それにしても、旧スレのおしまいの方で、
博学な顔文字先生が学習理論の初歩すらをもあまり御存知ないということが判明したが、
(専門外なのだからそれは別に構わないのだが)、
「学習理論では説明できない」というようなことを繰り返し力説しておられたではないか。
一体どういう学習理論を想定しておられたのか。
ちと無責任ではなかったか。
と、いちおう煽っておくか。(笑
新スレの景気づけなので、怒らないように。
前スレに後半はいなかったので、違う筋になったらスマソ。
乳児の言語能力発現以前に、非言語によるコミュニケーション
能力が発現する。これが発現してはじめて言語能力が発現する。
しかし、この非言語性コミュニケーション発現時に、受け手が
返すという刺激を与えなければ、その能力は衰退する。
しかも、その刺激には時間単位の臨界期が存在するという。
したがって、コミュニケーション能力が衰退すれば、言語能力
の発現はみられないか、あっても他者とのコミュニケーション
の手段としての発達はみられないという。
刺激を与えない脳部位は、生得的に機能する準備は整っている
のは確かだが、結合自体が6歳までに決定するということから考
えると、その時期までにある一定の条件下での刺激が必要となる
のではないかと考える。
便宜上タイトルは旧スレを引き継いだが、
生成理論にこだわる必要もなかろう。
「言語発達」などのテーマはどうだろうか。
各方面から(臨床屋も含めて)参加しやすくなるだろうし。
>>3 おお、全くの偶然だが、さっそく来たか。
グッドタイミングだ。
おはつです(ペコリ)
拙はまだまだ勉強不足なので、みなさんの意見をば頂戴したく
参上いたしました。
3の理論は、乳児の発達が自発的なものではなく、はたまた
無条件の刺激を与えるというものではなく、例えば時間的臨
界期における母親の「受け手」としての能力と乳児との行動
との相互作用が同期性をもつという一定の条件下での刺激が
必要になるというわけです。
うみゃ、俺は博学でもなんでもないのにゃ。
前スレの762さん、きれいにまとめてくれてありがとにゃ。
しかしにゃ、素人の疑問としては「これこれが言える」という肯定的知識しか
最初から説明の対象になっていないように思えて気持ちわるいのにゃ。
何度も言うようにゃが、「これこれが言えない」という暗黙の否定的知識の
由来がこちらの問題なのにゃ。
それに対して「般化」とやらが何をどのように説明しようとするのか、ちょっと
具体的に語って欲しいのにゃ。
卑近な例を敢えて出すとにゃ、日本語の主格助詞「が」はある条件で目的語にもつくにゃ。
「本{を→が}読みたい、酒{を→が}飲みたい」とかにゃ。
しかしこのような刺激をいくら与えられても誰も「本が読んだ、酒が飲んだ」も可能だという
過剰な一般化は行わないのにゃ。これはどういう般化なのにゃ??
言語の使用は限りなく創造的でありながら、一方で最初から可能な表現のクラスは前経験的に
厳しく抑制されている、ということに留意して欲しいのにゃ。それともそのような
問題設定がそもそも間違っているのかにゃ?
>しかしこのような刺激をいくら与えられても誰も「本が読んだ、酒が飲んだ」も可能だという
>過剰な一般化は行わないのにゃ。
本とかな?
ずいぶん前に言語板で話題になった「子ども達の言語獲得」p.134に
幼児の助詞の誤用に関して
『…は、幼児が目的の格助詞ヲを使うべきときに「リンゴガ トッテ」
のように格助詞ガを用いている事例を報告している』
『助詞の誤用については…実証的、体系的な研究はほとんど行われていない』
とあるよ。
またその少しあとには「ヲ->ガ」の置換誤用は最も顕著だとも。
「目的語ガ 述語」というインプットがこの誤用の原因の一つということは
大いに考えられる(誤った般化)。
あるいは、逆に、ガをヲが混同される要因が独立してあって、
それが子供の誤用と、大人の文法におけるガ/ヲ-conversion
双方の原因になっているというストーリーも考えられる。
いずれにしても、
「目的語ガ 述語」というパターンは「目的語ヲ 述語」というインプットに
比べてきわめてタイプ的にもトークン的にも少ないことから、般化によって
知識にとして定着するにはいたらない、という推論がもっとも自然ではないか。
>>8 幼児期のovergeneralizationは例えば英語圏の子供が不規則動詞を規則変化
させるのと同じかもにゃ。
後者の場合は、個々の不規則動詞を肯定的証拠によって覚えることで修正が
起きるのだろうにゃ。ところが(誤った)主格目的語の場合はそのような
修正のプロセスが考えにくいにゃ。
>般化によって知識にとして定着するにはいたらない
というのは「周りの誰もそんなことは言わないから言えないのだ」という
発想と同じように聞こえるにゃが、否定的知識が全部これで説明できるとは
到底思えないにゃ。例えば意味解釈上の制約も「周りの誰もそのように解釈
しないからそのような解釈はできないのだ」ということなのかにゃ?
ところでこっちではBOBは初登場にゃ。俺とBOBは仲が良すぎてすぐ喧嘩に
なるのにゃ。心理板の人、俺らが烈しくやりあっても気にしないでにゃ。
ついにPart2になりましたね。
前スレの最初の最初の方にしか顔を出しませんでしたが。
僕はあまり詳しくないのでROMで勉強させてもらいます。
>例えば意味解釈上の制約も「周りの誰もそのように解釈
>しないからそのような解釈はできないのだ」ということなのかにゃ?
言語のコミュニケーションの道具としての性質を考慮すれば、
それでいいのではないか。
つまり、ある形式Fをもってして意味内容Pを表現しようとするが、
伝わらなかったり誤解されたりする。
あるいは逆に、インプットFから内在化された意味解釈規則によって
Pを読み取るが、それだとコンテクスト上おかしい
→つじつまがあうように規則を修正する。
という形で、環境からのフィードバックを得ながら意味解釈規則を洗練させていく
ことが、原理的に可能。
あと、コミュニケーションの場面で、
「りんごが とって」
「え? りんごを とって? はいどーぞ」
のように(あるいはもっとさりげなく)「正しい」言い方で大人が反復
することが多いけど、これも間接的否定的証拠になると考えられる。
大人がこれを多くの場合無意識にやっている(ような気がする)、
というのが面白いところなんだが。
子供に限らず、相手が「間違った」言い方をすると、その伝えようと
するところは明らかでもわざわざ正しい言い方で言い直してみせる。
これには(1)誤解をさけるため、(2)相手に正しい言い方を(さりげなく)
教えてやろうとする親切心、という風に説明されるかもしれないけど、
実際には本能に近い反応でやっているような気がする。そう思いません?
「総合スレ」でROM宣言したけど、やっぱりなんか書くにゃ。
幼児の独語行為も、言語獲得に一定の役割をはたしているように思えるんだけどにゃ。
(と、なにげにピアジェ派やヴィゴツキー派にも話をふっておくにゃ。)
じゃにゃ。
久しぶりに心理版にお邪魔します。
英語を話す幼児も、目的語を主語にすることがある。本来kick ballと
いうべきところをball kickのように。ちなみにSVO語順は非常に早くに
習得されるので誤用の例ではballは主語と考えられる。
一般的にはこれはunaccusative(someone breaks the window->the window
breaks)のovergeneralizationではないかといわれている。BOBチャンの
例も顔文字サンがいっているようにovergeneralizationなのではないかな。
最終的に、breakはunaccusativeでkickはunaccusativeではないとい
うことを幼児は経験から学習するのでしょうか?unaccusativeといわれる
動詞群のshareする性質をはっきりさせないと話しが進めにくいな。
英語の場合、これは難しい。言語学っぽすぎる書き込みなのでもうやめます。
うみゃ、言語板のコテハンばかりゾロゾロ出てきて気が引けるにゃが、今のとこ
お叱りがないのをいいことにもうちょっと続けるにゃ。
>>11 >環境からのフィードバックを得ながら意味解釈規則を洗練させていく
>ことが、原理的に可能。
現実にすべての母語話者についてそのようなことが起きるとは思えないにゃ。
まず(俺自身が確認したわけではないにゃが)よく言われることとして大人は子供の
誤りを正すことはむしろ少なく、また正したとしても子供はそれを素直に受け容れる
ことがあまりないらしいのにゃ。それから、世界の文化・社会の中には子供とのインタ
ラクションが稀薄で捨て育て同然、文字通り必要最低限しかないようなところも
あるらしいにゃ。
ま、それはさておき、主格目的語のような耳に聞こえる形態的特徴と違って、
意味解釈の場合は「誰もそのような解釈をしない」と判断すること自体が難しいと
思うのにゃ。現実のやり取りのなかでこっちの意味が伝わらないとかの経験から
そう判断できるケースばかりではないのにゃ。
例えば、件の主格目的語についてはTadaという人が取り上げていたにゃが、主格と
目的格で文の意味が違うにゃ。これは言語学の素人でも割とクリアに分かるよう
にゃから、心理学の人も試して欲しいのにゃ。
1) 太郎は焼酎だけが飲めない。
2) 太郎は焼酎だけを飲めない。
(1)が「太郎は他の酒類は飲めるが焼酎は飲めない」という解釈を優先的に持つ
のに対し、(2)は「太郎は焼酎を飲む時は他にツマミなんかも必要で、焼酎だけ
を飲むということはできない」という解釈になるにゃ。
で、この解釈の相違を、この判断に同意する母語話者全員がどうやってそれぞれの
経験に基づく般化で知るようになるのだろかにゃ?
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/24 16:49
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/24 19:10
Analysis of Verbal Behavior
http://www.aba.wmich.edu/avbjournal/ これの最近の号に、チョムスキー本人とスキナーの弟子の
膨大な往復書簡が掲載されているらしいが流石に読む気はしない…
言語行動の議論なのか言語習得の議論なのかはわからないが。
ところでこのジャーナル、言語屋さんたちに対する認知度は低いのかなあ。
>よく言われることとして大人は子供の誤りを正すことはむしろ少なく、
>また正したとしても子供はそれを素直に受け容れることがあまりないらしいのにゃ。
それは通説だけど、「○○ではなく××だ」という言い方をしないというだけで、
11で言ったような「さりげないフィードバック」に着目する習得研究者もいる。
私が子供と接した経験によると、何らかのフィードバックによって正しい言い方を
習得することはよくあると思う。次の日になるともとに戻っていたりするが、これは
大人が何かを習うときにも同じことは起こるよね。
>世界の文化・社会の中には子供とのインタラクションが稀薄で捨て育て同然、
>文字通り必要最低限しかないようなところもあるらしいにゃ。
ピンカーの本に書かれてたんだっけ?ホントかよって気がする。
言語の習得どころか人格、対人関係に関する能力の形成に障害を生じそうだが、
文字通りに受け取ると。
過去形の過剰般化についてだけど、それも古い例だね…
最近では went -> goed -> went という線状的なステップで
習得が進むのではない、と最近では考える人が多いよ。というのは
went と goed の両方が使われる時期がある、しかも子供はその二つに
違う意味内容(例えば近い過去に「行った」と遠い過去に「行った」、
一人称の「行った」とそれ以外の「行った」のように)割り当てている
らしい。
重要なのは、子供は(大人も)一般的に同義語の存在を嫌い、形式が違えば
意味も違うはずだ、というheuristicsを持っているということ。
1) 太郎は焼酎だけが飲めない。
2) 太郎は焼酎だけを飲めない。
この違いもその線から説明できる。そもそも、
1') りんごが食べたい
2') りんごを食べたい
というのは同じ意味を持つとはいえ、実際の使われ方には
偏りがある。つまり、1')の言い方の方がtoken頻度が高いという意味で無標。
語用論的heuristics「有標な形式は有標な意味を伝える」から、
2')の言い方は何らかの意味で有標な意味内容を伝えるという(話者の)推論が
働く。
1と2の場合、2種類のスコープのとり方が可能で、普通とりやすいスコープの
読みが無標な「が」構文、普通とりにくいスコープが「を」構文に結び付け
られるのには、つまり、自然な語用論的動機付けがある。
子供の養育方法の文化的多様性などは、それこそ文化人類学がらみで虚無好きセンセに
スレたててもらいところにゃが……
数年前、某学会での某氏の講演で知ったにゃが、国内でも関東の某地方などでは親が
農作業かなんかしている間、赤ん坊を縄で縛って放置しておく慣習だとか言ってたにゃ。
ちょっと記憶が怪しいので実状知ってる人がいたら教えて欲しいにゃが、その地方では
吃音者の発生率が高いそうにゃ……
>子供は(大人も)一般的に同義語の存在を嫌い、形式が違えば意味も違うはずだ、と
>いうheuristicsを持っている
これは当然のことだろにゃ。昔、BachとParteeが neo-Gricean principleと呼んでいた
のも本質はこれにゃ。再帰代名詞と代名詞の相補性も、再帰代名詞が生起可能な環境で
代名詞が出現するからには再帰代名詞とは異なる解釈(非同一指示)が意図されている
はずだ、という見方で理解するのがもっともらしいにゃ。Reinhartのbound anaphora
の分析が典型にゃ。しかしにゃ、このような誤用論的法則が作用する前提として、まず
再帰代名詞自体の振る舞いに関する知識が必要になるにゃ。どういう環境でどれを
先行詞にとれるかとれないか、束縛条件(A)の知識があって初めて(B)が語用論的に
導出できるにゃ。では(A)の知識はどこからfollowするのにゃ?主格目的語についても
同様にゃ。(1)と(2)に意味上の違いがあるはずだ、ということまでは期待できても、
(1)に only > not のスコープが優先的だということはどうして分かるのかにゃ?
>普通とりやすいスコープの読みが無標な「が」構文、普通とりにくいスコープが
>「を」構文に結び付けられる
この分析自体が、すでに相当の文法知識を前提にしてしまっているように思えて
ならないにゃ。(完全に言語学の話しになってるにゃ、ごめんにゃ>心理学の人)
ぶにゃ…
最低限のフォローするにゃ。
1)ウソ田ヒカルだけが愛せない。
2)ウソ田ヒカルだけを愛せない。
において、いったいなにが打ち消されているのか、という問題にゃ。
1)では、(全人類でも全アーティストでもいいけど)ある集合のなかで、
例外的にウソ田ヒカルが愛情の対象ではないと読めるにゃ。
「ウソ田ヒカルだけ<が>嫌いだ。」によく似ているにゃ。
2)では、否定されているのは、
「ウソ田ヒカルだけ<を>愛する」ことにゃ。他の誰かも、愛さずにいられないのにゃ。
ま、こういうのを「スコープ」の違いといってるわけにゃ。
こう考えていくと、「が」と「を」の使い分けにも整合性が見えてくるにゃ。
で、BOB先生は、1)の読みが標準で、それがやはり標準である「が」と結びつくのは自然な推理であると主張し、
饅頭顔の先生は、このUG不要説を、
>すでに相当の文法知識を前提にしてしまっている
ゆえに、あとからとってつけた説明だと反論しているわけだにゃ。
これがだいたいの構図にゃ。
ちなみにわたしは、学問板が全般に不調なことから、非学問板にいくつかスレをたてて、
その浮き沈みを楽しんでたら、あっというまに「スレたてすぎです」と言われてもうたにゃ…(泣)
( ●´ A`● )ヘボナッチ...
また、ネタふっておくかにゃ。
SLIとWilliams syndrome の比較について、誰か詳しいひとはいないのかにゃ?
紹介済みかもしらんにゃが
Clahsen, H. and M. Almazan. 2001.
Compounding and inflection in language impairment: Evidence from Williams Syndrome (and SLI).
Lingua 111:10
ってのがあるにゃ。いちおーコネクショニスト逝ってヨシのペーパーにゃ。
それじゃ聞くがね、Tada氏や顔文字氏の提案はどんなものなんだい?
その提案は、
(1)太郎はチョムスキーの本だけ読まなかった。
(2)太郎はチョムスキーの本だけを読まなかった。
の差も同様に説明できるのか。
前提の文法知識云々はよくわからないな。別に文法知識がいるとかいらない
とかの話ではなく、「目的語ガ/ヲ」のスコープに関する振る舞いの違いは、
般化で説明するのは確かに難しいが、統語論的な説明も必要ない、
語用論/機能論的に説明できる、といっているだけだ。
流れを整理すると、まあ
>現実のやり取りのなかでこっちの意味が伝わらないとかの経験から
>そう判断できるケースばかりではないのにゃ。
そう判断できないケースがあるからといって、それは統語論の自律性
のサポートには必ずしもならない、そんなものを持ち出す根拠には
ならない、ということだ。
衝動派氏ふうに言うと「もう寝る〜」の時間なのでレスは後回しにゃが、まずもって
俺にはその(1-2)には上の状態述語の場合のような差は感じられないにゃ。
それはそれで問題になりそうにゃが、どういう差があるのかまず書いといてにゃ。
じゃにゃ、おやすみ、にゃ
>(1)太郎はチョムスキーの本だけ読まなかった。
>(2)太郎はチョムスキーの本だけを読まなかった。
「ない>だけ」の読み(「チョムスキーの本を読んだが、ラネカーの本も読んだ」)
が、(2)の方が得やすいと思うんだけど。上の例と条件を近づけるために、述語を
複合動詞にすると(私の直観では)ますます差が際立つ。
(1)'太郎は(次郎に)チョムスキーの本だけ読ませなかった。
(2)'太郎は(次郎に)チョムスキーの本だけを読ませなかった。
(1)(2)はどっちも ONLY > NOT しかないにゃ。
(2)が「チョムの本だけを読むということはしなかった」ととるのは俺には無理があり過ぎにゃ。
(1ユ)(2ユ)も大差ないにゃが、(2)よりは(2ユ)のほうが ONLY < NOTもなんとかいけそうにゃ。
で、やっぱり内容がこの板向きではないので、続きは総合スレでするにゃ。
旧スレの件を蒸し返すようで恐縮だが、
>>顔文字先生
>心理学辞典見たら「般化」とは「ある刺激に条件づけられた反応が,他の刺激に
>対しても生じること」とあったにゃ。
これだけでは何のことだか少々不明(虚無好き先生の解釈も無理はない)。
その辞典の記載の前後の文脈を確認した方がいい。
もしかして有斐閣の辞典だったりして。(笑
>「ある刺激に条件づけられ」るのが般化・・
そういうのは「般化」とは言わない。(苦笑
むしろ、条件づけられなくても生じるからこそ「般化」という。
刺激般化と反応般化を区別すべきだし、刺激弁別や反応分化の4点セットで考えた方がいい。
「刺激」が言語刺激である必要も全くない。
おそらく、母親による「お手本」のような言語刺激しか想定していないのではないか。
それではただのA→A型の単純な見本合わせにすぎない。
しかも、こんな場合だって般化は簡単に生じる(ヒトは弁別よりも般化優位の動物だ)。
「刺激(=母親によるお手本)がゼロでも」というのは当たり前の話で、
「お手本」がゼロでも(つまり特定のお手本に一対一で「条件づけられ」ていなくても)
生じてしまうから、「般化」という言葉を使うのだ。
「お手本」以外の刺激や他の変数についてはどうなっている?という問題もある。
要するに、>548氏の、
>3.刺激の質的貧困とやらは般化が生じていることを物語っている。
>むしろ、そのような現象のことをまさに「般化」と言うのではなかったのか。
>つまり、この般化現象にUGが関与しているかどうかが問題なのであって、
>般化そのものを無視するような議論にはついていけない。
般化に限らずだが、おそらく皆これに同意したい気分が強いのだ。
「刺激の質的貧困」(またはゼロ)という論拠?については、
悪いが、とてもじゃないがついていけないというのが本音だな。
>「これこれが言える」という肯定的知識
>「これこれが言えない」という暗黙の否定的知識
こういう考え方のおかげで、オレは認知主義者になりきれないのだ。
認知屋が好む「知識」という日常用語が嫌いなのよ(トートロジーに見えるんだよな)。
「これこれとは言わない」ときに、「否定的知識を持っている」という言い方をするだけだろう。
だからといって、“単に「言う」「言わない」ではいけないのか?”と言うつもりもない。
この辺はオレが行動主義者になりきれない所以でもある。
(脳内で生じているはずの発火現象と環境との関係を「情報処理」という形で抽象化して何が悪いのかと思う。発火現象自体は心理現象ではないのだから、次元の異なる脳科学と行動主義の仲を取り持つにはそうするしかないではないか)
顔文字先生は、「般化」などの学習理論では説明にならない
というようなことをたびたびおっしゃっているが、
「学習理論では全く説明にならない」と“断言”するからには、
あなたなりに、「おそらく学習理論ではこれこれのように説明するのだろう」
というような「理解」があって、そのうえでの批判のはずだ。
しかし、その理解は不十分だし、上例のように多分かなり間違っている。
だから、そのような理解を元にした批判も的はずれになる可能性が高い。
そういう可能性を考えてみる気はないのかな?
般化に限らず、視知覚や運動技能の発達、語用論(って言うのか?)についてももっと言及すべきだ。
チョム派の考え方や方法論については、おかげさまでだいぶ分かるようになった。
この点はへたな入門書などよりはよほど分かりやすかった。今後の参考になった人も多かろう。
と同時に、「入門以前」のレベルでは理解できたし面白かったのに、
あとは興味を失ってしまった、あるいは、ついていけなくなったという人も多いと思う。
(1)例文判定という方法論に全面的に頼っているらしいという印象が強い。
(2)断言・批判が強引で、学習・発達や語用論の問題を出発点以前の段階で切り捨てている。
(切り捨てている理由は分からなくはないが、やはり強引に思える。「啓蒙」という点でも、この辺は考える余地があるのではないか)。
(3)そもそも言語の問題はそんな簡単に、「説明してみろ」「はい説明しましょう」などと言えるような問題じゃない(そんな要求をされても困る。人材不足ということもあるが)。
皆ROMはしていると思うが、書き込みが激減したままでは面白くない。
そこでチョム派に提案だが、(1)例文判定はいったん棚上げにし、(2)学習・発達・語用論へ話題を転換し、(3)説明の可能性を「間接的に」探ってみないか?
チョム派は「存在しないヘボな敵」を攻撃しているという印象が強いのだ。
ところで、BOB先生はどういう立場の人なのかな?
説明してくれないと、顔文字vsBOBの対立が門外漢にはさっぱりわからん。
ついでに、上記のような方向で一つ論じてくれない?
またわたしですまんにゃ。いちおう前スレでもおわびしたけど、
UGを仮定しない生成文法学派も当然あるわけにゃ。
BOB先生のHPSG(主辞駆動句構造文法 Head-Driven Phrase Structure Grammar)もそのひとつにゃ。
わたしもあんな巨大スレになるとは思わなかったので、甘いところがあったにゃ。スマソにゃ。
いちおう論点まとめといたにゃ。大きな間違いがないことを祈るにゃ。
Q;言語の本質は何か?
BOB先生;コミュニケーション・ツール < 直接の言及は記憶にないにゃ…(虚無好き)
顔文字先生;ヒト固有の、生得的言語知識にゃ。「コミュニケーション」が総体的に何であるかは、
チョム理論の射程外にゃ。
Q;言語の起源は何か?
BOB先生;人類が構築し、洗練させたもの。
顔文字先生;本質的には、生物学的な系統発生にゃ。
Q;UGの存在について。
BOB先生;完全なる虚構
顔文字先生;(刺激の貧困などの議論により)自明にゃ。
Q;文法の普遍性について
BOB先生;とくにこだわらない。文法規則はプラグマティックなもの
顔文字先生;UGに関与する(=系統発生的)知識は、普遍的にゃ。個別の規則には、
さらに高いレベルの一般性があるにゃ。
Q;言語獲得について
BOB先生;一般学習と同じ
顔文字先生;UGを仮定しないとムリにゃ。
Q;文法解析の方法論について
BOB先生;機能的。統語部門を独立させない
顔文字先生;構造が先にゃ。音韻論、語用論はコア領域よりかなり遠いにゃ。
Q;互いの分析について
BOB先生;説明になっていない。見えない範疇や移動は、ただの辻褄合わせ。
顔文字先生;皮相な説明しかしていないにゃ。個別の現象に都合のいいお話をでっちあげているだけにゃ。
Q;互いの印象
BOB先生;洗脳された、ノーム真理教信者
顔文字先生;個体発生と系統発生を混同する、アホアホにゃ。お大事ににゃ。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/26 21:47
虚無好きさん自身の立場は?
さすがに書き込みが頻繁すぎて(言語学板の方)正直疲れてきた。
まあ私の立場は(面倒だから)一言でいうと
「チョムスキー理論は、
習得理論・心理学的な側面に関してはクソ。
もっとコアな言語学的な分析に関してはクソ以下」
と言うもの。
虚無好きさん、面白いまとめありがとう。ちょっと違うんじゃないかな、
というところもあるけど、まあそれはおいおい。
>「刺激の質的貧困」(またはゼロ)という論拠?については、
>悪いが、とてもじゃないがついていけないというのが本音だな。
言語習得の立場からの反対意見に関しては言語学板の生成文法スレの
530にちょっと書きました。
>>27以下
うみゃ、土俵は総合スレに移ってしまったから、こっちではあまりレスを期待しないでにゃ。
「学習」に関しては、俺は生得性の対立概念のカバーターム程度にしか考えていなかったにゃ。
生後に外部由来で知識なり行動パタンなりを獲得することを学習とよぶとすると、言語知識の
すべてが学習ではすまされにゃい、というのが学習理論では説明にならにゃいと俺が言った
ことの意味にゃ。だからそちらのいう「学習」がそういうことではそもそもないのなら、それは
単に言葉の定義が違うだけにゃ。般化も知識も同様。
こちらとしては、言語知識のどのような側面が生得性との関連で問題になっているのかをそちらが
知らずに学習だ、般化だ、と能書きばかり垂れてる印象があったので、具体例をあげてどういう
般化が起きるのかを解説して欲しい、と思ったのにゃ。で、上の例は般化の手に負えない、という
ことでいいのだろうかにゃ? ついでにカビの生えたような例をもう一つ出しとくにゃ。
1) 太郎が花子に次郎を殴らせた。
2) 花子が(太郎によって)次郎を殴らされた。
3) 次郎が(太郎によって)花子に殴らされた。
(1)の能動文に対応する受動文として(2)(3)があるにゃが、どっちかはおかしな文だということが、
日本語のネィティブには分かるはずにゃ。どうしてそうと分かるのかにゃ。どんな定義でもいい
から、生得的言語知識を必要としない学習や般化による説明の可能性を簡単に教えて欲しいのにゃ。
生得的言語知識とは、そもそも人間言語において可能な計算のクラスが前経験的に規定されており、
その範囲外にあるものについては一切の経験を必要とせずとも、最初からヒトの脳内で起きようが
ないようになっている、という意味であって、文字通りこれこれが不可能だと明示的に知っている
という意味ではないにゃ。
>>33 で、自分は「「クソ以下」以下」をやってれば世話ないにゃ。お大事ににゃ。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/26 22:51
厨房から先生へ。
(2)も(3)も、私には明らかにどっちも変です。
旧スレでもそうだけど、なぜこんなおかしな例文を持ち出すのかわかりません。
上の方の「が」と「を」だって、般化云々よりも、
そのような使い分けを学んできた、と考えてなぜいけないのでしょう?
ただし完全な使い分け(弁別、分化)までには至っていない。
それぞれの使い方を学ぶ際に、それぞれ般化云々の問題が出てくるのでは?
だから使い方を混同したりする。
訂正。
だから使い方を混同したりする。
↓
だから、他の状況でも正しく使えたり、あるいは逆に、使い方を混同したりする。
>>31 >UGを仮定しない生成文法学派も当然あるわけにゃ。BOB先生のHPSGもそのひとつにゃ。
HPSGはUG仮説に直接コミットしてないというだけで、BOBのようにあからさまにUGを否定するのは
むしろHPSG内でも異端ではないのかにゃ? どうかにゃ、BOBや?
>>35 >(2)も(3)も、私には明らかにどっちも変です
はにゃ……。信じがたい判断にゃ。「花子が論文を書かされた」vs.「論文が花子に書かされた」。
やっぱりどちらも変かにゃ? (まったくのカタギさん相手だとどうしても順を追って例文を提示する
必要があるのかにゃ……)
>なぜこんなおかしな例文を持ち出すのかわかりません
当たり前のものだけでは分からないことがあるのでノーマルでないものを比較する、これは生成の
専売特許ではもちろんないにゃ。心理学ではこんなことはしないのかにゃ?
>使い分けを学んできた
だからどうやって学んできたと考えられるのか教えて欲しいのにゃ。
先生へ。
どうもありがとうございます。
>「花子が論文を書かされた」vs.「論文が花子に書かされた」。
これは明らかに「花子が論文を書かされた」が自然なので、
これと比較すると、先程の例は(2)の方は正しそうだと分かりました。
しかし、(2)をいきなり読むと、どこか違和感を感じてしまいます。
少なくとも私はこの表現(「花子が(太郎によって)次郎を殴らされた」)は使わないでしょう。
>当たり前のものだけでは分からないことがあるのでノーマルでないものを比較する
わかりました。
でも違和感はあります。
>だからどうやって学んできたと考えられるのか教えて欲しいのにゃ。
単純素朴ですけど、例えば、
「が」を含んだ表現をある状況・文脈で学ぶ。
ただちに別の状況・文脈でも言えるようになる(刺激般化)。
さらに別の状況・文脈で誤った「が」表現を使用する(誤った刺激般化)。
「を」表現に訂正される。
「が」表現を使用できない状況・文脈があることを学ぶ(弁別学習)とともに、
「を」表現を学ぶ。
すぐに別の似た状況・文脈で「を」表現を使う(刺激般化。及び「が」状況・文脈との刺激弁別、反応分化)
さらに別の状況・文脈で誤った「を」表現を使う(誤った刺激般化。または正しい刺激弁別の失敗)。
「が」表現に訂正される。
「が」状況・文脈と「を」状況・文脈との弁別、「が」表現と「を」表現との分化がそれぞれ促進される。
訂正は毎回行われる必要はない。
また、たとえ訂正が行われなくても、
「が」表現と「を」表現を別々に学習することも論理的に可能。
両者を同時に言うことはできないので、
正しい表現を学べば、誤った表現は必然的にやがて消去へと向かう。
>>39 おそらくそういう「素朴な」指摘(失礼)は「ことごとく退けられた」ってことなんだろうなあ。
まあ回答を待とう。
ただ、
>両者を同時に言うことはできないので
この点はスルドイかも。
こういう互いに並立不可能な行動の学習って何て言ったっけ?>専門家
行動療法なんかでも消去手続きの時間的手間が省けるんじゃないのか?
言われてみれば発話行動ってのは、どれもお互い同士は必ずそうだよね。
>「これこれが言えない」という暗黙の否定的知識
に対する根拠の一つにはなりそうだが・・・。
つまり、A表現を学べば、並立不可能な他表現は消去するまでもなく生じなくなるとか。
少なくとも、拮抗するA表現を押しのけるにはコストがかかりすぎるとか。
「違和感」というのは、この心理的コストを反映しているとか。
だめかな?
>>38 先生はやめてにゃ。(BOBほどではないにゃが)俺もたいがい失礼な書き方してるにゃから、
それに合わせてくれていいのにゃ。
>少なくとも私はこの表現...は使わないでしょう。
それこそがポイントなのにゃ。自分が使う使わないは別にして、母語の表現として可能か否か
が分かるってことが説明を要するのにゃ。一度も聞いたことがない表現でも、いいか悪いかが
分かることがある、ってことがにゃ。
39のシナリオだとやっぱり直接の経験がないと話しが始まらないようにゃが、
>「が」表現を使用できない状況・文脈があることを学ぶ(弁別学習)
ただそういう状況があることを学ぶだけではなく、どういう状況で使えないのかを学ぶ必要が
あるにゃ。その知識はどうやって発生するのかにゃ? 総合スレの書き込みによれば大人が
子供の間違いを訂正するのはわずか(!)60%だそうにゃ。そんな少ない否定的証拠から、
どうやって母語話者全員が「が」の出現可能な環境を正しく知ることになるのにゃ?
「が」の知識自体が生得的だといってるのではないのにゃ。「が」の出現環境を知る上で要請
される諸概念があるにゃが、それらを母語話者が全員一つひとつ経験で獲得するとは考えにくい
ということにゃ。
>両者を同時に言うことはできないので、正しい表現を学べば、誤った表現は必然的にやがて
>消去へと向かう
正誤の対立とは無関係に最初からあり得ない表現が問題なるにゃ。これこれと言わないのは、
(同じ意味を伝えるには)これこれと言う方が経済的だから、というのは語用論的な分析の
典型にゃが、では例えば上の「論文が花子に書かされた」がダメなのは何との比較による
のかにゃ?「花子が論文を書かされた」とは明らかに意味機能が異なり、両者を比較して
どっちがいいかという問題ではないはずにゃ。相互比較なしでも、前者はダメ、後者は
良い、ということがアナタにも分かるはずにゃ。どうしてにゃ?
>総合スレの書き込みによれば大人が子供の間違いを訂正するのはわずか(!)60%だそうにゃ。
>そんな少ない否定的証拠
こらこら、本気ですか?!
60%なんて異常に多すぎるくらいだよ。
これが本当なら、もうそれだけで「刺激の貧困」説は終わりじゃないか。
まさか100%じゃなきゃダメだとでも?
もしそうならそれこそ「逝ってよし」だが・・・。(苦笑
どうも顔文字先生の主旨がわからん。
だいたい、「間違いの訂正」や「お手本」のようなものだけが言語刺激じゃない。
例えば「が」や「を」は前後の文脈、つまり話者自身の言語刺激群にも「質的に」影響を受けるはずだから、
しゃべるたびに否応なく「質的」刺激にさらされる。
「間違いの訂正」なんて、見本合わせにおける単なる見本としての性格の方が強いはず。
しかもだ、「状況」という非言語的な刺激群は、量的にはもちろん、質的にも貧困どころではない。
刺激般化や刺激弁別はむしろこの手の「状況刺激」群に対して、
より強力且つ広範且つ多彩且つ柔軟に生ずるだろう。
「見本刺激」のような言語刺激よりもこっちのほうが重要ではないのか。
>39のシナリオだとやっぱり直接の経験がないと話しが始まらないようにゃが
それがあなたの言う「ほんのわずかな触発刺激だけで」ってやつだと考えれば、
それで話は始まると思うが。
>両者を比較してどっちがいいかという問題ではないはずにゃ。
そのとおり。
だから、
>相互比較なしでも、前者はダメ、後者は良い、ということがアナタにも分かるはずにゃ。
>どうしてにゃ?
学習の結果(一般的認知能力を基にした)で良いではないか。解釈は後付けだろう?
比較した上での選択ではない。前者は使わず、後者を使う(後者を使えば、拮抗する前者は使えない)。
強力な後者を押しのけて、拮抗する弱い前者をあえて使うのは心理的コストが極端に高いから違和感があると、人は(例えばオレは)後付けで解釈するのだ、ということで何故いけない?
(心理的負荷が高いという意味ね。)
>「が」の出現環境を知る上で要請される諸概念があるにゃが、
>それらを母語話者が全員一つひとつ経験で獲得するとは考えにくいということにゃ。
そのとおりだよ。
だから、そんなことを「一つひとつ経験で獲得する」必要なんてないんだってば。
>>39の大ざっぱなシナリオだってそうなっているじゃないか。
とにかく、「刺激の貧困(またはゼロ)」というのは、正直、無茶だよ。
オレとしては、それを認めてもらった上で、
なおかつUGのようなものがあるかもしれないと考えたいんだよ。
そのほうがよっぽど「素直」?で「自然」?だと思うが。
いま言語板を見たら、顔文字先生は本気で100%じゃなきゃダメだと思っておられるようだ。
信じられん・・・。
あのにゃ、100%というのはトークンではなくタイプの話しにゃ。同タイプの誤りについては
1つの訂正さえあればあとの無数のトークンは般化でも間に合うにゃ。
ところがどのようなトークンに対しても訂正がないようなタイプが1つでもあれば、それが誤りで
あることをどうやって母語話者全員が知るのか、これが否定証拠不在の論理的問題を提起するのにゃ。
誰も訂正しない、そもそもそのような間違いは最初から誰も犯さない(しかしその一方で言語使用
は創造的である)そのような知識に対して生得的資質の関与が示唆されるのにゃ。
>学習の結果(一般的認知能力を基にした)で良いではないか
まだ分かってないようにゃが、たとえばアナタの幼少期に「論文が花子に書かされた」が間違いで
あると刺激や般化に基づいて学習する機会があったのかにゃ? そして同じことが母語話者全員に
起きる、と? そうではないと思うにゃ。事実、このタイプの文がアウトであることに生まれてこの方、
今まで一度も気づかなかった人もいるはずにゃ(言語学者以外のたいがいがそうだと思うにゃ)
この例を含めて無数の同様の表現をあらかじめ阻止する一般法則に人間の言語機構が従っているだけだと
思うにゃ(それは最終的には脳という物質系に作用する物理法則に還元したいところにゃ)。
>前者は使わず、後者を使う(後者を使えば、拮抗する前者は使えない)
どういう拮抗にゃ。前者でしか表せない立派な意味内容、果たせない有益な機能があるにも関わらず、
前者は使えないようになってるのにゃ。
>後者を押しのけて、拮抗する弱い前者をあえて使う
のではないのにゃ。
>「刺激の貧困(またはゼロ)」というのは、正直、無茶だよ
あらゆる言語刺激がないといってるのではなく、刺激なしでも発生する言語知識があり、それは
生得的要因なしでは説明不可能ということにゃが?
今言語板見てきたら随分な書き方してあったから、また戻ってきたのにゃ。
訂正を受けなくても生得的にそういう間違いは犯さないようになっている
(それが間違いだと「知って」いる)領域が、母語話者の言語知識に1%でも
あるのか、ないのか? ないと言うことは100%ないと言う意味でしかあり
得ないにゃ。違うかにゃ?
>トークンに対しても訂正がないようなタイプが1つでもあれば、それが誤りで
>あることをどうやって母語話者全員が知るのか、これが否定証拠不在の論理的問題を提起するのにゃ。
ばっかばかしい。尻尾が三本ある犬がいないことを我々は「知っている」。その可能性について考えた
ことがなくても、「尻尾が三本ある犬はいるか?」と聞かれたら、「そんなものはいない」と正しく
判断して答えられる。これは否定証拠不在の論理的問題ではないの?
人間は犬の尻尾の数に関する知識を生得的に持っているとでも?
あるいは未知の生物を見せられても、「これは見たことのない虫だ」、
とか「食べたことのない野菜だ」と判断できる。見たこと無いのになぜ虫と
わかるのか、聞いたことないのになぜwell-formed sentence とわかるのか、
この二つの問いにどういう違いがあるの?
>>45 >あらゆる言語刺激がないといってるのではなく、刺激なしでも発生する言語知識があり
このような問題に関して、その証明は何度も言っているようにデータの問題であり、
そのばあい幼児の学習曲線にに、学習理論では説明不可能な quantum jump が観察されなければならないにゃ。
いっぽう、無謬学習プロセスは実験的に可能であると前レスで言われていたことは覚えているかにゃ?
これはクリアしておきたい問題提起にゃ。
また、↓これにも言及してにゃ。
>(3)高次クラス
>
>高次の反応が獲得されれば(親反応)、共通の機能をもった子反応が訓練なしで生じること。(前スレ)
とにかくわたしは、ひっきょうこれらの問題解決は幼児(など)の学習環境のデータとその分析に尽きるのであり、
心理学と方法論の分有がなければ、チョム理論が心理学を標榜することには無理があると思うのにゃ。
生物学に関しても同断にゃ。
ただし、生成文法が行なっている非文判定は、(その分析は別として)
やはり何らかの(自律した)認知的知識のすくなくとも傍証であると考えざるをえず、
それが、総論(スローガン)反対、各論興味深し、のだいたいの意味にゃ。
日曜日を利用して前スレから読み直させてもろうたが、どうもお互いに肝心なところで話が通じておらんようじゃな。
「100%」問題の食い違いはまあ良いとして(良くはないが)、ワシにも通じておらんようじゃ。
>同タイプの誤りについては1つの訂正さえあれば
いや、たった1つの訂正すらなくても(0でも)論理的に可能だと39氏は言う。
同意じゃな。論理的どころか、現実にも大いにあり得ると思うぞ(無誤弁別のほうは、実験ではともかく現実にあり得るかについてはかなり?じゃが)。
探検隊氏の言うように、言語板の方々は「訂正」刺激や「見本」刺激にこだわりすぎなんじゃよ。
>ところがどのようなトークンに対しても訂正がないようなタイプが1つでもあれば
それが「○○タイプ」だというのは誰が決めるんじゃろか?
>たとえばアナタの幼少期に「論文が花子に書かされた」が間違いで
>あると刺激や般化に基づいて学習する機会があったのかにゃ?
学習する機会がなければなかったで、やはりそんな言い方はせんじゃろう。
だから、顔文字氏が言いたいのはそういうことではなく、
日本人も英米人もその他も、そろいもそろって、
「論文が花子に書かされた」タイプではなくて「花子が論文を書かされた」タイプの方を学習してしまうのは何故か?
ということなんであれば、まあ分からんでもない。
じゃが、「刺激は貧困」「そもそもそれは学習ではない」などという言い方をするから、それは変じゃろうとなるわけじゃ。
学習の性質について種差があり、こういう事例のような規制を行うメカニズムが人間の脳にあって、
それをUGとして(作業仮説として)立てる、ということなら、行動主義者の中にも「どうぞ御自由に」という者がおるじゃろう。
ワシはこのタイプじゃな。そっちは生成屋に任せて、相互補完的な他のことをやろうとするじゃろうが。
43(探検隊)氏の最後3行もそういうことじゃろうと思う。
>>前者は使わず、後者を使う(後者を使えば、拮抗する前者は使えない)
>どういう拮抗にゃ。前者でしか表せない立派な意味内容、果たせない有益な機能が
>あるにも関わらず、前者は使えないようになってるのにゃ。
>>後者を押しのけて、拮抗する弱い前者をあえて使う
>のではないのにゃ。
これは顔文字氏の方に話が通じていないようじゃが、
「が」と「を」を同時に発音することはできんから、ある状況で「が」を学習すれば、「その状況では「を」を使ってはいけない」ということを学習する必要はなかろう?
単に前者が強力で後者が弱い(もしくは学習していない)状況下だということじゃろう。
前述のように、39氏の最後の5行じゃ。
「否定的知識の欠如」というのはレトリックにすぎんと思う。
「肯定的知識」を持っておれば、「否定的知識」は必要ない。
Aをとれば、必然的にすべてのnotAはとれなくなる。これが「並立不能」の意味じゃ。
こういう状態のときに、後付けで「notAについての否定的知識を持っている」という言い方をする。
>訂正を受けなくても生得的にそういう間違いは犯さないようになっている
>(それが間違いだと「知って」いる)領域が、母語話者の言語知識に1%でも
>あるのか、ないのか?
ないという断言も、たとえ1%でもあるのだという断言も、ともに無茶じゃ。
そしてその断言(後者の)をしておるのは顔文字氏の方ではないのか?
虚無好き氏の言うような類のデータが膨大に必要じゃ(すでに利用できるものもたくさんあるはずなので、すり合わせ作業だけでもしてみてはどうじゃ?)。
エムラスの先生のように、「その結果が生得説(または経験説)に有利になってもいっこうに構わない」ぐらいでよいと思う。
久々に夜更かしをしてしもうたが、やはりワシにも話が通じておらんのかのう?
急に作成しなきゃいけない書類ができたもんで、詳しいレスは後日にゃ。
まず100%でなければならない、というのは撤回にゃ。誰も最初から犯さないタイプの
誤りがある以上、実は訂正率100%でも意味ないのにゃ。
>>50 >ワシにも話が通じておらんのかのう
そう思うにゃ。まず
>どういう拮抗にゃ。前者でしか表せない立派な意味内容、果たせない有益な機能が
>あるにも関わらず、前者は使えないようになってるのにゃ
の部分の前者・後者は「論文が花子にかかされた」「花子が論文をかかされた」を
指してるにゃ。「が・を」の話しではないにゃ。さらに
>ある状況で「が」を学習すれば、「その状況では「を」を使ってはいけない」と
>いうことを学習する必要はなかろう?
「が・を」が交替可能な環境とそうでない環境があるにゃが、この単純な論法では
全然説明できないにゃ。
>「肯定的知識」を持っておれば、「否定的知識」は必要ない。
これも同様にゃ。対応する肯定的知識が不在の否定的知識を見落としててるにゃ。
他者との比較ではなく、初めて見た表現でもダメなものはダメ、よいものはよい、と
分かることに留意せよと何度も言ってるにゃが、やっぱり「行動主義」というだけ
あって、表出する現象・行動にしか目がいかないようだにゃ。双方が視野に入れている
言語知識の内実が最初から違い過ぎるという印象が拭えないにゃ。ややこしい例文
出すと嫌がられるにゃから、「が・を」の続きで簡単なのを紹介しとくにゃ。
1) (誰かが)本(を・の)読める部屋
2) (誰かが)本(を・*の)読む部屋
対格助詞「を」が「の」に交替可能な場合と不可能な場合があるにゃ。どういう場合に
交替可能でどういう場合に不可能か、分かるかにゃ? そしてそれをあなたはどう
「学習」したのかにゃ? 「並立不能」が成立する場合と成立しない場合があるのにゃ。
>言語板の方々は「訂正」刺激や「見本」刺激にこだわりすぎなんじゃよ
そんなことはないにゃ。訂正という表現に拘らずとも否定的証拠と言えばよいにゃ。
大人からの無反応、冷たい視線(w)、ありとあらゆるネガティブな出来事が潜在的に
訂正のきっかけになるにゃ。ポイントは最初から誰も言わないことがある、という
ことにゃ。言えない、言ってはならないことを各個人が学習するのではなく、人間や
人間言語が最初から言えないような仕組みになっている、と考えるほうがよっぽど
素直で自然だと俺は感じるにゃが? まあ、乱暴な喩えにゃが、水は低所から高所へ
流れてはならないことを学習するのではなく自然法則に従っているだけなのと本質は
同じだと思うにゃ。
>>その証明は何度も言っているようにデータの問題であり
その通りにゃ。そして言語知識の経験主義的獲得を可能にするようなデータの存在を
示す、というburden of proof を誰一人果たしていないにゃ。
>無謬学習プロセスは実験的に可能である
それによって例えば下接条件や照応語の主語指向の知識をどのように獲得するのか、
誰か示したのかにゃ? 建前や能書きはもう十分なんだけどにゃ。
質問責めされとるのに大儀なことじゃ。別に急がんでもよいよ。
>>どういう拮抗にゃ。前者でしか表せない立派な意味内容、果たせない有益な機能が
>>あるにも関わらず、前者は使えないようになってるのにゃ
>の部分の前者・後者は「論文が花子にかかされた」「花子が論文をかかされた」を
>指してるにゃ。
ますます分からなくなったではないか。
「論文が花子にかかされた」でしか表せない「立派な意味内容」、果たせない「有益な機能」がある、とな? これは非文ではなかったのか?(非文だとしても意味は分かるがのう)。
>「が・を」が交替可能な環境とそうでない環境があるにゃが、この単純な論法では
>全然説明できないにゃ。
同じ事ではないか。交替可能な環境(または文脈)であることを学べばよかろう。
>他者との比較ではなく、初めて見た表現でもダメなものはダメ、よいものはよい、と
>分かることに留意せよと何度も言ってるにゃ
もう分かっておるよ。(笑)
「初めて見た表現でもダメなものはダメ」→般化せず。
「初めて見た表現でもよいものはよい」→般化した。
でよいではないか。正誤の解釈などは後付けじゃ。
上でも書いたが、この般化の制約に生得的な要素があるかどうかと考えた方がよっぽど自然じゃ(ワシにとってはここが一番肝心じゃ。ワシは別に生得説そのものをどうこう言っておるわけではないぞ)。
>対格助詞「を」が「の」に交替可能な場合と不可能な場合があるにゃ。どういう場合に
>交替可能でどういう場合に不可能か、分かるかにゃ?
カタギの人間に向かってそんな意地悪な質問をするもんでない。
ちなみに、1)は「が」でも良いはずじゃが。
タバコ(を・の・が)吸える部屋。
タバコ(を・*の・*が)吸う部屋。
カタギのワシには後ろの動詞の活用形か助動詞の違いではないかと思えるが?
>訂正という表現に拘らずとも否定的証拠と言えばよいにゃ
そういうことなら、まあよかろうかのう。どっちにしても重要度は二の次じゃと思う。
爺さんは早起きにゃ。
>これは非文ではなかったのか?
非文とは構造的に適格でないものを指すにゃ。意味が通ろうが通らなかろうが関係ないのにゃ。
これが「統語論の自律性」の一側面にゃ。現に爺さんも
>非文だとしても意味は分かるがのう
と言ってるにゃ。なぜ分かるのかにゃ。形式と意味は別物だということを自ら証明してくれた
のにゃ、ありがとにゃ。
>「論文が花子にかかされた」
一般に受動文の機能とは、対応する能動文における主語を背景化(明示しないでおく)したり、
主語以外の要素を前景化(目立たせて聞き手に注目させたりする)したりするものと理解され
てるにゃ。真理条件的に同値である命題を個々の場合に「太郎が花子にキスした」と表現するか
「花子が(太郎に)キスされた」と表現するかは、このような語用論的な考慮が大きく影響するにゃ。
「大学生がマンガを読んでいる」「マンガが大学生に読まれている」もにゃ。
さてにゃ、「太郎が花子に論文を読ませた」で花子を前景化するのも論文を前景化するのも、
同様に前景化という立派な機能的動機付けをもつにゃ。ところが「花子が論文を読まされた」とは
言えても「論文が花子に読まされた」とは言えないにゃ。後者がダメなのは意味的機能的におかしい
からではなく、純粋に形式がおかしいからなのにゃ。逆に、意味的にいかに奇妙奇天烈でも
形式的にはオッケーな文法文もあり、チョムの有名な Colorless green ideas sleep furiously. は
そのことを示すために作られた例文にゃ。
>同じ事ではないか。交替可能な環境(または文脈)であることを学べばよかろう。
ではどういう環境が交替可能なのか言ってみるにゃ。爺さんは切れ者にゃから答えられるだろうが、
母語話者の多くは答えられないはずにゃ。「昆虫とはこれこれこんなものだから、これは昆虫では
ないと思う」というような類の明示的知識とは本質的に異なる暗黙の知識がここに関わっているのにゃ。
そんなものを全員が経験的に学習できるのかにゃ。あり得ん話しだと思うにゃ。
>「初めて見た表現でもダメなものはダメ」→般化せず。
ここが逆に分からないにゃ。ダメなものについての般化が起こったからこそダメだと分かるのでは
ないのかにゃ? 般化がおこっていないものが自動的にダメだと「分かる」のであれば、初期データは
幼児にとっては全部ダメなものになってしまうにゃ。つまり最初から良いもの悪いものについての
般化が起きていなければならないことになるにゃ。それを生得的文法知識と呼ぶことにどうして
抵抗するのにゃ?
>1)は「が」でも良いはずじゃが。
さすが爺さんにゃ。ある環境で「を→が」交替が可能で、またある環境で「が→の」交替が可能、
従って両方の条件が満たされれば「を→が→の」の連続交替が起きるのにゃ。ただしその条件は
「後ろの動詞の活用形か助動詞の違い」では済まないにゃ。
「タバコ(を・が・の)吸える部屋」「この部屋はタバコ(を・が・*の)吸えます」
爺さんほどの切れ者でもよく分からない「の」格出現条件を、すべての子供は直観的に理解してる
のにゃ。やっぱり般化ですませるのかにゃ?
もう寝る〜、にゃ。
>般化がおこっていないものが自動的にダメだと「分かる」のであれば、初期データは
>幼児にとっては全部ダメなものになってしまうにゃ。つまり最初から良いもの悪いものについての
>般化が起きていなければならないことになるにゃ。
詭弁もいい加減にしろよ。
>>47の問いに答えない限り、その論法は人間は生得的に
何が犬で何が野菜か知っているという馬鹿げた結論を導くだけだろうが。
よくわからんくなってきたにゃ。
「鑑」をカンと読むように条件付けられたヒト(犬・鳩・ミミズ)が、
初めて見た「艦」をカンと読めたら般化にゃ。
初めて見た「濫」をカンと読んでしまっても般化にゃ。
ダメかどうかは、そのあとにゃ。
だから生得性は、般化のうえで語らなければ、
少なくとも行動主義者との対話はムリなのにゃ。
そゆことじゃないのかにゃ?
で、
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/29 18:12
>>52の爺さん。
>この般化の制約に生得的な要素があるかどうかと考えた方がよっぽど自然じゃ
俺も旧スレでその点を指摘したのに、チョム派からは無視されたよ。
>>56の虚無好きさん。
行動主義者というよりも、実験心理屋(=経験主義者)との対話がムリみたいなんだよ。
>>55 >
>>47の問いに答えない限り...
な〜にが「問い」にゃ、小学生でもそんなアフォなことは言わないにゃ。キミこそ
詭弁まみれなのに気がつかないのかにゃ?
>>53で
>「昆虫とはこれこれこんなものだから、これは昆虫ではないと思う」というような
>類の明示的知識とは本質的に異なる暗黙の知識
と言ってるがにゃ。犬と犬でないものを区別する能力が文法文と非文法文を区別する
能力と同じだと思って今まで言語学やってきたのかにゃ? 哀れだにゃ……
>>56 漢字の読み方の学習と比べるのも無理がありすぎにゃ。恣意的・人為的に取り決めた
ルールを覚えるのとは違って、文法知識は脳内で起き得ない現象に関わってるにゃ。
「カン」と読んでもいいにゃが読まない「ことにする」のではなく、最初から脳が
読めない仕組みになっている、という喩えになるだろうにゃ。
>ダメかどうかは、そのあとにゃ
不同意にゃ。使おうと思えば使えるが使わないことにしよう、というものではそもそも
ないのにゃ、非文とはにゃ。
>>57 >般化の制約に生得的な要素があるかどうか
これこれが非文だとわかるのはその文をOKとするような般化が誰にも起き得ないから
であり、なぜ起きないかというとそれは生得的制約なのである、という意味にゃ?
どうしてわざわざそういう回りくどい言い方をしたがるのかが分からんにゃ。しかし、
言語に関しては起き得る般化と起き得ない般化があり、それは他の認知能力一般とは
独立して全人類が遺伝的に共有している言語固有の認知制約に由来する、ということ
まで認める用意があるにゃら、UG仮説からそう遠くはないとも思うのにゃ。
とりあず1点だけじゃが、
>>「初めて見た表現でもダメなものはダメ」→般化せず。
>ここが逆に分からないにゃ。ダメなものについての般化が起こったからこそ
>ダメだと分かるのではないのかにゃ? 般化がおこっていないものが自動的に
>ダメだと「分かる」のであれば、初期データは幼児にとっては全部ダメなもの
>になってしまうにゃ。つまり最初から良いもの悪いものについての般化が起き
>ていなければならないことになるにゃ。
どうも混乱しておるようじゃ。
「誤(正)反応をする(しない)」というのと、「誤(正)と判断する」という問題とが一緒くたになっておるんじゃよ。
ワシの書き方に省略が多すぎるせいもあるかもしれんが、
ダメかどうかの正誤判断は「後付け」だと言うておるじゃろ?
「そんなことは分かってるにゃ」と言ってほしいんじゃが、そうではないんじゃろ?
>ダメなものについての般化が起こったからこそダメだと分かるのではないのかにゃ?
必ずしもそうではないと他の皆も何度となく言うておる。
正しいものについての般化が起これば、それだけでもダメなものはダメと(後付けで)判断できると思う。
>般化がおこっていないものが自動的にダメだと「分かる」のであれば
上記のようにそういうこともあるじゃろうと言うておるだけで、必ず全部がそうだとは言うておらん。
たとえ全部がそうだとしても(そんなことは考えにくいが)、
>初期データは幼児にとっては全部ダメなものになってしまうにゃ。
>つまり最初から良いもの悪いものについての般化が起きていなければならないことになるにゃ。
という結論はあまりにも性急じゃ。
理由は同上じゃ。
おっと、忘れておった。斬九郎が始まっておる時間じゃ。若村嬢の艶姿は毎回たまらんぞ。萌え萌えじゃ。
今夜の収穫。
>使おうと思えば使えるが使わないことにしよう、というものではそもそも
>ないのにゃ、非文とはにゃ。
生成理論の非文をすごくよく言い得ていると思う。
そして非文の定義がもしそういうものであるなら、この世に非文なんて存在するんだろうか。
「1000円からお預かりします。」20年前なら非文扱いだったと思う。
>>58 >文法知識は脳内で起き得ない現象に関わってるにゃ。
これだけでは誤解を招くので、
非文であるという文法知識は脳内で起き得ない現象に関わってるにゃ、と
断った方がよろしいかと。
>>59 >「誤(正)反応をする(しない)」というのと、「誤(正)と判断する」と
>いう問題とが一緒くたになっておるんじゃよ。
これがもう、行動主義のどうしようもなくアフォアフォなところなんだよ。
とくに言語に関してこういう区別をすることがいかに無意味なことか、
よく考えて欲しい。
顔文字先生
>まあ、乱暴な喩えにゃが、水は低所から高所へ
>流れてはならないことを学習するのではなく自然法則に従っているだけなのと本質は
>同じだと思うにゃ。
これを読んだ時、私とまったく同じことを考えていらっしゃると確信しましたね。
ある種の自然法則は生得的な知識として脳内の神経ネットワークに固定されている。
言語能力はその知識を利用して発達し、またその制約を受けている、ということね。
私は応援してまっせ。私では迷惑かもしれんが(泣)
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/29 21:19
進化論の立場からすれば、言語能力も動物の一般認知能力から
発展してきたものになる。そこまで本質的に異なるものとは思えない。
突然変異的に出現したものではあるだろうけれど。
人間と動物の間に強固な断絶はあるかもしれないが、
あるものと初めから仮定してかかるのは危険ではないかと思う。
>>爺さま
>正しいものについての般化が起これば、それだけでもダメなものはダメと
>(後付けで)判断できると思う
ダメなものを判断するのにいちいち正しいものについての般化が召喚されるってかにゃ?
それは犬の判定には役だっても非文の判定とは無縁にゃ。まるで正誤のペアがあり、
こっちが正しいのだからこっちは自動的に誤と判断される、といってるように聞こえる
にゃ。これはいつまでたっても水掛論にゃから、具体的にどのような般化が起きたのか
を語ってもらえんかにゃ? 般化万能主義がこちらにぜんぜん説得力がないのは、お題目
ばかり繰り返して検証可能な提案を何一つしていないということに尽きると思うにゃが。
他人のふんどしで悪いにゃが、たとえば
1) Why do you believe that John died?
2) Why do you believe that Mary claimed that John died?
がよくて
3) *Why do you believe the claim that John died?
がダメなのはどういう般化によるにゃ? (この場合、whyは John diedの理由に限定
してるにゃ)
般化が無用だと言ってるのでないにゃ。最初にUGがなければ般化は無力だと言ってる
のにゃ。UGの原理や制約を個々の経験に照らし合わせて個別文法を形成するプロセス
には般化も含まれる、ということは十分認めているつもりにゃ。しかし般化があれば
UGは不要だとか、UGそのものが般化の反映であるとかいうのは本末転倒としか
思えないにゃ。
>>61 >ある種の自然法則は生得的な知識として脳内の神経ネットワークに固定されている
チョムはじめ現在の生成家でそこまで言うひとはいないにゃが、生成の主張の論理的
帰結はそういったことにならざるを得ない、と俺は個人的に確信してるにゃ。
またHN変わったのかにゃ?
これから朝まで書類作りなので、本日ここまで(by 坂本九 in 「新・八犬伝」
>>62 >進化論の立場からすれば、言語能力も動物の一般認知能力から
>発展してきたものになる。
一般認知能力の実体をどう考えるか、やね。単に神経回路網が複雑になった
ことでその能力が備わったのか、自然現象の中には回路網に知識として
固定されているものもある、と考えるかどうか。これは知見の数と説得力の
強い方がその時代のパラダイムになるのかも知れない。ただ、私は後者を
支持する、ということ。
最後ッ屁
うみゃ、いいこというにゃ >62
それが生成に対する批判を意図しているにゃら、それは反生成陣営が生成について
でっち上げた虚構(チョム=創造論者とか)を鵜呑みにしているということにゃ。
ともかく進化に触れた書き込みが出てきたことは喜ばしいことにゃ。進化心理学
諸賢の建設的批判を承りたいのにゃ。
あのにゃ。
>>58 わたしは、すくなくともインタフェイスの役割をしようとしたわけにゃ。
いきなり心理学者の先生に、チョム理論の内部にしかない、
学習理論VS生得理論の「土俵」にあがれといってもムリにゃ。
よくリンクの貼られる前スレの552の刺激等価の議論をまじめに読む限り、
言語がどういう視点からとらえられているのかわかるはずにゃ。
(簡単に言えば、言語の構造的知識が無視されているように感じるにゃ。)
漢字の例が、ほとんどチョム理論と無関係なことくらいわかるにゃ。
しかし、そういうところから溝を埋めていかないと、対話は成立しないのにゃ。
そもそも、ここの読者のなかにはチョム理論なんかどうだっていいから、
コミュニケーション的側面を語ってほしいと考えているひともいると思うのにゃ。
で、いまのところ、チョム理論が心理学に関して方法論的に無力であり、
なおかつ独善的といわれてもしかたないにゃ。
もうみんな、例文判定はうんざりなのにゃ。
建設的な批判のためには、いちど相手の理論装置のなかに住み込まなくてはダメにゃ。
わたしがしばしばチョム理論シンパとみられたのも、そういう事情があったこそにゃ。
(結局、そっちからみれば誤解しただけということになろうけどにゃ。)
とにかくここに来た以上、言語をもっぱら言語刺激とみなし、
般化/弁別により「正しい」言語行動を行なうという見解から
出発してみるくらいの心づもりがないとダメにゃ。
以上にゃ。
以上じゃないかもしれないにゃ。
>>61 >>「誤(正)反応をする(しない)」というのと、「誤(正)と判断する」と
>>いう問題とが一緒くたになっておるんじゃよ。
>これがもう、行動主義のどうしようもなくアフォアフォなところなんだよ。
>とくに言語に関してこういう区別をすることがいかに無意味なことか、
>よく考えて欲しい。
何の話をしてるつもりだ?
行動主義だからどうこういう問題ではないだろうに。
ただの論理じゃないか。
「よく考えて欲しい」のはあなただよ。(苦笑
せっかくいい応酬が続いているんだからさ、しばらく控えてくれない?
(お互いに話が通じずイライラしているとも思うが、相互理解は少しずつ進んでいると思いたい)。
一言だけエールを送っておくと、
>自然現象の中には回路網に知識として固定されているものもある
という可能性は、オレもあると思う(「知識」という言葉は嫌いだが)。
旧スレでのあなたの説明は珍しく説得力があったよ(少なくともオレには)。
ただし言い方に気を付けないとトンデモ扱いされる可能性が高いことは分かるだろう?
あなたの場合は特にアブナイってことも。
>>58 >>般化の制約に生得的な要素があるかどうか
>これこれが非文だとわかるのはその文をOKとするような般化が誰にも起き得ないから
>であり、
必ずしもそれだけだとばかりは言えないが、
>なぜ起きないかというとそれは生得的制約なのである、という意味にゃ?
これも、必ずしもそれだけだとは言えないが、
まあ要するに「そういう側面はあるに決まっている」ということだろうな。
少なくともオレの場合はそういう意味。
>言語に関しては起き得る般化と起き得ない般化があり、それは他の認知能力一般とは
>独立して全人類が遺伝的に共有している言語固有の認知制約に由来する、ということ
>まで認める用意があるにゃら、UG仮説からそう遠くはないとも思うのにゃ。
さすがは先生にゃ。誰かさんと違ってよくわかってらっしゃる。
オレは認める用意はあるよ(今すぐに認めるつもりは毛頭ないが)。
意外なことに爺様にもありそうじゃないか。
ただしハードルを越えるには合理主義ではなく経験主義で行きたいものだ。
ということは時間が掛かるということだな。
最低でも50年は待ってやってほしい(顔文字先生は急がせすぎなんだよ)。
心理屋は他にもいろいろとやることがたくさんあるわけだ。
ま、オレは卒業と同時に足を洗ったので責任はないけどね。
在学中に言語心理学や生成理論を勉強していたらどうなっていたか、という気もしているが。
そう思わせてくれた顔文字先生や虚無好き先生には感謝してるにゃ。
もっと早く教えて欲しかったよ。
そういうわけなので、
>>66の虚無好き先生、今後とも御尽力よろしく。
>言語をもっぱら言語刺激とみなし、
とりあえず、まちがいにゃ。
ちょっと、ブルームフィールド学派の図式をみてみるにゃ。
>>68 失敗者は語る、くらいのことはやるにゃ。
なぜチョム理論が「否定的知識」にこだわるかというと、
生成文法が従来の言語(文法)学の常識を破り、単語の隣接的な関係は文法的なのに、
なぜ非文法的な文が発生してしまうのか、
あるいは隣接関係は同一なのに、なぜ論理的意味の違う文が発生してしまうのかを
説明する言語学として登場したからにゃ。
で、その内実を説明しようとすると、わたし自身がうんざりするといった例文判定が
出てきてしまうのでやめるにゃ。
とりあえずチョム理論の提出する非文は、
「わたしは、だ、人間、愚かに。」みたいな陳腐なものでないことだけを指摘しておくにゃ。
もちろん、上のような非文法性も説明するんだけどにゃ。
「否定的知識」がロジックの問題にすぎないかどうかは、排中律をとらない二値論理に従うかどうかによるにゃ。
難しいにゃ。前スレでやりかけた問題だけどにゃ。
この問題は、また機会があったら論じるにゃ。
>排中律をとらない二値論理
排中律をとる二値論理、にゃ。今日は疲れてるにゃ…
>>69 そういえば以前の「心ってどこにあるの?」スレの第2部(の終わりの方)と第3部(のはじめの方)で、
言語(刺激)と言語行動とを区別せよという玄人筋(たぶん行動分析屋の)からの指摘があった。
それによると、同スレ第1部での「伍長説」は言語(刺激)のことはほとんど問題にしていないとあり、
言語(刺激)は聞き手の側、言語行動は話し手の側の問題であって、
「伍長説」は後者についてのものなのに、みんなは「言語」というとすぐに前者のことを思い浮かべてしまうから混乱が生じるのだという。
何となく妙に納得させられた気分になってしまって印象に残っているのだが、
ここでも似たような混乱が(お互いに)あるような気もしないではない。
同一人物が話し手と聞き手の役割を目まぐるしく変えているのに、こっちはそれについていけないわけだ。
ちなみに、オレはこの板の昔からの大御所たち(どこへ行った?)のおかげで行動分析にはけっこう好感を持っている。
ただし、一般的には行動分析屋には単純な馬鹿が多いと思う。
ついでに、認知屋には飛び抜けて優秀なのがいるかわりに阿呆が実に多いと思う。
オレはどちらかというと間抜けな傍観者だったのではないかと思う。
もう一つついでに、臨床屋には馬鹿・阿呆・間抜けが多いようだ。
>>72 君はこのスレを仕切っているつもりなのかも知れないが、この板の趨勢が
異常なんだって。まじめに言語とか脳の機能を研究している人間は行動主義
なんかもはや相手にしていないんだよ。君の方こそ目を醒ませ。
しかし、私ももう書き込まないよ。読んでは行くがね。
>>63 そうではなく、般化自体は「UGのようなもの」の反映じゃろうと言うておる。
ただし「UGのようなもの」が言語、それも統語に特化しているというようなことを言われると、
今のワシにはようついていけんのじゃ。
前スレ以来のあんたの話はかなり理解できたつもりなので、決してトンデモだとは思わんが。
難しいのう。
>>66 あんたとは一度居酒屋で呑んでみたいもんじゃ。
>>68 >意外なことに爺様にもありそうじゃないか。
いいや、そういうわけなので、「他の認知能力一般とは独立して」というのが引っかかるのじゃ。
>>74 ?
それにしても皆の衆は一体どういう生活をしておるのじゃ。
顔文字氏は朝の10時過ぎに寝るというし、
ミルク氏はワシが起きた頃にまだ寝ずに起きておるし。
早死にしても知らぬぞ。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/30 06:28
>>62 >進化論の立場からすれば、言語能力も動物の一般認知能力から
>発展してきたものになる。そこまで本質的に異なるものとは思えない。
>>75 >「他の認知能力一般とは独立して」というのが引っかかるのじゃ。
やっぱり言語能力の起源を探るには、動物にも共通の般化能力の解明から
初めていくべきなんじゃないかな。
>な〜にが「問い」にゃ、小学生でもそんなアフォなことは言わないにゃ。キミこそ
>詭弁まみれなのに気がつかないのかにゃ?
(苦笑)小学生でも言わないアフォな問い/詭弁を「論理的問題」とか言いだすのはそっちだろうが。
自分で認めてたら世話ないな。
>「昆虫とはこれこれこんなものだから、これは昆虫では
> ないと思う」というような類の明示的知識とは本質的に
> 異なる暗黙の知識がここに関わっているのにゃ。
なんだ明示的な知識と暗黙の知識って。どこの専門用語だそれは。
本質的に異なるというからにはその二つの定義がちゃんとわかっているん
だろうな。示せ。
どうして初めて見た昆虫を「見たことの無い昆虫だ」と判断できるんだよ。
あらかじめ「昆虫とはこれこれこんなものだから」の「これこれこんな」
のところにその情報(明示的な知識?)が入っていないといけないんだろ?
これが論理的な問題じゃなくてなんなんだい?
>犬と犬でないものを区別する能力が文法文と非文法文を区別する
>能力と同じだと思って今まで言語学やってきたのかにゃ? 哀れだにゃ……
それじゃあ何の答えにもなってないじゃないか。
答えられないからってそういい言い方は、みっともないよ。
心理学徒にもわかるように明示的に違いを示してくれよ、両者のプロセスのさ。
詭弁と言えば、否定証拠不在の問題(パラドックス?)は「アキレスと亀」の
問題に似てるかもしれないな。
言語に限らず、学習一般に関して
>どうして初めて見た昆虫を「見たことの無い昆虫だ」と判断できるんだよ。
>あらかじめ「昆虫とはこれこれこんなものだから」の「これこれこんな」
>のところにその情報(明示的な知識?)が入っていないといけないんだろ?
のような問題(詭弁)を提起できる。ところがアキレスが亀に実際に追いつくのと
同様に、人間--というより知能を持った動物一般--は、明示的否定証拠が乏しいと
考えれる環境から色々なことを学習してみせる。つまりこの問題の正しい提示の
仕方はこうだ。
「あたかも学習が不可能と思える環境でも、学習は行われる。でも、どうやって?」
それを、言語習得に関して「だけ」否定的証拠が欠けているという間違った前提に立ち、
「生まれた時から知っている」という馬鹿げた結論にたどりつくのがチョムスキー流の
言語生得論だ。
>>62 ちょっとだけ補足しておくとにゃ、結果として人間言語と他の動物言語の間には
埋めがたい開きがあるように見えても、それをもたらしたきっかけはほんのささいな
出来事で、それによって意味と音声を繋ぐsyntaxが発生したと考えるのが生成的な
シナリオだと思うにゃ。俺が個人的にできるだけ多くのことをsyntaxの原理で説明
したいと思うのも、理論の簡潔性・一般性は当然ながら、このような突発的な進化の
シナリオとの符合を求めているからなのにゃ。だから
>>76 >言語能力の起源を探るには、動物にも共通の般化能力の解明から初めていくべき
>なんじゃないかな
そこになにかが加わったので人間言語が可能になったのであって、般化能力自体の
発達(?)だけで説明できるとはこちらとしては思えにゃい、ということになるかにゃ。
それこそ系統発生と個体発生を混同してると言われそうにゃが、系統も個体も般化で
説明できるというにゃら、そのおおよそのシナリオを提示してもらうとよいのにゃ。
>>68 >オレは認める用意はあるよ(今すぐに認めるつもりは毛頭ないが)。
>意外なことに爺様にもありそうじゃないか。
それは朗報だにゃ。ではきくがにゃ
1) 言語固有の生得的制約により言語についてのこれこれの般化は起こらず、よって
これこれの文は非文である。
2) 言語固有の生得的制約によりこれこれの文は非文である。
もし(1)を認めるなら、それでも(2)は認められないという理由があればあらかじめ教えて
おいてくれるかにゃ。
>>77(ヒステリーBOB)
なんということもないにゃ。犬とはどんなものかと人に訊ねられて一通り答えられる
ような概念を俺らは形成してるにゃ。そのような意識される知識を明示的知識と俺が勝手に
呼んだまでにゃ。これに対し文法知識はその存在を個人が意識することのない知識だにゃ。
ある人がこれこれが犬でないと思う理由ははっきり述べることができるにゃが、これこれが
日本語として変だと思う理由は必ずしもそうではないにゃ。「理由もなにも、そんなことは
言わないんだからしょーがない」としか答えようがないにゃ。母語話者の直観とはそういう
もんにゃ。それがtacit knowledgeにゃ。
>言語習得に関して「だけ」否定的証拠が欠けているという間違った前提に立ち
だからいかに間違っているのかを示すのがそっちの反証責任というやつだにゃ。
分かったかにゃ?分かったらネチネチ因縁つけるしか能がない奴が言語板から迷い込んで
きたと笑われないように、もう少し建設的な議論を心がけてはどうかにゃ。
>>79 1)は般化だけで説明しようとしている(せめて4点セット。できれば知覚や運動の発達、その他も)。
2)は般化にすら言及せず、全く説明不足。
何を言いたいわけ?(ま、だいたい分かるけどね)
それにオレはまだ「言語固有の」というのを認める気はないし。
ただし10年後や50年後は分からないということ。(笑
代案は今後50年間にいろいろ出てくるだろう。
せかすなって。
すでに出てるのもあるはずだし。
そんなことより、エラムスだかエムラスだかエラスムスだかはどうなってるのよ?
経験主義のコンピュータシミュレーションだったよな。
顔文字先生は読んだんだろう?
軽く読めそうならオレも注文してみる。
>>81 >2)は般化にすら言及せず、全く説明不足
ここが理解不能なのにゃ。般化に言及しないものは説明ではない、とどうして最初から
決めつけられるのかにゃ? もっとも頑固なチョム派でもたとえば空範疇原理に
言及しなければ説明ではない、などという馬鹿げたことは言わないにゃ。それこそ
般化万能説の正しさが前提になってしまってるとしか思えないにゃ。般化は説明
ではなく、説明されるべき現象に過ぎないという素人なりの印象にゃ。
エムラスはにゃ、ざっと読んだだけにゃが思ったより生成よりの見方をしている
という印象をうけたにゃ。まず上でだれかも言ってたように、生得説を頭ごなしに
拒否してはいない点、それから統語知識の獲得が意味とは独立して起こることを
認めている点、さらに個人的に気に入ったのは言語の進化についても、コミュニーケ
ションや社会性を本質とはほど遠いと斥け、人間固有の認知特性を探ることを唱導
している点にゃ。コネクショニズムもダメだそうだしにゃ(w
しかしこちらが重要だと思っている潜在的否定的知識の由来については何の
議論もシミュレーションの実例も出されていないので、評価不能と言わざるを
得ないにゃ。例えばエムラスが 「花子が論文を読まされた」を許し「論文が花子に
読まされた」を却下するようになるプロセスが何も示されてないにゃ、そもそも
それが可能なのか、もにゃ。結局、程度の差こそあれ、すべての経験論はどこかで
生得的知識・認知機構をUGという名前を伏せてこっそり仮定しているようにどうしても
思えるのにゃ。「MLASは言語発生のシミュレータとしても動作する可能性があり、
その根本は...どんな認知機能が仕組まれるかにかかっている」そうにゃ。
その認知機構を扱うのが生成ではなかったかにゃ。
虚無好きセンセ、俺も最近トロと遊ぶことがあるにゃ。ネコのトロは人間になるために
言葉を覚えたいのでいっぱい教えて欲しいのニャ〜、とせがむにゃ。始めから
「人間のことば」でにゃ。俺の言いたいこと分かるかにゃ?
先生勘違い。
「般化に“すら”」と言っているでしょ?
別に般化じゃなくたっていい(般化万能主義なんて誰も提唱してない)。
オレが言いたいのは、
>2) 言語固有の生得的制約によりこれこれの文は非文である。
だけじゃ何の説明にもならないでしょということ。それだけ。
だから先生の
>もし(1)を認めるなら、それでも(2)は認められないという理由があれば・・・
という設問には答えようがない。
トロって何よ?
もっとも、「般化への言及は当然」ということだけは言えるとおもう。
「般化だけじゃない」とはそういう意味。
エラスムスだって当然「般化」には言及していると思うけどね。
言及してなかったらオレは消える。
あは、賭けだなこれは。
>犬とはどんなものかと人に訊ねられて一通り答えられる
>ような概念を俺らは形成してるにゃ。
おめでたいね。あんたのその「一通りの」答えを人工知能に
実装したら、犬と非犬の判定をちゃんとしてくれるかな?
角の生えた犬を見せても「おかしい」とは思わないだろうね
(「犬には○○はついていない」という無数の否定的知識を
教えれば別だが。「フレーム問題」って知ってる?)。
面長の猫を見せてもちゃんと非犬だって判断できる?
人工知能に犬と非犬の判定ができないというんじゃあない、
「一通り答える」方式ではなく無数の例を教えこむやり方でないと
難しいということ。
言語に関しては、that-trace フィルターとかその程度のものは
チョムスキー理論以外の生成的フレームワークを使えば実装できるよ。
(MPを使ってもできるだろうけど、遅いので誰もやらない)
実装できるということは、明示的知識に落とせるということだ。
>角の生えた犬を見せても「おかしい」とは思わないだろうね
人間でも同じだにゃ。「犬には角がない」ということを般化でも推論でも、
経験に基づいて知る機会がまったくなかったら、俺もそれは犬ではないと
答えられないだろうにゃ。そこが非文の判定と決定的に異なると、まだ
気づかないのかにゃ
で、that-t自体が生得的ないし暗黙の知識だと一体どこの誰が言ってるのにゃ?
>般化に言及しないものは説明ではない、とどうして最初から
>決めつけられるのかにゃ?
寒いにゃ。今日は弱気なので、弱気に書くにゃ。
般化する/しない、弁別する/しないは、観察された学習のほとんどすべてにゃ。
ここでは、知識を獲得したとか、増えたとかは言わないのにゃ。たぶんにゃ。
で、なんでチョム派が学習を拒否するかは、なんかわかるにゃ。(解釈できるという意味でわかる、にゃ。)
前に書き込みをやめといた文章をみてにゃ。
わたしも、自称バイオ派の肉まん顔の先生の主張が、どこまで平均的?チョム理論を代弁しているのか
不明なところもあるのにゃ。
↓例によって論旨が混乱してるけどにゃ。
あのにゃ。
理解しているのに「般化」じゃないとかいうから、話がややこしくなるのにゃ。
徹底的行動主義者に対して、チョム理論の提出した例文判定が、
たとえ予想通りの結果を得られたとしてもにゃ、
チョム理論の想定するような言語能力の証明とは無縁なのにゃ。
生得要因があるとしても、それを般化のうえの問題として語らないかぎり、
両者の対話すら成立しないのにゃ。ちがうかにゃ?
(わたしは、言語をもっぱら言語刺激とみなすことには反対だけどにゃ。)
UGは生得的知識であり、能力 faculty でもあるんだけどにゃ。
いっぽう心的/脳的器官であり、視覚システムや翼などと比定できるような(生体)構造でもあるのにゃ。
DNAにタンパク質の構造に関する情報が直接「書き込まれている」可能性は少ないけどにゃ、
するとなおさら、個別文法の(個体的)発達は手足や循環器系の発達に近いものとして想定されるのにゃ。
よくBOB先生が、機能主義的見解を述べると、
「鳥は飛ぶために翼を生やすことを学習したのかにゃ?」みたいに反論されてたけど、
それにはこういう。
文法を学習したと主張すると、ほんとにヒトがヒトの手を生やすことを学習するのと同じナンセンスになるのかにゃ?
またへたれな文章ハケーンにゃ。こいつものせとくにゃ。
日本の道路で、常にどの道でも右側を歩いているネコがいるとするにゃ。
あるひとが、このネコは交通法規を遵守しているという説を唱えるとするにゃ。
ま、もっとつっこんで、生得的に知っていた、でもいいにゃ。
それで実験しようということになり、そのネコをどっかの左側歩行の国に連れていったとするにゃ。
すると、ネコは、初めて見る道路で、なんと左側を歩いたのにゃ。
このとき、つまり般化は起きなかったのにゃ。
この結果は、あるいみネコが交通法規を知っているという説に、いちおう有利ともいえるにゃ。
(生得説にもにゃ。)
これが、初めての環境でもダメなものはダメ→「般化せず」の意味にゃ。
そして、「右側を歩かないという知識」が冗長だと言われた意味にゃ。
いっぽう、このネコはたんに人間の歩いている側を同じ方向で歩くというふうに条件付けられていた可能性もあり、
この実験だけでは決定的ではないのにゃ。
>俺の言いたいこと分かるかにゃ?
わからんにゃ。
ま、言語知識といえば国語の授業で習った事柄を連想するひとは多いにゃ。
じっさいには、表記体系とか、「知的」とされる語彙とか、ある種の論理推定能力のいちぶにゃ。
バラバラのパラグラフを順番に並べるとか、適切な接続詞を選べ、とかにゃ。
あんまり、言語学的ではないにゃ。
こんな書き方すると、国語の先生がおこるのかにゃ…
ガ━━(゚Д゚;)━━ン!
某爺先生、
66は、わ…わたしだけどにゃ。まちがいないのかにゃ?
わたしは至るところで反スキナリアン発言をしているにゃ。
まちがいなければ、おそれいりますにゃ。
>「犬には角がない」ということを般化でも推論でも、
> 経験に基づいて知る機会がまったくなかったら、俺もそれは犬ではないと
> 答えられないだろうにゃ。
「犬には角がない」ということを経験に基づいて知る(!)ってどういうこと
なんだよ? 「犬には牙がある」(犬の中には牙を持つものがいる)ということは
経験から学ぶことができるけど、犬を一万匹見せられても角が生えていたら
犬の定義から外れるという情報は得られないだろう。それが否定的証拠の欠如の
論理的問題でなくて何なんだ。
「角が生えた犬に似た動物」を指して、それは犬ではありませんよ、って親に
教わったのかい? 賭けてもいいがあんたは「角が生えた犬に似た動物」を今まで
みたことが無い。それにも関わらず、今目の前に「角が生えた犬に似た動物」が
あらわれたらそれは犬ではないと(自分で認めているように)「わかる」。
>そこが非文の判定と決定的に異なると、まだ気づかないのかにゃ
異なるのかもしれないが、どう異なるのかはtrivialな問題ではないよ。
どう決定的に異なるのか、示せ。フレーム問題についてもちゃんと知っておけ。
キミは人に質問するばっかりで自分が訊かれたことには何一つこたえようと
せんにゃ。で、人が親切に答えてくれたことに必ず屁理屈つけて返す、と。
いくら人のいい俺でもこれはあまり生産的・建設的なやりとりではないと
「学習」するにゃ。だから何度も言うにゃが、どうやって学習で言語獲得が
可能だとキミは思うのか、まず自分の考えを述べてみるのにゃ。
言語板でも書かれていたにゃが、そろそろキミの天の邪鬼ぶりも飽きられて
きているのに気付くにゃ。
うーんと、黙っているつもりだったんだけどゴメンね。感想として、心理学板に
言語学の専門家がわざわざ出張してきて説明しようとしてくれているというのに、
心理の人はここでの議論を読んでも自分から言語学について勉強しようとせず、
自分の持つ知識や体系のみでもって言語学側の言い分を理解しようとしているだけだ、
と感じるのです。それはテーマが言語だから仕方がないのかも知れないけれども、
やはり言語学に対して失礼じゃないかと思うわけです。
そこで、本気で理解する気があるのなら、2ちゃんねるなんかで議論するんじゃ
なく、なにか読本を見つけて輪読会をしてみてもいいんじゃないか、と思うのです。
で、読本としてこの本はいかがでしょ。私もまだ読んでいないんだけれど、
ウェブで調べた限りではここでの問題についてわりと公平な立場で書かれている
という気がしました。
認知発達と生得性 ―心はどこから来るのか―J.L.Elman他著(共立出版)7,500円
この本に関する言語学側の見解もお伺いしたい。もしも輪読会をやる気があると
いうことでしたら私も参加したい。
7500円は高すぎ(w
>キミは人に質問するばっかりで自分が訊かれたことには何一つこたえようと
>せんにゃ。
あきれたね!「そんなこともわからないとは哀れだにゃ」とか
「決定的に違うとなぜわからないのかにゃ」とか言いながら、
まともな答えは結局何一つ返せないじゃないか。まあ予想通りだけどね。
>犬とはどんなものかと人に訊ねられて一通り答えられる
>ような概念を俺らは形成してるにゃ。
こんなナイーブ(ていうかアフォ)な認知観/学習観しか持ってないんだから、
そちらに学ぶ姿勢がなければ生産的になりようがないよ。期待してないけどね。
>「学習理論では説明できない」というようなことを繰り返し力説しておられたではない?>か。
>一体どういう学習理論を想定しておられたのか。
>ちと無責任ではなかったか。
>「学習理論では全く説明にならない」と“断言”するからには、
>あなたなりに、「おそらく学習理論ではこれこれのように説明するのだろう」
>というような「理解」があって、そのうえでの批判のはずだ。
>しかし、その理解は不十分だし、上例のように多分かなり間違っている。
>だから、そのような理解を元にした批判も的はずれになる可能性が高い。
ここまで言われて厚顔無恥よね。
>どうやって学習で言語獲得が可能だとキミは思うのか、
>まず自分の考えを述べてみるのにゃ。
一般的な認知能力(特に形式と意味概念を結びつける抽象的記号操作能力)、
一般的な学習能力、情報のインプットが得られる環境、他者と意思の疎通を図ろうとする人間の本能、等。
これらの独立して存在が確認される要因で足りない、
猿から人間に進化する段階である種の計算システムが脳に加わったという
(脳科学的な観点からみての)珍説を呑むひつようがある、という証拠が
ない限り上に挙げた要因で言語学習を説明すべきだといってるの。
穏当でしょ?わかりる?
>>97 >一般的な認知能力(特に形式と意味概念を結びつける抽象的記号操作能力)、
なるほど。これを私は言語能力を構成すると考えていたのよ。
「一般的な認知能力」の定義の違いだったのね。
>猿から人間に進化する段階である種の計算システムが脳に加わったという
>(脳科学的な観点からみての)珍説を呑むひつようがある、
これが珍説かどうかは分からないでしょう、まだ。少なくとも、上の「一般的な認知能力」
が基盤にあるかも知れないし。
>>97 >一般的な認知能力(特に形式と意味概念を結びつける抽象的記号操作能力)
これのどこが「一般的」にゃ?
およそ言語が学習で説明できるなどと考える連中は、実はこのように既に言語能力の
存在を前提にしてしまっているのにゃ。これがトロの喩えの意味にゃ >虚無好きセンセ
後半は相変わらずの機能主義の誤謬の繰り返しと、系統発生と個体発生の混同にゃ。
学習能力ゼロのキミのために繰り返してやるがにゃ、言語能力の起源と進化を議論する
時にこそ、先行して存在していた能力を考慮する必要があるというのが「穏当」にゃ。
それと同じことが個人の言語獲得でも求められなければならないと考えるのは、ヘッケル
の反復説の最もタチの悪いゴリ押しの例にゃ。
>上に挙げた要因で言語学習を説明すべきだといってるの
「学習」であるという根拠を示せ、といってるのにゃ。それからにゃ、これこれで
説明したいとキミが思うのは勝手にゃが、実際に説明できてはいないにゃ。
まさか生得説に頼らず説明したいと勝手に思えば、それが生得説への反証になってると
でもいいたいのかにゃ? 「俺は○×理論が嫌い、だから○×理論は間違い」←これ
以上のことをキミはどこにも言ってないにゃ
>>95 Elman - Bates への評価については
http://crl.ucsd.edu/~elman/Papers/learning_rediscovered_responses.htm あたりで予備知識を仕入れておくといいにゃ。ひょっとして直リン不可にゃらスマソにゃ
100 :
B.O.B:02/02/01 16:21
>これのどこが「一般的」にゃ?
そりゃあ一般的という言葉の定義にも寄るよ。
だけど、猿にだってある程度の(見方によっては相当の)
記号操作能力はあるでしょう。
例えばカードの柄とバナナの無契的な関係
(ソシュール的な能記と所記とのassociation)
を学習することができる。(どうしてできるかは、知らんけどね)
数字を順番に押してピーナッツをゲットする猿の映像もNHKで見たよ。
人間に限られた能力ではない、という意味で一般的。
変な言いがかりはよしてもらおう!
>「学習」であるという根拠を示せ、といってるのにゃ。
何でもいいから、何かを「学習」したというときに、何を言ったら
その「根拠」になるのかなあ?お手本を示してみてくれませんか。
代数でも、ピアノでもなんでもいいからさ。
例えば上の猿の例だって、学習ではない、猿にはもともと
記号操作能力があるんだから、という言い方だってできるけどね。
どうだろう?
>一般的な認知能力(特に形式と意味概念を結びつける抽象的記号操作能力)、
>一般的な学習能力、情報のインプットが得られる環境、他者と意思の疎通を図ろうとする人間の本能、等。
>
>これらの独立して存在が確認される要因
で、説明できればUGなどという余計な存在物はいらないんだよ。
「学習」と呼ばれるプロセスが(なんであれ)存在することはgivenなんだ。
一方UGと呼ばれるものが存在することは経験的に確認された事実ではない。
「もとからあるものを利用する(余計な存在物をふやさない)」ってのは、
哲学的にも脳科学的(進化に伴う脳の形質的・機能的変化)にも、もちろん
言語学的にもより好ましいことだろう?心理学板の人の基本ラインもそこだ。
この前提を(自分に有利に)覆そうとするのは、詭弁だよ。
101 :
B.O.B:02/02/01 16:34
>で、説明できればUGなどという余計な存在物はいらないんだよ。
だからこそ、UGの正当化にはそれなりの根拠がいる。
それが例えば、「否定的刺激の欠如の議論」であり「脳の局所性」だろう。
そのどちらも実際には議論として使えなければ生得説の息の根は止まったも同然だ。
そしてそのどちらも風向きが極めて悪い、というのが現状。
顔文字氏みたいに無知(無垢?)なチョムスキー派言語学者はそのへんを
受け入れられず、口先で変な抵抗をするだけだ。無常。
>>99 Elman-Batesの言語の獲得に関するレターの応酬、読みました。Elmanは
どうもコネクショニストらしいので、顔文字先生には気に入らなかったかも
知れません。いずれにしても、言語は生物学的な制約を受けているという点では
両陣営ともに一致していると見ました。
この記事と、顔文字先生とBOB氏のやり取りを読んで、問題は一般的な認知
能力と言語能力を連続的(BOB氏)とみなすか、不連続(顔文字先生)と
みなすかの違いではないか、という気がしてきました。この理解でよろしい
ですか?
>>102 >この理解でよろしいですか?
旧スレでもたびたびそういう話になっていたではないか。
いろんな人が何度もそういう発言をしているぞ。
>>103 そう? 私は前スレ
>>588が念頭にあるんだけど、この手の発言は心理学側からは
なかったよね。
そして、私の立場では一般的な認知能力と言語能力が連続的か不連続かを判定する
ことはできないという結論になるんだけど。
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/02 03:13
>>104 前スレを「認知能力」で検索してごらん。
>>105 いや、ここでいう一般的な認知能力は、BOB氏の言う
>一般的な認知能力(特に形式と意味概念を結びつける抽象的記号操作能力)
が念頭にあるんだよ。一般的な認知能力に抽象的記号操作能力(≒言語能力)
まで含めてしまうと顔文字先生の言うように反UG論者はひそかに言語能力を
前提にしてしまっていることになる。
しかし、この抽象的記号操作能力にも私の考える自然現象の遺伝的固定から
言語能力そのものまで「系統発生学的に」さまざまなレベルがあると考えると
BOB氏になる。
一方、言語能力は「系統発生学的に」出現した、そのための独立の器官
(言語領野など)の機能と考えると顔文字先生になる、のではないか、と
いうこと。
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/02 04:24
>>106 なるほど。
しかし、
>抽象的記号操作能力(≒言語能力)
というのはどうかな。
たとえニアリーイコールでも少々性急すぎるのではないか。
刺激等価性を可能にする能力は「抽象的記号操作能力」と言えるのか?どう考える?
>反UG論者はひそかに言語能力を前提にしてしまっている
からといって、それだけでUG論者になる必要もないだろう。
問題なのはUGだったはずだ。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/02 04:44
>刺激等価性を可能にする能力は「抽象的記号操作能力」と言えるのか?
十分に言えるんじゃないのか?
≒言語能力とまで言っていいかどうかは現に議論の余地が大いにあるが
>>107 >>99の顔文字先生の発言はまさに
>反UG論者はひそかに言語能力を前提にしてしまっている
つまり、抽象的記号操作能力≒言語能力であると言ってるな。
ただ私の
>>106の発言は顔文字先生とBOB氏の主張を私なりに解釈したこと
であり、それでいいのかどうかを訊いているだけであって、私自身の立場は
ここでは保留しているよ(笑)
刺激等価性を可能にする能力は生得的と考えるの?
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/02 05:35
73 名前:動物屋投稿日:2000/08/19(土) 15:46
刺激等価性についてはっきり示されているのはアシカとラットだけ。
チンパンジーでは過去経験の影響があるのでなんとも言えないが、きち
んと統制された研究では等価性が示されていない。アシカの例は非常に
たくさんの刺激組を用いて長期間訓練した末に見られたもの。ラットの
実験はNatureに掲載されているがインチキくさい。
>>109 人間以外では困難。
その意味では生得的。
ただし訓練はある程度可能。
アシカの実験が有名。
障害児などでは刺激等価性の訓練をすることによって言語能力の改善がみられる。
>ラットの実験はNatureに掲載されているがインチキくさい。
そうなの?
>>85 >エラスムスだって当然「般化」には言及していると思うけどね。
>言及してなかったらオレは消える。
>あは、賭けだなこれは。
大丈夫じゃ。
エムラスは弁別と般化を単純化した原理で作動しておるようじゃ。
「差異・共通性抽出原理」という言葉を使っておる。
4点セットではなく2点セットじゃな。
内容はあまり詳しくはない一般向けなので、寝ながら読める本じゃ。
その点では多少期待はずれじゃが、なかなか面白いので注文してみい。
>これがトロの喩えの意味にゃ
深遠な比喩をありがとにゃ。
直示的定義についての、ウィトゲンシュタインの見解もみてにゃ。
認知心理の立場をとるかぎり、脳機能をなんらかの情報処理のアナロジーでみるわけであり、
センサ、演算デヴァイス、メモリ、プログラム、コーディングなどの諸機能についてみると、
ほとんどコンピュータ・アナロジーであるといっていいにゃ。
で、情報処理が「記号の操作」を思わせるからといって、また論点先取りの「UG至上主義」はやめてにゃ。
それでは、認知の立場をとることが、必然的に
すでにたんなる想定ではない(チョム理論でいちぶが記述されているとみられる)UGを認めることになるにゃ。
…と、こんなふうに超簡単に反論できるときは、自分を疑う必要があるにゃ。
やはり言語の起源を考えるかぎり、概念形成を問題にしなければならないのかにゃ。
ここにはいろいろなレベルの相対性や懐疑主義が潜在してるし、
すくなくとも翻訳可能性とか、(意味の)共時的な示差体系/通時的な同一性、自己と他者、などの
うんざりする議論を予想しなければならないにゃ。
経験主義的には、非常にむずかしいにゃ。
ちなみにわたしの初代トロの名前は、「あぽりあ」にゃ。
わたしは「センセ」にゃ。どうでもいいんだけどにゃ。
あと、ついついBOB先生へのレスのタイミングを逸するにゃ。
わたしの誤りは、「機能主義」のあたりにあるにゃ。
BOB先生の立てたスレで、formalist と identify してあるからにゃ。
とりあえず、スマソにゃ。
115 :
(´∀`):02/02/02 12:29
>>102 >問題は一般的な認知能力と言語能力を連続的(BOB氏)とみなすか、不連続
>(顔文字先生)とみなすかの違いではないか
俺の立場は当然ながら系統発生については連続、個体発生については不連続、と
いうことなのにゃ。で、両者の区別ができていなのがBOB、というわけにゃ。
昨日買ってきた本、竹下秀子「赤ちゃんの手とまなざし ことばを生み出す進化の
道すじ」(岩波科学ライブラリー)に、前に俺も引用したaction grammarのことが
出てくるにゃ。おそらく進化の過程においては物体を直接操作する能力がヒトに
おいては徐々に概念のような抽象的対象にも拡張可能になり言語(というよりsyntax)
が発生したと考えるのは、それほど不自然ではないにゃ。ところがにゃ、この本でも
触れられているがにゃ、個体発達においては「物の取り扱いにおける行為の構造の
発達に先行して、ことばの使用における埋め込み構造が発達していく」とし、これを
ヒトの個体発達における独自性としているにゃ。系統発生の段階では当然まだなかった
UGが個体発生には存在しているという事情をよく表していると思うにゃが。
昨日買ってきた本として「2ちゃんねる宣言」もあげとくにゃ(w
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/02 17:34
旧スレ>302(逃走派氏)がまとめた「(UGの)支持根拠」についての疑問(順不同)
(1)
>習得の速さ、容易さ:
>複雑なシステムなのに、4〜5歳で基本を習得してしまう(語彙は別)。
>なんら苦労せず習得してしまう。
>これは第二言語の習得の苦労に比べるととてつもない違い。
>臨界期の存在:
>一定時期を過ぎると自然な習得はできなくなる。
大人なら既に長期記憶として獲得した他の知識による干渉は多いが、幼児なら干渉は僅少。
しかも環境情報の差と作動記憶容量の差により、幼児は限られたサイズの情報だけを処理すればよいが、大人はそうはいかない。
つまり、「刺激の質的貧困」が「大人よりも」ということを考えれば、干渉の僅少さも手伝ってますます幼児には有利。
そうした中でUGのようなものが構成され固定されていくと考えた方が自然ではないか。
>>115は説明不足でよくわからない。
(2)
>習得の均質性:
>幼児の育つ環境、幼児自身の知能などに多様性があるにもかかわらず、
>得られる言語知識に大きな相違は見られない。
>明示的な指導がある場合もあるが、すべての幼児が同じ指導を受けるとは
>考えられない。むしろ指導を無視するのが子供の通例。
別の見方をすれば、衣食住などの生活空間において大きな差は無いとも言える。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/02 17:36
(3)
>言語刺激の量の少なさ:
>強化に足るほどすべての構文・語彙で刺激が充分に与えられるとは思えない。
>周辺的な構文に対しても(比較的)クリアな判断があるにも関わらず、
>そのような周辺的構文は幼児に対してほとんど使われていない。
>言語刺激の欠乏(一応、これが最強の根拠):
>成人の言語知識に含まれている制約を帰納的に習得するのに必要なデータが、
>幼児に与えられる言語データの中に含まれていない。
>論理的には様々な誤りを犯し、試行錯誤するはずなのに、そのような誤りを犯さない。
「刺激の貧困」および「否定的証拠の不在」の問題と思われる。
すでに前スレ以来、最も議論されている問題だが、それは、
言語屋にとっては、これが一番重要な根拠だから。
心理屋にとっては、重要ではない根拠(=根拠薄弱または根拠無し)にしか思えないから。
こんなことにこだわらなくてもUG論議は可能と思われるがどうか。
(4)
>言語刺激の質の悪さ:
>幼児にデータとして与えられる言語刺激には少なからずノイズが混じっている。
>常に正確、文法的な文を幼児にインプットしているわけではない。
>いいよどみ、不完全な文、非文などのデータも文法文と同じ資格で幼児に与えら
>れていく。なのに完成した言語知識ではそれらと文法文の識別ができる。
「完成した言語知識」を獲得するまでの間に識別が行われたと考えた方が自然ではなかろうか。
(1)により、大人以上に容易い可能性もある。
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/02 17:37
(5)
>クリオール:
>規則が乏しいピジン語の環境で育っても、自然発生的に豊かな規則を備えたクリオール
>を習得するに至る。
この点については旧スレで指摘されている。
(6)
>各種障害の例:
>一般的認知能力の点で障害を抱え、遅れが目立つにもかかわらず、
>異様に言語の運用に優れている障害例がある。ウイリアムズ症候群や言語サヴァンなど。
補償作用とも思える。
「一般的認知能力の点で障害を抱え、遅れが目立つにもかかわらず」、暗算や絵画などに異様に優れている障害例も多い。
言語板由来の人たちはミルク(もと164)を基本的に相手に
してないところが偉いね。心理板住民だとつい相手してしまって
無駄な時間を使ってしまう(笑)。
>>120 そういう憎まれ口はミルクと同レベル。
他でやってくれ。
122 :
(´∀`):02/02/02 22:53
>>117 (1) less is more、だにゃ。与えられる、あるいは処理可能なデータが少ないから
こそそのデータをより有効に利用できるわけにゃ。これ自体には何の異存もないにゃ。
だがにゃ、そのデータの中から自分の母語文法決定のためにどれがcrucialなものか
をどうやって、すべての幼児が正しく選択してるのにゃ。母語獲得のためにこれこれ
のデータが必要であり、それに関するデータがあれば見逃さず取り込み、また
そこから間違うことなく正しい仮説(=母語文法)を導くことができる、このことを
すべての人間の赤ちゃんに可能にしているような生得的認知能力がある、逆に言えば
間違った仮説をあらかじめ排除してくれているような認知的制約があると考える
ことのどこに不自然さがあるかにゃ?
(2)
同一言語社会の内外を問わず、大きな差はあると思うにゃ。むしろ言語刺激でも
衣食住でも必要最低限の条件があり、それさえ満たされていればそれ以外の要因の
変化は捨象可能、ということが重要ではないかにゃ。
(3)
>心理屋にとっては、重要ではない根拠(=根拠薄弱または根拠無し)にしか思えない
それは俺らが問題にしている言語知識がどういうものかを知らないからそう感じる
だけにゃ。最初から般化で間に合うような表面的な行動しか見えてないのにゃ。だから
何度も言うように、実際に般化たらで下接条件を説明してみるにゃ。下接条件って
なに、ってかにゃ? だから「言語知識がどういうものかを知らない」というのにゃ。
(下接条件自体が言語知識の正しいモデル化だとは言ってないにゃ。それが捉えようと
している知識の実体を問題にしているにゃ)
(6)は生得性というより、言語知識の自律性の証拠かにゃ。自律性と生得性はもちろん
独立した主張にゃ。
>>115 >おそらく進化の過程においては物体を直接操作する能力がヒトに
>おいては徐々に概念のような抽象的対象にも拡張可能になり言語(というよりsyntax)
>が発生したと考えるのは、それほど不自然ではないにゃ。
ここまでは、私も前スレの時に同じことを考えていたのですが、
>個体発達においては「物の取り扱いにおける行為の構造の
>発達に先行して、ことばの使用における埋め込み構造が発達していく」とし、これを
>ヒトの個体発達における独自性としているにゃ。系統発生の段階では当然まだなかった
>UGが個体発生には存在しているという事情をよく表していると思うにゃが。
ちょっとよく分からない。これはその本を読んでみないといけないですね。
>>120,121
どうでもいいんだけど、心理の先生は顔文字先生の言い分をよく理解していないと
感じるね。私はそれを取り持とうとしているんだけど。それでElmanの本を
輪読で使わないかと提案したけど、心理学側からなんの応答もない。がっかり
したのはこちらさね。
むにゃむにゃ〜。
いよいよ経験主義との矛盾が明らかになってきた感じがするにゃ。
たとえば類推により受動化できてもおかしくないのに、
実際には受動化できない一群の動詞が存在するという事実について、
つまり般化が期待できる環境において、般化がおきないばあい、
(そもそもそれは、実験心理においてはしばしば起こる状況なんだけどにゃ、)
(要するに、大騒ぎするような論拠とはなりえないのにゃ。)
自然科学の要請に従う限り、
見逃していたパラメタがあるのではないか、
あるいは既存のパラメタの処理に単純化がなかったかどうか、見直してみるのが自然科学の常識なのにゃ。
これは、気象学でもなんでも同じにゃ。
たとえ天気予報が、サンダルを放り投げて占う方法より的中率が低くても、
疑似科学とはよばれないのは、予想外の気象現象を、
そもそもそうなるように定められていた、などとは説明しないからにゃ。
降雨予報について、見逃していたパラメタがあるのではないか、という視点からすれば、
火星の引力が関与しているのでは?という予測は、たとえトンデモであっても、
すくなくとも自然科学の範囲にあるにゃ。
しかし、雨予報がはずれたあとで、
とくべつ雨を降らせないよう、未知のネガティヴな力が働いていたと説明すれば、話は別にゃ。
てなわけで、幼児があらかじめ知っていた、と結論するには早すぎると思うにゃ。
文法創造説が言いすぎなら、文法運命論にゃ。
にゃ?これでは、その通りとか言われる気がするけど、ま、いいにゃ。
気象のたとえが、ムリありすぎと感じるようであれば、
チョム理論はやはり自然科学ではないのにゃ。
じつをいうと、SLIの症例は、シンタクス獲得に(特化的に)生得的資質がかかわることに
無視できない証拠となっているような気がするにゃ。
しかしそれは「知識そのもの」が遺伝することを意味しないし、
とにかくチョム理論の、ものすごい文法現象の一般化を正当化するものではないにゃ。
ひょっとしたらありうるかも、という程度にゃ。
わたしも、UG相当とは言いすぎでも、生得的なLAD相当のものがあるのでは?とは感じてるにゃ。
百分率でいえば、むにゃあ、やっぱり20程度かにゃ。←根拠なし。
しかしいまのチョム理論の方法論では、その実体に迫れるかどうかハゲシク疑問にゃ。
虚無好き先生に同意する。
>>124を含めて、先生の最近の書き込みは極めて穏当なものだ。
言いたいことをうまく代弁してくれていると感じる。
>(要するに、大騒ぎするような論拠とはなりえないのにゃ。)
まさにそのとおりで、大騒ぎされると???となって理解できないわけだが、
虚無好き先生御自身はどう思ってるのかな?
こういうコメントもみてにゃ。
>周りの大人が誰も言わないのに子供が自発的にいうことがある、
>ということを問題にしてるのにゃ。
これでは、幼児の発話について十分なデータがでそろって、
幼児が新しい文法の獲得をしたとみられる瞬間を同定できたとしても、
結局その解釈について、類推なのか、もともと知っていたのか、
水掛け論が展開されることが予想されるにゃ。
いわゆる問答無用というやつかにゃ?
データも無意味にゃ。
禿ウツにゃ…。
>>124 私もなにも「知識そのもの」が遺伝するとは言っていない。知識を表象する
実体としての神経ネットワークが遺伝するかも、といっているわけ。
>わたしも、UG相当とは言いすぎでも、生得的なLAD相当のものがあるのでは?とは感じてるにゃ。
じゃLADの実体をどの程度のものと考えるか・・・
>>125 ちょっといろいろ体力を消耗したので、
今日は、これまでにゃ。
わたしの見解は、データ不足な以上、不可知論をベースにしたものなので、
読んでも面白くないにゃ。
チョム理論を想定した、独特のデータが必要にゃ。
ただし、不可知論でも、自然科学の正当なプロセスについては批判可能であり、
代案なき反対も、有効だとおもってるにゃ。
129 :
(´∀`):02/02/03 03:25
>>123 つまらん雑音なんぞ耳を貸さずどんどん意見を聞かせて欲しいのにゃ。
>これはその本を読んでみないと
その本自体は大したこと書いてないのにゃ。action grammarについては松沢哲郎センセ
の「チンパンジーの心」(岩波現代文庫)とか見たほうが確かにゃ。で、アイ・プロ
ジェクトはチンパンジーとヒトの知性や言語の間の連続性を証明するものだとは
思うにゃが、(系統発生において)連続しているということと(個体発生において)
同一ということはまったく違うにゃ、当然だけどにゃ。人間の知性や言語が他の動物に
見られない特異性・固有性を持っているということをいささかも疑わせるものではない
と思うにゃ。
130 :
(´∀`):02/02/03 03:26
>>124 >般化が期待できる環境において、般化がおきないばあい、
>自然科学の要請に従う限り、
>見逃していたパラメタがあるのではないか
その般化を阻止するような認知的制約をUGの原理だと言ってるわけにゃが?
確かに大騒ぎするほどのものではないのにゃ、UGは至極当然のことしか言ってないの
だからにゃ。つまりにゃ、人間言語にこれこれという一般特性が備わっているとする
にゃ。そのような特性は何に由来しているかというと、それは進化の過程でそのような
特性を生じせしめるしかなかった人間の生物学的な認知能力の特性なり制約にゃ。
この点はエムラスのセンセも同意のはずにゃ。別にコミュニケーションの効率を上げる
ためにゃら、構造依存的でない、例えばひたすら語順だけに依存する言語を「発明」
してもよかったにゃが、そうはならなかった、そういうことはヒトの脳に起こり得
なかったのにゃ。さてヒトの幼児全員は、そのような言語の特性をデータに照らし
合わせてめいめい発見したり学習したりするのかにゃ? そんな必要はないにゃ。
人間言語にその特性を与えざるをえなかったと同じ種固有の認知制約を幼児全員が
遺伝的に受け継いでいるにゃら、最初から同じ特性を持つ言語しか幼児の脳内には
発生し得ないのにゃ。
天気予報の喩えは的はずれに過ぎるにゃ。言語獲得は外部世界の自然現象の予測では
ないにゃ。そして「予想外の気象現象を、そもそもそうなるように定められていた」
と言いっぱなしにしているのではなく、その「定め」によれば人間言語はこれこれで
しかあり得ない、と反証可能性をもって記述・予測しているのが生成文法にゃ。
子供がこれこれ言わないのは周りの大人が言わないから、などとといっておきながら、
周りの大人の言わないことを子供が言えば、それは単なる言い間違いだと片づけ、
その「言い間違い」がむしろ理論の予測する通りに起きていることに気づかぬふりを
する、これのどこが科学的なのにゃ? サンダルを放り投げてるのは誰なのだろうかにゃ?
100歩譲って生得性の議論を棚上げにしても、個別言語の表面的な多様性の背後に
かくも単純な普遍性形式特性があるということを「自然科学の正当なプロセス」
によって明らかにしたのはチョム理論にゃから、「いまのチョム理論の方法論では、
その実体に迫れるかどうかハゲシク疑問にゃ」の部分は再考を要するにゃ。
経験主義に囚われていては気付くことすらおぼつかない現象の存在を指摘されて
いながら、それをどうやって説明するかを明らかにせずして「代案なき反対」も糞も
なかろうと思うにゃが?
分ぁかったぁぁーーー。
>>115 >俺の立場は当然ながら系統発生については連続、個体発生については不連続、と
>いうことなのにゃ。で、両者の区別ができていなのがBOB、というわけにゃ。
>>129 >(系統発生において)連続しているということと(個体発生において)
>同一ということはまったく違うにゃ、
系統発生学的に連続で、ヒトにおいてついに言語の理解や表出が可能になるまで
複雑化し、かつ自然現象やコミュニケーションにおいて起こり得ないことを制約として
内蔵した抽象的記号操作能力≒言語能力を有する神経系まで到達したのであり、ヒトの個体発生に
おいてはその能力は発話を始める年齢において「最初から」神経ネットワークの機能として発現している、
ということなんだ。このことを最近のカキコにおいて顔文字先生は繰り返し説明されていたのですね。
で、もちろん、この神経系で学習も般化も起こるけれども、その起こり方は上記の制約を受けているんだ。
で、刺激等価性は抽象的記号操作能力の一側面を見ており、やはり系統発生学的に
連続(ラット→サル→ヒトへとのその系統発生学的な発達に勾配があるんだ)なんだ。
と、以上、これは私の考えではなく一連の議論の私による解釈である。
また怒られちゃったにゃ。
(´・ω・`)ショボーン
でもじっさい、なんで経験主義が否定されるにいたったのか、よくわからんにゃ。
自然科学史をみると、いや、自然科学に限ったことではないけどにゃ。
人類がいかに(ものすごく)説明上手か、いかに抽象能力に際限がないかということがわかるにゃ。
ある現象の説明において、
矛盾・循環的矛盾(パラドクス)、相互参照あるいは循環論、無限後退に陥る議論は退けられるけどにゃ、
(つまりこれらを根拠にした反証は可能だけどにゃ)
逆にいえば、それらがなければ合理的説明はいくらでも可能なのにゃ。
このさい、plausibility だけの主張は問題にならないのにゃ。
宇宙人の実在を素朴に主張する人間も、「1千億×1千億もの恒星があるのだから、
宇宙人が存在しないという仮定が変だ」、という「論理的」主張だけでなく、
宇宙人の姿やその乗り物らしきものをビデオかなんかで撮影して、つまり観測して、
なんらかのかたちで経験主義的検証を試みてるにゃ。
いっぽう、素粒子論で、いかに数理的で合理的であるにもかかわらず、
SST(チョーひも理論)の立場が弱いのは、実験的検証がきわめて困難だからにゃ。
言語知識の物理的実在を主張したのは、チョムスキー本人だし、
人間の精神/脳の研究において、自然科学と異なるアプローチが必要だという見解に反対したのも、
わたしの理解によれば、やはりチョムスキー御大にゃ。
すると、チョム理論が方法論として経験主義を放棄しているとなれば、それは重大な事態にゃ。
いままでの議論からみて、ライプニッツの演繹的な人口普遍言語のようなものを構築しているようには見えないにゃ。
わたしも、チョムスキーが以上の問題をどう考えているのか、再考してみるけどにゃ。
で、経験主義の限界については、先生もメロンパンを食いながらでもいいから、再考をおすすめするにゃ。
とりあえず、天文学者とチョム理論が同一の方法論を前提としていることは、
チョムスキーじしんが述べているにゃ。
すくなくとも、存在論において、両者が提出すべきデータは同等のものと考えていいにゃ。
だとしたら、やはりチョム理論も経験主義をベースにしていると考えるのが自然だと思えるけどにゃ。
"Consider the problem of determining the nature of the thermonuclear reactions that take place
deep in the interior of the sun. Suppose that available technique permits astronomers to study
only the light emitted at the outermost layers of the sun. On the basis of the information thereby obtained,
they construct a theory of the hidden thermonuclear reactions....
Suppose that an astronomer presents such a theory, citing the evidence that supports it.
Suppose now that someone were to approach this astronomer with the following contention:
'True, you have presented a theory that explains the available evidence,
but how do you know that the constructions of your theory have physical reality?
in short, how do you know that your theory is true?'
The astronomer could respond only by repeating what he had already presented:
here is the evidence available and here is the theory that I offer to explain it....
One might object that the evidence is inconclusive or that the theory is objectionable on some physical
(or, conceivably, methodological) grounds.
But it is senseless to ask for some other kind of justification for attributing physical reality
to the constructions of the theory, apart from consideration of their adequacy in explaining the evidence
and their conformity to the body of natural science as currently understood." (pp. 189-190)
134 :
(´∀`):02/02/03 22:16
>>132 おっそろしく基本的な勘違いがあるのかにゃ(どきどき
経験主義は合理主義の対立項にゃ。132/133で解説してくれたのは経験科学の
方法論にゃ。経験科学と経験主義はまったくの別物、生成文法は言語獲得という
自然現象を説明する経験科学であり、だからこそ経験主義の仮説を破棄してるのにゃ。
太陽の内部で起きている核反応(幼児の脳内で起きている言語獲得)を直接触知
できないので、状況証拠からそのしくみについての合理的仮説を立て、それを検証
しているのにゃ。
>人類がいかに(ものすごく)説明上手か、いかに抽象能力に際限がないか
その通りにゃ。その優れた抽象能力がありながら、言語はある意味、実に単純な
計算しか許さない不自由なしくみになっているということが面白いのにゃ。
一般認知能力(なるものがあったとして)や概念形成能力と言語能力特に統語操作
能力の質的ギャップが言語の自律性や領域固有性を支持していると思うのにゃ。
135 :
(´∀`):02/02/03 22:28
たとえば太郎と花子と論文の間に成り立つ関係を認識する際、この三者のいずれを
figureとすることも可能なのに、言語表現として「論文」を受動文の主語とする
ことができない(*論文が太郎によって花子に書かされた)、ということが
言語能力と汎用認知能力(?)の乖離性を示している、ということをくどくどと言って
きたつもりなのにゃ
むにゃ。
先生が130で、自然科学と距離をとったようにみえたことと、
empiricism と experimentalism が両方「経験主義」と訳されることなんかに混乱が由来するにゃ。
ま、ほかにいいたいこともあるけど、
わたしも知識の実在論をぶちあげてるし、その点ではチョムスキーに近いわけだから、
もう忘れるにゃ。ってゆーか、触れないほうがこのスレのためにゃ。
エムラスは、やっぱり直接育ててみないと、よくわからんにゃ。
ミルク先生にもなんかレスしとかないと、なんだかんだといわれるにゃ。
この間、またしても激怒退場したのは、わたしが悪いにゃ。
で、
>コミュニケーションにおいて起こり得ないことを
は、(チョム理論によれば)コミュニケーション上、機能的に存在理由があるのに、
文法的には制約を受けてしまっている、が正しいにゃ。
じゃにゃ。
228 名前: 204 投稿日: 2002/02/02(土) 00:35
岡ノ谷さんの仕事は、ちゃんと評価されることと、評価の深さに驚きました。
チョムスキーのモデルを実証する系として評価できるという。
個人的には、意味ねぇだろゴラぁという感じでしたし、今もそうです。
皮質のない鳥ができても、ヒトの言語を理解できるかゴルァと。
230 名前: 認知屋兼モデル屋 投稿日: 2002/02/02(土) 01:01
チョムスキー・・・、普遍文法屋に言わせればヒトの言語は
ヒト固有だそうですが(w。
231 名前: (CPNSTd/.) 投稿日: 2002/02/02(土) 01:09
チョムスキー関連は2ch心理学板と言語学板で猛烈な議論やってまっせ(藁
興味があればどうぞ。かなりおもろいよー。
244 名前: (CPNSTd/.) 投稿日: 2002/02/03(日) 01:29
言語ってのは、正直難しい。
2ch心理学板・言語学板で激論しているのを見ると、なかなか立ち入りづらい
ものを感じてしまう。やはりヒトが言語を立てて思考しているということは
否定できないわけで、そうなると哲学になる。
このスレでは俺はパスかなぁ。
245 名前: 204 投稿日: 2002/02/03(日) 02:36
言語の話って、すごく広いのだよね。脳関係の領域に身を寄せて、びっくりした。
とりあえず、チョムスキーを押さえておけばいいかなと思っていたけど、
そうではないスタンスの方がむちゃくちゃ多い。
この深遠な世界には、足を踏み入れちゃいけないなというのが、私の感覚。
重要な問題だということは認めるけど、個人的には苦手というだけ。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/04 01:43
エムラスといえば、
「否定的証拠の不在」の問題を扱うには
どういうシミュレートをすればいいのかな?
須賀先生たちもたぶん考えてはいるんだろうけど。
↑「にゃっほー」の予感にゃ…
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/05 01:04
ピジンとクレオールについては既出なんでしょうか?
144 :
Kakari-joshi:02/02/06 02:53
哲学的アプローチはダメなの?
ウィトゲンとか、ジェンドリンとか。
急に静かになったにゃ……
こんな本は読んでみたかにゃ?
今井むつみ他 心の生得性 言語・概念獲得に生得的制約は必要か 日本認知科学会編 共立出版 3600yen
S. H. フォスター-コーエン(今井邦彦訳)子供は言語をどう獲得するのか 岩波書店 3800yen
>>146 どうも。
今井むつみ他「心の生得性」は論文集なのでけっこう大変そうですが、
○脳の皮質において表象はどのように現れるか
○知識の生得性を再考する
の稿に興味があります。著者の立場はどうなっていますか?
教えてもらうんじゃなくて,自分で読めよ。
>>148 はいはい(笑) いや、ちょっと方向だけ知りたいと思ってね。
共立出版の「心の生得性」に関する説明によると、
内 容
> 生得的に存在する表象を後の言語・概念学習の制約とする立場の論文と,
>それを否定しインプットの学習によってすべての表象が作られるとする立場の
>論文を含んでいる。
となっているが、どちらの立場を支持するかは読者に任されている、ということで
いいの?
だから読めって。あなたの議論はいつもそういう「紹介文」知識だけ
が基盤だから相手にされないんだよ。
耳が痛い。
>>151 なにをエラソなこと言ってんだ。私にとって、本来ここは異分野なんだよ。
言語方向にあまり深入りしたくないという思いもあるから、慎重にならざるを
得ない。
たしかに、推薦本については内容紹介やレベルなどを記してくれるとありがたい。
>>146 エムラス本だって、いろいろ言われたおかげで買う気になった。
155 :
(´∀`):02/02/07 00:01
>>147 実は俺も今朝入手したばかりなのにゃ
その2篇はJohnson, Oliver and ShragerとKarmiloff-Smithの論文にゃから、当然
コネクショニズムにゃ。いま後者をパラパラ見てみたにゃが、たとえば「生得主義者の
強い主張にも経験主義者の強い結論にもくみしない」として、領域固有のモジュールは
個体発達において最初からあったのではなく結果として生じる、という立場をとってる
にゃ。詳しい議論はされていないので、あくまで印象にゃが、生成の主張する言語知識
の固有性と生得性のうち、前者を受け容れた上でそれを後者と結びつけず発達に由来
するものとしているのだろうにゃ。生得的なものとして領域固有の知識ではなく、領域
関連(domain-relevant)なアーキテクチャなり学習アルゴリズムなりを設定する、と
なってるにゃが、これがこっそりUGを仮定している、と批判される部分だにゃ。
両者の違いについて、領域固有の知識とは、あるニューロン(の束)が「名詞」の概念
を表象し別のそれらが「動詞」の概念を表象し、といったことを意味するのに対し、
それらの概念は入力処理から徐々に創発する、名詞や動詞を含む文の構造を処理した
結果として生じる、と考えるのが領域関連アーキテクチャだそうにゃ。
とりあえず言っておきたいのにゃが、まず、極端な語彙主義ならいざ知らず、生成統語論
では「名詞」「動詞」という概念が生得的だなどと言う者はいないにゃ。例えば「動詞」
が統語論の入力ではなく出力だ、という点は言語板で俺がさんざん繰り返してきた論点
にゃ。これは「名詞や動詞を含む文の構造を処理した結果として生じる」という表現と
まったく矛盾してないにゃ。で、文の構造の処理(でも産出でも)自体がどのように
可能になるか、が問題なのにゃ。言語計算能力がまずあるから、そしてそれは発達に
先行して生得的に備わっていなければならない、としか俺には思えないのにゃ。
>>154 参考
http://kyoritsu-pub.topica.ne.jp/shinkan/shin07_11.html http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/5/0228140.html
>>153 もともと「自分の分野」がない人にとっては,
何だって異分野だろうね。
うにゃうにゃわめかずに、きちんとしたデータに基づいて議論しろっつーの
ここがくそスレだとは思わんけど、俺はこう思うだの、うんにゃ洩れは
思わんだの、そーゆー応酬はもういいよ。自発性バカと五十歩百歩じゃん(w
それが出来ないんなら、わざわざコッチに出張してこずに、自分の城に
戻ってやってくれ
>>155 わざわざどうも。
フォスター-コーエン「子供は言語をどう獲得するのか」岩波書店
から読んでみようと思います。
>>156,157
J.エルマン他『認知発達と生得性:心はどこから来るのか』共立出版
の書評にこんなのがありました。書いてるのは教育学者らしいんですが。
>生得性と教育との対立は、遺伝と環境、本能と学習、氏と育ちなどとして古く
>から論じられてきた。生物学者による遺伝法則の発見や、遺伝子、DNAによる
>遺伝の仕組みの解明は遺伝説の妥当性を強め、一方、心理学者による学習原理の
>発見や学習メカニズムの解明は環境説、ひいては教育を重視することへの裏付け
>となってきた。両者は、互いに相手側を無視してしまうほどに対立を極めるか、
>あるいは、「両方が複雑に交互作用しあう」という無難な結論でお茶を濁すか、
>というのが実状であった。
あはははは(笑) 私たちのひとつの縮図ですな。しかし、私は生得側に立つ
けれども、相手を理解する努力は怠らないよ。行動主義は見捨てたけど・・・
「子供は言語をどう獲得するのか」もひとつの努力ではないかと思う。
>>157 無理して読めとは誰も言っとらんのだけどにゃ。データに基づいて議論? 例文なら
いくらでも出すにゃが、ここの誰もそんな経験的な議論に興味ないのはこれまでの
経緯で明らかにゃ。「例文判定はうんざり」と虚無好き氏も代弁してくれていたにゃ。
それとも157にはデータに基づいて議論する能力があるのかにゃ?むしろ俺も学習による
言語獲得説を支持するデータがあるなら示して欲しいところにゃ。誰も何も決定的な
議論が出せんので自分なりの考えを述べているのではないのかにゃ。それすらできんの
なら黙ってるのにゃ。あちこちでミルク氏に絡んでるカマッテ君もにゃ。
>わざわざコッチに出張してこずに、自分の城に戻ってやってくれ
にゃはは、偏狭な専門意識に囚われて自分とは違う分野の違う考え方には耳を貸す気は
さらさらない、というわけかにゃ。それなら最初からこのスレは無用にゃ。自分の
チンケな城を守っていたいというのが行動主義心理学徒の共通意識ならにゃ。
>>158 極端な経験論も極端な生得論も(だれもそんなことは言ってないのにゃが)間違い、と
いうことだけは確かで、どこに中庸を求めるかの議論が大事にゃ。沢田允茂「言語と
人間」でも、チョムスキーかピアジェかの二者択一はあり得ない、生得的という概念を
広くとるか狭くとるかの程度問題でしかない、と述べられているにゃ。同意にゃ。
例文のどこが経験的だっつーの
これは文・これは非文、だからどーのこーのって、
その判定が一般化できるだけのデータを示せっていってんのよ。
俺はこの例文こう判定するのよ。だからこうでしょっつーのは
頭の中の妄想の顕在化といい勝負だっつーの。
アフォかおまえ、と聞くまでもないにゃ
キミ自身は提示された例文に対して何の反応もできないのかにゃ?
早い話がこうやって人とやりとりしてることのすべてが例文判定にゃ。
どうしてこれこれの表現はこれこれの意味にしかならないと分かるのか、これこれの文が
変だと感じるのか、まずそのこと自体の不思議さに気づかなければ、話しにはならないにゃ。
例文だけがすべてではないが、例文の判断に基づく仮説の提示を「頭の中の妄想の顕在化」
としか思えんような輩には言語の問題は議論できないのにゃ。絶対ににゃ。
>>160 懐疑的になれ、既存の体系を一度根本的に見直してみろ、という言葉を献上
仕ります。大部分の科学者はレンガ職人であって、建築家じゃない。多くの人は
既存の体系にレンガを積み上げることで満足している。しかし、その既存の
体系に疑いを持てばレンガ職人ではいられず、建築家にならざるを得ないのだ。
>>161 言語ボケが、ったくよー
仮説を支持するような客観的な調査資料なり実験データを示せっつーてんのよ
アンタが言ってることなんか、自明なんだよ自明。
研究っつーのはそっからはじまるの。
仮説ばっかり垂れ流して、サポートするデータもなしに
他説をこけおろすような厨房はいらんっつーてんのよ。
>>161 私もいろいろ考えたけど、もうこの板の心理学連中は見捨てた方がよろしいよ。
時間の無駄です。心理学者がみんなこんなとは思わないけどさ。
>>162 比喩っていうのは何か意味があるようで,そうでもないんだよ。
建築ならレンガが積めなくても設計することはできるが,
実証科学ではレンガを積む(既存の体系を理解し,その中で研究をする)
ことが基盤にあって初めて設計する(新しい仮説や理論を提唱する)
ことができるんだ。ミルク様みたいに,自分がうまくレンガを積めなかった
からといって「レンガ建築は全盛期の遺物だ,レンガ以外で建築しろ」
みたいな主張をしてる奴は,相手にされなくて当然なんだよ。
>>161 2ちゃんねる以外で顔文字先生の活動している場はありませんか?
心理学厨房の荒らしの来ない場所でお話しを聞きたいのです。ただ、
あまりに言語学の微にいり細にいる話はごかんべん。メール欄参照。
>>165 実証科学の基盤から疑ってごらん(笑)なんて怖いことは言わないけどさ。
あなたとは違って、私は人の人格を攻撃するようなことはしない。あくまで
体系を問題にしている。それがあなたの心に達しなかったらそれまでのこと。
正直なところ、私はあなたのような人格の人間とつき合いたくない。
あら、こっちも喧嘩か。実験の統計データというのは
言語学では言語習得や文解析で実験をやっている心理言語学の
人が出すけど、顔文字さんや私のような理論言語学者は
内観的な文法判断をデータにしているわけよ。他のひとが
やった実験で、「論理的に可能だけど大人はしない解釈」
とかを子供を被験者にしてやった実験なんかについては、
前すれで書いたと思うけど。書かなかったっけな?
今思い出したけど、私は子供の頃、自分がどうやって日本語を
覚えたのか、不思議に思ったことがあった。幼稚園か、小学校
低学年の時の記憶だと思う。どうやってうちの親は頭の悪い私に、
日本語を教えたのか頭の悪い私には検討つかなかった。別に
教わった記憶もなかったし、気づいたら話せていた。子供らしく、
「将来自分に子供出来たら、親に言葉の教え方をきかなキャいけないのか、
それを自分に理解できるか、面倒だから変わりに私の親が教えてやって
くれないか」といういらん心配もした。どうでもいい話し、失礼。
しかしみんなは疑問に思ったことないの?
>>167 なるほどねぇ。ふり返ってみると、幼い時に現在ある自分の萌芽が見出される
ことは誰にもあるでしょうね。ただ私自身はなぜか、言語の獲得に関する疑問は
浮かばなかったです。あえて言えば、平仮名が書けるようになるのに苦労した
ことくらいかな。
ところで、私の感じではかかり助詞先生は言語学者らしい人という印象ですが、
顔文字先生はかなり生物学寄りでいらっしゃるので驚いています。一方、
BOB氏はピアジェの臭いが強いと感じますが、この方も専門家ですか?
虚無好き先生の正体はつかんでます。
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/08 18:07
>>164 この板からまともな心理学者をみんな追い出したのが
ミルク=164だろう?
奇しくもまたレス番号が164になっているよ。
>>163 言葉遣い悪すぎ(笑)言ってることはヘンじゃないんだから、
もっと穏やかに表現したほうがエエよ。
>>167 >顔文字さんや私のような理論言語学者は
>内観的な文法判断をデータにしているわけよ。
言語理論を細密化するのを内観でやってくれるのは、
いっこうに構わないと思うし、それにケチつけてる心理屋はおらん
と思うですな。
ここで問題になってるのは、UGの中味がどーしたとか、
LDAがどーしたとか、そーゆーことではなくてですね、
言語能力は生得的であるとかですね、
ヒトの言語獲得のどの部分が器質依存するのかとかですね、
そーゆー部分をアームチェアな内観法で語られても、
心理屋としては、とても困ってしまうわけですよ。
我々は、内観法のみを根拠として何かの主張を行うことは、
とーの昔に捨て去ってますからねー
アームチェア言語学者が、現実にデータを提出している領域について
アームチェアなデータのみを論拠にして、口汚くののしるわ
否定するわはじめちゃ、キレる気持ちもわかろうってもんですな(笑)
UGの生得性なり、言語獲得の生得性を、少なくとも他分野の研究者に
向かって主張するのであれば、現実世界から、第三者でも客観的に
観察可能で、一般化可能なデータで示すのがスジだと思います。
チョム理論わかってないとか、誤解されてるとか、
(ま、確かに初学者には難解きわまりないと思いますけど(笑))
そういう問題ではなくてですね、議論の土台となるような
データに関する認識が、まるっきりかみ合ってないっちゅーことですわ
ちなみに、おいらだって、UG研究者が例文作って、○だの×だのやりゃ
そりゃ、UG理論が予測する通りの結果になって当たり前だろーって
思いますもん。UG理論の知識の有無や母言語の違いには、まったく
依存せずに、UG理論の予測通りの判定をヒトは行うのだってんなら
話は別ですけどね。
>>170 やっぱり、まるで分かってないね(苦笑)
こうなってくると、少し哀れを誘うな。
>>171 虚無好き氏が言ってることも結局は170氏と同じようなことだと思うけど。
>>172 虚無好き先生はなんとか行動主義者側の意見を理解しようとされているんですよ。
しかし、本質的には虚無好き先生も行動主義とは折り合えない、このことは認識されて
いると思う。
ま、これは虚無好き先生からじかに聞いてみることだね。
私は行動主義者側の意見を理解する努力をはっきり言って放棄している。今さら
顧みるに値しないと思っている。分野にかかわらず、ね。少なくとも言語においては
出る幕などないのだ。
改行が多すぎると言われたにゃ。
困ったにゃ…
とりあえず、概念形成に話題が移ったとき書いた文章があるにゃ。
ここでなにかしらわたしの見解をくみとってくれるもよし、
長文なので、無視するのもヨシ、にゃ。
============================
むにゃー。概念形成の話は、わたしにとってはパンドラの箱にゃ。
念のために言っとくけど、
water =「水」or「湯」みたいな陳腐な相対性の議論は、あんまり実りのあるものとは思えないにゃ。
そしてこのケースで言えば、water のほうが抽象度が高いとは、必ずしも言えないのにゃ。
water の意味は、(ソシュールらによれば)あくまで英語の共時的示差体系のなかで決まるものであり、
これは(あのいわゆる)「相対性理論」で、二人の観測者の時系列が同じでないと、
同時性や前後関係が確定されないという議論に似てるにゃ。
でも、似ていない部分にも注目してにゃ。語彙意味は直接観測されないのにゃ。
しかしまったく絶望的というわけでもないにゃ。
言語板から、以下のようなやりとりを拾っといたにゃ。
>67 :名無し象は鼻がウナギだ! :01/09/23 02:20
>「懐かしい」ってなんて英語で言うんですか?
>
>68 :名無し象は鼻がウナギだ! :01/09/23 10:04
>一般の和英にはlong forとかになってるみたいだけど、
>「祖国が懐かしい(慕っている)」とかいがい、ほとんど使えねえ。
>
>懐かしいには、ふだんは忘れているというニュアンスがあるけど、
>それでいて慕わしいという気持ちは、英語では、ただの矛盾になるのかもな。
>「あっ、それ、チョー懐かしい!」は
>Oh yes! I knew that! I used to love it.
>かねえ。しらんけど、だれかたのむ。。
>
>70 :名無し象は鼻がウナギだ! :01/09/28 07:28
>>68
>ちょっと行方不明になっててレス確認が遅れました。スマソ
>
>そうなんすよねぇ。人からメールが来た時とかもどかしいん
>ですよね「懐かしい」の一言で伝えたいのに。
>
>71 :劉 :01/09/28 21:17
>中国語でも、日本語の「懐かしい」
>にあたる言葉はあまり使いません。
>
>【中国語・日本語天地】
>
http://homepage2.nifty.com/chinet >
>74 : ◆1bhZc0WA :02/01/23 09:31
>俺も「懐かしい」はいつもこまる。
>
>I miss なんとか
>
>って言ってるけど、日本語の意味とはだいぶ違うな。
>
>75 :束子的には :02/01/28 01:31
>相手が人なら
>Oh! Long time !! Very very long, I feel!!
>みたいなんはどうやろなあ
ま、かなり甘いけど、上のやりとりをみると母語話者が共通の語彙知識「懐かしい」を共有してるようにみえるにゃ。
すくなくとも、なんらかの意味素(←やな言葉)を共有している可能性があるにゃ。
ただ、このような「現象」が自然科学の文脈にのるかどうかで、見解がわかれるのにゃ。
おおざっぱにいって、現代言語学の大勢は心理主義 mentalism をとっており、
心理学のほうは心理主義を捨てた(らしい)という、(日本語的には)いっしゅねじれた構図になってるにゃ。
心理主義といっても、言語学の顔ソシュールとチョムスキーではぜんぜん違うし、
素朴に「こころ」を信じてるわけではないんだけどにゃ。
問題は、方法論にゃ。存在性格は、そのあとにゃ。
素粒子論は、素粒子そのものの物理的属性を計測しているというより、
素粒子じたいが、もっぱら数的な存在としてしか現れないのにゃ。
現状では、意味の観測はまだ、方法論が発見されていない(だけ)と信じたいにゃ。
176 :
(´∀`):02/02/09 10:00
にゃんだかトホホな展開にゃ……
>>163 威勢のいいアンちゃんだにゃ
母語話者直観の直観を反映している例文判定も立派なデータにゃが?
俺の言ってることが自明? なら結構だにゃ。
経験論では説明できない言語知識が存在する、という異議申し立てがデータに基づいて
なされているのだから、余計なこと言っとらんでさっさとそちらが反論すればすむ
ことにゃ。
170氏の言うとおり、UGの中身について心理学者相手に議論するつもりはないにゃ。
だから実に簡単な話しなのにゃ。経験由来でない言語知識がアナタの脳内に存在して
いる、という厳粛な事実に向かい合う用意があるかないか、心理学者にはそんな余裕は
ありません、ということなら、それはそれでいいにゃが、その事実自体を否定しようと
するなら、さっさと反論お願いしますにゃ、ということになるのにゃ。
170氏も誤解しているにゃが、研究者自身の言語知識も被説明項にゃ。彼・彼女が
例文を作ることができること自体が、すでに説明を要するのにゃ。判定には特定の
仮説のバイアスがかかることは当然あるにゃ。それは自分が明らかにしたいと思う
言語の側面についての仮説を検証するために行われることだからにゃ。しかしその点
では心理学の実験との間に大きな違いはないはずにゃ。単一のUG理論などないから、
「UG理論の予測通り」というのもおかしな表現にゃが、例文判定が少数の研究者
だけで勝手にやっているものという勝手な思い込みは間違いにゃ。早い話、あなたは
(くどいが)「論文が花子に読まされた」をよいとは思わない、これ以上確かな
データ、かつ経験論で説明不可能な事実はないにゃ。
>>166 捨てメアドでも、こんなとこに載せるとどんな被害を被るかも分からないので
気をつけるのにゃ。俺はそのアドレス宛にメールを出すことはないから、万一
俺のふりをするやつがいたらそれは全部偽物にゃ。
オフ会ならいいにゃ。以前、虚無好き氏を誘ったが逃げられたにゃ(w
>あなたは (くどいが)「論文が花子に読まされた」をよいとは思わない、
>これ以上確かなデータ、かつ経験論で説明不可能な事実はないにゃ。
確かに私もこの文章をよいと思いません。
しかし、実証データを重んじる心理屋や社会屋であれば、
ランダムサンプリングされた人々に対して質問紙調査を行い、
その文章を非文と感じる人が統計的に見て有意に多いということが
示されるまではそれにすら同意することは憚って当然だと思います。
そしてそのことが実証された後はその現象の因果関係を
問題にするわけですが、こと言語の習得に関わることですから
実際上も倫理上も実験的検証は不可能です。
心理学ではそのような問題に対して手をこまねいている
わけではありません。ミルク先生が嫌な顔をされるのを承知で書けば、
例えば徹底的行動主義陣営では理論的行動分析があります。
これは、従来の実験的行動分析によって明らかにされた
強化原理や般化現象などの行動理論でもって、思考など
外的には観察不可能な言語行動のふるまいを
外的環境とのかかわりという点から分析するものです。
ただ、これもあくまで言語「行動」の分析であって、
言語「能力」も分析の範疇に含め得るのかどうかは私には
わかりません。しかし、オペラント条件付けの技法を用いた
動物の認知能力の探求は続いていますから、言語「能力」の
解明にも何らかの形で寄与できるのではないかと思っています。
じゃあどうやるんだ、とはすぐには詰めよらないでください。
私が勉強中であるだけでなく、(探検隊先生がおっしゃっていた通り)
実証データの蓄積と、理論的分析の精緻化のいずれも
まだまだ十分ではないのですから。
一つだけ確認しておくと、言語能力の生得性には異議を唱えない。
ただ、その存在の主張には慎重であるべき。それだけです・・・
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/09 12:03
ところで、臨床や教育へのチョム理論の応用っていうのはどうなの?
うむ・・・ 虚無好き先生の文章は相変わらず分かりにくいが(笑)
>現代言語学の大勢は心理主義 mentalism をとっており、
>心理学のほうは心理主義を捨てた(らしい)
これが結局、ワトソン以来100年間にわたる心理学の大間違いなんだわ。
物理学というニュートン以来確立されてきた客観的な科学に確かに我々は魅了され、
行動主義心理学もこの物理学をモデルとしてきた。しかし、脳の世紀に入り主観的な
体験を研究しようとする段になって、物理学はなんの力にもなれないことに一部の
人は気がついてきた。本来この問題に答えるべく用意されたはずの、頼みの綱と
したかった心理学も、客観的計測を旨とする物理学をモデルとしているゆえの
ていたらく。
生物学内においては分子生物学が台頭してきて、生命は物理・化学法則によって説明
されるべきものという気運が高まったけれども、これに頑強に抵抗する勢力は健在で、
それが構造主義生物学などの流れを生みだしている。生命現象には物理・化学法則
では説明できないさまざまなレベルが存在するのだ。生物学とは違って、この洞察が
得られなかった心理学は愚かだったとしか言いようがない。私の生命は自発的とする
主張もこちらの流れのなかにある。そして、この流れが心理主義の言語学と共同して
主観的な体験を解くひとつのカギになるのではないか。確信はないけれども、私の
なかにはこういう洞察があるのだ。
>>176 オフ会、いいですなー(笑) しかし、一対一で会うのはご勘弁。上に書いたような
方向でなにか催しがあるなら、それに参加する形でお会いしたいです。ちなみに私も
関西人。
>>177 >ただ、これもあくまで言語「行動」の分析であって、
>言語「能力」も分析の範疇に含め得るのかどうかは私には
>わかりません。しかし、オペラント条件付けの技法を用いた
>動物の認知能力の探求は続いていますから、言語「能力」の
>解明にも何らかの形で寄与できるのではないかと思っています。
これが、私の考えでは原理的に不可能、ということになる。
あまり例がよくないかも知れないけれども、たとえば我々は赤い色を見てなぜ
それが赤い色だと感じるのか。この疑問に対して物理学がやってきたことは
赤い色の表面は波長700nmの光を反射しているからだと説明することだった。
しかし、これではなんの説明にもなっていない。ではなぜ波長700nmの光を
見ると我々は赤と感じるのか。要するにこの問題は環境をコントロールする
のでは何も応えられず、生体内部から考えないといけない。
このひとつの答えが赤い色を見て赤い色だと感じることは生得的に決定
されているとするものだ。したがって、それが生得的に決定されている
仕組みを明らかにする必要がある。これが、チョム派の言語学がやろうと
していることであり、意識のテーマでもあるんだ。
オペラント条件づけのように外部から観測しているだけでは何も答えられない
だろう。
182 :
かかり助詞:02/02/09 14:09
統計データ要求派の方々へ。
理論言語学の内観的文法性判断は我々のやり方にそぐわないから、
その方法論を変えて、我々と同じようにやってくれ、ってのが
主張らしいけど、そりゃ無茶苦茶だ。この方法論があっての
理論言語学だし、個人個人の頭にもつ文法は少しずつ違うのだから
一人一人の文法を調べることが「平均値」を調べるより、
大切なのだし。というか、平均的文法何て調べても意味ない。
私は言語学(統語論)が専門です。顔文字氏も同じチョム派ながら、
これまでの2chでの活躍を見ると、「超過激派生物学的生成言語学」
というのがご専門のようです。私も生成文法と生物進化論について
だいぶ考えさせて貰いました。私は顔文字さんがだれだか
解っている(つもり)。虚無好きさん、BOBちゃんは正体不明だ。
>>182 顔文字先生は日本にお住まいなのかな・・・
184 :
(´∀`):02/02/09 16:39
>>177 >言語能力の生得性には異議を唱えない。ただ、その存在の主張には慎重であるべき。
うにゃ、エムラス本も同じスタンスだったにゃ。それはそれでいいにゃ。その慎重で
あるためのブレーキ役をむしろ俺らがそちらに対して期待しているのにゃから。
で、同じエムラス本には「心理学では調査・実験に比重がかかりすぎ」という指摘も
あるにゃ。データを蓄積してゆけばいつか真実にたどりつけるという楽観主義に対して、
自分たちは「神秘的なメカニズム」なしでも言語獲得が説明できるだろうという楽観主義
を採ってるそうにゃ。生得的言語能力のことを「神秘的メカニズム」と言ってるとした
らトホホにゃが、その神秘的メカニズムの存在そのものを否定するかわりにそのメカニ
ズムを解明して神秘でなくすることに生成文法は関わっている、と思ってくれたらいい
かもにゃ。
179のミルク氏の発言はまるで俺が書いたようにゃが(w)、既知の物理・化学で説明
できないことがあるからといって物理・化学が一切ダメだというのではないにゃ。その
ようなハード・プロブレムまで射程に入れることで既成の物理・化学に変革を求めるの
が生物学なり言語学なりの上位科学の役目だと思うにゃ。言語獲得もそのようなプロブ
レムだと思ってるのにゃ(人間にとって解決可能なプロブレムと不可能なミステリーが
ある、という言い方をチョムはしてるにゃ)
統計データについてはこう答えとくにゃ。まずある例文が非文かどうかを決めるのは
理論であって、個人の判断はその理論のデータの素材にしかならない、といういわゆる
データの理論依存性や理論の事実超越性の問題は別にしてもにゃ、ある研究者の内省
的判断は常にその論文の読者、とりわけそれよりも優れた論文を書こうと虎視眈々と
狙っている同僚による厳しいチェックを受けてるといってもよいにゃ。ごく断片的な
データだけに基づいて仮説を立てることができるのは、その仮説の予測するところを
自分の知っている言語事実に照らして検証にかけ、できれば反証してやろうとする
同僚研究者がいるからにゃ。だから、たとえ日本語の例文一つだけに基づいて出された
仮説も、実は人間言語全体についての仮説に成りえるのにゃ。ある意味、理論言語学は
論敵どうしの相互チェック機能に全幅の信頼を置いているとも言えるにゃ。中には
信頼しかねる奴もいるけどにゃ。
176で言いたかったのはたとえ統計処理された膨大なデータがあっても、それに解釈を
与えるのは研究者個人である、という点で心理学の実験も内省法と同じではないのか、
ということにゃ。
>>170 >口汚くののしるわ
どの部分か指摘してくれたら謝罪するにゃ。(163のアンちゃんは別にゃ……w)
>>182-183 かかり氏はたぶん米国在住にゃ。その正体についてはこれまでいろいろカマかけて
さぐりを入れたがいまだに分からんにゃ。でも、きっとダレダレだと俺に教えて
くれる人もいるにゃ。虚無好き氏についても噂を耳にするが、ちょっと考えにくい
人物だったりするにゃ。俺は関西在住にゃが。で、ミルク氏は誰にゃ?(w
>>184 そのエムラス本は暗に生得的言語能力のことを「神秘的メカニズム」と
言っていると僕は思いましたよ。その本は言語学を知らない心理学徒向けに
書かれているが、最初に先入観を植え付ける命題をおいてから説明している
箇所が多くて、それが鼻について仕方がなかった。
心理の人には客観的な方法では知ることのできない事柄、直接実証することは
できず、状況証拠からそう考えざるを得ない事柄というものがたくさんあるんだ、
ということをまず分かってほしい。
顔文字先生は「自然科学としての言語学」の著者ではないか、そうだとしたら
あまりに畏れ多いな、とひいていたのです(笑) 虚無好き先生は某外大の
先生でしょ。わらしはしがない翻訳者ですよ。前言ったでしょ。
とにかく、なにかあまり言語学に偏らない催しものとかシンポジウムとかがあれば
紹介してください。
ところで181のミルク氏の発言は面白いですね。我々は、
例えば赤い色を見たときに、本当に同じ色を見ているのだろうか。
もしかすると、例えば私だけ子供の頃から赤い色が他の人が
見る青い色に見えていたけど、物心ついた頃からのことなので
気づいてないだけではないか。だったら、なんかいやだな。
私は詳しくないけど視覚能力にも言語と同じように、先天的な部分と
後天的な刺激によって誘発される部分があるはず。言語では後天的刺激
が日本語、英語、ロシア語などのvariationになるけど、視覚にも
個人差ってあるのでしょうかね。まあ、言語ほど派手なvariationでは
ないだろうけど。
顔文字氏の「自然科学としての言語学」著者説は、私も初期の頃
そう思ったけど違う。私は確かに今、プリッツェルを喉に詰まらせ、
ぶったおれているおじさんが一番権力を握っている国にいます。
関係ないけど、このおじさんはノーベル平和賞の候補に挙がった
らしいね。chom先生だったらsick jokeといって怒るだろうな。
まあ正体はいつか分かるから、そしたらメールでも下さい。
日本に帰省して、関西に足を伸ばす機会があったら、串かつ
でも食べに連れていって下さい。
(-_-)......
逃走派先生が帰ってきたみたいなので、もうみんなひきあげるにゃ…
ミルク先生が一押ししてる「内部観測者」議論は、わたしも応援したいところだけど、
内部/外部を絶対的に前提している限り、完全な理解はムリにゃ。
それにこれは、いわゆる「内観データ」に基づく心理学への回帰ではないと思うにゃ。
オートポイエーシスも、数理的定式化という大きな難問に直面せざるをえないのにゃ。
現代心理学が、内省にたよらざるをえず、内観心理と事実上同じという旨の発言はまことに遺憾にゃ。
「痛み」と「かゆみ」が同じ現象かどうかの研究も、内観報告だけで行ないうるのであるし、
(たぶん文法性の研究もそれに類するものという、冷ややかな視線を感じるにゃ…)
そのばあいも他の研究者との相互チェックは起こるのにゃ。
「内観心理学を脱却した」、というのはこのばあい
現代言語学が、規範主義や論理学をはなれて、「言語それじたい」を研究対象として再発見したように、
経験心理にとって譲れない一線だと、わたしは理解してるにゃ。
と、いまさら言ってもおそいのにゃ。
皆様、おさわがせしましたにゃ。
失望が非常にはげしいにゃ。
消えたほうがいいのは、わたしのほうかもしれないにゃ…
皆様お世話になりましたにゃ。
>>181 >オペラント条件づけのように外部から観測しているだけでは何も答えられないだろう。
ちょっと言葉足らずでした。理論的分析とは外部からの観測ではなく、
種々の行動原理を文字通り理論的に駆使するものなので、
厳密な客観的手法によって言語能力を明らかにできるといっているわけではありません。
・・・
まあそれはそれとして、心理学が物理学や実証主義に傾倒しすぎ、
という皆さんのご指摘ですが、心理学内部でもそのような傾向に対する
反駁は盛んになっています。非構造化面接によるライフヒストリー研究などが
そのいい例ですね。面接者と被面接者それぞれの主観性、両者の間主観性をもとに
その人の過去の出来事がどのように組織化され、そこにどのような意味が
生成されているのかを「語り」によって明確にし、「ナラティブ」を構築するものです。
そこでは、波長700nmの光に対する「赤というクオリア」などよりもさらに複雑な、
客観的な社会的事実や個人的出来事に対する個々人の認識の仕方や捉え方が
問題にされています。
私はこちらにも関心があり、以前↓のスレを立てたのですが、この板に
専門家が少ないせいか、あまり活発な議論はなされておらず、残念です。
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1004143423/l50 (しかもいつのまにか「手法としての主観」という議題からそれてるし)
実証的手法で明らかにできることと、解釈的手法で明らかにできること、
どちらも非常に大事だということは認識しています。
私は後者にも気を配りますが、基本的には前者に軸足を置き、
そこでやり残されたことをやっていきたいと思っております。
>経験心理にとって譲れない一線
これをせいぜい死守しておきます。
統計データについては納得しました。
あにゃ、虚無好きセンセを怒らせちゃったのにゃ……
しかし科学をつきつめればいずれは観測問題相当のものに行き当たる
ことは必定にゃ。観測者不在の絶対的真理などどこにもないのにゃ。
ま、見捨てず今後もよろしくにゃ。
ついでに言っておきますと、
理論的行動分析と、上で挙げたライフヒストリー研究は、
出自は異なりますが、厳密な実証性が保証できないからといって
実験・観察が不可能な現象を分析の対象にしないのは偏狭だ、
という点は一致しています。
>>188 >内部/外部を絶対的に前提している限り、完全な理解はムリにゃ。
これは構造的カップリングに基づくヴァレラ解釈というものではないかな。
私は別のところで、やはり境界は厳然として在るという立場をとった。ヴァレラは
自らのアイディアである構造的カップリングに固執している。もっと別の解釈が
あり得ると思うの。
>オートポイエーシスも、数理的定式化という大きな難問に直面せざるをえないのにゃ。
数理的定式化にこだわるのもよく分からない。某所で色彩知覚もニューロン間の活動を
記述した数式で表現できるとする論文を読んだ。しかし、これはなんかおかしい。
ハチの巣の六角形は六つの六角形と接している。しかしこのことは六角形の数学的
性質であって、六角形や数式に知性が宿っていることを示しているのではないのだ・・・
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/10 14:03
↑
このひと,自分がまたひとつスレを滅ぼしたのに
気付いてないのね......
>>194 なんの意見もなしに、煽るためにageる君のほうがうざいわ。
188の虚無好き先生しゃん
> 逃走派先生が帰ってきたみたいなので、もうみんなひきあげるにゃ…
ふにゃー、俺はやっぱり嫌われている!半べそー(ρ_;)
こうなりゃ、もうええわ!ぶちきれよう!
でもサトヤタエがゴール前すげースピード出して滑ったのを見てたら何をかいて
荒らしまわろうとしたか忘れてしまったですよー。
おぼろげに思い出したのは、ずずーっと前にチョム系生成の発表会に認知心理系の
学生さんがいらっしゃってて、日本語統語論の発表者になったら、その学生さん、
それまで半分眠って聞いていたにもかかわらず質問コーナーということで、ちと
エキセントリックに「どうしてちゃんと統計データをとらないの」といった趣旨の質問を
出してきて、「ああ、やっぱりね」と思いつつ「どうすんべが?」と内心思っていたけど
その間にうっとこのボスが「それはその通りのごもっともごもっとも。でも、
例文ひとつひとつに時間をかけるのはあと50年先で、今はもっとやることが
たくさんあってそれどころじゃないんすよ。調査しても9割はここ(この発表)の通りでしょ」
と言ったのであった。「これ、でーじょーぶか?」と思ったけどその心理学生さん
「ちぇ、これ以上つっこめねーぜ」と思ったのか、その後は静かになったのであった。
データ収集の方法が百万倍甘いのは知ってる。正直、心理では何人のランダム選択した
被検者を揃えるとマトモなデータとして扱ってもらえるの?(これはマジレスきぼーん)
逃走派先生、それは誤解にゃ。
わたしが言ったのは、ひきあげて先生とお話ししようということにゃ。
とはいえ、レギュラーの皆さんは論争の末、BOB先生を放置しているとみられるにゃ。
いろいろ、鬱にゃ…
> それは誤解にゃ。
嬉し泣き半べそ(ρ_;)
ここだけの話、BOBしゃんはすごい人だと思うにゃ。チョム生成以外の
文脈でいろいろ語ってほしいと思っているんだけど。
>>196 被験者が多ければ多いほどいいのかというとそういうわけでもない。
一万人も十万人も被験者をそろえれば、よっぽどでたらめな質問でない限り、
何らかの形で有意差はでてくるもの。検定の式を見ればわかる。
適切なデータ数のサイズや検定法は扱う問題によって異なってくる。
この辺の話は心理統計スレあたりで聞いたほうがいいかも。
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/12 07:37
統計的検定はそもそも少ないサンプルから母集団を
推定する「ため」にあるんだよ。だから,サンプリングが
正当にされていれば,有意になっている限りサンプル数の
大小とその結果の妥当性には「関係がない」んだよ。
心理学者がデータの数にこだわるのは,そのデータの
サンプリングに自信がないからだろうね(笑)。
まあこれ以上は確かに統計スレねただな。
↑
164の臭いがプンプンするくそコメだな(w
『有意になっている限りサンプル数の大小とその結果の妥当性には
「関係がない」』とか、イタイこと言ってるなよな。
可哀想に。俺じゃないのに・・・
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/13 06:43
>>202 お前の方がイタイよ。
統計的検定の原理を一から勉強し直した方がいい。
164以下の奴もいるようだな。
>>204 統計原理主義の信者かねきみは(w
「適切なデータ数のサイズや検定法は扱う問題によって異なってくる」
ってのは、その通りで、実質科学的にどーかというのが
問題にされるべきだろーが。
ことの本質を見失って、今度は統計談義かい。
(日本の)心理学者ってアホかクズばかりだね。
貴重な人間を貶して自分は殻に閉じこもる。
他分野の研究者から相手にされないのも無理はないね。
よーく反省しろ。クズども。
>(日本の)心理学者ってアホかクズばかりだね
このスレの書き込みは日本の心理学者のサンプリングとして妥当なん?
心理板住人としてこの体たらくは恥ずかしい限りです。
大先生方が見切りをつけるのも無理もない…
とりあえずコテハン叩きはいいかげんにしてください(怒)
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/16 23:17
廃墟あげ。
部外者ですが、しかし、なんですね。「内観もデータもどっちも相補的に使えるよね」って
いうならともかくねえ。
統計データがないのなら「結論の一般化可能性については少々疑問が残るけど」
という括弧付きで議論をするのが妥当だし、同時に、いくら統計データとっても、
取るだけ意味のない場合があったり、データ取る前にまず、しっかりと頭使って
考える必要だってあるわけだし。
心理学者へ:「データ、データと言う前に、まずしっかり考える。必要が出たらデータを取って止めを刺す」
というのが、正しいやり方だと思いますけどねぇ。
言語学者へ:とはいえ、議論の重要なポイントでデータがなかったら、主張の
妥当性に疑問が残る、というのは極めて健康的な反論なのだから、あまり、
データ取りを馬鹿にするのも、本当に研究者として大丈夫かねえ、と思いますねぇ。
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/17 04:55
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212 :
名無しさん@お腹いっぱい:02/02/17 06:15
>>211 別に良いけど、小汚い絵だなあ。もうちょっとマシなの亡かったの?
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/29 15:08
ほとぼり冷めたし再開しる
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/05/15 18:59
興味あげ
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/05/15 19:06
データをとりながら考えてますが,なにか?
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/06/16 06:45
非言語あげ
217 :
没個性化されたレス↓:02/07/07 01:35
言語の生得性を語る場合、言語障害とか自閉症の症例から逆説的に
その証明をしようと試みるのって多くないですか。Williams症候群とか、
「言語を生み出す本能」とかでは取り上げられていましたよね、確か。
218 :
没個性化されたレス↓:02/07/10 03:27
>>217 「言語を生み出す本能」に関しては、ちなみに批判も結構多く出ているんだよね。
219 :
没個性化されたレス↓:02/07/12 06:04
興味あげ
あげ
222 :
没個性化されたレス↓:02/07/15 13:06
age
223 :
没個性化されたレス↓:02/07/15 13:26
あげ
224 :
没個性化されたレス↓:02/07/15 18:49
>>218 「批判もいろいろある」というのは、なんの役にも立たない情報だと
思うけど。だって、そもそも、「誰からも批判されない研究」なんて
世の中に存在してないんだもの。
問題は、「批判があるかどうか」じゃないでしょう?
225 :
没個性化されたレス↓:02/07/15 20:13
あげ
226 :
没個性化されたレス↓:02/08/02 01:00
こんなん出ましたけれど・・・
外国語学習のカギ?脳の「文法中枢」発見
脳には、語学上達のカギを握る「文法中枢」があることを東京大のグループが見つけた。
酒井邦嘉・助教授(言語脳科学)は、単語を丸暗記する時に働く部位とは別に、言葉と言葉を
自然につないで文章として理解する時にだけ働く部位があると言う。
この成果を生かせば、究極の外国語学習法が開発されるかも知れない。
酒井助教授らは、日本人の成人男性16人に、72の例文を見せ、文法と暗記能力を問う実験
を行い、特定の作業をする時に脳のどこの部位が働いているか測定できるMRI(核磁気共鳴
映像法)で分析した。
その結果、文章の文法を理解しようとする時には、全員が大脳左前頭葉下部にある、
こめかみ近くの部位が活発に働いていた。一方、単語を暗記する際に活性化したのは、
この「文法中枢」とは別の部位だった。
数や記憶などの認知能力はサルにもあり、言語能力はこうした認知能力の延長にあるという
見方が強いが、酒井助教授は「この部位が人間にだけ備わる心の働きをつかさどり、言葉を
話せる人間とサルとの決定的な違いを生んでいるのではないか」と見ている。この成果は1
日付の米科学誌「ニューロン」に発表された。(読売新聞)
>>226 こういう話を聞けばチョム派の学生厨房は喜びそうだが、
大御所連はどうなのか、と生成スレを覗いてみたが、
今のところお歴々のコメント無し。
記事に関する限りでは、よくある脳科学的大風呂敷の類でしかないような。
チョム派のUGとの関連性を直接示すものにはなっていない。
脳内の特定部位が活性化したからといって、そこがUGの場だとはならないよな?
言語運用と言語能力の区別で言うなら、
「統語に関連するかもしれないある種の言語運用の、それも一側面」を司る場ではあるかもしれないが、
その部位がわかったとしても、「それがどうした」とツッコミたくなる。
特定部位の活性化と言語運用との機能的な諸関係が分かったわけでもない。
ましてやUGとなると・・・・
と言ったところではないのかな。
まあ、あくまで「記事に関する限りでは」ということなんだが。
オレ、この手の脳科学ネタに大げさに反応するヤツは阿呆だと思っているのだが。
特に「究極の外国語学習法」とやらは出来過ぎの反応だな。
脳内の部位がわかると究極の学習法が開発されるってか???
酒井という助教授も困っているかもしれんし。
228 :
没個性化されたレス↓:02/08/03 19:52
>>227 俺酒井さんの講義取った事あるわ。本人がチョム派と宣言してたよ。
漏れはレポートでアンチチョムであると宣言して、しかも優くれたけど。
漏れの感想では本人はそこらへん承知してるっぽい。
yahooのニュース選びのスタッフって、脳関係ではよくこういうチョンボしてるよ。
ってか、俺の知る限り、電磁気・熱力学を専修してる香具師って、生物系のこと勘違いしてる。
一昨日も遺伝子のコーディングについて勘違いしてるのいたしな〜。
229 :
(´∀`):02/08/04 02:09
おー語尾がにゃの人発見!
名スレ珍スレで見た!
>>230 オレも,デムパ弄りよりお勉強したく存ずる.
233 :
没個性化されたレス↓:02/09/19 00:07
言語学板の本家「生成」スレで「顔文字vs虚無好き」が白熱
234 :
没個性化されたレス↓:02/11/03 06:20
どなたか神尾先生の縄張り理論や生成批判について御存知の方、御意見はありませんか?
言語学板で話題になりかけているんですが。
235 :
没個性化されたレス↓:02/11/05 06:10
神尾昭雄先生はたしか佐藤方哉先生といくつか共訳があるよね。
レネバーグやマクニールだったかな。
佐藤先生とはどういう関係だったのだろうか。
知ってる人いる?
縄張り理論はスキナーの言語行動論に極めて近いらしいんだが、
お二人の関係が影響してるのかね。
やはりこれだった。
教えてあげ。
学部時代に佐藤ゼミ。
修士もそうだったかも。
途中で、心理学→言語学に転進したんだよね。まず受けた教育が心理学
だっかたら、「なわばり理論」などのように、言語畑出身者とは一味違
う研究の視点があった。
ごめん:転進>転身
240 :
没個性化されたレス↓:02/11/14 03:04
佐藤ゼミということは行動分析には詳しかったのか。
縄張り理論について語っておくれ。
佐藤先生は何か言ってないの?
241 :
没個性化されたレス↓:02/11/16 04:15
ageru
242 :
没個性化されたレス↓:02/11/16 15:43
佐藤センセの著書購入記念あげ
243 :
没個性化されたレス↓:02/11/17 07:01
>240
いいなあ・・・行動分析がきちんと学べるなんて
ウチなんかDQNな臨床系教授しかいないから独学でやるしかなかーたよ
図書館にもそれ系統の雑誌は一切なし。だから注文して取り寄せるしか
なかーたのよ(号泣
244 :
没個性化されたレス↓:02/12/07 04:32
age
チョムスキーは間違っている。
行動主義言語学を批判し、アメリカ言語学学界に混乱をもたらした!
チョムスキーを追放せよ。
247 :
没個性化されたレス↓:03/01/07 01:36
>>246 行動主義言語学って何だよ。
スキナーの言語論のことか?
内容の当否は別にして,
あれは言語学と呼べる代物ではないだろ。
行動主義的な言語学というなら
ブルームフィールドらのアメリカ構造言語学を引くべきだし。
もう少し知恵がをつけてから出直しておいで。
スキナーが論じたのは「言語行動」であって「言語」ではない。
「生成文法は言語教育に当然役立つはずだ」
という前提で批判しているが、その前提が間違っているので
議論にすらならない。生成文法が言語教育に
役に立つこともあれば立たないこともあるだろうが、それは
生成文法の知ったことではない。役に立てたければ勝手にやって
くれていいが、役に立たなかったからといって文句を言わないでくれ、
というところだろう。生成「文法」という名前が誤解を
招いているのなら、今後は、認知科学(言語領域)というような
名前にするのがよいだろう。
では「検証不可能性」に関する批判はどうなのでしょう。
反証可能性が無ければ、少なくとも経験科学としては成り立ちませんし、
検証が可能であれば、それは操作が可能ということですから語学教育にも
何らかの面で役に立てるところがあるはずですが。
チョム信者が「反証可能性」だと信じているのは、
ひとつの固定した(達成された)文法知識の内部での、一般化の失敗について言っているにすぎないのにゃ。
そもそもそのような一般化が可能なのは、文法の一般化によってしか知られえない自然言語の「デザイン」が、
さらにUGとして生物学的に実体化され自然言語の根拠となるというような、循環論があるためにゃ。
もし未知の記号体系があり、それが実際に未知の自然言語であるならば、
チョム理論はその強硬な一般化への理論装置によっていかなる異様な文法現象でも説明してしまうであろうし、
この点に関しては、厳密に演繹的なUGの<外延>が画定されない限り、
(たとえば、簡単で有限な公理から産出するシステムから多様性とその限界が説明されれば納得もしようが)反証不可能なのにゃ。
わたしは偶発的な文法現象は存在すると思ってるし、さらに英語のような大きな歴史的変化をこうむったものに関してはなおさらにゃ。
これに関する公式見解は、それらはすべてUGの「許容する範囲」での変化にすぎないというものであるが、
その変化は、歴史的必然ではないものの、(制度的ないみで)「偶発的」でもありえない。
原理的には脳内の「スイッチ」のonとoffで決定されるものだというのにゃ。
しかしそのようなスイッチ(パラメタ)は、わかりやすくいえば理論家が好きかってに増やせちゃうのにゃー。
しまった。。。不用意に書き込んでしまったにゃ。
いちど全体を見ようと、書き込みボタンを押したのだがにゃ…。
(いつもだと、プロキシ規制で、エラーがめんになるにゃ)
まー、しょーがないにゃ…
>循環論があるためにゃ。
じつはこの議論は、自然科学にこのような循環が全然ないということをいわなければ、機能しないが、
なんとそれは明らかではないのにゃ。
ここんとこは、ほんとうに認識論上のかなりやっかいな問題になってくるが。。。
「数学的構成」か「実在」かという問題は、じつはとんでもなく難しいにゃ。
いいかげんなことを書いて、どーもすみませんにゃ。
反証可能性はあると思うが、理論自体が様々な理想化を前提としているので、
その理想化を受け入れた上での反証しか可能ではない、ということだろう。
それに不満なら、チョムスキー流の生成文法よりも
さらに反証可能性の高い言語理論を自ら提唱する以外に方法は無い。
議論をたちあげてしまったものはしようがないにゃ。さーて、いくつか電波とばしとくにゃ。あとはしらんにゃ。
【1】達成されて安定した文法知識の解析と、それがいかに獲得されたかの議論は分離できる。
前者では統語領域の自律が想定されるが、後者では明らかでない。
生得論争を抜きにしても、権利上、文法解析は可能。静的な文法知識の達成が観察されると考えるなら、なおさら可能。
生得知識にこだわる必要はなし。
【2】言語学の数理的厳密性をめざし、かつ統語素性をそのふるまいのみから規定するならば、
まずはいっさいの伝統的「言語学的単位」(句やら主語やら)を判断停止にすべし。
ここのところで、チョムスキーは十分に大胆ではなかった。
さしあたって「公理」にあたるのはバイナリ構造であるが、これはそれじたいとしては、自然数と同じような単調な産出構造でしかない。
もし、産出における[第1項]をa,bとしたとき、まずすべての個別文法においてa,bが非対称であることを実証し、
その関係をaRbと記述することができれば(もちろんbRaは、成立しない、ということで。)
この関係項Rのもつ両項が普遍的言語学単位の第1歩となる。こんなふうに第1項からはじめる方がデカルト的ではないか。
【3】シンタクスよりはるかにでかい、言語学的「生得領域」が存在する可能性がある。(マジで)
UGはヒト言語の唯一のコアではない。UGをもちだして、ヒト言語の進化全般についてかたるべきではない。
【4】対象aと、その心的表象'a'の両方を含んだ言説は、必ず哲学的困難に陥る。
これを「超越的関係」とよぶならば、自然科学はそれを対象としては含まない。(メタレベルで自然科学を語るさいには超越的にならざるをえないが。)
自然科学は、原則として心的内在と外在を関係付ける、特殊な関係を要請しない。
言語学は、ある記号列と、その心的意味の表象である別の記号列を等号で結ぶ限り、
(「aが`a`を意味する」「p='p'」)、自然科学と同等にはなれない。
↑まあ、なんでもいいけど、もう少しわかりやすく書いてくれん可能?
「あとはしらんにゃ」ではマジレスする気も失せるにゃが(あとはしらない〜♪は森高千里にゃ)
【1】「いかに獲得されたかの議論」はさらに系統発生と個体発生に区別しなければならんにゃ。
当然ながら生得性は後者についての仮説であり、前者についての考察が後者にもそのままあてはまる
というヘッケル的誤謬を冒しているのが一部認知文法論者であるということは何度も言ったにゃ。
前者についての「生得性」ももちろん「明らか」ではなく、仮説として提示されているのだからこそ、
賛否両論うずまくのにゃ。
【2】「主語」などの文法関係はあくまで便宜上の呼び名であって生成のプリミティブではないのにゃ
(これも禿しくガイシュツ)。虚無しゃんのいうような句構造の見方はbare phrase structure理論として
すでに実現済みにゃ。そこではαとβがくっつき、またそれによって自動的に定義できる構造関係のみが
実在しており、例えばVP/IPなどの呼び名も全部、便宜上のものに過ぎないことになってるにゃ。
(虚無しゃんは知ってて言ってるにゃ、にメロンパン1コ)
【3】「UGをもちだして、ヒト言語の進化全般についてかた」ったりは誰もしていないにゃ。たとえば
UGの形式特性については反ネオ・ダーウィニズム的進化のシナリオが主張されているが、これは言語全体が
そうだといってるのでは決してないのにゃ。
>シンタクスよりはるかにでかい、言語学的「生得領域」が存在する可能性がある
大いに結構にゃ。それに向けての下準備としてまずシンタクスを取り上げたのが生成だ、という
学史的位置づけが将来なされることになるとすれば、それはそれでいいんではないかにゃ。
【4】言ってることがよく分からんにゃが、自然現象の合理的解釈という点で、すべての自然科学は
研究者不在の現象自体ではなく研究者(観察者)のその現象の「心的表象」の提示ではないのかにゃ。
哲学的「困難」とゆーか、考察に帰着するのは量子論の例をあげるまでもなく、自然科学の必然だと
思うにゃ。
【1】前者についての「生得性」→後者についての「生得性」
メロンパンの先生、レス乙、ってゆーか、正直すまんかった。
「言語性得スレ」にもかかわらず、生得論議は脇においとけ、みたいなことを書いてしまったにゃ。
その他の論点も、どうもこのスレにふさわしかったとは思えんにゃ。しかもわかりにくい。
ただ【4】についてちょっと細くすれば、
「左とは、心臓のある方向だ」という知識と、実際左とはどっちなのかという知識はベツモノになるにゃ。
後者は記号列では表象不可能な知識であり、認知意味論のいう「肉体化した」知識も同類のものにゃ。
そして、一般記号操作では扱えない語彙意味が、「現実の」言語活動で主要な役割を担っているという個人的な予想があるのにゃ。
いっぽう数理的意味論が、(数学と同様)「直観」を必要としない形式主義的な性格をもつことはあきらかなので、
そのような形式意味処理のプロセスが、「心理学」としてはどのような地位を与えられるべきなのか、
これはわたしのひとつの問題提起になるにゃ。とうぜん記号操作で表象しうることだけが知りうる、という見解もあろうにゃ。
ところで、生成文法は、形式主義と直観主義の中間的な性格を有しているようにみえるにゃ。
チョムスキーじしんはあるときは直観主義者であり、ややこしい懐疑論に関しては、
「実際わたしはそのこと(ある語が何を意味するか)を知っているし、他者に関して同様の仮定をするのは当然」とやり返しているが、
わたしもそのようなアメリカ的な素朴さがほしいにゃ。皮肉ではなくて。
アメリカ的素朴さについては、削除。
ヨーロッパの言語思想が人気ないのはたしかだがにゃ。
次からは、おなじみの学習可能性についてやるにゃ。
心ってどこにあるの?スレに登場されていた言語学板の先生方が
濃い議論をされているようなのだが、む、難しい・・。
こういうお話なのでしょうか・・?
>>258>>260 【1】人間の脳に言語野があり文法ニューロンwのようなものがあるかもしれない
という仮説が生得説で、これは、文法知識の解析と別に語られるべきもの。
そして両者は対立する理論ではない。
言語能力を獲得する過程の議論は、個体と種で別々に語られるべき。
【2】チョムスキーは既存の言語学的単位に対し遠慮気味であった。
文法マンセーとまでは叫べなかった。
ただし、ここで文法というのは、主語や動詞という単位が
生得的に人間に備わっている事を意味しない。
【3】言語能力は【2】で述べられた普遍文法のみで形成されている訳ではない。
【4】心的表象を含んだ言説は、反証可能性に開かれていない為、
科学的には解析されない。
要するに、ヴィトゲンシュタインの言う「理想言語」はない
という事についての言及でしょうか?
(ここでの科学は、心身二元論で、機械論的自然観に基づくものと考えられる。
カント? 人は本当の物を知り得ないという事。
対象aと、その心的表象'a'の両方を含んだ言説は、必ず哲学的困難に陥る。
これを「超越的関係」とよぶならば、自然科学はそれを対象としては含まない。(メタレベルで自然科学を語るさいには超越的にならざるをえないが。)
自然科学は、原則として心的内在と外在を関係付ける、特殊な関係を要請しない。
言語学は、ある記号列と、その心的意味の表象である別の記号列を等号で結ぶ限り、
(「aが`a`を意味する」「p='p'」)、自然科学と同等にはなれない。
>>265訂正
書き込みエラーになって何度かやっていたら誤爆しました。
下7行は消し忘れです・・ すみません。
265の先生にも、正直スマンカッタ。
まず、【1】の生成文法の個別文法が「安定している」という意味は、
古典力学による太陽系の惑星運行モデルが、運動を含みながらやはり「静的」で「安定している」のと同様にゃ。
これは時間の変数を自由にとることができるので、
たとえば、実際には存在しない1000億年前の火星の位置まで予測してしまうのにゃ。
また、このモデルは、時間において過去と未来が対称的なため、
そもそも起源というものを想定しておらず、経験的な知識であるにもかかわらず、
太陽系をあるしゅイデー的な「永遠の存在」にしているのにゃ。このモデルは、「起源への問い」とは独立して存在してるにゃ。
さて、達成された文法もまた、そもそも時間変数すらないのだから、起源の問いとは分離できるということで、
なんで(モデル一般にあてはまる)こんな当然のことを言ったからというと、ひとつにはわたしは生成文法の方法論は、
「(個体的)生得説」の主張とはべつに、それじたいの可能性があると考えているからにゃ。
じつはポイントがもうひとつあって、「統語部門」の自律という問題で、
太陽系の起源をさかのぼったばあい、いずれ他の重力圏(他の系)との影響を考慮にいれざるをえないのに対して、
UGを仮定した「統語は学習されない」という主張においては、統語モジュールと他のモジュールとの「区切り」は、
出生段階においてサクっと画定しており、つまり統語知識は他の知識からの積極的な影響から免れており、
それは初期胚の全能細胞がおのおのの器官に成長していくのと同様、
(他者との接触はあるが、基本的には)みずからの情報を利用して発達する心的器官と考えられているにゃ。
それゆえ統語知識の獲得は原理的に学習ではないのにゃ。この主張をこれから検討していくにゃ。わかりやすくなったのかにゃ…
書き込んだ責任もあるので、さらにわかりにくい【2】について言及しておくと、
とりあえずチョムスキーは遠慮がちな人物ではないにゃ…
>そこではαとβがくっつき、またそれによって自動的に定義できる構造関係のみが
>実在しており、
この発想は、ボトムアップにゃ。わたしが産出構造といったのはトップダウンで、[第1項]は幹にあるにゃ。
バイナリ構造は、枝が2本のツリー構造で、もし枝が1本だったら、単純な自然数列になるわけにゃ。
このことで、「産出構造」でなにをいおうとしていたかわかってもらえれば、非常にありがたいが…
言語板のほうで、生成が公理体系をめざしている、という発言があったので、
それをまにうけるなら、このような(数論的?な)文法になるだろう、と予想してみただけにゃ。
あと、3項以上の等位接続がバイナリになりうるかの議論もあったけど、あれは不毛じゃないのかにゃ。
ここでは、あまり関係ないにゃ。
派生を解析とパラレルに見るトップダウン方式の派生理論もあるにはあるけどにゃ、
それはそれとして、操作自体がバイナリということと結果として出来上がる構造が
バイナリだということは必ずしもイコールではないにゃ。以前からそういう指摘が
あるにゃが、厳密に派生的に見て操作の適用方式自体が解釈部門への入力情報と
なるにゃら、まずMerge(a,b)、それからMerge(c,(a,b))の結果を[ c [ a b ]]と
表そうが[ c a b ]と表そうが同じことなのにゃ。
>267
265ですが、ドがつく素人です。
古典力学の例は余計ややこしくてダメボ…状態ですが、
UGを仮定した「統語は学習されない」という主張の
言わんとするところというか、方向性は分かりました。
質問ですが、UGを仮定した学習不要な「統語」とは、
どの程度の能力まで指すと仮定されているのでしょうか。
母語の文法上の間違いについては、自然と気づくという事を説明する為に
よく例文が引き合いに出されていますよね。
あれがイマイチ上手く理解できないのです。
というのは、2歳9ヶ月の子供が、めちゃくちゃな文法の文章をずっと
喋り続けている事がありますです。
「今日僕(次郎)は花子ちゃんに積み木をあげた」という文章を、
今日ー次郎ちゃんをー積み木がー
今日ー次郎ちゃんがー花子ちゃんをー
……(色々なバリエーションつけて繰り返す)
わざと間違えて言っているのかなぁ・・とも思うんですが
正しても直さないでつぶやき続けていました。
このように「てにをは」はしょっ中間違えていたのが、
2歳10ヶ月の今は、誤った文法の文章を独りで繰り返す遊び?を
やっていないようで、日常の会話で文法上誤る頻度も減りました。
こういうのはどう説明がつくのでしょうか・・。
話の流れの展開が見えてないので、気が向いたら教えて下され・・。
>>269 観念的な話だとは言え、言語学的には瑣末なことではないにゃ。
構造主義者による親族の概念構成を援用するが、個々の人間どうしがであって、
そこから家族関係を構成するわけではないのにゃ。聞いたようなハナシでスマソが、構造が論理的にも存在論的にも先行することになるにゃ。
すると親族構造から人間をみたばあい、あとから各人の価値(素性といっていい)が決定されることになるにゃ。
(くどいけど、ここでいう構造は、実体的な部分から構成されるものではないので、
チョムスキーの比喩にある腕やら翼やらの機械的な構造概念とは異質のものにゃ。あえてここで、いっしょにしてみるにゃ。)
で、>そこではαとβがくっつき、またそれによって自動的に定義できる構造関係
は、親族関係でいえば、弟素性をもつ個人xと、兄素性をもつ個人yがであって「兄弟」を構成する、
みたいな説明になるのではないかにゃ。
個々の実体的な「語」が、いかに「素性の束」として抽象化されているとはいえ、
その統語素性が構造を前提しているとすれば、mergeに関するオハナシは冗長な記述上の方便ではないのかにゃ。
と、いっておくにゃ。あまり生産的ではないつっこみかもしれないにゃ。
>>270 幼児の独語には、非常に興味深いものが観察されるにゃ。それは、しばしば無意味な呟きであり、
なんらかの知識の内在化であるとみることもできるが、なかなか客観評価が難しいにゃ。またあとで。
バカボンのパパはバカボンが生まれる前からバカボンのパパなのかにゃw
専門的にはteknonymyというけどにゃ、どーでもいいけどにゃ
生成でも樹形図上の成分の関係を母娘とか姉妹とか表現するにゃが、Xバー理論
的にみれば先にこのような関係があり、後からそれぞれに該当する具体的な
語彙項目ないしその投射が決まっていたにゃ。ところがbare systemだと
ばらばらの語彙項目がまずあり、それが結合して初めて関係が生まれるにゃ。
>構造が論理的にも存在論的にも先行する
は当てはまらないと思うにゃ。実際、今の生成はようやく広義の構造主義から
脱皮したように思うにゃ。
>弟素性をもつ個人xと、兄素性をもつ個人y
の喩えは、head-complementの関係について意味をなすかもにゃ。
theとboyがくっついてthe boyを作ったとき、どちらがheadなのか、the boyは
theの投射なのかboyの投射なのか、はどうやって決まるのか、がちょっとした
問題になるにゃ。まあ、mergeを対称的にαとβをくっつけるのではなく、
非対称的にαが自分の選択素性を満たすためにβを要求してくっつく、と見れば
そのαがheadになるんだけどにゃ。
とにかく論点を絞らなければわけわかんなくなるが、
まず、論理的遡行と因果的(時間系列的)遡行のふたつの関係が問題になるにゃ。これが「バカボンパパの問題」といわれるものにゃ。(ウソ)
そして、論理的アプリオリと先験的アプリオリが、それぞれに対応していると思われるにゃ。
「生得性」の問題は、後者の問題であるが、チョム理論においては両者は同一視されてるようにみえるにゃ。
ある語彙構造について、意味論的・論理的分解と、形態素的分解が整合的に行われるならば、
そこから因果的遡行(知識の起源)を導出してもよい、というのが、チョム理論の公理に含まれているような気がするんだけどにゃ。
わけわかんないかにゃ。
いつかの例でいえば、unfoldについて、形態素的分解が、(概念構造としての)論理的関係をも整合的に説明するとき、
そこから知識の時間的起源を推定してもよろしい、ということなんじゃないかにゃ。
で、これはわたしには受け入れがたい仮定にゃ。
ひとつには、多義性の問題があって、論理的にも、また現在のコンピュータアナロジーの観点からみても、
ある記号が多義的であれば、最終的にはその記号は冗長なものとなるにゃ。
たとえば名辞Xがふたつの意味内容をもつのであれば、それはけっきょく独立した命題関数F(x)またはG(x)を意味するのであり、
総合概念'X'はせいぜい二次的に処理されることになるにゃ。
だが一般的に、多義的な語彙が集積するさらに大きな構造において、多義性が増幅していくことはまずないにゃ。
文が長くなればなるほど全体の「あいまいさ」が増大していくようなことにはならないにゃ。
これが、現実に脳内に実装されている意味処理モジュールが、全体から最小構造への還元主義的アプローチでなしうるか、
という疑問になってくるにゃ。
『雨』が、知らないアイドルにカバーされてるにゃ。なんとなくウツにゃ。
>多義的な語彙が集積するさらに大きな構造において、多義性が増幅していくことはまずないにゃ。
あると思うけどにゃ。単純化していえば2つの意味を持つ動詞と2つの意味を持つ目的語
が組み合わされば可能な意味は4つ以上にゃ。「以上」というところがミソで5つ目の意
味(例えばイディオム)は還元論や構成性からは予測できないものとして、むしろ反生成
の立場で重視されるものにゃ。それら可能な解釈の中で個々の例につきどれが該当するの
か、一番自然な読みか、は言語の外側で決まることであって、言語的意味の多義性はどん
どん増大すると思うにゃ。
>文が長くなればなるほど全体の「あいまいさ」が増大していくようなことにはならないにゃ。
語彙的曖昧性もそうにゃが、構造的曖昧性も当然増大するにゃ。毎度お馴染み
Why did John cry? (unambiguous) / Why do you think John cried? (ambiguous)
[ Which pictures of himself ] does Bill like?/ (unambigous)
[ Which pictures of himself ] does John think Bill likes?/ (ambigous)
みたいなやつとか、
The cat killed the dog with a gun.
みたいなやつにゃ。
>因果的遡行(知識の起源)
は系統発生のことか個体発生のことか、はっきりして欲しいにゃ。
加藤のりこ(?)も昔森高をカバーしたが全然売れなかったという事実だけはこの際
はっきり申し添えておくけどにゃ
typoにゃ ambiguous
キーボード換えたら打ちにくくて仕方ないにゃ(つД`)
どうも議論が根源的になりすぎて、うかつに書けなくなってきたにゃ。
ちょっと思考がグルグル回って、わけわかんなくなってるのでハナシむしかえすけど、
まず、バイナリ構造にもとづく解析が、不毛で冗長である可能性がある。
(1)全体が有限個に分割できる
(2)それぞれの部分が、範疇を形成する(分割がデタラメでない)
(3)分割されたすべての部分から、全体を再構成できる(部分が、あますところがない)
(4)部分が、下位のレベルの全体である(階層構造)
とき、well-formedな構造というものを考えることができるにゃ。認知上の人体構造もそのひとつにゃ。
(<全体>が閉じているか開いているかの差異は、ここでは無視するにゃ。)
このとき、バイナリの記述というものはいつでも可能であり、
人体でいえば、たとえば指と掌が一緒になってhandになる、みたいな説明がそれじたい余分ではないかということがひとつあるにゃ。
その説明は、あるべき構造というものを先取りしてるのではないかにゃ。
わたしの批判派、おおむね、チョム理論が「何かを説明できない」というものではなく、
過剰に構造を説明しないか、ということなのにゃ。
たとえば、バイナリ構造は文の構造と体節構造の類似や差異については何ごとも語らないのにゃ。(凡庸な説明だから)
>はっきりして欲しいにゃ。
個体発生にゃ。メロンパンの先生、気が向いたら、上の例でreconstructionの教科書的説明してくださいにゃ。
BOB先生の「脳の作業としては不自然」ってのは、なんのことだっけにゃー???
(なんで懐メロ板の森高スレ盛り上がんないのかにゃ。)
森高スレで盛り上がってるのはここだけどにゃ
http://wow.bbspink.com/test/read.cgi/girls/1039375305/l50 (恥かしい板に出入りしてるのがバレちゃったにゃ)
バイナリの件、どうも虚無しゃんのポイントが見えないにゃ。
構造がバイナリというより、構造を組み上げる操作が二項を一つにするような
適用方法しか許されないということなんだけどにゃ。まあ構造の話しにしても
いいにゃが、どうして「バイナリの記述というものはいつでも可能」なのにゃ?
例えばコドンは塩基3連子のトライナリ構造と見ることもできるにゃが、これを
バイナリ構造として再解釈することはできない……少なくとも完全にはにゃ。
これに対して人間言語の構造は常にバイナリだという主張は自明なことではなく、
十分に反証可能な経験的主張なのにゃ。
reconstructionの説明といっても、にゃんとなくこのスレは虚無しゃんと俺以外、
無人状態のような気がするから虚しいのにゃ。まあ、reconstruction自体は一つの
分析方法に過ぎないのであって、それを採用せずとも他の説明もあり得る、とだけ
言っておこうかにゃ。
>言語板のお二方
すまんが、なにを言ってるのかサッパリわかりましぇん。
オレだけじゃないと思うので、どうか御配慮を。
単なる荒しみたいになってきて申し訳けないにゃ>皆しゃん
構造がバイナリだというのは、単純な話し、言語表現はどの単位をとっても2つにだけ分割できる
ということなのにゃ。
The boy loves these girls. だと、[ the boy ] と [ loves these girls]、それぞれは the + boy、
loves + these girls、またloves は love + s、these girlsはthese + girls、girlsは girl + s、とここまでは
生成というよりその前のアメリカ構造主義の直接構成素分析の次元なのにゃが、なぜそうなのかというと、
構造を組み上げる際には2つを1つにするという単純な作業しか人間言語はできないような仕組みに
なっている、というのが生成の主張になるにゃ。だから一見3項以上に枝分かれしているように
見える表現、[ A and B ]みたいな等位接続とか [ give Mary some money ] みたいな2重目的語表現は
全部2項枝分かれとしてより精緻な構造分析が与えられることになるのにゃ。
>>278 むにゃむにゃ。cognitive structure とphysical structureをごっちゃにしちゃわけわからんにゃ。
「言語」のアナロジーでコドンの話がでてきたのかもしれないけど、物理的コーディングが解明されれば、
少なくとも構造の客観性については難問はおきないにゃ。同時に、宇宙のどこかから飛来した謎のコンピュータが、
2進なのか、3進なのか、はたまた11進なのか、決定する実証的手続きは存在するにゃ。
>どうして「バイナリの記述というものはいつでも可能」なのにゃ?
ここをつっこんだのは正解にゃ。ここには生成理論が許容するような「擬似カテゴリ」を導入するならば、
という譲歩がなければならなっかたにゃ。
さて、ここでなされている議論は、たとえば眼が3つある顔が正常でないと判断する認知能力を説明するのに、
おのおののfeatureの表象がまずあり、それが(くっつきながら)ちいさな単位から大きな単位を形成し、
最終段階で「相貌的に解釈されない」featureである眼が1個余って破綻するのだ、みたいな議論に似ているにゃ。(顔文字文法)
さて、言語のように機能局在の特定が難しいばあい、このような議論は経験的といえるのかにゃー?
これが経験的な議論であれば、現実的なのか、それとも「正しくはあるがたまたま現実でなない」か決定する方法があるはずであり、
現実であればこの計算様のモジュールが脳内に実装されている可能性は高くなるにゃ。
チョム理論が原理的な改変を何度もこうむるのは、反証可能性によるものではなく、
逆に実証手続きの根本的な不在を意味しているように思えるにゃ。ちょっと矛先が変わったけど。
わたしのハナシはいったん休みにゃ。メロンパンの先生、ねたふりよろしくにゃ。嵐スマソにゃ。
282 :
没個性化されたレス↓:03/02/09 05:07
言語板の先生方再訪歓迎あげ
ほんとに歓迎されてんのかにゃ…。
まあ、「心的構造」というだけでうさんくさいと考えてる人もいると思うけど、
わたしもこの研究が経験科学になるのは一般に厳しいと思うにゃ。
チョム学派のひとびとが文法の知識の研究が、天体物理学に匹敵するような自然科学だと信じ込んでいるのは驚くべきこと…、
というより、「言語は自然物、したがって言語を研究すると自然科学」みたいな単純な図式を信じてるからだろうにゃ。
申し訳ないので、わかりにくいこれまでのわたしの言い分をぶっちゃけていうと、
自然言語の基本構造とされる「フタマタにしか分かれない枝分かれ構造」が、
じつは、「想像のなかで正しく組み立てられるものの」大部分、
たとえば人体の認知構造やら自動車の認知構造まで説明するようなら、
それは認識する側の、主観の問題になってしまうのではないか、
あるいは、何でも説明するものはたいがい何にも説明しないのではないか、という疑問がひとつあるにゃ。
そして、なぜ「フタマタやミツマタの組み合わせ」とかではなく、「フタマタだけ」なのか、
なんでそれが経験的主張となるのか、どうやって実験するのか、というもっともな疑問もあるにゃ。
「想像のなかで組み立てる」というのは、まあ、幼稚な言い方だけど、
要するに部品が「ピコピコと脳の中を移動してくっついていく」わけではないということだにゃ。
ここでいう文法の問題とはまさにそういう(想像のうえの)問題なのにゃ。(デタラメといういみではない)
いっぽう分子生物学のコドンなんかについては、「ピコピコ動いてくっつく」と説明しても全然OKなのにゃ。
検証もできるにゃ。このへんにしとくにゃ。
話についていける人間がどれだけいるかはともかく、
こういうスレがあるにこしたことはないのれす
言語が自然物natural objectでないとしたら何なのか、まあ、ふつーは自然物に対立する
概念は人工物にゃから、言語は人間がコミュニーケションの手段として発明した、とか
いった世間話程度にゃら罪がないが(ちょうど鳥は空を飛ぶために翼を発明した、と同じ
レベル)理性に裏打ちされた思考としては到底受け入れがたい迷信を支持する人だけが、
言語(だけ)は自然物ではないという二元論を歓迎するにゃ。
世界は本来連続した総体であって、それを各パーツに人為的に分割することで便宜上、
自然学に「物理学」「心理学」「言語学」などといった分業制度を持ち込んでいるに
過ぎないのにゃ。なにゆえに人間言語だけは、または人間心理だけは自然世界から隔離される
べきなのか、自然物として認定されるに値しないのか、その二元論的思考の根拠を伺いたい
ものにゃ。
酒井邦嘉「言語の脳科学」中公新書を読んでみますたが、
言語学板の先生方の議論が難しすぎて、あっしにはわかりませぬ(涙。
言語システム自体に内部にモジュールがあり、
統語論、意味論、音韻論の3つモジュールが
言語システムを形成しているという仮説には
抵抗感はないのですが、
これが、「人類普遍の心的言語の存在」となると、疑問符が…。
まぁ、その中身をよく読んでいる訳ではないので、素人にもわかる
お勧めの書籍があれば教えていただければ幸いでつ。
以前190氏に教えていただいたpinkerの本が良いのでしょうか。
かぶってしまいますた…。
>285
チョムスキーの理論とダーウィニズムは相性が良いのでしょうか?
鳥が飛ぶのも、人間が言語を使うのも、そのような個体の適応度が高かったから
だろう…という話になるので、当然、鳥の羽も、人間の言語も、
個体が自らの意思で発達させたわけではないので
自然物(?)と言っても差し支えはなさそうなのでつ。
あっしは詳しいことは分かりませぬが・・(汗。
>「人類普遍の心的言語の存在」となると、疑問符が…
その疑問符の内容を書いてもらえるとこっちもレスしやすいですにゃ
>チョムスキーの理論とダーウィニズムは相性が良いのでしょうか?
少なくとも対立はないにゃ。ややこしいのは、ネオ・ダーウィニズム(自然選択万能論)は
ダーウィン自身の考え方とは別物であって、こちらにはチョムは猛反対しているということにゃ。
そしてピンカーはチョムのUG仮説を支持しながらも、その説明をネオ・ダーウィニズムに
求めている点ではチョムと対立しているのにゃ。対してチョムの立場はネオ・ネオ・ダーウィニズムと
呼ばれることがあるにゃ。
関連スレ
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1022592781/ の279以降
>288
ありがとうございます。
pinkerを読む時は、その辺り気をつけて読みますでつ<ネオ・ダーウィニズム。
進化論も詳しくはないのですが(汗、
ネオ・ダーウィニズムかダーウィニズムかというのは、
遺伝的浮動や中立説についての見解が分かれているのでしょうか・・?
現在ある獲得形質が、常に適応的とは限らなず、
偶然の産物によるものであるとするのがダーウィニズム?
(キリンのクビが長くなったのは、たまたま。
別に高いところにある餌をとる為に長くなった訳じゃない…等々)
現在残っている獲得形質は、自然選択の結果で適応的な形質であるというが、
ネオ・ダーウィニズムなのでしょうか?
(この辺り、進化心理学スレの177氏が詳しそうなのですが…。)
>「人類普遍の心的言語の存在」となると、疑問符が…
というのは、チョムスキーの理論をちゃんと読んでいる訳ではないので
恐縮でつが、上掲書の中に
「チョムスキーは、自然言語には文を作るための必然的な文法規則があり、
これが普遍的かつ生得的な原理であることを提唱した。
一方、意味や概念の学習は後天的であり、単語と意味のつながりは連想に基づくものであって、
その連想関係は偶然的である」
とあり、下3行は理解できるのですが、上2行がわからないのです。
批判ではなく、素朴な疑問でつ。
その根拠が、大抵「文法の誤りは習わずとも分かる」という例なのですが、
これが疑問なのです。
上掲書の中に「はっきりと文法の規則を与えてはいないのに、なぜ幼児は、
文法的な規則を自分で一歳児から話を始められるのだろうか」という文が
あるのですが、そこまで言い切れるのかなぁ…と。。
文法モジュール?はあっても、文法それ自体は試行錯誤で得ているような
気がするのでつ。
ステ助はこのスレの第1部と第2部をちゃんと読んだのか?
もっと単純に、自然選択は進化の主要な要因の1つ(ダーウィン)なのか、唯一の説明(ネオ・
ダーウィニズム)なのか、の違いですにゃ。言語の特性には選択や適応では説明できない部分もある、
とするチョムのほうがネオ・ダーウィニストよりもダーウィンの考え方に近いですにゃ。
>「チョムスキーは、自然言語には文を作るための必然的な文法規則があり、
>これが普遍的かつ生得的な原理であることを提唱した。
その文法規則が昔の句構造規則を指すとしたら、今のチョムの考え方とは全然違うにゃ。規則自体が
生得的であるのではなく、規則によって生成されたかに見える文を生み出す仕組みsyntaxがUGを
基盤に自発的に立ち上がってくる、といったあたりかにゃ。
>一方、意味や概念の学習は後天的であり、単語と意味のつながりは連想に基づくものであって、
>その連想関係は偶然的である」
記号の恣意性のことにゃろが、意味や概念の中には構造によって規定される部分もあり、その部分は
結局syntaxの領域になるにゃ。前に虚無しゃんに出した例にゃと、動詞cover = [ MAKE 〜 COVERED ]
のような概念構造だとして、uncoverは [ MAKE 〜 NOT-COVERED ] であって[ NOT-MAKE 〜 COVERED ]
ではない、といった語彙意味はsyntaxの知識を背景にしていると俺には思えるにゃ。
>はっきりと文法の規則を与えてはいないのに
これが問題の「刺激の欠如」の議論ですにゃ。とりわけこれこれは非文法的である、という否定的情報
は子供に提示される初期データの中に含まれていないのに、どうしてすべての子供にそのような判断が
できるのか、という論点に対して賛否両論、いろいろあるのにゃ。ちょっと基本に戻るにゃが、例えば
英語に寄生空所parasitic gapと呼ばれる現象があってにゃ、
1) Which article did you file t? (これは単純なwh疑問文で、which articleはtの位置から移動したと
分析される)
に対して
2) Which article did you file t before you read e? (eの部分はwhich article-tの関係に寄生して
認可されるオマケ的空所)
と分析されるにゃ。ちなみにeの位置からの直接wh移動はできないのにゃ。
3) *Which article did you file the newspaper before you read t?
ところでこの寄生空所の分布には制限があって、寄生すべきtとの位置関係が限られるのにゃ。(2)はよくても
4) *Which article t surprised you before you read e?
はダメということは英語のネイティブにゃら誰にでも分かる(らしい)のにゃ。
さて、寄生空所自体、比較的稀な表現であって幼児全員が等しく経験するとは期待できない、ましてや
非文法的な例を提示されこれはダメですよと教えられることはまずあり得ない、そのような状況で
どうやって母語話者全員が(2)はよくて(4)はダメと判断する一様な文法知識を獲得できるのか、この例
に特有の規則があるなどと言ってるのではにゃいが、それを含めて何かしら言語のあり得る構造、あり
得ない構造を規定しているような抽象的文法知識は生得的資質がまずなければ生じ得ないのではないか、
という考え方なのにゃ。
まだこのすれあったんだ。今度読んでみますニョロ。今日は
忙しいっす。
お久しぶりです
2ちゃんねるにおけるジャーゴンが読みたくて月刊言語の2月号買っちゃったのですが、
その中の「エルマンネットの衝撃」という文章は、これだ!って思っちゃったんです。
刺激の貧困をより所にする生得性論議は、もしかして瓦解するんじゃないのかな。
書いていたのは浅川伸一という人です。
詳しい方いらっしゃったら解説ねがえますか?
(あ、流れを切りそうなら無視して結構です)
>291
×ちゃんと読んでません。
○「ちゃんと」読めませんでした。 うう・・(涙。
目を通し、そして撃沈しますた。。(涙。
色々お伺いする前に、少しだけでも予備知識をつけよーと思い
年始にチョムスキー初心者スレ等もROMってみましたが撃沈。
そして、方々のスレを見るにつけ、どれが質問でどれが解答で、
どれが論点なのかすら分からないという有様で…。
という訳で、同じ質問の繰り返しになっているとは思うのですが、
心理学板にいらっしゃっていたので、図々しくも質問してしまいますた。。
ご容赦頂ければ幸いでつ。。 ちょびっとだけ。。
>295 どうぞマターリ続けてください。
少々、顔文字先生に質問させて下さい。
あっしのレスの方こそ、適当に読み飛ばしていただければ幸い(汗。
>292 syntaxというのは、統語論? 文や句の構造の事でつか?
>意味や概念の中には構造によって規定される部分もあり、
というのは分かる気がします。
そして、意味や概念は、文や句の構造によって規定されない部分もあるという事でつよね?
既に決まった言葉を覚えたりする時に、ヘレン・ケラーの「水」みたいに、
言葉になる前に持っていたもやもやした物に相当する言語を知る事により、
概念そのものをしっかり掴む瞬間もありますよね。。
言語がなければ、もやもやしたものは、概念として定まることなくもやもや
したままだと思うので、言語は、思考する際に非常に有用な能力につき、
生得的といわれても、あまり齟齬感はないのでつ。
ただ、それの裏づけとなる非文の例が出てくると、もにょもにょと素朴な
疑問が出てくるのでつ。
>>293 母語でなくとも、文法を知っている者には間違いが分かるのですが、
幼児だと分かるのかな?という素朴な疑問がありまつ。
幼児の発話は早くても1歳児頃、遅いと2〜3歳児くらい(なのかな?)のようですが、
その間に沢山の文章を耳で聞いていると思うのでつ。。
なので「刺激の欠如」とまで言ってしまえるのかどうか?
という素人的疑問が一点。
二点目は、2,3歳児は結構文法を間違えているというn=1の事例(汗。
母語が英語の幼児は知らないのでつが、卑近な例で恐縮ですが、
甥は2歳児頃、母語である日本語の「てにをは」を間違えていたのでつ。
例えば、「○○ちゃんは、△△ちゃんをー、□□がー、持っていくー。」
とめちゃめちゃな事を喋ってたりします。(わざとかどうかは分かりませんでしたが)
因みに、もうすぐ3歳となった今は、ほぼ正しい文法で喋ります。
三点目は、抽象的文法知識なるものが、母語によって違う場合はどうなるのでしょうか?
日本語には受動態がなかった訳でつが、(中学英語で教えられてから、
英文和訳っぽい受身の日本語も使ったりしそうですが)
各言語により、相違があるのはどうしてなのでせうか・・。
(おそらく何度も出た質問だという気がして、冷や汗まじりの恐縮ですが… すみません)
マジカルナンバーみたいに、人間が覚えられる数字の数の上限が決まっている等
というレベルと同等の段階で、文法を理解できる能力は生得的というのならば
わかるのですが、
抽象的文法知識が生得的に備わっているという事が、ちょっと想像しにくいのです。。
>ステ助
気持ちは分かるが、やはり頑張ってこのスレの第1部からじっくり読み直したまえ。
何番は何番に対する回答なのか、ということを気にしながら読むのはかなりツライだろうが、
そうやって苦労して読むだけの価値はあると思う。
windowをいくつも出して、あちこち参照しながら読んでごらんよ。
嫌われ者だったミルク氏(名無しetc.でのレスも多いが特定はできるだろう)が言っていたことの中にも
理解を助けるヒントがある。
なお、言語板の諸スレは(初級スレも含めて)門外漢には無理だよ(もちろんオレにも)。
とにかく読み返せ。これは貴重な「他領域のお勉強スレ」なんだよ。
その上で入門書を読むと少しは理解できる(オレが経験済み)。
いきなり入門書は厳しいだろう?
おそらく顔文字氏他の方々がまた解説してくれるだろうが、
これまでにも門外漢向けに質疑応答がなされたのだから、
ここでまた同じ事を繰り返させるのも申し訳ないじゃないか。
もっとも、ミルク氏がいない今は再開するチャンスかもしれんか。(w
>>295 つーか、買っちゃったんなら、読んだ上で、内容を簡単でいいから紹介してよ。
でもさあ、エルマンならこのスレでたしかガイシュツだよなあ(相手にされてなかったような)。
しかし「刺激の貧困説」の話題を蒸し返すのはけっこう歓迎。やっぱ納得できねえもん。
新しい展開がありそうならばだが。
死んでいたスレが生き返っている。なんか感激。
>>300 ピンポーン♪
>>295 久しぶりの国語のせんせ、残念にゃがら「エルマンネットの笑撃」はその欺瞞ぶりと生得説に対する
意図的歪曲ぶりが暴かれ、生成側からは一笑に付されているらしいというのが現状にゃ。
俺は全然詳しく知らにゃいけど、例えば Jenkins, Biolinguisticsなどでケチョンケチョンに書かれてるにゃ。
... a study found that the performance of some neural networks (e.g., Elman networks) was
improved by providing the system with information from UG .... In addition, the nework received
information normally not given to the child; viz., grammaticality status.
>>298 一点目。「刺激の欠如」は量ではなくて質についてのものとされるにゃ。いくら大量に言語刺激を受けたと
しても(現実には量においてさえも大きな個人差や文化社会的差があるにゃが)、その中に問題の言語知識を
導出する手掛かりが必ず含まれているのか、さらにいうと、そもそもその言語知識とはどういうもので
あってそこにいたるにはどういう刺激が必要でそこからどのように導出されるのか、が明確でないと
いう困った側面(だから言語学者はメシの種に困らないという罠ゃ)もあるにゃ。
二点目。生得説のどこからも、幼児は最初から完璧に話し、間違いは犯さないという主張は出てこないにゃ。
むしろ間違いにも一定のパターンがあり、それは経験的に説明できないということで逆に生得性を支持する
ものにさえなるにゃ。下に出てくるパラメタ設定でいうと、たまたま当該言語の大人の文法とは違う
パラメタ設定を幼児は暫定的に行っていることになるにゃ。
ご指摘の格助詞の誤用はこれとは別で、他の統語構造とその形態解釈の問題と同様、格システムなどの
文法原理の知識とそれを当該言語でどのように具現化するのか(発音するのか)の知識の違いだと思うにゃ。
例えばある環境でその名詞句が主格ではなくて対格を担う、ということと、その対格は日本語では「を」で
標示される、ということは別物であって、後者には語彙の獲得と同様、明示的学習の占める重要性が大きいにゃ。
三点目。各個別言語間に見られる現実の多様性と、想定されるUGの普遍性の間のギャップこそが、生成理論
にとってもっとも興味ある問題で、また得意としなければならないテーマなのにゃ。UGという人類共通の
基盤から出発して、結果的には多様な個別文法に到り安定するためには当然、環境からの刺激の多様性が
必要にゃが、問題はいかに僅かの刺激の違いだけでその文法の多様性が自動的に導き出せるか、つまり
どれだけ経験を節約できるのか(すなわち刺激の欠如が許されるか)であり、その答え自体がUGの設計に
あると考えるのにゃ。たぶん酒井氏の本にもあると思うにゃが、いわゆる原理とパラメタの理論がこれで、
一般原理はそのままでは実働せずちょっとした微調整(パラメタ設定)を施すことで異なる個別文法として
具現化する、と見てるにゃ。初期条件の微少な変動に鋭敏に依存する、とどっかで聞いた表現を使っても
いいにゃが、あるパラメタが設定されるだけで連鎖反応的に次々に関連する文法原理が具体化し動き出す、
という感じにゃ。
>日本語には受動態がなかった
受動態という表現形式を出す仕組みがないのではなく、その表現形式を用いる頻度が低いということでは
ないかにゃ。後者の問題は生成の守備範囲ではないにゃ。例えば英語は「する」型・他動型で日本語は
「なる」型・(非対格)自動型、とよく言われるにゃが、これは日本語に他動性が欠落しているという
ことではなく、あくまで使用レベルでの傾向を指しているにゃ。
>英文和訳っぽい受身の日本語
繰り返しになるにゃが、英語で
1) John thinks [ that Mary is guilty ].
をMaryを主語にして受け身文に変えると
2) *Mary is thought (by John) [ that φ is guilty ].
と非文になるにゃが、日本語で
3) 太郎は [ 花子が有罪であると ] 思っている
を同様に受け身にしても
4) 花子は(太郎に)[ φ有罪であると ]思われている
とOKになるにゃ。
もちろんこれらの個々のケースについてすべての英語話者、日本語話者が学習するわけはないので、
この違いも含めて日英間の違いをできるだけ統一的に引き出すようなパラメタ的差異は何か、を
言語学者は探っているわけにゃ。なぜ(2)はダメで(4)はOKか、どうしてそれがすべての母語話者に
分かるのか、も刺激の欠如の議論の一例にゃ。少なくとも日本語話者にとっての受け身は中学校で
習った英語のまねをしているわけではないことは分かってもらえるのではないかにゃ。
>マジカルナンバーみたいに、人間が覚えられる数字の数の上限が決まっている等
>というレベルと同等の段階で、文法を理解できる能力は生得的
いや、まさにそういうことを言い続けているのだけどにゃ。
どう考えても、生後1年以上たたないと話し始められない人間に
生 得 的 言 語 獲 得 装 置
なるものがあるようには思えないのだが・・・・・
チョムスキーは子育てしたことがあるのだろうか。
>306
いいから過去レス読め。んなこといったら心理学が明らかにしてきた
学習能力だって存在を疑われるぞ。
308 :
玉には書き込み:03/02/13 03:33
「刺激の欠如」の例として、チョム先生が出している例が、彼の
理論の展開・発展につれて変化していることにも注意されたし。
GB理論以前では、「規則の構造依存」がどうやっても資料やアナロジーからは
学べるはすが無いという話をしていましたが、GB以降は、これが
使えなくなったので、parasitic gapの例などに変わっていますね。
「規則の構造依存」に関しては、確かに、その通りだと思いましたが、
parasitic gapの例などに関しては、実はよくわかりません。確かに
複雑だが、よく見ると、ある種の等位構造のgapに似てなくも無い。
とにかく、「規則の構造依存」が持っていたような迫力は無いような
気がしますニャン。
すまん、うっかりあげちっまた!
310 :
没個性化されたレス↓:03/02/13 05:09
みつけたー。
311 :
没個性化されたレス↓:03/02/13 05:13
>>306 生後数週間しないとものが見えるようにならない人間に
生 得 的 視 覚 獲 得 装 置
なるものがあるようには思えないのか・・・・
生後1年しないと歩けるようにならない人間に
生 得 的 歩 行 獲 得 装 置
なるものがあるようには思えないのか・・・・
うん、きみにはものを考える装置が生得的に備わっていないようでは
あるな。
>>303-305 何度も説明させてしまい大変失礼致しますた。。
なるほどでつ。
一点目:刺激から、言語知識を導出する手掛かりとしての統語論な訳でつね。
二点目:顔文字先生のレスわかりやすいでつ(涙。
言語能力が生得的という事自体には違和感を覚えないのに、
「はっきりと文法の規則を与えてはいないのに、なぜ幼児は、
文法的な規則を自分で発見して、一歳児位から話を始められるのだろうか。」
(上掲書p278)という文章等にひっかかていたのですが、
そのご説明の仮説ならば納得でつ。
三点目(
>>304-305):
この非文については、何故これが英文では非文とされるのか?という事が
問題にされているのですよね? (確かに不思議でつ。)
そしてそれとは別に、幼児はこの非文を見分けられるかどうかは、
問題としていない…という事になるのでしょうか?
主語がeveryone等で、動詞がsay等なら、例外的に、
Everyone says Mary is guilty.の受身として
It is said that Mary is guilty.
はOKなのでしたでしょうか。。
このようなitの用法は、英語話者の幼児には、生得的に文法を知っているのでしょうか。
というか、チョムスキーもそんなことは言ってないのでしょうか?
という辺りの事が知りたかったのですた。
顔文字先生のお話を伺っていると、チョムスキーはおそらく、言ってないのでつね。
↑という事で、納得いたしました。。
>顔文字先生
不躾けな質問にご解答頂き、有難うございます(涙。
>299
了解いたしますた。
頭から一通り目は通していたのですが、
専門用語が多すぎて理解ができなかったのでありまつ・・・。
ひっかかりは取れたので、改めて過去ログめぐりの旅に出まつ。
すみませんでした>all。
多分ステ助しゃんはじめ、多くの人が混乱するのは「文法」ということばから、例えば学校で習うような
明示的な決まり事を連想するからだと思うにゃ。生成でいう文法は、ある一定の方法で言語計算を行う
ような(それ以外では行えないような)脳の状態であり、それを脳内文法、言語知識、言語機構、言語器官
などと呼んでいるのにゃ。ある文が非文で「あるとされる」というのは、交通法規みたいにみんなで相談して
これはダメだということにしよう、ということではなく、そういう言語計算ができない仕組みに脳が
なっている、ということに他ならないにゃ。どうして非文だと分かるのか、は、脳がそれを生成できない
ようになっているからであり、どのようにしてそういう状態になるのか、が言語獲得の問題、そして
そのような制限の中には生まれつき備わっているものもある、というのが生得説にゃ。
人間が自力で空を飛ばないのは、回りの誰も飛ばないから自分も飛ばないことにしようというより、
最初から飛べないような構造になっているのだ、という喩えもそれほど的はずれではないにゃ。
>It is said that Mary is guilty.
いいにくいにゃが、これは上とは全然関係ないケースにゃ。
305では便宜上、受け身という特定の構文を使ったにゃが、言いたかったのはある領域内からその外側へ
ある要素を取り出す、もしくはある領域の内の要素と外の要素を関係づけることに対する制限と、
その個別言語間の差異のことにゃ。
1) *[ Mary is said [ that φis guilty ]]
2) [ 花子は [ φ有罪であると ] 言われている ]]
どちらも定時制を持つ埋め込み文の主語が主節の主語として繰り上がっているが、英語でこの移動が不可
であるのに、日本語ではOK、ということですにゃ。埋め込み文を領域Xとして、このXが日本語では
透明なのに、英語では不透明(外から中が見えないという意味で)と表現してもいいにゃ。
UGのレベルでこのような不透明領域Xのおおまかな特徴付けが与えられているとして、個別言語レベル
では違いが生じるのを、パラメタ設定でとらえるにゃ。例を追加すると
3) *[ Mary thinks [ that herself is guilty ]]
4) [ 花子は [ 自分自身が有罪であると ] 思っている ]
(3)はダメにゃが(4)はOKにゃ。埋め込み文主語の再帰代名詞(herself、自分自身)が主節主語を先行詞に
できるかどうかについて、上の(1-2)と同じ違いが再出することがお分かりかにゃ。英語を習い始めた
日本人がときどき(3)みたいな英作文をして×をつけられるにゃが、これは母語のパラメタ値が外国語
学習に影響を及ぼしている例になるかもにゃ。
あるいは
5) [ John thinks [ that *her/she is guilty ]]
6) [ 太郎は [花子を/が 有罪であると ]思っている ]]
埋め込み文主語が英語では主格sheでなければならず対格herではでてこれないのに対して、日本語では
対格「を」でも主格「が」でもいいにゃ。対格が主節の動詞think/思う から与えられるものとして、主節
要素との関係づけの制限が日英で異なることになり、やはり(1-2)と同質の違いがここでも再現されてるにゃ。
このように個別言語間には、いろいろ違いがあり一見するとそれらは互いに無関係なのにゃが、よく
見てみればそれらは同じパターンに収束することがあり、それは同じ基本的差異が文法のいろんな面に
形を変えて表出しているのだと考えられるにゃ。たった一つのことがきっかけで、あんなことも
こんなことも全部分かる、「一を聞いて十を知る」的な言語獲得の有り様を説明するのもパラメタ理論
の仕事なのにゃ。
>315 異論なしでつ。
>316
出先なので今は手短になりまつが
その非文に幼児が気付くかが疑問でつ。
自他区別が曖昧な段階では、正しく言語を操る事も不可能でせう。
認知能力の発達と共に言語能力も発達し、
認知のアルゴリズムが生得的であるという事から
文法も生得的制約を受けるという仮説なら納得。
ただ一歳児にも普遍文法があるから非文に気付くという一点だけが疑わしい。
しかし、チョムスキー本人はそんな主張はしておらず普遍文法という言葉のイメージから来る誤解ですよね?
と言いたかったのですた。
ざっと目を通してみましたニョロ。カオモジ師に対して横レスに
なるにょろけど、
>>318 言語は他の認知体系とは直接には干渉しあわない独立した
システムだと考えられているニョロ。しかし、他の認知機構と
同じく言語器官(その初期状態が不変文法)も発達する、
それが言語習得である、というのは正しいと思うニョロ。
子供が間違いにはっきりと気付くのではなくて、そういう文法
知識獲得というのはあくまで無意識的にょろ。カオモジ師がいっている
「刺激の欠乏」の例は、母語話者ならだれしもが「知っている」
言語知識を反映しているにょろ。子供だけでなく、なぜ、どのようにして、
そういう知識を我々は獲得できたのか?ということを考えてみれば
いいにょろ。「太郎が花子に校庭を走らせた。」とはいえるのに、
「太郎が花子を校庭を走らせた。」とはいえない。これは
誰かに教えられたから持っている知識ではないにょろ。
>319
どうも「知識」という概念の使い方が心理学と激しくずれている気がする。
>>311 生得的視覚獲得装置や生得的歩行獲得装置は必要でないのに
なぜ生得的言語獲得装置は仮定する必要があるのだろう?
生得的野球規則獲得装置、生得的テーブルマナー獲得装置、
生得的ナンパテク獲得装置、生得的2ちゃん煽り方獲得装置
なんかはどうだろう? なぜ言語獲得に関してのみ生得的装置
が必要なのだろう?
>>272 >バカボンのパパはバカボンが生まれる前からバカボンのパパなのかにゃw
そうだよ。「バカボンのパパ」というのは通称(愛称)ではなくて、本名だ。
ネットで調べてご覧。『天才バカボンの謎』という本にも説明されている。
バカボンが生まれる前からパパは「バカボンのパパ」だったのだ。それでいいのだ。
顔文字氏が言っている非文も、われわれ素人からしたら、ちょっと変な文だなとは
思うが、慣れれば「それでいいのだ」となりそうな気がするが、どうよ?
(そういえば、この「どうよ?」という表現も昔はすごく違和感あったなぁ。)
>306 :ネタ半分マジ半分 :03/02/13 02:46
>どう考えても、生後1年以上たたないと話し始められない人間に
> 生 得 的 言 語 獲 得 装 置
>なるものがあるようには思えないのだが・・・・・
進化心理スレver.1にいって、そのとんでもない思いこみを修正してきてください。
「生得的→生まれた直後から能力が発現」なんてヘンテコな図式、どこで覚えちゃったの?
>生得的視覚獲得装置や生得的歩行獲得装置は必要でないのに
「Aが学習だけで獲得できるなら、Bも学習だけで獲得できるはずだ」
この命題は、A=Bの時にだけ成立する。
君って、詭弁が上手だよね。
>この命題は、A=Bの時にだけ成立する。
〜の時には常に成立するが、そうでない時には
真偽が明らかでない。
上の「エルマンネットの笑撃」の終わりの部分で、言語が人間に特異で領域固有だというなら、バイオリンを
弾いたりゴルフをしたりするのも人間に特異で領域固有だということになるではないか、というような
ことが書いてあって悪いジョークだと笑わせてもらったにゃが、321のバカボンパパも同じような
ことを言い出すところを見ると、ひょっとして心理学者はみんなこんな単純な考え方をするのかと心配に
なってきたにゃ。
ここでの大きな過ちは、バイオリン演奏とかテーブルマナー獲得とかいった行動全体を、その行動を
可能にするために要求される様々な能力のうちの一つと同列に考えていることにゃ。
例えばゴルフするにも、二足歩行をはじめ生得的身体能力の発現が要求されるにゃ(たぶんにゃ)。
ゴルフ行動自体は生得的ではないけども、その根幹には人類共通の生得的運動能力の関与があり、
同様に言語行動には生得的言語能力も関与しているというだけのことなのことにゃ。ただ、二足歩行
能力(の素)がゴルフに特化したものではないので「ゴルフプレイ獲得装置」と呼ばないのに対し、
UGのほうはは言語に特化していると見(モジュール認知論)、「言語獲得装置」と称するのにゃ。
>ちょっと変な文だなとは思うが、慣れれば「それでいいのだ」となりそうな気がする
太郎がメロンパンを買ってきたよ → をメロンパンよきたが太郎買って(これでいいのだ♪)
ところでバイオリン演奏には音楽の能力も当然関わるにゃが、進化心理学ではMusic Acquisition Deviceが
Language Acquisition Deviceの先駆物であると見られているらしいにゃ。このMADの生得性については
心理学諸賢はどう考えてるのかにゃ?
ひょー。1日でこんなに書き込みが増えてるなんて・・・・
エルマンの話が上の方で出てきていたのは見ました。言語(特に生成)畑の人が
エルマンネットをくそみそに言ってそうなことは私にも容易に想像がつくのです。
(顔文字先生のお話は、僭越なことを言わせてもらえばある程度予想の域でした)
言語板の生成スレでではなくてこの板で質問をしたのは、この板に集う心理学系の
人にとって、エルマンネットがどう評価されているのかを知りたかったから。
私がエルマンネット(を文系素人向けに紹介する浅川氏の文章.「言語」というのは
畢竟そういう雑誌です)に引かれた一番の場所は、
>>エルマンのネットワークでは文法知識はネットワークの結合係数の大きさとして
>>表象されていることである。
というくだりなのです。そして、
>>この文法知識は否定的な証拠を提示されることによって獲得されるのではなく、
>>単純に次の単語を予測するだけしか行なっていない点も強調される。
という点も。
>>325 >ゴルフ行動自体は生得的ではないけども、その根幹には人類共通の生得的運動能力の関与があり、
>同様に言語行動には生得的言語能力も関与しているというだけのことなのことにゃ
とあるのですが、どうして、
「言語行動自体は生得的ではないけども、その根幹には人類共通の生得的認知能力の関与があり、」
という言葉で済ませてはいけなくて、「生得的<<言語>>能力も関与」でなければならないのか、
心理学関係の人のひっかかる点はつきつめればこれなんじゃないかと思うのですが、
それを仮定するしか説明のしようがないから、という生成の人の主張を、もしかしたら
エルマンネットは覆してくれるのではないか。(何よりコンピュータは、結果の客観性、
再現可能性において内観による探求より説得性が期待できるし。)
心理学の人から見て、東女の浅川先生って、どうなんですか?(いきなり下世話なレベルの話で終わる)
何故煽りっぽいレスが多いんかな?(汗
あっしが素朴な疑問したからだったら鬱・・
>かかりちゃん殿
どうもでつ。
後半の脳のモジュール仮説については
新たな発見に期待でつ。
>316
(誰かが)「花子は有罪だ」と言っているの受け身が、
「花子は有罪だ」と言われている
だと思うので、
花子は、という主語が埋め込み文から主文に移動している訳ではなく
「」内の節全体が主語にあたると考えちゃダメでつか?
と素朴な質問はこれ位にして本当に旅に出まつ・・
327訂正
× 後半の脳のモジュール仮説については
○ 前半の脳のモジュール仮説については
ですた。 では。
>花子は、という主語が埋め込み文から主文に移動している訳ではなく
>「」内の節全体が主語にあたると考えちゃダメでつか?
うにゃ、いいところに気づいてくれているのにゃが、残念ながらダメでつ(w
花子はみんなから [ 有罪であると ]思われている
みたいに主節要素(みんなから)より前に「花子」がでてくるので、にゃ。
国語のせんせ、既出にゃが
http://crl.ucsd.edu/~elman/Papers/learning_rediscovered_responses.htm ここでピンカーが指摘していることがかなりcrucialだと思うにゃ。
The statistical learning procedures that have been applied to grammar
do not behave even remotely like people, but instead guess the next word
of a string in a highly simplified artificial language, rather than
converting meanings to real sentences and vice versa.
それとここでElmanらが述べている比較的控え目な意見と、たとえば浅川氏の紹介文の
論調の間にかなりの温度差があるようにも思うにゃが。
で、ナンパ能力は生得的なのか?
>>308 ちょっと亀レスですにょろけど、規則の構造依存は今でも
validだと思うけど。「GB以降...」ってのは「規則」という概念が
primitiveでなくなったからにょろか?しかし文法現象が構造に依存
しているのは間違いないニョロから、そしてGBでもミニマリストでも
構造を一義的としているのだから、構造依存が生得的文法の性質の
一つであると言うことはvalidにょろ。
>>330 それに関しては
>>325を読んでみては?ナンパはモジュール
ではないにょろけどね。
332 :
没個性化されたレス↓:03/02/14 02:12
>>321 へ?
生得的視覚獲得装置も生得的歩行獲得装置もあるっていってるんですけど。
なきゃどうやって視覚も歩行能力も獲得するんですか。
>>325 >太郎がメロンパンを買ってきたよ → をメロンパンよきたが太郎買って(これでいいのだ♪)
なんか、そんなようなネタが本当に『天才バカボン』にあったような気がするのは俺だけか?
334 :
玉にはかつぶし:03/02/14 05:18
>>331 GB以前は、「規則を書くための言語とその適用方式」が遺伝していたニャン。
そこで、規則を書こうとすると、資料と矛盾しないでより単純な方を
子供は選ぶはずだ、と推論したニャン。で、資料と矛盾しないでより単純な方
を選ぶと、「文頭から数えて2番目の単語を文頭に動かすピョン」という
規則を選ぶはずだと考えたニャン。なぜなら、「主語とbe動詞をひっくりかえせ
ピョン」という正しい規則の方が、より難しいからだニャン。音声連鎖を
単語に切っただけではなく、そこから構造(句)を作る必要があるからだ
ニャン。(John is tall. ----> Is John tall.のような文のみが入力と
考えるニャン。)そういうわけで、子供は資料と矛盾にしないより難しい方
を選んでいる、となるわけニャン。これは、Crain and Nakayamaが実際
調べてみて、まあ、その通りという結論が出ていますニャン。
335 :
玉にはかつぶし:03/02/14 05:37
ですから、「構造に依存しない規則は書いちゃだめピョン」という
UGの原理が遺伝していると主張したわけニャン。
GB以降は、「個別文法の大枠が原理・パラメタ―として遺伝している
ピョン」という主張に変わったので、「規則の構造依存」を
「規則を書くための言語」に課せられたUGの原理として、
特定化できなくなったのではないかニャン?つまり、子供は規則を
自分で書きながら言語を習得しているのではなく、パラメタ―の
値を決めるという意味で言語を習得している、という話に変わった
から、それまで使っていた話が使えなくなったのではと想像して
ますニャン。なにかご意見があったら教えてほしいニャン。
ニャンコせんせ、後知恵的に見ると「より簡単、より複雑」という特徴づけは不要だったかも知れにゃい。
統語計算は階層関係しか見えない(線形順序に対し盲目的、というか線形順序は統語構造上定義されない)
のであれば、前から2番目を移動という規則は簡単もなにも、あり得ない形式ということになるにゃ。
こういう言語固有の特性、(そういうものがあるとして)人間の優れた汎用認知能力からすればあっても
よさそうなことが言語では起こらないという観察も、言語に特化された認知モジュールという見方を
支持するにゃ。実際、何度かそういうことを言ったけども言語はむしろ愚鈍な系であり、そのアフォさ
加減をよくいえば簡潔性とか経済性とかいうことになるのだと思うにゃ。
337 :
(。・_・。):03/02/14 06:26
>言語はむしろ愚鈍な系であり、そのアフォさ
加減をよくいえば簡潔性とか経済性とかいうことになるのだと思うにゃ。
おもしろい。
素人なので口をつっこんできませんでしたが、この点、例や引用とともに
展開していただけるとうれしいです。この点に関心があります。
具体例についてはこれまで何度も出したので(例えば前スレ148以降)、まずは形式論でいくにゃ。
言語計算の局所性とか極小性とかいわれるにゃが、統語構造内で要素αと要素βの間にある関係Rが
成立するのは両者の間にある種の近接性が保証される場合に限られるということがあるにゃ。
例えば別の要素γが介在すると、αはこのγに引っかかってしまいβにたどり着くことができなくなる、
とかにゃ。いわば非常に近視眼的にしか振る舞わない、かっこいい言い方すると、ローカル・ミニマム
に落ち込んでしまって、全体的な最適化ができなくなるにゃ。
人間の知性は限りない先見性や洞察力、状況を広い視点から分析してある目的を果たすに取るべき最善の
手段を選択するといったことを許すのに、こういった知性を可能にする抽象的思考の基盤とも言うべき
言語自体は驚くほどの先見性のなさ、融通の利かなさを示すということではないかと俺には思えるのにゃ。
(´∀`)先生ありがとうございました。
エルマン自身と浅川氏との間に温度差……と言われちゃうと、
リンク先のエーゴをよく読まなきゃだめですか、とほほ。読みます。
(最後の方に
In sum, a learning machine can only learn things that its structure permits it to learn;
と書いてありますね。)
あのにゃー。
言語知識が認知構造全般にわたる生物学的・進化心理的な制約のひとつであるかぎり、
言語の(しかもシンタクスの)ハナシしかしてないのに、言語に特化したもクソもないのにゃ。
それにこの問題に関しては、制度的(でもなんでもいいけど)教育の果たす役割など屁ほどもないのにゃ。
いいかげん教育的刺激への言及はやめてほしいにゃ!!!
それにあいかわらず、経験と行動との相関に関する推論が安直すぎ。
原始的なAIプログラムでも、なんらかの経験の構造化は含むであろう。ここでの推論はそれ以下にゃ。
「刺激欠如」は、指標なき憶測であり、金属のカタマリが空を飛ぶかについての幼稚な推理と同じにゃ。おわりにゃ。
342 :
かかりちゃん:03/02/15 12:09
335それは解っているニョロけど、例えばミニマリストなんかのattractってのは
ある種の素性を持つXPしかattractできないようになっているにょろ。この点で
constituentをなさないものは移動の対象にならんしにょろ、2番目の子音が
前に移動するなんてのも文法体系の定義上出て来ない(いわゆるcancelled
derivation)ニョロ。UGは規則のformatではなくて何が可能な(表面上の)規則
かということを規定する原理系ニョロ。すなわち構造依存は原理系に
組み込まれていると思うニョロ。
341虚無好きさん、お久しぶり。さて、上であげた使役文の例をつかって、
「刺激の欠乏」を論じますにょろ。
(1) 太郎が花子に走らせた。
(2) 太郎が花子を走らせた。
(3) 太郎が花子に校庭を走らせた。
(4) *太郎が花子を校庭を走らせた。
(1)がよくて「校庭を」を付け加えた(3)もいい。(2)はほぼ(1)と
同義なので、「校庭を」を付け加えた(4)もいいのではないか、と考えるのが
普通の推論ニョロ。こういうanalogyができないと、例えば
(5) 太郎が花子を校庭で走らせた。
ってのが文法的ってのが習得できないにょろ。従って(4)が非文ってのは
経験から学ぶのはひじょーーーにこんなんニョロ。経験論者は少なくとも
なぜ、(4)だけが悪いのか、説明しないと刺激の欠乏の推論に異議を
唱えていることにもならないにょろ。
>>342のような推論がまさに
>原始的なAIプログラムでも、なんらかの経験の構造化は含むであろう。ここでの推論はそれ以下にゃ。
の例であるように見えるにゃ。
344 どういう風によ?342の事実の説明を聞いてからお相手しよう。
>>319 >「太郎が花子に校庭を走らせた。」とはいえるのに、
>「太郎が花子を校庭を走らせた。」とはいえない。
話し言葉のテープ起こしをしていると、しょっちゅう、2番目のような表現が
出てくるが、これはどのように説明されるのだろうか?
>>346 前スレによると、それはノイズらしいよ。都合の悪いものはノイズなのね。
と下手な煽りをしても無意味だが。
(4)の非文性は(1)(2)(3)のデータだけからでは判断できない、とは言えるけれども、
なぜ「従って(4)の非文性は経験から学ぶのは困難」と言えるのか分からんにゃ。
もう少し精巧なアナロジーを使っている可能性がなぜないのかにゃ。
まず、(4)がおかしいという判断自体には同意するのかにゃ?
しますよ。
まず断っておくにゃが、今問題になってる制約(「二重ヲ格制約」)はいつでもヲ格名詞句の連続を
排除するのではなく、排除する場合・しない場合があり、それも母語知識の一部にゃ。
*太郎は花子を次郎を殴らせた。vs. ok 太郎は花子を次郎を殴った男に会わせた。
この区別も統語構造の知識に基づいているにゃが、その暗黙の構造知識はどこからくるのか、が
重要なのであって、「二重ヲ格制約」だけを云々しているわけではないのにゃ。
さて、はからずも346しゃんが報告してくれたように現実の発話には言い間違い等による「二重ヲ格制約」
違反の例も少なからず含まれ、幼児も同様のノイズだらけの言語刺激にさらされているわけにゃ。
もちろん、個々の発話例に(ほんとは「二重ヲ格制約」違反です)とかいうラベルが貼ってあるはずも
なく、にゃ。そういう状況で、どうやって母語話者全員が「太郎は花子を次郎を殴らせた」はおかしいと
感じ、同時に「太郎は花子を次郎を殴った男に会わせた」はOKと見分ける能力を経験だけから身に
つけるのか、大いに疑問なのにゃ。精巧なアナロジーでもなんでも、いいアイデアがあれば聞かせて
もらうにゃ。
虚無しゃん、お怒りモードにゃが……
>言語知識が認知構造全般にわたる生物学的・進化心理的な制約のひとつであるかぎり、
>言語の(しかもシンタクスの)ハナシしかしてないのに、言語に特化したもクソもないのにゃ。
これこそ論点先取りにゃ。「言語知識が認知構造全般にわたる」かどうか、認知モジュールの妥当性を
巡って議論が継続されているのに、そうだと決めつけられては困りますにゃー。
>制度的(でもなんでもいいけど)教育の果たす役割など屁ほどもないのにゃ
にもかかわらずコンピュータやチンパンジー相手にせっせと教育を施してりゃ世話ないのにゃ。
で、その挙げ句に言語知識の中核領域がちょっとでも説明できたのかにゃ? シンタクスのハナシすら
してない(できない)、何が問題になっているのかも理解できないのに言語がどうのこうのはカタハラ
痛いのにゃ、にゃははは……
まあ、言いたいことはかかりしゃんと同じで、具体的な言語事実に基づいてそれを説明するのはどういう
言語知識でそれはどうやって経験的に獲得するのか、といった堅実な議論をコネクちゃんたちにも
お願いしたいものにゃ。
>>351 >言い間違い等
「太郎は花子を次郎を殴らせた」を【言い間違い】と断言してしまうのはどうかな?
日常会話でそうした発言が多いのに、それをノイズと切り捨ててしまうと、言語学は
机上の空論になるのではないかな? っていうか、現実の女じゃなく理想のアニメ
アイドルに恋しているオタクと同じではないかな?
>どうやって母語話者全員が「太郎は花子を次郎を殴らせた」はおかしいと
>感じ、同時に「太郎は花子を次郎を殴った男に会わせた」はOKと見分け
>る能力を経験だけから身につけるのか、大いに疑問なのにゃ。
小学校の国語の時間に習っただろ。
真面目に学校行ってなかったDQN厨房は「太郎は花子を次郎を殴らせた」を
全然おかしいと思わないらしく、Fランク大学でレポート書かせるとこんな
文章ばっかだぞ。
んー。たとえば「馬がいななく」はOKで、「猫がいななく」はオカシイと感じられるのは
何故かにゃ。これも現実にはノイズにさらされながら学習してるはずにゃ。
二重ヲ格も、その出現頻度が低い(フォーマルな文章に出てこない)といった理由から
十分排除できそうなもんだけどにゃ。
前提になっている統語構造がなんで分かるのかと言われれば、確かに難しいけどにゃ。
>>353 (4)がおかしいという同意の上で話ししてるのにゃが?
「日常会話でそうした発言が多いのに」それをおかしいと感じることが問題なのにゃ。
それと理論言語学の対象は個々の言語の使用例ではなく、言語能力・文法なのにゃ。
実際の運用にはそれ以外の多くの要因がからむのでにゃ、それらを丁寧によりわけてやらないと
言語知識に接近することは難しいのにゃ。
それぞれの理論が対象とするものが何なのかをまずよく理解することだにゃ。
>小学校の国語の時間に習っただろ。
ほー、それは凄いにゃ(w どういうふうに習ったのか、どういう場合に二重ヲ格が禁じられ
どういう場合には許されるのか、聞かせてもらおうかにゃ。
>>354 >「猫がいななく」
これは動詞の選択制限の問題でにゃ、語彙の獲得と文法の獲得はまるっき話しがちがう、と上の
ピンカーも指摘しているにゃ。で、これを混同しているのがコネクちゃんなのにゃ。
「いななく」がどういう意味なのかを知らなければ馬と猫で差があることも分からないにゃ。しかし
二重ヲ格は「太郎が花子を本をゆしませた」と架空の動詞「ゆしむ」をでっちあげても、その意味が
不明でもやはりおかしいと分かるにゃ。
>出現頻度が低い(フォーマルな文章に出てこない)
すると子供はみんな生後数年の言語獲得期にフォーマルな文章をたくさん読むわけかにゃ?
出現頻度が低くても、一度も聞いたことがない表現でも、いいものはいいと分かるのはなぜか、とい
う問題だったはずにゃが? さもなくば新しい表現を自分でつくることはできなくなってしまうにゃ。
>>356 >語彙の獲得と文法の獲得はまるっき話しがちがう
論点先取にゃ〜。生成が両者を峻別するのは当然にゃ。
>「いななく」がどういう意味なのかを知らなければ馬と猫で差があることも分からないにゃ。
これははっきりとオカシイにゃ。「いななく」の意味を先に辞書で引いてから、
「猫がいななく」が適切かどうか判断しているわけでは全くないにゃ。
「これはノイズです」というラベルがなくてもノイズを排除できる点で、
語彙の獲得も文法の獲得も同じにゃ。
>出現頻度が低くても、一度も聞いたことがない表現でも、いいものはいいと分かるのはなぜか
だからそれはアナロジーだと言ってるにゃ。
一方で二重ヲ格が予想外に少なければ、その表現はダメだというアナロジーも成り立つ(かもしれない)にゃ。
いずれにしても、いきなり刺激の貧困を結論づけられるもんではないにゃ。
>生成が両者を峻別するのは当然にゃ
そうでもないけどにゃ。まあ、違わないというにゃら、やってみせてちょ、というしかないにゃ。
>「いななく」の意味を先に辞書で引いてから
動詞の意味の学習は辞書によってのみなされるものではないにゃ。それこそコネクちゃん的に
「いななく」の使用例に繰り返し触れることで学習するのではないかにゃ。現に「猫がいななく」が
おかしいと判断した人に、どこがどうおかしいかと尋ねればちゃんとその理由を答えられるはずにゃ。
明示的語彙知識にかかるものだからにゃ。対して二重ヲ格の場合は、へんなものはへんだからしょうがない、
ということになるのではないかにゃ。シンタクスの母語知識とは概してそういうもんにゃ。
>「これはノイズです」
「いななく」の場合のノイズとはなんにゃ?
>それはアナロジーだと言ってるにゃ
アナロジーで説明できるのならどーぞやってちょ、にゃ。
>いきなり刺激の貧困を結論づけられるもんではないにゃ
いきなりではにゃく、もうン十年も繰り返してきてるわけにゃ。
でいまだに反証は一つもあがっていないわけにゃ。エルマンや前スレのエムラスのせんせがいうように
代案も考えてみるべき、という点だけはもっともにゃ。しかし現実に代案は一つも出ていないのにゃ。
まるで既に生得説を論駁したかのように扱われてはエルマンも迷惑千万だろにゃ。
359 :
玉にはかつぶし:03/02/15 23:27
まあ、おいらにいわせれば、アナロジーの理論を作った上で、
Chomsky理論と対決する以外に、「アナロジーで説明できる」とは
言いにくいと思うピョン。Chomsky派は、Chomsky自身もそうだけど、
アナロジーという概念を無定義で使用して、批判してますピョン。
それは、アナロジーを使った理論が代案として存在していないので、
ごく大雑把なアナロジーという概念を仮に使って、批判する以外に
方法が無いからだと思うピョン。ただし、アナロジー的にまじめに説明
することができないとも断言できないピョン。とにかく、
Chomsky理論がおかしいと思うならば自分でアナロジーを使った
代案を作る以外に本格的に反論する方法は無いと思うピョン。
>シンタクスの母語知識とは概してそういうもんにゃ。
実際に子供(中学生)を相手にしてると、この言葉は疑問。
二重ヲ格制約なんて、学習で身につける素養の一つだと思うなあ。
平均的な中学生(頭のいい中学生の集合ではなく)に、
(4) *太郎が花子を校庭を走らせた。
を見せたら、非文と判定するとは限らないですよ。
この文自体は、実は意味がふつうに通る文ですからね。
>(4) *太郎が花子を校庭を走らせた。
この例自体は実はあまり適当でないのにゃ。
俺が351でコソーリ「太郎は花子を次郎を殴らせた」に差し替えた理由が国語のせんせにゃら
分かるはずにゃ。で、こっちを中学生にを見せたらどうなるか、興味あるにゃ。
>二重ヲ格制約なんて、学習で身につける素養の一つだと思うなあ
ではどのように学習するのか教えてちょ、なのにゃ。小学校で習ったという凄い人まで
出てくるのだから、きっと指導方法があるのだろうにゃー?
このスレ一日でずいぶんのびるにょろね。
あっしは多分、2重を格制約を小学校の国語の時間に
やった時、欠席してしまったくちニョロ。。。文法苦手
だったし。。。
学校なんて行かなかった人でも、2重を格がダメという
ことは分かるだろうし。学校教育が復旧していなかった
時代とかには、二重を格もよかったのかにょろ?
>>355 >>小学校の国語の時間に習っただろ。
>ほー、それは凄いにゃ(w どういうふうに習ったのか、どういう場合に二重ヲ格が禁じられ
>どういう場合には許されるのか、聞かせてもらおうかにゃ。
>>361 >>二重ヲ格制約なんて、学習で身につける素養の一つだと思うなあ
>ではどのように学習するのか教えてちょ、なのにゃ。小学校で習ったという凄い人まで
>出てくるのだから、きっと指導方法があるのだろうにゃー?
おれは赤ペンでペケされて、直された。みんなそのように習ったんじゃないか?
あるいは友達に笑われたか、だよな。別に「LAD」に教えてもらったわけじゃない。
それよりも、「太郎は花子を次郎を殴らせた」のような文を平気で書くDQSが
いる理由を教えてくれ。LADが壊れてるのかな?
>>362 >学校教育が復旧していなかった時代とかには、
>二重を格もよかったのかにょろ?
学校教育が普及しすぎてしまった現代にも「二重を格」をよしとする
大学生がいるぞ。TAとして学部生の実験レポを読んだことないのか?
>>364 「実験者は被験者をカードを与えた」とか
かな,ありそうだな.
366 :
玉にはかつぶし:03/02/16 02:52
やはり話が通じていないようだピョン(^^;
いわゆる誤用はいくらでもあるピョンよ。例えば、
そろばんの有段者ではない人が複雑な暗算をしても
間違った答えが出る場合が多いのと同じピョン。
その人が四則演算を知らないわけではなく、紙と鉛筆と時間が
あれば、正しい答えを出せるはずピョン。
何らかの事情で、「太郎は花子を次郎を殴らせた。」と書いたり、
話したリしたとしても、じっくり後から考えさせれば、誰でも、
「太郎は花子に次郎を殴らせた。」の方が良い文だとわかるような
直感を持っているはずピョン。問題にしているのは、そのような
じっくり考えればはっきりするような特定の直感がすべての日本語を
母語とする日本人に共有されている(らしい)のはなぜか、ということ
なのですピョン。
>>366 そう来ると
>>363は今度は「いや、DQNは考え直しても間違いだと判断できない」と
食って掛かるだろうな。その仮説にしても明確な形で示すのは非常に困難なわけだが。
いずれにしても、これまで膨大なログを満足に消化せずにつまらない喧嘩を売っているので
あろうことは明らか。すでに言語学板の先生方がいろいろ書いてくださっているのだから、
議論を試みるのはそれらを理解してからでも遅くは無いだろうよ。それをせずに下手な
言いがかりを付けるのは、スキナーのVerbal Behviorが言語獲得ではなく言語の使用や、
その機能的分類、進化的起源に関する考察であることも知らずに、ハナから省みるに
値しない愚著と切り捨てる言語学厨房と大して変わらない。
あとこれは関係ないけど、ずーっと上のほうで虚無好き氏がチョムスキーは生成文法研究を
天文学の研究と同一視している、みたいなことをおっしゃっていたけれど、スキナーもこの
Verbal Behaviorも含めた概念的・理論的分析に関してはこれと全く同じことを言っている。
>>366 >誰でも、「太郎は花子に次郎を殴らせた。」の方が良い文だとわかる
>ような直感を持っているはずピョン。
そのような直感を持っていないDQSのレポートばかり添削させられて
いるオレはどうしたら良いでしょうか?
>>367 スキナー自身がVerbal Behviorの中で、LADを批判して
「生得的テーブルマナー獲得装置があるんか!(藁)」
と書いているが・・・・・・
>>367 >その仮説にしても明確な形で示すのは非常に困難なわけだが。
そういう生データに毎日埋もれてる生活を続けるとわかよ。
嘘だと思うなら「研究する人生」の板の短大スレ・DQNスレ
で質問してごらん。明確に支持するデータをたくさん得られるよ。
スキナーがそこまで馬鹿だったとは知らんかったな (;´Д`)
>>367 をコピペして反論書いたから、同じように
Verbal Behvior
になっている。鬱だし脳。
しかも、そんなDQSのレポートばかり見てると、こちらも
こっちの日本語までおかしくなってくるわな。
DQSの「ノイズ」に染まると、ノイズ文しか書けなくなるぞ。どうしてくれる。
チョムスキアンは責任とって、オレの論文の添削してくれ。
>>369 >>371 そりゃあ、異分野に対する誤解くらいはあるだろうし、少なくともその議論はかの著作の主眼ではない。
そもそもその話ここでの流れとは無関係。スキナーの話は「相手を知らずに批判してなんになる」という
例として出しただけなんだがな。
それにしても、ここまでの議論のずれの原因は、
言語学の先生方はは顕在反応である発話と非顕在反応である「判断」を区別するのに、
日常的な言語使用の文脈と、非文判定・文章添削という文脈を同一視されていて、
一方の心理学サイドはどちらも逆の立場に立っているからなのか、と言ってみる実験。
このスレは恐れ多くて,書き込めなんだが,
ヨッパライ的に邪魔をしてみる.
>>370にハゲドウ.
>>366の
>何らかの事情で、「太郎は花子を次郎を殴らせた。」と書いたり、
>話したリしたとしても、じっくり後から考えさせれば、誰でも、
>「太郎は花子に次郎を殴らせた。」の方が良い文だとわかるような
>直感を持っているはずピョン。
ここでいう「直感」ってなんじゃらほい.DQN大では
>「太郎は花子を次郎を殴らせた。」
ってのに対して,何の違和感も持たない学生は山のようにいる.
ただ,じっくり彼ら彼女らと話をしていると気づくのだが,
その違和感のなさは,
「「太郎は花子を(自分の言うことを聞く女だと思っていた,だから花子に)次郎を殴らせた。」
というように( )内で書いたような論理性は持っているような気がする.
その意味では,「直感」というのがあるのかもしれないが,
同時にそれは俺との対話の中で生成されたものかもしれないという罠.
いずれにせよ,LADの存在と,顕在化する言語行動はイコールではないでげしょうよ.
あ,そんなことはもしかしてがいしゅつでしたか?スマソ.
376 :
玉にはかつぶし:03/02/16 04:55
うーむ、さても説得するのは難しいことが良くわかり申したピョン。
少なくとも、「太郎は花子を次郎を殴らせた」と
「太郎は花子に次郎を殴らせた」を両方、そのDQN学生とやらに
提示して、どちらがより自然かを訊いて、その結果を報告しては
くれまいかピョン。もし、前者も後者も同程度にOKとか、前者の
方が自然だ、と答える学生がたくさんいたら、事実そのものを
考え直すピョンよ。
いや、おいらは二重を格制約を学校で担任の先生に習ったこともなければ、
赤ペンで直されたこともない。ましてや「『ーをーを』だって。
バカじゃないの?ついでにお前のカーちゃんでべそ」と友達に笑われた
こともない。というか、そもそもその友達は二重を格制約をどこから聞いて
来たんだ?でもおいらは「太郎が花子を本を読ませた」というのは
非文であると知っている。
さてみなさんがおつとめのDQN大では、「太郎が花子を本を読ませた」
をいいとする学生がいるらしいですがにょろ、それではみなさんはそうした
資料に基づいてそろそろそうした文を容認し出してもいいころにょろ。
そうした「いい間違い」などが言語獲得時の資料にあっても最終的に
「これは非文だ」という判断がどうしてできるようになるかが問題ニョロ。
しかし「こういうのは非文でしょう」というのに対して、「悪いのは
認めるけどうちのバカ学生どもはそういうテニヲハの間違いをよくするから、
ほんとは文法的」ってな論調こそDQNなのでないでしょうかにょろ。
おいらのところの学生は「太郎が花子を本を読ませた」って間違えは
しないにょろ(断言)。まあ、それは別の理由だけどニョロ、いちいちそういう
間違いを記憶しているのにょろか?
非文判定能力は生得的か習得的か。どちらの作業仮説を立てるかで、
記憶とヒューリスティックスがお互いこうも偏った方向に捻じ曲がるのが面白い。
いや、既に持っている記憶とヒューリスティックスが作業仮説を選択させるのか。
これはこれで心理学の研究対象かな。
言語学者は、直接観察できない脳内の「言語知識(文法)」を
探るため直接観察できる資料を使うわけピョン。その直接観察
できる資料には、当然、自然な言語活動により生み出された文が
含まれるピョン。しかし、自然な言語活動により生み出された文には
いろいろな雑音が入っているピョン。特に、会話をして
いる時の文などには、言い間違い、などが多数含まれているピョン。
だから、そのような雑音の多い資料を使う場合はよく注意する
必要があるピョン。そのような雑音を最小限に押さえるには、
問題となる文を被験者に与えて、時間を十分与えて、その容認度を
内省させるという方法があるピョン。もちろんこの方法も言語活動
の一種にすぎないわけだから、雑音が入らないわけではないピョン。
しかし、調査したい項目にもよるけど、日常会話に比べれば、比較的
信頼できるデータ―が得られる場合が多いピョンよ。「をーを」と
「にーを」のどっちが自然か、はまさにこの内省を使うことで
十分信頼できるデータ―が得られるケースピョンよ。
伸びすぎにゃ。
>>358 >動詞の意味の学習は辞書によってのみなされるものではないにゃ
こっちのレス読んでるのかにゃ。そう言ってるんだけどにゃ。
語彙は否定証拠なしでも誤用かどうか判定できるようになるのにゃ。
文法はそうはいかないとしたら、その根拠が問題なのにゃ。
>明示的語彙知識にかかるものだからにゃ。
嘘にゃ。語彙も文法も同じにゃ。「もらう」「くれる」「あげる」の使い分けはどうなって
いるのか、まして「なぜ」そういう使い分けをしているのか、言語学的考察なしに誰が分かるのにゃ。
どうもよくわからんにゃ。生成がすでに言語獲得を説明し尽くしたみたいな物言いに見えるにゃ。
まだ成功していない点で同等にゃ。だったら特別な仮定がないほうに分があるにゃ。
>>377 >ほんとは文法的」ってな論調こそDQNなのでないでしょうかにょろ。
>おいらのところの学生は「太郎が花子を本を読ませた」って間違えはしないにょろ(断言)。
仮説1:文学部の中でも言語学科を志望する学生はもともと言語に強い関心を持っている。
英語や国語の得点も当然高い。ていうか、高くないとそもそも入学できない。
仮説2:臨床系や応用系もある心理学と違い、生成文法論は典型的な基礎学問であるため、
すべからく偏差値の高い大学に研究室が集中し、DQN大には講座が存在しない。
>>381しゃん
話が完全にずれてるピョンよ。これは基礎学力の話とは関係ないですピョン。
日本語の母語話者なら、時間を与えて内省させてみれば、
「太郎が花子を本を読ませた。」と
「太郎が花子に本を読ませた。」の間に
容認度の違いがあるということが「誰でも」わかるはず、という議論ピョン。
もう一度言うピョン、基礎学力とは何の関係も無いピョン。仮に基礎学力が
劣る学生の方が、いい間違う頻度が高いとしても、この議論とは関係ない
ピョンよ。レスを読んでほしいピョン。
順番が後先にあるにゃが、ほんとに
>「太郎が花子を本を読ませた。」
みたいな文を容認する生徒が統計的に有意味なほどいるとしたら、記述文法のレベルで二重ヲ格制約がもはや
正しくないというような通時的変化が起きているという可能性も否定できないにゃ。(個別文法は当然、
変動するものにゃ。)だとしたらこれは言語学的にも重要な観察にゃ。
まあ、確かに格標示の判断は個人差や世代差が大きいにゃ。たとえば「俺は太郎が死んでほしい」みたいな
文のガ格をよく見るにゃが俺自身は抵抗あるにゃ。あるいは「心理学が分かる人」の代わりに「心理学を
分かる人」というヲ格標示も俺にはヘンにゃがなんともない連中もいると思うにゃ。二重ヲ格も本来ヲで
あるものを二に置換する調整規則に関わるものにゃから、これを無視する変種がでてきた、というのも
あり得ないことではないにゃ。
しかし「太郎が花子を本を読ませた。」を容認する人でも、それを受け身にかえた
1) 花子が本を読まされた。
2) 本が花子を読まされた。
を比べて、どちらもよい、とは誰も言わないはずにゃ。こちらは統語操作の形式特性により直接に関わる
事柄なのでにゃ。(2)のような実例をよく見かけるようにゃら報告してくれにゃ。メロンパン謹呈するにゃw
語彙の習得と文法の習得は性質が違うニョロ。語彙は確かに子供の
ころ多くを習得(多くて一日9words)するけど、一生にわたり
新しい語彙を覚えていきますニョロ。他方、文法は5歳くらいまでで
習得は終わり、還暦を迎えたおじさんが新しい文法規則を身に付けたりは
しないにょろ。
それと「猫がいななく」ってのは、その文の異常さにの判断には
世界に関する知識(常識)などが関与してますニョロ。われわれは「猫」という
動物と「いななく」という行為を知っているため、ちょうど
「車が歩いた」というのが悪いのと同じような「異常さ」があるにょろ。
しかし、こうした文の「異常さ」は、例えばdisneyのアニメなんかの
fantasyの世界には存在しないニョロ。さらに我々の常識の一部ではない
架空の物体/動物、「ねあこ」というのがいて、それが「ねあこがいなないた
/歩いた」といったら、同じような意味で「異常」なのか
分かりませんニョロ。いっぽう、「ーをーを」の
「太郎が花子をねあこをなでさせた」は明らかに
「太郎が花子にねあこをなでさせた」より悪いニョロ。
よって全く性質の違う問題を
>>380ではごっちゃにしている
だけにょろ。リンゴとみかんを比べてもあんまり意味ないニョロ。
ついでに
>>381ははずれにょろ。アッシの学生はそもそも日本語が
話せないからそういう間違いしないだけニョロ。
で、いつどこでだれに赤ペンで直されたことを誰が覚えていますかにょろ、
と小学生のようにあおってみますニョロ。
>2) 本が花子を読まされた。
言語学には疎いんですが、このようなOSVの形をとる言語は存在しないのですか?
するのであれば、SOVをとるかOSVをとるか、はたまたSVOをとるかは学習による、
という可能性も否定できないような気もしますが。
で、上でまず確認したように二重ヲ格をおかしいと感じる文法をもっている人を対象に話しを続けるわけ
にゃが……
>>363 >おれは赤ペンでペケされて、直された
ほー、それはそれはご苦労さんですたにゃ>363の小学校の担任のせんせ
>みんなそのように習ったんじゃないか
自分がそうだからといって母語話者全員がそうだと決めつけてはいかんにゃ。現に俺もかかりしゃんも
直された記憶がないし、そもそも二重ヲ格制約なるものを意識的に知ったのは言語学始めてからにゃ。
母語話者よりも日本語を勉強中の外国人学生のほうがよく知ってるくらいにゃ(かかりしゃんとこの
学生みたいににゃw)
で、刺激の欠如の議論のポイントの一つはここにゃ。直接的否定証拠を提示される幼児がいたとしても、
同じことがその問題の知識を共有するすべての人について起こらなければ、あいかわらず経験論は成り
立たないのにゃ。例えば
>あるいは友達に笑われたか
その笑った友達も全員、一度は赤ペンでペケされたと言えるのかにゃ? そうでないのが一人でもいたら、
そいつはどうしてチミを笑えるほど確信をもって二重ヲ格がおかしいと思えるようになったのにゃ?
>「LAD」に教えてもらったわけじゃない
勘違いしてるようにゃが、LADが直接、二重ヲ格制約みたいな個別文法の詳細を規定しているのでは
ないのにゃ。それを獲得するための前提知識、例えば提示された言語資料を構造分析する能力などだにゃ。
「太郎は花子を次郎を殴らせた」に対して「太郎は花子を次郎を殴った男に会わせた」はOKだと
チミにも分かると思うにゃが、それはどうしてにゃ? こっちは赤ペンで○もらったからかにゃー?
>>386 >現に俺もかかりしゃんも直された記憶がないし
記憶がないことはそういう事実がなかったこととは別である。
>>384 幼児期に集中的に文法を学ぶようにスイッチが働く可能性はあるかもにゃ。
だけどそれと普遍文法の有無とは別問題にゃ。
>「太郎が花子をねあこをなでさせた」は明らかに
>「太郎が花子にねあこをなでさせた」より悪いニョロ。
話にならんにゃ。
それは文法の意味からの自立性の問題にゃ。
「文法の習得と語彙の習得が異なる」かどうかには関係がないにゃ。
「クラリヒョンが歩いた」
これがOKかどうか判断できないのは、クラリヒョンの意味が推測できないからにゃ。
「タイワンオオヤマネコが歩いた」
これなら判断できるにゃ。
文法に関する判断も既存の例から推測しているだけかもしれんにゃ。
機能語の数が少ないから、前者(クラリヒョン)のようなケースが起こりにくいだけかもしれんにゃ。
>>339 いやぁ、お礼が遅れてしまい...ありがとうございます。
>「太郎は花子に次郎を殴らせた。」の方が良い文だとわかるような
直感を持っているはずピョン。問題にしているのは、そのような
じっくり考えればはっきりするような特定の直感がすべての日本語を
母語とする日本人に共有されている(らしい)のはなぜか、ということ
なのですピョン。
個人的には、生成文法派が使うこのロジックの真価は「この考えを推し進めて言った時、
どれだけおもしろい仮説・理論が生み出されるのか?」にある、と感じます。
また、個別の例を取り上げていけば、「変だ!」という感覚が教示によって獲得される
ものもあるかもしれない。しかし、すべての「これは変だ」と感じる例が、教示に
よると言い切れるのでしょうか?すべての例についてデータもとらずに「そうだ」
というならば「学習ですべてが獲得可能」であることを、理論的解析をせずにに主張
しているのと同じことですよね?
話は変わりますが、ある例を「変だ」感じる人と感じない人がいてもオカシクは
ないと思います。そして、ある例を変だと感じることと別の例を変だと感じることに
相関関係があるかないか、どんな例はとりわけ強く変だと感じられるのか....
そんな側面を実証データとりながら分析したら、「直感を道具として、背後にある構造を
探る」という営みも、もっと面白くなるのではないかな...とか。
>>339 >人間の知性は限りない先見性や洞察力、状況を広い視点から分析してある目的を果たすに取るべき最善の
手段を選択するといったことを許すのに、こういった知性を可能にする抽象的思考の基盤とも言うべき
言語自体は驚くほどの先見性のなさ、融通の利かなさを示すということではないかと俺には思えるのにゃ。
ただ、統計的学習の文脈でこの話を考えると、NN等、ほとんどの強化学習モデルは、
ローカルミニマムに陥りやすい、という特性を持っています。
故に、統語構造に見られる局所性は、「統語構造は人間が持つ学習メカニズムによって
獲得される。仮に局所性を持たない複雑な統語構造があったとしたら、そんなものは
そもそも学習され得ない」という主張を支持する、と言い換えることも可能では?
いずれにせよ、言語学者が生成文法研究の先に「統語構造における経済性」を
見いだしたという話は、とても興味深いです。「情報理論の観点からみて、言語には
何らかの経済性が求められていた」という話であり、問題は「何」が言語にたいして
そんな制約を求めているのか、という話ですから。
私見ですが、「学習だけで可能か否か?」という問いは、ガシガシと
コンピュータ・シミュレーションなどで問われていくべきだと思うのですが、
これまでのところ、人間が持つ統語構造における「どんな特徴」は、学習では
論理的に獲得不可能であるとされているのでしょう?別の言い方をすれば、
エルマン流の「理論的可能性を探る」スタイルの研究に対して、現時点で
提出されている「論理的な否定的証拠」には、どのようなものがあるのでしょう?
>話にならんにゃ。
>それは文法の意味からの自立性の問題にゃ。
だからそれを言っているニョロ。ところが>380では違う種類の
問題をごっちゃにした論理を使っているニョロ。
387じゃあ、チミはそう言う直しされた記憶があるの?
それとその直した人は誰から教わったの?その人はさらに誰に教わったの?
さらにその人は誰に教わったニョロ?誰が最初ニョロ?
また、個別の例を取り上げていけば、「変だ!」という感覚が教示によって[よらないで]獲得される
ものもあるかもしれない。しかし、すべての「これは変だ」と感じる例が、教示に
よる[よらない]と言い切れるのでしょうか?すべての例についてデータもとらずに「そうだ」
というならば「学習ですべてが獲得可能」であることを、理論的解析をせずにに主張
しているのと同じことですよね?
ーーーーー
[ ]内がおっしゃりたいことだと勝手に想定しましたピョン。
おいらは上の意見に別に反対ではないですピョン。要は、
1)大人の言語には様々な制約がある。
2)それを説明したいのだが、学習だけでは説明できないように見える。
3)だから、学習に頼らない説明を考えてみた。
というストーリー展開だと思っていますピョン。従って、言うまでもなく、
一般的な学習理論で、大人の言語の制約をすべて説明できるならば、言語特有の
遺伝情報の存在は即座に否定して良いわけですピョン。ところが、
そううまくはいかないのですピョん。学習だけでうまくいくという方には
ぜひ、一般的学習理論ですべての言語の制約を説明できるという理論を
作ってほしいと思いますピョン。言語は少し調べただけでも複雑怪奇な
ものだということがわかりますピョン。例えば、今思い出した例だと、
1)「太郎は花子に自分の部屋で殺された。」
2)「太郎は花子に自分の部屋に逃げ込まれた。」
1)の「自分」は「太郎」しか指せないのに、2)の「自分」は
「太郎」も「花子」も指せるのはどうしてピョン?学習理論ではどう
説明できるのか見当もつかないピョンよ。
393 :
かかりちゃん:03/02/16 14:30
>文法に関する判断も既存の例から推測しているだけかもしれんにゃ。
その論理で
>>342の論法をもう一度読み直すと、(4)もOKになっちゃう
ということにょろ。ageちゃおう。
>387じゃあ、チミはそう言う直しされた記憶があるの?
>それとその直した人は誰から教わったの?その人はさらに誰に教わったの?
>さらにその人は誰に教わったニョロ?誰が最初ニョロ?
最後に「じゃあ誰がその文法を作ったの?」という問いと連続してるわけですね。
囲碁のシチョウよろしく、最後にUGにぶち当たる予定、という見当をもとに発せられると。
「太郎は水泳ができる」「太郎は水泳をできる」の許容度の差は、世代によってわかれる
と思います。世代という言葉の中に、(今この瞬間より以前の)ある時期を共有した話者
集団という意味合いが含まれます。学校教育だけでなく、外国語の浸透度、マスメディアの
発達等あらゆることが影響してその世代の言語感覚を形成します。
その中で、助詞「を」自体の機能の範囲(「○○を」という、文節単位成分の文中における機能から
抽象化されているがあります。)が時代ごとに微妙にずれ続けているのです。
中古から中世では、接続助詞「を」を分化させましたし。
こうした問題は、実はラング的な(社会的慣習としての言語)問題だという気がします。
私が二重ヲ格を使わないことと、私がミミズを拾って食べることを嫌悪することは、
本当に根本的な質を異にする問題でしょうか。
(ミミズ食も、刺激の貧困で説明すると生得的なのでしょうか?私の周囲に、わざわざ
ミミズを食べるなと注意する日本人はいませんし、試みる人がまずいないので、
試みようとして注意を受けている人もほとんど見かけません。小学校で、ミミズは食べ物では
ないと正式に教えていることもありません。)
普遍言語的に格を論ずることはかまわないのですが、国語学的な用語でいうところの
「対格」「与格」「奪格」といった使い方における格(意味格というんでしょうか?)と、
「ヲ格」「ニ格」「カラ格」などという時の格(形態格?)は、似ているようで全く
違うものを扱っているわけです。いつまでも二重ヲ格の話を続けるつもりはないのですが、
二重ヲ格という時の「ヲ格」という言葉は、非常にあやういポジションにあると思います。
ミミズの話に心理学からジャムパン謹呈。
>>393 話が前進してないにゃ…。そこの短絡が信じられんにゃ。
(1') 人が走っている。
(2') 車が走っている。
(3') 人が歩いている。
(4') *車が歩いている。
(4')がオカシイのは何故かにゃ。(1')〜(3')からは出てこない判断にゃ。
(4')には生得的な語彙が関わっているのかにゃ。んなわけがないにゃ。
(4')が使われないからにすぎないにゃ。言い間違いを除いて、にゃ。
で、なんで二重ヲ格はこの説明ではまずいのか、にゃ。
>ミミズ食も、刺激の貧困で説明すると生得的なのでしょうか?
二重ヲ格制約自体が生得的だといっているのではない、既出ですにゃー。
同じヲ格の連続でもよい場合と悪い場合を見分けるには、構造的知識が要求されるにゃ。それを
どうやって経験的に獲得するのか、という話しなのにゃ。
ミミズ食は確かに社会的制度に依存する割合が高く、ミミズ食文化が世界のどっかにあっても驚くに
あたいしないにゃ。ところが、言語の局所性などは普遍的特性であって、人工的な制度や規範の問題では
ないと思われるのにゃ。喩えれば万有引力に従うことにする、しないではなくて、無意識のうちに
従わざるをえない、といったあたりかにゃ。
>>390 390しゃんが言語学専門ではないという前提で基本的なことを紹介するにゃが、例えば一方で
1) who does Bill believe John thinks Mary said Tom loves t?
みたいな(一見)長距離依存関係 who ... t が可能であるのに対し、
2) *who does Bill believe the claim that Tom loves t?
はダメだということがあるにゃ。パッと見た目、(1)より(2)のほうが複雑である、あるいは(2)のみ
学習不可能であると言える根拠が不明にゃが、この例を含めて多くの類似のコントラストを統一して
扱う文法原理が提案されてるにゃ。その原理は抽象的統語知識に基づいて働くものにゃが、その
知識や制約を、周囲の大人のナマの発話しか耳にしていない赤ん坊はどうやって獲得したのか、が
問題になるにゃ。聞こえてきた発話をどう構造分析すべきか、どういった手掛かりがパラメタ設定に
とって重要であるのかをあらかじめ知っており、それを見逃さずとらえるようにすべての赤ん坊が
あらかじめプログラムされている、と見るのが自然だ、と思うわけにゃ。
例えば(1)に対しては、実はwho ... tの関係は細切れの短距離移動の積み重ねであると分析されるにゃが、
そういう移動しか起こらないことをどうやって子供は経験的に学ぶのか、むしろはじめからそういう
仕組みになっていると見るべきではないか、ということにゃ。その証拠として、英語を獲得しつつある
幼児は、回りの大人がだれもそんなことを言わないのに
3) who does Bill believe who John loves?
みたいに、理論的に想定される中間着陸地点にwhoをコピーして繰り返すことがあるにゃ。
これは英語の文法からすればおかしいのにゃが、他の言語(たとえばドイツ語)では実際にこの
オプションが可能にゃ。幼児は最初から人間言語のあり得る構造と計算方法の選択の幅を与えられて
おり、経験による試行錯誤を行いながら特定の個別文法を発現させていく、という見方が自然だとは
思わんかにゃ?
>>385 OSVが基本語順の言語は少数ながらあるし、移動によって派生される語順としてなら日本語もそうにゃ
(メロンパンを太郎が食った)。また、基本語順を知る(つまりそれにかかるパラメタ値を設定する)
には経験も必要にゃから、その部分を学習と呼んでも構わないにゃ。経験だけでは不十分、というのが
生得説の主張だというのをいいかげんに学習してもらいたいにゃ。生得か経験かの二者択一ではなく、
後者を有効利用できるのは前者のおかげ、なのにゃ。で、
>2) 本が花子を読まされた。
は基本語順としてのOSVを言ってるのではないのにゃ。過去ログに出てるはずにゃが、
[ α [[[ Hanako hon yom ] as ] are ] ta ]
で表層主語位置αに移動できるのはHanako とhonの内、より近いHanakoのほうだけである、という
言語計算における一種の最小作用則の話しなのにゃ。
>>380=388=396
>特別な仮定がないほうに分があるにゃ
だからこそ生得説なのにゃ。他の生物学的能力は全部生得的・遺伝的情報と環境からの刺激の相関の
中から発現してくるのに、どうして人間言語だけ例外扱いしたがるのか、合理的(理性にかなった)
思考を拒む理由を聞きたいですにゃ。
統語論の自律性が分かっているにゃら
>「クラリヒョンが歩いた」
>これがOKかどうか判断できないのは、クラリヒョンの意味が推測できないからにゃ
> (4') *車が歩いている。
>(4')がオカシイのは何故かにゃ。
はおかしい言いぐさにゃ。意味がどうあれ、どちらも構造は完璧OKであることは明々白々にゃ。
>(4')が使われないからにすぎないにゃ。
しかし自分で意図的に使うことは自由にできるにゃ。現実世界に照らし合わせて意味的におかしくても、
それがおかしくない架空世界はいくらでも想像できるのにゃ。
>なんで二重ヲ格はこの説明ではまずいのか
一度も聞いたことがないものはダメ、式では言語の創造性が捉えられないからにゃ。
この創造性は言語の原理や法則を暗黙のうちに理解し、それに従って表現を無限に生成できることに
よるにゃ。その原理や法則を与えられたデータだけからどうやって発見するのかが問題なのにゃ。
そしてまずはその原理や法則を理解しなければその生得性を巡る議論も空転するのにゃ。
最初の言語学的作業をすっとばして、言語は学習によるかもしれん、「既存の例から推測している
だけかもしれん」はお笑いぐさなのにゃ。
>>400 全然通じてないにゃ…。そんなレベルの話は分かってるにゃ。
>>396は意味習得の話にゃ。文法性は問題にしてないにゃ。*印がいけないのかにゃ。
どこまで文法習得と並行的に考えられるか、を言っているのにゃ。
「歩く」が乗り物には使えないのはなぜか。事実、そういう表現がないという否定証拠に基づくのにゃ。
それ以外の理由だったら教えてほしいにゃ。
ならば同様に二重ヲ格も否定証拠(使われないという事実)から習得できるとみるのが自然にゃ。
ここで「文法と語彙は違う」は話の順序が逆にゃ。
自律性とか、習得時期が違うとか、世界に関する知識云々は直接関係ないにゃ。
でもって、言うまでもなくこれは「一度も聞いたことがないものはダメ」式などではないにゃ。
>>399 >経験だけでは不十分、というのが生得説の主張だというのをいいかげんに
>学習してもらいたいにゃ。生得か経験かの二者択一ではなく、
>後者を有効利用できるのは前者のおかげ、なのにゃ。
それは重々承知しています。しかし、
>>383は
「OSVは生得的に不可能」と言っているように読めてしまいます。
申し訳ありませんが、最小作用則のお話はさっぱりわかりません。
前スレの148-149の書き込みを読めば、最小作用がどういうものなのかは
わかりましたが、それが
>>383の話しにどう当てはまるのか、私には
理解できません。詳説願えますでしょうか?
アボリジニはミミズ(朽木の中にいるやつですが)を常食しますね。
食えないものは吐くという極めて生理的な現象ですら、文化的生育環境を背景に
その適用範囲を著しく変化させるというのが人体です。これを、「人体は食べ得る
範囲のすべての可能性をパラメータとして持っており(生得的装置)、限られた刺激から
ある値を受け取ると、実際に一度も食べた事がない、誰かが食べようとして訂正された姿を
見たこともないものであっても自然とダメなものがダメと受け付けなくなる(刺激の貧困)」
と説明する理論が構築されたら皆さんどう思われるんでしょうか。
別にそんなこと言わないでも……というのが大方の思いなんじゃないでしょうか。
>>397 >二重ヲ格制約自体が生得的だといっているのではない、既出ですにゃー。
承知しています。けれども「太郎は花子を次郎を殴らせた」の非文判定から
>じゃあ、チミはそう言う直しされた記憶があるの?
という話が出る限り、残念ながら、「二重ヲ格制約自体が生得的だ」ということと
どれほどの差があるのか……
私がミミズ食と比べたのは、非文とされる方の二重ヲ格ですら、社会が許容しさえすれば
十分ありな文型であるとはいえないか?という感覚があるということです。
一昨年来、先生方の議論を読み続けているも関わらずこの感覚から逃れられないのは
なぜ?
考えてみたら、オレがこのスレを立てたんだった。
スレ主の権限?により、
A:チョム派の諸兄には、以下の類の切り返し・すり替えを禁止する。
(1)「では逆に訊くが、代案は出せるのかな?」etc.
→門外漢たちがチョム派への疑問点をぶつけているのだから、それに対してのみ答えればよい。
(2)「何でもかんでも学習ですべて説明できるというのは馬鹿げている」etc.
→そんな主張は誰もしていないのだから、いい加減にそういう言い方はやめれ。
B:心理板住人の諸兄は、
(3)程度の低いツッコミをする前に、過去ログを第1部から読め。
→せっかく学ばせてもらっているのだから、もう少し謙虚・誠実になれれれれ。
>>403 それは生得的能力があるから可能になることと生得的能力自体を混同している点で、ゴルフやバイオリンは
生得的なのか、という愚論と同類にゃ。
あるいは職業柄か、国語のセンセは個人と離れたところに制度として存在する約束事、という言語観、それに
意識的に従わなければならない制約、という文法観(まるで校則みたいに)に囚われているからだと思うにゃ。
それは主に使用レベルにおいて顕著な側面にゃが、俺らがしているのはそれを可能にしているものは何か、の
話しにゃ。伝統文法や学校文法が当たり前のことだとして顧みなかったような領域、それらにしてみれば
大前提でありわざわざいうまでもないようなことの中に、実は説明を要する不思議が潜んでいるということ
なのにゃ。「廊下を走ってはいけません」の大前提は人間には走行能力があるということで、走行の運動
メカニズムを明示的に知らなくても廊下を走る走らないの行動はできるにゃ。しかし実際に個人が走る
走らないはどうでもよくて、走行メカニズム自体に関心を持つ人もいるにゃ。廊下を走らない生得的能力は
ナンセンスにゃが、その前提の走行能力はどうなのか、ですにゃ。
>>404 >それに対してのみ答えればよい
そりゃ横暴だにゃ。別に雇われてボンクラ生徒の家庭教師やってるわけではないのでにゃ、こちらも
得るものがなければアホくさくて書いてられないにゃ。俺らが反生得側の論拠を教えてもらいたいのは
自然なことにゃ。
>そんな主張は誰もしていない
ではどういう主張なのか教えてちょ、となるのが当然にゃ。
1)「では逆に訊くが、代案は出せるのかな?」etc.
→門外漢たちがチョム派への疑問点をぶつけているのだから、それに対してのみ答えればよい。
---------
↑これは生成文法の根幹をなす論理構造なので、気持ちはよくわかるが、
時として使わざるを得ないのだピョン。つまり、実は存在しないかもしれない
代案を出せといわれても困ってしまうという立場だと思ってほしいピョンよ。
ところで、代案がないのだから、最も素朴なアナロジーを無定義で使い、
それを批判する、というやり方をチョム派は取っていることは事実ピョン。
おいらは、実は、アナロジーをうまく使えば、ある種の言語事実は
うまく扱えると思っているピョン。しかし、すべてを扱えるようなアナロジーを
組み込んだ理論はいまだ存在していないピョン。
その理由が、実は可能なのに理論の進展がその段階まで
達していないせいなのか、それとも、そもそも不可能なのかは、現段階では
わからないのだピョン。
「うぐぅ」や「あうー」、「〜だにょ」等の特殊語尾は生得的なのか?
玉にはかつぶし氏に、小一時間問い詰めてみたいピョン。
>408
一瞥しただけでこれまでの議論を全く読んでいないことがわかる
激しく既出の低レベルな煽りはやめれ。心理学徒の恥の上塗り。
そうだにゃ…。謙虚になれれれれにゃ。
勉強してからくるにゃ。
>>そんな主張は誰もしていない
>ではどういう主張なのか教えてちょ、となるのが当然にゃ。
「チョム派の(正確には「顔文字氏の」)主張には、しっくりこない点や無茶な点があると思われ、それはこれこれこういうところだ」
と色々な人が(しばしば明確に)主張している(厨房レスも含めてだが)。
そして、このように疑問を提出し続けていると、それは「何でもかんでも学習」説になると言って非難されるか、「代案を出せ」と言われる。
(こういうのを「すり替え」と言う。これでは議論が続かなくなるので、今後は「禁止」する)。
(第1部ではあれほど大勢が参加していたのは、皆が興味を持っていたからだ。それなのに第2部で参加者が激減してオレを含めて3,4人ぐらいしかいなくなったのは何故か。このすり替えに皆がウンザリしたからだ)。
>反生得側の論拠。
完全なる「反生得」側の人間などいない(白紙説Aと白紙説Bを覚えてる?)。
UGに関しては、要するに立場の鮮明なヤツはいない。早い話が、皆、チョム理論がよく分からないのよ。
もう一度繰り返すが、チョム派の(正確には「顔文字氏の」)生得説のこの辺のところはおかしいのではないか、という「疑問」を表明しているわけ。
表明された疑問点については、第1部から、多くの人がその論拠を色々と(しばしば明確に)述べてきた。
なお、虚無好き氏が間を取り持とうと努力されたが、言ってることがよく分からないことが多かった。(苦笑)
もう少し分かり易い書き方ができないものか、と強く思う。
これもくどいようだが、おそらく新参と思われる心理板住人による最近のレスは、第1部の始めの頃にオレを含めて皆で呑気にあーだこーだと言っていたような阿呆阿呆なレベル(苦笑する顔文字氏の饅頭顔が目に浮かぶ)なので、とにかく新入り諸兄は、第1部の序盤から読め。
第1部ではオレも数回サマライズして、顔文字氏に「大体合ってるにゃ」とお墨付きを貰ってるので参考にすれ。
数日分のレスを見ていると、第1部と同じことの繰り返しになりそうなので(実はオレも可笑しくて苦笑しっぱなしだった)、
できれば
>>390の190氏他の、「進化心理学」スレや「学習とゲーム理論」スレの連中に参加してほしいんだが。
でも向こうのスレが面白すぎるからなぁ。
チョムスキーが普遍文法なるものを唱えるのは彼がユダヤ人であって、
バベルの塔の伝説を信じているからだ、と言ったやつがいたが、なんか
ここでLADについて語ってるやつらもバベルの塔にノスタルジーを感
じているじゃないかという気がするが、どうよ。
>>413 オレも第1部からいるけど,その「阿呆阿呆なレベル」の問いに対する
顔文字氏の答えには,まだ納得いかないよ.
そもそも「非文」などという,言葉の可能性を否定するような概念が言語
学にあるのがおかしいと思うのだが・・・・・
もっとも、あれから1年以上経ったので、
同じことの繰り返しになっても仕方ないか。
顔文字氏には気の毒だが。
何はともあれ、刺激の貧困説はやはり勇み足であると言うべきではなかろうかと。
>>411 それこそすり替えだにゃ。
根拠を述べることなしに印象論ばかり繰り返されては、議論にならないのにゃ。
>どういう主張なのか教えてちょ
に答えることが今そちら側に求められていることにゃ。はぐらかずに答えてちょ。
過去ログみれば分かるとおり、こちらはそっちの疑問点には逐一答えてきているのにゃ。
>生得説のこの辺のところはおかしいのではないか、という「疑問」
まだとけていない疑問があるにゃら、面倒でも繰り返してもらおうかにゃ、また解答
するからにゃ。しかしその一方でこちらの問いかけには誰も答えようとしない、そういう
不真面目さ、不誠実さをまことに遺憾に思う次第にゃ。それとも理由もなしに相手のいう
ことに不賛成を唱えていれば成り立つような似非学問なのかにゃ、心理学は?
>>392 >1)「太郎は花子に自分の部屋で殺された。」
>2)「太郎は花子に自分の部屋に逃げ込まれた。」
>
>1)の「自分」は「太郎」しか指せないのに、2)の「自分」は
>「太郎」も「花子」も指せるのはどうしてピョン?学習理論ではどう
>説明できるのか見当もつかないピョンよ。
(1)は移動を伴わない動詞で(2)は移動を伴う動詞だからだろ。
>でこちらの問いかけには誰も答えようとしない
申し訳ないですが、それを簡単にまとめてもらえませんか?
レスがのびすぎて、ついていけません。スマソ。
>>417 それとも理由もなしに直感で「非文」だと判断していれば成り立つような
似非学問なのかにゃ、心理学は?
失敗した、最後は「言語学」にするつもりだった。
逝って良し>オレ
まあ、3本のシッポのある犬の話(笑)に対する対応とか、納得いかないものは多い。
しかし、これまで全く分からなかったチョム理論が少し見えるようになり、
色々な本を読んでも理解できる事柄が多くなった、
という収穫は喜びとしたい。
423 :
かかりちゃん:03/02/17 02:11
一晩寝るとレスが...
国語先生のミミズの例は私の上での
>>342の論理が
「クリームパンは食べ物である。」
「チョコパンは食べ物である。」
「チョコクリームパンは食べ物である。」
「チョコレート2倍入りパンは食べ物ではない。そしてそれをみんなが
教えられることなしに知っている」
という形になっていることに注意されたいニョロ。すなわち、食べ物と
ミミズを比べているのではなく、ミミズの種類を比べているみたいなもの
にょろ。
「車が歩いた」が悪いのは意味と世界に関する知識が問題、とは上に書いた
通りにょろ。disneyファンタジーの世界ではよくなるにょろ。しかし
「花子を車を直させた」はdisneyファンタジーの世界でもよくならない。
シンタックスの問題があるからにょろ。ここが違いだ、って言ったのににょろ、
人のこと短絡ってどういうことかと小一時間(以下略)
424 :
かかりちゃん:03/02/17 02:15
>(1)は移動を伴わない動詞で(2)は移動を伴う動詞だからだろ。
それがどうして「自分」の判断と関係するのよ?
判断で「をを」のやつも判断では一致、といっていたのが
dqn学生ならこういう文かくとか、いつの間にか
論理を忘れられて変なものに例えられ、最近では
「納得いかない」にょろか。
>>392 1)松本は浜田に「自分は花子が好きだ」と言った。
2)松本は浜田に「自分は花子が好きなんだろう」と言った。
1)の「自分」は「松本」しか指せないのに、2)の「自分」は
「松本」も「浜田」も指せるのはどうしてピョン?
>417は程度の低い煽りと一緒だな。残念だ。
「では逆に訊くが」、顔文字氏はどういう学習理論を想定して批判しているのか?
このスレの最初の方の質問に答えてない。
ありもしないヘンテコ学習理論を想定して、
きみらはこんな馬鹿げたことを考えているのだぞ、と言われても、ハぁ?なんだな。
付け加えると、オレは素人の一般人なんであって、
心理学者でもなければ、ましてや反生成の言語学者でもない。
>>424 >論理を忘れられて
言語学者は言語内の「論理」を唱えるが,心理学者は「言語行動」を環境が生み
出す関係の論理(経験とか,文脈とか,発話者の人物像とか)に重きを置いてい
るのじゃないかな.
>>418 はずれにゃ。
3) 太郎は花子に自分の部屋でペットを殺された。(自分=花子 or 太郎)
418が証明したとおり、どういう知識か明確に知らないまま、我々は母語を自在に操っているわけにゃ。
そういう暗黙の知識を一つひとつ丁寧にモデル化した結果、その経験的獲得を疑問視している人々と、
その知識の中身を知らないままで経験論を繰り返すだけの人々の質的差が見事に反映されているスレ
だと思うにゃ。
>>419 言語知識の中身を知らないまま、生得説を疑える根拠は何か、に尽きるにゃ。
>>420 非文判定が母語話者の言語知識を反映すると考え、そこからその知識のモデル化、さらにその個体および
系統発生のあり方を問う学問だにゃ>理論言語学
>>426 >ありもしないヘンテコ学習理論を想定して、きみらはこんな馬鹿げたことを考えて
>いるのだぞ、と言われても、ハぁ?なんだな。
ChomskyがSkinnerのVerbal Behaviorに対して行った批判もそれと同じなんだよね.
WatsonのbehaviorismとSkinnerのbehaviorismの区別ができず,「単純なS-R主義で
言語が理解できるか」とやっちゃったもんだから,Skinnerは「ハぁ,オレそんなこ
と言ってねぇけど」だったんだよね.
逐一答えたと顔文字氏は言う。
そうかも知れない。
しかしその答えに納得のいかないことが多かったからしつこく絡んだ。
「理由もなしに」というが、そういうのを「事実をねじ曲げる」と言う。
せっかく、チョム理論のとっかかりを理解し始めて素直に喜んでいるのだ。
そういう素直で好奇心旺盛で男前で貧乏な素人に向かって、
大人が子供に喧嘩を売るような言い方をするのはあまり得策ではないぞ。
ついでに、オレと一緒にからんでいた爺様も素人の一般人。
素人相手に「代案出せ」としつこく迫るのも無茶な(というか間抜けな)話だと思うがどうか。
>>429 >系統発生のあり方を問う
えっと、これって、ヒト以外の動物にも言語獲得装置を認めるという事でしょうか?
いや、からかうのはやめておこう。
実際に顔文字氏のおかげで、世界が少し広がったのだから。
感謝している。
>>429 そう言うなら、過去ログ読めばチョム理論というのはキミがこれまで漠然と感じていたものとはいささか趣が違うということも分からないか?
探検隊氏
>そして、このように疑問を提出し続けていると、それは「何でもかんでも学習」説になると言って非難されるか、「代案を出せ」と言われる。
(こういうのを「すり替え」と言う。これでは議論が続かなくなるので、今後は「禁止」する)。
1.ここ数日のやりとりを見ていて思うのですが、「非文に基づいて背後にある構造を推定していく」という
営みは、「とりあえずある前提をおいて、そこから研究を進めていく」という、きわめて伝統的な
科学的営みです。
通常、このアプローチに基づく営みの価値は「その結果見いだされた
モノがどれだけ新しいか、また、どれだけ多くの現象を統合できるか」に
かかっています。
「このアプローチから出てきたモノが、どれだけ意味あるのか?」を見ずに、
「前提(=非文の存在)はどれだけ妥当なのか?」だけを問い続けても、
生産的な議論には至らないでしょう。「勝負どころ」がずれてるのですから。
「なぜある文章を変だと感じるのか?」がいつまで経っても理解できないなら、
その疑問はひとまず脇において「その先でどれだけ新しいモノが生まれたのか」
に注目すべきです。
2.私見ですが、非文の存在は「統語構造が生得的」である証拠でもないし、
これまでの顔文字氏の出したデータのみから「学習のみで獲得可能」という
主張を覆すことは難しいようにも思います。
しかし。
たとえば、
>>398で出されたような例を「何の生得的知識も持たずに学習可能である」
ことを示す理論モデル、理論分析、コンピュータ・シミュレーション、などは存在
するのでしょうか?
説得的なモデルが存在していないのならば、現時点では「一部の現象」は生得説を
持ち出さないと説明し難い、と結論せざるを得ません。
#個人的見解ですが、生得文法派は、こうした「論理的に考えて学習だけでは
獲得しがたいと思われる例」を多く出しています。反生得派がなすべきは
「それらの例は学習だけで獲得可能」であることを論理的に示すことです。
というか、語彙獲得における今井むつみさんのような実証研究、あるいは、
エルマンのような理論モデルに基づいた研究を通じて、「〜は学習で可能。
〜はまだ難しい」などという、話をしない限り、「現時点では生得文法派の
ロジックを覆すことはできない」と思います。
生得的制約にせよ、学習にせよ、統語構造なるものが存在しているのは事実です。
「それが学習のみで獲得可能であるのか?」ここを問わず、生成文法派が出す個別の例を
チクチク否定していっても、仕方ないように思うのですが。
故に「「代案を出せ」と言われる」のは、現状では仕方ないと思います。
#個人的見解です。
>190氏
これはどうも。
もちろん分かっている。
オレは別に非文がどうたらこうたらと絡んでいるわけではない。
というか、例文判定は当初は興味深かったが、すぐに飽きた。
しかし、この方法はアリなんじゃないかと思えたし、今もそう思っている。
チョム側に好意的な発言も度々しているよ。
単に顔文字氏の解説に対して質疑し応答を求めてきたのだ。
これはいけないことなのかな?
>故に「「代案を出せ」と言われる」のは、現状では仕方ないと思います。
ここではね、それは「疑問を表明するな。文句があるなら代案を出せ。できないならば黙れ。オレ様に楯突くな」ということと同義なんだよ。
946 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:03/02/16 22:07
言語能力スレが紛糾しているようだが、あれを血液型論争にあてはめると、
学習による文法獲得の立証を求められている生成文法懐疑派のほうが
「血液型肯定論者」に当てはまってしまうのか?すっかり混乱してしまった。
947 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:03/02/16 22:43
だから、血液型論争は全然他人事じゃないんだって。
血液型批判に使われた言説がそのまま自分にも当てはまることなど
珍しいケースではないよ。
それなのに、手放しで批判し馬鹿にする人間のなんと多いことか…。
「迷信」が広く盲信されていることより、そっちの方がそら恐ろしく感じることがある。
948 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:03/02/16 23:00
しかし直感的には
「生得的な文法知識が"ない"という作業仮説から出発しよう」
という立場が
「血液型と性格は関係"ない"という作業仮説から出発しよう」
という立場と同じなような気もするが・・・
「生成文法の存在を明確に否定する証拠は無い。では生成文法があるものとみなそう」
というのは
「血液型と性格の関係を否定する証拠は無い。では関係があるとみなそう」
というのとは一致しないのか?なんで>964のような構図になっちまってるんだ?
>>418 1)「太郎は花子に自分の部屋で殺された。」
2)「太郎は花子に自分の部屋に逃げ込まれた。」
(1)は移動を伴わない動詞で(2)は移動を伴う動詞だからだろ。
-----------
これでうまくいくなら誰も苦労はしないピョンよ。例えば、
「花子は太郎に自分の部屋で1m投げ飛ばされた。」
「投げ飛ばされた」は「移動」を伴っているが、「自分」は「花子」しか
指せないピョンね。「動詞が移動を伴う場合は主語もそれ以外の
名詞も指せる」というわけにはいかないピョンねえ。とにかく、何度も言うように
単純な学習理論ではどうしようもないピョンよ。もちろん、ここから
ただちに、「自分」の先行詞の決定方法が遺伝しているとはならないし、誰も
そんなことは言っていないピョン。ポイントは、このような不思議な「自分」
の振る舞いを説明するためには、表面上は目に見えない理論的構築物を
仮定する必要が出てきてしまう、ということだピョン。そして、そのような
理論的構築物が言語特有のものではないかということピョン。ただし、
それが、すべて遺伝なのか、それすらも「学習」が一部関与しているのかは、
経験的に決める問題だピョンけどね。
顔文字氏にそんなつもりはなくても、
事実上そうなってしまっている、ということね。
>>434 それを言い始めると、言語に限らずどんな心理関連現象も「何の生得的知識も持たずに
学習可能である」ことを示す完全な理論モデル、理論分析、コンピュータ・シミュレー
ション、は存在しないよ。
だからといって、
>説得的なモデルが存在していないのならば、現時点では「一部の現象」は生得説
>を持ち出さないと説明し難い、と結論せざるを得ません。
にはならないだろ。
>>437 「自分の部屋で」と「自分の部屋に」の違いでは?
「太郎は花子に自分の部屋で殺された」
「花子は太郎に自分の部屋で1m投げ飛ばされた」
の「自分」はそれぞれ太郎と次郎しかさせない。一方、
「太郎は花子に自分の部屋に逃げ込まれた」
「花子は太郎に自分の部屋に投げ飛ばされた」
の「自分」はどちらもさせる。
440とケコーンしてしまった。
>>439 そうそう。上で生成派も学習によるものと認めているゴルフやバイオリンにしたって、
学習であることを明確に示すことはできない罠。
え?
「代案」に関して言うと、疑問を表明することは自由ピョン、しかし、
「代案」が無ければ、本格的な反論はできませんね、ということが
言いたかっただけピョンよ。これは、心理学板の先生方に
対してというより、むしろ自分に対しての自戒の言葉ですピョン。
>>425 「自分」を二人称で使う直示的用法(主に関西方面で多用される)は、照応形としての「自分」とは
別物なのにゃ。今問題にしているのは照応形の分布に関する知識の性質とその獲得にゃ。
で、「1)の「自分」は「松本」しか指せない」ということはないにゃ。例えば催眠術かなんかで
「お前は花子が好きだ」と暗示をかける場面を想像するといいにゃ。
>>426 どの特定の学習理論でもなく、獲得された知識の起源は提示された経験の中にある、という経験主義に異議を
唱えているのにゃが? だから学習理論に無知な俺に、言語獲得を説明することになっている学習理論の
強力さがどういうものか教えてちょ、と繰り返しお願いしているわけにゃ。ちょうど言語学に詳しくない
そっちに、俺らがいろいろ初歩的なことから情報を提供してきたように、にゃ。
>>430 >「理由もなしに」というが、そういうのを「事実をねじ曲げる」と言う
ほお、では理由を聞かせてもらおう、ということになるんだけどにゃ。で、生得説に納得いかない理由は?
>>440, 441そうですピョンか?では、その例文判断で
正しいとして、現在のところ、「自分」の先行詞は、
1)動詞が移動を表し、2)場所を表す句が「に」を取る、場合
主語以外もありうるが、それ以外は、主語のみ、となるわけですピョンね。
では、動詞が移動も表さず、「に」も使われていないのに主語以外も
OKな例はどうしましょうピョン。
「太郎は花子に自分の部屋で自殺された。」
例えば刺激の貧困説.
その他にも,お二人を中心にさんざんやりあっていたではないですか.(笑)
おもしろかったですよ.
>>431 違うにゃ。UGはヒト種固有のものにゃが、それも進化の産物にゃ。UGがかくかくしかじかの特性を
もっているとして、その特性自体を説明するには、UGがどのように発生したかも含めて考える必要が
あるにゃ。これまでの生成文法はこの進化生物学的な考察を棚上げにすることが多かったにゃが、今や
こちらも重要なトピックになりつつあるにゃ。(進化心理学とは相性悪いにゃ)
>>440, 441
>>428読んだのかにゃ? 「に・で」に関係ないやつを……
1) 太郎は花子に自分の服を着せた。
2) 太郎は花子に自分の服を着させた。
こんなのは言語学の初歩の初歩にゃ。大量のこういう事実に基づいてそれらを統一的に説明する原理が
提案され、その背景にある構造知識が経験基盤で獲得できるのか、が問題になってきたのにゃ。
具体的な言語分析を何一つしないうちから経験だ学習だと言うのはあまりに軽率だということをそろそろ
学習すべきだにゃ。
「俺らは経験したよりはるかに多くの知識を母語について持っており、そこには生得的要因の関与を
疑う理由が十分にある」のにゃ。
>だから学習理論に無知な俺に
そういうことでしたら,言語の問題はいったん棚上げにして,
学習心理学の初歩から勉強しないことには.
できれば認知発達系も.
やる気とお時間がありますか?
このスレで学んだのは、言葉の複雑さに対して、一般の人は、
かなりの過小評価をしているのではないか、ということだピョン。
日本語を自在に使いこなす能力の背後に莫大な量の複雑な
知識が無意識のうちに存在しているということに気づいてはいない
ということだろうと思うピョン。まあ、言語学者側がもっと
がんばれということかもしれんピョンが、、、。
>>449 残念ながらやる気はあっても時間がないので、まずはこの場で俺がここで生成について書いてきたような
程度の断片的知識でいいから提供してもらいたいもんですにゃ。そこで、学習心理学では言語知識は
どうやって経験的に獲得されることになっているのか、という質問に戻るわけだけどにゃ。
>>449 それは「朕に心理学を」スレを上回る壮大なお勉強スレになりそうだな・・・
しかし、そうしたところで依然心理学側に反論の最終的責任があるわけだが。
ここのスレで勉強させて貰えるのなら大歓迎にゃ(はあと
つまりこれこそ「生得性を否定するような言語獲得の学習理論なるものが一つでもあるならご教示下され
(ぺこり)」(=代案を示せ)ということなのにゃ。
>だから学習理論に無知な俺に、言語獲得を説明することになっている学習理論の
強力さがどういうものか教えてちょ、と繰り返しお願いしているわけにゃ。
たぶん、ここのスキナリアンからは、絶対に答えは返ってこないよ。
その話は、認知発達やコンピュータサイエンスでされているのだから。
>学習心理学の初歩から勉強しないことには.
できれば認知発達系も.
やる気とお時間がありますか?
学習心理は必要ないだろう(W
言われてみると,たしかにそうですね.
もしかすると顔文字先生は「敵」を間違えておられるのかもしれません.
学習心理学というのは文字通り「学習」が研究テーマなのですから,
生得的な領域とは相補的な領域の研究をやっているとも言えます.
学習の研究者に聞いても,言語運用の話しかできないかもしれません.
むしろ,認知発達系の言語獲得の研究の方が,実際には相対立することが多いのではないでしょうか.
ベイツ女史などはどうですか?
ただ,基本的な学習理論や動機づけ理論なども知っておかないと,
このスレで「般化」の件で揉めたように,細かい概念的な共通理解に支障をきたすことにもなると思います.
もう遺伝/環境論の時代じゃないと思うみげー
>>456 そういう図式に持っていこうとしているのは顔文字氏。
ちょっとついていけん。
生成の話自体はおもしろいんだが。
実は前スレも含めてほとんど読んでないんだけど。
どこらへんから読み返せばいいんだ?
第1部の最初から。
参加者が多くておもしろいよ。
実はこの土日に読み返しちゃった。
ロボvs顔文字をきぼん
ロボは見るだけより突っ込みたい派なので、
実は過去ログを読み返すという作業が苦手です
>顔文字先生。
ロボは心理学板の現在の顔役です。
学習屋ではありませんが、博学を少し鼻に掛けているようなところがあります。
少し可愛がってやってください。
何も言わないうちから煽られてるし(((((((;゚д゚)))))))
言語論についてはあまり詳しくないんだが……
言語論的転回についても実は詳しくないんだろう?
>ロボ
安心しろ。
この板で言語論に詳しいやつは一人もいない。
インメルマン的転回についても詳しくないぞ。
あ、言語論的転回についてもな。w
レスがずれると微妙にかっこわるいな。
悪いことは異湾から、とにかく第1部から読め。
言語論に詳しくないなら尚更だ。
チョムぐらい知らないとロボらしくない。
>>インメルマン的転回
ループしてから頂点で上下ひっくり返る手法ね。
PC-98時代のシミュレーションゲームで練習したよ。
探検隊氏>了解。意図はわかりました。
>>439 >それを言い始めると、言語に限らずどんな心理関連現象も「何の生得的知識も持たずに
学習可能である」ことを示す完全な理論モデル、理論分析、コンピュータ・シミュレー
ション、は存在しないよ。
今井むつみ編著「心の生得性:言語・概念獲得に生得的制約は必要か?」
前書きより抜粋
--第6章(大嶋論文)はBraine(1994)の「方法論的経験主義」のアプローチを
踏襲し、生得的な制約の仮定を最小限とし、理論的にも実証的にも学習可能で
ないと明らかになったときに初めて、その生得性を仮定するという理論的
スタンスをとり、コネクショニスト・モデリングはこのアプローチの欠かせない
道具であるとしている。(中略)最小限の制約から始めてモデルが子供の学習を
うまくシミュレートできない場合、制約を加えていくことによって、「方法論的
経験主義」を実践している。(中略)この方法は当該の領域の学習に生得的な
知識が内的制約として必要か否かを考えるうえで、有望な枠組みを呈すると思う。
--第7章(Johnson, Oliver & Shrager論文)(中略)Johnsonらは高次の認識に
関わる表象が存在するはずの(大脳)新皮質が初期に可塑性が富むのになぜ発達
の結果として、普遍的に一貫した構造が脳のほとんど同じ部位に生じるのかという
パラドックスの説明を試みる。彼らもまた発達が様々な条件により制約されており、
その制約によって普遍性が生じるとしてその制約条件を検討している。ここにおいて
制約とは、(1)皮質上の細胞の特性のような内的制約、(2)環境入力の構造、
(3)低次の表象から高次の表象へ情報を統合するための学習の時間系列のに
関するダイナミックな制約条件であると主張している。
>>439 &
>>443 行動遺伝学や発達分子生物学などが進展した現在、「遺伝か?学習か?」という
2分法が「ナンセンス」な対比であるのは事実です。問題は「遺伝か?学習か?」
ではなく、「どこまで生得的制約が必要なのか?」
少なくとも、顔文字氏は「学習モデルが獲得すべき対象=構造の例」を
いくつか提示した。それは事実です。そして、それが「生得的制約なしで
可能なのか否か」は、上に挙げたような手法で、地道に検証されるべき話です。
「バイオリンは学習だけで可能なんて証明するのは無理」とか、抽象的な
レベルで議論をストップさせているバヤイではないはずです。
#上に挙げたような手法を通じて、綿密に「論理的可能性」を狭めていくこと
以外に、答えを得るための方法があると思いますか?
ところが、問題は
>>455氏が述べたように....
とりあえず、皆さんが知っている「文法獲得における学習シミュレーション」を
扱った研究として、どんなモノがあるのか挙げてみませんか?エルマンはもちろん
入りますよね?上に挙げた本は文法ではなく語彙・概念獲得の話です。他に、
「文法獲得」に的を絞った、日本語・英語文献には、何があるのでしょうか?
>>472 >「文法獲得」に的を絞った、日本語・英語文献には、何があるのでしょうか?
チョムスキー自身も寄稿した、言語を扱った行動分析系のジャーナル
The Analysis of Verbal Behavior
Chomsky, N. and Place, U. T. (2000) The Chomsky-Place Correspondence 1993-1994,
Edited, with an Introduction and Suggested Readings, by Ted Schoneberger, vol.17. 7-38
Palmer, D. (2000) Chomsky's Nativism: A Critical Review, vol. 17. 39-50
http://www.abainternational.org/avbjournal/anvb-17-0039.pdf Palmer, D. (2000) Chomsky's Nativism Reconsidered, vol. 17. 51-57
http://www.abainternational.org/avbjournal/anvb-17-0051.pdf 綿密なシミュレーションではなく、概念的な批判が中心だが、
学習による文法獲得のモデルらしきものも「一応」提示されている。
普遍文法の概要についても纏められているから、復習にもいいかもしれん。
後半2つはダウンロードできるからだれか挑戦してくれ。俺は無理(笑)。
>>423 「走る」からのanalogyで、
「歩いている」に「乗り物がゆっくり移動する」という意味があってもよさそうなのに、
「ない」ことが分かるのはなぜか、と言いたいのですが…。
fantasyの世界を想像してもこの事実に変わりはないと思います。
乗り物が二足歩行することは想像できますが、その解釈ではありません。
これは否定証拠に基づくのではないでしょうか?
475 :
かかりちゃん:03/02/17 12:48
語彙の意味なんかの獲得はよく分からないことがまだまだ沢山
あるにょろ。文法規則の獲得にはsubset principleってのが
働いていると考えられていて、要するにそれは、「あんまり
突飛なことをしないでovertな証拠がある時にのみ規則を適用する。」
ということにょろ。例えば英語ではwh疑問文ではwh語句が文頭に
出る。日本語ではそれがおこらない。UGはどちらも許している
はずだから日本人の3歳児が間違えてwhを必ず文頭に出したり、
アメリカ人の3歳児がmommy eat what?みたいな疑問文を
作ったりすることも論理的には考えられる。しかし、そういうことは
しない。そのguidelineみたいなものを記述的に説明しているのが
subset principleにょろ。これと同じようなことが語彙の獲得にも
関与しているのではないのかニョロ?
「二足で走る」から「タイヤが回転して走る」という意味拡張は
overt evidenceで学べる。しかし「二足で歩く」から
「タイヤで歩く」という後者の方は明示的な証拠がないから
意味拡張が起こらないのではないニョロか。語彙のことは
あんまり専門でもないからしらないにょろ。しかし、語彙も言語能力の
一部だから何らかの意味で生得的な資質によって獲得可能だと
考えられ、それがsubset principleに従う、ってのは
結構自然なことだと思うニョロ。
いやー、調べるとあるんですね、こういう本が。
Relational Frame Theory: A Post-Skinnerian Account of
Human Language and Cognition by Steven C. Hayes (Editor),
Dermot Barnes-Holmes (Editor), Bryan Roche (Editor)
どなたかこのRelational Frame Theoryについてご存知の方、
いらっしゃいませんか?これが一つの「代案」らしいので、
興味があります。暇があれば、自分で買って読もうと思っています。
>>471 >何の生得的知識も持たずに
というのと、
>生得的な制約の仮定を最小限とし
というのとでは大きな違いがある。
しつこい奴がいるな
まあ、根拠のない反論ごっこは門前払いにゃが、疑問・質問はまだ受け付け中にゃ
遅レスにゃ
>>401 「歩く」がどういう意味なのかを知ることで「歩く」の選択制限を理解し「(通常は)「歩く」が乗り物には
使えない」と判断するようになるのにゃ。その判断の根拠である「歩く」の意味は母語話者の明示的な知識の
一部であり、それを各個人は言語経験の中で形成していくにゃ。そのプロセスに生得的概念形成能力の関与も
あると思うにゃが、獲得された知識は意識的なものであり、なぜ「車が歩いている」がヘンなのかときかれれば
誰でも「歩くとは生き物が自分の足を動かして低速で移動することだから」程度のことは答えられるのにゃ。
対して二重ヲ格を判定するのに要求される統語知識は暗黙のものであり、「太郎が花子を本を読ませた」がなぜ
ヘンなのかときかれても答えられないにゃ。単にヲが連続するからダメ、というのは母語話者の知識をまったく
正確に捉えていないにゃ。(いい例として、俺の使ってるATOK 12は盲目的にヲの連続に対して警告を発する
のにゃが、これは構造分析をせず表面的に線形記号列だけを見ているからにゃ。)そういう言語構造に関する
暗黙の知識を出現頻度だけからどうやって獲得するのか、がはなはだ疑問なのにゃ。
>>402 >「OSVは生得的に不可能」と言っているように読めてしまいます
そんなことは全然言ってないのにゃ。例文(2)の派生方法が生得的に不可能ということで、別の方法でOSVを
出すことは可能なのにゃ。ここで受け身と(専門的にはいいかげんに)呼んでいるのは、本来主語でないもの
を文主語の位置に移動させてできる表現形式の一種で、その移動のやり方が問題になるのにゃ。理解して
もらっていると思うにゃがこの移動には、概略、移動の候補中、一番移動先に近いものから優先的に移動
しなければならない、という最短距離則が働くにゃ。例えば
you think who saw what にwh移動をかけると、who/whatどちらを動かすかで
1) ok who do you think t saw what
2) * what do you think who saw t
という差がでるにゃ。
日本語の受け身も同じような移動が関与し、太郎が花子を殴った→花子が殴られた は目的語の花子が主語位置
に動いているわけにゃ。問題の「太郎が花子に本を読ませた」から、花子を移動して受け身をつくれば
3) 花子が本を読まされた
本を移動すれば
4) *本が花子に読まされた
となり(4)は非文法的になるにゃ。これは上の(1)がよくて(2)がダメというのと同じ理由なのにゃ。
>
>>383の話しにどう当てはまるのか、私には理解できません
とは実に示唆的な発言で、上のような言語学者による理論的説明も本当に母語話者の知識の正確なモデル化
なのかどうかは疑問で、もっとよい分析はないかとみんな考えてるのにゃ。つまりそれほど明示化しにくい
抽象的な知識を母語話者全員が共有しているのであり、そんな知識を各個人がバラバラの経験だけをもとに
どうやって身につけるのか、むしろ最初からできることできないことの大枠が決まっており、その許された
範囲の中でだけ変動や創意工夫、学習や熟達などが起きると見るべきではないのか、ということにゃ。
謙虚モード。(急に切り替わりすぎるのも嘘くさいにゃ…)
>>475 >>481 実のところ、どんなガイシュツ低レベ反駁にもマジレスし続けてくださる
先生方には頭が下がります。
言語獲得について生得的な部分があるということ自体に違和感はないのですが、
二重ヲ格のような個別の例が生得的な制約を受けているというのが
にわかに信じられないわけです。ただの印象ですが。
二重ヲ格を許すように少し練習したらすぐに慣れそうなものだと思ってしまうんですが、
不可能なのでしょうか。
意識的にやれば言語習得の際には使われない能力を使ってしまうということでしょうか。
それと、二重ヲ格の場合構造的に曖昧になるので、自然と避ける理由があるような気がします。
が、目的を先に持ってきて説明するのはまずいのかな…。
では483しゃんは今までの話しから「二重ヲ格制約」とはどういう制約だと理解したのか聞かせて
くれるかにゃ。つまり二重ヲ格について自分が持っている母語知識をどのようなものだと思うのか、にゃが。
決して「すり替え」ではにゃく、その答えを参考にして
>二重ヲ格のような個別の例が生得的な制約を受けているというのがにわかに信じられないわけです
にレスしたいと思うので、にゃ。
言語板でもよく逃げる逃走派でしゅ。ピョンのかつぶししゃんはスラムダンク好きと見たベシ。
かつぶししゃんのファンです。
>>435 >> 故に「「代案を出せ」と言われる」のは、現状では仕方ないと思います。
> ここではね、それは「疑問を表明するな。文句があるなら代案を出せ。できないならば黙れ。
> オレ様に楯突くな」ということと同義なんだよ。
煽ります。その通りです。ていうか代案を産出できる理論もなしによく疑問が提示できるなあって
呆れてます。代案が(うすうすではあるにしても)あるからこその批判であり疑問でしょ?
本当に代案が出せないんですか?代案出せないのに批判してるんでスカ?
漏れなんか、例えば理論物理の話を聞かされて「え、マジか?」と思っても、もちろん代案
を産出できる理論も知らないわけだから疑問すら出ません。「ああ、そういう風にすすんでんのか」
で終わり。理解したのかしなかったのか、ともかく「とりあえずは、そういうふうにすすんでんだな」
で終わります。そのレベルとは違うっしょ?
マジに疑問や批判ができるのは、一定の(自分内の)標準理論がある場合っす。その自己標準理論に
照らし合わせて、「こりゃまた変なことを」と思わせるような言説が出てくると疑問を出せるわけ
じゃ? もち、自分内の標準理論内での代案(もちろんキチンとできてるわけではない)を
もった上での疑問です。したがって疑問も「それ本当ですか?」では決して終わらなくて
「それ本当でスカ?それは、こうこうこうすれば説明がつくことであって、んなややこしいこといわ
なくてもいいんではないの?」と言った代案含みの疑問であり、その疑問を議論によってより
深化させることによって具体的な(たいていは、非常に小さい)問題の解決をどうするかと
いうところに収束していくんじゃ? でもそう言う煮詰まった議論の末の小さい問題っていうのは
珠玉の問題であることが多く、長生きする問題だし、それに対する(議論の末に得られた)解決案
というのも寿命の長いものだと思います。
そういう話になるなら面白い。
だが、ただの(バックボーンなしの)批判だけの話し合い、(あるいは一方通行の勉強会)
なら、やる気起きないって。ちゃいますか?べし
>>483と昨日来私が書き込んだことって同じようなことかな、もしかして。
(没個性化されたレス氏は私がミミズの話で言いたかったことわかりました?)
自然と避けるってのは、プラグマティカルな意味での経済性の問題ではないか、
ということですよね。
あいあい。911ブッシュ自作自演を信奉している逃走派でしゅ。
んなことわかっとるわい、と言われることだとは思うですが、今一度確認しちゃうと
全称や否定が絡んだ命題を証明するのはしんどいです。「生成が扱ってる(UG支持に関わる)
言語現象について、それを説明する学習理論は存在しない」というのは証明できないっす。
大量破壊兵器開発をしていない証拠を出せっていわれても、いくら出しても、いくらでも
イチャモンつけられちゃいます。簡単なのは「これこれの学習理論なら、その現象は
ちょろいよ」って存在を1例挙げればすむってことです。どっちが簡単なのか
一考してもらえると、ありがたいと思うんですよー。oyasumi-
>>485だと、「んなのわかっとる」で終わるな。もっと言えば、「よくわかってない
なら、ガンガン、稚拙でもなんでもいいから代案を(恥ずかしがらずに)出してこいよ。
逐一、潰してやるから。だが、代案を出し尽くした後でも生き残ったら、いいかげん、
認めろよな」ってことかな。なーんちゃって。まじ、おやすみなしゃい。
ロジックに飛躍を感じたところに後先考えずつっこんでしまうんです。ダメですね…。
>>466 そうです、プラグマティカルな経済性…です。
えっと、
二重ニ格を考えてみると、やはり「太郎に花子に会わせた」より「太郎を花子に会わせた」のほうが良い。
とすると、「を」「に」のレパートリーのうち、(元の動詞がとる項として)空いているほうを
選んでいるだけなのではないか。という気がしてきました。
かおもじ先生、間違ってましたら逐一つぶしていただけると光栄です。
>>482 なるほど、面白い現象でつね。でもそれって本当に言語に特有なんでしょうか?例えば、
パン屋に行って陳列されたメロンパンの中から一番手元に近いやつを選び取ったり、
はたまた順番はどうでもいいけど2つのボタンを押さなければならないときに
一番指から近いボタンのほうから押したするといった、、反応の経済性(?)とでもいう
汎用認知「能力(?)」と同一視はできないのでしょうか。
当時の物理板では、「ビッグバン理論」その他のあちこちのスレにおいて、
生徒役で中学レベルの数学・理科の知識すら怪しいおでん屋氏は、「代案」など出せるわけもなく、
「光速度一定なんてどー考えても変じぇねえか。くそー、納得のいく説明をしやがれ」
と吠え続けていたが、
「代案を出せ」なんて誰も言わなかったぞ?
要は,「わかんねぇから教えてくれ」って素直に言えるのか,
「おかしいぞ!」って切って捨ててしまうのかの差じゃないの?
オレ自身,お勉強スレは好きだし/*軍事板のスレは,多分オレが紹介したヤツだ*/,
疑問の呈しかたとか,受け入れのスタンスなどを省みたほうが良いかもナー
逃走派氏がわざわざ「一方通行の」と釘を刺しているのは,そういうニュアンスを含んでのことだと思いたい.
とはいえ,良いお勉強スレニは良い生徒役と良い先生役の類まれなる出会いがあってのことだからな.
個人的には「〜を読め」「〜を知らんうちはこの問題を語るな」ってスタンスには辟易するので.
最近の世界史板に、「なぜ氷河期に文明が出現しなかったのか」
というスレッドがあるんだが、アイタタな1がボコスカ叩かれ、
「じゃあいつ頃のどの地域なら文明が出現しえたのか言ってみろ」だの
「一万年以上前の文明遺跡を発掘してみせろ」だのと突っ込まれてます
コピペ
977 :190 :03/02/18 06:36
>>948 >「生成文法の存在を明確に否定する証拠は無い。では生成文法があるものとみなそう」
>「血液型と性格の関係を否定する証拠は無い。では関係があるとみなそう」
要は「〜があると見なす」ことで、どれだけ「理論的に意味のある/オモシロイ」ものが
出てくるか、でしょう。血液型の場合は「関係があると見なす」のはA○Oらの勝手だが、
だからといって心理学者にとって「意味のある」話は出てこない。
生成文法派の話にしても、あれだけでは「生得的な」構造があるはずだ、と強弁できないはず。本来は。
そうするためには、あそこで書いたように、理論モデルを組んで「〜という生得的制約を設けないと、
〜は学習できない」という議論をするしかない。実際、語彙獲得についてはそのラインで研究が行われている。
その意味では、顔文字氏にしても「〜は生得的構造を考える必要がある“のではないか”」
というレベルでとどめるべきだとは思う。本来ならば。実際、そのレベルでとどめている
ようにも思われるし。
で、話を戻すと、故に我々は、顔文字氏の議論は「生得的制約を考慮しないと説明できない
“ように思われる”」現象を提供している、と受け取るのが妥当ではないかと。
当然、あちらの方が歴史が長い分、「生得的でなければならない」ことを「示唆」
する「傍証」を豊富に持ち合わせているけれど。そこを、こちら側が「あるに違いないと
顔文字氏は強弁している」と受け取るところから、すれ違いが生じているのではないか。
>>485の言い分も分かるが、
ここは決して
>一方通行の勉強会
ではないと思うがなあ。
生成文法の何たるかを心理学徒や素人へ教えたことに喜びはないのかな。
教えること自体の喜びだってあると思うが。
探検隊氏は口こそ悪いが、素人としては悪くない生徒役だと思うぞ。
彼が「疑問」を出し続けたからこんなに盛り上がった。
しかし同時に・・・
>>498 生得的制約のうち、特にUGでしょう。
>こちら側が「(UGを)あるに違いないと顔文字氏は強弁している」と受け取るところから、
>すれ違いが生じているのではないか。
そして、
あちら側が「学習“だけ”でよいと探検隊氏は強弁している」と受け取るところからも、
すれ違いが生じているのではないか。
おまけにもう一つのすれ違いもあるらしい。
言語板の先生方は、特に顔文字氏は、切に「代案」との議論を求めてここへやってきたようだが、
こちらは、特に探検隊氏は、もっぱらお勉強スレにしてしまった。
専門家の顔文字氏としては、「代案」を貰えないまま自明なことを五月蠅く
つっつかれるのでいらいらする。
素人の探検隊氏はというと、五月蠅くつっつきながらお勉強したいのに「代案を出せ」と
言われ続けていらいらする。
>>494-498 でわ,こういうことにするか.
普段の探検隊がアイタタなやつとは思えないし,
このスレを盛り上げた功績についても多とすべきだが,
ここでは素直じゃなくて乱暴で五月蠅い素行不良のアイタタ生徒でもあるということで,
しばらくはバケツ持たせて廊下に立たせて大人しくさせておきまつので,
あっちの先生方は穏やかにお続け下さりながらお勉強スレの意義を考えていただき,
こっちの先生方にはその間にぜひ代案をよろぴくということで.
素直で丁重で大人しい探検隊というのも,辛くないカレーみたいなもんだが.
代案に関しては、言語学者も勉強したいという意味で、どんな
瑣末に見えることでもアイディアや文献を紹介してもらえればありがたい
というような感じでもいいピョン。べつに、「代案が無いだとおー、ゴラアー」
というような凄み方はしないピョンよ。ところで、気になったので訊くけど、
心理学の先生方は、チョムスキー理論が40年前から現在にいたるまで
一貫して仮定してきた理想化についてどの程度ご存知ピョンか?
チョム理論では、「言語習得は瞬時的に行われる」と一貫して仮定して
来たピョン。もちろん、現在でもこの理想化は生きているピョン。
この理想化のおかげで、生成文法は大いに発展したピョンが、
時間の経過を前提とする「般化」のような説明を得意とする心理学との間の
有意義な交流を無くす原因になったのだとも考えられるピョン。
さて、RFTの立場の研究者が書いたハンドアウト(ポスター)が次のURLから
見れるのだが、皆さんは、このチョム批判をどう思われるピョンか?
http://people.cornell.edu/pages/rad28/posters/aba2002.pdf
ありがとうございます。
時間があったらあとで読ませていただきます。
>べつに、「代案が無いだとおー、ゴラアー」
>というような凄み方はしないピョンよ。
いやいや、しばしばそれに近いことをされておられます。
>代案に関しては、言語学者も勉強したいという意味で、どんな
>瑣末に見えることでもアイディアや文献を紹介してもらえればありがたい
>というような感じでもいいピョン。
それはこれまでにもけっこうありました。
そして、議論が続いたこともありましたが、概してあまり相手にされないことも多かったです。
残念だったのは、例えば、語彙獲得において生得的制約を伴う学習理論の話として、刺激等価性の話題が出ましたが、
解説してさしあげても興味がない御様子で、沈黙モードにお入りでした。
>>489 1) 太郎に花子に会わせた
2) 太郎を花子を殴らせた
(2)のおかしさは(1)とは異質だという判断があるにゃ。現に二重ニ格制約なるものは
(生成に限らず)言語学で提案されたことはないのにゃ。(1)が多少ヘンに聞こえても
それは文法の問題ではない、という共通の理解があったからだろうにゃ。しかし
>(元の動詞がとる項として)空いているほうを選んでいるだけ
はだいぶ核心に迫る観察だと思うにゃ。どうして(2)は悪いのに
3) 太郎は花子を次郎を愛していないと思っている。
はよい(と母語話者にわかる)のか、それがわかるためにはまず何を知らなければ
ならないか、そっちの知識は経験的に獲得できるのか、さらに考察おながいするにゃ。
ざっと読んだだけですが、子供が使う文法は大人ほど完璧ではない、
徐々に完成された文法へと近づいていく。故に、このデータは、
生成文法に対するチャレンジだ、ということですね?
細かな部分はさておき、このロジックはいかがなモノかと思いますね。
「生得的≠生まれた直後から大人と同じ行動パターンが発現する」だし、
いすれにせよ子供は、自らを取り巻く言語環境から学習をするのだし。
そのために何らかの「生得的制約」が必要な可能性はある。最初から完成された
文法が見られないのも、語彙獲得におけるブートストラップ手法と
類似の現象かもしれない→「発達初期に使える文法構造」に制約を加える
ことで、学習における「無限の組み合わせ爆発」を防いでいるという可能性。
RFTについて何にも知らないので、つっこまれるかも知れませんが、個人的には、
このデータのようなレベルで「生得か?学習か?」を語る時代じゃないと感じます。
もはや。それにしてもトマセロは、元論文でどんな解釈を与えているのだろうか?
>>492 いわゆる行動文法action grammarと言語の文法の平行性は言語の進化を考える上では
重要だと思うにゃ。人間言語のシンタクスだけに可能な操作と同じことを、人間だけが
手で物体を操作する際にも行えるという観察があるにゃ。しかし今問題なのは、手で
行えても言語では行えない、ということなのにゃ。
>陳列されたメロンパンの中から一番手元に近いやつを選び取ったり
俺は一番手前のは他の客が触ったり唾がかかったりしてるかもしれんと思って
わざわざ奧のやつを選ぶタチにゃ。駅の売店で雑誌買うときも一番上のは避けるしにゃ。
つまりある目的のためには、余計な手間を自由にかけられるのが人間の行動の特性
であり、それは言語「行為」についても同じにゃ。できるだけ簡潔に要点のみを伝える、
という原則を意図的に破り、わざわざ回りくどい表現をしたり、何度も同じことを
繰り返すことで別の目的を果たすことができるにゃ。
さて、たとえば「太郎が花子を殴った」ではなく「花子が殴られた」を用いる理由は、
花子に話し手の視点を置くためであるとか、行為者の太郎を背景化する(誰が殴った
かは不問にする)ためであるとかいったことがよく言われるにゃ。機能主義的な分析
にゃが、使用の理由付け、この表現形式がどういう機能を果たすのか、といった部分
についてはこれでいいと思うにゃ。問題は、このような機能的動機付けがあっても
「太郎が花子に次郎を殴らせた」→
*「次郎が花子に殴らされた」vs ok「花子が次郎を殴らされた」
の差はある、それを使うどんな正当な理由をもってしても「次郎が花子に殴らされた」
はよくならない、ということなのにゃ。
つまり機能的分析に先行してまず言語の可能な構造が規定されており、その許容範囲の
中でのみ機能や行動の多様性が生じる、ということになるにゃ。
そしてこのような反機能的な言語の特性とその進化は、適応とか生存価とかいった
ネオ・ダーウィニズム的分析では説明できない、とされるのにゃ。
>>473で紹介の文章を読んでみたにゃが、チョム批判の理由の一つとして生得的
言語能力は生物学的に無理がある、というようなことが書いてあるにゃ。
このあんちゃんのロジックは
1)「自然選択説は生物進化を説明する正しい理論である」
2)「チョムの生得的言語能力は自然選択では説明できない」
にゃが、なにをかいわんや、生成の主張は
3)「人間言語は自然選択では説明できない」
4)「従って自然選択万能説は正しくない」
なのにゃ。(1)は自明でも何でもなく、生物学界でも自然選択説の是非を巡って
議論が続いている最中なのにゃ。
>>500 >解説してさしあげても興味がない
刺激等価性への言及はあったにゃが、解説してもらった記憶はないにゃ。
お手数にゃが今からでも解説たのむにゃ(ぺこり
>>485 >煽ります。その通りです。ていうか代案を産出できる理論もなしによく疑問が提示できるなあって
呆れてます。代案が(うすうすではあるにしても)あるからこその批判であり疑問でしょ?
本当に代案が出せないんですか?代案出せないのに批判してるんでスカ?
半分同意。代案がなくても「なんか変だな?」と思うことはあってもいい。
直感的疑義は大切だと思う。ただいつまでも「直感」に基づいて文句を
つけていても仕方ない。どこかの段階で「代案」ないしは相手が出した
問いにチャレンジしていくか、あるいは、代案を探すために生産的な方向へ
質問を変えるか...実際、クラリフィケーションのためならば、質問する
のはおけ、と言われてるのだし。
ちょっと訂正にゃ
>3)「人間言語は自然選択では説明できない」
は生成の内部でも意見が分かれ、チョムらはこっちにゃ。
対してピンカーらはUGも自然選択の産物と考え、ゆえに進化心理学とも相性がいいにゃ。
>>504 >お手数にゃが今からでも解説たのむにゃ(ぺこり
前スレから見つけたのにゃ
552 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:01/12/01 00:53
>>550 んー、簡単に言うとね、
柴犬の“ポチ”、ハスキーの“タロー”、コリーの“ラッシー”、その辺の雑種、
エトセトラは、みーんなやっぱり犬でしょ。
これが「犬」の概念形成で、全部の犬を見る必要はない。
ウチの“ポチ”、隣りの“さくら”、その他の柴犬は、
みーんなやっぱり柴犬でしょ。
これが「柴犬」の概念形成。
刺激等価性っていうのは、
たとえば物理的に全然似ていない見本を使って、
絵の“犬”に対して文字の「いぬ」を選べるようになったら、
今度は逆に、文字の「いぬ」に対して絵の“犬”を指せるとかね。
直接訓練を受けてなくてもできちゃうんだよね。
これはA→B関係を学習してB→A関係が成立する「対称律」。
この他に、A→A関係を学習してB→B関係が成立するのが「反射律」。
A→B関係とB→C関係を学習して、A→C関係が成立するのが「推移律」。
A→B関係とB→C関係を学習して、C→A関係が成立するのが「等価律」。
こういうのは動物だと非常に困難なので、刺激等価性は言語能力に深く関係してると
思ってる人が多い。
>>549さんが「実験臨床心理学的な報告例」って言ってるのは、
臨床実験では刺激等価性の訓練によって障害児なんかでも言語能力の向上が見られる
ということ。
あとは詳しい人、続けてちょ。
508 :
玉にはかつぶし:03/02/18 12:11
>逃走派しぇんしぇい、
どうもですピョン。ピョンの由来は、複数あるピョン、もう一つは
ぴ○〜○星人語ピョン。
>500しぇんしぇい
おいらが「ゴラアー」と言った覚えはないですピョンが、
それに近いことがあったとすれば、すまんこってすピョン。
あと、過去ログに刺激等価性のお話があるならいずれ読んでみますピョン。
>190しぇんしぇい
さっそく反応いただきありがとうございますピョン。
これは、おいらの感想ですピョンが、最初のネタフリを
前提とすると、厳密には、チョム理論は、媒介理論無しに、
言語習得研究からのデータ―で、反証も確証もできない
ピョン。なぜなら、言語習得途上で何が起ころうと、
最終産物たる大人の文法には、影響が無いはずだからだピョン。
そこで、もし言語習得研究の成果を使って、チョム理論について
何か言いたいならば、媒介理論(言語習得と大人の文法を関連付ける
理論)を独自に提案する必要があるピョン。このことをあの
ポスターの先生は見落としているのではないかという気がするピョン。
それで、好意的に読むと、彼のcontinuity predictionというのが
実は、その媒介理論に当たるといえるピョン。つまり、彼は、
continuity predictionをChomskyが唱えているかのように言っているが、
実は、彼自身の提案にしか過ぎないと思うピョン。
従って、媒介理論の全体像をはっきりさせるまでは、まだまだチョム理論とは
無関係の主張ととられても仕方が無い段階だと思うピョン。
解説をおながいしたいのは、統語原理の獲得と刺激等価性の関係にゃ。
語彙の獲得、とりわけ名辞とその物理的指示対象との単純な対応関係の学習については刺激等価性の
関与が十分に推定されるにゃ。しかし同じ語彙でも、たとえば抽象的概念を指す名詞、複雑な
概念構造を内包する動詞、ましてや暗黙の統語知識に対して刺激等価性をいったいどのように拡張適用
できるのか、教えてちょ、なのにゃ。
また、話がすすんでいるにょろ。風邪引いたのでしばらく
やすみますにょろ。
>厳密には、チョム理論は、媒介理論無しに、
言語習得研究からのデータ―で、反証も確証もできない
ピョン。なぜなら、言語習得途上で何が起ころうと、
最終産物たる大人の文法には、影響が無いはずだからだピョン。
解説キボンヌ。
>やはり単純な語彙学習しか視野に入れていないのでは、こんなんでどうやって
統語原理を説明するのか、という疑問が湧くこと請け合いにゃ。
だからといって「統語構造の獲得に“統語構造を直接規定する”生得的制約が
ある」とも言い切れないはずですよ。
先に挙げた本のイントロにあるように、語彙獲得にせよ文法獲得にせよ、
「学習モデルを実際に組んでシミュレーション/理論的解析をする」作業は、
どちらのサイドにとっても必要なはず。生成派は、それらを通じて「ほれ見ろ。
〜を獲得するためには、生得的制約が必要なのがワカルだろ?」というデータを
得ることで、「別の側面から生成派の主張を強化できる」。
ロジカルかつ精緻なモデルが分析されていくに連れ、「日常言語で
議論を誤魔化す」ことは難しくなります。故に「こんなんでどうやって
統語原理を説明するのか」なんて、のんきに言ってるバヤイでもないと
思いますが。
#一般論であって、良く知らぬRFTを弁護しようなんて思っちゃいないですが(W
ただ、顔文字氏は、「生成文法派が使ってきた研究ツール」以外の価値を
認めていないようなところが見受けられるので、つっこんでみます。
>190しぇんしぇい
最近では、チョムスキー自身が「言語習得の瞬時モデル」を仮定している
ことをあまり語らなくなったので、忘れ去られているのかもしれませんが、
例えば、最近の言い方だと以下のようなものがありますピョン。
The standard idealized model of language acquisition takes
the initial state S0 to be a function mapping experience
(primary linguistic data, PLD) to a language. UG is concerned
with the invariant principles of S0 and the range of permissible
variation. (The Minimalist Program, p. 169)
意訳すると、「言語習得のモデルとして、理想化されたものを仮定し、
初期状態(S0)を、PLD(の集合)を個別言語(の集合)へと写像する関数とみなし、
普遍文法(UG)は初期状態の原理とパラメタ―からできているとする。」
という感じでしょうピョンか。つまり、言語習得の途中で何が起こる
かを無視しても、生得的知識に関する十分に有意義な一般化ができる、
という考えなのですピョン。つまり、PLDの中身がどのような順番で提示
されても、子供はパラメタ―の値を適切に選び、「正しい」個別文法
(普遍文法のバラメタ―の値が定まったもの)にたどり着くという主張
だといってもいいですピョン。この理想化の元では、言語習得の理論
には、上で述べた意味での、媒介理論が備わっていなければ、UGに関する主張を
反証も確証もできないはずですピョン。たぶん、これでも
わかっていただけないかもしれないピョンが、とりあえす今回はここまで
にしときますピョン。
>>489 あの、確認させてください。あ、他の方でも、もちろん構いませんが・・・
(ちなみに自分は低脳の部類に入るので、その辺をよろしく)
名無し象さん=489の
>「を」「に」のレパートリーのうち、(元の動詞がとる項として)空いているほうを選んでいる
の
1.「元の動詞」とは、489に揚げられている例で言えば、何をさしているか?「会わす」ですか?
2.あと、上の引用部分全体を出来れば具体例に沿って、今一度、説明御願いします。
(それによっては、反例となるものがあるかもしれませんので。)
追加ですピョン。continuity predictionとは、
Early language looks very much like adult language.ですが、
これは、いくらなんでも、チョムスキー理論から、直接は出てこない
と思いますピョン。仮に同じように見えなくとも、実は、同じだ、
ということがいくらでも考えられるからですピョン。例えば、文法以外の
モジュールの制約により、一見そう見えているだけ、という可能性が
十分あるわけですピョン。やはり、説得力のある習得理論(媒介理論付き)
を作る必要があると思うわけですピョン。
>>512 水掛け論になってしまうのも仕方ないのにゃ……
>だからといって「統語構造の獲得に“統語構造を直接規定する”生得的制約がある」とも
>言い切れないはずですよ。
そのとおりにゃ。生得的制約なしに言語獲得が可能であると誰も示せてしない、という事実だけがはっきり
してるにゃ。
>「こんなんでどうやって統語原理を説明するのか」
素朴な疑問を表明したまでにゃ。で実際に説明できていないことは確かなようにゃが?
>「生成文法派が使ってきた研究ツール」以外の価値を認めていない
「生成が指摘してきた言語事実を無視した言語獲得モデル」の価値が理解できない、かにゃ。
>「学習モデルを実際に組んでシミュレーション/理論的解析をする」作業は、
>どちらのサイドにとっても必要なはず。
しかし俺らはそういう作業には馴染んでないので、お任せするしかないのにゃ。反生得説側に反証責任がある
以上、俺らは彼らのやることを黙って傍観させてもらってもいいのではないかにゃ?その成果を俺らにも
分かるような形で伝えてもらいたいものにゃ。コネクショニズムは名前だけつけ替えた生得説にほかならない
という指摘もあるようにゃが?
まあこれは独り言にゃが、俺個人はコンピュータ・シミュレーションをあまりあてにしてないにゃ。
喩えれば、DNAなしで遺伝のメカニズムをうまくシミュレートできたからといって、実際の生物にも
DNAはないということにはならない、というのと同じ愚を冒すことにならないのかという危惧があるにゃ。
媒介理論つきの学習理論(ハルやトールマン)は数十年前にとっくに絶滅したわけですが・・・
あい。昨日は書き込み時点でアルコールが入ってました。しーましぇん。
例えば、I hear that John is in Montreal.という発話の、
I hear thatの部分がautoclitic? 同じく[I read in the
paper that] John is in Montreal.の[ ]の部分がautoclitic?
こういう、他の人の発話を引用するような意味機能を持った表現
で聞かされると、それが一種の標識になって、John is in Montreal
の部分は「文法的に文句なしの構造だ」と刺激の強化につながり、
そのパターンが定着して統語的能力が獲得されるって、そういう
ストーリーなのかな?(多分全然違うなー:笑)
どなたか教えてくだされーぴょん。んじゃ。
>>501 >3) 太郎は花子を次郎を愛していないと思っている。
これがOKなのは、統語構造の知識が前提となっているからですね。
ここで例えば、(わざと奥のメロンパンをとるように)「花子を」が「愛していない」に、
「次郎を」が「思っている」にかかっていてもいいのに、そういう解釈はあり得ず、
句構造に縛られているのは何故か、というような理解でいいのでしょうか。
上の点に問題を絞ると、わざわざ記憶に負担のかかる解釈をする理由がないから、で
説明できてしまいそうな気がします。
「太郎は次郎は三郎は花子は見たと言ったと言ったと言った」
のようにいくら記憶に負担がかかっても文法的なものは文法的であることは承知してますが。
…コストの計算が局所的にできるのか、とかいう問題になるのかな?
背伸びしすぎ。
>>514 元の動詞は「会う」です。
「会う」はガ格とニ格をとる二項動詞なので、
使役文で追加される格はニを避けてヲになり、
太郎が花子に会った → 太郎を花子に会わせた ?太郎に花子に会わせた
となり、また「殴る」はガ格とヲ格をとるので、逆に
太郎が花子を殴った → 太郎に花子を殴らせた ?太郎を花子を殴らせた
となるんじゃないか、と思ったわけです。
随意的に時刻場所などを表すニはもともと重複OKなので別です。
ダメかな…。「パーティに招待する」を名詞句にすると、「にの」という形がないので
「パーティへの招待」になるみたいに、割と助詞は場当たり的に入れ替わる気がするんだけれども…。
いつも思うのだけど(そしてそれは心理板でいうことではないのだけれど)、
okとされるものの「okさ」に、不満があることがあるのだけどな。
例えば、「殴らせる」の受け身は本当に「殴らされる」なの?
言い換えれば、「殴らせ・られる」=「殴らさ・れる」なの?
「見せる」と「見・させる」というのは明らかに意味が違いますよね。
「見せ・られる」と「見・させ・られる」ってのも、似て非なるものだと思います。
私レベルだと、こんなことで引っかかると、どうもそこで止まってしまって
論そのものの確からしさを疑いはじめたり・・・・・
補足:
「殴らせる」は「殴ら+せる」です。「殴らす」は一語です。
522の4行目を
>…「殴ら・せ・られる」=「殴らさ・れる」なの?
と理解してください。
「ら」抜き言葉は可能助動詞と受身助動詞を区別するための変化で、
そのうち日本語は「ら」抜き言葉で統一されるはずだ、と誰かが主張してたな
国語のせんせ、鋭いにゃ
私見では「殴らせる」=「殴らす」、従って「殴らせられる」=「殴らされる」、
しかし「見させる」=/=「見せる」、従って「見させられる」=/=「見せられる」、
だと思うにゃ。理由として例えば、
1) 太郎は花子に本を自分の部屋で見せる(自分=太郎only)
2) 太郎は花子に本を自分の部屋で見させる(自分=太郎or花子)
にゃが、
3) 太郎は花子に次郎を自分の部屋で殴らす(自分=太郎or花子)
4) 太郎は花子に次郎を自分の部屋で殴らせる(自分=太郎or花子)
という違いがあると思うにゃ。まず、この判断に同意して貰えるかにゃ?
>>521そうすると、まず次の文の容認可能性判断はどうでしょうか?
「私は 太郎に 花子と会いたがっている人に会わせた」
「私は 太郎を 彼がどうしてもと言うので、花子を殴らせた」
さらに類例
「私は 太郎に 花子に会って欲しい」
「私は 太郎に ここにいて欲しい」
(自分はokと思ったのですが...relevantな例かどうか諸先生方の判断
おながいします)
>>520 カオモジ先生の意図するところはこうじゃないかと自信無さげに
レスしますです。(例文はかき混ぜなしの標準語順で考えて、というか自分は
520みたいな深い難しいことは考えてなかったです、ハズッ(^^;))
ヲ格と二格をoptionをもたない述語を持ってきて、それでも二重ヲ格制約に
引っかからないようにみえる例を出して、それは
>>489では説明されないように
おもえるが、それはどう思うか?これは埋め込み構造中のヲ格はカウントしない
というシナリオが描けるのではないか?だから二重ヲ格制約(等他の文法)制約の
詳細がどうであれ統語(ここではとりわけ階層)構造に依存することになるが、それ(統語構造)は
後天的学習によってどのように習得されるのかが争点だということを言ってるような
気がしますです。
ちなみにElman Netの批判は生成側では大津先生もしていたと思うのですけど、
詳しい人に委ねまつ。
(名詞化については自分が良く分かりませんです...語彙論的説明じゃ駄目?
半分書き逃げでつ。)
・・・・・・
>>525 相手に「見る」という行為をさせることと、自分が「見せる」という行為を行なうことの
差は、比較的意識にのぼしやすい差異ですよね。
「殴らせる」と「殴らす」に、もう少し微妙な(なかなか意識にのぼしづらい)レベルの
差異があるようなことは本当にないのか、などとしばらく考えていたのですが……
もしかしたら、私の語彙の中には「殴らす」という動詞がないかも。
「殴らして」はまだしも(naguras<e>teの<e>が脱落?した実例としてありそう)、
「殴らさない」「殴らします」「殴らせば」「殴らせ(命令)」に決定的な違和感が。
だとすればシンタクス以外の問題が絡み始めるのでややこしくなるため、
この話は棚上げでいいです。
現実の音声言語をネタに使うと、どうしても語史とか語用論的なノイズを廃し切ることが
難しい気がします。廃し切るには、やはり論理記号のようなものだけで構造を記述するような
アプローチを究極まで進めなければならないのかな。
(カルナップあたり?の記号哲学はちんぷんかんぷんだったキオクがあるのですが、
それに近い世界が展開してしまう気が。)
>>526 >「私は 太郎を 彼がどうしてもと言うので、花子を殴らせた」
この例がよいとするとちょっとやっかいかも知れんにゃが(隣接性が関わるPF条件ということで片づけるのなら
いいけどにゃ)他の例はOKで問題ないと思うにゃ。俺の場合、元々二重ニ格は平気だしにゃ。
思いついたにゃが、これなんか真性二重ヲ格のようでありながら、他の例よりだいぶいいと思わないかにゃ?
1) パソコンをメモリを増設する
2) 大学を法学部を卒業する
3) 太郎を合格を取り消す
もしいいとして、これらには他と違ってどういう共通点があるのか、気がつくかにゃ?
>520みたいな深い難しいことは考えてなかったです
俺もにゃ(w
まあ、だいたい526しゃんの想像どおりにゃ
>>528 棚上げにされても困るけどにゃ、そんなに難しい話しではないのにゃ。
立つ:立てる =/= 立たせる、着る:着せる =/= 着させる
などで考えて貰ってもいいにゃ。
>比較的意識にのぼしやすい差異
この差異を掘り下げることが使役文を理解する上で大事ですにゃ。
ところで「のぼしやすい」というのは国語しゃんのオリジナルかにゃ?それこそ「のぼす」というのは
俺の辞書にはないかも、にゃ。
>>521さんの判断待ちです。ちなみに
>>526は
>>489の疑問へのレスです。
先生側の批判は意図していませんでつ。
>>529 いいと思いますです。whole/partのような関係ですか?でも(3)は?となっちゃいます。
inalienableな関係?でもないような...
えっと、とりあえず、[np NPのNP]の関係が成立する例ですかね?
所有者上昇の例?>(1)-(3)の例文
ただ、これが当の制約をどうかいくぐるのかわからないです。
何か、同じ述語項の「言い直し」のように聞こえますが...
等位構造みたいなのかな??
ともかく、ここでも統語構造を
この制約は、「見て」、これは見逃すということでつかね?
ちょっと気になるのは上の自分の観察が正しいとすると
一見A-over-A条件違反もしくは左枝条件違反のように見えまつが
事実はok。なんでだろ?条件が間違ってるのか、それともこれは
条件違反などしていないのでokということかな?後者っぽいけど、
どう考えられてるのか、疑問。←独り言でつ。
深い難しい…って、何も知らないので妄想を語ってるだけなので。
>>526 上の2つは確かに若干改善する気もしますが…よく分かりません。
下の2つは確かにOKですが、二重ニ格が常に禁止と言いたいわけではなく、
ヲ格で回避したほうが容認度が上がる、ということを言っただけなので…。
この場合はヲ格をとる可能性がないので、やむを得ない形だと思います。
>>529 1)〜3)は正直かなり悪いんですが。もし「太郎を花子を殴らせる」より若干良いとしたら、
意味が曖昧でないためのような気がします。
えと、最初の疑問の感覚に立ち返ると、生得的な言語獲得装置が仮にあったとしても、
「二重ヲ格制約などの詳細」はそれに由来させるまでもなく、ローカルな合理性で説明できそうなもんだ、
と感じたわけで、「しかし基礎的な統語構造はどうなのか?」って話に持っていかれても
困るのですが…。
わたしへのレスがしょぼかったので、しばらくはずれてたにゃ。>(´∀`) のセンセ
カント認識論を語ってるくらいだから、およそ客観が主観構成的なのはわかってるはずにゃ。
「言語は自然物だから…」云々は、そういう視点の欠落を言ったものにゃ。
自動車も放り投げれば鉄のカタマリであり、放物線を描いておっこってゆくのにゃ。
アプリオリに自然物/人工物の区別があるわけないにゃん。
で、いまほんとに心理学の先生との話し合いになってんのかにゃ?
二重ヲ格は、
「太郎は、女子高生を3人、アタマの悪そうなのを殴った」みたいなのがいいにゃ。
このばやい、二重ガでもよくなるにゃ。
「女子高生が3人、アタマの悪そうなのが殴られた」
これらはgenitive関連が想定される例、「自動車がエアコンが故障した」と同じかにゃ。
「太郎を花子を」なんたらは、一般によくないにゃ。ってか、こんなハナシしてるばあいかにゃ。ヒマがあったら、全部読むにゃ。
>>532 >で、いまほんとに心理学の先生との話し合いになってんのかにゃ?
むしろ非生成派の言語学者との話し合いでは、と。
心理学のせんせと、言語学のせんせと、乱入したDQNの対話でつ。
生得的にでも経験的にでもいいにゃが、言語知識の獲得を説明するということは具体的にはどのような
困難な問題に答えなければならないのか、を例えば二重ヲ格という些末な現象を引き合いに出して
検討しているわけにゃ。そんなのは言語学者だけの仕事、と思うのであれば言語獲得の問題に関わる
必要も資格もないはずにゃ。
>>535 そう焦らずに。いまは具体的にどんな「些末な問題」が見出されて
いるのかを窺っている最中なんでしょう。
>>531=名無しさん、DQNは
>>526のことですか?皆さん私の横レス無視ということで。
>上の2つは確かに若干改善する気もしますが…よく分かりません。
そうですか...これがいいとすると
>>489の反例になるのではと思ったものですから
これで容認度が上がるとすると、むしろ、「pragmaticなeconomy」と称した原因の可能性
が出てくるのではないかと、思ったりします。自分の理解では、これは統語解析上の制約と
受け取ったのですが、線型順序上隣接した二重ヲ格(ひょっとすると二格も)は、
deterministic parserが「困って」しまうということで、容認度が下がるとも言えるのでは
ないでしょうか?(詳しく検討してないいい加減な物言いでつ。)
>下の2つは確かにOKですが、二重ニ格が常に禁止と言いたいわけではなく、
>ヲ格で回避したほうが容認度が上がる、ということを言っただけなので…。
>この場合はヲ格をとる可能性がないので、やむを得ない形だと思います。
ここで、勝手にガ格と二格の問題に応用したつもりですた。そういう意味で、
>>526で、分けて「類例」としたわけですた。つまり、間違ってるかも、ですが、
「会って(いて)欲しい」の「第一内項」はガ格とニ格のoptionが許されるのじゃないか、
しかし、「第二内項」に「元の動詞」(「会う」、「いる」)が二格をとった場合、
当の「第一内項」には「ニ格を避けて」ガ格が選ばれた方が容認度が上がるという予測に
>>489の通りなら、なるはず。だが、(ここは、また判断を仰いでないのですが)
ガ格をとり、「私は太郎が 花子に会って欲しい」とすると容認度が下がるような気がし、
そうだと、
>>489の予測に合わないということになり、反例になるのではないかと思ったり
したのでつ。取り合えずレスしときますた。
>線型順序上隣接した二重ヲ格
要因はこれだけではないということは、ok「花子を太郎を殺した犯人と断定する」みたいなのから
明らかにゃ。階層構造に関する制約があって、それが隣接しない環境に移動すると別の構造に後から
組み換えらて再分析されるかもしれんにゃ。
529の例はとっさの思いつきなので俺もなんもアイデアないのにゃ(ドテッ
ただ、二重ヲ格が同じ動詞がその項に付与するヲ格が一つに限られる(使役動詞もrelevant levelでは
一つの複合動詞と見て)、ということであればもともとその動詞の項でないものに対するヲ格付与は
カウントされないだろう、と思ったにゃ。所有者上昇における所有者もそうだにゃ。
DQNは私です、念のため。
>>538 後段はおっしゃるとおりだと思いました。
最初から考え直すと、使役の場合、
「原則としてヲ格を使うが、既にヲ格が埋まっている時のみニ格を使う」
が正しいような気がしてきました。そこから先は、考えてきます。
DQN参上。完全にスレの趣旨からは逸脱してて申し訳ない。。。
顔文字先生とだけお話してるつもりはないので、他の人も日本語ネイティブとして
ぜひ感覚をお聞きしたいのですが:
「殴らす」は、私の感覚からするとかなり特異な動詞です。理由を再掲すると、
「殴らさ(未然形)・殴らし(連用形)・殴らせ(仮定形)・殴らせ(命令形)」を
欠いているように思われます。
「俺は子分に奴を殴らさない」「お前を俺に殴らせ!」は非常に違和感があります。
「殴らす」という動詞は本当にあるのでしょうか???
「殴らされる」がokに感じられるのは、実際に広く存在する「なくす」「踊らす」といった
使役動詞+「れる」のokさが干渉しているためアリに感じられてるだけかもしれません。
「殴らす」という使役動詞が本当に認められるかどうか、微妙だと思うのです。
(存在しないかもしれない語をもとに作った用例を検討して得られる成果でも
別に語意論やってるわけじゃないから、と切り捨てちゃってもいいものかどうか。今考え中です)
ちなみに、「のぼす」というのは、中世以来普通に使われている由緒正しい五段動詞です。
古語の二段「す・さす」は標準的には一段「せる・させる」に引き継がれたけれど、
一部(方言的な?)変種として五段「す・さす」が出てきたんではないかと思います。
「滅ぶ(二段→五段)」などに似た経歴。
したがって終止形以外は違和感が大きいのではないでしょうか。
「飛ばす」「脱がす」などは使役ではなく一語の動詞ですね。
>>542 >古語の二段{活用していた助動詞}「す・さす」は標準的には一段{活用の助動詞}
>「せる・させる」に引き継がれたけれど、……
>五段{活用の助動詞}「す・さす」が出てきたんではないかと思います。
>…
>「飛ばす」「脱がす」などは使役{の助動詞が「飛ぶ・脱ぐ」に付いたもの}ではなく
>一語の動詞ですね。
という意味で理解していいのかな。
「飛ばす」「脱がす」は与格(○○に)の成分を必要としませんね。
「太郎が花子に服を脱がした。」は、私はダメ。
「太郎が花子に服を脱が・せた。」ならOK。
「花子が太郎に服を脱がさ・れた。」はOK。
「花子が太郎に服を脱が・せ・られた。」はOK??
殴らす(殴ら・す?)=殴ら・せる とのみ理解されるのは、
殴るという行為が必ず行為者の意志のもとに成立するからでしょう。
「見せる・飛ばす・脱がす」は、
「見ちゃった状態に持ってゆく(見ている本人が見ようとしてるわけではない)
飛んじゃってる状態に持っていく(飛んでる本体が飛ぼうとしてるわけではない)
脱げちゃった状態に持っていく(脱いだ当人が脱ごうとしてたわけではない)」
というニュアンスを許すものですが、「殴らす」には
「殴っちゃった状態に持ってゆく(殴った本人が殴ろうとしてたわけではない)」
というニュアンスを付加しづらいです。
いわゆる「使役」に、やっぱり与格は不可欠なのではないかな。
アトー的に電波発信してるのはわたしにゃ!!わたしを忘れないようにおながいしますにゃ(プンスカ
to flyのように自他同形であろうが、to fall/to let fallのように異形をとろうが、
これは音声解釈上の現象であって、あんまり構造解析には関係ない、というのがチョム信者の世界にゃ。
「(株価などが)上げる」とかのばあい、その意味解釈のほうから動詞の構造を考えるので、
この「上げる」の用法が歴史的・標準的なものかどうかは、生得性のいみからいってもさして重要ではないのではないかにゃ。
まあ、動詞の架空の用法や形態上の存在しないヴァリアントを幼児に習得させる実験が人道上許されるなら、
どういう動詞を選ぶかは、ちょっと興味あるけど。
さて、「観念は喉頭の振動だ!」みたいな化石的な行動学者来ないかにゃー。
来なければ、またメロン饅頭のセンセにしつこく絡むのにゃーーーー。
ますます言語板でやれと言われそうにゃが(w
>>540 >「原則としてヲ格を使うが、既にヲ格が埋まっている時のみニ格を使う」
前半は再考を要するにゃ。特に補文が自動詞の場合、ヲ格使役と二格使役が別物だということが
分かるにゃ。
1) 太郎は花子を歌わせた。(強制読み、無理やり歌わせたという解釈が優先)
2) 太郎は花子に歌わせた。(許可読み、本人が歌いたいというのでそうさせたという解釈が優先)
受け身にすると
3) 花子が歌わされた。(強制読みのみ可能)
つまりヲ格使役のみ受け身可能ということになるにゃ。
補文が他動詞の場合、
4) 太郎は花子に本を読ませた。(両方の読みが可能)
つまり本来「花子に」で許可読みを出しているはずが、二重ヲ格を回避するためにヲ→ニの調整が
あとから施されていることになるにゃ。もちろんこの場合も受け身にすれば
5) 花子が本を読まされた。(強制読みのみ)
になるにゃ。
>>541 特に異論ないですにゃ。俺の場合、「殴らす」は「殴らせる」の短縮形程度の認識にゃ。
殴らした、殴らせた、両方の過去形があるにゃ。こっちの話しにゃが、心理動詞の「喜ばす」「喜ばせる」
だとだいぶ事情が違うと思うにゃ。
で、ポイントは「着せる」「着させる」でははっきりと分かる違いが、「殴らす」「殴らせる」では
存在しない、ということで、なんでそんなことが分かるのか、という問題なのにゃ。
>「のぼす」というのは、中世以来普通に使われている由緒正しい五段動詞
これはいいこと教えてもらったにゃ(ぺこり
nobo-s-u / nobo-r-u、他動形態素-sと自動形態素-rが一番きれいに対をなす例ですにゃ
ひょっとして「のぼせる」も関係あるにゃ?
>>542 >「飛ばす」「脱がす」などは使役ではなく一語の動詞ですね
「使役」という用語の使い方の違いにゃが、「飛ばさせる」が統語的使役に対して「飛ばす」は語彙的
使役とされるにゃ。自動詞・他動詞の交替にゃが、他動詞というの自動詞の語彙的使役形というわけにゃ。
自動詞から派生したということではなく、共通のルートが自に派生したり他に派生したりするという
ことだと思うけどにゃ。
543の国語のせんせとちょっとかぶったにゃ。
訂正にゃ
>本来「花子に」で許可読みを出しているはずが
→本来「花子を」で強制読みを出しているはずが
>to fall/to let fallのように異形をとろうが
虚無しゃん、これは言い過ぎにゃ。出すにゃらrise/raise、sit/setあたりかにゃ。
>>516 再確認しておきたいのですが、ここで顔文字さんたちがしている作業は
「言語活動の背後に存在する構造を抽出すること」ですよね?
(それはそれでおもしろいので黙って読んでいます。ぜひここでも続けてください。)
ただ、抽出された「構造」が「学習での獲得が不可能か否か」は、
「構造が存在している」ことを示すだけでは、主張も否定もできないと思いますが。
顔文字さんの「根拠」を探っても「〜という構造は学習するのは難しいにゃ」という
さほどロジカルでなさそうな根拠であるように思われます(過去ログに見落としがあれが
ご勘弁)。
(続く)
本来ならば、「学習可能か?生得的制約という概念は必要か?」という議論に
何らかのロジカルな答えを提供するためには、次のようなスタイルの議論が
必要だと感じます。
例:Marcus(1998)--上で引用した今井むつみさんの本の第6章で引用
前提1.言語とは、たとえばx=y+2に代表されるような代数的ルール。
故に、past(x)=x + ed → past(stem) = stem + ed といった例のような
(i.e., 動詞を過去形にする関数)変数間の抽象的な関係を明示的に表現する
システムでなければならない
前提2.(表象が分散的に表現される)ニューラルネットは統計的学習を基盤
としたシステム。シンボリックな変数間の関係=代数的ルールは取り扱えない。
結論.故に言語を扱うシステムには「代数的ルールを取り扱えるための生得的制約」が
必要である。
-------
さてさて。ここで提示されている「言語構造の定義」は言語学者からみたら
意味論を無視した単純な議論、とされるかも知れないですが、今それは関係ないです。
顔文字さんたちがしている作業は「前提1」に対応→言語が持つべき構造を形式化。
問題は、その次です。前提2に対応する命題を見つける作業をせず、前提1を
特定するのみで「言語を学習で獲得することはむりにゃ。そして、反証責任は
反生得説側にあるにゃ」と「主張」できるのでしょうか?
(少なくともこれまでに提示されてきたのは)「構造を形式化する」段階で
とどまっているのに。
#このスレの不幸な歴史上、心理学徒が大した根拠もないまま「学習できるに
決まってるだろ」と食ってかかっていたことがあったかも知れません。言語学者が
「構造を見いだした」ということが、どれほど重要な意味を持っているのか、
気づかずに。
しかし。
だからといって「(生成派)言語学者は構造を抽出しただけで“学習するのは
難しそうにゃ。できると言えない以上、できないも同然にゃ」で終わってしまうのは、
さすがにいかがなものか、と「ずっと」感じていました。ここを読みながら。
ここからは提案です。
「学習」の操作化に長けていない言語学者でも、「言語の背後に存在する構造」を
他領域の研究者が使える形で「形式化」することは可能ですよね?というか、
他の人間がやっても、Marcusのような定式化がせいぜいでしょう。この作業は
言語学者がするのにふさわしい。
そこまでできれば、後は認知発達屋さんなり、統計的学習屋さんなり、の仕事に
なるでしょう。
余談&質問:という一連の仕事は、既にコンピュータ・サイエンスでとっくに始まっているとは
思いますが、それに言語学者はどの程度絡んでいるのですか?
読みにくい文章でスンマセンね。
みゃんと、王道にもどってるにゃ!!
補足すれば、じつはさらに状況はやっかいにゃ。
表現(あるいは語)pを含むすべての可能な表現を、有限な時間のなかで体験するのは不可能、
しかし統計的に「ありがちな表現」と、「なじみのない表現」の判断みならず、
「類推可能だが不可能な表現」という内観が成立してしまうところが根本的なナゾなのにゃ。
これはかりに、認知可能な自然数から無限数列を類推する生得的能力があったとしても、いぜんナゾなのにゃ。
代数でいえば、a(b+c)は分配できるのに、a{b+c(d+e)}は分配不可能であるようなネガティヴな例で、局所制約とか呼ばれてるにゃ。
一般的にいって、後者のような式におめにかかることはめったにないが、
それでも、「禁止の内観」がはっきりと確認されるところが大きな根拠となっているのにゃ。
なんか書いてるうちに、たいした根拠じゃない気がしてきたにゃー。
要するに、こうしたフクザツな数式(例文)について判断が下せるところに、「刺激の欠如」の議論がかみあわさってくるのにゃ。
言いすぎのところは、饅頭顔のセンセが正してくれるであろー。じゃにゃー。
高尚な話になってきてるのに蒸し返してあれなんですが、
>>545 強勢読み/許可読みの判断にあまり同意できないです。
2)の「歌う」は他動詞でヲ格が省略されているように感じるですが…。
1) 太郎は花子を笑わせた。 2) 太郎は花子に笑わせた。
1)の「笑う」は自動詞、2)の「笑う」は他動詞のように聞こえます。
完全な自動詞だと、「花子に眠らせる」「花子に死なせる」…少し苦しくないですか?
さっき突然、言語を学習することについての比喩をひとつ思いつきました。
言語を学習するのに学ばねばならないことは、
・他者が作り出した最終生成物である「文」から、その文の「作り方」を学ばねばならない
ということなわけで、
・街を闊歩する人々の着ている「服」を見て、その服の「縫い方」を学んでしまう
ような作業ですね。生成の人は、
「作業過程におけるある程度のテクをあらかじめ知っているとの前提なしには、
限られた服のイメージを見ただけのことから、新しい服を自在に作り出す技能が身についたり、
服を作る上でやってはいけない事を自然と避ける感覚などが身につくとは考えにくい」
と主張していると。
この喩えがけっこううまいものであるとの胴衣を得られるなら、
ここしばらくまるで言語板住人が乗っ取ってしまったかのような、使役文等をめぐる
用例検討は、その例え話におけるどんな作業にあたるのか考えてみます。
国語しゃん、上手い比喩だとおもいましゅ。
てすと
ずっと
「YAhooBBからのアタックがひどいのでYahooBBは規制しています」
とか言われて書き込めないのにゃ(怒
とりあえず別のプロバイダでダイアルアップしてるにゃが、
規制をくぐる方法とかあるのかにゃ?
しゃーないにゃー、しばらくダイアルアップでいくにゃ(電話代気になるにゃー)
>>549〜
残念ながら大筋では190しゃんのいうようなのが現状だと思うにゃ。
生得的言語知識の存在を直接立証することも反証することも誰にもできてない以上、
こちらとしては地道に言語構造を解いていって、その普遍性と均一性、またそれを
経験的にもたらせるほどの均質性が初期言語刺激には見当たらないという指摘によって、
経験論に疑義を申し立てるというにとどまるにゃ。だからこそそういう生得性が想定
される言語事実に対して検証可能な経験論的分析を示してもらう以外にないにゃ。
たとえば上出の、周りの大人は誰もそんなことを言わないのにどうして幼児は連続
循環的な移動を顕在化させることがあるのか(who do you think who John loves?)
といったささやかな疑問に対して経験論はどう答えるのか、可能なシナリオを
お願いしたい、それがあってようやく議論が前に進むのではないかにゃ。
まあ550であがっているような規則変化の習得なら、NNなんぞを持ち出さなくても
類推に基づく古典的な学習で間に合うので、それこそNNへの反証にはなっても経験説
全般への反証にはならないにゃ。実際、ある時期子供は不規則動詞にも規則変化を
過剰に一般化するにゃ。周りの大人は誰もそんなことは言わないという点は同じで
あっても、上とは質が異なる(と見ている)のにゃ。
>言語学者は構造を抽出しただけで
ここではその話しが中心になってるにゃが、もっと基本的な観察として母語知識の
獲得は(特殊な例外を除き)すべてのヒトに、そしてヒトにだけ、一様に均質に、
普遍的に起きる現象である、ということがまずあり、ついでその獲得された知識の
中身の普遍性と個々の幼児が身を置く初期言語環境の多様性の間の大きなギャップ
を考慮することで生得的知識の関与を想定せざるを得ない、という議論なのにゃ。
さらに奧の問題としては、どうして言語がそういう特性を備えていなければならない
のか、ということがあるんだけどにゃ、これはまたにするにゃ。
>>554 判断の相違はにゃんともしがたいにゃが、上の判断は俺の勝手なものではなく
いちおー広く受け入れられているものなのにゃ。断ったとおり明確な区別ではなく、
優先的な読みはどうか、なんだけどにゃ。
>2)の「歌う」は他動詞でヲ格が省略されているように感じる
俺は逆にこっちが同意できないにゃ。
自動詞の例でいうと、
1) 花子に働かせる(働きたいというのでそうさせた)
2) 花子を働かせる(強制労働)
一般に「に」・「を」の別は、被使役項に意図性・主体性・動作主性があるかどうか
に対応するにゃ。
3) 金魚に死なせた(自殺志願の金魚みたいできもいにゃ
4) 花に咲かせた(同様
>「花子に眠らせる」「花子に死なせる」
花子にその意志があればおかしくないにゃ。
cf. 「睡眠薬で花子を・*に眠らせる」「意識不明の花子を・*に死なせる」
>>555 付け加えるにゃら、みんなたまたま目にする服は異なるのに、全員が同じような服を
同じように作るようになり、それ以外のことは(一度間違ってから訂正されることなく)
はじめからしない、といったあたりにゃ。
ふぎゃ、顔文字しゃんがダイアルアップで四苦八苦してる間隙を縫って荒らそうと
思ったのに、ちゃっかりしっかり書き込まれてるにゃ。
>>190しゃんが知らしめてくれた状況は、すごーくよく分かるし、分かってるつもり
なんだけど、正直、190しゃんの前提2で記されてるような説明が標準なのかどうか
ってのが分からないってのが、漏れにとっての問題なんですぅー。生得性で一応突っ張りたい
でも、そうする以上、学習説をはね退けとかないとイケナイ。で、学習説での
スタンダードとなってるのは・・・と見ていくと、そこらあたりで、何がなんだか
分からなくなってしまうのでした。ここらあたり、心理のほうではどんな理解なんでしょ?
エルマンネットをターゲットにしていれば一応無難って、そんな感じぃ?
おじゃましまんにゃわ。このスレ盛り上がってまんな。
この手の議論があるたびに思うのは、学問というもの
もいかに"洗脳"が重要かってことでんな。洗脳という言
い方が気に食わんという奴は、"固定した価値観"といっ
てもよろしいんでっけど、要するに、ある学問体系に没
頭する初期の段階で、どういう思考法や主義・主張に身
を染めたかということですわ。これがその後の人生を決
めると言っても過言ではおまへんな。
さて、生得性うんぬんという話です。理科系・心理学
系の方々と議論するといつも言われるのは、「普遍文法
なんていうからわからへんねん。初めから言語獲得装置
というてくれたらわかるのに。」てやつです。
それはさておき、心理系の人に言語学の手法を説明す
るといつも怪訝な顔をされるんやけれども、Bard et al.
(1996)あたりの視覚実験の話と同じやということを説明
すると、急に納得してくれたりします。
>>559 敵は経験論だけではないのにゃ。ってゆーか、純粋な経験論者っているのかにゃ?
言ったかもしんないけど、
すべての学習に生物学的制約があるなら、ずいぶん議論の枠組みもかわるのにゃ。
それと、認知からシンタクスへの入力の可能性は排除できないにゃ。
命題論理的な「イヌ」と「白いもの」の結びは、純粋なカテゴリの合成としては、
対称的に現れても不思議じゃないにゃ。
だが圧倒的に「イヌである白いもの」よりも「白いイヌ」のほうが認知しやすい(実証的な問題じゃないけど)
「白いもの」のカテゴリは、具体的に思考可能であるにもかかわらず、
なんらかの生得的な理由で、世界知識としてのタクソノミーで主要な地位を占めることができないのかもしれないにゃ。
わたしは、ここにシンタクスとは独立した「投射関係」が成立するかもしれないと思ってるにゃ。
また難しくなったかにゃ…
わたしは、あの2項マージで、カテゴリどうしの融合(white+dogとか)と、
カテゴリと演算子相当の語(機能語であるが、ひょっとしたら冠詞はカテゴリのいちぶかもしれない)
との融合はベツモノじゃないかと思ってるにゃ。だいたい1語どうしくっつける、というのは単純すぎにゃ。
以上、電波ですたにゃ。
でも、なんだにゃー。行動主義系の言語理論みてると、ほぼ「お笑い」に近いものがあるので、
なんだかわたしもいろいろ妄想を口走る勇気がでてくるにゃー。
と、いちおう煽りにゃ。
さらに続けさせてもらいやす。
言語獲得装置という言い方にしたところで、その装置が
どういうものを指すかということで議論が起こるわけです
な。どういう"初期洗脳"を受けたかで、こいつにどういう
機能を担わせるかが違ってくるんやね。
さらに、言語屋さんの多くは統語的な事象・事実から
演繹しようとたくらむんやけど、心理屋さんの多くは刺
激と反応(といっても今はかなり進歩しとるから、パブ
ロフの犬を想像したら見当違いやで)から示したいわけ
やね。
個人的には、実験や統計も重要やと思うけど、日本だ
けでなく、欧米でも心理学・教育学系の研究は統計に頼
り過ぎるところが問題やと思うな。有意差が出ようが出
まいが、統計学が示せるのは「傾向」や「好き嫌い」だ
けであって、事実である保証はありまへんがな。
統計学がウソくさいのは、その背後に「多数決」の論
理が見え隠れするからだす。多けりゃ正しいというのは
しばしば真実を見えなくするで。99:1でも1の方が正し
いってことはいくらでもありま。
何をもってして、正しい正しくないとするかという重
要な問題が残りますが、これが自然科学と言語学・心理
学などの人間の行動を対象にする学問との大きな違いで
すわな。物理現象のように定点観測しにくいもんなぁ。
漏れ個人のキモチだが、探検隊氏の復帰キボソー oyasumi-
>>566 上の、「クッキー」といえば、子供がとびだしてくるようなハナシにゃ。
とはいえ、行動主義のほうが、自然科学の直系の言語科学なのにゃ。
素粒子の正体を知るためには、素粒子をぶっつけろ、という発想は、
古典的にせよ、心理学における入力・出力の図式に一致するのにゃ。
チョムスキーは70年代に、提示された例文が入力で、成立した表象が出力だ、みたいなことを言ってるが、
これは完全な誤り。
さて、問題はいろいろあるが、
行動主義者に人気があるヴィトが、プラトニズムを忌避するあまり、数学を結局は「算術的行動」としかみられなかったことと、
言語学で行動主義が示した限界とは、深い関係があると思っているにゃ。
ほかにも、客観的な意味論をどう打ち立てるのかという気の遠くなる問題があるが、
まあ、ぶっちゃけていって、言語学が自然科学となることはないにゃ。(言語が人工物だからという理由ではない)
たとえUGが実在しても、わたしは「客観意味」の定式化には原理的に失敗すると思ってるにゃ。
ついでに大御所ニュートンが、「万有引力の正体について、いっさいの推論を放棄する」とか言ってたことを思い出したにゃ。
これはまさしく行動主義的態度ではないかにゃ。
結局わたしが何をいいたいのか、わからない人。正解にゃ。わたしにも定見はないのにゃ。(´;ω;`)シクシクショボーン
(じつは、ひそかに釣れたと思ってるわたし)
自己紹介:生成ど素人
>>564 電波飛ばすっす。
禿同っすー。もしかしたらnarrow syntaxの操作ではそのようなことを
考えているのかもしれねっす。カテゴリ同士の融合操作とカテゴリと機能語
との融合操作とでは、あきらかにその性質が違うように思われるベシ。
constituentなんてのがsytnaxでは想定されることがありますが、
この融合操作の違いにまとめてしまえば、constituentなんていらないように
思うわけですよー、逃走派さん。
それに、narrow syntaxに語順が関係ないのなら、PFでどんな風に解釈しても
いいように思われるピョン。
ある単語を先頭に持ってくるとか、強く発音するとかいったことはみんな
音声側の情報に左右されると思うわけですよー、だいたいD-linkされた語なんて
フツー強く発音されるわけだし(注:D-link=前出の発話に出てきた単語)
先頭に持ってきた場合と振る舞いが似通っててもかまわないと思うわけです。
narrow syntaxってのは統語操作の行われる所で、この統語操作が行われた
情報を意味解釈するのがLF、音声解釈する所がPFって呼ばれてます。
心理版の皆さん、ごめんなさい。
>>569 「我は仮説をたてず」といいつつ仮説だらけだ罠ゃ
>これは完全な誤り
詳しくたのむにゃ
>言語学が自然科学となることはないにゃ
「自然科学」なるものがアプリオリに領域セテーイされているわけではないので、それは
言語に対して自然科学的アプローチをとることが原理的にできない、という言明だと
受け取らせてもらうにゃが、その理由は何か、教えてプリーズ(とBOB口調
>ひそかに釣れたと思ってるわたし
ここもあたりが多いにゃ
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1040925550/l50 >>570 >カテゴリ同士の融合操作とカテゴリと機能語
>との融合操作とでは、あきらかにその性質が違うように思われるベシ
カテゴリってのは語彙範疇の意味にゃ? どう違うのか聞かせてプリーズ
語彙範疇です。
虚無好きさんのレスに合わせただけです。
混乱をきたして申し訳ないです。
顔文字さんのこまめなレスには感心しちゃいます。
>(´∀`)
いろいろ書いたけど、簡単にはムリにゃ。
饅頭顔のセンセは、ひっきょう自然科学は「心的」である表象の体系ということで満足するのかにゃ?
それにしては、チョム理論はスコラ的とかいわれると、ヒステリーおこすのはどういうわけにゃ?
キイイイイーーー。
ついでに、観察者は、インプット−アウトプウトの系から独立してなきゃダメにゃ。
>ここもあたりが多いにゃ
大漁ですたにゃ。おみそれしましたにゃ。
いまだに規制が続いてるわけだけどにゃ(きいぃーーー!
MAC用のブラウザは一個しかないみたいだけど、登録すればほんとに規制がとけるのかにゃ?
「回避できることがあります」では不安が残るにゃ。同じ境遇の経験者がいたら教えてほしいにゃー
>>574 少なくともあっしは回避できやすた。dat落ちスレも読めて快適れす。MACではありませぬが。
もっと情報がほしければ批判要望板か●板を探って見られては。
>>561 >190しゃんの前提2で記されてるような説明が標準なのかどうか
ってのが分からないってのが、漏れにとっての問題なんですぅー。
ともに、この↓あたりで情報数学/AI/計算理論的脳科学の神々の降臨を待ちましょうか。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1002366447/l50 本質的ながらもハードな問題だと思われます。
>>559 さて。共通理解の基盤が築かれたところで次のステップへ。
顔文字さんなどはわかってると思いますが、私自身は生得的制約が
何もない方がおかしいと考える立場ですし、同時に「何が生得的な
制約として存在しているのか」を特定することは、タフながらも
オモシロイ問題だと考えています。単に「大人の言語活動から推定された
深層構造」がそのままの形で、発達初期から「制約」として組み込まれて
いる、というのも(あるかも知れないが)ややうさんくさそうな気がする、
というだけ。
ポイントは「言語が獲得されるためにはどんな制約が必要とされるのか?
どんな制約が存在しているから、幼児は言語獲得が可能なのか?」でしょう。
>表現(あるいは語)pを含むすべての可能な表現を、有限な時間のなかで体験するのは不可能、
解決困難に見えるパラドックスだと思いますが、ブートストラップによって
「初期の学習対象に制約を加える」手法の有効性を考えれば「大人が持つ構造」を
構成する「全要素」が、最初から備わっている、と考える必要はないかも知れません。
#ただその場合でも「生得的な制約」は必要です。それが「何か」はわかりませんが。
(続く)
>>559 >まあ550であがっているような規則変化の習得なら、NNなんぞを持ち出さなくても
類推に基づく古典的な学習で間に合うので、それこそNNへの反証にはなっても経験説
全般への反証にはならないにゃ。
さあ、そこです。顔文字さんは「類推に基づく古典的な学習の方がNNよりもシンプル」
と考えているように見えますが、私からみたら逆です。心を構成する最小単位をNNに
置くならば、問題は「単なる統計的学習/パターン抽出システムにすぎないNNから、
“シンボル”を扱い、さらに類推や代数的ルールまで扱えるシステムが、どのように
発生してきたのか?」ということでしょう。
逆の言い方をすれば「そんな(後者の)システムが発達過程を通じて立ち上がって来る
際、どの程度の生得的制約が必要なのか?」です。
#最初から「すべて」が組み込まれている、と言うのが事実かも知れないですが、
それならば解くべき謎は何も残っていません。しかし、「大人が作っている
社会(or言語)環境を所与としたとき、そこで言語を獲得するために、最小限必要な
生得的制約とは何か?」という問いは、かなりタフです。しかも「すべてが組み込まれている」
という説明よりも、こちらの方がもっともらしいように思われる。
で、ここから先は暴言を吐きますが、この問いに対して、いわゆる「行動分析学」は
無力です。刺激等価性にしても、人間が持つ「シンボル操作能力」を独自の言葉で
表現し、それを「どの動物がどこまで獲得できるのか」を実験を通じてデータを集めている
段階。
本質的な問題は「言語獲得を可能とする“能力”とは何であり、それがどのような
形で組み込まれているのか?」。一口に「表象操作」といっても、様々な段階が
あります。「人間に固有の表象操作能力」を扱っている分野となると、比較認知科学、
認知発達などが考えられますが、この観点から話ができる神はいらっしゃらないでしょうか?
で、その後に思いついたのですが、「どんな生得的制約が。。。」という問いを
生産的に扱うならば、「どこから」議論を出発させるか、決めないといけないですね。
「概念/表象」なるものを持っていてそれらを操作できるところから出発するのか、
それがない状態=NNにまで立ち返って議論を出発させるのか...
この点についてさえ、言語学者と心理学者では差が見られるかもしれないですが、
いかがなもんでしょうか?
>この問いに対して、いわゆる「行動分析学」は無力です。
別に暴言でもなんでもなく、その通りだと思いますよ。
行動分析学が提供するのは現象の記述であって、説明ではありませんから。
「強化」にしても、「般化」にしても、「刺激等価性」にしても、それらは
原理principleであって理論theoryではありませんし。
スキナーは自身のスキナー箱を天文学における望遠鏡、生物学における顕微鏡だと
言っていた。それによって「環境変数と行動の関数関係」を記述し、いくつもの
原理を見出してきた。「スキナーには理論が無いからつまらない」などと嘯く
輩もいるが、そういう連中には「解剖学や形態学にも理論は無いが、それらは無意味な
学問なのか」と小一時間問い詰めたい。解剖学だけで人間の体のことがわかるはずも
ないが、解剖学が無ければその研究が始まらないのは事実。
いうなれば、「水は凍ると体積が増える」という原理を見出すのが行動分析学。
その現象を化学的組成から説明しようとするのが生成理論や神経科学。
まず原理が見出されなければその先の説明も何もあったものじゃない。
生命体の行動というものについての原理を発見するツールを提供したのがスキナーの功績。
一方、原理だけでも予測と制御に十分役に立つ。「水は凍ると体積が増える」という
ことがわかっていれば、パイプが凍って破裂するのを防ぐことができる。
行動分析学で「説明」というときは、原理に基づいてこの種の予測と制御ができることを指す。
オートクリティックも泥縄で入門書を読んでみたけれど、どうやらあれは統語の
機能的構成を論じた原理であって、生成理論とはむしろその組み合わせの
生得的制約を探求する補完的な関係にあるように感じる。直感的に。
黙っているべきだったかもしれないけれど、一応釣られてみました。
電波も飛ばしてるかもしれないから要注意にゃ。し〜らない。
>>576 >「大人の言語活動から推定された深層構造」がそのままの形で、発達初期から
>「制約」として組み込まれている、というのも(あるかも知れないが)やや
>うさんくさそうな気がする、
うさんくさすぎるにゃ。いままでのこちらの言い分がまったく正しく伝わって
いないということがよく分かるにゃ(´・ω・‘)ショホボボ゙ーン
>最初から「すべて」が組み込まれている
いったい誰がそんなことを言ってるのにゃ??
>言語を獲得するために、最小限必要な生得的制約とは何か?
これがまさに生成の関心であり、言語に特定的な制約が必要であるとする主張を
おこなっているのにゃ。
>「類推に基づく古典的な学習の方がNNよりもシンプル」と考えているように見えますが
シンプルではなくて、単に昔からある考え方、という意味だったにゃ。
動詞の規則活用の学習(さえ)NNでは扱えないらしいというのは面白いけどにゃ。
規則活用と不規則活用は言語の異なる下位モジュールで扱われ、いずれかが選択的に
障害に見舞われることがよく知られているにゃ。前者は統語論の領域とされるにゃが、
NNがせいぜい語彙学習に対してしか効力を持たない、ということを裏付けてもらった
感じかにゃ。
>>579 では暴言いくにゃ。
>まず原理が見出されなければその先の説明も何もあったものじゃない。
そのとおりで、もし行動主義が生成が説明すべき問題を提示したのであれば
まことに結構なことなのにゃが、むしろ生成からすれば行動主義は原理の発見は
おろか現象の記述すらロクにしていなかった、ということになると思うのにゃ。
>>581 そろそろ生成対行動主義という対立軸がおかしいことに気づきませんか?
確信犯ならスマソ。
おまいら、チョムスキーとスキナーの霊が乗り移ってますか?
おっと、チョムスキーはまだ存命中だった。
では
実はチョムスキー本人
に一票
>>579 その原理をとりあえず具体的な言語現象を観察することによって、いろいろと
分析を試みていたのが80年代後半までの生成研究だったように思われるっす。
例えば、このスレの200番台ぐらいでMLCのことが取り上げられてましたが(wh語
のように構造の上の方に上げる要素があれば、まず一番近いものから上げていくって
な話)このMLCというのも元から原理として存在していたものではなく、wh-mvtなんか
が存在する言語(特に英語ですが)の特徴を逐一観察していくことによってより
汎用性の高い一般原理を探せる段階になったのが90年代以降の生成研究だと思われる
わけです。
生成研究の最初の頃は、本当にただのwh語の移動だけに焦点を絞っていたものが
他の名詞句の移動などにも適用されうることが判明してきて、それこそwh語の移動の
ためだけの原理がより一般性の高いmove α(よーするになんでもいいってこと。αは
任意の語彙範疇)って言葉で説明されるようになり、やがてrelativised minimalityやら
MLCやらの一般原理に吸収されるようになり、通言語的な分析にも適応できそうな
ことがだいぶ分かりつつあるのが今の生成研究の現状だと思うわけですよー。
まだまだトーシローなのでただ知らないだけかもしれないですが、行動主義の分析、観察が
一般原理の発見に役立ったってえ話は聞いたことねえっす。どなたかご存知なら教えてけれ。
>>577 >「どの動物がどこまで獲得できるのか」を実験を通じてデータを集めている段階。
本筋からはそれますが、「さすがにそれは」という内容なので。
行き詰まり感があることはまあ間違いありませんが、現在の等価性研究はだいたい
こんな所かと思います。
RFT → 認知主義(relational frameという構成概念)
その他多数 → 応用
その他少数 → 比較認知
下2つに関してはスレの内容から全く離れるので触れませんが、RFT研究者が念頭に
置いているのは、このあたりかと思います。
Barnes & Hampson (1993). Stimulus equivalence and connectionism:
Implications for behavior analysis and cognitive science.
Psychological Record, 43, 617-639.
Abstructの一部はこんな感じです。
"The nature and possible contribution of stimulus equivalence to cognitive
science are outlined, and connectionist simulations of complex equivalence
phenomena are described. These simulations provide a possible rapprochement
between behavior analysis and cognitive science."
ちなみにこの引用個所のポイントは「rapprochementなんて進んでないじゃん」
という所です。
生半可なため、突っ込みはご遠慮下さい。
>>581 >むしろ生成からすれば行動主義は原理の発見はおろか現象の記述すらロクにしていなかった
統語という現象に関してはその通りでしょうね。心理学者は合理性の観点から
単純な現象の記述から手を付けましたが、言語学者にとっての関心はもっと複雑なものに
あるのですから。それがsubject matterなんだから当然といえば当然です。だからこそ
>>585 >その原理をとりあえず具体的な言語現象を観察することによって、いろいろと
>分析を試みていたのが80年代後半までの生成研究だったように思われるっす。
というように、独自に記述を行ってきたのでしょう。これは統語能力に限らず、広く
臨床的・応用的な分野にもいえることでしょう。
「事件はスキナー箱でおきてるんじゃない。現場で起こってるんだ!」
とはのんきな心理学者によく言われる冗談。
>>585 >行動主義の分析、観察が一般原理の発見に役立ったってえ話は聞いたことねえっす。
言語学者の関心ではないのでしょうが、動物の訓練や、精神薄弱者、自閉症児など
言語が未発達な個人の行動修正には絶大な効果を発揮しています。
言語を持つ人間に関しても、教育工学や経営におけるパフォーマンスマネジメントなど、
日本ではまだ認知度は弱いですがその成果は広まりつつあります。
行動主義のほうもやり残していることが多すぎて、なかなか統語能力という
高度に複雑なものにまでは手が伸びないのが現状でしょう。それでも
究極的には解決しなければならない問題です。動物にも共通の学習原理が
どこまで記述力を持つのか、そこに人間独自の原理を記述する必要はあるのか、
などといった問題を解決するためにも。(実際言語能力を持つ人間のみに適用
される原理も既にいくつか見出されている。)いずれにしても言いたいことは、
神経科学と同じく、生成理論も行動主義と補完的である可能性が高い。
>可能性が高い。
ないですにゃ。チョム側は石頭すぎ。存在する限り「刺激欠如」ギロンをやっているに10000チョム。
ところで、行動主義の金科玉条である「理論の放棄」がよくわからんにゃ。
いっぱんに実証された理論は、「予測と制御」を可能にするにゃ。
上で言ったようにニュートンも万有引力の源泉については、推論(じつは「理論」)を放棄しているが、
(デカルトの機械論的宇宙に抵触するおそれからというよりも、「神」の領域におまかせだったのではないかにゃ)
古典力学が理論でないということに、どういう生産的意味があるのかわからないにゃ。
このばあい、厳密にいえば、重力がいまだに「数学的構成物」であることも微妙に重要にゃ。
よくあるハナシで、「いかに」と「なぜ」の問いについてだけど、
「いかに」のほうはパラメタ設定と現象の数値化にもとづくsimulativeな操作、
「なぜ」のほうは、もし目的論的宇宙観による答えを排除するならば、
ある現象を証明された(あるいは証明不要な)より単純な現象へ還元する、論理的な操作をいみするといえるにゃ。
(純粋論理的な「なぜ」も存在するけど、ややこしくなるので省略)
ぶっちゃけ、行動主義もやってることは同じような気がするにゃ。
スレと関係ないようだけど、たとえば「学習」が「原理」にもとづくというばあい、
行動科学者も、意思や表象を排除するかたちで、現象を構造化して単純なものに還元してるんじゃないのかにゃ。
それは「理論」じゃないのかにゃ?
ぶにゃ!!新着してない!!誤爆かにゃ…
>>590 「予測と制御」が可能な段階までくれば、それは既に「理論」ではなく、
原理ではないかと思いますが。単純なものに還元するという話ても、
異なるレベルに訴求しない限りにおいてはスキナーのいう「理論」ではないでしょう。
いずれにしても、虚無好きさんのおっしゃる「理論」と、スキナーの言う
「理論」には大きな違いがありそうです。後者の方が異端的な定義なんでしょうが。
この問題に関してそのものドンぴしゃりの古典。
Skinner, B. F. (1950) Are Theories of Learning Necessary?
Psychological Review, 57,193-216.
虚無好きさんならきっと素晴らしいレビューが書けることと思います。
既読の上での疑問でしたら、小生ではお相手として役不足です。
>>580 >うさんくさすぎるにゃ。いままでのこちらの言い分がまったく正しく伝わって
>いないということがよく分かるにゃ(´・ω・‘)ショホボボ゙ーン
落ち着いてください。今ここで我々がしているのは、過去スレの山の中に
埋もれた「要点」を再確認する作業です。「誰一人として極端な主張は
していない」ことを、他の人たちや後からついてくる人にも分かるように
しているだけです。
#概念や用語も異なり、話は複雑なのに、みんなの関心は高い。メンバーも次々入れ替わる。
本来ならば用語集や「主張の骨子」をどこかにまとめてアップし、新しい人から
質問がきたら「〜番を読め」とできるようになれば最高でしょうね。
過去スレに埋もれて散らばっていた主要な問いが、再び絞られてきた、というところ
でしょうか。
>>言語を獲得するために、最小限必要な生得的制約とは何か?
>これがまさに生成の関心であり、言語に特定的な制約が必要であるとする主張を
>おこなっているのにゃ。
とにもかくにもココが出発点です。まずここから出てくる最初の問いが生まれます。
問い:「生得的制約って、具体的には何よ?」
答え:人間言語の階層構造依存性、句構造の自己相似的な規則性、句構造を組み上げる
過程(派生)に働く局所性・極小性の制約(最短連結条件、下接条件)、統語
構造から意味解釈を引き出す際の(非)同一指示条件、などなど、要するに
(俺らの目から見れば)経験的に獲得不能と映る、普遍的かつ抽象的な人間言語の
特性すべてだにゃ。
>>593を受け、次のような問いが出てきます。
問い:「そこで挙げられているのは“言語の背後にある構造”でないのか?
そもそも問われるべきは“学習システムたる個体が構造の獲得できるため
には、どんな制約が必要か?”という問いではないのか」
まずここで、顔文字さんと心理学者の間に食い違いが生じるように思われます。
(個人的見解)ですが、とにもかくにも人間の「(言語)行動」の機械的基盤が
脳=神経回路網にある以上、「表象を扱う能力」が神経回路上でどのように実装
されているのか、がまず第1の難関になるように思えます。
この問いの重要性は研究者が「どこ」を出発点とすうるのか、にも依存するでしょう。
しかし。。。
>NNがせいぜい語彙学習に対してしか効力を持たない、ということを裏付けてもらった
感じかにゃ。
ここは、本来ならば生成文法派にとって、自らの主張を「とても強く支持する証拠」を
得るチャンスにつながるんですよ。そんなに呑気に構えていていいのでしょうか?
#NNに、どんなメカニズムがあらかじめ実装されていれば、文法が獲得できるのか?
これは「文法構造を獲得するためにいかなる生得的制約が必要か?」という問いと
ダイレクトに直結するはずです。だって、そこで「〜という制約がNNに必要」という
答えを出せたら、「生成文法派の主張」は擁護されるのですから。
#句構造、階層構造、意味などは、既存のNNで扱いかねる概念です。
だからこそ「これらの基本的要素がNNで操作されるためには、いかなる
生得的メカニズムがNN側に必要なのか」という問いが、意味を持つ。
「やっぱりNNではダメにゃ」ですませていたら、せっかくのチャンスを
逃すだけだと思うのですが。
次の問は進化心理スレで出ていたものです。
問い:「生成文法なる構造、ないしは、その獲得を可能とする生得的制約
≒諸認知メカニズムは、適応的なのか?」
→顔文字氏の答えがイマイチ分らないので、質問をさせてください。
>機能主義者の目からみれば、言語は情報や意志伝達のための道具であり言語構造の
>特性もそういった観点から(目的論的に)説明されることになるのにゃ。しかし
>現実には上記のような制約がくわわることにより、言語の伝達手段としての機能は
>むしろ反機能的であり、適応的でないということになるにゃ。言語を持つこと自体
>の適応価と、その言語を構成する原理の適応価は分けて考えなければならない、
>前者は後者から帰結しているのではない、と考えるにゃ。
論点1.諸構造的制約は、言語の可能性を狭めるが故に適応的でない
論点2.しかし、諸構造的制約はそれだけを取り出せば、適応的であるか、
適応価に大した影響を与えない中立的な存在である。
論点2はここから導出しましたがOKですか?
>>あるいは、言語は「何か」の副産物であり、その「何か」は言語とは無縁の起源を
>>持ち「人間の適応価に何の影響も与えなかったが故に徐々に蓄積され、ある時突然、
>>言語という表現型に結実した」というストーリーですか?
>こっちとは相性がいいにゃ。言語はexaptationであり、spandrelみたいなもんだ、と
>グールドもいってたにゃ。
系統発生的な意味での言語の成立は、こんな理解でいいのかな?
間違っていたら訂正してください。
1)ヒトが他の動物とは違った「世界」認識を行なう能力を獲得する。
(情報記述体系としての脳内言語が発生する。これはUG?まだUG以前?)
↓
2)その世界認識を記述した情報を個体間でやりとりするため、音声の中にその世界認識の
枠組み・形式をパッケージ化するような工夫が起こる。
(世界認識のあり方が自然言語に転写される)
↓
3)ヒト自然言語の基本が出来上がって以降、社会的・文化的な蓄積を得て、民族ごとに異なる
個別言語として高度の発達を遂げてゆく。
↓
4)各個人の発達(個体発生)において、生まれた時点で置かれた言語環境の言語を習得する。
で、
1)→2)の過程に、ヒト(の脳)固有の特性が関与することに間違いはないでしょう。
(e.g.鏡の中の自分と自分であると認識できる能力と言語獲得可能性の関連とか?)
問題は、(私が専門に生成を学んだことがないからかもしれませんが、)実際に論じ
られている≪具体的≫な議論(wh移動でも使役文の検討でもなんでも)になると途端に、
UGが仮にあったとしても本当にそれをあぶり出しているのか?????と感じられる点です。
上記でいえば、そんなの 3) の段階にとどまる話じゃないの?という感覚。
実は、顔文字さんの主張で訳が分からなくなるのはここです。
(
>>593-594は反論ではなく、生成文法派の主張をサポートするための
手だてを考えているだけです)
ここで
>>593に戻りましょう。
ここで「言語の背後に存在し、かつ、生得的制約の関与が疑われる文法原理」が
列挙されています。
問題はこの先です。
>>593の最後の段落が意味を持つためには、これら
文法原理に関連した「とある認知能力」を、生成文法派が仮定していることに
なります。しかし、それは「何なの」ですか?
例として、(刺激等価性のような)異なる表象を結びつける能力を、言語の背後に
存在する認知能力、と考えます。顔文字氏によれば、こうした能力は「適応的では
ない中立的な能力」という。
#この主張に、まず大きな疑問を抱きます。
何しろ、これまでの議論をみてもこの「認知能力なるもの」が、比較認知科学者が扱う
レベルで、具体的に形式化された気配がない。である以上「それらは適応的ではない」
とする議論がなぜ成立するのか分からない。第2に、刺激等価性にせよ、カテゴリぜー
ションにせよ、概念形成にせよ、ほとんどの認知能力は、様々な形で環境の知覚・操作
を助ける。これは個体が環境から必要な情報を入手し、適応価を高めるよう行動すること
に貢献する。
#文法原理の背後にある認知能力は、「適応的でないし中立だ」というのは、現時点では
どうにも強弁に聞こえて仕方ないのですが。
今回もスンマセン。
>問題はこの先です。
>>593の最後の段落が意味を持つためには、
>>595の間違いです。
むにゃ。書き込まれてたにゃ。
横レスだけど、いちおう筋は通ってんのにゃ。>190の先生
中立的だといってんのは、たぶんアンモナイトの外骨格の対数らせん構造とかみたいに、
形質として利用されたかもしれない「構造」が、たまたま統語構造に(再?)利用されたんじゃないかというハナシで、
それがexaptationだといわれた意味なのにゃ。(spandrelは、構造>機能の文化的な例。)
だから言語活動は適応的でも、偶発的に組み込まれたと想定される統語構造は、中立ないしex-adaptiveなのにゃ。
と、でしゃばるのは予想。勉強させてもらいますにゃ。>行動中の先生
同意にゃ。チャートの最後に個体発生の記述をのっけるのはどうかにゃ。>国語の先生
と、リロードしても見れないと。まあ、いいにゃ。
てすと
今、出先から戻ったとこにゃ。
とにかく規制のせいでレスがしにくくて困るにゃ。
だれかYahooでも書き込める板に暫定的にスレたててくれんかにゃ〜?
進化心理学2も書き込み禁止みたいなのでこっちでレスさせてもらうにゃ。
>>983 リンク先の丁寧な解説読ませてもらったにゃ(ぺこり
しかし、この調整ゲームのロジックは戦略A・Bがすでに与えられていることが前提で、そこから
たとえばAに収束することを説明することはできても、最初からAしか存在しないということは
説明できないと思うにゃが? 今問題にしている言語の普遍原理Pについて、いわばPを取らない
戦略があらかじめ禁じられていることをどうしてすべての幼児は知っているのか、という言語獲得の
論理的問題に対してどう適用するのか、ご教示願いたいですにゃ。
難民板に言語・心理専用の代行スレたててくれてもいいにゃ、よろしくお願いするにゃ(ぺこり
某BB規制により、こんな事になりますた。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
2 :(´∀`) :03/02/23 21:57
とりあえず、2ゲト
どうもありがとにゃ>1しゃん
規制されてるのは俺だけかも知れないので、俺はここに書くとしてレスは本スレに
してもらってもいいですにゃ。暇な人がいたら俺の書き込みをそのまま本スレに
コピペしてもらうと、なお読みやすくなると思うにゃ。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
代行スレよりコピペ(汗
9 :(´∀`) :03/02/23 23:07
ますます混乱してきたにゃが……
「生得2」スレの
>>594 >問い:「そこで挙げられているのは“言語の背後にある構造”でないのか?
>そもそも問われるべきは“学習システムたる個体が構造の獲得できるため
>には、どんな制約が必要か?”という問いではないのか」
「構造を獲得」というのもへんな言い方ですにゃ。個体が獲得する(正確にはその
脳内に発生する)のは個別言語の文法にゃが、統語構造については個別文法間には
ごく小さな変動しかなく、その部分を経験基盤で決める以外は最初からあり得る
構造が原理的に厳しく限定されているからこそ、短期間内での均一的獲得が可能に
なると考えるにゃ。だからその原理(593でコピペされているようなもの)こそが
言語獲得上必要とされる制約なのにゃ。
>>595 >論点2はここから導出しましたがOKですか?
OKでないにゃ。次と関連するのにゃが、
>>597 >例として、(刺激等価性のような)異なる表象を結びつける能力を、言語の背後に
>存在する認知能力、と考えます。
認知モジュールや領域固有の考え方からすると、言語能力はそれだけで自律しており
なにかより基礎的な汎用認知能力の上に成り立っているとかそこから帰結するとか
いうことにはならないのにゃ。だから
>この「認知能力なるもの」
なるものは、言語構造に言及しながらでしか語ることができず、全体として見た言語が
適応的であるとしても、その中でこの認知能力がその適応価(思考や意思伝達を
言語によって効率化することが繁殖成功率アップにつながる等)に貢献している
とは言えない、と考えるにゃ。
代行スレ12 ステ助
>文法を判断する(使いこなす)には、まず、その語が主語なのか、動詞なのか…といった
>認知能力(刺激等価性)が必要ですよね?
>顔文字先生のレスを拝見していると、
>この認知能力は、汎用的認知能力ではなく、言語能力の一つに入れられているという事でしょうか。
>要するに、汎用的認知能力で得た像?を、転写するような能力があり、
>それは言語能力の一つであると言う仮説でしょうか?
>横レスすみません。
顔文字先生が大変なので横レスの横レス
生成でも主語なり、目的語なりのtermを使用することがありますが、
それは単なる便宜上の区別に過ぎず、primaryに存在しているものとして
扱うわけではないですにゃ。
汎用認知能力云々、というのとはまた別段階で独立した言語能力というものを
設定しており、だから「言語モジュール」などという呼び方がなされるわけですにゃ。
ある単語を主語として扱うか、目的語として扱うかどうかというのはあくまで
事後解釈的なものであって、人間はそれを頭の中で前提として意識しながら使っている
わけでもないですにゃ。
難しいですが、ざっくばらんとした奇奇怪怪な曖昧模糊とした複雑怪奇な現実世界を言語と
いう能力フィルターを通して、人間は現実世界を認識するわけですにゃ。その捉え方自体に
人間言語能力という制約があるからこそ、人間はむしろ非常に限られた視点でしか現実世界を
捉えることができず、また限られた制約があるからこそ短期間で言語というものを獲得する
ことができる、というストーリーだと思いますにゃ。
当方、生成の真似事程度をしている者なので間違ってたらすみませんにゃ。
実はステ助しゃんの12の見解を持っている言語学者というのもいてますのにゃ。
所謂、認知言語学という日本で結構流行っている学派なんだけどにゃ。
(認知の全てではないということをお断りしておいてから)
言語能力という特別な能力というのは人間には存在せず、人間言語というのは
認知能力からfollowしてくる2次的能力に過ぎないという学派ですにゃ。
だからステ助しゃんのおっしゃってたよーに、人間が何か目立つ対象物があれば、
それを主語やら目的語やらといった形で表現しようというという、認知したものを
言語というものにmappingするという話ですにゃ。
例えば、Mary hit Bob.なんていう能動文があったとして、これは「mary」と「bob」の
両方を認知したという認知の結果として表現される文と考えるわけですにゃ。
にゃから、もし何らかの理由でMaryを認知しない場合(できなかった、としてもよいし、
あえてしなかったとしてもいいですにゃ)Bob was hit.という受動文が出てくるわけですにゃ。
認知→言語というmappingにゃから、言語というのは人間の認知能力の投影であり、言語というのは
極めて主観的態度が反映されるという立場ですにゃ。にゃから、「コップに水が半分入っている」と
いう表現と「コップの水が半分なくなっている」という表現は現実世界の投影としては客観的事実
(??よーするに水量が同じということですにゃ)なのにも関わらず、この2つの文が同義でないのは
人間が水が「なくなっているのか」それとも「存在しているのか」のどっちに焦点を当てるかで
決まってくるわけですにゃ。(目立つ方をfigureとかいろんなtermで表現しますにゃ。目立たない方は
groundとか)
まあ、この意見にはいろいろ反論もあるのだけれど、とりあえず紹介として。
電波飛ばしてたらスンマソ
>>608 なるほど。それは心理学とも相性がよさそうですね。
2つのスレで複数の話が同時進行するのも読みにくいものなので、
「顔文字さんの発言は見つけた人がこちらへコピペ」
「それ以外の話はこちらへ書き込み」ということにしませんか?
あちらでのステ助さんの発言も、これまでの内容と関連していますし、
こちらへ書き込まれたら?
顔文字さんにはお手数をおかけして申し訳ないですが。
11 名前:ステ助 投稿日:03/02/23 23:18
要するに、所与の戦略(言語能力)獲得の要因については
177氏は進化心理学スレでは言及しないみたいでつ。
言語能力を獲得した個体がどうして広まったのかという淘汰圧の方を
扱おうとされているみたいです。
>4
演繹力や応用性の高い知見が得られるような生産性のある仮説を取るという事みたいでつ。
私もそれで納得ではあります。
(初学者なので、まずは進化論の仮説から入りたいと思いますが、
他の仮説を否定している訳ではありません。)
反証はできても、実証できる仮説ってすごく少ないと聞きましたので(汗
UG仮説については、190氏や行動厨さんら諸兄方との対話の中で
生産性のある議論に発展していくかなぁと期待してROMっておりますw
余談ながら、190氏はたしか認知・社会科学徒さんでして
(うろ覚えですので間違っていたらご訂正ください。 すみません。。)
進化論についてはどう思ってらっしゃるのかわかりません。
>9
>認知モジュールや領域固有の考え方からすると、言語能力はそれだけで自律しており
>なにかより基礎的な汎用認知能力の上に成り立っているとかそこから帰結するとか
>いうことにはならないのにゃ。
以前どこかで、基礎的な汎用認知能力の獲得より、生成文法能力?の獲得の方が
先なのではないか?というレスを見かけたような気がするのですが。。
文法を判断する(使いこなす)には、まず、その語が主語なのか、動詞なのか…といった
認知能力(刺激等価性)が必要ですよね?
顔文字先生のレスを拝見していると、
この認知能力は、汎用的認知能力ではなく、言語能力の一つに入れられているという事でしょうか。
要するに、汎用的認知能力で得た像?を、転写するような能力があり、
それは言語能力の一つであると言う仮説でしょうか?
横レスすみません。
14 名前:(´∀`) 投稿日:03/02/24 01:13
>>11 >反証はできても、実証できる仮説ってすごく少ない
そうですたにゃ(ぺこり
では中間種の不在はどうにゃろか。
ちなみに言語についてよく似たことが連続性のパラドクス(continuity paradox)と
呼ばれているにゃ。人間言語も進化の産物であり動物言語から由来すると考えられる
のに、両者の間には大きな質的差がある、このギャップは漸進適応進化ではなく
断続平衡進化を支持する、とかにゃ。
>言語能力を獲得した個体がどうして広まったのかという淘汰圧
どうやらこの最初の段階で食い違いがあるようなんですにゃ。
多分ここでの「言語能力」とは、俺が「言語全体」といってるときの言語だと
思うのにゃ。この意味での言語が適応的であることには異存ないにゃ。
一方、その言語能力を構成している中に原理Pというのがあって、これが
言語の持つ適応価になんの関わりもないようなものであるとき、Pに従う言語が
ゲーム理論的にPに従わない言語を押しのけるなどということがあり得るのか、
むしろ最初からPに従わないような言語は発生し得ないと考えるべきではないのか、
ということなんだけどにゃ。どう言えば分かって貰えるのか……
乱暴な喩えをすると、どうして水はH2Oなのかと尋ねて、もともとH2Oの水とか
H3Oの水とかいろいろあったがH2Oが次第に勢いをまし、ついにすべての水がH2O
になったんよ、と言われてるような気分になるのにゃ ( ゚Д゚)ハァ?
15 名前:ステ助 投稿日:03/02/24 01:17
>本家スレ607殿
ご回答ありがとうございます。
でも私のゴミレスのコピペは勘弁して頂きたかった・・(涙
初めから目的語だーとか文法しらなくても母語を話せるので
そういう問いではありませんでしたが
私の書き方が悪かったのでしょうか。
要するに、動詞に該当する行動と、
主語に該当する客体のカテゴリー分けは
汎用的認知能力なのか、
それとも言語能力の一つなのか?
という問いでした。
まあ、顔文字先生の負担になるから黙っちょれw
という事なら大人しくチョム小辞典読む事にしまつ。
では。
16 名前:(´∀`) 投稿日:03/02/24 01:34
「生得スレ2」の
>>608 608しゃん自身の主張ではないと思うので遠慮なく言わしてもらうにゃが
>例えば、Mary hit Bob.なんていう能動文があったとして、これは「mary」と「bob」の
>両方を認知したという認知の結果として表現される文と考えるわけですにゃ。
>にゃから、もし何らかの理由でMaryを認知しない場合(できなかった、としてもよいし、
>あえてしなかったとしてもいいですにゃ)Bob was hit.という受動文が出てくるわけですにゃ。
生成側からすればこんな極楽トンボ的な見方はないわけですにゃ。
MaryとBob(という事物対象)を認知することと、これらに対応するMaryとBobという固有名詞を取り込んで文を形成する能力の間には相当な質的差があり、前者の能力から
自動的に後者の能力が出てくるのであれば、これほど気楽なことはない、まるで空を
飛ぶことを夢想したら勝手に翼が生えてきたといってるようなもんにゃ。
Maryを認知しないことは、Bob was hit.という形式を作る能力自体を説明するのでは
なく、Bob was hit.という形式を選んで使うことの動機にすぎない、この形式自体は使用
に先行して可能になっていなければ使いようがない、ということですにゃ。しかも、
以前の例と似てるにゃが
Mary forced John to hit Bill.
という事態においてMaryを認知せずBillとJohnを認知したからといって
*Bill was forced John to hit.
みたいな受動文が許されるわけもない、つまり言語構造としてどういうものが可能で
あるかないかは、言語固有の原理が決めるのであって、非言語的認知様態がそこに
関与する余地はない、というわけですにゃ。
17 名前:ステ助 投稿日:03/02/24 01:37
>15
かぶりますた。
おつきあいさせてしまいスミマセン。
淘汰圧については、言語能力のある個体と、言語能力のない個体にかかる淘汰圧について言及はできても、
生成文法といった内部の構造については「お話」しかできないので踏み込まないといった所だと思いまつ。
ただ、そのような内部構造(言語能力)を持った個体がどういう条件下であれば安定的戦略となり広まるか・・
というのを辿る事はできるかもしれないwと夢見てます。
猿にはないのになぜ人間には言語能力があるのかとかいった事の手掛かりが見えてくるかもと。
18 名前:ステ助 投稿日:03/02/24 02:07
>16
その辺りの区別はついているのでつ・・・
携帯からなので上手く書き込みできませぬが・・
生成文法については進化心理学とは離れての好奇心です。
子供の頃この世にはないような概念や文法を持った言語を作ろうと夢見て
友達を巻き込んで進めた事があり・・
結果は友達にも意図は伝えられず、暗号づくりになってしまいましたが(汗
妻と帽子を取り違えるという認知エラーを起こしても文法を誤る事とは別次元の話なのは了解でつ。
言語能力があるから今の私達のように認知できるのか?
という確認の為の問いですた。
問い:「言語は適応的だが、言語を構成する原理は適応的ではない」という命題は
論理的に可能なのか?
>多分ここでの「言語能力」とは、俺が「言語全体」といってるときの言語だと
思うのにゃ。この意味での言語が適応的であることには異存ないにゃ。
一方、その言語能力を構成している中に原理Pというのがあって、これが
言語の持つ適応価になんの関わりもないようなものであるとき、Pに従う言語が
ゲーム理論的にPに従わない言語を押しのけるなどということがあり得るのか、
むしろ最初からPに従わないような言語は発生し得ないと考えるべきではないのか、
ということなんだけどにゃ。どう言えば分かって貰えるのか……
ここで相加的遺伝と、非相加的遺伝の違いをみておきましょう。
・相加的遺伝=たとえば知能に影響する遺伝子が複数存在すると考える。知能は
複数の遺伝子の効果が相加されることで決まる。たとえば最大100個の遺伝子
のうち50がポジならば50の能力、100がポジならば100の能力、といった感じ。
・非相加的遺伝=複数の遺伝子がセットで存在したときに限り、ある
表現型が発現する。
この場合、「1つの遺伝子が持つ適応価」を考えることに意味はない。「セット」で
評価されるのだから。故に、「言語は適応的だが個別の原理は適応価と関係ない」と
主張するならば、非相加的遺伝を想定していることと同義となる。
論点1.しかし、文法上のある形態が別のモノに変わったからといって、
言語能力が崩壊することはあり得ない。
→顔文字さんが「原理」とか「制約」と呼ぶモノ(
>>593)は、たかだか文法を
規定する構造です。どれか1つが別のモノに変わっても言語能力が崩壊する
ほどのモノではない(ように見える)。たとえば「*Bill was forced John to hit.」
という文章があり得ても、言語は崩壊しないでしょう。
故に、ここでは1)「相加的遺伝=特定の原理が他の原理に置き換わるだけで
わずかながら言語を用いる適応価が上昇・減少する。ある原理Pが用いられるのは
それが他の原理よりも適応的だから」と考えるか、2)「ある原理Pは他の原理Qと置き
変えられても支障のない些細なもの」と考えるか、どちらかしかあり得ないでしょう。
もし後者を主張するならば、「どうでも良い」原理の集積体たる言語は適応的でも何でも
ないことになる。後者を主張し、かつ「言語は全体として適応的」というならば非相加的
遺伝モデルを想定する必要があるが、その場合、一つの原理を取り除くと言語の主要な
機能の一部が成立しない可能性を示す必要がある。しかし、
>>593で上げられているように、
原理と呼ばれるもは、それほどクリティカルなモノには思えない。
論点2.「生成文法は、“なぜ”他の原理が存在しえないのかを説明してない」
>乱暴な喩えをすると、どうして水はH2Oなのかと尋ねて、もともとH2Oの水とか
H3Oの水とかいろいろあったがH2Oが次第に勢いをまし、ついにすべての水がH2O
になったんよ、と言われてるような気分になるのにゃ ( ゚Д゚)ハァ?
もっともらしく聞こえますが、生成文法派と物理学者の間には大きな違いがあります。
後者は「なぜHに3つのO原子が接合しないのか?」を説明する原理=共有結合、イオン結合
を提供するだけでなく、なぜ、そんな原理が存在しうるのか、まで説明しようとします。
対するに、生成文法派は「だって、言語を分析するというそういう原理があるんだもの。
そしてそうした原理を生み出す制約が存在しているんだもの」で終わります。
「なぜそうした制約が備わっているのか?」を明かそうと試みた話は聞いたことが
ない。
#この「なぜ」という問いに答えようとするのが、進化ゲーム理論や、「生得性と
環境のインタラクション」を解き明かそうとする認知科学者の仕事だと思います。
調整ゲームの話は「なぜ原理A以外は存在しないのか?」を「適応」という
メタ原理から説明しようとする議論です。それに大して「待つにゃ。原理Bはもっと
別の理由によりそもそも存在しえないのにゃ」と主張するならば、その「理由」
が明らかにされる必要があるでしょうね。
#少なくとも現時点では、「*Bill was forced John to hit.」を許容する
原理が「なぜ」人間に備わらなかったのか、説明はされていません。「それを
許容しない原理が人間に備わっているのにゃ」という説明以外には。
>たとえば「*Bill was forced John to hit.」
>という文章があり得ても、言語は崩壊しないでしょう。
→という文章を容認する構造、ひいては、その構造を規定する原理・制約が
存在しても、言語は崩壊せず、意図伝達という機能を果たすことができるでしょう。
他の「原理」についても同様。
>>619の190しゃん。
*Bill was forced John to hitを排除する制約、原則Pが正しいものとの前提
のもとで。その原則Pが原理が「なぜ」人間に備わらなかったのかの説明には、
2つ道が考えられます。
1)環境とのインタラクションで個体発生的にPを習得するに至る
2)進化の諸要因により系統発生的にPが人間に備わった
生成では「刺激の貧困」の議論により(1)の説明はできないと主張してます。
そしてそれに対する際立って有力な代案はでていない。残る(2)の説明の道です
が、これについては、(少なくとも)次の2つが考えられます。
2a)Pが適応上、有利に働く
b) Pが適応とは無関係に、物理制約等の要因から自動的に生じた。
生成では、Pがあることによって適応上有利に働くということを示す議論を示せ
ません。(まさしく、*Bill...の文が可能だからといって言語崩壊にならないだ
ろうという190しゃんの言う通り)。残る説明の道は(2-b)だけ。ただし、これに
ついては、確かに明確にストーリーができているわけではないと言うのが言語側
での現状だと思います。
(1)が本当に否定されるべきなのか? そうでないとするなら、やはり有力な
代案が欲しい。原則Pについて本当に(2a)のストーリを作れないのか?
作れたとしても、(2b)のケースとどちらが正しいのか? 本当に原則Pで
正しいのか? などなどにissueをしぼれると嬉しいと思います。(と、なんとなく
ありきたりのことを言って逃げる(どてっ))
>のもとで。その原則Pが原理が「なぜ」人間に備わらなかったのかの説明には、
>2つ道が考えられます。
「その原則Pが「なぜ」人間に備わったのかの説明には」に訂正(ひょえ〜ん:泣
このままでは、ちょっと不親切だし、論旨も明快ではないですね。
こう書きましょう。
可能性1.「言語を構成する諸原理&それを生み出す制約は、それ自体が
適応的だから、個体に備わった」
→この可能性は「常に」否定できません。個人的にも「伝達の効率性」という
機能的な観点から、いくつかの「原理(
>>593)」が生得的に獲得されたようにも
思えます。たとえ「原理Qの代わりに原理Pを使う」ことで適応価が1%程度しか
増加しなくても、十分、自然選択の対象となり得ます。
可能性2.「中立的変異の蓄積+非相加的遺伝という2つのメカニズムを通じて、言語が成立した」
→しかし「非相加的遺伝」によって言語が成立し、かつ、その言語が生得的であるならば
「言語の成立を可能とする一連の遺伝子群(=諸制約のセット)」に対して淘汰がかかる
でしょう。つまり、「ある原理が言語にとってクリティカルに重要」であるならば、その
原理を含む「セット」が淘汰の対象となる。この場合「原理を一つだけ取り出す」だけでは
適応価を語ることはできませんが、少なくとも「ある原理Pは言語能力にとってクリティカル」で
あり、この意味において「ある原理Pは淘汰の対象となっていた」はず。
言語能力が総体として適応的な機能を持っているのは間違いないでしょう。
それを受け入れるならば、どこかの段階で「諸原理」に対して淘汰圧がかかるはず。
「原理は適応的でない。言語は非適応的な変異の産物」という主張が成立するためには
「諸原理は言語能力の総体にとって大した影響を与えない些末なもの。どんな原理が
用いられようとも、言語の機能は変わらない」と考えるか、次の可能性を考えるしかないでしょう。
可能性3.「諸原理は“脳の構造上の制約”、“他の機能を持つシステムの副産物”として
生じる。これらの制約がなければ、言語はもっと高い機能をもてたはず。しかし、
これらの制約があるため、やむを得ず言語は現在の形を持つに至った」
→あり得ますが、「どこから諸制約が生じたのか」が明示されない限り、これは
一つの可能性に過ぎない。その作業は、生成文法派で行われているだろうか?
結局、こんなことが言いたい。
「諸原理は適応的か?生得的制約は必要か?なぜ制約が存在するのか?」
これらを議論するためには、まず、対象となる「構造」が形式化される
必要がある。良く考えてみたら、これは既にチョムスキーが行っていた
仕事です。
問題はこの先。「構造を規定する原理・制約はどのように生じたのか?
それらは適応的か?」という問いに関する議論は、現段階では「想像」の域を
超えていないように思います。「諸原理は適応的ではないのじゃなかろうか?」
という希望的観測や、「少なくとも、無から学習することは不可能だろう」という
大まかな結論は、これまでの生成文法派の話から導けます。
しかし、それ以上は、生成文法派の研究からは、それ以上の結論を、顔文字さんの
ような「信念」をもって主張するのは難しいように思います。
#認知言語学との関わりについても話が出始めましたが、そちらもぜひお聞きしたいです。
顔文字さんは否定的(
>>615)ですが、人間だけでなく霊長類は「事物の関係性」や
「因果関係(ある主体の行為→導き出される結果)」などを認識する能力を
持っています。単なる「行為主体の認識」だけではない、高度な認知能力を。
それらが「言語」と何ら関わりを持たない、とする主張は、
>>615だけでは
ずいぶんと極端なものに思えます。
>>625(190しゃん)
上でいっぱい書いてくれたにゃがそっちは後回しにして、まず
>「どこから諸制約が生じたのか」が明示されない限り、これは
>一つの可能性に過ぎない。その作業は、生成文法派で行われているだろうか?
以前の生成なら、そのような制約は言語に領域固有でどこからも導出されない、というのが一つの主張に
なってたにゃ。しかしより深い説明を求め出すと(チョムのいう「説明的妥当性」を超える作業)そんな
ことばかりもいってられないので、一見無関係に見える自然諸物に共通する数理的特徴、に注目し始めた
(これ自体の生成文法的意義はチョムは昔から示唆していた)、例えば細胞分化や形態発生についての
TuringやThompsonの仕事を言語構造の自己形成能について当てはめてみる、といったことが(ごく少数
の人によって)行われつつある、といったあたりにゃ。そこに働く経済性原理、最大化ないし最小化の
法則に手掛かりを求め出したのが90年代に入ってからですにゃ。すぐに答えが出なくても長〜い目で
見てやって欲しいですにゃ。で、例えば虚無しゃんがあげた対数螺旋にしても、自然物のデザインには
適応云々以前にそのようなものを機能的には無関係でありながらいたるところに作りあげる法則が働く
ということの例になるのにゃ。
>人間だけでなく霊長類は「事物の関係性」や
>「因果関係(ある主体の行為→導き出される結果)」などを認識する能力を
>持っています。単なる「行為主体の認識」だけではない、高度な認知能力を。
にも関わらず、言語はヒトに固有である、チンパンジーにいくら訓練を施しても人間言語にまったく
近づくこともできず、一方すべてのヒトはなんの訓練もなく母語を獲得できる、というのも言語の
種固有性・領域固有性の根拠になってきたわけですがにゃ。
>それらが「言語」と何ら関わりを持たない、とする主張は、
>>615だけでは
>ずいぶんと極端なものに思えます。
何ら関わりを持たないとは言ってないし、根拠は615だけではなくこれまで生成が提示してきた言語の
法則性のすべてなのにゃ。だがそれらをいちいち持ち出すまでもなく、たとえば*Bill was forced
John to hit. が言語構造として成り立たないというほんのささやかな事実さえ、言語固有の認知制約を
想定しなければとらえることができず、言語外の汎用認知能力に頼る認知主義では無力だろう、という
ことにゃ。
190しゃん。
言語が適応的、すなわち機能的か?ということに関してですが、こういう
研究もあるそうですにゃ。
conversationの内容分析を試みた論文があって(1999-2000年に出たらしいにゃ。
某linguistが言ってた話だけ覚えてて出典の論文名は覚えてませんにゃ。すみません)
人間の言語伝達行動においては実は、新情報・有益な情報というのはパーセンテージに
して10%程度のものでしかなく、情報のやり取りそれ自体は人間の言語活動にとっては
それほどcrucialなものではないらしいですにゃ。
すなわち、人間のcomunicationというのは何か情報のやり取りをするのが目的なのではなく、
communicaiton、それ自体が目的になっているそうなのにゃ。
生存に不可欠な情報伝達部分というのは基本的に命令で、それは人間だけではなく
他の高等動物も十分に行っているcommunicationですのにゃ。
にゃから、人間言語の固有性に焦点を当てるのであれば、こういった「他の高等動物にも
使用可能なcommunication toolを排除し、人間にのみ固有の言語」に注目する必要が
あるように思うのにゃ。
思想史的に「笑い」というのは相手に対する「威嚇」とcommunicationができているという
「返事」になっているという話がありますにゃが、人間固有の言語に焦点を当てるのであれば、
そこでの機能性というのはあまり問題になりそうにもないような気がしますにゃー。
まず最初に。
顔文字さんのロジックは「しかし、文法を支配する原理は“それ以外
の存在が物理的にあり得ない”から突然変異として生じようがない。
故に“原理Pが他と比べて有利だから進化する”という話はあり得ない」
というもの。当然、そういうこともあり得るでしょうが、それは
「現時点のデータでは正当化」が難しい話ですよ。
分子レベルで「〜という変異は物理的に発生しない」と、主張すること
は可能かもしれません。現在の科学ならば「論理的に可能な変異」を同定
できるでしょう。しかし、言語構造・文法原理のレベルで「他の原理は
発生し得ない」と主張することは、いかにして可能でしょう?
「電磁波で発語する人間」とか「マシンガンを左触覚に備えた蝶」という
変異が存在し得ないのは自明です。しかし「文法」の場合は?
(続く)
だからこそ、私たちは、
>>626で紹介されているような「具体的な話」を
していくべきなんですよ。「適応がなくても構造が創発する例」を
自然界からむやみに探すのではなく、「言語における構造が創発することは
あり得るのか?」を、言語を対象にして考えていく。
「何が制約か?何が適応の産物であり、何がそうでないのか?」という
「大きな話」は、具体的な話を進めて行かない限り、いずれにしても
強弁になってしまいます。
というわけで、
>>626の話は、大変興味があります。もう少し展開すると、
どんな話になるのでしょうか?また、毎回長くてもアレなので、
>>627の話は、
後ほど議論させてください。「認知言語学と生成文法」の対立/関連には、
とても関心があります。
>人間の言語伝達行動においては実は、新情報・有益な情報というのはパーセンテージに
して10%程度のものでしかなく、情報のやり取りそれ自体は人間の言語活動にとっては
それほどcrucialなものではないらしいですにゃ。
なるほど。ただあえて難点を挙げるならば「全会話に占める伝達の割合」が
少なくても、伝達機能が持つ価値がきわめて高い、という事態は十分にありえますよね?
>生存に不可欠な情報伝達部分というのは基本的に命令で、それは人間だけではなく
他の高等動物も十分に行っているcommunicationですのにゃ。
どうなんでしょう?本当のところ。
トマセロは「人間だけが、“言語が指示する対象は、相手の視点から
見た事物であることを理解する能力を持つ”」と主張し、実際に、
幼児においては「初期の心の理論を持つ=他者が見ているモノを注視し、
“他者が何かを見ている”ということを認識できる」年齢になって始めて
言語獲得がスタートする、というデータを出してます。
一口に「シンボルによる伝達」といっても、言語学ではいくつかの区別が
されているんですよね?「人間だけが言語を獲得できる」のは、人間の言語に
固有の特徴、動物におけるシグナリングにはない特徴を、人間だけが認識できるからだ、
という議論を、トマセロやディーコンがしています。とてもオモシロイ部分ですよね。
>「電磁波で発語する人間」
2chにはたくさんいますよね(W
今度は「生得性3」のほうにお願いしますにゃ(ぺこり
遅レススマソにゃが……
>>617 >・非相加的遺伝=複数の遺伝子がセットで存在したときに限り、ある表現型が発現する。
1遺伝子1文法原理などというつもりはないにゃが、敢えて言えば生成の見方はこっちですにゃ。
つまり個々の原理のどの一つも単独で言語として機能することはないからにゃ。目はどの部分が欠けても
目として機能しないから、すべてのパーツが全部一緒にできたはずである、という議論はいったんは
自然選択でカタがついたように見えて、実は全然解決していない、という指摘もあるにゃ(Behe
>もし後者を主張するならば、「どうでも良い」原理の集積体たる言語は適応的でも何でもないことになる。
これは飛躍し過ぎですにゃ。言語はここで問題にしている普遍原理だけから成り立つわけではないのでにゃ。
「言語生得説」について一般の人が持ちやすい誤解の代表がこれにゃ。言語内部には生得的な部分もある、
としか言ってないのに、全部生得だ普遍だと言ってるように取り違えてそんなアフォな、となるのにゃ。
下で628しゃんが大事なことを書いているにゃ。
>人間のcomunicationというのは何か情報のやり取りをするのが目的なのではなく、communicaiton、
>それ自体が目的になっている
言語のこういう機能が適応価を持つことは明白にゃが、その機能にとって問題の原理は何か意味を持つのか、
ということですにゃ。たとえば言語が線形順序ではなく階層構造に依存していることが、言語の生存・繁殖
上のメリットを高めることにどう貢献しているのか、なのにゃ。
>>619 >「なぜそうした制約が備わっているのか?」を明かそうと試みた話は聞いたことがない。
そういう制約があるということを明らかにしたことだけでも、贔屓目に見れば過去のどんな言語学に
比べても特筆されるべき成果なんだけどにゃ。まあ、どうしてその制約でなければならないか、は
>>626で書いたような具合でこれからの課題にゃ。
>#この「なぜ」という問いに答えようとするのが、進化ゲーム理論や、「生得性と環境のインタラクション」>を解き明かそうとする認知科学者の仕事だと思います。
>調整ゲームの話は「なぜ原理A以外は存在しないのか?」を「適応」というメタ原理から説明しようとする
>議論です。
まったく同意しかねるにゃ。ゲーム理論ではすでに原理A自体が与えられている(原理Aに従う言語を
持つ個体がいる)ことが前提であって、原理Aの起源については棚上げにせざるを得ないのではないかにゃ。
ゲーム理論が生成と関わるとしたら、それはせいぜいパラメタセッティングの段階だろうにゃ。ある言語
社会に生まれた子供がどうしてその言語社会のパラメタ値を選ぶのか、幼児期にほんの一時的に違う値を
とってもすぐに再調整されるのはなぜか、あるいは逆に大人がいくら訂正してもいうことをきかないのは
なぜか、それは子供にとって「大人の注意を自分に向けさせる」という文字通り生存に関わる言語の機能を
果たす上でそれが最適戦略だからだ、と考えてもおかしくないのにゃ。
幼児の一語文「ワンワン」は「犬がいます」という叙述ではなくて、「ワンワンと言ってる自分に注意を
むけてくれ」という命令なのにゃ。
>>624 >個人的にも「伝達の効率性」という機能的な観点から、いくつかの「原理(
>>593)」が生得的に
>獲得されたようにも思えます。
非常に考えにくい可能性にゃ。たとえばどういうシナリオになるのかにゃ。
>>629 >突然変異として生じようがない。
正しくは突然変異の偶然だけに期待することは難しい、ということですにゃ。
>分子レベルで「〜という変異は物理的に発生しない」と、主張すること
>は可能かもしれません。現在の科学ならば「論理的に可能な変異」を同定
>できるでしょう。しかし、言語構造・文法原理のレベルで「他の原理は
>発生し得ない」と主張することは、いかにして可能でしょう?
言語の発生も進化も所与の物理的条件、数学的法則の制約下で起きたことであり、それに反するような構造は
生じ得ない、という方向ですにゃ。だから自然世界における経済性原理、最小労力、最短経路(最近チョムは
ニューロン連結における配線の経済性wiring economyの喩えがお気に入りのようにゃ)と言語の経済性の
間に関係を求め出したのにゃ。
置き去りの予感……
誰かいないかにゃ(´・ω・‘)ショボーン
「進化心理」
>>65 自分に都合が悪い議論は不毛かにゃw
>「構造や制約」というのは定式化の難しい段取りの悪い概念なので、手間がかかるわりに
>成果は期待しにくいように思います
とあるにゃが、他でもなくその「構造や制約」が説明を求めていることなのだということは分かってもらってる
のかにゃ? 分かっていれば「手間がかかるわりに〜」というトンチンカンな発言はしないはずだから分かって
いないのだろう、それなのに「どのような学習アルゴリズムで言語の獲得が行われているのか」と話しが進めば
面白いなどとどうして言えるのか、と訝しがっているわけにゃ。それから
> 4’ 構造や制約は学習心理学や進化生物学では説明できない(ように思う)
> 5’ 学習心理学や進化生物学は誤っている
のいずれもこちらの主張ではないにゃ。構造や制約に関する知識も進化の産物であるから、進化生物学からの
説明を要請するにゃ、しかし自然選択説ではそれは無理だろう、という問題提起なのにゃ。「UGは自然選択で
は説明できないから間違っている」という表明と比べてどっちが理性に適っているかにゃ。生物進化はすべて
自然選択で、また言語獲得も学習で説明されなければならない、できるはずだ、というのは単なるドグマで
あり、それ以外の可能性に視野を拡げるべきだと言ってきたつもりだけどにゃ。少なくとも言語知識のどの
ような部分が自然選択や学習による説明を拒絶すると思われるのか、を知らなければこの問題に関わることは
できないはずにゃ。そしてそう思うのが自然選択や学習についての当方の無知によるというのであれば、そこを
指摘して具体的に可能なシナリオを示してくれればありがたいですにゃ。
それから繰り返すけどにゃ、学問分野が誤っているという主張はここでは無意味にゃ。その中で出されている
個別理論が、個別の問題(この場合言語知識の起源と系統および個体発生)に対して説明力をもつか否か、と
いう議論ではなかったのかにゃ。
>>66 学習ではない、ということの証明は原理的にできないから、学習だという提案がなされるのを待たして
もらうにゃ。で、そういう提案をするのなら、
>「構造や制約」というのは定式化の難しい段取りの悪い概念なので、手間がかかるわりに
>成果は期待しにくいように思います
みたいなことは言ってる場合ではにゃい、違うかにゃ。
>「特定の制約を備えた学習ルール(→あるいは制約)がどこからやってきた
>のか」を考える作業。その候補の一つとして「適応」を考える。
だから、適応は何も生み出さないのでは、とお尋ねしているのにゃ。自然選択は生命の起源自体を
棚上げにしてその後日談だけにうつつを抜かしてきたわけですにゃ。
顔文字しゃん、代行コピペしておきましたよー
↑638、書き込む板、まちがへましたー
進化心裡スレは向こうなんですが……
>>636 >自然選択説ではそれは無理だろう、という問題提起なのにゃ。
無理かどうかはやってみなければ分からないことです。
最初から「無理だ」という主張から入るから紛糾するのです。
>そしてそう思うのが自然選択や学習についての当方の無知によるというのであれば、
>そこを指摘して具体的に可能なシナリオを示してくれればありがたいですにゃ。
というのがこちらに来られた目的であるならば、どういうシナリオが入用なのか
もう少し仕様を示してもらえるとありがたいです。
>>636-7 書き込みスレ間違えましたー
指摘してくれる前に気付いてたのですが、わざわざ指摘してくれた
>>640のロボしゃん感謝。
でも指摘だけでコピペしてくれないってところが、そこはかとなくイケズー:w
>>631 トマセロの話、非常に興味深いでつ。
自然と納得のいく理論でつ。
「言語が指示する対象は、相手の視点から見た事物であることを理解する能力」
とは、他者の先読みツールでしょうか?
また、このような仮説を支持するような言語学的見解というのはあるのでしょうか?
言語学板の諸兄方にお聞きしてみたいです。
>>628 非常に面白いです。
>生存に不可欠な情報伝達部分というのは基本的に命令
というのだけは一旦疑問符ですが、
言語によるコミュニケーションの究極要因はなんなのでしょうか?
(というと、進化心理学的になってしまうのかな?汗)
心ってどこスレでも出たお題ですが、そもそも何故人間は
『心』と名づけられるような概念を持つのか?って話がありますたが、
素朴に考えれば、心って巷では存在している事になってるんですよね。
このような『心』と思うものは、曖昧ですが、これを伝える為に
言語によるコミュニケーションは役立っているような気がするんでつが。
>人間言語の固有性に焦点を当てるのであれば、こういった「他の高等動物にも
>使用可能なcommunication toolを排除し、人間にのみ固有の言語」に注目する必要が
>あるように思うのにゃ。
というのは、非常に面白い試みな気がします。
こういう研究ってあるのでしょうか?
>643訂正
× 自然と納得のいく理論でつ。
○ 自然と納得のいく主張でつ。
そこはかとなく正体がばれてるような気がしますにゃが。
心理版の方々へ。私は生成初めてやっと2年ちょいの素人に近い学生なので
「初学者はこう考えてるのか?」「こいつもしかして間違えとんのちゃうやろか?」
という視点で読んでくださいにゃ。
>>自然選択説ではそれは無理だろう、という問題提起なのにゃ。
>無理かどうかはやってみなければ分からないことです。
>最初から「無理だ」という主張から入るから紛糾するのです。
あくまで仮説段階にゃから、戦略的に生産的だと思われる方を
暫定的に選んでいるだけだと思いますにゃ。←過激発言
根拠としては虚無しゃんのおっしゃる通り「刺激貧困(否定証拠なども含む)」の話が中心
(てかそれしかないの?という虚無しゃんの意見に対してあたしゃ反論できまへん)
でも、ガイシュツのようにいろいろな言語事象の発見につながったのにゃから、
それなりの妥当性はあるように思われ。(要:訂正意見)
>>人間言語の固有性に焦点を当てるのであれば、こういった「他の高等動物にも
>>使用可能なcommunication toolを排除し、人間にのみ固有の言語」に注目する必要が
>>あるように思うのにゃ。
>というのは、非常に面白い試みな気がします。
>こういう研究ってあるのでしょうか?
Generative Grammar!(w
ちなみにカテゴリー化というのは霊長類でもできるそうな(出典が明記されて
いないのが悔しいにゃが、メロンをチンパンジーが「果物」にゃら「大きいもの」
にゃらにカテゴリー分けできたという研究成果があるそうにゃ。でも、この実験結果から
チンパンジーに言語が使えると主張するのは「おいおい!」という感じですにゃ)
まああとの霊長類の言語習得の試みとしてclassic(?)な研究としては
40年代のKeith and Cathy HayesのVickiというチンパンジーの実験があって、
papaにゃらmamaにゃらcupにゃらといった基本単語を発音させ、使わせることに
成功していますにゃ。
あとはAllen and Beatrice GardnerがWhasoeというチンパンジーにAmerican Sign
Languageを教えようとした試みなんかもありますにゃ。
単語を習得させようという試みはけっこういろんな人がやってて100語程度なら
覚えられるみたいですにゃ。
それでも抽象概念を扱う能力にゃら、生成でUG由来だとされている言語現象を
1つでも獲得できたという実験は見られないですにゃ。
念のため言っておきますにゃが、別にvocal systemが人間と同等程度に発達している
ことは自然言語を習得するのに必要な能力ではないですにゃ。人間でもvocal systemにゃら
聴覚異常をもっている人はいますにゃが、sign languageなどの自然言語は身につけています
からにゃ。
認知の説明はちょっとhelp頼んできます。代筆してもいいにゃが、気が進まにゃい。
>>643 >「言語が指示する対象は、相手の視点から見た事物であることを理解する能力」
>とは、他者の先読みツールでしょうか?
>また、このような仮説を支持するような言語学的見解というのはあるのでしょうか?
>言語学板の諸兄方にお聞きしてみたいです。
心の理論だにゃ。チョム傍系の語用論標準理論の関連性理論に由来するのが心の理論にゃ
言語学的見解があるのにゃっていうより、そも、言語学由来の見解にゃ。
> このような『心』と思うものは、曖昧ですが、これを伝える為に
> 言語によるコミュニケーションは役立っているような気がするんでつが。
そりゃ当たり前にゃ。「心」ってのを日常の言葉の意味で解釈すれば、意味的にすでに
無意味に等しい見解にゃ。伝える対象の「心」、「言語によるコミュニケーション」を
もっと精緻化した質問してくれにゃ、話にならないほど曖昧にゃ。
>人間言語の固有性に焦点を当てるのであれば、こういった「他の高等動物にも
>使用可能なcommunication toolを排除し、人間にのみ固有の言語」に注目する必要が
>あるように思うのにゃ。
鞭無知しゃんがきちんと言ってるけど、それこそ生成がやってたことにゃ。
>こういう研究ってあるのでしょうか?
ってうまいボケでかわしてくれないと突っ込みようがないにゃ。
>647
当たり前でつかw
では、言語の究極要因として、他者の先読みツールのような「心」の伝達も含められるとしたら
>>628での有益な情報は全体の10%というのは、
やはりもう一度有益の内容を検討したほうが良さそうですね。
「心」の伝達も、なにがしかの有益性である可能性は高いと考えてはいけませんか?
もしOKなら、進化論とも相性が良くなりそうな予感。
ちなみに私は政治学部卒で心理学素人・入門者なのであしからず・・(汗
>647
上手いぼけってなんでですか?
UG批判者でもない、ただの野次馬ですが。
私はともかく、心理学板の人間は全てUG批判者であるというバイアスをお持ちなのでしょうか?
それに付随してくるパラダイムはともかくとして。
>>648 てか、何でいきなり
>では、言語の究極要因として、他者の先読みツールのような「心」の伝達も含められるとしたら
とくるのかがさっぱりわからんにゃ。俺ら言語の究極要因なんて言ってないし、その
なかに先読みツールも含むとかも言ってないにゃ。仮定がこの通りにゃから、その帰結に
ついてはなんも言えないにゃ。そもそも
>>628での10%の中身は検討できてるのかにゃ?
>「心」の伝達も、なにがしかの有益性である可能性は高いと考えてはいけませんか?
そりゃそうにゃが、だからといって原則Pがそっちの言う「進化論」と相性がよく
なるともおもえんにゃ。有益=「進化論と相性がいい」ですかにゃ?
>>643で
>人間言語の固有性に焦点を当てるのであれば、こういった「他の高等動物にも
>使用可能なcommunication toolを排除し、人間にのみ固有の言語」に注目する必要が
>あるように思うのにゃ。
とあって、これをうけて
>こういう研究ってあるのでしょうか?
と書いてあるにゃが、これはここまでいろいろ書いてきた人からすれば
悪い冗談としか受けトレにゃいにゃ。(w
>心理学板の人間は全てUG批判者であるというバイアスをお持ちなのでしょうか?
そんなことは思ってにゃいが、まさに生成は、他の動物には備わっていない、
人間固有の言語の特質について主張を繰り返してきたわけにゃから、いきなり
がくっとくる質問が「こういう研究って…」てわけにゃ。
>651
ほんとだ・・
勝手に脳内変換してますた。
こりは失礼しました。
人間固有の「認知」能力を調べる為の「実験」って何かあるのでしょうか?
と聞いたつもりですた。
色々ありますが、すみませんが寝ます・・。
さて。以下のトピックはそろそろ終わりになれば良いのですが。
>177しゃんも現代進化生物学の中で自然選択説がいかに脆く危うい立場に追い込まれているかには気づいた
方がいいと思うにゃ。
レウォンティン&グールドあたりを念頭に置かれているのでしょうか。しかし、
「物理/発達的な制約下」で「適応プロセス」が生じる、という事実を否定している
生物学者なんていないですから。そして「どちらがより重要か」という問題は、
直接、現場でデータを扱う人間が判断できることです。上に書いたようなセリフは
院生向けの集団遺伝学や行動生態学の本を読み通してから出すべき言葉でしょう。
そして、それらを「キチン」と知れば、扱う対象に応じて両者にかかるウェイトが
異なることも分かるはず。実際私が知っている生物学者達は、研究対象に応じて
両方を矛盾なく使っています。説明対象を限定しない以上、上のセリフは言い過ぎです。
http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/Page21.html(←知人じゃないですが)
>だから、適応は何も生み出さないのでは、とお尋ねしているのにゃ。自然選択は生命の起源自体を
棚上げにしてその後日談だけにうつつを抜かしてきたわけですにゃ。
ちなみに進化生物学から「適応」を取り去ると「説明できないことが鬼のように
出てくる」のは事実ですからね。また上に述べたように「制約」を考えずに「適応」
だけで「多くの現象を統一的に説明できる領域」があるのも事実ですから。
過剰に「制約」を強調するのも危うい立場であることをお忘れなく。
一例。
>言語の発生も進化も所与の物理的条件、数学的法則の制約下で起きたことであり、それに反するような構造は
生じ得ない、という方向ですにゃ。だから自然世界における経済性原理、最小労力、最短経路(最近チョムは
ニューロン連結における配線の経済性wiring economyの喩えがお気に入りのようにゃ)と言語の経済性の
間に関係を求め出したのにゃ。
ちなみに「経済的なニューロン連結が生じる」のは「非経済的なニューロン結合を
生み出す遺伝子が淘汰されたから」という可能性は「常に」存在しています。
「制約」と「適応」の関係を解きほぐすのは、斯くも難しい。確たる証拠なしに
「制約」一本で勝負することの、論理的危うさもお忘れなく。
#とはいえ、この例に関し、具体的にどんな研究がされているのか、非常に関心
あります。「190は適応一本で勝負しようとしている」と誤解なされぬよう。
また「制約」を強調されるなら、当然、最近注目を集めているEvolutionary Developmental Biologyも視野に入れざるを得なくなりますね。が、そうやって
「制約」にこだわり始めると「生成文法なる構造が生得的に備わっている」という、
肝心の主張を擁護するのがますます難しくなると思います。まぁ「最小限の生得的制約と
学習の相互作用を通じて“大人が持つ構造が生じる”」というEDBっぽい問題設定は、
むしろ、こちらが話したい/聞きたいことですから、そちらに繋がるなら、
願ったりかなったりです。
#ともあれ、全ての理論/アプローチにはそれが適用可能な境界条件があります。
故に、それを考慮しない議論/主張は暴論です。そこが争乱の元であり、本来ならば
顔文字さんの話も、177さんの話も、対象に応じて使い分けられるべきだったんです。
>>人間言語の固有性に焦点を当てるのであれば、こういった「他の高等動物にも
>>使用可能なcommunication toolを排除し、人間にのみ固有の言語」に注目する必要が
>>あるように思うのにゃ。
>鞭無知しゃんがきちんと言ってるけど、それこそ生成がやってたことにゃ。
さぁて、これもまたぜひ教えて頂きたかったところですが、これは「構造の階層性」
といった「文法構造」を生成派が見いだしたことを意味するのですか?それ以外に、
比較認知科学などで行われているように「霊長類はイコン・インデックスは扱えるが
シンボルは人間しか扱えない」といった話まで含んで、生成派は「言語に関連する
人間固有の能力」を見いだしたのですか?だとしたらどんな物を?
#ここでも「何らかの生得的制約が必要」という点では、武闘派スキナリアンを除けば、
多くの人が、ホタテ貝をたたき割るラッコのように激しく同意するでしょう。
議論されるべきは「現実にはどんな制約が存在しているのか?」です。
そこは「武闘派スキナリアン」というよりは「化石行動主義者」と言ってほしかった。
と一応突っ込んでおくテスト。
それにしても、心理学vs生理学、行動主義vs神経科学みたいな、
単なるすれ違いによる喧嘩は絶えませんなあ。いや、「スレ違い」ではなく。
ジェネラリティはC戦略よりもさらに高等なメタ戦略であり、
ヒトの進化はまだそこまで到達していないから仕方ない。
もっとも、クーンに言わせりゃ、それこそが科学、それこそが学問なわけだが。
ガリレオは異端審問にかけられ、カントールはクロネッカーのために発狂し、
メンデルは失意のうちに死に、カンメラーはピストル自殺を遂げた。
宿命的に、憎悪と対立と悲劇のない場所に学問は存在し得ない。
659 :
没個性化されたレス↓:03/02/26 18:01
いちおうわたしは、「自然科学判定」という原理的な問いを振り出しているんでにゃ。
読者がいようといまいと、少しずつ書いてくけど、
まずは(今回は「判定」そのものには触れない内容になっちゃったにゃ。)
言語学的空範疇を認めない立場は、見えないからといって「素粒子」かなんかを認めない立場と同じという、
(´∀`)センセの見解は完全な誤りにゃ。(かなり昔の発言だけど)
(空範疇とは、たとえば冠詞(正確には冠詞と代名詞を抽象化したもの)のある名詞句をデフォルトとして、
いっけん冠詞のない日本語にも発音されない冠詞が想定されるように、たまたま発音されないだけで実在するとされる成素。)
(句構造の一般化のために、やたらと乱用されるおそれがあるのにゃ。)
ま、こういう問題はどのていど比喩を大まじめにうけとるかで変わってくるんだけど、
自然科学における実在概念は、究極的には力学的概念(接触によるものであれ「場」を介在したものであれ)
におちつくといっていいにゃ。
そしてこの力学的実在は、数学的構成の「一部」なのにゃ。
数学的構成とは、質量、エネルギー、運動量、熱、エントロピーなどもろもろ、定量的に構成可能なもの全般をさし、
エントロピーは無から発生するがゆえに「実在しない」とかいう議論は無意味にゃ。
このような素朴な実在観を、数学的に再構成したものが自然科学的実在といえるにゃ。
このようにして、やっと「惑星は実在するが、惑星の軌道は実在しない」というのは正しい、
だがしかし、「(量としての)惑星」「惑星の軌道」はともに数学的に構成され、物理学の対象となりうることが明らかになるにゃ。
660 :
没個性化されたレス↓:03/02/26 18:01
で、空範疇のハナシにもどると、けっきょく数学的に量化され再構成されれば、
(わたしとしては生成された句構造そのものが定量化されるやや非現実なストーリーを想像していってるが)
あるいみ自然科学としての実在問題は(心脳問題なしで)クリアされるともいえるにゃ。
そして「しょせんは物理学も内観の研究」という強引な正当化とか、チョムスキーに由来すると思われる
心的実在も物理的実在も「同じレベル」の客観であるという見解も排除され、
わけのわからん空範疇がどんどん増えていくような事態も避けられるのにゃ。
理系マンセーなハナシになったけど、数学が普遍的認識ツールであるからにはしかたないにゃ。
ですた。ageるつもりなかったんだけどにゃ。
(´∀`) <……
>>653 >レウォンティン&グールドあたり
はむしろダーウィン進化論内部のマイナーな改良、より正確にはダーウィン自身の主張をネオ・
ダーウィニズムがねじ曲げてしまったのを元に正そうという流れであると理解しているにゃ。
exaptationはダーウィンのpreadaptationに包摂されてるにゃ。
積極的な選択説批判としては、例えばフィリア「選択なしの進化」、ベーエ「ダーウィンのブラック
ボックス」などを視野に入れてるのにゃ。まあベーエの代案はほとんど創造論にゃから現段階で
どうこうすることもないだろうにゃが、たとえば「ダーウィン的な進化理論が正しいものとされる
ためには進化論は生命の分子構造を説明する必要がある」のに進化論はそれをやっていない(棚上げに
している)という指摘はまったく正しいと思うにゃ。反論あればお願いするにゃ。
>扱う対象に応じて両者にかかるウェイトが異なる
俺もずっとそれを言い続けてきたわけだけどにゃ。で、言語の構造制約に対して選択だの適応だのは
関係なかろう、ということにゃ。
>「制約」にこだわり始めると「生成文法なる構造が生得的に備わっている」という、
>肝心の主張を擁護するのがますます難しくなる
今の生成の方向からすればむしろそのほうが好ましいのにゃ。どこからも導出できない言語固有の原理、
というのはそれ以上深い説明を放棄しているのと同じだからにゃ。個体レベルで遺伝的生得的に備わって
いるという主張と、それが進化の過程で最初にどうやって生じたかを考えるべきだという主張はどこも
矛盾しないにゃ。
リンク先見せてもらったにゃが、そこでも「ネオ・ネオ・ダーウィニズム」への言及があるにゃ。
そんな言い方は進化生物学では聞かないとか言ってた人は、はたして進化生物学を知ってるのかという
疑問が増すわけだにゃ。
(´∀`) <……
>>659 人の発言をわざと歪めて引用してもらっては困るのにゃ(怒
空範疇も素粒子もその科学的実在性はそれがもつ説明力によって正当化される、ということにゃ。
空範疇を立てない理論が、空範疇の理論と同様の説明力を持つことを示してから発言してもらおうかにゃ。
日本語に空の冠詞があるかどうかとかいった個別の議論と、空範疇なるものが言語構造にあるのかの
一般論も混同してはいかんにゃ。コレコレは学習では(or自然選択では)説明できないだろう、と疑義を
表明しているのを、学習は(or自然選択は)まったくないといってるかのように曲解してる人も困るにゃー。
>「ダーウィン的な進化理論が正しいものとされるためには進化論は生命の分子構造を説明する必要がある」
>のに進化論はそれをやっていないという指摘はまったく正しいと思うにゃ。
後半(進化論がそれをやってないという指摘)は正しいと思いますが
(どちらかというと分子生物学の守備範囲)
前半(説明する必要がある)は正しいとは思いません。
なぜ、分子の構造まで説明する必要があるのでしょう?
私が繰り返し主張していることは、現象の背後に存在する淘汰圧を考察
するといろいろご利益がありますよ、ということで、要はそれだけです。
そんなご利益はいらない、というのであれば、スルーしてもらって結構です。
>心の理論だにゃ。チョム傍系の語用論標準理論の関連性理論に由来するのが心の理論にゃ
>言語学的見解があるのにゃっていうより、そも、言語学由来の見解にゃ。
プレマック由来だとばかり思っていたんだが、違うの?
それはともかく、
>チョム傍系の語用論標準理論の関連性理論
とは?
ちと興味がある。
あと、かなり上で挙がっていた「行動文法」ってのも気になる。
言語学が独自に体系付けた学習理論なのか?
>>663 数学は非常に洗練されたかたちで、現象の記述にすぎないのか、
なんらかの実在を仮定した説明原理なのか、の二分法を「超越」したものだと思うにゃ。
標準的な科学者なら、誰もニュートン力学をたんなる「数理パズル」とは言わないと思うにゃ。
で、どこが曲解なのにゃ?
「説明力」って、plausibilityってことかにゃ。そりゃ、たいがいの疑似科学が持ってますにゃあ。
一般に統語における空範疇は、句構造のほうから意味解釈の論理構造が一義的に決定できないときに、
句構造に「導入」されるが、ぶっちゃけ帳尻あわせにゃん。
それになんで、語の線系列に事実上出力され、その位置を確定されなきゃなんないのにゃ?
わたしの論点は、空範疇は「説明力」がありすぎて、それはなんらかの客観的産出規則で制限しなきゃダメでしょ、ってことにゃ。
かりにboredは直接的属性[be x]、boringは使役的属性[cause [become[be x]]と定式化して、
それが形態素(このばあい-edと-ing)に関連づけられたとするにゃ。
だったらsadのように両義的(悲しい、悲しませる)なものにも、不可視の形態素をつけたほうが「説明力」増すにゃん。
こういう推論はいたるところで可能であり、空範疇はとどまるところを知らんにゃ。
つまりは可視の形態素が(形式意味的に)多義的なばあい、いつでも空範疇を導入することができるのではないかにゃ。
ちなみに、「言語学的空範疇」となっていたけど、これは言いすぎ。
そりゃそうだ 数学は科学じゃないし
世界の神ですら〜
公理を〜歪める権利なんて〜持たないのにぃ〜 と
>一般に統語における空範疇は、句構造のほうから意味解釈の論理構造が一義的に決定できないときに、
>句構造に「導入」されるが
まちがえたにゃ。句構造の一般化のほうが目的の大半かにゃ。
でも論旨はつながってるっしょ?
それにしても科学論に数学論に実在論、なんとまどろっこしいことか。
要するにこういうことじゃねえのか?
生成文法があるかどうかなんて誰にも断定できねえ。
生成文法があるかどうかなんてどうとでも解釈できる。
だから生成文法についていろんな解釈が出回ってる。
どの解釈が正しいかなんて誰にも断定できねえ。
どの解釈が正しいかなんてみんな好みで選んでる。
だから生成文法があるかどうかについていろんな喧嘩が起こってる。
しかも喧嘩の武器は実在論だったり進化論だったりするから、
やたらあちこちに議論が飛び火する羽目になる。
>>656 あい。今後気をつけます。
>>666 そうそう。どちらも。
>>662 むぉ〜ん。構造主義生物学に近づいていくのですか...
「議論のための議論のための...議論をする場」と異名をとる領域ですね。
実際の研究レベルに落とし込むと「俺たちがやってることを言い換えてるだけだろ!
ゴルァ!」と、日々現場で手を汚している人から評されるとも。物の見方や解釈は
いろいろあって良いと思いますが、問題は「それを持ち出さすことで、現場の人間が
どれだけ新しい物を生み出せるか」でしょう。
>今の生成の方向からすればむしろそのほうが好ましいのにゃ。どこからも導出できない言語固有の原理、
というのはそれ以上深い説明を放棄しているのと同じだからにゃ。個体レベルで遺伝的生得的に備わって
いるという主張と、それが進化の過程で最初にどうやって生じたかを考えるべきだという主張はどこも
矛盾しないにゃ。
で、話を戻しますが(進化心理スレに書いたように)、UGと呼ばれるモノを
「時間軸にそった言語獲得の話」&「神経回路網/認知システムなどのレベルでの
記述」に落とす作業は、どれだけ進んでいるのでしょうか?
>>671 という訳で、解釈というよりは、用いられている記述用語のレベルが違うから、
他領域の研究者がとりつく手がかりが見あたらない、という話だと思うのだけれど。
メロソパソのセンセに、ヒステリー用の顔文字プレゼントにゃ。
(`皿´)<キイイイイイイイ!!系統発生と個体発生の混同にゃ!!
昨日から一年で一番くだらなく忙しい雑用にかり出されているのでレスが遅れるのにゃ。
>>664 例えば目の進化を説明するということは、目を実現している機構を単に解剖学的に眺めるだけでなく
細胞レベルから分子レベルまで遡ってそこでどういうことが起きているのか、なぜそのようなことが
起きえたのかを説明することも要請するからなのにゃ。自然選択は進化という現象のほんの上っ面を
かすっているだけではないかにゃ。べーエ的にいえば分子生物学や生化学というブラックボックスを
明けないままで進化を語っていられたダーウィンの時代だったから、自然選択はもっともらしく聞こ
えただけなのにゃ。
歴史はネオ・ダーウィニズムを「アングロサクソン生物学がまき散らした宗教的信条のうちのマイナー
な20世紀の宗教セクト」と判断するだろう(リン・マーグリス)なんだそうにゃ
>>667 >「行動文法」
どっかで紹介したメイナード・スミスでも見てみるのにゃ。英語苦手なら翻訳もあるにゃ
「生命進化8つの謎」(長野敬訳) 「進化する階層」(同)
>>668 >「説明力」
くだいて言えば無関係に見える現象をどれだけ多く関係づけることができるか、ですにゃ。
このあたりは言語板でさんざ繰り返した議論なのでちょっとは学習してホスィですにゃ。
>客観的産出規則で制限しなきゃダメ
空範疇のふるまいに関する制約があるからこそ可能な構造、可能でない構造がある、そして
その制約は、空範疇が空範疇であるというまさにその理由(幼児には聞こえない)で、いっそう
経験論を疑わしいものにしている、もはや古典的議論にゃが、どう答えるのかにゃ?
まあ、ゼロ形態素にしてももっと大きい範疇にしても、構造の成分が全部音声具現を受けるはずだ
という期待のほうが特殊であり正当化を要請すると思うにゃ。「発音しない」というオプションが
音声解釈の一つの方法として許されないと予測する概念的根拠を聞かせてちょ (`・ω・´) シャキーン
>>674 淘汰圧を考慮することでご利益がある場合もあれば、あまりない
場合もあるということですよね。その点は同意しますが、
「どんな願いでも叶えてくれなきゃやだ!」っていうのは、いくら
のび太君の言うことでも、欲張りすぎだと思いまつ。
#もう堂々巡りですね。
>歴史はネオ・ダーウィニズムを「アングロサクソン生物学がまき散らした宗教的信条のうちのマイナー
な20世紀の宗教セクト」と判断するだろう(リン・マーグリス)なんだそうにゃ
じゃ、皆さん、それぞれのやり方で歴史作りに精を出されていますから、100年後の評価を待ちましょうか。
後は同じことの繰り返しですが「生物学(分子・発生・進化)の泥臭い現場」を見てから、メタ・レベルの
議論をした方が良いと思います。さもないと、科学の現場を知らずに、科学哲学の本だけ読んで、したり顔で
科学批判を始める、哲学科の大学生と同じような流れになってしまいますよ。
現代の言語学者(含む生成文法派)は、現実の世界における言語を参照しながら堅実に仕事をしている
から、議論がさほど上滑りせず、抽象的ながらもしっかりとした「ロジック」を見いだしている学問
だと思っています。だからこそ、「現場を知った上での、上滑りしない着実な議論・判断」の大切さを
知っていらっしゃると思いますが。
678 :
没個性化されたレス↓:03/02/28 12:04
文頭に移動
>>676 どんな願いでも叶えられるはずだ、という前提で考案されたから
ネオ・ダーウィニズムを総合説進化論って言うわけなんですが
680 :
177 ◆rBWlMpeA6. :03/02/28 12:46
それは認識の誤りで、ダーウィンのアイディアと
メンデル遺伝学を総合したので「総合説」というのです。
それまで両者が対立していた、という歴史的背景のある
ネーミングです。
正直、スマンカッタ!!
\\ 正直、スマンカッタ!! //
+ + \\ 正直、スマンカッタ!!/+
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./(. = ,= | ./(. = ,= | ./(. = ,= |
+ . |||\┏┓∩|||\ ┏┓∩|||\┏┓/ +
(( (つ ノ (つ 丿 (つ つ ))
ヽ ( ノ ( ヽ ノ ) ) )
(_)し し(_) (__)__)
ま、誤解を招きやすい名称なので、私も
あんまり良くないと思っているのですが。
名前の由来はともかく、総合説の象徴といえば、こいつだな
すべての生物の形質がDNAの上に書き込まれた情報によって
先験的に決まっており、そこから形質を引き出すときの自由度の
高さによってのみ偶然新たな形質が生まれ、それが自然選択に
よって必然のものとして定着する。DNAからの情報の一方的な
流れによって引き起こされる進化は、そのまま熱力学の第二法則
(エントロピー増大の法則)の生命における体現にほかならない。
ジャック・モノー 『偶然と必然』
エンペドクレスの淘汰進化説を否定したアリストテレスはこう言った。
事実がエンペドクレスのいうようであるのは不可能だ、
もしそうなら、種子にはまったくの偶然が支配しなければならない、
だが、自然は、理由のないことはしない。
なにがすげーって、アインシュタインの「神はサイコロを振らない」と一緒。。。
>>677 にゃんともドグマティックな人だにゃ。
「現場を知った上での、上滑りしない着実な議論・判断」に基づくからこそ、自然選択は無力に等しい、
と多くの生物学者が謙虚に受け止めているのが現状だと理解してるにゃ。俺自身が直接その現場に
立ち入ることはできないけれども、彼らが生物進化について指摘しているのと同じことが、言語についても
言えるのではないのか、と思っているのにゃ。
「全体として、進化はダーウィンが論文を発表する前とほとんど同程度に難解な問題のままである。
自然選択は起こったことのほんのわずかしか説明していない。つまり大部分は説明されずに残って
いる。」(G. R. Taylor)
「生得的言語能力」もいわば自然選択と同じであり、問題を解決するどころか新たな問題を次々に
引き起こしているのにゃ。だからこそこれからの生成文法はUGを主張する限りはUGの進化の問題を
避けては通れなくなる、と思うにゃ。
日本語は世代をこえて進化してきたのだらうか。
688 :
177 ◆rBWlMpeA6. :03/02/28 23:49
「中の人などいない!」も精神はにています。
これは比較行動学の祖の一人ニコラス・ティンバーゲンがどこかで語ったことだそうだが
およそ、行動というものについて人は四つの問いを立てることができる。
曰く、「行動の進化」「行動の発達」「行動の機能」「行動の機構」の四つである。
言語でいえば、「なぜ人類は言語能力を獲得したか」
「個体の言語能力はいかにして発達するか」
「言語能力はヒトの生態においていかなる機能を持つか」
「言語能力はいかなる生理学的機構により実装されているか」
の四つの問いを想定することができるというわけだが、
道徳行動でも性行動でも、何についてでも基本的に同じだ。
この四つの問題は相補的であるが、それぞれ独立の研究領域を成立させ得る。
言語学者が普段扱ってるのは機能だろうし、認知神経科学者なら機構で、
発達屋は発達を、進化心理学は進化を取り扱う。
もちろん、それぞれがそれ以外の部分に言及しないわけではないし、
どこも他の領域を無視して話をするのはもうムリだろうという状況なわけだが。
おっとうっかり 今の俺。
>>688 読んだことないけど、あれの吉田戦車の元ネタって、
「中の人は実際にいるんだけど、それは指摘されたくないから
かわうそ君が中の人などいないと怒った」んじゃなかったか?
くすくす。構造主義者は自分以外をすべて「ドグマだ」といって
切って捨てるのです。フーン兄弟がすでに指摘してましたよw
つまり現在の論点を一言で象徴的に表現するとこうなるわけですね
∧_∧
( ´∀`) オマエモナー
( )
| | |
(__)_)
>>690 元ネタは「下の人」ですけどね。勢いだけで断言するところは共通しています。
>>685 せっかくここの住人が「博学な言語学板の住人」と思って期待しているの
ですから、それが「猫」に変わらないうちに、その話題はお終いにされた方が
よろしいと思いますよ。
調子に乗るなよ。油断していると、猫にされるのはこっちだぜ。
パラダイム論争というのはそういうものです。
結局、レッテルの張り合いをするだけの不毛な作業です。
\|/
/⌒ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ゜Θ゜)< そうでもないよ
| ∵ つ \__________
| ∵ |
\_/
論理のぶつかり合いで勝負をつけられないからこそ、
剥き出しの、人間としての格を問われることになるのさ。
黒猫やケミカルが虚仮にされるのは彼ら個人の格が
我々から見て底の知れたものだったからに他ならないが、
黒猫騒動の初期に俺が危惧し訴えたように、
我々こそがそうなっていた可能性は十分にある。
2chでは、その種の争いに敗れた奴はもれなく洗礼を受けるのが定めだ。曰く、
厨 房 逝 っ て よ し 。
2chの定めという点ではその通りですね。
学問の争いというのとは、また基準が違いますし。
あんたらの日本語、少しおかしいとちゃいまっか。
AAの進化について誰か語れ。
そろそろ、お遊びはこれぐらいにして言語屋さんたちの
来訪をお待ちしましょう。
言ったろう、パラダイム論争は学問の争いじゃない。
それ自体極めて2ch的な、つまり極めて人間的な対立であるといえる。
2chという場は決して閉塞的な特殊環境じゃあない。
むしろ、より純粋なコミュニケーションが実現される場なんだよ。
だからこそここで起こる論争や対立は見てて飽きないわけだが。
177氏も190氏も行動厨さんも終始、不毛なパラダイム論争をしようと等してなかった訳だが。
とはいうものの
>自然選択は無力に等しい
はナンボなんでも言いすぎでは
失語症については議論済み?
不毛だなんてとんでもない。
およそ科学の進歩はパラダイム論争とともにあるし、
それは諸学の際を浮き彫りにし、その性格を明らかにする。
ただ、やってる本人はいい気分にはなれないというだけだ。
確かに
逝 っ て よ し 。
∧_∧
( ´∀`) オマエモナー
( )
| | |
(__)_)
の応酬ですからね。学問の争いじゃない。
両陣営が、知見を蓄積し説明力を高める競争を行う場合は
学問の進歩につながりますが、そのルールすら共有されて
いない場合は単なる煽り合いに過ぎなくなります。
通りすがりの一般人の漏れに
今の話題を分かりやすく説明してくれんかのう。
DQNが読んでも理解できない、面白くないのが学問なのか。
パラダイム論争と2chの煽り合いはどう違うか
(違わないか)という話をしているのでいす。
共有されるべきルールなんかないんだよ。はじめから、どこにも。
科学者も所詮は人の子、人間的な動機やモチベーションで動く。
そして外集団への憎しみや怒りは強力なパッションの源となる。
スキナリアンなんか堂々と断言していたもんな、ドグマなくしてなんの学問かと。
>704
このスレでは出てないけど過去スレでは触れられてますた。
突っ込んだ議論にはならなかったけど。
>>708 ちょっとここは一見さんにはハードすぎます。
初代を知らずに「閃光のハサウェイ」に手を出すくらい無謀です。
とはいえ初心者向けのスレは今のところ質問スレくらいしかないのですが
>>711 それがアダム・スミスの議論と社会的ジレンマの議論の
分かれ目になります。続きは向こうに帰ってやりましょう。
(向こうもここと余り変わらない状況になってますが)
パラダイム論争については分かりかねますが
2chにおいては、荒らそうが自作自演しようがAAを貼ろうが煽ろうが
敵対者の、掲示板を利用し続けようという意志と意思を破壊した人が
その後もそのスレを利用し続けるようです。
そういう視点から抜け出せない限り、あなたは顔文字氏に負けるよ。
そうです。彼は最強です。誰も彼にかなう人はいません。
disciplinary matrix
言葉で道具であり武器。
戦争のルールは常に勝者がつくるのか。
…ガイドラインは勝者が作成したのだらうか。
VAE VICTIS
>715
利他行動や、他にも色んなお題でやれたら嬉しいでつ。<進化心理学スレ
あちらが言語オンリーになるようなら、こちらに移動して頂けばよいかなあと・・
必 死 棚 w
まあ、どちらも進化の機構について無知であることは同じにゃが、その無知に気づいているか
気づいていないかの差は大きそうにゃ。
自然選択は万能ではない、という論点には同意してもらってると思うのにゃが
>>676 >淘汰圧を考慮することでご利益がある場合もあれば、あまりない
>場合もあるということですよね。その点は同意しますが、
ではどういう領域ではご利益があり、どういう領域ではない(と理解している)のか、ご利益が
ある(と思っている)領域で、具体的に自然選択がきちんと説明したことが一つでもあるのか、
「説明した」といったんは思っていても考え直せばそれはまだ説明されない多くの事柄の上に
積み重ねた推論に過ぎないということはないのか、いかがかにゃ?
言語学板諸兄にはそのようにお願いしたく
どうせ心理学板のメンツはみな両方覗いてますから
また誤爆したよオイ
酔っ払いはいかんな
たとえば、古典的な例として性比の研究があります。
多くの生物で、オスとメスの比はほぼ1対1になって
いますが、これはなぜだとお考えになりますか?
ダーウィンフィンチのクチバシ、オオシモフリエダシャクの工業暗化、
タテハチョウの食性の変化、北カリブ型トカゲへの収斂、
と、とりあえず有名どころを挙げておく実験
>>726 >>726 「それを可能にする神経学的・遺伝学的構造を
明らかにしないと「説明」したとは言えないにゃ」
とくる予感。ある現象を理解するには全てのレベルでの「説明」が必要なのは
みんなわかっているはずなのに、何で喧嘩になるのかさっぱりわからないんですが。
「うわあ、カレーが腐っちまってる!」
「冷蔵庫に入れておかないからだよ!」
「ハァ?細菌が繁殖したから腐ったんだよ。何言ってるんだ?」
( ゚д゚)ポカーン
心理学と進化論じゃ違うよ。
徹底的行動主義と構造的認知論は共存できても、
ネオ・ダーウィニズムとネオ・ラマルキズムは共存できん。
なるほど。もう一度勉強し直します。
それはそうと、そろそろ500Kに近づいています。
この名スレを容量オーバーであぼ〜んさせないためにも、
そろそろ次スレが必要なのでは。
おっとっと、ここで言語学的全面戦争をおこすところだったにゃ。
しいていえることは、音声質料は言語学の数少ない実体的対象であり、
自然科学的な正論をいえば、音声学的ふるまいからのみ「語」や「句構造」は決定されるべきであり、
直接「語の表象」は利用すべきではないのにゃ。(言語学の実態は、もちろんそうなってはいない。)
物理学においても、たしかに「実体」の属性がすべて観測されうることのほうが特殊であるともいえるが、
しかし「一般的記述」のために観測されない属性を導入すべきではないにゃ。
このていどの表現にとどめておくにゃ。
>723 :代行(´∀`) ◆lSiROBOsc. :03/03/01 02:50
>必 死 棚 w
これ、本当に顔文字さんが書いたんですよね?
ロボが付け足したわけなかろうし、こういう方だったんですか...
顔文字さんは生成文法では有名な人かも知れないですけど、何だかなぁ
必死も何も、皆さん、それぞれ知りたいことがあって、その目的に
合致した方法論や概念を使っている訳でしょ?「自分が知りたい問題」
のみに集中するあまり、それ「だけ」が、唯一の中心的な問いだと
思ってませんか?
>その無知に気づいているか気づいていないかの差は大きそうにゃ。
♪何とでも仰ってください。それぞれの領域にはそれぞれが越えるべき
ハードルがあるんですから。同じセリフはポストモダニストから耳に
たこができるほど聞かされましたけど、そういってる人たちがオモシロイ
研究やってる訳でもないし。「それ以外のやり方では見つからなかっただろう
新しいモノ」を見せられない限り、どれほどメタレベルでわめかれようが、
意味ないんだ、って身をもって学んでますから。
ロボ>
何かカンチガイしているようだけれど。そもそも扱っている問いが
違うんだから、「パラダイム」の違いじゃないんだけれど。それに
発生論的な問いはネオでもなんでもラマルキズムじゃないだろうし。
「両者の分業が成立する状況で、片方が全てだと主張する人がいる」という話。
実際、構造主義生物学の名を冠して発生学者が学会やっても、その内容は
別に普通の学会と大して変わらない堅実な内容になっているそうだし。
そういう「具体的な中身」にふれず、メタ理論レベルで抽象的な言葉を
振り回していると、考え方の差が極端に解釈されることは良くある話。
困ったことに、日本語だけで本を書いている何とか主義者には、
差を実際以上に大きく見せることに長けた人たちが多いそうだし。
>>728 >ある現象を理解するには全てのレベルでの「説明」が必要なのは
>みんなわかっているはずなのに、何で喧嘩になるのかさっぱりわからないんですが。
とある人々は「両方必要ですよ」と言ってる。
とある人は「両方大切かもしれないが、片方はくそも同然」と言う。
喧嘩にならない訳がない。
>>689 >この四つの問題は相補的であるが、それぞれ独立の研究領域を成立させ得る。
>もちろん、それぞれがそれ以外の部分に言及しないわけではないし、
>どこも他の領域を無視して話をするのはもうムリだろうという状況なわけだが。
という話が進化心理スレやその派生スレでおこなわれていたはずなのに、
どこでどう誤解されたんだろうね。。。
ひらがな や カタカナ や eigo
と
漢字や(´∀`)( ゚д゚)などのAA,顔文字は
脳の認識処理する部位が違う。
失語症でも、片方の能力を失い、片方は残る、というケースが多い。
日本語は英語と違い、処理方式がやや複雑。
AAや漫画などは、その両方の認識を、同時に用いる代表例。
…なんとなくゴミレス。
>>736 スレ違い。認知心理学スレか脳科学スレへどーぞ。
スレ違いの理由を簡潔に述べよ。
僕達が議論に使用している、日本語の特質について
誰か簡単に定義してくらはい。
それじゃですね、顔文字さんのご希望にお答えして、去年の2月にNatureにのった
Evolutionary Developmental Biologyに関するレビュー論文を見てみましょうか。
http://www.google.co.jp/search?q=cache:Z7dItwOcENcC:www.nature.com/cgi-taf/ DynaPage.taf%3Ffile%3D/nature/journal/v415/n6873/full/415757a_r.html+
evolutionary+developmental+biology+gould&hl=ja&ie=UTF-8
途中で改行しちゃったから、エディタ上で1行にくっつけてくださいな。
で、
>>662に書かれているベーエも引用されているし、Gouldも引用されてるし、
exaptionも引用されているし、「分子構造や発生過程」の重要さについても
述べられれているし、ま、ほぼ顔文字さんの言いたいことを、正当な生物学者が
レビューしていると考えて良いでしょう。顔文字さんの知識が怪しげな本から
仕込まれたモノでない限り。
で、この論文がどうまとめているかというと、とりあえず「選択はカスみたいなもの」とか
「自然選択は起こったことのほんのわずかしか説明していない(
>>685」とか書いてないですね。
Evolution is often portrayed as an interplay between mutation and selection,
with the former providing a supply of variation, and the latter acting as
a fitness-based sieve. But this picture has a major flaw, because mutation
provides new genes, whereas selection acts not on genes but on phenotypes.
The missing link, then, is how we get from altered gene to new phenotype.
ふぅーん。選択は別に否定されてないですよねぇ。非難されているのは「遺伝子が
ある形質とダイレクトに繋がっている」という点。けど、それには誰も文句つけて
ないですが。
という訳で、どうも日本の構造主義生物学者が誤解しているのか、顔文字さんが
どこかで非難の矛先をぶれさせたのか分りませんが、「選択」の重要さを否定は
されてないですね。非難されているのは「遺伝子→表現型」のプロセスについて。
で、177さんなども何回も言ってきたはずが(
>>665)(略
しかし、不毛な議論ですなぁ...
禿同
>>738 このスレは言語獲得・言語習得に関する話。
>>736は言語処理・視覚情報処理に関する話。
閑話休題
掲示板上でのコミュニケーションを可能とする
プログラミング言語について
チョムスキーとからめて
語っていただけると
読んでいて面白いのだが
ブラインドタッチを習得したばかりで
つい嬉しくて空気を読まずに書き込みをしてしまった
失礼
手話の、獲得と習得についてはここで話しても良いのか。
チンパンジーの研究とからめて。
言語板には手話スレが一つしかないようなので。
DNAについてはよく知らん。
まあ、やっぱりこのスレを焦土と化さないていどにこたえておくかにゃ。
>>675 >もはや古典的議論にゃが、どう答えるのかにゃ?
この議論には、シンタクスの知識が獲得されるとすれば、音声のみを媒体として、
その同型のシンタクスを提示されることによってしか得られないという強い憶測が働いているように思えるにゃ。
チョム理論の「学習観」は、ほとんどデータ転送のように単純なものにゃ。
はっきりいってある発話から統語構造のみを摘出して、
それを知識に組み入れるという、いっけんシンプルであるが、
じじつそういうプロセスじたいが存在するか、メカニズムも実際単純なのかどうかさえナゾなのにゃ。
ここでそんなアルゴリズムがじつはなんと実装不可能なことが証明されれば、
「シンタクスは学習不可能」であることは、じつはより強力なテーゼとなるのだが、
チョム信者は例文の作文(あとは受け売りのチョムスキーの主張の焼き直し)いがいにはほとんど興味を示さないのが実情にゃ。
念のためいっておくが、わたしは「空範疇は存在しない」などと主張したことはないにゃ。
運動量やエントロピー(あるいは質量や速度や温度を適当にかけあわせた量)が
「実在するか」という議論は無意味だという趣旨の発言はしてあるにゃ。
ただしこれらは、観測される実体の数理的連関に還元されるので、
ただちにこれらが「心的表象」というわけではないにゃ。
(表象されたとしても、表象上の幾何学図形が本質的な数学的操作に関わらないのと同じく、無関係にゃ。)
問題は「説明力」のために、無批判に「心的表象」を理論に組み入れるかどうか、というところだにゃ。
わたしの提案は、言語学を自然科学としたいのだったら、
いくら不可能にみえようとも、言語学的説明を数理的連関として再構成することにゃ。
素人には理解できない世界だ尿
新スレ立つまえのレスだし、ポインタあるからこっちに貼るよ
>>728 ピンポーン♪
>>732 >必 死 棚 w
は691の決めつけ方を笑ったのにゃ。
>>733 >「両者の分業が成立する状況で、片方が全てだと主張する人がいる」
それがネオ・ダーウィニスト、ハイパー・セレクショニストに他ならないことに
気づけ〜、気づけ〜、気づくのにゃ〜(a la kyom2
>>734 >「片方はくそも同然」
「くそも同然」と俺がどこで言ったか指摘してみるにゃ。「自分の問題にとっては」
「何の説明にもならない」と繰り返しているのにゃ。肝心の文脈を省いて都合のいい
部分だけ抜き出すのはずるいのにゃ。
ちなみに俺は634で「ゲーム理論が生成と関わるとしたら、それはせいぜいパラメタ
セッティングの段階だろうにゃ。」と発言しているにゃ。
>>740 >ベーエも引用されているし
目が悪くて引用箇所が分からんにゃ。教えてプリーズ、なのにゃ