893 :
日本@名無史さん:2010/05/04(火) 09:52:51
孝謙女帝のおめこがガバガバで満足できる
相方が居ず、一物をば「そりゃ、膝かえ?」と
感ちがいなされた道鏡の巨根に驚喜して重用するよう
になった、という道鏡巨根説は信用できるのかい?
>>893 さは→それは→そりゃ
と、音韻上の変遷を経るのは
孝謙女帝の御代よりも1000年くらい後の話だから、
「そりゃ、膝かえ?」とは言わなかっただろう。
>>893 マジレスすると、幸謙女帝と道鏡が恋愛関係(極秘結婚?)にあった可能性は強いが、
道鏡のナニがでかかったか否かは不明。
幸謙女帝は私情で日本の皇室制度はもとより、天皇家までめちゃくちゃにしようとした人物だから、
「あの女とんでもないアマでして〜」
と語り継ぐために、始皇帝の母親あたりのエビを当てはめてみたのが真相らしい。
本当によっぽどのカバマンでなければ
女にとっては巨根なんて痛いだけでありがたくもないらしいしな
それどころか巨根に限って大きい事だけに優越感持っているんで
テクや思いやりがおなざりで女性間では評判悪いことが多いらしい
897 :
日本@名無史さん:2010/05/14(金) 18:27:06
世界遺産のガイドブックを眺めていて、韓国のところで疑問に思ったので
質問させてください。
そのガイドブックには、「日本による植民地時代」みたいなことが歴史の部分に書いてあったんです。
けれど、本来日本が行ったことは併合だと聞きました。
不思議に思って他の大体そこらへんの時代を扱った本を見ても、「植民地」と記されてました。
私自身、日本が当時行ったのは併合だと思うのですが、どうしてこのような違いが起こったのでしょう?
見た本の中で結構古いモノもあったので、質問させていただきました。
併合という名の植民地だから
899 :
日本@名無史さん:2010/05/15(土) 21:58:03
>>896 小さい人は必ずこう言うけど何でも程度の問題。
900 :
日本@名無史さん:2010/05/15(土) 23:27:09
「併合」と「植民地」では、実態上何が違うんだろう?
足利義満と一休さんは仲良し
902 :
日本@名無史さん:2010/05/16(日) 12:42:35
>900
そういや、そうだな。
たしか、併合後は旧・韓国の王族を日本の皇族と同等の格式で扱ったという話ではあるが、
インドを植民地にしたイギリスでは国王はムガール皇帝を兼任し続けてるしな。
厳密にいえば、植民地は曲がりなりにも地元政府を残し、現地人には本国の国籍を認めない。
併合は地元政府を解体し、本国の一部に組み込むこと。建て前では本国人と対等であるが、実質には差別がある。
904 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 01:03:50
いちおう政策的には、日本本土と韓半島は、
多くの面で平等に取り扱われてはいたんじゃなかったっけ。
併合以前の経済格差を是正しようとか、そういう政策が皆無だったから、
自動的に韓国の農民は没落して土地を失って小作人になり、日本人が土地を買い占めて地主になったり
工場とか商社とかをつくって人を雇うのがもっぱら日本人だったりしただけで...
そもそも日本列島の中でも自作農や小規模地主はすっかり没落して小作人になってた時代だから、
列島内で金を持ってる人が半島に手を広げるだけで自動的に韓国の農民が小作人になってしまう状況だったって事。
905 :
pi:2010/05/19(水) 01:00:13
>905
だが、それでも当時の欧米諸国よりもマシ。
なんせ、江戸の町では糞尿を買い集めて近郊農家に売却する職業が成立していたために
(売る方としては二束三文かもしれないが)小銭の元になる糞尿を道ばたに垂れ流すなんてもったいない、
どうせなら少しでも集めておいて売る方がいい。
と考える庶民が多かったから、糞尿の大半は溜め込まれ回収されてたわけ。
まあ、輸送中にこぼれたヤツが悪臭を放つことも多かっただろうが、そりゃどうしようもない。
対するに、欧米では自室のトイレの汚物を部屋の窓から道路にぶちまけたりするのが常識で、
町中を走る排水溝が下水の通り道だった。
どうやら糞尿を買い集めて肥料として転売するシステムが成立していなかったらしく、
すべての糞尿が下水溝(道路の側溝)をとおっていたわけで。
こりゃ伝染病が流行したらひとたまりもないわ、と納得できる町並みだったのさ。
邪馬台国畿内説(笑)
908 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 16:21:54
邪馬台国九州説(笑)
909 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 17:13:22
、....,,_
、-‐'" __ ヽー- 、}ヽ
,/´/ / , _,. _/ ノ レi
_,// / /{ i ー' ノ
/ // / / .i l l! ー<
/ / //!/ ヽ ヾ l 〉ヾ,
!/! イ ‐::::::;;;;;;;八;;;;;;;::‐ヾ、 }
|」l ! 。ー-- ;; :; --−。 l /
f r| !| ゚ o ´ ノ ::、 ` o | l/
.l ヾハ o /( ,=、_,=、)ヽ, l/l! 織田信成、高家旗本織田家の末裔説!
\ _j /_,, -―-ー-、_ l l /
l l | トエエエエエエイ l ./´
`ト、 l Vェェェェェェェソ //┐
l \`ー‐---‐‐' / 」、 _ ,,.
「ヾ、_ヽ、___ノ_/ r―-- `ゝ
l イ /  ̄ ̄ ヽ
!_ _,.. i | / ヽ
/ !.| ,/
織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161/
910 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 22:44:34
911 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 17:34:01
三角縁神獣鏡が出土する度に新聞が卑弥呼の鏡と書くのは、
それが魏鏡だと信じちゃってる奴がマスコミや学会の多数を占めてるってことなのか?
913 :
金吾秀秋:2010/05/30(日) 00:43:35
実は、名将なんだぜ(´・ω・`)
914 :
日本@名無史さん:2010/06/02(水) 13:50:52
隠岐から逃げた後醍醐は神戸の福厳寺に入ったために頭痛に悩まされます。
なぜ頭痛に悩まされたのでしょうか?その後近くの薬仙寺の井戸水がご利益
があり、それを飲む事で頭痛は完治します。なぜ福厳寺の井戸水を帝は飲ま
なかったのか?それは福厳寺は鎌倉幕府ゆかりの鎌倉の巨福山建長寺の直系の親幕府
派だったのです。巨亀山 福厳寺は山号と寺号の頭文字を合わせると巨福となり、
鎌倉建長寺を表しています。帝は毒殺もしくは、毒を盛られたことを警戒したに違いあ
りません。
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の歴史においても重要な地位をしめます。兵庫城、兵庫津を取り囲む都賀堤の中心で、
兵庫の町を守る軍事拠点になってました。
境内には
塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ
れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし
た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在
は福厳寺に合併されています。
915 :
日本@名無史さん:2010/06/02(水) 22:46:28
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
916 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 00:36:02
昔から、モレは縄文土器に疑問があったぞ。
それは、土器の表面の模様だ。当然縄の模様があったんだろうけど。
モレが小さい頃の縄は稲のワラで作っていたからだ。
だから縄文時代にも稲作はあったんじゃないか?と思っていた。
それともうひとつ
何で遣唐使があったのか?
だって日本は唐、新羅連合と白村江で大戦争をやらかした相手だぞ?
なんでそんな国の使節団を唐が受け入れるんだ?
>>916 稲藁が無いとロープが作れないとしたらヨーロッパの人はどうしてたんだ?マヤのキープはどうすんだ?
メソポタミアやメキシコには稲は無いが葦でロープ作ってるぞ。
>なんでそんな国の使節団を唐が受け入れるんだ?
アメリカだって日本だって北朝鮮とそれなりに外交してるだろ。
918 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 23:33:09
>916
遣唐使ってのは、(少なくとも建前上・形式上は)朝貢使だぞ。
戦って負けたお詫びに貢ぎ物を捧げに行く、という形式だから問題はない。
僻遠の地だから10年に一回で良いよ、という約束になっていたようだ。
(約十年一貢、という記述は、およそ十年で一回、と言う意味ではなくて、
十年に一回という約束を交わしたという意味だよ。)
冊封関係は作られなかったとはいえ、あくまでも「貢ぎ物を捧げに行く」形式を作らされたことは間違いない。
千葉さなが生涯独身を貫いた。
920 :
日本@名無史さん:2010/08/21(土) 15:20:26
hoshu
921 :
日本@名無史さん:2010/08/25(水) 21:55:59
>>878 征夷大将軍と言ったって一族が盤石じゃないと
源氏みたいに滅亡するのは非を見るより明らかだろ
関白なら天皇の後ろ盾が有るので簡単に潰す事は出来ないだろ
>>921 源氏の将軍は三代だが豊臣の関白は一代限り。どっちがより簡単に潰れたろうか?
関白は秀吉、秀次の2代じゃね?
まあ源氏将軍より短いけど
でもこればっかりは当時の状況次第だしな
>>923 秀次忘れてたよ。状況次第ってのはまぁその通りで、秀頼が生まれて来なければ・・・。
>>878 鎌倉時代でも、いくらでも宮将軍がいたわけであるが。
>>878 Q1、秀吉は足利義昭に将軍を断られたんだよね?
A1、秀吉が将軍を断念したソースは林羅山の「豐臣秀吉譜」のみなので今のところ否定も肯定も出来ない
Q2、秀吉は農民だから将軍になれなかったんじゃないの?
A2、秀吉は平姓として筑前守になり藤原姓として関白になり豊臣姓として太政大臣になってる
どれも立派な姓であり、秀吉の出自が官位就任に影響をおよぼしたことはない
Q3、源氏しか政権担当者としての将軍にはなれないんだよ。おまえ馬鹿?
A3、「天正十年夏記」によると勧修寺晴豊は信長が将軍になるだろうと感想を洩らし
誠仁親王も信長をどのような官にでも推挙すべしと言っている
そして信長は平姓。もうわかったね?
Q4、はあ?意味不明
A4、だから信長が平姓で将軍になることに問題はないから
平姓秀吉も将軍になることに問題はないと考えられるの
Q5、だったら将軍になればいいじゃん。ならなかったのはやっぱ秀吉じゃ無理なんだよ
A5、小牧・長久手合戦の直後に権大納言や内大臣つまり将軍が兼任した官位を獲得したが
すぐに関白になっているため秀吉は将軍職を望んでなかったようだ
小牧・長久手の敗戦により将軍職を諦めたという論説もあるが
秀吉が将軍職獲得のために運動した形跡はないため憶測にすぎない。
Q6、だから何?
A6、つまりこのスレの結論は「将軍職に興味を示した資料は無いが、秀吉はなろうと思えば将軍にも関白にもなれた」
「むしろ朝廷をも支配出来る関白になるほうが都合が良かった」ということ
927 :
日本@名無史さん:2010/08/27(金) 01:14:40
>926
1: あれ?将軍の地位じゃなくて足利氏への養子入りでは?
猶子にしてっていって断られたんだったような気が...
3〜4:ほかに、藤氏将軍の前例だってあった。鎌倉時代だが。
928 :
日本@名無史さん:2010/08/27(金) 01:19:10
そういや
>921
鎌倉幕府の源氏三代は、三代目が将軍就任の当日にヌッコロされたんだっけ
>912-923
豊臣関白家は、あと1年もがんばれたら、秀頼が三代目の関白になることはできただろうにな。
もっとも、朝廷と幕府に並ぶ第三権力としての関白でしかなく、秀吉時代とは大違いの状況ではあっただろうけども。
全国政権としては秀吉死去で、ほぼ終了してた。
(形式上の話でならば、関ヶ原の戦いは豊臣政権内の派閥争いに過ぎなくて、関ヶ原以後もいちおう豊臣政権の時代と言えなくはないが。)
930 :
日本@名無史さん:2010/09/01(水) 21:09:37
桶狭間での信長軍の奇襲攻撃
あり得ないから
どう見ても談合の密約を破り騙し撃ちしただけだから
931 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 19:38:05
壬申の乱
大海人皇子が天皇の弟というのは、万世一系の地位を正当化するための後付けとしか思えないのだが
尾張辺りで挙兵して朝廷軍を破った男が実在するとして、そいつが天智天皇の弟である可能性は限りなく低い
するってえと、奈良時代の皇室は少なくとも2氏以上で構成されていたってわけですね?
そうですね、歴史書は時の権力者が都合良く書き換えるに決まってますからね
その後藤原百川が擁立して来た男が本当に天智天皇の子孫かどうかも怪しいと思いますよ
934 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 20:41:52
足利義昭、愚将説。
実は相当の切れ者
その「藤原百川が擁立して来た男」ってえのは光仁帝=白壁王のことだろうが、
白壁王はそれ以前から(聖武天皇の時代から)史料に出て来まっせ。
聖武〜称徳朝に出て来る白壁王は本来皇室出身者ではなく、
あるいはその存在自体が後世の捏造だった可能性もあるってわけですかな?
まあとりあえず、あなた自身が、「あなたに都合の良い歴史」に作り換えてないかどうか、注意してね。
その「聖武天皇の時代に出来た資料」の内容が本当に当時から変わっていないんですか?
その後の権力者が自分を正当化するために書き換えていない証拠はあるんですか?
明治以前の歴史は全て闇に包まれていると思います
教科書に書いてあれば真実の歴史だというわけではありませんよ
それはある意味悪魔の証明で、それを言っちゃおしまいなんですわ。
足利義教だってその辺にいた坊主を見つけてきたのかもしれないし、
徳川吉宗だって反主流派が適当に擁立した徳川に縁もゆかりもない人物だったかもしれない。
そうですね
明治天皇が実は大室だったというのと同じく、そういう事もあったかもしれない
何しろ現代では確かめようが無いのですから
現代だってそのうち歴史になりますからな。
「自民党政権を倒した鳩山由紀夫が自民党をつくった鳩山一郎の孫であるわけがない。
日本政府の正統な後継者としての地位を担保するための捏造だ!」
などと、何百年か後の「歴史好事家」が主張してる姿が目に浮かびますw
940 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 22:18:32
>>939 100年後には小沢の暗躍とか民主党と自由党の合流とかは応仁の乱の時と同列に扱われそうだな
陣営が入れ替わりすぎだし裏切りの連続
942 :
日本@名無史さん:
>>930 確かに密約はあったよ
但し、信長と義元ではない
信長と家康