【江上】騎馬民族説は今。。。vol.3【波夫】

このエントリーをはてなブックマークに追加
952日本@名無史さん:2005/12/24(土) 15:01:44
秋田の男鹿も能代平野の付近にある。
「能」ってどういう意味だろ。
これも無関係ではないかも、田代とか代(しろ)という地名は
九州に多いんだよね。なぜだろ。
953日本@名無史さん:2005/12/24(土) 15:32:59
アイヌ語で「ノ」は岬を意味します。
朝鮮語、中国語ではなんというのでしょうか
954日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:26:34
源義仲(1154〜1184)
 従五位下左馬頭・越後守(1183)→従四位下伊予守→征夷大将軍(1184)

源頼朝(1147〜1199)
 皇后宮少進(12歳)→正六位上右将監(13歳)→左兵衛尉上西門院蔵人→蔵人→従五位下
 右兵衛権佐→解官(13歳)→復従五位下 (1183、37歳)→正四位下(1184、38歳)→従二
 位(1185、39歳)→総追捕使→総守護総地頭(1185)→正二位(1189)→権大納言(1190、44
 歳)→右大将→辞権大納言・右大将(1190)←征夷大将軍(1192、46歳)
源頼家(1182〜1204)
 従五位上(1197)→右少将→讃岐権介→左中将(1199、18歳)→総守護(1199)→従三位左
 衛門督(1200)→従二位征夷大将軍(1202)
源実朝(1192〜1219)
 関西三八国地頭(1203)→征夷大将軍(1203)→→右兵衛佐→右少将→加賀介・右中将→権
 中納言・左中将(1216)→中納言→権大 納言・左大将(1218、27歳)→内 大臣→正二
 位右大臣(1219、28歳)
藤原頼経(1218〜1256)
 正五位下右少将・征夷大将軍(1226)→左中将(1230以前)→正二位権大納言(正二位は
 1244以前、27歳以前)
藤原頼嗣(1239〜1256)
 従五位上右少将・征夷大将軍(1244、5歳)→左中将→従三位(1251)
宗尊親王(1242〜1274)、親王(1244)→三品(11歳)→征夷大将軍(1252)→一品中務卿
惟康親王(1264〜1326)
 従四位下征夷大将軍(1266、3歳)→左中将(1266)→従三位(1270)→正二位権中納言・右
 大将(1287)→親王(1289、26歳)→二品 (1289以前)
久明親王(1276〜1328)
 親王(1289)→征夷大将軍(1289)→一品式部卿(式部卿は1308以前)
守邦親王(1301〜1333)、征夷大将軍(1308、7歳)→三品親王(1308)→二品(1317)
955日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:49:20
捏造マニアの魚羊人の言う事など、まともに受け取ってはいけない。
檀君の墓だとか、黒い山葡萄原人の化石とか。www

●朝鮮人の祖先『黒い山葡萄原人』は東アジア地域で一番最初の人類●

人類発祥の時から平壌を中心に大同江流域で朝鮮民族は代々暮らしてきたもので、
他のところから移り住んだものではないのです。

類人猿の次に朝鮮人の祖先『黒い山葡萄原人』が誕生しました。
彼らが作った石器や一緒に発掘された動物たちの化石を見ても、東アジア地域で
一番最初の人類である。
大小の土器を作って普及した才能ある人々でした。

最近発掘された化石によって、今までの説が事実と全く違うことを証明しました。


〜 朝鮮中央TV 2004年9月12日 〜
956日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:53:36
石器のねつ造から、es細胞のねつ造、
構造設計疑惑まで
あのミンジョクの癖なんかしら
957日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:56:27
白人ではこういうのは一切しないんだから、恥ずかしいよな。
958日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:59:18
でもその人骨の形質は絶対に言わないんだよな。

縄文人だからw
959白馬青牛:2005/12/24(土) 23:27:21
>>939
>3度目の論破へと?1度もわしを論破した事が無いんじゃがのう。
笑わすわい。ほんま東日本人は、虚勢を張る。半島の人達と似とるのう。
高橋氏のP237、238の引用。本は読んどる。向上心はあるのう。
>坂東武士から発生したのではない。じゃが、宮本常一氏が指摘した
習俗として、馬の使い方で荷をつける馬(牛)を人間が引っ張っていく。
その延長で人間が乗る場合も口取りがついたと。その傾向は西日本よりも
東日本の方が強い。西日本は、犂を引かせる傾向にある。そのことも考慮し
様々な現象から観とるんを、何で高橋氏の解釈に全面的に同意せにゃァ
いけんのか。わしゃは、あんたと違うて信仰形態で本を読んどらん。
高橋氏の都の武芸の伝統も、摂津、河内と都を同一視出来るかどうかも
疑問である。
大林氏の河内の西文氏(書氏)の中国文明と騎馬文化の担い手の側面、
5〜6世紀河内平野はわが国における馬文化の中心であったことや
藤原広嗣の乱の報で西文氏が騎兵として聖武天皇の護衛に当ったこと、
漢氏の牧畜民要素等わしはよう引用しとるが、大林氏の著書を読んで
言やあええのにのう。
田辺氏の側面は、>938にも水野氏の引用で書いたが、そもそも
田辺氏は上毛野と同族か異族か判断出来んのに、誤ったと言う認識を
勝手に決め付けるんは関東同族親方子型社会の隷属史観であろう。
面白いね。関東奴隷民根性は。
960日本@名無史さん:2005/12/25(日) 02:08:14
関東奴隷民族なんていってる段階で半分以上の人間は読まないだろう。
961日本@名無史さん:2005/12/25(日) 15:15:28
>>959
よーするに、捏造民族@魚羊人の戯言を間に受ける江波とかはキチガイ。
…ということだな。
962日本@名無史さん:2005/12/25(日) 15:26:30
江上って一応専門家だったんでしょ、この人の下には
最新の情報が入ってたんだろうから、もう少しマシな
理論を構築して欲しかったな。それとも間違いと知ってて
わざとこういう情報を流していたんだろうか?
この人の性格とか生い立ちとかが関係してるんだろうか?
963日本@名無史さん:2005/12/25(日) 17:07:25
騎馬民族説など学術的に全く根拠が無い。
そんな事が記された古文書や考古学的史料は、日・漢・鮮の何処にも無いのだ。

戦後、韓国と北鮮は、負け犬の遠吠え的ウリナラマンセー教育で国民を洗脳し、日本に与えた影響力を
大いに誇張して喧伝することによって、地に落ちた自尊心を回復しようとたくらんだのである。
(また、半島における中国の影響も、ほとんど無かったコトになっている。w)
それとは逆に日本では半島史研究が急速に衰退したので、連中のデタラメを無批判に信じ込む
反日ブサヨク教師・学者・マスコミが言いたい放題を繰り返していたのである。

イイ例が高松塚古墳の壁画だ。どう見ても漢人の風俗なのに、朝鮮文化だと騒いでいた。

ソウル・平壌を含む半島の主要地域は、B.C.108〜A.D.313まで400年間も漢人の植民地(楽浪郡
・帯方郡)で、それ以降も半島には漢人・楽浪文化→中国のコピーが現在まで続いている。
そして半島に、朝鮮(韓国)文化らしいものが芽生え始めたのが、新羅が半島南部を統一した、
7世紀後半以降である。

朝鮮文化が成立する前のハナシなのに、「これは朝鮮文化だ!」と喧伝するのは危痴害の戯言
以外の何ものでもない。

朝鮮人が「朝鮮文化を日本に教えてやった」言っているものは、すべて漢・楽浪文化だ。
ようするに、313年に楽浪郡が滅ぶと、漢人達が徐々に南下してきて半島南部や日本側に渡っ
て、その文化を授けたのである。
代表例が、日本に漢文を大系的に伝授した王仁博士で、同じ時代に百済も漢人に漢文を教授
されている。
964白木人:2005/12/25(日) 17:10:53
高句麗とは601年からいわば同盟関係にありなら、日本に高句麗の文化と人が大量に移住したかも
965日本@名無史さん:2005/12/25(日) 17:37:45
>まあ日本人には多かれ少なかれ朝鮮半島の血が流れているわけだが。

実はほとんど流れていない。
続日本紀によると、7C、百済滅亡で日本に来た百済人が3100人くらい。
高句麗滅亡で来た高句麗人が1800人くらい。
それらとは関係なく自主的に来た百済人や新羅人が数百人。
7Cに来た半島帰化人は全部合せて5000人くらい。

それ以前の帰化人が始まった5C、続く6Cに来た半島帰化人が合せて
2〜3000人くらい。

半島帰化人の総数は7〜8000人くらい。

古墳時代の日本人口が400万人くらいの時だから、
朝鮮半島の血など、日本人の血の僅か 0.2% ほどに過ぎない事が分かる。
966日本@名無史さん:2005/12/25(日) 18:00:15
>>963
その通り。

313年、楽浪帯方が滅んで、もと楽浪帯方の中国系は半島中に拡散していった。
392年、倭が百済加羅新羅を臣下に置いたのをきっかけに、
5Cの初め頃、倭に弓月君率いる中国系の秦氏が加羅から渡ってきた。

日本に織物、建築土木、鍛冶、須恵器などの中国文化の技術を伝えたのは
ほとんどこの秦氏である。

ただし、すべてが帰化した訳ではなく、技術を伝授すると数年で帰国した人も
多かったらしい。
967日本@名無史さん:2005/12/25(日) 19:14:09
江上って人間的にはどんな人だったんですか?
968日本@名無史さん:2005/12/25(日) 21:19:25
>倭が百済加羅新羅を臣下に置いたのをきっかけに

嘘は辞めようコピペ君
969白馬青牛:2005/12/26(月) 01:18:19
わしは、関東主義者の言にはあきれるが、梅棹忠夫氏の言われる
日本分割国家論者ではない。
http://inet.museum.kyoto-u.ac.jp/museumF/umesao/21c.html
間違うておったら、「世界都市関西」で検索せい。
大和国家が、東国家を見捨てるのは、如何なものか。
広島は、関東武士の血脈も多いので、心情的に東日本人を見捨て難い。
梅棹氏は、マッキンダー的?地政学的影響もあるんかも知れぬが、
西日本=海洋国家・自由・開放。東日本=大陸国家・専制・閉鎖と
考えられておられるようじゃ。確かに東西日本の風土からそういう
傾向はあるが、海洋国家論も、西日本人は、東日本人と違い
海洋民族ともいえまいと考える。そもそも日本人は、海洋民族でも無い。
しかし日本文明の中でも東西の違いは異民族と思える。
970日本@名無史さん:2005/12/26(月) 01:21:17
>>969
ページが見つかりません
971白馬青牛:2005/12/26(月) 01:36:25
http://inet.museum.kyoto-u.ac.jp/museumF/topics/umesao/head.html
の「21世紀の日本と関西」で出んかったら、
『「世界都市関西」シンポジウム特別講演録』で検索されよ。
972白馬青牛:2005/12/26(月) 02:37:52
>>967
江上波夫氏の『幻人詩抄』から
  お書きなさい
「あなたは お書きなさい たとえ さばえなす学者どもが 専門と
称する 狭い分野で 何を騒ごうと あなたはお書きなさい(後略)」
  無条件降伏
「抵抗せよ 屈服するな ひとたび 無条件降伏とならば ひとたび 
奴隷となり終わらば ひとたび奴隷になり終わらば 地上いかなる国も 
いかなる州も いかなる都市も 未来永劫に 自由を失わむーこれは 
ホイットマンの詩句である 無条件降伏とは 奴隷になることである 
無条件降伏を 強いることは 強制して 奴隷の境遇におとすことである 
自由を 高唱したホイットマンよ おん身の国は われわれに 
無条件降伏を 強制した! この全世界上に 自由の実現される日は 
まだ 遥かに遠いのだ」
右翼的と誤解されるか知れんが、江上氏の心情を語っておる詩集である。
973がいやまん:2005/12/26(月) 08:03:35
高句麗とはアルタイ語(アルタイ山脈の西麓)のKongray, Khooray族及びツングース、
百済は多数のノマド(移動性民族)、新羅はスキタイ系ノマドであり、チョソン民族が
これらを標榜するとかれたの「主体性」はなくなり、隷属していたことを自ら強調する
結果となっている。漏れら歴史家にとっては自らの主体性を放棄されると漏れら、
または、外国人がチョソン族のルーツの調査をしてあげなくてはならない。三韓の
国名には倭国語、アルタイ語などと並んで朝鮮語のようなものが多いが、すべてを
朝鮮語などと欲張ると解釈がつかなくなるのではなかろうか。
974がいやまん:2005/12/26(月) 08:11:59
これにひきかえ、わが国の歴史は外朝帰化族については、スサノオ時代から
明確に受け入れてきており、居住地も定めており、しかも、皇族との婚姻まで
許している。きわめて国際的である。スサノオは馬の毛皮を生で剥ぐようなことを、
坂上田村麻呂は勝手な鹿狩りを禁じられている。わが国は仏教以前から菜食
主義に近かったのであろう。
975がいやまん:2005/12/26(月) 08:23:16
わが国には基本的に差別はなく、特殊な職業については河童とか、川原ものとか
言ってきたようであり、これが隷属の裏がえしのうらみ、ひがみ、罵倒、差別等の
行為をフェアーではないと認識し排除している。しかし、最近、学校、職場でいじめ、
差別が増えてきたことは気にかかる。樋口一葉の頃の美しさをもう一度復活させたい
ものである。
976がいやまん:2005/12/26(月) 13:35:46
山海経による鉅燕・燕国時代の各国の配置図であるが、この頃YAP(+)族は
既に日本列島に上陸していたのかもしれないものの、こんなものとなろうか。
(北)

鉅燕(内蒙古?)蓋國(黒竜江省?)
↓        ↓
燕(河北省?) 倭(吉林省?)
↓        ↓
 →      列陽(遼寧省?)→朝鮮 (東)
この鉅燕、蓋國、倭(これはYAP(-)の弥生人かな)は次に匈奴、東胡、
さらに、鮮卑、拓跋、そして、朝鮮を制圧して、高句麗、百済、新羅、
伽耶、そして、伽耶あたりから第二波のYAP(-)として日本に入るのではないかと思う。
977がいやまん:2005/12/26(月) 14:28:17
弥生人の波を次の3波とする。
(1)大地、豊穣を祈る鹿牧畜文化から転向したもの。蝦夷と混血しエミシ、山岳地方に進出する。YAP(+)
(2)秦、匈奴の崩壊による流民で、YAP(-)のもの。出雲・安曇海人族。
(3)新羅経由到達するスキタイ系のもの。天皇族を含む。YAP(-)
これでどうかな。
978がいやまん:2005/12/26(月) 14:45:25
記紀によれば大和の豪族が九州に太陽崇拝の神武をお迎えに行き、初代天皇とするも
その嫡子、タギシミミ、はカムヌナカワミミによって葬られている。崇神が三輪山神主
(これは神主でトップの人という意味だろう)にヘッドハントした大田田根子というのは
アルタイタダール族と似ている。タダの神というのは淡路島で出現するので多分渡来
けいであろう。渡来系は行政から遠ざけ、シャーマニズムの世界に閉じこめられたの
であろう。
979日本@名無史さん:2005/12/26(月) 14:46:02
かなり良い線行ってると思いますが、
安曇海人族は入れ墨文化とかみると呉越方面と関係ありそう、
そして天皇族をそこに位置づける根拠も薄いように思う。
980日本@名無史さん:2005/12/26(月) 17:41:42
そんな電波男は放っておいて、

百済加羅新羅は倭に征服され臣民にされただろが。
981日本@名無史さん:2005/12/26(月) 18:34:43
968 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2005/12/25(日) 21:19:25
>倭が百済加羅新羅を臣下に置いたのをきっかけに

嘘は辞めようコピペ君
____________________

たしかに臣下と言うのはちょっと言い過ぎだわな。
倭王が将軍なら、半島は配下とか手下だろうね。

982がいやまん:2005/12/26(月) 18:35:06
>>百済加羅新羅は
若干の残党はその後も相当半島に君臨した、半島に名を残し、その指導層は
実際上ほとんど日本に亡命、朝廷に仕えた。これだけのことじゃーないか。
記紀には馬飼になったとかいうのもあるがね。
983がいやまん:2005/12/26(月) 18:44:50
しかし、日本もキトラ古墳などはどうも向こうの王族であるのにずいぶん立派な古墳
を建設してあげている。古代人は礼を知っていたのだ。まー、そういうことで日本に帰化
し、日本人になってしまったのであろう。
984日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:20:44
いや、倭が百済加羅新羅を軍事力で破り臣下に置いたのは
本当のことだろ。

「百残・新羅は旧是れ属民にして、由来朝貢す。而るに、倭、辛卯の年より来たり、
海を渡りて、百残・□□・新羅を破り、以て臣民と為す」

倭の臣民となる=倭の臣下に入った

じゃねーかw
985日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:22:45
荒らすな、
986日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:29:29
↑でしゃばりウゼエ
987日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:55:40
>>979
>安曇海人族は入れ墨文化とかみると呉越方面と関係ありそう
そうだね、ポリネシアンとか黒潮系の人たちとも近い気がする
988日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:04:34
レスの進み早杉!

>広島亀
連日の罵倒乙。
俺が沸くと高橋氏の著作から抜書き出来ないからイラついてんだろ、可哀想にw

常一がいう騎馬民族の貴族って誰の事よw
常一は江上さんの騎馬民族説に洗脳されてそういう事言ってたんだろ?
それに、東国=馬文化、西国=牛文化を考慮していたのだろうか。
日本の馬は高橋先生が言うように暴れ馬!

加藤氏と大林氏は「腹」系譜の信憑性について、互いに論じてるんだろ。論点をずらすなよ。
大林氏=東漢氏が都賀使主から分かれた氏族である点を信用できる。つまり同一の祖先からの分流
加藤氏=東漢氏は擬制的同族関係に編成したものとする(坂上氏を中心として)

東漢氏の系譜では、東漢直系の氏族(坂上氏など)に掌握される立場にあった東漢人系の氏族も
「腹」系譜の中では、同族として組織されてる。
つまり東漢氏の腹系譜は、本来異質(東漢氏の配下豪族)な氏族を取り込んで肥大化してるわけ。

田辺史は河内の渡来系だろ。その一部が上毛野朝臣姓を賜ったから上毛野氏族の一員になった。
『姓氏録』の系譜を鵜呑みにしてた誤りを、認めたらどうだい?
989日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:21:56
>>984

「『広開土王碑』によれば」と書こうよ。
「臣民となす」は「大きな影響力を得た」と言う意味。
あの碑は書き方が乱暴なんだよ。百済は高句麗の「奴客」と書いてあるくらいなんだから。w
まあ、倭王はの百済王のクビを挿げ替えるくらいの、大きな影響力をもっていたが。

王の臣民が王というのは、古代東アジア政治用語として明らかにオカシイ。
990日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:27:36
>>989
ウソこけww

ちょーせん妄想はやめなビビンバ!

寄り目がもっと寄ってしまいますよw
991日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:35:29
「臣民となす」をどう解釈すれば「大きな影響力を得た」に
なるんだか?
992日本@名無史さん:2005/12/26(月) 21:56:04
『源平合戦と平家物語』上横手雅敬著(京都大)2001年

・平家物語の作者はネット裏で観戦している。どちらか一方をひいきにするのではなく、
源平の両方に公平な態度で書いていて、パッションがない。
・(歴史叙述の一形式である平家物語)確かにそこには史実が記されている。
しかし史実を記したといっても、平家物語は単なる記録ではなく、紛れもなく文学性を持っている。

・生まれながらに平家の御曹司として育った清盛は、保元・平治の乱を除けば、生涯を通じて
合戦らしい合戦を経験しなかった。
為朝は「清盛などがヘロヘロ矢」とあざ笑っているが(『保元物語』)、確かに一騎打ちでもすれば
坂東育ちの義朝にはかなわないだろう。
・合戦という事になれば、平氏は源氏に勝ち目はない。
平氏の率いる西国武士は、僧兵や山賊・海賊を相手にしてきた天朝の番犬であるのに対し、
源氏に基盤である東国では、合戦自体が目的であり日常茶飯事である。

・保元・平治の乱に、清盛・重盛はよく戦っているがとうてい勇将とはいえない。
平治の乱の清盛は、熊野詣の留守中に義朝が挙兵すると言うハンディを克服し、より勇敢な相手を
撃破した。
相手方を油断させ、分裂させ、天皇・上皇を相手の支配下から脱出させるという
政治力の勝利であった。
東国の原野での合戦ならばいざ知らず、京都において複雑な朝廷社会を背景にして戦うという大局の
洞察において、清盛は義朝よりも優っていた。彼は義経などとはタイプを異にする名将である。

※急(隠密)な合戦であった平治の乱で義朝は、その基盤の関東武士を僅かしか動員出来なかった。
それに独立心が強い関東武士が簡単には上洛しなかったことなども。
『保元物語』と『平治物語』を比較すると、平治での東国武者の参戦は少ない。
993白木人:2005/12/26(月) 22:06:39
臣民となしたのは、全員ではなくて割合があったかも
994日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:09:47
ただ臣民と為したんじゃなくて、「破り」、臣民と為したんだろうに。
995日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:21:56
>臣民となした
これ自体が倭国の自称だからね
実際はどうだろうか
996995:2005/12/26(月) 22:30:33
すまん誤爆った
997日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:36:26
広開土王の自称だがな
998日本@名無史さん:2005/12/26(月) 23:09:18
ミマキイリイチ梅
999日本@名無史さん:2005/12/26(月) 23:12:15
次スレ立たずか
1000日本@名無史さん:2005/12/26(月) 23:13:28
1000
白馬青牛間に合わず
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。