日本の支配階層は奈良百済人である! 

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761金達寿氏:2006/06/16(金) 15:13:37
金達寿氏はもう20年も以前、はっきりと「古代日本文化は帰化人を通じ朝鮮から多くの物を学んでいる。
と日本の歴史家達は説く。が帰化人等というものは古代の、
少なくとも7世紀以前の日本には一人も居なかった……何故なら、
彼らこそ古代日本を作ったそのもの自身だったからである」
とまで言い切って発表している。
762歴史学博士はいない:2006/06/16(金) 15:15:33
確かに「いにしえの奈良の都…」のナラが、
朝鮮語の国を意味するナラと同じであることは認める。
「日本の歴史家はデタラメである」とここまで中外に喝破されては
国辱ものである。
さらに、ロンドンデリーの囲み物連載にまで堂々と、
「Korean culture induced to Japan」
(コリアによって日本は作られた)式のものを書かれて、
日本の歴史家は阿呆で何も知らず、銭儲けの本ばかり書いている、
と軽蔑されている。

さらに日本には医学博士や文学博士はいるが、歴史学博士はいない。
763歴史学博士号は許さず:2006/06/16(金) 15:17:39
明治維新後、長州より招かれてお抱え教師となり、
現代日本史の開祖となつたアドルフ・リースが欧米にならって
日本でも「博士号設定」となったとき彼は歴史家なのに理学博士
や医学博士は認めたが「独・英・仏・伊には歴史学博士の称号は
あるが、この国にはその設定は無理なり。
文字を弁じうる程度なれば文学博士にて間に合わすべきである。」と、
後にベルリン陸大の歴史教授となり「ゲルマン民族優秀説」
を発表しナチスに利用させたリース博士は、
日本では開明学校が東京大学になると「史学会雑誌」
を刊行させはしたが、歴史学博士号は許さず帰国した。
764日本書紀:2006/06/16(金) 15:52:51
「日本書紀」は滅亡した朝鮮半島の百済国に対する絶縁状でもありました。

以降、殆どの日本人は今日に至るまで、自分たちの王族が百済の王家であることを知りません
765日本@名無史さん:2006/06/16(金) 17:35:38
>>761 中国人は3世紀の日本、倭国は百余の国家があって邪馬台国連合と
いう連邦国家を作っていて、列島には倭人しかいないと書いてある。

 その倭人の各国の戸数も書いてあり、邪馬台国には7万戸くらいあった
らしい。

 5世紀の倭の五王は中国に安東大将軍の称号を求めて、百済、新羅その他
の半島南部諸国も倭の属国として認めるよう要求している。


766日本@名無史さん:2006/06/16(金) 18:40:43
>>762
「奈良」と「ナラ」は関係ないと思うんですけど。
『日本書紀』にも書いてないし、「認める」とか一方的に
断言しないでくださいね。

>>764
漢籍などのソースを提示してくださいよ。
中国の文献に書いてありますか?「倭国は百済系」だって。
百済なんて腐れ縁でしかなくて、実際に関係が深かったのは、
任那などでしょう?
767奈良の語源:2006/06/16(金) 19:14:13
奈良の語源については
「古代に朝鮮半島からの移住者が奈良の辺りに多く住み着き、そこに王朝を作って朝鮮語で"国"を意味する"ナラ"と名付けた。」
と言う説がある。
最初にその話を知った時にはトンデモ説だと思って気にも留めていなかったが、この説は決してトンデモとは言い切れないようだ。

奈良人のDNAを検査した結果、周辺の県より突出して朝鮮系のDNAを持つ人の割合が多かったらしい。
奈良に朝鮮系の渡来人が大勢住んでいたのは確かなようだ。

それに奈良でも使われている挨拶言葉 「あんじょうしてまっか?」は、朝鮮語の「アンニョンハシムニッカ?」が訛ったものであろう。
どちらも「安寧にしてますか?」と言う意味の言葉だ。

768日本@名無史さん:2006/06/16(金) 19:41:57
>>766
奈良の語源は通説は均す(ならす)で平の土地の意味。
平城京って名称にも通じる。
少数説は楢(なら)が由来とする。
ウリナラのナラ説は最近の韓国人が言っているだけ。
日本書紀や三国史記にも根拠がない。
769日本@名無史さん:2006/06/16(金) 19:57:41
>>767 あんじょうは安寧ではない。語呂合わせは学問ではなく言葉遊びに
すぎない。

 奈良と朝鮮語のナラ(国)も関係のない語呂合わせだ。

770馬韓渡来の神功皇后:2006/06/16(金) 20:04:34
日本歴史は、好意的に馬韓渡来の方に、神功皇后の御名をつけマタニテ
ィードレスの女将とするくらい、本心では韓国に敬意を失っていない。なにしろ、日
本の歴史教科書は単なる暗記もので、ドイツ人リース門下作ゆえ責めても、不勉強の
歴史屋が悪いのだから仕方がない。
 もし日本古代史が乳離れするみたいに記紀離れして、藤原王朝が作ったのから脱却
していたら良かった。半世紀もたたぬ最近のことを突き廻す被害者顔の近隣諸国に、
せめて五世紀までさかのぼって日本の歴史家が解明していたならば、薮を突っついて
蛇を出すような、しっぺ返しができたものを、従来の学校教育に甘んじ、学者だと自
認している連中たちは何も知らぬ。
771国辱:2006/06/16(金) 20:05:47
無智ということは罪悪である。いくらナラ朝時代は韓国製の日本史、七世紀からは
トウのトウゲン[桃源=藤原]王朝史だと判らぬのか知らぬのか、何も反対意見を出
せぬままの現状ゆえ、この侭では、「ご無理ごもっともです」と、教科書検定審議会
の答申をうけ、抗議されるままに訂正して、「おっしゃるように、なおしました」と
いう事になるのだろう。世界中どこの国が、他国より干渉されて、その学校歴史を改
訂するといった例が、はたして悲しい事だがあったであろうか。「国辱」というもの
があるのなら、これ以上の屈辱はないだろう。
772日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:10:45
朝鮮に古代の歴史書はなく日本史については記紀とシナの史書に基づいて
論ずるしかないだろう。
773日本天皇家と百済王家の関係:2006/06/16(金) 20:14:04
百済の中興を成し遂げた武寧王の王陵は、
発掘当時(1971.7)からさ間ざまな疑問が議論されてきた。
なかでも発見された奥歯一つの研究は、これまで隠されていた
日本での武寧王の家族史を明らかにした。
よって行跡が知れないままであった武寧王の生まれてから40歳までの、
斯麻としての行方についても、日本で成長し結婚して淳陀太子をもうけ、
またその淳陀太子を通じて子孫を繁盛させた可能性が高くなったと
専門家は言う。この事実は古代韓日関係において、
特に日本天皇家と百済王家の関係においても、とても重要な意味をもつ。
まだ様々な疑問と多くのミステリーが絡んでいる韓日古代史の真実は、
武寧王の韓日に残ったそれぞれの家族関係がより詳しく明らかになる
ことによって、両国の関係をより近づけるのではないだろうか。
歴史と言う過去と現在をうまくつなげ、明るい未来が開くことを願う。
774日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:16:49
>>767「 あんじょう」を調べてみると大阪や徳島で使われている「味良う」
が語源らしい。安寧とは何の関係もない言葉だ。
775桓武天皇の生母、高野新笠:2006/06/16(金) 20:18:02
2001年12月23日、日本の今上天皇は、
桓武天皇の生母が武寧王の子孫であるとしている「続日本紀」
の記録に韓国とのゆかりを感じると会見し、
韓日両国に大きな反響を起こした。
また「日本書紀」には武寧王が日本福岡の加唐島(かからしま)
で生まれたと伝えており、その島には現在もその伝説を語る様
々な証拠が残っている。その後武寧王は日本の島で生まれたことから、
島の音を借りて"斯麻"とも呼ばれていたといわれている。
しかし武寧王が加唐島(加羅島)で生まれた後、
百済の武寧王に即位した40歳になるまでの行跡は知られていない。
一方「続日本紀」や「日本書紀」に武寧王の息子と書かれている淳
陀太子は、武寧王の20代の初婚で産んだ息子と考えられる。
また淳陀太子は父武寧王が52歳であった513年に死亡した
と伝える記録から、死亡当時、30歳を越えていたと推定されている。
つまり、武寧王は日本で子孫をもうけた可能性が高いと考えられる。

それでは武寧王の日本での子孫たちは、
どこで生活していたのだろうか。
「続日本紀」によると桓武天皇の生母、
つまり光仁天皇の皇太后の高野新笠は、
姓は"和"で名前は"新笠"であった。
日本貴族の族譜「新撰姓氏録」によると、
"和氏"は武寧王人で、はじめは久度神社(大阪と奈良の間の神社)
で祀られたが、後に平城京(奈良)の宮闕に移し、
皇太子が直接祭祀を行ったという。
8世紀桓武天皇によって平安京(京都)へ遷都した後は、
平野神社に移され、今も平野神社では百済系渡来人を祀っている。
京都には現在も桓武天皇の生母、高野新笠の墓がある。
776飯能市:2006/06/16(金) 20:32:42
韓国の野党に「ハンナラ党」という名前の政党がある。

ハンナラという音の響きが面白くて憶えている。
響きがちょっとクレージーキャッツみたいだと思っていた。
と思ったらこの前読んだ本に、
埼玉県の飯能市が朝鮮語の「ハンナラ」が語源であるという説も
あると書いてあった。 (渡来人の村があったらしい)
777京都は壮大な中華街:2006/06/16(金) 20:35:33
私見では、京都は壮大な中華街だと思ってます。
唐の長安を模倣した平安京に、中国仏教の寺院が立ち並び、
中国から招いた高僧を大きな寺院の住職にした国際都市。
舞楽など中国伝来の芸能は、大陸からの難民の子孫である帰化人が
世襲で伝承。服部というのは、機織を業とする帰化人の性。
778日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:54:19
大陸と台湾の対立は凄いよ>支那街
779日本@名無史さん:2006/06/16(金) 21:47:01
>>769
京都の自転車やにパンクを直してもらいに言った時、当時80歳近い爺さんが
出てきて「そこに(自転車を)あんじょう止めよし。」って言ってて風情が
あったよ。

「あんじょう止めよし。」いいねぇ!

>>777
どうでもいいけど、日本の古代史において中国人は存在感全然無いよ。
一応「奴国」の宗主国だったんだから、半島のウザイ馬鹿を引っ叩いてくれ。
その他の事は、どうでもいいからさ。
780日本@名無史さん:2006/06/16(金) 21:50:05
ほんでもって、由緒正しき奈良百済人とやらの

家系図を子孫達は、由緒正しいんだからあるんだろうね?
781クダラ史の漢字訳:2006/06/16(金) 22:01:13
「日本書紀はクダラ史の漢字訳にすぎぬ」と主張する方が、
まだ「記紀」を金科玉条としている歴史屋さんよりは、遥かにまさっているだろう。
これでは正史偽史どころの騒ぎではないらしい。
782唐の占領政策:2006/06/16(金) 22:06:14
白村江の戦いで、唐、新羅連合軍が、百済、日本連合軍(但し、ここに日本というのは誤解を招く。
実質的にそれは百済系の日本内分国、植民地としての奈良王朝ということである。
奈良王朝は母国百済存亡の危機にみまわれ、総力を挙げて母国救援の軍を出した)を壊滅させた後、
いよいよ唐が日本占領に乗り込んで来るのであるが、唐の占領政策は、
日本列島内で主導権争いを続けていた高句麗系、新羅系、百済系の対立抗争を巧く利用する。
783百済系を手先として全国統一の律令体制を確立:2006/06/16(金) 22:07:44
即ち、百済系を重用し、これを主たる代理人として、
日本の全国統一権力体系を作ること。それゆえ百済系をして、
高句麗系、新羅系、古代海人族を駆逐させること。
こうして唐の占領軍は日本原住民の大叛乱の抵抗に対して、
百済系を手先として全国統一の律令体制を確立し、
その支配のイデオロギーとして、彼らの仏教を利用する。
七世紀末から八世紀初頭にかけての、三、四十年を準備期間として、
日本はこのように一変したのだが、それから千二百年の間、現在に至るまで、天皇を頂点とする、
この律令体制の大枠は維持されている。
そして文部省の学校歴史とされている。
784日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:09:37
百済なんかと同盟組んじゃって、日本はいい事なんて何一つ無かったよ!
国が傾きかけて、桓武天皇の頃は大変だったんだ。

しかも邪魔な上に、ゾロゾロと亡命してくるんだよ。百済も邪魔だが、
新羅や高句麗なんて、戦争までした間柄なのに、国が傾いたら都合よく
亡命してきやがって…。おまけに子孫は「古代日本は百済人が作った」
とかでかい事抜かしやがって、、、(泣;

あぁ、亡命なんて許可しなけりゃ良かったよ!
785白村江の戦がもたらしたものは:2006/06/16(金) 22:31:04
白村江の戦がもたらしたものは「倭国の滅亡」だけではありませんでした。
筑紫君薩夜麻らの帰国は、唐人2000人の「進駐」(日本書紀に記述)
を日本側に告知する為になされた措置だったのです。
つまり、先の大戦終結後、米軍が「進駐」してきたのと同様に、
唐人が進駐してきたのです。
更に、様々な資料から、唐人だけでなく、もう一方の戦勝国・新羅人も、
亡国の民・百済人も、日本に流れ込んできました。
日本側の史料では、彼らを日本に「帰化」したと書いていますが、実際は、
日本に「進駐」したと言う方が正しいでしょう。
その証拠に、その後の「親唐路線」や、朝廷内に於ける「帰化」
系氏族の増加(彼らの多くが先の敗戦まで「貴族」としての特権を有していた)
と言った事実が挙げられます
786後遺症は600年以上:2006/06/16(金) 22:35:30
日本人が過去に体験した戦争で、その影響力の点で太平洋戦争に
匹敵するのは七世紀後半の対唐・新羅戦争と一三世紀後半の対元・高麗戦争(元寇)であろう。
六六〇年に始まり六六三年の白村江の敗戦で終わったこの戦争の影響はじつに平安前期、菅原道真の建議により遣唐、
使の派遣中止となる(八九四年)まで続いた。日本がその政治的・社会的・文化的アイデンティティを恢復、
いわゆる国風文化が成立したのは平安中前期だが、
唐滅亡(九〇七年)以降も日本の為政者や国民には白村江敗戦のコンプレックスが潜在し、
それがほぼ解消されたのは対元・高麗戦争(元寇、一二七四から八一年)の終戦以降である。
つまり、対唐・新羅戦争敗北の後遺症はじつに六〇〇年以上も続いたということになる
787日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:36:27
>>779
味よく→味よう→あんじょう だね。いい言葉だ。
788日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:36:43
>>784 別に百済の亡国の民などは日本に大した影響も与えず、同化していっただけ
なのでどうでもいいことだろう。

 百済貴族や高句麗人は今の朝鮮人とは関係の無い異民族で日本語族に近い種族
だったようだし。
789日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:41:04
>>787 あんじょうは漢語かと思っていたが、味良くのことで四国では
アジョーという地域もあるそうです。

 にぎやか>にんぎゃかと同じ発音変化ですね。
790日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:41:49
>>788
馬鹿のおかげで、やらなくてもいい戦争をやってしまった。
戦費がどれだけかさんだ事やら…(トホホ)

高句麗は扶余系(扶余の一派)だと思ったが。
日本人が近いのは、半島の土着韓人(今の韓国人じゃない)でしょ。
791日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:44:27
貴方達も日本人だよ日本語使えるからね。
だけど自分の立場だけで言っても、
何が生まれるかな?
本当の日本人はやさしいよ!
792日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:48:56
>>790 高句麗語も一応日本語と40%近い共通性があったそうだ。

 土着韓人というのは半島倭人との混血も多くて相当、近い種族だっただろ
うな。その後、新羅の統一で消えてしまうが。

793日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:49:50
安東金氏、アンジョンファン、
東北の安東氏、金氏、昆氏、紺野氏

全部新羅系で同族
794日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:55:30




坂上、秦、高向、栗栖、などは中国系帰化人。



795日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:58:11



蜂田、赤染、も中国系帰化人


796日本@名無史さん:2006/06/16(金) 23:05:58



服部も中国系帰化人



797日本@名無史さん:2006/06/16(金) 23:09:42
そりゃ日本人の中にはアイヌ人やポリネシア人も多少混じっているだろう
が、数代も経てば同化されて日本人化しているのだ。
798日本@名無史さん:2006/06/16(金) 23:13:14
多分、シナ系や半島系よりアイヌ系の方が多いだろうな。特に東北地方
同じ列島に住んでいたのだから当然だ。
799日本@名無史さん:2006/06/17(土) 01:54:44
人類学的なパースペクティブを簡単に説明。

縄文人はバイカル湖周辺に発生した旧モンゴロイドで、シベリア、サハリンを経て日本列島に渡来。
弥生人は長江の流域から渡来。民族的には楚、呉、越で江南系。しかし江北との地理的なせめぎ合いの中で北方系
民族との混血がある程度進んでいたものと見られる。
即ち弥生人は旧モンゴロイド(江南)と新モンゴロイド(江北)の混血。

朝鮮半島にもともと定住していたのは日本列島から渡った縄文人。
その後弥生人が、長江の流域から北九州一円(半島南部含む)へ渡来。
このことから、古代の北九州一円(半島南部含む)における定住者の間に、大きな人種的差異はなかったものと考えられる。

現在ある日本人と朝鮮人との間の人種的な差異は、その後の半島におけるツングース系民族の侵入、移入による混血が原因。

即ち、

日本人=縄文人+弥生人
朝鮮人=縄文人+弥生人+ツングース系
800日本@名無史さん:2006/06/17(土) 01:57:01
よく百済との関係を云々する人がいるが、新羅との関係の方が遥かに興味深い。
そもそも広義の「倭」という概念を適用すれば新羅は倭人国家。百済は王族以外は倭人だったが王族がツングース系のフヨ
だった。そして新羅の場合、なんと狭義の倭人が王になって王統をも伝え、述べ8代の王を輩出したとされている。

初代 赫居世居西干(朴氏)
*2代 南解次次雄(朴氏)
*3代 儒理尼叱今(朴氏)
*4代 脱解尼叱今(昔氏) ←倭人。丹波の国出身説が有力。
*5代 娑婆尼叱今(朴氏)
*6代 祗摩尼叱今(朴氏)
*7代 逸聖尼叱今(朴氏)
*8代 阿達羅尼叱今(朴氏)
*9代 伐休尼叱今(昔氏)
10代 奈解尼叱今(昔氏)
11代 助賁尼叱今(昔氏)
12代 沾解尼叱今(昔氏)
13代 味鄒尼叱今(金氏)
14代 儒礼尼叱今(昔氏)
15代 基臨尼叱今(昔氏)
16代 訖解尼叱今(昔氏)
17代 奈勿尼叱今(金氏)

そしてさらに、それ以上に重要なのが建国時に重臣となって影の王のように振る舞い活躍した瓢公という、瓢箪を腰に付けて
船で渡来したとされる倭人で、この人物は現代の朝鮮人のアイデンティティの根幹を揺るがしかねない問題をはらんでいる。
というのも、現代の朝鮮人の姓名は中華への服属意識を如実に表す、音読みで姓=漢字一字、名=漢字二字という漢族式で、
実際の姓自体も漢族が使用するもののパクリが殆どという有様だが、新羅の初代王の朴赫居世に始まる「朴」という姓だけは、
古代朝鮮語の「バク」という単語を借字で音写した独自の姓で、特殊な姓と言える。ではこの「バク」という古代朝鮮語が何を意
味するかと言うと、「瓢」。影の王のように振る舞った倭人の「瓢」公となんと同じ。
このことから、瓢公と朴赫居世は共に倭国から渡来した同族、あるいは同一人物であるとも言われている。
ちなみに金氏の祖は、件の、倭人である昔氏初代、脱解の治世時に、これまた件の倭人瓢公が拾って来たとされている。
瓢公(あるいは朴氏も)や昔氏一族といった倭人たちが新羅建国に深く関わり、王、宰相として支えたわけです。非常に興味深いですね。
801日本@名無史さん:2006/06/17(土) 01:57:47
【広開土王碑】より
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭(ロく)耒卯年来渡(海)破百殘■■新羅以爲臣民
<訳> そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯の年(391年)に■を渡り
    百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。

*なお、「■を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされているが異論もある。

【隋書】より
新羅百濟皆以イ妥為大國多珍物並敬仰之恒通使往來
<訳> 新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。
802日本@名無史さん:2006/06/17(土) 01:58:23
【三国史記・新羅本記】より

紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
*14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
*73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角千羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を侵した。
123年 春三年に倭国と講和した。
232年 夏四月に倭人が金城を攻める。
233年 五月 倭兵が東辺を侵した。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
        私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
        これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危
        険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、
        かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲する。
803日本@名無史さん:2006/06/17(土) 01:59:02
【三国史記・新羅本記】より

402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を侵す。
418年 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を侵した。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山)を侵して勝てずして去った。
476年 倭人が東辺を侵す。
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を侵した。
486年 夏四月に倭人が辺境を侵した。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼なので、王は接見を許さず、すぐ追い返した。
802年 冬十二月、均貞に大阿?の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
804日本@名無史さん:2006/06/17(土) 02:01:06
■近肖古王 在位345〜375
姓は余。名は句。日本書紀では速古王。日本と手を結び新羅に対抗。謝礼に日本へ七支刀を献上。
■近仇首王 在位375〜384
姓は余。名は須。日本書紀には貴首王と表記される。近肖古王の息子。
■枕流王 在位384〜385
姓は余。近仇首王の息子。東晋から来た僧侶が仏教を伝えた。
■辰斯王 在位385〜392
姓は余。名は暉。しんしおう。近仇首王の息子。日本書紀には、「(辰斯王が)仁徳天皇に対し無礼な振る舞いが
あったので、紀角宿禰らを遣わし譴責した。百済国は、辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは阿花(阿?王)を
王位につけて帰国した」とある。
■阿華王 在位392〜405
姓は余。名は阿芳。枕流王の息子。軍事的支援を乞うため日本へ息子(のちの腆支王)を人質として献上。
■腆支王 在位405〜420
姓は余。名は腆。阿華王の息子。直支王とも。人質として日本で生活。日本の援軍を得て高句麗との決戦中
阿華王が死去。帰国して即位。
■久爾辛王 在位420〜427
腆支王の息子。日本書紀によると幼少だったため権臣・木満致が権力をふるったという。
■斐有王 在位427〜455
姓は余。名は斐。久爾辛王の息子。眉目秀麗。弁が立つ王であったと言われる。
■蓋鹵王 在位455〜475
姓は余。名は慶。斐有王の息子。近蓋鹵王ともいう。人質として弟・昆支王を日本へ献上。高句麗により百
済は一時滅亡。
■文周王 在位475〜477
姓は余。名は牟?。あるいは?。蓋鹵王の息子。百済滅亡時、新羅へ援軍要請に出たが到着時には王は捕縛
殺害されていた。やむなく木満致らと共に逃亡して半島南部に新たな地盤を堅め、百済を再興した。重臣・昆
支王の死後、解仇により殺害された。
■三斤王 在位477〜479
姓は余。名は壬乞。文周王の息子。父を殺した解仇の傀儡として即位した。反乱をおこした解仇を倒す。
805日本@名無史さん:2006/06/17(土) 02:01:51
■東城王 在位479〜501
姓は余。名は牟大。昆支王の息子。日本生まれとされる。日本書紀では末多王と記述。幼少時より優秀で雄略
天皇に寵愛される。三斤王急死により、日本から帰国し即位。中国・南斉や新羅との同盟政策で安定をはかった。
臣下の恨みを買い、暗殺された。
■武寧王 在位501〜523
姓は余。名は隆。東城王の息子。日本生まれのため斯麻(しま)王とも呼ばれる。日本書紀では蓋鹵王の息子。
また「嶋王」と表記。東城王を殺した臣下を斬る。中国南朝・梁の武帝や日本・継体天皇と友好関係を維持。高
句麗と戦い、また南方にも勢力を広げた。
■聖王 在位523〜554
姓は余。名は明。聖明王ともいう。武寧王の息子。日本の援軍を得て高句麗からの攻撃を新羅と共同で撃退。一
時は百済の旧領地・漢江流域を回復。日本に仏教教典を献上。
■威徳王 在位554〜598
姓は余。名は昌。聖王の息子。戦死した聖王のあとをうけ即位。王子(恵王)を日本に人質として献上。
■恵王 在位598〜599
姓は余。名は季。聖王の息子。554年、聖王が戦死。555年、援軍要請のため日本へ渡る。556年、帰国(562年日
本、高句麗へ出兵)。
■法王 在位599〜600
姓は余。名は宣。孝順ともいう。恵王の息子。
■武王 在位600〜641
姓は余。名は璋。法王の息子。隋・唐に対し高句麗征討の要請を続けた。
■義慈王 在位641〜660
武王の息子。唐の侵攻に備え非主流派の貴族や王族を追放。追放された貴族や王族は日本に亡命した。こ
の時代、新羅に金春秋や金捨信が現れ、新羅と盛んに戦う。最終的に唐と新羅に両面攻撃を受け滅亡。王族
のほとんどが唐に連れ去られた。
■豊璋王 在位***〜***
姓は余。名は豊璋。義慈王の子。唐の圧迫が強まる情勢の中、631年、人質として日本へ。以後30年間日本で
生活。660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈王は捕虜となる。亡国の王子となった彼は亡命政府の主となるが、
白村江で戦い敗北。豊璋は高句麗に逃亡。百済は完全に消滅した。
※禅光王
義慈王の息子。20代豊璋王の弟。百済滅亡後日本に帰化。持統天皇より従五位下の下級貴族として「百済王
(クダラノコニキシ)」の姓を賜る。
806日本@名無史さん:2006/06/17(土) 02:02:40
■朝鮮半島南部にある前方後円墳群

現在までに全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。
朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、
百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。

■関連する大和王権側人物

穂積臣押山 (ほづみのおみおしやま)

継体紀七年六月条に引く百済本紀には、委(やまと)の意斯移麻岐弥(おしやまきみ)とある。

継体六年十二月、百済は任那の上タリ、下タリ、娑陀、牟婁の四県を請うたが、タリの国守の押山は、
その与えることの可なることを奏し、大伴金村もその意見に同意して上奏した。よって、上表のままに四県を百済に賜った。
この後、流言があって、大伴金村と押山は百済の賄賂を受けたといわれたという。
継体七年六月、百済は姐弥文貴将軍らに押山を副えて、五経博士段楊爾を献じ、
伴跛に奪われたというコモンの地がもどるよう計らってくれるように願った。
継体二十三年三月、百済王は下タリの国守押山に、加羅の多沙津を朝貢の海路としたいことを乞うた。
押山は奏問し、加羅王の反対を排して津を百済に賜った。
このため、加羅は日本を恨み、新羅と結ぶようになったという。
807日本@名無史さん:2006/06/17(土) 08:05:38
>>792
高句麗語が日本語と40%近い共通性があったって言っても、高句麗語そのものの
復元が殆ど進んでないんでしょう?
808日本@名無史さん:2006/06/17(土) 09:16:26
数詞じゃないか
それもヨタっぽいんだけどね
日本語は文法的にはアルタイ系で、音韻的には南方系ってのが定説
http://yamatai.cside.com/katudou/image/213-2.gif
809日本@名無史さん:2006/06/17(土) 10:54:49
『倭名類聚抄』によると、日本語の虎(トラ)は、楚語に由来しているらしい。
楚語の於兔(オト)に由来し、「ラ」は助語に過ぎないと記されている。

詳しくは知らんけれど、「於(オ)○○」という言い方は、北方には無いのかも
知れない。高句麗語には、あるのかな?
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ