【初心者】スレッド立てる前に質問をPart25【歓迎】
1 :
日本@名無史さん:
4 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:24:16
質問です。
wikiの生口に
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%8F%A3 >またこの時代は食人の風習があったので、そのための食材であったという説もある。
とありますが、
これは当時の中国にそういった風習(三国志演義の両脚羊とか)があったという意味ですよね?
それとも、エドワード・モースが日本人は食人族の末裔だと言ったようなトンデモ説以外にも
当時の日本で食人が行われたかもしれないといったような資料なり学説があるんでしょうか?
あと、この中国への生口献上が食人のための材料だったという説を唱えてる学者さんを
ご存知ならば教えてください。
もうちょい前だけど
貝塚から見つかる人骨に、食われた痕跡が確認されている
もっとも小規模部族社会では珍しいことでもなんでもないのだが
江戸の町が100万を超えたっていつですか?
>>5 へぇ、それは初耳
どこの貝塚から出たものかわかる?
8 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 22:07:16
戦国武将で
たとえば信長を例に出すと、完全に頭を剃っていたりしてる肖像画があるのですが
ドラマなどでは普通に髪の毛が会ったりします
あれってどういう風に使い分けられたのでしょうか?
もとはといえば、兜をかぶるときに不便だから、
戦争のときだけ剃ったり毛を抜いたりした。
戦争が終わったらまたのばす。
信長くらいの時代になると、ずっと剃ったままにしてる人が珍しくなくなった。
江戸時代になるとこれが完全に正装として定着し、
剃ってないやつは不良、みたいな眼で見られるに至る。
信長に「完全に頭を剃っていたりしてる肖像画」なんてあるんかい?
そりゃ僧体ってことで、出家した後の姿である訳だが、信長は出家してないわな。
だから多分、月代(さかやき)+髷のスタイルを言っとるんだと思うが、
現実の信長は、うつけ時代はともかく、後半生はずっとその髪型さね。
当時、いわゆる総髪が存在しなかったわけじゃないが(儒者とかね)、
武士なら元服後は、出家するか完全に禿げるかでもしない限り、前述のスタイルであるよ。
で、なんでドラマにでてくる武士はそうじゃないのか?
そりゃ現代人が現代人向けに作ったドラマだからだ、としか言いようがない。
「そのほうが現代人の目にはかっこよく見えるから」。それだけ。
なんで平安時代の貴族の墓って所在不明なのが多いの?
藤原道長なんか痕跡もないし…
あえて演出上で分けてるとしたら、
浪人時代だから総髪、みたいなドラマもあるかもしんない。
とにかく、さかやきは「ちゃんとした武士スタイル」。
室町後期以降ならこの認識で間違いない。
特例的なものとしては、医師は武士身分で出家者ではないが、
剃髪していることが多い(義務ではなかったが)
平安ごろは貴族以下は死体遺棄でしょ
春日山の地獄谷とかへポイッ。
以下とかの区切りはよく知らんし、日本の場合一概にいえんけど。
>>11 まぁそりゃ、貴族自体が権勢を失っちゃったからね。
ご機嫌取りに墓参りする人もいなくなるし、いつしか忘れ去られるのも無理はないわさ。
ただ一言。道長の墓に関しては、「痕跡はある」ぞい。
京都は宇治の木幡ってとこの、浄妙寺跡がそれ。現在は確か、小学校が建ってるんじゃなかったかな。
その近辺は天皇だの貴族だのの墓がいっぱいあって、宇治稜と呼ばれ、それぞれ
番号を振られて管理されてたんだが、割と近年、そのどれだかが(何番だか忘れた)道長の墓だと推定されたの。
お暇なら調べてみれ。
戦国期の古文書でちょっと。
加息位列・・・とあるのですが意味分かりますか?
>>14 平等院に道長の墓があるとずっと思っていたが、違うのか。
17 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 20:17:27
古代史に関する質問です。
奈良では唐古・鍵や纒向などの大型集落遺構がみとめられていますが、
纒向からつづく古墳時代において、時代的に纒向に続く遺跡は見つかっているのでしょうか?
あと纒向のころから大規模な集住が認められている奈良盆地において、
飛鳥に大和朝廷の官衙が立ち居並ぶにいたって、
その労働者や付帯する人口はどこが包括的に許容していたのでしょうか?
飛鳥一帯が都市化していたのでしょうか?
ご回答いただけたらお願いいたします。
18 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:44:11
明治政府が大友皇子を歴代天皇の一人に数えたのはどうしてですか?
歴代天皇であるという事は
壬申の乱は天武天皇の正当なる現役天皇に対する反乱ってなってしまい
天皇の神格化を目指す方針としては、何かと都合が悪くならないのですか?
明の建文帝みたいに
明が滅びてからならわかるけど
19 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:40:37
>>18 wikipediaによれば、その辺の都合は全く考えずに、当時有力だった学説に基づいてそう決めたらしい。
20 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 16:20:24
八色の姓以前が分からん
優しい人教えて><
品部ってなに?
大連とか大臣って?
21 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:23:59
有田中井手の戦いは西国の桶狭間
木崎原の戦いは九州の桶狭間だそうですが
ほかにもなんちゃらの桶狭間と呼ばれる戦いはありますか?
22 :
日本@名無史さん:2010/02/16(火) 01:50:55
質問です。本能寺の変以降の秀吉の行動に関する年表などを見ると
1583 賤ヶ岳の戦い
1884 小牧・長久手の戦い
1585 四国征伐
1586 徳川・上杉帰順
1587 九州征伐
1588 :
1589 :
1590 小田原征伐・奥州仕置
となっていて1588・89年が空白になっているのですが、
この2年間、秀吉は何をしていたのでしょうか?
なぜ九州のあと、さっさと関東・奥州を平定しなかったのでしょう?
>>15 誤読じゃないの?
クイズじゃないのだから、前後もきちんと出すべき
>>22 教科書的に答えるなら、その時期に刀狩り初めてます。
西国攻め後の論功行賞など、内治に励んでました。
北条とは、頻繁に外交交渉をしてます。
80年代初中に戦争が頻発してるのは、まだ恭順してない大名が多かったため。
九州統一後の残る敵は北条のみなので、焦る必要はない。
むしろ九州攻めが終わってからたった二年で関東攻めを開始してるのは、かなり素早い動きです。
25 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 22:22:49
初心者ですいません
日本には大阪にある百済とか信州にある高麗とかありますが
あれって朝鮮と何か関係ありますか?
あと奈良=韓国で言う国って韓国人は主張しますが
違うと明確に否定できる根拠とかってあるのでしょうか?
上の質問は、渡来系の人達を入植させたとされる土地に多い地名。
下はよく知らない。平らって意味じゃなかたけ?
27 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 08:31:14
>>25 奈良は最初から奈良。
韓国語は関係ないうえに、当時の百済や新羅は倭人系国家で、
今の日本語の親戚のような言語だったため、現代韓国語とは程遠い。
(今の朝鮮人と縁戚にあるのは高句麗のほう。百済ではない)
平城京の平城は奈良の地形から来ている。
「なら」は「ならす」という語の通り、たいらであるという意で、
奈良盆地のことを指す。
ヤマト王権初期の4〜6世紀はまだ奈良盆地は湿地帯だったため、
諸豪族は山際に住んでいたが、奈良盆地が気候や地形の変化で乾燥してくると、
飛鳥時代前期には開墾できる状況になっていた。
ちなみに「たいら」とは漢字で「平ら」だが、「ならす」は「均す」の他に「平す」とも書く。
つまり、平城とは「なら城」のことである。
(城をシロと読むようになるのは、山背のヤマシロを山城に変えてからで、
背のシロの音が城にうつり城=シロとなった。よって奈良時代はまだシロとは読まない)
韓国人が奈良=ナラと言い張った場合、以上2点で反論すること。
ちなみに当時の韓国人はまだ民族的に誕生しておらず、
北方民族のシ歳(ワイ)族が高麗の後の頃に南下してきて、
満州諸族や漢族との混血で誕生したと言われている。
その証拠に韓国人の身体的特徴は寒冷地に多い、
『鼻が細い、目の堀が浅い、目が切れ長、顔が平面的』の条件を揃えている。
この点からも反論できるだろう。
母方の先祖が忠臣蔵の浅野家なのですが、今になって考えると疑問がいくつかあります。
1.今は北海道に住んでいる(旭川→札幌)。
2.切腹して断絶したのに家名を保っていられるかが疑問。
3.直系は赤穂市に住んでいて家系図も見たことはあるが、東京都世田谷区に祖母の兄弟が住んでいた。
家系図は小学生のときに見たのですが、その頃はさっぱりわかりませんでした。
29 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 11:01:47
>>28 内匠頭の弟の大学はその後赦され、旗本として御家再興したらしい。
30 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 19:59:55
こういう内容の本はありますかね?って質問はどこでしたらいいんでしょう?
徳川家基に関するできるだけ史実に即していて創作のない、資料になりうる本が読みたいのですが。
ひとまず尼で検索はしてみたのですがマッチしないので。
>>28 ありがとうございます。
祖母は明治生まれなのですが、旗本として再興したなら東京に兄弟がいたとしても不思議ではないですね。
>>28 赤穂浅野家には長矩以前に分かれた分家もある(旗本)
詳しくは『忠臣蔵と旗本浅野家』を見ると良い
(たつの市立龍野歴史文化資料館より刊行)
33 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 21:26:00
質問です。
『日本の宗教史』、特に第二次大戦終戦以降の流れを
俯瞰的に学べる本を紹介してください。
今までは、
『日本宗教史』〈1-2〉 (世界宗教史叢書〈11-12〉 笠原 一男
等で独学していたのですが、1977年出版ということもあり、
終戦後〜平成に至る内容がどうしても不足なので・・・。
良書をご存じの方があれば是非お願いします。
あと、当方理系人間で宗教史とかちゃんと勉強したためしが無いので、
もし大学などで『日本宗教史』を勉強されたことのある方で、
【定番の教科書】的なものがありましたら、ご紹介いただけるとありがたいです。
34 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 22:13:17
>>27 それって韓国でも基本的にはそういう認識じゃないの?
向こうの学者とか一部の無知のトンデモがナラ=奈良って言い張ってるだけで
で、それを新聞記事にしてあたかも韓国の総意みたいな扱われて
35 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 00:36:01
>>34 韓国の高等学校に世界史選択が無いのは有名な話。
世界の教科書シリーズが図書館にあるから見ていただきたい。
見れば分かる。
世界史なんてほとんど習わないから。
なんせ世界とのふれあいは1800年代も末になってから。
火縄銃伝来も日本からだし、西洋のものは中国が作った劣化品が伝わっただけ。
まぐれでも西洋人が来そうに無い地理的事情など、結構かわいそうな歴史でもある。
シナと日本に出口をふさがれて身動き取れないかわいそうな土地柄だからな。
37 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 00:51:04
そういや向こうで、こっちでいう大河ドラマで扱われそうなポップな人って
李舜臣、広開土王、世宗大王以外でいるの?
そりゃ、チャングムのパターンから作るから誰でもオッケー
>>37 どこの国にだって、自国民しか知らないレベルの人気有名人は大勢いる
山内一豊の妻の名を言える人間が日本国外にどんだけいると思う?
>>30 資料探しってのは、それ自体が専門的な熟練を要する行為でね。
実は簡単じゃないのよ。
俺が調べるとすればまず江戸幕府の正史である『徳川実記』をあたる。
俗説レベルでの創作がないことは保証する。
そもそも、出てくるのかどうかは保証しないが。
間違えた。正しくは『徳川実紀』だ。
徳川家治の子である以上、
家治を扱った「浚明院殿御実紀」だろうな。
>>24 遅レスですがありがとうございます。
そういえば、信長は急激に拡大した領国を治めるため、
各地に重臣を派遣して京の守りが手薄になった隙を光秀に突かれましたが、
秀吉が西国を平定したあと内治に励んだというのは、
そうした信長の失敗を教訓にした面もあったのでしょうか?
質問の前提が破綻しているので回答のしようがねえよ
>>42 各地に重臣を派遣したことと京の守りが手薄になったことの間に因果はないよ。
たまたまほんの数日間だけ、本人の周りに軍隊がいない空白状態が出来ちゃっただけ。
明智光秀にとってあの瞬間は空前絶後、ほんの一瞬だけのチャンスだった。
本人もそれに気づいたから突発的に謀反なんか起こしたんじゃないかって説があるほど。
同盟相手をだまし討ちなんて当たり前の時代だったから、家康が京にいる間は兵を動員できなかったのも不幸の原因か。
なんで家康が京にいると兵を動員できなくなるのだ。
なぜ信長がそんな遠慮をせねばならん。
本能寺には、翌日だか二日後だか、軍勢が着く手はずになっていた。
信長が完全に孤立する状況なんて普通はありえなかった。
ほんの手違い、一瞬の油断だったんだよ。
唐突な軍事行動を命じられた明智光秀隊の兵士たちが
「ああ、徳川家康を殺しに行くのか」と思ったという話は本当だけど
46 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 07:54:56
>>40-41 遅レスで申し訳ないです。
大学の図書館においていないか探してみます。
47 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 09:08:01
博士スレで聞いたのですが、初心者スレの方がふさわしいと考えてこちらで聞きなおします。(博士スレでは取下げ済みです)
1.関が原の合戦の前から徳川についた者は譜代大名と言われる。
2.藤堂高虎は秀吉死後、徳川につき関が原で徳川方で戦った。
3.藤堂高虎は外様大名とされる。
1.2.から考えると譜代になるはずなのに、3.のように外様とされるのは、
どこの認識が間違っているのでしょうか?
江戸時代の大名の中で、関ヶ原以前から家臣だった家は譜代
藤堂家は家臣ではなく大名として東軍に参加したため外様
家臣なみの頑張りが認められて、外様ながら準譜代の扱いではある
>>47 関ヶ原以前の高虎と家康は、序列こそあれ豊臣家家臣の大名として同僚です。
高虎が家康と親しくしてたのは、私的な関係でしかありません。
武士の主従関係は領地の授受によって正式に成立します。
高虎が家康から領地を与えられたのは関ヶ原後なので、それ以前の関係がどうであれ外様扱いとなります。
>>48-49 回答ありがとうございます。
西軍で敵対しても(減封等はあっても)取り潰されずに外様として扱われる。
東軍で味方として奮戦しても(加増等はあっても)元からの家臣ではないので外様として扱われる。
実態としては違ったのかも知れませんが、括りとしては同じ外様大名となってしまうのですね。
関が原以前から味方→譜代
関が原で敵対→外様
だと思っていました。
本能寺の変換系のレスを見て思ったんだけど、
家康って本能寺の変が起こらなければいつまで京にいた予定だったの?
アニメか漫画ではじめって名前の♂イケメンキャラいない?
ちょっと厳しい質問でごめんなさい。
53 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 00:04:16
金田一
関係者があらかた死なないと犯人を見つけられない名探偵ですか?
コミックの孫とやらもそんなかんじなのだろうか・・・
55 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 02:20:20
質問
今日の織田信成の演技で思い出したんだけど、
戦国時代って戦場で足袋?紐切らしたら死罪ってなかったっけ?
あと、腹すかしても死罪とか雑学本みたいなの見た記憶があんだけど
知ってる人いる?
>>52 日本史と何の関係があるんだと思いつつ、
「るろうに剣心」の斉藤一、「新撰組異聞PEACEMAKER」の斉藤一、
そして「風光る」の斉藤一をあげておく
>>55 何でもかんでもやたら死罪にしたがるのはむしろ江戸期の武士。
戦国時代の大名の家臣に対する支配力って
構成の人間が漠然と思ってるほど強大なものではないんで(除く豊臣秀吉)
58 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 13:45:10
パチンコ梁山泊のボス(元ヤクザ)が
豊臣春国っつー名前だったんだけど、
在日の帰化名?
豊臣とか普通ありえないよね?
芸名だろアホウ
60 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 19:46:13
質問2つ
宮本武蔵はなんでこんなに有名なんですか?
歴史的に有名な人間の家臣としてずっとついていたわけでも、重要な歴史的役割を果たしたわけでもない
むしろ同年代の柳生十兵衛とかのほうがずっと重要人物かと
強いって言っても、かなり卑怯な事もやってるみたいだし
そもそも佐々木も倒した後、自分だけ逃げて弟子達が佐々木をなぶり殺しにしてる英雄にあるまじき行為をしてるわけだが
明治天皇は政府の決めた事の追認ではなく
自分の極めて意思で政治的役割を何かを決めた事ったあるのでしょうか?
日清も日露もこれは朕の戦争ではないって言ってたみたいだし
たとえば昭和天皇で言う226のような対応とか、田中に「辞表出せば?」とか強い意志を使った事あるのでしょうか?
>>60 吉川英治の小説が売れたから。
剣客伝説として江戸期にはもう歌舞伎などの題材になっていたが
99%これのせい
別に知名度と歴史的重要性は必ずしも相関しないから
62 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 22:55:18
日韓併合はたしかに日本側から見れば
ロシアに脅威に対する防波堤のためにあそこを日本側に取り込む必要がある
ミンビみたいにいつ裏切るかわからんから併合せざるをえない
その論理はわかるのですが
これって飽くまでも日本側の都合と言うか日本の防衛の理論であって
韓国側が日本の防波堤になれって言われてもやっぱりこれで韓国人は納得はできないでしょ
63 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 23:05:48
64 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 02:39:03
>>59 芸名なら逮捕されたら本名出るでしょ。
パチンコ梁山泊のボス(元ヤクザ)が
豊臣春国っつー名前だったんだけど、
在日の帰化名?
豊臣とか普通ありえないよね?
65 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 15:32:36
志賀の陣が今ひとつ無視されているのはなんで?
たとえば、比叡山の焼き討ちだけが取り上げられて信長非道とかいわれるけど、
その前の志賀の陣の経緯を考えれば、焼き討ちされて当然だろ。
66 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 16:02:47
知名度と歴史的重要性は必ずしも相関しないからって事じゃない?
春日局について教えてください。
女性だったため斉藤家の人間としての処罰を免れたあと
稲葉家の血筋がかわれて家光の乳母になり
女ならではの仕事で成功した人というイメージがあるのですが
政治的にはどうだったのでしょうか?
男性と女性の地位を比べるには無理があると思いますが
初心者が目安にするとしたらどのような感じだったのか教えてください。
よろしくお願いします。
男がやるような政治にまで首を突っ込んでいた。
実力的には間違いなく当時の老中以上。
69 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 18:18:48
>>67 大奥を作ったと言われてるんだから政治力はあったでしょう。表の政治にどんな口出しをした、
とかって話は知らないけど。
とはいえ彼女の専断権はあくまで独裁者である(あるいは独裁者を志向していた)
家光の個人的信任に依拠するものであるので、「女帝」とまでいうのはどんなもんかな
ありがとうございましたー
72 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 20:28:20
平蜘蛛ってどこにあんの?
浜名湖舘山寺美術博物館が、
これが平蜘蛛だと称する茶釜を所蔵している。
真贋のほどはなんとも言いかねる。
松永久秀が平蜘蛛に火薬を詰めて爆死した、
というのはまず作り話だと思われるのだけど、
だからといって↑が本物だという証拠にはならないので
>>74 お気の毒ですが、レベルの高すぎる質問というのは
回答が付きにくいものなのです。
76 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 23:21:51
明治天皇って普段なにしてたの?
昭和天皇は学者とかで研究してたみたいですが
また公務も日本中であっちこっち行ったりしてそれなりに
時間がなかったと思いますが
>>73 情報ありがとう
他の人の意見が聞けてよかった
明治以後、日本は大日本帝国と名乗りましたが,その名称について質問です。
・まず何が「大」?
・英語では、天皇もエンパイアなのは知ってますが、なら「皇国」になるんじゃないの?なんで「帝国」?
79 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 04:34:56
>>78 大がつくのは中国の元王朝から
それまでは正式な王朝名は
「漢」「隋」「唐」など漢字1字だったが
元からは国号が2字で
「大元」「大明」「大清」
帝国てのはempireという西洋概念の訳語で明治にできた言葉で
日本や中国に流用
ちなみに「大清帝国」てのは当然、後世の人間の言い方で
周が商を「殷」と呼んだのと同じ他称
「殷」はDQNて意味
いずれにせよ、漢字文化圏では「帝国」という語が出たあと、
「大+〇〇+帝国」てパターンで
「大日本帝国」「大韓帝国」て国号が誕生
「満州帝国」「大韓民国」「中華民国」「中華人民共和国」も
そんな流れ(固有名詞+政体を表す和製漢語)の国号
>67です。
レスありがとうございました。
時代背景や人間関係などももっと勉強してみます。
81 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 15:41:56
age忘れた…
82 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:49:44
応永三十一年の記録で室町幕府の要人、畠山の子息「少弼」とあるのは誰のことですか?
なんで東照宮が二個あるんですか?
どちらが本物で家康の骨はどっちにあるんですか?
85 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 00:56:29
足利と、新田が同じ源姓みたいな違う苗字で同じ姓はよくありますが
同じ苗字で違う姓という例を教えてください。
86 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 07:56:33
応永三十一年の記録で室町幕府の要人、畠山の子息「少弼」とあるのは誰のことですか?
畠山持国の息子あたりに「少弼」を称した人がいたのでしょうか?
>>85 足利に源姓と藤姓があるのは周知のことだけど?
有名どころでは佐々木とか
88 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 12:13:38
大和朝廷やらの古代、民の苦しみを救うと称して
仏像建立などして民を使役したり税を課したりして、
かえって民を苦しめることになったと思うのですが。
当時は誰もこれをおかしいと思わなかったのでしょうか?
>>88 ピラミッドも万里の長城も戦艦大和も
当時の民はおかしいとは思いませんでした
91 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 15:01:40
>>90 民自身じゃなくて、皇子やら貴族階級やらの人たちがってこと。
「大仏なんて作ってたら民が疲弊するだけで、民の助けに
なりませんぞ」
なんて思う人は居なかったのかなって。
92 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 15:14:03
>>91 現代の感覚でものを考えるとお前が今思ってるような疑問を持つんだ。
現在の経済政策だってあとから思えばナンセンスなものかも知れないが、現在はそれが適切で正しいとみんな思ってるんだ。
>>91 自分の思想に事実のほうをあわせようとする人は歴史を語らないでくれw
なぜ当時の支配者は神や仏の力を信じていなかったと断言するのですか?
現代のあなたは無神論者かも知れんがね
>>民が疲弊するだけで、民の助けになりませんぞ
ゆとりんは自分が賢くなったと思っているのだろう
それともゲーム脳か
>>91 感覚としてはあったかと
「かまどの煙が見えないって事は、メシもろくに食ってねえんじゃね?3年免税してやっか」
って伝説もある
ただ、「仏様、アンタを信じるから、この国を守ってくんねーかな」
「民も喜んで大仏作ってんじゃん…なぁ愚民ども!そうだよな?」
ってのもあったはず
96 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:17:02
日本の古代史
奈良時代や飛鳥時代を扱った漫画って
いわゆる石ノ森などの学習マンガ
あるいは天上の虹や里中満智子の一連の持統、長屋王、孝謙
などがありますが
それ以外にレベルが高い読み物としてのマンガってあるのでしょうか?
97 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 23:14:00
奈良の大仏はどうだか知らんが、ピラミッドはあれ給料出してんぞ。
公共事業なの。公共事業。ニューディール政策。
99 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 19:27:22
7世紀の新羅の将軍金ユ信は、金官加羅の王家の直系子孫で、
金官加羅は継体か欽明大王の時代まで倭国の支配下にあった任那諸国の一つなのに、
なんで金ユ信は倭国に味方せず、新羅に忠誠を尽くしたのだろう?
倭国と結んで加羅を再興しようとか思わなかったのだろうか?
100 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 20:33:54
100
101 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:56:19
>>91 橘奈良麻呂は変後とらえられてなぜ謀反を起こしたのかと尋問され
(この後刑死しているから拷問の末かもしれんが)
「大仏などを作って民を疲弊させている今の政治は間違っていると思ったから」
と答えているよ。
刑官に「大仏造営はおまえの父左大臣橘諸兄の時代に始まったことで、
お前は自分の父親のやったことが間違っていると主張したいのか」
と言われて口をつぐんだとか。
実際に史書に乗ってる話だから、こう考える人は当時もいたということだろう。
大仏造営には大量の水銀を使ったので、実際の作業に駆り出された農民たちは
かなりの者が水銀中毒になったとも推測されるらしい。
>>93 自分の思想に事実を合わせようとするやつは歴史を語っちゃいけないとなると、多くの歴史学者が駄目になりそうだなw
とくに2ちゃんでは、自分の妄念に合わせて史実をひん曲げるのがデフォだからなwww
105 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 04:32:51
いいか、よく聞けよ。
一番大事なことは、歴史的事実がどうであったかということではなく、
日本にとって望ましい歴史とはどうあるべきかってことだ。
愛国心のある日本人なら、そこんとこわかるだろ。
問題なのは事実がどうだったかってことじゃない。
日本人にふさわしい日本に誇りを持てる歴史を書くってこと。
>>105 いやその理屈はおかしいw (AA略)
それは学問じゃなくて宗教・信仰の類
事実をゆがめない前提でそれをどう受け止める子は個人の話。
それが歴史家の前提のはずなのに、
南京虐殺について中国が証拠だという物は無条件で認めろだろ、日本軍による南京での大規模強姦の痕跡がないのは、強姦殺人の証拠だのというようなやつがのうのうとのさばっていられるのは、それ自体が問題だと思うけどな。
事実をゆがめない前提でそれをどう受け止める子は個人の話。
それが歴史家の前提のはずなのに、
司馬遷は確かにそんなようなことを言ってる。
トゥキディデスもそう。
でもプルタルコスとタキトゥスは違うし
記紀神話にしてからがそのようではない。
ランケ以前においてはむしろ
そのようではない歴史叙述のほうがはるかに多い。
記紀は神話だし、神話についてそれ自体を記述は史記にもあるし。
司馬遷には「と、いうことになってるけど、話半分に聞いてね」
と注釈するくらいの良識がある。
記紀が神話であって歴史ではないなんてのは現代人の解釈の問題であり
あそこには当時の政権の正当性を主張するという明快な政治的意図が込められている
日本書紀の後ろのほうはごく普通に人間の歴史だしな
111 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 15:17:13
>日本書紀の後ろのほうはごく普通に人間の歴史だしな
推古即位以前は歴史学の対象ではないとは、昔からよく聞くが、
推古〜天智あたりも虚実ないまぜで信用ならない。
実録として読めるのは天武・持統紀のみだな。
三分の一は出鱈目な嘘
三分の一は見てきたような嘘
三分の一はどうにか本当
113 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 15:29:30
神武〜神功 デタラメなウソ(完全なフィクション、捏造)
応神〜武烈 見てきたようなウソ(伝説をもとに、創作したフィクション)
継体〜天智 どうにか本当(かなり潤色されてるが、大筋は本当)
天武・持統 実録(編纂時から近すぎて、露骨な創作や潤色はムリ)
ちなみに
>>112は
三河物語の著者である大久保彦左衛門が
甫庵信長記を指して言った言葉だが
三河物語もえらそうなことがいえるほど(ry
一連の流れをみると、一部でも神だの悪霊だの事実ではない記述のある史料は全て駄目というかんじだが
そんなことを言いはじめたら三代実録以降殆どの史料は使ってはいけないということになってしまう
いかにもマニュアル頼みの今風の若者の論法だなと苦笑を禁じえない
古事記にせよ信長記にせよ書かれてある内容から何事かを読み取るのか
誰からも批判されない完璧なマニュアルを用意するように他者に要求し盲目的にマニュアルに従えばよいと自身を納得させるのか
ひとそれぞれだねと俺は思ったりする
マニュアル頼みで史料批判ができるなら世話はないわな
書いた奴の教養水準、価値観、趣味嗜好、所属勢力・派閥、
その他もろもろ考え合わせてはじめて何事かを読み取る作業を開始できるのだし
極端から極端にしかものを考えられないような老頭児には分からないだろうけど
>極端から極端にしかものを考えられない
自己紹介乙!
118 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:52:41
というか、誰が
>一部でも神だの悪霊だの事実ではない記述のある史料は全て駄目
なんて主張をしてるというんだ?
話題になった中で神だの悪霊だのが出てくるのは史記と日本書紀だが
史記が全て駄目なんて抜かすのは基地外だし
日本書紀がぜんぶ駄目って言ってるのも
>>109だけ
史記にせよ日本書紀にせよ史料批判を踏まえて使える部分は使えるって話じゃん
三河物語や甫庵信長記は別に神話じゃないし
ただしプルタルコスおめーはダメだ
>>96 「眉月の誓」等の、長岡良子の古代幻想ロマンシリーズ。
飛鳥時代後期〜奈良時代前半までをカバーしてる。
少女漫画にしては政治がよく描けててお奨め。
120 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 21:12:06
桓武天皇の母が朝鮮人の子孫と言う事ですが
つまり光仁天皇の妻なり、妾だったのだと思うのですが
どういう経緯で朝鮮人が天皇の女になったのでしょうか?
またそういう息子が天皇になる事に周りはどういう反応を示したのでしょうか?
詳しい事とかわかっているのでしょうか?
122 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 21:54:33
日本人がそもそも渡来人の子孫って意見もあるが
桓武天皇の母は完全に武寧王の子孫、つまりあくまでも当時から朝鮮の人間として見ていたんだろ
鯖復活test
>>120 朝鮮系といっても武寧王の息子が日本で死去してから9代200年以上、
帰化してからも6代たっているのだからほとんど日本人化していたのでは?
それに新笠が結婚した時点では光仁天皇はまだ即位しておらず、
前任の称徳天皇とは疎遠だったので(称徳と光仁は7親等も離れている)、
新笠との結婚時には光仁が数十年後に天皇になるとは誰も予測していなかっただろう。
さらに百済は大和朝廷とは長年友好関係にあったのだから
現代日本人の嫌韓感情を古代にあてはめて「なぜ朝鮮人が妃に〜」
と考えるのは妥当ではないように思う。
質問です。
平安時代に太宰府の役人の任期を終えた時、正当に得た利益を1隻の船に、
不当に得た利益をもう1隻の船に積んだら正当に得た方の船だけが沈み
「つまり世の中が間違っているからこのようなことになるのだ」
と言ったのって誰でしたっけ。
出典は大鏡か今昔だと思います。
126 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 12:14:17
大坂夏の陣で家康と秀忠
どっちが最終決定権を持ってたのですか?
たとえば仮に秀頼が生け捕りになったとして、二人のスタンスとして
家康は秀吉の義理もあり、できれば国替えだけで許したかった。殺すにしてもさらし首はしなかった
秀忠は処刑してさらし首にたかった
って思ってるんだけど
間違いなく家康
128 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 20:06:19
鑑真や吉備真備って何語をしゃべっていたのでしょうか?
仮に日本で中国語をしゃべれる人間って普通にいたのでしょうか?
そもそも中国人っていないはずですよね
あとザビエルはじめキリスト教伝道師も何語でしゃべっていたのかなと
129 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 20:27:09
130 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:58:23
>>126 秀忠から見れば秀頼は千姫の婿で淀殿は義理の姉。むしろ憎む理由は薄い。
家康は政治的判断を最優先する。もし自分の心情に反してもやるべきと思う事はやる。
>>128 吉備真備は日本人だから普通に日本語話せるでしょう?
今の日本で英語が話せる人がいるように当時の国際共通語として中国語を話せる人が
いても不思議ではないでしょう。多くはないかもしれないけど。
>>128 漢文や漢詩は当時のある程度の地位にある男子ならば当然の教養
当時の漢詩は絶句で、日本人が作るのは高い完成度ではなかったとはいえ、
ある程度発音を理解してなければそれなりの出来のは作れない→馬鹿にされる
「お前古くさい表現使ってんなー」と思われる機会はあったとしても、
現在の一流大学を出たフツーの日本人が英語を使うよりは、
高いレベルで意思疎通できたと考えるのが自然
>>128 ザビエルは日本人に対しては当然のように日本語。
キリスト教の布教に現地言語習得が必要なのは
カトリックの宣教師ならば誰でも理解していること。
今でもイエズス会の指導者候補へのスパルタ教育は欧米の大学も比べものにならない。
複数言語を楽々習得できるセンスと頭脳の持ち主でなければ到底生き残れない。
今のイエズス会総長も日本に留学経験があって、もちろん日本語ペラペラ。
133 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 23:33:26
>>132 今のそれこそ教科書も教える人間もいる状況と16世紀の状況とは一緒にはできないだろ
>>132 いや、まあ、実は必ずしもそうでなかったりするんだが、
イエズス会の内部にもいろいろあってね
巡察師ヴァリニャーノ来日以降は間違いなくその通りだが
>>133 イエズス会は自分たちで日本語の教科書を作った。
ポルトガル語−日本語辞書とかも作った。
彼らは日本布教に命を賭けています。パネーのです。
135 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 01:17:24
平将平?
たいらのまさひらは何かこの世に恨みやら思い残す事があって死んだのですか?
136 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 03:51:53 BE:1039868429-2BP(0)
武田軍の財政について質問します。
井沢本や山岡壮八の本によると、武田勝頼は戦ばかりして
財政、人的資源を疲弊させ、滅亡に向かったとあります。
一方で武田軍は金鉱と採掘技術を持ち資金に余裕があったともあります。
勝頼は金鉱による豊かな財源を活かせなかったのは何故ですか?
武田の金山ってのは、多分に後世的幻想で
専門的研究の文脈からは、武田家の財政において実際には
そんなに大きなウェイトを占めてはいなかったろうと考えられている。
だいたい、実際には武田家が自分たちで金山を運営していたなんて記録は無い。
領内に金山があったのは本当だから、そこからの税収その他はあったが、そんだけ。
138 :
136:2010/03/08(月) 04:10:24 BE:1213179337-2BP(0)
ちょっと訂正。
井沢本の記述は正確には、織田軍の楽市楽座からの収益を財源とした
専業軍人に対して、武田軍は農閑期だけの兵隊で差がついたという主旨でした。
いずれにせよ武田に金鉱からの収益があれば専業軍人で賄えるのに、という質問です。
139 :
136:2010/03/08(月) 04:19:53 BE:1155408645-2BP(0)
>>137 納得しました。ありがとうございました。こんな時間に答えていただいてうれしいです。
140 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 06:04:33
足利義輝は明かに辞世を詠む余裕なかったと思うんだが
なんで辞世の句が残ってるの?
もしものときのために日頃からどこかに書いてんの?
近代史板には質問スレがないのでこちらで質問させていただきます。
三島由紀夫よりも後に死んだ人物で、辞世の句を残した人物って誰がいますか?
142 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 11:13:52
>>27 ワイ族って高麗の時代にまだいたの?
質問
江戸時代に応神天皇より前の歴史は虚構というような説を唱えた学者がいたそうですが誰でしょうか
143 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 20:12:15
率爾ながらお伺い申し上げます。
小幡小平次は「初代海老蔵・市川柏筵の弟子」だったと『耳袋』という書物にあるそうですが、
年代から言って「二代海老蔵・團十郎の弟子」とするほうが正しいのではありませんか?
詳しい方々、どうか教えて下さいましな。
何卒よしなに
144 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:14:54
質問です。
鎌倉仏教の開祖たちが開いた心の苦悩からの解放と
人間救済の思想は今日の私たちの時代にも受け継がれている
と教科書にあるのですが、具体的に
現代の中で鎌倉仏教の影響を受けているものって何がありますか?
よろしくおねがいします。
145 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:33:36
>>142 中国には消滅した民族名を他の民族に付け替える事例があり、
有名どころでは「二つの倭人」などがある。
ワイ族も東ワイと北ワイに別れていた三国時代までのワイ人と、
統一がなされたあとに、シベリア方面から南下してきた新しいワイ人がいる。
このワイ人は後者のほう。
147 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:55:20
148 :
147:2010/03/10(水) 22:56:31
?の部分はワイね
149 :
144:2010/03/10(水) 23:01:16
>>146 すみません。
写真だけだと何かわかりませんでした。。
>>145 >>27後半で触れている辺りの話といいますか、半島民族と日本人それぞれの起源とかについていい資料ご存知でしたらお教え願います
(出来れば、地道で真摯な調査研究を基に誠実な姿勢の著者のものが望ましいのですが)
151 :
150:2010/03/11(木) 09:11:14
連投すみません
>>150とあわせてですが、みなまやから、はくすきのえの戦いなどのあたりの日本と半島に存在した国との関係がよく理解できていません
このあたりの入門編に向いていそうな資料ご存知でしたらお教え願います。
152 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 12:20:46
>>151 朝鮮人の起源については比較的よく分かっているのだが、
日本人に関しては異論が多い。
日本人論関連を当たっていって、自分で信用できる説を探すと良い。
(それこそ騎馬民族征服説やら半島経由や南方経由、はたまたポリネシアン説など様々である)
同志がいたり、大学に在籍しているなら、参考図書をがむしゃらにあたるよりも、
知見のある人と討論するべきである。
私的には「二つの倭人」説が近いと考えている。
日本人の構成は弥生人7:縄文人3であり、縄文人の形質は少数派である。
縄文人は日本が陸続きだった氷河期に日本に流入した原モンゴロイドであり、
この形質は原コーカソイドであるアビシニア系や、チベット系に濃く見られる形質であり、
つまるところ高地・離島系の「駆逐された古い形質」である。
縄文海進期において日本列島は豊饒化し、縄文型採集経済が発達する。
このころには中国大陸も温暖化し、いまの黄土平原まで湿潤化していた。
縄文海進期の末になると、温暖化が終焉し、長江型の稲作農耕文化が、
北方から来た麦作農耕文化に圧迫され、南方へ下がった稲作の北限にそって長江文化民族(倭人)が移動した。
殷から周にかけて漢人が南進し、倭人は海を通じて東南アジアに拡散した。
その一派が日本に到来し、後期縄文文化に稲作を伝えたとされる。
現在では縄文後期からの稲作のはじまりが定説である。
縄文海進期の終わりによって海岸線が後退し、日本各地に肥沃な沖積平野とその湿地帯が広がった。
これは多湿を好む稲に向いており、稲作の定着の中で日本列島内で弥生人が爆発的に増加したと見られている。
西日本では早期から縄文人と弥生人の交雑が進み、新しい倭人が登場し、
縄文文化がもっていた海洋交易圏を継承し、九州−対馬−半島南部を結ぶ倭人圏を形成する。
153 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 12:59:38
倭人が南方から来たことは明らかで、まず稲作の北限がソウル付近であること、
そして倭人のもつ文化的傾向が半島南部にしか認められないことである。
倭人の形成は東へと進んでいき、ちょうど時期を合わせるように大和川の西流があり、
奈良盆地にあった大和湖が縮小した時期にあたり、奈良盆地が倭人の中心地となった。
(縄文海進期には大阪は河内灘で奈良は大和湖が満々と広がっていた。)
現在、絶賛発掘中の纏向や唐古・鍵などが弥生期の畿内の代表的遺跡である。
邪馬台国ところあいの重なる3世紀には日本が古墳時代に突入し、
倭人の目印として「前方後円墳」が登場するので、倭人の勢力圏はよりいっそう分かりやすくなる。
前方後円墳は日本固有の墳墓形式で、その分布は畿内・中国を中心に、内地と半島南部に広がっている。
また、三韓のうち辰韓と弁韓は倭人国家であったといわれている。
辰韓は後に統合して新羅となり、弁韓はゆるい連合体として任那や伽耶とよばれるようになる。
その頃の日本は原ヤマト王権期であり、こちらもゆるい連合体として合従連衡を繰り返していた。
任那と倭人勢力はしばしば遠征を行い、百済と新羅を従えたことは高句麗の広開土王碑にある。
新羅はもともと倭人国家だが、百済は言語と民族が異なり、ツングース系扶余族であったと考えられている。
倭が隼人の乱などで国内情勢に混乱を来たして弱体化すると、高句麗が伸張し、新羅を勢力下に収めた。
半島での勢力の直接維持が困難になると、任那の一部を百済に割譲するなどしたが、
結局は高句麗影響下の新羅に任那を奪われた。任那人は百済に逃げたとされる。
白村江の戦いは、天智天皇治下の事件であり、資料も多いので入門書なども多い。
朝鮮民族の起源が?とされることについては、
新羅統一前夜の朝鮮半島では倭人は少数派であり、扶余を中心とするツングース系が大半だったのであるが、
ツングース系はいわゆる騎馬民族征服説にでてくるあの騎馬民族のことで、
当然ながら、ツングースの子孫であるならば騎馬の技術があるはずなのだが、
朝鮮には騎馬の文化が薄く、同じ扶余系の沃沮や高句麗と違い、
二つの?の二つ目が半島東部においてローカライズしたものが起源だといわれているものである。
>>152-153 詳述、感謝いたしますm(__)m
この手の話題が出来る相手はいますが、
残念ながらお互い雑学程度の知識のため討論は…
うろ覚え山川の教科書に方々で見聞きした新説・珍説に自分のヤマ勘のハイブリッドで好き勝手に話すのでエライことに
日本人韓国起源までをも目にするようになり、さすがにいまの知識じゃろくな反論も出来ないので
もちょっと勉強しようと思いお尋ねした次第です
大変参考になりました。ありがとうございます
156 :
;:2010/03/12(金) 21:06:45
図書館や資料館なんかは整理整頓が行き届いているようで、実はずさんなの?
よく「○○時代の資料が、○○図書館から発見された」ってあるが・・・
157 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 22:09:18
>>156 専門家に見てもらったら、実は価値のあるものだった、というのはよくある。
どこそこからの寄贈とか、名家から買って取り寄せた資料に最初はそれほど価値があるとは思わなかった、
だけど専門家に見てもらったら実はだれそれの著名な人物の筆跡と同じだったとか、
いつ時代の古い史料であることが分かったとか。
書名の一覧や索引作ってるだけの図書館司書では史料を分析できないことは多いよ。
158 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 18:45:38
忍者ってドラマとかで描かれているような人たちなんでしょうか?
諜報としていたのかもしれませんが
屋根裏で見張っていたり、塀を飛び越えたり、異常なまでに速く走ったり
明らかに人間業でない行動は完全に作り話?
159 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 19:34:42
聖徳太子や推古天皇や蘇我馬子あたりって
記録に残っている限り
生涯飛鳥周辺から出なかったのでしょうか?
160 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 19:51:23
聖徳太子?
何ですかそれは?
161 :
147:2010/03/13(土) 20:25:31
厩戸皇子のことでしょう
>>158 さすがに山田風太郎ばりの伝奇小説みたく、人類の限界を超えた身体能力を発揮するのはむりだけど
諜報活動やそれに必要な能力の向上訓練なんかは普通にやってたみたいだよ
方言の習得、目立たない流れ者への変装、走力や肺活量の向上訓練、
潜入捜査や心理戦しかけて敵方撹乱したり、逃走のための各種技法、暗殺のノウハウ、
薬・毒物など医学薬学の知識、火薬や測量など理系方面の知識技術も豊富
ただ、当然一人一人が上記全部の技術知識を備えてる訳じゃない
やってること・できることは現代における諜報員と一緒
>>161 初心者スレってのもあり、アンタにはわかるかもしれんが
ゆとり教科書には、「聖徳太子」の呼称は適切ではないという観点から
それを記載してない物もあるらしい
だから
>>160には、まず、わからない点はググる事と、次には文意を汲み取る事を学んで欲しいな
164 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 21:23:20
今の子供って聖徳太子って言われても本当に何を指しているのかがわからないものなの?
括弧書きや注釈すらなくして完全に姿を消しているの?
その際、学校の先生も聖徳太子と言う呼称は言わないの?
165 :
147:2010/03/13(土) 21:29:28
>>160はわざと意地悪を言っているようにも見えるけどね
大山厨が「俺は歴史に詳しいぜ!正しい歴史であり歴史の真実をお前たちに語ってやるぜ」っとアップをはじめました。
167 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 10:37:51
学校の授業では「魏志倭人伝」と書名を教えられましたが、
この書物はあるのですか?
168 :
147:2010/03/14(日) 10:42:59
>>167 分かってて質問してるだろこいつ
新手の荒らしか?
170 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 20:15:27
飛鳥はさいきんの解説本などでは「飛鳥京」などと書いてありますが、
「宮」と「京」を区別してる点から、市街地などが発達していたのでしょうか?
考えてみれば、たしかに飛鳥で宮がポツポツあった程度から突然あの巨大な藤原京ができるとも思えず……
171 :
;:2010/03/15(月) 10:43:18
>>157 図書館の蔵書はパソコンで検索できますが、
資料を検索できることと、その資料を図書館が把握していることは
別問題ってことですか?
>>171 そのデータベースに全部載ってる訳ではない。整理が終わった分だけが載っている。
その過程で新発見もある。
新モンゴロイドと旧モンゴロイドって概念は世界的なものなのでしょうか?
wikiには日本語記事しかないし、英語のモンゴロイド読んでもそれらしいことは
記述されてないです。
174 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 08:34:42
差別戒名は曹洞宗の寺の墓石に多く見つかっていますが
理由を教えてください
土地をめぐる社会構造の変化を中心として、
・律令制から荘園制への推移
・地方有力者による地方行政と中央の関係
・武士の台頭と発展
あたりを扱った一般書籍を探しています
講談社学術文庫の日本の歴史シリーズの「武士の成長と院政」、
日本史小百科シリーズの「荘園」あたりの購入を考えていますが、
他に適切な良書があればご教示ください
「七本槍」の呼称って、織田・豊臣氏や徳川氏の絡んだ合戦で多く生まれてる気がするんですが、
何でですか?
小豆坂や蟹江城(対織田)の戦いがあったから七本槍が流行になったけど、他家では流行らなかったとかですか?
177 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 20:26:29
あげ
なぜ相馬御厨を巡る争いは激化したんですか?
明治時代には南北朝の南朝の方を正統とした聞いたのですが
それだと北朝の血筋である明治天皇の正統性がなくなってしまう気がするのですが
どうしてそんな面倒なことをしてまで南朝を正統にする必要があったのでしょうか
180 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 21:55:42
源氏を修善寺に幽閉していたことも「島流し」と呼ぶそうですが、
「島」ではないところに左遷した場合も、「島流し」と言うのですか?
>>179 正統性がなくなったりしませんよ?
南北朝合一を習いませんでしたか?
義務教育はどちらのお国で?
182 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:48:26
>>179 確かにそこら辺は多少のこじつけがあって面倒だけど
国学がそれを正統としたからってくらいの理由しかない
江戸期に髭を生やすのを三代家光が禁止したとWikipediaで見たが
水戸黄門は特例で許可されたのですか
>>183 石坂浩二の黄門様はそこにこだわって髭無しだった。
185 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 05:35:58
江戸時代、湯屋の挨拶は「冷え者でござい」ですが、
夏でもそんな挨拶をしたのでしょうか?
冬だけなのでしょうか?
186 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 17:29:05
>>175さん
中世の地方在地支配のあり方と中央の支配層(朝廷・幕府・寺社など権門)
の関係は、相互に関連しています。
通史でしたら、ご指摘の講談社『日本の歴史』中世前期の巻。
荘園公領制でしたら、その提唱者網野善彦著作集第3巻『荘園公領制の構造』。
吉川弘文館から『中世シリーズ』で、確か5巻ぐらいで出ています。
187 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 17:50:14
>>179さん
明治時代に「南北朝正閏論争」というのがありまして、
建前としては、南北朝の両朝廷は、南朝の天皇の方が正統とされています。
時の天皇・政府が、南朝正統論を宣言したのは事実です(明治44)。
北朝系(持明院統)の現皇族としては、建前はともかく心情としては不満です。
明治政府・天皇が、なぜ「南朝正統」を宣言したのか、原因は不明です。
当時の世論は、圧倒的に「南朝びいき」でした。
北朝正統を唱える雰囲気ではなかったのです。
考えるに、倒幕に成功した幕末の志士たちの思想に大きな影響を与えた大日本史「水戸学」が、
南朝正統論の立場でしたので、そのあたりが原因とも考えられます。
188 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 17:56:47
>>187 補足
南北朝両朝廷並立は、室町3代将軍義満の仲介により、南朝は北朝に吸収合併され、
統一(南北朝合一1392)されたことは周知のとおりです。
つまり、正統な系統は、持明院統に統一され現在に至っています。念のため。
189 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 18:58:25
>>186 訂正
『日本中世の歴史』シリーズ全7巻 です。
本草綱目とか和漢三才図会って、○巻×冊となってるけど、どういう数え方でこうなってるの?
普通1巻=1冊じゃないの?
>>191 一巻は内容による区切り。分量が多ければ複数冊に分ける事もある。
全体の分量が少なければ複数巻が合冊される事もある。
193 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 00:19:31
>>187-188 じゃあつまり、そのあとも吉野の山奥で逼塞して
時々反乱大名にお神輿にされていた南朝の後裔は
正統な扱いじゃないってことか?
俺は質問者じゃないが南朝正統説が長年謎だったんで、
ようやく理解できたような気がする。
北朝はいきなり神器無しでの即位とかやっちゃったからな。
>>193 「正当性があるのはコチラだから。文句あるの?実力行使は反乱だよそれ。バカなの?死ぬの?」
という感じですよ、ええ。
称光天皇が崩御して後光厳の系統が断絶したとき、しょうがなく伏見宮家から後花園天皇が立てられた。
大覚寺統サイドは「血統絶えたんだから先々代後亀山帝の皇子が継ぐべき!何で伏見宮系に?」
なんていいだして反乱起こすも、パトロンが幕府と和解して×。
その後代では禁闕の変とかおこしたけど、言うまでもなく反乱軍扱い。
正当・正統関係なく、あの時代に大覚寺統を認めたら全てが元の木阿弥ですからねー。
とはいえ伏見宮-後花園天皇のほうが、実は持明院統内では正統といえるもの。嫡流だから。
世の中万事結果オーライってところ。
むしろ後光厳-称光のほうがアレ。
何せ初めの後光厳自体、
>>194で言っているように天皇としての"正当"性が無
うわ何をするやめくぁwせdれftgyふじこ
196 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 01:43:37
>>195 花園と伏見の宮。
どちらも競技場の名前になってるのが奇遇ですな。
197 :
196:2010/03/22(月) 01:48:40
伏見の宮は競技場の名前じゃないな。
秩父宮でした。
198 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 13:16:00
wikiの嫌韓のところに
≫日本の軍事力・国力が伸張したことを反映して、日本を華夷秩序の中で朝鮮・琉球よりも格上として扱ってほしいと申し入れたということもあった。
とあるけど華夷秩序のなかで日本が朝鮮、琉球よりも下だったことってあるの?確か日本は金印だったはずですが、その後は柵封から離脱していると思ったが
足利義満の時の朱印船貿易では日本の位置づけはどの程度ですか?
>>198 遣唐使が新羅と席次を争った事件はあるけれど、その頃に琉球はまだ存在していないしね。
200 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 13:40:28
>>194さん とか
北朝は、足利幕府の傀儡というイメージがありますからね!
戦前は、足利尊氏は天皇に反逆した「逆賊扱い」でもありますし。
201 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 21:25:12
>>198 元寇をはねっつけてからは、中華王朝のほうでも日本を別格視するようになって、
日明貿易の際も、清に入って出島での交易になってからも、
中国は「日本が別の元号を使っている=別の皇帝が居る」ことを知ってはいたが、
見なかったことにして暗黙の了解ができあがっていたわけで。
ちなみに清に入ってからは、港湾を管轄する宦官が書類に載った日本の元号を目にするたびに、
現場と上層部でトラブルがあったことが中国のほうで記録に残ってたりする。
>>201 逆に明の後期がかなりグダグダしていて、
足利義政は冊封も受けていないのに「日本国王」を名乗って明に使者を送って、明側も日本国王あてに返書を送っていた。
もっとも、義政の死んだ後の室町幕府は……
203 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 14:32:10 BE:2772979586-2BP(0)
NHKの歴史秘話ヒストリア、東大寺大仏殿の江戸期の再建の回を見ました。
巨大な2本の材木をどうやって船に乗せるか?という難問に対して、
船をいったん沈めてから2本の材木を載せ、潮位の干満差を利用して浮上する
という方法で解決したと紹介しておりました。
運搬に名乗りをあげた九州の海運商が、船を横転させることなく2本の巨木を積む方法に
頭を悩ませていたところ、海運商の娘が夢に見たと、前述の方法を教えたのでした。
本当にこの時代、プロでも知らなかった方法なんでしょうか?
1709年ごろ、本当に画期的な手法だったのか?それまではどうしてたのか?
どうか教えていただきたく投稿します。
ちなみに1本だけ搭載であれば横転の心配はなく大丈夫だったというな説明でした。
質問です。
いろは四十七組(後に四十八組)で、いろは四十七文字のうち飛ばされているのはひ、へ、らです。
・ひは火に、へは屁に通じるからでしょうが、らは何の影響でしょうか。裸?
・し(=死)組はいいんでしょうか?
「ら」はマラの「ら」だから、「ちんぽ組」になるな
>>200 戦前と大きくまとめて、明治維新から1945年まで同じような皇国史観があったと
考えると話がややこしくなってしまう。
「夜明け前」などにもあるように、明治維新で「自分たちの時代が来た」と感じていた
コテコテの国学者は政権から排除されている。そりゃ当然の話で、
日本は古代の姿に戻れとか主張している奴を重用していたら近代国家は建設できないし。
ついでに天皇家を始め、公家出身の華族の皆さんは基本的には全員
北朝に味方することで明治の世まで生きながらえたお家の人たちだ。
南朝が正当なんて言われたら、当然腹が立つ(実際腹を立てている人は結構いた)。
しかし、明治の後半以降にもたらされた政治的な自由が、
凝り固まったイデオロギーを持つ国学者の息を吹き返させた。
ついでに当時の政権や社会に対するある種の反感が南朝正統論に勢いを付けた。
>>203 それまでどうしていたかは簡単、「前例なんて無い」
208 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 12:33:46
山川の教科書を読みながら縄文時代について勉強している
社会人です。文章中、漁労の際に使う網に取りつける重り、
「土錘」・「石錘」という用語が出てきました。
これらは字のごとく、土で作ったものが土錘、石で作った
ものが石錘、という解釈でよろしいのでしょうか?
自分ではほぼそうだろうとは思っているのですが、
下記のページ内の記述で「土錘は石で作ったもの」という
記述があり、気になって質問させて頂きました。
http://www.mogurin.or.jp/maibun/data/words2.htm それから、土で作った重りというのは水に入れたら
溶けてバラバラになってしまい、あまり機能を果たさない
ような気がするのですが、何か工夫があったのでしょうか。
ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授願えればと
思っております。
210 :
208:2010/03/25(木) 16:11:58
>>209 教えて頂いたリンク先を見て疑問が解決しました。
ご丁寧に教えて頂きありがとうございました。
助かりました。
211 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 06:56:16
よく時代劇で悪役の殿様などが、
「殿が○○村に鹿狩りに行く。○○村の住民は殿の鹿狩り費用として金五十両を負担せよ」
とかいう話しがありますが、
そういう事って本当にあったんですか?
この前の大河で、竜馬が手槍?のようなものを持って旅をしていましたが
あれはなんていう物ですか?
>>211 ありました。
勢子のバイト代などに消えたようですが。
214 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 02:33:14
今、岩波ジュニア新書 日本の歴史(4)武士の時代(五味文彦)を読んでいますが
元冦に関する記述で「神風により元軍を退けたことで日本に神風信仰が根付くこととなった」とありますが
元冦に関しては今だに神風で勝ったというのが定説なんでしょうか?
215 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 02:50:06
>>214 神風で勝ったが、日本武士の活躍があってのものだった、という形。
神風がなくても勝てたか?―→NO。反抗があった場合、日本側には決定打がなく、兵糧切れまで持つ可能性も微妙だった。
日本武士の活躍がなくても神風があれば勝てたか?―→NO。台風前日に日本武士の活躍で橋頭堡を撃破され、海上の船団に戻ったことが大事だから。
最終的な勝利は可能だろ、神風無しでも。
北九州は惨憺たる事になるだろうが、ぶっちゃけろくな補給もない、馬も無いモンゴル兵に勝ちようがない。
217 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 04:21:53
高麗兵なんてどうでもいいし、漢人はそれこそ少数じゃないの?
主力はモンゴル兵だろ?っていうか、そうじゃないならむしろ一層負ける理由が無くなる。
219 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 06:58:57
>>218 モンゴル兵はほぼ皆無です。
高麗兵と華南人が大半でした。
モンゴルは海に慣れてないことと、邪魔な在地軍人を処分するために日本へ差し向けたのです。
そして高麗兵はかつての金官といわれる島嶼群のある地域で、
こちらも海洋民族的な人種が多く、華南人兵と並んで海になれていました。
220 :
日本@名無史さん:2010/04/04(日) 16:21:01
なぜ、奈良盆地の豪族(ヤマト王権)が日本の大部分を統一できるほど強大になったんでしょうか?
神武東征によると、随分苦労して大和の地を手に入れたようですが、そうまでして大和にこだわった理由は何でしょうか?
出雲や吉備は鉄で繁栄したと聞いたのですが、奈良(大和)も鉄と関係あるのでしょうか?
検索したんですが、キーワードが悪いのか、適切なサイトが見つかりませんでした。
よろしくお願いします。
221 :
日本@名無史さん:2010/04/05(月) 00:53:07
箸墓=卑弥呼の墓としよう
何故、ハシ墓などと呼ばれている?
ハニシからきたものではないのか?
何故菊花紋が使われている?
何故土師は河内(物部とお隣)を陣取り、何故岡山、北九州を陣取っている?
彼らは天皇同族、あるいは古来の王だった可能性は?
河内は天皇の近親者もしくは非常に強大な勢力が陣取るものだと思っていたが?
家紋も本来斧付菊花紋だったようだが?
あまり注目されていない氏族だけに、おもしろいかと思い今調べ中です
土安彦との関連性はあるのだろうか?
何故、卑弥呼の墓とも言われるハシ墓古墳はハシと名づけられているのか?
何故、出雲臣と同じく天孫に分類され天穂日命が祖とされているのか?
なぜ菅原道真は左遷させられたか?
すみません。教えてください。
222 :
日本@名無史さん:2010/04/06(火) 02:08:16
古代日本で作られた用具の名前の命名を見ると、石器については打製石器や磨製石器、
土器については縄文式土器や擦文式土器など多くはその制作方法に由来する命名になっていますが、
なぜか 弥生式土器だけは初めて出土した「東京府弥生町」が命名の理由になっています。
当時の日本の中心地が弥生町だったわけでもないのに、なぜこんな名前になったのでしょうか。
他の名前を提唱する人はいなかったのでしょうか?
真説日本誕生・謎の天孫降臨と大和朝廷の秘密
(ムックセレクト―真説日本誕生シリーズ) (新書)
加治木 義博 (著)
こちらの本もしくはこの著者の本をお読みになった方がいらっしゃれば、
学術的に真摯な対応で調査・研究している読むに値するものかどうか、
概観でも教えて頂ければうれしいです
224 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 22:19:51
日本国内での戦闘史上、一度に動員された兵力が最も多いのは
小田原征伐の際の豊臣軍21万でしょうか?
>>222 土器の特徴を簡単に言い表す事が出来なかったからだろう。「弥生式土器だけ」じゃないよ。
例えば遠賀式土器ってのもある。
226 :
名無し募集中。。。:2010/04/13(火) 23:25:12
今でこそ日本で2番目に都会の横浜ですが
室町以前の横浜はどんなところだったんですか?
いったん首都になった鎌倉のほうが都会だったんですかね?
>>226 江戸時代の慶安2年(1649年)頃に編纂されたとされている『武蔵田園録』という本によれば、
横浜村の村高は137石1斗5升8合となっている。
近世初頭は大よそ1石で人口1人分に相当するとされていたらしいから、人口はそこから推定できる。
それ以前もそれより発展していたことはないと思う。
神戸と横浜はそれまでの重要港に外人を入れさせないために開発された一種の出島だからな。
>>226 ブラタモリによると細長くのびて横に曲がった浜だったんで横浜だそうだ。
開港後に内海の部分を埋め立てて今の中華街とかが出来た。
>>229 つまり何が言いたいかというと明治以前は大部分海。
231 :
名無し募集中。。。:2010/04/14(水) 18:24:17
d
戦前の警察と陸軍・憲兵隊は対立していて、
関東大震災の際、憲兵隊による大杉栄虐殺事件の時には警察が憲兵隊を公然と攻撃したそうですが
同時期の朝鮮人虐殺のケースではどうだったんでしょうか?
主に警察側が自警団を扇動して虐殺を引き起こしたように思えるのですが、
それに対して、肯定的でも否定的でも、陸軍・憲兵隊側からのアクションはありましたか?
「ナポレオン−獅子の時代−」という歴史漫画のスレで、
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/comic/1266129742/315- 捕虜に対する性的虐待が話題になっていたのですが、
その中で、以下のような書き込みがありました。
>317 名前:名無しんぼ@お腹いっぱい 投稿日:2010/04/17(土) 10:39:35 ID:NJzJ/hKd0
>衆道が盛んだった戦国時代の戦争でもそんなことがあったのかしら?
>あんまりあの時代の戦争で捕虜とか聞かないよな
これは実際日本の場合ではどうだったんでしょうか?
そういえば、日本の戦で「捕虜」という概念があったかどうかも考えたことなかったんですが。
質問です。
江戸期に倹約令というのが何度か出されてますが、経済政策としては本当に効果があったのでしょうか?
上から下まで倹約させると、ただ経済を縮小させて自分の首を絞めるだけにも思えるのですが。
調べてもわかんないですっ><
>>232 まず、自警団は兵役あがりの人を中心に組まれていたこと、朝鮮人が特別な許可無く、内地に渡ることが出来るようになったのは大戦中であることを知ってください。
警察も軍も朝鮮人を保護しています。
ついでに言うと、朝鮮人の不法行為も少数ながら現実にあり、デマというのは「信用されなければ広がらない」というのも覚えておくと良いでしょう。
質問です。
戦国時代、「出陣の三日前から、女性と一切の性行為を禁じられ、
さらに妊婦が出陣前の衣類や具足に触ることを禁じ、出産後約一ヶ月間、
出陣する男に触れてはならないというタブーも存在した。」
とありますが、自慰もタブーなのでしょうか?
調べてみましたがわからなかったのでお願いします
>>236 直接の回答じゃなくて申し訳ないですが。
性的な行いが問題なのではなく、血の穢れが忌避されたがゆえの習慣・考え方です。
血が流れる=生命力を失う→行き着く先は死
という一連の流れから、昔の人は血の流れる様、引いては血そのものを穢れとして忌み嫌いました。
で、女は月経やら出産やらでやたら血を流すもんだから、女=穢れとなり、
戦という大事においては忌避すべきモノという扱いに。
穢れるから縁起悪いから女は俺の武具にも俺にもさわんな!
陣にも立ち入るな!!エンガチョ・デンミッキ・バーリヤ!!!
みたいな。
あとは、悟りを妨げる存在である女は魔縁!仏敵!!てな仏教的女性観と、
儒教の男尊女卑的価値観も一役かってる、という側面もあるでしょうか。
>>234 その通りです。倹約するだけでは効果ありません。同時にあおそ、紅花などの特産品を開発などの方法で
収入の増大を計る必要があります。
239 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 12:51:21
律令制度で定められた農民の負担についてなのですが、
教科書や資料集を見ると、横軸に「正丁・次丁・中男」が
取られ、縦軸には「租・庸・調・雑徭」が取られて各項目の
記述がなされています。そこで質問なのですが、このような
表になっていますが女子にも3分の2の口分田が与えられて
いるのでそこからは租を納める義務があったと思いますが、
庸・調・雑徭に関しては負担は課せられなかったということ
なのでしょうか。ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授
願います。
240 :
236:2010/04/20(火) 18:18:19
>>237 詳しく有難うございます!
松永久秀や村上義明が性に関する禁止事項を家訓にしたらしいのでそっちも調べてみます。
お世話様でした
241 :
239:2010/04/21(水) 18:14:32
自己解決いたしました。
女子には庸・調・雑徭の負担がないことが分かりました。
また何かありましたら質問させて頂きたいと思っておりますので
どうぞよろしくお願いします。
なんで高野山は
比叡山のように新宗派を立ち上げた僧を輩出しなかったんでしょうか?
ところで古代日本の人って、どうやって中国の存在を知ってたの?
例えば、邪馬台国とかが近畿地方にあったとしたら、九州や出雲の大陸交易ルートを支配してたってことだよね?
また、幻術とか占いとかを信じてウホウホやってた当時のレベルで外交なんて高度な技が可能なんですか?
>>243 記録が残っていないだけで、商人の行き来は有史以前からあったんだよ
>>232 軍は直接手を下している。
>夜、芝生や馬小屋に寝ていると、大勢の兵隊が隊伍を組んで帰つてきます。
>尋ねてみると、東京の焼跡から帰つてきた、と言います。
>私が驚いたのは、洗面所のようなところで、その兵隊たちが銃剣の血を洗つていることです。
>誰を殺したのか、と聞いてみると、得意気に、朝鮮人さ、と言います
『清水幾太郎著作集』16巻300ページ
この件を調べ出すときりがないから、まず『現代史資料』第6巻を読みな。
>>245 社会主義者の証拠のない一文を元にしなければいけないほど、怪しい話じゃありません。
当時存在するはずのない朝鮮人かなぜか大量にいて、普段から問題を起こし、そのため極少数の朝鮮人が不逞な行動を取ったことが引き金となり、
朝鮮人が国家転覆のためのテロ活動を始めたという噂が広がったのは事実です。
そしてその制圧に軍が出てきたのも事実です。
皇族としての公務が大学での特別扱いの理由にはならいと「公務を行った後で」言い出すようなやつの言葉なんて不要ですよ。
247 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:56:38
新撰組は、「○番隊」なのに、なんで「組」長、なんですか?
まあ、もちろん6000人は捏造にしても、200人以上ってのは警察が確認している数字だというのは、
当時正規の手続きをして、日本にいた朝鮮人は極少数と言うことと共に明らかな事実。
250 :
日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:48:05
>>242 まぁ、よく目にする理由は空海が偉大過ぎて、真言宗の教義を体系的に完成させちゃったもんだから、その後ダイナミックな展開が成されなかった
一方、天台宗は最澄が顕教と密教を体系的に位置付け出来ないまま没したり、八宗兼学の総合大学のように発展していったからってね
それでも、浄土信仰を大いに取り入れた真言宗が生まれたりはしてるけどね
251 :
日本@名無史さん:2010/04/27(火) 14:13:55
江戸時代は士農工商という身分格差のあった時代だった筈ですが
龍野藩の庄屋(豪農?)、永富家の者は名字帯刀を許されていたとあります。
当時、武士以外の階級の者が、武士(それも上級武士)になれる制度があったのですか?
名字帯刀は武士じゃなくても許される場合があります。
今度、伊勢神宮に行くため、予習としてなにか本を読みたいとおもっています。
古事記、日本書紀、神話・・とおもったら、Amazonでみたらいろいろありすぎ。
学生時代に日本思想史の授業でちょっと読んだはずなのですが、今の知識は
かき回し棒のしずくで日本列島ができたとか、
エウリディケの話はイザナミの黄泉の国のと似てるとか、子どもの頃に読んだ神話とか
ごくごく表面的です。
これという読みやすい(これ重要)おすすめがあったら教えてください。
書き手の考えが偏ってなくて、史実が概観できるようなものがいいです。
>>253 記紀で"史実"は学べんぞ あくまでも神話
>>254 なんだかわかんないけど、とにかく
伊勢神宮に行ったとき、ヘーホーと思えるものを読みたいんです
256 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:44:20
257 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:54:39
江戸時代は火を熾すのに火打石を使ってたみたいだけど
定期的に補給をしていたのでしょうか?
それとも一度買ったらずっと同じものを使っていたんでしょうか?
259 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:22:55
>>258 逸文だが、地域資料などに解説本があるから、図書館であたってみなさい。
260 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:00:53
261 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:48:23
歴史の本とかにある日中戦争の戦史地図を見ていていつも不思議に思うのですが、
満州事変では日本は満州を制圧して、満州国を建国して確実に支配できていたのに、
なんで中国本土の占領地はスカスカの虫食い状態なんでしょうか?
比較的広範囲を占領していた華北ですら、八路軍の解放区で虫食いだらけだし、
華南にいたっては文字通り「点と線」だけしか占領していません。
とくに一番、不思議なの台湾の対岸の福建省あたりがスカスカということ。
日本領土の目と鼻の先に、未占領の敵地が広がっていて恐くなかったのでしょうか?
262 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 17:11:14
中国本土が広大で日本軍の力をもってしても占領しきれず、
主要都市と幹線鉄道・道路のみを確保する「点と線」の支配になるというのはわかります。
しかし、歴史地図の多くでは、華北地方にはベタッと日本軍の占領地の色がぬられているのに、
華中・華南となるにつれて(大体、長江以南くらいから)地図上もスカスカになってきます。
日本軍の戦線がのびきって限界ということなんでしょうが、台湾の真向かいがスカスカ状態で、
あらかた敵地のままというのは不安ではなかったのでしょうか?
実際、東京初空襲のド−リットル隊の飛行機は福建省の麗水飛行場に着陸しています。
やたら戦線をのばすより、福建省完全制圧に徹するべきだったのでは?
あと、普通の歴史地図では日本軍の占領地の色に塗りつぶされている華北地方も、
詳しい歴史地図では八路軍解放区で虫食い状態になっています。
だったら、虫食いスカスカという点では華中や華南と同じはずなのに、
普通の地図では華北は日本の占領地一色に塗りつぶされてるはどういうことなんでしょうか?
>>257 使えば削れるし割れたりもするので、補充してました
よく弥生時代を書いた漫画の登場人物って、多くはミズラの髪型してるけど
ミズラって古墳時代の髪型であって、弥生時代の髪型じゃないよね?
弥生人は実際はどんな髪型だったんですか?
古事記や日本書紀は中国に対抗するために書かれたっていうのは本当ですか?
266 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 18:45:11
月代の有無は別として、チョンマゲだって何百年も続いた髪型なんだから、
細部のバリエーションはあるにせよ、弥生から古墳時代までミズラでもおかしくない。
267 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 00:07:39
江戸時代の旗本についてですが、蔵米取りと
知行地持ちの両方いたそうですが、知行地持ちを
蔵米取りに直そうとしたら猛烈な反対があったとか。
知行地持ちの方が旗本からしたら嬉しいんでしょうか?
蔵米取りだと不作関係なく安定して収入が得られそうなんですけど。
>>267 沽券の問題だと思う
懸命の地を持つことが武士の本質だろ
座席順だって、石取>俵取>扶持取の順に座るくらい
269 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 09:25:43
>>262 戦前の中国は完全統一がされず、
租界や各国勢力圏が生きたままの状態だったことを思い出してください。
その空白地域は日本でもなく民国でもない場所です。
270 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:23:48
だが、台湾の真向かいの福建省は清末は日本の勢力範囲だったはずだが、
日中戦争中は沿岸部の都市がいくつか占領されただけで、あとは放置状態、
東京初空襲のドゥーリットル隊の飛行機が中国側の基地に逃げ込んでいる。
(つまり日本軍の支配が及んでいない敵地ということ)
271 :
地下人:2010/05/01(土) 16:17:25
「藩」の組織図というのはどのようになっていたのですか?
幕府の組織図と同じようなものだったのでしょうか?
また
「藩」に仕える武士の事も、旗本とか御家人という呼び方をしたのですか?
272 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:29:10
>>270 華南東部は日本の勢力圏であると同時に、
共産党の根城でもあるのです。
273 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 20:57:55
>>268 なるほど損得の問題でなかったんですね。
西南戦争の戦後処理で処刑された人っていないの?
逮捕された後に釈放された人って話も聞かないけど…
口分田ってどの程度ほんとのはなしなの?
処刑された大物だと鹿児島県県令の大山綱吉。
ただ、彼を薩摩軍・・・と言うよりも西郷軍なのですが、その幹部かと問われると複雑な気がします・・・・・・
直接に戦闘参加した薩軍の大物幹部は皆戦死か自刃してます。
薩軍以外の参加諸隊だと、熊本隊の幹部は池辺吉十郎他数名が処刑。
佐土原隊の鮫島元、福島隊の坂田諸潔なども処刑されてます。
服役例は、薩軍だと野村忍介、河野主一郎他、降伏した中〜下級幹部。
薩軍以外も、隊の規模と役職に応じた中〜下級幹部。
どちらも獄死以外は1〜10年の懲役刑で、釈放されてます。
役職のない兵卒の場合、何か理由でも無い限りは、基本無罪放免でした。
今の日本人がタイムスリップして、なんとか会話ができるのは何時代まで?
平安ぐらいまではいけるかな?
会話は厳しいと思う
テレビやラジオで標準語が地方の隅々に浸透してても
たかだか一昔前でも方言の聞き取りにくさや単語の独自性は半端なかったからねぇ
日匍辞典によれば戦国時代の発音も今と違う部分が少なくないらしいので平安なんてまず無理でしょ
あと、聞き取れても同じ発音の言葉でも現代と意味が違うので古語の知識が必須
聞き取りのハードルがないぶん、まだ仮名文字での筆談の方が通じやすいのでは?
旧字の漢文を草書や楷書で書くならモアベター
10年ぐらい前 熊本行ったときネイティブな会話は聞き取れなかったな。
相手が俺に気を使って標準語で話すのは問題なかったけど。
280 :
日本@名無史さん:2010/05/04(火) 00:04:38
奥州藤原氏の兵力について俗に「奥州十七万騎」というものがありますが、この数字に何か根拠はあったのでしょうか?
たとえば「本当に」根こそぎ動員すればそれだけの兵力があったたとか、あるいは各地の豪族が「うちの兵力はこんなんだぞ!」と誇張したのを積算したらそうなったとか……。
話半分の八万騎にしても、当時の陸奥と出羽の人口でまかなえたとは思えないんですが……。
邪馬台国が畿内にあるとしたら、神武東征ってなんの為に創作されたんでしょうか?
わざわざ九州に天孫降臨させる必要なくないですか?
282 :
日本@名無史さん:2010/05/04(火) 11:30:42
今の京都御所は第二次世界大戦のとき延焼を防ぐためいろいろな建物がこわされたと聞きました。
その前の明治〜戦前当時の見取り図(?)というのは見れるのでしょうか?
よく本なんかに載っているの図は現在の図か、平安京時代の図ぐらいだと思います
昔の人は発音上、安房国と阿波国を容易に区別することができたのか?
というか、お前らは発音だけで区別できる??
284 :
日本@名無史さん:2010/05/04(火) 19:45:24
あわ と あわ のちがいだろ?
 ̄\  ̄ ̄
こんとんじょのいこ!
>>277 よく言われるのが、広範囲の人間を対象にした「芸能」が確立した時代なら、その用語を援用しての
会話は可能ではないか、ということ。
あるいは「太平記」とか、一定の知識水準を持った人間なら共通の知識として持っていることが
当然に期待される教養、そういうものの中での言い回しがあるていど一般化されている状況、というか。
つまりまぁ、室町中期以後くらいなら、どうにかなるかも。
ただ堅っ苦しい会話になるのは避けられないし、微妙なニュアンスを伝えるのは難しいかもしれないけどね。
もちろんタイムスリップする人間が「それヤバくね?」とかしか言えない様な、語彙の貧弱な人間なら絶望ですが。
江戸時代なんか薩摩と津軽の武士は歌舞伎口調で会話してたそうじゃないか
287 :
日本@名無史さん:2010/05/09(日) 21:03:52
幕末を舞台にしたゲームのスタッフロールに
「プロデューサー○○ (津藩)」とか、スタッフの出身地を藩にして紹介していて
幕府の直轄地の人間は(甲斐)とか表示されてました。
ふと思ったのですが、幕府の直轄地の人間は○○藩出身だとは言えない訳ですが
一体どういうふうに自分の出身地を紹介してたんでしょうか。
それとも、直轄地が出身の武士は少ないし、いたとしても旗本だったりするから、そういうことをする機会はなかったんですかね?w
288 :
日本@名無史さん:2010/05/09(日) 23:27:26
武州浪人とか大坂浪人とか、国名や地名なんじゃないの?
奈良時代とか平安時代は母親の家で子供が育ったと聞くけど、
男系で家名を伝えながら母系で同じ家に住むって訳の分からないことをやっていたの?
某ドラマで岡田以蔵が龍馬にタメ口ですが、足軽の以蔵が郷士の龍馬に
タメ口はおかしいんじゃないですか?
292 :
日本@名無史さん:2010/05/20(木) 22:43:41
平安だか鎌倉だかの時代にポリネシア系と思われる南方の腰蓑付けた民族が漂流してきたって話を
どっかで聞いたことあるんだが詳細知ってる人いない?
なんか刀かなにかを欲してそれを拒絶したら強盗紛いの事をしだしたので
斬り殺したって話だったと思うんだが…
>>290 出産前後に母親が実家の世話になるのは、現在でもごく普通のこと。
乳幼児死亡率が格段に高い当時のこと、親密な経験者が付いていた方が合理的だし、
家名(≒氏族名)を名乗らせるのは、成人してからでも全く遅くない。
所詮、社会デビューに必要なものに過ぎないんだから。
保育は母方の家で、(家業などを)教育する段階になると父方の家で…と考えると
そう「訳の判らないこと」には聞こえないと思うが、如何。
>>293 ある程度以上の年齢になったら、母方の家から離れるって事でいい?
295 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 07:04:44
禁門の変の時の長州藩の部隊はどうやって京都まで侵攻したんでしょうか?
御所を攻撃しかねない完全武装の軍隊を他藩が領内通過を認めるとは思えないんですが。
296 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 08:45:17
街道筋の諸藩も余計なチョッカイ出して戦になるのはイヤだから、
行軍形式である参勤交代の例にならって、領内の無害通行を認めたのでは?
瀬戸内海から大阪湾・淀川河口まで船で移動の可能性もある。
297 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 21:22:49
江戸時代の旗本の知行地なんですが、関東一円に点在しているのが
普通だと思うんですけど、中には遠国に知行地を持つケースもあったんですか?
九州、四国などで。
質問おねがいします。
傘連判状についてです。
連判状にはそれぞれの名前しか書かないんでしょうか?
「要求したいこと」はどのように伝えたのでしょうか。
それも一緒に書くなら筆跡でバレたりしないのかと思って……
299 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 12:15:12
亀レスですが 、
>>179 >>187など
南朝正統論は、水戸黄門ら編纂の『大日本史』水戸学が発信源らしいです。
水戸学は、武家政権(幕府)の優位を主張するために、南朝の方を正統とする必要があった。
つまり、連綿と続いている北朝系天皇の朝廷は、
亜流であるとし正統性が乏しいと主張したかったようです。
本郷和人氏『天皇の思想・・』より
>>297 交代寄合で検索すると全国に散らばっているのがわかる
日本史版アシモフの年表のような本はありませんか?
あるいはとっかかりになるおすすめでもあればお願いします。
>>300 交代寄合は旗本全体の中では一握りの上級層だからな。
禄高の低い旗本の所領は江戸周辺に集中していた。
303 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 21:02:49
>>300>>302 交代寄合は参勤交代するから、地元にも行けるわけですよね。
それ以外の小旗本の所領が九州とかにあったら、江戸屋敷で
人手が欲しいときの徴発とかどうするんだろうというのが疑問の元でした。
>>303 江戸で人手が欲しい時は江戸で雇う。旗本にとって所領は収入を得る為にだけある。
305 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 13:30:06
ハサミが普及する以前の古代の人たち(とくに庶民)は
どうやって髪の毛を切っていたのでしょうか?
小刀とかで大雑把にバサッと切って髪形を整えたりは
しなかったということでしょうか。
306 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:43:00
>>299 よく考えてみると
>>299の理屈はおかしい!!
武家政権(徳川幕府)の優位を主張するために、水戸学は南朝正統論を主張したとありますが、
当の徳川将軍は、その北朝系天皇によって補任されている。
自己矛盾じゃないでしょうか?
307 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:35:09
う〜ん、南朝正統論の発信源って水戸学以前に南朝自信だよね
北畠親房の『神皇正統記』なんかそうでしょ
黄門さまの南朝贔屓の理屈は『神皇正統記』によるところが大きいし、師の朱舜水が「忠臣 楠木正成」を発見し宣伝した以上、南朝が正統でなければ具合が悪いんじゃない
つまり『神皇正統記』と朱舜水の影響であって、武家政権の優位(何それ?)なんか関係ないってことでFA?
>>306 その自己矛盾に気付いた光圀は偽帝伝を立てなかったんだけど、最終的な解決方法は示さなかったんだよね?
310 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 10:26:00
>>305 いまみたいにちょくちょく散髪したりできないから、
長髪を結んでミズラにしてたんじゃないかな。
昔の人が中国でも日本でもマゲを結ってたのも同様の理由だろう。
それより疑問なのは、明治維新の断髪令が出たときのこと。
総髪の武士はマゲを落とすだけでザンギリ頭にできるが、
月代を剃っていた大部分の庶民はどうしたんだろう。
お触れが出たからといって、すぐ断髪したらカッパみたいな頭になる。
坊主にするか、月代がのびるまで待ってたのか、どうなんだろう?
311 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 10:28:48
断髪令が出た明治4年から西南戦争の明治10年頃までの錦絵を見ていると、
東京の市中でも通行人(とくに町人)の大多数は月代のチョンマゲ頭なんだが、
なんで断髪してないんだろうか?
312 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 12:33:56
新政府の中心人物の明治初期の写真を見ていると、
和装チョンマゲでも総髪にしているものが多いから、
断髪は容易だったろう。
大名や一般武士でも、明治初期だと総髪の写真が目立つ。
しかし、町人とか庶民は錦絵とか見る限り月代を剃っている。
いきなり断髪は無理そうな気がするのだが。
313 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 03:31:07
幕末の倒幕志士たちは薩長土肥のみが語られる事が多いですが
そのほかの藩の連中はどういう位置づけだったのでしょうか?
倒幕に動いたのって上記4藩以外であるのでしょうか?
というか長州が反乱まがいな事をやっていたのに
幕府側にも立たずに、討幕側にも立たずに何もせずに見ていただけでしょうか?
>>308 持明院統と大覚寺統の両統交互に即位するという状況は鎌倉時代から始まっているけど、
後世どっちが正統かという議論はなかったと思う。
南朝が正統ってのは、あくまで三種の神器を所持していたからという論理で。
(まあ、オリジナルは失われてるんだけど)
南北朝の合一でも鎌倉時代と同じく両統が交互に即位するという約束だった(足利義満が反故にしたけど)
北朝の血筋でも皇族に変わりはないので、三種の神器を使って正当な即位の手続き踏んでる以上
問題ないという認識なのでは?
>>313 藩として積極的に動いたのはその四つという事でしょう。基本的にどの藩もいろんな意見の人が居て
一つにまとまるのは難しい。それ以前に大抵の藩では財政が逼迫していて何も出来ない。
例えば水戸藩は御三家だけど尊王思想の震源地なので幕府と対立したあげくに脱藩浪士が桜田門外の
変を起こす。そんなこんなで尊王派と佐幕派が争ってるうちに維新を迎えた。
越後長岡藩は譜代で老中とか京都所司代とかやってる藩ですが、河井継之助が財政再建した上で
幕府はもうダメポと見て、これと距離を置くように殿様に進言したので老中を辞めました。河井の構想は
佐幕派にも倒幕派にもつかず武装中立するというモノでした。(無理があったけど)
明治の廃仏毀釈に関して質問です。
政府の神仏分離令は必ずしも仏教に関する物の破壊を
意図したものではないと言われていますが、
御神体から外された仏像や、境内にあった仏教的な建築物に関しては
どんな指示が出ていたのでしょうか?
例えば、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内には多宝塔など多数の
仏教建築がありましたが、全て破壊されています。
政府の指示ではなく、民衆の独断で破壊されたのでしょうか?
317 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 16:35:35
>>316 明治政府が出した神仏分離令は必ずしも物の破壊を命じたものではなかったけど、
それ以上に、庶民にとって長年寺院は権力の象徴だった。
長年権力者と結びついて庶民に重税を課した存在。
明治維新とともにそれまでの既成概念が壊され
さらに政府は神社を庇護すると宣言したものだから
日ごろの鬱憤もあって一気に寺院が破壊された。
文化財とかいう概念が出てきたのは日本が近代化したずっと後のことで、
明治時代には西洋化で国宝級の遺物がどんどん海外に流出していた。
江戸時代には打ちこわしが多かったでしょう?
室町時代ごろから土一揆とかあったけど。
庶民は上に指示されなくともそれだけの集団行動をとる力を持っていた。
打ちこわしの力が寺院に向かったと思えば廃仏毀釈が起こってもおかしくない。
>>317 丁寧な解説ありがとうございます。
では、政府としては神社内に仏教建築が存在すること自体は
許容していたということでしょうか?
>316
幕末日本を訪れた外国人の中には、日本には人種の異なる二種類の人間がいると見ていた人もいる。
即ち教養溢れる知識人と粗野で無教養な野蛮人。
今日の海外ニュースでも明らかなように無教養な人間は暴力への衝動を抑えきれない傾向がある。
先日のタイでの騒乱をみて、タイ人全体が王制に批判的な某国やそれに呼応する国内勢力に指示されたのか
あれは一部の人間の暴走とみるかは各各の判断に委ねるが一部をもって全体を決め付ける考え方は感心しないね。
「廃仏毀釈」によって失われた事物は多いが現存している数をみれば守られたものも多い。
何事も程度の問題なのではないだろうか。
以下余談
日本における建築史が体系化されたのは明治20年代であるが、地方建築史については一概には言えない。
鎌倉に古い木造建築物が現存しないのは火災や戦乱によるものであって全てが「廃仏毀釈」のせいではない。
むしろ畿内を除けば鎌倉に現存する鎌倉時代の石造物は重要文化財指定のものだけでも十数件あり多い方ではないだろうか。
>>319 >「廃仏毀釈」によって失われた事物は多いが現存している数をみれば守られたものも多い。
梅原猛氏によると、文化財の2/3は失われたとのこと。
※単純に国宝の件数が3倍近くになってであろうとか。
何だかんだで失ったものは大きいと思うよ。
321 :
日本@名無史さん:2010/06/17(木) 05:50:07
16代徳川家達が男女両色を好んだという話は何という史料に記載されているのですか?
ウィキペディアに「バイセクシュアルの人物」として載っていたので、おたずねします。
英語版ウィキにも同様に書かれていました。
322 :
日本@名無史さん:2010/06/19(土) 18:51:15
魚鱗や鶴翼などのいわゆる八陣は源平戦争や南北朝時代でも使われていたんでしょうか?
323 :
日本@名無史さん:2010/06/21(月) 21:47:27
日本史はさっぱりダメです。
大学受験では世界史を使ったし、日本史は高校の先生と合わなくて興味を持てなくて全然聞いてませんでした。
そこで日本史をもう1度勉強したいのですが、何で勉強するのがオススメでしょうか?
学習塾でバイトしてることもあり、最低でも高校受験レベル(できれば大学受験レベル)を身に付けたいと思っています。
「もういちど読む山川日本史」なんてのが人気があるようですが、教科書(詳説日本史)とどちらが良いのかな・・・と
「いや、コレで勉強した方がいいぞ」なんてのがあればもちろん大歓迎です。
よろしくお願いします
>>323 まずは漫画日本の歴史。
マジレスです。
325 :
日本@名無史さん:2010/06/22(火) 07:48:50
受験レベルって言ってるんだし教科書ベースで良いんじゃね?
327 :
323:2010/06/22(火) 09:21:27
>>324 漫画は他の教材に比べて楽しんで学べるという点では良いですね。
ですが、巻数が多くなってしまうのが難点・・・amazonで最初に出てきたのだと22冊で21000円・・・
>>325 それはどちらを買っても差が無いという意味でしょうか?
それとも教科書ベースの知識をあまり良く思っていなく、他の物で勉強した方がいいぞ、ということなのでしょうか?
後者であればオススメの物を教えていただけると助かります。
>>326 高校受験レベル+αが目標で、生徒の質問に答えられるようになりたいので(自分は英国の担当なのであまり質問されることは多くないですが)そういう意味では教科書ベースが良いのでしょうか?
>>327 前にあった意見で比較的手軽に読めて通史としてまとまってるのは教科書だとか。専門書だと分量が
多くなりがちで読むにも財布にも負担です。加えて受験の内容は基本的に教科書なんだからこれが
近道かなと。実際に見た訳じゃないけど山川のが良さげかなぁ。
教えるとなると教科書に書いてない事も知ってないと不十分ってこともあり得るけど。
それと教科書の内容は学会の動向からすると何年も遅れてる(まぁ当然ですが)らしいので、専門家とか
歴史通からは軽く見られるようです。
329 :
日本@名無史さん:2010/06/22(火) 19:57:26
天下統一したのは結局誰々なんですか?あと天下統一の基準って何?
基準ねぇ
面倒な要素をすっ飛ばして、できるだけ簡単に言えば
「全国を己の支配下に置くと主張し、実効支配を進めていく人間(政権)の武力や権威、発した法制などに対し、
服属を公然と拒否し抵抗する地方政権・団体などが(一時的にせよ)無くなった状態」ってところだと思うけど
で、それをやった人といえばまぁ、秀吉とか家康になるんじゃないの、やっぱり
331 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 21:59:07
足利将軍は将軍職を譲って出家した人が何人もいますが、徳川将軍はどうして誰も出家しなかったのでしょうか?
332 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 03:13:51
>>331 そういえばなんでなんですかね?
室町は地盤が弱いから将軍のすげ替えもわかるんだけど、
徳川幕府で将軍職譲って隠居したのって家康だけですよね(慶喜は除く)
なんで隠居して息子を将軍にして、大御所として時に権力振るいながら
悠々自適に暮らす将軍が出なかったんだろう。
333 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 04:17:19
いや、秀忠や吉宗も隠居はしてるよ。けど出家はしてない。
始祖が東照神君っつー「神様」なわけで、その血筋としては出家しづらかったんじゃないかなー。
というのは半分冗談として。
大御所制を引いたのは、家康の他に、秀忠・吉宗・家重・家斉。
他は将軍在職のまま死去してるから、出家の可能性があったとすればこの4人だが、
秀忠→家光に全権を委ねず、死ぬまで影響力を保持した。
吉宗→家重の後見として実権を握り続けた。
家重→健康悪化のためのリタイヤで、余命1年は闘病生活。
家斉→実権を握りつつ遊び耽る。オットセイ。
>>332のイメージに近いかも。
ふーむ。家重あたりは(健康祈願ということで)出家してても違和感なさげではあるが・・・。
>>334 >秀忠→家光に全権を委ねず、死ぬまで影響力を保持した。
>吉宗→家重の後見として実権を握り続けた。
それを言うなら足利の義満や義持も将軍職を息子に譲って出家した後も実権を握ってるんだよね。
なのに何故秀忠も吉宗も出家しなかったんだろう。
これ書いてて気付いたんだけど、室町幕府では細川頼之や山名宗全みたいな出家が活躍してるのに、
江戸幕府ではごく初期の天海や崇伝ぐらいしか目立った僧侶がいなかったような。。。
336 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 22:12:32
徳川将軍は死んだら正一位がほぼ確定だから、僧官位なんざ不要だったんじゃね?
僧官位の叙任権を幕府がコントロールしやすくなって
ありがたみが減ったとかもありそう
338 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 23:46:16
出家すると生臭物が食べられなくなるから?
将軍がトップであり続けるために、「将軍を辞めてからなる地位」なんて認めなかったかと。
340 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 15:30:48
>>339 将軍をやめたら「大御所」になって実権握ったんだが・・・
まあ、なぜ大御所が出家しなかったかだが。
徳川幕府が金もってたからじゃないのか。
天皇家や公家では家督を継げない息子は幼少時から
寺に入れられて出家するのが当然だったが
徳川将軍家では他藩に養子に出され
徳川将軍の息子が出家する例はほぼなかった。
身近に出家する者もいなかったし
出家は遠い世界だったとか。
質問です。
鎌倉幕府将軍は3代目で源頼朝の直系が絶えましたが、その後源氏の傍系から将軍を持ってくるということをしなかったのはなんででしょうか?
>>341 傍系は範頼も義経も頼朝によって滅ぼされましたが、誰のことを言ってるんですか?
343 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:37:38
>>342 341じゃないが、源のなんとかって名乗る人間ってことじゃないか?
足利将軍家における古河公方やらの、本流から遠くても足利姓を
名乗る人間を擁立しなかったのかってことでは?
>>343 それは判ってるけど、それでは基準が無茶苦茶だからわざと質問返ししたのに。
足利将軍家から遠い古河公方でも皆初代尊氏の子孫。一方鎌倉幕府の初代頼朝の子孫は死に絶えた。
頼朝は九人兄弟だけど、平治の乱の時に三人死んだ(子無し)。源平合戦の間に二人死んで、二人は誅殺、最後の
一人は二代将軍頼家が誅殺。誅殺された者の子孫は将軍に出来ないし、残る二人の子孫も既に苗字を名乗って
源家とは言えない身分。
っていうか、範頼は書状で源姓を使って頼朝に怒られている。確か義経もそうだった筈。頼朝はそれだけ自分の血統を
特別扱いさせようとした訳だから、今更傍系継承は認められないでしょう。
345 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 00:56:48
頼朝は自分の血筋に将軍職を継がせていきたかったが、北條氏はさほど源氏将軍自体にこだわりが無かったのかもね
将軍は鎌倉に居てもらわなくちゃ困るが、別に頼朝の血筋でなくても良いじゃんみたいな
>>344 >>341ですが、傍系というのは
>源のなんとかって名乗る人間
を指していました。皇室で言えば旧皇族みたいな遠縁から擁立しなかったのか?と聞きたかったのでした。
自分の勉強不足でした、すみません。詳しく書いてくれてありがとうございます。
だって北條自体は平氏だし。とにかく自分らの権力が安泰なように、実権力の無い将軍が必要だった。
>>344 こうして見ると源氏は内ゲバ激しいなぁ…
>>348 もう一世代上がって頼朝の父義朝の代だとこうなる。十人兄弟で義朝が長兄。あとの九人のうち六人が
父為義とともに保元の乱で敵方になる。そのうち五人が父とともに処断される。八男の鎮西八郎為朝は
一旦は逃れ、その後捕まるが伊豆大島に島流しですむ。その後現地で大暴れして討伐される。
次弟義賢は義朝と対立して頼朝の長兄悪源太義平に討たれる。義賢の子が木曾義仲。三弟義広は
義仲軍に参加して義仲と運命を共にする。最後の一人が末弟行家。平家打倒の以仁王令旨を頼朝に
伝え決起を促すが野心家で、最後には義経に接近して頼朝に討伐される。
義朝は親兄弟と仲が悪かった。
>>349 間違えた。末弟の行家も保元の乱では他の兄弟とともに敵方についたから六人じゃなくて七人だ。
戦後うまい事逃げて二十年隠れてたそうだ。
頼朝にしてみれば、義経や範頼が自分の地位の微妙さを理解してくれれば厚遇も出来たのになあと思っただろうな。
結局「鎌倉幕府の将軍」は必要でも、それが特定の血筋である必要性は無いんだよな。
弟たちはそれを理解せずに、頼朝は「清和源氏の正嫡」だから板東武者をまとめていると思っちゃった。
352 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 02:57:07
質問させてください。
何故、時の権力者達は天皇家だったり朝廷を滅ぼして、完全なる王を目指さなかったんでしょうか?
>>351 んー。でも頼朝自身源氏の正嫡意識が強かったから範頼や義経の源姓使用を過分と怒ってるんだと
思うけど。それとも、それが幻想に過ぎない事を承知してるから既定事実化しようとしてるのかな。
余談だけど江戸幕府でも将軍家の権威を高める為に御三家の徳川姓(苗字か)と三つ葉葵の使用を
禁止しようとした事があったらしい。水戸家なら「丸に水」ってぐあい。
>>352 武家政権にとっては既にあまりに長く権威として存在してきたモノだから、それを滅ぼして得るのは
悪名のみでメリットが無い。その前の時代の藤原氏とかはその権力の源泉が天皇なのに滅ぼして
はどうしようもない。
取って代わりうる可能性があったのは蘇我氏あたりまでかなぁ。
日本は島国で海に囲まれているがゆえに、異民族が征服にやって来にくく、
それゆえに天皇家を滅ぼされるという経験が無かったのも大きいかと。
あと儒教の影響もあるかも。
>>353 頼朝は、自分の子をトップとして、次のランクに源○○って名乗ることが出来る
信頼できる源氏出身者を選抜しようとしたんだよね。
信用が薄い甲斐源氏は有力な人物が次々と粛清されて、結局武田氏が嫡流扱いになった。
>余談だけど江戸幕府でも将軍家の権威を高める為に御三家の徳川姓(苗字か)と三つ葉葵の使用を
>禁止しようとした事があったらしい。水戸家なら「丸に水」ってぐあい。
代わりにそれそれの微妙に違うようにしてるね。三つ葉の葉っぱの模様とか。
>>354 「生活費出したり、道であったら挨拶が面倒だから、木像にしちゃえ」とか言った奴はいるなあ。
357 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 12:16:54
358 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 14:24:30
≫352
足利義満は天皇になりかけたんだけどなぁ・・・
359 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 15:59:06
>>358 厳密には「天皇の父」になろうとしたんだけどね。
正室の日野康子を天皇妃か内親王に限られていた女院にして北山院とし、
子の足利義嗣を親王に準じて後小松天皇の御前で元服させた。
このとき後小松天皇は皇太子を立てておらず
(後小松天皇には生来病弱なのちの称光天皇一人しか男子がなく
皇太子とはしていなかった9
義嗣を天皇にするつもりだったという説がある。
これも、これまでの天皇の権威を
足利家が正式に相続して天皇と名乗ってのっかろうとしただけで
海外の王家のように前の王家を完全に滅ぼして
新たな王家を打ち立てるといった風にはなっていない。
360 :
ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2010/06/27(日) 18:29:38
秀吉は世界征服してスーパー天皇(仮)に
なろうとしてた。
>>357 信長についてはいろんな話があって、よく判らないというのが妥当なところかと思う。wikipediaを見ると
朝廷を軽視した説と重視してた説が拮抗してるようです。
朝廷軽視でも残して利用した方が都合が良いんだけど、晩年の信長は大きな石を自分の身代わりと
して拝ませたとか、頭がおかしくなってる風もあるので、その場合は滅ぼす事もあり得ます。
>>360 中国大陸に豊臣王朝打ち立てて、北京に天皇を移す計画なんだっけ
363 :
ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2010/06/27(日) 19:40:31
あんま覚えてないけど、本朝はそのままで宇喜多あたりを朝鮮の関白、
親王を北京の天皇で自分は寧波に移る・・・
だったかな、半分も合ってないと思うけど。
364 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 20:05:43
>>360 秀吉は文禄の役の和平条件として
明国皇帝の王女を日本の天皇に嫁がせよと要求していた。
ただし、秀吉自身が天皇や皇帝になるとは言っていない。
立場上は関白でよかったのだと思う。
まあ、天皇の意見はまず聞き入れないけど。
365 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 00:57:44
質問です。
うちは大内系長州藩士の出で、
桂小五郎や伊東祐亨からの個人的な手紙や離別の際の掛け軸が残ってるんですが、
こうした私的な書簡ってのは博物館なんかに寄贈しても意味を成すもんなんでしょうか?
どうも最近風化が進んでるんですが、自分含めて実家に関心のある人間がいなくて。
補修に大金掛かるらしいと聞いて、捨てちゃうかどうかって話になってます。
もし意義のあるようなもんなら萩市にでも寄贈したいと思ってますので、
よければご教授願いたいと思います。
よろしくお願いいたします。
366 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 02:21:45
>>365 それ普通に幕末を知る史料価値として貴重なもんなんじゃないの?
個人で管理できないなら市に寄贈すべきじゃないかな。ニュースにもなるかもね。
>>365 内容にもよるけど貴重です。紙屑になる前に寄付してください。
>>365 >桂小五郎や伊東祐亨からの個人的な手紙や離別の際の掛け軸
歴史上に名の残る人物の人物像がうかがい知れるという点では史料価値があり、貴重です。
寄贈するべきだと思いますが、寄贈となるとあなたのご先祖様にも関わることにもなると思いますので、
親戚の方が関心を持っていなくても、一応は相談なさった方がいいかもしれません。
369 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 07:51:18
>>365 捨てるくらいなら寄贈するほうがいいに決まってる。
ただし、ひょっとするとあなたのお祖父さんとか曽祖父さんあたりが
県史や市史編纂の際に協力していて、解読済みかも知れない。
そうだと『ああ出してきたな』くらいの反応かも知れんが、失望しない
ように
371 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 15:55:38
売って金とかに出来ないもんですかね?
古書店とか骨とう品やとか
。
大事にしてもらえて大金が手に入るならそうしなさい
373 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 01:07:26
>>372 俺は371だけど質問者じゃないぞ。
なんか勘違いされてるみたいだから。
俺なら開運なんでも鑑定団に出すとかするけどな。
374 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 20:34:47
戦の形式が鎌倉時代までの個人戦主体から集団戦へと移り変わった原因はなんですか?
375 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:00:28
>>374 蒙古襲来じゃないですか?
「やあやあ我こそは」と名乗りを上げる鎌倉武士を集団で
難なく討ち取る蒙古軍と戦って、戦が変質したかと。
376 :
日本@名無史さん:2010/06/30(水) 00:13:20
>>375 ありがとうございました。やはりそれですか。
自演に何かメリットでもあんのか?
378 :
日本@名無史さん:2010/06/30(水) 15:18:03
>>375 そんな俗説を信じてるやつが回答者気取りとは日本史板も落ちたものだな
379 :
ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2010/06/30(水) 18:09:57
じゃあバサラとか?
平安時代の女性貴族ってなんで床まで届くほど髪を伸ばしてたの?邪魔くさいと思うんだけど
>>380 じゃぁ、現代のオネェちゃんのネイルは邪魔臭くないのか?
382 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 00:16:47
七草の節句・桃の節句等の五節供は江戸時代に幕府によって定められた、とありますが
具体的に何年頃orどの将軍の時代に定められたものなのでしょうか?
また、七夕の際、現代のように笹飾りを飾るようになったのも江戸時代からですが
これもいつ頃からか分かりませんでしょうか?
すみません、スレ・板違いだったら誘導していただけるとありがたいです
385 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 19:08:06
創価自民日本壊滅テロ組織の悪行を知って下さい。
永らくの自公連立政権で法律を改悪し、宗教無課税を悪用、
同和在日特権で陰で国から金を吸い上げまくり、金持ち日本を極貧日本に陥れた巨大な寄生虫。
たった一年足らずの民主政権の揚げ足取りは凄まじい。
テレビ雑誌ネット噂話あらゆる情報網に創価自民会員を配置して権力をダシして敵対者のケアレスミスを徹底的にあげつらって騒ぎ
自分達の犯している数え切れない凶悪犯罪は闇へと葬るか敵対者に罪を着せる。
外国人参政権は隠れ創価自民の小沢の民主破壊案。
口蹄疫は創価自民のバイオテロ。多額の保証金を国から奪い国債を激減し消費税upを工作。
民主政権支持率を激減させる計画。騙されないで下さい。
386 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 21:11:50
>>386 中東に平和と繁栄の回廊を描け 〜 麻生太郎の挑戦
そう、本当のことを知らなくてはいけないね。
388 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 07:14:03
徳川宗家16代家達公が男色好きだったのは有名ですが、その相手をつとめた男性の
名前は伝わっていないのですか?
389 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 11:36:46
>>383 うろ覚えでまったく確証はないんだが、なんか家康の没年だったような気が・・・。
つまり1616年、だから将軍で言うと2代秀忠だが・・・。
でもくどいようだが確証はないぞ。確かめてくれ。
後半は知らぬ。
391 :
383:2010/07/10(土) 18:42:15
>>390 ありがとうございます
なかなか資料が見つからないので困っていたのですが、そのあたりで絞って探してみます
時代劇とかでよく見るのですが、
巻物を机とかにに置かず、丸めて手に持ったまま筆で字を書いています。
あれで上手く書けるものなのでしょうか。
書物といえば、江戸時代までは草書体のイメージが強いのですが、
草書体ってかなり普及していたんでしょうか。
394 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 00:52:50
比叡山は歴史上幾度となく焼き討ちにあい、
明治にも廃仏毀釈で大打撃を受けました。
それでも、膨大な数の文化財が残り、国宝・重文も数多くあります。
これはどうしてなんでしょうか。
必死で宝物を持ち出して逃げたということでしょうか。
>>393 歴史順に並べると、篆書→隷書→草書→行書→楷書。
中国だと草書は「項羽と劉邦」の時代以前に起こった。
平仮名は日本風の草書が原型と言われている。豆知識な。
>395
え?
現行の草書は紙に毛筆、とセットで使われたはずだから、紙に字を書くことが普及した後漢ごろからじゃないの?
いちおう木簡に毛筆で文字を書く風習は「項羽と劉邦の時代」からあるけど、
その頃の草書は紙に書く草書とは、かなり別物でしょ?
だから三国時代ごろが「名筆」の上限なんじゃなかったっけ?
奈良時代辺りから律令制の導入が始まりもの凄い勢いで文書行政が成り立って行った
だから日本は古代の文書も多数残っている
と、聞いたことがあるのですが実際にそれだけ急速に文書行政が成立して行ってたのでしょうか?
>>396 >>395の順であってる。
紙以前に木簡と竹簡があり、すでに毛筆文化はあった。
それが刻む金石字から篆書、そして隷書への進化だった。
当時の隷書が正字として現れる頃に、秦が制定した全国統一の篆書である小篆から、
それを速記したり普段の崩し書きとして使うために整備されていったのが草書。
つまり隷書と草書が小篆を元にした別進化の同時期の書体となる。
その後に隷書を崩した行書ができ、隷書を毛筆以外での筆記に則した楷書が作られ、
漢字文化は極致に至ったのである。
399 :
日本@名無史さん:2010/07/23(金) 18:57:31
何で日本の戦国時代物の映画やドラマでは、
投石器が出てこないんですか?
鉄砲や槍ばかりでおもしろくないです。
400 :
日本@名無史さん:2010/07/23(金) 22:15:37
実際の合戦では盛んに行われたらしい投石(ツブテ/飛礫と呼ばれたらしい)
が、ドラマにはまったく出てこないという事実を見ても、ドラマ演出のフィルターの堅牢さが分かるってもんだ。
が、ひょっとしたら宗教的理由からか(?)、投石機はなくて全て手で投げられていたかもしれん。
というか、そもそも、大規模な組織戦の戦闘が少数だった事が大きいかも。
戦国末期の限られた大規模戦闘を除けば、ほとんどの合戦は小規模戦闘の集合体に過ぎないし、
組織戦というほど組織だった秩序ある戦いとは言えないだろう?
(それに、こういう大規模戦闘の時代には、投石機じゃなく大筒/大砲が使われてるし。)
>>402 多分ドラマに出てこない理由はよく判らないからだと思う。どんなものが使われていたのか、あるいは
何も使わずに手で投げたのかサッパリ判らない。下手な事をしてつっこまれるよりは出さない方が
利口ってもんだ。
カタパルトのような器械の類いは無かったらしい。
>>402 スリンガーはつかわれていたが、大型物を移動する苦労から、日本ではカタパルトは無かった。
バリスタも良く伸びる素材が少なく、手持ちの弓が強力だったために発生しなかった。
なんで絵に残ってないんだろ
407 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 23:27:04
火薬の原料となる硝石が産出しない日本では、
威力や射程距離がある投石器は多様されてもおかしくないと思う。
408 :
400:2010/07/25(日) 01:43:09
>>401 ありがとうございます。
そのページも見た記憶がありますが、資料の部分は見落としていました。
今度図書館でその資料にあたってみようと思います。
409 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 01:57:13
投石器で盛り上がってるみたいだけど、そもそも都市といえば
城塞都市がデフォな大陸と違って、わが国は高い城壁をめぐらす
習慣がなく、堅牢な城壁のない国ではわざわざ投石器を作る必要が
んかったんじゃないかな
強固な石垣を組む技術ができた頃には、もう大筒があったろうし
投石器って、なんか平原にある城塞都市に向かって車輪付きの
木製大型器械が梃子の原理で石を飛ばすってイメージなんで
たとえば、名高い堅城である千早城みたいな山城攻略なんかには
似つかわしくない感じがすんのよ
平野部でも堅固な城が増えはじめるのは、戦国時代も終わり頃だしね
日本の城って建てるのに当時の技術でどれくらい日数がかかったんだろう
411 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 09:26:28
平成の次の元号は何になるでしょう
広和とか
412 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 12:52:42
>>411 平和憲法の国だから、「平和」でいい。
ひらがなで「みどり」とか「みらい」とか「さわやか」とかでもいい。
>>407 攻城兵器としての投石機にはまず、そこまでしてこわすべき強固な目標がない。
次に飛ばすような大きな石を見つけ持ってくるのが大変。
最後に投石機自体の移動がほとんど無理。
投石機使うくらいなら兵糧攻めの方がよっぽど手間が掛からない。
>>411 新しい天皇が決めることになっています。一応名目上は。
>>411 現在の年号は、昭和帝崩御後 政府が8人に有識者(元号に関する懇談会)と
衆参正副議長に候補を示し 選ばれたものを元号法に基づき<平成>と改めました。
平成の次の年号はまだ決めていないと思われます。
>>414 平成の時は昭和帝が高齢であられたので、何年か前から何人かの漢学系の学者に候補を出してもらっていたという話がある。
今の陛下も70歳はとうに越えておられるので、秘かに準備だけは進めている可能性はある。
>>415 準備をしている可能性があるというのと次の年号が決めてあるとは別の話だよね。
前者を否定はしない。
>>416 真偽は不明だが、「平成」を提案したのは安岡正篤だという話があるが、それが真実だとすれば安岡は昭和帝よりも6年も前に没しているので相当以前から候補が出ていたことになる。
もっとも、安岡関連を信じるのはいろんな意味で……
今上天皇って今年で77という高齢だっけ
おまけに前立腺癌持ちだし、確かに先行き不安だからそろそろ元号を考えてるかもな
いくつか事前に候補を選んであって、そのときの総理が決断するとかじゃないの?
”そのとき”誰が総理かも判んないし。
・古典から引っ張ってくる
・他国(地方のマイナー政権含む)が使ったのも含めて一回使ったものはダメ
とか、面倒くさい決まりがあるし。
>>419 前回は
>>414の通り事前に用意した候補を
崩御後に政府が8人に有識者(元号に関する懇談会)と
衆参正副議長に候補を示しそこで決定され、
内閣官房長官が発表した。
・他国(地方のマイナー政権含む)が使ったのも含めて一回使ったものはダメ
その割には被ってる元号いくつかあるけどな、建平とか
そういうことが多いって程度でそんな決まりないんじゃね?
明治以前はあんまり気にしていなかっただけじゃないの?
で、その決まりはどこにあるの?
不文律保管倉庫。二次元空間の中にあって、ドジッコメイドとツインテールのツンデレが管理をしています。
426 :
日本@名無史さん:2010/07/30(金) 00:17:38
質問です。
戦時下では英語の表記は禁止されていたと習いましたが
血液型の表記はどうしていたのでしょうか?
英語自体マスコミが自粛を煽りましたが、公的な機関による禁止はされていません。
で、血液型のABOはドイツ語だから全く問題なし。
428 :
日本@名無史さん:2010/07/30(金) 00:26:47
>>427さん
詳しく教えてくださり、どうもありがとうございます。
ドイツ語ということも初めて知りました。助かりました!
429 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 01:09:27
令制国を見ると鎌倉期くらいからの出羽国と陸奥国がやけにだだっ広いのですが、
なぜこれらの地域は明治になるまで細分化しなかったのでしょうか。
必要があれば統廃合を(無駄に)繰り返すし
必要がなければ放置
世の中ってのはそんなもんじゃねぃ?
431 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 02:32:20
>>429 アメリカのアラスカ州みたいなものでは?
いくら広くても、人口少なくて僻地だからそのまま置かれていたと。
逆に山陰地方の細分化が目立つんだが。
なんであんなに細切れな国々だったんだろう?
>>431 1県2国ずつ(+隠岐)でそんなもんじゃね?
433 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 08:05:30
兵庫、岡山あたりも、現在から見れば細分化されすぎだな。
畿内は天皇家に臣従する前の豪族の勢力とかを元にしているとか、
機内近くに国をたくさん作れば国司も行くのが簡単とか。
そんな妄想が浮かんだ。
435 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 12:46:35
三重から房総半島にかけての太平洋側の地域も、細切れの国だらけだな。
伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵、上総、下総
伊豆は地形的な理由、志摩は朝廷や伊勢神宮へ送る海産物を取るための特別扱い。
後はそんな細切れか?
大江広元の実父は確定されてますか?
自分の以前読んだ本では実父も大江氏の誰かと推定されていたと思うのですが
439 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 19:28:52
江戸時代の駕籠(エッサホイサって走る奴)ってあれ乗るのに身分の壁とかあったんでしょうか?
あと、現代のタクシーみたいな感じで距離に応じた料金体系だったんでしょうか
それとも塚とかないと明確に距離とか計れねーよってんで完全前払いだったんでしょうか
戦国武将・大名で、大々的に中国から援助を受けて
天下統一しようとした人物はいますか?
>439
江戸時代初期は、庶民の駕籠利用は禁じられてました。
が、実際は利用されてたらしく、度々禁令が出されてます。
元禄十三年(1700年)に正式に許可されてからは、庶民も公然と乗れるようになりました。
料金は一律ではなく、距離、地形、速さなどで交渉により違ってきました。
江戸市中なら天保期(1830年〜)で、日本橋〜吉原(約4km)で800文が相場だったそうです。
現代の価格に換算すると、1両10万円として12500円とかなり高く、庶民がおいそれと乗れる物ではなかったようです。
宿場町での駕籠の場合、年代はわかりませんが、宿場町間を平地で100文、山地を1000文ほどだったそうです。
支払いは後払いだったようですが、詳しくは知らないです。
>440
いません。
江戸時代の風呂は庶民の娯楽のような印象がありますが
天皇や将軍といったやんごとなき人も風呂に入ってたんでしょうか
偉い人が風呂に入る時は自分では何もせずに、女性がお湯かけたり体洗ってくれる事になっていた。
その際に殿様のお手がつくという事がしばしば有った。暴れん坊将軍吉宗とかそうやって生まれた。
>>440-441 当時の中国(明朝)は海禁政策というのを採っていて、中国人が自由に海外に出ることが困難だった。
>>441-444 いなかったんですか。
と、いうことはその時代になると中国からの影響力は少なかったということでしょうか。
中国の藩国になる、というような思想をもって日本を統一しようという人物もいなかったんですか?
>>445 逆に訊きたい。その普通じゃない発想は何処から出てきたの?
448 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 01:25:05
402です(元は399へのレスだった)
>404
レス付いてたんだ... ごめん。
細かな作戦計画に従って、どこが囮をやってどこが伏兵に...
なんて形の、部隊単位の役割分担を実行するための訓練が存在しないでしょ。
複数の段に分担して構えておいて、
次ー、第何弾、何々隊、いけー
と順繰りに出動していくぐらいが限界。
あとは、別働隊ぐらいはあったか。
そもそも、大規模な軍隊が出る場合でもたいてい「後詰め」として、
その主流は敵を牽制するだけで必ずしも戦わない役割だったんだし。
>409
防衛機材の基本は空堀と土塁と、ときに柵・塀ぐらいだもんね。
>419
現在はともかく、過去には中国の古い元号をコピーした前例はあった。
もっとも、その時期のことを「(当時は)なにかと物狂いな事が多かったので前例にはならない」なんて言われてる時期の話だけど。
うん、あれだよ。後漢の光武帝の元号をコピーした、あの元号。
449 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 01:36:34
>429-430
統廃合を行ったのは平安時代初頭までだよね?
その頃はまだ、出羽や陸奥は南端か、南半分ぐらいしか制圧できていなかった。
制圧といっても、拠点的な都市に城柵を構えて統治拠点にしてただけで、
郡などの設置さえできていない。領域的統治には至っていない。
無知や出羽を本格的に統治できるようになった頃には朝廷の統治能力は落ちていて、
国や郡の統廃合を実行に移す力が無くなっていた。
>431
人口密度は兎も角として、山陰より山陽の方が細切れな気がする。
山陰地方は、朝鮮半島や中国との往来が活発だった平安初期までは、
他の地方よりも栄えていたんじゃないのかな。それで細切れ。
山陽の方はまったく理由不明。
>432
中国地方の国々のうち、兵庫県だけ1県4国だよ。
その4国のうち、2国半は中国地方、1国(島)は四国地方(南海道)、残り半国が畿内だ。
>433
細切れの筆頭は大阪だろ
香川県と最下位争いを続けたほど狭いのに、あれで2国半だ。摂津の半分と河内と和泉。
>434
いや、国司となったときの収入が多くて人気のある国のリスト上位に含まれてるよ
技術的先進性からか、面積の割に、国司の実入りが良かったらしい。
450 :
ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2010/08/15(日) 13:53:45
大内が明に朝鮮は自分のだぞーって言ったとか
言わなかっとか。
451 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 14:46:03
>>440 >>445 中国王朝からの援助といっても、あんまあてにならんと思うんよ
陸続きの半島ならともかく、海を越えての援軍派遣なんてまずありえないし、戦国時代の明王朝はもう衰退期に入っててまずもって無理
かといって、冊封を受けて日本国王の肩書もらったところで、どれ程の日本人がその肩書になびくか
九州に割拠していた南朝方の親王が日本国王に冊封されたことがあるけど、その肩書のもとに人々が集まった形跡は殆どないから、日本統一目指して戦い抜くのにはあんま役に立たなさそう
>448-449
ググっただけの浅薄な知恵で無駄なレスする必要はないから
夏休みで暇なのだろうが高校生の感想文を書き込むことがこのスレの趣旨では無いという
程度の良識は持ち合わせてね
454 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 20:19:58
なにか自説を否定された感じで逆ギレした厨房じゃないか?
455 :
日本@名無史さん:2010/08/19(木) 03:25:06
どこで聞いてよいかわからず、もしもスレ違いならすみません。
明治天皇遙拝所について知りたいのですが、
(グーグル先生には聞きましたw)
どうしたらいいですか?
456 :
日本@名無史さん:2010/08/19(木) 22:32:30
遙拝所は天皇が神仏を拝んだ場所。
明治天皇が神仏を拝んだという遙拝所は全国各地にあるけど
遙拝所の何を知りたいの?
場所?
明治天皇遙拝所って、
明治神宮に行けない人が、
行ったつもりで拝むところ、
って、グーグル先生に習ったのですが、
それはつまり、神社と見ていいのかな?と思ったんです。
神社ではないとしたら、何だろうかな?と。
458 :
日本@名無史さん:2010/08/19(木) 23:28:06
>>457 明治天皇の事は知らんので別として。遥拝所は神社で良いんじゃないかね。いわゆる神社は本殿と
拝殿からなっていて、神様は本殿に居る。人が拝む所が拝殿。神様のトコまで遠くて行けないけど、
此処から拝みますってのが遥拝所でしょ。イスラム教のモスクと一緒だ。
>>459 ありがとうございます。
日本人なのに、モスクの説明で腑に落ちましたw
神社と同じだから、おろそかにはできないですね。
モスク=遥拝所はいいんだけど、御旅所・山車・神輿がむずいな
井伊さんと伊井さんて、先祖はどっかで繋がってるんでしょうか?
中世の町にあった飯屋では、客が来たときに時間がたって冷めたご飯をどのように温めて出していたんですか?
464 :
日本@名無史さん:2010/08/25(水) 12:14:43
「天皇は牛車には乗らない」と風俗博物館のサイトに書いてあり、
何かの本でも読んだ記憶があります。
でも車折神社の由来や、各地の御車返しの桜の由来などでは、
○○天皇が牛車で御幸されたおりに〜という場面が語られています。
二条天皇や花山天皇の、偽装して牛車で御所脱出とかは別として、
天皇でもふだん牛車使うことがあるんでしょうか?
465 :
日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:42:10
>>464 天皇が儀式や社寺に出掛けるために内裏から外へ出る「行幸」は
大勢お供を連れて「輿」に乗って出かけるのが常識だったみたい。
牛車はかなり乗り心地が悪く、乗り物酔いする人も多かった。
人が担ぐ輿のほうが乗り心地も良く牛車より上の乗り物であったらしい。
輿の簾を開けて、通行人たちが天皇の顔を拝むのも一つのみものだった。
花山天皇、二条天皇、後醍醐天皇らが脱出に牛車を使ったのは、
天皇であることがばれては困るためで、あえて天皇が載る輿に乗らず、
女装をして女車に乗って脱出したはず。
466 :
日本@名無史さん:2010/08/26(木) 10:58:54
>>465 レスありがとうございます。
×御幸→○行幸のほうが正確ですね、すみません。
私も天皇は「輿」だと思ってたんですけど、社寺の由来などに
天皇の車、というのが登場するので、どうなのかなと。
上皇になってからのお出かけとかなら「車」で納得なのですが。
質問です。
「信長は甘党で下戸だった」そうですが、その出典は何でしょうか。信長公記?
茶会が好きだったのと、茶菓子の贈り物を受け取っていることが甘党の根拠だろうか。
少年の頃に、干し柿を携帯食として持ち歩いていたというのも当たるんだろうか。
元亀二年に家臣達に金平糖を配ったとか・・・
>「信長は甘党で下戸だった」そうですが、その出典は何でしょうか
フロイスが酒をあまり飲まないと書き記しているし同時代に書かれた複数の史料にもそういう記述がある
甘党というのは初耳そんなことを書いている史料は恐らく存在しないと思う
砂糖自体が希少すぎて
当時甘党なんて概念なかったろ。
干し柿好きなら甘党と呼ばれたとか?
472 :
日本@名無史さん:2010/09/02(木) 23:29:52
質問です。
「チャングム」見て気になったのですが、日本で天皇の御膳や宮中の宴会の食事を作った部署は
どのくらいの規模で明治まで続いてたのでしょうか。
大膳職、内膳司、大炊寮というのは検索で見つけたのですが、
こういうところで女官・女嬬が働くことはあったのでしょうか。
王朝の女官というと=女房になってしまって、後宮外の女官(に限らず下級官僚)の採用方法や
生活・人数などがわかる書籍などご紹介いただけないでしょうか。
>>472 奈良時代の頃だと釆女なんだけどねぇ。平安時代に廃れたらしい。
これについてはwikipediaを見てください。
474 :
日本@名無史さん:2010/09/03(金) 11:41:51
>>466 「車折神社」のこと?
あれは後嵯峨「上皇」ですね。
後嵯峨天皇は23歳で即位、27歳で退位していて
在位はわずか4年、以降53歳で没するまで上皇の期間が長かった。
嵯峨離宮(現在の大覚寺)を好んで住んでおり、
洛中と嵯峨離宮を行き来し、川で舟遊びをしたりしたようです。
もっとも、「車折」の由来となったのは後嵯峨ではなく
別の貴人だと言う説も。
475 :
日本@名無史さん:2010/09/03(金) 17:43:50
>472
そもそも後宮という制度が定着してない。ので、女官はみんな「後宮外の女官」じゃないの?
採用はほぼ縁故だと思う。
「蔭位の制」関係とかじゃないの?
もっとも。
たいていの役職は「家業」状態で、特定の一門に産まれた者以外は就任が困難だった。
試験による選抜、公募のような制度は律令時代に一時的にあったものの、
平安時代半ばまでにはほとんど廃れたと思う。
平安時代の途中ぐらいには、下級官僚の給与を廃止する制度まで出現する始末だった。
476 :
日本@名無史さん:2010/09/03(金) 22:33:38
古代からの豪族「平群」「巨勢」など、奈良時代は朝廷の中心にいた氏族は
いつのまに廃れたんでしょう?
ずっと重臣の家系として残ったのは中臣→藤原氏くらいですよね。
477 :
日本@名無史さん:2010/09/03(金) 23:23:55
そのあたりの奈良系豪族は、
藤原京から遷都された際に、遷都を主導した藤原氏にふるい落とされたのですよ。
平安朝初期の下級貴族(国司とか)だと、結構氏族的にはバラエティに富んでいるけど、そのうちいなくなっちゃいますね。
重臣とはいえないけど、何とか生き残ったのが紀と菅原くらいかな。
関が原にて、島津軍は敵中突破の後、どのようルートで薩摩まで帰ったんでしょうか?
それと、東軍は長い距離を逃げる彼らを、所々で関所を張るなりして捕まえようとしたりしなかったんでしょうか?
480 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 22:12:14
481 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:56:32
>>473、
>>475 レスありがとうございます。
朝廷の力が減退しても延々と上から下まで世襲する人材がいたというのも凄いですね…。
>平安時代の途中ぐらいには、下級官僚の給与を廃止する制度まで出現する始末だった。
これはひどいw
質問します。
ものすごくうろ覚えなんですが、鬼とか呼ばれてた女が自分たちを討伐に来た男と戦ったらその男に惚れちゃって、結局くっついちゃった……
と言う感じの逸話に心当たりはございませんか?
昔に一度見たきりなので名前も思い出せないんです……
よろしくお願いします。
>>482 「うる星やつら」じゃないか?いや、冗談です。
484 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 05:04:59
うる星やつらの一挿話だよ
>481
>朝廷の力が減退しても延々と上から下まで世襲する人材がいたというのも凄いですね
それぞれの職務に就くための技術教育、人材養成の機関が無くなったので、
世襲する家に生まれないと(もしくは養子入りか)技能教育を受けられなかったしねえ。
逆に、人材不足ゆえ、一定レベルでの「実入り」はあった。正式な給与の代用として。
これを賄賂とか横領とか、現代的な感覚で呼ぶのはよろしくないだろう。