前スレ 991
> 963 ただ 901の誤りを指摘せるのみ。支持する・しないは 901の言ひ出せしこと。
前スレ 877:
> なるほど、橋本進吉や時枝誠記には反論できないので
> 福田恆存を誹謗、中傷することで逃げようといふわけですね。
>
> 時枝・福田の結びつきを知らない者にしか、そんな分割の手は效かないと知れ。
これで、時枝誠記が福田恒存を支持したと言いたかったわけではない、と言うなら、上のレスは全く無意味になる。言い出したのはあくまで君の方だ。
> 音聲を表すものであれ音韻を表すものであれ、橋本進吉説に據ればそれは發音記號に過ぎぬ。
橋本説に対する完全な誤解。
> >「1 音韻 1 表記」では、音韻を表記へと写すわけだから、音韻の種類が表記の種類より多くてもよい。
> 音韻が表記より多い場合、表記されない音韻があるか複數の音韻を1表記が表すかになる。
もちろん後者。前者では文字として役に立たない。
> 952でそれが「表音式の原則」だとしてゐたが、947での表音式の定義「一定の音韻に
> 対応する表記が 1 方法に決まっているか、または、複数の方法のどれを選んでもよく」
> に反し、自家撞着である。
矛盾していない。図が書けないのが残念だが。関数論の基礎を復習せよ。
>>10 「複數の音韻を1表記が表す」。
「一定の音韻に対応する表記」が「複数の方法のどれを選んでもよ」い。
前者は多對一。後者は一對多。全然合致しないのだが?
>>10 「表音的假名遣は假名遣にあらず」の「五」を讀み給へ。
…………………………………………………………………………
表音的假名遣は、音を基準とし、音を寫すを原則とするものであるとすれば、
一種の表音記號と見てよいものである。表音記號は、言語の音を目に見える
符號によつて代表させたもので、同じ音はいつも同じ記號で、違つた音はい
つも違つた記號で示すのを趣旨とする。さうして、表音記號を制定するにつ
いては、實際耳に聞える現實の音(音聲)を忠實に寫すものや、正しい音の觀
念(音韻)を代表するものなど、種々の主義があり、、ローマ字假名など既成
の文字を基礎とするものや、全然新しい符號を工夫するものなど種々の方法
があるが、その中、假名に基ゐて國語の音韻を寫す表音記號は、その主義に
於ても方法に於ても、表音的假名遣と全然合致するものである。それ故表音
的假名遣はその實質に於ては一種の表音記號による國語の寫し方と見得るも
のであり、〔以下略〕
…………………………………………………………………………
∴音聲を表すものであれ音韻を表すものであれ、橋本進吉説に據ればそれは發音記號に過ぎぬ。
こっちもお讀みあれ。
…………………………………………………………………………
要するに、假名遣は文字言語に於けるきまりであり、言語を文字に書く時の基凖であつて、この
基凖にしたがへば同一の音は必ずしも常に同じ文字によつて表はされないけれども、同じ語はい
つも同じ文字によつてあらはされる。
以上假名遣の性質について述べたのは、主として今日一般に行はれてゐる所謂歴史的假名遣を對
象としたものであるが、かやうな假名遣の性質は所謂表音的假名遣に於ても亦同樣である。これ
は、國語を文字に書く時の正しい書き方として、從來の所謂歴史的假名遣に代つて社會一般に行
はうとするものであるから、勿論文字言語に屬するもので、文字言語の書き方の改革を目的とす
るものである。さうして、これは假名を現代國語の發音に近づけようとするものであるから、文
字と音との不一致は歴史的假名遭に比しては少いけれども、それでも精密に國語の音と合致する
ものではない。[中略]
しかしながら、かやうな事は、假名遣としてはその本質上避け難い事であつて、假名遣が、言語
を文字に書く場合のきまりとして國民一般に遵守せらるべき性質のものである以上、國語の音聲
に忠實なる餘り、これまで世間一般に行はれた文字言語上の慣習と著しい違ひがあつて竒異の感
を生ぜしめ、或はあまりに煩雜であつて書寫に不便を感ぜしめるものであるならば、實施不可能
に陷る虞がある故、かやうな妥協策をとるのも亦止むを得ない事である。
…………………………………………………………………………
橋本進吉(昭和15)「國語の表音符號と假名遣」
「表音的假名遣は假名遣にあらず」は「昭和十七年八月稿」。
>>14の「國語の表音符號と假名遣」の二年後に書かれてゐる。
ふつう或る學者の説は後になるほど修正彫琢されるから、
橋本の説としては後から書いた方を採るべきでないか?
但し、後での訂正が却つて誤りに陥つたと主張するなら話は別だから、その論證を示されたい。
>∴音聲を表すものであれ音韻を表すものであれ、橋本進吉説に據ればそれは發音記號に過ぎぬ。
一つ伺いたいのだが、貴説に據れば、契沖假名遣ひは(延喜の音韻を表すものであるから)發音記號
に過ぎぬ、といふ事になりさうに思へるのだが、それでよいのか ?
なほ、「契沖假名遣ひは(延喜の音韻を表すものであるから)」といふ部分は、下記を參照。
-----------------
それ故、契沖のきめた假名遣は、平安朝の半以前の言語の發音の状態を代表するものであります。
橋本進吉(昭和8)「假名遣について」
伺いたい → 伺ひたい。乞御寛恕。
>16
誤>伺いたいのだが
正>伺ひたいのだが
>>16 「契沖のきめた假名遣」は、契沖自身はさう思うてをらなんだけれども、
實は「平安朝の半以前の言語の發音の状態を代表するもの」だった
……と、橋本は言うてをるのだらう。
契沖は假名遣(かな文字による書き分け)は語義の差によるとしてゐた筈。
その間違ひを正したのが石塚龍麿である。
「彼は『假名遣奥山路』において、當時同音となつてゐるかな文字の上代に
おける書き分けは、語義の差によるものでなく、既に消滅してしまつた音韻
の差であることを明かにしました。この埋れてゐた龍麿の業績を顯し、さら
にそれを繼いで、ほとんど全貌を明かにしたのが橋本博士の研究であります。
したがつて橋本博士がかなづかひは語に隨ふべきだと言つたからとて、それ
はなにも「語義の標識としての假名遣觀」(時枝博士の契沖評)を主張して
ゐるのではないこと、申すまでもありません。」
――福田恆存『私の國語教室』第二章「二 音便表記の理由」
>>16が引く文脈で言ふ所の「假名遣」とは、音韻變化が起る前の假名表記のことであって、
つまり、まだ同音のかなの使ひ分けではなかった。嚴密には「假名遣」ではない。
「契沖が決めた」とは、同音になる前の表記形を求めたと解すべきだらう。
所謂勝義の「假名遣」とは、音韻變化後の同音の假名の使ひ分けを指す。
「違つた假名が同じ音に發音せられて、同じ音に對して二つ以上の書き方がある場合、[…]
どの場合にどの書き方即ち假名を用ゐるかが問題となり、假名遣の問題が起るのであります。」
「假名遣といふのは、その語義から云へば假名の用法といふ事ではありますが、
實際に於ては、あらゆる場合の假名の用法ではなく、その用法が問題となる場合
のみに限つて用ゐられるのであります。」――橋本進吉「假名遣について」
「かやうにして萬葉假名の時代から平假名片假名發生後に至るまで、純粹に
音をあらはす文字としてのみ用ゐられて來た假名は、少くとも假名遣といふ
事が起つてからは、單なる音を表はす文字としてでなく、語を表はす文字と
して用ゐられ、明かにその性格を變じたのである。」――「表音的假名遣は假名遣にあらず」
>>12 > 「複數の音韻を1表記が表す」。
> 「一定の音韻に対応する表記」が「複数の方法のどれを選んでもよ」い。
>
> 前者は多對一。後者は一對多。全然合致しないのだが?
合致しなくてもいいんだよ。例えば、
・音韻 /ka/ と /ga/ が、ともに「か」と表記される。
・音韻 /ga/ は、「が」と表記されてもよい。「か」との選択は自由。
こんな場合、「か」と書いてあったら /ka/ と読むのか /ga/ と読むのかわからないが、/ka/ は常に「か」と書かねばならず、/ga/ は「か」と書いても「が」と書いてもよい。
辞書的知識を何ら参照しなくても書けるから、表音式だ。
>>20 横レス御免。
>
>>16が引く文脈で言ふ所の「假名遣」とは、音韻變化が起る前の假名表記のことであって、
> つまり、まだ同音のかなの使ひ分けではなかった。嚴密には「假名遣」ではない。
源順 (911-83) は、歴史的仮名遣いに合致する音韻体系を持っていたのではないかと思うが、彼が書いたと伝えられる『宇津保物語』『落窪物語』の自筆本がもしも出現したなら、それは表音文字ではなく、発音記号で書かれていることになるな。
>>21 前スレッド952に曰く、
>表音式の原則は、1 音韻 1 表記ということだから、1 表記 1 音韻にこだわら
>なければ、慣習と妥協しても、原則を守ることはできる。
“表音式の原則は、1 音韻 1 表記ということ”と定義したわけだ。
それを962では“「1 音韻 1 表記」では、音韻を表記へと写すわけだから、音韻の
種類が表記の種類より多くてもよい”と説明してゐる。
つまり「複數の音韻を1表記が表す」と。これが「表音式の原則」だと。
それをなぜ「1 音韻 1 表記」と呼ぶのか不審だ。「多音韻1表記」といふならわかるが。
しかしこの疑問は一時棚に上げて置かう。
ところで前スレッド946には
>結局、「表音式表記法」とは、
>・一定の音韻に対応する表記が 1 方法に決まっているか、または、複数の方法の
>どれを選んでもよく、語による使い分けがない表記法。
と定義してゐた。これは一對一乃至一對多であり、
「表音式の原則」に言ふ多對一には合致しない。
(合致するとしたらわづかに一對一の場合のみだらう。)
となると、「原則」以外に「表音式表記法」を定義する何かがあるのか?
「原則」以外に何かを持ち込まなければ「表音式表記法」の定義ができないのか?
論理的に缺陷があると思ふ。
現代仮名遣いが、橋本進吉の定義する「仮名遣い」にあてはまらないことはよくわかった。
しかし、音声と音韻とを区別せず、表音文字を発音記号と同一視している点は、現在の言語学の水準から見れば、明らかな誤りである。
いかなビッグ・ネームでもダメなものはダメ。
>>22は「表音的假名遣は假名遣にあらず」の續きを讀むとよからう。
「但し、この時からはじめて語を表はす文字となつたか、又はもつと前からさうなつてゐたかは問題であつて」以下略。
>>24 >音声と音韻とを区別せず
否。橋本は、區別してゐますが。↓
「實際耳に聞える現實の音(音聲)を忠實に寫すものや、正しい音の觀念(音韻)を代表するものなど」
論旨を曲解してはいけない(區別の仕方がよくないといふのならともかく)。
橋本は、區別した上で、そのどちらに基づく「表音的」假名遣であらうと、表音記號に留まると主張したわけ。
その主張に反論するなら、どうぞ。誤りである點を指摘し、その理由を示しておくれ。
>>23 図が書けないのがほんとにもどかしいな。
> >結局、「表音式表記法」とは、
> >・一定の音韻に対応する表記が 1 方法に決まっているか、または、複数の方法の
> >どれを選んでもよく、語による使い分けがない表記法。
> と定義してゐた。これは一對一乃至一對多であり、
> 「表音式の原則」に言ふ多對一には合致しない。
こう言えばわかってもらえるだろうか。
>>21 の例について、
・音韻の側から見れば、1 対 1 (/ka/ 対「か」) ないし 1 対多 (/ga/ 対「か」 「が」)。
・表記の側から見れば、多対 1 (/ka/ /ga/ 対「か」) ないし 1 対 1 (/ga/ 対「が」)。
>>27 問題は、どちらを「原則」とするかではないか?
前者を表音式と呼ぶのに異存ないとしても(但し正書法とは呼べぬ)、
後者はいかがなものか。しかも後者は「語による使い分け」ではあるまいか。
>>24 >表音文字を発音記号と同一視している
してません。
「さすれば、假名のやうな、個々の音を表はす表音文字であつても、之を語を表はすものとして取扱ふのは決して不當でないばかりでなく、」
假名は表音文字であるが、それを語に隨ふものとして使ふか、表音記號として使ふか、そこが肝腎なのだ。
>>14-15 「表音的假名遣は假名遣にあらず」の末尾にハッキリ書いてあるよ。
「私は從來世間普通の稱呼に從つて表音的假名遣をも假名遣の一種として取扱つて來たのであるが、今囘新に表音的假名遣に對する考察を試みて、その本質を明かにした次第である。」
ここで「從來」の説を修正したことになる。
>>25 >
>>22は「表音的假名遣は假名遣にあらず」の續きを讀むとよからう。
> 「但し、この時からはじめて語を表はす文字となつたか、又はもつと前からさうなつてゐたかは問題であつて」以下略。
憶測でものを言うのは学問ではない。
>>26 > 實際耳に聞える現實の音(音聲)を忠實に寫すもの
(「聞える」が気になるが) これが発音記号。
> 正しい音の觀念(音韻)を代表するもの
(定義に問題はあるが) これが表音文字。
> 橋本は、區別した上で、そのどちらに基づく「表音的」假名遣であらうと、表音記號に留まると主張したわけ。
そういう主張に至るなら、結局、区別していないのと同じ。
どうやら、「表音」=「音声を表す」という誤解の元は、役人の下手な説明よりも、橋本説にあったようだな。
> その主張に反論するなら、どうぞ。誤りである點を指摘し、その理由を示しておくれ。
発音記号というなら、例えば、「ほん (本) の」 「ほんも」 「ほんが」 「ほんは」 「ほん。」のそれぞれの「ん」は、すべて違う表記をしなければならない。
また、「じかん (時間)」の「じ」と「にじ (二時)」の「じ」とは、違う表記をしなければならない。
仮名は音声を写す発音記号ではなく、音韻を写す表音文字だから、そんなことは一切する必要がない。
こんなのは音韻論の基礎中の基礎。ちゃんとした所で勉強したほうがいいよ。
>>28 > 前者を表音式と呼ぶのに異存ないとしても(但し正書法とは呼べぬ)
正書法にしようと思えば、1 対多はやめなければならないね。
> しかも後者は「語による使い分け」ではあるまいか。
違うよ。この規則なら、例えば「曲がり」と「間借り」とは同音異義語だが、どちらも「まかり」とも「まがり」とも書けて、使い分けがない。
>>29 > 假名は表音文字であるが、それを語に隨ふものとして使ふか
現代仮名遣いに少しでも「語に随」った所があると、「表音」原則から外れていると厳しく非難する旧仮名派の態度と、完全に矛盾している。
>>31 全然理解できてないんだなあ。といふか、通して讀んでないのか?
>発音記号というなら、
言ってないよ。音韻に基づくものをも含めて「表音記號」と書いてある。
「勿論表音的假名遣は、實用を旨とするものである故、必ずしも精細に國語の音を
寫さず、又その寫し方に於ても多少曖昧な所もあつて、表音記號としては不完全で
あるが、表音記號でも、實用を主とした簡易なものもあるのであるから、かやうな
故を以て表音記號とは全然別のものであるといふ事は出來ない。」
音聲ではなく音韻に基づくといふなら既に橋本は
それを「國語の表音符號と假名遣」で「表音符號」として提案してゐる。
そこで
>「ホンモ」「ホンノ」「ホンガ」のンは、それぞれmnŋであつて、
>音としては、それぞれ別々の音と見なければならない。
と指摘濟みだ。
http://home.q02.itscom.net/tosyokan/zdata/ZHASIMOTO027.pdf その程度のこと、言はれるまでもない。
>>33 といふか、話が逆。
むしろ、そもそも表音主義派の方が
假名は表音文字なんだから表音的に使ふべしと
歴史的假名遣を攻撃したのだが。
けれども、如何なる表音文字と雖も、文字である以上は語を表すためのものだ。
>>10 >> 音韻が表記より多い場合、表記されない音韻があるか複數の音韻を1表記が表すかになる。
>もちろん後者。前者では文字として役に立たない。
では、促音や拗音を表記しなかつた平安期の書記法は役に立つてゐなかつたの?
おほかめり(オホカンメリ)の類ね。
>>32 それって「垣」「牡蠣」「柿」、いづれも「かき」と書いて使ひ分けがないといふ
江湖山恆明の論法と同じでは?
それは、さういふ語だからさう書いてゐるだけのことだらう。
「多対 1 (/ka/ /ga/ 対「か」) 」の例には適當でない。
既出だが、江戸期戲作本などで/e/を語頭は「え」語中語尾は「へ」と書く例は
語による書き分けだらう。
一對多のこれを表音的と稱したのはやはり強辯に過ぎると思ふ。
促音や拗音→促音や拗音や撥音
>>34 > >発音記号というなら、
> 言ってないよ。音韻に基づくものをも含めて「表音記號」と書いてある。
音声に基づくものと、音韻に基づくものとを、どうやって含めることができるのか。要するに区別していないということだ。
> 勿論表音的假名遣は、實用を旨とするものである故、必ずしも精細に國語の音を
> 寫さず、又その寫し方に於ても多少曖昧な所もあつて、表音記號としては不完全で
> あるが、表音記號でも、實用を主とした簡易なものもあるのであるから、かやうな
> 故を以て表音記號とは全然別のものであるといふ事は出來ない。
「表音符号」≒発音記号ととらえていいわけだろう。「表音符号」の内容から判断すればそうなる。
では、「精細に國語の音を寫」した、「曖昧な所」のない、完全なる「表音記号」とは、「表音符号」と同じなのか、それとも違うのか、だれにも理解できまい。
>>35 > といふか、話が逆。
そっちが逆。もともと「表音」文字を「語に随」わせることができるのなら、「表音」原則に従いながら必要に応じて「語に随」わせても、何ら問題ないはず。
> 如何なる表音文字と雖も、文字である以上は語を表すためのものだ。
誤り。古代のラテン文字や奈良時代の真仮名は、語を表しているとはいえない。
>>36 > 促音や拗音を表記しなかつた平安期の書記法は役に立つてゐなかつたの?
文字体系がひととおり出来た後で、そういう音韻が発生したんだからしょうがない。そこだけ欠陥だ。遅れて文字が追いかけて行く。
>>32 > 「多対 1 (/ka/ /ga/ 対「か」) 」の例には適當でない。
「語による使い分け」とはどういう場合を想定しているのか不明。要説明。
> 一對多のこれを表音的と稱したのはやはり強辯に過ぎると思ふ。
表音的と称していない。表音原則の例外。わざとそうしてこそ語頭が示せる。
>>34 > >発音記号というなら、
> 言ってないよ。音韻に基づくものをも含めて「表音記號」と書いてある。
>>13 > 音聲を表すものであれ音韻を表すものであれ、橋本進吉説に據ればそれは發音記號に過ぎぬ。
やはりこれは福田恒存の誤解だ。橋本は「表音記号」にすぎない,と言っている。
>>39 >もともと「表音」文字を「語に随」わせることができるのなら、「表音」原則に従いながら必要に応じて「語に随」わせても、何ら問題ないはず。
それって歴史的仮名遣やんけ。
なら、わざわざ表音化を謳って「現代かなづかい」にする必要あらへんやん。
>>39 >表音的と称していない。表音原則の例外。
表音的と言ってますぜ。↓
前スレ952
>> 語頭と語中語尾で「わ」「は」を使ひ分けるのは、語毎に使ひ分けてはゐなくとも
>> 音以外の別の原理で使ひ分けしてゐるのだから、表音式と呼ぶには無理がある。
>語頭と語頭以外とを比べれば、確かに表音式ではないが、語頭以外の /wa/ が必ず
>「は」と写されるならば、その限りにおいて表音式だろう。
>>41 > それって歴史的仮名遣やんけ。
歴史的仮名遣いは、表音原則に従いながら、必要に応じて例外的に語に随うものだったのか!
> なら、わざわざ表音化を謳って「現代かなづかい」にする必要あらへんやん。
例外はずっと少なくなるが、ゼロになるわけではない、それだったら元の歴史的仮名遣いでよい、というだけのことだったのか!
>>42 > >語頭と語頭以外とを比べれば、確かに表音式ではないが
表音式ではないと言っている。
>>30 >「表音的假名遣は假名遣にあらず」の末尾にハッキリ書いてあるよ。
>ここで「從來」の説を修正したことになる。
なるほど、御説のとほりだ。御教示に多謝し、迂闊をお詫びする。
>>43 > 歴史的仮名遣いは、表音原則に従いながら、必要に応じて例外的に語に随うものだったのか!
表音原則に従ひながら、必要に応じて例外的に語に随つて行つて色々と試してゐたら、
あらら、歴史的仮名遣になつてしまつたよ。
と云ふのはどうですか。
現代仮名遣いが語に随う (語を表す) ときは,理由がある。うさんくさかろうと何だろうと目的がある。
歴史的仮名遣いが語に随うのには理由がない。大体,「語に随ふ」とはどういう意味なのかよくわからない。ある語を他の語と区別して表すということではないらしい。
おそらく,「語に随ふ」=「歴史的仮名遣いを守る」ということだろう。
>>43 >表音式ではないと言っている。
はあ? そのあとで「その限りにおいて表音式だろう。」と言つてゐるぢゃないか。
前スレッド598
>では、語頭以外の /e/ を常に「へ」と書く点は、表音主義だ。発音と解離した
>不規則性はない。
同695
>>
>>687は全くどうかしてゐる。
>> 漢字入りだと「絲瓜の蔕をもいでしまえ」と書くのだが
>> 假名書きだと「へちまのへたをもいでしまへ」と書くべきださうな。
>> ふうん、それが表音式假名遣かね。
>どうもしてねえよ w それでいいの。
同784
>> 江戸版本の表記(おめへ、〜しちまへ)を「表音式」と強辯した
>まだ言ってるのか。語識別には役立ってないから、どう頑張っても表音式なんだよ。
以上を撤回するかね?
>>47 > 以上を撤回するかね?
語頭 (正確には文節の頭) 以外という限りにおいて,表音式。
これは前スレのことだけどさ、新かな支持の理由として、
>「例外だらけ」で、「いいかげんな理窟づけばかり」でも、より憶え易いほうがいい。
とか(633)、「表記は手段にすぎない」とか書いてゐる時点で、
客観的な議論を拒否してるのと同じだと思ふんだけどね。
(
>>35ではないが)
>>39 >> 如何なる表音文字と雖も、文字である以上は語を表すためのものだ。
>誤り。古代のラテン文字や奈良時代の真仮名は、語を表しているとはいえない。
「語を表す」といふのを「表音的ではない」ことだと誤解してやしないか。
>>49 > 新かな支持の理由として、
> >「例外だらけ」で、「いいかげんな理窟づけばかり」でも、より憶え易いほうがいい。
> とか(633)、「表記は手段にすぎない」とか書いてゐる時点で、
> 客観的な議論を拒否してるのと同じだと思ふんだけどね。
旧仮名派は表記法を普遍的真理のように思っている。おれは表記法を政策ととらえている。それだけのことだ。
歴史的仮名遣いも政策の一つだった。
>>50 > >> 如何なる表音文字と雖も、文字である以上は語を表すためのものだ。
> >誤り。古代のラテン文字や奈良時代の真仮名は、語を表しているとはいえない。
> 「語を表す」といふのを「表音的ではない」ことだと誤解してやしないか。
表音的であって,かつ語を表すことはもちろんできるよ。そのための仕掛けは要るが。
君は「語を表す」とはどういうことだと思うの?
>>48 「語頭以外」といふ基準は、語に據るもので、音に基づくものでない。
それは認めたはずだ。
再び前スレ952を引かう。
>> 語頭と語中語尾で「わ」「は」を使ひ分けるのは、語毎に使ひ分けてはゐなくとも
>> 音以外の別の原理で使ひ分けしてゐるのだから、表音式と呼ぶには無理がある。
>語頭と語頭以外とを比べれば、確かに表音式ではないが、
>>38 >音声に基づくものと、音韻に基づくものとを、どうやって含めることができるのか。
例へばIPAを使用して、音聲を表すことも音韻(音素)を表すこともできるよな?
[ ]と/ /とで差はつけるにせよ、同じ表音記號を用ゐて問題は無いわけだ。
>>39 >「語による使い分け」とはどういう場合を想定しているのか不明。要説明。
>>52のやうな場合もそれだらう。一對多だが。
>>52 話を単純化すれば,
●江戸版本:
・音韻 /e/ は原則として「へ」と書く。(表音式)
・ただし,文節の頭では「え」と書く。(表音原則の例外)
●現代仮名遣い:
・音韻 /e/ は原則として「え」と書く。(表音式)
・ただし,助詞の「/e/」は「へ」と書く。(表音原則の例外)
理屈は同じだろ?
>>51 表記法を政策にするのがそもそも間違ひなのだらう。
歴史的假名遣は教科書に採用されたが、「現代かなづかい」「現代仮名遣い」のやうに政府から公布せられたことはなかつたはず。
美濃部達吉は法律論的に「現代かなづかい」に疑義を提出して「内閣が此の如き訓示を爲したことは内閣の權限外の事項に屬し、甚だ不當な措置」と批判した。
>>54 「表音原則の例外」は表音式ではないよな。
例外は無制限に認めるべきでなく、例外を導入するにも基準が必要だらう。
で、それが語に基づくものなら、歴史的假名遣の儘であるに如かず。
56 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/05 18:51
>>53 > >音声に基づくものと、音韻に基づくものとを、どうやって含めることができるのか。
>
> 例へばIPAを使用して、音聲を表すことも音韻(音素)を表すこともできるよな?
> [ ]と/ /とで差はつけるにせよ、同じ表音記號を用ゐて問題は無いわけだ。
君のために深い穴を用意したいな。
> >「語による使い分け」とはどういう場合を想定しているのか不明。要説明。
>
>>52のやうな場合もそれだらう。一對多だが。
それはもともと表音原則の例外だから,語による使い分けがないとは言っていない。
すると
>>51は、古代のラテン文字や奈良時代の眞假名を
「表音的であって,かつ語を表す」ものとは見ないのだな。
ううむ、音だけ表して語を表さない文字言語なんてあるのかしらん。
たとひ分かち書きしてない古代ラテン文字だとて、
それが(表音を手段として)語を表すことを目的とするものだからこそ
讀めるのだらうに。さもなくばただ意味のない音の連なりになつてしまふではないか。
>>55 > 表記法を政策にするのがそもそも間違ひなのだらう。
> 歴史的假名遣は教科書に採用されたが
その時点で一種の政策。
> 例外は無制限に認めるべきでなく、例外を導入するにも基準が必要だらう。
> で、それが語に基づくものなら、歴史的假名遣の儘であるに如かず。
例外はずっと少なくなるが,ゼロになるわけではない,それだったら元の歴史的仮名遣いのままでよい,というだけのことだったんだな,やっぱり。
>>56 >君のために深い穴を用意したいな。
誤りがあるならそれを指摘する。當てこすりだけで自論が優位に立ったつもりになってはいかんよ。
>それはもともと表音原則の例外だから
例外をも表音的と強辯してゐたわけだが。
>>58 「だけのこと」とは、大きな差を不當に軽視するレトリックだね。
ハッキリ改める必要は無かつたと認めればいいものを。
それに、表音原則に反する無理な例外を組み込まざるを得ない新かなより、
音便ですら「語に隨ふ」といふ原則から導き出せる舊かなのはうが
理論的にも優れてゐる。
>>24 >>31 >>38 >>40 問題は、金田一京助のごとく音聲ではなく音韻に基づくとしたところで、
「現代かなづかい」の種々の「例外」は全然説明できないことにあるのだが。
慣習への妥協とかを言ひ譯にするのでなく、音韻に隨ふからかういふ例外が出る、と論證されたし
皆さん難しい話をしてゐますね。
私には何が何やらさつぱり分かりません。
>>62 なあに、個人的な嗜好を権威にかこつけるだけ。
かんたんかんたん。
>>57 > たとひ分かち書きしてない古代ラテン文字だとて、
> それが(表音を手段として)語を表すことを目的とするものだからこそ
> 讀めるのだらうに。さもなくばただ意味のない音の連なりになつてしまふではないか。
そういう文字の役割は音 (韻) を表すことで終わっており,音を語 (意味) に結び付けるのは,声読という作業だ。だから文字が語を表すためにあるとはいえない。
それに,そういう文字でも語を表していると言うのなら,現代仮名遣いでも十分語を表していることになり,「語に随」っていないと非難される筋合いは全くない。
>>59 > 誤りがあるならそれを指摘する。當てこすりだけで自論が優位に立ったつもりになってはいかんよ。
そこまで付き合ってられない。ここは学習の場ではないはず。
> 例外をも表音的と強辯してゐたわけだが。
していない。
>>60 > 音便ですら「語に隨ふ」といふ原則から導き出せる舊かな
表音原則に従ったというだけ。何も偉くない。現代仮名遣いは大原則からして表音式。
そもそも,「語に随ふ」ってどういうこと?
>>61 > 問題は、金田一京助のごとく音聲ではなく音韻に基づくとしたところで、
> 「現代かなづかい」の種々の「例外」は全然説明できないことにあるのだが。
音声 [ee] を「*ええ」と写すのではなく,音韻 /ee/ を「えい」と写す。音声 [oo] を「*おお」と写すのではなく,音韻 /oo/ を「おう」と写す。それが原則。
> 慣習への妥協とかを言ひ譯にするのでなく
歴史的仮名遣いより前にも,仮名表記には長い歴史があったのだから,慣習をすべて無視するわけには行かない。
「世間一般の容認こそ最終的な権威である」 (リチャード・マルカスター)
> 音韻に隨ふからかういふ例外が出る、と論證されたし
もともとできないものは,できません。
>>60 > ハッキリ改める必要は無かつたと認めればいいものを。
君たちは原理主義に立つ。おれは漸進主義を支持する。ハッキリ改める必要はあった。
現代仮名遣いを日本国憲法と一緒くたにしてはいけない (憲法を支持しないと言うのではない)。仮名表記法の改正案は戦前から,日本人の手によって何度も出されていた。
>>67 >> 音韻に隨ふからかういふ例外が出る、と論證されたし
>もともとできないものは,できません。
やつと認めたね。
となればつまり、金田一京助ら新かな支持派が音聲でなく音韻だと言ひ立てたのは、無意味だつたわけだ。
>>65 必ずしも音讀作業を要しない。古代にても手紙などは默讀が普通。
柳沼重剛『西洋古典こばればなし』「音読と黙読――歴史上どこまで確認できるか」參照。
>そういう文字でも語を表していると言うのなら,現代仮名遣いでも十分
>語を表していることになり
さういふことなるのならば――
にも拘らず新假名は「大原則からして表音式」(
>>66)を謳ふのだから、
自らの原則を裏切るもの、無理な原則を立てたものといふことになり、
理論的破綻をさらけだしたわけだ。
>>57 >ううむ、音だけ表して語を表さない文字言語なんてあるのかしらん。
だとしたら、現代假名遣ひのみを表音記號であると主張する理由が分らんのだが。
現代假名遣ひだって、語を表してゐる譯だらう?
それどころか、表音記號すら、言語を記してゐる以上は、語を表してゐる譯だらう?
>>71 表音記號は意味にお構ひなく音だけ轉寫できればよいのだから事情が別だらうよ。
カタカナを、全く未知の言語に直面した者が音だけ記録するために用ゐたら、それは表音記號でしかない。
意味を持つ語を表してこそ、文字言語と言へるのだと思ふ。
旧かな批判をやってる人、
>皆さん難しい話をしてゐますね。
>私には何が何やらさつぱり分かりません。
こんな感想もあることだし(
>>62)、「観衆」のために論点を整理してくれんかね。
さうしないと、
>>64のやうに↓ゴミみたいな書きこみをするバカも出てくるからね。
>なあに、個人的な嗜好を権威にかこつけるだけ。
>かんたんかんたん。
先づ手始めに、歴史的仮名遣が表音的でないと云ふ事を論証して頂きたい。
>>72 >意味を持つ語を表してこそ、文字言語と言へるのだと思ふ。
それはよく分るが、現代假名遣ひが意味を持つ語を表していない、とする根據は?
てっきり、「少しでも表音主義が混じたものは假名遣ひではない」といふ論據かと
思っていたのだが、
>>57 のやうに「語を表すものは表音記號でも文字言語だ」とい
ふのであれば、現代假名遣ひは、正に現代日本語のための文字言語だらう。
何しろ、公文書はこれで書く事になってるぐらゐで、あれが全部「意味にお構ひな
く音だけ轉寫」とは、到底言へまい。
>>69 > となればつまり、金田一京助ら新かな支持派が音聲でなく音韻だと言ひ立てたのは、無意味だつたわけだ。
音声 [ee] を「*ええ」と写すのではなく,音韻 /ee/ を「えい」と写す。音声 [oo] を「*おお」と写すのではなく,音韻 /oo/ を「おう」と写す。それが原則。無視するな。
>>70 > 必ずしも音讀作業を要しない。古代にても手紙などは默讀が普通。
内容にある程度察しがつくような場合,黙読できる人はしてもよいが,黙読のための仕掛け―代表的なのは分かち書き―が施されていない表音文字を,語を表すためのものと見なす根拠はない。
かれ〔アウグスティヌスの師アンブロシウス〕が書を読んでいたとき,その眼は紙面の上を馳せ,心は意味をさぐっていたが,声も立てず,舌も動かさなかった。……
かれはいつもそのように黙読していて,そうしていないのを見たことは一度もなかった。……
もっとも,かれの声はしわがれがちであったので,声を大事にすることもまた,そしてその方が黙読の本当の理由であったかもしれない。
(聖アウグスティヌス『告白』服部英次郎訳)
古代ローマの碑文では,まだ分かち書きの知恵がなく,文章も短いので,1 語ごとに改行したものもある。
> にも拘らず新假名は「大原則からして表音式」(
>>66)を謳ふのだから、
> 自らの原則を裏切るもの、無理な原則を立てたものといふことになり、
> 理論的破綻をさらけだしたわけだ。
全く意味不明。表音式にしても「最終的には」語を表すというだけのこと。
>>72 > 意味を持つ語を表してこそ、文字言語と言へるのだと思ふ。
字で書いてあるものには意味があるのだろう,という前提で読んでいるだけ。読んでみて思い当たる語がなければ,歴史的仮名遣いであろうと現代仮名遣いであろうと同じこと。
>>73 旧仮名派が盛んに言う「語に随ふ」の意味が最大の問題。
「『語に随ふ』⊃歴史的仮名遣い」で,「語に随ふ」にはいろいろな方法がありうるが,そのなかで歴史的仮名遣いがいちばん優れている,というのなら話はわかる。
しかし,旧仮名派の態度は,「『語に随ふ』=歴史的仮名遣い」と考えているようにしか見えない。
現代仮名遣いは「語に随」っていない,というのは,すなわち,現代仮名遣いは歴史的仮名遣いではない,という,当たり前田のトートロジーなのだろう。
>>67 >> 慣習への妥協とかを言ひ譯にするのでなく
>歴史的仮名遣いより前にも,仮名表記には長い歴史があったのだから,慣習をすべて無視する
>わけには行かない。「世間一般の容認こそ最終的な権威である」 (リチャード・マルカスター)
その言葉、まさか「論理性・合理性を無視して、多数派に屈服しろ」といふ意味ではないよな。
「合理的な慣習ならば、改める必要がない」といふことぢゃないのかね?
>>68 >> ハッキリ改める必要は無かつたと認めればいいものを。
>君たちは原理主義に立つ。おれは漸進主義を支持する。ハッキリ改める必要はあった。
なんで「漸進主義」だと「ハッキリ改める必要はあった」といふことになるんだ?
どういふ論理展開なんだい。
>>75 >それはよく分るが、現代假名遣ひが意味を持つ語を表していない、とする根據は?
こんなことは言ってないんぢゃないか?
旧かな派の言ってるのは「語に随ふ」ことを原則にすべきだ、といふ批判だらう。
>>76 >黙読のための仕掛け―代表的なのは分かち書き―が施されていない表音文字を,
>語を表すためのものと見なす根拠はない。
>字で書いてあるものには意味があるのだろう,という前提で読んでいるだけ。
>読んでみて思い当たる語がなければ,歴史的仮名遣いであろうと現代仮名遣いであろうと同じこと。
それなら何のために字が書いてあるんだい? それを言ふなら、その文字が音を表してるか
どうかすらほんとはわからないはずだぞ。文字ではなくただの図形かもしれない。
>>74 > 先づ手始めに、歴史的仮名遣が表音的でないと云ふ事を論証して頂きたい。
全く表音的でない文字は,おそらくない。漢字にだって,形声字なら声符がある。
歴史的仮名遣いには,現代語の音韻から予測のつかない表記,すなわち,辞書的知識を参照しなければ書けない項目がたくさんあるから,表音原則に従っているとはいえない。
しかし,「候文よりはずっと表音的だろ」と言われたら,そのとおりである。
>>78 > 「合理的な慣習ならば、改める必要がない」といふことぢゃないのかね?
歴史的仮名遣いは「合理的な慣習」ではない。表記法にとっての「合理性」は,「論理性」にではなく,「実用性」にある。
> なんで「漸進主義」だと「ハッキリ改める必要はあった」といふことになるんだ?
現代仮名遣いの方が,歴史的仮名遣いよりも「実用的」,すなわち「合理的」である。
> それを言ふなら、その文字が音を表してるか
> どうかすらほんとはわからないはずだぞ。文字ではなくただの図形かもしれない。
そう思う人を,文盲と言う。
>>38 > 「表音符号」≒発音記号ととらえていいわけだろう。「表音符号」の内容から判断すればそうなる。
橋本の論述をよく読んでみると,違うな。「表音符号」は音声ではなく音韻を表すもので,「『表音記号』⊃『表音符号』」という関係のようだ。「表音符号」は固有名詞らしい。
音声を表す IPA のような発音記号も,音韻を表す「表音符号」も,ともに「表音記号」に含まれる。橋本進吉は,言語音を精密にとらえれば「音声」になり,大雑把にとらえれば「音韻」になる,と考えていたように見える (完全な誤りだが)。
表音文字は「音韻」を表すものだが,「語に随」わせないで使うと「表音記号」になる,という解釈だろう。やっぱり今の議論の焦点は,「語に随ふ」の定義にありそうだ。
>>78 > >「世間一般の容認こそ最終的な権威である」 (リチャード・マルカスター)
> その言葉、まさか「論理性・合理性を無視して、多数派に屈服しろ」といふ意味ではないよな。
屈服しなければならない場合もある。そのうえで,合理的な (論理的でなくてもよい) 制度を良しとする人が多数派になるよう,説得しなければならない。
仮名表記法に関して,日本人は戦前において既に,そのような努力を行なっていた。実らなかったが。
>>20 >言ふ所の「假名遣」とは、音韻變化が起る前の假名表記のことであって、
>つまり、まだ同音のかなの使ひ分けではなかった。嚴密には「假名遣」ではない。
つまり、「表音的假名遣は假名遣にあらず」説では、歴史的假名遣ひは、その典據
とする延喜天暦には假名遣ひが存在しなかったと主張する事になる。
とすれば、歴史的假名遣ひが典據として指し示す延喜天暦には、實は歴史的假名遣ひ
の典據は無い。ならば、歴史的假名遣ひは何を典據として定るのか ?
よし、延喜天暦は契沖の典據なり、歴史的假名遣ひの典據に非ずとせよ、
然らば、歴史的假名遣ひを「語に隨ひて定むる」際の典據とは、そも何ぞや ?
83 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/07 00:22
本当に、仮名が標準語の音韻通りに綴られたら、標準語の話者にとって、
仮名遣いは存在しないよ。発話する通りに綴ればよい。
「表音的仮名遣いは仮名遣いにあらず」は真理だろう。
伝統的仮名遣い反対派が推す「現代仮名遣い」でさえ、
標準語の音韻と違うところがあるから、「仮名遣い」と呼ばれるんだよ。
その証拠に、助詞の「は」「へ」「を」、オ段長音は、
表音的な規則から外れている。伝統的仮名遣いと現代仮名遣いの違いは、
表音的な部分の多寡であり、両者とも、綴りの規則は言葉に依存し、
完全な表音記号ではない。
>>79 御説明ありがたうございます。「辞書的知識」を悪い意味で使つてゐるのは
判りましたが、私は必ずしも「辞書的知識」が悪いとは考へてはをりません。
一度は辞書を引く事はあるかも知れませんが、其れが自分の知識になれば
既に「辞書的知識」と呼ぶ事は出来ません。要は必要な知識があるか無いかの
違ひでしかない訳です。
私の場合は、耳で聞いて口で喋る言葉を話し言葉、紙に文字で記す言葉を書き言葉と
表現しますが、話し言葉と書き言葉は区別されるべきものと考へてをります。
書き言葉には書き言葉としての原則を守つて記述するのが本来の姿でせう。
其の上で話し言葉との折合ひをつける事が出来ればいいと考へます。
唯、現在の日本語の音韻を全て明かにしたはうがいいかも知れませんよね。
其の意味で言ふならば、伊呂波四十七音や五十音図だけでは足りないのは
理解してゐます。話し言葉を云々するのは言語学の得意とする分野ですよね。
其処の所を私は期待したいと思ひます。
> 一度は辞書を引く事はあるかも知れませんが、其れが自分の知識になれば
>既に「辞書的知識」と呼ぶ事は出来ません。
誤解がある樣に見受ける。
假名遣ひの場合の「辭書的知識」といふのは、「音韻論的環境では决定出來ない情報」といふ程の意味。
例へば、エの音を表すのに「え」の字は語頭に限って用ゐ他は「へ」を用ゐるのであれば、それは音韻
論的環境(文法的要素中に當該音韻が現れる位置)によって决るから、「辭書的知識」ではない。
(前の方に、かういふ音韻論的環境が决定する書き分けを「語に隨ふ」と認定したものがあったが、それ
は適切ではなく、音韻論的環境に隨ふものに過ぎない)。
一方、同じエでも見榮のエは「みえ」、三重は「みゑ」と書き分けるのは、音韻論的環境による差では
ないので、「辭書的知識」(辭書情報)と呼ぶ。
>>75 >てっきり、「少しでも表音主義が混じたものは假名遣ひではない」といふ論據かと
すでに
>>83も言ふ通り、「現代仮名遣い」でさへ假名遣なのだ。
つまり表音主義を標榜しながら實態は主義を裏切つてゐるといふ矛盾。
だとすれば、到底徹底できぬ表音主義を原則に据ゑるのではなく
「語に仕へる」を原則のままとして歴史的假名遣を維持べきではなかつたか
といふことになる。
>>76 >音声 [ee] を「*ええ」と写すのではなく,音韻 /ee/ を「えい」と写す。
>音声 [oo] を「*おお」と写すのではなく,音韻 /oo/ を「おう」と写す。
>それが原則。無視するな。
否、そは音韻原則に非ず。
音韻 /oo/ を「おお」ではなく「おう」と寫す理由が、音韻のうちにあるか。
だいいち「辭書的知識」無しには「ねえさん」「おおかみ」「こおり」を書けない。
>>85 > 假名遣ひの場合の「辭書的知識」といふのは、「音韻論的環境では决定出來ない情報」といふ程の意味。
> 例へば、エの音を表すのに「え」の字は語頭に限って用ゐ他は「へ」を用ゐるのであれば、それは音韻
> 論的環境(文法的要素中に當該音韻が現れる位置)によって决るから、「辭書的知識」ではない。
解説ありがとう。ただ,ここが難しい所で,語頭にある /e/ と語頭以外にある /e/ とを,異なる音韻と見なすことはできないと思うから,この場合の「え」と「へ」の書き分けは,やはり広い意味での辞書的知識に属すると,おれは考えている。
ある語と他の語とを識別するのに,役立っていないことは確かだが。
>>86 > 到底徹底できぬ表音主義を原則に据ゑるのではなく
そういう "All or Nothing",「遅刻するくらいなら欠席する」式の,ゼロ−サム主義を現代仮名遣いはとらない。
> 「語に仕へる」を原則のままとして
「語に随ふ」 「語に仕へる」の意味がオカルトめいていて不明。歴史的仮名遣いを守ること以外に,「語に随ふ」 「語に仕へる」方法は考えうるのか?
>>87 > 否、そは音韻原則に非ず。
現代共通日本語の場合,同じ形態素の中では,音声 [ee] と [ei],[oo] と [ou] は,それぞれ音韻的対立を示さない。どちらで発音しても一つずつの音韻 /ee/,/oo/ である。だから「えい」 「おう」と写しても問題が起こらない。音韻を表す原則に従っている。
> 音韻 /oo/ を「おお」ではなく「おう」と寫す理由が、音韻のうちにあるか。
ない。しかし表音的でないということにはならない。
> だいいち「辭書的知識」無しには「ねえさん」「おおかみ」「こおり」を書けない。
「ねえさん」の理由はよくわからない。固有名詞との混同を避けたか (「ねい」という名の女性はしばしばいたようだ)。
「おおかみ」 「こおり」は現代仮名遣いの最もまずい所で,結局,表音原則からは外れ,「おほかみ」 「こほり」と書いていた守旧派をも納得させられなかった。
やはり音韻からは例外を辯明できないことがはっきりしたね。
>>89 連濁や助詞「は・へ・を」のみでない、オ列・エ列長音も、なのだ。
>>86 >表音主義を標榜しながら實態は主義を裏切つてゐるといふ矛盾。
なんだ、そんな事か。
「現代仮名遣い」は内閣告示になってる事からも分る通り、政策の一部だ。
政治に妥協があるのは当り前。
>歴史的假名遣を維持べきではなかつたか
ピューリタン、ファンダメンタリズムと呼ばれるだけ。
勿論、これを褒め言葉と受取る人があってもよい。信仰の自由だ。
>>90 > やはり音韻からは例外を辯明できないことがはっきりしたね。
>>89 > 連濁や助詞「は・へ・を」のみでない
福田恒存が言い掛かりをつけているのは,あくまで連濁や助詞「は・へ・ほ」について。
『私の国語教室』第一章参照。
> オ列・エ列長音も、なのだ。
表音原則を破っていることにはならない。表音式の原則とは,「1 個の音韻が 1 種類の方法で表記される」ということであって,「1 種類の表記が 1 個の音韻に対応する」ということではない。
>>94 (誤) 助詞「は・へ・ほ」 → (正) 助詞「は・へ・を」
>>93 >>歴史的假名遣を維持べきではなかつたか
>ピューリタン、ファンダメンタリズムと呼ばれるだけ。
なんか誤解があるんぢゃないのか。「歴史的かなづかひ」といふ言葉は、国語改革で
廃されたアレのことと、(表音式に対する)歴史的かなづかひ方式と、その両方を指して
ゐるやうだぞ。(少なくとも)時枝や福田の主張してるのは、歴史的かなづかひ方式を
守れといふことで、国語改革以前のアレを絶対に改変するな、といふわけではないだらう。
時枝は改訂試案も提示してゐた。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/ronsou/ronsou7_08.htm 福田もその趣旨のことを書いてたぞ。読んだんだろ?
このスレで繰返し言はれてゐるのも、「歴史的かなづかひ方式で、現代音(音韻?)に
近づければいいぢゃないか。それで満足できないのは、表音主義といふピューリタン
(ピューリタニズム?)、ファンダメンタリズムに捕はれてるからぢゃないかね」といふ疑問だらう。
>>96 > 歴史的かなづかひ方式で、現代音(音韻?)に
> 近づければいいぢゃないか。
全くの無意味。
> それで満足できないのは、表音主義といふピューリタン
> (ピューリタニズム?)、ファンダメンタリズムに捕はれてるからぢゃないかね
捕われていないからこそ,あれだけの例外を認めているのだ。
表音主義に徹しようと思えば,簡単なことだ。現代仮名遣いの「本則」だけにしてしまえばいい (助詞「お」は実用上問題があろうが)。内閣告示で押し切る手もあったはず。
しかし,現代仮名遣いは,「保科仮名遣い」の失敗に懲りて,よく言えば穏便な,悪く言えば煮え切らない態度をとった。結果として,世間一般の容認を得たが,旧仮名派に攻撃の材料を提供した。
福田恒存は,現代仮名遣いの「不徹底」と「論理的混乱」のおかげで,読売文学賞を獲ったようなものだ。よほど感謝してもらわなければ割に合わない。
>>96 >「歴史的かなづかひ」といふ言葉は、国語改革で
>廃されたアレのことと、(表音式に対する)歴史的かなづかひ方式と、その両方
「歴史的」と呼ぶ以上、兩者は同じものである筈ではないのか。
勿論「歴史的」の「示凖原點」が異なるものなら、當然、別の歴史的假名遣ひになる。しかし、
契沖の設定した「示凖原點」以外の歴史的假名遣ひで、實際に使はれたものがあるだらうか。
(寫本の飜刻などの學術的な例ならあるが、これは、社會規範としての假名遣ひとは異なる)。
>歴史的かなづかひ方式で、現代音(音韻?)に近づければいいぢゃないか。
表音主義と言ひながら助詞を「は」「を」「へ」とするのは、矛盾だと言はなかったか?
「示凖原點」を延喜に置く「歴史的」假名遣ひの原理に據り、且つ方針の「矛盾」を來さずに、
如何なる方法で現代の音韻に「近づける」事が出來るのか、理解出來ないのだが。
>>99 「歴史的」の名稱にこだはると間違ふことは前々スレッド既出。
643 名前: 名無し象は鼻がウナギだ! 投稿日: 02/10/22 18:44
新村出は「歴史的假名遣といふ名称にはかなり誤解が伴ふ」と述べてゐ
ます。即ち、歴史的仮名遣ひの實現は「明治初期中期の教育及び印刷の進展に伴
ふものであつ」て、歴史的には古くから確立してゐたのではない、と言ひたいら
しい(「國語運動と國語教育」岩波講座 國語教育、昭和12年)。
もちろんご承知でせうが、新村は新かな反對派です。
橋本進吉「表音的假名遣は假名遣にあらず」に曰く――
表音的假名遣に於て見る如き、假名遣を否定する考へは、古く我國にも全くないではなかつたが、
今世間に行はれてゐる、歴史的假名遣及び表音的假名遣の名は、英語に於ける歴史的綴字法(ヒス
トリカルスペリング)及び表音的綴字法(フォネティクスペリング)から出たもので、假名遣を綴字
法と同樣なものと見て、かく名づけたのである。然るに綴字法は歴史的のものも表音的のものも、
共に語の書き方としてのきまりであつて、かやうな點に於て、語を基準とする假名遣とは通ずる所
があつても、音を基準とする表音的假名遣とは性質を異にするものといはなければならない。
http://ime.nu/members.jcom.home.ne.jp/w3c/HASHIMOTO/HYOON.html
>>94 >1 個の音韻が 1 種類の方法で表記される
本則:おとうさん(父)、おうぎ(扇)、いこう(行かむ)、
例外:こおり(氷)、おおかみ(狼)、おおきい(大)、とおる(通)、おおやけ(公)……
2種類では? 後者の例外を音韻から説明してみせて下さい。
>福田恒存が言い掛かりをつけているのは,あくまで連濁や助詞「は・へ・ほ」について。
「言い掛かり」ではないし、オ列・エ列長音にも批判した箇所がある。見落としかね?
福田恆存『私の國語教室』
第二章「四 「現代かなづかい」の弱點」
第五章「五 音便の表記」(の後半)
>>101 > 後者の例外を音韻から説明してみせて下さい。
原則の外にあるから「例外」と言うのに,それを原則で説明せよとは,禅問答だろうか。
> 「言い掛かり」ではないし
金田一京助は,連濁や助詞「は」 「へ」 「を」を音韻で説明しようとなどはしていないから,完璧な言い掛かり。
舌先三寸の文士風情が何をほざくか。
>新村出は「歴史的假名遣といふ名称にはかなり誤解が伴ふ」と述べてゐます
勿論、歴史的假名遣ひは、新興のものだ。
歴史的假名遣ひの「歴史的」とは、典據が歴史的である事、つまり典據を歴史上のある時點(契沖
なら延喜)に求めるといふ意味での「歴史的」なのであって、假名遣ひ自體が歴史的なのではない。
そんな事は分り切ってゐる。(歴史的假名遣ひを日本古來のものと誤解する向きもあるやうで、そ
の方々に向けては必要な注意だらうが)。
繰返へすが、典據を延喜に置いた「歴史的」假名遣ひで、且つ方針の「矛盾」を來さずに、
如何なる方法で現代の音韻に「近づける」事が出來るのだらう。完全に矛盾する様に思ふのだが。
>>101 > オ列・エ列長音にも批判した箇所がある。見落としかね?
> 福田恆存『私の國語教室』
> 第二章「四 「現代かなづかい」の弱點」
表音主義に徹しようといふ浅はかな夢からでせうが,拗音と促音を示す
「や」 「ゆ」 「よ」および「つ」を小さく書く人がをり,また活字でもさうする場合が多
くなりました。が,これはなんの根拠もないことです。そのつもりは,おそらくそれが
本来示してゐる音韻どほりに用ゐられず,単に拗音,促音の記号を示すものだからとい
ふことでせう。しかし,それなら,長音の「う」も「お」も「え」も「い」も,みな同
様です。本来,それが示してゐる音韻とは別のもので,ただ前にくる音を長音に発音す
ることを示す記号に用ゐられてゐるだけです。「う」について言へば,「しろう゜さぎ (白
兎)」と「しろう゜と (素人)」あるいは「こう゜り (小売)」と「こう゜り (行李)」では,
「う」の音価が違つてをります。「や」 「ゆ」 「よ」 「つ」を小さく横に書くなら,「しろう
と (素人)」 「こうり (行李)」の「う」もさうせねばならず,それをしない理由は表音
主義からは絶対に出て来ぬはずです。(文春文庫92-93頁)
「1 種類の表記が 1 個の音韻に対応する」ことは,表音原則にとって必須ではないが,そうなっていたほうが読み誤りがなく,機能的であることは確かだ。
一つの形態素の中でも,/kijo-ku/ (清く) と /kjoku/; /kjo-ku/ (曲; 巨躯),/atu-kaN/ (熱燗) と /aQ-kaN/ (圧巻),/itu-ki/ (五木) と /iQ-ki/ (一気) のような対立があるから,現代仮名遣いは小書きを行う。
他方,音韻 /ee/ と /ei/,/oo/ と /ou/ の対立は,一つの形態素の中では起こらない。/jake-isi/ (焼け石),/siro-usagi/ (白兎) のように,/ei/ /ou/ は二つの形態素にまたがるときだけ現れる。
だから,/ee/ /oo/ を表す「えい」 「おう」の「い」 「う」を,小書きにする必要はない。
こういうことに気がつかないのは,まさに素人の浅はかさ。
エエ(諾)とエイ(魚)、オオ(諾・大)とオウ(「負う」の終止形言切り)は
稀な /ee/ /ei/, /oo/ /ou/ 対立例では ?
それとも /e'e/ vs /ee/, /o'o/ vs /oo/ と解釈 ?
>>104 さう、そこは謬りだらう。
私も、拗音促音は小書きにすることもあって、そこには疑問符をつけた。
しかしその前の部分、「時枝博士の著書で教へられた」理由から
お列長音表記の問題點を指弾した箇所はもっともだと思った。
見落としてゐた癖に、都合惡い部分を無視してはいかんよ。
>>102 ナゼそんな「例外」を作るのかね。その理由を表音韻主義から説明してごらん。
金田一京助こそ舌先三寸の曲學阿世の徒である。
金田一著『國語の變遷』戰前版(1941初版)では「現代語音」を表す九十音節の内譯として
ワ行「ゐ」「ゑ」「を」や合拗音「クヮ」「グヮ」の音節も認めてゐる。
それが戰後になると「ゐなか」「うゑき」「をとこ」「くゎじ(火事)」等の表記を
現代語音では「い・え・お・か」と同音だからと、舊い假名遣を批判した。
福田恆存曰く「博士が日和見主義者なのか、それとも戰爭を境として「現代語音」が
變つてしまつたのか。もし前者なら、博士が今日いつてゐることも信用できません。
後者なら、そんなに簡單に變つてしまふ「現代語音」を基準にするといふ「現代かなづ
かい」そのものが信用できません」――『私の國語教室』「第四章 國語音韻の變化」
といふか、舊假名批判派から見ても金田一はひどすぎだらう。
これが新かな推進の言語學者の代表格だったのだからなあ。
もっとましな「現代かなづかい」擁護の學者は出せないのか。
>>101 > 第五章「五 音便の表記」(の後半)
「ねえ゜さん (姉)」 「ええ゜」
(「ねえ゜」) の場合だけは「え」をもつて長音表記とするといふ例外を設けたのは,いか
にも良心的であるやうな絶望的であるやうな処理でありますが,正直の話,この数語だ
けを例外とした真意はよく測りかねます。あるいは「助けてくれえ゜」などと悲鳴を挙げ
るときの用意かもしれません。なるほど「くれい゜」では殿様じみて妙です。「ええ゜」に
しても「さあ,過ちを認めるか」 「えい゜」では,問答無益の殴りこみとしか受けとれま
せん。(文春文庫268-269頁)
おもしろいおもしろい,さすが物書き(パチパチ,といったところだが,言語学的には全く下らない。
・感動詞「ええ (諾)」と「えい (気合)」の場合だけ,一つの形態素の中で,音韻 /ee/ と /ei/ の対立が見られる。
・「助けてくれえ」の「え」は,「助けてくれ」を強調したことによる音声的延引。
・「くれい」の「い」は,近世語の命令形をつくる語尾で,「くれ−い」と 2 形態素。
『私の国語教室』は,全編を通して,この手の与太小噺に満ち満ちている。
>>109 >・「くれい」の「い」は,近世語の命令形をつくる語尾で,「くれ−い」と 2 形態素。
さう、語尾だと認めるのだな。
だのに、福田の批判で肝腎の、「歴史的かなづかひにおける語尾の「い」「う」は
あくまで「い」「う」であつて、前の音節の長音を表はすものではない」(第五章)
には頬っかむりなのかい?
時枝が「現代かなづかい」における「う」について「一方では長音記號として借用し
ながら、なほかつそれが同時に助動詞の表記ででもあるかのやうに誤信し、又それを
一般に強ひるやうな態度が認められる」(福田・第二章所引)と批判したのもお忘れなく。
>>106 > しかしその前の部分、「時枝博士の著書で教へられた」理由から
> お列長音表記の問題點を指弾した箇所はもっともだと思った。
> 見落としてゐた癖に、都合惡い部分を無視してはいかんよ。
内閣告示が「おお」で押し切っていたら,問題なく「おお」で治まっていたこと必定。
攻撃のネタがあってよかったね。
>>107 > ナゼそんな「例外」を作るのかね。その理由を表音韻主義から説明してごらん。
親切だからさ。
>>108 > といふか、舊假名批判派から見ても金田一はひどすぎだらう。
> これが新かな推進の言語學者の代表格だったのだからなあ。
> もっとましな「現代かなづかい」擁護の學者は出せないのか。
京助は日本語は素人だよ。にわか勉強しただけ。だけど国語学者には一般言語学の素養がなかった。
前スレで「横綱」と言わず,「大関」と言ったのはそれが理由。
>>105 > エイ(魚)
うーん,[ei] とも [ee] とも言うなぁ。わからない。
> オウ(「負う」の終止形言切り)
これは 1 形態素ではない。
>>111 内閣告示が「おお」で押し切ってゐたら? ――それあ相當な抵抗感があったと思ふよ。
といったところで、君も僕も、いづれも我が田に水を引く希望的觀測に過ぎず根據無し。
>>111 >> ナゼそんな「例外」を作るのかね。その理由を表音韻主義から説明してごらん。
>親切だからさ。
はぐらかしても駄目さ。野暮に問ひ詰めるとしよう。
「音韻的親切」(笑)とはいかなるものなりや、説明せられたし。
>>110 /jomo-o/ (読もう) は 2 形態素だから,/hiro-o/ (広尾) が 2 形態素なのと同様で,「読もお」と書かれるべきだって言うんだろ? 理屈はそうなるよ。
しかし,/uke-joo/ (受けよう) の /-joo/ は /-o/ の異形態で,「−よう」と書くことに決まっている。
「読もお」 「受けよう」ではサマにならない。やはりここは「読もう」 「受けよう」と揃えさせてもらう。
>>114 > 「音韻的親切」(笑)とはいかなるものなりや、説明せられたし。
親切は音韻論の外にあるんだが。
このたび,音韻 /oo/ は全部「おう」と書くことになったから,今まで「おほ」と書いていたものも,これからは「おう」と書いてくれ――と言えなかったのが運のツキ。
現代仮名遣いのゴタゴタした「例外」は,ほとんどが制定者の小心によるもの。保科孝一のように,表音主義の宝刀を抜くことができなかった。
この先もやれ密輸だ,詭弁だ,欺瞞だと罵られ続けるんだろうね。しかし,「国語の生理」などといった,大仰なものでは絶対にない。それは福田恒存の妄想。保証する。
「ええええ (営々)」でも「おおおお (往々)」でも,そう定めてしまえばそうなるんだもの。子供たちの頭はほんとに柔軟だよ。だれかさんたちの石頭とは対照的だ。
子どもを洗腦で刷新してしまへば大人のこれまで受け繼いできた傳統は無視してよいわけか。
文字とは既にその言語を知る者のためのもののはずだがね。
もういい加減にして、
どちらもの方も書き言葉における不毛な方言対立である事を認めなさい。
>>117 > 子どもを洗腦で刷新してしまへば大人のこれまで受け繼いできた傳統は無視してよいわけか。
ガク)なんでそーなるの?! どんな書き方がしてあったって,読むのはすぐに読めるでしょうが。
それより,旧仮名派の言う「語に随ふ」 「語に仕へる」とは,結局,どういう意味なのか。
歴史的仮名遣いを守ること以外に,「語に随ふ」方法はありうるのか。
答がないところを見ると,やはり,「語に随ふ」=「歴史的仮名遣いを守る」なのだろう。
「語に随ふ」ことを原則とすべきだというのは,歴史的仮名遣いを守れということに等しい。
旧仮名派の議論は,全体が壮大なトートロジー,屁理屈の体系にすぎない。
そんな歪んだ思考の出所は,だいたい想像がつく。
表音的假名遣に於て見る如き、假名遣を否定する考へは、古く我國にも全くないではなかつたが、
今世間に行はれてゐる、歴史的假名遣及び表音的假名遣の名は、英語に於ける歴史的綴字法(ヒス
トリカルスペリング)及び表音的綴字法(フォネティクスペリング)から出たもので、假名遣を綴字
法と同樣なものと見て、かく名づけたのである。然るに綴字法は歴史的のものも表音的のものも、
共に語の書き方としてのきまりであつて、かやうな點に於て、語を基準とする假名遣とは通ずる所
があつても、音を基準とする表音的假名遣とは性質を異にするものといはなければならない。
アルファベットはいうまでもなく表音文字だが,英語の綴りは表音原則に従っているとはいい難い。さりとて,全然表音的でないかといえば,そうでもない。
そんな表記体系が,橋本進吉にはよほど高級,深遠で,オシャレに見えたんだろう。重症の英語かぶれだね。でもって,それを英文学者の福田恒存が受け継いだ。
日本語の仮名遣いも,英語の綴りのようなものであってほしい――結局,その程度のことだったんじゃないの? 発音どおりに書くなんて低級でダサイ……
>>118 どちらも方言ね。すると「方言」に對する「共通語」(笑)は何なのでせう。
>>119 表記の改新はそれまでに書かれてきたものとの斷絶が起すといふことを考慮してない。
斷絶が起す→斷絶を起す
まさか、平安から明治に至るまで「歴史的仮名遣」が使われていたなんて考えてないよね ?
>>117 > 文字とは既にその言語を知る者のためのもののはずだがね。
旧仮名を使ってきた大人にとって,表記法の変更は大きな負担になる。そんなことは百も二百も承知だよ。
それでも強行したのは,ひとえに,次の世代のためだったはず。衒学的で難しく,漢字の庇に隠れたくなるようなものより,一定の規則さえ憶えれば,発音のみに従って書けるものの方を,未来に残したかった。
戦前の仮名表記法改良案は,教育界からの要望を受けたものが多かった。教育者は本質的に,未来のことしか考えていない。
>>120 > 表記の改新はそれまでに書かれてきたものとの斷絶を起すといふことを考慮してない。
読むだけなら大した問題は起こらない。
スレタイ讀め
125 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/08 15:00
126 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/08 15:16
>>123 下記の文章での表外漢字 - 衒,庇
----------------------------------------------------------
>>117 > 文字とは既にその言語を知る者のためのもののはずだがね。
舊假名を使ってきた大人にとって,表記法の變更は大きな負擔になる。そんなことは百も二百も承知だよ。
それでも強行したのは,ひとへに,次の世代のためだったはず。~衒學的で難しく,漢字の~庇に隱れたくなるやうなものより,一定の規則さへ憶えれば,發音のみに從って書けるものの方を,未來に殘したかった。
戰前の假名表記法改良案は,教育界からの要望を受けたものが多かった。教育者は本質的に,未來のことしか考へてゐない。
>>120 > 表記の改新はそれまでに書かれてきたものとの斷絶を起すといふことを考慮してない。
讀むだけなら大した問題は起こらない。
>>123 >それでも強行したのは,ひとえに,次の世代のためだったはず。
戦時中には、「軍隊用語の簡易化案」とか「学童の視力低下を防ぐための字体簡素化案」とか
沢山出たが、全部潰された。改革派の中には「言わんこっちゃない、だから戦争に負けたんだ」
という思いがあったかも知れない。
128 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/08 15:39
舊字舊假名遣い否定派の人でも、表外漢字(常用漢字・人名漢字以外の漢字)を
使っている人は、少なくとも、舊漢字を使うことは否定できないと思います。
舊文部省の決めた規範化のレベルでは、表外漢字と舊字體は同じ扱いです。
>>122 > まさか、平安から明治に至るまで「歴史的仮名遣」が使われていたなんて考えてないよね ?
書き言葉の種類で言へば、「江戸版本の表記」はおろか「候文」「文語文」「漢文」など、
色々な表記が使はれてゐた筈ですが、仮名遣の主流は「定家仮名遣」だつたと思ひます。
「定家仮名遣」は、一つ一つの語の由緒が明かになつてゐるとは言へないので、
仮名遣としては亜流になりませう。
明治時代に行はれたのは表記の統合であり、統合された結果としての口語文を使用して
ゐる現在を考慮すれば、口語文其れそのものは成功だつたんだと判断します。
>教育者は本質的に,未来のことしか考えていない。
だから駄目なんだよ。過去の遺産を受け繼いでこそ教育。未來だけでは片手落ち。
>>131 > 過去の遺産を受け繼いでこそ教育。
それは共同体の仕事であって,教育がやるべきことじゃない。
教養としての古典は一応教えるよ。将来 DQN と思われたら本人が困るからね。
現に新字新かな教育の所爲で明治大正の文獻すら讀めない輩ばかりになつてゐるわけだが。
大體、教育が共同體の仕事ではないとでも思つてゐるのか。
>新字新かな教育の所爲で明治大正の文獻すら讀めない
「新正書法教育のせいで旧正書法の文献が読めなくなった」というなら、確かに
新字新かなのせいだろう。しかし、新字新仮名にした虞美人草だって読めないのだ。
本当に表記法の問題なのか、考え直した方がいい。
表記のみならず語彙を知らなくなつたといふ問題も多分にあらう。
だがそれは新字新假名教育の底にある、憶え易い・わかりやすいばかりを追求して
易きに付く精神が招いたものだと言へよう。
ところで、教育は共同體の仕事ではないのか?
>>133 > 現に新字新かな教育の所爲で明治大正の文獻すら讀めない輩ばかりになつてゐるわけだが。
現在から未来へも通じるような普遍的価値を有するものは,日本語の文献の場合,少ないと言わざるを得ない。残念なことだが。
時の淘汰を経て価値を認められたものは,だいたい新字新仮名で出版されているから,読めないということはない。
> 大體、教育が共同體の仕事ではないとでも思つてゐるのか。
共同体の仕事の一部を委任されている。何もかも持ち込むのは筋違い。
>>135 > だがそれは新字新假名教育の底にある、憶え易い・わかりやすいばかりを追求して
> 易きに付く精神が招いたものだと言へよう。
これも全くの筋違い。物理的時間が招いたものにすぎない。
>>117 > 旧仮名派の言う「語に随ふ」 「語に仕へる」とは,結局,どういう意味なのか。
推測するしかないが、
A: 現代の形態(音韻)の同一性よりも、形態音韻論的規則の一貫性の方を優先する。
A-1: 用言の活用、そこからの派生(聯用形→名詞など)に就ては、形態音韻論的規則に從ふ。
例: 負ふ→負はない・請け負ひ、(見ゆ)→見えて・みえ(見榮)
A-2: 聯濁・疊言・複合(聯語)なども、形態音韻論的規則に從ふ。
例: こづつみ(小包)、ちぢむ(縮)、つくづく(盡々)
B: 形態音韻論的規則の無いものは、語ごとに定める表記法(辭書情報・「辭書的知識」)に據る。
B-1: 延喜天慶以前の音韻が判明するものは、延喜天慶の音韻を伊呂波で再解釋したものに據る。
例: みづ(水)、つくえ(机)、あふぎ(扇)、こし(腰、コ乙)、cf. こし(越し、コ甲)
B-2: 漢字音由來の語は、延喜天慶の音韻で再解釋し、それを更に伊呂波で再解釋したものに據る。
例: ちやうど(丁度)、きようがる(興)、きめう(竒妙)
以上、A〜B-2が 契沖「和字正濫抄」の範圍。
B-3: 延喜天慶以前の音韻が不明か、延喜天慶以後生じた語は、B-1)で區別可能な範圍での區別をする。
例: 行かう(助動詞ウは院政期に出現)、見よう(一段動詞用として中世に出現)、
たうふ(豆腐、理論漢字音はトウフの筈だが何故かタウフ)。ばう(棒)・りやう(寮)等も、
理論漢字音と平安〜中世音が異なるため、中世(等)音を伊呂波で再解釋したものを採る。
この類は、「新明解国語辞典」の附録(山田忠雄)等に詳説あり。
(つづき)
C: 餘りに音聲と懸け離れた場合、便宜を優先して表音表記に據る。(當然、A,B には矛盾する)
C-1: 用言の音便
例: 買つて(A-1 に據れば「買ひて」の筈)、飮んで(「飮みて」の筈)、書いて(「書きて」の筈)。
用言の音便は(殆ど)規則的なので A-1 の一部と見なす立場もあらう。
尚、バマ行撥音便で「飮むで」「飛むで」の樣にバマ行を守らうとする表記もあったが、廢れた。
C-2: 語幹の母音に變化を生じたもの。(そこだけ表音) 但し、B-1 形を遵守する書き方も併存。
例: よひ(醉←B-1 ゑひ)。
C-3: 體言中の促音
漢字入聲音由來の漢語では、菊花(きくくわ・×きつくわ)、颯爽(×さふさう・さつさう)など、韻尾
ごとに異なる。「ぶつ飛ばす」「かつ捌く」の類はC-1 に關聯附ける事がある。
「眞つ盛り」の類はC-4。マッツァカリ・おトッツァン系も同。
C-4: A,B に據る論據不明のため取り敢へず當該音節を表記する最も一般的な表音表記に據るもの。
例: もう(「もはや」の意で)、ぼうぼう(と火が燃える)、じやらじやら(でれでれの意)、ずつと。
C-4 を假名遣ひとして用ゐるを潔しとせず、「モー無い」「ズッと」の樣に片假名表記にする人もある。
その他、ゲジゲジ、クジラの樣に、古來兩形ある類もここに含む。
尚、「字音假名遣ひは行なはない」とする案は、B-2とB-3を C-4 に移動する案。
D: 以上の全てに矛盾するが、他語との混同や、疑わしい語源説等に據ったと覺しきもの。
例: ○○でせう :「サ變+う」との混同か。「にて候」由來とされ、果して「せう」の論據ありや。
どう(如何) : B-3 に據れば「だう」の筈(cf. かう/さう、山田忠雄)だが、だうしても「どう」。
かうぢ(麹) : 語源を「かむだち」と定めて「かうぢ」としてあるが、B-3なら「かうじ」。
訂正前の「つくゑ」(←突き据ゑ)の類、これに同じ。
C-4 を、まう、ばうばう、ぢやらぢやら(←でれでれ)、等とすると、こちらに入らう。
(長くて濟まぬ、これでお仕舞ひ)
以上、勝手に推測した歴史的假名遣ひの表記規則 A〜D は、全て語ごとに定ってゐる。
從って、この限りに於て「歴史的假名遣ひは語に隨ふ」と言って差支へない。
しかし、C-2以下(見方に據ってはB-3以下)は、既に典據も根據も無い、語ごとに勝手にかう决めたといふ
だけのもので、確かに語に隨ってはゐるが、全く別の「語に隨ひ」方がいくらでもあらう。
「歴史的假名遣ひは語に隨ふ」は正しい。しかし、現代假名遣ひですら(面倒なので分類はしないが)「語
に隨」ってをり、「語に隨ふ」は假名遣ひの一般性質に過ぎない。
契沖の假名遣ひはA-1〜B-2に限られ、「延喜音韻に基づく嚴格な表音主義を伊呂波で書いたもの」である。
契沖は、(彼に取っての)「現代語」を歴史的假名遣ひで書かうとしてはゐないから、これでよかった。
(勿論彼は、「延喜音韻に基づく嚴格な表音主義は伊呂波では書けない」事を知らなかった)。
我々の「現代語」を(契沖に倣って)延喜音韻に基いて表記しようとすると、B-3 以下が必要になる。
山田忠雄らは、B-3,C-4 等の典據發掘を嬉々として行ったが、それが肝心の契沖原理(延喜音韻に基づく
表音主義)に根本的に矛盾する事を無視した。現代假名遣ひ批判の一つに「表音主義を徹底してゐない」
があるが、B-3,C-4は正にそれで、歴史的假名遣ひが延喜表音主義を徹底しない例に他ならない。
こんな處でいいかな ?
>>117 氏
>聯濁、聯語
これは「連」のような気がするが、どうなん?
>>138 > A: 現代の形態(音韻)の同一性よりも、形態音韻論的規則の一貫性の方を優先する。
> A-1: 用言の活用、そこからの派生(聯用形→名詞など)に就ては、形態音韻論的規則に從ふ。
> 例: 負ふ→負はない・請け負ひ、(見ゆ)→見えて・みえ(見榮)
古典語のハ行四段活用は,現代語のワア行五段活用へと体系的に移行しているから,現代語においては,形態音韻論的に見ても,「負わない」 「請け負い」 「負う」と書いてよいのではないか。
それとも,この段階で B-1 を適用して,古音に従うということか。
> A-2: 聯濁・疊言・複合(聯語)なども、形態音韻論的規則に從ふ。
> 例: こづつみ(小包)、ちぢむ(縮)、つくづく(盡々)
「ちぢむ」 「つづみ (鼓)」等は,形態音韻論的現象といえるのか。
>>140 > 以上、勝手に推測した歴史的假名遣ひの表記規則 A〜D は、全て語ごとに定ってゐる。
> 從って、この限りに於て「歴史的假名遣ひは語に隨ふ」と言って差支へない。
仮名遣いが問題にならない語,例えば「かき (柿/垣/牡蠣)」の表記については,どのように考えるか。
この場合も,やはり B-1 の古音を経由した,辞書情報に基づくものであって,現代語の音韻に合致するのは偶然であると見なすか。
福田恒存は,「それらはさういふ語だから,さう書いてゐるのです」 (『私の国語教室』文春文庫75頁) と,脱力させるようなことを言っているが。
規則が多くていや〜ん。
>>140 ありがたう。歴史的仮名遣で書いてゐる私ですら非常に勉強になりました。
試しに『新旧かなづかい便覧』(三省堂)で「豆腐」を探してみたのですが、
一覧には在りせんでした。「たうふ」が正解ですか。
>>139 > C: 餘りに音聲と懸け離れた場合、便宜を優先して表音表記に據る。(當然、A,B には矛盾する)
殊に,B の典拠,根拠が見出せない場合も,「語ごとに定ってゐる」といえるのはなぜか。現代語の音韻を表していると考えてはいけないのか。
>>119 >そんな表記体系が,橋本進吉にはよほど高級,深遠で,オシャレに見えたんだろう。
>重症の英語かぶれだね。でもって,それを英文学者の福田恒存が受け継いだ。
バッカぢゃなかろか。またまた話が逆だ。
もともと表音主義者どもが「欧米先進國はみな表音文字だ、日本もさうしないと進歩できぬ」
などと言ひ立てたから、「いやいやその西洋語の英語だとてそんな單純な表音一邊倒ではないぞ」
と、相手の言及したものから反例を擧げてみせたまでである。
己れの西洋かぶれを反對者にまで押しつけないでくれたまへ。
>>147 > 「いやいやその西洋語の英語だとてそんな單純な表音一邊倒ではないぞ」
> と、相手の言及したものから反例を擧げてみせたまでである。
でもって,今度はそれに似たものを推奨してるんだから,目糞鼻糞。西洋かぶれ vs 英語かぶれ。
英語に似てゐるから推獎してゐるわけではなからうに、それも讀み取れぬか。
語に隨ふべきはいづこも同じ普遍原則と言うてをるのだ。
新語で表音文字を使ふ場合、最初は表音的な綴りを使つて、
書き言葉として定着したら、語に随ふやうにして行くと云ふ方針なら判りますね。
新語は意味が通じ難いので、固有名詞以外で使ふのは控へたはうがいいかも。
>>149 > 西洋の國々では主として、ローマ字をもつてその國語を書きますが、その場合に、
> 綴字法(スペリング)といふ事があります。
それ英単語だよね。
> これが日本語に於ける假名遣に似たものであります。ローマ字は日本の假名と同
> じく音を表す文字であり、同じ音をあらはすにいろいろの書き方があり、どんな
> 文字で書くかは、語によつてきまつてゐる事など今の假名遣と同じことでありま
> す。
英語については確かにそうだけど,ほかのヨーロッパ語はどうなの?
例えばイタリア語とか。
> さうして、西洋語の綴りは、やはり、過去の發音を代表してゐるのであつて、そ
> の發音の變遷の結果、文字と發音との間に不一致が出來た事までも、日本の假名
> 遣と同じことであります。
英語の綴りは,14世紀までに概ね固定していたために,15世紀以降の音韻変化をほとんど反映していない。規範が確立したのは,15〜16世紀の混乱を経て,17世紀の半ばだったとされている。
日本語の歴史的仮名遣いは,10世紀の音韻に基づいているが,考案されたのは17〜18世紀であり,規範化したのは19世紀後半のことだ。
どうして「同じこと」などといえるのか。よほど英語になぞらえたいんだろうね。
> たゞ違つた點は、西洋のスペリングは、どんな語に於てもある事でありますが
これも典型的には,英語だよね。ドイツ語やイタリア語で綴字法なんて問題にならない。ほぼ表音的だよ。
> 日本の假名遣は、假名が違つても同音である場合や、同じ文字に二つ以上の讀み
> 方があつて、用ゐ場所が疑問になる場合にかぎられ、さうでない場合、たとへば、
> アサ(朝)やヒガシ(東)などの場合には全然關係がない事であります。
> (橋本進吉『仮名遣について』)
歴史的仮名遣いの方が,現代仮名遣いよりはるかに例外の多い,不出来な表音式だってことじゃないの?
>>83 が言ってるように。
橋本進吉の診断名: 慢性英語かぶれ。
>ドイツ語やイタリア語で綴字法なんて問題にならない。ほぼ表音的だよ。
ドイツ語は、das(中性冠詞)・dass(接続詞)、Meer(海)・mehr(more) とか、同音異義・異綴語が
たくさん程あって、いつも綴字・正書法改革で揉める。今年度の大学センター試験ドイツ語の問題
には、旧正書法・新正書法が並記してあったくらいだ。
>>142 >古典語のハ行四段活用は,現代語のワア行五段活用へと体系的に移行しているから,現代語においては,
>形態音韻論的に見ても,「負わない」 「請け負い」 「負う」と書いてよいのではないか。
「ワア行」と行を跨ぐ處が既に形態音韻論的一貫性を亂してゐる、といふ論理なのだが、だめか。
>「ちぢむ」 「つづみ (鼓)」等は,形態音韻論的現象といえるのか。
疊言は、形態素を構成する規則の一であったが、既に生産性を喪失してゐる、と考へる。
羅do(give)→dedi(gave)等の半ば規則的な疊音と竝行的に捉へる一案だが、うむ、ちと苦しいな。w
動詞活用規則と形態素構成規則を混同するのは以ての他、との批判もあらう。
>>142 >仮名遣いが問題にならない語,例えば「かき (柿/垣/牡蠣)」の表記については,どのように考えるか。
>この場合も,やはり B-1 の古音を経由した,辞書情報に基づくものであって,現代語の音韻に合致するのは
>偶然であると見なすか。
B-1 經由と考へる。
但し、それは「偶然」ではない。日本語の傳統に基づく必然であり、延喜と平成とを結ぶ絆の一つだ。
「負はない」 「請け負ひ」のハ行表記も、「据ゑる」のワ行表記も、延喜と平成とを結ぶ大切な絆なのだ。
この一點に於て、俺は歴史的假名遣ひに一票入れる。
歴史的假名遣ひとは、千年前の表記を再現するものではなく(まして千年來の表記の傳統の保存ではさらさ
らなく)、千年前の日本語と現代語とを結び附けるべく新たに創作された尚古の手段の一つに過ぎない。
歴史的假名遣ひが延喜表音主義で、しかも「その表音主義の不徹底」「矛盾だらけの方針設定」では現代假
名遣ひを遙かに凌ぐのは上述の通り。それは承知の上で、それでも日本語千數百年の表記史に「一貫」の幻
想を與へる方を採る。歴史的假名遣ひを、やれ矛盾の無い表記だ、やれ傳統的だといふ迷妄の言には與しな
いし、現代假名遣ひへの不徹底・方針矛盾といふ罵言は、寧ろ歴史的假名遣ひにこそ相應しいものと認識し
てゐるが、だからと言って、今日に於ける合理性を最優先事項としようといふ氣にもならないのだよ。
しかし、教育といふ點から見れば、如何だらうか。
全ての語が、千年以上前の典據をひっくりかへさない限り書けない現代語表記法といふのも珍しいだらうし、
所詮は「幻想」であって、將來の日本を擔ふ小學生にまで押しつけよう、その小學生を教へる先生達に理解
して貰はうといふのは、確かに躊躇する。小學生に根據を問はれて「それはさういふ語だからさう書いてゐ
るのです」としか答へられぬ教師でも困るし。「幻想」を「國民精神」とか言ひ出すと、又違ふのだらうが。
>>154 > 延喜と平成とを結ぶ大切な絆なのだ。
130,145,150です。この言葉、非常に気に入りました。
私も歴史的仮名遣に一票入れますね。
私にとつての延喜は『延喜式神名帳』かな。
当時の神社を一覧表にしたものです。
>>152 > 今年度の大学センター試験ドイツ語の問題
> には、旧正書法・新正書法が並記してあったくらいだ。
ははは。聞くところによると,ドイツでは国論を二分しているそうな。
しかし,改革案が一応通ったということは,裏を返せば,大した問題ではないということだろう。
Photo か Foto かなんて,現代仮名遣いの「は」 「へ」 「を」と同レベルの,表音式の例外だよ,たぶん。
英語の綴字を改革しようと思ったら,どこからどう手を着けていいかわからないだろう。結局,今のままで我慢するしかない,というところに落ち着く。
語ごとに定まっている,語に随っている,といえるのは,そのレベルのことだとおれは思う。
158 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/09 23:38
>>154 >歴史的假名遣ひとは、
>千年前の日本語と現代語とを結び附けるべく新たに創作された尚古の手段の一つに過ぎない。
「尚古」は主たる目的ではないだらう。
>歴史的假名遣ひが延喜表音主義で、しかも「その表音主義の不徹底」「矛盾だらけの
>方針設定」では現代假名遣ひを遙かに凌ぐのは上述の通り。
契沖かなづかひが結果として「延喜表音主義」となったのは事実だらうが、目的は語の
表記を定めることだったはず。
さうして表記がいちおう定まった以上、(「延喜表音主義」によらず)それを流用すれば
問題ないだらう。
>全ての語が、千年以上前の典據をひっくりかへさない限り書けない現代語表記法と
>いふのも珍しいだらうし、所詮は「幻想」であって、
なんでこんなデマを飛ばすんだい?
>>98 >前スレで、『私の国語教室』初版本の帯の話が出た時、よく知ってる人もいるもんだ、
>古書マニアかな、と思ったが、
時枝が『私の国語教室』を推薦したことは文春文庫版の『私の国語教室』にも書いてあるぞ。
>>160 > 契沖かなづかひが結果として「延喜表音主義」となったのは事実だらうが、目的は語の
> 表記を定めることだったはず。
> さうして表記がいちおう定まった以上、(「延喜表音主義」によらず)それを流用すれば
> 問題ないだらう。
では,いったい何を根拠として,語の表記を定めるのか。「語に随ふ」とはどういうことかと,何度も尋ねているんだが。
>>161 > 時枝が『私の国語教室』を推薦したことは
もう時枝の汚点を持ち出すのはやめろ w 文法学者としてはとても偉いんだから。
なんでみんな複雑なのが好きなんだ?
簡単なのが最高じゃないか?
福田恆存=フクザツなり、といふ語呂を思ひだした。
(埴谷雄高=何を言ふか、といふのもあつた。誰が言ひ出したのだつけ?)
165 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/11 00:15
>>153 ワア行五段活用の問題は、ワ行に「ヲ」を残してしまったの真因だよ。
もし、助詞の「を」を廃止して、「お」に統一していれば、
ワ行は、「ワイウエオ」という体系になり、ワ行五段活用ですんなりいった。
もっとも、現代仮名遣いは中途半端だから好かんという指摘なら納得はする。
>>157 英語のスペルの場合、伝統もあるけど、地域もあるんだね。
すでに、イギリス英語とアメリカ英語は発音的に乖離が始まっており、
オーストラリア英語まで含めた統一表音スペルなんて不可能だ。
もし、各国が勝手に自国の標準スペルを決めたら、それこそ、ラテン語から
イタリア語、スペイン語、ポルトガル語が分裂したような状況になってしまう。
となると、使用人口を背景にした英語の優位性が減るからね。
>>146 >殊に,B の典拠,根拠が見出せない場合も,「語ごとに定ってゐる」といえるのはなぜか。
>現代語の音韻を表していると考えてはいけないのか
主に B-3 の事かと思ふが、ここは歴史的假名遣ひの最大の問題だと思ふ。(C-4 は論外)。
(上では餘りに煩瑣なので省略したのだが)、B-3, C-4 等の典據追及を眞面目にやると、
だうしても歴史的假名遣ひの虚構をルール作りから始める事になる。
「ルール作りから」といふのは、歴史的假名遣ひは基本的に表音主義なので、背景に前提
となる音韻體系がある筈だが、延喜は伊呂波では書けないといふ例の矛盾により、それは
歴史上實在の音韻體系ではなく虚構である事が明らかで、となると、その虚構音韻體系の
措定から始める必要があるからだ。例へば、中世ではタウフだから豆腐の歴史的假名遣ひ
は「たうふ」だ、と山田忠雄が言ふのは、中世には、まだタウ・トウの區別が存續してを
り、且つ彼の措定する「前提音韻體系」にこの二つの區別があるからである。
延喜は伊呂波では書けないといふ矛盾は、音韻史の諸書に詳しい。簡略化すると、伊呂波
に枝江區別が不足(延喜は區別保持)、ハ行轉呼が餘計(延喜は既に混亂)の二點だが、これ
以外の音韻區別が問題で、例えば (a)pの入聲(葉接など)は保持か混亂か、(b)きょう・けう
(興教)、しょう・せう(昇少)、りょう・れう(菱料)系(つまり韻尾鼻音の有無)が果して相
互に區別されるか等、歴史的假名遣ひの前提(虚構)音韻體系が、かなりの部分不明なのだ。
(つづき)
山田忠雄らのB-3研究を見るに、「伊呂波矛盾」はそのまま(ハ行轉呼保持・枝江區別無視)
にして契沖純正同樣とし、(a)pの入聲は保持、(b)鼻韻尾區別は無視の樣に見受ける。ただ、
(b)はどこまで山田の射程に入ってゐたのかがよく分らず、經典讀誦音以外の資料も少ない。
(理論音で濟ませるといふ奧の手は、ここでは勿論論外として置く)。
>現代語の音韻を表していると考えてはいけないのか
B-1、B-2 と同樣に、B-3 も、上記の前提(虚構)音韻體系で再解釋して、言はば「延喜に投
影した積りで」日本語の歴史に位置附けてゐるのが歴史的假名遣ひ(擴張版)なので、この點
で、現代語の音韻がそのまま表音されてゐるとは言ひ難い。(そんなのは欺瞞だ、と言ふな
らその通り、その欺瞞は延喜平成幻想の爲にある、と言ふ點は繰返へさない)。
この「延喜に投影した積りで」といふ處が、歴史的假名遣ひの「語に隨ふ」だろう
>>162 前提音韻體系が不明のままでは、中世のタウフの例故に豆腐は「とうふ」ではなく「たうふ」
だと言ひながら、中世のケウガルの例故に「興がる」は「きょうがる」でなく「けうがる」
だと何故言へないのか、問題が殘る筈だが、これを説く事無く山田は沒して仕舞った。
>>160 >>全ての語が、千年以上前の典據をひっくりかへさない限り書けない現代語表記法と
>いふのも珍しいだらうし、所詮は「幻想」であって、
>なんでこんなデマを飛ばすんだい?
デマ?
俺は出來る限り根據を掲げて誠實に書いて來た積りだが、どこがデマなのか
指摘して呉れ。誤認識・誤解などがあるなら、その指摘から學びたいと思ふ。
山田忠雄の何を參照してゐるのか、文獻の書誌情報を擧げてくれたまへ。
あと、古への音韻は録音されてゐない以上、表記からの推定でしかないこと、お忘れなく。
根據は音韻ではなく表記だらう。
>>167 > この「延喜に投影した積りで」といふ處が、歴史的假名遣ひの「語に隨ふ」だろう
漢字をほとんど交えない表記体系が近代以降も続いていたら,歴史的仮名遣いは,日本のアカデミーが定めた規範として,揺るぎないものになっていたかもしれない。
ところが実際は,明治時代は漢語全盛であり,「延喜明治幻想」は既に,無用の長物化しつつあった。
>>169 > 根據は音韻ではなく表記だらう。
すると,ある語の表記は,文献上最も古い例を以て定めるということか? それが「語に随ふ」 「語に仕へる」ということなのか?
/icizirusi-i/ (著),/obitadasi-i/ (夥) は,「いちしるしい」 「おびたたしい」と書くことになるが,よいか?
>>163 > なんでみんな複雑なのが好きなんだ?
英語かぶれだからだよ。
ヨーロッパ諸語を,それぞれの表記体系が表音原則 (1 個の音韻が 1 種類の表記で写される) に合致する程度によって並べてみると,大体,次のようになると思う。
英語<<仏語<<<独語<伊語
イタリア語はほぼ表音的で,例外はまれ。
ドイツ語は表音原則に従っているが,相当数の例外がある。
フランス語と英語は,表音原則に従っているとはいえない。ただし,1 個の音韻が多種類の表記で写される度合いは,英語の方がはるかに大きい。
現代仮名遣いは,ドイツ語とイタリア語の間くらい。
歴史的仮名遣いは,和語に限ればドイツ語のやや左くらいだが,漢語を含めるとフランス語のやや右くらいになる。
>>151 で引用した,綴字法が「語によつてきまつてゐる」 「どんな語に於てもある」というのは,英語とフランス語にはあてはまるが,ドイツ語についてはあやしく,イタリア語にはあてはまらない。
「語に随ふ」のはいずこも同じというわけではない。橋本進吉や福田恒存が「語に随ふ」 「語に仕へる」と言うとき,それは表音文字が英語やフランス語,典型的には英語におけるように扱われることであると解釈して間違いない。
172 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/11 08:04
>>170 >明治時代は漢語全盛であり,「延喜明治幻想」は既に,無用の長物化しつつあった。
「延喜××幻想」は、個人的な妄想なら信仰の自由の範圍なのだが、歴史的假名遣ひを絶對の
表記規範に仕立てようとしたら、やはり「國民精神」にまで持って行く事になるかと思ふ。
表記法の安定の必要にかこつけて「國民精神」が持ち出せる事になる。
龜井孝の命名「明治欽定かなづかひ」は、つくづくうまい。
>>167 だろう→だらう 申譯け無し。
>>169 >根據は音韻ではなく表記だらう。
ではオモウは於毛布とか意母布とか書くとでもいふのかね?
於毛布・意母布が「おもふ」の典拠となし得る根拠は、音韻でなければ何なのだ。
『,』を使う香具師は絶對に信じないことにしている。そもそも表記の仕方が間違つてゐる。
>>172 >ではオモウは於毛布とか意母布とか書くとでもいふのかね?
漢字(萬葉假名)は論外。
いろは四十八字(+α)で飜字して表記するのが「假名遣」でせう。
「假名文字遣」や龜井孝の謂ふ「超いろはかなづかい」なら話は別だが。
分ってないやうだから繰り返へさう。
於毛布・意母布が「おもふ」の典拠となし得る根拠は、音韻でなければ何なのだ。
伊呂波で「飜字」出來るといふその根據は何なのだ。音韻ではないか。
(なほ、「飜字」が transliteration の意なら、その用法は間違ひだよ、爲念)
純理論的には、萬葉假名と伊呂波假名との對應關係さへ確立できるのならば、
必ずしもそこに兩者を媒介する音韻を想定せずとも濟むわけだが。
>>172 > 歴史的假名遣ひを絶對の表記規範に仕立てようとしたら、やはり「國民精神」にまで持って行く事になるかと思ふ。
たかが表記法なのに暑苦しいよ。
日本では学問が信用されていない。ただの道楽だと思われている。学者も一般人の利益を考えていない。どっちもどっちだね。
>>173 > 『,』を使う香具師は絶對に信じないことにしている。
いずれ,「『?』を使う香具師は」 「新仮名を使う香具師は」 「新字を使う香具師は」とエスカレートしていくだろうね。
/oosaka/ (大阪) は「おほざか」と書くことになるが,いいのか?
橋本,福田は英語かぶれケテーイね w
>>176 > 純理論的には、萬葉假名と伊呂波假名との對應關係さへ確立できるのならば、
> 必ずしもそこに兩者を媒介する音韻を想定せずとも濟むわけだが。
また禅問答が始まったぞ w
表音主義者が欧米を範例に出すのは梅棹忠雄や野村雅昭に至るまで相變らずだよな。
自陣の偏向には目をつぶるのがお得意のやうで。
>>178 > 表音主義者が欧米を範例に出すのは
現代仮名遣いは,漢字仮名交じり表記を前提にしようと腹を括っている。表語,語識別の仕事はできるだけ漢字に任せて,仮名は旧仮名のようにでしゃばらず,慎ましく,表音を主な仕事とするよう定めてある。
ヨーロッパ語には漢字がないから,速く読ませようと思ったら,分かち書きと綴字で頑張るしかない。
「語に随ふ」を連呼する旧仮名派こそ,実は英語かぶれだ。
>>176 >萬葉假名と伊呂波假名との對應關係さへ確立できるのならば
で、その「對應關係」を(音韻抜きで)どの様に確立するのかね ?
或る日突然、天啓でもあるのかな w
>>179 漢字制限→廢止を食ひ止めたのは表音主義批判派であつた。
>>180 一般論として、文字表記の場合は形態に基づく對應關係が考へられるな。
>>181 > 漢字制限→廢止を食ひ止めたのは表音主義批判派であつた。
「廃止」なんてのはただの見せ球。本気だったら絶対,旧仮名のままの方がいい。それでも不十分で,分かち書きやアクセント符号なども正書法に必要だろう。
> 一般論として、文字表記の場合は形態に基づく對應關係が考へられるな。
いずれにしても,/icizirusi-i/ みたいなのはどうするんだ? 最古の表記例に従うと,現代語の音韻からは外れるぞ。
>文字表記の場合は形態に基づく對應關係が考へられる
「意母布」の意→「お」、母→「も」、布→「ふ」を、如何に「形態に基づ」いて
「對應」させるのか、是非知りたい。
>>183 おれが思うに,「意」 「於」相通,「母」 「毛」相通 (古事記ではダメだが),「布」 「不」相通で,「於」>「お」,「毛」>「も」,「不」>「ふ」ということなのだろう。
>「母」 「毛」相通 (古事記ではダメだが)
古事記では甲乙で「形態」が異なるとか ? w
要するに音韻に基づいた「對應關係」であると。
しかも,「布」 「不」相通といっても,あくまでオモフのフで相通しなければならない。カフ (替) のフとかで相通してもダメ。だって音韻を想定しないんだもの。
そんな不自由な話やってられっかよ w
音素論においては實際の音價は括弧に入れて數式的に代入できればいいんでないの?
188 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/12 12:29
>>187 於毛布・意母布が「おもふ」の典拠となり得るのは,「於」 「意」 「お」が /o/ を,「毛」 「母」 「も」が /mo/ を,「布」 「ふ」が /Fu/ を,それぞれ表しているからだ。
音韻 /o/ /mo/ /Fu/ の実際の音価 (音声) は,もとより括弧に入っている。
歴史的仮名遣いでも,
/icizirusi-i/ は「いちしるしい」ではなく「いちじるしい」
/obitadasi-i/ は「おびたたしい」ではなく「おびただしい」
/oosaka/ は「おほざか」ではなく「おほさか」
/atarasi-i/ は「あらたしい」ではなく「あたらしい」
/sazaNka/ は「さんざか」ではなく「さざんか」
と書く。その場合の「前提音韻体系」は,現代語の音韻体系ではないのか。それぞれ左側が古典に見られる形だ。
これらは,
>>138-140 の表記規則の,どれにも該当しない。
>>188 (誤) 「さんざか」ではなく「さざんか」
→ (正) 「さんざくわ」ではなく「さざんくわ」
>その場合の「前提音韻体系」は,現代語の音韻体系ではないのか。
>これらは,
>>138-140 の表記規則の,どれにも該当しない。
御意の通り、C 「餘りに音聲と懸け離れた場合、便宜を優先して表音表記に據る。」の
どこかに規則を新設しないと駄目だね。ただ、表音の素になった音韻は現代語だが、そ
れを延喜の音韻體系に映し直したものを表記してゐるのだ。だから、
>>189 の樣になる。
簡單にいふと、歴史的假名遣ひといふのは、歴史上どの時期にも存在しなかった日本語を、
延喜〜平成の日本語から適當につまみ食いしてでっちあげてゐるのだよ。「それはさうい
ふ語だからさう書いてゐるのです」は、中々いい味出してるではないか。
>>190 「それはさういふ語だからさう書いてゐるのです」
これが大原則なわけですね?
192 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/13 03:19
>>190 > 表音の素になった音韻は現代語だが、そ
> れを延喜の音韻體系に映し直したものを表記してゐるのだ。
それは絶対におかしい。典拠が得られないから幻想で補うというのならわかるが,典拠が存在するのに,現代語の音韻に合わせるために無視するのは反則だろう。
あくまで,書くときは「いちしるしい」 「あらたしい」だが読むときは /icizirusi-i/ /atarasi-i/ だ,というのを貫かないと,真に「歴史的」な仮名遣いとは呼べまい。
旧仮名派が大好きな英語の綴字では,そういったことがあちこちで起こっている。
歴史的仮名遣いでは,/kao/ (顔) を「かほ」と書く。それは,/kaho/ と読まれるおそれがないからだ。現代共通日本語では,形態素の頭以外に音韻 /hV/ は来ない (V: 母音)。
また,/joojaku/ (漸) を「やうやく」と書く。それは,/jaujaku/ と読まれるおそれがないからだ。現代語では,一つの形態素の中に音韻 /Vu/ は現れない。
また,/ai/ (藍),/koe/ (声),/huzi/ (藤),/mizu/ (水) を「あゐ」 「こゑ」 「ふぢ」 「みづ」と書く。それは,/awi/ /kowe/ /hudzi/ /midzu/ と読まれるおそれがないからだ。現代語に /wi/ /we/ /dzi/ /dzu/ といった音韻は存在しない。
歴史的仮名遣いは,現代語の音韻体系に基づいて,それに抵触しない範囲で古形を求めているにすぎない。
そんなのはアカデミックな幻想としても,全くつまらない。
>>112 > > オウ(「負う」の終止形言切り)
> これは 1 形態素ではない。
終止形「負う」,命令形「負え」のような屈折形には,通常の形態素の概念があてはまらない,というべきだった。
>>192 > 現代語では,一つの形態素の中に音韻 /Vu/ は現れない。
/uu/ は現れるね。訂正。
>>194 それも屈折形だから,1 形態素とはいえないな。
どの文法学者も困って,いろんな解釈をしてるよ。
>>190 >>192 歴史的假名遣は「語に仕へる手段として、一貫性、明確性のほかに表音性といふことさへ認めてをります」。
「語義の識別は結果であつて目的ではありません。」
「第二義的とはいへ、表音文字の厄介になつてゐるからには、その表音性も利用せねばならぬ。さう考へるのが常識といふものでせう。」
「つまり文字が固定的な語に仕へるといふ原則を忘れず、音の變化に隨ふのは方便だといふわけです。」
――福田恆存『私の國語教室』第二章「二 音便表記の理由」
前スレッドでもあった議論だが、あらたしい/あたらしい、さんさか/さざんか、などは最早語感からして別語だらう。
だが「買ふ/買う」を別語とする者はをるまい。
>>196 > 歴史的假名遣は「語に仕へる手段として、一貫性、明確性のほかに表音性といふことさへ認めてをります」。
「一貫性」に欠けていることは既に明白。現代仮名遣いは漢字とセットで「語に仕へる」。
> 語義の識別は結果であつて目的ではありません。
目的は由緒らしく見せることだもんな。
> 第二義的とはいへ、表音文字の厄介になつてゐるからには、その表音性も利用せねばならぬ。さう考へるのが常識といふものでせう。
すると英語は非常識か?
> つまり文字が固定的な語に仕へるといふ原則を忘れず、音の變化に隨ふのは方便だといふわけです。
歴史的仮名遣いは,実際は現代語の音韻体系に従いながら,問題の起こらない所で「固定的な語に仕へる」フリをしているだけ。
> ――福田恆存『私の國語教室』第二章「二 音便表記の理由」
音便表記にはけっこう古い例もあるんだから,ことごとしく批判したり,抗弁したりするには及ばない。
> だが「買ふ/買う」を別語とする者はをるまい。
「いちしるし/いちじるしい」 「おびたたし/おびただしい」 「おほざか/おおさか」を別語とする者もおるまい。
やはり歴史的仮名遣いには,魅力がないな。
>>192 >典拠が得られないから幻想で補うというのならわかるが,典拠が存在するのに,
>現代語の音韻に合わせるために無視するのは反則だろう。
C-2 の「よひ」(醉)等は、正にその例で、「ゑ→よ」なら、當然「よい」の筈なのに、
エセ延喜語「よひ」を作り出してゐる。C-2 を「語幹に變化」云々と書いたのは狹すぎたか。
この傳で「あふひ」→「あをひ」(葵)、「たふる」→「たをれる」(倒)とかも出來なくはなさ
さうだが、「歴史的假名遣ひ」と稱してそこまでやるのは餘り見ない樣だ。
>歴史的仮名遣いは,現代語の音韻体系に基づいて,それに抵触しない範囲で古形を求めているにすぎない。
正にその通り。それが平成を延喜に投影する事なのだ。
そこから先は、信仰の世界だらう。
學問的には、歴史的假名遣ひで現代語を書かうとした瞬間に、ずだぼろの代物だから。
>.182
>> 漢字制限→廢止を食ひ止めたのは表音主義批判派であつた。
>「廃止」なんてのはただの見せ球。本気だったら絶対,旧仮名のままの方がいい。
全く事實に反する。カナモジカイ理事長・松坂忠則が新かなの主導者だつた。
いくら決めつけても歴史は歪曲できないぞ。
それに假に「見せ球」だつたとしても、なぜ正々堂々と存念を説かず、
そんな卑怯な手を使つたのか。それだけで批判に値する。
一方、歴史的假名遣派が漢字假名交り文を前提とすること、
福田の『私の國語教室』にも見える通り。
>>197 >> 第二義的とはいへ、表音文字の厄介になつてゐるからには、その表音性も利用せねばならぬ。さう考へるのが常識といふものでせう。
>すると英語は非常識か?
すると英語の綴りは表音性を利用してないのか?
>目的は由緒らしく見せることだもんな。
まともに議論をするつもりがないのなら、發言しなくてよいよ。
>歴史的仮名遣いは,実際は現代語の音韻体系に従いながら,問題の起こらない所で
>「固定的な語に仕へる」フリをしているだけ。
語に仕へるを原則としながら、問題の起るところで表音性も利用するだけのこと。
それすら語に仕へる手段としてであり、原則に反する例外ばかりの「現代かなづかい」とは違ふ。
> 「おほざか/おおさか」を別語とする者もおるまい。
どうかしてゐる。オーザカとオーサカは別の地名だと感じるのが自然だらう。
かはいさうに、馬鹿なのだなあ。
>>199 > カナモジカイ理事長・松坂忠則が新かなの主導者だつた。
肩書を見ないで行為を見ようね。
本気で漢字を廃止しようと思うのなら,まず,数だけ制限すればいい。
なんで将来捨ててしまうものに,当用音訓やら送り仮名まで決めなきゃいけないのか。
その時点で真意が読めないとしたらそっちがバカ。
> 歴史的假名遣派が漢字假名交り文を前提とすること
それなら仮名遣いが無駄,邪魔。
>>200 > すると英語の綴りは表音性を利用してないのか?
全くしていないわけではないが,君にその例が指摘できるかな。
少なくとも,歴史的仮名遣いのように,こっそり現代語の音韻にすり寄ったりはしていない。
> まともに議論をするつもりがないのなら、發言しなくてよいよ。
そのままお返しする。「語に随ふ」 「語に仕へる」のまともな定義すら,君はまだ示していない。
> 語に仕へるを原則としながら、問題の起るところで表音性も利用するだけのこと。
> それすら語に仕へる手段としてであり
「語に仕へる」の定義がないんだから,何を言おうと勝手放題。無意味。
歴史的仮名遣いはただのフリコキ。
> オーザカとオーサカは別の地名だと感じるのが自然だらう。
感じない。カルイザワとカルイサワ,サセボとサセホ,ダイトークとタイトークは同じ地名。
> かはいさうに、馬鹿なのだなあ。
「いちしるし/いちじるしい」 「おびたたし/おびただしい」は別語としなければならないそうだ。
不自由なことで気の毒に。
>>170 >すると,ある語の表記は,文献上最も古い例を以て定めるということか?
振返へると、ここで新しい論據が持ち出され、語誌(語史)を考慮した表記を行ふなら、もはや形
態音韻論レベルで歴史を溯って滿足するのではなく、語そのものの歴史を溯及した表記になる筈
だと指摘された事になる。
實際、二段動詞「仕ふる」を一段にして「仕へる」とするのは、一段化がハ行轉呼の遙かに後に
生じた事を考へれば(考ふれば)完全にアナクロニスムスである。かと言ひて「考ふれば」とせば、
そははや現代語ニハ非ズテ、モハラニ延喜ノ言語ヲ表記セルノミニシテ、平成ノ言ヲ記シ得タリ
とはいかであへなむ。これは、(未だにまともな説明が出來ないままの)「語に隨ふ」論への卆啄
の言に他ならず、歴史的假名遣ひに從ふ者は、眞剣に檢討しなくてはならない。
しかしこれはエラい事で、下手するとエラいなんて語は延喜に無いので書けない、となり兼ねず、
そもそもだうして延喜語で現代語が書けるんだ、といふ根本問題に逢着する。歴史的假名遣ひな
んて、「手作り風豆腐」とか「手打ち風うどん」同樣の、「延喜風」の格好だけ附けたイカモノ
だ、と指摘された樣なものだ。(まあさうなんだけどね)。
考へが纒らないのだが、假に「大井川」の最古確例が音韻オホヰカハに還元出來る表記だったと
して、それを現代で「おほゐがは」としたり、「輝く」のカカヤク→「かがやく」、「著」のイ
チシロク→「いちじるしく」(別活用のシク活用化してゐる點に注意)とするのは、デア→「ぢゃ」
を根據にデワ→「ぢゃあ」よりも遙かに「罪が輕い」樣に感じる。「爲む」を根據に「でせう」
の無茶苦茶に比べたら、全く無罪と言ってもよい。
>>166-167 に書いたのは、さうした、歴史的
假名遣ひが暗默に共有してゐる、現代語を表記する爲の「なあなあ規則」を纒めて見たいと思っ
たのが、中々至らないやうだ。なほ考へたいが、一寸休む。
>>201 少なくとも松坂自身は本気で漢字廃止を目指してゐたらしいぞ。
高島俊男の『漢字と日本人』でも読めや。
時枝が『国語問題と国語教育』の中で「国語仮名づかひ改訂私案」を書いてるけど、
あれはどうなんだい。
>>202 >實際、二段動詞「仕ふる」を一段にして「仕へる」とするのは
>下手するとエラいなんて語は延喜に無いので書けない、となり兼ねず
延喜を基準にすることについてだが、そもそも契沖からして動機は「語の正しい表記(書き分け)」に
あったんぢゃないのか。
だから「仕へる(ツカエル)」の場合などは「仕ふる」によって、ハ行の「へ」だと決まれば
いいのではないかな。
ともかく、延喜は目的ではなく、書き分け(かなづかひ)の問題解決こそが目的だらう。
その答(の一つ)として、(たまたま)契沖の業績があり、その契沖が安定した表記を
見出したのが(たまたま)延喜の表記だったといふことだらう。
>>205 > そもそも契沖からして動機は「語の正しい表記(書き分け)」にあったんぢゃないのか。
契沖は古典における語を正しく書き分けようとしたのであって,彼にとっての「現代語」 (17世紀の日本語) における語を書き分けようとしたわけではない。既出。
> 延喜は目的ではなく、書き分け(かなづかひ)の問題解決こそが目的だらう。
延喜を目安にできない,後代に発生した語の書き分けは,何を根拠とするのか。
>>16 =
>>202 氏はそれを問題にしているのだが,ほかの旧仮名派からそんな話は聞いたこともない。
207 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/14 21:03
一字、一字に專念できる舊漢字と、語の連なりを考慮する必要がある舊假名遣いでは、
復元の困難さが違います。舊漢字なら、「弁・瓣・辨・辯」や「欠・缺」の使い分けの問題はあっても、
それは局所的な問題で濟みますが、ところが、舊假名遣いは古典に典據を求められない場合、
お手上げです。例えば、「寢よう」の「よう」は古典に典據が求められないので
仕方なしに新假名遣いに從っています。「眠ろう」「寢よう」を
本當に助動詞「う」の語源通りに復刻するのなら、「眠らう」「寢えう」になるのが
實は正しいのです。しかし、誰も助動詞「よう」を「えう」と綴れと主張する勇氣はありません。
そういう中途半端さの積み重ねが舊假名遣いなのです。
208 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/14 21:25
珍しいな、舊漢字新かな派だ。
>>207 > 例えば、「寢よう」の「よう」は古典に典據が求められないので
> 仕方なしに新假名遣いに從っています。「眠ろう」「寢よう」を
> 本當に助動詞「う」の語源通りに復刻するのなら、「眠らう」「寢えう」になるのが
> 實は正しいのです。しかし、誰も助動詞「よう」を「えう」と綴れと主張する勇氣はありません。
また妙なことを言う御仁が現れた。
/neu/>/njoo/>/nejoo/ であって,/neeu/ だったことはないから,旧仮名でも「寝よう」と書くんだよ。
「眠ろう」は /nemurau/>/nemurOO/>/nemuroo/ (/O/ は広い「オ」)。
「寝よう」を「ねう」と綴れと主張する勇気がない、と書きたかったのかな。
>>207 「寢えう」のやうな表記は見掛けないのですが、本当に語源通りに復刻したものなのですか。
助動詞の「う」は、「む」が音便変化したものと聞いてゐますよ。
212 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/15 00:04
>>201 いつも思ふが、舊假名反對派は歴史に無知だよね。成立の經過を無視する。
「寝えう」を強引に考へてみました。
「寝幼児」「寝腰痛」「寝曜日」「寝要約」等々の語の途中迄の表記とみる事も
出来さうだけど、一寸強引過ぎたかな。使へる語があるかなあ。
「ねう」だと、字音仮名遣では「尿」になりますね。
フリコキって何?
>>200は、
>>199のこれに全く反論できてないわけだが。
>それに假に「見せ球」だつたとしても、なぜ正々堂々と存念を説かず、
>そんな卑怯な手を使つたのか。それだけで批判に値する。
あ、わかった。「現代かなづかい」は表音にするフリをコいただけってことか。
これも「フリコキ」だったのか?
↓
「わたしは漢字廃止論者である。」――松坂忠則『国語国字論争 復古主義への反論』(新興出版社1962)153頁
>>217 > >それに假に「見せ球」だつたとしても、なぜ正々堂々と存念を説かず、
> >そんな卑怯な手を使つたのか。それだけで批判に値する。
君こそ何も歴史を知らないね。日本の伝統的価値観に「正々堂々」なんてものは存在しない。
引っかかる方がドマヌケ。古事記の時代から変わらない。
大正13年の借りを返されて悔しいだろう w 日本史を動かしてきたのはいつも智略と報復なんだよ。
>>218 > 「現代かなづかい」は表音にするフリをコいただけってことか。
歴史的仮名遣いは「語に随ふ」フリをコいただけ。これは99パーセント正しい。絶対に「いちしるしい」 「おびたたしい」とは書かない。
もっとも,「あふぐ」 「たふれる」は「語に随」っているね。評価してやろう。
英語の綴字は「語に随」っているといえる。凄まじい不規則ぶりを平気で晒している。
まあ,いちばん忠実に「語に随」っているのは漢字だろうけど。
何だ、開き直りか。
結局、卑怯な手段でしか主張できないわけね。
>>220
>>219 よくわからないが,松坂が本当に本気だったとしたら,彼も利用されたってことだよ。
>>223 誰に利用されたのさ? 陰謀史觀、黒幕説ですか。
>>222 ほう。では「ひきし/ひくい」も別語とするか?
歴史主義の問題点はどこまでも追い駆けて来るぞ。『正假名遣』は決して歴史的一貫性を持ち得まい。保証する。
>>225 「ひきし」と「ひくし」が別語ならば、「ひくい」も亦然りとなるな。
>>226 文部省の国語政策を主導した国語課の保科孝一も全廃論者だったよ。
卑怯だとかなんとかは追いといて、そろそろ「語に随ふ」とは何かを教えてくれ。
> >それに假に「見せ球」だつたとしても、なぜ正々堂々と存念を説かず、
> >そんな卑怯な手を使つたのか。それだけで批判に値する。
>君こそ何も歴史を知らないね。日本の伝統的価値観に「正々堂々」なんてものは存在しない。
>引っかかる方がドマヌケ。古事記の時代から変わらない。
>大正13年の借りを返されて悔しいだろう w 日本史を動かしてきたのはいつも智略と報復なんだよ。
おい、アタマだいじょぶか、お前。答になってないぞ。
「正々堂々」を完全に否定したら議論なんぞできるわけがないだらうが。
>>220 >歴史的仮名遣いは「語に随ふ」フリをコいただけ。これは99パーセント正しい。
>絶対に「いちしるしい」 「おびたたしい」とは書かない。
>>225 >ほう。では「ひきし/ひくい」も別語とするか?歴史主義の問題点はどこまでも
>追い駆けて来るぞ。『正假名遣』は決して歴史的一貫性を持ち得まい。保証する。
「いちしるしい」と書けといふのは、過去のある時代の表記だけが正しいとする、
ただの復古主義ぢゃないか。
歴史的かなづかひはそれとは違って、過去の表記を基準にすることで、過去から現在までの
連続性を保たうといふ方針なのだと思ふぞ。
だったら、どうしていつまでたっても「語に随ふ」の根拠について説明しないんだよ。
「お前のせいだ」「いや、お前のせいだ」みたいな言い合いは、そろそろやめてくれ。
211なんだけどさ、「語に随ふ」ッて云ふのは、唯単に仮名での書き方が
一語一語に決つてゐるッて事を言ひたいんぢやないかな。
表音主義の場合、表記については音韻に従つて書くんでせうから、
立場が違ふだけなんだらうね。其の点、16さんは誠実に答へて呉れたんだから、
俺は素晴しいと思つてゐるぞ。
>「語に随ふ」ッて云ふのは、唯単に仮名での書き方が一語一語に決つてゐるッて事
で、どうやって、何を根拠として「一語一語」の表記を決めたの?
大坂オーザカと大阪オーサカが別語なら、「おほさか」とする根拠は何?
>大坂オーザカと大阪オーサカが別語なら、「おほさか」とする根拠は何?
233ぢゃないが、
その例は重要なの? なんとなく表記が決った(主流になった)場合もあるんぢゃないのかな。
>>227 > 「ひきし」と「ひくし」が別語ならば
でも,「けふ」と /kjoo/ とは別語としないよね。どうして?
> 文部省の国語政策を主導した国語課の保科孝一も全廃論者だったよ。
かつての角が取れて,現実と妥協するようになってたんじゃないの? だから現代仮名遣いは「例外だらけ」なんだよ。
そうでなかったら,また棒引仮名遣いみたいなものを持ち出していたにちがいない。
担当者個人の持論と,出て来る政策とは,合致しないことも多い。自分の主張が部分的にでも取り入れられた案に,みんな相乗りするからね。
>>230 > 「正々堂々」を完全に否定したら議論なんぞできるわけがないだらうが。
現代仮名遣い制定の経過は,政略であって,仮名遣い自体とは関係がない。だから経過について議論するつもりはない。
>>231 > 「いちしるしい」と書けといふのは、過去のある時代の表記だけが正しいとする、
> ただの復古主義ぢゃないか。
では,/mazusi-i/ を「まずしい」でなく「まづしい」と書けというのは,ただの復古主義でなくて何なのだ。
>>232 旧仮名派は彼らのバイブル,『私の国語教室』の中に答がないか,必死に探してるはずだが,永久に見つかるまい。
なぜなら,福田恒存自身が答えられないと言ってるからだ。
江湖山氏,永野氏に限らず,少し理論的な表音主義者は,必ずと言つていいくらゐ偏狭な歴
史的かなづかひ観をもつてゐる。すなはち,歴史的かなづかひが,語,あるいは文字の
本質,目的,価値として目ざしてゐるもの,しかも現実に用ゐてゐるかな文字が表音文
字であるために決して到達しえぬもの,それを,彼等は専ら現象,手段,発生の次元に
引きずり降し,それがかな文字といふ表音文字の現実に適合しないと言つて非難するの
です。といふことは,その非難の前提に,観念と現実とは一致せねばならぬといふ現実
密著の観念があるからですが,さういふ自分の尺度で歴史的かなづかひを規定してはな
りません。(文春文庫79頁)
人間が神を理解しようと試みてはならない,といったところかな w
>>235 > なんとなく表記が決った(主流になった)場合もあるんぢゃないのかな。
歴史的仮名遣いは,定家仮名遣いでなんとなく決まっていたものも書き換えさせた。「かほり」→「かをり」などは有名。
241 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/16 00:14
オザカ
歴史的仮名遣いでは,現代語における次の音韻@〜Sを表記する場合に限って,語による書き分けを行う。
@ /oo/ ―― 「おほ」 「おう」 「あう」 「あふ」 「わう」 「はう」
A /koo/ ―― 「こほ」 「こう」 「こふ」 「かう」 「かふ」 「くわう」
B /goo/ ―― 「ごほ」 「ごう」 「ごふ」 「がう」 「がふ」 「ぐわう」
C /Coo/ ―― 「Co ほ」 「Co う」 「Co ふ」 「Ca う」 「Ca ふ」 (C: 子音)
D /juu/ ―― 「ゆう」 「ゆふ」 「いう」 「いふ」
E /zjuu/ ―― 「じゆう」 「じう」 「じふ」 「ぢゆう」
F /Cjuu/ ―― 「Ci ゆう」 「Ci う」 「Ci ふ」
G /joo/ ―― 「よう」 「やう」 「えう」 「えふ」
H /zjoo/ ―― 「じよう」 「じやう」 「ぜう」 「ぢやう」 「でう」 「でふ」
I /Cjoo/ ―― 「Ci よう」 「Ci やう」 「Ce う」 「Ce ふ」
J /wa/ ―― 「わ」 「は」
K /i/ ―― 「い」 「ゐ」 「ひ」
L /u/ ―― 「う」 「ふ」
M /e/ ―― 「え」 「ゑ」 「へ」
N /ee/ ―― 「えい」 「ゑい」
O /o/ ―― 「お」 「を」 「ほ」
P /ka/ ―― 「か」 「くわ」
Q /ga/ ―― 「が」 「ぐわ」
R /zi/ ―― 「じ」 「ぢ」
S /zu/ ―― 「ず」 「づ」
これは,現代共通日本語に見られる,次の A 〜 D のような音用論的 (phonotactic) 特徴を利用している。すなわち,
A. 実質形態素の初頭以外の位置に,音韻 /hV/ は現れない (V: 母音)。(例外: /ahiru/ <家鴨> /ahure-ru/ <溢>)
B. 単一の形態素の中に,音韻 /au/ /iu/ /eu/ /ou/ /ei/ は現れない。(例外: /ajau-i/ <危> /ei/ <気合>)
C. 音韻 /kwV/ /gwV/ /dzV/ は存在しない。
D. /wa/ を除く音韻 /wV/ は存在しない。
歴史的仮名遣いは,現代語の音韻という現在の主人に仕えながら,主人の目の届かない所でだけ,古表記あるいは推定される古音という,かつての主人に仕えている。
>>242 > C. 音韻 /kwV/ /gwV/ /dzV/ は存在しない。
訂正: 音韻 /kwV/ /gwV/ /dzV/ /dzjV/ は存在しない。
>>242 次の音韻21〜23を追加:
21 /zja/ ―― 「じや」 「ぢや」
22 /zju/ ―― 「じゆ」 「ぢゆ」
23 /zjo/ ―― 「じよ」 「ぢよ」
>>244 > 伊呂波四十八字なり五十音圖なりの使用文字一覽表が關はるはず。
子音 C を決定したければ,内閣告示「現代仮名遣い」の付表を見られよ。
> 音素排列論は形態素(語)とも切り離せない。
もちろん切り離せない。ただし,形態素を取り出すことはネイティヴにとっては容易だから,読み誤られるおそれはまずない。
歴史的仮名遣いは,現代語の音韻で読み誤られるおそれのない所でだけ書き分けを行うのだから,真に語ごとに決まっているとはいえない。
要するに,古めかしく見せるための粉飾である。
>>242 訂正: N /ee/ ―― 「えい」 「ゑい」 「えひ」
A の例外はほかに /hohuru/ (屠)。
B は「単一の形態素の中に,音韻 /(C) au/ /(C) iu/ /(C) eu/ /(C) ou/ /(C) ei/ は現れない」とすればよりわかり易いか。魚のエイ (旧仮名「えひ」) は,[ei] としか発音しない,[ee] ではない,という人にとっては,例外 /ei/ となる。
>>244 > 現代語音だけに基づかせるのは無理だらう。
歴史的仮名遣いから現代語の音韻が規則的に導き出せない語:
「あふぐ (仰・煽)」 「あふのく (仰)」 「あふひ (葵)」 「あふむく (仰)」 「あふる (煽)」 「たふす (倒)」 「たふれる (倒)」 「ゑふ (酔)」
ぐらいか。
>>236 それはそれ。
>>201の誤りは覆ふことはできないよ。
新かな促進派が漢字全廢論に發してゐたことは明らかで、
現状ではそれを強行できずと認めてもなほ將來にそれを希望してゐた。
誤った發想からする表音式改革など、いつぺんご破算願ひまして、舊に復して一からやり直さう。
>>247 > 日本語の音素は音節單位であって、子音を切り分けない。
基本的に同意。だから
>>242-243,
>>245-246 は,すべて母音を付けて表してある。
「所為」 (旧仮名「せゐ」) は,実際には [see] と発音されていると思うが,語源意識が残っているものと見て,音韻的には /se-i/ であるとしておく。
>>248 > 新かな促進派が漢字全廢論に發してゐたことは明らかで、
> 現状ではそれを強行できずと認めてもなほ將來にそれを希望してゐた。
文部官僚は,漢字全廃などできっこないと考えていた。
ただ,教育現場の意向を汲んで,仮名遣いの表音化と,漢字数の制限・手書き漢字体の制定は,どうしてもやりたかった。
そこで,漢字全廃論を唱える新かな促進派の学者を利用した。
――というのが実際だったと,おれは思っている。
>>249 >そこで,漢字全廃論を唱える新かな促進派の学者を利用した。
>――というのが実際だったと,おれは思っている。
なんか、「実態はさうだった」といふ書き方で、自分の評価を示さずに逃げてないか?
>>238 >> 「いちしるしい」と書けといふのは、過去のある時代の表記だけが正しいとする、
>> ただの復古主義ぢゃないか。
>では,/mazusi-i/ を「まずしい」でなく「まづしい」と書けというのは,
>ただの復古主義でなくて何なのだ。
語の来歴が示せるといふことだらう。それをも「復古主義」と呼びたがる人もゐるのかも
知れないが、旧かなの原則が「過去のある時代の表記だけが正しい」からそれを固定しよう
といふ考へ方でないことは認めるべきだらう。
>>242 >歴史的仮名遣いは,現代語の音韻という現在の主人に仕えながら,主人の目の届かない
>所でだけ,古表記あるいは推定される古音という,かつての主人に仕えている。
>>245 >歴史的仮名遣いは,現代語の音韻で読み誤られるおそれのない所でだけ書き分けを
>行うのだから,真に語ごとに決まっているとはいえない。
>要するに,古めかしく見せるための粉飾である。
>>246 >> 現代語音だけに基づかせるのは無理だらう。
>歴史的仮名遣いから現代語の音韻が規則的に導き出せない語:
>「あふぐ (仰・煽)」 「あふのく (仰)」 「あふひ (葵)」 「あふむく (仰)」 「あふる (煽)」
> 「たふす (倒)」 「たふれる (倒)」 「ゑふ (酔)」ぐらいか。
「現在の主人に仕えながら,主人の目の届かない所でだけ」とか「古めかしく見せるための粉飾」
とかの独断はともかく、
要するに、歴史的かなづかひは現代人にとってそれほどむづかしくないといふことと、
現代語(音)に適応してゐることが論証されたわけだ。
「古めかしく見せるための粉飾」といふ非難は、旧かなが「過去のある時代の表記だけが
正しい」から固定しようといふ考へ方に立ってゐるのでなければ当らないぞ。
「正しい仮名遣い」などというものを
制定する必要などなかったという事ならば賛成してやろう。
同様に漢字制限字体統一も大きなお世話だし、
更に言えば仮名字体制限も余計なお節介だった。
全て民意の向う方に任せればよかったのだ。
「おや八つぁん、契沖かい、粋だねぇ。辞書片手にご苦労なこった」
「おめぇさんこそ、表音とは手抜きやがって、教養が知れらぁ」
「おいらぁ、仮名書きに根入れてんのさぁ。お前さんはきったねぇ字だ」
という会話が聞こえてくる位で丁度好いのだ。
しかし、歴史的仮名遣いが「優れている」という事に関しては
同意しかねる。どれも大差ないとしか言いようがない。
>>253 そういうこと。
単なる趣味の問題を「合理性」とかカッコつけんなっての。
>>250 > なんか、「実態はさうだった」といふ書き方で、自分の評価を示さずに逃げてないか?
漢字仮名交じりで,仮名は表音原則に従うという現代仮名遣いは,日本語を表記するのに理想的な体系だと考える。
成立の経緯については議論の必要なし。
>>251 > 語の来歴が示せるといふことだらう。
それをいうなら,/atarasi-i/ /sazaNka/ は,ぜひとも「あらたしい」 「さんざくわ」と書くべきだ。
前者は「あらた (新)」と同源であって,「あたら (惜)」とは別語であることがはっきりするし,後者は漢字表記「山茶花」と対応する。
> 旧かなの原則が「過去のある時代の表記だけが正しい」からそれを固定しよう
> といふ考へ方でないことは認めるべきだらう。
もちろん認める。歴史的仮名遣いの原則は,現代語の音韻から出発して,読み誤りの起こらない所だけ,過去の表記なり音韻なりに従うということだ。
>>252 > 要するに、歴史的かなづかひは現代人にとってそれほどむづかしくないといふことと、
> 現代語(音)に適応してゐることが論証されたわけだ。
読むだけなら易しいよ。英語とは違う。
しかし書くとなると,
>>242 の@ABHでは,1 個の音韻が 6 種類もの表記で写される。難しくないとはいえない。
しかも,せっかくそれを憶えても,漢字で書けば隠れてしまう。
そんな無駄なことはもうやめようというのが,現代仮名遣いなのだ。
> 「古めかしく見せるための粉飾」といふ非難は、旧かなが「過去のある時代の表記だけが
> 正しい」から固定しようといふ考へ方に立ってゐるのでなければ当らないぞ。
完全に話が逆。過去のある時代の表記だけが正しいから固定しよう,という考え方に立てば,粉飾ではなく,本当に古いことになる。遺跡みたいなものだ。
英語の綴字にはそういう要素が多い。チョーサーの時代の城が今も建っていて,みんな不自由しながらそこに住んでいる。
歴史的仮名遣いは,上のような考え方に立っていないからこそ,粉飾なのだ。現代の素材で出来た古代風建築物にすぎない。
>>253 江戸時代までは,そんな感じだったんだろうね。
まず江戸の作者が仮名遣について,どんな心がまえであったかを見るに,決して一つの主義方針によったものでない
ことが分かる。すなわち今日普通にいう歴史的仮名遣で一貫しようというのでもなければ,発音的仮名遣で通そうとい
うのでもない。この意味でかれらは仮名遣については,全く無関心であって,行きあたりばったり,どんな方法であっ
ても,その音が現わされさえすればよいのである。(4 頁)
仮名については,このような知識しか持っていなかったとしても,しかしかれらが,実際の発音をなるべく忠実に精
確に写そうとする念の強かったことは認めなければならぬ。かれらが歴史的仮名遣とか発音的仮名遣などの一定の表現
法にこだわらないで,いろ\/の方法を用いたのも結局右の念の現われであると解すべきである。(6 頁)
――湯沢幸吉郎『増訂 江戸言葉の研究』(明治書院,1957)
福田恒存が「私たちの用ゐている歴史的かなづかひは,ただ一千年前に基を置いてゐるだけのことで,音韻変化の史的現実に即応して変つてきたものですし,また今後も変りうるものなのです」
「徐々に改めてゆくのがいいといふのは,歴史的かなづかひが一千年間さうしてきたからです」 (『私の国語教室』文春文庫78頁) などと言っているのは,大うそだ。
歴史的仮名遣いの歴史は,一千年ではなく,70年である。
ただ,江戸時代に表記の規範がなかったのは,所詮識字層が少なく,版下書きたちはプロであって,「行きあたりばったり」に見えながら,読み易くするコツを心得ていたからだ。
近代的な公教育が始まって,文盲ゼロが目指されるようになれば,何らかの拠り所がなくては済まない。
>>204 概要はこれだよね:
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/ronsou/ronsou7_08.htm > 云はば、表音主義は表記の不斷の創作とならざるを得ないのである。これは、古
> 典假名遣の困難を救はうとして、更に表記の不安定といふ別個の問題をひき起す
> ことになるのである
既に論じてきたとおり,歴史的仮名遣いも現代語の音韻に基づいていること,現代仮名遣いと変わりはない。
したがって,「表記の不断の創作」である点も,同様である。例えば,/huNiki/ (雰囲気) は歴史的仮名遣いでは,「ふんゐき」と書かれる。
今から数十年の後,ほとんどの日本語話者がこの語を [Φuing:ki] と発音するようになったとしたら,すなわち,語形が /huiNki/ に変わったとしたら,歴史的仮名遣いはどうするのか。
/huNiki/ と /huiNki/ とはもはや別語と見なして,後者を「ふゐんき」と書くとすれば,新しい表記が創作されたことになる。
表記は「ふんゐき」のまま変えないことにすれば,/sazaNka/ を「さんざくわ」のままにしなかったこととの整合性がない。
> 「國語假名づかひ改訂私案」を發表し、「七、假名づかひ改訂の方法」において
> 契冲の古典假名遣を出發點として具體的な方法を提示してゐる。
時枝誠記が契沖を出発点とするのは,国語学者として当然の態度である。
福田恒存が「歴史的かなづかひの原則も内容も,決して契沖につながるものではなく」 (『私の国語教室』文春文庫80頁) 云々と言っているのは,例によって藤四郎の与太である。
しかし,契沖仮名遣いで古典語を表記するのでなく,現代語を表記しようとすれば,たちまち復古主義の隘路に迷い込む。
歴史的仮名遣いは,実際には現代語を出発点として過去に溯り,表記の歴史を粉飾しているのだ。
契沖は粉飾のネタの主なものであるにすぎない。
假に/huNiki/が/huiNki/ となったとて兩者が紛れやすいことに變りないが
/sazaNka/は/saNzaka/とはもはや明らかに異なる。
音位顛倒をかさに着て歴史的假名遣を批判するのは的はづれ。
>既に論じてきたとおり,歴史的仮名遣いも現代語の音韻に基づいていること,現代仮名遣いと変わりはない。
おほちがひ。
>>242 >歴史的仮名遣いは,現代語の音韻という現在の主人に仕えながら,主人の目の
>届かない所でだけ,古表記あるいは推定される古音という,かつての主人に仕えている。
これも間違ひ。
>>196を見ればわかるが
「語に仕へる」を原則としてそのために表音性も利用する歴史的假名遣と
表音を原則としながらそれと相容れぬ假名遣の原理を導入する「現代かなづかい」と
たとひ結果は似ても立場が異なる。
>假に/huNiki/が/huiNki/ となったとて兩者が紛れやすいことに變りないが
>/sazaNka/は/saNzaka/とはもはや明らかに異なる。
全てが主観に基いているな
>
>>196を見ればわかるが
全然分らない。
分らない原因は、まず「語に仕へる」が不明だからだ。
「語に仕へる」を分るように解説してほしい(という要望が何度出ていることやら)
>>253 >しかし、歴史的仮名遣いが「優れている」という事に関しては
>同意しかねる。どれも大差ないとしか言いようがない。
>>254 >そういうこと。
>単なる趣味の問題を「合理性」とかカッコつけんなっての。
根拠を示さない放言なら何だって言へるよなあ。
この手の旧かな嫌ひといふ「単なる趣味」だけの発言には「同意しかねる」わな。
>>264 屁理屈以外の「合理性」は示されてないじゃない。
>>257 >しかし書くとなると,
>>242 の@ABHでは,1 個の音韻が 6 種類もの表記で写される。
>難しくないとはいえない。しかも,せっかくそれを憶えても,漢字で書けば隠れてしまう。
>そんな無駄なことはもうやめようというのが,現代仮名遣いなのだ。
「6 種類」といふのは字音かなづかひも計算に入れた場合ぢゃないか。
字音かなづかひまで厳守する方針は一般的ではないぞ。
「漢字で書けば隠れ」るならば、(おぼえたくない人は)わざわざ「それを憶え」る
苦労はない、といふことぢゃないか。ならば、「現代仮名遣い」に切換へようといふ
主張は(別の理由がないかぎりは)出て来ない。
>歴史的仮名遣いは,上のような考え方に立っていないからこそ,粉飾なのだ。
>現代の素材で出来た古代風建築物にすぎない。
いや、古代の素材でつくられた現代建築物なのだよ。
「来歴を示す」といふのは固定しようといふ考へ方ではなく、変化をも含む。
最初から「上のような考え方に立っていない」のだから、
「上のような考え方に立っていないからこそ,粉飾なのだ。」などと
罵っても意味がない。
>>258 >大うそだ。歴史的仮名遣いの歴史は,一千年ではなく,70年である。
そりゃ、普及してなかったといふことだらう。福田は普及してたなんて言ひ張ってたのかい?
>>259 >時枝誠記が契沖を出発点とするのは,国語学者として当然の態度である。
なぜ「当然の態度」なんだ? 「国語学者」にレッテル貼りでもするつもりかね。
時枝の主張するのは、
「私が今仮名づかひの改訂案を試みるに当って、契沖説を原案とする理由は、それが
鎌倉時代以来の仮名づかひ問題に対して最も科学的な解答を下したものであり、今後の
仮名づかひ問題に対して少なからぬ示唆を与へるものと考へるからである。そしてここに
契沖説といふのは、既に述べたやうに、契沖を出発点として、江戸時代に一応の完成を見た
復古仮名づかひ説の全体系を仮に契沖仮名づかひ説と呼んだのである。そこには、富士谷成章、
本居宣長、石塚龍麿、そして橋本博士等の諸学者が参与してゐるのである。」といふことだぞ。
>福田恒存が「歴史的かなづかひの原則も内容も,決して契沖につながるものではなく」
> (『私の国語教室』文春文庫80頁) 云々と言っているのは,例によって藤四郎の与太である。
また誤読かい。福田の言ふのは「契沖以後の改訂によるもので、契沖に直結してはゐない」
といふことだらう。時枝の主張に拠ってゐるんだよ。
>>263 >「語に仕へる」を分るように解説してほしい
橋本進吉 の「表音的假名遣は假名遣にあらず」を読めばわかるだらう。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/HASHIMOTO/HYOON.html 表音主義の「假名は正しく言語の音に一致すべきものとし、同音に對して一つ以上の
假名の存在を許さない」といふ独断的な方針(信仰)に拠らないかぎり、
音からでは語の表記(書き分け)が決らないといふこと。
まあ、常識的なことなので逆に詳しい定義がしにくいかもな。
>これらの假名は何れも同じ音を表はすのであるから、その音自身をどんなに考へて見ても、
>どの假名で書くべきかをきめる事が出來る筈はない。それでは假名遣はどうしてきまるかといふに、
>實に語によつてきまるのである。「愛」も「藍」も「相」も、 その音はどれもアイであつて、
>そのイの音は全く同じであるが、「愛」は「あい」と書き「藍」は「あゐ」と書き「相」は「あひ」と書く。
>同じイの音を或は「い」を用ゐ或は「ゐ」を用ゐ或は「ひ」を用ゐて書くのは、
>「愛」の意味のアイであるか、「藍」の意味のアイであるか、「相」の意味のアイであるかによるのである。
>單なる音は意味を持たず、語を構成してはじめて意味があるのであるから、
>假名遣は、單なる音を假名で書く場合のきまりでなく、語を假名で書く場合のきまりである。
旧仮名にしたところで書き分けの問題は
解決するわけじゃあるまいし、悪化するものすらある。
「語に仕える」というのはそんな浅薄な話だったのか。
がっかりだ。
>>268 > 独断的な方針(信仰)に拠らないかぎり、
( ´,_ゝ`)プッ!
>>266 旧仮名派はもう支離滅裂になってきたな。
> 字音かなづかひまで厳守する方針は一般的ではないぞ。
> 「漢字で書けば隠れ」るならば、(おぼえたくない人は)わざわざ「それを憶え」る
> 苦労はない、といふことぢゃないか。
では,漢字がわからないときはどうするのか。表音式で書いていいのか。
それでも,和語に宛てた漢字がわからないときは,歴史的仮名遣いを守りつつ,仮名に開かなければならない。
ということは,一々の語が和語なのか漢語なのか,あらかじめ知っていなければならない。
そんなのは面倒なだけで意味がない。全部表音式で書けば済むこと。
> 「来歴を示す」といふのは固定しようといふ考へ方ではなく、変化をも含む。
過去に固定しておかなければ来歴は示せない。変化して更新されれば,来歴は消えてしまう。
「けふ」は表記が過去に固定されているので,かつて /keFu/ であったことが示される。
「ひくい」は表記が過去に固定されていないので,かつて /hiki-si/ であったことは示されない。
前者では固定し後者では固定しないのは,現代語において,「けふ」は /kehu/ と読まれる心配がなく,自動的に /kjoo/ と読まれるのに対して,
「ひきい」は /hiki-i/ と読まれてしまい,/hiku-i/ とは読まれないからである。
現代語の音韻に基づいて,表記が過去に固定されるか否かが決まるのだから,過去は飾りにすぎない。
>>267 > >大うそだ。歴史的仮名遣いの歴史は,一千年ではなく,70年である。
> そりゃ、普及してなかったといふことだらう。福田は普及してたなんて言ひ張ってたのかい?
契沖が考案するまでは影も形もなかったのだから,そこから数えても250年余りである。
どう言い張っても一千年は大嘘。
> なぜ「当然の態度」なんだ? 「国語学者」にレッテル貼りでもするつもりかね。
> 時枝の主張するのは、
> 「私が今仮名づかひの改訂案を試みるに当って、契沖説を原案とする理由は、それが
> 鎌倉時代以来の仮名づかひ問題に対して最も科学的な解答を下したものであり、今後の
> 仮名づかひ問題に対して少なからぬ示唆を与へるものと考へるからである。そしてここに
> 契沖説といふのは、既に述べたやうに、契沖を出発点として、江戸時代に一応の完成を見た
> 復古仮名づかひ説の全体系を仮に契沖仮名づかひ説と呼んだのである。そこには、富士谷成章、
> 本居宣長、石塚龍麿、そして橋本博士等の諸学者が参与してゐるのである。」といふことだぞ。
何も問題ないじゃないか。国語学者は国学の後継者を以て自認していたんだから,こう言うのは当たり前。
> >福田恒存が「歴史的かなづかひの原則も内容も,決して契沖につながるものではなく」
> > (『私の国語教室』文春文庫80頁) 云々と言っているのは,例によって藤四郎の与太である。
> また誤読かい。福田の言ふのは「契沖以後の改訂によるもので、契沖に直結してはゐない」
> といふことだらう。時枝の主張に拠ってゐるんだよ。
契沖以後の改訂は,契沖に対して否定的だったとでも言うのか?
上の時枝の主張にも,はっきり「契沖説を原案とする」とある。福田がバカで契沖の科学性について行けなかっただけ。
>>268 > 音からでは語の表記(書き分け)が決らないといふこと。
> まあ、常識的なことなので逆に詳しい定義がしにくいかもな。
旧仮名派は,歴史的仮名遣いの自然発生説を主張しているようだ w
> これらの假名は何れも同じ音を表はすのであるから、その音自身をどんなに考へ
> て見ても、どの假名で書くべきかをきめる事が出來る筈はない。
それは現代語の音だ。
> それでは假名遣はどうしてきまるかといふに、實に語によつてきまるのである。
> 「愛」も「藍」も「相」も、その音はどれもアイであつて、そのイの音は全く同
> じであるが、「愛」は「あい」と書き「藍」は「あゐ」と書き「相」は「あひ」
> と書く。
そう書くべき直接の根拠は,10世紀前半以前の文献に見られる表記である。
復古主義に拠らなければ,仮名遣いはどだい決まらない。
> 同じイの音を或は「い」を用ゐ或は「ゐ」を用ゐ或は「ひ」を用ゐて書くのは、
> 「愛」の意味のアイであるか、「藍」の意味のアイであるか、「相」の意味のア
> イであるかによるのである。
現代語についても「あゐ」 「あひ」と書けるのは,それらが /awi/ /ahi/ と読まれるおそれがなく,/ai/ と読まれることが保証されているからである。
> 單なる音は意味を持たず、語を構成してはじめて意味があるのであるから、假名
> 遣は、單なる音を假名で書く場合のきまりでなく、語を假名で書く場合のきまり
> である。
それなら,「あらたしい」と書いて /atarasi-i/ と読ませ,「ひきい」と書いて /hiku-i/ と読ませても構わないはずだ。
古典に見られる表記は「あらたし」 「ひきし」なのだから。
英語を見よ。Wednesday と書いて [wenzdi],busy と書いて [bizi] と読ませている。
>>272 (誤) 国学の後継者を以て自認 → (正) 国学の後継者を以て自任
(誤) はっきり「契沖説を原案とする」とある → (正) はっきり「契沖を出発点として」とある
>>272 >契沖以後の改訂は,契沖に対して否定的だったとでも言うのか?
>>19既出。 讀まずに反論、誤讀して反論はいい加減よせや。な?
もう,観衆にとって歴史的仮名遣いの本質は明らかだろう (
>>242,
>>245-246,
>>249)。
>>242 > C. 音韻 /kwV/ /gwV/ /dzV/ は存在しない。
訂正: 音韻 /kwV/ /gwV/ /dzV/ /dzjV/ /djV/ は存在しない。
>>242,
>>245-246 の音韻@〜23の歴史的仮名遣いにおける書き分けは,古表記あるいは推定される古音に従うが,仮名遣いの決定に必要な資料は,音韻によって異なる。
例えば,音韻J〜MOについては,10世紀前半までの資料に拠らなければならないが,音韻R〜23については,15世紀以前の資料があればよい。
これからは,現代仮名遣いにおける「例外」について話すことにしよう。
スレッド名もよめないらしい。↑
幻想の「観衆」を相手に演説ですか。
>>262 >>假に/huNiki/が/huiNki/ となったとて兩者が紛れやすいことに變りないが
>>/sazaNka/は/saNzaka/とはもはや明らかに異なる。
>
>全てが主観に基いているな
口を動かして發聲してみても、わからないのだらうか。音聲學を持ち出すまでもないことだ。
>>249 >――というのが実際だったと,おれは思っている。
これこそ全く主觀に基づいてゐる。證據は何一つ擧げずに「おれは思っている」のだから。
對して、新かな案に漢字全廢論が關はってゐたことは松坂忠則や保科孝一らの發言で明らか。
>>275 >
>>19既出。
それを「契沖に対して否定的」ととらえるとしたら,そんな人は福田恒存と君らだけだろうよ。
契沖の業績を出発点として,国学はそれを継承し,深化させたんじゃないか。時枝誠記はちゃんとそうとらえている。
> 口を動かして發聲してみても、わからないのだらうか。
つまり主観しかないのだな。
>>278 > 對して、新かな案に漢字全廢論が關はってゐたことは松坂忠則や保科孝一らの發言で明らか。
発言は信じない。当用漢字音訓表と送り仮名の規範を定めたという行為の方を重んじる。漢字を使い続ける意思があったと判断する。
それに,経緯については議論しないと何度も何度も言ってるんだが。
>>279 いはゆる「批判的繼承」といふ奴だらう。契沖そのままではない。
>>280 えっ、音聲は主觀なのかよ。
>>281 都合の惡い發言は信じない。都合の惡い經緯は論じない。氣樂でいいね。
>>283 > いはゆる「批判的繼承」といふ奴だらう。契沖そのままではない。
出発点とするというのはそのままということではない。
国語学者は契沖を国学の祖として尊んでいる。当然のことだ。
契沖を歴史的仮名遣いから切り離したがる連中の腹は見え透いている。
> えっ、音聲は主觀なのかよ。
遠いか近いかを判定する根拠として,主観以外何も示されていない。
> 都合の惡い發言は信じない。都合の惡い經緯は論じない。氣樂でいいね。
当たり前。大事なのは行為と結果だけ。
>>260 >/sazaNka/は/saNzaka/とはもはや明らかに異なる。
ならば、なぜ「さざんか」ではなく「さざんくわ」と書くのか、その根拠を知りたい。
何しろ、山茶花と「明らかに異なる」のだそうだから、当然「山茶花」は典拠にならない。
とすれば、どこからその「くわ」が来たのだろう。
286 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/20 21:24
>>267 >>また誤読かい。福田の言ふのは「契沖以後の改訂によるもので、契沖に直結してはゐな
い」といふことだらう。
文春文庫72ページ
》もちろん、定家も契沖も間違っております。
(中略)
》定家を受けて、しかも定家以上に復古の規範を求めた国学者契沖は、結果において確か
に間違ったのであります。
とあるので、福田が「復古ではなくて本質論的に語に従う」と、
現象の根拠の無い断定お発揮している以上、契沖に批判的である事わあきらか。
>>272 >>何も問題ないじゃないか。国語学者は国学の後継者を以て自認していたんだから,こう
言うのは当たり前。
国学の後継者お自認していた国語学者(時枝等)わいたけれども、
すべての国語学者が国学の後継者お自認していたわけでわない。
>>276 続き
現代仮名遣い:
http://www.asahi-net.or.jp/~lf4a-okjm/genkan61.htm > (4)エ列の長音
> エ列の仮名に「え」を添える。
> 例 ねえさん ええ(応答の語)
>
> 付記
> 次のような語は,エ列の長音として発音されるか,エイ,ケイなどのように発音されるかにかかわらず,エ列の仮名に「い」を添えて書く。
> 例 かれい せい(背) かせいで(稼) まねいて(招) 春めいて
> へい(塀) めい(銘) れい(例) えいが(映画) とけい(時計)
> ていねい(丁寧)
これについては,確かに福田恒存の言うとおり,付記を本則として本則の方を例外とすべきである。
「現代かなづかい」の段階で,「音韻」というものが十分に理解されていなかったために,こんな無様なことになってしまった。
原則: 音韻 /(C) ee/ は,「(C) e い」と書く。(C: 子音)
とすればよい。現代共通日本語においては,原則として,単一の形態素の中に,音韻 /(C) ei/ は現れない。[(C) ee] と発音しても [(C) ei] と発音しても,音韻的には同じ /(C) ee/ である。
だから,音韻 /(C) ee/ を「(C) e い」と写すことができるのである。
これは表音原則に反してはいないが,仮名「い」は他所では音韻 /i/ に対応するから,1 種類の表記が 1 個の音韻に対応していないことになる。なぜ音韻 /(C) ee/ を「(C) e え」と写さないのか。
それは,仮名表記史上,「(C) e え」という字面が現れたことは,おそらくないからである。強固な慣習には逆らわないというのも,現代仮名遣いの目標の一つである。
上のように原則を定めると,/ee/ (応答) を「ええ」と書くのは,そこから外れることになる。しかしこれは,/ei/ (気合) と区別するための,やむを得ない措置である。
すなわち,気合の /ei/ の場合に限って,単一の形態素の中に,例外的にはっきりした音韻 /ei/ が現れるのである。こちらは「えい」と書くほかない。
また,/nee-saN/ (姉) を「ねえさん」と書くのも,表音原則の例外になる。女性の固有名「ねい (寧)」と区別する意図だったかとも思われるが,明確な理由はわからない。
>>286 > すべての国語学者が国学の後継者お自認していたわけでわない。
そうかもしれないが,古い人でそういう人はだれかいますか? 勉強するよ。
>>287 続き
> (5)オ列の長音
> オ列の仮名に「う」を添える。
> 例 おとうさん とうだい(灯台) わこうど(若人) おうむ
> かおう(買) あそぼう(遊) おはよう(早) おうぎ(扇)
> ほうる(*抛) とう(塔) よいでしょう はっぴょう(発表)
> きょう(今日) ちょうちょう(*蝶々)
原則: 音韻 /(C) oo/ は,「(C) o う」と書く。(C: 子音)
となる。現代共通日本語においては,原則として,単一の形態素の中に,音韻 /(C) ou/ は現れない。[(C) oo] と発音しても [(C) ou] と発音しても,音韻的には同じ /(C) oo/ である。
だから,音韻 /(C) oo/ を「(C) o う」と写すことができるのである。
これは表音原則に反してはいないが,仮名「う」は他所では音韻 /u/ に対応するから,1 種類の表記が 1 個の音韻に対応していないことになる。なぜ音韻 /(C) oo/ を「(C) o お」と写さないのか。
それは,仮名表記史上,「(C) o お」という字面が現れたことは,おそらくないからである。強固な慣習には逆らわないというのも,現代仮名遣いの目標の一つである。
/kao-o/ (買),/asobo-o/ (遊) は 2 形態素だから,/jamo-o/ (寡夫),/hiro-o/ (広尾) が 2 形態素なのと同様で,「買おお」 「遊ぼお」と書くべきだという意見がある。理屈の上では確かにそうなる。
しかし,/kao-o/ の /-o/ の異形態 /-joo/ は,上の原則によって,「−よう」と書くことに決まっている。
「買お−お」 「借り−よう」ではチグハグで,異形態であることがわかりにくい。ここは例外を認めてもらって,「買おう」 「借りよう」と表記を揃える。
>それは,仮名表記史上,「(C) e え」という字面が現れたことは,おそらくないからである。
>それは,仮名表記史上,「(C) o お」という字面が現れたことは,おそらくないからである。
琴歌譜「片降」由布之て衣衣乃於於 (ゆふしでええのおお)
そりゃ万葉仮名だ、だいいち楽譜だ、という反論は、直ちに受入れる w
>>281 >当用漢字音訓表と送り仮名の規範を定めたという行為の方を重んじる。
送り假名改正案「送りがなのつけ方」(一九五九年内閣訓令・告示)のあまりの
表音主義ぶりに、傳統派からの反論に火が着いた事實を知らないのかね。
また當用漢字も漢字全廢への一里程であつた。
國語審議會において、吉田富三による提案「國語は、漢字假名交りを以て、その表記の
正則とする」(一九六二年)も、採決されるまでどれほど抵抗を受けたことか。
倉島長正『国語一〇〇年 : 二〇世紀、日本語はどのような道を歩んできたか』參照。
>>291 > 送り假名改正案「送りがなのつけ方」(一九五九年内閣訓令・告示)のあまりの
> 表音主義ぶりに、傳統派からの反論に火が着いた事實を知らないのかね。
それが何か? 漢字を捨てるならいかなる送り仮名の付け方も要らない。
> また當用漢字も漢字全廢への一里程であつた。
漢字を捨てるなら当用音訓の煩わしい決まりは要らない。
> 國語審議會において、吉田富三による提案「國語は、漢字假名交りを以て、その表記の
> 正則とする」(一九六二年)も、採決されるまでどれほど抵抗を受けたことか。
さもありなん。だまされたと思った協力者もいただろう。しかしすべて筋書きどおりだったはず。
>>289 続き
> 1 助詞の「を」は,「を」と書く。
> 例 本を読む 岩をも通す 失礼をばいたしました やむをえない
> いわんや……をや よせばよいものを てにをは
表音原則の例外である。
日本語には,敬語の接頭辞 /o-/ があり,当然「お−」と書かれる。この形式は文体によっては頻用される。
助詞の /o/ をもし「お」と書くと,それが出て来るたびに上の接頭辞と紛らわしく,文節の初頭が見えにくくなって,文章が大変読みづらい。
読み易くすることも,現代仮名遣いの目標の一つである。
>>293 続き
> 2 助詞の「は」は,「は」と書く。
> 例 今日は日曜です 山では雪が降りました
> あるいは または もしくは
> いずれは さては ついては ではさようなら とはいえ
> 惜しむらくは 恐らくは 願わくは
> これはこれは こんにちは こんばんは
> 悪天候もものかは
> 〔注意〕次のようなものは,この例にあたらないものとする。
> いまわの際 すわ一大事
> 雨も降るわ風も吹くわ 来るわ来るわ きれいだわ
>
> 3 助詞の「へ」は,「へ」と書く。
> 例 故郷へ帰る ……さんへ 母への便り 駅へは数分
表音原則の例外。
仮名表記史上,助詞 /wa/ /e/ が「わ」 「え」と書かれたことはほとんどなかっただろうが,仮名「わ」 「え」自体が文節の初頭以外の位置に現れなかったわけではない。
それに,現代仮名遣いは,/awanai/ /aeba/ では「会わない」 「会えば」と表音原則を貫いたのだから,/wa/ /e/ でも同様にすべきではなかったか。
この例外措置にはそれほど意味がない。
295 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/21 11:19
>>288 上田万年がいます。
「國語に就きて日本國民の執るべき三大方針」に、
》しかし、なんぼ自國語がよいからと申して、世間見ずの國學者のやうに、古事記や萬葉
の日本語ばかりで、萬事推していけると思うてはならぬ。
とあります。そこで国学の後継者お自認していたとわ思えません。
>>292 君のはすべて根據を示さぬ推斷ばかり。
漢字全廢論・表音主義に基づく改革にはもともと無理があった、
ゆゑに各策定においてことごとに矛盾を來したと解釋すれば説明がつく。
それを無理だと承知してゐたからやるフリをしただけといふのは如何にも苦しい辯護。
>>292 「すべて筋書きどおりだった」といふなら、その筋書きのありかを示して貰ひたいものだ。
國語問題史の新資料となるから。まさか妄想だけが根據の陰謀史觀ではあるまいしね。
>>295 上田万年は,「言語学者」という感じで,「国語学者」という感じがしない。「国語」という言葉を作ったのは彼みたいなものなのに。
やっぱり西洋人の弟子だもんな。
>>296-297 何度も言うように,当用漢字音訓表と,送り仮名の決まりが示されたという事実が何よりの根拠。
その時点で,文部省としては,漢字全廃の線は消していたと見るのが,最も自然な解釈だ。
もっとも,そこに至るまでの経緯については憶測するしかない。
> 漢字全廢論・表音主義に基づく改革にはもともと無理があった、
> ゆゑに各策定においてことごとに矛盾を來したと解釋すれば説明がつく。
たとえそうであったとしても,進むべき方向を模索しつつ現行に至ったのだと解釈できる。旧に復すべしとはならない。
たとえ旧に復してやり直したとしても,現行と似たようなものが出来るだろう。
漢字仮名交じり表記において,歴史的仮名遣いの出る幕はない。良く言えば贅沢,オシャレかもしれないが,現実には面倒なだけで無駄,邪魔である。
>>294 続き
> 4 動詞の「いう(言)」は,「いう」と書く。
> 例 ものをいう(言) いうまでもない 昔々あったという
> どういうふうに 人というもの こういうわけ
表音原則の例外。
語幹を残すために,終止 (連体) 形 /juu/ を「ゆう」と書かないということだろう。
しかし,この動詞の語幹を「い−」とするのは,学校文法の考え方であって,言語学的には問題である。
/juu/ と命令形 /ie/ とは,語幹と語尾とが分かち難い屈折形と見るべきである。通常の形態素の概念はあてはまらない。
この例外措置にも,大した意味があるとは思えない。
>>300 続き
> 5 次のような語は,「ぢ」「づ」を用いて書く。
> (1)同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」
> 例 ちぢみ(縮) ちぢむ ちぢれる ちぢこまる
> つづみ(鼓) つづら つづく(続) つづめる(△約) つづる(*綴)
> 〔注意〕「いちじく」「いちじるしい」は,この例にあたらない。
> (2)二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」
> 例 はなぢ(鼻血) そえぢ(添乳) もらいぢち そこぢから(底力) ひぢりめん
> いれぢえ(入知恵) ちゃのみぢゃわん
> まぢか(間近) こぢんまり
> ちかぢか(近々) ちりぢり
> みかづき(三日月) たけづつ(竹筒) たづな(手綱) ともづな にいづま(新妻) けづめ ひづめ ひげづら
> おこづかい(小遣) あいそづかし わしづかみ こころづくし(心尽) てづくり(手作) こづつみ(小包) ことづて はこづめ(箱詰) はたらきづめ みちづれ(道連)
> かたづく こづく(小突) どくづく もとづく うらづける ゆきづまる ねばりづよい
> つねづね(常々) つくづく つれづれ
>>301 続き
> なお,次のような語については,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として,それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし,「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。
> 例 せかいじゅう(世界中) いなずま(稲妻) かたず(固*唾)
> きずな(*絆) さかずき(杯) ときわず ほおずき
> みみずく うなずく おとずれる(訪) かしずく
> つまずく ぬかずく ひざまずく あせみずく
> くんずほぐれつ さしずめ でずっぱり なかんずく
> うでずく くろずくめ ひとりずつ ゆうずう(融通)
> 〔注意〕次のような語の中の「じ」「ず」は,漢字の音読みでもともと濁っているものであって,上記(1),(2)のいずれにもあたらず,「じ」「ず」を用いて書く。
> 例 じめん(地面) ぬのじ(布地) ずが(図画) りゃくず(略図)
/cizimi/ (縮),/tuzumi/ (鼓) を「ちじみ」 「つずみ」と書くのは珍妙で,見苦しいというのもよくわかる。
しかし,その見苦しさに耐えかねて「ちぢみ」 「つづみ」としてしまうと,/hanazi/ (鼻血),/mikazuki/ (三日月) は「はなぢ」 「みかづき」と書くべきだという,至極当然の要求が起こって来る。
いったんそれに応じると,表音原則の例外はどんどん増えていき,さらに,2 形態素の意識が残っているか否かという,決して一般的には判断できない泥沼へと嵌まる。
こうして,現代仮名遣いは,音韻 /z (j) V/ の表記に関してはゴタゴタになってしまった (V: 母音)。旧仮名派からは攻撃のされ放題である。
やはり,最初に「ちじみ」 「つずみ」を我慢してでも,現代日本語の文字体系から「ぢ」 「づ」を追放すべきではなかったか。
/tako-o (gozaimasu)/ (高) の /-o/ と,/utukusju-u (gozaimasu)/ (美) の /-u/ との関係は,
>>289 で見た,/kao-o/ (買) の /-o/ と,/kari-joo/ (借) の /-joo/ との関係と同じ。
「たこ−お」 「うつくしゅ−う」ではサマにならないので,「たこう」 「うつくしゅう」と揃えさせてもらう。
>>302 続き
> 6 次のような語は,オ列の仮名に「お」を添えて書く。
> 例 おおかみ おおせ(仰) おおやけ(公) こおり(氷・△郡)
> こおろぎ ほお(*頬・△朴) ほおずき ほのお(炎)
> とお(十) いきどおる(憤) おおう(覆) こおる(凍)
> しおおせる とおる(通) とどこおる(滞) もよおす(催)
> いとおしい おおい(多) おおきい(大) とおい(遠)
> おおむね おおよそ
> これらは,歴史的仮名遣いでオ列の仮名に「ほ」又は「を」が続くものであって,オ列の長音として発音されるか,オ・オ,コ・オのように発音されるかにかかわらず,オ列の仮名に「お」を添えて書くものである。
現代仮名遣いにおける表音原則の例外のなかでも,これがいちばんダメダメである。必然性が全くない。
>>289 で見たように,「(C) o お」という字面を作りたくないために,音韻 /(C) oo/ を「(C) o う」と書くという原則を立てたのに,ここで「(C) o お」を作ってしまったのでは,ぶち壊しである。
すべて「(C) o う」に統一すべきである。それで何の問題も起こらない。
>>285 >ならば、なぜ「さざんか」ではなく「さざんくわ」と書くのか、その根拠を知りたい。
>何しろ、山茶花と「明らかに異なる」のだそうだから、当然「山茶花」は典拠にならない。
>とすれば、どこからその「くわ」が来たのだろう。
誤読かすりかへか知らないが、「明らかに異なる」といふのはたぶん「さんざ」を
「さざん」と読ませるのは無理だといふことだけだらう。
>>298 >その時点で,文部省としては,漢字全廃の線は消していたと見るのが,最も自然な解釈だ。
>もっとも,そこに至るまでの経緯については憶測するしかない。
そのくせ、まったく遠慮せずに自分に有利な臆測を垂れ流すのな。
>たとえそうであったとしても,進むべき方向を模索しつつ現行に至ったのだと解釈できる。
>旧に復すべしとはならない。
「ゆゑに各策定においてことごとに矛盾を來したと」(
>>296)も「解釈できる」のに
、そっちの解釈を論破もせずに「旧に復すべしとはならない。」と断定かよ。
>>302 >いったんそれに応じると,表音原則の例外はどんどん増えていき,さらに,2 形態素の
>意識が残っているか否かという,決して一般的には判断できない泥沼へと嵌まる。
>こうして,現代仮名遣いは,音韻 /z (j) V/ の表記に関してはゴタゴタになってしまった (V: 母音)。
>旧仮名派からは攻撃のされ放題である。
>やはり,最初に「ちじみ」 「つずみ」を我慢してでも,現代日本語の文字体系から「ぢ」 「づ」を
>追放すべきではなかったか。
要するに、表音主義(音韻準拠)といふ方針(信仰)は一度も検討してみないわけな。
「泥沼へと嵌まる」「ゴタゴタに」「我慢してでも」などの表現からすると、
(まともな人なら)表音主義といふ原則を考へ直すはずだけどな。
>>273 >それなら,「あらたしい」と書いて /atarasi-i/ と読ませ,「ひきい」と書いて /hiku-i/ と
>読ませても構わないはずだ。古典に見られる表記は「あらたし」 「ひきし」なのだから。
>英語を見よ。Wednesday と書いて [wenzdi],busy と書いて [bizi] と読ませている。
>>271 >前者では固定し後者では固定しないのは,現代語において,「けふ」は /kehu/ と読まれる心配がなく,
>自動的に /kjoo/ と読まれるのに対して,「ひきい」は /hiki-i/ と読まれてしまい,
>/hiku-i/ とは読まれないからである。
自問自答してるのか、別人なのか、ともかく問題解決だわな。
補足すると、かなは子音・母音が分れてゐないからアルファベットと同じには考へられないといふことだ。
>現代語の音韻に基づいて,表記が過去に固定されるか否かが決まるのだから,
>過去は飾りにすぎない。
現代語に適応させるのだから、固定しない場合があるのは当然だらう。
>>279 >それを「契沖に対して否定的」ととらえるとしたら,そんな人は福田恒存と君らだけだろうよ。
>契沖の業績を出発点として,国学はそれを継承し,深化させたんじゃないか。時枝誠記は
>ちゃんとそうとらえている。
>>284 >出発点とするというのはそのままということではない。
>国語学者は契沖を国学の祖として尊んでいる。当然のことだ。
>契沖を歴史的仮名遣いから切り離したがる連中の腹は見え透いている。
福田の言ってたのは「歴史的仮名遣を契沖に直結させたがる連中の腹は見え透いてゐる」
といふ意味なんだけどな。時枝誠記の見解に拠ってゐたのだし、別に切り離したがってなど
ゐなかったらうよ。またも誤読したな。
「国語学者は契沖を国学の祖として尊んでいる。当然のことだ。」とするのは、時枝を
論破できないからレッテル貼りをして逃げるつもりかね。
時枝は論理性・合理性の面から「現代かなづかい」を批判してたんだぞ。
そのことは福田の『私の国語教室』にも書いてあったが、読んでないのかな?
>>272 >契沖以後の改訂は,契沖に対して否定的だったとでも言うのか?
>上の時枝の主張にも,はっきり「契沖説を原案とする」とある。福田がバカで契沖の
>科学性について行けなかっただけ。
さて、「バカ」で「ついて行け」てないのは、いったいダレだったのかな?
>>271 >旧仮名派はもう支離滅裂になってきたな。
これは(
>>266)、
>>257が「支離滅裂」だといふ指摘だったんだがね。
相手につき合ったせいで、偏った論になっただけだ。
繰返すが、
>難しくないとはいえない。
>しかも,せっかくそれを憶えても,漢字で書けば隠れてしまう。
>そんな無駄なことはもうやめようというのが,現代仮名遣いなのだ。
といふのは、批判になってないんだよ。「おぼえにくい」か
「漢字で書けば隠れてしまう」か、どちらかでなければ批判にならんぞ。
それとも、ただ筆がすべっただけなのかな。
>>字音かなづかひまで厳守する方針は一般的ではないぞ。
>>「漢字で書けば隠れ」るならば、(おぼえたくない人は)わざわざ「それを憶え」る
>>苦労はない、といふことぢゃないか。
>では,漢字がわからないときはどうするのか。表音式で書いていいのか。
>それでも,和語に宛てた漢字がわからないときは,歴史的仮名遣いを守りつつ,
>仮名に開かなければならない。ということは,一々の語が和語なのか漢語なのか,
>あらかじめ知っていなければならない。そんなのは面倒なだけで意味がない。
>全部表音式で書けば済むこと。
「一々の語が和語なのか漢語なのか,あらかじめ知っていなければならない。」といふのは、
机上の空論だな。これは「いつも誰にでも百点をとらせなければならない」といふ
「病的な合理主義」によるものだ。
実在する人間が、「正しい表記」を思ひ出せないから何も書けない、なんてことはない。
>>304 >誤読かすりかへか知らないが、「明らかに異なる」といふのはたぶん「さんざ」を
>「さざん」と読ませるのは無理だといふことだけだらう。
ほう。すると「語に随ふ」というのは、語の一部だけを勝手に切出してそこを
「明らかに異なる」とか言って表音にしても、「語に随ふ」ことになるのだな。
>>266 >字音かなづかひまで厳守する方針は一般的ではないぞ。
言うまでもなく「くわ」(花)は字音仮名遣なので、これも適用すると「さざんか」。
この時点で原型を留めるのは実に「ん」のみ。
「語に随ふ」って、そういうことだったのか ?
310 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/22 16:06
>>304 > 「ゆゑに各策定においてことごとに矛盾を來したと」(
>>296)も「解釈できる」のに
> 、そっちの解釈を論破もせずに「旧に復すべしとはならない。」と断定かよ。
軌道修正しながら現行に至ったんだから,結果オーライ。
経緯にばかりイチャモンつけてないで,旧仮名の方が新仮名よりいいという点を,一つでも挙げてごらん。
ただし,漢字仮名交じり表記においてだぞ。
> 要するに、表音主義(音韻準拠)といふ方針(信仰)は一度も検討してみないわけな。
> 「泥沼へと嵌まる」「ゴタゴタに」「我慢してでも」などの表現からすると、
> (まともな人なら)表音主義といふ原則を考へ直すはずだけどな。
表音原則を貫かなかったからまずいことになったんじゃないか。読めばわかるだろ。
君らは口ばかり達者で,オツムの方はカラッポだな。
>>305 > かなは子音・母音が分れてゐないからアルファベットと同じには考へられないといふことだ。
単音の替わりに音節 (拍) を音韻的単位と見ればいいだけだから,同じこと。何ら言い訳になってない。
> 現代語に適応させるのだから、固定しない場合があるのは当然だらう。
過去に固定して規範となし,今後も動かさない,というのでないなら,どうして全部すっきり現代語に適応させないのだろう。何の意味があるのだろう。
>>306 > 福田の言ってたのは「歴史的仮名遣を契沖に直結させたがる連中の腹は見え透いてゐる」
> といふ意味なんだけどな。
@契沖が考案するまで,歴史的仮名遣いは,この世に存在しなかった。
A契沖は,仮名遣いを決定する根拠として,10世紀初頭以前の文献資料に見える表記を選ぶという,復古主義の立場をとった。この手続きは全く妥当なものである。
歴史的仮名遣いを契沖に必ずしも「直結」させない後代の学者で,上の@Aを否定する人がいたら,教えてもらいたい。
> 時枝誠記の見解に拠ってゐたのだし
拠っていない。時枝ははっきり「契沖を出発点として」と言っている。
> 別に切り離したがってなど
> ゐなかったらうよ。またも誤読したな。
おれの好きなように読ませてもらう。文句ある?
> 「国語学者は契沖を国学の祖として尊んでいる。当然のことだ。」とするのは、時枝を
> 論破できないからレッテル貼りをして逃げるつもりかね。
このレッテルは名誉あるレッテルなんだ。国語学者は喜んで受けるだろう。三文文士はどうか知らないが。
> 時枝は論理性・合理性の面から「現代かなづかい」を批判してたんだぞ。
> そのことは福田の『私の国語教室』にも書いてあったが、読んでないのかな?
何度も言っているように,「合理性」とは「実用性」であって,「論理性」じゃないんだよ。
時枝の改訂私案は,だれからも相手にされないだろ。
> さて、「バカ」で「ついて行け」てないのは、いったいダレだったのかな?
もちろん,福田恒存と君らだ。
>>307 > 「おぼえにくい」か
> 「漢字で書けば隠れてしまう」か、どちらかでなければ批判にならんぞ。
いつでも正しく仮名に開けることを目指すなら,やはり「おぼえにくい」。
かつ,「漢字で書けば隠れてしまう」から,忘れ易い。
歴史的仮名遣いに良い所なし。
> これは「いつも誰にでも百点をとらせなければならない」といふ
> 「病的な合理主義」によるものだ。
ほとんどの人が百点を取れるようになる方法があるのに,どうしてそれに難癖つけるのだろう。
どっちが病気か明らかだね。
>>303 続き
ここまで,旧仮名派が攻撃して止まない,現代仮名遣いにおける「1 音 1 字 (表音原則)」・「1 字 1 音」の「例外」について見てきた。
それらのうち,
>>287,
>>289,
>>293 で取り上げたものは,ほとんどがしかるべき理由,必然性をもっていた。非難されるいわれは全くない。
むしろ,表音一辺倒,表音原理主義に捕われていないことの証拠として,評価されてよい。旧仮名派は口を噤むべきである。
しかしながら,例外措置をとる必然性が乏しいか,ないものもあった。すなわち:
ア. 慣習尊重の態度が,他の場合の表記とのバランスを欠いているもの: 「は・へ (助詞)」
>>294 イ. 学校文法の考え方を変えなければ解決しないもの: 「いう (言)」
>>300 ウ. 一部の慣習を尊重したために,全体に混乱が及んだもの: 「ぢ」 「づ」 を含む語
>>301-302 エ. 歴史的仮名遣いの残滓で,意義が認められないもの: 「こおり (氷)」 「とお (十)」等
>>303 オ. その他理由不明のもの: 「ねえさん (姉)」
>>287 ア〜オのうち,殊に,関係する語の多いウ・エは,将来,改善の余地があると思われる。
>>315 続き
現代仮名遣いを書き誤る人は多くはないが,いないわけではなく,世間で見かける例は,
>>315 のウ・エに集中しているようだ。
Google 検索結果 (日本語ページのみ):
(正) わかりづらい: 約30400件
(誤) わかりずらい: 約8670件
誤記率: 22.2%
(正) ほおずき (酸漿): 約12200件
(誤) ほうずき: 約3200件 ほおづき: 約887件 ほうづき: 約307件
誤記率: 26.5%
(正) こづかい (小遣): 約84700件
(誤) こずかい: 約49900件
誤記率: 37.1%
現代仮名遣いは,「表記の不断の創作」になることを,怖れるものではない。
何十年かごとに見直す機会が訪れるはずだから,改善されるように期待する。
おれ個人としては,すべて「じ」 「ず」 「(C) o う」と書いてもよいとして,なし崩しにするのがいいのではないかと思う。
以上。
力作を有難たう。大變勉強になる。どこかに纒めて發表されては如何だらう。
>>256 >歴史的仮名遣いの原則は,現代語の音韻から出発して,読み誤りの起こらない所だけ,過去の表記なり音韻なりに従うということだ。
この前半は全く當っていると思ふ。契沖すら、さうなのではないか。
後半に就ては見解が異なるが…
アタラシイの樣に形態素に變化を生じたもの、エライの樣に延喜以降の新語などが説明出來なくては
ならないのだが、御作の樣にきれいにまとめるには、ちょっと力が足りない樣だ。
>世間で見かける例は,
>>315 のウ・エに集中しているようだ。
「通り」の「とおり」・「とうり」なんかもさうだね。
>>311 >「ちじみ」 「つずみ」と書くのは珍妙で,見苦しいというのもよくわかる。
>「はなぢ」 「みかづき」と書くべきだという,至極当然の要求が起こって来る。
これを(
>>302)「読めば」、無理をしてまともな感覚を殺してまで表音原則を守らう
といふ(信者らしい)態度が、よ〜く「わかる」。バレバレだぞ。
チミは口(論理展開)も達者でないし、(当然)オツムの方もカラッポだよね。
>>312 >単音の替わりに音節 (拍) を音韻的単位と見ればいいだけだから,同じこと。何ら言い訳になってない。
「見ればいい」といふ表現が、「意図的にさう見る」ニュアンスを感じさせるなあ。
で、音韻マニアとしてはどうよ。(旧かな攻撃はさておき)公平に見て、「あらた」 「ひきい」を
「あたら」「ひくい」と読ませるのに無理はないのかい?
>どうして全部すっきり現代語に適応させないのだろう。
「適応」はそんな意味ではないよ。
表記を変へないでも適応してゐる場合と、さうでない場合とがあるわけだ。
>>313 またまた話をすりかへたな。問題になってたのは、チミがかっこわるい誤読をして、
>福田恒存が「歴史的かなづかひの原則も内容も,決して契沖につながるものではなく」
> (『私の国語教室』文春文庫80頁) 云々と言っているのは,例によって藤四郎の与太である。
と見当ちがひの中傷を書いた(
>>259)ことだぞ。
>> 時枝誠記の見解に拠ってゐたのだし
>拠っていない。時枝ははっきり「契沖を出発点として」と言っている。
またまたまた誤読かね。
「契沖を出発点として、江戸時代に一応の完成を見た復古仮名づかひ説の全体系を仮に
契沖仮名づかひ説と呼んだのである。そこには、富士谷成章、本居宣長、石塚龍麿、
そして橋本博士等の諸学者が参与してゐるのである。」
(
>>267)といふのだから、批判的継承だとわかるだろ。契沖に「直結」してはゐないぞ。
>> またも誤読したな。
>おれの好きなように読ませてもらう。文句ある?
バカなのか、(おもしろくないが)ギャグのつもりなのか。
そんな態度では「だれからも相手にされない」ぞ。
「三文文士」以下だよな。これは別に「名誉あるレッテル」ではないぞ。
「喜んで受け」たければそれも構はないが。
自分勝手な議論をしたいんなら指人形を相手に議論ごっこでもしてろ。
>何度も言っているように,「合理性」とは「実用性」であって,「論理性」じゃないんだよ。
>時枝の改訂私案は,だれからも相手にされないだろ。
へー、ほー、ふーん。つまり「現代かなづかい」が「論理性」の面でだめなのは議論の
余地がないわけだ。その面では降参ってことね。
あ、ところで時枝の「改訂私案」はちゃんと読んだよな? まさか、お得意の「読まずに非難」
ぢゃないよな、まさかな〜。
>>314 >いつでも正しく仮名に開けることを目指すなら,やはり「おぼえにくい」。
>かつ,「漢字で書けば隠れてしまう」から,忘れ易い。
>歴史的仮名遣いに良い所なし。
(実用性信仰ではなく)ほんとの意味での実用性から見るならば、それほど「おぼえにくい」
わけではない。「バツをつけられたくない」といふ人は、「漢字で書けば隠れてしまう」から問題なし。
「いつでも正しく仮名に開けることを目指す」のは、言はば「実用性信仰」だらう。
「いつでも」といふのは、やはり「病的な合理主義」によるものだ。
>ほとんどの人が百点を取れるようになる方法があるのに,どうしてそれに難癖つけるのだろう。
>どっちが病気か明らかだね。
それは、表記をゼロからつくる場合の話だらう。
チミが病気かどうかは知らないが、「表記は手段にすぎない」「実用性(?)のためには
論理性を捨ててもいい」「過去と断絶しても構はない」といふ信仰を持ってゐるのは
明らかだね。
>>315 >むしろ,表音一辺倒,表音原理主義に捕われていないことの証拠として,評価されてよい。
>旧仮名派は口を噤むべきである。
原理主義が現実の言葉に負けただけだろ。いばることかね。
ところで、制定の経緯には目をつぶれとの仰せだが、『私の国語教室』に書いてある
土岐善麿の失言は読んだのかい? 「目をつぶる(つぶす?)」にしても知っておいたほうがいいぞ。
>>242>>245-246などで証明してくれた(親切で公平だな〜)通り、旧かなは現代語に
適応してゐる。それなのに、なぜ反対し、表音式を支持するのかと考へると、理由としては
「表音一辺倒,表音原理主義」しか推測できないだらう。
>>316 >現代仮名遣いは,「表記の不断の創作」になることを,怖れるものではない。
>何十年かごとに見直す機会が訪れるはずだから,改善されるように期待する。
なるほど、信仰告白だわな。「怖れるものではない(決意?)」「期待する(祈り?)」ですかー。
>>318 > >「ちじみ」 「つずみ」と書くのは珍妙で,見苦しいというのもよくわかる。
> >「はなぢ」 「みかづき」と書くべきだという,至極当然の要求が起こって来る。
> これを(
>>302)「読めば」、無理をしてまともな感覚を殺してまで表音原則を守らう
> といふ(信者らしい)態度が、よ〜く「わかる」。バレバレだぞ。
「まともな感覚」とは何なのか。ただの書記慣習であろう。
表音原則には,ときに慣習に抵触するというデメリットがあるが,辞書情報に頼らなくても書けるという,大きなメリットがある。
原則に徹してメリットを取るか,慣習に妥協してデメリットを避けるか,現代仮名遣いでは,高度なバランス感覚がしばしば要求される。
旧仮名派には決定的に欠けている能力であろう。君らは,副作用のある薬は絶対のまないという病人と同じだ。治らなくても知らないよ w
> >単音の替わりに音節 (拍) を音韻的単位と見ればいいだけだから,同じこと。何ら言い訳になってない。
> 「見ればいい」といふ表現が、「意図的にさう見る」ニュアンスを感じさせるなあ。
日本語では,あらゆる音韻現象が,現実に拍を単位として起こっている。
> で、音韻マニアとしてはどうよ。(旧かな攻撃はさておき)公平に見て、「あらた」 「ひきい」を
> 「あたら」「ひくい」と読ませるのに無理はないのかい?
おれにきく意味はないだろう。「公平に」とはどういうことなのかもわからない。
君らは「音にではなく,語に随」って表記するんだから,それでも構わないはずなんだが。
現に「あふぐ (仰)」 「たふれる (倒)」 「ゑふ (酔)」等ではそうしているんだし。
> 表記を変へないでも適応してゐる場合
それは,現代語の音韻の音用論的な空き間に救われているだけ。
過去のものが現代にも適応しているのではなく,現代を出発点として過去に溯っている。
>>319 > 「歴史的かなづかひの原則も内容も,決して契沖につながるものではなく」 (『私の国語教室』文春文庫80頁)
>
> 「契沖を出発点として、江戸時代に一応の完成を見た復古仮名づかひ説の全体系を仮に
> 契沖仮名づかひ説と呼んだのである。そこには、富士谷成章、本居宣長、石塚龍麿、
> そして橋本博士等の諸学者が参与してゐるのである。」
> (
>>267)といふのだから、批判的継承だとわかるだろ。契沖に「直結」してはゐないぞ。
好き勝手に読んでるのは君だろうが。
国語学者の前で,「歴史的かなづかひの原則も内容も,決して契沖につながるものではなく」などと言おうものなら,即刻退去を命じられるだろう。「批判的継承」だの「直結」ではないだのと弁明しても,到底聞き入れられまい。
そうだよな,
>>16 =
>>317 氏。
> へー、ほー、ふーん。つまり「現代かなづかい」が「論理性」の面でだめなのは議論の
> 余地がないわけだ。その面では降参ってことね。
そんなものは求めていないと,最初から言ってるんだが。
>>320 > ほんとの意味での実用性
どんな「実用性」か全く不明。
> 「バツをつけられたくない」といふ人は、「漢字で書けば隠れてしまう」から問題なし。
小学校でどんな授業をする気なんだい?
> 「いつでも正しく仮名に開けることを目指す」のは、言はば「実用性信仰」だらう。
万人が使わなければならないものを決めるのに,実用性「信仰」ぐらいもっていなくて,どうなるというんだろう。
> 「表記は手段にすぎない」
そのとおり。だからこそよい道具でなければならない。使いにくいのはダメ。
> 「実用性(?)のためには論理性を捨ててもいい」
「論理性」を優先させるとしたら明らかにビョーキ。
> 「過去と断絶しても構はない」
表記法を変えたぐらいで断絶する過去なら,価値はない。
国語学者は歴史的仮名遣いの文化財的価値を訴えた。だから,古典語 (文語文) を表記する際の規範として,教科書の中に残った。
おれもいろいろ考えてみたが,やはり歴史的仮名遣いを残しておかないと,現状では,古語辞典の 1 冊も作ることができない。
ただし,その場合は契沖以来の復古主義に則って,当然「あらたし」 「ひきし」 「いちしるし」 「おびたたし」と書かれなければならない。
「古語辞典」と銘打ちながら,「いちじるし」 「おびただし」で見出しを立てているものがある。感心しない。
> 土岐善麿の失言は読んだのかい?
君,土岐善麿 (哀果) がどういう人か知ってる?
国語審議会に入っていても藤四郎は藤四郎,何を言おうと屁のようなもんだ。
> 旧かなは現代語に
> 適応してゐる。それなのに、なぜ反対し、表音式を支持するのかと考へると、理由としては
> 「表音一辺倒,表音原理主義」しか推測できないだらう。
要するに、君らは「ゐる」とか「考へる」とか「だらう」とか書きたいだけなんだらう?
趣味でやるかぎりおれは何も言はないよ。しかし、罵詈雑言で文学賞とはもつてのほか。
ここの連中は「正しい綴り方」ができない人間を増やして
それを「無知な人間」と笑い者にしたいわけですね?
>>320 > 原理主義が現実の言葉に負けただけだろ。
何ものにも負けない,折れない,譲らないのを原理主義と言う。旧仮名派がそれだ。
>>324 いえてる。
さらに「大阪」は旧「おほ゜さか」なるが
ゆゑに「おお゜さか」と書き,「逢坂山」は旧「あふ゜さかやま」なるがゆゑに,すなはち
「ほ」ではなく「ふ」であり,かつそれに先だつ文字は「あ」でも,音は「お列」の
「オ」であるがゆゑに,本則どほりに「おう゜さかやま」と書かねばなりません。しかし
「逢ふ」 「会ふ」だけなら,前出「は行」音の項で申しましたとほり,「現代かなづかい」
では「あ゜う」でなければならない。それが発音どほりといふものです。したがつて「逢
坂山」は「あう゜さかやま」でなければならない。さうなると,「逢ふ」を「大」と同じ
に発音した古人はけしからんといふことになる。なんだか頭が変になつてきました。な
んでもいいから「機械的」におぼえておけといふのでせうが,「機械的」記憶もここま
で要求されると,もともと「機械的」に出来てゐない頭脳の場合,下手をすると「生理
的」変調を来しかねません。(福田恒存『私の国語教室』文春文庫21-22頁)
古典語の音韻 /(C) aFu/ は,動詞に含まれておらず,かつ,次に母音が続かない場合は,現代語の /(C) oo/ になった。
例: /oosakajama/ (逢坂山),/oogi/ (扇),/oomi/ (近江 <
>>246 後半に追加>),/too/ (塔)
それ以外の場合は,/(C) au/ または /(C) ao/ になった。
例: /au/ (逢・会),/kau/ (買),/aogu/ (仰・煽),/taoreru/ (倒),/aoi/ (葵)
全く法則的な変化なんだよ。ひ弱な頭脳でご苦労さん。
願わくは,「大阪」も「おうさか」と書きたいところだけどね。
>>325 (誤) 「あう゜さかやま」でなければならない → (正) 「あ゜うさかやま」でなければならない
>>321 >表音原則には,ときに慣習に抵触するというデメリットがあるが,辞書情報に頼らなくても
>書けるという,大きなメリットがある。
辞書情報(
>>85)を含まないといふことは、情報量が少ないといふことだらうに。
そんな「おぼえやすさ・書きやすさ」だけに偏重した考へ方が、ほんとに「大きな」
メリットだとは思へないな。
(え? 通じさへすれば、あとはどうでもいい? ほー。)
>>322 >国語学者の前で,「歴史的かなづかひの原則も内容も,決して契沖につながるものではなく」
>などと言おうものなら,即刻退去を命じられるだろう。「批判的継承」だの「直結」では
>ないだのと弁明しても,到底聞き入れられまい。
おやおや、国語学者ってのは、文脈を無視して一言一句を責め立てるやうな
ボンクラども揃ひだとでも言ふのかい? 誰もがチミと同じレベルだと決めつけちゃダメだよ。
>そんなものは求めていないと,最初から言ってるんだが。
ふんふん、ならば、表記には「そんなもの」(論理性)も必要だと思ふ立場から見れば
(それがふつうだと思ふけどね)、弁護の余地なしにまるっきりダメといふことだ。
チミ一人が「求めていない」だけぢゃ、なんの反論にもならんよ。
>>323 >> 「バツをつけられたくない」といふ人は、「漢字で書けば隠れてしまう」から問題なし。
>小学校でどんな授業をする気なんだい?
そちらの言ひがかりを指摘しただけだから、そこまで考へて書いたわけぢゃないよ。
小学校教育についてなんにも知らないからなあ、口を出す資格はないけどね。
まあ、「子供たちの頭はほんとに柔軟だよ。だれかさんたちの石頭とは対照的だ。」(
>>116)
といふ、だれかさんの考へ方(言ひわけ?)がいちおうの参考になるわな。
>> 「実用性(?)のためには論理性を捨ててもいい」
>「論理性」を優先させるとしたら明らかにビョーキ。
何の検討もせずに論理性を捨て去るのは明らかに重いビョーキ。
「万人が使わなければならないものを決めるのに」、最初から「論理性を求めない」のは
異常だな。「バランス感覚」が「決定的に欠けている」らしい。「感心しない」ね。
>> 「過去と断絶しても構はない」
>表記法を変えたぐらいで断絶する過去なら,価値はない。
へー、「価値はない。」か、すげー。なんでもよ〜くわかるんだねえ。
自分(だけ)が「価値はない」と判断したから、「それでも価値はある」といふ意見の人は
相手にせず「表記法を変え」ていいってわけだ。それほどの判断力がホントにあるのかね。
>>323 >国語学者は歴史的仮名遣いの文化財的価値を訴えた。
「文化」とせず「文化財」と表現してるのがちょっと怪しい。
まさかレッテル貼りぢゃないよね。
少なくとも時枝誠記の場合は、論理性・合理性の面から「現代かなづかい」を批判して、
歴史的かなづかひ(方式)を守ることを主張したんだぞ。
それをお忘れなく。
>> 土岐善麿の失言は読んだのかい?
>君,土岐善麿 (哀果) がどういう人か知ってる?
>国語審議会に入っていても藤四郎は藤四郎,何を言おうと屁のようなもんだ。
それそれ、そのことだよ。国語審議会にそんなトーシロが入ってゐて、(まともな論のつもりで)
屁みたいにくだらないことを言って、意外にもそれが影響力を持ってゐたらしいといふ、
恐ろしい事実。(『私の国語教室』「覚書」)
まあ、どうせ「経緯はどうでもいい」と逃げるんだらうけどな。
要するに、チミは「ゐる」とか「考へる」とか「だらう」とかは見慣れない表記だからヤだ、
と言ひたいだけなんだらう?趣味でやるかぎりは何も言はないよ。
しかし、旧かなに的はづれの罵詈雑言を投げつけるのはもってのほか。
>>330 > 趣味でやるかぎりは何も言はないよ。
それはこちらのセリフ。
>>328-330 > 辞書情報(
>>85)を含まないといふことは、情報量が少ないといふことだらうに。
少ないよ。だが漢字があるからそれ以上要らない。要ると言うなら,漢字仮名交じり文で,旧仮名が役に立っている例を挙げよ。もう何度も言ってるぞ。
> おやおや、国語学者ってのは、文脈を無視して一言一句を責め立てるやうな
> ボンクラども揃ひだとでも言ふのかい? 誰もがチミと同じレベルだと決めつけちゃダメだよ。
「文脈」に関係のない真実を求めるのが,学者ではないか。
>>313 への答がないな。
> 表記には「そんなもの」(論理性)も必要だと思ふ立場
それが趣味だと言ってるんだよ。
> >小学校でどんな授業をする気なんだい?
> そちらの言ひがかりを指摘しただけだから、そこまで考へて書いたわけぢゃないよ。
そこ「から」考えて,現代仮名遣いにしたと言ってもいいくらいなんだが。
> へー、「価値はない。」か、すげー。なんでもよ〜くわかるんだねえ。
わかるよ。本当に価値のあるものは決して滅びない。
> 少なくとも時枝誠記の場合は、論理性・合理性の面から「現代かなづかい」を批判して、
> 歴史的かなづかひ(方式)を守ることを主張したんだぞ。
だが,君ら以外のだれからも相手にされない。
> まあ、どうせ「経緯はどうでもいい」と逃げるんだらうけどな。
事実,おれにとってはどうでもいいもんな。君ら権威厨にはいたく気になるようだが。
> 要するに、チミは「ゐる」とか「考へる」とか「だらう」とかは見慣れない表記だからヤだ、
> と言ひたいだけなんだらう?
そんなところで変な神経を使わなきゃいけない表記法を,子供に教える気にはなれない。「いる」 「考える」 「だろう」と書かせたい。文句ある?
文句無い。
334 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/27 06:35
335 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/27 16:48
まあ時枝案ぐらいならいいと思うよ。
もし彼の案が通っていたら、新仮名遣いのように受け入れられて、
現代まで使われ続けて来たんじゃないかな。
しかし、表記法を変えるにはかなりのエネルギーが必要だから、
そのためにはある程度の現実的な需要がなければならない。
それは旧仮名にはあったんだろう。
特に、字音仮名遣いなどがそうだ。もし日本が漢字を廃止していたと
したら、字音仮名遣いは必須だったかもしれない。
「こうくわい(後悔)」と「公開(こうかい)」と「かうかい(航海)」等が
一緒くたになってしまうなんてとんでもない、という意見はもっともだ。
しかし、現実にはそうじゃない。例えば小学校一年生の子供が
「しやうがつかうにいきました」というような文章を書いたとして、
「しやうがつかう」を「せうがくかう」と直すことに何の意味があるのか。
どうせ漢字で書けば隠れてしまうのに。
新仮名には、それを変えなければならないという現実的な需要は
ないだろう。小学校教育や外国人に教える際に、新仮名では
不便なので別の仮名遣いを使うといった話は寡聞にして聞かない。
337 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/28 20:29
橋本進吉「表音的假名遣は假名遣にあらず」は,あらためて読みなおしてみると,実に不思議な文章だ。
橋本独特の,諄々と説き聞かせるような文体で,理路整然としているかに見えるが,論理的矛盾がいくつもある。
> 古來の假名遣は (定家假名遣も所謂歴史的假名遣も) 假名による語の書き
> 方に關するきまりであつて、語を基準にしてきめたものであり
その決め方は,定家仮名遣いと歴史的仮名遣いとで,根本的に違っている。
> 古く假名で書いた或語の形は、後に同音になつた假名でも、その中の或一
> つのものに定まつてゐた爲、その語とその假名との間に離れがたき聯關を
> 生じて、自分が新に書く場合にも、その語にはその假名を用ゐるといふ慣
> 習がかなり強かつたのであると解すべきであらう。
「慣習」はあくまで慣習であって,理論ではないから,古い音韻を反映している場合も多かっただろうが,そうでない場合もあっただろう。
そのような「慣習」を受け継いだのが,定家仮名遣いだ。
> 時代が下つて鎌倉時代に入ると、その實際の發音が同じである爲、同音の
> 假名を混じ用ゐる事が多くなり、同じ語が人によつて違つた假名で書かれ
> て統一のない場合が少なくなかつたので、古寫本に親しんだ定家は、前代
> にくらべて當時の假名の用法の混亂甚だしきを見て、これが統一を期して
> 假名遣を定めようとしたものと思はれる。
これに対し,「慣習」は「濫」れているとして,これを「正」そうとしたのが,
> 所謂歴史的假名遣の根元たる契沖の和字正濫抄
だ。契沖は,「慣習」に従って表記を決める定家仮名遣いを否定し,仮名遣いの混乱が起こる前,すなわち,10世紀初頭以前の文献資料に見える例に倣うという,新しい表記法を考案した。
その後,契沖が仮名の書き分けを語義の違いによると考えた点は修正され,失われた音韻の違いによることが明らかになった。
しかし,歴史的仮名遣いは,契沖仮名遣いに増補を行うことはあっても,改訂は加えていないし,そうする必要もない。
現代人が古代語を話せるようになったわけではないからだ。
>>338 続き
歴史的仮名遣いは,仮名表記の慣習−−その集成が定家仮名遣い−−の否定の上に成り立っている。橋本は,どのような立場を根拠として,歴史的仮名遣いを擁護しようというのか,さっぱりわからない。
あるいは,「仮名遣い」でさえあれば何でもいいわけで,「歴史的」である必要はない,ということだろうか。
そうだとすれば,この文章は,ただ表音原則に対抗するためだけに書かれたことになる。
「敵の敵は味方」とばかりに何でも取り込もうとする態度は,米国外交のようだ。
> 古來の假名遣書に擧げた諸語は、それらの語一つ一つに於ける假名の用法
> を示したもので、そこに擧げられた以外の語の假名遣は、必ずしも之から
> 推定する事は出來ない。
この箇所と,
> 西洋語の綴りは、やはり、過去の發音を代表してゐるのであつて、その發
> 音の變遷の結果、文字と發音との間に不一致が出來た事までも、日本の假
> 名遣と同じことであります。たゞ違つた點は、西洋のスペリングは、どん
> な語に於てもある事でありますが、日本の假名遣は、假名が違つても同音
> である場合や、同じ文字に二つ以上の讀み方があつて、用ゐ場所が疑問に
> なる場合にかぎられ、さうでない場合、たとへば、アサ (朝) やヒガシ
> (東) などの場合には全然關係がない事であります。(「假名遣について」)
とは,明らかに矛盾している。
「アサ (朝) やヒガシ (東) などの場合には全然關係がない」ということは,「語一つ一つ」に表記が決まっているのではなくて,実は表音的なのだ。
少なくとも歴史的仮名遣いは,現代語の音韻に従うことを原則としながら,それに支障を来さない範囲でだけ,「過去の發音を代表してゐる」かのように見せかけている,ということが暴露されている。
>>339 続き
> 萬葉假名專用時代に於ても、片假名平假名發生後に於ても、假名は音を寫
> す文字として用ゐられた。當時の假名の遣ひ方は、同音の文字であればど
> んな文字を用ゐてもよいといふ點で現代の表音的假名遣とは違つてゐるが、
> 音を寫すといふ主義に於ては之と同一である。
> 語は意味があるが、個々の音には意味無く、しかも實際の言語に於ては
> 個々の音は獨立して存するものでなく、或る意味を表はす一續きの音の構
> 成要素としてのみ用ゐられるものであり、その上、我々が言語を用ゐるの
> は、その意味を他人に知らせる爲であつて、主とする所は意味に在つて音
> には無いのであるから、實用上、語が個々の音に對して遙に優位を占める
> のは當然である。
音韻と表記との解離が起こる前の仮名は,未発達で原始的な文字だった,ということだろうか。
しかし,契沖が規範としたのは,まさにそのような文字による表記だった。そして,歴史的仮名遣いの「根元」を成しているのが,契沖仮名遣いだ。
すると,歴史的仮名遣いは未発達で原始的なのだろうか。いやそうではあるまい。
現代語の音韻からは解離しているのだから。とにかく,発音どおりには書かない,表音的でないということが,こよなく魅力的に感じられるのだろう。
こうなるともうフェティシズムだ。そのくせ,現代語の音韻で読めなくなるような表記は,伝統的なものでも平気で避ける。
「實用上、語が個々の音に對して遙に優位を占めるのは當然である」なら,そんなことはできないはずなんだが。
以上、戦闘的新仮名主義の勝利をここに宣言する。
つーかもともと「仮名遣いは語に随ふ」てーのが教理だよな。
間違いのもとは表音的性質や表語的性質が排他的であるかのような
物言いである。どの文字も表語的に使われるというのは確かにそうだ。
しかし“同時に”表音的性質もあるのだ。そしてそれは程度の問題である。
例えば仮名は漢字よりも表音的性質が多い。もともと音を
大切にする和歌の表記手段だったのだからそれも当然だろう。
あまりに表記から音が離れれば結局は表記を変えなければならなくなるのだ。
その事が文のレベルで起こったのが言文一致運動だ。
大幅に実際の表現と表記法が乖離し、
書くこと自体が半学では成らなくなったときに
新しい試みが生まれたのだ。今では誰も口語文を非難しないだろう。
旧仮名も今はまだ使えるかもしれない。教育の困難も
さほどでもないかもしれない。しかし千年後となると分からない。
そして時代が経つにつれ確実に難儀な代物になるだろう。
新仮名は旧仮名よりは柔軟であるが事情は旧仮名と大してかわらない。
例えば近い将来、無声化も意識され音韻の区別を持つようになった時、
新しい補助記号が必要になるかもしれない。さらに拍が崩れ
開音節構造とは言えなくなった時にはまったく新しい試みが
必要になるかもしれない。これらは当然新仮名でも表現できない。
重要なのはその時その時のバランスで表記法を更新していく事である。
その最近のものが新仮名遣いなのだ。
語の表記法を安定に保つには表意表語的性質の大きな
漢字をふんだんに使うとよい。漢字が極めて安定している事は
歴史が証明している。漢字廃止はそれこそ愚行である。
>>343 >つーかもともと「仮名遣いは語に随ふ」てーのが教理だよな。
そんなことないぞ。読めば分るが、歴史上の「かなづかひ」問題は「語に随ふ」ことに
解決を求めてゐた、といふ事実を指摘しただけ。
「表音的假名遣は假名遣にあらず」といふのは、
「表音的假名遣」はこれまでの「かなづかひ」問題に答へず、無かったことにしてしまふものだ、
それをも「かなづかひ」と称してどうする、といふ批判。
>>336 >まあ時枝案ぐらいならいいと思うよ。
>もし彼の案が通っていたら、新仮名遣いのように受け入れられて、
>現代まで使われ続けて来たんじゃないかな。
うん。それなのに表音主義者が「火事場どろぼう」的に「改革」を強行したんだよなあ。
「経緯はどうでもいい」と逃げたり、論理的な時枝案を「君ら以外のだれからも相手にされない」
と決めつけて逃げたりするヤツは卑怯だよね。
>それは旧仮名にはあったんだろう。
>特に、字音仮名遣いなどがそうだ。
字音かなづかひまで守れといふ主張は一般的ぢゃないよ。
字音かなづかひ以外に「現実的な需要」はあったのかねえ。
>小学校教育や外国人に教える際に、新仮名では
>不便なので別の仮名遣いを使うといった話は寡聞にして聞かない。
そりゃ、初めて教はる人が文句を言ったりするなんてありさうに無いって。
ただ、どこで読んだか忘れたけど、外国人が「旧かなのおかげで活用形(ハ行活用)の
論理性がわかった」と感動した話があったよ。
>>332 > >辞書情報(
>>85)を含まないといふことは、情報量が少ないといふことだらうに。
>少ないよ。だが漢字があるからそれ以上要らない。要ると言うなら,漢字仮名交じり文で,
>旧仮名が役に立っている例を挙げよ。もう何度も言ってるぞ。
どれだけ論理的・合理的か、時枝・福田の本を読めばわかるだらう。まあ、「表記に論理性は
要らない」といふ信仰の持ち主が、聞く耳を持ってゐるわけはないだらうがね。
> > 表記には「そんなもの」(論理性)も必要だと思ふ立場
>それが趣味だと言ってるんだよ。
また独断(妄想)かよ。「言ってる」のは見ればわかるさ。
で、「表記には論理性は必要ない」と思ふのが「趣味」ではないと証明できるのかい?
そもそも戦後日本以外に、「論理性」を度外視して表記の「改革」とやらをした国なんて、
世界中のどこかにあるのかねえ。
>そこ「から」考えて,現代仮名遣いにしたと言ってもいいくらいなんだが。
ふむ、やはり時枝・福田が批判してゐる通り、教育法を工夫して解決すべきことを、
表記の変更で解決しようといふ粗雑な考へ方なのな。
>そんなところで変な神経を使わなきゃいけない表記法を,子供に教える気にはなれない。
>「いる」 「考える」 「だろう」と書かせたい。文句ある?
やっぱりチミの「趣味」の問題なんだな。
「子供のため」なんて「フリコキ」は、見苦しいからいいかげんにやめとけよ。
>>339 >歴史的仮名遣いは,仮名表記の慣習−−その集成が定家仮名遣い−−の否定の上に
>成り立っている。橋本は,どのような立場を根拠として,歴史的仮名遣いを擁護しようと
>いうのか,さっぱりわからない。あるいは,「仮名遣い」でさえあれば何でもいいわけで,
>「歴史的」である必要はない,ということだろうか。そうだとすれば,この文章は,
>ただ表音原則に対抗するためだけに書かれたことになる。
「歴史的」を誤解するなといふのは既出。
(その下)
まともな読解力のある人なら、橋本の二つの文が「明らかに矛盾して」などゐないと
わかるんだがなあ。
「語一つ一つ」云々は、そこに擧げられた以外の語まで及ぼせる法則がないといふ意味。
ここでは「表音式ではない」といふ主張は特にしてゐない。
>少なくとも歴史的仮名遣いは,現代語の音韻に従うことを原則としながら,それに
>支障を来さない範囲でだけ,「過去の發音を代表してゐる」かのように見せかけている,
>ということが暴露されている。
旧かな派は、「過去の發音を代表してゐる」表記をめざしてゐた(ゐる)んだっけ?
もしかして、橋本の文を(またまたまた)誤読したのかな。
> 西洋語の綴りは、やはり、過去の發音を代表してゐるのであつて、
↑これを誤読したのかい? この前に、
>要するに、假名遣といふものは、音の變化によつて起つたもので、現行の假名遣は、
>或程度まで、過去の日本語の音聲の状態をあらはし、その變遷の跡を示してゐるもの
>でありまして、ことばの起源や歴史などを知る爲には有益なものであり、古い書物
>その他を讀むにも必要なものであります。
といふ文があるんだから、「過去の發音を代表してゐる」といふ表現で、歴史的かなづかひの
(目的ではなく)実像を説明してゐることは、(まともな読解力さへあれば)よくわかるだらう。
>>340 >音韻と表記との解離が起こる前の仮名は,未発達で原始的な文字だった,ということだろうか。
>しかし,契沖が規範としたのは,まさにそのような文字による表記だった。そして,
>歴史的仮名遣いの「根元」を成しているのが,契沖仮名遣いだ。
契沖が求めたのは安定した表記であって、それが実際は「そのような文字による表記」
だとは知らなかったし、(それを知ってゐる)後の旧かな派も、関心は「安定した表記」の方にあるんだらう。
>とにかく,発音どおりには書かない,表音的でないということが,こよなく魅力的に
>感じられるのだろう。こうなるともうフェティシズムだ。
またまた、自分だけの妄想によるバカ話を。
>>338 >橋本進吉「表音的假名遣は假名遣にあらず」は,あらためて読みなおしてみると,実に
>不思議な文章だ。橋本独特の,諄々と説き聞かせるような文体で,理路整然としているかに
>見えるが,論理的矛盾がいくつもある。
といふことで、自分の読解力がないのを橋本のせいにしただけだったね。
「理路整然として」ゐない「実に不思議な文章」を得々と綴って、恥をさらしてしまったな。
「以上、戦闘的新仮名主義の」敗北をここに宣告する。
>>347 > どれだけ論理的・合理的か、時枝・福田の本を読めばわかるだらう。まあ、「表記に論理性は
> 要らない」といふ信仰の持ち主が、聞く耳を持ってゐるわけはないだらうがね。
実用性はないということだな。
> そもそも戦後日本以外に、「論理性」を度外視して表記の「改革」とやらをした国なんて、
> 世界中のどこかにあるのかねえ。
歴史的仮名遣いほど実用性の低い表記法は,ちょっとほかに見当たらない。
だいたい,日本語ほどの大人口言語で,漢字仮名交じり文に似た表記体系を持っているものはほかにないんだから,外国を気にかけたってしょうがない。
> ふむ、やはり時枝・福田が批判してゐる通り、教育法を工夫して解決すべきことを、
> 表記の変更で解決しようといふ粗雑な考へ方なのな。
何でも教育に尻を持ち込もうとする粗雑な考え方だろ。
>>348 > 「歴史的」を誤解するなといふのは既出。
「歴史的」を好き勝手に使うなというのも既出。
> まともな読解力のある人なら、橋本の二つの文が「明らかに矛盾して」などゐないと
> わかるんだがなあ。
まともな読解力のある人なら,明らかに矛盾しているとわかる。
> 「語一つ一つ」云々は、そこに擧げられた以外の語まで及ぼせる法則がないといふ意味。
> ここでは「表音式ではない」といふ主張は特にしてゐない。
「あたらしい」 「ひくい」 「いちじるしい」 「おびただしい」等では表音式なんだから,そう主張できないのは当たり前。
> 旧かな派は、「過去の發音を代表してゐる」表記をめざしてゐた(ゐる)んだっけ?
意識して目指さなければ,規範は何も決まらないだろ。
> 「過去の發音を代表してゐる」といふ表現で、歴史的かなづかひの
> (目的ではなく)実像を説明してゐることは、(まともな読解力さへあれば)よくわかるだらう。
歴史的仮名遣いは,空から降って来たのか,はたまた地から湧いて出たのか。
>>349 > (それを知ってゐる)後の旧かな派も、関心は「安定した表記」の方にあるんだらう。
どうやって「安定」させるんだい? 放っておいたら自然に歴史的仮名遣いが発生して来て,そこへ落ち着くとでも?
仮名遣いを「個々の語に於けるきまりとして取扱ふ」 (橋本「表音的假名遣は假名遣にあらず」) のなら,それが「アサ (朝) やヒガシ (東) などの場合には全然關係がない」 (同「假名遣について」) などとは,口が裂けても言えないはずだ。
それとも,「あい」 「あゐ」 「あひ」は語に随っているが,「あさ」 「ひがし」は語に随っていない,と認めるかね?
>>347 > > > 表記には「そんなもの」(論理性)も必要だと思ふ立場
> >それが趣味だと言ってるんだよ。
> また独断(妄想)かよ。「言ってる」のは見ればわかるさ。
> で、「表記には論理性は必要ない」と思ふのが「趣味」ではないと証明できるのかい?
どちらも趣味でしょうね。つまり「仮名遣い」は趣味の問題。
>>347 > で、「表記には論理性は必要ない」と思ふのが「趣味」ではないと証明でき
> るのかい?
実用性を最優先するというのは,趣味ではなく公益。
> そもそも戦後日本以外に、「論理性」を度外視して表記の「改革」とやらを
> した国なんて、世界中のどこかにあるのかねえ。
それを言うなら,実用性を度外視し,一般の慣習も無視して,学問的に「論理
性」の高い表記法を (趣味で) 採用した国も,明治日本以外にないだろう。誤
りの元は戦後ではなく,明治にある。
もっとも,それは結果論だから,誤りは改めればよろしい。
>>353 続き
歴史的仮名遣いで,「語に随」って表記されるのは,すべての語なのか,それと
も仮名遣いが問題になる語だけ (他の語は音に随って書かれる) なのか,ハッ
キリさせてもらいたい。
前者なら,「日本の假名遣は、假名が違つても同音である場合や、同じ文字に
二つ以上の讀み方があつて、用ゐ場所が疑問になる場合にかぎられ、さうでな
い場合、たとへば、アサ (朝) やヒガシ (東) などの場合には全然關係がない」
(橋本「假名遣について」) というのは,明らかに誤りとなる。「あさ」 「ひがし」
も語に随っており,音に随っているように見えるのは偶然である,と説かねば
ならない (英語の綴字はまさにそれ)。
後者なら,「時には推定によつて假名をきめる事があつても、その場合には、
音を考へていかなる假名を用ゐるべきかをきめるのではなく、その語が既に假
名遣の明らかな語と同源の語であるとか、或はそれから轉化した語であるとか
を考へてきめるのであつて、やはり個々の語に於けるきまりとして取扱ふので
ある」 (橋本「表音的假名遣は假名遣にあらず」) というのは,明らかに誤りと
なる。仮名遣いに関係のない語の表記は「表音的」である,と説かねばならない。
>>348 「『語一つ一つ』云々は、そこに擧げられた以外の語まで及ぼせる法則
がないといふ意味」は全く無意味。そこに挙げられた語の表記は語ごとに決まっ
ているのだから,もともと何らの法則もない。
何か、久しぶりに來たら議論スレになつてゐるし。
前スレからずつとこの爲體でございます。
>>348 > ここでは「表音式ではない」といふ主張は特にしてゐない。
> 表音的假名遣といふものは、國語の音を一定の假名で書く事を原則とするもの
> である。その標準は音にあつて意味にはない。それ故、如何なる意味をもつてゐ
> るものであつても同じ音はいつも同じ假名で書くのを主義とするのである。「愛」
> でも「藍」でも「相」でもアイといふ音ならば、何れも「あい」と書くのを正し
> いとする。それ故どの假名を用ゐるべきかを定めるには、どんな音であるかを考
> へればよいのであつて、どんな語であるかには關しない。勿論表音的假名遣ひに
> ついて書いたものにも往々語があげてある事があるが、それは只書き方の例とし
> て擧げたのみで、さう書くべき語の全部を網羅したのではない。それ以外のもの
> は、原則から推して考へればよいのである。然るに古來の假名遣ひ書に擧げた諸
> 語は、それらの語一つ一つに於ける假名の用法を示したもので、そこに擧げられ
> た以外の語の假名遣は、必ずしも之から推定する事は出來ない。時には推定によ
> つて假名をきめる事があつても、その場合には、音を考へていかなる假名を用ゐ
> るべきかをきめるのではなく、その語が既に假名遣の明らかな語と同源の語であ
> るとか、或はそれから轉化した語であるとかを考へてきめるのであつて、やはり
> 個々の語に於けるきまりとして取扱ふのである。(橋本「表音的假名遣は假名遣に
> あらず」)
これでも,「真の仮名遣い」が「『表音式ではない』といふ主張は特にしてゐない」と
いえるのだろうか。
もしそうなら,「然るに」という接続詞は,何のためにあるのだろう。
> さればといつて,「う」のはうに統一してしまふと,や
> はり困ることが起るのです。なぜなら「とほい」 「こほり」は頭低型アクセントで,
> 「ほ」が第二音節として独立を主張し,前の「と」 「こ」との間に音節の切れ目が現れま
> す。前に度々例に出した「おほふ (蔽)」などでは,そのことがますます明白になつて
> まゐります。「おほふ」の終止形でも解ることですが,「おほつて」となれば,「ほ」に
> さらに強さアクセントが加り,「ほ」の独立性は紛れもないものとなり,そこに「う」
> を当てたのでは,ただでさへ色々な音価を背負はされてゐる「う」がもう一つ新たに短
> 母音 [o] ないしは [wo] [(有声h)o] の音価を背負ひこむことになります。「う」を「お」の
> 代用に使ふのは,なんといつても無理でありませう。(福田恒存『私の国語教室』
> 文春文庫267-268頁)
こういう言い掛かりをつけられるから,やはり「とうい (遠)」 「こうり (氷)」 「おうう (蔽)」とすべきなんだよ。
歴史的仮名遣いでも,アクセントによっては,「う」 「ふ」が [o] という音価を持つことはいくらでもある。
「とういつ (統一)」 「たうげ (峠)」 「こうせき (功績)」 「かうして (斯)」 「くわうせん (光線)」 「おうたふ (応答)」 「あううちはう (奥羽地方)」 「あふさかやま (逢坂山)」 「わうらい (往来)」……
> 「かか゜う (書)」を「かこ゜う」に改めて表音的になつたと喜んでゐるの
> は笑止といふべく,この「こう゜」と,「こう゜り (行李・公理)」 「こう゜ぎ (抗議)」の「こ
> う゜」と,「こう゜ぎ (講義)」の「こう゜」と,「こう゜り (小売)」の「こう゜」と,「こお゜り
> (氷)」の「こお゜」と,これらの「う」 「お」の異同を表音主義者たちはどうにも説明で
> きますまい。(同271頁)
/kako-o/ (書) の /-o/ は,/mi-joo/ (見) の /-joo/ の異形態だから,「書こお」 「見よう」ではなく「書こう」 「見よう」とする。
/koo-ri/ (行李・公理),/koori/ (氷),/koo-gi/ (抗議・講義) の /oo/ は,アクセントのほかは全同。したがって「こおり (氷)」と書く必然性は本来ない。
/ko-uri/ (小売) の /ou/ は,二つの形態素にまたがっており,/oo/ とは異なる音韻。
旧仮名の残滓である「こおり」以外は,ちゃんと説明できるだろ。
>>359 続き
旧仮名「おほつて (蔽)」の「ほ」と,「はふつて (抛)」の「ふ」の発音は,ともに [o] で何ら変わらない。
現代仮名遣いでは,後者が「ほうって」となるんだから,前者も「おうって」となるべきだ。「おおって」と書く必然性はない。
>>346 > 字音かなづかひ以外に「現実的な需要」はあったのかねえ。
ふつう漢字で隠れる部分の仮名遣いは,隠れるから必要がなく,隠れない部分の仮名遣いは,語の識別にほとんど役立たないから,やはり必要がない。
漢字仮名交じり文では,表語・表意は漢字がやってくれるから,仮名遣いは必要がない。
> 外国人が「旧かなのおかげで活用形(ハ行活用)の
> 論理性がわかった」と感動した話があったよ。
現代仮名遣いで書いても十分に「論理的」というか,規則的。
子音終りの語幹を無理に立てようとするから,不規則に見えるだけだ。
>>359 現代かなづかいでの「お」と「え」の長音は「おお」,「ええ」とすべきだな。
方言では[ou],[ei]と発音する所もあるとは聞くが
標準では[o:][e:]なんだから記述もそのとおりでいい。
>>361 いっそのこと「おー」 「えー」でもいいわけだ。
しかし,それはかつて漢語の表記で実施して,世間に受け容れられず,8 年間ほどで廃止したことがある。
その時は文部省令だったが,今度は内閣告示だから,表記の慣習にとらわれないなら,「おお」 「ええ」で押し切ることも可能ではある。
> 「言ふ」は,発音どほりといふことになると,「ゆ゜う」と書くべきかもしれぬが,「い゜う」と書か
> ねばならぬ。理由は「その語幹が動かないという意識があるとして」ださうであります。
> すなはち「ゆ゜う」と書くことにすると,否定のときは「い゜わない」ですから,「ゆ」が
> 「い」に変り,語幹が変化する。変化してしまつたのでは語幹とはいへぬので,これは
> 「当然」の処置といへませう。それなら「おめでと゜う」 「たこ゜うございます」はどう説明
> するのか。「おめでと゜う」は歴史的かなづかひでは「おめでた゜う」であり,接頭語「お」
> と動詞「めでる」と助動詞「たい」との合成語であります。あるいは「めでたい」とい
> ふ形容詞と考へてもいいでせう。「たい」 「めでたい」の活用は「○・(めで) た゜く・
> (めで) た゜い・(めで) た゜い・(めで) た゜けれ・○」となり,「おめでた゜う」は「おめでた゜
> く」の音便形で,語尾の「く」にのみ変化が起つたことを示し,「た」は語幹あるいは
> 語幹の一部として不変です。それが「現代かなづかい」では「めでと゜う」と書きますか
> ら,「たい」を助動詞として分析すれば,語幹が変つたことになり,「めでたい」の一語
> と考へても語幹の一部が変つたことになります。「たこうございます」でも同様,語幹
> の「高」は「たか゜」 「たこ゜」と変つてしまふ。しかも,この変化を活用語尾のはうへ繰
> りこんでしまつて,語幹をそれぞれ「めで」 「た」だけだとすると,文法上「活用の種
> 類ははなはだ複雑になるので,語幹にも変化を起すものがあるとだけ説いておくべきで
> あろう」と言ふ。「言ふ」は「語幹が動かないという意識」のもとに「い゜う」と書いて
> 「ゆ゜う」とは書かぬといふ説明と全く正反対ではありませんか。しらふの人間の言葉と
> は考へられません。(福田恒存『私の国語教室』文春文庫29-30頁)
>>363 続き
これは,日本語の形態論を本気で考えるとき,だれもがぶつかる問題だ。
歴史的仮名遣いは国学の古典研究の成果だから,古典文法の敷き写しである学校口語文法にとって,旧仮名の方が表面的に都合がいいのは当たり前。
・助動詞には語幹も語尾もない。「会いとうございます」の「とう」は助動詞タイの連用形で,それ以上分析できない。
・メデタイは接頭辞オ−が付くことから,一つの形容詞としか考えられない。「おめでたい/お高い/*お会いたい」
・メデタイ,タカイの語幹がそれぞれメデタ−〜メデト−,タカ−〜タコ−であるのと同様に,/yuu/ (言) の語幹をイ−〜ユ−とするなら,クル (来) の語幹はコ−〜キ−〜ク−,スル (為) の語幹はシ−〜セ−〜サ−〜ス−としなければならない。
しかし学校文法にはそこまでの勇気がない。問題が解決しない原因は,学校口語文法の旧態依然にあるのであって,現代仮名遣いが酔っぱらっているわけではない。
語幹は変化しないというのは学校文法的思い込み。ラテン語動詞の語幹は現在幹〜完了幹〜完了分詞幹と交替する。
ところで「語に随ふ」って[go ni ∫itago:]て読むんですか?
ageでやりたまへ。
367 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/03/06 15:06
「いつかは死ぬことになる」
と現代語舊假名の文の中に書いたとする。
「死ぬ」は 四段でせうか? 五段でせうか? ナ変でせうか?
368 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/03/07 02:10
五段
>>368 では、「死なう」となったときにどうするんだ
四段だろ
シノウ、シノーと読むなら五段
(-_-) 4ダンカ 5ダンカ ハッキリシナイカラ ウトゥダケド シネナイ…
>>355 > >で、「表記には論理性は必要ない」と思ふのが「趣味」ではないと証明でき
> >るのかい?
>実用性を最優先するというのは,趣味ではなく公益。
また誤読か! それとも話をすりかへて逃げたのか。「実用性優先」なら公益だらうが、
「論理性度外視」のどこが公益なんだよ?
>それを言うなら,実用性を度外視し,一般の慣習も無視して,学問的に「論理性」の
>高い表記法を (趣味で) 採用した国も,明治日本以外にないだろう。
>誤りの元は戦後ではなく,明治にある。
学問的な「論理性」が「趣味」だとは知らなかった!
チミが
>>359-364などでくどくど書いてるのも、学問(音韻ガク)的な「論理性」の話
ぢゃないのかね。それと、実用性を「度外視」したなんてデマはよせよ。
>歴史的仮名遣いで,「語に随」って表記されるのは,すべての語なのか,それとも
>仮名遣いが問題になる語だけ (他の語は音に随って書かれる) なのか,
>ハッキリさせてもらいたい。
「語に随ふ」といふのは表音性を排除してないんぢゃないのか?
>>358 >これでも,「真の仮名遣い」が「『表音式ではない』といふ主張は特にしてゐない」と
>いえるのだろうか。
あのなあ、得意げに誤読するのはそろそろやめろよ。
それとも話をすりかへて逃げてるだけか?
↓「ここでは」と書いてある(
>>348)のが読めないのかねえ。
> ここでは「表音式ではない」といふ主張は特にしてゐない。
>>364 >これは,日本語の形態論を本気で考えるとき,だれもがぶつかる問題だ。
>歴史的仮名遣いは国学の古典研究の成果だから,古典文法の敷き写しである
>学校口語文法にとって,旧仮名の方が表面的に都合がいいのは当たり前。
「本気で考える」と言っても、やはり、「古典」をまるっきり無視して現代語だけを
考へてゐるな。
>しかし学校文法にはそこまでの勇気がない。問題が解決しない原因は,学校口語文法の
>旧態依然にあるのであって,現代仮名遣いが酔っぱらっているわけではない。語幹は
>変化しないというのは学校文法的思い込み。
ほー、で? わざわざ「変化しない語幹」を捨てるメリットはあるのかい。
もちろん「酔っぱらってい」ない人にとってのだぞ。あるの?
>>355 >実用性を度外視し,一般の慣習も無視して,学問的に「論理性」の高い
>表記法を (趣味で) 採用した国も,
つまり、旧かなの方が「学問的に」論理性が高いことは認めるわけだ。
わざわざカッコをつけてるけど。
「学問的に」といふ表現で、読むひとが「実用性はない」と誤解することを期待してるのかね。
だいたい、論理性を排除した「実用性」ってなんだろね。そんなものが「信者」以外に
説得力を持つわけがない。
>>372 > 「実用性優先」なら公益だらうが、「論理性度外視」のどこが公益なんだよ?
実用性と学問的論理性とが相容れないときは,前者を取り後者を度外視する。みんなが使うものなんだから当然だろ。
> チミが
>>359-364などでくどくど書いてるのも、学問(音韻ガク)的な「論理性」の話ぢゃないのかね。
そうだよ。福田恒存の批判が学問的に無価値だと論理的に証明したのさ。
> それと、実用性を「度外視」したなんてデマはよせよ。
歴史的仮名遣いに,実用性,公益性を勘案した形跡は全くない。
> >歴史的仮名遣いで,「語に随」って表記されるのは,すべての語なのか,それとも
> >仮名遣いが問題になる語だけ (他の語は音に随って書かれる) なのか,
> >ハッキリさせてもらいたい。
> 「語に随ふ」といふのは表音性を排除してないんぢゃないのか?
排除してないから,どっちなんだ? 後者なのか? ハッキリしろ。
>>373 > ↓「ここでは」と書いてある(
>>348)のが読めないのかねえ。
「ここ」とは,
>>358 に引用した箇所ではないか。
> 「本気で考える」と言っても、やはり、「古典」をまるっきり無視して現代語だけを考へてゐるな。
共時論と通時論とを峻別するのは当たり前。
> ほー、で? わざわざ「変化しない語幹」を捨てるメリットはあるのかい。
> もちろん「酔っぱらってい」ない人にとってのだぞ。あるの?
口語文法が事実に忠実なものになる。
>>374 > つまり、旧かなの方が「学問的に」論理性が高いことは認めるわけだ。
> わざわざカッコをつけてるけど。
そもそも,表記法にとっての「論理性」とは何なのか。語の由来を示すことぐらいだろう。
歴史的仮名遣いはその点もあやしいが。
>>370 じゃあ、平安時代に五段活用ができてたって言うのか?
「言ふ」は「ア行五段」か?
アウがオーに転じたのは平安時代よりもっと後だろう
【仮名遣い総合】鼻血は「はなじ」が正しいはずだ
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1078715742/ 6 :sg1 :04/03/08 19:55
カナは平安時代にできて以来
主に使用者の必要性、利便性に迫られ、次々変化していった
江戸中期の国学者契沖は、
仮名の元々の用法を古文書を元に復元する研究をおこなっていた。
その仮名遣いが、国学者を中心に流行したのである。
時は明治になり、明治政府に採用された国学者達の働きかけにより
この「学問オタク」な仮名遣いは、正式な仮名遣いとして採用され
「現代かなづかい」(昭和22年内閣告示第33号)制定
まで使い続けられたのである。
このような経緯を持つ「歴史的仮名遣い」は政治的、人為的なものだったが。
一部の「言語学者」により、大多数の言語使用者が望むであろう平易さ、利便性など無視し
一方的押しつけになったことは、反省しなければならない。
あ、おいらの書き込み、こんな所にコピーされてるよ。
みんな気分を害しちゃったかな?ゴメンね。
気にせずそのままオナニー続けてて良いよ、シコシコ
>>267 >また誤読かい。
>>304 >誤読かすりかへか知らないが
>>306 >またも誤読したな。
>>319 >またまた話をすりかへたな。問題になってたのは、チミがかっこわるい誤読をして >またまたまた誤読かね。
>>348 >もしかして、橋本の文を(またまたまた)誤読したのかな。 >↑これを誤読したのかい?
>>372 >また誤読か! それとも話をすりかへて逃げたのか。
>>373 >あのなあ、得意げに誤読するのはそろそろやめろよ。それとも話をすりかへて逃げてるだけか?
ほとんど枕詞だね w
381 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/03/12 17:30
おもふ
382 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/03/13 01:24
愛ほ
>>325 > 古典語の音韻 /(C) aFu/ は,動詞に含まれておらず,かつ,次に母音が続かない場合は,現代語の /(C) oo/ になった。
> 例: /oosakajama/ (逢坂山),/oogi/ (扇),/oomi/ (近江),/too/ (塔)
> それ以外の場合は,/(C) au/ または /(C) ao/ になった。
> 例: /au/ (逢・会),/kau/ (買),/aogu/ (仰・煽),/taoreru/ (倒),/aoi/ (葵)
>>360 > 旧仮名「おほつて (蔽)」の「ほ」と,「はふつて (抛)」の「ふ」の発音は,ともに [o] で何ら変わらない。
> 現代仮名遣いでは,後者が「ほうって」となるんだから
これらは矛盾してるな。古典語 /FaFuru/ は現代語 /*haoru/ になることが予測されるのに,実際は /hooru/ になっている。
/-ta/ が付くとき,/aogu/,/taosu/ は /aoi-da/,/taoi-ta/ (近世前期以前) となり,/(C) ao/ の次に母音が続くのに対して,/hooru/ は /hooQ-ta/ となり,/hoo/ の次に母音が続かない。
このことがかかわっているのではないかと思われるが,はっきりしたことはわからない。
>>380 >ほとんど枕詞だね w
うんうん、たしかになあ。誤読ばっかりのバカな相手につき合ふと、自分までバカに
見られてしまふわけだ、気の毒に。
これまで御苦労だったけどさ、あいつら表音主義者にはバカが多いんだからね。
相手にしないほうがいいんだよ。
>>346 > 論理的な時枝案を「君ら以外のだれからも相手にされない」
> と決めつけて逃げたりするヤツは卑怯だよね。
どこがどう「論理的」なんだ? 時枝案には,表記を定める根拠が何もないじゃないか。
現代語の音韻に従うのでもない。過去の表記例,あるいはそこから推定される過去の音韻に従うのでもない。
表記の慣習を観察して,それを整理したものに従うというのでもない。
強いて根拠はと言えば,考案したのがかの「時枝誠記」という名前だけだ。権威厨以外からは相手にされるわけがない。
>>386 > 誤読ばっかりのバカな相手につき合ふと
旧仮名派が誤読と証明できた例は一つもない。
> 自分までバカに見られてしまふわけだ
妥当な見られ方だ。
388 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/03/22 01:15
>>386 > 相手にしないほうがいいんだよ。
相手にしないはうがいいんだよ。
このスレの最初の方読んでて爆笑した。
この空気がたまらん(w
何だ!
舊漢字舊假名遣ひで話すなんてスレタイだから樂しみにしてきたのに、普通のスレじゃん。
折角變換ソフト使ったのにww
>>391 残念でしたね。ここは舊字舊假名厨をからかうスレです。
ゲ ま 自 漢 日 西 舊
│ あ ら 字 本 洋 字
ム し の や 本 に 舊
だ か 文 假 來 迎 假
と し 化 名 の 合 名
思 ` を 遣 歴 し 廚
へ 所 否 ひ 史 て っ
ば 詮 定 を 的 合 て
い は し 以 假 理 ど
い 2 て て 名 性 う
か ch い 遣 だ い
も の る ひ け ふ
ス の を で 人
レ と 嘲 作 を
だ 同 笑 ら 指
か じ す れ す
ら だ。 る た の
の か
は、 判
現 ら
行 な
の い
が、
西洋に迎合してるので、右→左縦書きが読めません。
>>393 旧字旧仮名厨とは,現代日本語を表記するための歴史的仮名遣いこそ,西洋かぶれ,
英語かぶれであることを知らず,それを「合理的」だ,日本本来の文化だと思い込ん
でいる人を指す。
書 こ こ そ さ
き れ り り う
込 か ゃ ゃ か
ん ら 面 爽 い。
で も 白 快
遊 變 さ だ。
ば 換 う
う ソ だ。
フ
ト
を
使
っ
て
一 滅 こ
度 茶 の
試 苦 縱
し 茶 書
て に き
み な 十
や る 行
う。 だ 位
ら に
う な
な。 る
と、
>>395 >旧字旧仮名厨とは,現代日本語を表記するための歴史的仮名遣いこそ,西洋かぶれ,
>英語かぶれであることを知らず,それを「合理的」だ,日本本来の文化だと思い込ん
>でいる人を指す。
なるほど、そりゃたしかに「厨」だな。
で、それはそれとして、もちろん、そんな誤解をしてゐないまともな旧字旧かな派までも
「厨」呼ばはりするわけぢゃないよね?
>>397 みやう→みよう、だね。
あ、それとも猫の鳴き声の「ミャウ」だったのかな?
>>375 >実用性と学問的論理性とが相容れないときは,前者を取り後者を度外視する。
>みんなが使うものなんだから当然だろ。
ふむふむ、それで?
「相容れない」極端な場合にかぎり、「後者を度外視」すべきだといふことだな。
で、そんな極端な場合だったといふことは全然証明してない(できない?)よなあ。
> > チミが
>>359-364などでくどくど書いてるのも、学問(音韻ガク)的な「論理性」の話ぢゃないのかね。
>そうだよ。福田恒存の批判が学問的に無価値だと論理的に証明したのさ。
あれあれ、それで
>>372に答へたつもりかね。また誤読なの?
ま、誤読の余地がないやうにもう一度書くと、
チミは「学問的な論理性は趣味でしかない」と主張してゐるが、
「表音式表記」擁護のためにチミが
>>359-364などでくどくど書いてるのも、
学問(音韻ガク)的な「論理性」の話でしかない(つまり趣味)。
旧かなが恐ろしく非実用的だと証明しないかぎりは、
「学問的な論理性」を重視したことを非難すべき理由は全くない。
それと、福田へのまともな批判なんてあったっけ? 感情的な罵倒はたくさんあったけど。
> >それと、実用性を「度外視」したなんてデマはよせよ。
>歴史的仮名遣いに,実用性,公益性を勘案した形跡は全くない。
ほんとかあ? 根拠は?
まさか、「おぼえやすさ」をスローガンにしなかったことを指して、
「勘案した形跡は全くない」なんてデマを飛ばしてるわけぢゃないよな?
それと、「実用性,公益性」の使ひ方が変だと思ふがね。
学問的な論理性と完全に対立するわけではないだらう。
>>375 > >歴史的仮名遣いで,「語に随」って表記されるのは,すべての語なのか,それとも
> >仮名遣いが問題になる語だけ (他の語は音に随って書かれる) なのか,
> >ハッキリさせてもらいたい。
> 「語に随ふ」といふのは表音性を排除してないんぢゃないのか?
排除してないから,どっちなんだ? 後者なのか? ハッキリしろ。
おいおい、「排除してない」んだから、チミの挙げる区別は無意味だろ。
>「ここ」とは,
>>358 に引用した箇所ではないか。
おいおい、誤読もいいかげんにしろって。
「ここ」とはチミが
>>339で引用した箇所だよ。
あの文は、「
>>358 に引用した箇所」に含まれるが、あの文自体は「表音式ではない」
といふ意味ではなく、「応用がきかない」といふ意味でしかない。
チミが
>>339で主張したのは明らかに誤読によるもの。
>そもそも,表記法にとっての「論理性」とは何なのか。語の由来を示すことぐらいだろう。
>歴史的仮名遣いはその点もあやしいが。
ふむ、「ぐらい」と言ふのか。で、その論理性を求めてはいけない理由は?
それと、「その点もあやしい」といふの、デマぢゃないなら根拠を示せよ。
>>387 >どこがどう「論理的」なんだ? 時枝案には,表記を定める根拠が何もないじゃないか。
おいおい、チミこそ、具体的な根拠を挙げた批判をしてないだろ。
「根拠がないない」と決めつけてるが、ホントに読んだのかね?
>旧仮名派が誤読と証明できた例は一つもない。
えーっ? そーなのおー?
誤読を指摘されても知らない「フリコキ」をして、
逃げて逃げて逃げまくっただけぢゃないのかね。
ところで「フリコキ」ってのは表音主義者の方言なのかねえ?
>>399 > そんな誤解をしてゐないまともな旧字旧かな派
それは趣味ってことだから,他人が云々するには及ばない。
要するに,的外れな新仮名攻撃をしなければいいわけ。
>>399 「旧字旧仮名厨」以外にも、「反旧字旧仮名」厨もゐるからね。気をつけよう。
「読まずに罵倒」やら「誤解・曲解による非難」ばかりするヤツらだよ。
ちょーきゅーかなーってかんじー
>>398 >>400 ず ウ や さ
れ ン っ う
な コ ぱ か
い だ り い。
變 な。變
換 換
ソ ソ
フ フ
ト ト
な は
い
か
ね
?
>>401 > で、そんな極端な場合だったといふことは全然証明してない(できない?)よなあ。
そんな証明は全然必要ない。少しでも不便なものはすべて欠点。
それを甘受すべき別のメリットが見つからないかぎり,欠点は正されなければならない。
プラグマティズムとはそういうことだよ。
> チミは「学問的な論理性は趣味でしかない」と主張してゐるが
そのとおり。
> 「表音式表記」擁護のためにチミが
>>359-364などでくどくど書いてるのも、
> 学問(音韻ガク)的な「論理性」の話でしかない(つまり趣味)。
「『表音式表記』擁護のために」なんか書いてない。
福田恒存が現代仮名遣いを似非学問で攻撃するから,まともな学問でそれを論破したまで。
「趣味」には「趣味」で応じるのが筋だろ。
> 旧かなが恐ろしく非実用的だと証明しないかぎりは、
> 「学問的な論理性」を重視したことを非難すべき理由は全くない。
体系的な表記法を考案するためには,学問,科学的知識が不可欠だが,みんなにとって便利な表記体系は,あくまで道具であって,学問でも科学でもない。
上のことが,旧仮名派にはどうしてもわからないらしい。
> それと、福田へのまともな批判なんてあったっけ? 感情的な罵倒はたくさんあったけど。
君には区別できまい。
> まさか、「おぼえやすさ」をスローガンにしなかったことを指して、
> 「勘案した形跡は全くない」なんてデマを飛ばしてるわけぢゃないよな?
どうしてそれがデマなんだ? 歴史的仮名遣いが,スローガンでなくても,実用性,公益性に鑑みるという態度を表明したことが,一度でもあるかね?
> それと、「実用性,公益性」の使ひ方が変だと思ふがね。
> 学問的な論理性と完全に対立するわけではないだらう。
だれが「完全に対立する」なんて言ったよ。対立したときは「学問的な論理性」を放棄する,と言ってるだけだろうが。
>>402 > おいおい、「排除してない」んだから、チミの挙げる区別は無意味だろ。
「語に随ふ」は「表音性を排除してない」から,「『語に随ふ』のはすべての語なのか,仮名遣いが問題になる語だけなのか」という問は,「無意味」だと?
違うだろ。「語に随ふ」こそが「無意味」なんだろ。
> おいおい、誤読もいいかげんにしろって。
出ました枕詞 w
> 「ここ」とはチミが
>>339で引用した箇所だよ。
> あの文は、「
>>358 に引用した箇所」に含まれるが、あの文自体は「表音式ではない」
> といふ意味ではなく、「応用がきかない」といふ意味でしかない。
> チミが
>>339で主張したのは明らかに誤読によるもの。
>>339 で引用した「あの文」の前には,「然るに」という接続詞が付いていて,その意味するところは,
>>358 に引用した箇所から明らかなように,「『表音的仮名遣』は表音式だ。然るに,『古来の仮名遣書』は表音式ではない」ということだ。
文章,文脈の中で文を解釈することは,「誤読」なのかね。
> ふむ、「ぐらい」と言ふのか。で、その論理性を求めてはいけない理由は?
「いけない」なんて言ってない。実用性を阻害するなと言ってるんだ。
> それと、「その点もあやしい」といふの、デマぢゃないなら根拠を示せよ。
/atarasi-i/ を「あらたしい」とは書かない。「あらた」と同源であることは示せない。
/sazaNka/ を「さんざくわ」とは書かない。「山茶花」という元の漢字は引き出せない。
> 「根拠がないない」と決めつけてるが、ホントに読んだのかね?
「根拠」は時枝の恣意のみ。
> 誤読を指摘されても知らない「フリコキ」をして、
> 逃げて逃げて逃げまくっただけぢゃないのかね。
「誤読」と勝手に「指摘」しただけ。証明した例は皆無。
こちらが逃げて反論しなかった例も皆無。
ベ も下 あま
イ っら まあ
ビ とん り 、
| 舊議 使舊
。 漢論 わ漢
字な れ字
舊ん て舊
假か い假
名い な名
遣い い遣
ひか のひ
でら がで
話 、 こ話
そ こす
う のと
よ 現い
。 状ふ
だ割
なに
。は
、
↑
ひ
で
え
!
ベ も 下 あ ま
イ っ ら ま あ
ビ と ん り 、
| 舊 議 使 舊
。漢 論 わ 漢
字 な れ 字
舊 ん て 舊
假 か い 假
名 い な 名
遣 い い 遣
ひ か の ひ
で ら が で
話 、 こ 話
そ こ す
う の と
よ 現 い
。 状 ふ
だ 割
な に
。 は
、
>>402 時枝「国語問題に対する国語学の立場」『国語と国文学』1947・1-2:
> 國語問題が、言語の實踐に關する議論であるとするならば、それは他の一切の言
> 語現象と共に、それ自躰が國語學の考察の對象とならなければならないこととな
> るのである。
> 國語問題の解決といふことは、言語主躰を正しい心構へに導いて行く不斷の精神
> 開發運動と見るべきである。
> 言語が歴史的事實であり、常に傳統の上に立つて發展して行くものである以上、
> この歴史性と傳統性とを無視した解決法といふものはあり得ない筈である。
「国語問題」には,表記法以外の問題も含まれるのだろうが,表記法に限っていえば,
それは自然言語ではないから,「国語学」の考察の対象にはなっても,言語学の対象
にはならない。ただし,体系的な表記法を考案するためには,言語学の知識が不可
欠だろう。
「正しい心構へ」は哲学の問題であって,表記法とは関係がない。むろん,言語学の
問題にもならない。
「言語が歴史的事實であり、常に傳統の上に立つて發展して行くものである」ことは,
「事実」として客観的に確認できるが,表記法の問題について,「この歴史性と傳統性
とを無視した解決法といふものはあり得ない筈である」と言うなら,それは時枝個人
の意見にすぎず,客観的に正しいと証明されていない。
時枝「国語審議会答申の『現代かなづかい』について」『国語と国文学』1947・2:
> 云はば、表音主義は表記の不斷の創作とならざるを得ないのである。これは、古
> 典假名遣の困難を救はうとして、更に表記の不安定といふ別個の問題をひき起す
> ことになるのである。
> 更に傳統は、單に無意味な文字の固定を、ただ傳統なるが故に守らうとするやう
> なものではない。
「古典仮名遣」が,単なる伝統墨守ではない,すなわち,表音性を排除するのではな
いなら,言語の通時的変化に伴って,表記も変わることになる。
表音性を排除しないかぎり,「表記の不斷の創作とな」ることからは免れない。
>>412 続き
時枝「国語仮名づかひ改訂私案」『国語と国文学』1948・3:
> 假名づかひ改訂の方法 > 一、假名の傳統の濃厚な語については、現行〔古典〕
> 假名づかひを出來るだけ保存する。
> 二、假名の傳統の稀薄な語については、表音的に修正する。
> 四、假名づかひの表音的修正と云つても、それは嚴密な方言差や個人差を表記す
> ることを目的とするものではなく、大躰の音聲的な手がかりを提供するものであ
> るから、このやうな假名づかひは、歴史的にも地域的にも、廣い範圍の音聲還元
> に可能なやうに制定されなければならない。
> 五、假名づかひが、單に表音的任務を持つばかりでなく、更にそれ以上に、語の
> 喚起性、文法躰系の表示等の任務を持つものであることは、假名づかひの實際が
> 示すところの事實であり、その點が假名づかひと表音符號と根本的に相違すると
> ころである。假名づかひが、嚴密に表音的でなければならないと考へるのは、何
> 等根據のない獨斷論に過ぎない。
「仮名の伝統」を「濃厚」と見るか「稀薄」と見るかの客観的な基準が示されず,時枝の
恣意に委ねられている。
「表音的」とは,音韻を表す (ことを原則とする) という意味であるのに,音声を表
すことと誤解されている。音声と音韻の区別ができていない。
「仮名づかひ」が「語の喚起性」をもつことは確かだが,それは仮名ばかりで書いた場
合のことであり,漢字仮名交じり表記においては,その「任務」は無視できるほど軽
い。
表音 (韻) 的表記を採っても,「文法体系の表示」に支障を来たすということはあり
得ない。もしそういうことがあるとすれば,文法記述の方が不十分なのだ。
い 思 縱 は 書 字 表 れ は
西 る ふ 書 な 大 か き 舊 戰 記 て 、 昭
洋 か の き る 變 う 換 假 前 す い 元 和
か ら は で べ 嘆 い へ 名 の る る 々 三
ぶ だ 、 書 く か ふ ら 遣 無 事 か は 十
れ ら 自 く 、 は 事 れ ひ 声 自 ら 舊 年
し う 分 事 變 し が て の 映 體 、 漢 よ
て か が が 換 い 蔑 い ま 畫 が 新 字 り
御 。 西 日 ソ 。 ろ な ま の 疑 漢 舊 も
免 洋 本 フ に い で 字 問 字 假 前
ち か 人 ト さ 。 あ 幕 だ 新 名 に
ゃ ぶ ら を れ っ は 。 假 遣 書
い れ し 使 て て 全 名 ひ か
。 し い っ い 、 て 遣 で れ
て と て る 後 舊 ひ 書 た
、 事 に 漢 で か 本
>>407 >そんな証明は全然必要ない。少しでも不便なものはすべて欠点。
>それを甘受すべき別のメリットが見つからないかぎり,欠点は正されなければならない。
>プラグマティズムとはそういうことだよ。
「語の由来を示すことぐらい」(
>>375)とか、「文法体系の表示」(
>>413)といふ
程度のメリットは見つかってるわけだよね。
「おぼえやすさ」に限定せず、これらの「実用性」も考へた上で「欠点」をただした
方が、「プラグマティズム」からすれば、便利なのではないかねえ。
>体系的な表記法を考案するためには,学問,科学的知識が不可欠だが,みんなにとって
>便利な表記体系は,あくまで道具であって,学問でも科学でもない。
>上のことが,旧仮名派にはどうしてもわからないらしい。
「道具」としてひどく不便でなければ、「学問的・科学的」に正しい方がいいに決ってゐるよね。
旧かなが致命的なほどに非実用的だといふ証明はできるの?
>どうしてそれがデマなんだ? 歴史的仮名遣いが,スローガンでなくても,実用性,
>公益性に鑑みるという態度を表明したことが,一度でもあるかね?
(「スローガン」と「態度の表明」とにそれほどの違ひがあるのかな?)
「実用性,公益性」といふのを、学問的な論理性、おぼえやすさ等を含めたものとして
考へてゐたんぢゃないかな。「おぼえにくい」といっても、「実用性を阻害する」ほど
ぢゃないといふ判断だらう。
>だれが「完全に対立する」なんて言ったよ。対立したときは「学問的な論理性」を放棄する,
>と言ってるだけだろうが。
ふむ、それで?
どうして旧かなを拒否することにつながるのかな。
>>408 > >ふむ、「ぐらい」と言ふのか。で、その論理性を求めてはいけない理由は?
>「いけない」なんて言ってない。実用性を阻害するなと言ってるんだ。
おお、それはよかった。旧かなを容認してくれるわけだ。だって、旧かなが致命的な
までに「実用性を阻害」するといふ証明はされてないもんね。
>>408 > >それと、「その点もあやしい」といふの、デマぢゃないなら根拠を示せよ。
>/atarasi-i/ を「あらたしい」とは書かない。「あらた」と同源であることは示せない。
>/sazaNka/ を「さんざくわ」とは書かない。「山茶花」という元の漢字は引き出せない。
おお、なるほど。でも、それは現代音に適応してゐる例なのだから、表音主義者は
賛成してくれるはずだけどな?
それに、
>>88で書いてたよね。(別人かな?)
> > 到底徹底できぬ表音主義を原則に据ゑるのではなく
>そういう "All or Nothing",「遅刻するくらいなら欠席する」式の,ゼロ−サム主義を
>現代仮名遣いはとらない。
もちろん、歴史的かなづかひも、「ゼロ−サム主義」などは採ってゐないだらうからねえ。
>>412 >「言語が歴史的事實であり、常に傳統の上に立つて發展して行くものである」ことは,
>「事実」として客観的に確認できるが,表記法の問題について,「この歴史性と傳統性
>とを無視した解決法といふものはあり得ない筈である」と言うなら,それは時枝個人
>の意見にすぎず,客観的に正しいと証明されていない。
? なぜだい?
「傳統の上に立つて發展」するのが「事実」ならば、「無視した解決法が」異常だと
思ふのが普通ではないかね。
>「古典仮名遣」が,単なる伝統墨守ではない,すなわち,表音性を排除するのではな
>いなら,言語の通時的変化に伴って,表記も変わることになる。
それは時枝も言ってることだぞ。
>>413 >「仮名の伝統」を「濃厚」と見るか「稀薄」と見るかの客観的な基準が示されず,時枝の
>恣意に委ねられている。
そりゃ、「私案」だしな。それに、「(不十分なものだが)具体例を挙げて参考に供する」
といふ趣旨のことを時枝は書いてなかったっけ?
「濃厚・稀薄」といふ規準でも十分参考になるんぢゃないか。
>「表音的」とは,音韻を表す (ことを原則とする) という意味であるのに,音声を表
>すことと誤解されている。音声と音韻の区別ができていない。
さうかい? それで、用語が不適切といふ以上に、問題があるのかな?
>「仮名づかひ」が「語の喚起性」をもつことは確かだが,それは仮名ばかりで書いた場
>合のことであり,漢字仮名交じり表記においては,その「任務」は無視できるほど軽い。
>表音 (韻) 的表記を採っても,「文法体系の表示」に支障を来たすということはあり
>得ない。もしそういうことがあるとすれば,文法記述の方が不十分なのだ。
具体的には?
「もっと舊漢字舊假名遣ひで」といふすすめに従って(笑)間違ひ指摘。
>>409,
>>411 ○使はれてゐない、○話さうよ
>>414 ○ゐる、○ゐない
>>415 > 「語の由来を示すことぐらい」(
>>375)とか、「文法体系の表示」(
>>413)といふ程度のメリットは見つかってるわけだよね。
語の由来を示すことが,実用上のメリットだと言った憶えはない。歴史的仮名遣いの方が,文法体系の表示に有利だと言った憶えもない。
見事な誤読だな w
> 旧かなが致命的なほどに非実用的だといふ証明はできるの?
> だって、旧かなが致命的なまでに「実用性を阻害」するといふ証明はされてないもんね。
歴史的仮名遣いに,おぼえにくさをカヴァーするほどの実用上の利点はない。それをここまで旧仮名派が一つも挙げられなかったことが,何よりの証明だ。
>>416 > おお、なるほど。でも、それは現代音に適応してゐる例なのだから、表音主義者は賛成してくれるはずだけどな?
語の由来を示すことを放棄するのなら,現代音に適応させることを原則とすべきだ。
> もちろん、歴史的かなづかひも、「ゼロ−サム主義」などは採ってゐないだらうからねえ。
だから,現代仮名遣いを不徹底と攻撃する資格はない。
> 「傳統の上に立つて發展」するのが「事実」ならば、「無視した解決法が」異常だと思ふのが普通ではないかね。
必ずしも「普通」とはいえない。言語と表記法とは別物。
> それは時枝も言ってることだぞ。
歴史的仮名遣いも,表記の不断の創作であること,現代仮名遣いと同断。
>>417 > 「濃厚・稀薄」といふ規準でも十分参考になるんぢゃないか。
時枝誠記以外の人が言っても,「十分参考になる」と思うか? 権威に寄り掛かるのは見苦しい。
> さうかい? それで、用語が不適切といふ以上に、問題があるのかな?
現代仮名遣いは,厳密に音声を表さなければならないなどとは考えていない。
> 具体的には?
おれは,事実が「ない」と主張しているのだ。反論するなら,「いや,ここにある」と,具体例を示す責任は君にある。
>>418 正 ウ や さ
し ン っ う
く コ ぱ か
變 だ り い。
換 な。變
す 換
る ソ
ソ フ
フ ト
ト は
な
い
か
ね
>>419 >語の由来を示すことが,実用上のメリットだと言った憶えはない。歴史的仮名遣いの方が,
>文法体系の表示に有利だと言った憶えもない。
>> 旧かなが致命的なほどに非実用的だといふ証明はできるの?
>> だって、旧かなが致命的なまでに「実用性を阻害」するといふ証明はされてないもんね。
>歴史的仮名遣いに,おぼえにくさをカヴァーするほどの実用上の利点はない。
>それをここまで旧仮名派が一つも挙げられなかったことが,何よりの証明だ。
学問的な論理性を排除した「実用性」ってのは、ものすごく変なものだと思ふんだがねえ。
それは表音主義の信者以外に通用するのかな。
そんな規準を勝手に決めてから「実用上の利点」を示せと言ふのは不公平だらう。
>語の由来を示すことを放棄するのなら,現代音に適応させることを原則とすべきだ。
ええっ? 「ゼロ−サム主義」を採る人だったのかい?
「あたらしい」や「さざんくわ」、あれだけで「放棄してる」ことの証明になるのかなあ。
やっぱり表音主義者はまともな「バランス感覚」(
>>321)を持ってゐないといふことか、
気の毒だな。
>時枝誠記以外の人が言っても,「十分参考になる」と思うか? 権威に寄り掛かるのは見苦しい。
あの「私案」は方針を示す程度のものぢゃないのか? 時枝はそのつもりだらう。
「権威に寄り掛かる」なんて妄想はよせよ。
>> さうかい? それで、用語が不適切といふ以上に、問題があるのかな?
>現代仮名遣いは,厳密に音声を表さなければならないなどとは考えていない。
だからさ、それが時枝の批判を無意味にするほどの間違ひなのかってことだよ。
>>420 漢字はちゃんと変換されるんだし、あとは自分で直せばいいぢゃない。
>>419 舊假名を拒否する理由がよくわからんなあ。
「旧かなが致命的なまでに「実用性を阻害」するといふ証明」がされてないんだから、
「語の由来を示す」といふメリットを(それが「実用上」のメリットではないとしても)
捨てる必要はないんぢゃないか?
だいたい、古典を讀むためには舊假名が必要だらう。舊假名なら古典の表記との
斷絶が少ないから、それも長所と言へるのではないのかな。
>>421 > 学問的な論理性を排除した「実用性」ってのは、ものすごく変なものだと思ふんだがねえ。
ものすごく自然だ。辞書的情報を参照しなくても書けるというのは,一つの理想だ。
それのみを追求することは現実には不可能だが。
> それは表音主義の信者以外に通用するのかな。
旧仮名派以外の,世界中の人に通用するだろう。どの程度実現できるかは,個々の言語の事情によって違うだろうが。
> そんな規準を勝手に決めてから「実用上の利点」を示せと言ふのは不公平だらう。
その規準を「勝手」としか感じられない点で,旧仮名派は病が重いのだ。
> >語の由来を示すことを放棄するのなら,現代音に適応させることを原則とすべきだ。
> ええっ? 「ゼロ−サム主義」を採る人だったのかい?
「原則」って書いてあるだろ。「原則」には必ず「例外」がある。現代仮名遣いの「例外」をネチネチ,クドクドと攻撃し続け,「到底徹底できぬ表音主義を原則に据ゑるのではなく (
>>86)」などと言う旧仮名派こそ,ゼロ−サム主義者でなくて何であろう。
> 「あたらしい」や「さざんくわ」、あれだけで「放棄してる」ことの証明になるのかなあ。
旧仮名派はほんとに他者に厳しく,自己に甘いな w
> あの「私案」は方針を示す程度のものぢゃないのか? 時枝はそのつもりだらう。
> 「権威に寄り掛かる」なんて妄想はよせよ。
あれが時枝誠記以外の人の「私案」だったとしても,「方針を示」していると評価できるか? どだいダメなものを擁護するのは見苦しいぞ。
> >現代仮名遣いは,厳密に音声を表さなければならないなどとは考えていない。
> だからさ、それが時枝の批判を無意味にするほどの間違ひなのかってことだよ。
間違いだよ。現代仮名遣いが /ee/ /oo/ を原則として「えい」 「おう」と書いても,「表音的」であることは動かない。
時枝にはこの理屈がわかってない。文法家としては鋭いが音韻論はからきしだ。
>>423 > 「旧かなが致命的なまでに「実用性を阻害」するといふ証明」がされてないんだから
実用上の利点が何ら見出されていないんだから,証明済み。「致命的」かどうかなんて主観的なことを論ずる必要は全くなし。
> だいたい、古典を讀むためには舊假名が必要だらう。舊假名なら古典の表記との
> 斷絶が少ないから、それも長所と言へるのではないのかな。
読むだけなら簡単。書ける必要があるのは古典学者だけ。
ゲ 變 舊 ま 諸
| 換 字 あ 君
ム ソ 舊 、 、
感 フ 假 さ
覺 ト 名 う
で 橘 遣 カ
行 屋 ひ リ
か 右 は カ
う 近 、 リ
よ を 樂 す
。 使 し る
つ ん 事
て で は
、 使 な
へ い
ば よ
い 。
い
。
>>424 >ものすごく自然だ。辞書的情報を参照しなくても書けるというのは,一つの理想だ。
>それのみを追求することは現実には不可能だが。
>どの程度実現できるかは,個々の言語の事情によって違うだろうが。
つまり、飽くまでも「一つ」の理想でしかない、「それのみを」絶対的な規準とすべき
ものではない、といふことだな。
それを知りながら、
>その規準を「勝手」としか感じられない点で,旧仮名派は病が重いのだ。
と書くとはなあ。もしかして馬鹿なのかい?
>旧仮名派はほんとに他者に厳しく,自己に甘いな w
話が逆だろ。お前の方が、先に「ゼロ−サム主義」を批判しておきながら、
「あたらしい」や「さざんくわ」では、「ゼロ−サム主義」を勝手に持ち出したんぢゃないか。
もしかして馬鹿なのかWWW
>>425 > > 「旧かなが致命的なまでに「実用性を阻害」するといふ証明」がされてないんだから
>実用上の利点が何ら見出されていないんだから,証明済み。「致命的」かどうかなんて主観的なことを論ずる必要は全くなし。
おぼえにくいとは證明できないもんだから、逃げたな。
要するに、「ボクは現代假名遣で育ったから、わざわざ舊假名を憶えるのはヤだよお」
と言ひたいだけなんだろ。
> > だいたい、古典を讀むためには舊假名が必要だらう。舊假名なら古典の表記との
> > 斷絶が少ないから、それも長所と言へるのではないのかな。
>読むだけなら簡単。書ける必要があるのは古典学者だけ。
必要が無い、か。消極的な反對理由でしかないな。
それに、學者と一般人とを分斷する考へ方を福田が批判してなかったか?
>>428 >要するに、「ボクは現代假名遣で育ったから、わざわざ舊假名を憶えるのはヤだよお」と言ひたいだけなんだろ。
たぶんそれだな。相手にするのは止めよー。
「それは趣味ってことだから,他人が云々するには及ばない。
要するに,的外れな」舊假名攻撃を「しなければいいわけ。」(
>>403)
ってことだ罠。
>>427 >もしかして馬鹿なのかWWW
バロック?
>>426 お、ちゃんとなってる。ほとんどずれてないし。
「橘屋右近」てほんとにあるの?
>>427 > つまり、飽くまでも「一つ」の理想でしかない、「それのみを」絶対的な規準とすべき
> ものではない、といふことだな。
公教育において,この理想を第一位から外すことは考えられない。
諸事情から手の施しようがなくなっている,英仏語の綴字の方が特殊なのだ。それでも改良の試みは絶えずある。ウェブスターの米式綴りは成功した例だろう。
> 話が逆だろ。お前の方が、先に「ゼロ−サム主義」を批判しておきながら、
> 「あたらしい」や「さざんくわ」では、「ゼロ−サム主義」を勝手に持ち出したんぢゃないか。
完全に話が逆。旧仮名派は,ゼロ−サム主義で頑張るのでなければ,より便利な現代仮名遣いを拒否する理由がなくなる。
バカは死ななきゃ治らないってか w
>>428 > おぼえにくいとは證明できないもんだから、逃げたな。
君ら旧仮名派が,憶えにくいことを上回る実用上の利点を何も示せないんだから,証明済み。
> 要するに、「ボクは現代假名遣で育ったから、わざわざ舊假名を憶えるのはヤだよお」
> と言ひたいだけなんだろ。
おれはあとで必要になつたから、だいたい書けるよ。しかし、違ふ道を選んでゐたら、憶えて得することはなんにもなかつただらうね。
要するに、君らはこんなふうに書きたいだけなんだらう?
> それに、學者と一般人とを分斷する考へ方を福田が批判してなかったか?
いかにも福田恒存らしい言い分だな。だから素人臭い与太を臆面もなく書き連ねられるのか。
素人はプロには絶対に太刀打ちできない。どんな分野でも同じ。
然 さ 舊 舊 と 變 捩 「 橘
し う 假 漢 こ 換 つ 變 屋
、 云 名 字 ろ ス た 換 右
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覺 。 、 み 云 ト あ
だ に ふ の つ
ね く と 三 た
。 い 、 つ か
か だ ら
ら よ 、
。 。
432 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/04/04 23:00
確かに「桧山」の「桧」の字を JIS が普及するまえの漢和辭典で調べたら載っていなかったよ。
親字が1萬字を超える漢和辭典なのだが。
>>428 > 必要が無い、か。消極的な反對理由でしかないな。
最も積極的な反対理由。
435 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/04/16 16:42
福田恆存『國語問題論爭史』が、増補版として玉川大学出版部より刊行豫定とか。
もともとあれは土屋道雄との共同執筆で、載せきれない資料を削減したものだった。
改革派を批判するのはいいが、いささか口汚く品が良くなかったのは土屋の筆なのか。
兎まれ、どういふ増補になるかお手竝拜見だ。
近年覆刻された表音派の平井昌夫『國語國字問題の歴史』だけ讀むのでは片手落ち。
雙方の意見と敍述を讀み比べてこそ公平といふものだ。
436 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/04/16 18:16
皆さんはチヤイコフスキイはお好きですか。
わたくしはチヤイコフスキイの神髄はバレエ音楽にあると思ひます。
た あ 縱 最 さ
し れ 書 近 う
か は き 、 言
に 單 に 映 へ
、 に し 畫 ば
縱 フ て の 、
書 ィ ゐ 字
き ル る 幕
の ム の を
方 が を
が 古 よ
讀 い く
み だ 觀
や け る
す な が
か の
つ か
た ?
。
438 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/04/17 22:11
他のスレにこっそり舊漢字を使ってレスしても~誰も指摘しなかったよ。
意外と氣付かないものだし、氣付いていても、他人のスタイルに干渉する人はいない見たいね。
西尾幹二って、專門外とはいへ、橋本進吉も碌に讀まず、有坂秀世も知らなかったとは。
それでよく公の場で假名遣を云々するなあ……。
氏名:西尾 幹二 日:2004/03/31(Wed) 09:55 No.84
http://nitiroku.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/i-nikki.cgi ……
橋本進吉の文章の魅力については、今ここで詳しくは書けない。『諸君!』
5月号の「江戸のダイナミズム」は、題して「万葉仮名・藤原定家・契沖・
現代仮名遣い」で、橋本の一文をかなり長く引用しているので、そこで味読
してもらいたい。ただし、当該論文は現代仮名遣い否定論では必ずしもない。
現代仮名遣い否定論に対する否定論に、初めて根拠を与えようとしている論
文である。世にまだ少なからずいる旧仮名書きからヒステリックな反応が起
こる可能性がある。
……
表記法は道具であって学問ではないから,勘のいい素人の方が,ものが見えることもある。
(あくまで「勘のいい」という所が重要)
> 4)万葉仮名の「音仮名」は音符に近い。先祖返りではないか、と言っているのです。(これは誰もまだ言っていないし国語学的に正しいかどうかも私には分りません。しかし橋本進吉理論を追及するとそうなります。)
正解。
> 7)漢字仮名交り文では、仮名の表意性の必要は平安より鎌倉へ、鎌倉より江戸へとどんどん減っていきました。漢字が表意性を守っている現代において仮名の表意性はどこまで必要か。
原則として不必要。正当な疑問。
> 9)あなたは戦後政府に反感をもっていますが、私は明治政府も同じくらいおかしい統制狂だと思っています。
「統制」の仕方が間違っていた。
> 仮名遣いは江戸時代の不統一のまま、21世紀まで放置すべきでした。そうなれば落ちつくところに落ちついたはずです。
> 10)仮名遣いは「乱れ、不正確、不統一」が『常態』であるという認識が世間一般の常識でありつづけるべきでした。
落ち着いてくれればそれに越したことはないが,日本が生み出したのは契沖,宣長であって,R・マルカスター,S・ジョンソン,N・ウェブスターではなかった。彼我の合理精神の差を感じる。
「乱れ、不正確、不統一」のままでは,公教育はおぼつかない。出版物の校正もできないだろう。
> 11)明治政府が契沖を受け入れて、歴史的仮名遣いを『正則』としたことがそもそもの間違いだったと私は漠然と予感しています。無理強いは破れるのです。いっぺんに奈良朝にもどるというのですから。
正解。
> 12)福田先生とはまるきり考え方を異としています。私は福田氏に盲從する弟子ではありません。
「先生」と呼ばれるべき学識は全く無し。ガラの悪さには 2 ちゃねらーずも脱帽。
勘が惡い。↑
勘が惡い。↑
表音主義学生クンが
>>430でやっと敗退したと思ったら、今度は「勘が惡い」素人の
御登場か。ほんと、バカがいっぱい寄ってくるよな。
>>444 >表音主義学生クン
学生クソの誤記だろ。
どう見ても死に体なのは旧仮名派の方でしょうよ。
>>444に訊ねる。
君は撞着する下記二つの意見のどちらに與するといふのか。
――
>>430曰く、
>だから素人臭い与太を臆面もなく書き連ねられるのか。
>素人はプロには絶対に太刀打ちできない。
――
>>440曰く、
>表記法は道具であって学問ではないから,勘のいい素人の方が,ものが見えることもある。
449 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/04/25 19:34
>>446 確かに、舊假名遣いは、日本人が使わなくなったら滅びるだろうね。
ただ、舊漢字は、繁體字として、台灣や韓國で生き延びているし、
中國ではもっと過激な簡體字を使っている。(ただ、中國では、
筆記に適しているが、視認性が弱い簡體字よりも、從來の繁體字が
見直されつつある。)そういう意味では、新字體も少數派でしかない。
>>448 撞着なんぞしていない。
福田恒存を含む旧仮名派は,表記法を学問だと誤解している。そして,少なくとも福田は言語学では素人だ。
西尾幹二は言語学では素人だが,表記法を学問ではなく道具ととらえている。
正当な理解に至る可能性が大きいのは明らかに後者だ。
>>450 表記法と、表記についての討論・考察・研究(學問)とを混同してゐる。
西尾幹二「江戸のダイナミズム」は國學など、表記の研究を論じたものであることを考慮してない。
舊假名批判に肩入れしたがるあまり目が曇つてしまつてゐるのだな。可哀想に。
>>451 > 表記法と、表記についての討論・考察・研究(學問)とを混同してゐる。
混同すると,表記法は学問だということになる。
混同しなければ,表記法は学問ではないということになる。
妥当なのは後者。
> 西尾幹二「江戸のダイナミズム」は國學など、表記の研究を論じたものであることを考慮してない。
表記の研究を論じているが,表記法そのものが学問,科学だとは,彼は考えていない。
>>452 「表記の研究を論じている」なら、素人學問でいい加減なことを論じてはいかんわな。
だから西尾幹二は勉強不足といふことだ。福田と較べてあまりに國語學の素養が無い。
>>453 > だから西尾幹二は勉強不足といふことだ。
それはそうなんだが,見たところ,学問的には陳腐なかわりに,ひどく間違ったことも言っていないようだ。
ただ,言語学者なら当然とるはずの学問的手続きに対して,あんな大げさな感動を示されると,じゃあこれまで言語学を何だと思ってたんですか,と言いたくなる。
また,あの池田俊二とかいう人との議論は,表記の研究についてのものではなくて,表記法の是非についてのものではないのか。
http://nitiroku.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/i-nikki.cgi > 福田と較べてあまりに國語學の素養が無い。
この点では,福田に誇るべき何ものもない。間違いだらけ。
455 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/04/27 00:39
實際のところ、現代假名遣いは、表音假名遣いと傳統假名遣いの折衷方式で
それはそれで、上手く機能しているんだよね。
助詞の「は」「へ」「を」、動詞の「いう」の存在でとりあえず、
傳統假名遣いの痕跡は殘していて、古典學習への輕い訓練になるし、
一方、外國人に對する日本語ヘ育では、ほとんど表音文字として導入できる。
エ段長音と、オ段長音をそれぞれ「エ段+イ」、「オ段+ウ」で導入すれば、
例外は數十語しかない。
456 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/04/27 01:13
实际のところ、現代假名遣いは、表音假名遣いと传统假名遣いの折衷方式で
それはそれで、上手く机能しているんだよね。
助词の「は」「へ」「を」、动词の「いう」の存在でとりあえず、
传统假名遣いの痕跡は残していて、古典学习への轻い訓練になるし、
一方、外国人に对する日本语教育では、ほとんど表音文字として导入できる。
エ段长音と、オ段长音をそれぞれ「エ段+イ」、「オ段+ウ」で导入すれば、
例外は数十语しかない。
「現代かなづかい」は,敗戦直後に決めたから,どさくさ紛れみたいに見えて (事実そうなんだが),一部で評判が悪くなった。
大正13年の法案を,ぜひとも通すべきだったのだ。日本人自ら,合理精神を発揮し,自らの手でそれを示すべきだった。
文部省 (現・文部科学省) が,アカデミズムに対して強い不信を抱く理由の一つに,大正13年の件があるのではないか。
旧仮名派のなかには,天然自然の理に従えば,like a river flows surely to the sea,歴史的仮名遣いが発生すると思い込んでいる輩があまりに多い。
そういう誤りを宣伝し植えつけたのは,何と言っても福田恒存だ。
>>454 福田は素人であっても言語學者の金田一京助よりは間違ってなかったわけだが。
>>457 合理精神あればこそ、大正十三年案には反論が出て取り止めになったのだ。
>>458 > 福田は素人であっても言語學者の金田一京助よりは間違ってなかったわけだが。
これは嘘。京助は日本語を知らないので,見ていてイライラするが。
>>444 「フリコキ学生くん」だろ。
>>430 「辞書的情報なしに書ける」といふ「理想」には、
>>84の、
>御説明ありがたうございます。「辞書的知識」を悪い意味で使つてゐるのは
>判りましたが、私は必ずしも「辞書的知識」が悪いとは考へてはをりません。
>一度は辞書を引く事はあるかも知れませんが、其れが自分の知識になれば
>既に「辞書的知識」と呼ぶ事は出来ません。要は必要な知識があるか無いかの
>違ひでしかない訳です。
で既に反論済みだな。
84の人が「辞書的知識」を誤解してたもんだから、学生クソは大喜びで逃げたわけだが、
「其れが自分の知識になれば既に「辞書的知識」と呼ぶ事は出来ません」といふのは
十分に反論になってゐる。
「チカズク(近づく)のズクは「つく」なんだ」といふ「知識」が「自分の知識」に
なってゐる人は、「近ずく」と書くのには違和感があるはずだ。
「辞書的情報なしに書ける」方式といふのは、この違和感を認めないことになる。
>諸事情から手の施しようがなくなっている,英仏語の綴字の方が特殊なのだ。
>それでも改良の試みは絶えずある。ウェブスターの米式綴りは成功した例だろう。
つまり、時枝や福田の言ふやうな歴史的仮名遣の表音的改訂も、もし実現してゐたら
「成功した例」と言へたのだらうな。
結局のところ、フリコキ学生くんは、
新かなは普及・定着してるんだから、文句を言ふな、欠点もあるが臭いものには蓋をしろ、
と言って既成事実を押しつけてるだけだな。
旧かな支持者だって、既成事実であることはわかってそれでも批判してるんだが、
君は知らない「フリコキ」をするんだねえ。
「フリコキ学生くん」だか「表音主義学生クン」だか知らんが、
>>425で、
> >「旧かなが致命的なまでに「実用性を阻害」するといふ証明」がされてないんだから
>実用上の利点が何ら見出されていないんだから,証明済み。「致命的」かどうか
>なんて主観的なことを論ずる必要は全くなし。
旧かながひどくむづかしくはないとわかったもんだから、こんな逃げ方をしたわけだね。
前の方の書き込みでは字音仮名遣もいっしょくたにして、おぼえるのは無理だと主張してたもんな。
詳しく知らずに旧かなを非難してたわけだ。
>>457 「合理精神」について、
>合理精神あればこそ、大正十三年案には反論が出て取り止めになったのだ。
と書く人がゐることからもわかるが、君と旧かな派とでは考へ方が違ふわけだよ。
これを知らない「フリコキ」をするのはやめようね。
>旧仮名派のなかには,天然自然の理に従えば,like a river flows surely to the sea,
>歴史的仮名遣いが発生すると思い込んでいる輩があまりに多い。
ホントかね? 君が論争相手を論理的に説得できなかっただけのことなのに、
「あいつは狂信者だ」と思ひこんでるんぢゃないのか。
ところで、わざわざ「天然自然の理に従えば,like a river flows surely to the sea,」といふ
もったいぶった表現を君はしてるが、馬鹿ぢゃねえのと思ふよ。
君は馬鹿なのかい?
>>460 バッカバカし。
> 「チカズク(近づく)のズクは「つく」なんだ」といふ「知識」が「自分の知識」に
> なってゐる人は、「近ずく」と書くのには違和感があるはずだ。
ローマ字で書くときも,/cikazuku/ の /-zuku/ は "t(s)uku" なんだという知識が自分の知識になってるから,"ch/tikazuku" と書くのには違和感があって,"ch/tikad(z)uku" と書きたいかね w
> 「辞書的情報なしに書ける」方式といふのは、この違和感を認めないことになる。
現代語の表記法では「ぢ」 「づ」という文字は使わないと定めておけば,そんな違和感は雲散霧消する。
「し」 「す」が連濁すれば「じ」 「ず」,「ち」 「つ」が連濁しても「じ」 「ず」と,はじめから決めておけばよい。
> 時枝や福田の言ふやうな歴史的仮名遣の表音的改訂も、もし実現してゐたら
> 「成功した例」と言へたのだらうな。
それこそ下司の後知恵。大正13年より前に,遅くとも昭和21年より前に,その改定案が示されていなければ意味ないだろうが。
> 旧かな支持者だって、既成事実であることはわかってそれでも批判してるんだが
旧仮名の方がずっと欠点が多いから,旧仮名派は変態としか見られないんだよ。
>>461 > 旧かながひどくむづかしくはないとわかったもんだから
ちょっとでも「むづかし」いものは,それを上回る利点が見出されないかぎり,ムダ。
>>407 で既出。ループさせるなバカ。
> ホントかね? 君が論争相手を論理的に説得できなかっただけのことなのに
ではどうして
>>351 の後半に答えない?
464 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/04/29 18:00
「いなずま」は?
465 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/04/29 18:10
"like a river flows surely to the sea"は、歌からの朴吏。
>>464 > 「いなずま」は?
こういう迷いが生じるから,「づ」なんて字は本当は残しておかないほうがいい。
>>427 > もしかして馬鹿なのかい? > もしかして馬鹿なのかWWW
>>461 > 君は馬鹿なのかい?
もしかしなくてもお前が大馬鹿。
>>459 だって金田一京助は音素論すら理解できてないぜ?(少なくとも説明できてない)
福田のアレはその邊わかってて金田一や松坂忠則の混同を衝いてゐるよ。
>>467 京助は,拍を単位として振る舞う日本語の音素の特質がわかっていない。
だから福田に混ぜ返されるんだが,真に理解していれば,歴史的仮名遣いが「合理的」だという結論には,絶対に至らないだろう。
>>461 > 前の方の書き込みでは字音仮名遣もいっしょくたにして、おぼえるのは無理だと主張してたもんな。
字音仮名遣いの問題は,
>>350 で決着。
>>467 具体的に言うと,金田一京助は,
@「表音」とは,「音声」を表すことではなく,「音韻」を表すことである。
A表音原則の「例外」は,慣習に従ったものであり,音韻によって(むろん音声によっても)説明されない。
の 2 点を,はじめて明確にした。これらは観念としては全く正しい。
「現代仮名遣い」の「前書き」に,「1 この仮名遣いは,語を現代語の音韻に従って書き表すことを原則とし,一方,表記の慣習を尊重して一定の特例を設けるものである」とあるのは,京助の考えを受けている。
しかし残念なことに,京助は日本語が専門外で,日本語の音韻の特質をよく理解しておらず,そのため,福田恒存の批判に対して,十分な反論ができなかった。
福田の批判は要するに,
@表記法を変えようとする以上,新しい表記法は,完全無欠なものでなければならない(体系としての利便性を比較する必要はない)。
A表音原則の例外は,音声によっても音韻によっても説明されないのだから,音声と音韻を区別することにあまり意味はない。
というものだ。めちゃくちゃな言い掛かりである。
470 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/06 05:58
円周率は 3.14 でなくても 3 で十分だよ。その方が計算が簡単で実用的だ。
円周率は無理数だから 3.14 にせよ 3 にせよ所詮近似値だし、
中等教育以上では記号としてπを使用するから、やはり 3.14 は要らない。
結局 3.14 に執着するのは正しさを追求するフリコキにすぎない。
「むつかしい」計算ができることを自慢し、計算力の足りないひとを
嘲笑したい連中が 3.14 に固執するんだよ。
とにかく円周率は 3 で良いよ。
現代かな遣主義者はこんな主張もします、きっと。
1 辺の長さが 3.5cm の正方形の煎餅と,
直径が 4cm の円形の煎餅とがあるとき,
π=3 だと思っている子供は,四角いほうを選ぶが,
π=3.14... を知っている子供は,円いほうを選ぶ。
π=3.14... には実用的価値がある。
歴史的仮名遣いを知っていても,煎餅を多くは食えない。
円周率の問題を単なる計算練習だと思い込んでるから,
>>470 のような下らないことを言い出す。
旧仮名派の発想は本当につまらない。
>>469 >福田の批判は要するに,
惡意ある歪曲を要約とは言ひません。特に1。
2は、言語学では音聲と音韻の區別は必要でも、表記法では區別に意味は無いことが多い。
表記法の論と研究を混同するなと言ひ出したのは、君ではありませんか。(
>>450)
意味があるとするには、表記は必ず音韻に基づくべしとの證明をしなければならぬ。
さうなると服部四郎の新日本式ローマ字の愚を繰り返すことにならう。
>>472 > 惡意ある歪曲を要約とは言ひません。特に1。
それだけのことなら、原則を右から左へ変へて、いたづらに混乱を惹き起す必要がど
こにありませうか。原則はもとのままで、徐々に改革してゆけばよかつたはずです。
(『私の国語教室』文春文庫94頁)
その種の改革案が,大正13年までに,遅くとも昭和21年までに,提示されたことは一度もない。
アラ捜ししかできない立場で偉そうな口を叩くんじゃないよ。
> 意味があるとするには、表記は必ず音韻に基づくべしとの證明をしなければならぬ。
「證明」もなにも,音声なんてものは音声学者にしか聞こえない。表音式表記は音韻に基づくほかない。
> さうなると服部四郎の新日本式ローマ字の愚を繰り返すことにならう。
どの辺が「愚」なのかな。
>>462 ものすごくバッカバカし。
>ローマ字で書くときも,
いつからローマ字の話になったんだ。話をそらすなよ大馬鹿WWW。
>現代語の表記法では「ぢ」 「づ」という文字は使わないと定めておけば,そんな違和感は
>雲散霧消する。
つまり、「つく→づく」といふ体系意識を殺せ、と。
誰がそんなことを望むんだ。間抜けな学問オタクだけだろ。
>それこそ下司の後知恵。大正13年より前に,遅くとも昭和21年より前に,その改定案が
>示されていなければ意味ないだろうが。
あれれ。旧かな・新かなの、現代人とっての優劣を論じてゐたんぢゃなかったのか。
可能性は論じちゃダメだ、と。
そのくせ、自分に都合のいいときだけは「俺は権威厨ではないから制定の経緯は気にならない」
なんて歴史上の事実を無視して、「下司の後知恵」による新かな弁護をやるんだからなあ。
あきれるよ、まったく。
>旧仮名の方がずっと欠点が多いから,旧仮名派は変態としか見られないんだよ。
そんなことは全然証明されてないんだがな。証明ずみの「フリコキ」はよせよ。
>>463 > > 旧かながひどくむづかしくはないとわかったもんだから
>ちょっとでも「むづかし」いものは,それを上回る利点が見出されないかぎり,ムダ。
>
>>407 で既出。ループさせるなバカ。
既出だからって決着ずみの「フリコキ」はよせ大馬鹿W。
ともかく、「ひどくむづかしくはない」ことは認めるんだな、やはり。
>ではどうして
>>351 の後半に答えない?
↓これのことか?
>> (それを知ってゐる)後の旧かな派も、関心は「安定した表記」の方にあるんだらう。
>どうやって「安定」させるんだい? 放っておいたら自然に歴史的仮名遣いが発生して来て,
>そこへ落ち着くとでも?
351がどんなつもりで「安定した表記」と書いたか、本当のところはわからんが、
過去の文献で、(ある言葉の)表記がいくつかあった中で、どうやら「正しい表記」
らしきものがある、それを指して「安定した」と言ったのぢゃないかな。
そ・れ・で? 351の一人を見ただけで、こんな風に↓、言へるのかねえ。
>旧仮名派のなかには,天然自然の理に従えば,like a river flows surely to the sea,
>歴史的仮名遣いが発生すると思い込んでいる輩があまりに多い。
「あまりに多い」だってよ、ふーん。
>>469 > > 前の方の書き込みでは字音仮名遣もいっしょくたにして、おぼえるのは無理だと主張してたもんな。
>字音仮名遣いの問題は,
>>350 で決着。
どこが「決着」なのやら、まったくわからんが。
ともかく、「前の方の書き込みでは字音仮名遣もいっしょくたにして」論じるほど
無知だったのは認めるわけだ。
「フリコキ學生くん」、なんだかやたらと勝ち誇つてゐるが、
逃げる前に勝つた「フリコキ」をしようといふのか、
それともホントに自分が勝つたと思ひこんでるイタい奴なのか……。
「フリコキくん」の主張をまとめると、
1.新假名が既成事實である。
2.漢字を使ふ限りは、假名の表意性はそれほど問題にならない。
3.辭書的情報なしに書けるといふ「一つの」理想に適ふ。
4.舊假名はおぼえにくい。
といふことだが、
もしも既成事實であることを主張するためにここまで議論して來たのなら、ものすごい
大バカだな。
新假名が既成事實「である」ことは誰もがわかつてゐる。
舊假名派は、既成事實「ではあるが」云々と言つてゐるんだよ。
2は「新假名でも死なねえよ」と言つてゐるだけで、それだけでは積極的に新假名支持の
根據にはならない。1の補強になるだけだ。
それに、「それほど問題にならない」といふことは、假名の表意性にも「いくらかは」
意味があると認めてゐるわけだ。
3は飽くまでも「一つの」理想でしかない。
>>460で既出だな。
この點で意見が對立してゐるのだから、嘲笑だけして勝つた「フリコキ」をするのはやめような。
4についても、ひどく憶えにくいことは證明できなかつたな。
「致命的かどうかなんて主觀的なことを論ずる必要は全くなし」(
>>425)
と逃げたが、要するに證明できなかつたわけだ。
>>474 > いつからローマ字の話になったんだ。話をそらすなよ大馬鹿WWW。
> つまり、「つく→づく」といふ体系意識を殺せ、と。
> 誰がそんなことを望むんだ。間抜けな学問オタクだけだろ。
歴史的仮名遣いの中にしかない「体系意識」。重んじる必要なし。
> 可能性は論じちゃダメだ、と。
> そのくせ、自分に都合のいいときだけは「俺は権威厨ではないから制定の経緯は気にならない」
「現代かなづかい」より前に,旧仮名派が漸進的改革を試みた形跡はない。ゼロの可能性については論じようがない。発端のないものに経緯はない。
> そんなことは全然証明されてないんだがな。証明ずみの「フリコキ」はよせよ。
旧仮名派が反論できないことによって,証明済み。
>>475 > ともかく、「ひどくむづかしくはない」ことは認めるんだな、やはり。
認めない。明治のうちから改革案が出ていたことがその証し。
もっとも,突き詰めていえば,ひどいかひどくないかは,どうでもいいんだが。
> 351がどんなつもりで「安定した表記」と書いたか、本当のところはわからんが、
> 過去の文献で、(ある言葉の)表記がいくつかあった中で、どうやら「正しい表記」
> らしきものがある、それを指して「安定した」と言ったのぢゃないかな。
どの表記を,どうやって,「正しい」と定めるんだ?
> そ・れ・で? 351の一人を見ただけで、こんな風に↓、言へるのかねえ。
上の答がない以上,少なくともお前は同類だな。
> どこが「決着」なのやら、まったくわからんが。
> ともかく、「前の方の書き込みでは字音仮名遣もいっしょくたにして」論じるほど
> 無知だったのは認めるわけだ。
字音仮名遣いを初等教育でどう扱うべきかについて,旧仮名派に何らの考えもないことは,
>>350 への反論がなかったことによって,決着済み。
>>476 > もしも既成事實であることを主張するためにここまで議論して來たのなら、ものすごい
> 大バカだな。
旧仮名派の愚かな邪推。
> 2は「新假名でも死なねえよ」と言つてゐるだけで、それだけでは積極的に新假名支持の
> 根據にはならない。
最も積極的な根拠。死ななければそれ以上何も要らない。
> それに、「それほど問題にならない」といふことは、假名の表意性にも「いくらかは」
> 意味があると認めてゐるわけだ。
だから,意味のあるところは現代仮名遣いでも残してある。
> 3は飽くまでも「一つの」理想でしかない。
旧仮名派は他の理想を何も示せない。
> 4についても、ひどく憶えにくいことは證明できなかつたな。
「ひどく憶えにくいことが証明されないかぎり,変えなくてもよい」という考え方には,根拠がない。
479 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/13 02:18
テスト「毛泽东」
余の肉體は鋼鐵 すなはち砲彈の威力!
いいだらう 余の膝元に屈する權利を與へる
481 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/15 00:17
餘
余だよ
484 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/16 01:32
以下の漢字を使ひ分けられて、初めて正字使ひと言へる。
{予|豫}{仮|假}{体|體}{余|餘}{党|黨}
{医|醫}{台|臺}{号|號}{囲|圍}{声|聲}
{岳|嶽}{庁|廳}{弁|瓣|辨|辯}{払|拂}{担|擔}
{旧|舊}{欠|缺}{浜|濱}{糸|絲}{胆|膽}
{芸|藝}{虫|蟲}{蚕|蠶}{触|觸}{証|證}
{豊|豐}{鉄|鐵}
ふーん
話せるもんなら話してみろよ。
487 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/20 00:26
多くの文學者が尻馬に乘つて文學者たる事を止めてエンヂニアになりました
あわたゞしく又憐れな敗戰國風景であります
やがて落ち着く時も來ませう
歴史には歴史の攝理といふものがある
↑波江は來ないでもらひたい。
↑旧仮名派を代表する一人じゃないのか w
487は小林秀雄
491 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/22 00:10
>>487 えんちにあテ良イテハ無イカ
コレカラハ科學技術立國ノ時代タヨ
科學技術ヲ蔑ロニシ文筆ノ空理空論ニ依ツタコトカ
憐レナ敗戰國ヲ導イタノテハ無イノカネ
ト敢ヘテ意味ヲ理解セスましれす
この thread には辞書的知識無しに読み書きできることをして実用的だとする
書込みがありますが、それならば、漢字仮名交じり文は実用的とは言得ません。
漢字の当に適した使用には辞書的知識を必要とするからです、「表語的真名遣」を
放棄して「仮借的真名遣」を全面的に採用するなら別ですが。
わが国語では漢字は音訓を併用しますし、字音でも語によって呉音漢音唐音を
読別けますから、辞書的知識無しに表記を見ただけで一意的に読みを決めることは
できません。所謂百姓読みもあります。音符(の様に見える部分)があっても
それに頼得ません。難読字は字音語であっても仮名で書かれることは多いのです。
書く側においても同音あるいは同訓異義字は五万とあって、適当な書別けには
やはり辞書的知識が必要です。異義字を書別けないのなら漢字は要りません。
仮名は表音文字だから表音的に、漢字は表語文字だから表語的に使用せよとの
ことかも知れませんが、それは一種の節操だとしても理屈にしたがって居るだけで
「辞書的知識不要=実用的」とは何の関係もないことです。国語や漢字に無関心な
庶民にすればそんなものは単なる二重基準にすぎません。漢字制限は辞書的知識を
表記法から排除するための過渡的措置でなければ、する道理がありません。
辞書的知識を要することは実用性に反するのか反しないのか。反するのなら
漢字仮名交じり文は非実用的だし、反しないのなら「歴史的仮名遣」は実用性を
十分保持して居ます。
ところで、わたしは表音的仮名遣を便法としては許容します。ただし、あくまで
「便法」として「許容」するのであり、正則とはみなさない。「歴史的仮名遣」で
音便など上古の音韻から外れた表記をするのも同様です。「それを音便と稱し、
あくまで便法として位置づけ(福田恒存)」るのです。
汎ゆる条件で誰にでも均しく実用的な道具など空想上のものです。所謂万能包丁は
本職の料理人が常用できるほど「万能」ではありません。また、基準となるものには
正確さが必要です。 cesium 原子時計は実用的ではありませんが、精度が高いので
基準になります。音声音韻は時代や地域によって異なりますから、不安定で基準とは
為しがたい。故に仮名遣の正則はできるだけ語源学的国語学的に精密に定め、必要に
応じて正則から外れた表記を便法として許容すれば良いのです。
上代にない語は古い語の表記から類推して統一的表記を試み、正則とすべきです。
勿論ですが、科学的な正しさとは未詳な部分を常に残して居る暫定的なものです。
正則は新発見により漸次改定されるべきです。上代特殊仮名遣の甲乙やア行の「え」
ヤ行の「エ」の書別けは正則とすべきです、漢字仮名交じり文での書別けのために
変体仮名などから標準的な仮名として適当なものを見出す必要がありますし、上古の
語彙が全て文献に残って居るものでもありますまいが。
「私の国語教室」でも紹介されて居る石井勲は、漢字は子供にとってむしろ
憶えやすいものと主張し、漢字教育を実践してきました。漢字教育では関連した字を
なるべく一度に指導することが良いとのことですが、それは理に適って居ます。
一箇の脳神経細胞は一つの対象にしか反応せず、他の脳神経細胞と結合することで
記憶の全体を構成して居ます。脳神経細胞は internet の様な弱結合の network を
構成して居り、多数の神経細胞と結合する神経細胞の記憶は呼びだしやすい。
つまり、他の事柄と関連づけて憶えることは神経結合を増し、憶えやすく忘れにくい
記憶をつくります。複雑であることは必ずしも憶えづらいことを意味しません。
語彙を増やすにも他の語や事柄と関連づければ、それらが記憶の助けになります。
表語的な仮名遣は他の語との関係がわかりやすい。当然、「あたらし」ではなく、
「あらたし」と綴ることが望ましい。表音的な仮名遣は記憶の手掛かりにはならず、
教育的な価値は乏しいものとわたしは思って居ます。ただ、昔の人が日常的には
略字俗字も使用して居たのと同じ程度に表語的な仮名遣も有用だとも思って居ます。
字音仮名遣についてはわたしは字音語は漢字で書くべきだと思って居ますから
特に気にしませんが、字音の歴史的仮名遣は外国の漢字音との関係がわかりやすく、
支那語高麗語越南語を学習研究したい人に良いとの話題は以前の thread にも
でてきたことです。
(
http://academy2.2ch.net/gengo/kako/993/993720735.html の 420,480 前後)
>>471 わたしが書いたことを理解していらっしゃらぬ様にみうけます。わたしは綴りを
憶えなくてもすむ、もしくは憶えるのが容易な仮名遣を実用的だとする人ならば、
円周率についても計算が容易な方を実用的だとみるはずだと思ったまでです。
わたし自身は初等教育で円周率の近似値を 3.14 とするのは 3 とするよりも
妥当だと思って居ますが、計算練習が目的ではありません、円周率に執着せずとも
ほかの数値で計算練習はできますから。それよりも、あなたは円を特定の図形と
比較なさりましたが、それが本当に実用的だと思っていらっしゃりますか。
縦 4cm 横 3.14cm の煎餅と直径 4cm の煎餅のどちらが大きいかは円周率を 3 と
しても 3.14 としても正しく判断できないのですよ。
一般の実用では目的に応じて円周率の精度を選ぶものです。必要な精度はあなたが
かってに想定して良いものではないのですよ。円周率を 3 としても、半径 1 の円の
面積は 2 より大きく 4 より小さいと判断する程度の実用性はありますし、精度を
要求するのならば、 3.14 よりもっと桁が多い方が有利です。
円周率は割りきれずに 3.1415926535897... と続く数であると理解させることが
初等教育での要点であり、実用と違って精度はさほど重要ではありません。
それなら、計算しやすい 3 を採用しても良いのではありませんか。
いくら 3 より 3.14 の方が円周率に近くとも、近いものは別のもの。
>>470 でも
「円周率は無理数だから 3.14 にせよ 3 にせよ所詮近似値だ」と書きましたが、
所詮 3.14 は似而非円周率、円周率のフリコキです。「歴史的仮名遣」は表語的の
フリコキだとの指摘は表音式あるいは現代仮名遣派のものではないのですか。
>>139 >>202 「です」は旺文社古語辞典新版には「にてさうらふ」の系統と「でござります」の
系統があり、後者は「でござります」→「でござりんす」→「でござんす」→
「でがんす」→「であんす」→「でえす」→「です」と変化したもので、前者より
新しいとあります。また、助動詞「ます」には四段活用のものと下二段活用から
サ行変格活用に転じたものの二種があるとのこと。「でござりませむ」→(略)→
「でせう」が「無茶苦茶」とは酷にすぎるおっしゃり様ではござりませんか。
「どう(如何)」については山田忠雄が編集主幹を務めた新明解国語辞典第二版の
あとがきでしかその所説を存じませんが、「かう」は「かく(斯く)」由来、
「さう」は「さ(然)」由来で、「どう」を「だう」とするとき、その由来は如何。
また、新明解第二版で不採用の「だう」は第五版をたしかめてもやはり不採用です。
しかも、第五版ではあとがきからも削除されて居ます、他の語の仮名遣説については
第五版のあとがきでも第二版とほぼ同様の解説があるのに。
連続長文の書込み、御容赦下さりませ >ALL
>>492 > 辞書的知識を要することは実用性に反するのか反しないのか。
基本的に反する。
> 反するのなら漢字仮名交じり文は非実用的だし
非実用的な側面を持っている。しかし,漢字を廃止すると,おびただしい数の同音異義語を書き分けることができなくなり,辞書的知識を要しなくなったメリットを超えるデメリットを被る。
漢字は必要悪であって,捨てられない。
すべては損得勘定,バランスの上に成り立っている。
>>493 > 汎ゆる条件で誰にでも均しく実用的な道具など空想上のものです。所謂万能包丁
> は本職の料理人が常用できるほど「万能」ではありません。
ではなぜ万能包丁が売れるのか。一般家庭ではそれで十分だからだろう。現代仮名遣いはそれに相当する。
> 音声音韻は時代や地域によって異なりますから、不安定で基準とは為しがたい。
現代共通日本語の音韻を基準とすると定めてある。現代仮名遣いで,方言や昔の日本語がうまく書けないのは当たり前。はじめからそんなことを目指していない。
>>494 漢字に泣かされている人,イヤな思いをさせられている人の方が,一般にははるかに多い。漢字はあくまで必要悪。
>>495 > わたしが書いたことを理解していらっしゃらぬ様にみうけます。わたしは綴りを
> 憶えなくてもすむ、もしくは憶えるのが容易な仮名遣を実用的だとする人ならば、
> 円周率についても計算が容易な方を実用的だとみるはずだと思ったまでです。
そんな思い込みは理解できるはずがない。
> 一般の実用では目的に応じて円周率の精度を選ぶものです。
だから,目的に応じて精度を選べば,実用的になるわけだろ。
歴史的仮名遣いを憶えて得することは何もないじゃないの w
>>496 > 「でござりませむ」
こんな言い方が存在したことはない。
> 「どう」を「だう」とするとき、その由来は如何。
『日葡辞書』の「補遺」に "Do<" とある (o<: 開音)。仮名で書けば「だう」。
外国資料だからだうのかうのと言うのはアフォ。インフォーマントは教養ある日本人だった。
>>495 > 所詮 3.14 は似而非円周率、円周率のフリコキです。「歴史的仮名遣」は表語的の
> フリコキだとの指摘は表音式あるいは現代仮名遣派のものではないのですか。
円周率という客観的な事実と,歴史的仮名遣いで現代語を書こうとすることとの間に,いったい何の関係があるのか。
>>493 > 上代にない語は古い語の表記から類推して統一的表記を試み、正則とすべきです。
それなら「だう」が「正則」だろう。
このスレッドでバトってる人って学者?
学者なんているわけねーだろw
r1ヽ
l j:::::l
j ヱ::::l
jl´∀`ll! ゑゑ
rlF 〒 リヽ
/ |_j_| ヽ
ヽ/| l |ヽ/
_(、|_l_|、,)_
存 一 情 相 何
分 寸 け 變 だ
に は な は 君
樂 舊 い ら た
し 漢 な ず ち
み 字 。 下 は
た 舊 ら ?
ま 假 ん
へ 名 屁
。 遣 理
ひ 屈
と 許
縱 り
書 續
き け
を て
>>470さま
旧かなをしてセシウム原子時計ですか。まずは美しい詭弁を、褒めてあげましょう。
しかしそのような詭弁に、出番はありません
長さや時間の単位と異なり、言葉や表記は意味さえ理解可能ならば、用法まで厳密に定めなくても大して困らないものです。
それどころか、現代人が生きている時代の要求にこたえ、生物が環境に適応し進化するように
言葉も柔軟かつ迅速に進化していかなければなりません。
ですから、過去のある時点での用法を基準とし、進化を阻害する事は日本語にとって害悪でしかないのです。
それから470さまは平安時代などとけちくさいことを言わずに、ぜひ縄文前期や旧石器時代の言葉を解明して日本語の基準を考えてはどうでしょうか?
506 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/10 12:15
それはココに、現代仮名の勝利を宣言してこのスレッドを終わりたいと
思います。ばんじゃーい。ばんじゃーい。ばんじゃーい。
>>498 >> 「どう」を「だう」とするとき、その由来は如何。
>『日葡辞書』の「補遺」に "Do<" とある (o<: 開音)。仮名で書けば「だう」。
假名で書いた資料は無いだらうに。
假名遣において、發音と表記とは別なんだし。
508 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/10 18:19
>>493 >上代特殊仮名遣の甲乙やア行の「え」
>ヤ行の「エ」の書別けは正則とすべきです
すげえな。
いつかは、これを言い出す奴が出るだろうと思ってたがね。
一つ聞きたいんだが、その仮名遣いでは、上二段が現代語で四段化してる場合の
連用形(例:「滅び」のビ)は、甲類で書くの?乙類で書くの?
>>507 > 假名で書いた資料は無いだらうに。
> 假名遣において、發音と表記とは別なんだし。
「仮名遣」とは過去の発音の反映なんだから,別なわけがない。
・わらうたもよひが,くすんだもよいよ。たうとりまはせどもにくいとはおもはぬ (宗安小歌)
・又さきではだうなりともせうぞ (虎清狂言本・文荷)
・あゝかなしやなふ,だうぞあつかうてたもれ (虎清狂言本・禁野)
だうよ?
>>508 > いつかは、これを言い出す奴が出るだろうと思ってたがね。
だれかが言ってた、「天平宝字仮名遣」ってやつだな。
>>509 その文獻には一定の「假名遣」がありますか? 「よひ」「よい」すら混在してゐるが。
また、それらが「過去の発音の反映」だといふ保證は?
それに、やはり假名遣と發音とは別。
一例、「してしまふ」の略形を「ちまう」と發音しても假名遣「ちまふ」であるやうに。
>>510 かめい たかし が既に「超いろはかなづかい」と言ってる。
>>511 > その文獻には一定の「假名遣」がありますか?
もちろんないよ。「仮名遣」のある文献なんて,定家自筆本と国学者の書いたものだけだったんだから。
> また、それらが「過去の発音の反映」だといふ保證は?
>>498 後半。
> それに、やはり假名遣と發音とは別。
> 一例、「してしまふ」の略形を「ちまう」と發音しても假名遣「ちまふ」であるやうに。
そんなのは旧仮名派の独善。無意味。
>>512 > かめい たかし が既に「超いろはかなづかい」と言ってる。
それって上代音の甲乙まで書き分けるものなの?
>>513 >
>>498 後半。
『日葡辭書』には合音の例も見えるのに開音だけ示すのは不公正。
>そんなのは旧仮名派の独善。無意味。
それこそ無意味な決めつけ、遁辭でしかない。
「假名遣」とはさういふものなのだから、それをいまさら無意味と言うても始まらぬ。
勝手に獨自の假名遣定義をされても困る。
>>514 > 『日葡辭書』には合音の例も見えるのに
イエズス会資料では,「だう」は開音でほぼ安定しているから,"Do>" (o>: 合音) は誤植の蓋然性が大。
> 「假名遣」とはさういふものなのだから
だういうものなんだ w 旧仮名派が明確な根拠もなく決めつけてるだけだろ。
>>515 いはゆる歴史的假名遣は現代語を記すためにも使用されてゐたし、されてゐる。
その意味では、事實上「旧仮名」以外に「假名遣」なんて無い。
定家假名遣は和歌の世界に限定されるし、表音的假名遣は假名遣に非ず(橋本進吉)だし。
>>515 南蛮人が〔ダウ〕と聞き取ったのだとしても、それは音聲(Phone)の参考資料にしかならず、
emic(音素論的)に、日本語ネイティヴにとって音韻/だう/であったか/どう/であったかは決定できない。
>>509=
>>513 問題は、キリシタン文獻ではなく、假名書き文獻の方だ。
「よい(良)」を「よひ」と書き、合音を開音で記すやうな
過剩訂正めいた混同が見られる文獻だとしたら、發音の裏づけにはなるまい。
>>513 >それって上代音の甲乙まで書き分けるものなの?
そもそも、かなづかひとは音を書き分けるものではない(上代特殊かなづかひは「特殊」)。
いろは四十八文字のphonotacticsのうちで書き分けるのが「かな」づかひ。
ヤ行エなど、いろはに無いかな文字をつかったら、それは「超いろはかなづかい」になる。
>>519 いろはは四十七文字だな。
「ん」は仮名遣の範囲に入れないし。
>>516 > いはゆる歴史的假名遣は現代語を記すためにも使用されてゐたし、されてゐる。
例えば,文献上の用例が近世以降しか見られないような語については,表記を決定する根拠が乏しい。既出。
> 表音的假名遣は假名遣に非ず(橋本進吉)だし。
仮名遣に必要性はもとよりない。
>>517 > 南蛮人が〔ダウ〕と聞き取ったのだとしても、それは音聲(Phone)の参考資料にしかならず、
> emic(音素論的)に、日本語ネイティヴにとって音韻/だう/であったか/どう/であったかは決定できない。
では,外国資料における開合表記は,音韻を示していないということか。
実際には,日本の知識人が述べたことを,ラテン文字に書き換えたり,ポルトガル語に訳したりしただけの場合が多かったと考えられる。日葡辞書は「イエズス会版節用集」といってもよい。
仮名表記でも「だう」はあるのだから (
>>509),「歴史的仮名遣」を「だう」としない理由がわからない。
>>518 > 「よい(良)」を「よひ」と書き、合音を開音で記すやうな
> 過剩訂正めいた混同が見られる文獻だとしたら、發音の裏づけにはなるまい。
宗安小歌や虎清狂言本の表記法には,「仮名遣」の規範意識が全く欠けているから,「訂正」のしようがない。「よい」と「よひ」のどちらが「正しい」かということは問題にならない。
また,開音と合音の使い分けは,これらの資料の時代には,音韻上の規範として存在したのであって,表記上の規範ではなかった。正しく発音する人は正しく表記する,それだけのこと。
>>519 > そもそも、かなづかひとは音を書き分けるものではない(上代特殊かなづかひは「特殊」)。
では書き分けの根拠は何か。旧仮名派にはその問題を理解する頭がない。
522 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/11 21:53
>>510 >だれかが言ってた、「天平宝字仮名遣」ってやつだな。
モまで書き分ける「和銅仮名遣」じゃないのか? w
万葉集からして既に「仮名違ひ」だから、楽しそうだな。
>>521 假名遣は語に隨ふといふ原理を理解できてないね。橋本進吉を讀んでないのかな。
524 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/12 02:47
>>521 >「仮名遣」の規範意識が全く欠けているから
むろん定まった「仮名遣」はまだそこに無い。
にも拘らず、「よい」をわざわざ「よひ」と書いたには、
やはりのちの仮名遣制定へとつながるごとき表記への意識があったはず。
まさか「ヨヒ」と発音したからその通りに表記したとでも?
「正しく発音する人は正しく表記する」なんてのは表記史の実態に即さない。
>>521 >文献上の用例が近世以降しか見られないような語については,表記を決定する根拠が乏しい。
それこそ用例と、語源によって決めてるだろ。『疑問假名遣』みたいな学問的考察もあるし。
>>523 > 假名遣は語に隨ふといふ原理を理解できてないね。橋本進吉を讀んでないのかな。
「語に随ふ」という「原理」には,実体がない。橋本進吉は否定済み。過去レス読め。
>>524 > 「よい」をわざわざ「よひ」と書いたには、
> やはりのちの仮名遣制定へとつながるごとき表記への意識があったはず。
ない。どっちでもよかった。もしも「わざわざ」書いたのだとすれば,それは見た目の問題だろう。
> まさか「ヨヒ」と発音したからその通りに表記したとでも?
> 「正しく発音する人は正しく表記する」なんてのは表記史の実態に即さない。
同一の語が「よい」とも「よひ」とも書かれているのだから,「い」と「ひ」の違いは発音の違いを表していない。
開合の乱れていない資料であれば,「だう」と書くか「どう」と書くかは,語によって決まっている。すなわち,発音の違いを表している。
>>526 >橋本進吉は否定済み。
全然説得力が無かった。却下。
>ない。どっちでもよかった。
根拠無しに断定されても、支持できないよ。
>開合の乱れていない資料であれば
で、その乱れてない資料なのかどうかを訊かれてたんでないの?
また同じ文献でも「よひ」は発音通りでなく「だう」は発音通りだって、その裏づけは?
>> 「正しく発音する人は正しく表記する」なんてのは表記史の実態に即さない。
>同一の語が「よい」とも「よひ」とも書かれているのだから,「い」と「ひ」の違いは発音の違いを表していない。
つまりそれって、「正しく発音する人は正しく表記する」と書いたのは誤りだと認めたことになるな。
>>525 > 『疑問假名遣』みたいな学問的考察もあるし。
むしろ,現代語を歴史的仮名遣で書くことの不可能性を明らかにした。
>>527 > 全然説得力が無かった。却下。
反論されていない。君の感想に用はない。
> 根拠無しに断定されても、支持できないよ。
書き分けの決まりが見出されない以上,「ない」と言うほかない。「あったはず」の方こそ根拠なし。
> その乱れてない資料なのかどうかを訊かれてたんでないの?
乱れていない。
> また同じ文献でも「よひ」は発音通りでなく「だう」は発音通りだって、その裏づけは?
前者には「よい」との語による書き分けがなく,後者には「どう」との語による書き分けがある。
>>528 > つまりそれって、「正しく発音する人は正しく表記する」と書いたのは誤りだと認めたことになるな。
ならない。「よい」も「よひ」も「正しかった」のだ。
他方,例えば「同道」は,「どうだう」だけが発音どおりで正しく,「*どうどう」 「*だうだう」 「*だうどう」はすべて間違いだった。
>>529 根拠を示さずに断定だけしても駄目だって。説明のできない人なのかな……。
>>530 は? 「よひ」が「発音どおりで正し」かったとでも? そんなアホな。
>>529 >反論されていない。
橋本進吉説については過去レスに紹介と批判と再批判とがあり、
見たところ、決着はついてない。
自己の主張に偏して一方を無視する人は、理性的な討論に参加する資格が無い。
>>531 > 根拠を示さずに
書き分けの決まりがないという事実は明確な根拠。
> 「よひ」が「発音どおりで正し」かったとでも?
/joi/ としか読めず (/*joHi/ という語はない),「よい」との書き分けがないのだから,「よひ」を間違いとする理由はない。
>>532 > 見たところ、決着はついてない。
>>408 への反論がなかったことによって,決着済み。Qui tacet consentire videtur.(沈黙する者は,同意していると見られる)
>>533 「よひ」が「醉ひ」である可能性も(低いけど)あるぞ。
どうも君は論理の詰めが甘くて、いかんね。
>
>>408 への反論がなかったことによって
おや?
>>415-416にあるけど。
それに
>>408は断言を繰り返すだけの堂々めぐりで、議論になってないし。
大体、2ちゃんねるみたいな掲示板で、
いちいち反論につきあってくれると思ってるのが甘え。
皆が君や私みたいな閑人ではなし、スレッドにはりつきっぱなしではなし、さ。
>>533 「よひ」を「正しい」とするのと、
そもそも基準が無かったから正しいも誤りもないってのは、全然別の話だ。
後者が実態なら、前者の断定はゆきすぎだ。
また、表記が正しかったかどうかや表記に正しさがあったかどうかと、
>>521みたいに表記の正しさを発音の正しさから導くのが間違ってないかどうかとも
別問題だよ。
論理的に分けて思考できないのかな。
>書き分けの決まりがないという事実は明確な根拠。
明確な決まりはなくても、書き分けの傾向は、ある。
語中語尾の「あいうえお」は「はひふへほ」で書かれやすい、とかね。
これは「よひ(良)」に見るごとく、その語の発音ってよりも、表記の問題だ。
>>534 > 「よひ」が「醉ひ」である可能性も(低いけど)あるぞ。
意味不明。それも「よい」と書かれる可能性は (低いけど) ある。
>
>>415-416にあるけど。
その箇所への反論を言っているのではない。そこは橋本と関係ない。
>
>>408は断言を繰り返すだけの堂々めぐりで、議論になってないし。
矛盾点があると思うなら君が反論せよ。
> いちいち反論につきあってくれると思ってるのが甘え。
黙った方の負け。アッタリマエ。
>>535 > 「よひ」を「正しい」とするのと、
> そもそも基準が無かったから正しいも誤りもないってのは、全然別の話だ。
> 後者が実態なら、前者の断定はゆきすぎだ。
正しいも誤りもない。だから排除することはできない。したがってカッコ付きで「正しい」。
> 論理的に分けて思考できないのかな。
開合が乱れる前なら,「どうだう」 (同道) はカッコなしで正しい。「*どうどう」 「*だうだう」 「*だうどう」はカッコなしで誤り。
論理的に分けて思考できてないのはそっちだろ。
>>536 > 明確な決まりはなくても、書き分けの傾向は、ある。
「傾向」は規範ではない。
> これは「よひ(良)」に見るごとく、その語の発音ってよりも、表記の問題だ。
16世紀の資料において,開合はまだ表記の問題ではない。発音の問題だ。
あらむつかしの仮名遣ひやな。字儀 (ママ) に害あらずんば、アヽまゝよ (与謝蕪村)
>>537 >黙った方の負け。アッタリマエ。
それだと常時ネットに接続してはりついてる奴しか勝てなくなるな。
ウェブでの論争の終結は、一方が黙ったってよりも、
話しても無駄なので相手にされなくなったと見るべき時も多い。
>>538 >したがってカッコ付きで「正しい」。
最初、括弧つけてなかった癖に。
だいたい、「正しいも誤りもない」から「正しい」ってことなら、
同様にして「誤り」とも称せるわな。
>「傾向」は規範ではない。
誰も規範だなんて言ってないのに。
のちに規範へと至る傾向が見られる――て、とこだろ。
他人の意見を自分に都合のよい風に誤解するばかりの人なのかな。
541 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/12 08:02
議論と相手を言い負かす事との区別が着かない子供達は放っておこう。
「仮名遣は語に従う」という命題を主張するのであれば、「語の仮名遣を
決する根拠(ソース)」を論ぜざるを得ない。そのソースが「過去の音韻」
ではないというなら、是非、その論の詳細を知りたいと思う。
>>538 >16世紀の資料において,開合はまだ表記の問題ではない。
オ段長音の開音と合音との区別は、室町末期には乱れ出したはず。地域差もある。
>>541 「語に隨ふ」原理は音韻を排除してない。音韻だけでは決まらないとしても。
現に、語(形態素)の語としての分節を決するのは音韻だけではないよな。
>議論と相手を言い負かす事との区別が着かない子供達
これは「黙った方の負け」とか言ってる
>>537のことかな。
546 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/12 21:02
>>543 >「語に隨ふ」原理は音韻を排除してない。音韻だけでは決まらないとしても。
「語」の語形が、過去の音韻以外の何で決まるというのだ ?
少なくとも「旧かな」は、平安初期以前の音韻だけに基づいて決めているのでは?
活用や派生関係の規則性(いわゆる形態音韻論)に基づく推定は、結局、その規則
性が音韻に基づいて記述されるものなのので、それも含めて。
過去の「表記」で決まるわけがない。(上代に仮名はない)
「語に随ふ」原理というのが、音韻以外に何を典拠にするものなのか、知りたい。
最初の表記は音韻に基づいたものだったとしても、
その表記が長く使用されるうちに、音韻から離れた表記そのものの自律性をもつ。
それをもいちいち遡って過去の音韻に還元するのは、あまりにphonocentrismではあるまいか。
>>540 > それだと常時ネットに接続してはりついてる奴しか勝てなくなるな。
相手が反論できないような証拠を示せば終わり。期限は特にない。
> 最初、括弧つけてなかった癖に。
つけてある。
>>530。
> 同様にして「誤り」とも称せるわな。
排除されないのだから,称し得ない。
> 誰も規範だなんて言ってないのに。
それなら「仮名遣」は存在しない。
>>542 > オ段長音の開音と合音との区別は、室町末期には乱れ出したはず。地域差もある。
乱れてしまった人は書き分けができない。「だう」とも「どう」とも書くだろう。
宗安や,科白を言うときの大蔵虎清は,そういう人ではなかった。
>>549 >期限は特にない。
期限がない筈なのに、「反論がなかったことによって」と勝手に締め切つたのは
>>533。
>> 最初、括弧つけてなかった癖に。
>つけてある。
>>530。
つけてない。
>>521。 うそはいけない。
>それなら「仮名遣」は存在しない。
そんなのは
>>524にも「むろん定まった「仮名遣」はまだそこに無い」云々とある。
無闇に反撥する前に、相手の意見をよく讀め。粗忽者め。
>>550 > 期限がない筈なのに
現時点では反論がないのだから,現時点では決着済み。
反論しないで納得できないと言うことは,子供にでもできる。
> つけてない。
>>521。 うそはいけない。
カッコのついてない "正しい" は,前の段落にはかからない。「よい」 「よひ」とは関係がない。
>>538 と完全に整合している。うそはどこにもない。
> そんなのは
>>524にも「むろん定まった「仮名遣」はまだそこに無い」云々とある。
決まりがあるかないかが問題なのだから,そこで話は終わっている。決まりはない。正しいも誤りもない。「よい」と「よひ」のどちらも誤りとして排除されない。
552 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/13 09:02
>>547 >その表記が長く使用されるうちに、音韻から離れた表記そのものの自律性をもつ。
「旧かな」に限った場合、「表記そのものの自律性」とは具体的には何のこと ?
・「良」に対しては,「よい」 「よひ」両様の表記があった。歴史的仮名遣は「よい」を正用と定め,「よひ」を誤りとして排除する。その根拠は何か。
・「如何」に対する表記例の初出はキリシタン資料の "Do<" であり,近い時期の国内資料の仮名表記も「だう」である。しかるに,歴史的仮名遣は「どう」を正用とし,「だう」を誤りとする。その根拠は何か。
554 :
(´・ω・`):04/06/13 10:16
| |
| |∧_∧
|_|´・ω・`) あの・・・ ここにお茶おいときますね
|茶| o ヽコト
| ̄|―u' 旦~
>>551の私的な定義だと、「誤り」とは排除されることなんだ。ふうん。
>>551の私的な定義だと、「期限がない」のに「決着」するんだ。
はて、どこで締め切るのやら、勝手なお人ぢゃ。
>>553 >歴史的仮名遣は「どう」を正用とし,「だう」を誤りとする。
これに關しては、「用ひる」が「用ゐる」に、「つくゑ」が「つくえ」になつたやうに、
據り所が確かならば、改訂さるべきものだらう。
>>555 >
>>551の私的な定義だと、「誤り」とは排除されることなんだ。
ほかにどんな定義があるのだろう。
>>556 >
>>551の私的な定義だと、「期限がない」のに「決着」するんだ。
最後の意見が出るたびに決着するが,反論するのに締切はない。学問とはそういうもの。
誤りだが排除されないし排除さるべきでもない場合などいくらもあるぞ。
ガイシュツ
>>561 2 ちゃんねるの中では誤りではない。よそでは誤りだから当然排除される。
マジメにやれ。
人の誤字脱字をいちいち排除するのか……なんてつきあひづらい人でせう(笑)。
ふつう、手紙でもメールでも、意味が通れば多少の誤りはわざわざ指摘しないでやり過ごさないか。
>>558 >最後の意見が出るたびに決着するが,反論するのに締切はない。
無理があるなあ。まだ反論が出るものを「決着」と呼ぶなんて。
>>563 ここに誤字がある,脱字があるとどうしてわかるんだ? 頭の中で排除してるからだろ。
自分で気づけば直すのが普通。相手に実際に指摘するかどうかは関係ない。
>>564 > 無理があるなあ。まだ反論が出るものを「決着」と呼ぶなんて。
自然だよ。反論が出る可能性があるというだけで,まだ出ないうちは決着している。
実際に反論が出た時点で議論が再開される。それが学問。
で,君は反論する意欲も能力もないわけだろ。
>>565 >頭の中で排除してるからだろ。
はいじょ【排除】おしのけ取りのぞくこと。(『広辞苑』)
……押しのけても取り除いてもないんだけど? (頭かたい人なのネ)
>>567 あるべき表記から押しのけても取り除いてもなければ,誤りだとは気づかない。
あるべきでない表記を書かれた箇所から押しのけるならわかるが、
「あるべき表記から押しのける」ってどうやんだべさ?(笑)
はいじょ【排除】あってはいけない物として、取りのけてそこから無くすこと。(『新明解国語辞典』)
>>569 > あるべきでない表記を
「あるべきでない」とわかるということは,あるべき表記を先に君が持っていて,それに合致しないものを,そこから君が押しのけたということだ。
↑ぷ。苦しい、苦しい。
>>570 あんまりからかっちゃ悪いから、少し真面目に相手をしてあげようか。
何でも無理に言張って些細な誤りすら認められないと、誰も議論につきあってくれないよ。
本筋に関係ないところの錯誤だったらそれと認めて譲れる位の度量がないといけませんな。
え、マジでわかんないんだ。ダメだ、こりゃ。
しかも本筋と関係大ありなんだが。
575 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/14 06:18
>>557 >據り所が確かならば、改訂さるべきものだらう。
その「確か」な「據り所」というのは、音韻以外にはなかろう。
「つくえ」にしても、ア行のエとヤ行のエ・ワ行のヱの混同がないことが確認され
ている写本にヤ行のエ(枝)で書いてある例が指摘されたことで「つくえ」に改訂
できた。音韻弁別の確実性が仮名遣の根拠なのだ。
他に根拠があるのか?
>>575 根拠は音韻弁別ではなく、表記の弁別の確実性であらう。
579 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/15 03:49
歴史的仮名遣とは、仮名発生当初の表記の慣習を正しいと定めたもの。よつて正仮名遣とも呼ばれる。
規範は個人の内にではなく、外に在る。「排除」されようとされまいと、すなはち、誤りと気付く者が居ようと居まいと、誤りは誤りであり、正しいものは正しい。
繰り返し言はれてきてゐるやうに、仮名は表音文字であるから、歴史的仮名遣は音韻を排除するものではない。しかし、表記は音韻を知る手掛りを与へる程度に留まると認識すべきである。
歴史的仮名遣の根拠は慣習である。さらにその慣習の根拠を問ふことには意味が無い。
「語に随ふ」とは、さういふことである。
だからさ、正誤と排除は別問題よ。排除する/しないで正誤を定義すんな。
581 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/15 06:51
「旧かな」が「仮名発生当初の表記の慣習」に基づいて定められているというなら、
「つくえ」「もちゐる」「よわし」(弱)について、それぞれ、その「表記の慣習」
の典拠となる文献名・仮名写本名を挙げてくれないか。全然思い当たらないので。
又、もし片仮名写本も含めるのだとしたら、なぜコ甲乙を区別しないのか、その
「表記の慣習」論に基づいて説明してもらえないか。
>なぜコ甲乙を区別しないのか
既出だが、いろは四十七文字の範圍内で書き分けるのが、「かな」づかひ。
龜井孝參照。
584 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/15 08:41
> いろは四十七文字の範圍内で書き分けるのが、「かな」づかひ。
それと「仮名発生当初の表記の慣習」が矛盾しないという保証はどこに?
「表記の慣習」論に基づく限りでは、
「或ひは」「用ひる」も認める「許容假名遣」といふ範疇があるね。
>>580 公教育が普及していなかった前近代において,表記の規範は個人の外にはない。権力が正解を定めなかったのだから。
実は誤りの表記を多くの人が排除しない,誤りと気づかないということは,現代ではありうるが,近世以前ではありえない。多くの人が排除する表記が誤りで,許容する表記が正しかった。
宗安小歌や虎清狂言本で,「良」に対して「*より」と書けば誤りである。それと比べるなら,「よい」も「よひ」も (カッコなしで) 正しい。
しかし,「よい」と「よひ」のどちらが「正しい」かということは,ともに許容されている以上,問題にならない。あえて言えばどちらも「正しい」。
公教育が無くたって、誤字はやはり誤字だつたが?
また歸屬集團や教養層ごとに明示されなくとも規範はあつたし。
規範は個人の外にないだと? 私的に規範に從ふなどあり得ない(cf.ウィトゲンシュタイン)。
>>588 > 公教育が無くたって、誤字はやはり誤字だつたが?
> また歸屬集團や教養層ごとに明示されなくとも規範はあつたし。
その「帰属集団」 「教養層」が現に許容している「よひ」を,どうやって誤字と認めるのか。
>>589 ?
>>580 は
>>573 のアフォと同一だろう。
>>587 は
>>579-580 とすべきだったか。
:名無し象は鼻がウナギだ! :04/06/16 02:03
>>587 580のツッコミに応答するとは、さては
>>579は貴様の偽装か?
591 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/16 06:07
>>581 持案進食、案、都久恵(和名類聚抄)
汝ガ牙ヲ須(もちゐ)ムト欲フトイフ(東大寺本地蔵十輪経元慶点)
又■ (人偏に「寧」・よわき) 人利器ヲ得タリト雖モ(石山寺本大智度論天安点)
「机」は「つくゑ」が正しい。
>>584 > それと「仮名発生当初の表記の慣習」が矛盾しないという保証はどこに?
我々に与へられてゐるのは、いろは四十七文字及び「ん」のみ。今や変体仮名も無い。その範囲を超える問題には関知しない。
>>591 疑問とされたのは、
「仮名発生当初の表記の慣習」は「いろは四十七文字及び「ん」のみ」に限定されないのでは
――ってことでないかい?
>>591 大坪併治『訓点語の研究』(風間書房, 1961.3)64〜66頁を見よ。
山田忠雄「補記」(『假名遣ちかみち』
>>6)より以下引用。
つくゑ(机)
『疑問假名遣』には載せぬ。
和名抄の記事により長い間ヱ説が行はれて來たが、近年、訓點語の研究が
進んだ結果、和名抄成立以前の書寫に係る願經四分律古點小川本にツクエ・
タカツクエ、法華義疏卷十二にツ支江の例が報告されるに至つて、假名遣
觀は茲に一變せざるを得なくなつた。「机」の假名遣は平安朝初期に於ては
ツクエ。後、ツクヱが主用され、國學者の學説流布により最近まで假名遣觀
を支配した。
訂正。
平安朝初期に於ては→平安朝極初期に於ては
596 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/16 09:45
>>593 確かに限定されないが、文字を増やさぬかぎり、どうすることもできない。
>>594 > 法華義疏卷十二にツ支江
この紙背文の年代は何如。且つ「つきえ」と読まれ、「つくゑ」との同定に問題あり。
> 「机」の假名遣は平安朝極初期に於てはツクエ。
これをそのまま受け入れると、仮名遣は慣習に拠るとは言ひ難くなる。
>>596 わかってないな。
「いろは」って文字体系の規範が別にあって、その範囲内で筆写する慣習が、あった(日用的ではないが)。
平安初期に遡るだけなら慣習論は不要。だってその頃まだ慣習なんてさして蓄積されてないもの。
『広辞苑』
つくえ【机・案】(もと歴史的仮名遣ツクヱとされたが、平安初期にツクエの例があり、ヤ行のエが古形と認められる)
599 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/16 22:01
>>591 訓点資料を持ち出してどうする。w
もし「表記の慣習」の根拠に訓点資料を持ち出すのであれば、例えば地蔵十輪経元慶点
が用いる鼻音用のVみたいな文字も「慣習」の一つで、その無視は「慣習」に反する。
訓点資料は、「いろは47字」などという限定のない表記系で、そこから「いろは47
字」の範囲だけつまみ食いするのは、全然「表記の慣習」に拠ったことにはならない。
早い話が「いろは47字」の限定自体が、「仮名発生当初の表記の慣習」と本質的に矛
盾しているのだ。(アヤ行のエの区別も同じ)。
↑みなさん龜井孝を讀んでないのかな。
601 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/17 01:08
>>590 > その「帰属集団」 「教養層」が現に許容している「よひ」を,どうやって誤字と認めるのか。
契沖が発見する以前も、歴史的仮名遣は忘れられてゐただけで、規範としては存在した。
現代仮名遣いのやうに、「ゐ」 「ゑ」 「(助詞以外の) を」を抹殺したことはない。
>>597 > 「いろは」って文字体系の規範が別にあって
何処に。伊呂波の初出は十一世紀に下る。
>>598 > もと歴史的仮名遣ツクヱとされたが、平安初期にツクエの例があり、ヤ行のエが古形と認められる
山田忠雄氏は音韻主義を採られるから、一例でも確実なものがあれば、そのやうに考へられるのであらう。
しかし、「つくゑ」 「もちゐる」 「よわし」の例が、第一等とはいへずともかなり信憑性のある資料に複数見えるのに対し、「つくえ」の例は、唯一の資料に二例見えるのみである。
後者は、以て仮名遣を改訂するほどの根拠たり得るのであらうか。
>>599 > 早い話が「いろは47字」の限定自体が、「仮名発生当初の表記の慣習」と本質的に矛
> 盾しているのだ。(アヤ行のエの区別も同じ)。
矛盾してゐることは分かってゐるが、我々は47 (+ 1) 字をしか持つてゐない。文字記号の数を増やすよりほかに、矛盾を解消する術は無い。
糞スレあげんな。
>>601 おいおい、
>>598は『広辞苑』の引用だぞ。山田忠雄は關係ない。
他の國語辭典でも「つくえ」を引いてみたまへ。
古い辭書でもない限り、假名遣「つくゑ」とするものはまづ無い。
假名遣を擁護するのはいいが、いい加減な知識で書かれて
卻つて批判を招くやうでは迷惑になる。
「仮名発生当初」に拘泥はると假名遣の本質は見えない。
>>603 >
>>598は『広辞苑』の引用だぞ。山田忠雄は關係ない。
同一の資料に基づく、同じ考へ方でせう。
> 古い辭書でもない限り、假名遣「つくゑ」とするものはまづ無い。
『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂) は、初版が昭和四十二年で、ツクエの例は既に知られてゐたはずだが、採用してゐない。それも一つの見識。
> 「仮名発生当初」に拘泥はると假名遣の本質は見えない。
『小川本願経四分律古点』(810年頃) の二例を以て仮名遣観が一変するはうが、拘りすぎではありませんか。
「我々は47 (+ 1) 字をしか持つてゐない」なんて現代の表記慣習に拘る方が、
問題だよ。手書きなら変体仮名は書けるし、現に一部には残存する。
小松英雄『日本語書記史原論』でも見たら?
>>605 > 手書きなら変体仮名は書けるし
それはもう仮名遣の問題から完全に逸脱する。
私は「つくえ」を拒否するわけではない。それにも根拠はある。
ただ、仮名遣とは表記を安定させるためのものだらう。「つくゑ」は、延喜式にも幾つかの例が見え、一般的な表記だつたと思はれる。「つくえ」の三例 (うち一例は疑はしい) を以て「つくゑ」を誤とするのはいかがなものか。
もつとも、
>>591 で「『つくゑ』が正しい」と書いたのは言ひすぎだつたから、これを撤回し、「『つくゑ』も許容せらるべきだ」としたい。
「仮名遣の問題」に変体仮名を含まない理由は何か?
それを知るためにも、亀井孝・小松英雄を読むべきだ。
>>601 > 契沖が発見する以前も、歴史的仮名遣は忘れられてゐただけで、規範としては存在した。
> 現代仮名遣いのやうに、「ゐ」 「ゑ」 「(助詞以外の) を」を抹殺したことはない。
「ゐ」 「ゑ」 「を」が使われていたことと,その用法が 9 世紀の音韻 (表記ではない) に従っていたかどうかということとは,何の関係もない。
近世以前は,定家自筆本と国学者の著作以外に,「仮名遣」を持つ文献は存在しなかった。
>>607 > 「仮名遣の問題」に変体仮名を含まない理由は何か?
現代仮名遣いのやうな表音主義を採るなら、「ゐ」 「ゑ」 「を」、(語頭以外での) 「は」 「ひ」 「ふ」 「へ」 「ほ」は、全く不要となるはずだ。
しかし、我々には伝統的に「ゐ」 「ゑ」 「を」 (語頭以外での) 「は」〜「ほ」といふ文字が与へられてきた。それらをどう使ふべきかといふ問題に対して、仮名発生当初の表記の慣習を規範とすることで応じるのが、歴史的仮名遣なのだ。
目的は同音の仮名の使ひ分けであつて、慣習は手段だ。仮名発生当初の慣習を守るために変体仮名を使ふとすれば、本末転倒になる。
君こそ橋本進吉を読むべきだ。
>>608 > 9 世紀の音韻 (表記ではない)
古い資料の仮名遣が当時の音韻を写してゐるといふのは、慣習に拠つたのではこれほど完璧に書き分けられるはずがないといふ、憶測に基づいてゐるにすぎない。
我々に得られるものは表記のみ。昔の音韻などだれにも聞こえない。
> 近世以前は,定家自筆本と国学者の著作以外に,「仮名遣」を持つ文献は存在しなかった。
一部の版本を除いて、表音式表記を採つた文献も存在しなかつた。
仮名遣の規範は無かつたかもしれないが、仮名遣の問題は常に存在した。その問題は、仮名発生当初の慣習が忘れられたために起こつたのだ。
>>609 その「同音の仮名」にナゼ變體假名は含まれないかを、
書字表記論としてキチンと説明できなければ駄目だらう。
それには橋本進吉だけでは不十分。
ちなみに、この間複刻の出た大槻文彦『言海』(ちくま学芸文庫)では
「こ」「し」等の變體假名が語によって使ひ分けられてゐる。
(字體が同じ場合でも、和語と漢語では活字書體を變へてゐるやうだ)
もちろん、一般化はしなかつたけどね。
この邊、誰か明確に指摘した文獻は既にあるのかしらん。
>>611 > 「同音の仮名」にナゼ變體假名は含まれないか
形が異なり、発音が同じで、語による書き分けに使はれるものを「同音の (異なる) 仮名」と呼ぶ。
形が異なり、発音が同じで、語による書き分けに使はれないものを「変体仮名」と呼ぶ。
そんなことは橋本の議論の前提。
>>613 それではトートロジーで説明になつてない。
例へば、「は」の變體假名で「者」の草體があるが、
「思はず」が「おも者ず」と書かれることもある以上、これは語による書き分けではないか?
その場合、なぜ「者」が正體で「は」が變體とはされぬのか? 變體とさうでない假名との區別はどうつけたのか。
そもそも、なぜ「語による書き分けに使はれない」假名があつたのか?
……等、々、々。
その「同音」って現代の同音だよな……。さういふ音韻主義でいいのかな?
>>613
>>612 > 大槻文彦『言海』(ちくま学芸文庫)では
> 「こ」「し」等の變體假名が語によって使ひ分けられてゐる。
さういふことなら、大槻氏にとつてそれらは変体仮名ではなく、同音の別仮名だつたわけだ。
>>614 > 「思はず」が「おも者ず」と書かれることもある以上
「者」はワではなくハまたはバに充てたので、あまりないとは思ふが、それはともかく、
> 變體とさうでない假名との區別はどうつけたのか。
明治三十三年の小学校令施行規則に拠る。
> そもそも、なぜ「語による書き分けに使はれない」假名があつたのか?
それは分からない。
「え」と「江」、「こ」と「古」などは、かつては語による書き分けに使はれてゐた。真仮名に溯ればさらに多くの書き分けがあつた。
今、それらすべてを問題にしないのは、橋本もふれてゐるとほり、ひとへに、伊呂波歌が仮名字母表として普及し、規範化したからだ。
我々は、用ゐるべき仮名のリストは伝統的に与へられてきたが、その使用法に関しては、必ずしも明確な規範を持たなかつた。
伝統に無頓着な表音主義者は、「実用的」と称して伊呂波歌を破棄してしまふ。さうするなら仮名遣は当然必要あるまい。
>>615 > その「同音」って現代の同音だよな……。
常にその時代における「同音」だ。
>>609 >我々には伝統的に「ゐ」 「ゑ」 「を」 (語頭以外での) 「は」〜「ほ」といふ文字が与へられてきた。
>それらをどう使ふべきかといふ問題に対して、仮名発生当初の表記の慣習を規範とすることで応じるのが、歴史的仮名遣なのだ。
「さうでせう」とか「いらつしやる」とかが「仮名発生当初の表記の慣習」であるとでも?
>>617 > 「さうでせう」とか「いらつしやる」とかが「仮名発生当初の表記の慣習」であるとでも?
然り。仮名が発生した頃、ソーといふ語は存在しなかつたが、「そう」 「さう」 「さふ」の書き分けはあつた。
デショーといふ言ひ方も無かつたが、「しよう」 「しやう」 「せう」 「せふ」の書き分けはあつた。
この場合のソー、デショーは和語であり、「さう」 「せう」以外の表記は漢字音にしか使はれなかつたことから、「さうでせう」と定める。
また、当時の表記の慣習では、小書きは用ゐられなかつた。
619 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/18 22:22
>「さう」 「せう」以外の表記は漢字音にしか使はれなかつたことから、「さうでせう」と定める
それのどこが、「仮名発生当初の表記の慣習」なんだよ w
勝手に「定め」てるだけじゃん。
大体、「さう」「せう」だって漢字音にしか使わないんじゃないのか ?
用例があると言うなら、そろそろ「仮名発生当初」とはいつの事か、明確にしてくれ。
>>619 > 勝手に「定め」てるだけじゃん。
現代語を歴史的仮名遣で書かうといふのだから、定めなければ決まらないのは当然だらう。
しかし、「勝手に」定めてはゐない。伝統に則つて定めてゐる。
> 「さう」「せう」だって漢字音にしか使わないんじゃないのか ?
「さう」の例はなかなか見つからないが、「微 久波之宇須」 (周易抄)、「いたう」 「はやう」 (古今) があるから、「*あさう (浅)」 「*くさう (臭)」などもあつたと推定される。
「兄鷹 勢宇」 (十巻本和名抄)、「二条の后に忍びて参りけるを、世の聞えありければ、せうとたちのまもらせ給ひけるとぞ」 (伊勢)。
> 「仮名発生当初」とはいつの事か
仮名遣が乱れだす前、十世紀の半ばまでといふのが目安になつてゐる。
>>620 訂正。
周易抄の例は不適切なので削除。古今集には「ちかう」もあり。
622 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/19 07:04
>「いたう」 「はやう」 (古今) があるから、「*あさう (浅)」 「*くさう (臭)」などもあつたと推定される。
なぜ「推定される」のか「仮名発生当初の表記の慣習」から説明してくれないか?
俺が説明するなら、「形容詞連用形ウ音便だから」となるが、これはもちろん単
なる形態音韻論的説明で、「表記の慣用」でも何でもない。「タ行に音便がある
ならサ行にもある筈」なんて表記から推論できるわけがない。(「音便」概念自
体が、形態音韻論的概念だ)
>現代語を歴史的仮名遣で書かうといふのだから、定めなければ決まらないのは当然だらう。
その通り。つまり、典拠がないものに、伝統があると言い張っているだけ。
単なる虚構だよ。
貴君が「伝統」と呼んでいるのは、日本語の音韻史のことだ。
盛んに「表記の慣用」と言っているのも、実は形態音韻論的一貫性のことだよ。
>>622 > 「タ行に音便があるならサ行にもある筈」なんて表記から推論できるわけがない。
さうだらうか。同じ語が「いたく」とも「いたう」とも書かれるのだから、「あさく」が「*あさう」と書かれることもあらうと、類推できないだらうか。
> 単なる虚構だよ。
それを言ふなら、あらゆる「伝統」が虚構だらう。無視しようとしてできないものは無い。
> 盛んに「表記の慣用」と言っているのも、実は形態音韻論的一貫性のことだよ。
歴史的仮名遣の推定に形態論は重要だが、それだけでは無理。
「をんな (女)」と「おんな (嫗)」の区別に形態論は関係ない。やはり古表記の慣習に照らして、かつ、本人に会つてみなければ w
624 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/20 07:01
>同じ語が「いたく」とも「いたう」とも書かれるのだから、「あさく」が「*あさう」と書かれることもあらうと
その「だから」という推論を、普通は形態音韻論と呼ぶのだ。
ク活用形容詞連用形が「ア段+ク」→「ア段+ウ」という音便形を持つ、という
形態音論的整理がない限り、そのような類推は成立しない。
いくら何でも「いたく」→「いたう」だから「叩く」→「たたう」だとは言うまい。
> 「をんな (女)」と「おんな (嫗)」の区別に形態論は関係ない。やはり古表記の慣習に照らして
その区別は、音韻の区別だ。
何故「をんな」・「おんな」を仮名遣の「乱れ」とは見なさず、別語と見なすのだ ?
俺が説明するなら、両語はオヲ音韻弁別のある時代から別形態だったから、となるが、
貴君の「音韻は知らぬ」論では、そもそも「麗し」を「うるわし」、「報い」を「むく
ゐ」と書く「仮名遣の乱れ」と区別が付かない筈だ。両者の区別は、偏に音韻史の問題だ。
又、貴君の「音韻は知らぬ」論では、上代の用例が典拠としては悉く消滅するような気が
するのだが、違うかね?
>>624 > ク活用形容詞連用形が「ア段+ク」→「ア段+ウ」という音便形を持つ、という
> 形態音論的整理がない限り、そのような類推は成立しない。
歴史的仮名遣は音韻を否定、排除するものではない。古代においてはそのやうな発音だつたんだらうといふことは、皆認めてゐる。
ただ、後代に発生したソー (然) のやうな語をどう書くかについて、音韻はあてにできない。
また、「仮名発生当初」を十世紀半ば以前とするのは、すべての仮名遣が守られてゐるといふ条件の下であつて、「さう」と「そう」の書き分けだけなら、もつとあとの文献でも保たれてゐる。
例へば抄物に見える「さう」の表記に従つてもよい。
> 何故「をんな」・「おんな」を仮名遣の「乱れ」とは見なさず、別語と見なすのだ ?
それは、文脈上娘であるはずの所では「をんな」と書かれ、婆であるはずの所では「おんな」と書かれるからだらう。
> 上代の用例が典拠としては悉く消滅する
そんなことはない。真仮名が変形して平仮名、片仮名になつたのだから、上代の用例は翻字すれば済む。
>>616 > 伊呂波歌が仮名字母表として普及し、規範化した
いろは歌というのは,考えてみると奇妙な歌だ。
この歌は今様であり,今様の流行は十一世紀中頃以降だから,「仮名遣」は乱れていておかしくない。
いろは歌では,当然「衣」と「江」の区別はない (「え」が一つしかない) が,語頭以外の「は」 「ひ」 「ふ」 「へ」 「ほ」と,「わ」 「ゐ」 「う」 「ゑ」 「を」との区別は,保たれているかに見える。
しかしながら,
「わか (我が)」 「うゐの (有為の)」 「ゑひも (酔ひも)」の「わ」 「う」 「ゑ」は,語頭にあるので「は」 「ふ」 「へ」と紛れようがない。
「うゐの」の「ゐ」は字音であり,漢字「為」が崩されて平仮名「ゐ」が出来たわけだから,「ひ」と紛れることは考えにくい。
「いろは (色は)」 「ちりぬるを (散りぬるを)」の「は」 「を」は助詞で,現代仮名遣いでも「は」 「を」と書かれるくらい強固な慣習だから,「わ」 「ほ」と紛れることはありえない。
残るのは「にほへと (匂へど)」 「けふ (今日)」 「ゑひも」の「ほ」 「へ」 「ふ」 「ひ」だが,ハ行四段動詞の活用語尾や「けふ」の表記は,安定していたと思われる。
結局,問題になりそうなのは「にほへと」の「ほ」だけだ。この表記は「歴史的仮名遣」に合致しているが,偶然でないとはいいきれない。
古写本でも区別を失っていることの多い語,例えば「うるはし (麗)」 「さわがし (騒)」 「やまひ (病)」 「もちゐる (用)」 「ううる (植)」 「ゆゑ (故)」 「かほ (顔)」 「かをり (香)」などは,使われていない。
ハ行転呼が進行したあとでも,いろは歌が作られる可能性はある。いろは歌が積極的に「歴史的仮名遣」を守ったという保証はない。
>>626 「積極的に「歴史的仮名遣」を守った」とは?
いろはうたは、「仮名字母表として」字種の範圍を定める規範であり、
その假名の使ひ分け(勝義の假名遣)は、いろはとは異なる起源をもつ規範だ。
この二種の規範の組み合はせがいはゆる「歴史的假名遣」だらう。
>>627 > その假名の使ひ分け(勝義の假名遣)は、いろはとは異なる起源をもつ規範だ。
その規範は,いろはが出来た時には,おそらくもう失われてたわけだよな。
で,それはどんな内容の規範なの? また「語に随ふ」とだけ言って説明しない (できない) の?
>>625 >歴史的仮名遣は音韻を否定、排除するものではない。
ようやく認めてくれたか。
貴君の「音韻は知らぬ・表記用例だけあればよい」主義では、歴史的仮名遣は成り立たない。
>「さう」と「そう」の書き分けだけなら、もつとあとの文献でも保たれてゐる。
特定音韻を表現する部分にだけ存続する「表記の慣用」というのは、普通は音韻弁別に基づ
く表記というのだが、貴君の主張は、「音韻は知らぬ」と言いたいばかりに随分無理してるな。
>真仮名が変形して平仮名、片仮名になつたのだから、上代の用例は翻字すれば済む。
それは、万葉仮名の用法と仮名の字源の混同。
介:か(飫朋佐介・オホサカ)、者:さ(苦者・クルシサ)を、文字に基づいて
翻字すると、それぞれケ、ハになりはしないか?
>>628 「語に隨ふ」の定義は既出。16氏ほかが試みてゐるが、見てないのか。
>>630 > 16氏ほかが試みてゐるが
>>16 氏の定義は,歴史的仮名遣いの根拠となる音韻体系を想定するというもので,それなりに筋が通っている分,かえって,歴史的仮名遣いで現代語を表記することの不可能性を明らかにした (
>>198)。
「ほか」って何があったのよ w
>>629 > ようやく認めてくれたか。
> 貴君の「音韻は知らぬ・表記用例だけあればよい」主義では、歴史的仮名遣は成り立たない。
初めから、音韻を排除するものではないと言つてゐる。
>>579。
ただ、一々音韻に還元して、それを根拠とするのではないといふことだ。
音韻は、時代と共に変化してきた。それは周知の事実だ。だから、音韻だけを根拠としたのでは、一貫した表記は決まらない。
例へば「貝」の仮名表記は、上代なら「可比」、九世紀〜十世紀半ばなら「かひ」、十世紀半ば〜十二世紀なら「かゐ」、十三世紀以降なら「かい」とせねばなるまい。
それのどこが「実用的」だらうか。時代を越えて使はれる同一の語に対して、最大公約数的な同一の表記を与へることが歴史的仮名遣の目的、「語に随ふ」といふことなのだ。
そのために我々は、伊呂波を伝統的所与としたうへで、できるだけ十世紀半ばまでの古例に照らしつつ、あるべき表記を定めてゆくのだ。その作業無くしては、表音主義者も降参したやうに (
>>323)、国語大辞典を編むことはできまい。
> 特定音韻を表現する部分にだけ存続する「表記の慣用」というのは、普通は音韻弁別に基づ
> く表記というのだが
デショーといふ言ひ方が発生した時、「しよう」 「しやう」 「せう」 「せふ」の音韻弁別は既に無かつた。どうやつて正しい表記を定めるのか。
やはり、古い表記の慣習に鑑みて、ありさうな、それらしい形を採るしかあるまい。
> 介:か(飫朋佐介・オホサカ)、者:さ(苦者・クルシサ)を、文字に基づいて
> 翻字すると、それぞれケ、ハになりはしないか?
真仮名には真仮名の慣習があつて、例へばの話、「介」は「加」と通用、「者」は「左」 「散」と通用だつたかもしれない。
さういつた慣習が認められなければ、これらの例は典拠として使へない。
>>632 > その作業無くしては、表音主義者も降参したやうに (
>>323)、国語大辞典を編むことはできまい。
おれは古語辞典が作れないと言ったまで。現代日本語は古典語の子孫だが,古典語とは異なる言語体系であり,現代仮名遣いで十分に表記できる。
その「国語大辞典」というのは,ラテン語とフランス語とを一書に収めようとするようなものか。『日本国語大辞典』がそれをやっているが,現代仮名遣いと歴史的仮名遣いとを併用している。
634 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/22 11:18
>>607 >それを知るためにも、亀井孝・小松英雄を読むべきだ。
アドバイスはありがたいが、もうちょっと意義を説明してくれないかな。
いま書き込んでる表音主義者は、前に「フリコキ学生くん」とか呼ばれてたヤツかな?
>>631 >かえって,歴史的仮名遣いで現代語を表記することの不可能性を明らかにした
いつ明らかにしたんだ。
「學問的には、歴史的假名遣ひで現代語を書かうとした瞬間に、ずだぼろの代物だから。」
といふ「主張」を書いてゐるだけで、論証は無いぞ。
またも勝った「フリコキ」かね。
>>633 >現代日本語は古典語の子孫だが,古典語とは異なる言語体系であり,現代仮名遣いで十分に表記できる。
「十分に表記できる」だけでは積極的に旧仮名を排除して新仮名を採る理由にはならない。
旧かな派の主張は「旧仮名を手直しすればそれで十分に表記できる」といふものなのだから、
既成事実に盲従するのでない限り、旧仮名を排除する理由とは言へない。
「フリコキ学生くん」は旧仮名に反対してるんぢゃなかったのか。
どうも旧仮名を満足できるものへと改訂するために、その方法の難点を指摘してゐる
としか思へないんだが。旧仮名に反対する理由が全く述べられてゐない。
635 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/22 11:21
どうも話がそれてゐる(そらされた?)やうに思ふんだが。
新仮名・旧仮名の優劣が主なテーマぢゃないのかね。
確認しておくが、
旧仮名派の反対するのは「表音主義」であって、表音性を排除するわけではない。
表音文字である仮名を使ふのだから、表音性の排除などあり得ないし、
する必要も無い。
「正しい表記」を決める方法として、「表音主義的表記」と「歴史的表記」とがある。
この分け方をするなら旧仮名も新仮名も「歴史的表記」なのであって、新仮名の方が
表音主義的な「フリコキ」をした分だけ一貫しないものになってゐる。
旧仮名派は、同じ「歴史的表記」として新仮名よりは旧仮名(及びその表音的改訂)の
方がずっとましだと言ってゐるだけだ。
新仮名・旧仮名の比較をするときに「歴史的表記」(方法)の難点を挙げて、それで
旧仮名に勝った「フリコキ」をするのは大馬鹿のすることだらう。
>>634 > いつ明らかにしたんだ。
> 「主張」を書いてゐるだけで、論証は無いぞ。
>>16 氏自身が丁寧に論証している。「無い」んじゃなくて君に見えない,理解できないだけ。
> 「十分に表記できる」だけでは積極的に旧仮名を排除して新仮名を採る理由にはならない。
明確な理由になる。十分に表記できればそれ以上のものは不要,ムダ。既出。
で,またそんなことは論証されてないって言うんだろ。じゃあ,それ以上の何が必要なのかときくと,旧仮名派は答えられない。答えられないことによって論証済み。それもさんざん既出。
>>635 > どうも話がそれてゐる(そらされた?)やうに思ふんだが。
> 新仮名・旧仮名の優劣が主なテーマぢゃないのかね。
逸れていない。議論のレヴェルが上がったからついて来られないんだろ w
> 「正しい表記」を決める方法として、「表音主義的表記」と「歴史的表記」とがある。
「歴史的」とはどういうことかについて,いま議論してるんだよ。
> 新仮名も「歴史的表記」
どこが?
> 新仮名の方が表音主義的な「フリコキ」をした分だけ一貫しないものになってゐる。
「一貫しない」という非難は,漸進主義に対立するゼロ−サム主義として否定済み。これまた既出。
> 旧仮名(及びその表音的改訂)
何のためにそんな改訂をするんだ? 「一貫」しなくなるのに。
> 新仮名・旧仮名の比較をするときに「歴史的表記」(方法)の難点を挙げて、それで
> 旧仮名に勝った「フリコキ」をするのは大馬鹿のすることだらう。
歴史的表記の難点を挙げられて,それを上回る利点を何も挙げられないのに負けを認めない旧仮名派は,世界が終わっても負けを認めないだろう。
ループさせるな。議論のレヴェルを一気に落とすな。消えろ馬鹿。
638 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/23 00:57
>>633 > 現代日本語は古典語の子孫だが,古典語とは異なる言語体系であり
現代語は古典語の子孫ではなく、喩へて言へば、同一人の少年期と成年期のやうなものだらう。
異なる言語といふ意見には与しない。
> その「国語大辞典」というのは,ラテン語とフランス語とを一書に収めようとするようなものか。
ローマ帝国が崩壊・分裂して、イタリアやフランスやイスパニアが出来たから、ラテン語とロマンス諸語とは異なる言語となつたのだ。日本にそのやうな歴史は無い。
『日本国語大辞典』のやり方は、私に言はせればみつともない。
>>634 亀井孝・小松英雄のことは前スレッド既出だったよな。
>>638 > ローマ帝国が崩壊・分裂して、イタリアやフランスやイスパニアが出来たから、ラテン語とロマンス諸語とは異なる言語となつたのだ。
「親子」か「同一人」かは,政治史とは関係ない。簡単に言えば,同時に使われていたかどうかによる。
ラテン語から変化してロマンス諸語が発生したあとも,ラテン語は使われつづけた。新作のラテン語文学もあった。
日本でも同じ。中世以降も古典語は使われ,いわゆる言文二途の状態が続いた。近代語が文献上に表れることの方がむしろまれだったはず。
英語の場合,『ベーオウルフ』,チョーサー,シェイクスピアの英語はそれぞれ重ならないようだから,「同一人」すなわち同一言語の「成長」の跡だろう。
>>640 >中世以降も古典語は使われ,
それはやはり別言語ではなく、同言語の別位相だらうよ。
>>641 ヴァティカンでは今もラテン語が使われているが,イタリア語とラテン語とは「同言語の別位相」か?
また,ロシア正教会では今も古代スラヴ語が使われているが,ロシア語と古代教会スラヴ語とは「同言語の別位相」か?
643 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/26 01:15
すみません。質問なのですが、
「置いている」は正仮名遣いでは「置ゐてゐる」になるのですか?
>>642 宗教語でのみ使用される例など出しても、日本語とは關係ない。
>>643 ならない。イ音便について調べること。
645 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/26 02:57
646 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/26 02:58
>>644 > 宗教語でのみ使用される例
コペルニクスの『天体の運動について』はラテン語で書かれ,ガリレオの『天文対話』はイタリア語で書かれたが,ラテン語とイタリア語とは「同言語の別位相」だったのか?
プーシキンが現れるまで,ロシアではあらゆる文章が基本的に古代教会スラヴ語で書かれていたが,ロシア語と古代スラヴ語とは「同言語の別位相」だったのか?
馬鹿だね、日本の「古典語」は文章だけでなく口頭でも使用されたぢゃん。
ラテン語に比すべきは「漢文」だよ。
ラテン語からのイタリア語の独立などは
近代言語ナショナリズムの見地から分けられるのであって、
それからすると日本語の言語ナショナリズムは国学が受け持ったのだから
「古典語」を別言語と見なすことはあり得ないわな。
>>648 > 馬鹿だね、日本の「古典語」は文章だけでなく口頭でも使用されたぢゃん。
> ラテン語に比すべきは「漢文」だよ。
カエサルやウェルギリウスはラテン語をしゃべっていたはずだが。
>>649 > ラテン語からのイタリア語の独立などは
> 近代言語ナショナリズムの見地から分けられるのであって
ダンテやペトラルカやボッカッチョと,「近代言語ナショナリズム」とが,どう関係するのか。
> それからすると日本語の言語ナショナリズムは国学が受け持ったのだから
> 「古典語」を別言語と見なすことはあり得ないわな。
国学者がどう見なそうと,言語学的には異なる言語体系。
>>650 ほんと、馬鹿だね。カエサルの時代とコペルニクスの時代を一緒にするかね。
>>651 > ほんと、馬鹿だね。カエサルの時代とコペルニクスの時代を一緒にするかね。
>>648 > 馬鹿だね、日本の「古典語」は文章だけでなく口頭でも使用されたぢゃん。
いつ?
>>652 お、カエサルとコペルニクスを一緒くたにする愚にやっときづいたかい?
それともまだわかってないのかな?
話はそいつを確認してからだ。
>>653 おれが「いつ?」とさきにきいてたら,君はどうせ「平安時代」とか答えただろ?
そしたらおれが
>>650 を出す手筈だったんだ。先回りして手間を省いたのさ。
で,いつなんだ?
>君はどうせ「平安時代」とか答えただろ?
ハイ、不正解。
勝手に決めつけてひとりよがりな議論を展開されてばかりだと、相手してらんないな。
だいたい「中世以降も古典語は使われ」とある文脈で、なんで平安時代が出てくるのかネ。
近世(江戸期)でも、あらたまった文句、所謂「切り口上」は文語そのままに口頭で述べた。
また、歌を詠むのも附句も「古典語」だよな。これは中世でも近世でも近代に至っても、だ。
「現代語」は「古典語」と必ずしも分離せず、しばしば後者は前者に混淆されるのだし。
「政治史」を排して「同時に使われていたかどうかによる」って基準を出したが、
ならば方言はどうなる?
方言か国語(langue)かの判別は、結局、政治史を含む外的言語学の問題だとソシュールも言ってるぞ。
>644>645
ありがたうございます!
>>655 > だいたい「中世以降も古典語は使われ」とある文脈で、なんで平安時代が出てくるのかネ。
その手の捻じ曲げは旧仮名派の十八番ではないか w
> 近世(江戸期)でも、あらたまった文句、所謂「切り口上」は文語そのままに口頭で述べた。
> また、歌を詠むのも附句も「古典語」だよな。これは中世でも近世でも近代に至っても、だ。
中世のヨーロッパの大学では,講義はすべてラテン語で行われた。
モーツァルトの最初のオペラ「アポロとヒアキントス」は,ラテン語で上演された。
日本の場合とどこが違うのか。
> 「現代語」は「古典語」と必ずしも分離せず、しばしば後者は前者に混淆されるのだし。
それは一種の外来語 (古来語?) だろう。
> 方言か国語(langue)かの判別は、結局、政治史を含む外的言語学の問題だとソシュールも言ってるぞ。
「方言」か「国語」かの判別と,同言語か異言語かの判別は,無関係。
一定の目印を設けて,体系の隔たりが小さければ同言語と見なし,大きければ異言語と見なす。
上海の言葉は,北京の言葉に対して,政治的には「方言」だが,言語学的には異言語。
ウルムチの言葉は,アンカラの言葉に対して,政治的には「異国語」 (「ウイグル語」と「トルコ語」) だが,言語学的には同言語 (テュルク語ウイグル方言とアナトリア方言)。
昔、少年Hを読んでいたら、「中央」の振り仮名が
チウアウからチュウオウになったという記述があったのですが、
この出来事は、昭和18年のこととして書かれています。
ちょうど、横書きの文章が右から左ではなく、左から右になった時期と一緒なのですが、
このとき、現代仮名遣いになったということですか?
私は、現代仮名遣いになったのは戦後のことだと思っていたのですが。。
>>658 詳しく知らんけど、字音かなづかひについては戦後の「国語改革」以前にも改訂案が部分的に
採用されたこともあつた云々と既出だよ(まあ、うろ覚えなので引用できないが)。
旧かな派も字音かなづかひは別だから厳守しないと考へるのが普通だと思ふ。
話は別だが、山中恒とかいふ人が『少年H』を批判する本を書いてるよ。
>>636 > > 「十分に表記できる」だけでは積極的に旧仮名を排除して新仮名を採る理由にはならない。
>明確な理由になる。十分に表記できればそれ以上のものは不要,ムダ。既出。
既出だからって解決済みのやうな「フリコキ」はよせよ。
どうやらお前は既成事実から一歩も出られないらしいな。
お前の主張は「現在、新仮名が普及してゐる」といふ既成事実を無批判に受け入れる
者だけにしか通用しない。
>>637 >「一貫しない」という非難は,漸進主義に対立するゼロ−サム主義として否定済み。これまた既出。
既出だからって解決済みのやうな「フリコキ」はよせよ大馬鹿。
「一貫しない」といふ批判の意味がわかってないな。
要するに、
表記の改革をするなら、旧仮名の表音的改訂といふ「漸進主義」で十分なのに、表音主義者が
「(完全な)表音主義的表記」でなければならないといふ「ゼロ−サム主義」によって
旧仮名を排除した。それなのに、彼らの作った新仮名も「(完全な)表音主義的表記」
ではない点で旧仮名と同じではないか。それならば旧仮名の表音的改革でも良かっただらうに。
といふ批判だよ。
> > 旧仮名(及びその表音的改訂)
>何のためにそんな改訂をするんだ? 「一貫」しなくなるのに。
「歴史的」といふのは「過去のある時代の表記に固定しろ」といふ意味ではないのだから、
「一貫しなくなる」といふのは全く的外れだ。
>「歴史的」とはどういうことかについて,いま議論してるんだよ。
>歴史的表記の難点を挙げられて,それを上回る利点を何も挙げられない
どうもお前は「歴史的仮名遣」の「歴史的」といふのを「復古的」だと勘違ひ
してゐるらしい。橋本進吉の文は読んだんだろ? それとも読んだ「フリコキ」
だけなのかね。
「表音主義的」と「表音的・表音性」とをちゃんと区別しろよ(これも「既出」だなあ)。
そもそも、仮名は表音文字なのだから、仮名による表記は原理的に「表音的」でしか
あり得ない。また、表記を全く新しくつくる必要がない限り、それまでの(正しいとされる)
表記を踏襲する(あるいは参考にする)のが普通のやり方だらう(これを指して「歴史的」と言ふ)。
その意味では、ほとんどの表記が原理的に「歴史的」な表記である。
で、「表音主義」の方はどうかといふと、これは表記を全く新しくつくる場合の方法だらう。
もちろん、表記を全く新しくつくる場合には(参考にすべき表記の先例が無いのだから)
「表音主義」以外にはあり得ない。
繰返しになるが、「表記を全く新しくつくる」必要がないのに
(ゼロ−サム主義の)表音主義者が、旧仮名の表音的改訂(漸進主義)を拒否したわけだ。
> > 新仮名も「歴史的表記」
>どこが?
とぼけるなよ。新仮名が完全に表音的ではないことはそれこそ「既出」だらう。
「(完全な)表音主義的表記」と「歴史的表記」といふ分類をするなら、「歴史的表記」に
属するに決ってゐる。
それなのに、お前は(クドクド、ダラダラと)「歴史的表記」の難点を指摘して、
「ほら、だから旧仮名はダメなんだ」と、その難点が新仮名には関係が無い
「フリコキ」をして勝ち誇ってゐるわけだ。
>ループさせるな。議論のレヴェルを一気に落とすな。消えろ馬鹿。
既出だが決着のついてない議論を持ち出すと「ループ」といふことになるのかね
大馬鹿クンよWWW
議論の本筋をしっかり押さへずにオタク的な知識の(「情報」と呼ぶべきかな)
垂れ流しをすることが「レヴェル」の向上だと本気で(正気で)思ってゐるのかね
大馬鹿クンよWWW
お前こそ消えたらどうだ大馬鹿クソよWWWWW
>「歴史的」とはどういうことかについて,いま議論してるんだよ。
>歴史的表記の難点を挙げられて,それを上回る利点を何も挙げられない
どうもお前は「歴史的仮名遣」の「歴史的」といふのを「復古的」だと勘違ひ
してゐるらしい。橋本進吉の文は読んだんだろ? それとも読んだ「フリコキ」
だけなのかね。
「表音主義的」と「表音的・表音性」とをちゃんと区別しろよ(これも「既出」だなあ)。
そもそも、仮名は表音文字なのだから、仮名による表記は原理的に「表音的」でしか
あり得ない。また、表記を全く新しくつくる必要がない限り、それまでの(正しいとされる)
表記を踏襲する(あるいは参考にする)のが普通のやり方だらう(これを指して「歴史的」と言ふ)。
その意味では、ほとんどの表記が原理的に「歴史的」な表記である。
で、「表音主義」の方はどうかといふと、これは表記を全く新しくつくる場合の方法だらう。
もちろん、表記を全く新しくつくる場合には(参考にすべき表記の先例が無いのだから)
「表音主義」以外にはあり得ない。
繰返しになるが、「表記を全く新しくつくる」必要がないのに
(ゼロ−サム主義の)表音主義者が、旧仮名の表音的改訂(漸進主義)を拒否したわけだ。
> > 新仮名も「歴史的表記」
>どこが?
とぼけるなよ。新仮名が完全に表音的ではないことはそれこそ「既出」だらう。
「(完全な)表音主義的表記」と「歴史的表記」といふ分類をするなら、「歴史的表記」に
属するに決ってゐる。
それなのに、お前は(クドクド、ダラダラと)「歴史的表記」の難点を指摘して、
「ほら、だから旧仮名はダメなんだ」と、その難点が新仮名には関係が無い
「フリコキ」をして勝ち誇ってゐるわけだ。
>ループさせるな。議論のレヴェルを一気に落とすな。消えろ馬鹿。
既出だが決着のついてない議論を持ち出すと「ループ」といふことになるのかね
大馬鹿クンよWWW
議論の本筋をしっかり押さへずにオタク的な知識の(「情報」と呼ぶべきかな)
垂れ流しをすることが「レヴェル」の向上だと本気で(正気で)思ってゐるのかね
大馬鹿クンよWWW
お前こそ消えたらどうだ大馬鹿クソよWWWWW
すまん、うっかりして二回書き込んでしまったよ。
>>637 > >どうも話がそれてゐる(そらされた?)やうに思ふんだが。
> >新仮名・旧仮名の優劣が主なテーマぢゃないのかね。
>逸れていない。議論のレヴェルが上がったからついて来られないんだろ w
議論の本筋をしっかり押さへずにオタク的な(略)することが「レヴェル」の向上だと
本気で(正気で)思ってゐるのかね大馬鹿クンよWWW
それはともかく、まだ今でも「新仮名・旧仮名の優劣」といふテーマを論じてゐるんだよな。
それならば、旧仮名の起源(あるいは典拠)のことは棚上げできるんだよ。
といふより、両者を比較するだけならば、棚上げする方がむしろ正しい。
もちろん旧仮名の改訂を本格的に考へる段階でなら、旧仮名の起源までも論じなければならないが。
だいたい、「歴史的表記」には原理的な困難が存在することぐらゐ、論じるまでもなく
明らかだらう。(他の表記ではなく)具体的な一つの表記を「採用」するのだから、
「その表記を採用するのはなぜか、恣意的ではないのか」といふ疑問があり得るに決ってゐる。
確認しておくが、「新仮名・旧仮名の優劣」だけならば、起源を論じる必要は無い。
明治に表記の統一を考へる時点で、なんらかの表記を採用する必要があり、それまでに
存在した規範的な表記としては契沖仮名遣が随一のものだったのだから、
それをベースにしようといふ方針を採ったのは極めて「合理的」なことだ。
(まあ、字音仮名遣は余計だったが)
ともかく、(「思う」か「思ふ」かといふ風に)旧仮名・新仮名といふ具体的な
表記の例について論じればいい。
>>662でも書いたが、新仮名も旧仮名を基にした「歴史的表記」なのであり、
「歴史的表記」の難点を指摘したところで新仮名の優位が証明されることはない。
>>630や
>>632を書いた方、あるいは他の皆さん、
>>631の書いた、
>
>>16 氏の定義は,歴史的仮名遣いの根拠となる音韻体系を想定するというもので,
>それなりに筋が通っている分,かえって,歴史的仮名遣いで現代語を表記することの
>不可能性を明らかにした (
>>198)
といふのわかりますか?
「フリコキ学生」くんは根拠を全く示さずに「お前が理解できないだけだ」
としか言はないのでね(
>>636)。
理解してゐる方、説明していただけませんか。
相手を「馬鹿だ」と主張する場合、その馬鹿である理由を(手短にでも)挙げるのは
議論をする上での常識だと思ふんですがね。
だいたい、相手が本当に「馬鹿」なら、「お前が理解できないだけだ」と
決めつけても、それで理解し納得するわけがないだらうに、「フリコキ学生」は
その程度のことも理解できない大馬鹿なんですな。
>>660 > お前の主張は「現在、新仮名が普及してゐる」といふ既成事実を無批判に受け入れる
> 者だけにしか通用しない。
旧仮名派の主張こそ,「かつては旧仮名が普及していた」という既成事実を無批判に受け入れる者にしか通用しない。
>>661 > 表記の改革をするなら、旧仮名の表音的改訂といふ「漸進主義」で十分なのに、表音主義者が
> 「(完全な)表音主義的表記」でなければならないといふ「ゼロ−サム主義」によって
> 旧仮名を排除した。
旧仮名派が「漸進主義」的改訂案を示さなかったことに原因がある。旧仮名の原理は旧仮名派にしかわからないのだから,その案は旧仮名派自らが作るほかない。
機会は大正13年にあった。仮名遣い改訂の法案は否決されたが,採決まで進んだということは,何らかの改訂が求められているということだと,旧仮名派は気づくべきだった。
> それなのに、彼らの作った新仮名も「(完全な)表音主義的表記」
> ではない点で旧仮名と同じではないか。
現代日本語を表記する場合,総合的な利便性で,現代仮名遣いは歴史的仮名遣いよりはるかに優れている。
それでも,「(完全な) 表音主義的表記」でない点があるという理由で,現代仮名遣いを斥けるとしたら,新しい表記法は完全無欠でなければならないという,ゼロ−サム主義以外の何ものでもない。
>>662 > また、表記を全く新しくつくる必要がない限り、それまでの(正しいとされる)
> 表記を踏襲する(あるいは参考にする)のが普通のやり方だらう(これを指して「歴史的」と言ふ)。
> その意味では、ほとんどの表記が原理的に「歴史的」な表記である。
現代仮名遣いにも残っている,その「歴史的」な部分こそが,まさに旧仮名派の十年一日のごとき攻撃の対象になっている。
> 「表記を全く新しくつくる」必要がないのに
> (ゼロ−サム主義の)表音主義者が、旧仮名の表音的改訂(漸進主義)を拒否したわけだ。
昭和21年には,「旧仮名の表音的改訂」案は存在しなかったのだから,拒否のしようがない。
> それなのに、お前は(クドクド、ダラダラと)「歴史的表記」の難点を指摘して、
> 「ほら、だから旧仮名はダメなんだ」と、その難点が新仮名には関係が無い
> 「フリコキ」をして勝ち誇ってゐるわけだ。
比較して難点の少ない方が勝ちなのは当たり前ではないか。
> 既出だが決着のついてない議論
反論しないで納得できないと言うことは,子供にでもできる。
>>664 > それならば、旧仮名の起源(あるいは典拠)のことは棚上げできるんだよ。
> といふより、両者を比較するだけならば、棚上げする方がむしろ正しい。
棚上げして,それでも歴史的仮名遣いの方が優れている点とは何なのか。
> 確認しておくが、「新仮名・旧仮名の優劣」だけならば、起源を論じる必要は無い。
起源と関係なく,歴史的仮名遣いの方が優れている点とは何なのか。
> 「歴史的表記」の難点を指摘したところで新仮名の優位が証明されることはない。
比較して難点の少ない方が優位にならない理由とは何なのか。
>>665 > といふのわかりますか?
歴史的仮名遣いの根拠を過去の (想定される) 音韻に求めるとすれば,のちの時代に発生した語句の仮名遣いは,君ならどうやって決めますか?
>>659 ありがたうございます。
といふことは、戦前にも部分的に今の仮名遣ひになつてゐたといふことですか。。
少年Hの批判本は読んだ事はありませんがあるさうですね。
なにやら、結構デタラメなことも書いてあるやうでw
初めて読んだ時は中学の時でしたが、今、改めて読むと、?・・・という箇所が多くあります。
670 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/28 03:22
>>664 > 明治に表記の統一を考へる時点で、なんらかの表記を採用する必要があり、それまでに
> 存在した規範的な表記としては契沖仮名遣が随一のものだったのだから、
> それをベースにしようといふ方針を採ったのは極めて「合理的」なことだ。
契沖仮名遣いは世に広まっていたわけではないのだから,利便性を優先して,全く新しい表記法を作る政策も採り得たはず。誤りの元はそうしなかったことにある。
連続性にのみ拘泥して「歴史的」と称し,利便性は二の次にして,ひどく憶えにくいことが証明されないかぎり変えなくてよい (現実に,歴史的仮名遣いの
「漸進主義」的・表音的改訂案は,現代かなづかいより前に出なかった) などと言う態度こそ,既成事実から一歩も出られないものだ。
> (まあ、字音仮名遣は余計だったが)
どうして旧仮名派の間でもそんなに意見がまとまらないのか w
旧仮名派の発想は根底から間違っている。
>>669 >戦前にも部分的に今の仮名遣ひになつてゐたといふことですか。。
へ? もしかして全然わかってない人ですか。
假名遣に關はらぬ表記は今も昔もありません。「かき(柿)」は「かき」と書くだけの話。
さもなくば「現代仮名遣い」が歴史的仮名遣を踏襲してゐるだけ。
>>657 >その手の捻じ曲げは旧仮名派の十八番ではないか w
自分から勝手に捩ぢ曲げておきながらそれを他人に轉嫁するなんて、頭がをかしいのではないか。
――と思った。
>それは一種の外来語 (古来語?) だろう。
雅馴でない新造語を持ち出すあたりに説明の苦しさが現れてるな、と思った。
>一定の目印を設けて,体系の隔たりが小さければ同言語と見なし,大きければ異言語と見なす。
その「一定の目印」も政治史その他言語外の要因で決まるのを勘定に入れてないな、と思った。
>>672 > 自分から勝手に捩ぢ曲げておきながらそれを他人に轉嫁するなんて、頭がをかしいのではないか。
「
>>59 >例外をも表音的と強辯してゐたわけだが」これが捻じ曲げでなくて何なのか。このスレッド自体が旧仮名派の捻じ曲げを出発点としている。はじめから頭がおかしいのは旧仮名派。
> 雅馴でない新造語
文学じゃあるまいし,「雅馴」であることに価値はない。
> その「一定の目印」も政治史その他言語外の要因で決まる
古典語か近代語かを判別する目印の一つに,叙述形の異形態交替 (いわゆる終止形と連体形) がある。概ね,交替があれば古典語,なければ近代語だ。そうなる理由を,「政治史その他言語外の要因」で説明してみろ。
>>661 > 表記の改革をするなら、旧仮名の表音的改訂といふ「漸進主義」で十分なのに、表音主義者が
> 「(完全な)表音主義的表記」でなければならないといふ「ゼロ−サム主義」によって
> 旧仮名を排除した。それなのに、彼らの作った新仮名も「(完全な)表音主義的表記」
> ではない点で旧仮名と同じではないか。それならば旧仮名の表音的改革でも良かっただらうに。
われわれは,「(完全な) 表音主義的表記」でないという理由で,歴史的仮名遣いを排除するのではない。
そこに根本的な誤りがある。正しい理由は,
1. 歴史的仮名遣いは複雑で憶えにくい。その程度がひどいかひどくないか,致命的か否かは主観的に決
めるのではなく,ひとえに,教育現場からの意見に基づいて決める (特に,字音仮名遣いの扱いにつ
いては苦情が多かった)。その結果,大正13年に文部省の仮名遣改訂案が議会に提出されたのだが,廃案
となり (採決はされなかった模様。
>>666 を訂正する),教育現場の声は一度は無視された。
2. (これが重要な点だが) 歴史的仮名遣いは難しいだけでなく,その難しさが役に立っていない。例え
ば,英語の綴字は不規則で憶えにくいが,その不規則さが表意性を発揮し,視覚上の語識別に役立って
いる。歴史的仮名遣いには,漢字仮名交じり表記を採るかぎり,英語のようなことはほとんどない (わ
ずかにある部分は現代仮名遣いにも受け継がれた)。
(
>>674 続き)
3. 表記法を易しくかつ便利なものにするために,昭和61年の「現代仮名遣い」は表音主義を原則とし,漢字使用を前提とする。
目的は実用性であって,表音主義は手段にすぎない。すなわち,「(完全な) 表音主義的表記」ははじめから目指していない。表音
原則に例外を設けるべきときは設ける。それらの例外は,表音主義の立場からは「難点」ということになるので,他の面で何らか
の役に立っていなければならない。実際に設けられた例外が妥当,適切なものか否かについて,検証することもできる。
4. われわれは,歴史的仮名遣いの根拠が,学問的に推定される10世紀半ばころまでの音韻であるということを,知識として持っ
ている。したがって,歴史的仮名遣いの原理と,それの「表音的」改革・改訂とは,相矛盾すると考える。旧仮名派も,「旧仮名
を手直しすればそれで十分に表記できる」 (
>>634) と言う以上,歴史的仮名遣いに手直しの必要を感じているものと理解する
が,昭和21年の「現代かなづかい」より前に,旧仮名派の側から改訂案が示されたことはない。
旧カナで音便はもとの形じゃないのが納得いかん。
677 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/01 04:05
>>671 > 假名遣に關はらぬ表記は今も昔もありません。「かき(柿)」は「かき」と書く
> だけの話。
違ひます。
……たゞ違つた點は、西洋のスペリングは、どんな語に於てもある事でありますが、
日本の假名遣は、假名が違つても同音である場合や、同じ文字に二つ以上の讀み方
があつて、用ゐ場所が疑問になる場合にかぎられ、さうでない場合、たとへば、ア
サ (朝) やヒガシ(東) などの場合には全然關係がない事であります。
(橋本進吉「假名遣について」)
>>676 音便形の例は仮名発生当初からある。
・次 ツイテ (願終四分律古点・810年頃)
・麻宇之多麻蔽礼 (万葉4094)
・奈爾毛能母弖加 (万葉3733)
・掃部寮 加牟毛理乃豆加佐 (和名抄)
>>673 文章の意味も理解できない人とは議論ができんなあ。
>おれが「いつ?」とさきにきいてたら,君はどうせ「平安時代」とか答えただろ?
この
>>654を「捩ぢ曲げ」と指摘されたのに、話をそらしてはいけない。
>>674 >歴史的仮名遣いは複雑で憶えにくい。
そればかり繰り返すのは、馬鹿のひとつおぼえ。
頭の不自由な人には憶えられないだけ。
教授法の宜しきを得れば解決する問題。
>>675 >昭和21年の「現代かなづかい」より前に,旧仮名派の側から改訂案が示されたことはない。
“「表音的」改革・改訂”しか頭に無いから、そんな出鱈目を述べるんだな。
國語調査委員會編纂『疑問假名遣』(1912)等があるのに。
>>677 > 音便形の例は仮名発生当初からある。
やっぱり発音どおりの方がいいということでしょうか?
>>678 > この
>>654を「捩ぢ曲げ」と指摘されたのに、話をそらしてはいけない。
ほう。で,
>>680 > “「表音的」改革・改訂”しか頭に無いから、そんな出鱈目を述べるんだな。
旧仮名派の方が,旧仮名の「表音的」改革・改訂を言い出したから,それについての話をしている文脈なのに,それしか頭にないから「出鱈目を述べるんだ」とは,また大きく捻じ曲げたもんだな。
言った尻からそうやって捻じ曲げが始まる。捻じ曲げが自分の得意技だとあらためて証明してどうする w
>>679 大部分の児童・生徒が君の言う「頭の不自由な人」で,大部分の教師が君の言う「教授法の宜しきを得」ない教師だったってことか。凄い独善だな。
683 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/02 01:17
>>640 > 「親子」か「同一人」かは,政治史とは関係ない。簡単に言えば,同時に使われていたかどうかによる。
>>657 > 「方言」か「国語」かの判別と,同言語か異言語かの判別は,無関係。
> 一定の目印を設けて,体系の隔たりが小さければ同言語と見なし,大きければ異言語と見なす。
上の二つの関係はどうなつてゐるのだ。
ラテン語と仏語とは同時に使はれてゐただけでなく、体系の隔たりも大きいぞ。
ラテン語の canis (犬) は、canis, canem, cani, cane, canes, canium, canibus と屈折する。仏語の chien は全く屈折しない (複数で chiens と書いても発音は同じ)。
日本語の「犬」は、上代から現代に至るまでずつと「いぬ」だ。
こんな現象はほかにも沢山有る。それでも古典語と現代語とは異言語だといへるのかね。
>>671 すみません。おつしやつてゐることがよくわからないのですが。
私の疑問は、現代仮名遣ひはいつ頃から使はれ始めたかといふことです。
うへの例でいふと、「中央」を「チウアウ」から「チュウオウ」と表記する事になったのはいつからだらう?
といふ疑問です。この辺の経緯について明るくないので申し訳ないです。
>>683 > それでも古典語と現代語とは異言語だといへるのかね。
問題はやはりそこだろうな。
ロマンス語と日本語とでは,形態の複雑さが違うので比べにくい面もあるが,日本の古典語と現代語との方が近いだろうとは思う。
結局,
@古典語と現代語の体系の隔たりは比較的小さいから,同言語の異なる位相と見るべきだ。
A同言語である以上,一貫した表記体系が適用されなければならない。
B古今を一貫した表記体系を作るためには,いろは47字 (+「ん」) を「伝統的所与」とすべきだ。
上の@〜Bがすべて認められるなら,何らかの「仮名遣い」 (歴史的仮名遣いのとおりでなくてもいいだろうが) が必要になるという主張は,おれにも理解できる。
ただし,@〜Bのどれか一つでも認められないなら,「仮名遣い」は必然性を失う。
>>684 昭和21年11月16日の,内閣告示第33号および内閣訓令第 8 号から。
それまでに旧仮名派が,字音仮名遣いだけはもうやめる (表音式にする) ともし言っていたら,和語の仮名遣いも面倒臭いけど,70年間使ってきたし,このままでもいいや,となった蓋然性は,かなりあると思う。
しかし,旧仮名派はそんなことは言わなかった。「現代かなづかい」の実施は,旧仮名派の独善,頑迷,大衆無視が招いた,自業自得というべきだ。
>>659 > 旧かな派も字音かなづかひは別だから厳守しないと考へるのが普通だと思ふ。
そう決めてくれていたら教育現場は大助かりだったんだが,実際には,何も行われなかった。
もしやるとすれば,前にも出たように,普通の人には字音と和語の区別もはっきりしないことが多いから,「発音どおりに書かないものはすべて和語だ」となるように,徹底しないと混乱を来す。
例えば,「する様だ」 「した方がよい」 「描く (<絵-かく)」 「図画」 「地面」などは,すべて一貫して「するようだ」 「したほうがよい」 「えがく」 「ずが」 「じめん」とせねばなるまい。
また旧仮名派は四の五の言うんじゃないのか w
>>682 で、自分の「捩ぢ曲げ」をそれと認めるのかどうか。話はそれから。
他人をくさしても、自らを省みなくてよいことにはならない。
>>685-686 ふつう字音仮名遣が別物とされるのは、ほとんど仮名書きされない語だからだが?
漢字で書く分には問題無い。「やう(様)」みたいな仮名書きする語はごく一部。
「しかし,旧仮名派はそんなことは言わなかった。」とは、責任転嫁にすぎぬ。
上田万年以来、国語政策・国語改革は標音文字化しか念頭に無く、
歴史的仮名遣の改訂や教授法について考慮もしなかった。その「独善」のツケを回すなかれ。
その結果、戦前「旧仮名派」はもっぱら無謀な改革への抵抗勢力として発言するのみで、
「派」と称する程の実体(団体)は無かった。
>>687 > 他人をくさしても、自らを省みなくてよいことにはならない。
旧仮名派が自らを省みたなんてことあるの?
だいたい,ここは捻じ曲げ合戦のスレじゃなかったのか w
>>688 > ふつう字音仮名遣が別物とされるのは、ほとんど仮名書きされない語だからだが?
じゃあ,小学 1 年生は「しょうがっこう」と書いてもいいわけだな?
今時幼稚園児でも仮名ぐらい書くぞ。「ようちえん」と書いていいんだな?
> 戦前「旧仮名派」はもっぱら無謀な改革への抵抗勢力として発言するのみで
単なる「抵抗勢力」はいずれ雲散霧消する。歴史の必然。
↑またまた話をそらして、返答を避けるわけだ。
「捻じ曲げ合戦」としか思ってない奴の論など、相手にしてられぬ。
そちらも「捻じ曲げ」て取られるのでは議論になるまいに。
正面から応答するつもりになったら、またおいで。
>>690 > そちらも「捻じ曲げ」て取られるのでは議論になるまいに。
何をいまさら w 旧仮名派がここまで,どれだけ話をそらしたり捻じ曲げたりしてきたよ?
それで相手には「誠意」を求める神経がわからん。
>
>>689 > > じゃあ,小学 1 年生は「しょうがっこう」と書いてもいいわけだな?
> > 今時幼稚園児でも仮名ぐらい書くぞ。「ようちえん」と書いていいんだな?
現にこれへの答もない。結局,この程度の妥協すらできないんだろ。
戦前「旧仮名派」は,対案・代案なき「抵抗勢力」として歴史に葬られたということで,このスレは終了だな。
すみません。
「〜してやろう」は「〜してやらう」になるのですか?また、
「がんばろう」は「がんばらう」ですか?
がんばらう かうべ
すずき いちらう
まつゐ ひでき
まつゐ かづあう
たぐち さう
はせがは しげとし
おほか ともかず
きだ まさを
のも ひでを
いしゐ かずひさ
おほつか あきのり
>>692ってば、ひとがわるいことをしたら自分もわるいことをしたっていいんだとさ。
でも、そもそも「捻じ曲げ」たのはそちらから。で、それを指摘されたら責任轉嫁し出した。
しかも、劣勢になると「スレは終了」させたがる、と。
わざわざ「舊字、舊假名遣ひで話すスレッド」に乘り込んで的外れな批判を撒き散らしたのはどっちだい。
>>697 > ひとがわるいことをしたら自分もわるいことをしたっていいんだとさ。
それが 2 ちゃんねる。ここには警察も検察もいない。
> そもそも「捻じ曲げ」たのはそちらから。
そもそもの捻じ曲げはこれ。
>
>>35 > > そもそも表音主義派の方が
> > 假名は表音文字なんだから表音的に使ふべしと
> > 歴史的假名遣を攻撃したのだが。
あるいはこれ。
>
>>59 > > 例外をも表音的と強辯してゐたわけだが。
> 劣勢になると
どこが? まず
>>668 にでも答えなさい。
> わざわざ「舊字、舊假名遣ひで話すスレッド」に乘り込んで的外れな批判を撒き散らしたのはどっちだい。
まあ,ここに来る人のすべてが同じ考えではないだろうけど,福田恒存のような現代仮名遣い批判こそ,完璧な的外れ。
>>685 >ただし,@〜Bのどれか一つでも認められないなら,「仮名遣い」は必然性を失う。
その通りだが、表音主義者は「認められない」とはっきり証明したわけでもないのに、
「改革」を強行したんだ。それには(例によって)知らない「フリコキ」かね。
>しかし,旧仮名派はそんなことは言わなかった。「現代かなづかい」の実施は,
>旧仮名派の独善,頑迷,大衆無視が招いた,自業自得というべきだ。
ふむふむ、つまり現代の旧仮名派が「そんなこと」を言へば、旧仮名には何の文句も
ないってことね。少なくともこのスレッドの旧仮名派は「そんなこと」に賛成の人が
多いみたいだから、キミも大喜びで旧仮名容認に回るってことだな。
>>686 >もしやるとすれば,前にも出たように,普通の人には字音と和語の区別もはっきり
>しないことが多いから,「発音どおりに書かないものはすべて和語だ」となるように,
>徹底しないと混乱を来す。
お前ってさ、自分が大馬鹿のくせに、「普通の人」をかなり見下してゐるよなW
ところで、
>>682で、
>大部分の児童・生徒が君の言う「頭の不自由な人」で,大部分の教師が君の言う
>「教授法の宜しきを得」ない教師だったってことか。凄い独善だな。
と書いてたのはもちろん別人なんだよな。まさか同一人物のわけは…。
それとも自嘲の言葉だったのかねW
>>692 > >じゃあ,小学 1 年生は「しょうがっこう」と書いてもいいわけだな?
> >今時幼稚園児でも仮名ぐらい書くぞ。「ようちえん」と書いていいんだな?
>現にこれへの答もない。結局,この程度の妥協すらできないんだろ。
これ(
>>689)が全くの愚論(それこそ、「しょうがっこう」や「ようちえん」レベルだよなWWW)
だから誰も答へなかったんだろ。字音仮名遣まで一緒くたに論じるなと何回言はれたんだよ。
>>698 > >ひとがわるいことをしたら自分もわるいことをしたっていいんだとさ。
>それが 2 ちゃんねる。ここには警察も検察もいない。
あーなるほどねー。「警察」や「検察」がゐるかどうかだけが問題で、自分の倫理感とかの
主体性ってのは全く無いわけね、よーくわかったよ。
>そもそもの捻じ曲げはこれ。
どこが「捻じ曲げ」なのか論証して見せろ。
(「自明なのに君が理解できないだけだ」なんて逃げはよせよ)
>>674-675 >われわれは,「(完全な) 表音主義的表記」でないという理由で,歴史的仮名遣いを排除するのではない。
ふむふむ、なるほど。つまり、「われわれ」は「国語改革」当時の大馬鹿な表音主義者
とは違ふんだぞ、と。(橋本進吉の言ふやうに)「仮名遣」とは「同音の仮名の書き分け問題」
だと理解してるぞ、と。それはよかった。
>1. 歴史的仮名遣いは複雑で憶えにくい。その程度がひどいかひどくないか,致命的か
>否かは主観的に決めるのではなく,ひとえに,教育現場からの意見に基づいて決める
>(特に,字音仮名遣いの扱いについては苦情が多かった)。
「教育現場」にだって(教へ方のまづさを棚に上げた)「主観的」な意見・苦情はあるだらうに。
「特に」と言ふが、字音仮名遣以外にどれほどあったんだね。
まさか、字音仮名遣だけなのに「特に」と書いてごまかしてるんぢゃないよな?
>2.(これが重要な点だが) 歴史的仮名遣いは難しいだけでなく,その難しさが役に立っていない。
>例えば,英語の綴字は不規則で憶えにくいが,その不規則さが表意性を発揮し,視覚上の
>語識別に役立っている。歴史的仮名遣いには,漢字仮名交じり表記を採るかぎり,英語の
>ようなことはほとんどない(わずかにある部分は現代仮名遣いにも受け継がれた)。
へーほーふーん?
つまり、「難しいだけでなく」、
(和語の)漢字表記を嫌ふことなく「漢字仮名交じり表記を採るかぎり」、現代仮名遣との
(役立つ)差はほとんどない、と。
うーんうーん、差が少ないのに、「複雑で憶えにくい」(1で書いてある)なんてことが
あり得るのかなあ、想像を絶する罠。
まさか、(またまたまた)字音仮名遣まで一緒に論じてるわけぢゃないよな?
>3.(略)目的は実用性であって,表音主義は手段にすぎない。
ふむ、これは2と関連する問題で、(旧仮名の)「書き分け」が役に立つかどうかだな。
旧仮名が役に立つとわかれば反対しないわけだね。
(続き)
>>675 >4. われわれは,歴史的仮名遣いの根拠が,学問的に推定される10世紀半ばころまでの
>音韻であるということを,知識として持っている。したがって,歴史的仮名遣いの原理と,
>それの「表音的」改革・改訂とは,相矛盾すると考える。
いや、「われわれ」は、「矛盾すると」は考へない。
と言ふのは、旧仮名の「根拠が(略)であるということ」は、確かな事実なのだが、
「われわれ」は別に当時の音韻を再現したいわけではなく、(現代語の)「書き分け」の
規準として当時の表記を参考にしてゐるだけだからだ。
整然たる書き分けがあるといふ「ことを,知識として持っている」から当時の表記を
参考にするわけだ。
ところで、「われわれ」ってダレダレ?
>>670 >利便性を優先して,全く新しい表記法を作る政策も採り得たはず。
飽くまでも、「も」だよな、「も」。
>連続性にのみ拘泥して「歴史的」と称し,
これは単純な誤解。「表音式」が出現したから「歴史的」と呼ばれるやうになっただけ。
中性の呼称。もっとも、価値意識をこめて「歴史的」と呼ぶ人もゐるかも知れないが。
>利便性は二の次にして,ひどく憶えにくいことが証明されないかぎり変えなくてよい(略)
つまり、「ひどく憶えにくいこと」の証明はかなり難しいから断念、と。
>>674 >2.(これが重要な点だが) 歴史的仮名遣いは難しいだけでなく,その難しさが役に立っていない。
>例えば,英語の綴字は不規則で憶えにくいが,その不規則さが表意性を発揮し,視覚上の
>語識別に役立っている。歴史的仮名遣いには,漢字仮名交じり表記を採るかぎり,英語の
>ようなことはほとんどない(わずかにある部分は現代仮名遣いにも受け継がれた)。
ほほー、ふーん、はー???
そーなのおー?
ぢゃあ、これはどうなのかなあ〜。
1.「言ふ」「思ふ」などと書くことで助動詞「う」が際立つ。
2.イ音便(及びそれに準ずるもの)が際立つ。
・「違ひ」(動詞)、「高い」(形容詞)などと書き分けることで違ひが明確にわかる。
・「買ひたい」など。
3.ウ音便(及びそれに準ずるもの)が際立つ。
(うまい例がちょっと思ひ出せないが)
・「向ふ(ムカウ)」と「向う(ムコー)」
4.ヤ行のエが際立つ
・「増える」と書くことで「増やす」と同じヤ行だと意識する。
5.「づ」「ず」の書き分け
・「出づ(いづ)」「出ず(でず)」の違ひ。
・「出づ(いづ)」と書くことで「出でて」と同じダ行だと意識。
6.「ぢ」「じ」の書き分け
・「恥ぢる」(和語の動詞)、「論じる」(漢語)などと書き分けることで違ひが明確になる。
(まあ、「ぢ・づ」の場合は、新仮名派でも書き分けを支持する人がゐるが)
以上、(思ひつくだけでも)1〜6のやうな例があるが、これは全く役に立たないわけね(ホントかね)。
英語のやうに「不規則で憶えにくい」などといふことも無く、「表意性の発揮」や
「語識別」を期待しながらおぼえるのだから、「憶えにくい」などといふことはほとんど無い、
あるとすれば書く機会が無い語か、専ら漢字表記をする語である。
「われわれ」は、そんな風に考へるのである。
>>699 > 表音主義者は「認められない」とはっきり証明したわけでもないのに、
> 「改革」を強行したんだ。
結局,歴史的仮名遣いの不自由に甘んじるほどの理由になり得なかったってこと。
それに,古典語を現代仮名遣いで書く可能性だってある。中国を見よ。司馬遷も杜甫も簡体字で書かれ,「?」や「!」まで使われる。真の古典の価値は,表記法ごときで微塵も損なわれるものではない。
> つまり現代の旧仮名派が「そんなこと」を言へば、旧仮名には何の文句も
> ないってことね。
言ってない。「これ(
>>689)が全くの愚論(それこそ、「しょうがっこう」や「ようちえん」レベルだよなWWW)
だから誰も答へなかったんだろ。字音仮名遣まで一緒くたに論じるなと何回言はれたんだよ」 (
>>700)
「そんなこと」とは,そう書いてよいと認めることだ。
> お前ってさ、自分が大馬鹿のくせに、「普通の人」をかなり見下してゐるよなW
「普通の人」を「頭の不自由な人」と呼ぶのは旧仮名派。
>>700 > 自分の倫理感とかの主体性ってのは全く無いわけね
旧仮名派には倫理なんてまるでない。捻じ曲げ放題,「わるいこと」のやり放題。
> どこが「捻じ曲げ」なのか論証して見せろ。
根拠となる事実が皆無。
>>701 > 「教育現場」にだって(教へ方のまづさを棚に上げた)「主観的」な意見・苦情はあるだらうに。
そうでない意見もたくさんあった。戦前の文部省は国民の思想統制の要だっただけに,教育現場の実態を的確に把握していた。
軍部が台頭する前の国定教科書の出来はすばらしい。
> まさか、字音仮名遣だけなのに「特に」と書いてごまかしてるんぢゃないよな?
仮にそれだけだったとして,旧仮名派にはその字音仮名遣いをやめると言うことすらできない。
> うーんうーん、差が少ないのに、「複雑で憶えにくい」(1で書いてある)なんてことが
> あり得るのかなあ、想像を絶する罠。
そりゃそうだろう,旧仮名派には,漢字を仮名に開くこともあると考える想像力もないんだから w
>>702 > いや、「われわれ」は、「矛盾すると」は考へない。
それなら,旧仮名派自らが「表音的」改革・改訂案を示すべきだった。
しかし,そうしないうちに昭和21年を迎えた。要するに,遅きに失したんだよ。
> ところで、「われわれ」ってダレダレ?
すべての良識人。
> つまり、「ひどく憶えにくいこと」の証明はかなり難しいから断念、と。
「ひどく」の証明は不要。微罪でも罪は罪。
>>703 > 1.「言ふ」「思ふ」などと書くことで助動詞「う」が際立つ。
「言う」 「思う」 「言おう」 「思おう」と書けばいい。
> 2.イ音便(及びそれに準ずるもの)が際立つ。
> ・「違ひ」(動詞)、「高い」(形容詞)などと書き分けることで違ひが明確にわかる。
> ・「買ひたい」など。
「*違い」「*買い」という形容詞はないし,「*高う」という動詞もない。現代仮名遣いで問題なし。
> 3.ウ音便(及びそれに準ずるもの)が際立つ。
> ・「向ふ(ムカウ)」と「向う(ムコー)」
「向かう」 「向こう」と書けばいい。
> 4.ヤ行のエが際立つ
> ・「増える」と書くことで「増やす」と同じヤ行だと意識する。
語識別と関係ない。
> 5.「づ」「ず」の書き分け
> ・「出づ(いづ)」「出ず(でず)」の違ひ。
> ・「出づ(いづ)」と書くことで「出でて」と同じダ行だと意識。
現代語で「出ず (る)」という動詞はふつう使われないから,書き分けを残す必要はない。
> 6.「ぢ」「じ」の書き分け
> ・「恥ぢる」(和語の動詞)、「論じる」(漢語)などと書き分けることで違ひが明確になる。
語識別と関係ない。
>>703 > 以上、(思ひつくだけでも)1〜6のやうな例があるが、これは全く役に立たないわけね(ホントかね)。
現代語を表記するかぎり,現代仮名遣いより役に立っている点はない。
> 専ら漢字表記をする語である。
容易には漢字が仮名に開けない。「憶え」が「おぼえ」なのか「*をぼえ」なのかは,語識別と関係ない。
「表意」が「*ひようい」 「*ひようゐ」 「*ひやうい」 「*ひやうゐ」 「へうい」 「*へうゐ」のどれなのかは,語識別に役立っているといえるのか。「憑依 (ひようい)」との違いが示せるくらいだろう。ほかのありうる書き方は全部ムダ。
> 「われわれ」は、そんな風に考へるのである。
で,
>>689 への答は?
小学 1 年生でも「小学校」,幼稚園児でも「幼稚園」と,漢字表記しなければならないということか?
小学 1 年生が,日本語の字で shoogakkoo と書きたいと言って来たとき,その子に教えられるのは,次の三つしかない。
1. 漢字で「小学校」と書きなさいと言う (正書法主義)。
2. 仮名で「しょうがっこう」と書きなさいと言う (表音的表記)。
3. 仮名で「せうがくかう」と書きなさいと言う (字音仮名遣い)。
現代の旧仮名派はどれなんだ? どれでもないという答は通らんぞ。
あるいは「4. 困るから書くなと言う」かな w
>>706 >> ・「向ふ(ムカウ)」と「向う(ムコー)」
> 「向かう」 「向こう」と書けばいい。
舊假名の場合両方とも[むこー]と読むんじゃないの?
>>701 > つまり、「われわれ」は「国語改革」当時の大馬鹿な表音主義者とは違ふんだぞ、
> と。
どんな人のことを言ってるのか知らないが,「現代かなづかい」とは関係がない。
> > 国語を書きあらわす上に,従来のかなづかいは,はなはだ複雑であつて,使用
> > 上の困難が大きい。これを現代語音にもとづいて整理することは,教育上の負
> > 担を軽くするばかりでなく,国民の生活能力をあげ,文化水準を高める上に,
> > 資するところが大きい。(内閣訓令第 8 号,昭和21年11月16日)
「そもそも表音主義派の方が假名は表音文字なんだから表音的に使ふべしと歴史的假名遣を攻撃したのだが」 (
>>35) こんなのは言い掛かり,捻じ曲げ以外の何ものでもない。
>>702 > 飽くまでも、「も」だよな、「も」。
旧仮名派は「も」の方が優れていても,絶対に「も」へは行かない。比べるということができない。
711 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/19 22:03
>>708 現代仮名遣いを認めない、伝統仮名遣い派なら、
× 2. 仮名で「しょうがっこう」と書きなさいと言う (表音的表記)。
○ 2. 仮名で「しょおがっこお」と書きなさいと言う (表音的表記)。
だよ。
個人的には、
◎ 2. 仮名で「ショーガッコー」と書きなさいと言う (表音的表記)。
と片仮名で、音写をするのが正解だと思うね。これだと、
「小学校」「せうがつこう」「ショーガッコー」の三種類の表記が共存できる。
辞書の見出しは片仮名に統一するんだろうね。
>>711 > × 2. 仮名で「しょうがっこう」と書きなさいと言う (表音的表記)。
> ○ 2. 仮名で「しょおがっこお」と書きなさいと言う (表音的表記)。
「しょう」と「しょお」,「こう」と「こお」には音韻的対立がないから,どっちで書いても表音的表記。既出。
713 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/19 22:29
>>712 >「しょう」と「しょお」,「こう」と「こお」には音韻的対立がないから,どっちで書いても表音的表記。既出。
その結論は?キミの脳内、それとも、そのスレのレベルの低い一部の常連?
つうか、
「せう」が字音仮名遣いで、
「しょう」が現代仮名遣いで、
「しょお」が表音仮名遣いという区別さえ出来なれければ、
キミはこのスレに来る資格はないよ。
昭和20年代までは、「小」の辞書の見出し語は、「しょお」であり、
その現代仮名遣いが「しょう」で歴史的仮名遣いが「せう」と書いてある辞書も
存在したのだよ。現代仮名遣い制定時には、「現代仮名遣い=表音仮名遣い」と
混同した辞書編纂者はいないよ。現代仮名遣いはあくまでも、表音と伝統との
妥協物だと認識していた。(だから、伝統仮名遣いに対して食わず嫌いの
現代仮名遣い派はレベルが低いんだろうね。)
ちなみに、「小学校」「せうがつかう」「ショーガッコー」に訂正。
>>711 > 「小学校」「せうがつこう」「ショーガッコー」の三種類の表記が共存できる。
「せうがくかう」という表記を残すなら,結局,字音仮名遣いをやめたことにはならない。
715 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/19 22:41
>>714 スマンが、俺は、和語の伝統仮名遣いを肯定して、字音仮名遣いを
否定する「修正歴史的仮名使い」論者ではないので、
俺に対して、字音仮名遣い「せうがつかう」の批判をしてもらっては困る。
俺は、あくまでも、和語も漢語もセットとして考えている。
(歴史的仮名遣いを肯定も否定もせず、時代考証としてセットで考えるべきであるという立場)
また、明治後期からは、片仮名は、忠実な音写のために活用するという用途も
発達しており、実際、平仮名では「せうがつこう」で書き、
片仮名では「ショーガッコー」とルビを振る例もあった。
なぜ、戦前の教育では、小学校一年生で片仮名から教えたのか、
考えたことはあるか?片仮名を仮名遣いから解放し、
音写のために活用しようという流れはあったのだよ。
>>713 > その結論は?キミの脳内、それとも、そのスレのレベルの低い一部の常連?
音韻論の必然。
> 「しょう」が現代仮名遣いで、
> 「しょお」が表音仮名遣いという区別さえ出来なれければ、
> キミはこのスレに来る資格はないよ。
> 昭和20年代までは、「小」の辞書の見出し語は、「しょお」であり、
> その現代仮名遣いが「しょう」で歴史的仮名遣いが「せう」と書いてある辞書も
> 存在したのだよ。
そういうことをしなくなったのは,みんなのレベルが低くなったからという解釈か w
また一人独善家が現れたな。
> 現代仮名遣い制定時には、「現代仮名遣い=表音仮名遣い」と
> 混同した辞書編纂者はいないよ。現代仮名遣いはあくまでも、表音と伝統との
> 妥協物だと認識していた。
今でもみんなそう認識している。混同して妥協を許さず,表音原則の例外に対して的外れな攻撃をしつこく加えつづけているのが旧仮名派。
717 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/19 22:58
>>716 俺は、旧仮名派ではないよ。
「しょう」と「しょお」の区別が出来ない人は、
歴史的仮名遣いのみならず、現代仮名遣いでさえも理解していないという事実を指摘しただけだよ。
なぜ、現代仮名遣いに切り替わった戦後20年代や、場合により30年代まで
一部の辞書が見出し語に「しょう」でなく「しょお」を使っていたか
考えたことはある?当時では、現代仮名遣いは表音仮名遣いでないという
正しい認識があったからだよ。
「は」「へ」「を」「いう」という少数の例外だけでなく、
実際に現代仮名遣いは実際の発音とずれている部分は沢山あるという
認識が必要だよ。
キミは「うき」を oki と読んだりする?
718 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/19 23:29
711=713=715=717 だが、
>>708 への回答が、わき道にそれてしまったね。
旧仮名遣い派が、漢字も仮名遣いも十分に習得していない小学校一年生に
「小学校」という単語を作文で書かせるのなら「ショーガッコー」が正解になる。
これは、戦前すでに、片仮名は、仮名遣いから独立させて、
音写文字として活用しようという流れがあったことによる。
ただし、学年が進み、仮名遣いを習得したら、平仮名で「せうがつかう」と
書くことを知り、そして、漢字を習得したら、漢字で「小学校」と書くことを知る。
(余談だが、元々、「ー」は片仮名専用の文字なので、「ショーガッコー」を
平仮名であえて書くなら、「しょおがっこお」とならざるをえない。)
また、「せう」→「しょお(ショー)」と読むのが歴史的仮名遣いで、
「しょう」→「しょお(ショー)」と読むのが現代仮名遣いであって、
歴史上いかなる時点でも、「せう」→「しょう」と読む仮名遣いは存在しなかった。
月刊『言語』2004年8月号(定価920円)
【特集】言語にとって文字とは何か──文字論の復権
○テレビ型言語としての日本語(鈴木孝夫)
○訓仮名の成立(沖森卓也)
○漢字はどのように周囲へ広がっていったか(西田龍雄)
○文字処理の認知科学(横山詔一)
○言語を進歩させる文字(矢島文夫)
○日本語はどの程度「文字の言語」であるか(佐竹秀雄)
◎歴史的仮名遣いは表語か表音か(毛利正守)
○楔形文字の送り仮名(池田 潤)
>>717 > 「しょう」と「しょお」の区別が出来ない人は、
> 歴史的仮名遣いのみならず、現代仮名遣いでさえも理解していないという事実を指摘しただけだよ。
君こそ,表音的すなわち音韻を表すということがどういうことか,全く理解できていない。
> なぜ、現代仮名遣いに切り替わった戦後20年代や、場合により30年代まで
> 一部の辞書が見出し語に「しょう」でなく「しょお」を使っていたか
> 考えたことはある?
そういう辞書を手に取って見たことはないが,当時は,「しょお」は「表音的」だが「しょう」は「表音的」でないと考える人がまだいたからだろう。
> 当時では、現代仮名遣いは表音仮名遣いでないという
> 正しい認識があったからだよ。
今でもそう認識している。昔は賢かったが今は馬鹿という独善にしか結びつかないのは,旧仮名派と同じ。
> 「は」「へ」「を」「いう」という少数の例外だけでなく、
> 実際に現代仮名遣いは実際の発音とずれている部分は沢山あるという
> 認識が必要だよ。
それらが直ちに表音的でないということにはならない。
> キミは「うき」を oki と読んだりする?
もちろんしない。「浮き」と「沖」とは違う意味だから。
しかし,「しょう」と「しょお」とで違う意味になる組は存在しないから,平気で「しょう」を /syoo/ と読む。
極端な話,仮に規範が定めるなら,おれは「しょあ」でも構わない。音声印象と違いすぎるのは問題だが,1 か月も練習すれば,たぶん慣れてしまって /syoo/ と読めるようになる。
表音的とはそういうことだ。
>>718 > ただし、学年が進み、仮名遣いを習得したら、平仮名で「せうがつかう」と
> 書くことを知り
結局,「せうがくかう」を「憶えなければならない」のか「憶えなくてよい」のか,問題はそこだ。
「憶えなければならない」のなら,旧仮名派から何度も出た「字音仮名遣を一緒くたにするな」という文句は,全く無意味だったことになる。
> 歴史上いかなる時点でも、「せう」→「しょう」と読む仮名遣いは存在しなかった。
そんなこと断言できない。中世の「せう」 (キリシタン資料‘xo^’) の音価は [∫ou] だったと推定する学説もあり,それなりの根拠をもっている。
>>720 > そもそも小學生に教へる場面を例に出すのがをかしい。
だれもがかつては小学生。全然おかしくない。
> 日本語を知った大人が使ふために文字がある。
習わずに文字を知っている人はいない。
> ふつう漢字で書く「小學校」は「小學校」と書かせるのがよい。
それは正書法主義ということになるが,辞書の見出しはどうするのか。
そこでやっぱり「せうがくかう」が出て来るなら,旧仮名派が「字音仮名遣まで守れとは言ってない」と言うのは,大嘘だ。
>>722 Google 検索結果 (日本語ページ):
George Bernard Shaw を「ショウ」: 約2580件。
〃 「ショオ」: 約17件。
〃 「ショー」: 約5720件。
Edgar Allan Poe を「ポウ」: 約137件。
〃 「ポオ」: 約887件。
〃 「ポー」: 約9260件。
いずれも,「ー」を使わない場合,誤った形の方が多い。
現代日本語に [Cou] と [Coo] の音韻的対立はない。どっちで発音しても一つの音韻 /Coo/。(C: 子音)
726 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/20 23:58
>>721 >そういう辞書を手に取って見たことはないが,
小学館の辞書、金田一京助が編者だよ。
>当時は,「しょお」は「表音的」だが「しょう」は「表音的」でないと考える人がまだいたからだろう。
俺は、キミよりも、金田一先生を信じるよ。
現代の辞書が「おう」を見出しに採用したのは、
単純に、それで混乱がないことがわかったからでしょう。
「おう」と「おお」が音韻的にいっしょだから採用したわけではないよ。
727 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/20 23:59
(続き)
>>721 >しかし,「しょう」と「しょお」とで違う意味になる組は存在しないから,
じゃあ、キミの小学校時代の先生は、「しょおがっこお」と書いて、○をくれたか?
>平気で「しょう」を /syoo/ と読む。
だから、それが仮名遣いでしょう?
「しょう」だから、[sho:/shoo]と読むのであって、「しょ・う」だったら、[sho・u]としか読みようがない。
単独の「う」を [o] と読む仮名遣いは存在しない。
>極端な話,仮に規範が定めるなら,おれは「しょあ」でも構わない。音声印象と違いすぎるのは問題だが,1 か月も練習すれば,たぶん慣れてしまって /syoo/ と読めるようになる。
そのとおりだよ。「SOAP」と書いて [so:p] と読む言語だってある。
その論理だと、「書かう」と書いて、一ヶ月も練習すれば、「書こう」と読めるよ。
これは、音韻とは無関係、全部、仮名遣いやスペリングの話。
キミの話は、全部仮名遣いの議論に、まったく無関係な音韻論を説いて、
(キミ自信も含めて)ケムに巻いているようだが、
ちょっと、わかる人が読めば全然説得力がないことがわかる。
キミの説だと、現代仮名遣いに当てはまる表音的なものの
大半は、歴史的仮名遣いにも当てはまり、旧仮名の批判にならない。
>>723 辭書の見出しと正書法は別問題。
事實、かつて(第三版まで)の『広辞苑』は、
「現代かなづかい」以上に表音的な見出しであつた。
主幹の新村出が新かな反對派であつたのは有名。
729 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/21 00:15
>>722 > 結局,「せうがくかう」を「憶えなければならない」のか「憶えなくてよい」のか,問題はそこだ。
> 「憶えなければならない」のなら,旧仮名派から何度も出た「字音仮名遣を一緒くたにするな」という文句は,全く無意味だったことになる。
コテハンを使かっていないので、混乱するのも仕方ないが、
おれは、字音仮名遣いと和語の旧仮名遣いを分離する立場をとっていない。
そいう立場の人は、「新復古仮名遣い」派と名前を変えるべきだね。
> > 歴史上いかなる時点でも、「せう」→「しょう」と読む仮名遣いは存在しなかった。
> そんなこと断言できない。中世の「せう」 (キリシタン資料‘xo^’) の音価は [∫ou] だったと推定する学説もあり,それなりの根拠をもっている。
そこまで、突っ込むと、「お」は[wo]と読み、「え」は[ye]と読んだ話から始まって、
それこそ、仮名遣いに表音的なものを求めるのがまったく無意味だという結論になるのだが。
百年後に、現在の支持者がいうような現代仮名遣いの表音的要素が維持されているかどうかは
誰にもわからないわけだし。
字音假名遣は一種のIPAみたいなものだったといふ説あり。龜井孝だつたかな。
餘談ながら、かめい たかし『ことばの森』(吉川弘文館、1995)には
特異なかなづかひがあるのにお氣づきかな。
基本的に「現代仮名遣い」だが、「言おう(言はう)」は「言わう」と書いてゐる。
やはりワア行五段活用なんて二行にまたがる無理は許し難かつたのかね。
>>726 > 小学館の辞書、金田一京助が編者だよ。
> 俺は、キミよりも、金田一先生を信じるよ。
京助は日本語は素人。どうせ信じるならもっと偉い人にしなさい。
> 現代の辞書が「おう」を見出しに採用したのは、
> 単純に、それで混乱がないことがわかったからでしょう。
> 「おう」と「おお」が音韻的にいっしょだから採用したわけではないよ。
音韻的対立がないからこそ混乱がないんだ。音韻的に違うものを一緒にすれば,大なり小なり必ず混乱が起こる。
>>727 > じゃあ、キミの小学校時代の先生は、「しょおがっこお」と書いて、○をくれたか?
何を言ってるんだか。放置すれば○になってしまうから,「現代かなづかい」で,オ列の長音は原則として「う」と書くと定めてあるんじゃないの。
> だから、それが仮名遣いでしょう?
> 「しょう」だから、[sho:/shoo]と読むのであって、「しょ・う」だったら、[sho・u]としか読みようがない。
> 単独の「う」を [o] と読む仮名遣いは存在しない。
「しょ・う」となるということは,「じ - しょ・うり - ば (辞書売り場)」のように,「しょ」と「う」とがそれぞれ異なる形態素に含まれるということだろう。
「仮名遣い」とは形態素ごとに決まるべきものだから,異なる形態素にまたがる「しょ・う」という音の並びは,「仮名遣い」と何の関係もない。
> その論理だと、「書かう」と書いて、一ヶ月も練習すれば、「書こう」と読めるよ。
> これは、音韻とは無関係、全部、仮名遣いやスペリングの話。
そりゃ読めるわな。で,歴史的仮名遣いでは,/koo/ という音韻はすべて「かう」と書いていいのかい?
「音韻とは無関係」ならそういうことになるはずだが。
> キミの説だと、現代仮名遣いに当てはまる表音的なものの
> 大半は、歴史的仮名遣いにも当てはまり、旧仮名の批判にならない。
例えば,同一の音韻 /syoo/ を,現代仮名遣いでは「しょう」の一通りに書くが,歴史的仮名遣いでは「しよう」 「しやう」 「せう」 「せふ」の 4 通りに書く。
決定的な違いはその「1 対 4」にある。前者は表音的だが,後者は表音的とはいえない。
(こう言うと旧仮名派はまた「完全に表音的でないと攻撃した」と捻じ曲げるんだろ。そうじゃなくて,表音的でない点が多すぎるから憶えにくい,何とかしろと言ってるんだよ)
君はウンザリするほど何もわかってないね。
>>728 > 辭書の見出しと正書法は別問題。
そりゃそうだろうよ,君は漢字表記を正書法とする立場なんだから。
で,辞書の見出しはどうするんだ? その表記法を定めないと辞書が作れないし,子供に引き方も教えられない。
>>729 > 百年後に、現在の支持者がいうような現代仮名遣いの表音的要素が維持されているかどうかは
> 誰にもわからないわけだし。
日本語に音韻体系の大変化が起こって,現代仮名遣いで書けないような音韻が発生した場合は,表記体系を改めるしかあるまい。
>>731 > やはりワア行五段活用なんて二行にまたがる無理は許し難かつたのかね。
「現代かなづかい」の実施とともに,それにふさわしい,五十音図によらない文法が編まれるべきだったのだが,そうならなかったことについては,戦後の学者の怠慢を認めざるを得ないだろう。
もっとも,そうした文法も,日本語教育の分野では考案され,使われているのだが。
日本語教育なんて所詮外人向け。
日本語に無知な外人や子供のために大人が改めさせられるのでは本末顛倒。
「元來、文字は知らない言語を新しく覺える爲のものではなく、わかつてゐる言語を書き、書いた文字から知つてゐる語をおもひ出す爲のものである。」
737 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/21 15:06
>>733 >
>>727 > > じゃあ、キミの小学校時代の先生は、「しょおがっこお」と書いて、○をくれたか?
> 何を言ってるんだか。放置すれば○になってしまうから,「現代かなづかい」で,オ列の長音は原則として「う」と書くと定めてあるんじゃないの。
>
この一文こそが、キミが音韻論と仮名遣いを混同している証拠なのだが。
音韻的に放置したら「しょおがっこお」と書いてしまうから、
仮名遣いという規範で、オ段長音を「おう」とつづることにしたんでしょ。
そして、個人的に耳が不自由で、「おお」と「おう」が聞き分けられない人もいるし、
方言や年齢によって、音韻の解釈がゆれるのはしかたないけど、
それは、仮名遣いとは別の議論であって、
もともと、現代仮名遣いとは、オ段長音を「おう」とつづると定めたものであって、
「おう」と「おお」に音韻的に区別がないかなら「おう」を採用しましょうと
決めたものではない。
家事(かじ)と火事(くわじ)を音韻的に区別している方言の人が、
いくら両者を書き分けたくても、教科書でそうさせてくれないのが仮名遣いだよ。
仮名遣いと音韻論はまったく無関係。
音韻、音韻と念仏を唱えて、仮名遣いの議論を混乱させても無理だよ。
738 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/21 15:18
>>732 > 京助は日本語は素人。どうせ信じるならもっと偉い人にしなさい。
音韻基地外であるキミよりは信用できるよ。
キミは、「しょお」を見出しにしていた広辞苑さえも否定しているようだしね。
(というか、現代仮名遣いしかしらず、旧仮名遣いや、
戦前・戦後の表音仮名遣いに関する文献もろくに知らなかったようだ。
食べたこともない食べ物をまずいと批評するようなものだな。)
音韻が好きなら、音韻のスレにいけば活躍の場はあるよ。
キミの仮名遣い論のレベルでは、スレが建設的にならない。
739 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/21 15:33
>>738 への補足
ちなみに、音韻論のスレにいくのなら、仮名で議論するのではなく、
IPA がローマ字を使った IPAもどきでないと、
ここで、おきたのと同じ不毛なレスを繰り返すことになるよ。
740 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/21 15:59
>>735 >
>>729 > > 百年後に、現在の支持者がいうような現代仮名遣いの表音的要素が維持されているかどうかは
> > 誰にもわからないわけだし。
> 日本語に音韻体系の大変化が起こって,現代仮名遣いで書けないような音韻が発生した場合は,表記体系を改めるしかあるまい。
>
そうだね。そのときこそ、このスレの議論が生きてくる。
現代仮名遣い支持派が、「擬似表音的」だから支持しているのか、
「単なる慣れ」で支持しているのか、真価がわかる。
>>734 別問題なのに何のために問ふのだかね。
「見出しはどうする」って、『広辞苑』舊版の例も擧げただらう?
>>737 >仮名遣いと音韻論はまったく無関係。
とは言つても、福田恆存に反論された金田一京助とか松坂忠則とかみたいに、
「現代仮名遣い」を正當化するのに音韻の概念を使って批判を退けようとする人が多かつた。
服部四郎『音韻論と正書法』のやうに、正書法は音韻(音素)に基づくべきと信ずる人もね。
まあ皆愚かだつたわけか。合掌。
>>736 > 日本語教育なんて所詮外人向け。
現代日本語の事実に忠実な文法を,どうして「外人」専用にしなければならないのか。
> 日本語に無知な外人や子供
日本人の子供は日本語に無知ではない。「外人」と「や」でつなぐことはできない。
> 子供のために大人が改めさせられるのでは本末顛倒。
かつて子供でなかった大人はいない。大人が子供だった時に不自由だったことは,これからの子供にも味わわせなければ気が済まぬという,邪悪なサディストが旧仮名派の正体。
> 「元來、文字は知らない言語を新しく覺える爲のものではなく、わかつてゐる言語を書き、書いた文字から知つてゐる語をおもひ出す爲のものである。」
それならほとんどの規範は要らない。歴史的仮名遣いに拘る意味もないはず。
744 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/21 23:45
>>742 > 「現代仮名遣い」を正當化するのに音韻の概念を使って批判を退けようとする人が多かつた。
素人受けがいいからでしょ。
> まあ皆愚かだつたわけか。合掌。
ということになるね。
>>737 > この一文こそが、キミが音韻論と仮名遣いを混同している証拠なのだが。
> 音韻的に放置したら「しょおがっこお」と書いてしまうから、
> 仮名遣いという規範で、オ段長音を「おう」とつづることにしたんでしょ。
君が音声と音韻とを混同している証拠。
放置したら「しょおがっこお」と書いてしまう子供が多いのは,その方が音声に近いから。
「現代仮名遣い」では,20数語を除いて,オ列長音はすべて「(Co) う」と綴ることになっている。すなわち,実は「仮名遣い」ではない。
どうしてすべて「(Co) お」と綴らないのかと言われれば,それは,慣習に妥協したと答えざるを得ない。
> そして、個人的に耳が不自由で、「おお」と「おう」が聞き分けられない人もいるし
聞き分けられても語の意味には関係がない。音声の問題。
> 方言や年齢によって、音韻の解釈がゆれるのはしかたないけど
現代共通日本語において,音韻の解釈に揺れはない。「Co う」と「Co お」に音韻的対立は認められない。
> それは、仮名遣いとは別の議論であって
もともと「仮名遣い」とは関係がない。
> もともと、現代仮名遣いとは、オ段長音を「おう」とつづると定めたものであって、
> 「おう」と「おお」に音韻的に区別がないかなら「おう」を採用しましょうと
> 決めたものではない。
もしも,「Co う」と「Co お」に音韻的対立があるなら,オ列長音を原則的に「(Co) う」と綴ると定めることはできない。
その場合は,/Cou/ は「Co う」と綴り,/Coo/ は「Co お」と綴るしかない。
>>737 > 家事(かじ)と火事(くわじ)を音韻的に区別している方言の人が、
> いくら両者を書き分けたくても、教科書でそうさせてくれないのが仮名遣いだよ。
「現代仮名遣い」は,現代共通日本語しか対象にしていない。
現代共通語に /ka/ と /qua/ の音韻的対立がもしあれば,当然,「か」と「くゎ」を書き分けるだろう。
> 仮名遣いと音韻論はまったく無関係。
「現代仮名遣い」は実は「仮名遣い」ではなく,「現代仮名表記法」とでも呼ぶべきものだ。「中ノ島ブルース」が実はブルースでないのと同じ。
「現代仮名遣い」は,音韻の土台の上にしか成り立たない。
> 音韻、音韻と念仏を唱えて、仮名遣いの議論を混乱させても無理だよ。
君が音韻を理解できないので勝手に混乱してるだけ。
>>738 > 音韻基地外であるキミよりは信用できるよ。
> キミは、「しょお」を見出しにしていた広辞苑さえも否定しているようだしね。
そんなことをする必要がないとわかったからやめた。それだけのこと。
「必要がない」のはなぜかというと,「しょう」でも「しょお」でも表音的であることに変わりはないからだ。
>>739 > ちなみに、音韻論のスレにいくのなら、仮名で議論するのではなく、
> IPA がローマ字を使った IPAもどきでないと
IPA は音声を表すためのもので,音韻を表すためのものではない。
>>727 > 「SOAP」と書いて [so:p] と読む言語だってある。
それが英語なら [soup] だが。ソープ通いもほどほどに w
748 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/22 00:11
>>745-747 いやね。簡単なことなんだけど、
現代仮名遣いでは、[sho: ]を「しょう」とつづると決めただけで、
[shou]と[sho:]に音韻的な区別がないということには
まったく関係がないんだよね。
だから、[sho:]と「しょう」が対応するのは、現代仮名遣いだけの論理であり、
歴史的仮名遣いの人が、外来語や仮名遣いが不明な[sho:]という
発音を聞いたとき、普通、「ショー」もしくは、「しょお」と書くでしょう。
この論理のどこに音韻論が関係するの?
キミが頑張って、3つもレスをつけても誰も読まないよ。
>>743 外人とネイティヴとでは言語の了解の仕方が違ふ。
言語事實は觀點によつて異なるもの。ソシュールでも讀み直したまへ。
子供が大人より無知なのは否定できまい。
新參者が日本語といふ共有財産を運用したいならこれまでの慣習に合せるのが當然。
程度の低い使ひ手に迎合するばかりで、それでは本當の意味で親切にもならぬ。
言語は慣用に基づく。既知既存既成の規範を尊ぶからこそ通用する。
>>741 > 「見出しはどうする」って、『広辞苑』舊版の例も擧げただらう?
ほう。『広辞苑』旧版のようにするわけか。それなら表音的だな。
では次に,字音の読み方を答えさせたり,振り仮名を付けたりする場合だが,そのときも辞書の見出しと同様でよいのか?
>>750 自分が辭書の見出しと正書法とは別問題と認めたのも忘れたのか。
>>744 >素人受けがいいからでしょ
イヤ音韻論なんて大半の言語學の素人には理解されなかった。
それも當然か、金田一京助からしてまともに理解してなかったのだもの。
(マアまだ音素の定義自體、メンタリズムとメカニズムとで爭ってゐた時代だし)
さういふ曖昧な音韻論を持ち出す矛盾を衝いたのが福田恆存による金田一批判だらう。
>>748 > 現代仮名遣いでは、[sho: ]を「しょう」とつづると決めただけで、
> [shou]と[sho:]に音韻的な区別がないということには
> まったく関係がないんだよね。
[∫ou] と [∫oo] には音韻的区別があると言ってたんじゃなかったの?
音韻的対立がもしあったら,前者は「しょう」,後者は「しょお」と綴る,としか決められない。
> だから、[sho:]と「しょう」が対応するのは、現代仮名遣いだけの論理であり
それでいいんだよ。/syoo/ は必ず「しょう」と書く。ほかの書き方はない。それを表音的と言う。
「しょお」が「表音的」で「しょう」は「表音的」でないなどというのは全くの誤り。
> 歴史的仮名遣いの人が、外来語や仮名遣いが不明な[sho:]という
> 発音を聞いたとき、普通、「ショー」もしくは、「しょお」と書くでしょう。
おれは知らねえよ。「せうゆ (醤油)」 「どぜう (泥鰌)」なんて表記もあるぜ。
>>749 > 外人とネイティヴとでは言語の了解の仕方が違ふ。
五十音図だって元はインドだ。「外人」が作ったものだが。
> 子供が大人より無知なのは否定できまい。
歴史的仮名遣いを知って得することは何もない。
> 言語は慣用に基づく。既知既存既成の規範を尊ぶからこそ通用する。
江戸時代に歴史的仮名遣いの慣用はなかった。既知でも既存でも既成でもなく,尊ばるべき規範ではなかった。
>>751 別問題でも辞書は作らなければならない。意義分類体とか,早引節用集みたいにするかい w
>>750 わかりにくいレスだな。
字音の読み方を答えさせたり,振り仮名を付けたりするときは正書法だから,歴史的仮名遣いに従う,ということなら,「字音仮名遣まで守れとは言ってない」というのは,やはり大嘘だ。
757 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/22 01:04
>>753 > > 歴史的仮名遣いの人が、外来語や仮名遣いが不明な[sho:]という
> > 発音を聞いたとき、普通、「ショー」もしくは、「しょお」と書くでしょう。
> おれは知らねえよ。「せうゆ (醤油)」 「どぜう (泥鰌)」なんて表記もあるぜ。
それは、[shooyu](醤油)を「せうゆ」とつづるのは歴史的仮名遣いで、
「しょうゆ」とつづるのが現代仮名遣いということでしょう。
既知の単語についてつづりを定めたものが仮名遣いだから。
音韻とは関係ない。
じゃあ、[shooke] と聞いたら、「ショーケ」「しょおけ」「しょうけ」「しゃうけ」「せうけ」と
いろいろ候補があるけど、すくなくとも、歴史的仮名遣いでは、
どれかに優先権があるわけではない。
ただ、後で、辞書で調べて校正するなら、「しょおけ」と書いておくのが無難だろう。
オ段長音を「おう」でつづるというのは、現代仮名遣いだけの
ローカルルールであるからだ。
(もともと、この議論は、旧仮名遣い派への質問だから、
現代仮名遣いのルールを適用するのは間違いだろう。)
>それでいいんだよ。/syoo/ は必ず「しょう」と書く。ほかの書き方はない。それを表音的と言う。
キミは、古い辞書もろくに読まなければ、絵本もろくに読まないやつだな。
まるで、常用漢字しか使わない新聞を読んで、表外漢字は存在しないというような論理だね。
絵本には、「マジックショー(まじっくしょお)」と平仮名で表音的なルビを振っているよ。
仮名遣いの知識がない幼児向けに絵本には、立派に、「しょお」という表音的なつづりが登場する。
[shoo]を「しょう」と書くのは表音的だからでなく、現代仮名遣いという規範が定めたからだよ。
>>757 > それは、[shooyu](醤油)を「せうゆ」とつづるのは歴史的仮名遣いで、
> 「しょうゆ」とつづるのが現代仮名遣いということでしょう。
「醤油」 「泥鰌」の歴史的仮名遣いは「しやうゆ」 「どぢやう」。仮名遣いのわからなかった人が「せうゆ」 「どぜう」と書いたんだ。
もっとも,江戸時代なら歴史的仮名遣いは知られていなかったが。
> 絵本には、「マジックショー(まじっくしょお)」と平仮名で表音的なルビを振っているよ。
> 仮名遣いの知識がない幼児向けに絵本には、立派に、「しょお」という表音的なつづりが登場する。
それは「現代仮名遣い」ではない。
> [shoo]を「しょう」と書くのは表音的だからでなく、現代仮名遣いという規範が定めたからだよ。
「現代仮名遣い」の原則は表音的表記。
759 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/22 01:51
>>758 >
> > 絵本には、「マジックショー(まじっくしょお)」と平仮名で表音的なルビを振っているよ。
> > 仮名遣いの知識がない幼児向けに絵本には、立派に、「しょお」という表音的なつづりが登場する。
> それは「現代仮名遣い」ではない。
ようやく、キミは、「現代仮名遣い」は「幼児向けの絵本」より表音的でないと
いうことを認識したということだね。
それをキミに認識させるするために、どれだけのレスを浪費したことやら。
この認識がないかぎり、キミの表面的な旧仮名遣い批判は意味をなさないよ。
760 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/22 02:46
現代仮名遣いが発音どおりの表記に徹底しきれていないのは、たとえば
「あう」「あふ」「おう」「おふ」「わう」「をう」を1つにまとめるという
意識が強く働いて、実際の発音に近い「おお」ではなく、上記の6つの中から
だいひょうとして「おう」を選んだだけじゃないだろうか。
つまり、発音どおりの表記よりも既存の表記を大事にしたということ。
同じ理由で「えい」しかない表記が「ええ」になることはなかったし、
助詞の「は」「へ」「を」が「わ」「え」「お」になることもなかった。
ましてや、現在仮名遣いの制定当時、まだひらがなの世界では
めったに使われていなかった「ー」を表記に取り入れて「おー」「へー」などと
することは思いもよらなかったのだろう。
結論
現在仮名遣いは、歴史的仮名遣いの最大公約数を出来るだけ取り込み、
新たな表記の乱造を避けた表記法である。
「現在仮名遣い」?
>>759 > ようやく、キミは、「現代仮名遣い」は「幼児向けの絵本」より表音的でないと
> いうことを認識したということだね。
いいや。「現代仮名遣い」の方が,たぶんその絵本より表音的だ。
絵本でも,/soo simasyoo/ は「そおしましょお」ではなく,「そうしましょう」と書いているのではないか。
つまり,同一の音韻 /syoo/ に対して,「しょお」と「しょう」の二通りの表記があるわけだ。すなわち,仮名遣いが生じている。
「現代仮名遣い」なら,/syoo/ は常に「しょう」の一通りに書かれる。そこに仮名遣いはない。
もし絵本が「そおしましょお」と書いているなら,「現代仮名遣い」とは異なる体系で表音的だが,「現代仮名遣い」‘より’表音的ということにはやはりならない。
>>760 > 「あう」「あふ」「おう」「おふ」「わう」「をう」
「おふ」 「をう」は歴史的仮名遣いにない。代わりに「はう」があった。
「おふ (負)」は単純な 1 形態素ではないから,「現代仮名遣い」でも「おう /ou/」。/oo/ ではない。
> 実際の発音に近い「おお」ではなく、上記の6つの中から
> だいひょうとして「おう」を選んだだけじゃないだろうか。
> つまり、発音どおりの表記よりも既存の表記を大事にしたということ。
そのとおり。音声には拘らなかった。
> 同じ理由で「えい」しかない表記が「ええ」になることはなかったし、
> 助詞の「は」「へ」「を」が「わ」「え」「お」になることもなかった。
下段は表音原則の例外だが,上段は「Co う」と同様,そうではない。
/ee/ と /ei/ にもほとんど音韻的対立はない。唯一の例外は「ええ (応答)」と「えい (気合)」。
> ましてや、現在仮名遣いの制定当時、まだひらがなの世界では
> めったに使われていなかった「ー」を表記に取り入れて「おー」「へー」などと
> することは思いもよらなかったのだろう。
前スレで出たが,その方法は明治30年代に一度採用し,8 年間ほどで撤回している。
小学校令施行規則で定めたが,マスメディアが従わなかったために失敗した。
そこで,「現代かなづかい」では内閣告示・訓令の形をとったのだ。
> 現在仮名遣いは、歴史的仮名遣いの最大公約数を出来るだけ取り込み、
> 新たな表記の乱造を避けた表記法である。
「世間一般の容認こそ最終的な権威である」 (リチャード・マルカスター)
大衆を「程度が低い」と見下すのは間違い。
>>752 表記法を憶えやすくしようと思ったら,音韻に基づくほかはない。ネイティヴのだれもが直観的に知っているのは音韻のみ。
>>746 「/qua/」→「/kwa/」
>>764 「/ee/ と /ei/」→「[ee] と [ei]」
「現代仮名遣い」で,例えば,/sjoo/ (小) は「しょう」と書くが,/sio/ (塩) は「しお」と書く。
あるいは,/kee/ (刑) は「けい」と書くが,/eki/ (駅) は「えき」と書く。
同じ音韻 /o/ /e/ を,「う」 「い」と書いたり「お」 「え」と書いたりするのだから,これは仮名遣いであって,表音的ではないのではないか?
上のような疑問なら理解できる。この問題を解決するためには,
・/e/ は,/(C)e/ のあとでは「い」と書き,他の場合は「え」と書く。
・/o/ は,/(C)(j)o/ のあとでは「う」と書き,他の場合は「お」と書く。
という規定が必要だ。「い」 「う」と書くか「え」 「お」と書くかは,形態素ごとに意味によって決まるのではなく,音韻環境によってオートマチックに決まるから,やはり表音的といえる。
>>764は歴史認識の誤りが目立つ。
小学校令施行規則における棒引き仮名遣は、初等教育用の便法に過ぎず、
もともと一般に及ぼすつもりではなかったのだが。
内閣告示・訓令も、官界以外のマスメディアに強制させる力は無い。
このことは、法律家としての美濃部達吉の「現代仮名遣い」批判にも明らか。
>>754 お得意の「捻じ曲げ」かね。的外れもいいところ。
五十音圖が悉曇學に影響を受けて成立しようと、すでに元のインドの梵字表ではない。
知って得する/しないではなく、子供が大人より無知か否かが問題。
無知なのを否定できないからって話をそらすわけだ。
歴史的假名遣を知れば、語源意識が磨かれ、古典にも接しやすくなる得もある。
江戸時代にも、國學者を中心に假名遣は尊ばるべき規範となりつつあった。
明治時代には規範であった。この歴史的事實を否定するわけだ。
別問題だから、表音的見出しも歴史的假名遣の見出しもあり得るし、事實あった。
それを無理に正書法の問題に絡めるのは、自分で別問題と認めたのと矛盾するぞ。
馬鹿か?
>>768 > 小学校令施行規則における棒引き仮名遣は、初等教育用の便法に過ぎず、
> もともと一般に及ぼすつもりではなかったのだが。
及ぼすつもりだったが方法がわからなかっただけ。棒引仮名遣いで書かれた国語学の著作物もある。小学生には読めまい。
>>769 > 五十音圖が悉曇學に影響を受けて成立しようと、すでに元のインドの梵字表ではない。
現代日本語の記述文法は,日本語教育の分野で成立しようと,すでに「外人」向けではない。
> 知って得する/しないではなく、子供が大人より無知か否かが問題。
限りある授業時間に,何の得にもならないことを教えるカリキュラムはありえない。
> 歴史的假名遣を知れば、語源意識が磨かれ、古典にも接しやすくなる得もある。
歴史的仮名遣いで書かれた古典の原テキストは,1 行たりとも現存しない。
> 江戸時代にも、國學者を中心に假名遣は尊ばるべき規範となりつつあった。
歴史的仮名遣いなど一部サークル内の趣味のレヴェル。
> 明治時代には規範であった。この歴史的事實を否定するわけだ。
そんな事実は存在しない。歴史的仮名遣い改訂の要求は公教育の開始直後から始まる。規範として安定・定着したことはない。現代仮名遣いとは大違い。
> 別問題だから、表音的見出しも歴史的假名遣の見出しもあり得るし、事實あった。
> それを無理に正書法の問題に絡めるのは、自分で別問題と認めたのと矛盾するぞ。
全然絡めていない。辞書では正書法とは別に規範が必要で,そこに字音仮名遣いが使われていれば,結局,字音仮名遣いを「憶えなければならない」。
その辞書は「字音仮名遣を守れ」と言ってるわけだ。漢字という表意文字を用いるかぎり,正書法から追い出しただけでは,「字音仮名遣まで守れとは言ってない」ことにはならない。
> 馬鹿か?
尋ねなくてもお前が大馬鹿。
>>772 > どう見ても外人向けだが?
> 「社団法人日本語教育学会では
日本語教育学会だけが,「子音語幹動詞」とか「母音語幹動詞」とか言うとでも?
> 子供が大人より無知であることの否定にはなっとらんな。
何でそんなアッタリマエのことを否定しなきゃならんのよ。ネイティヴの子供と「外人」とを「や」でつないだお前が無神経だとわかればそれでいいの。
子供は大人より無知なんだから,子供の得になろうとなるまいと,大人が教えたいことを子供に教えていいんだと言ってたら,教育なんて成り立たない。
>>768 > 内閣告示・訓令も、官界以外のマスメディアに強制させる力は無い。
> このことは、法律家としての美濃部達吉の「現代仮名遣い」批判にも明らか。
むろん法的強制力はない。最終的に世間一般の容認を得られるか否かの問題。
>>770 橋本進吉の立場では,あくまで (歴史的) 仮名遣いを正式の表記法としたうえで,表音的仮名表記法を補助的に使おうとするわけだから,後者は完全表音式,表音一辺倒でなければ意味がないだろう。
現代仮名遣いは,それ自身が正式の表記法であり,利便性を最終目的とする。その目的に至る手段として,表音主義原則をとるわけだから,完全表音式を目指す表音一辺倒ではない。
歴史的仮名遣いを斥けるのは,それが表音的でない点をあまりに多く有するため,憶えにくく,利便性が低いという理由によるのであって,完全に表音的でないという理由によるのではない。
なお,現代仮名遣いは実は「仮名遣い」ではないという批判は,素直に受け入れるべきだろう。
現代仮名遣いが真の「仮名遣い」である必要はない。
>>696 に引用された林大の答弁は,強引に過ぎるとおれは思う。
>>768 > 内閣告示・訓令も、官界以外のマスメディアに強制させる力は無い。
> このことは、法律家としての美濃部達吉の「現代假名遣ひ」批判にも明らか。
むろん法的強制力はない。最終的に世闊齡ハの容認を得られるか否かの問題。
>>770 橋本進吉の立場では,あくまで (歴史的) 假名遣ひを正式の表記法としたうへで,表音的假仮名表記法を補助的に使はうとするわけだから,後者は完全表音式,表音一邊倒でなければ意味がないだらう。
現代假仮名遣ひは,それ自身が正式の表記法であり,利便性を最終目的とする。その目的に至る手段として,表音主義原則をとるわけだから,完全表音式を目指す表音一邊倒ではない。
歴史的假名遣ひを斥けるのは,それが表音的でない點をあまりに多く有するため,憶えにくく,利便性が低いといふ理由によるのであつて,完全に表音的でないといふ理由によるのではない。
なほ,現代假名遣ひは實は「假名遣ひ」ではないといふ批判は,素直に受け入れるべきだらう。
現代假名遣ひが眞の「假名遣ひ」である必要はない。
>>696 に引用された林大の答辯は,強引に過ぎるとおれは思ふ。
776 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/07/30 00:29
安州以議論乎待州天為留世
なんだ、まだこんなスレあんのか。
熱いといふより暑苦(ry
778 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/01 23:21
俺派、己乃須礼加、畿仁以州太乃天、安計留与。
780 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/04 15:03
舊字、舊假名遣ひで話すのならば、口語體ではなく文語體で話すべし。
候文などを用ゐるとなほよろし。
781 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/05 03:32
782 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/12 01:20
旧仮名遣いと文語文の因果関係はまったくなし。
それに、文語文は、現代文と、テンスやアスペクトの階層、
異なれば、誤解を招くものとならむ。
でもまあ文語文はふつう歴史的假名遣で書くものだ。
新かなで記した文語文や和歌俳諧なんてみっともない。
内閣告示「現代仮名遣い」の「前書き」にも
「この仮名遣いは,主として現代文のうち口語体のものに適用する」とあり、
文語體は適用外のはず。
784 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/12 22:42
「〜を口にしようものなら」などの「しよう」は旧仮名遣いでは「しやう」になるのですか?
785 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/12 22:53
>>784 「しよう」が正解だな。
ただ、復古調になるが、「せう」と書くのも悪くない。
>>785 なるほど。「〜しよう」という使い方と同じなのですね。
ありがとうございました。。
推量・意志の助動詞「う・よう」だから、「やう」とは書かない。
漢字だと「樣」となるものが「やう」。
788 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/14 04:03
用事の用も様子の様も現在や近世(江戸期)ではヨー(YOの長い母音)だが
古代(平安期)では用は えう=eu
様は やう=yau だが後の時代に其々 伸ばす言い方=リエゾン=連母音融合
して同じ音になりたると思はるる。
789 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/14 04:11
正確には古代(平安期)では用は えう=eu ぢゃなく
ゑう=yeu でauもeuも後世にoo=oの長い母音に音韻変化したる、
(と言ふ事)でした。
790 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/14 04:12
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ヽ、 ,.' __.ノ ,.-‐'´ ___││ ,! ,!___! l
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791 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/14 04:30
現在の関西弁・名古屋弁とかの「ど偉い」「どあほ」は江戸時代に
限度を超えて偉い -> 度を超えて偉い -> 度偉い と変化したると推定さるる
「どあほ」は「限度を超えた阿呆」やで、
「どえらい」は「度偉い」と書くべき
(私)わたし -> (儂)わし に変化、
ちなみに漢字が違うのは「私」と区別する為、
別の漢字「儂」を当てた(江戸時代に)。
792 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/14 04:47
室町期?はすでにyauもyeuもyoo、当時の人はooはauから来たのも
euから来たのもそれ以外から来たのも全てauから来たと思ひ込み
つまり「長き母音のoo=オーは全てアウから来る!」と思ひなして
長母音の記号?に「う」を使ふやうになりたると思ふ。
やう (様) [jau~] > [jau] > [jao] > [joo] > [joo]
よう (用) [jou~] > [jou] > [jou] > [jou] > [joo]
えう (要) [jeu] > [jeu] > [jeo] > [jou] > [joo]
えふ (葉) [jeFu] > [jeu] > [jeo] > [jou] > [joo]
も「よほ」す (催) [joFo] > [jowo] > [jowo] > [jou] > [joo]
794 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/15 15:21
[yau ]>[yoo]
[yeu ]>[yoo]
[yefu]>[yeu ]>[yoo]
[yofo]>[yowo]>[yoo]
変化のパターンは[au]も[eu]も[owo]も[oo]
最終的に[au]も[eu]も[owo]も[oo]に変化で
[793]さんと同じだが
連母音[au]や[eu]や[owo]が1回変化し(いっきょに)
長母音[oo]に変化と思ひま(ゐら)する。
話は変はるが、
思ひ ->思ゐ->思い
[ひ=fi] -> [ゐ=wi] -> [い=i]
まゐらする -> ま する -> ま す [時代と供に徐々に省略]
「〜で ございま す」 -> 「〜? ? ?」 -> 「〜で す」
[わたく し] -> [わた し] -> [わ し( shi )] -> [わ い( i )]?
※現在の敬語の「です」「ます」そのものが実は省略型
>思ひ ->思ゐ
ハア? なに言ってんですか。
796 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/16 00:58
思ひ -> 思い(イ音便)が定説だが
[ひ=fi] が [ゐ=wi]にf-w唇音転呼音 した後に イ音便化した
と言ふマイナ−説もある。
>>787 一応その法則は知っていたのですが、
「〜を口にしようものなら」の「しよう」が推量・意思なのか「様」なのかわからなかったもので。
「口にするようならば」だと「様」の「よう」だとすぐわかるのですが・・・。
>思ひ -> 思い(イ音便)が定説だが
ハアア? ナニ言ってますか、あなた。
なにがイ音便ですか。ハ行がワ行になるのは、ハ行轉呼音でせうが。
イ音便てのは、キ・ギ・シ・リの子音が脱落してイ音になる現象。
だいたい、「f-w唇音転呼音」とやらがあったとしても
ふつうその音を「ゐ」なんてひらかなで記し表はすものぢゃありません。
>>797 「〜を口にしようものなら」を「〜を口にし樣ものなら」と書けるとでも?
當て嵌めればすぐわかることではありませんか。
下らん長文ばっかりグダグダと書くからじゃボケ
黙って使ってればいいものをなんかと自分を正当化したい人が多いみたいだからな
半可通な癖にわざわざこのスレに乘り込んで文句つける奴がゐたしな。
>>774は福田について一言も觸れてないが。この頓珍漢ぶりが、半可通たる所以か。
一言もふれてなくても福田の主張はすべてブロックされている。『私の国語教室』を読めばわかること。
讀んでも讀めてない人はさう言ひます。
といふか、正仮名づかひに戻すのは無理のやうですね。
せいぜい、正仮名好きの一部の人間が細々と使つていくだけのやうで。
時代には勝てない。