日本史なんでも質問スレッド

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1日本@名無史さん
2日本@名無史さん:2006/10/06(金) 22:09:50
フジムラの残したものってなんですか?
3信長:2006/10/07(土) 02:51:53
馬に変身できる事
4日本@なな史さん:2006/10/07(土) 13:57:33
はじめまして日本史を選択している生徒です
古代律令制度についてご教授願います
国・郡・里がありますが
郡にも四等官はあったのですか。
官位はどれくらいなんでしょうか。
出世して都に異動することもあったんでしょうか。
古語辞典にはのっていないんです。
よろしくお願いします
5日本@名無史さん:2006/10/07(土) 17:13:45
豊臣秀吉や徳川家康は天下統一をしましたが、朝廷に征夷大将軍や関白を任命されて幕府を開いただけで、日本で一番偉い人ではなかったみたいです。
今までに天皇制を破壊して、一番偉い人になり代わろうとした人はいなかったのですか?
あとなんで天皇家は滅ぼされなかったんでしょうか?
6日本@名無史さん:2006/10/15(日) 10:54:40
>>5ガッ!
7うっちー:2006/10/16(月) 16:21:12
難関私立大学向けの参考書でオススメをおしえてくれ
8日本@名無史さん:2006/10/16(月) 16:24:36
9日本@名無史さん:2006/10/16(月) 18:51:11
>>5
藤原・源・足利・信長・秀吉・徳川
そして現代の我々国民
これらはみな天皇より偉い存在です
天皇はこれらの主権者に従うことで存在が許されてきました
天皇の意思は国の意思にはなりません
日本ではずっと主権者の意思に天皇が従ってきました
だから戦争責任を天皇は負いませんでした

絶対に間違えてはならない事は現在の日本の主権者は国民であり
無責任に主権を放棄してはならないことです
天皇は現実に我々に従っています
10日本@名無史さん:2006/11/03(金) 23:11:16
アニミズムと呪術と鬼道の違いを教えてください。
11日本@名無史さん:2006/11/04(土) 07:59:43
近藤勇は、どうして組長じゃなくて局長なんですか?
12日本@名無史さん:2006/11/04(土) 08:49:26
>>4

郡司も四等官制で長官が「大領」、次官が「少領」、
判官が「主政」、主典が「主帳」といいます。

出世や降格など人事異動があれば勿論、移動はします。
というか郡司になっるためには式部省で「試練」という
試験を受けなくてはならず、大領と少領にいたってはは天皇の裁可を経て
太政官より任官儀式を受けなくては就任出来ないので最低一度は
中央に赴いています。
官位は四等官と
郡の5段階の規模(大郡・上郡・中郡・下郡・小郡)
の組み合わせによって変わります。
例えば大郡(20〜26里)の長官なら正七位で
上郡(12〜15里)の長官だと従七位など、同じ長官でも官位に高い低いがあったりします。
13日本@名無史さん:2006/11/04(土) 10:08:33
主権者は国民なので、国民に奉仕する公僕に
は選挙権はいらないのではないでしょうか?
14日本@名無史さん:2006/11/04(土) 16:07:52
公僕(公務員)なので団体だろうが個人だろうが政治活動は出来ません。
主権者として残された唯一の政治活動は投票権のみです。
15日本@名無史さん:2006/11/04(土) 16:26:33
織田信長が何の罪もない人たちを虐殺していたのは本当ですか?
16日本@名無史さん:2006/11/04(土) 16:47:56
>>5
天皇を滅ぼすにしても王政を打倒するにしても、必要なのは、その国の多くが
「そうしても構わない」
と思うような体系化され、整備され、説得力をもつ「理論」なんですね。

そして、その理論が成立する「条件」は、それ以前から、天皇でも国王でも、或いは皇帝
でも、それ(人間社会の最上位)より上に位置する何らかの「権威」が必要だったんです。

イギリスなら「大憲章」は国王といえども従わなければなりません。
中国皇帝は「天命」というものに背く事が「許されないものとされて」いました。

そうすると、もし、大憲章を守らない国王、天命に背くようなことをしている、或いはし
ていると「される」皇帝が現れたらどうなるかということです。これが、「革命理論」で、
これによって「滅ぼす」ことが可能になるのです。

ところが、日本の「天皇」については、そのような理論を構成するために必要な「天皇を
上回るような(どんなに抽象的な概念でも良い)権威」というものを日本民族が持たなか
った、ということが言えます。

「天皇」はまた、そういう形にならないような存在となるような、ある種の工夫が(結果
的に)なされていたとも考えられます。
例えば、中国の場合「易姓革命」ですが、その前提は、すべての人は「姓」を持ち、その
中から「天命」に適う「姓」が皇帝となる、という概念があります
が、天皇には「姓」はありません。従って「姓」を「易(か)」えるという契機が発生し
ません。また、実権をもつものを肯定してしまい、その「権威」を裏付けるような役割
(摂関・征夷大将軍等)を担うことで、自分の存在を否定されずに政権交代を行うような
社会構造を作り上げてしまったという要素がそれに当たると考えられます。

このような体系で存立しているのは、日本の皇室と、タイの王室です。
17日本@名無史さん:2006/11/04(土) 16:59:52
中高の教科書で、先ず縄文文化が出てくるのだが、
その文化の行方を教えてほしいと思いますです。
18日本@名無史さん:2006/11/04(土) 18:54:33
諸 珍 済 武 興 の読み方おしえてください
19日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:37:22
天皇家はスサノウの子孫じゃないのはなぜ?
20日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:41:13
ベトナム戦争のはじまった理由おしえてほしい
21日本@名無史さん :2006/11/06(月) 16:20:56
>>15
派手さの縄文から実用性重視の弥生文化へと。
というか縄文文化のような見栄えするのは一時的な流行みたいなもんで、
今ガングロギャルがいなくなったのと似てる。
22日本@名無史さん:2006/11/07(火) 15:31:56
>>14
しかし、現実には政治活動をしている。

>>20
世界史板に行ってこい。
23日本@名無史さん:2006/11/07(火) 20:26:41
「燃え」って何?
24日本@名無史さん:2006/11/11(土) 05:38:15
>>18
サン チン セイ コウ ブ
25日本@名無史さん:2006/11/11(土) 06:36:32
スレ違いだったらスマソ。
浜松って浜松城みたいな歴史が残ってる場所教えてください。
26日本@名無史さん:2006/11/11(土) 08:02:31
>>25
意味がわからん。
浜松にある遺跡旧跡のことを聞いているの?
浜松に浜松城があるような、浜松以外の場所を知りたいの?

山川出版から、各都道府県の「歴史散歩」ってシリーズが出ている。
みたらどうか。
27日本@名無史さん:2006/11/11(土) 11:01:15
琉球藩が設置されるまでの琉球は日本の一地方ではなくて
日本とは異なる国だったのですか?
あと琉球人の国王って尚とか言う名前の人ですよね?
琉球人と日本人の名前って同じではないのでしょうか?
28日本@名無史さん:2006/11/11(土) 11:04:14
日本史上には蝦夷、アイヌとか言う日本人とは異なる
異民族がでてきますよね?
日本史上には蝦夷アイヌ以外にも異民族は居ないのですか?
29日本@名無史さん:2006/11/11(土) 11:15:41
異民族はこれからも創れるよw

そう言うことは、CIAが詳しい。
30日本@名無史さん:2006/11/17(金) 20:33:26
なにかの生まれ変わりって言う人を教えてください
上杉謙信・・毘沙門天
伊達政宗・・万海上人 

というような感じの・・
31日本@名無史さん:2006/11/19(日) 10:19:01
>>30
美輪明宏…天草四郎
32日本@名無史さん:2006/11/19(日) 21:43:10
セックスとオナニーどちらが気持ちいいですか?
33日本@名無史さん:2006/11/22(水) 19:01:48
明治維新って幕府(武家政治)から朝廷政治に戻したんですよね?
じゃあ現在の政府は朝廷と言っていいのでしょうか?
象徴になる前は朝廷だったのでしょうか?
34日本@名無史さん:2006/11/23(木) 23:52:42
>>33
明治政府は朝廷じゃないです。
でもいつから? というのは難しいですね。王政復古の大号令で、王政の
復活が宣言されていますが、同時に摂政(後に復活)・関白・征夷大将軍
が廃止されていますから、ここで、江戸時代以前のある種の朝廷の体制が
否定されています。

東京が首都になったのはいつか、というのも明確な定義がありません。
明治天皇が東京に行幸してそのまま現在に至るっていう形で、「遷都」と
宣言した訳ではなかったのです。

そんなこんなで来てます。日本という国は。
35日本@名無史さん:2006/11/24(金) 09:39:55
最近は説明責任とかやたらヤカマシイが、昔からナシクズシの事実先行で来ていたんだね。
3633:2006/11/24(金) 18:47:42
>>34さん、詳しい説明ありがとう。
37日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:36:17
>>35
そうなのです。日本国は昔からナシクズシ的に既成事実を積み重ねてきているのですが、
ここに来てナシクズシの速度が異状に早くなってきています。
38日本@名無史さん:2006/11/25(土) 20:31:12
西郷隆盛は征韓論者だったのか、反征韓論者だったのか・・・
西郷スレを読むつもりでいますが、基本的に、今日現在では
意見は分かれているという認識(前提)でよろしいでしょうか?

上野の西郷さんの銅像には、反征韓論者であったように書かれていますが、
これもある立場からの認識でしかないということでよろしいでしょうか?
39日本@名無史さん:2006/11/25(土) 20:36:21
あと逆説の日本史スレは、なぜあんなに荒れているのでしょうか?
客観的なご意見をおまちしています。

私はこの板は新参者です。
40日本@名無史さん :2006/11/26(日) 13:39:30
>>39
宗教上の対立だ、気にするな。
41日本@名無史さん:2006/11/26(日) 21:45:05
>>39
ニートが原因
42日本@名無史さん:2006/11/26(日) 23:02:41
リビドーを発散する場が無いからじゃねぃの?
43日本@名無史さん:2006/11/26(日) 23:11:48
少額館のやらせ、騙されないように。
44日本@名無史さん:2006/11/26(日) 23:23:54
>>39
同じ主張が繰り返されていて、論点整理が出来ていないのと、互いに
相手の立場が尊重できないのが主な原因でしょう。
まあ、「逆説の日本史」の著者にそういう傾向があるので、スレもそ
れを反映してしまっているというか。ああいう話題は、チェアマンが
いないと収拾がつかないでしょうね。
45日本@名無史さん :2006/11/27(月) 06:17:02
チェアマンを罵倒するのが井沢厨・・・
っつうか、井沢が話題になるとここまで荒れるからこのへんで。
以上、井沢のところでチェアマンになろうとし罵倒された男より。
46日本@名無史さん:2006/11/27(月) 20:17:22
>>40->>45
ご意見ありがとうございました。
具体的に突っ込んだところは、今後、傍観するとして、
>>45さんは、大変なご苦労をなさったんですね。

首を突っ込まない、かかわりあわないことが、最善かと思います。
47日本@名無史さん:2006/12/01(金) 03:15:04
50代板で面白いレスをみつけました
ここで言われているウルシノクサについて何か心当たりがある人はいらっしゃいますか
http://www.2ch.net/test/-/cafe50/1106424567/872
48日本@名無史さん:2006/12/01(金) 03:27:11
>>47
漆の草
49日本@名無史さん:2006/12/01(金) 08:46:21
日本史と世界史どっちが簡単ですか?
50日本@名無史さん:2006/12/01(金) 12:47:19
教育テレビの日本史のアニメで、日露戦争は
財閥の意向で始まったと放送していたのですが、
具体的に教えてくださるようお願いします。

                 
51日本@名無史さん:2006/12/01(金) 15:27:10
質問なんですが、
・複数為替レート(品目別為替レート?)
・それが実施される以前の日本の貿易実態
というものをどなたか教えていたただけませんか?
少しばかり新書にも当たってみたのですが、この辺りをしっかり解説してくれている本が無くて…

52日本@名無史さん:2006/12/02(土) 01:29:35
>>49
そんなこと、簡単には言えない。
53日本@名無史さん:2006/12/02(土) 20:06:50
江戸時代に関所ってあるじゃない。
あれ、街道沿いじゃなくって、山をちょっと越えればすぐ破れたりしないの?
ベルリンの壁とか万里の長城みたいに、ずーっと横に長ければ別だけど。
54日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:06:24
>>53
先ず普通の人には無理。人が通ったことがないところに踏み込むとまず方角が
分からない。次ぎに足場が悪い。5万の1の地図とコンパスだけで試して見る
といい。見えていても行きたい所にも行けないことがある。まして昔は地図が
不完全だった。余程身支度をしっかりしてないと普通の着物ではボロボロだろ
う。足柄古道や箱根旧道で試してみれば分かろうが小道があっても難渋する。

関所破りの一つの手は、修験者などの案内があるなら可能だろうということ。
しかし他人が絡むと秘密が保てない。
55日本@名無史さん:2006/12/03(日) 02:35:41
>>53
よくそういう想像があるけど、概ね>>54さんのいう通り。
あと、付け加えるとすれば、当時の人たちは、よそ者に対する猜疑心が
今よりかなり強かったこと。そしてお上の権力がかなり強かったこと。
いくつかの文献からも窺えるけど、山中で生活している樵や猟師は、よ
そ者が山に入ることを警戒するし、またすぐに関所に通報(注進)があ
る。山狩りにあったりしたら、地元の人間には、まず適わない。従って
関所破りは、我々が想像するより、物凄く困難。

余談だけど、昔も今も、海賊や密漁など、海の不法者も取り締まりに遭
うでしょ? これって何の障害物もないですね。それでも簡単には突破
できない。大自然の前に、人間が自由に行動できる方法や範囲は、意外
に限られているということが言えるのかも知れませんね。
56日本@名無史さん:2006/12/03(日) 05:46:26
産婆は関所通してもらえたんだよな。
あと丁稚が柄杓(だったかな)持ってると、通してくれるとか。
リスク犯さなくても、関所通れる方法が、案外あったようですw
57日本@名無史さん:2006/12/03(日) 09:57:23
教育テレビの日本史のアニメで、日露戦争は
財閥の意向で始まったと放送していたのですが、
具体的に教えてくださるようお願いします。

5854:2006/12/03(日) 16:21:25
>>56
芸人が芸を見せて見とめられると通れたと、先日の学科別の授業形式のバラエティ
でやっていた。
柄杓ってのはお伊勢参りではなかったか。小説だが、子母沢寛の父子鷹(だったと
思うが)小吉がそんなマネして東海道を上った話があった。

先日木曾福島の関所跡を見たが、山の手の上まで垣根を作っていた図があった。
あの辺は今でも川は橋のないところを渡るのは至難だろうねえ。鳥居峠に近い
上流に行けばなんとかなるが、何里も大回りだ。
59日本@名無史さん:2006/12/03(日) 20:00:15
通行手形無くしちゃったらどうなるんだろ・・・。
再発行のためにどれだけ馬とか走らせなきゃいけないやら。
60日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:08:11
>海賊や密漁など、海の不法者も取り締まりに遭
>うでしょ? これって何の障害物もないですね。

今はレーダーがあるでしょ。
密漁船や海賊出没地域は、パトロール船が重点監視
してるだろうし。

>>59

江戸時代は、一般人は馬に乗れないよ。

しかし、江戸時代って本当に窮屈な時代だったね。
明治維新がスムーズに行われなかったら、日本は
ロシアの属国になっていた可能性大だよね。
61日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:12:40
天賦人権て具体的にどういう意味?
62日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:30:55
いや、私はこれこれ、ここの出身ですっていうことを言ったら、
故郷まで身元確認に似顔絵を役人が持って行かなくちゃならないかなと。
63日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:28:45
>>61
人間は生まれながらにして自由・平等であり、幸福を追求するのは天から
与えられたものである、という意味。
実を言うと、人権はだから人間の勝手を表すものではなく、天や神を意識
できないと与えられないものだ、という一面も、実は成立した欧米社会で
はあったんですね。日本人的には連想が困難ですが。
64日本@名無史さん:2006/12/04(月) 18:47:29
将軍家斉の子、徳川斉順が清水徳川家の家督を相続した時期について教えて下さい。
ググってもサイトによってまちまちで…

幕府から「清水家に移れ」と命じられた時点、賄料を賜った時点、実際に清水家に引移った時点、元服した時点などなど。
65日本@名無史さん:2006/12/08(金) 23:06:53
古墳時代に「続縄文文化」っていうのが北海道から東北へ南下してくるらしいんですが、
彼らは何しに南下してきたんでしょうか。移住?
66日本@名無史さん:2006/12/08(金) 23:18:57
ちょっと!武田騎馬軍いなかったし鉄砲三段連射てデタラメだって書いてあったけど?!2ちゃんねるだから嘘ばっかりですよね?
67日本@名無史さん:2006/12/09(土) 01:04:30
>>65
南下してない。

>>66
おまえが妄想してるような武田騎馬軍はいない。
鉄砲3段撃ちもない。
68日本@名無史さん:2006/12/09(土) 13:16:05
W南下したし騎馬軍団もあったよWW
69日本@名無史さん:2006/12/09(土) 14:08:30
卒論の史料を使っての論証とはどうすればいいのでしょうか。
70日本@名無史さん:2006/12/09(土) 15:10:01
>>69
センセに有体に聞け。それが一番。
71日本@名無史さん:2006/12/09(土) 17:02:45
72日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:39:57
さんまの番組で学者が日本は鎖国してないとか言ってたけどどうなの
73日本@名無史さん:2006/12/10(日) 03:56:26
わざわざ「鎖国」というヨーロッパからの視点で江戸時代の対外関係を説明するのは不適切だから。

長崎でのオランダや清朝との貿易や松前藩とアイヌ、対馬藩と朝鮮、薩摩藩と琉球などの貿易もあったし、朝鮮通信使をはじめオランダや琉球とも正式な国交があった。

そもそも、幕府の対外政策は東アジアの視点から見ても別に特異な政策ではなく、取り立てて「鎖国」という言葉で説明すると実態が見えなくなる危険がある。
74日本@名無史さん:2006/12/10(日) 07:39:03
>>72
「鎖国」って言葉は当時にないよ。
なんでも、オランダ商人だか宣教師かが、帰国して出版した書物に
日本の事を「鎖の国」と表現していたそうな。
それが、日本に逆輸入されて「鎖国」つう言葉が生まれた。

薩摩藩も幕府の了解を得て貿易してたからね〜
「家光が鎖国令を発布した」、つうのは嘘だよ。^^
7574:2006/12/10(日) 07:49:28
おいが学校教育で習った、
「士農工商の身分制度が武家制度に合わないから、キリスト教を禁止した。」

これ、嘘じゃないの?

だってキリシタン大名だって居たんだしさ〜
西洋だって僧侶・貴族・平民の階級制度が在ったんだし・・・

「島原の乱」のような圧政のよる一揆が頻発しないように
キリスト教が禁止されたような・・・

そんな気がするんだが・・・
76日本@名無史さん:2006/12/10(日) 07:54:00
>60
明治維新がスムーズに行われただけでも、江戸時代にそれだけの蓄積があればこそだろ。

ゴロウニンやプチャーチンらロシア人達は江戸時代を賞賛しており、プチャーチンはロシア領内での
治外法権を日本人に認めたほどだった。
77日本@名無史さん:2006/12/10(日) 09:33:59
これは誰ですか?
http://p.pita.st/?m=o9o3hixc
78日本@名無史さん:2006/12/10(日) 11:10:12
高校日本史Bの宿題手伝ってくれる方
居ませんか?
79日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:29:49
いません
80日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:42:50
>>78
自分一人ですることに価値があるのだ。
81日本@名無史さん :2006/12/10(日) 20:52:19
わからない点についての質問には答えてくれる人もいないわけではない。
だが何がわからないのかわからないようでは答えようもない。
82えっちな18禁さん:2006/12/11(月) 00:44:24
>>32
自分さえよければいいのがオナニーで
一緒に幸せになれるのがセックスさ〜
二人でセックスしてるのに中身はオナニーってのもあるかもよ〜ん
83日本@名無史さん:2006/12/11(月) 01:26:08
東北地方って後進地域のイメージが強いんですけど、
東北が日本の発展に貢献したことってあるんでしょうか?
84日本@名無史さん :2006/12/11(月) 05:58:52
江戸時代の東日本の流通を調べて来い
85三浦佑之『金印偽造事件』:2006/12/11(月) 11:50:19
 上代文学専攻の三浦佑之著『金印偽造事件』(朝日新書)って、専門家に相手にされているのですか。
86日本@名無史さん:2006/12/11(月) 15:59:53
明治維新の時に、勝海舟が江戸城を無血開城させ、
江戸の街が戦火に遭う事なく守られたと習いましたが、
江戸城はいつ頃、どのような経緯で無くなったのでしょうか?

どなたか、教えて下さい。
87日本@名無史さん:2006/12/11(月) 19:50:38
武士の階級(官位ではなく)って安土桃山前後の戦国時代はどうなって
いたんですか?大名によって違ったんでしょうか?
雑兵、足軽、足軽大将、侍、侍大将・・・etc こんな感じですか?
どなたか教えて下さいお願いします。
88日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:27:54
>>86
江戸城は1868年に新政府に明け渡され、1869年の東京遷都で天皇の住まい(現皇居)になりました。

江戸城の天守閣は1657年の明暦の大火で焼失してから再建されてないので、パッと見てお城の跡だと思わないかもしれませんね。
8986:2006/12/11(月) 20:39:51
>>88
レスありがとうございます。

なるほど!明治以前にすでに天守閣は無くなってたんですね。

第二次大戦中には皇居になっていた事は知っていたので、
明治大正期に取り壊したのかな?なんて思ってました。

お陰様で長年の疑問が解けました。どうもありがとうございました。
90日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:48:28
 >>83
後進地域て……。
近世以降に関して言えば、そのイメージは一刻も早く捨てた方がよいよ。

東北の漁業は大変盛んで、東北で採れたシャケ(当時は東北でもとれたんですね)や、
イワシを干したやつが、贈答品用の高級品として江戸で珍重されたとか、
北海道から着たマスを加工して江戸に流していたとか、
そういう産業史的なところでみたら、東北のスゴさは枚挙に暇がないぞ。
仙台を中心に、東北経済圏はとても発展したのです。
石巻港みたいな優良な漁港も多いしね。
まぁ、別に東北に限った話じゃないけど。

 こういうんじゃダメ?

9183:2006/12/12(火) 12:59:24
>>90
しかしやはり東北がしょぼい感は否めませんね。相応の蓄財をした形跡が見られないし。
92日本@名無史さん:2006/12/12(火) 15:35:28
>>91
何を言いたいのか分からんが、優秀な人材ならいくらでも輩出しているが。
ところで君はどこの地域からかな?
93日本@名無史さん:2006/12/12(火) 20:35:21
戦国武将は男色の趣味がある人が多いと聞きますが本当ですか?
謙信が結婚しなかったのも男色が趣味だったからですか?
信長と森蘭丸もその関係ですか?
94日本@名無史さん:2006/12/12(火) 20:43:10
男色は現代のホモセクシャルとは意味合いが違うから。
仏教では女犯といって男女のSEX自体がいけないこととされていた。
男色はその抜け道。
謙信は仏教に熱心だったから、女犯をしたがらなかっただけで
男色が趣味だった訳ではない。
蘭丸はもともと荒小姓と言われているので、色小姓でなければ
当時の信長と男色関係になかったと思われる。
大体、蘭丸という名前自体、江戸中期の読み物の創作。
本来は乱丸。
95日本@名無史さん:2006/12/12(火) 21:58:57
>>94
レスありがとうございます。
参考になりました。
あと、そこで疑問がわいてきたのですが、
SEXがいけないことだとすると
世継をつくって家を存続させる、という考えと反する概念だと思うのですが
そのへんの兼ね合いはどうだったのでしょうか?

96日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:23:23
>>95
実際、子づくりも罪だと言われてたみたいですね。
謙信は僧ではありませんでしたが、女犯を忌み嫌い
妻帯しませんでした。
跡継ぎは養子をとっています。

一般的に女犯は、やはり普通の家の子づくりに関しては、現実的ではないので、
厳しく禁じられていたのは、僧だけという建前になっていたようです。
ですから、僧は稚児という幼い男子を女性のかわりにしていたのです。
しかし比叡山の僧兵などが、女性を普通にはべらしていたのは有名ですね。
比叡山の焼き討ちで、罪もない女子供が犠牲になったと信長の非道を
指摘されることが多いのですが、本来僧だけの場に女性やその子供が
いること自体がおかしいのですね。
97日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:33:13
>>95
書き忘れましたが、武将の男色関係は、当時の男性のたしなみで、常識でした。
仏教の影響もありましたが、戦場で命をかけて戦う主従関係の中で
肉体的、精神的に強く結びつくという意味合いもあったようです。
ただ、女性を連れて行けない戦場での性欲処理という面も確かにありましたし、
日常生活において、小姓という男性が全て世話をするという当時の武将の
生活形態という面の影響も、大きかったと思います。
98日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:46:12
>>57
そんなアニメあったの?
放送日時とか教えて。
当時の日本の資本主義はまだまだ未熟で、
日露戦争は資本家の戦争ではないというのが多数説。
99日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:36:28
>>96,97
大変勉強になりました。
疑問がとけてスッキリしました。
とても丁寧に教えていただき感謝しております。
ありがとうございました。
100日本@名無史さん:2006/12/13(水) 00:03:09
57>>98

放送日時、覚えていないんです。
たぶん、10年くらい前だったと思います。

たぶん、満州での日本の財閥の権益を守るためとかではない
かと思うのですが、録画するまもなかったので。
101日本@名無史さん:2006/12/13(水) 01:04:13
西南戦争は何で戦争なんですか?
内戦だから西南の乱では?
102日本@名無史さん:2006/12/13(水) 01:24:42
中央政府に反抗し、自治権を確立することを目的とする内戦=乱
 例:佐賀の乱、承平の乱
中央政府を打倒し、取って代わることを目的とする内戦=戦争
 例:戊辰戦争、南北戦争

という感じでは?
103日本@名無史さん:2006/12/13(水) 01:52:29
単純に規模がでかくなったからでいいんでないかい。
個人的には「西南の役」と言うのが好き。
104日本@名無史さん:2006/12/13(水) 07:07:31
「役」は対外戦争でしょ。
文禄・慶長の役や文永・弘安の役。
105日本@名無史さん:2006/12/13(水) 13:42:46
前九年・後三年の役というのもある。辺境を貶める表現かな。

あと「変」というのもある。
本能寺の変。承久の乱も承久の変といってたこともある。
規模感で言っているという面もあるが、戦争とも乱とも言えない場合に
使うようだ。規模が大きくなったら「事変」かな。「大変」というと
おかしいしw。
106日本@名無史さん:2006/12/13(水) 15:48:44
>>105を補足
変と乱の違いは嘉吉の変と嘉吉の乱をみればいいかな
嘉吉の変→義教暗殺
嘉吉の乱→赤松満祐討伐
政変ってのもあったな、そのまんまクーデターだけど
107日本@名無史さん:2006/12/13(水) 16:16:38
承久の乱は、後鳥羽が鎌倉政府を転覆しようとしたから乱。
供給の変は近年は見かけない。
建武の新政も、建武の中興とは今は言わなくなった。
108日本@名無史さん:2006/12/13(水) 17:26:36
その人の能力に合わない位を次々に与えて、その人がその位の重圧に耐えられなくして潰す、公家のやり方を何ていうの??
109日本@名無史さん:2006/12/13(水) 19:02:51
>>108
「位打ち」だね
110日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:44:37
>>91
しょうもない偏見のようだし、レスしようかどうかも迷ったけど……

まず、「蓄財をした形跡がない」というのは、どこから引っ張ってきた話?どの時代のどの階層の話?
他の地域で蓄財がされていた証拠は?それを地域差と断定できる根拠は?
それも言わずに後進国呼ばわりはむちゃくちゃですよ。
ひょっとして、大阪の大商人とかと比べてないよね?

まぁ、話が明治以降になってくると、83のイメージはそんなに間違ってはいないわけだけど……
戊辰戦争で負けてから、人的資源がガンガン流出して、殖産興業の流れに完全に立ち遅れちゃうから、
たしかに「蓄財をした証拠がない」と言いきっちゃう気持ちはわからんではないけどね。
111日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:43:34
>>109
ありがとうございます。
112日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:21:41
>>83
>>91
>>110
あの、ひょっとして、酒田の豪商、本間宗久の事をご存じないのですか。
「酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る」
「本間さまにま及びもないが、せめてなりたや殿様に」
江戸中期以降なら、おそらく東北酒田の本間家は、日本一の「蓄財」家
だったでしょう。

そして、本間宗久が編み出した「酒田五法」は現在でも影響大です。
「株価チャート」をご存知でしょうか? あれの基を作った人ですよ。

「東北が日本の発展に貢献したことってあるんでしょうか」どころで
はないです。世界の証券取引は、これで銘柄の動きが分かるようにな
ったんです。
初心者スレでもありましたが、八木アンテナも東北大学で考案され、
現在、世界中で使用されています。
日本の発展を超えて、世界に貢献している面もちゃんとありますから、
「しょぼい」なんて言わないでね。
(私は関西出身ですから、東北びいきで言っているのではないです。)
113110:2006/12/14(木) 12:31:16
>>112
酒田の豪商であることはしってましたが、その辺のエピソードは不勉強でした。
当方教育史専攻なので、微妙に疎かったりします。
参考になります。
114日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:48:43
>>100
日露開戦前に日本の満州利権なんてなかったじゃないか〜
本当にそんなアニメを作ったとしたらNHKヒドス
115112:2006/12/15(金) 00:27:45
>>113
どうもです。私は今、東京で金融システム開発をやっているソフトウェア
技術者ですが、江戸時代の商人が開発した様々な経済上のノウハウは刮目
すべきだと思っています。為替は鎌倉時代からありますが、複式簿記、引
当や減価償却を近世の早い時期からやっていますし、本間の相場取引の手
腕は、現在の金融デリバティブにも匹敵する凄いものです。

相場取引のテクニカル分析については、享保の頃の酒田の本間宗久と、
現在「ダウ平均株価」にその名を残す19世紀後半のチャールズ・ダウ
のものが嚆矢とされています。鎖国さえなければ、本間が世界最先端
だったでしょう。東北の人は、誇りに思って良いと思いますよ。
116112:2006/12/15(金) 00:46:32
あと、挙げるならば、八戸の医師だった安藤昌益も考えても良いでしょう。
「自然真営道」の著者です(出身は出羽の国大館)。
その思想は、アナーキズムとも、空想的社会主義とも取れますが、江戸時
代にこのレベルの思想を持っていたというのも驚嘆すべきことかも知れま
せんね。儒教などの既存の思想を批判的に考察している中から辿りついた
考えのようですが。ずっと後世になって、在日カナダ大使であるハーバー
ト・ノーマンが著書で紹介するまで、日本人の殆どが知りませんでした。
117養殖はまち:2006/12/15(金) 01:04:25
中央政府に対する信頼と社会の安定があれば、貨幣素材が金銀でなくても事足りることを知っていた
江戸幕府はすごい。
そして実際に、通貨が不足している事によって引き起こされた元禄バブル崩壊を、金銀の使用比率を
下げた通貨を発行させる事で切り抜けた政策もすごい。
さらに、18世紀初頭、西国に対する東国の経済成長を、銀(西国通貨)に対し金(東国通貨)を
従来より20%程強くして対応した政策も、またまたすごい。
江戸時代、すごいッス!

118日本@名無史さん:2006/12/15(金) 02:21:53
ぶり・・・・・・
119日本@名無史さん:2006/12/16(土) 07:00:55
昔の女の人は何を使って
髪を結んでいたんですか?
糸だと緩んできそうですよね
120日本@名無史さん:2006/12/16(土) 11:13:51
121日本@名無史さん:2006/12/16(土) 13:37:21
100>>114

財閥の満州利権ではなく、財閥の満州進出
のためだったかもしれません。

なにしろ、突然唐突に日露戦争の原因に財閥
の経済活動の話しがでてきたので。。
122日本@名無史さん:2006/12/17(日) 15:12:12
>>121
日露戦争の原因はやはり経済ではなく朝鮮半島の軍事的価値でしょうね。
歴史の教科書でもそのように説明されているはず。
ロシアに朝鮮半島全土を支配する意思があったかどうかは微妙ですが・・・
戦勝の結果として財閥の満州進出が進んだというのはあるでしょう。
123日本@名無史さん:2006/12/17(日) 18:45:22
満州の鉄道の利権は魅力的だったろうね。
124日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:02:22
>日露戦争の原因はやはり経済ではなく朝鮮半島の軍事的価値でしょうね。

重複スレでマジれすってのもアレだがw
40年前の岩波講座でも、もちっとマシな考察をしているが?
125日本@名無史さん:2006/12/23(土) 11:35:01
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
126日本@名無史さん:2006/12/23(土) 12:10:49
>>125
同じモノを違うトコにも挙げて、人のことを言えないよ
127日本@名無史さん:2006/12/23(土) 17:25:34
>>125
そうですね
馬鹿ですね
一日中張り付いて
このレスです
めいわくですね
128日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:46:22
太国さんは古神道の最高権威なのですか?
129日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:58:07
>>106
ウィキペディアで「元弘の乱」と「元弘の変」のどっちが正しい項目名かでもめた事があった。
130日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:54:02
徳川幕府はなぜ、冊封体制に入らず清と貿易できたの?
131日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:32:52
イギリスもフランスも冊封なんかされてないじゃまいか>清との貿易
132日本@名無史さん:2006/12/26(火) 22:21:51
>>128
いいえ違います。
ブーブー言う動物のような人ですね。
133日本@名無史さん:2006/12/27(水) 20:47:47
なんで、日本・イタリア・ドイツはソ連の社会主義をイヤだと思ったんですか?
134日本@名無史さん:2006/12/27(水) 22:52:23
資本主義の欠陥である年金や保険など相互扶助社会保障制度を国民に要求
されるのを嫌ったのです。
135135:2006/12/27(水) 23:32:07
今、年賀状を作っています。
書状の様に昔詞で作りたいので翻訳できる方、どなたか教えてください。

「新年明けましておめでとう御座います。
旧年中は大変お世話になり、ありがとうございました。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。」

だいたいこういう文章で細かいところはおまかせします。
割と堅苦しい感じでお願いします。

自力だと 「新年明けまして祝着至極に存じ奉り御座候。」とかであってますか?

それとも、もしかして文学系の板で聞いた方がいいのでしょうか。
ああ、マルチになりませんように・・。
136日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:39:13
>>135
後半二行に同意、もう来んなよ
137135:2006/12/27(水) 23:41:47
>>136

わかりました。
どうもありがとう御座候ず。
138日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:52:18
左翼の殆どが在日。 ところで在日とは・・・・?
戦前、及び戦後の混乱期、半島に居住していて酷い差別を受けていた白丁という
朝鮮奴隷が日本に(密)入国し混乱期の日本に乗じて駅前や商店街、その他の土地、家屋を占領、占有し、
自分達は敗戦国民ではなく3国人だと屁理屈をコイて、日本国で強盗、強姦など暴虐の限りを尽くした結果、多くの
日本人に3国人は酷い、悪いという印象を与えると 今度は手のひらを返したように
自分達を3国人というのは差別、蔑称であると言い始め、自分達は日本人に酷い差別を
受けたというストーリーを捏造し 無法者の集団の力で在日特権を確保、増大させてきたのが
所謂 在日韓国朝鮮人どもです。
左翼はそういう奴らの代弁者であって まさに日本、日本人の敵であるのが実態です。
即ち、各職場、マスコミ、政治家の一部、公務員、労組、日教組、解放同盟、ヤクザ エセ右翼。。。の中に
彼らが蠢き日本を食いつぶそうとしています。
そういう穢れた生物が左翼です。
日本人のみなさん、奴らに騙されないようにしましょう!


日本は支那・韓国・朝鮮!どもの理不尽な嘘の捏造、恐喝、屁理屈に絶対に
屈してはなりません。

http://www.geocities.com/deepgreenpigment/#006
139日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:31:46
長篠の戦についての質問です。


教科書には織田側が馬よけの柵を設けて、鉄砲隊を配置し、突進してくる武田騎馬隊を
打ち破ったとあるのですが・・・・

武田の騎馬隊は「突進」してどうするつもりだったのでしょうか。鉄砲はおいておいて、
設けられた柵に対してどのように攻略するつもりだったのでしょうか。

@柵の設置に気付いていなかった
A馬でジャンプしてこえる。
B馬の体当たりで壊す
C近くに寄ったら馬から下りて柵を破壊して後続が突進する。
D露払いをする決死隊がいて柵をはかいするはずだった。

どのような感じなのでしょうか・・・・・
140日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:30:22
中津藩の小笠原長胤が元禄十一年に改易されたのは有名な話ですが、
その原因は寵臣を筆頭家老に任命したために家政が治まらなくなったせいだ
と言われて居ます。
この筆頭家老に任命された寵臣は、たしか秋元とかいう名字の人物だった
かと記憶して居りますが、うろ覚えで定かではありません。
この寵臣の正しい姓名などの情報に関して御教示下さい。
何とぞ宜しく御願い申し上げます。
141日本@名無史さん:2006/12/28(木) 11:33:33
>>139
騎馬隊なんて無かったら、そんなの考えなくてもいいよね
142日本@名無史さん:2006/12/28(木) 13:02:59
何故、日本・イタリア・ドイツはソ連の社会主義を封じたかったんでしょうか?
学校でそこを今習ってるんですが、その背景が習ってないので、わからないので
どなたか教えてください
143日本@名無史さん:2006/12/28(木) 13:21:27
>>142
近代史板の方が詳しいと思われます。
144日本@名無史さん:2006/12/28(木) 16:55:55
>>142
革命を輸出されることを恐れたから。以上。
145日本@名無史さん:2006/12/28(木) 18:11:47
若松(会津)・高松・松山・松江・松本は、外様大名が改名し、又は造った街です。しかし全て改易され、御家門("松"平)領となりますた。やはり"松"の字がいけなかったのでしょうか?

例えば、外様が"松"の地を踏み、或いは"松"の上で生活する事が、呪術的に松平一門(徳川も)に禍をもたらすと考えた天海が、それらを奪ったとか?
146日本@名無史さん:2006/12/28(木) 19:14:32
中公文庫「日本の歴史6武士の登場」巻末の解説に、
武士の登場が外部(外国)の影響なしにまったく自主的に行われたという、
本文中の解釈は全くの誤りであり、古い学説である。
現在ではアジアの中の日本という観点から新たな解釈が生まれてきている、というようなことが書かれています。
この場合、アジア情勢のどういう点が日本の武士の登場を促したと言われているのでしょうか?
147日本@名無史さん:2006/12/28(木) 21:18:22
なんで、日本・イタリア・ドイツはソ連の社会主義をイヤだと思ったんですか?
148日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:00:23
>146
武士の起源はムサとか、侍の起源はサウラビとかいうやつじゃないの?
韓国から武士団がやってきて日本を支配したということでしょ>アジアの中の日本
149日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:47:23
剣道はウリナラ起源とか合気道はウリナラ起源とか
いうのと同じで武士はウリナラ起源と言ってるだけ
150日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:09:00
学校で使っていた教科書が【日本史A】って書いてあるんですが、
短大受験の科目が【日本史B】なんですが、これってやっぱり違う種類という事なんですか?
たいした違いがないなら、その教科書使って勉強しようと思っているんですが。
良かったら教えてください。お願いします。
151日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:25:30
日本・イタリア・ドイツの枢軸同盟は本質的に社会主義ソ連と同じだったからです。例えばナチスドイツは国家社会主義であって名称は違えど実質独裁体制。
その心は領土拡大でありぶつかれば潰しあいになります。本来の社会主義思想とは逸脱している点にご注意して下さい。
152日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:51:04
>>150たいした違いはないだろうね
153日本@名無史さん:2006/12/29(金) 01:35:19
日本史A=近現代
日本史B=通史

だいたい高校でBを履修してないと受けれないと思うが?
154日本@名無史さん:2006/12/29(金) 14:59:55
>>152レスありがとうございました

>>153履修してないといけないんですか?!でも、短大の資料(受験資格欄みたいな)にはそのようなことは書いてないのですが・・・。
先生も何も言ってこないし・・・でもそこは自分で調べろってことかな・・・。
あと、言われて調べてみたところ高校でやったのはやっぱ近現代でした。
そして、短大では縄文や室町等もでるのでいちようなので、どうにかしないと・・・。
なので世界史Bにしようかと思ったら(選択式)受験科目は世界史A・・・orz

若干スレ違いっぽいのにレス本当ありがとうございました。
155日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:13:51
>147
日本の侵略は市場の拡大とセットになってます。
満州建国も市場創出のためです。
なぜ市場がいるかと言うと、日本は植民地に資本財を投下し、資本主義を育てたからです。
そうなると、朝鮮や台湾資本が成長します。ですが日本は彼らに日本市場を開かなかった。
変わりに新たな市場を開拓し、そこに輸出させる手法を用いたのです。
要するに、日本の侵略は、資本主義的な性質を帯びた侵略なのです(東南アジアは除く)。
従って、共産主義は日本帝国にとっては最も忌み嫌うべき存在でした。
156日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:44:45
日本の歴史って余り熱心には勉強しなかったけど、
昔の日本ってアメリカみたいだったのな。
157日本@名無史さん:2006/12/29(金) 19:06:24
>>147
日本に限定して答えるが、
155だけでは、民衆からも日本共産党が嫌われた理由の説明が付かない。

ソ連式の共産主義は皇帝を打倒してできたものだった。
戦前の日本共産党は殆どソ連のコピーに過ぎなかったので、
「天皇を打倒せよ!」というスローガンを掲げた。
ところが日本人は戦前も戦後も天皇が大好きだった。
なので殆どの日本人にとっては「アカは死ね」ってなことになった。

あと、労働者の党を掲げながらひよわなインテリしか集まらなかったせいで、
労働者のためになるようなことは殆ど何一つせず、
革命のためのテロばかりしていた。
そのうち内ゲバで党員同士殺し合うようになった。
なので国民から愛想を付かされた。

その、内ゲバで党員を殺した一人である宮本顕治は、
1990年代まで共産党のトップにいた。
158日本@名無史さん:2006/12/29(金) 19:31:09
>>146
あんまり気にしない方がいいと思う。
日本古代史って昔は外国の事を無視しすぎ国内重視過ぎたが、
今では逆にアジア史かってぐらい国外を重視しすぎている。
通史なら中公版は前者、講談社版は後者。
講談社版を読むと妙に朝鮮史に詳しくなるw
159日本@名無史さん:2006/12/29(金) 19:40:21
多利思比孤、の「比孤」が男性を表すのは有名な話でしょうが、
どういう意味からそうなるのでしょうか?
私が知る限り、
『孤』が男の性器を表し、『比』がくっつくと言う意味を表すとか、
そうなのですか?少々、相応しくない質問なのかもしれませんが、
知り合いの高校生に質問され、答えかねたため、是非をしりたいなと・・・。
お願いします
160日本@名無史さん:2006/12/29(金) 20:29:37
>そうなると、朝鮮や台湾資本が成長します。ですが日本は彼らに日本市場を開かなかった。

市場を開放したから朝鮮国内では米を始め生活物資が欠乏したんじゃないの?
朝鮮国内での米不足は日帝の収奪と一昔前までは言われていたけどねw
161日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:45:17
>>146
刀伊の入寇撃退に武士が活躍したことが該当するものだと思われ。
前九年の役を使うと安倍頼信あたりが逃亡の際、サハリンや沿海州へ立ち寄ったことが関連するとか…
162日本@名無史さん:2006/12/30(土) 06:01:19
昔の日本の気温って今に比べてどうだったのかな?
勝手な想像だけど平安時代は今より暖かくて
江戸時代は今より寒かったみたいな感じで・・
163日本@名無史さん:2006/12/30(土) 13:23:32
>160
米以外の話です。1919年以降は朝鮮人地主に企業設立をすすめましたから。

164日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:19:06
>>162
妄想ばかりの常駐豚か・・・
165日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:33:24
植民地台湾の一大産業は日本へのバナナ輸出。
当時の日本人にとってはまさに帝国主義の果実であり黄色い宝石。
166日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:36:17
黄色い宝石って普通に宝石じゃまいか。
167日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:25:44
>165
製糖業もある
168日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:37:37
あのこの板には、
豚の容姿に、
猿の脳、
馬鹿なコテが多すぎませんか?
169日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:58:46
台湾人は偉いよ、台湾米の輸出を収奪とは言わないもん
170日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:05:04
イベリコ○は
何故おいしいのでつか?
171日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:38:10
掛屋と札差しの違いを教えてください><
172日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:39:32
肉汁たっぷり
脂ギッシュな板ですよねw
173日本@名無史さん:2006/12/30(土) 22:19:22
ちょっとブヨブヨしていますよ
気持ち悪いくらいに
174日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:21:19
>162
気候変動の影響はあるって何かで読んだ。
源平合戦とか南北朝とかのあたりは、寒期に入っていて、作物がよく取れなくて人心がすさんだとか。
何に書いてあったのかな。見つかり次第また書きます。
175日本@名無史さん:2007/01/06(土) 21:42:45
>>162
ちょっと今手許にデータはありませんが、太陽黒点数の変化が地球全体の
気候にも変動を与えるので、ちょっと当たってみても良いかも知れません。
およそ11年周期です。黒点数が少ないと、太陽活動が減退しており、寒冷
化します。最近の太陽黒点数のピークは2001年です。±5.5年で最小と
なりますので、目的の時代と照合とかしてみてください。
176日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:40:33
邪馬台国って、ヤマト王朝そのものじゃないんですか?
邪馬台国って当然中国の当て字だろうし、邪馬台国はヤマト国とも読めるような気もするが…。
日本書紀にもちゃんと西から東へ大規模な征伐を行ったことも記録してるし。
かなり有力だと思うんですが、なんで教科書ではまったく別の組織として扱われるんですか?
177日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:58:12
平安末・江戸後期が寒冷期
178日本@名無史さん:2007/01/07(日) 01:00:31
>>176
確証がないから。
古代は推測が入るのは仕方ないことだけど、教科書に推測はのらない。
だから古代史は考古学的記述にならざるを得ない。
179日本@名無史さん:2007/01/07(日) 03:22:03
>>176
例えばその辺を、大学でそっち系の研究をしているいろんな教授に聞いてみれば
いろいろな説を教えてくれると思うよ。相手に暇があり、こちらに熱意があれば。
邪馬台国と大和王権の連続性を示す証拠があれば、随分古代史は変わるだろうね。
180日本@名無史さん:2007/01/08(月) 17:56:00
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、
結局記紀は間違いだと認めているんですよね?
間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・
ちょっとおかしくね!
181カメハメフ:2007/01/08(月) 18:39:52
日本とハワイとの歴史上の関係はいつからなのでしょうか。雑誌でなんか日本が占領できた可能性があったとか書いていたんですが、ちなみにソースはアンティークルアー関係の雑誌記事です
182日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:39:18
>>181
ハワイはいいとこですね(^^
183日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:47:28
>>180
私は提唱している当事者ではありませんが、こうしたことは言えるのでは。
それは、史料にせよ何にせよ、虚実は両方あるということです。
間違いは、間違い。しかし、真実を知りたい場合に、何か汲み取れることはないだろうか。
そのような考え方が、何かを知る場合に必要なことだと思います。
184日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:54:04
>>183
いいね!!!
だけど核芯忘れていない?
記紀信用するのしないの定義づけるの?
185日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:15:43
>記紀信用するのしないの定義

朝鮮が日本に文明を授けたニダ
→前後の文脈から間違い(誤伝)が明白でも記紀の記述を全肯定

朝鮮に係わりがないことが明白
→プッwソースが記紀だってよwww馬鹿だよこいつwwwwwww
186日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:18:05
>>185
太国の得意分野だ!
187日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:47:31
>>184
核「心」だよ。ハングルの習いすぎで漢字を知らないのかね?

どんなたわけた寝言であっても、何もない0から数多くの寝言を生み出せる莫迦はそれほどいない。
記紀はおろか、旧事本紀だの古語拾遺だのって文献、さらに各地の神社の縁起や言い伝えなどが
それぞれではあまり信用に値しないのは研究者も承知の上。
その上で、9割の寝言と尾鰭と嘘八百を剥ぎ取った、残りの1割の事実を探そうとしているわけだよ。
188日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:04:19
城下町の種類って、一体どんなのがあるんだ?


最近、港町も城下町の一種だという話を聞いて、ふと疑問に思ったんだが。
189日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:05:28
アルコール依存症でも、
2チャンしてもいいのですか?
190日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:06:22
城下に港があれば自動的に港町=城下町でしょ。
191日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:15:06
>>190
うーむ、なんか違うんだ。城の無い城下町、みたいな話の内容で、そこで港町の話が…
元々城下だったわけじゃなく、城無き城下町として発展したやらなんやら…

スマン、理系人間だからそっちは疎くて…
ググってもひっかからないからさ、気になっちまったんだ
192日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:19:50
武田騎馬軍団は実在したよ?じゃなきゃ大河ドラマおかしいべ?
193日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:42:01
>191

日本史板は自治が機能していないので、あまり意味は無いことなのですが(苦笑
いちおう↓が正規の質問スレです。多分マルチ扱いにはならないと思います(除、このスレを立てた方)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1162310418/l50
194日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:58:34
>>193
あああ、わざわざすみません。
ありがとうっ
195日本@名無史さん:2007/01/09(火) 00:53:01
関裕二さんスレってないぽ!?
196日本@名無史さん:2007/01/09(火) 01:07:39
>>192
まあそれを言えば、あんな体格であんな口調の侍もおかしいし
あんな馬格の馬ばかりなのもおかしいし。
現代人が逆立ちしたって昔の人間になりきれるわけでもないのだから、諦めろ。
197日本@名無史さん:2007/01/09(火) 01:47:45
大河ドラマがおかしいんだよ。
198日本@名無史さん:2007/01/09(火) 01:58:02
大物時代劇スタアがいなくなった戦後の時代劇はすべて、どこかおかしい。
199日本@名無史さん:2007/01/09(火) 16:28:21
板違い

ここは「学問・文系」の日本史板です。
時代劇の話題→時代劇板
に移動してください
200日本@名無史さん:2007/01/09(火) 17:55:19
1570年元亀1年安土桃山

1573年天正1年

こんな感じの縄文辺りから教えて下さい。
201日本@名無史さん:2007/01/09(火) 18:17:55
一人ぼっちで寂しい豚さんが、
興奮して荒らしています。
放置が一番いいでしょうか?
202日本@名無史さん:2007/01/09(火) 18:33:47
近衛府では左右大将がいますが、どっちが上席なのでしょう。
また、どうして大将、中将、少将なのでしょう。大将、中将、「小将」ではなくて。
203日本@名無史さん:2007/01/09(火) 18:45:04
琉球王国の言語は最初から日本語だったのでしょうか?
それとも日本に同化されていく際に日本語が取り入れられていったのですか?
204日本@名無史さん:2007/01/09(火) 21:28:36
スレ違い

ここは重複スレです。
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart18【歓迎】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1162310418/l50
に移動してください
205日本@名無史さん:2007/01/09(火) 21:42:16
>>201はいそうですね
206日本@名無史さん:2007/01/10(水) 02:04:57
>>202
左右あれば「左」が上です。
左大臣>右大臣
左近衛大将>右近衛大将

「少将」は「小将」と書く例もあるようです。
が、「小」には余り良い意味合いがないからではないでしょうか。
特に、政治家としては「小人」ではありませんからね。
207日本@名無史さん:2007/01/10(水) 02:10:25
>>203
琉球方言を日本語と関連ある別の言語として見るか、それともかなり古い時代に
本土日本語から分裂した古語方言とみるかでまた言い方も違うと思うが
少なくとも現在琉球方言とされている言語は強く日本語との関連を持つ。
そして、琉球語以前に同島民が話していたと思しき言語の痕跡は見つかっていないので
元々あの島々に住んでいた人々がどういう言語体系を持っていたかは判然としない。
とりあえず、琉球王国として通商していた時期においては、既に日本語と近い言語を喋っていたとされている。
208日本@名無史さん:2007/01/10(水) 20:54:29
司馬遼太郎の著作「竜馬がゆく」の中で中岡慎太郎が暗殺されたおりに「卑怯憎むべし、剛胆愛すべし」と言い残したと書いてありました
これは史実なのでしょうか?それとも司馬さんの創作でしょうか?
けっこう調べてみましたがわかりません
ソースわかる人いましたら、おしえてください
209日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:34:58
調べてわからなければ全部創作にしる
210日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:57:45
昔、テレビで
「源平合戦で源氏が勝ったから(日の丸)白地に赤丸なのであって
 平家が勝っていたならば赤地に白丸だった!」と言ってる人がいたのですが
 
どうなんでしょうか?
211日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:51:29
>>210
日章旗そのものは源平以前からあった。
怪しい歴史なんかだと、日高見国の元国旗だったとか言ってるけど。
新羅三郎が帝より賜った日章旗、なんてのもある。
ただ、白地赤丸の日章旗というのは平安以降徐々に広まっていったらしい。由来は不明だが
共に天皇に起源を持つ源平両家という名族中の名族にあやかった可能性は十分にありうる。
特に武家にとり、由来を源平両家にたどるのはよくあったことだしね。
212日本@名無史さん:2007/01/15(月) 19:32:28
天草四郎について教えていただけないでしょうか?
213日本@名無史さん:2007/01/15(月) 20:57:14
神武の即位が元年の暦法の名称は?
その暦法だと今年は何年?
214210:2007/01/15(月) 21:09:18
ありがとう御座います。
いろいろヒントがあったので調べてみます。
215日本@名無史さん:2007/01/15(月) 22:30:04
216日本@名無史さん:2007/01/17(水) 22:30:41
小学生の時、担任の先生が持っていた本が大好きで、休み時間にいつも読んでました。日本の歴史上の人物事典だったのですが、名前だけじゃなく一人ひとりの肖像画や写真も載っていました。日本の歴代天皇から始まり、近代史の人物まで載っていたような気がします。
学校で習うおなじみの人物はもちろん、それ以外の人物も載っていたので大変面白かったです。
少し前から探しているのですが、図書館や大きな本屋さんなどでも置いてありません。タイトルも出版元もわからないのですが、似たような本をお持ちの方がおりましたらぜひ情報を下さい。お願いします。
217日本@名無史さん:2007/01/17(水) 22:39:38
太国は何でニートになったんですか?
218日本@名無史さん:2007/01/17(水) 23:14:36
決まっているだろ!
219日本@名無史さん:2007/01/18(木) 00:04:38
中津藩の小笠原長胤が元禄十一年に改易されたのは有名な話ですが、
その原因は寵臣を筆頭家老に任命したために家政が治まらなくなったせいだ
と言われて居ます。
この筆頭家老に任命された寵臣は、たしか秋元とかいう名字の人物だった
かと記憶して居りますが、うろ覚えで定かではありません。
この寵臣の正しい姓名などの情報に関して御教示下さい。
何とぞ宜しく御願い申し上げます。
220日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:31:07
801 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/18(木) 19:56:14
>>797
学術的根拠のない叙情的なことをうだうだ書くなよ。

住吉大社の西側に上町断層が南北に走っている。
そして上町断層の西側大阪湾が陥没側、東側の上町台地側が隆起側となる。
(12年前の阪神淡路地震は六甲山の南側の5本の断層線の北から4本目が動いたもの。)
(六甲山が隆起側、大阪湾が陥没側。大阪では断層が南北に走り生駒信貴山が隆起側、大阪湾が陥没側)
上町断層の東側が上町台地、住吉大社は上町台地の西端に西向きにあるのだ。
住吉大社ができた時には、その入り口は大阪湾に面して海辺にあったわけだ。
大阪湾沿岸の神社は海に面接して立てられた一般則に住吉大社もしたがっている。
(したがって大阪湾での一般論として同じ場所では古い神社ほど内陸部に位置する)
又上町台地の地層は上町台地の西端が最も高く東に緩く傾斜している。
つまり、地形的には東西方向では住吉大社が最も高い位置になる。
だから住吉大社の西面が海に接していても長居が海であったことにならない。
しかし長居の東は、上町台地が東に傾斜して下がっているので、河内湾の海となる。


こんなに短時間に傾くの?
221日本@名無史さん:2007/01/18(木) 22:16:56
こんな馬鹿のあいては可哀想
222日本@名無史さん:2007/01/18(木) 22:35:59
>>220
太国確実w
223日本@名無史さん:2007/01/18(木) 23:05:21
805 :日本@名無史さん :2007/01/18(木) 21:04:18
論理思考のない人に、何を言ってもまったく無駄。
九州王朝大好きさんは、今、糠に釘を打たされている状態。

Qこれどう解釈すればいいのでしょうか?
224日本@名無史さん:2007/01/19(金) 01:47:25
質問
 日本史に限ったことではありませんが、なぜ大名達は互いに争うのですか?人間として、あってるのですか?
225日本@名無史さん:2007/01/19(金) 02:02:39
>>224
少なくとも、互いに争った諸国大名の誰一人として
「わしらは人間としてこれでいいんだろうか」と考えてた奴がいないことは確かだなw

そういう悩みを抱えて出家した大名といえば
それこそインドの釈迦牟尼がそのまんま。
226日本@名無史さん:2007/01/19(金) 11:01:16
遣隋使とか遣唐使は知ってるけど
遣明使ってあったの?
どっかの大学の講義の宣伝に載ってたんだけど
227日本@名無史さん:2007/01/19(金) 12:01:13
読めない
書けない
証拠が無い
三拍子揃えばこの板から追放しましょう
228日本@名無史さん:2007/01/19(金) 15:24:48
太国の事?
229日本@名無史さん:2007/01/19(金) 15:55:15
>>226
一応Wikiにも項目があるし、最近では足利義満による冊封体制に従うことによる日明交易を
そう一部では呼ぶのかもしれないね。
ただ、遣隋使が後の遣唐使との間に密接な連続性を持ち、長期間継続することを前提に行われたものであるのに対し
足利の場合は100年と言うきわめて短期間で終わり、結果的には冊封体制に組み込まれることもなく
また、交易の日本側の主体が君主であり正当な政府である天皇とその王朝ではなく
その一家臣に過ぎない征夷大将軍と幕府であったと言う意味で、厳密に冊封と言えないことなどから
遣隋使や遣唐使と一概に同列に扱うわけには行かないだろう。
230日本@名無史さん:2007/01/19(金) 16:25:24
一日中自作していると、ニートも人恋しくなるらしい。
出てきた馬鹿は、迷惑極まりない!
231日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:52:25
>長居の浦は、「松と鶴」だから、淡水ですね。

これ認識間違いと、文章間違いがありませんか?
232日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:56:35
>住吉大社のそばまで海であれば、大坂が島である説はとうに崩れています。

これ意味不明なんですが?何言いたいんでしょうか?
233日本@名無史さん:2007/01/19(金) 23:09:36
桓武天皇は胡散臭いですよね?
234日本@名無史さん:2007/01/19(金) 23:43:11
>>232
反論したいだけみたいだねwww
235日本@名無史さん:2007/01/20(土) 04:01:57
>>233
そんなこと言っちゃうと平家の方々がぶち切れるから誰も言わない。
236日本@名無史さん:2007/01/20(土) 09:25:19
>>235
あなたの頭がぶち切れてますよw
237日本@名無史さん:2007/01/20(土) 10:18:25
うちは二階家だから問題ない
238日本@名無史さん:2007/01/20(土) 11:13:40
>長居の浦は、「松と鶴」だから、淡水ですね。
何コレ?
239日本@名無史さん:2007/01/20(土) 13:20:05
>>236
つまり235は平家一門と。
240日本@名無史さん:2007/01/20(土) 13:30:50
>>239 ?何が言いたいの?
うさん‐くさ・い【×胡散臭い】
[形]うさんくさ・し[ク]どことなく怪しい。疑わしい。油断ができない。「―・い人物」

241日本@名無史さん:2007/01/20(土) 17:04:59
すみません教えてください・・
江戸時代の対外交流の窓口となった4つの地域とはどこでしょうか?
あとできたらで良いのですがその地域の当時の特色などを
教えていただければ幸いです。よろしくお願いします・・・
242日本@名無史さん:2007/01/20(土) 19:04:45
>>241
1.長崎・出島での幕府とオランダとの交易
2.日本と朝鮮に両属していた対馬藩による釜山倭館での交易
3.薩摩藩と清国に両属していた琉球王国による清国や東南アジア諸国との交易
4.松前藩による北海道のアイヌ民族を仲立ちとした清国や北方民族との交易(山丹交易)

4つというとこんな感じですかね?
243日本@名無史さん:2007/01/20(土) 19:42:28
>>242
山丹交易は清の成立のずっと前から行われている。
244日本@名無史さん:2007/01/21(日) 02:53:31
>>243
つっても清の成立が幕府による松前交易の掌握とあまり時期が離れていないので
「江戸時代の」と限定するなら正しいと言えないこともない。
それ以前は中央の統制から離れてたし、江戸時代とも言いづらいからね。
部分的に江戸期と被っているというのはあるんだけど。
>>240
洒落が分からなければ、書き込まないほうが無難だと思う。
245日本@名無史さん:2007/01/21(日) 02:55:02
すみません、資料を探しているのですが、諫懲後正と言う本は
出版されているのでしょうか。
ご存知の方がおいででしたらお教えください。
246日本@名無史さん:2007/01/21(日) 23:20:11
あのインターネット検索程度の返事なら聞きたくないですね。
247241:2007/01/22(月) 00:33:49
>>242
どうもありがとうございます!助かります!
あと思ったのですが当時対外交流の窓口は4つ以上あったのでしょうか?
248日本@名無史さん:2007/01/22(月) 02:31:43
>>246
大学の教授にアポとって質問してくれば?
249日本@名無史さん:2007/01/22(月) 04:04:43
敦賀なんかも蝦夷と貿易してたが
細かいのを挙げるとキリがないが
250日本@名無史さん:2007/01/22(月) 20:27:54
>>一応、勘合貿易は朝貢貿易の形式だし、隋の歴史を考えれば期間の長短は関係ないのでは?
251日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:21:40
>>247
長崎、対馬、琉球、蝦夷を鎖国時代の「四口」と呼ぶこともあるようなので、
代表的なものとしてはこの4つでいいのでは。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
ひっかけ的なことをいうと横浜や函館の開港も江戸時代のことですね。
あと、北前船による蝦夷と日本各地とのネットワークや、金沢の銭屋五兵衛の
ような私貿易・密貿易もあわせると本当にキリがないような。
252日本@名無史さん:2007/01/24(水) 07:46:59
読み書きもまともに出来ない荒らしが毎日来て困ります。
いつも一人ぼっちで自作をしていますが、寂しくなるとやってきます。
ピントはずれの無知なレスを連発し、明らかに荒らして行きます。
この荒らしを撃退するにはどうすればいいのでしょう???
253日本@名無史さん:2007/01/24(水) 11:25:17
院政って何で行われたの?
どうして天皇のまま政治やんなかったの?
254日本@名無史さん:2007/01/24(水) 12:40:33
私はあらして無いなんて
一々書き込む人は
あらし確定ですよね?W
255日本@名無史さん:2007/01/24(水) 12:49:40
>>254
私は荒らし容疑者ですってしゃしゃり出てくるのかよ!
256日本@名無史さん:2007/01/24(水) 14:27:11
語るに落ちる!
史コテによる自虐ワザ!
257日本史バカいちだい:2007/01/24(水) 14:45:13
何で伊藤博文は国会開設の勅諭で国会の開設を9年後にしたんですか?伊藤の政治的意図を教えて下さい。時間を確保したかったからとかそういう漠然とした答えは止めて下さいお願いします。
258日本@名無史さん:2007/01/24(水) 21:52:50
>>257
まず憲法の制定が必要だった。また、主要な法律(刑法や民法)。
更にもっと必要なのが、近代的な行政府。結果的には内閣制度。
議会はそれらが出来てから出ないと、混乱を招く恐れがありますね。
議会運営を仕切るために必要なものを揃える必要があったからで、
単なる時間稼ぎではないようです。

漠然としていたら、ご容赦。
259日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:49:10
>語るに落ちる!
>史コテによる自虐ワザ!
www
260日本@名無史さん:2007/01/24(水) 23:01:06
>>257
即時開設したら政党に有利な国会になりかねないからだよ。
>>258のような準備期間の設定という意味でも必要。
国会開設勅諭は政府にとっても具体的に動きますって宣言。

>>253
簡単に言えば、自分の皇統を継続させたいという意図で始まったのが院政。
261日本史バカいちだい:2007/01/24(水) 23:07:35
258さん、ありがとうございました 次に津田左右吉と会津八一についての関連性を教えて下さい
262日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:34:52
>>253
それまでの朝廷は摂関政治で藤原氏専制。
いうなれば、政治の実権が天皇の母方の祖父から父方の祖父に移ったということ。
簡単に言えば、天皇は確かに偉いが
上皇は、天皇家の家父長としてある意味で天皇より偉かった。
また、それまで主に摂関家によって、天皇は幼いうちに即位→若いうちに退位ということが多かったので
それを一朝一夕に変えることはできなかったというのがある。
>>257
「次は」じゃねーよ。自分で調べろ。
263日本@名無史さん:2007/01/25(木) 03:14:08
奥羽列藩同盟締結のきっかけとなった世良修蔵の密書露見の件で、質問です。

一般には、世良が大山宛の密書を福島藩士に届けさせようとしたが、福島藩士は仙台藩に
それを持って行って、その中身を読まれた、ということになっています。どうして、世良は
こんな軽率なことをしたのでしょうか。福島藩士の行動は十分予想できると思うのですが。
むしろ、露見して彼らが怒るのを挑発したのではないかという気さえするのですが。
油断していたんでしょうか?このあたりの事情に詳しい人、教えてください。
264日本@名無史さん:2007/01/25(木) 09:52:25
>>253
回答としては、>>262さんのものがベストです。歴史の流れに即していうと
そのようになりますね。
あと、付け加えるとすれば、やはり組織(律令制)が形骸化し、黒幕政治
が主流になってきた、ということでしょう。組織の規定通りだと、何事を
やるのも良かれ悪しかれ面倒なものになります。特に新しいことをやる際
には大きな障害となる場合の方が多くなります。
そういった枠組みやしがらみを抜け出すには、組織の外にあって実権を握
るというやり方がベストです。
これは、後の鎌倉幕府も、やがては執権政治から、得宗専制になっていく
過程で同様の傾向を見せています。
黒幕はラクです。組織に縛られませんし、責任も基本的に取らなくて良い
ですから。ただし、恣意的になり、調整局面であっても調整が利かないと
いう点がありますね。
265日本@名無史さん:2007/01/25(木) 12:18:04
壬申戸籍にある区分けの地士(646戸)って郷士のことですか?ずいぶん少ないような気が・・・
266日本@名無史さん:2007/01/25(木) 16:44:08
昭和初期に政党政治の政府と軍部の行動が一致しないことが多かったが
それらの事例を挙げて、なぜ一致しなかったのか答えなさい
って問題が試験ででるので誰かお願いします…
267日本@名無史さん:2007/01/25(木) 16:51:19
中田有紀さんと結婚する為には何をしたらいいでしょうか><
268日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:24:05
質問
武士が身分を優位に保つためにもった特権のうち
・姓を公式に称すること
・刀を腰に差して外出できる特権
をそれぞれおしえてください
269日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:51:20
>>267
まず長州小力でないこと。
長州小力に似てないこと。
長州小力みたいな性格でないこと。

見た目がいいこと。
カネ持ってること。
一流大学卒業であること。
270日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:55:47
馬場辰猪の「日本監獄論」とはどんな論ですか?
271日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:56:23
>>268
何を聞きたいのか分からないが・・・
まず「苗字帯刀」であって「姓」という訳ではない。
姓なら源とか平とかになってしまうが。
教えてという場合、どこが分からないのかを明らかにしてね。
272日本@名無史さん:2007/01/26(金) 00:04:11
>>266
じゃあ何で一致しちゃいけないんだ? って解答用紙で反論してみれば?
責任は取らないけど。
自分で考えてね。
273日本@名無史さん:2007/01/26(金) 02:46:44
>>271
氏は古代氏族を除けば源平藤橘、あと豊臣のみ。これがいわゆる本姓であり、武家の名字が公称できる由来。
姓は羽柴、真田、松平といったものでこれは名田、領地の名乗り。これが名字。
苗字というのは家族名。で、庶民は本姓を持たないために私称ということになる。
というわけで違う。
武士に許されたのは名字帯刀。一応建前上、武家=領地がある、つまり名字を持つ、なので。
もちろん名字と苗字が時代を降るごとに混同されていったことも確認する必要がある。
274日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:42:10
なんで日蓮宗は右翼が多いのか教えてください。
あと、鎌倉時代に流行った時宗ってどんな宗教なんですか?(学校の先生にはちょっとおかしい宗教と聞いてます)
275日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:39:41
「我は毘沙門天の化身なり」と言った猛将 上杉謙信(長尾輝虎)が実は女性だったと言うのは、どうなんでしょうか?ご意見お持ちの方おられますか?
276日本@名無史さん:2007/01/26(金) 15:34:34
>>275
277日本@名無史さん:2007/01/26(金) 17:00:04
>>274
日蓮宗に右翼が多いというのは統計もない以上推測でしかないだろうが
日蓮宗は、その成立過程において元寇を経験したというのが大きな影響を与えている。
宗教純化運動に近いのかもしれない。ただ、国粋主義やナショナリズムと直接混交したわけではない。

時宗については事典でもどうぞ。簡単に言えば、念仏さえ唱えれば信じてなくても往生できると説いた阿弥陀信仰系の流派。
聖や芸人を多く擁したが、無知蒙昧な庶民を教化するには楽しく踊って歌って教えるのが一番だったから。現代で言えばなんだろうか。
マンガ太陽の法なんかを発行してる某クソカルトとかの方法論に近い。
もちろん、中身は全然別で、きちんとした仏教。失礼だが、あんたの先生の見方はとても公平に歴史を教えるべき教師のそれとは思えんな。

>>275
エロゲでもやってろ。なんなら、伝上杉謙信着用の具足でも見て、女の胸が入るかどうか見てみたら?
278日本@名無史さん:2007/01/26(金) 19:24:30
>>275
両性具有
279日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:54:05
280日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:28:55
質問
 「天領」ってなんやねん?俺はその天領に住んでるけど、うちの家系はつまらん地主。近くの他の家をみてもそんな感じ。これが天領なのか?「天領=糞」ではないのか?
281日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:02:54
Wiki見れボケ。
282日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:31:07
厨房が尋ね、厨房が答える。
それが日本史板質問スレクオリティ
283日本@名無史さん:2007/01/27(土) 01:02:10
さすがに質問レベルが低すぎないか・・・?
284日本@名無史さん:2007/01/27(土) 08:03:29
質問レベルを云々するのはよくない。
低レベルだと思われるような簡単な質問にどう答えるかで解答者の知識量が見え隠れするし、
いかに簡単な質問といえども、そこから(質問者以外のROM専にとっても)新しい発見があるかもしれない。

レベルは関係なく質問は活発に行われるべきだ。そこから議論が生まれるのだから。


まあ、それはともかくとして質問なんだが、11c頃から出た歴史書に『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』ってあるよな?
あれってなんで全部『鏡』なんだ?
昔は『鏡』という字に今ではない特別な意味があったとか?
今で言う『史』みたいな意味を持ってた?
285日本@名無史さん:2007/01/27(土) 08:40:40
>>284
前段でちょっといいこと言ってるかも、と思った俺がバカだった。
要は後段のググればわかるレベルの質問を正当化したかっただけなのね。
氏んでください。
286日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:49:11
日本史なんでも質問スレッドだろ?

レベルとか関係ねーだろ

287日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:28:39
さぁ〜盛り上がってまいりましたw
288日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:54:33
>>284
鏡のことなら、植草元教授にお聞き下さい。
経済理論と同じくらいに詳しいと存じます。
289日本@名無史さん:2007/01/27(土) 15:28:57
ガイシュツかもしれないけど・・
三浦梧楼は閔妃を殺した後に死姦したってほんと?
あと、満州事変の実行犯は河本大作じゃないのも?
友達が誇らしげに言っていたんだが、どうも信じられなくて。
290日本@名無史さん:2007/01/27(土) 16:17:14
>>289
その質問は近代史板でどうぞ。
291日本@名無史さん:2007/01/27(土) 20:40:44
■第九回「皇室と日本を考える」学習会

東京都 豊島区勤労福祉会館第六会議室
2月3日(土)17時40分〜20時40分くらい(最大延長30分)

◎二月のテーマ「A)日本建国の理念/B)古代日本の正義と悪」

※今回は、学習会の冒頭に、当日その場で参加された皆さんに、
 二つのテーマのうちどちらを聞きたいか選んでいただきます。

A)神話と歴史から考える日本建国の理念

「紀元節」を前に、日本の建国を考える。
神武天皇の実在性は?皇紀2600年は事実なのか?
「天壌無窮」の神勅と建国の理想「八紘一宇」からみた国家観。

B)「大祓」の行からみた古代日本の「正義と悪」

六月と十二月に行なわれる神道の「大祓」の行。
そこから古代思想における正義論・悪魔論・人生論・幸福論を導きだし、
日本人の倫理と生き方を考える。

○参加費:無料 (懇親会参加者は飲食代適宜)

■主催 皇室と日本を考える会(http://nihon.lar.jp/

詳しくは下記のスレをご覧ください。
http://off3.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1147608766/
292日本@名無史さん:2007/01/30(火) 15:43:13
八幡神社ってやはり秦氏の神社ですか?
293日本@名無史さん:2007/01/30(火) 22:49:56
>>292
「宇佐八幡宮」というからには宇佐氏の神社でしょ。
八幡=秦氏というのは、
1.金達寿がいろんなトンデモ説を司馬遼太郎に吹き込む。
2.司馬が面白がってあちこちに書く。
3.世間に広まる。
というサイクルの一環として出てきたものではないのか。
294日本@名無史さん:2007/01/31(水) 00:43:15
疑問!
昨日のTV見て思ったのですが、織田信長はなぜ天皇とか朝廷共を殺さなかったのですか?
あれほど武力があるんなら簡単そうに思えるんですが。
295日本@名無史さん:2007/01/31(水) 00:54:14
>>294
正当性というものが重要であり便利であるから、
暴力のもたらす恐怖は強力な支配力を発揮する反面、反発も大きく
それを維持す為には莫大なコストが掛かるから。

周りに自身が正当な支配者であると認めさせる方がコストは
低く抑えられる、その正当性を保障するのが既存の権威である
朝廷となる。
296日本@名無史さん:2007/01/31(水) 01:00:13
295
トン。
しかし誰かれともなく殺す性格してるんだから、朝廷や天皇を殺せば否応なしにハクが上がるし歴史に名が残せるじゃないか。
その方が手っ取り早い。
297日本@名無史さん:2007/01/31(水) 01:15:46
>>294
日本中を敵に廻すから
298日本@名無史さん:2007/01/31(水) 01:17:06
>>296
朝廷の官位と、朝廷に認められた豊臣の氏を積極的に利用しようとした秀吉や
鎌倉スタイルの、朝廷から一歩はなれた政治体制を志向した家康と違って
信長はどういうやり方で朝廷を扱おうとしていたか、いまいちわからない、というのが答え。
それに1582年の時点だと、朝廷を滅ぼす、あるいは積極的に無視することは
周囲に毛利、長宗我部、島津、大友、上杉、北条といった大大名が生き残っている以上、デメリットのほうが大きい。
有名な官位辞任に際しても、当時信長は名目上とはいえ家督を嫡子に譲り、隠居していることを考慮すると
どこまで朝廷を軽んじた行動だったのか不明だしね。

あと、歴史に名を残すとか、きちんと記録された日本史上初めての天皇殺しを行って箔をつけるだとか
そういったことを考えていなかったのは確かだと思うよ。
中国と違って、日本は青史に個人で名を残すという行為に拘らないといわれるが
要するにどんな書物より、家名と家名につけられた官位がその人の名声を後世に伝え残す役割を果たすから。
299日本@名無史さん:2007/01/31(水) 01:17:56
>>296
「ぶっ殺す!」的なチンピラレベルの箔はチンピラにしか評価されない
歴史を変えたという評価は破壊より創造したものに与えられる

君の発想はクラスの人気者になりたくてチンチン出して机の上で
クルクル回って見ました、、つーのと同じレベル
300日本@名無史さん:2007/01/31(水) 01:32:08
天皇を殺し、朝廷を潰すには信長自身はもとより、配下にも正当化出来る理由が必要。

でないと、配下に見限られたり、敵対勢力に大儀名分を与えるだけで、自滅する危険がある。

将軍義昭を追放しただけでもそれなりにデメリットがあったわけで、毛利や北条、上杉、長曽我部など健在してて九州や奥州は手付かずの状態なんだから、そんな政治的リスクが大きくメリットの少ないことはしない。

信長が、そのあたりを理解出来ない程度の人間だったら、とっくに自滅してるはず。
301日本@名無しさん:2007/01/31(水) 02:17:17
>>296
歴史に名を残したいだけなら、別に天皇を弑す必要はないでしょう。
そんなテロリストみたいなことをしなくても実力で天下を取れたのですから。
それに、信長にとっては天皇(朝廷)なんかよりも強大な宗教組織を潰す
ほうが先。石山本願寺との講和は天皇の勅があってできたのですから、
天皇を殺す必要なんて更々ないかと。

>>298
近畿に地盤を置く限り、朝廷を無視することはできない相談です。
また正親町天皇とは虚々実々の駆け引きがあり、それが現実にあったの
ですから、信長は朝廷を重く見ていた以外のコメントはつけられないと思います。

ただあのような関係であったなら、正親町天皇は信長を「平清盛の再来」とみなして
政治行動を起こさざるを得ないですし、信長は信長で、親王たちを子飼いにし
機会を捉えて正親町天皇にいつどのような形で譲位をさせるのかは考えざるを
得ません。

しかし本能寺の変の時点では、まだ考えなくてもよい頃であったと思われますし、
それゆえに信長の意図は不明ということになっているのでしょう。天下統一を
果たしてからでも遅くないからです。その頃には正親町天皇も老い、親王たちも
壮年に達するのですから。
302日本@名無史さん:2007/01/31(水) 04:43:38
教えてチャンですみません。
パソが壊れてググれないのでお願いします。
歴史上に千姫という人がいたらしいんですが、どんな人だったかエロイ人教えてください。
ケータイからスマソ。
303日本@名無史さん:2007/01/31(水) 05:13:44
>>302
関ヶ原の合戦の後、豊臣秀頼と結婚した人。

徳川二代将軍秀忠の娘で、家康の孫娘になる。

大坂夏の陣で、落城前に救出される。

後に再婚。

まぁ、運命に翻弄された憐れな女性ですな。
304日本@名無史さん:2007/01/31(水) 05:26:24
>>303
ありがとうございました。
305日本@名無史さん:2007/01/31(水) 09:38:22
信長は無政府主義者じゃなくて現実主義者。
だから、何でも破壊すりゃいいなどといった厨房的発想は持っていない。
306日本@名無史さん:2007/01/31(水) 10:25:40
現代でも既得権益につかって何も動かない腐った社会を見てると
信長は立派で正しい行動だったとしか言いようがないよな
307日本@名無史さん:2007/01/31(水) 10:30:59
スレ違いっぽいんですが、乙巳の変などをベースにした映像作品
ってありますか?
308日本@名無史さん:2007/01/31(水) 13:33:17
 壇ノ浦の合戦が終わったあと生け捕りにした建礼門院を義経が犯したというのは
事実なのでしょうか?
309日本@名無史さん:2007/01/31(水) 16:20:43
>>308
梶原景時の頼朝に対する書状でそういう讒言があったという話
(出典は「源平盛衰記」だったかな)。
完全な盛衰記のフィクションかもしれないし、当時巷間にそういう風説があったの
かもしれない。あるいは景時のでっちあげかもしれない。
いずれにせよ、真実など当事者しかわからん話ということに気づきましょう。
310日本@名無史さん:2007/01/31(水) 17:53:18
またまた質問して申し訳ない。
大阪城のお堀を家康の要求で埋めてしまったのは何故? 又、埋められなかったらどうなってましたか?
311日本@名無史さん:2007/01/31(水) 18:17:35
外堀を埋めるのが講和の条件だったからですね。それを強引に内堀まで
埋めちゃった。そんでお城は丸裸。もう出撃するしかない=滅亡と。
大雑把ですがこんなもんで。IFはねぇ・・おそかれはやかれ滅亡は
免れないかと思うんですが・・。
312日本@名無史さん:2007/01/31(水) 18:36:22
>>307
NHKドラマスペシャル 大化改新
http://shopping.yahoo.co.jp/p:127581:domain=dvd
NHK「その時歴史が動いた」 ミステリー大化改新〜蘇我入鹿暗殺の実像〜
http://store.yahoo.co.jp/digiconeiga/crbi-5111.html
飛鳥夕映え/タカラヅカ絢爛 II 月組 (公演DVD)
http://store.yahoo.co.jp/musical-shop/c8f4c4bbcd3.html
313日本@名無史さん:2007/01/31(水) 20:03:07
武藤章「軍務局長武藤章回想録」 本庄繁「本庄日記」
額田担「陸軍省人事局長の回想」 杉山元「杉山メモ」
宇垣纏「戦藻録」        八原博通「沖縄決戦」
今村均「今村均回顧録」     淵田美津雄「真珠湾攻撃」
中村明人「駐タイ回想録」    宮崎周一「宮崎周一中将日誌」
佐々木到一「ある軍人の自伝」  樋口季一郎「アッツキスカ軍司令官の回想録」
服部卓四郎「大東亜戦争全史」  西浦進「昭和戦争史の証言」

これらはどれくらいの資料価値がありますか?
誰かこの中で持っているものがあれば解説をお願いします。
(買ったほうがよいor買わなくてもよい、でも結構です。)
314日本@名無史さん:2007/01/31(水) 20:21:30
律令体制の確立に果たした不比等が行った役割とは何だったんですか?
315日本@名無史さん:2007/02/01(木) 10:20:51
>>312
ありがとう。
316日本@名無史さん:2007/02/01(木) 11:17:10
南淵請安は結局どーなったんですかね?
317日本@名無史さん:2007/02/01(木) 19:27:32
>>313
あなたがそれ全部読める環境にいて、かつ全部読破できるほどの根気があるなら
本当にうらやましい限り。
それだけ読めば戦記物小説のあらすじの一本ぐらい頭に浮かんでくるよ。
そうしたらさらに資料を集めて肉付けして、小説でも漫画でもいいから何かカタチにして
世に出してくれ。

「私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ
詳しく書くつもりである。75ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。
それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る
唯一つのことだからである。」(大岡昇平「レイテ戦記」)
318日本@名無史さん:2007/02/01(木) 20:11:03
■-允恭天皇の病を治した医師-■

 『日本書紀』に「三年春正月、使いを遣して良き医くすしをシラキに求む。秋八月に、医、シラキより至(もう)でたり、
即ち天皇の病を治めしむ」とあるが、『古事記』は天皇即位の時「シラキの国主、御調物(みつぎもの)八十一艘を貢進す。
爾(ここ)に御調の大使、名は金波鎮漢紀武(こむはちむかむきむ)という。この人深く薬方を知れり。故、帝皇の御病を
治め差いやしき」とある。
 『古事記』にはシラキから来た医者の名が記されている。『日本書紀』には、日本側が医者を求めたところ、
シラキが大使としてこの医者を日本国に送り、允恭天皇の病を治したとある。
 允恭天皇は、西暦454年に39歳で亡くなったが、この時代(4〜5世紀)、日本と新羅(シンラ。辰韓)は敵対関係にあり、
ヤマト朝廷は、新羅を征伐するために何度もシラキに軍を派遣している。433年に、日本領=百済と志羅紀が、新羅・高句麗=連合
の侵略から国を守るために同盟を結んでいる。この事実は、允恭天皇の治世において日本と新羅が敵対してことを示している。
 したがって、シラキから大使として送られた医者=金波鎮漢紀武は、新羅人(ワイ人。朝鮮人)ではない。
允恭天皇の時代に日本に来た金波鎮漢紀武は、志羅紀人(シラキ人。倭人)なのである。日本民族の国である志羅紀(弁韓)から、
コムハチムカムキムは派遣されたのだ。
 允恭天皇が亡くなった翌年、西暦455年に高句麗が百済を攻撃するが、この時、志羅紀が百済を救っている。
允恭天皇の時代には、百済と志羅紀の間に強固な同盟関係が成立していたことが分かる。
 512年〜525年頃に、新羅の侵略により任那と志羅紀は一時滅びたようだ。しかし、544年に高句麗が百済を攻めた時に、
志羅紀が百済を救援しているので、544年以前に、ヤマト朝廷の支援により志羅紀と任那は復活したのだろう。
319日本@名無史さん:2007/02/01(木) 21:11:20
絵島生島事件がどういう事件だったのか教えて下さい。お願いします。
320日本@名無史さん:2007/02/01(木) 22:24:33

編年
それは国際的には
否定され排他される
非科学的な
年代基準

科学の無い考古学は日本にしかない
外国に認められない学問を、何故日本では必死に守っているの?

321日本@名無史さん:2007/02/02(金) 00:09:34
>>320 鮮人ごくろう!

奸国の半万年よりは余程まし
322日本@名無史さん:2007/02/02(金) 00:45:08
>>316
明日香の石舞台を真っ赤に染めて
葛城山の向こうに沈んでゆく
あの夕陽だけが知っているのさ。
323日本@名無史さん:2007/02/02(金) 00:50:21
320が鮮人だったとしたら自爆している件
324日本@名無史さん:2007/02/02(金) 09:46:00
↑みたいな馬鹿しかいないの日本史板って?
325なかさ:2007/02/02(金) 12:41:20
スレ違いだったらすいません

十返舎一九の波の絵のタイトル教えて下さい
326日本@名無史さん:2007/02/02(金) 20:34:43
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1169979531/46
46 :日本@名無史さん :2007/02/02(金) 17:04:17
日本史は「知る」ことや「考える」ことを
目的とするような無味乾燥なものではない。
この点において他の学問とは決定的に異なる。
日本史の醍醐味は「味わう」ことや「悦ぶ」ことにあるのであって、
そこにおいては真実やロジックは排斥される。
この姿勢を許容できない者こそ、私は無粋者と嘲笑ってやりたい。
司馬遼太郎等フィクション歴史ライトノベルの
シンプルな勧善懲悪や浪花節エピソードは、
感性を豊かにし人生に深みを与える。

                       日本史板って学問板じゃないの?
327日本@名無史さん:2007/02/02(金) 22:39:10
>十返舎一九の波の絵
何じゃそれは?画像も貼らずに(ry
328日本@名無史さん:2007/02/02(金) 22:40:58
>>327
有名だろw太国さん?
329日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:18:53
282 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/01/26(金) 23:31:07
厨房が尋ね、厨房が答える。
それが日本史板質問スレクオリティ
330日本@名無史さん:2007/02/03(土) 11:25:44
>>314
藤原不比等。
英訳するとピアレス藤原またはフジワラ・ザ・グレーテスト。
いろんな意味での藤原王朝の創始者。
331日本@名無史さん:2007/02/03(土) 12:51:34
戊辰戦争では洋式の軍服を着ていた薩摩や長州の武士たちが、
西南戦争や萩の乱では和装の甲冑に戻ったのはなぜ?
332日本@名無史さん:2007/02/03(土) 13:10:04
年末年始にフジテレビのヒストリーXってキチガイ番組やってたが、
一体どこの制作会社だったんだろうな
333日本@名無史さん:2007/02/03(土) 13:16:40
>>331
洋服の供給が断たれたからでしょ。
自前の繊維工場を持ってるわけでもなし。
334日本@名無史さん:2007/02/03(土) 14:17:52
できれば古代の神社について詳しく知りたい
相当のスレありますか?
335日本@名無史さん:2007/02/03(土) 14:24:23
>>333
10年前に着た軍服は残ってなかったの?
336日本@名無史さん:2007/02/03(土) 16:21:42
>>335
西南戦争に参加したすべてが戊辰戦争に参加したとはいえない。
むしろ西郷下野で鹿児島に戻ってきた上級将校は別としても、大体は鹿児島に残っていた
武士が多かったから。軍服もって無くてもおかしくは無いし、
軍服なんて戦闘してればすぐぼろぼろになるだろうし、昔使ってた軍服を着ることはできないんじゃね?
337保存しましょう:2007/02/03(土) 16:41:14
■古代カラ半島と日本国の古代史年表■
(省略・・・)
396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。
397年- 百済、倭国に救援を求め、太子を人質とする。
433年- 百済、任那・志羅紀との同盟を強化。
(省略・・・)
475年- 百済文周王が任那に避難して即位。任那領=熊津(現・忠清南道公州市)に遷都。
477年- 百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる。
479年- 百済東城王即位。
490年- 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)。
495年- 高句麗、百済の雉壌城を攻め、志羅紀が百済を救援する。
501年- 東城王暗殺され、武寧王が即位。
512年- 新羅が于山島(国)を侵略し、併合。
(省略・・・)
565年- 高句麗の侵略により漢城(コマ)が滅亡。漢城人(コマ人)集団が倭国に帰化する。←(注目!
594年- 新羅=真平王が隋に使者を派遣。隋により楽浪郡公・新羅王の冊封を受ける。高句麗への事大政策を中止。
598年- 高句麗が隋の遼西地方に攻撃を加える。これにより、隋と高句麗の戦争が始まる。新羅が高句麗と断交。
(省略・・・)
616年- 百済=武王が、高句麗と新羅の関係悪化を好機と判断し、新羅の母山城を攻撃。
624年- 新羅=真平王が唐に接近。唐の冊封を受けて、楽浪郡公・新羅王の称号を得る。
638年- 百済が、新羅の独山城を攻撃。
641年- 百済義慈王が即位。
641年- 高句麗が新羅の七重城を攻撃する。
642年- 百済、新羅を攻めるために高句麗と同盟。
645年- 倭国(日本国)に、三韓(百済・漢城〈コマ〉・志羅紀)の使者が派遣され、三国の調の儀式が行われる。←(注目!
      中臣鎌子と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺。
645年- 倭国と百済・志羅紀の連合軍が、新羅を攻撃。旧任那領を奪還する。(ここも注目!
663年- 倭国の百済救援軍、白村江(はくすきのえ)戦争で唐軍に大敗。

★565年に注目! 高句麗人は古代日本に移住していないという事実!!
338日本@名無史さん:2007/02/03(土) 18:39:12


古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の
部分は空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた
簀のこ(すのこ)の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより
蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,湯気が立つ。
この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。

339日本@名無史さん:2007/02/03(土) 22:24:23
>>331
筒袖やタッツケ袴といった日本古来の軍装は、
洋服と比べても機能面でさほどの遜色はない、
という点もある。
性能が同等なら、簡単に手に入って普段から
着慣れている方を選ぶのが自然だろう。
それと比べると、羽織袴姿で殺し合っていた
新撰組や志士の人たちは歴史的に見ても異常。
お疲れ様でした、としか言いようがない。
340日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:38:23
松永弾正について詳しく教えてください。
341日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:58:56
忌み名(本当の?漢字がでない)や字のことをしりたいです。
少し自分なりに調べたのですが
忌み名→本当の名前。呼んではいけない。書状や死後使う?
字→普段呼ぶ名前。名前だけでなく官職も使う
という感じであっていますか?
あと幼名というのがいまいちわかりません。
源義経の場合
幼名:牛若丸 字:九郎(判官) 忌み名:義経
でいいんでしょうか?
ドラマなどで「信長様」とか呼んでることがありますが
あれって当時からすると絶対にないことなのでしょうか?
あと苗字が二つあったりするのもわかりません。
HPでみたのでいうと織田三郎平朝臣信長とか…
質問の羅列で申し訳ないですけど教えてください。
342日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:06:00
>>339
当時の錦絵とか見たら、西郷軍の大半は軽装どころか鎧を着込んでるが。
343日本@名無しさん:2007/02/04(日) 00:36:43
>>341
とりあえず、こちらをどうぞ(↓)
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1162310418/508-510
344日本@名無しさん:2007/02/04(日) 01:13:10
>>341
【姓】
(1)姓(かばね)
(2)氏(うじ)
(3)名字、苗字(みょうじ)

【名】
(1)幼名(ようみょう)
(2)諱、忌み名(いみな)、実名(じつみょう)
(3)字(あざな)、仮名(けみょう)
・受領名(ずりょうめい)
・百官名(ひゃっかんな)…図書、監物、玄蕃、主税、采女、主水、弾正など
・東百官(あずまひゃっかん)…伊織、源内、左門、求馬、一学など
・輩行(はいこう)…〇太郎、×次郎など
(4)法名(ほうみょう)
(5)諡(おくりな)、称え名(たたえな)
・国風諡号(こくふうしごう)…〇〇ノミコトなど
・漢風諡号(かんぷうしごう)、追号(ついごう)…〇〇天皇、××院など
・戒名(かいみょう)
(6)雅号(がごう)
・俳号、吟号など

おおざっぱだが、本気で知りたければ全ての呼称を検索して、読んでくれ。
345日本@名無史さん:2007/02/04(日) 01:22:46
>>343-343
ありがとうございます。
早速343のスレも読んできました。
>>341の答えが知りたい方は>>343の507〜のレスを読んでください。
346日本@名無史さん:2007/02/04(日) 01:54:45
>羽織袴姿で殺し合っていた新撰組や志士の人たちは歴史的に見ても異常。

オイオイw
347日本@名無史さん:2007/02/04(日) 16:44:01
古地図や写真等を本から抜粋してホームページに載せたいのですが、
著作権法違反にならずに載せる方法はありませんか?
348日本@名無史さん:2007/02/04(日) 18:06:08
http://sports10.2ch.net/test/read.cgi/bicycle/1152843688/201-300
ここのスレ主の言いたい事ってなんだろ?
349日本@名無史さん:2007/02/04(日) 19:03:52
350日本@名無史さん:2007/02/05(月) 08:31:41
>>349違いますよ。別人ですが、そこも今読みました。
思いきって載せてしまおうかな。ちょっと不安です。
351日本@名無史さん:2007/02/05(月) 09:00:35
これがほぼ当てはまるんじゃないですかね

http://pc10.2ch.net/test/read.cgi/hp/1150034902/339-340
352日本@名無史さん:2007/02/05(月) 12:25:58
>>351どうも親切にありがとうございます。参考になります!
353日本@名無史さん:2007/02/05(月) 18:09:41
島原の乱で犠牲になった日本人は西洋の宣教師によって殺されたようなもんだな。
だいたい、宣教師が日本に来なかったらこんなことは起こらなかった。
宣教師がくだらんキリスト教で一部の日本人を洗脳したせいで一部が壊れてしまった。
日本には独自の神道、仏教などがあるんだよ。
日本にまでくるんじゃねーよ!! くそ宣教師が!!
354日本@名無史さん:2007/02/06(火) 00:44:43
>>346
シカゴギャングもコーザ・ノストラ(マフィア)も、紳士服で戦ってるぞw
355日本@名無史さん:2007/02/06(火) 01:18:42
浅井父子と朝倉のナイスな盃は今どこにあるの?
356日本@名無史さん:2007/02/06(火) 02:11:23
>>355
沢彦和尚により丁重に葬られたそうです。
アーメン♪
357日本@名無史さん:2007/02/06(火) 02:21:36
>>356
秀吉が持っていって、後に黄金の茶室に飾って悦に行っていた。
秀吉の死後、淀君は丁重に大奥で祀っていた(父ちゃんと爺ちゃんです)
が大坂城落城の際、坂崎出羽守が家康の命を受け、回収に向かったが、
途中で千姫に欲情してしまい、盃そっちのけ(坂崎のくせにw)で千姫
を救い出し、放置してきた。
家康は激怒し、千姫は本多家に嫁にやってしまい、坂崎を放置。
結局放置プレイの果てに、大阪で灰燼に帰してしまいました。

#この物語はすべてフィクションです。
358日本@名無史さん:2007/02/06(火) 03:35:24
356=357
電波乙
359日本@名無史さん:2007/02/06(火) 04:03:51
家康は一人っ子ですか?
360日本@名無史さん:2007/02/06(火) 04:17:57
>>359
異父弟がいる
361日本@名無史さん:2007/02/06(火) 05:00:21
ありがとう(^-^)/
362日本@名無史さん:2007/02/06(火) 07:44:53
歴史上の人物で、『生ごみのかたまり』みたいな名前の人いたよね?」
363日本@名無史さん:2007/02/06(火) 10:18:22
新羅系の神社が弾圧にあってバラバラに小さくされたのになんで、伏見稲荷や
八幡神宮は小さくならずに大きくなったのでしょうか
364日本@名無史さん:2007/02/06(火) 13:16:25
ドクロ杯は謎って事でok?
365日本@名無史さん:2007/02/06(火) 20:52:33
>>363
質問は日本語で
366日本@名無史さん:2007/02/07(水) 03:07:43
平安時代の京都商人の生活ぶりをリアルに知ってる人がいたら教えてください。
例えば、カンザシなど売ってる小間物屋と貴族との関わり方とか、商人の一日のスケジュールとか食事の内容とか。何でも構いませんので教えてください。
367日本@名無史さん:2007/02/07(水) 03:43:35
>>366
質問は日本語で
368日本@名無史さん:2007/02/07(水) 21:39:07
プラ国って誰ですか?
またどんな人ですか?
369日本@名無史さん:2007/02/08(木) 19:48:25
質問
昔の日本に「えた・非人」という身分もあったそうですが、本当に人でない者が人の形になって表れた者がいたのですか?言葉が悪いですが、同じように昔の日本には男尊女卑があり、これは案外実用的だったようですね。なので、自分は「えた・非人」を信じてます。

マジレスをお願いします。
370日本@名無史さん:2007/02/08(木) 20:47:56
>369
>>昔の日本には男尊女卑があり、これは案外実用的だったようですね。
実用的って何が?意味不明。

>>自分は「えた・非人」を信じてます。
信じる信じないの問題ではない。

マジレスしてみますた
371日本@名無史さん:2007/02/08(木) 21:55:51
>>369−370
日本史板に
質問を躊躇する
自作は止めてくれ

君のレベルじゃ誰も呼べん!
372日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:03:50
東北生まれにはそのような被差別部落問題が分からないんですが。
西日本を旅行すると「人権宣言都市」やら「差別をなくして明るい・・・」なんたらの垂れ幕の役場を良く見ますが、どうなんでしょう?
現状では差別を食い物にして逆差別を生み出している印象が強いのですが。

 イデオロギーにとらわれないまっとう被差別部落史を紹介してください。

 なお、個人的には「部落」と云う言葉に愛着を持っている人間で、小学校時代には何々部落出身であることがアイデンティティーでの中心でした。
「部落」と云う言葉が禁止用語扱いなのは哀しいです・・・行政区画の用語として復活しないかなあ、「集落」なんて地理学用語にしか思えない。
373日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:06:14
>>372
君のレベルじゃ誰も呼べん!
374日本@名無史さん:2007/02/08(木) 23:55:58
>>372
うーん、どうしましょうか。
一応、部落についてのひとつの見解を提示しましょう(歴史的な)。

簡単に言えば、部落とは一種の「アパルトヘイト」の名残です。
日本民族の黎明期、この列島には最初縄文人が住んでいました。
そこへ、弥生人が移り住んできた訳です。縄文人も農耕を営んでは
いたという説が有力になってきましたが、傾向としては狩猟系の縄
文人に、農耕系の弥生人。また、文化的にも技術的にも弥生人の方
が進んでいたと考えられます。それまでは、列島に満遍なく縄文人
は分布していたでしょうが、後からやってきた弥生人に住処を奪われ、
次第に東日本に勢力は後退していったのでしょう。

しかしながら、西日本にも残留した縄文人はいたはずです。彼らは弥
生人から差別を受け、居住地も限定的になって行きました。彼らは狩
猟的な生活習慣(皮の加工とか、屠殺の習慣など)があり、それは弥
生人の蔑視の対象となったと思われます。また、山岳地に隠れ住んだ
人々もいたことでしょう(サンカ、マタギ、樵など)。これらは縄文
人の系統の末裔だと考えられます。

東日本は、縄文一色だったので、基本的にそのような差別意識は希薄
だったと思われます。後に蝦夷社会に西の勢力が進出したときに、や
はり、「俘囚」という形のアパルトヘイトが成立していますが、奥州
藤原氏の平定で、それらは原型を失ったと思われます。

日本民族はほぼ単一だと思われていますが、縄文・弥生の異なる系統
の人たちのせめぎ合いが、日本の歴史の上にも影を落としているよう
ですね。
375日本@名無史さん:2007/02/09(金) 00:57:11
古い古杉>>374
376日本@名無史さん:2007/02/09(金) 01:45:14
では新しい凝り過ぎの新説をどーぞw
377日本@名無史さん:2007/02/09(金) 07:46:05
質問です。
「駿州加島郡」は、現在のどの辺りかご教示下さい。
378日本@名無史さん:2007/02/09(金) 21:11:10
弥生時代の道具の「鉄鎌」って、どう読んだらいいんですか?
379日本@名無史さん:2007/02/09(金) 22:26:22
てつがま
380日本@名無史さん:2007/02/09(金) 22:30:18

卑弥呼がスサノオの部屋まで自分の意志で付いてきて犯されたら和漢ですか?W
381日本@名無史さん:2007/02/09(金) 22:30:44
382日本@名無史さん:2007/02/09(金) 22:50:53
>>380
近親相姦?
383日本@名無史さん:2007/02/09(金) 22:53:14
>>382
質問が読めてませんね
可哀相な脳味噌ですねw
384日本@名無史さん:2007/02/10(土) 00:37:46
>>383
ひょっとして、マトモな回答を期待してたのか?
回答は、質問相応のものが返ってくるよw
385日本@名無史さん:2007/02/10(土) 00:46:01
>>384
あのさーもう一度読み返したほうがいんじゃね これじゃ又突っ込まれると思うよ 無防備だねw
386日本@名無史さん:2007/02/10(土) 08:41:07
>>381
ご教示、ありがとうございます。
駿州富士郡に加島郷があったことがわかりました。
現在の、富士見市加島町辺りと見当がつきました。
387日本@名無史さん:2007/02/10(土) 10:30:00
プラムさんの弁護士決まったですか?
388日本@名無史さん:2007/02/10(土) 13:31:21
目安箱について おしえて
授業では、 無記名で誹謗中傷の道具になったと 教わった記憶があるんですが
wikiには記名だったってありますう
wikiはホント?
389日本@名無史さん:2007/02/10(土) 13:35:17
高杉晋作について質問です。
こちらに写真があるのですが→ttp://www.city.hagi.yamaguchi.jp/portal/news/sinsaku/img/sinsaku02.jpeg

何故、彼は裸足なのですか?
坂本龍馬・木戸孝允…等、上野彦馬が撮影した被写体は、
皆、靴又は草履を履いています。
何故に彼だけが…?
390日本@名無史さん:2007/02/10(土) 14:17:27
>>388
目安箱には記名のものも無記名のものもあった。

>>389
室内で撮影したので草履を脱いだんでしょ。
391日本@名無史さん:2007/02/10(土) 15:23:02
井伊直政時代の箕輪城(現高崎市)の遺構に関する現地説明会が、
近くあると思うのですが、正確な日時が判る方、いらっしゃいますか?
HPほか広報が見当たらないのですが…。今日は役所休みですし。
392日本@名無史さん:2007/02/10(土) 15:40:05
>>391
「箕輪城 現地説明会」でぐぐれるじゃないか。
393日本@名無史さん:2007/02/10(土) 15:52:48
松山藩主久松家の明治の当主・久松 定謨(ひさまつ さだこと)の実父で
松平勝実という人物(旗本らしい)の家系についてわかりませんか?
やはり久松系松平の家系ですか?
394日本@名無しさん:2007/02/10(土) 17:13:46
>>393
Yes.
松山藩系図

1松平定勝┬2定行─3定頼─4定長
       ├女子─島津綱貴─吉貴─継豊─重年─重豪─斉宣─13勝善=15久松定昭
       ├定実─定之─定員─定蔵─定寅─定朝─勝安─勝実─16定謨─17定武
       └定房─定時─5定直┬6定英┬7定喬=10定国┬11定則
                     │     └8定功      └12定通=14勝成
                     └定章─9定静
 
はじめまして。
T県S市の生涯学習課生涯学習係長です。
公募している訳ではないのですが、
現在、市史編纂に関して史料分析、研究、筆耕が
できる嘱託職員を緊急に探しています。
院卒程度の能力があって、こちらで働ける方が
おりましたら、自薦他薦を問わずメールにて
ご連絡ください。(対象者の履歴等の記載も
お忘れなく。なお、現段階では個人情報の
問題がありますで、個人が特定できる記載は
されなくてもかまいません。)

連絡方法は、本市HPの生涯学習課のアドレスへ
生涯学習係長あてと明記して送信ください。
(メールを読んで、こちらで接触の必要ありと
判断した方のみご連絡します。)

ご注意
担当係への直接問い合わせはご遠慮ください。
お電話での問い合わせにも応じかねます。

ttp://www.city.tochigi-sakura.lg.jp/
396日本@名無史さん:2007/02/11(日) 16:07:00
>>395
なんで、栃木県さくら市のHPへ誘導しておいて、T県S市なんて伏せてるの?
397日本@名無史さん:2007/02/11(日) 19:07:25
>>396
建前は公募じゃないからな。
きっと何か事情があるんだよ。
許してやれよ。
398日本@名無史さん:2007/02/12(月) 19:48:41
献策に引っかかるとお役所はうるさいんだろう。
むしろ2ちゃんで募集する自治体があるなんて、面白いね。

ただ、板は良いとして、ここは質問スレだから、そこをね(ry
399日本@名無史さん:2007/02/12(月) 21:00:08
>嘱託職員を緊急に探しています。

緊急というからには何か事情があるんだろうが
用が済んだらポイかな?
400日本@名無史さん:2007/02/12(月) 21:41:30
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E8%B6%8A%E5%9C%B0%E6%96%B9

この中で、
「親鸞が直江津に流されたので、上越地方は浄土真宗の地盤となった」
と言う内容の記述があるのですが、本当でしょうか?
確か親鸞は国府を出て越後一円を回ったあと関東に入ったと聞いたのですが。

ひょっとしたら宗教板で聞くべき質問かもしれませんが、まずはこちらにて。
401日本@名無しさん:2007/02/12(月) 22:23:03
>>400
田村実造「『歎異抄』を読む」によると、聖人は国府(直江津)に流されて五年、
赦免されるもそのまま二年留まった後、関東へ入ったそうです。
越後にいる間、地元の豪族らしい三善為教の娘(恵信尼)と結婚し男子を
儲けました。このときどれだけの布教活動をしたのかまでは浅学にして
知りませんが… 
402日本@名無史さん:2007/02/12(月) 22:30:27
>>399
(お許しください)

募集じゃなくて、(あくまでも)
採用にあたいするような人材が
いらっしゃいますでしょうか否かの
(なんでも)質問ですから・・・。
403日本@名無史さん:2007/02/12(月) 23:08:40
>>402>>398へのレスじゃまいか

いずれにしても好きな歴史の仕事ができるなら
俺だったら金を払ってでもそんな仕事がしたい。

まだ高校生だけど・・・。
404日本@名無史さん:2007/02/12(月) 23:44:48
>400
親鸞は、越後では「非僧非俗」の流刑者として過ごしていたのだから、
>>401さんもおっしゃるように、どれだけ布教ができたのかは怪しいと思います。
北陸が後に「真宗王国」と呼ばれるのは、越前を根拠地に強力な布教活動を
行った蓮如の力が大きいのでしょうし。

「浄土真宗と北陸門徒」(千葉乗隆)
http://access-jp.net/amida/monsi/tiba01/

越後の民衆に浄土の教えを説く流罪者親鸞、という光景はなかなか魅力的ですが・・・
405日本@名無史さん:2007/02/14(水) 11:22:13
元々蓮如以前の真宗は衰微のきわみだったそうだからな。
まあ布教と言っても女犯僧と見分けのつかない状況で、
かつ流刑者で
おまけに教えはするが教団も道場も否定しますっていう桁外れの坊さんだったから
どこまでついてくる人がいたやら。
406400:2007/02/14(水) 20:58:23
>>401>>404>>405
ありがとうございます。

別の項目には浄土真宗が直江津から西へ進んで
北陸に広まったかのように書かれていて、おや?と思っていたのですが、
言って見れば逆方向なわけですね。(あと時代も)

越後での布教については各地に「越後七不思議」なるものが伝わっているほどなので
記録には残らぬまでも、民衆に広く伝わっていたのではないかと思いたいのですが…。
407日本@名無しさん:2007/02/14(水) 21:53:47
>>406
真宗のコアである『教行信証』は越後時代の後、関東に入ってからの執筆ですし、
聖人の布教活動も関東で本格化します。越後時代は法難と思索の頃ですので、
この頃の聖人にの資料はあまりないらしく、また>>405さんの仰るような境遇でも
あったのですから、何をしていていたのかは学者の間でも意見が分かれているそうです。

後世、蓮如らが「聖人ゆかりの地」という触れ込みで布教し、その際に聖人の色々な
伝説が出てきたり生まれたりしたというのが本当のところではないでしょうか。
408日本@名無史さん:2007/02/15(木) 04:21:43
後に一向宗が日本を席巻するようになって
「俺達越後人は宗祖最初の門徒だい」
ということを強調するために、さも手厚く迎えたかのように見せかけただけだろうね。
あざといし小ずるいが、所詮庶民の猿知恵だ。
409日本@名無史さん:2007/02/15(木) 17:12:25
時代劇で「江戸市中」とか「市中引き回し」という台詞をよく聞くけど、
その時代って「町奉行」って言葉もあるくらいだから、都市の単位は
「町」だったんですよね?
だとしたら「江戸町中」「町中引き回し」と言った方が正しいのですか?
410日本@名無史さん:2007/02/15(木) 18:24:20
市は行政単位の「市」とは違います。
411日本@名無史さん:2007/02/15(木) 18:33:11
その場合の市は「人が集まってる場所、集まる場所」って意味になります。
412409:2007/02/15(木) 19:06:48
>>410-411
それでは江戸時代にも既に「市中」と言う言葉があったという
認識でいいのですね?どうもありがとうございました。
413日本@名無史さん:2007/02/16(金) 22:19:53
>>408
その辺は記録がないから何とでも言える罠

一応、七不思議のいくつかには蓮如が訪れ、歌を残している事を記しておく
414日本@名無史さん:2007/02/17(土) 16:48:37
男〇三郎
〇には


を合わせた漢字が入ります
何と読むか、どういう人物か教えて下さいm(_ _)m
415日本@名無史さん:2007/02/17(土) 17:09:55
>>414

おぶすま・さぶろう、でググレば出てくる
416日本@名無史さん:2007/02/17(土) 17:54:28
物語の人
417日本@名無史さん:2007/02/17(土) 17:55:12
史上最強の名君って誰ですか?
418414:2007/02/17(土) 18:02:50
415 416
ありがとうございます!m(_ _)m
419日本@名無史さん:2007/02/17(土) 18:16:18
徳川次郎三郎家康とかいうけど、

このときはまだ長男に一郎とか決まってなかったのですかね?
420日本@名無史さん:2007/02/17(土) 21:48:30
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
421日本@名無史さん:2007/02/18(日) 09:15:52
>>419

それは逆。古い時代は長男が太郎、次男が次郎・・・と原則が守られていたが
だんだんに崩れた。
やがて世襲されるようになり、(祖父)二郎三郎---(父)二郎三郎---(子)二郎三郎
てな家が多くなる。
徳川家の嫡子は代々、竹千代だろ
422日本@名無史さん:2007/02/19(月) 01:36:05
信長と秀吉の検地の相違ってなんでしょうか?
423日本@名無史さん:2007/02/19(月) 02:17:10
山川の教科書見たら分かるだろそれくらい。

信長がやったのは指出検地。
そこを支配している香具師にその収穫量などを申告させる形だ。
一方秀吉はすべての土地に竿を入れて実際に検地をしている。

戦国期は基本的に指出検地なわけだが、例外が後北条氏。
北条氏は実際に竿入れして、面積や生産力を把握していった。
そして検地によって確定した情報を元に年貢を決定し、それまで農村に留保されていた余剰の一部の収奪に成功。
さらにこの検地の情報を元にして貫高制を確立していったんだね。

そして、信長も実は北条氏のような検地を行っている。1570年代に行った越前検地だ。
秀吉の太閤検地は、信長の越前検地をモデルにして全国に実施したものと言ってもいいくらい。

大雑把な理解としては信長=指出検地、秀吉=検地でいいと思う。
424日本@名無史さん:2007/02/19(月) 02:48:18
>>423
ありがとうございます。
自分の学校では教科書が資料集タイプのものしかなく、
きっちり記載されていなかったんです・・。
425日本@名無史さん:2007/02/19(月) 11:08:15
水戸学では有栖川宮が正当な南朝方の出だとしているとききました。
でも有栖川宮の始祖は後陽成天皇の皇子だから北朝の血筋だと思いますが
なぜ水戸学では南朝の出だと教えているのですが?
426日本@名無史さん:2007/02/19(月) 11:36:22
>>425
>>水戸学では有栖川宮が正当な南朝方の出だとしているとききました。

デムパです。以上


427日本@名無史さん:2007/02/19(月) 12:18:17
>大雑把な理解としては信長=指出検地、秀吉=検地でいいと思う。

デムパです。以上
428日本史@名無しさん:2007/02/19(月) 14:43:46
封建制度について教えてください
できれば中国やヨーロッパのものとの共通点、違う点など
教えてくださると助かります
429日本@名無史さん:2007/02/19(月) 19:35:33
>>427 
ネタにマジレスするけど、それが電波ならどう説明すんだよ。
信長の土地政策をはじめ内政は他大名と比べても変わらないか劣ってるよ。
流通の支配については特記すべき点だが。
本能寺なかったらその後何かやってた可能性はあるけど。

書いてて気づいたがそれって自己紹介か?w
なら分かりやすいように【私は】デムパですって書いてくれよなw
430日本@名無史さん:2007/02/19(月) 20:46:25
>流通の支配については特記すべき点だが

デムパです。以上
431日本@名無史さん:2007/02/19(月) 21:05:22
だから私はって入れろってw
432日本@名無史さん:2007/02/19(月) 21:30:52
こういう学術系の板にも電波は入り込むんだなあ
433日本@名無史さん:2007/02/19(月) 21:52:31
>>432

電波はおまえやん?
434日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:46:28
>>433
やれやれ、何を根拠に……頭の中で等号がいっぱい飛び交ってるんかね?
435日本@名無史さん:2007/02/20(火) 00:11:21
秀吉が本能寺の変からわずか8年間で全国統一できた理由ってなんでしょうか?
436日本@名無史さん:2007/02/20(火) 00:23:20
すでに粗方統一されてたこと
小牧長久手以降懐柔をもっぱらとしたこと

じゃね?
437日本@名無史さん:2007/02/20(火) 00:24:05
早良親王ってどこで死んだんですか?
この前地元の神社の新聞を見たらここは早良親王が隠れ住んでいたって記事があったんで気になってカキコしました。
438日本@名無史さん:2007/02/20(火) 21:01:38
>>437
ネットで調べると、配流先の淡路島に向かって船で淀川を下っている
途中で衰弱死したということになっているけど、あなたの地元には、
「実は生きていた早良親王」という伝説でもあるの?
439日本@名無史さん:2007/02/20(火) 21:09:31

静御前とか小野小町と同様、全国どこでも墓があるんじゃねーの

440日本@名無史さん:2007/02/20(火) 22:57:19
須崎市にある坂本竜馬の墓は本物なの?
441日本@名無史さん:2007/02/21(水) 19:40:03
白虎隊が戦った日数は1日という解釈でよいでしょうか?
442日本@名無史さん:2007/02/21(水) 22:15:46
>>440
墓とは死者を悼むため、または先祖を祀るためにあるのだから、
その想いに嘘がないかぎり、墓は本物。
うちの近所の墓地にも外地で戦死した日本兵の墓がいくつもあって、
遺骨なんて入ってるわけないんだけど、それを建てた人たちの心情を
思うと泣けてくる。

>>441
中村彰彦「白虎隊」という本もあることだし、隊士の大半は会津戦争を
最初から最後まで戦い抜いて、明治の世まで生き残ったということで
いいんじゃないの?
443日本@名無史さん:2007/02/22(木) 12:58:40
今、江戸時代の米価と貨幣単位について調べてるのですが、
(時期によって違うでしょうが、おおざっぱに)、
米にまつわるところがなかなか難しいので困ってます。
まず、江戸時代の米の買い相場(市場価格)でいう「1石」は精米でしょうか、籾米でしょうか?
また、この当時の精米率はどの程度だったんでしょうか?
(一升を精米すると何合になった?)
あと基本的なことですが、精米一升が何キロに相当するかもよく分かりません。
どうかご回答をよろしくお願いします。
444日本@名無史さん:2007/02/22(木) 21:16:33
1合=150グラム
10合=1升
445日本@名無史さん:2007/02/22(木) 22:20:57
>>443
>江戸時代の米の買い相場(市場価格)でいう「1石」は精米でしょうか、籾米でしょうか?
アップストリーム(年貢米から米問屋まで)は籾米。
ダウンストリーム(米問屋から小売店、消費者)は玄米または白米。
ということだろうと私は考えています。ネット上のソースは示せないのですが・・・

>当時の精米率はどの程度だったんでしょうか?
精米というのはそんなに高度な技術ではないので、今とほぼ同じでしょう。
籾米を玄米にすると、体積で半分程度、重量で7割程度になります。
玄米の表皮を削って、重量で10%ぐらい落とすと、いわゆる白米になります。

>精米一升が何キロに相当するか
>>444さんもいっておられますが、精米一升は約1.5キログラムです。
446日本@名無史さん:2007/02/22(木) 22:27:29
>>444
ありがとうございます!
これでかなり作業が進みます。
精米率と、買い相場が籾高か白米高かはせめて前者さえ判れば、後者は「場合分け」で対処できます。
余談ですが、江戸〜明治くらいまで言われた「一升飯」っては相当な量ですな。
いくら副菜に乏しいと言ってもコウコばかりで1500gも食えやしませんよ。
余談ついでに。
せっかく吉宗が新奇製造物の禁令敷いて米価をあくまで安定に持って行っているのに、
米→金→銀→銅というようなザッパでも(というかザッパであることに価値がある)、
マトリクス的なフローってなっかなか見あたらないんですよ。
なんでなんやろ。
何も俺みたいなド素人がやらんでも、考証の取捨選択さえしたら(それが一番難しく、できないでいるんだが)、
簡単な算数だけなのに。
というわけで事務屋が本業の自分がやってます…。
447日本@名無史さん:2007/02/22(木) 22:43:57
>>445
より詳しい情報、有難うございます!
これで考察の道具がたいがい揃ったので後は事務処理だけ、の筈なんですが…
ダウンの方は白米とすると、今の米価(精米)がなべてキロ400円くらいですから、
買いで1石=1両とすると1両=60万円となり、
吉原が3分で新造つきで遊べたことと思い合わせると、
金4分で1両ですから、
これは明治後か戦後にべらぼうな米価の値上げがあったと想定しない限りちょっと想像できません。
この辺はどう考えたらよろしいのでしょう…
448日本@名無史さん:2007/02/22(木) 22:57:50
>>447
連投すみません。
私落語が好きなんですが、侍話の古典落語で職人(米を売る側でなく買う側)の会話に
「米がやすくなったなあ!」
「両に5斗5升だ、これなら暮らしやすいよ」
というのがあるんですね。
安くて5斗5升なら、普通で(想像で)5升くらい、
ウィキには「江戸期通して1石=1両は保たれた」とありますんで、
この会話は少なくとも籾高で突き合わせての話でしょうね。
まあ古典落語の大半は明治にできてるので、
明治当時の相場の可能性はあります。
それにしてもウィキを信じるなら両(円)に5斗は明治になっていきなり高すぎですわな。
449日本@名無史さん:2007/02/23(金) 18:18:54
日本史で近現代が苦手なやつ!!石黒先生の「受験生が本当に欲しかった日本近現代史」買え!絶対に苦手を克服できる!そして何回も繰り返せ!っつか「読むだけ日本史」も買え!無駄がなくてまじヤバいくらいいぞ!
450日本@名無史さん:2007/02/23(金) 18:53:50
江戸時代〜大正くらいまでの遠江(浜松)の人口わかる?

>>449
了解

451日本@名無史さん:2007/02/24(土) 00:58:47
ん〜だいたい米価は1石=銀56匁くらいだった気がする。
実際は時期によって変動してるけど。
だから大体金1両ってのは間違ってないかな。

そういや明治期の米価って調べたことないな。
大正の米騒動は調べたけどw
1918年1月で1石=24円3銭,8月で46円30銭か。たぶん市場価格。

地価算出法ってのは役に立つのかな?参考までに。
「地方官心得」では・・・
田地1段から1石6斗取れるとし、1石=3円で計算(1石6斗で4円80銭)。
種籾・費用代金を引いた「収益」の10倍が地価とされている。
452日本@名無史さん:2007/02/24(土) 01:10:35
age
453日本@名無史さん:2007/02/25(日) 18:56:44
age
454日本@名無史さん:2007/02/26(月) 23:36:46
>>451
遅くなりましてすみません、貴重な情報ありがとうございます!
できればスレ立てたいのですが携帯なので…。
>>445などにもとづいて計算してみると籾高1.6石は奇妙に精密なほど精米1石(1.008石)ですね。
田地1段=1反と考えると、
1反からは1石の精米が穫れるのですね。

わからないことがだんだん増えますな。
1食1合で計算すると、陰暦でだいたい籾年1石6合5升になります。
1反に蒔く種籾ってのは5升くらいなんでしょうかね。
これが多いのか少ないのかもわかりません。まあのんびり調べますが。
あと、売り相場=籾高、買い相場=精米高っていうダブルスタンダードも今一つ解せないんです。
ふつう籾高で仕入れたら籾高で売るだろ。っていう。
あと、ウィキなどにある「1石=1両」の相場も、流通のどの辺りをカットしたのかも気になります。
小売りなのか、大坂の市の相場なのか、これによってレートがかなり違いますでしょう。
事務屋には調べがいのあるテーマで、正直ワクワクしてます。
455日本@名無史さん:2007/02/27(火) 00:02:35
またも連投すみません。
もう1つの論点に「税」があるんですな。
僕の世代の教育だと四公六民とか教えられた口なんですが、
そうすると約1反から0.4石の「籾米」分のお金が決済されてなきゃおかしい。
4斗の籾というと精米で約0.25石、つまり両=石の前提でいうと1分ですな。
なぜ両と分の関係が4進法だったのかの謎が個人的にあったのですが、
つまり、分というのはお侍さんの単位だったとは考えられませんか。
1分は1石のお扶持から入る収入。
江戸っ子は分銀やら分金やらでいなせに遊びますが、
こと江戸では匁ではないのですね、なぜか。
普通(何が普通か知りませんが)、貴金属なら重さで計るのが自然といえば自然なのに、
「分」は銀でも金でも1分なら1分だったらしい辺りがどうも米価準拠の単位臭い。
(思いこみ?)
456日本@名無史さん:2007/02/27(火) 00:10:59
1分銀は秤量貨幣である銀を計数貨幣として発行した南僚銀のことだと思われ。
江戸時代は東日本は金、西日本は銀が使用されてた。
よって江戸っ子は匁使わない。
457日本@名無史さん:2007/02/27(火) 10:06:17
>>456
不勉強の為南僚銀というのがよくわかりませんが、
要は秤量貨幣から計数貨幣にシフトするにあたって何を基準にしたか、ということではないでしょうか?
まあ、単に銭1000文=1分としたとも考えられますが。

西と東は銀本位と金本位とはよく聞きますね。
これが本当なら、全国から侍が参勤して来る江戸は金銀両方で決済される都市だったことになります。
江戸で計数貨幣が生まれ、金1分と銀1分は等価値とされ、
西では相変わらず匁で計算されていたのも頷ける話です。
458日本@名無史さん:2007/02/27(火) 10:16:08
>>455は間違いですね。
1反につき「籾米」0.4石ではなく「精米」0.4石ですね。
籾で言うなら約0.64石。
分=石高制による1石の収入説は自己完結的に消えました。
うーんよくわからない。とりあえず仕事に戻る。
459日本@名無史さん:2007/02/27(火) 10:38:36
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
460日本@名無史さん:2007/02/27(火) 19:42:49
>>457
等価値とされたのは東西の貨幣制度を統一しようとした田村の政策。
銀を計数貨幣化することは出目が生じるから発行者にとって利益。
461日本@名無史さん:2007/02/27(火) 21:03:48
大阪城で見たんですが、真田幸村と言う名前は資料に残ってなくて
本当は信繁?だったって本当ですか?
462日本@名無史さん:2007/02/27(火) 21:06:33
>>461
おめでとうございます。あなたはやっと入り口にたどりつきました
463日本@名無史さん:2007/02/27(火) 22:27:44
>>460
なるほど。
そもそもな反応なんですが、分銀や分金ってのは私製や藩製ではなかったんですね。勉強になります。
銀座という位だから少なくとも江戸ではかなり銀も流通してた筈だとは考えてましたが、
そのような積極的な意図があったわけですね。
ただ、そんなことをしますと、金1両が銀4分に対して値上がりしますね。
銀4分に青銭100文つけてやっと金1両に両替できるような有様になってしまう。
もちろん金1両についても銀を混ぜたり小判1枚の質量を変えたりすればなんとか釣り合いますね。
実際江戸時代を下るほど小判は小さくなるようです。一種のデノミ政策ですね。
ただそうすると両が値崩れして米1石が金1両では足らなくなります。
ウィキをあくまで信頼して幕末まで米1石=金1両ベースは変わらなかったとすると、
何故そうかはともかくウィキ(≒史料準拠なのでしょうね)を信頼する限り、
江戸時代が下るにつれて米が値下がりして行ったことになります、
しかもですよ、「金本位」と言われる東においてそれが著しかったことになりますよね。
西では銀○匁と秤量貨幣で決済ですからそうはなりません。
464日本@名無史さん:2007/02/27(火) 22:34:42
で、専ら米を買う町人は主食が安くなる訳ですから、
我々サラリーマンにとってラーメン1杯が100円になるのと同じで、
月々浮いた小遣いの分だけ黄表紙を買ったり滑稽本を買ったりする訳ですな。
何やら、幸楽苑が値下げして週刊ポストがやけに売れるような話ですが、
実際ありえる話だけにそんなものなのかな、と思ったりします。
465日本@名無史さん:2007/02/28(水) 16:57:36

1864年頃の日本(江戸時代)の一両って今の日本円でいくら?
466日本@名無史さん:2007/03/01(木) 21:43:09
>>395
見つかりました。
ありがとうございました。
467日本@名無史さん:2007/03/01(木) 23:40:55
今と江戸時代では個々の物価が全然違うので明確な数字はいえません。
468日本@名無史さん:2007/03/02(金) 07:55:55
>>465
>>467が仰るように、満足な比定すらできないんです。
469日本@名無史さん:2007/03/02(金) 13:56:41
米の価格から比較するやり方が一般的だけど、
その米価でさえ短期間に激しく変動することもあるから
非常に難しい。
要するに江戸時代と現代で同じ価値基準で比較検討できる対象があまりないんだよ。
470日本@名無史さん:2007/03/02(金) 19:28:11
キトラ古墳の壁画保存の話題が報道されて気になったことがあります

宮内庁が指定した天皇稜は、研究者ですら立ち入り厳禁だとのこと

この場合、保存活動は宮内庁が独自にやってるってことでしょうか?
それとも立ち入りできないので荒れるにまかせてるの?
471日本@名無史さん:2007/03/02(金) 19:43:24
朝廷から視た、百錬抄に続く史書は何でしょうか?

在っても、後奈良天皇宸書の様なものなのでしょうか?
お願いします。
472日本@名無史さん:2007/03/02(金) 21:44:05
六代勝事記
五代帝王物語
473日本@名無史さん:2007/03/02(金) 22:30:15
>>470
天皇陵は宮内庁陵墓課が管理しています。
天皇家のお墓として大切にお守りしているので、
「荒れるにまかせる」などということはありません。
474日本@名無史さん:2007/03/06(火) 13:26:35
>>469
例えば江戸時代と現代で、一般庶民の生活の中で
ほぼ同じだけの需要と価値を継続して有している物品もあまりないからなあ。
475日本@名無史さん:2007/03/06(火) 20:29:39
>>474
例えば米で換算して行くと1両=1石として、
1石=150kg、
今の日本の精米売価は均して400円/kgですから、
1両=60000円と仮定できます。
ただしこれも江戸期の米の売り相場が精米だったらの話で、籾米だとまた話は異なります。

ちなみに、1両=4000文。
計算すると1文=15円。
二八そばは16文などといわれますが、
円に換算すると240円。
今の日本の社員食堂のたいへん不味いかけそばがそのくらいの値段ですから、
食べ物に関しては当てはまる部分もあります。
そのかわり、雑貨や、特に衣料品は高かった。
ブランド(デザイン料や付加バリュー)が乗らない綿素材のナマの値段なら、
現代の衣料品は3000円〜5000円程度がせいぜいですが、
当時は両単位です。
もちろん、産業革命の結果、繊維や布の値段が馬鹿下がりした訳です。
476日本@名無史さん:2007/03/07(水) 08:54:35
竜馬を殺したのは誰ですか?真実を教えて下さい
477日本@名無史さん:2007/03/07(水) 16:23:17
御当代令状を編纂した藤原親長という人物は何者?
478日本@名無史さん:2007/03/09(金) 02:34:22
>>475
そりゃ結果的に似てますよ、ってだけで
蕎麦が江戸期から現代までほぼ同じだけの貨幣価値や
日本人一人当たりの需要を持っていたわけでもなかろうに。
479日本@名無史さん:2007/03/09(金) 11:05:20
藤原朝臣○○と藤原○○朝臣

朝臣の位置が違うのはどうしてですか?
480日本@名無史さん:2007/03/10(土) 14:04:50
平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。
四位以上の者は氏、諱の下に朝臣とつけて呼称した。
氏ではなく諱の下に朝臣とつけることを名乗り朝臣という。、

例 足利内大臣正二位源朝臣義政公
例 細川右京大夫従四位下源勝元朝臣
481日本@名無史さん:2007/03/10(土) 14:15:24
>>478
ビックマックの値段で比較したらどうだ?
482日本@名無史さん:2007/03/11(日) 12:56:01
石上神宮の七支刀に記載されている
「倭王旨」は,誰に比定されているのでしょうか?
483日本@名無史さん:2007/03/11(日) 14:46:05
問題で

聖徳太子の定めた冠位十二階の制は、大化の改新以降たびたび改正され、
大宝律令で〔 〕制へ切り替わった。

てのがあって、答えが〔位階〕なんだけど、、切り替わるも何も
冠位十二階の制それ自体初めから位階制なんじゃないの?;
484日本@名無史さん:2007/03/11(日) 16:30:03
>>483
あなたの言うとおりなんだけど、俺が解答するとしてもやはり
「位階」(または「官位」)と書くと思う。
「位階」という言葉の定義を突き詰めると
冠位十二階も広義の位階に含まれるのは事実なんだけど、通常
単に「位階制」と言った場合、大宝律令以降の制度を指す場合が
多い。
485日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:19:32
冠を与えるのではなく、位そのもので上下を示すから。
486日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:52:36
太平記,太平記巻第三十五に出てくる以下の文中の里氏とは誰のことなんでしょうか?
誰かご存知の方教えておくんなませ。

「当国に打越て、数日合戦に不及して徒に里氏を煩す事非本意上、伊勢の京兆も定て未練にぞ思給らん。 ...
487日本@名無史さん:2007/03/11(日) 20:09:48
位階制は位記という文書だけで冠はくれない。
冠位=位階ではない。
488日本@名無史さん:2007/03/11(日) 20:26:09
正冠とか直冠とかって名前だけだったのか
てっきり規定にある冠も支給されるのかと思ってたよ
489日本@名無史さん:2007/03/11(日) 23:10:07
冠位十二階は全ての人間が対象になってないんだよ。
だから移行期であって切り替わってはいない。
490日本@名無史さん:2007/03/12(月) 01:45:01
日本において、「この世の中で手に入る限りの書物は全て読んだ」と断言できる知識人が
存在しえたのは、いつぐらいの時代までだったんでしょうか。
491日本@名無史さん:2007/03/12(月) 23:15:46
@大仏造立の詔は、紫香楽宮にルシャナブツを造立するという詔で、恭仁京で出された(金谷一問一答)
Aルシャナブツの造立は詔の出された紫香楽宮で始まった(伊達最勝王)

@とAって食い違ってるよな…どっちが正しいんだろ?
492日本@名無史さん:2007/03/13(火) 19:02:25
>>490
世界的に見てもそんなことを言った奴はマラルメぐらいだろう。
493日本@名無史さん:2007/03/14(水) 06:47:56
センゴクってまんがで、主人公が秀吉の陪臣にすぎないのにやたらと信長と会話してますが(秀吉の使いとかじゃなく、軍議にまで口挟むシーンすらある)
実際の所、「陪臣その一」と大名って直接話せるものですか?

494日本@名無史さん:2007/03/14(水) 18:13:28
>>490
空海ぐらいかなあ。むろん本人はそんな傲慢なこと言ったはずもないが、
日本でも留学先の唐でも、手に入る限りの和・漢・梵語の本は全部
手に入れて読破しただろう。
495日本@名無史さん:2007/03/14(水) 20:45:53
>>493
お目見えってのはハクがつく重要な儀式だからまずないだろうね。

といいつつ戦国時代ならありえるかもしれんとも思う。
496日本@名無史さん:2007/03/14(水) 21:04:51
平安時代の和歌の名手、珍歩勃起雄は藤原道長と腕相撲で戦っているときに勃起して、
道長とアナルプレイをしたと学校で習ったのですが、本当なのでしょうか?
497日本@名無史さん:2007/03/14(水) 21:18:09
道長がアナルプレイ好きなのは合ってる
498日本@名無史さん:2007/03/14(水) 21:38:24
"万力のミチ"と呼ばれていたのか
499日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:17:01
>>493

他の大名はわからんが、ルイス=フロイスの「日本史」によると
信長は身分に関係なくあらゆる階層の人間と話をした書かれているから、必要があれば話すこともあるのでは?

斉藤利三が主君の稲葉一鉄と折り合いが悪くて明智光秀の家臣になった際の
家臣と陪臣間にあったごたごただとかにも首突っ込んでたし。
500日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:25:36
漫画の話なんかどうでもいいとの
レス主の思いが行間から読み取れる件
501日本@名無史さん:2007/03/16(金) 23:30:47
age
502日本@名無史さん:2007/03/16(金) 23:34:23
参勤交代って何年でしたっけ?
503るだ ◆Chris.jvIo :2007/03/17(土) 00:51:31
1635
504日本@名無史さん:2007/03/17(土) 00:55:42
1年毎。
文久2年以降は3年に1回で出府は100日間。
そのうちもとに戻るけど幕末の混乱でぐだぐだになって幕府滅亡とともに終了。
505日本@名無史さん:2007/03/17(土) 07:19:59
>>502
例外として、対馬藩は国元3年−江戸1年、松前藩は国元5年、江戸1年
理由は、国元が遠くてあまりに財政的負担がでかいから。
506日本@名無史さん:2007/03/17(土) 23:03:53
時々『日本史総覧』読むんだけど、あれ参考文献目録ないの? それっぽいページが見当たらないんだが……
507日本@名無史さん:2007/03/17(土) 23:38:28
>そもそも日本人種なんて存在しない。

日本人種は確実に存在している。日本人種に一番近い人種は確かに
朝鮮人ではあるが、朝鮮人の容貌や形質、頭示数、二重瞼率、発毛の具合
など、朝鮮人の身体的特徴は日本人種とはかなり違っている。

しかも朝鮮人のHLA遺伝子は日本人種となんと60%くらいも違っている。
日本人種に一番近い朝鮮人でさえもこの程度なのである。
その他のアジアの人種ならば、それ以上に違っているという事になる。
つまり、日本人種は日本列島だけに存在する日本独特の人種である。

更に、少数民族を除き、YAP+遺伝子を東アジアで唯一高頻度に持っているのは
日本人種だけである。YAP+遺伝子は日本人種が間違いなく存在しているという
決定的な証拠である。日本の周辺人種にはこのYAP+遺伝子がほとんど無い。
http://native.way-nifty.com/./native_heart/images/y_chromosome.jpg
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-52.htm
508日本@名無史さん:2007/03/18(日) 00:14:51
>>507
くだらないよお前。
朝鮮より遠い土地の人が日本人とはより遠いというのなら、
世界で一番近い朝鮮人とさえ遠いことを示すことに何の意味があるというのかな。
地球の裏側の人間とセックスしたって健康な子供は生まれるのだから、
そんな詮索は不毛なだけだよ。
509日本@名無史さん:2007/03/18(日) 00:26:30
>>508
何その的外れなレス
510日本@名無史さん:2007/03/18(日) 01:48:05
違ってるデータだけ引っこ抜けばどうとでもなる似非科学
511日本@名無史さん:2007/03/18(日) 01:49:51
徳川時代には歌舞伎役者は人間扱いされず、
「一人、二人」ではなく「一匹、二匹」と数えられていたとの由。
とすれば、明治時代には彼らは戸籍上「新平民」として登録されたのでしょうか?
512日本@名無史さん:2007/03/18(日) 04:05:35
>>511
明治維新の段階で、室町風に動物扱いできるほど
歌舞伎役者の社会的認知度は低くなかったよ。
513日本@名無史さん:2007/03/18(日) 04:42:18
>>505
> >>502
> 例外として、対馬藩は国元3年−江戸1年、松前藩は国元5年、江戸1年
> 理由は、国元が遠くてあまりに財政的負担がでかいから。

その2藩以外にも、いっそ大名と何人かだけで船で行ってしまうってのはダメ?やっぱり。
514日本@名無史さん:2007/03/18(日) 12:20:34
>>513
>いっそ大名と何人かだけで船で行ってしまう
もろに人質という感じで余計に悲惨じゃないか?
515日本@名無史さん:2007/03/18(日) 16:53:31
>>507

X日本人種に一番近い人種は確かに朝鮮人ではあるが

○日本人種に一番近い人種は確かに中国江南部ではあるが
516日本@名無史さん:2007/03/18(日) 17:50:40
>>513
参勤交代は軍役負担だからなあ。
享保の改革で米提供させた代わりに半年に軽減したのはそれ故だろう。
517日本@名無史さん:2007/03/18(日) 19:15:01
あのーすいません、>>506の回答いただけませんか……
何か気に障るような態度だったのでしょうか……
518日本@名無史さん:2007/03/18(日) 20:55:23
質問です

東山期に花道(華道)を大成した人は誰ですか?
519日本@名無史さん:2007/03/18(日) 21:46:07
平安貴族の成り立ちは?
やっぱ渡来人?
520日本@名無史さん:2007/03/18(日) 21:51:11
>>515
日本人と韓国人では、大体40%くらい同じものを持っているということが分かってきました。
多分、弥生人が朝鮮半島を渡ってきた人たちの子孫ということが関係しているのかもしれませんが、
逆にこの様なバンクをしていますと、人種の流れがきれいに分かってきます。そこで、たとえば
日本人に一番多いA24B52DR15というのは、韓国人でも5番目に多いタイプになって
おります。それから韓国人でいちばん多いタイプのA33B44DR13というのは日本人では
2番目に多いタイプとなっております。そういうふうに比べてみますと、日本人と韓国人は非常
ににており、こういうことで人種の近さ、親戚関係の近さが分かると同時にお互いにドナーを
分配しあえば、もう少しうまくドナーが捜せるという可能性が出てくるわけです。そして、
北部中国人、タイ人ですが、日本人とタイ人とはあまりわかち合うものはないのですが、タイ人で
2番目に多いA33B44DR7というのは、韓国人にもあり、これは日本人ではほとんどいない
ということです。
http://www.hananoki.npo-jp.net/kitaori/kaihou/24gou.html
521263:2007/03/18(日) 22:17:55
素朴な疑問です。
現在の海岸線が、縄文時代より海側にあるのは
1)単に埋め立てが進んだから
2)気候が縄文時代より寒くなったから
のどちらですか?
522263:2007/03/18(日) 22:19:34

263ではありません。間違えました。
すみません
523日本@名無史さん:2007/03/18(日) 22:41:01
2。

20000年前まで列島は朝鮮半島や樺太とつながっていたが、
温暖化で15000年前頃に朝鮮半島と分岐。

そこにいた人類も分岐し、これが朝鮮人が日本人に近い原因でもある。

その後、温暖化は更に進んで10000年前頃にピークに達し、
海岸線は今の海岸線より大きく平野部に侵食していた。

その後、温暖化も下降に入り、今の海岸線に至る。
524日本@名無史さん:2007/03/18(日) 22:44:57
>>521
両方。
さらに、1の埋め立ては人為的なものと河川が運ぶ土砂などによる自然的なものの両方がある。
525日本@名無史さん:2007/03/18(日) 22:45:35
>>523
ピークはもうちょい後
526日本@名無史さん:2007/03/18(日) 22:47:50
日本列島の輪郭全部埋め立ててるのかね?

両方なのは都市部だけ。
527日本@名無史さん:2007/03/18(日) 23:07:12
>>519
何を持って平安貴族というかにもよるが、
藤原氏という特異な一部の家を除いて、ほぼそれまでの古代豪族のうち生き残った氏が
軍事力やもともとの領地、職掌といったものと切り離されて権威貴族化したものと言える。
もちろん東漢氏や秦氏のように渡来人が明確に由来のものもある。
これらは、もちろん旧皇族や旧王族一門がやってきたというのではなく(いたかもしれないが)
元々は渡来人たちの共同コミュニティのようなものだったらしい。
地縁も血縁もない異国で、同国人たちが結束して生き残ったものが氏になったというもの。
528日本@名無史さん:2007/03/18(日) 23:20:55
平安貴族の顔はまさにツンギーデそのもの。

オホーツク海沿岸部から船でやって来た渡来系だろうね。
529日本@名無史さん:2007/03/18(日) 23:42:03
>>520
>>523

情報古杉。
日本列島と朝鮮半島が繋がっていたのはもっと前の氷河期まで、
12000年前までの氷河期で大陸に繋がっていたのは北海道側。

NHKが数年前に放送したDNAによる日本人の先祖調査の結果、
中国江南が40%コーカソイド系が40%というのは上記の地質調査の結果でも裏打ちされている。

朝鮮系は5%弱しかない。
又鑑真などで代表されるように日本へ来るのには江南からの方が来やすく、
近いようでも対馬海峡を乗り切るのは古代では大変だった。
530日本@名無史さん:2007/03/18(日) 23:45:42
またいつものキチガイか。
531日本@名無史さん:2007/03/19(月) 00:19:58
別スレでやってくれない? 単発で質問しにくい雰囲気になっちゃってるじゃん。
532日本@名無史さん:2007/03/19(月) 00:30:01
>531

スレ主?
ここはそういう香具師のための隔離スレではないかと(苦笑

本スレでやられたら漏れもそうレスするが・・・
533日本@名無史さん:2007/03/19(月) 00:35:09
まえどこかでも聞いたことのある質問です。

弥生時代は渡来人によって始まったと考えても過言ではないと思います。

では、縄文時代はどうして渡来人が来なかったのでしょうか
1)単に航海技術が無かったからこられなかっただけ
2)来ていたが、文化水準は高くなかっり、数が少なくて
  大陸文化を定着させることが出来なかった
3)来る技術はあり、稲作技術をはじめとする高い文化ももっていたが
  大陸をおわれてまで 日本にやってくる必要がなかった。
534日本@名無史さん:2007/03/19(月) 00:46:55
>弥生時代は渡来人によって始まったと考えても過言ではないと思います。

前提がまちがっている。
が、>530が三十年前の学説で答えてくれる悪寒w
535日本@名無史さん:2007/03/19(月) 00:57:13
まずは200年前の学説の534の答えを聞こうじゃないかw

江南ワンコロくんの顔面を叩き割り、地獄谷に突き落とすのは
まだまだこの先永遠に続くのだからw
536日本@名無史さん:2007/03/19(月) 20:55:58
ウンコ人大林君の部屋
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/menu0.html
うんこ脳の垂れ流しHPだよW

ウンコ人の部屋にもし行けなければ
別のウインドウにアドレス貼り付ければ行けるよ
どっかで見たようなウンコ臭いHPだよ
明らかに大林君とブラ国と同じ人のようだけど・・・
537日本@名無史さん:2007/03/20(火) 16:00:57
>>529

>近いようでも対馬海峡を乗り切るのは古代では大変だった。

これ何で?
538日本@名無史さん:2007/03/20(火) 18:59:48
我らは沼田一族な訳だが、真田一族に滅ぼされて会津で消息不明になったあの沼田一族なのかな
(´・д・`)
ちなみに、ひいひいジイサンは福島から来たらしいのだが
あともう一個
うちのクラスに足利って名字のやついんだけどアノ足利家以外に考えらんないよね?
539日本@名無史さん:2007/03/20(火) 20:17:39
ヒント

明治時代に苗字獲得
540日本@名無史さん:2007/03/20(火) 20:37:40
ヒント

創氏改名
541日本@名無史さん:2007/03/20(火) 21:43:57
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
542日本@名無史さん:2007/03/20(火) 23:06:44
>>538
司馬遼太郎が書いていたが、明治に名前をつけるときに司馬の故郷では、昔三木城に
先祖が立てこもったのを思い出して、大勢「三木」を付けたらしい。
司馬の何代か前もそうしたいと言ったら、お前んとこは城抜けしたからダメだと
言われて福田になったとか。
三木だったら、播磨の出って分かるし、赤とんぼの三木露風の縁戚ですかとか
聞かれてうれしかっただろうと。
543日本@名無史さん:2007/03/20(火) 23:45:39
祖父まで住んでいた村の名前と地名が一緒で、ほぼ住民全員が同姓だったらしいです。
祖父が出て来るまでずーと何百年と定住していたと考えて間違いないでしょうか?
地図で見るとすんごい山の中で、とある山岳信仰の対象の山へ向かう途中にあります。
544543:2007/03/20(火) 23:47:08
訂正
祖父まで住んでいた村の名前と苗字が一緒で、
545日本@名無史さん:2007/03/21(水) 00:13:45
ケースバイケース
546日本@名無史さん:2007/03/21(水) 00:18:45
ケースバイケースというのは?
547日本@名無史さん:2007/03/21(水) 01:10:41
ケースバイケース
548日本@名無史さん:2007/03/21(水) 01:31:56
ケース÷ケース
549日本@名無史さん:2007/03/21(水) 14:26:37
徳川時代には歌舞伎役者は人間扱いされず、
「一人、二人」ではなく「一匹、二匹」と数えられていたとの由。
天保の改革でそれが確定したのは確実。
とすれば、明治時代には彼らは戸籍上「新平民」として登録されたのでしょうか?
それとも、非人支配下の者達だけが「新平民」として扱われたのでしょうか?

550日本@名無史さん:2007/03/21(水) 15:20:59
>>539 540
最初はそう思ったんだけどさ…どうも家系図は昔からあるし家紋も会津に逃げた沼田と同じさ(´・д・`)
農民だったのが本物殺して家紋奪ったのかも知れないけどww

あとクラスメイトでバレー部補欠の足利は真面目に足利の末裔ですた。なんか庶流も庶流らしいけどwww
551日本@名無史さん:2007/03/21(水) 17:34:22
地元でも嫌われてる一族の末裔なんて、口が避けても言えない。
明治に名乗り始めたとまわりには言ってるが。
そういう人もいるんだ、他人の家はあんまり追求するな…、な?
552日本@名無史さん:2007/03/25(日) 10:43:15
乙巳の変のことを大化の改新って言う人多いけど、完全に間違いではないわけ?
553日本@名無史さん:2007/03/25(日) 18:18:47
完全に間違いではないと思う。
クーデターも含めて大化の改新じゃね?
554日本@名無史さん:2007/03/26(月) 20:37:38
質問であります。

支那皇帝や朝鮮王には「玄宗」「高宗」「世宗」など、〜宗という称号があります。
しかし何故日本天皇や将軍にはそのような称号が無いのですか?
555日本@名無史さん:2007/03/26(月) 20:51:18
>>554
貴方の質問は日本と外国が同じ文化や政治制度であるとの前提の質問となっています。
答えは「国が違うから」
貴方の意識は日本は外国の真似をしていなければおかしいと感じるようですね。
556日本@名無史さん:2007/03/26(月) 20:54:06
では質問の仕方を変えましょう。

「朝鮮は支那の真似したのに、何故日本は真似しなかったのですか?」
557日本@名無史さん:2007/03/26(月) 21:09:24
>>556
貴方の意識は日本は外国の真似をしていなければおかしいと感じるようですね。
558日本@名無史さん:2007/03/26(月) 23:01:24
日本は、中国と対等に付き合おうとした、形跡がみられるよね、陸続きじゃないって事も関連あると思うけど、カナを発明したり、独創的な民族だったんじゃまいか!
559日本@名無史さん:2007/03/26(月) 23:08:56
>>554
2chだとほとんどの人はハンドルネームを付けないため、レス番で個人を識別することになる。
中国や朝鮮のやり方はこれと同じで、例えば、>>1は普通「太祖」「高祖」などと呼ばれる。
よって、スレごとに>>1>>2がいるように、王朝ごとに太祖やら武帝やら仁宗やらが存在するわけだ。

「同諡号廟号一覧」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E8%AB%A1%E5%8F%B7%E5%BB%9F%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7

実は日本でも中国や朝鮮とやり方は同じ。
ただし、日本の特殊な事情は、中国・朝鮮と違って「王朝が一つしかない」ということ。
2chにスレッドがたった一つしかなかったらどうなるだろう?
>>1>>2>>3・・・>>1000・・・>>2000・・と果てしなくレス番が続いてゆき、誰一人として同一のレス番を
取ることはできなくなる。
これが日本の歴代天皇名なのだ。
560日本@名無史さん:2007/03/26(月) 23:09:05
>>553
蘇我氏を排除したのも改革(大化の改新)のうち、と俺は思ってる。
561日本@名無史さん:2007/03/26(月) 23:41:57
何故日本史板にはチョンが沢山いるのでしょうか?
迷惑なんですが・・・
562日本@名無史さん:2007/03/26(月) 23:45:31
仕様です。

2chは彼らにとって重要な工作拠点(カネがかからないし)なので、諦めてください。
563日本@名無史さん:2007/03/27(火) 03:14:25
なぜ紀伊、尾張、水戸の場所が、徳川御三家として選ばれたのでしょうか?
尾張は東海道の要として重要っぽいのはわかるとして、東北の押さえが何故水戸なのか。
紀州に至っては、何でまたあんな僻地に?
564日本@名無史さん:2007/03/27(火) 05:28:16
紀伊はなにげに大阪と瀬戸内海を抑える重要地域だったりする。
瀬戸内海の入り口の一つだから、元々抑えていたのが大大名じゃなく土豪集団だったからとりやすかったというのもあるかも。

水戸は知らん。
565日本@名無史さん:2007/03/27(火) 05:29:19
ていうか、何で「先祖伝来」の三河じゃなくて尾張だったんだろうか?
566日本@名無史さん:2007/03/27(火) 07:49:48
畿内に位置し、東西海上交通の中心に位置する紀伊を僻地と捉える感覚は
多分日本史を学ぶにはかなり障害となる思い込みだと思うよ。
567日本@名無史さん:2007/03/27(火) 07:57:31
てかそもそも御三家として選ばれたという解釈もおかしいね。
結果として御三家となったということであって、尾張家はともかく
紀伊や水戸は紆余曲折の末に固定されただけというべきではないか。

ゆえにそれぞれの地に意味はあるとは言え、当初から格段の意味を持って
その地を選択したというわけではないという事実も認識しておかなければならない。
568日本@名無史さん:2007/03/27(火) 16:00:22
>>565
尾張はあらゆるところの分岐点だったからかな?
三河はそういう分岐点からちょっと東にずれ気味な気がする
569日本@名無史さん:2007/03/27(火) 16:21:55
>>565
交通の要衝を考える時、今は陸地中心だが、昔は海や川が今の高速道路みたいな
もんだったろう。
今は多くの川の上流にはダムなど作って、水量が少ないが、昔は川は重要だった。
今でも、たまに大雨が降ると沿岸がどうなるか見るとよく想像できる。
570日本@名無史さん:2007/03/27(火) 16:58:25
Wiki見たら、昔は駿府徳川家、甲府徳川家もあったけど断絶、結果御三家になった
みたいだけど、肝心の「なぜ水戸なのか」は書かれてないなぁ。
>567
その「紆余曲折」の部分を教えてくれ。
571日本@名無史さん:2007/03/27(火) 18:16:03
>>568-569

ありがとう。木曽三川を道としてみるなら尾張の方が物流良いな。
でも三河徳川家だったら「尾張の方が堤防高くて、川があふれるのはいっつもこっち側」
って状況がなかったかなぁと思った、岐阜出身者。


>>570
三つのうちどこかが元々別の場所にあって、他の大名家の改易やら何やらの影響でそこにたどり着いたと聞いた。
(確か紀州)
572日本@名無史さん:2007/03/27(火) 20:16:17
>>570
御三家がそれぞれの藩に落ち着く経緯はここの板に出入りする人間なら
知っているか、もしくはすぐ調べれば分かることだと思うが。
573日本@名無史さん:2007/03/27(火) 20:27:47
改易で要地を押さえるのは徳川氏が全国支配を確立する過程であってたまたまじゃないぞ。
574日本@名無史さん:2007/03/27(火) 20:36:51
東北は会津藩が押さえてるからいいんじゃないの?
水戸って大名というより大規模な旗本みたいなものなんでしょ。
575日本@名無史さん:2007/03/28(水) 12:44:46
天下統一は織田・豊臣・徳川と言われますが
それに役職を与えたりする朝廷というのは何だったのでしょうか。
朝廷や天皇というのは日本全国をかつて本当に統一していたのでしょうか?
つまり日本を統一したのは朝廷ではないのですか。

それとも天皇は天の上の話、天下統一は天の下の話だから
一緒に語る意味はないということなのでしょうか。
576日本@名無史さん:2007/03/28(水) 13:13:03
>>575
天皇や朝廷を意識していた人は極僅かだよ。
現代人でも天皇を意識している人なんて僅かでしょ。
じゃあ何で天皇が滅ぼされなかったかといえば源氏は天皇の子孫だから。
頼朝が源氏でなければ天皇は間違いなく滅ぼされていた。
また、天皇が武力を保持していたり世の中に影響力があったとしても滅ぼされていた。
武力も影響力もないから天皇は源氏の祖先として残された。極貧で惨めな生活ではあったが。
極貧の天皇は金策のため官位を売ったり寄進をお願いしてまわったが御所はほとんど無視された。
公家の中には裕福な者たちもいたが天皇を助けようとはしなかった。
戦国時代に地方の豪族が先祖を偽るため天皇を利用し出すまでは悲惨な忘れられた存在でしかなかった。

あなたの望む答えが皇国史観の答えなら私の答えは無視してください。
おそらく皇国史観の人があなたの望む解答を書くでしょうから。

577日本@名無史さん:2007/03/28(水) 13:18:02
皇国史観に基づかなければそんな出鱈目な回答になるのか。
面白いね。
578日本@名無史さん:2007/03/28(水) 16:55:16
>575
これ昔からよく問われる事柄なんだけど、納得できる回答って少ないんだよね。
昔読んだ「大世界史」の内容が個人的にしっくりきたかな(著者名忘れた)。
今出先なんで、正確に書けないけど、こんな感じの内容でした。

「いかなる政治体制においても権力(物理的強制力、武力・財力等)のみに頼った統治は存在しがたい。
近代以前の政治体制において、政治体制を長期維持する為には、権威(形而上的強制力、信仰・伝統等)の裏付けが必要となる。」
「ある特定のグループ(民族等)が自前で権威を作り上げた場合、それを内部から壊す事が困難となる。
日本の場合、孤立した島国の為、外部の信仰は知識としてしか流入せず、軍事力による大規模な進入は殆ど受ける事がなかったか、あっても失敗した。
結果、古代に確立された天皇家の宗教的権威が長期に渡って保存されたことでさらに伝統化し、国内で天皇家の権威を壊す事がより困難になった。
日本における権力者は、天皇家を滅ぼし、新しい権威を打ち立てるよりも、天皇家の権威を利用して、体制内に取り込んでしまうほうが、統治する上で便利だった。
逆に天皇家側は、権力者が入れ替わる度に、自らの存在を再確認する事が可能となり、歴史に埋没することを防げた。」

上記文章は、フランク王国で、カロリンガーがいかにしてメロヴィンガーに取って変わったかを説明した中に書かれた一部で、日本の事にも言及した部分のあらましです。
他に日本における権力構造の組み立て方云々の説明もあったのですが、うろ覚えなので割愛します。

なにせかなり昔の本で読んだ内容なので、現在だとまた違った解釈もあるかもしれません。
舌足らずな説明な上、間違ってる部分もあるかもしれないので、その辺はご容赦を。
579日本@名無史さん:2007/03/28(水) 17:49:15
>>576は皇国史観云々以前の問題。
これほどの荒唐無稽な妄想をいったい何の知識によって醸成させたのだろうか。
580日本@名無史さん:2007/03/28(水) 18:51:52
天皇が統治の邪魔になる存在なら排除されていたろうことは確か。
天皇はほって置いても大した存在じゃなかったから存続できたことも確か。
天オタの常識では試験で点数にはなりません。
天オタの書き込みを信じると受験で失敗し就職試験や公務員試験でも失敗します。
581日本@名無史さん:2007/03/28(水) 19:26:25
>>576
全く出鱈目をよくそんなに長く書けるなぁ・・・。
鎌倉幕府は朝廷と対立した訳ではないし、色んな意味で分割統治だったのに。

朝廷の権威が落ちたのは室町期で、足利義満の頃が一番落ちた。
戦国時代に入って朝廷は落剥したが、逆に安土桃山期には権威を復活させる。
江戸時代に入って幕府による法整備が進んだ結果、朝廷は祭祀を任される存在に変わる。
天皇家の権力を復活させないために摂関家を利用して監視させたんだな。

>>580
お前が受験しても落ちるよその程度の知識なら。
582日本@名無史さん:2007/03/28(水) 20:24:37
>>581
横槍すまんがオマエの書きかたじゃあ576を否定したことにならん、
一部同じ事言ってる部分があるし(戦国時代)

もっとも簡単に言えば576のマルクス史観なんか共産主義にしか理解されない。
北チョンの教科書は日本の受験には仕えませんよw
583575:2007/03/28(水) 22:31:54
みなさんいろいろありがとうございます。
私の方はとくに天皇崇拝というわけでもなく、
逆に天皇は戦犯だといったような反対の主義でもないです。好き嫌いは無いです。

昼間にたまたま見ていたyahooの知恵袋に、日本統一という質問があり
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411169674

回答が、天皇がいつまとめたのかという話ばかりだったので
昔から疑問に思ってたことを聞いておこうと思ったのです。

そこの回答の通り、北方領土とか竹島みたいに遠いところは確かに、昔々に実効支配するのは
無理だとは思います。
でも、織田・豊臣・徳川ばかりが天下統一という名前で呼ばれる背景として
私は、それまでの幕府や朝廷による支配では、日本列島のどこか…
昔々でも行き来できた…本州・四国・九州のどこかに、
支配仕切れていないところがあって完全には「天下統一」と呼べなかったという事なのかなと
漠然と思っていたのです。
584575:2007/03/28(水) 22:36:30
そういうわけで、統一したのは本当は大昔の朝廷で、その下で下々の人達が「天の下の争い」をしていただけなのか
それとも、織田・豊臣・徳川のあたりが統一したのが最初ということなのかという事を聞きたかったのです。

うまく説明できず申し訳ありませんでした。
585日本@名無史さん:2007/03/28(水) 23:14:55
>>584
これはどんな歴史学者でも政治学者でも回答するのに困難なトピックなんだよ。

ただひとつ言えることは、幕府にせよ、信長・秀吉にせよ、
統一権力に近づいた、もしくは獲得した政権はいずれにせよ朝廷、しいては天皇の
権威がその裏づけになっていることは否定できず、朝廷を上手くコントロールした
徳川政権でさえ、18世紀以降はその権威に吸収されていく傾向が見られる。

また、徳川政権下の外様大名にとっては、官位という権威を獲得することが
徳川政権下におけるアイデンティティとなっていることも指摘される。

それを踏まえると、あなたが言うように天の下での天下争いという表現もである意味正しい。
が、そう表現することが妥当がどうか明らかでないこと、これは江戸時代から
すでに議論の対象になっていたことだけど、現代に至るまでひとつの答えを出せない
ことが、日本の権力構造の特質でもあるし、日本史という連綿とした一本の線が続いた
要因となっていると考えられる。

政治学的には、とはいってもこれも比較による科学でしかないけど、
>>578の回答もひとつの見解として正しいと思う。
586日本@名無史さん:2007/03/28(水) 23:19:49
もしあなたが専門的な領域にまで足を踏み込んでないのなら
『幕末の天皇』 『幕末の公家社会』なんかを読んでみるといいかもしれない。

いかにして朝廷の権威が保存され、かつよく指摘されるように受動的ではなく
能動的にその権威を再興させた幕末期を読み解くことで多少なりとも
朝廷権威と権力の関係を紐解くきっかけになるかもしれない。
また、中公新書から出てる『歴代天皇総覧』の後書きを読むだけでも
自分の考えと比較することが可能だと思う。
587日本@名無史さん:2007/03/28(水) 23:36:16
あるところに、農協がありました。
隣の町ではお米を作っていないので、村長さんの息子さんに農協職員の女子をお嫁さんにさせて、米を作るよう勧めてみました。
村長さんは快諾しました。
村長さんには今後、農協幹部の一員として活躍して貰います。
農協では水路の作り方、耕し方、育て方を指導します。
そのかわり、毎年一定量の収穫を農協に納めて貰います。
次の村の村長さんはちょっと物わかりが悪かったので青年部を動員してお立ち退きを願う一幕もありましたが、
今はこの通り、一面の青田です。
ひどいことをしたのではありませんよ。
その証拠に、この元村長さんも農協では名誉幹部の称号を贈って、
名簿上は一般の幹部さんたちと同じように扱っています。
588日本@名無史さん:2007/03/29(木) 02:15:41
日本史において繰り返されてきた法則ってありますか?
589日本@名無史さん:2007/03/29(木) 13:47:41
わが国の国名が「倭」から「日本」となったのはいつですか?
でも「倭」って中国と朝鮮による蔑称なんですよね。「倭」の時代の日本人は蔑称ということにきづかずに使っていたんですかね?
590日本@名無史さん:2007/03/29(木) 14:05:54
大宝律令前後だと言われてる。
「倭」という呼称に関しては諸説あって、必ずしも蔑称ではないという見解もある。
591日本@名無史さん:2007/03/29(木) 14:48:35
『古事記』では天皇の名前に出てくる「ヤマト」に「倭」の字を当てている。
日本書紀では「日本」を当てている。だから、その間。
592日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:26:44
ウチの爺さんが どこかで質問されたらしいのだが
さっぱり分からんというので
どなたか教えていただけないだろうか

燭狂魚泣 って言葉の意味なのだが・・・

額の中に書いてあった言葉なので前後に文はないとの事

「柘植 葛城」って人が書いた言葉で
江戸時代末期〜明治初期の大阪の人らしい

この辺りは始めてくるので
スレ違い・板違いだったら誘導もお願いしたい
593名無し募集中。。。:2007/03/29(木) 21:09:19
安藤昌益の思想は儒教も仏教も権力も全否定していて林子平・渡辺華山・高野長英らよりよほど物騒なことを言っているはずなのに幕府に警戒されたりはしなかったんですか?
594日本@名無史さん:2007/03/30(金) 08:56:17
>>592
古文・漢文板で聞いてみたら?
ここの住人は漢籍にはそんなに詳しくないと思う。
595日本@名無史さん:2007/03/30(金) 09:13:30
高麗の三別抄の残党が元の船が停泊している港を遅い、船を焼いたこと。
高麗人の造った船が手抜きであったこと。

この二点が元寇(一回目)で日本を救った根本原因である。
と主張している学者がいるのですが、この人正気でしょうか?

まあ、短期間に大量に船作れと言われれば、最後には手抜きするしからないから2点目は良いとして、三別抄の残党が元に対して攻撃をし、ある程度以上の打撃を与えられたのだろか?
596日本@名無史さん:2007/03/30(金) 12:50:40
X
>古文・漢文板で聞いてみたら?
>ここの住人は漢籍にはそんなに詳しくないと思う。


この重複スレの住人で回答しているのは素人ばかりだから。
597日本@名無史さん:2007/03/30(金) 15:45:59
>>596
「学問板の専門家」さん、ようこそw
598日本@名無史さん:2007/03/30(金) 18:03:49
日本は海に囲まれた島国なのに、どうして近代まで外航船が発達しなかったのですか?
たとえば秀吉が大陸に出兵するとき、明に直接乗り込める大型船がなかったので
朝鮮ルートをとらざるを得なかったそうですが、それ以前から中国や南蛮の船が
多数来日しているのに、そうした船を研究して同じものを作ろうとは考えなかったのでしょうか?
599日本@名無史さん:2007/03/30(金) 20:15:55
>>594

古文漢文の方で聞いてみます
助言 感謝
600日本@名無史さん:2007/03/30(金) 21:17:59
>>598
逆に考えれば良い。ヨーロッパでは中央集権体制が出来て、
貿易、植民地に国家が金を出すようになり、大航海時代が
はじまる。それに伴い外洋を回れる大型船や航海術が劇的に
進化する。

それ以前の欧州の海と言えば(北欧を除けば)地中海だし、
中国ではイスラム教徒を中心とした陸上交易が中心で
自ら外洋にでられる航海術を発達させてこなかった。

中国が外洋にでようとし始めるのは1990以降。
601日本@名無史さん:2007/03/30(金) 22:04:51
≫595
フビライにせかされたため、高麗人の造った船が手抜きであったこともあっただろうが、白石一郎著の「蒙古襲来」によると、当時の高麗の造船技術は未熟だったらしい。(意外だったなあ)乾いた木でなく生木を使ったり、鉄の釘でなく木の釘を使ってたとのこと。(本当かよ...)
南宋の造船技術は高かったろうが、弘安の役では揺れを防ぐために船どうし綱で繋いだらしいから沈むよな。
高麗の三別抄の残党が元の船が停泊している港を遅い、船を焼いたこと、を勝った理由と言ってるのは誰よ?
602日本@名無史さん:2007/03/30(金) 23:22:36
明治天皇時代には慶応と明治の年号があったので
慶応天皇と呼んでは いけませんか?
603日本@名無史さん:2007/03/30(金) 23:24:09
>>602
いけません
604日本@名無史さん:2007/03/30(金) 23:37:22
いつの間にか、天皇の謚は 在位時代の年号が当然になってしまっている
今上天皇の謚が 平成天皇になり可能性は 限りなく100%
605日本@名無しさん:2007/03/30(金) 23:45:03
>>604
当然どころか、明治からそう決められたのですが何か。
606日本@名無史さん:2007/03/30(金) 23:46:46
>>600
ありがとうございます。
607日本@名無史さん:2007/03/31(土) 00:06:00
>>601
小和田哲男静岡大学教授

直接確認したのは、15年以上前の本だけど
三別抄 小和田哲男
でググってみたところ、少なくとも去年にそのような講義を行ったのではないかと思われる予定表みたいなのがトップに来た。
608日本@名無史さん:2007/03/31(土) 02:03:02
>>604
いつの間にか、だってさ
小学校から勉強し直せば?
609日本@名無史さん:2007/03/31(土) 02:52:49
関ヶ原の戦いで、毛利勢は吉川広家の妨害で参戦できなかったとされていますが、
長束と安国寺を吉川の押さえに置いて、毛利勢は南宮山を南下&伊勢街道を迂回して
主戦場に駆けつけることはできなかったのでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Sekigahara.png
610日本@名無史さん:2007/03/31(土) 03:18:05
元号=追号は決まってるの?
元号法が出来る頃、国会の審議か何かで、政府側が、
「昭和」が天皇の追号になることは「あり得る」
というような表現をしていたのを、何かで読んだ気がするんだが・・・。
なにぶん、まだ子供だったもんで、よく覚えていない。
611日本@名無史さん:2007/03/31(土) 07:52:16
古代から現代まで、わかりやすく歴史が説明してあるサイトってないですか?
出来たら、画像などもありで説明してるところなら嬉しいのですが・・・
612日本@名無史さん:2007/03/31(土) 09:12:50
>>610
元号法案の議論で社会党がツッコミを入れてたみたい。
当時は、天皇在世時の元号を追号とする法的根拠はなく、元号法案でも追号については触れていないので、追号を在世時の元号にするか否かは、後継天皇がその時決定すると答弁してるね。

中国の明朝で出来た「一世一元の制」は、在世時の元号=追号とセットだけど、現在日本には元号についてしか法律がなく、元号を追号とするのは法的根拠の無い慣習なのかもしれんね。
613日本@名無史さん:2007/03/31(土) 12:04:35
戦国時代の里見氏の主な文官を教えて下さい。
614日本@名無史さん:2007/03/31(土) 17:58:06
元号法案審議の議事録読んだけど、確かに政府答弁の趣旨は、
元号と追号には法制上何のリンクもなく、後継天皇が決めるので、
元号とは関係ない追号になる可能性もある、明治・大正の例に倣って
元号をそのまま追号として「昭和天皇」となる可能性もある、
ただ、それは後継天皇の意志だから、
審議の時点でそんなことわかりません、ということだね。

それより、この議論が出た参議院内閣委員会に源田実が議員として出席
してるのに受けたw
615日本@名無史さん:2007/04/01(日) 01:37:09
ただし現行憲法に天皇に政治的権能は国事行為を除いて有していない所から考えると、私的に追号を選定するだけの私的の組織と財源がないので無理だと思われる。
616日本@名無史さん:2007/04/01(日) 21:04:19
日本史の中で外交に長けていた人物って誰?
617日本@名無史さん:2007/04/02(月) 00:11:30
月代みたいな髪型にするようになったのは兜を被るときのためと聞いたけど、
それが江戸時代の太平の世になっても武士から庶民まで皆でやってたのはどうして?
手間を考えるとどう見ても不合理的だと思うんだけど。
618日本@名無しさん:2007/04/02(月) 00:53:51
>>617
公家も神官も医者も坊さんも月代剃らねぇが、何か?
百姓は一応武士の予備役だしな。町人は知らね。
619日本@名無史さん:2007/04/02(月) 01:15:40
>>617
日本に限らず、髪型は身分や所属を示す記号です。
不合理で手間がかかるほうが、区別がつくという意味で
目的に合致します。

日本人のハゲ方にあった髪型だという説もあります。
620日本@名無史さん:2007/04/02(月) 01:45:19
学問の神様と言われている人は誰ですか
621日本@名無史さん:2007/04/02(月) 01:48:54
ぐぐってください。すぐわかるはずです。
622日本@名無史さん:2007/04/02(月) 02:05:12
聖徳太子だヨ
623日本@名無史さん:2007/04/02(月) 14:04:37
10万石の大名で、その大名家の収入は10万石分ですか?
それとも、その大名家の税金が5公5民だとして、5万石分?
どちらなのですか。教えてください。
624日本@名無史さん:2007/04/02(月) 14:30:24
薩摩藩や人吉藩ではキリスト教だけでなく浄土真宗も禁制でしたが、何故ですか?
625日本@名無史さん:2007/04/02(月) 15:02:47
>>623
大名の税金ってなにさ?
大名領は独立採算だよ。
幕府の支配は法的、軍事的なもので藩の経済活動に関しては独立国と同じ。
626日本@名無史さん:2007/04/02(月) 15:15:59
亀井静香って亀井これのりと関係あるの?
627日本@名無史さん:2007/04/02(月) 15:55:04
場所がわからないのでここでききます。

2chをみれる かきこめる
DLインストールをどんなソフトでもらくらくできる
ネットゲームができる
検索をしてきちんとHPを探してこれる
ボイスチャットでカメラをだしたり、しゃべるときの音量を調節ができる

など普通にネットを使っていて普通に使える能力のことを
なんと言うんでしょう。

また、世界の教育水準をはかるとき、識字率と言うのがありますが
こういうネットを使える人数のパーセンテージを調べた統計は
今のところないんでしょうか。 ネット識字率みたいな感じなものです
628日本@名無史さん:2007/04/02(月) 16:35:10
前方後円墳に萌える私って変態?
629日本@名無史さん:2007/04/03(火) 01:31:03
>>623
これは検地で打ち出された石高が何を意味しているのかということに繋がるね。
石高制が成立した太閤検地が基準となる。
昔は生産量が算出されて石高となったというのが通説だったんだけど、
近年の論調では斗代=年貢という観点から石高は年貢高であるというのが有力になってる。

だから確定的なことはまだ言えない段階だけど、10万石の大名の収入は10万石でいいと思う。
630日本@名無史さん:2007/04/03(火) 01:48:53
日本史の小説などを読んでいて今更ながらふと思ったのですが、、、
時代は繰り返すのように明治維新から百何十年経過してますよね、
あと150年くらい経てばまた混乱の時代が来るのでしょうか?
今の日本が違った世界になってしまうということですよね。
そのとき私は生きていないからどうでも良いのですが・・・
未来は天皇は残ったまま政府が変わるということですかね?
631日本@名無史さん:2007/04/03(火) 02:22:00
150年後くらいに分かると思うよ
632日本@名無史さん:2007/04/03(火) 03:09:19
池田国が出来るかもしれない。
633日本@名無史さん:2007/04/03(火) 10:46:53
史料編纂所閲覧再開らしい。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1173682679/l50
634日本@名無史さん:2007/04/04(水) 03:54:40
徳川吉宗とお江は血の繋がりがありますか?m(_ _)m
635日本@名無史さん:2007/04/04(水) 05:39:12
>>634
家康の十男と加藤清正の娘との間に生まれたのが紀州二代目徳川光貞吉宗の父親
で父ちゃんが農民の娘(だといわれている違ってもせいぜい下級武士の娘)に手をつけて生まれたのが吉宗。
お江の方の直系卑属ではない。

がんばって遡ったり下ったりすれば、どこかでかち合うだろうけど。
636日本@名無史さん:2007/04/04(水) 13:47:00
>>635
ありがとうございましたm(_ _)m
637日本@名無史さん:2007/04/04(水) 13:49:43
「花の慶次」を読んでいて思ったのだけど…

「死組」と名乗って命を張って目的を達成しようとする忍者がよく出てくるのだけど、実在してたのですか。
638日本@名無史さん:2007/04/04(水) 14:45:55
639:2007/04/04(水) 18:05:29
追号の話を蒸し返しますが
昭和天皇の良子皇后は香淳皇后と追贈されましたよね。
これは誰が選定したのでしょうか。

同じ事が天皇には発生しないのですか。
640日本@名無史さん:2007/04/04(水) 18:31:13
>>637
漫画は漫画。

641日本@名無しさん:2007/04/04(水) 21:26:23
642日本@名無史さん:2007/04/04(水) 22:19:13
江戸町奉行から大目付は昇進?or左遷?
643日本@名無しさん:2007/04/04(水) 22:23:29
>>642
大出世といえる。
644日本@名無史さん:2007/04/04(水) 23:10:37
出世ではあるが、活躍の機会のない閑職にまつりあげられるとも言える。
645日本@名無史さん:2007/04/04(水) 23:19:02
>>643
大目付として機能してた時代までの話でしょ。
遠山景元の時代なんかは、もはやお飾り的な役職に過ぎず
出世と銘を打っての事実上左遷的な人事としての位置でもあった。
646日本@名無史さん:2007/04/04(水) 23:46:38
大和政権でよく分からないところがあります。

・連……特定の職能で朝廷に仕える。

・品部……職能で大和王権に奉仕する。

・伴造……世襲的に品部を統率、管理。

と、あるのですが「連」と「品部」はどのように見分ければいいのですか?同じじゃないですよね?
品部を統率するのが「伴造」で=「連」なんですか?
いまいちよく分かりません。教えてください。



647日本@名無史さん:2007/04/04(水) 23:53:29
連は有力氏族。大伴・物部とかね。
神別氏族(祖先が天皇とは別の氏族)が大体連のカバネをもらっている。

品部は部民制で編成された○○部という集団の総称。

伴造は品部を統率。
伴と品部の関係はいくつか説があるけど、教科書的には伴造−伴−品部。
648日本@名無史さん:2007/04/05(木) 00:59:27
647>>連は偉くて、品部は一般人みたいなかんじってことですよね?
ありがとうございます!


649日本@名無史さん:2007/04/05(木) 08:17:52
なぜ明治天皇が京都から東京へ奠都したのか分かる人いますか?
650日本@名無史さん:2007/04/05(木) 11:03:15
江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書 明治元年

朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ
其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ稱シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以
ナリ衆庶此意ヲ體セヨ
651日本@名無史さん:2007/04/06(金) 01:50:44
つまり日本の首都は今でも京都である
ということだ。
652日本@名無史さん:2007/04/06(金) 02:12:20
徳川時代には歌舞伎役者は人間扱いされず、
「一人、二人」ではなく「一匹、二匹」と数えられていたとの由。
とすれば、明治時代には彼らは戸籍上「新平民」として登録されたのでしょうか?
653日本@名無史さん:2007/04/06(金) 02:21:07


1633(寛永10)
海外渡航は朱印船の他に老中奉書を持つ奉書船に限るとし、
海外移住の日本人の帰国を禁止した。

とありますが、この頃は世界に何人ほど出ていたのでしょうか?密航も含めて。
帰国出来なかった日本人のその後が知りたいのですが教えてください。
654649:2007/04/06(金) 07:19:04
東京に住まなくてはいけなかった理由を聞きたいのです
655日本@名無史さん:2007/04/06(金) 09:26:46
>>653
アユタヤ、マニラなどの大きな日本人町は最盛期人口3000人などといわれます。
日本人町はその他幾つもありましたから、在外邦人は数万いたのではないかと。
656日本@名無史さん:2007/04/06(金) 11:05:01
>>655
えぇっ、そんなに居たのですか?想像以上でした。
その何万人かが日本に帰れなかったと言うことですね。
日本〜外国に密航もあったのだから、藩がその経緯を理解していれば密航で帰国することも有りと考えても良いのでしょうか?

それにしても殆どが帰国出来ないのだから可哀想です。
657日本@名無しさん:2007/04/06(金) 12:35:15
>>656
じゃがたらお春の話などにもあるように、ハーフだったり、キリシタンだったり、あるいは
新天地を求めた浪人や貧民だったりしたので。要するに、帰国しても仕方がない人々も
少なからずいたのですよ。日本を懐かしみ、帰れないことを残念に思うことはあったでしょうが。

そんな彼らは現地に同化して、歴史の舞台から姿を消していったのです。

東南アジアは戦乱の時代だったということもあるのですが、元々が血縁地縁のない集団。
第一世代の供給が絶たれたら日本人ゲットーは消えていくしかない運命だったのです。

658日本@名無史さん:2007/04/06(金) 13:29:18
>>654
京都にいては身分やしきたりに縛られ、
明治政府の元下級武士出身の連中は
天皇と同じ建物に入ることすらできないから
659日本@名無史さん:2007/04/06(金) 17:08:05
>>654
遷都の詔書に「萬機ヲ親裁」とあります。関白も廃止し、新政府は天皇親政の
建前です。そして江戸はすでに実際上の首都でした。それでこの詔書の後、
東京に行幸し江戸城に入城、政府(太政官)を同地に移転しました。

しかし「遷都」は明確に宣言されなかったので、京都は今も形式上の首都である、
東京市の固有名は今も江戸であるという論が生じました。
660日本@名無史さん:2007/04/08(日) 19:30:52
質問です。

江戸開府以前の武蔵野は、どのような植生だったのですか?
どれほど開発されていたのですか?
国分寺、府中、浅草あたりはある程度栄えていたのでしょうが、それ以外の地は・・・
661日本@名無史さん:2007/04/08(日) 20:59:22
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
662日本@名無史さん:2007/04/08(日) 21:11:16
日本の養子縁組に関する質問です。
実子がいるにもかかわらず、なぜ歴史上では頻繁な養子縁組が起こるのでしょうか?
例えば、幕末の頃だと、林洞海には林研海という息子がいたのに、なぜ佐藤泰然の子を
養子にしたのか?実子が幼少期に亡くなったならともかく、確かに林研海は40歳前に
亡くなっていますが、林若樹さんという息子さんもいたのに、なぜ他から養子をとるのか
庶民にはよくわからないのです。変な質問ですいません。
663日本@名無史さん:2007/04/08(日) 21:17:16
日本の養子縁組に関する質問です。
実子がいるにもかかわらず、なぜ歴史上では頻繁な養子縁組が起こるのでしょうか?
例えば、幕末の頃だと、林洞海には林研海という息子がいたのに、なぜ佐藤泰然の子を
養子にしたのか?実子が幼少期に亡くなったならともかく、確かに林研海は40歳前に
亡くなっていますが、林若樹さんという息子さんもいたのに、なぜ他から養子をとるのか
庶民にはよくわからないのです。変な質問ですいません。
664日本@名無史さん:2007/04/08(日) 21:23:42
うわ、二重になった。重ねてスイマセン。
665日本@名無しさん:2007/04/09(月) 03:06:05
>>662-663
それは当時の人口動態を知らないからいえることなのです。

江戸時代後期以降の合計特殊出生率は約5人。
ttp://phi.med.gunma-u.ac.jp/humeco/anthro2000/kito.pdf
幼少時は栄養失調、虚弱体質、伝染病、産期の障碍。
成人しても労働衛生は劣悪、結核などの伝染病、難産や産褥での死亡などなど。
合計特殊出生率は約5人で人口総数がそれほど変わらなかったのですから
老人になれるまで生きられるのは4、5人に1人ということになります。
ですから老人は尊崇を受けられるだけの体と運と経験を併せ持っていたエリートだったのです。

つまるところ、成人するまで育て上げさえすれば家業を継がせられるというものではない。
いつ死ぬかわからない時代だったということです。

また、当時は家こそが生活基盤の全てでした。社会保障など基本的にはありません。
もし一家の働き手がいなくなれば、老人から幼児まで確実に食いはぐれます。
また、実子がいても虚弱ならばとても家業を継がせることはできません(例:杉田玄白)

これらの理由から、絶対に家を存続させるためのリスクヘッジとして、そして家門を失った
あるいはあぶれた子女を救済する措置として、養子は必要とされたのです。
僧侶や商家は別として、特殊な家業を持つ家では特にそうでした。
666日本@名無史さん:2007/04/09(月) 07:19:31
非常にすっきりした説明だね。分かりやすい。
667日本@名無史さん:2007/04/09(月) 09:16:29
なるほど、、、林家は医学者だから特殊な家業ですもんね。
だからわざわざ医者の家から養子をもらったのか。当然のことなのか。
なんか林研海にしてみたら、「俺という長男がいるのに・・・」って
思わなかったのかな?なんて余計な心配をしてしまった。
理路整然とした説明、大変勉強になりました。ありがとうございます。
668日本@名無史さん:2007/04/09(月) 09:41:29
戦国時代、尾張の荒子城主・前田利久は 実子がなかった。
彼の弟に信長の側近で槍を持たせれば剛勇無双といわれた前田利家が
いたが、可愛がっていた妻の連れ子(前田慶次)を
次期当主にするなんてケースがあるので
当主の裁量でどう判断されるかが大きい のでは?
669日本@名無しさん:2007/04/09(月) 17:41:35
>>667
もう一つ付け加えておきますが、ああいう特殊な家業の家では
家門/家芸と家庭/家産は、必ずしも同一人物に相続されるとは限らない、
ということも知っておいてください。

今でもそうですが、内科を開いている家の子が医者になっても、
進路を変更し精神科医になってしまった…ということがよくあります。
こういった子に内科の看板(家門)を継がせるわけにはいきませんよね。
外へ出て一人前になってしまったら独立するのは当たり前のことなのですから、
もし途中で別門に入ってしまったら単純に相続というわけにはいきません。

その点、養子というのは「弟子」との区分がかなり曖昧なところがありました。
「父と子」「師と弟子」は同一形ですからね。
まあこういうところに限らず、農民でも猟師でももらい子に家業を手伝わせるのは
当たり前なので、養子というのは弟子として養うのはある意味必然のことであり、
また、養子という形で弟子にもらいうけするのも普通のことだったのです。


670日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:54:43

乞う、御協力
academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1156081312/215

671日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:32:26
日本史に四国ってあまり出てこない気がするのですが…
源平合戦・戦国長曽我部・幕末維新土佐くらい。
672日本@名無史さん:2007/04/10(火) 02:54:29
>>671
平安初期における空海。
南北朝期における細川vs河野。
話題は豊富。
673日本@名無史さん:2007/04/10(火) 02:55:25
追加:承平・天慶の乱に際しての藤原純友。
674日本@名無史さん:2007/04/10(火) 12:52:50
原始と古代の境目って何時代からですか?
初歩的質問ですいません!
675日本@名無史さん:2007/04/10(火) 17:13:31
>>669 >>668
養子縁組について質問した者です。
さらに教えていただきありがとうございました。
こんなに詳細を説明していただけるとはちょっと感激です。
皆様の邪魔にならないよう、私もsageてお礼。また教えてください!
676日本@名無史さん:2007/04/10(火) 19:23:58
質問です。
戦艦ヤマトの出撃指令を出した、またはきっかけを作ったのはのは昭和天皇ってのは本当なの?
677日本@名無史さん:2007/04/10(火) 19:26:56
>>674
ぐぐれ
678日本@名無史さん:2007/04/10(火) 19:27:54
宝暦治水、郡上一揆、は共に宝暦4年(1754)
かなり重要な事件なのに教科書でもほとんど扱われていない
昔も今もほとんど忘れ去られた事件なんですかね
679日本@名無史さん:2007/04/11(水) 00:46:34
江戸時代、浪人者や学者には月代を剃らず、総髪の者がおりました。
百姓や町人のなかにも、月代を剃らない者はいたのですか?
680日本@名無史さん:2007/04/11(水) 00:46:58
>>676
軍板でするべき質問だが、昭和天皇の
「最近航空機による特攻の報告ばかりだが、海軍にもはや船はないのか?」という言葉から始まったことになってはいるが、
軍令部が成功するわけがないと作戦に異議を唱える前線を説得した言葉が「一億特攻の先駈けとして派手に散ってくれ(意訳)」なので、
「そのうち何時かやったこと」でもあるな。
むしろ何で長門じゃなくて大和だったのか不思議だが。
681日本@名無史さん:2007/04/11(水) 22:05:21
山川出版社『詳説日本史』B(旧課程)に勧請という単語は出てきますか?
682日本@名無史さん:2007/04/11(水) 22:31:42
>>674
【原始時代】
文明が開けず、人間が原始的な生活を営んでいた時代。
有史以前をさしていう場合が多い。

【古代】
歴史の時代区分の一。
原始時代と中世との間。
日本史では、一般に奈良・平安時代をさすが、大和政権時代を含むこともある。
世界史では、原始社会のあと、封建社会の成立までの時代をいう。

(大辞泉)

まぁ、文字資料の有無が一つの分水嶺かな。
683日本@名無史さん:2007/04/12(木) 14:08:00
安土桃山〜江戸時代の概観を簡単に学びたいのですが、
お薦めの本等はありませんか?
684日本@名無史さん:2007/04/12(木) 14:27:14
つ 教科書
685日本@名無しさん:2007/04/12(木) 17:23:21
>>680
大和はさしたる被害もうけていなかったし、前弩級の長門に比べたら
攻撃力、防御力、対空能力は段違いだったから、ある意味当然かと…
686日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:51:14
>>685
ビッグセブンの一角たるポストジェットランド型戦艦長門を捕まえて「前弩級」とは貴様非国民だな。
まあ冗談はさておき、やっぱり長門じゃ話にならんからかなぁ。
687日本@名無史さん:2007/04/13(金) 16:59:55
家康らが就いた内大臣を「内府」と記しますが、
これは何と発音するのが正しいのでしょうか?
イエズス会士の書いた文献に「ダイフ」と読める箇所がありました。
これは当時の日本人が発音するのを耳にして、そのままラテン文字に
転写したのでしょうが、従来は「ないふ」と訓むのだとばかり思ってました。
ですから、精確なところを教えて下さい。
688日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:21:37
豊臣秀吉の姉の息子で秀長の養子となった「豊臣秀保」は、
文禄四年(1595)四月十六日、吉野十津川で小姓に抱かれて
入水し死亡したそうですが、この事件の詳しい経緯を教えて下さい。
689日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:27:01
江戸時代のメジャーな商品作物として、紅花と藍があります。
当然赤と青の染料ですが、では黄色の染料は商品作物としてそれほど生産されていなかったのでしょうか。
また、黄色の染料は何が使われていたのでしょうか。クチナシ?
690日本@名無しさん:2007/04/13(金) 22:40:40
>>689
あの…
黄色系というだけでも随分種類があるのですが、ご存知ないのですか。
あと、ああいう天然染めの世界は「染料の違いで色名がつけられている」
と考えられたほうがよろしいですよ。つまり、色の数だけ染料があるということです。

支子色(くちなしいろ)はご存知のようですが、植物染料の代表例だけあげますと
欝金(うこん)、黄蘗(きはだ)、橡(くぬぎ)、山吹、橘というところでしょうか。
鉱物系では黄土(おうど)がメジャーですね。これは正確には「顔料」になるのですが。
691日本@名無しさん:2007/04/13(金) 23:09:15
>>687
「内」は漢音でダイ、呉音でナイ。
ダイは今では一般的ではありませんが、お内裏様(おダイリさま)
などで残っていますね。宮中では漢音を用いていましたから。

ですから元々はダイフが正式な呼称といえます。
例えば、『徒然草』でもダイフと訓むことになっていますし、
『日誌字解』(明治二年序)ではダイフです。

ナイフと呼ぶようになったのは、武家社会で大夫(タイフ)と
混同された為だという説があるようです。
692日本@名無しさん:2007/04/13(金) 23:22:43
>>686
フィリピンでの武蔵ですらああいう結果に終わり、しかも対空兵力の弱さを認識させられたの
ですから、対空兵力を増強しておいた大和級でないと特攻は勤まらないと考えられもした
でしょう。

それからこれはあくまで憶測ですが、長門は国民に広くしられていたフリートビーイングの
象徴でありましたし、やられにいくことが前提だったあの作戦で投入するのは国民の士気を
挫くことになると考えられたかもしれません。
693日本@名無史さん:2007/04/14(土) 02:42:30
高松城、今治城、小倉城などの海岸沿いの城は
飲料水をどうやって確保していたのでしょうか。
あんな海岸近くでも真水の地下水が出たのですか?
694日本@名無史さん:2007/04/14(土) 05:02:49
戦国時代の北海道は誰の領地だったのですか?
695日本@名無史さん:2007/04/14(土) 05:47:13
日本で一番偉くても、せいぜい中国皇帝に任命された征夷大将軍なわけだが。
なにせ、東夷だし。














(´<_`  )プッ、何がアメリカ以外、一度も侵略されたことがない神の国だよ、妄言ぬかしてんじゃねえよ。
696日本@名無史さん:2007/04/14(土) 09:04:22
>>694
日ノ本将軍。
697日本@名無史さん:2007/04/14(土) 12:12:12
>>695

間違い。征夷大将軍を任命するのは天皇で、中国の皇帝が任命したことはありません。

中国皇帝は日本国内の序列に関与する力も権威もなく、贈った日本国王位は
日本国内では将軍か将軍の下の守護大名かさらにその副官の守護代が
堺や博多の商人と勘合貿易するために就任してたぐらいです。(例として細川が堺商人、大内が博多商人)
寧波の乱で勘合貿易が終わり私貿易全盛に入ると、
誰も日本国王を名乗らなくなります。(天皇から任命される官位は箔付けのため自称してでも名乗っていたが)

後年、朝鮮出兵で日明間で和平交渉があった際、明側はかつて明が贈った金印がどうなったのか
執拗に質問したが、金印どこにいったのか誰も知らなかった。
698日本@名無史さん:2007/04/14(土) 16:09:31
>>695
えーと あなたはどれだけ偉いんですか?
699日本@名無史さん:2007/04/14(土) 19:15:40
>>695
在は早く帰ってくださいね^^^^^
700日本@名無史さん:2007/04/14(土) 20:03:04
701日本@名無史さん:2007/04/14(土) 20:21:21
>>693
川だろ。
日本の川の水は、そのまま飲めるくらいきれいだった。

実際、俺が子供のころは、実家の近くに飲んでも大丈夫な川の水があった。
(正確には湧き水だが)

>>694
当時の北海道はほぼ全域がアイヌ民族の勢力圏。
現在の函館周辺だけが、柿崎氏(松前、武田とも)の勢力圏だった。
702693:2007/04/14(土) 21:48:36
>>701
自分も山の湧き水は飲んだ経験がありますが、
河口近くだと海水が混じったりすることはないのでしょうか。
河口の水は飲んだことがないので想像ですが、すごく不味そう・・・
703日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:07:13
蠣崎な
704日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:07:27
>>700
おまえだろw
705日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:08:29
>>702
多少塩分濃度が高かろうと「戦略上の重要拠点を防御するのに必要な地点の水源」であるなら、それが水源だろ。
706日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:11:07
>>693
海岸近くでも地下水脈があれば、真水は採れる。

実家は海岸から100米位だったが、井戸があった。ちょっと塩気があるようだった
が、家の前に撒くには不都合はなかった。台所で使うのは水道があったが、散水の
シャワーのような口はちょっと使わないと苔が着いた。車も洗っていた。

江戸時代の大阪の絵には、川から水を汲んでいるのがある。英輔師匠が家で使う水は
川から採っていると説明していた。
琵琶湖のアシが生えているところは、根に巣食うバクテリアが浄化して、水が飲める
と言っていたと思う。
707日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:12:05
>>702
河口近くといっても、流れがはやかったり地形などの影響で、海水が
上ってくるとは限らないのでは?

雨水の併用ももちろんだろうけどね。
708日本@名無史さん:2007/04/14(土) 23:02:47
山の中の温泉でも食塩泉というのがあるぐらいだから、
地下水の塩分と海とはあんまり関係ないんじゃないかな?
709日本@名無史さん:2007/04/15(日) 01:29:04
>>705-708
そうでしたか。有難うございました。
710681:2007/04/15(日) 22:10:06
質問を取り消します。ご迷惑をおかけしました。
711 :2007/04/16(月) 22:15:24
廃仏毀釈って新政府の具体的に誰が中心になって進めたのでしょうか?
712日本@名無史さん:2007/04/17(火) 02:29:36
廃仏毀釈は神官や、神官に転向した僧侶、あるいは民衆が起こしたもので明治政府とは直接の関係はない。
明治政府は神仏分離令を出して神社と寺院を分離させただけ。
713日本@名無史さん:2007/04/17(火) 02:58:54
日本史最強って誰ですか?
1対1で勝負するとして
714日本@名無史さん:2007/04/17(火) 03:07:27
強者ってのはルールによって変わる。
715日本@名無史さん:2007/04/17(火) 04:12:05
源氏と平家とは何ですか?戦国時代の武士とは関係ありますか?
716日本@名無史さん:2007/04/17(火) 04:12:29
単独犯による短時間殺人記録
1位 1982年に韓国の警察官禹範坤が一晩に57人
2位 1996年4月27-29日にオーストラリア・タスマニア島の観光地、
    ポートアーサーで起こった大量殺人事件。 最終的に、死者35人、負傷者15人を数えた。
3位 津山30人殺し


この3位なんなの?
717日本@名無史さん:2007/04/17(火) 04:56:25
>>716
オカルト板にでもいって聞け。
中国地方に一人で一晩で一つの村を壊滅させた殺人者がいたんだよ。
むろん実話な。
718日本@名無史さん:2007/04/17(火) 05:05:13
祟りじゃぁ〜
719日本@名無史さん:2007/04/17(火) 06:34:04
横溝正史を知らない世代が増えつつあるんだなあ(しみじみ)
720日本@名無史さん:2007/04/17(火) 14:04:15
正親町天皇の皇妃・藤原房子(万里小路秀房女。母畠山播磨守源政熈女)

この畠山播磨守源政熈はどの家系かわかりますか?
(だいたいの本はみましたが載っていませんでした)
721日本@名無しさん:2007/04/17(火) 14:55:29
>>720
畠山政熙は15世紀半ば、応仁の乱の頃の人物か。

内大臣万里小路秀房に娘を嫁がせているくらいだから、
万里小路に屋敷のあった畠山政長(管領)の近親じゃないかという気がする。
つまり河内畠山氏ではないかと。
722720:2007/04/17(火) 15:05:16
>>721 ご丁寧にありがとうございます
系図に載っていないのが不思議です
723:2007/04/17(火) 15:15:56
私の実家の近くの山の中に昔の墓がたくさんあるのですがその中に
「阿部薩摩守平」「阿部薩摩守」
「阿部出羽正藤原」「阿部筑前正藤原」という墓があります。
平家の人達でしょうか?場所は平家の落人が多い愛媛です。
家系など何でもいいので教えてください
724日本@名無史さん:2007/04/17(火) 15:37:19
>>721
しかし一色政熙なら聞いたことがあるが、畠山政熙なんて聞いたことないな。
播磨守という官途もこの時期の畠山氏としては微妙だし。
725日本@名無史さん:2007/04/17(火) 15:43:31
>>723
墓なら年号とか戒名もあるでしょう
それも書きなさい
726日本@名無しさん:2007/04/17(火) 15:48:04
>>722
政熙自身は国の守ですから大した身分ではありませんが、
現実を言えば後の内大臣の舅になってしまったわけですから
出自は管領家くらいでないと釣り合いが取れないでしょうね。

ぐっと後世のもので、しかも良質とはいえないかもしれませんが
『長家家譜』『畠山家譜』クラスの書なら、政熙の名が載っているかも
しれません。
727日本@名無史さん:2007/04/17(火) 16:09:26
>>723
年代にもよるが「出羽正」「筑前正」などという官名もどき
を使っているのは、田舎神主かも知れない
728日本@名無史さん:2007/04/17(火) 21:46:03
探し物をしています。
歴史人物がいっぱい出てきて、上杉謙信が上杉けんちん汁とかいう名前で出てくるギャグ漫画知ってる人居ますか?
結構古い漫画だと思います
729日本@名無史さん:2007/04/17(火) 22:04:07
日本史板じゃないほうが答え早くでるんじゃね?
730日本@名無史さん:2007/04/17(火) 23:58:26
岩倉使節団が欧米に視察旅行に行ったとき、その滞在費用はどうしたのでしょうか?
日本を出発する時に他国でも通用する金貨や金地金を2年近くもの滞在費を賄えるほどたくさん持っていったのでしょうか?
それとも、足りなくなる度に日本に送金するよう連絡したのでしょうか?
その場合、連絡方法、送金方法、実際に送った物は具体的にどうだったのでしょうか?
今の様に電信為替の様なものが有ったとも思えないのですが・・・ どうなのでしょうか。
731日本@名無史さん:2007/04/18(水) 00:04:01
>>724
確かに足利義尚側近の一色政熙の間違いの可能性はあるかもね。
本姓はどちらも源姓だし。
732720:2007/04/18(水) 00:49:41
〉この畠山播磨守源政熈はどの家系かわかりますか?
こう尋ねた720です。他の方のレスに今気付きました。
いろいろお教え下さり皆様大変ありがとうございましたm(__)m
733日本@名無史さん:2007/04/18(水) 12:29:32
>>723
やっぱり、ネタか
734日本@名無しさん:2007/04/18(水) 13:11:02
>>724
一色政熙って、あの上杉政憲の兄なんだね。
735日本@名無史さん:2007/04/18(水) 14:37:51
日本を苦しめるメディアの捏造記念日

  4月20日は  珊瑚記念日

http://www.h6.dion.ne.jp/~pri/azamisango02.html
736日本@名無史さん:2007/04/18(水) 21:13:21
鎌倉時代の御成敗式目について
今、御成敗式目の追加法(後の42条〜)を研究しています。
そこで、その部分の現代語訳がわかる方or本orサイトを知りませんか??
もし、あるのでしたら教えてください。
737日本@名無しさん:2007/04/18(水) 22:06:01
738日本@名無しさん:2007/04/18(水) 22:07:00
739日本@名無史さん:2007/04/18(水) 23:47:21
>>736
追加法のほうでいいんだよね?
だったら全てではないけど、岩波の日本思想大系の『中世政治社会思想』に
大半の条文の訳と注釈が載っていたと思う。
条文番号は『中世法制史料集』第1巻(鎌倉幕府法)に載っているのものとも
対応させていたと思うので、もし目当ての条文が載っていれば、かなり参考に
なると思う。

>>737-738
それは追加法は載ってないんじゃない?
740日本@名無史さん:2007/04/20(金) 03:16:24
あら
741日本@名無史さん:2007/04/20(金) 04:32:48
犬養が死ぬ前最後に吸ったタバコの銘柄ってなんでした?
742日本@名無史さん:2007/04/20(金) 05:54:02
今さっきNHKの女子アナが「かなざわぶんこ」って言ってたよ。
学がないんですかね?
743日本@名無史さん:2007/04/20(金) 06:53:28
江戸城って絵とかも残ってないのかな?さすがに写真はまだない時代だもんね?
744日本@名無史さん:2007/04/20(金) 11:33:48
>>742
そういう名前のAV女優がいるw
その方面に精通しているって事では?
中出しOK、略称かなぶん
745日本@名無史さん:2007/04/20(金) 11:50:24
>>742
単に現在の地名のことを言ってたんじゃないの?
746日本@名無史さん:2007/04/20(金) 23:49:28
>>742
地名として言ってたんだろ?
学がないってのはお前みたいな奴を言うんだよ。
歴史の世界だけに埋没してないで現行の時代にも目を向けろよ。
747日本@名無史さん:2007/04/21(土) 05:08:10
>>726
万里小路だと惟房の正室が能登畠山の分家であった畠山家俊の娘を正室にしている。
能登畠山の分家といっても守護に準じる待遇を受けていた家柄ではあったが。
だから、一概に河内畠山からとは言い切れないと思う。
748日本@名無史さん:2007/04/21(土) 07:21:47
官職持ってる人の名前の書き方について解説してるところないですか?
たとえば、「徳川内大臣源朝臣家康」のように。
あと、権とか行とか。
よろしくお願いします。
749日本@名無史さん:2007/04/21(土) 13:32:01
戦後60年、現在にいたるまで、日本に「(内)親王」「女王」はいても
「王」はいないんだから、皇室典範から「王」は削除すべきだろう。

事実上、空文化している無意味な規定だ。
750日本@名無しさん:2007/04/21(土) 13:55:32
>>749
使われていないというだけのことであって、廃止する合理性がないから廃止しないだけ。
議員さんに無駄な仕事を与えるおつもりですかな。
751日本@名無史さん:2007/04/21(土) 16:02:48
>>749
そして、廃止した後でまた「王」が出現する可能性もあるわけですが、
そうしたらそのための改正をまたやるんですか。
そして、また「王」がいなくなったらその規定を削除し、また産まれたら
復活ということを延々ループでやってくんですか。

ってか同じ質問前にもしてた奴が粉砕されてた気がするが、懲りない奴だね。
752日本@名無史さん:2007/04/21(土) 18:35:19
まあ、99パーセント以上の確率で新規の「王」は出現しないけどな。
753日本@名無史さん:2007/04/21(土) 19:32:58
>>742
指を口に入れて広げ、「かなざわぶんこ」って言ってごらん。
「う○こ」って聞こえるから…。
754日本@名無史さん:2007/04/21(土) 19:34:55
「かなざわあやこ」ならいいのか
755日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:31:17
>>715
源氏も平家も武士時代初期の有力武士団。
戦国時代の大名などにも、それらの子孫は結構いる。

>>749
親王の女性版が内親王だから、女王は王の女性版だろ。

まさかとは思うが、日本の皇室における「女王」の読み方、
知らなかったりしないよな?
756武陽陰士:2007/04/22(日) 00:13:14
金沢文庫は「カナ」ではなくて「カネ」。
私は住んでたのと、鎌倉(中世)フリークなんで知ってた。
まあ知らなくてもいいじゃない?
九州とかの地名、関東の人間分からないでしょ。
知り合いで小倉をコクラじゃなくオグラと読む奴いたし。
清張、鷗外が聞いたら泣くけどね。
757日本@名無史さん:2007/04/22(日) 00:40:51
そんなこと日本史板で誇らしげに知ってるっていわなくていいよ。
758日本@名無史さん:2007/04/22(日) 02:17:20
>>756
馬鹿は去れよ
759日本@名無史さん:2007/04/22(日) 10:43:23
余談だけど小林って書いておばやしっていう地名もあるね、兵庫県に
760日本@名無史さん:2007/04/22(日) 11:08:20
10年以上前、その時でも既に黄ばんでいた漫画本で忍者について紹介していたものがあります。
その中でとある親王の故事がありました。
「奈良か平安時代、ナントカ親王は僧兵に追われてある寺院に逃げ込んだ。
 そこには経文をいれた箱が幾つかあり、親王はそのうちの一つのふたを開けっ放しにし、他の箱に隠れた。
 そこへ僧兵たちがやってきたが、彼らはふたが開いている箱だけを調べていったん去った。
 しかしすぐに『他の箱に隠れていたのかもしれない』と思い返し戻って調べたが、見つからなかったのでとうとう諦めた。
 そこで親王はふたが開いている箱から姿を表した。
 ナントカ親王は最初はふたが開いていない箱に隠れ、僧兵たちが立ち去ったわずかな時間にふたが開いている箱に移動し、彼らを欺いたのだ」
というものです。
この故事はいつのことで、誰の話なのでしょうか。
また創作だとしてもそれは何という軍記物の挿話なのでしょうか。
761日本@名無史さん:2007/04/22(日) 12:16:21
それは学研の「忍者・手品のひみつ」とかいう本じゃないかな。いまから30年以上前の本だな。
そのエピソードは忍者の元祖の話で、南北朝時代の大塔宮護良親王の話だな。

出典までは知らん。
762日本@名無しさん:2007/04/22(日) 12:49:02
>>760
舞台は奈良の般若寺、時期は元弘の変(1331年)の後。
出典は太平記だそうで。

http://www.city.gojo.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1169000837510&SiteID=0000000000000

なにしろ出典が太平記ですから…創作かもしれません。
763日本@名無史さん:2007/04/23(月) 21:43:11
>>723
摂津正の例、指田摂津正藤詮(さしだせっつのかみふじあきら):神官兼医師
ttp://www.city.musashimurayama.tokyo.jp/shiryoukan/page/manabu/html/manabu-1.html

764日本@名無史さん:2007/04/23(月) 22:17:04
日中同盟で、反アングロ・サクソン ★7

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/diplomacy/1174570216/
765日本@名無史さん:2007/04/24(火) 00:46:48
>>761-762
正直すげぇと思った
766日本@名無しさん:2007/04/24(火) 01:33:14
>>760 >>765
何でしたら、読み下し文をどうぞ
-----------------------------------------------------------------------------------------------
折節(をりふし)宮に奉付たる人独りも無りければ一防(ひとふせ)ぎ防ぎて落ちさせ給ふ可(べ)き様も無かりける上、
透き間もなく兵(つはもの)既に寺内に打入りたれば、紛れて御出であるべき方もなし。
さらばよし自害せんと思し食(め)して、既に推し膚脱ぬがせ給ひたりけるが、事叶はざらん期に臨んで、
腹を切らん事は最(いと)安き可し。

若(も)しやと隠れて見ばやと思し食し返して、仏殿の方を御覧ずるに、人の読み懸けて置きたる大般若の唐櫃三つあり。
二つの櫃は未(いま)だ開蓋を、一つの櫃は御経を半ばすぎ取出して蓋をもせざりけり。
此蓋を開けたる櫃の中へ御身(おんみ)を縮(しじ)めて臥させ給ひ、其の上に御経を引きかづきて、
隠形(おんぎやう)の呪を御心の中(うち)に唱へてぞ坐(おは)しける。
若し捜し被れ出ば、頓(やが)て突き立てんと思し召して氷の如くなる刀を抜いて、御腹に指し当てて、
兵此にこそと云はんずる一言を待たせ給ひける御心の中(うち)、推し量るるも尚浅き可し。

767日本@名無しさん:2007/04/24(火) 01:33:46
去る程に兵仏殿に乱れ入つて仏壇の下天井の上迄も残す所無く捜しけるが、余りに求めかねて、
「是体(これてい)の物こそ怪しけれ。あの大般若の櫃を開けて見よ。」とて、蓋したる櫃二つを開いて
御経を取り出(いだ)し、底を翻へして見けれどもをはせず。蓋開きたる櫃は見るまでも無しとて、
兵皆寺中を出で去りぬ。

宮は不思議の御命を続(つが)せ給ひ、夢に道行く心地して、猶櫃の中に座(おは)しけるが、若し兵又立帰り、
委(くは)しく捜す事もや有らんずらんと御思案有つて、頓(やが)て前(さき)に兵の捜し見たりつる櫃に
入り替はらせ給ひてぞ座(おは)しける。

案の如く兵共又仏殿に立帰り、「前に蓋の開きたるを見ざりつるが覚束無し。」とて、御経を皆打移(うちうつ)して見けるが、
からからと打ち笑ひて「大般若の櫃の中を能々(よくよく)捜したれば、大塔宮はいらせ給はで、大唐の玄弉三蔵こそ
坐しけれ。」と戯れければ、兵皆一同に笑うて門外へぞ出でにける。

「是偏(ひと)へに摩利支天の冥応、又は十六善神の擁護(おうご)に依る命也。」と、信心肝に銘じ感涙御袖を湿(うるほ)せり。
-----------------------------------------------------------------------------------------------
※ご存知かと思いますが、般若経の漢訳・集大成者は玄弉三蔵です。
768日本@名無史さん:2007/05/03(木) 04:05:44
はじめまして。ずっと気になってるんですが、京都には今も島原太夫が何人か居てはりますが、その方達は昔の遊女のように体を売ることはせず、ただお座敷でお客さん相手に踊ったりお琴を弾いてらっしゃるだけなんでしょうか?読みにくい文ですみません。
769日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:38:13
そもそも島原太夫が「昔の遊女」みたいなことはしてないだろ
770日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:57:14
高級キャバ嬢みたいな感じ?
771日本@名無史さん:2007/05/06(日) 11:52:31
大体、島原太夫は元から基本的に身体を売るのではなく、
芸を見せるための職業的地位。
禁裏にも参内できるほどその芸を認められたものだけがなるんだよ。
江戸後期になると、身体を売るような太夫も出てきたとか言うが。
772日本@名無史さん:2007/05/06(日) 12:03:30
あと、通常島原で有名だが、本当は嶋原と書く。
上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町などの花街の方は、
芸を売らず身体を売る者達の町として、嶋原の太夫は下に見ていたとも言う。
773日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:31:21
江戸時代の飛脚は現在のマラソン選手並の身体能力が
あったのでしょうか?
774日本@名無史さん:2007/05/07(月) 01:34:41
○○家の墓というのは普通の家、○○氏の墓というのは武家で位が上の家
…と知人に言われたのですが、呼び名だけで分かるものなのでしょうか?
(藤原氏代々の墓、のように表記されているそうです)

個人的にはその知人の苗字が「…家」で終わっているので、
その関係で「…家家」と重なるのを避けているだけではないのかと思うのですが…。
775日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:49:43
合戦時の兵数って信頼できるソースに基づいて発表されてんのかな?
関ケ原とかだといろいろ資料も残ってそうでほぼ正確なんだろうとは思うが

富士川の頼朝軍20万なんて捏造じゃないの。
776日本@名無史さん:2007/05/07(月) 09:04:17
>>774
根拠がありません。累代墓とか歴代墓は比較的新しい傾向で
本来、個人墓か夫婦合葬でしょう
武家だの上位だのというシッタカな友人とは絶交することを薦めます
777774:2007/05/07(月) 22:30:28
>>776さん
これまでお墓の歴史とかそういうことを特に気にせず生きてきたので、
累代墓という形が結構新しいものだということを存じませんでした。
ためになる情報をありがとうございます!(目から鱗でした)

より詳しいことを知りたくて早速googleで「累代墓 普及 時代」などの語で検索をかけてみたのですが、
何だかそれらしい情報にはなかなか辿りつけず…。
何となく明治時代くらいに普及し始めた形式のような気がしてきたのですが、
あまりそういうところをまとめたサイトってありませんよね。

引き続き、気長に探してみます。
778日本@名無史さん:2007/05/08(火) 16:09:39
蒔田吉良家って明治時代以降どうしてる?
779日本@名無史さん:2007/05/08(火) 20:54:47
世界史板か中国板で聞くべきかもしれないけど、質問です。

平清盛って「入道相国」って呼び名があるじゃないですか。
で今の総理大臣とか昔の参議のことを「宰相」とか言うじゃないですか。
でもって三国志の曹操や孔明の役職が「丞相」じゃないですか。

相国、宰相、丞相って何がどう違うの?
780日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:20:31
日本史における不思議な出来事、奇談。
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/occult/1177255385/501

って、どうなの?
781日本@名無史さん:2007/05/09(水) 09:08:24
>>779
そこまで突っ込んだ知識があるなら、
日本国語大辞典などの辞書を、
直に引くことをおすすめする。

勉強になるよ。
782日本@名無史さん:2007/05/09(水) 09:23:54
>>779
中華王朝の方から述べましょう。
まず、『君主のもとで行政諸機構群を束ね、国政の総指揮を執り行う最高臣(複数の場合あり)』、
これを「宰相」といいました。

で、その任に補せられた臣に付与される国制上の官職が、王朝ごと時代ごとに異なるので、
ある王朝の宰相は「相国」と呼ばれ、また別の王朝の宰相は「丞相」と呼ばれた、とまぁ、そういうことです。
他にも三公とか尚書令とか内閣大学士とか、宰相に当たる官職は様々で、それぞれ権能や職掌範囲に
結構な差異がありますが、つまるところ宰相の称であることは同じです。


さて、本朝のこと。大陸から律令制度とともにそういった官職も輸入されてきまして、
左右両大臣には丞相が相当するとされ、その上位の太政大臣には、やはり丞相より格上の相国
(もともと丞相は相国の補佐として設けられたともいいます)が相当するとされました。
ゆえに、太政大臣である平清盛は相国とも称したんですな。

また、現在でも総理大臣が宰相と呼ばれることがある、その理由は上の方で述べた通り。

参議がずばり宰相と呼ばれた理由は、正直よく知りません。いちおう国政を司る重職ではありますからね、
別におかしくはないですが。参議は他に相公・八座とも呼ばれたようです。
783日本@名無史さん:2007/05/09(水) 13:58:31
数学などでは一度付けた名前を途中で変えると、筋道が通らなくなってまずいが、
漢文では、同じことを言い換えるのが名文とかいうのがあるな。
784日本@名無史さん:2007/05/09(水) 14:45:54
ついに三内丸山遺跡の謎が解明された!

     驚愕の日本史の真実
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137
785日本@名無史さん:2007/05/11(金) 21:46:05
承久の乱について

今、外国の大学で日本史を勉強していて今度発表があるのですが、
トピックが「承久の乱の事件経過と結果(もたらしたもの)」なのです。
わたしは日本人なので、日本人として恥ずかしくない発表がしたいのですが、
こちらにはあまりいい図書がなく困っています。
どなたかわかる方がいたら詳しく教えてください!
もしわからなければ、事件経過と結果が詳しく載った本などでもいいのでお願いします。
786日本@名無史さん:2007/05/12(土) 00:22:14
>>785
ネットが使えるなら、いくらでも調べられるでしょw
書名を挙げたって、すぐには入手できないでしょうに
787日本@名無史さん:2007/05/20(日) 22:00:49
戦国武将で、開城する時に
「これは私の宝ではなく、天下の宝である」
みたいなことを言って名物の茶器類を縄でくくって城下の敵軍に渡し、
「松永久秀とはえらい違いだ」
と感心された武将がいたと思いましたが、これ誰でしたっけ?
788日本@名無史さん:2007/05/22(火) 19:39:43
茸石ってなんですか??
写真とかありますか?
789ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2007/05/22(火) 20:14:42
>787 

明智左馬助秀満。
790日本@名無史さん:2007/05/22(火) 20:36:25
>>787
明智。講談では左馬助光春
791日本@名無史さん:2007/05/24(木) 18:04:47
茸石ってなんですか??
写真とかありますか?
792日本@名無史さん:2007/05/24(木) 20:36:02
乱と役と変と戦乱と戦役と事変と事件の違いについて教えてください。
793日本@名無史さん:2007/05/26(土) 00:55:58
歴史上の人物の逸話について何か教えて頂けませんか?
逸話についての本などありましたら教えて欲しいです。
794日本@名無史さん:2007/05/26(土) 02:35:16
キリシタン撲滅や鎖国について。
宣教師が日本人を攫ったりしたのも理由に入っているとどこかで見たのですが?
HPでもコピペでも、本でもいいので教えてください。
795日本@名無史さん:2007/05/26(土) 08:30:13
>>791
>>茸石ってどこに出てくるの?
葺石じゃないの?
796日本@名無史さん:2007/05/26(土) 20:20:32
池上の本門寺と本行寺は、どういう関係なの?
797日本@名無史さん:2007/05/26(土) 22:45:26 BE:349306627-2BP(0)
>792氏に便乗です。
ある事件の名称として〜の乱、〜の変、〜の役といった用語を用いますが、それ
ぞれ確固とした定義はあるのでしょうか。乱は内乱や朝廷や幕府への反逆、役は
政治的に対等な勢力同士の戦い、といったことは想像がつきます。前者は壬申の
乱、平将門の乱(承平・天慶の乱)、承久の乱、大塩平八郎の乱、後者は前九年
の役、文永・弘安の役、文禄・慶長の役、大坂の役など。
では変とはどういう時に使われるのでしょうか。薬子の変、本能寺の変は薬子の
乱、光秀の乱、もしくは(それぞれの年号)の乱としてもいい気がします。です
が応天門の変、桜田門外の変となるとどうもわからなくなります。
もちろん見方によって変わるものだということは分かります。中華秩序の観点か
ら文禄・慶長の役を見ると「壬申・丁酉の倭乱」となるとか。
798日本@名無史さん:2007/05/27(日) 00:12:42
きっちりとした定義はないと思う。
薬子の変も平城太上天皇の乱って言うし。
同じ名前でも変だったり乱だったりするし。
799日本@名無史さん:2007/05/27(日) 00:54:16
>>797
乱とは、現政権に対する反乱からおきた戦争で、役とは他国との戦争、
変というのは、政変や、政権の有力者が襲われた場合を指す。
ただ、>>797が後半で言ってるように、1つの事象でもはいろんな側面を
持つ場合があるから、同じ出来事でも、変であったり乱だったりする。
変なんだけど、見かたとしてはかなり大規模なものだったので乱と呼称
したりとかね。
800日本@名無史さん:2007/05/27(日) 02:00:08
首都って皇居か幕府どっちなの?
801日本@名無史さん:2007/05/27(日) 02:56:59
>>800
行政権を持ってる場所かな
室町末期の戦国なんかはどことも言いがたいが

あー、でも鎌倉期とかも結構京都か鎌倉か分かれそう
わかんねーや
802大納言:2007/05/27(日) 08:50:56
>>800
江戸時代まで首都は京都でした。
>>801
幕府とは朝廷に任命された軍事統括者(将軍)が司令部を設置する事を幕府と
いい、あくまで「朝廷の支配下」という形式がとられていました。
 つまり鎌倉幕府とは源頼朝が「鎌倉」という土地に司令部を設置した事でそ
う呼ぶわけです。
803日本@名無しさん:2007/05/27(日) 09:53:23
>>792 >>797
名称の使い分けは、権威ある政府や学会がその都度イベントをどう捕えどう示しているかで決められます。
ですから立場によって漢字を使い分けられ、時代によっても変わるもの。
要するに、歴史認識そのものなのです。

質問スレPart18でも触れましたが、変とは権力/支配者が突然に変わる、あるいは変えられそうになる
イベント一般を意味する、現象を表面的に捉えたものといってよろしいでしょう。ポイントは、必ずしも
戦闘行為に及ぶとは限らず、桜田門外の変のように極めて小規模なもの(つまりテロ)であったり、
また失敗したものも変とよばれることです。
我々が「クーデター」「テロ」「レジームチェンジ」と横文字で呼ぶ(認識されうる)イベントは変と呼ばれます。
総じて、乱よりは単元的・短期的・小規模です。

対するに乱とは、政権や世間が不安定になるということ。これもまた、現象を表面的に捉えたものです。
変と異なるのは「反乱」…つまり正統な側から見ると、当事者が正統性を持っていないことが多いことと、
正統な立場からは傍観者的なイベントであること、具体的な戦闘行為にまで発展することでしょうか。
また>>799さんも触れられていますが、変と呼びうるものでも結果的に多元化・長期化・大規模化すると
乱と呼ばれなおされることがあります。繰り返しますが、これらの呼称はあくまで歴史認識ですから
結果次第でチョイスされるものです。

しかし役は、民を動員し「遠くの」外国や反政府・独立勢力を征伐する…つまり遠征するという
ことですから、変や乱よりもより具体的で明確な大規模戦闘行為です。

 
804日本@名無しさん:2007/05/27(日) 10:34:56
>>797
「桜田門外の変」「本能寺の変」…
当時の実質最高権力者がイベントの前後で全く変わってしまったという認識から変と呼ばれているものと
考えられます。もし信長が討ち果たされなかったら、本能寺の変は首謀者の名を冠して「明智光秀の乱」と
呼ばれていたことでしょう。またいづれも一日以内の短期間で終わっています。

「応天門の変」…
これは武力行為があったとはいえませんね。一種の「政変」です。

「藤原薬子の変」…
これも政変のうちですが、当初は薬子兄妹が傀儡平城太上天皇を擁して嵯峨天皇の駆逐を図った
イベントと思われていたのでしょう。首謀者とされた薬子兄妹は黒幕ということで「薬子の乱」とも。
しかし、どうも首謀者は平城太上天皇という認識が正しいのではないかということで、その視点から
考えると「平城太上天皇の変」と呼ぶのが適切なのではないかということになったのでしょう。
805日本@名無しさん:2007/05/27(日) 10:40:01
>>797
「正中の変」「元弘の変」…
正中の変は未遂。
ただ、この例のように天皇や上皇が首謀者の場合は「変」と呼ばれることが多いようですね。
上皇は皇位継承(重そ)権を持っていますし、後醍醐天皇は周囲に譲位を迫られていたとはいえ
正統な天皇だったのですから。

「承久の変」…
首謀者は後鳥羽上皇。そして順徳天皇。
上記から変と言われていたようですが、一ヶ月くらい各地で戦闘行為が続いたことと、
あくまでローカル臨時政権である鎌倉幕府の打倒が動機であったことから、クーデターや
レジームチェンジの類ではないという認識から「承久の乱」と呼ばれるようになったのかと。
806日本@名無史さん:2007/05/27(日) 19:15:55
単純化していえば、「変」は政変、「乱」は戦乱でしょう?
807日本@名無史さん:2007/05/27(日) 19:19:51
「承久の変(乱)」「元弘の変(乱)」なんかは、
朝廷を舞台にした政変という側面を強調するなら「変」だし、
政変そのものよりもそれに伴って一定期間ある程度の広範囲の地域を巻き込んだ
戦乱というほうに主眼があれば「乱」になるのだと思う。
808日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:51:18
誰か陰陽師安陪泰成の子供の名前を教えて下さいwww
調べてもあいまいで誰なのかはっきりわかりません。お願いしますww
どうしても必要なんです・・・
809日本@名無しさん:2007/05/27(日) 23:42:35
>>808
安部吉平と吉昌
810日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:00:49
ありがとう。あの玉藻の前の正体を見破ったひとです。
資料によっては、資家とか安行とか書いてある物も……はっきりしません
出来ればどこに記載されていたのか教えて下さいm(− −)m
811日本@名無史さん:2007/05/28(月) 14:26:44
ってか誰か阿部氏家系図カモぉン
812日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:17:32
安倍安行でも安倍資家でも安倍為成でもOKだった***
ちなみに安行は晴明の子供とも言われるが詳細は不明でも多分この三人でOK
813日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:24:25
>>809
それは晴明の息子じゃねえか?資家、為成、安行、でよし。。。
814日本@名無史さん:2007/05/30(水) 01:41:18
姓が『塚本』で、加賀藩(加賀百万石の)にゆかりのある歴史上の人物を探しているのですが、
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。
815日本@名無史さん:2007/05/30(水) 02:42:04
生野の変が成功するにはなにが必要だったんでしょうかね?
816日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:37:56
>>814
県史嫁
817日本@名無史さん:2007/05/30(水) 21:17:09
>>814
資金、時間、具体的な計画、人望などなどなど
818日本@名無史さん:2007/05/31(木) 03:46:47
>乱と役と変と戦乱と戦役と事変と事件の違いについて

教科書記述者の史観の表れです。もう少し正確に言うと、彼が依拠した、
あるいは彼が学習した歴史書の主観の表れです。
大化改新と明治維新だけ「新」の字が使われるとか、戦乱以外の事件にも
斯様な例は少なくありません。
819日本@名無史さん:2007/05/31(木) 21:17:04
一体いつから安倍家は土御門家を名のったのですか?
また何故名をかえたのですか? 教えて下さい
820日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:02:04
>>818
建武の新政も「新」が使われているぞ。
821日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:06:31
>>819
「安倍」は本姓、「土御門」は家号(武家でいう苗字)。
安倍氏嫡流が土御門を家号として世襲し始めるのは、室町期くらいから。
この時期になると朝廷でも、下級貴族や地下官人クラスもみんな家号を名乗り始める。

なお公家や地下官人の場合、本姓については「○○氏」、家号については「○○家」という言い方が普通。
822日本@名無史さん:2007/06/01(金) 02:00:16
土佐山内家は、3代忠豊の次の代から将軍の偏諱を受けなくなったけど
どうしてか分かる人いる?
823日本@名無史さん:2007/06/02(土) 02:19:32
>>820
そうですね。要するに皇国史観なのです。
824日本@名無史さん:2007/06/02(土) 10:11:06
論述問題での質問なんですが、日本国土における水稲農耕のはじまりについて述べよ。という問題の出題意図ってなんだと思いますか?
825日本@名無史さん:2007/06/02(土) 16:24:03
>>824
出題意図ってまた難しい…
けど案外、出題者にすれば大した意図はなかったりするもんだが。

それはさておき歴史的因果関係について理解しているか、てとこじゃない?
つまり
(1)水稲耕作はどのようなルートで日本国土にもたらされたか。
(2)水稲耕作は日本にどのような影響を与えたか。
(3)水稲耕作が日本ではじめられた地理的要因は何か。
たぶん、(2)が重要なんだろうけど、ヒトやモノの交流を考えれば(1)、
自然地理の考えなら(3)も重要だな。
でもまあ普通は(1)を踏まえて(2)をメインに書けば良いと思う。
826の本誌:2007/06/02(土) 19:21:24
今から日本史独学ではじめるんですけどどうやったらいいですか?
827日本@名無史さん:2007/06/02(土) 20:03:34
>>779
中国史にかぎれば、
宰相:皇帝の代理人という意味も含む、執政最高責任者。
丞相:皇帝の代理人という意味を含まない、執政最高責任者。
相国:丞相でも特に功績のあった者に贈られる称号。

こんな感じだったと思う。
執政最高責任者、とあるのも微妙なんだけどね。本来は皇帝が最高責任者のはずだから。

>>826
手近な本でもかまわないと思うよ。
ちなみに井沢元彦著「逆説の日本史」は、一要素として押さえておいてもいいと思う。
ほかの史書より、軍事面宗教面からの考察、という点では優れていると思うから。
828日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:24:36
>>826みたいな質問なんですが・・・
もうすぐ、受験勉強で日本史を勉強しようと思ってます。
そこで世界観をつかむためにマンガを読むつもりなのですが・・・
誰のからがよいでしょうか?
受験日本史において、キーとなる人物をランキング形式で教えていただけると助かります。
もちろん、志望校によりけりなのはわかって居ますが
一般的にどうでしょうか。
お願いします
829日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:48:27
>>826
一般的な例はなら、

まんが日本の歴史→高校日本史の教科書や参考書→概説書の日本の歴史シリーズ

で、一応通史としての日本史は押さえられる。

理系出身で日本史を独学してるオイラの場合、まんが日本の歴史は読まなかったが、高校日本史の参考書は年表や系図などが便利なので購入した。
あと、一冊〜三冊程度にまとまった一般教養書なども合わせて読んだ。

概説書のシリーズは一冊で納まる教科書や参考書と違ってボリュームが格段に増えるから、最初から読みこなすのはちょっと大変だった。

歴史は人名など固有名詞が沢山でてくるので、歴史を題材とした漫画や小説、エッセィ等を読んでから概説書を読んだほうがいいかも。

日本史の各時代に興味あるテーマを見つけられれば、日本史の全体像を理解する早道になると思うよ。

あと、仏教や儒教、キリスト教の入門書や、大まかな中国史や欧米近代史がわかる本なんかも合間に読んどくとなおいいかもね。
830日本@名無史さん:2007/06/03(日) 01:44:42
さりげなくデムパ本を宣伝する>>827ってw
831日本@名無史さん:2007/06/03(日) 03:07:39
概説書っつーても通史になると10冊以上いくもんなぁ
832日本@名無史さん:2007/06/03(日) 07:41:00
諸星大二郎を読んでおけばおk
あとは、宗像教授伝奇考だな
833日本@名無史さん:2007/06/03(日) 13:18:09
今じゃ、『日本の中世』とか『日本の近世』、『日本の近代』とかいった通史の概説書より詳しい概説書シリーズもあって図書館にも置いてるから、通史を一通り読み終えたら読んどくといいかもね。

時に学者や作家がセンセーショナルな説をとなえることがあるが、概説書の知識程度は知っておかないと、その説の信憑性すら全く判断できずについ鵜呑みにしてしまう可能性が出てくる。

概説書すら通読してなくて、初歩的な間違いや勘違いをしてる珍説・奇説なカキコミをよく見かけるからね。
834ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2007/06/04(月) 13:31:21
>>828 受験勉強なら教科書の書き写しが一番確実だよ。時間体力気力の消費が
半端じゃないけど暗記にはこれが良いよ。雰囲気を掴みたいなら挿絵で十分。


835日本@名無史さん:2007/06/04(月) 20:46:09
>>821
一般的には安倍有世が土御門家の初代とされているけど、実際には応仁の乱前後からとされている。
もっとも、安倍有世が義満の側近として初の公卿になった人物なのである意味においては晴明以来の重要人物。
836日本@名無史さん:2007/06/05(火) 00:12:00
>>828の俺はするーっすか?
837日本@名無史さん:2007/06/05(火) 10:04:16
ここは「学問・文系」のカテゴリーにあるように学問としての日本史を語る板だから。
受験勉強としての日本史なら、他に然るべき板があるだろ。
838日本@名無史さん:2007/06/05(火) 10:32:02
質問です
京の都の別名を洛陽といいますが
なぜ長安ではなく洛陽なのでしょうか
839日本@名無史さん:2007/06/05(火) 10:43:59
京都の別名は、左京が洛陽、右京が長安じゃないの?
840日本@名無史さん:2007/06/05(火) 10:56:50
>>839
ありがとうございます
右京は湿地帯であまり栄えなかったんですね
841日本@名無史さん:2007/06/05(火) 22:05:24
1985年〜1905年にかけて民間の鉄道が急成長したのですが、その理由はなんででしょう・・?

東大の二次試験にこの問題があるのですがいまいちわかりません・・・
教えてください!
842日本@名無史さん:2007/06/05(火) 22:13:07
1885年〜からじゃないの?
843日本@名無史さん:2007/06/05(火) 22:14:46
>>842
そうでした、、すいません・・
844日本@名無史さん:2007/06/05(火) 22:15:59
1885年からじゃないの?
845日本@名無史さん:2007/06/06(水) 01:14:32
産業革命による交通革命、というのが世界史的回答だけれど
日本の場合はそれに加えて封建的割拠の打破、近代化の実物教育という思想を背景に
経済面での企業勃興期および日清戦争後の二次の「鉄道熱」が大きいかな。
民間企業のよる鉄道敷設ならば特に後者。政府の援助もあったわけだし
第一次には東北、関西、山陽、九州などの幹線が私鉄として敷設され、
第二次には幹線から分岐する中小路線が敷設されている。
まあ私鉄国有化が06年だから、民間資本による鉄道敷設はある種の好況期における
「鉄道熱」というブームに(財源不足の)政府も援助した、と考えればいいのかな。
846日本@名無史さん:2007/06/06(水) 03:40:54
>>841は、>>837を参照すべし。
しかもここは前近代の日本史を扱う板。
仮に貴方の質問が受験とは関係ないとしても、この板では相応しくない。
847日本@名無史さん:2007/06/06(水) 08:34:08
>>840右京衰退は天下の徳政相論で藤原緒嗣の建言が桓武天皇に認められて都の建設が途中で中止になったから。
848日本@名無史さん:2007/06/06(水) 09:15:11
>>840
右京って鴨川側だっけ?
849日本@名無史さん:2007/06/06(水) 11:02:39
>>847
つまり平安京は未完成ということでしょうか?
>>848
天子から見て右側 桂川方面が右京ですね
850日本@名無史さん:2007/06/06(水) 19:45:53
>>849
国家事業としての平安京は未完成。
あとは勝手に住んでる人が作ってったんじゃない?
851日本@名無史さん:2007/06/06(水) 23:51:11
松尾芭蕉は忍者だったのですか?
出身が確か甲賀の出身だと思ったのですけど。
852日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:49:30
一般的にイメージされる「忍者」はいません。
松尾芭蕉も忍者ではありません
853日本@名無史さん:2007/06/07(木) 23:12:19
6世紀末から7世紀前の政治状況についてまとめました。

蘇我氏が物部氏を滅ぼし聖徳太子が推古天皇の摂政になったが、七世紀には蘇我氏の権力が確立されていた。

おかしいですか?
854日本@名無史さん:2007/06/08(金) 00:26:14
>>851
伊賀の出身
855日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:57:13
すみません、質問させて下さい
第1次世界大戦後のベルサイユ条約において日本は賠償金を得ているのでしょうか?
色々調べたのですが山東半島や南洋諸島については書かれているのですが賠償金については
何も書かれていないので疑問に思いました

賠償金を得ているとすればどれぐらい得たんでしょうか?
856日本@名無史さん:2007/06/09(土) 01:48:55
>>855
板違い
857日本@名無史さん:2007/06/10(日) 01:09:11
>>855
日本近代史板があるよ
858日本@名無史さん:2007/06/10(日) 01:56:22
日本史板すら足元にも及ばない厨板だけどね
859日本@名無史さん:2007/06/10(日) 05:51:02
賀茂真淵の号「県居」とは、どういう意味なのでしょうか?
860日本@名無史さん:2007/06/10(日) 06:36:05
調と贄の違いをお分かりになる方みえましたら、お教えくださいまし
861日本@名無史さん:2007/06/10(日) 06:58:46
国(乃至は地域)を私物化し
人民に塗炭の苦しみを味わせ
自らの私腹を肥やすも
最期は惨め

この条件を満たす日本の歴史上の人物は
果たして存在するのでしょうか?
862日本@名無史さん:2007/06/10(日) 09:14:13
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
863日本@名無史さん:2007/06/10(日) 12:00:15
>>861
松岡利勝
864匿名:2007/06/10(日) 14:13:23
国立国会図書館で原本とか調べたりすることは
できないのですか?
865日本@名無史さん:2007/06/10(日) 16:32:10
国会図書館に原本があればね。
866日本@名無史さん:2007/06/10(日) 18:04:31
ええと
仁徳天皇=武内宿禰の子説とかはありませんか?
867日本@名無史さん:2007/06/10(日) 21:25:28
武内宿禰は成務天皇と生年月日が同じとされるので、仁徳天皇は曾孫くらいの世代になるわけだが。
868匿名:2007/06/10(日) 22:20:40
>>865
図書館のどこでどのように調べればいいんですか?
具体的に教えて頂けませんか?
869日本@名無史さん:2007/06/10(日) 22:28:28
産場に入ったツクとサザキの話とか
870日本@名無史さん:2007/06/10(日) 22:35:13
>>866
仁徳の父、応神が武内宿禰と神功皇后との子とする説なら聞いたことある。
井沢元彦だったかも?
まぁ、史料的制約から定説なるほどの論証は不可能な仮説だろうけどね。
871日本@名無史さん:2007/06/10(日) 23:09:41
藤原性は平城京以降であると思うのですが、いかがでしょう?
藤原京時代に藤原性は無いと思いますので。
872日本@名無史さん:2007/06/11(月) 16:00:30
数年前に図書館で読んだ戦国時代の本についてなのですが
知ってる方、タイトルを教えてください。

↓こういう特集コーナーが載っていたように思います。
家康が0歳のとき
秀吉6歳
信長10歳
謙信18歳
信玄21歳
他には信玄の父親は息子より長生きしたとか書かれていました。
よろしくお願いします。
873日本@名無史さん:2007/06/11(月) 16:58:28
>>871
文武天皇2年(698)8月19日の詔を、
ことさら否定する必要はないと思いますが。
874匿名:2007/06/11(月) 19:56:37
>>868
どなたか教えてください・・・
875日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:13:33
>>872
『戦国武将ものしり事典』じゃないかな?
戦国時代のSEXについても書いてあった。

質問なんですが、全統模試の日本史の難易度はどれくらいですか?
876日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:23:22
>>875
スレ違い
877日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:44:21
幕末維新研究者の石井孝の生没年を教えてほしいのですが。
死去したことを知らなかったもので、お願いします。
878日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:51:03
明治期の廃仏毀釈では多くの国宝級の仏像が破壊されました。

1.お坊さんの抵抗は無かったのでしょうか?
2.廃仏毀釈が受け入れられたのは何故?
3.廃仏毀釈以降の仏教は厳密に言うと偽物なのでしょうか??
879872:2007/06/11(月) 21:35:48
>>875
ありがとうございました。探してみます。
880日本@名無史さん:2007/06/11(月) 22:34:43
881日本@名無史さん:2007/06/11(月) 23:24:59
882日本@名無史さん:2007/06/12(火) 00:33:38
>>874
漠然としすぎていて答えようがありません。
それに史料の探し方は専門とする時代によっても変わってきます。
せめて具体的に何の原本が見たいのか史料名を挙げて下さい。
883日本@名無史さん:2007/06/12(火) 02:33:41
てか、図書館で聞けよw
884匿名:2007/06/12(火) 19:09:33
>>882
江戸時代の史料なんですが・・・
町触関係の史料です。
885日本@名無史さん:2007/06/12(火) 21:43:03
真田幸村と坂井泉水は何か、関係あります?
886日本@名無史さん:2007/06/12(火) 22:41:53
「てんかとくそいそうろん」なんですが
漢字表記は
「天下徳政争論」と「天下徳政相論」のどっちが正解なのでしょうか?
887日本@名無史さん:2007/06/12(火) 23:01:10
>>873
ご意見ありがとうございます。

・・・でもやはり納得いかないです、臣下の性がついた京になりま
すよね・・・
888日本@名無史さん:2007/06/12(火) 23:34:10
>>886
桓武末期の藤原緒嗣と菅野真道の軍事・造作の件だよね。

日本後紀延暦二十四年十二月七日条に
「(緒嗣、真道)相論天下徳政…」
とあるから「相論」で良いと思う。
相論は「互いに論じ合うこと」だから桓武の勅により議論をした、
という程度だから争論「言い争い」とは少し違うような。
この件は有名なんだけどお互いに持論を展開してそれを奏上した程度。
だいたい菅野真道は異論を立てて緒嗣の意見に同意しなかっただけで
廟堂にあって激論が交わされた、というほどでもないように思われる。

まあこれは桓武朝末期の政争(桓武側近の緒嗣と平城系、東宮学士の真道)と見ることもできるが
緒嗣の辛辣だが政治家として地味な性格と真道(彼は渡来系、船氏の一族)の学者肌を
考えると、余り政治的背景による激論と決め付けるのはどうかな。
確かに背後で桓武と平城の確執はあったろうけどこれをその流れで見てよいか?
その意味でも「相論」で良いと思う。

日本後紀の撰者もこの巻第十三は冬嗣だし、うがった見方はしなくてよいような。
889日本@名無史さん:2007/06/13(水) 18:50:51
>>888
ありがとうございます
890日本@名無史さん:2007/06/13(水) 19:14:09
徳政論争
891日本@名無史さん:2007/06/13(水) 22:53:29
大戦中の日本の情報局について、詳しく書いてある文献を教えてください。
組織と政策を調べています。
よろしくお願いします。
892891:2007/06/13(水) 23:01:09
すみません、板間違えました。
近代史板にいってきます。
893日本@名無史さん:2007/06/14(木) 03:47:18
「争論」と「相論」を厳密に区別する必要なんてあるの?
昔の史料だと、明らかに武力紛争が背景にありそうなものでも「相論」と
書かれているケースは普通にある気がするのだが。
894日本@名無史さん:2007/06/14(木) 17:05:27
>>893
区別する意味はないと思うけど「てんかとくせいそうろん」は
歴史用語としては日本後紀の原文に従うのが普通じゃないの?
特にその部分(巻十三)は幸い現存しているんだし。

てか、それよりも記載されていない菅野真道の「異議」が
どういう論だったのか知りたいもんだ。
桓武末期の政治的不安定な時期の事件なわけで
しかも役者は東宮学士で続日本紀撰者の真道と桓武の寵臣で日本後紀撰者の緒嗣。
学者と文人政治家の単なる討論か、それとも裏に政治的な何かがあるのか。
895日本@名無史さん:2007/06/14(木) 19:03:55
教科書レベルでは徳政論争
896日本@名無史さん:2007/06/14(木) 19:11:48
>>895
本当だ、山川の詳説日本史研究は徳政論争だ。
じゃあそれこそどっちでも良くなるなあ。
897日本@名無史さん:2007/06/15(金) 02:37:25
名前も役職も定かでないので検索できなくて困ってます。
明治時代、議会かどこかでいらん暴言を吐いたせいで大乱闘を招いた軍人ってどなたか心当たりないでしょうか?
「平氏にあらざれば人にあらず」の発言だけで有名になってしまっている人と同レベルの人ですが。
898日本@名無史さん:2007/06/15(金) 07:42:32
白洲正子の爺さんの蛮勇演説では?
「いま、おまえらがこうしてられるのは薩摩のおかげだろ、ゴラァ!!」とか言って、
大ブーイング。
899日本@名無史さん:2007/06/15(金) 08:50:50
樺山資紀の蛮勇演説でしたか。
胸の支えがすっと降りました。ありがとうございます。
900日本@名無史さん:2007/06/16(土) 05:47:26
足利義政政権時の『分一銭』ですが
債権者と債務者が同時に払った場合どうなるのですか?
901日本@名無史さん:2007/06/17(日) 00:02:08
ずっと気になってたこと
治承・寿永の乱で1180年に何で平氏は福原京に遷都なんかしたの?
902日本@名無史さん:2007/06/17(日) 16:33:30
そりゃ拠点だからじゃね
903日本@名無史さん:2007/06/17(日) 19:01:21
1180年は寿永改元前ですが。
904たぐっち:2007/06/17(日) 19:20:25
誰か日本史について教えて下さい!
905日本@名無史さん:2007/06/17(日) 19:37:14
「日本の歴史」の略です。
906ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2007/06/18(月) 00:39:38
>901 いい港だから。
907日本@名無史さん:2007/06/18(月) 01:22:07
はじめてレスします。
私の疑問は浅野家の宗恒の側室が全く語られないことです。大藩にしては珍しいとおもいます。なにしろ重晟の生母の名前がわからないのですから・・何か理由があるのでしょうか?
あと山内16代豊範の側室もわかりません。豊景、豊静の生母の名前をご存じでしたら、ぜひお教え下さいm(__)m
908日本@名無史さん:2007/06/18(月) 05:01:51
>>907
側室スレで聞け。
909日本@名無史さん:2007/06/18(月) 07:41:25
スレタイ変えたら?(pgr
910高校生:2007/06/18(月) 13:59:23
今川・武田・北条の三国同盟と、桶狭間の戦いについてお聞きします。

同盟を結ぶことで背後の憂いを無くす というのは理解できますが、
今川だけが中央に向かい、ヘタをすれば天下をとってしまうかもしれません。

武田や北条からすれば、今川の上洛はあまり気分のいいものでは
なかったはずです。

そもそも、武田、北条、上杉…と大国がひしめいているのに
今川は国を留守にして 何のために上洛しようとしたのですか?
上洛=天下を獲る という意識があったのでしょうか?

桶狭間の戦いでは信長の奇襲が功を奏したことになっていますが
武田や北条の支援はなかったのでしょうか? そういう資料ありませんか?
911日本@名無史さん:2007/06/18(月) 14:07:29
そもそも義元は「上洛」したのかすら分かってないよ。
北条は上洛する気はほぼなかったみたいだし、
武田は上杉で手一杯でしょ。
912日本@名無史さん:2007/06/18(月) 14:15:29
そうなんですか。

じゃあ今川は上洛しようとしていたのではなくて
織田を潰しに行っただけなのでしょうか?
913日本@名無史さん:2007/06/18(月) 14:29:31
そういう見解の支持者は増えてる。

要するに「上洛」を示す信用できる史料がないってことだから、
義元が一体何をしたかったのかを合理的に説明できない。
上洛かもしれないし、尾張遠征かもしれない。
914日本@名無史さん:2007/06/18(月) 14:31:11
初めまして、日本史を勉強中の学生です。
江戸幕府の数度にわたる改革で、質素倹約を奨励したおふれを出しましたが、
幕府の財政が思わしくないから、幕府内部での倹約を幕臣に対して命令するのなら
理解できるのですが、どうして町人などにまで、衣食住のぜいたくを禁じたのでしょうか?
幕府と町人の家計は別なのですから、町人の倹約まで命令するのは大きなお世話ではないのでしょうか。
あるいは、日本全体が外国と戦争中とかであれば、国力を無駄遣いしないために
平民のぜいたくを禁じるのも理解できるのですが……。
915日本@名無史さん:2007/06/18(月) 14:34:54
風紀のひきしめ
916日本@名無史さん:2007/06/18(月) 14:36:19
>>913
訂正
上洛を示す⇒義元の意思を示す
917914:2007/06/18(月) 14:49:31
>>915
風紀と言っても、「酒やドラッグ、性の乱れなどをひきしめれば町人が本業に精を出し
国全体が潤う」、という理屈なら理解できるのですが、
初鰹を食べてはいけないとか、着物の素材にまで口を出しても、
国全体の生産力には関係しないどころか、経済効果にマイナスのような気がします。
風紀などと言いながら、やはり結局は幕府の人間よりも町人の方がぜいたくな暮らしを
されては、幕府の格好が付かないからとか、嫉妬から足を引っ張るような動機が
おおもとなのでしょうか?
はたまた、当時のぜいたくな衣食住は、今でいうタトゥーやボディピアスのような
ある種すさんだ気分の自己表現のように見えて、嫌悪を感じさせるものだったから
まじめな幕府は禁じたということだったのでしょうか?
918日本@名無史さん:2007/06/18(月) 14:54:04
>>917
経済政策をした武士ってだれかいるか?
あと初鰹はめちゃくちゃ高価だからねw

吉宗が家康の政治を理想とし、定信が吉宗を理想とする。
ここから見えてくるもんがあるでしょ?

現代感覚で考えても仕方ないよ。
919914:2007/06/18(月) 15:11:51
>>918
すみません、初心者なので、遠回しな表現でなく、もっと直接的にご教授ください…

吉宗以降の改革で倹約を掲げた理由は、凶作や物価の不安定のせいで
幕府の財政が悪くなったからですよね?(ここからして間違ってたらご指摘ください)
幕府の財政のために、どうして町人のぜいたくまで禁じなければならないのか分かりません。

あ、それとも、もしかして、町人への倹約のおふれは幕府の財政のためではなくて、
凶作で一揆や打ち壊しを起こす農民や町人に
「凶作に備えて自己責任で蓄えをしろ。自分の無計画なぜいたくを棚に上げて、
 簡単に暴動を起こすんじゃない」
というメッセージだったのでしょうか?
幕府の倹約は幕府の財政のためで、町人への倹約のおふれは治安維持のため、と、
それぞれ全く別の目的の命令が、たまたま同時期に似たような内容の命令になった、
ということなのでしょうか。
920日本@名無史さん:2007/06/18(月) 15:24:00
ググったほうが早いと思う。長文めんどくさいし。

倹約令の目的は財政難への対処と風紀の引き締め。
身分相応の生活を強制することも一つの目的。
921日本@名無史さん:2007/06/18(月) 17:52:36
>>919
農業中心の社会では自然環境に大きく左右されるから、
緩和政策で投資を促し景気浮揚を狙う、商工業中心の
現代的な財政政策は取りにくい

町人の贅沢は、農家の食料生産から商品作物への転換を
促し、不作時への対応がとれなくなる

こんなとこでどう?
922日本@名無史さん:2007/06/18(月) 20:06:00
江戸時代の絵とか何であんなに変なの?化け物や巨人
923日本@名無史さん:2007/06/18(月) 22:06:39
>>919
>吉宗以降の改革で倹約を掲げた理由は、凶作や物価の不安定のせいで
>幕府の財政が悪くなったからですよね?
この部分、あまり正しくないと言うか…

「米価安の諸色高」というキーワードは聞いたことがあるかもしれない。
米価は言うまでもない。諸色というのは米以外の様々な物品のこと。
幕府の財政は基本的に米をベースにしていた。
だが、江戸時代の開発や農業技術の進歩のため米は余り気味になって価格が下がる
(=収入が減る)。一方で産業の発展で物価は上がる(=支出は増える)。
というのが吉宗頃からのの根本的な財政悪化の理由。
で、質素倹約を奨励すれば需要が減って物価が下がるだろう…というのが倹約令の説明にはなる。
924日本@名無史さん:2007/06/18(月) 23:40:15
>>919
幕府の倹約政策ってのは、
現在の、金融引き締め政策と同じだな。

現在だったら、日本銀行の金利を上げれば済むんだが
(済まないけどねw)、
江戸時代は、日本銀行なんてなかったから、
直接な禁止令を取るしかなかったんだな。

江戸時代だって、バブルと不況の繰り返しだな。
925日本@名無史さん:2007/06/18(月) 23:46:15
質問です。

大河ドラマ「風林火山」を見てたら・・・・。

板垣駿河守(千葉真一の役)が、出てるんですが・・。

「駿河守」を名乗ってることに、駿河の人たちはどう思ってたんでしょうか?
特に、今川義元だったら、駿河の守護だから、許せないと思うんですが。

どうなんでしょう?
926日本@名無史さん:2007/06/19(火) 00:50:41
>>912-913
上洛を目指したのなら、途中の道筋に当たる地域の勢力に対して、予め
いろいろと根回しをしていても良さそうだが、桶狭間の直前期にそんなことを
今川義元がしていた形跡が何もない。
また途中に中継拠点を全く作らずに駿河からいきなり京都まで行こうとするとは
考えにくい。
以上の点から、少なくとも桶狭間のときの今川義元は、単に尾張一国の平定しか
考えていなかっただろう、という説が有力になっている。

もっとも永正年間の大内義興の上洛なんかでは、山口からほとんど直接畿内まで
進んでいるが、これは海上交通がメインの瀬戸内地方の地域事情も考慮する
必要がある。
927日本@名無史さん:2007/06/19(火) 00:54:19
>>925
今川氏の当主は伝統的に受領の官途で名乗る可能性があるのは
「上総介」なので、「駿河守」は別に何とも思わないでしょう。
あと駿河国内の国人領主である葛山氏なんかも「駿河守」を名乗っているけど、
今川氏側がこの名乗りを止めさせようとしたなんて話は聞きません。

なお同様に武田氏の当主は受領の官途を名乗るとしたら「伊豆守」が多いかな。
928925:2007/06/19(火) 01:03:47
>927
ありがとうございます。

要するに気にしてないんですね。

俺も、駿河守を名乗ろうかなw。
929日本@名無史さん:2007/06/19(火) 01:35:48
上杉謙信の上洛ってどんなものだったのですか?
wikiには
>天文22年(1553年)9月、上洛して後奈良天皇や室町幕府第13代将軍・足利義輝に謁見している。
>永禄2年(1559年)4月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。
>このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。

とありますが、少数の家臣を連れて友好国を通って行った?
930日本@名無史さん:2007/06/19(火) 04:31:31
源平争乱の際、興福寺などの僧兵も以仁王の令旨に応じて挙兵したはずなのに、
後の源時代に政治的な関与をしてこなかったのは何故ですか?
931日本@名無史さん:2007/06/19(火) 05:21:31
>>929
将軍の要請で上洛しようという者の進路を妨害するということは、
足利将軍家への反逆と見なされかねません。
いくら戦国期であっても、表だって将軍家に反逆するようなことをすれば、
周辺勢力に反逆者を討つという大義名分を与えて、攻め込まれることさえ
あり得ます。

要は、余程のバカか、もしくは義昭追放時の信長のように余程の覚悟がない
限りは、軽率にそんなことは普通しません。
932日本@名無史さん:2007/06/19(火) 13:22:51
高師直が天皇の妃として後宮に召されていた二条関白の妹を
盗み出して寵愛し、男子・武蔵五郎師夏を儲けたという話を
聞いたことがあります。
扨て、この「二条関白」というのは二条道平のことなのでしょうか?
また当時の「天皇」というのは何天皇だったのですか?
もちろん二条関白の妹を召しだしていた天皇のことを伺っているのですが。
よろしくお願いします。
933日本@名無史さん:2007/06/19(火) 13:45:48
太平記では、前関白二条道平の妹としているね。
師夏が生まれたのが1339年だから、当時の天皇といえば、
建武3年(1336年)から貞和4年(1348年)まで
在位した光明天皇の可能性が高いと思うけれども、天皇妃ではなかったよ。
太平記では、天皇のお妃にしようと大事にしていたのに、
のという表現でしかなかったんじゃないかな。
当時、兄の前関白二条道平はなくなり(1335年)、甥の二条良基はまだ幼かったから、
二条家はあまり勢力がなかったんじゃないかな。
934日本@名無史さん:2007/06/19(火) 14:54:43
某予備校講師が聖徳太子は実は暗殺されたと言っていたのですが本当ですか?
935日本@名無史さん:2007/06/19(火) 17:54:49
>>933
どうも有り難うございます。
未だ入内していなかったのですね。
936日本@名無史さん:2007/06/19(火) 19:10:08
>>934
何人かはそう言っているが、学者で支持している人はいないとおもう。
937日本@名無史さん:2007/06/19(火) 23:14:20
>>936
聖徳太子はいなかったという説を聞いたことが有るが、どれくらい有力なの?
938日本@名無しさん:2007/06/20(水) 13:16:34
>>937
厩戸皇子は実在したが、(巷でいわれているような)聖徳太子はフィクションだということ。
一休宗純と一休さんくらいの違いと思えば。
939日本@名無史さん:2007/06/22(金) 00:22:52
>>896
むしろ、昭和天皇の2回目の聖断と同じで桓武政権の根幹である軍事と造作をやめるために菅野ら桓武側近グループの面子を立てながら終わらせるための手段だったと思う。
940日本@名無史さん:2007/06/22(金) 01:55:23
>>939
そのへんの人事と派閥は続日本紀や日本後紀の記事から推測せざるを得ないけど
緒嗣が桓武寵臣として若くして台頭しているのは分かるが菅野真道はどうかなあ。
菅野朝臣賜姓や続日本紀編纂などからは桓武の側近のイメージもあるけれど
同時に徳政相論の時は東宮学士で緒嗣と比べれば微妙な立場じゃないかな。
桓武と東宮の確執は史料から推察するにほぼ確実だし彼のポジションが分からん。
緒嗣の面子を立てたのはまあ事実だろう。日本後紀編纂が緒嗣なのだから多少は
割り引いたとしても、史料からは当代随一の学者、というくらいしか分からん。
941大納言:2007/06/22(金) 15:52:29
>>929
天文22年(1553年)9月の上洛は前年に従五位下・弾正少弼に叙任された
ことへのお礼言上が名目で2000人を引き連れて上洛。

永禄2年(1559年)4月は将軍・足利義輝からの上洛要請を受けた為で、
この時は直江兼綱・柿崎景家ら重臣を含む5000人を引き連れての上洛。

942日本@名無史さん:2007/06/22(金) 17:22:22
相続の意義と根拠についてのレポートで私は公地公民〜三世一身の法〜墾田永年私財法の
流れを書きたいのですが、意義を説明出来ても根拠については、些か弱いと思います。
実例として我が国で国家規模での相続の禁止とその経過はこの一例しか思い浮かびません。
勿論、根拠としては私有財産権の保証(憲法29)があるのですが、相続について挙げるには
これもズレを感じます。皆様の知恵をお借りしたく思います。
943日本@名無史さん:2007/06/22(金) 20:20:45
>>942
土地の所有と税制なら江戸期の永代売の禁止から解禁なんかが
面白そうだがなあ。所領の相続なら院政期の荘園(女院が相続したり)、
あるいは武士政権の養子と猶子の違いなんかは如何?
944日本@名無史さん:2007/06/22(金) 20:33:00
>>943
あっ!それがありましたね(・∀・)
ありがとうございます。
でも歴史ではなく法学部の親族・相続のレポートなんです。
本当は法律に根拠を求めないとダメなんだと思うのですが私は法律は専門でないので…
とはいえ所領の相続や養子と猶子の違いなどは個人的に興味が湧きました。
945日本@名無史さん:2007/06/22(金) 21:21:58
>>944
何となく史学じゃなく法律系のレポートだと思ったがやっぱりか。
相続法で法律に根拠を求めるなら武家法だが法慣習に拠るところが大きいからなあ。
しかも意義は所有や生産制度の時代背景を含めて自分で考察しなきゃならんが
まあ頑張ってください。
946\:2007/06/23(土) 19:13:45
足利義詮を再評価出来る点はありますか。
幕府を潰さなかったことはもう少し評価されてもいいように思います。
947日本@名無史さん:2007/06/23(土) 21:48:48
すみません「縄請」って何ですか??お手数ですが教えてください!
948日本@名無史さん:2007/06/24(日) 01:28:45
この前の「その時歴史は動いた」を見て思ったのですが、
御文を読まして教徒を増やすということはそれだけ文章を読み書き
出来る人々が多かったって事ですよね?
良く江戸時代の識字率の高さは話題になりますが応仁の乱の頃も
こういう事ならば、室町時代の識字率も相当なものですよね?
もしくは、村の中での読書階級である村長や役人達が読み写し
それを口頭で伝えたのでしょうか?
949日本@名無史さん:2007/06/24(日) 02:23:57
>>948
識字率と報道(まあここではアジ程度だが)は基本的に無関係。
もちろん識字率0%ならば文書には全く価値は存在しないが
例えば村に一人でも識字者がいればそれで問題ない。
重要なのは文書を皆が読めることではなく、文書情報の共有だから。
英国で一般紙や大衆紙が普及した頃、そこまで識字率が高くなくとも
報道に価値があったのはパブに一人でも新聞が読める人間がいれば
それで充分であったから。

だからこの場合「村の中での読書階級である村長や役人達が読み写し
それを口頭で伝えた」と考える方が妥当。
近代以前の識字率の高さ、あるいは言語の標準化というのはそれほど
重要なことではない(もちろん近世において識字率がある程度の水準に
あったことが日本の近代化に貢献したことは否定しないが)。
950日本@名無史さん:2007/06/24(日) 03:01:54
初めて日本史板にやってきました。
昔日本史が好きだった“母”です。

息子に学習漫画の日本史シリーズを購入しようと思っているのですが
昔少年だった…そして現在青少年の日本史好きの皆さんは
どこのシリーズが好きでしたか?
小学館・集英社・学研 この3社で悩んでいます。
最初は、史実が少しずつかわって来ているらしいので、出版社に拘らず
ここ最近に完全リニューアルされたものが欲しいと思っていましたが
それは無いようでした。

漫画は女子と男子では好みも分かれるので
元&現少年の皆様にアドバイスをいただければと思いました。

取り敢えず息子に図書館から数冊借りて読み比べさせたら
漫画であれば何でも良いのか
どちらも同じくらい面白いとい答えで困りました。
951日本@名無史さん:2007/06/24(日) 04:15:47
>>950
吉川弘文館の「国史大辞典」を買ってあげてください。

というのは冗談ですが、どれも良さげでお困りなら、エイヤでどれかひとつをテキトーに買ってしまうというのも方法ですね。
それでも困るのなら、私が小学校の頃読んだのは小学館のものだとお答えしておきます。
和歌森太郎という人が監修していたと思いますが、ベースはしっかりしています。
読み比べた訳ではないので、他はどうかは知りませんが。

興味をもったなら、あとは本人に任せておけば良いと思います。
ただ、本人がいろいろ聞いてきたら、正確な答え、というより、面倒がらずに一緒に考えてあげたら、親子の対話上も、歴史の興味からも本人にとって良い方向に行くのではと思ったりします。
952日本@名無史さん:2007/06/24(日) 06:01:35
>>1の母、夜更かししすぎだろう
953日本@名無史さん:2007/06/24(日) 06:07:42
同感。親が細かく指示しなくても、子供は自分の意志でもって
進むべき道に行くでしょう。読みたい本・読むべき本に向かって。
もし分売可なら、各社取り混ぜるってのもありかなと。
954日本@名無史さん:2007/06/24(日) 07:48:00
>>948
小説ネタだけど、司馬遼太郎の「義経」に彼が東北の方へ初めて流れて行くときに
(那須の近辺だったろうか)村人にお前は「真名が読めるのか」と聞く場面が
あったように思う。自分は漢字のことを「真名」って言うのかと知った。
マア、「仮名」があるから、ナルホドと。

双子のタレントに、マナ、カナというのがいるが、彼女たちの親はそういうの
知っていたんだと変に感心したね。
955日本@名無史さん:2007/06/24(日) 08:13:55
2泊3日で京都・大阪旅行に行くんですが 、
ぜひ見ておくべき日本史上重要な史跡がありましたら教えてください。
短い日程なのであまり数はこなせないかもしれませんが・・・
希望としては、寺社仏閣・古墳・歴史的建造物などです。
何とか奈良にも足を伸ばせると思います。

ぜひともご教授お願いします。
956日本@名無史さん:2007/06/24(日) 11:07:17
>>954
真名=漢字というのは高校の古文で習いますよw
957日本@名無史さん:2007/06/24(日) 11:45:58
足利尊氏ですが、彼は後醍醐天皇の名前の尊治から一字貰って尊氏としたんですよね?
なら南北朝分裂後もその名前を名乗り続けていたのは何故でしょうか?敵の大将から貰った名前を
使い続けるのは変じゃあないでしょうか?
958大納言 ◆i3NIPPON9c :2007/06/24(日) 12:09:22
>>950
経済的の問題もあるかと思いますが、一極的になるのを防ぐ意味でもなるべく
多くの出版社の本を読ませてあげるのも良いかとおもいます。あと、文字が大
きく写真や絵の多い方が子供は喜ぶと思います。
959日本@名無史さん:2007/06/24(日) 13:38:33
1.江戸城の城郭っていつどうしてなくなったの?
戦争では焼けてないはずだし、明治維新でも無血開城だったはずだし。

2.平家が都落ちした時、平家一門の娘でよそに嫁入りしてた人は
どうなった?その子供とか。
以上誰か教えて。
960日本@名無史さん:2007/06/24(日) 14:53:24
本丸御殿、二の丸御殿は幕末に焼失し、西の丸御殿も明治初期に焼失した。

門や櫓は江戸開城時点で既に老朽化し崩壊しかけていたので、不要なものは
順次撤去された。

見付などの門も、東京の開発が進むにつれて撤去され、最後まで残ってた外堀も
戦後の復興期に多くが埋め立てられた。
961日本@名無史さん:2007/06/24(日) 16:59:08
首里城にも後宮はありますか?
962日本@名無史さん:2007/06/24(日) 18:51:46
>>961

2・・角田文衛氏の「平家後抄」を読むといい。非常に詳しく載っているから
あの先生の平家への愛情は常人にはわからんね。
963日本@名無史さん:2007/06/25(月) 02:17:13
>>951 953 958
早速のご返答ありがとうございます。
皆様のご意見大変参考になりました。

歴史に興味を持つのは嬉しいことなので
一緒に歴史について語り合えるように
これを機に私ももう一度学習漫画で勉強しなおします。

分売もありだけど、ここは一気に大人買いで行こうと思ってます。
でも各社取り混ぜも、案外いい案かもですね。
一つの出版社しか読まないで考え方が偏ってしまうのも考え物ですよね。
朝日新聞が出版している子供向け日本史漫画が
かなり自虐的な編集だと聞いたのでちょっと気になっていたんです。
最初に挙げた3社はそんな噂は聞かなかったからだいじょうぶかな。

>>952
ははははは・・・
そうですね。今夜も夜更かしですw
末っ子乳児の夜泣き&ミルクでこんな時間に目が冴えてしまうんです。
964日本@名無史さん:2007/06/25(月) 16:33:27
明治以後の日本で仏僧が妻帯・女犯を平気でやるようになったのは
いつ頃から、また何故になのでしょうか?
幕末まで一部の宗派を除けば犯罪行為であったというのに、
どうしてかかる堕落した所行が横行するようになったのですか?
教えて下さい。
965日本@名無史さん:2007/06/25(月) 18:25:37
>>955
京都・大阪・奈良なんて歴史的遺産は山ほどあるから
せめて時代とか、好みとかテーマを絞ってくれないと
それこそ銀閣でも行っとけってなアドバイスしかできんよ。

>>963
小学館のシリーズはその中でも頭ひとつ抜けてるんじゃないかな。
子供だけじゃなくて受験生や大人が学習するのにも決して劣らないと思う。
966959:2007/06/25(月) 18:37:52
>>960,962
さっそくの回答ありがとうございます。
967955:2007/06/25(月) 20:05:01
>>965
好みのテーマは古墳〜中世で、
教科書でおなじみのところがいいです。
ちなみに銀閣と仁徳天皇陵は行く予定です。
ほかにお勧め教えてください
968日本@名無史さん:2007/06/25(月) 20:37:29
多賀城が遠の朝廷と呼ばれた根拠知ってますか?
969日本@名無史さん:2007/06/25(月) 20:41:05
平清盛の娘盛子について教えてください。
970日本@名無史さん:2007/06/25(月) 21:29:57
大学の課題で古代の氏姓について調べてるんですが、
史料を挙げないといけないんですよ。
どんな史料を調べたらいいですか?
971日本@名無史さん:2007/06/25(月) 21:40:55
日本が今だに鎖国してたらどうなってますか?
972日本@名無史さん:2007/06/25(月) 21:49:53
鎖国してたらどうなってるかってのを考えるのではなく、
鎖国体制を維持している、維持し得てるとしたら
それはどういう体制なのかを考えた方がまだ生産的だろう。
973日本@名無史さん:2007/06/26(火) 00:48:52
なぜ、大坂が江戸時代に経済的優遇を受け、
武士も少なく、自由な雰囲気があったのか教えてください
勤王派にまで金銭を貸し、江戸幕府が壊滅していく原因にもなります
974日本@名無史さん:2007/06/26(火) 06:14:50
>>971
江戸時代風な鎖国を言っているんだろうが、ほんのちょっと前まで日本の経済風土は
鎖国的で、開国が大事と論議されていたんではないのか。

インタネットの通信料金など、未だに鎖国的だと思う。
975日本@名無史さん:2007/06/26(火) 07:03:10
>>887
逆説の日本史でそのような仮説を展開していたので読んでみたら?
あなたが納得できるようなことが書いてあるかもしれません。
976日本@名無史さん:2007/06/26(火) 18:28:52
征夷大将軍と関白って地位で言えばどっちが上なの?
977日本@名無史さん:2007/06/26(火) 19:24:49
>>976
太政大臣、征夷大将軍、関白・3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1180987995
978日本@名無史さん:2007/06/26(火) 19:58:41
関白です
979日本@名無史さん:2007/06/26(火) 22:41:49
実力のない天皇や公家が高位を示しても農民にさえ馬鹿にされるだけ。
秀吉の統治下では関白が日本で一番偉い。天皇でさえ秀吉のご機嫌伺い。
家康の統治下では征夷大将軍が日本一。天皇や公家はその統治下に配される。
980日本@名無史さん:2007/06/27(水) 01:37:10
>>979
君はこの板には向かないと思うよ。
981日本@名無史さん:2007/06/27(水) 03:19:37
まあ1行目があてはまるのはごくごく稀だが
2、3行目はおおよそ事実の通りだよ
982日本@名無史さん:2007/06/27(水) 17:39:03
今の日本でも国民が天皇を管理し支配している。
天皇は週刊誌でバッシングされ人々には馬鹿にされている。
天皇の地位は最高位の国民にとってはゴミ同然。
その時代の実力者の立場がその国で最高位。
秀吉の関白、家康の征夷大将軍、現代では主権者国民。
983日本@名無史さん:2007/06/27(水) 18:43:50
時代毎の統治者によって地位が変わるって事?
984日本@名無史さん:2007/06/28(木) 04:18:23
質問です。
『鬼平犯科帳』などの時代劇で、奉行らが出役の時に被っている亀の甲羅のようなものは何という名前のものですか?
985日本@名無史さん:2007/06/28(木) 04:27:27
陣笠
986日本@名無史さん:2007/06/28(木) 04:37:30
>>976 征夷大将軍と関白って地位で言えばどっちが上なの?

関白が上位ですが時代によって若干の変更がある時があります。

例えば江戸時代初頭、1626年7月の後水尾天皇の二条行幸のために上洛して駆けつけた
日の出の勢いの3代将軍・徳川家光の参内では天皇に列座した席次は、

家光---関白---左(右)大臣---内大臣    の順で次席。本来は将軍より上の関白や左(右)大臣を押しのけています。


逆に1863年3月に奉勅攘夷の勅命を受けるため上洛し参内した14代将軍・徳川家茂の天皇に対する列席は

関白---左(右)大臣---内大臣---家茂   の順で内大臣より下のポジションで
国是会議が行われるなど、幕府開闢当初の力や求心力の低下なんかで関白より偉そうに扱われたり扱われなかったりです。
987日本@名無史さん:2007/06/28(木) 05:34:53
「地位」なんて漠然とし過ぎてて答えようがない気もするな。
「席次はどちらが上ですか?」ならともかく。
988日本@名無史さん:2007/06/28(木) 09:48:25
徳川吉宗が江戸下向したときの道順をおしえてください。
989日本@名無史さん:2007/06/28(木) 09:56:44
>>987
二条行幸のときの徳川家光の官位は、従一位
そのときの関白・近衛信尋も、従一位

1863年の徳川家茂の官位は正二位
関白・鷹司輔煕は従一位。

単に官位の順ではなかったの?
990日本@名無史さん:2007/06/28(木) 10:01:23
1863年の左大臣・二条斉敬は従一位、内大臣・徳大寺公純も従一位だ。
991日本@名無史さん:2007/06/28(木) 11:32:07
>>989
だから席次や官位ならそれでいいんじゃない?
それすなわち「地位」ではないってだけで。
992日本@名無史さん:2007/06/28(木) 15:19:53
官職にある人の地位を数値化したものが、官位だ。
だから、従一位が正二位より地位が上なのは明白じゃんよ。
993日本@名無史さん:2007/06/28(木) 18:49:19
日本史もう一度勉強し直したらいいよ
994日本@名無史さん:2007/06/28(木) 19:43:55
大将は中将より上だ。

実質的に現場の中将(師団長)より大本営派遣の参謀(中佐くらい)の方が
いばってたりすることもあるがやはり階級でえらさは決まる。

官位も同じことだ。
995日本@名無史さん:2007/06/28(木) 19:49:43
はいはいよかったでちゅねー
996日本@名無史さん:2007/06/28(木) 19:50:35
んなことない。
「えらさ」ってなんだい?
どっちが頭を下げるか否かみたいな?

だったら位階も官職も遥か彼方上の公卿に対して
頭も下げず、槍も下ろさず擦れ違った所司代勤務の旗本はどう捉える?

律令制度が機能してた時代ならともかく>>992のような単純な論理で以って
地位を論ずるのは愚の骨頂。
数字上の地位を語るならそもそも話題にならない話題だ。

997日本@名無史さん:2007/06/28(木) 22:07:11
 
998日本@名無史さん:2007/06/28(木) 22:10:48
 
999日本@名無史さん:2007/06/28(木) 22:14:57
 
1000日本@名無史さん:2007/06/28(木) 22:16:02
 
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