【ラシード・ウッディーン】

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81世界@名無史さん:2006/06/28(水) 21:22:50 0
『集史』の翻訳は現在、杉山正明教授を筆頭に京都大学で行っているが
>>80が述べた諸理由により、まだ見込みが立つ状況では無いそうだ。
82世界@名無史さん:2006/06/28(水) 22:24:22 0
>>80
杉山教授本人降臨??
83世界@名無史さん:2006/06/28(水) 23:46:57 0
少なくても自分は覚悟している。

これをどうとるべきか。。。
84世界@名無史さん:2006/06/28(水) 23:56:17 0
>82
んなわきゃーない
85世界@名無史さん:2006/07/01(土) 21:35:41 0
今のイランでは「集史」は研究されてるのかね?
それともモンゴルの支配時代の歴史書だから黒歴史扱いか?
86世界@名無史さん:2006/07/01(土) 21:40:20 0
別にイルハン朝は黒歴史でもないと思うけど・・・
87世界@名無史さん:2006/07/01(土) 22:15:15 0
>>86
中公新書の「物語イランの歴史」ではフラグ・ウルスは僅かな記述で
ラシードの名前すら出て来なかった。
今のイスラム体制では黒とまでは行かなくても重要視されてないようだ。
88世界@名無史さん:2006/07/01(土) 22:25:56 0
スレの最初の方で話題になってたけど、ドーソンのモンゴル帝国史とか読んでも
ガザン以前の飛脚や徴税官の滅茶苦茶ぶりがインパクトあり過ぎるからなあ。
イブン・バトゥータの旅行記を読んだ限りでは、アブー・サイードの頃のイランは
結構落ち着いた印象だけど、それからすぐ群雄割拠になっちゃうし。
89世界@名無史さん:2006/07/01(土) 22:33:38 0
ジャライール朝・白羊朝・黒羊朝・ティムール朝・サファヴィー朝と
目まぐるしく入れ替わるペルシャの15世紀。
研究する方も大変だろうが、それを一般通史で出せなど無理だ。
90世界@名無史さん:2006/07/01(土) 22:42:18 0
>89
日本の戦国時代よりは勢力関係が分かりやすいような気もするけど・・・
91世界@名無史さん:2006/07/03(月) 20:56:42 0
仮に「集史」が日本語訳で出版されたら幾らになるんだろうか?

やはり五万以上はするだろうな〜
貧乏院生の自分には手が出せなさそうだ。
92世界@名無史さん:2006/07/04(火) 01:40:01 0
集史ってどれくらいの厚さなの?
以前、フィルダウシーのシャーナーメが英語版9巻(10巻目は殆ど資料)、
タバリーの諸預言者の歴史が英語版全39巻(1/5くらい註だけど)でたまげたことが。
フィルは、1冊平均約2万弱で全部で18万円くらい
タバリーは、ペーパーバック版1冊平均3000円弱で約12万円近くかかる。
(ハードカバーだと一冊平均1万2千円くらいなので、40万円以上か)
そういえば、間野さんのバーブルナーメっていくらだったけ?

後漢書なみの価格でだされたら、お手上げな気が。
93世界@名無史さん:2006/07/06(木) 15:45:46 0
>>92
ttp://www.ne.jp/asahi/arc/ind/bibliography/g_islam/islam.htm
上記のMUGHALS & ITS ARCHITECTUREによると
全四巻で各1万2千〜1万8千円。
趣味で買い揃えるには相当の度胸がいる。

集史が完訳されて出版されても
多分、大学図書館に頼る程の金額になるのは確実。
94世界@名無史さん:2006/07/06(木) 17:05:44 0
>>92
10年くらい前にイランで出版された『集史』の「モンゴル史」の部分にあたる
「ガザン・ハン紀」までの校訂本は、

一冊25cm×17cmほどのサイズで1ページ25行、850pほどのものが四冊本だった。
二冊が本文、一冊が注解と、残り一冊は総索引だった。値段は良くわからない。
カール・ヤーンという研究者が20年程前に『集史』の各国史の部分にあたる「オグズ史」、
「フランク史」、「中国史」、「イスラエル史」、「インド史」のドイツ語訳とファクシミリ版を
載せたものを出版してるけど、それぞれ縦30cmほどの100ページくらいで内6割が本文だったと思う。

第三部『地理編』は編纂されなかった可能性があるって話だから、「モンゴル史」と「各国史」を合せて
総量としてはタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』やイブン・アル=アスィールの『歴史の完全なるもの』に
くらべると、3〜4割程度になるんじゃないだろうか?> 『集史』
95世界@名無史さん:2006/07/07(金) 02:05:00 0
92デス
ありがとうございます。

しかし、中世イスラムは、長大な作品が多いね。全巻現存している
ものが少ないのが残念だけど。
当時の欧州が衰退していたとはいえ、随分差があるなぁ。やっぱ製紙業の
広まりに依存している感じがしますね。
96世界@名無史さん:2006/07/07(金) 22:07:56 0
インド史のファクシミリ版なら見たことがある。
ターバン巻いたお釈迦様の挿絵があったw
97世界@名無史さん:2006/07/08(土) 21:27:57 0
どちらにしろ、我等貧乏学生&社会人じゃ趣味で購入出来る代物じゃない
ことは確かだな>日本語版集史
98世界@名無史さん:2006/07/08(土) 22:18:35 0
金が無いのにそういうところで金を投じちゃうのが趣味なんじゃないかと。
99世界@名無史さん:2006/07/08(土) 22:21:48 0
集史もそうだが、中世イスラームの良質な史書は邦訳出版されないな。
されたのはせいぜい、歴史序説くらいか。
集史や完史もどうせなら岩波文庫辺りで出してほしいよ。
100世界@名無史さん:2006/07/09(日) 00:11:24 0
あとアルファフリーが東洋文庫で出てたね。
101世界@名無史さん:2006/07/13(木) 21:06:56 0
完史を一部抜粋した本なら「アラブが見た十字軍」が名著。
102世界@名無史さん:2006/08/07(月) 20:44:32 0
キングダムオブへブンでも推薦紹介されたね>>101
103世界@名無史さん:2006/09/08(金) 18:32:53 0
age
104世界@名無史さん:2006/10/23(月) 00:56:26 0
じゃーみー
105世界@名無史さん:2006/11/08(水) 19:22:34 0
よくユダヤ人なんかが宰相になれたね
106世界@名無史さん:2006/11/12(日) 14:39:30 0
その前に血統を重視するイランでモンゴル人が王だと言うのが、どうも…
107世界@名無史さん:2006/11/12(日) 20:44:10 0
軍事力が強大で自分達の生活を保証してくれる勢力であれば、地元の住民たちは
基本的にその支配を認証した。ホラズムシャ−朝もサルグル朝なども後世では奴隷出身の
「卑賎な出自の一門」と称されたが、当時は当該の地域の政権が認証して帰順するか
否定して抗戦し撃退するか敗北して征服されるか、が普通だった。

セルジュ−ク朝前後のテュルク系の政権は、詩文や『シャーナーメ』などイラン的文化を
すでに享受して中央アジアやホラ−サ−ン以西へ侵攻してその地での支配を確立した。

モンゴル帝国軍は、イランの地にあっては異教徒であったし、何よりも彼ら強大すぎ、
苛斂誅求に対抗できる勢力がホラズムシャ−朝のジャラールッディーンが横死してから
絶無の状態だったため、地元の住民たちは有無を言わせぬその支配に抗うすべが全く無かった。

ガザンの改宗云々があるが、彼の政策はモンゴル軍民と地元の都市民や村落民などとの棲み分けを
明確にし、それによって税収を確実にし、モンゴル軍民内部からの余計な干渉を排除することで
それぞれの農地や牧畜や商工業などの全体的な経済発展を促進して国力を充実させることだった。
そのためにまず彼は自らを頂点とするチンギス・ハン家の威光と、それによる秩序だった軍政の
引締めを強力に押し進めた。彼の政策の主眼はチンギス家の権威の元にモンゴル軍民と定住民
双方の中央集権化を促進することによってイルハン朝国家を「国家」たらしめる事にあったわけだが、
イスラムへの改宗もその一環と位置付けていたと考えられる。(勿論前近代的な「国家」ではあるが)

それと、ラシードゥッディーン自身は改宗者かその家系の人物だからユダヤ教徒ではない。
ユダヤ教徒だったのはアルグン・ハンの時代に活躍したワズィール、サアドゥッダウラ。
もっともワズィールが非イスラム教徒であった政権はファ−ティマ朝やザンギ−朝などかなり多いが。
108世界@名無史さん:2006/12/13(水) 21:38:59 0
sage
109世界@名無史さん:2006/12/24(日) 18:36:12 0
age
110世界@名無史さん:2007/02/13(火) 16:38:13 0
宗教色の薄い現代日本でさえ、
異教徒の高官登用が奇異なものと受け止められる

宗教色の強い文化圏ならどんな反応になるんだろう?
111世界@名無史さん:2007/02/13(火) 23:23:56 0
>>110
モンゴル時代以前のイスラム政権の高級官僚は、どの地域でもムスリムだけで無くて
キリスト教徒やユダヤ教徒も多かった。勿論、たいがい高級官僚になるのは王朝のあった
首都やその周辺の名士層の出自だったが、ムスリム以外の官僚の場合も王朝統治下の庇護民の
コミュニティーから君主や他の政府高官となんらかの関係を持って登用されるのが常だった。

イスラム政権で活躍した異教徒の官僚というと、例えば8世紀にイベリア半島の後ウマイヤ朝の
君主アブドゥッラフマーン三世に使えた宮廷医で、カスピ海北部のハザル王国に遣使した事でも
有名なハスダイ・イブン・シャプルートはユダヤ教徒であったし、12世紀にエルサレム王国や
十字軍との戦争で活躍したシリアのザンギー朝の君主ヌールッディーン・マフムードに宰相
(ワズィール)として仕えたアブドゥル=マスィーフは、「アブドゥル=マスィーフ」名前自体が
「メシアの下僕」という意味であることからも明らかなようにシリア在来のキリスト教徒だった。

イルハン朝の宮廷人としてサアドゥッダウラは『集史』をはじめ後年のイルハン朝系統の歴史書では
かなり悪し様に書かれているが、それは彼がユダヤ教徒だったからというよりも、陰謀を巡らして
アバカ、アルグン両君主に取入り、王朝の財務行政の功臣筆頭であった宰相シャムスッディーンと
バグダードをはじめとするイラーク地方のハーキムだったアターマリクらジュヴァイニー家の人々を
執拗な讒訴で破滅させたことに集中し、その性根の卑しさを批難されている。ユダヤ教徒云々は
あまり問題になっていない。

多分これはラシードゥッディーン自身がアバカに仕えていた時代からジュヴァイニー家の人々に
恩顧を受けていたからだと思うが、ラシード自身はそれとはまた別に改宗者の出自からくる讒謗の
数々に対処するため、イスラム法学や神学関係の著作を残しそれに当時首都タブリーズ周辺の
高名な法学者たちに認可証明を書いてもらっていたりする。
112世界@名無史さん:2007/02/14(水) 13:12:56 0
イルハン朝には西欧人の官僚もいたはず
113世界@名無史さん:2007/02/26(月) 04:35:59 0
ビザンツが好きなのですが集史の諸種族史のなかにはビザンツは無いのでしょうか?
確実に国交があったのでのってるはずなんですが、フランク史みたいにまとめ
られなかったのかなぁ

弱っちいから扱いが小さかったのか・・・
三国同盟の一つなのに・・・
114世界@名無史さん:2007/02/26(月) 08:07:44 0
集史は読んだことないが、イルハン朝の「イスカンダルナーマ(アレクサンドロス大王伝)」
の挿絵に出てくるマケドニア兵は、甲冑はモンゴル風なのに盾だけビザンツ風で
それによってギリシャ人ということを表現してるとか。
115世界@名無史さん:2007/02/26(月) 21:22:01 0
まあ、ラシードの時代のビザンツはコンスタンチノープル周辺と
今のギリシャの版図しか持ってない斜陽の時期だったから無視されても仕方ない。
116世界@名無史さん:2007/02/27(火) 02:18:46 0
お嫁さんの話は出てくるよ

漏れはモンゴルに詳しく無いんだけど、君主のお嫁さんは結婚してた君主
が死んだら基本的にどうなるの?
集史には部下に払い下げられた例が一杯載ってたんだけど、身分が高くても
基本的には払い下げ?
117世界@名無史さん:2007/02/27(火) 05:51:04 0
>>116
ビザンツの皇女でイルハン朝の君主に嫁入りした人物というと、アバカ・ハンに嫁いだ
デスピナ・ハトゥンが有名だけど、彼女はモンゴル系の有力部族長家の子女が多数いた
アバカの正妃のうち末席に加わった。(側室では無い)
デスピナ・ハトゥンはアバカが大変寵愛したブルガン・ハトゥンの許にコンギラト部族出身の
ミリタイ・ハトゥンとともに置かれたそうなので、正妃としての待遇はまずまず良好だった
ように思われる。デスピナ・ハトゥンはアバカが没した後は実家のコンスタンティノープルへ
退去したらしい。

他のハトゥンたちは、先君が他界後も存命の場合、次代の君主へそのままオルドごと婚姻という
かたちで引継がれる例は多い。例えばフレグの第四正妃だったオルジェイ・ハトゥンはフレグの
死後、アバカのオルドで正妃筆頭として尊重されたし、アバカの寵妃だったボルガン・ハトゥンは
同じくアルグンに再婚したアバカの正妃のひとりであるミリタイ・ハトゥンが没した後、ミリタイの
後任としてアルグンのオルドの管理を任されている。

側室たちなどは先君が没したとは、家臣に払い下げられる者も居たようだが、そのまま次代の君主の
オルドに留め置かれる例もまた多い。その時の政情も絡むのでケースバイケースだと思う。
118世界@名無史さん:2007/02/27(火) 06:31:01 0
>>113
イルハン朝におけるビザンツ帝国の位置付けがどうだったかはあまり知らないが、
『集史』の「フランク史」には歴代ローマ教皇と歴代ローマ皇帝の肖像が対面して
描かれている。

ローマ教皇位の始祖はイエス・キリストで次代はペテロ。ローマ皇帝はアウグストゥス、
ティベリウス、ガイウス某、クラウディウスと続く。

以降は、
ローマ教皇      ローマ皇帝
アナクレトゥス    ドミティアヌス
エヴァリストゥス   ネルヴァ
アレクサンデル1世  トライアヌス
スィクストゥス1世  ハドリアヌス
・・・
となり、ローマ教皇はベネディクトゥス6世で終わるが、ローマ皇帝はそのまま
コンスタンティヌス1世以降の東ローマ皇帝に遷移し、ヘラクレイオス1世、
イサウリア朝のエイレーネー、コンスタンティノス6世に至る。

ところが、この人物の次のローマ皇帝(qaysar)にはフランク王国のカール大帝が
来ている。そのままオットー1世の神聖ローマ皇帝位に遷移し、オットー4世、
フリードリヒ2世と来て、ティーリンゲンのハインリヒ・ラスペを経て、大空位時代で
カイサル部分を欠いたまま、ナッサウのアドルフ、ハプスブルグ家のアルブレヒト1世
で終わる。
119世界@名無史さん:2007/02/27(火) 14:07:52 0
>ところが、この人物の次のローマ皇帝(qaysar)にはフランク王国のカール大帝が
>来ている。そのままオットー1世の神聖ローマ皇帝位に遷移し、オットー4世、
>フリードリヒ2世と来て、ティーリンゲンのハインリヒ・ラスペを経て、大空位時代で
>カイサル部分を欠いたまま、ナッサウのアドルフ、ハプスブルグ家のアルブレヒト1世
>で終わる。

・・・面白すぎる
もしかして執筆協力者がドイツ人だったとか
120世界@名無史さん:2007/03/24(土) 12:35:44 0
そうかもね
121世界@名無史さん:2007/03/26(月) 18:45:29 0
ウッディーンてモンゴル人?
122世界@名無史さん:2007/03/26(月) 20:39:54 0
>>121
当時のモンゴル人ってラカブ使ってたっけ?
123世界@名無史さん:2007/03/30(金) 14:43:19 0
名前が中東系だろ
124世界@名無史さん:2007/04/06(金) 09:40:36 0
>>122
いいえ
125世界@名無史さん:2007/04/12(木) 22:51:07 0
>>121
初歩的な説明になるが、「サラディン」でも同じ問題があるけども「ウッディーン」はちとまずい。

「ラシード(Rashid)」+「アル=ディーン(al-Din:アッディーンorウッディーン)」
で一つの名前。「宗教(ディーン、つまりイスラーム)に正しき者」の意味。
「ディーン」で略するのは「アブドゥッラー(アブド=アッラーフ)」を「アッラーフ」で略する
のに近く、「ラシード」のように「宗教or神の『〜である者』」の部分で略す方がより一般的。

正則アラビア語では、定冠詞 al-にd、s、t などの特定の子音が頭に来る単語が後に続くと、
al-は後接の子音に吸収されて促音化するという特徴がある。そのため Rashid al-din と書いて
実際はラシードゥッディーン Rashidu-d-din- と発音するのだが、日本語の仮名や英語などの
表記で、Rashidu-d-dinと書いてはこの一続きの単語が「ラシード」と「アル=」と「ディーン」
という都合3つの部分からなることが分りづらい。

そのため表記方法としては
「ラシード」・「アル=」・「ディーン」と3つそのまま繋げて「ラシード・アル=ディーン」としたり、
「ラシード」・「アル=」+「ディーン」で「ラシード・アッ(=)ディーン」とかにする。
スレタイの「ラシード・ウッディーン」は、 Rashid-ud-din というラテン文字表記を仮名に写し代えた
ものだが、この「ウ」というのは本来「ラシード」の主格語尾 -u なので「ディーン」の方に前接させる
のは実はあまり良くないやり方だったりする。

人名に良く有る「なになに・アル=ディーン」の「ディーン」の部分は、日本語で言えば、足利義満とか
足利義教、足利義政などの「義」みたいな物。「義満」のように二文字で人名として成り立つように、
「ラシードゥッディーン」で一つの人名となる。
ただ、論文だと「ラシードゥッディーン」などでは書いていると冗長に感じるので「ラシード」などと
略される。
126世界@名無史さん:2007/04/12(木) 23:03:14 0
>>122-124
「ラカブ(laqab)」は「あだな、尊称」の意味なので、『集史』では例えば
トルイの「ウルグ・ノヤン」やクビライの「セチェン・カアン」、他にも
バトゥの「サイン・ハン」、オルダの「エチゲ・ハン」なども『ラカブ』として
説明されている。

ただ、マムルーク朝などのアラビア語資料だと、ムスリムとなったモンゴル王族には
ムスリムとしての「なになに・アル=ディーン」みたいな「ラカブ」も記録されていたりする。
代表的な例だと、ウズベク・ハンの「ギヤースッディーン・ウズベク」など。
(イルハン朝は忘れたが、ベルケやモンケ・テムルなども同じようなものがあったはず)
127世界@名無史さん:2007/04/22(日) 19:57:21 0
age
128世界@名無史さん:2007/06/16(土) 00:22:48 0
sage
129世界@名無史さん:2007/08/09(木) 07:44:36 0
age
130世界@名無史さん
保守