日本語は列島韓国語だった!!

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329日本@名無史さん
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檀君神話
(だんくんしんわ)
古朝鮮の建国神話。天孫の檀君が古朝鮮を開き、その始祖になったというもの。『三国
遺事{さんごくいじ}』(紀異巻1)によると、天帝桓因{かんいん}の子桓雄{かんゆう}は、
天符印{てんぷいん}3個を父より授けられ、徒3000を率いて太伯{たいはく}山頂の神檀樹
{しんだんじゅ}という神木の下に降臨した。そして洞穴にいた虎{とら}と熊{くま}が人
間に化すことを祈っていたので、蓬{よもぎ}と蒜{にんにく}を食べて忌籠{いみごも}る
よう告げると、熊だけが女となり(熊女{ゆうじょ})、桓雄と婚して檀君を生んだ。檀
君は平城に都を開き、1500年の間国を統治したという。この神話の前半の部分は、日本
の天孫降臨神話に対応するものである。また、この神話のおもな登場人物である桓雄、
虎、熊はそれぞれ主権、軍事、豊穣{ほうじょう}の機能を代表するもので、東アジアに
おけるインド・ヨーロッパ諸族神話的な社会的三機能体系の一例である。他方、檀君神
話でことに興味深いのは熊と虎の問題であり、熊女の忌籠りは巫女{みこ}の成巫{せい
ふ}過程に比例するものである。さらにこの神話は、北方ユーラシアの熊信仰と深い関係
があり、ツングース系諸族、ことにアムールランドのツングース人の間に普遍的に分布
している熊祖神話や、熊や虎と人間の女との交婚譚{たん}ときわめて深い親縁関係を示
し、その一異伝と考えられる。したがって、これは朝鮮文化とツングース文化との密接
な関係を物語っている。また歴史的にみると、支配者層に支持された箕子{きし}神話に
対し、檀君神話は13世紀以降モンゴルなどの侵入に対する民衆の義兵闘争を契機として
広まった、朝鮮の被支配階級の民族主義的神話である。
330日本@名無史さん:2005/07/29(金) 01:58:08
檀君神話がいつ頃成立したのかも知らない無学な朝鮮人が、
おのれ自身の無知を晒しながら吠えてるようだな。
331日本@名無史さん:2005/07/29(金) 01:58:11
大国主命
(おおくにぬしのみこと)
出雲国造{いずものくにのみやつこ}の祖神。出雲{いずも}大社の祭神。大穴牟遅神{おお
なむちのかみ}(大己貴神)、葦原色許男神{あしはらのしこおのかみ}、八千矛神{やち
ほこのかみ}、宇都志国玉神{うつしくにだまのかみ}などの別名がある。根{ね}の堅州国
{かたすくに}(死者の国)の須勢理毘売{すせりひめ}ほか、八上比売{やがみひめ}、沼
河比売{ぬなかわひめ}など多くの女性を妻とした。
 記紀神話のなかでもっとも親しまれている神で、その代表的な話が「因幡{いなば}の
白兎{うさぎ}」である。兄の八十神{やそがみ}たちが、八上比売に求婚するため旅立っ
たとき、一行の従者として従った大国主命は、だました鰐{わに}に皮をはがれて苦しん
でいた白兎に、真水で体を洗い、ガマ(蒲)の花粉の上に転がっているよう教えて治し
てやる。その白兎が大国主命に、あなたは八上比売の心をつかむだろうと予言したため、
八十神たちは大いに怒って、大国主命を手間{てま}の山の麓{ふもと}で焼き殺してしま
う。しかし、貝の粉を汁{しる}で溶いたものを塗って復活した。母の教えにより根の堅
州国へいった大国主命は、須勢理毘売と結婚して蛇の比礼{ひれ}などをもらう。さらに
生大刀{いくたち}、生弓矢{いくゆみや}、天詔琴{あめののりごと}の三つの宝を手に入
れ、地上の国へ帰って八十神たちを滅ぼしたのち、少名毘古那神{すくなびこなのかみ}
の協力を得て国造りを始める。少名毘古那神が中途で去ってからは、大物主神{おおもの
ぬしのかみ}の助けを借りて国造りを完成した。
332日本@名無史さん:2005/07/29(金) 01:58:57
376の続き
そののち、天照大神{あまてらすおおみ
かみ}の命令で、天忍穂耳命{あめのおしほみみのみこと}が葦原中国{あしはらのなかつ
くに}(葦原の国)を治めるために高天原{たかまがはら}から降{くだ}ったとき、大国主
命は子供の事代主神{ことしろぬしのかみ}や建御名方神{たけみなかたのかみ}と相談し
て、自分の御殿を天つ神の御子のものと同じようにつくってもらうということを条件に
国譲りをした(古事記)。『日本書紀』には、国造りや国譲りの話はあるが、因幡の白
兎などの話は欠いている。
 さて、高天原が大和{やまと}朝廷を意味するのであれば、それに国譲りをした大国主
命は、出雲の支配者であったことになる。したがって、大国主命が八十神たちを滅ぼし
て国造りをしたということは、つまり諸豪族を征討して出雲の支配者に納まったと同義
に解釈できるであろう。古代においては、王は神の体現者でもあった。国を造った大国
主命を、神の側からみれば、まさに創造神である。『出雲国風土記{ふどき}』などをみ
ると、?{すき}で土を掘り起こすようにして国をつくったとある。『播磨{はりま}国風土
記』などでは農業神ともされている。また、因幡の白兎や根の堅州国訪問の話にみられ
るように、彼は単に政治的な王であるばかりでなく、巫医{ふい}的な要素をもあわせも
っていた。なお、因幡の白兎に似た話はインドネシアなどにもあるため、南方から伝播
{でんぱ}し、大国主命の神話に結び付いて定着したともいわれる。
333日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:00:32
大国主神
おおくにぬしのかみ
[オオクニヌシ物語の大要][オオクニヌシ像の変遷]
⇒関連項目
大国主命(みこと)ともいう。日本神話にあらわれる神の名。記紀の神話に,葦原中国
(あしはらのなかつくに)の国作りを行い,国土を高天原(たかまがはら)の神に国譲
りした神として語られている。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の5世の孫(《古事記》)ま
たは子(《日本書紀》)とされる。名義は大いなる国主の意で,天津神(あまつかみ)(高
天原の神々)の主神たる天照大神(あまてらすおおかみ)に対して国津神(くにつかみ)
(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす。大国主にはなお大己貴命(おおなむちのみこ
と),葦原醜男(あしはらのしこお),八千矛神(やちほこのかみ),顕国玉神(うつ
しくにたまのかみ)などの別名がある。これはこの神が多くの神格の集成・統合として
成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むも
のとなっている。ただ多くの別名のうちオオクニヌシの原型をなすのはオオナムチであ
る。
334日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:00:45
↑なんだか頭イカレテルね、もう氏んじゃえよw↓
335日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:01:13
[オオクニヌシ物語の大要] 《古事記》のオオクニヌシを主人公とする物語は,(1)オ
オナムチが種々の苦難,試練を克服して大いなる国主となる物語,(2)ヤチホコの神の妻
問い物語,(3)少名毘古那神(すくなびこなのかみ)(少彦名命)との協力による国作り物
語,(4)葦原中国の主として天津神に国譲りする話の4部分からなる。(1)オオナムチには
多くの兄(八十神(やそがみ))がいたが,1日かれらは因幡(いなば)の八上比売(やか
みひめ)のもとへ求婚に出かける。途中赤裸(あかはだ)の兎と出会い,八十神が兎を
いっそう苦しめたのに対しオオナムチは懇切に療法を教えて救い,よって袋を背負い従
者の身なりをした末弟のオオナムチがヤカミヒメを得ることとなった。それを怒った八
十神はオオナムチを欺いて二度にわたり殺すが,そのつど母神に助けられて蘇生し,祖
神スサノオのいる根(ね)の国へ逃れる。根の国ではスサノオから課された蛇の室(む
ろ),むかで・蜂の室,野焼きなどの難題を解決したことにより,スサノオの娘須勢理
毘売命(すせりびめのみこと)を妻となし,また宝器〈生大刀(いくたち)生弓矢(い
くゆみや)〉を授かり,それをもって八十神を追い払い初めて国の主となったという。
336日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:01:45
上の話には動物報恩譚,末子成功譚,難題婿といった説話の型がふまれており,民話
的な興趣があるが,根幹は若者に試練を課した古代成年式に基づく王の即位式の説話化
と見ることができる。兎を救った話は,民衆のために医療,禁厭(まじない)の方法を
定めた(《日本書紀》)とあることの本縁譚で,もって王者の徳“慈愛”を語ったのであ
ろう。(2)はヤチホコの神として越(こし)の国へ妻問いに赴く話だが,前半は越の沼河
比売(ぬなかわひめ)との,後半は嫡后(おおぎさき)スセリビメとの長歌の唱和の体
をとる。歌はそれぞれ20行前後の長さをもち,その身体行動に即した演劇的表現,性的
表現の直截性,全編にわたる滑稽性において古代歌謡の特色をもっともよく伝えている。
これらの歌謡はおそらく宮廷の饗宴で俳優により演ぜられたもので,ヤチホコという神
名は陽根の象徴と見られる。王者の活力の一端を示す挿話としてオオクニヌシの物語に
とりこまれたのであろう。(3)においてオオナムチは海の彼方より漂着した小人神スクナ
ビコナと国作りを行う。この大と小との対照的組合せを示す2神は,《風土記》《万葉
集》などに地方の山川を創造・命名し,また農業の本を開いた神として伝承されている。
337日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:06:37
朝鮮半島における檀君神話の成立は12〜13世紀ごろとされている。
日本の天孫降臨に似た記述があるとするなら、檀君神話よりも500年以上昔に存在した日本神話を模倣したとしか考えられない。
338日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:06:47
記紀の国作り物語はそうした在地神話の宮廷的・中央的集約とみなされる。ただしスク
ナビコナは国作りなかばにして常世(とこよ)の国へ去り,かわってあらわれた大物主
神(おおものぬしのかみ)がオオクニヌシとともに国作りを完成させる。これはオオナ
ムチがオオクニヌシに統合・吸収される過程で生じた政治的付加といえる。(4)かくして
葦原中国の主となったオオクニヌシに対し高天原より国土を天津神の子に譲れとの交渉
がはじまる。交渉は両三度に及ぶが,ここでのオオクニヌシは生彩のない受動的な神に
すぎず,使神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)に対して事代主神(ことしろぬしのか
み),建御名方神(たけみなかたのかみ)(ともにオオクニヌシの子)ともども屈服し,
国譲りのことが定まる。その際の条件にオオクニヌシは壮大な社殿に自分をまつること
を請いそこに退隠することになったが,これは出雲大社の起源を語ったものである。
[オオクニヌシ像の変遷] オオクニヌシの祖型としてのオオナムチはスクナビコナと
組みをなして記紀以外の文献,伝承にもっとも多く語られた神である。そこでは《出雲
国風土記》に見える〈五百(いお)つ■(すき)の■猶(なお)取り取らして天の下造
らしし大穴持(おおなもち)の命〉との呼び方や,《播磨国風土記》に伝える2神の我慢
くらべ譚,オオナムチが〈屎(くそ)まらずして〉スクナビコナが赤土の重荷を背負っ
てどこまで歩き続けられるかを競った話のような土着臭の強い神としてあらわれ,記紀
の時代以後も諸書に伝承の痕跡を残している。
339日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:07:28
オオナムチあるいはオオナモチの名義は
,〈大穴持〉の文字よりすれば洞窟にいる神を意味し,その在地性に即した名といえよ
う。なお平安末期には大黒天(だいこくてん)を食厨の神として寺院の庫裏にまつる風
が生じており,近世期には七福神のひとつとして流布されるが,その過程でオオクニヌ
シは大黒天と習合されるにいたった。〈大国〉あるいは〈大己貴〉の音をもって通わせ
たといわれるが,大黒天像の袋を背負い米俵をふまえた姿はなお古代の農神の面影を伝
えており,西日本において大黒天が〈田の神〉として信仰されたのも同様の理由による
と思われる。またオオクニヌシは現在も“縁結び”の神とされるが,これは記紀のオオ
クニヌシが子福者であり,〈其の子凡て百八十一神ます〉(《日本書紀》)とされたこと
の世俗化であろう。
340日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:15:51
白山信仰
(はくさんしんこう)
越前{えちぜん}(福井県)、加賀{かが}(石川県)、美濃{みの}(岐阜県)
三国にまたがってそびえ立つ白山を対象とする信仰。白山が信仰の対象として
仰がれるようになったのは、大化{たいか}(645〜650)前代のことであろう。
つまり白山信仰は、白山に源を発する九頭竜{くずりゆう}川(福井県)、
手取{てどり}川(石川県)、長良{ながら}川(岐阜県)流域の人々の間から、
また相前後して日本海で白山を航路案内とする漁民の間から自然に発生したもの
と考えられる。
 ついで、奈良から平安時代にかけて全国的に山岳信仰が盛んとなるなかで、
白山にも717年(養老1)越{こし}の大徳といわれた泰澄大師{たいちようだいし}
が初めて登拝し(『泰澄和尚{かしよう}伝記』)、これ以後登山口には
修験{しゆげん}の道場が置かれ、ここを中心に白山信仰は全国に流布し、
新たな展開をみせた。その道場とは、前記三国にそれぞれ設けられ、
「三箇馬場{さんこのばんば}」と総称される越前馬場(平泉寺{へいせんじ}
白山神社)、加賀馬場(白山寺白山比?{しらやまひめ}神社)、美濃馬場
(長滝{ながたき}寺白山神社)のことで、最盛時には多数の社僧を擁し大勢力
を誇った。白山信仰の一端をうかがい知る資料に『白山曼荼羅{まんだら}』
『白山講式{こうしき}』『白山牛王{ごおう}』などがある。
341日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:18:01
東山道
とうさんどう
古代の地方行政区画の七道(五畿七道)の一つ。本州の中央から東北にわたる
地域。《西宮記》では〈ヤマノミチ〉〈東ノミチ〉などと読んでいる。
《日本書紀》崇峻紀にみえる東山道は後の追記。ただ672年(天武1)の
壬申の乱の記事に東山軍の名がみえ,685年に東山使者として石川虫名
派遣がみえるので,東山道の成立を天武朝末年とみることができよう。
《延喜式》では近江,美濃,飛騨,信濃,上野,下野,陸奥,出羽の8国
が所属するが,所属国はたびたび変遷を示した。出羽は712年(和銅5)に
北陸道の越後から分立しこの道所属となった。721年(養老5)信濃から
諏方が分立したが,731年(天平3)また併合された。また718年(養老2)
陸奥と常陸の数郡を割いて石城(いわき),石背(いわしろ)の2国が
設けられたが,721年ころ廃止された。さらに武蔵は771年(宝亀2)東海道
に所属変更となった。北辺の防衛で重要な地域であった。なお駅制の官道
としての東山道は〈なかつみち〉ともよばれ各駅に馬10匹をおく中路と
された。
672年(天武1)672年(天武1)672年(天武1)672年(天武1)672年(天武1) 
672年(天武1)672年(天武1)672年(天武1)672年(天武1)672年(天武1)
342日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:18:59
坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ
758‐811(天平宝字2‐弘仁2)
[田村麻呂をめぐる伝承]
平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に
渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞
(ばんきよ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で,武術に秀でていた
。田村麻呂も〈赤面黄鬚,勇力人に過ぐ,将帥の量あり〉といわれた。
785年(延暦4)従五位下,787年近衛少将となり,以後越後守などを兼任し
ていたが,791年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに加わった。数年
にわたる戦闘で功をあげ,795年従四位下,翌年陸奥出羽按察使(あぜち)
兼陸奥守,さらに鎮守府将軍を経て,797年征夷大将軍に任じられた。
797年征夷大将軍に任じられた。
797年797年797年797年797年797年797年797年
797年797年797年797年797年797年797年797年
797年797年797年797年797年797年797年797年
343日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:28:12
延々とコピペしてる奴は何を主張したいのかな?
344日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:39:06
日本神話では、いわゆる「天孫{てんそん}民族」が新しくきて、
国土を統一したように伝えている。それを歴史に読み替えて、
天孫民族が日本人、先住民族がエゾですなわちアイヌという理論に
発展した。『類聚国史{るいじゆうこくし}』では、エゾを「風俗部」
に数え、これを一種の「国内殊俗{しゆぞく}」すなわち「国内異民族」
扱いしている。歴史的経過に照らせば、北東日本に拠った「国内異民族」
にあたるものがアイヌであることは、まことに自然である。だから、
エゾをアイヌと考えることは、十分理由のあることである。しかし、
これは、蝦夷をエゾと読むようになった平安中期以降では無条件に
正しいのであるが、蝦夷をエミシ(エビス)とよんでいた古代においては、
これをすぐにアイヌと置き換えるだけの十分な理由がない。古代エゾ観念
は人種観念でないからである。それを、エミシ時代の古代エゾをも含めて、
通して、アイヌか日本人かという二者択一の人種論でとらえようとしてき
たところに、この議論の誤りがあった。
345日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:41:47
初めエゾという呼称はなかった。エミシ(エビス)であった。
それをすべてエゾと考えてきたところに問題があった。エミシは
もともと「勇者」の意味である。人名にエミシがあるのはこの意味
である。他方、この勇者は、神武{じんむ}歌謡以来、「東の抵抗する勇者」
として意識されるに至っている。「エミシを一人{ひたり}、百{もも}な人
 人はいへども 手向ひもせず」が、皇師東征の歌であることに注意すべき
である。こうしてエミシは「あずまびと」への賤称{せんしよう}ということ
になる。「あらぶる人たち」「まつろわぬ者たち」というのがその性格規定
である。「夷」はヒナとも読んだが、「あずま」もヒナ=辺鄙{へんぴ}の
意味であった。エミシはヒナ人である。律令{りつりょう}時代に彼らが無法、
無道とされるのもこの意味である。すなわち歴史上のエゾ観念は、政治的、
文化的な蛮族観念である。人種の違いに基づく異民族観念ではないのである。
古代国家の統一に抵抗し、その支配と文化を受け入れないゆえに、体制側か
らすれば、未開、野蛮な人たち、その意味での政治的、文化的異民族であっ
たのである。人種上の異民族であったかどうかは、別途の考察を要する。
346日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:46:19
瓊瓊杵尊
ににぎのみこと
⇒関連項目
日本神話にみえる神の名。《古事記》では邇邇芸命と記す。種々の異なった名称をもつ
が基本はホノニニギノミコト。〈ホ〉は稲穂,ニニギはニギヤカ,ニギワウの〈ニギ〉
を重ねた語で,稲穂が豊かに実ることを予祝してつけた名称。《古事記》によると,大
国主の国譲りを受けた天照大神(あまてらすおおかみ)は天忍穂耳(あめのおしほみ
み)命を高天原(たかまがはら)から降臨させようとするが,オシホミミがその用意を
しているうちに子が生まれる。いわゆる〈天孫〉の誕生で,これがニニギノミコトであ
る。そこでアマテラスはこのニニギを天降(あまくだ)らせることになる(天孫降臨神
話)。《日本書紀》の一書では,ニニギはオシホミミが天降る途中の天空で生まれ,オシ
ホミミに代わって降ったとある。ニニギが降臨することになったのは,王たる者は新た
に生まれる者でなくてはならないという観念の表れであった。このことと関連するのが
《日本書紀》本文にある,高皇産霊(たかみむすひ)尊がニニギを真床追衾(まどこお
うふすま)なるもので覆って天降らせたという記述である。真床追衾は大嘗祭(だいじ
ようさい)の儀式で天皇がふす衾と関係する。宮廷では11月の卯の日に大嘗殿で新しい
天子となるための秘儀がとり行われるが,その際に新王は〈天の羽衣〉なるものを着て
湯浴みした後に,悠紀(ゆき)・主基(すき)正殿で新穀を食して神座に設けた衾(寝
具)にふすという(《西宮記》《江家次第》)。これは天の羽衣を着て天上の身分となった
王が羊膜に包まれた嬰児として再誕し地上に来臨することの模擬行為と考えられる。ニ
ニギが生まれたての子として,また衾にくるまって降臨したのはこうした儀礼の神話的
表現であった。ニニギは新しい王たるものの神話的原型であり,この新王の誕生ととも
に,それまで未開の地であった葦原中国(あしはらのなかつくに)は天孫の統治する地
にふさわしい五穀豊穣の〈水穂国(みずほのくに)〉へと呪的に転化される。ホノニニ
ギノミコトとは,穀霊を体現して水穂国を支配する王としての名称であり,その降臨し
た地は日向(ひむか)の〈高千穂〉であったとされる。
347日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:48:36
ジサクジエーン♪ワールド(・∀・)へようこそ!
348日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:53:07
ヤマタノオロチ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/min/1002290828/l50
日本人ってなぜ白色が好き?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/min/1004784053/l50
■出雲神話■
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/min/993006016/l50
【DNA】西日本は中国系で東日本は半島系か
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1114947979/l50
邪馬台国は九州であるという前提で話を進めるスレ!
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1120434956/l50
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.3【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1120222213/l50
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか16)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1119925933/l50
百済か新羅か?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1086007875/l50
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART19
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1120663124/l50
天皇家て何処から来たの?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1117987687/l50
日本語は列島韓国語だった!!
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1120914010/l50
邪馬台国論争に終止符をうつスレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1105023539/l50
日本の支配階層は奈良百済人である!
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1119646322/l50
百済か新羅か?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1086007875/l50
【毛野】関東に大王あり【武蔵】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1105834872/l50
349日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:58:24
皇国史観
こうこくしかん
近代日本史学史上の一潮流。日本の歴史を〈国体〉の顕現・発展としてとらえる歴史観
で,1930年代半ばから敗戦に至る時期に確立,全盛期をもつ。この史観は次の三つの内
容をその特徴としている。(1)日本は神国であり,皇祖天照大神の神勅(〈天壌無窮の神
勅〉)を奉じ,〈三種の神器〉を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとする,
天皇の神性とその統治の正当性,永遠性の主張。(2)日本国民は臣民として,古来より忠
孝の美徳をもって天皇に仕え,国運の発展に努めてきた,とする主張。(3)こうした国柄
(〈国体〉)の精華は,日本だけにとどめておくのではなく,全世界にあまねく及ぼされ
なければならない(〈八紘一宇〉),という主張である。
350日本@名無史さん:2005/07/29(金) 03:00:34
瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと)
天照大神{あまてらすおおみかみ}の子の天忍穂耳尊{あめのおしほみみ
のみこと}が高皇産霊神{たかみむすびのかみ}の女{むすめ}である
栲幡千千姫{たくはたちぢひめ}(記、萬幡豊秋津師比売命{よろず
はたとよあきづしひめのみこと})をめとって生まれた子で、
稲穂の豊饒{ほうじよう}を示す穀霊神。天孫降臨神話、木花開耶姫
{このはなさくやひめ}の神話、火中出産神話の主人公だが、このうちで
木花開耶姫の神話は、降臨した尊を笠狭崎{かささのみさき}で迎えた
鹿葦津{かしつ}姫(吾田津姫{あたつひめ}ともいう)との聖婚のあと
に挿入した別話である。火中出産神話は、聖婚によってはらんだ
御子{みこ}を国神{くにつかみ}の子と疑われた鹿葦津姫が、
天神{あまつかみ}の子ならば災いなしと誓約{うけい}をたてて、
彦火火出見尊{ひこほほでみのみこと}(海幸{うみさち}・山幸{やまさち}
神話の主人公)以下の子を無戸室{うつむろ}の産屋{うぶや}を焼き火中
で出産する神話である。→天孫降臨 →木花開耶姫
351日本@名無史さん:2005/07/29(金) 03:03:19
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi2.html
倭征服の拠点・・
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/tripizumo9.html
朝鮮半島の新羅の古都・慶州を中心に分布しているとされ、新羅系のものとみられている。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/tripizumo.html
出雲新羅政権の野望・・初めてつくった国なので小さくつくったが、よその土地を縫いつけて大きくしよう。。。。

弥生人復元胸像
1世紀
土井ヶ浜遺跡出土人骨に基づく
国立科学博物館蔵

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_09_01.jpg
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_07_02.jpg
352日本@名無史さん:2005/07/29(金) 03:04:34
牛頭天王
(ごずてんのう)
素戔嗚尊{すさのおのみこと}の化身とされ、薬師如来{やくしにょらい}
を本地仏とする。武塔天神{むとうてんじん}、あるいは京都八坂{やさか}
神社(祇園{ぎおん}社)の祭神として祇園天神ともいう。平安時代から
行疫神として崇信され、祇園祭はこの神を祀{まつ}って疫病を鎮める
年中行事である。牛頭天王は、インドでは祇園精舎{しようじや}の守護神
であったが、わが国では、最初は播磨{はりま}国(兵庫県)明石{あかし}
浦に垂迹{すいじやく}、ついで広峰に移り、その後、京都東山瓜生
{うりゆう}山北白川東光寺へ、さらに清和{せいわ}天皇869年(貞観11)
東山の感神院に移ったとされ、それが現在の八坂神社である。
『蔵王陀羅尼経{ざおうだらにきよう}』には、この神が
「癘鬼{れいき}を縛撃{ばくげき}して疫難を禳除{じょうじょ}す」
とみえる。また『備後国風土記{びんごのくにふどき}』逸文には、
武塔天神が蘇民将来{そみんしょうらい}から受けた一宿一飯の恩に
報いるため除難の法を教えたとあり、これにちなみ、社寺では正月
に疫病除{よ}けの護符として蘇民将来札が出される。牛王{ごおう}
宝印も牛頭天王の護符で、祇園社から出ていた。→牛王宝印

牛頭馬頭ごずめず
ni■ t■u m■ t■u
⇒関連項目
牛頭は,梵語 go■■r■a,馬頭は a■va■■r■a の漢訳語。
地獄にいる牛頭人身,馬頭人身の獄卒をいう。牛頭馬面という
ことも多い。手に鉄叉を持って罪人を突いたり焼いたりする最下級
の冥卒である。また地獄に落ちて,牛あるいは馬の頭の形をしている
罪人をいうとする文献(《阿毘曇論》第八)もある。⇒牛頭天王   
353日本@名無史さん:2005/07/29(金) 03:11:13
新参者の足跡。。。
出雲族は関東へ

出雲の姓は関東の地名へ. 出雲古代史に詳しい朴(パクビョンシク)氏は、東部出雲の
人の姓を電話帳で調べ、最も多い姓を次の3群 ... まさに、出雲人の関東への移住は、
県名にまで及んでいたのである。 明治天皇が東京へ遷幸されたのち、最初に詣でたのは ...
www003.upp.so-net.ne.jp/kodaisi/kantou.htm - 12k - キャッシュ - 関連ページ

数々の朝鮮系神社、朝鮮由来の地名、高麗山、高麗川、高句麗国(神奈川、埼玉)、新羅国、朝鮮人の国

関西と関東の昔の関係は大和と新参朝鮮人か、、、、、
関西と関東の昔の関係は大和と新参朝鮮人か、、、、、
関西と関東の昔の関係は大和と新参朝鮮人か、、、、、
関西と関東の昔の関係は大和と新参朝鮮人か、、、、、
関西と関東の昔の関係は大和と新参朝鮮人か、、、、、
関西と関東の昔の関係は大和と新参朝鮮人か、、、、、
354日本@名無史さん:2005/07/29(金) 03:12:25
天孫族天下りのルートw
92 :通りすがりの医者ですが :03/02/21 14:02
平たく言うと血液型をABOとかRHだけでなく、もっとこう徹底的に分類しまくった
というその世界では有名な調査があります。それによれば糸魚川あたりで関西人と
関東人がくっきり二分できたんですが、その際、関西圏中で出雲だけが完璧な関東
人型を示したんですね。

93 :通りすがりの医者ですが :03/02/21 14:07
中途半端に京都あたりでなく、神の国出雲が関東の飛び地であった
事実に、当時医学生だった私は太古のロマンに夢を馳せ、しばしうっとり
したものでした。

「東日本と西日本 」というスレが立ってますが、二度書くほどの中身でもないので
一応、こちらでご披露させていただきます。
失礼致しました。

94 :通りすがりの医者ですが :03/02/21 14:10
あ、自分の文章ながら、ひとつだけ
つっこませていただければ「関東が出雲の飛び地」なのかもね。

99 :通りすがりの医者ですが :03/02/24 09:41
でも今日はいいことありそうだから気を取り直して教えてあげよう。

オリジナルは北海道大学現第三内科(血液)の業績だけど、
ヒューマンヒストコンパーティビリティを語る上で学生の食いつきの
良い話なので、どこの医学部の授業でも必ず取り上げられてる話なんですね。
まわりで医者でも医学生でも捕まえてヒューマンヒストコンパーティビリティ
ってなに?って訊ねてみ。まともなやつなら先ず出雲の話、し始めるから。
355日本@名無史さん:2005/07/29(金) 03:16:32
天孫族の足跡 B44-DR13

国立科学博物館 日本人はるかな旅展 遺伝子によるルーツ研究
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-26.html
B44-DR13は韓国最大集団(日本では秋田〜新潟ラインに多いらしい。他HPより)

DNAでは西日本と中国との共通点が多く、東日本は朝鮮半島との共通点が多い

DNA全般で日本人のルーツを探る
356:2005/07/29(金) 03:31:26
ジサクジエーン♪ワールド(・∀・)へようこそ!
357日本@名無史さん:2005/07/29(金) 08:23:41
わが民族は稚拙は倭民族にオナニーの仕方をおしえてあげました
〜あ〜あげました、あげました。

真島さまこんど、あげましたサンバの振り付けでも考えてくらはい
358ある霊能者に取材したところ:2005/07/29(金) 09:40:17
任那日本府は実在したそうです。やはり古代に日本が朝鮮半島を治めていたという昔の教科書は正しかった
359日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:32:36
■ハングル板基本用語解説■其の14

(理由2) <<白丁(ペクチョン)>> 日韓併合されるまで朝鮮に存在していた被差別階級。在日=白丁とされる韓国では
現在でも在日は差別される。実際は全ての在日が白丁な訳ではないがその多くは朝鮮社会での被差別階級だった。朝鮮の身
分階級は大別して「良人(両班、中人等)」「賤人=奴隷」とあり、「賤人」のうち個人所有=民婢、公有=官婢と称した。
国家的奴隷制、贈り物・相続・売買され、殺生しても罪に問われなかった(←部落との違い)「白丁」は、これの更に下層
に奴隷以下の被差別民として位置づけられた。李朝時代に身分として固定され、柳細工の製造販売や屠畜などに従事、衣服
も指定され、居住地も制限され、目印として平壌笠と呼ばれる笠をかぶらねばならなかった。(コピペ)
(理由3) <<済州島出身者>> 白丁よりも済州島が多い。ソウル>地方>全羅道>白丁>済州島 済州島に対する差別
は酷く、完全な野蛮人扱い。済州島出身者との結婚となると、在日の間でさえ「血が汚れる」と一族が猛反対。
1948年、南朝鮮の単独選挙に反対する南朝鮮労働党が組織した済州島四・三蜂起が発生し、朝鮮戦争後の1950年代
半ばまで、弾圧とテロ、山岳ゲリラ活動が続き、のべ8万人の島民が殺されたとされている。今日でも、済州島は反中央の
気風と結びつけて語られることが多く、半島には済州島出身者への差別意識が残っていると論じられることも多い。
済州島は、民族的に陸(半島)と著しく異なり、倭人に近い。昔は独立国だったが、いつの頃か朝鮮に侵略されて現在に至
る。ただ、完全な支配となると意外と新しく、三別抄の乱後、元寇以後になるんじゃないかな。日本では、神功皇后が済州
島を征伐し、その時百済に与えたと伝えられてる。 (コピペ)

――戦後の補償と謝罪―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
戦後の補償と謝罪に関するデータ http://tenpura_c.tripod.co.jp/