【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】

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1日本@名無史さん
今、どうなっておりますか?

騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/yamataikoku/mystery/kibaminzoku.html
騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!                江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727
2日本@名無史さん:03/11/11 04:33
えーっとね、
亡くなる前の騎馬民族説の最新版をちゃんと読んで、
そのうえで批判するなり感心するなら、それはそれでOK。

しかし、名称だけにとらわれて、ちゃんと理解せずに
あれこれ言う、ドキュンどもにはいったいどうしたことか。
3日本@名無史さん:03/11/11 06:12
要は騎馬民族というカテゴリーの定義自体がおかしいという根本的な瑕疵を指摘した批判には答えられていない事に変わりない訳だ。
いまだにそんな妄説を信奉するのはどういう意図かな。


4日本@名無史さん:03/11/11 06:19
あのアカピーでさえ否定していたが。
5日本@名無史さん:03/11/11 09:32
河内馬飼らの集団墓地か 寝屋川 一帯に「大和朝廷」の牧場

 大阪府文化財センターが発掘調査している同府寝屋川市の太秦遺跡で
10日までに、5世紀中ごろ(古墳時代中期)の小型の方墳と円墳25基が見つかった。
 当時、一帯は大和朝廷の牧場「牧」が広がり、直属馬産グループ「河内馬飼」が活動。
グループのリーダーたちの集団墓地とみられる。
 これまで河内馬飼の墓が確認された例はない。小型であっても古墳築造が
認められていたとすれば、朝廷がこうした特殊技能集団を重用した証拠といえそうだ。
(後略)

http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2003nov/10/K20031110MKG1O100000400.html

【考古】古墳群発見:河内馬飼らの集団墓地か・寝屋川 一帯に「大和朝廷」の牧場[031110]
http://news5.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1068471638/
6日本@名無史さん:03/11/11 12:52
>>3
「騎馬民族」という言葉はいわばお飾り。
お飾りの部分を否定することで、「扶余がやって来て倭の王権を簒奪した」という、
大いにあり得るすじがきの部分まで否定するのはおかしい。
7日本@名無史さん:03/11/11 12:59
騎馬民族としてやってこなれば王権の簒奪など不可能でしょうに。
そんな連中、既に強大な権力秩序を形勢してる方は誰も相手にしないよ。
8日本@名無史さん:03/11/11 13:08
つーか、騎馬民族など存在しない。
遊牧民が日本に渡った形跡はあるが、既に東アジア有数の人口を誇っていた日本列島で、既存の政権を倒すなどという規模の人数ではない。
現代で例えたら、ラモス瑠偉が日本に居た事実を根拠として、ブラジル人移民が日本政府を倒したと言ってるようなものだ。

9日本@名無史さん:03/11/12 05:47
>>7, 8
釜山周辺の発掘の成果から、3世紀末に扶余系と見られる王権が金官加羅に
成立していたことがわかる。これがすでにして少数派の征服者が多数派の
土着民の王権を簒奪している証拠だ。

その力の元は、吉野ケ里的世界だったクヤ韓国に対する、すでに装甲騎兵戦術
を獲得していた扶余の戦術の差だ(この意味でのみ「騎馬」が重要)。
そしてクヤ韓国は倭人国だったから、同じ倭人領域の列島に扶余の王権が
「迎えられた」ということはあり得る。

これに対しては、後の清国の成立がアナロジーをなしている。すなわち、遼東の
漢人社会を支配して「モデル帝国」を作って見せた満洲族の王権が、同じ漢人の
領域の(それこそ圧倒的多数派の)中国本土に、事実上「迎えられた」。

江上説の「遊牧民族」的な部分を否定したところで、上記のようなすじがきの
可能性を否定することはできない。
10日本@名無史さん:03/11/12 09:16
>扶余がやって来て倭の王権を簒奪した

この部分をネタにトンデモ小説がまかり通っているわけだが(w
11日本@名無史さん:03/11/12 15:06
>>7
>騎馬民族としてやってこなければ王権の簒奪など不可能でしょうに。

騎馬民族というとすぐに海を渡る馬の大群を勝手に想像した上で
それを否定するのがオツムの単純なアンチ江上派の一つの特徴。
アステカを征服したコルテスの軍隊は何頭の馬を持っていたか知ってる?
たったの16頭だ。
騎馬戦術を知らない祭祀的な王権を征服するには、そのくらいの数の
馬で十分、という証拠だ。
12日本@名無史さん:03/11/12 16:00
馬鹿だな三世紀に扶余系の騎馬民族国家が金官加羅に
成立していると考えるのなら、一般的に鉄と同じく
馬が日本列島に輸入される可能性はあるということじ
ゃないか?事実鉄は三世紀以前に輸入されているわけ
だからな。>>8
13日本@名無史さん:03/11/12 16:15

 酪農は行われたのかな?チーズやヨーグルトはモンゴル人
 が持ち込んだの?
14日本@名無史さん:03/11/12 17:52
ユーラシア大陸の遊牧民族なら、必ず去勢の習慣と技術を持つ筈だが、
日本にはそのような伝統が根付いた形跡がない。
馬乳を食品として利用する文化も日本には根付いていない。
日本では遊牧民との貿易で馬を輸入していただけだろ。
何が騎馬民族だよ。
15日本@名無史さん:03/11/12 17:59
>>11
で、それだけのインパクトを古代日本に与えたなら
関連した神話が残っててもいいはずだが。
16日本@名無史さん:03/11/12 18:07
>>11
あたかもアステカの大軍を16人の騎兵で撃退したかのような錯覚に陥ってないかね?
アステカに対するコルテス軍の軍事的アドバンテージは僅か16頭の馬ばかりではない。
主に鉄砲の火力がアステカの軍事技術を圧倒したのだ。
別に馬は一騎当千の超兵器なんかではない。
僅か16頭ではものの数になる訳がないだろう。

17日本@名無史さん:03/11/12 18:09
飛鳥の蘇は牛乳だったの?昔も。
18日本@名無史さん:03/11/12 18:12
スサノオが生革を剥ぎ取って、素っ裸になってしまった馬を
織物小屋にぶち込むっていうのはどうでしょう?
19日本@名無史さん:03/11/12 18:15
>>18
スサノオが馬とアマテラスを交尾させて湿り具合を見るぐらいじゃないと。
20日本@名無史さん:03/11/12 18:17
征服はしていないだろうけど、
モンゴルあたりの遊牧民はきたとおもうぽ。
21日本@名無史さん:03/11/12 18:19
>>18
そんな記述はない。
22日本@名無史さん:03/11/12 20:01
弓がぜんぜん違いマース。
半島は短弓(角弓)日本は大弓。
少なくとも弥生時代にさかのぼる、騎馬にまったく向かない、大弓を
使いつづけて現在にいたるということは先祖伝来の武器に対する
敬意・尊敬以外考えられませーん。

騎馬に限らず半島人が入って征服したのなら自分たちの武器を捨て、
騎馬にまったく向かない大弓など使いませんね。

ちなみに性能も短弓(角弓)の方が上です。

ああ、あと神武東征のときの弓も大弓ですね。当然ですが。
23日本@名無史さん:03/11/12 20:10
>>14
>ユーラシア大陸の遊牧民族なら、必ず去勢の習慣と技術を持つ筈だが、
>日本にはそのような伝統が根付いた形跡がない。
>馬乳を食品として利用する文化も日本には根付いていない。

扶余の話をしているんだけど、扶余は「遊牧民族」であって、去勢の習慣
や馬乳を持っていたの?

>>12
>馬鹿だな三世紀に扶余系の騎馬民族国家が金官加羅に成立していると考える
のなら、一般的に鉄と同じく馬が日本列島に輸入される可能性はあるという
>ことじゃないか?

馬だけならね。しかし扶余の優位は単に馬を持っているだけではない。
馬を乗りこなし、人と馬の鉄製の装甲を製作し、重い装甲を付けた馬を
騎兵として運用する、一つの技術体系にあるのだ。
単に馬の骨ならマキムクからも出るが、このような技術体系が日本に
現れるのは5世紀以降だ。
24日本@名無史さん:03/11/12 20:18
>>23
馬がそのままさくっと農耕場や輸送用に輸入されるわけないだろ。
第一鉄製装甲の馬なんて輸入されるわけない。さらに鉄製装甲馬
なんて日本じゃ普及してない。鉄製馬具なんて戦国時代にはなく
なっている。騎馬戦術すら戦国後期ぐらいしか発達していません。
もともと日本は山脈が多く。湿地帯が多いため騎馬戦術を必要と
していません。
25日本@名無史さん:03/11/12 20:20
追記。
魏志倭人伝にも「木弓短下長上」と日本の弓の形状が書かれています。
なお、短弓も知ってはいたようで楽浪に対する献上品に
「其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青[糸兼]・緜衣・丹・木[犬付]・『短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
2625:03/11/12 20:21
ミスった まあ、いいか w
27日本@名無史さん:03/11/12 20:42
開けた平野が乏しく、なけなしの平野部は大抵水田になってる日本列島では、騎兵戦術の効果が大陸ほど大きくない。
加えて気候が高温多湿で、涼しく乾燥した気候を好む馬の繁殖には不向きだ。
従って、日本における軍用馬は、大陸に比べると生産、維持コストが高くつく割には効果があまり高くない贅沢品となる。
騎馬戦術を駆使する民族が日本で大きな軍事的アドバンテージを持ったと言うのは幻想に過ぎない。
それなりにまとまった兵力をもって押し寄せない限り、人口と生産力で朝鮮半島を圧倒する日本の諸勢力の抵抗を無力化する事は出来ない。


28日本@名無史さん:03/11/12 20:49
そもそも三国志見る限り半島にそんな倭を圧倒できる勢力などありません。
金官を支配したと仮に仮定したとしても何ぼのもんです。
戸数比較しましょう。
29日本@名無史さん:03/11/12 21:00
加えて倭(邪馬台国)は軍事機構備えた軍事国家です。
30日本@名無史さん:03/11/12 23:04
あと、矛(騎馬兵の頭かち割り用兵器)を実際に使った形跡がないってのも不利だね。
31日本@名無史さん:03/11/12 23:04
『騎馬民族』という名称さえ、無視して読めば、
古代東アジア&北アジア史と日本との関係を議論する名著の一つ。
批判すべき点も多いが、これらの知識なくしては、批判する立場にもなれない。
32日本@名無史さん:03/11/12 23:11
>>28
半島ではなく、夫余は、鮮卑とかと同じように大陸にいた民族。
なんでもかんでも、半島にしないように。
33日本@名無史さん:03/11/12 23:17
江上センセも晩年はアレだったからね。
モンゴル人の声も聞かずに勝手にジンギスカンの墓探したり。
34日本@名無史さん:03/11/12 23:29
>>32
金官から入ったとするんだろ?
35日本@名無史さん:03/11/12 23:31
いずれにしても無理ありだな。
36日本@名無史さん:03/11/13 00:22
年食うと頭の中がファンタジーでいっぱいになっちゃうからね〜(藁
37日本@名無史さん:03/11/13 09:53
>>23
>さらに鉄製装甲馬なんて日本じゃ普及してない。

鉄製馬兜(馬面)の出土数。
高句麗:ゼロ。釜山周辺:15個。日本:2個。
(高句麗の装甲騎兵の存在は壁画によってわかる)

馬の尻に付ける蛇行状旗指し具の出土。
高句麗:ゼロ。釜山周辺:土偶1個。日本:本物1個
(高句麗の使用状況は壁画によってわかる)

>騎馬戦術すら戦国後期ぐらいしか発達していません。

なにをおっしゃる。源平時代の華やかな騎馬武者の活躍は?
義経の騎兵機動作戦は?

>>27
>開けた平野が乏しく、なけなしの平野部は大抵水田になってる日本列島では、
>騎兵戦術の効果が大陸ほど大きくない。

扶余・高句麗の活躍した満洲東部から朝鮮半島にかけては、平坦な草原だと
でも思っているのかな?

>日本における軍用馬は、大陸に比べると生産、維持コストが高くつく割には
>効果があまり高くない贅沢品となる。

馬が貴重品なのは扶余・高句麗にとっても同じだったろう。馬が少ないから
こそ重装甲して一騎の打撃力を高めたのだ。モンゴルの集団騎馬戦術と混同
しないように。
38日本@名無史さん:03/11/13 09:55
>>28
>半島にそんな倭を圧倒できる勢力などありません。戸数比較しましょう。

清国を建てた満洲族は「戸数」で中国本土を「圧倒」したのだろうね。

>>29
>加えて倭(邪馬台国)は軍事機構備えた軍事国家です。

スペイン人に征服されたアステカ、マヤは「軍事機構備えた軍事国家」では
なかったのかな。

>>30
>半島ではなく、夫余は、鮮卑とかと同じように大陸にいた民族。
>なんでもかんでも、半島にしないように。

ものごとを固定して考えないように。満洲にいたのが朝鮮半島に移動したのだ。
現在は「ヨーロッパ人」であるゲルマンが、フン族に追われるまでは中東の住民
だったのと同じようにね。
39日本@名無史さん:03/11/13 10:57
どちらにせよ、半島発祥ではなく、半島は単なる通り道だわな。
40日本@名無史さん:03/11/13 10:57
なるほど。
我田引水を徹底しないと、江上説を支持できなくなる事が良く分かる。
コルテスがアステカを圧倒した鉄砲ほどの軍事的アドバンテージが、細々と九州に渡ってきた半島の騎兵にあったという根拠は何だね?
重ねて言うが、火器で武装していた訳でもない一騎の騎兵が受け持てる歩兵の数には上限があるぞ。
気候が農業に適さず、生産力が日本列島よりも格段に低い朝鮮半島では、大国に併呑されていない限り歴史的に人口が少ない小国しか存在しない。
人がまばらな朝鮮半島をたやすく征服出来た事は、大国であった日本の征服が少数の騎兵で可能だった事の証明にはならんよ。
人口で圧倒され、騎兵が歩兵に対してさほど有利でない日本の地で、
鉄砲も持たずしてどのように征服したと思うのかね?


41日本@名無史さん:03/11/13 11:25
騎馬民族でもフヨでも、武器は何なんでしょう?
恐らくは弓かと思うのですが、日本の弓との関係はどうなるのでしょうか
42日本@名無史さん:03/11/13 11:28
馬を重装甲で防護すれば、戦いにあたって馬の死傷は減らせるが、戦場での機動性と航続力は歩兵と大差なくなる。
日本列島に重装騎兵の文化が伝播した形跡が遺物として発見出来るにも関わらず、
時代が下れば騎兵が軽装化している事からも、重装騎兵の不合理さが分かる。


43日本@名無史さん:03/11/13 14:22
>>41
騎射するハニワってあったっけ?
44日本@名無史さん:03/11/13 14:51
突厥・匈奴が来ただけでは?
45日本@名無史さん:03/11/13 19:07
>>16
>あたかもアステカの大軍を16人の騎兵で撃退したかのような錯覚に陥ってないかね?
>アステカに対するコルテス軍の軍事的アドバンテージは僅か16頭の馬ばかりではい。
>主に鉄砲の火力がアステカの軍事技術を圧倒したのだ。
>>40
>コルテスがアステカを圧倒した鉄砲ほどの軍事的アドバンテージが、細々と九州に渡って
>きた半島の騎兵にあったという根拠は何だね?


コルテス軍がはじめてアステカ軍と戦ったタバスコの戦いが参考になる。
アステカ軍は1万人以上、コルテス軍は600人足らずだった。
アステカ軍が突撃して、コルテス軍の鉄砲が火を吹いたが、射手は13人しか
いなかった。
君の想像するように、全軍が鉄砲で武装していたわけではない。

そして鉄砲はいわゆる「種子島」と同じ火縄銃だから、早くて1分間に3発
くらいしか撃てない。1万人の突撃に対して1分間に3発の13丁では考えた
だけで無理だ。大砲もあったがこれはもっと発射速度がおそく、野戦用という
よりは攻城兵器だった。

コルテス軍は危機に瀕した。そこへ10騎の騎兵が突撃して、アステカ軍を
蹂躙した。アステカ兵は馬も騎兵も見たことがなく、騎兵を人獣一体の怪物だ
と思った。そして全軍が恐怖に襲われて退却した。
騎兵を知らない敵に対しては、騎兵は技術的より心理的な効果が大きかった
のだ。
46日本@名無史さん:03/11/13 19:20
またまた恣意的な心理描写を根拠に持ち出す我田引水だな。
ものは試しで、そういう身勝手な論法を逆手に取らせて貰おうかね。
生まれて初めて火薬の破裂音と共に味方がバタバタ倒れる戦いに出会えば、状況を理解できない恐怖に驚愕するのが当然だろう。
16頭の馬よりも、理不尽に見える火縄銃13発の攻撃の方が遙かに心理的な効果を奏したと考えるのが当然だ。
鉄砲を知らなければ、魔術と変わらないのだからな。
47日本@名無史さん:03/11/13 19:41
>>43
お馬さんの埴輪はあるよ・・・
ちゃんと馬具もついてた・・・
48日本@名無史さん:03/11/13 20:28
>>47
「騎射」の意味がわからんのか?
49日本@名無史さん:03/11/13 20:44
えーと
騎馬民族が今に繋がる王権の礎を築いたんなら、
なぜ>>45のような素晴らしい物語が残ってないんだ?
50日本@名無史さん:03/11/13 20:44
鉄製騎馬具普及してないってことじゃない。つまり輸入して新しい物好きの
権力者が着ていたってことだろ。
それと、源平合戦に騎馬戦術はない。日本史勉強してこい。
>>37
51日本@名無史さん:03/11/13 20:52
騎馬民族伝説は、針小棒大な拡大解釈。
徳川家康が愛用したと言われる西洋式の甲冑が現存するが、
それを根拠に家康を西洋人だと断定しているようなものだ。
52日本@名無史さん:03/11/13 21:10
でも、騎馬民族はやっては来たでしょう。
ただ征服というほどの勢力ではなかった?

>>騎馬民族が今に繋がる王権の礎を築いたんなら、
 なぜ>>45のような素晴らしい物語が残ってないんだ?
もしかして、隠蔽されてるのか??
53日本@名無史さん:03/11/13 21:15
だからね、騎馬民族と言うカテゴリー自体が誤りなんだってば。
遊牧民とか狩猟採集民というのは、生活の為に馬にも乗る場合がある。
だが、農耕民だって馬に乗る場合はある。
馬を利用するかしないかで民族を分類するのは曖昧すぎるんだよ。
モンゴル人のような遊牧民や、扶余人のような農耕民、そして女真人のような狩猟採集民。
いずれも交易の為なり逃亡の果てに日本列島に渡る者が皆無とは言えない。
それだけの話。


54クソレス2号:03/11/14 00:39
>モンゴル人のような遊牧民や、扶余人のような農耕民、そして女真人のような狩猟採集民。
日本の弓は独特な形状なわけだが、大陸から征服しに来た(?)民の弓には同じ形状が
見られるのか知りたい。
ただ「来る」だけなら大いにありえるとは思うが。
55日本@名無史さん:03/11/14 01:31
お馬さんの世話をしてたのは、高麗の人?高句麗の人?
チーズ食べてたのはモンゴル人?
56日本@名無史さん:03/11/14 01:44
>>55
お馬さんの面倒を見てたのは馬子。
チーズ食べてたのは鼠。
57日本@名無史さん:03/11/14 01:51
確か民俗神話板と人類学板にもスレがなかったっけ
58日本@名無史さん:03/11/14 04:39
縄文時代から交流があるんだから・・何をかいわんやだろ。
59日本@名無史さん:03/11/14 13:34
>>46
私が書いたのは君のような「物は試し」の「恣意的な心理描写」では
ない。
コルテスはスペイン王に報告するために克明な記録を残しているのだ。
563人の兵士のうち鉄砲手は13人しかいなかったことも、積んで
行った馬は16頭だったがタバスコで突撃したのは10騎だったことも、
記録があるからわかるのだ。

たしかに鉄砲の音も恐かったろうが、それが決定的でなかったことは
実際に鉄砲の効かない白兵戦に至っていることからもわかる。

>>49
>騎馬民族が今に繋がる王権の礎を築いたんなら、
>なぜ>>45のような素晴らしい物語が残ってないんだ?

コルテスのような記録の手段を持たなかったからさ。記録さえあれば
「謎の4世紀」なんて言わなくて済むのだが。
だけど「から國に差し向かうよき國だから行って治めよ」なんていう
のは引っかからないか?
つまり、高天原から見れば単なる下界なのになんで「から國」を
引き合いに出すのか。ということ。
60日本@名無史さん:03/11/14 13:37
>>50
>それと、源平合戦に騎馬戦術はない。日本史勉強してこい。

またまたそこで「騎馬戦術」をモンゴルの「全軍騎乗:集団戦法」
の意味に使っているのだろう。
源平時代〜鎌倉時代において馬を所有すること、騎射に長じていること、
が領主クラスの武士のアイデンティティだった、ということも、「牛馬
を見ず」という邪馬台国時代にくらべれば目覚ましいことなのだ。
そういうことが物語などを通じて我々の骨肉になっているから、気がつかない
だけだ。

>>53
>だからね、騎馬民族と言うカテゴリー自体が誤りなんだってば。

まったくその通り。しかもそれを「遊牧民族」に一般化したのが江上の
さらなる誤り。
農耕民族を支配するのを飯の種とし、かつ國を建てるのがうまい軍事的
政治的民族という意味で「征服民族」とでも言えばよかったのだ。
61日本@名無史さん:03/11/14 13:40
>>54
>日本の弓は独特な形状なわけだが、大陸から征服しに来た(?)民の弓
>には同じ形状が見られるのか知りたい。

「複合弓」で検索すれば見つかると思うが、そのことに関連するページが
ある。
それによると、モンゴルなどの短弓は木と骨、腱などの複合弓なわけ。
で、それを接着しているのは動物の膠だ。ところが膠は日本の気候では
溶けてしまって役に立たない。
それで単一材料の弓が発達し、反発力の不足は長さで補い、それでも
取り扱いやすくするために上長下短になった、という。
62日本@名無史さん:03/11/14 14:28
どうして平安貴族は馬車じゃなくて牛車に乗ってるの?
63日本@名無史さん:03/11/14 14:44
おいおい、日本の気候でも膠は接着力を維持するのだが。
弓については、始めから大陸式の製法が普及していないという解釈の方が自然だろう。
64日本@名無史さん:03/11/14 16:18
ばかだなぁ。
複合弓であるとかないとかかかわらずにだよ。どうして騎馬には向かない大弓わざわざ使うのよ
65日本@名無史さん:03/11/14 16:50
>>64
短弓は必ず複合弓なのだ。
>>63
野外で雨に打たれても?

詳しくは私の言ったページを見てくれ。
66日本@名無史さん:03/11/14 17:09
和弓でも膠は使うのだがね
67日本@名無史さん:03/11/14 17:10
68日本@名無史さん:03/11/14 18:27
>>38
あのさ、海が横たわっているんだよ。
少ない勢力がますます小さくなるんだよ。
さらに海を渡っても海上交通が主だよ。
そもそも海洋民でもないフヨが海渡れたのかよ。

大体、カヤすらまとめきれない仮説の勢力がどうしてわざわざ海を渡って
倭に侵攻できるんだよ。先後関係が逆だろ。

しかも、騎馬の武器である弓すら日本では使えないんだろ?
どうやって戦うのよ。
さらに、騎馬が顕在化するまでのタイムラグといい、ついていけねぇよ。

そんなアクロバティクな合理性を欠いた推論についていけるわけないだろ。

そもそも日韓の記録とは正反対の説だしな。
69日本@名無史さん:03/11/14 20:54
>>68
>そもそも海洋民でもないフヨが海渡れたのかよ。

では「海洋民でもない」モンゴル軍はどうやって日本に押し寄せたの?

70日本@名無史さん:03/11/14 20:57
時期が違うだろ
ナンセンスな反論だよ。
71日本@名無史さん:03/11/14 21:09
>>69
馬が泳げることを知らないのか?
かつて佐間の介と言う足軽が 馬に乗って琵琶湖を渡ったと言う記録がある。
軽装のモンゴル弓騎兵軍団ならば、玄界灘くらい造作もなく渡れたことであろう。
72日本@名無史さん:03/11/14 21:15
>>71
あ、それいいね。
騎馬民族は馬にとって泳いで来ました w
73日本@名無史さん:03/11/14 21:21
71は詩人だ。
俺もそれがいい!
74日本@名無史さん:03/11/14 23:02
>>69
モンゴルは高麗や南宋の水軍を利用したんでしょ。
75日本@名無史さん:03/11/15 05:05
>>74
その通り。
モンゴルは支配している高麗人や南宋人に船を造らせ、水夫を提供させた。
ではなぜ、金官加羅の扶余が同じことをできないと考えるのか?
彼等が支配しているのは半島倭人であり、魏志倭人伝によれば倭人は
玄界灘を「南北市テキ」していたのだ。

>>62
牛は牽かせるもの、馬は騎乗するものだったのだろう。
光源氏も昼顔が死んだときに一人で馬に乗って宮へ帰っている。
因みにモンゴルでもジンギスカンの移動宮殿を牽いたのは牛だ。
76山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/11/15 10:10
源氏物語に昼顔って出て来ましたか。夕顔の時は別の牛車だったような。
77日本@名無史さん:03/11/15 13:46
>>68
>大体、カヤすらまとめきれない仮説の勢力が

発掘成果によれば、3世紀末にクヤ韓国(金官加羅)に現れた北方的軍事的な
文化はその後周辺の伽耶諸国に伝播する。金官加羅が伽耶諸国の盟主となって
新羅に対抗していたと見られる。

>しかも、騎馬の武器である弓すら日本では使えないんだろ?
>どうやって戦うのよ。

壁画などから見ると、装甲騎兵の主武器は弓よりもむしろ長槍だった。
ヨーロッパの装甲騎兵(騎士)との一致が見られて面白い。

>さらに、騎馬が顕在化するまでのタイムラグといい、ついていけねぇよ。

「簒奪」と言っているのだから古墳時代前期の統一より遅れてもよいのだ。
因みに5世紀前半には九州に騎馬文化が現れ、その後本州各地に馬用の
牧場が現れる。

>そもそも日韓の記録とは正反対の説だしな。

「日韓の記録」に書かれてないものは歴史になかったと見てよいのか。
例えば「広開土王碑」は同時代資料であり、金石文だから信頼性が高いと
見なされるが、その前の方の主題は「倭/任那連合軍を高句麗軍が大いに
破った」ということだろう。これは4世紀末のことだが、この事件は
「日韓の記録」にも中国の記録にもまったく現れない。
たまたま碑が発見されなかったら永久に知られることはなかったのだ。

因みに発掘成果によれば、金官加羅は5世紀に入ると衰えて盟主の地位を
去ったと見られる。このことは上記の事件と関係があると思う。
78日本@名無史さん:03/11/15 13:59
やっぱオロチョン族がトナカイに乗ってやってきたというのは
伝説かな・・・・
79日本@名無史さん:03/11/15 14:01
騎馬民族説はいま…こんな有様なのね。。。
80日本@名無史さん:03/11/15 14:14
韓国で金海市の大成洞古墳群を発掘調査してる申教授は、
その調査によって、騎馬民族が加羅を征服したことまでは事実だが、そこで終わり。
日本には遠征していないと結論づけたそうだ。
月刊現代だったと思うが、江上波夫氏の逝去に際しての座談会(安原美典氏と他誰か)
で、誰かがそのことを紹介してた。)
大成洞古墳群では既存の古墳を破壊して騎馬民族王朝の墓を作ってるのだが、
それもしばらくして造営を止めてしまってて、今度は新羅系の遺物が残されるようになってる
そうだ。
日本の古墳には、大成洞古墳群に見られるような明白な騎馬民族的色彩がないと
申教授は判断している。
加羅までは制服したが騎馬軍団を渡海させる航海技術がなく、いずれ新羅に制圧されて
征服王朝は滅亡し、流民と化して渡日したのではないだろうか?
81日本@名無史さん:03/11/15 17:40
>>60
>源平時代〜鎌倉時代において馬を所有すること、騎射に長じていること、
>が領主クラスの武士のアイデンティティだった、ということも、「牛馬
>を見ず」という邪馬台国時代にくらべれば目覚ましいことなのだ。
>そういうことが物語などを通じて我々の骨肉になっているから、気がつかない
>だけだ。

だから金持ちがロレックスはめるのと同じ意味だろ。妄想はやめろ!
82校長が強盗:03/11/15 17:50
この事件は報道されていません。教育委員会も校長を処分しません。
 皆様の力でこの事件を広めてください。
被害者先生のサイト
 http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8595/
 事件究明を求める署名サイト
 http://chiba_273.at.infoseek.co.jp/
   ∧_∧
  (  ^^ )< ひろめよう
83日本@名無史さん:03/11/15 20:01
>>76
ごめん、夕顔だった。
夕顔と同乗して廃院へ出かけたのは牛車。
廃院で夕顔が死んだ後、従者の惟光が後始末のために残り、源氏は
惟光の馬に乗って一人で二条院へ帰ったのだ。
84日本@名無史さん:03/11/15 20:12
騎馬民族は馬やヤギで生計を立てていた、収入が激減したら、南方へ出稼ぎ・・・

羊の毛皮で生計を立てて生活安泰。
ただ、根まで食べる羊に土の養分は耐えられるだろうか?
85日本@名無史さん:03/11/15 20:47
日本ってヤギや羊の記録ってあるの???古典に。
86山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/11/15 21:00
>>83
成る程。『平中物語』ぐらいになると主人公は乗馬が多いですね。道長など
も火事などの非常時には馬で内裏に駆けつけたらしい。
>>85
上野では古代に毛氈用の羊が飼われていましたが、その後絶えて平清盛が輸
入するまで存在せず。その後「羊の病」という謎の病気が流行ったので清盛
は非難されたそうです。
仏典や説話集にはよく喩えとして出て来ますが、実物は滅多に出て来ません。
87日本@名無史さん:03/11/15 21:11
>>80
>騎馬民族が加羅を征服したことまでは事実だが、そこで終わり。
>日本には遠征していないと結論づけたそうだ。

申教授の結論がそうであることは知っている。付け加えれば申教授は金官の
「騎馬民族」は扶余であると結論している。(松花江流域の扶余遺跡との
出土物の類似から)

>それもしばらくして造営を止めてしまってて、今度は新羅系の遺物が
>残されるようになってる

5世紀になると王墓級の墓が造られなくなるのだ。
(下級の墓は依然として造られる)
金官に北方系の王墓が造られ始めるのは3世紀末だから、金官の扶余系王権は
4世紀のまる1世紀間の最盛期を持ったわけだ。
しかし金官が衰えても伽耶ぜんたいが衰えたわけではない。こんどは大加羅と
安羅が代わって最盛期を迎えるのだ。

4世紀というのは記録上は倭が最初に半島に進出し始める時期だ(4世紀前半)。
そして4世紀末には、広開土王碑によれば高句麗に対する倭/任那加羅(金官)
/安羅の共同作戦を行っているのだ。
そうすると困ったことが生じる。
というのは4世紀、つまり古墳時代前期の、まだ統一がなったかどうか怪しい
倭が、大挙して朝鮮海峡を渡り、すでに装甲騎兵戦術を持っている金官加羅を
服従させた、ということになるからだ。

申教授はそもそも倭の半島進出を認めないのかもしれないが、我々はそれを
事実とする立場だからなんとかつじつまを合わせなければならない。
ここのところをどう考える?
88山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/11/15 22:00
>事実とする立場だからなんとかつじつまを合わせなければならない。
もう分かっててやってるんじゃないかという気が。順序が逆でしょうに。
89日本@名無史さん:03/11/15 22:17
というか、
騎馬民族ってなに?
馬に乗れば騎馬民族なの?
生業は遊牧民?農耕民?狩猟採集民?
90日本@名無史さん:03/11/15 22:46
>>87
5世紀になると王墓がつくられなくなったり新羅系遺物が散見されるようになるのは、
任那滅亡の歴史と一致する。
任那地域には倭人が多数居住してて、倭の北端との見方も根強い。
倭がその一部である任那を騎馬民族に制圧されて困ってしまったが、
重要な戦略物資である鉄の供給源でもあり、新羅との対立も厳しかったから、
全面的な抗争に発展するよりはむしろ戦略的に連携して、高句麗・新羅と対決
したのではないか?だいたい征服王朝とは言っても、百済も含め、真の意味での
征服者と言えるほどの統治はできてなかった。象徴的に君臨してる程度のレベル。
そのため、任那滅亡後の辰王家の亡命や、後には百済貴族の亡命も受け入れることに
なったと見ることも可能だろう。
だいたい、大陸騎馬軍団の日本への海洋遠征はモンゴルですら失敗してる。
それなのにあの時代に可能だったとはとても思えない。
ノルマンジーや大航海時代とは状況が違うんじゃないの?
91日本@名無史さん:03/11/15 22:53
でも、まあ神社で馬が祭られてるとこもあるじゃん。
神馬っていうの???
お馬さんを大切にしてた人々もいるんでしょ。
92山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/11/16 09:36
>>91
寧ろ逆でしょう。ここでいう「騎馬民族」がどんなものかよく分かりません
が、大切な馬を乗り換えたり血を啜ったりすることはまず無い。
あちらの馬は「大切」というよりは「重要」といった方がいい気がします。
93日本@名無史さん:03/11/16 09:56
馬も羊も日本の気候では高温多湿過ぎて繁殖に適さない。
特に羊はかなり標高の高い山岳地域や東北以北でないと無理だったようだ。
94日本@名無史さん:03/11/16 10:49
>93 馬も羊も日本の気候では高温多湿過ぎて繁殖に適さない。

勝手に新学説作るな。羊は知らんが馬は育つ。今だって野生化した馬いるだろ。
95日本@名無史さん:03/11/16 11:09
>>94
おらん。
96日本@名無史さん:03/11/16 11:28
モウコのスレ煮詰まったんじゃあない?一人の粘着チョソ以外は
97日本@名無史さん:03/11/16 11:51
馬も平野部では人間が世話しないと夏を乗り切れない。
野生の馬が繁殖可能なのは高地と関東以北だろうな。

98日本@名無史さん:03/11/16 12:15
騎馬民族は来たけど征服はできなかった・・・
むしろ使役されたり、馬場を経営してすごしてたんですかね。
99日本@名無史さん:03/11/16 13:15
晩年江上の修正騎馬民族説では
やってきた「騎馬民族」も騎馬してかどうかも不明。
征服ではなくて平和的同化で支配的地位。

なんか当初の勇ましいイメージ全面撤回なんですけど・・・
100日本@名無史さん:03/11/16 14:06
つーか平安王朝で一段落下した天皇という象徴
の下で実質的権力者にいかにしてなるかの闘争が
熾烈に行われてきたのが日本の歴史のような気がするな。
一番長かったのが徳川政権だけど・・・
101日本@名無史さん:03/11/16 16:13
宮崎にも野生化した馬はいるし、トカラ馬もいる。
馬の生育の適否で「騎馬民族」うんぬんは素人の戯言。
そんなこと言わなくとも「騎馬民族」説は否定できる。
102日本@名無史さん:03/11/16 20:07
>>101
ほお。じゃあご高説を拝聴しようではないか。
103日本@名無史さん:03/11/16 21:02
>>80
>韓国で金海市の大成洞古墳群を発掘調査してる申教授は、
>その調査によって、騎馬民族が加羅を征服したことまでは事実だが、そこで終わり。
>日本には遠征していないと結論づけたそうだ。

「巨大古墳と伽耶文化」で彼が書いていることを引用しよう。
金官と江上説について:
「以上お話ししたことは江上説を裏付けるたいへんいい資料になると思います。
もうすこしはっきり申し上げますと、北方系文物の流入、殉葬の出現と同時に、
墓制も突然北方系墓制になるので、少なくとも伽耶地域に限っていえば、騎馬
民族説はかなり肯定できると思います。」
日本と江上説について:
「問題は日本です。日本では騎馬民族征服説を完全に裏付けるだけの積極的な
資料がまだ見つかっていません。(中略)北方系の木郭墓が日本ではまったく
発見されておりません。この点は江上説の最大の弱点ではないかと考えられます。
殉葬の場合も同じです。こういった点を重視すると、騎馬民族が日本を征服して
王朝を立てたかどうかはまだ断定できないと思います。」

要するに伽耶は肯定、日本は保留ということだろう。
(殉葬については古墳時代に殉葬があり、埴輪はその代用品という話が日本書紀
にあるから、よく調べれば殉死者の骨が出てくるのだろうが)
104日本@名無史さん:03/11/16 21:07
>大成洞古墳群では既存の古墳を破壊して騎馬民族王朝の墓を作ってるのだが、
>それもしばらくして造営を止めてしまってて、今度は新羅系の遺物が残される
>ようになってる

すこし注釈が必要だ。5世紀に大成洞古墳群での王墓造営が見られなくなった
後、洛東江東岸の地域が代わって金官の中心になり、それが新羅化するのだ。
この地域は金官の発展過程で併合された地域であり、もともと新羅の影響下にある
地域だった。申教授は5世紀以降は「名前だけの金官」と言っている。以後金官の
実体はなくなった、という意味だろう。申教授はそれを「行方不明」という言葉で
表現している。

>加羅までは制服したが騎馬軍団を渡海させる航海技術がなく、

すこし時代は下るが、継体6年に筑紫国の馬40匹を百済に贈った、と日本書紀に
あるそうだ。案外に馬の海上輸送はできたのではないか?
同じ倭人文化圏だし。
105日本@名無史さん:03/11/16 21:13

>>90
>重要な戦略物資である鉄の供給源でもあり、新羅との対立も厳しかったから、
>全面的な抗争に発展するよりはむしろ戦略的に連携して、高句麗・新羅と対決
>したのではないか?

そのような立場の学者は多い。それでも弱体の伽耶を倭が一方的に侵略した、
という以前の見方からすれば大きな進歩だ。
しかし私の疑問は、重要資源の鉄を押さえ、しかもレベルの違う軍事技術を
持つ相手と、対等の立場で戦略的提携ができたのだろうか?ということ。

>征服者と言えるほどの統治はできてなかった。象徴的に君臨してる程度のレベル。

クヤ韓国については完全な征服だったと思うが、仮に「象徴的」だったとしても
逆のことも言える。例えば邪馬台国の統一を考えると、倭の諸国は一人の、恐らく
は霊力の強い巫女をシャッポにかぶるだけで統一された。しかも誰も卑弥呼を
見た人はいないのだから「霊力が強い」というのも口コミに違いない。
それならば海峡をはさむ同じ倭人文化圏の彼岸に、ものすごい軍事技術を持つ
征服者があらわれて、しかもどこか遠くから来た尊いお家柄だそうだ、という
口コミだけで、少なくとも北九州までは統一できてもよいではないか?
まあ極端に言えばだけど。
106日本@名無史さん:03/11/16 21:59
>>104
馬を送ったという書紀の事例は“平和的移送”。平時と戦時とでは違う。
鑑真の来日も大変だったくらいだし、征服目的だと応戦もある。

>>105
だから、任那にはもともと倭人が大勢住んでて、むしろ倭人の地と見るべきほど。
単純な倭の征服とはもともと違ってる。
それに百済でも辰王家は流移の人であって、代々地域の推挙をもって初めて王となった、
という記録も残ってる。これは征服者とはかけ離れた実態。

また、邪馬台国優位の倭も、彼らを連合の頂点においているだけのことであって、
各地で強固な権力が独自に根を張ってた。

それに邪馬台国→大和朝廷が一貫して近畿に存在してたことは近年の調査で立証
されつつあり、そうなると任那はあくまで列島内でもないはるか向こう、海を越えた
出先機関でしかない。その出先機関担当のしかもその中の一部地域でしかない
制圧如きで、倭が全面屈服することなどあり得ない。
長崎の出島と同じで、一部地域で軍門に下った倭人を通じて、騎馬民族的風習が
日本に流入したのが、その後の後期古墳の特異性ではないか。
西欧文化導入の明治日本のように敵対せず強調し、早々と優れた騎馬民族文化を導入
して技術・軍事レベルを向上させ、今度は同盟して反転攻勢をかけたのでは。
107日本@名無史さん:03/11/17 00:02
>>106

概ね同意なんだけど北方系神話・風俗はどう説明する?

「支配階級の風習のはず」だから
征服があった証拠ってことになってるが。
108日本@名無史さん:03/11/17 00:16
>>106
前期古墳と後期古墳の間には江上氏のいうような断絶はないというのが
専門家の見解。
>>107
神話の類似性なんて世界的現象。
日本神話には聖書やアレクサンダー大王東征神話の影響も見られる。
それに、「ソウル」につながる「フル」などという加羅神話だけど、
日本神話にも見られる事実については、「ソウル」「フル」などの方こそ
日本語が語源ではないか?
109日本@名無史さん:03/11/17 00:49
ルリアちゃん見〜つけた!

って言っても皆思い出せる?
110日本@名無史さん:03/11/17 01:14
>>103
その文章は申教授が大成洞古墳群の発掘調査を行った直後に、
月刊ASAHI誌上で発表したものだと思うが、あくまで直後の論文だ。
同じ誌上で江上氏はまだ日本での類似遺物の発見もないままに、
自説上のミッシングリンクが埋められたと早合点して「騎馬民族説は立証された」と
高らかに宣言してた。しかしながら、>>80の現代のエピソードはそれからだいぶ絶ってから
のものと思われる。「〜さん、騎馬民族は南鮮までは来ました。でも日本には行ってませんよ。」
と耳打ちしたのは、発掘調査が大いに進展し、日本遺物との決定的な相違が認識されて
以降のことだろうから、前提となる認識そのものの深さが全く違っていると言える。

>>107
漢字とか、仏教とかの時のように、
先進文明の担い手が亡国後、移民として流入してきて、大和朝廷で重用されたのが
神話風習上の共通点が生まれた原因だろう。
江上氏は農耕民族は騎馬民族とは逆に、自分の文化に強く固執するものだとして、
古墳文化の大きな変遷が支配民族の移動の間接証明だとしていたが、
同じ農耕民族でも島国は一般的に大陸文化を有難がるものだから風俗その他を取り入れるだろうし、
天武が帝辞等を元に日本書紀を編纂する際に助力し、大陸の神話などを折り込んだのではないか?
“歴史書”というものは、そのような慣用的語法で語られるものだという
固定観念に基づいて作られたのだと思う。

種子島に流れ付いたポルトガル船から一丁の鉄砲を手に入れた日本は瞬く間に世界最大の
鉄砲生産国へと浮上した。任那で鉄器や馬具を入手した日本が、その文化を吸収するのに
時間はかからなかったはずだ。
任那における扶余系との連携は、同じく扶余系と化した百済とのその後の強固な同盟関係
と、任那割譲や滅亡後亡命者の受け入れの説明にもなる。
111110:03/11/17 01:20
>>103
間違えた。
引用先、「巨大古墳と伽耶文化」と書いてある。

>>110は江上氏らが同時に掲載された際の内容報告。
「騎馬民族説は立証された」と「消えた古代南鮮の支配者たち」だったと思う。
申教授は日本の後期古墳にはそれほど騎馬民族的色彩はなく、
いわゆる騎馬民族説の当否については今しばらく留保したい、と結んでたと記憶。
その後、日本には行かなかったという結論に達したそうだ。
112日本@名無史さん:03/11/17 02:16
飛鳥の猿石みたいに突厥やキルギス人の名残もあるから
来たのは来たんじゃないの???
ただ、征服というレベルでは・・・・
113日本@名無史さん:03/11/17 02:20
>>112
名残というか類似性が見て取れるということでしょ。
114日本@名無史さん:03/11/17 02:31
薬師如来と12神将って突厥のもちこんだ宗教?
115日本@名無史さん:03/11/17 02:58
馬は関東平野が先じゃないか?
平安時代にも牧が多く馬の産地だったし、それに東北も。
116日本@名無史さん:03/11/17 16:14
スキタイには「三種の神器」伝説があるんですか?
天から下された黄金のスキとくびき・杯・斧の3点だけど。
117日本@名無史さん:03/11/17 16:57
ロボットアニメ鋼鉄ジーグの敵邪魔大王国は騎馬民族の侵入にやられて
現代まで眠りについていた。
ハニワ幻人や空中要塞(蒸気機関で動く。造られたのが弥生時代と考えるとすごいね)
暗黒科学なるものを有すうえ女王は妖術まで使うのに。
いったいどんな騎馬民族だよ。
そしてそれにやられる邪魔大王国弱すぎ(つかアホ)
118日本@名無史さん:03/11/17 19:44
>>105
>そのような立場の学者は多い。それでも弱体の伽耶を倭が一方的に侵略した、
>という以前の見方からすれば大きな進歩だ。
>しかし私の疑問は、重要資源の鉄を押さえ、しかもレベルの違う軍事技術を
>持つ相手と、対等の立場で戦略的提携ができたのだろうか?ということ。

韓国人にありがちな発言だな。対等な立場と戦略的連携を結べたから、倭は
対等な軍事技術を要していたとは逆説的には絶対考えない。いつも自国に優
越な発言しかしない。だいたいこの時代の前代は、漢に半ば征服されている
ことに気づいてほしい。さらに邪馬台国は漢に朝貢を行いっている時代。加
羅は存在すら怪しい。
119日本@名無史さん:03/11/17 20:37
>>106
>馬を送ったという書紀の事例は“平和的移送”。平時と戦時とでは違う。
>鑑真の来日も大変だったくらいだし、征服目的だと応戦もある。

平時なら送れるが戦時は困難、ということは敵前上陸のようなことを考える
のだろうか。
「騎馬民族」と聞くとなにか華々しいことがなければならないと考えるのが
アンチ派の特徴だが、4〜5世紀に九州に扶余がやって来たとしても、蒙古襲来
の時の多多羅浜の戦いのような全面戦争は起こらなかっただろう。

前回書いたような平和進駐のようなことでなかったとしても、北九州の諸国は
各個に撃破されるか、降伏するかどちらかだったのではないか。

これについては日本書紀の、景行記および仲哀記の九州平定記事が参考になる。
これらの天皇は九州に腰を落ちつけてほとんど九州全土を転戦するのだが、
豪族達は天皇軍と単独で戦うか、戦わずに恭順の意を表するかのどちらかで、
決して連係して天皇に抵抗することがない。

そして恭順の意を示す場合は必ず榊の枝に勾玉、鏡、剣をかけるのだが、時には
さらに「素旗」(しらはた)や「面縛」(みずからしばる)を伴うから、これは
降伏儀式であることが知れる。あの伊都国もこのときに天皇に降伏しているのだ。

扶余の九州征服があったとしてもそれは上記のようなものだったろう。
そしてそれならば大軍勢も、大量の馬も必要としない。
装甲騎兵はデモンストレーション用の数騎で十分だったかもしれない。

さらに言えば上記の九州平定記事は、いかに九州が重要だったとしても、天皇が
親征して何年間も九州に滞在するというなんだか変なものだ。
この記事は外来の征服者の九州平定事業の記憶を挿入したと見ることもできる。
120日本@名無史さん:03/11/17 20:59
>さらに言えば上記の九州平定記事は、いかに九州が重要だったとしても、天皇が
>親征して何年間も九州に滞在するというなんだか変なものだ。
主観
>この記事は外来の征服者の九州平定事業の記憶を挿入したと見ることもできる。
恣意
121日本@名無史さん:03/11/17 21:25
>>119
書き込むのヤメロ。質が落ちる。
122日本@名無史さん:03/11/17 21:33

 「阿波岐原」の阿波って「突厥の阿波可汗」の阿波と関係ある???
123日本@名無史さん:03/11/17 21:37
>>122
分かりきったことを聞くな。
124日本@名無史さん:03/11/17 21:44
じゃ、神武天皇は突厥???
天照大神はマジでアルテミスなのか???
125日本@名無史さん:03/11/17 21:46
その割にはギリシャ神話っぽいよね?
「古事記」
126日本@名無史さん:03/11/17 22:25
>>119
どして九州の豪族さんたちは戦わずに降服しちゃうの?
127日本@名無史さん:03/11/17 22:52
騎馬民族と言うが、普通騎馬民族は北方の乾燥地帯で遊牧を営む人々のことを
指すのであって、朝鮮半島のような湿潤地域には騎馬民族は存在しなかったはず。
128日本@名無史さん:03/11/17 23:34
アルテミスは月を神格化したものだろう。
日本で太陽神に変身した理由が分からんわい。
129日本@名無史さん:03/11/18 00:15
>>126
上の方に書いてあるように
馬が怖かったからだろw

てかアステカやインカと比べて日本に
馬そのものや情報が入ってる可能性は遙に高い。
馬の存在を知っている中国系流民が大量に入ってる
時点で騎馬軍勢に超自然的な恐れを抱く事なんてあり得ない。
130日本@名無史さん:03/11/18 00:31
記紀神話で先住民がニニギノミコトに殆ど抗戦しなかったという記述になっているのは、
侵略者としての本性を隠蔽して王権の正当化を心がけたからだというのが常識だろ。
実際にはタケミカヅチとタケミナカタのように、武力衝突の痕跡を残す記述も残っている。
天孫降臨の地は南九州で、ニニギが日本に降臨した途端に現地にいたコノハナサクヤとたちまち恋に落ち、
そのコノハナサクヤは桜島を神格化した神である事からも、
天孫と記された民族が朝鮮半島経由である可能性は低い。
隼人と同様に南西諸島を黒潮に乗って九州にたどり着いたミクロネシア系民族か、山東半島あたりから渡航した大陸人であろう。
朝鮮半島経由で九州に渡ってきた民族だとするなら、天孫降臨が九州
北部でないのは不自然だ。

131日本@名無史さん:03/11/18 07:46
しかも学会では邪馬台国畿内説の方が強いわけだし。。。
132日本@名無史さん:03/11/18 14:35
>>126
どして九州の豪族さんたちは戦わずに降服しちゃうの?

どうして戦わずに降伏するか、当時の伊都国、奴国あたりの豪族の立場に
なって見ればわかる。豪族達は同じ文化圏に属するクヤ韓国を窓口として
半島南部の鉄を入手して、九州での地位を維持して来た。

ところがある日、クヤ韓国に扶余族(いわゆる騎馬民族)が現れて、これを
支配してしまった。窓口を占領されたのだから大変だ。
しかし聞くところではクヤ韓国の新しい支配者は善政を行っているようだし、
有り難いことに従来から心配だった、文化圏の違う新羅の脅威に対して、
クヤ韓国を守ってくれるばかりでなく逆に新羅を圧迫しているらしい。

装甲騎兵という、ものすごい戦法を持っているそうだから攻めて来られると
恐いが、恭順さえ示せば従来の地位を保証してくれるそうだ。時折の戦争に
若干の兵力を差し出していれば鉄も供給してくれるだろう。鉄さえ手に入れ
ば九州での我々の地位も安泰だ。

こんなふうな立場になったら、孤立無援、徒手空拳で反抗するよりも支配下に
入る方を選ぶのではないか?
こう考えると、扶余族はクヤ韓国を支配した時点で北九州までを手に入れた
のと同じであり、クヤ韓国をねらったのはうまい作戦であったと言えるだろう。
133日本@名無史さん:03/11/18 14:38
>>129
>馬の存在を知っている中国系流民が大量に入ってる
>時点で騎馬軍勢に超自然的な恐れを抱く事なんてあり得ない。

魏志倭人伝には「牛馬を見ず」となっているが、マキムクで骨も出ているし、
少数の使役用の馬はいたのだろう。その意味ではアステカとは異なる。
しかし使役馬を知っていることと装甲騎兵として使いこなすこととは違う。
少なくとも4世紀前半の列島倭人が騎兵を持っていなかったのは、騎乗用の
馬具が出ないことから確かだ。

>>130
>実際にはタケミカヅチとタケミナカタのように、武力衝突の痕跡を残す記述も
>残っている。

日本書紀の記事では単独で戦うか、戦わずして降伏するかどちらかだった、
つまり武力衝突の場合もあったと言っているのだ。人の書いたものを良く読め。
重要なのは豪族達が「九州連合軍」を形成することがなかった、ということ。

景行/仲哀の九州平定記事と、扶余のクヤ韓国支配とは、神功皇后の新羅征伐
記事を4世紀中葉の倭の朝鮮進出として考えれば、だいたい同じ頃のことだ。
そして九州の豪族達にとって(日本書紀による)畿内の天皇族と、クヤ韓国の
扶余族とは、どちらも外部勢力であることに変わりはない。

天皇族に対して九州連合軍を組織することのなかった豪族達が、どうして
扶余族に対しては一体になって戦う、と考えるのだろうか。
134日本@名無史さん:03/11/18 17:06

 「阿波岐原」の阿波って「突厥の阿波可汗」の阿波と関係あるなら
  神武天皇は亡命者か・・・
135日本@名無史さん:03/11/20 21:06
古典的な江上説批判の代表、という意味で井上光貞「神話から歴史へ」から
引用しよう。

<引用始め>
まず、江上氏が「南鮮の辰王もまた征服者だ」とした点についてである。
江上氏がそう判断したのは、「魏略」などに秦人が遅れて韓族のなかに
入ったとか、それは土着民ではなく「流移の人」であったとか記してある
ためであるが、満鮮史家の三上継男氏や末松保和氏らは、「これをもって
辰王が北方騎馬民族であると断定するのは飛躍であろう」と批判した。
まして、三韓全体の王としての地位を保っていた辰王が、その後、記録に
見えなくなることをもって、弁辰の、またはその一部の支配者となったと
みるのも、証拠を欠いた推測である。このように、辰王が北方騎馬民族で
あることも、のちに弁辰の支配者となったことも立証されないとすると、
騎馬民族が海を越えて日本に来たというその仮説そのものが疑わしくなる
のである。
<引用終わり>

このようなしたり顔の批判を真っ向からくつがえしたのが最近の金海周辺
の発掘である。発掘成果が語るところでは、そこには3世紀末から少なく
とも4世紀いっぱいにかけて、文献上の辰王その人であるかどうかは別と
して、「北方騎馬民族」と呼んでもよい「扶余族」の王権があったのであり、
そのころの金官加羅(任那加羅)は伽耶地域すなわち弁韓のリーダーだった
のであり、新羅すなわち辰韓を圧迫していたのである。「弁辰の支配者」と
いうのはあながち誇張ではない。

発掘成果という「物証」で証明された、半島南部の「北方騎馬民族」の存在
に対して、現在のアンチ江上派はいわば呆然自失している。そして論の本質
を抜きにして「騎馬民族」と言う言葉の問題にしがみついたり、「いや日本
までは来ていない」という部分否定で当座をしのいだりしているのである。
<続く>
136日本@名無史さん:03/11/20 22:09
・・・現在のアンチ江上派はいわば呆然自失・・・
イイかんじダナ。続きキボーン。
137日本@名無史さん:03/11/20 22:55
>>135
呆然自失になるどころか、
昔から現在に至るまで、
金海市での発掘があった今日でも、、
騎馬民族説など、考古学・民俗学・歴史学界において、
全く相手にされてません。

支持してる学者など無視できるほどの人数ですよ。
138日本@名無史さん:03/11/20 23:59
>>137
その通り。
139日本@名無史さん:03/11/21 19:45
騎馬民族征服説の一番の問題点はやはり申教授の言うように扶余タイプの
古墳がないこと、そして列島の古墳の発展に連続性が見られることだろう。
ただし「殉葬」については、記録上では存在したことになっているのは
前に触れた。
一方、騎馬民族征服説が魅力的なのは4〜5世紀以降の国際関係の謎を
一挙に説明できることだ。

例えば、倭国はなぜ百済と特別な関係にあったのか。対高句麗戦略で利害
が一致したと言っても、その関係が高句麗が局外になっても続くのはなぜか。
百済の滅亡直前には百済のために國を傾けて大国唐に挑戦するという冒険を
敢えてしたのはなぜか。

また倭国は何故任那を早くから領土のように扱ったのか。最近の知見を
入れれば、金官の扶余系王権が存在したにも拘わらずそれができたのは
なぜか。

また倭の五王はなぜ、誇大妄想とも取れる半島の利権を主張したのか。
そして、中国はなぜそれを大部分認めたのか。

これらは金官の扶余が倭の王権を征服ないし簒奪したという騎馬民族征服説
の立場からはまことに無理なく説明できてしまうのだ。それぞれどのように
無理なく説明できるのか、改めて解説するまでもなかろう。
<続く>
140日本@名無史さん:03/11/22 11:43
>>139
倭の五王が南鮮全体の領有権を主張したのは、実際に対高句麗戦において、
実質制圧していたという現実があるからだし、任那に至っては倭の北限だった。

それが辰王家による統治の歴史を反映したものであって、
旧来の認識とは違うものだったというのなら、
中国がそれを容認した背景となるべき扶余系の南鮮征服及び倭の王権簒奪の
“歴史”は最低でも伝承のレベルくらいには中国歴史書に記されていてしかるべきだろう。
141日本@名無史さん:03/11/23 13:13
北方ツングース系神話の謎の真相など、およそ想像できるというものだ。
卑弥呼はアマテラスだし、聖徳太子が摂政にされてるのは、中国の歴史書が遣隋使の頃、男王
だったとしてるのと整合性を取るためだし、日本書紀作成者に渡来系が関与してるんだから、
共通点があって当然だ。北方系神話だから征服されたと判断するのは単純すぎ。

577 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:03/10/03 20:18
森博達「日本書紀の謎を解く」という本では、雄略〜用明・崇峻紀の作者は、
シナから渡来した人である可能性が極めて高いとしている。

この本における書紀の字句解析の結果から、この巻においては倭習と呼ばれる
シナ人が使わない熟語が、極めて少ないことがわかっている。
シナの史書の修辞法がそのままそっくり使われているのも、この巻の特徴である。
武烈天皇に関する記述が、シナ人の修辞法によって記されているのも道理なのである。
「妊婦の腹を刳く」という記述はシナ人があえて書き加えた可能性も高い。
二十世紀にも「妊婦の腹を刳く」というシナ人の歴史記述が存在する。

邪馬台国は大和朝廷になったのか
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045719732/
142日本@名無史さん:03/11/23 19:23
>>140
金海周辺の発掘成果そのものが、「中国歴史書」に載らない史実が
存在することを証明している。
143日本@名無史さん:03/11/23 19:29
古代史のなかで最もわかりにくいことの一つは、4世紀から5世紀にかけての
倭の朝鮮進出だ。これについて井上光貞の「神話から歴史へ」から再び引用
しよう。

<引用始め>
大和政権が4世紀末以後、すなわち応神・仁徳以後、大部分の地方族長を
はるかにぬきんでる力をもつにいたったことは確実だが、4世紀中葉までと
思われる前期古墳には、それほどの格差はなかったのである。
これらの事実は、国土統一が完了してから朝鮮出兵が行われたのではなく、
むしろ、この二つの行動は、いわば平行して進んだことを示唆している。
(中略)
記紀の記述は、国土統一が朝鮮への出兵を促進したというイメージをわたし
たちにあたえる。しかし、それをそのままうけいれると、これを歴史の事実
と見誤る危険性がある。もちろん、歴史の事実としてそのような面もたしかに
あったと考えられるが、しかし逆に、東アジアの歴史の急展開が、朝鮮出兵
とともに国土統一を促したという面を忘れてはならないであろう。
<引用終わり>

144日本@名無史さん:03/11/23 19:32
この文章を読んで具体的なイメージが湧くだろうか?
平行して進んだといわなければならないのはわかる。なぜなら古墳時代前期
ではまだ畿内と北九州は異なる文化圏に属していたことが、考古学上わかる
からである。記紀の記述も、景行・仲哀にいたってはじめて九州平定の記事が
出てくるのも、これを反映しているだろう。

しかし平行して進んだというなら朝鮮進出の主体はどちらなのか?
畿内か、北九州か、あるいはその連合体か。その考え方が必要だろう。

そして、「神話から歴史へ」のころからすると、現在はこれにさらに「金官の
扶余王権」の要素が加わってさらにわからなくなった。なにしろ4世紀中葉は
金官扶余王権の最盛期であり、その軍隊はこの時期、アジア東端のこの地域の
最強軍団と言ってもよかったからである。この勢力に対して朝鮮進出に主体は
どんな関係にあったのか。征服したのか、対等な連係か、それとも配下にあった
のか。
現在ではこれについても考え方を示さなくてはならない。
145日本@名無史さん:03/11/23 20:07
じゃ、阿波可汗は来なかったのか・・・・
がっくりん
146日本@名無史さん:03/11/24 03:46
応神・仁徳時期の最大の渡来集団、秦氏をどうみる?
最近の研究では古墳巨大化、堤の大規模土木、養蚕織物、殖産、宗教制度、税収整備
だけでなく、天皇近習の少子部(儀典、祭礼呪術)は秦氏と隼人限定で、族長の
太秦(ウズマシュ)任命権は天皇がもっていたらしい。書紀などの秦大津父の
二匹の傷ついた狼(王朝内紛)を諌める説話などは、トルコ系統の北方神話色が
強いという指摘もあるが。江上説のいう秦韓の扶余系なのか、単なる秦の亡命貴族
を名乗った華僑流浪集団なのか?あるいは五胡十六国支配の突厥系(チベット系説も)
後秦の亡命グループなのか?はたまた日ユ同祖論いうところの失われた(以下略)
147日本@名無史さん:03/11/24 04:23
中国歴史書の記述がどうこうというが、鮮卑や突厥の支族の部下レベルが
同じ騎馬、遊牧民系同士で争いあの巨大な中華を分割していた時代に、まともな
記述書が存在するのか?最大の律法、儒学学者がトルコ人やペルシャ人系
だった時代ですぞ、大和朝廷成立期は。北東アジアのヒエラルキーの頂上
にいる中国自体が三国時代とは異なるし、文献研究はあてにならんと思うな。
ちなみにヨーグルトを食していた聖徳太子の頃の戦闘光景で、NHKは蘇我軍に
ラッパを吹かせ、ガンポーをもたせていたよ。
錦の御旗はヤタガラスと六旁星で、受け狙いなのか実証したのか不明。
148日本@名無史さん:03/11/24 20:06
さて、井上によれば江上説の「致命的」なところは、扶余系の征服者を
崇神天皇に比定したことだと言う。そして井上が崇神=征服者説を否定する
理由は、崇神の時代とされる4世紀はじめにはまだ騎馬の風習がなかったと
見られること、文献上からも崇神に征服者のおもかげがないこと、である。

江上が崇神を扶余系の征服者とした理由は、「ハツクニシラス」および
「ミマキイリヒコ」という名称に手がかりをもとめたこと、辰王と同時代
にしたかったこともあるだろうが、もう一つは4世紀中葉の倭の半島進出
を、統一された倭による事業と見ているからではないだろうか。しかし、
前にも書いたように4世紀中葉において倭はまだ統一されていなかったの
である。

しかし崇神説が妥当でないということは、江上説の価値にとってすこしも
「致命的」ではない。誰も言わなかったときに扶余による半島南部の征服
を唱え、それが30年もたってから発掘によって実証されると言う、先駆者
の栄誉は色あせることはないからである。

井上は崇神説を否定したが、4世紀末から5世紀にかけての応神天皇について
は「狗奴国が征服者であったというよういなまわりくどい経路よりも、応神
天皇その人が海を渡って日本に侵入したのであったとしたほうが仮説としては
合理的だと思っている」と書いて、その可能性を否定していない。

私も、この仮説には魅力を覚える。その理由は、ひとつには、応神記の前には
景行、仲哀の九州平定記事があり、かつ神功皇后の遠征記事があるからである。
景行、仲哀の九州平定はどうも畿内とのつながりが薄いし、神功皇后の記事は
侵略の方向はともかく、半島との軍事的な関係を暗示している。そして応神
その人になると、実在性のある天皇でありながら出自が説話化されていて、
しかもその説話によればその出自は半ば海外なのである。
<続く>
149日本@名無史さん:03/11/25 13:51
八紘一宇
150日本@名無史さん:03/11/25 15:17
騎馬民族征服仮説は考古学的根拠に乏しい。
151日本@名無史さん:03/11/25 17:30
現在においては日本列島には日本人、朝鮮半島には朝鮮人、と
ほぼ完璧な棲み分けが成されているが、
当時もそうだった、と安易に捉えてしまうと大きな過ちを冒す。
朝鮮半島南部と西日本の日本海沿岸地域の間には
交易が盛んになされており、人的交流も激しかったと考えられる。
この事は史書に朝鮮人と思われる人物が多く登場していることからも分かる。
半島南部には日本人が、西日本には朝鮮人が多少混じって暮らしていたと
考えるべきだ。
152日本@名無史さん:03/11/25 17:39
古墳時代は朝鮮人との交流が特に激しい時代だったと予測される。
というよりは、かなりの人口が半島から移住してきたのではないかと
思われる。
なぜならこの時代のものと思われる遺骨は、後の時代に比べて
相対的に身長が高いからだ。
153日本@名無史さん:03/11/25 17:45
次に地図を見れば分かるが、九州から見て
畿内と半島はどちらが近いのかというと、
明らかに半島なのだ。
だから、日本人とか朝鮮人とかいう固定観念をとっぱらって考えれば、
九州王朝の勢力は畿内に及ぶ前に既に半島南部に及んでいた、
という選択肢だって、十分に考えられるのだ。
154日本@名無史さん:03/11/25 20:02
>>150
>騎馬民族征服仮説は考古学的根拠に乏しい。

むかしは列島・半島を含めて、安心してそう言っていた。
しかしいまでは、少なくとも半島南部については、もはやあり過ぎる
ほどの「考古学的根拠」がある。

>>151
>半島南部には日本人が、西日本には朝鮮人が多少混じって暮らしていたと
>考えるべきだ。

「日本人」を「倭人」と言い換えれば、そのとおりだろう。
しかし「多少混じって」というよりもそれぞれ集団をなして住んでいたのでは
ないか? 例えばクヤ韓国は倭人の國だったと思う。

>>153
>九州王朝の勢力は畿内に及ぶ前に既に半島南部に及んでいた、
>という選択肢だって、十分に考えられるのだ。

もちろんその選択肢はある。しかしそれには「方向性」を考えなくては
ならない。
4世紀に半島南部と北九州を合わせた王朝があったとして、それは北九州
の勢力が半島南部に及んだのか?
逆に半島南部の勢力が北九州に及んだのか?
クヤ韓国に「北方騎馬民族」が現れた時点において北九州はまだ吉野ケ里的
レベルの世界だったとして、「方向性」をどう考える?
155日本@名無史さん:03/11/26 01:20
>154

「考古学的根拠」があるのは文化的同一性だろ?
「騎馬民族」が「征服した」という根拠はない。
なんらかの移住があったとは思うが、
騎乗の民族が征服戦をやったとは思えない。

>151

朝鮮人という言い方はあまりにテキトーだ。
半島は植民してきた「漢人」や「韓人」、「倭人」、
アルタイ系諸族の雑居状態。
日本列島もにたような状態だったと思うが。

>153

吉野ヶ里がレベル低いといいたいのか?
漏れは集落の防衛施設を見て
軍事的には拮抗できるレベルと感じたが。
156日本@名無史さん:03/11/26 06:18
>>155
>「考古学的根拠」があるのは文化的同一性だろ?
>「騎馬民族」が「征服した」という根拠はない。

何回も言っているように、クヤ韓国には無かった騎馬の風習と、装甲騎兵レベルの
軍事技術を持った集団(扶余族と特定する根拠もある)が、3世紀末にクヤ韓国を
「征服」した、という考古学的証拠はあり過ぎるほどあるのだ。

>漏れは集落の防衛施設を見て軍事的には拮抗できるレベルと感じたが。

騎兵はなく、防護具も桶型の原始的な胴鎧しかない吉野ケ里レベルの集団が、
海を渡って装甲騎兵や鉄製の鎧兜を持つ集団を征服した、と感じたの?


157日本@名無史さん:03/11/26 06:59
というより、半島から馬ごと、そう、征服戦ができるほどの
兵力+馬を運んでくるなんざ、モンゴル軍にも出来なかったこと。
半島まで騎馬民族が進出してきても、そこから先は無理だ。
158日本@名無史さん:03/11/26 09:10
半島南部と九州に倭人が住んでたんだろう。
159日本@名無史さん:03/11/26 16:56
大成洞古墳群
http://japan.koreainfogate.com/museum/sankoku/sankoku-gaya11.asp
金海大成洞古墳群
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/bbs0209/bbs/134.html

辰王の系譜、天皇家の遠祖     −騎馬民族は来なかったか?
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku1.htm

木屋の資料館3.2B扶余・百済   扶余族百済資料集
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya32_b.htm
伽耶と新羅
http://www.google.co.jp/search?q=cache:HB9BUx15AMoJ:homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/jizenngakusyuukai.pdf+%E7%94%B3%E3%80%80%E5%A4%A7%E6%88%90%E6%B4%9E%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%E3%80%80%E6%89%B6%E4%BD%99&hl=ja&ie=UTF-8
1 鉄製武器の東漸 『東アジアの古代文化114号』  
2003/2鉄製武器の東漸−直刀の系譜論を中心に−    奥野正男 
http://www.okunomasao.com/saikin/sai-1tetu.htm
流域の古代史を読み解く 連載@
http://www.kttnet.co.jp/kasen/ryuuken/iwai.html
套餐の戒律・中篇−初期馬具vs福泉洞古墳群
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0085.html
日本出土の朝鮮産土器・陶器
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/lib/wrk/2000a_41.html

160日本@名無史さん:03/11/26 17:30
歴史学者が否定しているのに、シロートが信じているんだからお笑いだね。
161日本@名無史さん:03/11/26 20:54

2008年

 I O C

北京オリンピック開催記念 
 
中国武術専門の中国国宝映像によるホームページですので皆様でご利用下さい。

(世界の格闘家、武道家が驚嘆する威力を持った初動の速い世界最速スピードと
思われる戦術を映像により公開しています。)

套路有害説 http://www.ne.jp/asahi/tfz/tys/index.html

歴代日中剣道史
 ※映画ラストサムライを見る方に必見 
内容 日本剣道と日本刀(軍刀編を見る事) http://www.h5.dion.ne.jp/~rekidai/index.htm
162日本@名無史さん:03/11/26 21:18
騎馬民族という名称の付け方を否定する声や、
明確な征服あったという主張に対する否定はあっても、
江上説の各主張の実質部分については賛同意見のほうが多数派なものも多いです。

なので、このスレでは、騎馬民族という名称や、単なる征服うんぬんという
表層的な厨房レベルの批判はさすがに避けて議論しましょうよ。
163日本@名無史さん:03/11/26 23:22
>>157
>征服戦ができるほどの兵力+馬を運んでくるなんざ、モンゴル軍にも出来なかったこと。
>半島まで騎馬民族が進出してきても、そこから先は無理だ。

以前にも書いたが、クヤ韓国を騎馬民族が征服したら、北九州の諸国は鉄産地という
首根っこを押さえられて、もはや騎馬民族の支配下に入ったも同然、わざわざ征服戦
を行う必要もないくらいだ。
井上光貞もその点については江上の説に同意しているからこそ、「臭い匂いは元から
断たなきゃだめ」とばかり発生源対策をとって、騎馬民族の半島南部進出をけんめいに
否定したのさ。
まさかそれを証明するものは出て来るまいと思ったのだろうが、今となってはそれも
むなしい努力となった。

164日本@名無史さん:03/11/26 23:24
・・・・正直、むなしい・・・・・
165日本@名無史さん:03/11/26 23:24
>162

いや、シロート的には騎馬軍団が日本まで遠征してきて支配した、
という説と思われているだろ。

そう思って本を読んだのにどんどん江上説は後退していく。
戦闘はなかった、とか、遊牧民ではなく騎馬風俗だけが伝承されたとか、
平和的融合だったとか、、、
なんかタイトル一緒でも中身が全然違っているのでがっかりした。
166日本@名無史さん:03/11/26 23:30
日本にやって来たのは騎馬民族?
日本を征服したの?
日本に残った騎馬風俗ってホントに騎馬民族の風俗なの?

整理してください。
167日本@名無史さん:03/11/27 00:03
去勢は?
168日本@名無史さん:03/11/27 00:05
>>165
江上はどんどん話をスリカエながら、しかもそれと知れないように
うまく誤魔化しているからな。
どの時点の江上説を論じるかという問題もあるな。
169日本@名無史さん:03/11/27 01:37
>>16
伽耶の発掘成果だけど、騎馬民族の墓を調べると、九州産の日本製品を最重要品のように
埋設しているそうだ。
ついでに、江上が北九州に騎馬民族が侵攻したとされる時期の墓以降は、替わって
畿内産の日本製品を最重要品として埋設している。
この事実は、日本列島内での権力移動を物語ると同時に、騎馬民族説を考古学的に
否定している。
170日本@名無史さん:03/11/27 01:43
>>165
中公新書の本論と後書きでは内容が違っているよな。
本論では、高句麗南下、新羅、百済建国で辰王の支配領域が任那に限定されたため、
背後の安全を固めるために日本列島に侵攻したとなっているのに、
後書きでは、辰王家が百済王家となり百済滅亡まで続いたことが発覚すると、
モンゴル帝国のように、さらなる支配欲を満足させるために分家を残して本家が
日本に侵攻したと書いている。
しかし、それならなんで、本家の倭・韓連合騎馬民族国家が再び海を渡って分家の百済を
討伐する必要が出てくるんだよ?
フビライ・ハーンが既にモンゴル帝国の支配下にあるロシア方面に攻め込むより不自然だ。
171日本@名無史さん:03/11/27 02:18
>>170
もともとカネのために思いつきで書いた話だからでしょ。
172日本@名無史さん:03/11/27 02:20
ホント権威をまとったトンデモ説って始末におえないよなぁ
173日本@名無史さん:03/11/27 02:34
まあ新説唱えれば誰だって飛びつくからな。
手早くかね稼ぎたいなら電波本。
これ定説。
174日本@名無史さん:03/11/27 02:42
>>173
八切とか井上とか電波本書いてる奴は多いけど、
売れてるようには見えないが・・・
175日本@名無史さん:03/11/27 06:10
騎馬民族という名称にこだわった厨房発言だけは、タブーにしようぜ。

そうでないと、しょうもない勘違いの、去勢うんぬんとかの話に陥る。意味なし。
騎馬民族という命名方法については江上の失策だったことで全員合意済み。

このスレに書き込むなら、まずは、中公新書で870円という安さで、
江上の騎馬民族(まずは特徴や風習など概念をつかめ)についてが読めるので読もう。

『騎馬』『征服』という文字にだまされなければ、
日本の成り立ちや風習ならびに様々な特徴については、
中国北方などの諸民族(匈奴、鮮卑〜北魏、蒙古など)と共通点が多いのも事実。
176日本@名無史さん:03/11/27 06:16
>>175
だったら江上じゃなくてもいいじゃん・・・w
177日本@名無史さん:03/11/27 06:29
>>175
ならスレタイに偽りあるだろバカw
178日本@名無史さん:03/11/27 16:33
江上は考古学や専門外の歴史分野の基本的な知識を欠いているんだよな。
ディレッタントだから逆にシロートに受け入れられやすいんだよ。
たとえば、倭王が馬韓と百済、新羅と辰韓の支配権承認を同時に中国王朝に
要請している点について、「歴史を遡って支配の正当性を認めさせようということ
であり、その時代に広く三韓を支配した辰王の子孫であることを意味する」と
いうように書いているけど、たとえば百済は馬韓の北半分が独立して誕生した
のであって、一時、百済と馬韓は共存していたんだよ。
179日本@名無史さん:03/11/27 19:50
>>166
>日本にやって来たのは騎馬民族?

別に騎馬民族と呼ばなくても扶余族でよい。

>日本を征服したの?

征服というと華々しいが簒奪もあり得る。
アンチ派も騎馬戦闘集団を移入したことには抵抗がないのだからね。

>日本に残った騎馬風俗ってホントに騎馬民族の風俗なの?

別に騎馬民族の風俗でなくても扶余族の持ち込んだものでよい。

>>168
>どの時点の江上説を論じるかという問題もあるな。

どの時点であろうと「天皇族は扶余族である」という中心命題
は変わらない。
180日本@名無史さん:03/11/27 19:51
>>179
扶余厨ですか?

やれやれ・・・
181日本@名無史さん:03/11/27 19:54
>>169
>騎馬民族の墓を調べると、九州産の日本製品を最重要品のように
>埋設しているそうだ。

それは騎馬民族が来る以前のクヤ韓国の墓の話。

>北九州に騎馬民族が侵攻したとされる時期の墓以降は、替わって
>畿内産の日本製品を最重要品として埋設している。

クヤ韓国の墓が扶余式に変わって以降、そうなる。

>この事実は、日本列島内での権力移動を物語ると同時に、騎馬民族説を
>考古学的に否定している。

北九州が支配下に入ったから、もはや交易の必要が無くなった、あるいは
北九州を足場にして交易圏が畿内まで広がった、という考え方も成り立つ。
182日本@名無史さん:03/11/27 19:56
>>170
>中公新書の本論と後書きでは内容が違っているよな。

江上と言えどもこれほど強力な証拠が現れるとは思っていなかったのだろう。
強力な証拠を前にして、それまでの百済中心の考え方から任那中心の考え方
に変わったのだ。

>しかし、それならなんで、本家の倭・韓連合騎馬民族国家が再び海を渡って
>分家の百済を討伐する必要が出てくるんだよ?

分家だとしたら、専横な振る舞いをすれば懲罰するのは当然。
しかし百済との争いは例外的で、基本的には300年間に亘る同盟関係だ。
これだけ長い同盟関係が「信義」だけで続くと考える方がおかしい。

>>176
>だったら江上じゃなくてもいいじゃん・・・w

別に江上でなくともよいが、江上説には先駆者としての価値と栄誉がある。
183日本@名無史さん:03/11/27 19:57
>>181
都合のいい解釈ご苦労さん。
184日本@名無史さん:03/11/27 19:58
去勢も知らぬ「騎馬風俗」
185日本@名無史さん:03/11/27 20:37
>>159 の

辰王の系譜、天皇家の遠祖     −騎馬民族は来なかったか?
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku1.htm

を読んどけよ。長いけど。
ツングース系の渡来は弥生末期の1〜2世紀のことだ。
それをもって、古墳時代の始まりとなす。

それで全部説明できる。
186日本@名無史さん:03/11/27 23:38
牧とか馬場とかは騎馬民族の名残ないの?
187日本@名無史さん:03/11/27 23:57
中国東北地方から朝鮮半島北部の騎馬民族文化圏の古墳って
日本でみつかってるんでしょ?
じゃー来たんじゃないの???
188日本@名無史さん:03/11/28 00:12
>>186
何も“騎馬民族”が渡来してきて日本を乗っ取る必要なんざ無いんだよ。
189日本@名無史さん:03/11/28 00:26
>>181
江上が「騎馬民族説は実証された」と大見得を切った韓国古墳群発掘で、日本製品を
祭るかのように埋設しているというのは、江上波夫「騎馬民族説は実証された」
『月刊 Asahi』1991.6で韓国の申教授が書いていたんだ。「日本国内の権力移動」
という話も。
ちょうど、日本の古墳から中国製の鏡が出土するのと同じことだろう。
任那のみならず、ヤマトの支配下にあった九州をも陥落させた騎馬民族が、ヤマトの
製品をそういう風に祭るかよ!
それから、「非騎馬民族国家の倭が騎馬民族を従えているのは歴史の通説に反する」と
いう見方だけど、倭は人口面でも百済や新羅を圧倒していたんだよ。東北アジアの
騎馬民族の人口なんて倭と桁が違うほど少なかった。
唐にしても騎馬民族王朝ではなかったけど、高句麗を滅亡へと追い込んだし、
その唐も、倭との交戦・白村江の戦で劣勢だったんだ。決戦をした船舶の数でも倭の半分だった。
倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍相手に連戦連勝を重ねていたが、内部対立とかで
倭・百済連合軍は混乱し、勝てる勝負を落としただけ。
モンゴルの騎馬軍団じゃあるまいし、あの時代に大した意味はないだろう。
190日本@名無史さん:03/11/28 00:51
騎馬民族が沿岸地帯にでることはない。
内陸の大平原だから騎馬民族たりえた。

つーかやってきたとしても、日本じゃ遊牧ができない。
191日本@名無史さん:03/11/28 01:13
だから〜

騎馬でなんか来ないって。

江上も最後は「騎馬民族」起源の戦略性をもった民族が
平和的に浸透して原住民のリーダーになった。
それで「騎馬民族」の神話と風習の一部が伝わった。

って結論に落ち着いてる。

それじゃもはや騎馬民族じゃない!といいたい!
なんだよ「戦略性」って!!
192日本@名無史さん:03/11/28 01:23
>>191
原住民のリーダー・・になれるのかな?

193日本@名無史さん:03/11/28 01:26
>>191
騎馬を捨てて、文化だけ持ち込んだって事???
194日本@名無史さん:03/11/28 01:27
石積型の古墳は?文化?
195日本@名無史さん:03/11/28 01:31
薬師如来と12神将なんてトルファンとか敦煌あたりの
信仰じゃないの???
196でも・・・:03/11/28 02:20
兵馬傭坑とかに比べると明らかに日本の埴輪って素朴なんだよね。
197日本@名無史さん:03/11/28 04:55
そろそろ、『騎馬民族』というネーミングのまずさへの揚げ足とりを、やめませんか?
日本での遊牧してないとか去勢の習慣がないなどの意味がないツッコミは厨房過ぎ。

ちなみに大陸でも、容易に騎馬民族と単なる遊牧民と農耕民の間を移り変わってます。
鮮卑族が隋や唐へと変わっていった例だけでなく、騎馬民族化した例もあります。

地形機構と周囲の情勢によって、それらは変化しているので、
日本に一部が入ってきても、そのままの状態でいるわけないのは明らかです。
198日本@名無史さん:03/11/28 05:36
>>191
渡来してきた一派が有力豪族となって自身の“神話”を語り継ぎ、
それが巡り巡って日本の神話伝承に影響を与えたというレベルまでなら
分からんでもない。
だが渡ってきてリーダーになっちゃうってのはどうなんよ?
しかも平和的に・・・
そんな腑抜けた奴しかおらんかったんか?日本には。
その割にゃ弥生時代から争いばかりしていたようだが。
それならまだ、騎馬民族が舟に乗って大挙来襲し(この時点で無理なのだが)
日本を征服したのだと主張し続けてもらいたかった。
199日本@名無史さん:03/11/28 15:51
>>189
>『月刊 Asahi』1991.6で韓国の申教授が書いていたんだ。
>「日本国内の権力移動」という話も。

申教授を出すのなら、彼は「巨大古墳と伽耶文化」のなかで:
「鉄の供給の見返りとして労働力を提供したのではないか、その画期が4世紀ごろ
ではないかと思います。労働力は当時の国際状況に照らして、軍事力だったと
思います」
と言っているよ。軍事力、つまり兵士を交易品にするということは、結局のところ
強制的軍事協力のことではないのか?

>騎馬民族の人口なんて倭と桁が違うほど少なかった。

中国本土のコンマ以下%の人口しかない満洲族がほとんど平和的に華北を支配した
ことを考えて見よ。何千人かのギリシャ人がエジプト王国を支配して新王朝になった
ことを考えて見よ。支配はしばしばそのようにして成就するのだ。
200日本@名無史さん:03/11/28 15:54
>>190
>騎馬民族が沿岸地帯にでることはない。

現に扶余族は「沿岸地帯」のクヤ韓国に出たではないの?

>>191
>江上も最後は「騎馬民族」起源の戦略性をもった民族が
>平和的に浸透して原住民のリーダーになった。

それでいい。「原住民のリーダー」になったということはつまり天皇族になった
ということだ。
平和的に天皇族になれるのならなにも多々羅浜の戦いをやることはない。
華々しい戦いをやらなければ騎馬民族ではないというのかな?

まあ全く平和的だったとは思わないが、前にも書いたように、日本書紀の景行・
仲哀記の九州平定のような個別抵抗・個別恭順だったろう。
日本書紀のは「内戦」だというのなら、金官伽耶と北九州の関係だって内戦だ。
なぜなら狭義の任那地域は、君たちも言っているように倭の領域だったのだからね。
201日本@名無史さん:03/11/28 16:33
吉野ヶ里のような環濠集落、半島でも発見されそうすか。
202日本@名無史さん:03/11/28 16:53
>>199
韓国人は学者も含めて任那日本府説否定に躍起なんだよ。
科学性も何もない。だから、そんな与太話をしてるんだろ。
ついでに言うと、韓国人は天皇=韓民族説を熱烈に支持するが、
江上の騎馬民族説には強い拒否反応を示す。天皇の半島支配権の正当化に繋がるから。
203日本@名無史さん:03/11/28 17:33
>>202

???
騎馬民族ではないが韓民族が天皇家に?
その韓民族はどこでわいたのですか?
204日本@名無史さん:03/11/28 18:23
任那日本府なんてなかったんだよ
205日本@名無史さん:03/11/28 18:41
キムやパクでないころの朝鮮か・・・。
自分をみつめろよ、朝鮮半島人。
206日本@名無史さん:03/11/28 19:04
>>204
任那が倭国領だったのは、内外の文献から判断して間違いないだろ。
207日本@名無史さん:03/11/28 19:32
>>202
>江上の騎馬民族説には強い拒否反応を示す。天皇の半島支配権の正当化に繋がるから。

なるほど。
だけどそこまで考えるだろうか。一般の韓国人はむしろ扶余=漢民族という考え方
ではないのかな。
それは別として申教授は少なくとも金官加羅までは江上の騎馬民族説は成り立つ、
と言っているよ。
208んで、結局:03/11/28 21:54
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原
と西突厥の阿波可汗とは関係ないのか???
209日本@名無史さん:03/11/28 23:13
>>207

ああそうか、
騎馬民族学説をみとめると少なくとも「韓民族単一民族幻想」が崩れるからイヤなんだね。
210日本@名無史さん:03/11/28 23:21
>>209
そういう意味じゃない。
211日本@名無史さん:03/11/28 23:40
>>207-210

おいおい。>>207の「漢民族」は「韓民族」の書きまちがいだろ。
スレを惑わす不埒な書き間違いすんなよ

朝鮮人の脳内妄想では夫餘=韓民族なんだから
天皇家は朝鮮人という発想になるし、江上の騎馬民族説は実際ウケがいい。
任那日本府は朝鮮総督府みたいな印象があるから朝鮮人にはウケないが
江上は「任那日本府は列島にあった大和朝廷の出先機関ではなくてむしろ本家本元。
その任那にあった“日本”が倭を征服した」と逆転させたもので
通常の「任那日本府肯定説」とはまったく別のもの。

江上自身は古いタイプの日本人だから、日本が朝鮮人に征服されたなどまったく考えてない。
そもそも夫餘は朝鮮人ではないのだし。しかし朝鮮人が都合良くうけとるのはそれはそれ、別問題。
212日本@名無史さん:03/11/28 23:50
>>211
江上説の場合、過去に天皇家は朝鮮半島を実際に支配したのであり、
さらに、歴史を遡って半島を支配する権限をも中国王朝から正式に承認され
たということになり、かつての韓国植民地化も歴史的に正当化されることに
なりかねない。
韓国人は「天皇家は韓国から渡っていった」という“おいしい部分”だけ
都合よく信じているだけ。
213日本@名無史さん:03/11/29 00:31
>>212

そうそう、漏れも読んでビックリしたよ。
朝鮮人に実に都合の悪い説。なんだこれ?って。
214日本@名無史さん:03/11/29 06:45
>>211
ごめん、207の漢民族は韓民族の書き間違いだ。

江上説の逆転発想の部分は「日本もと小国、倭国の地を併わす」という
唐の記述を一つの根拠にしているね。
この考え方は4世紀中葉〜末のいろいろな謎をうまく説明できるのは事実。
215日本@名無史さん:03/11/29 06:53
だけど中国の歴史書の記述は
(特に周辺地域についての記述は)本当に大雑把で適当で
実はその内容はほとんどあてにならんのだな。

正確さにとりわけこだわる日本人と
いっしょくたに考えちゃいかん。書いたのは中国人だ。
216日本@名無史さん:03/11/29 12:01
扶余は、漢民族でも、韓民族でもないぞ。
もちろん、韓民族なんてのは当時存在しなかったわけだが。

扶余あるいは高句麗はあくまでも半島を侵略した民族であり、半島は侵略された側。

韓国の歴史として、高句麗を挙げるのは、
日本の歴史として、元を挙げるようなもの。実際には侵略されなかったわけだが。
217日本@名無史さん:03/11/29 14:05
>>214
『旧唐書 日本伝』には、「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以って、故に日本
を以って名と為す。或いは曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と
為すと。或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと」
と書いてあるんだよ。
もちろん、正解は、「改めて日本と為す」。
『旧唐書 倭国伝』では「倭国は古の倭奴国なり」と書いてあるから、中国側から見た「倭」
とは、もともと、かつて金印を送られた「倭の奴国」を指していたのだろうし、奴国が倭国の
盟主だったのかもしれない。
あるいは、旧小国の邪馬台国(ヤマト国)が、奴国を盟主とする倭国を併合したということを
意味するのかも。
218日本@名無史さん:03/11/29 15:57
壬申の乱のことだろ
219日本@名無史さん:03/11/29 17:19
馬韓だか弁韓だかいう国は、半島人ではなく西から流れてきた
民族が作ったらしい。
それはズバリ、イスラエルから長い時間をかけて流れてきた連中だ。
そいつらが日本に渡って日本の中枢に食い込んだ。
220日本@名無史さん:03/11/29 19:33
>>217
>あるいは、旧小国の邪馬台国(ヤマト国)が、奴国を盟主とする倭国を併合したということを
>意味するのかも。

奴国は魏志倭人伝ですでに邪馬台国の支配を受けているから、ちょっと無理がある。
かといって、江上の言うように半島の東端まで来た扶余が「日本」と称したというのも
いかがなものかと思う。なぜなら金官からはもっと東の島が見えるのだから、太平洋の
彼方から日が昇る日本とは違う。
私は、「現在日本と称している王権はむかしは小国で、後背の大国である倭国を併合した」
という解釈がもっとも自然に思える。
恐らくこの時代、日本側にまだその記憶があって、それを唐側がトピックとして「或いは」
と記したのだと思う。

221日本@名無史さん:03/11/29 19:38
>>216
>韓国の歴史として、高句麗を挙げるのは、
>日本の歴史として、元を挙げるようなもの。実際には侵略されなかったわけだが。

あるいは、フレンチノルマン人に征服されて王朝を作られたイギリス人が、
フランス人あるいはノルウェー人をイギリス民族だと主張するようなものだ。

222日本@名無史さん:03/11/29 20:15
>>219
辰韓のことだろ。秦人が大量に流入してきたので、馬韓が東方の地を割いて与えた。
これが辰韓の起源であると。
馬韓の民は秦人に似ており、そのため辰韓は秦韓ともいう、と。
>>220
倭奴国王や倭国王帥升の話は「後漢書」に記載。後漢の時代の話で邪馬台国登場は
もっと後。
「奴国は倭国の極南界」と書いてあるが、これが誤記でないなら、
倭国の盟主は奴国であるとともに、さらに南に位置する邪馬台国はまだ倭国には
含まれていなかったことになる。
その後の「魏志倭人伝」では、女王国に属する国々の中に奴国が含まれていることから、
邪馬台国の軍門に下ったとも解釈できる。
223日本@名無史さん:03/11/29 20:23
>>182
百済を拠点として、任那を制圧し、さらに日本本土をも占領できたような強力な
騎馬民族軍団が、先に新羅を屈服させなかったというのには軍事のセオリーとして
無理があるだろ。
日本を制圧して国力を増強してから新羅制圧に向うなんて、ナチス・ドイツがフランスを飛ば
して先にイギリス占領を目指すようなものだ。
日本占領のためには騎馬民族の鬼門ともいうべき大規模な船舶まで必要となる。
実際、騎馬民族説に立っても「倭」は新羅制圧を目指して半島出撃後、援軍を出した高句麗
との戦いに苦戦しており、常識的判断として、高句麗・新羅が百済騎馬軍団王朝と対立関係
にあるなら、それを放置しておいて大軍を日本列島に向わせるのはリスクが大き過ぎるだろ。
224222:03/11/29 20:33
>>222 訂正。

「辰韓の民は秦人に似ており、そのため辰韓は秦韓ともいう、と。」
225日本@名無史さん:03/11/29 20:49
BC100頃に真番に隣接して「辰国」があった。
三国志東夷伝には「辰王不得自立為王」、辰王は自ら王となることができない、という
奇妙な一節があります。
王族ではあるが外来者のために、その地では先住者の賛同がなければ王にはなれな
かった・・という意味と解釈しておきます。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kk09.html

これが、騎馬民族説で日本を征服したとされる辰王の実態。
これじゃあ、とても征服王朝とは言えないだろう。
226日本@名無史さん:03/11/29 21:43
>>219
金官や新羅が、昔からの半島人ではなく西から流れてきた人々が作ったのは正しいが、
それがイスラエルというのはでっち上げだ。

おそらく、中国海岸部の南方系特徴を持つ人々であろう。
227日本@名無史さん:03/11/30 14:10
>>223
>日本を制圧して国力を増強してから新羅制圧に向うなんて、ナチス・ドイツが
>フランスを飛ばして先にイギリス占領を目指すようなものだ。

地理的関係が適当でない。ドイツはフランスを通ってしかイギリスへ行けないが、
金官加羅は海を渡れば倭へ行ける。
やはり一番ぴったりの比較はフレンチノルマン人だ。扶余にあたるノルマン人が
満洲にあたるノルウェーからやって来て任那にあたるノルマンジーに住み着き、
そのあと倭にあたるイギリスを征服して強大になってからフランスと領土を争った。

イギリスを征服する以前はフランスと敵対しているわけではないこと、
イギリスを征服した後もノルマンジーには分家が残っていること、
ノルマン人の支配下に、ブルターニュという地名が示すようにイギリスと共通
する民族が住んでいたこと、

など、いちいち参考になる。

>日本占領のためには騎馬民族の鬼門ともいうべき大規模な船舶まで必要となる。

前にも書いたが、扶余が支配したのは九州との交易で海に馴れた半島倭人である。
また、北九州を支配するのに「多々羅浜の戦い」は必ずしも必要ではない。
228日本@名無史さん:03/11/30 14:14
>>224
>これが、騎馬民族説で日本を征服したとされる辰王の実態。
>これじゃあ、とても征服王朝とは言えないだろう。

江上は半島南部の扶余王権を主張するために、考古学的な物証がない時代において
文献上の辰王などに手がかりを求めたが、現在では多くの物証があるから、その
必要はない。
辰王が金官加羅に実在した扶余系王権の王と同一人である必要もない。

辰王(=秦王)が文字どおりに秦国からの移住中国人集団の首長であったとしても
それはそれで構わないのだ。
229日本@名無史さん:03/11/30 14:26
その、物証が無いことが騎馬民族説のガンなんでつが…
230日本@名無史さん:03/11/30 15:32
>>227
妄想に耽るのはけっこうだが、それだけの事象があれば、
半島や中国の文献に史実として残っているだろうが。
それは、江上説においても重大な弱点。
倭国が半島の騎馬民族に征服されたという事実が、誰からも秘密にされたと
でも言うのか?
231日本@名無史さん:03/11/30 15:59

朝鮮族はモンゴロイドに属しており、形質的にはアルタイ系諸族とは
区別しにくい。世界諸民族の身長分布のうち、中頭大身長のうち大きい
ほうで、首が比較的細く、背側深層筋群が発達しており姿勢が正しい。
また下肢が長く身体各部の比率配分が、欧米人に比べて均衡がとれている。
頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い。顔はモンゴロイドの特徴で
ある広顔だが、長顔でもあり、頭腔容量も大きく脳重も重たいほうであると
いわれている。(日本大百科事典/小学館)

頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い
頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い
頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い
頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い
232日本@名無史さん:03/11/30 16:55
>>230

倭人文化圏が半島から列島、華南沿岸にひろがっていたのは同意するが、
問題は「扶余系民族」がはるばる満州から列島まで倭人支配を拡張していった、
という部分は証明されているとは言い難いんじゃない?
文化伝播と軍事侵攻の関係も曖昧だし、
文献資料がなにもないのが痛い。
可能性が0だとは言わないけど・・・
233日本@名無史さん:03/11/30 20:06
>>223
>百済を拠点として、任那を制圧し、さらに日本本土をも占領できたような強力な
>騎馬民族軍団が、

言い忘れた。現在は上記の考え方はなりたたない。なぜなら申教授の偏年によれば
クヤ韓国を扶余が征服したのは3世紀末だから。
百済の建国は4世紀前半とされるから、クヤ韓国征服のほうが早いのだ。

だから上記とは逆に、クヤ韓国/金官加羅を足場にして百済を建国したか、
あるいはクヤ韓国征服と百済建国がそれぞれ別の扶余集団の行動であったか、
どちらかである。
私は後者だと思っている。
234日本@名無史さん:03/11/30 21:27
>233
それだと百済と倭とは親縁関係にあるわけだけど、
そうした関係について、半島や中国の歴史書に記載されて当然のはず。
235日本@名無史さん:03/12/01 09:08
>>229
>その、物証が無いことが騎馬民族説のガンなんでつが…

金海大成洞古墳群などの発掘成果は「物証」ではないと言うのかな。

>>230
>それだけの事象があれば、
>半島や中国の文献に史実として残っているだろうが。
>>234
>そうした関係について、半島や中国の歴史書に記載されて当然のはず。

では聞くが、高句麗が400年ごろに新羅/任那加羅で倭軍と戦ったという
広開土王碑に書かれた史実は、どの「半島や中国の文献」に残っているのかな?

半島の歴史書は後世の著作しかない。記紀にあるのは「引用」のみ。
中国については以前にだれかも言っていたが、当該の時期に、中国じたいが
存在しなかった。

>>232
>問題は「扶余系民族」がはるばる満州から列島まで倭人支配を拡張していった、
>という部分は証明されているとは言い難いんじゃない?

百済の王族が扶余系だということは文献記載がある。クヤ韓国が、扶余系の
可能性が高い北方騎馬民族に征服されたということは発掘成果からわかる。
ここまでは「証明」されているのだ。
236日本@名無史さん:03/12/01 11:27
346 新羅、倭国と断絶、倭軍侵入(三国史記新羅本紀)
369 高句麗の百済侵攻開始(三国史記百済本紀)
371 百済の逆襲、高句麗の故国原王戦死
391〜392 高句麗、広開土王即位(広開土王碑)(三国史記高句麗本紀)
393 倭軍侵入。金城を5日間囲む。敵は舟を棄て、内陸深く入り込んでいるので、その矛先は防げないとして
持久戦にて倭軍を破る(三国史記新羅本紀)
397 百済、太子を人質にし倭国と修好(三国史記百済本紀)
399 百済が倭と内通、高句麗王は倭軍侵入に直面した新羅の救援を決定(高句麗広開土王碑)
400 高句麗は5万の兵で新羅救援。新羅・任那・加羅に侵攻し、倭を退却させ、安羅を討つ(広開土王碑)
  燕の高句麗侵攻(※諸中国史書より)
405 倭軍侵入。新羅の明活城を攻める。帰りを待ち伏せするが、破れる(三国史記新羅本紀)
408 倭が対馬に軍営を置き、兵器・資材・食料を貯え、新羅を襲撃準備(三国史記新羅本紀)
444 倭軍侵入。新羅の金城を包囲、食料が尽きたので引き上げる。新羅王は数千余騎を率いて追撃するが、
逆に大敗し、将兵の大半が戦死する(三国史記新羅本紀)
472 百済、魏に高句麗討伐を要請するが、断られる(三国史記百済本紀)
475 高句麗、3万の兵で百済王都の漢城を包囲。百済王は戦死し百済は一時的に滅亡する。だが、倭の仲介で
任那近辺の熊津へ遷都し、立て直す(三国史記百済本紀)
495 高句麗、百済を攻撃(三国史記百済本紀)
237日本@名無史さん:03/12/01 11:48
結論から言っちゃえば扶余族はモンゴル人みたいな遊牧騎馬民族ではなく、満州をルーツとする半農半牧の民族。
それが高句麗を建て、分裂した人々が南下して百済を建てた。取り沙汰されるのは倭国王族と百済王族の近親関係。
238日本@名無史さん:03/12/01 13:07
>>236
広開土王碑に書かれた史実は、どの歴史書にも載っていないと言うことが、
この年表からわかるだろう。
歴史書に載らない史実があることの証明だ。
239日本@名無史さん:03/12/01 15:25
>>238
高句麗の圧勝を伝える広開土王碑の内容は誇張されすぎらしいよ。
実際には倭国はもっと善戦していたそうだ。
倭国と高句麗との激闘の記録については、「宋書」倭国伝の「倭王武の上表文」にそれらしき
ことが書いてあるけど。
それに、個々の戦闘なんて、いちいち第三国の歴史書に残るとは限らない。
日本の歴史教科書には日本が米国に占領された事実が記載されないことなどありえない
けど、、「ガダルカナルの戦い」なんていちいち書いてない。

「倭王武の上表文」
http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/book/furuta/soujo.htm
240日本@名無史さん:03/12/01 17:15
>>235

>では聞くが、高句麗が400年ごろに新羅/任那加羅で倭軍と戦ったという
広開土王碑に書かれた史実は、どの「半島や中国の文献」に残っているのかな?

倭が半島で高句麗・新羅と交戦してることは三国史記に載ってるでしょ。
後世の著作であろうが、百済王と倭王との関係について隠蔽する理由などどこにもないはず。
日本書紀では、支配の正当性確立のため、外来であることを隠したという見方を
しているが、半島の歴史書にはその理由がない。
241日本@名無史さん:03/12/01 18:13
木屋の資料館 3号館、倭史・古代人物図書館21世紀版
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/wasi00.htm

いにしえの 岩村 木屋 研究所
ちょっと寄り道
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/yori.html
242日本@名無史さん:03/12/01 18:32
わざわざ碑文にしたってこと自体が
高句麗にとって倭が強力なライバルだったって事を示しているわけで・・・
243日本@名無史さん:03/12/01 20:18
梅棹忠夫のツングース水軍説。
244日本@名無史さん:03/12/01 22:48
・・・どうも煮え切らないなあ。
嘗ての資料には書かれていたのに散逸したのか?
それとも隠蔽?

でも確かにわざわざ隠蔽する理由が判らない。
古代倭国の「朝鮮人差別」(by金達寿)??んなこたーないか。
245日本@名無史さん:03/12/01 22:52
朝鮮人が倭国の支配層を形成したとして、その事実を隠蔽しようとは思わんだろうよ。
だって、自分達が選民だと思うはずだし。
世界中の歴史の中で、支配集団が自らのルーツを隠そうとしたなんて例は聞いたことないだろ。
246日本@名無史さん:03/12/01 23:45
>245
ボリシェビキがユダヤ層で形成されてたことくらいじゃないの?
革命の正当性が疑われるから。
レーニンとか、全部偽名だからね。

朝鮮人蔑視というのは併合以降の話だからね。
半島系豪族のこともちゃんと書いてるし、
桓武天皇の生母が百済系だとまで書紀は書いてるんだから、
隠蔽論には無理があろう。

百歩譲って卑弥呼の時代から永遠に続く王朝だと偽装したとして、
半島の三国史記までそれに付き合う理由はない。
247日本@名無史さん:03/12/02 01:18
大内氏が百済王余章の子孫っつーのは、
本当なんでしょうかね。
可能性としては、有り得ない事は無いんですよね。
248日本@名無史さん:03/12/02 10:47
>>245
今現在、扶余系の百済・高句麗王族・士族の末裔が半島にいるとは思えない。百済の韓人の農民は別だけどね。
彼らが今住んでいるのはむしろ日本でしょ?
新羅・唐に負けた彼らは父祖の地を忘れようとして、朝鮮と断絶しようとしたんじゃないかな?
大切なのは、扶余族は今現在半島に住んでいる人々とは違うということ。よって日本の支配者は日本人!
249日本@名無史さん:03/12/02 11:01
扶余人=百済王族
現在では
扶余人=日本人
よって
百済王族=日本人
イェーイ!
250日本@名無史さん:03/12/02 11:40
4世紀に倭の王権が外来の夫余に奪われたとするのなら、
前方後円墳を4世紀以降も作り続けたのはなぜなんだろ。
副葬品は威信材程度の意味でしかない、一方、墓制は宗教
祭祀そのものなので、突然の大変革があったとは思えない。

251日本@名無史さん:03/12/02 16:47
>>248
そもそも倭国なんて、蝦夷や熊襲など雑多な民族の集合体だったのに(恐らく
多数の言語が使用されていたはず)、騎馬民族が征服して支配者として乗り
込んだとして、なんで自分達の出自を隠す必要があるんだよ?
バイキングにしてもモンゴルにしても満州族にしても、支配した自分達の方が
格上だと思っていたはずだし、征服された“下等民”に媚びを売る必要もない。
252日本@名無史さん:03/12/02 16:58
騎馬民族自身が出目を隠したのではなく
騎馬民族王朝は敗れ去り、
別の王が君臨したときに過去の王である騎馬民族の存在を
隠蔽したのでは?
253日本@名無史さん:03/12/02 18:04
>>251
倭人はもともと半島南部をルーツとする半農半漁の民。
古代倭語は百済語や高句麗語と同系統とする学者もいるらしいけど。
蝦夷や熊襲は倭人ではない。その頃は関東地方にさえ倭人はいなかった。
(同じ)島の人間であるように見せかけることで未開の地の人々をうまくやり込めようと隠蔽したのでは?

あるいは >>252 が面白い事言ってくれたけど、
唐や新羅の追撃を逃れるために百済王族との近親関係を隠蔽したのかな、ともチラと思ったけど。
254日本@名無史さん:03/12/02 19:15
>>239
>それに、個々の戦闘なんて、いちいち第三国の歴史書に残るとは限らない。

第三国とは中国のことだろうが、当事国である半島諸国の歴史書にも載って
ない。すこし前にあった年表を見てごらん。「ガダルカナルの戦い」の羅列
だが、当該の400年前後の半島南部の戦いは出てこない。

>>240
>倭が半島で高句麗・新羅と交戦してることは三国史記に載ってるでしょ。

ではそれを引用してくれ。

>日本書紀では、支配の正当性確立のため、外来であることを隠したという見方を
>しているが、半島の歴史書にはその理由がない。

それなら日本の歴史書に、百済や高句麗の王族が「扶余系」だなんて書いてある?

>>245
>世界中の歴史の中で、支配集団が自らのルーツを隠そうとしたなんて例は聞いた
>ことないだろ。

問題の金官加羅について考えて見よう。金官加羅が扶余系の可能性が高い北方
騎馬民族の征服によってできたことは発掘物という物証がある史実だ。
ではこのことが「加羅国記」に書いてあるか?
もちろん書いてない。これは「支配集団が自らのルーツを隠そうとした」例では
ないか?
実は「加羅国記」がはるか後世の創作だからそのように見えるだけなんだけど。
255250:03/12/02 19:28
で、俺は放置されたわけだが。
256日本@名無史さん:03/12/02 20:06
>>254
百済王家と倭王家とが親縁関係にあったというのならそれを隠す理由などどこにもないということ。
なにしろ百済と倭は同盟関係にあったのだからね。関係が無ければ書きようがない。
三国史記は読んだことないけど、
>>241のHP http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/wasi00.htm
で、倭と高句麗との交戦史実の根拠に三国史記等が挙げられてることからして、間違いないでしょ。
また百済王が扶余系であることは各種文献から立証されてるが、倭王家については全くの無根拠。
257日本@名無史さん:03/12/02 20:06
>「百済使臣図」と題するパネルである。
正式の名前は、「梁職貢図」といい、梁の武帝の第七王子粛釈が描いた各国からの貢ぎ物を捧げる
使節の絵姿とその国の説明である。これは521年、百済が新羅の使節を同道して梁に使節を送った
ときの模様を描いたものだという。
「百済国使百済は旧東夷馬韓の属○秦駒○略遼東楽浪に有り、亦た梁西○○県に有り、_義煕中其
の王余典、_皆中国の官爵を受く、吉通二年其の王余隆使を遣して奉表して曰く_」(○は漢字が読めない)
多少の読み間違いはあるかもしれないが、もともと楽浪郡のあたりにいて、さまよっていたが馬韓の地に
国を構えた、そして其の王は「夫余氏」だといっている。
驚いて博物館のカタログ「国立中央博物館」(日本語版があった)を買い求めてみると、「百済」の説明に、
「紀元前後ごろ、高句麗と同系統の夫余の移住民たちが、漢江流域に南下して伯済国を形成したが、
この勢力がしだいに馬韓地域を統合して成長した国がほかならぬ百済である。百済王室と高句麗建国者
の関係は、東明を始祖とする点や百済王室の姓氏が夫余氏ある点、国名をつける際に南夫余とした
ところにうかがうことができる」(p99)と書いてある。
>百済が高句麗に攻められて、都を南に移し、国号を「南夫余」とあらためたのは538年である。また百済
最後の王である義滋王とその王子余隆が唐の捕虜になったのは660年であるから、百済王余隆というの
は別人で武寧王(在位501-523)のことであろう。
>さてその捕虜になった王子余隆のことだが、その墓は中国河南省開封にあり、墓碑銘も残っていて、
それには「公いみ名は隆、字も隆、百済辰朝の人なり」と記されているという。

考古学情報広場 掲示板
http://www.momoso.net/articles/seifukusetsu/777.html
258日本@名無史さん:03/12/02 20:14
 それでいて、百済が騎馬民族とされる夫余族の征服王朝であることに誰し
も疑いをいれません。それは百済の建国神話などで支配者が騎馬民族とされる
夫余族であることがはっきりしているからです。神話の詳細は以前書きました
が、高句麗の始祖、朱蒙(チュモン)の王子・温祚が南下して百済を建国した
とされています(注1)。
  百済の場合、資料は神話だけでありません。百済は最終的な首都を「夫
余」と名づけたくらいなので資料はいくらでもあるようです。中国の資料にも
残されました。かって北宋の首都であった開封市の図書館に「夫余隆の墓誌
銘」が収蔵されています。
  夫余隆は、百済最後の王・義慈王の太子で、百済が滅んだとき唐側にとら
えられて長安に送られた人物です。唐は百済を復興して新羅に対抗させること
を計画し、夫余隆を楽浪郡王にして朝鮮に行かせようとしましたが、彼にはそ
の意志がなく、中国で一生を終えました。
  こうした確実な資料があるので、百済に騎馬民族の風習、たとえば家畜の
去勢の習慣や、ケットルなど騎馬民の祭器などあろうがなかろうが、百済の騎
馬民族征服王朝説はゆるぎません。つまり、征服王朝説にとって、騎馬民族独
特の風習の有無はさして重要ではないようです。

半月城通信 No. 81  http://www.han.org/a/half-moon/hm081.html#No.554
4 天皇騎馬民族説の進化(1)    5 天皇騎馬民族説の進化(2)
(月刊『Asahi』江上論文の一部収録)
259日本@名無史さん:03/12/02 20:17
>>258-259
このように半島では扶余系の出自は隠蔽されるどころか、
普通に語られてたことだ。
倭王が扶余系だからと言って、それを隠蔽する必要などどこにもない。
260日本@名無史さん:03/12/02 20:30
薬師如来は騎馬民族が持ち込んだように思えるけど?
飛鳥時代の古代寺院のあるところに多いよね?
役小角とかとも関連ある・・・・
261日本@名無史さん:03/12/02 20:48
だから突厥じゃないの???
262日本@名無史さん:03/12/02 20:57
>>257
その「梁職貢図」の訳文、かなりデタラメのような。


263250:03/12/02 20:59
で、また俺はスルーされているわけだが。
264日本@名無史さん:03/12/03 06:14
半月を持ち出すとは・・・

ここも電波スレと化してしまって様だね。
265日本@名無史さん:03/12/03 11:56
>>254
三国史記とかは高句麗・百済・新羅の歴史だからね。加羅は従来は小国として大きな扱い
じゃなかった。倭の一部と見なされてたりしてたし。近年の金海氏での発掘調査の結果、
半島南部における騎馬民族の一大拠点として再評価が高まってきたが。

>しかしながら、辰王朝発祥の地としての任那(加羅)には、辰王家の直轄
>領(官家、みやけ)としての日本府という名前が残ったのである。それゆえ、
>『日本書紀』において、「日本天皇」「日本軍人」あるいは「日本府」といっ
>た名称は日本側にはなく、ずべて『百済本紀』など朝鮮側の所伝にのみ見える
>のである。(月刊『Asahi』江上論文)
半月城通信 No. 81  http://www.han.org/a/half-moon/hm081.html#No.554

>それゆえ、・・・・

朝鮮側がそういう認識で日本府とまで言ってるというのなら、倭王家は辰王家の分派である
と、はっきり書いているだろ。隠す理由などないんだから。
266253:03/12/03 18:19
「倭人が日本から半島に攻め込んで「日本府」とやらを作った」のではなく、
半島南部の倭人がやがて日本に攻め込み移住する、これが現在の定説。
半島南部の先住民が日本人の先祖なら、この時代の半島の調査(とくに百済・高句麗との関係)の結果次第でどうにでもなる。
そうすれば百済王家と倭王族、百済滅亡後に日本に亡命した百済系士族、さらに現在の皇族の説明もつきやすくなるはず。
267253:03/12/03 18:22
まぁ、結局は皇族の人達本人に聞いてみないと分からないけどね。
268日本@名無史さん:03/12/03 21:12
>>266

だから〜、「攻め」込んだというのがどうも納得できないのよ。

>>267

皇室って真相をしっているのかな?

上の方で歴史が「隠蔽された例」があがっていたが、
それはどっちかというと滅亡で不明になった例だと思うぞ。

現在も継続している(断絶があったかどうかはともかく)王家なら
真相が伝わらないわけがないと思う。
しりたい・・・(;´Д`)ハァハァ
269250:03/12/03 21:52
で、また俺は放置プレイを受けたわけだが。(;´ Д`)ハァハァ
270日本@名無史さん:03/12/03 22:15
>>266
何が「定説」だ?
お前だけだろ。
271日本@名無史さん:03/12/04 14:44
>>269
>>
では金海のクヤ韓国を征服した扶余はどんな王墓を作ったのか?
彼等はクヤ韓国の王墓を破壊してその上に重ねてじぶんたちの王墓を作った。
そのクヤ韓国の墓は、自然の丘を利用してその稜線部分に王墓、山腹の部分
に下級の墓を作るという、「集団墓地」であった。

独立の墳丘を持たないかまたは殆ど持たない、丘を利用した「集団墓地」で
あるという点で、クヤ韓国の墓はいわば「吉野ケ里」式であった。(ただし
吉野ケ里は人工の丘だが)
扶余の王墓は、なにを持って扶余式とされるかというと、「郭」の作り方が
丸太によるということだ。(それまでのクヤ韓国の王墓の郭は板を用いていた)
もちろん副葬品や殉葬などにも扶余の特徴は表れる。

つまり、クヤ韓国式と扶余式の区別は「郭」の作り方や副葬品によるので
あって、墓の「外形」については扶余は「丘を利用した集団墓地」という、
クヤ韓国の形式を「踏襲」したのだ。

これを倭国にあてはめれば、すでにあった前方後円墳という外形を踏襲して、
墓室の作り方と副葬品に扶余の特徴を表せばよいわけだ。
だから倭の古墳が一貫して前方後円墳であるということは、それだけでは
扶余が来なかったことの証明にはならない。
「木郭」についても、未発掘の天皇陵を掘れば出てくるかも知れないが、
発掘できない以上はなんとも言えない。
272日本@名無史さん:03/12/04 15:18
だいぶ前、読売新聞夕刊の書評欄でロングセラー紹介コーナーがあって、
「騎馬民族国家」を取り上げられていたけど、
「発表当時は歴史学会に一大センセーションを巻き起こしたが、今では
ほとんど顧みられず、反論さえ滞りがちとなっている」と書いてあった。
今だに騎馬民族説を信じているのは「バカかチョンか」ならぬ「アカかチョンか」だよ。
これから>>271の事を「バカチョン」ならぬ「アカチョン」と呼ぼうぜ!
273日本@名無史さん:03/12/04 16:53
>>271
今、真の継体陵と考えられている今塚古墳の発掘調査が行われてるけど、
お前の認識では当然、木郭墓なんだろうな?

それとも、木郭墓でなかったら継体陵は別にある!とでも判断するのか?
274日本@名無史さん:03/12/04 18:08
日本統一以前から北九州と半島南岸は深いつながりを保ってたんだから、
日本が統一されれば自動的に半島南岸も日本の影響圏の傘の中に入るじゃん。
当時は倭人と韓人の完全な棲み分けなんて成されてなかったんだから。

つーかそもそも「国民国家」なんつー概念は近代に入ってから
登場したのであって、当時は1つの王朝にどんな民族が混在しようが
大した問題ではなかった。
例えば百年戦争前には西仏にイギリスの領土があったけど
当時の人はそれに対して別に違和感を感じてなかったんだから。

275日本@名無史さん:03/12/04 21:29
>>273
応神陵と仁徳陵を掘ってほしいね。
276日本@名無史さん:03/12/04 21:36
>>274
>日本が統一されれば自動的に半島南岸も日本の影響圏の傘の中に入るじゃん。

それを裏返せば、半島南岸に扶余王朝が成立すれば、北九州は自動的にその影響圏
に入る。
「北九州と半島南岸は深いつながりを保ってたんだから」ね。
277日本@名無史さん:03/12/04 21:36
>>274
八百万の神々を集めて話し合ったと言ってるし。
支配民族がいたとしても、内部は多民族だったろう。
278日本@名無史さん:03/12/04 22:03
>>271
>つまり、クヤ韓国式と扶余式の区別は「郭」の作り方や副葬品によるので
>あって、墓の「外形」については扶余は「丘を利用した集団墓地」という、
>クヤ韓国の形式を「踏襲」したのだ。

それは実はクヤ韓国においても「騎馬民族による征服王朝」ではなく、
在地集団のうち北方とつながりのある部族が政権奪取した、という
ことではないんですか?

もう一点、
クヤ韓国の、より原始的な集団墓とくらべて前方後円墳という規格のはっきり
した墓制を維持した理由はなんでしょうか?
279日本@名無史さん:03/12/04 22:47

朝鮮人は、人種的にはモンゴル系の黄色人種で、形質的には日本人に
もっともよく似ている。身長、頭形、顔形、血液型、指紋などでは、
日本人と満州族とにもっとも関係が密で、中国人とはそれほど類似して
いない。北部の朝鮮人は満州族に、南部は日本人に似ているが、
例外として、モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に
近く、平安南道・南北黄海道人の頭形はもっとも華北型に近い。
ツングース族に属する満州族や東部シベリアの古アジア諸族などが、
前40世紀ごろから朝鮮半島に移住し、これより前に南方から移住してきた
人々と共存していたとも考えられている。(世界大百科事典/平凡社)

これより前に南方から移住してきた人々
これより前に南方から移住してきた人々
これより前に南方から移住してきた人々
これより前に南方から移住してきた人々
280日本@名無史さん:03/12/05 00:11
「隠蔽」する理由がないのに
滅亡していない王朝の起源に
半島民族を示唆する文言がない
理由が説明されていないよ〜!
281日本@名無史さん:03/12/05 19:53
>>278
>それは実はクヤ韓国においても「騎馬民族による征服王朝」ではなく、
>在地集団のうち北方とつながりのある部族が政権奪取した、という
>ことではないんですか?

その「在地集団」は「北方とのつながり」によって、3世紀末、まだ高句麗
の南下も始まっていないのに:
突然、馬を乗りこなし、騎兵戦術を身につけ、
騎兵用の鉄製の桂甲と、馬用の馬面、馬甲、その他一式を開発/製作し、
歩兵用の鉄製防具と武器を大量生産し、
生活用の什器については満洲北部から輸入したものも使用し、
墓については郭の作り方を扶余式に改めたばかりか、
昨日までなかった人と馬の殉葬を採用した、

ということになる。「北方とのつながり」がどのような関係かわからないが、
上記のような事柄のセットを一括して説明できるのだろうか。
それよりは民族移動/征服で説明するほうがまだ簡単ではないか?
282日本@名無史さん:03/12/05 19:59
>>278
>クヤ韓国の、より原始的な集団墓とくらべて前方後円墳という規格のはっきり
>した墓制を維持した理由はなんでしょうか?

古代の支配者が墓を作るのは後世の歴史家に見分けてもらおうと思って作るの
ではない。支配者の権威を示すために作るのだ。
集団墓地しかなかったクヤ韓国でなら、先代の王朝の墓を破壊してその上に
墓を作るだけで権威をしめすことができた。

しかし、すでに巨大古墳の築造がはじまっていた倭国を支配したとき、巨大古墳
の傍らに墳丘のない集団墓地を築いて、権威が示せるだろうか。
それよりはいままでの外形を踏襲しつつ、格段に大きいものを作らせることを
考えるのではないだろうか。
なにしろ新しい支配者は倭と朝鮮半島にまたがる一種の「帝国」の支配者であり、
従来の「豪族の中の王」ではなく「王の中の王」たることを示さなければならない
のだから。
283日本@名無史さん:03/12/05 21:34
>>282
その説明では支配者が「騎馬民族の征服者」であるという必然性が感じられません。
畿内の王家が持続的発展を遂げて巨大墳墓をつくった、という説明で問題ないでは
ないですか。
前方後円墳体制が存続することを「騎馬民族の征服」のような劇的な体制変化が
なかったことを意味すると考える方が余計な仮定を置かなくて良いのは明らかです。
284日本@名無史さん:03/12/05 22:17
江上の騎馬民族説では、大和政権が強大で直ちに屈服させることが困難なため、
とりあえず河内に拠点を定め、巨大古墳を建設して大和を牽制しながらの従民政策を
実行した。それが応神や仁徳陵だという認識である。
ところが同時期、吉備にも同規模の巨大前方後円墳が建設されている。
造山・作山古墳などがそれだ。天皇陵にも参考陵墓にも指定されていないが。
周囲をめぐる幾重もの濠がないという相違点はある。
騎馬民族説が正しいのなら、河内がその傘下に下った以上、吉備もまた屈服してるはずで
あり、造山・作山は継体陵の話じゃないけど、当然木郭墓でないとおかしいことになる。
なぜなら、吉備は半島・九州と近畿をつなぐ交通上の要衝だからだ。
詳細な発掘調査はまだ行われてないようだけど。あれは一体誰の墓だと言うのだろうか?
大和が全国を統一に乗り出したのなら、吉備は地方だから、濠のない劣った墓になってても
おかしくないが、吉備→河内ときて、かつ同規模の古墳を造営して差がついてしまってる。

吉備にまつわる所伝では、百済系の流入者が吉備を制服し大和に警戒された。
崇神天皇が吉備津彦命を派遣して、流入した百済系温羅を滅ぼしたとなっている。
これは騎馬民族説とは全く逆方向の歴史エピソードだ。
また征服王朝を築いた扶余系が、明白に半島系と見られる遺物を残している同系百済から
来た征服者を滅ぼしたという種類の所伝を記しているというのもおかしな話だ。
285284:03/12/05 22:19
>第11代垂仁天皇の頃、吉備の国に「温羅(うら)」という異国の王子がたどり着いた。髪や
ヒゲはぼうぼうと伸び放題、性格は極めて凶悪で、備中国新山に居城を構え、近在の婦女子
を誘拐したり、都への貢ぎ物を略奪したりしていた。大和朝廷はこの温羅退治に、「吉備津彦命」
(きびつひこのみこと)を派遣する。これが「桃太郎伝説」の由来で、吉備津彦命が桃太郎、
温羅が鬼と言うわけだ。
>温羅が住んでいたという「鬼ヶ島」は、今も「鬼城山」として総社市に存在し、古代の城郭遺跡
が残っていて発掘調査も進んでいる。発掘は昭和53年から開始され現在第3次の調査中である。
それによると朝鮮式の山城で、城壁の総延長は2.8km、城内の面積は約30万uにも及んでいる。
>一方でもう一つの「桃太郎伝説」もある。それは、「温羅」は大和朝廷の吉備侵略に立ち向かって
「吉備津彦命」と戦った英雄である、と言うものだ。温羅は百済の王子で、唐・新羅との戦いに敗れ
古くから交流のあった吉備に逃れてきて、ここに山城を築き、製鉄等の百済の進んだ技術を吉備
地方にもたらした。これにより吉備地方は次第に繁栄していった。これを危惧した大和朝廷は、
吉備征伐に「吉備津彦命」を派遣し、温羅を滅ぼしたと言う話である。「鬼城山」は、温羅とその一族
が住んでいた居城と言うことになる。敗残者の常で、やがて温羅は悪人となり、終いには鬼となった。
この話の方が信憑性がありそうである。

吉備風土記の丘(造山古墳・作山古墳)
http://inoues.net/yamataikoku/ruins/kibi.html

 日本書紀に二人存在するハツクニシラス天皇の一人、崇神天皇四道将軍の西海担当
吉備津彦ノミコトが中山に陣を張り、ここ鬼ノ城を居とし、悪行三昧を繰り返す百済の王子
温羅(ウラ)と戦ったのが桃太郎伝説の元として伝えられています。

鬼ノ城  http://ww3.tiki.ne.jp/~t-sun/kinojou.htm
286284:03/12/05 22:20
287仮説:03/12/06 00:19
扶余系辰王家は百済王となり、加羅の一部も支配下においた。
加羅の扶余系一派は、高句麗・新羅の攻勢に後退し、
5世紀には壊滅させられ、王墓造営が困難になった。
それと同時に出没したのが吉備の造山・作山古墳だ。
倭の征服も企図して日本列島に侵入を試みたが相手が強固のため、
筑紫や出雲を回避して吉備の征服に成功した。
彼らが大和政権の河内古墳を模倣して作らせたのが吉備古墳である。
規模においては河内天皇陵に匹敵しながらも、濠がないなど不完全な形態。
しかし、いずれ百済系吉備はその繁栄を恐れる大和政権により滅ぼされた。
それとともに吉備での古墳群の造営は忽然と終焉する。
その巨大さにも関わらず天皇陵でも参考地でもないのはそのためである。
そうしたいきさつを反映しているのが、吉備津彦命と温羅との戦いだ。

騎馬民族説は吉備(だけの)征服なら合理化できるかも知れない。w
288日本@名無史さん:03/12/06 00:20
吉備氏の興亡を語るスレ。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1010742490/
289日本@名無史さん:03/12/06 16:12
>>283
>その説明では支配者が「騎馬民族の征服者」であるという必然性が感じられません。
>畿内の王家が持続的発展を遂げて巨大墳墓をつくった、という説明で問題ないでは
>ないですか。

話を逆転させては困る。
私は前方後円墳の一貫性が必ずしも騎馬民族征服説と矛盾しないことを示したのだ。
前方後円墳が征服説の積極的な証拠だと言っているわけではない。

>畿内の王家が持続的発展を遂げて巨大墳墓をつくった、という説明で問題ないでは
>ないですか

国内だけ見ている分にはそれでもよい。しかし朝鮮半島との関係になると分から
ないことだらけになる。
例えば4世紀中葉の百済との連係と対新羅戦争、任那地域の服属化をやった列島の
主体はなにか。(この時期、まだ畿内と九州は統一されていない)
この時期は金官の盛期に当たるが、このような軍事的な勢力が、列島から見れば
橋頭堡の位置にあるのに、百済とちがってほとんど記述されないのはなぜか。

>前方後円墳体制が存続することを「騎馬民族の征服」のような劇的な体制変化が
>なかったことを意味すると考える方が

古墳時代前期から中期への副葬品の変化はじゅうぶん劇的ではないかな。

290日本@名無史さん:03/12/06 16:17
>>284
>また征服王朝を築いた扶余系が、明白に半島系と見られる遺物を残している同系
>百済から来た征服者を滅ぼしたという種類の所伝を記しているというのもおかし
>な話だ。

それが事実だとしても全然おかしくない。
なぜならおよそ扶余系諸国の歴史は内紛と近親憎悪の歴史だからだ。
現に扶余、高句麗、百済の間だって扶余同志で近親憎悪を繰り返しているわけだ。
内紛と近親憎悪なら日本の古代史だってごたぶんにもれない。
291日本@名無史さん:03/12/06 17:40
>>290
高句麗の歴史を扶余だけで語るのは論外だろ・・
292日本@名無史さん:03/12/06 17:41
>>290
それなら倭が終始一貫して百済の同盟国であり、
それを援助する立場にあったことをもって、
倭王と百済辰王との同族関係の証拠としていた
江上の立論が崩れることになるではないか。
293日本@名無史さん:03/12/06 17:44
楽浪郡の遺跡研究は戦前にすでにかなりのレベルに達しており、楽浪郡の住民はほとんど
王氏と韓氏が大部分をしめていたことがわかっています。
このうち王氏というのは山東半島の名族で、王氏を称したのは山東系の移民と思われ、
後漢時代に謀叛をおこし6年間にわたって楽浪郡で独立政権を維持した「王調」、
日本に漢字(と儒教思想)を伝えた「王仁」はともに山東系楽浪王氏と考えられます。
王氏についで多いが「韓氏」で、韓氏は今の河北省に多く、これは西周初期に
ペキンのすぐ南、今の固安に建国された「韓」が、後に河南省に移転した時に
とり残された住民が称した姓だとされ、項羽と劉邦の時代に燕王を称した「韓広」なる人物も
この韓氏と思われます。つまり王氏は山東系、韓氏は河北系の移民ということですね。
で、このことから、楽浪郡のみならず真番郡でも類似の事態、つまり移民の多くは王氏か韓氏
だったのではないか、という可能性が出てくるわけです。
魏略が拾ってきた伝承では箕準(箕子の子孫)が馬韓に入ってきて王になるわけですが
なぜか子姓でも箕氏でもなく(すでにそこは韓だったから)韓氏を称したということになっています。
(箕子到来伝説には史実性はまったくありません)これは中国系の人々が箕子にこじつけた頃には
すでに「韓」の名は自明で韓の由来を説明できなくなっていたということでしょう。
箕準とされた人物は実はもとから韓氏をなのる中国系の人物で、真番郡廃止後、
一時的にせよ現地をとりまとめて王となったのでしょう。
でなければいくら中国系の人々が有力でも韓が真番にかわって地名になりことは考えにくいし
一方、魏略所載の伝承から箕子伝説をさしひくときわめて整合的であるように考えられます。

戦国時代の「韓」というのは河南省に移転した後の韓が
BC757/6に晋に滅ぼされ、その跡地に晋の公室のひとり「姫萬」なるものに
封領として与えられたのがはじまりです。(姫萬すなわち韓萬=韓武子)
294日本@名無史さん:03/12/06 17:55
いわゆる騎馬民族説が正しいというのなら、温羅による製鉄技術の移植も何もあるまい。
河内の応神・仁徳陵と吉備の造山・作山古墳とはほぼ同時期に造営されている。
王権が大和から河内に進出したのなら、吉備に王朝と無関係の陵墓が建設されてても
おかしくないが、筑紫から河内に進出したのなら、吉備は既に制圧済みのはずであり、
新たな侵略者のつけいる余地はない。しかも既に吉備を制圧している勢力は騎馬民族
なのだからね。現地住民を屈服させて軍事基盤を構築済みの騎馬民族が、小規模で
侵入してきた百済勢力に敗北するはずがない。また進出騎馬民族は製鉄技術も既に
日本に移植しているはずだ。温羅らがただの技術者集団だというのならわかるが、
所伝はあきらかに征服者として扱っている。

製鉄技術を吉備の国に伝えたのが、百済の王子といわれる温羅

「鉄は国家なり」と言われた時代、当時の最先端技術であった「製鉄」のテクノロジー
を持った吉備の国は、産業国家として繁栄していました。温羅は「吉備冠者」と呼ばれ、
人々から尊敬されたでしょう。温羅一族とはまさに、明晰な頭脳と高度な職人の技を持つ、
プロの技術者集団だったと考えられます。でも、そんな吉備の国の繁栄は、全国統一を
もくろむ大和朝廷から見ると、面白いはずはありません。朝廷は、技術者集団の指導者
である温羅を滅ぼし、吉備を朝廷に全面服従させることを企みはじめます…。
http://www.webtsc.com/kanko/momotarou/densetu/densetu1.html>
295日本@名無史さん:03/12/06 19:17
読もうかなー、だりぃなぁ〜
296日本@名無史さん:03/12/07 01:03
>>289
>話を逆転させては困る。
>私は前方後円墳の一貫性が必ずしも騎馬民族征服説と矛盾しないことを示したのだ。
>前方後円墳が征服説の積極的な証拠だと言っているわけではない。

「逆転されては困る」もなにも、征服王朝を標榜するなら矛盾がないだけでは
駄目じゃないですか。より少ない仮定で説明できるならそちらが優先しませんか?

>例えば4世紀中葉の百済との連係と対新羅戦争、任那地域の服属化をやった列島の
>主体はなにか。(この時期、まだ畿内と九州は統一されていない)

石上神社の七支刀は何でしょうか?

>古墳時代前期から中期への副葬品の変化はじゅうぶん劇的ではないかな。

副葬品は威信材ですが、墓の形は宗教祭祀ではないですか?
297日本@名無史さん:03/12/07 10:06
大和朝廷の成立
>騎馬民族征服説
http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-4-1.htm
朝鮮半島への進出
>七支刀の謎
http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-4-2.htm

(7) 百済王子貴須が倭王に七刀を贈った意味
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/2-7nanatusaya.htm

古代朝鮮半島と日本の関わり
>七支刀 >広開土王碑 >倭の5王 >任那問題

>出土品から分かること
>まず朝鮮での出土品で日本との関連が明らかなものは、加耶地域から多数発掘されています。
特に洛東江河口の金海地方には多数の出土品があることからも、この地区に日本の本拠があった
ことは確実です。興味深いことは2−3世紀の遺跡から出るものは北部九州で製作されたと思われる
品が多く、4世紀以降の遺跡からは近畿地方に分布している品が多くなることです。即ち日本の統一
がこの時期急激に進み、交易の主体が北九州の政権から大和政権に代わったことが分かります。

>朝鮮進出の目的
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/kodai-chousen.html
298日本@名無史さん:03/12/07 19:12
>>291
>高句麗の歴史を扶余だけで語るのは論外だろ・・

被支配民族もいたと言いたいのだろうが、古代国家は「家」の論理で
動くのだから支配者層だけ考えればだいたい用は足りる。

>>292
>それなら倭が終始一貫して百済の同盟国であり、
>それを援助する立場にあったことをもって、

反倭的な百済王が立てば出兵して誅殺したことは日本書紀にも出ている。
恭順なのをわざわざやっつけることはない。

299日本@名無史さん:03/12/07 19:17
>>294
>王権が大和から河内に進出したのなら、吉備に王朝と無関係の陵墓が建設されて
>てもおかしくないが、筑紫から河内に進出したのなら、吉備は既に制圧済みの
>はずであり

制圧済みの地域には要所に要人を配置してもよいではないか。その要人の勢力が大きく
なり過ぎれば中央からつぶされる。
この原理は中央が騎馬民族であろうとなかろうと同じだろう。

>また進出騎馬民族は製鉄技術も既に日本に移植しているはずだ。温羅らがただ
>の技術者集団だというのならわかるが、

ただ技術を持った集団がいればよいというものではなく「適地」があるだろう。
例えば砂鉄を産するとか、燃料の木が豊富だとか。
畿内〜半島の交通の要衝の確保と鉄生産の管理を兼ねていたと考えればよい。
300日本@名無史さん:03/12/07 19:21
>>296
>より少ない仮定で説明できるならそちらが優先しませんか?

だから、半島もあわせて考えれば「より少ない仮定で説明」できないと言って
いる。

>石上神社の七支刀は何でしょうか?

そうすると君は4世紀中葉に、畿内の勢力が、まだ統一していない九州も、
半島の上陸点に蟠踞する金官騎馬軍団もバイパスして、百済と共同作戦を
行ったという立場なのかな?

それと、石上神社の七支刀が4世紀のものだというのは銘の「泰*」を「太和」
と読むかどうかにかかっている。
「泰*」は「泰始」であり、したがって干支と併せて468年のことだという
宮崎市定の精密な考察がある。私はこちらのほうを信じる。
石上神社の七支刀は倭の五王時代末期のものなのだ。

>副葬品は威信材ですが、墓の形は宗教祭祀ではないですか?

威信材の意味は知らないが、私は被葬者のアイデンティティを示すものだと思う。
北方型の武装が出るのならば、生前の被葬者はそのような武装で実際に戦ったのでは
なくとも、それを着けて権威を示すような場面があったのだ。
墓の外形については前に言ったから繰り返さない。
301日本@名無史さん:03/12/07 21:43
偉大な祖国って朝鮮語でなんていうの?
302日本@名無史さん:03/12/07 22:47
ウリナラ墨田
303日本@名無史さん:03/12/07 23:24
>>299
お前、ちょっと無理があるぞ。
大古墳を造営してるってことは現地住民を完全に制圧し支配下においてるってことの
証明だ。つまり騎馬民族説が正しいなら河内も吉備も同様に支配できてる。
にも関わらず、百済系流入者が何故に吉備を屈服させ得るのか?

>>300
統一できてないって根拠はあるのか?
>>297 に統一過程の傍証がきっちり出されてるじゃないか。
また七支刀が百済から大和に送られてることも併せ、倭の主体が近畿にあったことは明白。
また、加羅は百済や新羅とは違い統一国家にはなっていない。
倭や騎馬民族が入り乱れてる特殊な地域だったのだろう。
あそこは盆地とかがいっぱいあって、統一的な地理事情ではない。
騎馬民族が一部に拠点を置いていたからといって、全体を支配したことの証拠にはならん。
304日本@名無史さん:03/12/08 20:46
>>303
>つまり騎馬民族説が正しいなら河内も吉備も同様に支配できてる。
>にも関わらず、百済系流入者が何故に吉備を屈服させ得るのか?

君は歴史の話をするのに民間伝説を根拠にするのか?
吉備の伝説には少なくとも二つの要素が混入しているだろう。

一つは古墳時代中期に河内と平行して巨大古墳を築いたグループ。
もう一つは白村江敗戦の後に百済から来て対唐防衛の朝鮮式山城を築いた
百済人だ。
温羅伝説は主に後者に関係しているだろう。その理由はより後世だから記憶が
新しいことと、百済人であることがはっきりしていることだ。
ここには君の言う「屈服」だの「征服」だのは関係ない。

前者の巨大古墳グループについて雄略記の記事を簡略にまとめると:
*7年、吉備の前津屋が天皇を軽んじる行いをしたので天皇に殺された。
*7年、吉備の田狭を任那に派遣した。田狭は新羅、百済と通じて反逆しよう
 とした。
*23年、吉備の尾代は新羅を征討した。
*23年ごろ、吉備の稚姫が子、星川皇子をそそのかして皇位をねらった。

以上から、このころの吉備氏は天皇の地位をねらえる位置にいたこと、
半島諸国と関係が深かったこと、あるいは半島経営を担当していたこと、
がわかる。

この巨大古墳グループを、土着の豪族の発展したものと見るか、あるいは
要衝の地に配置された騎馬民族征服者のナンバーツーと見るか、どちらの
見方も可能である。
305日本@名無史さん:03/12/08 21:19
>>304
崇神朝四道将軍・吉備津彦命が百済王子温羅と戦ったと
日本書紀に記されております。 >>285

崇神が騎馬民族説では加羅から筑紫に侵攻した指導者ということになってますからね。

白村江の頃とは時期違い。

また朝鮮式山城というのは、亡命百済人らを受け入れた結果の産物であって、
支配・被支配の関係とは無縁。
306日本@名無史さん:03/12/09 21:30
>>305
>崇神朝四道将軍・吉備津彦命が百済王子温羅と戦ったと
>日本書紀に記されております。 >>285

そんなのどこに書いてあるのかな。
崇神記には10年に「吉備津彦をもて西の道に遣わす」と
書いてあるだけなんだが。

温羅伝説というのは独立した民間伝承なんじゃないかな。
307日本@名無史さん:03/12/09 22:22
吉備津彦命(きびつひこのみこと)
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/kibituhi.html
温羅(うら、おんら )
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/ura.html

温羅伝説の史実
http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/ura.htm

温羅は日本書紀には出ていない。
308日本@名無史さん:03/12/09 22:30
素人が見ていると、
古い時代のはなしだけに物証の欠落している部分が大きすぎ、
そこをどう補完するかでどっちの説でも説明できてしまうように見えます。

古墳の発掘ができれば決定的な証拠が出てきたりするんでしょうかね?
309日本@名無史さん:03/12/09 23:24
しょぼしょぼに縮んでしまった騎馬民族説からは
大和の支配者の源流を半島南部に求める仮定を設ける
必然性が感じられない。
310日本@名無史さん:03/12/09 23:50
騎馬民族説では崇神天皇陵墓が任那にあるということになってるようだけど、
最初は筑紫ってことになってたはずだよね。九州に侵攻して最初に筑紫に都した、と。
ところが、加羅の発掘が進んで、そこに4世紀を通じて陵墓が建設されてるため、
4世紀初頭に筑紫に侵攻後もなお、任那が都だったってことにしたんだろ。
そして4世紀末〜5世紀に河内へと侵攻。そこに応神陵となる。
ここがよくわからないなあ。筑紫に侵攻しても都は任那のままなのに、
河内に侵攻してそっちに移転したというのがね。
4世紀は任那が首都で、5世紀には筑紫も出雲も吉備も飛び越えて一挙の河内となってしまう。
だって、九州への侵攻は、半島南部での戦いに苦戦したので、奥行きを固めて
後背地を確保する戦略だったんだろ?それなら真っ先に筑紫に遷都してしかるべきだし、
筑紫に侵攻後は海に隔てられてるから河内に遷都する必要性はそれほどないはず。
それに百済は滅亡後まで一貫して扶余系辰王朝が維持されてる。
それなら、倭に無理して侵攻するまでもなく、百済に身を寄せればいいだろ?
もっと辰王朝とは言っても、周囲からの支持あってはじめて王となれたというなさけない「支配」なんだけど。
311日本@名無史さん:03/12/10 17:13
>>310
私は後期型江上説を読んでいないから、私の考えで書く。

>だって、九州への侵攻は、半島南部での戦いに苦戦したので、奥行きを固めて
>後背地を確保する戦略だったんだろ?それなら真っ先に筑紫に遷都してしかる
>べきだし、

4世紀も末になるまでは金官加羅は苦戦していない。新羅を圧迫して侵食し、
他の加羅諸国を服属させていた。北九州は、だれかも逆の立場から言っていた
ようにクヤ韓国と一体だったから、ほとんど自動的に金官加羅に服属して、
兵力の供給基地のようになっただろう。

しかし畿内はまだ独立を保っていた。そしてこの時期あきらかに畿内との交易
があったから、金官はいわば遠交近攻策を取ったわけだ。

>筑紫に侵攻後は海に隔てられてるから河内に遷都する必要性はそれほどない
>はず。

金官は5世紀初頭に実体がなくなったが、これは好太王との戦いで消耗して、
いよいよ本拠を九州に移すことにしたのだ。その後、さらに河内に遷都したのは
結局のところ王権の安泰のためだ。背後に畿内という大勢力がいてはおちおち
安心できないからね。

なお私は崇神は畿内の土着勢力だと思う。日本書紀は崇神までと景行以後で
書き方が変わる。崇神は中央にいて地方平定を指示しているのに、景行以後は
九州に親征するばかりか常駐する。これは土着の王権の系譜と、征服者の
系譜をむりに一系統にしたためだ。景行以後数代はもともと九州が本拠だった
のだ。
312日本@名無史さん:03/12/11 18:41
>>311
随分乱暴な説だな。騎馬民族説もそこまでつまみぐいされるようになったか。
崇神はハツクニ・・・でかつミマキ・・・だからこそ騎馬民族説立論上の出発点
足り得んだからねえ。そこを否定されたんじゃあね。
それと4世紀に苦戦してないんだったら九州に侵攻する必要ないんじゃないの?
海上移動なんて面倒なことしてまで。先に地続きの新羅を征服する方が優先度が
高いはずでしょ。目と鼻の先にいる敵なんだから。そしたら高句麗との戦いが有利になる。
それと5世紀に河内に遷都したと言ってるけど、それだって無理があるよ。
筑紫にはまともに都を置いてなかったってことになるから。背後に畿内という大勢力が
あるから心配なんだったら、取り合えず筑紫に都して、河内を討つという戦略になるのが
当然。しかも河内を制圧しても大和がいるんだからね。そっちことおちおち安心できんでしょ。
江上説でも河内まで行ったけど、大和は強大で直ちに屈服させることは困難だった。
そこで、河内に従民政策を行い、大和に対しては懐柔策を取ったということになってる。
江上は森浩一と一緒に北朝鮮に前方後円墳が見付かったとかいう馬鹿馬鹿しい取材してた
NHK番組で高句麗古墳の壁画探索に行ってたけど、その壁画が何世紀のだったか忘れたけど
年代見て、騎馬民族説上、日本に侵攻したのは高句麗ではなさそうだ、何故ならその頃にはもう
半島南部に侵攻してるからだと言ってた。その時もそうだったんだけど、彼曰く、騎馬民族という
のは征服した地に次々都を移していくんだそうだ。だから加羅を制すれば任那、九州を制すれば
筑紫、近畿を制すれば河内としてる。それなのに加羅に4世紀を通じて大王陵が築かれてたら
まずいだろう。「騎馬民族国家」ではずっと九州での“発見”を切望してたんだからね。それなのに
九州には片鱗すらない。そして金海市に見付かったとなれば「そこが都だ!崇神の墓はそこにある!」
だからね。ご都合主義とはまさにそのことだ。
313日本@名無史さん:03/12/11 20:47
>>312
>随分乱暴な説だな。騎馬民族説もそこまでつまみぐいされるようになったか。
>崇神はハツクニ・・・でかつミマキ・・・だからこそ騎馬民族説立論上の出発点
>足り得んだからねえ。そこを否定されたんじゃあね。

間違えては困る。以前から言っているように私は「扶余族征服王朝説」を唱えて
いるのであって「江上説」を唱えているのではない。
まあ奥野正男の説にはほぼ一致しているがね。
ただし前にも書いたが江上説の細部を否定しても江上の先駆者としての栄誉は
尊重されるべきだ。そういう意味で私は江上を尊敬する。

>それと4世紀に苦戦してないんだったら九州に侵攻する必要ないんじゃないの?

侵攻したとは言っていない。「ほぼ自動的に服属した」と書いたが、まあ植民地
にしたと言ってもよいだろう。

>取り合えず筑紫に都して、河内を討つという戦略になるのが当然。

植民地としてのリードタイムがあるからそんなに長く「都する」必要はないだろう。

314日本@名無史さん:03/12/11 20:51
>しかも河内を制圧しても大和がいるんだからね。そっちことおちおち安心できん
>でしょ。

河内に巨大古墳を築いたという事はとりもなおさず大和は服属したということだ。
時は倭の五王時代だよ。

>そして金海市に見付かったとなれば「そこが都だ!崇神の墓はそこにある!」
>だからね。ご都合主義とはまさにそのことだ。

上に書いたように私は「江上説」を唱えているわけではないし、崇神は土着王権だと思う。
ただし、新しい発見に応じて説をモデルチェンジすることは別に構わないと思う。
「わかたける」銘の鉄剣が出たら教科書にも載った「みずはわけ」説は忘れられる。
考古学は常にそういうものだ。
315日本@名無史さん:03/12/11 21:19
ちぇすとー
316日本@名無史さん:03/12/11 21:22
>>314
大和が屈服してるのなら河内に大古墳は築かないだろ。
大和に作ればいい。箸墓以来の前方後円墳があるでしょ。マキムク古墳群とかね。

大和が連邦制から直接統治に乗り出したからこそ、河内に作られてると見ることはできる。
半島から九州を経由して大和を制したのなら最初から大和に作るはず。
317日本@名無史さん:03/12/11 21:47

人種的には、朝鮮人はモンゴロイドのなかでも、長身、短頭、高頭である点で
かなり特異である。顔面は平面的で、頬骨が突出し、鼻はあまり高くないのが
ふつう。眼裂は狭く、つり上がっていることが多い。顔毛、体毛は概して非常に
少ない。皮膚は黄ばんだ淡かっ色で、毛髪や目の色は濃い。髪はかたく、直毛で
ある。朝鮮人は、中国人を代表する中モンゴロイドと、ツングースを代表とする
北モンゴロイドの中間的な様相を帯びる。朝鮮半島内ではかなり均一化されて
いるが、北部にいくにしたがって長身となる。日本列島を概観するとき、長身、
短頭、貧毛という点で、近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的
要素を有することは注目に値する。(国民百科事典/平凡社)

近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有する
近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有する
近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有する
近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有する
318日本@名無史さん:03/12/11 22:18
>>312
長い。読みたくない。
319日本@名無史さん:03/12/11 23:30
江上説では本来、4世紀全般において任那に陵墓が建設されていてはいけない。
4世紀初頭に任那の地名から諱を取ったと強弁してたミマキイリヒコイリエノミコト=ハツクニシラススメラミコト=崇拝
=初代倭韓連合王国創始者はすかさず筑紫に都を置き、次いで4世紀末から5世紀にかけ
河内に侵攻した応神(崇神とともに神の字を使ってる)が河内に移ったとされていた。

金海市での発掘調査を騎馬民族説を立証するミッシングリンクだと月間Asahiで
高らかに宣言してた江上は、陵墓建設が4世紀を通じて行われてたと知って衝撃を受けた
はずだ。おそらくそれが彼の死期を早めたのかもしれない。
320日本@名無史さん:03/12/12 22:11
金海市の大成洞古墳群などでの
扶余系陵墓の建設は5世紀頃から廃れてるそうだけど、
建設始めはどの何世紀頃から?
321日本@名無史さん:03/12/12 22:46
>>316
>大和が屈服してるのなら河内に大古墳は築かないだろ。
>大和に作ればいい。箸墓以来の前方後円墳があるでしょ。

騎馬民族あるいは扶余族が征服しても倭が豪族連合体であることに変わりはない。
だから旧勢力も服属しているかぎりは温存する。
大和と目と鼻の先の河内に巨大古墳を作られて、それより大きな古墳を作れない
ことが大和の服属を示している。

それと、河内に王朝を築いたもうひとつの意味は、半島とのつながりだろう。
地形つきの地図を見ればわかるが、河内は大和から海への出口を制約する位置に
ある。大和の土着王朝はすでに半島との交易を行っており、それが王朝の権益
の一部になっていただろう。

河内に王朝を築くことは、大和の旧勢力に対して半島関係の権益の移行/独占を
形で示すことになる。
322日本@名無史さん:03/12/12 23:01
>>321
ちょっと御教授願いたいのだが
大和から海へ出る場合、大和川経由大阪湾だろうか、伊勢方面、紀の川経由紀伊水道ろうか?
それと、大和川の三郷村〜柏原市あたりの狭隘部は防衛の要となりそうだが、何か遺跡は発見されてるか?

323日本@名無史さん:03/12/12 23:26
>>321
おかしな論理だな。金官加羅では前統治者の陵墓を粉砕してそこに築いてるんだからね。
征服した土地に陵墓を築くに決まってるよ。
それなのに筑紫にすら作ってない。
それが河内に出来た途端、服属の証明だっていうんだからな。
おかしな話だ。

大和と中国地方を結ぶラインは高槻とかの北摂方面をまわって兵庫方向があるでしょ?
また大津は日本海ルートの半島交易路だから、
白村江敗北後に都が置かれたりしてたし、
だいたい北周りがメインなんじゃないの?
324日本@名無史さん:03/12/13 23:13
>>321
>大和から海へ出る場合、大和川経由大阪湾だろうか、伊勢方面、紀の川経由
>紀伊水道ろうか?

まず大阪湾だろう。瀬戸内海があるのにわざわざ外洋へ出るだろうか。
狭隘部の防衛遺跡については知らない。

>>321
>おかしな論理だな。金官加羅では前統治者の陵墓を粉砕してそこに築いてるん
>だからね。

周辺の任那諸国は残した。つぶすか、服属させて利用するかはいろいろな要因
があるだろう。

>それなのに筑紫にすら作ってない。

北九州こそ騎馬文化の遺跡は多い。代表的なのは福岡県の老司古墳。
4世紀末〜5世紀初頭の前方後円墳(約70m)で馬具、伽耶式甲冑、すえ器
などが出た。

>それが河内に出来た途端、服属の証明だっていうんだからな。

では君は倭の五王時代に大和が独立していたと言いたいのかな?

>だいたい北周りがメインなんじゃないの?

そんな話は聞いたことがない。
325日本@名無史さん:03/12/14 06:06
>>320
申教授によれば3世紀末に突然始まる。
326日本@名無史さん:03/12/14 07:13
シンポジウム 九州と韓国の古墳文化の関連探り論議

韓国と日本の古墳文化をめぐり、さまざまな報告や意見が出た会場=熊本市

 国学院大学が主催するシンポジウム「古代九州の古墳文化と韓国の前方後円墳」が十三日、
熊本市水前寺一丁目の水前寺共済会館であった。肥後考古学会共催。韓国・全羅道地域で見
つかっている前方後円墳と九州中・北部の古墳文化との関連を探り、東アジアの歴史や文化の
解明につなげようと開催。同大OBの研究者など県内外から約八十人が参加した。
 国学院大が今年二月と五月の二回実施した全羅道の前方後円墳の調査結果を報告した後、
県宇城教育事務所の古城史雄庶務課長、同大文学部の鈴木靖民教授など五人が研究報告した。
 この中で、古城課長は、六世紀半ば以降の朝鮮半島の石室について「被葬者は有明海沿岸
から派遣された倭人(わじん)かもしれない」と指摘。鈴木教授は、当時の倭と百済の関係につ
いて「江田船山古墳の三代にわたる被葬者のうちにも、軍事、外交、交易のために渡海したも
のがいた確率が高い」と述べた。
 この後行われた討論では、全羅道の前方後円墳の埋葬者の性格や当時の時代背景などつ
いて幅広く論議。「北部九州から有明海沿岸地域の複数の有力豪族が、倭王権とともに百済
王権に臣属していたのではないか」と二重支配を推測する新説などを検証した。
http://kumanichi.com/news/local/main/200309/20030914000030.htm

韓国南部の前方後円墳は倭人の墓か?
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1008077694/319
327日本@名無史さん:03/12/14 07:19
魏の時代には,朝鮮半島・韓半島には東のシ歳(ワイ),東南の辰韓,南部の
弁韓(弁辰),西の馬韓,平安南道に魏の楽浪郡・帯方郡,東辺道に高句麗
があった.弁韓(弁辰)の南部に倭人が住んでいた.(魏志による.)
晋の時代には,シ歳は高句麗に制圧され,辰韓から新羅が分立したが,高句麗の
勢力圏に含まれ,弁韓(弁辰)から任那が分立した.馬韓からは百済が分立した.
290年に八王の乱が起こると晋の周辺諸国への統制が崩れ,高句麗は強勢になって,
楽浪・帯方を亡ぼす.遼東の鮮卑募容部も統制から離れ四囲に勢力を広げ
ついに,高句麗の首都を攻略して,軍の主力部隊を鮮卑募容部の首都へ連行する.
高句麗軍に従軍していた百済軍も連行された(342年).
ここで朝鮮半島・韓半島の北部に軍事的・政治的空白ができた.北からの圧力がなくなって,
倭を含む半島南部の政治勢力は一斉に活発な動きをはじめた.新羅が高句麗から離反し,
倭が任那へ勢力を扶植した.350年以降,鮮卑募容部(前燕)が西進すると,高句麗と百済の
軍の主力は自国へ帰還する.百済は高句麗から離反する.370年ごろから,倭は高句麗から
離反した百済と新羅を助けて軍を動かす.この後は,広開土王碑文と宋史の記述へつながる.
全羅北道が募韓,全羅南道が任那で,前方後円墳は任那駐留の倭の将軍のものと思われる.
因みに,百済は京畿道,洛東江西岸が加羅,東岸が秦韓,慶州付近が新羅,江原道が復活
したシ歳,高句麗は平安南道まで征服していた.全羅南道の前方後円墳は5世紀−−倭の5王
の時代だ.倭王武の先祖が(高句麗から百済と韓を守るため)海北に進出した時期だ.
>>311に書いたようにそこは任那の地だ.
百済と韓を守るために任那を基地として戦って,任那で死んだ倭の将軍の墓とするのが,一番無理のない解釈だと思う.
475年高句麗は今のソウルにあった百済の都を攻め,百済は一度滅亡した.
倭が百済の王族を忠清道の今の公州で王位に就けて,百済を再興した.
ソウル攻防戦では,倭の将士も少なからず戦死したであろう.前方後円墳はそのときの痛ましい
死んだ将軍の墓であろう.敗戦の痛手は倭王武の権威を失墜させたであろう.
武の子孫が亡ぼされ,継体が王位につくことになる.
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1008077694/311-315
328日本@名無史さん:03/12/14 07:27
>326 の前方後円墳だけど、明かに日本のより新しい時代のものと確認されていて、
ルーツが日本にあると立証されてるそうだ。
そうなると騎馬民族説ではおかしな理屈になってくる。
日本から新たに進出した勢力が、現地にはない日本国内の自立的発展形式である
陵墓建設を行ったと見るより他ないからだ。
騎馬民族は少なくとも外形的には征服した現地の方式によって建設している。
加羅ではそうだった。
今まで加羅でそうしていたのに、(説が正しいのなら)、倭を征服後、列島倭人に前方後円墳
を作らせ、加羅でも今までとは違う、前方後円墳を作らせたということになる。

普通に考えれば、(騎馬民族ではない)倭が、急速に国土を統一して、
倭人の半島における拠点である加羅にも直接的に進出して、
統一の象徴である前方後円墳を支配の象徴として刻印していったと見るのが自然ではないか?
329日本@名無史さん:03/12/14 07:40
また、このスレ上の方で出ていた、扶余系陵墓の特徴である木槨だが、
実は日本の前方後円墳からも発見されている。それが2世紀末から3世紀のものだというのである。
実に卑弥呼の邪馬台国の時代のことだ。
加羅に扶余が進出したのは3世紀末なのだから、いわゆる騎馬民族説とは時期違いになる。
従来、王権の中心地が九州ではなく、中国や半島から遠く離れた近畿の大和に出現してる
理由が不明だったが、大陸・日本海・琵琶湖・大和の海洋ルートの存在を想定すれば
鮮明になってくる。大陸からの直接交渉を通じて文化伝来を受けたか、あるいは極端に
言えば、王権確立の主体そのものが到来したと見ることすら不可能とは言えないくらいだ。
元々、農耕文明から都市文化が発展して王権が確立されるスピードが日本では極端に速いと言われてた。

それが>>185
>ツングース系の渡来は弥生末期の1〜2世紀のことだ。それをもって、古墳時代の始まりとなす。

辰王の系譜、天皇家の遠祖     −騎馬民族は来なかったか?
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku1.htm

  納棺室「木槨」の跡   前方後円墳で発見    滋賀の神郷亀塚古墳
 最古級の前方後円墳とされる滋賀県能登川町の神郷土亀塚古墳(全長36.5b、2世紀末ー3世紀
初め)を発掘している同町教育委員会は13日、木造の納棺室「木槨(もっかく)」の跡を見つけ
たと発表した。前方後円墳で木槨を確認したのは初めてという。
 木槨を用いる墓は従来、朝鮮半島から九州や瀬戸内・山陰地方を経由して畿内に伝わったとさ
れていた。同町教委は「朝鮮半島から直接伝わったのだろう。大陸との交流を考える上で本州の
日本海沿岸から琵琶湖を経由するルートの重要性が浮上してきた」としている。
 木槨は2基あり、古墳前方部で並んで見つかった。長さはそれぞれ4.6bと3.5b、幅は1.3b
と1.15b、高さは1.2bと1.1b。木材は残っていなかった。土の状況から、粘土で包み込んだ
木棺の外側を厚さ8a程度の板材で囲い、小部屋を作ったとみられる。(日経03・02・14朝刊)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1008077694/218
330日本@名無史さん:03/12/14 08:34
糞スレだが、参考程度に。

前方後円墳は高句麗起源
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1031941355/
(日本の方が古く3世紀後半〜。
韓国のは全羅南道に9基で5世紀後半〜6世紀前半のもの。
いわゆる任那日本府は4世紀初〜6世紀半。)

日本語の起源は高句麗語です。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1052579071/
(日本語と高句麗語との数詞の共通点について―
日本語においては、高句麗語のうち判明している数詞(3,5,7,10)全てが
ほぼ一致し、世界中の言語の数詞を見回してもこのような偶然の一致は見られず)
331日本@名無史さん:03/12/15 21:19
>>327
そのすじがきには4世紀の金官の騎馬軍団という要素がすっぽり抜けている。
金官の盛期の4世紀中葉に「倭が任那へ勢力を扶植した」とひとことで済ます
のはいかがなものか。

332日本@名無史さん:03/12/15 21:22
>>328
>そうなると騎馬民族説ではおかしな理屈になってくる。
>日本から新たに進出した勢力が、現地にはない日本国内の自立的発展形式である
>陵墓建設を行ったと見るより他ないからだ。

歴史上にアナロジーを求めるとよくわかることがある。
それは例によってフレンチノルマン人だ。ノルマン人がノルマンジーから
英国に侵入してブリテン人を征服し、王朝をたてた。
両者の言葉は長い時間をかけて融合して英語になるのだが当初は支配層たる
侵入者はフランス語、土着民はブリテン語をそれぞれ話していた。

さてノルマン人の王朝は英国にあって強大になった後、もとノルマンジーに
いたよしみでフランスの王位継承権を主張して逆にフランスに侵入し、
フランス北西部を占領した。占領軍のうち圧倒的多数はブリテン人であった。

だからもしジャンヌダルクという一人の少女が出現しなければ、英国軍は
北西フランスの占領に成功し、この地にブリテン語を話す地域が出現した
はずであった。この経過のなかで言葉の問題を同じく文化の現れである墓
の問題に入れ替えれば、半島南部の前方後円墳のアナロジーとなる。
333日本@名無史さん:03/12/15 21:29
>>329
>扶余系陵墓の特徴である木槨だが、
>実は日本の前方後円墳からも発見されている。
>>330
>土の状況から、粘土で包み込んだ
>木棺の外側を厚さ8a程度の板材で囲い、小部屋を作ったとみられる。

申教授が扶余式の木郭と言っているのは丸太の使用が特徴だ。四隅に丸太を
打ち込み、その間を丸太の壁で埋める。
それ以前の狗耶韓国の墓は板材で木郭を作った。これは帯方群から伝わった
中国式だと教授は言っている。
それと扶余式王墓は殉葬のために複数人埋葬できるように郭の幅が広いことも特徴。
329 に引用されている郭の幅は明らかに一人用だ。
334日本@名無史さん:03/12/16 00:42
>>332
“日本に侵攻した”扶余は、加羅を放棄して、倭に王朝を築き、
再度上陸して加羅を征服したとでも言うのか?

放棄するも何も、一貫してそこに倭人が居住しており、
百済に至ってはずっと扶余系王朝だ。

加羅には一貫して扶余系陵墓は建設されてるのだよ。3世紀末から5世紀初頭にまでね。
まずもって、加羅の前方後円墳がこれまでの発掘調査を通じて、
扶余系遺物なのだという発表はなされてないんじゃないの?
申教授が扶余系だと言ってる古墳は自然の丘を利用した狗耶韓国方式の陵墓のことだろ。

まず、加羅の前方後円墳が扶余系だと証明してからにすることだな。
335日本@名無史さん:03/12/16 04:00
>>330
この前韓国のスポーツ中継の動画が上がってたんで見てみたら、
後半36分が、「コウヘン サンジョー ロッベン」みたいに言ってた。

あながち高句麗起源はうそじゃないかも。
336日本@名無史さん:03/12/16 18:07
ドーバー海峡は直線32キロメートル。
対馬海峡はドーバー海峡の5倍の距離がある。
これは質的にノルマン人からの類推が当てはまらないことを意味する。
337日本@名無史さん:03/12/16 19:28
>>334
>“日本に侵攻した”扶余は、加羅を放棄して、倭に王朝を築き、
>再度上陸して加羅を征服したとでも言うのか?

君は私のいうアナロジーの構造をまだわかっていないようだ。
長くなるけどよく説明してあげよう。

◆まず、ノルマン人はスカンジナビアを進発してノルマンジー半島を侵略し、
そこにノルマン王朝を建てた。彼等が支配した土着民の一部は、英島と共通する
ブリテン人(大陸ブリテン人)であった。

◇ノルマン人→扶余族、スカンジナビア→満洲、ノルマンジー半島→狭義の任那、
ノルマン王朝→金官加羅、大陸ブリテン人→半島倭人

◆数十年して、ノルマン王朝は支配下の大陸ブリテン人と同系の英島ブリテン人
が住む英島を侵略して英ノルマン王朝を建てた。しかしノルマンジーは依然として
ノルマン王朝の領土であった。すなわち海峡をはさむ連合王国が生じた。

◇英島→日本列島、英島ブリテン人→列島倭人、英ノルマン王朝→列島扶余王朝。
上記の段階が、扶余による海峡を挟む和韓連合王国が生じた段階に当たる。
アナロジーで言えば支配の主体はすでに列島に移った段階であるが、その段階でも
狭義の任那は依然として連合王国の一部である。
338日本@名無史さん:03/12/16 19:31
◆英島で強大になったノルマン王朝はフランスの王位継承権を主張してフランス
を侵略し、フランス北西部を占領した。注意するのは、ノルマンジーはノルマン
王朝の領土であるから、侵略したのは「ノルマンジー以外のフランス」である。

◇列島で強大になった扶余王朝は半島に兵を送って、もともと領土である狭義の
任那を足場として、それ「以外」の半島南部地域にも支配を広げた。

◆フランスに侵入した英軍によってノルマンとブリテンの混淆した文化がフランス
北西部に伝えられた(ジャンヌダルクがいなかった場合の想定)。

◇半島南部を支配した列島扶余王朝の倭軍によって、扶余族と列島倭人の混淆した
文化が半島南部に伝えられた。これによって半島南部に前方後円墳が築かれた。

以上のような対比になるわけだ。
339日本@名無史さん:03/12/16 20:17
扶余が4世紀に倭王権を奪ったとする考古学的根拠はない。
340日本@名無史さん:03/12/16 20:41

人種的には、朝鮮人はモンゴロイドのなかでも、長身、短頭、高頭である点で
かなり特異である。顔面は平面的で、頬骨が突出し、鼻はあまり高くないのが
ふつう。眼裂は狭く、つり上がっていることが多い。顔毛、体毛は概して非常に
少ない。皮膚は黄ばんだ淡かっ色で、毛髪や目の色は濃い。髪はかたく、直毛で
ある。朝鮮人は、中国人を代表する中モンゴロイドと、ツングースを代表とする
北モンゴロイドの中間的な様相を帯びる。朝鮮半島内ではかなり均一化されて
いるが、北部にいくにしたがって長身となる。日本列島を概観するとき、長身、
短頭、貧毛という点で、近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的
要素を有することは注目に値する。(国民百科事典/平凡社)

眼裂は狭く、つり上がっていることが多い。顔毛、体毛は概して非常に少ない。
眼裂は狭く、つり上がっていることが多い。顔毛、体毛は概して非常に少ない。
眼裂は狭く、つり上がっていることが多い。顔毛、体毛は概して非常に少ない。
眼裂は狭く、つり上がっていることが多い。顔毛、体毛は概して非常に少ない。
341日本@名無史さん:03/12/17 06:00
>>339
OK。 ちょっと前までは「任那に扶余が現れたとする考古学的根拠はない」
と言っていたのだからね。
342日本@名無史さん:03/12/17 17:41
>>335
後半だとか何分だとかという言葉は李氏朝鮮にはないんだよ。
日本が明治維新後に西欧から概念を導入して日本語を作ったんだよ。
日本統治時代に韓国語は日本語化してるの。
語彙のほとんどが日本語系になってて、それを韓国風に発音してんの。
当人らはそれを認識できてないんだけど。

>>337-338
一生懸命書いてくれてありがとう。
君は私のいってる反論の意味ををまだわかっていないようだ。
めんどくさいけどよく説明してあげよう。

大成洞古墳群が何を持って扶余系なのかと言えば、その外形が問題なのではなく、
「郭」の作り方や副葬品によるのだとは、お前自身の弁だ。
それゆえ、近年の発掘調査によって金海近辺に3世紀末〜4世紀末まで騎馬王朝の
存在したことが確認されている。しかし5世紀到来とともに同系陵墓の建設は中断しているのだ。
同時に同古墳群は新羅系の遺物を出現させており、同王朝は取り合えずは当地では消滅した。
一方、5世紀において加羅に突如姿を現してるのが全羅道における前方後円墳である。
5世紀と言えば倭の五王の時代であり、好太王碑文に記された倭と高句麗交戦の時期である。
それらの内装品は明かに倭風であり扶余系の特色は確認されていない。
また、加羅より姿を消した扶余系騎馬民族が九州や近畿に侵攻したとおぼしき明らかな
遺物の存在もされていない。唯一確認されていることといえば、百済王朝がその滅亡に
至るまで一貫して扶余系だったということだけである。

このような現実からして、ノルマンジーの歴史と倭王朝のそれとを比較することは到底無理があろう。
343日本@名無史さん:03/12/18 22:20
>>342
>それゆえ、近年の発掘調査によって金海近辺に3世紀末〜4世紀末まで騎馬王朝
>の存在したことが確認されている。しかし5世紀到来とともに同系陵墓の建設は
>中断し>ているのだ。

アンチ派の認識も金海の騎馬王朝についてはこのように正しくなったことは喜ば
しい。

>同時に同古墳群は新羅系の遺物を出現させており、

これは正しくない。5世紀には洛東江の東岸の地域が金官加羅の中心になり、
これが新羅の影響を受けるのだ。金海地域は王墓が作られなくなるだけ。

>一方、5世紀において加羅に突如姿を現してるのが全羅道における前方後円墳
>である。

というと上記と符節を合わせているように聞こえるが、全羅道の前方後円墳は
5世紀後半〜6世紀中葉とされる。金海の金官王朝の消滅とは十分な隔たりが
ある。
344日本@名無史さん:03/12/18 22:23
>それらの内装品は明かに倭風であり扶余系の特色は確認されていない。

北九州の特徴に百済の影響が混ざるとされる。列島扶余王朝の支配下に入った
北九州の豪族が百済防衛のために働いたと考えればよい。

>扶余系騎馬民族が九州や近畿に侵攻したとおぼしき明らかな遺物の存在もされて
>いない。

前にも書いたが、4世紀末〜5世紀の北九州には騎馬文化の遺跡は豊富である。
そしてその騎馬文化は明らかに加羅地域と共通する。
騎馬文化はタイムラグを置いて本州に伝播する。実に列島における5世紀は
「馬の世紀」と言ってもいいくらいだ。このことを特に取り上げたページがある
ので紹介しておこう。
http://inoues.net/yamataikoku/study/kofunuma.html

>ノルマンジーの歴史と倭王朝のそれとを比較することは到底無理があろう。

大陸の突端に住み着いた少数の征服的な民族が対岸の大島を征服してそこで強大に
なり、逆に大陸に対して覇を唱える、というすじがきにおいて、フレンチノルマン人
の史実は驚くほどぴったりのアナロジーだ。
345日本@名無史さん:03/12/18 22:46
>>344

その場合

大陸側に残って侵略されたノルマン人にあたる民族は
そのまま今の朝鮮人になったの?
346日本@名無史さん:03/12/18 23:09
>>343-344
アンチ派の認識も何も、扶余が半島南端に到来してたことを今日否定してる人間なんていないですよ。
南端といっても、南端の加羅のほんの一部分にすぎないけど。

それに全体として無茶な解釈だな。
少なくとも加羅の前方後円墳に扶余系木槨が確認されてなければお話にもなりません。
確認されていれば、直ちに金官加羅の扶余系陵墓造営者との同一性が認識されてしまってるはず。

韓国南部の慶尚南道固城(コソン)郡の松鶴洞1号墳で、
内部を赤色顔料で朱塗りした横穴式石室(六世紀前半)が、
同国の東亜大付属博物館の調査で二日までに確認された。
日本(倭)独特とされた朱塗りの石室が、韓国で確認された
のは初めて。・・・
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1008077694/191

合理的に解釈すれば、加羅の一部と百済とに王朝を形成した扶余系民族だが、
加羅では新羅の圧迫を受け壊滅、その支配・影響は百済に限定されるようになった。
その間隙を縫って再度加羅への支配権を拡大したのが当地に同系集団を残している
倭であって、彼らは3世紀末以降、一部扶余系の支配下に入った倭人を通じて騎馬民族
の戦闘法・武器等をを急速に導入し、つづく4世紀全般を通して本来困難だった国土の
統一を可能にしており、その余勢をかって半島南部に再侵攻したと見るべきであろう。
あたかも種子島に到来した一丁の鉄砲が戦国時代に終止符をうち、統一に次いで
秀吉の朝鮮出兵を引き起こしたことと同じである。
347日本@名無史さん:03/12/18 23:23
>>346

そう。そこが疑問なんです。
騎馬系遺物が発見された、というのは直ちに
騎馬系民族が移動した、ということにはならないよね。
特に抗争している最中。騎馬は軍事技術だから有利なら真似するよね。
ほんとに民族が移動した、といえる証拠ってなんだろ?
348日本@名無史さん:03/12/19 09:01
騎馬民族仮説は砂上の楼閣
349日本@名無史さん:03/12/19 20:24
雄略天皇が自分の女の子を認知しないので臣が:
臣「大君、恐れながらあの女の子は大君に似ていると思いますが・・」
雄「ああ、あれか。あの子の母親はわしが一晩可愛がっただけで孕んだのでどうも
怪しいと思っているのだ。」
臣「して、大君はその一晩に何回おやりになったのですか?」
雄「7回だ。」
臣「聞くところでは、孕みやすい女は褌が触っただけでも孕むと申します。
生娘を一晩中可愛がられたのならばその一晩で孕んでも少しも不思議はござい
ません。」

この一節を日本書紀でみつけて思わず笑ってしまった。
350日本@名無史さん:03/12/20 19:30
おととし、長野県で馬型バックルが見つかっているのですがなにか?

http://www.shiojiri.ne.jp/~kurateru/bajutsu/newspaper/others/20010927.html
351日本@名無史さん:03/12/20 19:45
>>345
>大陸側に残って侵略されたノルマン人にあたる民族は

大陸側に残ったノルマン人がなんで「侵略され」るのか。
ノルマン人は英島征服のあとも依然としてノルマンジーの支配者だ。
だから「海峡を挟む連合王国」なのだ。
任那の扶余についてもこのことは同じ。王朝は行方不明になっても
依然として扶余が半島倭人を支配している構造は変わらない。
下級の木郭墓は作られ続けるのだからね。
だから列島扶余王朝の「侵略」の対象ではない。

>そのまま今の朝鮮人になったの?

低い割合で「今の朝鮮人」の一要素になったことは間違いない。
このことは高句麗、百済の扶余についても同じ。
しかしメインの要素ではない。
352日本@名無史さん:03/12/20 19:49
>>346
>少なくとも加羅の前方後円墳に扶余系木槨が確認されてなければお話にもなり
>ません。

私のアナロジーは列島を征服して「倭化」した扶余と、列島倭人豪族との混成集団
が半島に逆進出した(ちょうど英仏戦争の英軍がノルマン人とブリテン人からなった
ように)ということなのだから「扶余系木槨」なんて必要ない。
だいたい扶余人がいつまで「扶余系木槨」を保存していると考えるのだろうか。
百済の扶余族もすでに「百済化」して、木槨墓ではなかった。それでも文献や
墓碑銘が残っているから扶余族であることを疑わないだけだ。

>日本(倭)独特とされた朱塗りの石室が、韓国で確認された
>のは初めて。・・・

そのページはまだ読んでいないが、それが事実としたら私のアナロジーにぴったり
であることは上述のとおり。
なお「古墳学入門」によれば松鶴洞1号墳は前方後円墳ではなく円−方−円の
三連墓であるという。
353日本@名無史さん:03/12/20 19:50
>その間隙を縫って再度加羅への支配権を拡大したのが当地に同系集団を残している
>倭であって、彼らは3世紀末以降、一部扶余系の支配下に入った倭人を通じて騎馬
>民族の戦闘法・武器等をを急速に導入し、つづく4世紀全般を通して本来困難
>だった国土の統一を可能にしており、その余勢をかって半島南部に再侵攻したと
>見るべきであろう。

どうも時系列的につじつまが合わない。「間隙を縫って」というのは金官扶余王朝
が消滅した間隙を縫って、という意味だろうが扶余王朝の消滅は5世紀初頭、倭の
半島進出はすでに4世紀中葉からはじまり、広開土王との戦いは4世紀末〜5世紀
初頭だ。
354日本@名無史さん:03/12/20 20:25

朝鮮族はモンゴロイドに属しており、形質的にはアルタイ系諸族とは
区別しにくい。世界諸民族の身長分布のうち、中頭大身長のうち大きい
ほうで、首が比較的細く、背側深層筋群が発達しており姿勢が正しい。
また下肢が長く身体各部の比率配分が、欧米人に比べて均衡がとれている。
頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い。顔はモンゴロイドの特徴で
ある広顔だが、長顔でもあり、頭腔容量も大きく脳重も重たいほうであると
いわれている。(日本大百科事典/小学館)

頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い
頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い
頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い
頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い
355日本@名無史さん:03/12/20 22:25
>>352
それでもやはり前方後円墳だという見方も説得力を持って存在している。

 ところが、また、この松鶴洞1号墳はやはり前方後円墳であるという学者が現れたから面白い。
名古屋の南山大学の伊藤秋男教授がそれである。先生は日韓の学者らが前方後円墳として認めた11基を
つぶさに観察し、これらが持っている@石室の内部構造、A石室の内部を丹(酸化鉄)で赤く塗ってあること、
B円筒埴輪、きぬがさ埴輪、ハソウなど周濠など周囲からの出土品などの特色を抽出し、それらがいずれも
韓国には見られない日本の前方後円墳固有のものであることを確認した上で松鶴洞1号墳もこの特色を備え
ている以上、外見の相違はどうであれ、まぎれもない前方後円墳である、と断定されたのである。

2 韓国の前方後円墳  被葬者は列島人か? 伊藤秋男教授の講演から 
http://www.hpmix.com/home/no15/C14_1.htm

また、騎馬民族系陵墓の特色は現地方式を踏襲する外形ではなく、石室や副葬品に現れるため、
大きく時代が下ってるならまだしも、短期間で劇的に変化したりしない。現に大和においても半島系流入者
の墳墓は明らかにそれと認識できているではないか。全羅道の前方後円墳内部からも同様の扶余系
副葬品その他が発見されてしかるべきなのに、倭系であること以外何も確認されない。

>>353
扶余が支配できたのは加羅のほんの一部分でしかない。だから、扶余王朝の存在をもってして倭の「主体的」
な半島侵攻否定の根拠にするのは困難。なぜなら韓国で発見された11基の前方後円墳(5世紀後半〜6世紀中)
は大伴金村が百済に割譲した任那4県にあたる全羅南道栄山江流域地域であって、扶余系陵墓が発見されている
金海市からは遠く離れているからだ。金海の扶余が当地を支配しつつ九州や近畿を制し、再度半島に反転攻勢を
しかけたならば、仮にその後、半島南端での拠点が西方に移転したとしても、前方後円墳は金海において建設され
ていて当然のはずだ。それが現在のところ発見されてるのは、1つあるのかないのかというレベルである。

韓国南部の古代遺跡(1)  閑話休題 韓国の前方後円墳
http://www.nishida-s.com/main/categ2/korea-1/korea-1.htm 
356日本@名無史さん:03/12/21 17:17
>>355
>松鶴洞1号墳もこの特色を備えている以上、外見の相違はどうであれ、まぎれも
>ない前方後円墳である、と断定されたのである。

重なり合った複数の円墳を「まぎれもない前方後円墳」と言っていいかどうか
は別として、5世紀後半〜6世紀の倭系の古墳であることは、私のアナロジー
と合致するから、別に異論は唱えない。
また私のアナロジーから言えば、別に「扶余系」である必要もないことは前に
言ったとおり。

>金海の扶余が当地を支配しつつ九州や近畿を制し、再度半島に反転攻勢をしかけ
>たならば、仮にその後、半島南端での拠点が西方に移転したとしても、前方後円墳
>は金海において建設されていて当然のはずだ。

その問題は5世紀以降に半島経営を行った主体がなんであっても共通の問題だ。
つまり、その主体が畿内勢力の発展した倭国であっても、なんで前方後円墳が
金海において建設されなかったのか?という問題は同じだ。
357日本@名無史さん:03/12/21 21:35
すいません。ものすごく根本的な話に戻ってしまうのですが、
日本を征服した集団が自分たちの出自をひた隠しにする理由がわかりません。

ノルマン・コンクエストのばあい、ノルマン人がブリテンを征服したことは
全く隠されていませんし、本人たちにも隠す気もありません。
征服者としての態度としてはこちらが普通だと思います。

日本を征服した者たちが、わずか数百年後には自分のルーツを徹底して
抹消しようとした理由が理解できないのですが……
358日本@名無史さん:03/12/21 22:21

朝鮮人は、人種的にはモンゴル系の黄色人種で、形質的には日本人に
もっともよく似ている。身長、頭形、顔形、血液型、指紋などでは、
日本人と満州族とにもっとも関係が密で、中国人とはそれほど類似して
いない。北部の朝鮮人は満州族に、南部は日本人に似ているが、
例外として、モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に
近く、平安南道・南北黄海道人の頭形はもっとも華北型に近い。
ツングース族に属する満州族や東部シベリアの古アジア諸族などが、
前40世紀ごろから朝鮮半島に移住し、これより前に南方から移住してきた
人々と共存していたとも考えられている。(世界大百科事典/平凡社)

モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に近く
モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に近く
モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に近く
モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に近く
359日本@名無史さん:03/12/21 22:52
>>356
扶余系集団が支配したのは加羅のほんの一部分でしかないからさ。
それに扶余といっても高句麗系かも知れないんじゃないの?
金海は新羅に近く、高句麗は新羅を隷属させてたんだし。
要するに、高句麗・新羅連合軍と倭・百済連合軍が激しく交戦してるさなか、
高句麗が加羅の一部を制圧した結果が太成洞古墳群の石室。
広開土王碑にも「城を抜く」とかいう表現があるでしょ。あれだよ。
加羅は地形的な理由からそうなのか、小国の連合体だからね。
俺んとこは何県、あいつんとこは何県みたいな国盗り合戦になってたんでしょ。

発掘調査の結果を見る限り、金海の古墳群(3世紀末〜5世紀初)は扶余系。
金海と倭との交易は2〜3世紀は北九州、4世紀以降は近畿。よって倭の統一は4世紀。
百済から大和の倭に七支刀が贈られたのは4世紀中(369年)。
贈った趣旨は、同盟関係にある倭が4世紀中(367〜371)に半島に侵攻して
新羅から任那7県を奪還平定したことのお礼。
(512年、大伴金村が任那4県を割譲した際には百済は翌年、五経博士を贈っている)
全羅道の古墳群(5世紀後半〜6世紀)は倭系。

倭の半島進出は4世紀中〜5世紀初に渡って。
広開土王との交戦劇化は4世紀末〜5世紀。
(391〜。396高句麗が百済を屈服、400・404に倭が高句麗新羅に敗北)

第一部 任那成立編
http://www2a.biglobe.ne.jp/~haruki/homepage/history/kara/mm0101.html
360日本@名無史さん:03/12/22 19:07
>>357
「ひた隠し」にしたもう一つの例は当の加羅だ。「加羅国記」には扶余という
言葉はまったく出てこない。その理由はたぶん「加羅国記」がはるか後世の創作
だからだ。つまり、隠すか隠さないか、あるいは知っているか知らないかは、
後世に歴史を書いた主体の問題なのだ。そしてその主体が歴史を書く目的は
主として時の王朝を擁護することにある。
361日本@名無史さん:03/12/22 19:12
>>359
>扶余系集団が支配したのは加羅のほんの一部分でしかないからさ。

「狭義の任那」すなわちもとの狗耶韓国であることは最初から言っている。
正確に言えば狭義の任那を「領有」し、その他の加羅諸国を「支配」し、
新羅を「圧迫」していた。

>要するに、高句麗・新羅連合軍と倭・百済連合軍が激しく交戦してるさなか、
>高句麗が加羅の一部を制圧した結果が太成洞古墳群の石室。

時時の組み合わせは別として、それらが戦ったのは4世紀中葉以降であり、太成
洞古墳群の北方化(扶余王朝の成立)は3世紀末だ。じぶんで出した年表に合わ
ないことを言ってどうする。

狭義の任那に前方後円墳が築かれなかった理由は簡単、木郭墳を作り続けた人達
がいたからさ。
5世紀の「狭義の任那」は連合王国の状態から「列島扶余王朝の直轄領」になった
と思う。直轄領であったために後の進出豪族が領有しなかったことが、前方後円墳
が作られなかった理由であると考えることもできる。「満洲封禁」みたいなもの
だ。

この直轄領がすなわち「任那日本府」であった。そしていわゆる任那滅亡のあとは
倭の勢力圏であった安羅に逃れて一種の亡命政府を作った。この亡命政府が、日本
書紀に現れる時期の「任那日本府」であったと考える。
こう考えれば、日本書紀の任那日本府の、なんとなく中途半端な性格が理解できる
のだ。
362日本@名無史さん:03/12/22 22:38
>>360
それなら百済も隠蔽した方が良かっただろうね。
なにしろ南下して馬韓を征服して作った王朝なんだから。
それと、扶余が制したのは加羅の一部でしかなく傍流の史実にすぎなかったし、
加羅では後世に歴史書いた主体が扶余系じゃなかったからだろう。
裏返すと倭王家が扶余系だったら、それは確実に日本の歴史に残ってるってことだ。
百済のようにね。
>>361
狗耶韓国を領有すれば加羅全体を制することができるという認識からして間違いだ。
それなら反対に、5〜6世紀に確実に全羅南道に進出してる倭は、当然のように狗耶を
領有していないとおかしい。ところがその時分の狗耶は倭系でも扶余系でもなく、
新羅系だ。狗耶を制した新羅は加羅を制したのか?
それと高句麗と倭との交戦のことはあくまで事例に取り上げただけ。
激しく攻防を繰り返してた時期でも広開土王碑には、「追って任那加羅に〜・城を抜く」と
書かれたりしてる。しかし、それを持って倭の完全敗北ではないことは、任那がその後も
継続してることからして明白。つまり加羅の部分を制したり制されたりだ。
それと任那が扶余王朝の直轄領だったから、前方後円墳が築かれなかったと推定するの
は馬鹿げている。前方後円墳は倭統合の象徴であって、倭においても天皇陵を筆頭に、
陵墓形式の主流は移行している。また、金海では5世紀に新たな陵墓の建造がなく、
支配集団も変化していることが遺物から確認されている。だから直轄領と見ることは不可能。
363日本@名無史さん:03/12/23 20:34
>>362
>狗耶韓国を領有すれば加羅全体を制することができるという認識からして
>間違いだ。

だれがそんなことを言ったかね。私は4世紀一杯は金官加羅が加羅地域
(広義の任那)の盟主であったという、考古学から推定される事実を言った
のだ。

>それと高句麗と倭との交戦のことはあくまで事例に取り上げただけ。

結局、はっきりした筋書きをえがいて言っているのではないことがわかった
から金官・高句麗説は放置する。

>前方後円墳は倭統合の象徴であって、倭においても天皇陵を筆頭に、陵墓形式
>の主流は移行している。また、金海では5世紀に新たな陵墓の建造がなく、
>支配集団も変化していることが遺物から確認されている。だから直轄領と見る
>ことは不可能。

「直轄領」という言葉の意味は徳川時代の「天領」を考えて見ればわかる。
天領は代官所が置かれるのみで権威の象徴たる城を新たに築くことはなかった。
従来からあった城は管理するだけで、これを破却する場合も多かった。その
場合はまったく城を伴わない領地となったのである。天領の権威は直接に幕府
に由来するから、その権威の象徴は江戸城をおいて他になかったからだ。
364日本@名無史さん:03/12/23 20:37
これを狭義の任那に当てはめれば、河内に前方後円墳を築いている王朝の
直轄領であればこそ前方後円墳は築かれなかっただろう。
これに対して全羅道の前方後円墳は、九州から進出した豪族による間接支配
だったことを物語る。

狭義の任那が直轄領であったことは日本書紀も「みやけ」という言葉を使って
いることからわかる。学者の間でも定説なのではないか?
問題はなぜ直轄領になり得たかということだ。
扶余征服王朝説ならばこれは実にすんなりと説明される。
金官騎馬王朝の存在が明らかになった今、畿内勢力発展説はこれをどのように
説明するのだろうか。
365日本@名無史さん:03/12/24 20:55
>>363-364
天領って言ったって、そういうのはパックス徳川が成立して、平和が確立されてこそでしょ。
国土の統一が成って、戦闘が終焉してからのことだよ。
任那は戦闘の一方面、それも最も激しい方向での最前線だからね。
天領もくそもないだろ。そんな余裕があるはずがない。
高句麗新羅を激しい攻防を繰り広げてる頃に、そんな発想を持てるはずがない。
また、全羅道に侵攻したのが支配者扶余の指令による九州勢だと見るのも無理。
騎馬民族説が正しいとして、扶余にこてんとやられてしまったことになる九州勢が、それと
互角あるいは優位の戦いを演じてる高句麗勢と戦ってたなんて想像できない。それに騎馬
民族というのは親玉が最前衛に立って先導するのが民族的信念ですからね。
また、金海付近との倭の交易主体は、出土品から2〜3世紀は九州だが、扶余系が支配
を確立した4世紀以降は近畿のため、扶余進出の3世紀末以降、そこを資源獲得の根拠
としてた九州勢が退潮する理由となり、近畿の九州に対する優位が確立されたと考える。
近畿からすれば、相手が扶余であれ、何であれ、交易できればそれで構わないが、
九州にしてみれば、侵略してきた扶余系と、今までと同じように交易するという発想には
なれないはず。九州が仮に任那を制圧されて自動的に軍門に下ったとして、いきなり近畿が
九州を飛ばして交易に乗り出すということは考えにくい。今まで交易してなかったんだから。
ところが近畿が九州を制した流れだと、九州への完全優位確立のため交易するのが当然。
七支刀が4世紀中に大和に贈呈されていることも興味深い。九州に代わって、新たな半島
での戦闘の同盟勢力として浮上してきた近畿勢力との友好の証だろう。
366日本@名無史さん:03/12/25 03:05
藻前らの議論はどちらも一長一短あるが、とりあえず夫餘の加羅支配というような過大評価はアホ
ということだけは確実だな。
367日本@名無史さん:03/12/25 17:22
>>365
天領のたとえは、支配の階級構造を示す建造物が、直轄領の場合は作られない
ことを言ったのだが、君はそれ以前に、狭義の任那が直轄領であったことを
認めないのだということがわかった。

しかし君は日本書紀に「扶余」の文字が無いことをもって、扶余が来なかった
理由とする立場だったのではないかな?
それほど日本書紀に準拠する君が、「任那のみやけ」の文字が実際に日本書紀に
あるのに、直轄領であったことを認めないとは、はて面妖な。

>任那は戦闘の一方面、それも最も激しい方向での最前線だからね。

その見方は一面的だ。新羅が狭義の任那を併合して以後に、「任那の調」と
いうのがあった。これはそれまで狭義の任那が収めていた倭国への朝貢を、
新羅が代納するものだ。これは任那の併合が戦闘による侵略ではなく、なんら
かの外交交渉による「条件付き割譲」であったことを示す。

逆に言えばこのような外交交渉がなければ、新羅は任那を併合できなかった。
倭の報復が恐いからだ。つまり直轄領たる狭義の任那は、倭と新羅の影響力
のバランスと、さまざまな利害関係のなかで緩衝地帯のようにして保たれて
いたのだ。戦闘の最前線、というのは一面に過ぎない。
368日本@名無史さん:03/12/25 17:26
>騎馬民族説が正しいとして、扶余にこてんとやられてしまったことになる
>九州勢が、それと互角あるいは優位の戦いを演じてる高句麗勢と戦ってた
>なんて想像できない。

君は歴史を語るのに時間の経過を考えないのだろうか。
3世紀末に金官の扶余に「自動的に」服属したのはまだ吉野ケ里的段階に
あった九州豪族であり、
5世紀後半に半島南部に進出したのはすでに騎馬化・北方化を果たした九州
豪族だ。騎馬化・北方化の証拠は九州の古墳にある。

>九州にしてみれば、侵略してきた扶余系と、今までと同じように交易する
>という発想にはなれない

それはその通り。金官から見れば九州は交易の相手ではなく、必要に応じて
兵力を出させ、鉄を「支給」する相手だ。また言えば九州の交易品は青銅製品
から兵力に変わったのだ。
369日本@名無史さん:03/12/25 17:28
>いきなり近畿が九州を飛ばして交易に乗り出すということは考えにくい。

よくわからない。九州勢力という障害物がなくなれば今までより自由に任那
と交易できるではないか。

>七支刀が4世紀中に大和に贈呈されていることも興味深い。

七支刀が4世紀だというのは、泰*をむりやり太和と読んだ願望に近い解読に
過ぎない。太が泰と書かれるというのは無理だし、もっとも初期(江戸時代)
の解読は「泰始」なのだ。したがって5世紀後半。
370日本@名無史さん:03/12/25 18:55
直轄地は全羅道。慶尚道は属国群。
371日本@名無史さん:03/12/26 00:07
>>367
それでは直轄領でもなければ宮家でもありませんな。

>>368
扶余が倭に侵攻したのが事実なら、
4世紀末には近畿に侵攻してる。
そのさなかにあっても半島での戦闘は継続されてるんだよ。
つまり5世紀後半になって新たに九州勢が半島に侵攻したわけじゃない。
だから時間の経過もくそもない。

それと交易相手は九州から近畿に代わってる。兵力の提供も何もないだろ。

九州が金官に屈服したから、すごすご近畿が金官と交易に乗り出すとは考えにくい。
むしろ九州をも屈服させた扶余を警戒するはずだ。障害物がなくなったどころか、
もっと巨大な障害物が誕生してることになる。そして扶余からすれば近畿は未来の
主敵の一つだ。そこに鉄資源を供給して戦力を強化する必要などない。

七支刀は4世紀ですよ。5世紀だなんて言いがかりですわ。そのような願望に近い解釈は
学会の傍流レベルくらいになってからにしようね。
372日本@名無史さん:03/12/26 10:56
日本ヘの集団移動は「三つの波」に大きく分けられます。
第一の波は、紀元前三世紀あたりから紀元後一世紀にかけて、農耕技術とともに韓半島南部より主に押し寄せます。
「伽鯛.新羅およぴその前身の部族国家群の波」です。
大陸から半島にまたがる広大な地域を占め、世紀前後にあいついで建国した高句麗・百済・新羅・寡や及びその前身の夫よ・馬韓・辰韓・弁韓など古代国家の誕生は、これらの地に先住していた人々を逐出することになります。
先住民、特に、その上層階級の者たちは、海を越えたすぐ向かい側の暖かく豊かな日本列島に雪崩れをうって避難しつづけました。
一方、伽鯛、新羅は建国の勢いを駆り、上古の日本に力を伸ばします。『古事記』『日本書紀』『風土記』の神々の中に伽側系および新羅系n出が目立つのはこのせいです。
しかし、伽鯛は六世紀半ぼ新羅に併合され、多くの渡来人がまた日本に流れ込みます。
第二の波は、四世紀末の「百済の波」です。
高句麗の広開土王(三九一年即位、四一三年没・日本では好大王と言呼ぽれる)は、決定的な打撃を百済に与えます。
王族はじめ、高官、軍人、学者たちは、技術集団を引き連れ大挙日本に渡り難を避けます。
日本に多くの漢籍がもたらきれたのも、この時期にあたります。
第三の波は、七世紀後半の「百済・高句麗の波」。
六六〇年の百済滅亡、大大八年の高句麗滅亡の際、両国の権力層は学者や僧侶、医者をはじめありとあらゆる分野の専門家や技術者を伴い、日本に集団亡命をきめこみました。

 ttp:village.infoweb.ne.jp/~fwip2090/hondana2.htm

ってあるんだけど、騎馬民族ってこれより前に来たの?
373日本@名無史さん:03/12/26 11:43
>>372
そりゃ電波だから相手にするな
374日本@名無史さん:03/12/26 11:58
加羅諸国は直轄領じゃないだろ。世襲の現地首長=「旱岐」がいるじゃん。
しかも旱岐のうち伴跛国や金官国などの主だったところは「王」を称したりしている。

「みやけ」と呼んだことが直轄領であることの証しだというならば、
古事記は百済を「渡りのみやけ」、日本書紀は百済・高句麗をともに「内つみやけ」と呼んでる。
だからといってまさか百済を直轄領だと言う気はないでしょう?

高句麗・百済・新羅・加羅諸国を「みやけ」というのは、
外交は本来倭王の専権事項ゆえ倭国内の豪族の関与する部門ではないという前提のもとで、
三韓諸国も「倭王に」朝貢してくるのであって倭王以外の豪族に朝貢してくるわけではない。
つまり「三韓諸国は倭王の直臣であって、諸豪族を介した陪臣ではない」、
というニュアンスを表わした言葉が「みやけ」となったと思われる。

全羅道方面の「四県二郡」の地は言葉そのままの意味で倭国の直轄領だったと思われるが、
こっちはとくに「みやけ」などと称された形跡はないように思う。
375日本@名無史さん:03/12/26 23:52
国宝「七支刀」を特別公開 来月4日から奈良国立博物館

 奈良県天理市の石上神宮に伝わる武具などの神宝類を集めた特別陳列「七支刀と石上神宮の神宝」
が来年1月4日から奈良市登大路町の奈良国立博物館で開かれる。
 4世紀後半に百済で造られ倭王に贈られたとされる鉄剣の七支刀(国宝)が特別に公開されるほか、
重要文化財の「鉄盾」(古墳時代)や同「色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)」(室町時代)など計36件
が展示される。
 来年2月8日まで(毎週月曜日休館、ただし1月12日は開館し翌13日に休館)。開館時間は午前9時半
から午後5時(1月11日と2月3日は午後7時まで)。観覧料は一般420円、高・大生130円、小・中生無料。

http://www.sankei.co.jp/news/031226/1226bun065.htm
画像 http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/7sitou.htm
376日本@名無史さん:03/12/27 00:03
(7) 百済王子貴須が倭王に七刀を贈った意味
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/2-7nanatusaya.htm

一方『日本書紀』は次のように記す。
甲子の年(364年・新羅出兵の翌年)、百済の久ていが卓淳国(とくしゅこく)を訪れ、倭との接触を求めた。
神功四六年(366年)斯摩(しま)宿禰が、卓淳国を訪れた際。先の久ていの伝言を得て、従者爾波移(にはや)
を百済にやる(日本書紀)。ここに百済と倭の同盟が成立する。

更に、神功四十九年春三月の事として、倭は荒田別(あらたわけ)、鹿我別(かがわけ)を将軍として、
百済の将軍木羅斤資(もくらこんし)等とともに、新羅南部及び伽耶諸国を攻めた。
この戦で、比自ほ(火+本)(ひしほ)、南伽耶(ありひしのから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、
卓淳(とくじゅん)、加羅(から)の七国を平定した。更に西部に転戦し、忱彌多礼(とむたれ・済州島)を平定して、
百済に賜ったとする。干支二順120年繰り下げれば、369年三月となる。七支刀が造られたとされる、
二ヶ月前である。

この高句麗の侵攻に対する百済の勝利、倭との共同作戦を、368年から369年3月までの事とすると、
作刀の年月、泰和四年五月(369年)という年次から、同盟や共同作戦に対する答礼となる。
百済王子、貴須が倭王の為に作刀した意味が明確になる。そしてこの七支刀は七子の鏡とともに、
372年に使者久ていによって倭にもたらさた。これが石上神宮に伝わる七支刀である。
377日本@名無史さん:03/12/29 18:11
あれ?止まってるな。
なんだよ、藻前ら(371まで議論してた二人)の決着ついたのかYO
いつも楽しみにして見物してたのにぃ
378日本@名無史さん:03/12/29 19:04
応神大王は金官加羅から来た傭兵隊長
379日本@名無史さん:03/12/29 23:13
>>378
電波はどっか逝ってください
380日本@名無史さん:04/01/03 19:18
天皇家は騎馬民族の子孫 これ定説
381日本@名無史さん:04/01/05 13:40
今時、真顔で騎馬民族とか逝ってるやつはドキュン
382日本@名無史さん:04/01/05 15:12
>>374
>つまり「三韓諸国は倭王の直臣であって、諸豪族を介した陪臣ではない」、
>というニュアンスを表わした言葉が「みやけ」となったと思われる。

「任那のみやけ」という言葉があるから直轄領だというのは私の言い過ぎ
だったが、「みやけ」は「朝貢国」の意味であるというのもまた一面的だ。

「みやけ」には「屯倉」と「宮家」の二つの書き方があって、前者は直轄領、
後者が朝貢国を意味するのだ。おそらく前者の意味の発展として後者の意味が
生まれた。
そして「屯倉」は豪族などが領地を献上することで生じることが多いから、
纏まってあるのでなく全国に散在する。だからある地方に豪族や王がいるから
と言ってその地方に直轄領がないとは言えないのだ。

「屯倉」という文字の意味は恐らく収税倉庫を伴う「代官役所」であり、それ
が直轄領全体を代表しているのだろう。
383日本@名無史さん:04/01/05 15:14
日本書紀が任那について書いているところは「宮家」を使っているから、それ
だけを見れば朝貢国だ。しかし任那滅亡の後の詔勅を見ると、それに続けて
わざわざ「我が」という言葉を使って「我がおおみたから」「我がくにこおり」
という言葉を使っている。これらの言葉は百済や新羅については使われないから、
やはり任那は単なる朝貢国ではない、特殊な地位にあったと考えられる。

例えば次のように考えることができる。金官の実体が列島に移動した後、狭義の
任那の政治的中心は洛東江東岸の地域に移り、ここに新たな王朝が生じたが、
もともとの金海地方にはかなり大きな直轄領が残った。この直轄領の「屯倉」
すなわち代官役所が「任那日本府」である。

そして、金官が周辺の加羅諸国を支配して朝貢させていた支配構造は海峡を
越えた支配に変わったが、従来からの支配構造が概念として残り、これを
「任那の宮家」と呼んだ。

洛東江東岸の新・任那(狭義)王朝は、名目的に直轄領保護の任務を帯びていた
が、これが新羅化され、ついに新羅に吸収されたとき、直轄領もまた新羅が
管理するところとなった。新羅は倭の報復を恐れて「任那の調」を代納した。
384日本@名無史さん:04/01/05 15:39
おいおい、「宮家」じゃなくて「官家」だろ、まぁ発音だけは同じ「みやけ」だがw

漏れがいったのは“言葉の意味”において「朝貢国=みやけ」といったのではなく、
屯倉も官家も朝貢国も、豪族貴族の管轄ではない朝廷直轄or専管事項であるというてんでは
同じカテゴリーに属するといったのだよ。

加羅諸国のうち先に新羅に併合された南加羅諸国の中心である金官国は滅亡のその時まで
王朝が存在していたことは日韓両方の史料から明らかで倭の大きな直轄地の存在など考えにくい。
後から併合された北加羅諸国の中心である伴跛国は中国から叙爵されており
建前上は倭に対しては新羅や百済と対等の朝貢国だったと思われ。

「我がおおみたから」「我がくにこおり」はレトリックにすぎないのであまりどうだこうだはないが、
4県2郡のことをいっていた文章を百済に都合よく改作して加羅の話に転用したのではないかな?
むろんそんなことまで考えなくてそのまま受け取っても矛盾だとは思わないけど。
385日本@名無史さん:04/01/06 21:52
>>384
>加羅諸国のうち先に新羅に併合された南加羅諸国の中心である金官国は滅亡の
>その時まで王朝が存在していたことは日韓両方の史料から明らかで

滅亡のときまで王朝が存在したことは私も言っている。
しかし5世紀になってからの金官国は申教授によれば中心が洛東江の東岸に移り、
その性質も金海時代とは異なっている。つまり王朝が連続していない。

>倭の大きな直轄地の存在など考えにくい。

王朝があったことが即ち直轄地がなかったことの証明にはならないことは
すでに言った。
例えば安羅に移ってからの任那日本府は安羅王国の領域にあったと見なされる
が、任那日本府を直轄領であったと見るかどうかは別としても、異質の政体が
王朝の領域のなかで併存していた例になっている。

>「我がおおみたから」「我がくにこおり」はレトリックにすぎないのであまり
>どうだこうだはないが、

そのようなレトリックを百済や新羅について使うことが考えられるだろうか?

>4県2郡のことをいっていた文章を百済に都合よく改作して加羅の話に転用し
>たのではないかな?

その解釈は「都合よ」過ぎると思う。

>むろんそんなことまで考えなくてそのまま受け取っても矛盾だとは思わないけど。

「そのまま受け取る」とは実際に「我がおおみたから」「我がくにこおり」つまり
倭王朝の百姓、群県があったと受け取ることかな?
それがどうして「新羅や百済と対等の朝貢国」であることと矛盾しないのだろうか。
386日本@名無史さん:04/01/07 17:08
普通に考えて草原とかじゃない山ばっかの日本で
騎馬なんか役にたたないよなぁ・・・。武田信玄とか道作って
やっと動かせたらしいし。

元寇のときも騎馬の使える博多湾に固執したわけだし。かなり局地的な
騎馬民族?
387日本@名無史さん:04/01/08 05:04
>>386
義経の騎兵隊がなぐり込んだひよどり越えって、そういえば草原だったよな。
388日本@名無史さん:04/01/08 11:29
>>386
>元寇のときも騎馬の使える博多湾に固執したわけだし。かなり局地的な
>騎馬民族?

多々羅浜の元軍なんて、馬は将官しか乗ってなかった。
絵巻物を見てごらん。日本軍の馬の方がずっと多い。
騎馬であろうとなかろうと敵前上陸に砂浜が選ばれるのは古今東西いっしょだ。

389a:04/01/08 11:36
金持ち父さん貧乏父さんを読みましたか?アメリカでは日本とさほど物価が変わらないのに
広い庭にプール付の一戸建てを持っている人多いですよね?
それはアメリカ人の大半が『不労所得』を得ているからです。
日本でも既に始まっています。下の最強情報です。初心者向けなので安心です。
みんな黙っているけど、隣の人も不労所得を得ているんですよ。
お金に興味の無い方は見ないでください…驚愕の内容なので。

http://www.google.com/search?q=%E6%9C%80%E5%BC%B7+%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB&ie=UTF-8&oe=UTF-8&hl=ja&lr=
390日本@名無史さん:04/01/08 14:32
>普通に考えて草原とかじゃない山ばっかの日本で
>騎馬なんか役にたたないよなぁ・・・。
そうだね、騎馬のメリットは活かせないね。
飼葉だの要るし、山岳も湖沼も渡河も大変、かえって足手まといだ。
391.:04/01/08 14:45
騎馬民族が日本を征服したのなら
騎馬民族の文化が日本にあったはずだ(家畜とか)
392日本@名無史さん:04/01/08 16:50
>>391
サハラ氏が反論してたよね。
遊牧民族の系統ならば「馬の去勢」「乳製品の一般化」「祭祀に血を用いる(皇室は穢れを嫌う)」
をやってるはずだと。

今はこれに有効な議論てあるの?
393日本@名無史さん:04/01/08 19:00
>>391
>>392
では発掘から騎馬民族に征服されたことが確実な朝鮮南部に、それらの文化や風習が
残っているのかね?

>>390
騎馬戦術の本家・高句麗の中心だった満洲東部が、草原や平野だと思っているのか?
現地へ行ってごらん、日本も及ばない山また山だ。
394日本@名無史さん:04/01/08 19:23
べつに朝鮮南部は騎馬民族に征服されてはいないが?モンゴル時代のことをいってるのかな?
発掘といえば金官(釜山)の夫餘からの影響は文化的なものだし
仮に征服があっても夫餘は騎馬民族じゃないし。

つーか高句麗を騎馬戦術の本場とかいってるような香具師だから
夫餘を騎馬民族だというのも無理ないかw
395日本@名無史さん:04/01/08 21:33
>394
350 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/12/20(土) 19:30
おととし、長野県で馬型バックルが見つかっているのですがなにか?

http://www.shiojiri.ne.jp/~kurateru/bajutsu/newspaper/others/20010927.html
396日本@名無史さん:04/01/08 22:58
馬なんか弥生時代からいたわけだが、馬型バックルがどうかしたのか?
それが反論のつもり? ナメてんの?
397日本@名無史さん:04/01/09 06:10
>>395
3世紀の半島の製品で、見つかったのは5世紀の住居跡だとなっているね。
長野県は5世紀〜6世紀の馬の牧場跡や馬小屋跡も出ている。
馬の生産の一つの中心だったと見られる。
398日本@名無史さん:04/01/09 06:14
日本で良馬の産地って、なんで山ばっかなの?
勅旨牧が置かれた甲斐・信濃・上野・武蔵のうち、
甲斐・信濃・上野は山ばっかだし、武蔵も台地だの丘陵地だの多いし。
399日本@名無史さん:04/01/09 16:16
水田にしちゃうからね・・・。騎馬民族が南下するのは
漢民族が草原を耕地にしちゃうからってのもあったらしいよ。
400日本@名無史さん:04/01/09 16:16
>>392の提示したことは興味深いな。
佐原真ももうちょい長生きして追い詰めてほしかった。

「醍醐」なんて言葉もあったけど一般的ではなかったし。

馬に去勢の風習なかったから、幕末に日本に来た欧米人が
「これは猛獣だ」
とか言ったらしい。そういう思考・風習はないのかどこかで途切れたのか・・
401日本@名無史さん:04/01/09 16:18
>>394
>仮に征服があっても夫餘は騎馬民族じゃないし。

>つーか高句麗を騎馬戦術の本場とかいってるような香具師だから
>夫餘を騎馬民族だというのも無理ないかw

江上説の核心は扶余が半島南部を征服し、次いで列島の倭を征服した、
ということにある。
征服者はモンゴルとか鮮卑とかでなく「扶余」と特定しているのだから、
扶余を騎馬民族と呼ぶかどうかは本当はどうでもいいことだ。
それは言葉の定義の問題に過ぎない。

ただ、征服の時点で扶余が被征服者にはなかった騎馬「戦術」を持っていた、
ということが重要だ。
この点において扶余は「少なくとも相対的に」騎馬民族だったのだ。
402日本@名無史さん:04/01/09 20:47

朝鮮人は、人種的にはモンゴル系の黄色人種で、形質的には日本人に
もっともよく似ている。身長、頭形、顔形、血液型、指紋などでは、
日本人と満州族とにもっとも関係が密で、中国人とはそれほど類似して
いない。北部の朝鮮人は満州族に、南部は日本人に似ているが、
例外として、モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に
近く、平安南道・南北黄海道人の頭形はもっとも華北型に近い。
ツングース族に属する満州族や東部シベリアの古アジア諸族などが、
前40世紀ごろから朝鮮半島に移住し、これより前に南方から移住してきた
人々と共存していたとも考えられている。(世界大百科事典/平凡社)

モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に近く
平安南道・南北黄海道人の頭形はもっとも華北型に近い
モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に近く
平安南道・南北黄海道人の頭形はもっとも華北型に近い
403日本@名無史さん:04/01/09 20:47
BC1Cに来た土井ヶ浜弥生人は山東半島から朝鮮半島を経由せずに
海路で来た華北系の漢人と見られる。

同じ頃、朝鮮半島北西部の今の平壌あたりに楽浪郡が置かれている。
それからまもなくして朝鮮北東部から高句麗が侵入してくるが、
面白い事に、両者には形質的に大きな違いがあった。

弥生人骨は中頭である。朝鮮人が短頭なのは有名だが、今も朝鮮北西部、
平壌周辺の平安南道・南北黄海道のあたりの頭形だけは異質で華北型に
近く中頭であり、その他の地域から孤立している。

つまり、弥生人骨は漢人が支配した朝鮮北西部の頭形とは近いが、
高句麗が侵入した朝鮮北東部を含めたその他の地域の頭形とは
異なっているという事である。

高句麗は弥生人骨の頭形とは一致しない人々だったのである。
404日本@名無史さん:04/01/10 10:53
騎馬とか言ってるけど・・・

馬は貴重品であって戦争に使うほど
多かったとは思えないな。かなり後世になってもそれは変わらない。
武士の時代になるまでそれほど馬は、使われていない。

古代は重装歩兵でしょ。やっぱ。
405日本@名無史さん:04/01/10 14:05
話を混乱させる冬厨がいるね
406日本@名無史さん:04/01/10 19:26
>>404
平和ぼけしてるな。
馬は戦争に使えるから貴重品だったのだ。
倭にとって5世紀は戦争の世紀、そして馬の世紀。
407日本@名無史さん:04/01/10 21:44
仮に騎馬軍団が征服していたとしてその気質は失われちゃったわけだから、
結局先住民の血の方が濃かったってことかね
408日本@名無史さん:04/01/10 22:01
騎馬民族の血は失われてはいない!
競馬場で馬に熱狂する民の姿をよく見るのだ!!
409日本@名無史さん:04/01/10 22:45
>>401はまったくわけがわかってないな。
夫餘に騎馬戦術があったのか?
410日本@名無史さん:04/01/11 05:06
日本に騎馬民族っぽい戦術が導入されたのって、
武士の登場の頃じゃないの?
馬+弓の戦術って、まさに騎馬民族。
それ以前は歩兵中心の軍制しかなかった。
411日本@名無史さん:04/01/11 06:02
>>404
平和ボケしてるな。
馬は戦争に使えるからこそ貴重品だったのだ。
倭の5世紀は戦争の世紀、そして馬の世紀。
412日本@名無史さん:04/01/11 08:03
騎馬民族征服は既にゆるぎない事実。武士の騎馬戦術を見ても
なにがしかの騎馬民族が支配的影響をもたらしたのは否定できない。
にも関わらず必死に否定するのは嫌韓厨と同じレベルだろう。

以後一切の議論禁止。
413日本@名無史さん:04/01/11 11:56
馬に乗ってるってだけで民族を区分するなよっつーの。
船に乗る奴と乗らない奴が違う民族か?
自動車に乗る奴と乗らない奴、
飛行機に乗る奴乗らない奴なんてのも異民族かっつーの。

何が「相対的に騎馬民族」だよ。
笑わせるな
414日本@名無史さん:04/01/11 19:39
>武士の騎馬戦術を見てもなにがしかの騎馬民族が支配的影響をもたらしたのは否定できない。

日本の武士には騎馬戦術などない。
415日本@名無史さん:04/01/11 22:23
>>412
北米のインディアンがいつから馬を乗りこなすようになったか知ってるのか?
416日本@名無史さん:04/01/11 23:16
>>407
>仮に騎馬軍団が征服していたとしてその気質は失われちゃったわけだから、
>結局先住民の血の方が濃かったってことかね

その通り。古代の征服なんてみなそんなもんだ。
古代ではないが、満洲族だって数十万が一億を征服した。

>>409
>401はまったくわけがわかってないな。
>夫餘に騎馬戦術があったのか?

わかっていないのは君の方だ。
高句麗や加羅地域の出土物や古墳壁画から、扶余には人馬とも装甲して
長槍を持つ重騎兵と、軽装して短弓を用いる軽騎兵とがあったことがわかる。
ただし広開土王碑に「歩騎五万」などとあるように歩騎混成だった。
モンゴルのような全軍騎馬ではない。
417日本@名無史さん:04/01/11 23:19
>>410
>馬+弓の戦術って、まさに騎馬民族。

全くその通り。源平時代、鎌倉時代において騎射は武士のアイデンティティ
だった。戦国になると騎馬武者も馬を降りて戦ったらしいけど。

>>413
>馬に乗ってるってだけで民族を区分するなよっつーの。

その通り。だから江上が扶余をモンゴルなどの遊牧民族とひっくるめて
「騎馬民族」と呼ぶのは問題なのだ。
ただ、前にも言ったが征服の時点で被征服者にはない騎馬「戦術」を持って
いたことは事実。

>>414
>日本の武士には騎馬戦術などない。

義経が騎馬隊で長駆してなぐり込み作戦をやったのは「騎馬戦術」ではない
というのかな。
418日本@名無史さん:04/01/11 23:21
魏志倭人傳の、倭人の風習に、柏手を打つってのがあるんだよね。
これ、言うまでもなく、今の神社参拝に残る、日本人の風習。

風習面からいって、倭人傳に書かれる倭人は、今の日本人の直系。
(柏手打つ風習は、かなり珍しい)
419日本@名無史さん:04/01/11 23:24
>>410
>それ以前は歩兵中心の軍制しかなかった。

日本書紀を読んでごらん。神功皇后のころから、馬がいかに重要だったか
がよくわかるよ。

420日本@名無史さん:04/01/12 01:50
で、騎馬弓兵が日本で活躍するのはいつからですか?
421日本@名無史さん:04/01/12 03:30
あのさあこのスレのみんなはさあ、
江上氏の説が日本の満蒙植民地経営政策と
深く関わってるってこと知ってる?
実は喜田の日鮮同祖論の満蒙版が
江上の騎馬民族説なんだ。
騎馬民族説は考古学でも歴史学でもない。
実は政治学上の問題なのさ。
422日本@名無史さん:04/01/12 05:13
>>417
「義経」個人だけが騎馬民族の戦術を身に付けてたってことかね?
423日本@名無史さん:04/01/12 06:10
◆◆君も歴史の目撃者!愚か者が再生産される瞬間!◆◆
>439 名前:日本@名無史さん :04/01/12 05:37
>漏れは九州王朝支持派でもないけど、任那日本府はあると思ってた。なかったの??


>440 名前:日本@名無史さん :04/01/12 05:52
>それが今は普通。


http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1072200231/2-
424日本@名無史さん:04/01/12 06:14
>>421
そんな政治的な要因が絡んでたとは!
425日本@名無史さん:04/01/12 06:15
義経が騎馬戦術?
あの頃からもう徒歩の従者が普通にいただろ。
軍記物の描写に騙されてる?
426日本@名無史さん:04/01/12 06:16
来年の大河でまた適当な描写するんだろうな
427日本@名無史さん:04/01/12 06:35
>>425
「徒歩の従者」がいたらもう騎馬戦術ではないのかね。
扶余が歩騎混成だったことは既に言った。
君のいう「騎馬戦術」とはモンゴルの大陸征服時の戦術のことだろう。

>>418
>風習面からいって、倭人傳に書かれる倭人は、今の日本人の直系。

だれもそれを否定していない。
古代の征服は少数の征服者によってなされたと言っているだろう?
ノルマン人に征服されても英国人は古代のブリテン人の直系であるのと
同じ。
428日本@名無史さん:04/01/12 08:42
>「徒歩の従者」がいたらもう騎馬戦術ではないのかね。
>扶余が歩騎混成だったことは既に言った。
>君のいう「騎馬戦術」とはモンゴルの大陸征服時の戦術のことだろう。

そこまでわかってるならなんで騎馬民族とかいってんだ?
騎馬民族とは要するに遊牧民族のことだろうに。
429日本@名無史さん:04/01/12 12:13
16.日本と満州は兄弟国だった!! 幻の日本・渤海同盟
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nichiman.html
天平時代の神亀4(西暦727)年12月20日、寧楽(なら)の都(平城京)に、遙か彼方・満州から
使節一行が入京しました。当時、満州にあった渤海国からやって来た使節は宮中に参内し、
渤海国王・大武芸(武王)の国書を、時の帝・聖武天皇に奉呈しました(下記)。
<原文>
武藝啓。山河異域、國土不同。延聽風猷、但増傾仰。伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、
本枝百世。武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。但以天涯路阻、海漢悠悠、
音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。庶叶前經、通使聘隣、始乎今日。謹遣寧遠將軍郎將高仁義・
游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁等廿四人、賚状、并附貂皮三百張、奉送。
土宜雖賤用表獻芹之誠、皮幣非珍、還慚掩口之誚、主理有限、披膳未期。時嗣音徽、永敦隣好。
<読み下し文>
武藝(渤海国王・大武芸本人)啓す。山河域を異(こと)にして、国土同じからず。延(ほの)かに
風猷(ふうしゅう)を聴きて、但(ただ)、傾仰(けいぎょう)を増す。伏して惟(おも)うに、大王の天朝、
命を受け、日本の基(もとい)を開き、奕葉(えきよう)光重く本枝百世なり。武藝忝(かたじけ)なくも
列国に当たり、濫(すべ)ての諸国を惣(す)べ、高麗(高句麗のこと)の旧居を復し、夫余の遺俗
を有(たも)てり。但、天涯路(みち)阻(へだ)たり、海漢(ひろ)く悠々たるを以て、音耗(おんもう)
未(いま)だ通ぜず、吉凶問うことも絶ゆ。親仁を結び援(あわ)せん。庶(ねが)わくば前経
(ぜんけい)に叶(したが)い、使を通じて隣に聘(へい)すること今日に始めん。謹みて、
寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁ら二十四人を遣(つか)わし、
状(のり)を賚(たま)い、并(あわせ)て、貂皮(てんがわ)三百張(はり)を附け、送り奉(たてまつ)
らん・・・(以下略)
(略
そして、この時から延長7(西暦930)年1月31日の来朝迄、約二百年間に渡って、実に37回も
渤海国使節が日本に来訪したのです。
(略
430429:04/01/12 12:14
約二百年間もの長期に渡って続いた日本・渤海間の使節往来ですが、なぜ、大武芸王は日本に
使節を派遣したのでしょうか? その第一の目的は、「軍事同盟」−現代風に言えば、「日渤安保」
の締結でした。ではなぜ、渤海が「日渤安保」を必要したか? それは渤海の建国事情にあった
のです。渤海の歴史については、今なお多くの謎が残っているのですが、とりわけ建国史となると、
更に多くの謎が残っています。ただ、これだけは言える事ですが、渤海建国の直接的要因の一つ
が、満州の大国・高句麗(こうくり)の滅亡にあったことだけは確かです。高句麗と言うと、朝鮮人の
王朝と言うイメージがありますが、実際の所は、満州族−後の金・清を建てたツングース系北方
民族が主体でした。高句麗は百済(くだら)を滅ぼし強大化した新羅(しらぎ)と、東アジアの「盟主」
唐の挟撃(はさみうち)にあい、668年滅亡しました。高句麗の遺民は、武装蜂起し国を再建しない
ように、各地に分散させられましたが、696年、モンゴル系契丹人・李尽忠、ツングース系靺鞨人・
乞四比羽(唐人が発音を無理矢理漢字で表記したもので、原音は不明)らと共に、高句麗王族・
乞々仲象(乞四比羽同様、原音は不明)も唐に対して反旗を翻しました。そして、この乞々仲象が
建国したのが、「震国」−後の渤海国だったのです。つまり、渤海はその建国からして、大国・唐、
更に朝鮮半島を統一した新羅と、敵対関係にあったのです。
(略
伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。
「大王天朝」。これは朝廷−聖武天皇の事で、言い換えれば、日本の皇室。「受命」。これは天帝
より命を受ける事で、地上の支配権(この場合は日本の統治権)を任されたと言う意味。そして、
第一のキーワード「本枝百世」。これは、早い話、日本と渤海は「本枝」の関係−つまり「兄弟国」
だと言っているのです。これが何を意味するかと言うと、・・・日本と渤海も、かつては「一つの国」
だったと「国書」は言っているのです。
(略
431429:04/01/12 12:15
武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。
この文の中で、「国書」の主・大武芸王は、「復高麗之舊居」、つまり、渤海の前身・高句麗の領土
を回復し、「有扶餘之遺俗」、夫余の伝統を継承したと言っているのです。ここに出てくる「夫余」
こそ、日本・渤海の原郷−かつてあった「一つの国」の名なのです。
(略
さて、その後、夫余は一体どうなったのでしょうか? 「夫余」は、朝鮮史に登場する「檀君朝鮮」
と同じ国なのですが、王朝交替の中で、「高句麗」と国名を変えます。そして、その高句麗の後身
が、あの「渤海」なのです。つまり、
夫余(檀君朝鮮)→高句麗→渤海
と言う訳です。では、日本と夫余の関係はどうなのでしょう? 実は、夫余にはもう一つの系統が
あるのです。そのもう一つの系統は朝鮮半島を南下した一派で、「南夫余」と呼ばれていました。
この南夫余は朝鮮半島南部に定着し「百済」を建国したのですが、中には更に南下し対馬海峡
を渡って、日本に来た者もいました。そして、その時、日本に渡った南夫余の王・依羅が、
崇神天皇になった共言われているのです。
432429:04/01/12 12:15
依慮王、鮮卑(せんぴ)の為に敗れ、逃(のが)れて海に入りて還(かえ)らず。子弟走りて北沃沮
(きたよくそ)を保つ。明年、子・依羅立つ。自後、慕容鬼(鮮卑慕容部の首領で、燕国の王)、
又復(ふたた)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る・・・
上に記した史書の一文では、南夫余の王・依慮はモンゴル系鮮卑族との戦に敗れ戦死?した
(「還らず」が示唆している)、翌年、王子の依羅(依罹)が新たな王となり、北沃沮(地名)を領有
したと言っているのです。更に、宿敵・慕容氏に再び攻められ、新王・依羅は国民を引き連れて
対馬海峡を渡り、日本に入って「倭人の王」となったと言っているのです。そして、依羅(依罹=イリ)
が、御間城入彦(ミマキイリヒコ)、つまり崇神天皇だったとすれば、日本の皇室も又、夫余の流れ
を汲んでいたと言う事になるのです。

夫余─┬高句麗──渤海
   └南夫余─┬百済
        └日本

つまり、大武芸王は、安全保障上の理由だけでなく、「かつては一つの国であった」日本と、
「兄弟」の誼(よしみ)を通じて、「お互い仲良くしましょう」と言った意味で、使節を派遣してきたの
です。それが「国書」の最後に書かれた「永敦隣好」の四文字の意味なのです。

◆◆渤海国について語ろう◆◆
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1043509346/
433日本@名無史さん:04/01/12 16:43
 文献史的な仮説によると、4世紀には三輪王朝、5世紀には河内王朝と呼ばれる原始大和朝廷
(ヤマト政権)があったとされる。河内王朝成立の背景には、4c後半からの朝鮮との交渉の激化
と共に、海に接する基地としての河内地方の重要性が増し、大和にあった旧三輪王朝の勢力を
再編成したものと考えられている。
 その傍証としては、延喜式や宮内庁の指定とは言え、所謂「倭の五王」の天皇陵が全て大阪府に
あることや、5cから中央執政官として有力になる大伴・物部氏など各氏族の本拠が、やはり大阪府
を中心にしていることなどが挙げられる。ちなみに、雄略朝の頃には原初的な官職授与権の萌芽が
認められ、部民制が整備されてくる意味で、ヤマト政権の機構面から見ても重要な時期に当たる。
 上田正昭氏説によれば、三輪王朝と河内王朝は血縁的に直接的なつながりはないという。
ここで崇神以降の天皇を、和風諡号を基準に3つに分類しておきたい。崇神天皇(ミマキイリヒコ)・
垂仁天皇(イクメイリヒコ)・景行(オオタラシヒコオシロワケ)・成務(ワカタラシヒコ)・仲哀(タラシナ
カツヒコ)・応神(ホムダワケ)・仁徳(オオササギ)・履中(イザホワケ)・反正(タジヒノミズハワケ)・・・
 景行・成務・仲哀のタラシの諡号は、7世紀代の舒明(オキナガタラシヒロヌカ)・皇極(アメトヨ
タカライカシヒタラシヒメ)との関係が認められ、後世の修飾と考えられるため、景行以下3代の
実在性は特に疑問視されている。景行の場合はタラシとワケを併用しており、これは系統の異なる
イリ系とワケ系を一つに結びつけるために『記紀』編纂時に創られたと推測される。
434433:04/01/12 16:44
 その為、応神天皇を新王朝の創始者と見る見方がある。応神天皇の父の仲哀天皇の不可解な死
や応神自体の出自や神后皇后の伝説など、応神を取り巻く状況も相当異質なものである。
 応神は記紀によれば、三輪王朝の流れを引くイホキノイリヒコ系のホムダマワカの娘(仲姫)
をめとっているが、つまり、応神は三輪王族の入り婿となることで、三輪王朝を吸収的継承
したのであった。応神以降はワケの名称を持つ天皇が多く、勢力基盤が三輪から河内に移った
ことが、朝鮮や中国との関連を示す記述も増えていることなどから推測される。
*前方後円墳の型式と編年 http://f1.aaacafe.ne.jp/~megalith/kouko5keisikihennen.html

系図として神話時代の神武帝から掲げてあるが、実在したと考えられているのは、「御肇国天皇
(はつくにしらすすめらみこと)」という諡号を持つ第10代崇神帝からとされる。崇神帝は本拠地を
三輪山の麓とし周辺豪族を纏めて大和に連合王国を形成したとされる。本拠地を三輪に置いた
ということから、崇神帝から垂仁、景行、成務、仲哀帝までは三輪王朝と呼ばれる。または、
崇神帝の和風諡号が「御間城"入彦"五十瓊殖」、垂仁帝が「活目"入彦"五十狭茅」とされること
から「イリ王朝」とも言われる。垂仁帝と景行帝の間には断絶があるとされている。これは、日本
書紀において、景行帝の箇所に通例とされる天皇の号がなく、単に大足彦命とあることも皇統が
途絶えた可能性を示唆している。そこで、垂仁帝の後に狭穂姫を皇后として生まれた皇子、
誉津別命(ほむつわけのみこと)が近江に、日葉酢媛を皇后を母とする皇子、五十瓊敷入彦命
(いにしきいりびこのみこと)が大和に、大足彦尊(おおたらしひこ)は誉津別命の統治した近江の
半分を統治したのではないかという説も出されている。
ともあれ、一応、応神帝からは河内王朝と呼ばれる王朝とされている。この王朝は、武烈帝の代
で断絶し、大和地方以外から血縁のある継体帝を推戴し帝位を保った。基本的にこの継体帝の
流れが現代にまで続いている。あるいは、継体帝から天智帝までを近江王朝と呼ぶ場合もある。
*天皇家 http://www.digistats.net/data/clan/mikado1.htm
435日本@名無史さん:04/01/12 17:02
436日本@名無史さん:04/01/12 18:46
>>424
日韓併合だって何の根拠もなしにできたわけじゃないでしょ?
歴史学者などが協力して同祖論だとかいろいろ展開して正当化を画策したわけ。
朝鮮半島はそれで上手く行ったんで、満蒙植民地化の確立を目指す
日本政府は、国策に基づいて学者を満蒙に送り込んだんだよ。
それで江上も戦前、満蒙に行ってるしね。政府が送り込む以上、
それなりのミッションがあったわけだ。江上説の骨子は戦前に作られたわけだけど、
日本が満蒙を植民地支配するために口実があるとすれば、
「日本民族の故地が満蒙にあった」という学説は有力な根拠になる得る。
なにせ朝鮮半島の前例があったわけだし。イスラエルの強引な建国だって、
ユダヤ民族の故地がパレスチナにあったというのが根拠なのだからね。
戦後は江上説の政治的国家戦略的は意味なくなったけど、
江上は軍人や政治家じゃなくて学者だから(考古学的方面の知識は
そうとう怪しいのだが)、戦後も自説を展開しつづけたんだよ。
勘違いしたマスコミに大々的に取り上げられたりしたし。
江上自身は、政治的には保守思想家であって、神話を考古資料に
あてはめて考察したりする姿勢は、考古学的手法としては前時代的。
ただ、原水爆反対のような左翼学者たちの活動にも理解を示したりしたので、
そういう度量の広さもあって、学会では憎めない人・人徳のある人と
思われていたね。これは考古学的には徹底的に批判・論破されながらも、
江上説が長らく生き残った理由でもある。
437日本@名無史さん:04/01/12 23:31
歩騎混成じゃあ歩兵のスピードに合わせなきゃならないんだから、
もう騎馬戦術じゃないよな。
438日本@名無史さん:04/01/13 06:17
>>437
ここでもまた「騎馬戦術」という言葉はどうでもよい。「騎兵」とくに「装甲騎兵」が
あるかどうかが問題なのだ。
吉野ケ里的なレベルにある歩兵オンリーの軍隊に対して装甲騎兵の集団が現れたら
どうなるか?
第一次大戦で、はじめて英軍の戦車がドイツ軍に対して用いられた時の効果と同じ
ではないか?
439日本@名無史さん:04/01/13 07:03
はじめて投入された時の戦車は、思ったほどの成果を挙げなかった
わけだけど・・・
440日本@名無史さん:04/01/13 07:11
歩兵オンリーでも弓兵主体であればそこそこ戦える。
441433・434関連:04/01/13 17:42
 国生み神話は伊邪那岐神と伊邪那美の二神が天の瓊矛を指しおろしかきなして、その矛の先から
したたり落ちた塩が固まって淤能碁呂嶋ができたというくだりで始まる。
 この淤能碁呂嶋は淡路島にある絵島など複数の場所が比定されているが、大阪湾周辺であること
は間違いない。難波の岬から国見をした折の歌をもと歌にした『古事記』の国見歌に、「おしてるや 
難波のアよ 出で立ちて 我が国見れば 淡路島 白凝島(おろごろじま)・・・」と「おのごろじま」が
出てくることなどもその一例だ。
 そして、二神は淤能碁呂嶋に天下って大八洲、つまり日本の国土を成す島々を生むのである。・・・
では、なぜ大阪湾が国生み神話の舞台の中心になったのだろうか。この神話が作られたのは七世紀
後半の天武・持統朝の時代とする見解もあるが、私は神話の骨格が五世紀段階、ヤマト王権が重要
な基盤を大阪湾をのぞむ河内(和泉を含む)地域に置いた時期に作られたと考えている。
 『日本書紀』の欽明天皇元年九月の条で難波の宮を「難波祝津(はふりつの)宮」と記しているように、
難波には古くは神まつりとかかわりのある港湾の宮居があったことをうかがえる。難波の津は「祝津」
とも呼ばれ、聖なる意味合いを持っていたのだろう。
 河内地域が五世紀のころにヤマト王権の重要な基盤だったことは、この地域に全長二八〇bを超
える五世紀の巨大古墳が集中して築かれていることでも推察できる。また、倭王と王の同族の和風の
諡は四世紀に「・・・イリ」だったのに対し、五世紀は「・・・ワケ」と称するようになったことも、王統の変化
をうかがわせる。五世紀後半から六世紀に勢力を伸ばした物部氏や大伴氏などの氏族が、河内地域
を拠点にしていたことも考慮する必要があるだろう。
 国生み神話が王権の本拠をヤマト盆地に置いていたころに作られたものであれば、ヤマトが神話の
舞台になったはずだ。河内地域を基盤にした王権の段階に形作られたからこそ、大阪湾が舞台の
中心になったのだろう。大阪湾を取り巻く地域は日本の国家形成を考える上でも重要な場所だ。

故事巡礼*国生み神話*大阪湾が舞台の中心に◆上田正昭(京大名誉教授)日経04/01/10*かんさい21
442日本@名無史さん:04/01/13 21:30
>>429
扶余の歴史について興味深く読ませてもらいました。
渤海の国書は「もとをただせば同じ扶余じゃありませんか」と言っている
ようにしか取れませんね。

ところで、狗耶韓国が3世紀末に扶余と思われる北方系の征服者に征服された
ということが言われますが、この一派は扶余の歴史のなかでどのような位置づけ
になりますか?
443日本@名無史さん:04/01/13 21:34
ほんとうに応神は怪しい。九州生まれとなっていて、畿内に入るのに苦労したり
する。応神が、最初に畿内に入った征服者ではないか。
そしてすでにその前の景行、仲哀からして怪しい。
なぜなら、この二人は天皇でありながら九州に親征してしかも数年間滞在する
からだ。こんなことをする天皇は前にも後にもいない。
この二人は征服者の九州時代のことを言っているのではないか。
444日本@名無史さん:04/01/13 23:53
話そらすなよ

騎兵がいたからといってそれだけで「騎馬民族」とは恐れ入る。
445日本@名無史さん:04/01/14 02:26

■■■■妄想サヨク集団による組織的書き込み被害者のために■■■■
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1072200231/695-699
446日本@名無史さん:04/01/14 04:32
>>444
私は「扶余と特定しているのだから騎馬民族という名称はいらない」と言っているのに、
どうしても「騎馬民族」と言わせたいらしい。
それがないと攻撃できないのかな。
447日本@名無史さん:04/01/14 04:34
それは扶余征服説であって騎馬民族征服説ではないから
スレ違いなんだなw
448日本@名無史さん:04/01/14 07:54
夫餘は騎馬民族ではないし、騎馬民族は日本を征服していない。
しかし夫餘は日本にきて日本を征服した。

・・・・・といいたいのなら、最初からそういえばよい(どの道、賛成はしないが)。
449日本@名無史さん:04/01/14 09:37
>>448
>夫餘は騎馬民族ではないし、騎馬民族は日本を征服していない。

騎馬民族=遊牧民族という定義ならその通り。
しかし扶余は征服当時の伽耶、倭になかった騎馬戦術(装甲騎兵戦術)を有し、
その影響によって4世紀の伽耶、5世紀の倭を騎馬化したことは事実。

>しかし夫餘は日本にきて日本を征服した。

5世紀の列島倭の騎馬化は征服があったにせよ、なかったにせよ
(なかった場合は文化的影響)事実だが、私は征服があったと見る。

450日本@名無史さん:04/01/14 11:15
>扶余は征服当時の伽耶、倭になかった騎馬戦術(装甲騎兵戦術)を有し

夫餘に騎馬戦術があったという根拠は?

>征服があったにせよ、なかったにせよ(なかった場合は文化的影響)事実

つまり文化的影響でも説明がつく。征服があったということの根拠にはならない。

451日本@名無史さん:04/01/14 13:36
馬に乗ってたのが来たんじゃなくって、犬歯が大きくて牙があるように
みえる民族が来たんだよ。 牙民族説
452日本@名無史さん:04/01/14 21:19
そうか・・八重歯のあの娘は牙民族の末裔なのか
453日本@名無史さん:04/01/15 05:53
>>450
>夫餘に騎馬戦術があったという根拠は?

416 にすでに書いた。
また言葉の問題になるだろうけど、「騎馬戦術」というのは「モンゴル式の、軽装騎兵オンリー
による機動的戦術」という意味ではないよ。
「重騎兵、軽騎兵を歩兵に協働させる戦術」という意味だ。それでも「騎兵を用いる」という
意味において「騎馬戦術」には違いないのだ。特に騎兵を持たない相手に対してはね。

>つまり文化的影響でも説明がつく。征服があったということの根拠にはならない。

国際関係も含めて、ほんとうに文化的影響で説明がつくのか?
ということを議論すればよいのだ。
「騎馬民族」という言葉の問題ではないことがわかったかな?
454日本@名無史さん:04/01/15 05:57
>「重騎兵、軽騎兵を歩兵に協働させる戦術」という意味だ。それでも「騎兵を用いる」という
>意味において「騎馬戦術」には違いないのだ。特に騎兵を持たない相手に対してはね。

歩兵と一緒に行動する騎兵は大した脅威にならない。
455日本@名無史さん:04/01/15 06:05
>>439
>はじめて投入された時の戦車は、思ったほどの成果を挙げなかったわけだけど・・・

それは「故障が多かった」ということをうろ覚えしているのだろう。
戦車が投入されたことによって、その地点のドイツ軍は敗走した。つまり固定された
塹壕戦をなんとか流動化する、という初期の目的を達した。
ドイツ軍がその時点で対抗手段を持たなかったこと、機関銃が通用しないことを知った
歩兵が恐怖心に襲われたこと、が重要だ。

>>440
>歩兵オンリーでも弓兵主体であればそこそこ戦える。

人馬とも鉄製の装甲をつけた重騎兵に対して矢が通用しないことを知った弓兵は
恐怖に襲われるだろう。

456日本@名無史さん:04/01/15 13:47
>>454
敵の歩兵の戦列を装甲騎兵が中央突破して穴を開ける。その穴を歩兵が拡大する。
逃げる敵を軽騎兵が追撃する、という戦い方だったろう。
装甲騎兵にスピードは要求されないし、要求する方が無理。
目的から言ってそれでよいのだ。

>歩兵と一緒に行動する騎兵は大した脅威にならない。

そんなことを言ったら歴史上、モンゴル軍以外のすべての騎兵は脅威でない
ことになる。
歩騎混成というのは常に歩兵と騎兵が一緒に走るということではない。
一つの軍に編成されているという意味だ。

457日本@名無史さん:04/01/15 15:22
騎兵の脅威ってのは・・・敵の弱いところを柔軟に責められるとこなんですけど。
映画みたいに騎馬同士で戦ったりするのはあんまり上手な運用じゃないわけで。

蒙古騎兵がやけに強かったのは、敵の重装備兵がやってくるとさっさと
他のところに移動するから。金や東欧の騎馬兵は重装で追いつけなかったんだな。
で。もし軽騎兵とかで追ってきたら射程外から半弓(妙に射程が長い)で殲滅。
458日本@名無史さん:04/01/15 20:23
>>457
扶余の、装甲騎兵を含む歩騎混成の軍隊が、騎兵を持たない吉野ケ里レベルの軍隊を相手にした
場合のことを想像したんだけど、通じなかったかな。
459日本@名無史さん:04/01/16 02:12
そもそも矢の通用しない甲冑なんてあるんですか?
それに鐙の登場より前に長槍持った重騎兵なんて戦えるのかどうかも
疑わしそう。
460日本@名無史さん:04/01/16 03:21
>人馬とも鉄製の装甲をつけた重騎兵に対して矢が通用
>しないことを知った弓兵は恐怖に襲われるだろう。

あほか。戦三板にカエレ!



461日本@名無史さん:04/01/16 04:06
>>459
騎兵にやたら長い槍を持たせる場合は、槍を振り回して戦うことは
求められていない場合がほとんど。
長柄隊が槍衾を組んで押し出すように、騎兵の集団を組んで槍を前方へ
向けて構え、部隊ごと突貫する。
馬という重量物に乗って槍構えた集団が突っ込んできたら、
歩兵の集団なぞ蹴散らされてしまう。
だが飛び道具などで迎撃されるとやたら損害が増えるという、
諸刃の剣でもある。
だから、槍騎兵隊は崩れた相手に駄目押しするための部隊だね。
先に弓矢なり鉄砲なり歩兵の競り合いなりで敵を崩すのが前提。
ってこれは近代騎兵の用兵なんだけど、2000年近くも前から
こういう用兵はあったのかなあ?
462日本@名無史さん:04/01/16 05:13
日本には兵科としての重騎兵など存在したことないだろ。
それはともかく蒙古騎兵強かったのは別に重騎兵に勝っていたからでなく
それだけで相手の全軍に匹敵しうるほど大量の熟練した弓騎兵を備えていたことと
それを扱う戦術を考案し訓練していたからなんだね。
重騎兵ももっといりゃ優位に立てたろうし相手の土俵に立たなけりゃ
そのままでも簡単に負けなかったはず。
モンゴル軍のほうが相手の戦い方に対策を取れていたのに対し
相手はそれほど準備ができてなかったという指揮の差も大きかったんだね。
463日本@名無史さん:04/01/16 07:27
>>462
別に日本の話をしているわけではなさそうだけど。
それはさておき、西洋から甲冑に身を固めた重騎兵が姿を消したのは
軽装銃騎兵に勝てなかったからであるというB.S.ホールの主張なども
あるぐらいで、同じ騎兵でも機動力に劣る重騎兵の場合、軽騎兵の側が
装甲を貫けるだけの装備を持っていた場合、勝ち目は薄い。
リーグニッツなどは、ヨーロッパ側は鎖帷子が主な装備であったために、
大敗となったわけで。
おそらくモンゴル軍を完全に包囲できるぐらいの戦力差が無いと、
相当苦戦することになるだろう。
464日本@名無史さん:04/01/16 16:35
>>459
>そもそも矢の通用しない甲冑なんてあるんですか?

後世の革製の鎧も一応は矢の防御になっていた。だから射る方は
鎧の覆っていないところを狙って射た。

>それに鐙の登場より前に長槍持った重騎兵なんて戦えるのかどうかも
>疑わしそう。

鐙がなかったのはギリシャ/ローマの騎兵の話。
アジアでは紀元前から鐙はあった。高句麗や伽耶の古墳壁画にも、装甲
騎兵は長槍を立て、鐙をふんばった姿で描かれている。
465日本@名無史さん:04/01/16 16:40
>>461
>馬という重量物に乗って槍構えた集団が突っ込んできたら、
>歩兵の集団なぞ蹴散らされてしまう。

同意。おまけに装甲しているからなおさら恐い。

>だが飛び道具などで迎撃されるとやたら損害が増えるという、
>諸刃の剣でもある。

どんな戦術にも時間が経てば対抗手段が出現する。
鄭成功軍の、満洲騎兵への対抗手段はごきぶりのような鉄製鎧を着て
大刀でひたすら馬の足を斬る「鉄人隊」だった。

>だから、槍騎兵隊は崩れた相手に駄目押しするための部隊だね。

相手と状況によって変わると思う。
因みに役割の似た、アレキサンドルの長槍歩兵集団「ファランクス」は
会戦の初期の段階で投入された。
466日本@名無史さん:04/01/16 20:32
ABO式血液型の調査結果によれば、O型27.9%、A型32.3%、B型29.5%、
AB型10.3%を示し、日本人とくらべてA型が少なく、B型が多い。
民族指数(A+AB)/(B+AB)は、蒙古、満州、北朝鮮、中部朝鮮、
南朝鮮、九州と地理的に南下するにしたがい、それぞれ0.75、0.91、
0.99、1.05、1.25、1.62としだいに大きくなる。朝鮮人のMN式、Q式、
およびE式血液型はほとんど日本人に大差がない。生体測定で、特別の
地位を示す済州島資料はABO式血液型においても、また北朝鮮型を
呈する。指紋調査の結果では、各型の出現頻度(ひんど)が、日本人と
蒙古・満州人との中間を朝鮮人は示し、その北方は蒙古・満州人に、
南方は日本人に近似する傾向を示している。(世界大百科事典/平凡社)
467日本@名無史さん:04/01/16 21:56
崇神はリ系の三輪王朝の創始者と考える向きもあるが、半島での活躍が書紀に記されている反面、九州色がなく、
ミマキイリヒコという諱からして任那に居住していたと考えるべきだが、陵墓は大和にある。これは河内のワケ系王朝を
創始した応神と対比させる形で、半島の任那が拠点だった時代をイリ系として区分けし、のちに歴史書編纂の際に、
大和の三輪王朝にそっくりはめこんだのだろう。大和での陵墓建設は、河内古墳群出現とともに中断し、のちに北方に
中心地を移動させている。崇神は南扶余系で3C末九州・倭の北限だった狗耶韓国を制することで、自動的に九州
をも支配下においた。イリ系となってるのは、おそらく渤海国書>>429-432 から推定するに依羅(依罹=イリ)から来て
いるのだろう。ミマキイリヒコとは任那の依羅という意味である。いずれ直系の応神が5C初河内に侵攻しワケ系王朝を
築く。>>433-435 >>441  いわゆる倭の五王とは河内に至った扶余系王朝のことであり、大和は無関係である。
任那-対馬-筑紫まで制した扶余系は、それまで半島貿易を独占していた九州に代わって大和との交易をはじめて、
大和との直接的対決はしなかった。任那地域の大成洞古墳群が3C末に扶余系となり、出土倭系遺物が2-3世紀
に九州系なのに4世紀になると大和系になり、5Cには陵墓建設それ自体が中断するのはそのためだ。
468467:04/01/16 21:57
応神は大和を睨みながら河内で従民政策をおこない、巨大墳墓を建設した。一方で大和とは血縁関係を結びながら、
いずれ、巧妙に扶余系統の大和への侵入を実現して行ったのである。そうして確立された倭-扶余連合政権は、当初
蘇我馬子を初代国王に定めた。隋書に記されたアメタリシヒコという明白な男王こそが馬子であり、推古朝は存在し
なかったのである。そして蘇我氏を滅ぼした、かねてよりその信憑性に疑問が指摘されている大化の改新は、
実は扶余直系豪族らによる宮廷革命であり、立役者であった天智天皇らを持って、現在の皇室の祖先と考えてよい。
書紀の編纂にあたって、『隋書』倭国伝での"男王”の記述や、それ以前に馬子の巨大な業績を否定するわけにも
いかず、馬子の業績を彼から分離して、実在していた厩戸王にくっつけたのが、これも大化の改新と同じく疑問だらけ
の聖徳太子伝説だ。本来、「天皇家」の陵墓の中心は河内だったのであり、また神話の舞台も大阪なのだから、大和
の発展は別系統のものと考えられ、一方、蘇我氏の拠点は一貫して大和だったのだから、合理的な推察といって
いいだろう。

聖徳太子と飛鳥時代について語りませんか
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1029917483/387-394
469467:04/01/16 21:58
また、大化の改新に並んで、壬申の乱も古代史の大きな謎の一つである。大海人皇子は兄とされるの天智天皇より
年上と見れるし、兄に自分の娘4人を嫁がせてるのもおかしい。

壬申の乱の謎
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1033233848/
壬申の乱はおそらく同じ扶余系の派閥抗争の結果ではないだろうか?
天智が百済と同系なら、天武は高句麗系だろう。というのも天武は一貫して高句麗びいきだったからだ。
同時期に築かれたと見られる高松塚やキトラ古墳の調査結果がある。
*キトラ古墳のはなし http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kazu/kitora/kitora.html
キトラ古墳の天井に描かれた天文図の観測地点が高句麗の都・平壤(北緯39.0度)であることは示唆深い。
皇位を巡る争いは白村江の戦いで大敗を喫するなど百済滅亡後の国際情勢が国内に投影されているに違いない。
おそらく高松塚が天智、キトラが天武の陵墓ではないか?
470467:04/01/16 21:58
かくして、形成された扶余系(高句麗系)倭王朝は、その歴史を太古からの倭の正当王朝としての認識を後世に
至るまで確立させて永遠の皇統を作る目的で日本書紀の編纂を企図したと言えよう。
そうするには多くの難関が待っている。卑弥呼以来の大和王朝の存在、中国歴史書の記述、宗教的観念などが
それだ。隋書に残る蘇我王朝を聖徳太子でっちあげで隠蔽し、三輪王朝は崇神イリ王朝とすげかえ、
そして辛酉讖緯説に基づいて斑鳩建都から遡って紀元を設定する必要から、架空の神話と天皇を創出する
必要に迫られた。そこで、崇神・応神→天智・天武と、任那から筑紫に"天孫降臨”し、大和に"東遷”して、
天武が即位するまでの歴史を神武東遷神話として神話化したのである。<神>の字を持つのが崇神・応神であり、
<武>の字を持つのが天智・天武なのは意味深だ。<神武>とリンクしていると見て間違いない。
また神話では、天孫族にウガヤ系とアグリ系の二派があることなど、国神ナガスネヒコが天孫ニギハヤヒに
を従え、ニギハヤヒが神武に破れた歴史は、そうした史実の反映である。

『スサノオ』先代旧事本紀を語ろう『ニギハヤヒ』
http://travel.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1056591834/321

付言するならば、謎の歴史を持った継体天皇の出自についても、扶余との関係で新たな視点を持つことが
可能になろう。大和と遠く離れた越(福井県あたり)に拠点を持った継体は、越が半島・日本海・琵琶湖・大和
と、半島との交易拠点であることから見て、半島扶余系だろうと推察できる。一旦、皇統断絶の危機にあった
扶余家系が崇神以来の皇統から血縁者を無理して連れて来た可能性が高い。
そうしたことは、「真の継体陵」の発掘調査の結果、いずれ明らかになろう。

● 謎の大王・継体天皇について ●
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1035617528/816
471467:04/01/16 22:05
なお、七支刀は大方の認識の通り、4世紀中に百済より、同系扶余倭王に贈られたものだが、
扶余系の大和への進出に伴い搬入されたものである。やがて石神神社に奉納された。
472日本@名無史さん:04/01/16 22:15
妄想なら、電波板へ逝け。
473日本@名無史さん:04/01/16 22:47
この本をキミたちにすいせんする。
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=5007
474467:04/01/17 01:31
>>470 訂正
><武>の字を持つのが天智・天武なのは意味深だ。<神武>とリンクしていると見て間違いない。
また神話では、天孫族にウガヤ系とアグリ系の二派があることなど、国神ナガスネヒコが天孫ニギハヤヒに
を従え、ニギハヤヒが神武に破れた歴史は、そうした史実の反映である。
                   ↓
><天>の字を持つのが天智・天<<武>>なのは意味深だ。崇<<神>>→天<<武>>が<<神武>>と
リンクしていると見て間違いない。
また神話では、天孫族にウガヤ系とアグリ系の二派があることなど、国神ナガスネヒコが天孫ニギハヤヒに
屈服し、ニギハヤヒが神武に破れた歴史は、そうした史実の反映である。

継体は半島の、おそらく後世までずっと続いた扶余百済から連れてきた扶余系崇神の遠縁。

吉備の大王陵は南扶余系河内応神に続いて倭に侵攻した扶余系別派のおそらく高句麗系で、
天武はその直系。吉備の別派は一旦、河内の傘下に入った。

【吉備】造山・作山古墳は何で巨大なの?
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1070614473/

倭が任那日本府の維持に執心してたのは、初代天皇である崇神の陵墓がそこに存在していたため。
475467:04/01/17 01:41
>>467 訂正
>崇神はリ系 →  崇神はイリ系

>>471 訂正
>石神神社  →  石上神社
476日本@名無史さん:04/01/17 07:07
>>464
三国時代の中国の騎兵は、鐙を使っていませんよ?
477日本@名無史さん:04/01/17 07:21
鐙は3世紀後半だからぎりぎりですね。
478日本@名無史さん:04/01/17 07:57
三国時代以降に鐙は中国に入ったけど、箸墓で見つかった鐙から、
三〜四世紀にはもう日本にもあったことになる。
鐙は東アジアに一気に伝播したということになるな。
だが別にどこかの国から騎馬軍団が攻めて来る必要性は無いがw
むしろ海を渡って相当数の騎馬兵を抱える軍団なぞが攻めて来るというのが
無理があるわな。元寇ですら漢軍の歩兵ばかりだったのに。
479日本@名無史さん:04/01/17 08:29
高句麗との戦いで伝わったとか。
480日本@名無史さん:04/01/17 08:32
高句麗が半島を席巻した時期が何時かあったはず。
それは八王の乱以後の力の空白期だったんじゃないか。
481日本@名無史さん:04/01/17 08:36
中原への流入を見ても一時的に洛陽まで進みながら、
本拠地を移すまでには長い時間をかけた鮮卑などの例がある。
洛東江流域まで一時的に席巻したとしても不思議ではない。
482日本@名無史さん:04/01/17 11:26
人口的に見て、朝鮮から日本に来て日本を征服するのは無理。
だいたい、船舶だってたいしたものじゃないし。

483貴重な馬を戦争に?:04/01/17 11:27
>458 山ばっかのところで馬なんてそれほど効果ないっすよ。
吉野ヶ里のような平地ですら柵とか防御機構あるみたいだし
櫓とかそういう構造物あるんなら
どう考えても騎馬以前の古代弓兵主体でしょ。農業の発展で
拠点防御型の重装歩兵主体になっていく課程で騎兵は正直
役に立たないかと。騎兵が活躍するようになったのはもっと
時代が下って重装歩兵の維持が困難になって柔軟に招集できる
機動戦力としての武士の時代から。必要な時だけ招集できる
ほどに馬が普及するのはかなーり後の時代。それくらい時代が
下ると名誉とか名を売る感じで馬を自慢する意図になってくるし。
484日本@名無史さん:04/01/17 11:31
日本は奈良時代にすでに六百万人もいたんですよ。
どうやって、征服するんですか?
弥生時代の人口は半分ぐらいに見積もっても300万人以上。
一方、新羅・百済は、多く見積もっても数十万人。
扶余なんて、高句麗に滅ぼされた国でしょ?
日本に流れ着いたかもしれないが、なんでそれがいきなり王になるん?
馬鹿しかそんなことは考えないよ。

485日本@名無史さん:04/01/17 11:34
古代の船舶技術は馬持ってくるなんて、相当大変なんじゃないですか?
だいたい、日本には馬がいなかったんですよ。
だから、現地調達もできなかったし。
南九州にポニーみたいな馬がいたがそんなもの役に立たん。
486日本@名無史さん:04/01/17 11:35
馬なんて東アジアにそんなにいたとは
思えないね。一部の有力者が所有してた程度だろう。
487日本@名無史さん:04/01/17 11:36
羅針盤とか碇、舵のない船で航海するのは正直無謀。
488日本@名無史さん:04/01/17 11:40
馬はいたろ。弥生遺跡からも出てるし。でも馬がいたから騎馬民族に征服されたって証拠にはならないが。
489日本@名無史さん:04/01/17 11:41
高句麗(扶余?)語と日本語とは言葉的には近かったかも知れないが、
名前を見る限り明らかに別民族。
490日本@名無史さん:04/01/17 11:42
>>488
魏志倭人伝に「馬なし」と書いてある。
いたかもしれないが、魏の使者が見るほど一般的ではなかった。
491日本@名無史さん:04/01/17 11:59
魏志倭人伝を読む限り、倭人の風俗はまったくの南方系。
朝鮮半島から来たのではなく、朝鮮半島に進出したと考えるべきだろう。

492日本@名無史さん:04/01/17 12:40
たとえば崇神天皇が実在だったとして、なんで、朝鮮半島から来て、
畿内に住み着いて王になれたのか?
戦力になる兵隊とか馬(いたのか?)はどうやって運んできたの?
超能力者でテレポーテーションで運んだのか?
それともUFO?(W
もう話になんねーよ。
493日本@名無史さん:04/01/17 12:59
>>492
同じ時代(4世紀中葉)に、畿内勢力が朝鮮半島に進出して任那諸国を服属させ、
百済と同盟して新羅と戦った、という話は信用するんだろ?
それはどうやって馬や兵隊を運んだと考えるの? テレポーテーション? 
494日本@名無史さん:04/01/17 13:05
>>493
朝鮮半島には縄文時代から倭人が住んでますが何か?
当然、現地の倭人勢力と協力したんでしょ?
495日本@名無史さん:04/01/17 13:06
>>491
>魏志倭人伝を読む限り、倭人の風俗はまったくの南方系。

ところが埴輪の人物像は筒袖の上衣にズボンをはき、フェルト製と思われる
帽子をかぶったりして、明らかに北方系の風俗だ。
支配階級となった北方系民族の風俗と見られる。
496日本@名無史さん:04/01/17 13:11
魏志倭人伝にも倭人の国として狗邪韓国が書いてありますね。
邪馬台国連合の一員だったと考えるべきです。
それが後の任那になるわけだから、異民族の征服とワケが違います。
497日本@名無史さん:04/01/17 13:14
日本人は縄文時代から北方系
魏志倭人伝など鵜呑みにするな
498日本@名無史さん:04/01/17 13:14
>>495
で、高句麗には日本にそっくりの埴輪があるのかね?
499日本@名無史さん:04/01/17 13:17
弱小国であった三韓すら征服できなかった騎馬民族が
日本を征服できるはずがない
500日本@名無史さん:04/01/17 13:19
>>497
史料を信用しなければ、只の妄想。
あと服装に関しては、たとえば、中国の戦国時代の趙は胡服を採用したが、
別に、異民族に征服されたから、取り入れたのではなく、機能的で戦いやすかったから。
日本においてもどんどん大陸から来たものを取り入れていたわけだから、
服装とて例外ではない。
501日本@名無史さん:04/01/17 13:22
騎馬民族説自体が妄想だろ
考古学では相手にもされていない
502日本@名無史さん:04/01/17 14:33
>>467
ミマキイリヒコが、金官の王であった実在のミマキイリヒコと、後にミマキイリヒコに
当てられた三輪王朝の王と、二人いたという考え方は面白い。
ただし日本書紀の崇神が「半島で活躍した」というのはわからない。日本書紀の崇神記
に半島関係で書いてあるのは終わりのほうに一箇所、任那の使いが来た、というところだけ。
503日本@名無史さん:04/01/17 15:14
明治時代の人物像は筒袖の上衣にズボンをはき、フェルト製と思われる
帽子をかぶったりして、明らかに欧米系の風俗だ。
支配階級となった欧米系民族の風俗と見られる。
504日本@名無史さん:04/01/17 16:18
崇神天皇が実在だとしたら、三世紀つまり卑弥呼の時代じゃないの?
505日本@名無史さん:04/01/17 16:41
朝鮮から来たなら、まず九州に来るはずなんですがね。
いきなり大和ってやっぱりテレポテーションぐらいしか、考えられんな。(W
506日本@名無史さん:04/01/17 16:56
後、言語面から見ると、征服民族と被征服民族との間では
言語が違うので当然王室と庶民の間で言語が違うはずです。
日本語と高句麗語(扶余語)はいかに同一言語族とはいえ、
言語的差異はあったはずです。
ところが、万葉集を読んでもそういった差異があるとは思えない。
つまり、征服民族に征服された形跡が言語学的には見出されて
いないわけです。
507日本@名無史さん:04/01/18 00:21
>>506
万葉集は古代朝鮮語で解読できるそうですよw
508日本@名無史さん:04/01/18 13:22
>>476, 477, 478
>三国時代の中国の騎兵は、鐙を使っていませんよ?

その根拠が聞きたいがとりあえず中国はおいといて、鐙はスキタイ、匈奴
など、紀元前の北方騎馬民族の発明だ。馬上に立ち上がって騎射するために
どうしても必要なのだ。
それが鮮卑を経て扶余、高句麗に伝播したと考えられる。
だからたとえ扶余のほうが中国より早くても不思議はない。

>>478
>元寇ですら漢軍の歩兵ばかりだったのに。

蒙古襲来絵巻に、元軍の将校は馬に乗っているのがちゃんと描いてあるわな。
扶余は装甲騎兵を含む歩騎混成だから、多々羅浜の元軍程度の「騎馬率」で十分。
509日本@名無史さん:04/01/18 13:25
>>494
>朝鮮半島には縄文時代から倭人が住んでますが何か?
>当然、現地の倭人勢力と協力したんでしょ?

4世紀中葉の半島南部の倭人地域といえば扶余王朝の金官であるわけだが、
するとなにかい、君は4世紀中葉に半島南部で戦った「倭」の実体は騎馬戦術
を有する金官だった、と言いたいのかな?
それなら話はわかる。わかるどころか私の考えと同じだ。

>>496
>魏志倭人伝にも倭人の国として狗邪韓国が書いてありますね。
>邪馬台国連合の一員だったと考えるべきです。

その狗邪韓国、つまり倭の領域の一部が3世紀末に扶余と見なされる北方系
の民族に侵略されたことが、考古学上明らかだから、話がややこしくなるのだ。
510日本@名無史さん:04/01/18 13:27
>>505
朝鮮から来たなら、まず九州に来るはずなんですがね。
いきなり大和ってやっぱりテレポテーションぐらいしか、考えられんな。(W

その点で、実在の三輪王朝の王に、名前だけこれまた実在の「ミマキイリヒコ」
を充てた、という467 の考え方は面白い、と言ったのだ。
別にそこまで考えなくても、崇神を含む三輪王朝の系譜と、征服王朝の系譜を
つぎはぎしたと考えればそれで済む。
九州と言えば、景行、仲哀あたりは天皇自ら九州に親征して、しかも駐在すると
いうのが後にも先にも例がない。この辺が怪しい。
511日本@名無史さん:04/01/18 13:30

>>506
日本書紀に、「アメタリシヒコ」を揶揄して「鼻垂らし彦」を自称する山賊の
話が出てくる。支配者の人名は当時の民衆にも異質だった証拠ではないか?

それは別として、支配民族と被支配民族の言語の関係には三つの類型がある。
1)支配者の言語に全く入れ替わる。
→フランスのケルト人を支配したローマ人の例。
2)支配者の言語と被支配者の言語が融合する。
→ノルマン人のフランス語とブリテン人のゲルマン系言語が融合して英語になった例。
3)支配者が被支配者の言語に吸収される。
→約100年で自らの言語を失って中国語に吸収された満洲族の例。

倭人と扶余の関係は上記3)だったのだろう。これは被支配民族が文化的に
(軍事技術を除いて)支配民族より高度であった場合に起こる。倭人はすでに
巨大古墳を築いたりして扶余より文化が高かった。
512日本@名無史さん:04/01/18 16:12
半島南部と大和に共通する騎馬民族的な文化をもつ征服王朝が
存在したとして、それらに共通する墓制が半島南部と大和にあったか?

答えは、「ない」。

「征服王朝」で表現されるような文化の根本からの変化は起こらなかった。
騎馬民族説は「征服王朝」であることが骨の部分なのに、
「騎馬民族は賢いから在地の文化にすぐなじむ」とか詭弁しか出てこない。

文化の大筋での連続性が確かであるにもかかわらず、「征服王朝」を主張する
ロジックを使えば、世界のどのような地域にでも「征服王朝」を建てられる。
「任那日本府」だって正当な論理だと主張できる。いや、むしろ「任那日本府」の
ほうが論理的でもある。
513日本@名無史さん:04/01/18 16:15
>>511
アメタラシヒコを日本語以外のどの言語で解釈できるんですか?(w
514467:04/01/18 17:47
蘇我王朝が“真の”三輪王朝直系として存在していたとしたら、当然、推古と、舒明(オキナガタラシヒロヌカ)
・皇極(アメトヨタカライカシヒタラシヒメ)は本当の意味で天皇ではなかったことになる。
舒明・皇極は天智・天武の両親であり、天智・天武の皇位継承権の存在を補強するため、天皇にされた。
タラシ系の景行(オオタラシヒコオシロワケ)・成務(ワカタラシヒコ)・仲哀(タラシナカツヒコ)は、
崇神イリ系と応神ワケ系を結びための諡号で、三者は九州統治時代の歴史の叙述だろうが、
実在性を疑問視する考えもある。舒明・皇極がこのタラシ系と関連付けられてることも興味深い。
皇統が崇神から天智・天武まで“終始一貫している”ことを強調するための作為だろう。>>433
蘇我馬子の業績を分離する対象が“天皇”ではなく“摂政”としての聖徳太子になっているのは、
皇極が初の女帝になってしまって、子供の天智・天武の継承権に疑惑を持たれるのを防ぐためだろう。
そのため、推古が選ばれて天皇にしたてられ、再埋葬されてしまってる。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1029917483/393
天智と天武の兄弟関係にも疑問があり、天武の継承権確保のために偽装された可能性もある。
継体の応神との関係、舒明・皇極のタラシにせよ、天武にせよ、無理やり関連づけてるのは、
蘇我氏が架空の天皇孝元の子孫とされてるのと同じで、むしろ関連がないことの証明だ。

[国神系] 三輪王朝       蘇我王朝
[天孫系] 崇神イリ系(任那) タラシ系(九州) 応神ワケ系(河内) 継体→天智(近江王朝) 天武→
515467:04/01/18 17:49
最後の2行を訂正

[国神系] 三輪王朝       蘇我王朝
[天孫系] 崇神イリ系(任那) タラシ系(九州) 応神ワケ系(河内) 継体→天智(近江王朝) 天武→

         ↓

[国神系] 三輪王朝                               蘇我王朝
[天孫系] 崇神イリ系(任那) タラシ系(九州) 応神ワケ系(河内) 継体→天智(近江王朝) 天武→
516あぼーん:あぼーん
あぼーん
517日本@名無史さん:04/01/18 20:38
朝鮮人は形質的に日本人と最もよく似た民族である。同じく黄色人種
(モンゴロイド)に属し、皮膚は黄色、毛および瞳(ひとみ)は暗色で、
特有な偏平な顔と、ひいでた頬(ほお)骨と、あまり高くない鼻の持主
で、蒙古皺襞(しゅうへき)のために、つり上がったような目を有する
ものが多い。身長は大部分が世界諸民族のうちでの中の下を示し、小部
分が中に入る。そこで大部分が中の下、小部分が小の身長の日本人より
も、大きいことになる。頭部は大部分が短頭、小部分が超短頭に属する。
日本人は大部分が短頭、小部分が中頭であるから、朝鮮人のほうが短頭
の程度が強いということになる。頭高は、世界中で最も高頭の部に入る。
頭が前後に短くて高いために、後頭部の円味をかき、横から見れば偏平
なのが多く、また他の周辺民族よりも頭の左右にゆがみのあるものの
出現率が高い。頭髪はモンゴロイド共通の性質として、かたく真直で
ある。朝鮮人の頭髪以外の体の発毛状態ことにあごひげと口ひげや陰毛
は、日本人と比較すれば一般にうすく、アポクリン腺の発達が不良なの
で、腋臭(わきが)は日本人よりも少ないとされる。
518日本@名無史さん:04/01/18 20:39
南北に長い朝鮮半島は、南と北、北はさらに山脈でへだてられて東の
日本海側と、西の黄海側とに分けることができるが、この地理的区分
にした がって、住民の形質にも若干の差異が見られる。大ざっぱに
いって、朝鮮人の身長は北部で高く南部で低い。頭形は南北両端で
著しい短頭を示し、中部から北西黄海沿岸にかけては、比較的に中頭
のほうに近づいている。中国人とは関係が密ではないが、朝鮮地方型の
中では平安南道、黄海南・北道の頭形が最も華北型に近い。済州島は
最南にありながら、北方の咸鏡北道、咸鏡南道とともに満州人に近い。
同島が長期間、元の占領下にあった歴史的事実を考えれば興味が深い。
以上で明らかなように、朝鮮人は日本人、満州人の両方に最も関係が
密であって、両民族をつなぐ橋の役目をしている。しかし朝鮮人は
漢民族の華北型とは案外に密接せず、後者とは、日本人のほうが
むしろ縁が深い。
519日本@名無史さん:04/01/18 20:39
ABO式血液型の調査結果によれば、O型27.9%、A型32.3%、B型29.5%、
AB型10.3%を示し、日本人とくらべてA型が少なく、B型が多い。
民族指数(A+AB)/(B+AB)は、蒙古、満州、北朝鮮、中部朝鮮、
南朝鮮、九州と地理的に南下するにしたがい、それぞれ0.75、0.91、
0.99、1.05、1.25、1.62としだいに大きくなる。朝鮮人のMN式、Q式、
およびE式血液型はほとんど日本人に大差がない。生体測定で、特別の
地位を示す済州島資料はABO式血液型においても、また北朝鮮型を
呈する。指紋調査の結果では、各型の出現頻度(ひんど)が、日本人と
蒙古・満州人との中間を朝鮮人は示し、その北方は蒙古・満州人に、
南方は日本人に近似する傾向を示している。(世界大百科事典/平凡社)
520日本@名無史さん:04/01/18 22:44
>>508
最近は考古学的に、鐙はむしろ馬に乗るのが下手な農耕民族の
発明であるとなっているようですが・・・

あと日本では立ち上がって弓を射るために、踏ん張りやすい和鐙が
出来ましたけど、これは日本の弓がやたらと長いからですよ。
短弓を使う騎馬民族には不要の行為です。立ち上がるのは。
それにただの輪鐙じゃ難しいでしょう。
521あぼーん:あぼーん
あぼーん
522日本@名無史さん:04/01/19 12:40
>>512
>半島南部と大和に共通する騎馬民族的な文化をもつ征服王朝が
>存在したとして、それらに共通する墓制が半島南部と大和にあったか?
>答えは、「ない」。

考古学上、金官の王朝は扶余系である可能性が高い。高句麗と百済の王朝は扶余系
であることが文献から、一般に認められている。
ではこれらの王朝に共通する墓制があったか?

答えは、「ない」。

金官の扶余はたまたま満洲北部の扶余遺跡と同様な、丸太造りの木郭墳を築いた
から扶余とされる。
逆に扶余であれば必ず木郭墳を築くかと言えばそうとは限らないのだ。
逆は必ずしも真ならず、あるいは必要条件と十分条件の例だ。
523日本@名無史さん:04/01/19 12:42
>>512
>「征服王朝」で表現されるような文化の根本からの変化は起こらなかった。

「征服王朝」は「文化の根本からの変化」を意味するのか?
そんなことを言う前に歴史を眺めてみることだ。
どこからみても「征服王朝」である満洲族の清王朝によって中国文化は根本から
変化したのか? 
たしかに服装や髪型は北方風に変わった。しかしその程度には、あるいはそれ
以上に、古墳時代の髪型や服装は北方風に変わったではないか。

ギリシャ人(マケドニヤ人)による征服王朝であるエジプトのプトレマイオス朝
で、エジプト文化は根本から変化したか?この場合は服装さえ変わらず、クレオ
パトラは伝統的なエジプト王朝の服装で描かれている。
524日本@名無史さん:04/01/19 12:44
>>513
>アメタラシヒコを日本語以外のどの言語で解釈できるんですか?(w

ではアメタラシヒコを「日本語」で解釈してみてくれ。
ついでにミマキイリヒコも頼む。
525日本@名無史さん:04/01/19 12:50
>>520
>最近は考古学的に、鐙はむしろ馬に乗るのが下手な農耕民族の
>発明であるとなっているようですが・・・

鐙の話はなにから出たか、覚えてる?
「扶余の装甲騎兵は鐙がまだなかったから長槍は使えなかったろう」という話からだ。
これについては私が、
「高句麗や伽耶の古墳壁画で、装甲騎兵は長槍を立て、鐙をふんばった姿で描かれて
いる」と書いたことで終わっていると思うんだけど。

526日本@名無史さん:04/01/19 13:11
「文化が変わったから征服されたんだ」というから、いや、かわってないと反論されてるのに
今度は「征服されても変わらない」んだと?
結局、変わっても変わらなくても征服説の根拠になるんだろw
527日本@名無史さん:04/01/19 13:23
>>524
ミマキのミは御、マキは(真樹?)で祭天の時に世界樹に見立てられる柱・竿もしくは御神木のたぐいかと。
他に神聖な奥津城(陵墓)の意味とする説や、地名説もある。イリヒコは入日子。タマヨリヒメなどのヨリと
同じく神憑かりする男。神霊が体に入ってくるの「入り」。タマヨリのヨリは「憑り」でイリ・ヨリ同語源。
イリヒメとともにこの時期に多い名前。他に入り婿を意味するとの説や、他の土地から入ってきた者の意味
などの説もある。アメタラシヒコは天に由来する充足・満足した男。
528日本@名無史さん:04/01/19 13:25
>>525
高句麗も伽耶ももともと農耕民なんだから、それでなんの矛盾もないのでは?
529日本@名無史さん:04/01/19 15:13
いきなり大和じゃなくて幕府みたいに最前線が独自外交とか
やってたんじゃないかな。継体天皇とかどうみても北陸指揮官から
転進って感じだし。
530日本@名無史さん:04/01/19 15:25
夫餘なんてその頃弱小で話にならないだろう。
夫餘が三韓を征服しただけでも大事件なのに史料にまったく記録がない。
伝承の断片すら伝わってない。
ましてや倭国に侵入したら加羅征服どころの騒ぎではないはずだが。

いったい具体的に何年頃の話として想定してるのよ?
531日本@名無史さん:04/01/19 15:39
>>526
征服によって文化がどの程度に、どの部分で変わるかは、言葉の話でも言った
ように、ケースバイケースだ。
だから文化が変わらなかったことをもって征服が「なかった」ことの証明には
ならない、ということを言っているのだ。

>>527
>アメタラシヒコは天に由来する充足・満足した男。

タラシヒコは足彦と垂日子の二つの書き方がある。ということはタラシの意味
は「足」でも「垂」でもなく、それらの訓読みを利用して他の言葉の「音」
を表している可能性が強い。
「イリ」は特定のグループに集中して現れることから、なんらかの家系を表す
固有名詞である可能性が強い。

>>528
>高句麗も伽耶ももともと農耕民なんだから、それでなんの矛盾もないのでは?

鐙に関して騎馬民族とか農耕民族とか、言っていない。
「扶余には鐙がなかった」というから、「いや、あった」と言っているだけ。
扶余の装甲騎兵は鐙をふんばって長槍を操った、ということが納得できたかな?
532日本@名無史さん:04/01/19 16:05
>だから文化が変わらなかったことをもって征服が「なかった」ことの証明には
>ならない、ということを言っているのだ。

そんなら、文化が変わったことをもって征服が「あった」ことの証明には
ならない、ということをまず認めろよ。

>扶余の装甲騎兵は鐙をふんばって長槍を操った、ということが納得できたかな?

じゃ騎馬民族征服説じゃなくて農耕民族征服説ってことでよろしいか?
533日本@名無史さん:04/01/19 16:06
530 :日本@名無史さん :04/01/19 15:25
夫餘なんてその頃弱小で話にならないだろう。
夫餘が三韓を征服しただけでも大事件なのに史料にまったく記録がない。
伝承の断片すら伝わってない。
ましてや倭国に侵入したら加羅征服どころの騒ぎではないはずだが。

いったい具体的に何年頃の話として想定してるのよ?
534日本@名無史さん:04/01/19 17:02
だから宇宙人の痕跡が見つからなかったことをもって宇宙人が存在しなかったことの証明には
ならない、ということを言っているのだ。
こうなると悪魔の証明だね。
535日本@名無史さん:04/01/19 19:09
訂正:タラシヒコの別の書き方は「垂日子」ではなく「帯日子」だった。
ただし「帯」を「たらし」と読むのは「垂らし」の意であると辞書にある。
536日本@名無史さん:04/01/19 21:19
>>534
宇宙人が存在しない可能性が高いと言うことはいえますね。
537日本@名無史さん:04/01/19 21:22
宇宙人は100%存在します
538日本@名無史さん:04/01/19 21:27
>>534
宇宙人の痕跡が見つからなかったら、宇宙人の存在はたんなる可能性にとどまって
宇宙人が存在したことの証明にはならない。わかる?
539日本@名無史さん:04/01/19 21:32
文化より言語のほうが痕跡が残る可能性が高いと思いますがね。
たとえば、奈良時代から平安時代にかけておきた母音の消失とかね。
これは何らかの社会的変化があったと考えざるをえない。

540日本@名無史さん:04/01/19 21:44
♪騎馬民族はどこへゆく
541日本@名無史さん:04/01/19 21:46
>>535
辞書は便宜的に書いてあるだけで専門的につっこんだ議論してるわけではないから
アバウトだし、時々まちがいもある。
議論の最中に「辞書にはこうだ」とか言い出すやつはドキュン。

厳密には、帯をタラシと読んだんじゃなくてタラシに帯という字を当てたんだよw
542日本@名無史さん:04/01/19 23:42
蘇我入鹿・・・なんで政界の大物なのに名前が「イルカ」?
ずっと疑問だったんだけどようやく氷解した!
「入鹿」は当然固有名詞(=諱)ではなく、当時の通称、尊称であったはず。

崇神天皇の名前が「ミマキイリヒコ」だというが、ミマキを「御真木」とすると
「ヒコ」は男子の尊称だし「イリ」は地名、あるいは族名と言うことになる。

崇神天皇の「ミマキ」は「任那の王」を意味するという説もある。
ミマ(固有名詞)+ナ(土地の意)から「ミマキ」は「ミマ+城」だというのだ。

イリが韓南の地名あるいは族名であるならば、
渡来系である蘇我氏もまた、その名前を受け継いだであろう。
「イルカ」は「イリ」に接尾辞「カ」を付けたものだったのだ!

え、接尾辞「カ」ってなんだって?
「斑鳩(いかるが)」だって「イカル(鳥の名)」に美称「ガ」が付いている。
gとkは音韻学上変化を起こしやすいので同意と見て良いのである。
543日本@名無史さん:04/01/19 23:54
蘇我蝦夷・・・なんで政界の大物なのに名前が「エミシ」?
ずっと疑問だったんだけどようやく氷解した!
「蝦夷」は当然固有名詞(=諱)ではなく、当時の通称、尊称であったはず。

「箕子朝鮮」というのがある。周王が滅亡した殷の王族「箕子」を
北鮮に封じたという。
箕子は固有名詞と言うだけでなく、単に「貴公子」「王族」の意味も持つ。
「箕」は朝鮮ではkhi と発音するらしいが日本では「ミ」である。
つまり「箕子」は「ミシ」であり、尊称「エ」を冠して「エミシ」と呼ばれたのだろう。

え、尊称「エ」ってなんだって?
中大兄皇子(なかのおお「え」のおうじ)の名前にもあるように
「エ」(兄)は「より上位のもの」を指す古語であり、丙(ヒノエ=火の兄)、壬(ミズノエ=水の兄)など
暦にも用いられている。
544日本@名無史さん:04/01/20 00:22
>>530
史料に無いのにどうして征服したと分かるの?

考古学的見地からは、むしろ倭が半島南部に進出していたと
見る方が適当だと思うけど。
545日本@名無史さん:04/01/20 02:20
蘇我馬子・・・なんで政界の大物なのに名前が「ウマコ」?
ずっと疑問だったんだけどようやく氷解した!
「馬子」は当然固有名詞(=諱)ではなく、当時の通称、尊称であったはず。

(以下ry)

546日本@名無史さん:04/01/20 02:22
考古学も糞も、倭が半島南部に進出していたこと
は史料に明らかだと思うけど。


547日本@名無史さん:04/01/20 02:28
>考古学上、金官の王朝は扶余系である可能性が高い。高句麗と百済の王朝は扶余系
>であることが文献から、一般に認められている。
>ではこれらの王朝に共通する墓制があったか?

百済初期王陵と推定されている古墳が高句麗に似た積石塚構造を持つことを知らないんですね。(ww


548日本@名無史さん:04/01/20 02:39
>>524
アメタラシヒコは、中国文献に姓を阿毎と名乗っていることからも、
アメ+タラシヒコ。
ところで、北方的な神話としての天孫降臨がこの尊称と関係あると
考えると、「アメ」=「天」「タラシ」=「垂らし」つまり
「天から下った者」という意味になる。こういう解釈が出来るのは
*日本語*では、「アメ」が天を表す言葉だから。
549日本@名無史さん:04/01/20 10:50
>>532
>そんなら、文化が変わったことをもって征服が「あった」ことの証明には
>ならない、ということをまず認めろよ。

そんなことは当たり前だ。ただし「可能性」はある。両方のね。

>じゃ騎馬民族征服説じゃなくて農耕民族征服説ってことでよろしいか?

前にも言ったように、中身が扶余であれば「看板」はなんでもよろしい。

>>533
>夫餘が三韓を征服しただけでも大事件なのに史料にまったく記録がない。

考古学上の事実より「史料」を信じるのなら、日本の古代史は日本書紀を読んで
いればそれでよい、ということになる。それで済まないからこそケンケンガクガク
がある。

>いったい具体的に何年頃の話として想定してるのよ?

扶余が狗耶韓国を征服したのは3世紀末に比定される。
550日本@名無史さん:04/01/20 10:53

>>541
>厳密には、帯をタラシと読んだんじゃなくてタラシに帯という字を当てたんだよw

その通り。それこそが私の言いたいことだ。
帯(=垂らし)とタラシの関係は単に音の上での関係。だからタラシの本来の意味
は垂らす、という意味とは無関係で、現在ではわからないのだ。

>>544
>考古学的見地からは、むしろ倭が半島南部に進出していたと
>見る方が適当だと思うけど。

それはどんな考古学的証拠?
3世紀末の狗耶韓国に出現した扶余式の丸太造り木郭墓や、馬具、鉄製武具、
殉葬などが倭の進出した証拠だと言うのかな?
551日本@名無史さん:04/01/20 10:55

>>547
>百済初期王陵と推定されている古墳が高句麗に似た積石塚構造を持つことを知ら
>ないんですね。(ww

そう来るだろうと思った。
百済、高句麗の王陵が積石塚構造であるからには、当然それらは木郭墓ではない。
であれば金官の木郭墓とは「共通」しないわけだ。
「これらの王朝に共通する墓制があったか?」と言ったのは「これらの3者に
共通する・・」という意味で言ったのだよ。
木郭墓を扶余の唯一無二の指標とするならば3者に共通しなければならない。

>>548
>「アメ」=「天」「タラシ」=「垂らし」つまり「天から下った者」という意味に
>なる。

では日本書紀の「足彦」は?
「タラシ」には「垂らし」と「足らし」と、二つの意味があったのかな?
552日本@名無史さん:04/01/20 11:38
>>551
>「これらの王朝に共通する墓制があったか?」と言ったのは
>「これらの3者に 共通する・・」という意味で言ったのだよ。
3者に共通する墓制がなく*高句麗と百済には*積石塚という
共通の墓制があったのは、史書が記すように百済は夫余系が
建てた国だからです。さらに言えば、「木郭墓」は夫余系で
あることの指標になり得ない、ということです。
これが正常な議論です。
それを
「騎馬民族は在地の墓制を守った」
などと言うのは、結論のために逆転してしまったロジックです。

>では日本書紀の「足彦」は?
>「タラシ」には「垂らし」と「足らし」と、二つの意味があったのかな?

万葉集でも原文で眺めてみればわかることですが、同じ日本語の訓に
複数の漢字が当てられるのは良くあることです。
それよりも「アメ」が天を意味するためには日本語で読まなければならない
という本質的な点を指摘したわけですが理解していないみたいですね。

553日本@名無史さん:04/01/20 11:45
>>549
>扶余が狗耶韓国を征服したのは3世紀末に比定される。
ところで須恵器の出現時期などを考えると、実際に北方化した
伽耶の文化が本格的に日本にやってきたのは4世紀末以降だと
思うのですが、大和を「征服」したのはいつの時代でしょうか?(w
554日本@名無史さん:04/01/20 11:57
>>550
大成洞古墳からは倭系遺物(銅器や碧玉)も大量出土しているようですが、
これらの古墳の被葬者は倭人でしょうか?(w
普通は副葬品が倭系であることをもってして、被葬者が倭人だとは考えません。
ところで、江上的騎馬民族仮説では日本の前方後円墳の副葬品が伽耶渡来の
ものであることをもってして被葬者が扶余系だと考えるようですが。

555日本@名無史さん:04/01/20 13:36
 
556日本@名無史さん:04/01/20 21:23
>>552
>高句麗と百済には*積石塚という共通の墓制があったのは、史書が記すように
>百済は夫余系が建てた国だからです。さらに言えば、「木郭墓」は夫余系で
>あることの指標になり得ない、ということです。
>これが正常な議論です。

困ったね。始めから説明しないといけないようだ。
3世紀末の狗耶韓国で、それまでの伽耶式の板造り木郭墓が破壊されてその上に
丸太造り木郭墓が作られる。この丸太造り木郭墓が満洲北部の扶余遺跡と共通する
ことから、申教授はこれを扶余による征服の証拠としたわけだ。

ところが、この丸太造り木郭墓を金科玉条として、列島にはこれと同じ墓制が
見つかっていないことを以て列島への扶余進出がなかったことの根拠とする
人達がいる。その人達は君が言うように、扶余である高句麗、百済が木郭墓では
なく積石塚/石室であるということ、すなわち扶余はどこへ行っても丸太造り
木郭墓を造るわけではない、ということを抜きにしているわけだ。

このことを私は言っているのだよ。つまり狗耶韓国/金官の扶余は出身地と同じ
形式の墓を造った。これはたしかに扶余である証拠を残したものだ。
しかし高句麗、百済では恐らく他の文化の影響を受けて、丸太造り木郭墓は造ら
なかった。それならば列島に来たとしても在来の文化に影響されるだろう。
そうであれば列島に丸太造り木郭墓が見つかっていないことは扶余が来なかった
根拠にはならない、と言っているのだ。ああ疲れた。
557日本@名無史さん:04/01/20 21:25

>万葉集でも原文で眺めてみればわかることですが、同じ日本語の訓に
>複数の漢字が当てられるのは良くあることです。

漢字の使い方は雑多だからどんなケースを言っているのかわからない。
例を挙げてくれないかな。

>それよりも「アメ」が天を意味するためには日本語で読まなければならない
>という本質的な点を指摘したわけですが理解していないみたいですね。

アメとかヒコとかが倭語であることを否定しているわけではない。
名前のなかに挟まれる、イリとかタラシとかの成分が倭語で解釈できるのか?
と言っているわけ。
タラシにしても、天から降下した、という意味なら常にアメと一体になって
使われそうなものだが、オキナガタラシヒメとか、タラシナカツヒコとか、
自在に独立して使われている。
558日本@名無史さん:04/01/20 22:15
>>556
書いているうちに自分で困ったでしょう?(w
扶余の墓制のうち高句麗→百済の流れは積石塚を受容することで
扶余系の根拠となり、→伽耶への流れは*丸太造り木郭墓*を
受容することで扶余系の根拠となる。
文化の受容は受け入れる側の選択が絡むため、源を同じだとしても
どの文化を受容するかは地域によって異なる。
ここまでは良いでしょう。

では、大和において
・積石塚
・丸太造り木郭
どちらが受容されていますか??(ww

どちらもされていない。

半島においては考古学的な根拠に基づいて扶余系の根拠に
していたはずなのに、日本列島に来ると考古学無視、
これがあなたの正体ですよ。
559日本@名無史さん:04/01/20 22:32
>>557
>漢字の使い方は雑多だからどんなケースを言っているのかわからない。
>例を挙げてくれないかな。

パラパラと本をめくった程度で目についたもの。
「やすみしし」=「安見知之」「八隅知之」
「みよしの」=「三吉野」「三芳野」
「あしひきの」=「足引」「足引之」「足檜木乃」「足曵之」「足日木乃」
etc.
他にもいくらでもあるでしょう?

「アメ」が倭語で読めるなら「タラシ」も倭語で解釈するのが
最も自然ですね。「タラシ」が独立で使われる理由は私も
存じませんが、そのことが「タラシ」は倭語ではなく、
征服王朝であるという根拠になりますか?(w
ぜひ「アメタラシヒコ」についての独自解釈をお聞かせください。
560日本@名無史さん:04/01/21 01:02
女たらしだったんじゃないの。
561日本@名無史さん:04/01/21 19:04
>>558
>文化の受容は受け入れる側の選択が絡むため、源を同じだとしても
>どの文化を受容するかは地域によって異なる。
>ここまでは良いでしょう。

良くない。狗耶韓国に来た扶余は加羅式木郭墓を「受容」したのではなく、
扶余式の丸太造り木郭墓を発祥の地である満洲北部から「持ち込んだ」のだ。
扶余式と加羅式は単に材料が異なるだけではない。扶余式は殉葬を伴うために
寸法が大きいのだ。

>では、大和において
>・積石塚
>・丸太造り木郭
>どちらが受容されていますか??(ww

扶余は高句麗、百済では扶余式木郭墓を棄てて、在地の恐らくは中国文化の
影響を受けて、積み石塚を「受容」した。
そうであれば、論理的に言って、列島に来た扶余が影響を受けて「受容」すべき
在地の墓制とは「前方後円墳」にきまっているではないか。
562日本@名無史さん:04/01/21 19:08
>>559
>パラパラと本をめくった程度で目についたもの。
>「やすみしし」=「安見知之」「八隅知之」

倭語に対する漢字の使い方は:
1)漢字の訓読みで「音」を表す。
2)漢字の音読みで「音」を表す。
3)漢字の「意味」を表す。すなわち本来の訓読み。
と、だいたい3通りあるだろう。

「足彦」「帯日子」の「足」「帯」は一見3)に見えるが実は1)ではないのか、
というのが私の意見だ。
これに対して君の挙げた上記の例は参考になる。
「やすみしし」を古語辞典で引いてごらん。「意味未詳」と出ている。
意味未詳であれば「やすみしし」の意味は「安んじて見て知る」とか「八つの
コーナーを知る」とかではない。つまり「安見知之」「八隅知之」は漢字の訓読み
で単に「音」を表している。だからその表わし方には何通りあってもよいのだ。

「足彦」「帯日子」もこれと同じで、意味がまったく異なる二通りがあるからには
その表記は単に「音」を表しているのであり、「タラシ」の意味は別にある可能性
が強いわけ。
563日本@名無史さん:04/01/21 19:10
>>559
>ぜひ「アメタラシヒコ」についての独自解釈をお聞かせください。

「阿毎多利思比狐」は漢字の「天皇」に対応するということが言われるが、私も
そうだと思う。
ちょうど満洲族がドゥリンバイ・グルン(中の・國)で「中国」を表したように、
アメ→天、タラシ(ヒコ)→皇と、一語一字で対応しているのだ。
つまり「タラシ」はそれだけで「皇」を表したのである。
なぜ「タラシ」が「皇」を表し得るのかということはもはや分からない。
したがってそれが倭語起源であるとも、外来語であるとも断定できない。
皇統に関する不明な言葉としては他に「皇太子」を意味する「ワカントホリ」が
ある。
564日本@名無史さん:04/01/21 20:37
日本の君主政治の発展をたどると、他国からの侵入者がやってきて、
純然たる神権政治を行ったのが、そもそも君主政治の始まりである。
この政治に誘致された小種族の首長たちが、その侵入者に対して
自然に忠勤をはげむようになり、これらの小種族と征服者とが融合して、
外見上同一組織の一民族を形成するに至った。

一外交官の見た明治維新/アーネスト・サトウ
565日本@名無史さん:04/01/21 21:24
>>563
「天皇」は「あまつすめらみこと」でしょう。
タラシヒコは景行天皇、成務天皇等の名前ですね。
566日本@名無史さん:04/01/21 21:43
>>561
やはりそのロジックでは人を説得できないですね。
私が言いたいのは半島においては、文化の同質性に基づいて
扶余なり高句麗なりの根拠にしているのに、日本列島では、
文化の同質性を根拠とせず「在地文化の受容」というロジックに
逃げていることです。これは一貫性に欠けると自分でも思うでしょう?
当然、騎馬民族仮説を出す側としてはこれら半島文化との同質性を
大和の墓制の中から指摘するべきではないですか?
「前方後円墳は半島起源の墓制だ」とかね。(w
実際江上は北朝鮮まで行って「前方後円墳の原型がある」と
言っていませんでしたか?江上自身、自分の論理のキズを理解していた
証拠でしょう。

結論として「在地文化の受容」というロジックは、前方後円墳体制が継続した
ことへの有効な反論となり得ていません。
これ以上はずっと堂々巡りのようですが。
567日本@名無史さん:04/01/21 21:43

>>562
> 「足彦」「帯日子」の「足」「帯」は一見3)に見えるが実は1)ではないのか、
> というのが私の意見だ。
漢字の意味を表していると考えていたのは誰でしたか?
「足彦」の意味について誰かに聞かれたような気がしますが。
「タラシ」を「垂らし」と考える場合、そもそも「帯、足」と
意味上の関連はないわけですから、漢字の訓で倭語の音を表記したという
のは私の最初からの立場です。だから「やすみしし」をとりあげたのです。
「タラシ」の漢字表記「帯、足」をつついてみても「タラシ」が
「日本語以外で解釈されるべき」という結論は当然生まれません。
だからこそ「アメ」が天を意味するのは倭語なのだから倭語で解釈するのが
普通だと私は主張したのですが。
568日本@名無史さん:04/01/22 11:43
>>566
>私が言いたいのは半島においては、文化の同質性に基づいて扶余なり高句麗なり
>の根拠にしているのに、日本列島では、文化の同質性を根拠とせず「在地文化の
>受容」というロジックに逃げていることです。

何を言っているのかわからない。「文化の同質性」とはなにか。
扶余の発祥の地は満洲北部なのだよ。そしてそこでは扶余は固有の丸太造り木郭
墓を持っていた。狗耶韓国に来た扶余はそれを保った。
高句麗と百済に来た扶余は固有の墓制を棄てて在地の墓制を採用した。
という状況において、「文化の同質性」とはなにを指しているのか?
(念のためだけど高句麗、百済が扶余とされるのは墓制によるのではなく、文献
による。以前に書いたはずだ。)

私の言っていることを補足説明すれば、狗耶韓国の、自然の丘に掘り下げた、
墳丘を持たない木郭墓は、扶余固有の木郭墓と比較的に似ていた。だから
より高度なものを「受容」する動機がなかった。
これに対して高句麗、百済の地ではすでに高度な中国文化があったから、それに
影響された。あるいはそうしなければ権威を示せなかった。
このことはすでに巨大古墳があった列島でも同様であった。
このように考えているわけだ。
569日本@名無史さん:04/01/22 11:46
>>567
>「タラシ」を「垂らし」と考える場合、そもそも「帯、足」と
>意味上の関連はないわけですから、

すこし違う。書いたはずだけど「垂らし」と「帯」は意味上の関連があるのだ。
「帯」はそれ自体の訓として「たらし」を持っている。恐らくベルトとか刀を
腰に着けた状態から生じたのだろう。
それに私は「タラシ」を「垂らし」と考えてはいない。「垂らし」でも「足らし」
でもなく別の意味だろう、と言っている。

>漢字の訓で倭語の音を表記したというのは私の最初からの立場です。
>だから「やすみしし」をとりあげたのです。

そのわりに関係ない例もいっぱい引いていたけどね。

>「タラシ」が「日本語以外で解釈されるべき」という結論は当然生まれません。

そうは言っていない。「タラシ」が倭語で説明できない以上、外来語である可能性
もある、と言っているのだ。
ところで「ワカントホリ」(皇太子)は倭語で解釈できる?
570日本@名無史さん:04/01/22 11:49
>>565
>「天皇」は「あまつすめらみこと」でしょう。

倭訓が二つあってもよい。また「すめらみこと」は後世になって日本書紀が
書かれた頃の言葉かも知れない。

>タラシヒコは景行天皇、成務天皇等の名前ですね。

遣隋使が中国側に「阿毎多利思比狐」という言葉を伝えたときの天皇は
推古天皇で、その名前は「トヨミケカシキヤヒメ」だ。
だから「アメタラシヒコ」は固有名詞ではあり得ない。
571日本@名無史さん:04/01/22 11:51
>>565
>「天皇」は「あまつすめらみこと」でしょう。

倭訓が二つあってもよい。また「すめらみこと」は後世になって日本書紀が
書かれた頃の言葉かも知れない。

>タラシヒコは景行天皇、成務天皇等の名前ですね。

遣隋使が中国側に「阿毎多利思比狐」という言葉を伝えたときの天皇は
推古天皇で、その名前は「トヨミケカシキヤヒメ」だ。
だから「アメタラシヒコ」は固有名詞ではあり得ない。
572日本@名無史さん:04/01/22 12:57
>>568
割り込み御免。
なるほど、あなたの説明は筋が通っている。しかし
それは、必要条件と呼ばれるものであり、
小学生時代であれば屁理屈小僧 と言われてしまう恐れがある。

というのは、仮説に期待するのは限りない十分条件に近い説明。
仮説を聞かせるにあたり、必要条件ばかりだと反発を食らうのだ。
そして、残念ながら古代史において墳墓は
十分条件として扱われる類の証拠なのだ。
古代において 王族=墳墓の儀式が継続するのが通例である。
環境に合わせて墳墓が変わる王族であることを初期条件にするなら
そもそも、狗耶韓国の墳墓も扶余と無関係だろう



573日本@名無史さん:04/01/22 14:13
>>568
そもそも扶余が伽耶にきたことの根拠は何でしたか?
丸太造り木郭が伽耶に現れたことでしょう?

高句麗と百済の場合はどうですか?
高句麗と百済が文献上関連があるとされていることの
傍証として百済の初期古墳と高句麗の積み石塚の関連が
使われ、高句麗も百済も文献上扶余が建てたとされている
ことから扶余→高句麗→百済の流れが想定される、
そういう理解でよろしいですか?

そうであれば当然、「騎馬民族がきた」証拠となる考古学遺物を
示さなきゃおかしいといっているわけです。

「騎馬民族は在地の墓制を継承した」という論は、
騎馬民族は来ても来なくても墓制が変化なく続いてしまいます。
検証不可能な仮説は科学理論ではない、と誰か言っていませんでしたか?

>私の言っていることを補足説明すれば、狗耶韓国の、自然の丘に掘り下げた、
>墳丘を持たない木郭墓は、扶余固有の木郭墓と比較的に似ていた。だから
>より高度なものを「受容」する動機がなかった。

ホケノ山古墳のように木郭をもつ珍しい前方後円墳もあります。伽耶から
「騎馬民族」が来たのなら当然「木郭」をもつ前方後円墳が3世紀末以降に
大和にも現れるべきではないですか?
百済初期古墳に積石塚がみられるのと同様に。
574日本@名無史さん:04/01/22 14:32
>>569
勝手に他人の意見を誤解しないでほしいですね。
>では日本書紀の「足彦」は?
>「タラシ」には「垂らし」と「足らし」と、二つの意味があったのかな?
これをうけて日本語の読みを表すのに漢字表記が複数存在するのは常識的なこと
だと言ったんですが。

>そうは言っていない。「タラシ」が倭語で説明できない以上、外来語である可能性
>もある、と言っているのだ。

すくなくとも「アメタラシヒコ」については倭語で解釈できてますよね?
575日本@名無史さん:04/01/23 20:18
>>572
>古代において 王族=墳墓の儀式が継続するのが通例である。

現に高句麗、百済では扶余の墳墓の様式は変わったではないか。
私は通例の話ではなく事実の話をしている。

>そもそも、狗耶韓国の墳墓も扶余と無関係だろう

3世紀末の狗耶韓国の征服者を扶余とするのは、木郭の造り方ばかりでなく、
殉葬の存在や、馬具、武具、祭祀器具(銅壷)などの形式が吉林省北部の
扶余遺跡と極めて類似することによる。
参考文献:「伽耶と古代東アジア」新人物往来社1993年、 etc.
576日本@名無史さん:04/01/23 20:22
>>573
>傍証として百済の初期古墳と高句麗の積み石塚の関連が使われ、

それは高句麗と百済の関連ではあっても、扶余との関連ではない。
君も言っているように、高句麗、百済が扶余とされるのは主として文献記録
によるのだ。

>「騎馬民族は在地の墓制を継承した」という論は、騎馬民族は来ても来なくても
>墓制が変化なく続いてしまいます。

変化がなかった(前方後円墳の場合少なくとも外形的に)ことが積極的な証拠だ
と言っているわけではない。変化がなかったことが来なかった証拠だ、という
人への反証として高句麗、百済の例を挙げたのだ。

>百済初期古墳に積石塚がみられるのと同様に。

それはすでにして扶余固有の丸太造り木郭から変わっているではないか。
577日本@名無史さん:04/01/23 20:24
>それはすでにして扶余固有の丸太造り木郭から変わっているではないか。
問題の本質をわざと避けているんですか?

>ホケノ山古墳のように木郭をもつ珍しい前方後円墳もあります。伽耶から
>「騎馬民族」が来たのなら当然「木郭」をもつ前方後円墳が3世紀末以降に
>大和にも現れるべきではないですか?

ここが重要なポイントです。
578日本@名無史さん:04/01/23 20:25
>>574
><「タラシ」には「垂らし」と「足らし」と、二つの意味があったのかな?
>これをうけて日本語の読みを表すのに漢字表記が複数存在するのは常識的なこと
>だと言ったんですが。

「複数」の内容が問題だ。
君は「帯」「足」がいずれも訓読みで「音」を表している、と言った。
それならば「タラシ」の意味は「帯らし(=垂らし)」でも「足らし」でも
ない第三の意味だということになる。
その上で君は「タラシ」を日本語で解釈すべきだ、と言っているのだから、
第三の意味を日本語で示さなければならない。

>すくなくとも「アメタラシヒコ」については倭語で解釈できてますよね?

どうしてそう言えるのかな?
「タラシ」の倭語の意味はまだ示されていないけど。
579日本@名無史さん:04/01/23 20:27
百済と高句麗の話は王族になにがしかの関連があれば
当然その墓制にも影響が見られるはずだ、という観点のために
提示したものですよ?

>騎馬民族は来ても来なくても墓制が変化なく続いてしまいます。
>検証不可能な仮説は科学理論ではない、と誰か言っていませんでしたか?

この部分もスルーしてほしくないですね。:p
580日本@名無史さん:04/01/23 20:30
>君は「帯」「足」がいずれも訓読みで「音」を表している、と言った。
>それならば「タラシ」の意味は「帯らし(=垂らし)」でも「足らし」でも
>ない第三の意味だということになる。

全く意味不明ですね。
音を借りるのに漢字の「音」と「訓」の両方が使われる場合があることは常識じゃないですか?
その場合、純然たることばのおとで解釈すればよいだけではないですか?
581日本@名無史さん:04/01/24 14:20
>>580
>音を借りるのに漢字の「音」と「訓」の両方が使われる場合があることは常識
>じゃないですか?
>その場合、純然たることばのおとで解釈すればよいだけではないですか?

なるほど、君は「帯」「足」が「タラシ」という言葉の意味ではなく、「音」を
表していると考えているわけだ。その点は私と一致する。
一方で、君は >>559 で、「アメが倭語で読めるならタラシも倭語で解釈するのが
最も自然」と言っている。
だから早く「タラシ」の倭語による解釈(帯らし、足らし以外)を示してくれ、
と私は言っているのだが。

>>577
>ホケノ山古墳のように木郭をもつ珍しい前方後円墳もあります。伽耶から
>「騎馬民族」が来たのなら当然「木郭」をもつ前方後円墳が3世紀末以降に
>大和にも現れるべきではないですか?
>ここが重要なポイントです。

「現れてもよい」であって「当然現れるべき」ではない。
「当然現れるべき」であれば高句麗、百済にも木郭墓が「当然現れるべき」だ。
これが重要なポイントだ。

ついでだがホケノ山古墳の木郭は角材を縦に打ち込んで並べたもので、扶余式
の木郭とは構造が異なる。また木郭の外側に積み石を伴う点も異なる。さらに
殉葬の施設もない。
582日本@名無史さん:04/01/24 14:44
>そうであれば当然、「騎馬民族がきた」証拠となる考古学遺物を
>示さなきゃおかしいといっているわけです。

やっぱ天皇陵と称されてるもん片っ端から掘らにゃダメだよ。
日本古代史は通説も異説もみんな空論。
日本はいつまでもまともな歴史のない国のままだ。
583日本@名無史さん:04/01/24 14:44
馬・・・海渡れないって。
584日本@名無史さん:04/01/24 15:01
>>583
馬、日本にどうやって来たの?
空輸か?まさか日本原産か?
585日本@名無史さん:04/01/24 15:06
泳いできた
586日本@名無史さん:04/01/24 17:18
やれやれ、馬が泳げないと思ってるお子様がいるんだね。アフォらしい。
587日本@名無史さん:04/01/24 17:22
騎馬民族は少数できた、というのもアフォらしい。
588日本@名無史さん:04/01/24 17:33
馬、泳げるけれど、海は渡れんだろう・・・
589日本@名無史さん:04/01/24 18:04
馬、和邇冷めの餌食になって
海渡れても歩けない。
590日本@名無史さん:04/01/24 18:30
>>581
でも、その木郭は半島から九州・中国地方を経たものではなく、
直接日本海を経て伝わったものだろうと推定されている。
というのは、畿内に忽然と現れてて、他の地方にはないから。
となれば、それが文化の伝来か、人の移動の所産なのかということが問題になるだろう。
その時点で、倭の王権が半島由来だと想定してる人間はまずいない。
だったら、日本における扶余木郭の出現を持ってしても、
扶余の到来を断定することはできないのだが、
それ以前に、前提として扶余木郭自体が前方後円墳から発見されてないと
話にならないはず。
591日本@名無史さん:04/01/24 23:51
>>588
別に騎馬民族征服説みたいに、兵士と一緒に来る必要は無いよね。
大陸との交易は古くからあったんだから、商品として持ち込まれて
便利だから繁殖が行われるようになったのかもしれない。
あるいは、氷河期に歩いて渡ってきたとか。

ところで木郭を持つホケノ山古墳は「珍しい例」なんでしょ?
ある特定の地方から渡ってきた渡来人の墓とかじゃねーの。
征服王朝とか出て来るなら、珍しい例で終わったりしないよね。
征服王朝によって最初は木郭を持つ墓が作られたけどだんだん
作られなくなったというのなら、そういう墓は西国に多くて
東にいくほど少なくなるはずだよね。
592日本@名無史さん:04/01/25 00:04
>>591
日本史板はテメエの妄想や願望を垂れ流す場所じゃねえ。
自信たっぷりに妄想ぶっこいてんじゃねえよ、このキモヲタが。

テメエだろ、何度もこのクソスレageてるバカは。
593日本@名無史さん:04/01/25 00:25
妄想は騎馬民族征服説の方だろうが。自信たっぷりに啖呵きってアホ丸出し。

でもageるのは確かにどうかと思う。それには賛同。
594日本@名無史さん:04/01/25 00:36
夫餘が狗邪韓国を征服したのは3世紀末なのか?

夫餘は285年に燕にいったん滅ぼされて、
晋の援助で開原(満洲西南部)に再建したけど、慕容鮮卑と高句麗に
挟まれた弱小国家になってしまい、346年には慕容部に滅ぼされてしまった。

自国の存続にも精一杯の弱小国家が、さまざまな勢力を越えて
はるばる半島の南端まで遠征するなんて白昼夢もはなはだしいと思うがな?
595日本@名無史さん:04/01/25 02:23
むしろ本国を滅ぼされて難民として半島を南下して、
やさしく受け入れてもらったんだろうな。
596日本@名無史さん:04/01/25 14:21
雇われ外国人みたいに狗奴韓国に仕えて軍制改革に役立った、
とかいうならわからなくもないね。

・・・・でもこれじゃ征服説とはいえない罠。
597日本@名無史さん:04/01/25 18:22
騎馬民族でもなければ征服したわけでもない
という「騎馬民族征服説」のオチw
598日本@名無史さん:04/01/25 19:48
いずれにしろ「騎馬民族征服説」という言葉自体は看板倒れに終わってしまったという認識でいいのかな?
599日本@名無史さん:04/01/26 02:25
つーか学界的にはすんげー大昔に決着ついていたことなのだが。
2chの過去ログにも騎馬民族征服説スレがいくつかあるけど、
どれも同じような結末。最後は騎馬ヲタは逃走して終わり。
600日本@名無史さん:04/01/26 05:06
>>580
>音を借りるのに漢字の「音」と「訓」の両方が使われる場合があることは常識
>じゃないですか?
>その場合、純然たることばのおとで解釈すればよいだけではないですか?

なるほど、君は「帯」「足」が「タラシ」という言葉の意味ではなく、「音」を
表していると考えているわけだ。その点は私と一致する。
一方で、君は >>559 で、「アメが倭語で読めるならタラシも倭語で解釈するのが
最も自然」と言っている。
だから早く「タラシ」の倭語による解釈(帯らし、足らし以外)を示してくれ、
と私は言っているのだが。

>>577
>ホケノ山古墳のように木郭をもつ珍しい前方後円墳もあります。伽耶から
>「騎馬民族」が来たのなら当然「木郭」をもつ前方後円墳が3世紀末以降に
>大和にも現れるべきではないですか?
>ここが重要なポイントです。

「現れてもよい」ではあっても「当然現れるべき」ではない。
「当然現れるべき」であれば高句麗、百済にも木郭墓が「当然現れるべき」だ。
これが重要なポイントだ。

ついでだがホケノ山古墳の木郭は角材を縦に打ち込んで並べたもので、扶余式
の木郭とは構造が異なる。また木郭の外側に石郭を伴う点も異なる。
601日本@名無史さん:04/01/26 13:02
馬なんてそんなにいなかったと思うよ。少なくとも戦争に使えるくらいの数が
あったとは思えないな。
602日本@名無史さん:04/01/26 13:41
馬一頭あれば、敵の後方に回って火をかけられる。
又は、伝令に使える。数頭あれば、歩兵の進撃を攪乱できる。
数十頭あれば、突撃して敵の防御陣を破壊できる。
603日本@名無史さん:04/01/26 13:49
>>590
>それ以前に、前提として扶余木郭自体が前方後円墳から発見されてないと
>話にならないはず。

何回も言うが、百済、高句麗から扶余式木郭が発見されているのか?
いないのであれば百済、高句麗の支配者を扶余だとは言えないはずだが。

>>591
>大陸との交易は古くからあったんだから、商品として持ち込まれて
>便利だから繁殖が行われるようになったのかもしれない。

5世紀の倭国では「馬飼部」が設けられ(その遺跡がこのあいだ大阪で出た)、
列島各地に牧場が造られた(その遺跡は長野県などで出た)。これは使役用
などではなく天皇直轄の牧場で軍馬が養成されたのだ。

>>583
ところで継体記には筑紫産の馬40頭を百済王に贈ったとある。この馬の
輸送はどうしたのかな?
604日本@名無史さん:04/01/26 13:52
>>594
>自国の存続にも精一杯の弱小国家が、さまざまな勢力を越えて
>はるばる半島の南端まで遠征するなんて白昼夢もはなはだしいと思うがな?

君は金海周辺の発掘成果を「白昼夢」として否定する立場なのか、それを
はっきりしてもらいたいね。

>>595
>むしろ本国を滅ぼされて難民として半島を南下して、
>やさしく受け入れてもらったんだろうな。

やさしく受け入れてもらった難民が、先代の王墓を破壊してその真上に自分の
「王墓」を築くのか?

>>596
>雇われ外国人みたいに狗奴韓国に仕えて軍制改革に役立った、
>とかいうならわからなくもないね。

その雇われ軍人が、墓の作り方から殉葬の風習まで教え込んだわけ?
605日本@名無史さん:04/01/26 13:56
>>602
>数十頭あれば、突撃して敵の防御陣を破壊できる。

まさにその通り。
しかもその数十頭が長槍を持つ扶余式装甲騎兵であって、相手は吉野ケ里レベルの
歩兵部隊である場合を想像して見ればよい。

606日本@名無史さん:04/01/26 13:59
別に騎馬民族でなくともいいから、大陸勢力が日本を支配したことがあるのか?
607日本@名無史さん:04/01/26 14:21
>>604
出土品を白昼夢などといてるのではない。藻前のその解釈を白昼夢だといってるのだ。
「遠征と征服」でなくても出土品を説明はできるだろ。

>やさしく受け入れてもらった難民が、先代の王墓を破壊してその真上に自分の
>「王墓」を築くのか?

受け入れてくれた王のためにその王墓を改築することはあるだろ。

>その雇われ軍人が、墓の作り方から殉葬の風習まで教え込んだわけ?

さあ。そこまではわからんが、あり得るだろうな。
608日本@名無史さん:04/01/26 19:03
ところで今時騎馬民族征服説に入れあげる人は、
一体何世紀のいつごろに征服したと考えているんですか?
609日本@名無史さん:04/01/26 19:11
>>608
それがまた笑っちゃうことに、どうやら3世紀末だそうでつよ
610日本@名無史さん:04/01/26 19:31
>>609
3世紀末とはまた中途半端ですな。
年輪年代法は騎馬民族説も葬っちゃったわけだね。
611日本@名無史さん:04/01/27 04:56
>>606
弥生人。
612日本@名無史さん:04/01/27 06:23
そんなに独自性の高い墓なのか??
613日本@名無史さん:04/01/27 10:15
ラムステットは、日本語のkutu「靴・沓」が朝鮮語kutu「靴」からの借用語で
あり、後者はモンゴル語gutul,gutusun「長靴」と同源と見ています(Ramstedt,1949:128)。

借用の方向がその逆であることを私は論じました(村山、一九六三、 二二七頁以下)。

一九七二年一一月二二日、李崇寧、李基文両教授(ソウル大学)
が京都産業大学を訪れたとき、念のため、朝鮮語のkutuについてたずねたところ
二人は即座に「明治になってから、日本語から韓国語に入ったものです」と断言されました。
614日本@名無史さん:04/01/27 10:55
10数騎で蹴散らせるってのは無理だと思うよ・・・。槍や弓関係の
騎乗技術もそのころあったとは思えないし。
615日本@名無史さん:04/01/27 14:32
>>607
>その雇われ軍人が、墓の作り方から殉葬の風習まで教え込んだわけ?

>さあ。そこまではわからんが、あり得るだろうな。

苦しいね。発掘成果を認めるのなら「征服」を認めてしまったほうが楽だと
思うが。

>自国の存続にも精一杯の弱小国家が、さまざまな勢力を越えて
>はるばる半島の南端まで遠征するなんて白昼夢もはなはだしいと思うがな?

ゲルマンの大移動のことを考えて見るとよい。ゲルマン人はボルガ河流域に
住んでいたのが、フン族に攻められて服属した。つまりフン族には対抗できな
かった。しかし服属を逃れて西ヨーロッパに遠征した連中はケルト人などを
征服して諸国を建設した。ケルト人よりは戦闘技術が上だったのだ。

扶余族も同じこと。鮮卑には対抗できなくても、逃れて半島南部に到ればそこは
まだ騎馬戦術バージンの人々が住んでいて、容易に征服できた。
また、距離についても、このくらいの移動距離は大陸の民族移動としてはむしろ
短いほうだ。
鮮卑に國を滅ぼされた扶余はいったんヨクソに逃れたことが文献にあると言う
(申教授による)。満洲中部からヨクソまでと、ヨクソから半島南部までは
同じくらいの距離。また半島の東海岸伝いに行ったとすれば、3世紀にはまだ
高句麗の圧力が強くないからそれほどの障害はなかっただろう。
西海岸の方を行った百済の扶余よりは楽だったのではないか。
616日本@名無史さん:04/01/27 15:36
>>615
倭国を征服したのは何世紀のいつですか?
617日本@名無史さん:04/01/27 16:22
もし中世ヨーロッパの記録がほとんど残っていなかったら、
モンゴルはヨーロッパを征服したと言い出す香具師がいるんだろうな。
モンゴル人は人数が少ないから文化に影響が見られなくても
モンゴル人支配は否定できないとか何とか言って.
618日本@名無史さん:04/01/27 18:33
騎馬民族説にはまったく賛成できないが、鎌倉武士の戦法(弓馬の道)に関して
は遊牧騎馬民族の影響を色濃く感じる。だいたい騎射戦を重視するのは遊牧騎馬
民族以外いないだろ。普通他の民族の場合、騎兵を使うとしたら突撃騎兵として
使う。
乗馬経験のある人ならわかると思うが、両手を離しながら馬を操ることは非常に
技術がいる。流鏑馬ならまだしも、犬追物とかああいうちょこまか動く物を標的
に訓練していたとしたら相当な技術だったろうし伝統(騎馬民族的な)もあった
のだろう。
半島経由ではなくて北ルート説をもっと重要視していいのでは?アイヌも蝦夷も
古代より大陸と交流があったわけで、そんでもって騎馬民族が関東あたりまで流
入していたとは考えられないの?
619日本@名無史さん:04/01/27 19:49
>>615
>自国の存続にも精一杯の弱小国家が、さまざまな勢力を越えて
>はるばる半島の南端まで遠征するなんて白昼夢もはなはだしいと思うがな?

>ゲルマンの大移動のことを考えて見るとよい。つまりフン族には対抗できな
>かった。しかしケルト人などを征服して諸国を建設した。

征服関係でいうと「ケルト<ゲルマン<フン」だな。
ちなみに3世紀末の満州での力関係でいうと「夫餘<<<<高句麗<前燕(鮮卑)」

>扶余族も同じこと。鮮卑には対抗できなくても、逃れて半島南部に到ればそこは
>まだ騎馬戦術バージンの人々が住んでいて、容易に征服できた。
>また、距離についても、このくらいの移動距離は大陸の民族移動としてはむしろ短いほうだ。

それはまったく認められない。理由は以下のとおり。

>鮮卑に國を滅ぼされた扶余はいったんヨクソに逃れたことが文献にあると言う(申教授による)。
>また半島の東海岸伝いに行ったとすれば、3世紀にはまだ
>高句麗の圧力が強くないからそれほどの障害はなかっただろう。

285年に滅亡した夫餘は翌年に晋の援助で南満州の開原(西晋の最西端で高句麗・鮮卑と三つ巴に
ぶつかる所)に国家を再建したが、346年に前燕に滅ぼされて、夫餘の王室は沃沮に逃れた。
つまり4世紀半ばの話であって3世紀ではない。しかも3世紀以来、沃沮は高句麗に臣従していた。
その沃沮の地に逃げてきた夫餘(夫餘第3王国)もはじめから高句麗の属国だった。

>満洲中部からヨクソまでと、ヨクソから半島南部までは同じくらいの距離。
>西海岸の方を行った百済の扶余よりは楽だったのではないか。

沃沮まで逃げてきただけでも、ようやく属国の地位を保つのが精一杯だったのに、
さらに南征するような余力があったのかね?
そんな余力があるなら高句麗の属国になんぞならんだろ。
しかも時代はすでに4世紀半ば、考古学とは齟齬をきたさないのかw
620日本@名無史さん:04/01/27 19:49
>>618
北ルート説でいうのなら、もっと普通に関東武者の俘囚起源説ですんじゃうじゃん。

>>615
>発掘成果を認めるのなら「征服」を認めてしまったほうが楽だと思うが。

藻前みたいなタイプは「明治天皇の正体はペリーだった」という電波を発しかねないなw
621日本@名無史さん:04/01/28 03:23
>>616
それがまた笑っちゃうことに、どうやら3世紀末だそうでつよ
622日本@名無史さん:04/01/28 05:37
>>618
武士の発生には昔から有る武装農民説ともう一つ、都から広まった説が
あるけれども、
「騎馬弓兵」という形式の部分はまさに都から広まったもの。
それも、平安時代にね。
騎馬民族征服説とは時代が違いすぎるんだな・・・
騎馬民族の影響であるなら、もっと早い時期に出てこないと。
しかも、封建制とセットであり徒歩の従者が従い
大陸の軽装騎馬短弓兵に比べると遥かに重装備で。
これは結果として似たような形になったというだけじゃないかと
思うんだな・・・
馬に乗る事は身分の問題であったわけだしね。日本では。
623日本@名無史さん:04/01/28 16:17
モンゴル以前に欧州を席巻した騎馬民族はいないよ。
フン族は、匈奴によって押し出された玉突き民族移動。
624日本@名無史さん:04/01/28 19:26
フン族は十分に欧州を席巻したといえるだろ。
フン族が何者か(匈奴?)に押し出されてきたのかどうかは
厳密にいえば不明。
625日本@名無史さん:04/01/29 07:29
( ´_ゝ`)フーン
626日本@名無史さん:04/01/29 14:17
>>617
>もし中世ヨーロッパの記録がほとんど残っていなかったら、
>モンゴルはヨーロッパを征服したと言い出す香具師がいるんだろうな。

もし清国の記録がほとんど残っていなかったら、漢民族は北方の満洲族の影響を
受けてその「文化を受容」した、と言い出す香具師がいるんだろうな。

>>618
>半島経由ではなくて北ルート説をもっと重要視していいのでは?アイヌも蝦夷も
>古代より大陸と交流があったわけで、そんでもって騎馬民族が関東あたりまで流
>入していたとは考えられないの?

日本の騎馬文化は北九州に始まって本州に伝播したことが発掘からわかるのだ。
627日本@名無史さん:04/01/29 14:20
>>619
>征服関係でいうと「ケルト<ゲルマン<フン」だな。
>ちなみに3世紀末の満州での力関係でいうと「夫餘<<<<高句麗<前燕(鮮卑)」

わざと狗耶韓国人を抜かしたな。
アナロジーで言えば狗耶韓国人がケルト人にあたるのだ。

>346年に前燕に滅ぼされて、夫餘の王室は沃沮に逃れた。
>つまり4世紀半ばの話であって3世紀ではない。

胡麻菓子てはいけない。晋書東夷伝にはちゃんと次のように書いてある。
「武帝時、頻來朝貢、至太康六年、爲慕容kwai[广垂中鬼]所襲破、其王依慮自殺、
子弟走保沃沮。」

つまり扶余は慕容kwaiによって太康六年(285年)に滅ぼされて王の依慮は自殺
したが、残党は逃れて沃沮を保ったのだ。
628日本@名無史さん:04/01/29 14:23
>>622
>大陸の軽装騎馬短弓兵に比べると遥かに重装備で。

扶余、高句麗の装甲騎兵は平安〜鎌倉時代の騎馬武者よりさらに重装備だ。
あれでよく馬が耐えられると不思議なくらい。

>馬に乗る事は身分の問題であったわけだしね。日本では。

扶余でもたぶんその通りだったろう。モンゴルのような全軍騎兵ではない
からね。扶余、高句麗では。
629日本@名無史さん:04/01/29 15:16
関東から出る埴輪は、朝鮮とかモンゴルっぽい帽子かぶったのがあるね。
尖がり帽のおっさん。
630日本@名無史さん:04/01/29 18:33
で、大和を征服したの何世紀のいつ頃ですか?
631日本@名無史さん:04/01/30 00:45
>>628
正直、壁画だけで重装備だなんだと言われても・・・
日本の大鎧だけでも20〜30キロはありますよ。
フヨさんには遺物とかないんすか?
632日本@名無史さん:04/01/30 06:41
>>631
伽耶からは鉄製の桂甲、兜、馬甲、馬兜の完全なワンセットが出ているよ。
もちろん単品としてもたくさん出ている。
633日本@名無史さん:04/01/30 09:41
というよりも平安後期の武具を三世紀後半(プの武具と比べる事自体が
間違ってる。
634日本@名無史さん:04/01/30 23:55
>>627
わざと抜かしたんたんじゃないよ。「満州での」といってあるだろ。

それと晋書東夷伝のその部分は誤り。ふつうは、夫餘は285年
の第1次滅亡の後、開原に移り(第2夫餘王国)、346年にさら
に沃沮に移った(第2夫餘王国)と考えられている。
しかし、漏れの個人的な考えでは、285年の第1次滅亡の後に
開原の夫餘と沃沮の夫餘に二分したのではないか、という説も
アリかな、とは思うよ。

でも、どっちにしろ3世紀末には夫餘は滅亡していないことに
かわりはないのだがな?
635日本@名無史さん:04/01/31 13:31
>>634
>わざと抜かしたんたんじゃないよ。「満州での」といってあるだろ。

比較を満洲に限ったら意味無いではないか。

>それと晋書東夷伝のその部分は誤り。

誤り、とは聞き捨てならないね。

>でも、どっちにしろ3世紀末には夫餘は滅亡していないことに
>かわりはないのだがな?

君自身が「285年の第1次滅亡」と言っているではないか。
それに狗耶韓国との関連では、扶余が滅亡したかどうかが問題なのでは
ない。
285年に沃沮に移った一派が「あった」ことが問題なのだ。
それについては君も「個人的な考えでは」「アリかな、とは思う」と
言って暗に認めているようだが。
636日本@名無史さん:04/02/02 19:39
邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部 −韓国の旅−
http://camelman.hp.infoseek.co.jp/club/rekisiclub.html

日本人の源流を探る旅 第一弾!  −伽耶・新羅の旅−
http://www.inoues.net/yamataikoku/korea/korea00.html
日本人の源流を探る旅 第二弾!  −百済の旅−
http://www.inoues.net/yamataikoku/korea/kudarano_taboi1.html

半島扶余系古墳群がレポートされています。
637日本@名無史さん:04/02/03 17:32
>>635
>>わざと抜かしたんたんじゃないよ。「満州での」といってあるだろ。
>比較を満洲に限ったら意味無いではないか。

実際に覇を競ったもの同士での力関係を比較に出したんだよ。
夫餘が狗邪を征服したなんてのはまた仮説だろ。

>でも、どっちにしろ3世紀末には夫餘は滅亡していないことに
>かわりはないのだがな?

>君自身が「285年の第1次滅亡」と言っているではないか。

第1次滅亡というのはすなわち第2王国の“建国”でもあって、
そういう意味では滅亡ではないね。
ただし第2次滅亡の後にできた第3王国(沃沮の夫餘)は高句麗の属国なので
独立を失ったという意味ではある意味滅亡かも。
まぁ言葉の問題なので、たいして生産的な議論にはなるまい。

>それに狗耶韓国との関連では、扶余が滅亡したかどうかが問題なのではない。
>285年に沃沮に移った一派が「あった」ことが問題なのだ。
>それについては君も「個人的な考えでは」「アリかな、とは思う」と
>言って暗に認めているようだが。

漏れが認めているのは、あくまで可能性もなくはないかも、という程度の話。
なにかの仮説の根拠にするのは無理。ちょっとした情況説明にはいいと思うが。

開原で王国が再建されるのならば、夫餘王国を構成していた連中はまずそれを
支えるために開原に集結したと考えるのが自然。分派を出すような余裕があった
とはとても思われない。ましてや狗邪にいった一派がいたのなら、あなたの説は
285年に王国は三分されたという説なのかな?ますます考えにくいな。
しかし開原と沃沮に二分された、というのなら絶対なかったとも思わない。
たぶんないと思うけど。
638日本@名無史さん:04/02/04 20:30
>>637
>開原で王国が再建されるのならば、夫餘王国を構成していた連中はまず
>それを支えるために開原に集結したと考えるのが自然。

285年の滅亡の後、扶余の王子依羅は再興のため晋国に援助を願い出た、
晋国は兵を出して慕容kwai を大敗させた、これによって依羅は國を復した、
と晋書東夷伝にある。

つまり扶余国の再興には晋国の力が大きかった。血を流せば口も出すのは
昔も今も変わらず、再興扶余国に対する晋国の支配は強まっただろう。
大国依存があれば一方で独立的な連中が離反するのは歴史上よくあること。

君が扶余の主力が「開原に集結した」と想像するのならば、私は沃沮に逃れた
扶余の一部は晋国への依存をいさぎよしとせず、さらに南をめざしただろう
と想像する。この際、伽耶と沃沮は交通があったから、伽耶には重要資源
の鉄があるという情報が遠征の大きな動機となっただろう。
さらに言えば伽耶を押さえれば北九州諸国の死命を制することができる
ことも、当初から視野にあったと考えてもよい。
639日本@名無史さん:04/02/04 20:34
>しかし開原と沃沮に二分された、というのなら絶対なかったとも思わない。

その沃沮の扶余が、沃沮を空にして伽耶へ遠征してもかまわないわけだ。

>夫餘が狗邪を征服したなんてのはまた仮説だろ。

3世紀末の狗耶韓国で突然先代の王墓が破壊されてその上に扶余式の王墓が
建設され、同時に扶余と関連する武装、武器、馬具、祭祀具などが現れ、
晋書東夷伝扶余条に「死者以生人殉葬、有椁無棺」と記される殉葬の習慣が
その通りに現れるという「事実」に対して、扶余の征服があったとする解釈を
「仮説」と言うのならば、

「難民が王墓の改築を請け負った」とか、
「扶余系のお雇い武人が軍政改革をやり、ついでに殉葬の風習を教え込んだ」
とかいう解釈もまた「仮説」だろう。
それほど影響の強い扶余系のお雇い武人が狗耶韓国にいたと考えるのならば、
ついでに扶余系の王がいた、というところまではあと一歩だ。
640日本@名無史さん:04/02/05 00:14
同じ仮説でも、漏れは文献との整合性を問題にしているだけ
蓋然性が高いとはいえるだろう。
あなたは自分でいうその「あと一歩」を越えられていない。
641日本@名無史さん:04/02/05 00:29
>>638
>再興扶余国に対する晋国の支配は強まっただろう。
>大国依存があれば一方で独立的な連中が離反するのは歴史上よくあること。

ところは西晋は316年に滅亡してしまった。
それでも346年まで夫餘はがんばってるわけだからあえて離反する必要はないだろう。

>君が扶余の主力が「開原に集結した」と想像するのならば、私は沃沮に逃れた
>扶余の一部は晋国への依存をいさぎよしとせず、さらに南をめざしただろう
>と想像する。
>ことができることも、当初から視野にあったと考えてもよい。
>その沃沮の扶余が、沃沮を空にして伽耶へ遠征してもかまわないわけだ。

漏れがいっていることは文献にあることを多少補足しながら展開しただけで
蓋然性があるけど、あなたのいってることは推論に推論を重ねた話。
対等に「同じ仮説だね」とはいえない。
万が一、沃沮にいった勢力があったとしても、それは高句麗の勢力圏内に
亡命したにすぎないわけで、遠征なんかありえないだろう。

>この際、遠征の大きな動機となっただろう。
>さらに言えば伽耶を押さえれば北九州諸国の死命を制する

韓にしても倭にしても政治権力の空白地帯ではない。一介の亡命者のやることではないな。
642日本@名無史さん:04/02/05 21:42
>>641
>ところは西晋は316年に滅亡してしまった。
>それでも346年まで夫餘はがんばってるわけだからあえて離反する必要はない
>だろう。

そんな後のことを言っているのではない。
285年の第一次滅亡の後、王子の依羅が西晋に援助を依頼した。いったん
軍事援助を受ければ國の独立が損なわれることは眼に見えている。
そんな母国に帰るのをいさぎよしとせず、沃沮から直接、新天地を目指した
一派がいてもよい、と言っているのだ。

>漏れがいっていることは文献にあることを多少補足しながら展開しただけで
>蓋然性があるけど

「扶余人難民が王墓の改築を請け負って扶余式木郭墓を作った」とか、
「お雇い扶余人が軍政改革をやり、ついでに殉葬の風習を教え込んだ」
とか言うのが「蓋然性」があるのかな?

>あなたは自分でいうその「あと一歩」を越えられていない。

その「あと一歩」は大して重要な一歩ではない。
お雇い扶余人が軍の装備/編成を一新し、墓制を改め、従来なかった殉葬を
押しつけることができたのなら、その扶余人はほとんど実権をにぎっていた
わけだ。その場合、王が狗耶韓国人であったとしても、王はお飾りだろう。
日本人が実権を握っていた満洲国の溥儀皇帝のようなものだ。
それならばそれもまた侵略の一形式である。

私が、金官の王は狗耶韓国人だった、と思っているわけではないよ。
例えばの話だ。
643日本@名無史さん:04/02/05 21:46
>万が一、沃沮にいった勢力があったとしても、それは高句麗の勢力圏内に
>亡命したにすぎないわけで、遠征なんかありえないだろう。

沃沮にいった勢力があったことは「万が一」ではなく「文献にあること」だ。
そして3世紀末の沃沮はまだ高句麗の勢力圏内ではない。

>韓にしても倭にしても政治権力の空白地帯ではない。一介の亡命者のやること
>ではないな。

「一介の亡命者」である扶余貴族が、「政治権力の空白地帯ではない」地方に
百済国を建てたのではなかったかな。
644日本@名無史さん:04/02/06 01:16
難しい話はわからんが

めずらしいカッコして、馬に乗って昔の日本に来たら、

「鴨がネギしょってきたー」

って感じかも。

馬なんか獲って食われるよ。
645日本@名無史さん:04/02/06 05:31
>>644
古墳時代のハニワはその「めずらしいカッコ」しているね。
馬のハニワもあるけど、あれは食用だったのかな。
646日本@名無史さん:04/02/06 18:09
*武寧王陵(宗山里古墳群)
http://inoues.net/yamataikoku/korea/buneiou.html

墓室は磚(せん)を積み上げて作ってあり、アーチ型の天井である。ここに、槙の木でできた王と王妃の柩が安置
されていた。日本語の説明板には無かったが、英語版の方に「この柩は日本の近畿地方南部のKoya-Mountainで
とれた槙の木で作られていた。」となっている。コウヤマキは日本にしか生育せず、この柩の材料は日本製という
ことになる。武寧王と日本の深い関係が窺える。

玄室内には木棺が置かれ、その材質となった木材は細胞の分析結果から、日本の近畿地方南部にしか見られ
ない「コウヤマキ」であることが確認され、武寧王時代の百済と日本の関係、また、武寧王自身の出自などを巡
って論争が巻き起こった。墓から、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、銅鏡、
陶磁器など約3000点近い遺物が出土したが、驚くべきことに百済製の土器は1点も出土していない。すべてが
中国の南朝からの舶来品であって、この王朝がいかに中国南朝に傾斜していたかを物語っている。
647646:04/02/06 18:09
「日本書紀」の雄略天皇5年の条に、「百済の武寧王は、筑紫の各羅(かから)島で生まれたので島君(せまきし)
と言う。」という記事があり、武烈紀にも同様の記事があり、「武寧王の諱(いみな)は斯麻王と言う。」とある。
「三国史記」にも武寧王の名は斯摩となっている。島で生まれたから、斯麻王という名前が付けられたという。
各羅島は、現在の松浦半島の突端にある呼子島の真北にある加唐島(かからじま)のこととされている。これは
一体何であろうか?

武寧王の陵墓が発見されたことで、これらの記事の正しさが立証されたが、では斯麻王すなわち武寧王は
日本人なのか? どうして佐賀県で産まれたのか? とまた、新たな謎を生むことになった。単なる伝承だと
する意見もある。

一方で、これらの記事は真実を語っていると主張する意見もある。以下に続く新聞記事に見られるように、
日韓双方でそう主張する学者もいるのだ。その説に従えば、武寧王は日本生まれで、半島へわたり百済の王
になったという事になるが、そうなると当時、朝鮮や日本などと言う識別があったかどうかも疑わしいし、北九州
は百済の一部だったかもしれないと言うことになる。あるいはその反対という考えも成り立つ。日本書紀の
雄略紀・武烈紀は、百済百撰という書物を元に書かれているらしいという説もあり、百済と日本がどの程度の
関わりを持っていたのか非常に興味深い。
648646:04/02/06 18:11
「武寧王は加唐島生まれ」
「佐賀でシンポ 日韓研究者が一致」

 朝鮮半島の古代国家・百済の武寧王(ぶねいおう)(ムリョンワン、在位五〇一―五二三年)の佐賀県鎮西町の加唐島
(かからじま)生誕説をめぐる「百済武寧王生誕海峡地」国際シンポジウム(百済武寧王研究交流鎮西町実行委主催、
西日本新聞社後援)が十四日、鎮西町の県立名護屋城博物館で開かれた。日韓の歴史学者が「日本書紀の記述と
韓国・公州市の武寧王陵で見つかった墓誌石の銘文などから、加唐島生誕は間違いない」とする見方で一致。参加した
歴史学者は生誕地説を「日韓の地域交流に役立ててほしい」と呼びかけた。
 シンポには佐賀県内外の約三百七十人が参加。一昨年秋、加唐島生誕説の論文を発表した韓国・慶北大の
文〓鉉(ムンギョンヒョン)名誉教授が基調講演。武寧王の墓誌石の銘文などを根拠に「百済王の婦(みめ)が筑紫の
各羅嶋(かからのしま)で児を生んだ」という日本書紀の記述が加唐島生誕を示すとする説を紹介した。
 韓日伝統文化交流協会の趙万済(チョマンジェ)会長を進行役に、文教授と、韓国伝統文化学校の李道学(イドハク)
教授、西谷正・九大教授がパネル討論。西谷教授は「状況証拠から加唐島生誕説には信ぴょう性がある」と発言、
李教授も賛同した。
 趙会長は「(生誕地説のある)加唐島のオビヤの浦の海岸など、伝承の地を後世に伝えてほしい」と訴えた。

{新聞記事} [西日本新聞2002年1月15日(朝刊)1面]
http://tools.geocities.co.jp/CollegeLife/1964/@geoboard/169.html

*百済世系表 http://www.portnet.ne.jp/~berry/zino/pekche.html
*第一章 斯麻宿禰 http://www9.plala.or.jp/juraku/soki1_4.html
*倭王珍の系統が絶えて登場する継体 http://www.geocities.jp/yasuko8787/2-25.htm
*継体天皇 http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/kodaisi/ka-d26-keitai.htm
649日本@名無史さん:04/02/06 18:17
>>646-648 このような興味深い事実は、騎馬民族説をめぐる論争においてどのような意味を持つんでしょうか?

>玄室内には木棺が置かれ、その材質となった木材は細胞の分析結果から、日本の近畿地方南部にしか見られ
>ない「コウヤマキ」であることが確認され、武寧王時代の百済と日本の関係、また、武寧王自身の出自などを巡
>って論争が巻き起こった。墓から、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、銅鏡、
>陶磁器など約3000点近い遺物が出土したが、驚くべきことに百済製の土器は1点も出土していない。すべてが
>中国の南朝からの舶来品であって、この王朝がいかに中国南朝に傾斜していたかを物語っている。

>「日本書紀」の雄略天皇5年の条に、「百済の武寧王は、筑紫の各羅(かから)島で生まれたので島君(せまきし)
>と言う。」という記事があり、武烈紀にも同様の記事があり、「武寧王の諱(いみな)は斯麻王と言う。」とある。
>「三国史記」にも武寧王の名は斯摩となっている。島で生まれたから、斯麻王という名前が付けられたという。
>各羅島は、現在の松浦半島の突端にある呼子島の真北にある加唐島(かからじま)のこととされている。

>日韓の歴史学者が「日本書紀の記述と韓国・公州市の武寧王陵で見つかった墓誌石の銘文などから、
加唐島生誕は間違いない」とする見方で一致。
650日本@名無史さん:04/02/06 22:39
>>649

墓の構造や副葬品で出身民族を断定することはできないってことさ(藁
651日本@名無史さん:04/02/07 11:00
>>650
そりゃそうだ、武寧王陵の内部は中国南朝の影響を強く受けていて
なおかつ棺は倭人の風習であるコウヤマキ。

少なくとも騎馬民族が3世紀末に大和を征服して墓制になんの変化も
起こさない事に比べれば、武寧王倭人説の方が説得力がある。

652日本@名無史さん:04/02/07 13:38
余計なことだが、コウヤマキが高野山の槙だという韓国の解説は誤り。
コウヤマキは槙とは別の独立の種だ。
木材の繊維(仮導管)を顕微鏡で見ると2本一組のらせん状突起が内壁に
走っているのですぐに分かる。
らせん状突起は他の樹種にもあるが2本一組はコウヤマキだけ。
653日本@名無史さん:04/02/07 13:56
デムパな騎馬民族厨にはさらにデムパな
加治木義博で対抗するか
654日本@名無史さん:04/02/07 18:04
日本書紀はどこからが史実なんでしょう?
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/988620461/l50

■◆最初の天皇はどうやって天皇になったか◆■
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1003669384/l50

邪馬台国は大和朝廷になったのか
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045719732/l50

倭王権の起源を語ろう
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1021204387/l50

弥生時代の遺物と漢字
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1027923448/l50

「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか12)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1064621137/l50

【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1068492251/l50

※九州王朝はあったか?※ 8
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1074276043/l50
655日本@名無史さん:04/02/07 22:40
>>651
スレをよく読め。
3世紀末は狗耶韓国の征服だ。
それから北九州、大和とタイムラグがある。
河内王朝が畿内征服の現れと見る。
656日本@名無史さん:04/02/11 15:57
狗耶韓国は「倭の北岸」であり、倭人の居住地であった。周辺から見ればそれは
「倭」であった。このことについてはアンチ派の人達の間でもあまり異論はない
ようだ。
狗耶韓国は3世紀末に突然、北方化し、騎馬文化が始まる。これについて韓国
の申教授が扶余による征服であるという説を唱えている。この説については
日本の学者にも同じ意見の人は多い。

さて、この二つを結びつけるとどうなるか。金官加羅は「倭」なのである。
征服によって支配者が変わっても住民の大多数は倭人なのだから、地域としては
依然として「倭」であり、周辺から「倭」と見なされることは同じなのだ。
ちょうど、中国が満洲族に支配されても「中国」であり、エジプトがマケドニア
人に支配されてもエジプトであるのと同じだ。

このように考えると従来とは違った視点が開ける。
つまり、この後で扶余がさらに列島を支配したとしてもそれは「侵略」や「征服」
というよりは「内戦」なのだ。
九州の勢力が海を渡って畿内を征服する、あるいはその逆を想定するのとなんら
変わりはないのである。
657日本@名無史さん:04/02/11 16:14
アキヒト日王は百済武寧王の子孫
  ∧、            ∩_∩      ∧_ スチャ
/⌒ヽ\  ∩_∩  (・(ェ)・ ) //~⌒ヽ
|( ● )| i\( ・(ェ)・)  / † ハ/i |( ● )|
\_ノ ^i |ハ  †  \     ヽ | i^ ゝ_ノ  
 |_|,-''iつl/  / ̄ ̄ ̄ ̄/   l⊂i''-,|_| 我々の要求は沖縄県における天皇制の処分だ  
  [__|_|/〉 ._/ 魔 法  /__〈\|_|__] 明日、靖国神社を処分する。
   [ニニ〉\/____/    〈二二] http://darkelf.dip.jp/doubt/okinawa.html
   └―'               '─┘
我々は必要以上の文明を継承することはできない。
よって、我々の高尚で自由なる精神への回帰と達成のために政府に対し次の通り要求する。
1.沖縄県における天皇制の処分
2.不必要な民族的アイデンテティーの継承拒否権
3.沖縄米軍基地の処分
4.義務教育英語に加え中国語を選択可能とする
5.1国2制度の国家体制、および首相を2名とすること.
659日本@名無史さん:04/02/14 09:56
>>656
部分と全体とを取り違えてるぞ。
660日本@名無史さん:04/02/15 05:05
>>659
九州の「倭」が畿内の「倭」を征服するのと、狗耶の「倭」が九州の「倭」を
征服するのとは、どちらも「倭国内乱」だ。
そしてどちらも海を渡ることに変わりはない。
661日本@名無史さん:04/03/07 09:33
日本語のkutu「靴・沓」が朝鮮語kutu「靴」からの借用語
662日本@名無史さん:04/03/07 09:42

◎朝鮮人は日本人と満州人の混血人種


朝鮮人は、人種的にはモンゴル系の黄色人種で、形質的には日本人に
もっともよく似ている。身長、頭形、顔形、血液型、指紋などでは、
日本人と満州族とにもっとも関係が密で、中国人とはそれほど類似して
いない。北部の朝鮮人は満州族に、南部は日本人に似ているが、
例外として、モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に
近く、平安南道・南北黄海道人の頭形はもっとも華北型に近い。
ツングース族に属する満州族や東部シベリアの古アジア諸族などが、
前40世紀ごろから朝鮮半島に移住し、これより前に南方から移住してきた
人々と共存していたとも考えられている。(世界大百科事典/平凡社)
663日本@名無史さん:04/03/07 23:37
>>660

だからさあ、人口的に「狗邪」が九州を征服するのは無理だと思うよ。
当時、九州には100万人つまり朝鮮半島と同じぐらい人がいたんだから。
664日本@名無史さん:04/03/09 17:27
>663
少数民族の満州族が漢民族を征服したがなにか?
665日本@名無史さん:04/03/10 03:31
>>664
当時の満族と漢族では生活文化からしてまったく別の集団。
たしかに人口の少ない狩猟民・遊牧民が人口の多い定住農民を征服
した例は多い。

しかし狗邪は3世紀には倭の一部だという解釈もあるほど
(その解釈が誤りであったとしても)で、魏志東夷伝の韓と倭を
読み比べる限り、同一民族とまではいわないまでも
満族と漢族のような大きな文化的差異があったようには思われない。

そうなると人口での大差というのはそのまま大きな意味をもつだろうな。
666日本@名無史さん:04/03/10 10:27
少数が大勢を支配するにはかなりの軍事的優位がないと無理。 しかも海がある。原住民に好意的に迎えられない限り、生き残ることは難しい。 いずれにせよ自然消滅もしくは同化する。
667日本@名無史さん:04/03/16 14:58
定着型の農耕民の人口を上回るとは思いがたい
668日本@名無史さん:04/03/16 22:44
>>665
>当時の満族と漢族では生活文化からしてまったく別の集団。

その通り。そして突然騎馬戦術を獲得した3世紀末の狗耶(金官)は
その時点の列島の倭とはまったく異質だ。

>>665
>いずれにせよ自然消滅もしくは同化する。

その通り。満洲族も漢民族に同化した。
同化ということがあるからこそ「痕跡が残ってないから騎馬民族は来なかった」
とは言えないのだ。


669日本@名無史さん:04/03/17 00:04
>>668
同化を示す根拠はあるのですか?
670日本@名無史さん:04/03/17 00:06
少数の勢力が海を渡って来て倭人と同化した、これが即ち騎馬民族説なんですか?
671日本@名無史さん:04/03/17 03:41
韓国起源物の共通項

否定する証拠がない→事実

必要条件が満たされると、
十分条件が満たされなくても、確定とみる。

否定が成り立たないと、
肯定とみる。

「僕は火星人と会った事がある」
殆どの嘘とは否定もできないのである。

672日本@名無史さん:04/03/17 04:50
慶應医学部の田上修子さん、かわいい。
673日本@名無史さん:04/03/17 09:02
>>668
強弁もはなはだしいな。なにが「まったく異質」だよw

騎馬戦術じゃなくて「歩騎戦術」だろ。しかも
狗邪国もふつうに定住農業社会。遊牧民族の強みはない。
674日本@名無史さん:04/03/17 10:55
>>673
>騎馬戦術じゃなくて「歩騎戦術」だろ。

騎馬だろうが歩騎だろうが、軍隊が騎兵を含んだことに変わりはない。
そしてこの場合その騎兵は装甲騎兵だった。
またその裏付けとなる北方民族的社会があった。
それに対して同時代の三輪王朝も北九州も、使役用の馬はあっても
騎兵はなかった。そして北方民族的要素も皆無。
以上を称して「まったく異質」という。

>狗邪国もふつうに定住農業社会。

それは3世紀末に突然北方化する前の話。
それ以前の狗耶は北九州と同質だった。

>遊牧民族の強みはない。

断って置くが扶余も高句麗も遊牧民族ではない。

675日本@名無史さん:04/03/17 21:09
騎馬やら同化やらもはやさっぱり分からん。

誰か分かりやすく説明して!
676日本@名無史さん:04/03/18 14:44
>>675
倭人の領域であった狗耶韓国に3世紀末に騎馬戦術を持つ北方文化が
現れたのは考古学上の「事実」。
少数の征服者が多数の被征服民に同化されるのは歴史上の「必然」。
漢民族を支配した満洲族。
エジプト人を支配したマケドニア人。
ブリテン人を支配したフレンチノルマン人。
インド人を支配したムガール王朝のモンゴル人。
例はいくらでもある。
677日本@名無史さん:04/03/18 21:12
あのさ、多賀城跡にある「靺鞨の国の界を去ること三千里…」って靺鞨(ツングース)系民族が日本征服のときに立てたものですか?
678日本@名無史さん:04/03/18 21:18
>>677
違う
679日本@名無史さん:04/03/18 22:41
>>676
大陸の騎馬戦術といえば匈奴のような戦術を思い浮かべてしまうけれど
『狗耶韓国に3世紀末に現れた騎馬戦術』はどういう戦術なの?
海は障害にはならないの?
日本の支配層はどこの言葉を話していたの?
680日本@名無史さん:04/03/19 14:41
「歩兵を伴わない遊牧民式の騎馬戦術」と
ありきたりのただの「歩騎戦術」を同列に騙って
「同質だ」なんぞというのは詐欺に等しい詭弁の典型。
681日本@名無史さん:04/03/21 07:24
>>679
>『狗耶韓国に3世紀末に現れた騎馬戦術』はどういう戦術なの?

伽耶地域の墳墓壁画や、発掘物から、人も馬も鉄で装甲して長槍を持つ重騎兵と、
軽装して弓を持つ軽騎兵とがあった。これらの騎兵と歩兵とが協同する戦術
だったと推定される。

>海は障害にはならないの?

海が障害になったというのなら、5世紀に騎馬化した上で逆に半島に進出した
倭の実績や、筑紫の馬40頭を百済王に贈ったという継体記の話も否定しなけ
ればならない。
また、上記のように全軍騎乗して換え馬まで牽く大陸征服時のモンゴル軍の
ような編成ではないから、それほど多数の馬が要るわけでもない。

>日本の支配層はどこの言葉を話していたの?

それはわからないが、そのころの日本語がそれほど固定されたものだったとも
思わない。
682日本@名無史さん:04/03/21 07:33
>>680
よく読んで下さい。
3世紀末に突然北方化して騎馬戦術を獲得した狗耶韓国(金官)は同時期の
列島倭とは「異質」。
それ以前の狗耶韓国は倭の北九州諸国と「同質」。と言っているのです。

そして5世紀以降は列島倭も北方化して、狗耶諸国と「同質」になって
行きます。
683日本@名無史さん:04/03/21 07:36
>>679
391年倭海を渡り 云々(広開土王碑 )
この時点で倭が騎馬戦術で半島に進出したとでも?

それはすごい ソース ください
684683:04/03/21 07:37
>>683>>679>>682 に訂正
685684:04/03/21 08:46
うへ、またアンカー間違っている

>>679 さん >>682 さん ごめんなさい 無視してください。

686684:04/03/21 09:03
>>681
>海が障害になったというのなら、5世紀に騎馬化した上で逆に半島に進出した
>倭の実績や、筑紫の馬40頭を百済王に贈ったという継体記の話も否定しなけ
>ればならない。

これは違うでしょう。海洋民である倭人が海を渡るのならいざ知らず、海洋民でもない
騎馬民族が倭の征服にあたり海渡れたんですか?

391年の時点で倭は騎馬化していており、騎馬で半島進出したことになりますが
その確認とれますか?
寡聞にして知りません。ソースがあれば教えてください。
687日本@名無史さん:04/03/21 14:55
騎馬騎馬って・・何をもって騎馬化したことになるんだ?
688日本@名無史さん:04/03/21 16:28
>>683,686
391年は5世紀ではないがな。
4世紀に半島で軍事行動した「倭」の実体は最大の謎だ。
5世紀には列島の各地に王朝直轄の牧場ができて、明らかに騎馬化していた。
そしてこの時代の最大関心事は半島経営だったから、半島へ馬を持っていった
ことは可能性大。それが継体記の馬寄贈記事にも表れている。

>これは違うでしょう。海洋民である倭人が海を渡るのならいざ知らず、海洋民でもない
>騎馬民族が倭の征服にあたり海渡れたんですか?

それならもっと専門的な騎馬民族であるモンゴル人はどうやって日本に押し寄せたか?
支配した高麗人や江南人に船を作らせ、水夫を提供させたではないか。
3世紀末に狗耶韓国を支配した北方民族はだれを支配したのか?
魏史倭人伝に海峡を「南北市テキ」している、と書かれた狗耶韓国人、すなわち
半島倭人ではないか。


689日本@名無史さん:04/03/21 16:39
>>688
騎馬民族が征服したのは4世紀なんでしょ?
とすれば391年にはすでに騎馬化してないとおかしいでしょ。
>4世紀に半島で軍事行動した「倭」の実体は最大の謎だ。
ではすまないでしょ?

5世紀に馬が入っていることは倭が半島に進出して半島の戦術を学んだからでしょうに。

>それならもっと専門的な騎馬民族であるモンゴル人はどうやって日本に押し寄せたか?
ずっと後代のモンゴルなどと比較してどうするのよ。

>魏史倭人伝に海峡を「南北市テキ」している、と書かれた狗耶韓国人、すなわち
半島倭人ではないか。

そんな自己完結性のない戦力が倭を侵攻できますか?
690日本@名無史さん:04/03/21 16:48
それから当時の馬は小型馬だよ。
5世紀の古墳時代から現れる馬も小型馬
また、高句麗も小型馬
「『其馬皆小』、便登山。」(三国志 高句麗条)

URL:http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/mura/contents/mid/Img1029m.jpg

こんな馬に鉄で装甲したら戦い以前に馬はつぶれるよ。
ヨーロッパに見られるような大型馬なら比較もできるが、無理だろ
機動性もなにもあったもんじゃない。

壁画にあるとしたり、現代の馬に装飾施して復元しても意味ないね
691日本@名無史さん:04/03/21 16:52
しかし、紀記の記述からは
当時、騎馬戦がおこなわれていた、または馬が重要な戦力だったようには
思えないんですよね。 むしろ、海戦の比重のが高い。
692日本@名無史さん:04/03/21 16:54
でてからいえよ。
4世紀にでてないんじゃ話にならんだろ。

あったはすだ --> いや、あったに違いない というおきまりの論法では話にならんよ。
693日本@名無史さん:04/03/22 07:29
しかしまあ、4世紀後半、連年のように、
度々万単位の兵隊を海を越えて送っているのとしたら、
倭の国力恐るべしだね。

大八島を統一した大勢力が存在したと言うことだろう。

694日本@名無史さん:04/03/22 15:04
まだ重装歩兵の時代
695日本@名無史さん:04/03/22 15:15
>>689
>騎馬民族が征服したのは4世紀なんでしょ?
>とすれば391年にはすでに騎馬化してないとおかしいでしょ。

4世紀中葉(360年頃の百済との最初の共同作戦)〜末に、半島で軍事行動
した「倭」が必ず列島倭国でなければならないと考えるからそうなるのだ。
金官が倭を征服したという立場からは、その過程で金官プラス植民地・列島倭、
金官に本拠を置く連合王国、列島に本拠を置く連合王国、列島倭国プラス植民地・任那
というふうに移り変わる過程であったと考えられる。そのなかでいろいろな可能性が
あり得る。

>5世紀に馬が入っていることは倭が半島に進出して半島の戦術を学んだから
>でしょうに。

この話のもとはどのようにして列島が騎馬化したか、ではない。
いずれにしても5世紀には列島は馬産地になっており、半島へ馬を運んだ
可能性が高い。5世紀の倭人が海峡を越えて馬を運ぶ技術があったのなら
4世紀の金官(実体は狗耶韓国人)だって逆方向に運べたはずだ、ということ
を言っているのだ。
696日本@名無史さん:04/03/22 15:20
>ずっと後代のモンゴルなどと比較してどうするのよ。

支配者+被支配者を考えるべしという原理は同じだ。

>そんな自己完結性のない戦力が倭を侵攻できますか?

支配した北方民族(扶余)と支配された狗耶韓国人(半島倭人)がばらばら
だった、と考える必要な必ずしもない。
伽耶地域の発掘からは北方民族的な武器とともに同時代の倭式の祭祀器具が
出る。支配者は被支配者の祭祀を尊重していたのだ。つまり、北方民族の
実用的、軍事的な文化と半島倭人の祭祀的な文化が融合した、「北方化した倭」
とも言うべき集団が生まれていた、と考えられる。

「北方化した倭」と言ってもなにも珍しいものではない。5世紀の列島倭国は
「北方化した倭」そのものだ。つまり金官で生じた「北方化した倭」の原型が
列島を覆って広がった、ということだ。

これについては歴史上のアナロジーがある。満洲族は長城を越えて中国本土
に建国する前に遼東ですでにミニ「清国」を建てていた。つまり遼東で生じた
「満洲化した中国」という原型が中国本土全体にひろがったのだ。
そう言えば満洲族も中国人の祭祀を尊重したね。
697日本@名無史さん:04/03/22 15:26
>>690
>こんな馬に鉄で装甲したら戦い以前に馬はつぶれるよ。
>機動性もなにもあったもんじゃない。

能力をけなしても存在を否定したことにはならない。
そしてそれを全く持たない相手に対してはその「存在」が大きな要素だ。
装甲騎兵があったことについては、馬かぶとなどの単品の他に、人と馬の装甲
の完全なワンセットが出ている。
また装甲騎兵は敵の歩兵を突破、蹂躙するのが役目だからモンゴル騎兵のような
「機動性」は重要ではない。
698日本@名無史さん:04/03/23 12:07
>>695
なんかもう時系列がめちゃくちゃだな。
いったいいつ『列島』倭国とやらを侵攻したんだ?
一度時系列で説明しろよ。

もっとも、すでに放置版のようであるが
699日本@名無史さん:04/03/23 19:18
3世紀末〜4世紀初頭、北九州は自動的に金官の傘下に入ったと考える。
だから改めて「侵攻」するまでもなかった。
4世紀中葉の「倭」の軍事行動は金官が主体であったと考える。
5世紀に入ると金官の王墓が作られなくなる。
前後して畿内に北方的要素の濃い河内王朝が生じる。
このころに「侵攻」というよりは簒奪、ないし平和的な政権交代が
あったと見る。
700日本@名無史さん:04/03/23 19:40
>>699
>3世紀末〜4世紀初頭、北九州は自動的に金官の傘下に入ったと考える。
考古学的根拠は北九州に見つかりますか?
701日本@名無史さん:04/03/23 19:49
まあ、いわんとするところはだいたい分かるよ。
拘邪韓国さえおさえればあとはひえ上がるはずということでしょう?

あまいんじゃないですか?
702日本@名無史さん:04/03/24 01:30
なんで途中の国々を飛び越えて狗奴国だけを征服するんだよ?
ありえないだろうにw
703日本@名無史さん:04/03/24 05:57
>>702
狗奴国は魏志倭人伝にある所在不明の大国。
狗耶韓国は狭い意味の任那と同じで釜山周辺の倭人国。
後の金官加羅と同じ。
704日本@名無史さん:04/03/24 07:06
>>703
魏志倭人伝からの解釈では拘邪韓国は倭国の領域。
ただ、倭人の直接統治ではなく、地元の王権(もとは倭人かもしれないが)
を温存した間接統治と思われる。
705704:04/03/24 07:16
倭人伝 ----> 倭人伝 + 韓伝
706日本@名無史さん:04/03/24 19:45
>>699
なんで、金官みたいな狭くて過疎の地帯のほうが主体になるんだよ?
大丈夫か、こいつは?
707日本@名無史さん:04/03/25 21:23
>>706
金官は騎馬戦術を持つ北方民族が支配する國となってから新羅を圧迫して
侵食し、他の伽耶諸国を服属させていた。これは発掘の裏付けがある。
こんな國が北九州諸国の王権の裏付けである鉄を押さえたのだから北九州
諸国も服属せざるを得ない。これが「金官主体」の姿だ。
こうして金官は伽耶の鉄・北方由来の馬・そして北九州の人的資源を持つ。
ここまでの構図ができれば後は金官/北九州と畿内の覇権争いという、ありふれた
状況になる。
そして畿内が覇権を禅譲したのが河内王朝時代だ。
708日本@名無史さん:04/03/25 21:39
>706
だいたいどこの地域でも、過疎地の食い詰め物が一旗上げようと
豊なところに攻め込んで、うまくいけば征服する。もちろん撃退
されることもあるが、大事件にはならない。
マケドニアが遥かに大きくて豊なペルシア帝国を倒し、満州族が
明帝国を倒したとか、世界史では普通じゃん。東洋の片隅でも
その小規模なことがあったとして何の不思議もない。
不毛の土地の食い詰め物は必死だからな、そこそこ豊な大国が
負けるほうが普通じゃないかな。
709日本@名無史さん:04/03/26 01:37
発掘の裏付けがあるので、日本には中国南部から直接製鉄が
伝えられたと分かる。
710日本@名無史さん:04/03/26 10:40
わずかばかりの痕跡をたよりにどうしてこうまで妄想を広げることが
できるのか。
半島南部に巨大な王権の後などないよ。
711日本@名無史さん:04/03/26 10:52
まあ何にせよ、天皇公家はチョンってことでFA。
712日本@名無史さん:04/03/26 12:38
あの小さな首長クラスの墓しか持たない、しかもばらばらに散在する
勢力が倭を服属させたとは笑わせる。
713日本@名無史さん:04/03/26 16:03
なんで朝鮮半島各地の途中の国々をすべて飛び越えて
南の端の狭い一角である金官だけを征服するんだよ?
ありえないだろうにw
714日本@名無史さん:04/03/26 17:05
鉄?鉄から4世紀前半畿内から大量にでるが、騎馬化などしとらんよ。
当然北九州も畿内の支配下ということになるな。
その時期金官が倭を服属されていたのなら、こうはならんだろうね。

金官にそんな勢力はないんだよ。やはり服属してたんだよ。
715日本@名無史さん:04/03/26 18:26
扶余の歴史

http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q026L100.HTM

魏の244年(正始5)幽州刺史毋丘倹の高句麗遠征の翌年,玄菟太守王キは
ユウロウ・扶余の地に侵攻する。285年(太康6)鮮卑のボヨウカイに攻撃され,
国王依慮は自殺,潰滅的な打撃を受ける。王子依羅が西晋の援助で王国を再建。
それ以後衰退に乗じた高句麗の領土蚕食に苦しんだが,晋の346年(永和2),
鮮卑のボヨウコウの大軍に急襲され,国勢はいっそう衰退し,
以後高句麗の従属国として存続。北魏の文成帝のとき一度朝貢するが,
新興の勿吉(もつきつ)の攻撃により王都を奪われ,国王やその一族は
高句麗へ亡命,その歴史を閉じた(494)。

「高句麗の従属国として存続。」という部分に注目。
高句麗と半島の覇を競っていた倭に高句麗の属国が攻めてきたって?
ぷぷ、妄想もいい加減にしろよ。
716日本@名無史さん:04/03/26 18:31
つまり扶余厨は「義経はジンギスカンになった」って言ってるのと
大して変わらないわけね。
717日本@名無史さん:04/03/26 18:35
>>707
>こんな國が北九州諸国の王権の裏付けである鉄を押さえたのだから
>北九州 諸国も服属せざるを得ない。

なんで、「鉄を押さえる」と「服属せざるを得ない」の?
論理的に説明してよ。


718日本@名無史さん:04/03/26 18:47
そういえば手塚の「火の鳥」は騎馬民族説に基づいてたな。
719日本@名無史さん:04/03/26 18:51
結局、終戦直後、日本の考古学がまだ未発達な時代には、
多少リアリティがあったけど、今唱えたら単なる電波。
720日本@名無史さん:04/03/26 20:37
>>715
時代をごっちゃにしてはいけない。
扶余による狗耶韓国の征服は3世紀末、285年の第一次滅亡の直後に
起こっているのだ。
それ以後、満州に存続した第二王国はこの際、関係ない。

>なんで朝鮮半島各地の途中の国々をすべて飛び越えて
>南の端の狭い一角である金官だけを征服するんだよ?
>ありえないだろうにw

それならば扶余による百済の建国は途中にある高句麗をすっとばして
起こっているのだが、こちらの方は「ありえる」のかな?
それと、狗耶韓国が扶余によって征服されたのは考古学上の事実。
日本の学者もこの「事実」を否定する人は今ではあまりいないのでは?
「ありえない」と言ってもしかたがないのだ。
721日本@名無史さん:04/03/27 05:34
<晋書東夷伝扶余条>
夫餘國在玄菟北千餘里、南接鮮卑、北有弱水、地方二千里、戸八萬、有城邑宮室、地宜五穀。
其人強勇、會同揖讓之儀有似中國。其出使、乃衣錦kei[冠网厂垂中偏炎旁右剣]、以金銀飾腰。
其法、殺人者死、沒入其家;盜者一責十二;男女淫、婦人妬、皆殺之。若有軍事、殺牛祭天、
以其蹄占吉凶、蹄解者爲凶、合者爲吉。死者以生人殉葬、有椁無棺。其居喪、男女皆衣純白、
婦人著布面衣、去玉佩。出善馬及貂[豸内]、美珠、珠大如酸棗。其國殷富、自先世以來、未嘗被破。
其王印文稱「穢王之印」。國中有古穢城、本穢貊之城也。

扶余国は 殷富で、先世以來いまだかつて破られたことがなかった。
国土は二千里、人口八万戸、五穀が実り、人は「強勇」で、法律が厳しかった。
善い馬と貂(テン)を産した。

要するに中国から見て扶余は強かった。鮮卑の方がもっと強かっただけだ。
722日本@名無史さん:04/03/27 10:11
なる程、半島人と売国研究者は「扶余」に最後の望みを託したわけか。
偉大なる弥生の元祖、松菊里も木っ端微塵だしな。

さて、学者と言うのは自分達だけの世界で理屈が通れば生きていける。
だが、世間はそんなに甘くない。
製鉄技術を持たないはずの民族が、どうして自前の鉄製武器を持つ民族を押えられるか。
弥生時代、半島では鉄製武器が作られていた。とすると、日本は?

日本の製鉄法は、朝鮮とは異なる。別のルートで早くから入ってたんだよ。
売国奴が、遺跡が出ないと言い張っているだけで、カナ糞なんかは結構出ている。

だから、鉄をキーワードにするのが既に連中のトリックに過ぎないんだ。
723日本@名無史さん:04/03/27 11:34
>>720
>>それならば扶余による百済の建国は途中にある高句麗をすっとばして
>>起こっているのだが、こちらの方は「ありえる」のかな?

ん?
百済の建国は高句麗が勢力を伸ばす以前じゃないの?
楽浪郡とか帯方郡とかそういう時代じゃ?

>それと、狗耶韓国が扶余によって征服されたのは考古学上の事実。

百歩譲って狗耶韓国(=金官)が扶余系だとしても、伽耶諸国すら統一出来ない国が
倭を征服したとはとても思えんな。


724日本@名無史さん:04/03/27 13:02
自分としては伽耶諸国系渡来民・倭人説をとっている。当時の半島は高句麗・百済・新羅
・伽耶諸国の抗争時代だったと思う。戦乱を逃れ南端の伽耶諸国民が西日本に渡来して行ったと思う。
伽耶の地は倭人に残された最後の半島の勢力だったのでないか。
倭の諸国はオオキミと立て伽耶諸国を守った。
オオキミ家が途絶えたときに伽耶諸国が滅亡している。
725日本@名無史さん:04/03/27 13:03
>>723
百済の建国は4世紀前半。高句麗はすでに南満州に勢力を伸ばしている。

途中に他の国があるから行けない、というのは近代国家を過去に投影しているのだ。
古代国家なんて、城市や集落がばくぜんと中心勢力に服属しているだけ。
城市や集落にかまわなければ、武装勢力が通過するのは自由だ。
726日本@名無史さん:04/03/27 18:28
ごめん、基本的な質問。

百済建国の扶余系って、公孫氏が2世紀に扶余系の嫁を貰った子孫だよね
扶余という血が入ってるってだけでしょ、これを民族の制覇の話としていいの?
扶余という国が攻め入ったわけでも、扶余民族がせめいったわけでもないよね
727日本@名無史さん:04/03/27 18:46
>>725
百済
(B.C.18~A.D.660,678年間31代)
http://www.portnet.ne.jp/~berry/zino/pekche.html

初代 温祚王
高句麗東明王の三男(または次男).慰禮城に国を築き、国名を百済とした。
BC5年に首都を漢山(今の広州)に移す.AD8年に馬韓を併合.

>それならば扶余による百済の建国は途中にある高句麗をすっとばして
>起こっているのだが、こちらの方は「ありえる」のかな?

高句麗の王族が独立したってことになってるが。
728日本@名無史さん:04/03/27 18:53
ごめん、 基本的な質問

>>727
12世紀の三国史記がいつから正史扱いになったの?
ただの電波なの?
729日本@名無史さん:04/03/27 19:03
>>728
8世紀の日本書紀がいつから正史扱いになったの?
ただの電波なの?

と聞くのと同じようなものだと思うが。
730日本@名無史さん:04/03/27 20:50
なんだ、電波だったのか・・・残念

日本書紀が正史と認められてる部位は、成立の200年前後のみよ。
成立から1000年も前の記載部は、正史扱いではないんだよ
ただただ、 日本書紀に記載ある準神話扱い

12世紀記載で、歴史的継続のない古代3国について、
1000年以上前の事項について書かれている事を正史扱いするのは
韓国人くらいだろ
731日本@名無史さん:04/03/27 21:28
また、嫌韓ウヨか・・・
732日本@名無史さん:04/03/27 23:00
>>726
百済の話は「途中の國」という一般論につきあったのだが本来の論議にもどそう。
扶余は285年の第一次滅亡の後、今の沿海州/北朝鮮のヨクソに逃げた。
その後、西晋の援助を受けて王子が満洲中部の旧地に第二王国を再建したが、
全部が旧地にもどったのではなく、ヨクソから南へ向かった勢力があったと思われる。
ヨクソから新羅の北までの半島東海岸はいわゆる「穢」の領域だ。
扶余王の印は「穢王之印」ということでもわかるように扶余と穢は近縁の民族だ。
こうして満洲中部から新羅の北までは、意外に「穢ベルト」がつながっているのだ。
扶余が半島南部まで逃げてきて建国したのはあながち不自然なことではない。
もうひとつ、半島南部とヨクソの間には東海岸沿いの海上交通があった。
扶余は海上ルートで直接、狗耶韓国に来たのではないか、というのが申教授の説。
恐らく、鉄産地/日本列島への門戸という狗耶の重要性も始めから頭にあったのだろう。
733日本@名無史さん:04/03/28 00:56



  前方後円墳の歴史、規模、分布を真面目に勉強してから物を言いなされ。


734日本@名無史さん:04/03/28 02:00
>>720
>狗耶韓国が扶余によって征服されたのは考古学上の事実。

事実は夫餘と共通する遺物が存在するというだけ。征服云々は「解釈」つまり一説にすぎない。
723のいうとおり加羅諸国すら統一できない国が倭を征服したなどあり得ない。

>扶余による百済の建国は途中にある高句麗をすっとばして起こっている

公孫度の遼東経由だからすっとばしたというか迂回だな。

>>724
>当時の半島は高句麗・百済・新羅・伽耶諸国の抗争時代

3世紀はまだそれには早いだろ。なにか根拠でもあるのか?
735日本@名無史さん:04/03/28 02:01
>>725
>古代国家なんて、城市や集落がばくぜんと中心勢力に服属しているだけ。
>城市や集落にかまわなければ、武装勢力が通過するのは自由だ。

それも程度問題だろうに。
近代国家のような国境概念はなくとも領域=面としての勢力圏はあるよ。
少なくとも外国の武装勢力が自由に通行するなどありえないぞ。

>百済の建国は4世紀前半。高句麗はすでに南満州に勢力を伸ばしている。

3世紀の高句麗はまだ遼東郡に時々侵入する程度。南満州に勢力を伸ばしてるとはいえない。
百済は馬韓の伯済国として3世紀にはすでに存在している。

>>726
>公孫氏が2世紀に扶余系の嫁を貰った子孫

逆だよ。夫餘王室が公孫度の娘(妹説もあり)をもらった。
百済を建国した仇台=尉仇台が夫餘王なのだからその勢力は
当然夫餘の集団だったと考えるのが自然。
むろん公孫配下の漢人たちもそれなりにたくさんいただろう。

>>727
それは三国史記に記載の伝説。信憑性はやや劣る。
728、730の言い分は、内容はいいが、728の言葉はまちがい。
電波というのはやや言い過ぎだし、三国史記は半島の正史だよ
(正史というのは正式な歴史書という意味であって、歴史学的に内容が正しいという意味ではない)
嫌韓ウヨよばわりしてる731の方が電波。
736日本@名無史さん:04/03/28 02:01
>>725
>古代国家なんて、城市や集落がばくぜんと中心勢力に服属しているだけ。
>城市や集落にかまわなければ、武装勢力が通過するのは自由だ。

それも程度問題だろうに。
近代国家のような国境概念はなくとも領域=面としての勢力圏はあるよ。
少なくとも外国の武装勢力が自由に通行するなどありえないぞ。

>百済の建国は4世紀前半。高句麗はすでに南満州に勢力を伸ばしている。

3世紀の高句麗はまだ遼東郡に時々侵入する程度。南満州に勢力を伸ばしてるとはいえない。
百済は馬韓の伯済国として3世紀にはすでに存在している。

>>726
>公孫氏が2世紀に扶余系の嫁を貰った子孫

逆だよ。夫餘王室が公孫度の娘(妹説もあり)をもらった。
百済を建国した仇台=尉仇台が夫餘王なのだからその勢力は
当然夫餘の集団だったと考えるのが自然。
むろん公孫配下の漢人たちもそれなりにたくさんいただろう。

>>727
それは三国史記に記載の伝説。信憑性はやや劣る。
728、730の言い分は、内容はいいが、728の言葉はまちがい。
電波というのはやや言い過ぎだし、三国史記は半島の正史だよ
(正史というのは正式な歴史書という意味であって、歴史学的に内容が正しいという意味ではない)
嫌韓ウヨよばわりしてる731の方が電波。
737日本@名無史さん:04/03/28 02:02
>>732
ループ・・・・・
738日本@名無史さん:04/03/28 06:09
>>734
>事実は夫餘と共通する遺物が存在するというだけ。征服云々は「解釈」つまり一説にすぎない。

3世紀末の狗耶韓国で、それまでの王墓が破壊された真上に、晋書東夷伝扶余条に
「有郭無棺」で殉葬を伴う、と書かれた通りの木郭墓が作られる。同時に副葬品が
騎馬文化を伴う北方的なものになる、という変化を「解釈」するのに、やはり「征服」
がもっとも妥当な「一説」だ。

そうでなければ「文化受容」というのだろうが、まだ直接やってきていない高句麗に
備えるのに、騎馬を取り入れるのはよいとして、墓の形式を変え、殉葬を取り入れる必要
があるのかな。
739日本@名無史さん:04/03/28 11:18
>>738
ごめん。私は半島の考古学はよく知らないのだが、
同じ夫餘系なら、百済のほうが夫餘本国(?)より金官に
近いんじゃないの?
同じ夫餘系でも、百済は何らかの独自性があって、百済系
の誰かが金官を支配したとは考えられないの?
740日本@名無史さん:04/03/28 14:49
>>739
同じ扶余だから、百済系であったとしても構わない。
しかし百済文化は早くから中国の影響を受けているのでないの?
金官の墓制や出土物は素朴かつ実用的で、松花江流域の扶余遺跡と
直接の関係があるとされる。
741日本@名無史さん:04/03/28 16:34
文献では百済は夫餘系だが、金官は夫餘系だとは明記されてない。
考古学では金官は夫餘と共通する遺物があるが、
百済と夫餘とでは金官のような共通する遺物があるのか?
742日本@名無史さん:04/03/29 05:56
>>741
百済が扶余であることは、史書だけでなく金石文の証拠がある。
金官が扶余であることは、考古学からその可能性が濃厚である。
どちらも物的証拠だから、それでいいではないの?

恐らく、金官の扶余は満洲から直接やって来たから、満洲との共通性を残した。
百済の扶余は中国の影響を強く受けて扶余の特徴が希薄になった。
とうことだろう。

ただ、百済の武器や馬具がどうであったか、は私も知りたい。
というのは、伽耶と倭の武器、馬具は共通性が高いが、これは百済とも
共通するのか、ということが知りたいので。
743日本@名無史さん:04/03/29 10:33
金官って任那なの?
それとも、金官を含めた伽耶諸国が任那なの?
よくわからん。

744日本@名無史さん:04/03/29 14:16
>>743
任那(広義)は新羅でも百済でもない地域の総称。

1)慕韓(任那4県・熊津など、まだ百済に併合されてなかった馬韓諸国)
2)秦韓(于珍也、啄国、啄淳国、非自伐など新羅に併合されてない辰韓諸国)
3)伴跛国を中心とした弁韓北部の加羅諸国(=狭義の任那)
4)金官国を中心とした弁韓南部の加羅諸国(=狭義の任那)

1+2+3+4=広義の任那
745日本@名無史さん:04/03/29 17:14
>>735
>それは三国史記に記載の伝説。信憑性はやや劣る。

ふーん。
じゃ、どの辺から史実と考えていいの?
肖古王あたり?
だとすると、2世紀後半ぐらいに建国された?

746744:04/03/29 18:37
任那と加羅の関係も紛らわしいな。
伴跛国も金官国も、どっちも任那ともいいどっちも加羅ともいうから。
---------------------------------------
任那の語源は「君主の港(主浦)」を意味する古代朝鮮語として
狗邪国(金官)とする説もあるが
そうではなく3世紀の弁辰の弥烏馬邪国(慶尚北道の高霊)が語源だろう。
これは半路国と隣接していた。(路は跛の誤写と思われ)
3世紀には半路国・安邪国・狗邪国の3国がならんで弁韓諸国の中心的存在だった。
(弁韓の弁は半路国の半と同音で、弁韓とは半路国を中心とする韓の意味)

新羅は6邑の連合体、金官は4邑の連合体だったが、同じように5〜6世紀の
伴跛国(=大加羅)も、もとは半路国と弥烏馬邪国が連結してできたものだろう。

後に弁韓諸国の主導権が加羅(狗邪国=金官)に移ったために
弁韓諸国をも「加羅」と総称するようになった。その後、
伴跛国を中心とする北部連合と金官(駕洛国)を中心とする南部連合に分かれたが、
どちらも加羅の名をもつことになった。

「狭義の任那」の用例としては倭王武の上表文に任那・加羅・慕韓・秦韓
の4者を並列しているのがそれ。この場合の任那と加羅は、
任那が金官を中心とする南部連合で、加羅が伴跛を中心とする北部連合。
翌479年に加羅王荷知が中国に朝貢しているが、これは伴跛国であって金官国ではない
と考えられている。

日本書紀には6世紀の段階として「任那十国」という言葉があるが、
これはすでに金官国が新羅に併合された後の国々。
一応、北部連合の盟主だった加羅国(伴跛国)や
金官滅亡後に南部連合の中心だった安羅国も入っているが
すでに北部連合も南部連合も瓦解した後の残存した国々の総称であり、
言葉としては「広義の任那」の用法。
747日本@名無史さん:04/03/29 18:48
>>745
いや、「どのあたりから」という問題じゃなくて
百済建国の経緯が、中国の歴史書に記載の話と半島の伝説には食い違いが
甚だしく、まったくちがった内容になっている。なので、三国史記の
百済建国伝説を史実であるかのように扱うのは危険だということ。
とくに朱蒙は伝説上の存在だし初期のストーリーもほとんど神話。
百済建国の事情は三国史記でなく中国の歴史書の記述から推測すべき。

かといって、通常は近肖古王あたりからは中国の歴史書との齟齬が少なく
なってくるので、このへんから史実性が高くなってくると考えられては
いるが、べつに近肖古王の時に建国したということにはならないだろうね。
748日本@名無史さん:04/03/29 19:28
NCBの石澤さん、かわいい。
749日本@名無史さん:04/03/29 19:41
>>747
別に、初期の伝説(神話?)が事実だと思っているわけではないが。
ただ、建国当初、小国だとすれば中国の史書に記載されていない
可能性はあると思うが。

750日本@名無史さん:04/03/29 20:38
もともとは満州あたりの北方まで南方モンゴロイドが住んでいたが、
6000年前頃からシベリアから北方モンゴロイドが南下して来て混血した
のが満州人や華北人、華中人である。外見的、形質的には南方系が強い
ようには見えないだろうが、これらは北方と南方が混血したものである。
むしろ日本人の方が南方モンゴロイドに見えるだろうが、実は全くの
北方モンゴロイドなのである。これは日本人がシベリアから樺太に
移動したのが2〜3年前の温暖な時期だったために新モンゴロイド化
しなかったからで北方系の古モンゴロイドだからである。

gm遺伝子マップで、南方系の強い満州人の間をかい潜って、朝鮮人の
基礎を作っている北方モンゴロイドがシベリアから朝鮮半島に入って
きたように見えるかな?それはしごく至難のワザだよ。

南の日本から北方モンゴロイドが朝鮮半島に入って朝鮮人の基礎を造り、
北から南方と北方の混血モンゴロイドたる満州人が南下して混血して
誕生したのが朝鮮人である。
751日本@名無史さん:04/03/29 20:39
日本人と朝鮮人の遺伝子をしっかり確認してみよう。
朝鮮人は日本から渡った事がよく分かる。

シベリア → 樺太 → 日本列島 → → 朝鮮半島 ← ← 満州

http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg
752日本@名無史さん:04/03/29 23:53
どうでもいいが、12世紀記載の文献の正史に値する部位は、10世紀からと
みるべきであって、それ以前についてはなんの価値もない。
そういう常識が判らん奴が多いね。
しかも、中国正史との整合性もない。話にならん。 

扶余の話は、中国正史に三国史記を絡ませるから
ぐちゃぐちゃになりやすい。 今後の論述に
三国史記出典 は一切禁止を勧める。
753747:04/03/30 01:55
>>749
は?
なにをいってるのかよくわからんな。中国の歴史書に現に書かれてるじゃんよ。
中国の歴史書に書かれてない可能性を心配する藻前は何者?

>>752
そんなことはない。三国史記であっても、中国の正史とも日本書紀とも
整合する部分はあるわけで、100%デタラメなわけではない。

まぁいいたいことには結果的にはほぼ同意せざるを得ないけど、
まずは具体論の場で個別にいえばいいことだと思うよ。
基礎のわからない奴にはそういう一般論いっても反発するだけだから。
754日本@名無史さん:04/03/30 04:57
>>752
>どうでもいいが、12世紀記載の文献の正史に値する部位は、10世紀からと
>みるべきであって、それ以前についてはなんの価値もない。

そんなことはない。一般的に広げすぎじゃないの?
たとえば「史記」に殷王朝の系譜の記載があるが、ほぼ正しいことがわかっている。
確かに、100%記載されている部分が正しいわけではないが、「なんの価値もない。 」
というのは言い過ぎだ。

>扶余の話は、中国正史に三国史記を絡ませるから ぐちゃぐちゃになりやすい。

別に中国正史が絶対的に正しいとも思わない。 
特に、中国国内についての記載はともかく、国外についての記載については、
正しくない(適切ではない)と思われる場合もある。
だから、「魏志倭人伝」の記載についてはいまだに論争が絶えないのでは?
755日本@名無史さん:04/03/30 05:32
>>753
>中国の歴史書に書かれてない可能性を心配する藻前は何者?

ん?
百済がいつ頃成立したか、明確に記載されている「中国の歴史書」って
あるのか?
756日本@名無史さん:04/03/30 08:30


 倭 王 武 の 上 表 文 は、 中 国 の 創 作 な の か ?


それとも読んだことが無いのか、これを?

中身から状況把握が出来ないのか?
757753:04/03/30 09:33
>>755
「明確」なら正しいってもんじゃないぞ。伝説というのは時代を下がるごとに
内容が具体化していくけど、それは真相から遠ざかることでもある。
758日本@名無史さん:04/03/30 22:07
ここに書き込んでいるのって院生でつか?
759日本@名無史さん:04/03/31 01:02
>>756


   都   合   の   悪   い   事   は   ス   ル   ー



         
760日本@名無史さん:04/03/31 04:38
倭王武上表文の話は文脈がわからんな。756はどれへのレスなの?
761日本@名無史さん:04/03/31 10:54
倭王武上表文って要約すると「日本と南朝鮮はわしのもんです。」
って言ってるようなもんだろ?
実際は広開土王碑に書かれたとおり、半島の覇を高句麗と競って
いたわけだが。
762日本@名無史さん:04/03/31 11:36
>>760
よくわからんが、要するに金官が扶余の残党に征服された話を目いっぱい広げて、
ついでに日本も制覇したっていう、新しい(?)騎馬民族征服説を唱えている香具師
がいて、そりゃ無理ぽと言いたいんだろ?
763日本@名無史さん:04/03/31 11:46
倭と高句麗が競っていたのは391年から407年まで。
413年には和解した。
391年以前にも407年以後にも高句麗は
南朝鮮には恒常的な支配を及ぼしたことはない。

倭王武の上表文で高句麗を非難しているのは475年に
高句麗が百済の尉礼城を陥落させ京畿道方面を併合したことをさしている。
これは高句麗と倭の勢力圏の境界がいくらか南下したことを意味する。
764-:04/03/31 12:38
もともと3世紀の段階では半島は魏晋の管理下で、
北半分は楽浪・帯方の2郡の直接統治、
南半分は帯方郡を通じて韓族や穢族や倭への間接統治。
三韓の統治においてはもともと倭が重要な存在だったろう。魏が倭に
黄幢を授けたのも倭国内部の騒乱ではなく馬韓の反乱鎮圧のため。

313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼして晋が撤退してから
中国にかわって高句麗と倭が半島の南北をわけあう構図になった。
高句麗は晋から楽浪郡を強奪。楽浪・帯方の2郡が消滅したため
倭は晋から三韓の管理を自然に引き継いだ。
そのまま倭王武の上表文にあらわれている5世紀の情況に直結している。

騎馬厨の説では、狗奴国(金官)が夫餘に征服されたのは3世紀末だろ。
(285年かそれよりやや後?)まだ楽浪郡も滅亡する前だから
高句麗と倭の対立よりずっと前だな。
しかし弁韓の中心は魏の頃にはすでに狗奴・安邪・半路であって
その後6世紀まで大きな入れ替わりはないので、そのような大変動は
考えにくい。夫餘の残党が晋や倭の勢力圏を蹂躙して半島を縦断し
征服戦争をしたとは考えられないし、そのようなことがあれば
記録に痕跡が残ってしかるべきだ。
晋は286年に南満州で夫餘王国を再建させているので、同時期に
晋が(倭国も黙認か協力した上で)夫餘の残党の一部を三韓に派遣したか、
倭が(晋の了解をとりつけた上で)夫餘の残党の一部を三韓に招聘したか、
という可能性なら、なくもない。
765日本@名無史さん:04/04/01 13:43
>>764
>晋が(倭国も黙認か協力した上で)夫餘の残党の一部を三韓に派遣したか、
>倭が(晋の了解をとりつけた上で)夫餘の残党の一部を三韓に招聘したか、
>という可能性なら、なくもない。

扶余が全体として、そんなに中国に従順だったとは思えないね。
その流れの高句麗は一般に中国と対立して、隋滅亡の原因になったし、
その高句麗が滅亡すれば唐の傀儡国家に甘んじず渤海を建てた一派が
あった。

扶余の286年の再建はまったく晋の軍事力によるのだから、できた國は
傀儡国家と考えるべきだ。それに反撥して独自に行動した一派がいたと考える
方が歴史の常に合っている。

それに晋が「派遣」したのならそれこそ「記録に痕跡」が残るわけだ。

766日本@名無史さん:04/04/02 13:27
高句麗と夫餘はもともと仲悪いだろ。夫餘は昔から親中派だし。

魏晋は倭や夫餘の事実上の同盟国であり形式的には宗主国ですらある。
再建してもらってなぜ反発するのだ?どこが自然よ?
仮に、反発して独自に動いた部分があったとしても程度問題。
あんまり極端な(大規模な)軍事行動は歴史に記録が残るだろ。
767日本@名無史さん:04/04/04 12:44
>>766
>再建してもらってなぜ反発するのだ?どこが自然よ?

だから渤海の例を示している。
高句麗の滅亡後、その残党は唐に「再建してもらって」遼東の傀儡国家に
なった。
それに飽きたらない独立派が脱走して渤海を建てた。
その渤海の首領は、傀儡国家のある手前、「郡王」しか認められなかったが、
唐にあらがって傀儡国家を滅ぼしたらかえって渤海国王に認められた。
これは独立派の方が強力であり、册封関係も実は独立性の結果である例だ。
誰にとっても独立性は魅力だから、このほうが自然なのだ。

歴史に記録と言ったって、記録する側がわけがわからなくなっている
時代だ。
そのすこし後の広開土王碑の内容だって、なんの歴史書にも残って
いなかったからこそ貴重なのではないか。
768日本@名無史さん:04/04/05 21:32

769日本@名無史さん:04/04/07 18:20
770日本@名無史さん:04/04/23 23:54
韓国で日本式横穴墓群 百済期の15基発掘

韓国の忠清文化財研究院は23日、忠清南道公州の丹芝里遺跡から日本特有の様式
とされる5世紀(百済期)ごろの15基の横穴墓群を発見したことを明らかにした。
同様の墓は5世紀末から8世紀までに九州で多く見られるが、朝鮮半島でこれほどの数
が一度に発見されたのは初めてという。4−7世紀に朝鮮半島南西部で栄えた百済と日
本の交流がうかがわれ、横穴墓の起源を知る上でも貴重な資料になると期待している。
 横穴墓は丘陵地帯にあり、それぞれ約30センチ−約2メートルの羨道(せんどう)を持ち、
遺体を埋葬した奥行き約1−2メートルの玄室の入り口には石で段差を設けた例が多く見
られた。土器や杯、鉄製のおのなどの副葬品なども発見された。
 韓国紙、東亜日報の24日付早版によると、韓国では横穴墓は2000年に公州市で3基が
発見されるなど複数の発掘例がある。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040423-00000268-kyodo-ent
771日本@名無史さん:04/05/02 03:15
保守
772日本@名無史さん:04/05/02 05:28
>>770
半島南西部は日本領で、後に百済に譲渡されたことが日本書紀にあるが、
そのときそのまま百済王に仕えた倭人豪族もいたのではないか?
773松浦ありゃりゃ:04/05/02 05:32
大伴金村の側近豪族などはその典型であろう。
774日本@名無史さん:04/05/22 04:10
ようするに、イギリスに侵入して王になったイギリス王が、
故地としてフランス側にも領土を持っていたようなものでしょ。
775日本@名無史さん:04/05/22 07:37
>>774
本当に、倭王武の上表文を読んでみなさい。
祖先以来どこをどう征服したのを自慢しているか、よく読めと。
776日本@名無史さん:04/06/14 17:37
>>775
よく分からん。

 天皇(7世紀までの称号は「大王」)の一族やヤマトの豪族たちが国土統
一戦争に明け暮れたことは、5世紀後半の倭王武(大王雄略、ワカタケルノ
大王)の上表文からも推測できます。
 
「昔より祖禰(そでい、祖の禰〔でい〕または祖先)みずから甲冑(かっち
ゅう)をつらぬき、山川を跋渉(ばっしょう、わたりあるくこと)して、寧
処(ねいしょ)にいとまあらず。東は毛人(えみし=蝦夷)を征すること五
十五国、西は衆夷(しゅうい=熊襲)を服すること六十六国、渡りて海北
(朝鮮半島)を平ぐること九十五国。」 
(出典『宋書倭国伝』)
777日本@名無史さん:04/06/14 23:01
>>776

フランスから来たイギリス王だって英仏戦争のことを
「渡りて海西を平らぐる」
と書くだろうよ。
778日本@名無史さん:04/06/14 23:23
上表文を受けて順帝は武を478年に

使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王〉に除した。

779日本@名無史さん:04/06/14 23:33
>>777
訂正
誤: 「渡りて海西を平らぐる」
正: 「渡りて海東を平らぐる」
780日本@名無史さん:04/06/15 12:25
現代人の発想=曽祖父の名前も知らない、ってな感覚で古代を考えてはならない。
幕末の薩摩が関ヶ原を語る以上に、古代人は、200〜300年前の先祖は
身近で尊重すべきものだった。

それが漢半島から日本に来たのであれば、その伝えを無視することはありえないよ。
逆に、外交の駆け引きからいっても、「元々我々は・・・」と強調するだろう。

ましてその故郷を「平らぐる」などと言うことなど。
781780:04/06/15 12:30
漢半島⇒韓半島  情けなくもすまん。
782日本@名無史さん:04/06/15 23:28
>>780
>ましてその故郷を「平らぐる」などと言うことなど。

単純過ぎる。
金官はその強力な軍事力で周辺の伽耶諸国および新羅を服属させていたと思われる。
それが倭を征服あるいは簒奪してその主体が倭に移ったとしよう。
倭は金官の軍事技術に人口と資源を合わせて大国になる。
そして建て前上、引き続き伽耶諸国および新羅に対する宗主権を持っている。
しかし時間がたてばどうしても海峡を隔てた地域への支配は疎遠になり、
周辺伽耶諸国および新羅は離反する傾向が出てくる。
倭は海を渡って示威行動を行ってこれらへの支配を再確保する。
このような行動を「海北を平らぐる」と言っておかしくない。

783日本@名無史さん:04/06/15 23:42
>金官はその強力な軍事力
伽耶が軍事的に優越だったなんて誰が確かめた?
鉄製産地から鉄器が出てくるのは当たり前だが、
だからといって軍事的に優越したかどうかはわからない。
そもそもなぜ伽耶諸国は統一した大国にならなかったのか?
784日本@名無史さん:04/06/16 00:00
>このような行動を「海北を平らぐる」と言っておかしくない。
倭の征服あるいは簒奪が応神または仁徳であるとすると、
倭王武=雄略からみて祖父または曾祖父の世代のことでしかない。
任那や新羅、百済に対する将軍号を求めるのに、半島出身であることを
隠すより主張するほうが自然だ。
武の上表文にそれがないのは、既に忘れられてしまうほど昔の
ことだったか、そんな事実はそもそも存在しないかのどちらかだ。
785日本@名無史さん:04/06/16 12:42
>782
百済の王家が、扶余の出だと自己紹介している。


倭の王家が元々南韓出身なら―

「我々は伽耶出身」
「南韓を固め、更に海を渡って倭を制した」

と書く。

外交の駆け引きから言って、一時期南韓への支配力を落とした、と取られるような事は
書かないようにするものだ。
786日本@名無史さん:04/06/16 16:19
ああこの人か、
この人は先に因果的経過書かせないと話が混乱するだけだよ。

まず因果的経過書かせましょう。
787786:04/06/16 16:21
この人とは>>782のことね
788786:04/06/16 16:31
「699 日本@名無史さん 04/03/23 19:18
3世紀末〜4世紀初頭、北九州は自動的に金官の傘下に入ったと考える。
だから改めて「侵攻」するまでもなかった。
4世紀中葉の「倭」の軍事行動は金官が主体であったと考える。
5世紀に入ると金官の王墓が作られなくなる。
前後して畿内に北方的要素の濃い河内王朝が生じる。
このころに「侵攻」というよりは簒奪、ないし平和的な政権交代が
あったと見る。」
これか
789日本@名無史さん:04/06/16 17:19
>>786
>簒奪、ないし平和的な政権交代
これを考えなくても滅亡した金官の人々が倭国に帰化した
と考えても良いですよね。
武の上表文からは少なくとも、伽耶を自らの源流と考える
意識はみえないわけで。
790日本@名無史さん:04/06/16 17:55
金官はもともと3世紀には倭領だよ。
それを簒奪したとするがこの人の説の骨子だよ。
791日本@名無史さん:04/06/16 20:56
>>790
簒奪は何世紀なんですか?
792日本@名無史さん:04/06/16 21:52
>>791
そのうち来るだろうから、本人に直接聞くのが一番。
793日本@名無史さん:04/06/17 01:10
久しぶりにきてみたらまた騎馬厨が粘着してんの?
794日本@名無史さん:04/06/17 13:51
>>783
>伽耶が軍事的に優越だったなんて誰が確かめた?

1980年代以降の発掘が確かめた。
金官は半島南部と倭を含めた領域で最初に騎馬戦闘のシステムを
獲得した。

>>784
>>785
必ず書く、と限ったものでもなかろう。
例えば権力奪取が簒奪によるものだったら、継承性の方を重視するかも
しれない。

>>789
>これを考えなくても滅亡した金官の人々が倭国に帰化した
>と考えても良いですよね。

その通りです。「帰化」した「金官の人々」は軍事技術が当時の倭
よりも進んでいるから、その人達が簒奪した、と考えればよいのです。

>>790
>金官はもともと3世紀には倭領だよ。

「倭領」ではなく狗耶韓国という倭人国家、ないし倭人居住地域。
それを3世紀末に扶余が征服して金官加羅になった。

>>791

>簒奪は何世紀なんですか?

河内王朝は簒奪後であると考えるのです。
795日本@名無史さん:04/06/17 14:00
>>794
>必ず書く、と限ったものでもなかろう。
苦しいね。
ふつう書くでしょう。
さらに言えば国号を変えるはずだね。
796日本@名無史さん:04/06/17 19:50
別に韓国全土がくまなく発掘されたわけでもないし
ほかの地域からも同様の発見が今後ないとも限らない。

よって、金官の発見だけから「“他を”支配していた」
などと言うことはできない。
少なくとも倭・新羅・百済にまで軍事的支配が及んでいた
などということはできないだろ。
実際そんな主張してる説はみたことないぞ。
797日本@名無史さん:04/06/19 10:24
>>796
時代も地域も関係無しにくまなく発掘したらそれこそ高句麗関係の発掘物が
みつかるかもしれない。だからと言ってそれはこのさい関係ない。

私が言っているのは前にも書いたとおり、3世紀末から4世紀前半、という
時代において、また半島南部と倭を合わせた地域において、金官および
すこし時代が下れば伽耶諸国の軍事技術が他にぬきんでていた、ということ。

それからもうひとつ、なんで伽耶地域と、すこし後の日本で、実用的な武装が
出土して当時の軍事技術がわかるのか、と言えばそれらが王墓や上級者の墓
など、古墳から出土するからだ。このことに注目する必要がある。

墳墓に実用的な武装を埋める習慣は百済や高句麗にさえなかった。
だから高句麗の騎馬戦術については壁画からしかわからない。
798日本@名無史さん:04/06/19 11:31
やれやれ、あんたが強力な軍事技術と呼んでるものは、鉄製品が
出土する、その一点だろう?
小国分立した伽耶はどこから人を運んできたんですか?
どうして伽耶諸国は小国分立状態が長かったんでしょうか?
799日本@名無史さん:04/06/19 15:47
>>798
やれやれ、鉄でできていれば単なる「鉄製品」か。
じゃあ伽耶からT34戦車が出土しても単なる「鉄製品」か。

「鉄製品」が騎馬戦術のシステムを表しているから意味があるのだ。
人馬用の桂甲一式が出土すれば、その裏には馬の飼育、軍馬用としての育成、
乗馬の技術、騎兵としての訓練、高価な装甲騎兵を支える社会組織、そして
鉄製品の加工技術、といったもろもろの要素が含まれていることを考えない
のだろうか。
800日本@名無史さん:04/06/19 16:14
>>799
肝心なところに答えないな。

>小国分立した伽耶はどこから人を運んできたんですか?
>どうして伽耶諸国は小国分立状態が長かったんでしょうか?
801日本@名無史さん:04/06/20 11:13
>>800
>小国分立した伽耶はどこから人を運んできたんですか?

質問の意味がわからない。
広開土王碑にも見えるとおり、当時の戦争は支配人口を増やすのが一つの
目的だった。その意味で、金官が支配人口を増やすために列島に支配を広げた
としても、それは当たり前のことだ。

>どうして伽耶諸国は小国分立状態が長かったんでしょうか?

どこか一つの國を盟主とする小王国の集合体、という意味では倭だって
同じ様なものだったろう。少なくとも4世紀前半においてはね。
802日本@名無史さん:04/06/20 12:13
>>801
金官ってどれだけ人口がいたんだ?
803日本@名無史さん:04/06/20 16:07
>>801
武器だけでは戦争できんだろ。
征服したというなら、その兵力は小国分立の伽耶はどうやって
供給できた?国家の経済基盤と富の独占を考えれば、答えが
見えてこないか?


伽耶が用いた兵力の主体はおそらく倭人の兵力さ。


馬鹿みたいな征服史観から自由になれば真実が見えるよ。
804日本@名無史さん:04/06/20 17:38
金官がそんなに軍事大国なら新羅や百済に先駆けて弁韓を統一したんじゃないの?
なんで後々までも小国分立なんだよ???
805日本@名無史さん:04/06/26 13:54
>>803
>伽耶が用いた兵力の主体はおそらく倭人の兵力さ。

まったくその通り! 私が言いたいことを言ってくれている。
金官は扶余に支配された倭人の國だった。
だから兵力の主体は倭人であるのは当然。
そのように人的資源を得るのが征服の目的でもあるのだ。

あえて言えば少なくとも当初は騎兵は扶余人、歩兵は倭人、という 区別は
あっただろう。
また列島に支配を広げた後はもっと倭人の割合が多くなっただろう。
806日本@名無史さん:04/06/26 16:57
>>805
自作自演ですか?
807日本@名無史さん:04/06/26 21:30
>>805
時間がかかったレスの割に真意をつかんでないな。
伽耶が小国分立状態だったのは鉄資源を背景にした
交易国家だったからだろう。富を増やすのに広大な土地は
必要ない。むしろ少ない人数で富を独占した方が良い。
自分たちが必要とする自衛のための軍事力は、交易相手である
倭人から得たのさ。鉄てい供給の独占契約の身代わりに。
伽耶と取引する国家は争って伽耶の鉄生産拠点とそれぞれ
結んだ。そして伽耶では鉄生産拠点を巡って倭人国家あるいは
高句麗や新羅、百済などの国家の間の代理戦争が起こった。
それが三国史記に見える新羅を攻撃する「倭人」の実態だし、
伽耶が決して統一した大国へとなかなかなれなかった原因なのさ。

そろそろ征服ー被征服の関係で歴史を語るのはやめたらどう?
808日本@名無史さん:04/06/26 22:05
>>807
その説は知っているが、兵力が交易商品である関係というのはなかなか
イメージが湧きにくい。そういう関係は歴史上、他にどんな例があるの?

先方の要求に応じて兵力を差し出すというのは、中国が周辺の國(例えば
李氏朝鮮)に兵力を出させたように、結局は支配被支配の関係ではないのか?
809日本@名無史さん:04/06/27 11:47
>>807
まあ例えば傭兵だとしよう。
その倭人傭兵が例えば安羅に雇われて、高句麗軍と戦ったとしよう。
これを高句麗人は「倭兵」「倭軍」と呼ぶだろうか?
安羅の装備をして、安羅の指揮のもとで戦ったら、それは安羅軍
と呼ばれるのではないか?
半島で戦った「倭」とは「倭人傭兵」のことだと、どうして言えるのだろうか。

810日本@名無史さん:04/06/27 12:04
>>808
少なくとも「騎馬民族」が倭国王朝を簒奪した、という
主張での「支配ー被支配」とは全く異なる関係だね。
世界中の地中からPS2が発見されたとき、日本が世界を
支配していたことになるか?
日本がアメリカを支配していたから、日本には米軍基地があったのか?
答えは自明だろう。
811日本@名無史さん:04/06/27 12:07
>>809
単純に、伽耶諸国を守っていたのは、倭人傭兵だと周辺諸国が知っていたからだろう。

812日本@名無史さん:04/06/27 12:11
倭国に人質(397)としていた百済の王子、後の腆支王が
倭の兵士と共に百済に帰国した、と三国史記・百済紀にある。
広開土王、在位391〜412。
813日本@名無史さん:04/06/27 23:39
>>810
君が言うように「鉄の供給」で王権の首根っこをにぎられた関係があったと
すれば、それが簒奪あるいは平和的支配の前段階だったとは考えられるね。
その考え方には賛成。

>>811
ローマ帝国の末期はゲルマン人傭兵がローマ軍の主体だった。
それを知っている周辺諸国の人達はローマ軍と呼ばずにゲルマン軍と
呼んだとか?
814日本@名無史さん:04/06/29 20:15

●箕子朝鮮(?〜前190頃)⇒伝説的王朝。周の武王が殷を滅ぼした際、殷の一族
が朝鮮王に封ぜられたといわれる。

●衛氏朝鮮(前190頃〜前108)⇒漢の高祖の末年、反乱に失敗した燕人衛満が
朝鮮に逃れて箕子朝鮮に仕え、国を奪って建国。現在の平壌(ピョンヤン)で
ある王険城を都とし、3代約90年間存続。

●漢の4郡⇒前漢の武帝が前108年、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・真番・玄菟・臨屯
の直轄領4郡をおく。中心は楽浪郡(現在の平壌付近、他の3郡は前75年までに廃止)
で、313年高句麗に滅ぼされるまで約400年間、漢の朝鮮支配の拠点となる。

●帯方郡⇒204年頃、遼東の太守公孫度により楽浪郡の南部を割いて設けられた。
魏・晋も領有し、倭と通交。韓族・ワイ族に滅ぼされた(313)。
815日本@名無史さん:04/06/29 20:16

土井ヶ浜遺跡は本州最西端に位置する山口県の響灘に面する西海岸沿いにある
弥生時代の埋葬跡です。土井ヶ浜海岸へ向かって、東から西に緩やかに伸びる
丘陵が存在しますが、この丘陵上には西風によって吹き上げられた砂層が厚く
堆積しています。約2,100年前ごろからこの付近に居住していた弥生人たちは
この丘陵地を墓地とするようになりました。

約2,100年前ごろからこの付近に居住していた弥生人
約2,100年前ごろからこの付近に居住していた弥生人
約2,100年前ごろからこの付近に居住していた弥生人
約2,100年前ごろからこの付近に居住していた弥生人

http://www.doigahama.jp/sub/html/flame_07.html
816日本@名無史さん:04/07/01 05:50
>>813
金官一国でどれほどの規模足りうるか考えたほうがいいのではないか?
817日本@名無史さん:04/07/01 13:31
>>816
西洋文明の源とされるアテネ王国は「どれほどの規模」だったか考えてみるとよい。
818日本@名無史さん:04/07/01 14:13
結局、何を言いたいの?
もともと半島南部は、紀元前から和人の居住区域ですよ。
だから日本に進出するにしても、外戚のコネを駆使した政略結婚などで
政権をとれたかもしれないけど、それは内紛の延長みたいなもんでしょ?
そういう場合だけですよ、物理的に大量の騎馬戦が可能でなかった、
日本という慣れない土地で、政権取れたとしたら。。政略結婚と謀略!!

騎馬民族の文化は、むしろ新しい指導者をアピールするための
ファッションとしてなら、役に立ったかもね。
日本人は新しいもの好きだし。外来文化好きだから。
受け容れちゃうと思う。。。新しいファッションの勢力に
強く押されると。。。

だいたい当時の和国の多数派にとって、古くから和人の居住地域
だった半島から来た勢力と、東日本の毛の臣とか蝦夷の勢力の、
どちらが政権をとった時に、「違う種族が政権を取った」と感じたのか???
化外の地の、蝦夷の人達だったんじゃないの? 
819日本@名無史さん:04/07/01 14:25
>>818
途中から入るとわけがわからないだろう。
おれもすべてを見ているわけではないが、
そうだな、ここでもう一度概略を示してもら
おうではないか
>>817 よろしいか?
820日本@名無史さん:04/07/01 14:32
>>817
三国史から見える戸数比較、および弁韓の分国状態のままの歴史、
そして統一することなく逆に割譲侵食され最後には併合され消滅した
歴史をみるにそのような比較は難しいと思うが如何か。
あえてアテネとの遺跡比較うんぬんは言いません。いわなくともわかる
でしょうから。
821日本@名無史さん:04/07/01 23:59
>>818
>もともと半島南部は、紀元前から和人の居住区域ですよ。
>だから日本に進出するにしても、外戚のコネを駆使した政略結婚などで
>政権をとれたかもしれないけど、それは内紛の延長みたいなもんでしょ?

あなたの意見にだいたいにおいて賛成なのだ。
狗耶韓国は倭人居住地域だったから、扶余に征服されたとき、それは「扶余の
支配する倭人の國」となった。扶余に支配されても「倭」であることに変わり
はないから、金官と言っても「倭」の地方政権の一つなのだ。

それ以後に起こったことはあなたの言うとおり「内紛」「内戦」である。
必ずしも華々しい「多多羅浜の戦い」がなくてもよいのだ。
しかしその場合も単なるファッションと言うよりは軍事技術の著しい懸隔があった
ことは前提にしなければならない。
謀略や政略結婚であったとしても、それをバックにしたものだ。

822日本@名無史さん:04/07/02 04:47
>>820
古代ギリシャと一口に言うが、決して統一された「ギリシャ」はなく、
アテネ、スパルタなどの小国の集合体であった。それらは互いに独立して
おり、互いに戦うこともあったが、ただ外的に対しては一致協力して戦った。
小国の地位は平等であったが、なんとなく「盟主」と言える國は存在した。
小国の性格は少しづつ違ったが、「武」を基本とすることは共通していた。

このような叙述は4世紀の伽耶地域と、よく似ていると思わないか?
823日本@名無史さん:04/07/02 13:07
そもそも倭人て誰だよ。縄文人のこと?弥生人のこと?その混血?それ以外の者?
824日本@名無史さん:04/07/02 23:10
>>823
弥生人、特に北九州の弥生人のことだ。
狗耶韓国などの半島南部と北九州とは、同じ文化圏に属していたと思われる。
825日本@名無史さん:04/07/05 17:25
日本列島で一番早い馬具ないし埴輪の製作は何処でいつ頃だか教えて下さい。
826>822:04/07/05 21:55
似てねえよ。
ギリシャ人に失礼だろ。
お前の妄想だ。
827日本@名無史さん:04/07/06 04:55
>>825
マキムクから出たという話もあるがそれは散発的・例外的。
まとまって出るのは5世紀初頭の九州北部が最初。
その後急速に普及して、5世紀後半には長野県などに馬の牧場
があった。
828日本@名無史さん:04/07/06 20:17

●箕子朝鮮(?〜前190頃)⇒伝説的王朝。周の武王が殷を滅ぼした際、殷の一族
が朝鮮王に封ぜられたといわれる。

●衛氏朝鮮(前190頃〜前108)⇒漢の高祖の末年、反乱に失敗した燕人衛満が
朝鮮に逃れて箕子朝鮮に仕え、国を奪って建国。現在の平壌(ピョンヤン)で
ある王険城を都とし、3代約90年間存続。

●漢の4郡⇒前漢の武帝が前108年、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・真番・玄菟・臨屯
の直轄領4郡をおく。中心は楽浪郡(現在の平壌付近、他の3郡は前75年までに廃止)
で、313年高句麗に滅ぼされるまで約400年間、漢の朝鮮支配の拠点となる。

●帯方郡⇒204年頃、遼東の太守公孫度により楽浪郡の南部を割いて設けられた。
魏・晋も領有し、倭と通交。韓族・ワイ族に滅ぼされた(313)。
829日本@名無史さん:04/07/11 23:34

◎「韓国人のルーツは中国中北部の農耕民族」

 韓国人のルーツは「中国中北部の農耕民族」であり、中国の漢族および日本人
と遺伝的に近いという主張が持ち上がった。これは韓国人が遺伝的にモンゴル人と
近く、中国人とは違うという研究結果を覆すものだ。

 壇国(タングク)大学・生物学科の金ケ(キム・ウク)教授は11日、「人類学
的な系統の分類に使う方法で、血縁関係のない韓国人185人のミトコンドリア
DNAの塩基配列を分析した結果、10人中4人程度が中国中北部の農耕民族と
塩基配列が似ているという結論が出た」と話した。

 金教授はこのような実験結果をもとに、韓国民族のルーツは「中国中北部の
農耕民族」であり、遺伝的に見て、韓国民族はモンゴル人より中国の漢族および
日本人に近いと主張した。
830 :04/07/11 23:34
 また、韓国人と日本人が遺伝的に近いということは、23O0年余前、日本列島に
定着した弥生民族が韓半島に移住したことを示す遺伝学的証拠と見ることができると
説明した。

 これは2003年、日本の鳥取大学医学部の井上貴央教授チームが発表した
「紀元前5〜4世紀(弥生時代)の日本人のミトコンドリアが韓国人と一致する」
という研究結果と同じ脈絡だという説明だ。

 現在、学界では韓国民族の起源は北方モンゴル系列だという「北方単一起源説」が
定説となっている。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/05/11/20040511000078.html
831日本@名無史さん:04/07/12 20:22

●漢の4郡⇒前漢の武帝が前108年、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・真番・玄菟・臨屯
の直轄領4郡をおく。中心は楽浪郡(現在の平壌付近、他の3郡は前75年までに廃止)
で、313年高句麗に滅ぼされるまで約400年間、漢の朝鮮支配の拠点となる。

●漢の4郡⇒前漢の武帝が前108年、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・真番・玄菟・臨屯
の直轄領4郡をおく。中心は楽浪郡(現在の平壌付近、他の3郡は前75年までに廃止)
で、313年高句麗に滅ぼされるまで約400年間、漢の朝鮮支配の拠点となる。

●漢の4郡⇒前漢の武帝が前108年、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・真番・玄菟・臨屯
の直轄領4郡をおく。中心は楽浪郡(現在の平壌付近、他の3郡は前75年までに廃止)
で、313年高句麗に滅ぼされるまで約400年間、漢の朝鮮支配の拠点となる。

●漢の4郡⇒前漢の武帝が前108年、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・真番・玄菟・臨屯
の直轄領4郡をおく。中心は楽浪郡(現在の平壌付近、他の3郡は前75年までに廃止)
で、313年高句麗に滅ぼされるまで約400年間、漢の朝鮮支配の拠点となる。
832日本@名無史さん:04/08/02 21:36
一応保守
833日本@名無史さん:04/08/24 12:44
どうして、高句麗語と思われる地名に、日本語との類似が見られるのですか?
834日本@名無史さん:04/08/24 13:11
倭の柵後じゃないのか?
835日本@名無史さん:04/08/25 09:58
>>833
半島南部で形成された倭人には、高句麗の先祖の扶余と同系であるワイ人の要素が
入っている。(もう一つの要素は半島南部に入った中国南部の非漢系民族)
3世紀末に半島南端の狗耶韓国が扶余に征服されて金官加羅が成立し、これと畿内
政権との間になんらかの濃密な関係が生じた。
という、二重の影響によるものです。
836日本@名無史さん:04/08/25 14:34
>>835
倭は半島南部で形成されたわけじゃないし、
金官加羅の言語が畿内政権の言語に影響を与えたという
推論が成り立つような根拠もない。
837日本@名無史さん:04/08/25 15:21
>>836
ここで言っている「倭人」とは弥生人のことだ。
弥生人は日本列島内部で形成されたのか?
838日本@名無史さん:04/08/25 16:09
>>837
> 弥生人は日本列島内部で形成されたのか?

全然反論になってないよ。

>>835
> 半島南部で形成された倭人には
といっているのだからまずそのことを自分で立証するのが筋だろ。

さらに>>836
> という、二重の影響によるものです。
と確定的に述べているのだから、説明は容易なはずだよな?w
839838:04/08/25 16:12
えと、わたしは>>836ではありません。横レス失礼 w
840838:04/08/25 16:23
あ、>>838
> さらに>>836

「さらに>>835で」
の間違いでした。
>>386さん 失礼しました。
841836:04/08/25 17:46
苦しゅうない。すべて許すよ。いっしょに電波をやっつけようw
842日本@名無史さん:04/08/26 13:48
>>838
私は弥生人が半島南部で形成されたという立場だが君はそうではないと言う。
すると君の立場は以下のどれかに入るはずだが、さてどれかな?

1)弥生人は列島内部で自然発生した。
2)縄文人が変化して弥生人になった。
3)弥生人は半島南部以外のどこかで形成された。
843838:04/08/26 21:15
>>842
>>835

「半島南部で形成された倭人には、・・・・・・・・・・という、二重の影響によるものです。 」
と言明しているのだからまず根拠を示しましょう。

主張した場合その主張に責任を持つのは議論のイロハですよ。
その主張を裏付ける根拠・証拠を示すのはあなたの責任。
まず立証責任をまっとうしましょう。
844日本@名無史さん:04/08/26 21:15
管理人が拳銃発砲!!!
http://bbs2.orange-e.net/?id=binbin
845日本@名無史さん:04/08/26 23:23
実は中国の歴史の半分位は韓国の歴史だと言える

中国の歴史が司馬遷の史記に出てきた殷の記録を見れば
上古時代殷は本来東夷(東夷)族が建てた国として知られている
北方民族中線雨(鮮卑)族(北魏)は朝鮮族の中国式表現で
南北朝時代中国の北部を支配した北魏(北魏)も韓民族国家なのを現わす
したがって満洲だけではなく中国北部も韓国の旧領だと言える..
金(金)国皇族の姓は実は金(金)さんで高麗に滅亡した新羅王族が建てた国だという
国本を失わないためで国名前を金(金)と称した
その後 後金(後日国号を 清という)を立てたヌルハチの
清皇族の国姓はエシンガックラ(愛新覚羅)で
新羅を愛して忘れないという意味で自らを韓民族国家なのを現わした証拠だと言える

中国は韓民族の歴史を歪曲せずに認めると当然だ


846日本@名無史さん:04/08/26 23:33
>>845
「東夷族」という民族なんてありません。
847日本@名無史さん:04/08/27 05:35
>>843
人の説に反論するにはまずじぶんの立場を明らかにするのが礼儀です。
848日本@名無史さん:04/08/27 09:30
>>835の主張の根拠書けばいいだけだろ。逃げ回っているとあなたの主張への
信用がますます低下するだけだぞ。まあ、当初から信用などないともいえるの
だが。。。

最後の信用回復の機会だとおもうぞ。がんばりましょう
849日本@名無史さん:04/08/27 14:05
>>848
とうとう自分の立場を公表できないね。
公表できないのなら、「弥生人は半島南部で形成された」という私の立場に
賛同していると見なすことにしよう。
850日本@名無史さん:04/08/27 14:42
>>849
根拠くらい書いたら?言っていることがおかしいぞ。自分で気が付かない?
851日本@名無史さん:04/08/27 15:39
>>849はしばらく頭冷やせばいい。
おれにも理解不能だ。
どうして根拠を聞くことがこちらの立場を明らかにせよにつながるのか。
まあ、それでもいいが、強いて言うなら疑義の立場。疑義があるから根拠
を聞いているわけなんだな。
対して>>849>>835で主張しているのだからその根拠を聞かれて当然。
根拠を自ら示さないのであれば根拠無き主張で、まあ、妄想とどっこい
どっこいといわれても仕方ない。
852日本@名無史さん:04/08/27 23:35
>>851
「疑義がある」というのが君の立場か。
弥生人がどこで形成されたかについて、君自身の意見を持っていないのか。
それなら議論する資格はあるまい。

それから私は金官と三輪王朝が「濃密な関係がある」と書いたのだ。
任那日本府に代表される日本と金官の関係は「濃密」と言ってもよいと
思うが、君はこれにも「疑義がある」のかね。
853日本@名無史さん:04/08/27 23:44
>>845
>清皇族の国姓はエシンガックラ(愛新覚羅)で
>新羅を愛して忘れないという意味で自らを韓民族国家なのを現わした証拠だと言える

アイシン(=愛新)が満洲語で「金」の意味なんですが。

854日本@名無史さん:04/08/28 00:17
日本の弥生顔と言われる顔は、平均的な中国人よりも
細目でのっぺりしており、新モンゴロイド度が強い。
これは北の方から来た事を意味している。

弥生人骨と同じ人骨が遼東半島から出てきている。
弥生人の故郷は華北北部、今の遼寧省〜河北省あたりと見て良い。
徐々に朝鮮に流入し、北九州に渡って来た。

しかし、弥生人骨は同時期の土着の朝鮮の人骨と形質が異なる。

日本人はよく縄文人と弥生人、 つまり土着系と渡来系の二重構造だと
よく言われるが、実はまず先に朝鮮半島の方が土着系と渡来系の
二重構造になっていたのである。
855日本@名無史さん:04/08/28 00:21
渡来人は間違いなく華北北部から陸路で朝鮮半島に入り、朝鮮半島南東部の
港から、対馬、壱岐を経て九州北岸に上陸する最も安全な航路をとっている。

あと、稲作伝来と渡来人は全く関係が無いので、もう切り離して考えるべき。
水田稲作は、渡来人がやって来る700年ほど前に九州北部で既に始まっている。
渡来人たちは朝鮮南部か九州北部に入ってから、初めて稲作を覚えたのである。
856日本@名無史さん:04/08/28 00:41
でもそれらは吉野ヶ里弥生人についてであって、土井ヶ浜弥生人においては
稲作など全くやっていない。
日本中を船で移動していた。

極めつけは、彼らは沖縄の貴重な南洋貝の専売権を牛耳っていた。
北海道南部で南洋貝と土井ヶ浜弥生人骨に近い人骨が出土している。
857日本@名無史さん:04/08/28 01:19
え?登呂遺跡の弥生人は土井が浜タイプだろ?
858日本@名無史さん:04/08/28 02:10
おいおい、嘘はいけないな。
登呂遺跡からは人骨が出ていない。

登呂遺跡は縄文後期の遺跡。
すでに土着系と渡来系の混血したものだったであろう。
859日本@名無史さん:04/08/28 02:20
登呂遺跡は弥生後期の遺跡の間違い。
ちと、逝ってくる。
860日本@名無史さん:04/08/28 16:42
>>1
征服説はありえない。
そんな大規模な事件が起きてるぐらいなら
中国の史書に書き残ってるだろ。
861日本@名無史さん:04/08/28 16:46
8月26日の共産党の中央委員会の総会で志位委員長はその報告の
最後の部分で共産党員は赤旗日刊紙を読むように指示するとともに
他のメディアを有害情報と呼び。共産党員がこれらの情報に触れさせ
ないようにしようとしている。これでは鉄のカーテンを引き国民に他国
情報に触れされないようにしたソ連や東欧。現在の北朝鮮と同じだ。
メディアに対する共産党の異常な感覚を思い知らされる。
http://www.jcp.or.jp/movie/040826_2chuso.html


862日本@名無史さん:04/08/29 14:59
>>860
4世紀に、他国の歴史を書き残すような余裕のある「中国」があったの?
863日本@名無史さん:04/08/29 16:32
晋書には四夷伝があるよ。
864日本@名無史さん:04/09/04 14:31
>>863
それは3世紀のこと。
4世紀は五胡十六国時代で、中国と言えるものが存在しない。
周辺諸国の歴史にとって「謎の4世紀」であるゆえんだ。
865日本@名無史さん:04/09/05 05:33
北魏書があるじゃん。五胡十六国時代の記憶は十分にあるでそ。
866日本@名無史さん:04/09/05 23:16
>>865
中国の史書が周辺諸国のことを書くのは「中国」の勢力が及んでいる範囲での
ことだ。
五胡十六国時代に半島と日本列島に勢力を及ぼすような「中国」が存在しな
かった。だからこれらの地域が史書に書かれず、謎の4世紀になったのだ。
867日本@名無史さん:04/09/06 08:19
あほか。北魏じたいが五胡十六国の中のひとつが成長したものだろうが。
868日本@名無史さん:04/09/06 17:02
>>867
5世紀の北魏が4世紀の五胡十六国時代を振り返って、そのころの倭との関係
について何を書くわけ?
869日本@名無史さん:04/09/06 19:01
そんなことは言ってない。そもそも北魏書には倭人伝などない。
交流してないんだから書くわけないだろ。
でももし交流があったら倭人伝(のようなもの)はできただろ。
870日本@名無史さん:04/09/06 20:19
ようは弥生時代を始めた山東半島・華北出自の連中倭で国力が高まりました。早いうちから朝鮮半島に進出
して、そのうち高句麗と覇権を争うようになりました。新羅や百済が国力を増してきたら半島から撤退
しましたって物語だろ?支配圏だった加羅諸国の中に扶余系の王朝があったってだけの話で、
そりゃ〜文化交流やらなんやらあるだろうよ。騎馬民族征服説なんてトンデモ話なだけで
何でこんな熱くなる厨がいるのかわからんな。
871日本@名無史さん:04/09/06 20:21
「連中が倭で」ねw
872日本@名無史さん:04/09/06 20:23
> 支配圏だった加羅諸国の中に扶余系の王朝があったってだけの話で

これすら怪しい。そもそも王朝と呼べるようなものでは在りません。
873日本@名無史さん:04/09/06 22:19
首長がいれば即「王朝」ってわけじゃないからな。
874日本@名無史さん:04/09/06 23:42
>>869
>そもそも北魏書には倭人伝などない。
>交流してないんだから書くわけないだろ。

まったくその通り。よくわかってんじゃん。
だから4世紀には倭や半島についての中国の記述が無く、謎の4世紀
になっている、という話をしたのさ。
賛成してくれてありがとう。
875日本@名無史さん:04/09/07 00:15
あのさ。
夫餘が金官を征服したという説ではそれを3世紀のこととしている。
4世紀ではないのだが…?
876日本@名無史さん:04/09/07 09:25
>>875
3世紀というが詳しくは3世紀末だ。
3世紀末に満洲中部の扶余が鮮卑に滅ぼされ、その直後に扶余による狗耶韓国
の征服が起こったという考え方だ。
だから金官の盛期は4世紀の大部分、4世紀末に広開土王の侵攻が起こるまで
の間だ。
877日本@名無史さん:04/09/07 11:21
小林恵子ってDQNも騎馬説の系譜なの?
878日本@名無史さん:04/09/07 11:29
騎馬隊長タイーホ
879日本@名無史さん:04/09/07 17:59
三世紀末に倭が多数居住する加羅の一地方に扶余系の首長が立つ。
そこに国力の増した大倭
(山東・華北系の筑紫や三輪、胡人の出雲などを祖とする連合体)
が神功皇后を首長として半島に進出。半島南部が倭の勢力下に入る。
加羅は半島支配の拠点となる。
文化交流(胡服や馬)や姻戚関係、ヘレニズムみたいになる。
4世紀から高句麗と覇権を争う。新羅・百済の勃興により半島から撤退。
百済とは血縁関係が濃いため以後も支援を続ける。
こんなところだべ?

880日本@名無史さん:04/09/07 21:59
>>877
なんだって?
金官の夫餘は広開土王に滅ぼされたのか???
881日本@名無史さん:04/09/07 22:05
もともと与太ったスレではあったが、ますます与太ってきたな。
882日本@名無史さん:04/09/07 23:56
>>880
広開土王に滅ぼされたのではないが、それを契機にして衰えたと推定される。
4世紀末に広開土王の南鮮侵攻があり、明けて5世紀になると本来の扶余王朝
であった金海地域は王墓が作られなくなった。
変わって釜山地域に王墓級の墓が作られるようになったが、これは金海地域と
異なって新羅の影響が強くなった。
6世紀に滅亡したいわゆる金官はこの親新羅王朝で、本来の金官とは別物である。
以上から、金官の扶余王朝の盛期は4世紀末まで、と言えるのである。
883日本@名無史さん:04/09/08 00:15
こんな馬鹿久々に見た・・・
884日本@名無史さん:04/09/12 11:14:58
>>1
>【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】

朝鮮・九州人の中では今でも現役で活躍をしています。
引退はまだ当分先のことになりそうです。
885日本@名無史さん:04/09/13 10:33:17
夫餘は満州にいたのに、なんで途中をすっとばして南端の金官に
出現するんだ?おかしいだろ。しかも途中に痕跡も残さず。
886日本@名無史さん:04/09/17 00:13:53
>>885
いくらおかしくても考古学上の事実だからしかたがない。
考古学上、金海地域で3世紀末に起こったことを、扶余の民族移動でないとして
説明する方が難しい。
途中に痕跡がない、というが、扶余は満洲中部からいったんヨクソに逃げたことは
文献にある。そんなら満洲中部とヨクソまでの途中に痕跡があるのか?
だいたい同じ距離を、再びヨクソから半島南端まで移動しても不思議ではない。
またヨクソから半島南端までの東海岸はワイ族ベルトだった。
扶余王の別名は(というより中国からもらった正式名称は)ワイ王なのだよ。
887日本@名無史さん:04/09/17 01:03:53
>>886
東夫餘というのは、夫餘が三世紀末にいったん滅びて沃沮の地に再建されたもの。
で、この場合の沃沮というのは北朝鮮の咸鏡道のことではなくて、満洲の間島・延辺のあたり。

夫餘王が「穢王之印」をもらったのは時代がぜんぜんちがう。その頃は
まだ夫餘という名前になってなかったんだから当たり前。
888日本@名無史さん:04/09/17 05:27:41
>>887
まったくその通り。
だから「扶余」と「穢」とは近縁の民族であり、その「穢」(「韓、穢、倭争って
鉄を取る」の 穢)が今の間島から半島東岸部にかけて住んで「穢族ベルト」をなしていた、
だから扶余はそれを伝って半島南端まで行けただろう、という話をしたのだ。
889日本@名無史さん:04/09/17 06:04:45
>>888
時系列であなたの言う騎馬民族説書いてみて。
890日本@名無史さん:04/09/17 07:08:32
>>874
違うぞ。北魏の正史「魏書」東夷伝には高句麗と百済の条はある。
高句麗に関しては4世紀についても両国が戦ったことなどが書かれている。
百済は472年に初めて使いをよこしてからしか書かれていないが。
891日本@名無史さん:04/09/17 09:56:17
>>889
ここではいわゆる「騎馬民族説」については言っていない。
3世紀末に扶余が鮮卑に滅ぼされてその一部が沃沮に逃れた(文献上)。
3世紀末に(考古学上)金海地域に現れた扶余文化はこの一派がさらに
金海地域に到達してもたらしたものと思われる、というところまで。

>>890
「謎の4世紀」とは主に倭の古代史に関して言うことだ。
4世紀の金官と倭について書いてあるの?
892日本@名無史さん:04/09/17 20:25:02
>>891
3世紀末の金官への騎馬文化流入は扶余と関連付けられ
るとする考えは、あとの騎馬民族説と関連する議論だから
書いているんでしょう?
まったく独立の関連性のない話ではあるまい。
騎馬民族説と今の議論がどのような関連性をもつのか、あ
なたのいう騎馬民族説の時系列での説明が必要かと思うが。

すでにどこかに書いているのであれば場所を教えてもらえると
ありがたい。
893日本@名無史さん:04/09/17 23:13:59
>>892
>3世紀末の金官への騎馬文化流入は扶余と関連付けられ
>るとする考えは、あとの騎馬民族説と関連する議論だから
>書いているんでしょう?

もちろんその通り。
騎馬民族征服説に賛成するにせよ、反対するにせよ、金官の扶余王朝は無視できない。
30年ほど前まで、学者たちは、井上なども含めて「証明できない」という立場で
逃げていた。
現在、金海地域などの発掘で少なくともそれを証明する材料が揃った今でも、
アンチ派はまずそれを否定することから出発する人が多い。
そのことはすこしさかのぼってスレを読めば分かる。
それでは議論にならないから、まずその前提を固めているのです。
894日本@名無史さん:04/09/17 23:21:53
>>893
次にスレを立てるときは概略でもかまわないから
時系列で仮説を書いてもらいたい。
でないとどの論点と関連するのか不明となる。
また、繰り返し等無用な議論を避ける意味でも有益だ。

上に書いてあるそうだが、その時間はないので
これ以上は書き込みません。
895日本@名無史さん:04/09/18 02:43:54
韓炳三・前韓国国立中央博物館長(1995)「韓国の古代文化」(日本放送出版協会)によると
狗邪韓国=金官加羅に比定されている金海大成洞古墳群では
弥生時代の遺跡からは、北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛が
古墳時代の遺跡からは、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類が出土している。

日本本土の権力が北部九州→畿内に移ったことに対応しているのだろう。
896日本@名無史さん:04/09/18 13:46:27
>>894
このスレッドは私が立てたのではない。
金官が扶余であるかどうかは「どの論点」でなく「全ての論点」と
関係する。
なぜなら江上の騎馬民族説をつきつめて言えば「扶余が倭国を征服した」
ということなのだから。
また江上説に反対する人も、金官が騎馬戦術を持つ扶余であることを前提とすれば、
そのような金官と三輪王朝との関係を説明しなければならない。
なぜなら三輪王朝の段階ですでに金官(任那)との関係はできているから。

>>895
>日本本土の権力が北部九州→畿内に移ったことに対応しているのだろう。

その通り。そしてその畿内とは年代から言って三輪王朝なのだ。

897日本@名無史さん:04/09/18 18:27:50
>>896
世界最強のモンゴル軍が、日本やジャワへの海戦で敗退を続けたように
騎馬民族は陸戦で強くても渡海は極めて不得意。
縄文時代から海洋民族として活躍していた倭人の敵ではない。

好太王碑文や倭王武の上表文が示すように、ヤマト王権が渡海して領土を広げた。
考古的にも金海大成洞の遺物が3世紀末から北九州から畿内に変わっているし
5世紀には畿内発祥の前方後円墳が任那の範囲に広がっている。
898日本@名無史さん:04/09/18 23:14:40
>>897
>騎馬民族は陸戦で強くても渡海は極めて不得意。

またそれか。
騎馬民族の扶余と言ってもそれは一握りの支配層。
金官国の大部分は倭人であり、その倭人は魏志倭人伝にもあるように
海峡を南北市テキしていた。これを使役すれば問題ないではないか。

>好太王碑文や倭王武の上表文が示すように、ヤマト王権が渡海して領土を広げた。

倭王武はディープイントゥ5世紀。
5世紀の倭王朝はすでに北方化・騎馬化している。
4世紀の倭の正体が問題なのだ。

899日本@名無史さん:04/09/19 00:41:40
>>898
やはり時系列で仮説書いたら?

>>898での
> またそれか。
などと書きたくもないでしょ?

@ 3世紀末、扶余による金官の侵略
A 騎馬化した金官勢力による倭への侵攻
   (倭の半島侵攻前《(391年前》までの倭の騎馬化)
B 騎馬化した倭の半島侵攻(391年以降、広開土王碑)

簡単に書くとこういうことだろ?

@〜Bまで問題ありだが、Aは突込みどころ満載だし、
Aを前提としたBもかなり笑える説だと思うな。ある意味楽しいが

上説と違うのであれば補正なり、自説を書いてください。
広開土王碑の読み方が違うのであればそれも論点となるな。
900日本@名無史さん:04/09/19 00:57:57
騎馬民族説なんかまだやってんの。
これ学会では全く相手にされてないよ。
901日本@名無史さん:04/09/19 01:00:03
日本書紀に引用された百済系史書によると、366年に百済と交流を初めて
372年に七支刀を送られ(現物は369年)、382年にはサチヒコが新羅に寝返っている。
397年には百済が倭国に破れて領土を割譲した上で王子を人質に出している。
対応するように好太王碑文には391-404年にかけての倭国の軍事行動が記されている。

考古的には、250年頃には畿内と吉備の連合が固まり、西日本に畿内発祥の
前方後円墳が広まり、東日本も350年頃には前方後方墳→前方後円墳に変えている。
400年代になって朝鮮半島にも前方後円墳が広がっていく。
902日本@名無史さん:04/09/19 01:06:18
>>900
ああそうか、放置スレであったのか。
ageてすまん
903騎馬民族説は古い:04/09/19 01:18:58
「大朝鮮帝国史」 1994年 東亜出版社
韓国陸軍授業、「民族史教育」にて同内容が採択。
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/jushin.htm

第1巻
* 我が民族が住む全世界を朝鮮(チュシン)という。

* 我が民族はパミール高原に源を発して、バイカル湖を経て不咸山に移動、定着した。
  不咸山に到着した我々の先祖はそこを中心に集団定着、文化を発達させ、
  紀元前6000年頃には紅山文明を、続いて黄河文明を起こした。

* 我々の先祖は既に紀元前3898年に倍達国を建て、農耕民族である中華族を制圧し、
  大帝国を建設していた。
以下略

軍隊でこういう事を教え込むのはどうかと思う。
しかも韓国は兵役あるから国民の半数はこの教育を……

過去スレ

古代史におけるアジアの覇者「大朝鮮帝国」 Part2
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1064343645/
古代史におけるアジアの覇者「大朝鮮帝国」
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1059532822/


904日本@名無史さん:04/09/19 01:28:06
この地図すごい。初めてみた。大朝鮮帝国が拡大してるぞ。


西洋のローマ帝国 VS 東方の高句麗
韓国の古代史は素晴らしいですね!
大百済帝国、恒国、古朝鮮に続き大高句麗帝国の歴史も明らかになりつつあります!





http://plaza.rakuten.co.jp/saurabi/diary/200403250000/






905日本@名無史さん:04/09/19 01:42:32
韓国人の日本偽史 / 日本人はビックリ!(小学館文庫)
■著者名: 著/野平俊水(天理大朝鮮学科卒・韓国全南大博士課程修了)
■定価: 本体 476円+税 ■発売日: 2002/04/05

なぜ韓国では日本の歴史が歪曲されて教えられているのか。韓国で信じられている「日本の偽史」をユーモラスに紹介する。

 「古代の天皇は韓国人だった」「日本海は韓国海だった」「Koreaという国名は日本の陰謀」「高天原は韓国にあった」「『くだらない』は『百済ない』だった」「法隆寺の金堂壁画の作者は韓国人」「万葉集は韓国語で書かれた」・・・・。
“最大の反日国にして最大の親日国”の韓国で一般に伝わる日本史の常識の中には、歪曲され、意図的に捏造された「偽史」が多くみられる。韓国TVにレギュラー出演し、「最も有名な日本人」として人気を博す大学講師の著者が、
韓国人の日本に対する優越思想がいかに歴史を歪めてきたかをユーモラスに紹介する。韓国人が信じたい「日本史」に、日本人はただア然!
http://www.s-book.com/plsql/sbc_book?isbn=4094027165
906日本@名無史さん:04/09/19 05:38:49
>>899
>A 騎馬化した金官勢力による倭への侵攻
>   (倭の半島侵攻前《(391年前》までの倭の騎馬化)

違う。4世紀の倭、少なくとも百済記の引用による倭の半島進出
が始まったころの倭は年代的には三輪王朝であり、まだ騎馬化・北方化
していない。それが問題なのだ。

君はそのような三輪王朝がなんの動機によってか半島進出し、騎馬戦術を
持つ扶余が蟠踞する金海付近に大軍で上陸し、人海戦術で金官を降伏させて
服属国とした、と考えるのかな?
907日本@名無史さん:04/09/19 06:11:36
考古学的にも文献史学的にも考えられないな
戦後混乱期が生んだ徒花に過ぎない
908日本@名無史さん:04/09/19 06:19:19
>>906
狗耶韓国=金官加羅は卑弥呼の時代から倭国領だったぞ。
倭系遺物に騎馬民族の要素も混じっているのだ。

当時の半島は鉄資源の供給元として重要で倭国も取っていた。
日本列島で鉄生産が確認されているのは任那が滅びた6世紀から。
909日本@名無史さん:04/09/19 23:08:54
>>908
>狗耶韓国=金官加羅は卑弥呼の時代から倭国領だったぞ。

狗耶韓国が倭人国であったことはその通り。だから扶余に支配されても
被支配層は倭人であったことは上に言った。
金官加羅は扶余に支配された倭人の國なのだ。

>倭系遺物に騎馬民族の要素も混じっているのだ。

狗耶韓国であった金海地域が騎馬化・北方化するのは3世紀末。
それ以前は吉野ケ里的な段階であったことは発掘でわかる。

>当時の半島は鉄資源の供給元として重要で倭国も取っていた。

それを扶余が押さえたことの影響を考えないといけない。



910日本@名無史さん:04/09/19 23:53:42
>>906
百済記とはいえ日本書紀を引用するとは思わなかったな。
それだと金海はもとより服属国であり争うまでもないというこ
とになりはしないか。それともその部分については引用し得な
いとするのであろうか。
それはそうと説の内容を伺っていません。>>899のような内容は
本来俺の側から書くべき事柄ではありません。
911騎馬民族説は古い:04/09/19 23:55:52

今は、大朝鮮帝国がはやり。
1万年前の国家だが、今なを領土を拡大し続けるスーパー古代国家だ。

西洋のローマ帝国 VS 東方の高句麗
韓国の古代史は素晴らしいですね!
大百済帝国、恒国、古朝鮮に続き大高句麗帝国の歴史も明らかになりつつあります!





http://plaza.rakuten.co.jp/saurabi/diary/200403250000/








912日本@名無史さん:04/09/19 23:59:31
>>909
糞チョンがいくら電波を出そうとも
好太王碑文・宋書倭国伝の上表文に任那に前方後円墳が並んでいるし
史書と考古学が調和しており、歴史捏造は無理なので諦めろ。
913日本@名無史さん:04/09/20 00:28:25
>>909
> >当時の半島は鉄資源の供給元として重要で倭国も取っていた。
>
> それを扶余が押さえたことの影響を考えないといけない。

それは仮説でしょう。4世紀前半倭から畿内を中心に鉄製武器が
まとまって多量にでるが>>906にもいうように騎馬化などはしてい
ない。仮に鉄供給源を抑えられ劣位に立ったのであれば扶余の
影響として騎馬化していないと不自然。
もとより鉄供給を生業としていた金官が扶余の侵攻によりその性
質を変え侵略性を帯びた国家に変貌したとするのであれば伽耶
はもちろんのこと新羅も吸収され統一国家ができていないと不自
然。なぜ小国のままとどまったのか、あるいはとどまることができ
たのか。
914日本@名無史さん:04/09/20 00:36:50
大朝鮮帝国の首都はパミール高原にあったそうだ。
やはり騎馬民族なのだろうか?
915日本@名無史さん:04/09/20 00:54:13
ある職能をいかし、それを対価にその独自性を維持した集団
というのは日本の歴史の中においても珍しくはないな。
916日本@名無史さん:04/09/20 09:16:18
>>913
> それは仮説でしょう。4世紀前半倭から畿内を中心に鉄製武器が
> まとまって多量にでるが>>906にもいうように騎馬化などはしていない。

古墳時代の初めから、鉄器でも畿内が優位に立っていましたからね。
いまどき騎馬民族説なんか笑い者にしかなりません。
===
神戸市東部における前期古墳について −神戸市東部には海岸線に沿って西から西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳の3古墳が東西に約2キロの間隔で並んでいる。

西求女塚古墳からは250点にも及ぶ多くの鉄製品が出土した。短剣や、槍先、刀、鏃などの武器のほか、ノミ、オノ、ヤリガンナ、ヤスなどの工具、漁具である。
当時としては貴重な鉄製品を埋納していることは、その入手が継続的に可能であったことを意味している。
豊富な鉄製品を入手し、山陰系祭祀土器をもつこの古墳の被葬者は、当時朝鮮半島からの鉄素材交易に関わっていた豪族だったのではないか。

当初半島からの鉄素材の入手では北九州が有利な地位を占めていた。弥生後期の何時ごろか、鉄素材の入手で大和が優位に立ち、その地位が逆転した。その結果大和の強大化が進行したとされる。
最近但馬地方で発見された「茶すり山古墳」などをはじめとして、この地域に何代かの豪族拠点を認め、この地域を通ずる鉄の交易ルートを想定し、但馬、播磨、摂津と続く鉄の交易ルートを通じて、
摂津の前期古墳の被葬者も大和への鉄供給の一端を担っていたのではないかとする考えが披露されている(ふるさと全史<46・47>神戸新聞)。
神戸市東部に存在する前期古墳の被葬者が大和政権の誕生前後の時期にどのような役割を演じたのか興味は尽きない。
http://world-reader.ne.jp/time-slip/m-maeda040527.html
917日本@名無史さん:04/09/20 23:54:35
>>906
>百済記とはいえ日本書紀を引用するとは思わなかったな。

年代を言ったつもりだが。
広開土王碑では倭と任那加羅(金官)は一体となって戦っている。
このような関係が生じたのは少なくともそれ以前でなければならない。

>>909
>任那に前方後円墳が並んでいるし

金官加羅周辺に前方後円墳はない。
あるのは半島西南部の、百済に割譲した地域で、5、6世紀のものだ。

>>913
>それは仮説でしょう。

「仮説」というには金海地域、釜山地域等の発掘成果はあまりに重い。
百歩譲って扶余による征服ではなく「文化受容」だとしても、この地域に
当時としては革新な技術による軍事力が生じたことに変わりはない。

918日本@名無史さん:04/09/20 23:58:01
>>913
>仮に鉄供給源を抑えられ劣位に立ったのであれば扶余の
>影響として騎馬化していないと不自然。

どうして騎馬化しないといけない?支配する側は相手を弱い状態にしておきたい
のと違うかな?
それは別として、反対派の人は後に起こった騎馬化を「文化受容」だと考える
のだろう? それなら、4世紀にすでに明らかに金官となんらかの関係を
結んでいた三輪王朝が文化的影響を受けて騎馬化してもよいはずではないか。
それが起こらなかったことは、5世紀に起こった騎馬化が文化受容以外の
動機を必要としたことを物語っていないか?

>伽耶はもちろんのこと新羅も吸収され統一国家ができていないと不自然。

倭はどうなの? 古墳時代に各地に古墳が作られたこと自体、古墳時代の
倭が小王国連合体であったことを物語っている。それと変わらないと思うが。
919日本@名無史さん:04/09/21 00:32:03
この地図すごい。初めてみた。大朝鮮帝国が拡大してるぞ。


西洋のローマ帝国 VS 東方の高句麗
韓国の古代史は素晴らしいですね!
大百済帝国、恒国、古朝鮮に続き大高句麗帝国の歴史も明らかになりつつあります!





http://plaza.rakuten.co.jp/saurabi/diary/200403250000/








920日本@名無史さん:04/09/21 01:56:09
大高句麗帝国さんがんばってください、応援しています。
921日本@名無史さん:04/09/21 04:48:20
>>918

>それは別として、反対派の人は後に起こった騎馬化を「文化受容」だと考える
>のだろう? それなら、4世紀にすでに明らかに金官となんらかの関係を
>結んでいた三輪王朝が文化的影響を受けて騎馬化してもよいはずではないか。
>それが起こらなかったことは、5世紀に起こった騎馬化が文化受容以外の
>動機を必要としたことを物語っていないか?

高句麗との戦いを通じて騎馬戦術の有用性を学んだということだ。
それまで金官にあったものは騎馬文化であって戦力として認めら
れていなかったということ。
922日本@名無史さん:04/09/21 05:57:23
>>917
前方後円墳は任那の領域に広く分布しており
東部の松鶴洞古墳には日本風の壁画も発見されている。

金官加羅では古墳時代になって畿内の影響が強く見られ
勢力の主力が北九州から機内に移ったことが伺える。

好太王碑文・宋書倭国伝の上表文のような同時代史料から、日本書紀・古事記などや
任那の領域における前方後円墳の分布といった考古学的な事実を見ても
日本の勢力が朝鮮半島への版図を広げたと見るのが当然で
それを逆に見たいのは朝鮮人の病理に過ぎない。
923日本@名無史さん:04/09/21 07:01:17
>>918
>倭はどうなの? 古墳時代に各地に古墳が作られたこと自体、古墳時代の
>倭が小王国連合体であったことを物語っている。それと変わらないと思うが。

前方後円墳の分布見ればわかるだろ。馬鹿だな。
小国が海渡って高句麗と戦ったり、百済、新羅から
人質とったりするかよ。
924日本@名無史さん:04/09/21 07:46:18
>>918
弥生時代の日本は地域によって墓制度はまちまちだったし
古墳時代初期にも西日本は前方後円墳、東日本は前方後方墳、
出雲は方墳とか分かれていたが、350年頃に前方後円墳体制でまとまった。

日本書紀引用の百済系史料や好太王碑文などが示すように
4世紀末から満を持して朝鮮半島に大きく勢力を伸ばしていったのだ。
925日本@名無史さん:04/09/21 23:56:51
>>921
>高句麗との戦いを通じて騎馬戦術の有用性を学んだということだ。
>それまで金官にあったものは騎馬文化であって戦力として認めら
>れていなかったということ。

金官の騎馬文化と言っているのは単なる乗馬の習慣でもないし、まして
遊牧文化でもない。まさに「騎馬戦闘文化」だ。
それに、高句麗の騎馬戦術を学ぶのはよいが、馬具、騎馬戦用の甲冑、
歩兵戦用の甲冑まで、すべて伽耶と同じデザインになってしまうのはなぜ?
(古墳時代の鉄製甲冑が日本製か、伽耶製かというのは学者間で決着の
つかない論争だ)

>>923
>小国が海渡って高句麗と戦ったり、百済、新羅から
>人質とったりするかよ。

文字を良く読め。「小国」ではない。「小王国連合体」と言ったのだ。
「小」は「大王」に対する相対的な「小」だ。
古墳時代の特徴は全国に古墳が分布するばかりではない。そのなかに
大きさや出土品において大王級の古墳が散見することだ。

つまり、古墳時代は畿内を盟主とする小王国の連合体だったのであり、
その点では金官を盟主とする伽耶と同じだ。
小王国連合体の倭が強盛だったのなら、伽耶が小王国連合体であったことが
弱体であることの証左にはならない、と言っているのだ。
926日本@名無史さん:04/09/22 00:00:01
>>917
>前方後円墳は任那の領域に広く分布しており

違う。半島西南部だけ。

>東部の松鶴洞古墳には日本風の壁画も発見されている。

松鶴洞は結局、円墳が二つつながったものだということになった。

>金官加羅では古墳時代になって畿内の影響が強く見られ

金官加羅と三輪王朝は関係があったことは前に言った。
それがどんな関係だったのか、が問題だ。
倭系の祭祀器具が出るからと言って倭が支配していたとは言えない。
圧倒的に多く出るのは北方系の実用的な武器だ。

>勢力の主力が北九州から機内に移ったことが伺える。

厳密にはそれも言えない。言えるのは狗耶韓国が北九州と関係があり、
金官加羅になってからは畿内と関係があった、ということだけ。
927日本@名無史さん:04/09/22 00:04:24
>>925
>日本書紀引用の百済系史料や好太王碑文などが示すように
4世紀末から満を持して朝鮮半島に大きく勢力を伸ばしていったのだ。

そのような自然発展的なすじがきは文献とはよく合う。ただ一点、金官に始まる
北方的な騎馬戦術を有する伽耶、という要素だけを除けばね。
それについては「証明されない」とか「仮説だ」とか言って意識から排除しよう
とする心情もよくわかる。私も以前はそうだったから。
928騎馬民族説は古い:04/09/22 00:37:20
この地図すごい。初めてみた。大朝鮮帝国が拡大してるぞ。


西洋のローマ帝国 VS 東方の高句麗
韓国の古代史は素晴らしいですね!
大百済帝国、恒国、古朝鮮に続き大高句麗帝国の歴史も明らかになりつつあります!





http://plaza.rakuten.co.jp/saurabi/diary/200403250000/
929日本@名無史さん:04/09/22 00:59:18
>>925
広開土王碑見てみました。
「来背急追至任那加羅従抜城城即帰服安羅人戍兵」
とあり、高句麗の南下に際して任那加羅は陥落したん
じゃないですか?そしてそれにつづけて「倭満倭潰」とあり
倭もやられたようだ。

もしも任那加羅が主体勢力であったのであればその後にも
「十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界」
などと高句麗と戦うのは不自然だとおもうけど。
どのような経路で入ったのかは不明だけど陸路なら
任那加羅を回復したのは倭でしょう。海路なら
特に任那加羅を回復してなくとも可能だと思います。
いずれにしても倭の半島進出に際して任那加羅が
主体勢力であったとは思いません。
930日本@名無史さん:04/09/22 01:38:47
>>928
よくわからないがフン族の版図を横取りしてるのか?

ついでのように九州をとられてるのが割と面白い。
931日本@名無史さん:04/09/22 07:13:59
>>925
> 金官の騎馬文化と言っているのは単なる乗馬の習慣でもないし、まして
> 遊牧文化でもない。まさに「騎馬戦闘文化」だ。

残念ながら5世紀以降古墳中期以後倭において見られ
る騎馬風習はとても騎馬戦術を想定できるものでは
ありません。伽耶からの流入を強調することは逆に
伽耶が騎馬戦術を欠いたせいぜい騎馬文化であった
ことを証明するようなものです。
そして、伽耶は実際騎馬戦術を欠いていたと思いま
す。

>それに、高句麗の騎馬戦術を学ぶのはよいが、馬具、騎馬戦用の甲冑、
>歩兵戦用の甲冑まで、すべて伽耶と同じデザインになってしまうのはなぜ?
>(古墳時代の鉄製甲冑が日本製か、伽耶製かというのは学者間で決着の
>つかない論争だ)

上述のごと、高句麗の騎馬戦術そのものを学んだの
ではなくして騎馬の必要性あるいは馬の便利性を学
んだということでしょう。
しかし、倭のそれは繰り返しますが、騎馬戦術を想
定できるといった代物ではなかった。

それと伽耶と同じデザインうんぬんとありますが、
倭の属国であったので特に言うことはありません。

ところで、短甲が半島に比して圧倒的数で出土する
ことはなにを物語るのでしょうか。騎馬には不向き
です。

「文字をよく読め。」以降は意味が不明です。
932日本@名無史さん:04/09/22 07:14:23
>>927
話の混乱の原因は
> ただ一点、金官に始まる
> 北方的な騎馬戦術を有する伽耶、という要素だけを除けばね。
とする点にあるのではないでしょうか。
騎馬化している金官が倭に負けるはずがない、とす
る思い込み、願望が他の資料との矛盾を生じさせて
いるとは思いませんか?
倭の半島進出につき、広開土王碑、三国史記、日本
書紀とも矛盾はありません。
933日本@名無史さん:04/09/22 08:07:50
>>926
任那全域に前方後円墳が分布すると都合が悪いから
南西部だけに限定することにしたいんだろ。

朱塗り石室が韓国にも、日本様式初の確認 (2000年10月2日15:34):読売新聞ニュース
 韓国南部の慶尚南道固城(コソン)郡の松鶴洞1号墳で、内部を赤色顔料で朱塗りした横穴式石室(六世紀前半)が、同国の東亜大付属博物館の調査で二日までに確認された。
日本(倭)独特とされた朱塗りの石室が、韓国で確認されたのは初めて。日本の須恵器も出土していることから、日本の古墳祭祀(さいし)文化の影響とみられる。
大陸や朝鮮半島から文化を一方的に導入しただけではなく、日本も文化を伝えていたことを示す重要な成果として注目される。
 石室は墳丘北側で、長さ約九・八メートル、幅〇・八五〜二メートル、高さ一・四五〜一・五八メートル。天井や床、壁がベンガラ(酸化鉄)とみられる顔料で真っ赤に塗られていた。
 朱色は、古代中国で血につながる生命力の象徴や不老長寿願望を反映したものと考えられていた。朝鮮半島ではこれまで発見されていなかった。
 松鶴洞1号墳は一九八三年、韓国の研究者が「前方後円墳」と紹介し、日本独自とされていた前方後円墳のルーツではないかと論争になった。
 一帯には、日本と交流のあった伽耶(かや)諸国(四世紀初め〜六世紀半ば)があったとされ、「日本書紀」などでは「任那(みまな)」と呼ばれる。
 沈奉謹・東亜大付属博物館長は「日本に近く、葬送儀礼に倭人がかかわったとも考えられる」と話している。
934日本@名無史さん:04/09/22 13:42:27
>>931
>残念ながら5世紀以降古墳中期以後倭において見られる騎馬風習はとても
>騎馬戦術を想定できるものではありません。

なにをもって「騎馬戦術」としているのか知らないが、日本書紀を見れば
神功記以降は馬臭ふんぷんとしている。これを裏書きするように日本各地に
5、6世紀の馬の牧場の遺跡がある。
倭は半島への軍馬の供給基地となっていたのだ。
このような騎馬戦闘の文化が結局は源平/鎌倉時代の、騎射をアイデンティティ
とする武士集団へとつながっていくのだ。

>そして、伽耶は実際騎馬戦術を欠いていたと思います。

して、その根拠は?

>それと伽耶と同じデザインうんぬんとありますが、
>倭の属国であったので特に言うことはありません。

倭の属国であるのはその通り。しかしそれが倭の征服によるものであれば
なんで被征服国側のデザインに統一する必要があるの?

>騎馬化している金官が倭に負けるはずがない、とする思い込み、願望が

倭の半島進出は三輪王朝の時代でなければならないが、三輪王朝が金官を
服属させたことについて、どんな事件を想定するのか、それを説明できない
すじがきはなりたたない。
935日本@名無史さん:04/09/22 13:46:09
>>926
>任那全域に前方後円墳が分布すると都合が悪いから
>南西部だけに限定することにしたいんだろ。

ぜんぜん都合悪くない。固城は安羅の領域で、安羅はいわゆる金官滅亡後の
任那日本府が置かれたところだから、倭人の墓があって当然だし、それが
前方後円墳であってもまったく差し支えない。
ただ、ベンガラで塗られているから前方後円墳だ、ということは言えない。
墓室の様式と墳の外形は別だ。
そして引用されている説はその年次が示すように、現在では古い説だ。
一方、その後に発見された半島西南部の11基の墳墓は前方後円墳であることが
確定している。
936日本@名無史さん:04/09/22 15:48:00
>>935
全然古くない。朝鮮半島で前方後円墳の存在が言われてから17年後だ。
ここ数年、任那南西部に限定しようと言う歴史捏造工作がある。

中国・日本・朝鮮の歴史資料や前方後円墳などの遺跡と合う考えではなく
トンデモな騎馬民族説に固執するのは精神病理的な問題だな。
937日本@名無史さん:04/09/22 23:27:31
日本語とか朝鮮語というのは満州語やモンゴル語と同じウラル・アルタイ語系文法なわけだけど、
いつの時点からそうなのか分かる人いる?
仮に騎馬民族説が正しいとしたら、ツングース系扶余族王朝が成立して以降に、
「主語・目的語・述語 SOV」になり、それ以前は違ってたのか、
それとも卑弥呼の時代からそうだったのか。
それと朝鮮半島では新羅が純朝鮮族初の統一王朝になるわけで、
高句麗は異民族、百済は支配層が別になってるわけだが、百済では支配層は別言語だったのか、
そして半島統一新羅時代の支配者層の言語はウラル・アルタイ系だったのか、それとも別なのか。
もし騎馬民族説が成り立つなら、半島と日本列島では、支配者層が通訳なしに会話できてたことになるんだが。
ところが万葉集は明らかに今の日本語に連なる大和言葉で書かれてる。
(実は古代朝鮮語で書かれた性愛歌だと、現代韓国語で解読して、そう言い張ってる人もいるけど)
それはどう説明するのか?
938騎馬民族説は古い:04/09/23 00:01:38
この地図すごい。初めてみた。大朝鮮帝国が拡大してるぞ。


西洋のローマ帝国 VS 東方の高句麗
韓国の古代史は素晴らしいですね!
大百済帝国、恒国、古朝鮮に続き大高句麗帝国の歴史も明らかになりつつあります!





http://plaza.rakuten.co.jp/saurabi/diary/200403250000/


939日本@名無史さん:04/09/23 00:14:05
韓国人の日本偽史 / 日本人はビックリ!(小学館文庫)
■著者名: 著/野平俊水(天理大朝鮮学科卒・韓国全南大博士課程修了)
■定価: 本体 476円+税 ■発売日: 2002/04/05

なぜ韓国では日本の歴史が歪曲されて教えられているのか。韓国で信じられている「日本の偽史」をユーモラスに紹介する。

 「古代の天皇は韓国人だった」「日本海は韓国海だった」「Koreaという国名は日本の陰謀」「高天原は韓国にあった」「『くだらない』は『百済ない』だった」「法隆寺の金堂壁画の作者は韓国人」「万葉集は韓国語で書かれた」・・・・。
“最大の反日国にして最大の親日国”の韓国で一般に伝わる日本史の常識の中には、歪曲され、意図的に捏造された「偽史」が多くみられる。韓国TVにレギュラー出演し、「最も有名な日本人」として人気を博す大学講師の著者が、
韓国人の日本に対する優越思想がいかに歴史を歪めてきたかをユーモラスに紹介する。韓国人が信じたい「日本史」に、日本人はただア然!
http://www.s-book.com/plsql/sbc_book?isbn=4094027165
940日本@名無史さん:04/09/23 01:43:27
復元中の渤海の旧首都「上京」

 中国当局が大々的な復元事業を行っている渤海(パルへ)の旧首都、上京・龍泉府の
壮大な規模が一目で分かる衛星写真が初めて公開された。
 今月12日、黒龍江省・寧安市・渤海鎭一帯を撮影したこの写真には、外城の長さ
16キロ、推定面積480万坪に達する当時東アジア第2の都市、上京の姿が見られる。
 この写真は(株)ウィア衛星事業チームが公開した。
 中国はユネスコの世界文化遺産の登載を目標に、今年4月から2年間、約20億元
(約2800億ウォン)を投じる大々的な復元事業に着手したが、中国様式に従って城を
復元するなど、歪曲の恐れが高い。
ttp://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/09/22/20040922000018.html

渤海の遺跡発掘したら、何かの文書とかで日本古代史のこと分かったりしないかな?
日本に使節送ってきてたし、いろいろ聞かされてる可能性だってあるかも。
941日本@名無史さん:04/09/23 04:20:12
>>936
固城の双円墳や、南西部の11基の前方後円墳が、半島に進出した倭人の墓である
と考えることがなんで騎馬民族説なの?
942日本@名無史さん:04/09/23 11:01:44
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943日本@名無史さん:04/09/23 23:20:48
>>937
支配者の言葉が必ずしも被支配者の言語を置き換えるわけではない。
イギリスの場合は支配者のフランス語と被支配者のゲルマン語がミックスした。
清国の場合は支配者の満洲語が被支配者の漢語に完全に吸収された。
944日本@名無史さん:04/09/23 23:57:21
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西洋のローマ帝国 VS 東方の高句麗
韓国の古代史は素晴らしいですね!
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945日本@名無史さん:04/09/24 00:06:26
>>936
ttp://zaiwazan.hp.infoseek.co.jp/hanguku-0305.htm
より引用:
「釜山からバスで約2時間、固城の町はずれにある古墳群です。その内1号墳は、韓半島に
前方後円墳が存在する説の発端となった古墳ですが、最近の調査で、実は重なり合った
3基の円墳だったことが、韓国・東亜大学校が1999年から2002年6月まで実施した発掘調査
によって明らかにされました。   

これまで1号墳は、測量や外観などにより前方後円墳と認識されていたましたが、発掘調査の結果、
前方部は独立した円墳であること、また墳丘の括れとされた部分にも石室があることが確認され
ました。」

松鶴洞1号墳が前方後円墳でないというのは、発掘調査の結果なのだよ。

946日本@名無史さん:04/09/24 02:56:24
>>943
いや、だからさ、北東アジアの基層言語はどうだったのかということ。
仮にどのように変化しようと、今現に、モンゴルから満州、朝鮮、日本と、
ほぼ同じ言語構造してるわけだが、それとツングース系民族の移動の影響とが関係してる
のかしてないのかということを問うているんだよ。
つまり、もともとこの地域では皆、ウラル・アルタイ語系言語であり、
卑弥呼もそういう言語を話してたのかという疑問ね。
であれば支配者民族が変化しなくても、そういう言語の関係で何の不思議ではないが、
卑弥呼の頃は言語構造が違ってるんなら、騎馬民族説は否定できなくなるだろ?
でなきゃあ、なんで突然変化したのかってことになる。
でも万葉集の存在もあるし、俺が考えでは、北東アジア一帯ではもともとウラル・アルタイ語系だが、
ツングース系が半島に進出して、半島だけ言語が大きく変化した。
そのため韓国語と日本語はもともとほぼ同じ言語だったのが乖離し、
基本文法・言語構造がほぼ同じなのに、基本語彙が全く違うようになったのではないかということだが。
947日本@名無史さん:04/09/24 03:48:11
>>946
「ウラル=アルタイ」という考えは今の言語学にはない。
ウラル諸語とアルタイ諸語はぜんぜん別の言語。

またアルタイ諸語はトルコ語、モンゴル語、ツングース語の三語のことだが
これらも実は相互にあまり関係はない。なので今はアルタイ「語族」という
まとめ方はしていない。
948日本@名無史さん:04/09/24 09:13:34
>>945
ごめん。URLが間違っていた。
誤:zaiwazan
正:zaiwakan
949日本@名無史さん:04/09/24 10:05:30
>>929
「安羅人戍兵」は次の文章の始まりだ。
その前からの続きで言えば「新羅城」を占領していた「倭賊」を退け、
それを急追して「任那加羅従抜城」に至った。そして城はたちまち(即)
帰服した。

「任那加羅」はその前に「新羅従男居城」というのがあるのでわかるように
国名ないし地域名であって城の名前ではない。(「新羅城」は「新羅従男居城」
のくりかえし)
つまりいくつかある任那加羅の城の一つである。これが落ちても任那加羅国
ぜんたいが「陥落」したことにならない。
「帰服」というのは以後の服従を誓うことであり、高句麗軍が引き揚げた後に
再度の懲罰覚悟で「違誓」することができるのは、その前の百済王の例に見る
通りである。

ところで私が注目するのは、「任那加羅」が「人」「賊」「兵」などとして
まったく表面に出ないことだ。(地域名としては上記のように1回出る)
任那加羅は、退却した倭軍を収容したのであるから倭の同盟国であるが、
それなら城にこもるだけで作戦しなかったのか?と言えば一方で「安羅人戍兵」
がさかんに働いているのだから、まだ伽耶地域の盟主であった金官が作戦に
加わらないというのはおかしい。

恐らく「広開土王碑」は「倭」と「金官(任那加羅)」を区別せず、一括して
「倭」と呼んでいるのだ。
金官と倭のどちらが「連合倭」の主体であったかは、碑からはわからないが、
少なくともそれらが一体として行動し、全体として「倭」と見なされていた
ことが推定される。
950日本@名無史さん:04/09/24 10:31:47
>>949
>金官と倭のどちらが「連合倭」の主体であったかは、碑からはわからないが、

それは違うだろ
倭以辛卯年来『渡海』破百残□□新羅以為臣民

百済・新羅を破り臣民としたのは海を渡った倭としか読みようがない。
951日本@名無史さん:04/09/24 11:44:39
>>950
連合国ではなくて服属国だろ。
かってに連合国にするな。
952日本@名無史さん:04/09/24 15:07:10
>>949

金官は倭の服属国なればこそ高句麗の南下に際して
あっさり降伏。それに対して対抗することもない。
主体であれば、徹底抗戦。また高句麗も徹底的に叩
かねばならない。なぜなら元凶となるわけだからな。

>「帰服」というのは以後の服従を誓うことであり、高句麗軍が引き揚げた後に
>再度の懲罰覚悟で「違誓」することができるのは、その前の百済王の例に見る
>通りである。

「九年己亥百残違誓与倭和通」
と百済が「違誓」できたのは背後に倭があったからだよ。
953日本@名無史さん:04/09/24 15:50:46
>>947
そんなこまかいことじゃなくって、
だいたいの構造のことだよ。
SOVとか膠着語とかの点。
954日本@名無史さん:04/09/24 18:46:28
ROMのものだけどごめん
日本史板というから来て見たら
高校生とかあふぉ大学生のレベルのものばっかでびっくりした 
論理・論法・論理式のいろはも知らず
とくとくとゴミのような文字列を書いているアホばかりで
びっくりした

そんな中でこのスレ中の理論展開は「いろんな意味で」
おもしろかった

自分は素人でどこが事実(定説)で どこが仮説で 
どこが俗説で どこが書込みをしている人の
単なる思い込みか分からないので理解できないことも
多いけど
二人のまじめなガチンコはためになった
自分でスレをたてる気は無いけど誰か続編を立てて下さい



955日本@名無史さん:04/09/24 18:57:00
>>954
騎馬民族説なんてのがアホなんだよ。
読むな。馬鹿が感染るぞ
956日本@名無史さん:04/09/24 23:24:19
>956
まあ、これは、学会では完全に滅亡した学説ですから。
相手にしない方がいいですね。
957日本@名無史さん:04/09/24 23:24:42
この地図すごい。初めてみた。大朝鮮帝国が拡大してるぞ。


西洋のローマ帝国 VS 東方の高句麗
韓国の古代史は素晴らしいですね!
大百済帝国、恒国、古朝鮮に続き大高句麗帝国の歴史も明らかになりつつあります!





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958日本@名無史さん:04/09/24 23:59:18
>>950
>それは違うだろ
>倭以辛卯年来『渡海』破百残□□新羅以為臣民

「渡海」は私の説の弱点だ。しかしそれに対しては二つのことが言える。
1)「渡海」は碑の「読める」字のなかでもっともあてにならない字だ。
2)辛卯年にとつぜん海を渡って来て臣民にしたように読めるのは文章の
あやで、倭はそれ以前から百残新羅を臣民にしていなければならない。
そのことと、今回特に大軍が渡海して来て金官と共同作戦したことを一つの
文章で言おうとしたから、このような表現になったと考えられる。

>>951
>連合国ではなくて服属国だろ。かってに連合国にするな。

服属国であってもよい。その服属国のなかで「安羅」は軍として名指されて
いるのに、より重要であったはずの「任那加羅(金官)」は地域名を除いて
名前がないのはなぜか、任那加羅=倭と認識されたのではないか、ということ
を言ったのだ。

>>949
>主体であれば、徹底抗戦。また高句麗も徹底的に叩かねばならない。

主体はこの時点ですでに列島に移っていてもよい。むしろその可能性の
ほうが高い。
どちらが主体であるにせよ、倭と金官は一体として区別されていない、
というところに重点がある。

>百済が「違誓」できたのは背後に倭があったからだよ。

金官だって背後に倭がいる。現に金官はこのとき滅びなかった。
広開土王の高句麗も荒し回るだけで、常駐して占領する力はないのだから当然。
959日本@名無史さん:04/09/25 02:22:32
次世代のアジアを担う高校生には、極右暴力集団「新しい教科書を作る会」
の皇国史観教科書ををつかわせてなりません。

彼らの歴史歪曲は、京都大学が作った朝鮮関係新聞データベースで調べれば
すぐに分かることです。

http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/

さっそくデータベースを検索してみましょう!!
戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索の画面に移ります
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/shinbun/

キーワードを入力します
最初は「強制連行」にしますか
えいっ!
・・・・検索中・・・・しばらくお待ちください

http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/cgi-bin/shinbun/shinbuns.cgi?midashi=%CC%A9%B9%D2&shinbun=&local1=&local2=&bunrui=&_ymd=no&year1=&month1=&beforeyear=&beforemonth=&afteryear=&aftermonth=&karayear=&karamonth=&madeyear=&mademonth=&perpage=100&page=1
でました!おびただしい数の新聞記事です!!やはり強制連行は真実だった!!

次は「奴隷、虐待、差別」で検索します
・・・・・検索中・・・・しばらくお待ちください

http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/cgi-bin/shinbun/shinbuns.cgi?midashi=%C9%D4%ED%F7&shinbun=&local1=&local2=&bunrui=&_ymd=no&year1=&month1=&beforeyear=&beforemonth=&afteryear=&aftermonth=&karayear=&karamonth=&madeyear=&mademonth=&perpage=100&page=1
でました!209件もあります!
絶句!!ゆるせないですね。

歴史の歪曲を許してはなりません。



960日本@名無史さん:04/09/25 12:29:48
>>959
鮮人の密航と不逞行為の記事かよ。
961日本@名無史さん:04/09/25 13:33:07
>>953
だったら最初からそう書けよ
藻前の用語の使い方がデタラメだから余計な誤解を招いたんだろうが
962日本@名無史さん:04/09/25 13:37:43
安羅は三世紀の段階(安邪)から金官(狗邪)とならんで
弁韓の中では重要な国だったから、出てくるのは不思議ではないが
弁韓諸国は連合軍として行動していたろうから、高句麗からみて一体。
弁韓の連合軍が安羅に駐屯していたから安羅軍といっただけでは?

それと碑文の任那加羅って金官のことかね?高霊である可能性はないのか?
963日本@名無史さん:04/09/25 13:45:06
>>946,>>953
アイヌ語なんかは南方系の「抱合語」の構造。
日本語も古くは「抱合語」だったのがアルタイ諸語(ツングース?)の影響で
膠着語になったとの説があったが、いまいち精密さに欠ける説で却下だろうな。
弥生時代の渡来人が華北からにせよ江南からにせよ、彼らが膠着語をもってきた
とは考えられない。高句麗などの夫餘系の諸語が膠着語だったとしても、その頃は
すでに倭人語も膠着語だったろう。
縄文時代とかものすごく古く溯れば東南アジアみたいな孤立語だった可能性もあるが
あまり古すぎてとりあえず関係ないだろうし。
964日本@名無史さん:04/09/25 19:34:40
いまNHK3で、高松塚壁画にアフガン産の青金土ラズピが使われていたことを
検証してる
965日本@名無史さん:04/09/25 22:31:56
次世代のアジアを担う高校生には、極右暴力集団「新しい教科書を作る会」
の皇国史観教科書ををつかわせてなりません。

彼らの歴史歪曲は、京都大学が作った朝鮮関係新聞データベースで調べれば
すぐに分かることです。

http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/

さっそくデータベースを検索してみましょう!!
戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索の画面に移ります
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/shinbun/

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最初は「強制連行」にしますか
えいっ!
・・・・検索中・・・・しばらくお待ちください

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でました!おびただしい数の新聞記事です!!やはり強制連行は真実だった!!

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・・・・・検索中・・・・しばらくお待ちください

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でました!209件もあります!
絶句!!ゆるせないですね。

歴史の歪曲を許してはなりません。
966日本@名無史さん:04/09/25 23:31:45
>>962
>弁韓諸国は連合軍として行動していたろうから、高句麗からみて一体。

「倭」と区別していないことを言ったのだけど。

>弁韓の連合軍が安羅に駐屯していたから安羅軍といっただけでは?

「安羅軍」ではない。「安羅人」だ。連合軍を安羅人と呼ぶのはおかしい。

>それと碑文の任那加羅って金官のことかね?高霊である可能性はないのか?

日本書紀は「任那」の意味を狭くは「金官」、広くは植民地ぜんたいに、自在に
縮めたり伸ばしたりして使っているが、これは「やまと」などと同様に「任那」
に象徴的な意味を含ませているからだ。
高句麗がそんな言葉の使い方をするとは思えない。高句麗が任那と言えば
もとの意味の(狭義の)任那だろう。

967日本@名無史さん:04/09/26 02:49:48
だから、元の教義の「任那」が
金海の狗邪=駕洛をさしていたのか
高霊の弥馬邪?=大加羅をさしていたのか
昔から論争があるじゃん。これが解決したとはきかないが?
968日本@名無史さん:04/09/26 05:36:53
戦いのすじがきに即して言えば金官のほうが妥当。
倭が高霊のような内陸へ逃げるのはおかしい。
やはり金官という「橋頭堡」のほうへ逃げようとするだろう。
距離的にも、高霊では新羅城から遠すぎる。
969日本@名無史さん:04/09/26 09:38:37
ペルシャの影響あっても不思議じゃないだろ
高麗犬なんてアフリカのライオンだからな。
当時の日本人は西洋伝来のものを高麗のもの
970日本@名無史さん:04/09/26 16:42:45
こまいぬ 0 【▼狛犬】 *大辞林
〔高麗(こま)の犬、の意〕神社の神殿や社寺の前庭に置かれる一対の獅子(しし)に似た獣の像。
ライオンを基に形象化されたもので、初めは犬に似ていたが、平安末期に獅子に近い形になった。こま。

こま‐いぬ 【×狛犬】 *大辞泉
《「高麗犬」の意》神社の社頭や社殿の前などに置かれる、一対の獅子(しし)や犬に似た獣の像。
魔よけの力があるといわれ、昔は宮中で几帳(きちよう)や屏風(びようぶ)の揺れ動くのをおさえるおもしとしても使われた。こま。
971日本@名無史さん:04/09/26 17:03:20
参考資料、ここに置いときますね。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
日本の古墳を代表し、固有の墓制と考えられてきた前方後円墳。それが近年、韓国南部で相次いで見つかっている。
いずれも5世紀後半からのわずか数十年の間に築かれ、6世紀前半には一斉に姿を消した。
当時の朝鮮半島は北方から南進してきた高句麗に対し、新羅や百済など南部の諸国が存亡をかけて激しく争っていた激動期。
海を隔ててこつぜんと現れ、消えた前方後円墳は、古代日本と朝鮮半島のどのようなかかわりを物語っているのだろうか。

東京、国学院大で昨年暮れに開かれたシンポジウム「韓国古代の前方後円墳と日本の古墳文化」で、韓国でこれまでに13基の
前方後円墳が見つかっていることが報告された。ほとんどが南西部・栄山江流域にある。
朝鮮半島にも前方後円墳があるとの説が韓国の研究者によって唱えられ、「源流は日本でなく朝鮮半島」と主張されたのは83年のこと。
その後、相次いで存在が確認され始め、90年代に本格的に調査が進められた。その結果、築造時期が5世紀後半以降であることがわかり、
3世紀には出現している日本の前方後円墳のルーツとはならないことがはっきりした。

それでは誰がどのような経緯で、前方後円墳を朝鮮半島にもたらしたのだろうか。
5世紀の朝鮮半島。西に百済、東に新羅、南東部に伽耶諸国が競う南部に、北の高句麗が勢力拡大を始める。
新羅は当初屈伏し、服属を余儀なくされたが、5世紀半ばから百済と共同戦線を張るようになる。
475年には百済が首都の漢城(ソウル付近)を奪われ、南の熊津(広州)へと移った。
朝鮮半島の混乱は、倭と呼ばれた当時の日本にとっても深刻な問題だった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(『韓国の前方後円墳・一瞬の出現に倭国の影』朝日新聞(夕刊)・2004年2月18日)
972日本@名無史さん:04/09/26 17:04:43
続きでつ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
倭の大和政権は、近畿の勢力が各地の豪族と結んだ連合体であり、その目的は鉄の確保にあったというのが有力な見解だ。
弥生時代の倭は、鉄を朝鮮半島南部での産出に頼っていたと中国の史書『魏志』韓伝は伝える。
古墳時代にも事情が変わっていなかったことは、朝鮮のものと同じ膨大な鉄の延べ板が近畿の古墳にも副葬されていることや、
明確な製鉄遺構が見つかるのが6世紀以降であることなどからわかる。

依存したのは、鉄だけではない。古墳の副葬品の中心が、鏡などの呪術的なものから、馬具をはじめ朝鮮半島の影響が強い品々に移る。
故・江上波夫氏の「騎馬民族説」はこの変化に注目したものだが、現在では、強力な騎馬軍団を誇る高句麗に対抗するため、
倭人が馬の生産とそれを使った戦術を朝鮮半島の人びとから学んだ結果だったという考えが支配的だ。

高句麗の圧迫で、親密な関係を保ってきた百済や伽耶が危うくなれば、鉄をはじめとする先進文化を得るルートが絶たれかねない。
危機感を抱いた倭は積極的な関与に乗り出す。
百済の南遷直後の479年、大和政権の支持で、倭で生まれ育った百済の東城王が筑紫国(北部九州)の軍士500人に守られて
朝鮮半島に帰ったと伝えるなど、『日本書紀』には、当時の雄略朝が百済にたびたび支援を送ったとする記事が見られる。
栄山江流域には比較的自立を保っていた勢力がいたとされ、南遷した百済は、さらに南のこの地域を支配下に組み込むことで
盛り返そうとしたとの見方が強い。南下をめざす百済への倭の支援が、前方後円墳出現につながったと研究者はみる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(『韓国の前方後円墳・一瞬の出現に倭国の影』朝日新聞(夕刊)・2004年2月18日)
973日本@名無史さん:04/09/26 17:18:44
アカ匪新聞はチョンの歴史捏造に協力するから注意しよう。
近年は半島南西部以外の前方後円墳を否定しようと捏造する動きがある。
===
朱塗り石室が韓国にも、日本様式初の確認 (2000年10月2日15:34):読売新聞ニュース
 韓国南部の慶尚南道固城(コソン)郡の松鶴洞1号墳で、内部を赤色顔料で朱塗りした横穴式石室(六世紀前半)が、同国の東亜大付属博物館の調査で二日までに確認された。
日本(倭)独特とされた朱塗りの石室が、韓国で確認されたのは初めて。日本の須恵器も出土していることから、日本の古墳祭祀(さいし)文化の影響とみられる。
大陸や朝鮮半島から文化を一方的に導入しただけではなく、日本も文化を伝えていたことを示す重要な成果として注目される。
 石室は墳丘北側で、長さ約九・八メートル、幅〇・八五〜二メートル、高さ一・四五〜一・五八メートル。天井や床、壁がベンガラ(酸化鉄)とみられる顔料で真っ赤に塗られていた。
 朱色は、古代中国で血につながる生命力の象徴や不老長寿願望を反映したものと考えられていた。朝鮮半島ではこれまで発見されていなかった。
 松鶴洞1号墳は一九八三年、韓国の研究者が「前方後円墳」と紹介し、日本独自とされていた前方後円墳のルーツではないかと論争になった。
 一帯には、日本と交流のあった伽耶(かや)諸国(四世紀初め〜六世紀半ば)があったとされ、「日本書紀」などでは「任那(みまな)」と呼ばれる。
 沈奉謹・東亜大付属博物館長は「日本に近く、葬送儀礼に倭人がかかわったとも考えられる」と話している。
974日本@名無史さん:04/09/26 20:33:35
>>973
その同じ東亜大学校の調査で、松鶴洞1号墳の前方部からも、つなぎの部分からも
石室が発見されて、「重なり合った複数の円墳」という結論になったのだ。
ttp://zaiwakan.hp.infoseek.co.jp/hanguku-0305.htm

これ以外にも、「松鶴洞、円墳」でぐぐれば沢山のページがある。
975日本@名無史さん:04/09/26 21:52:53
どちらにしろ松鶴洞1号墳が日系の墓であることには変わりない。
日本の影響を不自然に場所が離れた半島南西部に限定させようとするのは
歴史捏造工作との疑いを持って厳しく見る必要があるだろう。
976日本@名無史さん:04/09/26 22:03:30
大朝鮮帝国は騎馬民族国家です
977日本@名無史さん:04/09/26 22:14:50
牙一族
978日本@名無史さん:04/09/27 01:47:35
>>963

>弥生時代の渡来人が華北からにせよ江南からにせよ、彼らが膠着語をもってきた
とは考えられない。高句麗などの夫餘系の諸語が膠着語だったとしても、その頃は
すでに倭人語も膠着語だったろう。

だったらいつ日本語は膠着語になったんだ?
アイヌが抱合語なんだったら、縄文時代は抱合語だったわけだ。
弥生時代、稲作は中国長江流域から、北方の圧迫を受けた種族が
日本に渡ることで伝わったという説があるが、彼らが膠着語のわけないから、
すると弥生人というのは半島経由で、膠着語を持って日本列島に来たということか?
もしくは騎馬民族説にでもすがるしかないのか?
979日本@名無史さん:04/09/27 01:52:49
>>978
言語は3000年とか4000年で、孤立語→膠着語→屈折語→孤立語
と変異するので、現在の北京語が事実上膠着語であることを考慮すると、
弥生時代(BC1000年ぐらいからとしようか)から考えるといろいろ
かわっていてもいい。もっとも、魏志倭人伝からすると、3世紀は、
膠着語だったような気もするが。
980日本@名無史さん
>>975
>どちらにしろ松鶴洞1号墳が日系の墓であることには変わりない。

固城は安羅の領域だから、倭系の墓であってさしつかえない、と言っているのだが。

>日本の影響を不自然に場所が離れた半島南西部に限定させようとするのは
>歴史捏造工作との疑いを持って厳しく見る必要があるだろう。

南西部に限定されるのは「日本の影響」ではなく「前方後円墳の分布」だ。
このような正しい事実がわかってこそ、それでは安羅と南西部の、倭の支配
の仕方の違いはなにか、という次の問題が出てくる。

>>歴史捏造工作との疑いを持って厳しく見る必要があるだろう。

松鶴洞1号墳を、新しい情報を隠してまでむりやり前方後円墳にしようとする
のも、なんらかの意図による「歴史捏造工作」だ。

>不自然に場所が離れた半島南西部

どうして不自然? この地方は倭が支配していたものを、百済の
工作によって百済に割譲したことが日本書紀にも書いてある。
前方後円墳が確定したことで、倭の支配が直接支配であったことが
わかるのだ。