まぁ、最近100年くらいになるまでは、キリスト教でも
女には魂が存在しない、つまり、人間として認識されてなかったしな。
そんなもんだってことさ。
420 :
世界@名無史さん:2005/08/04(木) 19:18:41 0
イブンファドラーンもモンゴルは恐ろしい野蛮な蛮族と言ってたしね
421 :
世界@名無史さん:2005/08/04(木) 21:35:27 0
同時代の人間でモンゴルを評価しているのってマルコポーロくらいじゃないの?
>>416 モンゴル族の祖先が鉄の山に閉じ込められて、ふいごで鉄を溶かして脱出したという伝説が
「集史」に書いてあるようだけど、それとは何か関係あります?
423 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 00:43:19 0
ここで蒙古残虐説を布教しているのはスターリン崇拝者?
>>422 多分関係あるのではないかと言われている。
例のウチュケン山から巨大なふいごで山塊を溶かして現世に出たという伝承は、
突厥時代から伝わる北アジアで広く流布していた古い神話で、モンゴルだけで
無くオグズや金朝などでも同様の族祖の起源神話を伝えている。
『集史』や『元朝秘史』の族祖神話は、狼が祖先だったという神獣起源説や
月光感生起源説、さらにはウチュケン山の溶解伝承と族祖神話のパターンを
一通り上げているが、これらの伝承はこの後も『オグズ・ナーメ』などの
文学にも広く影響を与えている。
中央アジアでの冶金技術の歴史は紀元前2000年代にまで遡るが、
鍛冶や火にまつわる禁忌や聖別についても王権や祭祀にかかわるものも
少なからずあるので、その文脈から鍛冶=王の権威と結びつく場合もあるとか。
もとより鍛冶=武器の製造→軍事力なのでそれもあるのだろうと。
425 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 01:33:52 0
>>423 残虐ではなくて、家畜を扱うようにクールなんだと思うが
誰も興味ないみたいw
>>422 今一つ思い出したが、白石典之先生が非常に面白い指摘をしていて、
キヤト・モンゴル族をはじめとして、モンゴル高原一帯の諸族は
支配地域に必ず鉄山を持っていたようだ。
テムヂンがメルキトやケレイト、ナイマンの諸族を圧倒して高原統一を
一気に押し進めた1203-4年は、東方のコンギラト部族や陰山方面の
オングート族との同盟を勝ち得た時期だった。
特にオングートの支配していた陰山山脈は現在でも優秀な鉄資源の産地で、
1207年までの短期間に強大なキルギスやコリ=トマトなどを征服できたのも、
この陰山の鉄を入手できたからだ、というようなことを述べておられる。
ケレイトはハンガイ山地、ナイマンはアルタイ山脈、キルギスはケムケムジュート、
現在のノボクズネツクの鉄鉱山を抱えていた。モンゴルの高原統一とは一面、
高原全体の鉄資源の争奪戦の側面があったという説は、非常に傾聴すべきと思った次第。
427 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 01:39:40 0
モンゴル大虐殺とヨーロッパ大虐殺は両方とも人気だな
428 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 01:43:50 0
共産主義大虐殺も人気だよ
アメリカ原住民やアフリカ人の方々のことも、少しは思い出してあげてください…
430 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 02:39:42 0
>>429 あの時代でモンゴルvsアングロサクソンを見てみたい
アングロの傲慢な態度を見る限り、モンゴルが勝ったらメチャクチャにされそうだが・・・
>>424 >>426 d
「モンゴル帝国史の考古学的研究」図書館にあったんで読んでみました。
メルキトやキルギスが製鉄で有名だったと以前何かで読んだけど地図をみて納得。
キルギスやバルグトって強大だったんですか。ジョチに掃討されたイメージしかないけど。
432 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 21:41:24 0
433 :
世界@名無史さん:2005/08/06(土) 23:54:49 0
強姦伝説
>>431 コリ・トマトorバルグトは殆ど歴史の登場することはなかったが、
キルギスは、遊牧ウイグルを南方に追いやって一時期高原を支配したが、
ほどなく契丹に逐われてモンゴル高原の西隅に住むようになったのは
良く知られている通り。
南に隣接したカルルクはやがてカラハン朝が出現し、西遼が勃興したが
チンギス・ハンの勃興まで勢力を保っていた。キルギスも高原の西辺境だった
ということもあろうが、遼や金の盛衰やその後のモンゴル高原の群雄割拠にも
関わらずその勢力は保持していた。自分としてはキルギスやカルルクは圧倒的
とまでは言えないものの、高原全体からすればかなりの勢力だったと思う。
「征服」と書いたが、『元朝秘史』ではジュチ率いる遠征軍に対して、キルギスの
ノヤン(首長)たちであるイェディ・イナル、アルディエル、オレベクディギンらが
貢ぎ物をもって帰順してきた、と出てくる。『集史』では「"イル"になるために来たった」
とまで書かれていることからも、征服戦や掃討戦は行われていない。
なので「征服」と書いたのは誤りだった。
「モンゴルの征服」というと圧倒的軍事力で周辺諸族を力ずくで征服していった感があるが、
戦争になる前に、まず帰順や同盟のための使者(これが"イルチ")が送られ、これを当該の
勢力が受け入れたりして帰順や同盟、あるいはそれに反発して戦闘になるのが普通だった。
圧倒的な軍事力で〜というのも勿論あるが、やはりモンゴルも一個の政治組織であるので、
戦争以外で帰順や同盟の例となる、先のオングートやウイグル王国、カルルク、オイラトや
キルギスといった勢力の存在もやはり念頭に置くべきだと思った次第。
>>434 また質問で申し訳ないですが、イルとウルスに意味の違いってありますか?
>>435 これもよく知られてることとは思うが、
イル "il" はテュルク語で「くに、人民」の意味で、
これに対応するモンゴル語がウルス "ulus" になる。
『元朝秘史』の直訳体漢文訳註では、原文の「兀魯思(ulus-)」を
「百姓、百姓毎、国」と書いているので「人々」やその人々の集団
としての「国」と解することができる。
『集史』ではペルシア語文で頻繁に使われる同義語反復の一例として、
"il va ulus"、"ulus va lashkar"、"lashkar va il" などの表現がよく出てくる。
「ラシュキャル」"lashkar" とはペルシア語で「軍、兵団」の意味だが、つまり
「ウルス」や「イル」はペルシア語での「軍団、兵団」と意味的に近いと当時の
中央アジア・イランでは認識されていたことがわかる。
("va"はアラビア語のペルシア語形で英語の"and"(〜と…)と同じ意味と解してかまわない)
北アジア、中央アジアの遊牧政権では遊牧部族の人民の集団は武装することによって
即軍事単位となった。『元朝秘史』では「ウルス・イルゲン(ulus irge[n])」で「百姓毎」、
つまり「国民(くにたみ)」などという表現があるが、護雅夫先生によれば
「《ウルス》は自然成長的な基礎的社会集団ではなくて一エジェン ejen (君長)の下に
人為的にまとめ合わされたところの《百姓》――イルゲン――の集団、つまり《国民》《国》
なのである」と解釈しておられる。
これは>436に書いた『集史』で"ulus"が"lashkar"の同義語とされた背景を端的に説明している。
「エル」ないし「イル」/el/〜/il/ は突厥時代から確認できる最も
基本的なテュルク語の語彙だが、この「イル」という単語が人々の集団や
その延長としての「くに」とする意味は通時代的な概念だったと言える。
結論からすると、「ウルス」は「イル」の近似の言語間での同義語の類いで
意味の違いは無いと考えて差し支えない。今のところ両者に決定的な意味的差異が
存在していたという傍証は見つかっていない。現代中国語と日本語で普通名詞の
「国家or國家」という単語に意味上の差異はまず無いのと同じレベルことと考えて
良いかと思う。
"ulus" という単語自体は純粋なテュルク・モンゴル語ではなく突厥時代にソグド語か何かに
由来するらしいという問題はとりあえず置くとする。
>>436-437 ulus va lashkarというのは現代英語のHordeのニュアンスに通じて面白いですね。
モンゴル支配下の漢地で軍戸制がしかれた理由に、漢人への徴兵の負担が大きかったというのがあるようですが
それまでは壮丁がすべて戦闘員になる遊牧民型のシステムで徴兵してたんでしょうか。
ロシアやイランの農耕民からの徴兵など詳しく知らないのでよく分からんですが・・・
>>438 中世史での他の地域でほとんどがそうであるように、イスラム世界での
歩兵軍の実体も、実はあまり良く分かっていない。元朝史についてはよく
知らないので何ともだが、イランについては部分ながらある程度の情報が残っている。
『集史』「ガザン・ハン紀」第25章によれば、ガザン・ハンはジュチ家、チャガタイ家、
オゴタイ家との度重なる戦争に対して、モンゴル軍とタジク軍によりホラーサーン、ファールス、
ケルマーン、バグダード、ディヤールバクル、ルーム、そしてダルバンドといった王国全土の
境域全体の防衛の増強する計画を実施したという。
そこで山岳のような峡谷や狭隘な地域に対しては、被服を施したタジク軍を歩兵軍(ピヤーデ)として
任命配備し、これらの辺境守備軍全てを千戸、百戸ごとに編成して被服とイクターを賜与したことが
述べられている。
>439の続き。
本田實信博士の研究によれば、14世紀半ばに編纂されたイルハン朝後期の財政史料のひとつ、
"Risala-yi Falakiya"にモンゴル軍とタジク軍に支払われたイクターの金額を記載されている
ことを述べておられる。
それによればイルハン朝の首都タブリーズ地区の支出3,288,000ディーナール中、軍人への
イクターは750,000ディーナール、つまり支出全体の約23%に相当した。
この内タジク軍への支出は200,000ディーナール(以下DN)。
スルターニーヤ城の1,000人には100,000DN、アリンジャク城の700人には35,000DN、
カフカハ城の600人には60,000DN、アラタグ城の500人には20,000DN。
主に城塞守備についた人員について書かれているが、別の項目ではホラーサーン方面軍の
タジク軍部隊についても人数はわからないが50,000DNが支出されたことが出てくる。
1人あたり100DNだったり50DNだったりするが、これは同地タブリーズに配備された
モンゴル軍の1万戸に支給された一人当りの支給額と同等かそれ以上の金額に相当する。
タジク軍の配備についての説明でチンギス・ハンの西征の時期に投入された部隊のことを
述べた部分が出てくるが、これは降伏した中央アジアの都市住民の男子を歩兵軍として再編し、
各地の攻城戦などに投入したジュワイニーや『集史』の他の記事に依っている。
タジク軍による騎兵部隊があったかどうかは定かでは無い。状況から考えると、タジク軍は
境域での定住・駐屯を目的とした定地守備の歩兵軍だけだったように思える。
チンギス・ハンの時代は征服地域の定住民が強制的に挑発され歩兵軍に転用されたが、これら
イルハン朝時代のタジク軍がどのような基準なりで歩兵軍として編成されたかは分からなかった。
このあたりのことはドーソンの『モンゴル帝国史』第6巻で少し触れられているので一読される
ことをお勧めしたい。
ちなみに英語の"horde"はモンゴル語のオルド"ordo"(斡(舌)児朶:「宮室、宮」)に由来して
いたりするが、「オルド・ゲル」などといい「ゲル」が普通のテントの家屋の意味に対して
「オルド」は君主の「宮廷」、后妃が統括する「後宮」の類いで、まさに「幕府」に相当する
という話しは有名なところか。
>>441 6巻で触れられてるのは第9章の「辺境防衛」でしょうか。
前半の「ガーザーンは各軍戸に命じ」というのはたぶん千戸や万戸に属する
トルコ・モンゴル遊牧民のことですね。
辺境防衛のタジク兵については「それらの地は歩兵によって防衛される」
などと書いていながら「これらのペルシア人を歩兵・騎兵の百戸軍、
千戸軍に編成し」とも書いてあるんでよく分からんですね。
元朝の漢人なんかは弓矢や馬の使用を制限されてたとか聞きますが・・・
イルハン朝のイクターはアゼルバイジャンとホラーサーンの遊牧地に
多かったようですが、やはりトルコ・モンゴル系遊牧民の人口も
それらに集中してたんでしょうか。
ムザッファル朝の戦争についての記述を読むと「ファールスの2千騎と
ルリスタンの1万騎を率いてアゼルバイジャンに攻め込んだ」とか
書いてありますが、そういう地方の軍隊はどういう民族構成だったのか
非常に気になるところですね。
クルト朝なんかも兵隊が全員グール族って訳でもないだろうし・・・
443 :
世界@名無史さん:2005/08/13(土) 22:36:31 0
モンゴル文字はどこから来たのですか・アラビア文字に近いですか?
444 :
世界@名無史さん:2005/08/15(月) 00:19:38 0
ここはモンゴルの大虐殺について語るスレです。
関係ないスレは控えてください
445 :
世界@名無史さん:2005/08/15(月) 11:31:49 0
てかロシアのスターリンや支那の赤化、そしてモンゴル自体の赤化と
かつての大帝国元帝の誹謗中傷ってぜってぇ繋がってるよ。
一応自由主義陣営の日本ですら、過去の帝国主義で自虐だぜ?
共産圏の帝国の非難ってもっとすごいんじゃないか?
チンギスはモンゴルの英雄ですが?
447 :
世界@名無史さん:2005/08/15(月) 15:56:53 0
社会主義だった時代も英雄なのか?
表向きは駄目だけど、民間伝承で語り継がれたんでしょ。
>>442 個人的に色々と思うところのある内容だったのであれこれ調べていたらつい
間が空いてしまった。申し訳ない。
さて、その「辺境防衛」の項目で
ドーソンは確かに「これらのペルシア人を歩兵・騎兵の百戸軍、千戸軍に編成し」云々
と書いているが、『集史』本文では「タジク人を歩兵と騎兵に〜」という直接的は表現は
しておらず、文脈的に百戸と千戸に編成された「騎兵(サヴァール)」と「歩兵(ピヤーデ)」
とはモンゴル軍とタジク軍両方をあわせたもののようにも受け取れそうに、個人的には思えた。
当時の中央アジア方面は『元朝秘史』や「イェスンゲ功碑文」にもあるように、「サルタグル」
とよばれその住民はイラン系・テュルク系をとわず「サルタグタイ」と呼ばれていた。
もしも『集史』などの「タジク」がイラン系・テュルク系を含めた「サルタグタイ」の同義語と
して使われていたのであれば、また「騎兵と歩兵」の問題もまた違った意味を持つことになる
だろう。が、『集史』ではテュルク系の部族は「トゥルカーン」とかアラビア語風に「アトラーク」
などと呼んでいるので、恐らく単純に「イラン系の定住民」などの意味で「タジク」と呼んでいた
と見て間違い無いだろう。
>449の続き。
アッラーンやアゼルバイジャン地方、バグダードの方面には歴代のイルハン朝下の
有力部将たちのイクターや私領(ミルク)が多数設定され、多くの万戸が投下された
ことが周知の通り判明している。ただ、ホラーサーンのイルハン朝軍の実体については、
イルハン朝史では最重要な問題であるにも関わらず、その動向も志茂先生の研究以上の
ことについては今一つよく分かっていない。これは『集史』の各帝王紀の記述内容が首都
のあるタブリーズ・アゼルバイジャン地方に絞られていることに起因している。
『集史』の部族誌や各部将や動向などに軽く眼を通すだけでも、アッラーンやアゼルバイジャン
などの北西イランと、東北のホラーサーン地方の境域地域に冬営地や夏営地が設定され、イクター
なども与えられていたことが出てくるため、イルハン朝のモンゴル軍の主力はこれら双方の北部
境域地域に集中していたことが伺える。
多分指摘の通り、これの地域にテュルク・モンゴルの諸勢力の人口が集中していたと見て良い
ようにと思う。個人的には後のジャラーイル朝、カラコユンル朝のこと考えれば、イラクや
ディヤールバクル・シリア方面のイルハン朝時代の投下部族の構成なども気になる。なにより
バグダードがイルハン朝宮廷の主要な冬営地だったことを考えれば、イラクの動向も十二分に
注意を払う必要があるだろうから。
ホラーサーン、アゼルバイジャン、イラク、シリアの諸地域は、チンギス・ハンの
侵攻やホラズムシャー・ジャラールッディーンとの戦争、フレグの西征で大規模な
戦闘が続いたが、モンゴルにいち早く帰順したため、クルト朝のシャムスッディーン・
クルトのアフガニスタン方面やファールス地方などイラン南部はほとんど無傷だった。
これについては後のムザッファル朝のアゼルバイジャン遠征とも関係があると思うが、
それの話題はまた今度にしようかと思う。
>>449-451 「集史」本文なんて参照する術がないので非常に有難いです。
タジクはやはり歩兵として拠点の守備や補助兵に使われることが多かったんでしょうかね。
ペルシア人も昔は騎射の民だったみたいだけど、この頃ならもうすっかりトルコ・モンゴル系
軍事貴族に取って代わられてるんでしょうね。
イルハン朝時代に活躍してるタジクといったらクルト朝の君主ぐらいですし、しかも大抵の場合
ヘラートを死守してるような感じ・・・
その割にティムールが征服戦争を始める頃になると、イランの東半分はムザッファル朝、
サルバダール、クルト朝に分割されて遊牧民はどうしてるのかよく分からなくなる。
カラウナスなんかも諸勢力の中に解消しちゃったんでしょうかね。
イラクといえばベドゥインも砂漠ではそれなりの戦力があったようですね。
アブー・サイード没後にメッカの王族の者がヒッラを一時期占領したとか。
最近、元気ないねこのスレ。
>>452 アラブ征服時代にはサーサーン朝軍やアブー・ムスリムに対抗した
サマルカンドのソグド人王が、アラブ騎兵と戦ったことがタバリーなど
が書いているが、そもそもアラブ征服以前に突厥の余裔がアフガニスタン
方面まで進出していたので東方イスラーム世界ではもともとテュルク系の
騎馬軍団が軍事の主導権を握っていたとみるのが妥当だと思う。
ケルマーンとヤズドを領有していたムザッファル朝のムハンマドがアゼルバイジャン地方へ
侵攻できた理由は、とりもなおさず、イルハン朝の諸勢力の抗争がもっぱらホラーサーンや
アゼルバイジャンなど北方に集中していたため、ルリスターンやファールスもこれらの戦禍
に巻き込まれず勢力を温存していたことが原因だろう。当然ながらアフガニスタンはクルト朝が
完全に押さえていたため、ヒンドゥスターン方面からの侵攻の心配もなかった。さらにクルト朝
自身ホラーサーンの抗争を見守ることが精一杯で、ファールス方面の動向には手を出す余裕が
無かったことも原因している。
翻って、セルジューク朝が中央アジア〜イラン〜アナトリア一帯に進出して以来、これらの地域
にはオグズ・トルコマン系の遊牧民が多数流入したことは周知のことかと思う。その後のこの地域の
歴史はガズナ朝、グール朝、ホラズムシャー朝との抗争も全てムスリム政権を標榜するテュルク系の
諸勢力によってなされたものだった。サーマーン朝の頃ですら騎兵軍団のほとんどはテュルク系の
グラームによって占められていたことを考えれば、イルハン朝時代に「タジク人の騎兵」がいたかは
やはり疑わしく思える。
恐らく、フレグの西征以降これらのオグズ系の勢力は順次イルハン朝軍の一部として吸収されたと
思われる。ガザン・ハン登極からアブー・サイード・ハンころにはその後のチョバン朝、ジャラー
イル朝、ムザッファル朝、ひいてはアクコユンル・カラコユンル両朝の成立にも関わる土台が形成
されていったと考えられる。特にガザン・ハンはその治世中に多くの麾下勢力の改廃を行い、イルハン朝
国家全体の改造に腐心したため、ティムール朝時代までのスパンを考えてもこの頃の諸部族全体の
動向の把握が必要不可欠だろう。
各地のセルジューク、ホラズムシャー朝起源の勢力がどのようにモンゴル側に吸収され、その後の
動向がどうなったかを究明することは、モンゴル諸部族の各地への分封と合わせて重要だと思うが、
史料的にどこまで辿れるかはなかなか難しい。双方とも非常に興味はあるが。
クルト朝については、本田博士の研究にあるように始祖マリク・シャムスッディーン・クルトは
グール朝のスルタン・ギヤースッディーン・ムハンマド麾下のグール貴族の出身だったことが、
諸史料で述べられている。彼シャムスッディーンはホラーサーン東部のヘラートを中心に皇帝モンケ
の時代に現在のアフガニスタン一帯の諸領を安堵されその後のクルト朝の基礎を築いた。
この地域に投下されたモンゴル軍もこれとは別に駐屯していたらしいが、イラン総督アルグン・アカ
により金印状が発せられたことで、それらも含めてアフガニスタン一帯のモンゴル系のアミール、マリク
といった部将たちもシャムスッディーンの指揮下に組み込まれ、その支配もフレグによってさらに
追認されたようだ。
こうしてシャムズッディーン・クルトはその後スィースターンの帰属をめぐって争いがあったものの、
名実共にホラーサーン東隅のヘラート以東アフガニスタン一帯の支配権を手に入れた。
これはホラズムシャー朝の侵攻以来混乱していたこの地域の和平を取り戻し、シャムズッディーンが
グール朝を再建したと当時みなされていた。
しかし、起源的に考えればシャムスッディーン・クルトはグール朝系であるのは明白だったのだから、
「グーリー」と呼ばれても良さそうに思える。一時期自分は「クルト(krt/Kurt)」という名前は
テュルク語やペルシア語では聞き慣れない単語なので、モンゴル語で「グール人」という意味かとも
考えたのだが、『集史』でのモンゴル語の部族名などの転写は「コンギラト(qwngGr't)」
「ベスト(byswt)」「タイチウト(t'ycywt)」となっている。もし「グール人」の意味で
「クルト」と書くのであれば(krwt)(kwrwt)あるいは(qwrwt)などと書いたはずなので
もっと別の意味かも知れない。
本田博士はグールの人々をイラン系と述べておられた。しかし、住民はともかくシャムスッディーン・
クルトはじめグール朝系の家臣団を母体とする当時の支配層もイラン系だったかはいささか自分には
判断できなかった。
クルト朝についてだが、ガズナ朝自体テュルク系であるし、グール朝にしてもこの地域はイスラム以前
に突厥の後裔が政権を担っていたので、かれらクルト家はあるいは「タジク」なのか、イラン化した
テュルク系ではないかというような気がしなくも無いが、ガズナ朝、グール朝は詳しくないので何とも
言えない。『ヘラート史記』を読むことができれば、あるいは「グール人」の構成を見ることができる
かも知れないが。
14世紀のサルバダール政権はイルハン朝末期の混乱と圧制によって引き起こされた、ホラーサーンの
都市住民が起こした反乱が政権化したものなので、モンゴルなどの遊牧諸族を自勢力に取り込んでは
いなかったように聞いている。都市や周辺村落の住民、神秘主義教団組織などが加わった都市民衆の
自治運動として恐らくイスラム史上でも特異な現象だとされているが、なむしろこのサルバダール政権
こそが、当時純粋な意味での「タジク」政権なのかもしれない。
>>454-457 アフガンにいた突厥の余裔って三蔵法師の記録に出てくるやつかな・・・
手元にある一般向け中世軍事史の本では
「例えばサーマーン朝の君主は、土着のイラン系貴族のディフカーン層に対抗するためにトルコ系マムルークを使い・・・
ディフカーンは後に雑多なmuttawi'a(宗教的義勇兵)に吸収されたかもしれない」
などと非常に興味深いことを書いてありますが、ソースが書いてないんで何とも。
ディフカーンはイスラム時代には自作農ぐらいの意味だったとも聞きますが。
まあ野戦の主力はトルコ系の騎射の民にグラームやマムルークだったんでしょうね。
セルジューク朝やアタベク政権の時代には近接兵器で武装したアラブ人やクルド人の騎兵、ダイラム人の歩兵隊なども
用いられていたようですが。
そういえばイブン・バトゥータの旅行記でアブー・サイードの天幕群の移動の様子が描かれてますが、
そこに「スルタンのマムルーク軍人」なるものが出てくる。
これは文字通り奴隷軍人だったのかそれとも実際は親衛兵だったのか・・・
アフガン方面のモンゴルもマリク・シャムスッディーンの指揮下に組み込まれてたというのは面白いですね。
これまたイブン・バトゥータだけどクルト朝とサルバダールの戦闘で、双方とも物凄い数の騎馬軍団を投入して
戦ったように描写されている。
シュッタールなどの無頼漢と同類みたいに描かれてたりするサルバダールが馬を駆って野戦に突入するとは思わなかったし、
グール人も歩兵のイメージがあったのでかなり意外でしたが、そう驚くことでもないのかも知れない。
若い頃のティムールは「シースターンのマリク」のところで傭兵をやってたとかいうし、そういうトルコ・モンゴル系の
浪人みたいな連中も結構いたのかも知れない、などと妄想してますが。
ムザッファル朝なんかはトルコ・モンゴル系の連中が潰しあっていく内に、相対的に勢力になってしまった感じですかね。
何だか元末の華北と江南みたいですね。ボロト・テムルやココ・テムルの勢力がトルコ・モンゴル的だったかは兎も角。
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Death_toll#Famine より
歴史上の戦争による死者
*50,000,000-60,000,000 - 第二次世界大戦 (1937-1945),
*30,000,000-60,000,000 - モンゴル(チンギス・ハーンなど)による征服 (13th century)
*33,000,000-36,000,000 - 安史の乱(あんしのらん) (中国 756-763)
*25,000,000 - 明による満州征服 (1616-1644)
*20,000,000 - 太平天国の乱 (1851 - 1864)
*15,000,000 - 20,000,000 - 第一次世界大戦 (1914-1918)
*17,000,000 - ティムールによる征服 (1370-1405)
*10,000,000+ - 日清戦争 (1931 - 1942)
*7,500,000 - 30年戦争 (1618 - 1648)
*6,194,000 - 中国内戦 (1928 - 1949) この数値は、第二次世界大戦の死者を含まない
*5,000,000 - ロシア革命 (1917 - 1921)
*4,000,000 - ナポレオンによる一連の戦争 (1804 - 1815)
*3,800,000 - 第二次コンゴ内戦 (1998-2004)
*3,000,000 - スペイン内戦 (1936-1939)
*2,500,000-3,500,000 - 朝鮮戦争 (1950-1953)
*1,750,000-3,100,000 - ベトナム戦争 (1945-1975)
*300,000-3,000,000 - インド−パキスタン戦争 1971
*1,500,000-2,000,000 - アフガニスタン戦争 (1979-2001)
*300,000-2,000,000 - メキシコ革命 (1910 - 1920)
*230,000-1,400,000 - エチオピア内戦 (1974 - 1991)
*1,000,000 - イラン−イラク戦争 (1980-1988)
-------------------------------------------------------------------------
WW2に匹敵するとは、モンゴル凄いぜ!!
……って本当かよ?!
460 :
459:2005/09/14(水) 00:09:08 0
あ、翻訳にかけたときに一部の数字と語句が変になってるけどてきとーに修正してね。
(WW2の死者を45,000,000〜68,000,000に、日清戦争→日中戦争とか)
>>459 コレは過大評価だろうな。そんなに人居たっけ? あの辺の原っぱ?
462 :
世界@名無史さん:2005/09/16(金) 08:27:00 0
>>461 チンギス・ハーンのモンゴル統一からフビライ・ハーンの死去までとか無茶な数え方してるんじゃないか?
十字軍が居ないのは何故だろう・・・
>>459 資料に載っている「殺害された人口」情報をそのまんま流用した
某S教授いうところの「お粗末な」数字なんだろう。しかし
3千万〜6千万なんて数、当時の中央アジア〜イランから人間が
殆ど絶滅する数字だな・・・
安史の乱や明による満州征服、ティムールの征服なんかも怪しいなあ。
ジュヴァイニーによれば、1222年春、ホラズムシャー・ジャラールッ
ディーンがパルヴァーンの地においてシギ・クトク率いるモンゴル軍
(3万騎ほどらしい)をうち破ったことに呼応して、ヘラート市民が
にわかに蜂起した。
モンゴル側から派遣されたダルガだかハーキムだかのアブー・バクルと
ミンタイという二人の人物が知事の任にあったが、これは蜂起した市民らに
降伏と偽って殺害されてしまう。ホラーサーン方面軍を指揮していた
イルチギデイがこれの報復のためヘラート市を六ヶ月と17日間包囲し、
同年6月半ばに陥落。一週間市内を殺戮、焼却、破壊をほしいままにしたという。
>>465の続き。
このためヘラート「市」では160万人殺害されたと『世界征服者史』などに載るが・・・
当時のヘラート市に含まれる郊外を含めてもこんな数字が出るかどうか全く怪しい。
ティムール朝時代のヘラート市は1km四方あるほぼ正方形状の城壁をもった市街で
近隣の郊外に村落や庭園が多数点在していた。旧サマルカンドであるアフラシアーブ
の規模を考えれば、おそらくモンゴル時代前後でもそれほど市街地の規模に違いは
なかったろうと思われている。
なので1km四方に籠城だったにせよ半年強も160万もいたなど、糧食以前にまず
物理的に不可能だろう。郊外からの避難民も含まれてるのだろうが、例え元からの
城壁内部の市街地の住民の人口にしてもこの10分の1でもかなり厳しいだろう。
実数を推定できる資料が手元にないので確実なことはいえないが、現在旧エルサレム
市街地で居住者は3万もいかないと聞いているので、ヘラート市規模で当時居住者が
5万もいれば相当なものだろう。
>>458 バットゥータの旅行記とかはまだ確認してないので、クルト朝関連も併せてレスする
のはもうちょっと待って頂きたい。「トルコ・モンゴル系の浪人みたいな連中」
という表現もなかなか的を射たような言い方で非常に面白い。
468 :
世界@名無史さん:
age