◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART19

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938日本@名無史さん:2006/05/11(木) 10:47:05
高句麗と当時戦ったりしてたみたいだけど、
卑弥呼は関係あったのかい?
ただ単に日本の中で数ある国の中で
一番中国の覚えが良かったのが卑弥呼だっただけでは・・・
939がいやまん:2006/05/11(木) 11:43:35
高句麗と戦ったのは時代的に言って神功皇后、中国から最も多くプレゼントを貰った
のはヒミコみたいだ。なぜくれたのか、野心があったのか、そのへんはわからんが。
940がいやまん:2006/05/11(木) 12:32:42
当時の魏は三韓、九州、近江を中心とする近畿と仲が良くなく、一方播磨近辺を中心
とする勢力も国土掌握を狙っていたので利害が一致したのかもしれない。どうだろう。
941日本@名無史さん:2006/05/11(木) 22:40:10
韓国古代史歴史地図
http://post.baidu.com/f?kz=99204596
942日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:32:18
こりゃ驚いた。ユーラシア大陸を支配しちゃってる。
次は宇宙支配地図を出してくるんだろうな。
943日本@名無史さん:2006/05/14(日) 10:38:20
畿内王朝の分家が宇佐にあったとすればいいだけの話でしょう。
崇神王朝の血統が途絶えたから、九州から応神をひっぱりだしたんでしょ。
徳川時代とやってること変わりませんよ
944がいやまん:2006/05/14(日) 10:48:27
分家ではなく本家と違うの。
945がいやまん:2006/05/14(日) 10:50:40
神武が向かった岡水門は遠賀川土器といって日本では最も有名な
弥生時代の土器の出るところだしね。
946日本@名無史さん:2006/05/14(日) 11:22:48
本家よりも分家が大きくなってしまったわけですねw
947がいやまん:2006/05/14(日) 11:36:41
漏れは分家の要素、これは北九州発、それと、任那に駐在していた倭国民団が
一部の鉱山関係の北方出身者などを伴って引揚げてきたもの、こうしたものが
山陰、丹後、若狭辺りに上陸したのかなと思っているが、これは丹後に阿蘇湾
とか、竹野とか、九州的な地名が多いのと、ニギハヤヒのニギというのが倭人伝
では奴国の官名に出てくること、ハヤヒワケというのは肥前肥後国であるのだが
なぜか丹後の神となり、河内のナガスネ彦と関係していることなどがある。
それと肥前肥後に多いとされる鉄器の出土が、山陰丹後に移動するのもこのこと
を裏付けるのではないかと見る。
948がいやまん:2006/05/14(日) 11:43:10
連投御免。この異常な民族移動は倭人伝の時代には進行中であり、投馬国
とされる倭国第二位の広域連合、これは、丹後、播磨、淡路、東四国、紀伊
を指すのかナーと思っている。
949日本@名無史さん:2006/05/14(日) 12:31:30
>>926
>>いちばん大きな動機は、やはり大和朝廷の前に統一王朝が存在していてはマズイ、ということでしょう。
>>神武=崇神の前に王朝が存在していては、天皇家は王朝を簒奪したことになってしまう。


まずいも何も、日本の歴史書には
大和が日本最古の王朝である出雲を倒して秋津島の統治の正当性を獲得(簒奪)して
新王朝を建てたと、「国譲り」の項でしっかり書いてるんですけど。
降伏した出雲の首長は出雲の国造として地方の知事に任命されていることや、
前王朝の国王であることを考慮して、
普通の豪族には認められていなかった高床式の高層建築を建築して居住する特権を与えたりと
細かいことまで記してあるよ。
なんでこう隠蔽史観みたいなもので自説をたてるかね。
950がいやまん:2006/05/14(日) 12:33:09
更に連投御免。邪馬台国時代のもう一つの重要な国は狗奴国であるが、もれは
これを銅鐸文化の最後の集団と見る。狗奴国というのは夫余のぎょうせい地域命
名法によるものと見られ、鹿加(加賀)、猪加(伊賀)、狗加(甲賀、久我)等の地方
を指すのではないかと思われる。神名にカグツチというのがあるが、鹿児島県のHP
ではカゴとは金のこと、従いカグツチは金鎚、鎚といった意味で銅鐸に蚩尤のように
カセの形をした帝釈天のインドラハンマー
(金剛杵 古くインドの武器で,帝釈天や金剛力士の持物でもある。密教では,
杵(きね)の形をした中央の握り両端に鈷の突起をつくりその鋭さによって煩悩を
打ち破り,菩提心(仏性)をあらわすための法具である。両端の鈷数や形によって
独鈷杵,三鈷杵,五鈷杵,九鈷杵,宝珠杵,塔杵,九頭竜(くずりゆう)杵などがある。)
をもつものがカグツチの神であろうと推定している。
951日本@名無史さん:2006/05/16(火) 00:10:31
邪馬台国って畿内〜九州までを領土としてたんでは?
952日本@名無史さん:2006/05/16(火) 01:59:39
最大領土は鹿児島県〜福島県だと思うぞ。
953日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:37:34
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★

最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。
彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。

ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、
 みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。
954日本@名無史さん:2006/05/21(日) 01:04:52
朝鮮人の先祖は「韓」。三世紀には「穢」と「韓」はまったく別の種族として区別されてる。
普通に三国志よんでれば誰でもわかってること。
>>963はいつもの既知外コピペ小僧。
955日本@名無史さん:2006/05/21(日) 20:56:58
さて>>963に期待
956963:2006/05/21(日) 23:16:44
俺はいつもの既知外コピペ小僧だそうだ。
957日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:34:54
>>963 m9(^Д^)プギャー
958日本@名無史さん:2006/05/28(日) 13:04:03
俺は、卑弥呼はモモソヒメ
トヨは豊鍬入姫だと思っている。

もともと、卑弥呼は王という女性祭主であり、日本側では女王という認識を
もっていなかった。
和国大乱時に諸国をまとめるのに、女性祭主を共立することにより、ゆるやかな連合国家が
大和、マキムクの地に誕生していた。
そのあと王位に初めてついたのが男王の崇神、崇神はアマテラスオオミカミや倭大国魂を御殿
から放り出してしまう。その後に疫病や武埴安彦の乱などがおこったため、
箸墓の前方部をつくり、卑弥呼=モモソヒメを祭るとともに豊鍬入姫を祭主とし
さらに、自らの権威を高めるために、魏への朝貢を復活させた。
959958:2006/05/28(日) 13:29:40
>そのあと王位に初めてついたのが男王の崇神、崇神はアマテラスオオミカミや倭大国魂を御殿
から放り出してしまう。その後に疫病や武埴安彦の乱などがおこったため

すまん、
放り出したから疫病や反乱がおきたのではなく
祭祀権を天皇が独占したから、反乱がおきた。
そのご、豊鍬入姫にアマテラスオオミカミを祭らせ、それが伊勢神宮にいく。
当時に、もと女性祭主である卑弥呼を祭るため、箸墓の前方部を建設したのではないか。
960日本@名無史さん:2006/05/30(火) 23:26:06
たぶん、だけど、
日本で大王の伝承が残っているのは、崇神以降だと思う。
神武はもちろんでっち上げで、欠史八大もでっちあげ。
ということは、崇神以前の大和政権については、まるで
記紀に書かれていない。
崇神がおよそ2世紀後半から3世紀前半くらいの人物だとすると
卑弥呼や台与は記紀に書かれていないと思う。
961日本@名無史さん:2006/05/30(火) 23:39:28
>>960
神武が居たから今、天皇制が有るんだろうが
962日本@名無史さん:2006/05/31(水) 01:49:29
神武はノンフィクションの人物だろう、モデルは崇神だな。
963日本@名無史さん:2006/05/31(水) 03:35:29
俺が噂のコピペ小僧だそうだ。
964日本@名無史さん:2006/05/31(水) 08:10:49
>>962
違う、
別々にモデルと成る人ら居る
965日本@名無史さん:2006/05/31(水) 17:10:32
>>949
高床式の高層建築とは、祟り封じの神社みたいなものジャマイカ?
966日本@名無史さん:2006/06/01(木) 23:18:54
決史八代はなんら業績の記述もなく
名前も後世の天皇の名前に酷似していて
とってつけたような名前が多い。

あとから、付け足したとしか思えない。
そもそも5世紀、6世紀と兄弟相続が通常であったにもかかわらず
欠史八大は、親子で相続が行われている。
これは天武以降の天皇の相続がそのまま反映されている。
欠史八大は少なくとも非実在。となると、その前の神武も当然に怪しいと考えるべき。
967日本@名無史さん:2006/06/02(金) 00:15:35
>>965

大和王権は確かに、祟り(荒魂)を恐れ、死者の命を慰撫するための施設として
神社を建設することは多かったです。しかし、出雲に関していえば違います。

記紀では出雲から大和への国譲り(王朝転換)の際に大国主神(出雲王)の
要求した降伏の条件として
「すべては天神の意に任せましょう。ただしここに天に届くばかりの
立派な御殿を造り私の住処とすることをお許しください」
と言って認められ、壮大な建築物を造ったものであって
この建物は後に出雲大社となるものの、もともとは慰霊のためではなく
降伏した王のために造られた邸宅です。

ちなみにこの出雲大社は建造時、
高さは32丈(97メートル)もあり、たびたび地震で倒壊したという記録とともに
低く造られていくものの平安時代で16丈(48メートル)もの規模を誇り
木造建築物としては世界最大であった超高層建築物です(東大寺の15丈を上回っている)

江戸時代の寛文7年(1667年)に8丈(24メートル)となり現在に至っているが
その間も日本最古の大社様式による神社で、古さ・規模において「国中第一の霊神」と記述されるくらい
伝統のある場所になっています。近年の調査で古い地層に巨大な柱跡がいくつも見つかっており、
柱の外周から記紀の記述どうりの建築規模であった可能性が発見されています。
968日本@名無史さん:2006/06/02(金) 06:08:14
>>967
出雲大社は、四拍手で、しめ縄の綯い方も普通の神社とは正反対だけど、
これは、死人の北枕、逆さ屏風のようなものではないんでしょうか?

なんだか「死」の臭いがプンプンするんですが・・
969がいやまん:2006/06/02(金) 06:20:13
>>968
冠婚葬祭の葬の部分との関連は多分四方の辟邪といった、四隅突出型古墳
等につながる意味があるかなという気がします。いまだに地鎮祭、大相撲などにも
この思想があるのではと思われるのですが。
970713:2006/06/02(金) 21:52:34
>>969
俺は単純に「四拍手」=縁起悪ぅ…と感じたんですが。
四隅突出型古墳にまでつながりますか?
971がいやまん:2006/06/03(土) 07:37:02
死、四、等、漢文、漢字は歴史時代に百済から博士、紙、筆などが伝来し、概念
が解るのでしょうが、四方(よも)等の言葉は弥生の方形周溝墓の時代から定着
していたはずで、、また拍手も非常に古くからの慣習。拍手は北方ユーラシア
の拍子木と関係するのかも。
972広開土王碑:2006/06/03(土) 11:36:46
 
【韓国】日本の植民地統治は韓国の経済発展に貢献したの?[06/03]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1149297784/

―植民地工業化は韓国の経済発展に貢献したのか?

「経済計画と統制をはじめとした日帝時代末期の雰囲気を受け継いだのは、むしろ北朝鮮
の経済政策であった。経済発展は工業化の遺産に後押しされたという見解は憶測に過ぎない」
(鄭在貞・ソウル市立大教授)

ク・ナンフィ、延敏洙(ヨン・ミンス)、尹明(ユン・ミョンチョル)、ユン・ユスク、孫承(ソン・スンチョル)、
李仁哲(イ・インチョル)など、現在の韓国学界を代表する54人の学者らがこの問題に深みのある分
析と解答を提示している。広開土王碑の「ねつ造」が既に石碑を建立した当時から行なわれていた
など、興味深い内容が多い。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/03/20060603000014.html

>広開土王碑の「ねつ造」が既に石碑を建立した当時から行なわれていたなど、興味深い内容が多い。
>広開土王碑の「ねつ造」が既に石碑を建立した当時から行なわれていたなど、興味深い内容が多い。
>広開土王碑の「ねつ造」が既に石碑を建立した当時から行なわれていたなど、興味深い内容が多い。
973日本@名無史さん:2006/06/03(土) 16:21:35
>「ねつ造」が既に石碑を建立した当時から行なわれていたなど

<丶`∀´>日帝はタイムマシーンを開発していたに違いないニダ!!! 

斜め上と思いきや、時空を超えてますw
974日本@名無史さん:2006/06/03(土) 18:47:26
>>972
「国民レベルで仲良くする」って言うのは、幻想かも知れないな。
次の総理が穏健になっても、曲解や捏造はむしろ増えるような気がしてきた。
お互いに歩み寄るっていう発想事態が無いんだろう。
975日本@名無史さん:2006/06/04(日) 01:02:31
邪馬台国なんて魏の時代に日本の一地方の集落にすぎないんだから・・
976日本@名無史さん:2006/06/04(日) 01:10:35
証拠は?

<丶`∀´>無いニダ
977日本@名無史さん:2006/06/04(日) 10:57:52
日本の一集落しかすぎないものに、親魏倭王という称号をおくるわけがない。
あきらかに魏は呉牽制するために、呉に対抗できる勢力だと倭国を見ていたわけだ。

それだけの勢力をもっていた地域を3世紀の日本で探してみればいい。
978日本@名無史さん:2006/06/04(日) 16:57:19
でも邪馬台国が大和朝廷になったにしろ、なぜ場所が同じとなるんですか?
例えば邪馬台国は九州にあって、その後何らかの理由で畿内に移り
そこが大和朝廷になったとは考えられないですか?
979日本@名無史さん:2006/06/04(日) 20:20:01
>>978

考えられる、考えられないという意味なら、なんでも考えられる。
決定的な証拠がないんだもん。

結局、現在ある状況証拠でもっともらしい場所を推定するしかないんじゃないのか。

思うに
@魏志倭人伝の距離や方角はあてにならない。倭の位置を会稽の東治の東にあると考えていた節がある。
A短里は根拠のうすいこじつけ。たまたま短里という単位を使うと日本国内におさまるというだけで、
当時の魏で短里が使われたという証拠などまるで存在しない。

つまり、魏志倭人伝から、邪馬台国の位置を確定することはできない。

そのうえで、3世紀の遺跡を見ると
マキムクから西日本全土の土器が集まり、また前方後円墳も西日本に広がりつつある。
古墳の規模も大きく、かなりの広範な勢力がマキクムにあった。
このことからだけでも、親魏倭王の称号に相応しい国があるとすれば、マキクムを中心とした
勢力と考えるべき。
それにプラスして、景初3年鏡など当時の魏の鏡が大量に出土している状況をプラスすれば
状況証拠としては邪馬台国はマキムク有利だ。

3世紀以前のことは、もとが九州なのか大和自生なのかは想像の域を出ない。
980日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:59:41
>>979

あんたって、あちこちで珍説披露してる人?
某スレの120・161とか。
(http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1145427487/l50)
何か似てるよ。
981日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:43:51
979は、しごく
まっとうというか
つまらないくらい普通の見解だと思うが。
邪馬台国の場合、九州説のほうに圧倒的に珍説が多い。
982日本@名無史さん:2006/06/05(月) 01:04:59
だから畿内説では、阿蘇山と金印が畿内のどこにあると説明するかだ。
たぶん畿内説のほとんどが珍説なわけだが。
983日本@名無史さん:2006/06/05(月) 02:03:09
>>981
畿内説の人間は九州説のすべてが珍説に見えるし、
九州説の人間は畿内説のすべてが珍説に見える。
984日本@名無史さん:2006/06/05(月) 17:25:54
>>982
阿蘇山も金印も邪馬台国連合≒ヒミコ共立国内のモノだから
なんら矛盾しない。

九州説は殆どは俺が村根性丸出しの田吾作が造り出した
ファンタジー小説レベルの駄説、西都だの小城だの宇佐だのアホ。
チョソの国史感と相通ずるものがある。
985日本@名無史さん:2006/06/05(月) 20:54:22
阿蘇山がどう関係するんだ。
986日本@名無史さん:2006/06/05(月) 22:19:54
隋書には都に阿蘇山があったと記述があるのか?
違うだろ。
987日本@名無史さん
九州説最大の珍説は九州王朝説