【江上】騎馬民族説は今。。。vol.3【波夫】

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1日本@名無史さん
騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/mystery/kibaminzoku.html
騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!                江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727

☆過去スレ
【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1068492251/
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11119593470689/
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.2【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1096735827/
http://makimo.to/2ch/academy3_history/1096/1096735827.html
2日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:55:21
3日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:57:59
もう論ずることもねーし。
4日本@名無史さん:2005/07/02(土) 04:51:44
直木孝次郎という人の河内政権論は面白い。
もちろん河内王朝は大和の政権とは別系統だというのだが、その経済基盤は
河内以西にあったという。
以下は私見だが、基盤が河内以西にあったのなら、それが瀬戸内海を通じて
伽耶につながっていたのであり、その経済力は鉄と馬の輸入にあったと考える
こともできる。ここまで来ればそれが伽耶勢力そのものだったというところまで
もう一歩だ。
5日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:23:26
>>4
今さら直木孝次郎かよ。(プッ
6日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:56:20
河内−吉備−伽耶を包含する勢力圏を想定することによって吉備の巨大古墳の
意味もわかる。

また、騎馬化は2段階に起こったのではないか。すなわち河内王朝の始まりと
同時に起こった「中核的」騎馬化が第一段階だ。この段階では相手は騎馬戦術
処女の三輪王朝ないし九州の小王国だから、戦力の中核が騎馬化していればよかった。

第2段階は広開土王以降の高句麗との戦いの必要によって起こった、日本列島の
馬供給基地化だ。
この段階で始めて中部地方の大規模馬牧場が作られた。
このように考えれば河内王朝の始まりと本格的騎馬化のずれを説明できる。
7日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:08:02
騎馬民族は日本を征服していません。
しかし>>6の推測は一部同意。
8日本@名無史さん:2005/07/03(日) 04:23:14
>>6
河内王朝が騎馬王朝の拠点で、その対抗に半島と大和があるんなら、
騎馬処女の大和など瞬く間に屈服することが可能ではないのか?
伽耶から九州侵攻して服属させ、吉備を制し、次いで河内にまで到達するほどの
圧倒的な攻撃力があるのなら、ついでに大和も落としてしまえよ。
そこが倭の最大拠点なんだから。
あるいはその必要すらないのなら、騎馬族の拠点はのちに河内にとどまらずに
大和に転じ必要はあるのか?
9日本@名無史さん:2005/07/03(日) 04:41:22
>>8
その疑問はそっくりそのまま「河内王朝」に当てはまる。
河内王朝はなぜ最初から大和に入らなかったのか?
10日本@名無史さん:2005/07/03(日) 05:10:57
>>9
大和から河内に進出したからだろ決まってるじゃないか。
直轄支配して馬飼育の拠点にしたんだよ。
半島情勢がそうすることを迫ったわけね。
しかし本拠はあくまで大和のままだ。
11日本@名無史さん:2005/07/03(日) 05:21:23
88 名前: 日本@名無史さん 04/10/20 18:27:53

>>87

1.扶余が倭人が居住し、鉄資源を採取している任那に侵攻、制圧。
2.金官と高句麗との戦闘が激化。
3.苦戦する扶余は後背地を確保したいが、海に隔てられ困難。
4.扶余が資源供給を欲する倭との連合を選択。技術を提供する一方で戦力の提供を受ける。
5.次々金官に補給される大量の倭人が、扶余指導の下、訓練されて騎馬戦術を習得してゆく。
6.倭人の将軍も扶余と同等の力をつける。
7.戦力的に高句麗と互角の争いに。
8.しかし最終的には高句麗の前に屈服。金官は崩壊して、扶余は流れ者として倭国に亡命。
9.敗北への危機感から、倭は日本列島で本格的な馬の飼育に入る。

http://makimo.to/2ch/academy3_history/1096/1096735827.html 前スレ
12日本@名無史さん:2005/07/03(日) 05:25:11
倭の中枢・大和が国内で馬飼育の場に選んだのが河内。
大和に近く、かつ半島への海上輸送に適してるから。
ただし海上輸送と言っても、海運力はそれほどでないから、
半島向けとしてはあくまで一定年齢に達するまでの飼育かも知れない。
他は国内制圧・統治向け。
13日本@名無史さん:2005/07/03(日) 09:20:28
古墳時代の外洋航海用船舶は西都原式の準構造船で全長10m。
元寇船は40mだと遺物から推定されている。
半島から日本列島への馬の輸送は、当時の外航船の大きさから考えて、
仔馬時分のものだったはずだ。

仮に成馬だったとしても、人間も含めた騎馬兵としての戦闘部隊まるごとの輸送は不可能。
船頭と馬飼いと馬何匹かのセットを何船かのスタイル。
船舶数と輸送回数を重ねることで幾度の転覆を克服して輸送を実現できたにすぎない。

もし船舶による馬の輸送が容易だったら間違いなく倭は騎馬民族に征服されてただろうが、
海に隔てられ安泰だった。
騎馬民族が大船舶率いて倭に侵攻してきたなどと夢想するのは全く愚かなことである。

任那を通じて仔馬を輸入し、河内中心に飼育を始めた倭は、
騎馬技術を元に、急速に国家統一を実現していく。

半島への馬の逆輸出も開始して、高句麗と互角の争いを可能に。
東国の征服に中部地方での飼育も開始することとなる。

それはあたかも種子島に漂着した鉄砲が、
短期間で日本を世界最大の鉄砲生産国に引き上げ、
日本での天下統一を実現させ、
朝鮮半島・大陸への征服戦争を可能にしたことと同じである。

他、騎馬民族説出現の背景としての文化的共通項だが、
倭は百済とは同盟関係にあり、知識人始め人材の交流は頻繁、
かつ百済滅亡後遺民受け入れの経緯から、
歴史書や文化体系において、騎馬民族的要素が日本の古墳時代に色濃く残っていたとして、
何の不思議もない。
14日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:34:38
北方系騎馬民族は泳げない、造船技術がない
15日本@名無史さん:2005/07/03(日) 12:16:23
真実はこれ、中津平野(豊国)を占領し出雲が関西に大和政権を樹立した後
東国経営に騎馬戦術を受け入れた。
・ 出 雲 に 生 き る 渡 来 の 神 々
www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/tripizumo2.html
出雲人=新羅渡来人、騎馬戦術渡来
16日本@名無史さん:2005/07/03(日) 12:30:55
騎馬民族がそのまま渡来したのではない、騎馬民族の文化を
受け入れた新羅人の渡来地出雲・吉備から和泉、東国へと拡散した。
倭は安曇族・邪馬台国など漢との交易を重視していたので騎馬とは無関係
南洋系邪馬台国が滅んで電光石火のごとく吉備に騎馬王朝立てるなんてどうみても
不自然だよ。
新羅と親密だった出雲が吉備・大和を騎馬兵の拠点にしたと考えないと
とても説明つかない。
17日本@名無史さん:2005/07/03(日) 12:55:26
出雲は最終的に負け組み、それを踏まえて
なるほど〜ですね。
具体的な説明もなかなかのものです、説得力もあるし、よし!それでいこう
18日本@名無史さん:2005/07/03(日) 12:56:26
>>13
19日本@名無史さん:2005/07/03(日) 13:28:20
>>16
騎馬民族の文化を受け入れた倭人で良いじゃない?なぜに態々新羅人=出雲人と
したがるの?その新羅人秦人と倭人はすでに出雲において混一化してたでしょう。
「出雲人=新羅渡来人、騎馬戦術渡来」
堅い思考が見え隠れして、賛同は得られないよ。
20日本@名無史さん:2005/07/03(日) 13:53:14
>>19
出雲人がそのまま新羅人というわけではない、しかし
出雲族、宗像族は新羅(新羅を通じ北魏の影響も)と密接な関係があり、倭(九州)、
難波(安曇江)、滋賀、近江、信濃などの安曇系の勢力とは
信仰、生業、習俗にかなりの違いがあった。
しかし、邪馬台国女王(台与=とよ=豊)が豊葦原中津国を
出雲・宗像勢力に明け渡して統一王朝が出来て以降
畿内、東日本を中心に一気に中国出雲系習俗が広まったと思われる。
21日本@名無史さん:2005/07/03(日) 14:15:44
宇佐神宮はその時のものだろう、九州で宗像族の宗像以外で
初めて神道を受け入れた場所だと思われる。
22日本@名無史さん:2005/07/03(日) 15:34:20
>>10
大和が河内に進出したのでないことは日本書紀に暗示されている。
始祖王の応神は九州出身であり、しかも年代から言って仲哀の子では
ない。
なおかつ神功皇后の胎内にあって日本に入ったのだから、外地との
関係も暗示されている。

さて、なぜ一気に大和をつぶさない?という質問に答えよう。
それは、当時の支配形態がそのようなものであるからだ。
河内に従属して、要求に応じて土木工事の労力や外征の兵力を供出
してくれるのなら、なにも苦労してつぶす必要はない。
そして大和が河内の巨大古墳を許容したこと、みずからはその後巨大古墳を
作らなかったことが、とりもなおさず大和の河内への従属を表している。
23日本@名無史さん:2005/07/03(日) 16:25:56
応神は九州出身じゃないだろ・・
半島遠征の帰路筑紫で生まれただけだよ。(日本人だよ)
河内に移したのは出雲騎馬勢力の拠点があったから
24日本@名無史さん:2005/07/03(日) 16:49:25
騎馬民族説は誤り、東国経営に馬と馬の使い手(渡来人)が必要で
半島と密接な繋がりのある出雲と統一王朝(崇神天皇)を作り
応神の時により具体化した。
25日本@名無史さん:2005/07/03(日) 17:58:50
>>13
>古墳時代の外洋航海用船舶は西都原式の準構造船で全長10m。
>元寇船は40mだと遺物から推定されている。
>半島から日本列島への馬の輸送は、当時の外航船の大きさから考えて、
>仔馬時分のものだったはずだ。

何故そのような状態で馬を運ぼうとしたかへの考慮が足りないな。
彼ら渡来人は騎馬民族だったからこそ馬が欲しかった。
彼らは亡民だったろう。
日本に逃げてきたものの馬が無くどうにかして馬を手に入れようとした。
そこで子馬を運んで日本で繁殖させたのだ。

馬は一回一頭しか生まないが、三年くらいで繁殖可能になるから割合速く増やす事が出来ただろう。

26日本@名無史さん:2005/07/03(日) 18:06:36
物部、伴氏も新羅の騎馬民族系であった可能性はある。
そもそも出雲系はみな出目が新羅
27日本@名無史さん:2005/07/03(日) 18:30:43
脳内完結かよ。
出雲族が新羅系なんて判別ついていない。

出雲族は大和民族と同様、神話では古くから三韓と交易や戦争といった交流を続けているが、
創生神話は三韓とも大和とも出自は別としている。
28日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:08:01
先ず時代観がはっきりしません、弥生全般にわたって波状的に渡来があった
のだから、大凡600年以上の年月で考えなければなりません。
3韓からの渡来で辰韓人だけが出雲に渡来した、とは長き年月を考えれば強引すぎる
主張です。
だいいち朝鮮半島全域にわたって倭と思しきぞんざいが文献などで確認され
ますから、半島の倭人が騎馬化して渡来したとも推測できますよね。
29日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:14:18
あとから出雲に上陸した勢力に制圧したされた可能性も排除できません。
滅ぼされた側の勢力が新羅勢力です。
怨霊・たたりを恐れて 、建立したのが出雲大社である。とも考えられます。
30日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:14:41
>>22
それはおかしいんじゃないですかね。
河内に巨大古墳が作られるようになって大和では休止した。
しかし従属しただけで休止にはならないでしょ。
それ以前の前方後円墳の拡大分布状況はそう言っている。
屈服されてはじめて大和での造営がなくなる。
しかし本来的には征服した大和において、
征服者の巨大墳墓が築かれるものだよ。
服属させた上で兵力を拠出させればそれでよい。
例外的に制圧を遅らせるのは、
相手もそれなりに強大で、即座の征服が困難な場合。
従民政策をもってして時間をかけて懐柔する。
しかし筑紫から河内に至る制圧路線の延長では考えにくいだろう。
なぜならそのような戦力の部隊が大和制圧に苦労するとは思えないからだ。
31日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:16:08
弥生時代は半島も日本列島も呉越系の亡命人が多かった。
しかし、半島に騎馬民族が侵入しだした頃、出雲はいち早く
この騎馬民族系を見方につけた。
出雲族の物部は騎馬民族と関係の深い人間であることは間違いない。
倭(九州)は晋(漢)にしか目が向いて無かった。
32日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:16:25
脳内妄想なら何とでも言えますw
33日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:23:15
筑紫の東進はない。
畿内朝の主力は出雲系。
九州は元々神道を信仰していないはずです、
出雲(騎馬系)が畿内・東国で
新羅・高麗・出雲神社を広めた。
34日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:25:19
台与の記述は真実。あそこがまさに畿内統一王朝の始まり
35日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:26:31
伊都国・出雲(投馬国)・吉備の連合によって二世紀後半、
大和の三輪に統一政権が誕生した。ヤマト国といい、倭国の首都であった。
女王の都する所。
36日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:31:12
>>32
魏志倭人伝の邪馬台国は九州地方王朝であるという
前提で史記の辻褄合わせをしてる。(この他に出雲王国があるが。)
37日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:32:50
>>35俺の前提と全然ちがーーう・・
これじゃ、話がかみ合わないはずだ・・
魏志倭人伝の記述は九州島の国しか記述してないという説に立ってる。
38日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:36:45
そっか、それなら気にせず続けてw
39日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:36:53
>>35
それから、伊都国は安曇勢力だから出雲と犬猿だろう、宗像という
九州では異質の存在と手を組んだのが出雲だと考えるのが自然だろう・・

40日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:39:21
安曇勢力と出雲系勢力で分けて考えると分かりやすい。
41日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:10:32
出雲では近畿側の銅鐸と九州側の銅剣の両方がある。
出雲の銅鐸は九州の銅鐸が伝わったものである事が解っている。
近畿の銅鐸は出雲から伝わったのだろう。

ところで出雲の東に弥生時代から銅鐸を持たない異質な存在があった。
四隅突出墓を作った連中だ。
畿内では弥生時代末期、銅鐸を破壊された。
銅鐸祭祀を嫌う種族が畿内に入った事は間違いない。
42日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:10:52
応神が筑紫で生まれた=騎馬民族が東進したと結論付けるキチガイ論法
43日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:26:42
応神陵が他と違ってるならともかくね
44日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:28:42
こうあってほしいい!!!
という希望を広めるのが人文学
45日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:33:37
邪馬台国だってそう、明らかに豊国の可能性が高いのに
筑紫であってほしいい!!というキチガイが
歴史をねじ曲げる。
46日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:00:27
せめて、データは公平に公開しよう。
47日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:27:33
>>30
>しかし従属しただけで休止にはならないでしょ。

ぜんぶ休止したとは言っていない。「巨大古墳」が作られなくなったと言っている。
やはり古墳の大きさは相対的な権力の大きさ、支配の広さを表していると思う。
もし大和で河内より大きな古墳が作られたなら、それは河内に従属していなかった証だ。
しかし実際はそうではなく、より小さな古墳しか作られなかった。

>例外的に制圧を遅らせるのは、
>相手もそれなりに強大で、即座の征服が困難な場合。

ちっとも例外ではない。古代の支配形態は、古墳を築くだけの独立性のある
小王国や豪族が、互いに支配被支配関係を持ってネットワークをなしている
だけなのだ。磐井のときのように徹底的につぶすほうがむしろ例外だ。

それに君の言うように、大和だってそれなりに強大だ。
だから河内は、大和を従属させると同時に大和の半島への出口を封じたの
だろう。河内に立地した意味はそこにある。南の紀ノ川の河口に、馬兜を出した
古墳があるが、それもこのような大和封じ込めの一環だと思う。
48日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:44:18
>>1
歴史学者が否定してるんだから、もういい加減にしとけや。
49日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:47:49
>>48
頓馬な学者がね。
50日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:56:01
>>47
河内の巨大古墳作ったのが大和なら何も矛盾しないだろ。大和で作られなくなったの。

大和封じ込めに河内制したというが、そんな回りくどいことせずに直接陥落させよ。
騎馬兵移動は困難か?大和へのルートは。
それと河内抑えても、琵琶湖伝って日本海ルートがあるだろ。

>ちっとも例外ではない。古代の支配形態は・・・
だからそれなら大和でも依然としてそれなりの規模のを作り続けてないとおかしいでしょってこと。

それに任那の古墳はぶっ壊されてるでしょ。
扶余に。
51日本@名無史さん:2005/07/04(月) 09:44:16
>>50
>河内の巨大古墳作ったのが大和なら何も矛盾しないだろ。大和で作られなくなったの。

そして応神が大和出身ならね。

>大和封じ込めに河内制したというが、そんな回りくどいことせずに直接陥落させよ。

直接支配か、間接支配かは、どちらが経済的かの選択だ。
つぶしてもそのために血を流して戦力を低下させ、つぶした後はみずから経営の労を
払わなくてはならない。
徳川だって大名を全部つぶして全国を天領にすればよかったが、そうしなかったのは
間接支配のほうが経済的だったからだ。

>だからそれなら大和でも依然としてそれなりの規模のを作り続けてないとおかしいでしょってこと。

三輪王朝の巨大古墳は、その支配が大和の外まで及んでいることを表しているのだ。
河内王朝成立後は大和内部の支配に縮小したのだから、いままでどおりの古墳を作る
ことはできない。

>それに任那の古墳はぶっ壊されてるでしょ。 扶余に。

それは直接支配のケースだ。支配者だってじぶんの本拠が必要。
金官に本拠を確保した後は、周りの伽耶諸国や新羅はつぶさず、間接支配した。
52日本@名無史さん:2005/07/04(月) 09:59:05
騎馬民族の習俗、文化はどの程度伝わっていたの
馬乳酒ぐらい飲んでたの
53日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:52:58
応神天皇陵の入口には神巧皇后三韓征伐の折
香椎の皇居に轡を納めた轡鍛冶の末裔が今でも住んでる。
54日本@名無史さん:2005/07/05(火) 01:32:59
>>51
吉備の大古墳はどう説明する?
巨大古墳造営時期は河内とほぼ同じだ。
河内に従属して全国支配力弱まったら作れなくなるなら、
吉備はなにゆえに作れたのか?

巨大古墳作るには労働力が必要だろ。
河内にそれだけの基盤はあったのか?
よそから連れてこなきゃ無理だろ。

大量の労働力を確保し、巨大古墳を築いて権力の基盤を固めた河内を捨てて、
後になってから大和に乗り込んで行った理由は説明できるのか?
55日本@名無史さん:2005/07/05(火) 05:00:06
>>54
大和発展説ならなおのこと説明できない。
大和発展説では、吉備の大古墳の問題はいわば「放置」されているのだ。

征服説、新王朝説なら河内と吉備は同じ勢力であった、という説明ができる。
征服者は先ず吉備に基盤を持って大和を威嚇し、第二段階で大和と折り合いを
つけて河内に乗り込んだ。
河内に新王朝を建てたあとも吉備は半島経営の基地として保持し、親族あるいは
有力者を駐留させた。
河内、吉備とも、新勢力が日本、半島を合わせた新しい「帝国」であることを
主張するために古墳は巨大になった。
56日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:32:20
>>52
>馬乳酒ぐらい飲んでたの

騎馬民族の中でも特に酒の飲めない連中が来たのさ。
だから畿内には今でも下戸が多い。
57日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:39:11
畿内には二つの勢力があった、難波(安曇江)は下戸の多い民族が
開拓した地域。黄泉(近江)は出雲(騎馬)の勢力が強かった。
河内より東も出雲(騎馬)の勢力圏
58日本@名無史さん:2005/07/05(火) 09:23:31
>>57
馬乳酒より日本酒(どぶろく)が旨かったというだけのことじゃないの
酒の肴は馬肉だろうけど
59日本@名無史さん:2005/07/05(火) 09:29:30
天高原は出雲人の高句麗から北に伝わる伝説と筑豊盆地侵略を被らせたんじゃなかろうか・・
60日本@名無史さん:2005/07/05(火) 09:40:29
元々、戦前の皇国歴史韓でかなりねつ造されたところから
スタートしてるから・・
出雲人は明らかに騎馬系の末裔、後裔
強大な軍事力で侵略・併合し瞬く間に日本を制圧した。
倭(九州)は小国分裂国家で漢から伝わった銅剣銅矛で
戦争ばかりしてた。銅剣銅矛文化圏、銅鐸文化圏なんてバカ臭い
のがあったが日本古代史はほとんどねつ造だらけ、そのせいで発展が遅れた!
61日本@名無史さん:2005/07/05(火) 09:55:59
まだやってたのか。いい加減にしろよ。
62日本@名無史さん:2005/07/05(火) 10:00:21
山人(ヤマト)は縄文人の後裔で今でも我々の遺伝子に痕跡を残す
日本海沿岸に渡来した太陽信仰を持つ
騎馬人(出雲・宗像人=異国人)が騎馬をもって日本列島を制圧したと言えよう。
63日本@名無史さん:2005/07/05(火) 10:16:08
>>61頭にくるじゃん。
いい加減な説が流布されてると
64日本@名無史さん:2005/07/05(火) 15:32:05
65日本@名無史さん:2005/07/05(火) 15:35:15
古代日本では、いしゆみは使わなかったの?
66日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:43:17
>>55
馬と騎馬戦術が入ってきたんで、大和主体に、
まだ独立性のあった吉備を屈服させ得たんだよ。
河内は馬飼育地。
ゆえに河内と吉備に新たに大古墳が築かれた。

そもそも筑紫や吉備を征服した主体が、
大和のみ放置する理由はない。
大和も同時に屈服させ、
吉備と大和に大古墳を築けばいい。
67白馬青牛:2005/07/05(火) 23:07:15
>>65
いしゆみ、と言うより広い意味での弩は『日本書紀』天武紀。壬申の乱に
おいて瀬田川の戦闘で「列弩乱発 矢下如雨」とあり、のち延暦十四年
(795)「強弩為神 其為用也 短於逐撃長於守禦(中略)
故大唐雖有弩名 曾不如此器之勁利也」つまり強弩は神の如きもので、
性能の特質は追撃戦に弱く防御戦に強い。唐(中国)の弩も日本の
この弩には及ばない『本朝文粋』。
貞観八年(866)肥前国諸郡司の新羅通諜事件でも、「造兵弩器械之術」
我が国の弩の製法を教えることであった『三代実録』。ハイテク兵器の
技術が敵国(新羅)に漏れるのは如何にもまずい。逆に新羅軍にとっては
脅威じゃった。
弩が威力を発揮した戦闘は寛平六年(894)新羅軍の対馬侵攻で、
「大小船艘 乗人二千五百人」の新羅軍を迎撃したが、勝敗を決したのは
敵を引き寄せ「立盾令調弩(中略)合計射殺三百二人」とあるよう
弩によって新羅軍を撃退した『扶桑略記』。
日本は、対蝦夷や対新羅で騎馬戦闘や造船技術よりも強弩の開発に力を
注いだ。
68白馬青牛:2005/07/05(火) 23:52:54
新弩の改良は、承和二年(835)にもあり、、嶋木史真という者が
辺兵に備える為自ら製作したもので、「四面可射 廻転易発」と容易に
発射方向を変えることが出来るよう改良されたらしい『続日本後紀』。

出雲については、四隅突出墳の年代が問題となるので、難しいが仮説と
して、出雲の四隅突出墳は、島根を中心に広島、岡山、鳥取、北陸にも
ある。更に北朝鮮の満洲よりの慈江道(日本統治時代は平安北道、
高麗以前は女真の地)にも見られるので新羅(朝鮮)より高句麗(満洲)の
影響が強いと思える。
69日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:57:25
そりゃ騎馬民族ツングースだから高句麗(句麗=呉)だろ
俺は出雲と広島・岡山の出目は間違いなくモンゴル人だと睨んでるよ。
70日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:08:51
東日本人がどうやら立派なツングースの末裔であることが
立証された。
71日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:16:35
↑YAP+問題は未解決
ツングースにはないのに
日本人やアイヌ人やエスキモーやネイティブアメリカンにはある。
72日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:30:00
>>71
簡単じゃん、東日本人は西日本人に白(朴=パク)人、太陽、
アマテラス崇拝の騎馬民族が混じっただけ。
73日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:40:35
太陽信仰の新羅人は日出国を目指したと思うね。
まさに出雲だったのでしょう。
74日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:41:33
正確には新羅人もいろんな民族がいるから特定の人だけ
75日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:51:47
するとツングース(朴=パク)は太陽めざしひたすら東進
雪(白)を好むのは天性の習性だったのでは・・
雪国東日本に住むことは民族(ミンジョク)の祈願のだったのかな・・・
76日本@名無史さん:2005/07/06(水) 05:59:35
>>71
>YAP+問題

YAP+は縄文人が持っていたと言う事で解決だ。

>日本人やアイヌ人やエスキモーやネイティブアメリカンにはある。

当然だろ。縄文人の末裔なり、混血なんだから。
黒人にもある。人類発祥の時から持っていて、その後失われたものだ。

YAP+は生存競争に弱かったのだろう。YAP+は人口の希薄な所、島、山の中に多い。
77日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:22:23
>>67>>68
サンクスでつ

やはり弩でもって、騎馬戦法に対峙したら極めて有効ではないかと思いまつ
78日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:59:26
吉備の秦にあるH式古墳は地元では、国内最古といわれ、5世紀建立説の秦廃寺も
国内最古説。高梁川たたい(たたら)の人工堤防は20キロ四方にいまも用水をおくり、
紀元8年当時の新時代の貸せんが28枚も一度に出土している。たてつき遺跡からは国内最大の
祭祀水銀(鬼道)が他の一〇倍規模で出てる。造山古墳は当時アジア最大(国内4位)
神武が8年滞在した伝説、書紀では応神、仁徳が妻を追って何度も吉備のハダに滞在記述。
秦氏は始皇帝15世弓月王始祖が応神のときに渡来となっているが、伊勢、狼の姿を
借りた神記述など騎馬遊牧民的記述が多い。太子のパトロン秦河勝は新羅代理人だが、
高句麗の軍事顧問説もある。一族に伝わる土器や瓦、埴輪には鳩や船が多く、羊伝承もある。
79日本@名無史さん:2005/07/06(水) 10:49:04
君たちの家や近所にある神社・神棚が天照系(出雲)か大王系かで
その地域が本当の意味で新羅系か徐福系か区別できるのでは?
80日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:11:59
半島の人は自分たちを支配した日帝がまさか自分たちの祖先
新羅神を崇拝する出雲・関東政権だとは思いもしなかっただろう。
出雲はかつて分身と呼ばれていたらしいが何か関係はないのか
81日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:13:47
>狼の姿を借りた神

ってモロ、モンゴルから来た証拠だよね。
82日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:17:13
白神山地ってのはやはり新羅系
83日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:22:49
大神=オオカミなのでは?
84日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:25:09
君らほとんど語呂合わせだけだね。
85日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:32:23
>>94
後の政権が必死で出目隠ししたもんで表だったものは少ない。
86日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:55:23
日本の神道って、大陸の道教系なの
それとも半島の祭祀の影響があるの?
さすがに豚の頭はお供えしないよね
87日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:15:48
日本の土着信仰に徐福の道教が混じり東日本一帯には
出雲にきたツングースの信仰が混じった。
88日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:18:53
磐座信仰は半島系らしい。
神社は明らかに新羅の真似だね。
89日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:21:40
>>88磐座信仰は半島のどの辺ですか?
てっきり日本の土着信仰だとばかり思ってた。
それでも起源は南洋系か縄文時代からの信仰なんじゃ
ないんだろうか?
90日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:42:50
>>89
>磐座信仰は半島のどの辺ですか?

全羅道の支石墓だ。半島には数万の支石墓があり、全羅道には半数以上の
支石墓が集中している。
日本では北九州を中心に全部で千個以下かな。

支石墓は初めは墓だったが半島では巨大化して、次第に墓としての意味を
失い、集落の中心、集落の境界をしめすモニュメント化したそうだ。
そしてそこでは祭祀が行われていた。

となると、磐座、磐境そのものじゃないか?

>それでも起源は南洋系か縄文時代からの信仰なんじゃ

支石墓そのものは南方or揚子江下流域が起源で縄文末に来ただろう。
多分、水耕稲作と同時に。

しかし、古墳時代頃、半島で巨大化して墓の意味が無くなってから再び
来日した。
91日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:06:13
全羅道とは半島の南西部ですね。
呉越や東南アジアでは磐座信仰はみられないのだろうか?
92日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:12:56
秋田や越国はベトナム系という説とオロチ(オロチョン=高句麗)系という
説があるがどちらが有力なのだろうか?それともその両方だろうか?
93日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:25:40
ヤマトのオロチ(句麗人)=八岐大蛇という説
94日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:32:08
全羅道に呉越から稲作が伝わって半島の人により呉越の遺伝的
影響が見られるということは、北部九州では呉越人から稲作だけを
学んだ土着の人が多かったってことかもしれない。
すると日本での本格的な弥生人は山東半島の徐福の系統ってことかも
95日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:46:57
http://www.geocities.jp/rekisi_neko/owari.html
ヤマタノオロチはオロチ族という説はあるよ
96日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:58:32
戦前戦後嘘つき遺伝子によってねつ造された歴史を再検討する必要あり
97日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:07:51
やはり、日本は神国ということで解決
でも神武がどこから来たのかは知りたい
98日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:10:41
>>97
馬鹿か?徐福にきまっとろが。
99日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:12:09
時代が違うだろ。
100日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:12:39
新羅に決まってる
101日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:12:56
もう手遅れ。
パワーバランスの微妙なバランスに乗ってるだけ。
102サガミハラハラ:2005/07/06(水) 14:13:39
すみません。神武は土着の倭人なのです。
福岡市の室見川流域(山門庄)で生まれ育ちました。
103日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:36:36
八女の磐井の乱の岩戸山遺跡はほぼ間違いなく山や岩を信仰する
土着勢力の天照を信仰する出雲政権に対する宗教戦争だろ・・
八女の勢力は新羅の岩山勢力にでも援軍求めたのだろうか?

>>99
年代は記憶違いや物語化する際の整合性の問題でかなりずれるだろ
104日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:45:51
ずっと天照大神が土着勢力、倭大王魂が進行勢力だと教えられてきたが
どう考えても真逆。
105日本@名無史さん:2005/07/06(水) 15:15:04
国譲りから考察するに、出雲は新羅辺りから青銅器文化を持ち込んだ人々が土着と結びながら開拓していった土地で
後から鉄器を持つ天孫族の侵入で出雲は脅びやかされることになる、銅剣VS鉄剣では勝負にならず、出雲側に強硬派はいたものの
出雲国主の冷静な判断で、降伏(国譲り)又は天孫優位の同盟で平和的決着がつく。
そもそも出雲族と天孫族の出自は近かったと考える。
天孫族は委奴国王として考えてみるのも面白い、大乱後南九州に追いやられ狗奴国として再興の機会を伺い
時は満ちたと。鉄器武装させた勇敢な隼人を従え・・・九州を制圧・・・国譲り・・・
年代差はまあそこは記紀ということでご容赦。
106日本@名無史さん:2005/07/06(水) 15:44:45
DNAからみて基本的に縄文勢力と最初の弥生人は平和的に混交していったと
みるのが自然だと思う。これから察するにもっとも大規模な
弥生勢力は平和的な山東の人々

難波に関しては地名から察するに呉越系が多かったと思うな・・

天孫族は名前からみてツングース系だと思う、倭(ヤマト)とは異なる勢力。
すると、国譲りの話はヤマトとの統一の前かな
107日本@名無史さん:2005/07/06(水) 16:03:35
まだやってるのか。w
108日本@名無史さん:2005/07/06(水) 16:06:49
国譲りの話は本州(扶桑国)だけの話だと考える。
天孫族(ツングース系)が先住のヤマト族やオロチ族を制圧し最後に
出雲・東国一帯を制圧したのだろう。
難波についてはヤマトと呉越人の関係で九州と繋がりが深かったので
出雲勢力下に入るのは遅くなる。

倭国(九州)についてはこれと分けて考える。
倭国の土着ヤマト勢力は新しい天孫系勢力が邪魔で邪魔で仕方なかった。
おそらく天孫系が支配的だったのは豊国一帯
109白馬青牛:2005/07/07(木) 00:32:29
>>105
中国地方は、鉄の産地じゃ。新羅は出雲より角杯型土器の出土から
北陸の方に影響が強いと思う。
銅剣が鉄剣より劣るのは、斬るという要素。刺すものとしては、
銅剣がよい。しかも耐強度の為、厚くなり、刺された方は傷がひどい。
その点では鉄にない威力を持っておった。

ちなみにオロチとは、ツングース語(満洲語、モンゴル語、ヤクート語
等にも共通)で「領域、土着の者」の意味もある。
110日本@名無史さん:2005/07/07(木) 13:55:42
>>66
>馬と騎馬戦術が入ってきたんで、大和主体に、
>まだ独立性のあった吉備を屈服させ得たんだよ。
>河内は馬飼育地。
>ゆえに河内と吉備に新たに大古墳が築かれた

時系列がめちゃくちゃだな。
騎馬化した大和が河内と吉備を騎馬戦術で征服したというが、河内以前の大和、すなわち
三輪王朝が騎馬化した形跡はない。
また河内王朝が成立した結果として河内の馬生産がはじまったのであって、河内がもともと
「馬飼育地」だったのではない。
111日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:10:54
三輪王朝はやっぱり大和の本家本流なんだね。
ところで、大和は鮮人勢力岡山・和歌山人を屈服させる
ことができたのだろうか
112日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:31:27
熊野神社は高麗の神社なんだよね。
白木神社は新羅。
白髪神社も新羅。
113日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:43:25
そうだよ、大国様と神仏習合神以外全部朝鮮人の末裔なのよ。
僕は学者じゃないし政治力もないから
馬鹿ん頭人(関東人=チョン=朝鮮=ツングース)が
今の今まで封印してきた歴史をデータで裏付けし広めて。
ヤマト
114日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:45:26
なりすまし日本人、世界最低の人種
東朝鮮人(東日本?人)
115日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:51:28
三輪、太宰府はおそらく、旧ヤマトの首都があった都市だね。
なりすましツングースが封印したのさ
116日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:59:43
>>112
白髪神社といえばどぶろくだな
どぶろく文化は馬乳酒がベースなのか?
騎馬民族は米酒が好きなんだろう
117日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:01:07
先人がツングースに乗っ取られ伝えられなかったこと
を・・
118日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:29:13
白山神社は以外にも高句麗。
祭神の名前が菊里(ククリ)媛。
皇室では韓神祀っているし日本人の大半があっちから来たと言うのも頷ける。
119日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:31:12
だから、ヤマトを制圧した東朝鮮人
120サガミハラハラ:2005/07/07(木) 20:09:43
熊野神社は天照大神の5人の子の1人クマノクスビ(だっけか)神をまつったものです。
出雲の熊野神社が本社で和歌山の神社は、崇神天皇の時の出雲振根の変の時に出雲から移住させられた貴族が分祀して持ってきたものです。
121日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:13:15
あなたは正直な人ですね、相模のヤマトの末裔です。
122日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:17:09
つまり、こういうこと

韓国、朝鮮人は、非常に人種差別的、権威主義的、 階級意識の強い人々

韓国、朝鮮人は、自分たちの階級意識や権威主義的、人種差別的、価値観を他国に押し付けたがる人々

韓国、朝鮮人は、日本の権威、権力と自分達とを無理やりに こじつけて、日本人に対する優越感を持ちたがっている
123日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:48:46
高句麗は「狛」少し違う字、確か作りが「百」になってた。
この「狛」と言うのは想像上の動物だが熊によく似た獣だった。
だから「高麗」も「狛」も「くま」で「くま」が訛って「こま」になった。
朝鮮語でも「熊」は「こま」だ分かったか?
124日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:50:07
>>123
訂正
朝鮮語で「熊」は「こむ」だった。
125日本@名無史さん:2005/07/07(木) 22:19:28
( ´,_ゝ`)プッ
126日本@名無史さん:2005/07/08(金) 05:16:23
>>123
なるほど。神社にいる「こまいぬ」も、あれが想像上の動物の「こま」で、
「いぬ」はつけたりなのだろうね。
127日本@名無史さん:2005/07/08(金) 06:41:16
どうやら出雲騎馬民族ツングース支配政権だったみたいですね。
128日本@名無史さん:2005/07/08(金) 09:01:49
>>126
>なるほど。神社にいる「こまいぬ」も、あれが想像上の動物の「こま」で、
>「いぬ」はつけたりなのだろうね。

「こまいぬ」は7世紀高句麗が滅んで日本に難民がやって来たときに持ち込んだものだ。
本来は中国の獅子が起源なのだが、高句麗から来たから「狛犬」とされた。
沖縄では中国から直接来ているから「シーサー(獅子が訛った)」になったのだよ。

日本では獅子の姿を見た事は無いし、「狛」も見たことは無い。
四足だし頭を除けば犬に見えなくも無い。
高句麗人が持ち込んだから取り合えず「狛犬」としたのだろう。
129日本@名無史さん:2005/07/08(金) 22:58:13
訓読みの「こま」は熊だろうか。
そうすると「駒」の「こま」はどうなる?
本当は「こま」は一般に「たくましい動物」を言うのではないか?
だから「駒」は本当は「こまうま」で、体格のいい馬のことではないか?
130日本@名無史さん:2005/07/09(土) 03:11:27
電波祭り
131日本@名無史さん:2005/07/09(土) 03:14:48
こま=子馬 アフォくさ
132日本@名無史さん:2005/07/09(土) 03:26:14
>>130
2chの古代史関連スレはそれを楽しむ場所。
133サガミハラハラ:2005/07/09(土) 07:34:54
こま=小馬
本来の馬より日本の馬は小柄なので小馬となづけた。  といってる人がいました。
134日本@名無史さん:2005/07/09(土) 08:19:48
素戔嗚尊・大国主命は馬に乗ってねえよ
♪〜大きな袋を肩にかけ、だぞ
135日本@名無史さん:2005/07/09(土) 09:44:11
古代騎馬民族軍団の祭器が銅鐸なの?
136日本@名無史さん:2005/07/09(土) 09:53:53
古代騎馬民族の末裔=聖徳太子=ツングース=源氏=明治天皇
銅鏡だよ、光、白は彼らのもっとも神聖とするものだ。
源氏は出目を明らかにせよ
137日本@名無史さん:2005/07/09(土) 10:03:32
鮮卑拓跋部の北魏の漢姓は元氏だが、「原氏」との説もある。
日本の源氏も別方向で見ると天皇家の姓と考えられないこともない。

これは電波系かも知れんが、聖徳太子(厩皇子)自体が極東突厥人説もあるらしい。

…となると
古代騎馬民族の末裔=聖徳太子=トルコ+ツングース=源氏=明治天皇だろう?
138日本@名無史さん:2005/07/09(土) 10:29:49
>>137これでは電波にもならない
139日本@名無史さん:2005/07/09(土) 11:24:55
俺を学者として迎えるなら真実を明らかにしてもよい
140サガミハラハラ:2005/07/09(土) 12:28:40
銀座駅前大学で教授の資格をとってはいかがでしょう。
141日本@名無史さん:2005/07/09(土) 12:31:07
みんながんばろうね。
もう、万里の長城は直ぐそこ・・・
142日本@名無史さん:2005/07/09(土) 13:33:48
>>133
漢和辞典によると「若くて元気な馬」「小型の馬」の二つの意味があるらしいね。

君し来ば、手だれの駒に飼ひ飼はむ、黄ばみ枯れたる下葉なりとも。(源氏物語)

この「駒」の意味は別だけど。
143日本@名無史さん:2005/07/09(土) 17:44:50
ホ・ジェヨン・ソウル大国語教育研究員首席研究員は、「日本の学者たちは、日本語が
アルタイ語(及び韓国語)とは独立的に形成され、むしろ日本語が韓国語に影響を与えた
というふうに説明している。・・・・・」

ソース:ハンギョレ新聞を抄訳<“日本語の根は韓国語” 学問的立証>
http://www.hani.co.kr/section-009000000/2005/07/009000000200507081721054.html
144滝沢馬琴:2005/07/09(土) 18:50:23
前方後円墳をみると、アレは完璧に騎馬民族の象徴の馬蹄アーチと一緒
......と思う。
145サガミハラハラ:2005/07/09(土) 19:26:04
前方後円墳はあれは人型なのですよ。くびれ部分に糸をつけるとてるてるになるでしょう。
146日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:28:55
>>145
貴方はもしや平家の末裔では?
147日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:29:51
イクイクオナニミコはフィンガーマンで女どもは穴を突き上げ
それを激しく求めた。
前方後円墳は、マムコにも見えますね。
148日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:54:39
>>128
>本来は中国の獅子が起源なのだが、高句麗から来たから「狛犬」とされた。

異説もある。その説によれば神社の狛犬は一対の獅子なのではなく「狛」と「獅子」
の組み合わせだ。角の生えているほうが狛で生えてないほうが獅子。
もとはどちらもペルシャなどのライオンだが、中国で狛と獅子に別れた。
日本で、前者には「こま」という訓がついたが後者にはつかなかった。

この説が正しければ「あれが想像上の動物の「こま」」というのは半分
あたっているわけだし、高麗から来たからこま犬、というのは順序が逆。
高麗は「ワイ狛」の狛、狛の訓は「こま」、だから高麗は「こま」という
順序だ。
もっとも「ワイ狛」の狛は本来はむじな扁だけど。
149日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:30:56
>もっとも「ワイ狛」の狛は本来はむじな扁だけど。

狛は「貊」。中国語では「ばく」だね。

>高麗は「ワイ狛」の狛、狛の訓は「こま」、だから高麗は「こま」という
>順序だ。

日本に存在せず、見た事もない動物に倭訓が有ってたまるか。
典型的トンデモ。
150日本@名無史さん:2005/07/10(日) 13:31:00
朝鮮半島の付け根に蓋馬(ケマ)高原という大きな山塊がある。
高句麗が「こま」と呼ばれた事に無関係ではあるまい。

日本人は高句麗が「貊」であり「熊」に似た動物を始祖とする伝説を持っていた事も知っていた。
それが高句麗を「こま」と呼んだ理由だ。

高句麗の始祖伝説として「三国遺事」に書いてある「熊女」の話は後世に作られた話とする説がもっぱらだが、
昔からあった話であると考えるのが妥当だ。
このように推理をしていけば熊野神社は高句麗系神社である可能性は強い事になる。

そして熊野神社が祀る素戔嗚尊が新羅に来る前にいた所は高句麗。
高天原も高句麗という事になるのだ。

日本に来た騎馬民族は高句麗族で間違いない。
151日本@名無史さん:2005/07/10(日) 13:43:37
いやだから、来てないって
152日本@名無史さん:2005/07/10(日) 14:57:30
幕末に日本へ来た英国将校が日本には去勢がないと。職人が西洋式馬具
蹄鉄は造れたが、そんな可哀相なことは出来ませんと拒否。
騎馬民族で去勢を知らないとは。
153日本@名無史さん:2005/07/10(日) 19:55:05
準構造船のような丸木舟に毛の生えたような船で馬を運ぶ事は難しかった。
子馬で運んで日本国内で繁殖させたのだろう。
なぜ難しいのにそうまでして馬を運ぼうとしたか?
騎馬民族だからだ。

去勢したら繁殖できないだろ?
何代も去勢せずに繁殖させている内に去勢する技術は忘れてしまったんだ。
これで辻褄が合うだろ。

それからモンゴル平原の東にトゥバ族という、去勢をしない騎馬民族がある事も指摘されている。
去勢をしないから騎馬民族ではない、などアホの言い草。

154日本@名無史さん:2005/07/11(月) 02:16:54
>153
南鮮で騎馬隊と戦闘してるうちに、
戦闘における馬の重要性を知ったからだ。
インディアンも同じだろ。
知れば馬の飼育に乗り出すのが当然だ。
155がいやまん:2005/07/11(月) 09:12:13
参照→馬飼首(うまかいのおびと)列伝
http://www.infonet.co.jp/nobk/kwch/umakai.htm
156日本@名無史さん:2005/07/11(月) 10:20:44
関西は牛車でしょ。
157日本@名無史さん:2005/07/11(月) 16:26:57
熊野神社の御神体は素戔嗚尊というが
角があるのは牛頭天王に関連するのか
また素戔嗚尊はなぜに水神系の神々と関係があるのか
158日本@名無史さん:2005/07/11(月) 17:41:51
貧乏暇なし
159日本@名無史さん:2005/07/12(火) 00:19:53
>角があるのは牛頭天王に関連するのか

高句麗語で「牛頭」は「次若」となる。
「次若」は「tu-nyak」と発音されるから、日本語の「角(つの)」に対応がとれる。


160サガミハラハラ:2005/07/12(火) 17:13:40
>>134
因幡の白兎の話だが、インドネシアに登場動物は違うが、(ソロモン王のご命令だとして鹿?だかが騙したという話。うろ覚えですみません)
似たような話があるが、これは、戦国時代に南方に進出した日本人が伝えたものですよね。
161日本@名無史さん:2005/07/12(火) 17:44:31
確か南方には、浦島太郎伝説もあるだろうが
162日本@名無史さん:2005/07/12(火) 19:03:15
高句麗神話にも朱蒙を父親が殺殺そうとして、川まで追い詰めた時、魚が橋を作って朱蒙を逃がした、と言う話しがある。
163日本@名無史さん:2005/07/13(水) 16:51:32
ツングースって、なんか曖昧な民族じゃないの
一部が騎馬民族に分化したの
騎馬というより先祖はトナカイに騎乗してたんだろう
164日本@名無史さん:2005/07/13(水) 16:58:13
想像だけど、始皇帝の前は万里の長城より南はみな
アイヌのような白人ぽい人種住んでいたのではないか?
辺境に住んでいた新モンゴロイドが南に住んでいる
豊かな民族から土地を奪おうと文明を発展させたのかも
目つり上げながら
165日本@名無史さん:2005/07/13(水) 16:59:20
>>163
最初から騎馬化していたとは考えにくい。
166白馬青牛:2005/07/14(木) 00:47:44
>>163
ツングースは、ホジェン族(ナナイ族)のように漁労を生業とした
部族もあった。のち、平安期に刀伊(女真)が北九州を襲ったように、
海賊の要素もある。
仮説であるが、島根から広島、鳥取に四隅突出墳を残した者も、日本海
ルートで北陸に勢力を広げていること、あるいはオホーツク文化、
(北海道)まで考えると、把婁と同じく、水軍としての性格が強いとも
思える。
こう考えると騎馬民族説より、ツングース水軍説に近くなるが。
ツングースのみならず、トナカイ騎乗から、内陸アジアは騎馬民族化
したという説もある。
167日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:53:08
騎馬民族なんて日本に来てねえし、考古学的根拠に乏しいし
バカ説認定。
168日本@名無史さん:2005/07/14(木) 01:03:22
きてるよ。縄文人と現代日本人が顔が違うのが何よりの証拠。
ツングース=源氏、先住民族=平家
氏姓制度、貨幣制度
169日本@名無史さん:2005/07/14(木) 05:03:43
>>168
弥生人として来たのはまだ騎馬民族説の対象ではない。
その後の波として4世紀以降に来て、政治的に支配した一派があったと
想定するのが騎馬民族説。
170日本@名無史さん:2005/07/14(木) 09:24:41
>>166
ツングース水軍説はおもしろいと思う

171日本@名無史さん:2005/07/14(木) 10:38:34

昭和天皇はなぜ何度も江上を呼んで騎馬民族説を聞いたのでしょう?
172日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:46:29
>>166
あなたの言うように、ツングースは非常に柔軟な民族で、土地に合わせてなんでも
やって暮らしていたと思う。そのことは間宮林蔵の探検記を読めばわかる。

それはともかく、日本を征服したと想定される「扶余」のイメージは後世の満洲族
を考えればいちばん近いのではないか。
つまり、扶余は狩猟、牧畜、農奴制の農業などを行うと同時に国民皆兵の軍事組織を持つ
戦闘的な民族だった。また毛皮、宝石、馬などを商品として中国と交易していた。
またいくつかの国家を作った実績から言って組織力、政治力にすぐれていた。

このようなイメージは、明末の満洲族とそっくりである。そして満洲族は江上の言う
「騎馬民族」の典型である。
173日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:55:39
ツングースの信仰とはなんだ?金、白はまさにツングースを
象徴してると思うが
【社会構造】
エベンキの社会構造は父系氏族が基礎にあった。同一氏族に属する家族
は互いに協力しあい、定期的に開かれる氏族会(スグラーン)に出席し
て今後の方針を決め、首長を選出した。氏族外婚は厳守され、同一氏族内
の結婚は大罪とされたが、逆に婚姻関係の認可という形で氏族の分派独立
が認められることもあった。結婚に際しては婿方の氏族から嫁方の氏族に
婚資が支払われ、婿が嫁の家にしばらく滞在してのち、嫁入りの儀式を行い
、新居を営んだ。このような氏族組織は、17世紀にロシア人が接触を始めた
ころには盛んだったが、新しい猟場、遊牧地を求めての移動や、ロシア人、
中国人などの影響によって家族ごとに分解し、19世紀には婚姻規定を除いて
はその機能の大半を喪失していた。

174日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:59:25
氏姓制度、万世一系思想、集団主義がここにもみられる。
そう、天孫はまさにこのツングースそのもの。
175日本@名無史さん:2005/07/14(木) 14:01:36
歴史に詳しくなくとも、古代中国の北辺でもっとも厄介な存在だったのが
「匈奴」だ、ということは誰でも知っている。そのイメージは凶暴で狡猾。
「匈奴」は時代的には、分裂したフン族の残党ともいえる遊牧騎馬民族だ。
とにかく西はヨーロッパの端まで遠征し、ユーラシア大陸の小国を片っ端か
ら征服した、怖ーい軍団帝国として世界史に知られている。
176日本@名無史さん:2005/07/14(木) 14:48:24
なぜ朝鮮元軍は出雲を襲わなかったのであろうか・・
177日本@名無史さん:2005/07/14(木) 21:04:00
朝鮮元軍てなに?
178日本@名無史さん:2005/07/15(金) 04:53:02
>>171
>昭和天皇はなぜ何度も江上を呼んで騎馬民族説を聞いたのでしょう?

それは天皇家に、出自に関する言い伝えがあるからです。
神皇正統紀を書いた北畠親房もそのことを暗示していると、なにかで読んだ
ことがあります。
179日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:41:36
>>178
まさに神の国なり、というやつね
180日本@名無史さん:2005/07/15(金) 14:16:22
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumiall.htm
古代ビビンバ王国
東北の白虎隊会津も彼らの末裔かもね、吉備のビビンバ埴輪も
彼らの遺跡と関係ありそう。
181日本@名無史さん:2005/07/15(金) 14:56:31
>>179
>まさに神の国なり、というやつね

違う。天皇家は朝鮮から来た、という天皇家の言い伝えだ。
それは書きたくても書けない、ということを北畠親房が暗示した。
182日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:00:54
ヤマトの頃までの濃い顔の天皇は先住民族だった
今の天皇(源氏)は韓神をまつる出雲朝鮮人の直系
183日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:03:07
みんな天皇みたいな顔になるのです。
これがほんまもんの元寇です、万里の長城は既に
スンダランドを超えました
184日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:41:21
>>181
逆じゃないの
「神皇正統記」は、そのような邪説を排除している
185日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:44:07
>>184
あなたはどっちだと思う?
あの顔が日本列島独自に進化した顔だと思う?
186日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:53:40
すくなくとも「朝鮮」という背景を背負ってはいないな。
187日本@名無史さん:2005/07/15(金) 16:02:28
源氏が新羅、高麗を神と祀っている以上
公にはできないが出雲ツングースだよ。
188日本@名無史さん:2005/07/15(金) 20:28:19
>>185
だからそれが「立て前」だということだ。
189日本@名無史さん:2005/07/15(金) 20:34:48
立て前で済む問題かよ・・
190日本@名無史さん:2005/07/15(金) 20:58:26
ウチの先祖は神功皇后。源頼朝。島津義弘と轡を納めてきたんだが
なぜか必ず海中から引き揚げた碇を原料にしたことになってる。
神巧皇后と頼朝は誉田八幡宮縁起書に書いてある、義弘は羽曳野市に文献が残ってる。
191日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:28:55

昔日本は【三韓と同種】なりと云事のありし、かの書をば桓武の御代に 焼きすてられしなり。
192日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:31:27
三韓は本来倭人の済む地域だったのだろう。
縄文遺跡の分布からみても明らか。
193日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:48:47
古代三韓人と倭人は基本的に人種は同じ。
出雲族は高句麗、新羅の騎馬化する前の
新モンゴロイド系ツングース族。
彼らは半島と東日本一帯を朝鮮顔に変えた。
194日本@名無史さん:2005/07/15(金) 23:16:14
皇国史観が真実をねじ曲げている、アマテラスは
出雲、新羅。出雲族系の源氏派は朝鮮人顔。
195白馬青牛:2005/07/16(土) 00:42:44
>>172
扶余は、満洲族よりモンゴル的要素(牛飼育)もある。
満洲は、騎馬化以前に水軍的部分が多かったと思うが。

梅棹氏によると「船が大型化して軍事勢力として編成されるまで、
初期段階では、静かな水域が必要で、大河や湖が、かっこうの場を
提供する。ヴァイキングにしても、フィヨルドという静かな水域が
ないと育たなかった。各地に広がっていくときも、大洋を押し渡ると
いうより、海岸伝いに行って、セイヌ川、とかテムズ川のような大河川を
遡っていく。あるいはバルト海経由でロシア内陸部まで、大陸河川を
伝っていく。その過程で、船が大型化して軍事勢力として安定して。
極東北部での水軍育成流域は、遼河、松花江、鴨緑江であり、西洋の
ノルマン・コンクェストに対比し、ツングース・コンクェスト。
神武東征伝説が、なぜ陸軍でなくて水軍による遠征になているのか。」
と北方海洋民族による征服説となる。                                   
196白馬青牛:2005/07/16(土) 01:02:18
今日は、酒が入った(飲み会)の後なので、195は、文章が乱れて
おった。
>船が大型化して軍事勢力として安定してくる。
>陸軍でなくて、水軍による遠征になっているのか。
と訂正する。
197日本@名無史さん:2005/07/16(土) 02:16:42
扶余はモンゴルでもトルコでも南サモイェードでもいいんじゃないの?
ま、少なくともツングースやシベリア・イヌイットではないことは確か。
198日本@名無史さん:2005/07/16(土) 04:43:11
>>189
北畠親房が本を書いたのは天皇家の「正統性」を証明するのが目的だから、その過程で
天皇家の由来に深く入り込んだ。そのなかではからずも「朝鮮由来」という事実に
つきあたったのだ。
それを書くわけにはいかないので暗示するに止めた。

>>195
扶余水軍説は面白いね。梅棹のその説ははじめて聞いた。
それならば、扶余が鮮卑に敗れてヨクソ(いまの北朝鮮・ロシヤ国境あたり)に
走ったあと、半島東岸沿いに水軍で南鮮に至ったことは十分あり得る。
199日本@名無史さん:2005/07/16(土) 11:03:10
ツングース諸民族はケツに蒙古斑が出るの?
200日本@名無史さん:2005/07/16(土) 12:07:36
ツングースだけではなく、シベリア・イヌイットも。
201白馬青牛:2005/07/17(日) 00:04:53
>>197
扶余は、モンゴル的要素もあるが、概ねツングース系であると思う。
梅棹忠夫氏の生態学的考察において、ツングース地域は森林で、
だいたいが巨大な川の地帯。興安嶺あたりを境目に東西に分かれる。
遼河の契丹(遼)もモンゴル語系であったとしても、生態学的に
ツングース系とされておられる。なるほど東胡系鮮卑、契丹等の
征服王朝のタイプも、モンゴル帝国型よりも、女真、満洲型に近い。
>>198
梅棹氏は、初期において黄海側(静かな海)を考えておられる。
百済が、遼西・晋平の二郡を占拠したという『宋書』『梁書』『南史』の
記述から海上からによる南朝鮮進攻も考えられる。
のちの渤海は、唐と新羅に海上封鎖され、黄海はおろか、東海岸沿いも、
敵国新羅がおるので、日本海の大洋を押し渡る手段しかなかったが。
202日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:16:03
扶余については南洋的な風習を持ってるから、縄文や南洋系とも
関係がある、周辺のツングース系の影響を受けツングース化したと
思う。(それでも彼らは半島の異端児だった)
出雲に渡ってきたタイプは扶余ではなく、扶余の影響を受けた
ツングースそのものだったと思う。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
203日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:27:39
そもそも騎馬と限定するのは視野が狭い。
ツングースは極めて柔軟でずる賢い民族だから
何だってする。
204白馬青牛:2005/07/17(日) 01:33:13
>>203
ツングースがずる賢い民族?ロシア人もツングースを「シベリアの貴族」
と定義し、日本人も、満洲人を「彼等はシナ人の尊大さがもたらす
傲慢さや意地悪さを好んでおらず」や「ことのほか正直に申しうけ候。
いつわりごと一切なく、金銀ちらしおきても盗みとりなく、いかにも
律儀に候」と親しみをもっておる『異国物語』。
シロコゴルフも、「ツングースは阿諛(こび、へつらい)を甚だしく
嫌う。阿諛されることも嫌うから、ブリアートをこの為に嫌うので
ある。」モンゴル系は純朴で鈍重ではあるが、服従されやすい民族
でもあり、河口慧海氏のチベット旅行記にも、「モンゴリア人はどうか
するとつけたようなお諂(おべっか)などをいう。その点において
チベット人は最も酷い」カム人(東部チベット人、四川省西部、戦前の
西康省のチベット人)は、「むやみにお諂などというのは大嫌いの性質で
ある。」
チベットを潜行された西川一三氏も中部(農耕地帯)のチベット人を
朝鮮人の気質、西康人やタングート人(森林もある狩猟牧畜地帯)の
性格は日本人に似ていると記しておられる。話がズレたが。
205日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:53:17
そういう評もあるんですね。
ツングースや騎馬民族には悪いイメージが
あるもので。。
206日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:11:06
確か、出雲族は神武天皇(カムイ≒イワレビコ)とは別のグループの部族で、
ある説によると、鉄鍛冶に長じた技術を持ったらしいから、
原トルコ族の丁霊の系統の可能性もある。トーテムはわからんけどな。

扶余も多分、丁霊と同じトルコ系の翟(白狄)やツングースと海洋民族と
複雑に混血を重ねて形成されたと思われるが。
207206:2005/07/17(日) 09:20:56
ソース仔細
【始皇帝】徐福伝説ヨリ

352:鴨禰宜:2005/04/07(木) 13:34:18
吉備は王莽、貨泉の時代から造山古墳に至る400年の間何をしてきたのかを考えると
大きく見て邪馬台国建国以前、いわゆる、投馬国時代、それと河内王朝草創期の時代
に分けてみるのが一法かと。共に謎の多い頃で、重要な頃であると思うが、この時代の
象徴である鏡、特に三種の神器、大型国産?製鏡等を考えると吉備はその最終到着点
ではない。漏れは吉備にある生部(なしべ)は邪馬台国外交官として活躍したのではない
かと思うのだが、勤務地は、トウチゴリと同じく、大和の十市近辺ではないかと思う。
神武記は吉備を通過地として把握しているがなかなかたいしたものだ。現在漏れは
スサノオをトルコ系遊牧民族小月氏の首長で、秦氏と共に大目尊の後を追って渡来
したものと考えている。
208日本@名無史さん:2005/07/17(日) 12:50:53

出雲族(天孫)が白を好むことから白狄と関係がありそう、国が滅んだのも
BC3Cころで天孫族の出雲渡来と一致する、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
墓の形状でも一致すれば確定なのだが。。

白狄<はくてき>【異民族】

 主に山西省西部や陝西省東部に居住していた異民族の総称。
白い衣を着ていたので白狄と呼ばれる。
http://www.npo-shoken.or.jp/denshi_juihitu/zuihitu/gyoku.htm
209日本@名無史さん:2005/07/18(月) 02:09:21
>>171
正月に皇居でやってる「講書始の儀」だよ。
何人かの学者らとともに天皇の御前で講義する、
よくテレビでも放送されてるあれですよ。
あれに宮内庁に選定された江上波夫が出たことがあって、
そこで江上が騎馬民族説話したということ。
昭和天皇が何度も呼んだとか言う話なんて聞いたことがないし、あり得ない。
210白馬青牛:2005/07/18(月) 03:09:51
>>206
トルコ系突厥の先祖も、鉄工であり、遊牧民は鉄(武器)の欲求から、
鍛鉄の技術に巧みな部族に特別な立場を与え、それが発展の有力な
原因となった。
高車丁零のトーテム獣は、突厥と同じく「狼」。
天山山脈の鉄産は、良質とされておった。そういえば、付近に住んで
おり、西突厥部族連盟に加わったトルコ系弓月族の後裔は、
カンクリ(康里)人。カンクリとは、高い車を持てるもの意味で、
高車丁零族を思わせる名である。
秦氏(弓月)がトルコ系弓月族と結びつくかまではわからん。
ただ、同じく渡来系の漢氏も、牧畜民的伝説と騎馬習俗を持って
おった。漢氏、秦氏も騎馬近衛兵でもあったので、北方牧畜民族と
関連があったと思う。
211日本@名無史さん:2005/07/18(月) 03:18:26
大局的にみて、生産力の増強を目指す部族とそれを武力で奪う部族
に分けられるように思う。
それぞれの文化習俗が血縁を超え複雑に入り乱れている。
日本の場合、天孫族は武力で奪うタイプの部族。
ヤマト族は増産重視タイプ。
212日本@名無史さん:2005/07/18(月) 03:28:55
そして騎馬的生き方は低成長時代の生き方であり
需要創造型のヤマトの生き方が好ましいと思う。
騎馬民族の生き方は好きではない。
213日本@名無史さん:2005/07/18(月) 09:35:55
…となると、カムイ・イワレビコ≒神武天皇率いる部族の『天孫族』は
『烏』をトーテムとして、モンゴルを骨子にトルコ+ツングースの混血かな?
ある記録を見ると『天孫族』の風習は大化の改新の形成までは、
匈奴や鮮卑や蒙古と同じ末子相続だったらしいから。神武天皇自身も末子で。
なんか、チンギス・ハーン後裔の『黄金氏族』とダブるわけで…。

一方、出雲の『大和族』はモンゴルよりも穏やかなトルコ系で、
鉄鍛冶などを奨励する需要創造型の部族であろう。
『スサノオ』の読み方はモンゴルの『オノン』河と似てるのは単なる偶然だろうか?

まあ多分、両部族とも隼人・熊襲・安曇などの海洋民族を奴隷にしたと思う。
それが北方遊牧民の宿命ともいえる忌まわしい性質らしいけど。
214日本@名無史さん:2005/07/18(月) 12:31:36
出雲はどうみても天孫だろう。
神武はどうも大和の裏切り者という気がしてきた。
215日本@名無史さん:2005/07/18(月) 13:00:49
>>210
多少亀レスっぽくなるが、康里族ってカルルク族と同じトルコ系で、
西突厥の弓月部族の一つで11、2世紀頃にシル河に定住した民族でしょ?

チンギス・ハーンの大征西のきっかけとなった中央アジアのホラズム朝は、
カンクリ族の王朝とは違うの?

216白馬青牛:2005/07/18(月) 16:39:05
>>215
その通り、カンクリ(康里)は、モンゴル時代頃シル・ダリア方面に住み、
ホラズム朝のなかに入って有力な傭兵集団となっておった。

この地域で興味深いのは、シル河の中の島に城塞を作り、寡兵ながら
得意の水上戦法を用いて、モンゴルの大軍を悩ましておる。
トルコ系は、水戦、鍛鉄、建築等生産的な業もなすが、モンゴル人は、
水を怖れ、生産的なものは、奴隷のする事と考えておったのかも知れん。
サマルカンドでは、降伏したカンクリ兵にモンゴル兵の髪型をとらせ、
安心させて騙し、彼らを皆殺しにした。よほど手を焼いたのであろう。

ホラズム朝は、セルジュク朝に仕えたトルコ民族の奴隷アヌシュ・テギン
を祖とする。カルルク族かカンクリ族かはようわからんのです。
217日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:00:19
モンゴル人は酷いな、そうは見えないけどな。
しかし、モンゴル人というのは明確にトルコと区別できるもの
なのだろうか?漏れの認識ではモンゴル人はトルコの後に
勃興してきたタイガの田舎者という認識だけど
218日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:19:20
そのアヌース・テギンの孫のアーチズがセルジューク朝から完全に独立し、
多分、カルルク族の政権と思われるカラハン朝の衰弱に乗じて、
広大な中央アジアの大部分のホラズム朝を建国したらしいね。
その前後にモンゴルとツングースの混合体らしき契丹族の遼の準皇族の
耶律大石が、母国を滅ぼされたツングース系の金に追われて西進して、
カラハン朝も含めて現在の新疆省と中央アジア東部を征服し西遼(後遼)
→カラキタイ=黒契丹を再興したらしいね。
おそらく、西遼はホラズム朝とは同盟しセルジューク朝と激戦したと思われ。
そのアーチズの曾孫がチンギス・ハーンと戦ったムハメッドであるわけで。
219日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:27:02
>>216
>この地域で興味深いのは、シル河の中の島に城塞を作り、寡兵ながら
>得意の水上戦法を用いて、モンゴルの大軍を悩ましておる。
>トルコ系は、水戦、鍛鉄、建築等生産的な業もなす

この部分が結構興味深いんだけど、出雲の天孫族にも該当するね。
だとしたら、この部族はトルコ系が濃厚かも知れない。

神武天皇の部族はトルコ系なのかモンゴル系なのかは見当がつかないが。
>モンゴル人は、
>水を怖れ、生産的なものは、奴隷のする事と考えておったのかも知れん。
この事項がある通り、神武天皇の部族はモンゴルとトルコの混合民族かも。
220日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:31:41
http://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代の墓制
支石墓
朝鮮半島の影響を考慮すると、支石墓の被葬者は半島からの渡来人
であると想定されていたが、実際に考古学的に分析してみると、
被葬者は縄文人的特徴が強いことが判った。その謎を解明するため、
いくつかの説明が試みられているが、明確な結論は出ていない。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、
弥生時代後期の山陰地方・北陸地方に見られる墳丘墓である。
方形墳丘墓の四隅を突出させ、その突出部に葺石を施すという特徴がある。
広島県の三次盆地に発祥し、雲伯地方へ広がり、さらに富山県地方へ
伝わっていった。このことから、山陰〜北陸にわたる日本海沿岸の
文化交流圏を想定する論者もいる。

必死で北部九州人を朝鮮人と結びつけようと考える東京人の嫌らしい策略が
かいま見える。九州北部の弥生はほぼ続縄文人。
土井が浜出雲人こそモノホンの朝鮮人。
221日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:44:39
>この事項がある通り、神武天皇の部族はモンゴルとトルコの混合民族かも。

神武の部族は古代王朝の系統、神武以前はそれぞれの地域から大国主命を
選んでいたという説が有力、万世一系思想は天孫続が持ち込んだ思想
ではないか?ヤマト勢力の中でそれに乗った勢力が神武勢力だと思う。
おそらく西南九州一帯はその思想には与していない。
>モンゴルとトルコの混合民族かも。
確かにヤマトにはモンゴル的な性質があるようにも思う、しかし、
考古学的にはヤマトはほぼ続縄文文化的民族であり日本独自で
発展した民族。
想像だけど、彼らは中国から逃れてきた政治難民だと思う、
だから半島を素通りし、死ぬ思いをして海を渡る
必要もあった、自らの出自を明確に残していないのもその為だろう。
ばらしたら中国本土から攻めてくるからね。
222日本@名無史さん:2005/07/18(月) 18:05:40
新羅、高句麗と倭との戦争も
出雲と新羅、高句麗の深い関係が
倭国自体の存亡に関係してた為ではないか。
(半島南西部の領有権も含めて。)
223日本@名無史さん:2005/07/18(月) 18:18:55
北部九州の弥生習俗は裸足でハチマキをしめ、入れ墨をし
縄文時代の道具をそのまま使い、
高床式の倉庫を建築していることから
http://erewhon.ticonuno.it/arch/rivi/popoli/fig4.jpg
この人達と似通った民族であったろうと思われる。
むしろ極東地域の一般的な習俗だったのではないか?
これ以降、中華的文化、あるいはツングース的な文化が
少しずつ取り込まれていく。
224日本@名無史さん:2005/07/18(月) 18:36:34
東南アジアのネグリド黒人そっくり。
アジア人も色の濃いのは黒人、色の薄いのは白人
そっくりだったんだろ・・
むしろ目の細いモンゴルタイプは少数派だったに違いない。
225日本@名無史さん:2005/07/18(月) 18:39:41
>>221
確か神武天皇の時代は中国では五胡十六国の時代の最中でしょ。

あの時代はある意味純粋の漢族政権の終焉を物語る時代であったわけで。
南匈奴・鮮卑・氐羌などのモンゴル・トルコ・チベット系の多種族が中原に
乱入し、文化の吸収・重なる混血・言語の変異が隋の中国統一の原型なったと思われ。
北だけではなく、南もヴェトナム人の祖の越部族やタイ系諸族との混血も重ったはず。

>想像だけど、彼らは中国から逃れてきた政治難民だと思う、
>だから半島を素通りし、死ぬ思いをして海を渡る
>必要もあった、自らの出自を明確に残していないのもその為だろう。
>ばらしたら中国本土から攻めてくるからね。

これらが上で記した事項と無関係とは思えないのだが。
226日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:00:37
倭人は呉の裔と自称しておる。
もっとこれを重視すべき。
前五世紀の呉越戦争で敗れた呉の難民が九州北部にやってきて弥生時代が始まった。
弥生時代を前十世紀とか言い出したパアな学者がいるけどほんと知能はチンパンジー以下。

騎馬民族が来たのは古墳時代。
応神天皇の時だ。
227日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:10:45
神武勢力(ヤマト)は中国あるいは半島から来た
侵略民だとは思えない(先住系大国の系統)
ただ、天孫族(高句麗、新羅に近い)のような新興勢力と与したことで
日本の土着勢力の抵抗はあったと思う。
ヤマトがもし五胡十六国のいずれかの部族であるなら、随の倭に対する
外交姿勢も違っていたように思う。

>倭人は呉の裔と自称しておる。
文化的にみると北部九州は南洋系(あるいは古代極東の標準的な文化)
呉越時代の頃はまだ、ポリネシアンがあの近辺に居たという
遺跡の研究もあった。(うろ覚え)
228日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:20:42
>騎馬民族
これも、、騎馬化してないツングースの存在を一切無視している。
凄い短絡的なんだよな。。馬鹿御用学者。
229日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:24:37
というか『倭』と『大和』は全く別系統の民族。

倭は古モンゴロイドの種族。全身に黥(イレズミ)や断髪の風習があり、
水泳の名人が多く、背が低く海洋民族と共通する。呉や楚と同系統と思われ。
もしかしたら隼人・熊襲・安曇などはこれらに属するであろう。

一方、大和は出雲の天孫族とは系統は離れてるが、大陸から来た新モンゴロイド。
古モンゴロイドと異なり、背が高く弁髪か月代や末子相続の風習があり、
まさに北方遊牧民族系かと思われ。シャーマニズムもその名残と思われ。
彼らが何故渡海したかというと、
>トルコ系は、水戦、鍛鉄、建築等生産的な業もなす
というように、遊牧系には珍しく水戦を得意とするトルコ民族がいたから、
大規模の舟を増築し、必要な馬を乗せて日本に来たと思われる。

ただ、神武糸と応神系が別系統の部族というのは考慮する点でもあるが。
230日本@名無史さん:2005/07/18(月) 20:02:31
西日本、半島は縄文土器は早くに無文化するからね、縄文人骨のまま変わりなく。
そこで、弥生が始まったかと思えばそれは違う、弥生の後期でも
縄文的人骨が出続ける。弥生式土器は単に製造方法の進歩と利便性
縄文に宗教的な価値が無くなっただけかもしれない。
(それ以外の古代習俗は受け継がれている。)
縄文時代、弥生時代と土器だけで時代の変わり目を区切る自体が
もう時代遅れ。
231日本@名無史さん:2005/07/18(月) 20:05:28
集落も縄文の集落をそのまま弥生集落にした可能性もあるらしい。
なんせ縄文時代の器具そのまま弥生時代の流用してる位だから。
そうすると、人口推定も当然見誤るよね。
スレ違いsage
232白馬青牛:2005/07/19(火) 05:49:46
>>217
モンゴル側からいえば、ホラズムに送った使節を殺されたわけで。
「使者は殺されぬ」はトルコ族の格言にもあり、これは、当時でも
国際法上の侵犯。日本でも平安期まではそうであった。鎌倉期は
違うであろう。
トルコ人とモンゴル人の区別は、言語、民族によるもので、もちろん
人種的なものでは無い。トルコ人は、支配した農耕、牧畜、狩猟民を
トルコ化し、アナトリアから東シベリアまで、広がっておるが、
モンゴル人は、ツングース的要素のある東胡系は別として、遊牧生活に
こだわり、概ねモンゴル高原のトルコ人をモンゴル化したに過ぎず、
他民族への同化力に違いがあると思う。
トルコ・モンゴル・ツングース系の遊牧民や狩猟民は、
「窃盗、嘘言、詐欺は恥すべき行為」と共通の性質も多いのであるが。
233日本@名無史さん:2005/07/19(火) 07:10:14
>>232

>モンゴル人は、ツングース的要素のある東胡系は別として、遊牧生活に
>こだわり、概ねモンゴル高原のトルコ人をモンゴル化したに過ぎず、
>他民族への同化力に違いがあると思う。
>トルコ・モンゴル・ツングース系の遊牧民や狩猟民は、
>「窃盗、嘘言、詐欺は恥すべき行為」と共通の性質も多いのであるが。

多分、出雲の天孫族も神武天皇≒カムイ=イワレビコの大和族もそれらの
グループの一派の可能性が濃厚だと見た。

実に興味深いな。
234日本@名無史さん:2005/07/19(火) 13:55:58
>>201
そういえば、扶余の本拠地、満洲中部の交通は、清国の時代に至るまでほとんど
河川だった。康煕帝は、満洲北端のロシヤ人の砦、アルバジンを攻めるのに、
まず吉林に造船所を作った。松花江、黒竜江経由で兵員物資を輸送するためだ。
吉林という地名は造船所という意味の満洲語に由来する。

扶余とて同じだったのではないか。広い領地を治めるのに、松花江などの河川の
交通に頼っていたのではないか。扶余、楡樹など扶余の遺跡は第二松花江沿いに
ある。
鮮卑に攻められてヨクソに走るときも、第二松花江を一本遡れば行けた。
あるいは敵に近すぎて危ないと思えばいったん松花江を依蘭まで下って、牡丹江を
遡ればヨクソの北部まで行けた。

扶余は案外に内陸水軍を持っていたのではないか。少なくとも水軍の
発達に黄海を必要としなかっただろう。
235日本@名無史さん:2005/07/19(火) 18:32:45
天皇家が朝鮮半島から渡来したと言う説は良く聞くが、証拠は不十分である。
それに天皇家の顔はどちらかと言うと縄文系に見える。
聖徳太子にしても、後醍醐天皇にしても、半島系の目つきをしていない。
仮に半島から来たにしても、現在の朝鮮人とは血縁関係があるようには見えない。
236日本@名無史さん:2005/07/19(火) 18:34:24
>>235
苦しい言い訳に聞こえる。
237日本@名無史さん:2005/07/19(火) 21:27:55
朝鮮も南と北では人種が違うから。

天皇家は北の方だろ。
238日本@名無史さん:2005/07/19(火) 21:40:55
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
間違いなく北系。
ちなみに、モンゴル人に近い民族がツングースに
半島南部、列島に押し込んだ説
もあるがそれはあたらない。山東から半島素通りした民族は居た。
239日本@名無史さん:2005/07/19(火) 22:08:01
妄想&推測を覚悟で記す。

ツングースは多分アルタイ化したシベリア・イヌイットの一派。
モンゴルは進化?したトルコの一派。カザフもある意味モンゴルかも知れん。

ツングースに近いモンゴル系は東胡か山戎くらいと思われ。
海西女真の葉赫(イェへ)部族もモンゴル人に近いツングース民族。

>山東から半島素通りした民族は居た。
山東人は屈強で背が高い。もしかしたら漢化した古代モンゴル系と思われ。

真偽の程はわからんけど。
240日本@名無史さん:2005/07/19(火) 22:27:14
カザフは匈奴の後裔という説が有力
妄想推測でも既知のデータや史書など裏付けがないと・・
間違いだとは言わないけど、古代史関連のスレとの整合性は
241白馬青牛:2005/07/20(水) 01:36:02
>>233
トルコ系でも、オアシス農耕系はさまざまな民族に支配された歴史、
経験から嘘言を吐くでしょう。地域によっても違い、シル河の
トルコ人は漁労民的要素もある。
草原地帯のモンゴル人は、河にかからぬうちから、気の毒なほど
顔面蒼白で、河にかかるとまったく怯え切っている。
大興安嶺東側(満洲北部のツングース的)のモンゴル人は、激流でも、
清くさわやかな水のにおいをかぐと、気分はそう快となり、小船に
乗るか、中流あたりまで馬の背にまたがり、そこから馬をすべりおりて、
尻尾のさきにつかまり、激流をつっ切っていく。おぼれた子供がおれば
泳いで助ける。モンゴル人も地域による違いがある。
トルコ系とツングース系の関係では、ロシアのV・メドヴェジェフ氏に
よると靺鞨は考古学的特徴においてトルコ系の影響が強いと。
242日本@名無史さん:2005/07/20(水) 01:46:48
蒭葯 靺鞨
(まっかつ)
6世紀後半から中国東北の松花江流域を中心に、北は黒竜江中・下流域、
東はウスリー川流域、南は朝鮮半島北部に勢力を振るったツングース系
諸族の一派。5世紀後半からこの地方にあった勿吉{もつきつ}人の国が6
世紀なかばに崩壊し、その服属諸部が自立したが、自立後も一括してそ
の同音異字で靺鞨とよばれた。いくつかの大部族に分かれ、そのうち粟末{
ぞくまつ}、伯咄{はくとつ}、安車骨{あんしやこつ}、払涅{ふつでつ}、
号室{ごうしつ}、白山{はくさん}、黒水{こくすい}の七部族が有力で、
靺鞨七部とよばれた。高句麗{こうくり}と争い、粟末、白山の二部は
高句麗に服属した。高句麗が唐に滅ぼされた(668)のち、高句麗の
復興を唱えて渤海{ぼつかい}国が成立すると(698)、多くの靺鞨人は
その支配下に入ったが、黒水部だけは独立の勢力を保持した。

243白馬青牛:2005/07/20(水) 02:25:13
>>234
梅棹氏は、海の自然条件と技術のバランスから、日本海側は荒い海で、
黄海側を考えておられるが、ポリツェ文化や仮説であるが、出雲系文化の
四隅突出墳も考慮すると日本海側もありうる。
もちろん、梅棹氏も「実は海より川のほうが重要かも知れない。」とされ
内陸水軍から出発したと思う。ヴァイキング型ともいえるかは、
定かでないが、古代ギリシャ人の殖民活動が、沿岸地帯に活動すのと違い
(マケドニアのアレキサンダーは陸路であり、水路ではないであろう。)
ヴァイキングは、入江から川を遡り内陸部に奥深く入る。
ヴァイキングやツングースは、海民というより水民に思える。
>>239
アムール川流域のウリル・ポリツェ文化のちの靺鞨文化まで、
川の源流であるバイカル地方から東漸したと見る考古学的考察は如何に。
244日本@名無史さん:2005/07/20(水) 05:03:00
>>243
騎馬戦術を持つ扶余が内陸水軍を持っていたのであれば、馬を水上輸送
する技術も持っていた可能性が高いね。
245日本@名無史さん:2005/07/20(水) 12:42:32
白山大龍脈団 パイシャンターロンパーティアン
白山神社は全国3000社を越える。神は白山比メ神(シラヤマヒメノカミ)、
菊理姫(キクリヒメ)死霊の口寄せをかたったイタコの祖先のごとき神として
知られ、いざなぎといざなみの争い事を調停したことで日本書記に書かれている。
古代亜細亜の東北部に靺鞨(まっかつ)と呼ばれたツングース系の民族がいたが、
ここに白山部という支族があり、白頭山の太白山信仰をしていたことで日本に
渡って白山信仰になったとも言われている。
このツングース系民族はモンゴルにその足跡を残しており、風水的呪術も残って
いる。
モンゴル首都のウランバートル市内にある寺院も日本と同じく鬼瓦を使用し、
何かを封印守護をしている。
http://www.kazemizu.com/basis/map/hakusan.html

246日本@名無史さん:2005/07/20(水) 12:46:51
白山信仰
(はくさんしんこう)
越前{えちぜん}(福井県)、加賀{かが}(石川県)、美濃{みの}(岐阜県)
三国にまたがってそびえ立つ白山を対象とする信仰。白山が信仰の対象として
仰がれるようになったのは、大化{たいか}(645〜650)前代のことであろう。
つまり白山信仰は、白山に源を発する九頭竜{くずりゆう}川(福井県)、
手取{てどり}川(石川県)、長良{ながら}川(岐阜県)流域の人々の間から、
また相前後して日本海で白山を航路案内とする漁民の間から自然に発生したもの
と考えられる。
 ついで、奈良から平安時代にかけて全国的に山岳信仰が盛んとなるなかで、
白山にも717年(養老1)越{こし}の大徳といわれた泰澄大師{たいちようだいし}
が初めて登拝し(『泰澄和尚{かしよう}伝記』)、これ以後登山口には
修験{しゆげん}の道場が置かれ、ここを中心に白山信仰は全国に流布し、
新たな展開をみせた。その道場とは、前記三国にそれぞれ設けられ、
「三箇馬場{さんこのばんば}」と総称される越前馬場(平泉寺{へいせんじ}
白山神社)、加賀馬場(白山寺白山比?{しらやまひめ}神社)、美濃馬場
(長滝{ながたき}寺白山神社)のことで、最盛時には多数の社僧を擁し大勢力
を誇った。白山信仰の一端をうかがい知る資料に『白山曼荼羅{まんだら}』
『白山講式{こうしき}』『白山牛王{ごおう}』などがある。
247がいやまん:2005/07/20(水) 14:32:44
はずんだますなー。ちょっと失礼。出雲の日御碕神社社伝によると「「孝霊天皇
六十一年月支国の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し
虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没
せりと云う。」こういう風に月支国王の多数軍船を撃退したとしている。
http://www.web-sanin.co.jp/local/taisya/yuisyo-h.htm
この月支だが、最近馬韓では↓
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/01/10/20030110000047.html
日本は↓
http://www2.begin.or.jp/~sakura/kota1.htm
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html
こういう状況にあるようです。
248日本@名無史さん:2005/07/20(水) 22:14:23
ニュース板で、天皇は侵略してきたということになっているのですが
それは日本史板的にはどうなんですか

http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1121423363/l50
249日本@名無史さん:2005/07/21(木) 00:32:37
日本在住で公的地位のある日本史研究者はそんなことを言わない。

国外在住で公的地位のある日本史研究者はそう思ってるし発言する。
250日本@名無史さん:2005/07/21(木) 04:47:16
ということは日本史学は国粋主義に影響されているということだ。
251日本@名無史さん:2005/07/21(木) 06:45:19
>>250
韓国の場合国粋主義そのものなので話がややこしくなる
252がいやまん:2005/07/21(木) 10:52:20
日本建国とも言うべき纒向の建設には、記紀にある垂仁の言葉から察するに、渡来系
のアメノヒボコが相当力を入れた様子だ。箸墓とかその周辺の一連の古墳は弓月ヶ嶽
を向いているし、それと箸墓の線上にある大兵主神社というのは秦氏の蚩尤の神、ヒボ
コをも祀る。さて弓月=半月=トルコのシンボルである。トルコ系は月、星、狼を祀る。
つまり、纒向建設に参加したアメノヒボコ集団の中には月支国がその名前から似つか
わしいのであるが、製鉄に関連するトルコ系要素が混じっていたと考えたい。坂の上の
田村麿は後世、蝦夷征伐の際に7つの月山神社の建設を約束して実行している。月山
、月読み(半月か、読み=弓)という名称は対馬、壱岐、北部九州、出雲、関東、東北
と分布しているが、渡来系が僻地に追いやられたのか、あるいは、秋田鳥海山辺りに
直接上陸したのかと考えさせられる。さて、大兵主神社は秦系であるが石上神宮は布留
の霊を祭っているようでこれはツングース系であろう。ツングース系と秦(秦の遺民)が
合流するのは辰韓あたりかなー。更に、複雑なのは出雲には方面にも月山があり、
スサノオに代表される製鉄関連の渡来系がいる。他方、楯築古墳はトルコ系の中円
双方墳であることだ。これはカザフスタン迄広がる石積みのヒゲクルガンと構想が
似ている。古墳文化には様々な朝鮮半島経由の渡来人文化が混じっていることは
間違いないだろう。
253がいやまん:2005/07/21(木) 11:03:40
当時の日本はドボルザークの新世界よりにも似た、まさに戦前の満州建国のような
新時代の開幕であったのではなかろうか。古墳建設でエネルギーを蓄えながら
倭の五王時代への開化時期へとつながっていくんじゃなかろうか。
254日本@名無史さん:2005/07/21(木) 11:15:00
日本の場合、万世一系主義が話をややこしくしている。
255日本@名無史さん:2005/07/21(木) 11:26:21
>>254
戦後だいぶその傾向も薄まったと思うのだが、ついに駆逐するまでには至らなかった。
結局日本国民も望んでいるのではないか? 万世一系主義
256日本@名無史さん:2005/07/21(木) 13:45:44
談合とかこれと無関係ではないと思うね。
血族意識が極めて高いのはこの顕れ。
縄文人はこれに無頓着だった。
257日本@名無史さん:2005/07/21(木) 13:46:40
144 名前:名無しさん@恐縮です[sage] 投稿日:2005/07/20(水) 15:38:32 ID:co1/9+io0
こんなハレンチ穴の親の顔がみてみたい? そうですか、それではどうぞ

点と線【全裸練習 八王子 菊間の父】 
http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/volley/1121668617/

21 名前:名無し@チャチャチャ[sage] 投稿日:2005/07/19(火) 21:58:10 ID:np49+uH9
全裸バレーってなんだよ一体・・・マジかこの話?
信者の女児を強姦していた在日姦国人牧師とやってる事は変わらんな。親は抗議しなかったのか?
ニワカの俺にはにわかに信じられない話だよ。ホントなのか八王子実践の全裸バレーは?
ソフトオンデマンドのDVDならそういうのを見た記憶があるのだが・・
菊間は親子揃って自害しろ!

http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/volley/1016695960/
裸バレーの裏事情
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/company/1016695820/
女子バレーで全裸!
http://piza.2ch.net/company/kako/965/965835552.html
【朝日記事】全裸バレー強制【セクハラ】
http://choco.2ch.net/news/kako/1014/10140/1014042994.html
258日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:12:49
>>257
信者の女児を強姦していた在日韓国人牧師とやっていることは違うと思われw
259がいやまん:2005/07/21(木) 17:13:35
>>252
渡来ツングースには日本海周りと、黄海周りの2つの系統があり、金属加工をかかわり
の深い月支族は本来内モンゴルの方面から遼寧青銅器文化圏に入り、そこで黄海周り
のツングースと共に南下し、楽浪周辺で山東方面から渡来していた秦の遺民などと共に
百済(ハクサイ)を結成して馬韓に南下、他方、純粋なツングースが日本海周りで新羅、
山陰、越前に入り、これらは白頭山の竜神関係の信仰を富山、岐阜、愛知、三重方面に
伝えた。これが見る銅鐸、前方後方墳、東海式土器、狗奴国を形成し、東国以上に難し
い地域になったんじゃないかな。もちろん、九州、近畿には渡来系よりも古い基層の氏族
はいたであろうが、よりハイカラな大陸的な物に押されたんだろう。
260日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:24:19

大和が新羅、高句麗と戦ってる時も、白村江で戦っている時も
出雲はそれを静観して新羅と独自外交していたという話を聞いたことがある。
261日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:35:06
しかし、対馬の人は生きた心地しねーだろうな。
イヤでも朝鮮人をチング(友人)といわんと
生命すら危ういよな。
262がいやまん:2005/07/21(木) 17:52:15
>>252
渡来人のマンモスの墓場は恐山かとおもう。白頭山天池とそっくりな浄土風景があり、
これがゴビ砂漠に似ている。白頭山は更にネオモンゴロイド、ツングースの聖地
バイカル湖をイメージしたものかもしれない。これは白山の頂上、金毘羅さんにもある。
263日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:59:27
古墳を立てた勢力は九州の辺鄙な地域(宮崎)に拠点を構えるが
南から、西から常に圧力を掛けられついに東進したのではないか
http://ja.wikipedia.org/wiki/西都原古墳群
人種的特徴はともかく政治的には宮崎、大分、四国、瀬戸内、奈良大和
あたりが同盟関係にあり、西南九州の土豪がそれとは少し違う動きをしていた
ように思う。そして出雲、中部関東、日本海一帯は新羅と親密な別の勢力。
264日本@名無史さん:2005/07/21(木) 18:21:48
銅鐸と越以南の銅鼓とは関係あるの?
ともに地中に埋め込むことが稲作神事らしいが
265日本@名無史さん:2005/07/21(木) 18:39:04
銅鼓
中国南部から東南アジアにわたり広く分布する青銅製の太鼓。
楽器としてはゴング類に属する。その鋳造と使用の年代は長
く,流伝の地域は広く,関係する民族も多い。銅鼓の起源については,
篠製置台上の太鼓を青銅でかたどったとするもの,漢族古楽器の■于
(じゆんう)(銅■)からの発展とするもの,雲南省のタイ(■)族,
チンポー(景頗)族で今なお使われている木製象脚鼓の写しとするも
のなど諸説があるが,炊具から変化したとする考えが比較的有力と
なりつつある。1975年,雲南省楚雄県万家■(ばんかは)竪穴土坑
墓出土の銅鼓は鼓面がことのほか小さく,形式学的に最も古式と認
められるが,伴出の銅釜と形態がきわめて似通っており,釜を伏せ
た形から打楽器に発展したと見られるからである。この万家■墓の
炭素14法による年代は前7世紀ないし,前4世紀で,現在,銅鼓出土
墓のうち最も古い。また,この雲南省中部地区において,銅鼓形態
の発展序列をたどれるところから,銅鼓の起源地もこの地区に求めら
れるとされる。
266日本@名無史さん:2005/07/21(木) 18:44:14
越国の人がベトナムと関係があるとはいうけどやっぱり・・
267日本@名無史さん:2005/07/21(木) 18:54:18
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/guanguang/jieri/200201/200201.htm
 雲南省文山チワン族ミャオ族自治州白ラ人・蕎菜節
  先祖と交わる原始の銅鼓


268日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:00:28
彼らは一見して新モンゴロイド風、
純血思想がありお祭りを大事にするようである。
華南に進出した北の勢力だろうか・・・
269日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:10:08
雲南省の住民は日本人そっくりだよね
餅だとか赤飯とかもあるんだよね
270日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:18:33
http://www.kaze.gr.jp/fwvietnam/viethis/viethisdyn/viethisdyn.htm
銅鼓の歴史は彼らの歴史そのもののようだから、これは
何かの手がかりになりそうではある。
271日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:10:17
歴史的に簡潔に言うと
神武の東征は、不可能である。

272日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:16:03
雲南しろモンゴル系入ってるよ。
273日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:25:40
元々米は赤米だからベト人がきていたとしても神事の
赤米がベトナムの習俗と結びつくとはかぎらんわね。
274がいやまん:2005/07/21(木) 20:26:39
エスキモーの夏用芝生葺きイグルーというのに張り出し型前方後円墳そっくり
なのがあり、前方後円のつなぎ目にハッチがある。エスキモーというのはBC1000
年頃に現在のアラスカ・カナダに移住してきた新モンゴロイドだという。すると彼らが
バイカル湖周辺から出ていても不思議ではない。纒向周辺は唐古鍵の時代には
二階建ての南方形式の大型宮殿、神殿のあったところだが、纏向遺跡の住居模型
というのは聞かない。思うに建造物は行宮であり、円形の神殿部のパオと方形の
補助施設からできていたのかもしれない。まー、サーカス小屋のようなもんだな。
これは想像が飛躍しすぎたかもしれないが、野洲方面の伊勢遺跡などはサーカス
とか見世物小屋を思わせるところがある。この辺もアメノヒボコが通った跡だろう。
275日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:34:43
銅鼓の日本での遺跡分布をしりたいのですが?
276日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:44:33
277日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:51:19
トラキアはブルガールやらフンと関係あるからもしかするとだけど
他に似たものがないから・・

バルカン半島東部の地方。「トラキア」は古名で、現代ギリシア語名
はトラーキThraki (Thrake)。トラキアの範囲は時代によって非常に異なる。
古代ギリシア時代では、西側はマケドニアに接し、東は黒海の西岸と
マルマラ海の北西部、南は沿岸部を除いたエーゲ海に囲まれた地域をさした。
現代では古代のそれよりいくぶん南側の地域をさし、マリーツァ川
(古名ヘブロス川)を境にして、西側のギリシア領を西トラキア、
東側のトルコ領を東トラキアとよんでいる。
 古くからインド・ヨーロッパ語族のトラキア人が居住していたが、
彼らは好戦的で野蛮な民族としてギリシア古典期に知られた。
初期の歴史は不詳で、沿岸各地に紀元前8世紀ごろよりビザンティオン
(現イスタンブール)など幾多のギリシア人植民市が設立されると、
ギリシア人を通して彼らの実態が知られるようになった。彼らの宗教
は原始的で、人身御供{ひとみごくう}や動物崇拝、来世信仰が行われており
、神々としてはベンディスやディオニソスの崇拝がとくに有名である。
前6世紀以後何度かペルシアの侵入を受けたが、ペルシア戦争後は
オドリサイ人のテーレース王のもとにトラキア人のほとんどが統一された。
彼の息子シータルケースはギリシアでも有名であった。前2世紀から
漸次ローマの支配下に入り、当初、自治を保持していたが、
紀元後1世紀にはローマの属州となった。古代末期にゴート人やフン人が、
中世にはブルガリア人が侵入し、15世紀トルコのコンスタンティノープル
(現イスタンブール)制圧後は、完全にトルコ領となった。
278日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:02:45
トラキアと関係あるかもしれない、まあ埋葬文化だけという事で
あまり深入りせずに
279日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:36:19
そもそも古墳時代の巨石による墳墓構築と構造はどの方面から伝播したの
権力者が古代船を使ってお気に入りの石材を運び込むなど、熱の入れ方が
気になるが
280日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:49:20
倭の前方後円墳は、
いわゆる騎馬民族が倭に侵攻したとする時期前から築かれていて、
征服王朝が樹立されたと仮定されてる時期に至っても
一貫して造営されてる方式で、
騎馬民族統治後は地元土着の倭人に建設させたものと想定している。
よって前方後円墳という形式それ自体は、
騎馬民族文化とは本質的に無関係ということになる。
もし前方後円墳の墓式が大陸由来文化なら、
箸墓の卑弥呼の時代から既に倭の統治者は大陸出自民族でなければならない。
281日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:23:55
中央ユーラシアに紀元前から積石塚と呼ばれる墓制があり、その中に尻尾付きとか角付きと呼ばれる出っ張りのある墓があった。
それはモンゴルやギリシャにも影響を与えたと思われる。
ギリシャには紀元前2000年以上前にクルガン人という遊牧民が入ったといわれ、それがトラキア人の可能性がある。
クルガンはキルギスの語源であるし、ギリシャの語源の可能性もある。
http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/History/rekisinonaka/42~51/45kurgan.html

モンゴルにはヘレクスルという積石塚があるがヘレクスルと言うのはキルギス人の墓と言う意味だそうだ。
「尻尾付き」とか「角付き」ヘレクスルと呼ばれる墓こそ日本の墓に特有と言われる前方部そのものだ。
282日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:56:26
クルガンで検索したら
http://moon-cat.jp/weblog/archives/2005/03/post_1005.html
こんなのが出てきた。
デリヘル、ムーンキャットの冬木舞嬢が歴史好き。是非呼んでみたい。
283日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:57:53
>>280
なんか理論に無理あるように思う。
284日本@名無史さん:2005/07/22(金) 18:48:30
馬は海人が持ち込んだんだよ。
285がいやまん:2005/07/23(土) 09:05:20
>>281
ヘレクスルについては金沢大学の以下のPDFが参考になる↓
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~arch/kouko43.pdf
「・・・そして現在のところ次のような構築方法が想定されている。まずは中心に大きめ
の石で核を作り、その回りに順次石を重ねていくというものである。 石堆の発掘では、
その構築方法が明らかになるとともに、馬の頭骨が検出され、全てが鼻面を東に向け
ていた。
さらに、1号ヘレクスルから少し離れた「4号鹿石」の周辺の環状配石遺構でも発掘が
行われた。こちらは、1999年度調査の際、時間的な問題によって埋め戻していたもの
であるが、今回、馬の頭骨、頸骨、蹄骨が改めて検出された。保存状態が極めて良好
であった。 遺物としては、鹿石と土器片が挙げられる。鹿石は、墳丘東南部の縁から
発見された。

円形を二つ表現しただけのものである。彫りは浅く、一見すると積み石との区別が
つかないほどである。ただ、こうした鹿石が出土したことは重要で、ヘレクスルと鹿石の
セット関係を示唆するものである。土器片は、モンゴルとブリヤーチヤの板石墓文化
(前1千年紀前半)に関連づけられるものである。今年度の調査は、墳丘の半截が完了
した時点で、一応の区切りがつけられた。モンゴル側団長のエルデネバータル先生は、
中心部分に見られる石の重なりが、石槨の一部を構成するものであるという。それが
正しければ、ヘレクスルはやはり墓葬、それも構築の困難さから考えて、相当な権力を
持つ人物の墓葬であることになる。・・・」
板石墓文化(前1千年紀前半)であるが、漏れは楯築遺跡、三輪山等のイワクラにこの
文化の片鱗が認められ、この伝来において馬韓月支国が中継地として存在すると考え
ている。
286がいやまん:2005/07/23(土) 09:15:49
>「尻尾付き」とか「角付き」ヘレクスルと呼ばれる墓こそ日本の墓に特有と言われる
前方部そのものだ。

同感であり、楯築の中円双方墳の方形部分の機能については後の箸墓の後方部
および四隅突出墳の突出部同様、地檀というか礼拝する部分であったと考えている。
箸墓は四隅突出墳文化が瀬戸内海積石墳文化とマージして大和朝廷が生まれる
プロセスジャーなかろうか。
287がいやまん:2005/07/23(土) 09:21:46
参考までに板石墓の写真↓
http://ngo.burnet.ru/eger-gallery/pictures/autumn/medium/19.jpg
http://ngo.burnet.ru/eger-gallery/rus/autumn3.htm
他にも↓
http://hist.dcn-asu.ru/skif/fotos.html
これがすばらしいんだが、宇宙の果てのような感じだ。
288がいやまん:2005/07/23(土) 09:29:24
これら板石墳、ヘレクスルの分布図↓
http://www.baikalfoto.ru/library/articles/fold_01/fold_01/005.htm
やっぱ、日本人には多少この辺の血も入っているのかね。
289がいやまん:2005/07/23(土) 10:35:17
>>274
やはり馬韓にはエスキモー式住居、上部ハッチ式があったようだ。
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_4.htm
「住居は草の屋根と土の部屋を作り、(中国の)墓のような形をしている。
戸口は上にあって、家を挙げて、いっしょにその中に住んでいる。長幼、男女の
区別はない。」
290日本@名無史さん:2005/07/23(土) 10:43:51
日本みたいに巨石を運んで組み合わせる墓制や構造は
渡来の形式なのか?
291がいやまん:2005/07/23(土) 11:13:57
上記の金沢大にある「構築の困難さから考えて、相当な権力を持つ人物の墓葬」
という考えは正しいと思う。
「この御酒(みき)は 我が御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世にいます 
石(いは)立たす 少名御神(すくなみかみ)の 神祷(かむほ)ぎ 寿(ほ)ぎ狂ほし 
豊寿(とよほ)ぎ 寿ぎ廻(もとほ)し 献(まつ)り来し 御酒ぞ 乾(あ)さずをせ 
ささ(記)」
神功 皇后のこの御製には巨石文化への憧憬が含まれていると思う。
常世にいます 石(いは)立たす 少名御神(すくなみかみ)という技術の背後には
鉄器の使用と、巨大な権力の発生が意味されているものと思う。
292がいやまん:2005/07/23(土) 18:46:26
鹿石については:
「「鹿石」の絵についてははっきりした事は解っていないが、鹿を神の使いとして崇拝
の対象とする遊牧民族の習慣と関わりがあるものとする研究者もある。モンゴルの
古代文化の書籍や漢文の史書にも、鹿をこの世と冥界とを行き来する力を持った
聖獣としていたという記載が見られる。」
新疆・青河県石堆墓のミステリー
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200207/8-2.htm
と、こういう解釈もあるんだが、日本では天孫の代表者フツヌシが鹿島神宮に祭られたり、
これと春日大社が関係があり、日本の玄関口には志賀島がある。
漏れはツヌガアラヒトのツヌガとは通化、敦化、ツングース共々この鹿石の意匠である
角を持つ鹿を表しているんじゃないかと思っている。秋田とか、三陸の半島、鹿踊りは
鳥海山、月山方面に直接上陸した大陸物部(百の渡来集団)じゃないかとも思うが。
293日本@名無史さん:2005/07/23(土) 19:10:24
佐賀:太宰府(8世紀に設けられたミニ平城京)
の左にある賀(喜び)と信じている。
(嵯峨源氏の関係もあるが)
「賀」という語彙は中国由来だよね?
吉野ガリという地名は佐賀県神崎郡周辺だけの特殊な地名だが
吉野ヶ里(吉野賀里)だと思ったりしてる。
古代の人はこの賀という言葉を好んで使っている。
294がいやまん:2005/07/23(土) 19:14:38
つの+か、なんてちゃんぽんジャーないかといわれるだろうが、そもそも
向こうで既にこんなへんてこな言葉を使っていたのならしょうがない。
高句麗、新羅、百済などを生み出す、本家国、分家国、臨海(辰、震)国という構想は
満州を舞台として成立した住み分け概念で、これが半島南端の三韓、日本列島と
分列行進を続けてきたという大局的な捉え方ができるのではなかろうか。
295日本@名無史さん:2005/07/23(土) 19:21:52
たしかに馬韓やら百済ないなんて馬鹿にされている三韓はそうかもしれないが
倭については先史時代からある程度の文明と独立独歩の精神があるから、
そう簡単に満州人に完全制圧されるとも思えない。
296日本@名無史さん:2005/07/23(土) 19:33:23
磐井の息子は連座恐れ筑紫の沿岸部(鞍手)を朝廷に献上していることから
とても筑紫の勢力が東進したとは思えない。
それに、旧太宰府(平和台=旧福岡城)という防衛上無防備とも
いえる沿岸地域に政府の拠点をおいていたのはそれより南の勢力も
大和朝廷にとって脅威だったからに違いない。
297サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/23(土) 19:44:28
横レス失礼ーー邪馬台国小城説宣伝期間中
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。
伊都国は唐津市の東南の多久市です。不彌国はその東で、邪馬台国は不彌国に
南接してありました。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。
1991年8月12日にその南端に到着しました。
298がいやまん:2005/07/23(土) 21:01:34
>>295
ごもっとも。特に九州には伊都国、奴国を中心とするちょっとした連邦、熊本辺りにも
かなりの勢力はいたでしょうね。ところが邪馬台国建国したも伊都国の大型内行花文鏡、
をすんなり渡さず、仲哀の頃に渡したり、応神神功 にいたっては近畿を制圧したような
有様で、また、積石、四隅などは甕棺、支石墳文化にとっては闖入者でないでしょうか。
つまり外来文化ですね。九州以外の弥生日本は大陸の金属文化の前に圧倒されたと
というか、大いに積極的に吸収した。しかし、中核的に日本的なものは譲らなかった。
たとえば、雄略の吉備への反発とか、神功 応神の巻き返しの話にもそんなものが感じら
れる。今日の読売の夕刊に「シカが踊る弥生の代表」というのがあり、春成さんの銅鐸
図案の統計があったがそれによると:
1)シカ135頭以上、2)人間59人、3)魚40匹、4)猪27頭、ということでこの猪などはネイティブ
施主の発注かも知れない。
299白馬青牛:2005/07/24(日) 00:51:57
>>298
弥生時代の銅鐸に描かれおる絵には、鹿狩り、猪狩り等の狩猟の絵が
多い。弥生期において狩猟、漁労文化を軽視出来ん。それは、縄文系の
伝統によるものか、東北アジアの移住民によるものか、難しい問題で
あるが、弥生式時代は、竪穴住居と高床住居の共存ともいえる。

弥生時代においてポリツェ文化の影響から、鳥居氏のツングース
「原日本人」説、梅棹氏によるプロト・ツングース説、あるいは、
岡正雄氏の唱えた弥生文化における北方的要素「父系的、ハラ氏族的、
畑作、狩猟、飼育民文化」も考慮する必要がある。
300日本@名無史さん:2005/07/24(日) 01:14:52
沖縄の先輩が奄美だろ、奄美の貝が吉野ヶ里で見つかるという
ことは沖縄人は古代九州人だよ。
301白馬青牛:2005/07/24(日) 01:28:26
ただ岡正雄氏のハラは、日本の同族組織(本家による分家の統制)と
似たものとみておられることで、学説的には問題がある。
渡来系の東漢氏には、腹(ハラ)が分かれても本家、分家の別は無く、
初期の源氏においても、摂津源氏と河内源氏の本家、分家の区分は無い。

しかし、末子相続制的傾向はあったようで、蒙古で末子は「炉の主」や
「家の主」等と呼ばれた。日本でも、西日本は、末子相続で、東日本は、
長子相続という傾向はあった。源氏も、関東へ移住して、本家による
分家の統制と変化したと思える。東日本の社会組織宗族制の起源が、
中世に発祥したものか、縄文に遡れるのかは、わからん。
西日本の方が、遊牧民的社会組織をもっておったとはいえるであろうが。
302日本@名無史さん:2005/07/24(日) 01:47:08
末子相続

家長としての地位やさまざまな財産を末子が相続継承する方式を一般的に
末子相続(ばっしそうぞくとも読む)という。末子相続は世界的にみれば,
ヨーロッパ,中央アジアの遊牧民,北東アジアの狩猟民,東南アジアの
農耕民などに点々と行われているが,日本では西南日本の村落で主に
行われている。
 日本における末子相続の具体的方法はかなり複雑である。最も多いのは
子どもたちのうち長男から順に分家して,最後に残った末子が相続する
方法であり,このほかには一度分家や転出した末子がふたたび両親のもと
にもどって相続する方法もある。また親が長男にあとを譲ったのち,
次・三男や女子を連れて隠居分家をくりかえし,最後に親と同居した
末子が親のあとをつぐ方法も,一般的には長男相続(長子相続)と隠居分家
の制度であるが,これも事実上末子相続に非常に近い相続形態である
小面積で主食を確保できたサツマイモ地帯では、不動産分与が容易
だったことと関係するのかもしれない。断片的末子相続事例は、
日本でも近世前半までみられた男子均等分割相続と、早婚の両親が
若い末子を扶助する傾向とが複合した偶発的事例であろう。

日本大百科、世界大百科事典
303日本@名無史さん:2005/07/24(日) 02:01:14
鹿児島地方の分割相続

 さて、鹿児島地方(旧薩摩藩領)では、明治以降でも兄弟など複数の
相続人に財産(主に田畑)を出来るだけ均分に分割して相続させる
分割相続慣行がみられた。
 財産分与の対象となるのは、原則として男子のみであり、分離した
各世帯は基本的に別居・別食・別財である。農業経営も別になる。ただ、
老夫婦が独立した世帯を維持することが難しくなると、末子(の場合が多い)が老夫婦の面倒をみ、老夫婦の財産(隠居分)は末子が引き継ぎ、位牌元となる場合が多い。
 このような分割相続地帯は鹿児島地方から奄美諸島、琉球諸島にかけて
広がっている(ただし、相違もある)。

http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/29-2/bunkatu.html
分割相続と農村社会
304日本@名無史さん:2005/07/24(日) 02:34:22
末子相続、長子相続はもう少し考える必要ありそうですね。。
305日本@名無史さん:2005/07/24(日) 05:05:07
>>294
>高句麗、新羅、百済などを生み出す、本家国、分家国、臨海(辰、震)国という構想は
>満州を舞台として成立した住み分け概念で、

同意。そしてその本家は扶余だが、扶余が滅亡したときにその一部は晋の傀儡国と
して再建され、他の一部は独立を保って任那を攻略して新しい本拠地とし、さらに
倭國を征服した。
だから倭は扶余勢力圏のなかの本家筋だ。
百済や渤海の、倭國に対する甘えぶりは、本家筋に対する分家の態度である。
306日本@名無史さん:2005/07/24(日) 08:53:48
>>305
それも1つの説ではある意味正しい。
>>229の説もまた最有力。
307日本@名無史さん:2005/07/24(日) 20:15:58
東胡ってのはツングースだろうが、同時に胡服を身につけているので
胡的(西洋的)でもあったんだろう。
多少胡人も居たかもしれない。
308サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/24(日) 23:23:48
BC3〜4世紀に、燕の秦開将軍が東胡を討ったという資料があります。
おそらく渤海の北岸から南満州にかけて居住していた諸族だとおもわれます。
追われて一部は満州北部に、一部は半島に逃げ込んだと考えられます。
その一部が更に南下し、倭国に渡り(上陸地は唐津付近)、邪馬台国をつくったのではと考えています。
309日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:32:38
弥生人は時代的に東胡の可能性がかなり高いね。
居住区は満州西部あたり。
もともとはもっと北から南下したものだろうが。
310日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:37:25
少しずつきただろう、胡服きた古墳時代の遺跡ありゃ
東胡系だよ。
311がいやまん:2005/07/25(月) 11:25:27
東胡は原始社会関係にある遊牧民族、BC3世紀以前は匈奴とは勝るとも劣らない
関係で、一時は匈奴の朝貢を受けるも、BC3世紀末匈奴に征圧された、蒙古東部
-満州南部、北京(張家口)-興安嶺にいた部族。匈奴の征圧を逃れたものは烏桓、
鮮卑となる。ロシアではこれを元モンゴルまたはツングース乃至はトルコ族とみて
いる。
312日本@名無史さん:2005/07/25(月) 15:20:00
東胡の後裔は烏桓{うがん}、鮮卑{せんぴ}、契丹{きつたん}ですが
これらのうち、鮮卑は首長を可汗と呼んでいるからおそらくトルコ系?
になっていったのではないか?そして契丹は
《旧唐書(くとうじよ)》《新唐書》に見える蒙兀(もうごつ)であるから
モンゴル人の祖先だろうか?
そして烏桓が土井が浜に渡来したタイプと近い気がする。

北方シラムレン川流域を根拠地としたのが鮮卑{せんぴ}、
南方ラオハ川流域に根拠地を置いたのが烏丸とよばれた。
中国正史によれば、狩猟、交易のほか、季節的農耕の痕跡{こんせき}
もある。シャーマニズムを信仰し、初め統一勢力はなく、
非世襲の大人{たいじん}に統率されて地域ごとに分立し、
匈奴に服属していた。
前2〜後3世紀初,内モンゴルのラオハ川流域を中心に活動した遊牧民族。
烏丸とも記され,前206年ころ匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)に
滅ぼされた東胡の一派。族名については,蒙古語ukhaghan(賢),
unagan(奴隷)などとする説がある。前漢時代は小部落にわかれ匈奴に属した。
鬼神,天地,山川,日月を祭り,シャマニズムを信奉し,頭髪をそりおとす
風習があった。
313日本@名無史さん:2005/07/25(月) 15:36:09
烏丸南方ラオハ川流域[遼河]てのは、丁度半島で四隅墓が見つかった位置の
中国側少し西にあたるんだよ。出雲の勢力はこの勢力なんじゃないかな・・
314日本@名無史さん:2005/07/25(月) 15:38:20
a
315日本@名無史さん:2005/07/25(月) 16:05:10
建武九年(33)、司徒掾班彪が上言して「烏桓は生来身勝手でずる賢く、
もし勝手に振舞わせれば必ずや民に危害を加えるでしょう。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/fileKodaisiNenphyo.html
日本極東アジア古代史年表
316日本@名無史さん:2005/07/25(月) 16:58:45
http://www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/index.html#nomichiJ
日本古代史復原作業報告
プロフィ−ル

 野道事務所(代表 野間口道義のまくちみちよし 1934年生 
鹿児島県出水市出身東京大学文学部哲学科卒。)は日本古代史復原事業
を開始しました。野道事務所は日本古代史復原作業の全行程記録をこの
ホームページに公表しています。日本古代史復原作業を克明に記述している
「委奴國志(いどこくし)− 新古事記・日本古代史復原 −」をぜひ一読
して下さい。

この人すごくね?
317白馬青牛:2005/07/26(火) 01:57:21
魏志東夷伝(倭人伝)に、「骨而ト、以占吉区」とあり、
動物の骨で、占うのは北方的習俗と思える。
>>312
烏垣については、「後漢書烏垣伝」に赤山の記述もあり、赤色を尊び、
モンゴル語で赤い(ulan)説もあります。
318日本@名無史さん:2005/07/26(火) 02:51:37
土井が浜の人は要するに赤も白もいたってことだな、
日本そのものが彼らによってつくられ、巫女さんの服や
日の丸にもなった。
319日本@名無史さん:2005/07/26(火) 03:29:45
>>317
あなたの博識ぶりにはいつも脱帽します。下のスレに来て議論されてはいかがです?
   ↓
鮮卑はトルコ民族か?(世界史板ヨリ)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1108895458/
320日本@名無史さん:2005/07/26(火) 06:13:44
葦の宮に神武逗留伝説の残る吉備秦(ハダ)の末裔。高梁川の岩倉石畳神社の巨石は20メートル以上。
たたいで、河神への祭祀もしていた、船は直接呉とも交易をもった。
いくつもの時代の渡来者がいるので、5世紀以降はいまきと呼ばれた。古くは魏との交易もあり。
応神天皇も歓待し、姫は秦からでている?聖なる正木山は皇室正月句会の句語。
死んだ神主や曽祖父たちは、先祖は遠く中央アジアの弓月からきたので
秦小学校の紋章も半月と弓にした。としている。
321日本@名無史さん:2005/07/26(火) 06:15:27
戦前は英雄ウラの居城だった鬼城へ青年団が成人の行事で報告にいく通過儀礼あり。
お盆に村の男女が徹夜でこもる虫追い祭りは
ユダヤの過ぎ越し祭りに似ているので、戦前実家に調査がきたらしい。
狼をはじめ、動物のモチーフは多い。尼子の戦国武将、山中鹿之助は三日月に
「我に七難八苦を与えたまえ」と祈念した英雄で信仰者も多い。
322日本@名無史さん:2005/07/26(火) 06:53:16
吉備の一部(広島福山市あたり)では紀州と通じる「蘇民将来」のお札信仰が残る。
赤穂や京太秦の大壁(壁は人偏のビンで、中国読みではダビデ王のこと)神社
にみるペルシャ文化(後の雅楽)に造詣の深い秦河勝一族らとの関係は不明。
ただし蘇我一族の直轄地、たたら跡地は多い。徐福伝説もある。
後に吉備真備ら中国大陸外交の大物をだすマビには、ニマ(二万)があり、
天智の白村江口の会戦のため、文字通り秦水軍2万が近江、紀州、尾張などから結集し渡来。
新羅系神社の強い地元では、唐と新羅連合にわざと負けたのではという
笑い話も。歴史的に、吉備は大和から軍事でも独立しており、過去3回も宮廷クーデターや
故地の任那まで下がって新羅と都市同盟をくみ大和に抵抗している。
吉備秦の捕虜は長安まで抑留されるが、後に一部が2000名規模で唐の進駐軍
といっしょに帰還している。天皇制、律令、日本国号使用初期のこの時代の国際政治研究は
日本社会のなりたちからみても、かなり重要な課題だろう。
吉備系の和気清麻呂による道鏡追放の宇佐(ヤハタ)の神託事件などにも、吉備大和連合の残滓が。
323がいやまん:2005/07/26(火) 15:38:03
>>298 >>311
例のヘレクスルはBC1000年頃、石板墳は春秋時代だから東胡(遼寧青銅器)とは
重なるものの、漢四郡、扶与、秦の遺民、等等様々な曲折を経て日本に渡来する
わけで鹿石、ステラ(石碑)などは日本においてはいろんな姿に化けているようだ。
鹿石は陽根思想があり、善光寺の回向柱の四角、宇宙軸思想は鹿島神宮の要石
に残っている。鹿石には軍神の一面があり剣を埋納すると言う形に変わり、荒神谷
石上神宮、鹿島神宮などにその本来の思想と石の文化の片鱗が残ってエいるようだ。
これらはヘレクスル文化が遼寧青銅器文化圏を通過したときに変質したものであろう。
324がいやまん:2005/07/26(火) 15:56:43
また、ヘレクスルには日輪を表すと思われる車輪形との関係が深く、これは飛騨、伊勢、
善光寺などの菊花紋と関係があり、皇室の紋章になったのではないかと思われる。
ただし、エベンキ自治州の紋章などは流水紋であり、後醍醐天皇が楠木正成に許した
ものと同じである。この水の流れはエベンキ族の世界像によるようだ。エベンキ族は
韓国などにある二重丸の太陽のマークをシャーマンの帽子につけている。三途の川の
銭太鼓のようなタンバリンもあるようだ。また、バイカル、アムールのチョウザメのような
魚の模型を大事にしているようで、この辺が黒龍江とか、琵琶湖のしゃちほこのイワレかも
知れない。
325がいやまん:2005/07/26(火) 16:37:04
話は変わるが、飯田には馬を周辺に埋めた古墳があるという。こうした習慣は
スキタイに多いもので、王族、武人の墓である。降伏した新羅の王が倭国大王の
馬飼いになることを約したというのは本当かなと思わせる。
326がいやまん:2005/07/27(水) 09:19:30
>>324 菊紋のヘレクスルの写真。
http://sae-spb.narod.ru/8-01/image066.jpg
327がいやまん:2005/07/27(水) 10:37:04
ヘレクスル関係で若干補足説明する。
http://www.evenkya.ru/eng/?id=vlast&sid=sym
上段はエベンキの太陽を表す民族的織物「クマラン」をデザインした、ヘレクスル、
菊紋、内行花文鏡等の起源を暗示させる図案を、北極の朝昼晩を表す、青、白、
ダークブルーの3つのストライプの中央に置いたエベンキの国章。下段は儀式用
シャーマン・タンバリン(日本では銭太鼓というもの)を図案化したエベンキ自治州
のエンブレムで、白い鳥は:loon[lu:n]n.〔鳥〕アビ:北半球産の水にもぐる鳥
.Progressive English-Japanese Dictionary, Second edition Shogakukan
1987.プログレッシブ英和中辞典 第2版 小学館 1987.
これは「安倍氏」等の起源を暗示させる。その他にも説明があるが、恐山の
三途の川の話を髣髴させる。
↓これはシャーマンの写真と思われる。
http://www.evenkya.ru/adm/pic/photo/big/1-51.jpg
これは日本では鳥形木製品として発掘されるものの原型だろう。
http://www.ethnofund.ru/Buriatia/evenki10.jpg
これはモンゴル東部にあるもので「クシフル岳」、クジボンなどのオリジンと思われる。
http://www.angara.net/image/2343.jpg
328がいやまん:2005/07/27(水) 10:54:15
>>326
菊紋ヘレクスルの前に小さく復元された鹿石、これが日本に入ると
http://nakamurasanchi.cool.ne.jp/ekoubasira.htm
このようなものになるが、この背後にあるのが陽根、軍神等騎馬民族の
思想であるというわけ。
329がいやまん:2005/07/27(水) 14:04:08
http://www.evenkya.ru/eng/art/obsh/pic/rossia.jpg
エベンキとは自国を自称したもの、ツングースとは「山を渡る民」という意味。
エベンキの代わりに"ile"(イリ彦と似ている)、人という場合もある。ツングースは
古来よりオホーツク海岸からオビ河の間に住み、東から、海寄りのものは"Even"、
"Lamuti"、(Lamaが海という意味だから、日本語のワヌ、ワニ、、ヤマト、アマツか)、
バイカル湖付近のものを"Murcheni"(murが馬で馬飼い)、一番西側のツングスカ、
アンガラ川流域のものを"Orocheni"(oroが鹿だから鹿飼い)と呼んだ。
だから、彼らが朝鮮半島南端、日本列島にまで南下してもこうした区分はしていた
のではなかろうか。
330がいやまん:2005/07/27(水) 14:18:33
確かに「天津」というのは海人族としてニギハヤヒ東遷でも乗組員リストに計上されて
いる。
http://www.h4.dion.ne.jp/~munyu/kujihonki/
331がいやまん:2005/07/27(水) 14:32:01
凡海郷↓これってツングース?
http://www.kammuri.com/
凡 海 郷 異 聞 をクリックすると色々と面白い。
応神天皇による敦賀の二重服属などを勘案すると、ツヌガアラシトとは新羅から
敦賀にツングースのセンター、角鹿を移動させたのではないかという気がする。
332日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:20:59
ツングースというかツングースっていうやつは古代東胡の雑多な民族の
総称なのではないか?この中から蒙古、チュルク、女真などが生まれる。
思想、信仰、宗教に共通点はあるが異同点も多い。
日本に関係したのはこのほんの一部の部族だろう、しかし信じがたい恐怖の
半島、列島征服術を編み出した。
333日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:30:04
がいやまんさんの研究は大変参考になります。
334日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:31:50
そういや、出雲族の支配で鹿が関係するという人がいたね。
335日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:35:51
最終的に赤と白がどう関係したのだろう、
渡来系対渡来系か?
土着対渡来系か?
それとも土着に近い渡来系と渡来系の対立か?・・
336日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:55:42
熊はどうも先住民族を意識して付けた名称のような気がする。
半島の先住民(カイ)も熊をトーテムとしてるね、
このトーテムは出自、民族と深い関係がある。
とくに古代アニミズムの流れを組むものはそれを強く意識したはずである。
337日本@名無史さん:2005/07/27(水) 16:01:02
ヘレクスル、スキタイ、梵はツングースに深く関わったかもしれない、
しかし民族・人種に大きな影響はなく文化的宗教的な影響に
留まっていると思う。
半島・列島に深く関与した集団はもっとも先進的な
ツングース(東胡)だった筈です。
338日本@名無史さん:2005/07/27(水) 16:04:36
倭人自体はいろんな変遷あったけど基本的に縄文人の後裔だと
思いますよ。いろんな観点からみてもそうとしか思えない。
339日本@名無史さん:2005/07/27(水) 16:35:42
ヘレクスル、スキタイ→ツングース(朝鮮)だが
梵→中華→ツングース(朝鮮)だな
340がいやまん:2005/07/27(水) 17:10:36
>>334
大己貴命は鳥取市から石川県まで鹿と亀に乗ってきたといわれている模様。
http://www.toriton.or.jp/~kawahara/legend/
↓上世の昔、大己貴命、出雲国より因幡国気多崎(因幡の白ウサギの地)に至り、八上比唐フ許に通せ給い、夫より鹿・亀の二霊に駕して、当国当所に渡らせ給う、今の府中の浦是なり。↓
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file2/ketahon.htm
341日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:40:42
大国主神
おおくにぬしのかみ
[オオクニヌシ物語の大要][オオクニヌシ像の変遷]
⇒関連項目
大国主命(みこと)ともいう。日本神話にあらわれる神の名。記紀の神話に,葦原中国
(あしはらのなかつくに)の国作りを行い,国土を高天原(たかまがはら)の神に国譲
りした神として語られている。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の5世の孫(《古事記》)ま
たは子(《日本書紀》)とされる。名義は大いなる国主の意で,天津神(あまつかみ)(高
天原の神々)の主神たる天照大神(あまてらすおおかみ)に対して国津神(くにつかみ)
(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす。大国主にはなお大己貴命(おおなむちのみこ
と),葦原醜男(あしはらのしこお),八千矛神(やちほこのかみ),顕国玉神(うつ
しくにたまのかみ)などの別名がある。これはこの神が多くの神格の集成・統合として
成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むも
のとなっている。ただ多くの別名のうちオオクニヌシの原型をなすのはオオナムチであ
る。
342日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:48:57
[オオクニヌシ物語の大要] 《古事記》のオオクニヌシを主人公とする物語は,(1)オ
オナムチが種々の苦難,試練を克服して大いなる国主となる物語,(2)ヤチホコの神の妻
問い物語,(3)少名毘古那神(すくなびこなのかみ)(少彦名命)との協力による国作り物
語,(4)葦原中国の主として天津神に国譲りする話の4部分からなる。(1)オオナムチには
多くの兄(八十神(やそがみ))がいたが,1日かれらは因幡(いなば)の八上比売(やか
みひめ)のもとへ求婚に出かける。途中赤裸(あかはだ)の兎と出会い,八十神が兎を
いっそう苦しめたのに対しオオナムチは懇切に療法を教えて救い,よって袋を背負い従
者の身なりをした末弟のオオナムチがヤカミヒメを得ることとなった。それを怒った八
十神はオオナムチを欺いて二度にわたり殺すが,そのつど母神に助けられて蘇生し,祖
神スサノオのいる根(ね)の国へ逃れる。根の国ではスサノオから課された蛇の室(む
ろ),むかで・蜂の室,野焼きなどの難題を解決したことにより,スサノオの娘須勢理
毘売命(すせりびめのみこと)を妻となし,また宝器〈生大刀(いくたち)生弓矢(い
くゆみや)〉を授かり,それをもって八十神を追い払い初めて国の主となったという。
343日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:49:56
以上の話には動物報恩譚,末子成功譚,難題婿といった説話の型がふまれており,民話
的な興趣があるが,根幹は若者に試練を課した古代成年式に基づく王の即位式の説話化
と見ることができる。兎を救った話は,民衆のために医療,禁厭(まじない)の方法を
定めた(《日本書紀》)とあることの本縁譚で,もって王者の徳“慈愛”を語ったのであ
ろう。(2)はヤチホコの神として越(こし)の国へ妻問いに赴く話だが,前半は越の沼河
比売(ぬなかわひめ)との,後半は嫡后(おおぎさき)スセリビメとの長歌の唱和の体
をとる。歌はそれぞれ20行前後の長さをもち,その身体行動に即した演劇的表現,性的
表現の直截性,全編にわたる滑稽性において古代歌謡の特色をもっともよく伝えている。
これらの歌謡はおそらく宮廷の饗宴で俳優により演ぜられたもので,ヤチホコという神
名は陽根の象徴と見られる。王者の活力の一端を示す挿話としてオオクニヌシの物語に
とりこまれたのであろう。(3)においてオオナムチは海の彼方より漂着した小人神スクナ
ビコナと国作りを行う。この大と小との対照的組合せを示す2神は,《風土記》《万葉
集》などに地方の山川を創造・命名し,また農業の本を開いた神として伝承されている。
344日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:50:46
記紀の国作り物語はそうした在地神話の宮廷的・中央的集約とみなされる。ただしスク
ナビコナは国作りなかばにして常世(とこよ)の国へ去り,かわってあらわれた大物主
神(おおものぬしのかみ)がオオクニヌシとともに国作りを完成させる。これはオオナ
ムチがオオクニヌシに統合・吸収される過程で生じた政治的付加といえる。(4)かくして
葦原中国の主となったオオクニヌシに対し高天原より国土を天津神の子に譲れとの交渉
がはじまる。交渉は両三度に及ぶが,ここでのオオクニヌシは生彩のない受動的な神に
すぎず,使神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)に対して事代主神(ことしろぬしのか
み),建御名方神(たけみなかたのかみ)(ともにオオクニヌシの子)ともども屈服し,
国譲りのことが定まる。その際の条件にオオクニヌシは壮大な社殿に自分をまつること
を請いそこに退隠することになったが,これは出雲大社の起源を語ったものである。
[オオクニヌシ像の変遷] オオクニヌシの祖型としてのオオナムチはスクナビコナと
組みをなして記紀以外の文献,伝承にもっとも多く語られた神である。そこでは《出雲
国風土記》に見える〈五百(いお)つ■(すき)の■猶(なお)取り取らして天の下造
らしし大穴持(おおなもち)の命〉との呼び方や,《播磨国風土記》に伝える2神の我慢
くらべ譚,オオナムチが〈屎(くそ)まらずして〉スクナビコナが赤土の重荷を背負っ
てどこまで歩き続けられるかを競った話のような土着臭の強い神としてあらわれ,記紀
の時代以後も諸書に伝承の痕跡を残している。
345日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:52:12
オオナムチあるいはオオナモチの名義は
,〈大穴持〉の文字よりすれば洞窟にいる神を意味し,その在地性に即した名といえよ
う。なお平安末期には大黒天(だいこくてん)を食厨の神として寺院の庫裏にまつる風
が生じており,近世期には七福神のひとつとして流布されるが,その過程でオオクニヌ
シは大黒天と習合されるにいたった。〈大国〉あるいは〈大己貴〉の音をもって通わせ
たといわれるが,大黒天像の袋を背負い米俵をふまえた姿はなお古代の農神の面影を伝
えており,西日本において大黒天が〈田の神〉として信仰されたのも同様の理由による
と思われる。またオオクニヌシは現在も“縁結び”の神とされるが,これは記紀のオオ
クニヌシが子福者であり,〈其の子凡て百八十一神ます〉(《日本書紀》)とされたこと
の世俗化であろう。
346日本@名無史さん:2005/07/27(水) 18:24:41
長文投稿、恐縮です。
調査力のない人が跋扈してますんで直接彼らの目にも触れるよう
出来る限り事細かに書く必要があると考えました。
347白馬青牛:2005/07/27(水) 21:12:47
>>339
ツングースと朝鮮が、同じ文化圏に属するといえる根拠は
何処にあるんか?
ツングースは、北アジアでも朝鮮と最も違う民族性を持っておると思う。
モンゴル人は、若干文明化しておるので、阿諛する部分もあり、
朝鮮民族と近い部分もあるが。
348日本@名無史さん:2005/07/27(水) 21:54:23
>>347
必ずしもそう思っては居ません。
しかし、掲示板みている人に分かりやすくするために
多少誇張気味に書いたことは事実です。
今後はその勢いで馬鹿なコピペ荒らしを撃退してください。
349日本@名無史さん:2005/07/28(木) 05:32:18
ツングースである満洲族は、じぶんたちの民族性が漢族より優れているから、漢族を
支配するのは当然、と考えていた。
しかしその優れた民族性も、漢族にとりまかれて何代か経てばたちまち漢化してしまって、
清帝国の衰退に至る。

それは別として、満洲族と自称する人たちに会うと、漢族より我々日本人に近い感じが
するのは不思議なほどだ。
350日本@名無史さん:2005/07/28(木) 11:24:25
つまり日本人はツングースカってこったな
本当に本州人をみると満州人そのものにみえる
351日本@名無史さん:2005/07/28(木) 11:30:46
だから、もう明治以後は加速度的にツングース化だって、アキラメロ。
352日本@名無史さん:2005/07/28(木) 11:45:20
つまり、「騎馬民族は来なかった」は否定されたわけね?
353日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:06:45
現代のツングースってどんな階層の人たちなの?
放送業界とかIT関連かな
354がいやまん:2005/07/28(木) 13:43:29
355日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:01:29
東胡の人って凄い氏族の結束力が高いそうだから、どこにでもいるだろう。
放送業界とかは多そうではある。
中世の村でも惣なんかはかなりエベン的な社会なんじゃないかな・・
士族以外氏姓を許されなかったのも相対的に支配階層の
結束力を高めたとも言えるからエベン的のように思う。
356日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:13:06
酒屋、土倉、金貸し、サラ金、風俗、パチンコ屋、
マスコミ、白虎隊(警視庁=警察)
この辺は古代から根で繋がっているとみてるよ。
ツングースの本家筋だと思う。
357日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:28:52
ツングースの支配体制は東に行くほど洗練され完璧なものとなる。
八紘一宇なんか、天才的だ。
358日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:10:20
先の大戦なんかも主導したのはツングース系だろう
軍属、官僚、政商、教師が一丸となった
359日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:30:15
そもそも下ってきた天孫が新参者なのに神の子、先住民族と
言ってる時点でねつ造だろ
半島も同じ天孫神話の国だぞ。
ヤマト(倭)等は天孫ではないから白虎隊などに比べ差別的待遇を受け
危険な任務に就かされているだろ。
360がいやまん:2005/07/28(木) 15:33:29
361日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:36:51
彼らは時には奢侈の対象にもする、いろんな形で
先住民族を利用する。
インドのアーリア(選民)などもこの系統に近い神話を持つが
むしろカーストが生業を守り先住民族の血を守ったと
言える。それに仏教、ヒンズー、ジャイナなど多種多様な
選民思想と相反する思想も影響したと考えられる。
362日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:49:41
戦前の自由主義的な柳田の民俗学も全然ダメ。
あれは唯物史観からのもの、馬鹿。
363がいやまん:2005/07/28(木) 21:44:47
>>340
「高句麗〜天孫降臨と国譲り
 紀元前五十九年の四月八日、天から不思議な一行が降りてきました。
白鳥に乗って羽衣を翻した百人あまりの天人が、天空を駆ける五龍車に
つき従っています。清らかな楽の音が高らかに響き、鮮やかな雲の間を
かきわけて、まずは熊心山に降りました。そこで十日あまり過ごし、ついに
地上の訖升骨(フルスンコル)という城に降臨しました。
 五龍車に乗っていたのは天帝の太子で、解慕漱(ヘ モソ)と言います。
頭には鳥羽冠をかぶり、腰には龍光の剣をさしていました。慕漱はそこを
都に決めて自分のことを王だと名乗り、国の名前を北扶餘と名づけます。
やがて解夫婁(ヘ ブル)という王子も産まれ、彼が成長すると国を継が
せたのでした。 
 解(ヘ)という姓は「日(ヘ)」に、夫婁(ブル)という名前は「火(ブル)」
にひっかけたものだと言われます。つまり、「太陽・炎」という名前です。
天から降りてきた一族は、太陽にちなんだ名前を持っているのでした。 
 こうして夫婁が王として北扶餘を治めていたとき、大臣の阿蘭弗
(ア ランブル)は不思議な夢を見ました。天帝が夢枕に現れて、
遷都せよと命じるのです。
「この地は、今まさに余の子孫が国を建てるべき場所である。よって
汝らは遠慮して立ち退くのじゃ。
 東海の沿岸に迦葉原(カソヴォル)というよく肥えた地がある。そこが
お前たちに向いておるであろう」」
http://enkan.fc2web.com/kantan/kr/kr_03.html
上記の「迦葉原」が「香春」、「橿原」そして >>340 「河原」と関係があるかも。
辛国息長大姫、神武、気多神と皆外からはいてきた存在が係わるのが共通。
すなわち、同一の神話を維持してきたのではなかろうか。また、逆に日本の
方からのフィードバックということもありえるかな。
364日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:15:28
>>360
八旗と八幡て関係あるの?
365がいやまん:2005/07/29(金) 08:26:28
↑高御座だとか、「大事には「あきつみかみと、大八洲しろしめす、天皇詔書と」
といつた形を以てしたものと思うてゐる。」という下記の記述とか、
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/24435_14230.html
八幡についての考証とか、
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-51.html
http://www.e-tamaya.com/hatiman.html
他にも八咫鏡、内行花文鏡、等関係は深いようだ。
366がいやまん:2005/07/29(金) 09:15:34
↑上の最後のリンクには「更に、新羅は満州族の影響を受けていると考えられ、
その満州には「八旗制度(八幡制度)」があった。 八旗制度は軍事、政治、生産
職能の機能を持つ重要な制度で、八旗の構成メンバーは"旗人"と呼ばれた。」
ということが書いてある。一方、神武は紀ノ川で名草戸畔を殺し、死体を8つに切った
とされる伝承を残す。これは神武軍は八幡史観をもち、多分銅鐸集落をスサノオが
「ヤマタのオロチ」というように、共通の竜神(水源)を持つ集落集合体を、銅鐸の破壊と
共に解体し、紀ノ川、熊野と銅鐸圏の西、南の要地を攻略、後の纒向を中心とする
倭国形成に寄与したのではないかと思わせる。つまり、神武の他にも北陸、東海地方の
大王がいてこれが欠史八代の頃の天皇に計上されているのではなかろうか。


367がいやまん:2005/07/29(金) 13:02:30
>>365 高御座 ↓
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-0407-08.htm
このように八角形となっている。
368がいやまん:2005/07/29(金) 13:54:34
内行花文鏡、については↓
平原遺跡と下池山古墳出土の大型内行花文鏡について
http://homepage3.nifty.com/markmaeda/naikoukamonnkyou.htm
鏡の種類
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/kouko16kagami.html
この頃の倭国成立については↓
前方後円墳と前方後方墳
http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/shinpo/shinpo7.html
が参考になる。
369日本@名無史さん:2005/07/29(金) 14:40:18
八になぜツングースは拘るのだろう・・
370日本@名無史さん:2005/07/29(金) 14:56:54
ツングースというより遊牧民系の八方分割じゃないか?
371日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:02:14
八方分割?
八進法か?
なんのいみがあるんだろ・・
372日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:56:47
■ハングル板基本用語解説■其の14

(理由2) <<白丁(ペクチョン)>> 日韓併合されるまで朝鮮に存在していた被差別階級。在日=白丁とされる韓国では
現在でも在日は差別される。実際は全ての在日が白丁な訳ではないがその多くは朝鮮社会での被差別階級だった。朝鮮の身
分階級は大別して「良人(両班、中人等)」「賤人=奴隷」とあり、「賤人」のうち個人所有=民婢、公有=官婢と称した。
国家的奴隷制、贈り物・相続・売買され、殺生しても罪に問われなかった(←部落との違い)「白丁」は、これの更に下層
に奴隷以下の被差別民として位置づけられた。李朝時代に身分として固定され、柳細工の製造販売や屠畜などに従事、衣服
も指定され、居住地も制限され、目印として平壌笠と呼ばれる笠をかぶらねばならなかった。(コピペ)
(理由3) <<済州島出身者>> 白丁よりも済州島が多い。ソウル>地方>全羅道>白丁>済州島 済州島に対する差別
は酷く、完全な野蛮人扱い。済州島出身者との結婚となると、在日の間でさえ「血が汚れる」と一族が猛反対。
1948年、南朝鮮の単独選挙に反対する南朝鮮労働党が組織した済州島四・三蜂起が発生し、朝鮮戦争後の1950年代
半ばまで、弾圧とテロ、山岳ゲリラ活動が続き、のべ8万人の島民が殺されたとされている。今日でも、済州島は反中央の
気風と結びつけて語られることが多く、半島には済州島出身者への差別意識が残っていると論じられることも多い。
済州島は、民族的に陸(半島)と著しく異なり、倭人に近い。昔は独立国だったが、いつの頃か朝鮮に侵略されて現在に至
る。ただ、完全な支配となると意外と新しく、三別抄の乱後、元寇以後になるんじゃないかな。日本では、神功皇后が済州
島を征伐し、その時百済に与えたと伝えられてる。 (コピペ)

――戦後の補償と謝罪―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
戦後の補償と謝罪に関するデータ http://tenpura_c.tripod.co.jp/


360 :日本@名無史さん :2005/07/29(金) 15:41:29
早い話満州人が倭人(縄文)をB扱いして差別・排除してきただけだね。
半島も日本も構造は同じじゃん。
373サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/29(金) 21:50:37
今、井沢元彦氏の逆説の日本史12巻をよんでいます。ふと、おしまいの方のページに目がとまりました。
>ケガレとは、皮剥ぎの一工程。
「新鮮な肉」を得るための解体作業には「血抜き」と「皮剥ぎ」がかかせない。
牛馬の「皮剥ぎ」にかかわってきたがゆえに、「毛がれ」とされ、五穀を枯らす根源とまで考えられて、蔑視
賎視を受けるに至った皮革の技術者ーそれがエタであった。

ところで、騎馬民族とはその生業は略奪と牧畜でしたよね。とすれば当然、肉食ですよね。そして動物を解体する
ことはあたりまえの人達ですよね。
ところがそれが日本では、汚らわしいとして差別の対象とされているということは、
騎馬民族は、支配者として日本に来たのではないと言う事を表しているのではないでしょうか。
それともはじめは、征服者的に日本にきたが、やがてエタの身分になったとか。
どちらにせよ、騎馬民族が支配者であったなら、日本では動物を殺して食うことに、
もっと違和感はないのではないでしょうか。



邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は、小城公園桜ヶ岡です。
374白馬青牛:2005/07/29(金) 22:59:18
>>373
ケガレとは、死・病や社会や政治の秩序を攪乱し脅威となるものに
対する忌避・恐怖の観念で、皮剥ぎの一工程をあらわすものではない
でしょう。
しかも、遊牧文化をもつチベットでも、「屠殺者が賤民」となって
おるので、その説には同意出来んのです。
騎馬民族の生業が略奪というのも疑問があり、略奪される側との正常な
関係が崩れた場合をさすというほうが、近いと思う。
弥生人も、銅鐸に描かれておるように、鹿狩り、猪狩りと狩猟の絵が
多いので、動物を殺して食うことに違和感はなかったでしょう。
375サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/30(土) 07:17:09
チベットで「屠殺者が賎民」となっているのが現代だとすれば、仏教の影響ではないでしょうか。
弥生人もとありますが、騎馬民族説の時代想定は4〜5世紀ではないでしょうか。
376日本@名無史さん:2005/07/30(土) 09:10:37
広開土王の碑文に征服した異民族を奴隷化してその陵守としたという一文がある。
高句麗でも被征服者が賎民化されているわけで、日本の天皇陵の陵守もこれに倣って行われたと考えられる。
377日本@名無史さん:2005/07/30(土) 14:16:35
>>373
>ところがそれが日本では、汚らわしいとして差別の対象とされているということは、
>騎馬民族は、支配者として日本に来たのではないと言う事を表しているのではないでしょうか。
>それともはじめは、征服者的に日本にきたが、やがてエタの身分になったとか。

ばかも休み休み言え。
征服民族の中核は誇り高き戦闘者、戦士だ。
戦士がみずから皮剥ぎなどやるものか。
皮剥ぎをやったのは戦士の階級に仕えた部民のなかの一つだったろう。
378日本@名無史さん:2005/07/30(土) 14:45:02
>>376

Bの中に陵がある例があるがそれはどう説明する
379日本@名無史さん:2005/07/30(土) 17:20:08
Bって何?
380日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:53:09
追加。
晋書東夷伝の扶余条にも、扶余が「豪家」と「奴僕」に別れていたと書いている。
この奴僕が農作業や「皮剥ぎ」をやっただろう。
また「家々有鎧杖」とあり、家々に武器を持っていたというが、奴僕が武器を持っているのは
おかしいから前記「豪家」がみな武器を持っていたのであり、これが戦士の階級だったろう。

また奴僕は同じ民族でもよいが、土着の被征服民族か、あるいは戦争捕虜だったろう。
広開土王碑にも、南鮮を荒らした王が一つの村の人民を連れ帰る記事がある。
381白馬青牛:2005/07/31(日) 00:51:33
>>375
チベットの仏教の影響は吐蕃以降であろうが、仏教の影響とするには、
非仏教圏のヨーロッパにおいての賤民(羊飼い等)も考える必要もある。
弥生人も、日本への移住民と思われますが、弥生人を例に挙げると、
不都合でもあるのでしょうか。
382日本@名無史さん:2005/07/31(日) 07:41:16
鴨禰宜がきてからスレのレベルが一気に落ちたな
383サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/31(日) 16:58:03
確かにお偉いさんはに肉体労働を嫌い、動物の解体のみならず、農作業や建築等もほかの人にやらせたであろう。
しかしそうでない一般人は、自ら肉体労働もやったはずである。
ときたま、遊牧民の生活のTVをみるが、家畜を飼育している人が、解体していた。
いや、遊牧民は、家畜の飼育のほかに、その解体処理までもしらなければ失格ともいえる。
それは、戦士でも例外ではないと思う。
384日本@名無史さん:2005/07/31(日) 23:17:12
>>383
江上説によれば日本を征服した征服民族は扶余だが、扶余は決して遊牧民ではない。
385白馬青牛:2005/07/31(日) 23:19:19
>>383
遊牧民である、なしに関わらず、農耕民でも、家畜を飼育している人が、
解体処理し食うことは、当たり前のことでしょう。
なぜ、動物の解体処理が問題となるのか?
386日本@名無史さん:2005/08/01(月) 08:14:41
江上説をほとんど知らずに論ずるのはなんですが、扶余は騎馬民族なのですか?
387日本@名無史さん:2005/08/01(月) 09:21:22
293 名前: ルーツ 投稿日: 02/05/01 14:15

日本語と朝鮮語は、驚くほど関連がないね、
もっともっと、似たようなものがあるのが普通でしょ、隣国なんだから。

支配民族=言語支配と考えると、 
結果として両民族の支配民族のルーツは全く違うわけだよ。

大事なことは、
現日本(支配民族)は古朝鮮をも支配したことがあってその逆はないということ。
現朝鮮(支配民族)が古日本を支配したことはない。

古朝鮮は倭に300年朝貢支配されたが、660年完全に支配からはずれ、
倭の残留言語系はその後の1400年の間の諸民族の朝鮮蹂躙で消えてしまった。
韓国人が唱えるその逆の説、「古日本が古朝鮮系に支配された」という説はなりたたない。
なぜなら、
支配言語の日本語が朝鮮半島ルーツの場合は、
現在の朝鮮半島に日本語が色濃くのこっているはずだからである。
388日本@名無史さん:2005/08/01(月) 09:23:53
305 名前: 娜々志先生ファン 投稿日: 02/05/07 05:35


  上代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語

1   pito"    −−   hсtсn  hсtсn   hΛdΛh    hana
                 (一等)  (河屯)
2   puta    −−   tu"pс"r tuβсr   durh     tu:r
                 (二尸)  (途孛)
3    mi     mil    −−    sei    s∂ih    se:s
            (密)          (洒)
4    'jo"     −−   −−    nei    n∂ih    ne:s
                        (廼)
5    'itu     'utu   −−   ta∫us  dasΛs    dasсs
           (于次)        (打戍)
6    mu    −−  −−    'jur∫us  'jсsΛs    'jсsсs
                       (逸戍)
7   nana   nanun  −−     'irkup   nirgub    'irgob
            (難)          (一急)
8    'ja     −−  −−    'jurtap   'jсdщrp   'jсdсr
                       (逸答)
9   ko"ko"no" −−   −−   'ahop   'ahob    'ahob
                       (鴉好)
10   to"'wo"   tek   −−    'jсr    'jсrh     'jс:r
            (徳)          (噎)
389日本@名無史さん:2005/08/01(月) 09:36:16
>>387-388だが。

>>386の質問に答えるとなると扶余≒高句麗だから、まあ渡来系弥生語とは
親近関係があり、結論としては騎馬民族というより半牧半農民族かと思う。
また、高句麗語はトルコ語に近い説もあるらしいから、ブリヤート語と
かなり関連性があると思う。だから北方系日本語(北九州弁など)とは似ている。
(ブリヤートは初めはトルコ族で後にモンゴル化した半牧半猟の民族)

一方、高麗語≒朝鮮語は満州語に近く、祖語を遡ればシベリア・イヌイット
諸族の一派がアルタイ化し、ツングース語と分派して南下したと思われる。
390白馬青牛:2005/08/01(月) 23:00:53
>>389
また人種厨か?ブリアートは、HLAでも日本人(満洲族、漢族、
中国朝鮮族、韓族も含む)とは、全体的に遠いと、他スレでも何度も
ゆうたのに。
江上氏によると、騎馬民族は遊牧民のみでなく、半農半牧民や
半猟半農民も含む。
高句麗がトルコ語と近いという説は、誰の説か知らん。
(ブリアート語は、モンゴル系の語派)関連性があるとの説は、
聞いたことがないし、北方系日本語という存在も知らん。
ブリアートは、初めはトルコ族ではなく、ブリアート自身が北上し、
モンゴル語をバイカル地方にもたらしたというほうが近いと思う。
そして現地民のトルコ、サモエード、ツングースと混合した。
イヌイット諸族の一派がアルタイ化し、ツングース語と分派という説も、
初耳で誰の説か?高句麗語の、土地(na)は、日本語、女真語、満洲語
でも、同じであり、高句麗語の、水(me)は、日本語、女真語で、miで、
満洲語では、muke、以上は村山七郎説、満洲において断絶はあるのか?
391日本@名無史さん:2005/08/02(火) 18:18:35
>>390
質問に答えてくれたから、こっちも突っ込んでみる。

最初に断っとく、申し訳ないが貴方はツングース厨なんか?
江上説に反論するがブリヤートは、HLAでモンゴル・ヤクート(サハ)とは、
全体的とは断定できないが、朝鮮・満洲よりもずっと近いことが数年前の
NHKで、幾多の考古民族の学者によって証明されている。執拗かも知れんが。

>騎馬民族は遊牧民のみでなく、半農半牧民や半猟半農民も含む。
これは総合的に賛同する。アジア系だけでなく印欧語族のゲルマン・ケルトなど
のコーカソイドの種族にも該当する。元来森林の民だから。 
>高句麗がトルコ語と近いという説は、誰の説か知らん。 
少なくとも古代朝鮮語は日本語に近いのが有力。現在の朝鮮語とは別系統のはず。
>(ブリアート語は、モンゴル系の語派)関連性があるとの説は、聞いたことがない
>ブリアートは、初めはトルコ族ではなく、ブリアート自身が北上し、 
>モンゴル語をバイカル地方にもたらしたというほうが近いと思う。 
>そして現地民のトルコ、サモエード、ツングースと混合した。
それは貴方が言い出したんでしょ?モンゴル諸族が古代はトルコ族だと。 
>イヌイット諸族の一派がアルタイ化し、ツングース語と分派という説も、 初耳で誰の説か?
アクセントとスペルを感じで推測すると、そうとしか考えられない。モンゴル・トルコとは異種の
感じがする。また現在の朝鮮人・韓国人の容貌を見ると、日本人はモンゴル人に似ているが。
村山七郎のことは、無知でゴメンなんだが。
392日本@名無史さん:2005/08/02(火) 18:23:39
訂正;

>それは貴方が言い出したんでしょ?モンゴル諸族が古代はトルコ族だと。  
それは、貴方がモンゴル諸族が古代ではトルコ族で後にモンゴル化したと言い出したんでしょ?

参考にコピーしとく。

25 :世界@名無史さん :2005/07/02(土) 19:29:35 0 
>22 
ブリヤートの先祖は、6世紀頃「骨利幹(クリカン)」と 
呼ばれたテュルク系民族。その一部は北へ移動しサハ(ヤクート)になった。 
残留した「森の民」は他のトルコ族の一派がモンゴル民族として勃興と共にモンゴル化し、 
「バルグト(ブラガト)」と呼ばれる。 

バルグトはチンギス・ハーンに征服されモンゴル帝国に組み込まれる。 
  
393日本@名無史さん:2005/08/02(火) 18:29:29
>>391-392だが、
また訂正;

>ブリヤートは、HLAでモンゴル・ヤクート(サハ)とは、
>全体的とは断定できないが、朝鮮・満洲よりもずっと近いことが数年前の
>NHKで、幾多の考古民族の学者によって証明されている。

ブリヤートは、HLAでモンゴル・ヤクート(サハ)と共に日本人とは、
全体的とは断定できないが、朝鮮・満洲よりもずっと近いことが数年前の
NHKで、幾多の考古民族の学者によって証明されている。
394白馬青牛:2005/08/02(火) 23:21:10
>>393
『HLAーA,B,DR−1ハプロタイプにみられた東北アジア6集団の近遠性と
異質性』で、ブリアートは他集団(日、満、漢、朝、韓)と比較的遠い
関係にあった。
篠田謙一氏の『DNAからみられた縄文・弥生人と現代人の関係』では、
縄文・弥生人ともに相同なハプロタイプを最も多く共有するのは、
本土日本人以外では、朝鮮、中国の遼寧省・山東省といった日本の地域に
近い人々で、特に渡来系弥生人はこれらの集団と密接な関係にあり、
縄文人は、これらの地域に加え、雲南省やブリアートといった中国周辺に
あたる集団とも共通のハプロタイプ持っていた。以上のことは、
佐賀医大医学部にでも問い合わせればよい。
ブリアートと縄文人は、松本秀雄氏のGm遺伝子も含め関連があろう。
また、考古学からも加藤晋平氏によると1万2、3千年前の細石刃文化も、
バイカル湖周辺からアムール流域を通り日本まで伝わったそうであるが、
幾多の考古、民族の学者とは誰のことか?
395白馬青牛:2005/08/03(水) 00:45:39
>>392
ブリアートが政治集団となるのは17世紀。当時はモンゴル系である。
ブリアート自体は、バイカル東部のバルグトか、バイカル西部のドルベン
というトヴァ族を中核とした部族から発祥した。その時代はトルコ系で
あろう。
人種的要素も、黄河人と中国北辺の青海〜興安嶺南部の住民は
人種的根源同じであるが、南北に違った経済文化圏(北部は農主牧副から
牧主農副と変化)となった。シロコゴルフによると南方ツングースも
人種的同一の黄河人から分かれ、北方ツングースはバイカル型として
いる。それはモンゴル人でも、北へ行くほど扁平な顔が多くなる。
以前のトルコ系住民でも、同じであろう。中央アジア型(中亜種)に
対するバイカル型(北亜種)の割合ともいえる。イヌイットに多い
極北型は、これらの地域では少ない。細かくいえば、現在の北朝鮮と
韓国でも南北で、顔は違うであろう。モンゴルへ行ったこともあるが、
日本人の容貌が朝鮮人に比べモンゴル人と似ておるとは思えん。
キルギスに行った人がいうに、キルギス人(中亜的)の方がモンゴル
より日本人に似ておるらしい。モンゴル人は、朝鮮人より扁平な顔。
396白馬青牛:2005/08/03(水) 01:33:27
モンゴロイド要素が強い同じトルコ系でも、キルギスとカザフでは
容貌に違いがある。カザフの方がエラが張り、角ばった顔でモンゴル人
とも近いが、モンゴル人より顔の彫が深い。
トルコ系オングト族は「容貌稍細く」とあるが、突厥とは違う容貌で
あったかも知れん。
満洲人は、北部漢人より鼻が高く目が大きい。西洋人も満洲人の容姿を
誉めておる。日本へ滞在したエルヴェン・ベルツも、日本の上流階級に
多い高貴なタイプ(本州西南部に多い型)を満洲・朝鮮型(長州型)と
呼んだ。
397日本@名無史さん:2005/08/03(水) 11:12:18
>>394-396
どうもありがとう。ツングース厨だなんていって大変申し訳ない…。
398日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:26:17
当スレで紹介されている梅棹氏とは、どこの学者先生でつか?
399白馬青牛:2005/08/04(木) 01:36:49
>>397
わしも、人種厨と失礼なことを言いました。反省しております。
それにしても日本史板には、人種厨が多く紛れ込んでおる。
このスレでも356あたりもどのような意図があるんか知らんが。
>>398
梅棹忠夫氏に、ついて語ると生態学的比較文明論とスレから外れて
しまうので、経歴等は「梅棹忠夫」で、検索すれば詳しく出ており、
しかも、梅棹文明史観ともいえる面白いものが出てくると思う。
梅棹氏の、ツングース水軍説は、『日本の海洋民』未来社刊の
日本国家の形成と海<座談会>にあります。
400日本@名無史さん:2005/08/04(木) 08:43:43
まさに良スレなり!
401日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:08:00
アゲ
402白馬青牛:2005/08/06(土) 00:34:58
>395の補足として、大林太良氏が示された、エーバーハルトの
先史時代の主な地方文化領域(1977)の地図から、中国文明の
形成に参与した地方文化として、河北、山東〜満州の豚飼育ツングース
文化、河北〜甘粛、モンゴル高原の馬飼育テュルク(トルコ)・モンゴル
文化、山西〜青海、四川に至る羊飼育チベット文化、河谷居住稲作民の
タイ文化、山地居住のヤオ文化、タイ文化とヤオ文化が混合して後に
出来た海洋民の越文化であるが、越の文化は朝鮮と九州にも影響を及ぼし、
ツングース文化も日本に影響を及ぼしていく。ツングース文化の中には、
チュルク・モンゴル系からも影響が及んでくる。
この説に関して、乾燥地帯の羊飼育と湿潤地帯の豚飼育となるが、
地域的相違が前面に出て(言語も違う)おる。西洋では、地中海地帯の
羊飼育、湿潤地帯である西北ヨーロッパの豚飼育と違いもあるが、
しかし東アジアでは、西戎〜羌、狄、山戎、貊等文化的共有と言う
要素も考慮する必要もあると思う。
403日本@名無史さん:2005/08/06(土) 13:40:49
>>385
383は、「日本では家畜解体をする人達が差別された、家畜を解体するのは騎馬民族だ、 だから騎馬民族は日本を支配しなかった」と言いたいわけだよ。

>>386
>江上説をほとんど知らずに論ずるのはなんですが、扶余は騎馬民族なのですか?

江上説をよく読めば、江上の言う騎馬民族とは「農耕民族を征服、支配することを
生き方とする軍事的・政治的な民族」という意味であることがわかります。
扶余はまさにこの定義にあてはまります。
と同時に、扶余は3世紀末〜4世紀前半の時点で南鮮や日本列島になかった、騎馬戦術
を持っていたこともまた事実です。

>>387
>支配民族=言語支配と考えると、 
>結果として両民族の支配民族のルーツは全く違うわけだよ。

支配者の言語が支配的になるというのは法則ではない。
支配者の言語(A)と被支配者の言語(B)との関係にはいくつかの類型がある。

1)AがBを完全に置き換える=フランスなどでラテン語がケルト語を
2)AとBが混じりあってピジン語が生じる=英語におけるフランス語とゲルマン語
3)AがBに吸収される=清国において満洲語が漢語に

ただし3)の場合もAはBになんらかの痕跡を残す。
騎馬民族説においては3)のケースであったと考えればよい。
404日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:53:27

中国を支配した鮮卑は中国語を使うようになった。
支配者が多数派を支配するのに、多数派に解る言葉で命令しないと意志が伝えられない。
支配者が自国語に拘っていては支配できない。

しかし、鮮卑が中国北半分を支配した事により、中国語に変化を齎した。
漢字の読み方に「漢音」、「呉音」の差が出来たのだ。

高句麗語が日本語に影響を与えたのも似たようなものだろう。
405白馬青牛:2005/08/07(日) 00:05:49
>396の補足もしておく。江上波夫氏の著作から、ヤクート(サハ)に
ついて要約『ヤクートの体質・容貌については、A・T・ミッデンドルフ、
R・マアクら以後、多くの学者が観測計測したが、だいたい顕著に区分
される二型があり、
一型、広顔と低鼻を有する純モンゴル型(ヤクートは、ブリアートと
しばらく雑居、混血しモンゴル要素を加えた)と
二型、長顔と隆起した狭鼻を有する西南シベリア型である。
いわゆる高貴なヤクート長老たちは二型に属するといわれ、
混血の少ない、より純粋なヤクートの体質を代表することは疑いなく、
彼らと西南シベリアのトルコ族との人種的近縁関係を示唆する。
ヤクートが現在飼育する牛馬はキルギス原産種といわれ、ヤクートの
伝承にキルギスとの接触が物語られている。ヤクートの最も有力な
氏族連合Khangalas(カンクリ、康里)で、キルギス原郷説に一証を
加える。』
わしは、かつて他スレで、ヤクート(サハ)をバイカル原郷とゆうたが、
江上氏の著作をあらためて読むと、キルギス原郷に説得力があり、突厥も
含めここで訂正しておく。
406白馬青牛:2005/08/07(日) 01:28:35
>>403
383氏の説は、他にも日本において猟師が自ら狩った獲物を、
解体することを無視しておる。
話は変わりトーテム獣について、突厥、高車丁零が「狼」をトーテムに
し、満洲人や現在のキルギス族が「犬」をトーテムとする。
佐口透氏によると扶余はブユ(鹿)という意味らしい。
江上波夫氏によると「狼、犬、鹿」は狩猟的要素が強い牧民が
トーテム獣にする。半農半牧民は「牛」でウィグル、トルコマンそして
ブリアートもトーテム獣は「牛」。遊牧的要素が強いのが「馬」で、
ヤクート(サハ)にあてはまる。
檀君神話の朝鮮やアイヌのトーテムは「熊」。日本(大和)は、
狼(大神)か鹿か定かではない。
407日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:45:18
日本は鳥トーテムじゃなかったのかな?
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/tn00a1.htm
「●鳥トーテム
 宇宙樹信仰は、その象徴として「頭の部分に日月・中央部に有蹄類・下部にベビ」などから構成される柱が、神体として扱われていたようでありまして、この柱の神体をトーテムと言います。
 稲作起源は紀元前八五〇〇年頃の中国であるとされておりますが、この頃の遺跡から稲作に必要な「太陽」「水」「鳥」が描かれた土器が出土されます。
 時計の無い時代でしたので、鳥の声はとても重要でありました。江戸時代でも鶏の声を基準にしてりましたし、埴輪にも鳥や鶏が多くありますね。
 このような意味でト−テムから派生するものの多くは「母権制氏族社会」、つまり女性が巫女になったり、最高位の神になったりするわけでありまして、
 七夕のお話しの場合には後にしつこく出て来ます(^^; 「西王母」が中心的な役割を負っているようなのであります。
 このような神話は鳥トーテム信仰のあった東北アジアの部族の間に色々伝わっています。
 例えば高句麗の祖先の朱蒙(しゅもう)は大きな卵から生まれていて、清の祖先である満州族のプクリヨンソンは
 神鵲(かささぎ)が落として行った赤い実を飲んだ天女フクリンから生まれたと伝えられております。」
 
日本にはいなかったカササギが和歌に沢山出てくるのも変だし、三本足のヤタガラスが天皇の即位の儀式に登場するのも象徴的だ。
カササギは別名カチガラスともいう。
神鵲(かささぎ)=ヤタガラスだったのだろう。
408日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:50:56
熊は東北アジアでは先住民族を表していると思うのですが
409日本@名無史さん:2005/08/07(日) 18:09:08
>>407
遼東あたりにあった国が「燕」を名乗ったのも鳥トーテム所以かもしれないな。

日本武尊の白鳥伝説も鳥トーテムが影響したかもしれない。
410日本@名無史さん:2005/08/07(日) 18:39:02
当時の人もそういうトーテムも原始アニミズム的な記憶として
曖昧になりつつある頃だという事は認識しておく必要はあるだろう。
だからトーテム一つをとって断定することはできず
手がかり的なものにしかならない。
411日本@名無史さん:2005/08/07(日) 19:13:46
鳥;逃亡
狼;虎 戦い
熊;先住民族
牛;農耕
412日本@名無史さん:2005/08/07(日) 19:15:18
鹿;狩り
413白馬青牛:2005/08/08(月) 01:35:09
トーテムについては、よく調べたことが無いので詳しく無い。ただ、
大林太良氏によると、動物が征服軍や移住民を先導するのは、牧畜民で
発達した観念であり、日本の神武東征のヤタガラスのよう鳥の形をとる
ところもあるが、ヨーロッパに進攻したフン族の牝鹿や牝牛、あるいは
『続日本紀』巻三八、延暦四年(785)坂上刈田麻呂
(坂上田村麻呂の父)の上表文の阿智王は「神牛の教え」に導かれと
あるように、東漢氏には神武東征よりも半農半牧民的要素もある。

「熊」は、確かに先住民的であろう。アムール地方に近いナナイに
は「虎」トーテム。
杉山二郎氏は、日本でも推古朝の五月五日に宇多野で百官を率いて
飾り馬に乗って薬猟をやったという記録が『日本書紀』に出ている
ことから「鹿」トーテムを考えておられるようであるが。
414日本@名無史さん:2005/08/09(火) 09:59:42
友人に獣トーテムについて尋ねたら、次のような
メールをくれた。

「狼も犬ももとは牛=ウル族
カ・ウル族がカルブ族=鹿族、カリブ族
ウル族がブル族、
ウル族が、グル族・・・ヨーロッパのグリス、ゲルマン、ガリア、ケルト
ウル族がロムロス=犬族、ローマ人の祖先
韓国新羅族=白族=朴族=スキタイ系の白銀族、カルブ族、
鹿族

こういったわけで、韓国の慶州は、朝鮮せかいでは異質なスキタイ
タタール人だと考えております。
では朝鮮人はとなりますが、韓国人は亀トーテムで、北朝鮮は
狩猟民、馬トーテムで、ランク付けは、馬>牛>猪>狗」
415オイルふえち:2005/08/09(火) 22:42:02
新羅系が政権をとっていたが、途中で百済系に政権交代したので、古い勢力が被差別の
対象になったと思いませんか、八幡制度のはたも秦氏が京都の元を造った
416日本@名無史さん:2005/08/09(火) 22:48:32
百済系というのはないあるなら倭系。
417がいやまん:2005/08/10(水) 13:12:00
騎馬民族の末裔の日本における足跡をたどってみよう。日本最初の都市国家、
纏向遺跡を建設纒向に近い穴師、大兵主神社は箸墓をはじめとする初期大型
古墳が向く弓月ガ嶽を向いている。弓月というのは秦氏の伝承で、仲哀、応神
(127県の領民が渡来)の他にアメノヒボコ、ツヌガアラシト等の伝承もあり、辰韓
方面から大量の渡来があったことを伝えるかのようである。弓月というのは半月
のことで、星、狼と共にトルコのシンボルであるが、三韓時代においては馬韓月
支国、辰韓半月城等が拠点であったと見られる。日本に渡来したのはトルコ系
匈奴/月支、ツングース/扶与・フル、秦族などの混成民族軍で月支は月、星
、狼(星辰、妙見)、ツングースは太陽神、白山、竜神、水源、秦族は蚩尤等を
信奉していたのであろう。ただ、弥生1000年の間、縄文の伝統を持つ日本に
トーテムとか信仰対象とが全くなかったわけでもなく、渡来人の信仰対象は
在来のものと習合されていったのであろう。前置きが長くなったが、纒向に
入った渡来人はどうもアメノヒボコのようであるが、これは但馬を中心に
近畿各地で活躍をしているが纒向もその一環であろう。
418がいやまん:2005/08/10(水) 13:13:40
「豊前の古歴史」
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html#anchor1959758
「託宣集」によると、八幡大神は小倉山にいた先住の地主神である北辰神に、
一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかけたところ、北辰神は彦山
に権現がいて、一切衆生を済渡していると云った。香春大明神も八幡大神に
むかって同じようなことを云った、とある。北極星を神格化した北辰神を、妙見
菩薩といって鉱山に関係がある。北極星の信仰はもともと道教から出発した
もので、渡来人が持ち込んだものである。香春には妙見金鉱山がある。この
妙見金鉱山の近傍には比口羊神が祀られている。比口羊神が鉱山技術者の
神であることから、香春では北辰信仰と比口羊神への信仰が一対として伝え
られ、それがそのまま宇佐神宮の二の御殿の比売大神とその脇殿の北辰神
との関係に置き換えられたと思われるふしがある。それでは北辰神と比口羊神
とを宇佐の小倉山で斎祀したのは誰か、ということになるが、それは渡来氏族
で、宇佐地方に誕生した辛嶋氏以外にない。大神氏は大和国中の近傍からの
移住者と思われる。また宇佐氏は土着の氏族であって北極星の信仰を
持たない。総じて日本には星に対する信仰は育たなかった。・・・
記紀では月読みの命として出てくるが、強力な武力が敬遠されているようである。
このため月支族は月山、狼関連神社などとして中部・東日本に分布する。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~ALLURE/gassan.html
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~raifuku/special/wolf/wolf_top.html
これの起点となるのは月山富田城に程近い松江の田和山遺跡であり、
頂上には三日月形「加工段」といわれる遺構がある。↓
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/tawayama.htm
この様式を保っているのが、福井県山中にあって、
「ピラミッドのよ うな三層の石垣に載った本殿」、日野宮神社↓
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~raifuku/special/wolf/map/area/chubu/shrine/hinomiya/hinomiya.htm
日本に上陸した騎馬民族の末裔、月支族はこの地方から出羽、
三陸方面に向ったのだろう。
419オイルふえち:2005/08/11(木) 23:30:18
日本海側が古代は大都会であったと見えます、奥まった奈良に都があり、継体も
福井から迎えたのは、親類が後続で
420白馬青牛:2005/08/12(金) 02:22:20
>>414
高句麗においては、狗(内部、東部、桂婁、沸流部、扶余狗加)>馬
(南部、貫那部、扶余馬加)>牛(西部、松譲部、扶余牛加)>豚
(北部、堤部、扶余猪加)の順かと思える。
>>417
狼祖神話が全てトルコ系とは思えんのです。モンゴル部も狼と鹿の混合。
匈奴は牛。江上氏は「トルコ系も、鉄勒OyuzをOkus(牛)の転形と見うる
ばかりでなく、ウイグルのオグズ汗の伝説の挿画にはオグズ汗が明らかに
牡牛の形に描かれ、彼らの牛トーテムに基ずく。そうしてオグズの末裔
遠くカスピ海岸に住むトゥルコマンは、その氏族のトーテム獣として
牛を有することが多い。」とされておられる。しかも東日本には、
西日本の牛車、牛犂文化等、農牧民的文化要素が希薄となるので、
欠落部分が出ておると思う。
421日本@名無史さん:2005/08/12(金) 10:26:50
>>418
確かに、星辰、北極星の信仰は古代中国の神話や道教から出発したもので、渡来人が持ち込んだものである。
おもしろいことにこの古代星辰がらみの海人祭祀(古代中国の海人神事と同様に日月星辰の幡を掲げて練り歩く)
がいまも残っている地域が現存する。
有明海沿岸の山門郡太神地域だが、かって古代安曇の勢力圏であった。
当地の太神氏は土着の氏族であって北極星の信仰を持っている。
ここの太神氏が宇佐とも関係していたと聞いたことがある。

422サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 15:34:50
今日で邪馬台国発見14周年となりました。
屋又四国小城説宣伝強化期間として、小城説を喧伝してまいりましたが、ご賛同はともかく小城説の存在をおわかりいただけましたでしょうか。
来年の15周年には、大きなイベントを考えておりますのでどうぞ宜しくお願いいたします。
423石宮:2005/08/15(月) 13:34:27
馬の輸送についてですが、よく馬はデリケートな動物なので海上の輸送はむずかしい。
とかききます。近頃、NHKの義経をみておもうのですが、源平の合戦でよく馬が出てきます.
昨日も屋島の戦いで那須与一が馬に乗っていましたが、あの馬は兵庫から運んだものでしょうか。それとも現地調達した馬だったのでしょうか。
ちょっと疑問に思ったものですから、お聞きします。勿論撮影用のことではなくです。
424日本@名無史さん:2005/08/15(月) 14:57:50
鹿は古代ト占の名残ではないのですか?
鹿の骨がこの占いに重要な意味があったらしいし、
航海する上で祭祀上かなりの権限もっていたらしいですが
藤原もこの出らしいですね
425日本@名無史さん:2005/08/15(月) 15:10:30
宇佐が土着である証拠ありますか?
僕はよっぽどの事がないかぎり氏姓を与えられたのは
渡来系のみだと思っております。
中臣のような古代海神勢力で占いして神武に付き従った
土着系以外は・・・
426日本@名無史さん:2005/08/15(月) 15:15:23
トーテム論は限界を感じる、既に魏志倭人伝にみる倭人の
生活にトーテムを感じさせるものは少ない。
427日本@名無史さん:2005/08/15(月) 15:32:27
高句麗出雲・武蔵族の渡来はおそらく紀元前2世紀頃だろう
(まだ高句麗の無い頃)
日向天孫降臨が紀元後2世紀頃である。
神武の勢力は東進し出雲・武蔵族の系統を破り畿内に朝廷を開いた。
428日本@名無史さん:2005/08/16(火) 14:14:15
>>423
私もそれを聞きたかった。
それと、一ノ谷のとき、平のアツモリはしずしずと馬を海に乗り入れて沖合いの
船に向かうときに熊谷に呼び止められて首を取られた。
アツモリは船に着いたあと、馬をどうするつもりだったのか?
船に積むのか、船につないで泳がせるのか、それとも放してやるのか?
アツモリだけでなく平家の騎馬武者すべてに拘わる疑問である。
429がいやまん:2005/08/16(火) 15:27:21
騎馬民族についてはちょっと置いて、箸墓周辺の同期古墳が弓月ガ嶽
にむいているのは、後世の秦氏の作為ではないかと思う。兵主神等の
正確な知識がヒミコの時代にあったとは思えないし、倭人伝の描く倭国
はとてもそんな国ではない。弓月ガ嶽の方角に向いた古墳をデザイン
したのは当時の倭国人のコンセンサスにより、工事を請け負ったアメノ
ヒボコ渡来集団が建設、吉備の倭人祭祀集団が祭祀を行ったもので
古墳の先の山の名前は弓月ガ嶽ではなく別の呼称があったのだと思
っているんだけど。まー、いずれにせよこの辺は50年くらいで廃れ、佐紀
盾波古墳群に中心は移動する。
430がいやまん:2005/08/16(火) 15:40:54
ズマソ、前言取り消し。兵主神等といった概念はなかった。ただ、兵器を祀る
山上のイワクラのようなものはあった。しかし、それは兵主思想とかいうので
はなく渡来集団の持つしきたりであった・・・と考えてみたい。
431がいやまん:2005/08/17(水) 10:01:25
>>421
有明海沿岸の山門郡太神地域から遠賀川、岡の港、そして、宇佐というのは
確かにありえる。山門郡太神地域が甕棺文化の最終地点でこの辺から別の
形態に変わって筑後川、日田、英彦山、香春、岡の港、宇佐方面に展開する
のだろう。八幡の起源が伊都国から南下して有明海方面に入り筑豊、豊前
へと流れるのかな。
432日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:40:31
そう言えば宇佐には四国と関わる伝承が沢山あるよね。
433日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:24:14
九州にあって畿内と四国に睨み聞かせれるのは豊しかないし、
九州にあって九州とは異なるのは豊の国、これは縄文時代から
その傾向があったらしく西九州人と、東九州人の形質は異なっていたらしい>>4

八幡の起源は豊しかあり得ないな、八幡市、宇佐、小倉、トキワ、香春
434日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:28:24
>>432
それは初耳であります。
概略で構いませんので、ぜひともご教授おねがいいたします。
435オイルふえち:2005/08/17(水) 21:16:23
八旗制度の八秦、秦氏は京都を造り、日本を造ったので
436日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:32:42
八卦、満州八旗と関係あるのかな・・
当時は八進法が主流だったけ?

ただ、秦氏は稲荷に祀られたので、新羅渡来系であったとしても
北方系より漢か倭に近い感じはするけどな、朱を尊ぶ点においても
437白馬青牛:2005/08/17(水) 23:28:11
>>423
馬の海上輸送は、貞観18年(876)のちの忽那水軍の本拠、伊予
(愛媛県)の忽那島から毎年馬4頭、牛2頭を朝廷に貢納し、忽那島には
当時300頭ぐらいの馬がおったが、牛も同数近くとあり、麦を食うので
農作物の被害から島民が困窮するゆえ貢納を減らしてほしいとあるが、
無人島では、江戸期にいおいても広島藩、岡山藩も馬牧場があった。
島は牧畜に適する地帯で、新唐書新羅伝にも「島の山で牛馬を飼い」
とある。瀬戸内海の段々畑も、元来牧畜から転じたとは宮本常一氏の説
じゃが、海民と馬飼いとの密接な関係、水軍の豪族は、牧場経営者という
側面も無視出来ん。
馬放牧について、森浩一氏は東日本は高句麗集団による高原の放牧、
西日本は、おそらく百済系による湖や川岸で水草を求める低湿地の放牧と
区分されておられるが、その百済系とは、馬飼い渡来系である漢氏、史氏、
田辺氏等、自称中国系の帰化人で、その源流には北アジアの牧畜民も
考慮する必要もある。
438日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:36:36
倭人伝には、倭人は骨を砕き占いをしているとある、
これは勾玉とは結びつかない。
直ぐ、マルクス的唯物史観によってか起源、征服という風に
短絡的に考える人が多いがそういうのは無いんだよ。
439日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:44:11
漢に馬が入るのはキョウド戦争の頃だから。土地に適した
牧畜を開拓した百済の漢人かな。
440白馬青牛:2005/08/18(木) 00:42:41
それと、このスレの67にも書いた貞観8年(866)肥前国諸郡司の
新羅通諜事件もそうじゃが、平安期新羅側の海賊による侵攻が九州北部に
度々あったが、新羅側にも隷属的立場をとったと思える肥前国は、新羅の
影響が強いと思われるので、のちの時代についても書いておこう。
松浦党が嘉禄二年(1226)に、数十艘の兵船で高麗の民家から資材を
掠め取ったとあり、「吾妻鏡」貞永元年(1233)にも夜討を企て、
数多の珍宝を盗み取ったという「倭寇」の行動に、田中健夫氏や
高橋公明氏は、朝鮮半島で猛威を振った「倭寇」が列島側や対馬島民だけ
でなく、済州島民、朝鮮半島の禾尺、才人等「賤視」された人々を含む
騎馬の大集団である点に注目し、その馬の供給源が済州島の牧であったと
見ている。肥前国高来東郷深江村の牧には文永16年(1273)頃
44匹の馬、100頭の牛がおったとされる。ここでも、騎馬と水軍の
関連がある。
441白馬青牛:2005/08/18(木) 01:15:29
>>438
マルクス史観では、自国民族の発展段階説で、少なくとも異民族の
日本の征服とは考えておらんでしょう。なにしろ、もっと狭く、
東日本の鎌倉政権を発展段階説で解釈し、日本における奴隷制から
封建制への歴史発展の法則「在地領主制論」により、東国農村の
在地領主こそ武士発生の源とする。西日本側から都から発祥した
武士職能論等異論を唱えると、歴史修正主義者とレッテルをつけられる
ぐらいですから。
442日本@名無史さん:2005/08/18(木) 02:14:57
521 :日本@名無史さん :2005/08/18(木) 02:13:35
78 :名無し象は鼻がウナギだ!:03/03/14 10:58
それにしても東北弁には思った程古語が無いんだな
四国の方が言葉が古臭い

流石に津軽弁には吾(あ)とか脳(なづき)といった古い語彙が豊かなんだが
関東から東北にかけては明らかに日本語の東国方言って感じなんだが
奥の方へ入ると東国と倭語のクレオールといった感じで語彙に古代性が現れる

平安期までは貴族は一人称に吾(あ)を使っていたらしい、
東国一帯の標準的な言葉でもあり津軽の方で残った。
倭人はその名の通り一人称は「ワ」、韓人は一人称に「ア」を
使っていたそうだ、その一例として楽浪人の事を自らの内
残った者として「阿残」と呼んでいたらしい。
443日本@名無史さん:2005/08/18(木) 03:45:18
宇賀神社、弁才天、沖縄の拝所(ウガンジュ)、
ウガヤ朝、鳥丸(ウガン)

何か関係はないですか?
444がいやまん:2005/08/18(木) 09:57:35
>>420 白馬青牛さん、こんにちわ。

>狼祖神話が全てトルコ系とは思えんのです。モンゴル部も狼と鹿の混合。

欧州、ヘロドトスなどに月夜の狼の話もありますが 、蒙古高原では狼祖神話の
形となっているってことでしょうか。

[牛トーテム、カスピ海岸に住むトゥルコマン、牛犂文化]  

これは欧州、中近東インド、中国などユーラシア南方の農耕牧畜と関係しており、
牛よりも鹿、トナカイの方が牧畜に適する寒冷地文化と南方文化の境界、接触、
移動を考える際には有意義なようですね。NHKシルクロード小河墓遺跡では赤く
塗られた牛の角、棺を取り巻く牛皮、印欧伝承、エジプト、日本、雲南省にある
舟形木棺と概念的には似ている舟形棺が出土。被葬者は北欧、古代人的コー
カソイドでしたね。4000年ほど前と言うことですから、エーゲ海の海の民より古い
わけで、木棺はハッチビームで覆われていましたから地中海、黒海の古代海洋
民族かもしれない不思議なものでした。小麦を入れたバスケットしか出土してい
ませんが、ミレット、スキ農耕が中央アジアからインドと中国に一元的に流入する
という仮説のコースとも重なり興味があります。
http://www.theepochtimes.com/news/5-6-10/29426.html

445がいやまん:2005/08/18(木) 13:40:28
↑雲南省の舟形木棺は形状はヒミコ時代というか、古墳初期のものであり、丸木舟
式のものですが、上記の小河墓のものは構造船の底なしのもので、それよりは
進化したものです。ところが雲南省のものは現在使用されており、被葬者には
生前に親族から贈与されます。これを贈与された老婆は非常にうれしいらしく
見せびらかします。多分、箸墓古墳が完成した頃ヒミコも得意の絶頂にあったの
ではないでしょうか。邪馬台国はウルムチより2000年文化的に出遅れ、雲南省
はヒミコより2000年出遅れていますから、中国が少々時代遅れであっても悠久の
時の流れからすれば目くじらを立てるほうがおかしいのかな。
446白馬青牛:2005/08/20(土) 00:44:04
>>444
がいやまんさん、現時間では今晩は。
狼祖神話及び狼トーテムは、蒙古高原よりも、森林地帯のアルタイ山脈や
大興安嶺北部あたりの半猟半牧地帯と思える。モンゴル部も元来遊牧民
では無く、室韋族「半猟(魚)半農(牧)」の流れです。

黒海、中央アジア、パミール高原、中原の文化が南北に分かれ、
北部はシベリアのトナカイ飼育民と混じり会い、遊牧民となったとの
説もありますが、モンゴル高原の純遊牧民自体が、果たして政治的
支配民族あったのか?それは北部の狩猟牧畜民や南部の農牧民に支配され、
その一員に加わったのか?と疑問が残ることですが。ただ支配氏族は、
周辺の半猟半牧や農牧民から出たと言えそうです。

雲南は、タイ系農耕民とチベット・ビルマ系牧畜民が接触した地域であり、
古代日本を考える時に参考になるかも知れませんね。
447がいやまん:2005/08/20(土) 05:33:41
>>446 白馬青牛さん、おはよう(JST)ございます。

>狼祖神話及び狼トーテムは、蒙古高原よりも、森林地帯のアルタイ山脈や
>大興安嶺北部あたりの半猟半牧地帯と思える。モンゴル部も元来遊牧民
>では無く、室韋族「半猟(魚)半農(牧)」の流れです。

狼祖神話及び狼トーテムは、地域的にはアルタイ、バイカル湖南部、ザバイカル、
人種的には丁霊というか、イェニセイ河の古コーカソイドに由来するトルコ族とは
考えられないかと思っています。欧州にはインドイラン・スキタイ系の木槨クルガン
墳担架者が伝えたのかと。

>黒海、中央アジア、パミール高原、中原の文化が南北に分かれ、
>北部はシベリアのトナカイ飼育民と混じり会い、遊牧民となったとの
>説もありますが、モンゴル高原の純遊牧民自体が、果たして政治的
>支配民族あったのか?それは北部の狩猟牧畜民や南部の農牧民に支配され、
>その一員に加わったのか?と疑問が残ることですが。ただ支配氏族は、
>周辺の半猟半牧や農牧民から出たと言えそうです。

欧州ではウゴル・フィン、櫛目文土器文化は印欧系に押され、アジアでは
モンスーン稲作農業の影響下にありモンゴロイド、北方のツングース系が
優位に立ったが、モンゴル高原においては丁霊の血を引く匈奴、トルコ系も
後代まで隠然とした力を残していたのではなかろうか。対馬とか、東北地方
には丁霊系、大鵬のような感じの人がいるし、坂上苅田麻呂などもアッチャ
クサイところがありますね。

>雲南は、タイ系農耕民とチベット・ビルマ系牧畜民が接触した地域であり、
>古代日本を考える時に参考になるかも知れませんね。

ところがこの辺にもコーカソイド的遺伝子を持つのがいるという話を耳にします。
448:2005/08/20(土) 08:12:21
「熊」(kuma)は,隈(kuma)や神(kami)や動詞の「籠る」(komoru)と同根の語らしく,
そしてアイヌのカムイや古代朝鮮のKom(熊),Kum(神・女神)とも関連があるといふ.
谷川健一は,「古代人のカミ観念」の中で次のやうに推論してゐる.
「カミという語はコモルとかクマといふ語と関連があると思う.道や川のまがりくねったところを
クマといっている.また神に供える米をクマシネと呼んでいる.動物のクマも冬ごもりする習性が
目立つからそう名付けられたのであろう.つまり,奥まった場所にじっとこもっている霊魂をカミ
と呼んだと私は考えている.タマ(魂)が卵やひさごや人間の身体のように密閉された中空の器に
入り込むように,カミも幽暗な空間にこもっている.そのカミの顕在化する現象が,顕つ(たつ)
である.」

してみると,日本語のカミ(神)には,アイヌや朝鮮を含めた東アジアのかなり古い宗教観が
秘められてゐるらしい.カミはこもることのできる生物や無生物に宿ってゐて,そこから,
勢ひのいい霊力としてたちあらはれたり,特定の人格をもつ存在としてあらはれたりする
ことをくりかへす存在である.
449日本@名無史さん:2005/08/20(土) 08:40:54
うちの近くに怪しい巨石があるんだが、これ古代人が
御神体としたものかも・・・
450日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:14:37
>>420
夫餘の諸加と高句麗の五部を直接関係づけることはムリだよ。
451日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:35:55
神(カミ)様の語源は上(カミ)様じゃないですかね。
上を示す古代語もカミだったと思う。
ここから上にいる権力者をカミと呼ぶようになったのではないでしょうか?
452?♪:2005/08/20(土) 14:46:58
それは甲乙が違ふからw
453日本@名無史さん:2005/08/20(土) 19:33:32
古代に、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族が日本海側の
北陸、東北に移住したって http://www.geocities.jp/intelljp/manju/shukushin/japan.htm
に書いてあるけど本当?
454日本@名無史さん:2005/08/20(土) 21:52:24
奥尻島なんかはアイヌではない北アジアの民族が住み、
アイヌと対立し、そして近年になって和人が住むようになったらしいね。
455日本@名無史さん:2005/08/21(日) 06:42:48
辰韓渡来の八幡の秦氏は基本的に秦の役を逃れた中国系というのは正しく
どちらかというと中国よりの文化を持っている。
彼らは畿内で倭先住民ヤマト族と同化していく。(ヤマタノオロチ)
出雲武蔵人はかつて阿(ア)国と呼ばれたように大和(ワ)人とは異なる異民族。
高句麗人に近い出自で、その後、継続して半島東部と緊密な関係を保ち、
辰韓シラ国の北方騎馬系の新羅人支配層と同化していく。(スサノオ)
八幡系、出雲武蔵系の人が海外のツテを伝って馬を大量に仕入れ
騎馬文化が急激に広がったと考える。
また、中世以降の東国の騎馬文化の広がりは東北一帯の沿海州系の渡来人の
影響もあるだろう。
456オイルふえち:2005/08/21(日) 08:38:12
高麗神社を高来に変更したとこよりも、百済を残してる大阪はすばらしい、
久宝寺はどうなってるかわからない
457がいやまん:2005/08/21(日) 09:23:42
>>453
塩釜・曲木神社由緒から考えるとマガキは靺鞨が塩釜の塩を買っていたんじゃないか
と思われる。春日神社伝承では「日本を代表する古社、奈良県の春日大社の縁起を
伝える『春日権現記』(1309)によりますと武甕槌神は陸奥国塩竈浦に天降り、やがて
鹿島に遷ったとされる注目すべき記述があります。 」とある。天孫による国譲り活動が
盛んなのは九州に代わり山陰に鉄製品が多くなり、魏との国交の始まる頃であるから
武甕槌神、フツヌシなどは鉄剣を象徴するものであろう。安倍氏、大彦等は東北から
大和に進出したのかもしれない。
458がいやまん:2005/08/21(日) 09:35:21
出羽の鳥海山への物部の降臨も大陸(夫餘)から直接来たことも考えられる。
白頭山の火山灰が津軽海峡にのみ降ることからも、季節風、海流を利用すると
津軽には容易に着くし、夏場はウスリー・アムール河の流れに任せ、樺太沿岸伝い
に海馬島、利尻、礼文と丸木舟でも渡航できる。
459がいやまん:2005/08/21(日) 13:23:58
↑集安将軍塚とは行かないが、考え方としてよく似た構造をとるのがこの出羽の
天日宮(あめのひのみや)
http://www.kyowa.ne.jp/kyowa/txt/a02.htm
[唐松神社。天日宮] :からまつ、韓服宮。あまひ、てんにち
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/ao1krmt.htm
また、松江の田和山遺跡も同類である↓

「山頂面についてもうひとつ注意すべき遺構は、面の南東端を段状に削り出した
加工である。平面形は三日月形を呈する。長さ17m、最大幅2.4mを測る。全体と
しては段にみえるが、注意深く観察すると、とくに残りのよい東半部では浅い溝状
になっていることが知られる。造作当時はもっと明確に溝状を呈していた可能性が
高いが、ここでは加工段とよんでおく。上屋等があったかどうかは不明である。
この加工段の時期は、出土した土器片から前期後葉である。また、この加工段
に接してSB-02に近い位置に焼土があったとされ、黒曜石の原石も付近から出土
している。」
古代出雲のパルテノン、田和山遺跡を守ろう 
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/tawayama.htm
田和山の稜線が真っ二つ
http://fish.miracle.ne.jp/dawnkato/

更に、この様式を保っているのが、福井県山中にあって、
「ピラミッドのよ うな三層の石垣に載った本殿」、日野宮神社↓
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~raifuku/special/wolf/map/area/chubu/shrine/hinomiya/hinomiya.htm

こうした遺跡を目の当たりにするとツングース文化を持つ民族が渡来したことは
否定しがたい事実のように思われる。だが、これらの礼拝の対象は星辰、つまり、太陽、
月、星、狼、そして多分兵器であり、ツングース系とは言うが極めてトルコ、匈奴の
騎馬民族的メンタリティーを持つもので、コーカソイドである狄等も含まれていたこと
だろう。
460がいやまん:2005/08/22(月) 09:03:06
>>459
この図 http://www.kyowa.ne.jp/kyowa/images/pa0203.jpg
は中央が梵天/梵卵、左右が女陰、男根のようだ。梵天/梵卵は中世の密教、修験道
と高度な石材加工技術の時代を経た後に成立したものであろう。性器についても微妙な
加工は古代においては考えられない。だからといって、この遺跡全体の起源を新しいと
見るわけには行かない。それには由緒とか、周辺の民間に残る祭礼に目を向ける必要が
ある。
東北地方には、大きな梵天を作って神社に奉納する梵天奉納祭が行われる。秋田県
横手市の旭岡山(あさひおかやま)神社(2月17日)、秋田市赤沼の太平山三吉神社
(2月17日)などで、いずれも神社の前の石段にくると、各梵天は互いに争って石段を
かけのぼり、最初に梵天を奉納した者にはその年幸運がさずかるといわれている。
地方によっては、みそぎによって生まれ変わることをめざしたり、競技を行うことで
年占を行う裸祭があり、岩手県水沢市の黒石寺の蘇民祭(旧正月7日)、愛知県稲沢市
の尾張大国霊神社の儺追(なおい)神事(国府宮の裸祭、旧正月13日)、岡山県西大寺
の会陽(えよう)(旧正月14日)、福岡県の筥崎(はこざき)宮の玉取祭(玉せせり、正月3日)
などがある。東北の民衆も極めて忠実に伝統文化を守ってきている。
http://wadaphoto.web.infoseek.co.jp/kisai_2.htm
http://www.rnac.ne.jp/~yanbe/sominsai.htm
こうした文化は日本海沿岸から内陸に進むようである。
http://web.thn.jp/maroudo/
461がいやまん:2005/08/22(月) 09:17:48
上記の、いずれも神社の前の石段にくると、各梵天は互いに争って石段を
かけのぼり、最初に梵天を奉納した者にはその年幸運がさずかるといわれている
という点にポイントがあり、復元されたバイカル湖方面のケレクスル(ヘレクスル)
http://sae-spb.narod.ru/8-01/image066.jpg
も前面に鹿石が立っており、鹿石にはトナカイの角が彫ってあり、男根を意味する
とされるが、これは善光寺の回向柱と本堂との関係と同様であり、梵卵と同じ思想の
宇宙、祖先の霊というか、永遠のDNAの不滅を祈るものであろう。例の七枝刀が
石上に奉納される思想にも共通したものを感じる。あれはトナカイではなく鹿の角だろう。
ちなみに上記のケレクスル遺跡には菊文が旭日旗のようなビーム付きででているが、
これはエベンキ自治州の国章にも使われている。
462がいやまん:2005/08/22(月) 09:41:11
>>448
エベンキの国鳥はアビという北方のかいつぶりのような海鳥であるが、極地の
地平線を潜る太陽に見立てたものかも。また、トルコ系は鴨を神聖視する。
モンゴルには巨大な亀の山があるが、現在は観光名所ではあるものの宗教的
意味はないらしい。イザナギはかいつぶりから男女の道を知るというが、生死を
繰り返す人間の営みという深い古代の意味が含まれているのであろう。いずれに
せよ、氷河→間氷期→漁労・採集→農耕・牧畜へと時代が変化したとき世界中で
イザナギ的発見、生殖作用、太陽の存在感が出てきたということでしょうか。
463がいやまん:2005/08/22(月) 10:31:01
↑イザナギの鳥はセキレイ、水にはもぐらない。尾っぽを振り振りするだけらしい。
あまり深い意味はなかったようだ。
464がいやまん:2005/08/22(月) 14:00:59
>>462 さて熊だが古朝鮮の檀君神話では、天帝桓因の子桓雄は天符印3個を父
より授けられ、徒3000を率いて太伯山頂の神檀樹の下に降臨した。
洞窟に虎と熊がいて人間に化すことを願ったので、楕(よもぎ)と蒜(にんにく)を食べて
忌籠るよう教えると、熊だけが女となり桓雄と結婚して檀君王倹を生んだ。
檀君は古朝鮮国を開きその始祖となった。・・・つまり、虎は忌籠れなかったのに、熊
はそれができたことが強調されている。これも農耕・牧畜時代への順応をを象徴するかの
ような話である。
465がいやまん:2005/08/22(月) 14:34:21
↑水鳥、亀などが水中、地中に潜り、再生し、太陽に似た自然界の回転を意味する
のに対し、熊も同様の冬眠をするが周期が鳥、亀より長く1年である。太陽にも1日、
1年の2つの周期がある点が熊に似ている。こうした生物が天体の周期と似た点の
あることが古代人の驚きであったのであろう。鴨、亀、熊、神、上と非常に似た言葉
であるが、これは偶然に似ているのではなかろうか。
466日本@名無史さん:2005/08/22(月) 15:47:52
http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/kodaikiri.htm
アン(安)の説より高度で説得力ある、時間掛かるかもしれないけど
読んでね。
これでも十分とは言えないと思うけど・・
467日本@名無史さん:2005/08/22(月) 15:52:05
畿内、出雲、関東、っていうか本州全土は自分たちを阿(あ)と呼んでいた。
一方九州人(熊襲)は倭(わ)と呼んでいた。
万葉集はP音・・
つまり、日本は新羅朝鮮に乗っ取られたという事ね
468日本@名無史さん:2005/08/22(月) 16:16:33
邪馬台国にあった甘木、小郡のクマソの賊軍
は小郡、甘木地区の横隈、小隈、乙隈あたりから
小郡市東野をえて西の方に逃げたのだと思うな。
これより南は熊襲が強かった。。
万葉集は読むもんだ
469がいやまん:2005/08/22(月) 18:28:54
>>461
参考まで:
鹿石とは http://oldchita.megalink.ru/archeolog/plate_thumb/deerstone.gif
こういったものが上部に彫刻されている石柱のことで、ヘレクスル遺跡、石板墓の
前面に立っているという。
470がいやまん:2005/08/22(月) 18:55:17
↑更なる情報 「<鹿石・石人>
  北アジアの青銅器文化を象徴する遺物で、 長さ1〜4メートルの石を墓石のように
立て、 表面に短剣、円紋、帯状紋を彫り込んでいる。 鹿石の名は、 表面にくちばし
のような細長い鼻の形の鹿文様が描かれていることから名づけられた。 製作年代は
主に突厥からモンゴル帝国までとされる。 現在、 鹿石・石人は草原に点在しており、
充分な保護がされているものは少ない。 」
http://homepage1.nifty.com/uraisan/yakata2/j0404.html
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/stoneman/bayantsagaany-adag.htm
http://www.csen.org/Beiram%20Excavation%20Report/deer_stone.html
471白馬青牛:2005/08/23(火) 03:14:02
>>447
がいやまんさん。お久しぶりです。人種的要素は、難しいですね。
特にアルタイ西部においては。
森林地帯の櫛目文土器とモンゴル高原の細石器の違い、モンゴル高原の
新石器時代の遊牧民が、狩猟具や武器さえ所有せず平和で素朴な生活を
して、後に青銅器や鉄器の武器や馬具が見られる様になったのは、
半猟半牧民や半農半牧民等、周辺地帯からの侵攻もあったと思います。
>>450
確かに強引であった。高句麗の五部族は、政治的区分の要素も強い。
扶余の四畜から、モンゴルの四駿、四狗、鮮卑八姓、契丹八部、
満洲八旗や、あるいは室韋、庫莫奚の五部等関連を考えておったが
根拠に乏しい。しかし考慮する必要はあると思う。
472日本@名無史さん:2005/08/23(火) 03:17:18
大雑把にいうと倭人は平地、山では熊を神とし
海では鹿を一つの神?のように考えていたのでは?
473がいやまん:2005/08/23(火) 16:04:55
>>472 倭人、あるいは、古代韓半島南部もそうかもしれないが、国作りのパターンがあり、
鹿とか女性シャーマンなどの集合する「シカシマ」、それに食料を補給する「阿波、宇和、
安房」、外敵を防衛し、辺境地に設置される「球磨、久米、久万、熊野」或は「月山」、
また、亀、龍などの祖霊が天下った「セフリ、トミ、鳥海」或は頂上に池を持つ金毘羅、
白山、鳥海等の水源神(瀬織津姫、河伯の娘)という風になっているようだ。こうした
騎馬民族(クマンというのはトルコ語で前進部族、山地、荒地の意味があるようだ)
来襲のイメージを与えるのは、漏れの仮説ではあるが、神武、ヤマトタケルを含め四道
将軍的な国土建設活動の結果ではないかとも思われる。馬韓の月支国はハクサイ国
と併記されているが、匈奴、ツングース、秦亡民等の他民族集合であり、これが辰韓、
対馬、壱岐経由列島に到来したのではないかと考えている。土佐の月山神社と中央
アジアの石製半月像は非常に似通っている。
474がいやまん:2005/08/23(火) 16:12:14
↑秦氏の功満王、武振熊、忍熊王などは久万が縮約して熊となっていたり、
後世の高麗とも多く混同されているのではなかろうか。これらを月支・クマン部
(久米部というべきか)と考えてみたい。
475日本@名無史さん:2005/08/23(火) 16:17:13
>>473
隈は辺境地とは限りませんよ、福岡、佐賀、大分
の地名、字でも隈の地名が沢山あります。
たしかに海岸沿いにあるとは限りませんので、籠もった場所という
のは当たっているかもしれません。
476がいやまん:2005/08/23(火) 16:22:55
宇和島の対岸の西都原古墳建設に当たり鬼に建設をやらせ、石を盗むといった
伝承があるが、西都原古墳の起源も宇和島、鹿島経由久万高原、石鎚そして
讃岐、阿波、播磨方面に向う半島からの渡来人集団があったのではなかろうか。
477がいやまん:2005/08/23(火) 16:29:38
>>475 クロスしました。日隈さんなんて苗字もあるし、
http://www.d-b.ne.jp/~siga/panora/hita/hinokuma.html
↑これなんかもそうですが、佐賀、熊本、大分、和歌山等に太陽の沈む
ことに関連する地名が多い。漏れは、トンカラリン、善光寺の本堂潜り
等にも同様の発想を見ていますが、こうした隈とは別にも意味があるんじゃない
かと。
478がいやまん:2005/08/23(火) 16:38:42
漏れは、河内クサエノサカとか、阿蘇の日下部、狗邪韓国がクサカの国
と読めることからして、これらは何らかの国の西部国境を表すのではとまで
疑っています。マジでね。
479日本@名無史さん:2005/08/23(火) 16:40:17
>>477
実は福岡の甘木朝倉や小郡地区に隈の地名、籠の地名は多いのです。
籠、隈、熊、磐、石に関する古代的な苗字が極めて多く、
神功皇后のこの地域の熊襲征伐も史実であろうと考えております。
480日本@名無史さん:2005/08/23(火) 17:15:53
逆に、天や甘、朝倉に関する字、苗字はこの地域には他に見つからない、
天孫のテ、アの字もない。
熊襲が逃げた東野の地名もしっかり残っている。
こうなると明治朝廷によって天孫降臨伝説をでっち上げる
為に仕組まれたのか?と勘ぐってしまうわけです。
熊襲と呼ばれた裔達はその事には一切気づいていないんだろうな・・
481日本@名無史さん:2005/08/23(火) 17:45:02
連投スマソ
御勢大霊石神社  福岡県小郡市大保
神功皇后は、この地で死んだ中哀天皇の代わりに御魂代の石
を軍船に積み鎧兜を着せ、三韓遠征を行い、帰国後にその石
を殯葬のこの地に奉った。
というのが神功皇后の伝説ですが、これは真っ赤な大嘘だと確信しております。
この地はまさに熊襲の拠点と思われる遺跡があり、天皇縁の地名は一切ない。
おそらく、熊襲軍に中哀はコロされたと確信しております。

http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/poet/saimei.html
斎明7年(661)、百済(くだら)を救援するため、自らも筑紫へ赴く。
7月に朝倉宮(あさくらのみや)で亡くなる。

斉明天皇が朝倉で亡くなったのを始めこの時期に他の天皇家も
次々死にますが、これも熊襲戦争の為だと確信しております。
三韓征伐に向かうのに博多からこんな遠い場所に拠点を置くわけありません。
それにこの地域は北九州とは絶対に言いません。

まさに天皇族の長年の朝敵はこの北部九州地域のクマソだったのでしょう。
天皇族はこの地に相当な怨念を持っていたに違いありません。
482がいやまん:2005/08/23(火) 17:52:54
>>479 佐賀、長崎、熊本はハヤヒワケという行政単位、すると、首長はニギハヤヒ
となりますが、倭人伝でも福岡あたりの行政官をニキとしているのだから間違いない
でしょう。ところが、ニギハヤヒと関係の深い丹後には竹野、籠、阿蘇海等がやたらと
多いし、浮羽、虹の松原を連想する橋立もある。ニギハヤヒは丹後から南下して河内
に入り物部王国を建設したようです。これが神武に降伏するのは有名なお話。話は
変わりますが、隼人は根っからの縄文人だし、中部九州には縄文の中核が残ってい
たはずで熊襲、熊襲というが、稲作というエコノミックアニマル、弥生人のバイアスの
かかった差別用語かもしれませんね。純粋の縄文系倭人が熊本で鉄器を利用して
ピンク石棺を作ったり、養蚕(高温の部屋)を運営していたのとは違うでしょうか。
483日本@名無史さん:2005/08/23(火) 17:56:19
基肄の朝鮮式山城が天皇族の拠点だったのだと思う。
ここで天皇族はこの地域のクマソと戦ったのである。
騎馬民族というより朝鮮人そのものだったのである。
484日本@名無史さん:2005/08/23(火) 18:09:45
>>482
海岸沿いの伊都国あたりはどうだったか知りませんが、
仲哀が死んだこの地域の倭人は隈、籠という名前に拘っていたように
感じます。今でもこの苗字が極めて多いというのは当時
大勢力があった事の証だと考えています。
ハヤヒは隼人という意味ではないでしょうか?
倭人は同じ言葉を使っていたのでしょうから
485がいやまん:2005/08/23(火) 18:16:14
古朝鮮は楽浪・帯方の領民で定着した農耕民となっていた筈で満蒙・華北の流民
のような流動性はなく、半島南部の韓人も同様に定着性の強い民族であり、満蒙・
華北の流民が日本に入ってくるのでは。
486がいやまん:2005/08/23(火) 18:29:51
>>484
http://page.freett.com/minakanusi/2.html
白日別シロヒワケ(福岡県)、豊日別トヨヒワケ(大分県)、建日向日豊久士比泥別
タケヒムカヒトヨクジヒネワケ(長崎県・熊本県・佐賀県・宮崎県)、建日別
タケヒワケ(熊本県・鹿児島県)
これを見ると行政改革のようで大きな合併があったようです。だが、漏れの説も
どこかであったんだけど出処度忘れ、スマソ。
487日本@名無史さん:2005/08/23(火) 18:32:06
やはり物部氏は九州の一族で大和に滅ぼされたのだろうか。
488がいやまん:2005/08/23(火) 19:05:27
物部は渡来系テクノクラートであり、九州には大分県に秦氏として残ったもの以外は
列島を東進、吉備、河内、大和にも定着、更に東進していったものでしょう。九州人
というより大陸系の要素が強かったんじゃないかな。
489日本@名無史さん:2005/08/23(火) 22:42:09
イザナギ、イザナミは伊邪国の人ではないでしょうか?
これが物部かとうかはわかりませんが、いずれにしてもこの
国の人が伊都城を始め朝鮮式山城を建築し九州、中国地方を
征服して行ったのでないだろうか?
490日本@名無史さん:2005/08/23(火) 22:57:12
早く知りたい上げ!
491日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:36:44
侵略的な要素を持つ各々の氏族が軍事力の低い本州、四国を
を短期間で征服し、それらが次第に巨大化し対立が生じたように感じる。
元来、侵略民は土着、渡来いずれも、海洋渡航になれていて
更に渡来の文化を短期間で吸収・順応し、また新たな渡来氏族と
混じりながら日本の支配階層に発展していったのだと思う。
渡来氏族、海洋民、侵略民VS地元民、農耕民という構図があるのでは?
それは現代でも各人のDNAに受け継がれ性格として如実に顕れていると感じる。
永い歴史もそれを反映していると感じる。

492日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:54:23
移動性の民にとっての10年は
土民にとって1000年に匹敵するのかもしれない。
493がいやまん:2005/08/24(水) 08:32:44
>>471 白馬青牛さん、レスありがとうございます。

>人種的要素は、難しいですね。
>特にアルタイ西部においては。
>森林地帯の櫛目文土器とモンゴル高原の細石器の違い、
>モンゴル高原の新石器時代の遊牧民が、狩猟具や武器
>さえ所有せず平和で素朴な生活をして、後に青銅器や
>鉄器の武器や馬具が見られる様になったのは、半猟半牧民
>や半農半牧民等、周辺地帯からの侵攻もあったと思います。

ロシアの分析では:
南シベリア長頭丁霊-旧石器時代から既にエウロペイドと
並行するコーカソイド
草原丁霊→+匈奴
丁霊→イェニセイ・キルギス→+(モンゴル+ウゴール)
ロシアは「短頭・華北・狄」も亜流エウロペイドとするも、
これが欧州から来たものか丁霊同様アジア起源のものかについては
言及していない。狄はその後:
戒狄+東チベット人→タングート
草原狄(烏孫・鉄勒)→+モンゴル
といった感じですね。

494がいやまん:2005/08/24(水) 08:34:14
↑日本では秋田県に原節子のような長頭系、北海道には大鵬のような
短頭系がきているように思われます。
しかし、ここで問題なのが最近の小河墓遺跡のミイラでして、これは
コーカサスのマイコープ文化のような牛、粘土、生殖といったシュメールを
髣髴させる中近東文化と現代のオランダ人のような西欧風の服装が、
言語的にヒッタイト・トカラの故土であるアナトリア方面との関連も
考えさせます。非常に大きな謎ですね。
http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/#FigSource_10
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairy/encart/takuramakansabak

u.htm
495がいやまん:2005/08/24(水) 11:01:54
ブリャート・モンゴル地方にある石板墓↓
http://ngo.burnet.ru/eger-gallery/rus/autumn3.htm
楯築遺跡↓(中央アジアにある月型石もおまけについている)
http://www.geocities.jp/celeste4851/iwakura/tatetuki/tatetuki.htm
秦氏の松尾神社↓
http://www.y-morimoto.com/jinja22/matsuo.html
結論:月氏は冒頓単于(→冒頓王→モツ王→松尾)に従属した後、馬韓月支国
経由山陰、瀬戸内海、秋田、纒向等に到来、日本古墳時代の原動力となった。
496がいやまん:2005/08/24(水) 11:12:45
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/TATETU.html
これはラモスではないが、彼と同様のコーカソイド。但し、楯築の神様である。
匈奴となった丁霊で、おそらくは、冒頓単于だろう。
497がいやまん:2005/08/24(水) 12:52:33
バヤンツァガーヌィ=アダグの鹿石・オンギ遺跡[オヴォルハンガイ]
(表面に鹿石のような丸と帯のあるバルバルも。)
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/ongi/balbal2.JPG
この石が土佐に上陸すると:
http://www1.ocn.ne.jp/~cyan/tukiyama/tkeidai/thome.htm
そして楯築では:
http://www.geocities.jp/celeste4851/iwakura/tatetuki/image5.jpg
出羽の月山は船形(月型)山を遥拝するようで、船形山には月.日.星の
三光ノ宮があるのがポイントのようである。
http://www.ne.jp/asahi/f/toukoukai/sub2/3400_funagata/3400_funagata.htm
出羽三山では日、月、星は山単位で分けられたようだ。
498がいやまん:2005/08/24(水) 17:07:58
「出雲日御崎神社伝承」
孝霊天皇六十一年月支国の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。
特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、
見るほどに波風荒びて賊船覆没せりと云う。
http://www.web-sanin.co.jp/local/taisya/yuisyo-h.htm
孝霊帝はヒコフトニ、月支国王はヒコハニ、ほんとに敵味方
だったのだろうか。
http://inoues.net/tenno/kourei_tenno.html
孝霊帝が先遣隊であったかのような名前だが、孝霊帝の娘がヒミコじゃないか
とされるモモソヒメだ。
499日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:36:28
7は縁起が悪いので、8がいいと言うので、八幡、八坂、八秦
500日本@名無史さん:2005/08/25(木) 01:22:41
いいや多分、五百、五ひゃく、五100!ゲト
501白馬青牛:2005/08/25(木) 01:35:55
>>493
甘粛省敦煌県莫高窟の壁画から、回鶻(ウイグル)王や王妃供養図等は
鼻の低い扁平な顔でモンゴル人に近い容貌に描かれております。
現代のウイグル人は、コーカソイド(白人種)要素が強いのですが。
一方西夏(タングート)男子、女子供養図は、顔がふくよかでやや長く、
鼻すじが通り、これはタングート人が鼻が高いという特徴に符合。

『秘境西域八年の潜行』西川一三著から、タングート族について、
[彼等の容貌は、「蒙古、支那人以上に日本人と似ているなあ」と
感じるのである。事実私が、「俺は蒙古人だ」と云っても、
「お前は蒙古人ではない、タングートだ」と云われた位である。
日本人と似ていると思うのも、一般に細長い顔、鋭い眼つき、
真っ直ぐな高い鼻からであろう。]とあります。
>>499
「七」は北アジアの遊牧民で、縁起のよい数字であったように思う。
502がいやまん:2005/08/25(木) 09:17:08
>>501
中国西南部少数民族ネパール等と日本人の間の文化的とか人類学的
類似とともに興味深い問題ですね。
503がいやまん:2005/08/25(木) 09:25:20
>>498
月支国ヒコハニは日向イハニから出雲に来たようだ。↓
「波知 波如 波禰  式内社調査報告から
【社名】当社は出雲風土記に云う「波禰社」に相当すると考えられる。
天和三(1686)年の岸崎左久次著『出雲風土記鈔』に「波禰社、
式書波知神社是也。健部郷羽根村須多禮大明神也」云々とあります。
結論として、当社は出雲国風土記の波禰社で、近世以来簾大明神、
須多禮大明神、また八社大明神とも呼ばれていたと考えることができる。
【由緒】正倉院文書天平十一(739)年に「波如(はね)里」とあり、
波知神社は波如神社の誤りであろう。鎮座次第は日向国の宮地
伊波禰よりニニギ尊を勧請せしを持って直にこの地の名称となれり。
しかるに中古以来伊の字を省き波禰と称しき。 」
http://kamnavi.jp/log/koujinvry.htm
504がいやまん:2005/08/25(木) 09:52:10
↑日向は例の土佐の月山神社
http://www1.ocn.ne.jp/~cyan/tukiyama/tkeidai/thome.htm
に近いし、また、

「鬼の窟 地元の伝説より〜
木花開邪姫(このはなさくや姫)を嫁にと願う悪鬼が、父の山の神、
オオヤマツミから一夜で岩屋をつくる様に言われ、一夜で完成させた
ころという伝説があります。 
コノハナサクヤヒメを嫁にと願う鬼は山の神、オオヤマツミの指示どおり
一夜にして岩屋を造り遂げます。
安心した鬼はうつらうつら・・・夜が明けて鬼がおきて見るとちゃんと
完成したはずの岩屋の石が一枚抜けています。
これは朝、鬼が寝ている間にオオヤマツミが石を一枚抜き取った跡
とも言われています。
オオヤマツミが朝あわてて岩屋から抜き取って投げたこの石は 
西都市の石貫神社参道入口に据えられている。
古墳の入口から玄室に至る道の天井に大きな隙間があります。
鬼の窟古墳という名前はこの伝説から由来しているのでしょうね。」
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_on/
こうした、鬼を利用して古墳を作ったという伝承もある。
すると日向では鬼とされるものは出雲で月支族、ニニギ尊とされる
ものではないかと思われる。記紀でもニニギは空中で生まれたとか
途中から入り込むような話になっている。
505日本@名無史さん:2005/08/25(木) 21:34:46
伊の字が一番重要で、伊勢、伊賀、伊予、古代朝鮮に関係する伊の文字ではないか
506日本@名無史さん:2005/08/25(木) 21:57:39
伊の文字だけでなくイという発音が重要だとおもう。
能古の島のイジャナミ、イジャナギの東進
イズモとの対立、クマソ伝説の欠落。
507日本@名無史さん:2005/08/26(金) 05:25:22
>>504
近い?日向と土佐じゃぜんぜん別の場所やんけw
508がいやまん:2005/08/26(金) 06:21:32
>>504
四国南西地方は銅剣銅矛文化圏の影響が強く、山頂に武器の名を付けた石鎚、
剣山と霧島だったか山頂に剣を立てた山があることが似たような考え方であるし、
高知県には九州にもある十市物部に関連する地名がある。食べ物もご飯にぶっ
掛ける(詳細度忘れ、スマソ)似たものがあるらしい。
509日本@名無史さん:2005/08/26(金) 07:35:00
古代はイに伊をつけるという決まりがあったわけではないので
イに関する音は伊以外にも検討する必要あるでしょう。
漏れの想像ではこのイは海岸沿いの勢力と比較的一致しているので
魏志倭人伝のあの入れ墨していた南方的な倭人に関係する
ものだと思うな。
510がいやまん:2005/08/26(金) 09:05:38
>>508
四万十川というのは島津と関係があるのでは。つまり、島の人、鹿児島の人。
511日本@名無史さん:2005/08/27(土) 09:19:17
しまんとはアイヌ語ですよね、ずっつ後から漢字を探してあてた
512日本@名無史さん:2005/08/27(土) 09:29:17
それ、デンパ学者の妄言だから半分聞いておく程度でいい
513がいやまん:2005/08/27(土) 11:01:04
おっと、しまんたw
514:2005/08/27(土) 12:36:43
「籠る」(こもる)は古形では「籠む」(くむ)でせう.
名詞化すれば「籠み」(くみ)ですね.
隈クマとも神カミとも関連がある言葉なのでせう.
515がいやまん:2005/08/28(日) 06:21:38
球磨に近い甑島のトシドンと男鹿半島のナマハゲ、トルコ系クマン、コマン族の
侵入したハンガリーに近いオーストリアのナマハゲ。秦氏の功満王、土佐月山
神社に近い久万高原。神武が久米の援軍を待ちながら進軍した熊野。吉備の
山中の熊野。トルコ語でクマンというのは荒地、山地の意味。キガネゴイエネガー。
516がいやまん:2005/08/28(日) 07:50:40
またぞろ、歴史、大河ドラマの水に流されるであろう、安徳帝さながらに、水に流された
邪馬台国ラストエンペラー、忍熊王のクマ、タケフルクマのクマもい同じクマなのは、
彼らが職業軍人族クマン、久米部と関係があるのかもね。
517がいやまん:2005/08/28(日) 07:53:29
クマンというのはタタール語であったかもしれない。スマソ。クマソ。
518日本@名無史さん:2005/08/28(日) 10:00:01
発音はどんどん添加しやすいし、漢字も色々な物を当てはめてるので、
どれがどれかわかりまへん、白木人はほんまみたいです
519日本@名無史さん:2005/08/28(日) 10:32:40
熊も古形はクム。
朝鮮音で金をクムと読み(慶尚道ではコム)人名や地名の時はキムと読む。
日本語では金をクロガネと読み、鉄を意味します。
朝鮮語で「黒い」は何種類かあり、コムというと重い黒、カムと言うと黒光りする
ニュアンスがあります。
釜、鎌のカマや、カミナリ等のカミは黒光りするニュアンスなのだと思う。
あと、オオキミのキミや吉備の国のキビはキム(金)の事だと思う。
520日本@名無史さん:2005/08/28(日) 10:55:18
そこまでいくと関連性苦しいよ。
ほとんどこじつけにしか聞こえない。
関連性がないとは言わないが立証性に乏しい。
521日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:09:30
それはあんたが朝鮮語を知らないからだよ。
522がいやまん:2005/08/28(日) 13:53:19
伊勢遺跡 http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/iseiseki.html

「もともと社殿という施設が「ヤシロ」という「神を迎え入れ、一時的に篭もる
場所」としてあったことに由来するといわれています(それは木造建築物に
限らず、それ以前は石や草木で簡易的な祭祀場を設けたりなどしていた)。
「ヤシロ」は本来、祭りの時だけに設営される施設であったため、祭りが終わる
とそれは解体されて、また、次の祭りの時に場所を代えて新しい「ヤシロ」を設ける、
といった形態が原初的な祭祀方法だったと、神道学の分野などでは考えら
れています。」

これはユーラシア巨石遺跡研究において重要な考え方だと思う。また、篭ると
いうこと、亀、水鳥などに農耕牧畜の再生産の原理を見ているのだろう。

話は変わるが、この遺跡は天孫側が大国主への譲歩で天の安川に勝鬨橋、
マリーナを建設しようと譲歩した国譲りの場所だと思うんだ。

また、神社とは三上山等聖なる山の見えるところに作るという神社の起源をも
示しているようだ。

523がいやまん:2005/08/28(日) 14:04:16
これはアルタイ、モンゴル、ザバイカルの典型的ヘレクスル、BC7-8世紀頃、スキタイ
時代というか、のヤシロ ヘレクスル/鹿石
http://sae-spb.narod.ru/8-01/image066.jpg
これの前面にある石柱、鹿石についてロシア学会には陽根のシンボル、世界宇宙
モデル、世界樹、埋葬された指導者、武人の石像、馬のつなぎ柱、霊堂、刀剣崇拝
の表現ではなかろうかとの意見があるらしい。実は平原、香椎宮、善光寺等わが国も
この構造を踏襲している。香椎宮の神主は鹿飼というらしいが、エベンキ語では
オロチェニというらしい。ロシアでカザフスタン方面まで調査範囲を広げてこうした
鹿石の調査をしている。 http://www.unesco.kz/kazhistory/conf_2004_foto.html#nul
するといろいろのことがわかる。
524がいやまん:2005/08/28(日) 14:16:09
鹿石を四角又はそれ以上にして各方位で様々な厄除けをしているようだ。これは
日本では黒石寺、「蘇民袋は麻布でできており、その中に小間木と呼ぶ六角形の
護符(縦一寸二分<約3.6cm>直径七分<約2.2cm>の木片)が山盛り五升分入っている。
小間木は桂の木の一年目の若枝で作る。六つの面には蘇民、将来、子孫、門戸、☆、
黒石寺、が印されている。」、風の盆の音頭に「二百十日の真夜中に六角ヘノコが
飛んできて、村の後家さん逃げ回る」等と全国的に有名だ。また、六根清浄という
富士登山、修験道の杖、こけし等に現れている。頭の部分は最重要で鹿石とはここに
トナカイ、デンドライト式に成長する氷、春のぜんまい、トナカイの角に宇宙の法則を
見るのであろう。これが鹿島神社の要石では古来龍頭であったとういう。つまり、鹿
の頭は龍の頭に変化するのだ。
525がいやまん:2005/08/28(日) 14:20:29
日本でも鹿石などの研究は盛ん。
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/shiveet-ulaan/shiveetulaan1.htm
だが、たまには初詣にも帰ってこないとコマイヌをライオン石等と言うことになるw
このコマイヌ像を見ると日本にコマン、すなわちトルコの影響がなかったとは誰でも
いえなくなるのと違うか。
526がいやまん:2005/08/28(日) 14:36:24
日本の鹿石は宇佐を拠点 http://homepage2.nifty.com/hatazoku/kyou1.htm
として楯築、松尾神社などに移動したようだ。いわゆる神武東遷に加わったのかな。
527がいやまん:2005/08/28(日) 14:41:07
国際的至宝、三女神社「三柱石」の無残な姿
http://homepage2.nifty.com/hatazoku/mihasira.htm
これって銭金では変えない、国宝以上のものだと思うが、断腸の思いだね。
ユーラシアは荒廃している。
528がいやまん:2005/08/28(日) 14:47:30
>>523
世界樹で思い出したが熊野の那智などにあるナギの樹、あれを見ると欧州にある
世界樹の概念と似ている感じがする。
529日本@名無史さん:2005/08/28(日) 14:48:38
突厥の影響は日本に随所に見られますが、それは渡来文化
そのもののような気がします。
日本や朝鮮に来た渡来人とはこの突厥と極めて近い種族であった
ろうと考えますが、突厥碑文などの文字が残っていない等から
突厥そのものとも少し違うのかな?と思うわけです。
530がいやまん:2005/08/28(日) 14:59:38
突厥碑文は何世紀に、どこで成立したものかわかりませんでしょうか?
楯築遺跡はAD200年頃ですから宇佐のメンヒルはAD150年頃かと思われます。
531がいやまん:2005/08/28(日) 15:16:58
欧州に侵入したコマンをロシア人は黄色人(ポロベツ)と呼んでいるが、突厥は
アジア系白人であり、コマンの中にはモンゴロイドが相当多かったことを意味し
ている感じで、日本に入ったコマンもどちらかといえば純突厥ではなくツングース
等がほとんどであったということは大いに考えられますね。
532日本@名無史さん:2005/08/28(日) 15:29:56
突厥が白人であるという説はよく聞きますが、どの程度
信じて良いかわかりません。
中国人が匈奴、突厥を模した人形をみたことがありますが
正直、モンゴル人そのものでした。四川省には彼らの末裔がいますが
やはり白人の血が混じっているようには思えませんでした。
エフタル(大月氏?)を白フンと呼んだことからも
フン族は基本的にアジア系だったのでしょう。
アナトリアトルコ人をみて突厥=白人という先入観が根強いのかな?
と思ったりします。
533がいやまん:2005/08/28(日) 16:07:09
ロシアによる研究の結果丁霊、狄は事実コーカソイドであり、存在した。
丁霊は匈奴の一部となったというのが結論です。ロシアくらい研究に金をつぎ込んだ
国はないでしょう。
534がいやまん:2005/08/28(日) 16:20:25
トルコ、アゼルバイジャンはトルコ語ですが、欧州人、アラブ人としか見えませんね。
参考:トルコの国旗
http://www.geocities.com/Pentagon/Bunker/6066/ayyildiz.html
月読神社の紋章
http://genbu.net/data/iki/tukiyomi_title.htm
535白馬青牛:2005/08/28(日) 23:40:35
>>532
突厥のキヨルテギン像は、容貌からモンゴロイドですね。
匈奴も王侯貴族、あるいは単于であったとされるイノンーウラ古墳出土の
頭髪は黒色を呈し、直毛であり、今日のハルハーモンゴル人の頭髪に近く
匈奴国家の少なくとも支配部族がモンゴロイド型人種に属したとされる。
北匈奴は西方へ移動した(フン族か?)が、イリ川の西方、ケンコール
古墳群の遺骨は基本的にはモンゴロイド型人種に属するが、幾分か混血が
ある。外部の封土の遺骨はコーカソイド型、とりわけパミールー
フェルガナ人種に属しておるのでしょう。
>>533
牧畜文化でも、アフェナシェボやアンドロノボ文化人は、コーカソイドで
近隣森林地帯はモンゴロイド。カラスク牧畜文化人は、モンゴロイドでも
シベリアの森林諸種族(バイカル型)ではなく、「華北型」(中央アジア
型、長顔、北アジア種に比べ高い鼻。ただしロシア人はコーカソイドの
影響もありうるとしている。)に近いということでしょう。羌
(チベット・ビルマ系)、戎(チベット・トルコ系?)、狄(トルコ・
モンゴル・ツングース系?)、貊(モンゴル・ツングース・高句麗系)等
中原北部種族も「華北型」(中央アジア型)の別れであると思います。
ロシア人は、形質、考古学的要素で種族分けしておる部分がありますが、
最近のDNAやHLAの遺伝子の研究から、渡来系日本人を含め東亜の
種族は、北亜より、中亜種に近いようですね。
536がいやまん:2005/08/29(月) 08:32:06
なんだか古臭く、キルギスっぽくて恐縮なんですが、こういう情報があります。

主題:丁霊問題
副題:G.Ye.Grumm-Grzhimaylo仮説の新歴史考古学資料に基づく見直し
Lev Nikolaevich Gumilev 1959年ソ連地理学会報No.1
中央アジアにおいてはヨーロッパ人種の枝分かれとして2つの白人亜種が
実際に存在した。
その一つは南シベリアにいた長頭「丁霊」、別の一つは華北にいた短頭「狄」。
ヨーロッパ人種と丁霊は直接的関係はなく、それらは旧石器時代に枝分かれ
した亜種である。
丁霊の子孫はイェニセイ・キルギスであるが、紀元後第二千年紀、南方から
到来したモンゴルと北方から到来したウゴルに吸収された。
戒狄の子孫は紀元後第一千年紀、一部は華北華人により、一部は東部
チベット人により吸収され、後者は混血してタングート族を生んだ。
ステップ丁霊はフンの一部となり、それにヨーロッパ的風貌(高い鼻、ふさふさ
としたあごひげ)を与え、他方、ステップの狄、烏孫、鉄勒は9-12世紀にモンゴル
族に吸収された(AD840年のウイグル汗国滅亡後)。
537がいやまん:2005/08/29(月) 08:56:51
檀石槐に拉致された倭人もいるそうですから、シベリア引揚者のような倭人が
引揚者失対事業としての古墳建設に参加したということもあるかな。
538日本@名無史さん:2005/08/29(月) 09:09:15
ソ連はかつてシベリアに抑留した日本軍人も詳細まで調べました。
県別の調査で、鼻の高さ、眼窩の深さ、肌の色、事細かに
調べ上げられています。
日本では殆ど知られていませんね
539日本@名無史さん:2005/08/29(月) 09:30:12
渡来人は朝鮮を経由して日本にきましたが、朝鮮での滞在は短いものでした、
次の渡来人が大陸から押し寄せてきたので
540がいやまん:2005/08/29(月) 19:07:51
>>535
月氏というのは甘粛省に跋扈していたイラン系、つまり、シルクロードの商人的
なものだったといわれていますが、新羅とインドの姫との婚姻伝承もあり、大月氏
との関係もあったのかなー。ヒミコ時代には魏が大月氏にも金印を出しているし。
等と考えるのですが。こうなると月氏は匈奴の攻撃を受けその支配下に入り、朝鮮
半島を南下して馬韓に入ったという仮説はどうでしょうか。
541白馬青牛:2005/08/30(火) 02:19:47
>>536
>南シベリアの長頭の「丁零」、華北の短頭の「狄」が白人亜種と
断定出来るのは、遺跡から出土した人骨、頭骨からの結果ですか。
しかも亜種という意味がようわからんのです。少しでも、鼻が高ければ、
白人亜種となるんか、どうか。あるいは、中原の彩文土器の起源が
バルカン、南ロシア方面にあることから、そのような説が出たのかも
知れません。
時代的変化は知りませんが、現代の東チベット人の、頭長幅示数
[今村1968]は、75ぐらいで長頭といえます。
それと遼寧系・スキタイ系青銅器文化は高句麗、朝鮮半島、日本の渡来系
文化にも影響があるが、遼河付近一帯の赤峰紅陶期人(農主牧副民から
牧主農副民に変化した東胡人、烏垣、鮮卑、遼寧青銅器人)も人骨から
中亜種「華北型」とされ、モンゴル高原の匈奴とは、違いがあったんで
しょう。
542日本@名無史さん:2005/08/30(火) 06:49:42
人類学板の厨は頭指数絶対主義者が多いのだけれど、
頭指数は環境やら近親婚などで短期間で変化しやすいでしょう。
事実、縄文人間でも差異はあるし、同じ人種間でも、
そして同国人でも差異はある。ただ、全ての外見的特徴が流動的
というわけではなく流石に、顔の凹凸、肌の色はおいそれと変わらない
傾向がありそうですが、頭指数だけでの人種判定は極めて問題があると思う。
543がいやまん:2005/08/30(火) 07:12:20
>>541
前後関係に不明なところがありますが、基本的には頭骨測定の結果のようです。
アウシュビッツ時代の名残ですかね。亜種というのは欧州を含めて同じレベルの
枝分かれということのようです。最近ホモサピエンス全体の脱アフリカはアラビア半島
東端-南西アジアではないかといった説を目にしました。中原の彩文土器に
ついては印欧文化到来以前のイラン高原にあった農業文化ではないかと考えられる
節もあります。バルカン東部、ドナウ川、ドニエプル川の農業文化も印欧文化の前の
段階で牛がシンボルのようですね。中国神話に出てくる神農氏でしたか、牛の姿、
デカン高原と同一とされる牛鋤等もヤンシャオ文化への西方からの影響が考えられ
ますね。青銅器自体については中国南西部にコーカサス地方より古いのがあります
ので中国独自のものでしょうが、春秋戦国時代の戦車は印欧神話によく登場する
もので、西方から伝来したのだと思います。
544がいやまん:2005/08/30(火) 16:09:40
>>541
>それと遼寧系・スキタイ系青銅器文化は高句麗、朝鮮半島、日本の渡来系
>文化にも影響があるが、遼河付近一帯の赤峰紅陶期人(農主牧副民から
>牧主農副民に変化した東胡人、烏垣、鮮卑、遼寧青銅器人)も人骨から
>中亜種「華北型」とされ、モンゴル高原の匈奴とは、違いがあったんで
>しょう。

青銅短剣の技術の流れを考えると、カラスク→タガール→オルドス
(スキタイ鉄剣模倣)→遼寧(東胡→烏垣+鮮卑)→松菊里(ソングンリ)→
吉野ヶ里→出雲荒神谷といった流れですね。

シルクロード(インド・パキスタン・洛陽・馬韓):月氏→匈奴→鮮卑→
烏孫(烏丸)(これだけの広域と長期間において長短頭指数の適用は無意味
となるかも)シルクロードのこの部分の東西の極、大月氏、邪馬台国に魏が
金印を授与したのもそれなりの意味があるかも。
これは烏丸半島という守山の地名の所在地であるが(これはまた、京都の地名でも

あるが)、天孫が大国主にヨット、マリーナ、勝鬨橋を譲歩した天の安川と思しき野

洲川、三上山、伊勢遺跡、烏丸(Uwan)ではないかと思われる和邇川、イザナギ

墓所などガこの辺に集中している。この辺が国譲り前夜の重要なポイントでは
ないでしょうか。
545がいやまん:2005/08/30(火) 18:18:45
これまでに述べた漏れの仮設を整理すると:
(1)平原、香椎宮、熊野那智、善光寺、鹿島神宮などにはヘレクスル遺跡の鹿石に
 相当する柱、神木、霊石がある。これはヘレクスルの世界樹、鹿石の方位魔除
 などと関係がある。黒石寺六角形護符小間木、六根清浄の杖も方位魔除。
 これらは古代宗教と関係がある。
(2)山頂、ふもとの宮などに剣、鎚等を納める宗教儀式があり、霧島、石鎚、剣山、
 五剣山 などの山岳、石上神社、荒神谷其の他は古代の宗教と関係していた
 可能性がある。 神武の熊野遠征もこの延長線上にある可能性がある。英彦山に
 伝わる天竺から投げられた五本の霊剣はシルクロードにおける初期仏教とステップ
 のヘレクスル文化の習合である可能性がある。石上神社に献納されたフツの御霊の
 フツとは大月氏より伝えられた「仏陀」という言葉であった可能性がある。
 これは新羅とインドの婚姻伝承などの背景になっているのではなかろうか。この仮説
 は 後漢、三国時代の仏教ブームを考えると捨てきれない。
(3)こうした宗教伝播の媒体となったのは月氏であり、記紀においては月読尊、遺跡に
 おいては月山神社、船形山、月型、船形石がキーワードとなる。

ヒミコの鬼道においてスサノオ・八幡などと関連すると見られる内行花文鏡が三角縁
神獣鏡に変わるのは何らかの宗教改革であり、その改革に対しては相当の反撥があ
ったようだ。
546白馬青牛:2005/08/30(火) 23:04:37
>>542
そうですね。それゆえDNAやHLAの遺伝子も考慮しております。
しかし、容貌も参考になると思います。
ロシア人民族学者のシロコゴロフも、ツングース南方起源説を唱え、
北上し現地の北亜種と混血したとする。その起源を黄河ならびに揚子江
(長江)流域として、ツングースの衣服がシベリアの気候に適さず、
容貌から南方支那人や安南人(ベトナム人)には驚くほどツングースに
似た容貌があるとのこと。
マルチン=マルチ二も満洲人の容貌について、
「彼等の顔は整っており、色は白く、鼻は支那人ほど低くなく、目も
さほど小さくない。」とも関連するかも知れません。
エーバーハルトのツングース起源である河北、山東、遼寧、満洲説より
南方起源となっております。
547白馬青牛:2005/08/30(火) 23:56:23
>>543
中原の彩文土器について、イラン、西アジア系の初期農耕文化が
直線文の彩文土器を特徴とし、バルカン、南ロシア系の初期農耕文化は
渦巻文、波状文等曲線文の彩文土器を特徴とする。天山山麓〜甘粛、
更に大興安嶺南部の熱河彩陶に至るまで曲線文の彩文土器を特徴とする。
それゆえ東欧方面の影響と思えるのです。
戦車、車輪文化の西方起源には同意です。北狄の方が騎馬化する以前は
徒歩ですね。
>>544
銅剣は縞を厚肉に作っておるんで、突くのには鉄より良いと以前書いたが、
銅剣を含め、遼寧青銅器こそ高句麗を強国にしたともいえそうですね。
地名については詳しくありませんので、なんとも言い難いのです。
548日本@名無史さん:2005/08/30(火) 23:59:52
http://list2.auctions.yahoo.co.jp/jp/2084053073-category-leaf.html?f=&alocale=0jp&mode=1

もう直ぐ決着だ。

でもパンツ丸見えって恥ずかしいよね。これ。
549日本@名無史さん:2005/09/01(木) 16:45:49
箸墓古墳から国内最古の馬具出土
http://www2.begin.or.jp/sakura/topix10.htm
「箸墓古墳から国内最古の馬具出土」 
 桜井市の箸墓古墳の周濠(しゅうごう)で、四世紀初頭の木製鐙(あぶみ)が見つかり、2001年11月30日
市教育委員会が発表した。定説を一世紀近くさかのぼる国内最古の馬具となる。

 遺跡発掘資料からは当時の日本には馬が数多くいたとは考えられませんが、今回の輪鐙の出土によって、
一部の階層の間には馬が普及し、乗馬の習俗も存在していたことが明らかになってきました。

箸墓古墳
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&c2coff=1&q=%E7%AE%B8%E5%A2%93%E3%80%80%E4%B8%96%E7%B4%80&lr=

畿内大和説で、卑弥呼の墓が具体的に提示されているのはここ箸墓古墳だけである。しかし従来、その年代
の違いから考古学的には否定する見方が強かった。箸墓古墳は従来、3世紀末から4世紀前半の築造と
言われていた。卑弥呼が死んだのは3世紀前半(248年)であるから」、50年から100年のズレがあったわけ
である。ところが近年、平成7年2月に奈良県立橿原考古学研究所が箸墓古墳の築造を3世紀後半と発表し、
また平成8年12月には奈良県桜井市教育委員会が「纏向石塚古墳」の築造を3世紀初頭と発表したことで、
がぜん、邪馬台国畿内(大和)説の有力な根拠として、新聞紙上を賑わせたのである。畿内説は、3世紀には
日本は九州から畿内の広い範囲で既に統一され、初期大和政権の首都纒向遺跡の支配は西日本各地に
及んでいた、と主張した。
550日本@名無史さん:2005/09/01(木) 16:46:35
第198回活動記録 安本美典先生講演 
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku198.htm
布留1式の土器と馬具が同時に出土した場合に、馬具の使用時期を4世紀はじめに持っていくよりも、布留
1式土器の年代を4世紀後半とするほうが、無理が少ない。

ざつがく・どっと・こむ - 『今日の雑学+(プラス)』小橋昭彦
http://www.zatsugaku.com/stories.php?page=58&topic=
 箸墓古墳のあぶみだけれど、年代としては4世紀初めのものとみられるといい、事実とすると、日本での
乗馬はこれまでの説から半世紀から1世紀近くさかのぼる時期に始まっていたことになる。なにせ魏志
倭人伝には3世紀末の日本について「牛馬なし」と記されているのだ。箸墓古墳には邪馬台国の女王卑弥呼
の墓ではないかという説もあり、弥生時代の終わりとともに強力なくにが出現し、乗馬がはじまった、あるい
は乗馬とともに強国が出現したといった想像もふくらむ。
 いや、想像にはしってはいけない。大陸の騎馬民族が日本を征服したという説は現代では否定されて
いるわけだし、出土品をたどれば長崎の五島列島で1世紀のものと考えられる馬の歯が出土している。
ごく珍しいものだったと考えられるにしても、弥生時代から馬が日本に入ってきていたのはたしからしい。

【社会】古墳時代前期の前方後方墳見つかる…大阪・羽曳野
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1125476880/
551がいやまん:2005/09/01(木) 17:58:17
>>535
>カラスク牧畜文化人は、モンゴロイドでもシベリアの森林諸種族(バイカル型)
>ではなく、「華北型」(中央アジア型、長顔、北アジア種に比べ高い鼻。
カラスクとアファナシエボの間にオークネボ文化というのが入り、これがシベリアの森林
モンゴロイドらしいのですが、http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_01.GIFとか
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_21.GIFいったシバ・リンガムとか、
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AN_06_01.GIFこういった高車(高句麗神話の龍車
と関係あるかな)のようなものを残しています。この文化はチベットでヒンズー教の原型
となってインドに入り、途中ジュンガル、タクラマカンあたりで後の高車文化を残したとで
も考えるべきなんかなーと思っているんですが。
552がいやまん:2005/09/02(金) 08:39:14
馬でもない、鹿でもない、馬鹿とでも呼ぶべきものなのか↓
http://ww3.enjoy.ne.jp/~oz/salon/i_oomoto2.html
このHPの下の方にある馬の像は馬というよりも、トナカイ又は鹿を描いたといった方が
良い。この時代には写実の対象となる馬が存在しなかったのか、乃至は、タブーによって
その写実が禁忌されたのであろうか。するとその時代は2世紀以前となり、非常に古い
ということになる。まるでキリストの仏像とでも言うべき不可思議な彫刻だ。また、この
彫刻が非常に古いものとすれば、当時は鹿飼(エベンキ語ではオロチェニ)が列島を跋扈
していたということになろうか。但し木彫りがこれほど発達するのは古墳時代の終わり
頃かとも思われ謎は深まる。
553がいやまん:2005/09/02(金) 18:38:04
↑ちはやぶる金の三崎を過ぎぬとも吾は忘れじ牝鹿の須売神
http://www.genbu.net/data/tikuzen/sikakai_title.htm
どうもご神体は牝鹿のスメガミらしい。
554がいやまん:2005/09/02(金) 18:43:07
↑すると http://ww3.enjoy.ne.jp/~oz/salon/i_oomoto1.html
ここで牛石というのは鹿石のことではないか。
555がいやまん:2005/09/02(金) 21:47:49
http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/jhsika/gosinkosai.htm
鹿飼ツングース/オロチョンはタガール-ザバイカル、遼寧、楽浪、馬韓松菊里、辰韓
検丹里、対馬、壱岐、志賀島、宇佐、纒向へと天神/スクナヒコナの神を抱いて移動。
途中、志賀島においては後漢金印を受け、纒向において魏の金印を受けたのであろう。
「この御酒は わが御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石たたず 少名御神の 神壽き 
壽き狂おし 豊壽き 壽き廻し 獻りこし御酒ぞ 乾さず食せ ささ」と神功 皇后が
高らかに謳う少名御神はツングース共通の天神に相違ないと思う。
http://www.geocities.jp/tomasanjp/kojiki27.html
ただ、日本のパンテオン、神統譜におけるスクナヒコナの位置づけは低く、ツングース
神話以外に匈奴の星辰神話のようなものが大きなウェートを占めたのであろう。
他にも縄文以来の製塩関係の神とかそのた八百万の列島本来の神もあったはずだが。
556日本@名無史さん:2005/09/02(金) 21:55:53
福岡市天神ってあれ江戸時代福岡城に入城した黒田氏がつけた
比較的新しい地名じゃないんですか?
博多の方では聞かないので新しい人がつけた地名だと思っていた。
557白馬青牛:2005/09/02(金) 22:41:09
>>551
オークニェボ文化は、前二千頃の、南シベリアのハカス地方の文化
で石や骨に刻まれたマスクが特徴の文化でしたね。これはモンゴル時代
まで及ぶとされるエニセイ川上流部のムグル・サルゴンの八千点の岩壁画
の中の二百五十点にのぼるマスクにも影響ありということですかね。
ムグル・サルゴンの岩壁画には、山羊、鹿、ヘラジカ、車、人物像等
ありますが、全体的に南シベリアやモンゴルの青銅器時代の岩壁画の
車は、当時太陽信仰がなされ、車が太陽の象徴であったということで
しょうか?
また、これらの壁画は二輪車を牛に引かせていますが、高句麗や日本の
牛車も二輪車ですね。
558日本@名無史さん:2005/09/02(金) 22:54:42
仮説を元に仮説を立てて
それがあたかも事実のように語るのは
もうやめて欲しい・・・

あと、変なこじつけもやめて
559日本@名無史さん:2005/09/02(金) 23:45:45
熊野神社
《出雲国風土記》(《風土記》)に見える〈意宇(おう)〉という地名
の起源伝説。巨人の神が他の国土を引き寄せて国作りしたとの内容から
この名がある。八束水臣津野命なる神が〈八雲立つ出雲の国〉はまだ
狭く稚い国だ,この小さな最初の国土を作り縫おうといって,
新羅の三埼(みさき),北門(きたど)の佐伎(さき)の国,北門の農波
(ぬなみ)の国,越(こし)の都々(つつ)の三埼の諸方より,
それぞれの土地に綱をかけて引き寄せ出雲の国に結びつけたと
語られている。

熊野神社(鈴木さん)と熊本(隈)は全くの似て非なるものでは?
他人の空似?
560がいやまん:2005/09/03(土) 09:18:34
>>557
オークニェボ文化は、ムグル・サルゴルとは関係付けられてはおらず、
車両は日本などの牛車よりは山車に似た四輪幌馬車型です。
後世、インドからジプシーが西方に逆流しますが、米国西部開拓
とか、サーカス移動車両といった感じであり、出土人骨から北部寒帯
樹林帯モンゴロイドとするのでしょうが、大いに疑問を感じるところです。
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_02.GIF
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_04.GIF
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_07.GIF
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_08.GIF
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_15.GIF
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_16.GIF
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_19.GIF
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_20.GIF
思想的には深いものがあるようだし、天文学、数学的にも
意味があるとする見方もあるようです。
561がいやまん:2005/09/03(土) 16:27:53
漏れは、図形からシバ神と見たんですが、ロシアはリグベーダのプルシャ、インドラ
につながるものがあると見ているようです。いずれにせよ、仏教、ヒンズー教にと発展
するものが、わが国に到来するアルタイ・ザバイカル文化の根源にあるということは
意義が深いことだと思います。
562白馬青牛:2005/09/03(土) 22:26:59
>>560
>オークニェボ文化は、ムグル・サルゴンとは関係付けはされておらず、
しかしエニセイ川上流のムグル・サルゴンとトミ川のオークニェボは、
ごく近い地域でマスクの絵も似ており、1973〜1974に調査した
M・デラウトもその影響を指摘しておりませんでしたか。また岩壁画の
場所で成人式の行われた可能性があったと。
南シベリアやモンゴルの車の岩壁画は、二輪車と四輪車で四輪車の方は
幌車型に描かれておりますが、引かせておる動物が牛か馬か判断しがたい。
もっと西方のキルギスのサイマルィ・タシュの岩壁画は犂耕作図ですが、
牽引動物が牛か馬かも判断し難いですね。いずれにしても岩壁画が儀礼に
関連深いのでしょう。
563YAP?:2005/09/03(土) 23:39:03
骨の形態に基く人類学的な仮説は、あんまり信用しないほうが良いとおもいます。
遺伝学的データに重点を置くべきでしょう。

大体、「ホモ・エレクトゥス」と、「ホモ・サピエンス」の形態の類似から、
オーストラリア・アボリジンが、ジャワ原人の直系だなどという仮説を建てて、
「多地域進化説」とか「二地域進化説」のような妄説を支持していた「形質人類
学者」の影響がまだ、残っているのはおかしい。
564がいやまん:2005/09/04(日) 07:06:24
>>562
↓Bukhta Aya, Baikal, horned "devil" -"skeleton type" man
http://www.rupestre.net/tracce/tn_bre7b.gif
↓オークニェボ陽根人間
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_21.GIF
こうした広域類似性もありますのでムグル・サルゴルとの
類似もあるかも。ただ、ムグル・サルゴルの全体図が不明ということ。
オークニェボは全体的研究が発表されている。一般的になりますが
ロシア新興宗教団体が三ツ星に世界的宇宙像がありとして、日本の
三ツ星印の半纏を例示しております。これがムゴル・サルゴル関連
のところに出ているのでオークニェボの三つ眼神像のようなものが
ムゴル・サルゴルにあるのかなーと思っています。
565白馬青牛:2005/09/06(火) 00:17:53
>>563
尾本恵市氏は、「形質人類学は人間の個体についての情報をもたらす
わけです。そこで私の課題である遺伝子ですが、遺伝子は何から何まで
答えてくれるという風に過大に期待されることがありますが、じつは
それが明らかにしうることには非常に限界がございます。したがって
考古学、民族学、形質人類学、遺伝学と相補することにより、はじめて
ヒトの交流の真の姿が浮かんでくるのではないかと考えております。
(中略)遺伝標識で間接的に遺伝子を比較する場合、種類や検査方法に
よっては似た遺伝子を同一のものと見誤ってしまう可能性がまだまだ
あります。また現代人の資料は、過去のさまざまな情報が複雑にからみ
合った最終結果である。人類の歴史の全てがそこに反映しているとも
いえるが、しかし交流、また隔離等一つ一つの記録をそこから拾い出す
ことは不可能とも思えます。」と述べておられます。
自然人類学には詳しくなく尾本氏の文を引用しましたが、専門分野だけで
なく、尾本氏のいわれる相補、総合的、全体像からの視点も大切であると
思います。
566がいやまん:2005/09/09(金) 16:37:30
またぞろ、オークニェボ文化だが、BC2000-BC1500年頃ということで、二里頭文化
に並行し、オークニェボには四輪者、二里頭には二輪車と言う風にこの頃車が入るが
小河墓遺跡の麦、牛等を見るにつけ、当時西から入る農業文化があり、これによる
ものと考えたい。オークニェボ、カラスク、タガール、パジリク等と変化する中、パジリク
においてはhttp://www.ancientcraft.ru/img/Ris11.gifといった形になっている、反面、
黒海北岸ではオークニェボに似た古いものが見られる。http://www.ancientcraft.ru/img/Ris10c.gif
これはこの背景となるヘロドトスのスキタイ時代であるが、二輪車は二里頭とギリシャ、
インド、アナトリア方面への間に800年程の開きがあることは、二輪車、四輪車共に
起源はどこかオークニェボに近いところか、中央アジアにあるのではないかとの感じが
する。
567がいやまん:2005/09/11(日) 14:57:39
宇佐では世界的に貴重な古代巨石芸術が台風などにより失われつつある。
この木造製品にいたっては↓
http://ww3.enjoy.ne.jp/~oz/salon/i_oomoto2.html
ちはやぶる金の三崎を過ぎぬとも吾は忘れじ牝鹿の須売神
にでてくる牝鹿だと思われ極めて重要だと思うがこんな状態では何時消滅するか
わからない。バーミヤーンの石窟のようなものだと思うんだが。

568日本@名無史さん:2005/09/12(月) 02:00:09
『日本人はなぜかくも卑屈になったのか』
岸田 秀 (著), 小滝 透 (著)
第3章 なぜ日本人は「万世一系」を信じたのか
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4870315769/249-2235160-0666717

この本で騎馬民族説みたいなことを語っているよ。
百済と日本は本家と分家で兄弟国家、万世一系は百済滅亡後、それを覆い隠すためだとか。
もうアホか馬鹿かと。
おまえらこそ卑屈な日本人のいいサンプルだぜ。
569がいやまん:2005/09/13(火) 12:18:43
紀元前千年紀縄文時代の列島に水田稲作、無文式土器が伝来し、弥生時代が
始まるが、この弥生時代の大きな産業的変革として青銅器祭器と環濠集落、鉄器の
到来と広域祭祀文化圏の成立、広域祭祀文化圏の全国統合、三韓独立運動に関連
する渡来人の流入などがある。流入する渡来人の顔ぶれには、大きく言って
(1)ツングース - これは夫餘(鹿飼い)・・・布留系
(2)牛と関係がある贏秦/山東省徐福集団の一部であって月氏とも関係がある・・・西漢
(3)兵主/山東省徐福集団のいちぶ・・・東漢
こうしたものがあったと考えてみたい。
570がいやまん:2005/09/13(火) 12:35:53
贏秦には既にオルドスから遼寧に入り、そこで夫餘などと合流していたものが
更に楽浪において徐福集団とミックスしたというものもあったかもしれない。しかし、
百工と水田耕作というパターンが生じるのは徐福集団の上陸地であったであろう
楽浪・馬韓方面であり、これが百済、百残、伯済、物部集団というモノカルチャーで
ある稲作集団と合体して自己貫徹型環濠集落、その集合体を形成これが列島にも
影響するのであろう。
571がいやまん:2005/09/13(火) 13:48:25
アカルヒメの父が牛を追っているところをアメノヒボコにとがめられ、投獄された
らしいが、それは邪宗門↓http://homepage3.nifty.com/moonatmidday/ushi.html
に参加する事への迫害であろう。アカルヒメはスサノオとうよう贏秦であったが、
アメノヒボコとの新婚当時、贏秦は兵主集団(秦の法匪賊の末裔か)よりは力関係が
低かったのだろう。さて、贏秦は二里頭/夏と並行する小河墓遺跡
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/enasinko.html
これから牛信仰、棺を一頭分の牛の生皮でくるむ胞衣信仰(これはコーカサスのドルメン
とか、朝鮮半島、九州の支石、甕棺、桃太郎、秦川勝の生誕)等とも関係があるものと
考えられる。小河墓遺跡では女性性器を軍配型の団扇状の墓標で表し男性被葬者の
墓に、チャンスン状の男性性器を表す墓標を女性被葬者の墓に立てる。この扇子までが
胞衣と共に踏襲されているのはすごい。
572がいやまん:2005/09/13(火) 13:56:37
参考までにツングースが持ち込んだのではないかと思われる鹿石の風習を
忠実にとどめたと見られるセンボウ塚というのがある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hujido.html
これは以下のようなスキタイ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Skythen_Olen.jpg
その基となった鹿石↓
http://travel.xjsohu.com/news/show.asp?ArticleID=4124
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/stoneman/altan-sandal-uul.htm
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/stoneman/bayantsagaany-adag.htm
の起源と関係があるのであろう。漏れはそれをオークニェボ文化と見ている。
573がいやまん:2005/09/13(火) 17:58:53
>>571
小河墓遺跡のURLが間違っていた。スマソ。
「剥された牛の皮に包まれていたせいか、棺は埋葬した当時の状態を保ち、
棺の中には砂が一粒も入っていませんでした。墓主は舟のような棺の中で
安らかに眠っています。原始的だが、安全な設計で、千年前の埋葬の様子を
推測することが可能です」(NHKシルクロード放映では4000年前)
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200505/11-1.htm
「墓主はいずれも女性である。女性のミイラは、やはり毛織物のマントで覆われ、
金の耳輪、毛糸縄のネックレスなどの装飾品や木祖(木製の男性生殖器)など
の副葬品が置かれていた。」
574がいやまん:2005/09/14(水) 10:22:15
日本の歴史時代の渡来人については
氏族別渡来人情報 http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/sizoku.htm
というのが非常に有益であり、この中で秦氏の部分が先史時代に関わっている
ようだ。漏れは古事記、風土記の天日槍と徐福伝説(孝霊帝御宇の辰韓徐族
の渡来ではないかと見ているんだが)、日本書紀国譲りが楯築遺跡、纒向、箸墓
建設検討のうえでは非常に重要だと見ている。小泉さんじゃないけど「学会の良識」
をぶっ壊してでも2chのスレタイでとことん議論できる世の中が良いと考える。
となると、徐福伝説辺りが適切なスレとなろうか。
575白馬青牛:2005/09/14(水) 22:37:01
>>574
ご無沙汰しとりました。氏族別渡来人情報にある東漢氏の「三ハラ」は、
ツングース系のハラやツングース系の影響の強いモンゴル系ダブール族
のハラとの関連が考えられますね。
山東省は、日本人の人種的要素でも重要な地域ですが、山東省地方は、
人種的要素に白人種があったのか?先史時代、文化的にはツングース系に
近いのか?歴史的に見ても太公望は姜姓で羌族(チベット・ビルマ系)が
住み着いたのか?等、色々と興味深い地域ですね。
576がいやまん:2005/09/15(木) 08:14:43
>>575
ハラについては高句麗神話で「東海の沿岸に迦葉原(カソヴォル)というよく肥えた
地がある。そこがお前たちに向いておるであろう」
http://enkan.fc2web.com/kantan/kr/kr_03.html
というのがありますが、香春、因幡八上の川原、橿原等渡来系ゆかりの地名の
ハラに同胞の胞が同音異義語としての効果を出している気がします。更に、
これは鹿胞、つまり、夫餘諸民族(オロチョン等)、つまり、鹿飼ツングース同胞共同体
ということもありえるかなと。
577がいやまん:2005/09/15(木) 08:27:23
>>575 山東省についてですが、
「少昊氏の都城については、のちの周代の魯の国の都城・曲阜が「少昊之墟」
と呼ばれていることから、おそらくは同じ場所にあったものと思われる。
 また、『山海経』大荒東経によれば、東海のかなたに大きな谷があって、
そこが少昊の国であり、少昊はそこで帝センギョクを養育したとされている。」
http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/3k5t/3k5t_08.html
これは高句麗の天神、日本のスクナヒコナではないかと考えるんですが。
漏れは日本人として韓国人の儒教的社会構造に中国人以上の伝統を感じ
ている、すなわち、どちらかといえば日本人にひょり近い上下関係がる。
中国人はどちらかといえば西洋人に近い大雑把なところがある。古朝鮮は
山東省にイスラエルのごとく入り、殷崩壊後Exodusを行ったのではないか。
なんて考えているんですがね。
578がいやまん:2005/09/15(木) 09:45:51
白人ですが、最近鉄はヒッタイトよりもシリアの方が早買ったという発見が
あったようです。ところがヒッタイトは中近東では唯一の黒曜石産地。どうも
鉄鉱石の採鉱には黒曜石が必要でヒッタイトは交易でこれを得たのではないか
とも考えられます。すると日本では黒曜石は肥後、肥前、隠岐、サヌカイトは
讃岐、河内大和などにあり、辰韓の鉄が最初は九州だったのが、隠岐の方面に
変わるのは黒曜石の供給源が変わったことによるのかとも考えられます。
それたな。ところで、小河墓遺跡の美人は崑崙の玉を交易で得ていたとか
NHKではやっていましたので、4000年前からシルクロードはあったのかなと
思われます。
ご参考まで↓
THE WEST-EURASIA WORLD SYSTEM, 3600-1400 BC
http://www.arch.ox.ac.uk/ArchAtlas/Trade/WEurasia.htm?Reload=Reload
http://www.arch.ox.ac.uk/ArchAtlas/Trade/WEurasia.htm
日本の黒曜石産地
http://www.busitu.numazu-ct.ac.jp/mochizuki/japanese/sorcejp.htm
小河墓墓地
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200505/11-1.htm
579がいやまん:2005/09/15(木) 19:31:13
孝霊帝の頃、後の突厥の祖である月支が渡来して楯築遺跡、つまり、突厥型
中円双方墳を建設、石柱の囲いを作り、種族の神面を残したようですが、この
月支族は匈奴の石板墓文化の影響以外に楼蘭、アルタイの中近東期限と思
われる牛、胞衣信仰等も持っていたようですね。後世の兵主神社は秦氏による
ものでしょうが、石上神社、荒神谷等に金属兵器を納めるというのは匈奴の
ヘレクスル遺跡でも見られるようです。一方、全国の徐福伝承は高句麗滅亡後
の渡来高麗人が広めた可能性が強そうです。徐福船団というのは楽浪に漂着
せずに、遼東半島に漂着ししたのかもしれませんね。
580白馬青牛:2005/09/15(木) 23:50:43
>>577
朝鮮半島の儒教社会構造に近いのは、東日本の社会構造であると言え
ますね。長子相続制にしてもそうです。中国の宗族関係では、財産は
基本的に分割、平等に分け長子のみ祭祀料がある。
韓国の宗族では、長子が家を継ぎ本家、分家の違いもある構成で、
トルコ、モンゴル、ツングース、満洲や西日本(近世においては東日本の
宗族制の影響があるが)の平等分割あるいは末子相続と違い、朝鮮と
東日本の宗族(同族)社会の共通性は、長子相続、本家、分家集団、
社会の隷属的、序列的上下関係と興味深いところです。
581がいやまん:2005/09/18(日) 11:20:11
なるほど。ところで、尾本氏は縄文人は木の実ナナ、弥生人は岩下志摩という
話を引き合いに出したことがあります。今は岩下志摩も古い世代になってしまって
出てきません。野際ようこなんかも弥生人なんでしょうか。
582白馬青牛:2005/09/19(月) 01:11:27
>>581
野際陽子さんも「キイハンター」のイメージが強いと言えば古い世代に
なって仕舞うでしょうね。日本人で、弥生系、縄文系のどちらかに
100%と言う人は珍しいのではないのかと思います。
両者ともに我が日本人の先祖でしょう。

人種要素では、HLAのハプロタイプで西日本人に多いハプロタイプの
B52ーDR15は、モンゴル東部起源とされてますが、韓国で3位の
B13−DR7は、それより西の起源とされ、韓国人は日本人より、
モンゴル西部やトルコ系の影響が多かったのかも知れません。新羅文化も
アルタイ以西の影響も強く、容貌もトルコ系カザフ族に近いタイプや
モンゴル人的容貌も韓国人は、日本人より比較的に多いのではないか。
(あくまで顔相で根拠はありませんが)
日本と韓国では、移住した集団が違っておったのかとも思えますが、
根拠も無く見た目での判断となって仕舞いました。
583がいやまん:2005/09/19(月) 10:50:43
韓国自体としては中国よりも日本に近いそうですね。大体地理的配列の順序で
中国、コーカソイド、アフリカへと遠のいてつながっている。
http://blog.marmot.cc/archives/2005/07/27/the-korean-roots-of-the-japanese-people/
584白馬青牛:2005/09/19(月) 22:14:43
>>583
韓国人が人種的に遺伝子等から日本人に近いとは思いますが、我々とは
文化が違う。料金をごまかす、自己の過失をあやまらない、と文明的で
あり、逆に我々日本人は蛮族で、その点朝鮮人は、中国人やイタリア人
あるいはロシア人等に近いでしょう。
585がいやまん:2005/09/20(火) 07:44:53
WASP、儒教、カーストと多民族集団が一緒になるとOUTCASTが発生するのは
必然の帰結。満州方面から移動するツングース他の諸民族が列島に五月雨式に
流入を続ける遠因はこの辺にもあるかと。
586がいやまん:2005/09/20(火) 07:49:45
階級分化の先鋭化はマルクシズム的社会爆発という危険を内蔵する。半島はガス抜き
のための自浄運動として本能的に異民族を列島に流す方向で律してきたようなところが
あるのかも。
587がいやまん:2005/09/20(火) 08:00:04
が、それが列島では秀吉、信長、家康を生むような乱世の土壌を生むが、北では将軍様
のような精神構造をも残した。今、アジアが恐れるのは日本が北のような国になることでは
ないのかなー。
588白馬青牛:2005/09/20(火) 23:04:20
>>587
アジア側から見ると、確かに秀吉の様な人物が現れると脅威でしょう。
江上波夫氏は対談「世界史の新視点」六興出版で面白い事を話して
おられます。要約すると、
「日本の上の階級は、中国に対して常におかしいというか憧れというか、
何かを持っている。せめて対等になろうということで、この中国意識って
やつが、いまだに抜けないんだな。いまだって日中何とかがあるんだよ。
(笑)日本の軍部っていうのはそれだったと思う。もっと早くは太閤秀吉
だってそうだ。秀吉だって北京に行きたくて、とにかく中国に行き
たいんだよ。このコンプレックスがなかったら、南へ出て大国になったと
思う。オランダと戦って、必ず勝って。少なくともオランダや英国は、
日本人があそこに頑張っているうちはどうしようもなかったと思うね。
ただ南には意欲がないんだ上のほうは。下のやつは商売に行ったりする
けれども、上は常に中国なんだ。それがついに日本の陸軍から・・・」
589白馬青牛:2005/09/20(火) 23:34:06
上記に続く。
「それを軍部までご本尊にしちゃったから変なことになっちゃったんだ。
いまでもたくさんいるんだよ。いまだにいるんだよ。世界史っていうと
西洋史になっちゃうんだ。だから中国派と西洋派があって、日本派は
いないんだ。日本派っていうのは日本のことしかわからないんだな。
ほんとうの日本派は、日本の立場で、中国、世界史をやるべきなんだよ。
中国っていうのは入ったら命取りなんだよ。学問でも下手するとそう
なんだよ。戦争だけじゃないんだ。中国世界の虜にされて埋没しちゃう
んだ。同化しちゃって、気がついたときには日本人でも何でもなく
なっちゃうんだ。」
梅棹忠夫氏も日本人が中国文明に近寄ることは危険だと話しておられる。
内陸アジアの遊牧民を研究された方々は、歴史、文化の実感として
危惧される要素があったのでしょう。
590がいやまん:2005/09/21(水) 07:51:35
いくら自動車が売れるからといって中国市場一辺倒ではオシンのスーパージャー
ないがやばいということでしょうか。六カ国協議なんかでもハラハラしますね。
ハラ芸というのは怖い。
591白馬青牛:2005/09/23(金) 02:34:51
589に続いて江上氏は「民国の時代だって北京大学の教授や学生が
騒ぐと大概失脚した。近代国家とは異質なものなんだ。例えば
北京地区でそれが始まると、上海地区の学生がやる、それを武漢で又
やる、広東でも。これは役所でも押さえることは出来ない。そういう
ところは昔からですよ。結局白蓮教徒が起こったとかいう革命みたいな
ことを今は学生がやるんだ。そういいったことが一般的力を持ち、天下
動乱になるんですね。」
対談『大陸と島国』中日新聞から江上氏は、「自分達は中華で、外は
みな夷狄で、いずれは自分達に従属すべき、同化すべきものであるという
観念は、中国の指導階級には古くからあって、いまだに続いている。
中共になってもその点は変わらないと思う。
中国一辺倒の考え方というのは、支那浪人、あるいは中国に長く住んで
いた人達、それは日本人だけでなく、ヨーロッパ人でもすこぶる中国化
してしまう。これは中国人の中華思想に根底を持つ偉大な自信、四千年
の長い文化と伝統の強大な影響力に圧倒される結果です。この同化力は
欧米の場合に比べても問題にならないほど大きなもので、中国に永遠に
隣接する日本の立場で考えなければならない。」
592白馬青牛:2005/09/23(金) 02:57:44
江上氏「昔は海で隔てられていたが、現在は陸続きも同然で、うっかり
すると中国の隷民になってしまう。文化的、精神的に隷属しますよ。
いままで半島や海で中国と離れていたから、日本の民族的、文化的独立も
容易であったが、日本が中国化するか否かの問題はむしろこれからで、
日本の将来の運命が中国との関係でどうなるか、我々皆で真剣に考える
べき重大事に相違ありませんね。」
>586と関連しますが、朝鮮半島は日本人にとって中国文明侵入に
対し、文明的要塞の役割を果たしており、日本文化は、朝鮮半島の
民族の悲劇、犠牲によって開花したとも・・・。
593がいやまん:2005/09/23(金) 07:55:52
けだし、名論。
594白馬青牛:2005/09/25(日) 01:39:50
梅棹忠夫氏の大陸論は、
http://inet.museum.kyouto-u.ac.jp/museumF/topics/umesao/japan.html
の「世界都市関西」(日本の運命)にも出ております。
595日本@名無史さん:2005/09/25(日) 19:52:32
騎馬民族は来なかっただろ(W


朝鮮人は、騎馬民族の日本征服を信じていて、

騎馬民族=朝鮮人
だから、
「古代日本を建国したのは朝鮮人」
「奈良は、国家を意味する朝鮮語のナラだ」
と、妄言を吐く(W

朝鮮人は騎馬民族じゃあないだろ。
だいたい、朝鮮人が半島南部に住むようになったのは、3世紀頃だろ。
その時、すでに半島南部には倭人がいたじゃん。




596がいやまん:2005/09/26(月) 06:22:30
ところが遺伝子の中に痕跡があるんだよ。騎馬民族といっちゃおかしいが
西域方面のね。朝鮮半島にもその痕跡を残したようなんだ。別に朝鮮族
が日本に来たなんてことは歴史にもないけど。ご指摘のように騎馬民族、
朝鮮人など味噌糞にしている言葉遣いが横行しているのは事実だが。
また、琉球、熊襲、アイヌなどを除いて本州が渡来した民族の遺伝子で
圧倒されたのも事実のようだ。弥生という文化そのものがそれらの渡来系
遺伝子を持つ民族の文明のものであるようだ。
597がいやまん:2005/09/26(月) 07:49:32
>「奈良は、国家を意味する朝鮮語のナラだ」 と、妄言を吐く(W

朝鮮語のナラがいつ成立したかの立証が先だよなー。日本語にも均すという言葉
がチャンとあるんだから。逆に日本語から朝鮮語には絶対流れないという盲信もある。
シロヒワケ(福岡県)が新羅、中津川がナクト江でないかと思うんだけど。三韓は倭人
の方が多かったんじゃないかな。朝鮮人は楽浪・帯方郡の中に主要部分があったん
だろう。中国語の発音が徹底している(韓国語要素は全く直っていないけど法則性に
おいてはよく中国語を勉強している)。馬韓の方は遼寧・フヨの影響が強いようだ。
598がいやまん:2005/09/26(月) 08:15:55
大陸人の渡来は大体こんなもんだろう↓
第一速 春秋戦国
第二速 前漢
第三速 後漢
第四速 後漢恒霊の間
599がいやまん:2005/09/26(月) 08:22:19
しまった、秦を忘れていた。これを前漢に入れる。この頃半島は勅島・九州は
須玖で青銅器が渡来。近畿の銅鐸も始まる。
600日本@名無史さん:2005/09/27(火) 06:59:56
>>598
その前にも後にも重要なのがたくさんあるだろw
601がいやまん:2005/09/27(火) 07:54:20
>>600
その前には縄文時代がる。そこにおいても南北からの到来ということはあるが、
それについてはもはや遺伝子レベルの問題でしか論じられない。万単位の精度。
縄文・弥生は突帯文土器と無文土器の影響を受けた弥生土器の接点の移動を
研究することによって伝播の実態が明らかになっている。(騎馬民族の移動とは
全く程遠い)また、その後、については朝鮮半島に唐を初めとする異民族が侵入、
百済、高句麗などのツングース系をわが国が受け入れるのは史的事実。・・・
ついでだけど、古朝鮮、櫛目文土器等についてはあまり文献がないね。欧州も
北方は櫛目文土器と呼ばれる土器なのでこれと朝鮮の土器との関係とか謎が
多いにもかかわらず研究がされていない。また、馬韓の月支、インドとの婚姻伝承
についてもさっぱり研究されていない。困ったことだ。
602白馬青牛:2005/09/30(金) 00:48:12
>>601
櫛目文土器は、北欧からフイン・ウゴル、北ユーラシアの特徴ですが、
時代が下がって新羅文化とアルタイ以西の黄金文化との共通点。
新羅文化のスキタイ・中央アジアとの関連やローマン・グラス。
角杯は、ヴァイキングにもありますね。
新羅は西洋的か?あるいはトルコ系の影響が強かったのですかね。
603日本@名無史さん:2005/09/30(金) 04:48:19
>>595
「騎馬民族」が来たかどうかは騎馬民族の定義しだいだが、扶余は来た。
604がいやまん:2005/09/30(金) 09:34:58
>>602
森の魔女に娘2人を鹿に変えられたロシア女が日、月、地、風と金角鹿を
味方につけて戦うというロシア民話があるようですが、これからすると角杯
はロシア、つまり、印欧側で、魔女が櫛目文、フィン;ウゴル側の感がします。
たしか、学習院の教授で三種の神器とスキタイと関係があるというような話が
ありました。角杯は、インドの姫との婚姻伝承同様、アルタイというより西域
方面、つまり、大月氏の方面から来ているという感じがしますね。
605がいやまん:2005/09/30(金) 09:43:14
>>604
基本的にツングースは鹿を扱う部族と馬を扱う部族をはっきりと区別しています。
モンゴル、トルコという概念のない時代でも馬を専らにするものはあったと思われ、
これはアマテラスに糾弾されたスサノオの属性、つまり、馬の加工をすること、
農耕に利用すること、更に、八千矛の馬による大和入り、箸墓の鐙などは、アマテラス
の禁忌にもかかわらず、多少の騎馬民族の要素が日本国内に入っていた事を
示唆するようでもあります。アマテラスというのは鹿系列であり、馬系列とは敵対して
いたのかも。
606日本@名無史さん:2005/09/30(金) 11:27:00
江上さんは日本の市民歴史研究家と朝鮮の学者に大いなる幻想を抱かせてしまったね
未だに信じてる人がいるんだもの
607がいやまん:2005/09/30(金) 18:39:30
>>604
どこかで黄金の角の杯を目にした記憶があったんですが、どうも金角鹿と角杯は
無関係のようです。早とちりしたようで。格好悪い。やはりバイキングなんかのもの
でしょうね。
608白馬青牛:2005/10/01(土) 01:14:50
>>604
学習院の教授とは吉田敦彦氏のことですね。
吉田氏は、『神話学の知と現代』河出書房出版で、
『スキタイは、江上波夫先生の言われる「騎馬民族」の文化を生み出した
民族で騎馬民族文化はアルタイ系の言語を話す民族のあいだにも広まり
朝鮮半島南端まで強い影響を及ぼした。朝鮮半島から非常に多くの
渡来者が移住して来たことが確実である。江上先生の説の当否はともかく
朝鮮からの文化的な影響を古墳時代に日本が非常に強く受けたことは
確実で、その時期に日本の神話が形成された。これはまったく疑問の
余地がないほど明瞭だと思うんですね。(中略)高句麗の建国神話には、
スキタイ王家の神宝とも皇室の三種の神器とも良く似た、「三機能体系」
と認められる宝物のセットが出てくる。同じような意味を持つ聖宝は、
新羅にもあった。』と語られてますね。
609白馬青牛:2005/10/01(土) 01:55:35
>>605
それは北方ツングースのことだと思いますが、馬飼育のツングースは
トルコ・モンゴル系遊牧民化、森林の民から草原の民へ変化する段階か
と考えられます。遊牧国家の支配層は、元来森林の民が多いことも関連
するのでしょう。森林生活者に違いないのですが、南方ツングースは、
豚飼育+農耕と漁労文化の要素が強いと思われます。
610がいやまん:2005/10/01(土) 08:44:45
>>608 はい、吉田氏です。
>>609 現在ロシアで復権しているシロコゴロフはツングースの原郷を黄河と長江の間
としていますが、日本にも倭人北上説を唱える人が見られます。白馬青年さんのお考
えはどうでしょうか。
611白馬青牛:2005/10/01(土) 23:31:54
>>610
倭人は、大林太良氏の指摘した鹿の肩甲骨を焼いて占うという北方的
要素と高床式住居という南方的要素が混じっています。これらの混合的
要素は、日本でなく山東半島あたりで混じったのではないかと思います。
倭人は黄海沿岸を行き来しておった集団なので、遼東、山東、朝鮮、江南
と幅広い集団で構成されたのかも知れません。

シロコゴルフの言う原ツングース、シロコゴルフは、「鳥居龍蔵氏が
指摘した如く、支那人が移住する以前遼東、朝鮮、山東及び日本の住民
が文化上から見て類似していたということは想起さるべきである。」と
述べています。更に沿海州のポリツェ文化も日本海ルートで弥生文化に
影響を与えておることも考慮する必要もあり、民族が違えど同じ漁労民と
いう生業から違和感が無かったのかと。後の倭寇も日本、朝鮮、中国の
多民族連合であった様に。
また韓人は倭人に比べ、海上活動についての記述が少ないのですが、
しかし朝鮮の沿岸部、多島海は倭人的なのかとも思います。
612がいやまん:2005/10/02(日) 11:12:20
>>611
北方森林では永久凍土のため、今なお伊勢神宮のような高床式ログハウス
(丸太校倉)ですね。シロコゴロフの慧眼には感服しますが、彼の敵であった
ソ連学会も相当の反論資料をそろえ、特にエベンキなどが地元から発生した
とする理論を展開しています。しかし、最近のハプロによる見直しは徹底されて
おりません。ですから、あくまでも試論としています。漏れは、列島、東シナ海
が喜界カルデラ爆発によってシロコゴロフさんのご指摘の拡散が起こったとい
ったこともありえるのではと以前から考えています。長江が逆流、ブシュウ山が
崩れ、天が傾いたという出来事が長江文明、縄文文明を各地に拡散させたのでは
ないかと。
613白馬青牛:2005/10/03(月) 02:22:37
>>612
シロコゴルフ氏はツングースの眼覆について、
「この眼覆いは強い雪に反射する春の日光に慣れていない民族にとって
絶対的な必要なのである。眼覆いが存在する事実は、民族が新しい環境に
適応する仕方の一例として甚だ興味深い。従がって私はこの眼覆いを
以ってツングースの発祥地が南方の乃至は少なくとも雪のない地方で
あったことを直接暗示する」
またシロコゴルフ氏は、ツングースが使用する前垂は南支那と共通性が
あり、ツングースの心理的不安定が寒冷地の適応に欠けていることに
帰せられる等、ツングース南方起源を示すものとされておりますね。
ツングースが、雪の多い寒冷地より温暖な地域が生活しやすいとなれば、
日本への渡来も適応しやすい環境であったといえそうですね。
614がいやまん:2005/10/03(月) 16:43:35
エベンキが刺青をするという情報もあります。まー、アイヌもするようですけど。
615白馬青牛:2005/10/05(水) 02:35:19
>>614
刺青は、アルタイ地方、古代キルギス(堅昆)にもありましたね。
>588の江上氏の「南へ出て大国になったと思う」は私見として、
疑問があります。梅棹氏も鎖国がなければ、大国になったと同様の見解
ですが、日本が東シナ海の制海権は、中国(明)に握られ、東南アジア
でも、制海権はポルトガル人が握っており、制海権を奪われた形となった
後期倭寇になると日本人の比率も少なくなり、それと日本の造船技術、
航海技術がポルトガル、中国や朝鮮と比べ当時の水準から立ち遅れたの
ではないか。
中国は、鄭和の南海遠征の様に巨艦大艦船団で、海洋帝国ともいえます。
一方日本は、小船による海賊団に過ぎず、本格的海戦では、白村江や
文禄、慶長の朝鮮の役の海戦、太平洋戦争でも、日本の連合艦隊は
大敗しております。例外は日露戦争日本海海戦ぐらいです。つまり
日本人は歴史的に海洋民族でもなく海洋国家でもない訳です。
その点を王朝交代説の水野祐氏は、古代から騎馬や海戦も日本人は駄目。
と指摘されてますね。
616がいやまん:2005/10/06(木) 07:47:11
それに引き換え渤海国の勇敢さはバイキング/ノルマン並ですねー。
617日本@名無史さん:2005/10/06(木) 10:10:10
まあいいたいことは 「朝鮮すごい」 「日本が注目されるようになったのは朝鮮のおかげ」 だけだね

その吉田ってやつ、見事に朝鮮思想だし。
元が朝鮮にあれば優位性をしめせるという姿勢がね
618日本@名無史さん:2005/10/06(木) 18:12:15
>>617
吉田敦彦が朝鮮思想?アホか。

おまえのような奴がいると嫌韓派はみんなドキュンだらけ
と思われるから迷惑なんだよ。
それともおまえは最初からそれを狙った朝鮮の工作員かよw
619白馬青牛:2005/10/06(木) 23:23:13
>>616
渤海も、初期には山東辺りに水軍勢力を及ぼしたのですが、その後黄海
での制海権が唐と新羅によって封鎖されたので何とも云い難いのです。
>>617
『神話学の知と現代』から、吉田氏の発言の要約から、
「神話の価値を否定する方向で研究すれば、自然、左翼だと言うことに
なるのでしょう。現に、今、私や大林さんみたいに日本神話を、純粋に
学問的に、価値を認めて研究の対象にしていると言えば、もうそれだけで
、右翼的な人たちの仲間みたいに」
「日本神話自体、やはり朝鮮とか中国に対する自己主張ですよね。」
「欧米の文化の要素を取り入れても、日本人としてのアイデンティティは
きちっと守りながら、和魂洋才でちゃんとやった。」
その吉田氏が見事に朝鮮思想とは驚いた。優位性と云う言葉を使い、
優越論で解釈する方が、朝鮮・韓国的、思考方であると思えるのだが。
620日本@名無史さん:2005/10/15(土) 20:57:27
age
621がいやまん:2005/10/17(月) 06:53:21
昨晩、民放「ウルルン滞在記」でトルコのカンガル犬を見たが、狛犬そっくりであった。
コマイヌはライオンではなく、犬だったのだ。古代のハンガリーに侵入したクマン族も
おそらくは北匈奴、フン族であったのだろう。久米、久万、球磨、功満、小松の名を残
したのも、高句麗も、カングリ、カラクリ、キクリ姫も同じものであったのではなかろうか。
622白馬青牛:2005/10/18(火) 00:39:00
>>621
シルクロードやウルルンと日曜日は、TVばかり見ておりました。
モンゴルでも、遊牧民の犬は荒々しいですからねえ。
ノホイホラー!(犬を見よ)と包の人に合図しないと、下手に近寄ると
噛まれる可能性がある。トルコでは羊の放牧の番もするそうですが、
モンゴルでは、羊は騎馬で管理し、犬は番犬専用ですかね。
トルクメン遊牧民の犬は、羊の管理もする様ですが、一対一なら狼より
犬の方が強いそうですね。シロコゴルフ氏によると満州族では、
「子児が汚穢すると犬を呼んで、舐めさせる」のでしょう。
狛犬の狛は穢貊の貊から来たもので、貊(貉)は高句麗に含まれると
しても扶余と種族が違っていたのか?ふと疑問が出てきましたが、
貊族の東方移動(ツングースの東方移住に関連?)は、興味深いのです。
623がいやまん:2005/10/24(月) 10:14:52
白馬青年さんが視野に置かれている地域は欧州から列島にまたがる地域全体であり
騎馬民族を考えると当然のことではあるが、極めて広大。総論を一括するよりも、各論
を積み上げる性質のものであろう。しかし、古新羅古墳にしても専門の考古学者の知識
を越えた範囲のものであり、年代の特定が行われていない。今世紀の入りアルタイの
アルジャン2遺跡より未盗掘のスキタイ早期の王・女王墳が発見され、来年ドイツで
ロシア・ドイツの学者の共同発表があるらしい。漏れの知りえたところ
(1)場所はアルタイ、王家の谷、時代はBC650年頃、王・女王の人種は公表されてい
ないが、スラっとしているみたいだ↓
http://hermitage.museum.ru/imgs_Ru/13/hm13_3_020_3_big.jpg
(2)黄金、鉄がふんだんにあることが特徴。これは中国の鉄の起源は呉、越方面と
する日本の説に波紋を投じることになろう。
(3)スキタイの獣の模様の起源がこの辺であることを物語るようであるが、
たとえば、この飾り物↓
http://www.arteria.ru/images/ardgan.jpg
これはモンゴル・バイカル東部の後期青銅器時代の鹿石の影響があり、隣接する
アルジャン1遺跡が盗掘で破壊されているために、この文化の起源を断定はできず、
カザフスタン方面には類似のものがあり、インド・パキスタン北部にも類似品の出土が
あるため今後この方面の古墳からも新発見があるかもしれないと。
(4)漏れは驚いたのは王・王妃の枕元jに銅鏡が置かれていたということ、大せいの
殉死者がいるということである。
624がいやまん:2005/10/24(月) 11:19:31
>>622
貊族の東方移動(ツングースの東方移住に関連?)

モンゴル・バイカル東部の箱型石棺墓(石板墓)、平原遺跡のような全体的ケレクスル
遺跡の他に、後円部(ヘレクスル)単体の形をとるものとしては:
「天日宮は唐松神社の一角にあり、その珍しい石積みと丸石とお堀に
囲まれた美しい景観で知られています。」
http://www.kyowa.ne.jp/kyowa/txt/a02.htm
田和山遺跡の総柱建物
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/gif/tawayama1.jpg
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/tawayama.htm
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/5935/tawa/sb.html
「熊野神社・熊野遺跡ー岡山県赤磐郡熊山町
熊野神社は、流石は備前焼の本場である、狛犬が備前焼であつた。
これは珍しいと思われる。」
http://www.ncn-t.net/kunistok/P2110015.jpg
等があるが、狼に関しては↓
「福井県山中にあって、
「ピラミッドのよ うな三層の石垣に載った本殿」、日野宮神社」↓
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~raifuku/special/wolf/map/area/chubu/shrine/hinomiya/hinomiya.htm
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.52.6.060&el=136.20.47.659&la=1&fi=1&sc=8
欽明天皇、秦が苦心したのは内紛に明け暮れる狼トーテム獣部族のことであったの
でしょう。白山、犬山、豊川、伊勢、関東方面に分布していたものだと思います。
これが多分シ歳貊の貊族ではないかと思うんですが。
625白馬青牛:2005/10/25(火) 02:10:55
>>623
古新羅の古墳について、年代は4世紀頃からとされておりますが、
年代は推定の範囲を出ておらんでしょう。何れにしても、古新羅の
積石木槨墳は東亜では珍しく、アルタイ地方のパズィリクの積石木槨墳
の影響と見ることも出来るでしょう。飾り物の方は、竿頭飾鹿ですね。
>>624
貊族は、遼西、遼東から満洲や北朝鮮へ移住しており、
扶余(モンゴル的要素を持つ)はもっと北方におったと思えるのです。
狼トーテム獣部族も、柔然、突厥、蒙古等、環境的(半猟半牧的)
要因があり、偶然か、中国人、農耕社会に同化せずという共通した
性質を持っております。はたして日本へ移住したかは難しいですね。
まだ、牛トーテムの方が定住し、現地民化する傾向にあったと思います。
626がいやまん:2005/10/25(火) 15:48:52
>>625

>飾り物の方は、竿頭飾鹿ですね。

間違えてました。こういう頭飾りです。↓
http://hermitage.museum.ru/imgs_Ru/13/hm13_3_020_0.jpg

>アルタイ地方のパズィリクの積石木槨墳 の影響と見ることも出来るでしょう。

この時代の朝鮮半島はアルタイから満州にかけての遊牧諸民族が闊歩していた
感じであり、朝鮮族はどこにいたのかが、却って不思議ですね。ハンギョン道の方で
ひっそりしていたのか、間島から沿海州方面にいたのか。
627白馬青牛:2005/10/25(火) 23:28:47
>>626
咸鏡道、間島〜沿海州は挹婁、沃沮、濊等様々な種族が入り込んだので、
ひっそり出来る環境では無いと思います。朝鮮人には、ニブフ
(ギリヤーク)的要素もあり、構成民族は複雑でしょうね。
またそれ以前の民族、韓人、越人、倭人との違いもあるでしょう。
>611でも書いた様に、韓人は陸上の農耕民、越人は、江南の海洋民、
倭人は、黄海沿岸の海上交易民で、4世紀頃から突如水軍、海賊武闘集団
へ変わるわけです。梅棹氏のツングース水軍説も関連するでしょう。

>624に伊勢も出ていますが、川添登氏によると「伊勢は大和朝廷の
東方政策の根拠地であり、応仁朝に、新羅王から進上された船大工・猪部
の子孫は、物部氏の統率下におかれ、摂津とともに伊勢に配属された。」
と伊勢の造船所を備えた軍港の役割を述べられ、「第二次遣唐使に
さきがけ安芸国に百済船を造らせ」と外洋船を百済船と記しておる事も
記されておられます。
更に時代を遡り、船史の祖、百済系の王辰爾が蘇我稲目のもと船長に
任命された事、ただし彼等がツングース系か韓人系かは不明です。
>615に関連しますが、造船技術は日本より朝鮮半島の方が上回って
おったとは言えそうです。
628白馬青牛:2005/10/26(水) 00:27:58
>627の百済船と記しておることも、書かれておられます。と
訂正。文章がおかしくなって仕舞いました。
百済ありし頃は、往復に容易である黄海が重要視され、
それは、「波立たず、油の如き黄海は・・・」と言うことでしょう。
白村江戦以来、波の荒い東シナ海横断をしなければならぬ悲劇があった
訳です。
川添登氏は、書記にひく「智宗、庚寅の年を以って新羅の船に付きて帰る。
覚勝、唐に死せるぬ。義通、海に死せぬ。」とあるよう、船に乗って
二度と戻らなかった多くの人々への想いが、秘められていると述べられて
おられますが、新羅船の優秀性も見逃せない。越人も中国戦国期に
海戦に実績がありましたが、倭人(後の大和政権、歴史的日本人も含む)
は、小船で黄海を横断し、戦闘も小船を輸送のみに使い、戦闘は歩兵でと
云うことで、阿倍比羅夫の蝦夷、粛慎(ツングー系)の北国遠征には
成功しても、本格的海戦となると唐、新羅連合軍に大敗する(後の海戦を
含め)結果となりました。海洋日本の挫折と云うべきですかね。
629がいやまん:2005/10/26(水) 10:45:46
>>628
>朝鮮人には、ニブフ (ギリヤーク)的要素
日本人にも少数見られるが細目の釣り上った、眉毛の薄い、ホワイトアウト適合型。
之との関係はないかもしれませんが、
樺太に靺鞨がいて日本にも入っているようですね。アイヌの歌にある金の滴、銀の滴
の降るというのはユーラシア西部とも関連がありだが、これも靺鞨経由かとも。
630白馬青牛:2005/10/26(水) 23:52:57
>>629
そうです。オホーツク文化です。オホーツク文化の貝塚からは、
オットセイ等の海獣やニシン等の魚類の骨ウニの殻も出ており、
豚の骨もあり、漁労+豚飼育民でした。
内陸アジアとの関連では、北海道の礼文島から出土した牙製婦人像で、
辮髪と思える髪型、両手の間になにか入れ物を持っているモチーフ、
エニセイ川の上流セミレチエの西突厥の石人像の男性像は、片手に
角杯を持ったり、剣を持ったり様々なモチーフがありますが、女性像は
みな手に入れ物を持っているという決まったモチーフです。
文献から唐書の『通典』に黒水靺鞨が海に出て樺太の流鬼というところへ
行き、貿易をし、その流鬼が靺鞨と共に唐へ行った(640年)。流鬼は
乗馬ができず、馬に乗ったとたんに落ちてしまった。と書かれています。
以上は加藤晋平氏の文からの要約ですが、日本列島への時計回りルート
でもツングース系の殖民活動は見逃せませんね。
631白馬青牛:2005/10/27(木) 01:28:33
『日本書紀』では、斉明四年〜六年(658年〜660年)に、
阿倍比羅夫は秋田、能代へ遠征し、蝦夷を服属させ、津軽や北海道の渡島
の蝦夷を饗応し、また斉明六年には渡嶋蝦夷の救援要請を受け、
大和と蝦夷(東北北部〜北海道の擦文文化人)連合軍は、
粛慎(オホーツク文化人)と戦ったことが記されております。

また阿倍比羅夫の頃は、海洋的性格を持っており、北方遠征でも、
海岸部の拠点のみ押さえる点と線の遠征でしたが、白村江以降は
農本的国家となり、領域が面へと移行し、その後の対蝦夷戦でも、
兵站を考えず深入りし、しばしば苦戦しております。
点と線で拠点を押さえる遠征といえば、内陸の遊牧国家もそうですね。
632日本@名無史さん:2005/10/27(木) 21:52:53
このスレをいろいろ見て、
江上波夫氏がツングース≒朝鮮信者ということが
よーくわかりました。
633がいやまん:2005/10/27(木) 22:26:11
>>630 >>631
コピペですが、これも「靺鞨」に関係するかと↓
http://www.shiogamajinja.jp/lineage/05.shtml
御由緒を学ぼう>曲木神社の由緒
「また、別の伝説として、塩竃様がこの島を訪れたとき、そこの人達が穴居生活で
不潔な暮らしをしていたので、家を建てる術を教えた。人々は曲り木を組み合わせ
て住んだので「曲木神」の称号を授けたので曲木島となったと書かれている。」
「古今塩釜の浦辺では、塩土翁神により諸所で製塩がはじまり、人々が集まって
浦は平和に集落が出来た。そこへ害鳥が現れた。この鳥北方は盛岡方面の蝦夷
地より飛来した、食料を次から次と襲っては消えた。このとき、塩社祖神の塩竃様、
籬島に籠り、矢を射たところ、怪鳥の眼にささり、怪鳥は暫し湾内をくるくる廻った末、
桂島に落ちた。(怪鳥の名はウトウ?とも)桂島の神は、この矢を抜き取り替わりに
自分の矢をさしておいたから、塩竃様から出入を差し止められたという。この二神
姉弟の神とも言われ、ともに海路東北開拓に当地に来られたが、行手の山に危険
を感じたか(上陸)弟神のみが先行することになり、姉神は途中の島にふみとどま
ったと」


634白馬青牛:2005/10/28(金) 02:53:17
>>632
ツングース≒朝鮮信者と言うことから、人種厨かトルコ厨か嫌韓厨か?
>>633
害鳥と粛慎(靺鞨)が同一視出来るか解りませんが、蝦夷にとって
靺鞨集団は脅威だったのでしょう。

杉山二郎氏は、海洋性について、「吾が日本列島は、四面海に囲まれて
海洋的素質を持ちながら、漕船航海術や造船術を育成陶冶する場を
もたない地理環境にあった。箱庭的風土のなかで胡坐をかいてしまう。
内海の波濤は舟の堅牢性や大船舶を造らせる技術発達を促がさなかった。
その点新羅水軍やギリシャ航海業者は恵まれていた。」
更に「遊牧性と海洋性は表と裏の関係でパラレルという言い方をしている
学者、ヘイエルダールや生物学者のJ・ハックスレーも暗に主張して
います。しかし、古典学者が軽視して、取り上げようとしない傾向が
あります。」東亜では満洲が遊牧と海洋の接点とも考えられますね。
635がいやまん:2005/10/28(金) 08:04:36
先日、偶然、俳優の苅谷俊介氏が隠岐群島の小島を訪問した時、放牧されている
牛が海を泳いでわたる姿が放映されましたが、それはネッシーそのものでした。
もしこれが鹿であったなれば龍としか表現しようがありません。扶与というのは鹿を
意味し、鹿は弥生時代銅鐸の主役の一つとして大活躍をし、志賀島、鹿島、男鹿半島、
牡鹿半島と列島は鹿の時代を迎えますが、モンゴル・バイカル東部においても青銅器
後期には鹿石というメンヒルが立てられ、ヘレクスルという円墳上の主体の前部に
置かれます。そのメンヒルの頭部にはスキタイの飾りとなり、短剣の柄とか、七枝刀
とかになる鹿の角が描かれます。それは毎年の鹿の角きり行事でも見られるように
毎年繰り返されるサイクル、年神のシンボルであり、太陽、水鳥や亀が水平線下に
没しては浮かぶことの意味、つまり、農耕牧畜の起源と関係があるのではないかと
思います。
636がいやまん:2005/10/28(金) 08:13:20
思うに、鹿飼い(志賀島方面では志賀海をシカカイと呼ぶとか)民族が海洋に接する
インターフェイスである渤海国では主要都市名に龍をつけていますが、辰韓に辰の
字を当てること、鹿児島最南端、丹後に竜宮伝説があることからすると、古代鹿飼い
民族は極めて表現力豊かであり、鹿が海に入り龍になるインターフェイスの地名に
龍を当てたと解釈できるのかもしれません。少なくとも思想面において弥生人は鹿に
再生産プロセスを見ていたことでしょう。
637がいやまん:2005/10/28(金) 09:47:45
将棋はインドでBC3世紀に発明された後、世界に広まったが、日本に伝えられたのは
中国経由ではないとされます。将棋で飛車は敵陣に入って龍、歩は金に成ります。
日本に入ったのが龍、半島に入ったのは金ということなんかなー(w
しかし、そのルールが脳内にあって竜飛岬というように使われるというのなら意味はある。
638がいやまん:2005/10/28(金) 09:56:13
渤海故地には敦化、通化というのがあり、大和の後背地には都祁、柘植などがある。
ツヌガアラシトとは辰国王子、敦賀は倭国臨海府といった意味か。
639がいやまん:2005/10/28(金) 10:16:22
春日の鹿↓
http://www.nmt.ne.jp/~sanseiu/yamasaki/town/ie-k1.htm
鹿は太陽のシンボル、出る時は見え、隠れると見えない。
又、この話からわかることはスカが鹿であること。すると、春日、加賀、カゴサカとは輝く
太陽、春日部は太陽崇拝シャーマン集団に関係がある。日下は西部国境、日下の国、
狗邪韓国は倭国西部国境領土の意味となり、阿蘇に日下部のあるのも、クサエノサカ
の意味もなんとなく解かる。鹿は岩戸神話、アマテラスに先行する弥生早期からの太陽
信仰と関係しているとはいえないだろうか。
640がいやまん:2005/10/28(金) 10:30:47
飛鳥とは昇る太陽、日下とは下る太陽、クダラとは日の沈む国、飛鳥とは朝日を迎える
といった意味だろう。東京都北区の飛鳥山は朝日、特に夏の朝日を拝むのには適して
いる。熊野の飛鳥神社もそうした立地だ。
641白馬青牛:2005/10/29(土) 00:24:31
牛は、水牛ほどでは無いにしても、泳ぐのがうまいですね。
現在瀬戸内海の島々では、猪が海を横断しております。
鹿は、狩猟の対象であり、トーテム獣としてユーラシアの西から東まで
分布しておりますね。
ツヌガアラシトまたの名は、ウシキアリシチカンキで、北陸の角杯の
出土から、新羅文化の影響もあり、「ウシキ」とあるよう「牛」の
可能性もありますが、敦賀が角鹿であった様に「シカ」であったとも
いえますね。
遊牧性と海洋性の関係では、松田壽男氏の「漠島論」砂漠は海で、
オアシス都市は、砂漠における島であると。点と線の世界、両者の
交易の発達を考えるとシルクロードと南海航路(地中海・インド洋経由で
中国に至る、海のシルクロード)や北欧のバルト海の役割やヴァイキング
の活動、ハンザ商人の活動を含め類似している。しかし西欧は農耕民の
面の世界であり、支配した民族であるゲルマン・ノルマンも面の
封建制に移行するということです。
642日本@名無史さん:2005/10/29(土) 01:19:26
牛の角に松明つけて暴走させるとは・・・焼肉かよ。
643がいやまん:2005/10/29(土) 08:53:25
蒙古帝国は戦術的兵站は強力なものがあり、数世紀にわたり支配を継続しているが
イスラム、キリスト教などの文化的な力に倒されたのでしょう。おごれる平家は久しか
らずというか、20世紀の集団主義国家の短命さとも一脈を通じるものがあるのでしょう
か。一次元が二次元化されない弱さといえばそういう捉え方もあるのかなとおもいます。
さて、ユーラシア草原ではBC5世紀のトラキア・テレス王近親者墳墓出土の角杯
http://www.isra.com/lit/i/0705/1122402375.jpg
http://images.pravda.ru/img/2005/7/grab.jpg
これらは、古新羅古墳同様、金冠
http://www.isra.com/lit/i/0705/1122402629.jpg
を伴うことから、当時のスキタイ文化が黄金を珍重したことを物語ると思います。
他方、氷見市上久津呂中屋(かみくづろなかや)遺跡出土の角杯
http://www5.ocn.ne.jp/~maibunji/kakuhai.htm
は6世紀から7世紀頃ですから、飛鳥時代となりましょうか。これはわが国の
文化がユーラシア文化の影響を強く受けていたことの証左であり、神話体系
にもスキタイの影響が出ていることもこれと軌を一にするものでしょう。
644がいやまん:2005/10/29(土) 09:02:18
>>639
アサカ、キサカ、クサカのサカは鹿ではなく、境界、サカイのサカ、つまり、太陽の
活動を赤、黄、黒の三色で色分けして、これに東、北、西の三方を当て、南を聖なる
ものとしたとも考えられる。加賀の潜戸でキサカ媛が夏至の黄金の矢をいるというの
は太陽光線のことであろう。
645がいやまん:2005/10/29(土) 09:22:22
>>641
古くは角鹿であった敦賀は伊勢と共に百伝ふという枕詞を伴いますが、現代語で言えば
幹線港湾とでもいうべきでしょうか。敦化、通化、柘植、都祁などとも通じ、頓宮との関係
も気になるところですが、ツングースという言葉との関係も気になります。ツクシ、タギシ
よく似た言葉が多い。さて、上記のトラキアの角杯はご丁寧にも牛の頭を彫りこんでであり、
角杯が牛の文化、宗教と関係を持つことを示唆するようでもあります。
646がいやまん:2005/10/29(土) 10:59:17
>>641
稲作地帯の環濠集落化はオアシス化でもあり、これはそうした点をつなぐ存在、
キャラバンのようなものとか、広域化による合理化とかに発展するのでしょう。
本来土地を持たない遊離イオンのような存在が半島、列島の稲作地帯において
補完的存在価値を認められるに至ったということでしょうか。そうすると、そうした
ツングース・匈奴系の民族の受け皿となるのは吉野ヶ里に見られるような環濠集落
と周辺の同族乃至は在来民族間の緊張の高まりということも言えるのではないかと
思います。そうした分子が海人族となり、やがては、域内統合の媒体となり、遂には
倭国大連合形成、卑弥呼共立、そしてやがては大和朝廷の誕生となるのでしょう。
647がいやまん:2005/10/29(土) 16:20:41
>>644
アスカ<東の太陽>日の出、
カスガ<太陽の鹿、これを具象化したものとしては
縄文時代の概念としては
センボウ塚
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/idoji33.gif
弥生時代としては、田植えの始まる前の角のない鹿
宮島大元公園
http://ww3.enjoy.ne.jp/~oz/salon/i_oomoto2.html
こうしたものではないかと考えられる。
648白馬青牛:2005/10/30(日) 00:46:13
>>643
モンゴル軍は、一つの町を征服し、相手が降伏すると、次の町では
降伏した連中を前線に出して、自らの損害を防ぎ、前線の連中は
隣町同士「神人共食」で双方酒を飲み和解。その和解した連中が次の
町へ前線に出てという雰囲気ですかね。点と線の世界の方が崩壊は
早いとは言えます。しかしモンゴル系と違い、トルコ系はすごい。
自らイスラム化しながらオアシス住民をトルコ語化しました。

20世紀の集団主義、共産主義国家のことと思えますが、モンゴルの
ロシア支配の影響でソ連が専制主義となったという解釈はヨーロッパ的
あるいは冷戦時の海洋国家と大陸国家の対立という軍事地政学的論理に
見られますが、あくまで西欧的(アングロ・サクソン的)解釈であり、
当時の政治的イデオロギーで分類しております。朝鮮半島では南半分が
海洋国家分類に入り、いまだに台湾も海洋国家勢力の一員となっておる
様に。米国の某学者の様に最終的には日本は、アジア側で欧米諸国と
文明の衝突となる。日本は異文明であるとし、日本側の片思いです。
つまり日本には西洋派(アングロ・サクソン派)と中国派がおることは、
江上氏の引用で記してますが、我々日本人流に地政学も解釈すべきで
しょう。国粋主義に陥っては、ならんのですが。
649がいやまん:2005/10/30(日) 08:49:40
こうした文化基盤↓
http://www.ozlab.osakac.ac.jp/KOFUN/Nyumon/haniwa.html
のところに、こうした↓
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/TATETU.html
文化基盤の人々が到来する・・・トルコ系の到来とはこんなもんでしょうか。
650がいやまん:2005/11/01(火) 08:07:08
>>648
トルコ族はEU加盟という脱皮をしようとしており、イスラム化に継ぐ変身でしょうね。
日本と似ているんじゃないですか。
白馬青年さんの角杯についての言及は深い意味があると思い色々探っていました。
角杯について、やはり、ユーラシアの両端、富山とトラキアは一連の関係に一つ
であろうと思います。トルコ行進曲とも連想されるクロワッサン、これは土佐大月町
の月山神社の祭神、月弓大神、そのシンボルの月形石を想起させます。上記楯築
遺跡にも、丹後出雲神社にも舟形の石があります。岩舟というのも異界とのビークル
であり、紛らわしいところがあるのですが、兵器崇拝からの月型石というのはあると
おもいます。そして、半月を更に半分にすると角杯が生まれるのかなと考える次第です。
中央アジアで発生したスキタイ文化の東西への伝播によるものでしょうが、史上有名な
冒頓単于の月氏征圧により騎馬民族要素を含む集団が、お言葉を借りれば、点と線
的な移動を行った、そして、広大において欧州部分、小アジア、中央アジアでは面的
に展開したと考えてみたいところです。
651がいやまん:2005/11/01(火) 08:30:21
東西にパラレルなものは以下のようなものがあります。
(1)クマン族(キプチャク)ハンガリー侵入。土佐大月町からほど近く久万高原あり。
(2)球磨に程近い鹿児島県甑島に「ナマハゲ」(トシドン)あり。スイスに
「ナマハゲ」(レッチェンタール)http://www.loetschental.ch/files/UpTables/bilder/8.jpg
あり。もちろん、秋田男鹿半島のが有名。
(3)ハプロタイプから沖縄はブリャートに近い。沖縄にシーサあり。
(4)沖縄、佐渡に春駒あり。ポーランドにもあり。
http://www.chebucto.ns.ca/~aa051/lajkonik-sa.jpg
これは偶然というより、スキタイ時代から再三繰り返される東方草原から欧州への
侵入、満州平野から日本列島への侵入の結果と考えるのが順当かと。
652がいやまん:2005/11/01(火) 08:42:28
角杯のような月の角というのは陽根崇拝であるといわれます。いささか驚くのですが
鹿の角の年毎の成長、鹿の角の髄のエキスを精力剤とする風習などからそうしたこと
もありえるのかなーと考えます。スキタイ時代兵器崇拝は弓よりは剣にあったはずで
スサノオ、フツヌシ、タケミカヅチなどの神が剣と関係のあるのもスキタイ時代の考え
かも知れません。モンゴル・バイカル東部のモンゴロイド・コーカソイドが匈奴・突厥
等になって行くのでしょう。
653白木人:2005/11/01(火) 12:23:07
騎馬民族が直接きたのではなくて、消化してからきたので、



何を消化したかは
654がいやまん:2005/11/01(火) 13:29:44
古代ユーラシアにおける民族の遠征はペルシャのダリウス、マケドニアのアレク
サンダー等の場合は文献に残っており、アーリア族の場合はヴェーダ経典にあり
ます。アーリア族の場合ウラルにおいてその居住地の考古学的発掘が行われて
おり、おおよその姿がわかります。全般的な特徴はカースト制度を維持した集団
のハイエラーキー構造を維持したままで移動しています。朝鮮半島、日本列島に
おいては「百済」、「物部(河内)」等のように多くの機能を持つ部民集団の移動とい
う形をとったようです。朝鮮半島はともかく、騎馬民族が日本列島に渡るのは元寇
の例にもあるとおり、余り実現性はないと思われます。朝鮮半島から日本に渡来し
たのは青銅器等の金属文化に関係した職人集団のようなものとか、海人族のよう
なもの等様々な部民の集合体であったのでしょう。倭国側としてはスサノオ、月読
命(戦闘集団)に対するアマテラス、天日槍に対する垂仁帝等のの僻地への閉じ
込め等の行政指導で対処書したのでしょう。ただ、アマテラス、つまり、太陽崇拝
はモンゴルの西方のインド・イラン系、出雲に見られる四隅突出型古墳に代表さ
れる大地崇拝型はツングース系という風に大陸において葬礼、墳墓の形態が既に
異なっていたものが統合されず、そのまま倭国に持ち込まれたようです。
655日本@名無史さん:2005/11/01(火) 23:02:20
このスレの主なレギュラー

・白馬青牛
・がいやまん
・白木人
656白馬青牛:2005/11/02(水) 00:38:34
>>650
トルコには「時勢が汝に合わぬなら汝が時勢にあわせよ」と言う諺もある
そうで、柔軟性もあるのでしょう。角杯の富山のそれは、大己貴命や
スサノオを祭神とする牛岳権現に由来する神社から出雲勢力による侵入に
よるものかまでは定かではありません。松田壽男氏によると中央アジアや
西アジアは、ステップと砂漠地帯なので点と線の世界だそうです。

ハプロタイプから沖縄はブリアートに近いのはGm型以外は知りません。
st遺伝子は、オロチョンやツングースの方が多かったように思います。
一つの型だけで特定するのは危険ですが。HLAでも「B52ーDR2」
だけで、近畿・山陽・北九州が北方系と断定するのも危険でしょうが、
これらの地方は、形質人類学的根拠もあり、複合的に見て可能性は強いで
しょう。江上波夫氏も近畿・瀬戸内は牧民型気質と分類され、
近畿・中国地方は婚家出産の地帯でもあります。
657がいやまん:2005/11/02(水) 09:00:38
>>656
角杯についてはこのように↓「角杯形土器は、国内では石川県、
福井県、岐阜県などからのわずかな出土例」、又、富山、北陸、明石となってます。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/A03/A034.htm
http://www.edi.akashi.hyogo.jp/bunpaku/iseki/iseki7.html
一般的に朝鮮半島文化の渡来と捉えられています。山岳的に考えれば白山信仰
との地域的に重なるようです。
「東アジアにおけるミトコンドリア・ゲノム・バリエーションと日本の民族的成り立ち」
Mitochondrial Genome Variation in Eastern Asia and the Peopling of Japan
12/19
http://egweb.bcgsc.ca/journal_club/2004_2005/pdf/journal_club_050107.pdf
この結論において沖縄については
「琉球人は南シベリアのブリャートとの遺伝的距離が最短で、手短に言えば、
その次が南部中国人・・・シーケンス・マッチでは・・・琉球原住民はブリャートに
最も近く、その次には朝鮮半島人に近い。」
とされています。邪馬台国による狗奴国征伐で半島南部にいた好戦的な匈奴系
が辺境部に投入されたという可能性もあるかななんて思っています。
658白馬青牛:2005/11/02(水) 23:39:08
>>657
角杯は新羅的で、今のところ高句麗や出雲的でなく、直接北陸へという
ことも考えられますが、四隅突出墳や『古事記』の大国主命が高志
(越=北陸)の沼河比売(ぬなかはひめ)をよばひした話からも
出雲勢力の侵入も捨て難いのです。白山信仰については、満洲・朝鮮の
長白山(白頭山)の畏敬と関連し、色自体の白色を尊ぶのか。
それは、鳥垣は赤色を尊ぶ?トルコマン系のキジルバージュ(赤帽)も
赤色をシンボルとしておることから白・赤の民族的概念となるので、
複雑過ぎて、明確な答えは出ません。
沖縄はブリアートとの遺伝距離が最短。有難うございます。勉強に
なります。>394にも書きましたが、縄文人はブリアートや雲南の
影響もあり、沖縄がブリアートに近いというのは、細石刃文化人の影響を
色濃く残しておるということでしょう。
狗奴国が匈奴(おそらくトルコ系)系かは疑問です。
(ただし、瀬戸内水軍には突厥的と思える伝説あり。)
また水野祐氏の狗奴国の南ツングース族説(倭人も含む)もありますが、
辺境部となると人類学的に弥生的北方系の比率が少ないように思えます。
659がいやまん:2005/11/03(木) 10:01:17
>>658
「出雲勢力の侵入も捨て難い」・・・この辺がポイント。
縄文時代の日本にはその時代近隣東アジアにはない黒曜石(隠岐、八ヶ岳)、翡翠
(青海、八上?)がありました。
最近、かのヒッタイトに鉄が入ったのはシリア方面ではないかとされますが、その
ヒッタイトは黒曜石の産地であったそうです。これは大陸又は弁辰で鉄を生産する
際の採鉱過程から隠岐又は八ヶ岳の黒曜石が必要とされたのではないかと思いま
す。また、遼寧青銅器文化に対して岐阜県神岡(カミオカンデ)の鉛、これは富山湾
に注ぐ神通川の上流で、付近には滑川市がありますが、難彌離彌凍國(ハングル
出るかな?→??????、だめだった。ナミリミトゥコク滑御津国か)として弁辰のところ
(他に、越、摂津なども出ている)に出てきます。この鉛は青銅添加物として生産上
重要ですから日本が輸出していたのではないでしょうか。
(話し変わるが、韓中露英の翻訳ソフト、どれ一つ満足なものがないですね。)
660がいやまん:2005/11/03(木) 11:24:12
コスプレとは?
http://www.nozomi-kiyokawa.com/cos_howto.html
纒向には太陽崇拝指向の空前の前方後円墳箸墓が完成、全土の首長が
参集し建国の儀を行うこととなり、八千矛はコスプレにかこつけ、政治姿勢を
決定する。それは黒(北)→青(東)→茜(南)というものであった。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yatihoko.html
これを「日本神話と色彩」
http://homepage2.nifty.com/wayway/jiten-shikisai.html
によって説明すると、
(1)成立する倭連邦の北方の王にとどまる。
(2)天下を吉備と分け合い、東方大王として君臨する。
(3)中原の王者として君臨する。
八千矛はこうして纒向に向かい、世界で始めて鐙を使い箸墓の上で通過儀礼を
行ったようです。鐙は前方部の周濠から出土しています。
661がいやまん:2005/11/03(木) 11:38:43
神籬はモンゴル・バイカル東部でで発生、これは祖霊SURを収容する器KEREK
であり、KEREKSURと呼ばれます。他に祖霊を表すものとして鹿石、方形・矩形
で箱型石棺墓を含有する献納部などからなりますが、円墳はモンゴル西部の
イラン系の太陽崇拝思想、方形崇拝は東部ツングース系であったようです。
KEREKには「橋」、「祖霊を背に乗せて運搬する獣、馬、鹿」の意味があるようです。
箸墓古墳とはこれが始めて日本に入ったものでしょう。
662がいやまん:2005/11/03(木) 12:45:37
モンゴル・バイカル東部における円墳(イラン系太陽崇拝)と方墳の区別はそのまま
列島に入り、マダラ馬を生剥ぎにする葬礼を持ち、水田耕作のルールに適合できない
扶与系のスサノオは、箱型石棺墓文化を持って甕棺墓文化(金印)を破壊し、甕棺墓
文化と1000年の善隣友好関係にあった楽浪積石文化(ニニギ?)によって筑紫を追
われ、周防の浜から三次盆地経由出雲西部に入り四隅突出墳文化圏を形成したも
のと思われます。そしてこのとき甕棺文化圏の末裔と共に日向に降臨していたニニギ
を担ぎ上げたのが大和の豪族であり、その政治手腕によって大和朝廷の基盤である、
邪馬台国が誕生するのでしょう。
663がいやまん:2005/11/03(木) 12:52:51
天孫地祇はインドアーリア・スキタイのカースト制度そのもので、出雲を含む往古の
方形周溝墓、銅鐸(カグツチ)などは差別される仕組みであったのでしょうが、縄文以来
の古い風習が残る国ですから、徹底的な原理主義化をせずに全てがそのままにして
「和を持って貴しとする」国へと成長して行くのかなーと思います。
664がいやまん:2005/11/03(木) 14:55:17
>>658
>沖縄がブリアートに近いというのは、細石刃文化人の影響を
>色濃く残しておるということでしょう。

細石刃文化は、野尻湖マンモズハンターの時代でしょうか。沖縄にブリャートが
入るのはシーサ、太陽崇拝を伴う頃で、弥生末でないでしょうか。それ以前は
中国南部と同系の港川人の子孫が細々と生きていたのでしょう。
665がいやまん:2005/11/03(木) 16:39:52
円墳と方墳の対立に付き、ブリャート学会ではその起源をモンゴル高原西部
におけるイラン系と東部地方の天と地の文化の相違として次のように述べている。
「鹿石にせよ、太陽のしるし、象徴、入れ物である、ケレクスル神籬にせよ、大地の
象徴又はしるしである矩形又は方形を最大の特色とする箱型石棺墓とは基本的に
意味を異にしてるといえよう。従来の文化において埋葬場所ははあの世への旅立ち
とだけ関係するという場所ではなく、そこは再生の場所(大地のへそ)であり、毎年
儀式を行う場所でもあったため、(正月から始まって生活サイクルの一切の儀式、
つまり、共同体全員の誕生日、婚礼、共同体総出の葬式と法要などが含まれ)
それらの、方形、又は、矩形から箱型石棺墓を残した民族は大地崇拝を行い、
天の崇拝を行っていなかったことが想定される。この関係で「戎」は「野において
犠牲の献納を行った」ことが想起される。箱型石棺墓文化人の鹿石の再利用におい
てもこれに対応する関係があり、彼らは鹿石を頭部から地面に埋め立てているが、
これは先住民の鹿石の頭頂部に籠められた太陽/火の神聖破壊を意味しえる。」
666がいやまん:2005/11/03(木) 16:49:08
国譲り神話において、剣を逆さに立てて交渉する場面があるが、時代考証的に
その剣とは、この↓右下にある双竜式環頭柄頭ではないかと思う。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/A03/A034.htm
なぜかというと、大刀の柄頭(つかかしら)は、双竜式環頭柄頭の場合、2つの竜が身
をくねらせながら、環状柄頭を形づくっているとされるが、このモチーフと鹿石のトナカイ
とそっくりなのだ。つまり、この部分を埋めるぞ、汝らの墳墓をこの地より拭い去るぞ
という脅しであろう。
667がいやまん:2005/11/03(木) 17:29:00
復元された円形ヘレクスル神籬、これには鹿石もついている。平原、香椎、
天日宮等はこれから来たのか。↓
http://sae-spb.narod.ru/8-01/image066.jpg
鹿石は世界樹(神木)、柱(回向柱)等にも変化する。鹿石は鹿島神宮の
なまず石などもそうだ。
668がいやまん:2005/11/03(木) 17:34:35
楯築の中円双方墳は月が登り東に沈み神と出会い太陽を産むことらしい。
これはひげクルガンとしてカザフスタン辺りまでトルコ族とくっついていっている。
最近まであったようだ。円頂部に埋葬施設があり、近辺のクルガンは地下埋葬だから
ちと違う。
669がいやまん:2005/11/03(木) 17:49:46
大国魂とかいう、魂はブリャートモンゴルでは「スリダ」といってジンギスカンの御魂
という風に使う。そのシンボルが旗である。血で汚れたのがいいとか。いずれにせよ
出雲はブリャートくさい。それにひきかえこれ↓はインドアーリア系で、新羅にインド
から、嫁したのと同一の王族系でこれこそアマテラスの御神像ではなかろうか。
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-Higo.html
高天原は熊本県であったか。
670がいやまん:2005/11/03(木) 18:01:45
海神(わたつみ)の、豊旗雲(とよはたくも)に、入日(いりひ)さし、今夜(こよひ)の、月夜(つくよ)、さやけくありこそ
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/one/m0015.html
陛下、出雲ではこの色を血の色とか申しおりまする。まことに御心に程遠きものども
と存知奉り間する。しかし、文学的だなー。
671白馬青牛:2005/11/03(木) 23:44:05
>662の周防の浜から三次盆地経由出雲西部に入りとありますが、
宇部市の「大須賀遺跡」広島市の「佐久良遺跡」から人骨は縄文的特徴が
強く、日本海側の長門の土井ヶ浜や出雲の吉浦は弥生的であり、
弥生終末〜古墳期に広島県千代田町に四隅突出型墳墓の「歳ノ神遺跡」や
「氏神正田」5世紀に属する「中出勝負峠遺跡」で弥生型人骨の特徴が
出ております。弥生期の瀬戸内側は縄文系であり、古墳期においては
徐々に弥生型が多くなったとも考えられ、瀬戸内の弥生人化は古墳期と
遅かったと思えます。
沖縄にブリアートが弥生後期に流入したのであれば、形質の変化が伴うで
しょう。しかしその例を知りません。やはり古い時代に流入したと考える
方が自然であると思います。両地域は地理的にも遠く、本土日本人でも、
ブリアートと人類学的に遠い。ブリアート自体が北上したモンゴル人と
現地のサモエード系・ツングース系・古アジア系と様々な種族と混合して
おり、ブリアートは、シベリア混合型人種としたほうが良いと思います。
混合度が強いので、ブリアート型沖縄人も単一集団とは言い難いのです。
672日本@名無史さん:2005/11/04(金) 00:17:57
672
673がいやまん:2005/11/04(金) 08:38:35
>>671
>宇部市の「大須賀遺跡」・・・

確かにそうですね↓三次盆地起源再考迫る
http://www.web-sanin.co.jp/orig/news6/4-0115a.htm

とはいえ↓「四隅突出型墳丘墓一覧 (最終更新2004年1月)」
http://www.hist.shimane-u.ac.jp/kouko/List.htm
これを見ると三次盆地のウェートは気になります。一元的青木遺跡起源論よりは、
周防灘方面から入ったと見たほうが自然。首長等の先頭グループ、2次的グループ
とでも考えるべきか。

>やはり古い時代に流入したと考える方が自然であると思います。

いや、沖縄の古い時代はむしろ南方との結びつきが強かったのでは。「東アジアに
おけるミトコンドリア・ゲノム・バリエーションと日本の民族的成り立ち」
http://egweb.bcgsc.ca/journal_club/2004_2005/pdf/journal_club_050107.pdf
は、更に、沖縄につき「例えば、D5は南方地域で優勢。D4aはシベリア東北端チュクチ
に豊富だが、 D4a1は琉球人に最大頻度があり、単系統群D4nはアイヌにある。地理的
分布を見ると、 M7a1の最大頻度(14%) と多様性 (86%) は琉球人にあり、これは又中国
全体でも非常に共通度が強く、多様性中間値は約76%。が、奇妙なことは、これが朝鮮
半島人にもアイヌにも検知されないことと、日本本州人にまれなことである。同様に、
M7aの最大多様性は琉球人(83%)。フィリピン人ではこれら両グループはむしろ一般的
である。M7bは中国北部において多様性が最大であるが (75%?62%) この派生体M7b2
はこれまた琉球人 (100%)、朝鮮半島人(53%)本州日本人(45%)。B4aはB4と同様の分布
を示し、琉球人、雲南省ラフ人、台湾原住民において有力な分岐を持っている。14まで
の集合体において、アイヌと琉球人を含む日本人は朝鮮半島人、ブリャート人、チベ
ット人、北部中国人によって形成される大グループの一部であった。琉球人は本州日本
人と朝鮮半島人が同一グループを形成していた後に分離されたものである。」としてい
ます。つまり遅いんだと思います。
674がいやまん:2005/11/04(金) 08:56:52
記紀は極めて正確な史書。
カグツチ、 これは銅鐸禁忌、天日槍によって鏡作りに吸収される(伊勢遺跡・鏡神社)。
アマテラス、鏡、前方後円墳、変身した北部九州甕棺墓文化。
スサノオ、箱型石棺、四隅突出墳の僻地への封じ込め。
ツクヨミ、楯築(月支王ヒコハニ?)、戦士専門部族の僻地への追放。
邪馬台国を牛耳り、大和朝廷を作ったのはこうした文化を操った唐古鍵環濠集落
出身の豪族で、これが天皇の正体ではないでしょうか。これはヒミコ族ともいうか、
ウーマンパワーであったのかも。
675がいやまん:2005/11/04(金) 09:09:17
おっとっと。高木ムスビノ神、高木の神、これは、世界軸、世界樹であり、ジャックの豆
の木であり、日本と欧州を結ぶユーラシアの神であると思います。前原の遺跡の柱、
善光寺の回向柱もこれでしょう。欧州においてこれは森林の神から天の神に代わります。
676がいやまん:2005/11/04(金) 10:33:23
>>873
「本州日本人と朝鮮半島人が同一グループを形成していた」というのは、弥生時代、
朝鮮半島と本州にオルドス・遼寧方面の青銅器文化を伴う牧畜系諸民族が流入、
それが北九州では約1000年の甕棺文化を伴う弥生文化となった時代、半島と本州
の間のピープリングはほぼ均質化したことを意味するのでしょう。沖縄はその後と
いいますから、弥生末、古墳時代に入ってから辺境の地に追われたブリャート系が
入ったのかもしれません。ただ、串木野金山の近くに甑島があり、ナマハゲ風習
があるが、秋田にもあり、その一体は金の産地↓
http://www.nda.ac.jp/cc/users/tada/mine/fudoki/
佐渡にも春駒の風習があるが、金が出る。「クシ降る」がアイヌ古謡の「金の滴降る」
であるとしたら、「クシ」、「コシ」に「金」という意味があり、ブリャートはそれを求める
集団であったのかもしれません。ブリャートの地は有名な産金地帯ですし。
677日本@名無史さん:2005/11/04(金) 20:36:55
【古墳時代】製造途中の馬の鞍が出土、大王の牧場裏付けに?…讃良郡条里遺跡
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1131055898/
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20051104STXKE011803112005.html
[紙面続き]
 この一帯では馬の全身骨格や鐙(あぶみ)など馬に関連する遺物が多数出土しているが、
鞍が見つかったのは初めて。
 古墳時代の鞍は大阪府八尾市や堺市、奈良県香芝市などで出馬しているが、同遺跡の
鞍は製造技術が高く丁寧なつくり、大王の牧場があったことを裏付ける貴重な発見になりそうだ。
(略
 同遺跡では、馬に与える塩を作る製塩土器や馬の骨が多数出土。発掘した森本徹技師は
「ここで馬具を作り、たくさんの馬を飼育していた可能性が高い。全国でも最大規模の牧場
だったのではないか」と推測する。
678白馬青牛:2005/11/04(金) 23:28:08
>>673
ミトコンドリアDNAだけ見て判断し難いのです。しかも研究者に
よって結果が違う。母系を辿るのも大切ですが、形質も含め複合的要素が
ないと根拠となり得ないと思うております。1980年代松本秀雄氏の
Gm型遺伝子以来どうも近世に成立したブリアート集団に振り回されて
おるように思います。その点は埴原和郎氏も指摘されておられます。
松本氏がst遺伝子がブリアートよりオロチョンやツングースに多い
事実も、少数集団であると説明(言い訳?)されておられるように。
HLAでは、ブリアート説に否定的ですね。
記述もそれだけでは、時代、権力に融合した視点でもあり、
北方遊牧民の歴史も、文献からは、被害者、敵対者としての文明国側の
資料であり、それだけで判断すると一方的な解釈となります。
考古学的要素や更に全体像から解釈すべき問題であると思います。
679がいやまん:2005/11/05(土) 10:10:57
>>678
ブリャートという言葉をバイカル東部、興安嶺西麓といった地理的区域に実在する
考古学的遺跡をそれが機能していた時代に実在していた民族という意味で使用する
ことに問題があろうかと思われます。やはり、それは安易に使用されるべきではなく
厳密に論議する上では、このような定義が必要かと。そして、その実体は現代でいえ
ばオロチョン等ツングースけいであり、逆に、現在当該地域に居住するブリャート族
を遺伝子学的に日本人のルーツと結びつけるのは問題だと思います。それで、文献
とか古墳とかもそれでもって決め付ける力はないのは当然。しかし、記紀というのは
銅鐸後であり、刀剣が普及するという時代背景があり、その神話は現在ブリャート
地方で研究が進んでいる古代モンゴル地方の神話とか、古墳と非常に似たものです。
つまり、倭人伝はAD240-260年に絞り込んだものですが、記紀もちょうど神籬の登場
するその頃に始まる、非常に斬新な内容だと思われ、非常に興味深いものがあります。
680白馬青牛:2005/11/06(日) 04:21:49
>>679
記紀も考証でなく、文化比較論・神話として、また民族の心・魂を
投影したという意味であれば、その通りであると思います。
681がいやまん:2005/11/06(日) 08:15:06
>>680
記紀の神代はスキタイ・ツングース系神話体系で日本列島の「春秋戦国」時代を記述
したものだといえましょう。それはまさに恒霊の間倭国乱れる、暦年王なしの時代であり、
神話の対称性が乱れている部分が史実を反映していると見られます。スキタイ・ツング
ースの世界観では日本海は東方であったので、その方面に「地祇・ツングース・出雲」
を配置、その反対を西として前方後円墳の世界としたのでしょう。倭人伝の90度の方角
の狂いは倭国側の神話的国土配置説明にあったのかも。記紀は銅鐸については全く
触れていませんが、それは歴史が新しいからでしょう。出雲神話はアイヌと共通する
話も含んでいます。
682がいやまん:2005/11/06(日) 08:32:11
生まれながら母の産道を焼き、父に殺される、冶金の神、カグツチは憲法第9条
のような位置を占めていますので、これは銅鐸製造部族のことだと思われます。
魔術によって青銅の銅鐸を一貫生産すると莫大な自然破壊を伴いますので
稲作文化、環境に否定的影響を与え、これがヤマタノオロチからの農民開放
という新規到来文化の大義名分となったのでしょう。
683がいやまん:2005/11/06(日) 08:40:00
小泉政権における旧橋本派の閣僚のようなものが迦具土派でしょうか↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B0%E3%83%84%E3%83%81
タケミカヅチという命は新内閣でも大いに活躍されたようです。
684がいやまん:2005/11/06(日) 09:01:57
イラクのように初めての憲章のようなものができるのは滋賀県の野洲川に近い
伊勢遺跡の円形議事堂ではないかと思われます。キャラバンサライ/モーテル
つきの議事堂でしょうか。この地で新来の天日槍は地元の銅鐸製造部族を吸収、
一書によると大国主には国譲りの見返りにヨット、ヨットハーバー/マリーナ提供、
勝鬨橋の建設等を提案、最終的に受け入れられたようです。これは大国主の
大和進出のルートが若狭湾から琵琶湖北西岸に入り、琵琶湖を南下、和邇川
辺りから山城に入ったからでしょう。
纒向建設が合意されたのはこの伊勢遺跡の地であり、ヒミコの人選もここで
行われ、摂津溝杭家のイスケヨリ媛が選出された。陰謀の渦巻く合意であり、
神武の招聘もうまくは行かず、越、尾張、吉備、丹後の豪族が政権をたらい
まわしにし、謎の4世紀には実力者、河内が登場するって具合かな。
685白馬青牛:2005/11/08(火) 01:14:44
>>682
自然破壊についてですが、「満洲では原住民たちは野獣が生息する森林や
餌場に、注意深く気配りしていた。満洲に昔から住む原住民は、必要な
とき以外には決して樹木を伐採せず、また、森林を破壊して自分達の
暮らしに大きな損害を与える山火事を出さないよう気をつけてきた。
これに対し移住してきた中国人達は、主として森林を開墾して自分達の
耕地を拡大することだけしか考えなかった。
このような事情から、かつて北満洲の大部分を覆いつくしていた豪華な
密林はほとんど消失した。」とロシア人のニコライ・A・バイコフは、
『樹海に生きる』に書いております。
現在では、満洲の森林も潰滅危機にひんしております。これは、
農耕文明人の破壊性と云うべきものでしょう。
686サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/11/08(火) 10:48:48
極東シベリヤの原住民は火の始末に着いては無頓着で、焚き火をしたのち、火を消さずに移動することがあるとききました。
極東シベリヤ等で夏に頻発する山火事はこのような火の不始末によるものではないでしょうか。
687がいやまん:2005/11/08(火) 12:14:30
騎馬民族とは関係なくて恐縮であるが、北米インディアンに特有なY染色体マーカー1T
が、ベーリング海のチュクチ、オホーツク北岸のエベンで発見されているが、周辺の
諸民族には見られないため、これは北米からの逆移住ではないかとされている。
Y Chromosome Markers and Trans-Bering Strait Dispersals
http://www.familytreedna.com/pdf/Karafet_et_al.1997.pdf#search='YAP%20chromosome%20Japan'
北海道東岸のオホーツク文化についいぇは「網走市モヨロ貝塚では共同墓地も発見
され,北西に頭位を向けた屈葬が主体で,頭部被甕の例もある。これらの埋葬人
骨は,アイヌ系ではなくアレウト族に形質的に類似するとかつて考えられていたが,
最近ではアムール下流域のウリチ族に近いという説が出されている。」又、「この文化
を特徴づける遺物のひとつとして,骨・牙製の婦人像がある。それらはすこし前かがみ
で,手を前に組んだり,合掌したりしている姿をし,そのモティーフはモンゴル出土の
牙製婦人像や遠くセミレチエ地方の突厥(とつくつ)の女性石像に類似している。」との
こと。これは北海道東岸に北米系遺伝子を持つチュクチと共に、オホーツク北岸の
ツングースであるエベンが来ていたとも考えられる。
688がいやまん:2005/11/08(火) 12:35:22
騎馬民族の末裔である匈奴・月氏系が沖縄に到着した証拠は渡具知木綿原貝塚、
これは読谷村と嘉手納町を境する比謝川河口にあり、木綿原海岸の砂丘地に立地
する。匈奴系の箱式石棺墓が雄弁な証拠である。
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/okinawaiseki.html
これを裏付けるのが、本土と同様で、かつ、スキタイ構造をそのまま残す沖縄古代史
であるが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E7.A5.9E.E8.A9.B1
これを見ると、神代、神武、応神までは本土と同じであり、その後も平安時代までは
似たようなものである。沖縄の神話は本来のものに近いと思われるんで、それから
逸脱している本土の記紀の大きな相違点を挙げると、
(1)国王のところにアマテラスを置いたこと。
(2)2女王をアマテラス1柱としてしまい、後代でトヨウケを入れて修正して復元して
いる。
すなわち、ヒミコ共立に当っての混乱が輸入憲法草案を大きく修正し、銅鐸問題
にたいする第九条にもにたカグツチとか、外国戦士であるツクヨミの僻地追放など
骨抜きにしたしまったのであろう。スサノオもしかりであり、国譲りで支配下に置かれ
ていったのだろう。
(4)
689がいやまん:2005/11/08(火) 19:15:56
>>687
http://www.familytreedna.com/pdf/Karafet_et_al.1997.pdf#search=
第4図右下(左上に拡大図があるが)には左から[北欧、モンゴル、南亜、その右は
エベンキ、シベリア、大洋州]の群、そしてこれらの群からアフリカ方向に向って
南欧、その先に[エジプト、日本、チベット]のトリオ。弥生とはシベリアの到来で
あろうが、エジプト、チベット、日本も弥生時代なんだろうか。例えば
The Genetic Origins of the Japanese
http://www.applet-magic.com/japanorigin.htm
のように、チベットの北方、例えば、カラスクの前のオークニェボ時代のアルタイ
から一元的に拡散し、例えばヒクソスなどに入ってエジプトに、月氏に入って
馬韓経由日本にということなんだろうか。
690白馬青牛:2005/11/09(水) 00:39:00
>>686
誰から聞いたんですか?そして近代以前からシベリアは森林が減少して
おったといえるんですか?もし、違うたら、シベリア原住民の方々に対し
失礼なことになろうと思います。こういう発言はあなた自身で、よく
調べて書くことではないでしょうか。
>>688
>671の広島市安佐北区白木町の『佐久良遺跡』も箱式石棺墓ですが、
人骨は縄文型です。むしろ北部九州の甕棺墓の人骨は弥生型でしょう。
691サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/11/09(水) 07:42:11
もうかなりまえに記事を読んだので、どの新聞か書籍かはおぼえていませんが、
その結果よく山火事になるとおもっていました。
692がいやまん:2005/11/09(水) 08:14:48
>>890
縄文人が箱式石棺墓を取り入れたんですね。四隅突出型古墳もその可能性がある。
何世紀も前の方形周溝墓もしかりでしょう。つまり玄界灘沿岸部などを除いては国内
で葬送儀式、埋葬様式が伝わったということがありえるということになりますね。
693がいやまん:2005/11/09(水) 10:23:01
>>689
TABLE 1. DSY199 and DYS287 combination haplotype
frequencies (%)
Population Haplotype  N 1C 3C 4C 5C

Altai              31 96.8 3.2
Taiwanese 43 97.7 2.3
Mongolians 195 97.4 2.6
Tibetans 30 46.7 53.3
Japanese 116 52.6 47.4
Egyptians 37 51.4 2.7 37.8 8.1
Gambians 48 14.6 16.7 12.5 56.3
Bantus 48 35.4 12.5 2.1 50.0
こうして整理すると日本人は
(1)N に関してはモンゴルに近く、
(2)1Cに関してはチベットに極めて近く、
エジプト人は全般にアフリカに近いのに、3Cはアルタイ、中国に近い。
結論的仮説:
日本に侵入したのはチベットに侵入したモンゴル系と非常に似たもの。
&/or2波に分かれたのかもしれない。吉野ヶ里時代と纒向時代。
エジプトに侵入したのは中国に侵入したアルタイ・モンゴル系と似たもので
可能性としては膠着語を話したとされるヒクソスのフルリ人がそれではないか。
694がいやまん:2005/11/09(水) 12:32:05
エジプトに侵入したフルリ人はピラミッド、スフィンクス、地中海、ナイル川、黒海等を
「”西海の南、流砂のほとりに、赤水を前にし黒水を後にした大山崑崙の丘がある”とされている。海内西経では”崑崙の城に九井九門があり、開明獣がその門を守り、人面虎身、東に嚮(む)かって崑崙上に立ち、鸞鳳(らんほう)などがその盾の上にいる”」
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/konron.html
と述べ、これをチベットのカイラス山に発見し、
http://www.d6.dion.ne.jp/~s.yosida/Photo/kailashN.html
http://www.d6.dion.ne.jp/~s.yosida/kailash.html
その後、月氏、匈奴の群に入り、馬韓月支国経由日本に入り、
日本のピラミッド 葦獄山(あしたけやま)
http://www.ourmystic.net/pyramid/ashitake/0001.html
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=34.51.47.711&el=133.5.46.111&la=1&fi=1&skey=%c2%e7%b9%f5%cc%dc%bb%b3&sc=8
クロマンタ(黒又山)関連事項最新情報
http://www02.so-net.ne.jp/~masakats/kuromanta.html/
その他近畿にも同様の風景を発見、崇拝の巨石遺跡を残しているが
前にも紹介したとおり、各地に天日宮、田和山、熊野のようなピラミッド、古墳の原型
を残す。
695がいやまん:2005/11/09(水) 13:07:10
チベットに入ったものは密教・タントリズムを作り、
Tibetan Origin of Tantrism
http://www.dalitstan.org/journal/buddhism/bud000/tib_tant.html
これはやがてインドでヒンズー教、仏教となり、Uターン。
日本に向ったのは豊前の伝承にある天竺から投げられた5本の霊剣、
神武の言うニギハヤヒ等のいくつかの天孫(沖縄とか、秋田、山形、
丹後などにも入ったのだろう)となるのであろう。ヒマラヤ・雲南省等の
少数民族やタミール語と関係を持ってくるのかもしれない。剣山、伊勢神宮と
ユダヤ人も案外何らかの根拠があるのかもしれない。
696がいやまん:2005/11/09(水) 13:37:55
月支族が英彦山、熊野、月山に原始チベット密教(オークニェボ文化からの
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_02_16.GIF )原始修験道を伝えた
可能性もある。神武の熊野遠征もこの伝道活動の一環であったのかも。
697日本@名無史さん:2005/11/09(水) 18:17:56
697
698白馬青牛:2005/11/09(水) 22:43:05
>>692
四隅突出墳は>671で書いたよう弥生型が多いと思います。
>>693
フルリ・カッシュ等の膠着語はアジアニック系ですね。
アジアニック系語族が消えた後、同じ膠着語のトルコ系が西アジアの
主役となり、面白い現象です。
699がいやまん:2005/11/10(木) 12:59:48
>>698
四隅突出型墳は弥生後期でしょうが、この頃になっても生活様式、形質的に
縄文が混在しているというのが本州の実体でしょう。
膠着語は侵入遊牧民本来の言語ですが、国際語としてはインド・アーリア等の
印欧語もバイリンギュアル的に使用されていたのかも。
700がいやまん:2005/11/10(木) 15:12:46
ヒクソス時代のピラミッド、カイラス山を遍歴して日本に到来した天竺・天孫族
は臨海地区に崑崙丘を築く。
「『爾雅』の釋丘篇には、”丘の一成(段)を敦丘と為し、再(ニ)成を陶丘と為し、
再成の上の鋭きを融丘と為し、三成を崑崙丘と為す”とある。」
http://www.pandaemonium.net/rdb/menu/file/2427.html
熊山遺跡。ここにあった皮の経典は世界を震撼させる内容であったことと思う。 
http://www.ncn-t.net/kunistok/P2110015.jpg
http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/kumayama.html
日野宮(ひのみや)神社
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~raifuku/special/wolf/map/area/chubu/shrine/hinomiya/hinomiya.htm
田和山遺跡
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/tawayama.htm
天日宮
http://www.kyowa.ne.jp/kyowa/txt/a02.htm
更に進んでは内陸部に広大な聖域を作る。
葦獄山(あしたけやま) これが四隅突出墳文化圏の破傷の地ではないか。
http://www.ourmystic.net/pyramid/ashitake/0001.html
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=34.51.47.711&el=133.5.46.111&la=1&fi=1&skey=%c2%e7%b9%f5%cc%dc%bb%b3&sc=8
皇大神宮(元伊勢内宮)。これは纒向に先行する狗奴国ではないか。
http://www.dance.ne.jp/~sirahase/taste/taste_2001/2001portrait/2001_ooe_town/ooe_motoise_large_portrait01.html
http://www.saturn.dti.ne.jp/~hige/omamori/5motoisen.htm
クロマンタ(黒又山)
http://www02.so-net.ne.jp/~masakats/kuromanta.html/
月山。はるかに崑崙山が見えるではないか。
http://www.bashouan.com/pzPhoto12.htm
官幣大社月山神社。
http://www.bashouan.com/psBashouNs23B24_2_2c.htm
701がいやまん:2005/11/10(木) 16:40:01
「伝説によると、まだ日本に仏教が伝来しない時代、人皇10代崇神天皇(一説では
西暦紀元元年の弥生時代中期)の御代、すでに日子山権現(権現とは仏の仮の
姿)の霊神が、天竺から東に向って五つの霊剣を投げだといわれるが、」
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html
大月氏国の五翕候〔土着トハラ人豪族〕のうち貴霜(クシャン)翕候が強大化、
他の翕候を従えて大月氏の支配をくつがえし、クシャーナ朝を建てれいる。
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/bactoria.html
702がいやまん:2005/11/10(木) 16:40:27
クシャン王朝のインドから駕洛(カラク)
首露王妃がくるが、その姓は「許」。
http://enkan.fc2web.com/kantan/kr/kr_07.html
「宇佐の比売大神のことは、風土記逸文に「豊前国宇佐の郡。菱形山。広幡八幡の
大神。郡家の東、馬城の峰の頂に坐す」とある。紀の宇佐島と風土記の馬城峰とは
同じ山、現在宇佐神宮の奥ノ院である御許(おもと)山(大元山−630メートル)の
ことで、このお山に天降ったと伝承している。御許山を御神体としているが、それは
この山頂に三つの巨石があり、巨石を磐境としてはじめて影向され、ここに巨石
崇拝の原始信仰が生れ、宇佐の祖神となった。「宇佐に参るなら御許に参れ、
御許もと宮もと社……」このような俗謡がいまに伝えられているが、宇佐神宮の
元宮である御許山の山頂こそ、本当の祖神は坐すのである、祖神の坐すところに
参拝することこそ、祖神に対する儀礼だ、ということをこの俗謡は伝えている。つまり、
その山頂の巨石を比売神の顕現としたようであるが、この比売大神は、さきの「原始
八幡神創祀遺跡(学説)」でみた「辛島・長光・赤染等が斎き祀っていた」「辛国息長
大姫大目命、豊比口羊」と同じものにほかならなかった。これは田川郡香春町の
香春神社などに祭られた祭神で、それがさらにだんだんと、「豊国の王」ということ
であった豊日別(とよひわけ)がのちにその祭神となった京都郡(行橋市)の草場
八幡宮などをのこしながら、築城(上)郡綾幡郷の矢幡宮へと南下したものだっ
たのである。もちろん比売神の南下とは、香春岳の産銅などで大をなした秦氏族
からの出である辛島氏らの発展・南下ということである・・・。」
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html
この御許山の「許」はインドの許族のものだろう。
このHPの下の方にアマテラスと思しき御神像あり。
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-Higo.html
この顔はインド北部でよく見る顔だ。
神の眼はあなたを見ている。
http://kumamoto.cool.ne.jp/tatiyan/miikegaidou.gyokutou/inasa/inasaha3.JPG
703がいやまん:2005/11/10(木) 16:46:20
唐古・鍵の豪族を締め付けるような列島全体からの天竺天孫の圧力。これに対し
摂津溝杭家のイスケヨリヒメをヒミコとして共立、狗奴国を敵に増さして権謀術数
の果てに大和朝廷を作った政治手腕は見事である。後の世の家康のような人物
がいたのかもしれない。
704がいやまん:2005/11/10(木) 18:14:38
当時の国際政治学では中国、大月氏天竺、東夷という三極があり、三つ巴となって
いた。中国国内はそれ自体で三国志の三つ巴という非常に不安定な国際情勢であ
ったともいえよう。新羅に拠点をおいた天竺天孫族には日本を制覇して中国を締め
付けようとする陰謀があり、蜀、呉と結託しながら、東夷と政略結婚をしたのかもしれ
ない。インドの東半分はまだ大月氏によって征圧されておらず、インド中部アヨダヤ
から四川省に出るにはチベット経由となったのかもしれない。
705がいやまん:2005/11/10(木) 18:18:11
ヒミコが魏の使いに顔を見せないのは彼女がインド・アーリア人であり、顔を見られる
と大月氏の陰謀が露見するということがあったんかな(w
706がいやまん:2005/11/10(木) 18:30:09
http://www.nebuta.or.jp/pages/2005/ezu/005.htm
このお方「田村麻呂の容貌が「蒼鷹の眼の色をして金色の髭をたくわえる」
すなわちブラウンの眼にブロンドの髪「古代史を彩った人々」」・・・日本人
人使い荒いある。ジーコの気持ちわかるね。なんていっているのかも。
707シバザクラ:2005/11/10(木) 18:42:21
魏の使いに顔を見せなかったのは、病気でしにかかっていたからですよ。
708がいやまん:2005/11/10(木) 18:44:36
死んじゃったんですよ。
ん、ジャー、もう鏡の用はないね。再見。で終わりになる可能性もあったかも。
709シバザクラ:2005/11/10(木) 19:03:21
鏡は彼女の墓に副葬したかもしれません。だとしたらすごい量です。
問題はまだ残っているかです。殉死した人達の遺骨は戦国時代以前に発見されていますが。
710がいやまん:2005/11/11(金) 07:15:20
そんなに大きな墓ってないですよね。偉い人、椿井大塚山、黒塚等で分配後、
偉い人が各地と分け合うパターンのようですね。多分各地天皇陵に分散され
ているんでしょう。大仏以前に破壊されたものは大仏に改鋳されたか見知れないし。
巡視の遺骨、詳しく教えてください。
711シバザクラ:2005/11/11(金) 07:23:52
魏志倭人伝に歩(日本風なら2歩分、訳140cm)百余歩の墓とあります。
あまりに大きいのでその上に他人の前方後円墳があります。
桜ケ岡の旧名は娑婆岡といい、天正時代の書に人骨が発見されたのでその名が着いたとあります>
人骨の量はかかれていませんが、大量でなければ娑婆などという名はつかなかったでしょう。
712がいやまん:2005/11/11(金) 14:08:31
地元の教育委員会とかが科学的研究を行っているかどうかですね。
713がいやまん:2005/11/11(金) 16:35:12
日本には月支国王ヒコハニが来襲したと出雲日御碕神社は伝えるが、田和山遺跡
等は崑崙丘、土佐・大月町の月山神社は事代主、戎さんである。そうすると狗奴国
というのは案外犬戎国という意味かもしれない。コマイヌが全国に普及するのは
トルコ・コマン族の先祖の影響と考えていたんだが、さらにそれは犬戎、そして、西蔵
とも関係するのかもしれない。(月山神社は住吉の神も祭る。)
又、「人面虎身、東に嚮(む)かって」とは正確にスフィンクスの方位を描いている。
戎が往古ヒクソスに加わりエジプトに侵入した実績があったも不思議ではない。
714がいやまん:2005/11/12(土) 18:26:10
チベットは日本と同様に西戎、テイの影響を受け、それは四川省方面にと伝えられた
ようだ。これは日本はこういう姿になっていたかもしれないことを意味するのでは↓
http://www.fgo.jp/~dong/051chapter051.pdf
715がいやまん:2005/11/13(日) 07:59:00
>>714
「崑崙という言葉の中には石を高く積み上げるという語義が含まれているといわれ、
崑崙山は別名積し石山せきさんともいわた。後漢の劉りゅう煕きの「釈名」釈丘にも
「三成を崑崙丘と曰う。崑崙の高くして積み重なれるが如きなり。」とあり、崑崙という
言葉は重層という意味合いと深く関わっていることがわかる。そこから崑崙山は石の
塁堆によって成る聖山として構想されていたことをうかがい知ることができる。 それ
では崑崙山=積石山を支配する女神・西王母を崇拝する古代中国の思想潮流は
トン族の女神・薩歳とどのように関わってくるのか。それを解く鍵は鼓楼の古名に
潜んでいる。鼓楼の古名はトン語音で「百(bai)=バイ」と呼ばれ、その意味は
「塁堆物」であった。つまり、鼓楼という建築物の始源の姿は石を積み上げた
塁堆物であったのだ。「百(バイ)」には百越の崇拝物という含意もあるとされる。
この説に立つと既に百越には石積みの土塁を神聖視する風習があったことをおもわ
せて興味深い。 ■鼓楼・薩堂同根説 「百(バイ)」という古式の薩堂の具体的な形状
は、今日でも目にすることができる薩堂の一形態とピッタリと一致する。トン族の民族
研究者たちは鼓楼と薩堂とは無関係なものとして一顧だにしないが不可解である。
むしろ私はこれらの間には切っても切れない深い関係が介在するものとみる。仮に
鼓楼と薩堂とが同根だとするとここに次のような等式が成立することになる。
「西王母と崑崙山」=「薩歳と鼓楼」 =「薩歳と薩堂」 だとすると鼓楼と薩堂はともに
崑崙山と深い関わりを有していなければならないことになる。この点に関して、まず
薩堂の形状から考察を加えよう。 薩堂の原型とされる形状は写真に示すように丸
石を積層させて直径2m、高さ1.5m程度の円錐台状の基壇を形成する。壇上中央部
に半開状態の紙傘を立て、その両脇に通年常緑の黄楊や桂花樹、松柏樹および
千年矮等の小木が植えられる。」
716がいやまん:2005/11/13(日) 07:59:44
「さらに傘の周囲にこれらを保護するように24方位に木片を挿す。薩堂とはずいぶん
奇怪な形状をした造形物である。壇上に立てられる傘は必ず半開状態でなければ
ならない。薩堂の傘はなぜ半開状態でなければならないのか、謎めいている。だが
このような不可思議も崑崙山モデルとして考えてみると、その意図するところが次第
に明らかになってくる。」
積石→ピラミッド→崑崙丘→古墳
笠→笠作り→葬儀
百越→百済、これは多数の「越(コシ)の民」
満州・敦化→敦賀→角鹿→柘植→柘植
日本人はトン族と同族で、ピラミッド、長城建設の職人の子孫か。古墳時代とは
石垣、石段、狛犬の時代なのか。それにしてもインカ・アステカのピラミッド石造り
も同じYAP、そして彼らの一部が平安時代まで北海道に住んでいたとは何たる
皮肉な運命か。
717がいやまん:2005/11/13(日) 08:06:18
彼らは日本上陸の時から笠沙の岬を探していた。糸島、鹿児島笠沙、そしてそれは
天橋立のような陸繋島の探索へとつながり、江ノ島のように其処に姫を置く。韓国の
珍島、勅島は有名な韓国の干満の名所だが、其処にも老婆伝承がある。沖ノ島
にもカリスマ的な女性シャーマンが設置され戦勝を祈願し、神功 皇后伝承となった
のかも知れない。
718がいやまん:2005/11/13(日) 08:11:01
>>716 >>717
笠沙のサが、笠さしてのサと同じであれば、半開きということになり、笠をさすという
日本語慣用句の起源に迫れるが。
719がいやまん:2005/11/13(日) 08:23:11
「そこから崑崙山は石の
塁堆によって成る聖山として構想されていたことをうかがい知ることができる。 それ
では崑崙山=積石山を支配する女神・西王母を崇拝する古代中国の思想潮流は
トン族の女神・薩歳とどのように関わってくるのか。それを解く鍵は鼓楼の古名に
潜んでいる。鼓楼の古名はトン語音で「百(bai)=バイ」と呼ばれ、その意味は
「塁堆物」であった。つまり、鼓楼という建築物の始源の姿は石を積み上げた
塁堆物であったのだ。「百(バイ)」には百越の崇拝物という含意もあるとされる。
この説に立つと既に百越には石積みの土塁を神聖視する風習があったことをおもわ
せて興味深い。」
モモソヒメはももしきのという枕詞と関係があると思ってきたのだがやはり、関係ある
たしい。トトビモモソというのは飛ぶ鳥の形状、前方後円型、をしたモモソ、つまり、
「石を積み上げた 塁堆物」という意味で、空前の前方後円墳被葬者を表したのでは
なかろうか。
720がいやまん:2005/11/13(日) 08:31:34
モモソヒメはホトを刺して死んだとされるが、ホトというのはモンゴル語では城である。
この場合は国家の象徴である古墳に埋葬されたという解釈がふさわしい気がする。
721がいやまん:2005/11/13(日) 09:46:14
ホトは、この場合、纒向・弓月ガ嶽山頂の兵主神社の祠のようなもの、そして、
女王はそれを指して葬られた、つまり、鳥形の墳墓に埋葬されたのだろう。
フツヌシ、フツノミタマ等も兵主のような武器、刀剣との関連で考えるべきかも
知れない。つまり、フツヌシは兵器の神、フツノミタマは草薙の剣同様の兵器の
神器ということではなかろうか。
鳥形は王に関して言えば神武の鳶、飛鳥、熊野の飛鳥神社などから始祖をシンボ
ライズするようだ。倭人伝のいう初めての男王/神武から国乱れること70年目に、
又初めて女王が立った/共立されたのだろうか。
722がいやまん:2005/11/13(日) 09:53:50
箸墓古墳の前柄のこれに匹敵するような古墳といえば楯築遺跡しかない。
箸墓の70年も前に大和に大国のあった形跡はない。
723がいやまん:2005/11/13(日) 10:19:52
愛子天皇の御宇に宇宙不死鳥大和は浮揚飛翔するのであろうか。アラスカの
永久凍土の解氷が始まり、開放されたメタンガスが温暖化を加速さすと今朝の
テレビは報じていた。
724がいやまん:2005/11/13(日) 10:37:44
>>700
「『爾雅』の釋丘篇には、”丘の一成(段)を敦丘と為し、再(ニ)成を陶丘と為し、
再成の上の鋭きを融丘と為し、三成を崑崙丘と為す”とある。」
http://www.pandaemonium.net/rdb/menu/file/2427.html
>>716
これから→満州・敦化→敦賀→角鹿→柘植→柘植
つまり、崑崙丘の所在地ということ。融丘は夕月、融通王などと関係あるかも。
沖津、中津、辺津磐座、オキナカとは天上地上に君臨するという意味だろう。
725がいやまん:2005/11/13(日) 12:02:55
半開きの笠だけど↓
http://www.fgo.jp/~dong/051chapter051.pdf
これの3頁右下色刷りのジャイナコスモスと描かれた図と次の4頁右上の唐傘2本の
内側の形にご注意。ホーキングの宇宙モデルはビッグバンからビッグクランチに移る
ミンコフスキー空間の紡錘形だが、古代人はそれを巡廻する宇宙と永遠に拡大する
宇宙の統合と考えたのであろうか。色即是空、空即是色と似ている。(これにはアイン
シュタインの相対性理論が必要だが、古代インド人はリーマン空間を具象化する計算
力があったとされる。)
726がいやまん:2005/11/13(日) 12:04:19
「崑崙の紡錘 半開なる傘 薩堂の傘はなぜ半開でなければならないのか。この謎は
長い間の試行錯誤にもかかわらず、簡単な実験で決着した。崑崙山は史書で知る
限り人間が登ることを許さない神山である。何者も寄せ付けない禁断の山容はこの
世にあり得ない形状で、それ故にこの山に至るには龍に頼るほか術がないとされて
いる。このような不可能の形態は麓から上部に向かって広がる紡錘形にある。
崑崙山の形態は瓢箪に例えられているように二つの紡錘形が垂直に連なったもの
と考えられていた。古代インドでも崑崙山は図に示すように二つの円錐が頂点を接し
て屹立する異形の空間モデルとされていた。 この空間モデルを薩堂に投影してみる
と半開の傘の意味が解けてくる。すなわち傘を半開状態にしたとき、傘の骨組み構造
に注目すると内側に紡錘形の形状を形成することに気付く。薩堂の基壇の円錐台と
傘の紡錘形が合体して構成する形状は何を連想させるであろうか。紛れもなく瓢箪
ないし古代インドの崑崙山モデルと重なって見えるであろう。」
727がいやまん:2005/11/13(日) 12:08:46
これは乗りすぎにせよ、紡錘形、糸巻き、カセ等に霊力を見たというのはシルクロード、
不思議な糸への憧れの姿であったのであろうか。
728がいやまん:2005/11/13(日) 12:27:03
飛んでもな話で恐縮だが、九州のトンカラリン遺跡とエジプトのピラミッド内部の
飛龍の間というか、暗黒空間に日の隈の思想を感じる。これは長野の善光寺の
本堂下にも生きている。
729がいやまん:2005/11/13(日) 13:14:59
http://www.fgo.jp/~dong/051chapter051.pdf
「さらに『玄中記』の一説に黒歯国の北に温泉が湧く渓谷があり、太陽が休むために
扶桑の木があるという。昔、太陽の数が十個あった頃、太陽は皆この扶桑の木の枝
につかまって休んでいた。この扶桑の木は太陽が昇り降りするだけあって、この世で
最も巨大で天まで伸びていたという。根は黄泉の国、つまり死後の世界まで通じてい
た。扶桑とは一つの根から二つの幹が扶(たす)け合って生きていて陰陽を表し、葉
が桑に似ているところからそう呼ばれるようになった。この木には九千年に一度桑の
実がなるといわれ、仙人はこの実を食して自由に空を飛ぶことができたという。」
秋田には大きな蕗があったり、温泉があるので、出羽三山の羽黒が黒歯国の栄を
頂戴したのかも。道理で羽黒のほら貝は有名。
730がいやまん:2005/11/13(日) 13:22:47
ところで日本の神籬は↓
http://www.h3.dion.ne.jp/~tsutaya/newpage28.htm
降りてくるだけで神様のかえる道がない。ジャックと豆の木はアチャラでは
へっちゃらだが、
http://www.fgo.jp/~dong/051chapter051.pdf
に世界樹とセットで出ているような傘がなくては困る。この点トン族のほうが本場に
近かったのであろう。諸室山から蛇のとぐろ思わせる三輪山に名称が変わった頃
神の帰還についての何らかの神話が入ってきたのではないか。

731白馬青牛:2005/11/14(月) 03:18:03
トン族は、百越の一支族で、昔は江蘇省一帯に住んでおったようですが、
現在は、湖南・貴州・広西省境に住んでおります。
雨量の多い高温多湿な山間河谷に住み、山水画の様な風景は、
広漠とした北方乾燥地帯よりも、我々日本人には親しみを感じさせる
文化地域ですね。
732がいやまん:2005/11/14(月) 07:29:14
チベット族につき「[歴史] 王朝を形成したピヤ(不夜)部族は,カイラーサ北部に
拠ったトン部族に属し,4世紀ころ以後に東遷してカム地方を支配した後,西に
移り,6世紀後半にチベット中央を掌握した。漢文史料で知られる〈羌(きよう)〉と
は必ずしも一致しない。」・・・トン部族に属する説があります。
733がいやまん:2005/11/14(月) 07:33:28
トン族については「中国,貴州省南東部,湖南省,広西トン族自治区に分布する
少数民族。自称カム。・・・元来は古代百越の支族で,両粤(りようえつ)(広東,広西)
沿岸地帯より現在の貴州,湖南,広西の交界地帯に定着したといわれる。・・・ 信仰は
基本的にはアニミズム信仰である。生死,疾病などの際,巫師が悪鬼祓いをする。
醍丙(達魔娘娘)と称する聖母(先祖母)を至高神とし,各村寨に聖母祀,社壇をまつる。
妓にはその他,各村寨でまつる郎家妓(男家)と数ヵ村に1ヵ所まつる外家妓(外婆家)
とがある。兄妹婚姻譚による洪水説話,創世神話を有する。農暦11月14日をトン暦
新年とし,正月行事のほか宗族単位の祝日ともなっている。3月初3日は花炮節
(広西三江地区),4月初8日,6月初6日は祭牛神をまつり,7月の喫新節は予祝
行事として新米飯で祝う。また,2月あるいは8月の亥日は闘牛節。死者は木棺土
葬で,口中に砕銀または〈おこわ〉を入れる。凶死した場合,3年後に改葬する葬俗
をもつ。」
734がいやまん:2005/11/14(月) 07:37:41
カムというのがこの2つを繋ぎますが、関係はどうでしょうか?
735白馬青牛:2005/11/15(火) 00:24:23
>>734
チベットの西康(カム)地方は、四川省西部まで含んでおります。
漢人は四川省山地のチベット人を西蕃や蛮子と呼び、中央チベットの
烏斯蔵と区別しました。党項(タングート)羌の西夏も四川省から
起こり、現在の羌族も四川省住んでおります。西田龍雄氏によると
中央チベットの蔵族と四川西部〜雲南までのチベット・ビルマ系の
氐・羌族とは多少違うようです。

カムパとタイ語系のトン族の自称カムと両者の関係は言語的・民族的には
遠いと思いますが、雲南では、チベット・ビルマ系やモン・クメール系と
タイ系は関わりが深く、貴州・湖南・広西のタイ系は、ミャオ・ヤオ語系
との関わりが深いとはいえそうです。
736がいやまん:2005/11/15(火) 11:59:00
>>735 白馬青牛さん

こんなのがありました↓
四川省のチベット系民族
「数千年前、故地を追われた北方の古代民族「羌」は、
峡谷に沿った険しい「道」を南下して新たな土地に定住していった。現在、これら
の大河流域には岷江流域に約20万人のチャン族が、大渡河流域に約10万人
のギャロン・チベット族、雅壟江流域にミニヤック、アールゴン、ナムイなどの
 彼らは古代民族「羌」の末裔と目される集団である。」
http://www.tigerpalace.com/tour_yn.htm
737がいやまん:2005/11/15(火) 12:08:53
しかし、「白馬チベット族は、平武県白馬郷の山神「エシナモ」を最高神として
崇める。春節や旧暦4月の山神祭りでは「ペモ」(宗教職能者)が経文を唱え、
ヤギを犠牲にして五穀豊穣や駆邪を祈る。歴史的には北のチベット族と南の
漢族の双方から侵略されたために自民族意識が極めて強い。彼らは1950年
代の民族識別でチベット族とされたが古代「テイ羌」の「テイ」の末裔であること
を強く主張している。いわゆるチベット族とは異なる文化をもつ集団である。
自然界の諸事象を多神的にとらえる固有の信仰をもち、言語はチベット・ビルマ
語系のチベット語群とチャン語群の中間的な要素をもつ。乳製品を利用する
習慣もない。言語や風俗習慣においては、むしろチャン族に近い。」
。羌ではないようで、こりゃーテイですね。つまり、羌とテイの2民族があった。
ところで韓国に羌という苗字が多いですね。
738がいやまん:2005/11/15(火) 18:45:58
参考ですが、
http://www.findthelinks.com/history/Huns_Turks/origin_of_huns.htm
司馬遷によれば、後の楚国があった、揚子江中流にもともと住んでいた三苗族
の大部分は西方蛮族の守りのために中国西部に移住させられた。契(2366-2358
BC)より帝位を得た舜は三苗族が(堯帝(2357-2258 BC)の子)丹朱の反乱に
加担したことの処罰として中国西部に移転させた。
http://www.findthelinks.com/history/Huns_Turks/origin_of_huns.htm
司馬遷によれば、後の楚国があった、揚子江中流にもともと住んでいた三苗族
の大部分は西方蛮族の守りのために中国西部に移住させられた。契(2366-2358
BC)より帝位を得た舜は三苗族が(堯帝(2357-2258 BC)の子)丹朱の反乱に
加担したことの処罰として中国西部に移転させた。
中国史書によれば西部の戎族は西戎、犬戎、狄戎の三族である。
山海経によれば戎族である犬夷又は犬戎は黄帝の子孫であり、黄帝が苗龍
を生み、苗龍が農明を生み、農明は白犬を生み、これが犬戎の祖であった。
三群は全て同系の族であり史記のいう夏王朝最後の皇帝桀と関係付けられ、
商王朝の子孫とも関係付けられる。詳しくは商の末裔穆王の説話の通りである。
秦の祖は西戎八族を吸収、秦も周が周都から犬戎を追放する上で功があった。
戎狄は中原に移住、晋とその後継三国はこれと極めて緊密な関係を持っている。
戎狄の戎は周王国内で相互に婚姻し、後には赤狄と白狄にわかれたが、
それについては下記に記す。・・・」等とあります。
739がいやまん:2005/11/15(火) 19:02:41
そうとすれば、秦の吸収した八族はイラン・スキタイ等の太陽、星辰崇拝等の文化、
風習を持っていたとも考えられ、これが漢四郡の時代に朝鮮半島に入り、犬戎と共に
三韓、日本に入ってくるのかもしれません。
740白馬青牛:2005/11/16(水) 00:15:43
>>735
ミ・ニャク族は、西夏王国支配者の末裔でしょうね。
羌(チャン)族は、中国戦国期に秦が四川省の岷江の都江堰という
水利施設を作ってから現代に至る二千年間、毎年冬から春にかけて、
都江堰の修理工事に活躍し、また冬に山を降りて、山の産物の薬草や
麝香を漢人に売り、春になって山へ帰る時は日用品を買って帰る。
羌族は、堤防工事と井戸掘り技術に巧みで、成都平野の井戸の大半は、
羌族の職人が掘ったものらしいのです。
これ等は、日本の山と里の交流と似ておると思います。
草原の遊牧民と違い、五胡時代に活躍した羌、氐や高句麗等、
山地農牧・農猟民は防御施設を持っており、それには土木・水利技術が
必要であったのではないか。と考えております。
741日本@名無史さん:2005/11/16(水) 00:46:35
むつかしすぎ
で、簡単に言うと?
742日本@名無史さん:2005/11/16(水) 00:53:07
B52-DR15

簡単に言うと、今のところこれ以上の手がかりはない。
北方人種だが騎馬民族とも限らない。
743日本@名無史さん:2005/11/16(水) 00:54:00






朝昇竜
744日本@名無史さん:2005/11/16(水) 00:58:17
朝青龍だよw
745日本@名無史さん:2005/11/16(水) 01:01:49
知らんがな
746白馬青牛:2005/11/16(水) 01:04:03
>>737
>乳製品を利用する習慣もない。
満洲族もそうですし、華北の漢人も羊牧畜はしても、乳加工文化が
ありません。多分、自信はないですが、大豆があったので、乳腐より
豆腐の方が良いということでしょうか。漢人や満洲族も味噌・醤油は
利用します。しかし、チベット系は複雑でチベット高原は乳加工が発達し、
ブータンや羌系では、雲南の白族などが乳加工文化を持っております。
アッサム・ヒマラヤ系は例外もあるでしょうが乳加工文化がない場合が
多い。チベット高原系文化、羌系文化、ヒマラヤ系文化が勢力圏争いや
相互影響もあったのでしょう。
韓国に多いのは、姜姓のことだと思いますが、斉の太公望もそうですね。
斉の山東半島には、羌族が移り住んで漁労をしておったのかも知れません。
もしそうであれば、日本と関連してきます。
747日本@名無史さん:2005/11/16(水) 01:49:07
747
748白馬青牛:2005/11/16(水) 01:56:16
>>738
苗(ミャオ)族は、華南や東南アジアの焼畑・狩猟民族ですが、
犬祖神話を持っておりますね。山地民という意味では、羌系と似て
おります。苗族は勇敢ですからね。
明軍の異民族部隊であるモンゴル人や朝鮮人に比べても、壮族の「狼兵」
や苗族と羌系?の土家(トゥチャ)族の「土兵」は精強でした。
明清戦争で朝鮮部隊が明の督戦武官を殺し、裏切ったのと違い、
苗族は、敗走する明軍をしりめに満洲軍へ突入。
その抵抗は、後も清朝をてこずらせました。
749日本@名無史さん:2005/11/16(水) 09:31:30
白馬青牛、がいやまん 他諸氏の考察などがまとめられた一般的な歴史書、教養
本には、どんなものがありますか?
アマゾンで入手できますか?
750がいやまん:2005/11/16(水) 10:33:25
>>749
漏れに限っていえばYAPについての↓
DSY199/DYS287組合せはプロタイプ頻度 (%)
ハプロタイプ  N  1C 3C  4C 5C
民族
アルタイ       31 96.8 3.2
台湾中国 43 97.7 2.3
モンゴル   195 97.4 2.6
チベット 30 46.7 53.3
日本  116 52.6 47.4
エジプト 37 51.4 2.7  37.8  8.1
ガンビア 48 14.6  16.7  12.5  56.3
バンツー 48 35.4  12.5  2.1  50.0
(3C)の流れ方につき、チベットにあるものが日本に流れたとされているが、
チベットには縄文時代の頃にこうしたハプロタイプ遺伝子プールの存在は
なかったと考え、これを弥生末期/古墳/奈良時代の中国北西部から朝鮮半島
経由日本に流入した「戎」族の移動によるのではないかと考えている。更に
この戎はアルタイ地方においてコーカソイド騎馬民族と共にエジプト文明と
交流を持ったことがあるのではないかとも考えている。これを検証するため
関係資料を探しているのが現状です。ネット上の海外資料を探っています。
751がいやまん:2005/11/16(水) 11:34:13
3Cハプロタイプ遺伝子プールは順序から行くとエジプト、イスラエル、アラブ神官
層の存在していたものが、エジプトとアルタイ・パミールの交易によりアルタイ・
パミール方面に移動したとも考えられる。これらが中国北西部で交易活動を営んで
いたものが、春秋戦国に秦の先駆者によって秦の領域に取り込まれたということかも。
戎の中でもYAP+は西戎とかの特別の地位、これが天孫か、を持っていたのかも。
752がいやまん:2005/11/16(水) 19:00:04
>>740 >>746 白馬青牛さん
中国北西、現在の新疆ウイグル、又は、東トルケスタン地方に古代姜/羌
族が住んでいたという可能性はありましょうか。アルタイ、コーカサスには
日本の高地性集落に似た用途の不可解な施設があるようです。コーカサス
西部にはドルメンの集中するマイコープ文化、また、バシキールにはイスラエル
のヨセフ同様エジプトにアミン・ベクが売られたという伝承があるようです。
753日本@名無史さん:2005/11/16(水) 19:01:30
( .)( .) 巨乳参上
754がいやまん:2005/11/16(水) 19:15:08
キトラ古墳の壁画は被葬者が百済王ではないかと思わせます。善光寺はその造りが
スキタイ時代のバイカル東部のヘレクスルであり、回向柱は鹿石/世界樹の位置でして、
時代は変わるが、平原遺跡等と同じ構想。どうも、百済王の菩提寺の感じですね。
百済というのは馬韓のハクサイ、月支同様中国北西からの秦亡民の移住者を含んで
いたのではないかと思えるんですが。善光寺の周辺には韓国式家型積石墳が集中、
小諸にかけては朝廷の牧場でした。キトラ古墳の壁画は星辰信仰を表していますが、
アルタイのオークニェボ文化には高度な天体運行計算の痕跡があるようです。
755白馬青牛:2005/11/17(木) 02:12:02
>>749
一般的な歴史書、教養本と言うより、まずあなた自身が興味を持った
部分に関連する本を探して読む方が良いと思う。
>>752
月氏は羌族という説もあります。ウイグル自治区とチベット高原の境の
崑崙山、昔の南山ですが、史記に「保南山羌號小月氏」とあり、
古くから関連が深いといえます。仮に月氏の支配氏族が他民族であっても、
羌人も混じっておったのでしょう。
秦も羌系である可能性がたかく、兵馬俑も西方文化の影響が強い。その
秦の亡命人が朝鮮に移住したのは、『魏志辰韓伝』にも記してあります。
百済よりも秦の亡命人の多く移住した地域である新羅は、どうも西方的
くさい文化であると思います。
756がいやまん:2005/11/17(木) 07:22:41
>>755
極めて重要な情報ですね。ありがとうございました。
757がいやまん:2005/11/17(木) 07:41:24
>>740
>>750
弥生末期の高地性集落、神武、雄略などに残る山岳風習、列島各地煮に残る
剣、椎、逆矛等の兵器の名称、崇拝物を持つ山岳。また、大阪湾、児島湾等に
置ける工事、巨石遺跡等にも弥生時代にはなかったものがあります。特に「秦氏
は秦始皇帝13世の孫の孝武王の後裔で,王の子の功満王が仲哀朝に,その子
の融通王(弓月君)が応神朝に127県の百姓を率いて帰化したという」伝承。
YAP+の到来はこれらによるのではと考えます。
758がいやまん:2005/11/17(木) 08:57:21
チベット王国は別名ツボ王国である。
Tufan 吐蕃 (the Tibetan Kingdom, also pronounces as Tubo).
From the Qiang Barbarians to the Qiang Nationality:The Making of a New Chinese Boundary Wang Ming-ke
http://ultra.ihp.sinica.edu.tw/~origins/pages/barbarbook4.htm
これはツボケの一族として列島を縦断。
http://www.asahi-net.or.jp/~RD7F-ANB/aomori/aomori2.html
その様子は猿田彦命さん祭祀神社地名表
http://www7.plala.or.jp/timei/
でよくわかる。
この本部のようなものがこの椿大神社
http://www.cjn.or.jp/tsubaki/
759がいやまん:2005/11/17(木) 08:58:45
「「東日流外三郡誌」でも記されております。その記録では、今から二千七百年前、
東日流地方の内陸部には狩猟と採集を中心とする阿曽部族が住み、海岸地帯には
農業と漁業の津保化族が住んでいたが、いつしか小競り合いが始まり、津保化族と
混血した人々を除いて、阿曽部族は岩木山の前身である阿曽部の森に押し込め
られ、しばらくの後、阿曽部の山が突然に噴火し、それに伴う大地震や溶岩流など
によって一族の大半は滅亡し、辛うじてその災害を逃れた人々は津保化族にとらえ
られ、手下にされた、と記されております。今も岩木山ろく一帯には至るところに遺跡
があり、遺物が発見されます。私たちの今のこちらの言葉である「このツボケ」に代表
される、憎しみを込めたツボケという言葉は、争いに敗れた阿曽部族が津保化族に抱
いた感情ではないかと思います。そこに、神武軍団に敗れた長髄彦と兄の安日彦が
津軽に逃げてきて、津保化族らと合体し、彼らの神である荒吐神の名をとり荒吐一族
と称して王国を築いた、と記されております。この王国の勢力は関東地方にまで
及び、斉明四年──六五八年ですが、阿倍比羅夫が軍船百八十隻を率いて東日流
の地を攻めてきたが、荒吐一族に敗れ、比羅夫は和合を申し入れ、条件として何船
かの軍船を荒吐一族にくれ、さらに、友好の印として安倍の姓をプレゼントしたとされ
ております。
http://www.pref.aomori.jp/k-gikai/dsweb.exe/document!1!guest6!!851!0!1!1,-1,1!2226!83808!1,-1,1!2226!83808!2,0,2!2226!83808!61830!28!207?Template=DocPage
760がいやまん:2005/11/17(木) 09:05:07
■猿田彦神社の由来/境内社 佐瑠女神社
http://www2.convention.co.jp/sarutahiko/html/shrine/goannai.html
高山のお土産にサルボボというのがあるが、明らかに太陽神
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2463/saru.htm
上記の猿女は八幡様と同じ八角形で太陽神。
猿田彦はあくまでも天孫ニニギの尖兵であり、姜族は天孫の先等部隊として
全国に展開したことがわかる。これをYAP+の縄文地帯への展開の理由と
考える。
761がいやまん:2005/11/17(木) 09:25:03
「1、神社がこの配石群を、明らかに「磐座」と意識している事実。火のない所に煙は立
ちません。つまり、古くから磐座として信仰されてきたからこそ、今も磐座として祀って
いるのだと思います。
2、同じ神社境内に、猿田彦神の墓とされる「土公神陵」なる前方後円墳が存在する
事から、この地が古墳時代からそれなりの聖域性を保っていた事が分かる。
3、椿大神社であること(主観抜きにしても、この神社が律令時代以前から存した事は
間違いないと思います。でもいちおう傍証扱いにしときます)。
4、椿大神社の背後にそびえる入道ヶ岳の山中にも、様々な祭石が残っていると言う
事実。
 これら4点の事を考慮すると、おそらく椿大神社の「御船磐座」の原型となった磐座
群は、古く見積もればおそらく古墳時代には誕生し、新しくとも律令期には当神社の
中心的な祭祀施設として尊ばれていたに違いない、と確信しております。
「御船磐座」全景。写真中央部の白めの部分が、いわゆる「3神石を安置している
敷石方形区画」です。それを取り囲んでいる環状配石群(陸)と注連縄(空)が確認
できると思います・・・(^^;)。
「3神石を安置している敷石方形区画」の拡大写真。ゴロ石で方形に区画された中
に、玉砂利石が敷き詰められています。そしてその奥まった所に、3体のこぶし大
の石が置かれています。そう、それが御祭神の宿っているという磐座です。
 先述の通り、神社背後にそびえる鈴鹿山脈の高峰・入道ヶ岳には、椿大神社管轄
の祭石群がたくさんあります。「いしぐらの磐座」「重ね岩」「仏岩」等が有名で、とり
わけ「イワクラ尾根」と呼ばれる地帯は、その名の通り多くの磐座が点在しています。
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/tsubakiiwakura2.jpg
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/tsubaki.html
762がいやまん:2005/11/17(木) 09:28:55
漏れは以前から「土公神陵」なる前方後円墳に驚いていたが、上記の石組み
のご神木、それは古代人が世界樹と認識したものであろうが、それが2000年
の歳月を経てインターネットを通し世界中として蘇ることは不思議である。
763がいやまん:2005/11/17(木) 11:53:50
アメリカ大陸にも遠いユーラシアの神が祭られYAP+御魂もお喜びのことであろう。
http://www.cjn.or.jp/tsubaki/america.html
その発祥の地はバイカル湖東部↓
http://ngo.burnet.ru/eger-gallery/pictures/autumn/medium/17.jpg
http://ngo.burnet.ru/eger-gallery/pictures/autumn/medium/18.jpg
http://ngo.burnet.ru/eger-gallery/pictures/autumn/medium/19.jpg
そして、カザフスタンにも
http://www.unesco.kz/kazhistory/conf_2004_foto.html#nul
椿神社には極めて古い形式が残っている。
764がいやまん:2005/11/17(木) 12:28:27
バイカル湖南部、ブリャートにおける箱式石棺墓遺跡分布図
略図標識は、上から、「集落」、「箱式石棺墓とヘレクスル(神籬)」、「線刻」、「鹿石」
http://www.baikalfoto.ru/library/articles/fold_01/fold_01/005.htm
多分チベットに入った「ツボ」もこの地方の出身であろう。
765シバキザクラ:2005/11/17(木) 22:35:30
がいやまんさんへ、「東日流外三郡志」は持ち出さないほうがよいですよ。
766がいやまん:2005/11/18(金) 06:57:16
シバザクラさん、ご忠告ありがとうございます。
767白馬青牛:2005/11/19(土) 01:35:47
>>757
日本へ移住した秦氏の治水事業は、羌族の治水技術の影響も関連するかも
知れませんね。秦氏=中国北朝後秦(羌系集団)は、田辺尚雄氏の説
でしたか。
ただし秦氏の秦の始皇帝末裔説には疑問です。秦説でいえば、
『魏志辰韓伝』の「古之亡人 避秦役」とあるように、秦の労役を避けて
韓へ移住したとも考えられます。秦氏が秦か後秦か定かでありませんが、
日本での秦氏は、水利、養蚕等の技術者集団でもあり、王朝の騎馬護衛兵、
平安時代まで確認できる随身の家柄で、戦闘職能集団でもありました。

新羅とシバルガンの黄金遺跡の関連、中央アジアのアフラシアーブ壁画で
新羅人使節と思える人物像は由水常雄氏が指摘されておられます。
ギリシャ・ローマ系文化と新羅文化の関連は、月氏の大夏(バクトリア)
征服から月氏と類接した西方的文化を持った秦人の韓地への移住、
新羅古墳の西方的文化要素と交流は脈々と受け継がれたともいえます。
768日本@名無史さん:2005/11/19(土) 01:38:21
個人的な感想なんですけど、この説のまともな反証は梅棹忠夫しか見当たりません。
769白馬青牛:2005/11/19(土) 01:42:46
>>768
梅棹氏のツングース水軍説のことですか?
770がいやまん:2005/11/19(土) 11:50:13
771がいやまん:2005/11/19(土) 11:57:35
>>767
『魏志辰韓伝』の「古之亡人 避秦役」は非常にリアルですが、なき帝の陵墓で
仙薬の間に合わなかったことを悲しむタジマモリの説話はアメノヒボコ系の伝承
でしょう。これらは徐福集団の末裔かもしれません。玉石混交であったのでしょう。
772日本@名無史さん:2005/11/19(土) 12:02:43
>769
そうっす。 他のは揚げ足取りしてるだけだとおもいました。
773がいやまん:2005/12/02(金) 08:02:07
>ところが、韓国をふくめユーラシアでも、この突然変異の遺伝子はほとんど見
>つからず、日本以外で唯一見つかるのはチベットだけであるという。世界的に
>見てもそのほかには黒人にしかみられない変わった遺伝子型である。このこと
>から、ヤップがあるのが縄文系男性、ないのが弥生系男性と判断できる。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-52.htm
上記の論法は飛躍しすぎ、非科学的である。いいたいことはYAPが日本周辺に
存在しないことはその起源が古く、弥生よりも、むしろ縄文時代に到来すでに
到来していたものと考えられるということであろう。
774がいやまん:2005/12/02(金) 10:51:12
この見解はいまや国際的に有名であり、
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-52.htm
Y Chromosome Markers and Trans-Bering Strait Dispersals
Y染色体識別子のベーリング海峡を越えての拡散という著作においても
引用されている。Hammer et al., 1996のいう日本列島原住民縄文人は
東部中央アジア起源であるという説はYAP+が日本周辺周辺にないこと
から結論付けられている。
775がいやまん:2005/12/02(金) 11:21:56
ところが Y染色体識別子のベーリング海峡を越えての拡散のP303表1
では
TABLE 1.
DSY199 and DYS287 combination haplotype frequencies (%)                        サンプル数 Haplotype      1C 3C      4C 5C
Altai 31                   96.8 3.2
Taiwanese 43               97.7 2.3
Mongoliansb 195             97.4 2.6
Tibetans 30                46.7 53.3
Japanesec 116              52.6 47.4
Africa
Egyptians 37            51.4 2.7   37.8 8.1
Gambiansi 48               14.6 16.7 12.5 56.3
Bantusj 48                 35.4 12.5 2.1 50.0


776がいやまん:2005/12/02(金) 11:35:13
つまり、チベットはバイカル湖東部/大興安嶺北部甘河上流(黒竜江省)からの
拓跋・吐蕃、日本は椿(土公は拓跋)・ツボケ、つまり、猿田彦・うずめ信仰の縄文
文化のあった辺境地への渡来である。つまり、YAP+の中でもC3は拓跋が持って
いたものであると見る。沖縄に侵入した石板墓もこの部族である。その名称は
KUMAN/KUMA/KUMEといったものであったのかもしれない。宝来氏は縄文時代と
縄文文化地帯を混同している。
777がいやまん:2005/12/02(金) 11:43:56
日本に入った拓跋は九州では久米部として天孫に属していた。天孫とはエジプト・
中近東の占星術、スキタイ文化、匈奴文化の影響を受けたもので、その王族は
キトラ古墳の壁画のような占星術を駆使したもので応神以前には半島にあった
のであろう。日本では秦氏として活躍したものと思われる。
778がいやまん:2005/12/02(金) 11:49:10
このYAP+はヒクソス時代にアルタイからエジプトに侵入した可能性がある。当時は
銅資源を求め中近東・コーカサスからウラル・アルタイ・パミールなどとの交易が
あったのだろう。
779白馬青牛:2005/12/03(土) 01:18:06
>>773
上記のサイトにある「征服なくして文化伝播なし」には、基本的に
賛成です。武装開拓団でないと現地民に喰われてしまうので。
しかし王朝による征服か傀儡は別としてです。ただ東南アジアにおける
華南人の華僑として交易基盤からの発展や定着という南方型と実例の
ある北方型民族による統一的征服の国造り移住と分ける必要もあります。
ギリシャのポリスにおける交易殖民とバルバロイであるマケドニアの
アレキサンドロス大王遠征による帝政と違いがあるように。

大興安嶺北部から南下した拓跋鮮卑は、石室から甘河上流で生業は、
狩猟農耕民であったとされますが、慕容鮮卑との種族の違いについては、
よく解りません。日本本土や沖縄への侵入までは考えておりませんでした。
むしろ鮮卑慕容部の方が遼東や山東に移住したので、日本へ渡来する
可能性は強いとも思えます。と個人的感想です。
780がいやまん:2005/12/03(土) 07:53:54
>>779
慕容鮮卑ですが、ホケノ山古墳と同じ鋳型の銅鏡を持つ鳴門萩原1号墳
(この近所に大麻彦神社が祀られる)に近い鳴門海峡に撫養(ムヤ)という
不思議な地名があり、ずっと頭を悩ましてきました。バイカル湖の北岸にも
ムヤという地名があります。今なんだかこれらに関係があるのではないかと
いう感じがひらめきましたのでとりあえず記憶のうせない間に記述しておきます。
上述の銅鏡は楽浪出土品とも同じ鋳型だといわれます。また、こうした古墳
の元になっているのは積石文化であり、これはバイカル東部・モンゴリアが
起源のようです。日本にはちょうど邪馬台国に先行する倭国乱の時代に播磨
を中心とする地方に忽然と現れます。
781がいやまん:2005/12/03(土) 19:30:19
>>779
時代の魂というか、日本もダレイオス、アレクサンドロス的スキタイ思想をもった匈奴
系の神話を持ったものが入り、これが日本と沖縄の神話の基盤にあるのでしょう。
日本のほうが英国なんかよりは先輩ですね。
782白馬青牛:2005/12/04(日) 01:50:35
>>780
鮮卑の慕容(バヤン?)と拓跋(トバ?)との部族の違いは、
解りませんが、播磨、鳴門と言えば瀬戸内海にも北方的伝説もあります。
『伊予風土記』逸文の大三島の大山積の神は、百済から渡って来た神で
あるとか、『豫章記』では、瀬戸内の海士は、鉄人を大将として三韓から
推古天皇の時に攻めて来た士卒の残党の足の筋を切って捨てたものの子孫
たちだと。『豫章記』は、中世の資料であり信憑性には欠けます。

しかし伝承としては、面白いもので、『周書、北史、隋書の突厥伝』に
「突厥の阿史那氏は、隣国に破られ全滅した。その一族のなかに、
一人の十歳になるかならぬかの子供がいた。戦士たちは、その子を見て
殺すに忍びず、足の筋を切って湿原の中に棄てておいた。牝狼がいて肉を
その子に食べさせた。彼は成長して狼と交わり、狼は懐妊した。」と
説話がありますが、『豫章記』とよく似た説話です。
『豫章記』の鉄人と鉄勒族である突厥を結びつける訳ではありません。
北方民族の伝承として、瀬戸内地方へ渡来した北方系の部族にも似た
伝承を持つ集団がおったと言うことでしょう。
783日本@名無史さん:2005/12/04(日) 09:42:34
鹿を馬といつわって秦の皇帝に献上したところから、ばかの言葉が生まれたのですが
アホはしりまへん
784がいやまん:2005/12/04(日) 13:57:05
拓(Tuo)とは鮮卑語で土、跋(Ba)は君王の意といいますから、土公というのは適訳。
椿大神社には「高山土公神陵」があるが、これは、「参道横にある前方後円墳は、
高山土公神陵と呼ばれ、猿田彦大神の御陵で、山本神主家はこの御墓を神代より
守り続ける大神直系の神主家」となっています。
<#http://www.cjn.or.jp/tsubaki/sinryo.html#>
「霊帝178年 檀石槐、漁業の為に倭人を捕らえて移住させる」 という出来事があるが、
<#http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/senpi.htm#>
慕容(Murongムジョン・ムヨウ・ムヤもありえよう)がこの頃瀬戸内海東部まで侵入して
いたとすれば、伽耶地方での倭人の拉致などは行きがけの駄賃であったのかも。
785がいやまん:2005/12/04(日) 15:18:55
山海経によると、倭の位置は↓



鉅燕

蓋國(穢貊?)



燕→列陽(遼?)→朝鮮→東

燕は,北方から南下した蛮族に包囲され,春秋時代にはその歴史が不明であり,戦国
になって急激に強大となったといわれるのだから、上記の位置も戦国末のものだろう。
倭はその後南下する多数の民族と共に日本列島に向かったのであろう。
786がいやまん:2005/12/04(日) 15:28:22
倭の第一波は勅島-須久時代に吉野ヶ里→出雲→機内に青銅器文化、環濠集落
をもたらし、第二波はAD一世紀に高地性集落、第三波は倭国乱時代に古墳をもた
らすのであろう。
787がいやまん:2005/12/04(日) 15:36:01
東胡=倭==弥生人=拓跋(タングート)等は同じものでこれがYAP+を持っていたのでは
なかろうかというのが漏れの推論です。
788日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:47:00
>>782
広島タソお久ダス

>瀬戸内地方へ渡来した北方系の部族
何処の電波w

では、サヨウナラ
789がいやまん:2005/12/04(日) 15:49:22
訂正
>>785 戦国末ではなく春秋末、
>>786 機内ではなく畿内

話は変わるが山海経時代の中国は九州以遠の知識はなく、レコヤ島、ヤコ島等が
琉球とか、屋久島に近いような気がする。朝鮮の南は山脈のようなのでまだ鴨緑江
以南の知識もなかったのかもしれない。
790日本@名無史さん:2005/12/04(日) 23:43:37
>>782
もし、よかったらどうぞ。
  ↓
木曾宿奇矯屋
http://yy33.kakiko.com/kikyoya/
791白馬青牛:2005/12/05(月) 02:55:42
>>786
弥生期に、どの程度の移住があったのかは難しい問題です。
四隅突出墳も広島県の三次盆地の弥生中期〜後期あたりまで遡れるので
しょう。四隅突出墳の広島県北部の弥生終末期〜古墳期に弥生型人骨が
出ておりますが、全体的に中国地方の山陽側の弥生期の人骨は縄文型です。
全体的に広島県の古墳人は4、5世紀でも縄文型であり、近畿地方は
弥生人骨の出土例が少ないのですが、近畿古墳人は、かなり
新モンゴロイド化が進んでおり、中部九州、山陰、中国、四国地方の
西日本古墳人は、近畿地方と縄文的な広島古墳人との中間的特徴を持つ。
関東古墳人は、広島古墳人とよく似ているが、違いは関東古墳人の場合
鼻示数から低く広い鼻をもっている。池田次郎氏の『日本人の起源』を
参考にしました。
広島県が古代〜中世に蝦夷と関東武士の移住が多かった事、弥生型の
四隅突出墳人も、北方起源とすると広島北部を含む出雲から北陸へ
勢力を伸ばし更に信濃の古墳南満洲の吉林、集安時代の高句麗系積石塚、
関東の高句麗人移住と時代が下がるに随い東方まで移住した軸線があった
ように思えます。中世の広島は東国からの逆移住と縁があります。
>>788
わしを相手にしたいんか知らんが、関東の事も書いた。サービスじゃ。
>>790
わしの拙い知識でも、よろしいのであれば、私見を述べますが、
がいやまんさんは、知識、データ集積に豊富で参考になる。しかもわし
の様な皮肉屋でないので、がいやまんさんを推薦します。
792がいやまん:2005/12/05(月) 08:08:38
>>790 >>791
香嵐渓は岐阜にチケーが、行ったばかりじゃども、高山はよく行くでノー。屋台だとか
「飛騨福来心理学研究所」とかに興味があるし、白馬先生のご推薦とあれば是非
参加させていただきたい。神岡のカミオカンデは青銅器添加物の鉛の発掘遺跡
ではないかと思っている。あの辺に巨大な前方後円墳があったはず。今、ちょうど
猿投=銅鐸かと考えておったところ。
さて、白馬青年さんから以前にも話しの出た気がするが、シ歳貊の狛という部族、
これはひょっとして小松→白山→犬山の方向で渡来したものかもしれない。また、
ポーランド、沖縄にはLaykonik、春駒という祭りがあるがこれも狛族の末裔である
トルコ系Koman族が持ち込んだのではないかと考える。ポーランドはタタール人
が持ち込んだとされている。この踊りは岐阜では馬型は使わないが激しい春駒
祭りが残る。コマは岐阜に来ていると確信する。
793がいやまん:2005/12/05(月) 08:15:19
おっとっと、馬韓の熊津も、北陸の小松も狛津ではなかったのかと思っている。
そして、狛の本体は高句麗に残っており、高句麗滅亡の際に亡命し関東に配置
され、これが東京の狛江、埼玉の高麗となったのだろうと思うのだが。
東京には白山神社などがあり漏れもよく行くが、白山のような天池はないね。
長白山とか、金毘羅山、白山には天池がある。
794がいやまん:2005/12/05(月) 08:34:48
白馬青年さんの引用された四隅突出墳と時代は下るが長野県北部の積石墳、
これらを考えるときにきわめて重要なのは大塚初重先生が飯田には馬を近所に
埋葬した古墳があるとされることと、諏訪の御柱、長野の善光寺である。アルタイ
では4本の白樺に生き馬の足を引っ張り、背中からくいを打ち込み「クルイ、クルイ」
と唱える。馬は東方に向けるらしい。アルタイでは高地性集落祭祀場をSveと呼ぶ。
諏訪と似ている。グルジアのマイコープでは牛を突き刺した青銅器遺物がある。
善光寺は百済王善光の関係かと思われるが、祭られる本多夫妻というのはホムツ
とか、ホムタとか、応神天皇に使用されたものと共通性がある。ご本尊も河内に
近いところで拾い上げられている。
795がいやまん:2005/12/05(月) 08:39:38
アルタイの上記習慣のあるのはKumandin族であり、日本同様陽根崇拝の習慣
があるらしい。これは番風とされ、近隣に類のないことから、新潟、川崎などに
ある陽根崇拝との関係が考えられる。
796がいやまん:2005/12/05(月) 11:47:29
木曾関係でカキコしようとしたが、どうも嵐になりそうなので、やっぱ、ここ0にします。
香嵐渓の足助ですが、まずは、QUOTE
http://www.asuka-tobira.com/asukakyo/asukapanel_2x2.jpg
「あすか」の語源 諸説
@渡来人がここを安住の地とした。安宿は朝鮮語で「アンスク」といい,
なまって「アスカ」となった。
A古代朝鮮語には「スカ」という「村」を意味する言葉があって。
これに接頭語の「ア」がついて「アスカ」といった。
Bインドのアショカ王の名が転じた。
C「イスカ」という鳥の名が転じた。
D地形を表す単語が合成された。スカ −洲処(砂地),アス −砂地。
E「スカ」という語は神聖な意味を持っていて,聖地にこの名を付けた。

飛ぶ鳥が「あすか」の枕詞になったわけ
@空飛ぶ小鳥の姿がカスカに見えたので「あすか」に飛ぶ鳥のとい
う説明を冠した。
A渡来人が長旅の末安住の地(現明日香村)に着き,それまでの旅が
鳥の移動みたいなものとして,明日香に「飛ぶ鳥」の枕詞をつけた。   
(中学校歴史指導書 大阪書籍 を参考にした。)UNQUOTE
797がいやまん:2005/12/05(月) 11:53:49
香嵐渓の足助を考えると、後背地に飯田に向かう道があり、それはさらに諏訪、長野
方面に続きます。これは奈良の飛鳥と同様渡来人と関係があり、大きな都と関係する
宿泊または何らかの宗教的施設ではないかと思われる。
798日本@名無史さん:2005/12/05(月) 13:05:45
>>791
もちろん、がいやまん氏も大歓迎です。

管理者は三戦板の古参である奇矯屋ぷらっと氏です。
その、ぷらっと氏も『捻くれ屋』と自認してるそうです。(笑い

テーマはヤマトなど古代日本史です。
楽しみにしてますよ。
799白馬青牛:2005/12/06(火) 02:01:45
>>794
信濃の積石塚の年代は6世紀がいちばん多いようですね。
そうすると5世紀あたりに移住したのでしょう。信濃は高句麗系渡来の
多い所で、掛婁や前部等高句麗の部族名を平安初期まで名乗って村上、
須々木等の日本名に改姓しており、また積石塚の分布は甲斐の南北巨摩郡
や関東西部の武蔵の狛江まで出てくるので、「こま」地名に多いと
言えます。
帰化といえば甲斐は百済系が多く799年に190人の百済人が改姓
しており、北関東の上野では新羅人が多く、吉井連以下新羅人193名。
群馬県に吉井というところがありますが、付近に多胡碑がありますね。
「三百戸郡成給羊成多胡郡」でしたか。「多胡」や「羊」が気にかかる
ところです。
800がいやまん:2005/12/06(火) 09:50:06
信州の三河よりから入ってくるのは雄略朝の海外政策により、また、信州北部
から上野にかけてはそれ以降の朝廷の牧場に関連するのではないかと思います。
大塚先生の専門地域ですね↓
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012.html
先生がこのHPで紹介されている北部信州、日本海文化圏、の長野県の下高井郡
木島平村の根塚遺跡
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f19.jpg
これは四隅突出墳の平面図を半分に割った形であるが
「長方形で三段のテラスを造っていますが、長方形の斜面には張石が一面に張って
ある、弥生時代後期のあまり例を見ない墳丘墓」であり、漏れはこれを崑崙丘と見ます。
先生が参考に引用されている集安将軍塚↓
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f3.jpg
これは山海経にある崑崙丘がコンセプトにあるものと考えます。
801がいやまん:2005/12/06(火) 10:02:00
また、先生は出土された2フリの鉄剣を紹介されておられるが、
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f20.jpg
記紀によれば出雲との国譲り交渉の際、たまたま、天孫側であったと思うが
剣をさかさまに立てる光景があります。逆矛といって
http://www.geocities.jp/general_sasaki/shinwano_butai.html
有名な慣行ですが、モンゴリアでは異民族がヘレクスル祭祀場、墳墓を荒らして
自らの墳墓を立てる際、鹿石、ディアストーン、というメンヒルの頭部にある鹿の
頭の線刻部分を地中に埋め、その霊力を奪い、ヘレクスルを再使用するそうです。
802がいやまん:2005/12/06(火) 10:07:17
出雲からは国譲りに反対したタケミカヅチが諏訪神社に逃げ込みますが、上記古墳も
信濃川を上ったところにあり、逃走経路上にあるともいえます。四隅突出墳とも、田和山
遺跡とも共通した面があるこの古墳は、そのl付近の黒姫の伝承ともども諏訪に入るの
かな等と考えています。
803がいやまん:2005/12/06(火) 10:31:58
漏れは記紀にある、フツの御霊、フツヌシ、ホトタタラ、フトダマ等にある
フツとは何なのかよくわかりません。フホホト青い城、ウランホト赤い城
だから、城のことかと思ったのですが、文脈は兵器、軍神のようなものを
想定させるのです。上記のような刀剣を実用性のあるものではなく、七支刀
同様祭祀用と考えれば武運の御霊というような解釈が最適となります。
そうだとすれば武ミナカタ、すなわち、海人族の将軍と解釈することができ、
そうした大事なものが祭られていたこの古墳はますますタケミナカタとの
関係が深くなる思いがするのです。
804がいやまん:2005/12/06(火) 10:40:40
もしも、タケミナカタのコースがそうであったとすると、善光寺は難波→飯田→諏訪の
山出しの風習を取り入れ→長野という風に反対方向からのものであったのでしょう。
805白木人:2005/12/06(火) 10:48:45
最近苗字で3分の1というのがあるのを知り驚きました
806がいやまん:2005/12/06(火) 12:58:49
807 ◆QqQquqqauQ :2005/12/06(火) 18:42:27
>>805
知人に「六分一(ろくぶいち)」さんがいます。
808白馬青牛:2005/12/07(水) 00:33:23
>>803
海人族といえば、安曇連の一族も信濃北部の安曇郡に移住して
おりますね。安曇族は、難波の浦上から瀬戸内海東部にも勢力を持って
おりましたが、内陸への移住にも積極的な集団です。安曇族と縁の深い
播磨には、明石浦に鉄人が来襲したと『豫章記』にあります。
>782と関連しますが、鉄人を倒したのが伊予の瀬戸内水軍で
有名な河野氏の祖先で、鉄人の手下の足の筋を切って捨てた者が
河野氏の配下となった。と云うあくまで伝説です。
八幡の神が鍛冶屋と旗(軍旗・軍神)に関係した神であることとも、
関係が深いかも知れません。
809がいやまん:2005/12/07(水) 08:20:31
>>808
ゲルマン、アルタイ、ツングースなどは、ユーラシアが春先雪解けのために
海になるため、ボートによる航海に長け、これがバイキング等の沿岸航行から
エーゲ海のクレタ、エジプトの襲撃などの背後にあるのかもしれません。
また、瀋陽北陵公園には満州八旗のお堂がありますが、日本の高御座も唐
のものを模しているようで、八角形ですね。
810がいやまん:2005/12/08(木) 13:46:10
>>808
白馬青年さんが問題提起されていることには重大な意味が含意されているのです。
それは草薙の剣をもっていたアシナヅチと6世紀の突厥アシナ族の関係を立証する
ものがないかということです。ロシアのアルタイにおける鉄の起源はBC8世紀頃ですが
この南隣の新疆ウイグルでは
http://alum.mit.edu/www/dwag/earfe/EARFEfig1.GIF
非常に古く
http://alum.mit.edu/www/dwag/earfe/EARFE01.GIF
これを見ると、ヒッタイトが鉄を使用し始めてまもなくアルタイ・トルケスタンで鉄の使用
が始まり、中国ではその後呉越に生産が移行することです。呉越の鉄が三韓に伝わ
るのか、あるいは、生産技術が呉越に、鉄鉱資源探査技術が三韓に伝わるのかは
っきりしませんが、スサノオ・アシナヅチはシルクロード方面から来た可能性が高い
ようですね。
811日本@名無史さん:2005/12/10(土) 18:39:00
天皇陵=前方後円墳だよな。
あの形の意味を解かないと始まらない。

あれはシュメール起源で古代インドで大きく展開された、
須弥山(スメール山)世界観だよ。
http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/newmon/betusekai/uchu.html

黒潮に乗って来たタミル系の人間の思想ともいえる。
インドでは後の仏教の宇宙観にも取り入れられ、ストゥーパ(塔)も須弥山だ。
早い話が日本の仏教建築の五重塔も須弥山だ。
今でもチベット仏教の僧が、
彼らが須弥山と見立ててる聖山カイラスに五体投地しながら参拝してる。
中国では須弥山を妙高山とも訳し、日本の妙高山も同じ意味。

前方後円墳の左右にある小さな丸(造り出し)は、太陽と月。
海上に浮かび、月と太陽をも超え、137万`もある壮大な山。
その頂上である「有頂天」に行きたいという切なる思いを、
平面で描いたのが前方後円墳だ。
地から山がそびえ立ち、月と太陽をも超え楽園(有頂天)がある。
前方後円墳の形そのままじゃないか。
河内平野の大王陵の堀(池)が須弥山の海を意味してるのは言うまでもない。
そして埋葬されるのがスメラミコト。

で、前方後円墳の、あの形のどこに騎馬民族の面影があるんだ?w
出土品に騎馬系の物があっても、
あくまで珍しい文化として受け入れただけだよ。
812がいやまん:2005/12/10(土) 19:13:45
そうして、後の世の三重塔につながってゆくんだと思う。須弥山に間違いないと思うん
だがなー。要するに、仏教以前からあったもんなんだろう。
813白木人:2005/12/10(土) 22:44:15
3ぶん1と6ぶん1があるなら、9ぶんの1がありそうですね
814日本@名無史さん:2005/12/10(土) 23:04:06
誰かおせーて

モンゴル・ツングースは古代に文書はおろか文字すら持たなかった民族
遊牧社会で貨幣経済が発達するのか?
貨幣経済抜きで外洋船を建造できるのか?
あの地域冬場に海上貿易、漁業が出来るの?生業として成り立つの?
815白馬青牛:2005/12/11(日) 02:04:59
>>814
貨幣経済は、高句麗・渤海以降国家断絶があるので、後の明と女真の
茶馬交易を考慮しても、外洋船を作るまでの技術はあるかの問題で
あるが、渤海が山東へ来襲し、女真が、北九州まで来襲したことを
考えると、仮に小規模であったとしても、船の建造技術も無視出来ん。
挹婁が朝鮮半島を襲う海賊集団であったことも考慮すべきです。

冬場に、河が凍結し、ツングース系の漁労民ホジェン・ナナイ集団も
狩猟を生業とするが、衣服まで、漁労による獲物で作る民族は珍しい。
日本人や東南アジアの漁労民でも、衣服まで完結となると、純粋な
漁労民とは云えん訳で、世界で最も漁労的な集団は、ツングース系とも
云える訳です。海上交易は、北海道のオホーツク海沿岸に広がった
オホーツク文化人もその例に入る。その例はすでに述べております。
816日本@名無史さん:2005/12/11(日) 09:57:26
山陰の四隅突出墳だけど、何なんでしょう?
北朝鮮にもあると言われるけど、
慎重に考えないといけないのではないかな?
江上・森さんたちが北朝鮮に行った時に確認したらしいけど、
あの時、同時に石積みの前方後円墳も確認してるし。
その前方後円墳は、北朝鮮の主張では日本のものより3百年も早いらしいから、
連綿性を考えると全くおかしい。

で、その四隅突出墳だが、
俺は西域との関連性がありそうな気がする。
時代は違うがジグラットなんかを思い出すからね。
817がいやまん:2005/12/11(日) 10:43:12
>>816
たしかに、韓国、九州になくて北朝鮮にあるのは連綿性を考えるとおかしい。
漏れはてっきり出雲で忽然と出現したものと見ていた。ジグラットはいい線だ。
漏れはピラミッドとつながりがあるのかとも考えたが、ジグラットかもしれない。
メソポタミアからヒッタイト、ウラル、アルタイといった線がありえる。
これはYAPの流れからも見ていく必要がある。
818がいやまん:2005/12/11(日) 11:03:49
話が2つあったんだなー。
四隅突出墳---これは出雲オリジナルかと思っていた。
前方後円墳---あちらの編年がどうなっているのか、考古学では重要な
土器とか前後の状況証拠が不明では審理のしようがないよなー。基本的に
モンゴリア・バイカル東部では石積円墳は春秋時代からあるようだ。
問題は方墳の祭壇部ができていたかどうかだ。しかし、300年も開きがあると
もはや連綿性はないと見られるが。
余談ではあるが、トン族の研究のURL
http://www.fgo.jp/~dong/071chapter071.pdf
にある橋の思想が箸墓にはあるのではないかと思う。
819日本@名無史さん:2005/12/11(日) 12:07:06
四隅突出墳の副葬品からは勾玉はなかったと記憶してます。
ある意味、倭人から見れば「異形の衆」だったでしょうね。
ただ、丹波や丹後には四隅突出墳はない。
このあたりは昔から、水晶という輸出品を持っていて、
まさに「王国」という風情だし、
四隅突出墳を作った連中も、丹後は支配できなかったんだろうね。
伊勢神宮の元伊勢と呼ばれる籠(この)神社が丹後にあるという事は、
丹後が異形の衆を防ぐ盾になってくれたという、
大和側の感謝の意味もあるのかもね。。

820がいやまん:2005/12/11(日) 12:53:35
四隅は若狭湾、敦賀湾をジャンプして北陸から遠く会津にまで進む。
飛騨とか、信濃にも入っていない。
821日本@名無史さん:2005/12/11(日) 22:04:56
銅鐸だが、一見、誰でも鐘を連想するので、
祭祀に使われたと思うのが普通であろうが、何の証拠もない。

あれは葬儀に使われたと思う。
つまり銅鐸も須弥山(スメール山)ではないのかな?
上部の水平で丸い部分が有頂天。
死者を埋葬した後、置くか、またはやぐらを組んで吊るしてかざしたのだろう。
死者の霊が有頂天に行くように祈りながら…

集落のはずれに埋められてるのも謎と言われるが、
普段は葬式に使われるから「穢れ」の感覚がはたらいたのだろう。

やがて倭国が乱れてきた時、
緊張状態がいつの世もそうであるように、
首長を中心にキリッと統制をとる形で、
同じくスメール山である前方後円墳へと移行していったのかも。
822がいやまん:2005/12/12(月) 14:11:53
銅鐸は朝鮮小銅鐸が、吉野ヶ里、出雲、大阪、滋賀と大きくなり、聞くものから
見るものへと発展し、銅鏡にとって代わられる。大阪辺から方形周溝墓等と一緒
広がる。集落レベルの祭祀用であり、それ自体の模様の図形からも稲作関連
のような感じ。前方後円墳は倭国が統一され、天孫をトップとする3階層の宇宙
観を表現したもので、三種のイワクラとか、三山とかをも包含するのではなかろうか。
神話の世界でもアマテラスということで太陽神を統一したものと思う。出雲の四隅
突出墳の四隅にある結界は前方後円墳の鞍馬部分に相当するのだろう。
823日本@名無史さん:2005/12/12(月) 14:37:11
test
824日本@名無史さん:2005/12/12(月) 22:13:28
騎馬民族説ねぇ。
江上さんが唱えたのは60年も前だしね。
あれから60年、馬具に関しても事細かに研究されてきた。

一応、今の考古学で考えられてるのがこんな感じかな。
http://www.momoso.net/JAA2004.html

成立の余地はないと断言されてる。

825がいやまん:2005/12/13(火) 12:16:20
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.3【波夫】 ・・・成立の余地のないことはスレを立てた時点でから認識されている筈。
しかし、スタンフォード大主導による中央ユーラシア研究に対してはブリャート学会から貴重な寄稿がある。
円墳はモンゴリア高原西部のイラン系の太陽崇拝によるものであり、方墳は東胡というか、東部地域の大地崇拝
によるものであるとする。漏れの考えは太陽崇拝、天孫と大地崇拝、地祇はスキタイ的な住み分けを列島に持込んだ
というものだ。方形周溝墓、四隅突出墳が先兵として入った頃、天孫は高句麗、百済、新羅へと移動をして行った。
倭国成立の箸墓においては一応女王共立の形でであるが、天孫型の前方後円墳となった。最近の最前線はウラルの
アルカイム遺跡というのがある。これはアーリア系ではあるが前方後円墳と一脈通じるものがある。
http://rodnoverije.com/jpg/arkaim02.jpg
http://rodnoverije.com/jpg/arkaim04.jpg
http://rodnoverije.com/jpg/arkaim06.jpg
http://rodnoverije.com/jpg/arkaim07.jpg
http://rodnoverije.com/jpg/arkaim08.jpg
826がいやまん:2005/12/13(火) 14:32:04
http://english.pravda.ru/science/19/94/377/15814_Arkaim.html
↑アルカイムについてはこういうのもある。
827日本@名無史さん:2005/12/13(火) 22:53:07
>>825
その2番目のやつ、西都原の鬼の窟古墳(鬼のいわや古墳)にそっくりだね。
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_on/
828白馬青牛:2005/12/14(水) 00:20:38
>>825
民族移動期の4世紀に騎馬民族征服王朝説に成立の余地がないとは
思いませんが、馬飼の地位の問題等疑問点もあります。
天孫概念(テングリ)は騎馬民族的であると思います。断定は出来ま
せんが。大地崇拝は農耕民的とも思えるのですが、大地崇拝は、
農耕以前の古い段階を考慮する必要もありますが。
まあ>824氏の反対者側の意見だけを出して、他スレでも同じ事を書く
工作活動もありますが、余程騎馬民族説は感情的に嫌われておるので
しょう。弥生人も縄文人も渡来した移住民なのに不思議です。
829日本@名無史さん:2005/12/14(水) 00:40:35
>>828
だから日本に騎馬民族的な要素がないとは言ってない。
が、「征服王朝」なんて説、
そしてそれを異常に支持する人間の方が、
よっぽど天皇家および日本人になにかしらの感情を持ってるのではないかな?
830日本@名無史さん:2005/12/14(水) 01:33:39
>>828
んじぁ、日本考古学協会第70回総会で、
「騎馬民族征服王朝賛成派」が何て言ってたのか出してみれや(ゲラ!)
831白馬青牛:2005/12/14(水) 02:57:39
>>829
征服王朝を支持する人間の方が、具体的にどの様な感情を持っとるんか?
「征服王朝」なんて説と決め付け、あなた自身全然反証がないゆえ
感情論と思えるんじゃが。
>>830
われは馬鹿か?考古学協会がどうであろうと関係あるまい。
わりゃは、わしのストーカーしとる者か知らんが、そうじゃったら、
他板で、わしが権威に諂う者を嫌うとるのはよう解っとろう。
それともわりゃは、なんじゃ余程権威や権力に弱い人間なんか。
つまらんのう。アカデミックな意見に頼らず自分の意見を言えいや。
最後にゲラ!か。ほんま低脳じゃわい。
832日本@名無史さん:2005/12/14(水) 07:52:24
>>831
>「征服王朝」なんて説と決め付け

あれは「説」ですよw
いつ正史になったのかな?
833がいやまん:2005/12/14(水) 07:59:23
西都原の鬼の窟古墳(鬼のいわや古墳)は天孫(天山山脈方面出自の蛮族という意味
または天神を奉じる部族という意味に過ぎないのかも)の最初に上陸(降臨)したところ
かな。
834がいやまん:2005/12/14(水) 08:05:13
しかし、古墳の入り口は沖縄、九州西部の墓同様、陰門を表しているが、女陰を
トーテムとするのは山戎であるとされている。山戎の影響も加味されていると考える
べきであろうか。
835がいやまん:2005/12/14(水) 08:26:24
岩戸、天然の陰門を聖地とする考えがあるとすると高千穂と出雲の加賀の潜戸である。
陰門の下部が開いた様は日本の弓を全開する様であり、漏れの考えでは多分夏至の
太陽の象徴であろうと思う。キサカ姫が黄金の矢を射るというのはアルタイのシャーマン
が山の頂上でタンバリン(銭太鼓)に陽光を通すのと同様の行為であり、銅鐸も後期に
おいてはこうした機能を果たしたのかもしれない。陰門の下部の開いた形の貝、たしか
ゴホウラとかいったか、これをブラスレットとして珍重するのは弥生末からではなかっ
たか。山戎系統が入り込んだのでは。
836日本@名無史さん:2005/12/14(水) 09:00:25
>>833
>最初に上陸(降臨)したところかな。

そう思うでしょ?俺もそう思った。
ただ、鬼の窟古墳は一応5世紀になってる。

実は日向の前方後円墳古墳はメチャ古くて、
3世紀中ごろにまでさかのぼるらしく、
大和と同時期に王朝があったみたい。
これをどう考えたらいいのか?
おそらく古伽耶を支配してた海洋民・隼人が、
この鬼の窟古墳の埋葬者を連れてきたのかもね。
837日本@名無史さん:2005/12/14(水) 09:41:50
836を訂正。

○実は日向の前方後円墳はメチャ古くて、
 3世紀終わりごろにまでさかのぼるらしく
838がいやまん:2005/12/14(水) 12:35:06
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/chiiki/h-mythroad_story/densetsu/36.html
鬼の窟古墳建設にかかわる伝承の背後にある意味は、西方の鬼のような
面体の人、すなわち、西戎が新参者として男性ばかりの集団で進入して来たところ
先着の山戎系(オオヤマズミ)はその労力と、技術を利用してこの古墳を建設した
ということであろう。これは初期の天の日矛集団でないかと思う。
839がいやまん:2005/12/14(水) 12:46:57
漏れはこの山戎は高千穂の峰に逆鋒を立てたり、韓国岳を制覇した部族で会ったの
ではないかと思う。串木野の金山もひょっとして古来から発見されていたのかもね。
クシフルという言葉にアイヌの金の滴の降るという言葉を思い出す。石板墓は沖縄にも
入っており、スキタイ式の階級制度を持ち込んだようだ。
840日本@名無史さん:2005/12/14(水) 12:49:50
日向(宮崎県)は、魏志倭人伝に言う投馬国で5万の戸数ですから、3世紀終でも
有力国だと考えられます。ただ鬼の窟古墳は5世紀でかなり新しいようです。
天の日矛渡来は3世紀末ごろです。
841がいやまん:2005/12/14(水) 18:57:11
投馬国の位置、意味については現在アルタイ、ヤクート、ブリャート方面の
専門家で拓跋の語源に関する検討が進んでいるが、トバの最も古い意味は
鹿のことのようである。いろんなことを総合して考えると鹿、方形周溝墓、四隅突出
墳は大地崇拝の信仰を持つような感じであり、山戎よりはツングースに近いのでは
と思われる。漏れは筑波、ツボケ、椿等は鹿に関連するもので東北、茨城などに
残る鹿に関する地名、神社と関係があろうかと思う。で、投馬国とは鹿で有名な
安芸の宮島あたりかなーって感じだけどね。わからん。
842ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :2005/12/14(水) 21:08:24 BE:316859279-##
     //
   _//
/ ||_ノ          __________________
\/// ̄\      /
 |> <_> \     | 我々の要求は、沖縄県における最大規模の大図書館の建設だ。
 く\___|    <
 |∇     \   | 明日宮内庁を爆破する。
  \__/       \
    |≧||≦ ̄|       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

天皇制と文明論 〜恐るべき国民統制のカラクリ〜
天皇制の実質的な地位は、明治政府の意図した絶対的権力に基づく国家思想そのもので
あり、社会整備や、教育現場における最高権力であった。しかしながら、その時代背景
には、権力者が独占的に政治と資本を支配し、その結果、国民の無権利や、不平等格差
が非難され、政治家への暴行、及び暗殺事件が多発していたことからも示されるように、
天皇制絶対主義という位置づけがなされたのである。
さらに、日本が軍事国家として巨大化していくうちに、天皇制絶対主義はこれとは違うもう
ひとつの様相を有してきた。それが世界でも有名な、植民地支配の象徴である。日本国民
はそれまでの不平等格差を政治家や天皇に向けるのではなく、侵略することによって解消
し、それこそ子供だけでなく大人までもが、天皇制の意義を見出すようになったのである。
世紀の大混乱の中で支持された天皇制絶対主義とその思想文学は、現代においても侵略的
意義(琉球民族とアイヌ民族の国家的侵略)の組み込まれた大和民族のアイデンティティー
そのものであり、他民族圧殺という民主主義プロパガンダを脈々と流しつづけているのである。
843日本@名無史さん:2005/12/14(水) 22:27:32
もう一つの邪馬台国それは大和朝廷のスレをご覧ください。
844日本@名無史さん:2005/12/14(水) 22:42:29
7世紀の半島の動乱で、多くの文官が日本に亡命してくるけど、
その中に多数の西域系の人間がいたんだろう。
彼らが記紀編纂にも大きな影響を与えたと思われる。
神武東征というのも、アレキサンダー大王との類似がよく言われる。
天照の岩屋隠れの話はキリストと似てるし、聖徳太子もそう。
彼らが持ってきた話が投影されてるんだろう。

こんな事言うと、実に味気ないが、
俺は神武東征というのは、せいぜい吉備あたりからじゃないかなと思ってる。
845白馬青牛:2005/12/15(木) 00:30:05
>>832
わりゃは、文章を解釈する能力のない低脳じゃのう。
わしゃ、征服王朝「なんて」説たあ、なんなら言うとるんで。
おどりゃ、わしにつまらん因縁をつけあがるが、わしを恐喝しとるんか。
ほいで最後にwじゃ?何じゃわりゃ、糞外道か。
「なんて」説たあ、なんなら。早う言えいや。
>>841
神話から見ると、山岳信仰と太陽信仰、日御子観念は、アルタイ的
共通要素と思えますが、大地崇拝信仰については、どうもよく解りません。
ツングース系の神話に大地信仰が類例として多いのでしょうか。
投馬国が安芸の宮島辺り可能性は薄いでしょうね。瀬戸内、特に安芸は、
人骨に縄文型が多く、山陰や広島県北部からの文化流入からして。
846日本@名無史さん:2005/12/15(木) 08:20:56
>>845
ここはID出ないからな。
誰が誰だかわからなくなってるんじゃないの?
まぁ、いいや。
で、あなたは4世紀後半から5世紀に夫余系騎馬民族が大和朝廷を立てたと言う
騎馬民族征服王朝説、
または3世紀に日向を征服し、大和に向かったというネオ騎馬民族説(早大・水野)は
どう思うの?
847がいやまん:2005/12/15(木) 10:30:57
>>845
ツングース系の神話についてはわかりませんが、その体系は中国の影響を受けたか
あるいは同系統のものであったのではと思われます。これは天壇、地壇などとして秦
の葬礼にも現れているようですね。方形墳墓の表現には天の部分はない。しかし、
日本各地には中国吉林省集安将軍塚古墳
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f3.jpg
のミニチュア版のようなのがあるので首長クラスとか、祭祀施設としては天を
表すものがあったのかもしれません。階級の分化と共に、また、前方後円墳の到来
と共に出てくるのかも。
848日本@名無史さん:2005/12/15(木) 13:12:42
日向が面白いのは、
海洋隼人特有の地下式墳墓、
大和系の前方後円墳、
そしてスキタイ系と思われる鬼の窟古墳などがある事だね。
特に鬼の窟古墳はスキタイ人そのものの墓だと思う。

好太王碑で示される半島の奥地にまで倭人が進出してた証拠かもね。

849がいやまん:2005/12/15(木) 13:35:44
地下横穴墳墓は騎馬民族キンメリア人の墓の様式だが関係はどうなってるのかな。
850日本@名無史さん:2005/12/15(木) 14:54:06
がいやまんさんは大好きだw
キンメリア人なんてマニアックな名前を教えてくれるんだからw
851日本@名無史さん:2005/12/15(木) 18:38:25
>>845

あんたは別のスレで大室古墳群の埋葬者の事を、
後に信州にやってくる高句麗系移民とごちゃ混ぜにして、
開拓民なんて言ってたよね?
でも大室古墳群は5世紀後半〜8世紀なんで、
何で200年近くこんな場所に住んでたのさ?
少しも開拓なんてしてね〜よ。w
そんで近くの前方後円墳の豪族たちとの地位をどうとらえるのさ?
まさか大室の埋葬者の方が上だと言うんじゃないだろうな?

彼らは大和系の豪族から馬の生産という仕事を与えられてたんだよ。
わかった?お馬鹿さん。
852日本@名無史さん:2005/12/15(木) 19:07:51
>>849
よく知らないけど、
むしろそのキンメリア人というのが元海洋民なんじゃないの?
海洋民が騎馬という文化をもつのは、
騎馬が海洋文化を持つより簡単だと思うし。

地下式墳墓というのは海洋民に多くみられるらしい。
日向の日下部一族も先祖が土の中から現れたという家系図もつらしいし。
853白馬青牛:2005/12/15(木) 21:57:15
>>846
これは良い質問。わし自身の考えは江上説より水野説に近いと思う。
ネオ騎馬民族は、井上光貞氏が、名前をつけて紹介されたと水野祐氏
ご本人が述べられておられる。王朝交代説と言うた方が良いと思うが。
わし自身は、王朝交代説そのものは兎も角、水野氏の述べられておられる
意見には尤もと思える部分がある。
水野氏ご自身の独立守備隊で蒙疆地区での戦争体験から日本軍は落馬、
馬を逃がす等混乱した所を敵の騎兵隊が一斉射撃をかけ、一回の進軍で
全滅した時に考えられたそうであるが、
「伝統的な騎乗訓練と熟達がなければ、騎馬戦や騎馬隊など作れるもので
ない。向こうの連中は後ろを向いて銃をかまえて、正確に射ってくる
のです、小銃で。日本の騎兵には出来ないですね。あんなものには絶対
かなわないと思った。」と更に日本へ渡来した集団は航海者とされながら
「日本の組織された水軍というのは伝統的に弱いのです。元来強力な存在
じゃなくて、それは船が小さく資力も無い為です。」と指摘されて
おられる。日本は伝統的に騎馬民族でもなく、海洋民族でもないとされる
意見は、頗る同意出来る。日本人は得意な歩兵主体であったと思う。
854日本@名無史さん:2005/12/15(木) 22:31:41
>>853
はぁ…
やっぱり敗戦というものが、彼ら(江上・水野)の精神に大きな影響与えたんだね。
と言っても、日中戦争は日本の55戦51勝1敗3引き分けなんだけどな。
まぁ話がそれてるんで戻す。

日向の古墳の副葬品にも、もちろん馬具が出てくるんだが、
やはり4世紀後半からなんだよな。
水野さんの説はそれよりかなり早い時期に日向を攻略(または同化)だっけ?
まったく物証が出ない以上、水野説は成立しないんだがどうする?
855白馬青牛:2005/12/15(木) 22:36:23
>>847
ツングースの神話、その体系が中国の影響も考えられるとされますが、
山岳信仰や日御子観念、太陽信仰はどうでしょうか。
それに古墳も流行に左右される部分があるでしょう。
>>851
騎馬民族説支持者の意見を無視し、自分の意見の反論には一切答えず、
考古学会第70総会で、自慰する某考古学者の受け売りか。
積石塚から、否定できるんか。開拓とは、他地域から信濃へ移住した
ことを言うとる。前方後円墳が大和系の豪族と断定できる根拠は
あるんか?低脳は考える知能もないらしいのう。
>>852
スキタイ以前の遊牧民であるキンメリア人が、元海洋民族?
海洋民族が経験もなく騎馬化するのは容易なことだとする根拠は?
856日本@名無史さん:2005/12/15(木) 22:53:18
>>855
>開拓とは、他地域から信濃へ移住した
>ことを言うとる

自発的に移住したのか、誰かにさせられたのかでは意味が違うでしょ?
前方後円墳(森将軍塚古墳など)の埋葬者より立場が上だったのか、彼ら積石塚の連中は?

>前方後円墳が大和系の豪族と断定できる根拠は
>あるんか?

はぁ?
前方後円墳は大和朝廷の影響という意味でしょうが…
信じられない事言うね。
まさかあれが騎馬民族的墳墓だと思ってるのか?

857日本@名無史さん:2005/12/15(木) 23:07:25
>>855
>騎馬民族説支持者の意見を無視し、自分の意見の反論には一切答えず、
>考古学会第70総会で、自慰する某考古学者の受け売りか

おまえ失礼だぞ。
じゃぁ聞く。
白井克也の日韓交差編年をもとに、
それでもなお騎馬民族征服王朝を言う人間の名前を出せ。
そんなのいないんだよ。
だから騎馬民族征服王朝なんて考古学界では誰も言わなくなったんだよ。

858白馬青牛:2005/12/15(木) 23:07:46
>>854
日華事変が、1敗と言う戦績とは考えられん。伊藤正徳氏の著作が影響を
与えたのであろう。冬季作戦や長沙作戦(特に第二次長沙、中国軍に敗れた
熊本兵団の戦史がそれにはふれず隠蔽し、当時の第11軍阿南司令官が、
作戦の失敗から進退伺いを懐中しておられたこと等、他板お国自慢板
「郷土の英雄帝国陸軍師団の歴史」で述べた。)
芷江作戦のみでなく、実際は負け戦も多い訳で。まあスレ違いであるが。
水野氏は、狗奴国も南ツングースが倭の漁民を統合した部族であろうと
される。水野氏は、南ツングース=騎馬集団とされておられん。
859日本@名無史さん:2005/12/15(木) 23:08:50
日清戦争よりも前に日本の侵略性は露骨化されていた!
日本は戊辰戦争において、アイヌ人の派生である東北民族を抹殺した。
世界史上これほどまでに残虐なできごとがなかったといわれてるほどの殺戮劇であった。
その犠牲者は1000万人を超える。
いまもって具体的な数字はわからない。
なぜならば、日本はこのことを欧米列強から隠蔽するために、
死体には火をつけ、骨を潰して、山に捲いたのである。
日本政府はこれらの真実を国連で公表し、謝罪すべきである。
そして、アイヌ人の末裔に、北海道及び東北地方を、割譲及び独立の承認、
1000兆円の賠償をすべきである。
日本政府は交付金以上に東北と北海道を搾取した結果、今の
ような歪な産業形態にある。
日本政府の搾取がなければ、奥州藤原氏の例を見る間でも無く
世界史上、最も豊かなアイヌ国家ができていた
860白馬青牛:2005/12/15(木) 23:27:11
>>856857
また岡安光彦信者の妄想か。前方後円墳が全て大和系じゃ言う根拠を
聞いとるんで。信じられんのは、われの都合の良い説のみを妄信する
態度にあろう。今度は、白井克他氏か。考古学会とやらをあてにしとる
ようじゃあつまらんど。岡光氏が騎馬民族論を逃げたように、(反論者は
相手にせずと言い訳しておられるが)考古学会では有効な反論が出来ん
のが実情であろう。
861日本@名無史さん:2005/12/15(木) 23:27:54
群馬県剣崎長瀞10号墳の例にも示されるように、
早い段階から馬匹生産拠点となる地域の多くには、
朝鮮半島の文化の影響が強く及んでおり、
初期の馬匹生産者の主体が、
朝鮮半島から渡来したことを明確に示している。
ただし断るまでのこともないが、
彼らの墳墓は、一般に倭の地方墳墓群の一画を構成する場合が多く、
しかも比較的劣位の地位を占める。
朝鮮半島からこの期に渡来した馬匹生産集団は、
平和裡に倭の地方社会に組み込まれたことが判る。
騎馬民族日本征服説のような好戦的議論が成立する余地はない。

日本考古学協会第70回総会 発表要旨 (2004年5月23日発表)

岡安光彦 
862日本@名無史さん:2005/12/15(木) 23:32:51
>>860
>岡光氏が騎馬民族論を逃げたように

岡光って誰?w
で、いつ逃げたんだ?
で反論者の名前言ってみろやw

水野説を信じてられるようだが、
>>854について反論を。
863日本@名無史さん:2005/12/15(木) 23:37:30
>>白馬青牛
>前方後円墳が全て大和系じゃ言う根拠を
>聞いとるんで

あれ(前方後円墳)が騎馬系墳墓だという根拠を言え。
864日本@名無史さん:2005/12/15(木) 23:48:14
>>860
>>白馬青牛
>われの都合の良い説のみを妄信する
>態度にあろう

それはおまえじゃないかwww
あほくさ…寝よう。
865日本@名無史さん:2005/12/15(木) 23:53:27
単に半島から騎馬文化が伝わって交通革命の時代が来ただけ
なんじゃないかなあ。

アメリカから自動車が伝わって交通革命の時代が来たのと同じ。

866日本@名無史さん:2005/12/16(金) 00:04:43
>865
その通りです
867白馬青牛:2005/12/16(金) 00:43:45
>>861862863864
岡安氏の論に対しては「天皇家は何処から来たか」に書いた。
ほんまに、馬鹿たれじゃ。岡光は、岡安氏のことにきまっとろう。
文章全体を解釈せいや。わしゃは、水野氏の信者でもない。水野氏は、
狗奴国、仁徳、継体の王朝三交代説を云うておられる。確かに日向の
件は、文献に頼っておられる部分があるとは思うが。
前方後円墳が、騎馬系墳墓とは何か?人の意見を勝手に捏造すな。
前方後円墳も前期と後期等時代によって違う。地方も含め大和系と
断定出来るんかと聞いとるんで。最後はあほくさで結局反論できんのか。
わりゃは、早う寝た方がええよ。子供が起きとる時間じゃないど。
868日本@名無史さん:2005/12/16(金) 00:57:52
>前方後円墳も前期と後期等時代によって違う

副葬品はね。
でも古墳の形態(流れ)は同じでしょ?

一番分かりやすいのは、例えば…
3世紀半ばから作られた前方後円墳が、
4世紀後半から、急に積石塚に取って代わられたんなら、
アホでも高句麗系騎馬民族が日本を征服したとなるんだけどね。

でも実際はそうなってないもんね。

答えろや、ボケ!
869白馬青牛:2005/12/16(金) 01:37:26
>>868
古墳の埋葬者が、同一種族に属すると云う根拠は?
高句麗人が吉林、集安時代の積石塚から、平壌期の盛土塚に
変わったんはどうなるんか。異民族が高句麗を支配したんか?
古墳形態は、その時代の流行を表しておる物ではないんか。
前方後円墳の流行もしかり。
答えろや、ボケ?どこの言葉なら。答えいや言うんなら解るが、
答え「ろや」、たあ笑わすのう。
870日本@名無史さん:2005/12/16(金) 08:21:55
だ〜か〜ら…
3世紀半ばから始まる前方後円墳が、騎馬民族の墳墓なの?
これだけ答えてくれ。
871日本@名無史さん:2005/12/16(金) 09:08:34
前方後円墳に埋葬されている人物というのは、
古代の天皇陵がおしなべて前方後円墳であるように、
都と同じ、大王と同じ墓を模倣して造ったその地域の最有力者たちのお墓です。
その前方後円墳が飯田周辺に集中しているということは、
この地域の政治権力なり政治的基盤が五世紀代以降いかに強かったかということを
証明しています。
そして、この前方後円墳に埋葬されている人たちが馬と非常に関わりが深かった集団であったことは、
中央の大和政権がいかに馬というものを重要視していたかということの現われだと思うのです。

ところが、前方後円墳の堀の中からは馬が出てこないのです。
前方後円墳の周りの中小の円墳群、例えば茶柄山古墳群のような、
あるいは新井寺所遺跡のような円墳から馬葬例が出てくる。

前方後円墳に埋葬されている人物の配下というか、
従属する集団の墳墓の周りから馬が出てくるということは、
五世紀以降の、馬を媒介とする重層的な支配構造が見てとれるのではないか。
大和政権と深い関係を持ちながら、
馬の飼育に関わった伊那の地域集団の有力者たちは中央政権とかなりダイレクトに直結していた。
その首長たちは、自分の配下に、馬の飼育をする技術者集団をかかえていた、ということになります。

そういう構造が最近の飯田市周辺の状況から見てとれるのではないか、と私は思います。


大塚初重 明治大学名誉教授
872がいやまん:2005/12/16(金) 11:49:43
>>855 白馬青年さん 2005/12/15(木) 22:36:23
>>847
>ツングースの神話、その体系が中国の影響も考えられるとされ
>ますが、山岳信仰や日御子観念、太陽信仰はどうでしょうか。
>それに古墳も流行に左右される部分があるでしょう。

ツングースの神話が中国の影響を受けるというのはよくないですね。
取り下げます。神話というのは民族・国家が成立し、コンセンサスに
よる万神殿(八百万神)が成立してそれに整合する、または、日本の
ように両論併記の形でいわば登記が行われてのことだろうと思います
が、ツングース諸民族は日本で言えばまだ語り部の段階でのようです。
ただ彼らはその原郷、
http://mion.isu.ru/pub/turov/images/9_1.gif
http://mion.isu.ru/pub/turov/images/9_2.gif
http://mion.isu.ru/pub/turov/images/9_3.gif
http://mion.isu.ru/pub/turov/images/9_4.gif
を離れて、中国北辺で西方及び中国の各種神話に触れるにつれ、自分たちの神話
体系のようなものを持ち始め、あるいは、それらの影響を受けて日本列島に入って
きたともいえます。朝鮮という言葉はアルタイのトィヴァ国立大学教授はアルタイ語
のチャア(鹿)+ゾン(日子)であり、匈奴が言葉を伝播させたのでないかとしています。

873がいやまん:2005/12/16(金) 12:17:40
山岳、太陽などについては上記
http://mion.isu.ru/pub/turov/images/9_1.gif
これの左下に、ツングースではなくアルタイ部族として、
19 - クマンヂン; 20 - トゥバラル; 21 - テレンゲト; 22 - アルタイ-キジ(人);
23 - 白鳥族; 24 - ショルツ
というのがあります。このうちクマンヂンは日本の奈良、新潟、関東
に多い陽根崇拝風俗をもっておりますが、なんといってもこの地方にある
高地性集落は弥生末に瀬戸内海沿岸、その他各地に蔓延した
高地性集落と同じ遺構を残すものです。
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_01_02.GIF
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_01_04.GIF
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AR_01_05.GIF
http://e-lib.gasu.ru/da/archive/2003/11/img/14-1.gif
この地には伊勢遺跡のように山岳を遥拝するようなものも見られます。
http://belsu.narod.ru/tur-xak/03.jpg
http://belsu.narod.ru/tur-xak/04.jpg
これらを「アルタイ高地性遺構(スヴェ)」といいますが、現地ではその目的に
ついて日本同様明確な結論を出していませんが、漏れは次のような仮説を
持っています。
874がいやまん:2005/12/16(金) 12:54:05
BC17世紀、ウラルの木槨墳(シャク土ドコウに正倉院式ログ井桁を収めた上に土の
マウンド、クルガンをかぶせるもの)文化が黒海沿岸をエーゲ海に南下する際、その
経路のギリシャ、ラテン、インド等印欧諸語に*teikosという城砦を意味する語根と共に
アクロポリス的逃げ城、山城ができる。アルタイ地方の青銅器時代から数百年後のこと
である。漏れの仮説はこのノマドは後に海の民となる。キンメリアもその末裔。日本に
やってきたのは始皇帝、また、ローマ皇帝によってその技術を長城建設に転用された
辺境蛮族の末裔であろうと思う。すなわち瀬戸内海などでは早期警戒システムが
必要とされた。漏れが隼人の地下横穴墳と高地性集落の共通項と見るのは異民族
の来週が激しくなった時代の墓荒らしからの防御技術ではないかということなんだ。
875がいやまん:2005/12/16(金) 13:33:27
天孫に追われ三界無宿、義経のような身となったタケミナカタであるが、もし、ウラルの
逃げ城、駆け込み寺を意味する陶、諏訪という言葉の意味がその頃まだ通用していた
とすれば彼の逃亡には意味があるし、場所は違うが善光寺は日本人の例のすべての
集まるところといわれている。タケミナカタの方は諏訪に逃げたのだ。
さて、大塚先生御提供の
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f19.jpg
これは四隅突出墳のデラックス版が真っ二つになったような感じであるが、これこそ
タケミナカタの墳墓ではないのかな。
876がいやまん:2005/12/16(金) 13:48:55
長城を思わせるアルタイ高地性遺構スヴェとしては↓がわかりやすい。
http://e-lib.gasu.ru/da/archive/2003/11/img/14-1.gif
日本には富士山山麓にもあるようです。しかし、今年は道東などは鹿の
増えすぎで金網の塀を作っていますし、京都北部は猿で同様です。
877白馬青牛:2005/12/17(土) 00:26:20
>>870
>3世紀半ばから始まる前方後円墳が騎馬民族の墳墓?
わしゃは、そがいなこと言うとらんど。勝手に決め付けなや。
時代を遡って、四隅突出墳も人骨から新モンゴロイド北方民族の形質を
持っておるが、騎馬民族ではあるまい。高句麗自体が、騎馬民族と
するのも問題がある。日本紀元後の大興安嶺以東の諸民族は、室韋・挹婁等
さほど騎馬民族化されておらん民族も多い。また高句麗の服装の右衽漢化と
多少違う集団が日本へ移住したのではないか。ほいでわしは、他スレで
北方民族の列島移住が埴輪の服装からも考えられると言うたんじゃ。
>>872
ツングース系が中国西方と関わりが深いとは思いませんが、神話体系は、
アルタイ系共通のものと、またトルコ・モンゴル・ツングース系と
分類できるものもあります。古朝鮮の髪型は、「朝鮮列伝」から
槌型に結う習俗で、(高句麗も同じような髪型ですが)
「西南夷列伝」の雲南の農耕民と近い。雲南の羌系牧畜民は弁髪です。
北方諸種族の辮髪、髠頭等髪を垂らすのと違います。『北史』や
『旧唐書』から日本の上層部は、髪を垂らし、庶民や蝦夷は、髪を結う
習俗でしょうか。
878日本@名無史さん:2005/12/17(土) 00:40:28
>>白馬青牛

大塚先生も言っておられるがな。
同じ地域で同じ時期に別の系統の古墳があれば、
その両者の主従関係を考えるのは当たり前だろ?
で、

>信濃の国には国営牧場が一六あったことが延喜式などに出てきますが、
>その中に大室の牧が出てきます。
>この牧場の牧監(監督官)は朝鮮半島の出身者であって、
>大変な功績があったということで、大和政権から位をもらっています。
>それは平安時代のことです

大塚初重 明治大学名誉教授

つまり、後世に位をもらってると言う事は主従で言う「従」だよな?
もらうんだから。
ならば5世紀の大室でも「従」だったのは当たり前だよな。
まさか、あなたは5世紀には大室側が「主」だったとでも言うのかな?

879白馬青牛:2005/12/17(土) 02:37:49
>>878
信濃の高句麗人は、平安初期に掛婁や前部等の部族名を日本風の村上や
玉川に改姓したので、その時期を同化期とも考えられる。
大塚氏の朝鮮半島を強調する意見も、高句麗は満洲も含んでおるので、
同意し難い。功績は神亀元年、蝦夷との戦闘で、部軍格高句麗人、
後部王起の事は以前書いたが、武力を持つ軍事集団でもあったと
考えられる。森浩一氏によると、積石塚集団は、甲斐の巨摩郡や
武蔵の狛江まで含め、「一つの大きな国の領域といってよいでしょう。」
とされる。
大塚氏が信濃の前方後円墳の首長とされる人物が大和王朝系か
出雲系かそれとも高句麗系集団の首長か定かではあるまい。
どうもあんたは、東日本人で、中世以降の東日本的同族制隷属主従関係が、
普遍的で古代に遡れると考えとるんかのう。
880日本@名無史さん:2005/12/17(土) 08:38:15
>>879
大塚さんが、「古代の天皇陵がおしなべて前方後円墳であるように、
都と同じ、大王と同じ墓を模倣して造ったその地域の最有力者たちのお墓です」
と言うように、ある地域に前方後円墳があれば、
大和朝廷の影響下にあるとみるのは当たり前だよ。
そこまで否定する人なんていないよ。
もちろん埋葬者は大和から派遣された者か地元の者かは断定できん。

なら、その高句麗集団が、森が言うように「一つの大きな国」であるんなら、
前方後円墳の連中との力関係または主従関係が生じてくるだろ?
まさか大室の高句麗連中と飯田の前方後円墳の連中が、
お互い対等でにらみ合ったまま200年近く過ごしたのか?
881白馬青牛:2005/12/17(土) 23:00:03
>>880
まず当時の社会制度をどう解釈するかに関わる問題でもあろう。
松田壽男氏の大人について述べられたことも参考として、当時の首長とは、
下から推挙された大人(オトナ・おそらく選挙により選出された氏族の
リーダー)であり、上から与えられた官僚と対等に並んでおる。それが
上からの政治力により、崩れていく点に封建制度の起源を求めるとする
もので、社会制度の考察なく、中世関東的封建制従属関係から古代を
想定するのは可笑しい。当時の社会制度をどう考えてとるんか?
あんたの意見を聞きたい。
ほいで主従か対等かと単純化、二者択一する問題ではあるまいと、
わしは言うとるんで。大和王朝が蝦夷討伐で、信濃高句麗系豪族の
軍事力に頼るんは、兵站の問題もあり、現地豪族の協力も必要とした
ことは、大和王朝の朝鮮遠征の記述や後の倭寇の活動と共に重要であると
思えるが。軍事協力を求める方が、協力する現地豪族を単純に支配という
一言で解釈出来るんか?現地豪族にも妥協、利益がないと協力出来んよ。
882日本@名無史さん:2005/12/18(日) 00:25:23
鴨緑江の流域の集安周辺や慈江道には、それぞれ何万という積石塚があるらしい。
日本人の考える「古墳=首長の墓」という概念とはかなり違うよな。
いくらなんでも、そんなに何万という首長がいるわけないんで、
高句麗ではごく一般的な人でも積石塚に埋葬される習慣があったんだろう。

大室古墳が2世紀にわたって500基という事は、どんなもんだろう、
古墳が出来始めた5世紀終りごろで、当初20人前後の集団ではないだろうか?
そこから子孫が増えたのだろう。
どっちにしても、そんなに大した人数が来たわけではなし、
あれは豪族ではない。
森さんが関東の積石塚集団を「一つの大きな国」などと言うのは、
「古墳=首長の墓」という日本的概念をあてはめてるだけで、
間違いだと思う。
やはり、馬匹生産の為の受動的移住と見る方が正しいと思う。

騎馬民族征服王朝説が、ひょっとして当たってたのか?と思える、
最後の事例であろう5世紀後半の信州および関東でさえこの程度なんだから、
まして河内平野に大王陵墓を作ったなんて、とんでもない話だと思えるわけだ。


883日本@名無史さん:2005/12/18(日) 00:39:08
それと言い忘れたが、
好太王碑にみられるように、
倭が半島奥地にまで進出したのだったら、
当然、高句麗の捕虜を取ったのは当たり前な事だし、
馬匹生産が急務だったであろう時期に、
彼らを日本に連れてきたのも当たり前だと思うのだが。

それと大室古墳の埋葬者を関連付けるのは間違いだろうか?
884日本@名無史さん:2005/12/18(日) 01:04:46
>>882
20人前後の集団が、500基まで増えないと思うが。
その規模はともかく豪族だろう。
885日本@名無史さん:2005/12/18(日) 01:21:28
>>884
でもその「豪族」が、
後に平安時代に中央政権から馬の生産により位をもらうという、
「従」の立場になってるよね。
なんでだろう?
まかり間違っても中央を征服する立場にはなってないよね。

5世紀に騎馬民族(高句麗系)が倭の中央を征服したというのは、
思いっきり無理があるとは思えないか?

886日本@名無史さん:2005/12/18(日) 01:36:43
>>885
騎馬民族が征服したとは思わないよ。
思いっきり無理があるに同意。

「大室の集団」も組織としては、
支配階級(豪族)と技術者があったんだろう。
887日本@名無史さん:2005/12/18(日) 01:53:39
>>886
うん。
で、その支配階級(豪族とは、
前方後円墳の埋葬者であり、その従として陪塚の埋葬者があり、
さらにその従として大室古墳群の馬匹生産者(技術者)という図式なら大賛成だ。
888白馬青牛:2005/12/18(日) 03:59:54
>>882
信濃の高句麗系は、大室だけでなく、松本市郊外の針塚という積石塚も
あり、またこれからも色々出てくるであろう。しかも平安初期まで高句麗
部族名を名乗る集団であったことは重要じゃ。
人口移住を広い視野で言うと5世紀いや4世紀前後が世界的に北方民族の
移動期であった事から、日本だけが、世界的に例外であるとする根拠の
方が難しい。
>>883
倭が高句麗と闘い勝ったんなら、兎も角。逆に捕虜となった倭兵が多いと
言うことになる。まあ捕虜を取ると云うんは、現地の足弱の農夫を
拉致して労働力とする。奴隷として売買する。農夫であっても兵力不足と
なると戦争へ狩り出す等、様々な要素がある。兵士が投降、捕虜になれば、
かつての味方と戦闘する意味にもなる。近代以前はそういうものであろう。
>>885
山地民の高句麗を騎馬民族と定義するのも可笑しいが、
信濃の高句麗系が中央を支配したと云う説は聞いたことがない。
889日本@名無史さん:2005/12/18(日) 10:21:57
今のアメリカ兵でもイラクの捕虜になったりするし、
第二次大戦でも日本にアメリカ兵の捕虜がいたりした。
当時の倭が、彼ら高句麗から馬や馬具を奪ったのは充分考えられる。

中央を支配した云々と言うのは信濃の高句麗系という意味じゃない。
騎馬民族征服王朝説が成立するんなら、
高句麗(夫余系)が4世紀後半に河内平野に、
何故、大積石塚古墳を作らなかったんだ?という意味だ。
後から来た信濃の連中はちゃんと積石塚を作ってるじゃないか。
890日本@名無史さん:2005/12/18(日) 12:04:41
そもそも好太王にある戦いで負けたからといって半島に倭の版図がなくなった訳でもなし
891日本@名無史さん:2005/12/18(日) 23:36:06
江上説の成立の余地はないな。
892日本@名無史さん:2005/12/18(日) 23:52:49
>>888
>平安初期まで高句麗部族名を名乗る集団であったことは重要じゃ。

彼らが自分たちの意思で日本に来たとお考えなのかな?
馬の生産のために移住させられたのだろう。
893白馬青牛:2005/12/19(月) 00:16:40
>>889
わしが近代以前と言うと、現近代を例に挙げるとは。まあええ。近代でも
日華事変などは、歴史を遡って考える参考となる部分も多い。
ほいで、倭と高句麗両方に捕虜がおったであろう。阿倍比羅夫の
粛慎征伐で現地蝦夷を自軍に加え兵を増やし、後の倭寇が済州島や半島で
賤視された集団を含んで大集団となった様に、倭軍は朝鮮半島南部の
者も多く含んだんであろう。戦場における掠奪、徴発の旨みは、協力した
現地の者にも分け与えにゃいけんしのう。
高句麗が、北朝鮮を支配し平壌に都とした時、積石塚よりも、
大多数が盛土塚で何故積石塚を作らんかったんか。同族の百済も、
石室をもつ土塚なんか。これをどう解釈するんか?
>>890
版図という、近代的な面の世界で、当時の遠征を解釈出来るんかのう。
陸上的な面の世界でなく、拠点を押さえる海上的な点と線の遠征も
考慮する必要もあり、地図に領域の色を塗るんと違うよ。そして
協力する現地民の利益も考えんとねえ。
894白馬青牛:2005/12/19(月) 00:33:33
>>892
馬の生産の為なら、漢氏・史氏・田辺氏等、河内摂津の帰化馬飼い集団を
移住させても不都合はあるまい。河内の高句麗系の大狛連や嶋本や
摂津の高句麗系の桑原・日置・高安(狛国小須々之後也)よりも、
馬飼い集団として名高い。近畿の高句麗系が信濃と違い部族名を
名乗っておらんことも注目出来る。
彼らが、自分たちの意思で日本へ来たのではないと言う根拠は
どういうもんかのう?
895日本@名無史さん:2005/12/19(月) 01:01:36
>>894
だから、彼らが自分の意思で来たとしても、
ただ単に豪族(の可能性がある)であっただけでしょ?
飯田の前方後円墳の埋葬者より立場が下の…

ここは騎馬民族征服王朝スレですからね。
河内を支配し、大王陵をたてたという根拠は何もないですから…
896日本@名無史さん:2005/12/19(月) 01:09:47
>高句麗が、北朝鮮を支配し平壌に都とした時、
>積石塚よりも、 大多数が盛土塚で何故積石塚を作らんかったんか。

途中で面倒になったんだろう。
大室にも積石と盛り土が半々なのがある。

>同族の百済も、 石室をもつ土塚なんか。これをどう解釈するんか?

百済は倭系だから。
897日本@名無史さん:2005/12/19(月) 01:14:33
>>白馬青牛
高句麗の古墳が変遷してようがどうでもいいんだよ。

日本固有の前方後円墳の形をを、騎馬民族的死生観で説明してくれ。
898白馬青牛:2005/12/19(月) 02:41:09
>>896
組織を縦に組みたがるんは、東日本人と朝鮮人の特徴であろう。
何度も同じ主張を繰り返すんで、途中面倒になったんはその通り。
東日本人・中国人・朝鮮人の極東三大原理主義者は、同じ主張を繰り返す
ことで、自分の正当性が証明されると考えとるんじゃろう。百家争鳴が
平気な三大民族ゆえ、うんざりすることもあるよ。 
高句麗も通溝時代から積石塚と盛土塚の両方がある。墳墓の構造の
異同が、その埋葬者の文化の異同を示すものではあるまい。
前期古墳の竪穴石室埋葬方から4世紀頃高句麗で成立したとされ、
百済、日本へ定着した南側に入り口を開く横穴式石室へ変わるのも
全てが高句麗系であったことにはならんのと同じことじゃ。
ほいで、百済が倭系であることを詳しく述べよ。
>>897
前方後円墳が、日本固有?断言は出来るんか。しかも大塚初重氏が
そう言われたんか?北朝鮮に前方後円墳の祖型と思える物があると
言われたんじゃないんか?                                                                
899白馬青牛:2005/12/19(月) 02:54:06
>898で書いたのをどうせ言葉尻でカバチたれるんじゃろうけえ、
訂正しとこうかい。
大塚氏は、北朝鮮の慈江道のそれは前方後円墳かは、まだはっきりして
ないとされる。検討の余地はあると言うことじゃ。
900日本@名無史さん:2005/12/19(月) 08:36:03
組織を縦に組みたがるって、5世紀といえば大和朝廷の絶頂期なんで、
そんな時期に彼らが来たんなら、
何らかの縦社会に組み込まれるのは当然だよ。
大塚さんの言う重層的な支配構造は誰でも理解できる。

北朝鮮が自国にある前方後円墳らしきものを、
日本より300年も早いと主張してる時点で変だ。
副葬品も調べないうちにね。
自信があるんなら調べればいいだけだし。
だいたい300年も前なら、その連綿性が説明できない。



901がいやまん:2005/12/19(月) 08:45:04
遼寧・瀋陽の清朝の陵墓で「これが日本の前方後円墳のモデルです」と説明された
時には笑った。しかし、今その子供っぽい説明に笑えない。清朝が前方後円墳を
模倣することはありえない。それは古代からの円墳の伝統をとどめたものだろうから。
しかし、コンクリート製であったが、その説明はなかった。
902日本@名無史さん:2005/12/19(月) 10:52:30
騎馬民族説とは離れるが、
珍敷塚(めずらしづか)古墳の壁画が、
エジプトと類似性を言われたりすると、
もう考えるのが面倒くさいんで
エジプト系が来たんでいいじゃないか?なんて思ってしまう。w

騎馬民族征服王朝説は成立しないが、
鬼の窟古墳のスキタイ系墳墓との類似性といい、
なんだかいろんな人が日本に来ていたのは事実だな。
903がいやまん:2005/12/19(月) 17:27:12
騎馬民族征服王朝ではなく、騎馬民族文化担架者との交流が深まったというべきか。
中国北部にも大きな影響を及ぼした鮮卑などの影響と同様の時代の波だろう。ユー
ラシアの絵画にはエジプト式の立像型と日本の合戦絵巻のような常に動的なものとの
2種類があるそうだ。エジプト方は珍しいがユーラシアにはたまにあるようだ。
904日本@名無史さん:2005/12/20(火) 00:09:39
>広島タソ
相変わらず東日本従属社会、河内摂津の帰化馬飼い集団とか言ってんのw

河内の渡来系豪族は、主に百済系だって何度も言ってるのに。
騎馬民族なんかじゃない。
信濃の高句麗人の方が騎馬技術は高いんでないかい。

>>879の、
>信濃の高句麗人は、平安初期に掛婁や前部等の部族名を日本風の村上や
玉川に改姓したので

という部分は、後の戦国大名・村上氏に系譜的に繋がってると思う。
信濃の高句麗系豪族は、科野国造系有力豪族の支援を受けてたのかもしれないな。
905日本@名無史さん:2005/12/20(火) 00:26:17
当初、馬匹生産の為に信州や関東に移住させられたが、
充分な功績があったという事で、後に豪族になっていったとも考えられるな。
906白馬青牛:2005/12/20(火) 01:19:48
>>904
やはり、東国史観人が現れたか。河内の渡来系豪族の漢氏田辺氏等が、
百済系と一言で済ませるが、百済系でも多々種族がおり、一様ではない。
漢氏のツングース的な腹(ハラ)氏族制、河内の馬飼い渡来人同士
(書首・田辺)の通婚で、夫の家で出産しておること。前にも言うたが、
婚家出産は、モンゴル人・満洲人・中国人や日本の近畿・中国・四国に
分布し、実家出産は、朝鮮・日本の北陸から東日本に多い。ただし
高句麗や平安貴族も実家出産型であるが。それゆえ河内の馬飼い集団は、
朝鮮半島的ではないと思える。
百済も俗を同じくする高句麗と共に騎馬民族とは言い難い。『北史』
百済伝に騎射を重んじるとあるが、それだけでは根拠にならん。
朝鮮半島事態、馬飼育に適した風土ではない。
>信濃の高句麗人が騎馬技術は高いと言うことは、百済人移住の多い
甲斐や新羅人の多い上野は駄目と言うことか。東国でも牛の糞に段々を
つけるんか?まあ、一面を見て判断するより多面的考察しんさい。
907日本@名無史さん:2005/12/20(火) 01:37:19
>牛タソ
腹(ハラ)なんてものは、渡来系じゃなくても見られるわけよ。
皇別系の上毛野氏とかな。
河内の漢氏は西漢氏で、坂上氏は大和の東漢氏だけど、
腹の関係で擬せられた坂上氏(漢氏)の系譜は坂上氏の創作だし、
関係氏族は擬制的血縁関係に組み込まれてるわけよ。

信濃にしろ、甲斐、上野にしろ馬牧が多いからな。畿内の渡来系豪族よりも
騎馬に練成される環境にあるだろう。
信濃は高句麗系が多いし、騎馬術は高かったかもな。

関東の渡来系豪族は遅い時代の方が多く流入してる(朝鮮)。
これらは、ずっと日本にいた渡来人よりも騎射術は高いんじゃないかと思うぞ。
半島の動乱で、上層階層が流れ込んでるからな。
908白馬青牛:2005/12/20(火) 03:03:33
>>907
上毛野氏の始祖、豊城入彦命の子孫は「東国六腹の朝臣」とあるが、
土師氏にもある。それと『新撰姓氏録』では例の河内の馬飼い渡来人の
田辺氏を上毛野氏と同祖で、「豊城入彦命の五世の孫多哥波世の君の後」
とある。渡来系とそれ以外を別けるんは、人類学的根拠でもあったんか?
坂上氏は、神牛の教えによって導かれたと云う始祖伝説もあり、
類例モチーフはヨーロッパに進攻したフン族にもあり牧民要素も強い。
わしは、ハラ(xala)氏族制が満洲やシベリアのツングース系にみられ、
起源はツング−ス系にあろうと言うとる。それを日本の関東的従属制と
いう狭い視野で考えるとは東国人らしいのう。
>近畿の渡来豪族よりも、騎馬に練成される環境?何じゃそりゃ。
東日本は、ステップ気候で、遊牧生活でもしとったんか?それにしては
関東武士の騎馬の拙劣さは笑える対象であり、もっと西行に教えて貰わん
とね。高句麗は山地に住んでおったんで騎馬民ではない。
騎馬に適さん朝鮮に長く住んでおって騎射術が向上するんか?
909日本@名無史さん:2005/12/20(火) 07:44:38
>>898
>高句麗も通溝時代から積石塚と盛土塚の両方がある。
>墳墓の構造の 異同が、その埋葬者の文化の異同を示すものではあるまい。

だからと言って、
すでに日本に定着してた前方後円墳スタイルを、
江上さんの言う4世紀後半にやってきた夫余系が踏襲してるのというのも変だ。
910日本@名無史さん:2005/12/20(火) 12:43:26
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=77096

腰掛ける巫女。
北方胡族だろうか?
スキタイと言っていいのかな。
で、聞きたいんだけど、この人達の宗教って何?
911白馬青牛:2005/12/21(水) 00:01:58
>>909
そのことを江上氏は、「北亜系の騎馬民族が征服王朝を樹立した場合、
その征服地それぞれの従来の形式、構造のものを採用したことが多く、
彼ら固有の墳墓様式をその征服地にまで持ち込んだ例はむしろ例外の
ようである。それで墳墓そのものの形式や構造は、その埋葬者が北亜系
騎馬民族の人物か否かを考える上にあまり役にたたないので、それよりも
そこに副葬されたものが(武器・馬具・服飾類など)問題であろう。
そのことは高句麗・鮮卑・女真・蒙古の場合でも、近くは満洲族の場合
でもはっきりしている。」とされる。
変だ。の一言でのうて、世界的に類例を出さにゃ江上説を否定できんど。
>>910
日本人でしょう。北方胡族と同じく筒袖の胡服。スキタイ的文化。
宗教は、おそらくシャーマニズム。道教の影響があったか定かではない
ので断定は出来ません。
912日本@名無史さん:2005/12/21(水) 00:53:53
上毛野氏(上野国)のカバネは君⇒朝臣で、出自は諸説あるが皇別系で名門大豪族。
後世に上毛野姓を冒した田辺氏系の上毛野氏は朝鮮渡来系で血統は全く違う。
神別系の土師氏(菅原・大江等祖)を言うなら、上毛野氏のような軍事力もない。
上毛野氏もそうだが、土師氏と騎馬民族はまるで結びつかないんだが?

田辺、書氏のは誉田陵の話か?それよか、何で王仁系の書首が馬飼なんだ?全然違うぞ。
つか、おまいさんは馬飼って「語」に翻弄されすぎだな。
そこから騎馬民族へと勝手に結び付けてるんだろうが、主に百済系だろう。
王権の騎馬文化を支えた代表的な氏族に東漢氏があるけど、これは安羅を中心とした加羅系だし
牛タソが言うような騎馬民族ではない。

他スレで論破されてるのに、また西行とか言ってるよ。。。
セイギュウ妄想武士論は、高橋氏の著作から都合のいい部分だけを抜き出して、荒唐無稽な事を
書き込んでたのバレたんだから、レスしない方がいいぞ。

都で盛んだった、動かぬ的を射る流鏑馬的な儀礼的武芸は、実戦における騎射術とは別のもの。
西行が都的な武芸名人だったのは確かだが、実戦経験の乏しい西行が、独自の自力救済の世界で
鍛え抜かれた坂東武士に、実戦で勝るって言いたいわけ?性懲りも無く。
そんな妄想は、強引な京マンセー説で多数の学者から反論されまくってる高橋氏だって言わないよ。

坂東武士の強さは、血筋(全体から見れば少数派)としての朝鮮渡来系豪族の影響も多少あるが
それより9世紀以降、関東の無政府状態の中で練磨された事が決定的だったわけよ。
その武力が結実したのが、治承・寿永期の源平合戦。
この時代には日本独自の騎馬兵の発展が見られるわけで、古代の朝鮮系豪族と強さでは
比較にならないんじゃないかな。
東国武士を貶す事は、武士を貶す事にもなるぞ。
913白馬青牛:2005/12/21(水) 03:12:14
>>912
後世に書いたものが、間違いで古いものが正しいと言う根拠は?
『新撰姓氏録』の例を出したのに、血統は全く違うと言う根拠も
挙げとらん。ほいでわしゃは、土師氏の四腹を言うとるんで。
5〜6世紀河内、摂津平野は馬の飼育地ではなかったという根拠は?
わしが、坂上氏には牧民的伝承がある言うとるんに答えず、同じ主張を
繰り返す。ほいで漢氏が安羅、加羅の任那系と言う根拠は?

他スレで論破されとるんはあんたじゃ。笑うたわい。反論にもならん戯言を
言うたら論破か。どうも東日本人は韓国人に似とる。
>高橋氏の著作から都合のいい部分だけを抜き出して荒唐無稽な事を
書き込んだ?そりゃ高橋氏のどの著作で、また何ページか書け。
嘘吐きが、姑息なことはすなや。儀礼武芸と実戦について高橋氏は
『武士の成立 武士像の創出』武芸にかんして(P173〜P176)に
書かれておられる。わしが言うまでもない。長々と妄想文を書いとるのう。
私闘レベル農民同士の喧嘩出入り程度が実戦か。結局あんたが、言いたい
んは、>東国武士を貶す事は、武士道を貶す事になるぞ。であろう。
兵の道に欠ける関東武士を持ち上げるつもりは無いよ。関東武士の影響が
強い土地柄の広島県人であってものう。まあ関東は越後の上杉に奴隷化
されたしね。関東武士末裔=広島人 関東奴隷民末裔=関東人と言う
ほうがええかのう。武士云々を言うんじゃったら卑怯なことはすなや。
914がいやまん:2005/12/21(水) 14:24:26
関東のやくざの起源は利根川水系にあるという。全国的に河童伝説のあるところには
当然川があるわけだが、ツングースの移動も水系に沿っている感じがする。日本列島は
弥生末期、倭国乱時代から奈良時代にかけてにかなりの渡来人を吸収したようであるが
水田(陸稲ではなく自然・人口の灌漑システムを具備した定着農業)が1000年間も普及し
一所懸命に土地にしがみつく先住民のいるところに渡来人が入り込むにはかなりの
苦労があった筈であり、丹後から山城の加茂川、桂川などの水系の地に渡来人である
白人の坂上田村麻呂のようなものが安堵されていたのであろう。話は変わるが関東は
馬がないと移動に苦労するところだ。
参考
田村
http://www.kanze.com/nonotayori/tamura.htm
征夷大将軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D#.E5.A5.88.E8.89.AF.E3.83.BB.E5.B9.B3.E5.AE.89.E6.99.82.E4.BB.A3
月山神社
http://www.pref.akita.jp/kadukenm/densetu/densetu_12.htm
坂上田村麻呂伝記
http://maoda.hp.infoseek.co.jp/tamuramaro.html

915日本@名無史さん:2005/12/21(水) 19:46:17
>>911の上
だからしつこく大室古墳の例を出してたんだが…
もし4世紀後半に来た夫余系が大和の形式を採用して河内に大王陵を作ってるんなら、
5世紀中頃に来た別の高句麗は、なんで大室に自分たち固有の積石塚作るんかな…
まったく納得できない。
まぁ、いいや。

で、副葬品で見ればだ。
例えば馬具と言っても、江上説から60年。最近は詳細な研究がなされてる。
東京国立博物館研究員・白井克也「日韓交差編年」など。
でそれを元に、否定説whttp://www.momoso.net/JAA2004.htmlがある
(また岡安氏で悪いがなw)
で、白井氏の研究を元に、岡安氏とは逆の征服王朝説を言う人はまだ現れてないみたいだし、
おそらくこれからも現れるかどうか、難しい。

俺は現れて論争を見たいのだがw
これが今の考古学界の状況みたい。

916日本@名無史さん:2005/12/21(水) 23:45:26
>後世に書いたものが、間違いで古いものが正しいと言う根拠は?
系譜・系図の類が、時代が下がると脚色されるのは普通のことだろ。

田辺史は渡来系氏族(百済系)で、田辺史の一部が名族である上毛野氏の姓を賜った。
『新撰姓氏録』には、漢王裔を称する田辺史があるだろ。

>ほいでわしゃは、土師氏の四腹を言うとるんで。
だから、腹の伝承を持つ土師氏に騎馬民族的要素がまったく見られないだろ。
腹的な系譜だったら、武家の系図にだって普通に見られる。七党系図とか。

>坂上氏には牧民的伝承がある言うとる
直接的じゃなくて間接的に考えられないのか?大陸系の伝承というものも。

>ほいで漢氏が安羅、加羅の任那系と言う根拠は?
またそれかよw渡来人スレで書いたの知ってんだろ。
漢氏=安羅を証明する具体的な説に、任那日本府の河内直を西漢氏の祖とするものがある。
笠井・山尾・加藤氏らの説。
河内直の祖(祖父か)は那千陀甲背という人がいて、この人物は加羅地域の在地首長とみられる。

あんたのレスは高橋氏の著作から、京マンセーの部分だけを抜き出してるだけだし
高橋氏の説と青牛説はまったく違うものになってるしw
そのP173〜176の部分も、近年の説から見ると外れてるわけだよ。
つまり反論としては厳しい。
現在の武士論研究では、実戦の騎射術と流鏑馬的な騎射術を同じに考える人はいないよ。

武士道なんて言ってないだろ。東国武士の騎馬技術の高さの事だ。
武士論で都合が悪くなると、謙信を持ち出すのも相変わらずだなw
そういう行為は関東だけに限らないし(島津に蹂躙された九州とか)、
奴隷にされて連れ去られたから、今の関東人の先祖じゃないな。
東北から九州まで坂東武士は所領を得て移住していったが、本国にも残ったぞ。
917日本@名無史さん:2005/12/22(木) 00:19:36
>牛タソ
罵倒どうぞw


関東に移植された渡来系豪族は、先住である在地豪族(つまり国造系)の支援を受けてたみたいね。
信州の高句麗人も、経済的に国造系豪族の恩恵は受けてたろうな。
そして逆に、騎馬文化や朝鮮・大陸系の高い技術を受け入れてたんだろうな、
国造系の在地豪族は。

考古学はさっぱり解らないが、中世の葬送でいえば、庶民は遺棄葬が普通に行われていたし
古代においても同じではないのかな。

古代の朝鮮人と部落差別を同一視する説もあるけど、それは誤り。
918日本@名無史さん:2005/12/22(木) 01:45:53
【牛レス返し忘れ】5〜6世紀河内、摂津平野は馬の飼育地ではなかったという根拠は?
そんな事は言ってない。でも東国の方が馬牧が豊富。
河内は特に朝鮮系の渡来人を集めて居住させたから、彼らが王権の武(騎射)の主体かもな。

百済など朝鮮渡来人を中心とする西漢人系の騎射は、河内物部氏の重要な武力だったかもな。
物部大連⇒西漢直⇒西漢人
ただ、物部大連家は滅亡したから、西漢氏もその後は振るわなくなったともいわれてる。
その後の物部氏の本宗家は、大和の石上社家の石上氏と榎井氏(雄君しか振るわずだけど)に
移ってるし。
東漢氏は蘇我系。

>>916は那千陀甲背じゃなくて、那干陀甲背
この説は、河内直が西漢直の構成氏族であるという事を前提としている。
919白馬青牛:2005/12/22(木) 02:03:04
>>915
世界史においての実例を出さにゃァと言うたんじゃがのう。
>>916
時代を遡ると事実に近いと言う実例を出せ。河内摂津の馬飼育について
答えておらん。腹氏族はツングース以外のどの系統を考えるんか。
武蔵七党系図は、平等の分裂か、宗族による支族の支配か詳しく述べよ。
伝承を否定出来まい。例えば北魏を建国した鮮卑拓跋部の伝承と
鮮卑石室の所在地は、ほぼ一致しとる。間接的であればどの種族からの
借用か示せ。漢氏=安羅説に、漢氏のものとされる新沢千塚古墳と
安羅現在の威安のものに類似したものがあるんか、また漢氏の伝承と
類似したものがあるんか。文献屋の引用だけでなく、多面的考察をせい。
>京マンセーの部分だけ抜き出しているだけとは何ページで全体の文章と
どう違うんか。おどりゃ具体的に書け言うとるんで。同じスローガンを
繰り返すのう。わりゃ、オオムか。近年の説たあP173〜P176を
読んどったらわかろう。関東史観の諸氏のことじゃ。
>武士道なんてと都合の悪うなるとごまかす。武士の精神には普通武士道と
考えるがのう。東国武士の騎馬技術の高さ?高橋氏の例の著書P224に
「伝統的な弓馬の術を身につけた武士は、主に都の武士、関東でも平家に
組織され、在京経験の長い面々」とされるが、関東武士の騎馬技術が高い
と思える部分を言えいや。
920日本@名無史さん:2005/12/22(木) 02:23:19
夜中なんだしアタマひやせよボケナスちゃんw
921白馬青牛:2005/12/22(木) 03:00:30
>>916917918
上杉によって関東が蹂躙されたことには違いない。
本国に残ったんは、ヘタレなんかのう。まあ関東は弱兵ゆえ仕方ない。
国造系が在地豪族と決め付けれん。まあ現地民が多数であったと思うが。
東国、蝦夷におそらく馬格のよい馬を求めたのは事実であるが、
平安期も東国の御牧から送られた馬を摂津の垂水御牧等で放牧しておる。
河内源氏等が東国に殖民する背景には、東国の生産力向上と良馬を
求める要素があったろう。当時東国は近畿人の植民地でもあったので。
また本宗家と関東隷属民発想か。氏族長は、推挙された者に過ぎん。
中世関東同族縦型社会をモデルにすな。
>>914
やくざと武士も近世以前は同類ですね。名乗り口上を述べて戦闘となる。
そして縄張り争い。大量殺戮の戦闘はおそらく元寇以降でしょう。
それ以前の地方の武士郎党などは軍人と言うより、博徒集団を想定した
方がよいでしょう。確かにツングース系は水系移動が多いですね。
川を遡れる小型の船が移動に便利でそれは日本的特徴でもありますね。
922がいやまん:2005/12/22(木) 10:55:03
筑波と拓跋(アルタイ学会では東胡では鹿の意であったとされる)は極めて似ている。
本来稲作には縁遠い「白樺、青空♭」的な民族は原郷の風土に近い中部、関東、東北
へと日本海経由で浸透したのでしょう。モンゴリア西部・アルタイ地方の円墳・太陽崇拝
(印欧・スキタイ系)とは三韓・九州など途中までは行動を共にしたであろうが、列島に
おいてはアマテラスのスサノオ追放のように穀倉地帯からは排斥されたものと思います。
西戎的(匈奴・鮮卑・突厥のようなもの)は外人部隊・傭兵的に穀倉地帯の豪族と関係を
結んだもので、たとえば、神武・ナガスネヒコのようなパターンだったのではないでしょうか。
そして太陽崇拝のアマテラス思想が水源崇拝などの旧勢力に取って代わる。これは
伊勢、濃尾平野などで行われ、相当の抵抗もあったようですね。
923がいやまん:2005/12/22(木) 11:03:10
白人であった坂上家は桓武に妃を出しているようですが、こうした形が古来の
豪族と渡来系の関係のオーソドックスな形であったかなーと思われます。
924がいやまん:2005/12/22(木) 19:58:45
白馬青年さんの弁髪の話、河童は頭頂の水がかれると死ぬといわれる。そして
頭から四方に毛が伸びている。これは白頭山の天池と渓流ではないか。河童
には三本指の手のあるのがいるといわれるが、銅鐸のシャーマンでシユウの
ように三本指がありますが、これは工人のまじないだと思われます。こうしたもの
とか河童の季節的移動とかを考えるとどうも移住してきた民族が穀倉地帯以外の
土地に住み着いてのではないかと言う様な感があります。
925白馬青牛:2005/12/22(木) 23:32:56
>>922
東胡系が、東日本へさほど多く移住したとは思えません。
確かに農作物では満洲系の物が多いでしょう。それは寒冷地に適応と
言う部分もあります。馬飼育も東日本は、弥生期から馬の骨の出土が
多いので、古墳期の影響とは言い難く、乗馬下手で、騎乗にも、口取りや
馬柄杓を必要とする形態は北方騎馬民族には考えられん習俗です。
東日本へ移住した集団も現地民習俗に同化したのでしょう。

>906の出産の地域類型や東日本では犂農耕が発達しておらず、
東胡系の室韋は農耕に犂を使っております。犂耕は西日本迄が範囲で
しょう。人類学的要素でも、西日本の方が北方型が多く、東日本人は
縄文的体質が強い。関東にも埴輪の胡服習俗を持った種族が流入した
でしょう。更に高句麗、百済、新羅人も。特に沿岸部の形質は短頭型で
あり、西日本の影響も考慮し伊豆、相模、安房、上総の方の海民的関東は、
内陸部関東と区分する必要もありそうです。
926日本@名無史さん:2005/12/22(木) 23:57:19
>河内摂津の馬飼育について 答えておらん。
答えた

>武蔵七党系図は、平等の分裂か、宗族による支族の支配か詳しく述べよ。
毎度お馴染みの青牛幼稚園入学試験かい。何で質問攻めで試したがる?w
擬制的な同族関係という点では共通してる。

>例えば北魏を建国した鮮卑拓跋部の伝承と 鮮卑石室の所在地は、ほぼ一致(ry
百万歩譲って坂上氏の系譜をそのまま受け取っても、出自は中国・漢皇室なんだが?
結びつける所も間違ってる。

>漢氏=安羅説に、漢氏のものとされる新沢千塚古墳と 安羅現在の威安のものに類似
俺が考古学がダメだと言ったら早速来たか。嫌みったらしい牛サンらしい。
なぜ、古墳を指定されてまで答えなきゃならないんだ?
檜隈近辺だと、東漢氏・漢人の集住地だったけど、旧葛城配下の渡来人が漢人として
改めて編成されて、東漢氏の支配下に組み込まれてるようだ。
ところで、新沢千塚古墳126号の被葬者は文人系統の豪族らしい。
日本では異例のガラス製品も、半島経由で入ってきたんだろう。
安羅の古墳は知らん。俺が読んでるのは加藤氏の論文「西漢氏の存在形態」など。

近江国滋賀郡大友郷に竈形代を伴う古墳=漢人、百済系氏族に息づく慣行(水野氏)
近江は西漢人が多かった地域。最澄出自の三津首など。

>文献屋の引用だけでなく、多面的考察をせい。
それをいい加減に受け取ってるから、おまいさんの珍説になるわけだw

>関東史観の諸氏のことじゃ。
近畿の学者が多く入ってるんだが?それに、下向井氏はあんたの地元だろ
後半の牛レスは相変わらずアホらしいね。・・・面倒だから後日。

物部氏(石上・榎井)の部分は何処に文句があるんだ?有名な話なんだが。
927白馬青牛:2005/12/23(金) 01:31:03
>>926
答えたと一言コメントか。まあええわい。擬制的同族をたれとるが、
加藤謙吉氏の本宗からの分岐や擬制的同族結合について民族学者の
大林太良氏は、「満洲族のハラ・モクンや、沿海州のツングース系諸族の
ハラのような父系氏族にしても、分裂してできた諸氏族の間に、
別に本宗・支族間の大きな格差とか、あるいは本宗による支族の支配など
ないのが普通であるからだ。世界的にみても、このような例は、
単系出目集団には決して珍しいことではない。本家分家関係からなる
近代日本の同族制の目で古代の社会を見るのは問題である。」と
述べられておられる。
>いい加減に受け取っているから?何じゃそりゃ。何で全面的に受け取る
必要があるんか。わしゃは、大林氏の江南からの漂流説には疑問を
持っとる。まあ、わりゃは、関東共産主義史観の信者じゃしのう。
全てを受け入れる信仰振りには関心するよ。
928白馬青牛:2005/12/23(金) 02:16:22
>>926
漢氏が漢皇室なら、唐の李世民も鮮卑系でなく、漢系で徳川氏も新田氏の
末裔となるんか。馬鹿らしい。系譜・系図をそのまま受け取る馬鹿が
何処におるんか。始祖伝説・伝承じゃ言うたんで。これを検討するんは
良いが否定したら神話学、民族学は存在出来んことになる。
近畿の学者や地元であろうと何の関係があるんか。確か地理学者の
鈴木秀夫氏が、西の学者は大きな仮説を立て学問を進める人が多い。
東の学者は、分析、専門に徹する人が多い。もちろん個々をみれば、
全く反対の例もある。といわれたように、個々で違うと言うことじゃ。
わしから視ると東日本人はどうも視野が狭く、旧陸軍参謀殿のように、
専門理論で妄想に発展する観念論者が多いように思う。個々人では
別じゃが。関東史観のことを言うとるんじゃ。どこかの新興宗教のように
「それは定説です!」と決まり文句を言う。最初に定説と前提条件をつけ
自慰する観念論にはあきれるよ。現実性の欠如と言えよう。
929日本@名無史さん:2005/12/23(金) 10:12:04
白馬青牛氏とがいやまん氏は結局何が言いたいんだ?
結局、騎馬民族征服説とやらは成立するのかい?
成立するとしたらどういうモデルを想定してるんだ?
930がいやまん:2005/12/23(金) 12:17:47
最近遺伝子によって、たとえば日本人の遺伝子にインド洋、チベット等と共通の
要素が発見されたりしている。これに基づいて遺伝子の専門家がさまざまな
人類の伝播経路の仮説を立てている。漏れの見る限り遺伝子研究家の仮説は
地球物理学、環境、考古学などの時系列変化をすべて勘案しているとは思われない。
また、縄文人などというが1万年もの間に民族の混血がなかった等というのは信じ
られない。漏れはこれといった主張を持つようなものではなく、今後2chの場において
ありとあらゆる可能性を討議すべきであるということだ。さて、騎馬民族がらみでいえば
北方騎馬民族の影響を受けたであろうと思われる文化が中国北部では長期に渡り
続いている。半島においても高句麗、百済、新羅などがそれである。これは日本にも
吉野ヶ里時代から影響がではじめている。これは移民を伴う場合もあった事であろう。
恥かしながら日本がどのように成立していったかはまったく霧の中だ。
931がいやまん:2005/12/23(金) 13:15:59
例の白人、坂上氏だが、こういう裏づけもありえるよね。↓
http://sayer.lab.nig.ac.jp/~saitou/japanese/human.html#12
932日本@名無史さん:2005/12/23(金) 15:38:13
>>930
そのことと「騎馬民族征服説」は関係あるの?
933がいやまん:2005/12/23(金) 17:24:14
あの問題は、スマソ、まったく意識していなかった。ところで、
「東アジアYAP+中では、チベット人が最も多様な集団であって、日本人の先祖となるhaplotypeを持っているが、これは古代にヒマラヤ方面から日本への移動があったこと
を示すものる。 さらにまた、YAP+のチベットから雲南省(中国南西部)への比較的最近
の移動は、雲南省人口集団のYAP+ haplotypesが均質であることを意味しているが、
これは雲南人口集団のマイクロサテライト多様性の低いことと、DYS392座における
ほとんど固定されたユニークなマイクロサテライト対立遺伝子からいえることである。」
http://hgm2002.hgu.mrc.ac.uk/Abstracts/Publish/WorkshopPosters/WorkshopPoster11/hgm0584.htm
934がいやまん:2005/12/23(金) 17:25:15
つまり、YAP+の日本への移動は縄文時代などではなく弥生末から奈良時代にかけて
起こったと考えられる。われわれは現在生存するアイヌ人を縄文人の生き残りだと
信じているようであるが、そうではなく、アイヌはオホーツク文化人と共に消え去って
いたという可能性も残り、いわゆる現在のアイヌ人がアルタイ地方から移住してきたと
いう可能性もありえるのだ。
935日本@名無史さん:2005/12/23(金) 17:43:19
よかたね。

はい、さようなら。
936がいやまん:2005/12/23(金) 18:20:44
漏れはチベット人のY染色体が日本人に対して先祖的であるという学術用語を
マジで考えたわけなんだが、地動説というか、縄文の始まる以前にバイカル湖
周辺から東西に分かれたYAP+の2つのグループがあったということも考えられる。
この場合アイヌの古謡に出てくる「金の滴の降るまわりに、銀の滴の降るまわりに」
といったアルタイ的な表現がどのようにしてアイヌ社会に入ったのかというのが不思議
何だが。
937日本@名無史さん:2005/12/23(金) 18:34:44
そうかそうか。

よく分かった。

938白馬青牛:2005/12/23(金) 23:28:05
>>929
騎馬民族征服王朝説が、成立するか否かは解らん。それが、江上波夫氏の
騎馬による征服という形をとったんか、梅棹忠夫氏の軍事編成力と
国家形成力を持った民族であるツングース水軍による征服王朝か、
あるいは水野祐氏南ツングースの段階王朝的なものか。水野氏の説からは、
禅譲的要素も見られる様に思う。
それとも傀儡として聖俗分離の俗の役割をしたんか。神話からも、
騎馬という要素は少ないが、北方的要素は強い。
神武東征伝説からは水路であり、梅棹氏に説得力があると考えるが、
船は、水戦の為でなく、輸送の手段であったと思う。仮に馬による移動が
あったにしても、輸送の手段であったろう。
水野氏のいわれる、壬申の乱で例の>906の馬飼い渡来系田辺氏が
騎馬集団による奇襲を提案したが、その戦法を誰一人認めない。中枢では
採用せず、その伝統は、名乗りをあげてわざわざ馬から落ちて組打ちして
いる。騎馬の組織運用に疎いとされる。確かに関東武士などその傾向が
強い。関東武士が騎馬技術に優秀じゃったとする>916野球少年君?
のは関東教信仰じゃし。
939日本@名無史さん:2005/12/24(土) 00:41:23
秋から妄想捏造広島人サンの相手が忙しく、日本史板にベッタリだよ
向こうはアホコテしかいないし(あっ、ここにも居たねw)

いちいち返してられないから、後でまとめてレスするぞ。3度目の論破へと。
とりあえず、馬の口取りの部分は高橋氏の本にはこうあるだろ。

(日本の馬は荒馬だから)
>こんな馬では危なくて仕方が無い。騎馬の士の口取りは普通は二人
>古代の健児は子弟から徴募される騎兵であるが、中男二人を「馬子」として与えられた。
>実際の戦場では徒歩で付き従う雑色や舎人が口取りの役割を果たす
>輪形と手綱を放した弓射も彼らの介助によって可能となったのであろう

つまり、口取りは古代から続く伝統で、坂東武士から発生したのではない。
こういう話を知ってて、↑のようなレスを続けるんだから性質が悪い。
牛サンのレスっていうのは、いつもこんな風に成り立っている。

大林氏のも返さなきゃかよ、マンドクセー
腹の語源がツングースから朝鮮を経由して、日本へと入ってきたという事は
誰も否定しないだろ。
大林氏が言いたいのは、東漢氏が同一の先祖(阿智使主)から分れたという事では?
北方から来たなんて言ってないと思うんだが?
加藤氏は、腹が擬制的な同族集団のまとまりだと言ってるわけで(もちろん有力な説)
そもそも、ツングースは関係ない。

それと、田辺史の氏族形態についても誤った認識をしてたのに
それに対する言い訳も無しかいw
いつもそうだけどね、おまいさんは。
940がいやまん:2005/12/24(土) 09:24:23
分かりがいいようなので、最近の諸説を批判してみる。
「宝来聡・総合研究大学院大学教授(人類学)の研究では、アイヌ民族の
88%にYAP+がみられる。」漏れは残りの12%のYAP(-)アイヌ民族、
タイプ1こそ縄文人の生き残りと見る。
941がいやまん:2005/12/24(土) 09:25:51
「中堀教授は、YAP+の集団を「タイプ2」とした。タイプ2は、都市部では北から
南まで均等に分布し、金沢、福岡、大阪、札幌のいずれで調べても、人口の三割
程度を占める。しかし本州や四国の山間部では五割を占めていた。」日本以外には
見られないのではなく祖形はチベットから雲南省に入り、その別働隊が北アジア草原、
朝鮮半島経由日本列島に入ったものと見る。漏れはこれを南回り、スサノオ型と
呼ぶのには反対で、北回り、猿田彦型と呼び、弥生早期から吉野ヶ里時代の頃まで
に列島に入っていたのではないかと思う
942がいやまん:2005/12/24(土) 09:27:23
「純然たる弥生型はタイプ3とタイプ4の二つ。そのうちのタイプ3は際立った
特徴をもっていた。タイプ3の学生を調べたところ、「摂取カロリーが低く、体格が
小さい省エネタイプ。一方で兄弟姉妹が多く、性格的には男性的など、生殖に
強いことをにおわす性質がある」そうである。単純に考えれば、精液濃度の薄い
タイプ2(縄文型)が滅びて、生殖能力の強いタイプ3ばかりになるはずだが、
実際はそうなっていない。
943がいやまん:2005/12/24(土) 09:27:59
徳島医大の中堀豊氏は「学生の親世代がおかれた時代環境のせいかもしれない。
あるいはタイプ3は生存に不利な点があって、それを生殖力で補っているのかもし
れない」とコメントしているという。タイプ3は血の気の多い性格なので、戦争があると
真っ先に死ぬタイプなのかもしれない。」とされているが、漏れは、タイプ3が古墳時代
の人口増を支えた底辺のツングース系であり、これは高地性集落、倭国乱時代に
西日本の沿岸地帯に入ってきて、縄文人であるタイプ1及び先着の多分、アルタイ
経由であろう、タイプ2(これはブリャート等に近いのでは)を山岳部に追いやったの
だろう、というように考える。そしてタイプ4とは外朝帰化族関係が多いのではなかろうか。
944がいやまん:2005/12/24(土) 09:43:32
タイプ1 蝦夷
タイプ2 エミシ、熊襲、沖縄、環濠集落首長(倭スクネ)
タイプ3 出雲族、安曇海人族
タイプ4 秦氏、坂上氏、天皇族
こういうことかな。
945日本@名無史さん:2005/12/24(土) 12:40:42
イザナギやハヤトがどれに属するかが重要だと思うな。
全国に広がるシカの地名はある場所を起点に広がった一族と
思うのですが、彼らがどういう系統だったか。
946日本@名無史さん:2005/12/24(土) 12:49:16
言葉の面でいうと、既に万葉集の時代には現在の日本語の
基礎ができあがっていたように思うのですが、しかし、
倭国のあった筑肥の言葉は現在でも極めて文字化し難い
発音が多数ある、これらの筑肥の言葉と万葉語と現在日本語の関係は
極めて重要に思う。
947日本@名無史さん:2005/12/24(土) 13:34:33
むむむ・・・
948がいやまん:2005/12/24(土) 13:46:26
>>945
鹿は白人・モンゴロイドを含むユーラシア狩猟民族に関係するもので、もはや
どれともいえないが、西洋ではラップ人、モンゴロイドではツングース、その
西はエベンキ、東は鹿島・香取・男鹿・牡鹿半島で、この日本に入ったものは
ロシア沿海州、中国吉林省方面から来たものでないでしょうか。春日大社は
鹿島神宮から来たといわれ、伊勢神宮も筑波のほうから来ているようですが
関東に下ったのは秋田方面に上陸したものでなかったかと思っています。
秋田に北上するのは九州玄界灘から裏日本沿いに上ったのでしょう。
越前くらげのように。
949日本@名無史さん:2005/12/24(土) 14:23:30
まだ、まとめサイトも見ていない初心者な俺様がやってきましたよ。

仮説諸々含めた歴史年表は誰も作製してないのかね?
流れが全く掴めないが、時代が飛びまくりな気がしてならない。

素人にも理解しやすい年表と図解をキボン。誰か神はいないのかね?
950日本@名無史さん:2005/12/24(土) 14:36:38
未確定な状態で年表とか作成しない方がいいんではないかと思う。

シカの地名だけど、縄文時代からの名残という可能性だってあるんではないかと
伝説として、能古の島から能登半島の志賀に人が移り住んだというような
言い伝えがあるのは確かなようですが。
951日本@名無史さん:2005/12/24(土) 14:42:12
能古の島(志賀島)から能登半島の志賀に移り住んだという
言い伝えは確か二千年前の事らしいです。
能(古)から能(登ぼる)何かあるとは思うけど
952日本@名無史さん:2005/12/24(土) 15:01:44
秋田の男鹿も能代平野の付近にある。
「能」ってどういう意味だろ。
これも無関係ではないかも、田代とか代(しろ)という地名は
九州に多いんだよね。なぜだろ。
953日本@名無史さん:2005/12/24(土) 15:32:59
アイヌ語で「ノ」は岬を意味します。
朝鮮語、中国語ではなんというのでしょうか
954日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:26:34
源義仲(1154〜1184)
 従五位下左馬頭・越後守(1183)→従四位下伊予守→征夷大将軍(1184)

源頼朝(1147〜1199)
 皇后宮少進(12歳)→正六位上右将監(13歳)→左兵衛尉上西門院蔵人→蔵人→従五位下
 右兵衛権佐→解官(13歳)→復従五位下 (1183、37歳)→正四位下(1184、38歳)→従二
 位(1185、39歳)→総追捕使→総守護総地頭(1185)→正二位(1189)→権大納言(1190、44
 歳)→右大将→辞権大納言・右大将(1190)←征夷大将軍(1192、46歳)
源頼家(1182〜1204)
 従五位上(1197)→右少将→讃岐権介→左中将(1199、18歳)→総守護(1199)→従三位左
 衛門督(1200)→従二位征夷大将軍(1202)
源実朝(1192〜1219)
 関西三八国地頭(1203)→征夷大将軍(1203)→→右兵衛佐→右少将→加賀介・右中将→権
 中納言・左中将(1216)→中納言→権大 納言・左大将(1218、27歳)→内 大臣→正二
 位右大臣(1219、28歳)
藤原頼経(1218〜1256)
 正五位下右少将・征夷大将軍(1226)→左中将(1230以前)→正二位権大納言(正二位は
 1244以前、27歳以前)
藤原頼嗣(1239〜1256)
 従五位上右少将・征夷大将軍(1244、5歳)→左中将→従三位(1251)
宗尊親王(1242〜1274)、親王(1244)→三品(11歳)→征夷大将軍(1252)→一品中務卿
惟康親王(1264〜1326)
 従四位下征夷大将軍(1266、3歳)→左中将(1266)→従三位(1270)→正二位権中納言・右
 大将(1287)→親王(1289、26歳)→二品 (1289以前)
久明親王(1276〜1328)
 親王(1289)→征夷大将軍(1289)→一品式部卿(式部卿は1308以前)
守邦親王(1301〜1333)、征夷大将軍(1308、7歳)→三品親王(1308)→二品(1317)
955日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:49:20
捏造マニアの魚羊人の言う事など、まともに受け取ってはいけない。
檀君の墓だとか、黒い山葡萄原人の化石とか。www

●朝鮮人の祖先『黒い山葡萄原人』は東アジア地域で一番最初の人類●

人類発祥の時から平壌を中心に大同江流域で朝鮮民族は代々暮らしてきたもので、
他のところから移り住んだものではないのです。

類人猿の次に朝鮮人の祖先『黒い山葡萄原人』が誕生しました。
彼らが作った石器や一緒に発掘された動物たちの化石を見ても、東アジア地域で
一番最初の人類である。
大小の土器を作って普及した才能ある人々でした。

最近発掘された化石によって、今までの説が事実と全く違うことを証明しました。


〜 朝鮮中央TV 2004年9月12日 〜
956日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:53:36
石器のねつ造から、es細胞のねつ造、
構造設計疑惑まで
あのミンジョクの癖なんかしら
957日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:56:27
白人ではこういうのは一切しないんだから、恥ずかしいよな。
958日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:59:18
でもその人骨の形質は絶対に言わないんだよな。

縄文人だからw
959白馬青牛:2005/12/24(土) 23:27:21
>>939
>3度目の論破へと?1度もわしを論破した事が無いんじゃがのう。
笑わすわい。ほんま東日本人は、虚勢を張る。半島の人達と似とるのう。
高橋氏のP237、238の引用。本は読んどる。向上心はあるのう。
>坂東武士から発生したのではない。じゃが、宮本常一氏が指摘した
習俗として、馬の使い方で荷をつける馬(牛)を人間が引っ張っていく。
その延長で人間が乗る場合も口取りがついたと。その傾向は西日本よりも
東日本の方が強い。西日本は、犂を引かせる傾向にある。そのことも考慮し
様々な現象から観とるんを、何で高橋氏の解釈に全面的に同意せにゃァ
いけんのか。わしゃは、あんたと違うて信仰形態で本を読んどらん。
高橋氏の都の武芸の伝統も、摂津、河内と都を同一視出来るかどうかも
疑問である。
大林氏の河内の西文氏(書氏)の中国文明と騎馬文化の担い手の側面、
5〜6世紀河内平野はわが国における馬文化の中心であったことや
藤原広嗣の乱の報で西文氏が騎兵として聖武天皇の護衛に当ったこと、
漢氏の牧畜民要素等わしはよう引用しとるが、大林氏の著書を読んで
言やあええのにのう。
田辺氏の側面は、>938にも水野氏の引用で書いたが、そもそも
田辺氏は上毛野と同族か異族か判断出来んのに、誤ったと言う認識を
勝手に決め付けるんは関東同族親方子型社会の隷属史観であろう。
面白いね。関東奴隷民根性は。
960日本@名無史さん:2005/12/25(日) 02:08:14
関東奴隷民族なんていってる段階で半分以上の人間は読まないだろう。
961日本@名無史さん:2005/12/25(日) 15:15:28
>>959
よーするに、捏造民族@魚羊人の戯言を間に受ける江波とかはキチガイ。
…ということだな。
962日本@名無史さん:2005/12/25(日) 15:26:30
江上って一応専門家だったんでしょ、この人の下には
最新の情報が入ってたんだろうから、もう少しマシな
理論を構築して欲しかったな。それとも間違いと知ってて
わざとこういう情報を流していたんだろうか?
この人の性格とか生い立ちとかが関係してるんだろうか?
963日本@名無史さん:2005/12/25(日) 17:07:25
騎馬民族説など学術的に全く根拠が無い。
そんな事が記された古文書や考古学的史料は、日・漢・鮮の何処にも無いのだ。

戦後、韓国と北鮮は、負け犬の遠吠え的ウリナラマンセー教育で国民を洗脳し、日本に与えた影響力を
大いに誇張して喧伝することによって、地に落ちた自尊心を回復しようとたくらんだのである。
(また、半島における中国の影響も、ほとんど無かったコトになっている。w)
それとは逆に日本では半島史研究が急速に衰退したので、連中のデタラメを無批判に信じ込む
反日ブサヨク教師・学者・マスコミが言いたい放題を繰り返していたのである。

イイ例が高松塚古墳の壁画だ。どう見ても漢人の風俗なのに、朝鮮文化だと騒いでいた。

ソウル・平壌を含む半島の主要地域は、B.C.108〜A.D.313まで400年間も漢人の植民地(楽浪郡
・帯方郡)で、それ以降も半島には漢人・楽浪文化→中国のコピーが現在まで続いている。
そして半島に、朝鮮(韓国)文化らしいものが芽生え始めたのが、新羅が半島南部を統一した、
7世紀後半以降である。

朝鮮文化が成立する前のハナシなのに、「これは朝鮮文化だ!」と喧伝するのは危痴害の戯言
以外の何ものでもない。

朝鮮人が「朝鮮文化を日本に教えてやった」言っているものは、すべて漢・楽浪文化だ。
ようするに、313年に楽浪郡が滅ぶと、漢人達が徐々に南下してきて半島南部や日本側に渡っ
て、その文化を授けたのである。
代表例が、日本に漢文を大系的に伝授した王仁博士で、同じ時代に百済も漢人に漢文を教授
されている。
964白木人:2005/12/25(日) 17:10:53
高句麗とは601年からいわば同盟関係にありなら、日本に高句麗の文化と人が大量に移住したかも
965日本@名無史さん:2005/12/25(日) 17:37:45
>まあ日本人には多かれ少なかれ朝鮮半島の血が流れているわけだが。

実はほとんど流れていない。
続日本紀によると、7C、百済滅亡で日本に来た百済人が3100人くらい。
高句麗滅亡で来た高句麗人が1800人くらい。
それらとは関係なく自主的に来た百済人や新羅人が数百人。
7Cに来た半島帰化人は全部合せて5000人くらい。

それ以前の帰化人が始まった5C、続く6Cに来た半島帰化人が合せて
2〜3000人くらい。

半島帰化人の総数は7〜8000人くらい。

古墳時代の日本人口が400万人くらいの時だから、
朝鮮半島の血など、日本人の血の僅か 0.2% ほどに過ぎない事が分かる。
966日本@名無史さん:2005/12/25(日) 18:00:15
>>963
その通り。

313年、楽浪帯方が滅んで、もと楽浪帯方の中国系は半島中に拡散していった。
392年、倭が百済加羅新羅を臣下に置いたのをきっかけに、
5Cの初め頃、倭に弓月君率いる中国系の秦氏が加羅から渡ってきた。

日本に織物、建築土木、鍛冶、須恵器などの中国文化の技術を伝えたのは
ほとんどこの秦氏である。

ただし、すべてが帰化した訳ではなく、技術を伝授すると数年で帰国した人も
多かったらしい。
967日本@名無史さん:2005/12/25(日) 19:14:09
江上って人間的にはどんな人だったんですか?
968日本@名無史さん:2005/12/25(日) 21:19:25
>倭が百済加羅新羅を臣下に置いたのをきっかけに

嘘は辞めようコピペ君
969白馬青牛:2005/12/26(月) 01:18:19
わしは、関東主義者の言にはあきれるが、梅棹忠夫氏の言われる
日本分割国家論者ではない。
http://inet.museum.kyoto-u.ac.jp/museumF/umesao/21c.html
間違うておったら、「世界都市関西」で検索せい。
大和国家が、東国家を見捨てるのは、如何なものか。
広島は、関東武士の血脈も多いので、心情的に東日本人を見捨て難い。
梅棹氏は、マッキンダー的?地政学的影響もあるんかも知れぬが、
西日本=海洋国家・自由・開放。東日本=大陸国家・専制・閉鎖と
考えられておられるようじゃ。確かに東西日本の風土からそういう
傾向はあるが、海洋国家論も、西日本人は、東日本人と違い
海洋民族ともいえまいと考える。そもそも日本人は、海洋民族でも無い。
しかし日本文明の中でも東西の違いは異民族と思える。
970日本@名無史さん:2005/12/26(月) 01:21:17
>>969
ページが見つかりません
971白馬青牛:2005/12/26(月) 01:36:25
http://inet.museum.kyoto-u.ac.jp/museumF/topics/umesao/head.html
の「21世紀の日本と関西」で出んかったら、
『「世界都市関西」シンポジウム特別講演録』で検索されよ。
972白馬青牛:2005/12/26(月) 02:37:52
>>967
江上波夫氏の『幻人詩抄』から
  お書きなさい
「あなたは お書きなさい たとえ さばえなす学者どもが 専門と
称する 狭い分野で 何を騒ごうと あなたはお書きなさい(後略)」
  無条件降伏
「抵抗せよ 屈服するな ひとたび 無条件降伏とならば ひとたび 
奴隷となり終わらば ひとたび奴隷になり終わらば 地上いかなる国も 
いかなる州も いかなる都市も 未来永劫に 自由を失わむーこれは 
ホイットマンの詩句である 無条件降伏とは 奴隷になることである 
無条件降伏を 強いることは 強制して 奴隷の境遇におとすことである 
自由を 高唱したホイットマンよ おん身の国は われわれに 
無条件降伏を 強制した! この全世界上に 自由の実現される日は 
まだ 遥かに遠いのだ」
右翼的と誤解されるか知れんが、江上氏の心情を語っておる詩集である。
973がいやまん:2005/12/26(月) 08:03:35
高句麗とはアルタイ語(アルタイ山脈の西麓)のKongray, Khooray族及びツングース、
百済は多数のノマド(移動性民族)、新羅はスキタイ系ノマドであり、チョソン民族が
これらを標榜するとかれたの「主体性」はなくなり、隷属していたことを自ら強調する
結果となっている。漏れら歴史家にとっては自らの主体性を放棄されると漏れら、
または、外国人がチョソン族のルーツの調査をしてあげなくてはならない。三韓の
国名には倭国語、アルタイ語などと並んで朝鮮語のようなものが多いが、すべてを
朝鮮語などと欲張ると解釈がつかなくなるのではなかろうか。
974がいやまん:2005/12/26(月) 08:11:59
これにひきかえ、わが国の歴史は外朝帰化族については、スサノオ時代から
明確に受け入れてきており、居住地も定めており、しかも、皇族との婚姻まで
許している。きわめて国際的である。スサノオは馬の毛皮を生で剥ぐようなことを、
坂上田村麻呂は勝手な鹿狩りを禁じられている。わが国は仏教以前から菜食
主義に近かったのであろう。
975がいやまん:2005/12/26(月) 08:23:16
わが国には基本的に差別はなく、特殊な職業については河童とか、川原ものとか
言ってきたようであり、これが隷属の裏がえしのうらみ、ひがみ、罵倒、差別等の
行為をフェアーではないと認識し排除している。しかし、最近、学校、職場でいじめ、
差別が増えてきたことは気にかかる。樋口一葉の頃の美しさをもう一度復活させたい
ものである。
976がいやまん:2005/12/26(月) 13:35:46
山海経による鉅燕・燕国時代の各国の配置図であるが、この頃YAP(+)族は
既に日本列島に上陸していたのかもしれないものの、こんなものとなろうか。
(北)

鉅燕(内蒙古?)蓋國(黒竜江省?)
↓        ↓
燕(河北省?) 倭(吉林省?)
↓        ↓
 →      列陽(遼寧省?)→朝鮮 (東)
この鉅燕、蓋國、倭(これはYAP(-)の弥生人かな)は次に匈奴、東胡、
さらに、鮮卑、拓跋、そして、朝鮮を制圧して、高句麗、百済、新羅、
伽耶、そして、伽耶あたりから第二波のYAP(-)として日本に入るのではないかと思う。
977がいやまん:2005/12/26(月) 14:28:17
弥生人の波を次の3波とする。
(1)大地、豊穣を祈る鹿牧畜文化から転向したもの。蝦夷と混血しエミシ、山岳地方に進出する。YAP(+)
(2)秦、匈奴の崩壊による流民で、YAP(-)のもの。出雲・安曇海人族。
(3)新羅経由到達するスキタイ系のもの。天皇族を含む。YAP(-)
これでどうかな。
978がいやまん:2005/12/26(月) 14:45:25
記紀によれば大和の豪族が九州に太陽崇拝の神武をお迎えに行き、初代天皇とするも
その嫡子、タギシミミ、はカムヌナカワミミによって葬られている。崇神が三輪山神主
(これは神主でトップの人という意味だろう)にヘッドハントした大田田根子というのは
アルタイタダール族と似ている。タダの神というのは淡路島で出現するので多分渡来
けいであろう。渡来系は行政から遠ざけ、シャーマニズムの世界に閉じこめられたの
であろう。
979日本@名無史さん:2005/12/26(月) 14:46:02
かなり良い線行ってると思いますが、
安曇海人族は入れ墨文化とかみると呉越方面と関係ありそう、
そして天皇族をそこに位置づける根拠も薄いように思う。
980日本@名無史さん:2005/12/26(月) 17:41:42
そんな電波男は放っておいて、

百済加羅新羅は倭に征服され臣民にされただろが。
981日本@名無史さん:2005/12/26(月) 18:34:43
968 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2005/12/25(日) 21:19:25
>倭が百済加羅新羅を臣下に置いたのをきっかけに

嘘は辞めようコピペ君
____________________

たしかに臣下と言うのはちょっと言い過ぎだわな。
倭王が将軍なら、半島は配下とか手下だろうね。

982がいやまん:2005/12/26(月) 18:35:06
>>百済加羅新羅は
若干の残党はその後も相当半島に君臨した、半島に名を残し、その指導層は
実際上ほとんど日本に亡命、朝廷に仕えた。これだけのことじゃーないか。
記紀には馬飼になったとかいうのもあるがね。
983がいやまん:2005/12/26(月) 18:44:50
しかし、日本もキトラ古墳などはどうも向こうの王族であるのにずいぶん立派な古墳
を建設してあげている。古代人は礼を知っていたのだ。まー、そういうことで日本に帰化
し、日本人になってしまったのであろう。
984日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:20:44
いや、倭が百済加羅新羅を軍事力で破り臣下に置いたのは
本当のことだろ。

「百残・新羅は旧是れ属民にして、由来朝貢す。而るに、倭、辛卯の年より来たり、
海を渡りて、百残・□□・新羅を破り、以て臣民と為す」

倭の臣民となる=倭の臣下に入った

じゃねーかw
985日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:22:45
荒らすな、
986日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:29:29
↑でしゃばりウゼエ
987日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:55:40
>>979
>安曇海人族は入れ墨文化とかみると呉越方面と関係ありそう
そうだね、ポリネシアンとか黒潮系の人たちとも近い気がする
988日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:04:34
レスの進み早杉!

>広島亀
連日の罵倒乙。
俺が沸くと高橋氏の著作から抜書き出来ないからイラついてんだろ、可哀想にw

常一がいう騎馬民族の貴族って誰の事よw
常一は江上さんの騎馬民族説に洗脳されてそういう事言ってたんだろ?
それに、東国=馬文化、西国=牛文化を考慮していたのだろうか。
日本の馬は高橋先生が言うように暴れ馬!

加藤氏と大林氏は「腹」系譜の信憑性について、互いに論じてるんだろ。論点をずらすなよ。
大林氏=東漢氏が都賀使主から分かれた氏族である点を信用できる。つまり同一の祖先からの分流
加藤氏=東漢氏は擬制的同族関係に編成したものとする(坂上氏を中心として)

東漢氏の系譜では、東漢直系の氏族(坂上氏など)に掌握される立場にあった東漢人系の氏族も
「腹」系譜の中では、同族として組織されてる。
つまり東漢氏の腹系譜は、本来異質(東漢氏の配下豪族)な氏族を取り込んで肥大化してるわけ。

田辺史は河内の渡来系だろ。その一部が上毛野朝臣姓を賜ったから上毛野氏族の一員になった。
『姓氏録』の系譜を鵜呑みにしてた誤りを、認めたらどうだい?
989日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:21:56
>>984

「『広開土王碑』によれば」と書こうよ。
「臣民となす」は「大きな影響力を得た」と言う意味。
あの碑は書き方が乱暴なんだよ。百済は高句麗の「奴客」と書いてあるくらいなんだから。w
まあ、倭王はの百済王のクビを挿げ替えるくらいの、大きな影響力をもっていたが。

王の臣民が王というのは、古代東アジア政治用語として明らかにオカシイ。
990日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:27:36
>>989
ウソこけww

ちょーせん妄想はやめなビビンバ!

寄り目がもっと寄ってしまいますよw
991日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:35:29
「臣民となす」をどう解釈すれば「大きな影響力を得た」に
なるんだか?
992日本@名無史さん:2005/12/26(月) 21:56:04
『源平合戦と平家物語』上横手雅敬著(京都大)2001年

・平家物語の作者はネット裏で観戦している。どちらか一方をひいきにするのではなく、
源平の両方に公平な態度で書いていて、パッションがない。
・(歴史叙述の一形式である平家物語)確かにそこには史実が記されている。
しかし史実を記したといっても、平家物語は単なる記録ではなく、紛れもなく文学性を持っている。

・生まれながらに平家の御曹司として育った清盛は、保元・平治の乱を除けば、生涯を通じて
合戦らしい合戦を経験しなかった。
為朝は「清盛などがヘロヘロ矢」とあざ笑っているが(『保元物語』)、確かに一騎打ちでもすれば
坂東育ちの義朝にはかなわないだろう。
・合戦という事になれば、平氏は源氏に勝ち目はない。
平氏の率いる西国武士は、僧兵や山賊・海賊を相手にしてきた天朝の番犬であるのに対し、
源氏に基盤である東国では、合戦自体が目的であり日常茶飯事である。

・保元・平治の乱に、清盛・重盛はよく戦っているがとうてい勇将とはいえない。
平治の乱の清盛は、熊野詣の留守中に義朝が挙兵すると言うハンディを克服し、より勇敢な相手を
撃破した。
相手方を油断させ、分裂させ、天皇・上皇を相手の支配下から脱出させるという
政治力の勝利であった。
東国の原野での合戦ならばいざ知らず、京都において複雑な朝廷社会を背景にして戦うという大局の
洞察において、清盛は義朝よりも優っていた。彼は義経などとはタイプを異にする名将である。

※急(隠密)な合戦であった平治の乱で義朝は、その基盤の関東武士を僅かしか動員出来なかった。
それに独立心が強い関東武士が簡単には上洛しなかったことなども。
『保元物語』と『平治物語』を比較すると、平治での東国武者の参戦は少ない。
993白木人:2005/12/26(月) 22:06:39
臣民となしたのは、全員ではなくて割合があったかも
994日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:09:47
ただ臣民と為したんじゃなくて、「破り」、臣民と為したんだろうに。
995日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:21:56
>臣民となした
これ自体が倭国の自称だからね
実際はどうだろうか
996995:2005/12/26(月) 22:30:33
すまん誤爆った
997日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:36:26
広開土王の自称だがな
998日本@名無史さん:2005/12/26(月) 23:09:18
ミマキイリイチ梅
999日本@名無史さん:2005/12/26(月) 23:12:15
次スレ立たずか
1000日本@名無史さん:2005/12/26(月) 23:13:28
1000
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