2 :
日本@名無史さん:2011/07/06(水) 16:33:52.79
朝鮮征伐
3 :
日本@名無史さん:2011/07/06(水) 17:44:53.95
朝鮮には、「征伐」と言う言葉が似合う!
4 :
日本@名無史さん:2011/07/07(木) 07:55:35.23
蔚山城
5 :
日本@名無史さん:2011/07/07(木) 17:37:50.52
日本軍が連戦連敗www
6 :
日本@名無史さん:2011/07/07(木) 18:42:54.11
南蛮人の記録によると日本兵が上陸すると朝鮮兵は足に羽根が生えたように逃げていったというのがあるな。
>>6 面白い表現だよな。その記述をみると毎回想像してしまう。
8 :
日本@名無史さん:2011/07/07(木) 19:32:13.29
そんなに強いのに何故朝鮮を征服できなかった?
戦闘力のみで戦争するわけじゃないからな
11 :
日本@名無史さん:2011/07/08(金) 03:22:20.24
元々何も無い国を占領しても得るものが無かった。
物資は全て国内から持ち出し。
最悪なのは現地人が貧相な土人で使えなかった。
12 :
日本@名無史さん:2011/07/09(土) 18:02:43.91
日明戦争と呼ぶべき
朝鮮は戦場を提供したにすぎない
ウィキの立花宗茂の記事に
安東常久(立花家臣)が李如松と一騎打ちして落馬させた、とあるけどマジ?
14 :
日本@名無史さん:2011/07/10(日) 21:18:30.41
秀吉の唐入りも
日清戦争も
日露戦争も
朝鮮半島や朝鮮半島近辺を舞台にしているけど、相手は朝鮮ではない。
15 :
日本@名無史さん:2011/07/17(日) 13:31:47.33
?
16 :
日本@名無史さん:2011/07/18(月) 16:59:23.81
>>14 当然なことなのに、たまにびっくりする人がいる。
17 :
日本@名無史さん:2011/07/18(月) 23:15:34.98
18 :
日本@名無史さん:2011/07/19(火) 06:23:46.54
今のところ朝鮮出兵の動機はなんだろ?与える土地がなくなったから?
やっぱり朝鮮が好きだったからかなぁ...
20 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 13:40:20.61
征伐
>>17 「明史・李如松伝」に「一金甲倭搏如松急」とあり、
この「一金甲倭」こそが安東常久ということになってるらしい
碧蹄館の戦いのとき、立花隊は家臣一同が金箔押の桃形兜で統一していた
なので李如松を追い詰めた「一金甲倭」は立花隊の誰かであるのは確かだと思う
22 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 07:07:11.21
ポルトガル、スペインの影響を受けてシナを植民地にすることだったんじゃないの?
影響、ったって、この時代広大な植民地なんて南アメリカぐらいしか無いと思うが。
欧州列強のアジアでの影響力は、せいぜい都市単位で支配出来てるところもある、レベル。
24 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 19:37:28.96
?
「列強」って書いちゃったから分かり難かった?
イギリス・スペイン・ポルトガル、みんなオスマントルコに虐められて、紅海経由で香辛料が
手に入らないからアフリカ周り航路を開拓した国家に過ぎない。
アフリカやアジアに広大な植民地を持つようになるのは産業革命の後。
アジアの都市に進出してるのは全部現地の王国の許可をもらってる。
26 :
日本@名無史さん:2011/07/26(火) 18:37:11.66
朝鮮征伐
韓日友好のためには、日本は謝罪・賠償すべき。
28 :
日本@名無史さん:2011/07/26(火) 21:38:33.49
明まで先導する約束を反故にしたあげく、あまつさえ征する相手の明国を自領に呼び込むなど言語道断。
お陰で本来戦場ではなかった朝鮮の地で戦う羽目になり、
そのチグハグな決定故に、朝鮮の民に多大な迷惑をかけることになった朝鮮政府はなんとも思わないのだろうか?
もしかして、倭、明を戦わせ漁夫の利を得るつもりだったのか...!?
冗談なんだろうが、それは宗氏の責任
ちなみに、宗氏は朝鮮と朝貢貿易をしてたりする
30 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 00:37:11.93
日明戦争
15+4 :名無しさん@12周年 [] :2011/07/27(水) 19:46:20.25 ID:2G4QBv5Z0 [PC]
ちなみに法酒(韓国の伝統酒)には500年ものとかが余裕で残ってる。
最古は1290年ものだそうだ。やはり韓国は全世界の全酒文化の宗主。
17+1 :名無しさん@12周年 [↓] :2011/07/27(水) 19:46:57.62 ID:cjodIdDH0 [PC]
>>15 秀吉に壊されなくてよかったですね。
【国際】白ワイン1本950万円、ギネス世界記録を更新 200年前の「シャトー・ディケム」
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1311762788/
>>8 弱い弱い朝鮮兵だけなら楽勝だったけど
遼寧を預かる満州、蒙古の血の混じった朝青龍みたいな風態の
強い明兵が何万騎もやってきて、大した損害も無く明全土を征服できると思ってた侍も
自家の消耗が気になり始めて消極的になってしまって戦線が膠着しちゃったから
それでなくても国内は秀次事件で大騒ぎ
世界史的には文禄慶長の方が大事件だけど、当時の連中からしたらこっちの方が大問題
諸大名からしたら朝鮮兵20万か明兵3万より、秀吉の勘気の方が恐ろしい
33 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 03:33:09.35
無謀としかいいようがない
晩年の秀吉の乱心の数々・狂いっぷりは異常
>>33 おたふくソースよりカープソースがいい、って奴の気持ちがわからないんだが、どうすればいいだろう
>>905
遼東の明兵が朝青龍と瓜二つだったかどうかはさておき、
実見した日本人が「けしからず大きく候」と感想を残しているから
少なくとも日本人よりはデカかったんだろうな。
39 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 14:37:53.18
飽きないね
もうスレ立てなくていいだろ
この日本対朝鮮戦争の豊臣秀吉側の大義名分である朝鮮が日本人を拉致しているから戦争をするって話はなんていう文献に載っているの?
そんな話聞いたこともないんだが
あと日本対朝鮮戦争じゃないからな
実質日本と明の激突だし
42 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 02:43:02.70
朝鮮は征明の先導を約束してくれたマブダチ。
>>40 元寇の後に倭寇が発生した理由じゃね?それ
44 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 18:02:05.22
>>38 この時代は平均身長140cmくらいでしょ
>>44 平均140cmって当時の女だとしても小さすぎるだろw
この頃の日本の成人男性なら156〜159cmくらいが平均のはず
46 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 19:57:49.01
秀吉の時代というと南蛮人が来ていたが、特に日本人が小さいという記録もないだろう。
南蛮人と大して変わらなかったということだ。のちのオランダ人なら相当体格差があったはずだが、そんな記録もない。
47 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 19:59:32.49
そういえば魏志倭人伝にも倭人が特に体格が劣るなどと書いていないしな。
49 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 12:59:20.07
日明戦争
あんな小説がソースとか勘弁してよ
新聞で連載してたんだぞ
51 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 23:09:10.07
なにもしらないのに、質問するのは恥ずかしいのですが、勇気をだして質問いたします。
慶長の役のときは、半島南部に、各大名を配置し領国支配をやっていたというようなことをきいています。
つまり、明国征伐ではなく半島植民地政策にきりかえたということになるでしょうか。
つまり、積極的に攻め込むのではなく、自領および、日本の征服地を守備するという形となっていたのでしょうか。
とすれば、蔚山城をせめられたなどというには、いってみればインデイアンの大軍に囲まれたというようなもので、
排除したのちはまた領国支配となるようなことなのでしょうか。
よくわからないので質問もあやふやとなってしまいましたが、いかがでしょうか。
>>51 秀吉の作戦支持が「立花文書」慶長二年二月二十一日の朱印状に残ってるんだが
一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
・・・全羅道を残さず悉く成敗し、忠清道や京畿道もなるべく攻略せよ。
一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。
・・・それが済んだら仕置きの城の守りを固め、在番の城主を決めてそれ以外は帰国せよ。
一、自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、
御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事、案之内候之條、於由断者可爲越度事。
・・・大明の大軍が襲来したら余自ら馬廻衆を引き連れて渡海し打ち破り、大明まで進撃しよう。
最後の一条は作戦予定というよりは、むしろ戦地の将兵を鼓舞するための激励と思われる
秀吉自身は渡海するつもりだったようだが、結局最後までその機会はなかった
この指示書を見ればわかるが、教科書にも載っている「慶長の役では日本軍は朝鮮南部から一歩も進めず云々」は誤り
朝鮮水軍を殲滅して上陸、南原・黄石山の両城を落として内陸へ侵攻、全羅道・忠清道を掃討して南岸部へ撤収、
在番衆が仕置の城の普請を行い帰朝衆が帰国、と日本軍の戦略はおおむね計画通りに進んでいた
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936356/129 ↑また、この「立花文書」三月十三日付けの朱印状によれば
その後の秀吉の戦略は仕置きの城を拠点として2、3年に一度大軍を渡海させて侵攻し、
それを繰り返して明・朝鮮を疲弊させるという気の長いものだったようだ
「来年はご人数を指し渡し高麗都まで進攻する」とあるように、慶長4年にも大規模な進行が計画されていた
なお、秀吉は最後まで「征明」を目標として掲げてはいるが、それが本心からのものだったのか、
それと単なるビッグマウスで、実際には明の降伏や半島割譲で妥協するつもりだったのか、
それは秀吉本人に聞いてみないとわからない
53 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 14:10:15.16
満州族にできて、日本に出来ないと考える方がおかしい。
満州族単独で事を成し遂げたわけではないよ
まあ運も実力の内と言われればそれまでだけど
55 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 15:35:56.22
>>52 まだ、そんな寝ぼけたこといってる奴がいるんだ(ヤレヤレ)
慶長の役が計画どおり進んだって(笑)
だったら赤国(全羅道)は残らず悉く成敗したんだな(笑)
だったらそのソースを出せや。
また赤国(全羅道)や青国(忠清道・京畿道)の占領地の内、順天に
しか仕置きの城を作らず、他の占領地は放棄した理由はなんなんだ(笑)
http://www.castle7.org/wajou.htm また、お前の下記の説明は慶長二年の朱印状のように受け取れるが、
>↑また、この「立花文書」三月十三日付けの朱印状によれば
実際は1年以上たった慶長三年の朱印状だろ(笑)
だったらすでに南岸に撤退した後だし、戦地の諸将を鼓舞するための
激励と思われる。
>>55 いきなり言い出すんだ?どう見ても計画通り進んでるじゃん
「順天にしか城を築かす」ってあんた、慶長八城のことも知らないのか
「他の占領地は放棄」って、それが当初からの計画だろw
仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割 符、丈夫ニ可申付事。
↑仕置の城の普請をして城主を決め、残りは帰国しろ、じゃん
どうやらこの「普請」について新たに占領地に城を築けという意味だと解釈したようだが、
これは休戦期間中に築かれた仕置の城の守りを固めろ(修築・増築に重きが置かれる)って意味だよ
北島万次氏もそのように解釈してるから「秀吉の朝鮮侵略」を読んでごらん
慶長期には新城も八城ほど築かれてるが、これも半島南岸部城塞化の延長に過ぎない
57 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 16:48:16.83
>>56 じゃあ、何のために
>一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
>・・・全羅道を残さず悉く成敗し、忠清道や京畿道もなるべく攻略せよ。
って命令したんだ(笑)
>一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
>符、丈夫ニ可申付事。
>・・・それが済んだら仕置きの城の守りを固め、在番の城主を決めてそれ以外は帰国せよ。
赤国や青国に仕置きの城を作る為だろ。
少なくても慶長二年二月二月二十一日の朱印状からはそうとしか読めないが(笑)
>>57 作戦目標をおおむね達成した後沿岸部に撤退したのは、
言うまでも無く文禄の役の反省だろw
また文禄の時みたいにがむしゃらに奥へ奥へと突っ込んで補給線が延びきり
餓死者凍死者多数撤退を繰り返すと思ってたのか?
バッカじゃねえのw
大体、この書状にある「仕置の城」が休戦期間中の小早川隆景宛書状にある「仕置の城」
と同一のものであることは前後の流れを見れば明らかだと思うがw
(御仕置きは、領地を相抱えらるべき為にはこれ無く候の間、海辺に付いて然るべき所を見計らい、城々普請丈夫の申し付くべく候)
59 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 17:06:34.44
仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割 符、丈夫ニ可申付事。
↑問題のこの文章について、北島万次氏は
「慶尚道南岸にある倭城の守りを固め、朝鮮の穀倉地帯である全羅道攻略に当面の狙いを絞り、
ついで忠清道、さらに京畿道へと進撃せよというものであった」と訳し、
韓国の国防史学会長・李烱錫氏は
「赤国を漏れなく攻略し、青国はなるべく攻略すべし。作戦終了次第各築城区分に従い、城主を決めて
修築普請に粗漏なきように致し、引き上げ隊の帰還を容易にすべし」
と訳している
お前はあくまでも「内陸に支配用の新城を築くのが当初の予定だった!」(笑)と主張し、
北島万次氏や李烱錫氏の解釈と真っ向から対立するつもりなんだなw
60 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 17:39:27.08
やはり、教科書は間違いだったのですね。
秀吉がもう少し長生きしていれば、というところでしょうか。
61 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 17:40:47.81
>>58、59
お前が引用した北島万次の主張と李烱錫の主張がすでに違うんだが(笑)
北島万次は「慶尚道南岸の倭城の守りを固めて後、全羅道他を占領しろ」
なんだろ。
李烱錫は「全羅道他を攻略終了後に仕置きの城を築け」だろ、だったら
順番が違うじゃん。
だいたい、慶尚道南岸の倭城の守りを固めるって、すでに文禄の役以降
4万人の兵力で守りを固めていたんだが(笑)
講和交渉決裂後、新たに14万もの大軍で渡海して既に守りを固めている
南岸の倭城の守りを改めて固めるって(笑)
北島万次が本当にそのような解釈をしたんだったら相当無理があるね(笑)
>>61 北島万次の記述のどこに「全羅道他を占領しろ」なんて書いてあるんだ?
「進撃せよ」とは書いてるが
あと書いてある順番の違いなんて別に問題ではないと思うが
またお得意の話題逸らしか?w
休戦期間中の駐屯は橋頭堡を確保しておくことが目的なんだから
慶長の役でより大規模な軍事作戦を展開するにあたって
より堅固でより多くの兵力を収容できる城塞の構築が必要なのは当然だろ
64 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 19:49:46.16
日明戦争
65 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 23:07:13.61
>>63 >堅固でより多くの兵力を収容できる城塞の構築が必要なのは当然だろ
それが慶長八城なのか?
14万もの大軍を渡海させて準備を進めるってことは慶長4年の侵攻は
当然30万位の大軍を渡海させるつもりだったんだろ。
すでに22箇所も倭城があるのに、たったの8箇所増設しただけだろ。
それでどれだけ多くの兵力を収容できるんだよ。
http://www.castle7.org/wajou1.htm
>>65 まあまずこれ読め↓
現存する「狭義の倭城」、すなわち「仕置きの城」の特徴は、単なる臨時的築城ではなくて、
半永久的使用に供するための城塞であるということである。秀吉は朝鮮の役が暗転する中で、
朝鮮南四道の割譲に方針を転換したから、橋頭堡的な性格を持つ平山城を拠点として築くことにした。
また、山城部分と平地の居館、港部分を長大な城壁(登り石垣)で連結し、
その城壁内に何万人にものぼるであろう将兵を収容できるように、段々畑のように加工し、
たくさんの曲輪(防御された平坦地)を造った。・・・笠谷和比古・黒田慶一共著「秀吉の野望と誤算」より
例えば蔚山城は本丸・二の丸・三の丸・小曲輪を梯郭式に設け、総構塀が2.6kmに及ぶ壮大な城郭だった
他の七城も同等の規模を誇り、すべて合わせれば相当の数の兵力を収容できると考えられるw
ちなみに慶長の役で日本軍は東に蔚山城、内陸に梁山城、西に順天城を築いて戦線をそれまでの三倍近く拡大してる
あといくらなんでも慶長の時点で三十万の軍勢を一度に渡海させるのは無理だと思うぞw
帰朝と在番の交代制にしないと色々ヤバい
68 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 09:37:44.74
>>66 あれー、どんどん話がすり替わってないか?(笑)
秀吉は仕置きの城の築城について命令したのに
いつの間にか要塞になっているじゃねえか。
http://www.castle7.org/wajou1.htm (↑これなんか読むと文禄の倭城と慶長の倭城の構造・規模の違いは
無いように思うんだが?)
ちなみに『仕置き』の意味について三省堂大辞林では、
(3)戦国時代、封建領主が領民を支配すること
となっているので仕置きの城とはすなわち朝鮮領内を支配
する為の城のことだ。
すでにそのほとんどについては、文禄の役で占領した半島南岸に
新たに築城する倭城を仕置きの城とするのは無理がある。
http://www.castle7.org/wajou.htm (↑これの倭城分布図を見ればわかるけど、14万もの大軍を渡海させて、
このような狭い範囲に倭城を新設してなにがしたかったんだ?)
お前が引用した韓国の国防史学会長・李烱錫氏も主張しているように
>「赤国を漏れなく攻略し、青国はなるべく攻略すべし。作戦終了次第
>各築城区分に従い、城主を決めて修築普請に粗漏なきように致し、
>引き上げ隊の帰還を容易にすべし」
すなわち、赤国、青国攻略後、その国内に仕置きの城の築城を命じたと
考える方が自然なんだが(笑)
69 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 09:44:36.89
70 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 10:09:11.31
あともう一つ言い忘れていたのが北島万次氏の主張である
>「慶尚道南岸にある倭城の守りを固め、朝鮮の穀倉地帯である全羅道攻略に当面の狙いを絞り、
>ついで忠清道、さらに京畿道へと進撃せよというものであった」と訳し、
これなら当然仕置きの城の場所が南岸に限られるのもうなづけるが。
ただ、これだと実際の歴史の経過と相違してくる。
実際には、倭城の守りを固める余裕もなく、また、全羅道攻略に当面の狙いを絞るでもなく、
慶長二年七月から左軍と右軍に分かれ、 左軍が赤国の攻略を 右軍が青国の攻略を 同時進行でおこなっている。
だから北島氏が上記の様に主張したのならば、自説を補強する為に実際の歴史を
曲解したことになる。
>>70 別に不思議はない。明軍迎撃のための城だし、実際にほぼ想定通りに城に引きつけて援軍で追い落としている。
72 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 11:04:15.59
>>71 慶長八城って仕置きの城だろ。
占領統治用の城なんだろ。
いつから明軍迎撃の為の城になったんだよ(笑)
明軍が来襲した場合については秀吉自身が
>・・・大明の大軍が襲来したら余自ら馬廻衆を引き連れて渡海し打ち破り、
>大明まで進撃しよう。
と主張しているんだから(笑)
>>72 今議題になっている慶長の『条々』に書いてある通りじゃん。何を見てレスしているの?自分の脳内定義だけじゃ駄目よ。
74 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 11:15:35.42
本来なら仕置きの城は赤国や青国の要所に築城するつもりだったんだろ。
当然、赤国・青国の要所なら広い範囲に点在している為、明軍が来襲した
場合対抗措置がない。
その時は秀吉自ら大軍で渡海して明軍を撃退するつもりだったんだろう。
ただ、陸においては明軍の脅威があり、海においては朝鮮軍の脅威があり、
元いた南岸に仕置きの城を増設するしかなくなったことが幸いし、
明軍の襲来を自力で撃退できたんだろ。
その結果からまるで最初から想定していたよう主張するのはさすがに無理がある。
(笑)の人は相手にするだけムダ
>>74 いや、指定があったのは小西行長だけで、全羅道へ築城せよとだけ。
77 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 12:48:47.68
朝鮮役の城郭戦略なら白峰旬の「豊臣の城・徳川の城 戦争・政治と城郭」を読め
7000円だが
>>68 いや、摩り替わってないだろ。仕置の城は城である限り要塞なんだからw
「仕置の城」と書いてあったら、その城の用途は「占領統治用」のみに限定されるのかw
もしかして「領地支配用の城」と「要塞」がそれぞれ完全に独立していると思ってないか?
だとしたら城郭に関する知識皆無だなw
大体、秀吉は休戦期間中に「御仕置きは、領地を相抱えらるべき為にはこれ無く候」という理由で
仕置の城を「海辺」に築けと命令してるんだし
慶長でも同じように在番・帰朝の交代制による長期駐留を予定してたんだから
内陸深くに仕置の城を築くわけないって普通に考えりゃわかるだろ。
諸大名は「領地を相抱え」ないといけないんだからw
>>74 >陸においては明軍の脅威があり、海においては朝鮮軍の脅威があり、
>元いた南岸に仕置きの城を増設するしかなくなった
何言ってるんだ?陸だろうが海だろうが当時の日本軍は敵無しの状態じゃんw
明軍はこのとき守りを固めていた南原城を落とされビビって全州からも逃亡、
提督の麻貴などは王都・漢城を放棄し、国境である鴨緑江まで防衛線を後退させようと献策する始末
気を取り直して少ない兵力をかき集め、稷山で決戦を挑むも日本軍の圧倒的兵力を前に完敗。
朝鮮水軍も緒戦で殲滅されてる
で、こんな状態で日本軍が南岸部へ撤退を始めたものだから、
朝鮮側は明・朝鮮軍を誘き出すための日本軍の罠ではないかと疑うほどだった
(今無故忽爲退遁。 萬一賊佯若退去之狀, 而天兵墜於其術,・・・宣祖実録)
宰相の柳成竜も日本軍の反転を自主的なものであるとしている
こんな状態での撤退なんだから、当初からの予定通りだと考えた方がはるかに自然だろw
(笑)の奴は理解する気ないから相手にするだけ無駄。ただの構ってほしい甘えん坊だろ
だいたい城を築いたら帰朝するように言ってんのに内陸部に城つくれなんて
読み解けねえっつーのw
大軍を帰朝させてどうやって内陸部の城を守るんだよw馬鹿すぎw
>>81 「最低限の守備兵力以外は帰ってよし」
って意味かと思った
講談とかの三国志演義の「空城の計」でもいいけど
84 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 00:31:18.17
>>81 >大軍を帰朝させてどうやって内陸部の城を守るんだよw馬鹿すぎw
俺もそう思うよ。
秀吉って馬鹿なんだなって。多分、在朝の諸将たちも同じことを
おもってたんじゃないかな。
だから、8月下旬に左軍・右軍の諸将が集まって全集で会議を開催したんだろ。
キチガイが湧いてるなあ
86 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 08:27:37.68
しかしもし逆に、秀吉が死のまぎわ、秀頼をもりたてて、朝鮮を支配下におくように遺言したらどうなっていたでしょうね。
全員無視
88 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 10:56:06.45
そんな難しいこと、考えられないよ。
89 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 14:14:17.90
この戦争は朝鮮を舞台とした日明戦争なんだが中国史料の研究が遅れているように思う
研究者の新しい世代は日明の視点でこの戦争を捉え直してみて欲しい
そういう本を読みたい
90 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 14:18:36.45
中国の学者が研究したいい本があったら翻訳もして欲しい
93 :
日本@名無史さん:2011/08/04(木) 21:56:45.16
>馬鹿は秀吉じゃなくてお前だよw
ふーん、どうやら馬鹿は秀吉だけじゃなかったんだ(笑)
>>91,
>>92←お前らも秀吉同様馬鹿だったんだな(笑)
だったら聞くが、慶長の役の開戦前(慶長二年七月以前)に秀吉が諸将に
対して赤国、青国の攻略が済んだ後、占領地を放棄して南岸に撤退するよう
命令した朱印状を提示してみろ。
それを提示できなければ、秀吉は開戦当初は赤国、青国に仕置きの城を
築城するつもりだったとしか考えられない。
ちなみに
>>77が進めてくれた白峰旬の「豊臣の城・徳川の城 戦争・政治と
城郭」の111ページには9月中旬の井邑会議において左軍の諸将が決議した
決定事項の2番目として「御仕置の城々については諸将が相談して決定する」
ことが含まれており、秀吉はこれらの決議案を追認したと書かれている。
ということは、8月下旬の全州会議とこの井邑会議での決議案に基づいて
秀吉の当初の命令が修正されていったんだよ。
>>93 いや、それに答えるには馬鹿な君が、「慶長の侵攻地域を占領して死守しろ」と命令した秀吉の朱印状を出してからだな。
前提が狂っているので質問が分かりかねる。
97 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 12:55:09.94
>>95 「立花文書」慶長二年二月二十一日付けの秀吉からの朱印状には、
>・・・全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。
>・・・それが済んだら仕置きの城々、土地柄を多分に各見、在番の城主を
>決め、普請については帰国する大名に申し付ける。
赤国や青国への侵攻がすんだ後、「仕置きの城々」を築城しろとの命令からも
秀吉は、赤国や青国の新しい征服地に「仕置きの城々」を築くことを想定していたんだろう。
>>97 いや、だからさ、秀吉は休戦期間中に「御仕置きは、領地を相抱えらるべき為にはこれ無く候」という理由で
仕置の城を「海辺」に築けと命令してるじゃん
慶長でも同じように在番・帰朝の交代制による長期駐留を予定してたんだから
内陸深くに城を築いたら「領地を相抱え」られないじゃん。どうすんの?
>>97 それはお前の脳内翻訳なのか?原文や周辺文書の内容と一致せんが?
あと
>>84でも出てたけど占領地を半島南部全体にまで拡大したら慢性的な兵力不足に陥るぞ
渡海軍14万8千人を全軍投入したとしてもたぶん足りない
なのに帰朝衆として兵力の過半数を帰国させるのが当初からの予定だったんだよな。
どうやって内陸の城を維持するんだよ。おかしいとは思わないのか?w
>>97 >秀吉は、赤国や青国の新しい征服地に「仕置きの城々」を築くことを想定していたんだろう。
書いていないことが読める人らしいw
フツーに考えりゃ、和平交渉のために妥協していた占領政策を長期持久に転換することだって理解できるのにね。
和平交渉のために段階的に城を放棄して占領地を縮小したりしていたことを知らんのだろうか?
102 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 15:14:04.50
猿が馬鹿なのは間違いないな
103 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 15:16:13.37
>>98 あくまでも明国への侵略するための仮道に過ぎなかった文禄の役での
朝鮮と和平交渉で提案した南部4道を制圧するためにはじめた慶長の役
での朝鮮では「仕置きの城」に対する考え方が同じはずはない。
それでもあくまで「海辺」にこだわるなら逆に聞くけど
「海辺」といったって南部4道を征服する為なら、赤国の南海岸(順天以外)や、
赤国・青国の西海岸、それに白国の東海岸だってある。
白国の南海岸にだけこだわる理由がないんだが(笑)
104 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 15:22:06.96
>>100 >どうやって内陸の城を維持するんだよ。おかしいとは思わないのか?w
聞く相手を間違えてはいないか?それについてはあの世の秀吉に聞け!
俺は秀吉の命令を素直に読んだだけだ。
ただ、在地諸将もそのことには不満を抱いていたんじゃないか?
だから8月下旬の全州会議、9月中旬の井邑会議で秀吉からの命令を
いかに現実に即した形で実施できるかについて協議したんだろう。
どこに城を築くかは大名たちが決めろって指令書に書いてあるじゃん。
秀吉の命令通りだったからその後に追加や修正の命令も来てない。
106 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 15:28:14.98
>>105 それが赤国・青国の征服地を放棄して南岸に撤退しろって意味なのかよ(笑)
>>106 普通に考えれば、侵攻後は交代勤務で持久態勢を取るのだから、
現状の補給能力(現地調達+本国輸送)で5〜7万の兵力を維持して
籠城や援護の作戦が可能な城々を築くのは当たり前だし、
それを実施する諸将が場所と城主を考慮した結果があれであり、
秀吉からも具体的な支持が来ていないのだから問題ないだろ。
実際に明鮮軍の攻撃を跳ね返す実績も複数積んで証明した。
109 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 16:03:30.96
>>107 >普通に考えれば、侵攻後は交代勤務で持久態勢を取るのだから、
普通に考えれば、赤国、青国の征服地に仕置きの城を築城する予定だったのだろう。
>籠城や援護の作戦が可能な城々を築くのは当たり前だし、
>それを実施する諸将が場所と城主を考慮した結果があれであり、
つまり、赤国や青国の西海岸や白国の東海岸及び順天を除く赤国の
南海岸は籠城や援護の作戦が不可能な場所だったってことだろ(笑)
110 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 16:14:47.25
慶長二年(1597年)9月16日陸軍に呼応して赤国の西海岸へ進出しようとした
日本水軍は李舜臣率いる朝鮮水軍に鳴梁海戦で敗北している。
その為、赤国西海岸はもちろん、赤国南海岸についても、朝鮮水軍を恐れて、順天より西に仕置きの城を築城しなかったのだろう。
>>109 可能な範囲で作戦を行うと言う普通のことが理解できないんじゃ妄想に浸るのも仕方がない。
馬鹿につける薬はないからな。
112 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 16:40:51.47
>>107 >秀吉からも具体的な支持が来ていないのだから問題ないだろ。
白峰旬の「豊臣の城・徳川の城 戦争・政治と城郭」の111ページには
9月中旬の井邑会議において左軍の諸将が審議した決定事項の2番目として
「御仕置の城々については諸将が相談して決定する」ことが含まれており、
秀吉はこれらの決議案を追認したと書かれている。
つまり現地諸将の要求を秀吉がのんだ結果が白国南岸における「仕置きの城」
増設だった。
>>110 日本水軍は鳴梁海峡を突破して侵攻を続けた。
李舜臣の水軍は明水軍の援軍が来るまで、鳴梁以東に進出できなかった。
明水軍と朝鮮水軍が古今島へ進出した後も日本の水軍は順天以西で活動している。
>>112 一、右動相済上を以、仕置之城々所柄之儀、各見及、多分付て城主を定、則普請等之儀、為帰朝之衆令割符、丈夫可申付事
なんだから「各見及、多分付て」のとおり、侵攻以前の慶長2年2月21日の時点で秀吉は築城個所を現地軍の判断に委ねている。
>>110 >日本水軍は李舜臣率いる朝鮮水軍に鳴梁海戦で敗北している。
>その為、赤国西海岸はもちろん、赤国南海岸についても、朝鮮水軍を恐れて、順天より西に仕置きの城を築城しなかったのだろう。
↑バッカじゃねえのww
鳴梁海戦って日本水軍の先鋒に打撃を与えただけで、本隊が迫ると朝鮮水軍は遁走してるじゃんw
しかも日本水軍はこの後右水営や珍島など朝鮮水軍の根拠地を制圧してるし、
陸上でも日本軍左軍が進出して結局は全羅道全域が掃討されてるわけだがw
116 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 16:51:27.93
>>111 >可能な範囲で作戦を行うと言う普通のことが理解できないんじゃ妄想に浸るのも仕方がない。
14万8千人もの人数で渡海しておいて、白国南岸に倭城を増設するのが目的だっていうのかよ(笑)
よっぽど明軍や朝鮮義兵を恐れていたんだな(笑)
>>116 だから半分で築城普請をやらせて帰国、半分で守備して持久するって指令に書いてあるじゃん。読めないの?
馬鹿だから読めませーん
119 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 17:10:06.39
>>114 >侵攻以前の慶長2年2月21日の時点で秀吉は築城個所を現地軍の判断に委ねている。
現地軍の判断にゆだねていたってw
仮にも赤国での皆殺しや青国・白国への侵攻を命令していながらも、秀吉は現地諸将がどこに仕置きの城を作っても構わなかったていうのか。
もしそうなら秀吉は慶長二年7月に14万8千人もの兵を渡海させてなにがしたかったんだ?
>>103 >朝鮮と和平交渉で提案した南部4道を制圧するためにはじめた慶長の役
>での朝鮮では「仕置きの城」に対する考え方が同じはずはない。
やっぱり前提からして間違ってるなw
慶長の役の目的が南部四道の占領だったという資料はないよ
むしろ実際の戦況の推移や他の秀吉の書状を見る限り目的は別にあったように思える
>「海辺」といったって南部4道を征服する為なら、赤国の南海岸(順天以外)や、
>赤国・青国の西海岸、それに白国の東海岸だってある。
>白国の南海岸にだけこだわる理由がないんだが(笑)
お前は馬鹿か?秀吉が「海辺に築け」と指示したのは諸大名が領国を相抱え、
さらには帰朝衆と在番衆の交代を容易にするためだろうが
だったら何よりもまず本土から近いことが大前提になるだろ
あとさ、自説の矛盾点を指摘されたら「秀吉に聞け!」(笑)とか頭悪過ぎだろ
@内陸に城を築く予定であったとすれば、緒戦の日本軍が圧倒的優勢であったにも関わらず
内陸での築城を開始せずに南岸部まで撤退したことに対し説明がつかない。
A内陸に支配用の城を築き、支配地を半島南部全体に広げることが当初からの予定だったとしたら
慢性的な兵力不足に陥る危険性がある。しかし秀吉は「帰朝衆」として兵力の過半数を帰国させるよう
指示しており、これでは明らかに内陸部の城を維持できない。
B内陸に城を築いたら諸大名が領地を相抱えることができず、在番衆と帰朝衆の交代も非常に困難となる。
↑誤魔化してないでさっさと上記三点の矛盾点について答えろよw
122 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 18:35:21.00
中野 等著『秀吉の軍令と大陸侵攻』では
316頁で、左軍が赤国における作戦が終了後速やかに仕置きの城々を
作る予定だったが、詳細はわからないが戦況に影響されて計画どおり
仕置きの城々を作れなかった、と書かれている。
317頁ではその理由として内陸に進攻した左軍・右軍とも現地での食糧
調達がうまくいかず、それは朝鮮王朝による清野作戦(焦土作戦)に
よるものではないか、として南岸へ撤退した理由の様に主張している。
>>122 「秀吉の軍令と大陸侵攻」は俺も読んだが
仕置の城々を内陸部に築く予定だったとは書かれていないぞ
124 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 18:53:41.36
>A内陸に支配用の城を築き、支配地を半島南部全体に広げることが当初から
そもそも秀吉が常に合理的な思考に基づいて命令を出すとの先入観から間違っ
ている。
文禄の役またその後の和平交渉でも東アジア情勢を碌に理解してないまま実行
している。
それがなぜ慶長の役については適切な対応を取ると考えるんだ。
築城個所を現地軍の判断に委ねているといっても、その前に赤国での皆殺しや
青国・白国への侵攻作戦を終了させているわけで、なにより秀吉自身、白国の
南岸に城を増設するようには命じていないぞ。
俺も『秀吉の軍令と大陸侵攻』を確認してみたけど、
>>122の解釈の様な「内陸に仕置きの城を築くはずだった」なんてことは書いてないことを確認した。
むしろ、9月16日付の井邑会議の結果を受けた諸将連署状には秀吉の命令では慶尚道に小西を配置する命令だったが、全羅道順天に築城すると回答している。
明軍の反攻前の進言が変更されていないところを見れば、現実的かつ秀吉の許容内の現地判断だったんだろう。
>>124 ほう、文禄の役では守備兵力の不足であれだけ酷い目にあってるのに、
慶長の頃には忘れちゃうほど秀吉の思考能力は低下してたのか。
そんな単純な兵力の足し算引き算もできないようなもうろく爺なら
豊臣政権はとっくに崩壊しとるわw
ていうか、答えにすらなってねえしw
で、@とBの回答はまだか?早くしろよw
馬鹿なだけじゃなく嘘吐きか。最低だな。
age野郎は史料を使わず、妄想でしか反論しない馬鹿なんだから相手しても無駄だよ。
そもそも、内陸部に城を築くのが目的なら、沿岸部の築城への変換過程の秀吉と
現地諸将とのやりとりがないとおかしいことすらわかってないんだから
残されている史料からわかることは「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出
仕置之城拵、其方居城之由、尤ニ思召候」という黒田長政宛の秀吉の書状から
わかる通り、作戦が完了して沿岸部に城を築いて諸将が配置されたことに関して
秀吉が満足しているという事実だけ
それに大軍を帰朝させることを前提に始めた戦争なのに内陸部に城を築くなんて全く
無意味なことする必要すらないこともわかってない
>>128 ああそうか、それもあったな。矛盾点に追加だ
C内陸に城を築く予定であったなら、その指令を無視して沿岸部に築城を始めた諸大名が
秀吉に対して申し開きすらしなかったのは何故か。また、秀吉が叱責を加えなかったのは何故か。
D作戦を終えて沿岸部に城を築いた諸大名に対して秀吉が「「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出
仕置之城拵、其方居城之由、尤ニ思召候」(黒田長政宛書状)と満足した旨を伝えているのは何故か
周辺状況を全然読まないから(読めないから?)「秀吉は馬鹿」とか妄想を垂れ流しちゃうんだろうねえ。
パンツ履かないで舞踏会へ行っちゃう蛮族レベル。
131 :
日本@名無史さん:2011/08/10(水) 00:49:05.88
132 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 19:41:45.03
三路の戦いで大勝して翌年には帰朝の連中が戻ってきての大攻勢の段取りだけど
どこまで侵攻するつもりだったんだろうね。
面で攻める方法取ってるんだから、網目みたいな城を築いていく予定だろうけど
京城までは簡単に占領出来ても、京城周辺までを完全に制圧するのは随分年月がかかりそう。
朝鮮南部に長期間居座って荒らしまわられるのは明がかなり嫌がるだろうから、
それを繰り返す力技で、有利な条件での講和を実現させようとしたのではなかろうか
倭軍はたんに城つくってヒキコモリしてただけだろ
李朝軍や明軍がいないスキをねらって略奪して
李朝軍が来たら城に逃げ帰ってヒキコモリのくりかえし
で、明朝の大軍はノコノコと誘き出されて三路の戦いで惨敗してるんだよなw
総兵力11万の大攻勢がことごとく粉砕されて、以降はヒキコモリを恐れて遠巻きに監視するしかなかったとw
136 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 15:23:16.49
>以降はヒキコモリを恐れて遠巻きに監視するしかなかったとw
お前の脳内ではそうなっているのか?
秀吉の死を聞いてた日本勢は逃げるように撤退したんじゃないのか(笑)
>で、明朝の大軍はノコノコと誘き出されて三路の戦いで惨敗してるんだよなw
攻城戦じゃあ、城兵の方がはるかに有利だもんな。
1586年の島津義弘の豊後侵攻においても大友方の各城が島津方相手に善戦して
秀吉の大軍が車で島津軍を苦しめた。
特に岡城の志賀親次などは島津義弘の軍を再三撃破している。
http://www.oct-net.ne.jp/~faulen13/ktsp/oka.html
したっぱ島津に李舜臣が討ち取られたまで読んだ
11万も動員して、日本軍3万に大敗しといて「攻城戦」は不利だからだなんて子供みたいなこと言うなよ。
そんなに攻城戦が不利なら日本軍が攻撃してきた時、城を放棄せずに日本軍を壊滅させたらどうだったんだw
「攻城戦」は不利と言いつつ、明軍は野戦でも日本軍に勝利したことがないという事実w
139 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 16:16:55.84
岡城の戦い
攻め手:島津義弘率いる島津方3万5千人(含む大友方の寝返組)
守り手:志賀親次率いる大友方1千人
2度撃退している。
実に35倍の兵力差を跳ね返している。
これもひとえに岡城が難攻不落だったからだ。
岡城スゲーって話か。
秀吉軍は何故か攻略した朝鮮の城にわざわざ普請して和城を付け足して、そっちで戦ってたんだが、実用性で和城が勝ってたんだな。
141 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 17:54:04.02
碧蹄館の戦い
明・朝鮮軍 1万8千〜9千人
主将:李如松
日本軍 4万1千人
主将:小早川隆景
先鋒を務める立花宗茂が率いる、立花隊3千人の「立花家の3,000は
他家の1万に匹敵する」(小早川隆景談)と称される活躍と秀吉から
「日本無双の勇将たるべし」と激賞された宗茂の勇敢な采配及び
2倍を超える兵力差により日本軍が大勝する。
142 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 18:08:01.13
稷山の戦い
明軍 4千人(全員騎兵)
主将:解生
日本軍 先鋒隊5千人、救援軍が2万5千〜3万
先鋒隊の主将:黒田長政
救援軍の主将:毛利秀元
当初、先鋒の務める黒田隊5千と明騎兵部隊2千が激突する。
2倍以上の兵力差に助けられ日本軍が優勢に戦いを進める。
そこに、明軍騎兵部隊2千が救援にくる。
こんどは日本軍が劣勢になり、明軍の騎兵突撃に黒田隊の鉄砲隊が
崩される。
そこに、日本軍2万5千〜3万の大軍が救援に駆けつけ、両軍の兵力差
を考慮して明軍が撤退する。
>>141 碧蹄館の戦いに参戦した日本軍のうち本隊二万一千はいわば予備兵力であり、大部分が戦闘に参加してない
実質明軍二万と日本軍先鋒隊二万の激突なので、兵力的にはほぼ互角だったことになる
あと立花勢の精強さに言及するなら、相手の李家軍が大陸でも第一線級の精鋭軍団だったことに触れないと不公平だろw
>>142 明軍が黒田の鉄砲隊を崩したっていうのはどの文献に載ってるんだ?
言っとくが明・朝鮮側のほとんどの記録は稷山の戦いを「明軍の大勝利」として捏造してるから当てにならんぞw
当時の資料である「宣祖実録」を見る限り、明軍は黒田勢内の先遣隊をいじめた後すぐ劣勢に陥ってる感じだが
(俄而倭先放砲, 唐兵一時跑馬廝殺, 交戰良久, 倭人中箭被棍死者, 幾至五六百, 斬級三十餘顆, 解副ハ、楊叅政,
各手斬二級。 而倭賊登山擧白旗,天安 大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。 解ハ兵 等四將, 去夜發 稷山 前來,
唐兵亦多死者云。)
一方の日本側に記録にはもちろん黒田隊が劣勢に陥ったような記録は見つからない。
それどころか「黒田家譜」には、毛利の援軍を待たずに黒田隊独力で明軍を大破したと書いてる
そもそも兵力差云々を言い出すなら碧蹄館の戦いの緒戦では
十時伝右衛門ら五百人が明軍二千騎を押しまくってるし
立花勢三千が査大受らの明軍先鋒八千〜九千人を撃破してるんだがw
146 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 09:01:56.98
それってウィキじゃ日本側の死者が
二十数人ぐらいになってるんだけど
実際にどんな戦闘してたんだ
それともウィキがガセ載せてるだけ?
147 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 09:03:32.48
>本隊二万一千はいわば予備兵力であり、大部分が戦闘に参加してない
最後尾の宇喜多隊八千人も戦闘に参加しているのになにが大部分は戦闘
に参加してないだ(笑)
宇喜多本隊も総攻撃に移った。
明軍将兵の武装は堅固で、体躯は強大である。宇喜多秀家の家来国富
源右衛門は、家中で聞こえた大力者であった。彼は敵兵に三度斬りつけたが、
刃が立たないので組みついた。相手は格段の膂力で、たちまち組み敷かれ押
えつけられ動けない。 源右衛門は脇差を抜き、下腹を二度刺したが切っ先が
通らない。あやうく死ぬところを明輩に助けられ、ようやく討ち取った。
http://ameblo.jp/rekisi-shiro/entry-10192871546.html
よくもまあ、そんなデタラメばかり書いてある物をソースとして示せたものだなw
149 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 09:57:54.45
幸州山城の戦い
攻め手、日本側 全軍2万〜3万
主将:宇喜多秀家・参謀:小早川隆景
守り手、朝鮮側 全軍3千〜4千
精鋭3万で包囲攻撃したが、弓矢や投石で勇敢に応戦した朝鮮兵の活躍に
より日本側の死者が続出、黒田官兵衛から『日本の賢人』と讃えられた知恵者
、小早川隆景においても対抗する手段を持ちえず、ついには全軍撤退した。
>>147 ただの大河ドラマ好きなオサーンのブログだな。w
151 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 11:18:50.73
たとえば9月7日から8日にかけて戦われた稷山の戦いについて
黒田慶一編『韓国の倭城と壬辰倭乱−全州会議の意義を中心に−津野倫明』
の264頁には『稷山の戦いで明軍(4千騎)と交戦し、(日本軍3万5千)
かなりの打撃をこうむる』と書かれている。
また、中野等著『戦争の日本史O 文禄・慶長の役』の204頁では、稷山
の戦いには勝者がいなかった(勝敗がつかなかった)と書かれている。
>>147 宇喜多秀家の部将である戸川達安の部隊が参戦しただけだろw
逆に言えば本隊の中で戦闘に加わった記録があるのはこの戸川隊だけ
人数はまあ、宇喜多勢の渡海兵力一万人のうちの一部将だから、せいぜい一千人前後だろうな
あと日本側でも江戸時代に編纂された文献とかだとデタラメが書いてあることが多いから注意しろよw
例えば上のレスにも出た「黒田家譜」では碧蹄館の戦いに黒田勢も本格参戦したことになってるし、
毛利家の「毛利家記」だと査大受らの明軍先鋒を打ち破ったのは小早川隆景の手柄にされてるからなw
>>146 稷山の戦いは、明軍の戦果は「両朝平壌録」で日本兵29人。「黒田家記」にも戦死29人とある。
敵の史料と日本側の史料が一致してるから間違いないんじゃないかな
154 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 13:07:27.32
明軍はどうやって敵の死者数がわかったんだ。
打ち取った日本兵の首級を撤退するときに持ち帰ったから
でも戦死者が29人だけというのは流石に考えづらいな。
恐らく討ち取った首級の数、つまり日本でいう兜首が29だったのでは
雑兵の戦死者は含まれない数字だと思う
しかし雑兵は首を取らず討ち捨てにする習慣は明にもあったのかな
>>152 戸川達安もかなり怪しいと思う。家譜にそうあるだけで、他の史料での
確認はとれないんでないかな。
事前に先鋒隊に分派でもされてない限り、宇喜多家中の戦闘参加は
時間的にありえないんじゃないかと。せいぜいで明軍壊走後の掃討に
間に合ったかどうかってところじゃないだろうか。
158 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 23:28:42.08
竹島を不法占拠し、対馬を自国領にせんとする不逞鮮人を今再び 征 伐 せねばならぬ。
煽りにもならない煽りは止めなさい
>>153 その一致は「両朝平壌録」を「黒田家記」が書き写しているから。
161 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 12:04:59.21
「宣祖実録」に日本軍の戦死者が「五、六百人」とあるからな
明軍の戦死者については何か記録残ってないの?
ただ、その「五、六百人」は黒田先遣隊に対する戦果だし、
あちら側の記録だから戦果報告はいくらか差し引いて考える必要があると思う
まあ、「宣祖実録」を見る限り、明軍が兵力に劣る先遣隊をボコってる間に
黒田の本隊や毛利の援軍が来てたちまち形勢が逆転してる
>>142が考えるような華々しい戦果は見当たらない
164 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 13:39:31.74
黒田の本隊と毛利の援軍って同時期に来たのか?
先に黒田の本隊が来て戦闘中、明軍も2千の援軍が来て
黒田隊が劣勢になったところで毛利軍3万が援軍に来た
と理解してるんだが。
>>164 だから「宣祖実録を見る限り」と言ってる
その黒田本隊が劣勢になったというのはどこ情報?
日本戦史・朝鮮役とかでも黒田本隊と明軍の戦いを指して「勝敗決せず」としてるが
166 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 23:42:44.31
圧倒的人数でも勝てない倭軍(笑)
>>166 なんか勘違いしてないか?
「勝敗決せず」は黒田勢(先遣隊の兵若干+本隊三千)と明軍四千の戦いだぞ
毛利の援軍が来て兵力差が圧倒的になると明軍はすぐ遁走してる
168 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 13:59:57.72
>>167 九州大学の中野等教授が著書『戦争の日本史O 文禄・慶長の役』の
204頁で、「結果としてこの会戦(稷山の戦い)には決定的な勝者が存在しない
ため、当事者がそれぞれに自軍の勝利を喧伝することになる」と書いているん
だが。
だいたい、当時の大名軍には同数の明の騎兵隊を相手に対抗なんてできない。
それをWiki 雅楽頭酒井家配下の本多民部左衛門の「備」から考察すると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99 全軍354人の内、攻撃を担当する兵の総数は143人(40.4%)残りはサポート要員
その内訳は騎兵22名、鉄砲足軽72名、長柄槍足軽30名、弓足軽19名
それらがたいして連携も取らずに敵にあたる。
それを黒田隊5,000人に当てはめると攻撃を担当する兵の総数は2,020人
その内訳は騎兵310名、鉄砲足軽1,017名, 長柄槍足軽424名,弓足軽269名
これが9箇〜10箇の備え(現在の中隊〜大隊)に分かれて順番に敵に当たる。
これでは明の騎兵隊により各個撃破される。
明とか女真は西洋の騎士みたく騎馬突撃してくるの?
>>168 いや、勝手に「たいして連携も取らず」と言われても
一応、「備」は諸兵科連合部隊なんだが
>>168 明軍は4000が全て戦闘要員で騎兵、しかもそれが一斉攻撃で黒田の備えを一つずつ撃破するとか?
ありえねーw
しかも黒田は備えが一つずつ交代で戦うのかw
休んでる連中暇すぎやろw
>>168 慶長の役の話をしてるのに、なんで江戸中期の本多民部左衛門の備が引き合いに出されるんだ?
時代が隔たりすぎだろw
>これが9箇〜10箇の備え(現在の中隊〜大隊)に分かれて順番に敵に当たる。
>これでは明の騎兵隊により各個撃破される。
お前の妄想なんか誰も聞いちゃいねえよw黒田勢の諸部隊はちゃんと陣形を組んで連携して戦ってるじゃんw
(長政は戦場に到着すると直ちに東方の高地に上がって自ら敵情を偵察し、乃ちその隊の部署を改め
右備一番隊は母里友信、栗山利安、黒田利高をこれに任じ、井上九郎兵衛、野村市右衛門を二番隊としてこれに次き、
左備一番隊は後藤基次、黒田一成がこれに当り、黒田直之、桐山孫兵衛が二番隊としてこれに次く。
長政は自ら爾餘の兵2000人を率いて本隊たり・・・日本戦史・朝鮮役)
174 :
169:2011/08/22(月) 17:00:06.36
>>173 thanks
勇壮だな、おい。日本の武士とぶつかる様子を想像すると格好いいな。
鎧を着けてない朝鮮の兵卒は場違いな雰囲気になっちゃう。戦場は朝鮮なのに。
しかし薙刀の様な武器を馬上でどの程度使えたんだろうか。
騎兵が効果的なのは機動力で敵の弱点をつくか、弓騎兵で敵のアウトレンジから
チクチクやるときだ。
長槍で槍衾をつくり、しかも大量の弓鉄砲を装備してしかも戦慣れして騎兵を怖がらない歩兵に突撃するなど
自殺行為ではないか?
176 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 19:48:37.90
日本勢の槍衾って、対騎兵戦術だったの?
>>176 雑兵物語には騎馬武者への対処も記されている
178 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 22:59:57.05
つーか不利な戦いて無理に戦う意味なんてないし
不利なら撤退掏るのが世界の常識
倭猿はバカだからそれを見て勝った勝ったいってる
ほんとバカすぎ
179 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 23:00:26.50
>>179 フツーそういうのが十組以上は周りにいるんじゃね。加えて弓組、鉄砲組も。
開平地で鑓足軽だけ十数人で敵中に突出するのはアホだろ。
ちなみに、明軍の騎兵は『松井物語』の描写からすりゃ、弓射軽騎兵なんじゃねーの。
>>178 バカはお前だろ
敵が戦略目標を達成できずに撤退したら
それを勝ちって言うんだよw
>>180 北方の騎馬民族に対抗していたなら、そうだろうな
183 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 00:17:28.85
槍衾って単騎又は5〜6騎で突撃してくる騎馬武者になら対処できるけど
騎兵隊相手では、槍衾を構成する足軽の数よりも多い数十騎、数百騎の
騎兵による突撃が行われるので、正面からの攻撃でも簡単に切り崩せる
だろう。
また、機動力を発揮して側面や背後に回られても簡単に突き崩されるだろう。
壊れたレコード化?
槍衾の一部隊を崩したところで
ほかの槍衾とか弓足軽、鉄砲足軽はどうするのかと
186 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 00:49:50.53
実際、朝鮮役当時、明の専門騎馬兵をどのように防いでいたのか、非常に興味有るところ。
これ以上はスレ違いになるかな?
187 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 00:51:30.20
「1備」に長柄槍兵は30人位しかいないので、槍衾があっちこっちに
控えてたりしない。
槍衾と弓隊や鉄砲隊の連携があればある程度脅威だが、連携がないならば
簡単に各個撃破できるだろう。
>>187 だから30人しかいないのは鉄砲の装備率が高い江戸中期の話だと言ってるだろうが。ちっとは勉強しろアホ
それとアレか、お前は備の中から槍足軽だけが飛び出してきて、
他の連中は槍足軽が皆殺しにされるまでアホ面して見てるだけだとでも思ってるのか
明の騎馬軍団は突撃しないんじゃないの?
突撃したとか突撃されたという資料があるのか?
190 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 01:42:22.31
碧蹄館は遭遇戦だったそうだから、
突撃もあったんじゃないかな
>>187 仮に1備えに30人しかいなくても、備えは複数あるし、備えが一つずつ勝手に戦っているわけじゃない。
連携して戦ってるんだよ。側面や背後衝こうったって、逆に別の備えに背後や側面衝かれて大敗。
だいたい長柄に接近する前に鉄砲に打ち落とされて終わり。
192 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 09:09:13.15
>>188 >だから30人しかいないのは鉄砲の装備率が高い江戸中期の話だと言ってるだろうが。ちっとは勉強しろアホ
お前、そこまで言うんなら、ちゃんとソースを提示して黒田隊各備におけ
る長柄槍足軽の人数をだせや!
↑
おいおい、それをいうのなら、最初に江戸時代の本多民部左衛門備持ち出してきて
黒田の備えが各個撃破されるとのたまった
>>168が、慶長期の黒田軍の長柄の数を出すべきだろw
大名家によっても違うが、鉄砲足軽の割合が長柄足軽より多くなるのは
大坂の陣くらいからで、文禄・慶長の頃は依然として槍が主力
中西立太の「日本甲冑史・下巻」によれば、戦国時代の備には長柄隊が複数あり数が一番多く、
江戸時代以降になると鉄砲と長柄の数が逆転して鉄砲隊が主力になったらしい
騎兵突撃するときは槍の穂先が揃ってる部隊にやろうね!
お貸し槍の雑魚だから弱いよ!
逆に槍の長さが揃ってない奴らは見た目が貧相でも持ち槍の武士だから強いよ!
と、藤堂高虎さんは言っておられる。
藤堂ってボコボコにされたイメージしかないな。
197 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 12:02:43.78
槍衾って古代ギリシャのファランクスのように
盾で防御してないんで、弓騎兵に至近距離から
弓を乱射されたら総崩れになるだろ。
火縄銃の射程内を至近距離までどうやってたどりつくかっつー問題を
まずクリアせんといかんけどな。
槍衾は槍を持った騎馬武者(大陸でいえば重騎兵?)の突撃を防ぐための戦法だろ
矢を射掛けてくるような軽騎兵はそもそも突撃してこないだろうし、鉄砲足軽と弓足軽が担当するんではないの?
200 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 12:17:53.44
長篠の合戦では、馬防柵や堀による野戦陣地を構築し、
その前面に各備えから集めた鉄砲足軽を配備して
前線を作り上げたから、武田軍の進撃を撃退できた。
野戦陣地も構築せず、「備」単位での少数の鉄砲隊
でどのくらい弓騎兵隊を攻撃を撃退でくるかな。
>>200 また違う時代を持ち出すw
長篠の頃と比べれば、朝鮮役の頃の鉄砲の配備率は大幅に向上してるぞw
例えば、文禄の役当時の立花隊では全軍の23%が鉄砲足軽
依然として槍が一番多かったとはいえ、鉄砲はそれに次いで多い
202 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 12:37:57.61
馬上から弓を射かけながら前進してくる騎兵に対し
20〜30人の鉄砲組が味方の被害に耐えながら
一斉射撃を行えるのか、見ものだな。
大体、そんなに想像力を逞しくしなくても、朝鮮役で何度も対騎兵の実戦があったじゃんw
忠州の戦いや海丁倉の戦いでは、兵力差があったとはいえ朝鮮軍の騎兵はほぼ一方的に殲滅されたし、
碧蹄館の緒戦では立花勢3千が査大受らの明軍先鋒8千〜1万(多くが騎兵)を撃破してるし、
本戦でも小早川隆景ら2万が騎兵を中心とした明軍2万を大破してるし、
稷山の戦いでも明軍選りすぐりの精鋭騎兵4千が黒田勢5千に襲い掛かっていい勝負にはなったけど、
結局勝つことはできていない
現実の騎兵には
>>200が妄想するような神通力はないようだな
204 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 12:42:52.75
碧蹄館の戦いでは、合戦前の雨で戦場がぬかるんでたので
騎兵の機動力が発揮できなかった。
ふ〜ん、じゃ他は?w
206 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 13:22:35.95
稷山の戦いは黒田軍5千人あいてに互角以上の戦いを
行っていた明軍4千の背後から毛利軍3万が救援にきた
為、明軍は戦意喪失して撤退した戦だ。
馬鹿説によると黒田兵は備えごとに三々五々戦っていた。
明兵は皆騎兵で4000がひと塊になって津波のごとく黒田の備えを各個撃破していった。
・・・明兵すごすぎwなんで黒田を全滅させられなかったの?w
208 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 13:44:41.79
>>207 毛利隊3万が救援に駆け付けたからだろ。
>>208 黒田本隊との戦いでも結局は「両軍末院の野に戦い奮闘数合にして勝敗未だ決せず」で
毛利が来るまでズルズルと消耗戦を続けてる。明軍の戦果にしても黒田の先遣隊をいじめた以外大した戦果は見当たらないし、
何をもって「互角以上の戦い」と断言するのか理解できない
210 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 14:15:51.28
秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦: 笠谷 和比古, 黒田 慶一:
この中で、黒田隊は明軍相手に互角乃至は劣勢だった、と主張している。
原文では「この戦いは互角ないし明軍やや優勢のうちに推移していたけれども」と書いてあるぞ
212 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 14:35:54.71
>>211 ふーん、お前の読解力では
>「この戦いは互角ないし明軍やや優勢のうちに推移していたけれども」
明軍4千人が黒田隊5千人相手に互角以上の戦いをしたことの否定になるのか
たいした読解力だな(笑)
珍説家によると正面からの攻撃でも側面背面攻撃やりたい放題、簡単に蹴散らせるんじゃなかったっけ?
なのになんで互角なの?w
何言ってるんだ?否定するつもりで原文を出したわけじゃないんだが
馬鹿説通りなら互角以上とはいわず、たちまち黒田隊を殲滅してるはずだよな
明軍は精鋭騎兵4千騎なのに対し、黒田隊は多くの非戦闘員を含む歩兵主体の五千人なんだからw
それなのに夜明け前から午後3時まで延々と戦って最後まで黒田隊を打ち負かせず、
黒田二十四騎が一人も討ち死にしなかったのはどういうことだ?w
216 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 15:21:32.67
参考までに:九州大学の中野等はその著書『戦争の日本史O 文禄・慶長の役』
の中で稷山の戦いは2日間に渡って行われた、と記している
この中で日本軍について、初日は黒田隊5千人だけで戦い勝敗はつかず、
2日目には毛利隊3万と共同で戦い明軍が戦意喪失して徹退した。と主張
している。
また、Wiki英語版では
明軍について、初日、解生以下4将率いる2千人、2日目に援軍を交え
て4千人で日本勢と戦ったと書かれている。
ソースがウィキかよw
少なくとも俺は英語版ウィキよりは「日本戦史・朝鮮役」や
笠谷和比古教授の「秀吉の野望と誤算」の方を信頼するがねw
両書ともに明軍四千が毛利到来以前に黒田隊と戦ったとしている
黒田隊の備えは交代交代で順番に出てくるわけだ(
>>168)
一方の明軍は正面からの攻撃でも簡単に切り崩せるし、騎兵の機動力を生かして
側面や背後からも簡単に突き崩せるわけだ(
>>183)。
そうやって無策な黒田の備えは各個撃破される(
>>168)
・・・はずだったんだけどなあ。
なんか史実と違いすぎね?w
>>216 というか、毛利の援軍到着は戦闘の最後の最後じゃん
それまでは黒田隊と明軍4千が延々と戦ってるわけで
220 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 18:38:37.29
島津はすごいな。
wikipediaの泗川の戦いの記載は最大限の賛辞だぞ。
>寡兵が大軍を破った例として
>世界史 にも類例のない大勝利であり
朝鮮軍は何してたの....?
221 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 00:09:57.64
倭猿おとくいの捏造だろw
222 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 00:41:00.26
天下人豊臣秀吉より「自分以外で天下を治める者がいるとすれば、黒田如水
か小早川の隆景よ」と評され
その死に際し、名軍師黒田官兵衛より「これで日本に賢人はいなくなった。」
と評された
日本の最高頭脳 小早川隆景が主導して、3万の大軍で攻め寄せた幸州山城
では権慄率いる2千人の軍勢で撃退している。
>>222 碧蹄館がダメになったら今度は幸州山城か。懲りないねえw
224 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 14:44:14.88
>>223 碧蹄館がダメになったら今度は幸州山城か。懲りないねえw
お前は何をいっているんだ(笑)
225 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 14:50:51.13
どうでもいいけど
幸州城の戦いの総大将は小早川じゃなくて宇喜多じゃね?
224 : 日本@名無史さん : 2010/11/07(日) 13:39:54
文禄2年1月下旬〜3月中旬までの一月半にわたるソウル城での攻防戦において
日本はソウル城に五万五千の兵を集めて守備をかためながら、緒戦の碧蹄館
の戦いでの勝利後も敵を撃退するまでには至らず、逆に食料倉庫を焼かれて
撤退している。
もし純粋な戦闘力で明・朝鮮軍より強いなら、日本側の方が兵力も敵より優勢
だったので(日本軍五万五千に対し明・朝鮮軍四万〜五万)碧蹄館の余勢を駆
ってピョンヤン城まで攻め込んで落城させている。(碧蹄館の戦いは旧暦の
一月二五日、新暦なら三月中旬だ)それが敵を撃退することもできず、そのま
まソウル近郊で小競り合いを続け最後には食料倉庫を焼かれてソウル城は陥落
させられている。とても最強とは思えないね!
小早川隆景より「その兵三千は他の兵一万に匹敵する」とまでいわれた立花家
の家臣天野源右衛門覚書による碧蹄館の戦いについての記述でも立花家の諸将
が明軍について「馬の大きさはけしからず候、男もけしからす大きく候」とそ
の見かけの立派さに驚いているし、戦闘力についても「武辺強き唐人かな」と
皆感嘆したとの記載がある。
508 : 日本@名無史さん : 2010/12/09(木) 09:40:24
小早川隆景より「その兵三千は他の兵一万に匹敵する」とまでいわれた
立花家の家臣天野源右衛門覚書による碧蹄館の戦いについての記述でも
立花家の諸将が明軍について「馬の大きさはけしからず候、男もけしから
す大きく候」とその見かけの立派さに驚いているし、戦闘力についても
「武辺強き唐人かな」と皆感嘆したとの記載がある。
↑この恥ずかしい文章、お前だろw
227 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 15:35:03.76
>>226 >↑この恥ずかしい文章、お前だろw
お前は何をいってるんだ(笑)
幸州山城の戦いが日本武士団にとって恥ずかしい敗戦だからって
反論できなくて話題そらしか
>>227 やっぱりお前だったのなw
戦闘不参加の小早川隆景まで引っ張り出して朝鮮マンセーとか、必死だなw
229 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 18:15:05.69
やっぱり、冬の朝鮮は寒すぎるか。
3月じゃ気候的に平壌に北上する気にはならんだろ
>>222 幸州山城は頭脳はあまり関係ない地形と戦況だからなあ。
時間切れでまで攻めて退いただけ。権慄も時間切れで戦闘直後に退いているし。
231 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 19:52:47.30
>>226 日本側にヤル気がないから
華々しい勝利より、いかに兵の消耗を抑えるかが最大の関心事
あの小西ですら本気だったか疑わしい
チョンムニダー退治
>>231 この
>>226については過去スレで散々論破されてる
「ソウル城陥落」なんて噴飯モノのデタラメだしw
234 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 01:15:21.64
やる気がない、物量が少ない、国力がない
倭猿は言いわけばかりw
だったからはじめから戦争すんなバカw
235 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 09:45:53.77
日本がわの敗因の一つは小西行長のやるきのなさが最大原因であった。
たとえ実行不可能でも太閤の言ったことは正確に相手に伝えるべきであった。
本人は戦争不拡大で多くの人民を戦火からすくったとおもっているかもしれないが、その結果は「おのれ朝鮮人」と太閤をいからせ、
全羅道での大虐殺を招いた。
>>234 うっかり侵略してご免な。だって朝鮮は真剣に守ってくんないんだもんなー。
>>3 普通に考えれば征伐で合ってるんだよね
半島南部は倭国そのもので、チョンがそれを不当に奪ったのは明白だった
漢文そのものから歴史を学んでいた江戸までは半島南部が倭国だったって事は常識で当たり前にみんな知ってたんだよね
常識過ぎて言わないレベル
だから普通に故地回復であって侵略でも何でもない
侵略したのはチョンの方なんだよね普通に
>>12 しかも江戸時代じゃ、儒学者が天皇は周の太白の子孫だからって普通に言ってたし
倭人は呉人で、普通に自分達のルーツがシナ大陸に有ったって知ってた
大体が呉服とかデデーンと言ってる訳で、漢服でもなけりゃ唐服でも無くて呉服なんだよね
今の支那人五胡十六国土人の子孫だから、周の太白の子孫の呉人ってだけで
普通に領土主張出来るレベル
支那大陸の正統所有者って、実は日本人なんだよね。侵略でも何でもない
三韓征伐の頃も高句麗に開城あたりで止められてるし
あそこ辺りが日本の侵攻の北限って感じがするね
240 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 08:28:50.57
>>242 ウリミンジョク的なプライドを察してやれよ。w
半島は独自年号がないから、中国の年号を使わないのであれば干支にするか
朝鮮王朝実録みたいに何王の何年とするしかないわけさ。
ウリナラプライド史観で滅茶苦茶になってるのがこの分野
>>242 そもそも壬辰を壬申と間違う恥ずかしさ。
一発変換できないんだな、壬辰は
干支が変換できないIMEはサヨク
十干十二支を干支とか言っちゃう>>247は偽日本人
三成は幸州山でウリナラ三大捷の一つをプレゼントした張本人なんだがなw
講和交渉で小西と組んでインチキばかりやってgdgdになるわ・・・
三成ヲタには困ったもんだ
幸州山の戦いは日本側は勝利報告してなかったっけ?
それ興味ある。幸州山城の位置づけって日本側から見てどうなんだろうね。
たった一日で諦めたぐらいだから、それほど重要視してなかったのかな。
幸山城の戦いで戦勝報告したってのは聞いたことないな。あれは明確な敗北だし
やっぱり戦意不足の小西隊とか戦下手の奉行衆を攻め手としたのがまずかったのか
ミスった
×幸山城の戦い
○幸州山城の戦い
ね
>>252 大将の宇喜多が負傷するぐらいだから
あまり誇れる戦いではないな
でも権慄が幸州城破棄してるんだし
戦略的には結果オーライ?
ソウル近くの幸州山に居座った朝鮮軍を排除するために戦って
実際排除できたんだから目的を達してる。
よって幸州山城の戦いは日本側の勝ち。
倭軍敗走
>>256 いや、それはおかしい
幸州山城を攻め落すために出陣して、結果攻め落せなかったんだから敗北だろ
朝鮮軍が幸州山城を放棄したという後日談とは切り離して考えるべき
元々幸州山なんて空白地にすぎず日本軍にとって戦略的価値のある場所ではなく
攻め落として占領維持するつもりもなかった。
ただ居座った朝鮮軍が目障りだったので排除に動いただけ。攻め落とすことは目的ではない。
日本軍の猛攻撃により、朝鮮軍に幸州山の維持不可能を悟らしめた
朝鮮軍の退却は単なる後日談ではなく日本軍の猛攻撃による結果がもたらしたものであり
攻撃の成果として朝鮮軍を排除したのだから十分な成果を収めた戦勝と評価できる。
以後朝鮮軍は幸州山からソウルに圧力を加えることが不可能となったので実質朝鮮軍の敗退と言える。
朝鮮軍は戦闘後すぐに幸州山城から逃げ去ってる
日本軍の漢城維持はそのまま続いており
結局、漢城近辺から逃げたのは朝鮮軍
じゃあ戦術的には敗北、戦略的には勝利ということでおk?
軍事に詳しい人教えてくれ
攻勢拠点にしようとして確保したけど、味方が碧蹄館でボロ負け、
それ以上確保する意味がなくなり放棄したってところかな。
碧蹄館が先だがね
264 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 11:33:02.16
蔚山城攻防戦での小早川秀秋公の勇猛果敢な奮戦振りは素晴らしい。
初陣だったにも関わらず、単身先頭に馬を進めて明兵や鮮兵を追撃し
明軍や李氏朝鮮軍の将兵十数名も切り捨てまくった事実がある。
このスレなかなか濃くて面白いんだけど、自説だけじゃなくて史料及び資料も明記してくれると説得力が増すんだけどな。
>>266 参加してるよ。総大将でありながら自ら馬を駆って明軍に突入して
秀吉から叱責されてる
>>241 不十分だな
日明戦争と改めたら奴隷として褒めてつかわしたものを
>>267 蔚山に秀秋は不参加だろうが?
根拠もなく後世の物語を真に受けて適当なこと言うなよ。
>>269 はあ?秀秋の突撃は「大河内秀元朝鮮記」にしっかり書かれてるわけだが
実際に蔚山の篭城戦を体験した大河内秀元が書いた一次資料だぞ
調べもせずに適当なこと言ってんじゃねえよアホ
太閤記も蔚山の項に小早川の名前出てる。
念のため北島万次の本もチェックしたけど、小早川は参加してるね。
スレに関係ない話はよそでやれよ・・・
>>249 そこ生半可な知識なのか願望が混じっているせいかレベルが低いな。
朝鮮役も関ケ原役も評価が狂ってる。
>>272 大河内も太閤記も江戸時代に編纂された二次資料だからなー。
合戦直後に蔚山から出した大名連署状に名前ないし。
その大名連判状ってどこで見れるの?
小早川が蔚山参戦というのはわりと定説でしょ。
ぐぐればわかるけど。
>>277 非参戦説の歴史家ってたとえば誰がいる?
>>278 あちこちで引用されているでしょ?
一般書でも中野や北島、それに笠谷の本には引用されていたと思う。
あれは合戦後に蔚山に集合した武将からの戦線縮小の意見具申だから、居なかった武将は著名していない。
いたけど同意しなかったから署名が無かったかも、とは思わないのか
え?あの連署状って戦線縮小論の大名らが提出したものでしょ?
加藤嘉明なんかは蔚山城の救援に参加してるけど、戦線縮小論には反対していて連署状にも名前がないぞ
>>282 嘉明は参加してたっけ?
なんか文書を残してたっけ?
文書は知らんが「日本戦史・朝鮮役」によると
援軍の二番隊に70人を率いて参加してるね
>>282 失敬、記憶違いだった。1/26の意見具申の方は合戦から数日後の作成。
そっち方は小早川勢としては山口玄蕃頭が著名していて、秀秋の名はないね。
言いたかったのは、合戦中の1/1の報告への秀吉返書が1/11付けで小早川勢としては山口玄蕃頭が宛先。
続いて合戦直後の1/5の戦果報告への秀吉返書がやはり小早川勢としては山口玄蕃頭宛て。
1/22の秀吉指令も同様。これら三方とも嘉明の宛先があるね。
当時、秀秋は玄蕃に居なさそう。
大河内朝鮮陣記と清正高麗覚書とかどこで読めるの?
>>286 続群書類従の二十の下だったかな?図書館で読むことが可能。
>>249で言及した「碧蹄館の勝利は石田三成の功績!」論についてなんだが
最近発売された「一個人」12月号の石田三成特集に全く同じ主張が掲載されているのを発見した
それによると三成は漢城の軍議において「小高い丘を確保して鉄砲隊にて、明軍の騎馬隊を狙い打てば勝てる」
と郊外での野戦迎撃を主張し、結果戦いはその通りの展開となって
小早川隆景、立花宗茂ら勇将二人も三成の戦術眼に舌を巻いたんだとよ
俺は
>>249で紹介したブログにある、三成が丘の上に鉄砲隊を配置して云々は三成信者の妄想だと思ってた
でも雑誌にも同じことが書いてある以上、何らかの文献資料が出典になっていると考えて調べてみたら
ソースはなんとあの悪名高い「武功夜話」だったw
くどいようだが、三成が碧蹄館の戦いにおいてこうした前進迎撃論を唱えたなんてことはありえない
実際には軍議で篭城を主張してるし、「天野源右衛門覚書」「毛利家記」などの文献によれば
奉行衆は出陣する立花隊に対して交戦を極力避けるよう指示を出しているし、
立花隊が前哨戦で明軍先鋒を撃破すると再び使者を出して漢城への引き上げを下知している
こうして見ると三成ら奉行衆が合戦自体に消極的だったという実像が浮き彫りになってくる
>>287 ありがとう。今度、図書館で読んでみるわ。
>>280 ソース求められたらきちんと具体的に書こうよ。
それじゃ答えになってない。
>>290 知りたくないなら調べないだけだろ?
知りたいなら提示先に書いてあるじゃん。
>>261 戦術的には日本の敗退で間違いない。日本側の損害は大きいからな。
戦略的にも朝鮮軍の勝利を聞いて平壌にまで後退していた明軍が再び南下。
幸州の朝鮮軍は戦後も漢城付近で出没抄撃を繰り返した。これによって日本軍は漢城外を自由に動けなくなって、物資の欠乏も甚だしくなった。
釜山退却が議論され、諸将は血判つきの連署で秀吉に窮状を訴えると。
294 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 01:14:51.96
2月12日明け方、宇喜多秀家を総大将に、小早川隆景、黒田長政、小西行長、
石田三成ら率いる3万余の日本軍は漢城を出発して、早朝から幸州山城への
総攻撃を始めた。しかし、城攻めは狭い通り道や傾斜の鋭い断崖に妨げられ
て非常に困難で、兵力にものをいわせて一番目の柵は突破したが、死傷者は
増加していった。一方、城を守る朝鮮軍は、後方が漢江であるため、撤退が
不可能な状態で日本軍の猛攻を凌ぎ続けた。
夕方になると京畿道水師の李蘋が権慄に呼応して、10隻の船を率いて漢江を
上ってきたことにより、退路を切断されることを恐れた日本軍は攻略を断念
して漢城へ撤退した。
戦後の影響
この戦いで日本軍はかなりの死傷者を出し、総大将の宇喜田秀家と小西行長
は重傷を負い、石田三成、吉川広家、前野長康などの諸将も負傷した。一方、
圧倒的多数の日本軍を破った朝鮮軍であるが、朝鮮側の損害も大きいため、
権慄は日本軍の再侵攻に備えて要害の坡州山城に撤退して軍を再編した。
Wikipediaなんだけど矛盾してね?僅かな常備軍の朝鮮が17万で日本は18万の4割が非戦闘員。ソースは『朝鮮と日本の関係史』朴鐘鳴監修/明石書店(2000) らしいけど。
日本軍
秀吉は、侵攻軍と予備軍の宿営地として新たに建設した名護屋城に軍隊を集結させた。
* 文禄の役の際に動員されたのは、9軍団に分かれた総勢158,000人で、その内の2軍団21,500人は予備[54]として、
それぞれ対馬と壱岐に駐屯した。これに諸隊(播磨三木の中川秀政ほか)の12000人、水軍9200人、
石田三成ら奉行7200人が後詰めとして名護屋に在陣し、渡海軍と待機軍とを含めると、総計187100人であった[55]。
* 慶長の役では141,500人[56]が動員された。
ただし、これらは諸大名に賦課された軍役の動員定数であって動員実数はその八割程度ともいわれ[57]、
日本軍の動員数には人夫や水夫など非戦闘員が含まれており、
非戦闘員が全数の四割以上を占めていた[58]ため、留意が必要である。
朝鮮軍
一方、朝鮮はその王朝自身が高麗の一部将であった李成桂の謀反による簒奪であったという出自から、
地方軍閥の発生やその反乱を恐れて僅かな常備軍しか持たず、非常時には平民(農民)の大量徴兵以外
になす術がなかった。文禄の役の全期間の合計で、朝鮮は172,400人の正規軍を展開し、
22,400人の非正規軍がこれを支援した
「徴兵した農民」は正規軍でしょ? 非正規軍は徴兵されてない、一揆みたいなのを指すんじゃね?
ソ連方式で畑から兵隊を取ってくれば、「正規軍」をいくらでも水増しできる。
極端な例だと竜仁の戦いでは朝鮮軍は五万人を動員してるしね
寄せ集めの烏合の衆だったから1500人の日本軍の襲撃で総崩れになっちゃったけど
298 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 12:05:20.41
泗川の戦いって虚像に覆われているね。
まず、名称が泗川城攻防戦ではなく、
泗川の戦いと称していることで野戦のような
誤解を生んでいること。
次に明・朝鮮連合軍の兵数が実数は4万未満のところを
20万と号したことがまるで実数のように一人歩き
しているところ。
そして勝敗を決定した原因である、明・朝鮮連合軍の
火薬置場の爆発についてあまり語られていないこと。
泗川新城への総攻撃の最中に明。朝鮮連合軍後方の火薬置場での爆発により
明・朝鮮軍の士気が急落し、島津軍の大勝利に繋がったことからももっと
このことが語られてもいいはずなのだが?
>>298 >>298 マジレスするとまず
泗川の戦いが野戦だと思ってる奴なんて見たこともないし、
二十万を鵜呑みにしてる奴はよほどの情弱だから取るに足らん
火薬の爆発についてもwikiを始めある程度詳しく書いてあるところなら大抵記述があるし、
何よりもこの火薬の爆発が決定的な勝因とは到底言い難い
爆発が起こったのは遊撃・彭信古の部隊三千の陣中であり、
その他三万四千の明・朝鮮軍に被害は無かったわけだからな
あと
>>総攻撃の最中に明。朝鮮連合軍後方の火薬置場での爆発により
これも間違い。爆発がおこった彭信古の火軍は城門近くの最前線に配置されていた
まあどんなに虚飾だと言い張ろうが
三万七千もの明・朝鮮軍が七千ぽっちの島津勢に完敗して壊滅したという事実は変わらないな
韓国のウィキペディアだと
島津軍2215-6800
明朝線軍7000-10000
英語版は
島津軍6300
明朝線軍34000+2200
韓国が必死www
>>300 カンシャクオコル!
<丶`д´> 島津が勝ったのは火薬の爆発という事故のおかげなの!虚像なの!!
>>301 翻訳してみたら韓国版wikiには明・朝鮮軍の兵力は約四万、損害は三万前後と書いてあるよ。
7000-10000 とあるのは日本側の兵力
304 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 17:02:31.96
攻城戦とは、攻め手に過酷さを要求する戦いなんだぞ。
NHKドラマ『坂の上の雲』においても旅順要塞や
203高地での攻略についてリアルに表現されていた。
その総攻撃の最中に味方の陣営で火薬が爆発することが
攻め手・守り手の士気にどのような影響があるか。
攻
N
2
そ
攻
?(゚∀゚)アヒャ
ふむ、明朝鮮連合軍は戦略自衛隊のN2爆雷攻撃で消し飛んだということだな
>>304 ぐだぐだ言い訳してんじゃねえよ
火薬が爆発しようがしまいが、圧倒的寡兵を相手に一方的にボコられた挙句
万単位で討ち取られた大惨敗の言い訳にはならねえよw
そもそも、当時の火縄銃や大砲が暴発するのは極普通のことだ。
小規模の爆発で軍全体が壊滅してたらいくら軍があっても足りやしない。
309 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 00:29:41.88
>>307 お前なにもわかってないじゃん。
城攻めは攻め手の兵数が守り手の何倍いようと
城内に入り込めない限り、攻め手が一方的に
攻められるんだ。
前線の兵士にとっては、ある場合は勇気を奮い起こして
他の場合は所謂、上役に脅されて城に攻め込むんだ。
そんな状況下での火薬の爆発は攻め手の士気を下げる
にきまってる。
>>309 島津兵はほぼ全軍が城外へ打って出てるよね
その時点で攻め手が一方的に攻撃される状態ではなくなったよね
明軍は島津勢の軽く五倍以上の兵力なんだから、冷静に包囲攻撃すれば勝てたはずだよね
でも結局明軍はほぼ一方的に殲滅されて万単位の兵士が討ち取られ、
敗戦の罪から郝三聘・馬呈文の両翼将が処刑され、総司令官の董一元も降格処分の上立功贖罪を命じられてる
討ち取った敵兵の数についての島津側の主張はさすがに誇張だろうが、
韓国の「壬辰戦乱史」でさえ明軍の戦死者数を一万人内外と推定している
これって世界の戦史上でも希に見るほどの大惨敗だぞ
火薬が爆発しただけで毎回ここまでの大惨敗を喫していたら
>>308の言う通りいくら軍があっても足りないよねって話なんだがw
火薬爆破事故もなにも、明軍は最初からあんまりやる気なかったじゃん。
312 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 01:35:49.33
だいたい、基本攻城戦だったのに、『泗川城の戦い』ではなく
『泗川の戦い』とまるで野戦のような名称を称していたり、
攻め手の、明・朝鮮連合軍を明軍と主張したり、兵力も4万に
満たない兵数を20万と称していたり、島津軍の強さをアピール
すらための物語でろ(笑)
と
313 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 01:37:08.22
だいたい、基本攻城戦だったのに、『泗川城の戦い』ではなく
『泗川の戦い』とまるで野戦のような名称を称していたり、
攻め手の、明・朝鮮連合軍を明軍と主張したり、兵力も4万に
満たない兵数を20万と称していたり、島津軍の強さをアピール
するための物語だろ(笑)
「明・朝鮮連合軍」っていちいち打つのめんどくせえんだよw
兵数二十万を鵜呑みにする奴もバカだがそれにムキになる奴も同類のバカだろ
まあ、僅か七千人で五倍以上の明朝軍をほとんど一方的に殲滅してるんだから
島津勢が鬼のように強かったことは物語でもなんでもなく事実だわなw
315 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 02:40:08.52
同時期に行われた他の2つの合戦は『蔚山城の戦い』
『順天城の戦い』と名称から攻城戦と分かるし、
『泗川の戦い』の明軍20万のような攻め手の兵数に
誇張もない。
蔚山城の戦いの加藤家も順天城の戦いの小西家も早くに
滅亡しているのに対し、島津家は江戸時代も生き残り
明治以降は薩摩閥として、全国的な勢力を誇っていた。
さしづめ、江戸時代に作られた自家史観を明治以降にも
学会による再検証をさせなかった為、最近まで明軍20万
などという間抜けな記述が生き残っていたのだろう。(笑)
軍記物に誇張があるのはよくあること。
>>315 >『泗川の戦い』の明軍20万のような攻め手の兵数に
>誇張もない。
例えば「天野源右衛門覚書」では碧蹄館の明軍を「少なくとも三十万人はいた」と記録しているし、
「大河内秀元朝鮮記」では蔚山の明軍を「八十万」と誇張してるわけだがw
>さしづめ、江戸時代に作られた自家史観を明治以降にも
>学会による再検証をさせなかった為、最近まで明軍20万
>などという間抜けな記述が生き残っていたのだろう。(笑)
戦前の「日本戦史・朝鮮役」では明朝軍の兵力を「三万六千七百余」と書いているし、
同じく戦前の「近世日本国民史」でも「四万人前後」と推定してる
今も昔も「二十万」なんてデタラメを真に受ける奴は単なる情弱だったんだよ
要は、お前が低俗なネット情報や三流の書籍にばかり接していたということなんだろw
あと無知なようだから教えてあげるが、泗川城は望晋城、永春城、昆陽城、古城などの支城を持っており、
望晋城では守将の寺山久兼が明軍の偵察部隊を撃退してるし、古城では川上忠恒が手勢三百で打って出て
明の大軍と交戦し、遊撃将軍の李寧と蘆得功を討ち取ってる
泗川城での本戦以前に支城でこうした前哨戦が行われていたから、
泗川一帯で行われた戦いということで「泗川の戦い」なんだろ
その呼称に対して「野戦に見せかけようとしている!」なんて目くじら立てるとは
勉強不足というか、バカ丸出しだなw
319 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 12:13:55.98
>>314 >島津勢が鬼のように強かったことは物語でもなんでもなく事実だわなw
島津勢が鬼のように強かったて(笑)
お前、それまじめに言ってるんなら、よっぽどの馬鹿だな。
島津勢が鬼のように強かったら、豊臣軍を九州から追い出してるって。
豊臣対島津の合戦というと豊臣の圧倒的な大軍に対し島津勢は衆寡敵せず
やぶれたようなイメージがあるがそれは違う。
豊臣方の九州征伐の天王山『根白坂の戦い』では、島津方の高城に対し豊臣方は
周辺に陣城を52箇所作って包囲していた。
そのうちの重要拠点である根白坂の陣(宮部継潤1万人)に対し3万以上の兵数
で夜襲をかけながら反撃に会い戦闘が膠着状態になったところを藤堂高虎や戸川
達安が少数の手勢を救援により敗走している。
>>319 赤っ恥かいたからって顔真っ赤にして話題逸らしか。可愛いねえw
>藤堂高虎や戸川達安が少数の手勢を救援により敗走している。
あれ?黒田如水は?小早川隆景は?
322 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 12:27:05.44
>>320 >赤っ恥かいたからって
くわしく(笑)
お前は一生論破されるたびに「くわしく(笑)」とか「具体的に(笑)」とでも言ってろw
324 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 13:11:40.81
>>323 じゃあ、お前は
>島津勢が鬼のように強かったことは物語でもなんでもなく事実だわなw
↑こんな間抜けな主張を信じてるんだ。
なら、お前ってよっぽどの馬鹿だな。
「韋駄天の如く」「疾風迅雷の如し」みたいな比喩表現を真に受けるほうがよっぽどバカだよね
小学生のガキかお前は
根白坂で藤堂や戸川は霍乱を行っただけで、黒田や小早川ら諸隊が駆けつけるに至って島津勢は敗走してる
それをあたかも霍乱部隊が島津をボコったみたいに書いてる奴は相当頭悪いな
島津が鬼のように強いのは事実。ただし、それより九州征伐軍の方が強かっただけ
九州征伐軍は鬼より強かったんだよ。東大京大の一部の学部以外は低学歴とか言ってる学歴厨と変わらん
激戦区の九州と統一しかけたのも大加点評価だし朝鮮での活躍も光る
秀吉、五大老に次ぐ伊達、蒲生、佐竹辺りと変わらん大藩だったのも事実だし。
寡兵で大軍を破ると言う戦歴も真田や雑賀よりは劣るかもしれんが華々しいよ
328 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 15:54:51.10
まーた素人島津厨
>>326,327の妄想九州統一願望w
筑前攻略に失敗し、
博多の街に放火して逃げたのが島津。
筑後まで宗茂らに追撃されて
北九州侵略を諦めたから
豊後攻撃にターゲットを切り替えた事実も知らんのだろうな。
しかも豊後では籠城遅滞作戦をやられて疲弊しきって、
臼杵を攻略できず、
臼杵攻略の援軍要求を巡って
義弘と家久が憎悪しまくって義久にも家久がチクるなど戦線悪化していくのになんら策なし。
最終局面では義弘は退路を閉じられ、
家久も背後を閉じられそうになり
義弘を見捨てて家久逃亡。
相良氏の殿で半殺しにされながら義弘も日向まで逃げ落ちる始末。
>>328 ここは島津の強さを議論するスレじゃねーよ
くそ弱い朝鮮兵からしたら日本の
戦慣れした百姓の一揆でも鬼の集団にみえただろ
島津が国内で強かろうか弱かろうが、70万石と言う大老並の石高を有し
最強日本軍の一翼を担った大名に変わりはなく
仮に日本で弱卒だったとしても
朝鮮の地では明国の精鋭にも存分に
日本軍の威光を見せつけた事には変わりはない
330 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 05:24:09.26
秀長にボコボコにされた島津。
331 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 12:55:50.70
基本的に島津は戦えば必ず負ける軍隊なので毎回圧倒的大軍で敵の反抗を
諦めさせてるだけ
例えば伊東崩れと呼ばれる伊東氏滅亡の時も圧倒的な大軍だった。
天正4年(1576年)8月島津義久が率いる30000の大軍勢から攻撃を受ける。
守りを固める伊東勘解由の高原城には370余人ほどの兵しかいなかった。
伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出したが、圧倒的な兵数差一戦も行えなかった。
これにより伊東崩れと称される伊東氏崩壊が始まり翌年には豊後へ逃避行をしている。
相良の援軍として1556年から大口城へ入り駐屯した赤池長任とその配下の岡本頼氏
この両名に島津はフルボッコ&報復攻撃の連続で義弘は完全に涙目。
なにしろ1568年に赤池長任が死去するまでの10年以上に渡りまったく落ちる気配すらなかった。
赤池が死去した翌年にやっと落城。
ちなみに島津の豊後侵攻で大友にボコボコにされて岡城方面から肥後へ抜ける退却路を封鎖され
家久がフルボッコされながら日向へ落ちて行った佐伯地方から
義弘もズタボロになりながら脱出を図った時に
義弘が死にそうなのを助けて殿を務めて命を救ってやったのが相良からの援軍の岡本頼氏。
↑
こういうバカってどういう顔してこういうデタラメレス書いてるんだろう?
真面目な顔して書いてるんだろうか?それともニヤニヤして書いてるんだろうか?
どちらにしてもすごく気持ち悪い。
333 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 20:12:42.17
>>332 反論できないからって、話をすりかえるな!
新年早々醜態を晒すのは、いかにも馬鹿なお前らしいな。
>>333 スレタイ読めるのか?ここはいつから島津のスレになった?
>>329をもう一度読め
俺は島津が弱かろうがどうでもいいよ
明兵の精鋭より遥かに強いんだからな
世界最強関東武者とか大陸に行かなくて良かったよ
>天正4年(1576年)8月島津義久が率いる30000の大軍勢
3000ならともかく30000では誰もまともに読まん罠
まあ、根白坂で数百人の霍乱部隊のみで島津をボコったとか意味不明なこと言ってる人だし
なんでそういうすぐバレる嘘を吐いてまで島津を貶めようとするんだろう
ひょっとして前世が島津に鼻削がれた朝鮮人とか?
>>301 「朝鮮人が捏造」という事実を日本人が捏造してるのか。胸厚だな
338 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 23:27:03.59
志賀 親次(しが ちかつぐ、永禄9年(1566年) − 没年不詳)は、安土桃山
時代の武将。志賀氏の一派北志賀家当主。志賀親守(道輝)の孫で志賀親度
(親慶、道益)の子。親善。少左衛門尉。
1586年、島津氏が豊後国に侵攻して来ると(豊薩合戦)、父の親度や他の南郡
衆が島津氏に味方する中で、親次は居城・岡城に立て籠もって徹底抗戦し、
島津義弘や新納忠元が指揮する島津の大軍をわずかな兵力で何度も撃退した。
豊臣秀長の援軍が豊後に上陸すると、反乱した南郡衆を滅ぼし、父を自刃させる。
その後は祖父の親守の後見の補佐を受け、宗麟の葬儀には祖父を代理として出席
させている。同年キリスト教は禁教とされたが、親次は棄教を拒否した。
親次は、島津の大軍を前にして見事な采配を見せたことから、豊臣秀吉に
厚く絶賛され、また、敵将の島津義弘からも「天正の楠木」と絶賛されている。
339 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 23:30:38.79
尾藤 知宣(びとう とものぶ、? - 天正18年(1590年)、死亡時期に
ついては諸説あり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
豊臣氏の家臣。通称甚右衛門、官位として左衛門尉と称す。名を知定
・知重・光房ともいう。尾藤重吉の次男。兄に尾藤又八郎、弟に宇多
頼忠がいる。
天正15年(1587年)、戸次川の戦いで失態を犯し改易された仙石秀久
の後継として軍監に就任。秀長の下で九州征伐に従軍し、黒田孝高や
小早川隆景などの諸将を差配する立場となった。しかし、日向国高城
攻略中、宮部継潤の守る根白坂砦が島津氏の援軍に攻め込まれた際に、
秀長に慎重論を唱え援軍を出させず、僅かな手勢で救援に赴いた藤堂
高虎らの奮戦がきっかけとなり豊臣軍の大勝利という結果となった
(根白坂の戦い)。また、この戦いの後に敗走する島津軍に対して、
ここでも知宣は深追いは危険とし諸将を抑え追撃を行わせず、島津氏
討伐の決定的な好機を逃すこととなる。このことが、秀吉の怒りを
買い所領を没収された。
ウィキペディアの丸写しw
341 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 00:16:29.52
>>1 確認するまでもないことだが、国際法上、前も現在も完全に合法な行動なんだよな。
1 チョンは明らかに明白な複数回のテロ活動 30〜100回以上。確認がわかりにくいのが半数くらい。
死者、略取者合計数万以上の度重なる侵略、テロ活動をしてきていた。
かつかなり悪質にその破壊活動を日本に挿げ替えるというきわめて 危険な侵略テロ活動をした。
2 さらに明は建国黎明段階において、日本侵略思想をもっていた。そして、チョンテロ活動に便乗した。
3 これらのテロ活動、侵略行為は数回確認され、明らかに 【虚偽侵略であった】ことが明白に確認される。謀略侵略というテロ行為だな。
4 しかし明朝が歴代的に危険でその侵略が確認された後も、侵略をほのめかし、再三侵略を持っていた。
5 明朝があきらかに情勢不安定で、政治的責任性、地域の安定性、それに領内の治世性をはっきせず。明領内から大規模な海賊をだすような行為をしていた。
6 この明海賊を今度はまた日本だと挿げ替えて、危険な侵略主義をほのめかしていた。
以上をもって賊徒明罰のための政治、征討行動はきわめて当然で当たり前といえよう。
事実上そういってもいい賊をただ討伐する行動である。
そして事後事変的には
1 危険なチョン海賊、(過去に侵略をしていながら、不透明な大規模艦隊を不透明な理由で構築していた)
を討伐したことにより、近隣に直接侵略ないし、武力示威可能な勢力を減退、消滅させた。
なお以後別国の働きもあり、チョン大規模軍事戦力を構築できなくなった。
2 危険な明政府を解体した。
3 日本近海に危険な要求を持たない政権を誕生させた。
これで近隣が安全になった。
以上のことで武力解体が可能なほど地域を安定させた。これで大きな意味がある。
これが政治上の賊徒明罰である。そして明は滅び。日本は安定をえた。これは日本の価値である。
政治戦略、政治要求は達成したのである。
これはむしろ近隣秩序における安定を得た。パーフェクトな勝利といえよう。政治戦略上は最大の勝利である。
そして政治上
1 赤字だらけすぎて、危険なチョンを直接投資しなくてよかった。(押せば当地する必要があった)
2 前に出すぎ、オイオイ、清と折衝する要素を減らした。
これだけでもプラスである。
3 そして事実上赤字になる大陸をえないですんだ。
ゆえに最大の勝利で自己防衛を確立したのである。これを勝利といわずして、なんという。そして
軍事上も圧倒し、直接武力により、明を買いたい寸前までおいこんだ。
最後の戦いで、明に追討余力をなくさせるほど、大打撃をあたえたのである。あれで明滅ぶことは決定した。
これが政治上の賊明討伐
>>342 「国際法上(キリッ」とかいってるけど、少なくとも現在の国際法上は、
上記のような明・朝鮮の行為があったとしても、
少なくとも「正当な理由のある」戦争にはならないよ。
低学歴が頭良さそうな話し方しようとするとむしろボロが出るからやめた方がいいし、
あんたが思ってる以上に世の中には国際法を大学で勉強してる人間いるからw
某有名大法学部卒業生より。
朝鮮ってすごく豊かで文化的な国なんだぜ なんたってあの中国様の手下なんだから!なんとそんな国がいまならほぼ切り取り次第!
↓
え!マジで!じゃあ全力で頑張って領すわ!
↓
豊かな国だから食いものなんてどこにでもあるだろう 補給なんか心配せんとどんどん進もうぜ!
↓
あの・・・・猿・・・・・嘘つきやがったな・・・・・・
346 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 07:15:18.57
おうい
島津が強いとか弱いとか言ってるけど
兄ちゃんが兵をよこさないから
弟はいつもうんこみたいな兵力で戦ってたんだ
まともに兵与えたら
強いと思うよ。
>>345 下調査で貧しい土地だってのは知ってただろう
実際に、朝鮮南部の制圧に成功したとして
やっぱ加藤、小西辺りが統治にあたるのかね?
罰ゲームだよな、日本の知行の倍は貰わんと割にあわん
そもそも中国とインド侵略が目的であって朝鮮は単なる通り道にしか考えてなかったし
道案内させるつもりが反抗的だったから結果的に朝鮮が戦場になっただけで
349 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 06:30:04.14
そうだよ
君の言うとうりだよ
朝鮮ごとき通り道の道案
騙されたもクソもないんだよ
そんな小さい思考で物事考えてないんだよ
文録は確かにそうだけど、慶長は明かに朝鮮切り取りが目的
当初の目的は今の韓国辺りまでを日本にするための戦争
秀吉が家康並に長生きするか、秀吉程とは言わないまでも
家臣を統制できる優秀な息子がいれば良かったんだろうけどさ
やっぱ豊臣家滅亡の原因は秀次を殺したことだな
どのみち秀次殺さなかったら秀頼との家督争い起きて潰れてたよ
>>351 秀次に付く奴が居ないと思う
秀吉が生前、どちらが家督を継ぐか曖昧にしてたならともかく
>>345 いや、最初は食料は豊富だったんだ。
進攻先の国倉に溜め込まれていた。
緒戦の快進撃の一因だね。食料には当面は困らないと現地からも報告を上げている。
しかし、それは低生産の農民から高収奪をした結果だった。
秩序が乱れて農民が再生産をしなくなった不毛の第二年目からは地獄でした。
これは朝鮮支配地域でも同じこと。
それでも本国から補給がくる日本だけが大軍の長期維持と集中が可能だった。
明が大軍を集中して動かせるのは短期間だったし、朝鮮にいたっては大軍を構築できなかった。
354 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 22:16:26.21
つまり島津は個人や小部隊の戦には強いが。
統一指揮の必要な大合戦にはいまいちで、落とし所かな。
355 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 23:55:07.55
>>354 島津貴久から続く島津家のジンクスである。
ってか、おいどん流でやれるかどうかじゃないのかね。
戊辰役なんかはそこそこだし。
良いか悪いかは別として、下風には立たないと。
357 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 23:29:10.57
西日本勢力VS明・朝鮮連合軍の戦い
当時の日本の全兵力は200万ぐらいで
世界一の軍事大国だった訳で秀吉が生きていたら
明ぐらいは制服できる兵力と軍事力は十分あったのに
秀吉死亡で終結しただけで世界が変わりそうだった歴史的な戦争
360 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 16:14:16.84
361 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 14:12:18.47
中野等、文禄・慶長の役 (戦争の日本史16) を読んでるんだが
釜山浦海戦についての記述が見当たらない・・・なんでだ!
中野センセは、個々の戦闘については重きを置かないというか、
関心は無いみたいだわな。
他もほとんど日本戦史の受け売りだし。
363 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 15:06:55.18
>>363 >中国や日本の画家が描いた19〜20世紀の作品と推定される
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
大げさに記事にしてるから何かと思えば今出来の絵ジャン(・∀・)
365 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 16:43:53.91
>>362 「戦争の日本史16」で主要な戦闘はほとんど記述されてる。
海戦についても色々書かれていて
玉浦海戦や泗川海戦と続きの海戦の記述→P78
(李舜臣第一次及び第二次出撃)
閑山島海戦と安骨浦海戦の記述→P83
(李舜臣第三次出撃)
と記述されている。なのに
次の釜山浦海戦(李舜臣第四次出撃)が無いのは変だ。
366 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 16:46:38.21
釜山浦海戦がウリナラ史観では朝鮮水軍の大勝利!になってるが
これが嘘っぽいことを中野は判ってる
かといって本当の事を書くことがらも逃げ回ってる
これが実態
367 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 12:17:55.11
釜山浦海戦以後、李舜臣は不成功の連続
中野は李舜臣の成功部分だけを書いて
不成功については書かない。
>>367 韓国から研究補助金を貰っているからな。今のところ北島よりマシだがドンドン腐っていくぞ。
島津軍は実際、そこまで強くないだろ。豊臣軍に結局は短期決戦で負けてるし
単に明・朝鮮連合軍が弱軍過ぎただけ
370 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 22:19:03.76
>>369 明・朝鮮軍が弱いって(笑)
その弱い明・朝鮮軍相手に
城に立て籠もってるのか(笑)
>>370 日本が立て籠もっていたのは大攻勢を受けた一時だけじゃん。
それ以外は明や朝鮮もずっと城に引き籠もっていたわけで。
>>370 幾ら弱いと言っても損害0で勝てる訳ないし。如何にして楽に、被害が少なく勝つかが肝要。
朝鮮軍は弱いと断言出来るけど明軍は強いよ
特に封建主義で地方の領主連合の日本の場合、損害の出る大勝利よりも
損害の全く出ない敗北の方が大事だったり訳だし。
だから上からの命令以外では極力戦は避けてただろうし。
日本軍が海岸べりに引き籠もってたまに進出部隊を遠征させていた頃、
明軍は内陸深く引き籠もっていました。
朝鮮にいたっては引き籠もるような大軍が作れませんでした。
きさまらまだうんちみたいなぎろんをしているのか
いすんしんのゆうしょうできまりやろが!
375 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 23:09:55.83
>>373 >海岸べりに引き籠もってたまに進出部隊を遠征させていた頃
わざわざ、日本から大軍(14万〜18万)もの兵力で大挙して
侵略してきていたのにか(笑)
376 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 23:19:08.01
つまり、
日本は負けなければ勝ち
明は勝たなければ負け
って事かな
377 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 00:03:32.98
>>375 その頃は日本軍の過半数が帰国していた時期だぞ
慶長四年予定の再攻勢までの間、城の守備として6万人くらいが残っていただけ
379 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 22:56:49.25
>>378 慶長四年の再攻勢(笑)
慶長二年二月の慶長の役、開戦の朱印状には書かれておらず、
慶長三年二月の朱印状で登場したあの慶長四年の再攻勢(笑)
>>379 >>慶長二年二月の慶長の役、開戦の朱印状には書かれておらず
慶長二年二月二十一の朱印状にも大まかな戦略は書かれてるぞ
仕置の城を普請して帰朝衆を帰国させるなどした後、誘い出されてきた明の主力軍を撃滅してから
明本国まで進撃せよ、という風に
・・・「自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も、大軍ニて罷出、於陣取者、各令談合、
無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事、
案之内候之條、於由断者、可爲越度事。」(立花文書)
あと慶長四年の一大攻勢については島津家文書(A‐978)でも言及されてる
それによると福島正則、石田三成、増田長盛の三人を大将として赤国(全羅道)
の他朝鮮の都まで進撃するなど、計画はかなり具体的な内容まで決まっていたらしい
小早川秀包、立花宗茂ら宛の慶長三年三月十三日の朱印状では
「二年、三年に一度づつ、御人数指し渡され、焼き動きにりやうとう(遼東)境目までも、
仰せ付けられるべしと思し食し」とあり、慶長四年以降も2、3年に一度攻勢を繰り返し、敵を疲弊させ
いずれは明国境まで進撃する予定だったと思われる
ちなみに、こうした奥地に侵攻しては沿岸部に引き上げるヒット・アンド・アウェイ戦略は
文禄2年の時点で既に発案されてるから、君が思うように慶長の役がうまくいかなかったから
戦略を切り替えたというわけではないよ
・・・「赤国(全羅道)白国(慶尚道)令成敗、海手ニ付て取続、御仕置之城々相拵、御人数・兵糧・
鉄砲・玉薬、丈夫ニ入置、年中ニ二度計宛、梁東川(鴨緑江)切ニ押詰、働き被仰付候者、高麗人令退屈、
御手ニ随候ハてハ不叶候」(文禄2年4月17日付加藤清正宛朱印状)
そのあたりは大体ここに書いてるな
https://sites.google.com/site/woruzan/home/bunrokukeichou/keichou-no-eki/keichou-no-eki-senryaku 慶長の役が本格始動する前の朝鮮側記録からもヒット・アンド・アウェイ戦略は確認できるらしい。
豊茂守の発言「六七月間, 大兵渡海, 先撃慶尚、全羅等道後, 還駐沿海, 欲奪濟州。」
豊臣秀吉の諸将への命令「汝等爲先鋒, 躪踏慶?、全羅、濟州等地後, 退兵宜寧、慶州等處屯據, 召募朝鮮散卒遺民, 合我軍, 大作農事, 積峙兵糧, 明年又明年, 漸次奪據, 則朝鮮地方將爲日本之地。」
戦略っていうほどのものだろうか
戦略でないなら何だ
1回で占領できないから何度も出兵してるだけ
日本国内の戦と同じ
文献読めない人の言うことだな
386 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 00:48:08.98
>>383 >戦略でないなら何だ
戦略目標や戦略方法や戦略期間などくわしく
387 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 01:12:35.94
歴史通 2012年3月号
http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/4312166/s/ 古田博司氏によると、秀吉の朝鮮出兵の研究は進んでいて、日本軍の占領地域には李朝の圧政を
嫌った朝鮮農民が大量に流入してきていて城下町が形成され、領地の藩分けまで行われていた。
秀吉の死で撤兵することになっただけで日本が敗戦したわけではないようだ。
そういうことを日韓の歴史共同研究の場で日本人若手研究者が報告したそうだ。
>>386 わからないことは人に聞くばかりでなく、
少しは自分で調べて、自分の頭で考えなさい
>>389 お前が自分で調べて、自分の頭で考えた話をしろw
391 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 23:07:34.72
>>388 へー、秀吉って慶長の役に及んでもまだ明国を征服する
つもりだったんだ(笑)
慶長二年に14万もの大軍で攻めながら慶尚道南岸に倭城
を作って1年以上立て籠もっていたのに(笑)
明の征服には何年くらいかけるつもりだったんだろ。
明の征服には何万くらいの兵を動員するつもりだったんだろ。
392 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 00:12:27.04
資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然倶潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『宣祖実録』
(三路の明・朝鮮軍は共に潰え、人心は恐々となった。)
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。『明史・朝鮮伝』
(7年間の戦争で多大な犠牲を出し、明と属国の朝鮮に勝算は無くなっていたが、秀吉が死んで戦争は終わった。)
明朝鮮が敗北への道を歩んでいたことは確かだな。
393 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 00:24:12.07
>>392 >明朝鮮が敗北への道を歩んでいたことは確かだな。
明国は1569年の時点でも84万人もいたんだ。
常備軍の本来の定員数300万人以上。
三路の戦いで負けたぐらい滅びるかよ(笑)
394 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 00:35:36.10
>>393 現実の明は10万程度の派遣で財政火の車w
だな。84万なら定数の1/4ちょいでしかないw
それも地方の軍閥だのみだしな。そもそも
李如松がその典型だし。
両役通しての明の動員は22万ほどが精一杯
だっけか。
396 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 01:13:21.74
>>394 明国ってこの当時人口1億5千万以上いたんだ。
税率を上げれば財政赤字もすぐに解消する。
豊臣政権が財政に余裕があるのは、二公一民で民衆に重税を
かけていたからだ。
それよりも秀吉が病死せず、もって長生きしていたら、
何年くらいで明国を征服するつもりだったんだ(笑)
また、その為にはどれぐらいの兵力を投入する予定だったんだ(笑)
慶長の役が作戦どうり行ってるんなら答えられるだろ(笑)
>>396 言われるまでもなく明は税率上げまくったから、民心が離反して叛乱が起き、
滅亡したんだろうにw
馬鹿過ぎだろ。
398 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 01:35:55.63
>>397 何、話すり替えてんだ。
豊臣政権はすでに2公1民で
重税により民衆の逃散が天領や
諸大名の領地で相次いでるだが。
399 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 01:37:28.07
それよりも秀吉が病死せず、もっと長生きしていたら、
何年くらいで明国を征服するつもりだったんだ(笑)
また、その為にはどれぐらいの兵力を投入する予定だったんだ(笑)
慶長の役が作戦どうり進行してるんなら答えられるだろ(笑)
真性の馬鹿だなw
朝鮮役で日本の農村が疲弊したと言うことはあったにしても、
重税による農民叛乱で国が滅んで異民族支配を受けたのと、
その他諸々を加味しても単に豊臣家が滅んだだけなのとは
越えられない壁があるだろw
402 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 12:42:23.97
>>399 >何年くらいで明国を征服するつもりだったんだ(笑)
>また、その為にはどれぐらいの兵力を投入する予定だったんだ(笑)
やたらとここに拘る奴がいる。そういう奴は。征服事業が
費やす期間と投入兵力を予め定めて行うものという前提があるようだ
ならば
モンゴルが金を征服するにあたって費やす予定期間と投入予定兵力を答えよ
モンゴルが南宋を征服するにあたって費やす予定期間と投入予定兵力を答えよ
モンゴルが高麗を征服するにあたって費やす予定期間と投入予定兵力を答えよ
清が明を征服するにあたって費やす予定期間と投入予定兵力を答えよ
織田信長が武田氏を滅ぼすにあたって費やす予定期間と投入予定兵力を答えよ
織田信長が毛利氏と戦争をするにあたって費やす予定期間と投入予定兵力を答えよ
織田信長が上杉氏と戦争をするにあたって費やす予定期間と投入予定兵力を答えよ
織田信長が石山本願寺と戦争をするにあたって費やす予定期間と投入予定兵力を答えよ
403 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:56:03.14
>>402 いくら答えられないからって、質問に質問すんな!
慶長の役が作戦どおり進んでるっていうのがお前の
主張なんだろ。
だったら慶長4年の再侵攻についても概要について、
説明できるはずだ。
404 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:04:22.56
あんまり難しいことを聞くと発狂しちゃいそうだから俺の考えを
説明してやる。
文禄の役の失敗や甥の秀次との権力争い。
それに慶長大地震、このような状況でやってきた明の使者からの
日本国王宣下
秀吉にとっては、政権の対面上再出兵しかなかったんだろうよ
405 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:20:27.92
@秀吉は「文禄の役」の破綻を知り、講和撤兵の必要を認識していた。
Aメンツ大事の明国はあくまで「降伏」の名分を要求した。パフォーマ
ンス屋の秀吉には「撤兵」しか受容できない。そこで「自分は知らなかった」
ことにして、行長の責任で「降伏」交渉をやらせた。
B秀吉は「征明」失敗を糊塗する新たなパフォーマンスとして、方広寺に
「秀吉大仏」を造らせていた。
Cところが講和交渉中の1596年7/12夜、「伏見大地震」によって伏見城・
方広寺とも倒壊し、あろうことか「秀吉大仏」は首がもげた。
代替パフォーマンスを失った秀吉は怒り狂い、破れかぶれで戦争再開に
踏み切った。
http://yumiki.cocolog-nifty.com/chrono/2011/01/post-16bf.html
>>403 「征服事業が費やす期間と投入兵力を予め定めて行うものという前提」
がおかしいと
>>402は指摘しているわけだが。バカじゃねえの?
>>405 まったく無関係の方広寺倒壊を無理やり慶長の役と結びつけるのはさすがに無理があるだろ
秀吉が行長に降伏の密命を与えていたなどというのも結局は憶測に過ぎず、裏付ける資料も皆無で説得力に欠ける
その秀吉は明使節に対して高圧的な講和七ヶ条をはっきりと提示し、「出兵目的は明の征服」とまで明言しているわけだが
>>393 常備軍と言っても侍とまともに戦えるのは華北の国境線にいる40〜50万が精々だと思う。
あとは正規軍と言っても当時の戦慣れした日本の百姓一揆より弱い。
南部の明兵は倭寇程度に蘇州を荒らされて南京で戦わざる得ないような状況もあったぐらいだし。
朝鮮兵が何万居ても何の役にも立たなかったのと似たようなもんだよ。
最も、幾ら明兵が弱いと言っても明国の征服なんて明国内で何か特別な反乱でも起きない限り
相当無理のなる話だけどね。
409 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 23:21:59.81
>>393の84万人とか300万人以上とかいう数字はもちろんのこと
.
>>408のいう40〜50万も動員する能力はないよ
明は対ヌルハチ戦のサルフの戦いでも十数万程度の兵力しか動員していないし
その後の対満州戦争でもそんな大軍を動員できたことは一度も無く滅亡する。
秀吉軍が根こそぎ動員かけたとして、250×1500=375000人。
根こそぎ動員かけたなら、当時の動員基準での減免なしで
1万石あたり500人だな。
実際にも、脇坂なんかは3万石で1500人出してるし。
あと太閤検地の総石高が名目1850万石だから、実質2000万石
くらいはあっただろ。
500だと征明までに国内が疲弊するんじゃなかろうか。100万を渡海させて半島監視や日明間の兵站で20万、残り80万を鴨緑江超えさせて明、ヌルハチと戦って渡海から5年で撫順を落とさなければならない
>>412 だから根こそぎ動員の総兵力という想定だよ。
史実でも、西国では朝鮮からの俘虜で農業生産の不足労働力を
賄ってたから、根こそぎ動員では継戦能力を鑑みれば、大東亜戦争
同様で長続きはしないとうのは同意。
でも、征明は秀吉一代では到底無理だっただろうけど、半島南部を
支配した上で屯田兵化して、世代単位(30年スパン)で考えれば、
当時の日本の女真に隔絶した国力を考えれば絵空事では決して
なかっただろうとも思うけどね。
414 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 07:25:01.44
>>406 馬鹿はおまえだろ(笑)
文禄の役ではずいぶん具体的な計画を提示してるんだが(笑)
天正20年(1592年)5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中
を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を
大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした。また秀吉自身は
北京に入ったあと、天竺(インドの古称)や南蛮(ヨーロッパや西アジアまで
を射程にいれていたともいう[36])の征服のために寧波に移るとした。
415 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 07:26:49.14
>>407 じゃあ、なんで小西行長は打首や領地没収にあわなかったんだ。
416 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 12:35:58.62
秀吉の功績は、明に対してはっきりと従属関係を反故にしたこと
唐天竺うんぬんはリップサービス
>>415 木村紀八郎の「小西行長伝」が面白いから読んでみるといいよ
紀八郎氏は欺瞞外交がバレて秀吉の逆鱗に触れた行長が必死に弁明し、
また淀殿や西笑承兌の取り成しもあって処刑を免れる、という従来からの定説は
「朝鮮征伐記」など後世の記録にしか見当たらないことに着目し、
当時の日明朝の一次資料を精査した上で、
「秀吉は最期まで欺瞞外交の全貌を知ることはなかった」と結論付けてる
あと清正と行長が緒戦で先陣を争って口論になったという有名な逸話も
作り話だとか。目から鱗だったわ
418 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 12:27:32.92
>>414 ずいぶん具体的な計画を提示()笑
おまえのお頭ではそれがずいぶん具体的なのかw
どうみてもめちゃくちゃ大雑把で、それが計画といえるのかはなはだ怪しいんだがw
>
>>418 本当に計画的で恐ろしいのは慶長の役になるよね
文禄の頃は正直舐めてたのが上手くいかなかった原因だと思う
最も文禄の役も騎馬民族か信長、政宗みたいに占領地の反抗的な連中を根絶やしにする
徹底性があれば、あれほど兵站の維持に苦労しなかっただろうに。
420 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 02:44:41.12
米韓軍事演習かはじまったな。ワクワクしてきた。
>>417 作り話の紹介乙
史料をよく読むことをお薦めする。
落ちたのが鱗である保証はないからな。
眼鏡の掛け替えにしか見えん意見だな。
卒以飛力致言上候、一昨日漢南勢百万騎至于當表令出張、捫破小西摂津守要害、
既(これとよく似た字。わからない)都近邊進來、輝元先勢小早川、立花等挑合戦、
在勝(貝の上に刀が乗った字)區々也、某雖欲爲助勢、三奉行御停止之旨達而制之、
雖然、於無助成は悉爲討死無疑之、然間不用三人之下知相救、隧(この字の阝がないやつ)
合戦得大利三万八千餘討捕之畢(わからない。これとよく似た字)此旨宜預御披露候、恐々謹言。
文禄二年 正月十七日
備前宰相豊臣朝臣 秀家
安威摂津守殿
↑これ宇喜多秀家が書いた碧蹄館の戦勝の注進状なんだけど、現代語訳できる人いる?
書いてあることは大まかにはわかるんだけど三奉行がどうのとか、細かいところがよくわからない。
あと安威摂津守殿とは小西行長のことでいいんだろうか?
安威摂津守は秀吉の右筆、安威了佐だろ。
文面は、小早川、立花らの先鋒を助成しようとしたが、三奉行が制止した。
しかし助成しないと先鋒が悉く討ち死するのは疑いないところだったので、
三人の下知を用いず協力して3万八千余騎を討ち取った、ってとこじゃ
ないかね。
>>424 >>425 理解できた。ありがとう
しかしこの注進状を見ると「戸川記」にある宇喜多勢戸川隊の参戦は事実だったのではとも思えてくるな
でも先鋒全滅しそうだから助けてやった〜とか三万八千討ち取りとか無茶苦茶書いてあるし・・・
実際は漢城一番乗りを自称した清正みたいに、秀家が注進状でフカしてただけとか?
>>426 そのあたりはなかなか興味深いね。
個人的には戸川参戦は眉唾と思っている立場だけど、実際に戦闘に
参加したかどうかは別として、少なくとも軍目付たる奉行衆の意向に
反して秀家が兵を進めようとしたということはあったのでないかと
思わせるな。
なんとなく、奉行衆から軍令違反的な報告が秀吉に来る前に、実は
かくかくしかじかと先手を打ったような印象がw
宇喜多隊の参戦について上の注進状や「戸川記」およびみんなの意見をふまえて、一つ仮説を立ててみた。
宇喜多秀家がやる気まんまんで兵を進めると、現地では立花・小早川ら先鋒隊が明軍と激戦の真っ最中だった。
秀家も参戦したかったけれど、その頃には先鋒隊が狭矮な渓谷へと明軍を押しまくっている。
碧蹄館周辺の峡谷は全長およそ4キロメートル、幅はおよそ430メートルほどしかなく、
前にいる味方が邪魔となって馬を乗り入れる隙間もない。
(
http://bbs16.meiwasuisan.com/bbs/history/img/13020732430057.jpg)
そこで秀家は重臣の戸川達安に軽装の兵数百人を与え(関ヶ原の合戦における井伊・松平隊の抜け駆けのように)、
三奉行が制止するのも聞かず激戦区に急行させた。戸川隊は山の上を大きく迂回し、
そこから麓へ駆け下りてすでに敗走中であった明軍の追撃戦に参加した。
碧蹄館本戦は正午から午後四時頃まで続いているから、戸川隊が大まわりに迂回しても
終盤の追撃戦に加わることは不可能ではないと思う。
戸川配下の国富源右衛門が明兵と組討したというのもこのときの話であろう。
そして合戦後、三奉行が秀家の軍令違反を讒言する前に、先手を打って
自軍の活躍を大げさに誇張した内容の注進状を秀吉に送った。「於無助成は悉爲討死無疑之」云々は
自軍の参戦が勝利に不可欠であったという、軍令違反に対する言い訳である。
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 20:34:01.51
431 :
日本@名無史さん:2012/03/15(木) 01:06:20.94
432 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 23:10:58.97
433 :
日本@名無史さん:2012/04/02(月) 22:48:19.77
434 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 21:47:43.24
【日本海呼称】イギリス人が韓国紙に寄稿:「韓国の『東海!』主張、本当の理由は反日感情ではないですか?」 ★6 [05/04]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1336132861/l50 歴史と言えば、私は、外国人は「正しい歴史」とか「本当の歴史」を学ぶべきだという韓国人らの説教に
辟易している。「正しい歴史」とか「本当の歴史」とは、実は「韓国人の歴史解釈」という意味だ。なぜなら
歴史というものは自然科学とは違い、いくつかの基礎的事実を除けば歴史上の出来事や趨勢は様々な
解釈を許すものだからである。私は今まで、異なった見解を認める韓国地元メディアを見たことが無い。
韓国メディアのやりかたは、「反対意見など無視しろ。韓国側の主張を復唱しろ」だ。
435 :
日本@名無史さん:2012/05/09(水) 11:34:26.85
436 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 18:48:39.06
>>434 大多数のイギリス人にとっては、日本と朝鮮の違いなど目くそ鼻くそで
日本海の国際的な通称なんてどうでもいいんだと思う
世界の東の端のアジア人同士、まあ仲良くしろよ、って感じ
記事を書いたのは韓国に住み、韓国人と結婚してる親韓イギリス人なんだけど
豊臣秀吉の朝鮮出兵について
韓国側の主張を復唱する
日本の学者
439 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 09:07:21.08
欧米に行くと嫌でも実感させられるのが、「極東」の意味だな。
空港の世界地図でも、日本は見切れんばかりの端っこ。小笠原とかは省略されてる場合が多い。
彼らにとっては日本など北極や南極と同じ。東の最果ての地なのだ。
それがどうした。
日本人にとっては欧米など極東極西なわけだが?
韓国を知らない欧州人はガチで多い
興味の有る無しを別にしても、日本を知らない人は殆どいない
442 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 19:02:57.46
当時の農民というものは、右足と左足を同時に出すという歩き方をして
います。右足と左手を前に出すという、ストライドをとった走り方という
のは、近代体操教育が普及して初めて人民の間に定着したわけであります。
いわゆる時代劇にあります「あの身のこなしは忍びの者だな」というのは、
あれはわれわれの基準でいいますと普通かそれ以下の速さで走っているん
です。
ただし、昔の農民や町人は本当に遅くしか走れませんから、われわれが
一〇〇メートルを一二秒ぐらいのスピードで走ってみますと、まさに飛んで
いるように見えるわけですね。
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20110715/p1
>空港の世界地図でも、日本は見切れんばかりの端っこ
CSの番組で珍しく東アジアを正面に置いたので「おやっ」と思ったら
その地球儀は散弾銃の的でしたorz
日本の地図は西欧を端っこに、オーストラリアの地図は北半球を下に追いやっている。
自国が外国の地図で何処に描かれているかで軽んじられているか否かを判断しちゃう人はマジでアホだぞw
今更だが明への侵攻が目的なんだから朝鮮征伐とかいうスレタイはおかしい
秀吉軍が、朝鮮すら実効支配できなかったのは、ベトナム戦争時代のアメリカ軍の敗戦?とかぶるな。
1.最大の敗因は、補給路の確保に失敗。
2.さらに、現地(韓国)の言葉がわかる人間が殆どおらず、軍政統治に困難をきたした。
3.軍政統治がうまく行かなかったため、虐殺などの行為が加速し、住民反発を招き、朝鮮中で義兵が立ち上がり、
補給路の確保が困難になった。
4.海路による前線補給は李舜臣の活躍によって困難を極め、釜山の物資が前線へ届かなくなり始めた。
5.火砲に優れた明軍の参戦
そも、基本的な状況認識ができていなかった
が抜けている
>>447 秀吉軍の国際的な状況の認識不足は、織田信長時代からの伝統芸だからなぁ。
だいたい織田信長からして、ほとんど運のみで、戦国大名の第一人者になったようなもの。
ライバル陣営が次々に急死したものだから、戦いに決して強いと言えない織田軍が勝ち上がっていった。
今川氏との戦いでは、桶狭間の戦いの数年前に太原雪斎が死ぬという幸運があった。
斎藤氏との戦いでは、斎藤義龍の急死で事態打開をするという幸運。
畿内侵攻は、三好長慶の死後という幸運。
武田信玄と対決することになっても、直接対決のないまま、武田信玄の急死。
上杉謙信と対決することになっても、織田軍が手取川の戦いで敗れたあと、上杉謙信も急死。
織田信長は、度重なる幸運で戦国時代を勝ち上がっていって、自己の実力を過信し、
誇大妄想を抱き、その誇大妄想は秀吉にも受け継がれた。
´ ヾ ファビョーン!!
゛ (⌒) ヽ
|┃三 ((、´゛))
|┃ ||||||
|┃ ≡ .∧_∧
____.|ミ\_<#`Д´>
|┃=__ \
|┃ ≡ ) 人 \ ガラッ
>446
まだ李舜臣による海上補給路遮断とかいうヨタを信じてるヤツがいるのなw
李舜臣が釜山まで攻め寄せたのは、文禄の役の1回こっきりで、
慶長の役では、朝鮮水軍を半島南岸から完全に駆逐し、南海島以東は
終始日本側の支配域だったわけだが。
>>449 お前バカじゃね?
今時信長は運が良かっただけとか言ってる奴は鈴木某の読み過ぎ
少しはもっとまともな本を読めよw
>>451 軍事知識がないのかな?
>李舜臣が釜山まで攻め寄せたのは、文禄の役の1回こっきりで
前線へ物資を供給する海路の補給路封鎖とは、関係ない話だな。
釜山の物資を前線へどう送るかという話だ。
陸路は義兵のゲリラで寸断され、西回りの海路は李舜臣によって、ほぼ完全に止められた。
その結果、豊臣軍は補給が受けられずに戦線の維持が厳しくなった。
ベトナム戦のアメリカ軍のように。
ベトナム戦のアメリカ軍は酒保の腐敗があったが、豊臣軍は目付役と前線司令官の不協和音が
でてきた。双方、内側に癌を抱えてしまったのは、補給不足と戦線の悪化からで、状況は共通点が多い。
>>453 そういうこと。
日本から釜山まで輸送した物資をどうやって前線まで運ぶかという話だね。
陸路は義勇軍のゲリラに寸断され、海路は李舜臣の活躍によって阻止された。
日本から釜山までが寸断されていないから、輸送はできていたなどというのは、
お話にもならないよね。
>西回りの海路は李舜臣によって、ほぼ完全に止められた
ソースは朝鮮ドラマ?
>>456 文禄・慶長の役関連の書籍で、西回りの航路で自由に輸送できていたと書いた本があるのかね。
俺は3冊読んだが、そんな本は一冊もなかったよ。
宗教関連の書籍で悪魔の存在が完全に否定された本があるのかね。
俺は3冊読んだが、そんな本は一冊もなかったよ。
こうですか?ワカリマセン ><
李舜臣などの攻撃に対抗するため、拠点防御に徹して被害はほぼなくなった、って現実は
逆に言うと、拠点を確保出ていない前線への物資輸送は諦めていた、ってことだよね。
>>461 軍事は、言葉遊びじゃないのだよ。
朝鮮の前線には10万以上の秀吉軍がいて、物資を供給しなきゃならんのだからね。
海上輸送は、大量に物資を運ぶ最大の手段。それは現代でも同じだけどな。
さらに、陸路は義勇軍のゲリラで、少人数の輸送部隊は攻撃を受けて物資を奪われる。
豊臣軍の軍政の過酷さから、現地民の反発を招き、ほぼ朝鮮民すべてが敵性に変わり、
膨大な数のゲリラ予備軍が存在という状態になる。
この最悪な状態で、前線への海上輸送を封じられるということは、軍事的敗北に直結する。
事実、豊臣軍は電撃的な侵攻で、朝鮮の官庁の各所に蓄えられていた食料を摂取できたものの
1年後には食料にも事描くようになる。火縄銃の火薬や弾丸にいたっては、釜山からの輸送補給が
前提になっていたはずなので、非常に厳しい状態になったろうな。
文禄の役
秀吉は日本軍勢力範囲の要所に城砦(倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒や大鉄砲を備え、船対船の積極的な海上攻撃作戦から船対陸の水陸防御作戦へ戦術を変更した。
この戦術転換は有効に機能し、以降の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は釜山浦攻撃、熊川攻撃など被害が多く成果が上がらないために出撃回数は激減した。
慶長の役
「鳴梁海戦」で、地理に詳しい李舜臣が日本水軍の一部に損害を与えはしたが、日本の本隊には抵抗できず北方に退却しており、制海権は日本のものとなっている。
当時の朝鮮水軍は陸から離れて長期間活動することができず、後続の日本水軍は質・量ともに強大なため、鳴梁海峡を放棄し、後退した。
続いて日本陸軍は全羅道西岸拠点を次々と制圧し、停泊地を失った李舜臣はさらに後退、全羅道の北端まで退却し、代わって進出した日本水軍は全羅道西岸の制圧を実施、多くの捕虜を得た。
>>463 まるで、豊臣軍が勝ったような印象を受けるなw
残念ながら現実は、日本軍は陸海から補給路を絶たれて、陸軍は補給物資に欠乏して戦線を縮小した。
そして、豊臣秀吉の死後、朝鮮から撤退するはめに陥ったわけだ。
もちろん戦況が有利なら、わざわざ撤退などせず、出来れば朝鮮全土を、少なくとも朝鮮の半分程度は
占領して、出兵した大名たちが保有したかったろうが、それもできないほど戦況は悪化していた。
>>463 慶長の役の最後、露梁海戦で日本海軍は負けた。
日本軍は、500隻を出陣させ、200隻を失う大敗をしている。
Wikipediaで書いている日本びいきの素人記者だけは、勝敗は疑問符だと書いているが、
上垣憲一など、ほとんどすべての教授(逆のことを書いた書籍は読んだことがない)は、
日本軍が大敗したと書いている。
>>465 >Wikipediaで書いている日本びいきの素人記者
彼は軍事知識が乏しいのか、補給のことを全く理解せずに、文禄・慶長の役の出来事を
Wikipediaで書いているな。一生懸命書いているのは認めるけど、軍事の基本ができていないから、
的はずれな推論が多い。
露梁海戦って講和結んで撤退中の日本軍に
不意打ち食らわして起こったんでしょ?
それで大将2人も戦死させるとか明と朝鮮はバカなの?無能なの?
468 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 11:57:51.45
そりゃまぁ明や朝鮮にも馬鹿や無能の者もいるだろうさ
でも優秀な者もいる
このスレにいるアンチ豊臣が馬鹿で無能なのは事実だがw
>>467 小西は城から撤退する際に講和を結んだだけで
一応戦争状態はまだ続いてたからね。
だからまあ「正式に日本と明が和睦を結んだ」わけではないのよ。
まあ、どの道追撃戦で大将2人も死なせるとかどうなの?ってことに変わりはないがw
>>470 一次資料も何も、日本軍は豊臣秀吉の死後、朝鮮を半分でも占領し、領国化したのかねw
占領し続けたというなら、3次資料でも良いからソースプリーズ。
統治者が死んで、後継者が幼少で誰が今後国内を仕切るのか
ろくに決まってない状態で現地に居残り続ける方がどうかと思うんだが。
>>472 >現地に居残り続ける方がどうかと思うんだが。
「居残り続ける」という表現は、ぴったりで、領有化に程遠い状態だった。
民心は得られず、物資は欠乏し、戦線は縮小せざるを得ず、まさに
>>464の通り。
話がループしたね。
474 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 14:45:44.55
>>473 そもそも慶長の役のころには朝鮮人の民心は得ようとしてないし
別に得なくても、秀吉がもう少し長生きするか、成人の豊臣後継者がいれば
朝鮮南部は実行支配出来ていた
>>474 民心を得ずして統治できるほど、現実は甘くはないよ。
特に当時の貧相な武器では、なおさらだ。
現代戦ですら、ゲリラの続出するアフガンではアメリカ軍が手こずっているのが現状。
>秀吉がもう少し長生きするか、成人の豊臣後継者がいれば朝鮮南部は実行支配出来ていた
不可能だな。民心を得ていないから領国化できず、税収も上がらない。
ループというかまさにスレの最初の方の話題をループしてるな。
>>476 ループになるということは、的はずれな質問のせいだからなぁ。
華夷秩序下において日本の将軍の代替わり毎に使節を派遣する朝鮮は東アジアの国際序列で敗戦国である事実は否定できない
朝鮮寄りの日本人や韓国のドラマが事実をどう歪曲しようとそれが事実
都合のよい小説・妄想で歴史的な事実を変造して朝鮮マンセーを繰り返しても無意味だということを
どうしても理解できない頭の可哀相な奴が細切れのレスを集中投下しても事実は覆らない
>>479 当時は、日本から朝鮮王朝に何度も使節を派遣していたのだけどな。
九州や対馬の大名たちが、通商を求めて。通商には朝鮮王朝の認可が必要だからな。
そして逆に朝鮮王朝は、日本に使節を送らなかったから、10年経っても足利義昭が死んだことすら知らなかった訳だ。
話をすりかえるなよ
秀吉以降で朝鮮国王の代替わり毎に日本側が使節の派遣を求められたのか?
戦争後の日本と朝鮮の係わり方を当事国や周辺の東アジア各国がどう評価していたかにレスは限定してくれ
>>479 おいおい、日本は15万からの兵を出兵して数万の兵を失い、領土を獲得できず、
帰国することになった。それで勝ったとか言っても、じゃあどこを領土にしたの?ということだよ。
文禄・慶長の役に敗れた豊臣政権は、内部分裂し、倒れたしな。
領土も得られず、政権まで倒れて勝ったといえば、朝鮮人並みの嘘つきになるなw
>>473 いや、だからそういう意味じゃなくて
これから故郷にある自分の領国もどうなっていくか
わからない時期に異国の地を統治し続けるアホはいないでしょ。
へんにがんばって、戦功をあげて朝鮮の土地なんか押し付けられても
代わりに日本の土地を取り上げられたら「何の罰ゲームだよっ」ってことになることは諸将に周知されてるしなw
だったら既存の土地を取り上げられない程度に程程の戦争をしようってのが人情ってもんだ
>>485 統治できていたら、異国の地ではなく自領になっているのだよ。
自領になっていたら、土地を与えられた家臣は収穫があり、それが生活の糧になる。
当然、末端の家臣にとっては、その土地が全財産にほぼ等しいということもありうる。
それを放り出して、帰国なんて言うことはありえないのだよ。
最低限でもその自領を守るために、戦力を残す。守れると判断した時にはね。
・・・これは一般論で、実際には、戦力維持は出来る状態ではない(
>>464)し、
統治できていなかったから自領化もできておらず、収穫も上がるような状態ではなかった。
つまり、朝鮮への駐屯は、戦力と物資の浪費が激しくどうにもならない状態だっから、
消耗を避けるために逃げ帰ったという感じだな。
>>486 何年もの間、朝鮮の土地で戦い、多くの戦友を失い、得るものが少ないよりは、
朝鮮の土地をもらったほうが良いよ。
もともと、日本は、朝鮮の土地、明国の土地を得るために戦争を行ったのだからね。
>>454 守る側としては、どういう形でも追い返せば勝ちなわけだからねえ。
個々の戦闘では負けばかりで、戦死者数では大きく相手を上回ったとしても。
もしも戦死者数で勝ち負けを決めるとしたら、どういう結果になるだろう?
491 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 23:08:29.76
>>489 では、モンゴルのヨーロッパ遠征はヨーロッパ勢の勝利ということですか。
>>491 そうだね。
ベトナム戦争ではベトナムがアメリカに勝ち、太平洋戦争では
アメリカが日本に勝ったから強さの順番は
ベトナム>>アメリカ>>日本
となる。
そうだ
>>465-466 そう思うなら直接ノートでそう提示して
一次史料提示しつつ編集すりゃいいじゃん
495 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 08:16:35.69
>>494 出来ないから(一次資料提示)、ここで印象操作してるんだと思う
>>492,493
君たちが軍事音痴なのだけは良くわかったw
それならどっちが勝ったってどうやって決めるんだよ?!
498 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 03:18:46.92
戦術的には殆どの戦場でワンサイドゲームだった日本の勝ち
戦略的には最終的に日本を撤退させた明の勝ちでええやん。
秀吉は最低な奴だ
500 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 18:36:29.45
500get!
501 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 22:54:53.80
仮道征明なう
502 :
金柑食:2012/05/30(水) 23:37:38.70
>>498 あの戦いで明に戦略などというものがあったのかいな。
>>502 戦略:日本軍を朝鮮半島から追い返す
結果:日本軍を朝鮮半島から追い返した
よって、明の戦略目標は達成されたので、戦略的に明の勝利
なんかwikiで雑賀衆みてたら
雑賀孫市の嫡男といわれる沙也可は、加藤清正の配下として文禄・慶長の役に出陣したが、
渡海後すぐに祖国を捨てて朝鮮側に付き、多数の同胞を殺害し、雑賀衆が産んだ売国奴としてその歴史に大きな汚点を残した。
って書き込まれててワロタw
沙也可はいつの間に孫一の嫡男になったのか・・・
505 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 23:01:38.58
沙也可「あたしって、ホントばか」
506 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 01:00:23.73
>>504 > 渡海後すぐに祖国を捨てて朝鮮側に付き、多数の同胞を殺害し
やっぱり↑みたいに昔の人だって、正義感が強い人いたんだよな
戦う時だって「更生して俺達の元に来るか、何もせずこの場(朝鮮)を立ち去ってくれ」って
念じながら戦ったと思うよ?
悪の秀吉とその政権がその後長続きしなかったのも分かる気がするね
( ´,_ゝ`)プッ
強さランク
S 天才李舜臣提督
A もうちょい頑張れ李如松
B ゲス島津、鬼畜加藤
C 詐欺師小西
D その他、有象無象倭将
下司に討ち取られちゃウリナラ的天才も形無しだよなw
サッカーでブラジル代表に日本代表がまぐれで勝っちゃう事がごく稀にあるだろ
まさにアレだよ
誰も日本代表がブラジル代表より強いなんて思わんよね
∩___∩ |
| ノ\ ヽ |
/ ●゛ ● | |
| ∪ ( _●_) ミ j
彡、 |∪| | J
/ ∩ノ ⊃ ヽ
( \ / _ノ | |
.\ “ /__| |
\ /___ /
詐欺師小西って韻ふんでるよな
513 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 02:13:15.42
小西行長も国内での戦は華々しい戦果少なかったけど
明朝鮮軍相手には大活躍だから
やっぱ支那チョンは弱かったんだろう
514 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 10:14:27.99
同じく国内では賤ヶ岳以外特に武功が無かった加藤が無双してる時点でお察し。
加藤は国内でもそれなりに武功上げてるよ。
どっちかというと一番乗りとか一騎打ちみたいな個人戦が多いけどw
四国攻めで三津ケ浜城や道後城を攻略してるし
天草でも結構大規模な城攻めやって一揆勢を鎮圧してる
>>502 日本を追い出すために、秀次事件を引き起こし、加藤清正を失脚させ、
まさに明の知略の大勝利なんだけど。小西行長、石田三成のラインを
買収したことが、明の勝利の最大要因。
逆に、石田三成も明に一方的に利用されていただけではなく、上手く
繋がりを利用してほぼ無傷で朝鮮半島から撤退した。
明厨が涌いてるのかw
>>515 加藤も小西も大軍ひいきいるようになったの朝鮮征伐くらいからなのに(天草一揆で率いたのは1000とか2000ぐらい)
そんな経験も浅いぺーぺー指揮官に負けまくりの明・朝鮮武将は無能すぎる
519 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 18:52:48.60
>>516 琉球から時々刻々、情報も仕入れてたしね
薩摩の義久などの留守衆も明とつるんでいたのが実相じゃないかな
んで、薩摩の渡海を遅らせ、派兵兵力を減らすことにも成功したという感じかな
秀吉の出兵自体は止められなかったにしろ、
明李如松による迎撃も、日本勢が半島全土に散らばり
進撃が停止する最適のタイミングで
行われてるし、
碧蹄館の失敗さえ無ければ、鮮やかな反撃となっていた筈
いかにもジサクジエーンにしか見えないやりとりだなw
このころの中国はマジで東アジア世界の中心で(というより、この地位を中国から
日本が奪ったのは明治以降)、中国は文明で周辺は東夷に過ぎなかった。先進
地域だから、知恵で勝負できる。実際に周辺蛮族は智謀に引っ掛かってボロボロに
なるケースが多い。
日本の場合、それは秀次事件であり、加藤清正失脚である。智に優れた中国人に
こっち側ではボロボロにやられている。
清正は兎も角、秀次事件を三成が主導したんなら
なんで秀次の遺臣は三成に最期まで仕えてるんですかと。
そもそもこの手の三成奸臣エピソードの9割以上は江戸時代の創作だからねえ。
>>518 千人以上率いて戦ってるならもう立派な大将だろ
天草一揆も清正、小西行長、有馬晴信、大村喜前ら総勢一万が戦った結構規模の大きい合戦だし
(相手の天草勢だって志岐城だけで二千人はいた)
小牧・長久手、四国征伐、九州征伐、天草一揆と順調に指揮官としてのキャリアを積んできた清正が
経験も浅いぺーぺー指揮官だというのはどうかと思うぞ
(`・ω・´)日本は北朝鮮と韓国にごめんなさいしないといけないよね!
ごめんねスムニダ
AKBだれが1位になった?
バレー見てて見逃したわ
指原
529 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 17:32:32.79
朝鮮で明軍を撃破出来たとしても、
明本土に入るまでに、
新手が出てくるから無理なんじゃないの?
徴兵制があるわけじゃないからそう簡単に補充できないか。
530 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 23:13:14.86
>>520 でもその碧蹄館の大敗で朝鮮人にも目に見えてわかるくらい
李如松がチキン化したんだよなwww
531 :
日本@名無史さん:2012/06/20(水) 13:26:58.51
>>529 いや、それは絶対ないんだ。
もう明はその前後史みればわかるけど、もう政治上余力は完全に消失してる。
そして半島は遼東を迂回して、渤海回路で、北京まで直通し、いわば、万里上を海上から迂回する数少ない通路
なんであそこがもう防衛ラインで
決壊してしまうと、一気に中原山河にはいれてしまうため、即決壊する。
それは完全に敵が自覚してた。あそこがくだければ内部崩壊するのはわかるし、歴史の常。
で最後、明は弱くなって、万里に氾濫鎮圧のために、満州要れるだろ。
そしたら即崩壊した。
532 :
日本@名無史さん:2012/06/20(水) 13:31:27.11
いわゆる重要なのは、シナは常に、まぁ1500年前から。
黄河、長江、大運河
に囲まれた、デルタ地帯システム。あのデルタ地帯が中原
そして成都、開封、北京、で囲まれるが長年のシステムだったの。
そして周辺に、上都、ウランバートル、ピョンヤン、
があり、そこのどれかをだつうして、万里をこえたら、即決壊する。
そしてその万里ないは、ぶっちゃけ周辺の安定もむずかしい地域で、ようは簡単に
なだれ込み、首都制圧など容易。 これはもう通説的事項でシナは普通に知ってた。
むしろシナ史においてしらぬほうが馬鹿。つまり中原にはいられたら解体する。
そして当時まだ、上海、チンタオという福防衛しすてむはなかった。
つまりピョンヤンの完全歓楽は死を意味する。そしてほぼ勝てないと自覚してた。
533 :
日本@名無史さん:2012/06/20(水) 13:34:38.45
まぁ、現実には、
半島は未開といか、ほぼ開拓すらおこなわれず、凶作地域、あんな場所はもはや価値がない。
明そのもの、元も都市、産業規模が小さい。
城砦、都市区画は当時の大阪以下、金融、産業も大阪から見れば、地方都市
そのため、利益メリットはほぼなし。
また未開で、疫病が蔓延し、スラム難民が蔓延してる。
元のベースの工業生産、産業価値はごみなのに、人口飽和、だからメリットなかった。
また当時、シナは輸出属国として利用価値あっても、輸入消費は輸入コストで効率悪くむかなかった。
以後清もすでに18世紀レベルですら、もう実質暫時経済属国となるほど、経済弱かった。
だからもう軍事弱く、しかも通商の相殺上、経済が赤字で弱いので話しにならない。
よって
『倒せたが、メリットない』で終了
534 :
日本@名無史さん:2012/06/20(水) 13:41:18.93
軍事状況の説明としては
日本 一次軍 隼人軍 5万
輸送兵糧軽く100万以上 資金100万両以上余剰 物資武器100万人分
しかも当時日本は戦争体制用、常に年次数十万トン以上戦争物資のため食料が余剰してた。
よって内戦ない状態なら、常に戦争できるほど、食料、物資があまってた。
つまり『10年戦争しても大丈夫』
『軍産複合消費のため、戦争して』状態。よって余剰は無限。
明 半島派兵軍 ほぼ全軍の7〜8割 金借金50万両 武器粗悪50万程度 派兵50〜100万
という状態で、もうアップアップ
そして中継中枢の地点は
北京ー渤海ー陸路遼東ー万里の無限壁ーぴょんやんーソウルー 日本対馬ー福岡?−橘領相当
海路 黄海
という方式で、実質海路をつかえば、ぴょんやんの先はほぼ北京で決壊状態。
以後点線そのたなどほぼ不可能で、アウト
という状態である。これは当時あっちが自覚してた。もはや金融、生産、派兵余力で圧倒
535 :
日本@名無史さん:2012/06/21(木) 01:52:18.87
>>532-534 すまないが、よく推敲して日本文としての体を整えた上で
誤字脱字を完全に無くしてから、無駄に口語体を多用するのを止めて再投稿してくれないか?
今回はとりあえず
>>542-534はリジェクトしとくから。
>>535 この人は小文字っていう気象条件だから
無理だよ
537 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 08:38:03.51
♪ウリたちが キムチ臭いのは 秀吉のせいニダ アイゴ〜
538 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 20:36:04.18
秀吉はフリーメイソンの会員だったのかもしれない
李舜臣と李如松が最強の李を決めるためにMMAルールで闘ったら、どっちのが強いすかねぇ
李書文が圧勝
541 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 01:37:01.91
朝鮮出兵は秀吉の最後の政治的博打だったのだろう。
後継者は幼年で、そして譜代の老身達もいない秀吉の本当の敵が家康だったのは明らか。
本当はなんとかして家康を送り込んで、背後から糧道を断つなどして亡き者にしたかったのだろう。
あるいは、出征拒否としたとして後で問責し減封する事もできる。
明の当時の記録にはこの「倭乱」は非常に小さく扱われている。
なぜならこの国の常で、外側からの蛮族の侵入は日常茶飯事であったためだ。
明はその軍備を沿海州と内陸の塩税に頼っていて、逆に言えばここさえ無事なら何十年でも戦争できた。
秀吉は国の兵站たる税収に関して非常に敏であったから、はじめにこの部分を調べていたはずで、
また、中原以南の歩兵よりも以北の傭兵騎馬が最大の障壁になる事も解っていただろう。
明を征服するのは事実上、自分が存命中には不可能である事を理解していたはずだ。
政治基盤の弱い秀吉は、正攻法では家康にいずれ逆転される事を悟っていた。
とにかく戦争さえしておけばいつかチャンスは訪れる。
戦地がいかに荒廃しようが、その後、征服地が使い物ならなくても知った事ではなかった。
秀吉が敗北したのは、明でも朝鮮でもなく、家康なのである。
542 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:33:54.70
戦国オールスターで攻め込んでも寸分も領土切り取れずにぼこられて逃げ帰るなんてジャップは弱いなあ
そうなんだよな。寸土すら捨てて撤退ってあり得ないよな。
よほど、大名達の厭戦気分が強かったのだろうか
あれほど戦役を通じて終始優勢だったのに。
六年半という期間、日本軍は大規模な軍事行動を二度起こしたが、彼らはこの中で殺戮と破壊のみに終始した。
日本側の地上軍は、その大部分の戦いで勝利し、朝鮮半島地域の大部分を席巻した。彼らはほとんど敗れることなく、
多くの将軍が子孫末代まで続くほどの名声を得た。
こうした観点から見ると、 日本軍が起こした戦争はイピロスのピュロス王やハンニバルが起こした戦争と似たところがある。
ピュロス王やハンニバルともに、彼らが起こした戦争を通じてイタリア半島の広い地域を荒廃させ、
ローマの主導権を脅かし、ほとんどの戦闘を勝利に導いた。しかし結局、戦争そのものには敗北した。
一方、日本と彼らの間には異なる点がある。ピュロス王やハンニバルを倒した相手はローマであり、
その後ローマはギリシャを征服してカルタゴを破壊した。
一方、朝鮮や中国は、日本による征服は退けたものの、戦争に勝ったとは言いがたいのが実情であり、
再び戦争以前の状態に戻ったのである。
・・・ウィレム・ブート オランダ、ライデン大学日韓言語文化学科教授
つか、朝鮮征伐は理由がわかったわ。
これもう明らかに元寇前後以降の
・朝鮮海賊の叛乱、テロ拡大
・蛮族酋長 李成桂(最後足利に叱責され、日本と戦ってわならないという遺言残して死んだ人)の侵攻計画
・明白すぎる明、朝鮮の海賊 拡大かいぞく
・明、朝鮮の侵攻威力準備 危険外交と常時侵略準備
に対する征伐、制裁、懲罰行動としておこした戦争だ。
この戦争は
明、朝鮮征伐、懲罰戦争である
もうあからさまにあっちがわるく。
・信長など三傑は戦国、戦乱原因となった勢力、諸大名の排除をかかる。
・戦国の理由のひとつは、明らかに元寇以降の明朝鮮の侵攻、海賊自体、侵攻準備と知ってる。
・その排除のための懲罰戦争である。
むしろ理由はあからさまで
明記 そして清の学者も会戦、懲罰理由を知っていた。
ハハハ、ユニークな説だ!
548 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 12:39:16.61
倭猿と女真、何故差がついたのか。
軍事力、民族の優秀性の違い。
549 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 15:49:28.27
明が日本軍の対処に追われてるからヌルハチは明に介入されることなく国を統一出来たし
そもそも女真だって何十年もかかってるし、明を滅ぼしたんじゃなくて
明滅亡後のゴタゴタに乗じて中国大陸の支配者になれたわけでして。
あと朝鮮みたいな不毛地帯通らなくていいっていうのもあるなw
明滅ぼしたの
努爾哈赤じゃなくて李自成だしな
551 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 18:55:59.18
そう言えば、豊臣家ほど綺麗さっぱり血統を残さなかった家って
日本史では珍しいのではないのかな。
まず、姉ともだが、秀次の血統は徹底的に根絶やしにされたし、秀次の
2人の弟も子孫を残さなかった。秀吉の子孫も完全に消えたし、秀長、
朝日姫も子孫を残さなかった。
ついでに、豊臣の姓も大阪の陣以来一度も復活していない。明治維新でも
一時期豊臣性を名乗った木下姓の者は木下のままだったし、羽柴姓は
現れたが豊臣性は現れなかった。平民苗字必称義務令でも名乗る者は現れ
なかった。また、有名姓が異常に増えた創氏改名で、例えば赤松姓の殆どと
(四職の赤松家は黒田孝高によって根絶やしにされている)、藤原姓の大半が
在日又は朝鮮系とされているが、そんな彼らですら豊臣だけは決して名乗らなかった。
>藤原姓の大半が在日又は朝鮮系とされている
朝鮮人が何故か藤原姓を好んでいることは分かったが
他は何を言っているのかさっぱり分からん…
氏なのか姓なのか明治に廃止された氏制度がなんたらとか…ワケワカメ
途中で戦争継続を諦めて帰っていった日本軍の方が
朝鮮が泣きながら降伏するまで全土を蹂躙した元軍や清軍より
何で朝鮮に与えた損害が大きかったことになっているんだ?
>>555 昔、翻訳掲示板で同じことを韓国人に質問したことがあるよ
元や清よりも、秀吉がもたらした惨禍の方が大きいと断言してた
あと元には支配されていたわけじゃなく、対等に近い友好関係だったんだとさ
話しても無駄だと思ってそれ以上は聞かなかった
元と高麗は四十年も戦争やったはずなんだが
>>556 まぁ、学校教育で、元朝廷では韓流大ブームだったニダ、とか教えてるしな。
野蛮人と見下していた蒙古族や女真族にこてんぱんにやっつけられて
支配下に入ったことを認めたくないんだろね。
大明出兵って名称変更しないの?
ろくに到達していないのに恥ずかしい
仮道征明
★★★ 韓国は世界最大の売春輸出大国(嘲笑) ★★★
韓国政府が5月末に発表した報告によると、海外で売春に従事する韓国人女性は
8万人に達することが分かった。
中国国営通信の新華社は16日付で「8万人のうち5万人が日本で『活躍』している」
とし、売春婦の多さに日本では嘲笑の対象となっていると報じた。
韓国は1988年、ソウル五輪の開催にあたって、風俗業の取り締まりを行った。
韓国メディアによれば、「風船の一部をつまむと別の部分が膨らむ」ように、
韓国政府による国内の売春規制強化が海外の売春婦が増加する一因となった。
記事は、「韓国政府は2004年に「売春特別法」を制定、国内のマッサージ店を
一斉摘発した。 韓国人にとって日本はノービザで入国できるため、売春婦たちは日本に
目を向けた」と報じたほか、 慰安婦問題を取り上げたうえで、日本で
「韓国人は自らすすんで売春を行っており、 慰安婦問題は韓国人のでっち上げ」
と嘲笑の対象となっていると報じた。
フランスのTV局「Direct 8」の料理紹介「UneTable dînant Mondiale」が、
1月に放送した韓国料理回が、韓国料理を的確に評価していると話題になっている。
番組冒頭で代表的な韓国料理として「キムチ」「焼肉」「ビビンバ」が紹介されたが、
各料理について仏国内で街頭アンケートを行った結果、以下の様に評価された。
「キムチ」
・辛い ・生ごみ臭い ・ヨーグルト(乳製品)が腐った味がする
「焼肉」
・料理ではなく調理法 ・彼ら(韓国人)は屋内でBBQをするの
・ソース(付けダレ)の味しかしない
「ビビンバ」
・彩り綺麗なのにかき混ぜるのが気持ち悪い
・温かかったり生温かったり、料理として可笑しい ・これはパエリアだ。
全般を通し韓国料理は批判され続け、最後は「韓国料理は原始的。料理とは呼べない。」と評価され番組が終了した。
【本名が判明している著名人】
都はるみ(李春美) 和田アキ子(金現子) 沢田研二(李研二) 安田成美(鄭成美)
マッハ文朱(李文朱) つかこうへい(金峰雄) 岡本夏生(李夏生)
大山倍達(尹泰植) 力道山(金信洛) 岩城滉一(李光一) 西城秀樹(李龍雄)
ジョニー大倉(李雲煥) 立原正秋(金胤奎) つかこうへい(金峰雄)
新井将敬(朴景在) 宮下順子(金英姫) 新浦(金日融) 田中麗奈(鄭麗奈)
池田大作(池大作) 土井たか子(李高順) 筑紫哲也(朴三寿) 本多勝一(崔 泰英)
佐高信(韓吉竜) 福島瑞穂(趙春花) 香山リカ(金梨花・通名:中塚尚子)
在日たちは占領した一等地で事業を始めました。
それが「パチンコ」です。 今でもパチンコ業者の8割は在日です。
パチンコは30兆円産業。何と自動車産業よりも規模が大きいのです。
パチンコ業界は脱税と、北朝鮮への送金で知られます。
「日本のパチンコがある限り、我が国は安泰だ(金正日)」
日本の政治家にもパチンコの金が流れています。
だから「パチンコ、パチスロはギャンブルではない」等という馬鹿げた論理が
まかり通っているのです。
強制連行は確かにありましたが、戦後ほとんどの人は半島に帰国し、
日本に残ったのはたった275人だと確認されています。今、いる在日は
そのほとんどが密入国者でした。 ソフトバンク孫正義さんのお父さんが、
手記で事実を述べています。
彼等在日は、教師になり、教育現場で日本人は悪い事をしたと捏造歴史を学童に
洗脳して、学童が大人になっても、寄生しやすいように工作しています。
日本人の良心を利用し、韓国人は寄生しているのです。
>>566 公職選挙法を読みなおしてから出直しなさい。
本当のことが混じっていても政治家を混ぜた瞬間信ぴょう性がなくなるから。
人に信じさせようと言うんなら、そのぐらいの努力はするように。
568 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 10:45:15.20
569 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 12:06:32.49
>それが「パチンコ」です
そのパチンコも
正村竹一の正村ゲージで大成出来たのだよね?
秀吉って父方の親戚はいなかったのかねえ?
>>570 いない。母方(加藤、福島など)、ねねさんの側(杉原、木下)は残っているのにね。
ちなみに、秀吉の父方の血統は綺麗さっぱり消え去ったので、天下人の割には
不明点が多い。恐らく秀次事件で殆ど絶滅させられたと考えるのが自然だろう。
572 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 16:23:03.67
いまの日本の「ていたらく」をみると、
朝鮮征伐に乗り出した秀吉は、さすがに立派な武将だったな
秀吉は韓国に侵略した結果、大敗、滅亡した
日帝は韓国に侵略した結果、大敗、滅亡した
独島に侵略を企てる倭奴は早晩滅亡するは必定
ってか、もう包囲網作られて袋叩き状態w
574 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 17:12:44.02
秀吉は、ルール無用の戦国時代を統一した男だけに、まず度胸がすごい
朝鮮征伐でも、朝鮮の後ろには宗主国の「明」がいるわけで、
それでもお構いなしに、船団に武士を山盛りに搭載して送り込んでしまう
すさまじい行動力だね
朝鮮を征服して、日本の武将たちに切り与えるとか、夢がある
575 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 17:16:23.11
野田とか、東大出のエリート官僚たちにも見習ってほしい行動力
行動してまた滅亡するわけかw
>>574 ちゃうだろ。明征伐の前座に朝鮮を潰すつもりだった、情報の収集と分析の甘さが問題。
578 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 22:23:49.41
なぜ朝鮮人だけが私営賭博場を開けるんだ?
客がUFOキャッチャーの景品をオクで捌くのは勝手ニダ
580 :
日本@名無史さん:2012/08/20(月) 14:27:09.28
朝鮮征伐は不可能ではないと思う
今の韓国政府より、日本が統治したほうが、
韓国の国民にはいいよ
北については、言うまでもない
583 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 04:48:31.90
584 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 04:55:26.40
586 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 15:16:57.20
えっ??朝日新聞がK-POPに「オワコン」宣告 ネットでは
「社旗罵倒の報復か?」の声www J-CASTニュース 9月6日(木)
島根県の竹島問題を巡って日韓関係に緊張が続く中、朝日新聞がK-POPブームの陰りを
伝える記事を掲載した。ネット上では「K-POPが朝日新聞からも見放された」と
話題になっている。
2012年9月5日付けの朝日新聞朝刊文化面に「K-POP 食傷ぎみ?」という記事が
掲載された。「K-POPブームに陰りが見え始めた」という書き出しで始まっている。
■「近いうちにブームは終わる」47%、「すでに終わった」25%
記事によると、日本デビューした主なK-POPグループは2011年が15組で
2012年は8組。オリコンデータを基にデビュー作の初週売上げを集計したところ、
2011年の平均3万7000枚から、2012年は1万8000枚に半減したという。
韓国コンテンツ振興院日本事務所は「市場は飽和気味」とコメント。ブーム収束を
見込んでアルバムの駆け込み発売を検討する、逃げ切り態勢のレコード会社もあると
している。
さらに8月15日から20日にかけ、朝日新聞の会員サービス「アスパラクラブ」を
使ってアンケート調査を実施。30〜60歳代を中心に3164人から回答があり、K-POPに
関心が「ある」と答えた人が29%に対し、「ない」は71%。関心度の変化については
「薄らいできた」が18%で、「高まってきた」の9%を上回った。
これが1番効果あるけど誰も報道しない、ホントにヤバいからwwww
レアバスは精度が高く、レアアースと違い日本からしか輸入できない。
これがないと韓国企業は製品が作れない。つまりパンクするwww
この事実を日本の新聞はまったく書かないし、韓国民にも知らされていない。
日本の議員のなかに多くの利権議員がおり、このような事実を公にしない。
韓国への効果的な制裁は何か 渡航自粛や投資制限、そして韓流、
K‐POP禁止も
■韓国製の電化製品買わない、キムチを食べない…
韓流ドラマに出演する韓流俳優やK‐POPアーティストの来日禁止など、
韓流ライブや日韓の文化交流イベントの中止を訴える声もある。
韓流ドラマもK‐POPのスターたちもテレビで見ない日がないほどだが、
韓流俳優のソン・イルグクが竹島への遠泳リレーに参加した際には、BS日テレと
BSジャパンは予定していた韓流ドラマの放送を延期した。
テレビ局側が事前に視聴者の「反韓感情」に配慮した結果、「見合わせることにした」
ものだが、こうした「韓流スター」は、いまや韓国の「輸出品」のひとつだ。
韓流イベントはかなりの割合で延期や中止に追い込まれる可能性がある。
韓国への経済制裁についてはネット上でも、韓国旅行を控える、韓国製の電化製品を
買わない、キムチを食べない、韓流ドラマを見ない、K‐POPを聴かないなど、
「日本人が自らできることをやろう」との呼びかけがみられる。
つーか、日韓貿易は基本的に日本の大儲け。
韓国が輸出すればするほど日本の部品や特許を使うから、
韓国が儲ければ儲けるほど日本はもっと儲かる。
その割に多くの日本人の所得が下がり続けているのは何故だべ
部品輸出で儲かってもそれをはるかに上回る規模の完成品市場でその韓国製品が日本製品を駆逐してるから。
1万円の韓国製品があってその内3千円分の部品を輸出しても完成品を1万円で売られてその分、同一ジャンルの
1万2千円の日本製品が売れなければ完成品を売ってる企業にとっては売れなかった製品、1万2千円丸々の損。
部品メーカーは3千円のプラスだが日本にとっては差し引きで9千円の損。
韓国との貿易黒字が有るから韓国に対する経済制裁に反対とか言ってる奴らは目先の儲けしか見えない近視眼者か
スパイか売国奴。
文禄の役で加藤清正が漢城入城の日時を一日早めて報告したのって
別に小西の一番乗りの手柄を横取りするためじゃなくて
日本と朝鮮の暦の違いからくる報告ミスだったらしいね
ソースは「秀吉の軍令と大陸侵攻」
>その割に多くの日本人の所得が下がり続けているのは何故だべ
まるで韓国の労働者が日本より潤っているかのように読み取れるが?
最近は先進国(韓国も含めて)の労働者はみんな苦しいよ
日本はその中では一番マシ
三星も現代もそうだけど、利益率の6〜7割が国内からって物凄い状況。
三星電子の利益は1兆円!日本の大手家電メーカー全てを合わせても勝てません!
ってマスコミが嬉しそうに報道してるけど、1兆円の利益のうち6〜7千億が韓国内から得てる。
世界での三星の家電の営業利益率は2〜5%程度、韓国内での三星の家電の営業利益率は30〜40%
(韓国内での売上高は2兆5千億円、海外で10兆円)
家電メーカーが三星とLGしか居ないからカルテル組んでボッタくり出来る。
国民も愛国恨日で日本自動車、家電なんて全く売れない
因みに日本は過当競争で国内で赤字、赤字分を海外を埋め合わせるって構造が常態化してる。
そりゃ利益率で韓国家電に勝てる訳ない。ただし、それはそれだけ日本国民が
質のいい商品を安く買えてるって事だし、逆に韓国国民は質の低い商品を高値で買ってるって事になる。
スレタイも読めない馬鹿が大量に涌いてるのはなんでなんだぜ?
ネトウヨはマジ基地だからな
>>592 むしろ完成品の方が規模は小さい
日本の場合輸出品の内最終消費財は17%ほどで、残りは部品や工場設備だったはず
朝鮮半島に長居した大名がみんなホームシックになってた笑った
まぁ、半島の環境は気候も衛生状態も各領国に比べて
遙かに劣悪だったからな。
602 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 21:29:09.65
>>570,
>>571 福島は父方の親戚でしょ。母方とする説も一応あるけど。
ただ男系で繋がってる親戚となると異常に少ないな。
確実な範囲では男子は息子の鶴松秀頼と孫の国松だけ。長男とされる石松丸が実在であれば追加。
秀長が同父弟だとすれば秀長も。秀長って夭折した息子いたんだっけ?だとしたらそいつも。
男系で繋がる女子まで含めると姉の日秀と孫の天秀尼が追加。娘が一人いたとする説もある。
秀長と旭が同父だとすれば、旭と秀長の娘たちが追加。
それと木下弥右衛門の先祖の出自が浅井氏とする説を採れば父方の親戚は山ほどいる
>>593 そもそも行長の陰謀だの三成の讒言だのって後世の創作の要素が強いからね。
秀吉死後の政治的対立からアレもコレもみたいな考えはやめた方がいいかも試練
打ち切り必至 フジ「知りたがり!」衝撃の視聴率1%wwwwwwwwwwww
東スポWeb 9月8日(土)
打ち切り必至――。フジテレビ系平日午後の生情報番組「知りたがり!」が、
あろうことか視聴率1%台に突入。民放キー局による全国ネットの昼番組が、
深夜番組並みの“数字”とは、異常事態だ。
ビデオリサーチ社は「知りたがり!」の視聴率を(1)午後2時から
(2)午後2時58分からの2部に分け調査している。番組改編前は5%前後で
推移していたが、放送時間帯を午後に移してからは2〜4%台に下落。そして先月末には
ついに“悪夢の数字”を叩き出してしまった。先月30日に(2)で1・9%と2%を
割り、翌31日には(1)で1・8%、(2)で1・5%と、深夜番組かと見まがうほど、
いやそれ以下の低空飛行だ。裏番組の日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」の
先月31日の視聴率(午後1時55分から6・9%、午後2時55分からは6・3%)と
比較しても、まるで勝負にならない(数字は平均視聴率、関東地区)。
「知りたがり!」はもともと、午前の放送時から決して好調とは言えなかったが、
春の改編でテコ入れしたにもかかわらず、なぜこれほどまでに落ち込んでしまったのか。
朝鮮ウジTVマンセーwwwwwwwww
『とくダネ! 』(メインスポンサー花王)を放送しているフジテレビの視聴率だが、
大変なことになっている!今週のフジテレビの視聴率は、月曜から木曜まで
全ての日でプライムタイム、ゴールデンタイム共に平均1ケタとなった!
今週はP帯G帯共に、視聴率がTBSにも負けて4位に転落している!wwwwww
――――――――――
P帯 NTV EX CX TBS
月 13.0% 13.2% 9.2% 11.7%
火 7.4% 12.9% 9.3% 12.2%
水 18.1% 9.5% 8.9% 5.0%
木 13.6% 10.7% 8.4% 11.6%
G帯
月 13.0% 13.5% 9.3% 11.0%
火 7.7% 13.3% 9.0% 11.8%
水 17.2% 9.9% 8.1% 4.8%
木 14.1% 10.6% 7.8% 11.8%
お疲れ様ですwwwウジテレビ
場もわきまえず草生やしまくって、ホント頭悪そうだな。(藁
小早川秀秋ですら中朝では呂布になれる
>>608 朝鮮官軍より土一揆の方が強いと思う。煽り抜きで
土一揆と言っても戦闘力は倭寇と大差ない、数が多い分、倭寇より遥かに悩みの種。
黒沢映画の七人の侍の世界みたいに、無知で真面目で弱くてって農民は存在しない。
名だたる大名or大名格を討ち取ってきた一向一揆に至っては
本願寺の坊主どもが指揮したらそのまま朝鮮征服しかねない。
日本人がたとえ少数でもマジ猛って闘ったら
多数の中国兵も朝鮮兵も蜘蛛の子散らして逃げるからな
611 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 20:29:48.58
と妄想するオタク
と、史実を知らぬ朝鮮人
知ったとしても史実を受け容れるとは限らない
当時はアジアが軍事レベル最強の時代だからな
朝鮮軍単独で神聖ローマやオスマン帝国を圧倒出来る
朝鮮軍とかイェニチェリに皆殺しにされるだろ
616 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 13:04:51.42
狭い島国でひたすら小競り合いだけしてたチンピラが神機箭に榴弾に亀甲船を持つ朝鮮軍に勝てるわけない
朝鮮人も中国人も、少数が篭る和城ひとつ落とせないのに
補給有利でもな
無為に突っ込んで鉄砲の餌食になるばかりだった
世界有数の軍事大国だった明の精鋭軍すら惨敗してるのに
朝鮮軍なんぞが日本軍とまともに戦って勝てるわけないだろ
そんな連中が尻尾巻いて再びチンケな島国に戻ってるのはなんで?
秀吉が死んだから以外で答えろよ
>>619 直接的な理由は秀吉が死んだから(政情不安定になって外征どころではなくなったから)
に他ならないわけだが、それだと都合が悪いのか?
622 :
名無シネマさん:2012/10/03(水) 23:10:46.85
>>619 半島が未開発だったから。
明治帝国時代も、台湾は統治期間中に黒字転換
満州は黒字、華北は大黒字、朝鮮だけずっと赤字
特に目的を告げず伝言ゲームのようにして大学生を狩り集め、信濃町駅に集合させ、そこからタクシーに乗せて土建会社の寮へ。
そこでいきなり創価学会の御本尊御下附願という紙に住所、氏名、生年月日を書かせ、そこからまた車で日蓮正宗の寺へと向かい、数珠、巻物、経本などを渡されて「南無妙法蓮華経」と三遍唱える。
これが終わると車に再び乗せられて銀座のバーへ。そこで大学生らは土建会社の青年信者らの奢りで閉店までビール飲み放題。
件の青年信者らいわく、本音ではこういう馬鹿げた勧誘は止めたいのだが、一般への勧誘も頭打ちで、無言の会員獲得の圧力もあってついやってしまうのだという。
熱血型だった戸田城聖は新聞記者に身振り手振りを交えて熱弁する。「あやふやな信者がふえるより熱心な一人の信者の方が貴重だ。全く馬鹿な話だ」。
http://www23.atwiki.jp/peaceonpeace/m/pages/7.html?guid=on
反省せよ。謝罪せよ。
元寇を?
>>625 朝鮮半島が豊かだったら
中国に攻めれたのにね
朝鮮は日本に「ごめんなさい」しないといけないね
「俺ら休んどくからお前ら銃撃の中に突っ込んで来い」と御主人様の中国人に言われて
バンバン無駄死にした植民地の奴隷鮮人、哀れ…
前日も同じ死に方してたのに、強制リピートw
三路で守勢に転じてそのまま敗退したみたいな書き方すんの小和田先生
630 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 04:51:47.87
上のコピペにあるレアバスって何?
ググってもこいつの書き込みしか出ない。
そんな貧しい土地が欲しくて必死こいて戦ったのに
寸土も得られずに逃げ戻ったわけか、orz
632 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 08:25:40.95
半島からの撤退は秀吉の遺言だということですが、これ本当でしょうか?
皆で寄ってたかって遺言としたということはないでしょうか。
遺言であるとして間違いないとするならば、その証拠はあるのでしょうか。
633 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 10:47:52.99
遺言どころか、死ぬ直前に本土で休息させていた大軍を朝鮮に再派遣して
明・朝鮮軍を叩く計画を考えていた。
三路でボロ負けした明・朝鮮軍がリフレッシュして準備万端の大軍とどう
いう戦いを演じれたかは見物だけど。
>>631 欲しかったのは明だったし。
半島は通り道扱いだったろ。
実際、敵は殆どが明の兵だった。
和平交渉で南部四道よこせとか言ってるから説得力皆無だ
いや、それは格好だけだろう。
秀吉自体は、講和交渉中は日本側が勝利したという格好さえつけば、戦争を終結させるつもり
だった。
その条件として南部四道を要求して、要求が通れば、実際の統治は捕虜の朝鮮王子にさせようと
考えていたことからもわかる。
慶長の役でも全く朝鮮の土地を占領することを考えずに明軍の撃滅を念頭に置いた軍事行動を
とっていたのもそのためだろう。
あくまで、秀吉の念頭にあったのは「対明」だと思うよ。
で、「寸土も得られずに逃げ戻った」に戻るんだな
違うよ。秀吉が死んだので撤退したってだけのこと。
モンゴルのヨーロッパ侵攻や武田信玄の西上作戦みたいなもん。
歴史上、日本からの侵攻で朝鮮の首都が陥落したことは何度もあるが
朝鮮からの侵攻では日本本土に対してまともに上陸できたことすらない
もうちょっとどうにかならんかったのかな?
そりゃあ、兵力、武器の装備、兵の質、どれをとっても日本より劣っている朝鮮が
日本の首都を攻略できるわけがない。
欧州だとポーランドがプロイセンを属国にしたこともあるのにね
朝鮮ではゲリラ戦の名手やテロリストが民族を代表する英雄だ
テロリストどころか、理性派の伊藤を殺害する為に
日本の対韓強硬派の使った暗殺者だった可能性も高いっていう
暗殺は日本人のお家芸だし
>朝鮮ではゲリラ戦の名手やテロリストが民族を代表する英雄だ
サピオか正論の広告に書いてあったな
まあ、幕末のテロリスト達が作ったのが大日本帝国だけどな
志士とか持ち上げて英雄視してるけど
いや、英雄だから。
で、朝鮮人テロリストは?w
新政府を現実に作るという理念、行動、政治力、経済力、
それらを支えるバックボーンがあると無いじゃ大違い。
そして、たとえ革命ならずとも大きな行動をした連中はいる。
朝鮮人のはまさにただのテロ。
政治力も何もないままに、ちょっとだけ暴れたりちょっとだけ要人殺したりするだけ。
松田聖子にステージで襲い掛かったバカと同じレベル。
国の地図、勢力図は微塵も動いてない。
朝鮮の歴史上最大の不幸は日本から独立してしまったことだ
日本の教育を受け、日本人としての自覚と誇りを持って育っていれば
アイデンティティや劣等感に悩むことも無く、歴史を捏造することも無かっただろう
放火、辻斬り暗殺、押し込み強盗、密貿易に贋金作り
藩をあげて犯罪に勤しむ悪の結社薩摩。
確かに日本にはアレクサンドロス大王やナポレオン並の英雄はいないけれど
ウェリントンやネルソン級の英雄なら東郷乃木等、何人もいるぜ
朝鮮の英雄で一番なのは、近代だと朴チョンヒさんかな
贋金は幕末はどこも行なっている
末期症状なのは確かだな
>>650 旧日本軍が一番の英雄
日本は独裁者がいないから、全体の力でやってるな
>>652 日本軍は東洋のナポレオン軍だ
力で白人の植民地支配を打倒してアジア人に自由と独立自尊の精神を啓蒙した
ナポレオンがその強大な軍事力で絶対王政を打倒して、自由平等博愛の
国民国家の精神を欧州中に広めたが如くね
朝鮮にも金玉均などの維新志士は居た。しかし・・・
稀に居る賢人は多数の馬鹿に潰されるのが半島のデフォ
結局朝鮮半島で維新をやって国民国家を作って近代化を成し遂げたのは
ほかならぬ日本人だからなあ。ご先祖様のこの功績は誇っていいよ
日本軍の占領してた地域じゃ日本風の髷を結ったり、いろは歌で日本語を覚えさせたりしてたらしいな
朝鮮民衆は侵略してきた日本軍から逃れ、救援に来たけど略奪しまくった明軍から逃れて、朝鮮軍は役立つで山に隠れてたと思ったらそうじゃないんだなww
なにげに日本軍を一番苦しめたのは明軍でもなければ朝鮮軍でも無いんじゃないかな。
日本軍が一番苦しんだのは義兵と言われる、実体は餓えて暴徒と化した朝鮮民衆だったと
思う。
だからこそ、慶長の役で徹底的に反日本軍分子を探し回って掃蕩した。
>>656 「日本人は凄いんだぞ!俺は引きこもりだけど日本人だ!」ってヤツか
だから朝鮮「征伐」で慶長の役は間違ってないなwww
朝鮮人は日本人が自分の祖先を誇るのが嫌なんだそうだwww
>>640 朝鮮の統一王朝が対馬一国に追い返されてる有様じゃ無理だっぺ
テイ羌、満州、モンゴル、トルコ族は華北を征服した事あるのに
穢貊族と韓族は無いもんな、特に韓族は度々異民族に征服されてるし
最後に華北に侵入した異民族が日本人か
大日本帝国は中国史上では金帝国レベルの異民族王朝なのかな
前趙や前秦とか後金の方が状況は近い気がする
情勢に恵まれてたのに統治政策がちょっと御粗末だった
>>662 もともと南部以外は信州や東北みたいに痩せた土地だからね。
>>659 何でネットの向こうの相手が引きこもりかどうかなんてわかるの?
というか当時は「国民」というものは存在していない
あるのは「臣民」だ。つまり民は皆権力者の家来だ
国民主権・民族自立という考えは当時はない
朝鮮の民衆にとっては李朝の家来だろうが秀吉の家来だろうが変わらんのさ
言葉遊びどうでもいい
それは理解する意欲と能力に乏しいだけ
それこそ頭が悪い
李朝いいながら朝廷を出せない哀れさよ…
>>668 かつての熊襲、戎夷や出雲政権やその他諸々がそうだったように
秀吉の外征が成功して、朝鮮半島を完全に制圧してたら
朝鮮族も大和民族になってた可能性が十分ある。
民族の定義なんて極めて曖昧で
両方の民族が「俺たち一緒じゃね?」って思った瞬間にその民族集団は
一つの民族になっちゃうんだからさ。
国民感情から言うのなら
それこそ「国民」だろうが「臣民」だろうが「市民」だろうが
ある概念の言葉に当てはめようという行為自体が無理スジというか、
感情の矮小化になるわけで
いや、ならないよね
というか、そもそも捏造と改竄と虚構から産み出された感情をベースに
話する事自体が狂ってるよね
>>674 象徴天皇制なんてもう1000年も続いてる
日本人の感性にあってるんだろう
明治から敗戦までの期間は無かった事にするんですね
明治憲法に統治権の規定はあっても実際に直接行使してるわけじゃない。
明治憲法下もあくまで立憲君主国であって、唯一の例外は昭和天皇の
終戦の決断くらいのもんだろ。
他には二・二六事件の時にも天皇が反乱軍を強く非難してクーデターを失敗に追い込んだ例もあるな
むしろあの時代は天皇の個人独裁で政治をやってくれた方が良かった
当時の日本の政治家は民主党の連中よりもレベルが酷い
国民の支持がないと戦争なんてできないけどな
当時の日本人は今の韓国人や中国人レベルだから
>682
本人乙w
>>683 当時の鮮人は今のソマリランド人レベルだけどな
半島は首都にうんこの匂いが充満した世界3大貧国だしなw
687 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 00:02:12.97
慶長の役の目的が南部の敵を掃討するってのは知らなかったな
終わったら城建てて一部を帰国、でも秀吉死んだから頓挫
明、朝鮮軍に手も足も出ずに秀吉が死んだから逃げ帰って来たのかとwww
幻の1599年の大規模派兵とはなんだよ
勝手に朝鮮軍とか付け加えないようにな
史実に沿って、明軍とその雑用係と言うように。
しかも李朝軍は全戦全敗、一年も経たずに全土失陥
戦中の交渉も明としてたしな
日明戦争だっつーの
明国征服を旗印に攻めてきたが藁一本奪えず、通り道であっさり阻止されて
以後引きこもったショボイ戦争か>日明戦争
憧れの日本語を使えて幸せそうなのは分かったが、もっと勉強しろよ
結果を見れば竜頭蛇尾だった事には反論できんな。
明潰れたけどなw
豊臣も潰れたなw
明と直接交易できなくなって鎖国に繋がったな
いずれにせよ、日本は弱かったから負けただけ
その弱い日本にまるで歯が立たなかった明軍、
並びに全土を蹂躙された朝鮮は雑魚以下だな
あっさり阻止されて逃げ帰ったのに、歯が立たなかったとか吉本ギャグかよ
阻止したんじゃなく
あまりの貧しさが齎した食糧不足で進軍を止め
宗主国様に救けて貰っただけな。
明軍も敗戦を重ねたが、李朝軍は壊乱しかしていないw
明軍は和城一つも落とせなかったしな
日本が撤退しただけだ
701 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 20:36:44.01
朝鮮民族が一致団結して悪辣なる秀吉の侵略軍を撃退した。
という小説
>>698 実際、まるで歯が立ってないじゃん。
明軍の白星は平壌奪回の一戦だけであとは惨敗に次ぐ惨敗だしw
明の負けっぷりには誇張が多そうだ。
あんなに負けたら普通軍が瓦解する。
対女真の転用部隊が大敗した事はあるけど
明の本軍が壊滅した記録なんてあったっけ?
李朝軍はどの侵攻路でも木っ端微塵に粉砕されてるけど
>>700 国境の遥か外の僻地に建てられた和城なんか無理に落す必要も無かろ
大半の戦いに明軍の勝利した
>>699 これが最大の誤算だったと思う、せめて同緯度の東北並に豊かなら
ある程度の大軍も駐屯できただろうけどさ
慶長の役は現実を鑑みて朝鮮南部4道の支配を目的としてる
朝鮮北部〜遼寧省のラインを超えて進撃するなんて騎馬民族じゃないと不可能
>>705 >対女真の転用部隊が大敗した事はあるけど
これって明で最強の部隊だろ
中国軍事史のケネス・スオープ準教授も
朝鮮に派遣された部隊は明朝の最精鋭軍だったと指摘してるな
>>706 実際に明軍は蔚山に4万5千、三路に9万強の大軍を動員して無理にでも倭城を落とそうとしてるわけだが
ゆっくりと南部二道奪って講和なりして侵攻すれば良かったのに
なんでいきなり半島全部奪おうとしたりしたんだ。そんなん無理だろ
>>711 慶長の役は南部4道の支配が目的
文禄の役は3週間で漢城を占領して出来すぎだったんだよ
前線は敵が弱すぎて突き進み過ぎちゃって戦略が立てれなかったし
朝鮮北部の土地の痩せっぷりを甘くみてたんだろ。
そこを精強の明兵に叩かれたって感じ
慶長の役は文禄の反省にたって戦略をたててるよ。
大半の日本人は自分達が非常に恵まれた土地に住んでる事を
認識出来てないからな。あらゆる面で非常に恵まれた土地という事を解ってない
つーか、直で土地支配つーのが百姓出身の秀吉の限界だったな
信長なら沿岸の拠点だけ押さえて間接的に支配し富をGETしたろうに
>>712 世界征服からだいぶ後退した目的だなあ、太閤さんのプライドはズタズタだ
716 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 12:40:32.71
世界征服?馬鹿かこいつは
秀吉は文禄の役の講和条件に「勘合貿易の復活」を挙げており、
それを認めさせれば朝鮮から手を引いた可能性も十分あるだろう。
慶長の役は南部4道の支配が目的じゃないし。
支配を目指すことをやめ、敵軍の撃滅に主眼が置かれたのが慶長の役。
だから、敵を壊滅させては退いて、また敵を誘引して撃滅する。
これを繰り返せば、明・朝鮮のダメージは蓄積される。どうなれば、
いずれは敵に有利な講和条件を認めさせることができる。
過去の例でいうと、モンゴルの朝鮮半島(高麗)への侵攻。
これは30年近く行われたものだけど、モンゴル軍は攻めては敵を撃滅し退く
を繰り返して、ようやく高麗王朝を降伏させた。
わりと粘り強いのは本当だからな
豊臣政権が安定してたら結果もまた違ったろうが
粘り強いというか庶民が貧困に喘いでも気にしないし
平民も奴隷根性が染み付いてるという
あ、日本のことじゃないよw
721 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 20:02:19.89
722 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 00:30:11.45
天正20年(1592年)5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中
を置き、3年後(1595年)に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、
秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした。
流石に明征服は不可能、北京陥落も難しい
朝鮮が属国ながら国として成立し得たのも
大軍の駐屯出来ない遼寧省や朝鮮北部が存在したから
白村江の後も中国軍はそのまま朝鮮に居座ろうとしたんだけど
結局引き上げてるしさ。
あの土地を大軍が進撃出来るのは大量の輜重を運ぶのが楽になる近代まで待つ必要がある。
ただ、それゆえに
慶長の役のやり方でなら10年〜15年かければ
朝鮮半島の支配は可能だったと思う。
>>723 中国から行くのは困難だけど
日本から行く分にはそれほど困難じゃないよ、古代にもやってるし
問題は山地だらけで貧しい土地の方
>>725 だから対馬海峡を超えるより、遼寧省を超えるor支配する方が大変なんだよね。
煬帝ですら高句麗を攻略し損ねたんだから
遼寧省、朝鮮北部は痩せて作物も余り育たない
けど朝鮮南部はある程度肥沃だから人口はそこそこ居る
こうなると攻める方が難しい。
というより、遼寧省〜朝鮮地方に掛けては
湿地帯と丘陵地が入り組んでるから、移動には難儀な土地。
開発自体は古代〜19世紀までは北部の方が進んでいて
韓地方の方が朝鮮地方より豊かになったのは、戦後になってから
>>727 南部の方が昔から豊かじゃないの?
中華秩序の中で生きてる朝鮮人からしたら
中国に近い北部の方が、色々と文化的には進んでたと思うけど
北部じゃコメもロクに作れないしさ
全裸道とか肥沃な穀倉地帯だしな
北部にはそういったところはあったんだろうか
全羅道が穀倉地帯になったのは李朝後期
>>728 古代から20世紀まで北部の方が豊かだよ
北部人が政権を建てる時の中心は平壌とその周辺の黄海道、平安道
征伐の最中、朝鮮人を奴隷として売ったそうだけど
得た収入は戦費に消えたの?
和民で宴会する時に飲み代にしたよ
734 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 21:30:44.41
朝鮮征伐
735 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 16:46:06.64
いま、朝鮮征伐って放送禁止みたいだな。
朝鮮侵略らしい。
736 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 19:21:07.57
軍事板の朝鮮征伐スレで変なのが沸いているな
全州会議の決定内容の原文を活字化したものを読みたいけど
どの本に載ってるの?
>>737 『韓国の倭城と壬辰倭乱』黒田慶一編、岩田書院、2004年
に収録の津野倫明著「慶長の役(丁酉再乱)における長宗我部元親の動向」
『長宗我部氏の研究』津野倫明著、吉川弘文館、2012年
に再録の「慶長の役〈丁酉再乱〉における長宗我部元親の動向」
なんてどう?
『韓国の倭城と壬辰倭乱』¥10,395
『長宗我部氏の研究』¥ 7,875
もうちょっと安いのない?
万歴朝鮮戦争(電子書版)8元
値段は100分の1だが
742 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 20:13:44.78
図書館に置いてないもん
>>742 置くように制度を利用して手配するか
金をかけて置いてあるところへ行くか
金で買うかだな。
手段はあるんだから頑張ってね。
『長宗我部氏の研究』読んでるよ!!
>>744 津野や曽根は期待できるね。
北島はぜんぜん駄目。
中野もあっちの国から研究費をもらっているから切れ味が鈍い。やや危険。
あげ
747 :
日本@名無史さん:2013/03/02(土) 17:01:32.02
748 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 16:04:15.29
朝鮮征伐
朝鮮成敗
宇田川ものーてんきに垂れ流すからねー
問題意識さえない
751 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 13:50:28.72
Kan Kimura@kankimura
頭の体操。「侵略の定義については学問的な議論がある」事と、「特定の行動が侵略に当たるかどうか」は、当然の事ながら全く異なる。
例えば複数の定義があったとしても、その全ての定義において特定の行動が侵略と看做されるのであれば、「学問的な議論」を理由に、判断を保留する事はナンセンス。
2013年5月8日 - 21:10
752 :
日本@名無史さん:2013/05/11(土) 21:00:12.63
大河ドラマ等で、秀吉が描かれる際、この朝鮮征伐だけは秀吉の
「ご乱心」扱いで描かれるのが本当に不愉快。
もっと公平に評価して描かれるべき。
自虐媚韓史観が酷いが
現実には、半島の大半を1年経たずに征服してるもんな
半島の貧しさと明の軍事力を見誤ってたけど
文永の役の元軍に例えるなら九州から京都、鎌倉までを電撃的に制圧した後
占領政策に失敗して京都まで撤退して講和、てところかな
>>754 せいぜい太宰府じゃね?
反撃側も補給ができずに維持できないから交渉中は濃尾や関東やへさげてる。
>>754 >753が漢城=京都、平壌=鎌倉に例えていることくらい気付よw
757 :
756:2013/05/12(日) 12:48:41.55
あぅ、アンカー一つづつずれた。>_<
>>756 太宰府=釜山でだいたいあってんじゃん。
博多から広島に掛けての瀬戸内海周辺だな
>>758 この例え話だと講和の方針を決めたのが京都(漢城)、
その後の長い交渉期間中の拠点が大宰府(釜山)じゃね
761 :
日本@名無史さん:2013/05/16(木) 22:12:33.61
>>753 >現実には、半島の大半を1年経たずに征服してるもんな
へー、じゃあお前的には5万にも満たない明軍の来援により
半島の大半を半年経たずに奪いとられていると言うんだな(笑)
半島が貧困過ぎたから北部を廃棄しただけだよ
763 :
日本@名無史さん:2013/05/17(金) 00:36:44.19
>>762 北部だけでなく南部のほとんども放棄してる。
なんで放棄の原因を明軍の来援だけに限定するかね。ひょっとして中国の方?
統治の失敗、義兵の蜂起、兵糧不足など様々な要因があるでしょ
なんで放棄の原因を明軍の来援だけに限定するかね。ひょっとしてチョン?
兵糧不足、食料不足、未開な農村など様々な要因があるでしょ
>>765 >ひょっとしてチョン?
それはないな。なんとなれば、南朝鮮人的には主役はあくまでウリミンジョク
(義兵とか李舜臣とか)であって、明兵はちょっと手伝っただけで別に
居なくてもヨカッタ存在という認識だからw
>>766 おそらく在チョンだろうね。
半島の貧窮ぶり、未開さを認めたく無いのと
日本人を貶めんが為に、明軍に負けたと捏造したいのだろう
768 :
日本@名無史さん:2013/05/17(金) 07:18:51.01
>>768 別スレで話題になった電波大学のページだなw
その兵糧配給計画を根拠に兵糧不足が放棄の原因ではないと言いたいのかもしれんが、
そもそも当時の外征で兵糧の補給を本国に頼らねばならん状況が異常なんだよ
逆に、そうした書状の存在が戦争継続に支障が出るほどの兵糧不足の深刻さを物語っていると言えるな
「従来、豊臣政権下で兵たん機能が大幅に強化・向上したと漠然と考えられてきたが、
主な改善点は作戦発起点への兵糧の事前大量集積に尽きており、
敵地に進んだ軍隊への陸上補給は、物理的な制約から依然困難であった。
結局、一七世紀頃は日欧ともに敵地の野戦軍は現地調達に頼らざるを得ず、
これが出来なければ敗退するしかなかった。
日本の朝鮮出兵の敗退は、義兵運動等様々な要因はあるにせよ、
第一には、当時の陸上補給能力の限界と現地での食糧調達の不可能性に起因するものだった。」
(久保田正志氏の豊臣政権の兵たん論文より)
770 :
日本@名無史さん:2013/05/18(土) 00:00:23.19
>>769 >別スレで話題になった電波大学のページだなw
テメエの妄想と違う主張相手に対して電波大学とのレッテル貼り(笑)
具体的にどこが電波なんだ。
まずお前の意見を聞きたいね(笑)
771 :
日本@名無史さん:2013/05/18(土) 00:06:15.62
>>769 >その兵糧配給計画を根拠に兵糧不足が放棄の原因ではないと言いたいのかもしれんが、
じゃあ聞くがなんで秀吉は渡海を諦めて、明との講和に応じたんだ。
>>771 半島が貧し過ぎて通り道にもならないと覚ったからだよ
>>770 俺は別人だが、オマエ前スレでも反論食らって木っ端微塵にされてたよな
773 :
日本@名無史さん:2013/05/18(土) 00:57:22.37
>>771 >半島が貧し過ぎて通り道にもならないと覚ったからだよ
妄想はいいからソース出せや(笑)
>俺は別人だが、オマエ前スレでも反論食らって木っ端微塵にされてたよな
じゃあ、ここでも木端微塵にすりゃいいじゃん。
まあ、お前の間抜けな頭じゃ無理だながな。
243 名前:241[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 22:15:52.12 0
神戸大学文学部日本史研究室によれば、第一次晋州城攻めは李舜臣と義兵の
大活躍により飢餓に陥った日本側の打開策という解釈な訳だけれど、実際には
文禄元年の12月には黒田長政が秀吉親征に備えて黄海道に兵糧2万石を集積して
秀吉から褒められているから、10月時点なんてのは、まだ前線の食料の絶対量が
不足し始めているとは言えない時期であるのは明白。
故に、神戸大学文学部日本史研究室は明らかな馬鹿の集まりか、そうでないのなら
ミスリードを狙っているとしか思えないのだな。
775 :
日本@名無史さん:2013/05/18(土) 01:15:50.27
>>774 >文禄元年の12月には黒田長政が秀吉親征に備えて黄海道に兵糧2万石を集積して
>秀吉から褒められているから、
10月時点ですでに前線の食料の絶対量が不足し始めているからこそ、兵糧2万石を
集めた黒田長政が秀吉に褒められたんじゃねえのかよ(笑)
776 :
日本@名無史さん:2013/05/18(土) 01:23:10.37
>>774 そんな見解の相違程度をあげて
やれ、明らかな馬鹿の集まりかとか、やれミスリードを狙っているとか
ガキみたいなこと言ってんな(怒)
ガキみたいなこと言ってんな(怒)
とか最高にガキっぽい文章だな
>>771 いきなり何の脈絡も無い話に飛んだな。何が「じゃあ」なんだかw
話が通じない人?
>>775 太閤殿下直々の親征軍の為に兵糧を準備した事を称誉してるんだよ
780 :
日本@名無史さん:2013/05/18(土) 09:34:36.60
>>779 >太閤殿下直々の親征軍の為に兵糧を準備した事を称誉してるんだよ
妄想はいいから、ソースだせや(笑)
>>780 「十二月二十五日、黒田長政が二万石の食糧を黄海道に集積して、
秀吉親征の準備をしていることを聞いた秀吉は、その功をほめる」
(日本戦史・朝鮮役)
はいソース。
人の意見を妄想呼ばわりする前にちょっとは調べたら?(笑)
現実に日本軍は晋州城の戦いから2ヶ月を経た時点でも、
前線部隊の当面の兵糧を確保した上で(兵糧がなければ生きていけないのだからこれは当然)、
なお2万石の兵糧を秀吉親征軍用に準備するだけの余裕があったわけだから
晋州城攻めを兵糧不足への打開策とする神戸大学の見解はやはり不可解と言わざるを得ないんだよなあ
783 :
日本@名無史さん:2013/05/18(土) 13:12:03.48
ふーん、ソースはあるんだ。
でも
前線の食料の絶対量が不足し始めているときに、(秀吉親征のために)
兵糧2万石を集めた黒田長政が秀吉に褒められただけじゃね(笑)
人並みの知能があれば、食料が不足しているなら前線に送ると理解出来る
まあ(笑)の人の中じゃ、黒田長政は自分も含めた前線兵士らを飢餓の危険に晒しながら
秀吉親征用に貴重な兵糧を差し出しちゃうバカ殿なんだろw
太閤殿下の機嫌を損ねたらエライ事になるからなあ
787 :
日本@名無史さん:2013/05/19(日) 12:09:39.27
朝鮮八道すべてで食糧が不足しているわけじゃないだろ。
八道国割で黒田長政が担当した黄海道は当時の朝鮮八道の
なかでも穀倉地帯にあたるんだが(笑)
>>787 低生産/重搾取が朝鮮の政治。
緒戦ではそこへ軍事侵攻して官倉を接収しながら進撃した。
自治能力も望めない民衆により統治が乱れたまま生産がストップした土地で戦っていたのさ。
789 :
日本@名無史さん:2013/05/19(日) 13:17:15.50
それじゃあ改めて訂正するぞ(笑)
前線の食料の絶対量が不足し始めているときに、(秀吉親征のために)
(穀倉地帯である)黄海道から兵糧2万石を集めた黒田長政が秀吉に褒められただけじゃね(笑)
前線の食料が不足し始めていた証拠を出して無いねえキミ
自分はいつも願望と妄想ばかり
×それじゃあ改めて訂正するぞ(笑)
○垂れ流した妄想が論破されて悔しいから、また想いつきをチラ裏させて頂きます(震え)
792 :
日本@名無史さん:2013/05/19(日) 14:19:53.79
>>791 >○垂れ流した妄想が論破されて悔しいから、また想いつきをチラ裏させて頂きます(震え)
あれ、そもそもお前がテメエの願望丸出しの妄想史観を神戸大学文学部日本史研究室の研究
論文で論破されたからトチ狂って言いがかりをしてきたんじゃなかったっけ(笑)
>テメエの願望丸出しの妄想史観を神戸大学文学部日本史研究室の研究
>論文で論破されたから
ねえねえ、神戸大学の論文で論破された妄想史観てどんな史観?
具体的にどのレス?
>>789君の思いつきは当たらずとも遠からずだよ。
秀吉は12月の朱印状で在鮮部隊の兵糧事情で「不自由」が出始めているからと
来年8月分までの兵糧を国内から釜山へ送る計画に言及してる
ただ、前線部隊の兵糧事情が本当に抜き差しならない状態なら黄海道の2万石も他道に回すはずだし、
同時期に咸鏡道の加藤清正なんかは「三、四月」頃まで食いつなげるだけの兵糧を確保していたというから
(ソースは中野等「文禄・慶長の役」)、
その2ヶ月も前の晋州城攻めを兵糧不足への打開策とする神戸大学の見解はやはり無理があるんだよね。
むしろ晋州城攻めの目的というのは、上陸地点から漢城への侵攻路から外れていた地域を制圧して
慶尚道の確保を確かなものにする、というのが定説では?
当たらずとも遠からず所か、中りも掠りもしない的外れ
という皮肉にしか読めないのは俺だけであろうか、否無い
796 :
日本@名無史さん:2013/05/20(月) 19:21:38.05
秀吉が死んで、どんな条件で和平が結ばれたんですか?
日本軍の撤退だけで向こうは納得したと思えないので徳川時代まで引きずってたんですか?
797 :
日本@名無史さん:2013/05/20(月) 21:29:52.27
>>796 明側には条件なし、日本軍の無血撤退を了承してもらった(日本は明本土には踏み込んでいない)。
朝鮮に対しては、徳川家康が朝鮮使者を伏見城で謁見し、
豊臣政権の終焉と、徳川家康が新たな日本の治世者となったことを説明。
家康は朝鮮との平和的な貿易を望むことを言い、
朝鮮側は将軍の代変わりごとに朝鮮通信使を派遣することで納得した。
明とは朝鮮出兵以来交渉が途絶えたが、1644年、明は滅亡した。
新たに起こった清と徳川幕府は交渉を持ち、出島貿易をしていた。
>>797 ありがとうございます。
朝鮮通信使って朝鮮征伐が元で始まってたんですね。
799 :
日本@名無史さん:2013/05/20(月) 23:31:59.53
>>793 >ねえねえ、神戸大学の論文で論破された妄想史観てどんな史観?
>具体的にどのレス?
お前の妄想史観ってこれだろ(笑)
自虐媚韓史観が酷いが
現実には、半島の大半を1年経たずに征服してるもんな
半島の貧しさと明の軍事力を見誤ってたけど
半島の大半を1年経たずに征服した事
半島が余剰食料に事欠く生産性の低い貧困国家だった事
これって、事実だよな。
俺は別人だが
・自虐媚韓史観が酷い
・半島の大半を1年経たずに征服
・半島の貧しさと明の軍事力を見誤ってた
なんだ、全部本当じゃないか
それに、これらの点を例の論文のどの部分でどう「論破」できたとするのか全く意味不明なんだが
一体どういう思考ロジックをしてるんだ?
802 :
日本@名無史さん:2013/05/21(火) 00:10:49.09
>>801 じゃあ、お前も明軍5万人の襲来後半年で日本は慶尚道南岸まで押し切られた
って考えてるんだな(笑)
>>802 講和を結んで引き上げさせるのを「押し切る」と言うなら、明軍が日本軍を慶尚道南岸まで押し切ったんだろうね。
戦術的には大会戦で大敗してすっかり戦意を喪失していたとしてもね。
それより、どのような「妄想史観」を神戸大学論文のどの部分によってどう「論破」したのか早く教えてくれないか?
言っておくが、これ以上話を逸らしたり、的外れな質問で返すようなことはやめてくれ。
804 :
日本@名無史さん:2013/05/21(火) 00:58:24.70
>>803 秀吉の戦略目標ってなんだったんだ。
明国を征服することだろ。
それが慶尚道南岸まで撤退してるんだから「押し切られた」でいいじゃない(笑)
>俺は別人だが
お前別人なんだろ、だったら関係ないじゃん。
>>804 >「押し切られた」でいいじゃない(笑)
意見が一致したね。
それはともかく、
>>802で君は俺にアンカーを付けているわけだから、関係ないことはないだろう。
見苦しい言い訳ばかりしていないで早く答えてくれ。
君は論文のどの部分を使ってどのように「妄想史観」を論破できたの?
繰り返しになるが、以後は話題逸らしや質問返しは禁止だ。
そうしたレスを返した場合は君の敗北宣言と取らせてもらうからそのつもりでね。
806 :
日本@名無史さん:2013/05/21(火) 01:37:42.24
>>805 >現実には、半島の大半を1年経たずに征服してるもんな
おれは日本勢が1年経たずに征服してるとは考えていない。
なぜなら、朝鮮半島の各地で義兵闘争が行われていたから。
その主張の裏付けとして以下のような神戸大学文学部日本史研究室の論文を
引っ張ってきたんだが、
「李舜臣ひきいる朝鮮水軍に全羅道沿岸の制海権を掌握されて
海岸沿いの輸送物資補給ルートを失い、また義兵や農民達に
よる抵抗を受けて、陸上輸送ルートの確保と現地での兵粮徴発
も困難となった。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai53.html それに対して愚かな侍厨がテメエの妄想を否定されたと見苦しく
>明らかな馬鹿の集まりか、そうでないのならミスリードを狙っているとしか思えない。
などとそれこそなんの根拠もない憶測を主張しているだけじゃん(笑)
これじゃあ、テメエの妄想史観を論破された侍厨が発狂して言いがかりをつけている
ととられてもしょうがない。
>>806 話を逸らしたりせず回答してくれたことには感謝するよ。
しかし、日本軍は短期間とはいえ朝鮮八道のうち七道の道都を落として実効支配しているわけだから、
「半島の大半を1年経たずに征服」したという表現は別に間違いではないと思うけどね。
義兵闘争があったといっても、それは何の反証にもならないだろう。
例えばナチス支配下のフランスでは各地でレジスタンスが起こり、米軍支配下のイラクでも反抗勢力の攻撃が絶えないが、
だからナチスがフランス北部を征服できなかったとか、米軍がイラクを征服できなかったとはならないのと同じだよ。
808 :
日本@名無史さん:2013/05/21(火) 02:12:14.55
やっぱ城塞は沢山必要だな
沢山あっても、半島城の様な防御性に欠ける物だったら意味が無い
半島南部に城が築き終わると半島城は破却された
李朝水軍も正面切っては日本水軍と戦えず
名護屋〜釜山間の輸送にとっては何の障害にも生らなかった
また、所謂義兵、所謂農民の抵抗という物は、実態として殆ど存在せず
李朝史料にも本朝の史料にも記録されておらない
現代の韓国が生み出した虚栄心を満たす為の虚構である
まあ、永く天下太平の続いた文治の国に百年以上も親兄弟で殺し合ってた蛮族が
統一されて攻めてくるんだ、仕方あるまい。
しかし、もし宗や小西が嘘偽りをせず半島の正確な情報(日本に服従していないし、する気もない等)
を秀吉に伝えていたら秀吉はどういう戦略をとったんだろうな。
最初から慶長の役のみたいな慎重さになったんだろうか。
それとも取りあえず朝鮮は後回しにして台湾やフィリピン等の南方に進出するとか?
>>807 平安道の首府、平壌も取ったのでは?
八道制覇?
>>806 研究者は論文を書くが、
研究室は論文を書かないわけだが?
815 :
日本@名無史さん:2013/05/24(金) 01:21:54.91
>>811 豊臣秀吉 松浦鎮信(松浦藩初代藩主) 島津家久(薩摩藩初代藩主) 松倉重政(島原藩初代藩主)
時期は多少ずれるけど、全員、ルソン島征服計画を立案した戦国武将。
特に薩摩藩や島原藩のルソン征服計画は、鎖国直前でもあり、幕府は内々に許可していた模様。
薩摩藩の奄美と琉球制圧は、その前段階とも言われる。
また、マニラを拠点に植民地支配を行うスペイン人に対して、ルソン島の
マレー系原住民の首長は、反感を昂らせていた。その為に松浦藩や島津藩は、
日本製の鉄砲をマレー系原住民の首長に密輸して、日本のルソン侵攻と同時に
マレー系原住民は、スペイン人への攻撃を開始する計画だったという。
また、そのルソン島のマレー系原住民の首長は、ボルネオ・モルッカ・マレーの
イスラム勢力とも通じており、彼らはイエズス会の積極的な布教活動にも不満を
持っていた為、彼らイスラム勢力にも日本製の鉄砲を融通し、日本・ルソンの
マレー系原住民・イスラム勢力の三者がマニラのスペイン人を包囲撃滅すると言う
大掛かりな計画があった。
事実、ルソン島のマレー系原住民の首長は、ボルネオ王に日本製の武器を送り届けていた。
また、マニラのスペイン人を撃滅した後には、
ルソン島のマレー系原住民の首長は、日本の支配下に入る事を承諾していたと言う。
日明戦争よりもこっちの方が成功する確率が全然高そうだけどね。
資源や食糧だって、ルソン島の方が、全然多そうだし。サトウキビやフルーツ類もこっちの方が採れるだろ
816 :
日本@名無史さん:2013/05/31(金) 21:46:32.54
×日本との戦争で一時は明との国境近くまで退却した朝鮮国王・宣祖
○太閤軍との戦争で一時は明との国境近くまで逃走した李氏朝鮮宣祖
×女真族が建てた中国・清は1636年、朝鮮に侵攻。
○女真族が建てた満洲・後金は1636年、女真族が建てた李氏朝鮮に侵攻。
国境近くというか、新義州は国境の川岸だから、国境そのものだよな。
王様は逃げたかったが、政治的に亡命しなかったのは正解。
朝鮮では宣祖は評価が低いらしいが、弱国なりに大国を引きずりこんで妥協させるなど、政争に明け暮れて国を売っている奴らとは段違いで、俺は評価している。
820 :
日本@名無史さん:2013/06/21(金) 13:11:18.17
821 :
日本@名無史さん:2013/06/21(金) 13:46:58.13
乱中日記て
日本で例えると
武将の書いた覚書や感状が登録されるみたいなもんか
そこまで価値ねえだろ
他に価値有る物が無いから仕方無いw
>>821 家忠日記や上井覚兼日記みたいなもんだな
道長日記や支倉肖像画でも登録されるんだから良いじゃないか。
道長日記と三河物語を一緒にされてもな
李舜臣、支倉常長、関連が記憶遺産に認定されて
鄭和が無視されるのは可笑しいアル
いやまぁ、そもそも記憶遺産ってのは、世界遺産と違って、所持する
当事国では維持保存が出来ないものをデジタル化して残しましょー、
ってのが本義のハズだろ。
なんか、既に国宝指定のものを申請する日本政府の対応は、韓国に
釣られて劣化著しい気が。(苦
828 :
827:2013/06/22(土) 00:37:37.30
おっと。 ×記憶遺産 ○記録遺産
日本人は格付け・お墨付きが大好きなのです
832 :
日本@名無史さん:2013/07/27(土) 18:05:03.35
>>446 「歴史通 3月号」の筑波大学大学院教授・古田博司氏による「あの、朝鮮民族とつき合う方法」から引用。
以下引用(38〜9頁)
日本は豊臣秀吉の時に、朝鮮に出兵しているのを知っていますね?
最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが
分かってしまったのですよ。朝鮮の李朝がひどくて、日本の方がずっといいから、
占領地に城下町もできてしまいます。
朝鮮農民は李朝でひどい目に遭っているから日本の方に行けば良くしてくれるということで、
どんどん日本の占領地に逃げ込んできてしまうわけです。
これが事実なのですね。こんなこと教わってないでしょう?
日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます。
・ ・ ・ ・ ・
おそらく教科書では負けたと教わったのではないかと思いますが、あれは嘘ですからね。
すでに半島の領地の藩分けもしていたと言われているのです。
でも、秀吉が亡くなって、そのまま撤兵することになってしまいました。
引用終了
学校では全く教わっていない、知らない話でした。
>>802 厳密に言うと文禄で明・朝鮮軍の軍事的脅威に
圧迫されたというのに該当するのは、小西軍だけで、
突出して孤立していた小西が停戦期間後も律儀に休戦を
守っていたところを5倍の明・朝鮮軍に攻められた。
明軍も損害が多く、一時的に和睦して城を明け渡したというのが真相。
そして冬も迫っていたので隣の加藤清正軍も戦線を後退させた。
これを左翼と朝鮮人が過大に、軍事的圧迫をうけての後退と騒いでる。
それに小西行長軍は釜山に上陸以来、大きな戦いだけで7回をこなし、
各占領地に兵を残している(軍事の常識)
平壌も2回防衛している、明け渡したのは第三次平壌の戦い。
フロイス書簡では、第三次平壌攻防時に、小西で戦える戦士は5000人とある。
また度重なる連戦で刀槍も鈍っていたとの記述もある。
835 :
日本@名無史さん:2013/08/02(金) 20:58:31.86
いつもの馬鹿チョンだよ
願望が根拠の妄想を垂れ流しては
史料によってボッコボコに反論され火病、その繰り返し
バルス
838 :
日本@名無史さん:2013/08/06(火) 07:17:37.82
>>363 なんか別スレで間違いを指摘したら国士様とか言われたからああやっぱりなと思ったわww
秀吉が天皇の出自が朝鮮だと知ってたら違う見方が出来る気がするんだがどうだろう??
さっさと母国に帰ろうな糞チョン
チョン君天皇大好き
李王嫌い
845 :
日本@名無史さん:2013/08/24(土) 08:30:44.95
秀吉マジうぜえ
何でこんな極悪人が偉人扱いされてるわけ?
>>845 下層から、特にエタから成りあがった恐らく唯一の人物として評価されているのだろう。
恐らく秀吉の元の仕事は人足問屋、今でいう人材派遣センターの取締役、いわゆる
ワタミや折口雅博みたいな奴だろうが、たとえ取締役でもエタには変わらんからな。
豪農の息子だよ。母親は、茶人を愛人にできるほど。
弟だって教養あっただろ。
ご落胤は当時秀吉が作ったでまかせだが、貧乏農家の息子というの構成のでまかせ。
>>847 秀吉は人足問屋だったことはほぼ間違いないんだよ。墨俣が筆頭だが、人足問屋で
なければできないことを何度もやっている。で、人足問屋と言えば、エタ、いわゆる
最下層民の仕事。もちろん、最初から取締役だったかどうかは怪しく、実際にはもっと
下層の出身の可能性が高い。
ついでに、秀吉が下層民の出身であることは、もう以下の本が大いに評価され
ほぼ定説になりつつあるしね。
河原ノ者・非人・秀吉 [単行本]
http://www.amazon.co.jp/河原ノ者・非人・秀吉-服部-英雄/dp/4634150212/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1377325981&sr=1-1&keywords=河原者
単行本: 711ページ
出版社: 山川出版社 (2012/05)
ISBN-10: 4634150212
ISBN-13: 978-4634150218
発売日: 2012/05
あと、秀吉は弟、妹が一杯いたが、殆ど殺している。自分の出自がバレるのを嫌ったからだ。
秀吉は最初からかなり高い身分だっただけだろ
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた
なんか勘違いしてるけどさ
武士とか名家ででもなんでもないよ
武士のあれって元々奴婢とか蝦夷のやる事だからさ
それか良民が渋々やってた
よくやったと言われるべきは外国からの防衛で戦った九州くらいのものだね
他の国内の戦は私利私欲の私戦でさ
何も生まない穀潰しの賊と変わらないろくなものじゃない
維新後にお国のための功あった武士は誇って良いけど
武士は本当に先祖代々武士なら百姓(良民)より下
名家と言えるのは皇室と公家だけです
古来氏素性の確かな者が時勢によって帰農することはよくあること。
百姓が武士になり武士が百姓になっていたんだよ。
江戸時代で頭を固めるな。
江戸でも百姓から士分になることは稀にあったがな
すぐ朝鮮人認定する馬鹿が各スレで大暴れしてるな
まぁリアルでは藤田のように、秀吉の「チョウセンシンリャクガー」と二十世紀の「ショクミンチサクシュガー」の二つ関連性の全くない妄想を結びつけて自著で書いているイタイのもいるわけだが
秀吉の賎民云々で藤田の名前がでてこない事にカルく驚いているw
>>848に出てるトンデモ本出してる妄想作家の方が軍記を無理矢理自分の妄想と結びつけて
自著で書いてて痛いと思うが
懲りもせず南韓籍の馬鹿チョンが捏造歴史を開珍してるなw
>>848 そっちはタイトル見ただけで手に取る気にならんから、何が書いてあるのか知らんよ
今の壷のレベルなら、この板で「軍記」引用する輩は全否定しても問題ないけど
腐っても山川の本で、「軍記」から引用されているから当該本に全く価値が無いとは、俺には判断できんわ
君に同意は求めないよ、「軍記」引用だけで否定できると思っているのは、論文や学術書なんか一度も読んだ事ないからだよね、君
>>860 だから論文や学術書じゃなく一般大衆向けの本じゃねぇか
>>848のトンデモ本。
論文とかだと軍記は一時的に引用されたりはするけど
>>848みたいに直接的なソースとして使ってそれメインでストーリー立てて
自分の妄想と無理矢理結びつけて本書くなんて芸当はまずしない。
論文でもなんでも重要なのはソース元と妄想ではなく根拠に沿った論理的な考察と見解なんであって
ソース元が軍記で根拠ではなく自分の妄想に沿って無理矢理一次資料も無視して結論を導き出してる
一般大衆向けの本に何の価値もないわけで。
>>848の本って秀吉は種なしとかトンデモ話を無理矢理デッチ上げてる糞妄想本だろ。
いかにも馬鹿が好みそうな内容だよな
もともと織田家臣ではそれなりの家格だった
↓
豊臣政権の際に、関白になる際に家格を自ら捏造した
※その際に、以前の家格情報が抹消され、忘れ去られた
↓
徳川の時代には、どこの馬の骨だかわからない人になってしまった。
※ねつ造の家格もインチキだし、本当の家格も抹消されている。
↓
その後、どこの馬の骨だかわからない貧農から出世したという講談に
こんな流れじゃないか?
上書きすることはあっても抹消はねぃ罠w
>>860 山川は歴史捏造の最右翼、出版社の格としては腐った生ゴミ程度だよ
>>857 問題はその手の珍書が、最近は旗色がやや悪いと言えども
大手をまかり通ってることなんだよな
868 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 12:19:55.03
いまだに李舜臣伝説信じてるやつもいるからな
主に小説なんかでも
最後の希望だからシャーナイナーイ
870 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 01:51:10.72
帰国したのは秀吉が死んでオゴタイ状態だったんだろうけど
秀吉が死んだことで本国で誰か、天下取りの準備というか中央から離れていることで
その流れから取り残されることを恐れたんじゃないかと思ったけど、そういう
意識を残している大名はいたんですか。一般人はあんまり聞かないので。
871 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 19:37:57.67
秀吉は明の皇帝の臣下の自覚はあったみたいだが。
ないよ
あったら明国の皇女を天皇の后にとか言い出さねえだろ
874 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 07:44:21.08
勘合貿易(朝貢貿易)の再開を要求してる時点で臣下の自覚アリ
勘合貿易が朝貢ということを理解していなかった可能性がある
876 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 10:27:52.75
堺や博多の商人と交際があるから、さすがに、そこまで無知ではないだろう。
交際はあっても学ぶ気がなければなぁ
朝貢貿易めっちゃ儲かるから
食えもしないプライドよりカネだよな
琉球とか貿易船の回数優遇されたら全盛期きたし
881 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 18:46:28.23
>>877 秀吉ほどの情報収集能力に長け、経済観念の発達した頭の切れる人物が、
堺や博多の商人と交流してて、勘合貿易=朝貢貿易って知らないはずがないだろう。
882 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 20:02:46.81
朝鮮が対馬に服従していると思い込み、小西石田がでっち上げた明の降伏を信じ込んだ秀吉が?冗談でしょ
国内ならともかく、国外の正確な情報を入手していたとはとても思えない
883 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 20:16:38.07
堺や博多の豪商、大内氏の勢力を引き継いだ毛利氏や九州諸大名、
こういう連中を従えた秀吉が勘合貿易のなんたるかを知らないわけがない。
貿易に関心あるなら、レクチャーくらい受けてるだろ。
884 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 20:18:48.59
秀吉本人が「勘合貿易」って言葉を知ってたことはまちがいない。
勘合貿易という言葉を知っていて使っている以上、その意味くらいわかってる。
当時の東アジア外交や貿易の常識でしょ。
885 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 20:36:17.52
朝貢貿易だから利益めっちゃデカイってのは常識だろうよ
単に貿易したいだけなら間に倭寇でも西洋人でもかませばいいが
886 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 21:00:37.00
結局、文禄の講和のときには、秀吉も内心では名を捨て実を取る方針に傾いてたのに、
明側が冊封(=臣従)だけ許して、入貢(=貿易)は認めないなんて回答をしたもんだから、
そりゃ秀吉もブチ切れるわ。
887 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 19:17:24.00
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
888 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 22:00:05.63
朝鮮征伐
889 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 07:22:24.12
明の臣下としての自覚はあったけどな。
890 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 13:44:26.91
秀吉ももう少し長生きしておれば、
チョンをこの世から抹殺していたのにな。残念やのう。
891 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 13:54:01.04
ていうか、あの時代の東アジアの国々が明(中国)を大国や宗主国として仰ぐのは、
現代の西側先進国がアメリカを(一応)リーダーというか盟主として立てるようなもんだろ。
その程度の客観的認識くらい秀吉でも持ってただろう。
892 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 15:53:47.97
朝鮮征伐平成の役はまだかい
壊れた機械みたいだな
>>868 てか、朝鮮軍って殆ど活躍してないからな
本当に明軍と日本軍の戦争なんだが
日本人の書く朝鮮出兵物の朝鮮人の存在感が半端ない。
代わりに明軍が不遇をかこってる
895 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 22:03:47.89
日本では韓国に配慮してか
あまり教えられないが
朝鮮出兵て当時の
日本のオールスター
・サムライジャパンみたいな
キャスト勢揃いで
あんがいおもしろいかもしれない。
896 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 22:12:32.67
当時の戦国武将、兵の
半端ない強さを見ると
朝鮮ヤクザにびびっている
現代日本人の弱体化はあきらかですな。
>>895 大河ドラマにピッタリなんだがな
朝鮮史観に毒されたnhkでは夢のまた夢
898 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 22:16:21.83
みんな竹島のことで騒ぐけどさ、
竹島のおかげで、日本は隣国に冷たく出来る、ひいては助かってるじゃん。
竹島返されて、ベタベタしてきたらかえって迷惑。
隣国とは敵対せずに疎遠、ってのが一番いい。
不法占拠しといて騒いでるのって韓国の方が盛んじゃね?
疎遠どころか征伐したいだろ日本人なら
900 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 04:40:40.50
オール戦国ジャパンの前に
朝鮮の各城が1日も経たずに次々落城していくんだから
トラウマになるのも無理はないかもな。
901 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 19:04:54.85
韓国人はがたいもでかくパワーもあるのに
なぜ戦争は弱いのか。
あるいはでかくなったのは最近なのか?
>韓国人はがたいもでかくパワーもあるのに
それは単なる妄想。寒流スターなんかは身長さば読み・シークレットブーツ装備だし。
江戸時代には確かに差があったけれど、それは基本的に肉食をしない食習慣から
日本人が総じて小柄になったせい。
近年だと日本人の若年層の平均身長の方がいくぶん高く、80年代くらいまでは満足に
コメが喰えないほど貧しかった韓国人の身長は決して高くはなかった。まぁ、現在の
北朝鮮を思えば良い。
朝鮮日報の前の日本特派員だったソンウタンは、初来日の際に日本人の身長が高くて
驚いたニダということをコラムに書いてたこともあったな。
903 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 22:17:46.52
>>902 いやいやここは偏見抜きに考察しようぜ。
韓国、北朝鮮人はやはり
北方人種だから総じて
がたいのいいやつが多い。
日本でも関東以北の北関東〜東北人は
がたいがいい。
パワーも韓国、北朝鮮人のがあるのは
日本人とも韓国人とも
付き合ったことがある
女性の多くが証言するとこ。
904 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 22:25:36.40
秀吉による朝鮮出兵、
文禄慶長の役は
おそらく日本人が日本史上もっとも強かった時代と
朝鮮人がもっとも弱かった時代が当たってしまったのだろう。
それほど、知れば知るほど
日本軍、戦国オールジャパンの強さが圧倒的。
今はなにもわざわざ
戦争をする必要もなく。
国際スポーツ試合の
対戦を見れば
韓国人が当時ほど弱く、
日本人が当時ほど強くないのは
わかる。
905 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 22:31:24.03
秀吉の朝鮮出兵を
いまだに非難し、日本人や世界に
「憎むべき秀吉による侵略戦争」と韓国人が喧伝するのは
当時の朝鮮人が世界史上類を見ないほど
圧倒的にやられた事実から
目をそらし、世界の人に
知られないようにするためだろう。
なにより自分たちの
トラウマから目をそらしたいに違いない。
906 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 22:38:10.21
朝鮮軍の猛将・宋象賢の守る
東菜城にいたっては
わすが二時間で落城している。
この圧倒的な敗北の民族的記憶が
恐怖とトラウマになり
今の韓国人、北朝鮮人の
反日感情となったのだろう。
907 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 20:57:19.54
自分が朝鮮人だったら
絶対に知られたくない
圧倒的敗北。
恐るべし戦国ジャパン。
まぁ、ぶっちゃけ隣にあったのが朝鮮じゃなくて、イギリスだろうがスペインだろうが
結果は同じだったと思うので朝鮮人は恥ずかしく思う必要はないのだが。
圧倒的な国力を誇る明以外に日本と戦える国なんて存在してねえよ、当時。
>>903 素材以前に飢餓線上を毎春さまよう民衆に何を求めてもいかんだろ?
逃走心とハングリー精神だけか?
本土から補給の来る日本以上のコンディションは求められない。
910 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 14:12:01.06
>>908 なるほど。
明さえじゃましなかったら
中央アジアやヨーロッパまで攻め込めたかも
ですな。ヾ(^▽^)ノ
911 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 14:18:19.95
>>908 まあ現在、韓国人が必要以上に日本叩きをするのは
この恐怖からくるコンプレックスからだろね。
叩いてないと不安でしかたないのだろう。
>>908 イギリス、スペインとか無理です。
陸のテルシオ編成は防御だとめっぽう強いし対処法が確立出来ない限り抜けないと思われる。向こうから攻めてきたら撃退出来るだろうけどね。
ってか海戦で勝ち目が無いから上陸が出来ないと思う。同時期に行われたイギリスvsスペインのアルマダの海戦とか大砲2000とか積んでるんだぜ。
日本の航海技術はなぜか発達しなかったしなぁ、竜骨も無いしバランス悪すぎる。
ヨーロッパは兵数は少ないけど兵の錬度・装備は圧倒的だよ
銃の配備率で言うと戦国日本が関ヶ原とか大阪の陣の頃で10%程度だが向こうはスペインは40%。オランダに至っては50%超えてるからな。
>>912 和船の竜骨は平底竜骨として一般的にあります
>>913 日本は後方要員込で兵数数えています
>>913 スペイン軍の40%を日本軍の10%が数的に凌駕してるだろ?
銃隊で互角以上、槍隊で圧倒的。負ける要素が無いのだが。
テルシオなんて抱え大筒で終わるし。
>銃の配備率で言うと戦国日本が関ヶ原とか大阪の陣の頃で10%程度だが向こうはスペインは40%
16世紀中頃の1旗隊は700人前後、16世紀後半における1旗隊は150人から300人ほど。
テルシオを構成する中隊には以下の2種類が存在した(下記は兵250名の場合)。
A - 本部要員11名、パイク兵108名、コルスレット111名、マスケット銃兵20名
B - 本部要員11名、アルケブス銃兵224名、マスケット銃兵15名
テルシオ1部隊は、A中隊10個、B中隊2個の12個中隊で構成された(兵300名の場合は、A中隊8個、B中隊2個の10個中隊)。総数は3,000名となり、その内訳は、士官と事務員132名、
パイク兵1080名、コルスレット1110名、アルケブス銃兵448名、マスケット銃兵230名である。全体の指揮は大佐(コロネル)が司り、彼を補佐する将校団(テルシオ全体の本部要員)は30名前後だった。
ただし、これは理想的な完全編成の数字であり、必ずしも現実のテルシオとは一致しない。実際には、1個中隊の兵員は150名程度であることが多く、理想値の半分の1,500名、
あるいはそれ以下の兵数で構成されたテルシオがほとんどであった。
最初期の槍:銃の比率はおおよそ7:1であった。時代が進んで火器の量産が進み、また重騎兵の装備が槍からピストルと刀剣に変化し、歩兵への脅威が減少するにつれて槍兵の比率は低下した。
1550年代には4:1、16世紀後半には3:1となり、16世紀末には2:1
>>914 和船には竜骨は無い。つか平底な時点で外洋航海に向いてません。お察し下さい。
>>915 数的に凌駕してるかどうかも怪しい。騎馬鉄砲も普通に使われてる。雑賀衆以上の鉄砲集団に遠征して城攻めするようなもん。
それに日本は火砲なんてほとんど持って無いじゃん。スペインの方が量多いんだから日本は打ちこまれる側
>>916 大阪の陣とかは17世紀入ってるからね。
IFの歴史なんて分らないけど陸は力押しでいけるもんじゃないし海は勝てる見込み無いし無理だと思うけど。
平底で竜骨を持たない和船は喫水が低いためバランスも悪く大型化できません。また強度も低いです。
ただし浅い海でも活動出来ます。どこでも上陸が出来ます。内陸の近距離航海向き。
つか秀吉もそれ理解した上でスペインにガレオン貸せって要請してるじゃん。
こう説明すればいいのかな。
ジャンクで十分なのに
そしてジャンクは当時から日本で建造されていた
>>912-913 いや、余裕だよ。
テルシオを始めスペイン王国軍は非常に魯鈍で明軍の足下にも及ばない練度
西欧の兵は度々脱走が発生し、同時代の東亜と違い組織だった軍編成がされていない
ゴミ以下の士気と練度
16世紀末の銃装備率は、日本は40%一方の西欧は最も装備率の高いスペイン王国軍で30〜40%
しかも鳥銃の性能は日本銃と比べ命中率と射程と威力に劣り、軽い点しか勝る部分が無い
>>923 テルシオ編成って編成を作ってたのに軍編成がされてないって理解不能。この時期を前後してオランダのオラニエ公マウリッツとかスウェーデンのグスタフアドルフとか軍制改革が各国で行われてる
訓練マニュアルが出版されるぐらいなんでかなり訓練には熱心だった時期だよ
16世紀末って関ヶ原で6万とか7万とか鉄砲隊が動いてたってこと?ありえません。弓もまだ現役で使ってたぐらいですので。
>>924 樽廻船も江戸時代の市場の要求に応じてデザインされたものだよ。
戦国時代の平均を出すにはおかしいでしょ? あなたの書き込みは前段と後段で矛盾してるよ?
戦国末期から江戸初期には日本の商船隊が東南アジアとの交易を積極的に行っていたのは事実だし、
朝鮮半島まで大軍を送り込み、ある程度の兵站を維持するだけの船団があったのも事実。
遠洋航海ならともかく、この議論の前提である「朝鮮半島の位置にイギリスやスペインがあれば」
という状況なら、何の問題もない。
>>925 日本や明の軍と比べ、スペイン王国やその他西欧の軍は士官下士官の数が非常に乏しかった。
日本や明が臨機応変に動ける組織構造や事細かな軍事規定を設けていたのに対し
テルシオには柔軟性が全く欠け方向転換すら一日掛かり、再編成など不可能な構成だった
軍事教本と言っても非常に稚拙かつお粗末で室町時代の日本や古代中国と比べても見劣る代物
関ヶ原では6万挺を超える鉄砲が使用された。朝鮮成敗に投入された鉄砲量や
当時の日本国内の保有量からして当然だけどね
西欧軍に於ける一般兵は鉄砲など支給されません
鉄砲を配備されるのは数少ない常備傭兵で、これは最も比率の高かったスペイン王国でさえ
3割強でしかなく、あと封建領主のお抱え兵士、その他は一時雇用の雑兵しかいない。
数合わせの彼等は粗末な防具に弓や剣や槍や斧で戦った
>>924 何で認識が古いことを認められないのかなぁ…
>写真の船はどちらも江戸時代のものだよね
何の知識もなく「僕が正しい〜」と言い張っているわけね(ハァ
一枚目のを説明しても意味無さそうなので、取り敢えず「弁才船」でググってね
和船についての間違った認識ぶりをみると説明してあげても無駄っぽいね
「僕ちゃんが知っていることだけが此の世の真実〜」ってタイプのようだ
>技術的に進んでます。戦国期はもっとしょぼい
銃の装備率を比較するときは、関ヶ原じゃなく元和の役、17世紀に入ってからだという一方で
船の話は戦国期で比較しなければならないとか
確認するけど、船は16世紀でそれに17世紀の軍隊が乗り込んでいる事を想定しろと言ってるんだよね、君は?
取り敢えず恣意的に比較する時代をコロコロ変えないでね、お願いします
あと、銃の装備率の話に戻すけど、元和の役のときの装備率は大名によっては60%を超えているところもあるから
都合の良い数字を抜き出して妄想に浸るのは勝手だが、それだと誰からも相手にしてもらえないよ
>>928 風上に向かって走れない和船がなんだって?まぁこの話はもう良い見たいですね。止めます。
と言うか軍事革命とまで言われてるマウリッツの著書が非常に稚拙かつお粗末ですかwwww
近代の軍隊行動ってのはここから始まったと言っても良いし軍事教育、兵站構築の基礎として今でもマウリッツ式の影響がありますね。
関ヶ原の頃でも
>>916によると16世紀末には2:1だからスペインは30%以上です。関ヶ原での鉄砲隊の比率は10%です。
6割が鉄砲隊?60%超えてた大名って誰ですか?
つか写真のやつって17世紀どころか18世紀末〜19世紀初期の菱垣廻船って書かれてるんだけど・・・
大阪市住之江区なにわの海の時空間 菱垣廻船「浪華丸」復元の基本とした資料は,国立国会図書館所蔵の「千石積菱垣廻船弐拾分一図」。
この図は現存する菱垣廻船の図面としては唯一で学術的な評価も高いもので,作図者や年代が記されていないが,垣立の様式などから,19世紀初頭の文化・文政期の作と考えられる。
19世紀初頭だね。17世紀のものだと思ったのかな。
日本海は50個師団にも匹敵する価値があると言われてましたが攻撃側が不利です。当時のスペインの装備・戦術だと尚更ですね。勝利出来ると思えない。
>>929 日本や明の軍と比べ、スペイン王国やその他西欧の軍は士官下士官の数が非常に乏しかった。
日本や明が臨機応変に動ける組織構造や事細かな軍事規定を設けていたのに対し
テルシオには柔軟性が全く欠け方向転換すら一日掛かり、再編成など不可能な構成だった
軍事教本と言っても非常に稚拙かつお粗末で室町時代の日本や古代中国と比べても見劣る代物
関ヶ原では6万挺を超える鉄砲が使用された。朝鮮成敗に投入された鉄砲量や
当時の日本国内の保有量からして当然だけどね
西欧軍に於ける一般兵は鉄砲など支給されません
鉄砲を配備されるのは数少ない常備傭兵で、これは最も比率の高かったスペイン王国でさえ
3割強でしかなく、あと封建領主のお抱え兵士、その他は一時雇用の雑兵しかいない。
数合わせの彼等は粗末な防具に弓や剣や槍や斧で戦った
この程度の奴ならコピペで対応するのが一番だ罠
自分の主張を明確化せずに相手の揚げ足取りのみに血眼になっちゃ駄目だぉ
つーか全く的外れな事ばかりだし
と言うか軍事革命とまで言われてるノエル・ペリンには
戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたとあり、当時世界最大の銃保有国らしい
外人さんの日本論にトンデモ話があるわけないし本に書いてある事は事実だというのがコノコの主張らしいから
続けるべき話もないね
外人さんは日本のことにとってもくわしいんだな〜(棒読み
ノエル・ペリンが軍事革命って意味分んねーよ
そして彼は軍事学者でもなければ歴史学者でもないよ。
50万丁の出典も「鉄砲を捨てた日本人」と言う本で銃規制派である彼の政治色が強い本ですね。
つーか本に書いてある事は事実なんて主張どこでした?
16世紀にオラニエ公マウリッツが訓練方法を書物にまとめ公開したんだよ?なんか勘違いしてる?
935 :
934:2013/10/15(火) 21:51:53.93
自分には甘いが
他人のレスには厳しい
それが俺のジャスティス(キリッ
>>930 菱垣廻船は日本近海での沿岸輸送に特化した船だから、遠洋航行能力が乏しいのは当たり前。
樽廻船もだけど、輸送量とコストからあの船型に辿り着いてる。
内航貨物船を見て、日本の船に太平洋を渡るのは無理とか主張するようなもの
あー・・はいはい。著書って言われてマウリッツが現代の人だとでも思ったのね。
16世紀のオランダの総督ね。軍事史においても有名な人です。
彼を初めとしてこの時期に西洋で行われた軍事に置ける改革が軍事革命とも言われています。今の自衛隊にも繋がる近代的な軍隊の発祥な。
なんかノエル・ペリンとか出て来てすげーどうでも良くなった。
>軍事革命
グスタフ・アドルフ
フレディ
ナポレオン
二十世紀になっても縦隊行進<鎌倉時代には散兵戦術をマスターした日本
欧州は何遍軍事革命すりゃ日本に追いつけんだかw
そういや日露戦争でも露軍は、局地的に日本兵より数が多くても馬鹿の一つ覚えの密集隊形だから
常に遊兵が存在し数的優位を活かせないとロストーノフが書いてたな
欧州すげーw日本は勝てないよ(ブルブル
>>936 そうだよ。だから菱垣廻船を例に出すのはおかしいだろ?
スペイン海軍と戦えるような船があったの?ってことだよ。
大型の安宅船でも大砲3門とかだぞ、スペインの中型ガレオンでも15〜20は積んでる。
>>936 日本は川舟の延長線上だから平底は当たり前だし、竜骨と概念的には同じ強度の構造でもあるんだけど
コノコは欧州側にはIFで設定するけど、日本側はコノコが知っている間違った日本史知識の範疇でなければならないというスタンスだから
最初に結論のある妄想を聞けと演説に来ただけで議論がしたいわけじゃない
この話をまともに進めるのなら何処の国が日本に来たのかを明示し
スペインであるならばフィリピンの片付いた十七世紀以降でなければならないのだが
そういう現実的(?)な話はしたくないんだよ
あくまで古い本に書いてある古い知識の吹聴と
ガイジンスゲーと言うことが本義だから
>>940 そもそもIFの話しはじめたの俺じゃねーよ。古い本って何の本を指してるのかもわからんし。
ガイジンスゲーなんてどこに書いてあるんだか
>スペイン海軍と戦えるような船があったの
なんかドラエモンのスネオを思い出した
で、町内で一人だけ高い玩具を持っているからって何なのよって話だよなコレ
ジャイアン(英)に見つからないようにコソコソ逃げ回る俺って凄くない?と言いたいのかなコノコ
国内で完結している日本の周辺でスペインの船がうろうろしているから何なんだろうか?
ありとあらゆるIFを動員して外国優位を主張し、日本側のIFは認めず、「日本が侵略される〜」「日本は駄目だ〜」で全員が納得すれば満足してくれるようだが…
>>942 16世紀末〜17世紀初頭のイギリスがジャイアン・・・?
朝鮮にスペインがあったとして攻め込む場合って話が最初だろ?
国内で完結してるなら別に問題ないよ。日本が侵略されるIFの話なんてしてないし朝鮮半島にスペインがあったとして攻め込んだ場合に圧勝ってIFが書かれてたから疑問を呈しただけ。
つか最初に「攻めてきたら撃退出来るだろう」って書いてるんだけど。もう一度最初から読み返してくれる?
>>940 >日本は川舟の延長線上だから平底は当たり前
日本の内航船が平底なのは、港湾が未整備の当時の事情では
引き潮になって着底しても安定しているから。
江戸期の弁財船は横帆一枚の帆船としては西洋船と比較しても
非常に優秀な間切り性能だったにも関わらず
>風上に向かって走れない和船がなんだって
とか言っ切ってる>929も大概だがw
正に卓袱台返しだな
十七世紀初頭を考慮すべき理由は何処に書いてあるのかな?
レス番を示してくれ
>スペインは40%。オランダに至っては50%超えてるからな
この話はもういいのか
それとも外国の時間軸は自由に選択できるジャイアンルールかw
朝鮮渡海の鉄砲装備率に限定するなら秀吉が指定したのは二十数%(非戦闘員を軍人と勘定するなら十数%だが、比較対象は非戦闘員を入れていない)で
清正は幾らあっても足らないからと国内で掻き集めているからスペインより装備率は高いことになるな
>>944 江戸期のつーか中国のジャンク船の影響じゃねぃ>帆船
>>937 プロテスタントを騙る野心家の謀叛人が行った軍事規定は
古代中国の内容から見ても未発達でお粗末
明軍や太閤軍の練度や柔軟性には全く及ばないよ
>>944 は? 江戸期の弁財船を代表とする内航船は船体構造は無論、
帆装も全くジャンクの影響は受けとらんよ。
ジャンクの帆装ってのは竹などを編んだ蛇腹状の帆を中心線を
ずらして左右非対称に取り付けるもので、朱印船などの江戸初期の
外航船はジャンク形式だったけれど、内航船の帆装は全く別。
948 :
947:2013/10/16(水) 00:27:44.13
>>943 日本側が連戦連勝するよ。西欧最強のスペイン王国軍じゃ歯が立たない
何せ彼らは明軍より遥かに劣っていたのだから
南蛮人自身が明軍の精強さを「その気になれば西の果てまで征服出来るだろう」と述べてる
その明軍は東の日本軍には歯が立たなかったがねw
数か月で全土を失陥した李朝軍や両班私軍など問題外ゴミも同然だ
>>947 何で帆装の話になるのか分からんけど
日本が中国のジャンク船から全く影響を受けていないってのは言い杉じゃねぃ
それとも俺が読むべき本の紹介でもしてくれるかい?
>>950 何も知らんのなら、石井謙治氏の和船T・和船Uがまず読むべき基本書だろ。
>>951 アマゾンで中古が二千円を切ったら読んでみるよ
. ∧_∧ +
ニワトリカエセヨー ( ´Д`) +
(つ つ Π
. + ( ヽノ ⊂二⊃ これは乙じゃなくて鶏泥棒の軌跡ニダ
(( し(_)  ̄ ̄フ <`∀´ヽ> rァ 勘違いしないようにするスミダ >953
/, (つ つ' {
(、__, ( ヽノ <彡}
+ (( レ(_フ,i,i,' +
955 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 01:39:30.95
なんかいまだにサムライ幻想にとらわれている馬鹿がいるんだね(笑)
日本史版は遅れてらー(笑)
>>955 秀吉軍の水夫は陣立に「水軍」とある9千2百人だけだと言ったり、
晋州城攻撃時の陣立書を誤読した挙句それを根拠に日本軍の被害が甚大だとのたまったり、
秀吉軍の戦闘員の九割は百姓だと言ったり、
よくわからんおっさんやバカ学生の個人ブログをコピペしてドヤ顔したり、
黄石山城の朝鮮軍が350人だと言ったりして大恥晒した自分は馬鹿ではないと言うのか(笑)
日本史板の他の人に比べて遅れてないとでも言うつもりなのかよ(爆笑)
だいたい、あらゆる板に粘着して執拗に侍ネガキャンを展開するお前の妬み、僻みは凄まじいよなー(笑)
それすなわち侍に対して相当な劣等感を抱いている証拠ジャン(爆笑)
957 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 22:56:19.20
戦国時代の戦乱を生き残った安土桃山期の武士って
千年におよぶサムライの歴史上「最強の世代」だろう。
その「最強の世代」のサムライにとっても朝鮮半島を征服
するには荷が重かったと思うと・・・
日本人としては何となく悲しいな(笑)
>>957 ぶっちゃけ朝鮮が貧しすぎて兵站が得られなかったのが主原因だけどな。
>>957 へえ〜、お前って日本人だったんだ。今年一番の驚きだわ(笑)
朝鮮出兵や元寇関連のあらゆるスレに湧いて執拗に日本を貶め、朝鮮義兵(笑)を賛美する書き込みを繰り返している奴なわけだが、
そのお前が本当に日本人なら、よっぽどの異常者か偏執狂だな(爆笑)
それか、朝鮮学校に補助金を出せ!とか言って定期的に座り込み運動をしているような二重国籍の「日本人」なのかな(笑)
どっちにせよ、そこまで我慢ならないくらい日本が嫌いなら、例え多少の困難があろうともよその国に、
例えばお前がこよなく愛する朝鮮にでも移住した方が幸せなんじゃね(爆笑)
960 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 23:52:36.36
>>958 なんかおれが武士に厳しい視点をむけるとお前のような奴が俺のことを朝鮮人
認定してくるけど残念ながら俺は正真正銘の日本じんなんだよね(笑)
ただ、日本の歴史をたいして知りもしないアメリカ人ならいざしらず、歴史版
にくる日本人ならサムライについても客観的な視点を向けてほしいと思うから
厳しい視点を向けてるだけだ。
トンスラーの定番だよねアイアムザパニーチュ
>俺は正真正銘の日本じんなんだよね(笑)
日本人と書けない点が、チョンである事を冷厳に物語ってる
戦国板に湧いてた数字もわからんアホかw
>>960 へえ〜、正真正銘の日本じんねえ(笑)
正真正銘の日本じんって、ロンドンオリンピックで日本が金メダルの目標数を達成できなかったことをあざ笑ったり、
柔道で松本薫以外金をとれなかったとか言って大喜びしたりするんだ(笑)
だとしたらとんだ日本じんもいたもんだな(爆笑)
あとお前ってどこかのスレで論破されたときに、次はお前らが鼻を削がれる番だからな!とか捨て台詞吐いてなかったっけ(笑)
これってかなり決定的な発言だと思うんだが、それでも正真正銘の日本じんなのか(爆笑)
あと正真正銘の日本じんだと言う割には「日本じん」だの「とり作ろう」だの「主張お主眼」だのおかしな言葉使いが多いんだけど(爆笑)
>>歴史板にくる日本人ならサムライについても客観的な視点を向けてほしいと思うから厳しい視点を向けてるだけだ。
ふーん、客観的ねえ(笑)
日本軍に将軍クラスの戦死者がほとんどないのは、当時の日本が封建制で家来が必死に主君を守ったためだ!とか
日本軍が明軍に勝てたのは、相手になった明軍がただ実戦経験があるというだけでろくに訓練もしていない辺境の二軍だったためだ!とか
日本軍に戦闘の敗北がほとんどないのは、勝てそうに無いときにさっさと逃げ出していたからだ!とか
慶長の役緒戦で明朝軍が一方的にボコられたのは、日本軍の来襲を予測できず油断してたからだ!とかの
小学生並みの言い訳は客観的な視点と言えるのか(笑)
どこからどう見ても朝鮮人の主観的な願望なんだが(爆笑)
慶長の役では、防衛体制を整えた明鮮軍に手も足も出ず、今度は京城すら落とせずに南部に後退した!って書いてるよね。
小和田哲男とかの、小遣い稼ぎ戦国本でw
京城じゃない漢城だw
韓賊、朝鮮学校では京城と書くんだねえ
小和田さんは過去に武功夜話を一級資料と言い出したこともあるからな
ああいう、ゲームかなんかで戦国時代にハマった連中向けの本はいい加減なの多いよね
>>966 京城は日本統治時代に使われた名称で、向こうじゃ漢城とか漢陽では?
970 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 22:18:48.49
>>963 おれが書き込みを始めた数年前はお前のようなサムライ最強厨が日本史版や
世界史版に跋扈していた。
おれも拙い歴史知識で参戦したが、二度、三度と論破されたっけな。
俺はそれからいろいろ調べて成長したが、お前らサムライ最強厨は
合いも変わらずサムライ最強の結果ありきの偏向史観。
そんなこと続けている間にサムライ最強厨はどんどん劣勢に立たされてきた。
当然だよね。
するとまともに反論できないお前らは過去の俺の発言を出して来たりしたり、
朝鮮人認定をレッテルはったりとトンチンカンな反論を繰り返すしかないもんな(笑)
>おれが書き込みを始めた数年前はお前のようなサムライ最強厨が日本史版や世界史版に跋扈していた
近代史板も含めて過去十年分のログならあるから
何年のどのスレか教えてくれw
確認する
>>970 反論出来なくなると逃げるのがおまエラ在チョンの特性だな
973 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 23:55:03.52
>>972 >反論出来なくなると逃げるのがおまエラ在チョンの特性だな
お前ってホントに進歩ないね(笑)
>>970 >おれも拙い歴史知識で参戦したが、二度、三度と論破されたっけな。
ふーん、お前の認識だと論破されたのはたったの二、三回だけなんだ(笑)
実際にはそれより遥かに多いと思うけどな(笑)
>お前らサムライ最強厨は合いも変わらずサムライ最強の結果ありきの偏向史観。
>そんなこと続けている間にサムライ最強厨はどんどん劣勢に立たされてきた。
へえ〜、お前の認識だと俺はサムライ最強の結果ありきのサムライ最強厨なんだ(笑)
いつ俺がそんなこと言ったのかな(笑)
俺に到底歯が立たないと見るとやっぱり話を摩り替えるんだ(笑)
まあ、俺は別にそれでもいいけど、成長のない奴だよなお前は(爆笑)
>朝鮮人認定をレッテルはったりとトンチンカンな反論を繰り返すしかないもんな(笑)
レッテル貼りじゃなくて事実だろうが(笑)
550: 日本@名無史さん [sage] 2010/12/15(水) 04:01:30
妄言おつかれです
お前ら日本猿は頭も悪くて、体も惰弱のクズしかいねえんだから。こんな無謀な戦争負けて当然
次はお前らの鼻と耳が無くなるから覚悟しておけ
↑これがてめえの発言だってことはわかってんだよ(笑)
どこからどう見ても正真正銘の朝鮮じんだろうが(笑)それにもかかわらずお前は
>なんかおれが武士に厳しい視点をむけるとお前のような奴が俺のことを朝鮮人
>認定してくるけど残念ながら俺は正真正銘の日本じんなんだよね(笑)
なんて言って卑劣にも日本人になりすまそうとしてたんだろうがよ、この恥知らずの大嘘吐きが(笑)
てめえ本当にタマついてんのかよ(爆笑)
976 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:31:36.05
?
977 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 19:23:08.13
>>839 あの人たちって、けっこう後世まで内々では向こうの言葉で会話してたらしいね。
>>964 昔は権威があると思ってたけど、今改めて読むと嘘吐きだよね。
彼だけじゃないけど、何故朝鮮絡みになると急に事実を捻じ曲げて自虐丸出しになる人が多い
そりゃまあ、百済王も新羅族長も宗主国や本国の大和言葉を捨てて
夫余語や馬韓語や新羅語を使う必要無いからな
980 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 18:20:35.20
いや、倭王とかヤマトの大王とかその子孫が、かなり後の時代まで、
宮廷の内々では、大和言葉ではなく半島の言葉を使ってたんだろう。
>>979 だな。
征服者たる倭人がわざわざ現地の被支配民族である韓族の言葉を使う意味が無い
982 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 18:53:43.69
征服者は半島からやってきた民族のほうだが。
>>982 宋書「倭国、倭王武を使持節倭任那加羅馬韓秦韓新羅六国諸軍事に叙任」
梁職貢図「新羅、ある時は倭国ある時は馬韓に支配されていた」
984 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 19:11:14.64
その倭王ってのが、5世紀以前に半島からやってきた渡来系の子孫だろ。
高句麗あたりが高天原で、天孫降臨ってのは半島から征服者がやってきた事実の神話化だろう。
半島南部は無文土器→弥生陶器という断絶があり
征服された事が明らかになった
半島北部では土器→周様式の陶器、青銅器という断絶があり
これ又征服された事が明らかになっている
日本にはそういう断絶が全く無い
よって縄文人の子孫が半島南部を征服した事実は否定しようがない
アッチで頑張った武将は
改易・取り潰し・病死とかばっかだなw
>>963 日本人なら〜とか歴史板で言うなよ。
歴史は立場で変わるようなもんじゃない。
反論があるなら事実だけ述べれば十分だろ
988 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 06:19:06.39
史実とか事実はどうでもいいんだよ。
要は日本人として誇りの持てる歴史を書けってこと。
いいか、よく聞けよ。
一番大事なことは、歴史的事実がどうであったかということではなく、
日本にとって望ましい歴史とはどうあるべきかってことだ。
愛国心のある日本人なら、そこんとこわかるだろ。
問題なのは事実がどうだったかってことじゃない。
日本人にふさわしい日本に誇りを持てる歴史を書くってこと。
>>988 朝鮮化計画かよ?学問と宗教を取り違える阿呆は死ねばいいのに。
>>988 分かり易い釣り針だなw
現実にそれを日々実践して、見事に異世界の歴史をコリエイトしたのが
お困りの国、韓国だよな。
>>988 常識のある日本人は朝鮮人の真似なんて恥ずかしくてできないよ。
日本は世界の中心とか本書いてる奴らは全員朝鮮人だと思う。