徳川家康の軍隊が朝鮮に攻めこんでたら慶長の役には勝てたの?
226 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 15:39:56.41 O
半島のキッコーマンでなく亀甲船は日本軍にダメージ与えてたらしいな
明治時代ですら石器時代に毛が生えたような状態なのに
インカやアステカと違い収奪出来る富もない
228 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:15:22.76 0
最後の陸戦では築城も完了して
征討軍11万を打ち破って
陸上ではかなり有利になってたけど
海ではイマイチだったなあ
229 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:27:08.49 0
最初に戦線を伸ばしすぎw
ゆっくり占領していけば余裕だったのに
230 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:34:49.47 0
最初の目的って明だったんでしょ
それがいつのまにか目的が変わって朝鮮とガップリ4つになってしまった
231 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:37:24.98 0
>>228 秀吉は実情悟ってからは半島南岸の確保に重点置くんだよね
秀吉は呆けてなかったと思うんだ
偉くなり過ぎてイエスマンだらけになって正しい判断を下すだけの情報が耳に届かなくなってただけで
232 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:39:01.06 0
朝鮮とがっぷりよつになった事などこの戦を通して一度も無いよ
この戦は終始日本と明との戦い
233 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:42:22.69 0
>>232 だったら朝鮮南岸に城を作ったりせずに
国境の平壌付近まで戦線押し上げてそこで城をつくればいい
それができなかったのは前回のようにゲリラ戦術で兵糧が分断されるから
234 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:45:04.85 0
ゲリラ戦が効いてるのも明の正規軍ありきだよ
明軍が居なかったら朝鮮なんて正に赤子の手を捻るも同然
235 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:46:27.82 0
明の援軍なかったら最初の遠征でケリがついてたろうね
236 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:52:40.20 0
途中から物凄い長文連投があってびっくりしたぜ
237 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:54:08.04 0
>>234 いやそうでもないよ
明が到着するまでの段階で兵糧はほとんど尽きかけてたからね
その間明と何度か戦ったけど被害はそう大したことなくて
ソウルに閉じ籠ってからは一切戦闘ないまま最初の冬を越した時には
遠征軍は半分に減ってた
さらに兵糧はもう一月しかないので前線の判断で勝手に講和退却で
その間にゲリラを駆逐して補給線を確保できなかったんだから
どっちかっていうと明相手より朝鮮のせいで亡くなった兵士の方が多いよ
238 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:55:41.98 O
当時というか朝鮮王朝には武将と言う概念がなかったかんだよな
239 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 16:57:29.06 0
攻め込まれたら事大するだけだからな
240 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 18:05:42.25 0
抗日名将李舜臣将軍最強伝説
241 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 18:30:50.95 0
242 :
名無し募集中。。。:2013/07/28(日) 21:32:02.42 0
a
あ
244 :
秀吉厨死ね:2013/07/29(月) 04:52:22.55 0
>>222 お前馬鹿?秀吉は家康どころか家康より遥かに無能で戦下手な信雄相手に135000の兵力で短期決戦挑んで1万人ぶち殺され
その後の攻防も松ノ木・浜田・蟹江・二重掘・長久保・東駒野・戸木・河波・前田・下市場など負け続けて
会戦当初から尾張でも南伊勢でも美濃でも寝返りの連鎖状態で崩壊してたのに
自力では尾張半国すら切り取れなかったんだが
245 :
秀吉は雑魚:2013/07/29(月) 04:53:57.17 0
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
わずか10町ほどの距離にいる信雄・家康に対して135000の大軍で
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、 小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと要害として拵え、陣取りした前方には芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付け 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるような形で陣地を築き
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
大々的に直接決戦挑んで家康どころか織田家で最も無能な雑魚信雄相手に1万人ぶち殺される大敗喫してるのに
直接対決してないとかアホすぎてワロタw
246 :
名無し募集中。。。:2013/07/29(月) 04:57:08.48 0
統一後の武士の不満の捌け口としての外征ってのが維新後の征韓論で繰り返されたんだけどな
その後に徳川によって再分配されて平和が来たけど西南戦争は禍根しか残らなかったねって
247 :
秀吉厨死ね:2013/07/29(月) 04:57:48.82 0
秀吉なんて運だけで天下とったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
248 :
秀吉厨死ね:2013/07/29(月) 05:02:17.36 0
小牧長久手の時でも雑魚信雄相手に1万人殺された上に
戸木松ノ木蟹江二重堀東駒野河波長久保浜田など格城郭の攻防で蹴散らされて
諦めて大阪に納馬する予定であり天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる 完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力 どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
249 :
名無し募集中。。。:2013/07/29(月) 05:04:49.00 0
ウンだけで天下を取ったわけではないだろうに
ウンも必要だけれども
250 :
秀吉厨は馬鹿:2013/07/29(月) 05:05:38.92 0
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ。11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ実際秀吉の予定とは全く別 ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中 戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない 実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回 ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです 。ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束 3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると 圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。 そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって 尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
251 :
ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp:2013/07/29(月) 05:06:39.53 0
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
252 :
秀吉厨死ね:2013/07/29(月) 05:15:00.81 0
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな。秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな。しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や
大損害を重ね、天下失った凡将w 犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀
(最期の二つは小牧山城から真東)これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には芝のついた土手を
築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。家康から
見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める。あと秀吉は
中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだがここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる
一柳直末にあてた書状から明らか。単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う。野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならない
のは自明の論理で、あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら戦場の変更とか転進
とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないままだらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず
滝川が作った大チャンスも無駄にし夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てた
だけ。当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなか
っただけ。7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築きさらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいてそれを秀吉のアホ作戦で台無し
にして奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを
小幡方面に向けて置いてればこんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々
とした行軍を無謀にもさせた。奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのにすぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させ
て間に合わずむざむざ家康を逃がした。正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり
軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手に
この醜態ってw
253 :
秀吉雑魚:2013/07/29(月) 05:16:57.45 0
豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る
武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む
上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る
秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する
北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す
史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城
(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた
254 :
秀吉厨死ね:2013/07/29(月) 05:19:24.43 0
小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。
勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ)
北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる
北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣
事実小田原合戦で235000対34500の普通なら半月くらいで瞬殺されて終わりそうな兵力比で一柳・堀尾嫡男・前田重臣が戦死するなど苦戦しまくり忍城1000や小田原1000に手も足も
でなかったし秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし
255 :
名無し募集中。。。:2013/07/29(月) 05:31:06.80 0
朝鮮が気になり始めたな良い傾向だ
労わってやったらどうだ
256 :
ひ:2013/07/29(月) 05:34:01.66 0
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
257 :
名無し募集中。。。:2013/07/29(月) 05:34:22.66 0
ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
258 :
名無し募集中。。。:2013/07/29(月) 05:35:17.65 0
たまに裸になるのは何なんだろうね
259 :
秀吉厨死ね:2013/07/29(月) 05:36:53.56 0
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、
高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、
伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、
長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将
ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を
10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。三月下旬に黒田長政宛書状で
そこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。合戦時の陣立書にもはっきり名前がある。秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる(4月11日の秀吉
の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう
指示されてる。伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。 堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに
入ってる)3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。
260 :
が:2013/07/29(月) 05:38:43.15 0
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、 小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。 中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込めそう
地図見ればわかるけど岩清水は小牧山より南に大きく向いた東。 外山、宇多津、田楽も南東部に位置していて秀吉方の二重堀よりも南部に位置していて秀吉方の拠点から小牧山を守る形には位置していない。
小幡城は竜泉寺の南西部にあたり比良はもっとずっと西で外山と宇多津の間
から南にしばらくいった位置にある。どちらも秀吉方拠点から小牧を攻める上では障害にならない。むしろ家康の方が竜泉寺〜楽田までの
秀吉方拠点の網をかぶっている形。 家康軍はおの辺で最も大きな庄内川を渡って小幡方面に移動してるついでに言うと楽田〜柏井、龍泉寺〜長久手ルートでも
五回は川越えしなきゃいけない。岩崎まで来るとまた川があるし秀吉方陣地も少なくなるからハイリスク。
小牧は東はともかく北側は川に守られてない。東も田中、二重堀から一つ川を挟むだけ。 南側は家康方拠点が並んでるが東側が秀吉が固めてるのは変わりない。
そもそも兵力差圧倒的なんだから西を迂回するやら南の拠点を落とすやら色々戦略の幅がある。龍泉寺までの間も秀吉の拠点が
築かれてるわけだし小幡、宇多津あたりを攻撃して連絡を断ち切る方がよほど
リスクが低そう。川については長久手方面への進軍した場合でも同じくある
小牧山や岩崎山は手薄にして(周辺が沼地なら家康も攻めずらい) 主力で竜泉寺やら小幡方向に進軍して小幡城を攻め同時に家康が来たら
迎撃に出られる態勢を整えればいい
あ
262 :
名無し募集中。。。:2013/07/29(月) 17:06:03.98 0
い
263 :
名無し募集中。。。:2013/07/29(月) 17:09:42.36 O
このコピペくんはなんで自分の言葉で伝えようとしないんだろうなw
君はプロポーズもどこかからの引用で済ますつもりかい?
264 :
名無し募集中。。。:2013/07/29(月) 18:10:10.63 0
かまって貰えて嬉しかったんだろ
265 :
名無し募集中。。。:2013/07/29(月) 22:21:53.93 0
上げ
あ
267 :
名無し募集中。。。:2013/07/30(火) 04:32:15.86 0
い
268 :
名無し募集中。。。:2013/07/30(火) 06:38:52.53 0
ぞ
>>217 まぁ、左翼や半島人、在日が言う、
「朝鮮軍や明軍に圧倒されて、戦闘に負けて後退した」というのとは
まったく違うのは確かだね。
秀吉軍の食料不足の原因には、李舜臣は関係なく、文禄・慶長を通じ日本の兵站ラインである名護屋-壱岐-対馬-釜山の
海路は確保されており、釜山の物資が不足したことはない。
文禄では以下が要因。
1
朝鮮軍が弱過ぎて、予想より早く制圧しすぎたこと。明から李氏朝鮮に日本の手引をしていると詰問された程。
2
小西行長が和平交渉をしながらという曖昧な状態で、攻勢か防御かの意思決定がハッキリせず、食料の補給が遅れたこと。
3
文禄の役前後の朝鮮は腐敗政治や天災、農奴の脱走により、深刻な食料不足だった。そのため現地調達もままならなかった。
4
人手不足、地形の険阻さのせいで、食料の遅配のため内陸部の部隊は食糧不足に悩まされたため(義兵は李氏王朝の倉や民衆からも略奪することも多かった)
また平壌陥落も、小西行長が和平交渉期限が過ぎたにも関わらず、律儀にも返答の使者を待っている時に、4倍近い明鮮軍の奇襲を受けて
善戦したものの、明軍指揮官の勧告を受け入れ城を明け渡した。文禄・慶長の役で明軍がハッキリと勝ったといえる
勝利はこの一戦だけで、あとはすべて負けている。
フロイスも、従軍した将士たちから聞き取りしたところ、
唐入りの秀吉軍の死者のうち戦闘による死者はわずかで後は病死と記している。
翌文禄2年からは本土からの補給の開始と突出していた部隊が南部に後退したので解消。
準備を整えた慶長の役では補給の破綻は起きていないし、
慶長4年8月の豊臣秀吉の死までの間、遠征軍は
予定されていた作戦計画をすべて完遂させていた。
慶長の戦いでは、南原城の戦い・稷山の戦い、巨済島、いずれも日本勝利。
過大評価されている鳴梁海戦では、日本水軍の中型船のみを用いた先鋒に
損害を与えたが、その後は日本水軍の圧力に耐え切れず、
李舜臣は北に逃走、全羅道も制圧され、水軍基地も占領された。
末期の戦いでも、
泗川の戦い (島津軍 7000VS明朝軍29015)島津の報告3万8千討ちとる 明史8万を失うとある いずれも誇張だろうが、大損害を被ったことは推測できる。
順天城攻防戦(小西軍13700VS明朝軍55000)陸海とも多数の死傷者と舟23〜39を失うとある 僉使黄世得も戦死
第二次蔚山城(加藤軍10000VS明朝軍29500)権応銖の報告では明軍の被害は数え切れないとある。
もいずれも明朝軍が敗北を喫している 12万以上を動員した一斉攻勢は失敗した。
宣祖実録十月十二日↓
全ての攻撃で敗退した。これにより三路に攻めた明・朝鮮軍は
溶けるように共に潰え、人心は恐々となり逃避の準備をした
南原城の戦い・稷山の戦いも日本勝利。
露梁の戦いも、島津の8000と明軍と朝鮮軍の2万&伏兵という好条件にもかかわらず、
朝鮮軍は李舜臣が討ち死に、明軍もケ子竜が討ち死に。 島津軍と小西軍を殲滅できず。
以上のことから明朝鮮に負けた要素は探し出せず、日本軍の自主撤退が正解。
>>180 百済は遺伝子調査、半島南部から出土する多数の古墳や日本で取れた材料を
使用している装飾品、各種記録から、
倭系色が非常に強い国家って判明している。
百済も高句麗も、現朝鮮民族(新羅)とは連続性はないと確定した。
ついでに書くと、後代に書かれた三国史記だが、
新羅の初期の王も倭種(日本人)から出ていると記されている始末w
272 :
名無し募集中。。。:2013/07/30(火) 17:56:16.80 0
あ
273 :
名無し募集中。。。:2013/07/30(火) 20:47:47.43 0
上げ
274 :
名無し募集中。。。:2013/07/30(火) 20:54:56.53 0
>>269 そう君が言うとおり日本軍の食料は釜山までは届いていた
そして最前線基地のソウルまでは届かなった
つまりそこまでの補給路を確保できなかったんだよ
病死というけど病にかかる主原因は栄養失調からくら体の衰弱なので
日本側が負けた主原因は明ではなくて朝鮮に補給路を寸断されたことによるものだよ
275 :
名無し募集中。。。:
>>269 >翌文禄2年からは本土からの補給の開始と突出していた部隊が南部に後退したので解消。
あとこれはないね
突出した小西隊がソウルまで後退しても兵糧枯れには苦しみ続けた
補給はほぼ途絶えたままで撤退直前には兵数が各大名半分近く減っているし
あまり困窮に「一月で食糧が尽きる」と現地の大名連名で秀吉に送った訴状まで残ってるから