【初心者】スレッド立てる前に質問をPart19【歓迎】
>>939 県、藩を地域を区分する呼称と捉えるのか、
中央に対する自治組織と考えるかで「正解」が違うような気がします。
自治組織としての性格に重点を置くのであれば中世には、
近代の「県」制とは規模が違いますが、
基礎的集落を一構成単位とする連合的自治組織として、
「惣」とか「郷」と言うものががありました。
当然、幕府や朝廷との間には「国司」「守護」「地頭」などの階層が存在しますので、
そちらを自治的組織と見ることもできます。
ただし、江戸時代にはこの自治権もかなり形骸化しており、
大名や旗本などの領主層が、その領地を支配する地方権力と言えると思います。
>>950 元々の設問を正確に写していないだけかも知れないけど、その設問はちょっと変ですな。
955 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 07:30:33
>>949 その三方の井伊伯爵の名前を教えて頂けませんか?
この話は確か昭和3〜5年頃に刊行された古書で読んだ記憶がありますので
該当する人物が判明するかと存じます故
>>955 直憲(直弼次男)─直忠─直愛 の三代だけ。
もちろん、旧彦根藩主家。
957 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 14:39:42
>>956 おおきに有り難うさんどっせ。
けど、そのうちの何方どすやろ?
アテには検討もつきまへんのどすねん。
堪忍どっせ〜
958 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 20:51:48
wikiの「和田惟政」の項目に
「惟政はキリスト教徒で、部下の高山右近にも強い影響を与えて入信させた」とあるんですが
惟政が大変な「キリスト教保護者」で、フロイスの受けもよく、布教の許可に積極的であった、という事実はあるのですが
洗礼してクリスチャンネームをもらったとか、個人的にキリスト教に入信したとかいう記述はみつかりません。
「キリスト教に理解があった」と「教徒(信者)であった」とでは意味が違うと思うのですが、実際に「教徒」であった記述って
どこかにあるのでしょうか?
また、wikiの「忍者」の項目にも「和田惟政」の名があるのですが、
彼と忍者の接点といえば、惟政が甲賀の豪族出身ってだけで、特に忍者に関わるエピソードとか
服部半蔵みたいに、実際は忍者じゃないけど、講談や物語でイメージが定着してしまっているとか
そういうもんも無さそうですし、具体的に惟政と忍者を結ぶエピソードって何かあったのでしょうか?
わかる人いたら教えてください。
959 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 21:06:43
菅原道真の、方略試(200年間でわずか65人の合格者)合格というのが、
秀才としての分かりやすい説明でよく出てきますが
その試験の作成者側(もっと優秀と思われる)があまり知られてない
のはなぜですか。
>>960 ですよね・・・洗礼を受けていないのは知っています。
あくまでフロイスサイドから「キリスト教の庇護者」として称えられているだけで
惟政そのものが、高山右近父子のように、キリスト教に熱心であった、というわけではないですよね?
962 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:40:28
元興寺薬師如来像の正面からの画像ってないですか?
イメージ検索はしたんですけど出てこなくて・・・
>>952 答がわかりました
自分の記憶が曖昧だったのがよくなかったです
↓
行政単位として『群』というのが改新の詔ではつかわれていたが、藤原京跡から発見された木簡の研究などから、大宝令施行前には『』の漢字が使われていた。
時代が記憶よりかなり昔でした…
答は『評』こおり
でした。
皆様助言ありがとうございました。
965 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 02:42:08
古代の天皇を見ると、ありえないくらい身内での結婚がおおいのですが・・・
血の濃い近親相姦で、俗に言う未熟児が生まれてそうなんですが、実際のところ古代の天皇はどうだったのでしょうか
966 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 02:50:58
誰かスレ立てお願いしたいのですがm(__)m
【スレタイ】
石高ってなんなの?
【内容】
なんなの?
967 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 09:15:46
>>964 この板のウィキスレに振ってもいいのでは?
>>965 まず近親婚による新生児への影響に関する科学的根拠を証明しないとね。
970 :
962:2007/08/04(土) 13:36:29
ありがとうございます
大きい画像はないですか?
>>968 あなたでもいいです
立ててもらえないでしょうか?
972 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 22:56:23
広隆寺半跏思惟像と広隆寺弥勒菩薩像って一緒ですか?
弥勒菩薩が半跏思惟の姿をしている。
974 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 23:28:46
大学入試ではどっちでもいいんでしょうか?
975 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 09:53:06
地侍といったら、戦のときは平侍=騎士くらいの格式になると思ってたけど、
実際には足軽=歩卒レベルの扱いなの?
976 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 14:19:41
977 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 15:38:57
>>976に補足すると、弥勒菩薩は像のモデルの名前、半跏思惟は片足を組んで物思いに耽ってるポーズの名称。
978 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 18:11:15
979 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:39:50
戦国時代に朝廷の官位任命権があったのは誰なんでしょうか?
天皇なのか関白なのかなどと理由付きでお答え頂ければとても嬉しく思います。
980 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:05:57
和牛について質問だけど牛肉を食べるようになったのは明治からだそうですが
一般庶民も明治大正や昭和初期くらいには食べてたのでしょうか?
また食用の牛は儲かると思って農家から食用の牛を飼育する職業に変えた人って
昭和初期くらいにはいたのかな?
981 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:06:35
982 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:11:57
>>978 覚えろ、ほら。
広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
・・・
ほうら、もう頭から離れない・・・
>>980 江戸時代は牛は農耕用。歳やけがで農耕に使えなくなったら、
皮や肉を利用はしていたが、一般には食用にしていない。鳥、鹿、
ウサギ、猪、熊などは食べている。
明治から大正にかけて、東京など都市部を中心に西洋人向けに
牛肉を出す店や牛鍋屋ができるが、女子供が食べるものではない。
大正から昭和にかけて、東京の洋食店や牛鍋屋で修行した者や
軍隊生活で洋食に触れた者から地方にも洋食店ができはじめる。
映画などの娯楽や鉄道と百貨店とともに、余裕のある家庭では
休日に外食を楽しむこともはじまる。牛肉は具材として使われる程度。
昭和初期、商店街に肉屋が出始め正月や来客時など特別なときの
家庭料理として肉を使うこともあったようだ。うちのじーさんは
地方都市の公務員だったが、ボーナスが出たとき一包の牛肉を
買ってきて家族ですき焼きをしたそうだ。量は微々たるもの。
当時も牛は農耕が中心だから、食用牛農家として本格的に始めた
ところはあまりなかったのではなかろうか。
984 :
979:2007/08/06(月) 03:35:54
具体的に誰なんですかね?その時に天皇の許可は必要?
985 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 07:38:29
>>980 >>983 明治のごく初期に東京近辺には牛肉・牛乳用に牛を飼うことが始まっている。
(富国強兵のための食生活の改善とか、皇室での西洋風の食事で利用するのにも必要なため政府も乳牛・肉牛の生産を奨励していた)
数十軒ある牧場の番付なんかも売り出されていた。
今年の春ころNHKの番組(西洋料理の歴史の紹介)でやってました。
西南戦争(明治10年)では、官軍が牛肉を食料として大量に利用していたけど、その肉はわざわざ福岡の久留米あたりで買い付けていました。
(今年田原坂であったイベントで紹介された史料にあった)
つまり、この頃になると九州のそこそこの規模の都市周辺であれば数万人の軍隊で消費するだけの牛肉を確保できるだけの飼育がされていたのではないかと。
鶏や卵、野菜などは田原坂近くの農村で徴発したり買っていたようなので、牛肉は地元だけでは確保出来なかったと思われます。
地元民が肉うどん屋を開いて、戦見物に来た人間相手に商売していたという記録もある。だから庶民の肉食への抵抗感はそれほどなかったのでは。
この肉が牛なのか鶏あたりなのかは聞かなかったので不明。
質問です。
時代劇で、悪いお偉いさんが顔を隠す時に被る頭巾は何というのですか?
>>990 レスアンカーが違ってるみたいだけど、そういうタイプなの?
>>987 すみません、やっと思い出した。
「山岡頭巾」といいます(汗
994 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 23:21:28
>>882 幕府が朝廷に代わって元号決定権を獲得を望んでいたとしたら、せっかくの幕府主導による元号を辛酉革命説如きで改元を許すとは思えないが。
995 :
ここでいいんじゃない?:2007/08/06(月) 23:28:27
996 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 23:29:29
997 :
994:2007/08/06(月) 23:36:58
あと、ウィキの寛永の項目を見ても、「甲子革令」は名目は実際は「将軍代始改元」と書かれているから、
秀忠→家光の将軍交代がなければ、甲子革令もやる気がなかった可能性もあるとも解釈できるな。
朝廷は甲子革令だと言い張っていたが、実際には幕府の圧迫に負けての将軍代始改元であったと。
998 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 23:37:39
うめ
999 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 23:40:51
だえき
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