【初心者】スレッド立てる前に質問をPart24【歓迎】

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1日本@名無史さん
分からないことがあるときは、スレッドを立てて聞く前にこのスレで質問してください。
専門的な質問については、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。
回答に時間がかかったり、回答が得られなかったりしても、怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップを付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたいときは、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。

※まずは下記でチェックしてください。
日本史・世界史FAQ
http://www.geocities.jp/magurogyosenn2000/index.html

■歴史系他板質問スレ
日本史総合スレpart18(大学受験板)←受験勉強の日本史についての質問はこちらで。
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/kouri/1233809010/
【初心者】初心者はまずここで質問をPart2【歓迎】(日本近代史板)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1188651343/
世界史なんでも質問スレッド65
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1235738986/

<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
・過度な論争は自粛してください。
・煽り質問はスルー。

前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart23【歓迎】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1221820804/

その他の過去スレは>>2-3あたり。
2日本@名無史さん:2009/03/22(日) 14:17:20
3日本@名無史さん:2009/03/22(日) 14:19:25
4日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:09:16
age
5日本@名無史さん:2009/03/27(金) 04:11:41
神武と祟神の伝承の類似性、欠史八代に関する伝承の少なさ、
古代天皇の享年の不自然さなどを
史実が捏造・改竄された証拠と取る向きもあるけど、
個人的には、これらが「ありのままの伝承」を残している証拠と思うのですが
どうでしょう?

記紀編纂時点では既に史実など誰にも分からなくなっており、
多数存在する伝承をできるだけ後世に残し、後世の人間の判断に任せる
というスタンスにも見えるのですが…
6日本@名無史さん:2009/03/27(金) 05:35:28
>>5
記紀が素朴で雑多な伝承の寄せ集めに過ぎないということなら、それは違う。
とくに書紀については国家の正史なのだから、その編集方針には常に
国家を主宰する天皇の正統性(あるいは正当性)が意識されている。
例に挙げられているものはおしなべてその正統性を主張ないし補完するものだけど、
それが成功しているか否かは別問題。
7日本@名無史さん:2009/03/27(金) 12:37:04
8日本@名無史さん:2009/03/27(金) 13:48:49
こんにちは。日本史初心者です

ざっと歴史を知りたいと思い、そのための書籍を探しています
歴史上の物事についてを詳しく説明(なぜ○○は□□したか。など)しているのでなく、
歴史の流れや物事の関連について言及している(○○という出来事が現在の□□に繋がった。など)本で、
何かお勧めがあれば教えてください
9日本@名無史さん:2009/03/27(金) 14:06:21
634 名前:日本@名無史さん 投稿日:2009/03/25(水) 22:01:58
中公文庫の『日本の歴史』
歴史学会の御大たちが若手研究者であった頃に書いた名著。
10國學院大学卒:2009/03/28(土) 14:52:24
>>5
おお、まさしくおっしゃる通りだと思います。
あなたのような知性の持ち主にこそ
記紀は読まれるべきですね。
11日本@名無史さん:2009/03/28(土) 22:32:22
>10
質問スレでそのコテ使うの止めてくれんか。

質問スレは日本史に関する学術的な質問に回答するためのスレであって、君のアンチを呼び込むスレでは無い。
12國學院大學卒:2009/03/29(日) 01:48:17
>>11
申し訳ありません。以後気をつけます。
13日本@名無史さん:2009/03/29(日) 09:09:21
足利家の宿敵ともいうべき、北畠氏が室町一代を生き残って戦国大名になれたのはなぜ?
討伐されなかったの?
14日本@名無史さん:2009/03/29(日) 10:16:55
>>12
だからそのコテ使うなって
空気読め迷惑考えろ
15日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:15:36
そのとき歴史が動いたの最終回を何気に見ていたのですが
幕末のプリンス、というタイトル名が気になっています
幕末のプリンスとはいったい誰を指すのでしょうか
16日本@名無史さん:2009/03/31(火) 12:08:17
江戸末期の京都の町人の生活と江戸の町人の生活とで大きな違いってありますか?
17ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/04/01(水) 09:56:49
立ちションをするしない。
18日本@名無史さん:2009/04/01(水) 18:49:51
先日、イラク戦争のドキュメント番組をNHK BSで見ました。

その中に登場する、イラクに派遣された米兵の防弾チョッキなのですが、
覆っている部分が胸部だけで、腹部はむき出しと言う物でした。
肋骨のある辺りまでは覆っているが、その下の消化器のある辺りはむき出し。
なんとなくファンタジー物に登場する露出度の高い鎧な感じでした。

なぜ防御する部分がやたらと狭い防弾チョッキを作って支給する事になったのでしょうか?
当然、腹部に被弾する事もあるし、致命傷になると思うのです。

1918:2009/04/01(水) 18:51:16
すいません。誤爆しました。
20日本@名無史さん:2009/04/01(水) 21:17:37
ど素人で申し訳ないんですが
聖徳太子って普段どこに住んでたんでしょうか?
奈良のどこかってのはわかるんですが
それは今でもあるんでしょうか?

あと平清盛も京都ってのはわかるのですが
具体的に今の地図でいうとどの辺に住んでたのかと
21日本@名無史さん:2009/04/02(木) 22:29:45
ど素人が来ていいような板じゃないよここは
学問板を何だと思ってるんだ?
22日本@名無史さん:2009/04/02(木) 23:12:00
更なるど素人ですが、質問です。
昔の寺社の記録では天災や戦災の甚大な被害記録がありますが、
これに誇張の可能性はないのでしょうか。
たとえば百姓が「今年は不作だったので年貢は勘弁してください」
と侘言をするような意味合いがあったとかそういう可能性がありそうな気がします。
23日本@名無史さん:2009/04/02(木) 23:34:07
>>22
ここにはド素人しかいませんよw
24日本@名無史さん:2009/04/03(金) 00:01:41
>これに誇張の可能性はないのでしょうか。
一人の人間が見聞きしたことを書いているのだから記述にムラがあるのはあたりまえ。
同じ事項を扱った複数の記録をつき合わせて考えるのは常識。
そういう作業を行うことで不正確の度合いが大きい記録は淘汰されていく。

>侘言をするような意味合いがあったとかそういう可能性
不作の場合は為政者が調査し年貢の勘案を行う。
25日本@名無史さん:2009/04/04(土) 00:57:01
平頼綱の長男、長崎宗綱は平禅門の乱で頼綱一族と共に粛清されたんですか。
26日本@名無史さん:2009/04/05(日) 15:09:56
一休禅師は、「悟りの証明書」をポイッ(-_- )ノ⌒してしまったらしいですが、
それって、持っていれば何かいいことはあったんですか?
27日本@名無史さん:2009/04/05(日) 16:43:34
>>20
聖徳太子は、幼少期には上宮(桜井市上之宮)に住んでいたとされるが、確実な遺跡は見つかっていない。
後年斑鳩に移ってからは、現在の法隆寺(西院伽藍)の東側に宮を築き、そこに住んでいた。
西院伽藍から夢殿・中宮寺方面に向かうあたり、地図や航空写真でも土地区画の方角にぶれがあるのを確認できるが、
これは斑鳩宮の名残であるという。

平清盛の西八条第は、京都駅の西1Kmほどのところにある梅小路公園、
大阪方面へ向かうJR京都線と、亀岡方面へ向かうJR嵯峨野線が分岐するあたりにあった。
28日本@名無史さん:2009/04/06(月) 04:37:14
息子が中学生なのですが日本史がどうも苦手みたいでただの暗記科目としか思ってないようなのです
そこで歴史に興味を持つand全体の流れを掴むためのテキストとして何か良いものはないかと探しているのですが
石ノ森章太郎のマンガ日本の歴史はどうでしょう?
一応古代から現代まで完結してるようですが左巻きの史観では困るなと思ったのですが・・・
日本史に興味を持たせるような本は何かないでしょうか?
29日本@名無史さん:2009/04/06(月) 05:12:37
左右巻きなんて麻疹みたいなもんで一度は患うもんだから気にすんなよ
大人になって患うと困るぞ
30日本@名無史さん:2009/04/06(月) 13:05:48
>>28
無双かバサラでもやらせてみなよ。
そこで自分から興味を持つ人もいる。
「勉強になるもの」を押し付けず、
「勉強に興味を持つもの」を提供するほうが有効的。
31日本@名無史さん:2009/04/08(水) 21:53:39
中世の武士の武装についての質問です
松村劭の戦争学から入った近世辺りまでの戦術オタク?なんですが、最近日本について書かれてあるものなども読み始めました
その中にそれまでの弓射騎兵から南北朝辺りに至って打ち物騎兵に変遷していったとありましたが、理由までは書いてありません
弓馬の道という言葉があるほどなのに、何故そのようなことが起こったのでしょうか?
32日本@名無史さん:2009/04/08(水) 22:38:45
足軽がワラワラ沸くようになったから
33日本@名無史さん:2009/04/09(木) 14:55:14
>>31
近藤好和氏の分析によると、歩射の増加に原因が求められるとの事。
歩射の増加と表裏をなす現象として、城郭戦や野伏戦または
弓射歩兵の増加、弓の改良と鏃の軽量化による飛距離の増加等があり、
これらの理由により、歩射の重要性が高まる一方で、騎射の必要性が
薄れたことで弓射騎兵の変質(下馬し、武装を解いての歩射)や
打物騎兵の登場が促されたという。
34日本@名無史さん:2009/04/09(木) 19:27:45
唐突な質問で恐縮です。
奈良時代を描いた絵などを見ると、
高貴な女性が天女のような着物をきていますが、
その着物は何と呼ばれていたのですか?
お分かりになられる方、お教え下さい。
35日本@名無史さん:2009/04/09(木) 21:47:00
>>34
普通に「朝服」じゃないかと・・・
朝廷に出仕するときに着る正装という意味で。
衣にはそれぞれ「唐衣(上半身のチョッキのようなもの)」
「喪(下半身に身につけるスカート)」「領吊(ひれ・肩から垂らす長いきれ)」
のような名前がついてますが。
この時代の人が天女のような格好をしていたというよりも
天女が当時の中国王朝の朝服を身につけているわけです。
日本の奈良時代の朝服も唐から輸入したものです。
36日本@名無史さん:2009/04/10(金) 00:12:16
34です。
ご回答ありがとうございました。
37日本@名無史さん:2009/04/10(金) 22:41:14
時代がばらばらだが質問3つほど
平家が武家と言うけど
それまでの藤原氏や古くは蘇我氏などの豪族も武力を背景に権力を取ってなかったの?
両方とも一応天皇という権威をバックにしてるし
平家支配がそれまでの政権と決定的に違う点ってどこにあるものなんでしょうか?

なぜ飛鳥、奈良、京都という山の中に都が作られたんでしょうか?
むしろ都市を造る時には海に近い方が何かと便利じゃないの?

3つ目
徳川って関ヶ原の後も名目的には豊臣の臣下だったんでしょ
そりゃ実際はもはや徳川の方が実力が上回ってたとは思うが
あくまでも名目上は
その豊臣を差し置いて徳川に征夷大将軍を上げるということはほかの大名も別に普通の事だと思ってたの?
そういう意味では仮に石田三成が勝ってたら石田が求めたら征夷大将軍にしてたの?

また豊臣秀吉が征夷大将軍になってた場合、徳川が勝った時どうなってた可能性高い?
38日本@名無史さん:2009/04/11(土) 00:14:47
戦国〜江戸期において手を覆う装束には籠手以外にどういったものがあるのでしょうか
また、時代劇には小指と薬指を露出させたゆがけのような手袋をしてる人がたまに出てきますがあれはゆがけなんですか
39日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:51:18
>>37
とりあえずひとつめ。

蘇我と藤原を一緒にしてしまうのは少々乱暴だけど、
どちらも武力面での働きというよりは、
むしろ政治的な面で王家の全面的な信任を得て
身内化し、政権に関与できる立場となった。
だいぶはしょってるが、王家と共同で政権を運営し、
国家を形成していった存在といえる。

一方、清盛一党の平家は、院と帝の政治的対立の決着に
武士の軍事力が濫用されるようになった状況を背景にしてのし上がった。
院の信任を得て王家の身内化してるのは似てるけど、
平家は主体が武士つうか軍事貴族だし、それ自体が暴力専門集団
だから本質的に前二者とは異なる。当時は保元平治両乱を経て
院の親衛隊たる北面も機能停止、摂関家に従う武力も解体されていたから
平家が唯一突出した武力集団となっていた。
彼らは元来が武闘派一筋だったから政治的には未熟で、
政権運営には貴族を味方に引き込む必要があり、
一見朝廷に取り込まれたようにみえるのはある意味仕方ない。
4039:2009/04/11(土) 16:53:38
>>37
(続き)

ただし、文官のトップはもちろん武官の最高位を現役の軍人が
占めた意味は大きい。それまでは近衛大将といっても
貴族が任ぜられてたから武官としては形式的なものに過ぎなかったが、
重盛、宗盛の任官により実質的に機能するようになる。
とはいえ左右大将の一元的な統帥権が実現されたわけではないんだけど、
のちの幕府の先駆的存在とみなす見解もある。
実際、近衛大将の唐名を幕府というわけだから、
そういって差し支えないかもしれない。
また、鎌倉期の京都大番に受け継がれた大番制(地方武士を上洛させ
平家に奉仕させる)や諸国守護権の前提となった東国西国の山賊海賊
の追討宣旨も平家の軍事権を示すものだ。

最終的に院との関係が回復不可能なまでに悪化したことで
もちまえの武力をもってクーデターに踏み切る。
王権を囲い込んだ独裁政権となったところで
各地で反乱が勃発し、総力戦体制突入。

他にも福原京とか日宋貿易とか特筆すべきことは山ほどあるけど
まあ、藤原氏の摂関政治とはだいぶ隔たりがあるな、と。
4139:2009/04/11(土) 18:07:17
>>37
ふたつめ

そもそもヤマト王権の中枢が大和国一帯に置かれたことにはじまる伝統
という面もあったと思うけど、当時は王城の地を定めるにあたって
風水思想が重視され、都にふさわしい土地を選定する「占地」とか
「相地」ということが行われていた。
んでもって、その風水審断にあたってもっとも重視されていたのが
周囲が山に囲まれているかどうかだった。
これは風水の本場である大陸や半島の王都でも重視されていたことで
長安や洛陽、漢城(ソウル)や新羅の金城なども同じく
山に囲まれた盆地に立地している。
42日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:33:21
江戸時代の身分について、

藤田東湖の父親、男谷家、高山彦九郎などをみると
ずいぶん自由に身分を飛び越えていて、ずいぶんと緩い
身分制度だと感じています。

江戸時代の身分制度は幕府の成立当初から緩かったのでしょうか?
それとも末期から緩くなったのでしょうか?

あるいはその辺の事情についてお勧めの書籍があれば
教えていただけると幸いです。
43日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:56:44
素朴な疑問なんですが、平家の流れを汲む大名でも天下を統一し、上洛するならば
幕府を開けるのでしょうか?
44日本@名無史さん:2009/04/12(日) 03:22:24
江戸時代で、一目をはばかるために顔にマスクというか、
目だけ出す帽子?のようなものがありますが、
名称をご存知の方いましたら、御教示下さい。
水戸黄門で、悪代官がよくかぶっているものです。
45日本@名無史さん:2009/04/12(日) 03:23:07
×一目
○人目
でした

エボシではないし、なんというのでしょうか。。。
46日本@名無史さん:2009/04/12(日) 21:57:09
>>44の補足だが、↓の10秒以後にでてくるものだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=KUCkyq5S8Mw
4746:2009/04/12(日) 21:59:15
訂正
×>>44の補足だが、↓の10秒以後にでてくるものだろう。
>>44の補足だが、↓にでてくるものだろう。
48日本@名無史さん:2009/04/13(月) 00:22:16
>>44-47
頭巾か裹頭(かとう)かなあ…
ttp://members3.jcom.home.ne.jp/pehota02/equipment/headgear/huhaku.htm#top

でも、江戸時代だから違うかも。
『守貞謾稿』あたりに載ってるんじゃないかな。
49日本@名無史さん:2009/04/13(月) 08:22:56
池田氏ってなんで岡山系と鳥取系にそれぞれ30万石ずつという、破格の待遇をされているんですか?
外様大名で同じ一族が国持ち大名になっているなんて伊達ぐらいじゃないですか?それも地理的に隔絶しているのに…
5045:2009/04/14(火) 20:17:25
>>48
いわれてみれば「頭巾」が適当ですね。
有難うございました。
5144.45:2009/04/14(火) 20:18:41
>>46-47
そうです。リンク、有難うございました。
52日本@名無史さん:2009/04/14(火) 20:20:10
なんか名前あった気がするんだよなーあの頭巾。モヤモヤする
53日本@名無史さん:2009/04/15(水) 01:14:00
山岡頭巾じゃないかに
54日本@名無史さん:2009/04/16(木) 02:34:32
>>42
深谷克己『江戸時代の身分願望─身上りと上下無し』
吉川弘文館、2006、ISBN:4-642-05620-3

http://www.7andy.jp/books/detail/?accd=31790798 

近世の百姓研究といえば、この人っていうくらいの権威だが、
本はわりと読みやすい(講義は難しいという評判だったがな)。
新撰組や八王子千人同心についても言及されてる。
55日本@名無史さん:2009/04/17(金) 20:02:19
『信長公記』と『川角太閤記』の史料的信憑性についてそれぞれ教えて下さい。
信長・秀吉を知る上での一級史料と聞いたのですが信頼性の高い記録なのでしょうか?
56日本@名無史さん:2009/04/17(金) 20:04:18
藤原長良はなぜ、長男なのに弟の良房と比べて出世できなかったのですか?
57日本@名無史さん:2009/04/17(金) 22:48:47
>56
> 藤原長良はなぜ、長男なのに弟の良房と比べて出世できなかったのですか?

あまり、能力がなかったんでしょうねw。
58日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:17:16
>>49
遅レス恐縮ですが

池田輝政の嫁さんは、徳川家康の娘。
よって、輝政は家康のお婿さん。
その子孫が両池田氏。

と考えると破格の待遇もご理解いただけるかと。
59日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:19:38
長良がどうのというより良房の資質が飛びぬけて秀でていたということでは。
彼のみが嵯峨天皇の皇女を娶る栄誉を得たのはそれを示すものでしょう。
60日本@名無史さん:2009/04/18(土) 09:33:15
公卿や大中納言が乱造された平安後期とは事情がちと違う気もする
6142:2009/04/18(土) 10:23:08
>54

返答ありがとうございます。さっそく読んでみます。
62日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:42:59
37 名前:名無しさん@九周年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 16:29:05 ID:R0mlIzBpO
歴史に学べよ。
江戸時代、外洋を廻る菱垣廻船より巨大な避難用の船が、江戸の火事対策で2艘造られたが、避難には小さな船をたくさん造った方がよいと廃止された。


こんなレスみたけど、事実なんですか。
63日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:49:32
>>56
>>59に加えて、当時は藤原氏以外の有力な氏族も多く、
藤原氏の本宗ならば無条件に出世できるという時代でもありませんでした。
64日本@名無史さん:2009/04/19(日) 00:38:09
>62
何の話かさぱっり分からんが江戸時代大船の建造は禁止されていた。
65日本@名無史さん:2009/04/19(日) 20:43:36
質問です。

奈良時代の政府は律令で公地公民制を行いましたが、
後に口分田が足りなくなってきたため三世一身法を行い、
それでは収公される頃になると開墾した土地が荒れ果ててしまうため
墾田永年私財法を出した、と学校で習いました。

開墾した土地が永遠に個人の物となってしまうなら、
口分田が足りなくなる対策にはなってないように思うのですが、
その辺はどうやっていたのですか?
66日本@名無史さん:2009/04/19(日) 21:21:27
質問なんですが、
何故国際連盟は第二次世界大戦を止められなかったのでしょうか?
67日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:04:00
江戸時代初期、伊達藩の家老が船でアメリカの西海岸まで行ったそうですが、
その後、ヨーロッパ人みたいにアメリカ西海岸に移民しよう
という動きにならなかったのはどうしてでしょうか?
68ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/04/20(月) 09:13:58
>62
船作るなって言っておきながら自分はデカイのを持ってた。
でも17世紀終盤ごろに堀田正俊が処分した。
69日本@名無史さん:2009/04/20(月) 10:28:21
日本人の平均身長の低さは(最近はかなり平均身長も高くなってるみたいですが)
島嶼化によるものだと考えられますか?
それとも栄養事情から来るものだと考えられますか?
もしくはその両方?
70日本@名無史さん:2009/04/20(月) 12:45:34
wikipediaで"古代日本の地方官制"というページを見て興味を持ったのですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%AE%98%E5%88%B6#.E5.BE.8B.E4.BB.A4.E5.88.B6.E4.B8.8B.E3.81.AE.E5.9C.B0.E6.96.B9.E5.AE.98.E5.88.B6
このページに書いてあるような事を詳しく書いてある本ありませんか?
71日本@名無史さん:2009/04/20(月) 15:04:15
261 名前:山野野衾 ◆09Xc/lRh7Y [sage] 投稿日:2009/04/17(金) 20:50:13 0
>>257
私も無職ではないものの、今年度から定職に就けておりません。
幸い食費に困ることは無いので、空いた日に水墨画とお茶を習うことに致しました。
人生万事塞翁が馬と考えることに致しております。



この人は非常勤の講師なのかな? 学識高い人だけど、史学って食えないんだね・・・・
72日本@名無史さん:2009/04/20(月) 20:56:17
>>70
日本古代官職事典なんていうのがあるけど、絶版してしまったんだよな。
安価で便利なのは、学術文庫から出ている和田英松の官職要解だろうか
原著は100年前の本だけど、現代でも刊行されているように概要を知りたければ一番お手頃
73日本@名無史さん:2009/04/23(木) 18:39:23
首謀者を特定させないよう傘連判状の形式を用いたなんて話がありますが、
普通の書状などで差出人や宛名に複数の人名が並ぶ場合の順序に
何か決まりはあるんでしょうか?
74アン:2009/04/24(金) 11:29:57
質問です
・なぜ日本では井戸が屋外にあったのでしょうか?
屋根はついているものの住んでいる家とは別に庭にあったりします
土間を広くとり屋内にあれば使い勝手も良いと思うのですが何か理由があったのでしょうか?
アニメ「赤毛のアン」では屋内に井戸(手押しポンプ)があり、おやっ?と思ったので質問させていただきました
お答えお願い致します
75日本@名無史さん:2009/04/24(金) 12:38:56
日本の風土で屋内に井戸を設置するのは弊害が大きいんじゃないの?

井戸自体の衛生、虫の類が常駐することによる雑菌の繁殖や黴の増殖とか。
後、家屋の傷みなんかも影響するんじゃねぃ?床(地面)が常時濡れてたり湿気が高いと土台とかが腐るとかさ。

明治の頃に建築された建物で屋内に井戸があるのを見たような記憶はあるけど、
何時何処で見たのか忘れちまったw
ググれば見つかる鴨。
76日本@名無史さん:2009/04/24(金) 13:37:14
>>72
ありがとうございます。図書館で探してみますね
77日本@名無史さん:2009/04/24(金) 22:45:56
>>74
ひとつの仮説でしかないですが。
日本人にとっての井戸と言うのは、異界とこの世がつながるポイントという意識があったようです。

京都とかそういう地獄とつながっているという伝承の井戸がありますしね。

昔は受話器は玄関にありましたが、これは電話というのが外界からの来訪者というイメージがあったためで、昔の磯野家はそうでしたね。

それが次第に廊下に移動し、居間に移動したのは、電話への親近感が変化した結果。

もっとも、熊本城など屋内井戸の例もありますし、単純に労力と敷地の問題なのかも知れませんが。
78日本@名無史さん:2009/04/24(金) 23:12:01
>日本人にとっての井戸と言うのは、異界とこの世がつながるポイントという意識があったようです

海・池や橋、洞窟なんかは知っているけど井戸の出典は何?
79日本@名無史さん:2009/04/24(金) 23:17:08
>昔は受話器は玄関にありましたが、これは電話というのが外界からの来訪者というイメージがあったため

これも出典を知りたい。
昔は電話を玄関に置いていたのは、電話が何処の家にでもあるわけでは無かったので、
近所の人たちも利用(緊急時の着信専用として)できるように配慮していたからとモノノホンで読んだ記憶がある。
80日本@名無史さん:2009/04/25(土) 00:28:43
だいたい、井戸が屋外にある理由は、上総掘りとかで櫓を組んで掘るからでしょ。
81日本@名無史さん:2009/04/25(土) 00:33:43
それに、かまどにも神様はいらっしゃいますが、
近世以降の家屋ではたいてい屋内だし。
(これは、南方系の家屋の場合、火家を母屋と分ける伝統は存在した。
 そのうち時代が下ると一体化するのだが。)
82日本@名無史さん:2009/04/25(土) 00:41:59
共同で使用してたからだろ
今で言う台所まで水回りがひいってあった家も当然そんざいしたが。
83日本@名無史さん:2009/04/25(土) 01:43:17
>>80
井戸掘った後に家建てればいいだけの話w
84日本@名無史さん:2009/04/25(土) 09:46:30
>>83
京家では室内に井戸がある場合があるが、
それは土地がないため。

日本では、土地に余裕のある場合、室内に井戸はあまり作らない。
理由は、>>80でしょうね。修理時も結構工事になるし。

持っていない人には分からないことだけどね。
85日本@名無史さん:2009/04/25(土) 10:01:23
>>79
昔はばあちゃんの家に電話があって親父なんかに電話があると呼びに来たなあ。
86日本@名無史さん:2009/04/25(土) 21:06:34
>>65
う〜ん、口分田が足りなくなってきたから、というよりも
百姓が重い税金に耐えかねて離散などをするようになり
国家収入が減るから別の方法に切り替えた、というのが正しいような・・・

荒地を開墾するには多額の財力が必要でした。
食うや食わずの百姓が、個人の力で、年貢を払いながら、
本業以外に土地の開墾もやるなんて、無理ですよねえ?
ですから、大貴族が、在地の領主に命じて百姓を雇って、
大規模に開墾を推し進めたのです。
これが「荘園」。
荘園は大貴族の持ち物ですから、朝廷が派遣した国司なんかは立ち入りできません。
荘園はできた当初は朝廷と対立するものでした。
だって、個人の持ち物である荘園からは朝廷は税金をとれません。
そのために荘園整理令をたびたび出して、荘園を取り締まろうとします。
しかし、院政期になると事情は異なってきます。
摂関などの大貴族以上に政治の権限を持った上皇や法皇などに、
在地の領主がどんどん荘園を寄進し始めるわけです。
荘園は次第に皇族の懐を温めるものとなり、取締も行われなくなっていきました。
87日本@名無史さん:2009/04/28(火) 15:17:14
すいません。
以前、博士スレに書いたもののスルーだったので、お願いします。

江戸時代初期の旗本について調べているのですが、
いわゆる「五の字の指物」を与えられるというのは、具体的にはどのようなものなのでしょうか?
「将軍家の使番の証で、江戸時代初期なら使番組頭のみ指せたもの。これを与えられる=使番組頭に昇進」
とどこかで読んだ気がするのですが、実際にはどうなのでしょうか?
あと、他の指物などはあったのでしょうか?
88日本@名無史さん:2009/04/29(水) 06:20:57
新撰組で、よく○○君とか、○○さんという風に演出されているドラマや映画が多いが、実際にああいうしゃべりかたしたのかな。
いくら現代人にわかるような演出しているにせよ、ほかの時代劇でもああいうしゃべり方しないじゃん? 
その辺どうよ。
89日本@名無史さん:2009/04/29(水) 07:58:52
江戸の将軍様に呼びかけるときに用いる尊称はなんですか?
「陛下」「閣下」なんかに相当する感じの
90日本@名無史さん:2009/04/29(水) 15:22:43
上様 公方様 大樹公 ではないの?
91日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:46:58
加藤清正や福島正則はなんで家康以上に三成を危険視したのでしょうか?
清正なんて秀吉の遺言を破って徳川との縁組みをしたと聞いたことありますし。
92日本@名無史さん:2009/05/03(日) 16:17:51
天皇が重祚した場合、諡はどのタイミングで決められるのでしょうか?
普通は死後だと思いますが、死後に2つ決められるのですか?
93日本@名無史さん:2009/05/03(日) 16:19:42
あと、生前の天皇はどのような呼ばれ方をしていたのでしょうか?
よろしくお願い致します。
94日本@名無史さん:2009/05/03(日) 17:26:57
日本史において偶像崇拝を禁止したり
人間や獣を犠牲にした神への祭祀はあったんですか?
また犠牲に捧げる際に人間の場合は奴隷を捧げていたのなら奴隷とはどういう者でしたか?
オロチ伝説における生贄はやはり奴隷?
95日本@名無史さん:2009/05/03(日) 19:42:36
>>92
皇極・斉明は没後大分経ってからの諡
孝謙・称徳は生前の自称が「宝字称徳孝謙皇帝」で、諡はただそれを分割しただけ
96日本@名無史さん:2009/05/03(日) 21:14:36
>>95
ありがとうございます
諡をおくられるタイミングは決まってるわけじゃないのですね
97日本@名無史さん:2009/05/04(月) 10:53:51
>>93
天子様 今上 今上帝

などではない?

今と大きく変わらない
98日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:35:36
今上って呼びかけにも使うの?
99日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:44:40
主上(おかみ)とか、今は陛下じゃねかに
100日本@名無史さん:2009/05/06(水) 09:48:37
呼び方と呼びかけとじゃ微妙に質問が違うよなー
101日本@名無史さん:2009/05/07(木) 12:03:28
先祖は職業武士で、普段は内勤非常時には足軽たちをまとめる現場の中隊長
みたいな役割だったそうですが、今で言うと国家U種程度の地位ですかね?
102日本@名無史さん:2009/05/07(木) 21:25:19
市役所の係長くらい。
103日本@名無史さん:2009/05/08(金) 22:06:21
2 渤海。7世紀から10世紀に朝鮮半島北部・中国東北部(満州)・ロシア沿海地方にかけて存在した国。日本はかつての朝貢国高句麗の復活とみなしたため、六国史などで渤海を「高麗」と記す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF)

高句麗が日本に朝貢を行ったということだよね?
104日本@名無史さん:2009/05/08(金) 22:29:51
当時の日本政府の見解以上の何物でもない
本物の朝貢を受けるということはたかりを受けるのと同じ
105日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:25:54
〜時代っていつ定着したんでしょうか?
現在の感覚では

奈良時代と平安時代、平安時代と鎌倉時代、室町時代と江戸時代は
社会システムが全くの別ものって感覚ですが
実際当時の人間は何か変化したものってあるのでしょうか?

特に平安→鎌倉なんかは
ただ支配者が平家から鎌倉の源氏になっただけの話?
106日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:53:16
そういう時代区分は江戸時代の新井白石あたりからだろうね。
107日本@名無史さん:2009/05/09(土) 15:00:03
質問2つですが
天皇で後〜ってつけるのって
何か特別な意図とかあるの?
本人がその天皇をいたく気に入って、本人がそうつけろとか言ったとか

紫式部って平安時代もしくはそれ以降でも読み継がれていたということですが
架空の人物とは言えこういった天皇や皇族の遊び人ぶりがクローズアップされていて問題はなかったのですか?
作者もはっきりしてるし特に天皇権威があった平安時代と明治大正と昭和初期は発禁処分になってもおかしくないと思いますが
108日本@名無史さん:2009/05/10(日) 21:04:39
FAQは読んだのですが、既出の質問だったらごめんなさい。
官位・官職の読み方がわからなくて困っています。
一覧みたいなものって無いでしょうか?

「式部省」だったら読めるんですが、
「式部卿」、「式部大輔」、「式部少輔」
「式部大丞」、「式部少丞」、「式部大録」
「式部少録」
となると読めません。
また、「左近衛大将」は「さこんえたいしょう」、
「左衛門大尉」は「さえもんのだいじょう」で合っていますか?
109日本@名無史さん:2009/05/10(日) 22:26:59
質問多いけどレス少ないな
1102ch暦がぼちぼち十年の某回答者:2009/05/10(日) 23:18:28
感謝の言葉が聞きたくて回答をしているわけではないが
史料をつき合わせ文を推敲して長文での回答をしても
質問者のリアクションがないからね

質問を書き捨てて二度とここをみてないのか回答に満足できたのか
回答者には手応えがないから分からない

辞書をひくかググればすむ質問には答えないのは当然として
・三戦厨の個人的な疑問には答えない
・質問者いがいの人間も回答を知りたがるだろうという問いにのみ答える

数年前から俺はそうしている

111国司制度?:2009/05/10(日) 23:22:15
お世話になります。
律令制度の国司についてです。

国司は、守(長官)、介(次官)など4等官あるらしいです。
1 平安中期ごろから、国司は現地に赴任せず(遙任国司という)、
自己の私的な代理人「目代」を派遣して職務を代理させたそうです(wiki)。

2 国司の中で現地に赴任する最上席の者(守が赴任しない場合は「介」)を
「受領」というらしいです(歴史用語辞典)。
この受領は、現地で相当私腹を肥やし蓄財する者も出てきたといいます。

そこで疑問ですが、
赴任にした現地の役所では、1の「目代」と2の「受領」はどちらが
偉いのでしょうか?

112日本@名無史さん:2009/05/11(月) 01:00:15
幕内力士が負け続けて幕下に落ちた場合、
また大部屋で若い者と一緒に寝起きしたり、誰かの付き人になるの?

結婚して家庭をかまえていても大部屋暮らしにもどるの?
113日本@名無史さん:2009/05/11(月) 08:37:16
>>110
わかります
114国司制度?:2009/05/11(月) 13:52:02
>>112 日本史の質問コーナーですが。
通常「引退」ですので、ありえないと思います。
引退しないとして、
相撲界の専門家でないですが、付き人にはならなくても
大部屋暮らしだとは思います。
115国司制度?:2009/05/11(月) 14:35:29
>>13
北畠氏については、趣味、戦国時代に「伊勢の名門 北畠」スレがあります。

南北朝合一(1392年)のときに、幕府と和解したから、その領地を安堵され、
、その後伊勢の戦国大名にもなれたのでは!

南北朝合一後、一度北畠満雅が幕府に反乱を起こしている(1430)が、
幕府に帰順して許されているそうです。
116日本@名無史さん:2009/05/11(月) 18:43:24
淳仁天皇など、古代に諡を与えられなかった天皇がいるみたいですが、
なんで明治になってから追号することになったのですか?
また、どのような基準で決められたのでしょうか?
よろしくお願い致します。
117日本@名無史さん:2009/05/11(月) 20:17:40
>>116
まず純仁天皇でググレ。
WIKIがトップに来るから、その中で特に重要なキーワードでググれ。
そのキーワードは自分で見つけろ。
118日本@名無史さん:2009/05/11(月) 20:41:23
>>117
藤原仲麻呂の乱のことや淡路に流されたことは知ってますけど
なんで明治になってから突然追号されたのか、
またどうやって諡が決められたのか、
その辺のいきさつがよくわからないんです
119日本@名無史さん:2009/05/12(火) 02:50:50
江戸時代の武士が、左肩を覆う肩掛けのような物を着用してるシーンなどを漫画などで見かけますが(シグルイで伊良子が仇討ち時に着ていた気がします)、あれは何か意味があるのでしょうか?江戸以前の武士も着用していたのでしょうか?
120日本@名無史さん:2009/05/13(水) 01:51:14
>>119
漫画見てないから分からないですが弓で使う胸当てじゃないでしょうかに
121日本@名無史さん:2009/05/13(水) 09:30:51
水戸徳川家には徳川実紀の様な活字化され閲覧可能な記録はありませんでしょうか?
特に、文政13年(天保元年)頃の記述をみたいのですが。
徳川斉昭(烈公)に関係のことを調べたいので、烈公の記録でもありがたいです。
122日本@名無史さん:2009/05/13(水) 18:09:16
>>121
『水戸藩史料』
123日本@名無史さん:2009/05/13(水) 21:39:16
>>119
鷹狩りの時に鷹を停まらせるための肩当てかも。
124日本@名無史さん:2009/05/14(木) 03:24:12
ググレベルな質問ばっかでウンコだな
ちったあ検索しろよタコ
125日本@名無史さん:2009/05/14(木) 10:15:06
稚拙な疑問ですいませんが、
時代区分についての質問です。
古墳時代後の聖徳太子あたりから、
平城遷都まで間の時代は、
なに時代と表現されるのでしょうか?
126日本@名無史さん:2009/05/14(木) 10:20:36
まさに、ググレカスだな
127日本@名無史さん:2009/05/14(木) 17:03:55
陽成天皇が妊婦の腹を割いたとかいう話は実話ですか?
中国でも煬帝などに似たような話が残っていますが
彼を陥れるためにそのような文献から引用した作り話の可能性もありますか?
128日本@名無史さん:2009/05/14(木) 19:40:55
可能性は無限にあります。
129日本@名無史さん:2009/05/15(金) 09:24:22
作り話と見るのが妥当だろうな。武田信虎の妊婦はらさきもね。
130日本@名無史さん:2009/05/15(金) 23:27:53
>>127
紂王のお話からでしょ、それ。
131日本@名無史さん:2009/05/16(土) 01:01:48
そもそも武烈天皇の話だし
132日本@名無史さん:2009/05/16(土) 13:08:06
>>111
つまり、守(長官)である現地赴任しない遙任国司の代理人「目代」
と現地赴任する国司の最上席者である「受領」(守が遙任であれば介)
どっちが偉いかということですよね!

長官である守の代理人「目代」が、次官である介より偉いんじゃないかな!


133日本@名無史さん:2009/05/16(土) 16:27:20
>>132
違いますよ!

「目代」は、国守の代理人といってもその私的な代理人つまり家人です。
受領である介の方が、朝廷の官位も高いでしょう。
134日本@名無史さん:2009/05/16(土) 19:14:45
違う地方同士の戦国大名が会話をしてスムーズに理解出来たんですか?
135日本@名無史さん:2009/05/16(土) 21:34:53
「古谷」とかいう名字の変態が北九州の呉服屋(小売り屋)の家に居たらしい
田舎者の常として東京に憧れて青学(青山学院)なる最底辺の学校へ通わせて貰っていたけど
当時から変質者として悪名高かったそうだ(なにしろバドミントン部で皆から嫌われていたとか)。
その後、京都の呉服問屋にお情けで入社させてもらったくせに、恩を仇で返すような真似を繰り返し、
今でもあちこちに迷惑をかけて回っているという風評が聞かれるとか。
この性格異常者に関係している人、一度でも関わりをもった人は要注意だろう 
なにしろ無知無教養を絵に描いたようなド低能かつ愚鈍な阿呆で、無論恋愛とも文学とも無縁な山出しだ
ホモフォビアのオカマだという話もあるが、こんな気持ち悪い変態を相手にする人間は絶対に存在しないと断言できる
カネを払ってSMプレイをしようとしても風俗店から断られたという話もある。
こいつを見かけたら、すぐに叩き殺してしまうべきだ!
136日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:40:55
「古谷洋一」とかいう名前の変態チョンが北九州小倉あたりの呉服屋(小売り屋)の家に居たらしい
田舎者の常として東京に憧れて青学(青山学院)なる最底辺の学校へ通わせて貰っていたけど
当時から変質者として悪名高かったそうだ(なにしろバドミントン部で皆から嫌われていたとか)。
その後、京都の呉服問屋にお情けで入社させてもらったくせに、恩を仇で返すような真似を繰り返し、
今でもあちこちに迷惑をかけて回っているという風評が聞かれるとか。
この性格異常者に関係している人、一度でも関わりをもった人は要注意だろう 
なにしろ無知無教養を絵に描いたようなド低能かつ愚鈍な阿呆で、無論恋愛とも文学とも無縁な山出しだ
ホモフォビアのオカマだという話もあるが、こんな気持ち悪い変態を相手にする人間は絶対に存在しないと断言できる
カネを払ってSMプレイをしようとしても風俗店から断られたという話もある。
こいつを見かけたら、すぐに叩き殺してしまうべきだ!
日本を没落させた元兇たる在日代表とも言えるクズだからね
(九州にはこの種の流入半島チョンが多いらしい)
137日本@名無史さん:2009/05/17(日) 19:20:37
幕末の五品江戸廻航令で江戸に優先的に回すようにとされた品の中に
蝋と水油があります。
おそらく灯火用だと思うのですが、幕末の主な輸出品のグラフなどにこれらの品は入っていません。
これらの品は輸出されていたのですか?
輸出ではないとすればなぜこれらの品が江戸で不足したのですか?
138日本@名無史さん:2009/05/17(日) 20:52:25
輸出品というよりはアロー戦争の軍需物資絡みだった筈
139日本@名無史さん:2009/05/17(日) 21:19:33
歴史用語だと大抵大阪は「大坂」となっていますが、
なぜ大坂が大阪に変えられたのでしょうか?
よろしくお願い致します。
140日本@名無史さん:2009/05/17(日) 22:21:12
家から古文書ぽい物が出てきたけど、これは何の書物?
というかどこのスレで聞けば良い??
ttp://77c.org/d.php?f=nk7575.jpg
ttp://77c.org/d.php?f=nk7577.jpg
141日本@名無史さん:2009/05/17(日) 23:13:06

>>140

『豊臣鎮西軍記』、江戸時代の小説本ですな
142日本@名無史さん:2009/05/17(日) 23:25:22
サンクス
昔の人は手書きでミス無く写本してたのか…
143ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2009/05/17(日) 23:41:38
土(士)が(反)乱を起こすみたいに読めるから。
大体そんな感じ。
144日本@名無史さん:2009/05/18(月) 00:10:25
あれ、俺は町が土に返る(還る)からだと聞いたが。
145日本@名無史さん:2009/05/18(月) 07:03:00
>>143
>>144
なるほどありがとうございます
明治政府が演技を担いだってことですかね
146日本@名無史さん:2009/05/18(月) 07:25:54
筑後の筑紫氏って領地は最大でどんくらいあったのでしょうか?
お隣の秋月氏は島津の後ろ盾で大友領を浸食し最大で32万石くらい拡大したそうですが。
島津氏は筑紫領を秋月氏に宛てがうつもりだったのでしょうか?
秀吉軍が来なかったら秋月は筑前・筑後・豊前を貰い、
島津は肥前肥後豊後あたりを支配下に置くつもりだった?
博多や門司の帰属は秋月になって毛利と争う展開も面白いですね。
147日本@名無史さん:2009/05/18(月) 11:00:59
>あれ、俺は町が土に返る(還る)からだと聞いたが
俺もこの説しか聞いたことがない↓の珍説って出典とか求めても返事は来るのだろうか…

>土(士)が(反)乱を起こすみたいに読めるから
148ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/18(月) 17:52:12
そんな風に聞いたけど違ってるならごめん。
149ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/18(月) 18:24:51
間違ってなかった。

ttp://chimei-allguide.com/27/000.html
150日本@名無史さん:2009/05/18(月) 20:39:44
質問です。

日本の歴代天皇には廟号というものは存在するんでしょうか?
151日本@名無史さん:2009/05/18(月) 22:21:07
明治に入って「大阪」となったのは、明治初期に士族の反乱が相次いだため「坂」が「士」「反」と読めて縁起が悪い、ということで「大阪」にしたは明らかな間違いです。

これは、大きな士族反乱がおこる前に「大阪」の字が決められていることからも、またこの字を当てることを決めたのがやはり士族の側であったことからも明らかです。
152日本@名無史さん:2009/05/19(火) 19:24:38
源氏物語と、源頼朝などの源氏とはどういう関係があるのですか?
よろしくお願い致します
153日本@名無史さん:2009/05/19(火) 22:20:02
源氏物語の光源氏は80年代後半から90年代前半に懸けて大ブレイクしたジャニーズのユニット。
このグループの絶頂期を過ぎたあたりから歌番組も廃れていった。。
154日本@名無史さん:2009/05/19(火) 23:23:41
まず検索することをおすすめします
155日本@名無史さん:2009/05/20(水) 02:28:49
>>154
荒らしたいだけのクズ死んでくれ
156日本@名無史さん:2009/05/20(水) 09:06:22
>>155が荒らしている
157日本@名無史さん:2009/05/20(水) 09:19:59
荒らしいい加減にしろ
私怨でスレに粘着すんなよ
158日本@名無史さん:2009/05/21(木) 20:36:58
苗字帯刀って
名字帯刀じゃあ駄目なのか?

どう違うの?
159日本@名無史さん:2009/05/22(金) 03:32:01
ふと思ったのですが水戸黄門にでてくる「うっかり八兵衛」ですが名前が兵衛ですが衛門・兵衛は武家・農民ともに上層身分でなければ
付かないような・・・平均以下の階層で付くことはあったのでしょうか?
160ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/22(金) 11:05:40
町人の殆どが○兵衛や○衛門さんだからそうでもないんじゃ?
あとうっかりはちべーは架空。
161日本@名無史さん:2009/05/22(金) 12:54:28
町人は上層でんがな。庶民と町人は違うぞなもし
162日本@名無史さん:2009/05/22(金) 17:47:09
横やりで質問なんですが、
江戸時代の身分制度ってどの程度機能していたんですか?
有力商人なんかは旗本やしょぼい大名より力ありましたよね?
163日本@名無史さん:2009/05/22(金) 18:39:35
>>162非常に難しい質問。最近の学者は職業的差異で暗黒時代ではなく割と融通の効いた社会じゃないかと言うんだが
個人的には異議を唱えたい。戦前までは地主と小作人(明治であれば同じ平民)でさえ厳然とした身分差(制度上でなく
慣習的な)があったらしいし福沢諭吉や当時の下級武士たちは「門閥...は親の仇」ってぐらい忌み嫌ってるし、そのエネルギー
が維新後の四民平等に繋がってるとこを見ると。かなり厳しいものだったのでは?

 例外は何事にもあるけど記録に残りやすいからね。
164日本@名無史さん:2009/05/22(金) 19:55:58
>>163
分を弁(わきま)える
分相応に生きる

今で言えば空気を読んで生きるぐらいのことだな
身分差を超えるってのは
日本のプロ野球からスカウトが来ないのに
アメリカのルーキーリーグを受験するようなもの
165日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:07:14
歴史初心者なんで、質問させて下さい。

今日、本を読んでいると奥州藤原氏の中尊寺金色堂について書いてあって
「須弥壇を白く飾る象牙はアフリカ象のものである。」
とあったのですが、どこの国と貿易すれば、
あんな時代にアフリカ象の象牙なんて手に入れたんでしょうか?

どうか教えてください。
166日本@名無史さん:2009/05/22(金) 23:13:27
宋、当時は南宋だけど。
167日本@名無史さん:2009/05/22(金) 23:23:29
>>165
南宋・東南アジア諸国・インド・アフリカ東海岸を結ぶ貿易路があります。
168日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:50:30
会津関係スレを撲滅させる方法
169日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:58:53
会津擁護が、会津の歴史捏造の罪を認めることだと思う。
さもなくば、歴史関連では会津は永遠に謗られる。
170日本@名無史さん:2009/05/23(土) 01:22:50
>163-5そういえば前,お宝鑑定団に松平さんって人が出ていてどこかの藩の殿様の親戚らしいが江戸時代に武士辞めて
商人に成ったって言ってたが。殿さまクラスの親戚で帰農したりするのってそれなりにいたのかな?
171日本@名無史さん:2009/05/23(土) 02:40:46
>>162
豪農が武士になったり武士が貧農に没落したりと厳密なものではなかった。
土地から上がる米の量は変わらず一定だが、インフレで物の値段は上がる。
米の年貢を納めれば農民はなにを作ってもいいから、特産品を開発して江戸などで
売ることが出来れば丸儲けになる。年貢米も豪商が売買して暴利を貪っていた
わけだし。
渋沢栄一は豪農の出身だが、武士になって徳川の世を終わらせようとしたが果たせず、
逆に徳川の家臣となってヨーロッパに渡り、帰国した後明治政府の官吏となっている。
山本七平が「近代の創造」で、渋沢栄一をモデルにこのような厳密ではなかった
江戸末期の身分制のことを書いている。
172日本@名無史さん:2009/05/23(土) 09:04:04
>>166,>>167さん
回答ありがとうございました。
173日本@名無史さん:2009/05/23(土) 15:05:27
桶狭間の戦いって、現在の処(一応)確定している情報というのは何がどういう感じなんでしょうか?
一般的に広まっている俗説と、学術的な研究結果の乖離が激しくてちょっと混乱しているというか…

義元があれだけの大軍勢でも討たれた理由や、信長の奇襲云々の辺りもまだはっきり分かっていないんでしょうか?
174日本@名無史さん:2009/05/23(土) 15:42:06
>>173
ぶっちゃけ、全然分かってない
確定情報つったらそれこそ「織田側が今川側よりも劣る戦力で攻撃仕掛けて義元討って勝った」
という点のみ

ただ俗説とやらも全く嘘ばっかじゃない
義元は実際に御輿に乗って道中進軍してたし(足利将軍の分流だからって理由があったからだが)
信長側の襲撃方法がどうあれ、今川側にとっては結果的に想定外の遭遇戦になって指揮系統が混乱したのも確か

「数が少ない」「信長側の攻撃」そのものに色々条件が重なって義元の首が挙げられる状況にまでなってしまったという点と
人数にバラつきはあれど史料的にいちばん信頼できる信長公記or日本戦史を鑑みるに「今川側は万クラスの大軍勢だった」
という点も信憑性が高いから
信 長 奇 跡 の 勝 利という一般的な認識は全然間違っていない
175日本@名無史さん:2009/05/23(土) 23:00:11
ぶっちゃけ、どうでもいいが
日本戦史は参考にしとけ
176日本@名無史さん:2009/05/23(土) 23:16:06
ちょっとした疑問3つですが
・紫式部って平安時代もしくはそれ以降でも読み継がれていたということですが
こういった天皇や皇族の遊び人ぶりがクローズアップされていて問題はなかったのですか?
特に平安時代と明治大正と昭和初期は発禁処分になってもおかしくないと思いますが

・比叡山や天台宗の織田信長の評価ってどうなの?
極悪人?それとも肯定的評価?

・平安京以前の京都ってどんな感じだったんでしょうか?
本当に何もなかったのでしょうか?
それとも多少は村的なものがあって都になる基盤はあったのでしょうか?
177日本@名無史さん:2009/05/24(日) 00:29:00
>紫式部
多分誤った先入観に基づいての質問。
発禁処分にする理由が無い。

>比叡山
宗教者は人を裁きません。

>平安京
都になる基盤というのが何を指すのか分かりかねますが、何も無い所に山背国葛野郡宇太村という地名がつけられていたとは考えにくいですね。
178日本@名無史さん:2009/05/24(日) 23:38:39
あげ
179162:2009/05/25(月) 03:02:57
>>163
>>171
うーむ結局どっちだか分かりませんな・・・
180日本@名無史さん:2009/05/25(月) 04:31:22
海道一の弓取りって異名は今川義元に付いてたんでしょうか?
それとも徳川家康にも付いてたんでしょうか?

それとも、東海道のあの辺(駿河・三河・遠江)で勢力を振るうと
自動的にそういう風に呼ばれる様になるんでしょうか?
181日本@名無史さん:2009/05/25(月) 05:02:35
通説じゃ2人共呼ばれてたという事になってる

が、海道=東海道ってことで律令に従うと伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸と
関東まで含んで相当広範囲になるが、家康なら経緯的に充分そう呼ばれる資格はある

個人的には三河駿河遠江を押さえてたとはいえ、北条に駿河をさんざ荒らし回されてたり
甲斐一国を平定するのに苦労してた武田にちょっかい出して逆にフルボッコにされたり
それで米も取れない駿河はもういらねーやって飽きた北条にゴキブリみたいに湧いて出てくる今川にウンザリしてた武田が呼応して、
土下座に近い形でやっと同盟結んで貰った今川の、義元が海道一の弓取り=あの辺りで一番戦がうめぇというのはかなり無理がある気もするがね

上の方のレスに丁度桶狭間の話があるが、正直今川って織田から見たら脅威だったかも知れんが
その今川の更に後ろ、武田や上杉や北条からしたら今川自体がいつでも滅ぼせる様な中小大名でしかなかったんだぜ
182日本@名無史さん:2009/05/27(水) 15:34:52
時代小説を読んでいつも不思議に思うのですが、
店と見世の違いは何でしょうか?
183日本@名無史さん:2009/05/27(水) 19:35:08
なんて仮名ってひらがなとカタカナ2種類作ったの?
184日本@名無史さん:2009/05/28(木) 16:54:32
二種類作った訳じゃないだろ
もっといっぱいあった
185日本@名無史さん:2009/05/28(木) 18:22:03
それは変体仮名の事か、それとも万葉仮名の事か?変体仮名は平仮名の異体字だろ。
186日本@名無史さん:2009/05/30(土) 19:58:04
しかし日本史板って書き込み少ないな。世界史板の半分以下だろ。
187日本@名無史さん:2009/05/30(土) 20:34:33
日本は世界の半分も占めるのですか大きいですね。
188日本@名無史さん:2009/05/30(土) 21:42:09
アッチは雑談も兼ねているし、一日で一スレ消化されるようなスレが立っているときは
どのスレも閑古鳥が鳴いているけどね

そういうときに世界史板って少数の中年が積極的に書き込んでいる板なんだなぁと実感できたりする(苦笑
189日本@名無史さん:2009/06/03(水) 14:04:46
関ヶ原で島津義弘って何がしたかったの?
大した兵力も連れてきてないし、全然動かないし、勝負が決した途端に撤退するし
出陣した意味が全く分からないのですが
190日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:01:20
通説とかはwikipediaでも調べられるのでそちら見てくれ。
あの通りだと定見のない本物の愚将だが。

>>189
合戦の流れが通説と異なる状況だったんじゃなかったかと個人的には思ってる。
あの状況下で静観していた可能性は低い。
西軍として戦っていたけれど進退窮まって逃亡したんじゃないか。
しかしその苦肉の策から生まれた敵中突破的な逃亡方法がとんでもなかったため
伝説となった。
191日本@名無史さん:2009/06/04(木) 13:19:09
少し先祖調査をしたのですが江戸期名主を世襲し家格等鑑みても郷士もしくは武士になるべく家格の家なのですが・・・平民Orz

婚姻等みても郷士や本陣。。。ただ一点他の家と異なるのはうちは天領、他の家は藩領です。

 ここで質問なのデスが藩領の郷士と天領の名主の婚姻ってのは許されるのでしょうか?身分違いでは?

また天領は郷士は認めないの?親戚に藩領当時は郷士ですが江戸中期に天領になった家は後名主になって平民です。
192日本@名無史さん:2009/06/06(土) 08:57:28
ある本に豊臣秀頼の乳母子の斉藤采女という人物が肥後の加藤家に匿われていた
と書いてありました(小説ではありません)。
この斉藤采女という人物は誰の子供で本名・諱は何というのでしょうか?
また大坂の陣の後は、どうなったのでしょうか?
母親にあたる秀頼の乳母とは誰のことなのですか? 
193日本@名無史さん:2009/06/06(土) 17:14:12
幕末の男の子は何歳で元服(成人)したのですか?
また、女の子にも元服の儀式?はあったのでしょうか?
194日本@名無史さん:2009/06/06(土) 19:53:19
>>192
豊臣秀頼の乳母と言えば右京大夫局と宮内卿局が知られています。
秀頼とともに自刃した木村重成という乳母子(どちらが母なのか不明、史料によってまちまち)
の存在は有名ですが、斉藤采女という人物の存在はどの史料によるものなのでしょうか?
肥後のどこかにそういう伝説がある、という話の紹介なのでしょうか?
少なくとも秀頼乳母として呼び名の伝わるこの2人の乳母とは関係がなさそうです。
195日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:32:52
江戸時代に入ってから浮世草子といったさまざまな本が急激に増えた理由は
秀吉が朝鮮出兵のときに李朝から印刷職人を拉致ってきたからだ、という話を聞きました。
この話は本当ですか?
196日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:18:43
それは嘘だろう。
朝鮮から導入した活版印刷が日本では普及しなかったんだから。
197日本@名無史さん:2009/06/07(日) 10:11:47
陶晴賢は朝鮮人(朝鮮系)と聞いたのですが本当ですか?
苗字からしてそれっぽいし。
198日本@名無史さん:2009/06/07(日) 11:21:39
大内氏と限りなく同じ血統です。
199日本@名無史さん:2009/06/07(日) 13:10:33
>>195
起源主張はハン板でやってください。

>>197
在日にんてry

清原なんて日本人の名字じゃないから番長は在日って言う主張をプロ野球板で見たことあるなぁ。
200日本@名無史さん:2009/06/07(日) 14:03:48
>>199
じゃあ、その野球板の人間に言わせれば清少納言も在日なんですね。
201日本@名無史さん:2009/06/07(日) 15:20:41
藤原清衡の育ての親もな。

きっと紫式部の回し者に違いない。
202日本@名無史さん:2009/06/07(日) 15:48:04
陶って一字姓だし、陶器製作に由来してそうだし、見るからに朝鮮くさいよな。

大内と同族ってことは、大内も?
203日本@名無史さん:2009/06/07(日) 15:58:26
大内氏は百済聖明王の子孫を自称しているよ。
ただし、真偽のほどは分からない。
平安時代初期には多々良氏として文献に出てくる。
平安時代末期に大内と改姓した。
204日本@名無史さん:2009/06/07(日) 17:38:40
自称始皇帝の子孫は何氏だったっけ?
205日本@名無史さん:2009/06/07(日) 17:45:15
秦氏じゃね?
206日本@名無史さん:2009/06/08(月) 00:02:29
超名門小石一族について誰か語って下さい。
207日本@名無史さん:2009/06/08(月) 00:34:22
ああ前にこのスレで小石って苗字を聞いた人か
208日本@名無史さん:2009/06/08(月) 02:57:54
また小石クンか。
小石一族は宇宙王の正統なる後継者だよ。
君の気品に全宇宙の乙女がメロメロだと思う。
じゃあね。もう来なくていいよ。
209日本@名無史さん:2009/06/08(月) 17:32:28
中国のいずれかの史書の倭人伝(または日本伝)に
「日本では鉄製の農具を使っている」
といったような記載があったかと思うんですが、
どの史書か思い出せません
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけないでしょうか?
また当該史書へのリンクなどありましたら併せて教えていただきたく。
210日本@名無史さん:2009/06/08(月) 20:16:41
>>209
推測で悪いんだけど、魏志倭人伝で鉄の鏃を使うって書いてあるのを農具と勘違いしたのかしら?
211名無し募集中。。。:2009/06/08(月) 20:54:32
「千日を鍛とし、万日を錬とする」
っていう宮本武蔵の言葉がありますが
鍛と錬ってどう違うんですかね(?_?)
212日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:16:09
鍛=叩いて延ばす
練=重ねて叩く
213日本@名無史さん:2009/06/09(火) 13:15:14
戦国時代の階級について質問です。

            「→足軽大将→(侍)(足軽、農民)
総大将(大名)→侍大将―+→足軽大将→(侍)(足軽、農民)
             {→足軽大将→(侍)(足軽、農民)

命令系統や配置はこれで合ってますでしょうか?
214日本@名無史さん:2009/06/10(水) 02:09:00
足軽が農民ってのがそもそも間違ってるよ
215日本@名無史さん:2009/06/10(水) 11:40:23
半士半農w
216日本@名無史さん:2009/06/10(水) 13:25:36
足軽は一応武士じゃなかったっけ?
半士半農は長曽我部の一領具足だったような?
詳しい人教えてけれ
217日本@名無史さん:2009/06/10(水) 13:29:09
田んぼを耕す武士なんて実在したのかねえ。
218日本@名無史さん:2009/06/10(水) 20:42:00
土一揆なんてやってたのも武器を持った農民だった。
足軽は普段は田を耕して生計立てていたのだから農民に近い。
ただし、戦時には所属する主君が決まっていたのだから
その意味では武士ともいえる。
ただし、真の意味で武士というには、せめてそれで生活できるような
身分でないとな。
足軽の生活の糧が農業であった以上、農民が本業、
片手間武士だわな。
219日本@名無史さん:2009/06/10(水) 21:47:51
>>217薩摩郷士
220日本@名無史さん:2009/06/10(水) 22:38:00
足軽が農民の副業を離れ独立した職業になったのは、近畿の応仁文明期の私兵と織田信長だったような。
だから上杉謙信も武田信玄も関東御家人も、農民としての側面があったと思う。
221日本@名無史さん:2009/06/10(水) 22:45:59
おっと、上杉軍や武田軍という意味ね。
兵農分離が成されているのなら、年に数ヶ月しか軍が動かないなんてことはないはず。
222日本@名無史さん:2009/06/10(水) 22:57:12
上杉も武田も、ほぼ一年中軍事活動を行っている年がありますよ。
武田は軍役を課すとき、「農民は連れてくるな。ちゃんとした兵を出せ」と
命令しています。
織田が兵農分離していたなんて事実もありません。
農兵が一般的になったのも安土桃山時代だけでしょう。
223日本@名無史さん:2009/06/10(水) 23:03:07
>>222
それは反対に考えれば、農民を兵士として動員する場合があったから予め釘を刺したと言えますな。
224日本@名無史さん:2009/06/11(木) 04:36:06
>>222時々いるんだよな君みたいのが。一般常識というのを疑うのは良いことだが瑣末な資料を全体と見たり一部を全体と見たりして
しっちゃかめっちゃかなのが。
225日本@名無史さん:2009/06/11(木) 06:15:35
秀吉の刀狩だって農民が戦争になったら召集されて戦った証拠じゃないの?
兵農分離が確立されてる国以外は有事の際、農民が召集されて戦ったんじゃないの?
226日本@名無史さん:2009/06/11(木) 06:25:40
兵農分離がなされるまえに農兵が
一般に普及した時期を特定するのは難しい。
主力となるのはあくまで武士で、
農兵主体となった時期はない。

だから大名が農閑期に軍事行動を起こせなかった
なんてこともなく、信長が兵農分離を成功させた事実もないね。
227日本@名無史さん:2009/06/11(木) 07:53:35
地主である武士が数人の小作人を足軽にして連れていくってのがイメージだがな。違うの?
228日本@名無史さん:2009/06/11(木) 08:08:16
信長の場合尾張という人の集まりやすい土地に楽市楽座や色々整備して
さらに人を集めて、職にあぶれた人が全国から集まってくるようにして
それを傭兵として用いることによって兵農分離のようなことをやってた
と思ったけど……違う?
229日本@名無史さん:2009/06/11(木) 08:10:49
230日本@名無史さん:2009/06/11(木) 08:38:58
歴史は結果論であって信長が兵農分離をしようと思っていたわけが無くて兵の効率性や諸々を考えたすえのシステムを後の歴史家が兵農分離
と名付け、こういうメリットがあります云々。>226は言葉に囚われてる。
231日本@名無史さん:2009/06/11(木) 08:53:52
信長だけが農兵を主体としていないとか
どんだけ時代遅れの説なんだよ。
232日本@名無史さん:2009/06/11(木) 09:26:43
>>230
結果論といわれても、信長が兵農分離的な軍制を得た事実がないからね。
233日本@名無史さん:2009/06/11(木) 12:22:29
どうしてどっちもエビデンスを示さないの?
日本史板では自分の主張を裏付けもなく押し付けるのがデフォなのか?
234日本@名無史さん:2009/06/11(木) 12:42:11
【戊辰戦争研究会による操作なのか!?】

会津観光史学の中心人物である妄想作家・星亮一の作品に対し
氏の弟子である高橋みちこと思われる人物が、amazonのレビューにて
氏の作品に対し、星5つを与えるレビューを書いてる疑惑が浮上した!

氏の作品は幕末史ファンから酷評されてる事で有名だが
一部に氏を支持する人達からのレビューがあり
学会からも相手にされない妄想・誇張・美化・悲劇化を
好評価する発言に不可解さが指摘されていたが
今回、氏の弟子であると思われる人物の、氏への好評レビューが発見され
これらのレビューは氏が主催する戊辰戦争研究会の会員が
氏の作品の売り上を上げる為に、操作してるのではないかと
幕末史ファンに示唆されている。もしこれらの一連が
戊辰戦争研究会による操作であれば、会津史に加担する
氏の姿勢が問われるのではないだろうか?

http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A3IG32V5DM1ML7/ref=cm_pdp_rev_all?ie=UTF8&sort%5Fby=MostRecentReview
235日本@名無史さん:2009/06/11(木) 13:05:32
織田に限らずどこの大名家でも基本的に兵と農は分離してるんだよ
でも本当にピンチになるとマジモンの百姓を片っ端から動員する
236日本@名無史さん:2009/06/11(木) 13:09:28
だから>>221が書いてることは当たっている
237日本@名無しさん:2009/06/11(木) 13:50:42
>>170
それなりかどうかは知りませんが、維新後官吏になれない/ならないのなら民間に降りるしかない。
江戸時代後期にはどこの藩でも殖産興業に勤しんでいますが、
藩主の近縁なら家老・奉行の家が多いでしょうので、事業に深く関わっていたでしょう。
維新後それで食うことになったと言われても不思議には思えません。天下りみたいなものですね。

>>182
見世=店棚,転じて商品を並べうる場。女郎部屋,あるいはそこの女郎。舞台。
showの訳のように思った方がよいかもしれません。
238日本@名無史さん:2009/06/12(金) 08:21:19
真田昌幸が二回の上田城戦を鮮やかな戦術で徳川に圧勝したけど、その時も確か
農民を動員してなかったっけ?
239日本@名無史さん:2009/06/12(金) 09:15:11
>>238上田は農民まで真田家と同族みたいなもんでしょ。土豪ってのはそういうもの。
240日本@名無史さん:2009/06/12(金) 12:20:54
質問です。戦国武将の誰か(家康か誰か)だったと思うんですが、他国からレモンか
なんかの輸入柑橘類をもらって、家臣達に見せたところ「これは金柑じゃないか」
「金柑など大量に送りつけてきおって、アホか」と家臣達が騒ぐところ、「金柑は
どこでも正月飾りにつかうありふれたものだ、それをこのように大事に送りつけて
くるところを見るとこれは金柑ではないのだろう。そこまで考えが及ばないおまいら
DQNか、そんな家臣ばかり持ったおれ涙目」と嘆いたというエピソードをうろおぼえで
覚えているんですが、誰の逸話か、送られてきた柑橘類はなんだったのか、とか
正確なところがわかりません。ググってもどうもhitしません。知ってる方教えてください。
241日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:50:35
よくアメリカの映画では、侍や武士は、丁髷と和服姿と言う中世的な服装で、
使用する武器は刀や弓などの伝統的な武器のみで、
銃は使用しないよう描かれていますが、
本物の侍や武士は、洋服を着て近代的な日本人や欧米化された日本人に扮したり、
銃や地雷などの近代的な武器を使用するのでしょうか?
それとも、アメリカ映画で描写された通りなのですか?
242日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:31:51
>>241
侍だの武士だのって時代は近代じゃないんだから「近代的な日本人」に扮したり「近代的な
武器を使用」したりしないでしょう。しかし火縄銃は使ってた。
「欧米化された日本人」に扮するって意味不明。侍が洋装したらそれは「欧米化された日本
人」そのもの。
243日本@名無史さん:2009/06/13(土) 01:39:04
スルーすりゃいいのに、まったく
244日本@名無史さん:2009/06/13(土) 05:45:53
あらしってこと?中学生かと思って答えちゃったよ。
245日本@名無史さん:2009/06/13(土) 07:15:36
ラストサムライでカツモト達が鉄砲使わないで弓矢使ってたのはなんで?
外国人は侍は鉄砲なんか使わないって思ってるの?
246日本@名無史さん:2009/06/13(土) 18:40:37
その通り。江戸時代には鉄砲は無かったと信じている。
247日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:21:28
外人は侍や日本人を甘く見すぎ。
もしもカツモトに戦闘用ロボットやハイテク突撃銃が供給されたら、
間違いなく使用するはず。
248日本@名無史さん:2009/06/14(日) 15:56:03
確かに戦国時代に戦場で大量の銃が運用されてきたのは事実だけど、武士達の間
では弓の名手はやっぱり憧れの的であって、銃が登場してからも武士の事を弓取
りと呼んでたね。
先進国の学校なら世界史で一時期日本が世界で最も銃を保有してたことを学ぶと
思うけど、どうかな。
249日本@名無史さん:2009/06/14(日) 17:50:41
>>245
神風連の乱あたりを士族一般に拡大したデフォルメ表現なんだろうけど、
戊辰戦争とか考えると、あんな骨董品みたいな侍集団はありえない。
250日本@名無史さん:2009/06/14(日) 18:22:25
南朝の道と白山信仰はどう?
251日本@名無史さん:2009/06/15(月) 22:07:32
>歴史学の世界では、真偽不明で二つの説が対立している場合、
>面白いほうの解釈を正史とみなすのが通例らしいぞ。


これって本当ですか?
252日本@名無史さん:2009/06/15(月) 22:16:38
まずは「正史」の意味をググって
253日本@名無史さん:2009/06/16(火) 02:46:43
16世紀には既に銃を使用していた集団が、
19世紀に弓や刀と言う原始的な武器のみで戦うことはありえない。

ラストサムライはおかしい。
254日本@名無史さん:2009/06/16(火) 06:55:48
銃を買うカネが無かったんだよ。
255日本@名無史さん:2009/06/16(火) 14:10:02
弾を買うために弾左衛門に金を借りにいって断られたんだw
256日本@名無史さん:2009/06/16(火) 22:33:22
日本の衣服の流れについて、全体的に説明(古代から江戸・明治くらいまでの衣服の流れ)してくれる本を探しています。
ただし、絵がついている奴で。
257日本@名無史さん:2009/06/16(火) 23:01:26
質問です。

隋や唐が成立したときには日本は律令制度を取り入れようとしましたが、
なぜ宋の成立後、日本は宋の科挙官僚制度を取り入れようとしなかったのですか?
258日本@名無史さん:2009/06/16(火) 23:08:55
宋が成立したとき、そもそも日中間の正式な国交は無かった。
ちなみに「孟子」は日本に伝わらないのは、「孟子」を積んだ船が沈むからという俗説があるが、
本当のところは王安石の働きかけで儒教の経典に認定される前に日中間の公式な交流が途絶えていたので、平安末期に日宋貿易が始まる以前は(唐の時代にはマイナー書物だった)「孟子」の存在自体がほとんど知られていなかった。
259日本@名無史さん:2009/06/16(火) 23:12:51
その頃はすでに成功(じょうごう)という売官が蔓延っていたし、
貴族の家筋で就ける官職が固定化しつつあり時代だったので
菅原道真のように学問で立身出世しようにも(科挙とは違うが)
不可能となっていた。

科挙の導入などは検討すらされなかったと思うよ。
260日本@名無史さん:2009/06/17(水) 01:04:33
>>256にも応えてください・・・
261日本@名無史さん:2009/06/17(水) 01:23:49
「日本」「服飾史」とかでググるとか
262日本@名無史さん:2009/06/17(水) 19:17:15
>>240ですが、すいません、どなたかご存知でしたらお願いします。
263日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:38:34
お前(ら)もっとよく考えろ、という継投の話は腐るほどあるので、そもそも実話かどうかすら怪しい。
酷いのになるとお茶漬けにお湯をつぎ足すようなバカ息子じゃこの家オワタってのがあるから。
264日本@名無史さん:2009/06/18(木) 00:34:16
質問失礼します。
学校の授業では鉄砲の伝来は戦国の世の天下統一を早めたと教わりましたが本当ですか?
逆に天下統一を遅くしたという考え方もあると聞きました。
265日本@名無史さん:2009/06/18(木) 02:51:47
>>264
どちらが正しいか明確に答えられる研究者はいないと思う。
鉄砲が戦闘を激化したのは事実だろうが、天下統一の速度には無関係じゃなかろうかね。
266日本@名無史さん:2009/06/18(木) 03:22:07
>>264石原莞爾の世界最終戦争当たり読んでみれば?最新兵器ってものの軍人のとらえ方が分かる
267日本@名無史さん:2009/06/18(木) 05:46:09
教えて下さい。
昨日NHKで織田信長のことを放送していたけど、長篠の戦いの屏風図

が映っていて、信長陣営(だと見えた)の兵隊の背中に三角を組み合わせた
六ぼう星が見えました。あの時代に六ぼう星のマークを使っていた武将は
誰なんでしょうか?誰か教えて下さい。
268240:2009/06/18(木) 10:11:17
>>263

北条氏康と氏政の逸話ですよね? あれも創作なんですね。
もっともらしい話なので信じてました。

240で探していた話も北条氏政ネタのようです。橙とオレンジで
送ったのは家康ということになっています。もちろんDQN扱い
されているのは氏政です。ゲームで会話イベントになるぐらいの
知名度はあるようでした。どうもありがとうございました。
269240:2009/06/18(木) 11:08:28
あ、>>268>>263に示唆いただいた汁かけ飯の話をググったらついでに
橙とオレンジの話もひっかかってきて一挙両得になってしまった、という経緯です。
270日本@名無史さん:2009/06/18(木) 22:04:43
松浦静山『甲子夜話』に「信州のある女嫌いの大名の話が出て来る」という記事を『江戸の性の不祥事』という新書で読みました。
その大名は「極端な女嫌いで、化粧の匂いも嫌がるという風だった」とか。
また「正室はいたけれど一切同衾は無く、ただ時々対面するだけだった」とのこと。
この大名は誰のことなのか分かるでしょうか?
松浦静山の同時代の信濃国の大名ですから、ある程度の見当はつくはずなのですが、
心当たりがありましたら教えて下さい。 よろしく。
271日本@名無史さん:2009/06/18(木) 22:08:20
江戸時代の群書は今の週刊誌以下のゴシップ記事ばかりだから内容の信憑性は薄いだろうな。
272日本@名無史さん:2009/06/19(金) 11:42:55
どのスレに質問すれば良いのかわからなかったので、ここで質問させていただきます。

今日本の戦術の歴史について調べています。
縄文時代の戦争の無かった時代から、鉄砲伝来までの日本の戦術について教えていただけませんか?

鎌倉時代には名を名乗ってから一対一で戦った。
みたいな感じです。

よろしくお願いします。
273日本@名無史さん:2009/06/19(金) 13:49:14
平安時代の戦術については
映画「羅生門」を見れば全て分かる。
274日本@名無史さん:2009/06/19(金) 15:24:42
江戸時代の江戸ってどのへんですかね?
275日本@名無史さん:2009/06/19(金) 15:27:48
質問の意図が分からない
276日本@名無史さん:2009/06/19(金) 15:44:22
江戸=東京
277日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:09:11
古代〜中世日本の服装の絵が沢山乗ってる資料を探しています!
278日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:12:22
>>276
それも違うぞ
現在の東京は一度大拡張をしている。
内藤新宿や千住宿や品川宿を江戸とは言えないだろう
279日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:54:52
>>272
ホモサピエンスは他の猿人との戦争に勝って繁栄しました。
人の歴史に戦争の無かった時代はありません。

戦術ってのが、作戦の話か
戦争の作法って話かどっち?

280日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:55:43
ジャイルズ・ミルトン「さむらいウィリアム」を読んでたら
イエズス会士のハンセン病患者への医療奉仕について
「日本では慈善活動というものが存在しなかったので、彼らは
何かたくらみがあってこのようなことをやっているのではないか、
とたいていの日本人は思った」という記述があったんですが、
本当に慈善活動が一切なかったんですか?
281日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:04:48
ハンセン氏病患者の慈善救済事業については
鎌倉期の真言律宗(西大寺流)の僧、叡尊と忍性
の活動が有名です。
282日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:06:41
光明皇后がお嘆きだと思います。
283日本@名無しさん:2009/06/19(金) 22:18:44
>>280
でもまあ、>>281-282のようなのを除けば、
今の水準で言う慈善活動は…なかったといっていいのでは。
284日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:21:06
では、ヨーロッパに今の水準でいう慈善活動はあったの?
285日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:01:11
聖徳太子が四天王寺を建てられるにあたって、「四箇院の制」をとられたことが
『四天王寺縁起』に示されています。 「四箇院」とは「帰依渇仰 断悪修善 速
証無上 大菩提所」 つまり仏法修行の道場である“敬田院”、 病者に薬を施す
“施薬院”、病気の者を収容し、病気を癒す “療病院”、身寄りのない者や年老
いた者を収容する“悲田院”の四つの施仏教の根本精神の実践の場として、四
天王寺を建てられたといえるでしょう。これらの施設は、中心伽藍の北に建てら
れたようです。

ま、伝承だが・・・
286日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:05:19
ようは後ろ盾のない、どこの馬の骨とも知れない人間が、
能動的に慈善活動をする例がなかっただけだろ。
287日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:10:13
日本は多民族・多人種国家だと思うのですが、
弥生人種、縄文人種の他にどんな人種が居ますか?
288日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:12:45
いわゆる縄文人、弥生人というのは人種ではない
289日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:19:40
>>288
いや人種だよ。

人種と言うのは、人類を生物学的な面から分割した呼び方。

いわゆる、コーカソイド、モンゴロイド、二グロイド、オーストラロイドと言うのは、
一番大雑把な分割でしかない。
290日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:25:45
日本には
日本人、関西人、ネラー、DQNなどの人種があります。
291日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:30:26
>>290
それは人種とは言わん。
いっぺん人種についてZEROから勉強してこい。
292日本@名無史さん:2009/06/20(土) 00:07:08
>ようは後ろ盾のない、どこの馬の骨とも知れない人間が、 能動的に慈善活動をする例がなかっただけだろ。

金持ちの道楽?江戸時代にいたような・・・
一寸違うか。後ろ盾が無く当人が能動的に慈善活動する例ってなんだろう?
西洋の教会は明らかに違うよな、マザーテレサなんかもぶっちゃけテレサ個人の信仰心を満足させるのが目的だしな
293日本@名無史さん:2009/06/20(土) 00:20:11
江戸時代じゃなくて戦国時代までの話だかんな
294日本@名無史さん:2009/06/20(土) 00:46:13
>>292
イスラームにみられる相互扶助や福祉も
ウンマがなければ無理だしねえ。

「今の水準で言う慈善活動」や、何の後ろ盾なしに行う慈善活動が
果たしてどこにあったのやら。
295日本@名無史さん:2009/06/20(土) 07:48:03
家に昔の甲冑とか刀とかたくさんあって自称落ち武者らしんだけど俺は信じてない。
江戸時代は農民で武士じゃない。甲冑は必要ないし高価なものだからうちには買える
余裕なかったと思うんだ。俺的には戦場の死体からかっぱらってきたと思うん
だけどそうゆうことする奴ってやっぱいたのかな?
296日本@名無史さん:2009/06/20(土) 07:51:35
甲冑や刀の状態による。
年代も新しそうで、綺麗な状態で残っているならば
かっぱらったというよりは買い入れたものかもね。
297日本@名無史さん:2009/06/20(土) 09:44:55
>>295
いや、「落ち武者」になる機会があるとしたら江戸時代じゃないし・・・
298日本@名無史さん:2009/06/21(日) 14:32:47
関ヶ原の活栓前に三成が武将を人質に取ろうとしていますが、
徳川家康の武将から人質を取ることはできなかったのでしょうか?
最終的には人質を諦めていますがそれだと誰一人三成に味方する必要もなかったのでは…?
それともこの時代は人質もなく武将が大名や大将に従う例は多いのでしょうか?
299日本@名無史さん:2009/06/21(日) 16:52:07
>>298
意味不明??家康の武将って誰の事?家来の事なら何で三成に人質を出す義理が有るの?
300日本@名無史さん:2009/06/21(日) 16:57:12
>>299
意味不明って言葉に
?をつけるのも意味不明だが。
301日本@名無史さん:2009/06/21(日) 19:05:31
>>298
何で三成が家康の家臣から人質を取れるんだよwww
302日本@名無史さん:2009/06/21(日) 19:13:16
東軍の武将から人質取ろうとしておきながら、西軍からは取らなかったの?と聞きたいのかな?
303日本@名無史さん:2009/06/21(日) 23:29:29
>>298
家康方に付いた福島とか黒田とか細川とかの武将の家族は
京都や大阪にいたから、光成もそれらを強引に人質に取ろうとした。
が、細川忠興夫人の細川ガラシャが人質になることを拒否して死亡。

そんなこともあり、人質を取ることの害に慎重になったため人質は取らなかった。
304295:2009/06/23(火) 03:41:54
平安時代末期の甲冑と聞いたよ
刀とかは平安末期から戦国時代にかけて
305295:2009/06/23(火) 03:52:29
戦国時代とか死体から甲冑かっぱらうのは一般的だったの?
306日本@名無史さん:2009/06/23(火) 13:14:36
高額で売りさばけるし、市場はこぞって武具を取り扱う時代だったから、
合戦の跡地に動員された農民が死体の片付けをしながら装備品をはぎとったみたいだよ。
307295:2009/06/23(火) 14:18:45
306さんありがとう。たぶん家のもその類だったんだろうw
308日本@名無史さん:2009/06/23(火) 20:28:55
>>304
平安末期の甲冑が綺麗な状態で残ってるんだったら
重要文化財指定だなw
309日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:30:01
>>295
写真うp
310日本@名無史さん:2009/06/24(水) 08:57:10
質問させていただきます。
幕末の薩摩が藩論を「倒幕」へと転換するきっかけは何だったんでしょうか。

参預会議での決裂から久光は幕府との協調路線を諦めたみたいですが、
「佐幕」から「倒幕」へと極端な方針転換に至った理由がよくわかりません。
「開国」という立場ではお互い一致しているのだから、争わなくてもいいような気がするのですが・・・
それに、薩摩は参預会議以降も「第一次長州征伐」など、佐幕的行為は続けているような気がします。
それが薩長同盟の時点ではすでに倒幕派だったみたいで・・・

長々とすみませんが、だれか詳しい方よろしくお願いします。
311日本@名無しさん:2009/06/24(水) 13:28:21
>>310
諸侯らと朝廷内の尊皇攘夷派を追放したまでは良かったが、
そのあとの参預会議が不首尾に終わった。
公武合体/公儀政体論に対する(主導権の)認識は各自バラバラで形にならなかった。
越前や会津らは(一門ですから当然ですが)幕府の味方。土佐も無意味に牽制する…
徳川慶喜は形ばかり孝明天皇に阿って「横浜鎖港」なんて建前を吐く・・・
どころか酒を借りて正面から罵るとは・・・久光でなくてもついていけませんでしょ。

しばらくしたら、禁門の変の件で幕府が長州に征伐軍を出した。
破綻したとはいえ、この論で(表向きには)擁護しようとした幕府が討伐軍を出し、長州は破れた。
次に吊るし上げられるのは誰がどう見ても薩摩です。

この時点でもう、薩摩は幕府と戦わざるを得なくなったのです。例え勝算がなくても。
でも薩摩を擁護しうる勢力は(地勢的に見ても) あ の 長 州 しかない・・・
高杉のクーデターが成功したから同盟もなったわけですが、失敗したとしても戦うのは同じことでしょう。
312日本@名無史さん:2009/06/24(水) 15:19:30
>>311
ありがとうございます。

つまり、薩摩の立場からすれば

参預会議での幕政改革に全てを賭けていたのに、当の幕府は保身しか頭に無く、
もはや幕府には失望した

長州征伐での幕府の態度を見て、幕府には「政敵を排除したい」という考えしか
無いことに気づき、「明日は我が身」と危機感を抱いた

という解釈でよろしいのでしょうか。
313日本@名無しさん:2009/06/24(水) 18:27:09
>>312
薄学なので権威ある説を知らないのですが、私はこんなところだろうと思っていますし
これだけで薩摩が戦意を固めるには十分だろうとも思っています。
薩摩は錦の御旗を振り回されれば恭順せざるを得ないし、ましてや天皇自身が
開国派など潰れろと思っているようではね…
314日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:34:28
>>310
>「佐幕」から「倒幕」へと極端な方針転換に至った理由がよくわかりません。
ラブコールに答えてもらえないならいっそ敵に回るというのはよく有ること。
肝心なのは自分が主導権を握ること。

微妙に違う話だけど新撰組の近藤や土方も開国すべき、時代の風は知っていた。
でも士分に取り立ててもらえるなら攘夷の幕府でも善しとした。
315日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:55:14
幕府はいつ攘夷になったの?
条約を結んだのは幕府じゃん!
316日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:01:58
条約改正、アメリカと寺島の交渉にイギリスとドイツが反対したって言うけど
日本とドイツは不平等条約結んでいたんですか?
317日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:07:39
>>316
ドイツというより旧プロイセン王国が1861年に国交を結んでいる。
ttp://www.mofa.go.jp/MOFAJ/kaidan/yojin/arc_96/germany/g_gaikyo.html
318日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:19:27
ここでいいのかな...。
最近、井沢元彦の日本史入門書みたいの読んでいるのですが
そろそろ別のも読みたいと考えています。

あまり難しくなく日本史全体を通した本でオススメのものって
ありますかね?
319日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:24:25
>>315
条約締結に積極的だった井伊大老が死亡。
13代将軍家定も没し、迎えられた14代将軍家茂と皇女和宮が結婚。
言うまでもなく朝廷はかねてより攘夷を唱えており、
特に和宮の兄孝明天皇は異人嫌いであった。
家茂が上洛したときには孝明天皇はこの義弟を連れまわし、
下賀茂神社や石清水神社での攘夷祈願につき合わせた。
幕府が攘夷だったというより、物を言うようになった朝廷に
将軍が振り回されていた。
320日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:55:15
>>319
もっとも、井伊大老が条約を結んだのは、薩摩や水戸への対抗以上のものではなくて、本人は譜代と親藩と旗本がいれば攘夷が出来ると思っていたという説もあるけどな。
321日本@名無しさん:2009/06/25(木) 22:01:37
>>315
時代にそぐわないだろうけど、攘夷の「ポーズ」を取る幕府でも仕えてヨシ、という意味かと。
322日本@名無史さん:2009/06/26(金) 09:14:23
>>318
今のあなたに最適なのは断然これ。小学館の「日本の歴史」シリーズ。
http://www.shogakukan.co.jp/nrekishi/
あんたのためにあるようなシリーズだ。高いと思うかも知れないが目からうろこ。
一級の学者の最新の研究成果を平易な文章で通覧すれば、
井沢史観を客観視できるだけの体力が備わるだろう。
少々値が張るが千円程度の新書や文庫を集めるより絶対にお得。
図書館でも貸し出ししているはず。今も刊行中。
これを読み終えたら次は吉川弘文館の「戦争の日本史」。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/senso-n1.htm
戦争を通して日本の歴史の重要な転換期を学べる。
信長や関ヶ原を語る際にはこれを読んでおかないと笑われる。
323日本@名無史さん:2009/06/26(金) 12:44:33
ま、たしかに井沢の万倍ためになるわな
324日本@名無史さん:2009/06/26(金) 15:51:33
日本史板で関連事項を語る際にこれぐらいは読んでおかないと恥をかくよな。
325日本@名無史さん:2009/06/26(金) 19:09:34
318ではないけどなるほど
326日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:43:12
>>322
入門書からそろそろ本格的なものを...と考えていたので
オススメされた本、読んでみます。
問題は値段よりも巻数の多さですかね。
まったりと少しずつ買い集めていきたいと思います。
327日本@名無しさん:2009/06/26(金) 20:58:02
買わずとも、図書館へいけば・・・
328日本@名無史さん:2009/06/27(土) 16:39:59
歴史学って、趣味以外に何の役に立つの?
不要の学問じゃね?
329日本@名無史さん:2009/06/27(土) 19:24:58
娯楽にネタを提供してるだけで十分だろ。
330日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:13:57
人類の営為の全てが趣味の延長だお
331日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:40:52
昔の偉い数学者たちの考えでは、数学は何の役にも立たないからこそ高尚なものだった。
332日本@名無史さん:2009/06/28(日) 22:32:11
丹羽長秀の病魔は「柴田勝家の亡霊の祟り」である
といった記事が『兼見卿記』に記されているそうですが、
柴田勝家の亡霊がなぜ丹羽長秀に祟るのでしょうか?
祟るのであれば秀吉に祟るのが普通かと思いますが。
理由を教えて下され。
333日本@名無史さん:2009/06/28(日) 22:49:39
>>332
祟られる人間は身に覚えが有るから何か有ると祟りの所為にします。しかし秀吉の
ような怨霊を信じない人間は何か有っても祟られたと思いません。だから秀吉が祟
られる事は有りません。
334日本@名無史さん:2009/06/28(日) 22:52:05
でも、秀吉も最期の時には信長の怨霊に悩まされたという説があるけどね。
335日本@名無史さん:2009/06/28(日) 22:55:03
>>332
それ面白いね。どなたか研究論文の課題にして欲しい。
336日本@名無史さん:2009/06/29(月) 08:43:50
これ、誰一人として、まともに返答出来ぬのかゑ?
337日本@名無史さん:2009/06/29(月) 11:16:22
>>332
初耳だが想像に難くない。
同じ織田家の宿老なのに秀吉を支援したからだろww
鬼柴田はグズグズ祟るような、そんな女々しい奴じゃないけどなw
338日本@名無史さん:2009/06/29(月) 11:27:27
ナッちゃんの質問はうざいね
339日本@名無史さん:2009/07/02(木) 00:41:20
平が源内が書いた、ねなしぐさ
ってかなりおもしろいらしいですが、
現代語訳とかって、あるの?

できれば、マンガ版で。
340日本@名無史さん:2009/07/03(金) 12:23:43
すいません。
紺掻師ってどんな職業なんですか?
読みは、こんかきし、でいいですか?
341日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:01:35
「こんかき」、もしくは「こうかき」。

藍(紺)染め職人のことさ。
342日本@名無史さん:2009/07/05(日) 19:39:02
足利時代に定着した公方、大樹は間違いなく尊称ですよね。
室町殿や前代の鎌倉殿という呼称はどうでしょうか?
徳川将軍家を千代田殿とか江戸殿などと呼んだ例を聞かないのは
非敬にあたるという認識があったのでしょうか?
343日本@名無史さん:2009/07/06(月) 22:43:54
鎌倉殿って言う呼び方はタメ口に近い尊称だと思ってください。
344日本@名無史さん:2009/07/07(火) 22:51:01
お答えどうもありがとう。
時代劇でありげなシチュエーションで言えば・・・
同格大名や大身旗本の「芸州殿」は可。→ タメ口に近い尊称。
不浄役人や町人風情は「安芸守様」とお呼び申し上げないと。
みたいな感じですか?
345日本@名無史さん:2009/07/09(木) 00:40:34
諸士横議とは何なのでしょうか?
老中の阿部正弘が関係してるらしいのですが、よくわかりませんでした
諸士横議と公議政体論は違うのですか?
346日本@名無史さん:2009/07/09(木) 00:45:54
昔の人の書状・消息・公文書などを読みこなせるようになりたいのですが
何から勉強すればいいですか?
くずし字や異体字も全然わからないし、どうすればいいかわかりません。
347日本@名無しさん:2009/07/09(木) 01:12:03
>>346
「古文書を読む講座」はいろんなところでやってる。
「古文書」「講座」でググるとわかる。
教本としての古文書選やくずし字字典も、結構ある。
ご近所の公民館やセンターなどで講習やっているところを見つけ出し、受けてはどうだろうか。
348日本@名無史さん:2009/07/09(木) 02:57:33
字体を読む前に古文の勉強もしとかないとね
349日本@名無史さん:2009/07/09(木) 03:09:51
時代にもよる。
御家流メインの近世なら高校古文あたりの知識は
さして必要ない。
350日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:10:19
鎌倉幕府がどうやって成立したのか、よくわかりません。

平安 → 鎌倉

これはわかります。

じゃあ平安時代のボスは誰なの?

あと、飛鳥時代に聖徳太子がボスだったのはわかります。
それで、そのあと聖徳太子の子供が暗殺されたんですよね。

じゃあ、そのあと、誰がボスになったの?
351日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:30:04
>>350
平安時代の国家の最高責任者は天皇です。
鎌倉時代もそうです。
鎌倉幕府がなぜ成立できたかというと源頼朝らが軍事力を背景に
従来朝廷が一括して受け持ってきた
軍事・裁判・行政の権利を幕府直轄領においては幕府が行う権限を勝ち取ったからです。
鎌倉時代にはまだまだ二重政治で、幕府直轄領においては幕府の裁断が通りましたが
幕府直轄領以外では朝廷の裁量にゆだねられ、
幕府のおいた守護地頭の主張と朝廷の置いた国司の主張とが食い違い
裁判や争いが起きることも多くありました。

ちなみに飛鳥時代に聖徳太子がボスであったことはありません。
当時の日本の最高責任者はあくまでも推古天皇です。
聖徳太子が本当にボスならば天皇になれていたでしょう。
352日本@名無史さん:2009/07/10(金) 02:16:56
平安初期のボス  天皇
平安中期      天皇と摂政または関白または内覧
平安後期      治天の君(天皇の父または祖父)

鎌倉
承久の乱以前   治天の君と幕府
承久の乱以後   幕府

図式的にはこんな感じかな
幕府のなかのボスは誰かつーと少々ややこしいのだけど。
353日本@名無史さん:2009/07/10(金) 03:49:24
ボスが権力を意味するなら必ずしも天皇じゃないよ。
天皇は権威。

現在でもそれは生きているが、
日本は権威と権力を分離して設ける伝統のおかげで
権力が個人に集中しにくいように機能している。
354日本@名無史さん:2009/07/10(金) 06:03:22
天皇は権威の体現者で、武家や執政は権力の体現者なんてのは
分かりやすいようで実は何の説明にもなっていないパターン化した
言説にすぎない。

天皇の権威にしたって、権力の裏付けがなければ、
はっきりいって形骸に等しい。
355日本@名無史さん:2009/07/10(金) 09:28:35
天皇の権威は権力と乖離していても、厳然として存在しているから、
裏づけがなくとも形骸化はしていない。
ただし天皇や朝廷単体に対する直接的な畏敬が常に存在するわけではなく、
日本の体制を形作る秩序の源流として揺るぎがない。
大河の下流集落の住民がその水流の恩恵に預かりながら水源を知らないようなもので。

ボスの話から遠くかけ離れてしまったが、
時代のボスとはこの水源ではなく下流への水をせき止める力のある者であると定義すれば、
よりすっきりした回答が導きやすいのでは?
356日本@名無史さん:2009/07/10(金) 17:50:59
居合と抜刀道と刀道の違いがよくわからん。

要するに真剣で巻きわら切ったりするようなものか?
357日本@名無史さん:2009/07/10(金) 23:50:34
そういう話は武道板の方がコアな回答者がいてると思われ
358日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:03:45
鎌倉幕府においての関所破りに対する罰を教えてください。
ネットでは探したのですが見つからず…出典として記載できる様な、その事について記されている本のタイトルやサイトがあれば、それも教えて頂けると有りがたいです。
359日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:16:08
古代の皇族は異母兄妹での結婚がオッケーだったのは知っていますが、豪族たちはどうだったのでしょうか?
蘇我や物部などは兄妹婚というのは聞いたこと無いのですが。
360日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:41:13
有名な例では藤原不比等と藤原五百重娘、大伴宿奈麻呂と大伴坂上郎女なんかがありますな。
361日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:31:25
権威という話でいえば、幕府の将軍だって始祖以外は権威みたいなもんじゃないの
鎌倉幕府だって初期は合議だし、後期は得宗の独裁だし
362日本@名無史さん:2009/07/13(月) 09:00:43
寝殿造について質問です。
『古文の読解』(小西甚一著)という昔の本を読んでいたら、寝殿造において泉殿が池の上にあるのはおかしく、だいたい車宿と西の対の間にあったのではないか、という指摘がありました。
そこで、古語辞典などの図を見てみましたら、泉殿が池にはみ出している図だったり、泉殿のない図だったりします。
いったい、泉殿の設置場所はどこら辺だったのでしょうか?
363日本@名無史さん:2009/07/13(月) 14:49:06
北条氏照が高尾山の飯縄神に戦勝を祈願して十年間にわたって女との交接を断ったため
妻が自害して果てたという伝承がありますが、この伝説を最初に記した文献は何という作品ですか?
最古の例で無くても、文字記録として掲載した古文書は何という典籍なのでしょうか?
364日本@名無史さん:2009/07/13(月) 19:53:14
徳川三代将軍家光には家綱、綱重、綱吉の男子三名の子がいたと思いますが、
綱重が家綱よりも先に亡くなっていなければ五代将軍は綱重だったのでしょうか?
365日本@名無史さん:2009/07/13(月) 22:26:17
確定的にそうだったとは言えない、皇族将軍を画策したやつもいたし、尾張紀伊から養子を迎える可能性もあった。
綱吉の目は消えるけど。
366日本@名無史さん:2009/07/15(水) 02:57:43
ふと疑問になったことですが、昭和天皇の大葬は土葬だったのでしょうか?

1/7に崩御されて、2/24に大喪の礼まで、遺体はそのままどこかに安置されていたのでしょうか。
367日本@名無史さん:2009/07/15(水) 09:54:57
北条氏照が高尾山の飯縄神に戦勝を祈願して十年間にわたって女との交接を断ったため
妻が自害して果てたという伝承がありますが、この伝説を最初に記した文献は何という作品ですか?
初出例で無くても、文字記録として掲載した古文書は何という典籍なのでしょうか?
368日本@名無史さん:2009/07/15(水) 12:04:41
またホモネタ探しかナッ?
369日本@名無史さん:2009/07/15(水) 13:25:07
>>367
その前に
お前がそれをいかなる文字資料で知ったか明かにしろやw
370日本@名無史さん:2009/07/15(水) 21:05:31
平安時代の人達はどういうギャンブルやってたの?
371日本@名無史さん:2009/07/15(水) 21:18:54
>>370
有名なのは双六、殺してしまえこんなバカって言いたくなるような色ボケ天皇がどっぷりはまった。

>>366
法律上土葬は地域の風習として特別に許可されることだから、おそらく火葬。大喪の礼の時にはすでにこんがり焼き上がった後だろう。

372日本@名無史さん:2009/07/15(水) 21:42:51
昭和天皇は土葬されたが、天皇だから特別という訳じゃなく、
許可を得る事が出来れば誰でも土葬は可能。(あくまで法律上の話)
従って完全に禁止とまでは言えません。

平成16年度の全国の土葬件数は1665件、そのうち東京都の土葬件数は12件。
これは、島嶼や山間部も含めての数字だから、たぶん都市部では無い。
他の大都市でいえば、千葉市が1件、神戸市が3件、と僅かながら土葬もあるみたい。
大都市といっても、山間部等とは思うけど。
373日本@名無史さん:2009/07/16(木) 01:38:31
>>371
マジレスすると、幕末に尊王論の高まりとともに現人神の体を異国の宗教(仏教)の慣習である火葬にすることに対する批判が強まった結果、孝明天皇以後は土葬が原則になっている。
374日本@名無史さん:2009/07/16(木) 17:44:52
領主の苛政に耐えかねて農民が離散した例はどのくらいありますか?
やはり逮捕されて罰せられたんでしょうか?
また、他国へ逃げた場合、そこでどのように扱われたんですしょうか?
375日本@名無史さん:2009/07/16(木) 22:26:28
>>372-373
そうだったのか、知らんかったサンクス。
>>366
だそうなので、371はなかったことにしてください。
しったかすまなんだ。
376366:2009/07/16(木) 22:54:41
>>371
>>372
>>373
レスありがとうございます。

そうすると、崩御してから大喪の礼までの1ヵ月半、どこに置いてたのでしょう。腐らなかったのかな?
377日本@名無史さん:2009/07/16(木) 23:24:59
江戸時代、江戸の特に庶民は、時間をどうして識ったのですか?
時を告げる鐘を鳴らす所が有った、とのことですが、本当に一刻毎に鳴らしたのですか?
また、その鐘を鳴らす所の経費負担を庶民はどうしたのですか?

ウチの地元は寺の鐘が鳴りますが、1日3回しか鳴らしません。寺なら、そんなものかと・・・?
378日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:40:59
>>371
土葬されるようになったのは後光明天皇からだよ
379日本@名無史さん:2009/07/19(日) 02:55:26
>>377
日の位置で認識していました。
日の出ていない時は、来る棒手振りの種類で判断していました。
シジミ屋が来たら六つ、豆腐屋が来ると五つ、魚屋が来たから四つ、八百屋が来たから八つだとかです。

時の鐘は江戸に2箇所しかありませんから聞こえません。
聞こえる地域は武家屋敷・商家は1軒づつ庶民は大家が負担していました。
毎刻は鳴らさず、朝夕の六つと昼夜の九つだけです。
全部鳴らすようになったのは幕末だけです。
寺は市中には有りませんでしたので、たとえ鐘を突く習慣があっても聞こえません。

今、寺の鐘が3回というのは、正午にはサイレンが鳴るから省略です。
朝の6時(夏は5時)夕方の6時(夏は7時)と夜の9時の3回が一般的です。
380日本@名無史さん:2009/07/19(日) 08:38:06
落人集落ってなんでしょうか
381日本@名無史さん:2009/07/19(日) 09:50:41
忠臣蔵の桃井=亀井、加古川本蔵=多胡主水?
382日本@名無史さん:2009/07/19(日) 10:08:39
カコ(がわ)ホンゾウ

タコ モンド
383日本@名無史さん:2009/07/21(火) 21:06:05
教科書上の士農工商と
時代劇で馴染みの「町人」がどうにも繋がらないんですが

農が辺境に縛られている事から考えれば
基本的には工・商で成り立っている層だったんでしょうか?(江戸末期には農民の出稼ぎも増えたようですが)
それとも渡世人や芸人のような、四階級から外れた人が多かったんですか?
384日本@名無史さん:2009/07/22(水) 01:16:48
侍の髷。あの月代を剃った髷の由来は何ですか?
385日本@名無史さん:2009/07/22(水) 05:42:49
>>383
あとは富裕層
386日本@名無史さん:2009/07/22(水) 16:46:19
>>383
士農工商というのは、漢籍から借りてきた身分概念であって、
かならずしも近世の複雑かつ曖昧な身分制社会を十二分に
言い表した語ではない。あくまで象徴的な表現と捉えるべき。
とはいえ、近世社会の中核を担う、名誉ある公的身分を
言い表すのに、これ以外に適当な言葉がないこともたしか。

ともかく士農工商のうち、武士が統治者の身分であり、
それ以下の農工商は平民、百姓町人と呼ばれる身分。
百姓と町人の違いは、簡単に言えば村に住むか、町に住むか
の違い。ただし、厳密にいうと、百姓身分、町人身分として
認められるのは、その「家」の当主のみ。配偶者や家族も
それ個人としては身分を認められなかった。
町人の場合、家持(いえもち)と呼ばれる、家屋敷をもち
町人役という公役を負担する富裕者のみが「町人」と認定された。

とはいえ、広い意味で言えば、家持以外の家守(大家)、地借、
店借といった階層もいちおう町人の範疇にくくられる。ただし、
社会的な位置づけはずっと低い。落語に出てくる熊さん、八つぁん
なんかは店借でも裏店借といういっそう低ランクのほうだね。
387日本@名無史さん:2009/07/26(日) 09:28:55
磐井はひそかに新羅と手を結んでいたといいますが、
新羅側には磐井に関する史料などは残されていますか?
388日本@名無史さん:2009/07/26(日) 17:38:00
2009/07/26 22:00〜23:30 の放送内容 NHK教育
ETV特集 日本と朝鮮半島2000年(4)
国号を倭から日本へと改めた律令国家建設。...激動する朝鮮半島諸国や唐との外交関係から読み解く。
「倭」から「日本」へ国号を改めたのは、西暦700年ごろとされる。その背景には....

http://tv.yahoo.co.jp/program/122300/?date=20090726&stime=2200&ch=8608

質問です。日本って「倭」だったんですか?
あれは魏志倭人伝に書かれている、というだけの話なのでは?
389日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:50:44
>>388
>あれは魏志倭人伝に書かれている、というだけの話なのでは?
意味不明。何が言いたいの?
390日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:59:26
>>389
例えばマルコ・ポーロの東方見聞録に「ジパング」と書かれていたとしても
それが日本の「国号」だった訳じゃないですよね。
魏志倭人伝に「倭」と書かれていても、それが日本の国号なのか?という話。
391日本@名無史さん:2009/07/26(日) 20:46:46
>>390
もっと前の漢の時代から使者を送って外交していて、その中では少なくとも向こう側の呼称としての
「倭」を了解していた。というか元々は国号じゃなくて大陸側から見た地域名。例えば「倭」の中の
「邪馬台国」が国号でしょう。大和朝廷なりその前身なりがある程度統一した頃にはずっと「倭」と
呼ばれて、自分でもそんな気になっていたんじゃないでしょうか。
392日本@名無史さん:2009/07/26(日) 20:58:59
>自分でもそんな気になっていたんじゃないでしょうか。

つまり、今、われわれがこの国のことをジャパンと呼ばれてるとことを受け入れてるようなものですね。
となるとやはり国号とは言えないということですね。
ありがとうございました。
393日本@名無史さん:2009/07/26(日) 22:41:26
ただし、日本人が漢字を自国語の文字として採用した時、「倭」には「やまと」の訓みが与えられたからね。
そして、日本書紀や万葉集などの古い書物では、「日本」の訓みは「やまと」。
ということは、倭→日本の変化は、国号の改定というより、
「やまと」という国号の、漢字における新しい表記法の創出、といった方が正しいのかもしれない。
394日本@名無史さん:2009/07/26(日) 23:46:39
個人的見解だけどそれまで同一だった近江とかと同列の<やまと>と
唐・高句麗などと同列の<やまと>を区別するために
前者を大倭、後者を日本としたんじゃないかな
395388:2009/07/27(月) 02:32:15
393さん、394さん、ありがとうございます。
とても興味深い話です。

番組見ました。途中で寝ちゃったけど。
司会の男性アナ、大桃美代子、東洋大学教授がそろって
「わこく」「わこく」と連呼し、なんか嫌な感じでした。
読みは「やまと」のはずですよねー。
おかしな番組だった。
396388:2009/07/27(月) 02:42:39
あと、番組で気になったことを2点書きます。

男性アナが「大桃さんはハングルが上手なんですよね」※朝鮮語の意味
「韓半島」※朝鮮半島

なんあか意図がありありと感じられます。
397日本@名無史さん:2009/07/27(月) 04:26:06
美代子たんかわいいのに、テレビのツボの頃から好きだったのに、
残念
398日本@名無史さん:2009/07/27(月) 08:01:47
わこくというのがなぜそう不快なのかよくわからない
倭国なら読み方は「わこく」でもおかしくないだろう。訓読みならやまとのくにだろうが
やまとややまとのくにだと現在では奈良県の地方名を指す事が多い

「ハングル」と言ったのは
朝鮮語と言えば韓国籍から、韓国語と言えば朝鮮籍から抗議が来るのを恐れたからであろう
韓半島と言ったのは、アノ韓国人学者が朝鮮語でそういったのを直訳しただけだと思う
399388:2009/07/27(月) 10:58:53
>わこくというのがなぜそう不快なのかよくわからない

わこくって悪い意味でしょ。蔑称でしょ。
400日本@名無史さん:2009/07/27(月) 11:17:15
>>399
なぜ
401日本@名無史さん:2009/07/27(月) 15:28:17
漢字の意味でわからんか?
402日本@名無史さん:2009/07/27(月) 16:14:23
今は読みの話をしてるんだよ
403日本@名無史さん:2009/07/27(月) 19:20:39
漢字が良くないから全部駄目ってことだろう
404日本@名無史さん:2009/07/27(月) 19:44:07
> 読みは「やまと」のはずですよねー。
405日本@名無史さん:2009/07/27(月) 19:48:51
>>399
それはまだ結論が出ていない。逆にそういった事にこだわるのは客観的に見れてない感じで議論しにくい。
406388:2009/07/27(月) 20:09:00
>>405
まあ、不快かどうかは感情の話なので理屈にはならんが、
国号が「わこく」から「にほん」に変わった、というのは歴史の番組としておかしいでしょ。
407日本@名無史さん:2009/07/27(月) 20:28:35
そんなことはない

日本国は倭国の別種なり、其(そ)の国日辺に在るを以(も)って名となす。

或(あるい)は曰(い)う。倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す。
               ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
或は云(い)う。日本は旧小国、倭国の地を併す

旧唐書より
408388:2009/07/27(月) 21:07:43
>>407
つまり「倭国」っていうのは蔑称だから「日本」と読んでくれ、と通達したんでしょ。

日本は国号だけど、倭国はそう呼ばれていただけってことでしょ。
409日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:10:47
どんなしたら下線引けるん?
410日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:23:56
>>408
それは違う。前にも書かれてたけど国号は「やまと」。でも当時は日本語を表記する文字が無かった
ので、中国側の表記である「倭」に「やまと」の読みを付けた。そして後になってからもっとお目出度い字
にしたいと思って「日本」と書く事にした。それでも読みは「やまと」。

向こうから見た「倭」という表記を変えた事に、白村江の敗戦という国家的な危機によるナショナリズム
の高揚を見るのが、NHKの番組の趣旨だと思われる。
411日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:26:29
>>407
「あるいはいう」。つまり「一説には」という事でそれが結論ではない。
412388:2009/07/27(月) 21:34:34
>>410
どうもです!ご指摘の点は>393で理解していたつもりですが、
スレの流れで間違った書き方をしてしまいました。
番組予告で「倭」と書いてあるだけなので、オンエアでなんと読むのか待ち構えていたら
わこく、わこくの連発ですよ。
413日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:50:24
なんか388のレスを読んでいると「わこく」と呼ぶのがすごく売国的で悪いことみたいに思えてくるから不思議だ
414日本@名無史さん:2009/07/27(月) 22:26:03
>>412
だって、「倭」と書いても「日本」と書いてもやまとと読むならテレビ的には区別しにくいじゃない。
あえて区別しようとすればややこしくなるだけ。だからあえてそれには触れないでおくの。
415388:2009/07/27(月) 22:50:11
>>414
>テレビ的には区別しにくいじゃない。

ラジオならそうかもしれんが、テレビって絵も映るんでしょ。

>>413
オレが言ってるのはまさしく、わこくという呼び方に侮蔑が込められているという抗議だよ。
416日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:17:59
その番組は見てないからどういうニュアンスで使ったかわからないが、
歴史用語としては倭は<わ>と読むのが普通だよ
漢倭奴国王とか親魏倭王なんかも音読みでしょ。
倭国がでてるのが漢籍で漢文としての読みは通常<わ>
417日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:27:33
倭はワという音なのだから、倭国と書いてワコクと読むのはなんら問題はない。
国号はヤマトなのだと言ってる人がいるが、国号とはまず文字で書き表されるもの。
それがヤマトであるならば、海外においても、その字音表記(邪馬台のような)が
通用していたはずだが、そうはなっていない。つまり、ヤマトというのは国号とはいえない。

倭の字義についてはさまざまな説があり確定していないが、ともあれ倭人と呼ばれた人々は
それをとくに躊躇することなく使用し、国内外で通用していた。積極的なものではないが、
いちおう国号に準ずるものだろう。それをある時点で、おそらく国家意識の高まりによって、
日本と自ら改めた。このよみ方については、たしかにヤマトとするものもあるが、日本書紀、
続日本紀のタイトルがそうであるように、音でよむのが正式だろうね。
418388:2009/07/27(月) 23:41:08
>>416
番組では国号をワコクからニホンに改めたと言ってるわけですよ。
歴史用語としてワと読むのはオレも学校で習ったよ。
でもそれは魏の書物、印でのこと。


>>417
>国内外で通用していた

じゃあなんで「ヤマト朝廷」って言うの?「ワ朝廷」とは言いませんよね?
419日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:50:59
>>417
>このよみ方については、たしかにヤマトとするものもあるが、日本書紀、
>続日本紀のタイトルがそうであるように、音でよむのが正式だろうね。
『日本書紀』巻之第一 神代上 第四段「日本、此云耶麻騰。下皆效此」
(日本、これヤマトと言う。下は皆これにならえ)

当の日本書紀に「やまと」と書いてある訳だ。
420日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:45:57
>>418
>じゃあなんで「ヤマト朝廷」って言うの?「ワ朝廷」とは言いませんよね?

大和朝廷(ヤマト朝廷)というのは、以前は歴史学の用語として、
よく使われていたものだね。倭(ワ)朝廷というのはあまり聞かないが、
倭(ワ)王権というのはそこそこ使われていると思う。

ところで、それと、倭の呼称が国内外で通用していたこととはあまり関係が
ないと思うけど?

>>419
それは知っている。『日本書紀』における「日本」の語にはほとんどヤマトの訓が
付されている。しかしながら、『続日本紀』にみえる『日本書紀』撰上の記事には
「日本紀(にほんき)」とある。タイトルについては、日本書紀か日本紀かという
議論はあるが、音で読まれたところは間違いないところ。
421日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:05:45
>>420
>それと、倭の呼称が国内外で通用していたこととはあまり関係がないと思う

内外の「内」に関係します。
内で通用しているのならワ朝廷となってるはず。

歴史学の用語で音読みが基本とされるなら、いったい「ヤマト」ってなんなの?
この国がワからニホンに改めたのなら、ヤマトはどこにも出てこないハズじゃん。
422日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:13:32
>>418
で、歴史用語として倭国・倭人は<わこく><わじん>だよ
423日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:16:29
>>422
歴史用語=国号じゃありませんから。
争点は国号なの。
424388:2009/07/28(火) 01:18:47
421,423=388です。コテ抜けてました。
425日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:20:33
>>423
中国から倭国と呼ばれそれを認めていたということは
国号ととって問題ないと思うけどね
426388:2009/07/28(火) 01:21:59
>>425
じゃあJAPANはこの国の国号ですか?
427日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:25:17
>>421
大和朝廷にしろヤマト朝廷にしろ、近代の歴史用語だよ。念のため。

>いったい「ヤマト」ってなんなの?

そもそもは現在の奈良県の一地方の呼称が王権の伸張とともに
拡大されたもの。倭人にとっての自称であり、ときに他称であった
と思うが、正式な国号であったとするのは疑問がある。
「日本」国号成立以前に明確かつ強烈な国家意識というものが
存在したかどうかも定かでないしね。
428388:2009/07/28(火) 01:52:13
>>427
>近代の歴史用語だよ。

だから何?ヤマト朝廷が近代の歴史用語だとしても
ヤマトという言葉がそれ以前からあったわけでしょ。
じゃあその用語定着時にワ朝廷にならなかったのは何で?

国家意識の成立なんて、いつまで経っても答えの出ない問題じゃん。
明治維新かもしれんし、伊能忠敬が日本地図を作ったときかもしれんし。
429388:2009/07/28(火) 02:02:05
>そもそもは現在の奈良県の一地方の呼称が王権の伸張とともに拡大されたもの。

そういう拡大していった勢力の地域名を国号と認めるのは、歴史学的にマズイの?
430日本@名無史さん:2009/07/28(火) 02:03:08
>じゃあその用語定着時にワ朝廷にならなかったのは何で?

大和朝廷なる歴史用語が使用され始めたのが、近代のいつごろかは
知らないが、「倭」は侮蔑的であるとして忌避されたのだろうね。
431388:2009/07/28(火) 02:09:48
>>430
侮蔑的な意味の言葉を国号にする国なんかあるとは思えないんだけど
歴史学者はそうは思わないのだろうか?
432日本@名無史さん:2009/07/28(火) 02:41:15
>>429
国号という発想じたい本来中華的なもの。
そこにヤマトという和語はあまり馴染まないだろうね。
まあ、>>419で指摘されるとおり、日本はヤマトと訓むのだ
という主張もあったようだが、国外までそれで押し通すというのは
さすがに無理があるし、じっさい行われた様子もない。

>>431
当の倭人が倭を自称として用いている。
433388:2009/07/28(火) 02:59:14
>国号という発想じたい本来中華的なもの。

はぁ?

>国外までそれで押し通すというのはさすがに無理がある

じゃあこの国の国号はJAPANですか?ニホンは無理あるの?
434388:2009/07/28(火) 03:06:29
>当の倭人が倭を自称として用いている。

じゃあSMAPのあの人の名前はチョナンカンですか?
クサナギツヨシで押し通すのは無理なんですか?
435日本@名無史さん:2009/07/28(火) 03:12:21
古代の話をしたいのか、近代の話をしたいのか
よく分からないんだが、英語圏では、NIHON NIPPON より
JAPANで通用しているようだ。
436388:2009/07/28(火) 03:19:01
>>435
で?
437日本@名無史さん:2009/07/28(火) 12:43:20
質問です
「蒙古襲来」「無縁・公界・楽」「中世日本の民衆像」「異形の王権」「東と西の語る日本の歴史」「日本論の視座」
これら以外の網野さんの書かれた物で重要とされている仕事を教えて下さい
438日本@名無史さん:2009/07/28(火) 17:47:25
>>433
現在とその当時を単純比較できないが、
英語圏での日本の正式名称はJAPANでしょ
日本での英国の正式名称がグレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国であるように。
439388:2009/07/28(火) 20:29:50
>>438
争点は国号なんですけど?その英語圏の正式名称と国号の関連を言わなきゃ意味ないんですけど。
440日本@名無史さん:2009/07/28(火) 21:44:48
>>420
>しかしながら、『続日本紀』にみえる『日本書紀』撰上の記事には
>「日本紀(にほんき)」とある。
「続日本紀」編纂の時点で(にほん)であった事は判っても「日本書紀」編纂の時点で
(にほん)だったとは限らない。むしろ本文中で(やまと)と訓じているんだから(やまと)で
あった蓋然性の方が高い、と言う事も出来る。
441日本@名無史さん:2009/07/29(水) 01:17:57
なるほどね。
ただ、やはり「日本」が漢語であるという点は見落とせない。
倭に代わる新たな国号として、相応しい意味の漢語が選ばれたわけだが、
漢語であるから、音でよむのはまず当然なこと。さらに和語の「ひのもと」
という意味も同時に重ねられる。
しかし、「やまと」というのは、「日本」の字面からは逆さに振っても出てこない。
したがって、>>410でいわれるような「やまと」に「日本」の表記を当てたというのは
考えがたい。漢語の「日本」国号が出来上がってのち、二次的に「やまと」の訓を
当てたものだろう。
442日本@名無史さん:2009/07/29(水) 19:20:09
>>441
>しかし、「やまと」というのは、「日本」の字面からは逆さに振っても出てこない。
逆に、だからこそ、始めに「やまと」の音があって、表記は音と直接結びつかなくてもお目出度い
ものを、って考えたと言える。始めに「日本」の表記があったなら、そこに「やまと」の訓は『逆さに
振っても出て来ない』。
443日本@名無史さん:2009/07/30(木) 01:20:20
>>441
>「日本」が漢語であるという点は見落とせない。
倭に代わる新たな国号として、相応しい意味の漢語が選ばれたわけだが、
漢語であるから、音でよむのはまず当然なこと。

 例えば同じ時期には「なら」に「平城」の文字を当てたという例もあるよ。

>「やまと」というのは、「日本」の字面からは逆さに振っても出てこない。

 「ひのもとのヤマト」って言うよ。「とぶとりのアスカ」や「はるひのカスガ」のように。
 
>漢語の「日本」国号が出来上がってのち、二次的に「やまと」の訓を当てたものだろう。

 442にもあるとおり、それこそ「やまと」が国内で呼称されていた国号であったことの傍証じゃない?
 じゃなきゃ、新国号たる「日本」の文字に「やまと」の読みが与えられる必然性がない。
444日本@名無史さん:2009/07/30(木) 01:34:38
>>442
>逆に、だからこそ、始めに「やまと」の音があって、表記は音と直接結びつかなくてもお目出度い
>ものを、って考えたと言える。

直接結びつかないどころか、全く結びつかない。音も、意味するところも。
「日本」は「ひのもと」の漢語表現であり、昇る太陽のような勢いのある国とか、
西の唐に対する東の帝国というようなニュアンスを含ませたものだろう。
言ってみれば、抽象的な意味の国号(その意味では時代をだいぶ先取りしている)
であり、特定地名に淵源する「やまと」はむしろそぐわない。
ただ、「やまと」が現在の奈良県の一地方に発しながらも、日本列島の大部分に
広がった地名であり、当時の「日本」国の領域と一致することは確か。
それゆえ「日本」の訓として「やまと」が当てられたのだろう。それは当時の人々に
とって耳慣れない「日本」という新国号に馴染んでもらう配慮でもあったのかもしれない。
445日本@名無史さん:2009/07/30(木) 01:52:00
>>443
>例えば同じ時期には「なら」に「平城」の文字を当てたという例もあるよ。

「平城」の「平」には和語としての「ならす」が含意されていると考えられる。
一方、「日本」の語からは「やまと」の意は全く見出せない。

> 「ひのもとのヤマト」って言うよ。「とぶとりのアスカ」や「はるひのカスガ」のように。

>>441で言ってるように、それは二次的なもの。
「ひのもと」にはそもそも「やまと」は含意されない。「日本」と「やまと」をのちに結びつけたことで
「ひのもと」=「やまと」の対応が生まれたということ。「あすか」「かすが」も同様。

>442にもあるとおり、それこそ「やまと」が国内で呼称されていた国号であったことの傍証じゃない?

「やまと」が国内で通用していた倭国に対する呼称であることは否定しない。
国外でも朝鮮半島諸国からそう呼ばれていた可能性は十分ある。
しかし、それを国号だったとするのは疑問がある。それは主に>>417の理由から。
446日本@名無史さん:2009/07/30(木) 02:18:32
>「ひのもと」にはそもそも「やまと」は含意されない。「日本」と「やまと」をのちに結びつけたことで
「ひのもと」=「やまと」の対応が生まれたということ。「あすか」「かすが」も同様。

 ん? 「飛鳥」「春日」という漢語があって、二次的に「あすか」や「かすが」の訓が与えられたってこと?
447日本@名無史さん:2009/07/30(木) 15:46:17
富本銭や和同開珎が使用されていたときの、金額の単位は何ですか?
銭?両?
448日本@名無史さん:2009/07/30(木) 18:55:33
>>446
失礼。よく考えたらそれはおかしかった。
風景か何かをあらわしたものなんだろうけど、「あすか」という地名に
「とぶとり」、「かすが」という地名に「はるひ」が結び付けられたんだろうね。
449日本@名無史さん:2009/07/30(木) 22:50:30
>>448
「歌枕」ってキーワードでググって見なされ。他にも「八雲立つ出雲」とかある。

>>417
>それがヤマトであるならば、海外においても、その字音表記(邪馬台のような)が
>通用していたはずだ
ならば現代の英語圏でも「NIPPON」と表記されるべきだな。

>>444
>西の唐に対する東の帝国というようなニュアンスを含ませたものだろう。
「日出処」は単に中国の東を意味するだけという説もあるようだ。
450日本@名無史さん:2009/07/31(金) 23:25:23
すこし前、新聞で
「平安時代のころになると、朝廷でもどの古墳が誰の墓かわからなくなっていた。」
という記事を読んだのですが、
昔の人はこの古墳はあの人のお墓だとか、記録をとらなかったのでしょうか?

また、「都を移す際に、移す場所に古墳があると、古墳を壊した。」と
書いてあったのですが、奈良・平安の時代になると古墳にもう価値はなくなったのでしょうか?

先祖代々の墓を守って、お彼岸や盆に墓参りに行くという習慣ができたのは何時ごろなのでしょうか?
451日本@名無史さん:2009/08/01(土) 02:20:40
記紀や『延喜式』諸陵寮条の記述により陵墓についてはある程度見当
が付けられるようですが、どれも古墳のつくられた当時の記録ではなく
後世のものですね。王族ならぬ豪族の墓にいたっては、伝承すらほとんど
残りません(あるのは筑紫君磐井の岩戸山古墳くらいでしょうか)。

また伝承や記録とは少し違いますが、被葬者の名を記し、副葬された墓誌も
最古のものは7世紀ということで、発掘したとしても個人を特定する決め手は
ほぼありません。

このように被葬者の名を残すことについて、古墳を作った当人たちは全くと
いっていいほど無頓着であったと考えるしかありませんが、その理由としては、
古墳が特定個人の墓である以上に、まず首長権力継承の証となるモニュメント
であったということが考えられましょう。

すなわち、首長としての権力を新たな首長が死んだ首長から引き継いだこと
の確認(つまり葬送儀礼)というのがなによりも最重要事項であって、死んだ
首長の名前を記憶するなんてことは第二義的なこと、というか、どうでもいい
ことだったんじゃないでしょうかね。
452日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:38:03
すんません 大正時代のスレはもうないですね?
453日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:45:12
>>452
板違い
日本近代史
http://academy6.2ch.net/history2/
454388:2009/08/02(日) 02:11:42
>>448
日本語(やまと言葉)と漢字、「どっちが先か」を考えたところで核心に迫りますかねぇ?
日本語って中国語と類似性ないじゃん。そこへ文字として漢字を導入した訳でしょ。
漢字がいつ伝来したか、ヤマトが覇権を確立したのはいつか?
ヤマトの覇権が先なら、漢字にこだわってると問題を見間違うよね。

ニホン以前の国号が倭国だと唱えてる人は、漢字に囚われすぎ。

ニホンという国号は明確な意図のもと策定されたからハッキリしてるけど、
自然な成り立ちを持つヤマトが国号として不適だ、とするのは不自然だよ。
国の名前って最初は自然だったんじゃないの?
自然に成立した国の名前こそ正当性あるんじゃないの?
455388:2009/08/02(日) 02:20:42
「倭国は中国の歴史書、日本の外交文書にも登場するから国号」っていう見方があるみたいだけど、
それだと文化後進国に不利で、文明国の解釈に偏るよね。

でも歴史って、後進国・文明国のどちらも扱うわけで、どちらかの解釈を重視するもんじゃないでしょ。
例えば、資料として正しければ、後進国に残された絵文字を文明国の古文書より重視するべきであって。

「ヤマトという国があったけど、ここは文明が中国より遅れていたから中国での呼称を正式とする」
って、そんなの学問じゃないじゃん。
456日本@名無史さん:2009/08/02(日) 22:02:59
戦国期の感状ですが戦から10年ぐらい立ってから貰えるものでしょうか?
457日本@名無しさん:2009/08/03(月) 10:34:26
>>456
あまり考えられないことですが…実例をご存じなのでしょうか?
458日本@名無史さん:2009/08/03(月) 18:22:00
ある民家で最近発見(?)されたものなのですが戦の10年後に発行で,但し書きがOO合戦の刻戦役云々

留保条件としては戦の時発行人は当主ではなく当主の息子。また、領地自体も不確定な時代で発行された10年後には
その息子の領地かつ息子は領主に。

 これは偽文書なのか???疑問で持ち主も高い鑑定料を払うべきか迷っている。
459日本@名無史さん:2009/08/03(月) 18:24:47
戦役じゃないや、確か「OO合戦ノ刻軍役相効・・・」とかこんな感じだったかな?
460日本@名無史さん:2009/08/04(火) 03:42:41
平家物語、むちゃくちゃおもしろいです。
461日本@名無史さん:2009/08/04(火) 04:28:09
>>458
上杉景勝?
462日本@名無史さん:2009/08/05(水) 23:23:52
寛永諸家系図伝や寛政重修諸家譜といった江戸時代の官製の系図集(という言い方でよいのかわかりませんが)の
内容は当時どの程度広まっていたのでしょうか?
当時から民間にも系図収集をしている人は居たでしょうし、仮冒した系図作成を行っていた人には興味のあるものではないかと思うのですが、
原本やその写などを通して目にすることができたのはどういった人達だったのでしょうか?
言い方を変えればどの程度機密書類として扱われていたのか、ということにもなるかと思いますが。
幕府内でのみ見ることができたのか、諸藩にも広まって居たのか、あるいは民間にも流通していたのか、どうなのでしょう?

また、江戸幕府として最初に行われた寛永諸家系図伝の編纂の際に、諸大名が提出した系図は何らかの精査を受けたのでしょうか?
提出した系図と掲載されている系図の差異の有無などが知られている例があれば教えてください。
463日本@名無史さん:2009/08/06(木) 00:07:56
平家物語を読破したのですが、
これより、少し前のお話を読みたいのですが、
何を読めばいいですか?

平安時代後期の話なのかな?

それとも、平安時代後期の話が
平家物語?

だとしたら、そこの時代につながる話を
読みたいのですが。
464日本@名無史さん:2009/08/06(木) 00:22:38
攘夷派、尊皇派、佐幕派開国派、この辺の派閥がいまいちわかりません。

薩長と土佐は開国派?
新撰組は最初佐幕派で途中から開国派?

幕末の思想について教えてください
465日本@名無史さん:2009/08/06(木) 01:14:36
>>464
その辺は激動期なので立場がコロコロ変わる人(団体)が多い。
新撰組の近藤たちは多摩にいた頃は開国派だったが、士分に取り立ててもらったのが幕府側だったので
必然的に佐幕派にならざるを得なかった。士分でないと誰も相手にしてくれないので。

薩長は初め攘夷派だったがそれぞれ外国との戦争に負けて、攘夷が無理である事を知り開国に転じた。
そのついでに幕府に取って代わる事を狙って倒幕を目指した。

幕府は一番情報を持っていたので開国が必然である事を知っていた。しかし攘夷派の孝明天皇の手前、
口先では攘夷と言っていた。情報弱者の薩長はそんな幕府を口先だけの腰抜けと思って容易に取って
代われると考えた。

>>463
平家物語は読んでないが、源氏(源義朝)が平家(平清盛)に破れたあとの話と考えると、その前は平治物語。
さらにその前は保元物語。
466日本@名無史さん:2009/08/06(木) 01:35:43
>>465
>情報弱者の薩長はそんな幕府を口先だけの腰抜けと思って容易に取って
>代われると考えた。

間違い。
薩長は、幕府の本音と建前が違う部分を逆手に取り、
建前としての攘夷を声高に叫べば、幕府が政権運営不能に陥ると考え、実行した。
その結果幕府は倒れた。
467464:2009/08/06(木) 19:25:10
>>465 466
なるほど。
奥が深いですね。

会津や庄内、
これらは佐幕派でいいのかな?

あと薩摩始め長州などの幕末に権力を握った藩はなぜそんなに財力を含め力を持てたのですか?
ど素人ですみません。
468日本@名無史さん:2009/08/06(木) 19:59:24
>>466
薩長ともに攘夷を実行した結果、外国と戦争して負けているという視点を忘れている。

>>467
会津は尊王で佐幕(公武合体)。薩長が朝廷を取り込んだ事で賊軍の立場に追いやられた。

>なぜそんなに財力を含め力を持てたのですか?
時代が下ると全ての藩で財政が悪化したが、たまたま名君が出て改革に成功する事がある。
それが早すぎても幕末までにまた悪化するけど、たまたま丁度いい所で改革できた藩が幕末に
活躍できた藩。
469日本@名無史さん:2009/08/07(金) 03:06:12
ちょっと質問なんですが、
江戸期くらいの敵討ちについて調べ物をしてて疑問に思ったのですが、
決闘の届出をしたあとに暗殺のような形で殺してしまう敵討ちというのはなかったのでしょうか?
士道には反するような感じがしますが、とても効果的に思えます。
特にレア・ケースとして町民が敵討ちをする場合もあると聞いたのですが、
その場合など弓矢の得意な者を雇って暗殺すれば返り討ちに遭う可能性も低く
楽だったのではないかと思うのです。
実際のところどうだったのか、わかる人がいたら教えてください。
470日本@名無史さん:2009/08/07(金) 04:17:30
一般的にいって、敵討は原則武士のみに許された特権というか
名誉のかかった行為であるわけだから、たとい相手を暗殺しえた
としても意味がなかったのではなかろうか。

つまり、必殺仕事人みたいに、とにかく相手を殺せばそれでよし、
というものではなかった。役所に届出までしている以上、本人の手で
行わなければ家の名誉も回復されないし、また本人も一人前の武士
として認められることはなかったと思われる。
まあ個々のケースにあたれば例外的なのも出てくると思うけど。
471日本@名無史さん:2009/08/07(金) 11:47:08
>>468
>薩長ともに攘夷を実行した結果、外国と戦争して負けているという視点を忘れている。
君は、薩長ともに外国と戦争して負けた後も攘夷を主張している、という視点を忘れている。
472日本@名無史さん:2009/08/07(金) 12:27:27
>>469
んにゃ、基本は暗殺とまではいかないにしろ、不意打ちよ。
パターンとしては、いきなり背後に忍び寄り、
「どこそこの士、某である。○○の敵××、覚悟!」
とか何とか最小限の口上だけ述べて、振り向く前に有無を言わさず斬るの。
時間を与えると逃げられるし、反撃されるし。
別に正々堂々と立ち会う必要はないんだわ。とにかく本懐を遂げるのが最優先。

ただし、人を雇ったりするのはダメ。
「誰それがやります」と事前に届け出をした人間だけでやらないと。
あと絶対のタブーが、仇のところに手下・奉公人として潜り込み、隙を狙う、という手段。
形式上だけとはいえ、いっとき主従になるので、これでは主殺しになってしまう。
敵討ちと認められないばかりか、罪人ですな。時代劇ではたまにあるけどね。

町人についてはよく知らない。
473日本@名無史さん:2009/08/07(金) 22:33:58
保元の乱の、一個前の
戦争は前九年、後三年の役まで
いかないと無い?
474日本@名無史さん:2009/08/07(金) 22:51:16
自己レス

陸奥話記っていうのが
それらしいが、これの現代語訳は
出ているの?
475日本@名無史さん:2009/08/07(金) 23:06:01
>>473
平正盛による源義親追討(康和の乱)などがある。事件の詳細はwikiでも見れ。
高名な武士である八幡太郎義家の嫡子が不名誉な事件で討たれたことで、
河内源氏の代わりに伊勢平氏正盛流が台頭しはじめた重要といえば重要な事件。
476日本@名無史さん:2009/08/07(金) 23:17:22
>>475
サンキュー
それについて、本で読みたいのですが、
(平家物語みたいな感じで)
本は誰か書いたのでしょうか?
477日本@名無史さん:2009/08/07(金) 23:29:07
軍記物語にはなってないよ。
根本史料は『殿暦』や『中右記』。
478日本@名無史さん:2009/08/07(金) 23:32:53
>>477
サンキューでした。
現代語訳や、マンガ版はあるのかな?
479日本@名無史さん:2009/08/07(金) 23:34:55
>>473
平家物語の質問の人?だったら直接的に平家物語まで繋がる流れは保元平治の乱
からで良いと思うけど。
480日本@名無史さん:2009/08/07(金) 23:42:17
>>478
ない。両方とも当時の上級貴族の日記で、大日本古記録というシリーズに収録されてる。
481日本@名無史さん:2009/08/08(土) 00:22:00
>>479
保元の乱はもう読んじゃいました。
482日本@名無史さん:2009/08/08(土) 23:46:50
興味が湧いて、豊臣秀吉の伝説について調べています(とは言え、今のところ
ネット検索が中心です)。
それで、持萩中納言保宏卿と言う人が秀吉の祖父と言う伝説を見つけたのです
が、この人の名前の読み方がわかりません。
無理やり読むと「もちおぎちゅうなごんやすひろ」と読めるのですが…。
また、サイトによっては、持萩中納言と萩中納言があるのですが、どちらが正
しいのでしょうか。
ご教授のほどよろしくお願いいたします(読み方だけでもお願いします)。
483日本@名無史さん:2009/08/10(月) 20:40:08
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.././| !    / l゙  .l│  l |  .`"  `'′ l l゙  ./゙_,,゙ .ゝ、    | ! .ヽ ./    i!.l゙  | |  .| ,!             //      `-\
.ヘl゙ | !   / ./   ,! !./!..",!       / /   !.l゙ .l |\.`j   .l:.|______.  .l゙ !  .! !_./ ,!     .l゙゙!      .//         `-\
  .| !  .|,/   {,/ .ヽ,,/       ,i"./    lゝヾ/  `′  .l_______|  `'゙   l__,./      ゙‐'     {./               ヽ,゙>
  .!ゞ 
484日本@名無史さん:2009/08/12(水) 09:13:14
失礼します。
藤原信西は「しんぜい」とルビを振るようですが、僧名なのに何故呉音ではなく漢音で読むのでしょうか?
ご存じの方がいらっしゃったら、お願いします。
485日本@名無しさん:2009/08/12(水) 09:57:37
>>484
信西は出家後に号した法名だから。
ちなみに俗名は通憲(みちのり)。
486日本@名無しさん:2009/08/12(水) 09:58:58
>>485
あああ、まちがい。すいません
487日本@名無史さん:2009/08/12(水) 10:22:18
なんでだろね。漢籍に通暁してたことと関係あるのかな。
呉音は古臭くてやだとか。
488日本@名無史さん:2009/08/12(水) 10:31:15
家学の関係じゃないの?
博士点とかがあるみたいに
489日本@名無史さん:2009/08/12(水) 10:57:39
では、赤松則祐はなぜ、あかまつそくゆう、と読むのでしょう?
親は赤松円心則村・あかまつえんしんのりむら、と読むのに。
490日本@名無史さん:2009/08/12(水) 13:55:32
それは何が疑問なの?
491日本@名無史さん:2009/08/12(水) 19:23:10
何で「のりすけ』さんじゃないのかってことでしょ。
492日本@名無史さん:2009/08/12(水) 19:56:51
いや、「のりすけ」だけど。
法名も諱と同じ則祐だから「そくゆう」なだけ。
493日本@名無史さん:2009/08/12(水) 20:41:45
なるほど、シンプルな答えだ。
494日本@名無史さん:2009/08/13(木) 03:14:08
秀吉が家康を
関東でなく東北に飛ばしてたら
今の東京は存在してる?東北は発展してる?
495日本@名無史さん:2009/08/13(木) 03:36:37
江戸東京の現在の姿は、関東平野の中心ではあるが小山と入り江ばかりだった地に
莫大な開発を投入した結果なので、
ここに入府する天下統一権力がない限り、とても都市づくりには資金も労働力も足りない。

日比谷の入り江も埋め立てられないし
神田山もそのままで、神田川なんて切り通しは作れないし
関東平野の中心ではあっても、今ひとつぱっとしない未開発地域であり続けると思われる。

東北はあまりに辺地だ。蒲生氏郷の嘆きは正しい。
関東ではなく東北を領した場合、徳川家康はおそらく天下取りに失敗していた。

ゆえに京都大阪の豊臣政権が続き、江戸東京は存在せず鎌倉小田原川越あたりが各々地域の中心都市となるだろう。
東北は、この場合発展しない。東北の発展は関東のおこぼれに与るというのが全てなのだから、
東北にとっては、関東に政権があることが望ましい。
496日本@名無史さん:2009/08/13(木) 05:56:03
確かに政権が関西だと東北は僻地すぎるな。でも徳川の力でそれなりには開発されるでしょ。
貧乏くじのはずの関東も開発でプラスにしたんだから。
497日本@名無史さん:2009/08/13(木) 11:16:10
同じような感覚で北海道なんか与えられたら、それこそ流刑扱いだなw
もし、開拓スピリッツにあふれていたらうれしいが
498日本@名無史さん:2009/08/14(金) 06:06:27
日本史学会で欧米等の大学の日本史研究が省みられることはあまりないのでしょうか。
日本人以外の日本史研究者の著書があまり出版されていない気がするのですが、そもそもそんな人が少ないのですか?
499日本@名無史さん:2009/08/15(土) 14:44:51
職員旅行で箱根の関所に行くのですが
幹事の私がバス内で軽く箱根関の成り立ちや逸話について解説しなければならなくなりました
何分歴史には明るくないもので途方にくれています
わかりやすく、また短い物語風に紹介されているサイト等ありましたらご紹介いただけないでしょうか?
500日本@名無史さん:2009/08/15(土) 15:24:59
大きめの図書館に行って司書さんに相談したらどう?
501日本@名無史さん:2009/08/16(日) 10:57:52
>>500
司書さんがそういった相談に乗ってれるなんてついぞ知りませんでした
ありがとうございます
月曜日に早速行ってきます
502日本@名無史さん:2009/08/16(日) 11:39:04
そして彼は図書館が月曜日休みなのを知らなかった。
少なくとも名古屋ではマジで月曜休みです。

余所は知らん。
503日本@名無史さん:2009/08/16(日) 13:00:19
全くのド素人なんですけど 、宜しくお願いします。

「魏志倭人伝」の
投馬国=時代を下った對馬国ってのは、全く考えられないのでしょうか?
漢語林で「對」と「投」の呉音が似ているのを見つけただけなんですけど・・・
504日本@名無史さん:2009/08/18(火) 13:26:46
関ヶ原島津の退き口で名高い捨てがまりですが

関ヶ原の戦い以外で使われた記録もあるのでしょうか?
505日本@名無史さん:2009/08/18(火) 18:15:30
沖縄戦の時の指揮官が薩摩出身でそれに近い作戦を採ったとか・・・武器が違うから当然様態は異なると思う
506日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:03:34
中世と近世の区分についてなんですが、どの時期が正しいのですか?

@平清盛が政権をとってから、織田信長の上洛まで
A源頼朝が守護・地頭を設置してから、織田信長の上洛まで
B平清盛が政権をとってから、大坂夏の陣まで
C源頼朝が守護・地頭を設置してから、大坂夏の陣まで

あと豊臣秀吉による太閤検地までを中世とする説もありますが、どれが本当なのか
507日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:28:24
答えはまだ定まってないんじゃないか?
俺は四に賛成だが。
508日本@名無史さん:2009/08/22(土) 21:17:35
>どれが本当なのか
1〜4まで、見かけない組み合わせだね。

中世の始まりは鎌倉以降が主流では。
ただ何をもって鎌倉時代が始まったとするかで諸説分かれている。

中世が何時までかというのは秀吉の桃山時代(仮称)を中世政権とみるか
近世政権ととるかで分かれるというのが二十年前では一般的。

中世・近世という時代区分が廃れていき、〜時代という区分になるのではないかと唱えたのは脇田さんだったかな?
さて現況はどうなっているのやら。
509日本@名無史さん:2009/08/22(土) 23:12:10
鎌倉時代の始まりが将軍任命では駄目だという理論も意味不明だよな。
侍所設置を持って幕府成立なんて寝言にもほどがある。

510日本@名無史さん:2009/08/23(日) 00:01:54
天皇の任命より、実行支配を重んずる
左傾学者の戯言だよな。
511日本@名無史さん:2009/08/23(日) 09:07:59
それなら、室町幕府の滅亡は1588年じゃないとおかしいだろう。
義昭がその年まで将軍を辞任しなかったのは、公暁補任などから明らかだし。
512日本@名無史さん:2009/08/23(日) 09:10:31
公暁→公卿

通説が変わると全て左翼のせいにしたがるチョンもどきには付き合い切れない
それを自然科学分野でやったら、共産国家にいいようにやられる兵器しか持てんがな
513日本@名無史さん:2009/08/23(日) 10:06:24
ミギだのヒダリだのって話は質問スレでは止めてね
荒らしたいなら勝手にやってくれ
514日本@名無史さん:2009/08/23(日) 12:10:39
>>511
鎌倉時代の始まりについては、そもそも将軍就任以外にまともなのがないじゃないか。
侍所の設置なんてギャグだし、地頭の任命権は板東に限られているし。
かといって、実権が全国に広がったときなら頼朝が死んだ後だし。

515日本@名無史さん:2009/08/23(日) 17:20:28

日光の東照宮は相殿神が秀吉と頼朝ですが久能山東照宮は秀吉と信長になっています。


明治政府が、徳川の祟りを抑えるため、「主人」格の秀吉を相殿にしたということですが、

では、明治以前つまり江戸時代の、秀吉以前の相殿はダレだったのですか?


頼朝と信長?
516日本@名無史さん:2009/08/23(日) 19:33:01
>>515
テレビで観たんだなw
517日本@名無史さん:2009/08/24(月) 03:09:48
南北朝期の武将(北畠、新田等南朝側)についつては何処で語ればいいですか?
518日本@名無史さん:2009/08/24(月) 15:35:24
皇極(斉明)天皇が宝皇女、孝徳天皇が軽皇子と書かれているのがどうもよく理解できません。
茅渟王と吉備姫王の子供に過ぎない姉弟が、なぜ皇女や皇子と呼ばれ、かつ続けざまに即位するほど
重んぜられたのでしょうか。
この程度だと、いわゆる「諸王」の一人に過ぎないと思うのですが。
舒明天皇の后とその弟だというだけで、「大兄」を上回るものなのでしょうか?
519日本@名無史さん:2009/08/24(月) 16:31:41
「皇女」「皇子」の称は後付けでしょうね。
両者の登位については、以前からいろいろ推理されているところですが、
まず皇極のほうは、舒明崩後の山背大兄討滅事件により生じた古人大兄、
中大兄両陣営の対立状況の収拾のため即位を求められた、と。
そして、孝徳のほうはそもそも乙巳の変の主宰者という説が有力ですよね。
520日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:36:51
天武天皇と明治天皇が天皇になった過程をみると、
白村江の戦→壬申の乱
薩英戦争→戊辰戦争
といったように対外戦争や内乱が共通点として挙げられますよね?

他にも古代史と明治史の共通点はありますか?
できれば時代状況や国際関係、国家建設などについて教えて貰えると助かります。
521日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:36:00
宿題は自分でやれ
522日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:49:26
バレたか…
でも一応多くの見方とか意見が欲しいので。




という言い訳。
523日本@名無史さん:2009/08/24(月) 21:27:20
なんで日本ではファランクスのような集団戦術が存在しないのですか?
524日本@名無史さん:2009/08/24(月) 21:38:48
集団戦術ならあるし、ファランクスのような密集陣形での突撃はやるには足場が悪すぎる。
525日本@名無史さん:2009/08/24(月) 23:11:55
足場はあまり関係ない。軍隊を斉一に運用するという発想自体が薄かっただけ。
526日本@名無史さん:2009/08/24(月) 23:44:50
>520
>天武天皇が天皇になった過程をみると、白村江の戦→壬申の乱
>明治天皇 薩英戦争→戊辰戦争
>といったように対外戦争や内乱が共通点
薩英戦争→戊辰戦争の過程で明治帝がいなくても周囲は代わりの御輿を担ぐだけじゃねい?
明治天皇は天武天皇のように主体的に行動したとその教師は考えているのかな。
その二つが共通しているという、最初から結論ありきの出題は出題者の主張以外に模範解答なんか存在しない。

>523
次回から軍板で聞いてね。学問としての日本史とはなんの関係も無い質問だから。
簡単に言うとナポレオンの登場まで欧州の軍事思想が古代ギリシヤから進歩していないのに対し、
日本は一足飛びに散兵戦術を確立したから。

これだけだと近代史板や世界史板のオタが噛みついてきてうざそうなので、もうちょい補足。
米独立戦争 米軍ー素人兵の散兵・ゲリラvs英正規軍ー横隊隊形→英軍苦戦

半島戦争   英ウエリントン散兵(小部隊)vsナポレオン不在の仏軍→仏軍苦戦

ナポレオン散兵縦隊戦術→各国がこれにならう
ってのが欧州での流れ。

リデル・ハートに言わせるとアドルフもフレデリックもエパミノンダスの応用ということになるらしい。
527日本@名無史さん:2009/08/24(月) 23:53:49
まずお前の脳内で、日本における散兵戦術が確立したのはいつ頃なのか説明してもらおう。
それが分からんことにはつっこみが入れられん。
528日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:01:14
                 /´          `V´
                  |  だ. し せ >>1  >>1
                  |   め な. つ  か   か
                  |  か い め  ら    ら
                  |   ?. と. い.     か
                 ヽ、         ,、   ?
                   ` ー――――‐'´, ゝ、  _,ノ
      、 、     _,. -‐ ''"゛´ ̄ ̄ ゛" '' ‐- .,_ // ,/ |/:: ::
  、―- .,_ヽ\, '"                  `'く/ :: :: :: :: :
   >   `>゙          /\  ヽ. 、  、  / :: :: :: :: ::
  <    ,'    ,i   /|  /   \  ', ヽ ヽ./ :: :: :: :: :: ::
   >    i   /| /|,/    `"''、┼‐-\/ :: :: :: :: :: :: :
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         ',      i        j   i:: :: :: :: :: :: :: :
         〉、      ヽ.__ ,,. -‐ ' "´   ヽ;: :: :: :: :: :: :
           /  丶.             ,. イ `ー―‐┬‐
        //|   ` ,ー―;-、-  -‐ '' "´ノ::ノ_,,.. -‐ ''('ー
        ´  レ'! / /,.ゞ-―..''.."".. ̄ ̄:: :: :: :: :: :: :: :
             ´,-‐i゙ '´:: :: :: :: :: :: :: :: :: :: :: :: :: :: :: :: :: ::
          i´`i、_ノ             :: :: :: :: :: :: :: :
           ,'´i、_ノ                    :: :: ::
529日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:42:22
>>526
出題者は関裕二か、関裕二に感化された教師じゃね
530日本@名無史さん:2009/08/26(水) 01:46:45
近代史になりますが質問させてください

1925年からの普通選挙が、昭和初期の政治と世相に与えた影響が知りたいのです。
普通選挙が衆愚政治を招き、その後の政治を混乱させる一因になったのでは思うのですが
どうなのでしょう。
あるいはその辺を論じた入門者向けの本などはありますでしょうか。
531日本@名無史さん:2009/08/26(水) 04:55:14
去年のNHKで放送されてた「知るを楽しむ 歴史に好奇心」シリーズで
日本の選挙制度の歴史を扱ったものがあったよ。
政友会と民政党が互いにスキャンダル合戦や中傷合戦やったり、
実弾や酒席の接待が当たり前のように行われていた様子を詳しくやってた。
テキストも出てるから買ってみたら?
532日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:10:10
世間一般では、織田信長の人気が高いよな

外道や暗殺も見られるが、自ら将軍として国土制圧に積極的に乗り出し、
遠く中国も感嘆させた「雄略天皇」、
信長の約100年前に比叡山焼き討ちを行い、自ら軍を率いるなど、珍しく
将軍らしい将軍と言える「足利義教」

2ちゃんでの上記2人の人気はどうなのか、教えて欲しい
533日本@名無史さん:2009/08/29(土) 19:46:35
>>495
ところで家康が天下取りに失敗するシナリオは判ったが、天下取りをあきらめた場合はどうなったろう?
そもそも家康が会津に飛ばされた場合の所領はどの位と想定されるだろうね?
534日本@名無史さん:2009/09/02(水) 23:11:26
終わりだ、日本が支配されるんだ!死のう!それか日本脱出だ
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
           
       ( ;+;)   
       (   つ/ ̄ ̄ ̄ ̄ (^ν^;)  / ̄ ̄ ̄ ̄
       (   ./       /(⊂   )< ・・・・
         /_______//(___) \___
        || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.||/
        ||,       .||




三ヵ月後
       ( ^+^ )   
       (   つ/ ̄ ̄ ̄ ̄ (^ν^;)。○(早く出て行ってくれないかな・・・) 
       (   ./       /(⊂   )
         /_______//(___)
        || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.||/
        ||,       .||
535日本@名無史さん:2009/09/03(木) 09:18:19
戦国時代の感状は負け戦でも出た例があるんでしょうか?
536日本@名無史さん:2009/09/03(木) 21:21:39
金ヶ崎の退き口で秀吉がもらってなかったか?
537日本@名無史さん:2009/09/03(木) 22:12:13
ここの質問者ってなんでageで質問しないのか不思議
538日本@名無史さん:2009/09/03(木) 22:52:12
>>535
有名どころでは、織田信秀とか。一応言っとくと、信長の孫よ。
関ヶ原の支戦の岐阜城攻防戦で敗北したのだが、もはや支えきれぬという局面で
部下に大量の感状を発行しとるね。よく戦ってくれた部下どもよ、なにも報いてやれないが、
せめてこの感状を再仕官に役立てくれ、ってわけだね。
そういう意味で発行されるケースもあるので、まぁ、質問に対しての答えはYesであるよ。
539日本@名無史さん:2009/09/03(木) 22:54:43
↑ゴメン秀信だ。
540日本@名無史さん:2009/09/03(木) 23:15:06
だよなw信長の父ちゃんとその曾孫の名前は紛らわしすぎるw
541日本@名無史さん:2009/09/03(木) 23:33:04
信長から見て父ちゃんと息子と孫が信秀だと面倒だもんな
542日本@名無史さん:2009/09/04(金) 00:10:57
>>536
>>538
それ軍記の創作だから。実際には感状なんか残されていない。
543日本@名無史さん:2009/09/04(金) 00:36:48
残されていないが、なかった理由になるかよ。
544日本@名無史さん:2009/09/04(金) 01:29:00
創作だからないんだよw
小説に出てくる架空の人物を「証拠がないからいなかったとはいえない」というようなものだ。
545日本@名無史さん:2009/09/04(金) 01:35:34
そんなことむきになって反論するなよw
546日本@名無史さん:2009/09/04(金) 02:55:08
白黒映像の過去の戦争の映像やその他がある

それらに映っている人1人1人をどこの誰だか
調べたことはないんですか?
映像には限りがあるからできなくもないと考えた
547日本@名無史さん:2009/09/04(金) 03:26:14
つまり負け戦で感状は出ないでFA
548日本@名無史さん:2009/09/04(金) 10:43:10
>>546
何のために?

硫黄島の戦いで擂鉢山に旗を立てた兵士たちは特定された。国家の英雄として祭り上げて
宣伝に使うために。

ベトナム戦争のときに大河を渡って逃げる親子を写した「自由への脱出」という有名な写真が有る。
その少女も特定された。
549日本@名無史さん:2009/09/04(金) 12:28:18
>>548
これはどこのだれのひいおじいさんかを調べたい欲
550日本@名無史さん:2009/09/04(金) 19:04:56
鳩山一郎のことを調べてたら
東京市会議長とか歴任とか書いてあったりして、ちょっと調べてみたんですが
戦前の市会てのは、市長候補を国に推薦する権限があったと書いてるのですが、それは機能していたのでしょうか?
それと、特に東京市政や大阪市政などは、国からある程度独立していたものなのでしょうか?
551日本@名無史さん:2009/09/04(金) 19:08:53
それは政治か近代史じゃね?
552日本@名無史さん:2009/09/04(金) 20:47:17
県民から皇族暗殺未遂犯を出したという理由で県令(今の県知事だと思えばよし、ちょっと違うけど)が懲戒される国だから、まあある程度の予算的な自由以外は国と対立は無理だろうな。
553日本@名無史さん:2009/09/05(土) 21:47:31
>>550
していない。却って安全保障を理由に普通の町村よりも規制されていた。
554日本@名無史さん:2009/09/06(日) 17:08:50
>安全保障上の理由
ぷっ!
555日本@名無史さん:2009/09/07(月) 04:30:00
556日本@名無史さん:2009/09/07(月) 09:23:36
東京・大阪については、まず府知事が市長を兼ねてた時代があって、
それに対する市会側の反発が強くなって、専任の市長を置くようになった。
それで尾崎行雄なんて政党人が東京市長に在職した時期もあったわけだ。

ただ、戦時中、東京都制が実施されると、都長官が市長の機能も吸収したので、
実質的に自治はなくなった。
557日本@名無史さん:2009/09/07(月) 17:30:25
近代から現代に掛けて、日本人は自分たちの優秀さを世界に示すために、
白人の髪型服装をしました。

そこで思ったのですが、白人たちに日本人の髪型服装をさせるという、
逆の発想は何故生まれなかったのですか?
558日本@名無史さん:2009/09/07(月) 18:25:10
白人の模倣をしたつもりがなかったから。
彼等の文化を民族や国家を超越したグローバリズムなものと思い込んだだけ。
559日本@名無史さん:2009/09/07(月) 19:23:45
18世紀の段階でフランスの上流社会の服装がヨーロッパ限定でのグローバリズムなものになっている。
ロシア、東欧とかスコットランドとかチロルとか、辺境の田舎の服装が民族衣装だ。
560日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:16:57
あまり日本史に詳しくない素人が、少しくらい本などで勉強したくらいで、
興味のあるスレにレスするのは無謀なのでしょうか?
561日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:23:21
いんじゃね、好きにやれば。
562日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:26:18
怖いならよそにいくか、叩かれてからそんな言い方しなくてもスレッドで愚痴ればいい。
2chは詳しくてもバカに叩かれてるところなんだから、
気にしないでやればいい。
563日本@名無史さん:2009/09/08(火) 08:40:50
岐阜という地名は戦国時代の織田氏が名付けたそうですが、
織田氏と敵対していた朝倉氏なども岐阜という呼称を使っていたのでしょうか?
564日本@名無史さん:2009/09/08(火) 12:00:57
斎藤が逃れた朝倉なら、「稲葉山」扱いでしょう。
浅井は織田の同盟者だったから、どう呼ぶか分かりませんが。
565日本@名無史さん:2009/09/09(水) 02:27:57
日本に古代はあったのでしょうか?
566日本@名無史さん:2009/09/09(水) 06:35:17
古代の概念を示しなさい
567日本@名無史さん:2009/09/09(水) 12:30:58
奴隷制社会。

奈良時代の律令制下の農民は奴隷なんでしょうか?
568日本@名無史さん:2009/09/09(水) 19:14:32
ちがう。
班田農民は良民で、賤身分の官奴婢、私奴婢とは区別されていた。
569日本@名無史さん:2009/09/09(水) 20:59:29
日本に農奴はいた?
570日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:02:54
奴隷にやらせなければいけないほどの農地があったと思うか?
571日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:12:18
百姓の被官(名子、家抱、門屋)なんかは隷属農民(百姓とは認められない身分)
だから農奴的存在といえないこともないけど、彼らも次第に小農として自立していく
傾向にあった。
572日本@名無史さん:2009/09/10(木) 03:24:36
農奴や奴隷というと、どうしても誤解を招くから、
あまり適切な言葉とも思えないんだよなあ。

一般の認識する「農奴」「奴隷」よりはるかに高い人権を持つし、
これをそう呼ぶなら他の職業もそういう用語をつける必要が生じる。
573日本@名無史さん:2009/09/10(木) 11:20:30
1945年の終戦前の時点で白洲次郎の知名度はどの程度だったのでしょうか?
特高に目をつけられたりしてたのでしょうか?
574565:2009/09/11(金) 04:04:48
>>568,570,572
 奴隷が存在しない社会ならば、日本史の時代区分で平安時代以前を「古代」とするのはおかしいのではないでしょうか?

 
575565:2009/09/11(金) 04:07:56
日本荘園制にみられる土地を媒介とした統属関係は、「古代的」というよりは「中世的」にみええてしょうがないんですが。
576日本@名無史さん:2009/09/11(金) 13:06:43
奴婢がいるよ、って書いてあんじゃん。読めないの。
577日本@名無史さん:2009/09/11(金) 15:09:27
質問がバカすぎる
578565:2009/09/12(土) 07:25:49
576
>班田農民は良民で、賤身分の官奴婢、私奴婢とは区別されていた。

律令体制を支えた班田農民は「良民」で、「官奴婢、私奴婢とは区別」されてたんでしょ?
それなら「律令体制の奈良時代」は「古代」とはいえないのでは?

>>577
日本のある時代が「古代的特徴」を欠いているなら、その時代を「古代」と称するのはおかしのでは?という観点からの質問。

579565:2009/09/12(土) 07:27:31
日本の荘園制は「古代的」な制度ですか?
580日本@名無史さん:2009/09/12(土) 08:41:18
奴婢は無視かw
581日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:49:09
>>578
つまりお前さんの説では日本の歴史はいきなり中世から始まるのか?
582日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:30:43
古代や中世という区分を厳密にとらえる必要がないと思うんだがな。
戦国時代は中世でも近世でもないが、いつからいつまでというと意見がわかれる。
しっかりした定義もないから。
しかし戦国時代は学術的にも一般的にも定着している。
583日本@名無史さん:2009/09/13(日) 01:20:40
内藤湖南だったっけ?
応仁の乱以前の日本史は無意味と言ったのって?
584日本@名無史さん:2009/09/13(日) 01:43:37
つまりマルクス史観における「古代」の定義に当て嵌まらないから
古代じゃないっていいたいわけか。そのへんに拘っても時間の無駄
だと思うけどね。
585日本@名無史さん:2009/09/13(日) 02:04:45
ってか今時流行らないよな
古代中世近代の分類なんて
586日本@名無史さん:2009/09/13(日) 18:58:12
>>583
無意味というより、その辺を境に文化や生活が大きく変わったから、
室町以前の時代は外国みたいなもんだと言ってたような。
587日本@名無史さん:2009/09/14(月) 15:16:27
明治維新後、士族は警察官や農民、商人になったという話をよく聞きますが、
兵士として新政府軍には編入されなかったのですか?
588日本@名無史さん:2009/09/14(月) 17:41:06
>>587
明治政府は徴兵制を採用した訳だから士族をマルッと編入はしないでしょ。
これには士族の特権意識をくじく意味も有る。
589日本@名無史さん:2009/09/14(月) 19:08:04
聖徳太子という呼び方をさけて「厩戸皇子」と呼ぶ人がいますが、何故なのでしょうか?
590日本@名無史さん:2009/09/14(月) 19:34:16
>>587
廃藩置県から徴兵令発布までの時期は、まだ士族兵の時期だったので、
旧藩兵の一部を鎮台兵にしている。

士族はその家禄が国家財政を圧迫するほど膨大な人数がいたわけだから、
さすがにそのまま兵士として「マルッと編入」はできない。

>>589
聖徳太子という呼び名は生前のものではないから。
太子本人が使ったことも聞いたこともない名前だから。

まあ、それをいうなら欽明天皇とか推古天皇とかも全部そうだがなw
591日本@名無史さん:2009/09/14(月) 19:41:28
>>589
つまり「追号」は認めないという事?
それだったら明治天皇は睦仁天皇、大正天皇は嘉仁天皇、昭和天皇は裕仁天皇という事になるが?
592日本@名無史さん:2009/09/14(月) 19:44:20
>>591
実際、一部の人のなかには近代以降の天皇、とくに昭和天皇に対して、
そういう呼び方をしたがる傾向はあるな。
593日本@名無史さん:2009/09/14(月) 20:24:30
>>591
皇太子のまま死んだ人は追号があっても追号で呼ばずに○○親王と呼ぶことが多いよ。
例えば醍醐天皇の最初の皇太子保明親王は即位前に死んでしまい、
文献彦太子という追号があるにもかかわらず一般的に保明親王と呼んでいる。
桓武天皇の皇太弟だった早良親王も追号は崇道天皇だ。
ただし、即位することなく廃太子となっているので現在追号では呼ばれていない。
天武天皇の皇太子だったとされる草壁皇子も追号は岡宮御宇天皇。
だけど、実際には即位しなかったとされ草壁皇子と呼ばれている。

聖徳太子の場合はその時代皇太子制度がなかったという
主張もあるからだけどな。


594日本@名無史さん:2009/09/15(火) 14:20:23
下道のドライブが好きで、国道254から142号、20号、19号、21号、8号と
旧中山道、東山道ルートに沿って関東関西を往復しています。
時には多賀城付近までも行きます。

昔の東山道を紹介した本、沿道の神社紹介や歴史の裏話的な本が
見つからず苦労しています。
ルートがずれているせいでしょうか。
東海道関係でしたら、いやというほど目に付くのですが。
何か素人向けの東山道紹介本がありましたら、ぜひご教示下さい。

595日本@名無史さん:2009/09/15(火) 18:47:10
県立市立クラスの図書館で市史町史を見たら。
江戸っ子なら国会図書館ってのはどや。
596日本@名無史さん:2009/09/15(火) 19:32:45
>>595
レスどうも、やっぱ図書館クラスしかないですかあ。
597日本@名無史さん:2009/09/16(水) 00:12:09
>594
>昔の東山道を紹介した本、沿道の神社紹介や歴史の裏話的な本
>何か素人向けの東山道紹介本

俺も車を買った頃にその種の本を重点的に探したことがある。
最近の図書館は蔵書検索が充実しているので捻たタイトルでなければ検索できるが、ストレートなタイトル本は一般の観光案内と大差ない内容であることが多い。
地元の郷土史家が書いた本の多くは地方の(数少ない)出版社が出しているので、大都市圏の本屋や図書館で開架されている可能性はかなり低い。
地方ではマスコミ系の出版社が出していることが殆んどだが、近年(でもないが)の出版不況の煽りで新刊は限定されているので古書を探すことになると思う。

で、内容なのだがw地元の郷土史家ってのは玉石混交で真面目に読むと腹が立ってくるものもある。
○○新聞社発行と書いてあるからと言って信頼してはいけない。おまけに一応に文章が拙い。
無条件に信じてはいけないのは市町村史もそうなのだが、こっちはまだまし。
もっとも、素人向けの東山道紹介本を探しているようなので、おそらく市町村史はお役に立てないでしょう。
俺の手元にあるのは西日本の本ばかりで直接的な回答は出来ないけど、

地域の中核都市にある紀伊国屋等の大規模店の地方史・郷土史コーナーへ行く。
運がよければ手に入ることもある。俺の場合は福岡以外は空振りだったけどね。(←は探している者の趣向による部分が大きいから誰が行っても無駄だとは言い切れない。
百坪程度の中規模店は行くだけ無駄と断言できるが(苦笑

次にNTTのタウンページを活用して古本屋を探す。
交番は道を尋ねるのには有用だが警官は本を読まないので書店・古書店の情報を求めても無駄。
くだらないお喋りに付き合わされることがあるので「近くの古書店をタウンページで探してくれ」と切り出した方が早い。
古書店で、買っても良いと思う本が数冊あれば購入し店主に話かける。
「歴史関係の本を探している」と、旅行者であることをさりげなく強調すれば店主の人柄次第でかなりの情報を教えてもらえる。
広島は最悪の対応だったが、福岡では幾つかの店で懇切丁寧に教えてもらえたおかげで十年越しに探していた古書を数冊見つけ出せた。

御幸運を。
598日本@名無史さん:2009/09/16(水) 07:52:01
肥後の国とか越前の国みたいな昔の日本の国名を記した地図を
見れるサイトってないですかね??大きめなのがググっても
見付かりませんでした。どうか賢者の皆様おながいします。
599日本@名無史さん:2009/09/16(水) 08:03:55
>>594
古代の東山道関係は難しいと思うけど、中山道なら無いことはないよ。

山田忠雄『街道の日本史17 中山道』(吉川弘文館)
http://books.livedoor.com/item/445617
600594:2009/09/16(水) 23:47:24
>>599
ありがとうございます、
ご紹介いただいた本も探してみます。
本日、同じ吉川弘文館の、
武部健一著 完全踏査古代の道 東海道 東山道 北陸道を入手しました。
601565:2009/09/17(木) 01:44:29
>>580
当時の生産力の主軸は「良民」だったわけでしょ?
ならば律令体制下の日本社会は「奴隷制社会」とはいえない。

>>581
 >つまりお前さんの説では日本の歴史はいきなり中世から始まるのか?
そのとおり。
ヨーロッパ史でも、古代帝国の周辺民族・地域の歴史(ドイツ・北欧3国・ポーランド・リトア
ニア・バルト海・ロシアとか)は、いきなり中世史から始まるものとして時代区分されている。

日本の場合も、異民族の侵入と古代帝国の崩壊によって中世的分裂(←京大東洋史の区分)の時
代を迎えた中国からの影響で民族形成を開始し、中世中国である唐(←これも京大東洋史の区
分)の影響をうけて国家制度を整えた日本の歴史も、いきなり中世史から開始する、というこ
とでなんら問題はない。

>>584
 >つまりマルクス史観における「古代」の定義に当て嵌まらないから古代
 >じゃないっていいたいわけか。
565いらい、ずっと、そのようにいっています。
というか、「古代」「中世」「近代」の時代区分は、マルクス史観と「歴史発展の基本法則」を
受け入れた人たちによる区分であったと思うのだけど。マルクス史観とは別個の基準で時代区分
をするのなら、なぜ引き続き「古代」「中世」という呼称を愛用するのか疑問。
602565:2009/09/17(木) 01:45:20
>>584
 >そのへんに拘っても時間の無駄だと思うけどね。
>>585
 >ってか今時流行らないよな  古代中世近代の分類なんて
いやあ、いまでも「古代」「中世」「近世」「近代」という区分は、日本史の時代
区分としては愛用されているわけで。
愛用する人が、マルクス史観とは違う基準でこれらの用語をつかうって場合に、ア
ナタの使う「古代」ってなによ?とたずねたくて、ここに投稿してます♪

>>582
マルクス史観をもちいず、「古代」とか「中世」という用語を用いないで時代を区
分するという方法・立場もあります。政権の拠点(奈良・平安・鎌倉・安土桃山・
江戸)で時代を呼称する方法とか、応仁の乱から織豊政権が登場するまでの時期を
「戦国時代」とか。

私の疑問は、「古代」とか「中世」という用語を日本史の時代区分に用いる人に対
して、「アナタのいう古代とはなに?」、「日本史のスタートは中世からいきなり
はじまる、でよくね?」というものです。
603日本@名無史さん:2009/09/17(木) 02:08:14
なんだこいつは、ただ論争したいだけにしか見えん。
質問スレなんだから空気読めよ。
604565:2009/09/17(木) 10:16:47
質問スレには、ここと、「日本史なんでも」とあるよね?
自分の疑問は、勇者から明確な回答をもらえたらそれでおしまいで、
スレッドたてるほどでないし、
そして、ここは「スレッド立てる前に」スレだから、
ここをえらびました。
605日本@名無史さん:2009/09/17(木) 13:56:50
なんで「古代じゃない=中世」になるんだよ。
古代の定義にそこまで拘るなら、中世の定義にも拘らないと、都合よすぎるだろ。
5〜8世紀の大和政権は古代として区分されるが、これが古代じゃなく中世だと言うなら、
マルクス史観に照らし合わせて、中世であることを証明しなよ。

てか、この手の意見は突き詰めると「マルクス史観は日本の歴史の実情に合わない」って結論にしかたどり着かない。
昔から散々に言われてることだ。585が「いまどき流行らないよな」と言ってるのもそゆこと。
565が得意げに語ってる程度の内容はわかった上で、時代区分するのに便利な言葉だから使ってるだけだ。

てか、こいつただの語源厨だろ。



606日本@名無史さん:2009/09/17(木) 19:57:30
1・2年暴れていたコテが今は名無しで荒らしているんじゃねぃ
ソースがあれば何を騙っても言いと勘違いしてたレス乞食の理屈によく似ている

近現代史板や世界史板の根拠無しで妄想垂れ流す連中と
多数派・少数派・異端、おかまいなしに大学教授様が書いておられるから事実だと思い込む痛い奴
どっちが性質悪いんだろうか・・・
607日本@名無史さん:2009/09/17(木) 20:17:36
>>604
あんた一人にしか通用しない理屈なんかどうでもいいよ。
世間ではそれを「言い訳」というんですw
608日本@名無史さん:2009/09/17(木) 20:37:02
マルクス主義史観だと、中世は封建制かつ農奴制だよね。
これを日本史のスタートにといってもどこに当てはめるのかな。
609日本@名無史さん:2009/09/17(木) 21:43:07
仇討ちって親や兄の仇を子や弟が取るのが基本じゃないですか。
で、助太刀も認められているじゃないですか。

ぶっちゃけ幼い子供が仇討ちをしたって事にして、助っ人が一切合切やってしまうのってアリですか?
610日本@名無史さん:2009/09/17(木) 22:46:43
何故関が原の合戦に
豊臣恩顧の武将は徳川についたのだろう?
豊臣家見捨てて徳川についただけですよね・・・・
まさか石田三成嫌いだけで?
611565:2009/09/17(木) 23:43:46
>>605
  >なんで「古代じゃない=中世」になるんだよ。
  >古代の定義にそこまで拘るなら、中世の定義にも拘らないと、都合よすぎるだろ。

説明しよう。
倭王と、倭王に従属した諸国または豪族との統属関係は、中世西王のフランク王国内における氏族と王、公たちと王との関係に比定しうる。「倭国」時代のルーズな政体は、非常に中世的な分裂状態と見なすことが可能。

荘園制についても、土地を媒介とした権門(皇室・貴族・寺院等)との統属関係に着目すると、これも封建制の1類型とみなすことができる。

したがって古墳時代から平安自体にかけての倭国〜日本の社会は、中世的特徴をそなえた社会だとみることが可能です。

以上をふまえて、あらためて質問です。
平安時代以前を「古代」と区分した人たちは、どんな特徴をさして「古代」だと判定したのでしょうか?
612565:2009/09/17(木) 23:46:08
>>607
第一に、平安時代までの日本社会が古代かどうかを議論しているスレや、
はたして日本に古代はあったのかというテーマで議論している過去スレは存在しません。
第二に、この質問はスレッドたてるほどの質問でない。
以上より、こちらで質問してます。
単発の質問スレッドが乱立するのを防ぐため、雑多な質問をひきうけるのがこのスレの役割なのでは?

613565:2009/09/17(木) 23:47:28
>>608
とりあえず>>611をごらんくだしあ。
614日本@名無史さん:2009/09/17(木) 23:48:25
徳川家康は豊臣政権の大老であり、
大老と奉行の石田が対立したので、加藤清正や福島正則は大老を支持した。
豊臣を徳川が倒すなど、彼らにとっては予想外の出来事であった。
615508:2009/09/17(木) 23:53:34
再定義

欧州史には古代・中世・近世がある。
明治になって西洋人が欧州の中世と日本の武家政権が似ていると思い込む。
日本の武家政権が中世であるという前提で古代・中世・近世という西洋の概念を導入。
四半世紀前頃から、そもそも西洋の概念を日本に持ち込んだのが間違いじゃねぃ?と言われはじめる。
現代に至る。
616日本@名無史さん:2009/09/18(金) 02:15:37
まあ倭国時代の王と豪族の関係はフランク王国のそれに
見なせないこともないけど、律令期以降はどうすんの。
617日本@名無史さん:2009/09/18(金) 09:23:37
16世紀欧州人の日本来航による
日本人の世界観や欧州人の日本観の変化を調べたいんですが
どういった本を読めばいいですか?
618日本@名無史さん:2009/09/18(金) 12:11:28
>>617
総合的に研究した例はないんじゃないか?
自分で探ってみたら面白そうだね。
言語や名前、衣装、食などの文化史を調べるのがいいと思う。
619日本@名無史さん:2009/09/18(金) 23:17:53
まあ福島・加藤は呑気に関が原の後も
秀頼が征夷大意将軍と思ってたのか?
620日本@名無史さん:2009/09/18(金) 23:32:43
職名はともかく「天下の主は秀頼様」と思っていた節はあるな。
621565:2009/09/21(月) 03:33:00
>>615
 >欧州史には古代・中世・近世がある。
欧州史でも、スカンジナビア史、スラブ諸国史、ロシア史などは、古代無しにいきなり中世史から歴史がはじまってます。

 >そもそも西洋の概念を日本に持ち込んだのが間違いじゃねぃ?と言われはじめる。
東大系の東洋史では、唐代までを中国の「古代」と位置づけ、その「古代中国」をモデルとして律令制を取り入れたから、ということで、日本史にも古代をたてました。

 >西洋の概念を日本に持ち込んだのが間違い
「間違い」というよりは、ありもしない「古代」を日本に設定しようとしたムリが破綻しただけかと。

>>616
  >律令期以降はどうすんの

京大東洋史では、律令制は、【漢代以来の家柄をほこる漢人系門閥】、【北魏以来の鮮卑系門閥】らが割拠する中世的分裂を克服するために導入された制度で、唐代に一応完成の域に達するも、門閥割拠を克服せきないままほどなく形骸化した、中世的制度といちづけられています。

日本における律令制の展開も、中世的分裂の克服のために導入、中世的分裂を克服できずに形骸化、と中国と呼応するような展開をみせているかと。

荘園制の権門と在地の荘官や郷司・保司等との関係も、あたりでのべたように、非常に中世的にみえまふ。
622日本@名無史さん:2009/09/21(月) 08:10:38
こういうのが浅間山荘事件とか起こすんだろうな。
623日本@名無史さん:2009/09/21(月) 11:11:46
すいません、誤爆しました。
624622:2009/09/22(火) 10:02:30
>>623
だれだお前は
625日本@名無史さん:2009/09/22(火) 15:52:19
関ヶ原の戦いについて質問です。

西軍はかなりの兵力を大津城攻略に割いていますが、
彼らを呼び戻すなりせずに決戦に持ち込んだのは何故なのでしょう?
立花勢はじめ1万5千という兵力は無視するには大きすぎる戦力だと思うのですが。

大津がいくら重要な拠点とはいえ、押さえを残して主力を転進させるなど手は
当然あったように思えます。
626日本@名無史さん:2009/09/22(火) 16:11:47
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
627日本@名無史さん:2009/09/22(火) 16:16:58
歴史初心者ですがおねがいします。
なんで大和朝廷でいきなり「氏」を使うんでしょうか?
蘇我「氏」とか物部「氏」とか。豪族だから蘇我「族」とか蘇我「豪族」なら納得できるよ
なんで「氏」なわけ、100歩譲って「氏」を使うと認めたとしても
今度は豊臣秀吉「氏」って答えに書かないじゃん

それに蘇我氏って蘇我の中の誰?ってことになりませんか?
テストで織田信長を織田氏って書いても正解ってことでしょうか?

それに藤原氏と教科書に書かれているのも納得できません!!
これも同じく藤原の誰だよ?という話になるからです。

こんなことしてたら混乱する人がいても仕方がないですね。
628日本@名無史さん:2009/09/22(火) 16:44:06
>>627
発想が逆です。
「〜〜族」という呼称と概念は近代になって生まれたものであり、
「〜〜氏」というのが当時からある正しい呼び方。
こんな答えで理解できるかどうかわからんが。
629日本@名無史さん:2009/09/22(火) 21:36:36
1850年以降に植物の「ひまわり」は江戸に存在していましたか?
630日本@名無史さん:2009/09/22(火) 22:03:20
>>627
>それに蘇我氏って蘇我の中の誰?ってことになりませんか?
氏は氏族。その場合は集団としての蘇我の一族。個人では有りません。

個人の敬称としての「氏」は近代以降じゃね。
631日本@名無史さん:2009/09/22(火) 22:57:48
「坂本龍馬の愛人のひとりが高知の小学校長として九十近くの高齢で現存していた」
と『稲垣足穂全集』に書いてありましたが、これは何という人物なのでしょうか?
また他の「坂本龍馬の愛人」だった男性には、どんな人たちがいるのですか?
632日本@名無史さん:2009/09/22(火) 23:11:41
歴史の本で「〜氏」とあれば、個人ではなく一族を示すものだと思えばいいよ。
633日本@名無史さん:2009/09/22(火) 23:13:32
>>631
我慢汁だらだらさせすぎ。
634日本@名無史さん:2009/09/22(火) 23:19:56
近代史板に質問スレがなかったので、ここで質問させて下さい。
尊王志士とは朝廷側で、徳川幕府を倒そうとしていた人達という認識でいいのですか?
635日本@名無史さん:2009/09/23(水) 00:28:49
>>625
小早川が数週間前から松尾山の城から動かなかったので、
松尾山の下を戦場にせねば、小早川を戦闘に参加させることが出来なかった。

小早川秀秋の参戦は、豊臣秀頼が大阪城から動かない以上、
豊臣の血統が石田三成を支持していることを見せるために不可欠であった。

>>634
当時の尊皇とは、日本の国家元首を天皇だと信じる人のことであり、
別に徳川幕府は関係ない。
但し、徳川幕府が天皇が国家元首であることを否定する行為に出たなら、
反幕府としての行動を取ることになる。
その為、尊皇攘夷運動を倒幕・討幕運動に転化させるために、
反幕府の人々は国際条約批准問題などで天皇と幕府の意思が対立するたびに幕府を非難し、
幕府の存在自体が悪であると主張した。

尊皇が幕府と対立しない例としては、たとえば徳川慶喜は、天皇の支持任命によって
征夷大将軍職を手に入れた(と本人は考えていた)。
それまでの徳川将軍とは違い、徳川家の力関係に自らの将軍職就任の根拠を求めなかった。
その為、天皇が薩長を支持し新政府樹立を宣言した時、徳川慶喜は自らの存在理由を失って何も出来なくなった。
徳川慶喜は尊皇・勤皇家であった。
636634:2009/09/23(水) 00:37:07
>>635
家茂と朝廷の戦いを浮世絵で揶揄した浮世絵師が
尊王志士に狙われたことがあって、
徳川と朝廷(天皇)の戦いなのかなと疑問でした。

後に倒幕となる戊辰戦争も、
朝廷軍と佐幕(土方歳三など徳川側)の構図になったり。
ネットで情報を漁ったのですが、いまいちピンとこなくて。。。

ありがとうございました。
637日本@名無史さん:2009/09/23(水) 04:56:16
>>627見て、意味というか意図がよくわからなかったが、
>>930 >>632でやっとわかったよ ありがとう
638日本@名無史さん:2009/09/25(金) 19:50:28
女性が天皇のときは結婚相手とかどうなったんだろう。
普通に貴族から婿候補を挙げてたのかな?あと子供も天皇が産んだ子供になっちゃうんだよね…
道鏡と称徳天皇の場合、子はなさなかったのかな?できても暗殺されたとか?
639日本@名無史さん:2009/09/25(金) 20:21:45
>>638
女性天皇は未婚もしくは(元)天皇の配偶者のみで、
即位後の結婚はできないのが不文律だったみたい
640日本@名無史さん:2009/09/25(金) 20:27:17
ちなみに養老律令の継嗣令では、「およそ王、親王を娶り、臣、五世の王を娶る者は許せ」
とあり、内親王が王(皇親)以外とは結婚できないことを定めています。
のちのちなし崩しにされていきますが。
641日本@名無史さん:2009/09/26(土) 13:35:05
三国志には正史や演義があるけど戦国時代の概要を知ることが出来る書物、物語ってありますか?
642日本@名無史さん:2009/09/26(土) 13:41:48
『史記』
643日本@名無史さん:2009/09/26(土) 13:54:44
   / ̄ ̄\
 /   _ノ  \
 |   ( ●)(●)  <おっと、ちょっとした質問ミスだ。スルーしろよ…
. |     (__人__)____
  |     ` ⌒/ ─' 'ー\
.  |       /( ○)  (○)\
.  ヽ     /  ⌒(n_人__)⌒ \
   ヽ   |、    (  ヨ    | <どこの国の戦g...
   /    `ー─−  厂   /
   |   、 _   __,,/     \
644日本@名無史さん:2009/09/26(土) 18:24:28
>>640
ありがとうございます。
なるほど、そんな決まりがあったんですね。
645日本@名無史さん:2009/09/26(土) 18:59:06
>>617
故若桑みどり女史の労作である『クアトロ・ラガッツィ』なんかどうでしょう。
天正少年遣欧使節について書かれており、まさにお尋ねのテーマに
即したものと思われますが。
646日本@名無史さん:2009/09/26(土) 19:18:29
>>641
戦国策。俺は史記しか読んでないけど。
647日本@名無史さん:2009/09/27(日) 07:45:34
江戸時代か明治時代か忘れましたが、その時代の金持ちの息子は今でいうニートのような
生活をしてても怒られなかったそうで、その理由が金持ちの子供が就職するとほかの働き手の
職を奪う事になるから親の財産で道楽するのも一つの生き方とされてたという説は事実でしょうか?
648日本@名無史さん:2009/09/27(日) 07:58:22
それは今の時代でも言えることだけど、
でも今は扶養家族分の控除を親が使うから
見えないトコロで社会に損失与えてるからな。

昔は職の概念が今と違うから、
『責任』という身分職で縛られてたんだと思うよ。
家制度は企業体であり官公庁だから。
庶民が困ったときは身銭を資金として投入しなければならない。
649日本@名無史さん:2009/09/27(日) 10:16:13
>>648
家とか、職ってのは現代人には到底わからない感覚だろうな。
650日本@名無史さん:2009/09/27(日) 20:59:04
幕末、万延から文久、元治と慌ただしく年号が2年ごとくらいで変わってますがその間に天皇が変わりまくってたんですか?
長かったのは天保くらい?
651日本@名無史さん:2009/09/27(日) 21:08:29
一世一元の制になったのは明治から。
それまでは一人の天皇の治世に何度も改元するのが普通だった。
改元理由は祥瑞、天変地異など縁起かつぎによるものが多い。
652日本@名無史さん:2009/09/27(日) 21:13:03
いいえ。ずっと孝明天皇です。
弘化3年の即位後、嘉永、安政、万延、元治、慶応と
20年ほどの在位ですね。この時代は一世一元制では
ないので、天皇の代替わりと年号は一致していません。
天保は15年と長いほうですが、徳川時代では、寛永と
享保が21年と最長の年号です。
653日本@名無史さん:2009/09/28(月) 16:43:31
「坂本龍馬の愛人のひとりが高知の小学校長として九十近くの高齢で現存していた」
と『稲垣足穂全集』に書いてありましたが、これは何という人物なのでしょうか?
また他の「坂本龍馬の愛人」だった男性には、どんな人たちがいるのですか?
654日本@名無史さん:2009/09/28(月) 18:34:05
もういいよ、ナッちゃん、その質問は。
655日本@名無史さん:2009/09/30(水) 01:43:39
東百官についてお尋ねします。

wikipediaによると
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%99%BE%E5%AE%98
>別名、相馬百官ともいい、平将門が新皇を称して新政権樹立を図った際に設けた官職体系であるという伝説もある。
などと書かれていますが、はっきりとした起源については記述されていません。

1)なぜ相馬なのか
2)平将門の時代からあるようなものなのか
3)各ポストについて体系的な詳しい設定があるのか
4)そもそもどこから出てきたのか、あるいは誰が考えたのか

これらの点についてご存知の方がいらっしゃいましたら、回答お願いします。

ひょっとして、16世紀当時に相馬某という人が将門主役の架空戦記を書いて大ヒット
それでみんな名乗るようになったとか・・・
656日本@名無史さん:2009/09/30(水) 20:38:10
>>655
1) たぶん将門の通称が相馬小次郎である事と関係がある。
2) 違うだろう。しかし権威付けのためにそう言うんだろ。
3) 聞いた事無いな。
4) wikipediaのその記事に書いてあるだろ。
657日本@名無史さん:2009/09/30(水) 20:41:38
なんで蛤御門の変で長州は朝敵になるとわかっていたのに銃を御所に向けたんだ?
久坂は血迷った?
658日本@名無史さん:2009/09/30(水) 21:07:43
勝てば官軍

普通に勝てると思ってたんだろうな。
659日本@名無史さん:2009/09/30(水) 22:43:49
日本の歴史は御所に弓引こうが何しようが、天皇を押さえた者が正義だから。長州もこの時は
失敗したけど薩摩と組んだあとでは成功してるでしょ。
660日本@名無史さん:2009/09/30(水) 23:23:58
西軍の敗北の原因は
秀頼を見切ったという事ですか?
まさか関が原で破った後そのまま
大阪城攻め込んで秀頼討ち取るなんて
したら・・・・
661日本@名無史さん:2009/10/01(木) 04:15:26
何故、左のイデオロギーを持った人たちは日本悪中朝善という発想を持つのでしょうか?イデオロギー的に中朝(北)なら
まあ、納得は出来ないまでも分かるが韓国って一応民主主義国でしょ?左の人たちがシンパシーを持つ理由が分からない。
662日本@名無史さん:2009/10/01(木) 05:27:53
その質問は日本史の領域か?
思想や誠司のカテゴリだろう。
663日本@名無史さん:2009/10/01(木) 07:02:40
>>662そうか・・・元寇スレで犬HKの番組のことが出ていて気になったので。単発の質問としてはそうかもOrz
664日本@名無史さん:2009/10/01(木) 21:03:24
>>660
質問がよくわからん。少なくとも「秀頼を討ち取る」は無い。
665日本@名無史さん:2009/10/01(木) 21:04:54
民主化される以前の韓国の軍政は「反共」をより重視していたから、日本の保守派と親和性があった。
安倍ちゃんの祖父の岸信介は親韓国派で有名だった。

逆に日本の左派は韓国軍政による独裁に反対して民主勢力を支援した。
また、韓国の民主派は右寄りの軍部への反感、彼らを支持する日米への反感から次第に左がかってきたから、ますます日本の左派との親和性が強まった。
666日本@名無史さん:2009/10/01(木) 21:05:53
>>660
8歳の秀頼を戦場に出すリスクを考えたことがあるか?
話はそれからだ。
667日本@名無史さん:2009/10/01(木) 21:55:03
初陣にもかかわらず戦死した大名の息子って、実際いるのか?
668日本@名無史さん:2009/10/01(木) 23:46:04
>>656
ありがとうございました。

当時、「この名前オレが考えたんだけど、官職風でカッコよくね?」
みたいなことがあちこちで発生して、後日、集めてみると百官名モドキができてしまった
のような感じなのかなー

将門の通称が相馬小次郎というのは知りませんでした。感謝。
669日本@名無史さん:2009/10/03(土) 10:17:03
生きることの近世史という本に、
「フロイスは日本においては殺人が普通に行われていると書いている。
 今川仮名目録などにも侵入者を殺害してもOKとなっている。
 八十翁疇昔話という書物によれば、家長が使用人の生殺与奪権を持ち、
 機嫌を損ねただけで試し切りとして殺害されることなどが、17世紀まで普通にあった」

という感じで、やたら戦国〜江戸期にやたら人殺しが多かった風に書かれていましたが、これはどの程度真実なのでしょうか。
670日本@名無史さん:2009/10/03(土) 11:45:50
オレたちが各国の歴史を議論する機会が多々あるが、海外の研究者が日本の歴史に
注目することはあるのだろうか?

また世界史の中で日本史に関しどういう受け止め方をしているのか、誰か知らないか?
671日本@名無史さん:2009/10/03(土) 13:18:46
アメリカで日本史を教えてる教官(日本語での、日本での査読論文あり)
に聞いたら、
「これほど全時代にわたって、文献史料が豊富に残ってる国はない」
っていってた。ほんとかどうかは知らんが。
多分、中韓ヴェトナムも相当なもんだと思うんだが。

有名なところでは、マルクスが「本当の封建制は欧州と日本にしか存在しなかった」
って主張してるな。

まぁ、自国との比較史的研究を行う際には、日本史をみることは有意義なんだと思う。
672日本@名無史さん:2009/10/03(土) 13:23:29
近世については海外の論著も多いよね。
673日本@名無史さん:2009/10/03(土) 16:46:50
>>671
> 多分、中韓ヴェトナムも相当なもんだと思うんだが。

中国・ヴェトナムはともかく、朝鮮はそれほどまんべんなくには文献は残っていないんじゃなかろうか。
674日本@名無史さん:2009/10/03(土) 17:53:25
江戸、1850年〜明治初頭くらいのお葬式について疑問があります。
死体は火葬したのでしょうか?
それとも、棺桶に入れて、地中に埋めたのでしょうか?
675日本@名無史さん:2009/10/06(火) 09:26:15
成りあがり物の秀吉が、あそこまで部下から人望を得たのはなぜでしょうか?
676日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:11:28
森蘭丸が本能寺で死なずに生きのびて志賀某なる人物となって
徳川時代にまで長生きしたという伝承の典拠は何ですか?
677日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:21:15
>>675
成り上りものだからこそ、下の者が何を期待してるか判ってたからです。
678日本@名無史さん:2009/10/07(水) 02:46:09
>>674
田舎では土葬が一般的で、昭和40年代ぐらいまでは土葬を続ける地域も多かったみたい。

都市部では土地全体に占める埋葬地の割合が低いので火葬が広まるのは早かったらしいけど。


江戸末〜明治は地方毎にかなり違うと思われる。
679日本@名無史さん:2009/10/07(水) 09:29:00
>>676
いつもまことながら、まずはナッちゃん、
あなたが何をみてその逸話を知ったのか、
そこから申しなさい。
680日本@名無史さん:2009/10/07(水) 11:13:30
>>678
ありがとうございます。

ひとつ不思議なことがありまして、
横浜で死んだ庶民の死体を江戸の墓に運ぶ場合、
やっぱり死体は重いので、火葬して骨だけ運んだのかどうか、それが知りたいのです。

裕福なら桶に氷を詰めて運んだかもしれないと想像していますが、
当時は、鮨の鮮度でも知られているように、
死体の腐敗を防ぐ方法なんてそうそうなかったはずなので。

どなたか、そういう話をご存知でしたら是非、お聞かせ下さい。
681日本@名無史さん:2009/10/07(水) 11:54:14
いきなりですみませんが、私は課題で『織田信長の鉄砲の入手ルートとその運用』について調べているのですが、なかなか該当する資料に行き当たりません。何か良い資料を御存知でしょうか。
682日本@名無史さん:2009/10/09(金) 20:27:58
>>680
日本では仏教を深く信仰した天皇家などでは釈迦が死後火葬されたといわれることから
持統天皇以降、火葬が主流だった。
貴族・公家の間でも火葬が流行した。
ただし、武家・庶民にはこの信仰はなかなかいきわたらなかった。
江戸時代においても、江戸幕府の歴代将軍は土葬である。
(御台所では2代将軍秀忠室お江与のみが葬儀が伸びたことを理由に火葬された)
江戸時代の庶民も、浄土真宗などの熱狂的な仏教信者の間では火葬が行われたが、
それ以外の者のなかでは死体を焼くのは残酷だという考えから行われないことが多かった。

重い、重くないよりも宗教感の違い。
683日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:18:02
>>681
とりあえず『信長公記』を見たら?
信長から知行を与えられていた鉄砲鍛冶「鉄砲屋与四郎」ってのが出てくる。
684日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:18:02
質問です。
籠城戦の際、城下町を焼き払ってから戦闘に映ることが常であったようですが、
なぜそのようなことをしたのでしょうか?
攻城側、籠城側それぞれにどういうメリットがあるのでしょう?
城下町が残っていないとその城周辺の価値は低くなるように思うのですが。
685日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:39:50
城下町が温存されていた場合、そこを乗っ取ればいいけど、
焼き払われていた場合、攻城側はどこで生活するの?

野戦陣地の構築だけで大仕事なんですけど。
隣町まで、かなり距離があるんですけど。
686日本@名無史さん:2009/10/10(土) 03:24:28
>>685
籠城側のメリットとして、攻城側の拠点となりうる場所を潰すということでしょうか
焦土戦術のようなものですね
なるほど、ありがとうございます

攻城側がしばしば城下を焼いた点についてはいかがでしょうか?
687日本@名無史さん:2009/10/10(土) 09:17:56
城攻め側としてはこういう論理がありえそうだね。

 敵に討って出させるための挑発行為

 敵のゲリラを防止するため

 示威&城を落とさないにしても生産地の破壊

 包囲陣地構築のため

それに常に焼き払うとは限らないんじゃないか?
688日本@名無史さん:2009/10/10(土) 12:30:41
威嚇や挑発などですね
なるほど納得できました
小説を読んでて「(城方が)城下を焼いておらぬところをみると籠城する気はないのかもしれぬ」
というセリフがあったりする一方で
攻め方が城下を焼き払うこともあったりして
「結局どっちに有利なんだ?」
と思って質問させていただきました
ありがとうございます
689日本@名無史さん:2009/10/10(土) 20:22:26
>>682
詳しく丁寧に、助かります。
全く想像してなかった要素でしたので、驚きました。
本当にありがとうございました。
690日本@名無史さん:2009/10/13(火) 08:33:55
>>683ありがとうございます。早速探してみます。
691日本@名無史さん:2009/10/20(火) 01:25:07
質問があります。
今度、両親が平泉に旅行に行くんですが、
行く前に読むオススメの本があったら教えてください。
二人とも歴史好きなので、ある程度の知識はあります(まぁ義経ファンの司馬厨レベルですが…)。
70代で九州在住ですので、もう二度とそちらへの旅行は無理だと思いますので、なにか良い本をご存知の方、宜しくお願いします。

692日本@名無史さん:2009/10/20(火) 01:33:32
               ,. ‐¬'´.:.:.:.::`:ー- 、   つ
              /.:.:.:.:.::;.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::丶、
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          ,.:/ |.:.:.:|! ,二、ヾ、.:.::/レ' _, 」/ i:| .:.:.:.:|.::|
        !′|.:.:i:|.f' 匕ハヽ ∨/ 1J`ト、.l:!.:.:.:.::j.::l
            |.:.:|:!  じ リ      lぃリ !リ.:.:.:.:,'.:.:!
           l.:.:|:l ""   丶    ` ´""/.:.:.:.:ハ.:,'
          '、:トヾ、  ┌──-ュ    /:;ィ.::/ 〃
           ヾ\  ゝ     ノ  /イ:/イ:i
    「`¨'¬===┴─────‐--イ不1_ト、|__
    |        知らないが              |
    |                           |
    レ ¬      お前の態度が       r─ 、|
    r'′-┴、                   i⌒ヽ \
   i´  -イ         気に入った!      `ト、 \ ヽ
693日本@名無史さん:2009/10/20(火) 08:53:10
694日本@名無史さん:2009/10/20(火) 18:17:52
男色と呼ばれる関係において、肛門性交も行われていたと思われますが
近代以前の日本において、感染症の危険性は認識されていたのでしょうか
認識されていたならば、何か対策はとられていたのでしょうか
695日本@名無史さん:2009/10/21(水) 11:04:19
されていません。周知の通りです。
696日本@名無史さん:2009/10/23(金) 17:32:13
板違いでしたらごめんなさい

「軍艦じゃんけん」についてなのですが……
発生した原因、歴史的背景など何かわかれば教えていただきたいです
Wikipediaの方だと『かけ声などから戦前に発生した遊びであることが容易に推測できる〜』とあったのですが、ちょっと消化不良です
私の地区だとチョキの事を「朝鮮」と言うので、もしかしたら日本史関係で何かあるのかと思い、日本史板にしました
よろしくお願いします
697日本@名無史さん:2009/10/23(金) 22:55:09
民俗学かもしれませんが、こちらで教えてください。

江戸時代は世界中で100万都市までしか発展せず、それ以上に人口が増えようとすると
いつも疫病が発生して人口が抑えられたけど、江戸だけは300万まで人口が増えたと
TVで見ました。理由は江戸だけが痰壷に唾を入れ、人が容易に触れられる場所には唾をはかず、
川に流していたきちんとコントロールしてからと言っていました。

そこで教えていただきたいのですが、もしこれが事実だった場合、
江戸時代は川で衣服を洗っていたはずですが、唾だらけの川で洗ったのでしょうか。
それとも綺麗な川と汚い川あるいは洗濯専用タイムなどと分けて使用していたのでしょうか。
698日本@名無史さん:2009/10/24(土) 02:38:27
お前が見たと言う番組が実在したのなら、とっくに2chのどこかでネタになってるレベルのクソ番組だよ。
テレビで見たと言うのがまず信じられん。
番組名か、せめて見た日付や時間だけでも書け。まっとうなレスはそれからだ。
699日本@名無史さん:2009/10/24(土) 04:26:53
>>698
すみません。見たのは4年ぐらい前でビートたけしが出ていたのは覚えていますが、
番組名は不明です。
700日本@名無史さん:2009/10/24(土) 05:03:45
なんで信長の子孫を名乗ってるやつがいるんだ?
織田家って途絶えたんじゃないの?
猿みたいなのが氷で踊ってるけど
701日本@名無史さん:2009/10/24(土) 05:34:52
>>700
織田家が滅んだって釣りとしても釣り針が大きすぎる
702日本@名無史さん:2009/10/24(土) 10:50:23
>>700
少しは調べろよw
703日本@名無史さん:2009/10/24(土) 11:48:42
>>700
勝手に滅ぼすなよ
704日本@名無史さん:2009/10/24(土) 12:06:21
>>697
平城京には近代的な水洗トイレがあったんだよ。
それでも疫病が流行したからねえ。

痰壺というのは中国王朝で貴人が常に持ち歩いていたもので、
江戸時代には町人にも広まった。
しかし、どんだけ昔の人は痰を吐いていたのだろう?

ちなみに江戸の都市人口は幕末の18世紀に100万人を超えた程度で、
300万人都市になったことはないよ。
705日本@名無史さん:2009/10/24(土) 22:57:59
室町幕府の件で、質問です。

室町幕府全盛(3代義満・4代義持)の頃の守護大名は、
その領国に課した税金(段銭)を、幕府に納税していたのでしょうか?

応仁の乱後は、幕府の統制力が弱体化し、
各国守護などは、戦国大名化して独立の大名となったので、
幕府に税金(段銭)を納付していないことはわかるのですが。
706日本@名無史さん:2009/10/24(土) 23:47:02
このネタはスレを立てて議論するべきではないのか?

【郷土史】新技術で広がる 古文書の可能性 氏家町史にデジタルデータ活用
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1256316158/
707日本@名無史さん:2009/10/25(日) 00:33:29
質問
今から1000年前、

朝廷が日本国を支配していた頃(西暦1000年頃)は、
荘園と公領はどちらが多かったのでしょうか?
708日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:40:38
院政の頃なのだから、荘園の方が圧倒的ということになる。
天皇家さえ、所有する荘園収入で暮らしていた時期なのだから。
709日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:51:39
質問です
@伊達政宗の母親が、(政宗の)弟を毒殺した理由を教えて下さい。
710日本@名無史さん:2009/10/25(日) 20:34:13
>>708 さん!
707です。回答ありがとうございました。
荘園≫公領ですね!
711日本@名無史さん:2009/10/25(日) 20:53:11
>>677
お答えありがとうございました
712日本@名無史さん:2009/10/26(月) 01:12:07
最盛期でさえ荘園:公領は6:4程度と言われてるのに、最盛期前の西暦1000年頃の荘園が圧倒的なわけないだろ。
713日本@名無史さん:2009/10/26(月) 20:25:17
>>705
守護はその成立のときから幕府に納税はしていないよ。
幕府から領地を安堵される代わりに
領内の治安を守ったり、幕府から召集命令がかかれば
自費で兵を率いて命をかけて幕府を守るために戦うのが守護の役割だった。

幕府の財政基盤は基本的には直轄領である御料所から上がる収入のみ。
室町幕府では成立時に弱体であったせいもあって味方をする武士たちに
土地を配りすぎたとも言われて御料所が少なく、
日野富子が都に七口の関を設けて通行料を取ったりしたのも
もともとの幕府の財政基盤の弱さを立て直すためだったとも言われる。
714日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:16:22
もともと守護は軍事・警察権で、領地の安堵とか徴税ってのはてっきり地頭のことかと思ってた。
で、室町期の半済令あたりから経済的にも急激に侵略して行ったのだと。
715日本@名無史さん:2009/10/27(火) 02:42:33
>>709
太陽と汗を振り払うために
716日本@名無史さん:2009/10/27(火) 21:59:13
>>712
西暦1000年頃といえば、藤原氏(道長など)による摂関政治全盛の頃。
荘園:公領の比率は、実際どうなんでしょうね!
717日本@名無史さん:2009/10/27(火) 22:23:36
>>713さん >>714さん 
回答ありがとうございます。 >>705です。
自分でも少し調べてみました。

室町幕府の収入は、
御料所(直轄領)からの年貢、「段銭」、地頭御家人役その他らしいです。
「段銭」に付きましては、義満期などの幕府全盛期は、守護を通じて諸国から
徴収していた。
のち15世紀中頃より守護が、大名化して自己のための段銭「守護段銭」を
賦課するようになったとの説明もあります。『日本歴史体系2中世』

室町期の守護は、南北朝の動乱を経て、その権限を「半済」などを
通じて、拡大させたとありますね。前掲書籍

むむ! よくわからん。
718日本@名無史さん:2009/10/27(火) 22:40:22
>>714
この辺ややこしいというか。

鎌倉時代の守護は取り分はない。守護は地頭を兼ねていて地頭の収入などで食っていた。
ただし守護になるのはもともと有力御家人が多かったし、軍事警察権は使いようによっては便利なので
それらを活かして国内の地頭を配下のようにしていく動きは鎌倉時代からあった。

室町時代になって半済令で「守護が土地から得る収入」が制度化された。


一方、幕府の収入はと言うと。
鎌倉幕府の収入源は、荘園領主(関東御料)&知行国主(関東御分国)としての収入。
つまり貴族としての収入だったので、地頭などの要求とはしばしば矛盾していた。
逆に、そういう理由があったからこそ荘園領主の貴族たちが地頭とのトラブルを
鎌倉幕府に訴えて勝利する例が多かった。

室町幕府の収入はややこしくて、『室町幕府の土地』はほとんど無い。
(ちなみに全国で守護が設置されていない国の一つに山城国があったが、山城守護は管領がやってた)
その代わり、関所や港からの通行税や土倉・酒屋からの商業税と港からの税を取り立てていた。
あとは臨時に段銭(土地の面積に応じてかかる)、棟別銭(家一戸ごとにかかる)を取り立てていた。
徳政令の分一銭(貸付金の十分の一を幕府に納める代わり、借金を棒引きしない)なんかも重要な財源。
あとは時期が限られるが貿易収入も。
719日本@名無史さん:2009/10/31(土) 10:13:47
小さい頃に読んだ絵本で蝦夷を扱ったものがありました。
「日本の王昭君」とでもいうべきその概要を以下に記しますが、これは史実なのでしょうか。

奈良か平安の頃、朝廷に従わない蝦夷を懐柔する為に一人の女性が蝦夷の族長の妻として送られた。
彼女は当初、我が身を嘆いていたが、族長やその他の蝦夷の人々の優しさに触れ心を開くようになった。
しかし朝廷の無理難題に蝦夷の族長は反乱を決意し、累が及ばないように彼女を離縁して都に返した。
彼女はその後男の子を産み、彼が大きくなると東北に連れて行った。
既に族長は死んでいたが、母子はその後も東北で蝦夷と暮らしたとさ。
720日本@名無史さん:2009/11/01(日) 01:16:37
陸奥あたりの地方官の判断でならありえる。
朝廷中央の意志としてはあり得ない。
721日本@名無史さん:2009/11/02(月) 19:36:04
元総理池田勇人にカラー写真はありますか?
722日本@名無史さん:2009/11/03(火) 19:28:31
平安時代の平城京(とうよりも、平城京跡?)ってどんな感じだったんでしょうか。
東大寺などの寺院は栄えてたと思うのですが、街自体は荒廃していたんでしょうか。
723日本@名無史さん:2009/11/03(火) 20:59:36
江戸時代の政治家や君主はどのような理念を持って行動していたのですか?
またそれは家訓や学問に基づいていたのですか?
特に徳川家について知りたいです。(家康の家訓以外に存在したのか、とか)
724日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:17:11
>>723
儒教の理念に基づいた統治(あくまで目標だが)。
奥儒者という先生がいる

ちなみに家康の家訓なるものは後世の創作
725日本@名無史さん:2009/11/04(水) 09:42:44
>>709
横山光輝の歴史漫画、伊達政宗みるべし
726日本@名無史さん:2009/11/05(木) 14:56:17
権官である権大納言と、
大納言はどちらが上とされていたのですか?
727日本@名無史さん:2009/11/05(木) 20:08:11
昔、まだ情報伝達手段が未発達だった頃。地方では元号が変わったと言う事をどうやって知った
のでしょうか?
やはり本来の元号変更日からだいぶ遅れて遅れて知ると言うことになるのでしょうか?

例えばの話ですが、「新元号は○○?いつ変わったの?旧元号××で書類作成してしまった。全部書き直し?」
というどたばたが多々あったのでしょうか?


728日本@名無史さん:2009/11/05(木) 21:39:11
>>727
関東ではしばしば独自の元号がもちいられた
729日本@名無史さん:2009/11/06(金) 22:40:06
>>716
具体的な比率はわからないけど、荘園が急激に増えるのが鳥羽院政期。
その100年前だからたかがしれてる。

摂関家=大荘園領主と思われがちだが、時代的にいえばイメージするほどの規模じゃない。
まぁ当時最大だったとはいえそうだけど。

だいたい、延久整理令で頼道が「寄進されるままにもらってきたけど、
正式な手続きなんかしてないから券契などない」と天皇に言ったらしいが、
逆にいえば藤原氏の荘園に対する意識の低さと、寄進された荘園に対する権利や
収入のあいまいさを示している。
730日本@名無史さん:2009/11/06(金) 23:44:56
バックに摂関家がいるんだぞって言うのを見せつけるため名目的に、豪族が自分たちの田畑を荘園にしていたってのもあるし。
そう言うパターンは名目的な年貢がチョロッと入るだけだから意識も低いだろうな。
731727:2009/11/07(土) 10:45:48
>>728 レスありがとうございました。なるほど。
732日本@名無史さん:2009/11/08(日) 12:18:41
なぜ関東軍最前線の石原完爾は戦犯にならなかったのですか?
板垣征四郎とかとはまた違うジャンルの考え方なのでしょうか
733日本@名無史さん:2009/11/08(日) 23:58:01
連合国の都合、石原に限らず訴追されるされない全部な。
これ以上詳しいことはどうせ判らんだろうけど、軍板行って聞いてこい。
734日本@名無史さん:2009/11/11(水) 18:36:22
昔の日本の女性の名前というのは、どのように付けられていたのでしょうか。

たとえば、前田利家の正室は芳春院ですが、名はまつ。
幼い時はどうよばれていたのでしょう?
また、公家の娘と武家の娘と農民の娘とで名前に違いは?ひらがな?漢字?
何か法則やルールがあるのでしょうか。
よろしくお願いします。
735日本@名無史さん:2009/11/12(木) 00:20:22
戦国〜江戸時代あたりで想像しているのですが、農村の人々は主にどうやって
お金を稼いだりしていたのでしょうか
想像したのですが農民、百姓と言うとひたすら朝晩畑や田を耕して
米は年貢に納め自分の取り分は自分で食べ…という想像しか浮かびません
現金はいったいどうやって稼いでいたんだろう?と思いました
ググってみてもどうもピンとくるものがありません。
頭の悪い質問ですがよろしくお願いします。
736日本@名無史さん:2009/11/12(木) 00:25:22
農民にとって米は商品
自分で食うより売ってカネにする。

あとは商品作物かな
737日本@名無史さん:2009/11/12(木) 10:25:46
そうだね。
収穫量の半分を年貢、4分の1を自家で食べて4分の1を他の生活用品と交換したり換金。
商品作物にも年貢が付加されるからこれはこっそり作ってたところが多かった。
でも江戸中期以降藩財政が厳しくなってからは検地でこの闇栽培を厳しく取り締まって
藩の直轄の事業として生産・販売したり栽培を認める代わりにかなりの税率を課したりした。

このため農産物生産者(農民とされる人達)の実質収入は大きく減り、
江戸中期以降農村で飢饉が発生すると餓死する人の数が万単位で出てくるようになった。
738日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:49:31
>>435です
作物は商品だったんですね…すごくすっきりしました
お答えありがとうございました!
739日本@名無史さん:2009/11/16(月) 00:19:03
>>734
俺はその質問に直接答える事は出来ないが、「昔」では大雑把すぎる事は指摘できる。
例えば平安時代には女性には個人名が無かったという。清少納言は清原の少納言の娘。
紫式部は著書である源氏物語の登場人物「紫の上」にちなんでそう呼ばれた。

まぁ、芳春院をあげてるんだから戦国の頃を想定してるんだろうけど。
740日本@名無史さん:2009/11/16(月) 00:48:32
別に個人名がなかった訳じゃないだろ、史書に記されなかっただけで。
741日本@名無史さん:2009/11/18(水) 10:34:02
>>734です。
>>739でご指摘頂いた通り、主に戦国のことを知りたいですね。
たしかにただ「昔」では曖昧過ぎました。大変失礼致しました。

ただ、もちろんそれ以前のことも知りたいです。
平安の女性の名前でもいいし、室町でも構いません。
ご存知の情報を少しでも分けてくだされば幸いです。
742日本@名無史さん:2009/11/18(水) 13:38:57
質問です
何年か前に戦国大名の失策みたいなタイトルのスレがあったと思うのですが、
正しいスレタイが思い出せず検索に引っかかりません
どなたか知っている人はいないでしょうか

ちなみにそのスレは>>1にスレの進め方が書いてあって、
レス番100〜199までが織田家
レス番200〜299までが武田家といった具合に進んでいました
743日本@名無史さん:2009/11/18(水) 18:19:55
742ですが自己解決しました

戦国大名の失策を語るスレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1124340863/
744日本@名無史さん:2009/11/20(金) 00:11:13
あげ
745日本@名無史さん:2009/11/20(金) 09:45:04
質問です。
日本人の、「日本人」という意識は一体いつから成立したのでしょうか。
また、「日本人」という意識の薄い時代、例えば戦国時代前後なんかは、
海外に進出した日本人は自分達は「日本人である」という意識をちゃんと持っていたのでしょうか?

また、江戸幕府は海外から見て「日本」という国だったのでしょうか?
それとも「徳川幕府」と見做されてたのでしょうか。
746日本@名無史さん:2009/11/20(金) 10:32:15
>>745
概念の話は単発の質問では解決しないと思われる。
該当しそうなスレを幾つか覗いてみ。
747日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:42:19
>>741
専門に研究している人がいるらしい
高台院 「ねね」か「ね(おね)」か を見て
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E9%99%A2
748日本@名無史さん:2009/11/20(金) 20:58:13
天下五剣、天下三名槍、を最初に言い出したのは誰なんですかね?
誰?でなくとも最初の書物とかは。
749日本@名無史さん:2009/11/23(月) 18:53:36
>>729さん >>730さん
>>716で荘園と公領について質問した者です。回答ありがとうございました。
750日本@名無史さん:2009/11/23(月) 19:20:54
質問です
以前、平安京や平城京といった都のいずれかで、宮の部分が他の部分より
低い(標高的な意味で)せいで大雨が降ると宮の周りに都中の汚物が集まって
酷い衛生状態だったという話を聞いたことがあるのですが、本当の話でしょうか?
もしそうならどの都の話か教えてください。
あと、そういった古い都について他国の人間が実際に見て記録した資料とかって
有りますか?
751日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:14:12
>>718さん
>>705で室町幕府の収入について質問した者です。
ありがとうございました。
752日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:25:51
>>726
>権官である権大納言と、
大納言はどちらが上とされていたのですか?

江戸時代では、尾張、紀伊徳川家当主の極官でしたね!
由来からいくと
大納言>権大納言 でしょうね!

官職には定員がありまして、その正員は公家が占めていました。
武家が大納言を名乗るときは、員数外官職として権大納言となります。
753日本@名無史さん:2009/11/24(火) 02:39:59
>>750
wikipediaによれば平城京では汚物を川の水で流す事になっていたが、水量不足で
うまく流れなかったようだから、その事じゃないか?
754日本@名無史さん:2009/11/29(日) 00:47:26
あげ
755日本@名無史さん:2009/11/29(日) 08:33:01
>>752
中世以降は朝廷でも大納言や中納言は全部、権官じゃなかった?
756日本@名無史さん:2009/11/29(日) 14:32:10
スレ違いかも知れませんが
太平洋戦争時に日本軍はシンガポールや香港占拠しましたが
シンガポールは日本軍撤退後独立戦争でフランス?オランダ撤退させましたが
香港は何故中国はドサクサに紛れ奪い取ることできなかったの?
757日本@名無史さん:2009/11/30(月) 00:33:00
さげ
758ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2009/11/30(月) 01:44:16
藤原京かな水洗トイレ機能しなかったの。
759日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:11:04
>>756
ベトナムやインドネシアは、支配者に対して被支配者が叛旗を翻した。
だが、中国とイギリスは同盟を結んで日本と戦争していただろう。
760日本@名無史さん:2009/12/01(火) 10:37:20
戦後になってベトナムが最初に戦争をしたのはカンボジアやフランスだもんね。
フランス軍が敗色濃厚になったところでアメリカがフランス支援の形でベトナム戦争に参戦。
761日本@名無史さん:2009/12/01(火) 19:24:29
25軍ってのは精鋭なんですか?
それとも栄転扱いの閑職なんですか?
762日本@名無史さん:2009/12/03(木) 00:06:43
あげ
763日本@名無史さん:2009/12/04(金) 20:19:32
他で質問したのですが、明確な答えが頂けなかったので
こちらで一度書いてみます。

なんで金や銀って昔から価値、需要があったんですか?
平安時代などは中国のお金なんかが流通してたとききます

戦国時代になって、金山を掘り起こして、金の価値が飛躍的に高まっています。
いまでこそ、金は鉱物資源であり、信用も付加価値もありますが
なぜ戦国時代、大昔の人々まで金に魅了されたのでしょうか?
いってみれば、ただのいしころじゃないですが、なにに価値を見出して
金がもてはやされ、大事にされてきたのでしょうか?
鉱物として純度が高いとか、いろいろききはしますが
そんなことをクレオパトラや始皇帝の時代になんの意味があるのでしょうか?

黄金があれば、飯がくえるわけじゃないし、持っていても略奪されるだけで終わり
明治以前の日本の米本位制度の方がなっとくできます。

結構みんなが抱いてる質問だと思うんで、よろしくおねがいします。
764名無し募集中。。。:2009/12/04(金) 20:55:23
伴嵩蹊の近世畸人伝に出てくる
二百歳以上生きたっていう香具師と
二日にいっぺんしかメシを食べれないくらい生活に困ってた香具師って
なんて名前でしたっけ?
765日本@名無史さん:2009/12/04(金) 22:24:52
>>963
単純に、分かりやすくキレイだからじゃないの?
心沸き立つ華やかさ、きらめき
そこから始まってるんじゃない?
766日本@名無史さん:2009/12/04(金) 23:23:04
とあるアニメを見ていたら、江戸城無血開城の場面で、徳川慶喜らしき人物が帽子をかぶって行列と共に門を出るという描写がありました。
髷は結っておらず、短髪より長めの髪の毛で(ハイカラなじいさんっぽく)描かれていましたが、実際にはどういう格好で江戸城を出たのでしょうか?
767日本@名無史さん:2009/12/04(金) 23:33:33
>>766
すいません、この質問取り下げます。
全然違う人物でした。
768日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:00:35
>>763
金はもちろんだが銀も意外と変質しない。
その点が通貨として利用するのに都合が良かった。
後日本ではどうか分からんのでスレ違いになるがヨーロッパでは銀の殺菌作用を生かして食器などに使われています。
769日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:24:16
欧州史だとハプスブルク家などは「後継者難の家と婚姻し、相手が"幸運にも"断絶したら財産を吸収する」といった「結婚太り」で所領を拡大しています。

我が本朝でもそのような事例は平安貴族や御家人・大名階級などで存在するのでしょうか?
江戸時代だったら幕府が神経を尖らせそうな現象ですが……。
770日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:38:07
平安時代の荘園は個人のもの。藤原道長とか鳥羽上皇の荘園であって藤原家の荘園でも天皇家の荘園でもない。
誰が受け継ぐかは本人が決めるか、本人が決めたことにして後継者たちが決めるかだから、平安貴族は結婚太りみたいなのは難しい
江戸時代は絶対無理。断絶したら天領編入、断絶してなかったことにするなら後継者の所領。

鎌倉以降、江戸幕府成立まではなんだかんだ言って取ったもん勝ちな世の中。

出来るとしたら平安時代ぐらいだが、難しいだろうな。
771日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:48:19
ご回答ありがとうございます。
日本の中世と欧州のそれでは土地の保有の形態というか、法的根拠のようなものが違うのでしょうかね……。
欧州だったら王様を無視してやりたい放題なイメージがありますが、日本だと基本的にお上に逆らわないですし。
772日本@名無史さん:2009/12/05(土) 01:28:56
>>763
昔の日本では仏像に金箔を張るのに必要だったとどこかで聞いた。
773日本@名無史さん:2009/12/05(土) 01:31:31
律令制度の”国司”について、教えてください!

国司、例えばどの国でもいいのですが、武蔵の守・相模の守・薩摩の守とかです。
奈良〜平安時代の朝廷が実権を持っていた頃は、
国司は、地方長官として実権を持っていました。

戦国時代の羽柴秀吉の「筑前の守」とか江戸時代の大岡忠相の「越前の守」とか
は、完全に実権を伴わないですよね!

国司が実権を失ったのはいつ頃でしょうか?
鎌倉時代の朝廷が幕府に敗れた承久の乱後、
南北朝期で南朝が幕府に敗れた後とか、色々調べて考えていますが、
はっきりしません。
774日本@名無史さん:2009/12/05(土) 20:27:32
荘園の話で鳥羽上皇と藤原道長一緒に出すなよ。
無知晒すだけ。
道長の頃はともかく、貴族で家が成立していく院政期には、荘園はもう個人のじゃない
775日本@名無史さん:2009/12/05(土) 20:30:26
鎌倉期から徐々にが正解
教科書的にはいわゆる「守護大名」が国司の権限吸収してったからその辺となる
776日本@名無史さん:2009/12/05(土) 21:28:32
>>774
じゃあ、美福門院が鳥羽法皇の寵愛を受けたためその荘園の多くを相続して、当時最大の荘園領主だったってのは嘘なのか?
777日本@名無史さん:2009/12/05(土) 23:29:40
真言立川流というのは本当に存在した宗教なのでしょうか?
そして、その教義・儀式には、本当にセックスが関係していたのでしょうか?
778日本@名無史さん:2009/12/06(日) 00:00:13
>>777
妄想です
779日本@名無史さん:2009/12/06(日) 01:34:27
>>777
批判した側の資料しかないので真実は不明らしいです。
780名無し募集中。。。:2009/12/06(日) 21:39:55
荻生徂徠の政談の内容は
どのくらいまで
徳川吉宗将軍の政治に反映したのですか?
781日本@名無史さん:2009/12/06(日) 23:18:53
地区名があるのに、地図には載っていないというのはどういう理由が考えられますか?
 
どう説明すれば良いか分かりませんが、○○市 ××町 △△ とすれば良いのに、
△△がないため、××町 〜番地(この番地が1000番代まである)となってしまい、
住所を聞いても、どの辺りを想像すれば良いのか分からない現状です

田舎で、人がまばらにしか住んでないから?とも思ったのですが、
まばらにしか住んでなかったら、それこそ細かく地名を付けないと混乱しますよね…
ちっとも分かりません

よろしくお願いします


782日本@名無史さん:2009/12/06(日) 23:31:08
>>781
俺の本籍地もそんな感じだな。理由は判らんが、多分行政側の管理の都合だな。
長いとコンピュータで処理するのに不都合とか、そんな感じ!?
783日本@名無史さん:2009/12/06(日) 23:35:17
××町一体がその昔殿様の屋敷でもあったところで維新以降分譲されたとか。
784781:2009/12/06(日) 23:48:26
市からの封書には、○○市××町〜番地 (△△地区)とあるんです
転入届けを出したときも、地区名は分かりますか?と聞かれました

確かに、殿様の屋敷はありました。藩校も残ってます
そっち関係で調べてみたら、何か分かるかもしれませんね!
有難うございます!

785日本@名無史さん:2009/12/07(月) 01:47:42
>>781
逆に細かすぎてわかりずらいので統合したり
飛び地がけっこうあってその整理のためとかと聞いた覚えがあります。
786日本@名無史さん:2009/12/09(水) 14:23:14
>まばらにしか住んでなかったら、それこそ細かく地名を付けないと混乱しますよね…
地名って主に人がいる所に付ける気がするが・・・
集落名が最小単位で
一戸や二戸のために地名を付ける方が変じゃない?
787日本@名無史さん:2009/12/12(土) 19:49:42
黒田如水の生きていた当時の評価を教えてください。
豊臣秀吉は彼の才覚を見抜いていてさらに野心があることも見抜いていたようですが、
他の武将はどう評価していたのでしょうか。
野心家とみていたのか、誠実な人間と見ていたのか。
788日本@名無史さん:2009/12/14(月) 02:14:33
とうの昔に隠居していたはずの如水が九州を物凄い勢いで切り取り
しかもその領地をそっくり家康に献上し
恩賞とか別にいりませんと嘯いているのを見て
多分彼の真意を理解していない秀忠は「今世の張良」という評語を残した

もうひとつ、全然別のとき、こちらは小早川隆景の評だが
「黒田殿は頭が切れるしものを考えるのが早いが、
 その分拙速ゆえの失敗をすることがある」
そこへもってくると俺様慎重居士だから失敗しませんよ、という話
789日本@名無史さん:2009/12/14(月) 02:25:55
さらに前の話
官兵衛(まだ如水じゃない、官兵衛)が
有岡城で反乱を起こした荒木村重の説得に向かい
そのまま行方不明になったとき
信長は「あいつ裏切ったっぽいから人質(のちの長政)殺せ」と秀吉に命じた

それを知った竹中半兵衛が秀吉に言った
「私が始末しますから人質をお預けください」秀吉はそうした
が、半兵衛は「黒田殿は絶対に裏切るような人ではない」と信じていたので
こっそりと長政を匿って助けた

如水はまあ実際野心家でもあったかもしれないが
全体としてはこいつお人よしなんじゃないかってくらい誠実で義理堅い
有岡城で親切にしてくれた牢番にまで義理を立て
その子供を養子にして黒田家の重臣に取り立てたほど
790日本@名無史さん:2009/12/14(月) 12:48:27
>>789
>その子供を養子にして黒田家の重臣に取り立てたほど
人の上に立つ者はその位でないと。中国の故事で将軍が兵卒の労をねぎらったかなんかした際に
その兵の母親が泣いたという話が有る。この子の父も昔将軍にねぎらってもらって感激して死にもの
ぐるいで戦って死んだ。この子もきっと戦って死ぬだろう。果たしてその通りになった。
791日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:59:17
質問です
ここにあげるのは菊池寛の「勝負事と心境」のなかで引用されている文です
江戸時代の名人大橋宗桂の将棋に対する心構えらしいのです
(ただし名人大橋宗桂は江戸時代に3人おりそのどれかはわかりません)
全文は以下で見られます  http://maris-stella.hp.infoseek.co.jp/essay/essay018.html#04


予象戯 しやうぎ深望の余り万一斯くの如き心持にて其れを執行致さずば罰す可し、思慮の工夫書附畢 をはんぬ 
   象戯 しやうぎ箇條之次第

一、気の勝気の負と云ふこと、業 わざの勝業 かちわざの負と云ふこと、位詰めの勝位詰の負と云ふこと、熟未熟と云ふこと、

見届けると云ふ事、見切ると云ふこと、始中終と云ふ事、気のそゝると云ふ事、気のいらつと云ふ事、気のおこたると云ふ事、
拍子に乗るといふ事、位を見ると云ふ事、ねはきと云ふ事、早きと云ふ事、遅きと云ふ事、麁相 そさうと云ふ事、芸にはまると云ふ事、

気のせわしきと云ふ事、気の静かと云ふこと、気の戻るといふ事、気のこると云ふ事、気の離ると云ふ事、気の移るといふ事、
気のおこると云ふ事、気の練ると云ふこと、気のゆるむと云ふ事、気の軽重と云ふこと、気をうばはるゝと云ふ事、
気のはやると云ふ事、気と業 わざと一致といふ事、業のひゝきと云ふ事、業の移ると云ふ事、相人 あひてを恐ると云ふこと、

両王手と云ふ事、駒をなると云ふ事、待駒と云ふこと、歩を切ると云ふこと、
受けとめると云ふ事、指組 さしくみといふ事、盤果気充 きみつと云ふ事。
右百箇條は象戯工夫の便ともならんと予一心の楽みに任せ筆する者也
元禄十一寅年春三月吉日

ここで私が知りたいのは

予象戯 しやうぎ深望の余り万一斯くの如き心持にて其れを執行致さずば罰す可し、思慮の工夫書附畢 をはんぬ 

の意味です。  その下にいろいろあげている「○○と云ふこと」を万一でもやったらいけませんよってことですか?

気のいらつと云ふ事、気のおこたると云ふ事、気のせわしきと云ふ事、なんかは確かにやっていけないような気がしますが
両王手、駒をなる、待駒、歩を切るなどは現代将棋では特に悪いことではないと思うのですが昔はマナー違反だったのでしょうか?
792日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:43:17
>>791
冒頭に「思慮の工夫」とか、最後に「象戯工夫の便ともならん」と言ってる如く、
何れも(そこに掲げた百個條)、常に「忘れるな!」常に「心掛よ!」と言ってる――と解せる。

従って、両王手、駒をなる、待駒、歩を切る――は、それらを常に忘れるな(相手からそうされるのを)、
という意味になる。
なぜなら、続けて、「指し組」(相手の奇襲のこと)「盤果気充」(盤上、気を充実させよの意)
と言ってるから。

いえ、将棋のことは全然知りませんよ――ただ、文章そのものが「やってはいけない」と言ってるのではなく、
「心構え、心掛け」を書いた文体である、ということです。
だから、あなたが言うマイナス要素の事柄は、「注意せよ」という事項なんでしょうね。
793日本@名無史さん:2009/12/16(水) 05:54:54
>>792
ありがとうございます

万一「○○と云ふこと」に対する心がけを忘れては罰っせられますように

ってようなことですか。逆にとっていたようですね 「をはんぬ」とかまったくわからない言葉が
あって完全に勘違いしてしまったようです。
794792:2009/12/16(水) 11:46:22
>>793
> 万一斯くの如き心持にて其れを執行致さずば罰す可し
――は、「次の心構え・注意事項を実行できなければ(みずからを)罰するべきだ(反省すべし、の意)」
というのが直訳ですが、単に「次を心掛けるべし」というのを強調した表現に過ぎません。


> 畢んぬ(をはんぬ)
――は、「終えた(おえた)」。
「書附(かきつけ)畢んぬ」だから、「記録しておく」・「書き出しておくよ」という意味。


※クドくなりましたが、言葉足らずだったので、あえて再レスしておきます。
795日本@名無史さん:2009/12/16(水) 18:27:10
石原完爾は原爆が戦争を終わらせる、といろいろ理解してたのに
何故満州事変を起こしたのでしょうか?
796日本@名無史さん:2009/12/16(水) 22:12:38
>>794
さらに詳しい説明ありがとうございました
797日本@名無史さん:2009/12/17(木) 00:37:27
江戸初期には、何万も動員出来た徳川家が、幕末には何千ほどの兵しか動員出来なかったのは何故ですか?やっぱ金ですか?
798日本@名無史さん:2009/12/17(木) 01:44:50
第二次長州征伐の動員兵力は15万。
別に数千しか動員できなかったわけではない。
突発的な局地戦である鳥羽伏見の戦いですら
1万5000人が幕府側で参戦している。

諸藩が財政難から恒常的な軍縮傾向にあったことと
1万5000だろうが15万だろうが
案山子くらいの役にしか立たなかったことも確かだがな
799日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:33:20
>>775さん!回答、ありがとうございます。
>>773です。

国司が実権を失ったのは、
承久の変で、朝廷権力<<幕府となって、
武家政権が朝廷を圧倒した頃から徐々にその実権を失い、南北朝期末期に
室町幕府が南朝を圧倒し、朝廷が統一された頃には、ほぼその実権を失い形骸化
したそうですね!
そして、戦国期以降は、受領名は武将の名誉職的名乗り(名国司)になったとか。
800日本@名無史さん:2009/12/21(月) 17:11:19
前原一誠が新政府から離脱した理由は具体的に何故ですか
何が不満だったんですか
801日本@名無史さん:2009/12/22(火) 22:08:41
幕末・維新当時の日本人ですけど、彼らに「新しい日本ができようとしている」という革命意識とでも呼ぶようなものは共通認識としてあったのでしょうか。
なんというか久光の逸話などを聞くと、そういう意識を持っていたのは中間層のほんの一部だけで、殿様連中も一般庶民も圧倒的多数は「徳川幕府の次は島津幕府か毛利幕府さ」ぐらいにしか思っておらず、そこを大久保や桂がだまくらかしたのではと疑ってしまうのですが……。
802日本@名無史さん:2009/12/22(火) 22:56:59
ウィキペディアの島左近のページ↓に
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88
左近の部隊と関ヶ原で交戦した黒田長政の部下たちが
のちに悪夢を見るようになった、という逸話が
常山紀談出典として掲載されていますが

岩波文庫の常山紀談上中下巻(1938〜1940年初版)
をざっと眺めてもそれらしき記述がありません

巻13「関ヶ原嶋左近討死の事」とは別のところにある記事なのでしょうか?
803日本@名無史さん:2009/12/23(水) 02:13:44
岩波の本を読んでないのではっきりしたことは言えないけど、一部抜粋とかはよくある話。
804日本@名無史さん:2009/12/23(水) 18:55:48
室町期以前、何かの大きな戦いのとき、
どこかの将軍が「決戦を行うなら関ヶ原」と検討していた、
という話をうろ覚えしているのですが
いつ誰のことだったか、どなたかご存知ではないでしょうか?

おおざっぱに言って、天武天皇(壬申の乱)か
源義経や木曾義仲(源平合戦)か
北条泰時(承久の乱)か足利尊氏(南北朝動乱)か、
そんなあたりの、かなりの大物クラスだったと思うのですが


805日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:54:16
壬申の乱は一応関ヶ原あたりで戦闘開始。決戦は大津あたりのはずだが。
後後醍醐天皇の軍勢が足利尊氏に大敗したのも関ヶ原近く。
806日本@名無史さん:2009/12/25(金) 16:02:54
>>801
とりあえずは「夜明け前」でも読みたまえ
807日本@名無史さん:2009/12/26(土) 10:48:24
花押影ってなんですか?
書き写しの意味とは思うのですが、どういう形状が本物の花押と違うのでしょうか。
輪郭を書き写しているのか、まったく寸分違わないコピーがされたものなのか。
写か本物か不明な文書に「花押影」と書かれているのもありますよね?
808日本@名無史さん:2009/12/26(土) 12:14:32
>>807
私の勝手な推測ですが、花押の印影のことではないでしょうか。
原文ではそこに花押が押してありますよって意味で
809日本@名無史さん:2009/12/26(土) 12:15:53
>>808
その通りです
810日本@名無史さん:2009/12/26(土) 13:53:32
(花押)と(花押影)の使い分けがされてるのもあるね
811日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:51:51
あげ
812武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/12/27(日) 03:09:15
>>805
関ヶ原あたりというよりほとんど関ヶ原。
古戦場ほとんど重なっている(実見した)。
813日本@名無史さん:2009/12/27(日) 10:38:32
第一次世界大戦で日本は大きな犠牲もなく大もうけしたはずなのに、
終戦後にモータリゼーションや重化学工業が大きく発展しなかったのは
なぜですか?
莫大な賠償金を課せられたドイシや、大戦と革命で疲弊したロスケさえ
やってるのに。
814日本@名無史さん:2009/12/27(日) 11:34:01
日本の工業も大きく発展したよ。
後の零戦や戦艦大和に代表されるように世界一の戦闘機・巨艦を続々造り出した。
その過程で巨大コンツェルンが幾つも生まれている。
何せ、外国からの債務はゼロになった時代で、そんな国は当時、日本とアメリカしか無かった。

生産高でアメリカに次ぐ大産業国家であったことは確か。
815日本@名無史さん:2009/12/27(日) 11:55:35
山棲み集落の解釈を教えてください
816日本@名無史さん:2009/12/28(月) 00:31:56
モータリゼーションって国民の生活レベルにも関係するんじゃね?
817武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/12/28(月) 00:59:01
>>816
まあ今じゃその段階は、むしろそれは若干遅れた国だろーね。
宇沢弘文という人の書いた『自動車の社会的費用』という名著がオススメ。
818日本@名無史さん:2009/12/28(月) 20:59:01
>後後醍醐天皇の軍勢が足利尊氏に大敗したのも関ヶ原近く
学生のときに俺がこう言ったら、岐阜出身(ピンポイントの地元)の香具師が「全く違う。近くとか同じとか言うな」と息巻いていた
まぁ俺が淀川と大川は違うから区別しろと言っても地元以外の人間から同意は得がたいようなものか…

>813
独と露は発展する下地と有為の人材がいたのに対し日本は国内事情がそれを許さなかった

WWU戦後我が国にロボット産業が興隆したのは手塚治虫氏の功績だとか欧米では宗教意識が邪魔をしたと言われているが
WWU戦前の我が国では機械化は人民の職を奪う敵であるとの認識が支配的だった
重化学工業が朝鮮北部や満洲で特異な発展を成したのは日本国外ではその種の制約も無く、マンパワーの小さい国土を発展させるのに有用だったから

有名な話としては八木アンテナが国内では注目されず海外で実用化された例があるが、戦前の日本にはこの種の特許の価値を知らず海外に手放す事例が幾つかある
進駐軍が日本にやってくるまでの我が国は農本国家でしかなく国民の意識のもんだいが根底にあるのではないかと
819日本@名無史さん:2009/12/30(水) 11:37:42
室町はともかく、鎌倉幕府も江戸幕府もその末期には上は幕閣から下は御家人まで借金まみれになっており、その経済的混乱が体制の崩壊の一因につながった、と認識しています。
さて体制が改まった後ですが、それらの借金はしっかりと清算されたのでしょうか?
たとえば「江戸幕府やなくなった藩の借金はすべて明治政府が同額で引き受ける」などといったかたちで。

それとも混乱のさなかでうやむやになり、商人達は踏み倒されてしまったのでしょうか?
820日本@名無史さん:2009/12/30(水) 12:25:36
江戸時代の豪商が没落したのは大名への借金が踏み倒されたから
各藩の外国からの借金は日本の対外信用に係わるとして明治政府が代弁した
821日本@名無史さん:2009/12/30(水) 13:43:07
>>820
あれっ? 江戸時代の豪商って、以後没落したっての無いじゃないの?
みんな明治後の企業やコンツェルンにつながって大発展。
これらと渋沢栄一なんかの新興事業家との軋轢の経過は現代日本産業史上著名な史実。

そうで無いと渋沢栄一達は誰と四苦八苦して格闘したことになるんだ?
(遂に前時代からの巨大商人達には勝てなかった=提携買収したのは皆中小と新興企業ばかり)

幕府から鑑札を受けていたいわゆる豪商は、江戸・京・大坂の商家全て新時代に巨大化。
そもそも、大名貸程度で元気の無くなる「豪商」なんか無かった。(そんなことどこに書いてあった)

入門書としては、駒敏郎著『江戸豪商の謎』祥伝社(昭和53年2月5日初版)に詳しい。
822日本@名無史さん:2009/12/30(水) 13:58:26
大名貸し(藩債)
明治6年に定められた藩債引き受けの細則では
1843年以前の債務を帳消し。
1844〜1867年の債務は無利子50年賦、
1868〜1872年(明治元年以降の5年間)の債務は4分利子25年公債で償還。

藩債のほとんどが1843年以前から積上げられていたもので、それがすべて貸し倒れとなります。特に新政府の中枢になった薩摩、土佐藩の債務は莫大なものでした。
それが「無かったこと」になったのです。藩のカネを使いまくった(私用に流用した)藩首脳ほど、食い逃げして儲かる結果になりました。

さて、多額の「大名貸し」をしていた大坂の両替商にとっては最悪の事態です。
明治元年の「銀目停止(ぎんめちょうじ)」(関西で流通していた銀貨の取引停止)でも打撃を受けていた大坂の両替商はこれで息の根を止められます。
大手両替商の天王寺屋、加島屋、平野屋、升屋、炭屋、茨木屋、泉屋らが一斉に倒産しました。
この「銀目停止→新通貨移行→藩債帳消し」の政令によって、大阪は日本経済の頂点から転落。日本中のカネ(円)を中央政府に集中させ、政府首脳が食い物にする基盤が出来上がります。

新政府にとって、大阪に大資本が集中する構造はなんとしても転換しなければならない課題だったのでしょう。
一方で、徳川時代に外国貿易の担い手となった藩営事業(生糸輸出など。前橋藩や上田藩他)や各藩の所有船舶もすべて政府に取り上げられることになります。
これがそのまま「政商」三井の手に渡るよう画策したのが日本国郵便蒸気船事業です。

経済学的な捉え方をすると、太閤検地から延々と続いた米本位制が崩壊したということになり、「土地経済」から「貨幣経済」へ移行しました。
823日本@名無史さん:2009/12/30(水) 14:26:10
> 天王寺屋、加島屋、平野屋、升屋、炭屋、茨木屋、泉屋
「豪商」に当たらない。今でいう中小の銀行。中小の銀行が世の変化で倒産するのは当然の現象。
それに、それらは各藩からの商品の販売を扱った回船問屋じゃないか!「豪商」じゃ無い!
第一、維新政府の資金はどうなんだい?皆「豪商」がタダで提供。

「豪商」というのは、幕府から「大いなる商人(あきんど)」として鑑札を得ていた大店(おおたな)。
江戸、京、大坂に限られる――営業許可の鑑札ではない(そんなの幾らも有る)。
倒産どころか潰れた大店が1軒でもあるか?って意味だ。
それを、「豪商」って言うんだ。
824日本@名無史さん:2009/12/30(水) 14:36:00
話相手が欲しいレス乞食?
悪いが俺は馬鹿が嫌いだから
そういう口の利き方しか出来ない奴に知識を授けてやろうなどとは考えていない
お前の中ではそういう理解で構わないんじゃねぃ
それで誰が困る(苦笑
825日本@名無史さん:2009/12/30(水) 15:17:00
口が悪いと読む気は失せるな
826日本@名無史さん:2009/12/30(水) 17:53:26
かつて大和時代と呼ばれていた時代が、その後、奈良時代と呼ばれるようになった理由は何ですか?
827日本@名無史さん:2009/12/30(水) 18:47:04
>>824
> そういう理解で構わないんじゃねぃ

って、>>823が客観的事実じゃねえか。
悪態をつかずに、違うならマトモな反論を書きなさい!
828日本@名無史さん:2009/12/30(水) 19:16:25
>>826
大和時代=古墳時代


奈良時代は昔から奈良時代のまま
829日本@名無史さん:2009/12/30(水) 19:45:03
>>827
>>824
>> そういう理解で構わないんじゃねぃ

>って、>>823が客観的事実じゃねえか。
>悪態をつかずに、違うならマトモな反論を書きなさい!

それが客観的事実なら反論しなくていいじゃん。
何がしたいんだか、ほんとに。
830日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:25:46
「豪商」の定義に相違があるだけだな。
放置して次でいいんじゃね?
831日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:13:17
>>818
県庁所在地出身な805としては近くで良いだろと思ったが。
詳しく言うともう少し東だったか?

とおもってググって見たが青野原の戦い自体は南朝が勝っているんだな。
主戦場は今の大垣市から垂井町あたり、関ヶ原町から見ると地元じゃないな。

で関ヶ原を抜くことが出来ず、方向転換。最終的には破れると。
832日本@名無史さん:2009/12/31(木) 21:21:50
古代日本の五畿七道ですが、「東海道」「南海道」「西海道」があるのになぜ「北海道」が無かったのでしょうか?
語呂的には「北」がないのは収まりが悪いですし、
地理的に見ても都から南西方向の紀伊・四国が「南」なら山陰道や北陸道が(ちょうど北方の海に面していますし)北海道と呼ばれても良かった気がするのですが。
それとも陸奥や出羽、あるいは蝦夷が島を征服してから命名する予定だったのでしょうか?
833日本@名無史さん:2009/12/31(木) 21:42:24
畿内の北は海だから。
834ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2010/01/01(金) 16:53:32
たしか日本海が北つ海だけど関係あるかね
835日本@名無史さん:2010/01/01(金) 17:06:34
曖昧なので教えてほしいんだけど
・日本で初めての全国政権ってどれになるの?
聖徳太子のころの大和王権って蝦夷はともかく東北も含めた全国の豪族を傘下に納めていたのでしょうか?

・大和王権って具体的にいつごろ出来たとかわかってるのでしょうか?

・3〜9世紀ごろの飛鳥、奈良、平安京の政府や人間にとって九州や関東、東北などは
完全に朝鮮と同じぐらいの外国扱いなんでしょうか?
836日本@名無史さん:2010/01/04(月) 14:20:50
上:どこまで征服すれば「全国」と言えるかの定義次第。
  聖徳太子の頃だと東は関東・越後あたり、西は北九州あたりまでか。
  南九州は大隅国設置が713年、隼人の反乱が720年、
  種子島・屋久島の大隅編入が824年。
  東北は…東北の全豪族が傘下に入ったのは平安時代以降だな。
  ”全豪族”という縛りをつけないなら、飛鳥〜平安時代にかけて徐々に傘下に入れていった。


中:「一定規格に基づく前方後円墳が全国(上述)展開した時期」と考えると
  3世紀中頃くらいに成立した物と考えられる。


下:九州は外国扱いなどありえない。中国・朝鮮半島外交の玄関口だし。

  関東は…役人を派遣したりはしていたんだから外国ではないでしょ。
  中級以下の貴族にとっては「国司として赴任する可能性のある場所」だ。
  (律令成立以降は)

  東北はある程度外国扱いだったと言えるかもしれない。
837日本@名無史さん:2010/01/05(火) 00:28:43
漠然とした疑問で申し訳ないですが、律令国って
どんな経緯で決められたんでしょう?
陸続きなのにほんのわずかの面積で独立した志摩とか、
よそに比べてやたら細々とした山陰地方、妙に南北に長い
信濃とかが特に不思議です。
838日本@名無史さん:2010/01/05(火) 00:51:20
基本は山川で分けられた。志摩は宮中や伊勢神宮に海産物を収めるための特別措置。

839日本@名無史さん:2010/01/05(火) 01:57:06
>>837
国造を統合・分離した
840日本@名無史さん:2010/01/05(火) 02:29:49
関東地方が平安期族の感覚で
「あづまぢの道の果てよりもなほ奥つかた」だものなぁ。
東北となるともはや魔界だろう。
841日本@名無史さん:2010/01/05(火) 13:58:52
質問です。
全国に分布する四日市とか六日市などの地名は三斎市の名残で、
それぞれ4,6のつく日に市が開かれていたのが名前の由来だそうです。
では、廿日市はどういう由来なのでしょうか?
842日本@名無史さん:2010/01/05(火) 14:13:56
廿日(はつか)に市が開かれていたんだろうよ。
843日本@名無史さん:2010/01/05(火) 14:23:10
ちなみに常設(毎日)の場合は、今市
844日本@名無史さん:2010/01/05(火) 14:47:59
録画をしておいた坂の上の雲を見たら、
秋山好古の軍帽の鉢巻が黄色だったのはなぜでしょうか。
乃木が赤線で森鴎外が緑であったのに、気になっています。
845日本@名無史さん:2010/01/05(火) 18:07:26
>>842
月に一度だけですか?

>>843
それは知らなかった。ありがとうございます。
846日本@名無史さん:2010/01/05(火) 23:16:48
武士の来歴を
ご先祖様が子孫に封印するとしたら

なにかやらかしちゃったんでしょうね
847日本@名無史さん:2010/01/06(水) 01:10:35
いつ封印したかにもよるが。
848日本@名無しさん:2010/01/06(水) 15:01:09
個人に不祥事があったか、賊側に立っていたかってところだろ。
849日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:28:41
平安時代に建てられた今現存する京都の建物は実はほとんどない
平安以前か鎌倉以降のものばかりって聞いたんだけど
これって本当なんでしょうか?
850日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:59:28
>>838-839
志摩についてはそういう事情か。
あと山川や、古来の豪族の勢力圏によるってことか。
851日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:09:06
>>849
中世や近世になってほぼ丸ごと修復しているものをどうするのか、
また京都ってのは洛中を指しているのかそうじゃないのかも気になるんだけど。

洛中でそのまま残っているという意味ではほぼ無い。
何度も街が丸ごと燃えてるんだから仕方ない。

ただしもうちょっと範囲を広げると、三千院の阿弥陀堂、
醍醐寺(の五重塔など)といった風にいくつか挙げることができる。
さらに広げると平等院鳳凰堂や浄瑠璃寺なんかも当然入ってくる。
852日本@名無史さん:2010/01/09(土) 04:30:52
一位殿 二位殿 などの官位の表記を見たことがあるのですが
これは「いちいどの」と「いちいでん」、どちらの読み方が正しいのでしょうか?

また、例えば藤原さんのことを指す時に
「藤原一位殿」と「一位殿藤原」、名前を先に書くのと後に書くのとどちらが正しいのでしょうか?
853日本@名無史さん:2010/01/09(土) 21:10:13
質問です。
鎖国した後、日本とオランダはどんな物を貿易していたのですか?
それまで日本が輸入していた生糸は日本でも生産できるようになったし、
逆に主力輸出品だった金銀は生産が減ったし、貿易品として今ひとつ不明です。
854日本@名無史さん:2010/01/09(土) 22:56:40
日本人はどこから来たんですか?
現在、南方から来たとの説が有力ですが、
どの島からどのような手段で渡来したんですか?
855日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:22:54
>>854


どの島か突き止めたら歴史に名前が残る
856日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:30:01
>>855
当時の日本人に、外洋航行に耐えうる大型のガレー船や帆船が作れたのか?
857日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:31:30
まだ大陸と陸続きだった頃に来たんじゃねえの?
ソースはドラえもん・日本誕生
858日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:32:29
>>853
金銀は生産が減って輸出禁止になったんで
輸出のメインは銅だった

輸入品はいろいろ
実際には中国−日本間の中継貿易に過ぎない部分も多いが
いろんな珍しいヨーロッパの産物が市井に流通していた
たとえば、オランダ製の眼鏡は高級品として珍重された
859日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:35:19
>>856
そんなものはいらない。
百回に一度しか生きて日本列島にたどり着けない
一人乗りのぼろいイカダやヨットだったと考えても
一万人が新天地を目指せば百人が新天地にたどり着き
そこで子供を増やして定着することも可能だ。
860日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:41:34
>>859
今居る島で生活すりゃええのに、誰がそんなリスクを取るんだよ?
861日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:02:14
神のお告げ
冒険心
飢饉
自然災害
難破
862日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:04:06
>>860
みんながおまいさんと同じ思想だったら、
人類はまだみんなアフリカ大陸で暮らしてるだろうな
863日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:20:48
日本とは関係ないが、ニュージーランドの先住民マオリ族の神話に
「最初にニュージーランドにやってきた人間」の逸話があって

「人妻をかっさらってカヌーで駆け落ちしたら偶然辿り着いた」

というのがマオリ族勃興の経緯だそうだ
864日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:47:44
まじか?って疑うようなボロ船に、人が寿司詰め状態で日本にたどり着いたベトナム難民の船は、つい2.30年前の話なんだけどなぁ。
古代に遡らなくても、答えは身近にあるものなんだが・・・
865日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:33:50
>>864
どんな船?
水や食料は?

排泄物はどうしたの?
866日本@名無史さん:2010/01/10(日) 08:49:29
>>865
それぐらい人に聞かなくてもすぐ調べられるだろ
図書館で半年ROMってろ
867日本@名無史さん:2010/01/10(日) 09:51:25
お世話になります。
荘園用語についての疑問です。言葉の違いがよくわかりません。
本家、本所、領家、預所
荘官、荘司、公文、名主、下司、地頭
868日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:54:39
彫り物ってヤクザ(博徒や的屋)の文化なの?
例えば戦前の右翼や肉体労働者が気合を入れる為にしてたとか
そういうのはなかったのでしょうか?
869日本@名無史さん:2010/01/10(日) 16:01:23
>>866
調べてみたけど、1975年に二人のベトナム難民が
日本への亡命を拒否されたというニュースと
1978年以降に難民受け入れが始まった記録しか見つからなかった
870日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:45:37
>>868
ボートピープルでぐぐってみた?
871日本@名無史さん:2010/01/10(日) 21:30:33
時代区分について質問
なんで平城京が中心の時代を平城時代ではなく奈良時代っていうの?
ていうか飛鳥も奈良だし

あと710-794までが奈良時代ですが
最後の10年は藤原京なのになんで奈良時代に含まれるの?

安土桃山時代って政治の中心が安土=織田、大坂=豊臣だから
安土大坂時代が正しいのではないの?
872日本@名無史さん:2010/01/10(日) 22:22:23
江戸時代,商人がお金で武士の位を買ったそうだけど,商人によって武士の位はどの様なメリットがあったの?
873日本@名無史さん:2010/01/10(日) 22:23:34
>>872
× 商人によって
○ 商人にとって
874日本@名無史さん:2010/01/11(月) 00:09:11
>>872
名字帯刀の権利のことなら、「俺は大物ですよ」というのを商売に生かすため。
本当に武士として処遇されたという話なら俺には分からんが、農家や商人の息子がなんだかんだで武士になるなともかく(土方歳三とか)
商人が侍になるってのはほとんど無理、と言うか俺は新撰組しか知らん。
875日本@名無史さん:2010/01/11(月) 00:19:29
>>871
トレーズ閣下がエレガントじゃないと仰ったので織豊体制時代は安土桃山時代と呼ばれてます・・・
マジレスすると「後に桃山と言われるところ」に秀吉の居城があってそこが秀吉政権の中心地だった。秀吉臨終の地でもある。

奈良時代は平城が天皇の諡に使われたから平城時代だとずっと平城天皇が居たのかって勘違いするやつが出てくるんじゃないかって懸念から。
ちなみに平城京はへいじょうきょうですが平城天皇は「へいぜい」てんのうです。
876日本@名無史さん:2010/01/11(月) 01:08:30
>>868
(主に戦前)職人はけっこう入れ墨あったよ。
あと海に潜る人が魚(サメ?)避けで入れるなんてこともあったと記録されている
877日本@名無史さん:2010/01/11(月) 01:16:47
有名なところでは江戸の火消しは刺青をすることが多かった
当時は一種のファッションとしてまともな市民の間でも受け入れられていた

実在の遠山金四郎も刺青をしていたそうだけど(図案は桜吹雪ではない)
当時の彼はまあ不良の部類に入る
878日本@名無史さん:2010/01/11(月) 01:31:52
山田洋次がたそがれ清兵衛の時に
何か特別な日以外、一般人が毎日毎日頭を綺麗に完璧にそってたわけがないって
結構生えてきた髪の毛を結構汚く描いていたのですが

なるほど個人的にはそうかと思うのですが
江戸時代とかの一般人ってどうなんでしょうか?
山田の言ってるのが正しいのでしょうか?
それとも完全に否定されてる?
879日本@名無史さん:2010/01/11(月) 03:33:18
日本で信長、秀吉が活躍していた安土桃山時代に
世界でもエリザベス1世、フェリペ2世、イヴァン4世といった
類い希な実力者がいたのは単なる偶然なのでしょうか?
880日本@名無史さん:2010/01/11(月) 05:08:05
>>878
当時の絵画資料で山田のいうような光景は確認されない
881日本@名無史さん:2010/01/11(月) 11:16:23
>>874
ありがとうございます
評判のためでしたか
よく分かりました
882日本@名無史さん:2010/01/11(月) 11:48:32
>>879
ヨーロッパは当時中央集権化に邁進する時期jにあったので
強力な君主が多いのは当たり前
883日本@名無史さん:2010/01/11(月) 13:53:18
>>874
例えば坂本龍馬の先祖は農民から質屋になって、郷士の株を買った。
今思い出せないけど他にもあった筈だよ。
884日本@名無史さん:2010/01/11(月) 14:16:14
根岸鎮衛という侍は、御家人株を買うところから始めて
南町奉行にまで上り詰めている。

いちおう元々貧乏旗本の次男だか三男なんだが
本当は商家か豪農の出身だったんじゃないかって説もある
885日本@名無史さん:2010/01/11(月) 19:02:01
大神神社、伊勢神宮、住吉大社、出雲大社、大宰府以外で
5世紀以前に建てられた神社って他に何がありますか?
886日本@名無史さん:2010/01/11(月) 19:10:52
熱田神宮。
むしろ太宰府って神社としては菅原道真死んだ後何じゃないの?
887日本@名無史さん:2010/01/11(月) 19:17:54
岐阜だと、伊奈波神社と南宮大社は紀元前に出来たと「自称」している。
888日本@名無史さん:2010/01/11(月) 20:15:01
>>878
作品なんか観たこともないが、そんなこと言う山田洋次ってサヨクですか?
889日本@名無史さん:2010/01/12(火) 01:42:04
左翼とは無関係だろう。

でも月代なんかひげ剃るときに剃るわな。
890日本@名無史さん:2010/01/12(火) 15:15:56
>>872
商売は浮き沈みがあるし、個人の才能ってのも結構必要だ。
その点武士なら大人しくしていれば、毎年給料が入ってくる。
それに次男、三男を抱えていれば彼らの食い扶持も考えてやらないかん。
昭和の昔には、田舎の金持ちの商売人や大農家なんかは、
息子のために特定郵便局長の権利を買ってやっていたもの。これも似たようなもん。
891日本@名無史さん:2010/01/12(火) 15:40:42
>>874
武士の株ってのは普通に売り買いされている。形式上は養子という形を取ってるけどね。

たとえば勝海舟の曾祖父が越後の貧農出身の盲人。
盲人だけは高利貸しができたので、そこからスタートして大商家になった。
で、子供の中でも算盤のセンスがあった末子のために御家人株を買った。これが男谷家。

その海舟の祖父ってのは目論見どおりに頭がよかったようで、
幕府の勘定方として出世して男谷家を旗本に昇格させただけでなく、
庶子の三男のために旗本株まで買ってやった。これが海舟の父の勝小吉。
勝家は結構な名家なんだけど、その時代には落ちぶれて家屋敷も売ってた。
小吉は形式上は養子に出されたのだが、実家に住み続けたどころか、
貧乏な勝家の皆さんも一緒に男谷家の屋敷に住まわせてもらっていたらしい。

てなわけで、経理の才能や商才があったら結構農民から武士になれたのよ。
だからこそ小銭を持っている農民や商人は自分の子供を熱心に寺子屋に入れる。
892日本@名無史さん:2010/01/12(火) 19:48:13
>>879
いつの時代を切り取っても、同じような頻度で英傑が存在します
質問の前提自体が成り立っていません
893日本@名無史さん:2010/01/12(火) 19:59:02
江戸時代初期あたりの人物だった気がするのですが、
剣の道に迷っていたところ、坊さんのアドバイスを受け
新たな境地を開いた剣豪って誰ですか?
894日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:09:41
>>893
そんなのは作り事。史実では無い。
895日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:11:54
誰の話だ?
896日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:15:38
針ヶ谷夕雲のことじゃないの?
アドバイスくれた坊さんは虎白和尚と言うらしい

他にも似たような経歴のある剣豪がいるのかな…
897日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:18:17
ああ、史実では無いと断言されてるのか…
夕雲の逸話も作り事だったのか

じゃあワカンネ
898日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:35:36
それでした!針ヶ谷夕雲!
言われてみて、小笠原源信斎の関係者だったことを思い出しました

でも坊さんから心的な支えを貰ったという話はフィクションだったんすか
どこからそんな話が創られたのか、調べてみます
899日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:45:12
>>891
公家でも下級の諸大夫クラスは売り買いの対象だった。
900日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:18:05
平家って壇ノ浦で滅亡って事だけど
あの時点で平家とかかわりがある人間って全員皆殺しなの?
それとも清盛の近い人間だけが滅亡したのであって
それ以外の平家の分家とかは普通に鎌倉時代も生きていたの?
901日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:13:23
まずは賜姓皇族でぐぐる。話はそれからだ。
902日本@名無史さん:2010/01/13(水) 18:10:43
平安時代というか紫式部とか清少納言とか女性貴族たちのトイレとかどうしてたのでしょうか?
たとえば男は小便は拭かなくていいと思いますが
女性とか小便もウンコを拭く必要があると思いますが、紙なんか存在しないと思うのでしょうか?
使い捨ての拭く何かあったのでしょうか?

あと平城京は川がないと思うのですが
トイレとか衛生状態とかどうやって始末してたのでしょうか?
903日本@名無史さん:2010/01/13(水) 19:17:57
奈良時代にも平安時代にも紙はある。製紙専門の役人すらいた。
でもケツを紙で拭けたのは限られた貴族だけ。
ある程度以下の身分だと木のヘラで拭いていた。
うんこの箱の話は今昔物語があまりに有名なので省略。

平城京は衛生状態の悪化も遷都の大きな要因と推測されている
長岡京は川の隣で物流面でも衛生面でも優れていると考えられた
904日本@名無史さん:2010/01/13(水) 22:29:39
もし、オレらがタイムマシンで奈良時代の平城京へ旅行する機会があれば、
天然痘、コレラ、赤痢など多くの予防接種を打っておかないと危険過ぎるだろう
特に天然痘については、今の人間は免疫がないはずだから・・・

当然、生水の飲用禁止、東西の市で売っている食べ物も厳禁だなw
905日本@名無史さん:2010/01/13(水) 22:39:40
生水なんて今でも飲んじゃ駄目だからな。
906日本@名無史さん:2010/01/13(水) 23:46:23
日本に初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が及んだ1822年(文政5年)のことで、それ以前にはコレラは見られない。
907日本@名無史さん:2010/01/14(木) 19:30:42
>>892
テキトーなことを言わんでくれ
16世紀の日本と18世紀の日本が同じだとでも思うか
908日本@名無史さん:2010/01/14(木) 20:35:36
徳川家康は、大河ドラマだと、ナイフって呼ばれてるけど、
なんでナイフなんですか?
909日本@名無史さん:2010/01/14(木) 20:42:18
ブケだから(´・ω・`)
910日本@名無史さん:2010/01/14(木) 20:49:16
(´・ω・`)マジにいうけど
府・・・
府中とか国府とか今も地名である和ね

シナなら公営府とか王府とか

正解はこの後すぐ↓
911日本@名無史さん:2010/01/14(木) 20:52:05
表記は徳川内府です。詳細はこのあとすぐ!
912日本@名無史さん:2010/01/14(木) 22:24:26
内大臣だから。信長は右大臣だったから右府と呼ばれた。
913日本@名無史さん:2010/01/14(木) 23:08:26
右府ふふ ちやほやされて♪
914日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:27:05
質問1
外国君主が飛行機のタラップを降りてくるところを天皇が自ら出迎えたことってありましたか?

質問2
日本でいう「近代」「現代」は、西洋語ではしばしば同じ単語になってしまうようですが、日本の歴史学が「近代」と「現代」の2つの時代区分を設ける理由は何ですか?
915日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:49:07

個人的なお友達に対して個人的にと言う可能性は否定しないが、国と国の公式な場では天皇が空港で出迎えってのはない。

2は知らん
916日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:51:50
ペトラルカが「俺たちローマ文明を学んだ文明人!
野蛮な中世人なんぞとは違うんだぜ!」と主張したがったことから
近代という概念が発生したように

日本人は戦前と戦後の概念を分離したいのじゃないかしらん
917日本@名無史さん:2010/01/17(日) 10:16:03
>>914
明治以降を「近代」って呼びたくないんだろう。
サヨク史観。
江戸時代を「近世」というのもサヨク史観。
918日本@名無史さん:2010/01/17(日) 13:46:10
>>914
西洋に比較して、日本では「近代〜現代」の内容の変化が大きいから
一つの時代区分でまとめるのに無理があるから、分割した
919日本@名無史さん:2010/01/17(日) 15:28:33
無理があると思ってるのは日本人だけだろう
920日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:11:35
いくら日本史板だって、ここ十数年の間に西洋での近代と現代の境界線が1914年から89年に動いたことをスル―するのはウヨサヨ以前の阿呆とちゃいまっか?
921日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:39:58
西洋は近代も現代もmodernじゃないの?
922日本@名無史さん:2010/01/18(月) 15:48:51
日本が
中国王朝による東アジア冊封体制から
脱したのはいつ?
923日本@名無史さん:2010/01/18(月) 16:08:55
>>922
公式には遣唐使廃止の時かな?でも武力が怖くて従ってた訳じゃない。杜子春が金持ってるときには人が寄ってくるようなもんだ。
金の切れ目が縁の切れ目。体制に組み込まれてた訳じゃないな。
そう考えると冊封体制に組み込まれたことは無いとも言える。
924日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:53:57
>>923
ルサンチマン乙
925日本@名無史さん:2010/01/19(火) 02:32:48
幕末、1850年頃、江戸では「僕」という一人称が使われていましたか?
「俺」「私」は使われていそうですが、
子供が大人に、
「僕は日本橋へ行ってみようと思います」
といった使い方をしていたかどうか、気になります。
どなたか御教示下さい。宜しくお願いします。
926日本@名無史さん:2010/01/19(火) 20:20:50
その子供が、話し相手である大人よりも目上なら可
良家の御曹司が従者に向かって言うシチュエーションとか
927日本@名無史さん:2010/01/21(木) 00:24:22
今度スレ立てる場合は、
「古代」「中世」「近世」に分けて質問スレを立てた方がいいでしょう。
それぞれの分野の専門家などの回答が期待できると思いますが。
928日本@名無史さん:2010/01/21(木) 00:48:43
ただでさえ過疎ってるのにこれいじょう分散させてどうしようってんだ?

929日本@名無史さん:2010/01/21(木) 08:40:48
この質問スレ、
質問者は多いが(ということは需要は多いということ)、
専門的な回答は少ない。なんか工夫の余地があると思う。
  高校の先生などが個人でやっている質問掲示板はけっこういいが、
2CHのように気軽には使えないですよね!
930日本@名無史さん:2010/01/21(木) 13:44:44
神武天皇が東征して宮を建てた橿原市付近は、遷都した新しい高天原ではな
いかと論議されたことはありますか。もしご存知の方が居られたらどんな議
論だったかも教えていただけるとうれしいです。
931日本@名無史さん:2010/01/21(木) 17:08:42
なんだその誘導的質問は?
ま、それはそれとしてここ最近ガッコのレポートの体裁を
飾るための質問、もうウンザリ(・ω・ )
本質的なことじゃない部分での質問多すぎ。
932日本@名無史さん:2010/01/21(木) 18:22:50
931>>
レスありがとうございます。
私は橿原市付近を遷都後の高天原と考えたので、誘導的になったかも知れま
せん。ごめんなさい。この論議は東征があったか否か、古い高天原はどこか
など建国の過程を議論するのに近道となり本質的と考えています。日本書紀
でも、古語として「畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底にしっかりと立てて、
高天原に千木高く聳え、始めて天下を治められた天皇」と橿原即位の項に記
しています。
933日本@名無史さん:2010/01/21(木) 22:10:43
(・ω・ )高天原がどう見るかで違ってくるにしても・・・

多分、橿原にせよ飛鳥にせよ高天原そのものではないと思うよ
この時代(この時代以降、もしかすると今も)のこの辺りに暮らす人には
それはごく自然な感覚だったと思う。

高天原と感じたのはおそらくは南の山を越えた紀伊熊野そのもの。
橿原飛鳥は神に対する最前列。
〜始めて天下を治められた天皇・・・これは、初めて神に納得して頂けた天皇。
神をお祭りにするのに相応しい天皇。
そう人々に思えてもらえたのかもしれない。
ちょうどカミとヒトとの仲介者としての卑弥呼のように。

ただ、話はそれるけど卑弥呼が不運で災いすべての責任を取らされたのに
天皇は神のパシリの仏(道教も含めた、週刊生活の友)がいたお陰で今も続いている(の、かも)。
政治の天皇藤原、祭祀の天皇仏。

弔文になりましたが異界人の異見です和(^^;
934日本@名無史さん:2010/01/22(金) 08:38:33
>>933 レスありがとうございます。
紀伊や熊野の山々を高天原と感じたためとの異見ですね。初めての意見ですので
参考にさせていただきます。

日本書紀は、一書に曰くでなく、古語として伝えていますので、紀を記すときに
は古い伝説の言葉になっていたのでしょうね。橿原が高天原とはもうそのときは
認識されていなかったことが分かります。
935日本@名無史さん:2010/01/22(金) 09:20:34
934のつづきです。
 橿原の東3kmに天香具山があります。「天の」のついた場合、人名では
ほとんどの場合、高天原の天つ神を表します。天香具山も高天原の天のように
思います。
 そして、天香具山の東2.7km付近の高田の高、橿原の原を合わせると
高天原となります。神武が宇陀から進攻した方向も表しているかもしれま
せん。天香具山、甘樫丘、畝傍山、耳成山で囲まれた領域は遷都後のあた
らしい高天原と考えています。過去、このような論議は無かったのでしょうか。
936日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:44:24
>929

まじめに回答しても質問者が何の反応も示さないんじゃ壁に向かって独り言を言うようなもので回答してやろうという気が削がれるんだよ
六・七年位前は俺以外に回答する人間が殆んどいなくて全質問の九割を一人でこなしていたこともあった
最近はROMるだけで気が向いたときだけ簡潔に回答している
質問者が回答を読んで何か一言感想を書いてくれればもう少し詳細な説明や参考図書を示そうと思うこともあるけどね
まぁ年に数回程度だが(苦笑
937日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:39:18
>>936さん!
>>928 です。
質問者も何らかのリアクションを示さないと、
真摯な回答・優良な回答は、期待できないということですね! 同感です。

烏合の衆の2CH質問者には、これからも期待薄ですね。
かと言って、高校の先生などの掲示板にいきなり質問するわけにもいかないし、
やっぱり、2CHには期待したいんです。
以上、ワタシのリアクションでした。
938日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:42:25
>>937
訂正 >>928は→>>929 です。
939日本@名無史さん:2010/01/23(土) 04:24:09
>>936
俺はもう何年もいろんな板の質問スレに常駐してるけど
質問者からの回答なんか期待してたらやってらんないよ


知識をひけらかすのが楽しい
940日本@名無史さん:2010/01/23(土) 11:34:45
俺は別に感想とか期待してないし
知識ひけらかすのが楽しいとかもないなぁ。

単に知りたい人がいて、他に答える人がいなくて、
自分で答えられる範囲なら教えるっていう、
道端で道や店を尋ねられて答える程度の感覚。

過去に考えたこともなかった疑問・視点とか、改めて確認したいと
思ったこと、自分も知りたいからついでに調べるって場合は
質問者に感謝だし。

まぁ個々に思惑はそれぞれあっていいと思うけど、
自分の知らない話が出てくると自慢されたとかってコンプレクス持つ人や、
自分が自慢目的だから他人もみんなそうだって考える人が
たまにいたりするのは勘弁だなぁ。
941936:2010/01/23(土) 20:36:41
その昔質問スレが乱立していた頃から居てるロートルの感想だからね
時が経てば住民も板の空気も変わっていくから
別に俺の考えが回答者の総意だと押し付けているわけじゃない

ただ、この板の質問スレの空気は一寸異質だと俺は思っている
回答する意思のある者の質と数に波があるんだよね
ある日気がついたら自分以外に質問に反応している人間が一人もいなくて
そういう状態が数ヶ月続くという状況は経験してみないと理解してもらえないと思うよ

最近は他のカテゴリーに居る時間の方が長いけど他板の質問スレには
五年以上常駐している回答者が複数人居るし質問者と回答者或いは回答者間での会話や諍いがみられるけど
この板には世界史板のひやかしが訪れる程度で質問があって回答があるそこで御終いという状況が長いこと続いているからね
コンスタントな質と回答を続けている者が常駐しないのは何か原因があるんじゃないのっていう話

俺の立ち位置は940に近いけど質問の内容を興味深いと感じることは年に一度あるかないかだし
質問に触発されて各各が史料を持ち寄って解答を導くなんて作業は五年以上やっていない
今の日本史板のどのスレでも最早そんなことは期待していない

ま、年寄りの愚痴だね(苦笑
942929です:2010/01/24(日) 07:00:06
お世話になっています。
やはり、専門的な回答が欲しいです。
古代なら律令制、中世なら荘園公領制、近世なら幕藩体制に通暁している方に
回答して欲しいです。 2CHでは無理ですかね!
  エピソードやトリビア知識程度なら2CHでも回答可能ですけど、
専門的回答を期待するなら、
利用しづらいですけど塾講師・高校教師の掲示板の方がいいですかね!
943日本@名無史さん:2010/01/24(日) 08:43:13
回答者に質を求めるなら質問者にも質が求められる事になる。
2chでは無理だと思うなぁ。
944日本@名無史さん:2010/01/24(日) 23:53:00
ようするに、自らの手間は出来るだけ軽くすまして他人には最大限の労力を費やすように要求して、
便利な道具として手軽に2chを活用したいってことだろう。

古代なら律令制、中世なら荘園公領制、近世なら幕藩体制の専門的解答って、分量にすると
原稿用紙数十枚?それとも数百枚?あるいはそれ以上のことを望んでいるのだろうか?

まず図書館に行って分厚い事典を手に取る。書いてある用語の意味をどういう図書を活用して
学んでみた。でも○○がわからないので教えて欲しいという質問なら手助けしようというものも
現れるだろうけど、漫然と日本史用語を書き出して詳細な説明を求むと際限無く質問を続けても
それに応じる人間がいるかは疑問だね。
945日本@名無史さん:2010/01/25(月) 14:05:43
「安国寺恵瓊が朝鮮の占領地で、現地の子供にいろはを教えた」という話をよく目にしますが、これは
後世の皇民化教育と同じで「日本語を教えた」ということなのでしょうか?
それとも訓民正音と同じ意図で、「漢字は習得が難しいから(あくまでも表音文字として)ひらがなを教えよう」といったことなのでしょうか?
946日本@名無史さん:2010/01/25(月) 14:46:10
>>933みたいに自分で考えて自分で納得してればいいんだよカス
他人の考えを知るより自分なりに思考する事こそ歴史の醍醐味であり一義。
947日本@名無史さん:2010/01/25(月) 18:50:51
質問です。

1.道鏡の事件の時、なぜ伊勢やその他の神社ではなく
 「宇佐神宮で」神託を聞くことになったのでしょうか?

2.なぜ宇佐神宮は二十二社に入れられなかったのですか?
948日本@名無史さん:2010/01/25(月) 20:28:06
>>947
1は東大寺の大仏建立の時に宇佐八幡で完成を祈願したら、陸奥で金が取れたというので、聖武・孝謙(称徳)朝で重んじられたからじゃなかったっけ?
949日本@名無史さん:2010/01/25(月) 21:19:13
>>948
金が取れたのが建立のきっかけで、その後に八幡神が「俺も応援してる」って託宣をよこした。

>>947
道鏡の時は元々宇佐の方から「道鏡を天皇に」って託宣をよこしたんだよ。それで確認のために和気清麻呂を
送り込んだ。そしたら清麻呂が陰謀だって・・・。

宇佐八幡は訊きに行かなくても向こうから託宣を下す事がよく有る。それで重んじられた。
950日本@名無史さん:2010/01/26(火) 21:56:23
>>949
何でそんなサービスをしてくれるんだろ?w
951日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:23:13
政権所在地ってなぜ重要なのですか?
政権所在地を中心に日本文化を説明するときは
どう言えばいいでしょうか。
952日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:32:26
>>950
きっと野党の大物政治家に裏献金を渡すと何かいいことがあるとか
953日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:50:39
>>950
平たく言えばお布施が欲しいから。サービスするっていうよりもあれこれ口出しして
存在をアピールしようとしてる。国会でヤジ飛ばす一年生議員なんかと一緒。

>>951
何の話だ、それ?
954日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:58:14
>951
日本文化というのが誤っている気がするが
質問文が正しいのならサロン文化あたりでググってみたらどうだろうか
955日本@名無史さん:2010/01/27(水) 02:09:43
>>949
たしか、「道鏡を天皇へ」と神託の話を出したのは、
阿蘇神社の阿曽麻呂だったような?
956日本@名無史さん:2010/01/27(水) 03:02:10
>>955
wikipediaで済まんが。
『神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の
習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)は「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」
という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、』 《宇佐八幡神託事件》

一方、その後の道鏡が下野に配流されただけで死罪になってないんでこの事件には
裏があるって話も説得力が有る。
957日本@名無史さん:2010/01/27(水) 03:16:41
>>956
補足。この時の神託は後に偽物とされた訳だが、以前の大仏建立に関わる神託も
後に偽物とされている。そこにはいろいろと政治的な思惑が絡んでいるようだ。
958日本@名無史さん:2010/01/27(水) 18:30:51
真正の信託と偽の信託とは、どのように見分けられるのですか?
959日本@名無史さん:2010/01/27(水) 21:44:22
そんなの誰にも分かる訳が無い。
そもそも無神論者に神託云々と言ったら鼻で笑われるだろう。
960日本@名無史さん:2010/01/27(水) 22:12:46
だから『政治的な思惑』と書いたんだが。

関係ないけどソクラテスが無神論者だったら名を残さなかったかもな。
「アポロンの神託?何それ。フフ!」とか言って。
961日本@名無史さん:2010/01/31(日) 03:16:59
>>926
アクキンされていて遅れました。
すみません。
レス、ありがとうございました。
962日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:50:24
刑法に電気窃盗ってあるじゃん?
なんで銃刀法とかみたいに特別法による立法をしないで刑法を書き換えたの?
963日本@名無史さん:2010/01/31(日) 20:35:04
>>962
法学板で訊け
964日本@名無史さん:2010/02/02(火) 01:02:59 BE:1213178573-2BP(0)

平安京の古地図では{大内裏朱雀門=朱雀大路=羅生門}が南北に一直線にあります。
しかし、現在の京都は、羅生門があったとされる東寺のやや西を北上しても
御所の西側を通過します。
御所は引越したのですか?
東寺が引っ越したのですか?
朱雀大路は何年ごろに消滅したのですか?

また、平安京は風水に基づいて設計されたということですが、
だったら西寺と羅生門が無い状態は縁起が悪いですよね。
たくさん寺や宮を建てるカネと労力があるのに、なんで大事な建造物を
放置したのですか?
965964:2010/02/02(火) 01:21:29 BE:2079734966-2BP(0)

調べたところ御所が引っ越したようですね。火事が原因で南北朝の時代に現在の地に定まったとのこと。

しかしながら以前として縁起に拘る中世人が朱雀門、朱雀大路、西寺を
放置したのか不可解です。また火事だからといって移転する必要があったのか?
なにとぞお教えください。
966日本@名無史さん:2010/02/02(火) 03:18:19
風水自体が8世紀後期から9世紀にかけての中国風ブームの産物でそれ以後の日本では余り関心が持たれなかった(陰陽師とか通じていた人たちもいたがそういう人たちは大抵「企業秘密」扱いにしていた)。
あと、朝廷の財政難で御所を再建する金すら無くなって妃の実家とか有力貴族の邸宅をそのまま御所にする例が増加した(里内裏)。
平安時代末期以後、朝廷のほとんどの機関は火事で焼けたら再建されずに長官の私邸がそのまま施設として使われたりしている。
967964:2010/02/02(火) 03:46:23 BE:2426357467-2BP(0)

>>966
こんな夜更けにどうもありがとうございます。
風水はブームで終わったのですか。朝廷ってそんなに貧乏だったんですか。
これからじゃそん0おへんのところ注意深くみておきます。
968日本@名無史さん:2010/02/02(火) 19:57:06
弥生時代から古墳時代にかけては環濠や城柵が作られて
大規模なクニ間戦争があったと思われますが、
櫓や梯子、投石器などの攻城兵器が使われたという話は聞きません。
既に大陸から知識は輸入されていると思うのですが、
なぜそのような兵器が登場しないのでしょう?
969日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:23:22
そんなものを作れる&運用できる水準にない
未開の野蛮人の部族間闘争に過ぎない状況だったから
970968:2010/02/02(火) 23:50:08
そう言われるとそんな感じですね。
飛鳥時代になってもクロスボウが最新兵器だったようですし。
大物はまず無理だったのかな。
梯子ぐらいはもしかしたら作ったかも知れないけど。
971日本@名無史さん:2010/02/03(水) 11:21:13
単に城郭が攻城兵器が必要な作りではなかったのでは?
大陸では街ごと高い壁を巡らせて囲ってしまうので攻城兵器が必要ですが
当時から近世に至るまで、そのような城郭の作りにはなっていません
堀を切り柵を立てる作りだったので、梯子か櫓くらいはあったかもしれませんが
972日本@名無史さん:2010/02/03(水) 11:22:20
戦国板から誘導されてきました
質問です

校合雑記を探してるんですが、翻刻されて収録されてる本はありますか?
国会図書館で「校合雑記」で検索しても出てこなかったのです
ご存じの方がいらしたらよろしくお願いします
973日本@名無史さん:2010/02/03(水) 20:17:35
薩摩が幕末で活躍できたのは沖縄を影響下におけたのが強かったのか?
974日本@名無史さん:2010/02/03(水) 23:40:18
ベリー来航に備えて、幕府は浦賀奉行所の体制を強化したそうですが、具体的にどう強化したのでしょうか?
975日本@名無史さん:2010/02/04(木) 12:32:51
日本近代史板に質問スレがないんですが、こちらで質問しても良いでしょうか?

近代から現代の日本史の概略をコンパクトにまとめてあるものを探しています。
調べ物の途中に、この時期の日本ってどんな出来事があったんだろうとサッと確認したいのです。
できれば世界史も併記されたものが良いです。良いサイト等知っている方がおられたら教えて下さい。
976日本@名無史さん:2010/02/05(金) 01:58:39
近代だけのものを探すより高校教科書でも使ったほうが早いと思うがね
まあそういうのは好き好きだがな
977日本@名無史さん:2010/02/05(金) 08:40:18
天皇制は中国に対抗して作ったっていうのは本当ですか?
978日本@名無史さん:2010/02/05(金) 08:53:20
>>977
何処でそんな電波を傍受したんですか?
979日本@名無史さん:2010/02/06(土) 13:01:09
>>977
7世紀か8世紀ころの倭国の指導者の称号は、大王もしくは王だったので、
国号を「日本」に、大王は中国皇帝に倣って(もしくは対抗して)「皇」の字を用い、
「天皇」にしたとかの言説をみたことがあります。

中世史家網野善彦氏の著作だったか! はっきり覚えておりません。
もっと詳しい方、解説お願いいたしす。
980急募:2010/02/06(土) 13:16:28


《織田信真(信高系織田9代目当主)の情報を求む》

維新後、写真師に転職後、どうなったのか、御存じの方、教えてくだはい。
スケート板住人の能力では手に余る高度な内容になっていますので、
日本史版の精鋭の皆様方のお力をお借りしたく存じます。


↓こちらまで、御足労をお願いします。


■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1251535688/301-400

981日本@名無史さん:2010/02/06(土) 15:11:47
私の祖母の祖母は、江戸末期の萩・毛利公の姫君に仕えていたのですが、
こういう職務の女性は当時の役職で何と呼ばれているのでしょうか?
いくつかあれば教えてください。
982日本@名無史さん:2010/02/06(土) 21:50:15
戦前の認識として
秀吉の朝鮮出兵、白村江の戦いって敗戦じゃないの?
どういう位置づけ?
なかった事になってるの?
983日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:08:01
>>981
奥女中、御殿女中、奥上臈など。これは総称。
984日本@名無史さん:2010/02/07(日) 11:44:19
>>982
吉本興業ふうに言うと
「今回はこんくらいでカンベンしたるわ!」
的な感じ。
985日本@名無史さん
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart25【歓迎】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1265519587/