められないかだ。
だから権威ある人に触れない。しかし権力も持っていれば厄介なことにもなるので
換骨奪胎し権力を奪っておくと。
これは「近代」以前、つまり市民革命以前の「近世」の考え方だな。
一応信長の時代から明治維新までが「近代」ということになっているけれど、
こういう話をするたびに、日本は「近世」の感覚が未だに生きているんじゃないかとさえ思えるよ。
×一応信長の時代から明治維新までが「近代」ということになっているけれど、
〇一応信長の時代から明治維新までが「近世」ということになっているけれど、
290 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 19:02:09
文部省検定済教科書では、信長の時代から天保改革期(1840年代)までが「近世」で、
ペリー来航後の幕末は「近代」になってるぞ。
中国史でもアヘン戦争以降が「近代」だから、ペリー来航以降が日本の近代というのが妥当だな。
291 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 19:22:15
近世〜近代の区別は政治制度がどうこうじゃなくて
単に技術的な物で分けられているって事ですか?
292 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 20:28:25
1840〜50年代が東アジアにおける近代のはじまりというのは、
列強の軍事的経済的進出により欧米中心の世界に包摂されたという点に
着目しているんだろう。
293 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 22:41:45
>>290 天保期を近代の冒頭に置く教科書もあると聞くが。
294 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 22:44:42
あと信長って一般的には中世の範疇だろう。
太閤検地をもって中世と近世を区切るのが一般的。
東大史料編纂所の『大日本史料』でも、第10編は中世で、第11編からが近世という扱いになっている。
295 :
287:2007/04/24(火) 22:49:42
>>288 近世と近代の境は、(人と人との)「契約」概念を優先させたということで
いいのかな。
296 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 00:38:06
人と人との「契約」概念っていったら、中世の封建制を思い浮かべないか?
身分から契約へ
もう、腐るほど言い古された言い回し
298 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 01:23:36
>>293 俺が高校の時使っていた教科書はペリーの黒船来航から近代となっていたよ。
>>294 一般的ではない。信長か秀吉か、はたまた戦国からか、については
議論がある。
ともかく昔みたいに家康からでないことは一致している。
300 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 01:39:34
戦国を近世と考える研究者なんて皆無では?
「中近世移行期」という枠組みで考える人は多いが。
301 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 01:43:48
自治体史なんかの分け方だと、畿内周辺では1882年あたりを中世と近世の境界に
する傾向が多いな。
一方、四国では1585年、九州では1587年、関東・東北では1590年で区分される
ことが多い。
これは、太閤検地によって最終的に中世的な荘園制が解体されたという考えに
基づいて、その地域が豊臣政権の支配下に入った段階で区切るから、このように
なるのだろう。
302 :
860:2007/04/25(水) 01:50:19
応仁の乱以前を学ぶ必要はない
303 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 02:15:51
おっとロングパス
304 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 03:19:38
教科書の場合、南蛮人の来航以降を便宜的に近世として扱ってる。
305 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 05:00:08
逆に古文書学的な立場からは17世紀は中世の延長だという人もいるよね。
306 :
295:2007/04/25(水) 09:04:38
>>296 いや、社会契約論とかあったと思ったんで。廻りまわって法治主義とか。
国にも、nation と state(人工国家) があって、アメリカは state とか。
>>297 そうだっけ。忘れているなあ。
307 :
名無し募集中。。。:2007/04/25(水) 13:54:43
内藤虎次郎がいるな
308 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 15:06:03
室町・戦国・江戸時代にポルドガル・スペイン人が遠くからはるばる、
日本に来ましたよね?
彼らはヨーロッパから日本にまで行く為の航海術や舟を作れたようですが、
当時の日本はポルトガルやスペインに行く為の舟は作れなかったのでしょうか?
309 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 19:05:00
最近の山川の教科書には、秀吉を「尾張の地侍の出身」と書いてあったが、
これはちょっと勇み足じゃないのかな。
いままでどおり、農民と言ってた方が穏当だと思うが。
>308
その種の船を建造することは幕府によって禁じられていた
>>308 スペイン人の指導の下ではあるが、支倉常長が欧州へ行った船は仙台で造った
んじゃないか。
312 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 23:46:01
戸籍=国籍と考えてもよいのでしょうか?
313 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 23:52:44
ちょっと蒸し返すようで悪いけど、
>>284の考え方はある意味筋が通っているとは思うが、もうひとつ、重要な要素があるのでは。
それは「外国」の存在。
日本っていう国にずっと住んでいると、なかなか外国を意識する機会がなかった。
だからまとまっていても、実質バラバラでも、実はそんなに気にしていないのでは。
つまり「国家」というものを余り意識しない民族なのかもしれないんだ。だから「体制」、特にまとまっているかどうかを余りテーマにしない。
鎌倉幕府、室町幕府から天下統一、江戸幕府・・・と見ていると、その存亡に関わっているのは、いずれも「外国」。
蒙古(元)、南蛮人の渡来、そしてペリーに代表される外国船の来航。
そこで、我々の民族は「日本」という国を改めて意識し、問題意識を持つきっかけになったのではと思えるのだが。
外国の干渉を受けないと、日本は常に変わろうとはしないのだと思える。
戦後日本も同じ。また、現在もまた然りではないだろうか。
284の考え方は(最後の神云云さえなければ)面白いと思う
一方、313は失礼ながら通俗的なビジネス書にありがちな論だね
鎌倉武士にとって幕府は服従すべき行政府ではなく、信頼すべき司法府であり
司法機関としての信用価値が低下したから滅んだ。というのは最早古典的解釈なのだろうかorz
315 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 01:10:09
元寇の恩賞が不十分だった時よく言われたとされているのが
「何の為の鎌倉殿ぞ」
だそうだ。
そういう意味なら、
>>314の考えには一理ある。
ただ、それなら何で滅ぼすんだ、という考えに戻ってしまう。
政権を倒すという中に、司法機関を滅ぼすという発想はないと思われ。
早期の頃は、有能な行政機関&司法機関だったが、服従すべき専制機関になってしまったから滅ぼそうとしたのではないか。
流れで考える者が現れると「通俗的」と決めつけるのは、如何に現代の史学の傾向が微視的になってしまったかの証左だろう。
316 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 07:07:43
>>309 実父が名字つきで足軽として戦場に出る村長レベルだったという話はよく聞くが、
木下姓はねねの実家の名字だったともいうし、どうなんだろう?
>>316 出自については、そう言っているとかそういうことになっているとかはあるが、
本当のところはよく分からない例は一杯ある。
徳川も織田も突き詰めれば分からないんじゃないか。
近代になって、力(腕っ節というだけでなく)がある人が活躍するようになった
んだから、がんぱった人はそれぞれに立派ってことでいいと(オレは)思う。
しかしこの前の選挙を見て思うには、人の上に立つ人は人々の、いいお手本に
なって欲しいと思うが、そういう要素が希薄な感じがして残念。
先々どうなるかは分からないが、東国原知事はひとつのモデルを提示しているね。
スレ脱線ゴメン。
>>309 >>316 確かに下士と農民は差のなかった時代だから百姓といってもいいのかもしれないが、
あれはどちらかといえば平民ウケするための脚色であり、マルクス主義史観の時代、
さらに強固にされてしまった認識なだけのように思えてならないよ。まさに「穏当」な言い方。
いろいろな脚色もあるようだけれど、ティーンのころ信長に仕え、既に清正や正則を
部下に従え、注目され、スルスルと清洲城の奉行に出世しているのは事実なのだから、
全くハシにも棒にもかからない貧民のわけはない。いくら実力社会でも、初めの初めは
相応の身分でなければ領主信長の近侍にはなれないし、上司の注目を浴びることも
できないよ。
実父も継父も、小名主、小庄屋くらいの、一つの荘に発言力のある身分であったろう
と考えるのが妥当かと。何の記録も残らなかったのは、秀吉兄弟以外の後継者はなく、
秀吉自身がかなぐり捨てた家門だったからに過ぎないのでは。
319 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 19:01:25
足軽というと、江戸時代の下級武士のイメージが強いんだが、
戦国時代なら村長レベルの上層農民じゃないとなれなかったの?
ホントの貧農では足軽にもなれなかったのか。
320 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 23:48:06
だれでも取り入れば足軽程度はなれる
有る程度の教養があって眉目秀麗なら小姓になれたのかな?
322 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 23:56:59
>>319 雑兵と足軽。
今でいえば臨時雇いと非正規雇用の違いくらいしかない。
組織統制として上下関係があるという訳ではなく、兼業か専業か。
>>308 wikipediaですが帆の項目で朱印船には縦帆があったとか。
中国のジャンク船もあれ縦帆(三角帆?)なんですね。
324 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 07:21:47
治安維持法は私有財産制を否定することを禁止しているけど、って事は国家社会主義
みたいなのもダメなの?
325 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 07:39:52
ナチスドイツだって私有財産制度は否定してないだろ。
北一輝の著書には余剰生産高は全部国に献納すべしってあったような…
>>324 上に上がっている北一輝のような右翼系の過激思想も当然
取り締まり対象です。
226事件のとき、警察が反乱首謀者や北など右翼系大物たちの
電話を盗聴していたのは有名な話ですね。
北は「社会主義者」として特高のブラックリストに載ってました。
328 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 09:34:49
>>308 航海術の問題があったと思います。
スペインやポルトガルがある時期から日本近海にまで来れるようになったのはそれが水準に達したから。
船の問題ももちろんあるのですが、それだけでは来れないし、また逆も不可。
何かと悪名高いが実は正義のヒーローだったのでは?>特高
ソ連みたいな体制の日本なんか嫌だ。
右翼の場合は、軍や政財界に強力なコネのある活動家が多かったから、
左翼に対する弾圧と比べると、特高も及び腰だったという事実はありますが。
331 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 05:39:29
特高が取り締まりすぎて共産党が弱体化。それによる存在価値(予算が減る)が低下することを恐れて今度は
右翼に取り締まり対象が移ったとも。
332 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 05:48:36
確かに東條時代は中野正剛とか弾圧されてるからな。
333 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 07:25:47
加賀国内に加賀藩領だけでなく、幕領があった理由がわからない。
同様に筑前国内に幕領や対馬・中津領があったのも。
334 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 08:31:15
国内に他領があったら国主でも国持ちでもないじゃん。
その理屈ならモナコ公国があるフランスは統一国家じゃないし
バチカンがあるイタリアも統一国家じゃないな。あと、ジブラルタルのスペインもか。
336 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 11:21:27
今は教えられてないらしい「任那日本府」って、存在しなかったのが証明とかされたの?
結構戦前日本を糾弾して憲法九条を礼賛するような学者の書いた本でも、当たり前のように
書かれてたんだけど。
日本の学者が認めたって事だろ?
神の手レベルの捏造とかあったのかな。
>>333 対馬の宗氏が、筑前(九州本土)に領地を持っているのは、
戦国時代に大内氏に追われた少弐氏を支援して勝った際に、恩賞で貰った土地の支配をずっと続けてたからじゃないかな。
(宗氏と少弐氏はその後仲違いして、結局は筑前は大内氏が奪還する)
対馬では米が足りないので九州の飛び地は宗氏にとってかなり重要だったと言われている。
338 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 13:57:09
加賀国内に幕府領があるのも不思議だが、加賀藩の重臣に松平氏がいるのも不思議だ。
339 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 16:38:35
原爆が投下されたのに、なんで長崎市内に江戸時代や幕末の建築や文化財がけっこう残っているの?
341 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 16:43:01
質問なのですが、
教科書などで中世に「惣村」が出現した、といって
山城国や近江国のものが例に出されてますけど、あれって
全国的に広がったものなんでしょうか。
それとも畿内、もしくはその一部にとどまった現象なのでしょうか?
贈位についてお尋ねします。
直江兼続について調べていましたら、大正時代になって「贈従四位」とありましたが
このように、数100年も前の人物に贈位するということは珍しい事ではないのでしょうか?
やはり、末裔からの申し立てや歴史学者からの意見で贈位が決定されるのでしょうか?
343 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 14:24:47
>>342 事例はあります。また、その背景を考えると興味深いです。
例えば鎌倉幕府の執権北条時宗は、明治天皇から従一位を贈られています。
元寇の際の功労なのでしょう。ではなぜ当時の朝廷(亀山上皇)は贈らなかったのか、みたいなものがありますが。
要は歴史対する評価が変わった際に、再評価されたら贈位が行われるということでしょうか。
足利家またはその家臣たちは
京都弁をしゃべってたんですか?
また島津なんかは鹿児島弁で
「チェストー!」とか言ってたりしたのでしょうか
345 :
342:2007/04/29(日) 19:08:27
>>343 調べましたら正五位下から贈従一位になってますね。たまげました。
サンクスです。
>このように、数100年も前の人物に贈位するということは珍しい事ではないのでしょうか?
明治以降には結構例があります。
南北朝時代に南朝だった人物とか、戦国時代のメジャーな武将とか。
前者は南朝が正統だという主張に基づくもの、後者は富国強兵などの政府の姿勢に沿って優れた日本人を顕彰するって感じなのでは。
あと、江戸時代までと比較して位階の価値が下がった(官職や朝廷・幕府内での地位と直接リンクしなくなった)ので
与えやすくなったってのもあるでしょうね。
現代もそのシステムは残っていて、校長先生や地方議員なんかの名士は死後贈位されてます。(五位とかだけど)
新聞に小さく載ってます。
なるほどなるほど。ありがとうございました。
第一次西園寺内閣が倒閣する原因になった赤旗事件って、
共産主義者が大通りで革命歌を歌っていたことが原因だったって
歴史の教科書に書いてあったんですけど、その革命歌って
インターナショナルとラ・マルセーユのどっちなんですか?
349 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 23:42:45
共産主義者なら前者でしょ。
ラ・マルセイエーズは、20世紀初頭にはフランス国歌であって革命歌ではない。
惣村は畿内近国中心。
藤原保則は約千年後に贈位。
351 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 03:57:36
明治政府ってよく聞きますが、大正政府、昭和政府とは余り聞きませんね。
明治政府という表現は、明治時代だけを指すのか、或いは江戸幕府と政権の区別をするため初期のみ使われたのか、その辺りの事情はどうなんでしょうか?
352 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 04:47:36
>>351 明治政府っていうのは乱暴に言えば維新三傑+三条・岩倉から
明治憲法期の伊藤・山県ら後の元老が第一線で関与していた時期を示すとしたらいいんじゃない?
近代を元号で区切る日本の時代区分が悪いんだが、第二世代(桂園時代)までは実質伊東や山県、
あるいは大山、大隈などの第一世代の時代だからそれを明治政府とするのはまあ妥当ではないかな。
明治政府の終焉がいつか?と問われれば困るんだが私見では第四次伊藤内閣までかなあ。
近代国家の体を為すまでを「明治政府」と自分は認識している。
俺は大正政変までだと思うが。
354 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 02:19:52
華の慶次ってマンガで、24歳の男が「人質としての年まで初陣すら敵わなかった男の意地だ!頼む!」
って言ってかっちょいい馬を譲って貰おうとするんだけど、
戦乱の時代じゃなければまともな戦なんて経験しないで死ぬ方が圧倒的多数だよね?
356 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 05:27:17
唐の貴族は碧眼の白人だったそうですが、彼等と日本に来ていた
白人との関係はどういうものなのでしょうか?北欧系かスラブ系
かなど、その民族構成も知りたいです。
古代に日本に来ていた白人が赤鬼や青鬼と言われ嫌われていたそう
ですが、何故嫌われていたのかも知りたいです。
後、彼等の子孫と白山神社には繋がりがあるのでしょうか?
>>356 まず、どこでそんな電波説を仕入れてきたのか明らかにしてください。
358 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 05:46:05
>>357 個人的な知人です。ただの知人ではなく、伊勢系の権力に近い家の人
です。
遺伝子調査で、日本人に白人の血をもつ人がけっこういるのは事実の
はずですが。
>>358 >伊勢系の権力に近い家の人
爆笑ww
あなたが正常でないことは分かりました
>>358 >>遺伝子調査で、日本人に白人の血をもつ人がけっこういるのは事実の
はずですが。
結論が出てるなら、論文を書くなり、自費出版するなりして世に問えば?
ここは【初心者】スレッド立てる前に質問をPart19【歓迎】です
なんで林銑十郎は皇道派の暗殺リストに入ってなかったの?
>>356 古代に白人が来ていたって証拠は?
それこそ遺伝的に証明できれば、ここにこなくてもいいと思うけど。
鬼の描写は黄色人種からみた白色人種に近いのかもしれないが、トルコ系の人みてもそう思うんじゃないの?
かつては、アイヌは彫りが深いから、白人系なんて主張もあったわけで
外観だけでそう決め付けられないと思うけど。
俺、盛岡だけど、先祖にロシアの血入ってるヤツ周りに数人いる。
確かに言われてみればあっち系の顔してる。
365 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 13:52:27
>>363-364 それってロシア革命のときに亡命してきた白系ロシア人の子孫じゃないのか?
GWだねえ。。。
スタルヒンも白系ロシア人だったな。
結構白系ロシア人の子孫は多いよね。
確かにウラル以東の住民が革命から逃げるとなると、日本は
お手軽な亡命先だよね。国内が安定している近代国家が近辺に
日本しかなかった。
白系ロシアは、戦時中、満州の日本人居住区に近いところにすんでいたから
大陸で婚姻関係になったような者も多いかも知れないな。
戦前・戦争中に日本へ来た白系は日本を経由して米に流れて行ったんじゃないの?
JCウイルスに関してのみ言及するのであれば、ウルム氷河期あたりで民族移動してきたと考えた方が至当だと思うが
365以降の流れが正しいとするならば、東北のみに統計学的な特異値がでるものなのか?
福井県や北九州の数値に興味がある(苦笑
小中学校の社会科の歴史の勉強で、
奈良時代のところになると、必ず農民の悲惨さが出てきます
(防人にとられるだとか弥生時代と変わらない住居や暮らしとか、
米びつにはクモの巣が張っているとか、
里長が鞭を持って年貢の取立てにくるだとか・・・)。
いつの時代も農奴は貧しかったですし、何故この時代だけ強調されるんですかね?
山上憶良なんて、関係ないでしょうに。
>いつの時代も農奴は貧しかったですし、何故この時代だけ強調されるんですかね?
>山上憶良なんて、関係ないでしょうに。
ソースを出して話しましょう。
この時代の農民の暮らしが教科書によく出てくるのは、あなたのおっしゃる人が農民の暮らしを詠んだ歌という
ソースがあるからです。
371 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 21:12:43
>>369 簡単だろ。
ただの貧しい農民だと貧しい。
貧しくなくなったら、ただの貧しい農民でなくなる。
思い込んだイメージの「農民」だけを取り出したら貧しい。
平安後期から鎌倉時代の在地系の武士なども農民に含めるか、という話になるかもしれないがね。
江戸時代の「本百姓」はどうなんだ。渋沢栄一や土方歳三も農民だぞ。
質問です.
飛鳥時代以前の豪族達が,天皇または大王とともに
大和で政務を取る期間,彼らは一体どこで生活していたんでしょうか?
一例: 聖徳太子は斑鳩(一応通える),小野妹子は近江,下道氏は現在の岡山
など,どう考えても日帰りできないよね? 本拠地でない大和(他人の土地)に,
自らの屋敷や宿を建てることができたのかな?
文化の日や偉人が亡くなったときなど
政府から 位階が与えられることがありますが
現代の生活で何かメリットなどがありますかね?
(例えば飛行機でエコノミークラスの料金で
ファーストクラスに座れるとか・・・)
価値としては やはり表彰状やメダルと同じようなものか?
>>373 位階は宮中席次に影響する。それ以外の効力はない。
375 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 03:43:31
>>372 ちゃんと調査していないから、以下の内容より詳しい内容(正しい内容)を提示できる人はしてください。
多分、「宿泊」はするだろうけど、屋敷とかはなかったのではないかな。
何か危急の事でもない限り、遠方の豪族が常時詰めているということはなさそうだが。
蘇我とかは、近郊に屋敷を立てていたから、近隣の豪族ではいたかも知れない。
後世だと鎌倉時代も「いざ鎌倉」の時に馳せ参じたし。
北条氏のような有力武士は、鎌倉に屋敷を持っていた。
室町時代は、任意ではあるけど、基本的に有力守護大名は都に屋敷を構えて住むようになった。
これは、領国が「守護」という幕府の任命により任意に決められるから。都の動向を捕捉しておかないと本拠にも影響がある。
本拠は「守護代」。後に下剋上が進んだのは、守護大名本人がなかなか領国に来ず、把握度が低いのも一因か。
織田信長のようなケースで、城下に原則住むようになっていく。
秀吉も同様。ただし、全国レベルでは、城下にいるか、本国にいるかは割りと任意。屋敷は大名なら持っていた。
江戸時代は、その辺りがシステム化され、参勤交代となった。
ただ、飛鳥時代だと、現代と比較したらものごとの進むテンポははるかにゆっくりだと思うので、
「これは、あいつの仕事だよな、じゃ、本拠地から都に呼ぼうか・・・」
みたいなペースかも知れない。
>>373 日本国憲法第14条第3項
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。
栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の
一代に限り、その効力を有する。
>>374,
>>376 サンクス。現在の位階制度は表彰と同じ取扱いになっているんだな。
身近な例で言えばこういうことだな。
「成績が良いから従一位に叙す。
君は一番前の席に座って、先生の授業や宿題では、
ドンドン先に当ててやるからな。」
...うーん、あまりありがたいものではないな。
378 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 11:24:47
豊臣政権は秀吉の独裁で、五奉行・五大老以外は組織らしい組織がなかったというが、
本当に何の組織も役職もなかったのだろうか。
たとえば、大坂城とか伏見城のような城郭を管理したり、中の武士たちの管理のためには、
警備とか営繕とか経理とか台所係などの役職がないと、あれだけの集団を維持できないと
思うんだが。
とくに出納経理は、専門の役人と役所がないと機能しないと思うし。
379 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 12:32:52
名前はどうかしらんが、「勘定奉行」とか「勘定方」に相当する役職はあったんじゃないかな。
豊臣政権というか豊臣家の家政機関として経理部門がないとは考えられない。
380 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 13:24:34
織田家や豊臣家には役職なんてあったの?
その都度、その都度、能力のある家臣に任務(仕事)を与えてただけなの?
381 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 13:48:45
倭寇の頭目王直は五島列島や平戸に本拠地を置いていたというが、
五島や平戸は中国人海賊に支配されてたってこと?
福江の五島氏や平戸の松浦隆信なんかも、王直の家来・部下だったの?
382 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 15:54:51
違う。
海賊がおかの上を支配する訳ではない。
本拠地はあるが、そこを拠点に、海の上で暴れていた、ということだよ。
現在でも、地方自治体の首長で、他の近隣自治体に住んでいる人がいるが、似たような感じかな。
ただ、五島氏や松浦氏などは「海上の権益」について、影響を受けていた面はあると思われ。
海の世界は海の世界の話。
383 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 16:00:51
>五島氏や松浦氏などは「海上の権益」について、影響を受けていた面はある
五島氏や松浦氏は貿易の利益の一部を「上納金」というか「ショバ代」として
王直に収めていたってこと?
384 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 17:29:24
倭寇の親分王直は日本に本拠地を置いて「徽王」とか名乗っていたらしいが、
松浦氏も王直から官位をもらってたのかも。
>>383 >五島氏や松浦氏は貿易の利益の一部を「上納金」というか「ショバ代」として
>王直に収めていたってこと?
逆に王直(倭寇側)が”ショバ代”を払ってたと思うけど。
何で日本を拠点としたのかといえば、明や朝鮮の司直の手が伸びない場所だからじゃないの?
386 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 21:45:47
いろいろ調べたのですが、判明しなかったのでこちらにて質問させて下さい。
鎧武者が顔面を守る為に身に着けている面頬というものがありますが、面頬単品で装着出来るもの
なのでしょうか?
もしそれが可能でしたら、装着方法をお教え願えませんでしょうか?
よろしくお願い致します。
>>377 参考までに、現代日本の勲章などの栄典制度と、なぜ人々がそれを欲するのか
解説した本として「勲章の内幕」(現代教養文庫)など読んでみると面白いかと。
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沖田・総司[Okita Souji](1842〜1868 日本)
どこが美少年なのでしょうか?
なんで日本の左翼運動は必然的に反日・外国に媚びる事になるんでしょうか?
他の国では国益に適う政策を打ち出して国民の支持をそこそこ稼いでる左派政党があるのに…
>なんで日本の左翼運動は必然的に反日・外国に媚びる事になるんでしょうか
自民党にもいるけど?
北朝鮮から金塊を受け取ったり、売春婦をあてがわれて外国に媚びる連中は・・・
右翼左翼で色分けしようとするから、そういう思い込みになっちゃうじゃないのかな
つか板違いだ罠
391 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 05:11:38
>>389 自虐史観のせいでしょう。という事なら、歴史に関係する。
では何故自虐史観になったかといえば、それがWWUにおける日本の反省姿勢と「誤解」されたから。
そして、自虐史観は、皇国史観が否定されて、唯物史観が台頭してきた際に、同時に出てきたからセットになってしまったんだ。
唯物史観は、当然左翼の思想だから、それで、一致してしまったんだろう。
当然、日本以外の国では、そのような流れがないので、左派といえども媚びたりしない。
反省は必要。ただし、反省は、総合的に、将来に有意義な結果をもたらすようにしなければ、反省の方法が間違っている事になる。
自虐史観は、日本の為にも、国際社会の為にもならないのね。
392 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 06:35:48
まー、実際は反省してるフリをしてるだけなのだが
393 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 03:15:27
新田次郎は諏訪藩の郷士の子孫らしいですが諏訪藩郷士の成り立ちって分かりますでしょうか?
信濃は兵農分離が進んでいて郷士ってのはほとんど聞かないもので・・・
394 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 13:09:57
混浴を禁止にした徳川将軍ってのがいたと思うんですが
どなたか分かりませんでしょうか
>>394 少なくとも寛政の改革のとき、風紀の取締という趣旨で禁止されたことが
あった(実態上、違法な売春の温床となっていたらしい)。
他の事例はしらないけど、
江戸時代を通して単発での規制は他にもやっててもおかしくないかな。
時代劇の髪型についてなんですが、侍と町人では鬢のボリュームが違いますよね。
これにはなにか決まりごとがあったのでしょうか?
水戸黄門の初代・東野英治郎が、チリメン問屋の隠居でありながら侍の様にボリュームの無い髪型なのがふと気になりまして。
397 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 23:06:52
398 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 18:27:40
>>375 遅ればせながら,サンクス.
気になっていたので,自分も推定してみた(最後のは余興です).
(1) 大和政権が滞在用の土地を供与
→ 代替わりごとに宮を移転しているので,大王が所有している
土地は比較的多かったと見られる.宮の近傍に,勢力に応じて
滞在用の土地を供与して,小規模の屋敷(宿)を豪族が建てた?
(2) 大和政権が”ビジネスホテル・YAMATO INN”を運営
→ もちろん,そんな名称ではないと思うが,大和政権が
地方豪族の滞在設備を,付属機関として宮の近くに建てていた?
(3) 野宿
→ 大和政権が何ら配慮してくれないので,地方豪族たちは
テント(組立て式の建具)を持参,宮の近くに野宿した?
(気候のいいときは快適だが,冬場の寒い時期はシャレにならないゾ.
豪族が凍死した,浮浪者に殺害されたなど,聞いたことがないんだが)
(4) 知り合いの豪族に居候
→ 「蘇我の馬ちゃーん,2,3日泊めてくれない?」
地方では支配者なのに,こんなこと言うのか???
実際のところは,(1)または(2)かな?
4が結構ありそうな気もするが
401 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 01:38:18
八瀬童子にだけ何故、天皇の棺をかつぐ特権を与えたのですか?
402 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:21:21
ご近所だから
403 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:19:00
四世紀前半、中国の北半分(黄河流域?)を支配した王朝は何でしょうか?
日本史板へようこそ
405 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 00:59:15
新撰組に最近嵌まりました。
沖田と土方は実際、仲がそこまで良くなかったと聞いたんですが(近藤繋がり?)、本当ですか?
406 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 01:07:36
かつて権勢を極めた「平」「源」「藤原」などの姓は、どうして
表舞台から消えたのですか?
もちろんそれらの子孫(藤原なら近衛や一条など)がいるのは百も
承知ですが、一族の元々の姓を名乗る者がどうしていなくなったのでしょうか?
407 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 02:56:27
朝廷の叙位・任官に関わるような文書中では、明治初年まで本姓で書かれていると思うけど。
西郷隆盛・・・藤原朝臣隆盛
木戸孝允・・・大江朝臣孝允
大隈重信・・・菅原朝臣重信
みたいに。
408 :
406:2007/05/16(水) 02:59:59
>>407 そういう一族の姓を名乗るのはわかるのですが、普段の苗字として
名乗る家が見当たらないのが疑問なのです。
406さんへ
日本人のほとんどが藤原さんになっちゃうからです
410 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 03:01:27
だって本姓と苗字はもともと別物なんだから、本姓を苗字のように名乗ることは普通はないんじゃないかな?
まあ卑姓の地下官人とかだと分からないが。
411 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 03:13:11
鎌倉幕府問注所の三善氏なんて、時代が下ると三善が本姓なのか苗字なのか曖昧になってくる。
>>406 本質的なところを突けば、表舞台から消えたのではなく表舞台そのものが廃止されたから。
といってもピンとこないかもしれないが、ご存知のとおり源平藤橘とは賜姓。
つまり公認された姓。見方を変えれば形式・制度の一種といえるものでもあったんだ。
だからどこの馬の骨かも判らぬ田舎武士でも朝廷と付き合うときには必ず何らかの
賜姓を名乗るか、秀吉のように豊臣姓を新設する必要があった。
制度なのだから無視の仕様がない。
ところが、明治になってからこの制度そのものが廃止されてしまった。
日本国民(もちろん天皇皇族以外)の呼称は全て「名字+諱」で統一されることになった。
これ以上は説明不要だろう。
413 :
406:2007/05/16(水) 03:31:42
うーむ、どうもピンと来ないのですが。
>>410>>412 北条氏支配の鎌倉時代までは、平姓や源姓が散見できるわけです。
もちろん藤原姓も。
なんでそれを名乗る人がいなくなったのか、が疑問なんです。
室町幕府や江戸幕府で、御家人やら旗本やら大名やらに
「源」「平」「藤原」姓を直に名乗るのがいないのが疑問でして、
412さん解説の、明治以降の話ではないのです。
414 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 03:48:32
川上宏 プラセンタ掲示板で まるさん と 「あゆ」=携帯ギャル=〇優が酷い言い争いを展開していますかなり醜い争いです
>>413 それだったら「どうして鎌倉時代から大々的に名字を名乗るようになったのですか」という
問いかけのほうが適切なんじゃないか。
416 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 07:15:50
>>413 室町時代だと下級貴族や地下官人クラスはまだ家号が成立していないケースも多いぞ。
417 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 07:19:16
>>415 鎌倉段階だと、武家の苗字も公家の家号も未だ特定の家系で代々継承されていくものなのか、
それとも本人一代限りの通称に近いものなのか、微妙なことも多い。
418 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 07:22:15
>>406は「中世的な「家」の成立」とかそういう学説云々についての議論を求めているのでは?
419 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 19:36:48
鎌倉殿とか鎌倉右大臣とかいう言い方があるので、源氏嫡流は鎌倉氏と称したの?
420 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 19:39:04
aa
421 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 20:14:24
鎌倉権五郎と鎌倉殿には何か関係あるのですか?
神田上水も玉川上水も隅田川は渡れないと思うんですが、
じゃ、本所や深川の人はどうやって水を得ていたんでしょう?
井戸掘って
424 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 01:00:30
>>419 じゃあ室町殿と称された足利将軍は室町氏?
室町期に鎌倉殿と称された関東公方は鎌倉氏?
北山殿と称された足利義満は北山氏?
東山殿と称された足利義政は東山氏?
425 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 13:45:01
大化の改新後から始まった東北地方蝦夷の征討が、
日本海側から始まった理由を教えてください
426 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 17:31:27
去年の大河「功名が辻」観ててもの凄く違和感を覚えた事なのですが、
甲冑武者の足元。みんな「素足」に草鞋ばきだったんですよね。足軽雑兵はもちろん、
侍大将級、果ては織田信長も素足に草鞋。勿論完全武装状態で。
過去の戦国ものの映画・ドラマでは足袋は履いていたように思うのですが。
戦国時代の甲冑武者は足袋を履かないのが最近の軍装考証の研究成果なのですかね?
平服時に素足なのは納得できるんですが、軍装、しかも全身完璧に甲冑で防御しておいて足元が裸足って・・・?
この辺どなたか詳しい方います?
427 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 22:32:03
美濃を制する者は天下を制す、と最初に言った人物
或いは歴史上、この格言の初出となる史料について教えてください
428 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 01:06:47
一人の(皇位継承しなかった)人物が○○皇子/××(親)王となっていることがありますが、
これは前者が生まれたときに付けられる幼名のようなもの、後者が成人or
身分が確定した後につく称号と解釈していいのでしょうか。
皇子、は親王宣下や臣籍降下が定着する前(?)の古代でよく見られて、その後はあまり
見かけないのもまた、不思議です。
どうせ継承権の無い諸王が増えても、宮廷費以外にそんなに不都合ないような。
臣籍降下ってなんだろう…、という疑問もあり頭が沸いてます。
旧石器時代の文化は石器はあるが土器はないため、先縄文文化・( )文化と呼ばれている
とありますが、これ何文化ですかね?
>>428 ほとんどご自分で答え書いておられますが、
中国からの律令の移入によって、皇子から親王へと名称へと変更されました。
従って移行期である天智・天武の皇子などは、史料により両様の記述がされます。
臣籍降下の原因は、まさに宮廷費の節減が第一の理由です。
厩戸王も厩戸皇子も両方間違いではないと
432 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 21:18:03
>>429 土器はないため、とあるでしょう。
答はその問題集か何かか、教科書を見てください。
石器かな
このぐらい問題から読み取らんと後々つらいんじゃあないか
先土器なんだろうけど先土器時代とは言うけど
先土器文化って言うんだろうか?
縄文文化、弥生文化とは一般的に言われるけれど。
しかしこの日本史の時代区分、この統一性のなさはどうにかならんかな。
上古は文化、古代は天皇の所在地、中世・近世は武士政権の所在地、近現代は年号。
日本史学じゃさすがにより限定しない限り「○○時代」とは言わない傾向になったが
歴史教育なんかでこういうのは分かりやすいけど意味がないよなあ。
435 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 00:41:59
>>434 先土器文化とも習った覚えがありますね。または無土器文化。
文化はひとつの時代に複数ある場合もありますから、時代名称とあわせる必要はないでしょう。
ちなみに時代を英語ではピリオドだが、エド・ピリオドと言っても外人さんにはピンと来ないらしい。
時代区分は古代・中世・近世・近代・現代。
日本人が何とか時代って言ってるのは、時期区分。
先土器時代という言い方は的確。
日本の縄文時代は新石器時代ではないため。
(新石器時代の指標は、磨製石器・土器・農耕牧畜)
437 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 10:11:07
一般的には、打製石器=旧石器、磨製石器=新石器だから、
縄文時代を新石器時代といっても問題ないと思うが。
「新石器時代」という名称からいっても、
新石器時代かどうかを決める最大の指標はあくまで石器の形態。
土器とか農耕牧畜は、多くの新石器文化で付随して一緒に現れることが多い、
というだけの付加事項に過ぎない。
438 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 00:14:42
>>436 最近は、世界史に合わせちゃってるみたいだが、鎌倉時代、室町時代というのは政権に基準を置いているので、「中世」なんて区分でやってもねぇ。
せめてそれに相応しく、もう少し広い感覚で日本史を研究できる人材が必要だなw
世間とどんどん乖離してきている。
室町時代なんて意味無し。南北朝と戦国は別の時代。
こういうところに日本人のお上頼みの心性がよく表れている。
平安時代も同様。院政期から中世とするのなんて常識。
>>438 重箱の隅をつっつくような話で恐縮だが、表現が気になるんで、聞きたい。
>>世間とどんどん乖離してきている。
とのことだが、「世間」んてどこの世界のことを言っている?
学会の過半数の人の認識のこと?
高校や中学の日本史の先生の認識も含まれるの?
自分がそう認識しているから、他にも同じような認識の人がいるんだろうなと
思って、不特定多数に膨らませているんかな?
日本人一般の世間じゃないよね。1億2千万の日本人がいるとして、1億1千万
超の人は、日本史のそんな話に興味はないと思えるんだが。
どうしても3つに分けたいなら、古墳や奈良の大仏、万葉集に代表される天皇とその取り巻き
の時代を古代。禅や武芸、安土や江戸城などの武士の時代を中世。歌舞伎や浮世絵、プロスポーツ
などの庶民 の時代を近代っていうのが良いと思う。
素人的には「土人(文字無し)」「豪族(古代朝廷)」「貴族(藤原氏)」「武士(長い)」って感じ
でもやっぱり区切りが微妙だ… 武士の時代が長すぎて端と端で全然別物だ
443 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 21:01:43
日本の書物(歴史書でもいい)で最も古いものは何で西暦何年に作られたものですか?
日本史板のおまいらに質問
これなんて読む?
京都府丹後町間人
ぐるぐる禁止
たいざ
速攻かよ_| ̄|○
もう少し遊んでくれよ
だって聞かれたから・・・
まあ日本史うんぬん関係なくとも近畿地方では蟹で有名だしね。
どういう風に遊べばよかったんだ?
分からずにごめんよ。
まひとって直球放ってみるとか。姓みたいだな
449 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 03:10:56
>>428 大宝律令制定以降、それまで皇子・皇女と読んでいたものを親王・内親王に
変えたんでしょ。
だから過渡期に当たる天武天皇の皇子あたりの世代だと、律令施行前に
死んでいる草壁皇子は「皇子」だが、施行後も生きている舎人親王は「親王」と
呼ばれる。
450 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 03:24:45
10年位前に読んだ卑弥呼の時代を紹介した漫画が、忘れられないのですが、
その判断要素が、やたらエロイシーンがあったことと、その他の歴史を紹介した漫画数冊とのセットだということだけなのです。
卑弥呼を取り扱った漫画なんてそう多くはないと思うので、
もしかしたらタイトルをご存知の方がいらっしゃるかとおもってお尋ねしました。
451 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 16:16:36
日本最初の英雄は誰ですか?
源義経、ヤマトタケル、神武天皇などが聞いた事ありますけど
452 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 17:53:10
日本史最初の英雄は渡来人にぬっころされ土蜘蛛だの蝦夷だの野蛮人扱いされて悪者にされました。
453 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 18:21:32
オオクニヌシも国を渡来人に簒奪されたし
独立した神であったスサノオも渡来人によってアマテラスの下位に置かれ乱暴者とされた。
>>450 安彦良和かな?
漫画のタイトルは忘れちゃった
安彦良和なら『ナムジ』〜『神武』。
卑弥呼が出てくるのは『神武』だな。
他には藤原カムイの『雷火』とか。
どっちもそんなにエロくはないが…
まさか『火の鳥』・・・・
>>440 そもそも学問が真実の探求をほっぽっといて大衆に迎合してどうするんだよ?
戦前、国家社会主義に転向した人は戦後になって社会党に入ったりしてるけど
獄中出身者が幅を利かせてた社会・共産系の政党に入れたんですか?
458 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 23:19:20
>>428 以前、木簡のデータベースをのぞいたんだが、長屋王邸宅跡から出土した木簡には「長屋親王宮」と「長屋皇子宮」の二種類の表記があるのを確認した。
長屋王邸宅は平城京内なので、当然律令施行後になる。
長屋王が何故「親王」や「皇子」なのかはさておき、当時はまだ「親王」と「皇子」の両方が使われてたみたい。
現代のように、鶴の一声で一斉に呼称が変更出来る時代じゃなかったのかもね。
ちょっと話がずれるけど、架空歴史小説とかで王子・王太子と(内)親王が
同じ王家内で並存してるのを読むと萎えるよね…。
460 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 01:28:12
>>440 また「世界」か・・・よく日本史板で目にするのだが・・・
「分野」とか「層(レイヤ)」とか、もう少し幼児語でない表現をして欲しいが。
「世間」とは世間だよ。常識でいう社会一般だ。
日本人の大半、でも構わない。
>日本人一般の世間じゃないよね。1億2千万の日本人がいるとして、1億1千万
>超の人は、日本史のそんな話に興味はないと思えるんだが。
なんて言っているようだが、俺は興味の有無なんて問題にしていない。
時代区分の問題を考えた時、「古代」「中世」「近世」「近代」より、「鎌倉時代」とか「江戸時代」のような表現が、世間に浸透していると言っただけだが、何か?
それで、「古代」「中世」「近世」「近代」がダメだとも言っていない。
そういう考え方の方が良いのなら、それを普及させればよい。世界史ともある程度共有できる概念なので、普及は不可能なことではない。
ただし、その上で
>>438で書いたのは、日本史の研究は、「中世」とか「近世」というレンジで行われているのか? ということだ。
近世で言えば、信長の専門家と秀吉の専門家が既に別れてしまっていたりする。
時代区分がワイドになっていくのに、専門が蛸壺になっているのでは、今でも世間と乖離しているのに、その程度が大きくなってしまうのではないか? というのが主旨だ。
ageて煽って回答拒否してまで言いたい事を垂れ流しただけの長文乙 もう来るな
462 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 02:24:15
>>461 ずっと以前からいるさ、今頃何行ってるんだw
463 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 02:51:43
とりあえず記録に残っている日本初の英雄というのは神武かヤマトタケル?
それとも存在が確定してる義経だろうか
もうすぐ出る回顧と展望にしても、原始・古代・中世だし‥‥、
まあ確かに手垢の付いた用語ではあるけど、かといってT期、U期って
のもなあ‥‥、てゆうことで、古代・中世でいいんじゃない、
と歴研の某先生の真似をしてみたりするw
465 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 17:40:01
日本初のヒーローはヤマトタケルだろ
466 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 18:39:29
ヤマトタケルが殺したのは日本人だぞ
日本人を殺してヒーローはないだろ
467 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 21:23:48
その土地(日本)に住んでいた者達を異形の存在として認識し討伐する。
これは共通言語や習慣を持たない者が日本にやって来て日本に住んでいた者達を怪物扱いしたから。
邪馬台国は文字を持たない文化だったから記録も残らなかった。
人名も姓名に分れてはいない。
日本黎明期の英雄達は漢字文化の鉄器を持った民族に殺され歴史からも抹殺されたのだろう。
468 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 23:11:34
でその鉄器をもった民族の子孫が我々日本人なんだけど
ヤマトタケルが征伐した毛人や隼人なんてのは現代日本人とは大部違うと思うぞ
というか日本人と呼べるのかどうか
469 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 00:00:27
蒙古の襲来を退けた北条時宗こそ
日本初と言えるのでは
時宗が退けた?
アホ言うな。奴が何をしたってんだ。
神風を呼んだ亀山法王だろ。勝因は。
倒した相手にその勇気と智恵を賞賛されるってのは、英雄っぽいけど、ヤマトタケル。
親父に冷たくされて、無茶な仕事を押し付けられるってのも貴種流離譚のパターンなぞっているし。
最後、白鳥(だっけ)になっちゃうし。
472 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 02:08:28
ヤマトタケル、源義経、真田幸村
みな日本で人気のあるヒーローだけど、最後が悲劇的
まぁ記録のある人物では最古の英雄だろうね
473 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 04:00:30
質問させていただきます!
今の天皇は南朝でしょうか?
それとも北朝でしょうか?
それと、例えば今の天皇が南朝ならば、その流れが完璧に決まったのは、どの天皇からでしょうか?
携帯から失礼しました。
474 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 07:18:19
幕末の頃
なぜ日本は植民地化されなかったのでしょうか?
中国という反面教師があったからじゃね
476 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 08:55:47
神風起こしたのは諏訪大明神だ
仏教は関係なし
477 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 14:18:55
蒙古を撃退したのは神風や諏訪や天皇の手柄じゃない。
現場の兵士達の手柄。
それを横取りするのは卑劣であさましい。
478 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 15:11:32
存在が確定している最古の天皇って誰?
まあその当時は天皇などとは呼ばれていないだろうが
崇神から?
479 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 17:54:12
崇り神王は確定していない。
万世一系で血縁関係で言えば天智天皇若しくはその母の皇極天皇から。
漢人と呼ばれていた天智天皇の父は皇極の夫である高尚王の可能性が否定できないため。
雄略じゃないの?
名前が刻まれた剣という証拠が出ている。(雄略をさしていないという主張をする人はいるけど)
雄略も含めて、史書に書かれた内容や系図が事実と合っているかどうかは別にして、「存在が確定している」という意味では。
481 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 23:01:18
崇神か応神か継体かだな
484 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:53:53
w
江戸時代には梅毒が結構流行っていたみたいなんですが、
大名や公家で患った人物の記録はあるのでしょうか?
>>485 結城秀康が、梅毒で死んだとか言われてますね。
鼻が無くなっちゃって、付け鼻を付けていたという話。
文禄・慶長の役のときに売春婦を通じて多くの武士に梅毒が広まったとか言われてます。
スペイン人が新大陸から持ち帰ったらしいが
アステカが滅亡するよりも日本に梅毒が伝来する方が早かったとか
山野野衾がどっかで書いてたような
>>487 コロンブスの新大陸発見からぐるっとヨーロッパを回って日本に到達した梅毒
なんと100年足らずで着いたそうな
人間の性欲は凄いねぇ
海や民族を最初に超えさせた奴は海鼠を最初に食った奴並のチャレンジャー
490 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 00:22:56
>>487 文亀か永正くらいの時期には既に日本に流入していたらしいね。
491 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 21:29:54
ばいばい
源義親って、反乱を起こした後どうなったんですか?
平正盛に討伐されたって、よく書いてあるけど討ち取られた
様子もないし処刑された話も聞いたことないし…
しかも彼の子である為義は崇徳上皇のお気に入りとなって、保元の乱に加担してますよね?
493 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:42:47
一時期、義国が河内源氏の正嫡にされてたけど、のちに為義に代わったみたいだね。
494 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:46:58
どうすれば現代で幕府を開けますか?
495 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 03:20:13
>>494 過去の先例を鑑みると、天皇から「征夷大将軍」に任命される必要があるね。
あと、天下平定くらいしないと、わざわざ廃止された将軍職を復活させてまで任命してくれそうにもないね。
そんで、家康を見習って、あらかじめ清和源氏の末裔ってことにしといたほうが、多少スムーズに事が運べるかもね。
まぁ、なにより天皇に対して有無を言わせぬだけの実力が必須条件だな。
それさえあれば、君も晴れて「将軍様」になれるかもね。
496 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 06:36:05
>>492 義親は義家生存中からいろいろ問題があったから為義は義家の養子と言うことになっている筈
作る時は行政府は田舎で頼む
東京は狭いから北海道とかで新都心を作ろうぜ
>>495詳しく教えてくれてありがとう。
今でもやろうと思えばできるんだぁ…。
>>497 過疎ってるところがいいよね。盛大な村おこしになる。
499 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 16:13:02
殊号事件のあと、新井白石失脚後に呼称が戻された経緯について分かりますでしょうか。
500 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:08:44
>>498 ただ征夷大将軍という名称からすると、京都より西に本拠をおくのは難しいだろうね。
今えびす扱いできる対象ってなんだろう…
502 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 00:51:58
>>502 固いことを言うと、「夷」は東にいないといけない。
北なら、テキ(字が出ない。荻の草冠のないヤツ)だろ。
日本海側(出羽)が狄だから、太平洋側なら北海道でも夷でいい
白村江の敗北の後、中大兄皇子が
大宰府北方に1Kmに渡って築かれた大堤って何ですか?
水城
507 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 16:46:26
>>507 左は大正天皇だろうなあ(近年の研究はともかく風刺ならOKだろう)。
右の人物が気になるねえ、誰か特定の人物を描いているなら大したもんだ。
大正期の有名政治家では大隈さんに見えなくもないけど、ハゲなら寺内、是清、清浦も該当するか。
政党政治家じゃなくて宮中の人物かもしれないしなあ。
509 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 01:58:24
>>503 六国史などでは、陸奥の住民を「蝦夷」、出羽の住民を「蝦狄」と呼んで
区別している。
よって陸奥の延長である北海道の太平洋側(東蝦夷地)から千島(奥蝦夷地)は
「夷」でよい。
ただ出羽の延長である北海道の日本海側(西蝦夷地)から樺太(北蝦夷地)は
「狄」のほうがよいかも知れない。
なお中世においても、東蝦夷〜奥蝦夷の住民は「日ノ本」と呼ばれるのに対し、
西蝦夷〜北蝦夷の住民は「唐子」と呼ばれ、両者には区別がある。
510 :
503:2007/06/03(日) 08:11:11
>>509 字ヅラから思い付いた疑問を言っただけなのに、脱帽。
脱北者が小さい漁船で青森に来たのは、偶然の符合だよね。
ついでに、東は、征夷で「征」なのに、九州の方はなぜ鎮西の「鎮」なのだろうか。
>>510 推定だが,東は自分の領土でないので「征」服,
西は領土だから「鎮」圧じゃないか?
513 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 23:00:44
だとすると南北朝時代の九州とかは意味深だな。
北朝&室町幕府方の現地におけるトップは「鎮西管領(のち九州探題)」だが、
南朝方は「征西将軍」だ。
515 :
504:2007/06/04(月) 02:08:28
俺には何も無しか‥‥
516 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 13:22:56
大化前代だと単に「えみし」であり、漢字を当てる場合も「毛人」と
されることもあったようだが、やがて中華思想的なものが蔓延してくると、
「蝦夷」と「蝦狄」を区別するようになるということだな。
また中世における北海道の住民に対する呼称は、正確には
「渡党(わたりとう)」「唐子(からこ)」「日ノ本(ひのもと)」の
3種になっている。
このうち「渡党」は、日本語の方言を話す本州からの移住者だが、
「唐子」「日ノ本」は言語が通じなかったとされる。
因みに「唐子」の居住地は、西蝦夷地から樺太にかけての地域であり、
「唐子」という呼称事態に大陸との繋がりの深い集団というニュアンスを
窺える。
一方「日ノ本」の居住地は、東蝦夷地から千島にかけての地域であり、
「日ノ本」という呼称からも東のほうに住む集団というニュアンスを
感じ取れる。
517 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 18:50:44
アイヌは漢字を使わない。
邪馬台国も漢字を使っていない。
文字は石や木簡などと共に後世に伝わる。
漢字民族、ネイティブ日本人を蔑称で呼んだ民族、姓名を名乗る民族は邪馬台国とは連ならない。
中国の史書が用いる表現『邪(よこしま)馬台国』『卑(いやしい)弥呼』それを大和政権は受け入れているような気がする
518 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 20:39:39
519 :
即レス希望:2007/06/04(月) 20:46:04
頼む!摂関政治と院政の共通点と相違点教えて。
ここは宿題スレじゃありません
521 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 23:25:10
○摂関政治
天皇が幼少の頃は摂政となり、成人ののちには関白となり、天皇の後見役として天皇の政務を代行する。
これにより、摂関家の私的家政機関である「政所」から出される「政所下文」「殿下御教書」という命令が大きな意味を持つようになった。
○院政
上皇は、天皇の父または祖父であり、前天皇であったから、摂関政治における摂政や関白より以上の権限をもつにいたった。
そして、院庁から下される「院庁下文」や院政の中心である上皇から出される「院宣」は、朝廷の太政官符や、天皇から出される詔勅・宣旨よりも重んぜられるようになった。
まぁ、どちらも天皇から政治権力を奪って政治を行う所は一緒かな。
どちらの政治においても、天皇が幼少であることは問題にならないからね。
摂関政治は臣下が主君である天皇を棚上げする形になり皇室にとって脅威となるが、院政ならば、皇室内における上皇と天皇の分業みたいになり、皇室の権威・権力の強化につながるのかな。
まぁ、摂関政治に対する皇室からの反発って面はあるからね。
オイラの知識じゃこれが限度。
補足・訂正等出来る方、後は頼んます。
> 摂関政治は臣下が主君である天皇を棚上げする形になり皇室にとって脅威となるが
ハァ?何言ってんのあんた
523 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 01:20:19
今、郷里制に関する論文を読んでいる所なんですが、いくつか読み方が
解らず調べ様が無くて困っている用語があるので教えていただきたいのですが。
「正倉院調庸綾絁布墨書」
「三綱優婆塞貢進解」
これです↑
あと、天平勝宝2年の河内国の勘籍に出てくる「嶋吉事」とは何でしょうか?
「嶋吉事年弐拾陸」というように史料文中で出てくるのですが。
524 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 05:31:41
鎌倉幕府と朝廷の二元的な支配ってどういうことなんですか
荘官や在庁官人のいる土地に地頭がやってきて、年貢の二重取りしてたとか
そんな理解じゃ単純すぎますか?
支配体制について詳しくあつかってるサイトが見当たらないんですが
525 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 06:12:55
祖先とか苗字の由来を知りたい。
どうやって調べたらよいですか?
アドバイスお願いします。
527 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 10:00:18
>>522 天皇・治天・摂関は全部揃って一体となって相互補完の関係で朝廷を運営するのが平安後期以降のスタイルだよな。
529 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 16:51:06
権門体制age!
530 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 17:54:44
ニンテンドウDSの山川日本史B用語集はおもしろそうですかね?
531 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 21:09:16
>>521 そもそも摂関政治は母系による後見で院政は父系による後見の差でしかない。
532 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 22:22:27
父系か母系かでは大いにちがう。
父系=譲位した前天皇による後見というのは、実際には天皇政治の一バリエーションにすぎない。
だから何も知らん子は黙ってなさいって
534 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 23:47:17
院政を摂関政治とか武家政権同様に天皇政治と相反するかのように言うヤツがいるけど、
院政とは天皇家の家長であり、前天皇である治天の君が最高権力を握る政治体制であって、
天皇家による支配以外の何物でもない。
どっちも間違ってないと思うのになんで対立するかな。
摂関政治が父系になったもの。それが院政。
院政は天皇政治のバリエーション。
どっちも正しいじゃん。
そもそも矛盾してるの?この2つって。
大人げなかった。
お互い仲良くしようぜ。
院政と摂関期の大きな差異は何か?
まあ第一は血縁による天皇権力の制御が「治天の君」に移ったことだろう。
よって天皇権力に基づく摂関政治の権勢は後退し、また「治天の君」たる院は
天皇権力を実質上回る権威と権力を有した。
同じミウチ政治でも権威・権力の源泉が異なる、と(院はそのものがその源泉)。
それ故に「院宣」は重みを有したし、摂関家以外からの登用も可能となった。
以上が政治的側面。
第二の経済的側面としては王家領荘園の形成に伴う院の摂関家からの自立も
見逃せない点。
>>519が高校生なのか大学生なのかは分からないが
学生で歴史に興味があるなら美川圭『院政』(中公新書)がいわゆる院政期を
概観しているので暇があれば読んでもいいかも。ただ特に初期院政は人物名が
記憶しくいという難点がある(つまり、メジャーじゃない)。
まあ古代から中世への過渡期と言われる院政期だ、横レスだがこれくらいの議論は
いいんでないの?
538 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 03:37:27
逆に時代が下ると摂家は王家に寄生するだけの存在に成り下がるね。
ヒトリゴトだけど北風家のスレがないね。
古代から明治にさしかかるまで続いた家だから、
語る内容も結構ありそうじゃない?
ハプスブルク家よりも歴史長いぞこの家。
誰か興味ある方立てて。
私は携帯だからムリ。
明治時代の衣食住娯楽文化がわかるような本とかあるでしょうか?
興味があるのであれば読んでみたいし、ネットでもそういうのがわかるサイトがあれば見てみたいです。
541 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 00:15:56
542 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:05:47
信長公記の現代語訳で一番のおすすめ本は?
543 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 01:45:48
原文で嫁
544 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 02:50:15
質問です。
米1俵は、4斗でよかったでしょうか?
1石が10斗で2.5俵だと思うし、いいんじゃない。一番切りのいい所準拠の一例だけど
容積単位の合斗石と何か重量な気がする俵は、いまいちしっくり馴染んでくれなくて困る
米を俵につめるときは、一斗マスで測って入れるが、一俵は60kgと相場が
きまっている。玄米として水分が十分抜けていないともっと重いことになる
んだろうね。今は米は重量で売っているが、マス目で売るってのは理屈がある。
(マスに入れてトントンと叩くか、ソオーッと入れて測るかで量は違うが)
昔は20歳になって兵隊検査に行くような若者は、一俵をかつぐのが普通だった。
60kgの人間は担げるが、俵は担げないんだよね。
織田の家系で埴原(はいばら)の家を継いだ人がいると聞いたのですが、
その人物についてご存知の方おられますか?
外国から見た日本の歴史を取り扱っている本を探しているのですが、何かおすすめの本はありますか?
できれば戦国か幕末あたりで…
549 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:47:28
きーたーかーぜーけー
北風家の話題できるところは2ちゃんねるにはないの?
よーし、オジちゃんageちゃうぞー
550 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:54:30
551 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:34:28
質問です。
『大宝』という年号は対馬からでた銀を献上したから
このような年号がついたと聞きました。
しかし電子辞書やwikiには同じく対馬の金の献上により
年号がついたと書いてありました。どちらが正しいのですか?
552 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 01:10:15
『続日本紀』大寶元年(七〇一)三月甲午(廿一日)
對馬嶋、金を貢す。元を建てて大寶元年とす。
>>552 携帯だからたてらんねーのよ。
需要はどうなんやろ?
555 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 16:36:11
和銅と似たような改元理由か。
『続日本紀』和銅元年(七〇八)正月乙巳(十一日)
武蔵国秩父郡、和銅を献ず。詔して曰はく「(前略)食國中の東方武蔵国に
自然に作成れる和銅が出在りと奏して献る。(中略)是を以て天地の神の
顕はし奉る瑞宝に依りて、御世の年号を改め賜ひ換へ賜はくと(中略)故、
慶雲五年を改めて、和銅元年と為して御世の年号と定め賜ふ。(後略)」
557 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 01:32:59
『続日本紀』とか書いてる人って、自分で一字一句入力してるの?
それとも全文データベースみたいのがあるの?
それにしてもわざわざ訓読文に直したりして面倒じゃない?
558 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 12:51:22
図書館に行けば古典のシリーズ物で『続日本紀』などの訓読本などがあるよ。
>>526 さんごううばそくこうしんげ
しまのよしこと(人名)
560 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 14:28:47
>>558 それは知ってるけど、結局一字一句入力してるの?
原文のデータベースならあるけどね。訳は知らない。
562 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 02:59:09
>>561 じゃあそれを自分で訓読文に直してるんだ。ご苦労ですね。
なんか直す必要あるの?って気もするけど。
原文のままだと多分ワカンネエヨってレスがあるな。
564 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 15:19:06
あの〜質問なんですけど・・・
室町時代の足利義満が”朝貢外交”をおこなっていたというのは真実ですか?
皇帝である天皇家が朝貢外交をおこなっていた訳ではないので
日本が明に対し朝貢を行っていたということにはならないと思うのですが?
日本は朝貢外交をおこなっていませんよね?
中国側の歴史教科書によると、足利氏が金千両やら馬10頭やら、刀10本を
中国、明の皇帝に献上したとされていますが?これだけで朝貢外交になるのでしょうか?
565 :
564:2007/06/13(水) 15:27:47
>>564-565 中国からみれば当然朝貢になる。
仮に賛同はしなくても理解はしてあげないとな。
>>564 わざわざ中国側の歴史教科書を持ち出すまでもなく
17回の勘合船遣使は「朝貢貿易」だろう
(まあ後半は幕府不在なんで議論はあるだろうが)。
皇帝が誰か、君主が誰かは日本国内の問題で(もっと言えば今日的問題で)
対外的に日本を代表したのは足利将軍で、彼が日本国王の地位に甘んじたのは事実。
明に臣礼をとったのは今日的な価値観では気に食わないのかも知れないが
それによって莫大な利益を生み、貨幣経済は更に進展したのだから何が問題かが分からん。
しかし中国も少し不勉強だなあ。
意図的な教科書をつくるなら1172年に南宋から「日本国王」後白河院と入道相国清盛に
遣使し、翌年に両者から返書と答進物が送使されて国交を樹立した方が自尊心満たされるだろうに。
これは言い訳しようのない「王家」の朝貢だからねえ。
まあ結論から言えば実利が得られた「朝貢貿易」を現代的な面子で否定する方が歴史の歪曲。
中国が勝手に「朝貢」と認識すれば「朝貢」なのが前近代の東洋世界。
568 :
564:2007/06/13(水) 17:14:14
>>567 朝貢外交を行っていたとすれば、当時の室町幕府は、朝鮮同様に
”明の属国”という扱いを受けていた事になりませんか?
つまり、室町時代日本は独立国では無いという歴史見解となるが・・・
それは歴史的な真実なのでしょうか?
それから、足利氏の朝貢外交について、当時の天皇は嫌悪感を抱いていた
という事実はどう解釈すれば良いのだろうか・・・?
朝貢外交を行っていた頃の日本の君主は、皇帝とすでに名乗っていた
事に関しても、日本が他の中華文化圏の国(琉球・朝鮮)と違い
独立国であった事になるのではないでしょうか?
あなたの見解を聞きたい・・・
567はスルーされることを希望する。
570 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 18:27:37
>>567ではないが
>>568 室町幕府(足利氏)が朝貢外交をおこなっていただけで、
朝鮮や琉球のように、明の属国という事にはならないと思うが?
それとも、朝貢外交=明の属国だということになる、と単純に言えるのか?
絶対主義を経て主権概念を確立した後の
西洋の宗属関係の概念をそのまま当てはめて
属国云々を述べてないなら俺的には何でもいいや
どの言葉を当てはめるかなんて些末な問題だからな
藤原威子と結婚した天皇ってどの天皇でしたっけ?
ぐぐれば1秒でわk
575 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 03:45:19
>>568 >それから、足利氏の朝貢外交について、当時の天皇は嫌悪感を抱いていた
>という事実はどう解釈すれば良いのだろうか・・・?
日明貿易開始時点での天皇は後小松だと思うが、後小松が嫌悪感を描いていた
ソースなんてあるのか?
576 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 11:19:04
後小松って、そもそも政治に興味あったの?
全部義満と関白に丸投げのイメージが強いけど。
577 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 12:46:32
義満在世中の南北朝合一や、日明貿易の頃は、後小松もまだ若かったしな。
義満は後小松の父後円融の従兄弟で、父親の世代、
後小松は政治に興味がなかったというより、若さのゆえに口出ししなかったのかもな。
後小松が日明貿易について意見を述べた史料なんてあったっけ?
義満が死ぬと、以降の将軍は朝政にほとんど口出ししなかったから、
後小松は割りと好き放題できたと思うよ。
この頃関白はすでに五摂家による交代制で、
摂関全盛期の道長のような勢力はなかったし、
インテリ関白二条良基とは不思議とウマがあったみたいだしな。
退位してからも、後小松は長らく院政をとってたな。
578 :
568:2007/06/14(木) 15:58:57
>>575 スマン天皇が嫌悪感を抱いていたのではなく正確には↓
>遣唐使の廃止いらい独自の小中華思想に基づく孤立政策を採っていた公家社会では、
>明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、
と、公家社会側が嫌悪感を抱いていたというのが事実(ウィキペディアより引用)
私は日本史にうといのだが・・・世界史板の方で、足利氏が朝貢外交をおこなっていた
という事実から
日本=明の属国という、チョンがいたもんで、それが事実かどうか知りたかった
世界史板の方で私は、はじめて、日本が朝貢外交を行っていた事実をしったので
ここで質問してみたのだが・・・
改めて、聞きたいのだが、
ウィキペディアでは、対等外交という説もあるらしいが
朝貢外交=明の属国という事になるのでしょうか?
579 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 17:24:29
>>578 簡単に言ってしまえば 朝貢外交=明の属国 で正しいです。
朝貢は決して対等外交ではなく、
交易では中国が損をするという不平等条約、代わりに国格では中国の上位を認めるというもので
言い方を変えれば、中国が主人の立場を対価を払って買い入れるという方式です。
足利義満は、勘合貿易の利益の対価として明皇帝の臣になりました。
明は対価を支払って日本の上位に立つ権利を買いました。
「属国」という言葉のニュアンスに囚われすぎてないかな?
581 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 20:28:50
日本は朝貢によって、中華帝国から内政干渉されたことがあるのかな?
オイラの拙い知識じゃ無かったと思う。
ただ、朝鮮やベトナムなどは、それなりに内政干渉が有りそうな気がするけど、どうなんでしょう?
まぁ、朝鮮やベトナムなど地続きしてる国は武力を背景とした圧力から、朝貢を半場強要されるようなケースが有り得るが、日本の場合は日本の都合で朝貢したり、しなかったりができたと思うので、あまり「属国」っていうイメージはないんだよね。
だけど、たとえ建前だけでも中華皇帝と君臣関係を結ぶのが朝貢だから、その辺が「属国」といわる理由なのかな。
582 :
578:2007/06/14(木) 21:15:15
なんかピンぼけな議論だなぁと思ってROMってたが
本人が納得したならまあいっか
質問スレだしね
584 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 01:12:02
>>577 五摂家といいつつ、この時期の摂関は実質的に二条家と一条家の独占状態だけどな。
二条・一条両家のみ摂関在職期間が異様に長く、他の3家出身者は摂関になっても数年で辞める。
あと後小松や義満と重なる時期の関白だと、一条経嗣の存在感が大きい気がする。
まあこの一条経嗣も実は二条良基の子で、跡継ぎの絶えた一条家を相続した人物だけど。
見下ろしたいだけの駄レスはいつも奴か
586 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 01:46:28
二条良基−一条経嗣−一条兼良
良基と兼良が直系で繋がると分かったときは結構感動した。
587 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 02:46:30
645年〜の
難波宮は首都だよね?
>>587 「首都」の定義が難しいが難波長柄豊碕宮を645年12月に都にしたのは事実だろう。
もっとも宮が完成した翌653年に皇太子・皇后・女帝が飛鳥に戻ってからは
事実上「首都機能」は失われたと考えてよい。
ただ当時は主な豪族(官人)が畿内にその根拠地を有していたこと、
そして基本的に一世一代で宮が新たに造営されたことを考えると
今日的な意味での首都と位置づけられたかは疑問が残るけどね。
どうでもいいがその後、天武朝からは893年までは副都の地位にあったことは間違いなかろう。
孝徳朝以前からも交通の要衝として、その地位は高かったからね。
主席卒業生に金時計を送る風習がある大学ってまだあるそうなんですが
どこですか?慶応?
共産主義大学
591 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 03:43:08
足利将軍家は分家が極端に少ないような感じがするんですが、これは何故なんですか?
592 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 04:10:58
>>578 形式的には朝貢国だが、実質的には独立国、で十分だろう。
>>591 新田、細川、仁木、畠山、吉良、斯波、渋川、一色と、派生した氏族が多すぎるから、
分家扱いは避けたのではないか、と。
それでも吉良と今川には将軍職継承権が認められていたとかいう話もある。
まぁ確かに、鎌倉公方家は分家だが、将軍職継承からは排除されたようだしなぁ。
593 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 07:59:55
>>591>>592 面白い疑問だね。
たしかに、尊氏以降の分家って鎌倉公方家くらいしかないね。
理由としては、時代背景が大きいんじゃないかと推測。
南北朝時代って、正当性にお墨付きを与えてくれる天皇が分裂した時代だから、兄弟や本家・分家の争いやいざこざが南北朝の争いにリンクしやすいリスクがあったんじゃないかな。
まぁ、室町幕府はそれほど統制力がない政権で、後に鎌倉公方も持て余すようになってる。
将軍職の継承争いが元で応仁の乱が発生するが、この時も守護の相続争いとリンクしてしまって大きな混乱となってしまってる。
徳川幕府みたいに御三家を作っても統制出来ず、火種が増えるだけだと考えてたかもね。
また、足利の諸支族もそれなりに影響力があって、遠慮もあったかもね。
推論ばっかで申し訳ないけど。
594 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 18:58:10
>>591 初期の直冬の件や、義満没後の義嗣の件なんかが大きく影響して、それ以後は
皇室や摂関家の例に倣って、嫡子以外を全て門跡寺院などに入れる傾向が強く
なるとはいえるだろう。
義満の弟である満詮なんかは本人は俗人だったが、子供は全て寺に入っている。
その頃から政策的にこういう傾向が出るのだろう。
595 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 19:00:23
>>593 >まぁ、室町幕府はそれほど統制力がない政権で、
釣れるかい?
596 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 19:10:26
>>595 最後の方に徳川幕府の御三家に触れてるように、比較の対象は徳川幕府と比べての話しだよ。
597 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 19:38:08
598 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 21:06:28
599 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 21:21:13
吉良、石橋、渋川の三家が「御一家」と呼ばれて一門扱いされてたのではないか?
「吉良殿」みたいに殿付きで呼ばれて、他の大名とは別格扱いだし。
600 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 00:01:57
斯波はそれ以前に苗字で呼ばれない。
601 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 03:05:14
尊王攘夷って一まとめはよく聞くし、佐幕なら鎖国維持なんだろうけど、
尊王=佐幕とは必ずしもならない、ねじれ関係ってありそうでよく分からない
倒幕+鎖国はなくとも、尊王+開国は理屈上矛盾しないような気がする
しかし尊氏以降でも結構歴史はあるし、当然ながら男子孫もままいたはずなので
派生氏族の多寡に係わらずポロポロ分家ができてもおかしくはないんだがなぁ。
そもそも、足利将軍家からの分家がたった一つだけというのはどういうことよ。
考えてみれば将軍から他家に養子にやられた人も記憶にない。
僧籍に落とされたり、代ごとに兄弟で殺し合いという理由だけではない気がする。
603 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 05:00:38
>>602 将軍の子供を他家(将軍家親族以外)に養子にやるなんて例は、
のちの徳川将軍家においても、
子供が多すぎて扱いに困った家斉以外には例がない。
>>603 アレは例外でしょ。
そもそもご法度でも何でもないことだし、ましてや細川らは同門。
将軍の権勢を強化するつもりなら、養子を無理強いしてもいいはず。
足利が増えるのが困るというのなら、まさに「皇室や摂関家の例に倣って」やってもよかった。
なんで過度経済力集中排除法の適用に財閥系銀行をはずしたんですか?
潰さなきゃ持株会社整理委員会作ったりしても無駄な気が…
606 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 01:03:16
>>604 室町時代の時代背景を考えれば、余計な火種を作るだけだよ。
607 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 03:02:37
少なくとも女子くらいは、有力守護に嫁がせるのも無いのはどうしてなのかな
608 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 05:10:58
全てを後世の徳川将軍家と比較して、
徳川将軍家=デフォ、
足利将軍家のここのところは何で徳川将軍家と違うの?おかしくね?
って思考パターンで室町時代を見るのはやめたほうがいいぞ。
将軍家自体の生い立ちも時代背景も全然違うのだから。
609 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 13:01:38
例えばこちらの回答者の方々のように歴史に詳しい方とか、
歴史小説書いてる小説家の方々とか…
そういった方々はどのような文献を資料にされているのでしょう??
ネットで色々調べておられる?それとも図書館などで資料を見て回られてる??
610 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 13:36:52
高師直が天皇の妃として後宮に召されていた二条関白の妹を
盗み出して寵愛し、男子・武蔵五郎師夏を儲けたという話を
聞いたことがあります。
扨て、この「二条関白」というのは二条道平のことなのでしょうか?
また当時の「天皇」というのは何天皇だったのですか?
もちろん二条関白の妹を召しだしていた天皇のことを伺っているのですが。
よろしくお願いします。
追記 知らずした他のスレで同じ質問をしてしまいましたが、決してマルチ
のつもりはありません。
こちらに「歓迎」と書いてあったので頼りに思うて書き込みいたしました。
最初に質問した方のスレに返答きてるから、お礼を忘れずにな〜
>頼りに思うて書き込みいたしました。
なんか萌えたw
最近新選組に興味を持った者です。
芹沢暗殺の理由がいまいち分からないので教えて下さい。
613 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 00:43:04
>>612 基本的に過激なグループ内の主導権争いだから理屈もなにもない、と考えて大過ないでしょう。
ただし、実力はあるものの、かなり奇矯な人物だったようなので、少なくとも、大多数の支持を
得ていたとは考えにくいですね。
>>613 あーなるほど、派閥抗争ってことですかね。
ありがとうございます。
615 :
コピペ:2007/06/21(木) 09:03:50
737 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2006/03/17(金) 19:52:10
天狗党の特性の一つはその残党が各地に流れ政治的立場のいかんを問わず血なまぐさい
諸事件に顔をだし、内輪もめで死んでいくということにある。
新撰組初代局長芹沢鴨が水戸天狗党の流れである。彼は主君なき武士道はないと主張して
寄るべき盟主をたよろうとした結果、主君なき武士道はあるとした土方歳三の多摩郷士的な、
新機軸の組織論に敗れて斬られている。
水戸学は渡来人の儒者朱舜水、名君水戸光圀(黄門)以来、朱子学の大義名分の論に立脚する。
何が正系かを正し、正系に仕えることを旨とするその権威主義がわざわいして、その腐敗過程では
民衆に過酷に当るということも特性だ。正義をとなえる者の悪は民衆にはより悪いのである。
おしこみ強盗、略奪に理屈がつく。
光圀の朝廷傾倒はどこから来たのか、今もってよく分からん。
小説では、乳母が京都の出身とか出て来るが、幼児期の刷り込みが
効をそうしたってわけでもなかろう。
江戸時代の郷士について質問させて下さい。
彼らは半士半農身分ということになると思うのですが、
普通の農民と同じだけ年貢を納めていたのでしょうか。
また、年貢を納めながら武士身分として
俸禄もしくは知行をもらっていたのでしょうか。
どなたか詳しい方、教えて頂けますか。
>>617 まあ江戸時代は諸国によって郷士の位置づけも異なるし
旧族郷士、取立郷士の区分もあるから一概には言えないけれど
一般的には
1)若干の給地(無年貢地)を有する
2)これに加えて百姓地(年貢地)を有する
3)軍役を負担する
というのが基本的な郷士かなあ。
ただ給地が少ない、あるいは給地・給米がまったくない、軍役負担がないなど
諸藩により性格は異なるから郷士の定義は難しい。
江戸時代は、世界トップの識字率云々ということをよく聞きますが、
そうなるのは江戸時代のいつ頃からの話なんでしょうか?
天保期以降からだとすると、かなり江戸末期なんですね。
参考になりました。
京都の各藩邸っていつごろ置かれるようになったのでしょう?
徳川幕府の幕藩体制化ではなるべく京都に大名を近づけないような
政策だったかと思いますが、幕末になりそのあたりが弛緩すると
京都の藩邸が政治活動の拠点になってますよね。
これは幕末期になってぽろぽろと出来始めたのか、それともそれ以前なのか、
またどの程度の規模の藩までが藩邸を京都に置いていたかなど
江戸時代における京都藩邸についてご存知の方いらっしゃれば
ご教示願えると幸いです。
幕末には74の藩邸があったらしいが
大雑把に言うと西国の大大名は江戸時代初期から蔵屋敷(京都が消費地だったからでしょう)をもっていたケース
東国大名や西国の小大名の中には幕末に京都が政治都市化して
何らかの役職に付いて京都に宿営する必要が出てきたので藩邸を建設したケースが多い。
>>623 迅速なご回答大変痛み入ります。
やはり多くの場合は幕末の政治事情の中で設置されたケースが
一般的であったということでしょうか。大変面白い話です。
もしよろしければそれらの事情に詳しい書籍やホームページ等があれば
教えていただけないでしょうか。
625 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 21:29:12
質問失礼します。スレ違いだったら御免なさい
時代劇とかで、町人が群がってやんやと騒いで見てる掲示板あるじゃないですか?
お触れとかを貼り出すあの看板みたいなものって、何か正式な名称ありましたっけ?
ご存知の方いらっしゃいましたら、ご教授お願いします。
/\
/| |\
└┬┘
│
│
↑こういうやつです。
立て札
高札
その場所を高札場
宿場などでは入り口にあった。馬篭、妻籠でも見た。
>>627 それです。かなりスッキリ&一つ勉強になりました。
ありがとうございました。
法令を広く一般に告知するため、辻や橋詰などの場所に、法令内容を墨書した
板を掲げたもの。制札・立札とも。奈良時代から見られ、室町時代には徳政令
などが京都の辻に掲げられ、江戸時代になって広く幕府や諸藩が掲げるように
なった。関所札・浦高札のほか、1711(正徳1)の忠孝札(親子兄弟札)・キリシタン
禁制札・毒薬札・駄賃定札・火付禁制札の5枚が大高札と呼ばれ、基本とされた。
江戸の日本橋南詰・常盤橋外・高輪大木戸など、京都の三条大橋、大坂の高麗橋
などの高札場に掲示された。明治政府は1868(明治1)旧幕府の高札を撤去させ、
五榜の掲示を掲げたが、73年廃止した。
秀吉政権以降、ほとんどの公家屋敷は御所周辺に固められたわけだけど
あの家の配置はどうやって決めたんですかね?
家格によって敷地の違いがあるのは地図を見てよく分かるんだけど
分譲住宅のようなあの密な空間における配置がどうやって決まったのかが気になります。
海外に住んでいて、今までまったく日本の歴史の勉強をしていませんでしたが、
一般常識といえるレベルの歴史情報は持っておきたので勉強したいのですが、
どこかにお勧めの参考書等が記載されてあるリストなどはありませんでしょうか?
教科書2,3冊買えば済むだろ
学習漫画日本の歴史が良いと思う。いやホントに。
阿て河荘言上状資料において「フセタ」から推測できる農民層の成長の様子を説明せよ
お教え下さい
テストは自分でやれ
636 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 14:16:31
友人から、大和政権は元々は朝鮮半島の王族が日本に移り住んできて、
その後日本を支配したのが始まりだと聞いたのですが、事実でしょうか?
ソースのひとつとして、韓国の教科書に載っているということでした。
いわゆるネットウヨクのサイトなどには、韓国教科書は史学的根拠に乏しいともいわれれますが、
これについても、どう思われますか?
この時期の日本の状況は資料が少なく、確定的なことは言えないのかもしれませんが、
学説としてあるとするなら、どの程度受け入れられているかなどでもいいので教えてください。
ネットウヨクと書いてる時点でお前もう帰れ
>630
公家町の形成は、秀吉の一代によってなったものじゃなくて、
長い年月をかけて集められている。
江戸時代の地図を見比べると、当初、
公家屋敷と町屋が混在していたものが、
火事などで焼け出された際に、区画整理がなされ、
徐々に公家屋敷だけが御所の周りに集められて、
江戸末期には二百あまりの公家屋敷が立ち並ぶようになる。
地図を見比べて変遷を追っていくとよいかも。
640 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 17:49:11
>>638 ネットウヨクのオマエが望むカキコは誰も書かない。
いつものように自作自演で自分宛に解答すればいいじゃん。
ウヨクは馬鹿だから一般人に成りすましても馬鹿は隠せない。
>>640 確かに右翼というか新保守的なのは認めますが、
全くネットウヨクのようなことをするつもりはありませんし、歴史に持ち込むつもりもありません。
右翼といってもいろいろありますし、ネットウヨクとかいたのは、
そういうサイトは明らかに作為が感じられますが、
どの程度信じられるかというのを、ききたかった為で、悪意はありません。
642 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 19:53:20
うちの母が自分は星野勘左衛門という弓の名人の子孫だと自慢します
ネットで調べたら勘左衛門は尾張の人みたいですが、母は仙台の出身です
本当かどうか調べるにはどうしたらいいですか
643 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 19:54:34
>>641 私があなたの記述で反感を感じるのは、
636の記述で友人が日本史のソースとして韓国の教科書を提示したとの記述です。
あなたは自己の引き立てのために友人を悪役にしていると感じます。
あなた自身がその友人に非難が集中することを希望している感じがします。
644 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 21:26:27
>>643 そうですか。全くそういう考えはありませんでした。以降気をつけます。
ソースを提示したのは、議論(正確には違いますが)するのには、ソースがなければならないと思ったからです。
そういう考え方をする事自体があなたにはそういった意識があるからでしょう。
一般社会で韓国が貶められるのはそう多くないにも関わらず、
韓国の教科書をだしただけで、友人を貶めんとしているな、などと思うのは、
ネットウヨクによる韓国のイメージが根付いている証拠だと思います。
645 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 22:18:02
>>644 とりあえず、図書館にでも置いてある『日本史の歴史』とかのタイトルがついてる概説書の倭王権成立頃の巻を読んでみたら?
皇室のルーツなんて未だに定説はないはずだからさ。
余裕があるなら、日本書記や三国史記の倭と三韓の交流に関する記述も確認しとくといいかもね。
646 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 22:49:55
訂正
『日本史の歴史』とかのタイトルがついてる概説書
→『日本の歴史』とかのタイトルがついてる概説書シリーズ
647 :
630:2007/06/29(金) 23:15:15
>>639 ありがとうございます。
江戸時代の地図における御所周辺の変遷をまず確認してみます。
ただ気になるのは土地の所有権ってどうなってたんでしょうかね?
最終的に権力者に集約されるんだろうとは思うんですが
江戸時代における公家が屋敷を構える際にどのような手続きというか
経過を経てあの場所に行き着いたんでしょうか。
もともと町家だったとして、そこに公家屋敷が立てられる場合
その土地の所有権の移動はどうなされたのかというような。
>>636 別に政権に限らず、王族に限らず、半島からこの列島に移ってきたんだよ。
もちろん北のほうはカムチャツカや樺太経由で来たのもいるし、
南のほうは東南アジア方面から海を渡って来たのもある。
いずれにせよ遡れば、アフリカ南部に行き着く。
ボケ! ボケ! 死ね
>>648 うむ、一番手近の半島経由で来たご先祖様が一番多いだろうことは間違いないな。
イブ仮説だっけ?
>>650 んで、半島の跡地にはまた北から来たのが居座っているってのを付け加えて
置かないと、図に乗るのが出るな。
653 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 09:22:25
昨日テレ東の超歴史ミステリー見たんですが
忠臣蔵は大奥がけしかけたとか
家重が女だったとか、和宮が自害していたとか
おもしろいことはおもしろいけど
あの番組の信憑性って日本史板的にはどうなんですか?
ある訳がない。
とんでも説のオンパレードだよ。
655 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 04:07:23
>>610 通説的には二条道平っぽい。
天皇はよくわからないけど、師直が京都の公家なんかと接触できるように
なるのは、常識的に考えて室町幕府成立後だろうから、
光明天皇でいいんじゃない?
>>654 ですよね。色んなところからそれらしい話引っ張ってきて
おもしろおかしく仕立ててるんでしょうね
>>656 ああいうのはね、われわれは騙されることはないにしても
いまどきの高校生、大学生はまともに影響されたりするからね。
そこから興味を持ってくれるのはありがたいが
そこで思考停止してしまうと本当に厄介。
最近になって古文書の勉強をはじめた素人です
「間敷」(まじき)と書かれてるのをみたのですが、
「まじき」は「まじ」の連体形なのになぜ漢字でひとつの用語のようになっているのでしょうか?
というか何を持って平仮名と漢字とわけるのかよくわからなくなってしまいました。
>>658 昔の人は文法なんて知らないし、難しいこと気にしてなかったから。
じゃなかったら同じ仮名を同じ文章の中で複数種類で表記したり、
熟語でも漢字と仮名交じりが平気であったり、今のような文章体系と
そもそも違うんだということを念頭に置いておいた方がいいと思う。
>>659 なるほど。現代の概念から考えてはだめなのですね。
それで、一般論でいいのですが
「まじき」は「間敷」で書かれることが多いと思ったほうがよいのでしょうか。
>>658 いわゆる当て字の類いですね。
中国語でも同じ音の字を互換使用することが少なくないのに倣ったともいえるかも。
>>660 知らないけど、旧仮名では送らずに文脈で読ませることが多いようだから、「まじく」と
読むこともあるんじゃないですかね。「なんとか間敷候」とか。
662 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:24:02
薬子の変で仲麻呂が射殺と教科書や用語集に
ありますが当時は鉄砲など伝わっていないはずです。
射殺とはどういうことでしょうか
仲麻呂とは、薬子の兄藤原仲成のことですか?
藤原仲成は、逃げる途中、
嵯峨天皇の遣わした軍の射た矢に当たって死にました。
射殺、は鉄砲ではなく、矢です。
664 :
658:2007/07/01(日) 19:42:14
665 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 22:04:27
>>663 すいません間違えましたww
なるほど射るほうの射殺だったのですね
ありがとうございました
666 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 23:17:04
>>661 「間敷」の場合は、連用形の「まじく」にも、連体形の「まじき」にも、
音で考えれば読めないこともないからまだいいが、
「度」の場合は、連用形の「たく」で読むのならまだしも、
これを連体形の「たき」と読み得るのは、個人的には結構違和感があった。
ただまあこの種の表記が多くなるのは、おそらく中世後期から近世だから、
専門の時代によっては知らなくても問題ないかも知れない。
667 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 23:19:40
>>660 シク活用の形容詞の連用形・連体形は、
基本的にどれも「〜敷」で書かれる可能性があると考えたほうがよい。
もちろん必ずこう書かれるというわけでもないが。
>>666 「度」で「タシ」という例はなかったっけ?
それはともかく、教育漢字だの何だのという全国一律の基準など存在しなかった当時なら、
多少のブレは仕方ないとして、我流で適当に当てる、ということも行われていたのかな?
>>660 水戸大洗・願入寺の宝物館に安積覚兵衛(黄門の格さんのモデル)の手紙があって
全部漢字。最後に「穴賢穴賢」とある。なんだろうとしばらくして「あなかしこあ
なかしこ」と気がついた。最初漢文ばかりの手紙かと思ったが、中は和文なみだと
おかしかった。
670 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 15:04:06
質問します。
上杉謙信家臣団は
「義」の戦にはちゃんとついてきたのでしょうか?
671 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 16:02:53
>>670 微妙だな、北条高広とか大熊朝秀とか本庄繁長とか
672 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 17:03:09
>>668 なんでも我流ってわけではない。
他人が読んで読めなければ意味がない。
これは差出人と名宛人が存在する文書では無論のこと、
日記などに関しても、当時は将来他人が読むことを前提にして書いている
わけだから、他人が読んで読めるように書かれていなければ意味がない。
>>670 家臣が義で戦ってたかというとやはりそうでもなく、実利じゃないかな。
なんだかんだ言って戦に勝てば金とか褒美であげてたし、下級兵士にとっては
戦は略奪の場だし。強い大将についていけばうほほーだったんだよね。
冬季に兵士を連れて関東に出陣することが、
雪で閉ざされた越後の人減らしになっていたという説もある。
義戦とはいっても、領土も増えているし。
>>672 建前はそうだけど、学校で全国一律に楷書を習わされる現代でさえ、判読が難しいようなヒドい癖字を
書く人はいるし、偏や旁を憶え間違えていたり、字形自体を間違えて憶えている人もいるでしょ。
「解読」するときには、最初から「我流の当て字も充分にあり得ると覚悟しておく」のが正解じゃない?
当て字以前の問題として、崩し字のカクカクを我流で変な風にしてるのを「復元判読」することのほうが
難しいのかな? 良く知らんけど。
676 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 14:34:03
ネットで検索してみたんですが、適当なものがヒットしません。
どなたか教えてもらえますか?
邦暦の天保15年6月16日は、西暦だと1944年の何月何日にあたるのでしょうか?
1944年−113月30日くらいだと思います
間違えました
1944年−1193月30日くらいですね
679 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 15:17:06
質問文も間違えてました。すいません。
天保15年は1844年です。なので、天保15年6月16日は
1844年の何月何日になりますか?でした。再度お願い致します。
1844年7月30日です
681 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 15:41:59
>>680 助かりました。どうも有難うございます。
ずっと気がかりだったことが解決しました。
683 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 23:01:58
久間大臣の歴史認識をどう思いますか?
個人的には「しょうがなかった」で合っていると思うんですが。
発言の全文が分からないので「しょうがない」だけで一個人の歴史認識を
歴史的な視点から分析することは難しいと私は思う。
よしんば分かったとしてもそれを「合っている」「間違っている」という二元論だけで
論じることは歴史板におけるやりとりとしてはあまり適当だとは思わない。
685 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 23:12:54
歴史なのか微妙だけど言語でもないような気がするし…
早起きは三文の得って言うけど三文って今の価値でいくら位?300円くらい?
時代によって貨幣価値は変わるし、それを今の価値と比較するのは難しいとは思うが
だいたい30円〜50円くらいじゃないかな。せいぜい数十円くらいだと思う。
饅頭1個が4〜5文くらいだったようだ。
687 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 23:24:10
おぉ、ありがと。
だが饅頭一個でもありがたい時代があったのかもしれねぇけど安いわ!!
688 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 00:20:37
>>683 あの発言が問題なのは、歴史認識ではなくて被爆して被害を受けた方々に
対して失礼であるという、感情的なものだろ?
>>684が言うように、日本史板で話すのには適当だとは思わないしな。
>>682 このサイトすごいですね。特に下段のサイトは高速変換!
曜日まで出てくるなんて、こんなサイトが見たかった。まえちゃんスゴい。
>>683 >久間大臣の歴史認識をどう思いますか?
>個人的には「しょうがなかった」で合っていると思うんですが。
発言の全文とされているものをネットで読んだけど、米が原爆投下を正当化するロジックの一つですね。
個人的には、「あぁ又アノ馬鹿は考えなしにものを言っているな」程度の認識です。
大量虐殺兵器の実験台にされた日本人が公の場ではけっして言ってはならない発言だと思います。
この問題は、本島というヒトが行った発言とは比べるべきではないのでしょうが、
本島発言に広島市長が抗議したとか、社会党系・共産党系の反核団体が沈黙していたという
過去の事実に照らし合わせてマス板で議論すべきなのではないでしょうか。
>>675 もとの話題からズレてきているように思うが、
少なくとも「度」とか「間敷」みたいなものをどう読むのかというのは、
当時の人々の間では共通認識として存在しているから、
我流の当て字でもなんでもない。
また我流の当て字ではないから、現代人の場合でも、
その読み方を知識として知っている人には当たり前に読める。
一方、癖字とか部首が違う等の誤記は、
「度」や「間敷」のような共通認識のある当て字とは異なる。
これには、文脈なんかから明らかに何の字の誤記なのか分かるものもあるし、
逆に誤記であることは分かっても、
それ以上はわからない(どうしようもない)ケースもある。
また特に日記等、自筆の史料を多量に残しているような人物の場合には、
特定の字(特に部首等)を必ず間違えて書くなどの傾向が読める場合もあり、
「この人の書いたものに出てくるこの字は、必ずあの字の誤記」
というようなことから文意を類推することが可能なケースもある。
>>691 基本的なものを丸覚えするしかない
原則から外れる用法もありがちだから柔軟に対応するしかない
※原則から外れていても、憶え間違いとかではない故意の我流のあて方もあり得ないではないけど、
どっちなのかは本人に確認するしかないから今では分かりようがない
・・・というようなことでいいんじゃないすか。
>>692 > 原則から外れる用法
ではない・・・
> 原則から外れる用例
・・・かな。
694 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 17:07:41
2chでもよく誤字脱字はあるからな
695 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 20:02:30
中納言-黄門
左馬助-テンキュウ
みたいな一覧が乗ってるHPどっかにありませんか
>>695 講談社学術文庫の官職要解買うってってのはダメ?手軽でいいと思うけど。
ありがとうございます
調べてみます
698 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 04:19:24
>>692 日記にしても文書にしても、基本的に他人が読むことを前提にして書いている
ものならば、最初から他人が読めないことが想定される我流の当て字を
故意に書くようなことは普通しません。
699 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 04:24:56
700 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 23:56:04
明治初期・中期頃の生活文化を知りたく、本屋で探したりネットで検索したのですが
いまいちこれというのを見つけられませんでした。
小説でもいいのですが、できれば具体的に絵や写真を見たいので
資料的な本、映画、漫画があれば教えてほしいです。
特に遊郭につて知りたいのですが、江戸のことばかりで
なかなか明治の様子がわかりません・・・
701 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 02:26:04
近代史板へどうぞ。
702 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 11:08:55
譜代大名が老中、若年寄などの幕府の役職についた場合、その藩の藩主は
辞めて、子供を藩主にしてから幕府の役職につくのでしょうか?それとも、藩主は辞めずに幕府の役職と兼務するのでしょうか?
教えて下さい
>>702 大名家内の家老は、同時に小領主でもありました。
同様に、老中、若年寄ら幕府内職は当代の藩主でありました。
いや、そうでないといけないのです。
幕府というのは、圧倒的に大きな家(徳川将軍家)とその他の武家…
家と家との関係で成り立っていた組織でありました。
ですから、君と臣は各々の家の主でなくてはならないのです。
形式的には個人的な契約といえるのですが、内実はそうではない。
任意の個人官僚に対し、免職に止めず隠居を強いる。
家主も止めろという意味です。これをどう思うでしょうか。
704 :
702:2007/07/07(土) 12:24:27
ありがとうございました
兼務するということですね
最後の2行はどういう意味なのかよく分かりませんでした・・・
705 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 12:46:24
>>703 個人契約というより、家が家に仕えている。だから家の主が役職につく。
そんな感じではないでしょうか。
家の主のままだと、免職するとその家全体を排斥することになります。
隠居してくれれば、責任は主(を退く個人)だけの問題。家はそれを継いだ人間により引き続きお仕えが許される。
706 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 23:57:05
>>705 Q&Aをちょっと逸脱しますが、江戸時代の中で、その辺りは武家社会が変質して行ったところだと思います。
主の責任は家の責任。でもそれでは、主に落ち度があると、家臣は運命を共にしなければならなくなる。
戦国時代なら、大名家同士が戦って相手を倒しますからね。また、江戸初期でも基本的にお家は取り潰し。
この路線が次第に否定されていったのでしょう。
綱吉の時期にその路線が復活の兆しが見せるのですが、それに対するアンチテーゼが赤穂浪士。
主君の落ち度で浪人になってしまいましたからね。
家を守り、主君の落ち度は主君だけで責任を負ってもらう方が良い。
以上はネガティブな例ですが、その反対に、主君が栄転した場合も似たような傾向が現れます。
一番典型的なのは、将軍家の相続。綱吉に後継者がなく、甲府綱豊(家宣)が世子になった際、甲府は幕府に召し上げられ、甲府で綱豊に仕えていた者は将軍家にシフトしました。
現代で言えば、合併でしょう。
ところが、家継に後継者がない状況で死んだ時、後継者となる紀伊吉宗は自分と周辺だけで将軍家に入り、紀伊徳川家は残ります。
主君の去就とお家の動向を、出来るだけ別のものにして行こうというトレンドを感じます。
707 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 08:33:28
赤城農相の実家ってそうとうな歴史がありそうだが、
赤城家って歴史上有名なところなの?
708 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 08:41:33
「戦国三大(或いは四大)美少年」というのは誰が決めたのですか?
初出文献は何といふ書物でしょうか?
>>707 赤城家は江戸時代は名主だったらしいがそれ以前はわからん。
>>706 御三家である紀伊家と甲府を同列に見て良いものかね?
>>710 トレンド?何言ってんだ君は。
一見もっともらしいこと言ってるけど、自分の想像に辻褄が合うような話に
もってってるだけじゃん。
712 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 13:37:14
>>711 そんなことを
>>710は言って無い。何言ってるんだ君は?
一見最もらしい事言ってるけど、自分の想像につじつまが合うような
話にもっていってるだけじゃん。
明治憲法体制(1900年体制)について
@山県系官僚 A立憲政友会(伊藤系官僚) B憲政本党
この三つによる政治が成立するまでの流れを説明していただきたい。
長いスパンになると思いますがお願いします。
714 :
711:2007/07/08(日) 18:20:57
>>712 すまん。アンカーを本気で間違えた。申し訳ない。
>>706へのレスだった。しかも710氏に同意の上でのレスだった。
スレ汚し申し訳ない。
715 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 23:56:31
お家大事の考え方に次第になって行った、というのは良いのでは。
甲府はそれほど代数を経ていない(綱豊は二代)が、紀伊家は代数も経ていて(吉宗は五代)御三家として「お家」が確固たるものになっていた。
>>706も
>>710も尤もな考えだと思うが。
716 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:28:54
>>715 代数で比べているけれど、紀伊なんて実質三代じゃない?
717 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:35:46
まぁね。「孫」の世代だし。でも家の創設後の年数は紀伊家の方がずっと長い。
紀伊徳川家の創設は家康存命中、甲府徳川家は家光の時だからね。
あと、時期が6代将軍相続時と8代将軍相続時で、後者の方が後だから(お家大事の考え方が進んだ)というのもあるかも知れないな。
718 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 04:52:36
明治期の戸籍作成時の族籍の地士ってなんですか?
719 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 07:34:44
ググれ
720 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 12:00:41
カムイ伝で百姓の読書きはご法度って書いてるんですが本当だったの?
721 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 14:45:53
>>720 漫画の勝手な設定だろ。
本を出版している庄屋もいるくらいだよ。
庄屋はいいだろ。下人はどうなのよ。
724 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 00:21:10
日本史の漫画はありませんか?横山光輝先生の三国志みたいな感じで。
オススメをお願いします。
質問なんですが、長崎商人の末次平蔵が台湾で
港湾使用料を支払う支払わないでもめて、
オランダの台湾総督を拉致して城に立て篭もる事件て有りましたよね。
あの事件の名前を教えて下さい。
浜田事件?
727 :
725:2007/07/10(火) 01:41:41
>>726 そうだ浜田事件でした。
あと、末次平蔵ではなく浜田弥兵衛でした。
有難う御座います。
728 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 14:13:43
>>724 あのね、この板は学問(がくもん)板なんだから
そういう低レベルな質問(しつもん)はまんが板でやってね。
729 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 15:38:09
幕末の志士達の手紙を博物館に見に行ったのですが
何を書いてあるのか分かりませんでした、訳があったので内容は分かりましたが
100年くらい前の文章が読めない事が恥ずかしくなりました
その文体を読めたり書いたりしたいと思うのですが
何という文体なのでしょうか?
高台院なんかの直筆が残ってるなんつんだっけ?
散らし文だっけ
あれこそまさに理解不能
あの頃は「雑文体」。
日本語の文章の語順に漢字を当てはめたもので、今のに近いといえば近い。
だから活字に直して句読点とルビをふれば大体読み取れると思うのですが。
ただあの頃の人は漢文知識のレベルが超絶的に高いうえ、高杉や久坂や勝などは
その中でも秀才オブ秀才といってよいですから、漢文をヘラヘラ読み下せるくらいに
ならないとノーヒントで「読める」レベルにはなれないでしょう。彼らは漢文漢詩も
沢山遺していますし。
尤も、あのころの資料は手紙やレポートの類ばっかりなので内容自体は割と簡単。
ですが、同時に誰が誰宛にいつ書いたのか、何のイベントについて書いているのかと
いう背景を事前に把握しておいたほうが理解力に差がでると思います。
>>724 横山光輝自身、信長、家康、信玄、政宗と、随分沢山描いているのですが
ご存知ないのですか?(原作は山岡ですが)
733 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 19:01:47
>>724 とりあえず、近所の図書館に置いてある『漫画日本の歴史』を借りて読んでみたら?
・オススメの歴史漫画教えて
・中〜高あたりの勉強しなおしたいけどオススメのは?
→図書館行くなり、漫画日本の歴史読むなり、教科書買う
ここらへんテンプレいれれば?
テンプレ読んでから書き込む人なら、端から>724な質問しないだろうけどな。
誘導しやすくなるから、それもありか。
>100年くらい前の文章が読めない事が恥ずかしくなりました
恥ずかしくも何ともない。
近代の言文一致体というのは、言語史上、
革命といってもいい出来事なのだから。
737 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 03:18:17
三井高利の越後屋なんですが、あの人は越後に何かゆかりがあるんですか?
あと時代劇によく出てくるワイロ商人の「越後屋」は
三井越後屋がモデルなんでしょうか?
>>737 時代劇コントで「越後屋そちもわるじゃのう」が定番になったので
悪徳商人=越後屋になっているけど実際時代劇における越後屋の使用比率
はどうなんだろう。ホリイ氏が調べてるかな?この間の必殺仕事人では
加賀谷だったな。
水戸黄門が越後のちりめん問屋を名乗っていることからなんとなく「越後屋」
になっていったような気がする。
740 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 13:24:35
惣領制に関する質問なんですが、分割相続によって女子が地頭になった例があるのはわかるんですが、
女子が御家人になった例ってありますか?
もしあったとしたら「女性の武士がいた」ってことになりますよね??
高校では世界史を履修したので、今更ながら日本史を勉強したくなりました。
本屋に日本史の本がいくつかあったのですが、お薦めの本はありますか。
希望としては、全体の概略が掴める本が欲しいです。細かいことがたくさんかいてあると
頭で処理できず、返って何も頭に残らない危険性があるので、基本的なことだけで充分です。
ちなみに、公務員試験をもしかしたら受けるかも知れないので知識を流用できたらなお嬉しいです
>>741 中央公論社「日本の歴史」全26巻が基本だが読むのは大変。
石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」あたり読んだら?
ありがとうございます。でも学生でお金ないので、できれば一冊にまとまったのがいいです。
今日は、もう一度学びたい日本の歴史という本を買うべきか書店で悩みました
744 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 19:16:12
書店に置いてある一般向け教養書が\1000前後であると思うから、ちょっと立ち読みで内容みてから買ったら?
まぁ、図書館にも置いてあるかもしれんが。
ただ、試験に直接役にたつような内容を求めるなら、高校日本史Bの参考書のほうがいいと思うが。
「女性の武士」.いました.
主人が死んでしまった・・息子も小さい・・などと言う時には,奥さんが「ヨロイかぶと」に身を固めて戦場におもむきました.
なぜなら,土地を守り恩賞を得なくては一族の繁栄(はんえい)がないからです.
たとえ死んでしまっても将軍のために戦ったという事実は残りますから領地は守られたのです.すごいでしょ!
とはいっても男性と違い,訓練(くんれん)をちゃんと積(つ)んでいませんから,
実際の戦いの時は周りを家来や親戚(しんせき)が固めていたようです.
幕府ができる以前に木曽義仲(きそのよしなか)と義経の軍隊が戦った時,
義仲の奥さんだった「巴御前」(ともえごぜん)は甲冑(かっちゅう=よろいかぶと)を着て戦ったとありますが,
これなどは女性も戦うことがあったという例の一つですね.
歴史にifが厳禁なのは重々承知してますが、日本が戦争によって
国体を変えずに現代まで存在していたらどんな国になってたんでしょうか?
立憲君主制だけど軍部によるクーデターが多々起こるタイみたいな感じでしょうか?
池田恒興の娘は鉄砲隊を率いてたと史料に残っていますよ。
>>748 山川の『詳説日本史研究』とかどうよ?
2300円と割高だが高校教科書の記述に沿っている、
教科書+資料集+αって感じ。
研究には使えないけどまあ手元に置くには便利な本。
目次だけで5ページだから結構「細かいことがたくさん書いてある」けれど
目次見ただけで流れが分かるし最近の特色で世界史履修していると有利な内容。
「学習参考書」レベルならこれがいいと思うんだがなあ。
751 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 00:16:38
>>740 >>745 鎌倉時代前半まで、余り性別によって待遇を極端に変えるというのはないようですね。
当然男を期待するのは、武家の習いですが。
男女の「格差」が現れるのは、鎌倉時代後期、元寇の頃です。
この頃「器量人」とか「非器の輩」という表現が登場します。器量人とは成人男子。非器の輩とはそれ以外。
すなわち女子と、高齢者や未成年者。いわゆる「おんなこども、としより」です。
これは戦場で戦力になる「器量」を持っているか、という観点です。
おそらく、対外戦争という国家動員を必要とする元寇を契機として、その基準の中から出てきたのではと考えられますね。
752 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 18:28:34
己酉「約条」って、逆にして言う理由ってなんですか?
>>752 唐風のいいかたじゃないか?
「約」の条(箇条書き)だから約条。
754 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 01:33:39
教えてください。かなりの昔から唐に行ったとか遣に行ったとか(宗教や文化等)
それって本当なんでしょうか?本当に日本に行こうと思っていたのでしょうか?
大陸に渡ろうと思っていたのでしょうか?
今の時代の技術や機械等を使っても我々には到底無理なことだと思うのですが・・
潮の流れや天候一つとっても・・・
そんな時代にどうやって目標を定めどうやってそこを目指しどんな動力を使って渡り渡って来たのでしょうか?
愚問でしょうがお答えいただければ幸いです。
よろしくお願いします。
>>754 当時の科学力では無理だったことから宇宙人の飛来説が有力です。
756 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 01:51:31
( ̄◇ ̄;)エッ・・・・・・・・・
757 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 02:47:08
趣味で日本史の本読もうかと思ってるんですが
教科書とか参考書とかもう捨ててしまったので
何かお勧めの本ありますか
これとは別に昔の地図見ながら歴史の本読むのが好きなので
お勧めの図説のようなものがあったら教えてください
>>757 >>780 > これとは別に昔の地図見ながら歴史の本読むのが好きなので
> お勧めの図説のようなものがあったら教えてください
意図が曖昧。古墳の細密な地形図であるとか、江戸の切り絵図であるとか、一切何でもかまわないわけ?
760 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 04:19:57
戦国時代
↓
織田信長
↓
桶狭間の戦い
この流れで10分くらい話したいのですが‥‥‥‥‥‥どういうふうに持ってけばいいかわかりません┐(´〜`;)┌
どなたかアドバイスお願いします(>_<)
宜しくお願いします
>>760 この俺の読心術を持ってしても読めなかった
どんな場でどんな人を対象に話すかぐらいかけよウツケ
762 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 04:47:23
すいません
大学のゼミで先生と生徒10名くらいにお話します
>>762 なに? おみゃーは院生か何かのくせにまーだ明日の宿題ができとらんのか?
764 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 05:06:53
ゼミこえー
宜しくお願いします(>_<)
大学生なってそんなこともできんとは・・・
宿題は自分でやれ、スレ違い。
平安時代の夫婦ってどんな言葉遣いで話していたんでしょうか?古典の現代語訳などで
も敬語に訳されている事が多いので、何となく敬語で話すイメージがあるのですが(特に
女性は)
それからもう一つ言葉遣いに関する質問なのですが、平安時代の平民の子供はどんな風
に話していたんでしょうか?やっぱり敬語ですかね?
秀吉がちゃちゃに宛てた手紙で末尾に「てんか」
と書いてあるのですがこれは「天下」?
天下を取った秀吉が自分のことを天下と言ってるのでしょうか
>>766 知らんけど、軒数が書いてあるのだから、名主、要するに地区の責任者みたいな存在か何かじゃないですかね。
色の違いは、欄外に凡例があるとか。
>>768 「太閤殿下」の「殿下」のことで、本人はこれを好んで使っていたようだ。
「殿下」は現在は「でんか」と読むのが一般的だが、当時は「てんが」と
読むのが通常で、「が」ではなく「か」になってるのは770の通り。
768です
ありがとうございます
殿下の意かな、とも思ったんだけど
自分のこと殿下というのはちとおかしい、と思って。
てんが」と読むのはしらなかった・・
773 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 11:32:05
昔の人で次郎、三郎、五郎といった名前がついていたら
それぞれ次男、三男、五男と推定してよいのでしょうか。
それとも、現代で五男じゃない人が野口五郎と名乗っているように
兄弟の有無と関係なく響きのよさでつけたりしてたものなのでしょうか。
>>773 それが通用するのは源平から鎌倉時代まで。
あとは
始祖┬○太郎─子孫… (○太郎家、当主の通名○太郎)
├×次郎─子孫… (×次郎家、当主の通名×次郎)
├△三郎─子孫… (△三郎家、当主の通名△三郎)
└□四郎─子孫… (□四郎家、当主の通名□四郎)
という感じで、氏族内でのポジションを示す呼称化していく。
これは家族から氏族をみた自称といえる。苗字/名字の発生とも深く関わっている
ことに注意してくれ。
だからまあ、この数字が純粋に兄弟順を示す「だけ」の時代は割りと短かったということだ。
上記の○や×も、元々は順番も示すなど意味があったんだが、それもあっという間。
大正時代の人に割と見られるが、数字だけが通字になってしまうこともあった(例:イチロー)
>>774 丁寧なお答えありがとうございます。
最終行だけ意味がわかりません。イチローは本当は次男なのに一朗だ
という話は聞いたことがあります。
>>774 源平・鎌倉も適用できない。(必ず兄弟順の名乗りというわけじゃない)
あだ討ちで有名な曽我兄弟は鎌倉幕府が成立した頃の人物だけど
兄が曽我十郎祐成で、弟が曽我五郎時致。
統一されたルールじゃないので、太郎の息子(嫡男)が小太郎の場合もあれば、代々太郎の場合もあるし、全然違う場合もある。
北条時政は四郎、義時は小四郎、(同母兄の宗時が三郎)、泰時は太郎
兄弟順に上から付けて行くということでもない。
777 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 01:51:17
質問させて下さい。
幕末から明治国家への流れの中で、天皇の発給する文書はどのように変化していったか、
特に「朕ハタラフククッテルゾ」的な「詔書」というスタイルの起源について興味を持ったのですが、
@「宣旨」の形式を取って発給された最後の文書は何でしょうか?
A上に挙げた時期の天皇発給文書の形式の流れ、特に公文式で定式化される以前の
不定形な時代のそれについて、簡便な入門書はありますでしょうか?
以上、よろしくお願いします。
778 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 03:41:08
日本で恒常的な軍隊が組織され運営された最古の例はいつなのでしょうか?
江戸時代の町名とかで魚屋町とか桶屋町とか職業に関係した町名がありますが
ここの住民は全員その職についていた人なんでしょうか?
>>778 恒常的と断りを入れられているのが何ともアレですが、古来より政権と軍事力は常に同期しているもの。
常設といえるかどうか、その性格はどうなのかという論は別として、覇権を唱えることと強力な軍隊を
展開することはほぼ同義であることから、ヤマト政権の成立と拡大期には現代の我々が日本軍を
想像し得るほどの軍事組織を編制し運用していたと考えるのが自然ではないでしょうか。
具体的には4世紀末の韓半島への遠征、下って5世紀半ば雄略天皇の時代には将を任じて
頻繁に乱の鎮圧や遠征を行っていることから、常識的に考えても、この頃には軍を常設していなくては
立ちゆかなかったでしょう。
782 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 19:51:04
幕末の時代劇や漫画でよく赤い髪の人が戦場にいることがあるのですが
あれはいったいなんなのでしょうか?
>>778 「恒常的な軍隊」というと、地元での農業等との兼業のため基本的に農閑期しか機能しないものではない、
専業の軍隊くらいの意味でしょうかね。
それなら、いわゆる職業軍人による文字通りの常設のものではなくても、農業等のパターンを無視した
長期の遠征が可能なら、応募等による自発的なものと、徴兵による強制的との別とは無関係に
「専業の軍隊」とみなして支障ないはず。
となると、
>>781さんのおっしゃるように、かなり古くから存在したことになりそうですね。
>>782 嚇熊(しゃぐま)と呼ばれる、チベットとかにいる動物のヤクの毛を使ったかぶり物で、
維新時なら、白は長州、黒は薩摩、赤は土佐とか、区別のために違う色のものが使われたそうです。
戦国期にも「唐の頭(からのかしら)」とか呼ばれてたみたいですね。
>>782 ヤクの毛でできた兜飾りだから当然舶来品。中国四川省やチベット産。
染めた色別に黒熊(こぐま)、 赭熊/赤熊(しゃぐま)、白熊(はぐま)と言う。
戦国時代に流行りだし、家康は難破した南蛮船から相当数かっぱらったという話もあり
(あとで賠償している)。だからこそ「家康に過ぎたるものは唐の頭に…」などとヤッカミを
込めて呼ばれたりした。 沢山持っていたんでしょうねぇ(笑)
で、これは幕府内でストックされていたのだが、明治維新の際官軍は鹵獲(かっぱらい)して
上野戦争以降で使い出した。 色別にそれぞれ薩摩、土佐、長州軍が使い分けしていた…
ということだが、これは「戊辰物語」からの話に過ぎず、決められていたのかどうかは知らないが
実際はバラバラだったとか。
尤も、南蛮船がくる少し前の享禄三(1530)年に龍造寺家兼が大内との合戦でピンチになったとき、
突如、鍋島清久親子率いる赤装束の赤熊武者百騎が現れ大内勢をコテンパンにしたという話もあることから
実際には南蛮船渡来以前から流行だしたということなのかな。
余談だが、このとき龍造寺家兼いたく感激して孫娘を鍋島清久の次男清房に娶らせ、
龍造寺と鍋島の姻戚関係成立。のちに龍造寺の家督をゲットする鍋島直茂はこの夫婦の子。
787 :
778:2007/07/15(日) 20:52:19
>781>783
ありがとうございます。
4世紀末に朝鮮半島へ出兵した軍隊の規模とか組織って
どのようなものだったのでしょうか?
軍隊内の階級制度とか、徴兵の仕方とかって
どの程度判っているのでしょうか?
そういうヤマト朝廷の軍隊についての研究本でお勧めのものが
あればご教示ください。
>>787 武装や階級については、何しろ古墳時代のことですから
発掘品からかなり研究は進んでいると思われます。
室町幕府6代将軍・足利義教の功績や行い(ついでに最期も)は,織田信長に
似ていると言われるが,歴史ファン(専門家?)にとって彼の人気はどの程度
でしょうか? 当スレに書き込む方の見解が知りたい.
792 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 01:01:54
時代劇とかで薬草をローラーみたいなので、ギーコーギーコーと引いてる
シーンがありますが、あれは何ていう物なのですか?
>>786 ほうほう、なるほど。鹵獲品とは知らなかった。
せっかく景気づけになるものがあるのだから、長州征討あたりで配下に分ければ良さそうなものなのに、
使わずに死蔵していたあたり、どう考えても錦切れのほうが知恵が上ですな。
>792
「薬研(ヤゲン)」ですね。検索すれば画像もあるんじゃないかな。
V字型のミゾがある台に薬を入れて、ソロバンのタマのでかいみたいなローラーで磨り潰す。
>>746 敗戦によって国体は変わっていませんよ。昭和天皇は退位しなかったではないですか。
国体という言葉を国家体制という意味でお使いなのでしょうが、強いて言うならば、
軍が一時的に解体され再編成されるも令外官扱いされたことと、アカが大手を
振るうようになったくらいです。
タイとはよく比較されますが、あそこは閨閥(王家の血が大量に入っている)が
国家体制のベース。軍にも行政にもです。だから立憲君主制がなかなか根付かない。
華僑が突き上げたのも道理です。日本とは鮫と鯱ほど違うところだと思ってください。
軍のクーデターといいますが、実のところ王の廃位や制度改変を目論んでいるという
ものではないので、クーデターのうちに入りません。行政に対する正規軍のデモに過ぎない。
尾崎行雄って、共和演説をして大臣をクビになって、戦後は共産党再興の式典に
参加したりしてるけど、彼は結局アカだったんでしょうか?
>>797 なるほど,ありがとうございます.既成観念の打破といったイメージの強い
織田信長に比べて,足利義教は恐怖政治だから人気がないようですね.
幕府の将軍は,武士のくせに”戦わない”将軍(特に江戸)が多い中,室町将軍は
比較的,武士らしく戦ってくれる人が多いので(逃げる人もいますが),良い印象を持っています.
中でも13代・足利義輝は剣術に優れ,最期まで”戦う”将軍でしたね.
>>796 全唐詩巻五百二十九をよく検索してしまいましたが、やはり唐菓子と呼ばれているものなので
製法は中国のと同一(あるいは模倣した)ものなのでしょう。大麦か小麦かというところまでは何とも。
唐王朝時代の料理本を当たってみるしかないのでは。
>>793 信玄のイメージメイクや、唐獅子歌舞伎のアイテムとしても知られていますが
特別なものではありませんでしたからね。官軍は「鹵獲品だから」使ったという
意味もあるかと。
804 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 18:16:56
蔵人と蔵人所と蔵人頭って厳密にいうとどう違うんですか?
805 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 19:29:50
柳原白蓮が駆け落ちした後に華族を除籍されたらいしのですが
平民の男と結婚したても華族から除籍されないのでしょうか?
蔵人所に属している蔵人達のカシラが蔵人頭
807 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:08:41
そう思ったんですがそれだと蔵人頭の設置っておかしくないですか
>>801 英訳しながらこの麦は barley(オオムギ)と wheat(コムギ)のどっちやねんと
詰まった次第で…。とりあえず留保付けておきます。アリガトウゴザイマシタ。
>>807 蔵人頭という役職を設置したという説明なら、普通の表現だと思うけど?
今の会社で例えると、
蔵人:役職名(秘書室の構成員)
蔵人所:部署名(または詰め所の名):秘書室
蔵人頭:役職名(秘書室長)
みたいな感じではないかと。
810 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 12:07:08
昔の日本って「ダウン症」の人を指す特定の言葉ってあったんでしょうか?
>>799 近代史板にいけと言うところだが。
あくまでも尾崎は自由民権運動以来の急進リベラル派じゃないのか?
ひょっとこのモデルが脳性麻痺で福助のモデルはダウン症だったという話しは聞いた事がある。
ほとんどが幼少期に死んでいたんだろうが、生き延びた場合は、特定の職についていたという話しもあるな。
ひょっとこなら火炊きの番とか。
>>806 白蓮の場合は「不倫」であるし「姦通罪」人でもあるし、
裏の話ならともかく公開絶縁状まで出した人だから…
>>800 信長も、近年までは「ドサクサにまぎれて天下を取ったヤシ」という感じで
人気は無かったんですけれどね。人気はイメージで分けられるものかと。
その点秀吉は、成り上がり(を志す者)のネ申として昔から人気がありましたが…
質問です
豊臣政権五奉行の長束正家は関ヶ原の戦いで西軍に加担し後自刃したが、
財政を担当していた彼の死で徳川は豊臣の財産力を計れなくなり
結果豊臣を財政破綻させようとした(寺社の修復などをさせたことです)が
長年経っても成果が出ず大阪の陣の武力行使に走らざるを得なくなった、
という見方は一般的なのでしょうか?
>>815 私見ですが、あまり一般的とは思えません。
確かに長束を手中にすれば豊家の蓄財を計れたかもしれませんが、
関が原以前の家康の戦略をみるに豊家の散在に重きを置いていたとは思えないからです。
当時は石高だけならほぼ互角。単独での単純な動員数はこれで推し量れることです。
もし重きを置いていたのなら長束はもっと厚遇されていたであろうし、長束とて家康の暗殺に
走ることもなく関が原戦の後首を晒されることもなかったでしょう。
家康の立場からしても、あの頃は協力者即ち豊家恩顧の切り崩しのほうが重要だと
考えるのが自然かと。
また関が原戦後も、幕府を開き将軍(家)として台頭し豊家の石高を削り千姫を嫁がせ
対面を強要する一方で、築城普請を大々的に行ったなどを鑑みますと、
「最後の手段として武力討伐」を視野に入れていたのは確実で、散在はあくまで
プライオリティの低い一対策だったかと。それに豊家の石高を削りまくっているのですから、
散在させるだけなら長束がいてもいなくても同じ…というよりもむしろ、長束がいないほうが
いいだろうと家康は考えたのではないでしょうか。
どのみち、長束が対豊家戦略のキーパーソンとして扱われることはなかったでしょう。
長束を取り込んでおけば豊家滅亡が早まったとも思えません。
817 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 21:44:59
>812
剥き出た目という容姿的にも道化役というキャラクター的にも
「ひょっとこ」のほうがダウン症に近いような気がします。
火男が語源という説もありますね、なにやら金属精練と関係の深いキャラクター
のようですね、生き延びたダウン症は里の世界から追い出されアジールである
山奥のたたら精錬所で労働力として扱われていた。みたいな妄想はどうでしょうか?
>>817 ダウン症者の場合、パニック状態にならなければ、
日常的には温厚で、善良な面が目立ちますから、
農村では農作業の手伝い、町屋や武家でも勤まる家事は多いと思いますよ。
旗本の奴さんとか・・・結構単純労務で薄給だと思うんですが、
主家の家内に精通する立場ですから、横領とか悪事をしそうな者を
おいそれと雇えないでしょう。かえって「需要」があったかも。
819 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 00:21:50
富国強兵についてなのですが強兵は実現できたのに
富国が実現できなかったのはどうしてでしょうか?
>>819 富国を象徴すべき工業関係の生産高が急増し続けたのから、「実現していた」としか
解釈の仕様がないですが、「実現できなかった」とするのは、何に注目しての話ですか?
821 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:05:21
>>820 前の先生にそう教わったんです。
もうその先生違うとこ行っちゃってきけないのですがアメリカ軍が来て小作制度が
なくなったのが原因の一つだとか言ってたのを覚えています。
土地が高かったりしたのも原因の一つって言ってました。
822 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:37:59
確か日本史板だったと思うんですが、
「くさの一族の末裔らしいんだけど」みたいな感じの
スレの過去ログあったと思うんですが誰かURL知りませんか?
スレ主さんが父の死ぬ直前にくさの一族であることを明かされたって内容でした。
>>819 中国や北朝鮮みりゃわかるでしょ。
昭和前期の日本は国家予算の半分は軍事費だった。今は5パーセントくらい。
例えば戦闘機作ってる工場で自動車でも作れば富国になるでしょ。
それが戦後の日本。
コラコラw思い込みだけでレスしないの
>>823 ほぼ全文間違えてるぞ。
825 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 19:18:58
歩行渡しとは何ですか?色々辞書で調べているのですが載っていません。詳しい方がいたら教えて下さい。
ありがとうございます
それは読んだのですが、もうすこし、詳しく知りたかったので聞いてみました。
詳しい人がいたらおねがいします。すいません。
828 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 22:22:05
>>823>>824 ありがとうございます。
結局このスレの人でもわからないということみたいなので頑張って
もっと調べてみることにします。
>>819 >>828 …ここのコラムを読んで欲しい。
ttp://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj011217.html#top ここでは、松永昌三「福沢諭吉と中江兆民」において山縣が富国と強兵の両立は
幻想だと認識していたなどということを述べている。
帝国主義というのはレーニンらがアレコレ定義もしているが、別の見方をすれば
経済ブロックという単位で自国(領)として管理独占する体制でもある。つまりは
軍事力の及ぶ範囲でしか成り立たない。従って軍事が先、経済が後にならざるを
得ないのはどこの国でも似たり寄ったりだったんだ。
ましてや日本のように出遅れ、しかも既に周囲には様々な帝国が足を伸ばしていた
とあっては、例え大東亜戦争がおきなかったとしても(今では信じられないくらい
高かった欧米レベルの)富国に及ぶのは奇跡に近いことだったと思うよ。
>>821 話の聞き間違い憶え間違いだろうと思うけど、滅茶苦茶ですな。
富国強兵がいつ頃の話か調べるだけで気がつくでしょう。
831 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 02:09:43
>>816 ありがとうございます
たまたま見ていたサイトでの説明に首をかしげたのですが、やはり一般的では
ない見方なのですね
丁寧にありがとうございました
>>825,827
人足に肩車されて渡るのが一般的な歩行渡しでの渡り方。
「箱根八里は〜」で有名な大井川もこの渡り方だった。
以下、大井川の例で説明すると
渡しの料金は川の水かさで決定し、水かさが一定以上だと「川止め」になって、
長い時は数日間川岸で待つことになった。
大井川の場合、料金は高くなるが、駕籠で渡ることも出来た。
渡しとは関係ないが、蓬莱橋がこの前の台風で壊れちゃったね。
近代の話は近代史板でやれよ。
ぐぐると両方の説が出たのですが、五大老の筆頭は徳川家康と前田利家の
どちらが有力なんですか?
また五奉行の方も、筆頭は石田三成と浅野長政のどちらが正しいんでしょうか?
837 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 16:54:24
摂関政治ってのは天皇の母方の爺さんできるんでしょ?
藤原道長が娘4人を皇后にしたってのは孫の子供に自分の娘を結婚させて、
その子供にも自分の娘を結婚させてってしたの?
これは今で言ったら近親交配ってこと?
>>837 自分の娘を天皇と結婚させその子供を天皇にする。
その時点で初めて天皇の爺さんになるわけ。
最初から爺さんだったわけではないよ。
なんか順番を勘違いしてるような気がする。
基本的には
藤原兼家 - 道長 -中宮彰子
. . . . .- 詮子 |---後一条天皇
|------一条天皇
円融天皇
こんなかんじで、女兄弟の子供に自分の娘を嫁がせるのでいとこ同士の婚姻になる。
ただし後一条天皇にも自分の娘嫁がせているので、それは、あなたが書いているとおり
自分の孫(後一条天皇)に娘(威子)を嫁がせている。
で、今の法律に照らすといとこの場合はOK、孫と娘は3親等でたぶんアウト
841 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 21:20:13
現時点で最後に切腹した日本人は三島由紀夫ですか?
昭和天皇の崩御の時に、切腹した人がいたような覚えが
>>838 ありがとうございます
利家は家康対抗馬としての立場、三成は実際の実務能力と歴史的に目立ったことで
筆頭と言われたりするんでしょうかね?
>>843 利家は、政務をみる家康に対して、秀頼の守り役を秀吉に依頼されたこと、官位もNo2の大納言(他の大老は中納言)
秀吉没後に家康の婚姻政策が元で対立したとき、利家を旗頭に諸大名が集まったことなどが対抗馬と見られる根拠なのでは。
845 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 14:18:22
本能寺の変、直前・直後の勢力図で詳しいものってどこかないですかね?
本能寺直前の、織田軍団の配置図、他大名の勢力図
光秀が討たれた後の、旧織田軍団の配置図などが詳しく知りたいのですが
>>841 著名人では三島が最後じゃないの。
でも無名の民草の中にはそれ以降に切腹した人もいるだろ。
年間3万人も自殺してるんだし、毎年1人くらいはいそうだな。
>>837 道長の娘で后(中宮)になったのは3人。
長女で一条天皇の中宮彰子、次女で三条天皇の中宮妍子、
四女で後一条天皇の中宮威子。
このうち、彰子と妍子の場合、一条天皇には皇后藤原定子、
三条天皇には皇后藤原娍子がいて、一帝二后だった。
六女の嬉子は、後朱雀天皇の東宮時代、尚侍のまま亡くなっていて、
立后していない(中宮でも皇后でもない)。
848 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 17:11:16
後北条氏って、鎌倉幕府執権の北条氏とは、何等かの関わりはあったのでしょうか。
それとも勝手に名乗っただけなのでしょうか?
849 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 17:37:29
>>848 本姓がともに桓武平氏。
ともに伊豆北条に居住歴アリ。
>>845 知らないですね。
Wikiで見ると基本的に
北陸方面・柴田勝家軍団 ←福井だっけ?
中山方面・織田信忠軍団(滝川一益軍団) ←滝川は関東じゃなかったかな?
畿内方面・明智光秀軍団 ←山陰方面に動員開始早々ですね
中国方面・羽柴秀吉軍団
四国方面・丹羽長秀・織田信孝軍団(天正10年結成) ←動員の準備中だっけ
東海道の押さえは徳川家康 ←当然その方面には織田の旗下はいないと
851 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 02:51:26
>>850 福井じゃなくて当時は北ノ庄。
北ノ庄が福井に改称されるのは江戸時代になってから。
なお本能寺の変発生当時、柴田勝家は本拠地の北ノ庄を離れ、越中魚津にいた。
あと明智光秀は既に数年前に山陰道に属する丹波・丹後を平定しているので、
動員開始早々というわけではない。
>>851 柴田の当時の本拠は場所としては福井でいいわけね。で、本人は遥か先の富山と。
> 動員開始早々というわけではない。
まさに山陰方面に向けて軍勢を動かし始めたところで踵を返したんじゃなかった?
「そういった具合で細かく書いてあるところがないか?」という元質問なんだけど、ないかな。
>まさに山陰方面に向けて軍勢を動かし始めたところで踵を返したんじゃなかった?
光秀の分担は山陰ではなく丹波・丹後のみ。
山陰・山陽両方とも対毛利戦は秀吉の分担。
で、備中高松城対陣中に秀吉が信長の出陣を願い、
信長は自分も出陣するその第一陣として光秀を出陣させたと。
ついでに戦国時代の細かいところは
戦国板で聞いた方が詳しいことを教えて貰えると思われ
>>845 中公新書の信長軍の司令官(谷口克弘)だと、織田軍の構成(どの軍団にどこの領地の部将がどういう所属していたか)は載ってます。
羽柴秀吉の下に弟の秀長(当時は長秀)が但馬竹田城主、その下に宮部継潤因幡鳥取城主がいて、その下に・・・って感じの組織表で出ています。
兵力や、配置(本能寺のときにどこに誰がいたのか)、他の大名の記述はないですね。
2ちゃんのどこかのスレで見た覚えがあるんだけど、
北政所が三成の助命を嘆願してたというのは本当?ガセ?
歴史物小説に書かれていることが史実・史料をもとにしたものか作者の創作かどうか
質問するスレってありますか?
>>855 真偽不明だが、三成の娘が高台院の養女になっていたため、不仲ではなかったのは事実らしい。
860 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 15:46:56
861 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 19:00:58
>>852 >で、本人は遥か先の富山と。
すぐ前の
>>851に「勝家は本能寺の変発生当時魚津にいた」って書いてあるのが読めないのかな?
>>859 >>855ではないんだが、>真偽不明 なのか >事実らしい のかどっちだ
855の内容が真偽不明で、不仲ではないっていうのが事実らしいのか?
>>861 え? 魚津って富山県じゃなかったっけ?
>>861 魚津なら現在の富山県内だろ。君、どういう病気なのかね?
>>858 歴史的事実かどうか知りたいということなのだから、歴史板(日本史なら日本史・近代なら近代・世界なら世界)が最適だと思う。
866 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 22:08:23
>>862 国語の文章読解の問題は板違いだが、
>>855と
>>859をそのまま読めば・・・
> 北政所が三成の助命を嘆願してた
↑
> (
>>855に書いてあることは)真偽不明だが、
> 三成の娘が高台院の養女になっていたため、不仲ではなかったのは事実らしい。
・・・こうでしかありえない。
867 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:09:30
>>863-864 てかさー、ここって前近代の日本史を扱う日本史板だよね?
どうして現在の県名としての富山県が出て来るんだ???
しかも
>>852って
>>851を受けてのレスなんでしょ?
>>851では、
>北ノ庄が福井に改称されるのは江戸時代になってから。
とあり、ここでの「福井」が現在の福井県のことではなく、現福井市周辺を指す
一地名としての「福井」であることは明らか。
であるからには、これを受けた
>>852の
>柴田の当時の本拠は場所としては福井でいいわけね。で、本人は遥か先の富山と。
の「福井」も
>>851の「福井」と同様、現在の県名のことではない
一地名としての「福井」でないとおかしい。
そしてその流れの中で、一地名としての「福井」の直後に来る「富山」が
一地名としての「富山」ではなく現在の県名としての「富山」を指すと
解釈するには無理がある。
868 :
867:2007/07/23(月) 23:13:28
869 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:29:30
>>867 > どうして現在の県名としての富山県が出て来るんだ???
何故に現在の地名を持ち出したのか、理由が分かるまでひたすら考え続けなさい。
>>871 おまい変にしつこいな。
この話は、スレタイがどうこうということじゃなくて、
>>851→
>>852の流れを自然に解釈したらどう読めるかという話だろ。
873 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 03:51:11
元号の改元について質問します。
“辛酉年と甲子年には改元が行われることが多い”という趣旨の話を、歴史の概説書などではよく目にします。
ということなので、実際改元が行われているかどうかを日本で元号が継続使用されるようになった8世紀以降〜明治維新までについて調べてみたら、以下のようになりました。
辛酉改元は901年以降、甲子改元は964年以降、ほぼ必ず行われているようですが、そうした中で1561年・1564年・1621年に改元が行われていないのには、どういう意味があるのでしょうか?
辛酉年に改元した例
781年(宝亀12年→天応元年)、901年(昌泰4年→延喜元年)、961年(天徳5年→応和元年)、1021年(寛仁5年→治安元年)、
1081年(承暦5年→永保元年)、1141年(保延7年→永治元年)、1201年(正治3年→建仁元年)、1261年(文応2年→弘長元年)、
1321年(元応3年→元亨元年)、1381年(北朝:康暦3年→永徳元年、南朝:天授7年→弘和元年)、1441年(永享13年→嘉吉元年)、
1501年(明応10年→文亀元年)、1681年(延宝9年→天和元年)、1741年(元文6年→寛保元年)、1801年(寛政13年→享和元年)、
1861年(万延2年→文久元年)、
辛酉年に改元しなかった例
721年(養老5年)、841年(承和8年)、1561年(永禄4年)、1621年(元和7年)、
甲子年に改元した例
724年(養老8年→神亀元年)、964年(応和4年→康保元年)、1024年(治安4年→万寿元年)、1084年(永保4年→応徳元年)、
1144年(康治3年→天養元年)、1204年(建仁4年→元久元年)、1264年(弘長4年→文永元年)、1324年(元亨4年→正中元年)、
1384年(北朝:永徳4年→至徳元年、南朝:弘和4年→元中元年)、1444年(嘉吉4年→文安元年)、1504年(文亀4年→永正元年)、
1624年(元和10年→寛永元年)、1684年(天和4年→貞享元年)、1744年(寛保4年→延享元年)、1804年(享和4年→文化元年)、
1864年(文久4年→元治元年)、
甲子年に改元しなかった例
784年(延暦3年)、844年(承和11年)、904年(延喜4年)、1564年(永禄7年)、
自分で勝手に悪意に満ちた解釈をしておいて
それを「自然」とか押し付けられましても
875 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 13:37:43
日本のアマテラスに相当する最高神は琉球、朝鮮、中国、モンゴル、満州では誰なのですか?
>>875 ここは日本史板だ。
アマテラスはオカルト板が適している。
100%妄想の産物馬鹿じゃないの。
お前もな
ずいぶんと古典的な台詞が出たな
( ゚Д゚)イッテヨシ
882 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 18:26:59
>>881 >どうも、信長や江戸幕府の意見と言うか圧力があってこの年号にされ、
おいおい永禄4年辛酉(1561)や同7年甲子(1564)の段階で
信長が朝廷の改元に影響力を行使できるほどの存在だったとは思えないが。
後の「元亀→天正」の改元のときとは信長の立場が全然違うよ。
あと、そのwikipediaの記事は、元和7年辛酉(1621)に改元が
行われなかったことについては、何も言及していないような気が。
883 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 20:12:26
すいません。
江戸時代の治安について教えて下さい。
江戸に北・南町奉行所、大阪に東・西町奉行所があったと云うのは良く見るのですが、
地方の治安と云うのはどうなっていたのでしょう?
884 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 21:45:31
武士の名前で、壱岐守とか備前守というふうに○○ノ守というのがあるけど
住んでも居なければ治めている訳でもない、関係ない地方の地名が入るのは何故ですか?
885 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 22:32:55
886 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 22:34:42
887 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 22:36:14
888 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 23:44:06
日本史で漢字が難しくて読めない人物や地名などがたくさんある
のですがそういう読み方などが調べることができるサイトはない
でしょうか?
>>888 人名問い合わせスレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1123501362/ ・・・というのがありますね。
歴史関係にかぎらず、日本の人名や地名は、音や訓をごちゃ混ぜにしたり、音や訓とはかけ離れた
意味からこじつけて無理やり読ませている例も珍しくないくらいだから、まとめてあるサイト
というのはないのでは?
コピペでインターネット検索して、たまたま読みが書いてあるサイトを探すとか。
印刷物とかに書いてあっても変換できないなら、形を見て「手書き入力」で捜すとか。
「手書き入力」は、ATOKにはあるけど、Winの標準のmsimeにもあったんじゃないかな?
890 :
888:2007/07/25(水) 01:53:28
889さん丁寧な返答ありがとうございます。教えて頂いたとうりに
やってみたいと思います。
892 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 02:07:50
>>891 10点やるからしゃぶってなさい つ I
>>890 面白い(?!)難読人名等だったら、聞いたらすぐ解答があるんじゃないかな。
まあ、色々やってみるほうがいいでしょう。
896 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 09:06:34
刀鍛冶が烏帽子をかぶって仕事をするのはなぜ??
あの服装はなんというものなのですか?
897 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 00:55:30
明治政府樹立に新聞が与えた影響って何か教えていただけるとありがたいです…
新聞なんてあったのかなあ
899 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 12:46:49
226事件に関わった下級将校・兵は支那へと飛ばされたと聞きます。
その後しばらくして支那事変が起きてますが、このことも遠因ではないでしょうか??
>>898 讀賣新聞の「讀賣(読売)」ってのはかわら版の事。
(かわら版そのものをさす事もあったし売り子の事をさす事もあった)
>>896 確か棟梁は神官に準じた扱いだからじゃなかったかな?
平安貴族の礼服である烏帽子+直垂かな?
904 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 10:27:55
加藤清正や福島正則に代表される豊臣子飼いの武将には、他に石田、脇坂、
片桐、もう一人の加藤、糟谷、平野とあと誰が居るんでしょうか?
905 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 14:38:22
良い史料とダメな史料を見分けるテクニックの解説書で、初学者にもわかりやすいものって無いでしょうか?
906 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 19:58:32
新聞といえば朝野新聞って解散?それとも今は別の名前かな?
>>905 そんな「テクニック」なるものがあって、テクニックについて
「初心者にも分かりやすい解説書」があるんなら何も苦労はない気がする。
それを見極めるのが見識でしょ。
>>905 美術品や骨董品の良否や真贋を見分けるには、子供の頃からハイレベルの本物だけを見続けて慣れるしかないとされています。
個人的にも、その方面の本職ではないけど、事情があって、ある日本画家の絵を見慣れていて、全体を見るまでもなく、
判定できます。というか、その作家に特有の気配を「感じる」。違うなら感じない。
資料というのが具体的な何のことかは分からないけど、それに準じた方法しかないんじゃないですか。
具体的には、定評がある良質の資料だけ見続ける。
ただし、何も分からない子供の頃から継続して見ないと遅いかも知れない。
909 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 08:03:36
信長が茶の湯を奨励したのは、
信長がお酒がまったく飲めなかったため、
というのを雑学本で読んだのですが、
本当でしょうか?
日本書紀の注釈は数多くなされてきましたが,平安時代になると
原文の意味が分からなくなったという,興味深いことを述べています.
現代の我々も,わずか100年前の文章でも理解に苦しくなることがあります.
なぜ,原文の意味が分からなくなってくるのでしょうか?
社会における言葉とは,短時間で大きく変わっていくものなのでしょうか?
>905が求めている質問の答えとは乖離していると思うからどうでもいいことではあるが(苦笑
>908
特定の画家が念頭にあっての回答のようだけど、その画家は死後に評価された人で生前は不遇だったの?
何を持って真贋を論じるのかは人ソレゾレだが全体を見ずに部分で判定するのは感心しない
生前から人気のある画家は分業が基本。これは洋の東西を問わない
狩野派は作業の細分化が徹底されていた時期もあるから最も需要のあった時期の作品は
署名や押捺した印影の人物は作業の指揮しかしていないことが多い
西洋ではレンブラントがサインだけ当人が行い絵は弟子に描かせていたことで有名
私見だが908はTVの鑑定番組や漫画で得た浅薄な知識を語っているように見受けられる
もう少し具体例をあげて説明なされたほうが語弊がなくてよろしいのでは・・・
>>912 ああ、何がいいたいかは分かったけど、そういうレベルの話ではない。
理屈ではない感覚の話だから、同じように「見れば分かるモノ」がある人なら「そういうことはありうる」と分かる。
> もう少し具体例をあげて説明
知識や経験を積み重ねれば誰でもできるようになる類いの事柄ではないから、一言で了知できないなら、それ以上いくら説明を加えても時間と手間の無駄。
そういう話。
914 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 20:17:32
大学の合格が決まったので、日本史の勉強をしたいのですが
おすすめの参考書(本)はありますでしょうか
世界史も並行して勉強してみようかとも思っています
教科書
前に聞いたのですが忘れてしまったので
県→藩→
藩以前の呼称はなんでしたっけ?
917 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 00:38:36
日本史板で聞いてよい話か判りませんが
天皇陛下が特殊な儀礼行事等で使う言葉(言語?)とはなんと言われるものなんでしょうか?
918 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 09:03:16
伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつと言いますが
この意はどういうことなんでしょうか?
伊勢ってのは伊勢神宮のある宇治山田郷のことなのか
それとも伊勢の国のことなのか
また津ってのは安濃津ってことでいいんでしょうか?
919 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 09:08:27
日本史には全く暗い素人ですが、お伺いしたい事がございます。
「女嫌いで名高かった井伊伯爵が、病床にあった時に、ふとした誤ちから
看護婦と通じて男子を儲けた」という話を聞いたことがありますけれど、
この井伊伯というのは誰のことだったのでしょうか?
もしや井伊直忠伯だったのでしょうか知らん?
宜しく御教え下さい。
>>917 国会とかのなら「お言葉」って言われるが
>>917 「勅語(ちょくご)」の話かな?
行事というのが新嘗祭とかの神事の類いなら「祝詞(のりと)」をあげることもあるのかも知れない。
良く知らんけど。
923 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 10:28:36
平安時代は女流文化人が活躍しましたが、江戸時代はなぜあまり有名な
女流文化人がでなかったのでしょう。
924 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 10:42:47
涌狭間の戦いでは織田軍の奇襲攻撃はなかったって本当ですか?
今川軍は山にいたとか聞いたのですが
>>921 江戸時代においては一般的な呼称ではないけど
明治になって公称としての「藩」は採用されてるでしょ。
>>921 質問者は、藩というのは明治の初期のごく短い間の名称というのは知っていて、
その前はなんて言ったのか聞いていると思うが。
領主の名前で呼んでいたと思う。
熊本県の前は熊本藩、その前は細川越中守家中とかじゃないかな。
927 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 12:50:15
尊王譲位と公武合体のところなんですけどいくつか質問があります。
まず、尊王譲位=討幕と考えてよいのでしょうか?
それからなぜ公武合体派と尊王譲位派が対立しているのかわかりません。公武合体派=外国と仲良く。だからなのでしょうか?
それからいまいち朝廷と幕府のしたいことがわかりません。
質問ばかりですいませんが御教授いただけたらさいわいです。
尊王攘夷な。
尊王攘夷=倒幕と考えてよい。(後半からだけど。)
公武合体派=徳川中心の政権
尊王攘夷=反徳川。(途中からだけど)
最初は幕府の中の派閥争い。それが倒幕へとかわっていった。
まず、「譲位」ではなくて「攘夷」ね。
意味が全然違うから。
一つ目の質問に関して言えば、「尊王攘夷=討幕」ではない。
なぜならば、尊王攘夷という思想と、討幕という思想はそもそも土俵が違うから。
尊王思想は幕府側の人間にも存在するし、攘夷に関して言えばこの思想はそもそも
幕府が200年以上持ち続けてきた思想だ。
ただし、幕末において尊王を掲げる勢力にしてみれば、無勅許にて事を進める幕府に対する
不信感は増幅していくし、開国に向かう幕府に対して攘夷思想は決定的に対立する。
そのため結果として幕府と対立しやすくなる。あくまでも結果論として。
が、しかし薩長が討幕を決意したときは既に攘夷思想は(藩論としては)捨ててることにも留意。
二つ目の質問。
まず、「公武合体派=外国と仲良く。」ではない。
公武合体派というのは文字通り、朝廷と幕府を婚姻において結びつけ、
その関係を強化していくという思想を指すので、この場合外国がどうのは関係ない。
尊王派にしてみれば、天皇を頂点とした国家を理想とし、天皇を尊ぶというのがその思想の
根幹にあるから、天皇家と将軍家を婚姻において結合させるという安藤信正のプランは
あまりにも軽薄に移ったし、幕府の責任転嫁とも捉えることができた。
つまり、幕府の計画はおよそ尊王と言えるそれではなく(実際、孝明帝も当初は反対していた)
自己保身のために天皇家を利用するものであったので、尊王攘夷派から攻撃の対象となった。
最後の質問はあまりにも漠然とし過ぎててそれこそ言いたいことが分かりません。
具体的にそれぞれのどのような行動を指して言っているのでしょうか?
>それからいまいち朝廷と幕府のしたいことがわかりません。
幕府「夷なんかと付き合えるかって仰いますが、蒸気船に勝てると思います?
開国せにゃしゃーないんですよ(;´Д`)戦うにしてもですよ、朝廷だけで
何ができますかっ。攘夷テロリストどもも追っ払えないじゃないですか。
金も権力も軍事も、日本において圧倒しているのはこの幕府。
陛下にとっては、幕府を信用して引き続きお任せ下さる他ないんじゃありませんかね。
公武合体。うんうん、政策不一致はよろしくない。
…え、疑念があると?諸侯らに吹き込まれましたかな。なら大政奉還してやりますよ。
もう繰り返しませんが、今言ったことをじっくりお考え下さいませ」
…というのが幕府の主張。一応ですが、まーこんなところで一貫してます。
朝廷は、孝明天皇のときとそれ以後で全く違います。
面倒くさいので説明省略。
>>927 幕末〜明治維新とは
【対外政策】 | 【内政改革】
攘夷⇔開国 | 公武合体→公議政体(=倒幕)
という、日本のソトとウチの在り方をどうすればいいのかという模索。
天皇と幕府。そしてその間に雄藩がガチャガチャ介入し続けた物語といえます。
ですから、尊王攘夷と公武合体をリンクするとよくわからなくなりますよ。
932 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 19:40:24
>>923 平安時代に女流歌人や作家が活躍した背景は、天皇の外戚となる為、娘の教育に力を注ぎ天皇の寵愛を受けやすくしようとしていた。
そこで、娘の家庭教師の必要性が生まれ、当然男性教師はNGなので和漢の文学に通じた女性教師の出番となる。
公家の没落により教科書に載るような女流歌人や作家は出なくなったみたい。
江戸時代は学問・文学の担い手が公家や僧侶以外の町人層にも拡大した時代で、画期的な時代ではあるけど、まだ女性が進出できるような教育環境がなかった。
女性の高等教育の基盤が整備されだした明治以降は、女流文化人が次々と出てくるようになった。
女性に対する教育の場と表現が出来る宮廷サロンや文壇の存在が重要じゃないかな。
江戸時代の大名の娘とか何してたんだろ。
文化的なことはしなかったのかな。
934 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 23:08:15
お願いします。
大化の改心の際に、蘇我入鹿が持っていた天皇記、国記が焼失したとなっています。天皇記というのは文字通り
天皇の業績や系譜を記したものと習いました。
しかし我が国で天皇という呼称を使用したのは、唐の玄宗が名乗ったものを真似たのが始まりで、天武天皇から
ですよね?
645 大化の改心
685 玄宗誕生
で計算が合わないのですが、自分の理解が何かおかしいのでしょうか?バカなこと聞いてたらすみません。
天皇記がなかった、天皇という言葉は別の意味だった。玄宗からとったわけじゃない、位しか思いつきません。
>>934 日本書紀が書かれた頃に「天皇記」と呼ばれていた。
同時代に何と呼ばれていたかは不明。そもそもタイトルがあったかどうかも分からない。
>>925 県は地域の区切りだけど、藩はそれとは違うとか、「藩」が現役だった当時には、自称でも他称でも
「藩」とは呼んでいなかったという基本は抑えないといけないんじゃない?
>>926 家中は、何々の家来の意味の自称で、「県」に相当する地域とは別じゃない。
>>936 違った。
「戦国時代に、武家の主君・家臣団の総体を示す擬制的同族呼称として使用され、次第に諸大名の家臣の総称となった。また、江戸時代には藩の意味にも用いられた」
938 :
934:2007/08/01(水) 00:40:48
ありがとうございました。教科書は別の書き方した方がいい気がしますね。
あと、改新の字を間違えてました。すみません。
916です。
皆様お騒がせしておりますすみません
藩が正式な呼称でないのは知っています。
気になっているのは前に県や藩(現代から見てか?)のようなくくりの呼称がその成立以前にもあったようなことを習った覚えがありまして、それが当時使われていたのかはわからないです。『群』←のような気もしなくはないのですが、多分違うな。
稚拙な文で申し訳ない
>>939 すみません
藩が当時一般的に使われていなかったのは知っていますが。ですね
連投申し訳ない
簡潔にいってしまえば
県や藩、群 みたいな言葉です。 ただこれを聞いた時はすごく珍しい事聞いたなと思いましたので…
自分なりに参考書なり読みましたがそれっぽいことはありませんでした。
942 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 01:52:27
奈良時代の
長津宮って首都ですか?
943 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 04:18:45
なんで明治期の廃藩置県で肥前は佐賀と長崎に分かれたんですか?
やはり江戸時代には2つの藩に支配されていたということなのでしょうか?
あと武蔵に関しても同じことが言えると思うんですが、この場合は、
幕府直轄地でいろいろな旗本に分割統治されてたんだと思うんですが
なんで最終的に3つに分かれたんでしょうか?
>>934 例えば推古天皇三六年(六二八)九月壬辰(廿四日)条に、「葬竹田皇子之陵」
(推古天皇を竹田皇子の陵に葬った)という記事がありますが、「竹田皇子」は
「たけだのみこ」に漢字を宛てたもので、「たけだおうじ」ではありません。
これと同様に「天皇記」も「すめろぎのふみ」か「おおきみのふみ」か分かりませんが、
そういった何らかの和語に漢字を宛てたものです。あるいは「帝紀」も同じ和語なのかも?w
伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつと言いますが
この意はどういうことなんでしょうか?
伊勢ってのは伊勢神宮のある宇治山田郷のことなのか
それとも伊勢の国のことなのか
また津ってのは安濃津ってことでいいんでしょうか?
948 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 11:16:29
重ねて伺います。
日本史には全く暗い素人ですが、お伺いしたい事がございます。
「女嫌いで名高かった井伊伯爵が、病床にあった時に、ふとした誤ちから
看護婦と通じて男子を儲けた」という話を聞いたことがありますけれど、
この井伊伯というのは誰のことだったのでしょうか?
もしや井伊直忠伯だったのでしょうか知らん?
宜しく御教え下さい。
>>948 井伊伯爵って三人しかいないはずだが、そのいづれかかと。
>>947 ええ私も解答にはそのように書いたのですが、間違っていたんですよね。
キニナルナー
>>939 県、藩を地域を区分する呼称と捉えるのか、
中央に対する自治組織と考えるかで「正解」が違うような気がします。
自治組織としての性格に重点を置くのであれば中世には、
近代の「県」制とは規模が違いますが、
基礎的集落を一構成単位とする連合的自治組織として、
「惣」とか「郷」と言うものががありました。
当然、幕府や朝廷との間には「国司」「守護」「地頭」などの階層が存在しますので、
そちらを自治的組織と見ることもできます。
ただし、江戸時代にはこの自治権もかなり形骸化しており、
大名や旗本などの領主層が、その領地を支配する地方権力と言えると思います。
>>950 元々の設問を正確に写していないだけかも知れないけど、その設問はちょっと変ですな。
955 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 07:30:33
>>949 その三方の井伊伯爵の名前を教えて頂けませんか?
この話は確か昭和3〜5年頃に刊行された古書で読んだ記憶がありますので
該当する人物が判明するかと存じます故
>>955 直憲(直弼次男)─直忠─直愛 の三代だけ。
もちろん、旧彦根藩主家。
957 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 14:39:42
>>956 おおきに有り難うさんどっせ。
けど、そのうちの何方どすやろ?
アテには検討もつきまへんのどすねん。
堪忍どっせ〜
958 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 20:51:48
wikiの「和田惟政」の項目に
「惟政はキリスト教徒で、部下の高山右近にも強い影響を与えて入信させた」とあるんですが
惟政が大変な「キリスト教保護者」で、フロイスの受けもよく、布教の許可に積極的であった、という事実はあるのですが
洗礼してクリスチャンネームをもらったとか、個人的にキリスト教に入信したとかいう記述はみつかりません。
「キリスト教に理解があった」と「教徒(信者)であった」とでは意味が違うと思うのですが、実際に「教徒」であった記述って
どこかにあるのでしょうか?
また、wikiの「忍者」の項目にも「和田惟政」の名があるのですが、
彼と忍者の接点といえば、惟政が甲賀の豪族出身ってだけで、特に忍者に関わるエピソードとか
服部半蔵みたいに、実際は忍者じゃないけど、講談や物語でイメージが定着してしまっているとか
そういうもんも無さそうですし、具体的に惟政と忍者を結ぶエピソードって何かあったのでしょうか?
わかる人いたら教えてください。
959 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 21:06:43
菅原道真の、方略試(200年間でわずか65人の合格者)合格というのが、
秀才としての分かりやすい説明でよく出てきますが
その試験の作成者側(もっと優秀と思われる)があまり知られてない
のはなぜですか。
>>960 ですよね・・・洗礼を受けていないのは知っています。
あくまでフロイスサイドから「キリスト教の庇護者」として称えられているだけで
惟政そのものが、高山右近父子のように、キリスト教に熱心であった、というわけではないですよね?
962 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:40:28
元興寺薬師如来像の正面からの画像ってないですか?
イメージ検索はしたんですけど出てこなくて・・・
>>952 答がわかりました
自分の記憶が曖昧だったのがよくなかったです
↓
行政単位として『群』というのが改新の詔ではつかわれていたが、藤原京跡から発見された木簡の研究などから、大宝令施行前には『』の漢字が使われていた。
時代が記憶よりかなり昔でした…
答は『評』こおり
でした。
皆様助言ありがとうございました。
965 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 02:42:08
古代の天皇を見ると、ありえないくらい身内での結婚がおおいのですが・・・
血の濃い近親相姦で、俗に言う未熟児が生まれてそうなんですが、実際のところ古代の天皇はどうだったのでしょうか
966 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 02:50:58
誰かスレ立てお願いしたいのですがm(__)m
【スレタイ】
石高ってなんなの?
【内容】
なんなの?
967 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 09:15:46
>>964 この板のウィキスレに振ってもいいのでは?
>>965 まず近親婚による新生児への影響に関する科学的根拠を証明しないとね。
970 :
962:2007/08/04(土) 13:36:29
ありがとうございます
大きい画像はないですか?
>>968 あなたでもいいです
立ててもらえないでしょうか?
972 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 22:56:23
広隆寺半跏思惟像と広隆寺弥勒菩薩像って一緒ですか?
弥勒菩薩が半跏思惟の姿をしている。
974 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 23:28:46
大学入試ではどっちでもいいんでしょうか?
975 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 09:53:06
地侍といったら、戦のときは平侍=騎士くらいの格式になると思ってたけど、
実際には足軽=歩卒レベルの扱いなの?
976 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 14:19:41
977 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 15:38:57
>>976に補足すると、弥勒菩薩は像のモデルの名前、半跏思惟は片足を組んで物思いに耽ってるポーズの名称。
978 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 18:11:15
979 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:39:50
戦国時代に朝廷の官位任命権があったのは誰なんでしょうか?
天皇なのか関白なのかなどと理由付きでお答え頂ければとても嬉しく思います。
980 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:05:57
和牛について質問だけど牛肉を食べるようになったのは明治からだそうですが
一般庶民も明治大正や昭和初期くらいには食べてたのでしょうか?
また食用の牛は儲かると思って農家から食用の牛を飼育する職業に変えた人って
昭和初期くらいにはいたのかな?
981 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:06:35
982 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:11:57
>>978 覚えろ、ほら。
広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
・・・
ほうら、もう頭から離れない・・・
>>980 江戸時代は牛は農耕用。歳やけがで農耕に使えなくなったら、
皮や肉を利用はしていたが、一般には食用にしていない。鳥、鹿、
ウサギ、猪、熊などは食べている。
明治から大正にかけて、東京など都市部を中心に西洋人向けに
牛肉を出す店や牛鍋屋ができるが、女子供が食べるものではない。
大正から昭和にかけて、東京の洋食店や牛鍋屋で修行した者や
軍隊生活で洋食に触れた者から地方にも洋食店ができはじめる。
映画などの娯楽や鉄道と百貨店とともに、余裕のある家庭では
休日に外食を楽しむこともはじまる。牛肉は具材として使われる程度。
昭和初期、商店街に肉屋が出始め正月や来客時など特別なときの
家庭料理として肉を使うこともあったようだ。うちのじーさんは
地方都市の公務員だったが、ボーナスが出たとき一包の牛肉を
買ってきて家族ですき焼きをしたそうだ。量は微々たるもの。
当時も牛は農耕が中心だから、食用牛農家として本格的に始めた
ところはあまりなかったのではなかろうか。
984 :
979:2007/08/06(月) 03:35:54
具体的に誰なんですかね?その時に天皇の許可は必要?
985 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 07:38:29
>>980 >>983 明治のごく初期に東京近辺には牛肉・牛乳用に牛を飼うことが始まっている。
(富国強兵のための食生活の改善とか、皇室での西洋風の食事で利用するのにも必要なため政府も乳牛・肉牛の生産を奨励していた)
数十軒ある牧場の番付なんかも売り出されていた。
今年の春ころNHKの番組(西洋料理の歴史の紹介)でやってました。
西南戦争(明治10年)では、官軍が牛肉を食料として大量に利用していたけど、その肉はわざわざ福岡の久留米あたりで買い付けていました。
(今年田原坂であったイベントで紹介された史料にあった)
つまり、この頃になると九州のそこそこの規模の都市周辺であれば数万人の軍隊で消費するだけの牛肉を確保できるだけの飼育がされていたのではないかと。
鶏や卵、野菜などは田原坂近くの農村で徴発したり買っていたようなので、牛肉は地元だけでは確保出来なかったと思われます。
地元民が肉うどん屋を開いて、戦見物に来た人間相手に商売していたという記録もある。だから庶民の肉食への抵抗感はそれほどなかったのでは。
この肉が牛なのか鶏あたりなのかは聞かなかったので不明。
質問です。
時代劇で、悪いお偉いさんが顔を隠す時に被る頭巾は何というのですか?
>>990 レスアンカーが違ってるみたいだけど、そういうタイプなの?
>>987 すみません、やっと思い出した。
「山岡頭巾」といいます(汗
994 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 23:21:28
>>882 幕府が朝廷に代わって元号決定権を獲得を望んでいたとしたら、せっかくの幕府主導による元号を辛酉革命説如きで改元を許すとは思えないが。
995 :
ここでいいんじゃない?:2007/08/06(月) 23:28:27
996 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 23:29:29
997 :
994:2007/08/06(月) 23:36:58
あと、ウィキの寛永の項目を見ても、「甲子革令」は名目は実際は「将軍代始改元」と書かれているから、
秀忠→家光の将軍交代がなければ、甲子革令もやる気がなかった可能性もあるとも解釈できるな。
朝廷は甲子革令だと言い張っていたが、実際には幕府の圧迫に負けての将軍代始改元であったと。
998 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 23:37:39
うめ
999 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 23:40:51
だえき
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