モンゴル帝国

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173世界@名無史さん:2006/09/07(木) 07:22:20 0
とりあえず、オッチギン家が豆満江流域まで支配していたというんは本当なの?
チンギスの弟三王家は、ヒンガン山脈のあたりに本拠地があって、
他にいくつか支那に飛び地を持っているだけだと思っていたんだけど。

>>171-172
森平雅彦先生のいくつかの論文で元に服属後初期の高麗の事情はわかるけど、
元末の、特にバヤン・テムルの動きについて、良いソースない?
岡田英弘先生は細かい論証を省きすぎで使えないから。
174世界@名無史さん:2006/09/07(木) 14:43:12 0
>>168
モスクワ大公国はモンゴルに官位をもらってたんですか?
王族をケシクに入れたりしてた?
175世界@名無史さん:2006/09/07(木) 20:24:04 0
ケシクってとるこのイエリチェリみたいなもん?
176世界@名無史さん :2006/09/08(金) 17:05:52 0
南宋攻略の前に雲南攻略したのが、よくわからない。
モンゴル人の感覚はかなり違うような。

チベット東部ルートで雲南攻めたっていうから、
四川の西を迂回したわけ??
モンゴル的にはチベットの方が馴染みやすかったのか?
177世界@名無史さん:2006/09/08(金) 17:53:10 0
歴史的四川は今の四川よりもだいぶん小さいんだよ。
陝川行省の広がりとか参照。
178世界@名無史さん:2006/09/08(金) 19:47:04 0
>175
> ケシクはイェニチェリみたいなもの?
記憶してる限りだと、似たような感じだが微妙なところで両者は決定的に違う。

イェニチェリは奴隷身分や捕虜となった幼少の異教徒をムスリムに改宗させて
軍人として養育し、これをオスマン朝の皇帝のもとに親衛軍団として組織したもの。
言ってみれば、マムルーク軍団のオスマン朝バージョンみたいなものと思っても
良いかも知れない。イェニチェリを持っているのはオスマン皇帝のみ。

ケシクテイとかケシクテンと呼ばれるものは、モンゴル皇帝であるカアンや
ジョチ王家やフレグ王家の君主であるカンといったウルスの首長のもとに
麾下の「支王家」や「部族長家」の子弟がカアンなどの直属の親衛組織として
(だいたい千戸ほど)編成されたもので、次代の各王侯家の当主としてカアンや
カンの直接の薫陶を受けた。

だからカアンなどが没した場合、次代のカアンが先代と親子関係にあったのであれば、
次期カアンも先代のケシクと結びつきが強いことが多いのでケシクテンがそのまま
引継がれる場合も多い。そのため飽くまでも当主個人や当主家との結びつきによって
編成されているので、別の家系のカアンが即位すると、ケシクはケシク職を解かれても
先代の家系に引継がれたりするが、この場合、新カアンは新たな人員で(あるいは元から
自分のところで持っていた人員で)ケシクテンを編成し直さなければならなくなる。
179世界@名無史さん :2006/09/08(金) 20:29:53 0
ケシクって、有力者の子弟を集めた選抜親衛部隊(人質の意味も)でしょ。
イェニチェリとは、ニュアンスがだいぶ違うような。

ところで、現代の歴史研究だと、「モンゴル系」「トルコ系」とか、
言語に基づく民族区分がよく出てくるけど、当時の遊牧民って、そんなこと
意識してたのか??「部族意識」は重要だったようけど、
当時のモンゴル高原〜中央アジアで、「モンゴル系」「トルコ系」って
言語以外に違いあったのか??

180世界@名無史さん:2006/09/08(金) 21:11:20 0
>>179
ものすごく大雑把にいうと、もともとぐちゃぐちゃだったのが、
イスラム教になったのがトルコ語だけを使うようになり
チベット仏教になったのがモンゴル語だけを使うように分かれていった。
181世界@名無史さん:2006/09/08(金) 21:11:31 0
>>176
モンゴル系もウイグルやナイマン、ケレイト、カルルクなどのテュルク系も、
一括して「テュルク系諸民族」(アトラーク(トゥルクのアラビア語複数形)として理解されていた。

『集史』の「テュルク・モンゴル部族誌」の区分だと、キヤト氏族やタイチュウト氏族、
コンギラト部族などのモンゴル系の人々は、「『モンゴル』と呼ばれているテュルク系の部族集団」と
位置付けられていて、タタル部族連合やジャライル部族などは「モンゴル語を話すがモンゴルとは呼ばれない
集団」とされている。モンゴルという集団もモンゴル語も巨大な「テュルク系」諸民族の一派である、という認識。
ちなみに「タングート」もこの「テュルク系の集団」に含まれているw
女直や契丹も「テュルク系」に含まれていたかはちと忘れた。

『集史』は「創世記」の族祖神話と同じ世界観で語られていて、テュルク系もその一派であるモンゴル系も
方言差はあるものの、古代の族祖神話を共有し、言語も近似しており、生活形態もほぼ同じで、もともとは
同じ系統の民族と当時は考えられていた。実を言えば、19世紀末に欧州近代の歴史学が移入されるまで
トルコからイラン、中央アジア、モンゴルに至るまでこの考え方は浸透していた。
182世界@名無史さん:2006/09/08(金) 21:15:53 0
アンカー間違えた。
>>181>>179のレスね。
183世界@名無史さん:2006/09/08(金) 21:39:53 0
そういやロシアではタタールのことを「ハガルの子孫」と呼んでたな。
タタールというよりイスラム教徒全般のことなのかも知れないが。
184世界@名無史さん :2006/09/08(金) 23:06:09 0
>>180>>181
なるほど。
やっぱり、トルコだ、モンゴルだ、と言語区分にこだわるのは、
近代以降の歴史研究の産物ですか。
185世界@名無史さん:2006/09/09(土) 17:03:10 0
>>176
正直当時の実際の事情に詳しくないんだけど、
軍事的に見るなら、四川は南宋の防衛線の一翼を成していて攻めがたい、
つまり、四川を攻めれば南宋の他の地域から援軍が来て、
それに対応するとなし崩し的に全面戦争になってしまう。
そして、そこまでする準備は出来ていない、
つまり全面戦争での一気に制圧は確実に出来るとは言いがたい状況だとの判断から、
現状では南宋の防御線の外側から進出し南宋を包囲しさらに情勢を良くしよう、
南宋を完全に制圧する為の戦争を起こすのはそれからだ。
という戦略だったのではないかと思う。
186世界@名無史さん :2006/09/12(火) 20:05:20 0
チンギスの末裔は、北元滅亡後、
一時期傀儡のハーンに落ちぶれたけど、
15世紀末には復興して、最終的に清朝に服属、
てことは、現在もチンギスの末裔はモンゴルに結構いるのかな??
187世界@名無史さん:2006/09/12(火) 20:37:31 0
>>186

レイプをしたからモンゴルだけでなく中央アジアやヨーロッパにもいるそうだ。
ただチンギスだけでなくモンゴルの部族は血族が多いから
チンギスの従兄弟などの子孫もチンギスの子孫にカウントされてそう。
http://x51.org/x/04/06/1407.php
188世界@名無史さん:2006/09/12(火) 20:44:30 0
>>187
その研究所、テムジン本人のDNAを入手して調べてる訳ではないよ。
189世界@名無史さん:2006/09/12(火) 21:40:23 0
>>187
あらためて見るとつっこみどころ満載な記事だね。

> チンギスは立志して死亡するまでの40年間、多くの国を滅ぼしてはその国の女性を
> 組織的に犯しては、略奪を繰り返したと言われている。

> そしてチンギスは新たな都市を征服するたび、部下たちに略奪は許可する一方で、
> 女性は必ず自分のもとに連れてくる> > よう指示し、組織的な強姦を行うか、
> 妾として自らの下に置き、自らの血を継ぐ子孫を増やし続けたと言われている。

誰だこんな与太話を吹き込んだのは。というかちょうど一年前くらいにチンギス・ハンに
ついてレイプレイプと喧しかったが、元ネタはこれか。

> そしてチンギスが65歳で死ぬまでの間、モンゴル帝国は中国南部からペルシャ湾にまで
> 及ぶ人類史上未曾有のスケールを持つ巨大な帝国に成長した。
チンギス・ハンの時代に実行支配できていたのは華北からマーワラーアンナフルとアフガニスタンまで。
ジェベとスベエデイの追跡部隊はアゼルバイジャンからキエフ方面を劫略してモンゴル本土へ
帰還しているが、ペルシア湾までは行っていない。「中国南部」ってどういうことだ。
こんな基本的な歴史的知識で大間違い侵している記事では研究内容と言うか主張を鵜呑みに出来んよ。

しかもDNAを採取したところがアフガニスタンのハザーラ族って・・・ ハザーラ族がモンゴルに
関係しているらしいことはよく言われているが、チンギス・ハン家それじたいと関係があったのは
伝説レベルであって、まったく不明だったんじゃあなかったっけ?
モンゴルとかクリミア、ロシアあたりの比較的系統が分かっているチンギス・ハン家の子孫から
チンギス・ハン家共通のDNAを割り出すとかいうなら理解はできるが・・・
割り出した対象がオイラト部族とかコンギラト部族とかのものでないという保証はあるんだろうかw
190世界@名無史さん:2006/09/12(火) 22:20:57 0
オゴタイの末裔で一番最近まで残っていたのは?
191世界@名無史さん:2006/09/12(火) 23:16:26 0
>>190
魁!!男塾に出てくるよ。
192世界@名無史さん:2006/09/13(水) 00:26:33 0
王大人?
193世界@名無史さん :2006/09/13(水) 00:42:08 0
16世紀中葉、アルタン・ハンの時代に、モンゴルはまた盛り返したわけだが、
明に対しては、辺境を荒らすだけで、有利な通商条件で和平。

華北の再征服しなかったのは、軍事的に不可能だったのか、
それとも、発想として、華北征服が無かったのか。
なぜなんだろ。
一応、北辺には、100万くらいの明軍がいたらしいが。
194世界@名無史さん:2006/09/13(水) 08:27:15 0
>北辺には、100万くらいの明軍

それはちょっと無理かも。
太祖の時代には5,600名の「衛」が全国に500ほどあって
300万近い兵士が登録されてたようだが、16世紀には
半分以下の兵力になってしまっていたらしい。
195世界@名無史さん:2006/09/13(水) 08:58:54 0
>>187
レイプをしなかった征服者が歴史上あるのかね

それにしてもレイプ好きだな、レイプ、レイプ、レイプ
196世界@名無史さん:2006/09/14(木) 21:27:58 0
>>195
世界的な侵略者・欠地日王裕仁もかつて盛んなりし時にレイプしてたのだろうか?
197世界@名無史さん:2006/09/14(木) 21:35:13 0
>>195
て事はレイプをしてたんでしょうか?レイプしていたとしたらちょっとショック
198世界@名無史さん:2006/09/14(木) 23:34:16 0
レイプ話しはそこまでにしてもらいたい。
モンゴル帝国側の資料も、モンゴル帝国の侵攻を受けた地域の資料も、老若男女を問わぬ
殺戮や掠奪に付いての記事はそれこそあげるのもきりが無いくらいあるが、モンゴル軍団が
レイプしただのチンギス・ハンがレイプしただのといった記事はまず見た事が無い。

恐らく欧州あたりの近代戦での諸々の記録や伝聞から、勝手に想像して書き散らしているのだと
思うが、モンゴルに対立していた勢力の記録にもまず出てこないような話を実際に有ったかの
ような前提で話をするというのは馬鹿げている。同時代性の高い資料でそういうことが述べられて
いるのであれば話は別だが。

> レイプをしなかった征服者が歴史上あるのかね
具体的な例を挙げて欲しい。いわゆる征服者と呼ばれている君主なりで征服した地域の子女を強姦した
という人物が記録に残るだけでどれだけいるのか、それがどれだけ一般的だったのかを見ない限り、
「歴史上」などと軽々しく言うべきでは無い。個人では無く集団として行ったものとして言っているのだろうか?

チンギス・ハンはモンゴル軍団が征服した地域ごとに有力諸部族の首長家や王侯から子女が送られて来たため、
チンギスのオルド(宮廷)には正妃・側室が500人もいた、とは『集史』が述べていることだが、記録に
残るチンギスの子供達は男女含めても20人に満たない。うち9人は第一正妃ボルテとの子供たちになる。

『元史』ではチンギスの皇妃をボルテも含めて30数名あげているが、果たして40代も半ばに領域的な君主
として権力を確立し、しかもあとの20年の内に大きな遠征に二回も行った人間に「公称」側室500人全員を
相手にしている暇など有ったのかは疑問だが。発言者の「レイプ」をどう言うものと定義しているのかは
知らないが、側室として娶るということが強姦なりにあたるなどということは歴史学関係の話では普通は聞かれない。
それも「レイプ」にカウントされるならどうしようもないが。
199世界@名無史さん :2006/09/15(金) 00:17:20 0
モンゴル高原から、中央アジア・西アジア方面への民族移動は、
史上、幾度もおこなわれてきたわけで。
血縁的には、それなりに混交してるだろ。
別に、モンゴルの征服時のみではない。
200世界@名無史さん:2006/09/15(金) 00:20:08 0
そういやコーカサスのノガイ族のDNAのデータがどっかネット上にあったな。
201世界@名無史さん:2006/09/17(日) 02:50:05 0
レイプ話は「男子最大の快楽とは?」ってやつだろ。
ドーソンの著書って信憑性あんのかね?
202世界@名無史さん:2006/09/17(日) 05:26:42 0
>>198
集団レイプならもっとたち悪いじゃないか
馬鹿?恋人でもモンゴル人にやられたらどうおもうね
203世界@名無史さん:2006/09/17(日) 07:34:23 0
どっちにしろそんな記録は無いから。
204世界@名無史さん:2006/09/17(日) 22:17:46 0
消したんだろ
205世界@名無史さん:2006/09/18(月) 18:31:26 0
>>201
この際だから一年前に今は無き「モンゴル大虐殺史」スレに書いたものを貼ってみる。
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1116559441/254-258

254 名前:世界@名無史さん メェル:sage 投稿日:2005/07/23(土) 20:29:36 0
>229,>230,>240
参考になるか知れないけど、>233で少し触れたドーソンの情報の元ネタになった
『集史』の記述についてちょっと書いてみる。そんなに長い内容でもないのだが、
ドーソンはそこそこ端折っている。これは、

「チンギス・ハン紀第三部;称讃すべき性格と品行、彼の選ばれた習慣と各々の時期の
ために言い命じた良い金言と言葉とビリクと命令の数々、及び先の二つの部に入らなかった
ものについて良く知られたことで各々の人物や各々の本から散乱し整理されなかったために
単独で書かれてしまった彼の治世中に生じた逸話と出来事について」
206世界@名無史さん:2006/09/18(月) 18:34:42 0
255 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:36:42 0
というやたらと長い題名の一章に出てくる逸話集の最後のエピソードなのだが、
面倒なので訳をそのまま載せてみる。必要そうな箇所は()で補った。

「次に曰く。チンギス・ハンがある日、諸将の首長であったボオルチュ・ノヤンに
 「男子の快楽とジルガミシュ(=テュルク語で「快楽」の意味。同義語反復の例)は何であるか?」
  と尋ねた。ボオルチュが曰くに、
 「男子のそれ(快楽)とはこれであります。すなわち、己の色の紺青なる鷹をその肩に食い込ませ
 (ペルシア語で鷹を肩にのせることをこのように言う)、冬には羽毛を生えさせ、取り巻きの全てを
  手にとり(?)、太らせた良い去勢した速く静かに走る馬に跨がり、春の緑には紺青なる頭の鳥ども
 (ワシタカの類いか)で狩猟し、立派な衣と衣服を着ることです」
  チンギス・ハンはボログル(ボロウル)にも言った。
 「汝もまた言え」 ボロウルが曰くに、
 「男子のジルガミシュとはこれであります。すなわちソンコル(白ハヤブサ)に似た動物どもを
  灰色の鶴の上に飛ばし、それらのカギヅメの傷によって空から落ちて捕らえるまで(行うこと)です」
 そしてその後ドゥラダイ、クビライにも尋ねたが、「男子のジルガミシュは狩猟と動物を飛ばすことです」
 と言った。
  その時チンギス・ハンが仰せられることには、
 「汝らは良しとすることを言わなかった。(=自分の望みに適うことを言わなかった)
  男子の快楽とジルガミシュとはこれである。すなわち謀叛人を粉砕し、敵に勝利を納め、
  彼を根こそぎに覆滅し、その持てる物を征服することである。そして彼らのボグタクを
  持てる者(既婚女性のこと)たちをの眼を涙ぐませ、彼(女)らの鼻の面の上に涙を流させ、
  彼らの尻の太った態度の良好な去勢馬どもに跨がり、彼らの見目の麗しいハトゥンたちの腹と
  臍に眠りと寝床の衣服を設け(着させる?)、彼(女)らのバラ色の頬を見ながら口付けし、
  彼女らの砂糖のナツメ木色の(ペルシア語で恋人の唇を指す詩的な言い方)唇を吸うことである」
  『イスラームの民のうえに平安あれ』
207世界@名無史さん:2006/09/18(月) 18:36:49 0
256 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:38:49 0
 ここでのボオルチュとは、モンゴル帝国の勲臣第一等アルラト部族のボオルチュ・ノヤンのこと。
チンギス・ハンの青年時代から幕僚となった帝国の最古参のひとり。
 ボログルとは、幼少時代ジュルキン部族から拾われてチンギス・ハンの養子となった、ムカリ、
ボオルチュ、チラウン・バアトルと並ぶチンギス・ハン四傑(ドルベン・キュルウド)のひとり
ボロウルのこと。
 ドゥラダイは主要な勲臣のひとりだとは思うが、特定はできなかった
 クビライとはジェベ、ジュルメ、スブタイらとともに勇名を馳せた、チンギス・ハン麾下の四狗
(ドルベン・ノガイ)のひとりクビライ・ノヤンのこと。

いづれも帝国の筆頭と呼ぶべき名のある勲臣たちだが、そのどれもが鷹狩りをあげていることから
当時モンゴルの人士の内では鷹狩りによる狩猟が最大の娯楽だったことがわかる。要は鷹狩りなどの
遊技を「男子の快楽」とすべきでなく、征戦による武功とそれにより馬匹と子女とを獲得しこれを
愛でるこそ「男子の快楽=本懐」たるを心せよとのことだと見るのが穏当だろう。

ボオルチュが自分の去勢馬を〜というところを、対してチンギスは征戦によって獲得した敵の去勢馬を
駆ることにこそ上とすべきと述べているが、これによってもとくに良好な去勢馬が珍重されていたことが
見て取れる。
208世界@名無史さん:2006/09/18(月) 18:38:15 0
256 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:38:49 0
 ここでのボオルチュとは、モンゴル帝国の勲臣第一等アルラト部族のボオルチュ・ノヤンのこと。
チンギス・ハンの青年時代から幕僚となった帝国の最古参のひとり。
 ボログルとは、幼少時代ジュルキン部族から拾われてチンギス・ハンの養子となった、ムカリ、
ボオルチュ、チラウン・バアトルと並ぶチンギス・ハン四傑(ドルベン・キュルウド)のひとり
ボロウルのこと。
 ドゥラダイは主要な勲臣のひとりだとは思うが、特定はできなかった
 クビライとはジェベ、ジュルメ、スブタイらとともに勇名を馳せた、チンギス・ハン麾下の四狗
(ドルベン・ノガイ)のひとりクビライ・ノヤンのこと。

いづれも帝国の筆頭と呼ぶべき名のある勲臣たちだが、そのどれもが鷹狩りをあげていることから
当時モンゴルの人士の内では鷹狩りによる狩猟が最大の娯楽だったことがわかる。要は鷹狩りなどの
遊技を「男子の快楽」とすべきでなく、征戦による武功とそれにより馬匹と子女とを獲得しこれを
愛でるこそ「男子の快楽=本懐」たるを心せよとのことだと見るのが穏当だろう。

ボオルチュが自分の去勢馬を〜というところを、対してチンギスは征戦によって獲得した敵の去勢馬を
駆ることにこそ上とすべきと述べているが、これによってもとくに良好な去勢馬が珍重されていたことが
見て取れる。
209世界@名無史さん:2006/09/18(月) 18:39:52 0
257 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:42:43 0
ボオルチュが自分の去勢馬を〜というところを、対してチンギスは征戦によって獲得した敵の去勢馬を
駆ることにこそ上とすべきと述べているが、これによってもとくに良好な去勢馬が珍重されていたことが
見て取れる。

さて、肝心の「陵辱・レイプ」問題だが、チンギスの言葉それ自体からはそれらしい文言は出ていない。
チンギスが「男子の快楽」として述べた文言の内容は、1)敵対者に対する征戦とこれの撃滅すること、
2)それによる敵対者の財物を制圧すること、3)敵対者のハトゥンたちを獲得してこれを愛でること、
である。

婦人達に涙を流させることが「陵辱」の見ることもできそうだが、財物の征服と良好な去勢馬を駆ること
の間に述べらおり、テュルク・モンゴル系の遊牧諸族では家産の管理を各家の婦人たちが担っていたので
これはむしろ敵対者家族の財物を容赦なく制圧し、もう少し穿ってみれば虜囚として家族が分散されこと
で「婦人達の涙を流させる」ということではないかと思われる。
さらに最後の部分だが、「ハトゥン」とは「ハン」の女性形、「妃」とか「王妃」に類するような
王侯貴族の婦人や子女のこと。ようするに「妃、姫君」のような高貴な女性たちのこと。
「砂糖のナツメ木色の唇」とか「バラ色の頬」とかいった表現はペルシア語文学のロマンスものでも
頻繁にでてくる表現で、「バラ色の頬」などは『元朝秘史』でも似た表現がある。

つまりここでは、敵対勢力から勝利して獲得した姫君を飽くまで「愛でること」が主眼となる。
同盟者や敵対者の頭目からその子女を獲得することはモンゴルに限らず日本でも欧州でも中世期では
一般的だったので、ここではチンギス・ハンが何か特殊なことを言ったわけでもなければ、強姦らしい
ことを奨励したわけでもないと見てとったほうが妥当だろう。もっとも中世には君主が有力勢力の子女を
妻君や側室として獲得することは一般的だったし、これと睦むことが強姦だと言うのであれば別だが。
210世界@名無史さん:2006/09/18(月) 19:04:54 0
>>205
そのスレでチンギスハーンが鍛冶屋だったという伝説が話題になってなかった?
●ないから見れない・・・
211世界@名無史さん:2006/09/18(月) 19:36:08 0
258 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:46:28 0
>254-257の結論からすると、
チンギス・ハンは、敵対者を征戦によって打倒しその家産を略奪しその后妃・姫君を愛でる
ことこそ男子の快楽とは述べてはいるが、婦女子を陵辱し蹂躙することこそが快楽、などとは
全く言っていない。

────────────────────────────────────────────

>>201
ドーソンの主要典拠は彼自身が調べたパリ国立図書館蔵の『世界征服者史』『集史』『完史』などの
メインにモンゴル帝国関連のペルシア語、アラビア語の諸写本や、個人的に持っていたシリア語、アルメニア語の
歴史書で、これに当時出版されていた『元史』などの漢語資料のフランス語訳などを参照にして
1834〜1835年に、『チンギス・カンよりティムール・ベイ、すなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』
(邦題:モンゴル帝国史)を出版した。

ペルシア語資料については、イルハン朝の後期頃の記事は『集史』「ガザン・ハン紀」や『オルジェイトゥ史』
をそのまま直訳して載せてる場合が多くて、かえって索引として元の文章にあたりやすかったりする。
ところどころ写本本文の読み間違えとかドーソン個人の勘違い、理解不足な部分も少なからずあるものの、
全体としてモンゴル帝国史研究では今でも参照すべき資料になっているのは、周知の通り。

212世界@名無史さん:2006/09/18(月) 19:39:39 0
>>209の続き
それで、ドーソン本文では>>206の部分はどのように書いてあるかと言うと、最後の部分、
 チンギス・カンは言葉を続け、
 「然らず。男子の最大快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、
  これと親密な人びとの顔が悲哀に泣きぬれているのを見、その女たちと妻たちを抱きしめることにある」
 と語った。(佐口透訳:第二巻、四一頁)

となっている。そこそこ端折っていることがわかるが、あるいは彼が引用した『集史』パリ本ではこのくらい
さらっとしか書いていなかったのかも知れない。この部分でチンギスが下問した部将はボオルチュとボロウル
しか載っておらず、ドゥラダイ、クビライの名前は出てこない。一年経ってまた調べたがこの「ドゥラダイ」
という人物については結局よく分らなかった。

ボオルチュと同じアルラト部族にドレデイ・ヤルグチという人物と、チャガン・タタル氏族のドレデイ・イデチ
という人物がいるが、双方ともフレグの西方遠征で活躍した人物で、アルラト部族のドレデイはアバカ、アフマド・
テグデルにつかえた幕僚らしい。一方のタタル部族のドレデイもアバカからアルグン時代に活躍した主膳司(イデチ)
という要職にあった人物で、チンギス在世中から随分時代が下るのでどちらも同一人物とは思えない。

ペルシア語では「妻」も「女」も zan という単語で呼ばれているので、あるいはパリ本の方では zan wa khatun
のような書き方をしているので「その女たちと妻たちを」と解釈したのかも知れない。

原文に比べて、おおよそのことは書いてあるけど、ちょっと端折りすぎてる嫌いが有る、くらいかも知れない。
213世界@名無史さん:2006/09/18(月) 20:06:00 0
>>210
ビザンツ帝国の歴史家パキメレスや、小アルメニア王ハイトン、ルブルクのギョーム修道士、
マムルーク朝の歴史家ヌワイリーなどが、テュルク語で鍛冶屋を意味する「テムルジ」が
「テムジン」の語源だろうということで「テムジン」=「テムルジ」=「テムジンは鍛冶屋だった」
という説明をしている。当時はそのような語源的解釈による伝説が流布していたらしくて、
それをかれらが記録してしまったのだろう、という説明をドーソンはしているみたい。

『集史』だったか『世界征服者史』だったかにチンギス・ハンの本名テムジンのもとになった、
「テムジン・ウゲ」の「テムジン」とはテュルク語で鍛治師を意味するようだ、という説明を
していたような気がするが、ちょっと忘れてしまった。
214世界@名無史さん:2006/09/18(月) 20:13:22 0
>>213
情報サンクス。

そいや突厥も鍛冶集団だったとかいうし
北アジアでは鍛冶屋が呪術師みたいに恐れられてたとか。
215世界@名無史さん:2006/09/24(日) 22:33:51 0
みたい、というかそうなんだろう。
むしろ現代日本人のように無宗教的に物事をみたり感じたりする方が世界史的には異常ではないかと。

まあ現代日本人と言っても、占い好きな人は多いが。
216世界@名無史さん:2006/09/25(月) 10:17:43 0
現代、というかごくごく最近の日本なら「お金」への
信奉と畏怖を宗教(というか迷信)みたいなものだと
考えれば決して特殊ではないような気もするな
217世界@名無史さん :2006/10/02(月) 22:27:14 0
>>59
東・南シナ海と同様、東欧迄が戦術的な限界線だったんだろ
そんな中でオゴデイの死は、
西欧に垂涎してる10万の兵達に退却を納得させられる
時宜に敵った口実だったと考える方が自然か。
218世界@名無史さん :2006/10/02(月) 22:32:48 0
>>63以降を嫁。>217
219世界@名無史さん:2006/10/10(火) 23:45:27 0
中国の歴史に関する娯楽・文学は三戦板のご利用を

http://hobby8.2ch.net/warhis/
220世界@名無史さん:2006/10/13(金) 19:26:21 0
>>98
そのソースとなっている元史の郭寶玉伝は
西征軍がエジプトやメッカを征服したとか書いてて
あまり信用ならない内容らしいけど。
221世界@名無史さん:2006/10/20(金) 22:16:20 0
ナヤンの乱の首謀者ナヤンについて、
テムゲ・オッチギンの子孫ではなく、
ベルグテイの子孫という説を知ったのですが、
これは本当でしょうか?
222世界@名無史さん
222ゲット