モンゴル帝国・金国・西夏・ホラズム

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441世界@名無史さん:2007/04/08(日) 16:56:47 0
自分で調べてみたらなんとモンゴル高原の西かよ!?
こりゃモンゴル諸語とテュルク諸語が同じアルタイ語族なんて言われる訳だ。
草原で隣り合って暮らしてたとは
442世界@名無史さん:2007/04/08(日) 17:11:35 0
金の皇室完顔氏はモンゴルによって完全に抹殺されたとみていいの?

日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。

※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
       【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
       【土・日】21:00?24:00

http://www.ch-sakura.jp/index.html


444世界@名無史さん:2007/04/12(木) 17:41:10 0
>>442
金史を読む限りでは皇室・宗族は崔立のクーデターで降伏した開封在住と
哀宗に従軍した連中はほぼ全滅している。
445世界@名無史さん:2007/04/12(木) 19:31:13 0
>>沖縄に追放されたモンゴル皇帝の末裔、その後の事だれか知りませんか!!

13世紀頃にユーラシア大陸を席巻した史上最大の帝国・モンゴル帝国のうち、クビライが建てた
大元ウルス(ウルスはモンゴル語で国)は1368年、明の朱元璋によって滅ぼされます。その時、
明は元朝皇帝の次男と妃・娘を生け捕りにしましたが、彼らが沖縄に追放された事実はあまり知ら
れていません。

元朝皇帝の次男の名前は「地保奴(ティポヌ)」。元朝17代天元帝(ウスハル・ハーン)の次男です。
捕らえられた地保奴らは当時の首都であった南京に送られます。明皇帝の太祖は元がかつて良い政治
も行ったことを考えて、その子孫である地保奴を殺すことは止めました。しかし国内においておくのも
どんなものだろうかということで、多くの資財を与えて琉球に送った、と明朝の記録『明実録』にあります。

『明実録』の記事は単なる伝承などではなく、当時の出来事を正確に記録したものですから、元朝皇帝
次男の琉球への追放はほぼまちがいない事実と考えられます。
446世界@名無史さん:2007/04/12(木) 20:02:32 0
藍玉が元の后妃をレイプしたんで地保奴が流刑になったのかと思ってた
447世界@名無史さん:2007/04/14(土) 20:43:53 0
今でも現代モンゴルでは「フビライ」と発音されてるのに
何で最近になって「クビライ」と言い換えてるんだろうか…。
448世界@名無史さん:2007/04/14(土) 21:33:09 0
>>445
その琉球って今の台湾のことじゃね?
449世界@名無史さん:2007/04/15(日) 01:11:23 0
>>447
元代のモンゴル語ではkh音がカ行に近い発音をされていて
のちにだんだんハ行に近い音になっていったということらしいです。
450世界@名無史さん:2007/04/16(月) 00:35:19 0
当時は「クビライ」と発音されてたわけか。
ややこしいな。
451世界@名無史さん:2007/04/16(月) 00:39:24 0
イル=ハンと呼ばれたのがフレグだけだとしたら
イルハン朝という呼称はどうかと思うな。
452世界@名無史さん:2007/04/16(月) 01:15:43 0
>>451
王朝の始祖だから問題ないのでは?

そういや英語の本でもフレギッドって言い方は見たことないな。
453世界@名無史さん:2007/04/21(土) 02:15:23 0
>>448
当時の琉球は2つあって、大琉球が今の沖縄で小琉球が今の台湾との事。
454世界@名無史さん:2007/04/29(日) 11:13:34 O
カイシャンが戦ったタミールとカラコラムの戦いについてだれか詳しく教えてくれない?        
それと床兀儿の読み方も教えてくれないかな?
455世界@名無史さん:2007/05/01(火) 22:09:49 0
モンゴルの歴史を読んでるとホラムズ王国の戦いにおいてのホラムズの王族
ジャラール・ウッディンの活躍が面白い、外国で映画化されてませんかね


456世界@名無史さん:2007/05/02(水) 01:00:39 0
>>454
多分、『元史』に出て来る「床兀兒」のことでは?
「牀兀兒」とか「創兀兒」とか書かれる人物。Chog'ur と読むらしいから、
それだったらチョンウルとかチョングルとかになるか。

自分は良くは知らないが、杉山先生の論文によると『集史』「クビライ・カアン紀」にも
「大アミールのひとり cwnqwr wang 」として出て来るほど有名なキプチャク親衛軍団司令
らしいけど。カイシャン関連だとやっぱり杉山先生の論文が一番詳しいかも。

杉山正明 1987 「西暦1314年前後大元ウルス西境をめぐる小札記」 『西南アジア研究』 27
(『モンゴル帝国と大元ウルス』「第8章 西暦1314年前後大元ウルス西境」pp.334-370.に収録)
杉山正明 1995 「大元ウルスの三大王国−−カイシャンの奪権とその前後−−(上)」
『京都大学文学部研究紀要』 34
457世界@名無史さん:2007/05/03(木) 13:33:07 0
454じゃないけど図書館で読んでみようかと思う。ありがとう。
458世界@名無史さん:2007/05/24(木) 15:58:06 0
>>449
それってモンゴル人から見ると、外国人の研究者が藤原秀衡をフジワラノフィデフィラって読むようなもんだな。
459世界@名無史さん:2007/05/26(土) 09:13:20 0
的確な喩えに感動
460世界@名無史さん:2007/05/26(土) 18:34:21 0
>>449,458
オゴデイやモンケ、クビライが生きていたモンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語だと、
「クビライ」の「ク」にq音が近代・現代モンゴル語ではχ音に変化しても、文字上の綴りは
「クビライ」も「フビライ」も書き分けが出来ない。それじゃあ困るってので現代モンゴル文字だと
(満州文字もそうだけど)点とか字形をちょっと変えてqとχを書き分けるようにしているみたいだけど。

ただ、当時のモンゴル帝国が使っていた文書資料、例えばパスパ文字モンゴル語やペルシア語や
アラビア語で使われるアラビア文字とかだと、「クビライ(Qubilai)」も「フビライ(Χubilai)」も
書き分けることが出来るけど、実際にこれらの資料では「クビライ(Qubilai)」の方が使われている。

> 藤原秀衡をフジワラノフィデフィラって読むようなもん
非常に適格な例えだけど、
「クビライ」の問題を「藤原秀衡」で例えるなら、平安時代頃の日本語の正書法では
「プジワラノピデピラ」も「フジワラノフィデフィラ」も「フジワラノヒデヒラ」も書き分けが出来る
けど、資料の上ではちゃんと「フジワラノフィデフィラ」にしているからそのように呼びましょうか、
っていう感じだろうか。

近代モンゴル語は中世モンゴル語に比べて文字や用語の読み方や意味が乖離している場合がやはり
結構あるので、モンゴル帝国時代を研究している人たちは、なるべく中世モンゴル語や実際に書かれて
いる読み方に近いカナ表記をするようにしているみたいだけど。

チンギスの「カン」と「ハーン」の問題もあるけど、むしろユリウス・カエサルをわざわざ
現代イタリア語の発音に近い「ジュリオ・チェーザレ」で読もうかという感覚に近いかも。
461世界@名無史さん:2007/06/18(月) 18:03:31 0
????
臣従部族、隷属部族というのはどういう風に発生するのでしょう。
堺屋氏の小説読んでいるのですが。

イエスゲイが急死した後のテムジンの部族も、
一時的には、タルグタイの臣従部族になったのでしょうか。
462世界@名無史さん:2007/07/08(日) 13:05:21 0






■サッカー:U17日本代表、PK戦の末韓国に勝利

2007年6月23日午後2時、天安総合運動場で8カ国国際大会(U17)3位決定戦が行われ、
日本代表は韓国と対戦、PK戦の末勝利し3位となった。前半24分、水沼宏太の
ゴールで日本が先制。その後、韓国はペナルティーキック
からゴールを決め1-1の同点としたものの、その後PK戦にもつれこみ、7-6で
日本が勝利をおさめた

朝鮮日報JNS
http://www.chosunonline.com/article/20070623000031













463世界@名無史さん:2007/07/15(日) 19:57:48 0
>>447
NHKは近年一貫して「クビライ」だね。
和泉マフラーの大河の時もやはりクビライで統一されていたよ。
464世界@名無史さん:2007/08/12(日) 23:05:35 0
>>422
十分苦しんでいるだろ
文永の役では御家人側は博多を放棄して大宰府に早々に引くありさまだ
これは兵力不足もあっただろうが

弘安の役では防備を固めていたから
効果的に防備できた

日本は別に特別な国でもなければ世界最強の国でもないんだぞ
465世界@名無史さん:2007/08/12(日) 23:07:37 0
そもそも日本遠征の時の元軍の主力は
高麗・南宋の軍なんだが
466世界@名無史さん:2007/09/04(火) 00:18:45 0
最初に船内に夜襲して首を何個も持ち帰る。次の日には昼間に斬りこみ。
たぶん狭い船内での接近戦ではモンゴルの騎馬と弓の戦術なんて通用せず、
日本刀の剣術が有利で、夜襲でなくてもOKと判断したんだろう。
ついでに高麗の農民が土地をあげるとか言われて鍬もって参戦なんてのは武士
の敵ではなかった。
467世界@名無史さん:2007/09/04(火) 00:21:22 0
この話は防塁で上陸阻止した2度目か
468世界@名無史さん:2007/09/09(日) 13:06:41 0
「モンゴル帝国が生んだ世界図」で、大元ウルスとモンゴルの使い分けが不明確で不親切だと思った。
元寇のことを「大元ウルスの来襲」でなく「モンゴルの襲来」と書く理由もよく分からなかったし。
そもそも、日経新聞から出す本に、「大元ウルス」という言葉の説明すらないのは乱暴かと。
一般向けの本を出すなら、自分が生きている井戸の中の世界と世の中のギャップを埋める作業がほしい。
以上チラシの裏
469世界@名無史さん:2007/09/09(日) 14:49:33 0
>>464
それ八幡愚堂訓という八幡信仰布教のために書かれた宗教書に書かれていること。
武士は苦戦したけど、神社から神様が出てきて元軍を撃退したという荒唐無稽な
内容の文献だよ。
実際に戦闘に参加した武士が作成した蒙古襲来絵詞だと、元軍は日本軍の集団戦法
に歯が立たず、逃げ回るのみ。
事実、元軍は一日で敗退しているわけだし、文永の役で武士が苦しんでいたとは
思えない。
470世界@名無史さん:2007/09/09(日) 15:38:33 0
>>469
あれだって恩賞目当ての武士が自分の功績を過大に書かせてるだろ>蒙古襲来絵詞
471世界@名無史さん:2007/09/09(日) 16:11:36 0
>>470
蒙古襲来絵詞が恩賞目当てに書かれたというのは嘘。
作者の竹崎季長が恩賞を獲得したのが1275年で、蒙古襲来絵詞の作成は1293年頃だからね。
そもそも、当時の恩賞は絵巻云々でどうにかなるものでもないし。
古今東西、合戦の最重要史料は実際に戦闘に参加した兵士が残した史料だろ。
472世界@名無史さん:2007/09/11(火) 00:11:10 0
> 元軍は日本軍の集団戦法に歯が立たず、逃げ回るのみ。
いや、別にそんな書き方はしてなかったはずだぞ。>『蒙古襲来絵詞』の文永の役

『蒙古襲来絵詞』の内容だと菊池武房の軍勢に赤坂の陣を攻め落とされた蒙古軍は二手に別れて撤退し、
麁原(すそはら)に退いてそこに陣を敷いた一隊と遭遇した竹崎季長らはこれを攻撃して武功をたてる
ことにした。覚悟の上とは言え多勢に挑むわけで、当然と言うか季長以下郎党3騎は矢傷をうけて重傷、
馬を射られて落馬するわで散々な目に逢うが、肥前の国の御家人白石六郎通泰の一党が後陣から加勢して
きたおかげで助かった、述懐している。

麁原(すそはら)に駆け上がった蒙古軍のその後については何も述べていないが、深手を負いつつも
幸い存命したので、お互いこの都度の武功の証人になることにしたそうだ。この時の証人のひとり
筑後の国の御家人光友又三郎も首の骨を射通される大怪我だったそうだから、

「元軍は日本軍の集団戦法に歯が立たず」とか「文永の役で武士が苦しんでいたとは思えない」

とは、それこそ到底思えない。

『蒙古襲来絵詞』は文永・弘安の役の時に恩顧のあったのに、その後の政争で敗死した人たちを追悼しよう
という目的で竹崎季長が後年作らせたんじゃないか、という説が有力だそうだが、実際に戦闘に参加した
人間が作らせたしかも絵画資料なので同時代資料としては破格だが、季長らが「蒙古軍は赤坂の陣を攻め
落とされた」らしく書くが、別に赤坂での戦いに参加したわけではなさそうなので、本当に蒙古軍が
「敗走した」のかは判断できないだろう。戦闘に参加して記録するのは確かに重要だが、その記録者が
敵味方の戦況全体を知悉していたかというと、必ずしもそうではないだろう。
473世界@名無史さん:2007/09/11(火) 10:27:20 0
>>472
実際に赤坂から麁原まで退く蒙古兵を追走しているのに、「敗走した」のかは判断できない
なんてことは常識的にありえないだろ。
元軍は菊池武房率いる100余騎にも、白石通泰率いる100余騎にも、あっさりと蹴散らされた。
まさに、「元軍は日本軍の集団戦法に歯が立たず」じゃん。
474世界@名無史さん:2007/09/15(土) 09:13:24 0
戦法とか以前に玄海灘が防衛線でダメだろ。
シベリアとかウクライナあたりの大河なんて冬に凍結したところを騎馬軍団が
がドバドバ押し寄せて来るが、当時の船で玄界灘で同じレベルのことをできない。
台風来なくてもモンゴル軍はジリ貧になったことだろう。
逆に地続きだったら蹴散らされた。

そういえばフランスのシラク大統領は博多の防塁を見たがったそうだ。
ヨーロッパを蹂躙したモンゴル軍を日本はどう防いだか知りたかったんだろう。
475世界@名無史さん:2007/09/15(土) 10:33:54 0
中共に住んで居た「モンゴル王」が死去したとか聞きました。
この人物に至る迄の蒙古王家の系図を教えて下さい!
チンギス・カンから34代に亘る歴代の名前と先代との続柄だけでも。
なにとぞ宜しくお願いいたします。
476世界@名無史さん:2007/09/15(土) 10:40:58 0
>>474
同じレベルのことをできないどころか、モンゴル軍は地続きの多くの国よりも
遥かに大きい兵力を日本侵攻に注ぎ込んでる。
元寇は船による輸送が大軍の侵攻を容易にする実例だよ。
477世界@名無史さん:2007/09/16(日) 20:59:21 0
>>476
違和感のある結論で何か間違ってる気持ちになるのだが具体的に反論できない。
考え中。
478世界@名無史さん:2007/09/17(月) 16:35:35 0
>>476
日本の場合、文永の役は華北や中央アジア、イランでの威力偵察とそれほど規模は
変わらないが(条件にもよるが地方レベルへの場合は大体騎兵だけの部隊で1〜2万騎)、
弘安の役は金朝やホラズムシャー朝遠征などと同レベルの10万以上の兵力を動員している。
豊臣秀吉の九州征伐の時、20万を動員して九州北部から攻め込んだというから、弘安の役で
動員された東路軍・江南軍を併せた推計14万強という数字は九州などを征服する規模としては
妥当な数だったはずだ。(ただし、モンゴルの遠征軍で、弘安の役は歩兵軍が殆どだが、他の
遠征は騎兵部隊だけで10万以上だった違いは注意)

文永・弘安の役のいわゆる元冦、蒙古襲来時の上陸作戦、陸上での通常の作戦と比較した場合、
後者は必要に応じて主力となる騎兵部隊を10〜10万単位で任意で運用でき、歩兵部隊も
機動性では騎兵部隊に遙かに劣るものの、進入経路や兵站さえ確保できれば問題はない。
軍が侵攻した経路がそのまま兵站線になるし、大軍が存在し移動するだけでも大きな力になる。
この経路の確保し続けるだけでも戦線を維持することに繋がる。

ところが、前者の場合、兵站どころか進入経路を確保するだけで運搬用の船舶を新たに建造する
必要があり、海上の兵站線は気象の状況によって目まぐるしく変わり、通常でも維持するのは極めて
困難。陸上であればひとつの部隊が進軍中に一瞬にして全滅するなど、よほどの狭隘地や大河川を
通過するなど状況は極々限られるが、海上ではいかなる場所でも常にその危険が伴う。
(天候の問題や船舶そのもの問題もある)

実際に弘安の役の時は、博多沖に停泊していた軍船は暴風雨によって座礁・転覆し、大混乱どころか
壊滅状態に陥り、これを好機と見た鎌倉武士団に攻め込まれ完全に崩壊している。(文永の役について
は色々疑問が持たれてはいるが)
479世界@名無史さん:2007/09/17(月) 16:52:13 0
>>478の続き。

前近代では、船舶は天候の状況に常に左右され、勿論船舶は陸上よりも大量輸送が出来たが、
陸上以上に危険が伴っていたことは、例えば遠くインド、東南アジア、東アジアへも進出して
海上交易に携わったこの時代のエジプトやイエメン、ファールスの大商人達なども認識していた。
現代風に言えば当時の海上交易はまさに「ハイ・リスク、ハイ・リターン」だった訳だが、

> 元寇は船による輸送が大軍の侵攻を容易
という結論は、これらのことから考えて同意できない。むしろモンゴルの場合、同規模の陸上での
大遠征の方が戦果を確実にあげている。特に弘安の役などは鎌倉武士の攻撃が無くとも遠征軍は
とうに壊滅していたことを考えればなおさら。
(『ベニスの商人』などは正しく海上交易の「ハイ・リスク、ハイ・リターン」さの話しだったと思うが)
480世界@名無史さん:2007/09/19(水) 16:59:51 0
>>478-479
10万近い大軍を前近代の貧弱な陸上輸送では補給線によって支えることなんかできないよ。
ましてやモンゴル軍みたいに侵攻距離が広大な場合はね。
短期間なら予め携帯してきた食料などで賄うことができるだろうけど、そこから先は
略奪による現地調達で補うしかない。
だから、総兵力が10万を越えると言われているモンゴル軍の作戦って、現地では幾つもの
細かな部隊に分散して行なわれているでしょ。
一定の広さの土地が養える軍の兵数には限りがあるから、一箇所に兵力を集中させると、
たちまち周辺の食料を食い尽くしてしまって困ったことになるからね。

この時代、大軍を補給線で支えることができたのは、大河や海に面した作戦で、船を利用
できる場合のみ。
それに弘安の役の元艦隊は船の輸送力を活かし、数ヵ月分の兵站を搭載していた。
数ヶ月間、兵站の心配無しで戦えるなんて、陸路の侵攻では不可能だよね。
弘安の役で元軍が10万を越える大軍を集中投入できたのは、まさに船の大輸送力の恩恵なの。
481世界@名無史さん:2007/09/20(木) 06:51:21 0
モンゴル帝国の軍制について理解していないせいで錯誤している点がいくつかあるが、
それはそうと弘安の役の時、江南軍の到着が遅れて、東路軍の乗った軍船団は糧秣が
底を突いて飢餓が蔓延していたとかいう話だったんじゃあなかったか?
>「大軍を補給線で支えることができ」ていない
482世界@名無史さん:2007/09/20(木) 08:30:48 0
>>481
そんな話はないよ
483世界@名無史さん:2007/09/20(木) 08:40:09 0
まったく正反対の話ならある。
弘安の役の時、江南軍の到着が遅れて、日本軍に連戦連敗の東路軍は撤退したかったんだけど、
乗っていた軍船団に糧秣が1ヶ月分残っていたから踏み止まったという話。
484世界@名無史さん:2007/10/14(日) 03:38:48 0
>>480
モンゴルとか遊牧民の有利さは草原さえあれば羊を食わせ、人が羊を食うで
補給なんていらなかった、と理解したたが。
だから近代戦で補給のままならなくなった日本軍がインパール作戦で
「ジンギスカン作戦」などと無茶な引用をした。
485世界@名無史さん:2007/10/14(日) 12:06:17 0
>>484
いや、実際のモンゴル帝国軍の遠征には「アウルク」「アグルク」と呼ばれる兵站部隊が
大小いくつも本営軍や前線部隊などにも後続していて、チンギス・カンの中央アジア遠征や
フレグの西アジア遠征にも常に投入されている。

アウルクについては『集史』が一番詳しく記録しているみたいだけど、例えばフレグの
遠征では、バグダード征服の時でも、モンゴル高原本土に遠征軍全体の中核的なアウルクが一つ、
バグダードにやや近いザグロス山脈のハマダーン近郊でフレグ本営とのサブ中継基地的なアウルク
が一つ、バグダードの本営間近に置かれたアウルクがもう一つと、いくつものアウルクが
同時展開し遠征軍に必要に応じて軍馬や家畜、糧秣等を配給して続けていたようだ。
前衛・前線部隊にも専属のアウルクが随伴していたようで、アイン・ジャールートの戦いに破れた
キトブカの部隊にもキトブカの家族を中核とするアウルクの部隊がシリアに駐留していたようだ。
モンゴル本土やハマダーンの部隊のように、兵站基地として一定地域に留まり前線や本営への
物資の生産や配給を担当するアウルクと、戦闘部隊の移動に随伴して常にこまめな配給を担当する
アウルクがあったらしい。
486世界@名無史さん:2007/10/14(日) 12:16:15 0
>>485の続き。

これらの本陣の兵站を任されたアウルクは、モンゴル王族や遠征軍の司令の妻たちが軍馬・家畜・
糧秣の管理維持や配給を担当していたらしいが、これには戦闘部隊があまり随伴しておらず、多くは
すでに征服が完了し周辺に味方部隊が多く展開している安全な後方部分へ配されていたようだ。
(チンギスが即位する前のテュルク・モンゴル勢力が抗争していた時代のモンゴル高原では、
 敵軍の偵察部隊に味方のアウルクが発見・掠奪されて窮地に陥ったなんて話もよくあったみたい)

「ジンギスカン作戦」みたいな現地調達は、実際のモンゴル軍では殆どされたことがなくて、
これら征服地域での掠奪は「戦利品の獲得」のためにやられていたもので、遠征軍自体の兵站は
これらアウルクと呼ばれる専門の部隊が様々に展開して要所で配給を担っていた。
「ジンギスカン作戦」云々は、まだモンゴル帝国軍の軍制・活動についてちゃんとした文献研究に
基づいた認識が浸透していない時期だったので「モンゴルの掠奪」=「現地調達」みたいな誤解が
あったんだと思う。ちなみ漢語では「アウルク」のことを「奥魯」などと書かれている。

『元朝秘史』中の「アウルク(a'uruq)」と漢文資料中の「奥魯」を同定させたのは例のフランスの
東洋学者ポール・ペリオだそうで、「奥魯」については岩村忍とか村上正二みたいな先学達が色々
書いているみたいだけど。

ここら辺のモンゴル軍のアウルクの活動については↓みたいな論文がある。
蓮見節 1985 「モンゴル軍の移動とa'uruqについて(上)」 『モンゴル研究』 16
蓮見節 1986 「モンゴル軍の移動とa'uruqについて(下)」 『モンゴル研究』 17
487トミー:2007/10/15(月) 00:20:48 0
はじめまして、トミーです。
もうシニアですが、元気でアジアをふら付いています。
先月中央アジアに行ってきたんですが、カザフ語とかキルギス語がわからないんで少し教えて教えて欲しいですが。どなたかご存知の方おられませんか
。チュルク系民族の太陽信仰を調べているんです。

キルギス語かな、カザフ語かな、トルコ語かもしれない。
ウマイエネ=ウマイ(太陽)エネ(母)の意味らしい。も一つキルギスの博物館で、カンギュイ族(kanguy)と言う民族が中国かロシアか黒竜江に居るらしいですが知っている方は少しでも教えてくださいう。
488世界@名無史さん:2007/10/15(月) 07:43:00 0
>>485-486
ベトナムの焦土作戦でモンゴル軍が飢えたのはどうして?
489世界@名無史さん:2007/10/29(月) 21:00:41 0
>>32
遅レスだけんどフレグが実際若禿げだった可能性はないのん?
490世界@名無史さん
>>485-486
モンゴル軍はどれだけの補給物資を必要としたか?
アウルクはどのくらいの規模で、どれだけの量の物資を輸送する能力があったのか?

こういう事をきちんと計算した上で「現地調達は、実際のモンゴル軍では殆どされたことがない」
って主張してるの?
アウルクに似た組織を持った軍は歴史上沢山あったけど、そういう軍もやっぱり現地調達なしでは
運営不可能だったよ。