聖徳太子と飛鳥時代について語りませんか

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387 :日本@名無史さん:
聖徳太子いた!いない!◆架空説巡り論争白熱◆日本書紀で創作か◆聖人化の経緯検証

 聖徳太子(574-622)といえば、「和を以って貴しと為す」で知られる一七条憲法を作った人で、・・・
最古の木造建築である法隆寺も建てた。・・・こうした歴史的常識に反旗を翻し、「聖徳太子架空説」を唱え
た研究者がいる。大山誠一・中部大教授(古代史)は、「<聖徳太子>の誕生」(吉川弘文館、1999年)など
の著書で、厩戸王の存在は認めながらも、「聖人」としての聖徳太子は日本書紀を編纂するときに創作
されたと主張する。聖徳太子の実在を示すとされてきた推古朝時代(539-628)の史料が、使用語彙など
から、後の時代に書かれたものであることが明らかになったためという。
 大山説を支持する研究者も出てきた。大山氏が編者となり、昨年11月に刊行された「聖徳太子の真実」
(平凡社)では、多分野の専門家が大山説を裏付けている。そこでは、聖徳太子の実在にかかわる全史料
を対象に、その信憑性を探っている。
 瀬間正之・上智大教授(上代文学)は、推古朝時代に書かれたとされる「推古朝遺文」を国語国文学の
立場から再検討。その一つである法隆寺金堂薬師仏の光背碑文には、太子が薬師仏建立に携わった
経緯が記されている。瀬間教授は、銘文中に出てくる「仕奉(つかへまつる)」に着目。当時の史料でこの
言葉が登場するのは七世紀末からであり、銘文はそれ以降の制作と見なすべきであろうとする。
 日本書紀と聖徳太子の関係を探った章では、吉田一彦・名古屋市立大教授(古代史・仏教史)が、
書紀編纂に加わった僧・道慈の役割について論じている。書紀で聖徳太子が亡くなる場面は、唐の文献に
ある僧・玄奘の死の場面に似ていて、かなり文学的な表現になっている。それは、留学先の唐でも学識を
評価されていた道慈が「机上で創作」したためと見る。
 さらに注目されるのは用明・崇峻・推古の三王朝を否定し、蘇我馬子の王権があったとする大山氏の
論文。推古以前の王家の人々の墓は河内(大阪)にあるのに対し、これらの人々が活躍していた飛鳥を
中心とする大和(奈良)には、蘇我氏四代(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)が葬られている。蘇我稲目を埋葬した
巨大な古墳などを身近に見ていた飛鳥の人々にとって、蘇我氏こそが王だったと主張する。
388 :387:04/01/13 18:34
 記紀の編纂が進むうちに、蘇我王権は万世一系に矛盾するから歴史上から消されてゆく。しかし飛鳥を
都として整備し、仏教文化を築いた馬子の存在感は残る。それを埋めるために用意されたのが聖徳太子
だった、という大胆きわまりない説だ。
・・・
直木考次郎・大阪市立名誉教授(古代史)は、・・・「日本書紀が成立する十四年前に作られた法起寺の
塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露盤銘を偽作とする
大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分」と指摘する。
・・・
※1999年に刊行され学会に波紋を投げかけた大山誠一・中部大教授の学説は、次のようなもの。
 712年完成の「古事記」には聖徳太子の記述がほとんどない。従って720年完成の「日本書紀」によって
聖徳太子像は生み出された。当時実権を握っていた藤原不比等や長屋王らが、唐から戻った僧の道慈に
命じ、過去の皇族の中か厩戸王をモデルにして、「聖人」としての聖徳太子像を創作したとの主張だ。

■日経04・01・10(最終面[文化]文化部 中野稔)
389 :日本@名無史さん:04/01/14 12:43
390 :大化の改新への疑問:04/01/14 13:08
改新の詔(646年)
 年明けて646(大化2)年正月、孝徳新政権は4か条からなる「改新の詔」を発します。
史料 
「その一にいわく、昔在の天皇等の立てたまえる子代の民、処々の屯倉、及
び、別には臣・連・伴造・国造・村首の所有る部曲の民、処々の田荘をやめよ。仍りて食封を大夫より以上
に賜ふこと、各差有らむ。降りて布帛を以て、官人・百姓に賜うこと、差有らむ。・・・
 その二にいわく、初めて京師を修め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、鈴契を造り、
山河を定めよ。・・・
 その三にいわく、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。・・・
 その四にいわく、旧の賦役を罷めて、田の調を行へ。・・・別に戸別の調を収れ。・・・およそ調の副物の塩
と贄とは、また郷土の出せるに随え。・・・およそ仕丁は、旧の三十戸毎に一人せしを改めて、五十戸毎に
一人を以て諸司に充てよ。」(出典:『日本書紀』)
=== 大化の改新はなかった? ===
 上の史料は、当時の詔をそのまま伝えたものではありません。
 たとえば、「天皇」の語がこの時代に使用されていたことを示す資料(木簡など)はまだ確認されてはおら
ず、「郡司」の「郡」にいたっては、藤原京跡から出土した木簡によって、大宝律令制定(701年)までは
「評」の語が使用されていたことが明らかにされています。「郡」も「評」も読み方は「こおり」です。 
 こうしたことから、『日本書紀』編さん時に藤原不比等(中臣鎌足の子)らが詔の語句を修正したのか、
あるいは改作したのか、さらにはもともとなかった詔をねつ造したのではないか、などさまざまな見解が
あります。
 もしも「ねつ造」であれば、「大化の改新」という政策そのものがなかったことになります。
391 :390:04/01/14 13:08
 詔でかかげられた4か条を簡潔にすると、次のとおりです。
1.豪族による私有地・私有民の支配をやめて公地公民制を採用すること、
2.地方行政区画を定め、中央集権的な政治体制をめざすこと、
3.戸籍・計帳・班田収授の法をつくること、
4.租税を確立すること、

 私も、『日本書紀』記載の「改新の詔」が当時のまま収録されたとは思いません。しかし、上記4か条に
似た指針が646年に示されたのではないかと思います。
 しかし、645年「乙巳の政変」で打倒されたのは蘇我氏本家だけであり、まだまだ中央や地方の豪族
の勢力は根強かったので、こうした政治改革もさまざまな抵抗をうけ、その実現には長い時間を費やす
ことになります。
*東アジアの激動と「日本」 http://homepage2.nifty.com/mazzn/651659.htm#652

*異説、大化の改新 http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/shiten2taika.htm
392 :日本@名無史さん:04/01/16 18:54
アメタリシヒコは誰か
http://www.asahi-net.or.jp/~ds3s-oomr/kodai/ame/ame/ame-1.htm
『隋書』倭国伝と『日本書紀』のそれぞれの記述を信じると、アメタリシヒコは推古天皇でなければならない
のですが、そうは思えない理由はいくつかあります。
ひとつは『隋書』の記述です。王が女性であるとは記されていないことです。中国で皇帝といえば男性です。
女王の存在は中国にとっては珍しいことのはずなのに、そうは書いていない。しかも「王妻」まで書かれて
いて、あきらかに倭国王を男性扱いしています。『隋書』では隋に行った遣使の言葉として伝えられていま
すから、「隋側に聖徳太子が天皇に見えた」といったことはあまり考えられないと思われます。
さらに名前。最後が「ヒコ」なら男性の名前と考える方が普通です。これについては「アメタリシヒコ」で
「天皇」という意味の称号だとする反論もありますが、他にそのような証拠はないし、
また「アメタリシヒコヒメミコ」などと女性形にすることもできたはずなので、決定的な説明にはなりません。
となると、アメタリシヒコは女性の推古天皇ではなかったはず。では、誰だったんでしょうか。
393 :日本@名無史さん:04/01/16 19:08
聖徳太子像は生み出された。当時実権を握っていた藤原不比等や長屋王らが、唐から戻った僧の道慈に
 馬子が直接、天皇の位を奪った事実は確認できないが、其の権力は天皇家を遥かに凌いでいた。
三国志の魏の曹操が、皇帝以上の実力を備えていたのに、自らは禅譲を言わず、その子の曹否が禅譲
を受け、皇帝を名乗ったのに似ている。
 当時の識者だった馬子は、中国や朝鮮半島の王朝交代を知らない筈は無い。其処には皇帝や王の政権
交代が有るのも知っていただろう。
 崇峻天皇を殺害し、蘇我氏の権力を確立したのは馬子と言っても良いだろう。
 馬子は大臣(おおおみ)として実権を握っていたが、其の子の蝦夷は642年(皇極元年)頃から大王(天皇)
を自称する様な行動に出始めた。
 その子、入鹿が643年(皇極2年)に山背大兄皇子を攻め滅ぼし、蘇我王朝が確立されたと言えるだろう。
 では、その間の皇極帝は?。其の前の、推古・舒明帝は?。
 結論から言えば、後の時代(古事記が書かれた時代=和銅5年)に、蘇我王朝を抹殺するためと、大化の
改新後の天智・天武朝の正当性を主張する為に作られた天皇と推理します。
 舒明・皇極(二人は夫婦)は、天知・天武の両親で、天知・天武を正当の天皇継承者にする為に作り上げ、
推古帝は皇極帝が初めての女帝に成らない様に、過去の中から選ばれて、最初の女帝にさせられた。
 私の第三話・推古天皇の事を思い出してください。一度は遺言通りに植山古墳に合葬されたのに、何故、
掘り返され、別に推古天皇として埋葬し直されたのか。
 亡くなった時は「天皇」ではなかったのが、後に「天皇」にされ、其れに見合う埋葬をし直した・・・。此れなら、
つじつまが合うでしょう。
(略
394 :393:04/01/16 19:08
 推古天皇の摂政としての、聖徳太子は如何成る?
 崇峻天皇が殺害された後、天皇は、「厩戸皇子(聖徳太子)−山背大兄皇子−蘇我入鹿」と受け継がれた。
が、私の推理です。
 「隋書」に、倭の使者が行き、「倭王、姓は阿毎(天)、名は多利思比孤(たりしひこ)・・」と言っている。
「たりしひこ」は、男の名前であり、女帝なら「たりしひめ」に成る。倭王は男だったと言える。
(略
 大化の改新後、皇位に付いたのは、軽皇子(孝徳天皇)。皇極天皇の弟で天智・天武の叔父に当たる。
 考徳帝の皇子、有馬皇子は無実の罪で殺害され、皇極天皇が再度、斉明天皇として位に就く。
 大胆な仮説を許されるなら、天智・天武の母親は皇族でも、父親は皇族では無かったのでは無いのでは
ないか。後に、その辺を工作し、蘇我王朝を抹殺し、天智・天武朝を正当化させるために、記紀が編纂された
・・かもしれない。
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http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/rekisi/re-k4.htm