※チンギス・カン即位の記録
「かようにして毛氈の幕帳に住まいせる国民をば(ことごとく)服ろわせて、
寅の歳、オナン(河)の源に集いして、九つの脚ある白い纛をうち立てて、
(大クリルタイを開き、)チンギス・カハンにカンの称号をここにおいて
(正式に)捧げ(奉っ)た」(『元朝秘史』巻八、202段 村上正二訳)
「——九脚の白い纛が据え付けるよう命じ、チンギズ・ハンという尊称が彼に定められ、
ナイマン部族の一半の帝王ブイルク・ハンの戦争へ彼が出発し、ブイルク・ハンを
捕らえることのための、チンギス・ハンの大クリルタイの章
祝福と吉兆によって、バルス・イルすなわち虎の年、従ってヒジュラ暦602年(ラジャブ月)
に入り、また春の初めに、チンギズ・ハンは九本の脚の白いトク(纛)をうち立てるよう
命じられた。群集とともに壮麗さとともに、大クリルタイが催された。そのクリルタイにおいて
チンギズ・ハンという尊称が彼の上に定められ、祝福をもって玉座の上に座った。」
(『集史』「チンギス・ハン紀」)
「(太祖)元年丙寅、帝大會諸王羣臣、建九游白旗、即皇帝位於斡難河之源。
諸王羣臣共上尊号曰成吉思皇帝」(『元史』太祖本紀)
——————
十三、十四世紀にユーラシア全域を席巻したモンゴル帝国のスレです。
チンギス・ハンからオゴデイ・カアン、グユク・ハン、モンケ・カアン、クビライ・カアン以降の
大元ウルスのカアンたち、ジョチ・ウルス系の諸政権、チャガタイ・ウルス、イルハン朝の話題も
おkです。
・前スレ
モンゴル帝国
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1150396840/l50
○いわゆる『集史』パリ本のチンギス・カン即位の場面
ttp://gallica.bnf.fr/scripts/mediator.exe?F=C&L=07817139&I=000001 真ん中の人物がチンギスその人。彼が顔を向けている前列の3人は4人の嫡子たちの
うちのいずれかだと思われる。白い房の垂れた纛の下に座る二人はトルイとテムゲ・
オッチギンあたりかとも言われたりするが不明。
○グユク・ハンがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた勅書
ttp://asv.vatican.va/it/doc/1246.htm ローマ教皇庁がモンゴル本土へ派遣したプラノ・カルピニのジョバンニ修道士が持ち帰った
勅書で、アラビア文字で書かれ、冒頭3行はテュルク語だが、文章全体はペルシア語で書かれ
ている。文章作成にはモンゴル宮廷にいる間に大書記(ビチクチ)チンカイらが携わり、
ジョヴァンニ修道士らと綿密な打ち合わせでラテン語訳も併せて作った事が彼の旅行記に
記録されている。
訳文は中央公論の『大モンゴルの時代』やA.C.M.ドーソンの邦訳『モンゴル帝国史』
第二巻などにも載っている。ハンガリー、ポーランド方面へのバトゥの遠征軍による劫略に
対する教皇庁側の非難を一蹴し、欧州カトリック教圏の君主たちを引連れ、モンゴル宮廷へ
ローマ教皇自ら伺候してモンゴル皇帝たるグユク・ハンの面前で帰順を宣言するよう督促する
内容になっている。文末にヒジュラ暦で発令された年月日(H.644年ジュマ−ダ第二月最後の日
=西暦1246年11月11日)が付されている。ちなみにウイグル文字によるモンゴル語で書かれた
モンゴル皇帝の朱印がふたつ捺され、「イェケ・モンゴル・ウルス」という「国号」が出てくる。
またかよ。モンゴルスレ多すぎるよ。 どこも似たような話を何度も何度も繰り返すだけなのに。
どうせ新スレ立てるなら集史全文を日本語訳して2chに貼れ
6 :
1 :2006/12/07(木) 22:08:59 0
モンゴル関連のスレは今でもいくつかあるけれど、「モンゴル帝国」そのもののスレは 今まで建てても何時の間にか中途で落ちてしまうことが何度かあり、前スレも先日同じ 運命に陥ってしまったので今回は何とか満了できるように努めたい所存。 先々代のスレが満了してから前スレが立つまで丸一年かかっているため、関連スレで 代替し内容というか話題が重複せざるを得なかった部分も多い。 今スレも、定期的にレスを付けつつまったり行ければと思います。そういう訳で近日中に 今まで話題になっていなかった「トルイ・ウルス」についてちょっと書いてみる予定。
7 :
バヤン :2006/12/07(木) 22:13:14 0
張・王・劉・李・趙の姓の漢人と南人を皆殺しにしよう。
9 :
世界@名無史さん :2006/12/09(土) 09:41:15 0
age
昔は蒙古じゃなく萌古と書いていた。
モンゴル帝国は調べるほど勇壮ではなく鬱になるな。 モンゴル高原が物凄い勢いで帳消しにしているが、 それでも18禁グロ小説にピッタリの世界帝国は勘弁して欲しい。
>モンゴル高原が物凄い勢いで帳消しにしているが 表現が詩的すぎて文意がよく分からないんですけど
あげ
14 :
世界@名無史さん :2007/02/24(土) 13:50:31 0
とこしえなるテングリの名においてage
15 :
世界@名無史さん :2007/02/24(土) 14:36:34 0
モンゴル人の名前今は無駄に長いよな
16 :
世界@名無史さん :2007/02/24(土) 18:48:11 0
元代の詔勅の冒頭部、皇帝にかかる枕詞はやたら長ったらしかったそうな。 明朝はその弊を改めて「奉天承運皇帝」とだけ記すようにしたとか。
とこしえなるテングリの ×名において ○力によりて
質問スレッドで話題に登ったので、再度今は無き「モンゴル帝国」スレから添付。
内容的にはチンギス・ハーンスレの方が良いのかも知れないが、あちらはレスが
800を超えているのでこちらの方がまだ余裕があるだろうと思い転載。
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1150396840/l50 205 名前:世界@名無史さん メェル:sage 投稿日:2006/09/18(月) 18:31:26 0
>>201 この際だから一年前に今は無き「モンゴル大虐殺史」スレに書いたものを貼ってみる。
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1116559441/254-258 254 名前:世界@名無史さん メェル:sage 投稿日:2005/07/23(土) 20:29:36 0
>229,>230,>240
参考になるか知れないけど、>233で少し触れたドーソンの情報の元ネタになった
『集史』の記述についてちょっと書いてみる。そんなに長い内容でもないのだが、
ドーソンはそこそこ端折っている。これは、
「チンギス・ハン紀第三部;称讃すべき性格と品行、彼の選ばれた習慣と各々の時期の
ために言い命じた良い金言と言葉とビリクと命令の数々、及び先の二つの部に入らなかった
ものについて良く知られたことで各々の人物や各々の本から散乱し整理されなかったために
単独で書かれてしまった彼の治世中に生じた逸話と出来事について」
206 名前:世界@名無史さん メェル:sage 投稿日:2006/09/18(月) 18:34:42 0 255 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:36:42 0 というやたらと長い題名の一章に出てくる逸話集の最後のエピソードなのだが、 面倒なので訳をそのまま載せてみる。必要そうな箇所は()で補った。 「次に曰く。チンギス・ハンがある日、諸将の首長であったボオルチュ・ノヤンに 「男子の快楽とジルガミシュ(=テュルク語で「快楽」の意味。同義語反復の例)は何であるか?」 と尋ねた。ボオルチュが曰くに、 「男子のそれ(快楽)とはこれであります。すなわち、己の色の紺青なる鷹をその肩に食い込ませ (ペルシア語で鷹を肩にのせることをこのように言う)、冬には羽毛を生えさせ、取り巻きの全てを 手にとり(?)、太らせた良い去勢した速く静かに走る馬に跨がり、春の緑には紺青なる頭の鳥ども (ワシタカの類いか)で狩猟し、立派な衣と衣服を着ることです」 チンギス・ハンはボログル(ボロウル)にも言った。 「汝もまた言え」 ボロウルが曰くに、 「男子のジルガミシュとはこれであります。すなわちソンコル(白ハヤブサ)に似た動物どもを 灰色の鶴の上に飛ばし、それらのカギヅメの傷によって空から落ちて捕らえるまで(行うこと)です」 そしてその後ドゥラダイ、クビライにも尋ねたが、「男子のジルガミシュは狩猟と動物を飛ばすことです」 と言った。
(
>>19 の続き)
その時チンギス・ハンが仰せられることには、
「汝らは良しとすることを言わなかった。(=自分の望みに適うことを言わなかった)
男子の快楽とジルガミシュとはこれである。すなわち謀叛人を粉砕し、敵に勝利を納め、
彼を根こそぎに覆滅し、その持てる物を征服することである。そして彼らのボグタクを
持てる者(既婚女性のこと)たちをの眼を涙ぐませ、彼(女)らの鼻の面の上に涙を流させ、
彼らの尻の太った態度の良好な去勢馬どもに跨がり、彼らの見目の麗しいハトゥンたちの腹と
臍に眠りと寝床の衣服を設け(着させる?)、彼(女)らのバラ色の頬を見ながら口付けし、
彼女らの砂糖のナツメ木色の(ペルシア語で恋人の唇を指す詩的な言い方)唇を吸うことである」
『イスラームの民のうえに平安あれ』
207 名前:世界@名無史さん メェル:sage 投稿日:2006/09/18(月) 18:36:49 0
256 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:38:49 0
ここでのボオルチュとは、モンゴル帝国の勲臣第一等アルラト部族のボオルチュ・ノヤンのこと。
チンギス・ハンの青年時代から幕僚となった帝国の最古参のひとり。
ボログルとは、幼少時代ジュルキン部族から拾われてチンギス・ハンの養子となった、ムカリ、
ボオルチュ、チラウン・バアトルと並ぶチンギス・ハン四傑(ドルベン・キュルウド)のひとり
ボロウルのこと。
ドゥラダイは主要な勲臣のひとりだとは思うが、特定はできなかった
クビライとはジェベ、ジュルメ、スブタイらとともに勇名を馳せた、チンギス・ハン麾下の四狗
(ドルベン・ノガイ)のひとりクビライ・ノヤンのこと。
(
>>20 の続き)
いづれも帝国の筆頭と呼ぶべき名のある勲臣たちだが、そのどれもが鷹狩りをあげていることから
当時モンゴルの人士の内では鷹狩りによる狩猟が最大の娯楽だったことがわかる。要は鷹狩りなどの
遊技を「男子の快楽」とすべきでなく、征戦による武功とそれにより馬匹と子女とを獲得しこれを
愛でるこそ「男子の快楽=本懐」たるを心せよとのことだと見るのが穏当だろう。
ボオルチュが自分の去勢馬を〜というところを、対してチンギスは征戦によって獲得した敵の去勢馬を
駆ることにこそ上とすべきと述べているが、これによってもとくに良好な去勢馬が珍重されていたことが
見て取れる。
209 名前:世界@名無史さん メェル:sage 投稿日:2006/09/18(月) 18:39:52 0 257 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:42:43 0 ボオルチュが自分の去勢馬を〜というところを、対してチンギスは征戦によって獲得した敵の去勢馬を 駆ることにこそ上とすべきと述べているが、これによってもとくに良好な去勢馬が珍重されていたことが 見て取れる。 さて、肝心の「陵辱・レイプ」問題だが、チンギスの言葉それ自体からはそれらしい文言は出ていない。 チンギスが「男子の快楽」として述べた文言の内容は、1)敵対者に対する征戦とこれの撃滅すること、 2)それによる敵対者の財物を制圧すること、3)敵対者のハトゥンたちを獲得してこれを愛でること、 である。 婦人達に涙を流させることが「陵辱」の見ることもできそうだが、財物の征服と良好な去勢馬を駆ること の間に述べらおり、テュルク・モンゴル系の遊牧諸族では家産の管理を各家の婦人たちが担っていたので これはむしろ敵対者家族の財物を容赦なく制圧し、もう少し穿ってみれば虜囚として家族が分散されこと で「婦人達の涙を流させる」ということではないかと思われる。 さらに最後の部分だが、「ハトゥン」とは「ハン」の女性形、「妃」とか「王妃」に類するような 王侯貴族の婦人や子女のこと。ようするに「妃、姫君」のような高貴な女性たちのこと。 「砂糖のナツメ木色の唇」とか「バラ色の頬」とかいった表現はペルシア語文学のロマンスものでも 頻繁にでてくる表現で、「バラ色の頬」などは『元朝秘史』でも似た表現がある。 つまりここでは、敵対勢力から勝利して獲得した姫君を飽くまで「愛でること」が主眼となる。 同盟者や敵対者の頭目からその子女を獲得することはモンゴルに限らず日本でも欧州でも中世期では 一般的だったので、ここではチンギス・ハンが何か特殊なことを言ったわけでもなければ、強姦らしい ことを奨励したわけでもないと見てとったほうが妥当だろう。もっとも中世には君主が有力勢力の子女を 妻君や側室として獲得することは一般的だったし、これと睦むことが強姦だと言うのであれば別だが。
211 名前:世界@名無史さん メェル:sage 投稿日:2006/09/18(月) 19:36:08 0
258 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:46:28 0
>254-257の結論からすると、
チンギス・ハンは、敵対者を征戦によって打倒しその家産を略奪しその后妃・姫君を愛でる
ことこそ男子の快楽とは述べてはいるが、婦女子を陵辱し蹂躙することこそが快楽、などとは
全く言っていない。
────────────────────────────────────────────
>>201 ドーソンの主要典拠は彼自身が調べたパリ国立図書館蔵の『世界征服者史』『集史』『完史』などの
メインにモンゴル帝国関連のペルシア語、アラビア語の諸写本や、個人的に持っていたシリア語、アルメニア語の
歴史書で、これに当時出版されていた『元史』などの漢語資料のフランス語訳などを参照にして
1834〜1835年に、『チンギス・カンよりティムール・ベイ、すなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』
(邦題:モンゴル帝国史)を出版した。
ペルシア語資料については、イルハン朝の後期頃の記事は『集史』「ガザン・ハン紀」や『オルジェイトゥ史』
をそのまま直訳して載せてる場合が多くて、かえって索引として元の文章にあたりやすかったりする。
ところどころ写本本文の読み間違えとかドーソン個人の勘違い、理解不足な部分も少なからずあるものの、
全体としてモンゴル帝国史研究では今でも参照すべき資料になっているのは、周知の通り。
212 名前:世界@名無史さん メェル:sage 投稿日:2006/09/18(月) 19:39:39 0
>>209 の続き
それで、ドーソン本文では
>>206 の部分はどのように書いてあるかと言うと、最後の部分、
チンギス・カンは言葉を続け、
「然らず。男子の最大快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、
これと親密な人びとの顔が悲哀に泣きぬれているのを見、その女たちと妻たちを抱きしめることにある」
と語った。(佐口透訳:第二巻、四一頁)
となっている。そこそこ端折っていることがわかるが、あるいは彼が引用した『集史』パリ本ではこのくらい
さらっとしか書いていなかったのかも知れない。この部分でチンギスが下問した部将はボオルチュとボロウル
しか載っておらず、ドゥラダイ、クビライの名前は出てこない。一年経ってまた調べたがこの「ドゥラダイ」
という人物については結局よく分らなかった。
ボオルチュと同じアルラト部族にドレデイ・ヤルグチという人物と、チャガン・タタル氏族のドレデイ・イデチ
という人物がいるが、双方ともフレグの西方遠征で活躍した人物で、アルラト部族のドレデイはアバカ、アフマド・
テグデルにつかえた幕僚らしい。一方のタタル部族のドレデイもアバカからアルグン時代に活躍した主膳司(イデチ)
という要職にあった人物で、チンギス在世中から随分時代が下るのでどちらも同一人物とは思えない。
ペルシア語では「妻」も「女」も zan という単語で呼ばれているので、あるいはパリ本の方では zan wa khatun
のような書き方をしているので「その女たちと妻たちを」と解釈したのかも知れない。
原文に比べて、おおよそのことは書いてあるけど、ちょっと端折りすぎてる嫌いが有る、くらいかも知れない。
青白い狐
略奪婚が風習だったんだろ
白人とか中央アジアまでレイプしに行った。 皇軍もかなわないスケールだ。
そうだね
さすが世界最強
おかしいと思ったんだよね。 蒙古のようなところから、戦争の天才が生まれるわけ無いし
下半身世界最強
チンギスハン子ども数千人? 子孫世界に1600万人 中国紙報道 DNA鑑定で判明
【北京25日傍示文昭】13世紀初め、東欧からアジア大陸までをその勢力に治めた「モンゴル帝国」
を築いたチンギスハン(成吉思汗)が生前、数百人から数千人の子どもをもうけた可能性があることが
科学者グループの調査で明らかになった。中国紙の法制晩報が伝えた。
同紙によると、ロシアの科学者が主導して行ったDNA鑑定の結果、約800年前のモンゴル族の
同じ染色体を持つ人が現在、約1600万人いることが判明した。逆算すると、1人の人物が13
世紀初頭、数百人から数千人の子どもをもうけた計算となり、当時、これだけの子どもをもうける
ことが可能だったのは、モンゴル帝国の創始者であるチンギスハン1人だけだったという。
また、その同じ染色体を持つ人は現在、主にモンゴルと中央アジアのカザフスタンに集中して
いるほか、英国にも少なくとも100人が居住するなど世界各地に生存しているという。
チンギスハンがモンゴル帝国を築いた後、孫のフビライが中国を平定して「元」を建国。
フビライは1274年と81年の「元寇(げんこう)」で九州北部を攻めたが、二度とも「神風」
などのため日本を征服できなかった。
=2007/05/25付 西日本新聞夕刊= 2007年05月25日13時33分
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/20070525/20070525_010.shtml
【ポーランド侵攻】
モンゴル軍はビスワ川を越えクラクフに迫る。教会の塔の上から来襲を告げるトランペットが鳴り響く。
突然ラッパの音が鳴り止み、ラッパ手はモンゴル軍の放った矢で喉を射抜かれていた。
このことを悼んで今でもクラクフの聖マリア教会では、1時間ごとに塔の上からラッパが吹き鳴らされている。
迎撃体制を敷く間もなく、モンゴル軍はクラクフに突入、町は炎上した。
http://www.vivonet.co.jp/History/b07_Mongol/Mongol.html 今でも1時間おきにトランペットが吹き鳴らされ、
ラッパの演奏は曲の途中で突然終わる
フョードルは、
「われらキリスト教徒には、自分の妻を信仰なき汗のなぐさみものに差し出す習しはありませぬ。
われらを打ち破ったあかつきには、女房どもを思いのままにされるがいいでしょう。」
と答え、これを聞いたバトゥは即座にフョードルの首をはねさせ、野ざらしとし、
その他の使節も殺し、リャザンに向けて兵を進めました。
この話を伝え聞いたエウフラジアは、フョードルの息子イヴァンを抱き、
リャザンの塔の上から飛び降り夫の後を追ったといいます。
http://www.educ.cc.keio.ac.jp/~te04811/page1-1-1-11.htm
『蒙古史』によると、バトゥはハンガリー人から奪ったという巨大な天幕のなかにしつらえられた王座につき、 傍らには妃の一人が侍っていました。天幕の中には黄金のチンギス=ハーン像が鎮座し、 テーブルの上には様々な酒の入った金や銀の杯が置かれ、バトゥが杯を取り上げるたびに 楽師が音楽を奏でたということです。 キプチャック汗国は、モンゴル支配の初期には諸公に対して有無を言わさぬ態度をとります。 100年間で20人以上の公が殺され、モスクワ公、スーズダリ公、リャザン公などが 人質を差し出ねばならないこともありました。
古来、征服された民族の女性の運命は過酷であった。 最も有名なのはモンゴル帝国の創始者チンギス・ハーンとその係累・後裔であろう。 帝国による降伏勧告を受け入れず抵抗の後征服された都市はことごとく破壊・略奪・殺戮され、 女性も戦利品として王侯・軍隊などの権力者以下にあてがわれた。 世界各地の男性のY染色体を調べた結果、 かつてのモンゴル帝国の版図に高率で共通の染色体が検出されたという話さえある (ブライアン・サイクス著『アダムの呪い』参照)
>>38 「ラシッド」ってのも酷い仮名表記だが、他も判読が難しい固有名詞が多い文章だねえ(汗
「ラシッド」は「ラシードゥッディーン・タビーブ(医師)」こと
「ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・ハマダーニー」の事だろうから、内容から
判断して『集史』「オゴデイ・カアン紀」のバトゥ率いるの西方遠征軍によるルースィ征服の
部分のことだろうことくらいは割と簡単にわかった。
あと「アライ・エディン」もよく分らなかったが、「アラーウッディーン」だろうから、
「アラーウッディーン・アター=マリク・ジュヴァイニー」だと気が付いた。つまり、
『世界征服者史』の同じくルースィ征服の条だろうと。ただ、『集史』にしろ『世界征服者史』
にしろ、『集史』でもルースィ〜ハンガリー侵攻の部分はチンギス・カンのホラズム遠征〜金朝
遠征なんかの分量とくらべると5%行ってるかという具合で、あまり詳しく書いてなかったり
するので、ここら辺の記事は『ガリーチ・ヴォルイニ年代記』がないとまるで分らない分野だ。
チンギス・カンと第二皇后クランとの息子コルゲン(クルゲン)がコロムナの攻防戦で
負傷して程なく陣没しているんだが、これをスルーするのはちょっとまずいような〜
> モンゴル軍のカタパルトによる城壁攻撃
この画像、アラビア語版『集史』でガズナ朝のスルタン・マフムードがどこかの都市を攻めている
場面だったような・・ カーブース・ブン・ワシュムギールだったかも知れないが。
岩波文庫版使うくらいだったら東洋文庫のドーソンの『モンゴル帝国史』や『元朝秘史』を
使って貰いたいところ。あちらの方が脚注が充実しているし、固有名詞の仮名表記も原語の
表記に近い形にしているし、イスラム圏や欧州の史料からの抜き出しや関連する文献表も
豊富に載せてあるから。
1237年12月、モンゴル人はルーシに姿を現し、まずリャザン公に全臣民の財産の十分の一を蒙古帝国に差し出すよう要求しました。 リャザン公ユーリー・インゴレヴィッチは、とりあえず息子のフョードル・ユーリエヴィチに贈り物をもたせてバトゥの元へ参上させ、 リャザンを攻撃対象から外すよう懇願します。 バトゥは一応贈り物をうけとり、リャザンは攻撃しないといいます。そしてフョードルのお供でバトゥの下にやってきていた リャザン貴族に対し、娘か姉妹を差し出すよう求めました。 リャザン貴族達は、フョードル・ユーリエヴィチの妃はビザンツ皇女の出で、 極めて美しいと答えました。そこでバトゥはフョードルに対し、フョードルの妃エウプラクシアを見たいと言いました。
48 :
世界@名無史さん :2007/06/29(金) 20:36:15 0
場違いだとは思いますが・・・ モンゴル帝国によるユーラシア大陸支配がユーラシア世界に与えた影響について 簡単に教えてほしいです。
きょうモンゴルのニュースをやっていたけど、 数十万人も殺した虐殺者を国家的に崇拝しているのはヤバイだろ 21世紀の国とは思えん
モンゴル帝国とハンティやサモイェードなどシベリアの諸族との関係はについて 分からないものでしょうか?『元朝秘史』を読んでも出てこなかったので。 地理的には交易は何とか可能ですよね?
51 :
世界@名無史さん :2007/07/19(木) 02:26:25 0
>>50 岡田英弘『中国文明の歴史』に書いてあったけど
また北モンゴルから、セレンゲ河を下ってバイカル湖に出、アンガラ河を下り、イェニセイ河との
合流点からケチ河を下ってオビ河に出、オビ河を下り、イルティッシュ河との合流点から
イルティッシュ河をさかのぼり、トボル河に入り、さらにトゥラ河に入って、その河源でウラル
山脈を越えれば、カマ河の上流である。
カマ河からヴォルガ河をさかのぼればバルト海に出るし、ヴォルガ河を下ればドン河をへて黒海に
出る。これが古来のシベリアの「毛皮の道」である。
↑ヴォルガ・ブルガールあたりへ出る交易路らしい。あの辺だとジョチ家か?
そういやイブン・バトゥータの旅行記でブルガールの商人と北極圏の狩猟民族の交易について 書いてたけど、沈黙交易だったらしく「取引の相手が人なのかジンなのかすらわからない」そう。
>49 今は亡きソ連の方ですかw今どき珍しい見解の方ですね。
>>51 ,52
早速の返信ありがとうございます。
ということは北モンゴルとシベリアは直接的な政治関係はなかったかもしれ
ないが、少なくとも「毛皮の道」を通じた交易関係は少なくともあったということ
ですね。
井上靖の小説などにも毛皮製品が貴重品として描かれてますね。
モンゴル民族にとってもシベリアとの交易は重要だったのですね。
55 :
世界@名無史さん :2007/07/22(日) 08:50:38 0
ハンティ・マンシはシビル汗国(ジョチ系)に服属してたはず。 いつの間にオビ河あたりまで進出してたのか知らないけど・・・
test
57 :
世界@名無史さん :2007/08/14(火) 00:52:13 0
モンゴル支配は、ロシアでは、発展のマイナスとなったという見方が強いけど (一部では、貢献もあったとの説も出てきているようですが)、 中国やイランではどうなのでしょうか? 元朝は、中国の歴史に貢献している 印象がありますが、最近の学会ではどのような意見なのでしょうか? この場合の発展とは、経済・文化・技術・統治技術(政治)などとお考えください。 イラン史では、そもそもイル汗やチムール朝についての意見すら、殆ど 聞いた覚えがありません。ロシア以外では、中国史はどのように評価 されているのでしょうか?
>>57 ひところ前は、近現代的なナショナリズムの常でイランでもモンゴル=文明の破壊者的な
見方が強かったらしく、今でもテュルク・モンゴル系の政権がイラン・中央アジアでの
支配をしていた時代は外来勢力による一種の「暗黒時代」だという考えがあるそうだが、
実際には、セルジューク朝にしろイルハン朝にしろティムール朝にしろ、いずれも当時の
王族など支配層から手厚い保護によってペルシア語文学などの学芸が隆盛した時期だった。
モンゴル時代に限って言えば、イルハン朝も13世紀末まで定住民への複雑過剰な税負担や
役人、モンゴル軍人による不当な苛斂誅求によって経済的も完全に破綻状態だったそうだが、
ガザン・ハンによる強力な徴税の徹底や違反官吏・軍人らの粛清や定住民への干渉の排除、
農耕地の開拓、商工業の保護育成など、経済的な回復と発展の基礎が築かれたと現在では
考えられているみたい。
続くオルジェイトゥ、アブーサイードの治世初期までは中央政権からの強力な統制のお蔭で
各地の自律的な経済発展は順調だったようで、税収も増加傾向にあったらしい。
>>58 の続き
文化的な面で言えば、ガザン、オルジェイトゥの時代はひとつの重要な画期で、現存する物でも
巨大で豪華なコーランが多く作成され、『シャーナーメ』やその他の様々な書物の良好な写本が
大量に作られたし、『集史』やその他のペルシア語による世界史や地方史なども多く著作された。
特に歴史関係の書物で、挿絵付き写本のジャンルが一般化したのもこの時期。
イルハン朝が東方の大元朝と友好関係にあったこともあってか、医学や博物学など東方からの
文物が流入したが、これらの東方からの影響は絵画について特に顕著に現れている。南宋画の
影響が見られるデザインや絵画技術がこの地域で流行し、その後の中央アジアからアナトリアの
地域でこの種の絵画技術が定着していく。
他にも『集史』の影響でオグズ・カガン伝説とそれに基づくテュルク・モンゴル的な族祖伝承が
再生産され、この地域のテュルク系の人々に多大な影響を与えている。
ひとつひとつ説明して行くとそれこそきりが無いが、テュルク系にしろモンゴル系にしろ、歴代の
政権は自分達のテュルク・モンゴル的な伝統を保持しつつ、ペルシア語文芸やこの地域でのイスラーム
文化の庇護者であったので、宮廷文化や特に「政治的な安定性」にダイレクトな影響を受けつつ
イラン・イスラーム的な文化伝統も発展・衰退して行った、と見た方が良いみたいだ。
>テュルク・モンゴル系の政権がイラン・中央アジアでの >支配をしていた時代は外来勢力による一種の「暗黒時代」 逆にクルト朝やムザッファル朝が持ち上げられたりしてるのかな
61 :
世界@名無史さん :2007/09/09(日) 22:54:04 0
「モンゴル帝国が生んだ世界図」で、大元ウルスとモンゴルの使い分けが不明確で不親切だと思った。 元寇のことを「大元ウルスの来襲」でなく「モンゴルの襲来」と書く理由もよく分からなかったし。 そもそも、日経新聞から出す本に、「大元ウルス」という言葉の説明すらないのは乱暴かと。 一般向けの本を出すなら、自分が生きている井戸の中の世界と世の中のギャップを埋める作業がほしい。 以上チラシの裏
> 『モンゴル帝国が生んだ世界図』 > 大元ウルスとモンゴルの使い分けが不明確で不親切 似たような評を最近どこかの雑誌の書評で見たような・・ 史学雑誌だったか東洋史研究だったか。それとも史淵だったろうか? 杉山センセが盛んに喧伝されるおかげで「大元大モンゴル国」と言われても東洋史とか中央アジア史 あたりに興味のある人間だったら何のことか分かるけど、書店でのぱっと見で本を手に取っただけの 人だったら(歴史好きの人であっても)、耳なれない真新しい固有名詞に何のことか分からんと 混乱するかも。 プロローグのあたりに、モンゴル皇帝(カアンor大ハーン)に即位したクビライが国号を「大元」と 改めて〜 くらいのさり気ない説明を入れつつ「大元大モンゴル国」を使うとかいうやり方だったら より自然に本の内容を読みすすめられたかも。 > 自分が生きている井戸の中の世界と世の中のギャップを埋める作業がほしい その言い方も何やら驕った雰囲気の物言いでどうかと思けれど・・ 著者の宮紀子女史がこの本で取り上げる情報はひとつひとつが重要で、見解にも説得力があるから、 これらの論述を読者が読みすすめ易くできる様、ちょっとした前置きとか説明を加えるだけで 十分だろう。そこから著者の「モンゴル帝国」像なり「大元大モンゴル国」なりを想像しながら 読めると思うから。
>>62 大学の先生はよく、自分は世の中を知らないと自嘲するのであえて書いてみました。
やっぱりあれは、本音じゃないんだね。
大都と北京は若干位置がずれているとか聞いた。
たしか北1/3は元代から空き地が多かったとか。 「金中都遺址」って廃墟? 浮浪者とか住み着いてそうだな。
グーグルアースだと明の北京の城壁跡だけでなく大都の城壁跡も はっきり見えるけど金の中都となると見えないのう。昔過ぎて あんまり残ってないようだ。
宮先生はハングルのモンゴル起源説を明確に書いてるし。「影響」程度に表現をぼかさなかったのは、えらい。
「宮先生」って宮脇淳子さんのことですか?
京大の宮紀子っす。 まあ宮さんは言語の専門家じゃないけど。
口絵の略系図、ジョチ家の部分でモンケ・テムル以下の血筋がベルケの子孫になっていた。 恐らく、バトゥとベルケの欄を書き間違えたんだろうけど、ジョチ家のモンケ・テムルは バトゥの孫であるし、ベルケに子息が全然居なかったことは『集史』その他にはっきりと 書かれている研究者の間では有名も有名な話なので、モンゴル帝国や大元朝のことをやって いる宮さんがこんな初歩的な間違えをするとはさすがに思えない。多分、出版者側のミスだろう。 あとフレグ家の部分でも「アブー・サーイード」とかも。今のアラビア語の仮名転写としては いまいち。本当だったらジョチ家の系図は↓みたいな感じになったはず。 ┏ バトゥ ━ (トクカン/トガン?) ━ モンケ ━ (トグリルチャ) ━ ウズベク ジョチ ┫ ・テムル ┗ ベルケ 次の版では細かい所に色々修正が入るかも知れない。
73 :
世界@名無史さん :2007/09/25(火) 16:05:39 0
チンギスって表に出てくるのオッサンになってからだね。
オッサンの定義は?
75 :
世界@名無史さん :2007/10/26(金) 14:04:33 0
76 :
世界@名無史さん :2007/11/18(日) 02:09:54 0
なぜモンゴル軍はコンスタンティノープルを攻めなかったんでしょう。 あそこまで遠征したんだから、勢いでいけた気がするんですが、 そういう気配はなかったのでしょうか。
キプチャク汗国→それよりイル汗国からアゼルバイジャンを奪いたい イル汗国→マムルーク朝がどう動くか分からない こんな感じかな?
ビザンツ側にしたって、1261年にラテン帝国からコンスタンティノープルを取り返したばかりの ビザンツ皇帝のミカエル・パレオロゴスはイルハンのアバカと、当時のジョチ・ウルスの実力者で、 ビザンツ領から最も近いドナウ川の下流域に領地があるノガイに庶子の娘2人を嫁がせてるし、 息子のアンドロニコス2世も同じようにジョチ・ウルスのハンのトクタに庶子の娘を嫁がせて、 友好関係を保とうと努力してるし、ボスポラスやダーダネルスの海峡を通過して連絡を取り合う ジョチ・ウルスやマムルーク朝の艦船の通行を黙認したりして、いわゆる「ナイル=ヴォルガ同盟」の 維持に恩を売ったりと、生き残りのためにいろいろやってるだろう。
79 :
世界@名無史さん :2007/11/19(月) 00:29:21 0
回答ありがとうございます。更に質問で恐縮ですが、 1.モンゴル軍がもっとも勢いを持っていた1223年や41年、60年遠征時に 勢いあまってコンスタンティノープルを襲撃してしまう、なんてことが あってもよさそうに思えるのですが、そうならなかったのは何故なのでしょうか。 2.ビザンツ皇帝(ニケーア含む)の即位に、モンゴルは直接的な政治的 影響はあったのでしょうか?例えば隣国のブルガリアは、1330年くらいまでは 王即位にキプチャク汗の意向が影響していたかと思います。 ビザンツの場合はどうなのでしょうか?
80 :
世界@名無史さん :2007/11/24(土) 19:17:50 0
クトゥーゾフがキプチャク貴族の末裔だと知っておどろいた
82 :
世界@名無史さん :2007/12/01(土) 21:49:39 0
83 :
世界@名無史さん :2007/12/08(土) 14:27:51 0
ジュワイニーにウイグル人の始祖説話が 「実は詐欺師が自分の子供を木の下に埋めてウイグルの王に祭り上げた」 とかいう話を吹き込んだ人の素性が気になってしょうがない
84 :
世界@名無史さん :2008/01/05(土) 22:23:40 0
モンゴル帝国時代に今の支那地域では数千万人虐殺されたって本当なのかな?
85 :
名無しの権瓶 :2008/01/05(土) 22:55:47 0
数は判らないけどそれぐらいのインパクトのある虐殺はやったらしい。 ホラムズなんかは西だけど、完全に国がなくなっちゃうし。 ただ、統治後はうってかわって優しい兵隊さんだったらしい。 そのギャップに住民はとまどったそうだ。 ただし、長男の国キプチャク汗国はロシアで恐怖政治をしたけど
86 :
名無しの権瓶 :2008/01/05(土) 23:10:54 0
金では大虐殺をやったけど、フビライの代で南宋を攻略した時は比較的 虐殺は少なかったらしい。と、言うよりその時代になると、さすがに 虐殺は時代遅れといった風潮がモンゴル軍に芽生えていたようだ。 略奪はあったと思うけど。
むしろフビライが南宋を征服したときは漢人の犯罪者・囚人を集めて作った「乾討虜軍」というのがあって そいつらの規律が悪すぎて(当たり前だが)問題になったようだ。 のちに解散されて別々の部隊に分散された。
88 :
世界@名無史さん :2008/01/10(木) 16:36:22 0
金か
89 :
世界@名無史さん :2008/01/10(木) 17:35:55 0
白人の虐殺に比べりゃモンゴルなんて可愛いもんさ
白人は植民地化のほうが罪深い まあ日本も人のこと言えないが・・・
sage
92 :
世界@名無史さん :2008/04/02(水) 16:20:37 0
age
93 :
世界@名無史さん :2008/04/04(金) 12:14:48 0
今コーエーのチンギスハーンWをやってます 元のフビライのオリジナル息子たちを、中国文化圏にさせたいんだけど 実際に、そんな状況に史実でもなったとすれば、何か良い漢字ある?
実際クビライは次男チンキムに漢籍の購読を指示し、元朝のモンゴル王族などは 華北文化の影響で道・仏・儒に精通するような感じで漢籍の文化も受け入れている。 クビライ自身はオゴデイの治世にモンケやグユクなど兄弟や従兄弟たちとともに家庭教師となった イラン人官僚の養育によってペルシア語文学などの素養を身に付けていたらしいが、チンキムに 漢籍の購読を支持した背景には、クビライがモンケの命によって西安から出向して中都(のちの大都) 以南の漢地経営を任され、モンゴル王族による漢地の領有が本格化しはじめたため、現地の官僚との 意思の疎通などにも漢籍の素養も必要と判断されて来たからだろうと言われている。 クビライの息子たちは記録に残る限りでも12人はおり(『元史』では10人)、夭折した 長男ドルジ(朶而只)、三男マンガラ(忙哥剌)といったチベット語やサンスクリット語など仏教関係の 用語などに由来した名前の人物が居るが、六男のフゲチ(忽哥赤)や七男アウルクチ(奧魯赤)、 九男ココチュ(闊闊出)、十男クトルグ・テムル(忽都魯帖木兒)のような普通にテュルク・モンゴル的な 名前の人物も多い。 王族の人名としてチベット語やサンスクリット語由来のものが定着するようになるのはカマラやダルマバラ、 アーナンダといったクビライの孫の世代になる。アーナンダに至っては完全に仏教徒の名前だが、 イスラム教に改宗してクビライからこっぴどく叱責されたりしている。
なので、無理にチベット語やサンスクリット語風の名前を無理に引いてくる必要もさほどには無いと思うが、 ゲームで「中国文化圏」を領有するクビライの皇子を新たに作るとなると、まず母親がどう言う出自かを考え、 宮廷での漢人官僚や浄土教団や禅宗寺院など華北の伝統的仏教教団やらサキャパンディタ、パスパ以来の チベット仏教勢力との立場を考慮せねばならないと思う。 (それまで漢人官僚の配給源として専横していた道教の一派、全真教団の政治的権力がモンケの時代に 剥奪されてパスパが華北の宗教勢力の監督権を委任された事件「道仏論争」があったが、これを取り 仕切ったのが他ならぬクビライだった) 台湾の中央研究院が二十五史のネット上に公開しているから『元史』宗室世系表とか『元朝秘史』関係や モンゴル帝国関係の書籍をあさって王族らしい人物の漢字表記を見比べて適当にきめるのが良いのでは。 (中国人的な人名表記は非現実的。飽くまでもテュルク・モンゴル語やチベット語やサンスクリット語由来 の単語を漢字音写させたもの) >モンゴル人やテュルク系の人物で「石」を意味する「タシュ」「チラウン」とか「鉄」を意味する 「テムル」とかを含む人物が多いが、これは「金剛石」など仏教的観念の影響があるんだそうな。 まあ、ゲームの設定とかの話なのにあれこれ言うのも野暮だろうけど、「中国文化圏」といっても 当時遼朝〜金朝の華北の仏教文化に加え、テュルク・モンゴル系の人々に信仰されていたウイグル王国や チベット方面からの仏教文化なども流入して(勿論ネストリウス派とかイスラムもあるけど) ハイブリットな宗教社会な感じで北アジアから華北までの文化ってのは形成されていたので、 その世界のただなかにある社会としてモンゴル帝国統治下の「中国文化圏」を考えたほうが良いと思う。 >もっとも「漢字文化圏」ならまだ分かるけど、「中国文化圏」って枠組みがどれだけ意味があるのか 分からんけど。
96 :
名無史さん :2008/04/11(金) 12:22:12 0
ロシア史で有名なのに【タタールのくびき】というのがある。 これはモンゴルの侵略の後、ロシアは巨大な破壊と流血の嵐に襲われただけ でなく、のちのちずっと野蛮なモンゴルに生き血をすわれ、とことんしゃぶ られ尽くしたとされる。ロシアを牛にたとえ、その首にはめられた【くびき】 をあやつって、主人顔にやりたい放題をくりかえす寄生虫のモンゴルという 図式 だがこれと真っ向から矛盾する話もロシアでは有名だ。 アレクサンドル・ヤロスラビッチ・ネフスキーはモンゴルの到来とその支配と いう苦難のなかを、ウラジミール大公としてロシア諸侯をとりまとめ、巧みな 交渉と手綱さばきでモンゴルと穏やかな関係を保ち、破壊的な事態を生じせし めなかった。つまり無用の流血と破壊を回避した。 明らかに矛盾したふたつのお話を堂々と主張して平然としているのはいかにも ロシアらしい
97 :
世界@名無史さん :2008/04/11(金) 12:38:40 0
モンゴルの黄祸、文明的な破壊者、欧洲の諸国に撃退されます。
98 :
世界@名無史さん :2008/04/11(金) 16:48:17 0
満州を所領としていたチンギス弟子孫の東方三王家はどうなった?
99 :
世界@名無史さん :2008/04/11(金) 17:25:23 0
クビライに反乱を起こしてあぼーんされた。
>>96 ロシアといっても広く、タタールの支配は長い。上手くやった街もあれば下手をうった街もあり、
ぼこられた時代もあれば上手くやった時代もある。
そして最も上手くやった街であるモスクワがついに全ロシアと全タタールを飲み込むにいたった。
101 :
名無史さん :2008/04/12(土) 21:21:37 0
>>100 納得できそうな理屈だが証拠か元ネタがないと説得力がないな
もっともあんたが間違っているという証拠もないが
>99 何言ってんだ? 東洋文庫の『騎馬民族史3』すら読んだことないな。
>>101 いわゆる「タタールのくびき」時代の政治史については
一番手軽な資料なら新書で出てる「ロシアの源流」って本
104 :
名無史さん :2008/05/25(日) 13:34:46 0
>>102 >何言ってんだ?
東洋文庫の『騎馬民族史3』すら読んだことないな。
あんたの言ってる事は正しい! でも言い方がなんかヤダ
【この程度のことがわからんのか】とか【この著作すら読んだことないの】
とかの書き込みは歴史や軍事、科学のスレでよく見かけるけど
たとえ自分の書き込みに対する反論や批判じゃなくてもいい気持ちはしない
世界史に興味のある人の内【東洋文庫の『騎馬民族史3』】を読んだ事が
ある人は少ないんじゃないかな?
パクス・モンゴリカ・・・平和な時代
107 :
世界@名無史さん :2008/06/18(水) 12:49:27 0
ロシアからみれば「タタールのクビキ」 モンゴルからだと 「パクスモンゴリカ」 国によって見方が違うのは当然です。 ロマノフの時捏造した歴史を、共産主義国家が脚色したのが、タタールのクビキ
>>106 モンゴリカでもタタリカでもこの場合意味は同じ。
モンゴル支配時代より前は部族国家群でしかなかったルーシ諸邦が、モンゴル支配時代に 一気に封建制時代まで進歩した。 文化的にも北方の忘れられた辺地が、モンゴルを介して、回教圏に保存されていたローマ 時代の文化が流入。 古墳時代レベルだったものが、たった200年で鎌倉時代レベルにまで進歩したんだよ。
110 :
世界@名無史さん :2008/07/01(火) 22:18:25 0
レイプはやったの?
はやんねぇよ
112 :
ty270410 :2008/07/04(金) 22:55:20 0
別のスレッドにも書いたが, C.J.Halperinの『Russia and the Golden Hord』の日本語訳が最近出版された. 中村正己訳『ロシアとモンゴル』2008年3月,図書新聞 日本語で読めるのはありがたい.ハルパリンはロシアにも偏せず,モンゴルにも 偏せず,中庸な立場で書いているように思うのだが,いかがでしょうか?
> 中村正己訳『ロシアとモンゴル』2008年3月,図書新聞 これって有名な"Russia and the Golden Hord"の日本語訳だったとは・・ しかし去年の栗生沢猛夫先生の『タタールのくびき ロシア史におけるモンゴル支配の研究』といい、 ここ最近モンゴル時代のロシアに関する専著が増えましたな。 『ロシアとモンゴル』は値段が比較的安い感じがしたので先日購入。ゆるゆると読んで行こうかと。
114 :
月読 :2008/07/11(金) 17:18:42 0
日光よろしく!
8/23「世界の歴史9 大モンゴルの時代」杉山正明 中公文庫
>>115 後半の北川誠一さんのもちゃんと入ってますよね・・・?
117 :
世界@名無史さん :2008/09/01(月) 17:32:29 0
ドーソン、ドーソンっていうけど偏見があるよなこいつ モンゴル軍の強さは古代のままの軍事組織とか… モンゴルは女真族の金に痛めつけられてたから金軍の編成に似てるんだが…
サンドイッチマン
119 :
世界@名無史さん :2008/09/20(土) 13:29:16 0
120 :
世界@名無史さん :2008/09/21(日) 19:47:58 0
121 :
世界@名無史さん :2008/10/08(水) 17:08:48 0
あれだけ言ってること似ててお互い言及がないんだから、 そのぶん仲悪いんだろうとは思ってたが、まさかこんなにドロドロとは。 でもまあ「右の手」はホントに誤植じゃないかねぇ。
124 :
世界@名無史さん :2008/11/09(日) 10:38:16 0
チンギス・ハーンの軍事的な才能って実際どうだったの? 政治的才能は確かにあったんだろうけど軍事的には本当に天才だったの? モンゴル軍団が最強だっただけな気がするんだけど あれだけの大帝国を作っていながら、アレクサンドロスのような圧倒的な神々しい存在感が全くない だいたい彼が死んだあとも後継のゴールデン・オルドやイル・ハン国はさらなる侵略を続けてるわけだし、チンギスが特に優れていたとも思えない 確かに遊牧民国家じゃ軍事と政治を一人でこなせなければ大国は維持できないんだろうけど 裏を返せば政治さえできればモンゴル軍団の力で容易に帝国を作れたってことだよね やっぱり個人の軍事的才能で比較すればチンギスよりティムールの方が上だろ?
そのモンゴル軍団を作ったのがチンギスだから、政治的手腕は超一級だし、 その後の戦場での様々な戦略を全部チンギスが考えたわけじゃないだろうけど、 そういったブレーンを敵味方なく登用した度胸も相当なもの。 後継の国家が膨張を続けることができたのは、彼のシステムがあまりにも完璧だったおかげ。 >裏を返せば政治さえできればモンゴル軍団の力で容易に帝国を作れたってことだよね 確かにそうだけど、事実として有史以来彼を越えるほどの有能者は出なかったわけだから、机上の空論。 >やっぱり個人の軍事的才能で比較すればチンギスよりティムールの方が上だろ? 軍事的才能だけに限定すれば、スベエデイやジェベのほうがもっと上かも。 でもそれだけじゃあねえ・・・
126 :
世界@名無史さん :2008/11/10(月) 04:09:59 0
スベエデイやジェベ、ホラズムのジャラール・ウッデーンやチムール・マリクらは 軍事技術屋ですな。 主君に兵を与えられてこそであり、自ら大軍を集める人望はないみたいだ。
モンゴル帝国のユーラシア支配の形成と確立についてご教示願います
128 :
世界@名無史さん :2008/12/02(火) 22:00:15 0
この時代にモンゴル人の絵師って居ましたか?
129 :
世界@名無史さん :2008/12/05(金) 10:47:37 0
>>124 チンギスは名将て言うより優秀な政治家・軍政家じゃないか?
戦闘では結構、負けたり苦戦してるからそこまで天才だとは思わない
中央ユーラシアの征服者ってティムールとかナーディル・シャーもそうだけど しょぼい勢力の頃は勝ったり負けたりしてるけど 軍事力がある程度の規模を越えると連戦連勝になるような・・・
> しょぼい勢力の頃は勝ったり負けたりしてるけど 軍事力がしょぼいから勝ったり負けたりになる > 軍事力がある程度の規模を越えると連戦連勝になるような・・・ ある程度の規模を超えたから連戦連勝できる
モンゴル帝国は破壊の印象しかない その後のアジアは後退していったから
いや、オスマン帝国とかさ……
134 :
世界@名無史さん :2009/02/03(火) 04:18:54 0
クブライ以下の大カーンは「大元皇帝」を名乗り中華風のダードゥーを建設し、 歴代皇帝に漢風廟号を送るまでしたのに、なんで チャイニーズは色目人以下! などという差別をしたのかがよく分からん。 中華文明が気に入ったのか気に入らなかったのか、どっちなんだ。 大概中国に入ったらは中華思想のかぶれそうなもんだが。
大元といっても正式には大元大蒙古国で、遊牧世界に対しては大カァン、中華世界に対しては 中華皇帝を名乗っていた。 生活も上都と大都の間を季節移動しながらテント暮らしで、城郭の中には入らなかった。 漢人南人に対する差別も実際には無く、有能なものは準モンゴルとして重用していた。 色目人が特に高位に就いたのは、国際経済に通じていたためクビライの重商主義政策 と相性がよかったからでしょう。
136 :
世界@名無史さん :2009/02/03(火) 05:18:22 0
あーそうなんだ。 英語で書かれた宗教史書を読んでいたら、 モンゴルにはクリスチャニティーが広範に受け入れられていた、とか チャイニーズはスァームーレン(色目人)以下の扱いを受けた、 とか書いてあって、著者の人種意識が垣間見えて不快な感じがしたけど、 やっぱり中国人差別はされてなかったのね。 ビザンチンの姫を娶るモンゴルが、なんで中国人を差別するわけないよな。
人種差別と言うよりも、「モンゴル」との距離の近さ・遠さが、待遇の差に繋がった感じなような・・・
>>137 「根脚」ね。
あと元朝での「漢人」というのは女真人や高麗人も含まれていて
要するに「旧金朝臣民」のことだったとか。
「南人」が旧南宋臣民で。
で、「色目人」ってのは直訳すると「雑多な人々」ってことで
モンゴル人でも旧金朝臣民でも旧南宋臣民でもない
「その他」の人々。
139 :
世界@名無史さん :2009/02/04(水) 05:00:28 0
色目人て実際はテュルク系が殆どでアラブ人や西洋人はごく僅かだったんでしょ
ペルシア人も忘れないでやって
141 :
世界@名無史さん :2009/02/06(金) 18:38:32 0
>>135 >生活も上都と大都の間を季節移動しながらテント暮らしで、城郭の中には入らなかった。
でも大都の皇城に皇帝専用の入り口とかついてなかった?
>>141 カアンは普段はテントで寝起きして、
儀式を行う時にのみ宮城に入ったそうです。
>>142 なるほど。
その辺の事情について詳しい本ってありますか?
昔新書で「元の大都」ってのは読んだことあるけど
144 :
世界@名無史さん :2009/04/01(水) 15:42:22 0
モンゴルGT 謎のモンゴル帝国出現!!ロシア侵攻開始!? 神はオレ!チンギス大虐殺を開始!! 超ウザイ!!ハーン一族 ざまぁみろ!!元軍が神風に飲まれる! 住民見っけ!!即殺害 凄くいやだぞ!?モンゴルに降伏 唯一の救い!?ポーランド騎兵達 モンゴル人もドッカン!!どこか飛んで行け シマッタ!!ポーランド騎兵飛び込むモンゴルの罠!? 殺して殺して!?ボンパッパー!! 滅びてしまえ!モンゴルとかいう大陸 神のお告げは超迷惑!婦女子を殺戮せよ こいつが元凶!?ハーン一族 リズムでバッチリ!?住民虐殺 もう来るな!!モンゴルの侵攻! モンゴル帝国…また殺すモンゴル人!? ロシア軍におまかせ!住民救出作戦!! データにゃないぜ!!モンゴル人の残酷さ 出現!!最低首領・ハーン一族 たまげたぞ!!ハーン一族を持ち上げるモンゴル人達 滅びてしまえ!!モンゴルという国 暴かれた野望!!邪悪首領ハーン一族 隠された危機!?国王とロシア軍と元軍 モンゴル人逆襲!!狙われた婦女子達!! 大変だ!!日本にモンゴル軍が現れた
145 :
世界@名無史さん :2009/04/01(水) 16:02:44 0
モンゴルGT 2 モンゴルと高麗…最悪の覇権争い!? 野望完成!?滅ぼされたバグダット モンゴル人が殺しに来る…地球生物は全部オレ達の敵!? 最低!!ハーン一族が神に!! 不死身の怪物!?凶悪モンゴル軍 壮絶!!モンゴル軍と鎌倉武士ダブルKO!! 消えてなくなれ!ついにモンゴル軍消滅 死ねモンゴル人!!地獄から蘇る強敵(とも)たち 地球の悪魔!モンゴル帝国暴走 急げ日本軍!!モンゴル軍駆逐へ 激突!!日本軍 vs. 元軍 大逆転!日本軍とロシア軍の二段攻撃さく裂 これはビックリ!モンゴル軍がまた神風に?! モンゴル帝国が消滅!?喜びの鎌倉武士 残虐さ無限大のパワー!大殺戮と人食 モンゴル帝国動く!元軍改悪計画 火薬の次は弓矢!炎と氷の元軍 残酷さ圧倒的!!地球を支配する神 反撃開始!モンゴル軍を超えろ 絶対敵だ…モンゴルと高麗大暴れ フュージョン!!究極の鎌倉武士連合軍 絶対負けろ!婦女子を貪り食ったモンゴル人 モンゴル人を殺せ!最後の味方登場 最低の逆転敗北!!対馬の住民を救えなかった鎌倉武士達 さらばモンゴル帝国…もう逢いたくない モンゴル外伝 化け物の証は人食?
なんか色々と時系列が変なような気がする
謎の大日本帝国出現!!中国侵攻開始!? 神はオレ!天皇(以下略 この調子で全部はまるんでワロタ
149 :
世界@名無史さん :2009/05/03(日) 21:40:18 O
朝鮮日報によると、三別抄の残党が琉球に渡って先進技術を伝えたらしいよ
150 :
世界@名無史さん :2009/05/04(月) 11:47:37 0
バトゥこそ大ハーンに相応しい人物。
151 :
世界@名無史さん :2009/05/14(木) 15:03:36 O
152 :
世界@名無史さん :
2009/05/14(木) 21:06:26 0