聖徳太子と飛鳥時代について語りませんか

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393日本@名無史さん
聖徳太子像は生み出された。当時実権を握っていた藤原不比等や長屋王らが、唐から戻った僧の道慈に
 馬子が直接、天皇の位を奪った事実は確認できないが、其の権力は天皇家を遥かに凌いでいた。
三国志の魏の曹操が、皇帝以上の実力を備えていたのに、自らは禅譲を言わず、その子の曹否が禅譲
を受け、皇帝を名乗ったのに似ている。
 当時の識者だった馬子は、中国や朝鮮半島の王朝交代を知らない筈は無い。其処には皇帝や王の政権
交代が有るのも知っていただろう。
 崇峻天皇を殺害し、蘇我氏の権力を確立したのは馬子と言っても良いだろう。
 馬子は大臣(おおおみ)として実権を握っていたが、其の子の蝦夷は642年(皇極元年)頃から大王(天皇)
を自称する様な行動に出始めた。
 その子、入鹿が643年(皇極2年)に山背大兄皇子を攻め滅ぼし、蘇我王朝が確立されたと言えるだろう。
 では、その間の皇極帝は?。其の前の、推古・舒明帝は?。
 結論から言えば、後の時代(古事記が書かれた時代=和銅5年)に、蘇我王朝を抹殺するためと、大化の
改新後の天智・天武朝の正当性を主張する為に作られた天皇と推理します。
 舒明・皇極(二人は夫婦)は、天知・天武の両親で、天知・天武を正当の天皇継承者にする為に作り上げ、
推古帝は皇極帝が初めての女帝に成らない様に、過去の中から選ばれて、最初の女帝にさせられた。
 私の第三話・推古天皇の事を思い出してください。一度は遺言通りに植山古墳に合葬されたのに、何故、
掘り返され、別に推古天皇として埋葬し直されたのか。
 亡くなった時は「天皇」ではなかったのが、後に「天皇」にされ、其れに見合う埋葬をし直した・・・。此れなら、
つじつまが合うでしょう。
(略