世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察その2

このエントリーをはてなブックマークに追加
924世界@名無史さん
「歴史通 3月号」の筑波大学大学院教授・古田博司氏による「あの、朝鮮民族とつき合う方法」から引用。

以下引用(38〜9頁)

日本は豊臣秀吉の時に、朝鮮に出兵しているのを知っていますね?
最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが
分かってしまったのですよ。朝鮮の李朝がひどくて、日本の方がずっといいから、
占領地に城下町もできてしまいます。
朝鮮農民は李朝でひどい目に遭っているから日本の方に行けば良くしてくれるということで、
どんどん日本の占領地に逃げ込んできてしまうわけです。
これが事実なのですね。こんなこと教わってないでしょう?
日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます。
・  ・  ・  ・  ・
おそらく教科書では負けたと教わったのではないかと思いますが、あれは嘘ですからね。
すでに半島の領地の藩分けもしていたと言われているのです。
でも、秀吉が亡くなって、そのまま撤兵することになってしまいました。

引用終了

学校では全く教わっていない、知らない話でした。
925世界@名無史さん:2013/07/30(火) 23:24:26.91 0
良さ気に見えても結局当てにはならんかったわけだな
926世界@名無史さん:2013/07/31(水) 08:42:32.72 0
>>924
そもそも古田博司が主張するように日本武士団が強ければ慶長の役なんて起きなかったのに。
秀吉の計画では文禄4年(1595年)には明国を征服するつもりでだった。
その為に、文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを
引き連れて渡海するはずでいたのに。
それが秀吉の渡海も中止され、それどころか明国と和平交渉に入ったのはなぜなんだ(笑)
それは明国軍5万の参戦により日本側が劣勢に立たされたからだろ。
それすなわち日本武士団が押され気味だった証拠ジャン。
なにが、
> 日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます
ほんと古田博司って馬鹿だよな。
馬鹿なうえに恥知らずだ(笑)
927世界@名無史さん:2013/08/01(木) 12:05:25.67 0
近世日本の軍勢を「日本武士団」とか言ってる時点で>>926も大概の馬鹿だな(笑)
928世界@名無史さん:2013/08/01(木) 14:41:20.18 0
>>926
いや、そうでもないよ。
世界史見たらわかるが、広大な異国との戦争って、
数年または十数年続くってのは当たり前だし。

慶長の役の時点で、明・朝鮮軍はもう壊滅的で、秀吉軍に
勝てる見込みはすでになかつたわけだから。
秀吉が死んで打ち切りになったから助かっただけ。

明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)

第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
929世界@名無史さん:2013/08/01(木) 14:48:15.84 0
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)

露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将のケ子竜が戦死。

特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。

第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。

戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。
930世界@名無史さん:2013/08/01(木) 18:40:44.04 0
>慶長の役の時点で、明・朝鮮軍はもう壊滅的で、秀吉軍に
>勝てる見込みはすでになかつたわけだから。
三路の戦いって、慶尚道南岸の倭城の防衛に成功したってだけだからな。
史書によれば明・朝鮮連合軍は攻城戦の後、遠巻きに監視したとある。
つまり戦線はまだ継続してたわけだ。
>秀吉が死んで打ち切りになったから助かっただけ。
二言目には秀吉が死んだからーとか、秀吉が死ななかったらって言うけど
秀吉って不老不死だったのかよ。
本来は死ぬはずがなかった秀吉がなぜか死んでしまった為、仕方なく
撤退したのかよ。
文禄の役を開始した1592年4月から秀吉の死まででもすでに6年半もたって
いるのに。
秀吉の死を言い訳にするな!この馬鹿が。
931世界@名無史さん:2013/08/01(木) 23:18:20.89 0
>>930
>三路の戦いって、慶尚道南岸の倭城の防衛に成功したってだけだからな。
三路の戦いって、日本側に取っては兵力の半分以下の留守番組が陣地を守ったってだけだけど、
明朝鮮側に取っては文禄・慶長両役を通じて最大規模の大軍を投入した一大攻勢計画だったんだが(笑)
それなのに三城を同時攻撃して一城も落とせず、逆に兵力半分以下の留守番組に万単位で討ち取られる大惨敗を喫しているんだが(笑)

>史書によれば明・朝鮮連合軍は攻城戦の後、遠巻きに監視したとある。 つまり戦線はまだ継続してたわけだ。
宣祖実録には「三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をした」と書いてあるんだが(笑)
あと、明史にも「明とその属国朝鮮に勝算は無かった」と書いてあるんだが(笑)

>本来は死ぬはずがなかった秀吉がなぜか死んでしまった為、仕方なく撤退したのかよ。
秀吉が死んだ時点で後継者の秀頼がまだ幼児で、権力争いで一触即発の状況になったから外征どころじゃなくなったんだろ(笑)
だいたい、エスパーでもないのに秀吉の死期が事前に分かるわけないじゃん(笑)
そのくらいのこともわかんねえのかよ、この馬鹿が(笑)

>文禄の役を開始した1592年4月から秀吉の死まででもすでに6年半もたっているのに。

モンゴル帝国は高麗を服属させるのに30年近くかかっているんだが(笑)
清は明を完全に征服するまで5世代70年近くかかっているんだが(笑)
932世界@名無史さん:2013/08/01(木) 23:38:59.28 0
歴史通ってネトウヨのオナニー雑誌だからな。
毎回、極右の日本美化の記事ばかりで気持ち悪すぎ。
933世界@名無史さん:2013/08/01(木) 23:48:43.10 0
秀吉が後継者成人するまで生きてたら果てしなく大陸に戦線を広げ続けたのだろうか
なかなか辛そうだな
934世界@名無史さん:2013/08/02(金) 00:17:11.52 0
>>933
しかし、南明が実際に滅んだように落としどころはあるだろ。

日本人のトラウマの一つでもある日華事変が泥沼になったのは、
結局米欧の援助があったからで、それがなけりゃ民国政府は
どこかで白旗上げるしかなかったはず。明も同じだろうな。
935世界@名無史さん:2013/08/02(金) 01:14:47.71 0
>>932
只の事実を乗せてるだけなのにネトウヨってwww
俺には、その気持ちはわからんけど、嘘つき朝鮮人が好きなんだな君って。

文禄・慶長では補給線も切れていない。


李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_10.html
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_9643.html


唐武陣 文録・慶長の役の偏り5 中国(明)・朝鮮から見た日本の船
http://zaq.ne.jp/users/es1772329/article/101/
936世界@名無史さん:2013/08/02(金) 02:49:14.80 0
>>934
落としどころかー。失敗ばかりしてるような印象があるけどどうなるんだろ
イデオロギー的には明を征服するまで止められ無ぇのかな

当時、漁夫の利をねらいそうな他勢力ちゅうたらポルトガルとオランダと
スペインと女真とモンゴルぐらいか
937世界@名無史さん:2013/08/02(金) 09:11:34.04 0
>>931
>明朝鮮側に取っては文禄・慶長両役を通じて最大規模の大軍を投入した一大攻勢計画だったんだが(笑)
城攻めなんてそんなもんだ。
幸州山城の戦いなんかもっと戦力差(朝鮮軍4千人対日本軍3万人)がありながら、撃退されてるんだが。
>宣祖実録には「三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をした」と書いてあるんだが
ふーん、そんな状態でよく秀吉死後の撤退する日本軍を追撃したり、
露梁海戦を行えたな(笑)
938革命的名無しさん:2013/08/02(金) 09:34:40.76 0
ボロボロに負けて逃げかえったとはおもわないけど、
余裕の圧勝だったら一片の土地も取らずに帰ってきた理由がわからんのだけど
領土欲がなかったの?
939世界@名無史さん:2013/08/02(金) 09:40:08.99 0
朝鮮半島の日本軍橋頭堡に壊滅的打撃を与えて講和を有利にする目的で実施された
起死回生の三波同時攻勢の失敗で明朝野戦軍アボン
時期・兵力・物資を万全に整えて望んだ一大攻勢で成功すれば後世に広く語り継がれるはずだったが
遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・


そもそもそんな壮大な作戦を成功させるだけの能力を牧歌的なシナ・半島人が持っている訳ないし
940世界@名無史さん:2013/08/02(金) 11:43:32.32 0
>遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
文禄元年(1592年)4月よりはじまった征明戦争。
三路の戦いの時期(1598年10月)にはすでに開始から6年半も
経ながら、いまだに慶尚道南岸に日本軍橋頭堡を築いて固まっていたのに?
941世界@名無史さん:2013/08/02(金) 11:50:49.33 0
>>939
>遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
だいたい日本軍がそんなに強かったらなんで明軍と休戦なんかするんだ。
秀吉の計画では文禄4年(1595年)までには北京を占領して明国を征服するつもりでだったのに。
その為に、文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを引き連れて
渡海するはずでいたのに。
942世界@名無史さん:2013/08/02(金) 12:22:57.36 0
>幸州山城の戦いなんかもっと戦力差(朝鮮軍4千人対日本軍3万人)がありながら、撃退されてるんだが。
で、その朝鮮軍は死屍累々の状況で退却する日本軍を追撃もできず、戦後速攻で幸州山城を放棄してるんだが(笑)
だいたいなー、朝鮮人の守城戦ってひたすら亀のように引き篭もってるだけじゃん(笑)
日本軍はたびたび城から打って出ててるし、敗走する敵軍を追撃して万単位で討ち取ってるんだから一緒にしてほしくないなー(笑)

>ふーん、そんな状態でよく秀吉死後の撤退する日本軍を追撃したり、露梁海戦を行えたな(笑)
明朝鮮軍が露梁海戦以外のどこで追撃を行ったんだよ(笑)
劉テイにしろ麻貴にしろ、日本人が帰り支度を済ませて引き払った後にその城に入っただけじゃん(笑)
露梁海戦にしたって順天の小西らは取り逃がすし、救援に来た島津らを殲滅することもできず、
逆に明軍副総兵のケ子龍や朝鮮最大の英雄イスンシン(笑)まで討ち取られちゃうんだから散々だな(笑)

>だいたい日本軍がそんなに強かったらなんで明軍と休戦なんかするんだ。
現実にほとんど大部分の会戦で日本軍が勝利している以上、どう考えても戦闘では圧倒的に日本軍の方が強かったんだろ(笑)
遠征が頓挫したのは戦闘力の問題ではなく、朝鮮統治の失敗とそれによる兵糧不足が最大の要因だな(笑)

「従来、豊臣政権下で兵たん機能が大幅に強化・向上したと漠然と考えられてきたが、
主な改善点は作戦発起点への兵糧の事前大量集積に尽きており、
敵地に進んだ軍隊への陸上補給は、物理的な制約から依然困難であった。
結局、一七世紀頃は日欧ともに敵地の野戦軍は現地調達に頼らざるを得ず、
これが出来なければ敗退するしかなかった。
日本の朝鮮出兵の敗退は、義兵運動等様々な要因はあるにせよ、
第一には、当時の陸上補給能力の限界と現地での食糧調達の不可能性に起因するものだった。」
(久保田正志氏の豊臣政権の兵たん論文より)
943世界@名無史さん:2013/08/02(金) 12:36:08.83 0
>>942
>で、その朝鮮軍は死屍累々の状況で退却する日本軍を追撃もできず、戦後速攻で幸州山城を放棄してるんだが(笑)
3万の大軍で4千人の守る城を攻めておいて退却する状況で言う言葉なのか(笑)
944世界@名無史さん:2013/08/02(金) 12:38:41.55 0
>遠征が頓挫したのは戦闘力の問題ではなく、朝鮮統治の失敗とそれによる兵糧不足が最大の要因だな(笑)
文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを引き連れて
渡海に際して兵糧も持って行く予定だっただが、なぜそれを取りやめて明軍と休戦したんだ。
945世界@名無史さん:2013/08/02(金) 13:19:28.28 0
>3万の大軍で4千人の守る城を攻めておいて退却する状況で言う言葉なのか(笑)

何万の大軍で何度攻めても結局倭城を一つも落とせなかった状況で言える言葉かよ(笑)
しかも権慄が幸州山城を放棄したことで日本側の戦略目標は達成されているわけだが(笑)

あと兵力差を言うなら、例えば竜仁の戦いでは5万の朝鮮軍が脇坂勢の砦を包囲したが、
33分の1にも満たない1500人の脇坂勢が打って出て5万の朝鮮軍が総崩れとなり、
さらに追撃を受けて将軍の白光彦・利之誌をはじめ1千人が討ち取られているわけだが(笑)
また春川の戦いでは、春川の島津勢500人の砦が朝鮮軍数千人に包囲されたが、
やはり島津勢が打って出て朝鮮軍を敗走させ、将軍の朴渾を討ち取っているわけだが(笑)
亀みたいに引き篭もるだけの朝鮮人には逆立ちしたって真似のできない芸当だな(笑)

>文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを引き連れて
>渡海に際して兵糧も持って行く予定だっただが、なぜそれを取りやめて明軍と休戦したんだ。

よしんば10万の大軍が兵糧を持参してきたとして、その後どうやって10万の大軍を食わせていくんだよ(笑)
すでに前線部隊が慢性的な兵糧不足に苦しんでいる状況なのに(笑)
それと休戦について言えば、秀吉は明側から降伏を申し出てきたと報告されていたわけだから、
そういうことならととりあえずの休戦に応じたんだろ(笑)
946世界@名無史さん:2013/08/02(金) 15:48:04.58 0
>何万の大軍で何度攻めても結局倭城を一つも落とせなかった状況で言える言葉かよ(笑)
んなこたあ、わかってるわ!!
勘違いしているようだが、野戦なら 鎧袖一触にされる兵力差7.5倍の強敵であっても
城の防御力に頼れば撃退できる、ってことを言いたかったんだよ。
幸州山城よりも遙かに防御力が高いであろう倭城に立て籠もりさえすれば、野戦では
勝てない相手の攻撃も跳ね返すことができるってね。


>よしんば10万の大軍が兵糧を持参してきたとして、その後どうやって10万
>の大軍を食わせていくんだよ(笑)
それをおれに聞くのか?
質問に質問で返すな、馬鹿(笑)

>遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
ってお前が言うんだから、当然その文禄の役の失敗について説明責任はお前にあるよな(笑)
だいたい
>すでに前線部隊が慢性的な兵糧不足に苦しんでいる状況なのに(笑)
と主張しときながら、
>よしんば10万の大軍が兵糧を持参してきたとして、その後どうやって10万>の大軍を食わせていくんだよ(笑)
とほざいておきながら、(その上、平壌、開城などの主要都市を取り戻されている状況で)
>秀吉は明側から降伏を申し出てきたと報告されていたわけだから
>そういうことならととりあえずの休戦に応じたんだろ(笑)
秀吉の頭ではどのあたりをどのように理解していたんだ(笑)
947外野なんだけど:2013/08/02(金) 17:10:53.42 0
「日本軍TUEEE」 VS 「そんな強くないわw」
そこに拘ってるのはちょっと不毛では?なんせ程度を争ってるようだし
しかも
TUEEE側   記録を元に戦術的勝利の積み重ねを評価 → 引き上げただけで負けてねえし!超TUEEEEEEE!
反論側     結果を元にした戦略的評価 → 結果が伴わないザコ!史料の感想なんて知らん、ザコはザコ!
噛み合ってねえ
948世界@名無史さん:2013/08/02(金) 20:20:13.49 P
噛み合ってないんじゃなく
日本軍を貶めるのに必死なチョンの妄言が
全く説得力が無いだけ
949世界@名無史さん:2013/08/02(金) 22:33:42.86 0
>>遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
>ってお前が言うんだから、当然その文禄の役の失敗について説明責任はお前にあるよな(笑)

俺は>>939じゃないからそんなこと言ってないっつの(笑)
だいたい、文禄の役の失敗要因は朝鮮統治の失敗とそれによる兵糧不足だと>>942で言ってるジャン(笑)
人違いでやれ説明責任はお前にあるとか、ガキみたいなこと言ってんな!!(怒)
950世界@名無史さん:2013/08/02(金) 22:50:01.44 0
文禄・慶長の役は、左翼や在日に食い荒らされて、
虚偽や偏向が多い状態。
再構築が必要ですわ。

李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_10.html
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_9643.html


>李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
文禄の役で李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという言説が存在する
(一例;日韓歴史共同研究報告書(第1期)
・鄭求福発表論文『壬辰倭乱の歴史的意味』
「李舜臣による海戦の勝利によって海路を通じた軍糧の輸送も遮断された。」)。
しかし、そのような事実は存在しない。
951世界@名無史さん:2013/08/02(金) 23:39:42.10 0
戦闘力は完全無欠の化け物だが政治力は全くの欠陥品であったのか
952世界@名無史さん:2013/08/03(土) 01:01:17.56 P
寿命は政治力じゃないからな
953世界@名無史さん:2013/08/03(土) 21:54:20.17 0
へぇ
文禄の役の時に秀吉が死んだとは知らなかったな。秀吉の死と遠征軍撤退の時系列を確認したほうがいいぜ。
954世界@名無史さん:2013/08/03(土) 23:07:56.95 P
秀吉が逝去した為、日本軍は引き揚げを始めた
チョン学校でどんな物語を説法してるかは知らんがね
955世界@名無史さん:2013/08/03(土) 23:41:32.84 0
秀吉の死は慶長3年8/18だがその前から日本軍の侵攻は完全に滞っている
秀吉が死ななくてもどの道アボーンだな
大体明もどのくらい全力で朝鮮に支援したかもようわからんし
956世界@名無史さん:2013/08/04(日) 00:08:48.28 0
>秀吉の死は慶長3年8/18だがその前から日本軍の侵攻は完全に滞っている キリッ

とか言われても、5月に宇喜多・小早川・毛利らの主力を帰国させてるんだから、
既に翌春以降の攻勢に備えてまさに持久中だろw
957世界@名無史さん:2013/08/04(日) 00:16:04.66 O
兵数差を戦力差にすり替えたり、
戦闘・戦術的勝利を戦略・外交的勝利にすり替えたりするのは
ウヨにもサヨにもなれない子
958世界@名無史さん:2013/08/04(日) 01:09:01.72 P
半島南部の旧任那料の領国化
十分に戦略的勝利と云える。完勝では無いけどね
959世界@名無史さん:2013/08/04(日) 02:02:32.52 0
実際明は実力の10分の1も出してなかったんじゃねーの?
結局退却して領土は全部奪い帰されただから普通ニ負け戦だろ。
秀吉が死んだから撤退したとかそんないいわけはしらん
960世界@名無史さん:2013/08/04(日) 02:37:05.38 0
>>959
明の当時の総動員兵力は60万ほどという試算があり、そうだとすれば
日本側の通常動員可能兵力とほぼ同等。
 
朝鮮の史料で明の派兵は延べ22万余とされており、明軍の兵糧を賄わされた
朝鮮の数字はそれなりに信がおけると考えられることから、明は総兵力の
およそ1/3を朝鮮役に動員したことになる。

広大な明の辺境警備に回す分を考えれば、その辺がもう限界いっぱいだろw
961世界@名無史さん:2013/08/04(日) 03:00:49.51 0
>>958
秀吉が生きてたら半島南部のみで妥協していた?
962世界@名無史さん:2013/08/05(月) 12:37:36.96 0
>>959
言い訳っつか、当の明史に秀吉が死んだから戦争が終わった、明には勝算がなかったとまで書かれてるじゃん
963世界@名無史さん:2013/08/05(月) 13:08:58.40 0
>>960
>明の当時の総動員兵力は60万ほどという試算があり、そうだとすれば
>日本側の通常動員可能兵力とほぼ同等。
明の場合は、常備兵数が1569年の時点で定員3,138,300人、実数845,000人、北辺で勤務
する兵数推定50万人、朝鮮救援に動員された兵数は前後12万人、これは北辺勤務
の兵力の4.17%、
日本の場合の60万人ってのは動員兵数であって常備兵数ではない。
964世界@名無史さん:2013/08/05(月) 18:55:01.54 P
長期間60万人動員しようと思えば出来るから
どっちでも大きくは変わらんけどね
965世界@名無史さん:2013/08/06(火) 09:29:18.91 0
>>964
>長期間60万人動員しようと思えば出来るから
武士ってのは普段は行政の仕事をしつつ合間に武芸を磨く
役人兼業軍人なんだ。
それがいざ出陣となれば農民をはじめとしたいわゆる百姓
を武装させて動員する、それが武士の軍隊なんだ。
比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8だったりするが、
どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
武士も百姓もそれぞれ本業をおなざりにしているため、長期間動員する
と現場の深刻な人手不足に悩まされることになる。
966世界@名無史さん:2013/08/06(火) 15:55:40.05 0
>>965
一体いつの時代の話をしているの?
信長の時代から兵農分離が始まり、秀吉の時代には都市経済を通して得られる潤沢な資金によって
農村の余剰人口を巨大な兵力供給源として利用するようになったというのが定説なんだが。
もちろん朝鮮役には水夫や人夫として百姓も大勢動員されたが、この頃にはいわゆる「常備軍」の編成が全国的に進んでいたわけで
日本軍が元亀・天正以前のままだと思っているならそれは大間違いだよ。

あと「比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8」というのはさすがに武士が少なすぎる
国衆の所領把握が進まず、農兵が比較的多かったといわれる謙信時代の上杉軍でも武士と農兵の比率は1:3くらいだし、
天正十五年の後北条氏の岩付衆などに至っては軍勢の48%が馬上・手明、およそ半数が武士という計算になる
>>965は世界史板で吹かす前に日本史板でお勉強した方がいいみたいだねw
967世界@名無史さん:2013/08/06(火) 17:39:43.09 0
>>966
豊後大友領では、農民に夫役出陣を命じたところ、農地を返上し、百姓を
捨てて、諸課役も不納する動きに出ました。農地返上は小作地に多く出ました。
出兵の翌年、大友吉統(よしむね)は戦場での臆病を理由に改易され、
豊後は直轄領として接収されました。
豊臣方から豊後に山口玄蕃が乗り込みます。豊後では、大規模な百姓の逃亡が
起こっていました。
逃亡の範囲は島津領から毛利領まで広がっていました。
出兵の中で農村は荒廃していました。
過酷な耕作の強制が待っている以上、農民が帰って来ることはありません。
このため、山口玄蕃は渡海している夫役の者達の朝鮮からの召還を指示し、
豊臣政権は陰陽師を妻子とともに京都に集め、豊後に農民として移住させました。
http://kitaqare.d.dooo.jp/hist136.htm
968世界@名無史さん:2013/08/06(火) 18:36:28.38 0
>>967
そんなコピペで何が言いたいのかねw
勘違いしてるのかもしれんが、俺は朝鮮役で夫役(非戦闘員)として大勢の百姓が動員されたことは否定してないでしょ。
君が戦国期の半農半兵的編成と豊臣政権下の常備軍的編成を混同してたり、
武士と百姓の比率が1:9だとか言い出して無知を披露するからそれを指摘したまでなんだけどw
969世界@名無史さん:2013/08/06(火) 19:55:46.94 P
>>965
それは戦国前期の話
兼併が進んで大大名が衝突する時代になると
専業化在勤化が進んだ、在地の武士でも
大名の派遣する代官が管轄する様になっていったんだよ

太閤秀吉軍の頃には長期間動員しても
人手不足に悩まされる事になどならなくなっていた
970世界@名無史さん:2013/08/07(水) 17:44:24.60 0
文禄二年(1593)、豊後では、朝鮮役への負担に耐えかね農民の逃散が続出し、田畠は荒廃した。
大陸への出兵基地である九州での混乱をほおって置くことは出来ない。これへの対処を迫られた秀吉は、こんな命令を出した
「全国の陰陽師を逮捕し、豊後につれてきて荒廃した農村に送り、定住させ農業をさせるのだ!」
非定住の遊民である民間の陰陽師は、支配者である秀吉にとって気に入る相手ではなかった。
自分自身が、敵を霍乱やスパイするために陰陽師たちを使った過去があるだけに、なおさらである。
遊民問題と農村の荒廃問題、これらを一度に解決する、一挙両得の政策であった。
もちろん失敗する。
秀吉の強大な権力により、豊後には全国から大量の陰陽師は集められた。が、いきなり見ず知らずの土地で農業をやれといわれても、出来るわけが無いのだ。技術も経験もないのである。
そうこうしているうちに農民の逃散は、九州全域、そして全国へと拡大した。
慌てた秀吉は今度は文禄六年(1597)、農民が逃散した田畠はすべて豊臣政権が没収する、荒田没収令と言う
強硬策を打ち出したが、これは、自領の統治に介入されると諸侯の猛反対に会い、結局撤回された。
秀吉の指導力の限界が、露呈した形となった。
豊後に集められた陰陽師達は結局、またどこかへと消えて行ったという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-294.html
971世界@名無史さん:2013/08/07(水) 19:36:49.41 P
>>970
日本の歴史を何も知らないんだな、まあ在チョンじゃ仕方ないが。
逃散したのは普請役や荷駄役や傳馬役を課せられた村、農民で
武士や足軽とは無関係、そもそも西国や九州の大名には
意図的に重い負担が割り当てられてる
972世界@名無史さん:2013/08/07(水) 21:15:31.05 0
中世と近世の区別も付けられない人にそんなこと言っても無駄でしょ
もうこいつは的外れなコピペ張りまくって逃げまわるだけだよw
973世界@名無史さん:2013/08/07(水) 23:49:42.68 0
秀吉が生きる限り農民を無限に締め上げることが可能なわけか
絶対に負けない
974世界@名無史さん:2013/08/08(木) 01:24:51.08 0
あの島津領さえ、細川や石田が検地の計測竿を持ち込んで直接調査したり、義弘・久保・伊集院に直接領地を指定して割り振るぐらいの超強力政権だからね。
江戸幕府なんておよびもつかない。
975世界@名無史さん:2013/08/08(木) 03:31:00.03 0
恐怖の独裁者が死んだらそりゃ全力撤退ってことか
976世界@名無史さん:2013/08/08(木) 08:56:12.93 0
秀吉の朝鮮出兵の日本軍の約半数は、庶民であった。この時、数万の朝鮮人を拉致した
■農民(人夫・歩兵)、商人、職人(大工や土木技術者)、漁民(水夫)らも駆り出されていた。

 源氏平家の戦いが一段落したと思ったら、それは束の間のことで、鎌倉時代の半ばの「元寇」以後から日本国内は乱れた。
 続く、南北朝時代、京都を灰にした「応仁の乱」を含む室町時代、その後に信長・秀吉による全国統一が成ったとはいえ、その間にも内戦は続いた。
 極めつけは、1590年に秀吉の全国統一が成ったと思ったら、1592〜98年の7年間というもの、秀吉の朝鮮出兵であった。
 さらに2年後の1600年には、関ヶ原の戦いがあった。
 というわけで、朝鮮出兵のことについて、色々と調べてみた。
 この時動員されたのは、なにも武士だけではない。
 農民(人夫・歩兵)、商人、職人(大工や土木技術者)、漁民(水夫)らも駆り出されていた。
 日本からの大軍団の半数は、彼ら庶民であった。
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/archives/1151988.html
977世界@名無史さん:2013/08/08(木) 10:19:03.58 0
なんでおっさんのブログを貼ったんだ?本人ってことはないよな
978世界@名無史さん:2013/08/08(木) 16:10:41.82 0
>>970
>>976
あれー?お前>>965

>武士ってのは普段は行政の仕事をしつつ合間に武芸を磨く役人兼業軍人なんだ。
>それがいざ出陣となれば農民をはじめとしたいわゆる百姓を武装させて動員する、それが武士の軍隊なんだ。
>比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8だったりするが、どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。

って言ってたよな(笑)
秀吉軍の戦闘員の8割〜9割、大部分が百姓だってのがお前の主張じゃなかったっけ(笑)
それが「水夫や人夫などの夫役として百姓が動員された」まで後退したのかよ、情けねえな(笑)
その夫役にしたって渡海したら渡海しっ放しというわけではなく、釜山・名護屋間の船舶輸送で帰国したり補充されたりしているから
「長期間動員すると現場の深刻な人手不足に悩まされる」なんて主張もそもそも成り立たないんだけどな(笑)
例えば秀吉は文禄元年11月10日付書状や文禄2年2月5日付書状で水夫を帰国させるよう指示している(笑)
ついでに言うと水夫の家族にも扶持が与えられているんだが、お前はどうせ知らないんだろ(笑)
979世界@名無史さん:2013/08/08(木) 17:45:40.74 0
朝鮮人自らが、耳そぎの起源を主張しているようですw

「歴史民俗朝鮮漫談」 今村鞆 昭和三年 南山吟社

しかし、耳を取る事は朝鮮の方が元祖だ、宣祖王の九年(1576年)に、日本の海賊が、
慶尚の南岸に寇し、辺将(国境守備の将兵)がこれと戦い、勝って殺した時に、首の代りに
京城へ耳を送って居る。また文禄の役のときに黄海道辺で日本軍に勝った時に、矢張り耳を
切って送って居る。日本の諸将が耳を切って送ったのは、実は朝鮮に学んだのではある
まいか、もっとも昔し後三年の後に(後三年の役 1083〜87年)、源義家が耳を切って
送った事もある。

敵兵の耳を切り取る風習は、漢字の生み出された古代シナの時代にまでさかのぼるのだ。
「取」という漢字は、敵兵の耳を切り取る風習を文字にされ意味を持たされたものなのです。

・ 耳+又(手)の会意文字で、捕虜や敵の耳を戦功のしるしとして、しっかり手に持つことを
示す。 学習研究社「学研漢和大字典」
・ 昔は人の首をとる代わりに、耳を切り取ってそのしるしとした。
ゆえに耳と又(手)を合わせる。 講談社「新大字典」
・ 討ち取った敵の左耳を切り、その数によって戦功を数える。 平凡社「字統」

耳切りは東アジア地域に古代シナから現代まで続く伝統か、ベトナム戦争で韓国兵が
記念品としてベトコンの耳を切りとる。
Link 韓国・ハンギョレ新聞日本語
http://www.geocities.com/inunabe2003/jiji/rekisi1.htm ←リンク切れ。
980世界@名無史さん:2013/08/08(木) 18:33:08.90 0
>>979
あくまで例示的にいった日本軍全体における百姓(平民)の割合を
ネチネチ言ってるんじゃねえ、みっともない。
俺の主張お主眼は
>どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
だが、ちなみにgoo辞典で大部分を引くと
★物事の半分以上で全部に近い量や程度。
【1】「大部分」は、全体の半分以上を占める多い数量、程度。
と書かれている。
俺が引っ張ってきたブログの
>秀吉の朝鮮出兵の日本軍の約半数は、庶民であった。
とほぼ同じ意味なんだが(爆笑)
981世界@名無史さん:2013/08/08(木) 18:36:50.98 0
>>978
あくまで例示的にいった日本軍全体における百姓(平民)の割合を
ネチネチ言ってるんじゃねえ、みっともない。
俺の主張お主眼は
>どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
だが、ちなみにgoo辞典で大部分を引くと
★物事の半分以上で全部に近い量や程度。
【1】「大部分」は、全体の半分以上を占める多い数量、程度。
と書かれている。
俺が引っ張ってきたブログの
>秀吉の朝鮮出兵の日本軍の約半数は、庶民であった。
とほぼ同じ意味なんだが(爆笑)
982世界@名無史さん
>>981
見苦しい言い訳ばっかしてんじゃねえよ(笑)お前は
>いざ出陣となれば農民をはじめとしたいわゆる百姓を武装させて動員する
とした上で
>比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8だったりするが、どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
と言っているんだから
「夫役」ではなく「戦闘員」の大部分(それも八割から九割)が百姓だというのがお前の恥ずかしい「主張お主眼」だろうが(爆笑)
苦し紛れに話を摩り替えてんじゃねえよ(笑)
わざわざ「百姓を武装させて」なんて書いてるんだから言い逃れできねえよなー(笑)
戦闘員である足軽には具足なり数槍なり数弓なり何らかの武具が支給されるが、
水夫や人夫を武装させるなんて聞いたことないからな(爆笑)