1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 21:05:12 ID:1tO4Q7Ab
3 :
風来坊:2009/07/24(金) 21:27:32 ID:TxN6fBkQ
なぜ人気がでない・・
4 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 22:23:27 ID:CsJq2+Lx
5 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 16:14:44 ID:4UNUgPm6
高遠城・山中城・八王子城などの堅固な山城でも、圧倒的戦力差をもって総攻撃を喰らえば一日と持たずに落城した。
しかしこれらの城郭に比べると小城としか言いようの無い長谷堂城相手に、
20倍もの兵力差で何度も総攻撃をかけたのに落とす事が出来ないどころか、
逆に打撃を受けるなど、これは指揮官の能力が極端に低かったといわざるを得ない。
6 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 18:21:31 ID:RB+SG7Cw
7 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 21:33:30 ID:5N1JFFEu
前スレ取得できん
誰かdat上げてくれ
8 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 01:05:59 ID:Nly0QA7H
9 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 11:23:00 ID:JjUxIvuA
関ヶ原前、徳川からの恫喝に対して次々と屈する諸侯。
前田は利家の妻を人質に差出し、政宗は忠輝の妻として五郎八姫を嫁がせることを強要され応諾等々。
そんな中、謀反の計画ありなどという言い掛かりに対する景勝・直江の態度(直江状)には強き者にただ屈することを潔しとしない彼らの心意気があった。
そんな中会津討伐が決定された。本多正信は直江状の追伸として書かれた一節「内府(家康)又様中納言(秀忠)様御下向由候間、万端御下向次第可仕候」 にある種の小気味良ささえ感じながら。
最上との戦いでは、
『最上義光記』には「直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが取って返し。
追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ
、直江も虎口を逃れ、敗軍集めて心静かに帰陣しけり」とある。この撤退戦は後世まで語り草になった。
最上義光は兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、
(中略)誠に景虎(謙信)武勇の強き事にて残りたりと斜ならず感じ給う」と評し、
家康も兼続が駿府を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の物」とおおいに賞賛したという。
家康は武家として正々堂々と戦い、西軍が負けたら清く敗北を認め主家を守る為に
すべて自分の責任なので煮るなり焼くなりすきにしてくれと言い放った兼続に惚れこんだ。
本能寺の時の毛利が秀吉を追撃しないのと同じように卑怯なマネをしなかった上杉家を評価して、後に最上改易の際は山形城受け取りの大役を伊達政宗でなく上杉景勝に命じている。
旧日本陸軍参謀本部「日本戦史」でもこの「相懸り引き作戦」は撤退作戦の見本となっている。
約二万とも言う大軍を狐越街道という超難所を抜けて米沢に無事帰還させたその戦い振りに最上記斯波家伝に言う。「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」、と
山形城傍の最上義光記念館には殿をつとめた直江山城近習(前田慶次を含む)と水原常陸介が鉄砲で前建を打ち抜いたと言われる兜(織田信長から最上義光が拝領したと伝わる)を見ることができる。
この織田信長由来の兜の御蔭で義光は命拾いをしている。
10 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 12:25:22 ID:1kNnHBmu
伊達も最上も関ヶ原以前から徳川よりじゃろ
11 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 14:52:16 ID:PqABTVZx
最上に関しちゃ駒姫の事もあるしな。
12 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 15:03:28 ID:ETholY4Y
単に庄内を上杉から取り返したかったのと
仙北一揆で、湯沢城主を暗殺して大谷吉継にウソ報告し、暗殺事件を引き起こして強占した為、恐怖で横手に逃げ出した湯沢住民を上杉が扇動したと最上が他人のせいにした。
これで大谷&上杉&小野寺と仲が悪くなったから。
駒姫の件は秀次を担いで政宗と謀反しようとしたから自業自得。
むしろ一命を助けられたことを有り難がるべき
13 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 15:32:10 ID:tkrCSQPi
サブ妄想乙
14 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 15:41:50 ID:JKJP84xE
15 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 15:49:26 ID:nlk1Cjy/
秀次を担いでw
妄想もここまでくると病気だな
16 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 16:01:01 ID:K+0r1/Pl
徳川軍が反転し東北連合軍は霧散。
そのなかで単独で上杉の大軍と対決を決意した最上。
その背景には豊臣政権下で直江−石田ラインの前に煮え湯を飲ませれ続けられ、
極めつけに起きた駒姫事件。
自らの滅亡をかけてでも上杉の大軍との決戦を選ぶよそりゃ。
17 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 22:12:28 ID:ETholY4Y
対決を決意ってなにデマ言ってんの?
嫡男を上杉に人質出すから許してくれって義光は言ってただろが。
妹には甥っ子に援軍を頼ませたし。
もっとも政宗はその時、さんざん嫌みを言ってたけどなw
秀次が謀反の罪で秀吉に自刃させられたことすら知らんとは…
だいたい中立的第三者の大名の同時代資料に「秀次は無実の罪だった」とか書いてある書状でもあるなら出してみろよ。
豊臣政権下では例えば
小田原参陣が政宗より遅れても良いことにしてもらったり、
上杉や伊達や佐竹と違い朝鮮出兵を免れたり、
朝鮮出兵中に小野寺侵略して失敗したのを不問にしてもらったり一番厚遇されてたろうが。
18 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 22:29:03 ID:k2bwlJUg
キチガイ警報
19 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 23:17:49 ID:K+0r1/Pl
最上義光と家康のお話
天正18年(1590)、秀吉の小田原攻め。伊達への監視などから参陣の遅れた、最上義光をはじめとする
最上勢が小田原への道を急いでいると、徳川勢が、酒匂川まで出迎えに来ていた。
彼らの歓迎を受けた義光は驚いた、なんとそこに、駿河大納言、徳川家康自身がいたからだ。
「よく参られた。ここからは我らがご案内いたす。」
家康はかねてからこの、最上義光という武将に、好感を持っていた。義光は家康の心遣いに
恐縮し、感謝した。
さてこの時、義光は上杉景勝との間に紛争を起こしていた。庄内の領有をめぐる問題である。
かの、「豊臣惣無事令」以前に最上領となっていた庄内だが、上杉の援助を受けた本庄繁長の
不意打ちにより、最上から奪われた状態になっていた。
「これは惣無事令違反である!」秀吉の前でそう主張した義光であったが、早くから秀吉に従い、
また石田三成など、秀吉側近の多くを味方とする上杉の影響力は強く、新参者に過ぎない
義光の言い分を、誰も取り上げようとはしなかった。
そんな中、たった一人、義光の弁護をした者がいた。徳川家康である。
「義光殿の言い分こそ正しいではないか!このような仕置きは禍根を残す!」
これにより、本庄繁長の処分だけは行われたものの、それと引き換えのような形で、庄内は結局、
上杉領とされた。
しかし義光は、家康を深く信頼した。
慶長元年(1596)、近畿に大地震が起こった。「地震加藤」の逸話などがあった、あの地震である。
諸侯は真っ先に、秀吉を見舞いに行った。
最上義光ただ一人は、秀吉の元ではなく、家康の屋敷に駆けつけた。
関ヶ原はまだ5年ほど先、と言う頃であった。
20 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 23:21:58 ID:mh6FfGYV
義光からすりゃ別に相手が秀吉だろうと秀次だろうと
豊臣家と友好関係を築こうとしたからこそ嫁がせたんだろうよ。
なのに勝手にお家騒動に巻き込んで、
まだ嫁ぎきってもいない愛娘をいきなり虐殺されて自業自得は無いだろ。
21 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 23:22:16 ID:XLaLrtpY
自分の都合のいいように曲解、なんてレベルじゃないな。
マジで入院すべき。
22 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 23:23:37 ID:K+0r1/Pl
最上義光の正室・大崎夫人と駒姫の悲劇。有名だけどちと詳しく。
義光正室は義康、駒姫ら二男三女の母であり、大崎氏出身。
実家大崎家が小田原参陣せずとりつぶされ、義光らが大名復帰運動を
行うも某DQNの大崎一揆で望みが消えた気の毒な女性である。
(←一揆あおった政宗放置で大崎は潰すのかよ! どういう裁定だ)
彼女と義光の二女・駒姫は東国一の美少女と噂されたばかりに、
豊臣秀次の妾にのぞまれた。
(←義光が駒姫を使って接待をしたのは後世のガセ。
しかし山形市内ですら「義光は出世したいから娘さしだしたのよ、
やーねー、さいてー」とか未だに言う人がいるのがもうね…)
義光はいやいや彼女をさしだしたが、駒姫が秀次と顔もあわせないうちに
秀次が謀叛により断罪され、聚楽第にいた妻子も逮捕拘禁、処刑されることに。
山形から最上屋敷についたばかりの駒姫も、捕らえられた。
義光は助命嘆願をするが、結果的に駒姫は十五歳で斬首され、
遺体は廃棄同然に埋められ、引き渡しも許されなかった。
駒姫処刑を知った義光は
「私の過去(前世)が罪深いばかりに(過去の業こそ)……」とだけ
言うと寝込み、数日間は水も飲めないほど衰弱した。
さらに義光夫妻は謀叛荷担の容疑で拘禁される。
えー、ここからは大崎に伝わる伝説なので信憑性はさておき。
大崎夫人はその美貌もあってか、拘禁中に豊臣に仕えるようにと
言われた。娘の次は母親というわけだ。彼女の侍女はそれを聞き、
大崎夫人の身替わりに連れて行かれた。しかし発覚し、
侍女は斬り殺された。大崎夫人は侍女の献身のかいあって脱出し、
そのまま寒河江で出家したという。
伝説ではなく史実では、駒姫処刑のわずか十四日後に彼女が死亡したことしか
わかっていない。自害説が有力だが、他の死因もありうる。
伝説も一部分は真実で、悲惨だからあえて最後をぼかしたのかもしれん。
まあ、本当に出家して自然に亡くなっていればいいんだが、義光は事件から数年後に
再婚しているので亡くなったんだろう。
ちなみにこのあと連歌会に参加した義光の句にこんなものが。
「憂きもただ報ひとぞ身や省みん」
(この悲しみも報いであろうと、我が身を反省するしかない)
義光が妻子を弔った専称寺は今にいたるまで東北最大の伽藍をもつ。
この境内には義光が参拝時に馬をつないだという木がある。本当に心底悲しかったらしい。
さらに駒姫といえば、後味悪い史料が残っている。
秀吉が秀頼への忠誠を誓わせた血判状。ここには義光の花押と血判もある。
これには駒姫拘束から処刑の間の日付が残る。
忠誠を誓うことで、駒姫釈放に義光はわずかな希望を抱いたかもしれない。
彼はどんな気持ちで血判を押したのだろうか。
23 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 23:40:03 ID:EMs8iRJn
>>16 前スレで出てた関連史料についてのレスだけ貼っておく。
それと、伊達に救援を求めた件は最上息子が使いに来たとか最上に助太刀するとかの政宗書状があったよな。
347 :人間七七四年:2008/12/21(日) 18:38:45 ID:GN9BRD1F
撤収戦について
上杉殿軍約1,500(直江隊約500:前田慶次を含む、水原隊約500、溝口鉄砲隊約500)
最上義光「誠に景虎武勇の強きことにて、残りたりと、斜ならず感じ給う」(最上記)
「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」(奥羽永慶軍記)
徳川家康「あっぱれ汝は、聞き及びしより弥増の武功の者。」(最上斯波家伝)
最後、直江は敵陣に突撃して果てようとしたが「ここで死なせる訳にいかん」と慶次に突撃を止められたらしい。
824 :人間七七四年:2009/07/07(火) 00:36:56 ID:BTi/KnYL
最上義光が直江兼続に送ったお手紙
今度当地へ御発向なさるべしと承るについて、書状を以て申上候、跡々より御家中の者同前御馳走仕り候こと。
一、先年御指図を以て、家康伏見城へ移り申されて後、御前様若松へ御下向の時、拙者儀は山科大焼原まで
罷出で、御門送り、御主同前拝し仕り候こと。
一、拙者儀国本へ飛脚さし下し、嫡子修理大夫若松へ御着翌日出仕仕らせ、御主同前に仕り申す事。
一、その後家康伏見城にて、五日評定致し候、我等もその列に罷りなり、日々罷出申候、直江承引これなき上は、
御静謐の外これなしと相窮付て、毎日の評談御留守居千坂対馬守までお知らせ申候、会津へ申し入るべき旨
お知らせ仕り候、定て御覚え御坐あるべく候こと。
一、御評定相済み、若松へ御手向いの時分、政宗と拙者儀は隣国について、早々夜を日に次ぎ罷下り、界々道橋を拵い、
白川表へ先手着候へば、早々御領分へ武色を出し候へと申付られて、急度爰元に罷下り候こと。
一、政宗儀は国本へ罷下り、則ち御領分を一口も二口も打破り、慮外申上げ候へども、御構いなくさし置かれ、
拙者儀は右申上る通り、是非御足を抱え入り申すべき覚悟について、今日に至るまで御領分へ、足軽一人も出し申さず候、
慮外仕り候政宗ことはさし置かれ、是非頼み入るべしと存じ候拙者へ御手向の儀、迷惑に存じ候こと。
右の条々聞召分けられ下され候へば、総領修理大夫を証人にさし上げ、その外家中証人は、二重にも三重にも
御差図次第さし上げ申すべく候、拙者儀は人数一万召連れ、何方までも御用相立申すべく候間、然るべきよう
仰上られ下さるべく候、恐々謹言
八月十八日 直江山城守殿 最上出羽守 義光
とても一国の主が他国の陪臣に送る手紙とは思えませんなwww
831 :人間七七四年:2009/07/07(火) 08:02:01 ID:/ONz93YC
長谷堂合戦前夜の義光書状をめぐって
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=118251 パパイヤあて直江書状「最上表急度可相働候処、少々懇望之義候条、延引候」
清野助次郎宛直江書状「度々申上候最上、付延々仕不相済候、明日当地罷立〜」
なぜか最上書状と符合するこれらの書状については触れていない。
24 :
人間七七四年:2009/07/26(日) 23:49:06 ID:XLaLrtpY
>>23 なんかなんでそこへのアンカーでそのレスなのか、イミフ。
あと相変わらず、スレの中身しかソースがないのか、この句読点をマトモに使えない人はw
25 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 00:19:52 ID:TDrgSVnM
>>24 ウソは書いても文法は外すなということか。
あなたも一度くらいは、作文ではなく最上家の史料提示したらどうよ。
楽しみに待ってるから。
26 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 07:06:53 ID:/FwOjLTQ
駒姫と大崎夫人が親子だとする証拠はまったくない完全なデマ
新参者の最上とか完全なデマ。豊臣政権は最上を臣従させる為に厚遇している。
庄内の件はちゃんと最上に与えられる話で決着がついていたのに、上洛して臣従を示さなかった義光が悪い。
義光と違い本庄の息子は上洛して秀吉に臣従誓ったから与えられたに過ぎない。
もっともさんざん政宗に嫌がらせしたから、政宗が義光を上洛させないように大崎にちょっかい出して牽制してたわけだが。
さらに言うと最上側の主張たる最上記には
最上の政治が悪すぎて庄内の国人から地下人まですべてが反乱して、
政治が慈悲深い上杉に救援を求めたと明記されている。
最上も庄内の民がみんな敵に回ってしまったから不利だとして援軍派遣を途中で断念してる。
家康は最上なんか特別視してない。結局のところ縁戚にすらなれてないから改易の時は大名一人たりとも最上を弁護してない。
鮭厨は息を吐くようにウソを平気で言う基地害。
27 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 09:14:23 ID:WgAtN9PH
はい、朝からご苦労様です
28 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 22:32:07 ID:8/LxwZ3l
>>26 その大崎夫人実母じゃない説は、日本史板でソース出せなくて半泣きになってた話だねw
29 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 00:34:38 ID:NZPyZRPV
30 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 07:02:32 ID:w/JuIX80
>>28 なに捏造してんだw
実母じゃないから何らソースが出せないんだろアホが。
鮭厨が親子だと主張しながら実母だと確定させるソースがまったく出せない事を問題とすべきだろうが。
31 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 08:23:45 ID:dTVk5giQ
実母というソースもなければ実母じゃ無いというソースも無い
不明って事だろ
32 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 10:30:05 ID:w/JuIX80
光明寺本系図には天童夫人が正室と明記され
山形大学教授ね松尾氏は最上系図や当時の習俗慣習からやはり天童夫人が義光の正室であるのは間違いないと断定している。
駒姫の菩提寺専称寺には駒姫と一緒に出羽守内室像があるが、これを天童夫人ではないかとする。
また大崎夫人が開基した正覚寺は寒河江にあり、そこは義光に暗殺された義康と生前と正室ではない大崎夫人が一緒に生活し、義康死後はそこで義康の冥福を祈りながら失意のうちに亡くなった。
義康の死を弔い死んだ話をムリヤリ駒姫が死んで弔い死んだ話に捏造してるのは明白。
また義康が廃嫡されたのは正室の子ではなく、庶子だったからではないかとすれば合点もいく。
「秀吉は悪いやつなので、義光は家康に付いたが、これまさに先見の明」とする歪曲された論調に改変されておりミスジャッジさせようとする意図すら見える。
この場合は秀吉に養子に出した義親のことには絶対に触れない罠。
33 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 22:37:07 ID:8tSMdsaZ
>>32 はいはい、義康の死は1603年、大崎夫人は1595年ね(最上家過去帳)。
八年も前に息子の死を予言した大崎夫人すげーなw
ミスジャッジじゃくてミスリードしたいのはアンタだろ、馬鹿w
あと松尾説は、天童氏と最上氏の対立時期からして不自然ということで、
反対意見も多い。正室というのはあくまで一説だ。
そもそも天童夫人の子とされているのは三男であって、駒姫は違うんだよ?
バレバレの大うそ乙w
34 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 22:42:54 ID:8tSMdsaZ
634 :日曜8時の名無しさん:2009/07/28(火) 21:47:37 ID:v2SmqFUv
なぜ、前田慶次はいないのか?信長公記、太閤記、徳川実紀などの中央の歴史書。最上記、奥羽永慶軍記、伊達成実記、蒲生氏郷記、などの東北の歴史書。どこにもいない前田慶次。
前田慶次は、なぜ、上杉家の記録にしかいないのか????????
おまえはまず加賀藩史料読んで慶次郎の謎でもといてろw
35 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 01:25:11 ID:0rucm5RD
>>33 反対意見も多い
例えば誰が反対してるの?
何パーセントが反対してるの?
それとも君の願望?
36 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 07:00:16 ID:666qS/bx
37 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 07:29:02 ID:0rucm5RD
あぁ君の涙の願望妄想か
38 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 12:02:21 ID:6UhK09Ed
つ鏡
39 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 20:55:49 ID:z326Xw0k
>>16>>23 「誠に景虎武勇の強きことにて、残りたりと、斜ならず感じ給う」(最上記)
「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」(奥羽永慶軍記)
「あっぱれ汝は、聞き及びしより弥増の武功の者。」(最上斯波家伝)
どれも軍記物の類。
畑谷城の件では軍記物は信用ならん!といいながら都合のいいところは堂々と軍記物ワロスww
>旧日本陸軍参謀本部「日本戦史」でもこの「相懸り引き作戦」は撤退作戦の見本となっている。
長篠の鉄砲三段撃ちを史実とした日本戦史ですね。
40 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 21:06:48 ID:2xMur9kt
旧日本陸軍はロマンチックが止まらない人たちだからなw
確かに参考にはなるんだが、そこここでロマンチックが炸裂してる。
41 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 23:38:19 ID:QAOZ/IEb
>>35 徳川実紀、最上系図、藩翰譜、このあたりみんな義光正室は
「大崎女」
42 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 23:43:16 ID:QAOZ/IEb
そもそも側室腹の娘なら死んでもかわいそうじゃないという発想が、
テラ朝鮮人だなw
43 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 00:02:58 ID:62J6ZTjT
ID:0rucm5RD はいつもの山口系荒らしだよ
44 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 01:15:52 ID:R8zaUTd9
>>40 まぁ、日本陸軍はあくまで「戦史」が研究対象であって、現代的な意味での歴史研究じゃないからね。
あくまで「起こったとされる」戦いを軍事的見地から分析するだけで、歴史学で行うような、
史実が本当はどうだったか、という研究とは少し違うからね。
もちろん軍隊が行う「戦史研究」としてはそれでもいいんだけど、それを歴史学にそのまま史実として
持ち込むのが痛いだけでw
45 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 07:25:57 ID:71VTnTVD
最上系図なんてたくさんあるじゃん。
自分に都合がいい系図を持ち出せばよいだけだし
藩翰譜に至っては新井白石が各地の古老から取材した話がたんまりでデタラメばっか書いてある。
徳川実紀に至ってはペリー来航前夜にまとめられたもので、編纂時に元になった史料によって真偽に大きな開きがあり、徳川家の日記を元にした記述以外はあまり信憑性がない。
46 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 08:01:52 ID:Mo5YK14l
信憑性はどっこいって事で
47 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 10:39:10 ID:71VTnTVD
>>33 ついでに言うと過去帳ってのは自家や寺の都合が良いように家系図並みに改ざんされる。
例えば長尾為景は林泉寺旧過去帳に没年を1536年としてるが現在は否定されてる。
上杉年譜の表記にある1541年を没年とするのが正しい。
林泉寺は謙信を養育したと書いてるが常安寺で育ったとするのが主流。
林泉寺は徳昌寺と政争を起こしてたり。
寺社はとかく時の権力者と関わったり、支援金や給付で趣旨替えするから改ざんは免れがたい。
そういう意味では大崎夫人死去後に実家が自らの家柄向上のために必死に大崎夫人の地位向上を策謀してたと思われても仕方がないな。
48 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 10:59:05 ID:VuK3IC+0
上杉では捏造が当たり前だから、他家でも当たり前だと言われてもw
49 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 11:32:01 ID:71VTnTVD
>>48 頭が悪いねぇ。
別に上杉家が過去帳を捏造したなんて書いてないわけだが。
50 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 12:33:34 ID:JulpcOT7
その程度の読解力で他人を馬鹿呼ばわりか…
51 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 19:07:07 ID:UkGzXbgQ
おおかた上杉が悪者扱いである史観が許せないんだろう
なにせ義(笑)の国ですから
52 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 19:12:06 ID:62J6ZTjT
ID:71VTnTVD
お前の願望はどうでもいいから論ずる際にその根拠となる資料を提示してくれたまえ
53 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 23:06:21 ID:YFD90l8U
>そういう意味では大崎夫人死去後に実家が自らの家柄向上のために必死に大崎夫人の地位向上を策謀してたと思われても仕方がないな。
陰謀史観乙w
つか長谷堂の戦いと大崎夫人関係あるのw
ばかなの? しぬの?
54 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 23:14:51 ID:YFD90l8U
あ、そうそう。
駒姫は側室腹だから死んでも可哀相じゃねえよ、プゲラw
と思うさぶジジイと同レベルの考えのヤシっている?
55 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 23:49:26 ID:917lKMA5
そんなきもい奴はサブ荒らし本人くらいしかいないだろうよ。
相手すんな。
56 :
人間七七四年:2009/07/31(金) 08:57:13 ID:X8u7/cLh
>>53 陰謀ってのは
>>35が指摘したような、あたかもみんながそう思ってるように思わせるウソを平気で書くレスを言うんだよ。
57 :
人間七七四年:2009/07/31(金) 10:37:42 ID:qNrolejt
>>47 御年譜の記述と反するにもかかわらず、
長らく為景の没年が天文5年とされてきたのは、
それが後世の影響の少ない過去帳(ただし写し)によるものだったからじゃないの。
為景の場合は、新潟県史編纂時の原本調査で、
研究者が天文9年の文書に為景の生存を確認した。
旧過去帳はあくまでも写しだったみたいだし、
写し間違いもあるかもしれないよね。
大崎夫人の場合も、生存を確認できる史料が出てこない限り、
間違いであると言い切ることはできないんじゃないの。
58 :
人間七七四年:2009/07/31(金) 11:44:01 ID:uGOR6dwH
大崎夫人の一件は
>>42の一言で終わってるから議論自体ナンセンス
59 :
人間七七四年:2009/08/02(日) 02:42:44 ID:Ujt49fco
×死んでも可哀想じゃない
史実のみを追求するのであって感情論を根拠にまず結論ありきで
駒姫の死を悲しんだ大崎夫人(実際に血縁があったと証明できるソースはまったくないにも関わらず)も後を追うようにすぐ死んだと捏造するのがおかしいと指摘してるんだろうね。
さらにそこから飛躍して「だから怒った義光は秀吉より家康寄りになった」とムリヤリ結論づけるのもおかしい(上杉から庄内を取り戻す為に以前から家康と懇意だった)
明らかにミスジャッジに誘導しようとしてる。
さらに秀次謀反が疑われた理由として秀次側近たちのほかに政宗と義光も荷担していたとして名もあがっていた以上、義光にも責任の一端はある。
しかも義光の先見性として家康に息子を人質に出していたと主張するが、実際には秀吉にも息子を人質に出してるが、それは必ずと言っていいほど言わない。
さらに関白の秀次にも駒姫を人質に出してるようにただ単に時の有力者に子供を出してるだけ。
南部や成実の記録は捏造だと主張し、軍記の義光記に書いてある「義光はやむを得ず奥羽一の美人と評判の駒姫を秀次にさし出した」などと言う話を真実だと主張するのも如何なものか。
義光厨は講談話を史実のように語り過ぎ。
60 :
人間七七四年:2009/08/02(日) 06:09:22 ID:ETYToHTm
だから誘うのはミスリードでしょ?
スレ違いの上、日本語もアウトの朝鮮人は黙ってようね
61 :
人間七七四年:2009/08/02(日) 08:39:01 ID:Bg997Riw
ミwスwジwャwッwジwwwww
捏造はお前の18番だろwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
62 :
人間七七四年:2009/08/02(日) 22:08:25 ID:XEQpkNey
そこまで上杉が最上に負けたのが悔しいのか
63 :
人間七七四年:2009/08/03(月) 00:47:38 ID:Dbblo1i1
このアホ荒しは東北を貶められれば満足なだけだからなw
64 :
人間七七四年:2009/08/04(火) 18:22:45 ID:+gWPoilo
この戦いの頃、山形城の北方で攻略された谷地城ってどの辺にあるの?
行ってみたけどすっかり平地だし川の流れも見当たらない。
元々の白鳥家の居城とも別っぽいし謎だ。
65 :
人間七七四年:2009/08/04(火) 23:23:32 ID:5Go8dGbw
谷地どんが祭りやってるとこの近くにあるよ
66 :
最上が13万石:2009/08/05(水) 10:12:09 ID:gbMPSJ3W
秋田家史料:天正〜慶長:全国石高及び大名知行高帳では、出羽国32万石。
戸沢3万石、小野寺3万石、秋田が5万石。最上が13万石。合計24万石。
残り8万石が、米沢と庄内の上杉領。
67 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 15:26:03 ID:xmMHMq4L
>>66 それじゃあ江戸時代初期の米沢30万石も大嘘なの?
置賜郡で僅かな年数で滅茶苦茶な開墾が行われた訳でも出羽以外に巨大領地を賜った訳でもないのに。
68 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 15:52:18 ID:LHRx+VR2
相手しなくて良いよ。
69 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 17:43:23 ID:OGBZl7M0
戦国末と江戸時代初期じゃまったく違うわな。
戦国末は領地を切り従えようとするから領内開発などさほどやらんが
関ヶ原以後は領内開発をものすごい勢いでやってる。
城下町建設から河川の開削、農業先進国伊勢からの灌漑農業の導入など。
昔は河川の近くに田を作って集落を形成していたから洪水などあったが、
大土木技術の導入で治水の向上と河川の分流、支流化、湿原地の埋め立てで今まで耕作してなかった土地が大幅に切り開かれた。
70 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 18:12:02 ID:uwTN0gKS
>>67 いちおうこの件は別スレで解決済みなので、気にしないでくれて結構です。
なんか諦めきれない人がいるってだけなので。
71 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 18:27:39 ID:xmMHMq4L
まあこのスレとは石高の話は関係ないよね?
ところで、谷地城について尋ねたのは私な訳ですが、あの辺は見渡す限り平地だよね?
川も遠いし、防衛よりも専ら交通の要地に睨みを効かせるために土をかき揚げた程度のものだったのかな。
城をひとつひとつ抜いたにしては庄内軍の侵攻が早すぎる気がします。
72 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 18:50:41 ID:uwTN0gKS
73 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 18:59:56 ID:xmMHMq4L
>>72 ありがとうございます。現地でそういう場所がありました。
白鳥十郎の巨城や溝延城もあったはずですが、織豊期は統治を考えた政庁を重視したという事なのでしょう。
74 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 08:07:28 ID:dfm3VS7q
>>70 解決済みだよな
>>69の意見も実に有意義であるな。
やはり最上は自分仕置きで11万石と誇張。
小野寺湯沢城主を暗殺して秀吉への嘘報告で雄勝郡を併合し13万石。
実高は他の出羽諸将とのバランスを考慮すると5万石前後で確定だわな。
75 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 08:41:06 ID:Imi8eRRw
76 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 13:28:02 ID:dfm3VS7q
三戦板松川スレからついに逃走し
戦国板では論争から必死に逃げ回り、
都合の悪い書き込みは「見えない」「読めない」という思考停止→痴呆症まで発症するに至った重患者が鮭厨。
77 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 14:38:21 ID:qv0umTBk
スレ違いスレ違い
78 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 15:29:46 ID:sfP9Tmfe
これだけ女々しく粘着する人間も珍しいな
夏厨よりタチが悪い
79 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 18:50:17 ID:7RYkWtwC
5万石でも1万石でもいいよ
120万石の侵略者の上杉を打ち破ったんだから
80 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 20:10:30 ID:J2jCaI5b
鮭厨とか言葉使ってるの約1名だろw
81 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 20:51:55 ID:lwOYZgW0
>76
自己紹介乙
82 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 17:21:24 ID:1IrfuRFi
米沢15万石(実高6万石)
VS
最上13万石(実高5万石)の戦いだろうが。
軍記の誇張兵力を真に受けるなよ。
83 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 17:56:14 ID:V7R9C8uk
ヘェ〜凄いねぇ実質六万石なのに万単位で兵投入出来るんだぁ
84 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 18:13:04 ID:5rK4YXgZ
三 三三
/;:"ゝ 三三 f;:二iュ 何でこんなになるまで放っておいたんだ!
三 _ゞ::.ニ! ,..'´ ̄`ヽノン
/.;: .:}^( <;:::::i:::::::.::: :}:} 三三
〈::::.´ .:;.へに)二/.::i :::::::,.イ ト ヽ__
,へ;:ヾ-、ll__/.:::::、:::::f=ー'==、`ー-="⌒ヽ ←
>>82 . 〈::ミ/;;;iー゙ii====|:::::::.` Y ̄ ̄ ̄,.シ'=llー一'";;;ド'
};;;};;;;;! ̄ll ̄ ̄|:::::::::.ヽ\-‐'"´ ̄ ̄ll
oノ oノ
| | 三
_,,..-―'"⌒"~⌒"~ ゙゙̄"'''ョ ミ
゙~,,,....-=-‐√"゙゙T"~ ̄Y"゙=ミ |`----|
T | l,_,,/\ ,,/l |
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,,/|,/\,/ _,|\_,i_,,,/ /
_V\ ,,/\,| ,,∧,,|_/
┼ヽ -|r‐、. レ |
d⌒) ./| _ノ __ノ
85 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 22:14:07 ID:pNsiNypy
86 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 01:06:12 ID:S64ivuT4
実際、万単位の軍勢ってのは信憑性に疑問なんですよね。
そもそも当時は万の住む都市自体が稀で、万に満たない村で万の大軍を維持することはできないとか。
例えば万の軍勢の駐屯となると、食糧の維持どころか万の人々の排便問題がかなり大きな問題になると言う。
また軍勢においては戦闘部隊以上に身の回りの世話や各武士たちが家への連絡や食糧調達のための人員や討ち死にした際に遺体を探して家に持って帰るための非戦闘員がぞろぞろと一緒に行動していたと言うし。
1武士に最低3人は付いてきていたとか。
1万の戦闘兵なら都合3万にまで膨れあがるわけ。
87 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 08:33:42 ID:mIZ2W2yH
それは「軍勢」がどういったものをあらわすかによる。
全部ひっくるめて軍勢○○人と書く場合もあれば、
軍役のように戦闘要員・純戦闘要員だけを書き出した場合もあるしそれすらも大名家によってまちまちだしね。
長谷堂の上杉二万といわれる数、全てが戦闘要員かと言われると首を傾げてしまう。
また86は戦闘要員=武士って言っているようだけれども、
足軽だって立派な戦闘要員であって、彼らには当然ぞろぞろ付いてくる家人なんていない。
86の言っているのはそこそこの地位にある騎乗の武士で、
上杉の軍役状によれば騎馬武者は軍役の10%そこそこにしかならない訳だ。
あと割合は
井伊家を例に取れば、戦闘要員1に対して準・非戦闘要員2って感じかな。
長谷堂の、というよりは戦国時代当時の軍勢数ってのは一次資料ですら誇張満載なので今となっては確かなことはわからない。
仮に長谷堂の戦いにおける軍勢の数が上杉二万として、
戦闘要員は7000ほどで残りが非戦闘要員だと思う。
88 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 08:47:00 ID:ehgkmNNo
じゃあ城に篭ってた戦闘員は200人もいないくらいか。
小城なのでそれくらいしかいない可能性は確かにあるが、それに撃退された直江ってますます何なんだって話だよな。
89 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 08:54:49 ID:mIZ2W2yH
遠征と違って、篭城には非戦闘要員をぞろぞろ連れて行く必要がないから分、
通常は近隣住民の避難所でもあるからそいつらも計算に入れる必要がある。
よく開場降伏とかで城主だけが切腹して後は許してくれってのは家臣や兵士だけではなくて、避難してきた領民も込みだからね。
ただ長谷堂城や畑谷城はどうもそうじゃないように感じるが、どうだろうなあ。
畑谷城は武士の意地を見せてやんぜってノリだし、
長谷堂城は戦略的要塞って感じだからね。
90 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 10:42:18 ID:AZqNtN86
前田慶次の鎧が九州で発見されたみたい
赤と黒のストライプ。
91 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 10:32:26 ID:+4Ib08JZ
>>82 >>66 未だに、関ヶ原前の最上が13万石しかないなんて言ってる奴がいるんだね。
ちなみに江戸初期の上杉米沢30万石の内訳は、米沢(市)6万石を含む現在の山形県置賜郡(後に天領になった高畠を含む)20万石と現在の福島県福島市(伊達・信夫郡)10万石の合計。
最上13万石なんて新説を唱える前に、せめて上杉米沢藩30万石の内訳ぐらい調べなさいね。
92 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 12:24:48 ID:2yt22jPG
米収入以外も含んだ開発ラッシュの江戸初期じゃなくて
戦国末期の石高の話じゃなかったっけ?
93 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 14:42:49 ID:KIX7jyg0
>>92 米沢藩30万石は江戸幕府開府時の石高だけど?
あと、いつまでも江戸初期に開発ラッシュがあったとか言ってるけど
そんないきなり何倍もの生産力になるわけないじゃんw
94 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 15:29:40 ID:Bv11rRot
耕地面積は二倍近くにはなってるよ、開幕の百年後にはねw
それよりも桃山〜江戸初期なら荒地の再開墾の方がでかいと思う。
戦国時代では確か耕地の四割とか、そんな高いレベルで放棄されていたらしいから。
95 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 15:30:38 ID:FuWEtpZ4
というか石高の話は荒れるからやめようか。
96 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 15:39:23 ID:V8K/KLjA
関ヶ原前の24万石に加え、関ヶ原後の最上は庄内・由利・本庄を加増され公称57万石だけど、実際は北館大堰の開削等、米沢での新田開墾に影響を受けて新田を行い、1622年の改易前には実石70〜80万石近くになってるよ。
97 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 16:50:52 ID:2yt22jPG
太閤検地で全国大名の規模や地位が明白になってからと言うもの、他大名と自分の差を痛感し大名達が領内開発に力を入れて、さらに朝鮮出兵の重い役儀の軽減を図ろうとしている。
他領を切り取れない以上は自領開発に目が向くのは当たり前の話で
豊臣経済官僚の存在が刺激になったり農業先進国の伊勢や近江のノウハウが導入されていったり金山開発やら、軍事による荒廃や戦乱による農業における物流経済停滞も無くなり
戦国末期と江戸初期だとまったく違うよ。
98 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 18:38:39 ID:32OKdisq
明治の史料で、置賜郡21万石なので、
関が原前に、20万石もあるわけねえだろ。。。。。。。。。。。
99 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 19:45:29 ID:32OKdisq
置賜郡が、20万石。最上13万石。
太閤検地の出羽32万石をすでにオーバー。
置賜郡は、5万石以下じゃないと説明つかない。
寛永の朱印状、寛永以降の武鑑などから、米沢藩30万石なんだが、
関が原直前直後は、太閤検地を用いるのが妥当。
100 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 20:16:07 ID:mLlhrdqC
まだ諦めきれないんだw
101 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 20:20:13 ID:RnBqpubP
国々の石高なんてあくまでおおざっぱな目安にするもんで、
それから領地高を出すなんてナンセンス。
それに「近世国別石高変遷表」をみると、
慶長と江戸初期の正保を比べると、出羽は3倍以上になってるのに対し、
なぜか陸奥は20万石以上も減ってる。
あの石高の信用性はどうなのかねえ。
まあ2ちゃんねるで討論することじゃないな。
そんなに気になるなら、研究会にでも提議なさったらどうです?
102 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 20:30:35 ID:32OKdisq
明暦四年武鑑」 松会開板 明暦4(1658)年刊
米沢上杉30万石になってるけど。
これ以前の同時代史料で、上杉の石高は、太閤検地までさかのぼらないと不明。
やっぱり、上杉91万石。最上13万石。秋田家史料が正しい。
東北大名の石高は、後世の捏造。
103 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 20:35:41 ID:Yz1Jn0py
まだ石高の話してんの?
104 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 20:55:11 ID:GH39P2Av
保守
105 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 22:57:06 ID:FuWEtpZ4
>>102なんだが、上杉家の江戸期の石高は、浜松藩水野家文書の1634年のが、
分かっている限りの最古のものだそうで。
参考までに。
106 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 23:30:26 ID:xclkHfl4
107 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 00:02:31 ID:Ve0WGNdk
涙目最上厨必死過ぎ。
いい加減あきらめて自分検地で13万石を自称するが、実高5万石を潔く認めろよ。
108 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 00:06:35 ID:W8fL//mG
はいはい、そのたった5万石の大名を落とせないとか
期間が短すぎた?討伐が長引くとでも?先見の明なさすぎ
どっちをとっても無能なのは変わらないな
109 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 00:10:31 ID:3tH+SKxE
無職石高厨乙w
110 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 00:18:49 ID:Z8SfE1oZ
ていうか石高の件はかなり前に決着しちまったからな。
今更持ち出されても無様なだけと言いますか。
111 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 00:43:51 ID:Ve0WGNdk
涙目最上厨の白昼夢の脳内決着w
決着決着喚いてるだけで一切の議論から逃げ回ってただけじゃねぇかよ。
112 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 00:54:39 ID:zZF8Qixp
最上の石高が下がれば下がるほど、落とせなかった上杉(直江)の雑魚っぷりが際だつ。
113 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 00:56:45 ID:Ve0WGNdk
米沢6万石と山形5万石の低レベルの争いが出羽の現実w
まさに運動会
114 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 02:41:22 ID:C2Z4byz6
保守
115 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 02:44:51 ID:Z8SfE1oZ
>>111 北出羽の石高の話題が出た時に、最上領も合わせると30万石を軽く超える話をしたばかりじゃないか。
116 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 07:07:38 ID:Ve0WGNdk
最上が自分検地で見栄を張って表高を高く言って自称してたからだろw
周囲はみんな5万石程度なのに最上だけ倍以上の13万石もあるわけねーだろw
常識的に考えたらすぐわかること。
117 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 07:25:08 ID:WJP0H6ML
常識のない妄想厨に言われてもなぁ
118 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 07:56:24 ID:eKYTtJD0
なにせgoogle検索のトップに出てくるyahoo辞書の内容を鵜呑みにする人ですから
119 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 08:24:21 ID:Ve0WGNdk
>>118 みんな同一人物の仕業ですかw
脳内バラ色ですねワロタ
君が自演してるから他人もしてると思う基地外脳になってるとしかw
120 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 12:25:45 ID:Z8SfE1oZ
真面目な話、今の秋田県域だけで表高20越えちゃってるから出羽全域で30万石はあり得ないんだよな。
121 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 13:16:39 ID:Ve0WGNdk
真面目な話なら
そんな秋田県域とか曖昧な
書き方はしないし、
いつの調査か書くだろアホが。
122 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 13:28:25 ID:Z8SfE1oZ
>>121 あるよ。このスレではないが、太閤検地に基づいて発行された朱印状に基づく数字をもとに、
石単位で明らかになっている数字をもとに議論していた。
その過程で、米沢が六万石だとかいう謎数字が出てきたが、それを事実と見なしてもなお
30万石を超えてしまったという。
なんなら探しておこうか?
123 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 16:45:45 ID:QiHzlqHH
米沢六万石って直江に与えられたのが六万石って話だろ。
でも直江の与力分の石高が計算に入ってない。
124 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 17:24:41 ID:QiHzlqHH
ざっと調べたけど、
平安期が陸奥26万石、出羽13万石。
戦国期が陸奥167万石、出羽31万石。
江戸初期が陸奥173万石、出羽87万石。
でいわゆる実高が陸奥293万石、出羽151万石。
以上のように出羽の石高はおおよそ陸奥の石高の半分ほどで推移しているんだが、
太閤検地の出羽の石高はおかしいと思うぞ、太閤検地の土佐九万八千石並みに。
125 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 17:32:02 ID:6OGTKiVv
直江の6万石って、研究者は分限帳から、
米沢じゃなく、会津近辺で貰ってたのではと推測してなかったか?
126 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 18:31:49 ID:QR4zS8L0
松崎城と書いてるが、米沢城のことだよ。
127 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 19:12:51 ID:C2Z4byz6
長曽我部は土佐一国で22万石だったから
太閤検地の数字はおかしいね
128 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 19:33:36 ID:eKYTtJD0
>みんな同一人物の仕業ですかw
>脳内バラ色ですねワロタ
>君が自演してるから他人もしてると思う基地外脳になってるとしかw
まんま荒らし本人に該当してワロタw
129 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 20:01:39 ID:Z8SfE1oZ
>>123 その可能性が高いが、本人が沈黙しちゃったんでよく分かりません。
130 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 00:01:25 ID:lgPpWcsA
長曽我部は土佐一国で22万石
>>>>>>>>
寛永朱印状の数字だから、おかしくないだろ。
太閤検地の10万石は正しい。長宗我部は、天正に検地をしている。
土佐物語で、土佐・四国は戦争ばかりで疲弊していると書かれている。
四国征伐直後なんだから、生産力が一番低下していた時期の検地なんだろ。
関が原後には、生産力の回復向上があった。
131 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 00:03:55 ID:lgPpWcsA
江戸初期が陸奥173万石、出羽87万石。
でいわゆる実高が陸奥293万石、出羽151万石。
>>>>>>>>>
大ウソだぜ。
寛永検地で、出羽87万石。
陸奥293万石、出羽151万石は、明治の数字だ。
132 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 00:07:03 ID:2TjKE0Hz
その改行と下劣な口調でいつもの荒しだというのはバレバレ。
スレ違いだし、石高馬鹿がウザイし、もうみんなやめにしないか?
133 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 00:26:37 ID:lgPpWcsA
トーホグふぐすま必死だべええええええええええええええ
134 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 00:48:03 ID:Cc0pCobH
無駄だと思うよ
無視したら無視したでこいついい気になって荒らし続けるし
135 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 02:00:13 ID:akv/HMf0
ま、朱印状出てる石高を足したら数字が合わなくなるのは事実だからな。
あの30万石というのは当時の数字とも矛盾するというわけだ。
136 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 08:45:52 ID:6kTTmNuk
直江スレで直江批判を繰り返し
大河板まで出張してアンチ兼続をやってる時は兼続なんてそんなに評価されてねぇよ30万石なんてもらってねぇ捏造!
実際は6万石レベルでしかもたかが6万石欲しさに上杉を裏切った低脳みたいに書いて貶してた最上厨の節操のなさに愕然としたw
そして見事に自爆しててワロタ
137 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 08:49:22 ID:akv/HMf0
直江が何万石だろうと、出羽の石高の数字が合わないのは事実だよ。
138 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 09:44:42 ID:iJxpvTxe
>>130 >太閤検地の10万石は正しい。長宗我部は、天正に検地をしている。
正しくない
長宗我部氏は天正期に検地を行ったものの、豊臣政権に対しては検地帳を差出ていない
山内氏は就封時に長宗我部検地帳を接収し、それをもとに幕府に土佐国検地高帳を提出している
このとき山内氏は新たに検地を行ったわけではなく、長宗我部検地の地積に基づいて石高計算をしたに過ぎない
この計算に拠ったのが朱印高の20万2600石
この当たりの話は秋澤繁の論考が詳しい
太閤検地の石高は表高にすぎないし、その数字は政治的に決定されていたりする
それを無理矢理に実高扱いするからおかしいことになる
ちなみに土佐物語では9万8千石の数字は、長宗我部氏の天正総検地以前のものとしてたはず
139 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 12:08:36 ID:bY1Eop6j
長曽我部は土佐一国で22万石
>>>>>>>>
寛永朱印状の数字だから、おかしくないだろ。
太閤検地の10万石は正しい。長宗我部は、天正に検地をしている。
土佐物語で、土佐・四国は戦争ばかりで疲弊していると書かれている。
四国征伐直後なんだから、生産力が一番低下していた時期の検地なんだろ。
関が原後には、生産力の回復向上があった。
140 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 12:22:42 ID:Qaii+Ubb
>>139 >長宗我部氏は天正期に検地を行ったものの、豊臣政権に対しては検地帳を差出ていない
>山内氏は就封時に長宗我部検地帳を接収し、それをもとに幕府に土佐国検地高帳を提出している
>このとき山内氏は新たに検地を行ったわけではなく、長宗我部検地の地積に基づいて石高計算をしたに過ぎない
>この計算に拠ったのが朱印高の20万2600石
141 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 15:02:19 ID:ta9IHs33
>>138 義光を無理やり持ち上げるために横川末吉氏や秋澤繁氏の話をねじ曲げてるね。
そもそも全国70ヶ国近くの中の1つである土佐の例だけを挙げて太閤検地はおかしいと喚くのは歪曲以外のなにものでもないが。
秀吉の土佐一国安堵は九州征伐を慮っての処置で比較的寛大な処置。
豊後で長宗我部大敗後に立場が悪くなった長宗我部を完全に秀吉騎下に組み込むため差出検地が命令され天正15〜18年に行われた。
6尺3寸の方針が伝わる前に検地したのは万々村,下田村,安田庄のみ
土佐の文禄慶長検地→何十万役を投じての新田開発が次々に行われたのに伴い、慶長2年に検地が行われて浦戸湾周辺の塩田(文禄4年秋計画、慶長元年より作低湿地に堤を築いての大規模干拓による開拓地)また開発に伴い再検地が吾川郡,幡多郡の一部で実行。
しかし長宗我部検地帳には石盛が発見されない。浅野の行った伊予や阿波の検地では明らかに石盛が行われている。
石盛がないのに土佐の石高が定められたのは指出を示すとされている。
田地の品等に応じての生産高=石盛がないので租額が低かった(夫役雑税が他に多かったらしい)
142 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 15:09:09 ID:2ZDnLA6m
太閤検地よりおかしいのはサブだとわめかせてもらおうか。
東日本全域もとい信長以外全部貶めて、何がしたいんだキチガイが。
143 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 15:11:22 ID:ta9IHs33
石盛による差がなく単純に一反=一石とされるムチャクチャ乱暴な換算で石高策定が行われたとされ、まったく実態を表していないが、
長宗我部地検帳地高二万四千八百三十三町一反→慶長3年土佐国石高二十二万二千六百石→山内氏石高二十万二千六百石と田地の開発やらいろいろの上下幅があるものの単純なスライドとも言われる。
元禄郷村帳の村高二十六万八千四百八十四石より新田(山内入国後開拓)村高二万百五十三石と慶長十六年検地の本川村百十六石を引き一石=一反として換算。
長宗我部氏では兵農分離が不十分で土豪層の封権的土地所有をそのまま認め城下町建設のテンポがのろく、武士団の城下町集中がはかばかしくなかった為に9万石だったとされる。
144 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 15:22:43 ID:ta9IHs33
さて史料的裏付け
9万8000石としているもの
天正年中大名帳,伏見普請役之帳,慶長三年大名帳,松岡文庫本大名帳,秀吉公御代万石以上
9万8千200石としているもの
慶長三年戌戌八月日本国総目録,慶長三年検地目録
9万8千20石としているもの
太閤日本御検地帳目録
9万8千2石としているもの
此比(文禄三年)諸国知行之高帳,文禄之比知行高帳之写
9万8000石は天正15年以前の検地とするもの
古城伝承記及びこれをうけた土佐物語であるがこれらは信憑性ゼロ
22万2000石としているもの
廃絶録及び出典不明の現行辞書類の大名表で慶長3年もしくは5年の長宗我部最末期の開発ラッシュ後の石高としている。
松岡文庫本大名帳は元親代9万8000→朱で盛親代22万2000に訂正がなされている。
しかし慶長19年3月2日江戸城石垣普請において、役高9万8000石豊臣御前帳と称する山内忠義書状案→幕府普請奉行へなされており(材木の役儀でも同様)
22万石とする山内時代における確実な史料は存在せず、
慶長19年に山内氏が入国後「わたくしとして相あらため」私検地で出目が十万四千六百石も打ち出させたので、旧高9万8000と合わせて20万2600」と言う話があるが、
その実態は既存の地積、地位の上に石高計算したに過ぎず、石盛基準は田=一石三斗など太閤検地の標準とは違うものだったとされる。
朝鮮出兵
長宗我部氏3000人
四国衆の動員率は百石に4人役とされ
蜂須賀17万6000石7200人
藤堂7万石2800人
加藤6万石2400人で証明される。
しかし長宗我部は2万3000の差が出る。
これは豊臣大名じゃなく、
西国の国持ち大名ゆえの無役高(毛利小早川も無役高が34%ある)であり9万8000石の裏付けが取れる。
145 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 15:30:35 ID:ta9IHs33
ここからわかるのは封権的な一領具足の長宗我部氏が9万石くらいであったこと。
豊臣政権下において干拓事業に大人数を投入して田地を拡大させたり、城下町集中で領内支配力を向上させ、
徐々に精密な検地が可能となった国人の地が増えたために関ヶ原後の長宗我部改易時においては石高の向上がみられたこと。
戦国時代末期における長宗我部氏の太閤検地9万石は揺るがない事実。
146 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 15:33:03 ID:vqi+/EQD
以上、サブの妄想劇場でした
147 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 15:34:57 ID:2ZDnLA6m
根拠ゼロでここまで妄想できる精神疾患ってなんていうんだろ?w
148 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 17:18:30 ID:m6YTX08Y
統合失調症
149 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 10:10:42 ID:En9eniBj
まあ今までの行いが行いだけに、まともには相手にされんわな。
150 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 11:16:09 ID:ME9Pkfro
関ヶ原前の最上領の米石高は24万石です(内訳:山形城6万石+上山城2万1千石+天童舞鶴城2万石(織田信雄子孫)+山辺(含む中山)城1万2千石+寒河江城(白岩城や大江楯山城を含む)4万石+谷地城1万2千石+東根城3万石+新庄城4万7千石)。
151 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 13:19:09 ID:wJJGWAUK
鮭厨のアホが土佐の石高を誤魔化してたのバレて超絶涙目だなw
これで太閤検地の数値があってることが立証されたわけだw
152 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 13:30:23 ID:En9eniBj
>>150 24万石の中に小野寺氏から獲得した地域が含まれていないのだな。
ということは実際には領土がもっと大きかったのか。
153 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 14:53:58 ID:ZDMMBCe5
実際に涙目になってる奴ほど、相手を涙目呼ばわりしたがるよね
154 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 16:44:39 ID:93Zy3ODP
フルボッコにされてベソかきながら他人の自演だって思い込みながら火病発症するくらいですし
155 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 17:53:23 ID:4yuAMLb+
お盆も終わったし、そろそろ痛院して欲しいね。
156 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 18:35:58 ID:wJJGWAUK
157 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 19:19:43 ID:4yuAMLb+
158 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 19:29:51 ID:En9eniBj
そもそも石高話はスレ違いだしな。
159 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 19:57:33 ID:wJJGWAUK
>>157 そのリンク先を読んだら
鮭厨ムチャクチャ涙目で必死だなあw
長すぎて途中で読むの飽きたわ。
だいたい俺はボンジョヴィでもサブでもないし。
ボンジョヴィは13万石とか言ってるやつだろ?俺は実高6万石を義光が誇張して13万石と主張したとする人間だし
サブみたいに衆道に固執する人間でもない。
SOHOみたいに直江擁護なんざやらねーから。いくら直江が貶されても構わんわ。
まったくの別人たちをみんな同一人物と妄想してレッテル貼りキャンペーンをする人間がアンチ長尾の伊達厨=鮭厨=偽織田厨なのは理解してるがなw
最近は偽織田ゆえに手取川スレを荒らすの飽きたみたいだが、松川スレや長谷堂スレを荒らすのもいい加減にしておけよ。
しかし土佐の石高の歪曲捏造ぶりにまったく気付かなかったからageてくれて助かったよ。
160 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 21:03:44 ID:4yuAMLb+
>長すぎて途中で読むの飽きたわ。
それ、自分に言ってやりなよw
161 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 21:13:06 ID:hAcBhwVN
>>141 >義光を無理やり持ち上げるために横川末吉氏や秋澤繁氏の話をねじ曲げてるね。
>>138で挙げた秋澤繁の論文を読んだらしく、そこから摘んで長々と自分に都合のいい
文章を創作している
しかしながら、論考の論旨は真逆でなので、引用文を提示できないというあからさまな捏造
自分が正しいと言い張るためには何でもやる人のようだ…
あまりにも捏造が目に余るので、秋澤繁の論考を置いておく
http://netsuzo3kirai.blog61.fc2.com/ 「話をねじ曲げてるね」の発言には呆れるばかりだが、論考から明瞭な部分を以下にも引用しておく
秋澤繁「豊臣政権下の大名石高について」『戦国大名論集 15』(吉川弘文館、1986年)
山内氏は、就封に当たり長宗我部検地帳の接収に成功、その地積をそのまま踏襲している。
従って、慶長十年幕府への差出基礎資料として作成された土佐国検地高帳の地積は、長宗我部
検地の最終的(慶長三年迄の)成果を物語るものである。
これによれば、土佐一国の地積は、六尺三寸竿、三百歩=一反の制に立ち、概数として田=
一万七千五百町、畠・屋敷=七千三百町、合計二万四千八百町歩である。この中には、文禄・
慶長期の部分的検地による増加分が含まれているので、天正十八年領内総検完了時の地積は若干
これを下廻り、二万三千町歩程度と思われる。天正末年以降の長宗我部政権の基礎は、これである。
では、この地積は、九万八千石決定の基礎となり得る数値であろうか。明らかに無理である。
既に横川末吉氏が解明された如く、この長宗我部検地の地積こそ、山内氏がその朱印高二十万二千
六百石を算出した基礎だからである。先掲慶長十九年史料によれば、山内氏が入国後「わたくしと
して相あらため」即ち私検地を行い、「出目」十万四千六百を打出し、旧高九万八千石と合わせ
二十万二千六百を得たとあるが、その実体は、既存の地積、地位の上に石高計算をしたに過ぎない
のである。しかもその石盛基準は、田=一石三斗−三斗、屋敷=七斗−二斗、畠=五斗−一斗と云う、
太閤検地の標準からみれば、かなり低いものであった。
従って、慶長三年以降は云うまでもなく、総検により天正末年までに長宗我部氏が掌握していた
領地地積は、余りにも九万八千石に対して過大であり、検地地積と石高との関連は、不照応である。
九万八千石に対応する地積は、はるかに少なくなければならない。そして、この様な石高と地積との
間に存在する断絶関係は、手続として、総検の把えた地積又はこれに照応する石高が、豊臣政権に
対し報告されなかった。即ち差出がなされなかったのではないかという推測を生むのである。
162 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 21:15:48 ID:hAcBhwVN
以上、
>>141>>143-145では妄想を披露しているだけで、結局のところなんら論証できていないのだが、
特に以下の部分
>>143 >長宗我部氏では兵農分離が不十分で土豪層の封権的土地所有をそのまま認め城下町建設のテンポがのろく、武士団の城下町集中がはかばかしくなかった為に9万石だったとされる。
>>145 >ここからわかるのは封権的な一領具足の長宗我部氏が9万石くらいであったこと。
上記の論拠を何らかの文献から提示するように
ちなみに、
>>161で引用したように、秋澤繁は
「では、この地積は、九万八千石決定の基礎となり得る数値であろうか。明らかに無理である。」
「従って、慶長三年以降は云うまでもなく、総検により天正末年までに長宗我部氏が掌握していた
領地地積は、余りにも九万八千石に対して過大であり、検地地積と石高との関連は、不照応である」
と断じている
>>144 >>さて史料的裏付け
豊臣政権下での表高・役高9万8000石説については誰も否定していないのだが…
相も変わらず表高を無理矢理に実高扱いして、的外れなレスを繰り返しているが、意図的にやっているのか?
それと「裏付け」というからには、出典元を明記して引用するように
レスが前後するが
>>141 >そもそも全国70ヶ国近くの中の1つである土佐の例だけを挙げて太閤検地はおかしいと喚くのは歪曲以外のなにものでもないが。
そもそも論拠も提示せずに太閤検地の数字は正しいし、そのうえ実高として扱えるとするのは、立論さえ成り立っていない歪曲以前の問題
前提をはき違えている
「歪曲」「捏造」という大好きな言葉は自省のために使っているのか?
163 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 22:13:18 ID:YCvptTQQ
Subスレによると「上杉直江厨に見せかけた荒らし」ということになっているが、
最上・伊達関連以外にも出没しており、その内容を見るに単純に真性の上杉直江厨にしか見えない。
164 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 22:14:43 ID:oIgx1rPh
>>161 >自分が正しいと言い張るためには何でもやる人のようだ…
実際それはそうで、出羽の話をした時にも
太閤の朱印状が出ている分と彼が自称している分を合計すると30万石を
余裕で越えるという話をしたときに、朱印状が出ている分いくつかを
そっくり削っておいて、ほら30万石だとか不思議なことを言っている。
多分、どこの国の石高がどうこうという話題自体よりも、
それをネタにいじられるのが我慢ならないのだと思うよ。
ま、それを承知でいじってる輩も少なからずいるわけだが。
165 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 22:38:13 ID:93Zy3ODP
こいつの捏造は名誉既存レベルですから
166 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 22:43:00 ID:BAiMWFoL
石高と長谷堂城の戦いと何の関係があるのでしょう。
例えば上杉は米の石高は会津時代公称120万石だったけど、実際には直江が開発した佐渡金山や青苧栽培による越後上布販売等による海上交易等で経済力は高く、実質の動員兵力も約7万と言われていた程。
最上も関ヶ原前には24万石で動員兵力は約1万人ぐらいはあり、立て籠もれば十分時間稼ぎは出来る陣容を持っていた。
信長の野望ゲームじゃないけど、皆さん米生産力のみを重視しすぎ。
167 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 22:53:22 ID:YCvptTQQ
山形城の守り・上山城など最小限の支城への配備、庄内方面の押さえなどで、
長谷堂城には1000人程度しか配備できなかったというのが通説だけどね。
実際はもっと少なかったかも。
168 :
人間七七四年:2009/08/16(日) 23:56:28 ID:Fu8WZ2Mv
>>163 「サブ」と認定呼称されるようになったきっかけが
手取川と魚津城だから、上杉家(謙信)嫌いなのは確か
それでも、直江兼続は大好きなのかも知れない
>>167 試算すると
山形3000、長谷堂1000、上山500、畑谷500、東根500?、谷地500?が対上杉
湯沢1000が対小野寺
こんなもんかな?
169 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 00:35:35 ID:Yk/Qgfqf
谷地って戦闘らしい戦闘あったっけ?
170 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 00:49:24 ID:M0JBX8KA
>>163 サブの場合、○○厨とレッテル貼りしても無意味かと思う
小馬鹿に出来そうなネタがあれば、伊達・上杉・最上・武田・北条・毛利などなど一通り反応するからw
初めは純粋な信長(信長公記)ファンだったのかもしらんが、疾患が進んで真性の荒らしになってもうた
171 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 00:52:10 ID:ycXnEhYT
>>170 下吉忠の進軍ルート(→白岩→谷地)に関しては
私には正直よくわからないので、他に準じて500程度かな?と推測しました
直江(米沢)…長谷堂、木村(中山)…上山、志駄(東禅寺)…東根と
対応させて防衛しているようなので
下(尾浦)…谷地に対しても、同様の備えは有ったかと考えました
172 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 01:06:21 ID:CvZxijur
横川末吉の方は読んでないのか?横川や秋澤など、その本の全文を読んでないね。
いろいろ読んでればちゃんと城下町への集住が遅れてた話なども載ってるわけだが。
しかも君は全文の1%程度にも満たない1ページ程度の自分に都合がよい場所だけを抽出してるに過ぎない。
言わば視野を狭めて山や太陽を見せずに情報を遮断した後に石だけを見せてるに過ぎんね。
そもそも慶長3年は秀吉没年だし慶長5年は関ヶ原だ。
>>144の松岡文庫における開発され尽くした盛親代の話で辻褄も合うではないか。
だいたい22万石とする確実な資料が山内時代には存在してないともちゃんと本に書いてあるのにそこは無視かね?
173 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 12:09:00 ID:mxWSdVTu
>>172 なんかいろいろ言ってるが、出羽の時の醜態を知っている身としてはまともに読む気にもなれない。
174 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 12:25:07 ID:mxWSdVTu
>>167 小野寺氏への備えとして湯沢に配置した兵力もあるし。
この時期の最上氏って、まさに三方を敵に囲まれていたんだな。
175 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 14:49:40 ID:LrkL94UF
サブは東日本アンチ
176 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 18:33:17 ID:79GsULdY
東日本アンチの割には上杉を叩いているところを見たことがないのだが。昔は叩いていたのか?
毛利を本気で貶しているのは何度も目撃しているが。
177 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 19:11:25 ID:mxWSdVTu
まあ出羽も土佐も豊臣政権下の石高はおかしいということが分かっただけでもよしとしませんか?
178 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 20:15:13 ID:CvZxijur
179 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 21:32:21 ID:XvTk8jI0
>>177 サブは無視ということでよしとしましょう!
180 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 00:55:20 ID:5ABUCGok
>>166 お前は間違いしか書いてないぜ。
そもそも佐渡金山発見は関ヶ原後だ。
越後の莫大な金山収入を秀吉は上杉から奪ったと言うのが正しい。さすが秀吉だな。
越後上布は会津ではない。
良湊を多数抱えていた越後時代ほど会津時代は海上交易に依存してない。
妄想みたいだが実質7万ってソースは?
最上は13万石だ。
お前がゲーム脳としか思えない。
181 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 08:14:09 ID:6FYsSYgR
>>172 >だいたい22万石とする確実な資料が山内時代には存在してないともちゃんと本に書いてあるのにそこは無視かね?
以下の記述のことをいっているのだろうが、またまた捏造している
秋澤繁「豊臣政権下の大名石高について」『戦国大名論集 15』(吉川弘文館、1986年)p437
これに対し、二十二万二千石を伝える山内時代の確実な史料は存在せず、また一旦二十二万
二千石であったものが、山内氏就封に当り、九万八千石と大減石を受けたとは、到底考え
られないのである。従って、この説は採用できない。
この記述は前段に示されている通り、実高ではなく表高・役高についてのものだ
秋澤繁「豊臣政権下の大名石高について」『戦国大名論集 15』(吉川弘文館、1986年)p437
(1)(2)は共に慶長19年江戸城石垣普請に際し、藩主山内忠義より幕府普請奉行へ提出した
役高関係資料である。これによれば、長宗我部期のみならず山内初期に於ても、土佐一石を
領有する大名の役高が九万八千石であったことを示しており、また豊臣政権下でこれを
決定した帳簿が、御前帳と称せられていたことが判明する。
実高は朱印状で申し渡されるものとでも思っているのか?
表高と実高について理解していないのか、とぼけているのかは知らないが、一応、以下に
定義を引用しておく
『国史大事典 第2巻』(吉川弘文館、1980年)
内高・表高:江戸時代大名たちの支配している領地の生産力量はすべて石高で表示されたが、
その場合表面上の高を表高、実質上の高を内高といった。表高は単に高とも本知高ともいい、
幕府によって認知された検地の結果算出された高で、判物・朱印状などに示された大名領地の
何万何千石というのは、この表高である。諸大名の格式、また軍役・公役などはすべてこの
表高にもとづくものであった。しかし諸大名の実際の収入は、この表高とは一致しないのが
普通で、その実際部分を内高、または実高ともいった。
秋澤は(俺も)、豊臣政権下での長宗我部氏の表高・役高が9万8000石だったことは否定していない
問題はその数字が実高つまり実際の生産高だったかどうか
表高と実高を混同しているという根本的な問題点を指摘され続けているにもかかららず、
その議論から逃げないように
繰り返しになるが
>豊臣政権下での表高・役高9万8000石説については誰も否定していないのだが…
>相も変わらず表高を無理矢理に実高扱いして、的外れなレスを繰り返しているが、意図的にやっているのか?
182 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 08:20:29 ID:6FYsSYgR
>>172 >横川末吉の方は読んでないのか?横川や秋澤など、その本の全文を読んでないね。
>いろいろ読んでればちゃんと城下町への集住が遅れてた話なども載ってるわけだが。
>>143「〜為に9万石だったとされる」、
>>145「ここからわかるのは〜9万石くらいで
あったこと」のレスに対して、実高9万8000石と断定できる「論拠を何らかの文献から提示
するように」といっているのに、「城下町への集住が遅れてた話なども載ってる」が答え?
実高9万8000石という数字は独自に導き出したということね
「辻褄も合うではないか」などと創作なのを自ら吐いちゃってるが、独自研究を
「とされる」などといって、さも通説のように語らないように
それと、残念ながら誰もあなたの独自研究なんて聞いていない
>>138が「横川末吉氏や秋澤繁氏の話をねじ曲げてる」というのなら、横川や秋澤が
実高9万8000石を唱えている部分を引用しろというだけの話なのだが、何故逃げる?
「その本の全文を読ん」だであろうあなたなら、引用できるだろう?
>>172 >そもそも慶長3年は秀吉没年だし慶長5年は関ヶ原だ。
なんの史料を指していっているのか意味不明
秋澤繁「豊臣政権下の大名石高について」『戦国大名論集 15』(吉川弘文館、1986年)p435
一方、二十二万二千石とする場合、廃絶禄及び出典不明の現行辞書類の大名帳で、いずれも
慶長三年又は同五年と云う長宗我部最末期の石高としている。松岡文庫本大名帳は、元親代
九万八千石とし、これを朱で盛親代二十二万二千石と訂正し(後略)
↑の「慶長三年又は同五年」の記述を念頭にいっているのかもしれないが、長宗我部検地の
地積を「山内氏がその朱印高二十万二千六百石を算出した基礎」と断じている秋澤・横川の
両論に、「廃絶禄及び出典不明の現行辞書類」など関係ない
>>172 >
>>144の松岡文庫における開発され尽くした盛親代の話で辻褄も合うではないか
辻褄が合わないというか意味不明
「松岡文庫本大名帳」の記述をもって、元親の代で9万8000石、盛親の代で22万2000石、
山内氏初期に再び9万8000石に実高が変化したとでもいいたいのか?
同時に「だいたい22万石とする確実な資料が山内時代には存在してない」と22万2000石説自体も
否定しているし、わけがわからない
>>130で「関が原後には、生産力の回復向上があった」といっていたのが、
>>144では「慶長3年
もしくは5年の長宗我部最末期の開発ラッシュ」となっているのもいただけないが、とりあえず
「開発され尽くした」というなら、その論拠も文献から引用するように
しかも秋澤は「松岡文庫本大名帳」を「総検地後に改定された石高とする説」として
紹介しているが、この説をも否定している(
>>161の引用と論考、
>>181を参照のこと)
論拠を提示できない限り、「辻褄が合う」と自画自賛したところで、妄想でしかない
>>172 >しかも君は全文の1%程度にも満たない1ページ程度の自分に都合がよい場所だけを抽出してるに過ぎない。
>言わば視野を狭めて山や太陽を見せずに情報を遮断した後に石だけを見せてるに過ぎんね。
呪文を唱えているつもりなのかもしれないが、
>>161の引用をまったく否定できていない
当初の
>>141のレス
>義光を無理やり持ち上げるために横川末吉氏や秋澤繁氏の話をねじ曲げてるね。
↑を主張したいなら、論考から実高9万8000石を唱えている部分を引用すればいい
論点から逃げずに、文献から論拠を引用するように
183 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 08:21:53 ID:5ABUCGok
いつから豊臣が幕府になったのかね?
役高なんてのは豊臣時代にはない。
豊臣時代の関ヶ原前後の開発期の石高向上から朱印状との差が生じたことが表高と実高の差を生み、
江戸幕府による役高の概念が発生するわけだが。
戦国末と関ヶ原前後を混同してるアホぶりはわざと歪曲してやってんのか?だいたい横川氏の書いてる内容しか書かないのはなぜだ?
184 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 08:25:17 ID:5ABUCGok
訂正
秋澤氏の書いてる内容しか書かないのはなぜだ?
話が噛み合わんが横川氏やほかの執筆者の方は読んでないのか?
185 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 09:51:44 ID:byOojXFf
186 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 10:22:18 ID:gCeaJOAw
誰かの文献を根拠にして当時の長宗我部氏が98000石相当だったことを主張したいのであるなら、
秋澤氏なり横川氏なりの文献から直接、その点に関して肯定的に言及する記述を引用すべきでしょうな。
それ以外の議論は無意味というものでしょう。
187 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 11:15:38 ID:s3VhuIFv
テメエら
自分で見てくりゃいいじゃんか
バカですか?
188 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 12:42:51 ID:lKkk8cpr
ソースを出せなくて逃げまくる、サブのいつもの醜態ぶりだねぇ
189 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 13:42:17 ID:byOojXFf
天正年間と慶長年間では農業生産力が違うという主張らしいが、
それで気づいたのだが最上氏の13万石というのも天正年間の数字だったな。
すると長谷堂城合戦があった慶長5年の最上領内の石高はすごいことになってそうだな。
190 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 15:15:15 ID:lKkk8cpr
いやそこは、例え開発ラッシュの時期であっても、最上13万石と出羽32万石の石高だけは何故か変わらないのだろう
サブの頭の中ではw
191 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 16:49:41 ID:byOojXFf
つまり13万とか32万などという天正年間の謎数字を基にして慶長5年の出羽合戦を語ってはいけないということか。
なるほど。
192 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 20:40:13 ID:YBHhYUMv
開発ラッシュ(笑)
193 :
人間七七四年:2009/08/19(水) 03:16:18 ID:hXH9Q3MC
保守
194 :
人間七七四年:2009/08/19(水) 09:14:11 ID:6iVBlPgV
>>183-184 >秋澤氏の書いてる内容しか書かないのはなぜだ?
>話が噛み合わんが横川氏やほかの執筆者の方は読んでないのか?
またまた逃げてる
そもそも俺の
>>138のレス「この当たりの話は秋澤繁の論考が詳しい」に対して
>>141で
>義光を無理やり持ち上げるために横川末吉氏や秋澤繁氏の話をねじ曲げてるね。
と勝手に秋澤と横川の論考を同一視して、人を歪曲呼ばわりしておきながら、
何で両氏の論考から実高9万8000石を論じている部分を引用してこない?
「話が噛み合わん」のは、あなたが議論から逃げているからだろうに…
自分の主張を論証できないことを人のせいにしないように
しかも、自分から引用しない(出来ない)分際で、俺に横川の論考も引用するように
盛んに要望するのはお門違いも甚だしい
で、横川は豊臣期の実高9万8000石説を唱えているのか?
(天正総検地前は9万8000石、総検地後は22万2600石、山内領20万2600石を唱えているんじゃないのか?)
それと、俺の主張が「横川末吉氏や秋澤繁氏の話をねじ曲げてる」といっておきながら、何で
「ほかの執筆者」の話が出てくるのかは意味不明
結局、秋澤や横川の論考など関係なく、「実高9万8000石」を主張したいだけなんだろ?
逃げてるばかりなので、再度釘を刺しておく
>
>>138が「横川末吉氏や秋澤繁氏の話をねじ曲げてる」というのなら、横川や秋澤が
>実高9万8000石を唱えている部分を引用しろというだけの話なのだが、何故逃げる?
>>183 >戦国末と関ヶ原前後を混同してるアホぶりはわざと歪曲してやってんのか?
どのレスがどう混同しているのか説明してくれ
22万2000石は関ヶ原後の実高であり、天正期の実高は9万8000石だと言い張りたいのか?
であるなら、既に秋澤の論考で否定されているが?
>>161で引用した通り、秋澤は
「では、この地積は、九万八千石決定の基礎となり得る数値であろうか。明らかに無理である。」
「従って、慶長三年以降は云うまでもなく、総検により天正末年までに長宗我部氏が掌握していた
領地地積は、余りにも九万八千石に対して過大であり、検地地積と石高との関連は、不照応である」
と断じている
未だに
>>161の引用が「秋澤繁氏の話をねじ曲げてる」ことが示されないが、その内容を説明すると、
問題の長宗我部検地帳は慶長三年までの検地の成果で、土佐一国の地積は合計2万4800町歩となる。
この検地帳には、慶長期の検地も含まれているものの、その地積はわずかであり、天正18年領内総検
完了時の地積は2万3000町歩程度と推測される。つまり、天正18年以降の増分は1800町歩に過ぎない。
そして、この検地帳の地積から、後に山内氏が朱印高20万2600石を算出しているが、このときの石盛
基準は太閤検地の標準からみれば、かなり低いものでもあった。よって、「総検により天正末年までに
長宗我部氏が掌握していた領地地積は、余りにも九万八千石に対して過大であり、検地地積と石高との
関連は、不照応である。」と秋澤は断じている
以上の秋澤の論考をあなたは否定出来ていない
にもかかわらず、「戦国末と関ヶ原前後を混同してるアホぶりはわざと歪曲してやってんのか」といわれても、
まったくもって意味不明
195 :
人間七七四年:2009/08/19(水) 09:17:29 ID:6iVBlPgV
>>183 >いつから豊臣が幕府になったのかね?
>役高なんてのは豊臣時代にはない。
「豊臣が幕府になった」の下りは、つまらなすぎて笑えないが、豊臣政権下でも役高はあった
(本気で「役高なんてのはなかった」なんていっているのか?)
自分から
>>144で「役高9万8000石豊臣御前帳と称する山内忠義書状案」とレスしているだろうに…
俺の
>>181の引用でも「これによれば、長宗我部期のみならず山内初期に於ても、土佐一石を領有する
大名の役高が九万八千石であったことを示しており」とあり、秋澤は「長宗我部期の役高」を
9万8000石とみている
「横川末吉氏や秋澤繁氏の話をねじ曲げてる」と人を批判しておきながら、「長宗我部期の役高」に
触れている秋澤の論考を自分から否定するマネをしているが、宗旨替えしたのか?
いったい何をしたいんだ?
ここで秋澤繁のいう役高について補足しておく
秋澤繁「豊臣政権下の大名石高について」『戦国大名論集 15』(吉川弘文館、1986年)
ところで、三鬼氏が指摘された如く、豊臣期の軍役人数に照応する石高とは、単純な公認総石高=
朱印総高ではなく、無役分を内包する場合にはこれを差引いた役高である。
↑で秋澤が触れている三鬼清一郎の論考を参照すると
三鬼清一郎「朝鮮役における軍役体系について」『論集日本歴史 6』(有精堂出版、1974年)
いうまでもなく軍役は、役高の部分に対してのみ課せられるものであり、天正から慶長に
かけては、諸大名の知行高のうちに無役部分が含まれていることが一般的であるから、(後略)
三鬼清一郎「朝鮮役における軍役体系について」『論集日本歴史 6』(有精堂出版、1974年)
知行石高と軍役人数との関係を分析するためには、その内容にわたって知ることが必要となるが、
一例として、天正19年3月13日に、秀吉が毛利輝元と小早川隆景に与えた知行目録からみていく
ことにする。内訳は第2表・第3表の通りである。
毛利輝元の場合は、総石高112万石のうち役高は73万4000石であるから、役高の数値を朝鮮出兵の
際の軍役人数3万人で除すと24.5となり、100石につき4人役となる。また小早川隆景の場合、総石高
30万7000石余のうち役高は20万石であるから、これを軍役人数1万人で除すと20.0となり、100石に
つき5人役となる。
以上、秋澤・三鬼の論考とも、天正期の「役高」について触れられている
自分から矛盾している妄想レスに、まじめに文献を引用して相手をしてやるのもどうかと思うが、
いいかげん、思いつきでレスするなよ
>>183 >豊臣時代の関ヶ原前後の開発期の石高向上から朱印状との差が生じたことが表高と実高の差を生み、
>江戸幕府による役高の概念が発生するわけだが。
論拠を文献から示すように繰り返しいわれているのに、なんで毎度毎度、創作文章を披露する?
論拠を提示できなのならば、それは単なる妄想でしかない
文献を用いて議論するという至極基本的なことが、どうしてもできないようだが、妄想を吐きたい
だけなら、創作文芸版にでも籠もっていてくれ
196 :
人間七七四年:2009/08/19(水) 13:10:34 ID:hClmtlQ+
このサブとかいう人が七ヶ宿の羽州街道を知らなかったことが判明した時には
開いた口が塞がらなかったものだが、今回もびっくり。
まさか自分で書いた文章を否定するとは。
この人って結構基本的なことを知らんのよね。
197 :
人間七七四年:2009/08/19(水) 15:20:39 ID:+C7AQrKF
というかぶっちゃけた話、天正年間と慶長年間では農業生産力が違うという
彼の主張に沿ってくれていた方が、じゃあ出羽も同じだねということになるので
俺たちにとっちゃ有難いんだがね。
198 :
人間七七四年:2009/08/19(水) 16:17:08 ID:hXH9Q3MC
マジレスすると検地方法・範囲が違うだけ
199 :
人間七七四年:2009/08/19(水) 18:09:37 ID:YP4J6+jT
今日太閤検地が全国どこでも同じ基準で行われた
なんて認識してる歴史家なんておらんはず。
太閤検地の実態は、実はその多くは差し出し検地だといわれてる。
軍役の基準とするためのね。
幕府成立後の慶長年間に行われたのも、ほとんど差し出しだといわれてるし。
とっくの昔に学会で否定された、太閤検地高を実高ととる説を
盲信してるやつがまだ存在してたとは。
200 :
人間七七四年:2009/08/19(水) 18:12:06 ID:EN0Us0s1
マジレスすると全国68ヶ国だっけ?
その中で土佐国だけが例外で石高がはっきりいって謎なんだよね。
土佐だけは学術レベルの難解さでいろいろな説が出てて、
確定されてないからどれが正解と言うのはまだない。
だから出羽も同じようには語れないのよね。
201 :
人間七七四年:2009/08/19(水) 21:04:45 ID:XkydziNl
EN0Us0s1
202 :
人間七七四年:2009/08/19(水) 21:50:39 ID:5HclZnMt
ID:wJJGWAUK
203 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 01:37:45 ID:MvnnPLHm
しかし土佐が信用できないとなると出羽も怪しいもんだよね。
204 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 11:49:57 ID:JHiMuL53
>>203 出羽も土佐同様に石高についても疑問が指摘され
研究学術論文が出てるってこと?
205 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 12:03:26 ID:MvnnPLHm
>>204 出羽の場合朱印状が残っていたり当時の記録から石高が分かる分がかなりあるんだけど、
問題はそれらを全部足すと32万石を超えてしまう。
206 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 12:05:56 ID:GFWlcsx/
太閤検地スレとか立てたらどうですか笑
207 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 12:19:30 ID:MvnnPLHm
もう結論出てるから改めてた新スレ立てる必要もないかとは思うけど、
土佐の石高とか長谷堂城に関係ない話題に拘る人がいるようだったら考える必要があるな。
もっとも、そもそもがスレ違いの石高話を持ち掛けた輩が原因作っていて、
そいつが素直に誘導に応じるとは思えないことかな。
208 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 19:51:20 ID:JHiMuL53
>>205 その本を俺も読んでみたいから書籍名教えて。
209 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 20:49:22 ID:2sinsAJF
ID:JHiMuL53
痛々しいw
210 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 22:51:49 ID:0sdNAlfu
>>208 検索すると大学のサイトや自治体のホームページが出てくるから検索してみな。
秋田氏に至っては原文の写真画像まで出てくる。
211 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 08:24:06 ID:5qX2VssV
>>210 土佐の石高論文は諸説いろいろ見つかるから正解はないんだろうけど、
太閤検地における出羽石高が間違ってるとする学術論文や出版物や学者名が検索をいくらかけても見つからないけどドコ?助けて(>_<)
土佐以外の他の国の太閤検地石高もおかしいとする学術論文もあるならぜひ教えて。
口論して自説に誘導する双方の書き込みや厨やアンチの誘導発言は信用できないので、事実だけが知りたいので自分で読みますので教えてください。
212 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 09:06:38 ID:yiRo7m/d
太閤検地における出羽石高が正しいとする学術論文や出版物や学者名が検索をいくらかけても見つからないけどドコ?助けて(>_<)
213 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 10:27:56 ID:aDW1nZG8
土佐があんな状態だとすると
関ヶ原前の最上領なんか普通に30万石くらいありそうだな。
214 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 10:45:34 ID:dSemMD7B
土佐9万8000石の嘘がばれたことでいきなり流れが変わっちゃったな。
215 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 18:06:55 ID:aDW1nZG8
しかし自分で引用した役高の存在を否定するとか、マジあり得んな。
216 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 12:41:47 ID:OyOwBeW8
お前らが天地人でさんざんぼろくそにけなしてるから義光公が
出ないじゃん、どうしてくれるんだよ。
ったくふざけんな。
217 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 12:58:46 ID:s/6Lj02q
出ない方が正解だってw
勝ち組の義光さんパネェっす
218 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 13:36:31 ID:te6eRmgH
>>216 出さないで関ヶ原どーすんだw
見事な負けっぷりを誤魔化すだろうなぁ。
219 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 14:13:44 ID:LmRydwW+
ナレーションと涙目妻夫木出して終わり
220 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 16:24:50 ID:Vi+y6r9Q
でも実質的には最上の敗勢は間違いないんだから大河で
直江が最上に圧勝してたが、西軍敗報により撤退とナレーションしても間違いではないと思う。
慶次が登場しないらしいからナレーションで終わりだろうし。
221 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 22:46:19 ID:s/6Lj02q
どうみても攻めあぐねてたのに圧勝はないわ…
222 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 23:01:43 ID:UN43blOB
CGくらいあるだろう・・・
223 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 11:31:53 ID:WfzdQNpZ
>>180 >お前は間違いしか書いてないぜ。
>そもそも佐渡金山発見は関ヶ原後だ。
佐渡金山開発は上杉家の佐渡征伐後から始まったという各種資料による通説を覆す、日本史(社会科教科書)を揺るがす新説の発表ですね。現在の資料からすると、あなたの説(関ヶ原後説)が超少数説と思われますが、その根拠資料は?
>越後の莫大な金山収入を秀吉は上杉から奪ったと言うのが正しい。さすが秀吉だな。
秀吉が奪ったという越後の莫大な金山収入のある金山とは具体的には「何金山」なのでしょう。これも初耳ですが?
>越後上布は会津ではない。
>>166が言ってるのは、越後上布を栽培したのは越後であって、会津移封前に財力を蓄えたという意味でしょ。
会津には実質2年しかいないんだから、会津での直江は道路建設や軍備増強、神指城建設等で、民政まで手が回っていないよ。
それに越後上布の原料であるカラムシの栽培を再開したのは米沢時代からでしょ。
>良湊を多数抱えていた越後時代ほど会津時代は海上交易に依存してない。
庄内(酒田)が発展したのは、直江が1604年から紅花栽培を奨励(四季農戒書)した後だろ。最上川から酒田を通る北前舟の発展、で当然の話。
これも166が言ってるのは、上杉(直江)は越後時代に海上交易で莫大な財を築いたという意味だろ。
>お前がゲーム脳としか思えない。
最上13万石説にしかり、ゲーム脳なのは180(書き方だけは偉そうだけど内容は無し)で間違いないね。
224 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 11:41:28 ID:cg8bTrBa
>>223 各種資料って例えばどんな資料があるの?
225 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 11:44:54 ID:FWhSKP7i
226 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 12:58:48 ID:31gk4q2+
>>225 なるほど。銀の方はかなり早い時期から採掘が始まっているな。
227 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 19:32:27 ID:BdGnBagJ
直江は佐渡征伐後から奉行と鉱山人足を送り込んでいて佐渡の鉱山調査を始めた。で、実際金鉱が見つかって採掘開始したのが1595年だろ。
佐渡征伐後からの金山開発で何もおかしくないと思うけど。
228 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 19:41:48 ID:cg8bTrBa
各種資料を提出してくれたら早い話でしょ?
229 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 20:32:52 ID:FWhSKP7i
佐渡金山っていうのは、砂金山や銀山も含めた総称だろう。
佐渡征伐より前からそれらが存在している以上、征伐後からの開発なんて表現は、おかしい。
230 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 20:39:47 ID:FWhSKP7i
1595年に拘るなら、あくまで佐渡金銀山内の相川金山の開発(発見)、とすべきだろう。
佐渡金銀山全体を指してでは、間違った表現としか思えん。
231 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 22:21:58 ID:hzzQtTNv
よく分からないが、
「佐渡金山発見は関ヶ原後」ってのが間違いなのは確実ってことでよいの?
232 :
人間七七四年:2009/08/24(月) 02:01:15 ID:EHuJew54
当の史跡佐渡金山の公式HP(株ゴールデン佐渡)からして1601年発見って書いてあるけどね。
233 :
人間七七四年:2009/08/24(月) 04:39:15 ID:mJg1g802
あれ?上のほうで基地外が連投してるw
234 :
人間七七四年:2009/08/24(月) 04:42:49 ID:WMr59cNg
>>231 いろいろな情報が飛び交っているが
少なくともそれだけは間違いなさそうだね。
235 :
人間七七四年:2009/08/24(月) 11:56:53 ID:EHuJew54
佐渡国略記を見る限り、慶長6年以前には誰かが組織的に金を採掘してるような感じじゃないし、〜始めたと言う、〜と伝わるみたいな書き方だよ。
そもそも相川金山は佐渡金山ではないんじゃ…しかも銀山だし。
そりゃあ佐渡で見つかった金山はすべて佐渡金山と乱暴に言うならそりゃそうだが。
そんなこと言い出したら今昔物語に出てくるから平安朝末期だとも言えるようになっちゃうわけだし。
WiKiの佐渡金山のページにも佐渡金山は上杉とは関係ない、上杉の件は新田次郎の創作だと書いてるし。
236 :
人間七七四年:2009/08/24(月) 12:21:03 ID:HZZr5jtW
文禄四年、秀吉は景勝に越後、佐渡の金山支配をゆだね、
「兼続を代官として金銀の運上を納入せよ」という朱印状与えてるけど、
本格的な金山開発は関ヶ原後なのかな。
「豊臣秀吉事典」だったか、慶長時代に運上された諸国の金の量が記載されてたおり、
佐渡は越後についで第二位で他国から突出してたけど、以前問題とされた検地高と同じく
これも微妙な値なのかな?
237 :
人間七七四年:2009/08/24(月) 13:49:23 ID:fF2zHSrH
庄内は金山があり、その領有が認められたのは上杉が移封に同意
した一因。佐渡も引き続き上杉が領有してるのは、飛び地である
デメリットを上回るメリットがあるからだろ。それが金山かはわ
からないが。
238 :
人間七七四年:2009/08/25(火) 00:43:49 ID:tLqVe4id
>>196 七ヶ宿の羽州街道を知らないことはありえない。
山中記や白石軍記の出典を彼は示してないが、あれは七ヶ宿町史にしか載ってない事柄のはず。
白石軍記や山中記などは羽州街道での出来事の記述そのものだ。
むしろそれを知ってるあたりかなり詳しいと思った。
239 :
人間七七四年:2009/08/25(火) 03:35:11 ID:jt3MArYA
>>238 それは俺も思った。
東北たたきだと言われてる割に、えらい東北の諸大名に詳しいなと。
言われてたサブとは別人なんじゃないのかとも思ったこともある。
七ヶ宿町史なんて、宮城県以外は図書館に普通置いてないもんじゃないの?
でも、例の石高にこだわるあたり、やっぱり同一人物なのかなと思ったり。
ようわからん。
240 :
人間七七四年:2009/08/27(木) 02:27:54 ID:zkp0RWvT
>>239 自分で勉強してるんだったら大したもんだけど、
目的が目的と考えると気持ち悪過ぎるなw
241 :
人間七七四年:2009/08/28(金) 15:42:58 ID:BYi9cGfM
>>238 >>239 それはつまり、町史をどこかで読んでいながら話題の街道がどこを起点としてどこへ向かっていたのかを知らなかったという
極めて頭の悪い話になるがそれで良いのか?
242 :
人間七七四年:2009/08/28(金) 21:07:15 ID:MTI32XyR
起終点を単に知らなかったのか、自分の都合のいいようにしか解釈出来なかったのか
長尾上杉厨の限界であった
243 :
人間七七四年:2009/08/29(土) 06:15:14 ID:5kULck48
>>241 あくまでも、ウィキペディアで問題とされたBとSと同一人物とする仮定だけど・・
東北の地理をよく知らないからじゃないのか。
ウィキでも、えらそうに書いた置賜郡の村むらの検地高について、
すぐに間違いに気づかれて、つっこまれていた。
いろんなところで、史料をあさってるようだけど(特にネット上)、
根本的なことを知らないからか、自分勝手な解釈をしてる。
表面的は知識はすごいところがあるが、成書はきちんと読んだことがないんじゃないか。
土佐藩の石高については、めずらしく図書館で読んだんじゃないかと思うが,
ネット依存の知識では、理解力が足らなかったようだ。
しかし、正しいか間違ってるかは別として、最上義光の妻の出自に関してとか、
戦国大名に関する知識は半端じゃないなと思った。
かなり以前から2ちゃんに参加して、戦国板だけじゃなく、日本史板からとかも
知識をむさぼってたんじゃないかと思う。
ある意味、典型的な2ちゃん脳の持ち主。
244 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 07:30:39 ID:0AG4SbE8
米沢城の地下には、佐渡で採取した金が次の戦争に備えて未だに大量に埋蔵されてるって話は山形(米沢)では実しやかに流れている噂。
直江の製造した鉄砲が米沢城地下に2,000丁程埋葬されてるって話とともに、地元では有名な話だよ。
>>235 >>236 直江は越後内でも他鉱山も数々見つけて代官を派遣してる記録は数多く残ってるし、例えば他地区でも庄内では1995年に立谷沢川の砂金採掘をこと細かに代官に命じてる記録を庄内町立川で見たことがある。そこでも実績を上げ後に酒井家に莫大な利益をもたらしてる。
直江が殖産興業のみならず、鉱山開発にも熱心だったのは確かだね。
245 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 07:54:04 ID:0AG4SbE8
でも、金山採掘が関ヶ原後に始まったなんて珍説はどっから出てきたんだろう。
歴史上の通説を大きく覆す説だよね。
>>243 最上正室に関する知識はネットの歴史館であるのを引っ張ってきているだけ。
ちゃんとした大名閨閥事典なんかは見ていないのバレバレで逆に笑えたw
石高や金山銀山の話よりは畑谷城の話のほうがスレに関係あるだろう。
大河板に立てたアホスレを誘導してくる。
>>245 佐渡金山は、江戸幕府に開山されて・・・・
という表現を、そのまま受け取っての結果じゃね。
佐渡全体の金銀山を指すかやら、本格的な採掘がいつかやら。
249 :
人間七七四年:2009/08/31(月) 08:05:13 ID:/du+GNCR
>>246 義光の母の記述は
どの大名閨閥辞典に載ってるの?
250 :
人間七七四年:2009/08/31(月) 16:04:23 ID:IM5GVxJ5
250get!
251 :
人間七七四年:2009/09/02(水) 09:00:31 ID:JHN/W3UP
252 :
人間七七四年:2009/09/02(水) 21:20:52 ID:FBTkuzhr
お前は何を言ってるんだ
253 :
人間七七四年:2009/09/02(水) 21:25:36 ID:FBTkuzhr
って、相手しない方がいいよな。きんもー☆
254 :
人間七七四年:2009/09/03(木) 01:12:43 ID:WHtbaAXE
ところで、長谷堂城の戦いってさ上杉方は何人で最上方は何人てことになるんですか?
石高や経済力で力の差言われてもイマイチわからないんですが…
255 :
人間七七四年:2009/09/03(木) 01:39:20 ID:ChlcpNVj
よく言われるのは、
上杉軍全てあわせて25000(長谷堂が二万ほど)と
最上が五千〜数千(同じく千か二千)ってところだけど、
根拠はない。
256 :
人間七七四年:2009/09/03(木) 11:47:13 ID:pnXtWdOB
政宗書状に上杉軍は三万とある。誇張だとは思うが。
257 :
人間七七四年:2009/09/13(日) 21:28:20 ID:pghi2fqx
4日、スタートするNHK大河ドラマ「天地人」で、山形城主・最上義光がどう描かれるか、関係者が注目している。
NHKはまだ配役や役どころを公表していないが、過去の大河ドラマでは悪役だった。
今回、どの場面がどのように描かれるかで観光面への効果も変わる。
関係市町はNHKに「舞台に我が町を」「文化人としての義光も描いて」と要望を重ねている。
先月13日、今井義典NHK副会長や天地人チーフプロデューサー、県や市町担当者が集まり、
山形市で懇談会を開いた。関係市町にとって、義光がどう描かれるかは重大な関心事。
主人公は上杉藩の重臣、直江兼続で義光は敵役に違いないが、扱われ方で観光へ波及効果が期待できる。
関係市町の担当者はまず、最上軍と兼続率いる上杉軍が戦った慶長5(1600)年の慶長出羽合戦を
ドラマで取り上げるよう要望。その上で山形市は「長谷堂の戦い」、山辺町は「畑谷城の戦い」、
上山市は「上山口の戦い」と慶長出羽合戦の中でもそれぞれ地元の戦いを盛り込んでほしいと求めた。
最上軍の激しい追撃を受けながら、鉄砲隊の活躍で撤退戦をしのぎきった上杉軍と兼続の武勇を伝える
長谷堂の戦いを取り上げ、義光も登場させる意向をNHKが明らかにした
関係市町には、もう一つ心配がある。87年の「独眼竜政宗」で義光は、主人公、
伊達政宗を権謀術数で追いつめる役で有名になり、悪役としてのイメージが広まった。
平均視聴率は39.7%と歴代大河ドラマ1位を記録した作品だけに、影響は大きかった。
山形市の昨年12月議会でも市議が、家督争いや謀略で敵を陥れる義光を描いた
市史を見直すよう提案した。市川昭男市長は「市史は戦国武将の一面を取り上げた」と答えたが、
見直しには言及せず「文化人の一面を新たに発信したい」と述べるにとどまった。
山形市の最上義光歴史館によると、一流の文化人が名を連ねた連歌「何路連歌百韻」で
義光は地方大名で唯一、登場するなど地元で「文化人」として再評価する声が高まっているという。
県や市町はNHKに「文化人」義光の資料を渡しつつ、県内でイベントを開くなどイメージアップに努めている。(杉本崇)
258 :
人間七七四年:2009/09/14(月) 17:09:01 ID:WmBhtTw1
↑なにこれ、涙が止まらない
259 :
人間七七四年:2009/09/14(月) 17:47:33 ID:ZGRU/VMN
原田義光カッコ良かったけどな
渡辺政宗よりカッコ良かった
山形市民は何が不満なんだ?
260 :
人間七七四年:2009/09/14(月) 23:26:49 ID:ZX8wocKN
261 :
人間七七四年:2009/09/16(水) 12:58:47 ID:uFyT3bUK
天地人ではその原田ですら出てこず
262 :
人間七七四年:2009/09/19(土) 01:22:19 ID:6Js66uUR
来週は長谷堂の合戦が放送されるんか?
ググって調べてたら面白そうな内容だな。
263 :
人間七七四年:2009/09/22(火) 23:25:25 ID:ortegnfu
264 :
人間七七四年:2009/09/26(土) 00:35:56 ID:DAeH+Tv5
265 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 13:18:06 ID:XXrwq89t
最上義光のスルーっぷりは逆に清々しかった
心配するまでもなかったね
266 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 14:20:52 ID:AmWqBl9l
そもそもすぐ改易された最上なんて映像化する価値すらないし
山形が要求ばっかして粘着してうるせーからめんどくさいからだろ。
267 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 15:19:38 ID:6tg3Nub3
福島・加藤・小早川「ですよね〜」
268 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 19:07:12 ID:1/HJ98tU
もうすぐお家断絶する直江兼続も映像化の価値も無いわけですよねw
269 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 19:45:25 ID:AmWqBl9l
>>268 お前のもうすぐと言うのは何十年先まで対象なんだw
やっぱり伊達厨って日本語が不自由な在日チョンなんだな。
270 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 20:13:09 ID:1/HJ98tU
>>269 関ヶ原から最上改易までの22年間はアウトで、
直江兼続が死んで断絶する20年間はセーフという理由をお聞かせ願いたい。
271 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 20:55:51 ID:AmWqBl9l
義光死後わずか8年で改易だろうがw
272 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 20:58:02 ID:1/HJ98tU
死亡年数から算出するなら、よりひどい結果になりますよ?
273 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 21:08:18 ID:iEexxHH+
最上家改易と直江家断絶は意味合いが違うんじゃないのか?
お互いに戦った相手を貶めてもしょうがないと思うけどな。
274 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 21:32:35 ID:AmWqBl9l
>>272 おまえが
>>270で兼続死去を前提として出しておきながら何言ってんだw
義光死後わずか8年で改易
兼続死後20年後に断絶
やはり日本語が不自由な在日チョンでしたか。
275 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 21:50:45 ID:h84Lbq99
直江(笑)
276 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 22:46:55 ID:zb/0owme
唐突に絡んできた266に対する返事なんだから、267・268の内容で充分だと思うが。
277 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 23:03:55 ID:AmWqBl9l
やっぱり日本語が不自由なようです。
278 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 23:11:48 ID:h84Lbq99
第三者からすると、お前引っ込めって感じ。
279 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 23:15:38 ID:hUjxCnGQ
Sub必死だなw それに何でこの内容で伊達厨乙になるのかわかんねえよw
280 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 23:58:03 ID:h84Lbq99
イミフ。
伊達がどうじゃなく、お前の認定やらの物言いがウザイつってんだよ。
281 :
人間七七四年:2009/10/04(日) 04:46:06 ID:yga2jKkW
ID:h84Lbq99はID:AmWqBl9lに言ったんじゃないのか?
282 :
人間七七四年:2009/10/04(日) 06:33:41 ID:s4DMf/He
お前は何を言ってるんだ
283 :
人間七七四年:2009/10/04(日) 06:42:38 ID:2G4viTgl
石高も大切だが、人が居なければ兵力は増えない。
小田原の陣の時、北条は領内の十五歳から七十歳の男性すべてに
召集をかけたようだが、十七万人にしかならなかった。
284 :
人間七七四年:2009/11/24(火) 21:36:39 ID:47OgZyWT
北条は悪政敷いていたから特別人口少ないんだろ
285 :
人間七七四年:2009/11/25(水) 00:09:16 ID:FA3yE6/L
北条は善政を敷きました
286 :
人間七七四年:2009/11/25(水) 13:33:51 ID:oPhm01Q3
良いか悪いかは水掛け論。
ただ他の大名とくらべてはっきりと支配体系が分かる政治体制だった。
287 :
人間七七四年:2010/01/09(土) 21:56:13 ID:tkegPcWR
今日山形の旅番組で最上義光とりあげられてた。
穏健で人望あつい人柄だってよ・・・どっかで聞いたようなセリフなのよ。
そんなフレーズは2ちゃんではアットホームサザエさん提唱者しかおらん。
2ちゃんに書き込んでるそいつは山形観光化かそれとも歴史館館長様か?もしかしたら・・・
288 :
人間七七四年:2010/01/09(土) 22:04:59 ID:tkegPcWR
番組制作のさいTV局に吹き込んだのは明らかなわけよ。
だって県内中、義光公の認識はそれと真逆なんだもの
289 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 08:23:30 ID:Ei1Jqr6n
義光贔屓なんて山形市だけだろ
捏造すんな
290 :
人間七七四年:2010/01/23(土) 12:53:53 ID:yR4O3X91
義光善人化工作で
ガチに大河天地人に連動して米沢市を敵視して荒らしてたんだな。
大河終了とともに義光本スレからして深刻なまでに過疎ってやんのw
291 :
人間七七四年:2010/01/25(月) 21:11:17 ID:cDxkYtjF
義も人情も通用しないきびしい戦国をありとあらゆる手段を使ってでも生き抜いたって言えば、素直に
そうだな凄いなと思えるけど、人望が厚く結果的に被害を少なくできたから人情派だなんてのうのうと言われたらむかつくよな。
たぶん最上家の元家臣の末裔なんだろ。
かえって義光公の評判さげちゃったな。
あ〜上杉の家臣でよかったよかった。
292 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 22:34:39 ID:IaTkOrJF
>>290 確かに大河アンチにあれだけ必死だった鮭厨の工作が放送終了に伴い明らかに激減してるwww
293 :
人間七七四年:2010/02/02(火) 18:42:35 ID:QZUq68JF
>>283 当時は現代のように全ての人間を国が把握してたわけではない。
それに現実問題として病気の奴も居れば不具の奴も居て
あるいはなんだかんだと逃げ回って徴兵を逃れた奴もいる。
294 :
人間七七四年:2010/02/02(火) 18:46:34 ID:QZUq68JF
北条が本当にこんなバカな命令していたのなら、
彼らの滅亡はこの時点で必須だったと思う。
一、武具を用意し、命令次第小田原城に出頭せよ
一、一人でも隠れ出頭しなければ、小代官の頚を斬る
一、十五才から七十才までの男子は、全て出頭せよ
一、村に残る者は、定使(領主の命令伝達・年貢の徴収に当たる)と十五才以下の子供、それに陣夫(軍 需物資の運搬・輸送に当たる)だけとする
一、この出頭に当り、武具を整え走り回った者には、それ相応の褒美を与える
一、僧でも志があれば、出頭すべし
と掟が発布された。
295 :
人間七七四年:2010/04/24(土) 05:47:08 ID:qSM1nXvN
直江の無能を示してしまう長谷堂戦が描かれるわけないだろ。
296 :
238:2010/05/15(土) 19:10:10 ID:6LwfjCLh
>>200 >>211 土佐は複数の学者が討論するほどの謎だからね。
しかも結論は未来永劫でない。
出羽について学者が論文だしてるなんて話はまったくない。
土佐と出羽の石高を同列に語る論法は頭がおかしいとしか言えない。
>>212 疑問を投げかけそれを論証し間違いと指摘する論文がこれまで一切でてない以上は、正しいとしか言えない。
>>241 お前がアホ。感情的で話を捻じ曲げてる張本人だな。
>>243 どう考えても同一人物じゃないだろ。
そもそもそいつとここのヤツは会津の石高でまったく違う意見を吐いてる。
297 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 07:31:00 ID:2Rf6QsJ9
>>295 どこが無能なのか判らないけど。
直江軍が山形盆地に入り込まなかった(菅沢山に鶴翼陣を敷いて持久戦に持ち込んだ)所に直江兼続の軍事面での非凡さが窺える。
関ヶ原での敗報が伝えられた時、仮に長谷堂を抜いて山形城を攻囲していたら...。
直江軍は最上の山形城兵と上山城兵および伊達政景軍に挟撃され大混乱。かの有名な狐越街道での電撃撤退作戦も無かっただろう。
結果的として菅沢山で庄内軍待ちしたのが正解だったと言えるでしょ。
298 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 09:40:04 ID:VylBnB4b
結果としてw
299 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 09:41:43 ID:VylBnB4b
結果論でいいなら、西軍についた時点で「無能」だったと言えるね!
300 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 09:53:25 ID:hURYVcQe
西軍が負けることを織り込み済みで山形へ侵入したとしたなら、
とんだ能なしだな。
301 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 09:59:26 ID:HJkhs3WK
高橋明「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾−奥羽越における関ヶ原支戦の顛末−」『福大史学』80号、同「坤」同81号
302 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 10:36:09 ID:sG8Cw+JP
長谷堂を落としたら政宗がハイエナのように山形城を横取りして奪うつもりだったから、
その阻止のため直江は庄内軍待ちしたと言われてる。
もちろん白河で結城秀康が戦端を開いた場合に急行できる位置にいて軍道の整備を同時にしていたが。
303 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 10:50:40 ID:VylBnB4b
上泉泰綱が死ぬほど攻め立てておいて、それはちょっと。
304 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 11:02:36 ID:HJkhs3WK
直江は関東出馬を計画していたが、背後の伊達と最上が邪魔。
伊達とは和睦が進み、「関東出馬の時は政宗または家老数人を連れて
行く」と本庄に指示。一方の最上は証人提出などを約束したが、履行
されず、直江は「政宗を攻撃するのは最上の出方次第」と本庄に伝える。
直江は最上と伊達どちらかを叩くことで、もう一方を孤立させ、従属
させた上で関東出馬を考えていた。
結局、最上の態度はあいまいで、最上領へ侵攻。大軍を擁して長谷堂を
包囲したが、小競り合いしかなく、上杉方から積極的に攻撃した様子も
なし。大軍で長谷堂と山形を威圧して降伏を狙ったが、予想外に最上が
粘るので、おそらく上山城の敗戦もあって直江は一時、長谷堂包囲を解
いて作戦の練り直しを図ることを考える。直江は撤退にかかるが、東軍
勝利を知った最上や伊達が追撃。直江には関ヶ原の結果は届かず、何で
最上たちが勢いづいたのか不審に思いながら撤退戦を戦った。
撤退戦について政宗「最上が弱く直江を逃がした」
「百人を打ち取る大合戦だった」
305 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 12:54:34 ID:nw8zQoIn
>>300 能なしのうえに主命をプッチしたとんでもない不義不忠の輩だなーw
306 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 14:10:19 ID:sG8Cw+JP
智将なら双方の可能性を考えて善後策込みで行動するのが当たり前だろう。
特に宰相ともなれば、状況の変化に対して想定してないからわからんとか言えんだろ。
>>303 勝手に張り切ってどんどん前線にでていき、夕闇だから引けというのを無視して
最後に貯水池を破壊した後に敵将と組討ちして下に落ちて死んだだけ。
307 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 17:49:06 ID:ai7IAO/c
ID:sG8Cw+JP の論理は典型的な後世の、結果を見ている人間特有のものだね。
そんなこじつけと推論ばかりのでは、直江の擁護にすらなってないよ。
具体的に直江がこう考えいた片鱗を示す書状が見つかった、とかそういうことではなくて、
全部 ID:sG8Cw+JP の脳内でこねくりまわした「新説」じゃね…
308 :
人間七七四年:2010/05/29(土) 18:29:35 ID:hURYVcQe
>>306 直江をかばうあまり、上杉家をも敵にまわすつもりか
309 :
人間七七四年:2010/05/30(日) 08:55:40 ID:V5q3xDDH
直江はずっと西軍が優勢だと思ってるんだけどね。
>>306 上泉が戦死したのは撤退戦の時という説もある。
310 :
人間七七四年:2010/06/03(木) 09:26:12 ID:1uqJ02ci
>>309 そりゃ双方の軍勢が寝返らず全力で攻めかかったら西軍優位だしな
てかこの戦いで言えるのは兼続は城攻めは下手くそで野戦は上手でFA?
311 :
人間七七四年:2010/06/03(木) 20:53:29 ID:tEKl05+n
直江は最上を関東攻めに連れて行くため、力責め
はなるべく避けていて、一次史料からは上杉方が
積極的に長谷堂を攻めた様子はないらしい。
だから直江は戦下手だったというより、大軍で攻
めれば最上は下るだろうと甘く見たことが失敗。
そもそもそんなに早く関ヶ原で決着がつくとは想
定してなかっただろうけど。
312 :
人間七七四年:2010/06/03(木) 21:00:07 ID:bZJO4rvE
>>299 最上攻めを決定したのは景勝。
直江は景勝の意向で最上攻めしただけ。
その意味では
>>295が言うように、上杉家にとっては義を通した上で、最高の撤退戦を魅せてくれた。
結果、戦国の梟雄にして稀代の謀略家最上義光が直江を評して言う「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」と。
313 :
人間七七四年:2010/06/03(木) 21:07:34 ID:bZJO4rvE
>>299上杉は西軍についたんでは無く、上杉家単独でも言い掛かりを付けてきた豊臣軍(総大将:徳川内府)に一矢報いようとしただけでしょ。
西軍(石田)は、上杉を利用しようとしただけでしょ。よく石田と挟撃しようとしたと言うけれど、本当に家康を潰す気だったら、景勝・直江、絶対追撃してますって。
314 :
人間七七四年:2010/06/03(木) 21:32:07 ID:JzZ4bTLU
>戦国の梟雄にして稀代の謀略家最上義光
おおっと、最上義光好きだがこれは過大評価。
大体、そんな直江をほぼ単独で撃退した俺って凄いでしょ?だから加増してよって意味を無視するのはどうかと。
極めて政治的な文言を素直に受け取るなよ。
315 :
人間七七四年:2010/06/03(木) 21:54:21 ID:SKmzpOae
>戦国の梟雄にして稀代の謀略家最上義光
その稀代の謀略とやらを具体的にあげてみろw
自宅まで仮病で敵呼び寄せて惨殺とかそういうちっこいのではなくてw
316 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 00:31:01 ID:LGaINVjE
>>313 直江が家康の撤退を知ったときには家康は江戸。
317 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 09:16:18 ID:wHaTZjp+
>>314 単独で撃退なんてしてねーだろ。
政治的な文面と決めつけるソースはあるのか?
君がそう思いたいだけじゃないのかね。
318 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 12:19:26 ID:G0k77F7o
>>317 確かに六郷がいたな、
でも、上杉と一緒になって攻めてきた小野寺を差し引けば、
ほぼ単独で戦ったと言ってもいいと思うが。
319 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 12:48:23 ID:wHaTZjp+
そもそも撃退したんじゃなくて
撤退していったのを追ったら返り討ちに合い死にそうになっただけ。
しかも伊達も支援に来ていたし。
伊達からはこの時に最上弱すぎとか言われてんじゃん。
320 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 12:50:38 ID:LGaINVjE
卑屈な態度で最上攻めを先延ばしにしたのは謀将らしいな。
321 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 15:33:11 ID:uASILhNz
最上はこのあと、攻勢に出て、領土奪還してるしなぁ。
そこまで大敗したり、弱かったとは思えないが。
322 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 17:16:19 ID:G0k77F7o
だよなあ。
長谷堂攻めで、直江の軍事能力を非難することはできないけど撤退戦からがひどすぎる。
1.志村、長谷堂を防衛成功。
2.志村、逃げ遅れた大量の上杉兵を包囲、その後、内応させ味方にする。
3.庄内に攻めようとするものの、雪のため中止。
志村、暇なので上杉と一緒になって攻めてきた小野寺をつぶす。
4.志村、上杉兵とともに庄内侵攻、庄内の上杉勢力を駆逐する。
最上軍、切り取った領土をすべて加増され57万石になる。
なんか直江は志村光安にフルボッコって感じがするわ。
323 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 19:00:30 ID:LGaINVjE
庄内攻めの時はすでに上杉は家康との和睦が固ま
りつつあるから、戦らしい戦があったか微妙だけどね。
実際にはただ接収にきたのかもしれない。
政宗とは翌春まで戦ってのを見ると、政宗の侵攻は公儀
としてではなく己の野心からだと認識してたのかもね。
324 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 20:10:18 ID:G0k77F7o
酒田城攻略は4月。その後、最上郡は由利郡に侵攻。
徳川との和睦可能となったのは7月1日、処分を言い渡されたのは8月16日。
和睦は固まっていなかったと思うが。
325 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 21:00:46 ID:LGaINVjE
いや、和睦の交渉は早くも十月から始まっていて、直江は
家臣に書状で関東攻めの中止を伝えている。
326 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 21:10:54 ID:G0k77F7o
伊達や相馬が攻め込んでいて、それを撃退している。
庄内で、最上と戦った記録が残っているし、そのせいで酒田の一部が燃え
のちに、志村が修復している。
和睦交渉はともかく戦争は続いていたが。
327 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 22:34:01 ID:jLdshTuS
高橋明「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾―奥羽越における関ケ原支線の顛末」(『福大史学』80号、2009年10月30日発行)
328 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 22:45:09 ID:8oXidElp
あっちで謀将ともちあげておいてさあ…
一方で卑屈だの、伊達と連合してやっとだの、
現場に来てすらいない伊達政宗が弱いと言ったというのをさも得意そうに出してくるけどさあ?
そんな雑魚っちい義光が褒めたって、直江の撤退SUGEEE!ってならなくねえかな?
あとおまえたちは自分の好き勝手に解釈するっていうけど、
「ほぼ単独」の「ほぼ」を読み飛ばしたり勝手放題だよなー…
>実際にはただ接収にきたのかもしれない。
っていう自分の推論で話ガンガンすすめるし。
前後矛盾してもぜんぜん平気な人の言うことを信じろって言われてもだなあ。
そんな強引な解釈と思い込みで語る奴の言うことに価値ってあるわけかな?
いくら論文をご大層にあげたって、そんな読解力ゼロの奴が言うんじゃあむしろ信憑性さがるわ…
329 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 22:46:04 ID:LGaINVjE
上杉からは戦は仕掛けてないはず。
秋の時点で徳川重臣たちから和睦の内証を得ているし。
政宗は関ヶ原の結果が伝わるまではほとんど上杉
と対立を見せず、実績づくりのために福島方面に攻
め込んだ。
330 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 22:56:22 ID:8oXidElp
>上杉からは戦は仕掛けてないはず。
直江状はなんだよw つかおまえの主張はすべて推測でなりたってんだなーw
331 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 23:01:03 ID:8oXidElp
・直江状はあるが上杉は戦なぞ仕掛けていない
・直江兼続は西軍が負けるのなぞ読めていたが、あえて最上攻めにふみきった
・山形を落とすよう命令したのは景勝がバカだから
・山形を落とせなかったのは、わざとだ。西軍が負けるとわかっていて敢えて深入りを避けた
・最上義光はセコくてダサくて単独で戦っていないが、そんな彼でも稀代の謀将だ
・最上も志村だって、直江が本気出せば瞬殺、まあ結局二週間粘っただけだろ
・最上義光はほんとうはビビって土下座寸前だったが、そんなみみっちい義光が褒めたから直江の撤退戦は偉大だ
・酒田で戦闘なんかない、なかったんだ! 最上は接収しただけ
・でも五十七万石まで加増されたのは謎は謎のままだが、ともかく直江は偉大で最高の軍師
こうですか、わかりません
332 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 01:33:05 ID:YQvnKrUk
>>331 複数の人の意見を混ぜてるようだけど、
直江は西軍は優勢だとずっと考えていたよ。
9月29日付清野長範あて直江書状「上方の儀、別儀なき由申し来たり候。
真田、勝利も必然の由、度々申し来たり候」
撤退の直前ね。
10月23日付安田吉親あて直江書状「佐竹口より働き、江戸より無事の内
証候に付き、相止め候」
11月19日付横田式部あて直江書状「上方の儀、御無事の様子、舟岡・中
島下着候、これに就き、近日、本庄越州上洛有り候」
333 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 01:43:32 ID:O5dSw+SF
>>332 そういう史料を無視して
「直江ほどの眼力なら西軍敗北はわかっていた!
つまり、山形を落とさなかったのはわざとなんだよ!」
って主張するのがあまりにおかしいんだよなw
334 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 01:54:35 ID:YQvnKrUk
西軍の敗北をわかっていたって誰が言ってるの?
山形城を落とさなかったというか、力攻めするつもりは
なかったというのはその通りだと思うけど。
335 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 02:00:11 ID:8zpnd1B0
subだからしょうがない
336 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 09:38:43 ID:+aCpYQPi
>>334 上山での敗退、長谷堂での苦戦。
この二つの要素で方針転換したんじゃないか?
最初から力攻めをしていなかったとは思えないな。
337 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 09:48:28 ID:YQvnKrUk
上山を攻めた部隊が敗北したのは撤退の一因だと思うが、
軍記物はともなく、一次史料では長谷堂を力攻めをした
様子はない。
>>297の言うように庄内(や上山)からの支
隊が到着するのを待ったという指摘は的外れでもないと思う。
最上が予想外に抵抗したことと上山の敗戦、伊達の怪しい
動き(福島への内応工作)が直江の誤算だと思う。
338 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 10:18:04 ID:+aCpYQPi
>>337 一次史料では長谷堂を力攻めをした 様子はない。
すまない。いろいろと調べてはいるのだが
力攻めをしたという資料はないが、していないという資料もない。
どっちが正しいかという判断が付けられないので。
資料か、圧倒的戦力差で力攻めをしなかった理由を述べてほしい。
339 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 10:38:29 ID:WtfWbsfb
実際には「長谷堂にてこずっているが、配置転換して攻め落として山形まで攻め込む」
みたいな決意表明の書状が残っているんだけどなー
敢えて力攻めしなかったんだよ派の根拠は、
直江は天才、非凡
そんな直江が本気で攻めたら山形なんかすぐ陥落
そうでなかったということは、直江は本気じゃなかったんだよ
という三段論法だから。
たとえ直江が本気でも、たとえば兵粮不足だとか、
どうしても攻めきれない事情があったかもしれない、とかは思わないのかね
直江と最上が単独で殴り合うボクシングじゃねーんだから、なんか事情あったかもだろ
340 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 12:02:31 ID:Prj5urZi
攻めに行って落とせなかった事に変わりはないのに本気出せば落とせたとか
家の一大事に本気を出さないとか天才でもクズだな
341 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 12:15:59 ID:um7QgXkA
>>339 誤読だよ、それ。
「長谷堂に」手間取ったかは不明だし、「陣替え」は山形を
攻めるという意味でなく一時撤退の意味なのは「安田の軍が
到着すれば大丈夫」と言っていることからも明らか。
342 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 13:18:01 ID:sBQmwZqe
>>341 で?
長谷堂に手間取っていないというのと、一時撤退なのは明らかという証拠はあんの?
テメエの思うこと=明らかって流石Sub様だなw
>>340 そうなんだよ、直江擁護してないと死ぬような奴の言うことを総合すると、
物見遊山気分で主命を受けて兵士を殺す屑にしか見えない
一生懸命戦ったけど勝てなかったというほうが人間的にはマシなんだが、
強引な擁護している奴はそれすらわからないのかねえ
343 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 15:57:25 ID:um7QgXkA
subは上杉厨を装ってるだけで、実際はあまり詳しくないよ。
直江は最上も関東攻めの頭数に入れているので、力責めして兵力
を無駄にしたくない。関東攻めの前哨戦であることはほぼ直江の
与力で戦っていることからもわかる。
長谷堂包囲後は攻撃を仕掛けずむしろ四回ほど攻撃されている
のが直江書状から分かる。だから直江は最上が物量による威圧
に屈しないこと、自身の見込みの甘さを悟り、上に出てるよう
に「陣替」して、「仕置」を延期することにした。手間取った
のは「小地(小城)」。直江は一度降伏させた集落に離反されて
おり、高橋明氏はそれが「小地」ではないかと指摘している。
長谷堂合戦についての最新研究は高橋氏の論文か伝国の杜の最
新図録だと思われるので、天才とか愚将とかいうくだらない話
は置いて、興味がある人は読んでみたらいかがか。
最上が戦で直江を散々苦しめ、直江が華麗な撤退戦を見せた派
手な軍記物から語るのとは違う生の直江や最上に触れられると
思うけど。
344 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 23:19:28 ID:ORkAIpsT
>>184 横川末吉どころか
小林健太郎の長宗我部氏時代の城下町や
中田四朗の長曽我部古地検帳の研究すら読んでないとしか思えないな。
だから常識レベルの前提条件が崩れていて話がかみ合わないのだな。。
345 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 00:54:56 ID:69+xlvef
>>343 無粋なつっこみで悪いが、どうしてその論文が生の直江や最上にふれられると思うのかな?
どのみち四百年経過しているわけだが。
あと『奥羽永慶軍記』はさておき、『最上義光物語』の長谷堂合戦はわりと地味だぞ。
その小地ってのが集落と断定できる根拠もよくわからねえな。
具体的にどこの集落がどう反抗したかくらいはわからんねえと。
>力責めして兵力を無駄にしたくない。
これも説得力がない話だわな。そのわりに畑谷では撫で斬りして、自軍にも
結構な被害を与えている。
力攻めしたくないからってちんたらしていたら、包囲するだけで日数と兵粮が無駄になるだろうが。
二万程度で出兵していて今さら「無駄にしたくない」とどうして言えるんだ?
346 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 01:03:22 ID:dlXaGYpm
わざわざ読点を打つとは丁寧な方ですね
347 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 01:51:32 ID:+y24UsEb
伊達全軍を挙げて砦レベルの大里城たかが500の籠城に一ヶ月に渡り超苦戦した無能伊達軍
小田原包囲中に二階堂の家臣の矢田野兄弟が政宗に反旗を翻したのも佐竹の謀略だろうね。
政宗と小田原に来た矢田野伊豆守は佐竹の陣に駆け込み、弟の矢田野藤三郎義正が大里城に泉田や明石田ら二階堂旧臣500を集めて挙兵。
結局、7/4には成実や景綱ら1万以上もやって来て伊達が全力で攻撃するも落城せず、
6/25に黒川城へ政宗帰国、7/5小田原落城、7/10に政宗が浅野や木村に会津黒川城引き渡し7/13米沢へ移動、
7/26に秀吉が宇都宮へ着陣。
秀吉の奥州案内の道造り(太閤道整備)をさせられていながら街道筋の大里城を落とせず完璧に面目丸潰れの政宗が8/2に大里城攻撃を諦め撤退。
8/7に秀吉が長沼城に到着と同時に矢田野は城を燃やして撤退。
その際に秀吉は矢田野義正の武勇に大喜びして安房守を与えて、蒲生氏郷に矢田野の本領安堵を下知。
8/9に黒川城へ秀吉が入城。
須賀川二階堂氏が最後の意地を見せつけた戦いだった。
これにより矢田野は佐竹騎下の角館で二階堂氏の名を継ぐ事になった。
資料によって錯綜するが、おそらく義宣の陣に逃げ込んだと思われる。
もしかしたら小田原からの帰路に太田近辺の義重陣に入ったのかも知れない。
なぜなら政宗は義正が矢田野に下り弟に合流すると考えて、早飛脚で成実に対して帰路の道中で討ち果たせと命じている為。
この挙兵は佐竹-相馬-二階堂の連携パターンのような気がする。
なぜなら参陣しなかった相馬が秀吉の了解を得た政宗に討たれる事態を回避したから。
当時の相馬は伊達領の駒ヶ嶺を攻めている為に、明らかに惣無事違反を行っており、
政宗は相馬侵攻を狙っていたが大里城が陥落せずに秀吉の会津着が迫り、
全国の大名たちが見守る中でメンツをかけた伊達全軍をかけた大里城攻撃になってしまい相馬討伐どころでは無くなってしまった。
佐竹が斡旋して秀吉が矢野田の所領安堵を引き出した。
相馬攻めする予定だった伊達軍を引きつけた二階堂の矢野田の時間稼ぎの間に、
参陣もせずに伊達を攻めていた相馬も佐竹の秀吉への働きかけで佐竹寄騎として許された。
参陣途中の鎌倉で当主が死んだ岩城には義重三男が養子に入ることを秀吉が命じたし。
佐竹の打った手はバッチリ当たり完全に政宗涙目だわな。
348 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 03:32:56 ID:+l+XHRZf
最上記はちゃんと読んだことはないけど軍記物の類だからなぁ。
一次史料を羅列してる方が生な感じがすると思うけど。
例えば政宗は直江追撃戦を百人も討ち取った「大合戦」と呼
んでいる。最上の討ち取り数は別だろうけど、さすがに軍記物
のように何千人も死んだとは思えない。四百年とかは関係ない。
畑谷はあくまで軍記物ソースだと降服勧告を拒否された上
での攻撃だし、序盤なので見せしめまたは国境の重要拠点
のため、離反による背後からの攻撃を断つなどの目的で占
拠する必要があったのかもしれない。大きな被害ってのは
軍記物ソースで玉砕をドラマチックにするけど、苦戦した
割に1日で落としてしまっている。直江や上泉の書状もサク
サク片付けたようにしか書いていない。
日数が無駄というのは関ヶ原が早く終わったことを知ってる
から言えることだと思うけど、一方ではそこが、軍事的な威圧
をすればすぐ最上は降伏するだろうと思っていた直江の誤算だろう。
最上攻めは庄内と米沢をつなぐための領土の制圧なんかでは
なく、「公儀」の指示を受けた上杉の要求を慮外に見合わせた
最上を従わせるためなので、無理に力攻めする必要はない。
349 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 17:44:58 ID:83LQG4RJ
>>348 畑谷城の段階で最上が本気と判断できなかったのかな。
もしかして最上の時間稼ぎの書状を本気だと思っていたとか?
もし、まともに攻めなかったのなら、直江の人を見る目はかなり悪かったってことか。
長谷堂城は時間がなかった上に、詳しい内容を示す資料が少ないから
直江の軍事能力自体を判断することはできない。
しかし、軍記物の書物を省くと「華麗な撤退戦」で味方をとり残し、取り残された味方が
寝返って逆に攻め込んできて大量の領地を奪われたのは事実。
長谷堂の詳しい移行は分からなくても、直江が優秀とはお世辞でも言えないんだよなあ
350 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 18:44:38 ID:dOc9gNqs
直江がバカか優秀か? アンチの文章は「三段論法」とか「軍記物」とか、いかにも尤もらしいこと書いてるけど内容稚拙。普通の人が板読む限り、とりあえずバカではないのは言うまでもない。
直江を「古今無双の兵(つわもの)成り」と書いた最上記(斯波家伝)が嘘か真か? 義光側近が書いてるんだから間違いないだろうとしか言えない。
長谷堂を力攻めにすべきだったか否か? 奥州連合(福島・宮城・山形・茨城)での関東侵入を考えていた景勝・直江主従の構想からは、自軍損害拡大の可能性が高まることや中央での戦いが未決着であることから考えてすべきでなかったと考えていたのでは。
根拠⇒直江隊の行動(持久戦の陣形(菅沢山からの鶴翼の陣)・本隊が目と鼻の先にある山形盆地侵入(山形城攻囲)していないこと。⇒庄内軍待ちした(最上を数で降伏させること)と考える。
皆さん要点を絞ってもうちょっと文章短く書きませんか?
私バカだから読むの大変。
読む気せん。
351 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 19:11:39 ID:+l+XHRZf
>>349 最上は時間稼ぎの書状を送ったけど、上方の情勢をつかむ
ためだろう。本人も最初から家康につくと決めていたわけで
はない。半分嘘で半分本当。だから直江も待った。
畑谷で〜→簡単に落とされたらまた出方も変わってくるのが普通。
見捨てた話は一次史料からは分からない。下が寝返ったこと
を正当化してるようにも見える。志駄はちゃんと帰ってるし。
352 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 19:22:39 ID:83LQG4RJ
つまり、直江は最上を甘く見て痛い目にあったってこと?
353 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 19:51:27 ID:+l+XHRZf
甘く見てたんだよ。上方の状況も含めて。
ただ、当時の諸大名の動きは単純ではないからね。
354 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 19:55:02 ID:dlXaGYpm
自分より石高少ない奴な上東北の田舎者と見てたんじゃないか
案の定痛い目に
355 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 21:09:08 ID:fMxg2Kn+
痛い目みたのは義光の方でしょう。
領地は分断され各個撃破状態だし
唯一の頼みの甥は限りなく様子見の傍観状態で
義姫がもっと兵力出せって頼まざる負えない状態だし。
たまたま関ヶ原が短期決戦で呆気なく終わったから助かっただけで四面楚歌だったでしょう。
なんせ自力で直江を追い返す手だてもないんだから。
平家追討にしても南北朝の混乱にしても、応仁大乱にしても簡単に終わらんかったし、
まさに関ヶ原がすぐ終わるどころか大坂城がやすやすと家康の手に渡るなんて想定外過ぎるし。
なんせ西国を実質支配して大坂に駐屯してたはずの輝元はどうした?って話でしょ。
義光だって何で勝ったかわからないって言ってるしね。
後世の視点で関ヶ原や大坂城明け渡しを知ってる人間とは違うし。
356 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 23:46:42 ID:hURrmlho
結果的に大きな利益を得たのは最上でしょ
南部など一緒に上杉を攻める予定だった連中は「上杉が
よくしてくれるらしい」と上杉方につくことを表明。
最上は上杉に「攻めるのはうちじゃなくて伊達だろ」と
涙目状態で懇願したが受け入れられず。政宗は援軍要請
に来た最上の息子を、その目的を知りながら要件を聞か
ないまま(聞いて断るわけにもいかないので)軟禁する。
どうしようもない状況だったけど、関ヶ原が早く終わった
こともあって、東北でもっとも功績があった大名として認
められた。
357 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 23:49:51 ID:s/m3wPmn
最上にすれば上杉討伐自体が想定外だったろうが、
いざ準備してみれば討伐どころか当の家康が江戸で動かないで上杉が自分に攻めて来る始末。
せっかく集まった東北連合軍はさっさとトンズラこくし
上杉に対抗できる兵力のある甥は味方掻き回して自分は高みの見物。援軍来ても見てるだけ。
越後の堀も関東の結城も出てこない。
どんな貧乏クジだよ。
358 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 23:57:59 ID:dlXaGYpm
まあ結果オーライだよね
そんな中籠城を耐え抜いた最上側の兵士はエラい
359 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 00:05:04 ID:V/dCzpdf
直江と庄内軍と小野寺に蹂躙されるわ
上杉は会津から更なる増援も増派余力あるし
伊達は上杉牽制するどころか北上を開始して
南部と本格的な交戦状態になるし、
結城は白河攻めねーで専守防衛に専念してるし
東北で人望無さすぎて、
東北クラスの生徒全員からシカトのイジメ受けてる状態だろ。
関が原後の義光クンの同級生に対する
報復讒言がすさまじいことになったがw
まぁ一番ふがいないのは佐竹クンだが。
360 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 00:28:21 ID:zFlrteFX
>>358 まぁ
>>347くらいの籠城で粘ったらすげーけど
長谷堂は着陣日に様子伺いで攻撃
中間で、体がなまらないように攻撃(長谷堂の水溜め場を破壊?)
撤退前の陽動攻撃
の3回くらいしか攻撃してないって言うしな。
しかも全軍投入の総攻撃はやってないらしいし。
361 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 01:46:46 ID:T2O20AJc
>357
越後の堀は動かなかったんじゃなくて、動けなかったんだよ。
越後に残っていた上杉旧家臣団が一揆起こして、そこへすかさず直江が俵糧と足軽兵を送って支援して、堀を動けなくしたんだ。
362 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 07:38:34 ID:x8SP2hOO
戦では上杉が勝って(?)、運は最上が勝ったって話じゃね
愛娘を失った代償頂きました的な
363 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 08:02:04 ID:0HFD0dP0
戦でも運でも、最上が圧勝で上杉ボロ負けだと思うが
364 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 08:45:22 ID:CWLePpfE
結果的にはそうだよな。
戦ってる当時は双方まったくそんなこと
思ってないだろうけど。
直江「早く降伏しろよ」
最上「もう勘弁して」状態で。
365 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 09:37:50 ID:QevZtBL2
まぁ関ヶ原へ至るまでも
家康は豊臣武断派が裏切るかも知れないって警戒してたくらいだし
家康が勝つなんて見通せた大名なんていないだろ
後世に書かれた家譜や藩史や逸話で西軍側だった家が「本当は家康に付こうと思った」とか書いたりしてんのも単なる正当化だしな。
366 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 09:41:26 ID:y6AQMOpL
なんつーか、最上勢はドM体質というべきか。
包囲されて死にかけることには慣れてるし、
追いつめすぎると何故か発狂して好戦的になり、戦闘能力が上がっていく。
あんまり強いとは言えないけど、追いつめるとヤバいからな。
367 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 12:49:13 ID:fguao35Y
最上方の志村や鮭延が異常に強かったんでね。
最上自身が信じられん、って日記に書いてね?
368 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 12:56:54 ID:QevZtBL2
>>367 その2人マイナーだろ
最上厨が必死にマンセーしてるだけって感じだけどな。
369 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 13:03:14 ID:x8SP2hOO
どっちかって言うと上杉厨じゃね?
相手を強くしとけば上杉は雑魚扱いされないからな
370 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 17:34:29 ID:UsHG9AFz
一角が崩れれば皆含め弱小だからな
こういうのは何処でもよくある話だ
大本から行き着く道は泥船であった
371 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 17:35:22 ID:UsHG9AFz
大元であった
372 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 18:29:36 ID:Yv49D6jb
>368
最上の重臣・長谷堂城主の志村伊豆守光安がマイナーw
奮戦した鮭延越前守がマイナーw
373 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 19:47:32 ID:y6AQMOpL
マイナー=弱いってか
まさか知名度が強さって勘違いしている?
これはひどい。
374 :
人間七七四年:2010/06/08(火) 18:30:04 ID:6mqmLbNj
戦国の籠城戦なんてもっと長い間にわたり粘ったりしてんの多い。
長谷堂なんてたかが2週間。
それで強いなんて思うのは最上厨だけだろ。
実績言っても基本的に志村鮭延は最上家からすると
圧倒的に格下の国人レベルと戦ってただけだし。
375 :
人間七七四年:2010/06/08(火) 22:16:52 ID:nnGkyARL
確かに、長谷堂の戦いは短すぎて、強いか弱いか判断ができん。
直江を悪く言うのもできんわなあ。
で、撤退戦以後の庄内戦などは?フォローできんが。
格下って。
10倍近い領土の伊達、上杉がバックにいた大宝寺、最上がフルボッコにした印象しかない小野寺。
白鳥暗殺の大江。本家よりでかい最上八楯。それで、上杉。
すべて、家督を継いだ義光と同格かそれ以上の領土をもった敵。
由利十二頭のメンバーを除けば、同等以上の敵としか戦ってねえぞ。
376 :
人間七七四年:2010/06/08(火) 22:39:49 ID:7dsApRWk
>10倍近い領土の伊達
流石に誇張しすぎ
377 :
人間七七四年:2010/06/08(火) 22:48:08 ID:nnGkyARL
たしか、最上義光、スタート1〜3万石くらい。
その時期の伊達輝宗10〜30万石くらいじゃなかったかな。
378 :
人間七七四年:2010/06/09(水) 09:06:52 ID:nuZOD0Kq
そもそも義光3万石自体が大ウソなんだがw
もちろん輝宗は70万石くらいあったがな。
義姫がいた関係で伊達と最上は直接紛争に発展してねーしな。
大宝寺の庄内は結局、上杉に切り取られて義光は撤退に追い込まれてるし
つか最上八盾は最上本家より兵力圧倒的に少ない。
379 :
人間七七四年:2010/06/09(水) 20:49:24 ID:g7AcXFdS
>>374 兵力差、城の規模、全体の戦況(急ぐ必要があるか否か)
くらい、加味して書けよ。
380 :
375 :2010/06/09(水) 21:45:05 ID:4g7jMhoX
書き間違った
>>白鳥暗殺の大江×
白鳥暗殺の寒河江
>>378 >>もちろん輝宗は70万石くらいあったがな。
まだ里見の領土を奪っていないので70万石はありえない。
>>つか最上八盾は最上本家より兵力圧倒的に少ない。
ほぼ山形城しか領土がなかった最上が兵力が多かったソースがほしい。
また、山形城周辺に延沢銀山を上回る経済基盤があったかも聞きたい。
381 :
人間七七四年:2010/06/10(木) 01:25:53 ID:DIPTC0a5
>>伊達70万石
どうせいつもの伊達勢力圏(笑)連呼する奴の戯言だろ
382 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 11:02:51 ID:H+CAAXJN
>>380 まさか当時の延沢に
灰吹製錬法が導入されていたの?聞いたことないけど。
産出された銀の純度の高さによる品位はどのくらいの価値?
ソーマ銀(佐摩、石見)
ナギト銀(長門)
セダ銀(佐渡)
は海外でも評価されたもんだけど。
石見銀山、蒲生銀山、生野銀山、多田銀山、佐渡金山や
関が原後に佐竹が発見した院内銀山のような
価値あるものが1570年代当時の延沢で出たの?
銀山があればすごい財力と思うのは無知すぎるよ。
その手の技術者も高度な軍事機密もんで
武田や上杉や佐竹も流出しないようにしてたし。
延沢の金堀衆についてソースくらい出せるんだよね?
そうせまた鮭厨のデタラメ過大評価だと思うけどね。
ついでにデタラメだから下記のソースもだせないよねw
最上義光スタート1〜3万石くらい
383 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 12:27:15 ID:H+CAAXJN
384 :
375:2010/06/12(土) 14:25:35 ID:eFaLpXM6
すまん、また、書き間違った。
まだ里見の領土を奪っていないので70万石はありえない。×
まだ相馬の領土を奪っていないので70万石はありえない。○
>>382 ついでにデタラメだから下記のソースもだせないよねw
最上義光スタート1〜3万石くらい
んーっと、ソースね。回収された都合上、資料少なくて
推測から1〜3万とあやふやな数値を出したのだけど、やっぱりまずかったかな。
自分の出した数字は低く見積もりすぎてたようだ。
一応、資料では上山を含め、周囲の城は全部敵にまわっていたことは分かっている。
と、いうことで、山形城近くの土地が非常に豊かで、大量の作物が取れた理由を述べてほしい。
>>価値あるものが1570年代当時の延沢で出たの?
銀山の最盛期は江戸時代だったね、
義光が延沢に命じて本格的な採掘がおこなわれたとも記録されている。
確かに、財力がそれほど算出したとは考えにくいね。
で、もう一度聞くけど、山形城周辺に延沢銀山を上回る経済基盤があったの?
385 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 19:23:39 ID:iZxbBKFg
山吹色のお菓子
386 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 05:54:58 ID:pCD9B/3A
直江兼続と最上義光だと直江は正義で最上が悪ってイメージがあるけど、実際は
最上義光の方が部下や農民たちに慕われてたよね。
387 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 07:37:54 ID:WvYjl1Ky
そこら辺は「愛」の効果だな
388 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 10:12:34 ID:fX7umctT
実際にどうかは置いて、歴史館はそんなこといってるな。
389 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 10:18:40 ID:gmhaSNPn
どこの村もおらが村の殿様が一番と言ってる。
小田さんだって戦国史で見るとこれはひどいと言いたくなるのに
領民達からは慕われてるよ。
長年土着した領主はそれだけで慕われるからね。
越後だって上杉家は江戸時代には去ってるのに
明治になっても「上杉様はいつか戻ってこられる」と信じられてた。
390 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 10:46:11 ID:L8EdLNzJ
>>363 直江が撤退を決めたとされる関ヶ原敗報があった慶長5年9月30日の時点で、最上は新庄、楯岡、谷地、白岩、寒河江等を庄内勢に落とされ残る城は山形城周辺(中心から15キロ圏内:長谷堂、天童、上山)のみ。
直江は長谷堂を無理に力攻めせずとも、ただ中央での戦いが長期化してくれるだけで、最上の降伏は目の前まで来ていたと思うんだけど。
局地戦では地元の有利を生かした最上が、例えば上山では上杉右翼隊を破ったり、長谷堂では夜襲が成功し上泉主主を打ち取る等の善戦もあったようだが、勝敗を左右するものでは無いし。
大局的には畑谷城を一日で破って山形盆地に進出している所、庄内勢の快進撃、敗報後の狐越街道での撤退戦、どれを見ても「最上が圧勝した」とは言えないと思う。
「上杉がボロ負けで最上が圧勝」とする論拠を伺いたい。
全くわからん。
391 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 10:51:21 ID:L8EdLNzJ
>>386 >最上義光の方が部下や農民たちに慕われてたよね。
斯波家の血筋ってのが大きいと思うよ。
やっぱり山形の田舎で中央から来た名家が殿様だってことは誇りだからね。
392 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 17:11:01 ID:IaTBpAYP
義光前後の殿様の統治方法が良かったとは言えなかったからねえ。
とくに庄内は混沌としていたし。
>>390 んっと、やっぱり庄内をとられたことじゃないか?
あと、撤退戦は戦力差や、味方が取り残されたことを考えるとかなり無様だぞ。
畑谷城は……、えっと、大局的?まあ、守備側が撤退しなかった最上のミスでいいけど。
でも、最上義光がかなり追いつめられていたことには同意だ。
実際のところ、時間を稼ぎつつ雪がふるのを待っていたような気がする。
庄内勢の快進撃は予想外だったと思うけど。
393 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 20:08:18 ID:fX7umctT
庄内は上杉と徳川の和睦が進んでる中で取ったものだからな。
志駄が普通に上杉へ帰還したのを見てもまともな戦闘があった
とは思えない。
上泉は奇襲ではなく、撤退時に戦死したとの説の方が有力。
長谷堂ではたいした戦闘がなかったし。
394 :
人間七七四年:2010/06/14(月) 01:05:56 ID:Q6rUxA/a
395 :
人間七七四年:2010/06/14(月) 01:54:28 ID:vhYTZAoh
396 :
人間七七四年:2010/06/15(火) 08:05:30 ID:HUyohRH0
>>395 >>331で分かるように、10月には上杉、徳川双方が和睦を図っている。
最上が庄内を奪ったのは翌春らしいから、すでに和睦の話が進んでいる。
直江の九月二十二日清野長範あて書状では「長谷堂を攻め落とすべきとも
思うが、山形城が近いので、そちらにも兵を出して対陣している。陣構え
は堅固に命じている。その上で戦おうと考えている。上方の様子を知れば、
政宗・最上も覚悟が変わる(降伏する)だろう」と言っている。
直江は真田の情報を通じて上方が西軍優勢だと思っているので、にらみ合
いながら、その情報が政宗らに届くのを待っている。その後の書状でも
「最上が攻めてきたけど撃退した」というのが何回かあるけど、上杉方か
ら攻めた様子なし。たしかに二十二日には伊達の援軍が到着しているので、
書状のような考えだと、ますます堅固になった敵軍に戦闘を仕掛けるわけ
がない。
上泉は長谷堂だったり上山だったり死んだ場所(明らかに上山ではない)
も、討ち取った人間もばらばらでよくわからない。
397 :
人間七七四年:2010/06/15(火) 14:29:19 ID:NVcgxYhT
毛利好きが上杉の話になるとついてこれないからじゃないか
398 :
人間七七四年:2010/06/15(火) 15:32:07 ID:NVcgxYhT
誤爆
399 :
人間七七四年:2010/06/18(金) 04:27:11 ID:ZWVneZlT
>>394 ひどいボロ負けぶりだな。
侵攻状況の推移を見ると
最上はもってあと1ヶ月ってとこだな。
400 :
人間七七四年:2010/06/18(金) 12:47:18 ID:ZWVneZlT
自力で上杉を追い払う妙策もない
完全に他力本願状態。
実際、関が原には真田が秀忠の徳川譜代の足止めが成功して
家康が決戦に用いるのは信用におけない豊臣恩顧武将ばかり。
関が原での布陣も西軍有利
おまけに難攻不落の大坂城は輝元が押さえてるし
こんな状態だから毛利が最強のアホ過ぎてラッキーとしか言えん。
401 :
人間七七四年:2010/06/18(金) 20:30:01 ID:W9TtN2+S
>>396 最上が庄内を奪ったのは翌春らしいから、すでに和睦の話が進んでいる。
雪降る前に、尾浦城などを奪って酒田を孤立させている。
位置は
>>394を参考にしてほしい。この段階で酒田はほぼ積み状態だ。
あと、和睦の話が進んでいた資料をほしい。
5月の石川義宗から家康の手紙で分かる通り伊達は戦闘を行い、成果を報告している。
和睦がまとまっていたとは考えにくく、また、和睦がまとまっていたとしてもその情報が
最上に流れているとは思えないんだけど。
>>400 そういや、義光もなんで勝ったかわからないと言っていたな。
籠城っていうのは援軍が目的だけど、一日で戦いが終わるとは本当に運がよかったわ。
402 :
人間七七四年:2010/06/19(土) 01:17:27 ID:qrgb0oN2
10月23日付安田吉親あて直江書状「佐竹口より働き、江戸より無事の内
証候に付き、相止め候」
11月19日付横田式部あて直江書状「上方の儀、御無事の様子、舟岡・中
島下着候、これに就き、近日、本庄越州上洛有り候」
403 :
人間七七四年:2010/06/19(土) 01:51:20 ID:qrgb0oN2
政宗は上杉討伐で終盤まで中立的な立場をとったので、実績が必要。
それで慶長三月には南部が領土を侵してきたとか、上杉が上洛するのを
止めたのは確実だなどとうそをついて、上杉征伐を要請している。
政宗は家康の意思とは別に行動している。
404 :
人間七七四年:2010/06/19(土) 07:32:09 ID:qIbyImth
>>402 これは、佐竹にお願いするって書状と和睦の使者が向かう書状じゃないか?
和睦交渉を始めた時期=和睦がまとまった時期じゃない。
11月19日時点で、ようやく使者を送れたように見えないが、
405 :
人間七七四年:2010/06/19(土) 09:15:21 ID:qrgb0oN2
>>404 「佐竹口からの働きは、江戸より無事の内証があったので、中止しました」
佐竹口から関東に攻め込む計画は、江戸の徳川方から和平の話があったので
中止した。
「上方から(千坂対馬のところから)舟岡、中島がやってきて無事である
旨伝えたので、近日本庄越州を上洛させます」
十月二十六日
安田能元→甘糟備後「和睦の件は私が強く主張したので大丈夫でしょう」
直江書状と合わせてもこの時点で上杉家は徳川からの和睦の話に乗る方針に
なっているのが分かる。
十二月二十二日
景勝→本庄「お前の上洛について、直江が榊原康政に相談したところ、道中
の無事を保障する旨を伝えてきた」
同月二十三日
景勝→千坂「お前が中島、舟岡をこちらに寄越し、本多佐渡、本多中務、榊
原式部からの内々の話をじっくり聞いた。なので本庄を上洛さ
せることにした」
406 :
人間七七四年:2010/06/19(土) 10:19:18 ID:EPfPLpeF
兼続は一方的に謀反を疑われケンカを売ってきた
家康が和睦を持ち出してきてるから
話に乗るよって感じだもんなあ。
上杉の方は家康がケンカ売るなら買うよって姿勢だから
メンツが守れればいいわけだし
407 :
人間七七四年:2010/06/19(土) 11:02:23 ID:EPfPLpeF
年末〜年初の最上軍は上杉の鋭鋒を避けて
小野寺の横手城包囲してたでしょ。
その時に上杉と徳川の和睦は進んでた。
そして上杉は争うのを避けてたね。
この時点で庄内や佐渡や白河等の領有は諦めていたっぽい。
伊達信夫米沢の死守で家康から安堵をもらう話が付いていたんじゃないかな。
408 :
人間七七四年:2010/06/19(土) 18:13:13 ID:UT5SPzq5
伊達は南部に花巻から撃退されただけでなく
北上で伊達軍を集結させてなおも南部を侵略しようとして
逆に3月に南部の大攻勢を受けて瞬殺され
伊達軍崩壊敗走させられてるしな。
はっきり言って上杉と南部の挟撃こそ恐れてたのが政宗。
政宗は和賀に自殺を強要させた後に
南部には「これで水に流してくれないかお願いします」
と土下座してから家康にも同様に土下座してる。
409 :
人間七七四年:2010/06/20(日) 00:26:27 ID:MSDlWJHj
さすが土下座好きのサブおっさんw
410 :
人間七七四年:2010/06/20(日) 20:13:41 ID:7CxCAHMY
土下座はサブのお家芸ですw
411 :
人間七七四年:2010/06/20(日) 21:41:08 ID:0qpA0Djc
土下サブと呼ぼう
412 :
人間七七四年:2010/06/21(月) 17:10:29 ID:vL1Bq32J
土下座の起源は伊達正宗です。
本当にLet's party
413 :
人間七七四年:2010/06/21(月) 18:28:28 ID:0qRLkL0+
貶すにしても名前くらい正確に書けないのかよ低脳
414 :
人間七七四年:2010/06/22(火) 01:06:20 ID:fkGCNZn7
まぁ、当時の人は結構「正宗」って書いてるよね。
415 :
人間七七四年:2010/06/22(火) 03:39:59 ID:GXobAp7X
てめーは現代人でしょうが
416 :
人間七七四年:2010/06/22(火) 08:28:07 ID:fkGCNZn7
例えば直江も「尚井」って書かれたり。
土下座の起源が政宗だとか明らかなsubの嘘にいちいち反応するなよ。
417 :
人間七七四年:2010/06/22(火) 10:52:46 ID:1Tj9bvlZ
でも政宗の土下座回数で10回は余裕でいくよな。
自分より立場が強いやつには、たとえ尊敬できない人格の者であっても従順。
自分より弱い立場の者にはたとえ家族であろうが関係なく傲慢不遜にして撫で斬りDQN
これが政宗の最大の魅力で人気の源だからね。
418 :
人間七七四年:2010/06/25(金) 20:52:10 ID:qjz6aLEs
政宗はあんまり好きじゃないけど、兜は一番カッコいいと思う。
最上義光と血縁関係なのに性格がDQNすぎるよ。
419 :
人間七七四年:2010/06/25(金) 22:56:40 ID:o0kkNs1o
鮭厨乙
420 :
人間七七四年:2010/06/26(土) 03:19:00 ID:6NbmpNmP
どっからそのような妄想、珍説がでてくるのか?
君たち歴史を語るには100年早い・・・もう一度小学生から出直して来い。
2ちゃんねるはアホーばかり・・・
421 :
人間七七四年:2010/06/26(土) 03:29:18 ID:j0rtIgFF
義光が格好いいのは銅像のみ
とでも言って欲しいのかもしれんがね
422 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 21:53:40 ID:1kQjvvRF
最上に大敗した上杉 w
423 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 21:55:55 ID:dVjKZndG
大敗なんかしてないよ、見事な撤退とか気を使ってもらってるけど
424 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 20:16:14 ID:4dlfTqeG
直江さん、通訳としては優秀だけど軍事には疎いな
あと、大敗したのは伊達さんだよ
最上も結構な損害出したし上杉の大敗とは言えんね
425 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 14:01:24 ID:nXZWLAlK
直江は常に攻勢の立場だったし
最上は小野寺さえも手を焼き
直江を自力排除する力は無かったし
直江が撤退したのは関ヶ原敗戦を聞いたから
だから上杉が負けたと主張するのは歪曲捏造。
426 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 19:17:56 ID:gbg3gX9M
伊達にも大敗した上杉 w
白石城は1日で陥落。醜い同士討ちで開城。
福島城では野戦で完敗w
427 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 21:41:59 ID:JOqXzCv7
サブも懲りないねえw
428 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 11:17:49 ID:i9FM5U3X
>>426みたいなのがいるから、サブが白石城は伊達に譲渡してやった
とかアホなこと言い出すんだろうな。
429 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 12:16:31 ID:wKxhqduD
いやだって実際に
譲渡とも落城ともどっちとも解釈できる微妙さだし判定しづらい。
まあ政宗全敗王ぶりと言い
仙台捏造王ぶりと言い
これら素晴らしい実績の数々から
結果を導き出すと
おそらく家康の目を誤魔化しての譲渡を
うまい具合に落城させたと歪曲したと言うのが真相だろうね。
430 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 13:29:26 ID:i9FM5U3X
サブまだそんなこと言ってるのか
431 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 13:09:42 ID:ilr1z30F
政宗って敗北ばかりで勝ったことすらないし
仙台の捏造史観は神レベルだから
真偽の結果は自ずからわかると言うものだ。
432 :
人間七七四年:2010/11/15(月) 23:52:08 ID:GCT6GIo9
捏造にSUBの捏造史観で返すなよ
433 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 14:23:19 ID:YT1aSTpg
そもそも白石城譲渡の話を論理立てて説明され
反論も論破されたから逃走して怖くて次スレも立てられないくせにwww
434 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 23:50:39 ID:5kXzLVow
>>433 史料から根拠が出せずに逃げ回っていたのに「論理立てて説明され」ですか…
福島県史は再度調べたのかい?
ほかにネタがないようなら、このスレで白石城譲渡密約の件を続けようか?
435 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 10:57:27 ID:WeauDKUH
>>426 本庄は野戦で敗走(釣り)。実は「釣り野伏せ」の序章。
信夫山まで十分に引き付けでおいて福島城から反撃、同時に梁川の須田が挟撃。
伊達政宗・片倉景綱主従の大軍壊滅状態となり名取北目城へ逃げ帰る、でしょ。
436 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 18:07:30 ID:Y4toQWkP
>>435 >「釣り野伏せ」
爆笑。そりゃ『東国太平記』の粗筋そのままだろ w
437 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 18:20:52 ID:1KjDQeJI
謙信死後の上杉ほど魅力無い大大名も無いよな
438 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 18:26:53 ID:I2Gx/kXZ
グーグル検索
↓
念のためうぷ(´・ω・`)まわいが重要
グーグル検索
↓
やらなくてもやられるし 日本語以外話せないし
テレビやネットで説明
439 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 19:05:14 ID:hZw9KJkb
そもそも東国太平記なんて本自体が手に入らないから読んでるヤツはいない。
素人でも容易に誘い出しだと察することが可能な点からみても明らかに伊達は騙されたと指摘されよう。
そもそも1/10に近い兵力差で何ら策なく正面から玉砕したとする話こそ合理的理由を欠いているのは明らか。
そしてこの松川の戦いは伊達の大本営発表以外の史料ではことごとく伊達大敗と記されている。
そして敗北が認められない伊達側は伊達内でしか会話が通用しない
宮代表の戦いなる謎の戦闘呼称まで作り出し
その内容は伊達無双なる某ヲタゲームのような白昼夢を夢想し白痴を晒す始末。
それにしても批判と検証を恐れて明治になってから初めて公開された伊達による歴史捏造歪曲無双はそれのみを研究する学問が成立するほどに多岐に渡るのは驚嘆に値する。
440 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 20:11:11 ID:AoLBZxgS
どうせなら文頭「そ」で統一すべき
441 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 17:30:24 ID:IH/rpi7D
伊達の福島掃討戦の敗北は、上杉には相当なトラウマと
して残ったことが伺える。
442 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 20:20:33 ID:Tc25J4qx
>>441 伊達大本営発表以外の史料で伊達勝利の記述があったら出してみろよwww
443 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 21:21:35 ID:enDn3yqs
トラウマとか大本営とかサブがひとりで必死に煽ってるのかえ?w
444 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 20:46:18 ID:2nZGUBOt
易々と白石城取ったからって
調子乗った所をふるぼっこにされて逃げ帰っただけの伊達がなに言ってんだ(´・ω・`)
445 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 21:40:23 ID:30eY4dOl
トラウマ言いまくってるやつとサブの煽り合い
446 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 00:51:21 ID:jiqeF35i
実際、伊達が勝ったと主張し始めたのは明治になってからだしな。
尖閣島問題の中国みたいなもんだわな。
447 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 13:02:42 ID:a0tFQiZ2
須田が奇襲したと言うのも軍記物にしか出てこない。
少なくとも十月上旬の伊達撤退については、直江が
「上方の情報を得たからだろう」との認識で、須田が
撃破したなどとは言っていない。
その後たびたび侵攻してきた中でそういう場面があっ
た可能性はあるが。
448 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 19:01:11 ID:XlVUzQVh
長谷堂城・上山城で上杉敗退。最上の勝利。
白石城・福島表野戦で上杉敗退。伊達の勝利。
此の敗戦を恥じた国枝が意趣返しで書いたのが有名な『東国太平記』である。
449 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 20:51:15 ID:jiqeF35i
つか上山で上杉が敗北したとする一次史料すら無いのになに言ってんだwって話だよね。
450 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 21:47:43 ID:qiN58y+K
第二次大戦で日本がアメリカに敗戦した後
韓国が自分たちも連合国軍だ!日本に勝利した!とファびょり主張し出したのと同じで
実際は上杉軍が一方的に最上領を蹂躙して追いつめていても
関ヶ原で西軍が負けて徳川に降伏した時点で
東軍側だった最上に好き勝手言われても反論できなかったってのが本当のとこだろーね
451 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 00:13:28 ID:SRbRt7/c
伊達厨はまた最上厨を装って荒らしてんのか…どんだけ上杉や直江や佐竹が憎いんだよw
歪曲捏造のオンパレードで歴史修正に必死過ぎるぞ。
ガチで伊達厨は病気だなw
452 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 18:54:32 ID:0/crttc+
上山で上杉惨敗w
453 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 19:00:24 ID:JLs3JO5U
つうか上杉に勝利ってあんの?
自力勝利ゼロって話じゃん
454 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 19:17:30 ID:SRbRt7/c
可哀想な伊達厨…
455 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 08:46:30 ID:rEFendc6
自力勝利とはなんだ。
合戦なんて国人や周辺大名をどれだけ味方につけるかが大事だろ。
そういう意味でいうなら関ヶ原の時点で伊達は重臣層が必ずしも政宗の
言うことを聞く状態じゃないから家康に「重臣の加増分として」百万石
のお墨付きを送りつけられていて、大名権力がまだ不安定な様子がうか
がえる。最上も国人連合から脱却できていない中世的な大名だから義光
死後にごたついて改易される。
野戦で勝利したから勝ちだとか自力勝利とかゲームじゃないんだから。
456 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 11:08:36 ID:yBuZd+3I
つうか伊達に勝利ってあんの?
自力勝利なんてまったく無いどころか
政宗ほど弱い大名なんて他にいないじゃん。
457 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 19:00:20 ID:2+L+NiCj
陰徳太平記を教科書にしてる毛利厨(笑)
東国太平記を教科書にしてる上杉厨(笑)
458 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 19:16:59 ID:dpJUntBO
負けっぱなしだった御館の乱も、武田のバックアップで勝ち
負けっぱなしだった新発田の乱も、秀吉のお墨付で勝ち
小田原の北条征伐も大坂の乱も秀吉と家康の権威で勝ち
上杉は全部他力勝利
自力勝利ゼロ
459 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 22:53:33 ID:oqBj8s+B
戦争するのに自国だけで戦うなんて馬鹿のする事ですよ(´・ω・`)
戦略も知らないとか、上杉アンチ厨は馬鹿なんですね(´・ω・`)
460 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 23:45:38 ID:yBuZd+3I
まーた論破されたら文脈に関係なく壊れたカセットテープのように過去何度となく持ち出してきた東国太平記ループw
だからさ、購入しようと思っても東国太平記なんて手に入んないのに参考にできないだろバァーカw
そんなに執拗に言うなら、基地外伊達厨のお前が現代訳して全文をネットにあげろや。
461 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 23:56:26 ID:6a5OWECM
サブが論破と吠えちゃいかんだろw
462 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 01:55:51 ID:j9wX9l6R
もういい加減
越後上杉家の家紋使うのやめてくれよ(-ω-)
463 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 09:49:31 ID:o+o0gV/n
>>458 御館の乱は北条武田葦名伊達を味方に付けた景虎の前に滅亡確定状況から大逆転した卓越した外交力が評価されているわけだが。
新発田の乱ではむしろ秀吉が新発田との和睦斡旋をするから攻めずに俺に援軍出せと命じて来るなど邪魔しまくりだったのも知らんで真逆の内容を書き込むとはw
小田原陣も大坂の陣もそれは上杉に限ったもんじゃ無くてどの大名にも言える話だろバカ過ぎる。
464 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 19:09:59 ID:MinYZ/YM
上杉では捏造が当たり前だから
465 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 00:27:14 ID:M7D16Vun
反論出来ないと
>>464みたいな事しか言えないんだよね(´・ω・`)
情けねぇなぁ
466 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 09:52:12 ID:rYPytEYc
お前の主張通りか検証してやるから伊達厨は早く東国太平記の和訳をあげろよ。
それともまたまた逃げるのか?
467 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 10:01:24 ID:UyHg+Pzm
自慢の国会図書館行ってこいよ、サブちんw
468 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 13:18:50 ID:r2WEMzCM
ていうか伊達厨も上杉厨も仲良くケンカしろよ。
お互い貶め合わないと何も言えないのか?
469 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 14:35:21 ID:LFGqfeFW
いつも伊達厨がからんで来るんだお(-ω-)
470 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 17:34:22 ID:f0ljmzNs
政宗を描いた小説は数多いが、「伊達治家記録」に沿ってほぼ忠実に描かれたのが
津本陽の『独眼竜政宗』と三好京三の『独眼竜政宗』の2冊。
で、「東国太平記」の内容にほぼ忠実に描かれたのが、
風野真知雄の『北の関ヶ原 福島城松川の合戦』(苦笑)
読み比べてみるといいだろうねw
471 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 01:45:34 ID:c7sCd7PA
>470
そんなにマンセーしたいんなら、伊達スレでマンセーしてればいいのに
どんだけ絡めば気がすむんだよ
472 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 10:32:01 ID:4unj3228
伊達は完全にスレ違いなのに
なんで伊達厨って所構わず荒らしにやって来るんだろ…絡み方が異常かつ執拗で基地外過ぎる。
473 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 12:55:08 ID:PA/fuVMa
サブって伊達厨のせいで会社をクビになったんだっけか?
>絡み方が異常かつ執拗で基地外過ぎる
つのは笑うトコねん
474 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 23:17:03 ID:/yOdegTl
>>470 なんで風野氏の作品が副タイトルになってるの?読んでないの?
『奇策』は普通に面白いよ。
伊達の撤退は上杉に内応工作がばれたことや、最上方面から撤退した直江が
あまりダメージを受けてないことを知ったことなどが理由だとは思うけど、
小説を挙げて(苦笑)はあほすぎ。
475 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 02:24:28 ID:HZyZHJuB
>>473 そりゃあすげーな!
伊達厨って時間や空間も支配できるのか?
遠距離攻撃でクビにする技を教えてくれよ。
世界の王になって生殺与奪の権を持っているとか妄想世界に逃げ込んだんじゃなきゃ根拠としてソースくれよ。
>>474 奇策って付いてないから一見して変だと俺も思ったw
実際にはまったく読んで無いんだろう。
しかもそれらぜんぶ軍記小説なのも知らずに
ほぼ忠実だとか言って挙げてるようなていたらくだし。
476 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 08:33:38 ID:QhbdL8yu
スレと伊達は関係ないのに伊達厨きめぇわ
477 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 11:55:03 ID:L5q7gGw+
478 :
人間七七四年:2010/12/18(土) 15:20:41 ID:yQDzX8T6
注意
最上厨や織田厨や北条厨を装う伊達厨に気をつけよう!
479 :
人間七七四年:2010/12/26(日) 11:31:45 ID:zPTEuPIW
とみせかけたいアンチにも注意ですね分かります
480 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 18:28:32 ID:wHmxKBOx
西馬音内小野寺肥前守茂道は関ヶ原での西軍敗北で
最上に徹底抗戦し最後は城を燃やして庄内に落ち延びた。
そして怨みが重なる最上の滅亡の祈願のため一計を案じた。
それは茂道の娘が義光配下の土肥半左衛門の妻である縁を利用して親子(八之丞・のち式部・左兵衛)で最上家臣になることである。
最上義光分限帳にある小野寺肥前であり
最上家在城諸家中町割図における小野寺八之丞屋敷がそれである。
娘婿の土肥氏は巧みに義光に讒言し嫡男義康殺害命令を受け高野山に行く義康を殺害。
義光は詐術をもって口封じに義康殺害の罪で土肥氏の切腹を命じた。
そして策略の成功とともに小野寺氏は逃亡し、
義光死後になるや家督争いの混乱により崩壊。
最上改易により新庄転封してきた戸沢氏には小野寺嫡流と西馬音内小野寺の2派が合流し最上改易の成就を喜んで祝杯をあげたと言う。
ちなみに茂道の曾孫は40人を連れて故地の西馬音内に帰還し
新田150石開発により佐竹に200石で召し抱えれた。
481 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 02:17:30 ID:FJXcR/ON
いやあ小野寺・戸沢の大勝利だな〜!
この結果、最上領は伏見城の戦いで
名誉の玉砕をした元忠の子である
鳥居忠政が山形藩主に転封し
さらに忠政の婿が新庄藩主戸沢政盛と
鶴岡藩主酒井忠勝(徳川四天王筆頭酒井忠次の孫)
完全に政宗を監視威圧要員ですね。
そして政宗謀反の風聞が飛び交い、
細川忠興曰く「今度の戦は奥州だぜ!領国へ帰って準備しろ♪」
なんてことになって政宗が秀忠に土下座するんだよなwww
482 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 02:42:01 ID:FJXcR/ON
最上改易で
西は鳥居・酒井・新庄
北は佐竹・南部で
南は蒲生・相馬
政宗完全包囲体制w
しかも最上が改易されて
盲目に近く足を引きずりながら仙台にやってきた義姫は
激怒しながら「なんで最上をかばわなかった!」って
政宗を糾弾しまくった挙句に
翌年に失意のうちに義姫死去とか
母親不幸にも程がありすぎる。
483 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 15:08:42 ID:+sMx6ozd
政宗は自分のことしか考えてないからね。
最上が改易になろうが自軍(神保)であろうが、父であろうが皆殺し。
484 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 15:10:38 ID:+sMx6ozd
そんな彼なのに、東軍勝利後に先祖伝来の地を上杉から奪おうとして2万余の大軍で攻め込むも本庄隊2千に大敗。
情けないね。
485 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 19:11:08 ID:HX8/+ZYB
486 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 21:56:10 ID:a09icmi3
東国太平記を記したとされる国枝は当時既に庄内酒井家家臣となっており、酒井忠勝から当時の状況を記録に残すように命令されて記したものであり本人もそれが歴史書としての価値があるものであることを十分認識していたはず。
伊達が伊達・信夫郡を掃討した戦いなどと都合の良い解釈をしている唯一の史料である「伊達冶家記録」は1670年頃伊達家で編纂されたもので旧日本陸軍の大本営発表とたいして変わらない史学的価値しか認められない史料。
それに先祖伝来の地で伊達がここぞとばかり奪回に動いた伊達・信夫(福島城)を奪えなかったこと、また福島城主の本庄繁長が1,600年12月頃から上京して徳川との交渉に当たっていることから考えても上杉大勝と判断するのが妥当。
487 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 05:40:41 ID:2LFamxRe
伊達に掃討された上杉のトラウマは相当深いねw
488 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 06:18:12 ID:VsoT5gvz
>>487 それでいつになったら
伊達以外の史料で
伊達の勝利を記す資料を
出してくれるんだい?
489 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 09:11:33 ID:LfVZLAPf
>>486 伊達方の伊達治家記録の時代が新しいから史学的価値が認められないと
いうのは違うのではないかな。上杉方の「三公外史」も時代が新しくても
「東国太平記」に異説を交えて上杉・伊達の戦いを記述し、梁川勢の活
躍も検証の結果、「慶長5年なのか6年なのか年月がはっきりしない」
と正直に書いていて史書としては正しい姿勢。
治家記録も別に福島城を落としたと言ってるわけではないし、少なくと
も軍記物の東国太平記と並べるものではないと思う。誇張が激しい政宗
が書状で「今少し残念なところもあるが、時節柄を考えればよしとしよ
う」と言ってるので、満足のいく結果ではないにしろ、上杉方が大勝利
ということはないと思うよ。「福島の虎口まで攻めた」と書いてる政宗
の書状は誇張の可能性があるその部分より、別働隊が福島方面の村を制
圧したという部分が重要。
直江も「よくわかんないけど伊達が引き揚げた。上方の情報が入ったか
らかね」って言ってるくらいだし、梁川勢の急襲で退却したというのは
慶長5年10月に関してはないと思う。本庄は福島方面の総司令官では
ないので(慶長5年10月時点でも岩井)、上洛しても支障はない。
まぁ結果的として、伊達は翌春まで何度侵攻しても戦果が得られていな
いので、トラウマなんてむしろ伊達側に生じるものだけど。
490 :
人間七七四年:2011/01/12(水) 02:35:20 ID:G0Iye7ej
491 :
人間七七四年:2011/01/12(水) 11:28:04 ID:n7PBd7TH
さぶは相変わらずだな
492 :
人間七七四年:2011/01/12(水) 13:37:25 ID:myRKqi1B
他にやる事無いのかねsubは
無いんだろうなあ
493 :
人間七七四年:2011/01/12(水) 18:09:14 ID:g/wgJTjn
この流れは同程度の人によるセットプレイと考えていいの?
それとも自演?
494 :
人間七七四年:2011/01/12(水) 20:08:19 ID:myRKqi1B
悪い意味での板名物だよ
495 :
人間七七四年:2011/01/13(木) 02:18:22 ID:hLmKE4GP
会津陣物語の記述を熟読した『伊達治家記録』は
岡左内が公(政宗)と太刀打ちしたと言う説があるが偽りなり
などといつものように根拠の提示も無く相変わらず息を吐くようにウソを書く伊達大本営発表w
しかし他家史料に見事に記されていた事実w
出典「徳川諸家系譜」収録の「浄光公(秀康)年譜」
伊達政宗は関ヶ原の折に福島の合戦で岡佐内と戦って怪我をした。
戦後間もない頃、政宗が馬に乗って移動していると結城秀康に出合った。
政宗、馬に乗ったまま秀康に
「先日の戦で手傷を負ったので下馬するのも難しいので馬の上からの無礼すまん!」
と言って、下馬して挨拶せずすれ違って行った。
秀康、笑いながら
「あいつ、なんでもない怪我を、さも大怪我のように言って、俺の前で下馬しないで済ませやがった。
今にはじまったことじゃ無いけど、ホントに根性曲がってるなあ。」
結城家に関する話でもう一つ紹介しよう。次は白河結城家の方ね。
白河義親が政宗と小田原へ同道した時に結城宗広重代相伝の家宝の太刀を秀吉に献上しようと考えていたら
政宗がそれを止めて、太刀は政宗が白河からの献上物として披露しよき様に申し上げると言って預かったが、
秀吉の前で太刀は政宗自身のものとして進上したので義親は重代の太刀を無駄に他家の宝として相伝の所領をも失う結果になった。
この史実に対して、浅野長継→政宗の書状 白河七郎殿進上物は御馬のみと明記。
刀守家は白河からの言付けとは書いてないのに、
この書状を証拠として馬と刀はちゃんと白河から秀吉へ渡されたので政宗に私曲はなかったのは明白とふざけた事を書いて捏造してるしw
だいたい政宗はこの時期に義親が政宗に頼んだ海松黒と言う名馬と逸物の鷹を添えて小田原へ行く政宗に託したが
馬鷹すべて政宗が自身の土産として披露したと白河古事考や東太平記や会津四家合考にハッキリ明記されてる。
義親は大の鷹が好きでかつて佐竹三郎宛てに小型の鷹はいたかを所望して早速贈られて「真実以、快然之至候」と喜び感謝してるほどなのに可哀想。
1703年元禄16年に編纂された伊達治家記録はマジ笑えるよな〜www
いろんな書や文書を流用盗用して伊達に都合よく解釈する捏造記録だからね。
496 :
人間七七四年:2011/01/13(木) 03:11:33 ID:f8uD5Brm
上杉が野戦で大敗し信夫山と福島城に遁走した記載は、東大資料編纂室の「伊達家文書」(家分け古文書第三)にあるよ。
梁川町史の中でも認定されている。疑いようもない史実なので。
497 :
人間七七四年:2011/01/13(木) 09:09:49 ID:ovXp8SU2
【事実関係】
政宗の10月6日の狙いは福島ではなく内応者がいる梁川で、その
前段として福島に痛撃を与えようというもの。片倉の先に梁川をと
いう進言を退けて福島方面に侵攻。それこそ政宗自身の大本営発表
(三百人討ち取り)なのでどの程度の被害を与えたかは不明だけど、
福島勢を打ち破って福島西側の村落を制圧した。福島の反撃に備え
た上で、自身は国見に引き揚げて陣を張り、梁川を攻撃しようとし
たけど7日に撤退。
↑この部分は動かないと思う。
『伊達治家記録』は撤退の理由を「(そもそも侵攻したきっかけの)
梁川の内応がうまくいかなかったんじゃないか」と分析しているけど、
上杉方の一次史料でも横田大学や大崎義隆らを会津に移したり、梁
川城将から人質をとったりしているのが分かるので矛盾しない。
伊達は結果、戦果なく引き揚げており、途中経過の野戦までで大勝
利だと喧伝するのはおかしい。政宗自身「心残りが多い」と言って
る訳だから。
対して梁川にいた須田長義の須田系譜などには8月の戦闘で分捕品が
あるとか、慶長6年の戦いで小荷駄隊を襲ったという記述はあるけど
10月の戦闘には触れられていない。後藤という車丹波組の侍が元和
年間に書いた履歴書では10月7日に梁川から出陣して伊達方の石川
昭光と戦ったとあるけど、この戦闘でどの程度梁川勢が活躍したのか
は不明。背後を襲ったというのは、福島方面の守将に多く感状が送ら
れている翌年3月の戦闘の方がまだ可能性はあると思う。
498 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 03:18:59 ID:bwRFqjlz
「今日其表、村押之様體、一段可然候、殊会津江之状使其他【二三人】討捕、験越候、満足ニ候、
今日此表ニ而者三百餘人、此内馬上百騎計討捕、福嶋之虎口江追入、無残所手際ニ而、
國見江打返陣取候、明日モシ福嶋筋ヨリノオサエニ、可然人衆七手モ八手モ保原筋ヘ可遣候間、
其衆可申合候、恐々謹言、返々、自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候、尚一平可申遣候、
以上、十月六日、中島左衛門殿 政宗 御書判)」(十月六日中島左衛門宗勝宛政宗書状)
伊達厨がよく、最初の一行目を削除して転記して
今日此表ニ而者三百餘人←ここから2ちゃんに書く手紙のことですねwww
【二三人】討捕←ここ注目w
戦に負けても戦働きをした家臣には恩賞を与えなければならないので
勝ち負けに関わらず上記のようなものは出す(事実、伊達軍は一寸の土地も得ていない)
しかも、この手紙には伊達側の被害甚大なことには一切、触れられていない。
300百人討ち取りってのは政宗の大ウソ宣伝。
この手の捏造戦果のウソは家康に対しても行なっている。
ここではっきりしてるのは 殊会津江之状使其他【二三人】討捕
であるが、福島から会津への書状を持った非武装の伝令の使者ら2、3人を討ったに過ぎないwww
(23人なら廿三人と表記される)
しかも誇大広告のような一次資料の手紙を集めても治家記録のような内容にはならないw
むしろ会津陣物語を参考にしつつ伊達が勝ったように歪曲してるのが治家記録。
さて伊達厨がなんで最初の一行目を削除して転記するのか不思議なところだw
書状を下記に正確に転記してみることにした。
備中二番ニ候へ共、為御意、脇道参候ニ付、宮代御合戦ニ逢不申、福島虎口へ懸著、鐵炮掛申候砌、物頭二名討死、
一 景勝衆三百余討捕申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎右衛門、北川傳右衛門、
武田彌之介、右之衆組頭之由申候(此衆蒲生氏郷譜代之由及承候)」
なんと片倉は脇道にそれた所に布陣してたので本合戦に遭遇せずと書かれているのであるwww
完全な伝言ゲームである。しかも相手は蒲生衆であり景勝衆の軍事行動ではなく、単なる独自行動していた友軍である。
まったく笑える話である。
蒲生氏郷普代衆を討ち取りと記し、さらに成実は越後兵(堀衆?溝口衆?村上衆?)を討つと記すなど、
当時の人が間違うはずがない簡単なミスが続出し認識が間違いまくりのデタラメばっかりが伊達の捏造を表している。
いったい関ヶ原の伊達軍は誰と戦ってるの?見えない敵と必死に戦う迷走ぶりだなw
無理やり「蒲生が減転封した時に上杉に仕えた」「もともと上杉は越後にいたから、いつもの癖で書いた」と解釈しないといけないかね?
なら蒲生氏にそいつらがいた証拠は?蒲生って書けば嘘でもどうせわからねーと思って書いたの?それとも後世の捏造かね?
499 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 03:24:33 ID:bwRFqjlz
そもそも本庄の軍と伊達軍の兵力差はねずみとライオンほど。
伊達が例え勝っても自慢にならないのに、しかもこれほどあやふやで判定に苦しい
戦闘になってること自体が恥ずかしい話だ。
それにマトモに本庄が策もなく戦うかね?本庄は謙信ともガチで戦った歴戦の剛の者だし。
さらに内応工作が失敗したから撤退したと言うのはデタラメ。
10/6午前2時に梁川城内に伊達軍への内応者が現れたから桑折から
梁川攻撃に予定変更すべきとの片倉の意見を政宗はもう無理と回答してるじゃん。
片倉陪臣2人を討たれ、梁川に兵糧を奪われ挟撃を恐れ、
しかも本庄が政宗が近くにやってくると決戦準備をして討ってでようとしてたのを受けて
片倉は後ろ向き発言を繰り返し、その意見を入れて恐ろしさのあまり早く帰ろうと思い
撤退寸前の深夜には新たに斉藤兵部の内応が政宗にもたらされてたけど
石川も周囲は敵だらけかも知れない恐怖に怯えて政宗に一刻も早く帰ろう発言が出てるじゃん。
明らかに本庄の福島釣りこみと後方遮断策の前に福島攻略初日の夕方には、伊達主従は早くも
恐怖感でいっぱいになっててマトモに戦略を考えるゆとりもない心理状態に陥ってる。
伊達が討ったと言う足軽頭と上杉が討った政宗陪臣2人じゃ率いる軍勢には大きな差があるわけだがw
しかも力押しの伊達軍2万と策を弄した本庄軍3000の戦いなのであってwww
伊達の本陣だった国見山を取り仕切ったという宮崎旨元が討たれてるしね。伊達の史料にはそう書かれてるし
上杉の史料にも似た内容がある。本陣を仕切った人物が指揮していた荷駄隊はある程度の大部隊だったと考えるのが自然
でもなければ荷駄隊なんてわざわざ編成する必要が無いんだし実際須田の記録では兵糧、弾薬、
首級(荷駄隊隊長以下警備の者、下人)が梁川城へ運ばれてるこれが一番大きな決め手になったようにしか見えないけどね
巻乃二十下479ページ (政宗)公、白石城御出陣、伊達郡国見山二御本人ヲ備ラル。
同上487ページ 宮崎内蔵助旨元 ハ国見山御陣場ヲ取リ仕廻テ、御幕等ヲ人夫持セ、御跡ヨリ福島表へ来ル。
で、宮崎旨元が梁川勢によって討取られるという内容へと繋がっていく訳だけど
この際奪われた陣幕は亘理伊達家、定宗の荷物に入っていた物かもしれないとも書かれてる
あと俺は面倒だから小荷駄を荷駄と略して書いたけど小荷駄だから小規模だとか、
荷駄だから大規模って区別の仕方はされてないと思うよ。小荷駄=大軍勢を賄う重要な部隊〜という位置付けで
書かれてる話も実際あるし(信玄×内藤の逸話など)宮崎旨元率いる小荷駄隊が公(政宗)の御跡を追って、
国見山から福島表へ来る途中の話。伊達による福島城攻囲とほぼ同時間帯に行われてる話
ちなみに日本戦史も同じ解釈(つーかそうとしか読めん)
500 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 03:26:19 ID:bwRFqjlz
伊達軍本隊の荷駄を悉く奪って、梁川城へ運び込んだという「戦果」は大きいし
一方伊達の立場から見ると、せっかく攻城用に準備してきた兵糧&弾薬がそっくり敵の城に移ってしまった
福島城どころか途中にある支城=梁川城が強化されたという結果に
この戦いの直後、伊達側の最前線にあった懸田砦が上杉の逆襲に遭い落城。懸田を奪った上杉方の簗田城兵が感状を貰ってる。
景勝・直江主従はなんで隠居扱いにならずに済んだんだろう。毛利輝元と島津義弘の両当主は剃髪強制隠居の実質領地召し上げの改易。
その後、家康が毛利秀就と島津忠恒を宛名に領地の再交付による安堵で存続が許されたわけだし。
上杉主従が関が原後に初めて家康と会談した時、薩摩の記録によると上杉主従はなんら悪びれず堂々と会談に臨んだって言うし、
家康は直江の武功を褒め称えて喜んだとも言うし。この主従と家康の関係ってよくわからねぇよな。
本庄氏の米沢藩時代の家臣団での席次は堂々の第一位
かつて謙信時代に謀反により春日山城での席次は 同族色部氏より格下にされてしまったこともあるのに
確かに石高では安田氏のほうが上位だけど席次は格段に本庄氏のほうが上位にされています
上杉氏側では松川で伊達を撃退し上杉を守ったとされるので優遇される理由はわかる
幕府からの諸大夫尋ねでは直江3万、本庄2万になってるけど本当かな。
慶長15年の将軍桜田御なりの時も、本庄は将軍から下賜品や献上を行ってる。
直江一族や江戸留守居の千坂はともかく、本庄は対外的にも直江家に次ぐNo.2とみなされてた。
会津時代の分限帳からみると、出奔した藤田や大国を除いても、須田、甘糟の下、安田、泉澤、清野、中条、色部と
同等に扱われてるから、やはり関ヶ原後地位が上がってるような気がするけどな。
伊達に大敗してたら、本庄を家康との和睦で辱めを受ける可能性もあるし、和睦がうまくいかない
可能性も出てくるから派遣したりしないだろうね。そもそも福島を空けて交渉に行くくらい福島表の戦線は
安定してたと言うことは伊達の脅威の排除に成功してるわけだし。 伊達に勝ったからこそ、
戦功を背景に有利な交渉ができ本庄を派遣した意義が生きてくるわけだし、伊達の家康への嘘報告の審議をするために、
家康の指名で本庄が呼ばれた可能性もある。戦後の伊達への家康の冷遇ぶりから有り得る話だろうね。
501 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 03:28:12 ID:bwRFqjlz
☆7月に小手村内大館古城で上泉主水に大敗(覚上公御書集・大河原文書・鶴岡1)
上杉120万石のうち2万石(実高1万6000石)の刈田郡譲渡約束で西軍に内通した政宗
(家康の上杉征伐中止の手紙を聞いて上杉にバレないうちに急いで接収に向かう)
白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ
白石城はロクに抵抗せずに翌日早朝に明け渡し。
政宗は刈田郡西部の空き家の湯原城を接取する約束を反故にして
突如、福島表の小手村内大館古城に侵攻するも大破され伊達軍106が犠牲に。
また伊達郡の川俣城攻防でも伊達は大敗敗走し刈田郡へ逃走。
結果、湯原城を諦め白石城返還和睦交渉を申し出る。
ついでに最上を中傷&南部領を狙い反乱を起こさせ、家康の撤退を安東や戸沢らにチクり
上杉征伐の米沢口軍を瓦解させ最上を丸裸にして西軍ですよと上杉の忠犬アピール。
その一方で早くも西へ向かい出した東軍に「三成なんてどうでもいいから上杉討伐を先にやってくれと哀願」
この後の政宗は直江の出陣するぞwするぞw詐欺の恫喝に怯え
福島へ一切侵攻せず(8月には政宗は和議を直江に頼む)ひたすら結城に上杉攻めてくれと懇願しつつ
上杉とは戦わずに最上の援助もせず傍観し西軍内通の褒美に空城の湯原城を9/25に譲り受けつつ山形城を奪う悪巧みをする。
☆9月花巻城攻防戦で南部軍の援軍に21日に伊達和賀連合軍が大敗
☆10月に福島城で大敗
関が原西軍は敗報を聞きチャンスとばかり攻める伊達軍。今までロクに東軍に貢献をせずに突如として東軍顔をする狼。
しかし寡兵の本庄軍は国境で薄い防御線を張りつつ偽り敗れて福島城下へ誘引する策を実行。
調子になって背後を扼する梁川城を放置して進軍した政宗は陪臣2人を討ち取られ背後を襲われ
この間わずか2日のうちに敗れ去り伊達の聖地を焼き払われ北目城へ高速の速さで敗走。
☆11月ついに直江が二本松城へ出陣
政宗は怯えて引き篭もってしまったので、本庄が福島の守備を留守にしても大丈夫になる。
伊達の主張では12月に家康が政宗に和睦するから戦闘するなと命じたのでこれ守り、この月を境に仙台築城準備に忙しく戦ってないと主張w
502 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 03:32:03 ID:bwRFqjlz
本庄が徳川首脳と会談。福島表で武勲をあげた本庄を家康の元に派遣し上杉の立場と福島での上杉の圧勝を伝えた。
これで正確な情報を知った家康は来春に上杉征伐をするのを再考し始めた。
☆1月に月夜畑で大敗(奥相茶話記・相馬が西軍として改易になるところを救った証明になった戦い)
福島表で敵わぬと悟った為、相馬と一緒に厳寒期に夜間に迂回奇襲しようと謀るもド田舎の山中で補足され伊達250相馬150の犠牲者を出す大敗。
☆3月に福島表で瞬殺大敗(覚上公御書集)
家康に東軍である南部での謀反の首謀者の和賀忠親を引き渡せと恫喝された政宗は
軍功をあげて、なんとか家康の心証をよくしようと焦り大敗。
3月9日の家康宛て書状で政宗は景勝上洛の噂を聞いて上杉攻めを「遠慮している」と言っているが、その政景宛て
3月20日の書状では「兎に角一度戦いたい」、さらに3月22日井伊宛て書状では勝手に上杉が上洛を中止したと判断し、
「2、3日中に白石から攻撃する」と述べている。それが上記の感状につながる。
政宗→井伊へ
三月廿二日
南部からも攻撃されてまして伊達軍が討たれてるが
家康公から指示がないので南部への対応を控えてます←自分が悪いのに南部が悪いと言ってるw
佐竹から景勝へいろいろと話があったそうで
どうやら景勝の上洛は取りやめですぜ←上杉徳川の和睦をぶち壊そうと必死w
2.3日中に白石口を攻めますの、家康公も攻めてください←哀願w家康「だが断るw和賀同伴指名しますw」
そしてその後まもなく上杉側の文書に下記の者達へ福島での戦闘で
伊達軍を追い出した軍功は比類無いとの文書が発給されてます。
蓬田寒松斎
小島豊後守殿
築地修理青柳隼人佐
小田切安藝守
猶々態飛脚入念候儀、祝着ニ存候、以上
今度不慮之働候処ニ於福島堅固之防戦、殊更其地より半途乗切、何も勝手ニ被申付候故、
敵引除候由申来候、昨日如申、各堅固備と存候、猶其元之用心不可有油断候、恐々謹言
直江
三月廿九日 兼続(花押)
築地修理殿
御報
503 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 03:34:27 ID:bwRFqjlz
☆3/29会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152) ←最新の研究結果で発給された年の変更
☆4月 反撃した南部側の北信愛に花巻城で大敗した伊達和賀連合軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに伊達の増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
積雪のため停止していた東軍南部軍は岩崎城奪回のため3月下旬に攻撃開始。
4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破敗走させ26日には孤立無援の岩崎城を陥落させ、
岩崎が火の海になる中を伊達軍は逃げ惑い伊達領へ壊走した。
☆5月 上杉領長井荘で火をかけるのがやっとw(石川義宗→家康への手紙)
心証が悪化の一途を辿る家康の機嫌をよくするべく必死に戦功を欲する政宗は必死に軍事行動を起こすが
失敗の連続で国境紛争レベルにしか見えず。連敗で戦力ズタボロの政宗が書状で置賜郡長井荘でなんとか放火程度はできましたと
必死に報告したが「早く和賀を上洛さ・せ・ろ!と言われ和賀を切腹させて証拠隠滅を図り南部信直に「水に流してくれ」と哀願。
☆ 7月に徳川・上杉和睦。
上杉が伊達に対して奮闘し撃破したので伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も
自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵。
会談で家康も兼続の武功をすばらしいと褒め称える&最上義光も兼続を褒め称える。
最上13万石→57万石・蒲生秀行宇都宮12万石→会津帰還して60万石・下総結城家の関ヶ原は何もやってないのに10万石→75万石
政宗は武功ゼロ&オマエ本当は西軍だろ!100万石はなし白石(1万6000石)しかやらん・・・政宗ショック涙目w
補給線の確保は信玄がいうように最も重要な任務であり優秀な大将に任せる。
政宗は補給線を軽視してたなら相当なアホだし、ナポレオンがロシアに敗れたのも、日露戦争で日本軍が早期和睦に持っていったのも補給能力に問題があったわけで
大東亜戦争の日本初期目的も補給能力を手に入れ自存自衛することであり、日本が敗北したのも通商破壊で日本への船舶輸送が破綻したから。
ゆえに伊達厨は荷駄による補給を出来る限り大したものじゃない重大じゃないと過小に印象づけたいわけだw
結局、政宗も牟田口や辻のような無能だったわけだ。
結城はデタラメを書いてる 島津はデタラメを書いてる 最上はデタラメを書いてる 上杉はデタラメを書いてる
佐竹はデタラメを書いてる 相馬はデタラメを書いてる 南部はデタラメを書いてる 蘆名に勝ってた(失笑)
佐竹に勝ってた(失笑) 最上に勝ってた(失笑)蒲生に勝ってた(失笑) 上杉に勝ってた(失笑)南部に勝ってた(失笑)
真田に勝ってた(失笑) 神保に勝った(事実www)
他家の史料と真っ向から正反対の記述を連発して書いている伊達史料だけが正しい事を記述している
もう基地外すぎてワロタwww 伊達史料ほど怪しいものはねぇよ。
504 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 11:51:29 ID:kKPyAsX6
えーと・・・長谷堂の戦いは?
505 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 16:42:08 ID:D4rtCWFh
基地害にんな事指摘したところで無駄かと
506 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 03:13:14 ID:EWwo5Iom
507 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 03:16:34 ID:Jx0cEnJp
508 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 08:43:20 ID:CZbEOP07
伊達との戦いも東北の関ヶ原の一環と考えると別にここでも
いいと思うが、subの主張には情報を伝える使者を討ち取るこ
との重大性とか本庄は政宗を破ったからでなく諸大夫成してる
からだという基礎知識が欠落している。
岡左内をはじめ蒲生旧臣が多く召し抱えられているので、討ち
取られた将たちが蒲生譜代の衆であるとあっても違和感はない。
伊達を全否定したいから知ってて無視してるのかもしれないが
509 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 13:56:32 ID:POD2G8cF
ようするに
Subは伊達を貶められれば何だっていいんですよ
510 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 19:12:44 ID:Kf0092u3
>>508 >>情報を伝える使者を討ち取ること
たった2人か3人の伝令を討っただけじゃ意味ねぇだろwww
>>諸大夫成してる
だからなんなの?苦しい言い訳だなwww
>>蒲生譜代の衆であるとあっても違和感はない
下記リンクの佐瀬平八のように葦名で在籍確認が取れたように
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164706052/126 此衆蒲生氏郷譜代之由及承候に挙げられた名前の者が
蒲生に在籍していたか確認を取ろうと調べたがいなかった。
そもそも感状や戦果において人名が書かれるなんて怪しい話だ。
しかも景勝衆三百余討捕申候と書いておきながら
証拠に出してきたのがなぜか蒲生衆であり、
しかも得体の知れない伊達による自称名志れ申候者である。
さらに討ち取り人数もとうてい300人を裏付けるような内容ではない。
>>509 ならお前が名志れ申候者たちの蒲生衆での在籍確認の証明してくれよ。
511 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 20:29:12 ID:VCRrgF0n
「(慶長5年10月6日)政宗福島に大勝す」東大資料編纂室「伊達家文書」内脚注。
屋代・茂庭の部隊に上杉軍が粉砕され、福島城の虎口まで押し込められたことは間違いはない。
戦後、「徳川家康は政宗に対して戦いの労をねぎらい、仙台城の築城許可を与えているわけだ。
ついでに景勝征伐も約束したが、上杉の降伏によってそれは実現できなかったが。
512 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 22:45:03 ID:CZbEOP07
>>sub
上杉家臣の中で諸大夫成してるのは確実だが
政宗を破ったから優遇されたという根拠はない。
和平交渉で家康に「政宗破りました」と報告する意
味はない。根拠もない。むしろ格のある人物を使者
に出したと考えるべき。
史料の読み違いをしてるようだが、討ち取った上杉
衆を羅列し、その者たちがどういう人間かという説
明で蒲生譜代の者と聞き及んだと書いてるだけで、
上杉でなく蒲生家の軍勢と戦ったという意味ではない。
政宗は過大に物事を語る人物だと思うが、そこに一分
の事実も見いだそうとせず、伊達を貶めることを前提
に史料に当たる姿勢は評価できない。解釈の誤りが多
すぎるし。
513 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 03:07:37 ID:YDckX+6+
>>511>>512 だいたいね、9/29の宗薫宛での政宗なども
義光が散々に取り乱していて山形城も必ず落ちるだろう状況だったが
家康公のために自分を差置いて最上へ叔父を派遣したから
上杉軍は取り乱して長井へ逃げるような状況とか
謀反気味の南部にも脅しかけてるとか南部が小野寺の後詰しようとしてるとか
デタラメばかりを家康に報告させてるし
4/21の宗薫宛での政宗書状でも
去冬の最上陣では庄内軍を撃退したのも伊達軍の力があったからとデタラメ書きまくり
政宗の主張のどこに信用性が見出せるんだ?
しかも相変わらず政宗のデタラメ大本営発表を聞いて
家康がとりあえず返事した内容を持ち出して伊達勝利の証拠とブタのように喚くとか見苦しい。
下記リンクの佐瀬平八のように葦名で在籍確認が取れたように
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164706052/126 蒲生氏郷譜代之由で名志れ申候者ほどの者なのに在籍確認が取れないのはなぜだ?
しかも蒲生衆が景勝衆の中に含まれているなんてのは不自然極まりない。
そもそも〜衆なんて呼び方をしてこなかったではないか。
おっと成実によれば越後衆を討ったんだよなw
つーか「〜の由」って書いてる時点で
確認取れないデタラメ人名なのをぼやかして誤魔化してるのは明白なんだがな。
514 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 16:37:38 ID:H/m6JOHw
景勝衆の中に蒲生譜代の者がいて何もおかしくないよ。
桑折図書なんて名前からしても福島周辺の土豪と考えて
問題ない。岡左内みたいな重臣も減封で家を去った。
そこに加増された上杉が入部し、新たに家臣を召し抱え。
当然、岡たち蒲生を離れた人間もいる。どこにも矛盾はない。
討ち取った連中を捏造するなら、組頭なんかにしなくてい
いし、「蒲生譜代の者だと聞いている」とぼかさなくていい。
515 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 20:04:09 ID:YDckX+6+
>>514 事実は伊達軍2万が本庄軍3000相手に
たった一日にして政宗陪臣を2人も討ち死させられ
背後を襲われ兵站線維持も不可能になり
物凄い速さで戦場から北目城へ敗走した事実だけ。
蒲生氏郷譜代と聞き及んだと言う怪しげな人だけでなく伊達の記録はいかがわしい証言話ばかり。
景勝衆にそんなヤツらいない。どうせデタラメ吐くなら会津衆とか書いとけば良かったのにwww
>>490のような対南部戦でのデタラメぶりといい
この戦役から100年以上を経ての1703年元禄16年に編纂された伊達治家記録には
敵兵悉ク福嶋ヘ逃入したから政宗が首実験したとする話をする濱尾漸齋なる怪しげな証人
本庄が敗れて討死スヘシト言ったとする話をする怪しげな雑賀小平太壽悦なる証人
こんなふざけた記録ばかりじゃんwww
516 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 21:55:23 ID:OVDWcsP2
「蒲生譜代だが、減封で家を離れた」って全くいかがわしくない。
南部が伊達同様に東軍西軍双方を天秤にかけていたのは事実だから、
政宗が言ってることも全くのでたらめではないんだよ。
>事実は伊達軍2万が本庄軍3000相手に
>たった一日にして政宗陪臣を2人も討ち死させられ
>背後を襲われ兵站線維持も不可能になり
>物凄い速さで戦場から北目城へ敗走した事実だけ。
背後を襲われたなんて事実認定する根拠がないよね。
梁川勢の活躍を10月のこととする根拠が薄い。
サブはそこを示せていない。結局は軍記物ソース。
政宗を散々に打ち破ったのなら翌年のほうが可能性がある。
517 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 04:42:16 ID:DA3ipLcH
>>516 >>全くいかがわしくない
景勝衆にそんなヤツらいない。
下記リンクの佐瀬平八のように葦名で在籍確認が取れたように
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164706052/126 蒲生氏郷譜代之由で名志れ申候者ほどの者なのに在籍確認取れない。
なら
>>516が名志れ申候者たちの蒲生衆での在籍確認の証明してくれよ。
>>南部が伊達同様に東軍西軍双方を天秤にかけていたのは事実
じゃあなんで安東のように南部はその責任を問われて減転封の処分判決すらでなかったんだね?
>>背後を襲われたなんて事実認定する根拠がないよね。
あぁ1657年の佐藤次兵衛功名覚を否定して、
1703年に編纂された伊達治家記録においてなんら根拠を挙げずに
齋野道二の紺地黄糸法華廿八品の幕の件ともども両説不決と必死に否定してる方を信じるつもりかw
岡左内の話「徳川諸家系譜」収録の「浄光公(秀康)年譜」も全力否定だしなw
政宗が着ていた朝鮮渡来の熊毛の陣羽織は実は勘解由兵衛家中の荘子隼人が着てたんだよ!
とか苦しい言い訳してんのに、その戦いすら無かったとか言い出すしwwwなら言い訳をなぜ考えたんだよwww
つかさ、政宗が福島攻めの準備をしてた時に片倉は簗川で内応者が出てるから
攻撃目標を変えようと言ったら、政宗はもう二番隊が出発したから急な変更は無理だけど
明日に攻めるわって言ってるわけだ(そもそも二番隊が片倉本人なので政宗の発言は不審極まりないが)
だが福島表で苦戦した政宗は
「明日もし福島筋よりの押さえにしかるべき人衆、七手も八手も保原筋へ遣わせべく候間」
と言っていて戦において国見まで押されてしまっており、
明日は福島側からの攻撃の押さえの兵を出さないとマズイ状態になってる。
さらに「これより人衆遣わさざる前に、聊爾の扱い無用に候」などと
お前ら下手に動いてやられないように援軍が到着するまで動くなと上杉軍に怯えてる。
運よく城へ肉薄できた片倉腹心の2人も討ち死にし、石川も上杉軍の影に怯えて超後ろ向き発言。
藤田能登家士斉藤兵部や直江山城守鉄砲頭極楽寺内匠の内通の話が出ても
その消極的思考を覆すことが出来ないほどの伊達首脳陣。
明日攻めると宣言していた簗川も攻める余裕もなく、福島表での防戦で手一杯な状況。
そして翌日早々に政宗は敵の追撃に怯えるように北目城へ向けて高速の速さで敗走。
どっちにしろ伊達軍2万が本庄軍3000相手にたった一日にして大敗した事実は変わらないけどな。
518 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 07:46:27 ID:8HQcq5xx
いずれにせよ、慶長5年10月6日伊達に上杉が野戦で大敗した史実は疑いようもない。
本庄は討ち死に寸前まで追い込まれたわけで。
「日本戦史」は無論のこと、紫桃氏や小和田氏も伊達の圧勝を認めている。
519 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 09:10:59 ID:GSg6Ak/A
>>517 南部は上杉に与すると言って最上との同盟から離脱しているよ。
政宗は福島城際まで攻め立てて、別働隊も福島に呼び寄せて動きを
封じた上で、梁川を攻めようとしている。
「怯える」「超後ろ向き」など根拠なく言葉を羅列しているけど、
この時の戦いで上杉方が村押しされている事実は否定できないと思うよ。
布施氏、北川氏は近江出身で蒲生との関係が強い姓で蒲生譜代で問題ない。
>>518 野戦で敗れたことがいわゆる「松川の戦い」の敗戦ではないよ。
520 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 17:53:50 ID:DA3ipLcH
>>519 奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
南部の遠野城主である阿曾沼広長も南部軍本隊と共に
最上陣に出陣するが南部本国から和賀一揆の連絡を受けて
山形から急ぎ本国への撤退命令が来た際に
阿曾沼広長は伊達に内通していたようで主家の南部に対して
「一揆の場所は我が阿曾沼に関係ない場所だし」と無視。
しかし遠野の重臣の裏切りが発生し城は南部に渡り帰る場所を失った
阿曾沼広長は伊達を頼って気仙沼に亡命。
その後も遠野復帰を伊達が支援していたが見事に失敗した。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1258353808/70 伊達の南部への侵攻と伊達の敗北の慶長5年9月〜と6年3月〜の合戦の合間を見計らって
10/24には南部軍は小野寺氏の横手城下の家々を焼き払ったりしてるし
つうかその前に政宗の卑屈さを問題にしろよw
9/29の宗薫宛での政宗の状況で家康相手に南部の讒言を言える立場かよw
8/18 最上→直江 最上を御家の者同然にコキ使ってください。
9/3 直江→本庄 関東出陣の時は正宗から人質取るべし
9/4 直江→甘粕 昨日は政宗も懇望してきたw
>>「怯える」「超後ろ向き」など根拠なく言葉を羅列しているけど
はぁ?伊達側の史料にちゃんと書いてあるけどw
ならなんで攻撃初日の夜にすでに逃走準備してんだよwしかも兵糧も無いのか超速で逃げたじゃんwww
だいたいね、福島城の本庄は手勢1000で、簗川城の手勢は500で、
郊外の陣に少々の兵がいたって言うから実際の上杉軍は2000程度とも言われてるから1/10の戦力差だよw
10/18 直江→清野
白河より追々注進あるが証人を取って仕置きしてるから御安心ください
なんて発言してて万が一、白河への来襲があったとしてもまったく危機感がない
上杉のどこに政宗に負けたような惨憺たる状況が読み取れんの?
むしろ伊達は南では松川で上杉に大敗し、
北では南部の花巻城攻略に失敗した挙句に伊達軍は岩崎城に孤立して恐怖におののいていただろw
10/23 直江→安田・竹俣・黒河
佐竹と共に徳川攻撃の件だが江戸より無事の内々の申し出もあるので止めることにした。
10/26 安田→甘粕
この書状では和睦反対意見を吐いていて上杉軍の士気の高さが窺えるし、
政宗なぞ脅威として捉えてないようで伊達方面なんてまったく顧慮されてないw
>>蒲生譜代で問題ない。
お前はやっぱり日本語不自由だったんだなw
俺は蒲生家臣が上杉側にいること自体は否定してない。景勝衆にそんなヤツらいないと言ってる。
だから会津衆とか書いてればまだマシだったのに・・・そういや成実は越後衆と戦ってたなwと書いた。
そして再三にわたり蒲生氏郷譜代之由で名志れ申候者ほどの者なのに在籍確認が取れない。
なら
>>519が名志れ申候者たちの蒲生衆での在籍確認の証明してくれよと要求してる。
何度書いたら理解してくれるんだ?それともわざと見えないフリをしてるのか?
521 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 06:10:54 ID:y3jcURM9
伊達に大敗を喫し信夫山で首級実検までされた恥辱の上杉軍。
これを補助線にして『会津陣物語』を読むと味わいが深い。
いかに軍記作者が伊達を恐れ、コンプレックスを抱えながら同書を
書いたかが分かる。
522 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 07:41:32 ID:yxH+ZYbi
さぶは冷静になれず感情的に歴史を
語ってしまうのが残念だね。
敬白天罸起請文前書事
一上杉中納言様御事、粗略存ましき事
一貴所吾等間之義、自然他所より成とも、又ハ家中の
もの成とも、悪様に申成 横合之儀有之といへとも、直
に申断、不 審をはれ、無相違可申談事 右條々私曲偽有
之者、此霊社起請文御 罸、可罷蒙者也、神文如常
八月十三日 南部信濃守
○上羽守殿
関ヶ原の結果が届いたあとの十月下旬に小野寺
を攻撃したなんて東軍だった理由にならないよ。
政宗も最上同様、上杉に卑屈な態度をとっていた
であろうことは当然知っているよ。
523 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 12:44:21 ID:fWu+Pkgo
お前は本当にデタラメを吐くのが大好きだなw
一上様・中納言様御事、粗略存ましき事
一上杉中納言様御事、粗略存ましき事
この2つの書状が存在していて真偽不詳な書状なんだよ。
だから普通の学者は論文ではこれを持ち出さない。
よって俺は前回の松川スレでシカトしてたのに
また恥をかきにきてたのは同一人物だったのかwww
君は冷静になれず感情的に歴史を語ってしまうのが残念だね。
本陣を襲われた政宗は逃げ場がなくなり、窮していた所を
信夫山伏の党首、羽黒山別当慶陰らが助け、本陣近くの寂光院にかくまった。
政宗は寂光院に有った臼の中へ身を潜めた。 そして隙を見て、裏手から帰った。
寂光院も羽黒山〜信夫山に点在した他の神社仏閣同様、
この戦いで焼失し寺を失った別当慶陰らは政宗に従って北目へ逃げている。
これにより伊達代々の尊崇を得てきた寺社が伊達累代の法宝ともども灰燼に帰したのである。
上杉氏によって黒沼神社などが再建されたのであったw
524 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 14:43:35 ID:yxH+ZYbi
内容からいって上杉中納言だろう。
ちなみに景勝も上方に南部の使者が来た
と書いているからこの書状とリンクする。
都合が悪い内容の書状は無視ってのはよくない。
525 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 19:18:25 ID:fWu+Pkgo
葛西大崎一揆において同時に転封とそれに伴う伊達家中の知行再編が行われたが、
減封の影響によって知行高は軒並み削減された上、転地の際にはそのままでは収穫を見込めない
荒蕪地・野谷地を多く宛われたため、困窮した家臣団の不満が高まった。
転封を拒んだ北目城主・粟野重国が居城を攻め落とされたほか、
伊達成実・国分盛重・鬼庭綱元・遠藤宗信ら重臣の出奔が相次いだ。
また、広大な知行地を与えた重臣達に領地復興を丸投げする格好になったため、
仙台藩において地方知行制が幕末に至るまで残存する原因となり集権化は大幅な後退を余儀なくされた。
この経済的困窮の打開が政宗主導の和賀一揆による南部領切り取りや
松川の戦いでの福島城奪取による家臣への加増目的だった。
家康の百万石の約束もまた伊達家の家老衆への加増となっていることからも伊達家中への取り込みが見える。
これは家康による伊達家中への支配を嫌がる政宗が、
政宗主導での上杉領の切り取り分配による伊達家中集権化を目指すチャンスが
関が原の東軍勝報のドサクサに起こったことに起因する。
以前、伊達厨が福島城攻略失敗を誤魔化す為に
最初から福島城ではなく梁田城攻略が目的だったとデタラメを吐いていたが
片倉の二番隊が福島城へ向け進撃を始めている最中に簗川城からの内通の申し出があって
深夜に急ぎ片倉が福島城から梁田城へ目標の変更を政宗に具申するが、
政宗は「もう二番隊が進撃してるから無理」と拒否した事実を無視していたね。
そして実際は福島城攻略に失敗した為に恩賞が払えない政宗は窮して10/19宗薫から家康への伝達において
せめて20万石でも15万石でもいいから政宗に対して不満だらけ家臣達への堪忍分で加増してと泣きついてる。
526 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 19:20:12 ID:fWu+Pkgo
>>524 俺はアンチ伊達でも伊達厨でもない中立者だから2つの書状のどちらが正しいとか判断を保留してるだけなんだが・・・
あえてそんなに触れたいって言うなら書くけどさ、
これって伊達史観によって既存の定説を大きく覆す超ド級捏造だよね。
この歪曲史観の主張の通りだと政宗は南部と上杉を相手に無双しまくって
家康に尽くしたって話に通説を180度変更させる政宗マンセー話になるわけだ。
そしてこの政宗の大活躍を恐れた家康が百万石の加増を破棄したと・・・もう痛過ぎるわ。
じゃあこの説を成立させる障害がいくつかあるから質問するね。
わざわざ南部は上杉に付くと宣言して帰るなんてことがそもそも有り得ない。
政宗の南部侵攻を義光が通報してるのに南部が西軍上杉側と解釈するのはおかしい。
南部側に家康の鷹師がいて政宗の行動を監視してるのに南部が上杉側と解釈するのはおかしい。
政宗が西軍の南部&上杉相手に大活躍したなら南部改易と政宗百万石加増しないと辻褄があわないし、
そこを政宗を恐怖した家康による陰謀と妄想して強弁するのは理解に苦しむ。
9/27の安東→最上の書状において
由利衆とともに庄内を攻めようとして南部との連絡を取ろうとしたが
戸沢が境目にあたる淀川と申す場所にニ城を構築し人留めを開始したので
南部との通路を遮断され内府様への使者がむなしく帰ってきたと書いており
この時点でも南部が上杉側であるかどうかまったく不明である。
むしろ南部も家康側だと思われたからこそ安東は南部との連絡を取ろうとしていたと思われること。
よって一上様・中納言様御事、粗略存ましき事と言う文章を
一上杉中納言様御事、粗略存ましき事に書き換えて最上が南部を改易させようとしたが
ちゃんとした文章が存在したために家康が南部の正当性を認めて南部領安堵になったと見るべき。
そう解釈すれば下記の文章との整合性が取れる。
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
南部の遠野城主である阿曾沼広長も南部軍本隊と共に最上陣に出陣するが南部本国から和賀一揆の連絡を受けて
山形から急ぎ本国への撤退命令が来た際に阿曾沼広長は伊達に内通していたようで主家の南部に対して
「一揆の場所は我が阿曾沼に関係ない場所だし」と無視。しかし遠野の重臣の裏切りが発生し城は南部に渡り
帰る場所を失った阿曾沼広長は伊達を頼って気仙沼に亡命。その後も遠野復帰を伊達が支援していたが見事に失敗した。
ちなみに「真山記」において家康に追い詰められた政宗が和賀を生け捕りにして殺害した経緯を書いているのだが
治家記録はその内容を丸パクリしておきながら最後の部分だけ和賀が勝手に自殺したことに捏造してるよねw
>>十月下旬に小野寺を攻撃したなんて東軍だった理由にならないよ
南部は伊達と戦っていたんだから、それ以前に小野寺領に攻撃をかける余裕はまったくない。
伊達の南部への侵攻と伊達の敗北の慶長5年9月〜と6年3月〜の合戦の合間を見計らって
10/24には南部軍は小野寺氏の横手城下の家々を焼き払ったりしてるし
527 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 19:28:18 ID:fWu+Pkgo
>>525の文章の訂正
この経済的困窮の打開が家康の伊達家臣取り込みに反発した
親上杉の政宗主導の和賀一揆による東軍南部領切り取りや
関が原の家康勝報で突然に東軍顔に豹変した政宗主導による
松川の戦いでの福島城奪取による信夫郡・伊達郡の家臣への加増目的だった。
528 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 20:40:23 ID:yxH+ZYbi
中立…。
景勝の書状にも普通に「南部が使者をよこして
秀頼様に奉公すると約束した」と書いてるし、
最上や伊達に限らずほかの大名もあいまいな
態度をとっていたというのは伊達史観でもな
んでもないよ。越後の大名たちも上杉に通じ
てたし。
何度もいうように政宗は何度も上杉を攻撃し
たが戦果なく終わった。簗川攻撃前の福島表
野戦で勝利したが、占領し続けるだけの勝利
ではなかった。福島ではなく梁川が目的とい
うのは政宗が片倉に福島攻撃を「明日のため
だ」と言っていること、福島に上杉を封じた
あとは国見に帰っていることからわかる。
529 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 20:42:24 ID:B1bIWdwu
キチガイ文章は、おなかいっぱいです(>_<) >>ID:fWu+Pkgo
530 :
人間七七四年:2011/01/20(木) 02:45:45 ID:aD8sejYD
>>528 おい、俺の質問に対する回答は黙殺かw
都合が悪い内容は無視ってのはよくない。
>>南部が使者をよこして秀頼様に奉公する
家康も秀頼様のためにがんばったわけだが・・・つか当時の武将はみんな秀頼様のために。
4/21宗薫宛での政宗でさえも秀頼様の立場について家康に意見してるし。
政宗が福島攻めの準備をしてた時に片倉は簗川で内応者が出てるから
攻撃目標を変えようと言ったら、政宗はもう二番隊が出発したから急な変更は無理だけど
明日に攻めるわって言ってるわけだ(そもそも二番隊が片倉本人なので政宗の発言は不審極まりないが)
だが福島表で苦戦した政宗は
「明日もし福島筋よりの押さえにしかるべき人衆、七手も八手も保原筋へ遣わせべく候間」
と言っていて戦において国見まで押されてしまっており、
明日は福島側からの攻撃の押さえの兵を出さないとマズイ状態になってる。
さらに「これより人衆遣わさざる前に、聊爾の扱い無用に候」などと
お前ら下手に動いてやられないように援軍が到着するまで動くなと上杉軍に怯えてる。
運よく城へ肉薄できた片倉腹心の2人も討ち死にし、石川も上杉軍の影に怯えて超後ろ向き発言。
藤田能登家士斉藤兵部や直江山城守鉄砲頭極楽寺内匠の内通の話が出ても
その消極的思考を覆すことが出来ないほどの伊達首脳陣。
明日攻めると宣言していた簗川も攻める余裕もなく、福島表での防戦で手一杯な状況。
そして翌日早々に政宗は敵の追撃に怯えるように北目城へ向けて高速の速さで敗走。
531 :
人間七七四年:2011/01/20(木) 04:06:52 ID:aD8sejYD
>>最上や伊達に限らずほかの大名もあいまいな態度をとっていた
そうだね、俺もそれは否定しないよ。戸沢や安東や津軽は上杉・三成ラインと
人情的にも繋がっていたとする証拠もある。しかし南部には人間的に三成や上杉に味方する義理すらない。
安東氏は義光が苦戦中に有馬や榊原や佐々に「最上は打ち破られてしまうだろうが政宗がいるから大丈夫」
などと安東は伊達や上杉と通じており最上を支援する気がないとも解釈できうる報告をしてしまっている。
安東と浅利の争いにおいて安東は三成や長束と結んで解決しようとしていて家康から不興を買っていた。
嫡子俊季のほかの弟達の名は秀次(忠季)・秀信・秀長・秀則であり、いづれも「秀」が付いている。
津軽については多少長い説明が必要だろう・・・
南部が蒲生・前田・浅野と組んで津軽イジメをしていたが
それに対して津軽をかばってくれたのは三成であり為信の長男信建は三成が烏帽子親。
1602年7/18には前田家臣と為信三男信枚の家臣が京都で9日間争い双方に死者を出してる。
津軽の史書には為信2000は駿府において家康と会い国許にさらなる増援要請したが津軽で謀反があり
松野久七率いる350人の兵しか駿府で合流できなかった。美濃大垣攻めでは現地で雇った服部長門守が
大垣城へ潜入し秋月らを離反させる画策をしたと津軽一統志は記す。しかし駿府は中村一氏の城である。
6代将軍徳川家宣の教科書として新井白石が書いた藩翰譜には
為信が東軍の先陣に加わり大垣を攻め落とす話は「関が原大条志」という
書のみに見えるのみで家康の会津討伐における最上口への動員要請に津軽の名がない。
しかしこの時に津軽は東軍にいたと言うから・・・もっと調べなければと幕府公式すら疑問を呈している。
8/19秀忠→津軽には家康の出馬によりその方も御上りたるべく由、尤もに存じ候
このように津軽が上ることを賞してる。
しかしこの書状は1684年6月に京都の商人から金七両で購入して手に入れたシロモノで
1706年12月にこの書状の存在を関白近衛氏に披露している。
この書状を買うまで津軽自身すら為信の東軍参加に自身がなかったようである。
大垣攻め論功行賞
水野900 加増1万石
西尾600 加増1万石
松平300 加増1万石
津軽2000以上 加増2000石 津軽がもっとも兵を出しているのに加増がやたら少ない・・・
関が原から250年後に編纂された三河後風土記には
天元実記に津軽が大垣攻めに人数のみ出せしと見ゆ・津軽勢は西尾の指示を受ける
と記されていると記されているとする。
関が原において長男信建は西軍として大坂城におり為信は彼に兵300を送った。
佐和山城落城の知らせを受け三成の三男重成に護衛を付けて若狭から津軽へ脱出させ
名を杉山源吾に改めさせ、その子は津軽藩執政杉山八兵衛吉成である。
論功行賞の叙勲で5/11に三男信枚が家康や義光と一緒に参内している。
津軽は宇喜多家中の者を多く召し抱え優遇している。豊太閤座像を弘前城館神として密かに祭っている。
為信の廟堂には豊臣の定紋の五七の桐がある。
信枚が津軽藩の家督を継いでいる。これは為信が三成への恩を感じつつ
東西の両方に息子を分けていたことを意味する。
532 :
人間七七四年:2011/01/20(木) 05:19:27 ID:z/5W/hKN
野戦で大敗した上杉w
533 :
人間七七四年:2011/01/20(木) 16:01:35 ID:aD8sejYD
>>532 伊達厨かわいそうにw
>>528 8/25景勝書状の該当箇所を
事実認定するにはこれだけの問題が生じるのが理解できたかね?
大坂方からも南部が味方とする発言がまったく無い。
534 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 00:16:45 ID:Ljyp8zbh
>>533 景勝の書状よりも信用が置ける内容はどこにも書いてないね。
家康も秀頼のために働いたということだけど、家康を豊臣政権への反逆者と
認定している景勝が「秀頼様に奉公する」と書いているんだから、それは関
係ないよ。
津軽とかの話はどうでもいいよ。長いし、知ってる。
南部が「前田と浅野にお世話になってるから東軍に付いた」と書いてある
とのことだけど、東方地方の中でさえ敵か味方かとやってる時に、南部は
本当に浅野や前田が東軍だという認識を持てたのかね?
取次と関ヶ原の東西の関係も検討したことはあるけど、人情で動いたのは
一部だと思う。
535 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 01:41:47 ID:XSdzUk95
>>534 はぁ?お前は俺の出した質問にも問題点にも
まったく回答も出さずに黙殺を続けるつもりかw
津軽の話をお前が本当に知ってるかどうかなんて知らんわ。
そもそもお前はほとんど知らないから物事を立体的に見る視点がまるで無く
今まで内容のまるで無い文章しか書いてこなかったように見える。
関東に乱入しようとしたが最上と伊達がビビって見合わせるから
いざ関東に進撃して背後が見苦しくないようにいろいろ調整するって
(のちに9/3直江→本庄書状で政宗も同陣もしくは家老を同伴させて関東出馬すると書いている)
内容の後に、大坂方の不安を打ち消すように
南部・仙北・由利の面々、秀頼様へ御奉公と景勝は書いてる。
しかし南部も仙北も由利も景勝の書いたような状況にはなってない。
唯一、小野寺だけがとっくに挙兵していたに過ぎない。
9月も中旬頃になってから由利の矢島で一揆が起きたがすぐ鎮圧されてる。
536 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 06:50:26 ID:9RO94xVP
慶長5年10月6月伊達に惨敗した上杉w
その事実を認めるのは辛いが故に書かれたのが
有名な「東国太平記」というわけだ。
その荒唐無稽な笑止な粗筋は風野真知男「福島城松川の合戦」に
忠実に再現されている。w
537 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 07:36:28 ID:Ljyp8zbh
>>535 もう少し要約してもらえないかな。
また感情的になってるようだけど、だらだらとした長文を連投して「黙
殺している」と言われても、どこを指しているのかわからないよ。
景勝が嘘をついている可能性もあるけど、大坂方の不安を打ち消すなら、
最上や伊達のことを「様子見している」と書かなくていいんじゃないか
な。南部の部分だけ不安を打ち消すために書いたと解釈するのは何を根
拠にしているのか。まさか後世の史料の「前田・浅野に恩義があるから
東軍」という記述ではないと思うけど。
伊達や最上同様、双方にいい顔をしていた大名はいくらでもいるので、
減封されていないから上杉に通じていないとは言えないと思うよ。
538 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 20:33:17 ID:8F4HkzXm
>>少し要約してもらえないかな
意識的に黙殺を続けてきておいて
ほんと不誠実極まりないふてぶてしい態度だな・・・屁理屈たれて逃げんなよw
>>「様子見している」と書かなくて
書かなきゃ関東へなぜ討ち入りしないのか理解されないだろw
南部は前田・浅野・蒲生に恩義が実際にあるが
怨みが積もる津軽に味方した三成にはまったくない。
もし三成が邪魔しなければ蒲生や前田と語らって九戸の乱を鎮圧したついでに
ドサクサ紛れに津軽も謀反人として誅殺していたほどなのに。
さらに一上様・中納言様御事、粗略存ましき事 と書いてあったとすれば
最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている部分との整合性が見事に取れる。
一上杉中納言様御事、粗略存ましき事 が正解だとするとその後に続く
俺は上杉に付くけど、南部と最上の間を悪し様に言う者がいても〜の文章があからさまにおかしい。
ちなみに伊達が上杉へ関東出陣の見合わせを申し入れたのは
伊達が最上から引き返した南部の行動は家康に対する謀反と称して
和賀の乱を足掛かりに南部領の切り取りを優先したいから。
しかし追って家康から最上口からの南下の中止が
通達されたからこの名分は成立しない。
しかし上杉の書状に伊達が家老を出す話が登場してることからも
伊達ともどもの南下計画もかなり話は進んでいたのだろう。
おそらく政宗は南部なんてすぐ打倒できると計算していたのだろう。
だから小野寺と共同での上杉の最上攻めとなった。
そして直江が山形の近くで威圧を加えながらも
2週間で3回程度しか攻めなかった長谷堂での時間潰しをしてた。
この間に戸沢が柵を作り始め南部との間を連絡を遮断。
上杉庄内軍の南下に対して安東は庄内攻めで
最上領から庄内軍を撤退させる行動を延期し傍観を決め込むなど
最上陣での直江は奥羽の親上杉化の外交を展開していた。
しかし南部にはそういった動きはまるで無い。
539 :
人間七七四年:2011/01/22(土) 00:35:07 ID:f550MOXl
上様・中納言様だと、上様も中納言様も誰を指すのか分からないよ。
上様は家康?中納言はいっぱいいるけど秀忠を指すと言えるのかね。
上杉中納言様〜は南部だけが上杉に付くという話ではなく、最上にも
強要している文章だと読んだけど。
景勝は「南部が使者を寄越した」、秋田も「南部の腹の底が分からない」
と言ってるし、南部が終始東軍の姿勢を鮮明にしていたとは思えないけどね。
理解力がなくて申し訳ないが、後半の文章はあまり意味が分からない。
最上攻めの最中に外交に力を入れていた?直江は内府ちがひの条々が発せら
れたころにもう多数派工作しているよ。
540 :
人間七七四年:2011/01/22(土) 05:16:49 ID:tOewxAJY
「みんなの関ヶ原」松川合戦より
>関ヶ原で東軍が大勝したとの報が入る。
自重していた政宗は、単独で故地を奪回しようとし、行動を開始する。
また西軍敗走を知った上杉景勝は、最上に出していた兵を収め、政宗の動きに備えた。
国見山に本陣を張った政宗は、上杉領福島へと向かい、
対する福島城代本庄繁長は、少数の兵であるため籠城を決意。
しかし、繁長の次子充長は、50騎のみ連れ単身出撃したため、伊達軍に襲われ敗退。
繁長も出陣し、伊達軍が松川を渡河を待ち、これを迎撃しようとしたが、
岡左内らは伊達軍の渡河を待たず、逆に自ら松川を渡り、政宗の本陣とみられるところを襲撃。
しかし、反撃され上杉軍は兵の大半を失い、福島城下に退く。
政宗の大軍が福島に侵攻すると知った梁川城代須田長義は、全軍をもって政宗の背後を急襲。
伊達軍は大混乱し、須田は殿軍をことごとく切り崩し、政宗の本陣深く斬り込み、
伊達家の定紋のある帷幕を奪い取ったという。
浮き足立った伊達軍は、総崩れとなり小荷駄、雑具にいたるまで打ち捨てたという。
上杉の妄想には爆笑するしかない。
信夫山での首級実検をはじめとする福島での伊達による殺戮は相当なトラウマになった
ことは間違いなく、国枝清軒がなぜ「松川合戦」を書かざるを得なかったかの証ともいえる。
541 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 01:12:45 ID:BV/uS3aA
>>539 >>上様・中納言様だと、上様も中納言様も誰を指すのか分からないよ。
はっきりわかるだろ、家康の命令で最上口に集結していたが、撤退することになった。
しかし家康の命令を粗略にしてつもりはありませんし、このことで南部や最上の間を悪し様に言うようなことがあっても
といった感じで文意がちゃんと通じる。中納言は下記の※を見れば秀忠だとわかる。
>>強要している
なに言ってんだwどう考えても読めねーよ。
>>秋田も「南部の腹の底が分からない」
9/27の安東→最上の書状において
由利衆とともに庄内を攻めようとして南部との連絡を取ろうとしたが
戸沢が境目にあたる淀川と申す場所にニ城を構築し人留めを開始したので
南部との通路を遮断され内府様への使者がむなしく帰ってきたと書いており
この時点でも南部が上杉側であるかどうかまったく不明である。
むしろ南部も家康側だと思われたからこそ安東は南部との連絡を取ろうとしていたと思われること。
9/27の安東→榊原康政
安東が各地の情勢を箇条書きで伝えてる中で
最上が敗れるとも政宗さえ無異儀者なら大丈夫
南部方面も政宗さえ無異儀者なら大丈夫と書いてるだけ。つまり政宗の表裏次第だと言っていて南部の謀反など伝えてない。
家康は7月23日豊臣3奉行の連署状を受け取った。
同日、家康は急ぎ下総古河で会津討伐中止を最上にだけ伝える 歴代古案・譜牒餘録
どうも政宗も上杉征伐中止情報を察知していたので、上杉側に察知される前に急ぎ白石城接収に向かったらしい。
7月25日政宗は上杉方の白石城を得たと家康に伝えた(上洛を控え戦端を開きたくない家康の意に反する行為)
7/29家康→最上 閣会津先令上洛候 併中納言(秀忠)指置候条 彼表働之儀被相談
家康は会津をほっといてまず上洛すると言っている。 ※家康が秀忠を中納言と書いている。
7月29日、8月1日付真田昌幸宛て大坂奉行衆書状で最上と伊達が味方だとしている。
8月朔日付に長束と増田が真田安房守に景勝と佐竹に伊達と最上も同意していると書かれている。
ここで最上も二股をかけているのが判明する。
政宗が和賀稗貫一揆を発生させたので南部がまず撤兵を開始した。
撤兵時期は南部が最上と起請文を交わした8/13以降ではないかとされる。
8/19の家康の帰陣文書は偽文書とされていて、家康のその前後の文書と明らかに違い
副状発給者が明示されてないばかりか「小野寺遠江守殿」と書かれるはずの文書が「横手殿」と書かれていて不審。
唯一の解釈方法は信夫郡宮代で守備についていた岩井信能へ直江が
8/12時点で小野寺がこちらに寝返り南部や仙北衆が陣を引き払ったと予言?しており、
それと同様な事態が起きており上杉による家康を装う偽文書だろうする解釈され上杉・伊達・小野寺の共謀が見えてくる。
8/12直江→岩井
最上口も南部・仙北衆、上説(上方の挙兵)を聞き候て引き払い候。最上取り乱す 由利は庄内一味仕り候、小野寺殿も同前に候。
この時点で南部の家康への背信について言及されてない。
8/25景勝書状 南部・仙北・由利の面々、秀頼様へ御奉公と景勝は書いてる。
8/25景勝書状は上記書状内容から「上説を聞いて」を削除して書状内容を改造し大坂方を安心させたに過ぎない。
南部・仙北・由利の面々、秀頼様へ御奉公と景勝は書いてる。
しかし南部も仙北も由利も景勝の書いたような状況にはなってない。
唯一、小野寺だけがとっくに挙兵していたに過ぎない。
9月も中旬頃になってから由利の矢島で一揆が起きたがすぐ鎮圧されてる。
542 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 01:14:42 ID:BV/uS3aA
政宗を疑っている家康が政宗に実は江戸へ帰ってましたw書状は8/12付で出している。
ちなみに和賀一揆発生が確認できるのは一次史料上では南部家文書の8/13付の政宗書状
3月22日付 政宗→井伊書状で政宗は南部との戦いを歪曲して報告してる。詳細は
>>490 自南部も境中へ少々人衆参 此方之者 度々被討申候へ共 此方よりハ不得御意候条 一切不存躰ニ而 指置申候
結局、政宗は家康にすべて和賀のせいにして無理やり自刃させ、その首を利直へ贈り、
「あなたの賊は政宗が成敗したから今回の事は水に流して欲しい」と哀願。
9/29の宗薫宛での政宗では南部の話の他にもデタラメや歪曲が多数存在する。
例えばさも湯沢城を上杉から奪ったかのように報告したり、新宿城を攻略したような話ぶりだ。
さらにこれを足がかりに政宗自身も長井郡へ乱入してやると言ってるが、それを実行するつもりもない。
誰も見てない刈田郡奥地の湯原城では家康の監視もないので、
白石城のような戦うフリもせずに安心して無血開城して伊達にプレゼントしてたのが実情。
だいたい白石落城させておきながら家臣への恩賞に関わる大切な討ち取り人数が数百人とか曖昧過ぎだろw
奥羽永慶ですら白石城での討ち取り人数はまったく明記されてすらいないわけだが
まぁ捏造報告だから曖昧なんだろうが。 商人や鷹匠らによる家康の監視があるから、
最初から密約に基づいて登坂が降伏するわけにはいかないから1日だけちょっと抵抗してみせた自演だろうが。
我等手前抱置候←降将に対する扱いではないな。やはり示し合わせた談合の証拠。
そして誰も見てない刈田郡奥地の湯原城では家康の監視もないので、白石城のような戦うフリもせずに安心して無血開城して伊達にプレゼントしました。
三陸河北新報社の石巻かほく昭和60年8/20〜12/1連載小説の「危うし独眼竜」の話において
白石城主は、甘粕備後が留守で登坂式部勝乃兄弟が城を守っていた。城中には大崎三次、葛西長三郎、…旧葛西大崎の名のある武士団がかなり籠城していた。
伊達家の厳しい残党刈りを逃れ、上杉氏傘下に入ることで再起を期したものだろう。」
「激戦の末、白石城兵七百余人が討ち取られ、大崎三次らは戦死し、城は本丸をのこすばかりで、落城必死の形勢と
なった。そのため城代の登坂兄弟は、伊達家武将の石川昭光、片倉景綱を通じ、降参の助命を申し出た。」
「石川、片倉の両将はこれを許し、誓詞を書き送り、開城の運びとなった」
が、籠城軍の中に鹿子田右衛門という過激武士がいて、降伏絶対反対、1人になっても戦うと宣言し、手の者を連れて
城外へ打って出てしまったのである。助命誓詞まで受けた城内の者は、鹿子田のルール違反に手を焼き、
仕方なく城内から鹿子田らを狙って鉄砲を打ち掛け、味方討ちの形にして全員殺してしまった。」
「味方撃ちの中で果てた右衛門の最後は哀れであるが、ここにも歴史の因果がにじみ出ている」
郷土軍記小説家の紫桃氏によれば、「大崎三次」とは大崎三次義興、「葛西長三郎」とは葛西三郎清高。
前者は葛西十七代太守晴信の子、後者は大崎十三代太守義隆の子だとする家譜があると述べている。
大崎三次 葛西長三郎 なんて家系図や家臣団の中に名前が見つからない。
あくまでも自称で、どこの馬の骨がもわからない人物ではないのか?
だいたいシナリオ通りに開城する約束を実行しようとして、土壇場で聞かされてなかった反対意見の者達を討つあたりはやはり密約の存在を証明してるようなもんだな。
543 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 01:17:08 ID:BV/uS3aA
そもそも得体の知れない架空の人物名がやたら出てくるのがこの戦いにおける捏造の重症ぶりを示している・・・幕府への言い訳で大変だったのだろう。
下記リンクの佐瀬平八のように葦名で在籍確認が取れたように
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164706052/126 蒲生氏郷譜代之由で名志れ申候者ほどの者なのに在籍確認が取れないのはなぜだ?
例えば相馬の記録の補填になる奥相茶話記みたいに
田村旧臣の石川弾正の肝煎りで景勝に紹介され、相馬旧臣の泉左京胤政が700人扶持で上杉に召し抱えられ、また瀧迫日向がそれに合流。
直江騎下で最上侵攻に相馬衆119人で参加し、相馬流の軍配で功を立て戦後には泉に越後6万石、日向には1万石の内儀の約束があった。
このようなちゃんとした具体性が伴う証拠くらいあるのかね?
さらに仙台領の戦国誌では葛西大崎一揆についてしか書かれてないが
政宗が甘言で大崎葛西一揆の首謀者達を集めて須江山で謀殺した数は葛西側資料には70以上はあり、
秀次の命でやむを得ず殺したと知る成実記はウソを書いてるし、伊達秘鑑における二十数名を殺したってのもウソだとしている。
葛西氏と山内首藤一族は
やはり大崎葛西一揆鎮圧で政宗は甘言で深谷に呼び出して集合させた武士500農民2000を虐殺したとしてる。
さて白石落城記述についてだが三光録にある白石軍記(白石城攻略)と山中記(白石城攻略後日談で石川義宗の手柄話)と言う
軍記を元ネタ種本にした片倉代々記に書いてある内容そのものだ。700人討ち取りのガセもこれ。
もちろん史実にはまったく認定されない妄想話で石川義宗などはとっくに死んだはずの中野常陸介を討伐して政宗から褒められたりする笑える話が書かれている。
無論、大崎三次や葛西長三郎が当主の息子だとは一切書いてない。
それどころか鹿子田右衛門が二本松畠山義継を唆して輝宗を拉致させた張本人の息子だと書くムリヤリ感ある基準が実に講談風だ。
さて葛西氏の系譜は独自の口伝や相伝で30以上あるわけだ。
しかも2つのまったく別系統の系譜がありそれぞれが葛西当主だと主張してる。
>>紫桃氏は再起を期したものであろう、〜とする家譜がある。
さすがに紫桃氏も曖昧さのある書き方をしてるな。
さて再興運動後に葛西晴信は加賀へ行き慶長2年に死去。さすがに再興の望みを持ってれば変な真似はできん。
左沼城撫で切りで百姓2000人武士500と桃生郡江糠塚山の一揆物頭衆騙し討ちで伊達に殺された加西氏は完全に息の根を止められたしな。
大崎義隆は直江の2700石客将だが息子は義満・義道・満隆が確実に存在していたとされる。
口伝レベルの史実かの確認がとれない実に怪しい話である。
北越軍記では甘粕が会津の妻の訃報で留守、また白石落城では鹿子田日向守171人討ち死にと記すね。もちろんこれも信用性ゼロの軍記だ。
白河については福島市史によると「報を得た景勝の招きにより甘粕は白石城から残りの兵を率いて白河の軍議に参加した」と断定している。
7月中に白河防衛についたりしている佐竹と宇都宮代表の結城朝勝については秋田藩家蔵文書三十に記されている。
白石軍記では米沢から白石までの七ケ宿街道を伊達側の野伏達が支配し白石城から米沢へ向かおうとする鹿子田を襲撃したりしたと書く。
さらに茂庭の足軽隊200にその野伏ら(九代政宗時代からの恩を感じていたらしい)と
湯原城守備を担った住民達(これまた政宗時代からの恩〜)が味方を申し入れ新宿攻略に活躍とのこと。
(新宿城主大畠吉兵衛に人質を取られていた湯原の18人も人質を犠牲にしてまで)
さて北越軍談→湯原城で政宗は甘粕備後や岩井備中の前に敗れ渡瀬へ逃走。
政宗→政景9/26「急度申遣候。昨日二十五日湯原へ足軽動申付、彼城即手に入候、内々撫切に可申付候処、
普代の筋を以、頻に詫言候条、身命ばかり相助け引出候、新宿峠まで打かけ、悉く郷村放火仕り」
この政宗の文書でわかるのは、湯原城で撫で切りしようとしたが、住人達が詫びをいれたから助けたのち、新宿城攻めに失敗し村に火を付け帰ったと言うこと。
さらに置賜郡史「米沢地名選」には遠藤盛利の守る新宿城攻撃で大敗した片倉が湯原まで敗走したと言う。
白石軍記などは七ケ宿村の者達が口伝を書いて藩に提出したそうな。
明らかに七ケ村の者達が自分を擁護して伊達の恩とか主張してるし 片倉代々記が新宿城で大敗した話を黙殺してるのがわかる。
544 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 01:20:29 ID:BV/uS3aA
鹿子田日向が畠山家老の子などと言うのは上杉側資料にはないな。
この白石城攻めは白石軍記と北越軍記に記されており双方ともに信憑性ゼロだ。
ここではっきりわかるのは、甘粕が伊達の軍事的圧迫を気にせず白河決戦に向け白石城兵を連れて出撃してること。
七ケ宿街道で悠長に野伏が街道をふさいだりなんてことは伊達に対して貢献したとする嘘だろう。
七ケ宿側がいう新宿城主大畠吉兵衛は会津に帰ったのか?そこには遠藤盛利がいることになってるが遠藤は地元住人なのだろうか。
それとも七ケ村の住人達が大畠の元にいる人質を犠牲にしてまで伊達に尽くしたと主張するのは仙台に対する嘘か?
ただ政宗書状には湯原城に上杉兵がいなかったのがわかる。よって地元住人達が降伏し円滑に受け渡しが可能だった。
つまり刈田郡は伊達との密約で上杉が譲渡する予定だった。
白石城で1日抵抗してみせたのも家康の監視を誤魔化すため。
より奥域の湯原城では家康の目を気にする必要はなく上杉兵は伊達に渡すために撤退した。
新宿城にいた住人遠藤盛利は湯原の住人とは対立してきてたのか?降伏を潔しとせず抵抗したので片倉が攻め立てたが大敗した。もちろん上杉の援軍は来ない。
北越軍記もデタラメならもちろん片倉代々記も片倉マンセーのデタラメ書。
双方ともに徳川に対する密約の存在を隠蔽する為にもっともらしく捏造軍記を作ったわけだ。
横田大学が以前からずっと上杉家臣とするのは上杉家記が記す上山城敗戦記や最上合戦記で
後陣を率いて高松・長清水辺へ進軍してたら川口村で隠れていた
最上軍に敗れたエピソードで有名な横田式部少輔旨俊と誤解してると思われる。
この上山での敗報を聞き長谷堂から上泉泰綱が救援に来て戦死したとも書くが
泰綱の戦死は10月朔日でデタラメであり、
敗北したはずの横田式部も敗北の責で降格もしてない。
完全に講談話で上山での上杉の敗走を証明するものは何もないのが実態である。
ここのように敗北してないのに敗北と隠蔽する裏に
実は最上と上杉の山形を前にした2週間で3回しか攻撃していない長谷堂の滞陣も
最上と上杉の講和談判の交渉中だった事実を消すための捏造があると思われる。
横田大学について
慶長三年ニ横田大学と申者 相馬商買之塩荷伊達信夫へ運送之為玉野山中ニ新田を取立
相馬参候塩荷之馬次ニ仕立て 其後福島へ奉行平林蔵人彼地見分仕
と書かれており相馬側で運送の利便を図るために横田大学、
その後に福島側から平林と言う奉行が来たことが記されている。
545 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 01:25:16 ID:Zj8Zx/5H
>>ID:BV/uS3aA
そんなキチガイ長文書いても誰も読めねーよw
546 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 02:58:04 ID:BV/uS3aA
慶長五年十月十四日 今井宗薫宛政宗書状
事実上、西軍政宗の家康への土下座書状。
伊達後継者として長男の秀宗は大坂で秀頼に仕えていたが、政宗はこれを切り捨てた。
この冷酷な仕打ちで秀宗は政宗に対しかなりの恨みを持ち続けた。
そして政宗は前年12月に生まれたばかりの赤子の忠宗との縁談話を申し込んで家康に必死に媚び諂ったのである。
仙台城築城の件。すでに7月末に本多正信に仙台築城を求めていた話であり
その後、家康が多忙になり処理が遅れていた話であり、いろいろと片付いた家康は許可をしており
その返事は10/15に山岡が受けており10/19の宗薫への政宗の戦勝を背景にした
仙台築城許可申請と言う論理はデタラメ。単なる返事の催促に過ぎない。
南部の件でデタラメを吐き、百万石の話も出せず、せめて堪忍分でも構わないから加増してと泣きつく政宗・・・
もっとものちに上杉講和の話を聞いて上杉や佐竹や相馬の大減封&改易に伊達の加増の夢を再度、持ち始めたようだがw
実際には敵視されている政宗は8/24に上杉を会津から米沢へ移す際の備えを奥羽越の諸大名に命令し
最上を総大将に人数を割り当てたが政宗の名だけが見事に除かれている。
和賀のこと。
伊達世臣家譜 和賀の譜には、和賀改易が浅野と南部の謀と書いてあるが、これは伊達史料の大ウソである。
奥南落穂集や岩崎一揆由来に和賀薩摩守信親が秀吉に参陣せずにいたので秀次下向の際に城を落ちたとしている。
さらに当時の政宗は自分が豊臣政権に対する奥羽の代表窓口だと主張しており、
政宗は和賀信親の他にも岩手郡不来方城主福士直経・志和郡平沢城主梁田詮泰・稗貫郡鳥屋崎城主稗貫輝家に書状を出しており
8/16には和賀が政宗に「御隔心無く仰せ下さる可く候、それがし儀、万端頼み奉る迄に候」と哀れなくらい非常に信頼して対豊臣外交を一任している。
政宗を信用し小田原へ参陣せずに伊達家臣に認定されたのが不満で長江氏は滅ぼされ、黒川も反抗した挙句に知行の大幅削減を飲み降伏を政宗から許された。
留守は政宗の叔父なので泣き寝入りしたようだがw田村、白河、石川、葛西、大崎らは政宗を信じた挙句に参陣してないとして独立大名認定を受け改易された被害者だ。
葛西大崎領などでは秀吉の方針で撫切令で臨む。葛西大崎は浅野長政が検地をしていた。
成実記
小者・あらし子を侍にして本侍を百姓にし米を略奪し百姓の下女どころか本侍の娘子まで
我が女房に取り集めており沙汰の限り仕様候故、侍百姓は明日の事すら分からず…
木村→浅野長吉10/5
米泉という村落の住民が伝馬の課役を拒否し隠していた刀を取り出して反抗したので30人を貼り付けにしたが脇百姓は見分けて悉く助けた
成実記は木村暴政と事実無根の悪口を記す。成実記のデタラメぶりは
天正18年を19年に混同し政宗が九戸包囲に参加したと書いていることからも理解できよう。
父が輝宗に殉死したことで冷遇された須田伯耆が政宗が一揆内通を蒲生に密告しているが
大崎家臣高清水城主高泉隆景は木村に仕えたが一揆参加のち政宗家臣と怪しげな行動を取っていて政宗の謀略を裏付ける。
政宗は遠方への転封に怯え当家は終わりだと嘆いていたが、その後の折衝の結果、
浅野への手紙の中で政宗は長井郡は召しあげられないと楽観しはじめていたのがわかる。そして九州筑紫や四国への転封よりはマシと湯目氏に語る。
547 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 03:03:47 ID:BV/uS3aA
乱の平定後に秀次と家康が国割りしたが浅野長政家臣浅野正勝が伊達刈田長井郡を政宗が奪われたら政宗の知行高が半分になり
政宗の外聞の悪い国替だと秀吉側近施薬院全宗と富田知信に抗議するなど浅野側はひたすら政宗の為に弁護したのだが。
しかし政宗没収地は40万石を越えていた・・・〜葛西大崎の地の1/3は立毛付きに申し候ほどに荒廃していた湿地と谷地が大部分の地だとも〜
屋代は中目兵庫に文禄2年3/22に「志田郡のうちの二カ所のあれ地5年荒野なのでおこさせべく申し候」と書き送るなど非常に苦しい土地だったようだ。
そんな厳しい開拓に家臣が疲れている中で政宗は愛姫を無視しつつ愛欲に溺れ天正19年に秀宗生まれる。
太閤様御諚覚によると秀次事件の後に政宗は三度命を助け置いたからより忠勤せよと言われた。
奉行をしていた屋代は1608年に百姓が年貢の未進について訴訟してきた地頭にお前に与えた百姓だからぞんぶんにやっちまえと暗に処分を示唆
これで改易されているが屋代が署名したであろう関わる文書のほとんどが処分されて証拠隠滅が図られていて不審である。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1258353808/33-36 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1258353808/65-68 「憶測を語る」史料なら
デタラメ伊達マンセーなために江戸期にはまったく発表できなかった 「伊達冶家記録」のこと。
明治になってから突然に公表する。伊達政宗・片倉小十郎本隊が「宮代の戦い」なるもので野戦で本庄隊に勝利したとする唯一の史料。
これはおそらく元禄年間に編纂が始まったとされるが出典不明の記述ばかりで、他家史料からの盗用の上に改竄歪曲をしているシロモノ。
宮代の妄想は察するに有力家臣達の既得権益たる要害制・地方知行制打破を掲げての財政改革失敗による
伊達騒動で仙台藩主3代綱宗(21歳の若さで隠居)・4代綱村が強制隠居に追い込まれた悔しさから
伊達の偉大さを仙台藩内で洗脳する必要があったからであろう。
そしてそこには松前氏の伊達簒奪の野望が背景ではなかろうか。これより片倉マンセー始まる。
2歳で家督を継承した4代亀千代・伊達綱村の後見人を父が松前安広である片倉景長がやり、松前一族は綱村が成長するや邪魔になり隠居させ
藩主2代忠宗の八男田手宗房正室&片倉景長の娘まつの間に生まれた5代仙台藩主松前吉村にする。
その実、松前藩初代松前慶広八男が政宗に仕えて以来の仙台乗っ取りの野望成就であり陸奥国松川松前1700石による伊達支配なのである。
片倉4代村長も妻市子は松前からで3代景長死後の片倉家は景長の弟の松前為広が実権を握る。
財政破綻と人心荒廃の仙台藩は幕末でもドン五里と呼ばれた弱藩で、仙台城は陸軍に占領され廃藩置県による仙台藩解体
仙台の武士達は絶望して北海道開拓移民 西南戦争後は政宗の居住地は監獄に改造された。
この屈辱の歴史が宮代の戦いを盲信して「伊達冶家記録」の世間への公表となったと言える。
改革無き財政向上という虫のいい浅策による石高向上をやった下記の藩主達は愚君の見本である。
初代政宗の貞山堤 2代忠宗の買米制度 5代吉村「寛永通宝」を石巻で鋳銭の失敗については下記リンクで。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164706052/128-132 その後、伊達家にも豪傑が必要だとの妄想から伊達家の執事だった作並清亮が
大正4年に東藩史稿で 「成実人トナリ英毅大略ナリ。一時勇武無双ト号ス」 と捏造を発信し初めて豪傑武将化し、
いつの間にか鬼庭綱元を能吏に捏造した挙句に伊達三傑と並び称されることにしているのが笑える。
548 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 04:00:10 ID:C9jivPGZ
上杉軍が伊達に大敗した福島の戦いの詳細は東大史料編纂室「家分け古文書 伊達家」の一次書状の中に載っている。
そこには「政宗福島に大勝す」と脚注つきで、伊達家が上杉勢を宮代で敗北させた旨の書状、徳川家康からの
戦功を賞する書状などが載っているわけだ。
そこには福島表で大敗し、自決すら覚悟せざるを得なかった本庄等城兵の苦悩が見て取れる。
早期に和睦を図った上杉の困窮した背景が、この大敗にあったことは間違いない。
549 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 06:08:30 ID:BV/uS3aA
>>548 政宗の捏造勝利宣言に対して、家康が戦果確認もせずに
とりあえず返事だけしてる書状だろwww
>>自決すら
元禄年間以降に作成された伊達治家記録に出てくる
謎の人物の雑賀小平太壽悦の証言だろがw
90年以上前の出来事をまるで見てきたようだねwww
550 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 17:22:20 ID:DQ9FcGmN
伊達の超捏造無双は相変わらずで安定感あるな。
関ヶ原の前年の1659年に前田利家が死去し10月には南部信直も死去し、
関ヶ原を前に南部利直が南部を相続してるが、利の名前は前田からもらってる。
1600年に家康の加賀征伐の脅しに前田利長は母のまつを人質に出して屈しており、
大坂方から直江への書状でも前田は徳川にまつを人質に出してるから…とたびたび言及されてるし、
前田と並んで南部が頼っていた浅野や蒲生も徳川方である以上、
南部が景勝の言うように大坂方になったとは考えられない。
大坂方奉行も外交を一任されている直江も南部が味方になったと書いていないことも重要。
551 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 17:45:07 ID:BYt3MmO/
■南部家について
・上様が家康だとすれば中納言は秀忠としてもいいが、この時点で家康を
上様と呼べるのか。内府でいいのではないか。でなければ上様(秀頼)・
内府様であるべきではないか。
・8月25日景勝書状
「秀頼様に奉公するとこちらへ使者をよこした」(上説を聞いてを削除
しただけではない)
・9月27日秋田→最上(秋田の言い訳書状)
「南部信濃の考えがはっきりしないから庄内攻めができないかった」
「戸沢が南部方面も封鎖したので(家康への)使者がむなしく帰ってきた」
上杉方として具体的な行動もしていないが、東軍としての行動もとっていないよ。
■白石城密約説 論外
これはさすがにそろそろ辞めたらどうだ。
その知識は買うが、さすがに全く根拠がなく、上杉の奪還計画も「パフォーマンスなだけだ」
など史料を独自の解釈で捻じ曲げて生みだした白石密約説まで主張してしまうと、仮にほかで
いいこと言ってても、結局は「伊達を貶めるために全部デタラメをぶちまけてるんだな」と言
われてしまうよ。白石に関しては伊達の電撃作戦はなかったことにする代わり、むしろまんま
と騙されて密約を破られた上杉をひどく貶めているものだけど。
552 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:19:08 ID:fTA7JMtD
密約(笑)
553 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 05:51:03 ID:3RPj7SSm
>>東軍としての行動もとっていないよ。
政宗が生まれて8ヶ月しか経ってない・・・ちゃんと育つかも未知数の忠宗より
伊達後継者として育ててきた長男の秀宗の命の方が大切に思うはずで
政宗が西軍化したのは間違いない。
そしてその伊達に攻められた南部は嫌がおうにも
東軍になってしまったと言ってもいい。
和賀の件が最上を追い詰めているのだから伊達は言い訳もできない。
そして家康は南部と東軍、伊達を西軍と見ていたからこそ
南部は転封も改易もなく、逆に政宗は百万石の加増は反故にされたばかりか
8/24に上杉を会津から米沢へ移す際の備えを奥羽越の諸大名に命令し
最上を総大将に人数を割り当てたが政宗の名だけが見事に除かれ、
1614年に大坂冬の陣が起きると旧関が原での敵である伊達政宗、上杉景勝、佐竹義宣に
10/15将軍徳川秀忠は大坂攻撃の先発を命じるわけだw
>>上杉をひどく貶めているものだけど
別に貶めてようがどうでもいいんだが?
それに俺は白石城密約説ではなく湯原城も含めた刈田郡譲渡買収策だと以前にも話しているはずだ。
伊達郡の川俣城における桜田元親の暴走がひょっとして政宗の指示かと疑い
部下の統率も出来ない罰として政宗の忠勤をしばらく見るために
湯原城譲渡のお預けにしていたとも書いたはずだ。
上山にしろ長谷堂にしろ白石にしろ不審な点が目に付き
上杉と伊達と最上が捏造の口裏を合わせているのは当たり前のことじゃないか。
秋田実季・ 最上義光対決之次第や小野寺の申し開きを見ても
徳川相手に自己正当化の捏造をしてるわけだし否定できないはずだ。
554 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 05:58:53 ID:wcfzrqyc
伊達に終生コンプレックスを抱いていた坂口安吾なみの馬鹿だなw
555 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 06:08:50 ID:3RPj7SSm
>>554 せめて俺と同レベル程度の知識をレス内容で
見せてからそういう発言をしてもらえないかね?
今のあんたのレスは無知の負け惜しみだろうけどねw
556 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 06:45:01 ID:1Y+eb5RV
上杉中納言〜が論破されると
次は上様(秀頼)・中納言(上杉)〜なんて解釈を持ち出してくるのが笑える。
そもそも上杉中納言の味方になるなんて約束を南部と最上がやってしまったのなら
なんで最上は上杉に攻められるんだい?
しかもこの取り決めは最上と南部が家康によって改易させられるだけのものでしかないだろう。
普通に上様(家康)・中納言(秀忠)としか解釈できないと思われるが。
557 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 08:07:40 ID:s5j9em1U
>>553 政宗は自力でもぎ取った部分は加増を受けているんだから、反故に
されたとも言い難い。むしろ慶長6年春まで何度も家康に嘘をつき
ながら上杉攻めを懇願し、しょうがないから独自で攻めて上杉方に
撃退され続けたのを見ても、当初から100万石のお墨付きなどと
いうのは切り取った場合だった可能性もある。
家康が南部を東軍と認識していたら、加増してあげてほしいね。
江戸時代に「私は西軍についていました」と捏造することなんて当然
ないわけだから、藩史が東軍だったよアピールするのはごく自然で「恩
のある前田や浅野(ここまでは本当)が東軍だったから、うちも東軍だ
った」なんてこと書くんだよ。会津征伐の途中で引き返した前田を本当
に東軍だと南部は信じていたのか。そもそも、西軍東軍の前に内府ちが
ひの条々で西軍が正当化され、家康は逆賊化したのにだ。直江状のころ
とは状況が違うんだよ。
「伊達の歴史は捏造で、南部(伊達以外)の記述は後世のものであっても
伊達に不利なものなら真実。でも南部が使者を寄越したという景勝の記述
は、南部と対峙した伊達を貶めるために都合が悪いから景勝の嘘だ」
白石城の話もだけど、そういうストーリーの下、史料を独自の解釈
で読み解いていき、都合が悪いのは捏造、嘘をついているという手
法をとるのは、そのせっかくの知識を無駄にしているよ。
>>556 上様(秀頼)内府様(家康)なら分かるということ。
それも、前提として文言が「上杉中納言様」でなく「上様」だった
場合の話だけどね。彼らが忠勤を励むべき「上様」はこの当時秀頼
であるべきで、家康を指すというのは早すぎでは。
558 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 09:14:30 ID:PWJt0Fje
どうだろう 伊達厨は捏造好きだからなぁ
559 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 10:37:59 ID:pfDdi7Hp
伊達・信夫郡での戦いは伊達側に全く戦果無し(例えば城を落としたとか名だたる武将を打ち取ったとか)。
本庄が12月に上洛して家康方と交渉。
上杉が白石での決選に備えていた時期に伊達家がフライングし全軍挙げて白石を落としてまでも欲しがった先祖伝来の地であり交通の要衝でもある伊達・信夫郡は上杉家安堵。
伊達冶家記録の数々のオカシイ記述(例えば信夫山で300の首実験して0云々とか:そもそもあのゴツゴツして急な坂しかない信夫山でわざわざどうやって首実験するんだ、的な)を考慮しても
途中経過(本庄軍の釣りかどうかは知らないが野戦での撤退)はあるにせよ結果的には上杉大勝と判断するしかない。
560 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 11:46:43 ID:yib5ZhkE
ここは最上&直江スレのはずなのに
最上より直江より名前が出てくる伊達って
やっぱグレイトなんだなあ〜
561 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 12:50:38 ID:PWJt0Fje
そりゃあ戦国一のDQNですから
562 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 14:17:52 ID:1Y+eb5RV
>>557 上様・中納言様で上様が秀頼なら本格的に中納言が誰だかわからない。
芸中納言なら輝元だし、備前中納言なら秀家。
だけどこの文意で誰か断定するなら上様が家康なら自ずから中納言が秀忠だとわかるし、
そもそも会津征伐で最上口に来て指揮を受ける相手は家康なのだから上様が家康とみるのが自然だろう。
百万石の加増の書状には条件なんて切り取った領地のうち最大百万石まで加増するなんて条件は付いてないよ。
切り取った分だけってのは比較的新しく主張されだした政宗擁護派の盲説でしょ。
曰わく政宗は西軍に内通してたから百万石の約束が破棄されたのではなく、
もともと切り取った分だけ加増すると言う話だったに過ぎないとね。
でも残念ながらそんな条件はどこを探しても存在しないよ。
南部が前田を本当に東軍だったと信じてたと思うよ。
三成も書状で母親のまつが「老母江戸へ遣候間」と人質に出されていることをたびたび書いているくらいだからね。
一方で7月29日真田宛の書状で長束や増田ら連名で伊達や最上の人質は自分の妻子どころか家老の妻子までことごとく大坂にあると言ってる。
家康の百万石加増の条件に家老に与えると言うのがあるが、この状況により政宗が大坂方に行こうとしても
家康は伊達家臣達を買収して政宗を牽制する目的があるからでしょう。
563 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:52:05 ID:s5j9em1U
>>562 上様が家康なら中納言は秀忠だろうけど、家康を南部や最上が上様と呼んでいいのかが
疑問点だよ。「上様」はおそらく天皇や将軍くらいのレベルにしか使えないはず。このころに
家康を上様と呼ぶ史料があるなら別だけど。
政宗が加増を約束された分はいずれも敵領だから、獲らなくちゃいけない。文言に条件は
書いていなくても、結局は同じことだと思うけどね。伊達厨は本当にそう言うかな?百万
石らえるはずが頑張ったのに反故にされたというほうが格好いい(?)と思うけど。
何度も攻めたのに結局は会津征伐中の白石しか奪えてなくて、それを与えられたんだから。
お墨付きは家老の買収というと強すぎだけど、政宗の発言力が絶対でないから家老たちに
政宗を牽制させる意図があったというのは同意だね。
前田への恩義?よりは景勝の書状を信じるけどね。東北で上杉に逆らってもいいことな
いのが当時の状況だし。上杉に使者を送ったことの否定材料としては弱い。
564 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 06:26:58 ID:FM+vOKV1
>>563 もう屁理屈はいらねーよ。
上様ってのは自分より高貴な身分の人に使用してるに過ぎない。
森蘭丸が信長のことを書状において上様と書いているし
信長公記の記述にも信長を上様と呼んでる。
でも信長は天皇でも将軍でもない。
天皇や将軍くらいのレベルじゃないと上様と呼ばれないなんて
思いつきのデタラメだろ?
当時7歳の秀頼はふつうに秀頼公と呼ばれているに過ぎず
ガキを相手に上様なんて言わねーよ。
565 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 08:04:28 ID:GWjUdXfb
秀頼を秀頼公、秀頼様と呼んで家康を上様か。
それはどうだろうか。幕府を開いたあとならともかく。
蘭丸や牛一が主君の信長を上様と呼ぶこととは別の話では?
そもそも「上様」と書いている書状というのを知らないんだが、
誰が「上杉中納言」ではなく「上様」で、家康を指すと指摘しているのか。
不見識で申し訳ないが教えてほしい。
566 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 08:22:12 ID:XaITnNDK
>>565 あんたもう完全にキチガイだね。
関ヶ原のあとに西軍だった因幡鳥取の宮部長房が改易された時に、
身柄が東軍の南部藩預かりにされてるくらいだから
南部が上杉に付こうとしていたのなら家康が宮部を南部預かりに処すること自体がまず有り得ないね。
西軍だった小野寺義道が改易後に
東軍だった浜田藩の坂崎直盛に身柄が預けられたのと同じこと。
567 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 08:35:13 ID:GWjUdXfb
残念だけどサブはどうしても感情的になってしまうようだね。
それは戦後における家康の認識を示すだけ。
会津征伐から家康が引き揚げ、しかも上方の奉行衆が家康を謀反人とした
7月〜8月の時点で、南部が上杉に使者を送ってよしみを通じようとした
ことを否定するものではないよ。関ヶ原の決着がついた後に、南部が逆ら
うとも思えないし、終始東軍の立場で、西軍の伊達による企みを阻止した
なら加増がないほうがおかしい。
568 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 14:37:20 ID:XaITnNDK
そもそも上杉中納言なんて書式はおかしいだろう…大和大納言とか任地名がつけられるはずだから。
上杉なら会津中納言とか会津宰相とか書くだろう。
上杉に従った政宗による最上口瓦解の謀略の和賀一揆が原因とは言え、
家康の下知を前に許可無く最上領から南部は勝手に兵を引いて本国防衛に回しているのだから、
南部の加増まではさすがに難しいだろうよ。
領国の危機を無視して家康の為に兵を関ヶ原方面に派遣させて戦っている武将がたくさんいるのだから。
569 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 19:09:33 ID:FM+vOKV1
>>565 >>そもそも「上様」と書いている書状というのを知らないんだが、
例えば
仍上様江二種貮荷御進上候と蘭丸が書状で信長を上様と言ってるし
仍上様江御進上之御樽と大口本正も信長を上様と言ってるし
「信長へ之御返札」今度従上様御朱印 忝令拝領候と島津も信長を上様と言ってる。
平田城の普請の命令の毛利輝元書状の元亀元年の書状のことを上様之御書と但し書きしてある。
おれが思いつく範囲ですら普通に上様って使われてるわ・・・
お前はいつも根拠なんで無くて、ただ自分の意に反してる意見を
絶対に認めたくないから思いつきで文句つけて書いてるだけだろ?
570 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 23:01:10 ID:GWjUdXfb
>>568 会津中納言が一般的ではあるけど、上杉とか毛利中納言とかという呼び方が
おかしい訳ではないよ。和賀一揆が原因で引き揚げたというのは何に記載があるの?
>>569 この時期の家康を「上様」と呼ぶ書状を知らないという意味。
信長なら呼ばれていてもおかしくない。その政権のトップなわけだから。
それはいいから「上様・中納言様」だというのはだれがどのように指摘しているの?
571 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 02:34:25 ID:zsMyP6z8
>>570 >>上杉とか毛利中納言とかという呼び方がおかしい訳ではないよ
いや普通におかしい。
>>562にも書いているが会津中納言や芸中納言と書くのが常識。
>>和賀一揆が原因で引き揚げたというのは何に記載があるの?
政宗が和賀稗貫一揆を発生させたので南部がまず撤兵を開始した。
和賀一揆発生が確認できるのは一次史料上では南部家文書の8/13付の政宗書状
撤兵時期は南部が最上と起請文を交わした8/13以降ではないかとされる。
8/19の家康の帰陣文書は偽文書とされていて、家康のその前後の文書と明らかに違い
副状発給者が明示されてないばかりか「小野寺遠江守殿」と書かれるはずの文書が「横手殿」と書かれていて不審。
唯一の解釈方法は信夫郡宮代で守備についていた岩井信能へ直江が
8/12時点で小野寺がこちらに寝返り南部や仙北衆が陣を引き払ったと予言?しており、
それと同様な事態が起きており上杉による家康を装う偽文書だろうする解釈され
上杉・伊達・和賀・小野寺の共謀が見えてくる。
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
南部の遠野城主である阿曾沼広長も南部軍本隊と共に最上陣に出陣するが南部本国から和賀一揆の連絡を受けて
山形から急ぎ本国への撤退命令が来た際に阿曾沼広長は伊達に内通していたようで主家の南部に対して
「一揆の場所は我が阿曾沼に関係ない場所だし」と無視。しかし遠野の重臣の裏切りが発生し城は南部に渡り
帰る場所を失った阿曾沼広長は伊達を頼って気仙沼に亡命。その後も遠野復帰を伊達が支援していたが見事に失敗した。
>>信長なら呼ばれていてもおかしくない。その政権のトップなわけだから
お前は自分で書いた「「上様」はおそらく天皇や将軍くらいのレベルにしか使えないはず」って言葉も忘れたのかw
後から言い訳みたいに条件を追加して屁理屈を繰り返すなよwww
>>だれがどのように指摘しているの?
だいぶ前だからほとんど覚えてないがおそらく高橋先生だったはず。
つーかこちらが以前挙げた質問や問題点にはまったく答えず黙殺し続ける態度はどうなんだ?
早く答えろよ。史料抜き出しやお前が書くよくわからん内容の断片的書状内容から導き出して
いつの日付の書状か書いて答えてやってんのも全てこちらじゃねーか・・・
572 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 08:49:48 ID:Vv6Qt1De
>>571 地名と官職が多いけど、「毛利中納言」宛て家康書状などもあるから、
少なくとも、だいぶ前に読んだ誰の本か誰の論文かどういう主張なの
か分からないものを根拠にして否定できるものではないよ。
福島の高橋先生なら、この書状を否定することはあり得ないと思う。
wwwとか幼稚くさいからやめようよ。秀頼が上にいるのに、家康を
上様と呼ぶのは大変な問題だと思うけどね。
>撤兵時期は南部が最上と起請文を交わした8/13以降
サブの説によると、起請文は真偽不明なのでは。まぁそれはいいや。
19日の家康の帰陣命令は偽文書というのは誰の指摘なのか分からないけど、
時期的にはおかしくないのでは。8月13日の政宗書状というのを知らないので
教えてほしいんだけど、南部の撤退理由が一揆なら、ほかの諸侯は引き揚げなく
てもいいんじゃないのかな。奥南の記述も言い訳くさい感じがあるんだけど。
8月12日の時点で直江は最上表に集まった諸侯が引き揚げるとの情報をつかん
でいるだけで、予言でも何でもないよ。早とちりかもしれないし、実際に帰国し
た諸侯がいるかもしれない。8日に秋田は榊原に対して帰国すると伝えているし。
>早く答えろよ。
長文連投なのに、黙殺するなと言われても何を指しているのか分からないよ。
573 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 15:56:39 ID:odokaVMy
subに論理的なレスを求めても無駄だよ
574 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 17:25:54 ID:zsMyP6z8
>>572 お前ほんとうに往生際が悪いね。
これはあくまで俺の想像だから書かないできたけどもう書くわ・・・
羽柴安芸中納言輝元を短縮して書いてる書状はたくさんあるが
毛利中納言なんて年不明の9/12書状の1通しか見たことない。
一切経5000蔵の一部併せて不足本を輝元が贈ってきた件への返信で
家康がちょっとくだけた感じの書状で返答してる書状。
輝元から家康や秀忠への贈り物の感謝の大半が
宗瑞や幻庵の名が宛名ばっかりで毛利中納言なんて超激レア。
俺はこれ前毛利中納言入道と本当は書かなければならない
決まりを家康がワザと破って面倒だから短縮して書いてると思ってる。
これは同じ経蔵に関わる書状で
1617年に天海が延暦寺定心房経蔵の件で前毛利中納言入道と書いてる書状があるからね。
これ明らかに安芸国を召し上げられた後に書いている書状であって
あえて失礼にも上杉中納言と表記するなら最上と南部は
会津が召し上げられた上杉中納言殿って書いてる意味になる。
それなのに粗略にしないと書くのは明らかにおかしい。
まぁそもそも上杉中納言や宇喜多中納言なんて表記は見たことがないし
会津召し上げられた1614年11/28政宗宛で景勝は自分のことを米沢中納言と書いてるし。
ちなみに秀秋が来る前は輝元は毛利右馬頭で秀秋がきた後は
安芸中納言(輝元)・小早川宰相(隆景)・安芸宰相(秀元)と呼ばれてる。
575 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 17:42:11 ID:zsMyP6z8
家わけ文書では年不詳とされてるけど
その書状は関が原後に大坂城を輝元が明け渡して
輝元は剃髪し幻庵宗瑞と称して秀就に家督を譲っているので
安芸を召し上げられたのが決定し、輝元が出家蟄居する間に
輝元が土下座して経蔵を家康に送って媚びている期間に出された書状で
幻庵・宗瑞でなく毛利中納言と書いてあるなら1601年9/12書状で間違いなく、
前毛利中納言入道を家康が面倒で短縮してるならそれ以降の年に出された書状だよ。
だから出家してない景勝を前上杉中納言入道と書くのはありえない。
よって短縮して上杉中納言とも書くはずもない。
576 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 20:12:52 ID:+6JjrADV
ようわからんなあ
そもそも「上様・中納言様御事」となっている書状は存在するのか?
サブは出典を挙げろよ
577 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 20:38:01 ID:RcHJiGGx
578 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 00:19:14 ID:Ab39xWjM
笑える流れだな
>>523によると「一上様・中納言様御事、粗略存ましき事」と読んでる翻刻があるんだろ?
サブは前上杉中納言入道の短縮が上杉中納言だとかいうぶっ飛んだレスをする前に、
まず「上様・中納言様御事」の出典を挙げろよ
579 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 01:08:46 ID:vypEXRWW
>>574 上杉中納言は失礼な表記で、出家しないとそう書かないの?
レア度で言うなら、この時期の家康を上様と呼ぶのも同じくらいでは。
個人的には
>和賀一揆発生が確認できるのは一次史料上では南部家文書の8/13付の政宗書状
がなんて書いてあるのかのほうが気になるが。
580 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 04:16:09 ID:Asy/QulM
>>578 一上様・中納言様御事、粗略存ましき事
一上杉中納言様御事、粗略存ましき事
この2つの書状が存在していて最上による改変が
成されていると言う話でやはり高橋先生だな。
>>579 お前は自分で書いた「「上様」はおそらく天皇や将軍くらいのレベルにしか使えないはず」って言葉も忘れたのかw
後から言い訳みたいに条件を追加して屁理屈を繰り返すなよwww
そもそも上様・中納言様を秀頼とすると中納言の該当者が備前中納言とか安芸中納言とか
いろいろ出てきて中納言が誰だか予想がまったくつかない文章になる。
会津征伐の下知を受ける相手は家康であり、そうであれば中納言は自動的に秀忠である。
元文が上杉中納言様御事、粗略存ましき事であるなら、
それなら何で最上は上杉に攻められるハメになるんだ?との質問に
お前は
>>539で>>南部だけが上杉に付くという話ではなく、最上にも強要している文章と回答してきた。
それならこの書状を家康に提出したら南部は即改易になるはずだろ?だけど改易されてないのは矛盾してないか?
では二つある書状のことを考えて最上による改変の場合を考えてみよう。
君の主張する上様(秀頼)・中納言様(上杉)にすると、これでは家康に出せる書状じゃなく改変する意味が不明。
俺の主張する上様(家康)・中納言(秀忠)に書き換えて最上の忠誠心をアピールしたかったのか?
直江と戦ってきた以上は改変の必要性があまり感じられない。
上杉中納言様→上様・中納言に改変について非常に疑問だ。
では元文が上様・中納言様、粗略存ましき事であるなら、
君の主張する上様(秀頼)・中納言様(上杉)にすると、やはりなんで上杉に最上が攻められるんだよ?になる。
では二つある書状のことを考えて最上による改変の場合を考えてみよう。
これが俺がずっと主張してる話だな。
上様(家康)・中納言様(秀忠)→上杉中納言様御事に変更すると
南部だけが上杉に付くという話ではなく、最上にも強要している文章になり、
南部が最上に上杉に付くように強要してる文章になり、最上が南部を改易しようと陥れる文章が成立する。
しかし家康は西軍伊達を撃退した東軍南部を改易しなかったわけだ。
それはこの文章の写しを南部が持っていたためだろう。だから2つの書状が存在していると思われる。
まぁ上杉中納言〜が論破されると次は上様(秀頼)・中納言(上杉)〜なんて解釈を持ち出してくるのが笑えるんだが。
581 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 04:26:00 ID:Asy/QulM
>>南部家文書の8/13付の政宗書状は現在の俺の手持ち史料に
ないから転記できないがしかし金子先生の書物を当たればすぐ見つかると思う。
>>8日に秋田は榊原に対して帰国すると伝えているし。
これはウソだろう?秋田実季が片桐且元へ提出した出陣算用状によると
山形へ7/28〜8/28まで1500の兵を出し、別に7/30〜8/15に院内まで2000を派遣している。
「対決之次第」によると実季が院内まで出陣。山形へは館岡・湊らが兵を率いたとしている。
「最上家伝覚書」に8/13南部・8/18戸沢・8/19本堂が義光に宛てて同内容の血判起請文を出しており、
義光からの返書の血判起請文が8/20戸沢宛が残っている。
安東らのもあったはずだが「最上家伝覚書」の編纂した当時は焼失して無くなっていたとされる。
つまり安東は8/21付家康を受け取ってから最上領撤退を始めて8月いっぱいかかったことになる。
実季は家康に状況の報告を8/8に送ったとされる。なぜ「される」のかと言えば、
家康の8/21付け帰陣命令が届いた際にその副状として
8/22付け榊原・有馬・佐々木の実季宛て8/8書状への返書が届けられているからだ。
だから「
>>8日に秋田は榊原に対して帰国すると伝えている」わけがない。
>>サブの説によると、起請文は真偽不明なのでは。まぁそれはいいや。
さてこの血判起請文は8/13付けで、上様(家康)・中納言様(秀忠)であり、
和賀の件で早々と撤退するんだけど南部は一応、他の大名らに先駆けて
家康らを粗略に扱うわけじゃないと血判起請文だけはきっちり書いてから撤退しているわけだ。
でも君の言う上杉中納言を粗略に扱わないとする文章なら、
以後の大名はみんな同じ文章内容の雛形で日付だけ違う血判起請文を書いているわけだ。
こんなもん書いてたら南部どころか本堂や戸沢なんて瞬間的に改易されて消え去るだろ?
しかも義光からの返書の血判起請文にも上杉中納言と書かれていたら最上も危機的な状態だw
最上はまったくの潔白で証拠がない南部を何とか陥れようと考えて
他の大名より早く帰ったことをいいことに他の大名の文章と違い、
南部の場合だけ上杉に内通するので帰るわ!って内容に改竄したんだよ。
582 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 09:03:30 ID:vypEXRWW
>>581 なるほど大変勉強になる。
ただ、上様(秀頼)中納言様(景勝)とは言ってないよ。
秀頼ではなく、家康の事を上様と呼ぶのはおかしいのではないか
と言っているんだよ。
榊原の書状で秋田に「最上まで来たけど帰国するとのこと、もっと
もなことだ」と言っているので8日に帰国する旨を伝えていたーは
嘘ではないよ。最上の言う通りならみんな家康の許可が出る前に引
き揚げた―と怒ってるわけだし。そんな最上も18日にはへりくだ
った書状を上杉に送りながら、撤退する諸侯には家康に忠誠を誓う
起請文を書かせていたというのも不思議だから、上杉中納言様だっ
たものを、後世上様と書き換えた可能性もないとは言えないけど。
それであれば家康が「上様」となるのもよくわかる。まぁ、これは
サブの白石密約説くらいトンデモな話だけど、いずれにしても景勝
が記述している以上、上杉に南部が使者を送ったというのは揺るが
ないと思う。
一揆という理由があるなら、早く帰った南部を最上が貶める必要も
ないだろうし。
583 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 01:19:40 ID:nM6Ff86w
>>580 >この2つの書状が存在していて最上による改変が
>成されていると言う話でやはり高橋先生だな。
高橋先生って高橋明氏のことか?
氏の何という著作にどう書いてあった?
今手元にないとかいいそうだが、どうせ著作をよまずに某ブログをちら見しただけだろ
南部家文書の8/13付の政宗書状の件も同様だが、出典を明かせないようではお話しにならない
>>581 >他の大名より早く帰ったことをいいことに他の大名の文章と違い、
>南部の場合だけ上杉に内通するので帰るわ!って内容に改竄したんだよ。
最上氏の何の史料に「上杉中納言」と改竄されていると?
妄想にひたる以前に前提がなっていない
ついでに
>>523の
(1)政宗は寂光院に有った臼の中へ身を潜めた。 そして隙を見て、裏手から帰った。
(2)これにより伊達代々の尊崇を得てきた寺社が伊達累代の法宝ともども灰燼に帰したのである
この出典も挙げてくれ
584 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 02:52:16 ID:2cj0m0tU
>>582 >>日に帰国する旨を伝えていたーは嘘ではないよ。
その解釈は家康の8/21付け帰陣命令の「副状」であると言う
前提を知らずに解釈するとそうなるのであって、
実際は家康の帰陣命令に従って帰国するのはもっともなことだと言っている。
>>最上も18日にはへりくだった書状を上杉に送りながら、
撤退する諸侯には家康に忠誠を誓う起請文を書かせていた
最上は諸将と違い、早期に家康が撤退を知らせており
その事実を諸将に隠蔽していたのでそういう態度だった。
ただ政宗は陸奥方面にいたので独自ルートで下野国を探り
家康撤退を嗅ぎ付けて和賀の乱を起していたのだろう。
>>一揆という理由があるなら、早く帰った南部を最上が貶める必要もない
「対決之次第」などでもそうだが、最上は戦後に諸将を改易に追い込むべく行動してた。
なんせ甥の政宗が叔父を山形城救援に派兵させたのに
政宗の南部攻めを家康に報告するくらいだし。
>>583 >>出典を明かせないようではお話しにならない
あっそう。勝手にすれば。
>>前提がなっていない
あっそう。勝手にすれば。
>>出典も挙げてくれ
お前みたいに突っ込まれるのが怖くて
自分は何らソースを出して自説を書かないくせに
他人には無礼にも要求するヤツは大嫌いでね。
どうせお前には他人の意見を否定するにたるソースや根拠すら持ってないくせに
ケチだけはつける無知な政宗厨なのは明白だしな。
あと俺は最近忙しくて書き込む数が減ってきてるが
1/31以降に入ると寝不足のままに忙しさに対応できないから
完全に消えるから後は好きなこと書いてくれよ。戦国板を引退するから。
585 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 09:03:53 ID:W9WdZVsW
名物SUBが引退。本当ならさようなら。
賛同できない部分は多かったけど、参考にはなったよ。
586 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 15:03:39 ID:Xkt6W9Vv
sub敗北宣言www
来週から精神病院に入院すんのか?
587 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 15:14:28 ID:6YMwLlmd
引退すんの?つまんなくなるな。
戦国板の過疎が激しくなるなあ。
そういや仙台築城許可って
そもそも宗薫と穴太衆の商売の売上に関わる話でしかないだろ。
営業の宗薫が政宗に提案受注し家康から許可申請を貰って技術集団穴太衆を仙台に派遣してんだから。
588 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 21:01:45 ID:Xkt6W9Vv
589 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 23:24:22 ID:CUsSDrE4
>>513 布施は蒲生氏郷の奥羽仕置従軍メンバー(七軍)に属している。
会津陣物語にも討ち死にの面々は登場し、秀行から帰参を求められて
拒否している。
590 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 09:51:46 ID:DfmVS08o
会津陣物語や東国太平記はデタラメだって主張してたのに伊達厨って…これはヒデェな。
しかも秀行が帰参を求めたのは史実に無く、
完全に「三舎を避く」のパクり話。
伊達の捏造戦果と三舎を避くを会津陣物語が流用して組み合わせだけ。
591 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 19:40:27 ID:h1Ell8uF
>>589 会津陣物語を信じることに変更したのなら下記を事実認定でOKだね。
軍議に納得がいかない岡左内が軍法違反をして寡兵で渡河して
陣を構え呆れられるメンバーに小田切や北川や布施らも参加している。
宇佐美民部が他の蛮勇を持つ者どもの渡河メンバーを引き止める。
岡左内ら400は河を背に2万の伊達二万の大軍に包囲される。
北川が親しい小田切に陣羽織を息子への形見に手渡してくれと頼み突撃して死ぬ。
それをみて北川と親しかった布施も長年の友と一緒に枕を並べようと突撃して死ぬ。
彼らの奮闘に2万の伊達軍は渡河できず大苦戦を重ね
政宗が怒り来るって1人で陣頭に出てきて河を渡れと怒鳴り、
岡佐内を大将と見て背後から背を切り付けてくる。
岡佐内はきっとなって振り返りざまに政宗の顔を目掛けて太刀を斬り浴びせ
政宗の眉の上を覆う部分から具足の胸板鞍の前輪を切り下げて
政宗が怯んで太刀を突き出すところを続けて横に切りつけて折ったので政宗は逃走したが、
岡佐内は「追って組み打ちに持ち込んだら討てるけど雑兵のように武具が粗末なヤツだから価値ないだろ」
と判断して撤退した(伊達の書状はこの時のものと言うことになる)
この後さらに青木新兵衛によって政宗は兜の三日月の半分を叩き割られる悲劇に見舞われる。
のちに政宗が3万石で岡を誘うが蒲生家へ戻ったとする。
謎の人物である小田切加兵衛・・・信州川中島出身で武田家にて高坂弾正に仕えた。
のち家康譜代の臣となり小牧長久手では上半身裸で戦って一躍有名人となっている。
【ここから最大の謎】会津陣物語ではどういうわけか北川や布施たちと共に
蒲生家臣になっており蒲生減封と共に上杉家臣になっているとする?????
のちに伊豆守と呼ばれ前田家にいて冬の陣では真田丸攻め参加してるのは確認済み。
布施の死について・・・このくだりは小田切を悪く書くこと&岡佐内の武功を記すことに意味がある行。
小田切は同じ蒲生衆の親しい間柄の北川の討ち死にを見て布施ら他の蒲生衆が見捨てずに死んだのに
こいつは生き延びたと批判する一方で同じ境遇の岡佐内は批判しないどころか褒める。
その他Aの布施はモロにザコキャラで彼らを描くために添えられただけの存在。ちなみに彼らは景勝衆ではない。
会津陣物語は幕府老中の酒井讃岐守忠勝が幕命で各藩から史料提供させて公式に編集したもの。
その論旨は直江兼続を天才だが悪人に描き、仲が悪い安田上総の軍功を握り潰したりする姿が描かれる。
幕府は直江を許せば、他の藩でも西軍に通じた大勢の家老達が安心するから許したとしている。
この戦の結果について家康の考えは
「中沢主税を派遣して伊達では上杉に勝てないから戦わず固く守れば、それだけで百万石の加増をするつもりだったのに
8回も負けるとは言語道断なので約束の沙汰もしなかった。また上杉については
西国に組した者どもはみんな陳謝しているのに上杉は少しも怯まず伊達に勝ち続け、今に至るまで姿勢を変えないのは
真に武門だとして召しだしたいとして本多佐渡守を通じて
「およそ天下を望むことは、弓矢を取る侍の常であるので咎めることはない。
その上に景勝は初めから逆臣を抱いてないないのは知っている。」と言わせ
景勝が「ご赦免でも切腹でも家康の好きなようになされ」と言ったの和睦になり
家康は「本領を変える必要はまるで無いが、外部の者への教えのために・・・」と転封にした。
592 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 21:09:26 ID:Ml8u3hDM
sub引退したんじゃないの?
まぁしないと思ってたけど。
会津陣物語を全面的に信用しているのではなく、わざわざ討ち死にさせる
ための架空の人物を登場させる必要はないでしょうということ。
そもそもsubは伊達の史料によるデタラメと主張していたから、そうでは
ないということで会津陣物語を出したんだよ。会津陣物語は慶長6年3月
に戦闘があったことも記していて、読み返したら意外にあなどれない部分
もある。
水原の覚書にも「蒲生譜代の衆」の連中は登場するし、奥州仕置の編成に
布施の名が出るのは蒲生氏郷関係の本で、会津陣物語じゃないよ。
>景勝衆ではない
意味不明
593 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 13:20:49 ID:L1XODm+b
さんざん東国太平記は信じられないとか書いておきながら
都合がいい部分だけは信じるんだなこの基地害政宗厨ってw
そうなると唐突に「読み返したら侮れない部分がある」とか言い出しちゃうんだw
あと下記の文章は都合が悪いから黙殺認定してんの?
>>蒲生譜代で問題ない。
お前はやっぱり日本語不自由だったんだなw
俺は蒲生家臣が上杉側にいること自体は否定してない。景勝衆にそんなヤツらいないと言ってる。
だから会津衆とか書いてればまだマシだったのに・・・そういや成実は越後衆と戦ってたなwと書いた。
自分の意に沿わないヤツはみんなSAB扱いとか笑えるw
カキコミ時間帯で考えてもSABじゃねーことくらい低脳政宗厨には理解できないの???
594 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 18:01:04 ID:0LIDpHee
痛々しすぎるぜ、サブおっさん
会津陣物語が幕府の公式記録つうのも笑せてもらったw
595 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 20:30:36 ID:/X/7RChW
>>593 SUB語は不自由なんだが、「蒲生家臣が上杉側にいること自体は否定していない。
景勝衆にそんなやつらはいない」ってのはどういう意味?
蒲生旧臣たちは独自に戦って戦死したという意味なのかな。
景勝衆という表記がおかしいという意味なのか。
どんな史料または研究書に基づいてそんな説を唱えているのか。
596 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 18:52:36 ID:Iq978DIL
597 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 10:37:35 ID:hERDNd8a
>>580 >一上様・中納言様御事、粗略存ましき事
>一上杉中納言様御事、粗略存ましき事
>この2つの書状が存在していて最上による改変が
>成されていると言う話でやはり高橋先生だな。
読んだらSUBの主張とは正反対で「上杉中納言様」のほうを採用し、
「上様・中納言様(家康・秀忠)」としているものは信用しがたいと
主張しているね。
598 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 15:17:08 ID:IBgm5iRR
>>597 俺も読んでみたいから本のタイトル教えて。
599 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 19:43:54 ID:Or+UB/BA
600 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 22:22:16 ID:hS05Qj/c
>>597 高橋明
「上杉景勝・直江兼続の戦い
ー奥羽越の関ヶ原支戦にみる情報伝達のタイム・ラグー 」
(福島大学史学会09年度大会)
ただ、この書状に関しては数行で終わりだよ
601 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 10:24:45 ID:GQvS15f9
>>600 その先生は最上擁護に必死にしか見えないような…
その解釈に照らすとSubが指摘していたように
その後すぐ最上が上杉に攻められるから論として崩壊してしまい整合性がとれないと思いますが。
602 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 22:03:09 ID:k8d9KZJs
>>601 最上擁護に必死とは?何か勘違いしているのでは。
擁護するなら上様のほうにして、終始東軍で頑張ったって言えばいい。
「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾」も読んだら、高橋先生はやはり家
康を当時「上様」と呼んでいる史料がないことや、掲載する史料では本
来は奥羽諸侯がやってきていない場所に関所を設けて起請文を集めたと
書いていることから疑問を呈している。
最上は実際に上杉にへりくだった書状を送るなどして、攻撃されないよ
うに動いているわけだから整合性がとれないという話にもならないよ。
603 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 22:55:44 ID:GQvS15f9
>>602 いやいや最上義光歴史館が義光がへりくだった文書を書いたとするのは
上杉側の捏造文書だと断定してるよ。
604 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 23:15:08 ID:aiWlDKwe
>>603 >>601の言を借りると
最上義光歴史館は最上擁護に必死にしか見えないような…
といったところかw
605 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 23:24:20 ID:GQvS15f9
>>604 出たよ義光歴史館貶し。
Sab君は引退したはずなのに
また最上批判キャンペーン開始かよ。
よく飽きないな…
606 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 23:56:01 ID:aiWlDKwe
何をいってるのかわからないw
607 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 23:58:23 ID:GQvS15f9
>>606 当時、義光記念館を批判して孤立してたのSubだけだったしw
608 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 00:17:32 ID:elF/7lq1
>>601>>602 いや高橋氏の話は最上擁護に見せかけて実は政宗擁護。
その説によれば、奥羽で伊達だけが家康に忠義を尽くして
西軍の南部と上杉の挟撃を打破して派手に無双したことになる。
そこまで縦横無尽に活躍しながら
百万石の約束が守られないと言うのは明らかに辻褄が合わない。
それに当時、家康を上様と呼ばれてないなら、
書き換える意味が無いしウソ書状とバレる理由になる。
609 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 01:26:42 ID:Pq2Y4J7e
読んでない人が混じって話がおかしくなってるけど、
>>601は高橋先生と最上歴史館の片桐先生を混同しているのかな?
高橋先生は最上を擁護している訳でも政宗を擁護している訳でもない。
片桐先生は最上のへりくだった書状を「不可解」「異常」だと主張して
いるけど、傍証となる直江の「最上が懇望してきたので出陣を延期する」
とする書状などがあることには触れていない。へりくだった書状の内容の
「ここがおかしい」という検討は見るべきものがあるけど、同様の書状が
あったことは間違いないんだよ。
610 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 01:27:36 ID:+8nIkW15
>>ID:GQvS15f9
>>ID:elF/7lq1
支離滅裂すぎるぞ
sub本人だろw
611 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 10:55:47 ID:elF/7lq1
じゃあ落ち着いて冷静に纏めてみようか。
片桐氏の論なら上杉の捏造文書であり、義光が降伏文書を出す卑怯者では無いし、
もしやってたら戦後に問題視され家康に改易されてるはずだと指摘しているから、
おそらく景勝家臣の直江へ懇望したのは義光の意志では無く、
独自ルートを使った最上家臣から景勝家臣の直江への打診程度のものだろう。
だから結局、最上は上杉に攻められることになった。
そもそも直江書状には義光からと書かれてないどころか誰から懇望されたかすら書かれてないし。
だからこそ上杉からの家康へ問題書状の提出により問題視され最上改易にならないどころか、
上杉の捏造文書なんて存在してないから加増されたと片桐氏は言ってるのだろう。
高橋氏の説に至っては、
最上が南部と一緒に上杉への内通文書を取り交わしたはずなのに
最上が上杉に懇望するのはまったく辻褄が合わないし、
結局は上杉に最上が攻められてるんだから高橋氏の論が破綻している事にはなんら変わりがない。
612 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 12:59:01 ID:Pq2Y4J7e
>>611 破綻しているというのは論文を読み、反論できる材料を持つ人間だけ
が言えることだよ。
「義光が降伏文書を出す卑怯者では無いし、 もしやってたら
戦後に問題視され家康に改易されてるはずだ」
このへんは史学的な根拠にはならない。戦後に問題視というのは、
上杉家がこの文書を徳川に提出したり、内容が実際に実行された
場合の話。
「おそらく景勝家臣の直江へ懇望したのは義光の意志では無く、独自
ルートを使った最上家臣から景勝家臣の直江への打診程度のもの」
すでに最上攻めの方針は固めつつあった状況で、義光の意をくんでない者
が勝手に打診してきたのを受けて出陣を延期するとは考えにくく、そもそ
も根拠がない。9月4日の懇望だけでなく、9月8日付直江書状では「最上
が(約束を)延ばし延ばしにしてるからもう攻撃するよ」という書状を清
野に送っている。
東北ではいきなり家康が反転して大勢力の上杉が残り、上方からは内府ちが
ひの条々が送られてくる。「上杉が公儀の軍で家康は逆賊ですよ」という豊
臣奉行衆の書状が届いて、最初からずっと「俺は家康様についていく」と考
えるほうが不自然。みんな手探りの状態で上杉にも家康にもいい顔をして、
情報収集に努めていたと考えたほうがいいと思うけどね。
ちなみに片桐氏の偽書説と同時期またはそれ以後に出された本や論文を見て
も、どれも偽書説は無視、または慎重な態度を示している。
613 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 13:20:36 ID:elF/7lq1
>>612 君は中立性を欠いているように思える。
君は故意に「少々」の言葉を隠蔽して書かれていて不信…。
片桐氏の意見にも根拠はあると私は強く感じる。
なぜなら直江はわざわざ「少々」懇望と過少評価して書き送っている。
これは義光による正式チャンネルからの交渉では無いことを意味している。
高橋氏の話はいつもの政宗持ち上げ提灯記事でしかない。
それが事実なら政宗は確実に百万石の加増が成されているはずなのは間違いないところである。
614 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 20:38:03 ID:Pq2Y4J7e
>>613 関係ない伊達の話に持っていくあたりsub臭がするな
「最上表へ攻めようとしたところ、少々懇望してきたので延引している」
「最上表へ攻めようとしたところ、懇望してきたので延引している」
隠ぺいして何か意味が変わったかな?逆に「少々」に「正式チャンネルでない」
という意味を持たせるのはいかにもsub的解釈。
>片桐氏の意見にも根拠はある
それは当然そうだ。どのへんにそう感じるものがあるのかな?
615 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 12:00:21 ID:+8ZgDGjq
>>614 なんか君みたいに論理的な理性が無く
とにかく個人的私怨からSabに対抗して
ひたすら真逆の意見を頑なに吐き続ける頭の悪い人がいるから不毛な議論になるんだろうね。
しかしSubは横浜市民と言っていたし【戦国時代の南部氏について語り合う】スレの385レスなどを見ると
とてもじゃないが
>>611>>613が神奈川県民とは思えないし、
現地の北東北に住んでないとほぼ知り得ないレア話を書いてる。
さらに書き込み時間によるSub鑑定が可能だが、
彼は深夜早朝午後に書き込むが午前中に書き込むこと自体が絶対に無いから
>>601や
>>611らがSubである可能性は極めて低い。
だから書き込みが激減する深夜帯にわずか1分差で書き込む
>>609>>610の自演臭がする方がむしろSubなのではないかと疑わしいくらいなのに…。
よってSab認定にさしたる根拠は無く自分に都合が悪い意見をすべてSab認定して排除しようとしてるとしか思えない愚劣ぶりで荒らし行為そのもの。
まだ天地人の大河が放送してた時期の最上スレでの状況を考えれば
>>607の認定方法の方にこそ根拠があると客観的に思える。
616 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 17:05:42 ID:PnUDzsXd
>>615 愛知県安城市在住無職おっさんsubが必死すぎてワロスw
なにこのキチガイ文章
617 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 17:36:45 ID:jjShqAz1
618 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 22:43:17 ID:PnUDzsXd
619 :
604:2011/02/16(水) 23:42:59 ID:gc3giDoF
>>604>>606>>610は俺のレスだよ
>>604のレスは、
>>601が読んでもいない高橋明説を
> その先生は最上擁護に必死にしか見えないような…
と批判しておきながら、一方
>>603で
> いやいや最上義光歴史館が義光がへりくだった文書を書いたとするのは
> 上杉側の捏造文書だと断定してるよ。
と義光について、最上義光歴史館(片桐繁雄)の説を持ち出す
我田引水ぶりを揶揄したつもりだったんだが通じなかったらしいw
高橋氏を批判するのは勝手だが、とりあえず論文を読んでから批判しろよ
620 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 02:02:52 ID:U56lSxLB
>>615 私怨とかって自意識過剰では?
subの知識自体は買ってるし、論が近い部分もある。
そもそもsubでもsubじゃなくてもいいから、史学的な反論をしたら
いいんじゃないのかな。俺はsubじゃないアピールなんてどうでもいい話。
621 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 12:15:11 ID:d5OqpEhn
>>600 たかが数行で終わる話で
しかも整合性が完全に破綻している高橋氏の奇説政宗マンセー論を
わざわざ出向いて読むなんて価値は無いだろ…
>>575>>581に書いてある内容は非常に合理的に感じる。
622 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 14:14:36 ID:TVqHsr6+
623 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 20:36:27 ID:U56lSxLB
>>621 読んでないのに奇説政宗マンセーなんてよく言えるな。
高橋先生は松川合戦について、軍記物に書かれているものは
10月7日だけでなく、翌年3月まで何度も起きた攻防が混
ざったものではないかと指摘しているし、政宗マンセーなん
かではないよ。
624 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:28:58 ID:w1+n/YZ0
未読の論文を批評する特殊な人に何をいっても無駄かと。
そのうち「じゃあ、お前がソースを出せ」とか言い出しそうだし、サブの場合。
625 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 23:58:20 ID:U56lSxLB
最新の学説を読まずに批判できるのはある意味すごい
>>613は「高橋氏の話はいつもの政宗持ち上げ提灯記事でしかない。
それが事実なら政宗は確実に百万石の加増が成されているはずなの
は間違いないところである」と言っているが、高橋氏は百万石のお
墨付きなんてのは政宗はむしろ喜ばなかったという論者なので、違
うよ。
626 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 13:17:13 ID:SUoHoNWl
あーくだらん。
高橋は我田引水してるだけ。
最新の学説?誰も支持してない奇抜な説なだけです。
そもそも百万石の話にしたって苦し紛れに家康が百万石の話と翌日に尾張表の話としてさらに出した2通の文書を一緒に届けたとした上で
2週間後に政宗が出したあまり嬉しくないと書かれた文書を
その返書だと無理やりつなげただけ。
その間には美濃表での井伊からの戦況報告について家康が政宗に出した書状などを無視してる。
百万石の話も上杉と南部に大敗し諦めていた政宗だったが、佐竹や相馬の転封や改易に期待して秋口に入りまた期待し始めて言い出してるし
百万石の書状を大切に保存してることから政宗が百万石を望んでなかったなんてことは有り得ない。
政宗を擁護する為に無理やり百万石加増されなくて良かったと話を作り替えてるだけ。
627 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 20:41:50 ID:bX/3m1PS
いい加減なレスをつっこまれて後に退けなくなるsubお決まりのパターンw
読んでいない論文を批判とは確かにくだらなすぎる
628 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 00:29:29 ID:7rPdyW6I
>>626 高橋氏は8月22日付のいわゆる「百万石の御墨付き」の書状にある「御家老衆集
へ宛がわれべき為、之を進らせ候」という文言は、政宗にとって喜ばしいもの
ではなかっただろうといっているだけで、「政宗が百万石を望んでなかった」
などとは一言も言ってないだろ?
> その間には美濃表での井伊からの戦況報告について家康が政宗に出した書状などを無視してる。
8月26日付の徳川家康書状等を指しているようだが、それらの書状のどこがどう
高橋氏の説を否定していると?
高橋氏の説を捏造していないか?
629 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 00:56:18 ID:7rPdyW6I
>>581 > しかも義光からの返書の血判起請文にも上杉中納言と書かれていたら最上も危機的な状態だw
> 最上はまったくの潔白で証拠がない南部を何とか陥れようと考えて
> 他の大名より早く帰ったことをいいことに他の大名の文章と違い、
> 南部の場合だけ上杉に内通するので帰るわ!って内容に改竄したんだよ。
南部利直と最上義光とで交わされた起請文の前文に「上杉中納言様御事、疎略
在ましき事」とあるんだろ?
「南部を何とか陥れようと考えて」「南部の場合だけ上杉に内通するので
帰るわ!って内容に改竄」した結果が、起請文前文にある「上杉中納言様御事、
疎略在ましき事」という文言といたいわけか?
最上は自分で自分の首をしめることをしたということね。
何をいいたいのかわからないw
>>575でいう前上杉中納言入道の短縮が上杉中納言という話も意味不明だし。
にもかかわらず
>>575>>581を「非常に合理的に感じる」という
>>621も何だかなー。
630 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 02:40:16 ID:so6m941W
>>626 福島や米沢では結構高橋氏の論の影響は見えるけどね。
「政宗を擁護する為に無理やり百万石加増されなくて良かった
と話を作り替えてるだけ」と繰り返し主張しているけど、どの
へんが擁護していると感じるのかな。高橋氏の論文は割と淡々
と史料を追っていく感じだと思うけど。
史料だけでなく他人の論も曲解してしまっているのでは。
会津征伐の際、白石城は(subだけが唱える密約ではなく)合戦
で奪われたと言うだけで、伊達擁護ということになるんだろうか。
631 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 04:51:43 ID:zgUbGJNS
上杉が福島表で伊達に野戦で大敗したことが徳川へ和睦へ直結したことは間違いはない。
対最上戦で長谷堂で負けたのも当然の事。戦術的には上山でも大敗している。
632 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 08:17:00 ID:so6m941W
破竹の勢いで進撃しても結果的に最上を降せなかったのだから、最上攻め
は上杉の敗北・失敗と考えていいのだろうけど、同様の考え方なら、結局
は上杉包囲網を敷いた会津征伐時にしか成果を挙げられていない政宗が1
0月の福島表の戦いで城も取れていないのにで大勝利したなんて話にはな
り得ないよね。満足できていないからその後何度も攻撃してくる訳で。
具体的な軍事行動に出ている訳だから当然脅威ではあるだろうけど、
その度に退けているのだから、福島の野戦で敗れたことが「和睦に直
結したことは間違いない」なんてのは根拠のない妄言だよ。
633 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 09:15:39 ID:Y7Uesp9F
直江くんはね、無能なんですよ。
634 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 20:08:29.87 ID:0fS0rtFM
>>628 >>一言も言ってないだろ
何言ってんの?高橋は「か様の事も有る物にて候哉 大慶共申されず候」
の文面をもって望んでないと判断しているんだよ?
>>書状のどこがどう高橋氏の説を否定していると?
8/23・8/26で家康が書状を出しているし、
現在に伝わってない書状もあるかも知れないのに
家康8月22日書状の返報が9月7日付政宗書状だと決め付けることが理解不能だよ。
>>629 以後の大名はみんな同じ文章内容の雛形で日付だけ違う血判起請文を書いているわけだ。
上記のように書かれている以上は、その後の戸沢や本堂との書状を最上は家康に見せれば無問題でしょ。
そもそも戦後に最上と家康は結託して奥羽諸将を改易しようとしてたのは明らか。
最上が家康の意を得ようと改竄したが、南部の忠義を知っている家康が採用しなかったから
南部は改易も転封もなかったってことだろうね。
>>上杉中納言という話も意味不明だし。
>>574>>575を続けて読んでみれば納得できる話じゃない?
なんでイチイチあなたはちゃんとした理由や説明をしないくせにケチばかりつけて回ってるの?
>>630 結局、
卑怯にも最上までもが上杉に内通し政宗は孤立無援だったが
孤高にも南部や上杉と挟撃の危機の中で忠節し家康のために無双して大活躍した。
百万石なんて政宗は最初からいらなかったのは明らかで、
家康に政宗は騙されたわけではなく終始政宗の思惑通りにすすんだ。
こういう政宗歴史歪曲ストーリーでマンセーしたいだけで作られた虚説でしょう。
635 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 20:56:10.91 ID:BrL3TNOe
>>634 残念。最後のところが違う。
悪魔の義光が南部とともに上杉に降伏し土下座したのを隠蔽し
関ヶ原勝利のために上杉南部最上を牽制した憎き政宗を改易するために
書状を書き換えた結果、
最上と南部は家康に忠孝したが
クズ政宗が上杉に味方して南部を攻めたキチガイだと家康に歪曲報告したので
本来は南部と最上を改易して伊達が百万石以上の大国になるはずだったのを潰された可哀想な政宗と言う脳内ストーリーが高橋説
636 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 21:46:32.40 ID:so6m941W
読んでない論文をよくここまで自己流に解釈できるものだ。
637 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 06:25:45.87 ID:9KGY+i76
慶長5年10月6日福島表で伊達に大敗した上杉は福島城虎口まで追い込まれ、
完全に掃討されている。徳川家康と伊達は上杉をポーランド分割のように割譲する
つもりだったろうがが、上杉の降伏でその線は惜しくも消えた。
仙台という位置は、政宗が伊達・信夫一帯を支配する意図があったことは明瞭だな。
638 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 10:48:15.91 ID:qMZvfWNV
>>634 > 何言ってんの?高橋は「か様の事も有る物にて候哉 大慶共申されず候」
の文面をもって望んでないと判断しているんだよ?
だから捏造しないように。
高橋明「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾」
〔8月22日付家康覚書の〕「御家老衆集へ為可被宛行」の所領進呈は、伊達
離反の不安が膨らむなかで、その家中を引き留める算段であろう。しかし
ながら、これが行われるならば、重臣等は両属の観念を抱くこととなり、
主従制・家中統制の弛緩を招来することとなろう。合わせて49万石、
現伊達領の8割余に及ぶ。内政干渉に途を開いて、政宗の喜ぶところでは
有り得ない。「大慶共不被申候」の文言は、このことへの難色を示した
ものと考えられる。
> 8/23・8/26で家康が書状を出しているし、
> 現在に伝わってない書状もあるかも知れないのに
> 家康8月22日書状の返報が9月7日付政宗書状だと決め付けることが理解不能だよ。
8月23日付家康書状について高橋氏は触れているのであしからず。
8月23日・8月26日書状、及び「現在に伝わってない書状」が仮にあったとして
(なにそれw)、それがどう高橋氏の説を否定すると?
書状の内容にも触れず「ほかの日にも書状を出している」「他に書状が
あったかも知れない」とかいわれても、それこそ理解不能だよ。
> 以後の大名はみんな同じ文章内容の雛形で日付だけ違う血判起請文を書いているわけだ。
そうなのか?ソースを出してくれ。
639 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 10:51:37.78 ID:qMZvfWNV
>>634 > 上記のように書かれている以上は、その後の戸沢や本堂との書状を最上は家康に見せれば無問題でしょ。
それをいったら、南部は義光から利直宛の起請文を出せばすむ話だろうし、
そんなことがわからない最上でもあるまい。
>>634(やサブ風)の妄想レスをまねると次のようにもいえるのでは?
仮に最上が改竄したのなら、南部を陥れようとしたかどで最上は家康に
改易されていたはずだ。最上が「上様・中納言様御事」を「上杉中納言様」
に改竄したというのはデタラメだろうね。
>
>>574>>575を続けて読んでみれば納得できる話じゃない?
ぜんぜんw。意味不明すぎる。
なぜ上杉中納言入道の短縮が上杉中納言といえるのか?
本来「上杉中納言」という言い方をしないのであれば、なぜ最上はそれを使ったのか?
> なんでイチイチあなたはちゃんとした理由や説明をしないくせにケチばかりつけて回ってるの?
論証できていない相手に何をしろと?
> 卑怯にも最上までもが上杉に内通し政宗は孤立無援だったが
> 孤高にも南部や上杉と挟撃の危機の中で忠節し家康のために無双して大活躍した。
高橋氏は政宗も上杉と交渉をもった可能性を指摘しているので、その高橋氏は別人だと思うよ。
高橋明氏は「上杉氏を除くすべての大名が、双方に通じつつ、いずれに就くべきか
探った」という風に見ているんじゃないかな。
あなたのいう高橋氏が論じる政宗の「無双して大活躍」とやらのソースを出してくれ。
>>635 妄想がすぎるよw
640 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 12:50:14.63 ID:QmpmAByS
上杉中納言は珍しいけど間違いではない。一方、豊臣政権
の大老職である家康を「上様」と呼ぶのは非常に違和感あり。
高橋氏の指摘通りこの時期の家康を上様と呼ぶ例はない。
家康を「上様」にしている点も、後世書き換えられた感じが
してしまう。何の意図もなく、単純に「杉」と「様」の写し間違い
の可能性もあるけど。
高橋氏の「乾」ではだれがいつどんな書状を送ったというのを羅
列している感じ。家康が去り、直江が「内府ちがひの条々」をば
らまいて、最上や伊達を含めた上杉包囲網が動揺した様子を時系
列を追って淡々と書いている印象。政宗無双だとか個人的な意見
はほとんどないのだがな。
歴史研究家とは思えない同名の人がブログで政宗のことを書いてい
るけど(内容は専門的ではない)、それを見て勘違いしたのだろうか。
>>638 他家との起請文は高橋氏も触れているよ。
家康に忠誠を誓うという内容ではなく、お互いに裏切らない
ようにというものだけど。
これを以て、景勝や直江の書状の内容とも合致する「上杉中
納言様」の起請文を否定することはできないと思うけどね。
641 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 13:40:43.72 ID:qMZvfWNV
>>640 >他家との起請文は高橋氏も触れているよ。
高橋氏が挙げている戸沢文書のことかな?
あなたのいう通り、これをもって「上杉中納言様」の起請文を否定することは
できないと思うけど。
そのうち謎の第三者が出てきて俺にソースを求めてくるかもしれんが、「最上が
上杉中納言と改竄した」という主張者及び高橋論の曲解君はソースを出してくれ。
結局高橋論文を未読のままでは始まらないよ、当たり前のことだけど。
642 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 14:17:36.11 ID:xt8Nrjr7
>637
伊達側の記録にも、福島城で退けられ、わずかな兵で帰ったと書いてあるのに。
643 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 15:20:27.09 ID:2SN7+C5g
あのさー市販されてもいない、市販書にも引用されてもいないマイナー本を持ち出して
読んだと称して2つのIDでずっと自演してるやつなんなの?
戦国板はSubだけでなく一般人も読んでるんだが?
秘密主義にしてるとどっちが正しいか全くわからないんだが、
明かすとなんか不都合だから秘密なのか?
すでに論破されてるから明かせないと疑惑が生まれるだけだろ。
まあ不都合になると俺までSub扱いすると思うが。
644 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 16:53:52.61 ID:H+2LixHq
>>583 >>(1)政宗は寂光院に有った臼の中へ身を潜めた。 そして隙を見て、裏手から帰った。
(2)これにより伊達代々の尊崇を得てきた寺社が伊達累代の法宝ともども灰燼に帰したのである
この出典も挙げてくれ
たぶん下記じゃないの?
>信夫山が焼き払われたのってどのタイミング?
「寂光寺羽黒山因縁記」「富田文書」「第一次寂光寺事件文書」などを研究した梅宮茂
(梅宮氏は政宗が本陣を置いた黒沼神社、その神主の末裔)は
信夫山の社寺、山伏村、民家が全て上杉により一字も残さず焼き払われ、
山上の 宮人、六供坊らすべての山伏が政宗に付き従い、北目へ向かったと明らかにしている
上杉側の記録にも「政宗陣所(黒沼神社)を襲い、悉く焼き払」ったいう記述もあるので、
政宗が敗走を開始する混乱の最中に、上杉による焼き討ちが行われてる
>どういう意図と効果があったの?
松川合戦において、伊達軍と共に、北目へ遁走した信夫山(別名・青葉山)の山伏達
彼らは11代持宗以前から代々伊達家に尽くし、血の繋がりが深い者達も多かった
伊達氏も米沢、三春、伊達の総鎮守として、代々厚い信仰を捧げてきた関係
これら伊達氏が築き上げた影響力が松川合戦で焼き払われ、 北目へ叩き出された事実
上杉家が梁川〜伊達〜桑折〜信夫そして福島まで跨る信達地方への支配を浸透させる上で
絶好の機会を政宗が与えてくれた
よって政宗が愛宕神社前に本陣を据えていた最中、
羽黒山全体に火の手が回ったと考えるのが自然。
というのは、全焼してしまった黒沼神社に属していた神主の末裔である
梅宮茂氏によると それまで伊達氏の尊信を集め、且つ
伊達氏によって総鎮守と定められ、繁栄を極めた羽黒山一帯の社寺には
累代の伊達氏が捧げた願文、宝剣、鎧といった宝の数々が納められていた。
しかし松川合戦の折、これら貴重な史料の数々が灰になってしまった〜
と、歴史家兼考古学者でもある梅宮氏は述べられている。
本来なら、父祖伝来の宝物を放置する筈はない。 陣払いする際に、仙台へ持ち帰る筈。
しかし政宗は、この伊達氏にとってかけがえの無い社寺を焼かれたばかりか
歴代の当主が納めた、宝物を回収する事すら叶わなかった。
領主にとって、敵に氏神を焼かれるのは屈辱以外の何物でもなく、恥。
羽黒山から立ち昇る黒煙は、伊達、信夫、梁川、福島における伊達氏支配の終焉を意味していた。
そして黒沼神社は上杉氏によって再建される。
645 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 16:57:35.53 ID:H+2LixHq
>>638 「か様の事も有る物にて候哉 大慶共申されず候」
の文面をもって百万石を望んでないと判断しているんだよと言ってることには変わらないでしょ。
そこで無理やり分ける意味がわからない。
それに
>>626でも言及しているようだが、それに加えて、伊達が転封で石高激減が原因で嫌気がさして
伊達成実・国分盛重・鬼庭綱元・遠藤宗信ら重臣の出奔が相次いだ事実も無視した暴論。
>>8月23日付家康書状について高橋氏は触れているのであしからず
頭が悪くて日本語が理解できないのか?前提として
>>626で「2通の文書を一緒に届けたとした上で」と書いてある。
一緒に届けたとまるで副状のような歪曲をすることで23日付家康書状に触れないようにしたと主張してるのは明らかでしょ。
>>そうなのか?ソースを出してくれ。
前に金子云々と書いていたからおそらく下記。
平成20年3月に金子氏の関が原合戦「慶長五年奥羽合戦」においてこれらは同じ文面で日付・署判部分のみが違うと述べている。
>>639 >>南部は義光から利直宛の起請文を出せばすむ話だろうし
義光からの起請文は8/20付けで文言も政盛が義光に宛てたものと多少異なり
しかもそれは戸沢政盛に宛てた起請文しか存在しない。18日戸沢19日本堂が義光に起請文を提出してるので戸沢本堂は貰っているだろう。
南部はそれ以前13日に起請文を出した後に帰っている。
>>ぜんぜんw。意味不明すぎる
会津を召し上げられた上杉中納言などと書状で書いて敬った表現とあくまでも主張するわけなの?
なんで会津中納言って言う単語をわざわざ抜いてんの?
>>高橋氏が論じる政宗
結局、政宗が家康から百万石の詐欺にあったわけじゃない!
政宗は最上や南部の悪巧みの書状修正で陥れられた被害者!
上記の立場で書いてるだけで擁護そのものなんだが。
以前主張してた百万石の約定は切り取った分のみ百万石を上限に加増する約束だったんだよ!
とする仙台の政宗擁護研究の進化Verに過ぎない。
>>640 家康を「上様」とすると中納言は秀忠とすぐ理解できるが、
上様をそれ以外とするなら中納言は誰を指してるかさっぱり分からないまったく意味不明文書になり不自然。
義光は4つの中傷を挙げて安東を改易に追い込もうとしてるし、その裁判を行う大久保相模宅に当日に
安東が出席すると、大久保相模と義光が家康の鷹刈りのお供で欠席と言う家康・義光が裏でつるんだ政治裁判になってる。
義光の中傷を受けた戸沢は家康と異常に親しい金森長近が
戸沢政盛は以前に我が子に仕えていたことに免じて許して欲しいとのことで助かった。
南部に関しても義光は伊達&和賀の乱への対応でいっぱいいっぱいだった南部の事情を黙殺して
小野寺攻めで日帰りしてアリバイ作りをしただけだと中傷したりしてる。
義光が南部を陥れようと文書を改竄する動機はちゃんとある。
646 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 17:48:29.04 ID:QmpmAByS
上杉中納言を「会津を没収された中納言」とよくわからない解釈を
してしまうのはどうなのかね。
上杉中納言もレアなら家康を上様と呼んでしまうのも例がない。
家康を「上様」と呼んでしまっても大丈夫だという根拠はなんなの
だろうか。上様が武家の上位の者を敬っただけの呼称なら、乱発さ
れているはずだけど。
高橋氏の論文が政宗を擁護するものだという根拠がいまだ示されて
いないのだが、どのへんがそうなのかな。自己流の解釈で、「上杉
中納言」のほうの起請文を信じるやつは伊達厨だとみているだけでは。
高橋氏が論じてるのは最上も伊達も南部も秋田も家康に置き去りにされ
た諸将はみんなどうしていいかわからずに動揺して帰国し、とりあえず
上杉にも通じていたことを書状を通じて淡々と明らかにしていっている
だけで、伊達だけずっと東軍として頑張ったという話ではないと思うけど?
>>643 秘密主義とはどういうこと?
たしかに「乾」は旅行のついでに入手した地元じゃないとなかなか手に入
らない論文だけど、米沢上杉文化振興財団「直江兼続人と時代」にも高橋
氏系統の論の影響が出ているし、先日出版された中田正光・三池純正「北
の関ヶ原」でも参考文献に挙げられ、この本でも「上杉中納言様」のほう
を採用して東北諸将の動揺ぶりを記述しているよ。
前者は米沢の博物館のオンラインショップで買えるし、後者はアマゾンで
も買える。このようにサブ?の言うようなだれも相手にしない奇説を唱え
ている研究者じゃないよ。
サブ?自身、「上杉」起請文を否定するために、高橋氏が起請文に「上杉」
「上様」の2種があることを書いてた―と持ち出したので、読んでみたらサ
ブ?の言うのとは真逆の「上杉」のほうを採用していた。それが明らかにな
ったとたんに、今度は高橋氏は伊達擁護だなどと喚き始めた。
647 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 19:09:04.74 ID:H+2LixHq
上様は乱発?ちょっとまて、君はまた意見を変えてるのかな?
>>563への反論である
>>564に対してソースを要求し
>>569でソース出されて
論破されたから突然に意見を変えたから
>>571で
>>お前は自分で書いた「「上様」はおそらく天皇や将軍くらいのレベルにしか使えないはず」って言葉も忘れたのかw
後から言い訳みたいに条件を追加して屁理屈を繰り返すなよwww と指摘され
>>574>>575でさらに論証を進めていたら、また平然と前回の指摘が無かったかのように変えた意見を持ち出し
>>580でまた>>お前は自分で書いた「「上様」はおそらく天皇や将軍くらいのレベルにしか使えないはず」って言葉も忘れたのかw
後から言い訳みたいに条件を追加して屁理屈を繰り返すなよwww と再度の警告を言われてその後は黙殺。
今回また同じ発言するならその前に
>>563について解決すべきだろう?
いい加減に「上様」はおそらく天皇や将軍くらいのレベルにしか使えないはずと断定するソースを出すべきでしょ。
>>自己流の解釈で
ソースを要求してきたから回答した同じ文面で日付・署判部分だとする点は完全黙殺してるのはどうなんだ?
不利になると毎回、そうやって話を逸らすんだな。
何度書けば分かるんだ?下記に書いてるだろ。
結局、政宗が家康から百万石の詐欺にあったわけじゃない!
政宗は最上や南部の悪巧みの書状修正で陥れられた被害者!
上記の立場で書いてるだけで擁護そのものなんだが。
以前主張してた百万石の約定は切り取った分のみ百万石を上限に加増する約束だったんだよ!
とする仙台の政宗擁護研究の進化Verに過ぎない。
>>サブ?の言うのとは真逆の「上杉」のほうを採用していた
俺もそれを不思議に思ってた。SABは2つの文書が存在してると指摘してただけなのに
君が(おそらく自演してるもう1人も)我田引水するためにSABの話を捻じ曲げてる。
SABはちゃんと
>>601の指摘をしていたのは明らか。
>>はみんなどうしていいかわからずに動揺して帰国
21日付け家康書状を受けて帰っているのでどうしてわからず帰国したわけじゃない。
帰陣についてはSABも
>>571で書いてる。
>>572で>>19日の家康の帰陣命令は偽文書というのは誰の指摘なのか分からないけど時期的にはおかしくないのでは
この誰?というのも金子氏だな。
>>643 俺は図書館で読み飛ばしたことがあるよ。また読みたいとは思わないけど。
読んでないと答えたやつは別人つかお前か?当然、図書館行けばいいのにオンラインだろうが買いたいとも思わない。
>>起請文を信じるやつは伊達厨だとみているだけでは
なんて書いてるが実はそいつが自分に不利な相手をすべてSABだと決め付けることで
自分に不利な、または回答できないことに回答せずに逃げる常套手段だからなぁ。
なんせSABが否定して反発を受けていた片桐氏の説まで
今になって必死に否定し始めてSABと同意見になってるなど苦笑せざるおえない。
SABが指摘したようにアンチ上杉の伊達厨が直江を貶す目的で
鮭厨を装っていると指摘してたのが完全に正解だったわけだ。
結局、私怨でSABに粘着して何が何でもSABの正反対の意見を執拗に言って歩いてるだけ。
毛利スレも島津スレも最上スレも北条スレもみんなお前がSABへの恨みで荒らし回って過疎化させてたし。
今度は金子氏の説も否定し出すDQNぶりを発揮するんだろう。
648 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 22:31:49.66 ID:QmpmAByS
>>647 むしろトップの支配者クラスじゃなくても使えるおとはあるのかね。
家康は政権のトップじゃない。だから徳川家中の人間が自分たちの
トップである家康を上様と呼ぶのはあるかもしれないけど(上杉家
でも当主を上様と呼ぶ例がある)、ほかの大名が家康を上様と呼ぶ
ことはないと思うよ。
>結局、政宗が家康から百万石の詐欺にあったわけじゃない!
>政宗は最上や南部の悪巧みの書状修正で陥れられた被害者!
こんなこと書いてないからちゃんと読もうね。
649 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 23:15:31.94 ID:2SN7+C5g
>>646 地元じゃないと手に入らないってことはやっぱり自演か。
秘密主義ってのは例えば直江兼続 人と時代が
高橋先生の影響を受けてると言いながら
具体的にどう影響を受けてるか一切書かなかったりしてる点や
前にたった数行しか触れてないと書いていながら
それすら一切それを書かずに読まないヤツは来るなって態度のこと。
北の関ヶ原とか言う本は論文じゃないし、史料的価値無さそうですが…。
毛利中納言の例の史料を研究して
それを根拠に上杉中納言がおかしい理由を書いてる人に対して
史料的根拠なく、いやそれはおかしいと
執拗に連呼し続けるのはおかしくね?
何らかの史料をもって否定するのが筋では?
上様が家康で無ければ、中納言はいったい誰をさすのか?などなどの
質問にも一切答えないでシカトしてたり。
650 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 23:39:28.16 ID:QmpmAByS
>21日付け家康書状を受けて帰っているのでどうしてわからず帰国したわけじゃない。
21日付書状はいつ届くのかな。
8月中に届くのは難しいと思うけど。
本当にそんな時期まで東北の諸将は山形にいたのだろうか。
秋田家の扶持方算用記録だと院内の2千は15日までの分、最上まで進んだ
千五百は28日までの分の兵糧が計算されている。費やした兵糧だから帰国
した日付はそれ以前。8日の秋田の書状に家康や榊原が返書しているけど、
院内はそのあたりですでに帰っていると考えていいと思う。榊原の返書には
「最上まで御出陣候えども、まずもって御帰陣の由、尤もの儀に候」とある
し。帰国のきっかけは家康の命令ではないと思う。対決之次第や木村宇右衛
門覚書によると、直江が内府ちがひの条々をまいたから最上表が動揺したと
ある。
「直江兼続人と時代」「北の関ヶ原」、光成氏「関ヶ原前夜」といった09
年以降に発行されたものは家康の許可前に山形の軍勢が帰陣したことを記述
している。
651 :
人間七七四年:2011/02/21(月) 00:11:32.69 ID:FBB/7XQE
>>649 知りたければ聞けばいい訳で、読んでもいないのに、例えば「北の
関ヶ原とか言う本は論文じゃないし、史料的価値無さそうですが… 」
というような姿勢はいかがなものかと指摘しているのだけど。
これじゃ「まず読め」と言われても仕方ないのでは。
>上様が家康で無ければ、中納言はいったい誰をさすのか
上様・中納言様は間違いだと思うので、答える必要はないのでは。
(羽柴)会津中納言と書くのが普通だけど、上杉弾正少弼、上杉少
将と書状にあるように、上杉+官職というのは絶対にありえない表現
ではないと思うよ。
>>643 自演なんかしてないのであしからず。
以降他の人と混同されても困るのでトリップをつける。
「秘密主義」などといわれても、未読だけど論文の内容は知っている豪語する
おかしな人と読んでいるはずなのに根拠を示せない困った人を相手にして
いるので、文句はまともにレスできない相手にいって欲しい。
他の人は知らんけど、俺はこちらから手元にある論文の全文を提示するほどの
度量は持ち合わせていないので。
議論に参加したいのなら、出典が隠されているわけでもないのだから
図書館で入手すれば?
高橋明「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾」(「福大史学」第80号)
>>645 > そこで無理やり分ける意味がわからない。
無理やり分けてるのはあなただよ。意味がわからないというのはこっちの台詞。
>>638の引用文中に「大慶共不被申候」の理由が明確に論じられているだろうに。
理由が挙げられているのにそれを無視するのは曲解以外のなにものでもないよ。
> 伊達成実・国分盛重・鬼庭綱元・遠藤宗信ら重臣の出奔が相次いだ事実も無視した暴論。
「主従制・家中統制の弛緩」や「内政干渉」を嫌がったという高橋氏の推論への反論になっていない。
小手先だけの意味不明なレスはやめてくれ。
> 前提として
>>626で「2通の文書を一緒に届けたとした上で」と書いてある。
> 一緒に届けたとまるで副状のような歪曲をすることで23日付家康書状に触れないようにしたと主張してるのは明らかでしょ。
だから23日書状のどこがどう高橋説を否定するというんだ?
あなたのいう通りなら23日書状は高橋氏が触れるべきものではないんだろ?(高橋氏は内容にも触れているけど)
無駄に煽ってるひまがあったらきちんと答えてくれ。
繰り返しになるが、書状の内容にも触れず「ほかの日にも書状を出している」
「他に書状があったかも知れない」とかいわれても、それこそ理解不能だよ。
> 前に金子云々と書いていたからおそらく下記。
> 平成20年3月に金子氏の関が原合戦「慶長五年奥羽合戦」においてこれらは同じ文面で日付・署判部分のみが違うと述べている。
出典や引用が出せないならソースといわない。
その情報だけじゃ反論側が「金子氏」の論文を確認できないでしょ?
俺が過去レスを見落としているのかもしれないが、金子氏(正確な名前は?)の何からの出典?
金子氏が何を根拠に論じているのかも明らかになっていないので反論しようがない。
南部氏や他奥羽諸将の起請文の内容と日付が要点になっているので、あやふやにして逃げないように。
>>645 > 義光からの起請文は8/20付けで文言も政盛が義光に宛てたものと多少異なり
> しかもそれは戸沢政盛に宛てた起請文しか存在しない。
義光宛政盛起請文と政盛宛義光起請文の内容が違うが、前者は存在しないといいたいわけ?
存在しないなら何故「多少異なり」といえる?意味がわからない。ソースを出してくれ。
> 18日戸沢19日本堂が義光に起請文を提出してるので戸沢本堂は貰っているだろう。
> 南部はそれ以前13日に起請文を出した後に帰っている。
だからソースを。
> 会津を召し上げられた上杉中納言などと書状で書いて敬った表現とあくまでも主張するわけなの?
そんな主張をした覚えはないが?
上杉景勝に宛てた書状ではないので、「上杉中納言」という文言が失礼もくそもないと思うが。
また仮に上杉景勝宛の書状の話をすると、確かに「上杉中納言」という言い方は珍しいかもしれない。
ただ俺の知る限り上杉景勝宛と推定されている「上杉中納言」宛の書状も少なくとも一通
現存するので(「新潟県史研究22・23合併号」p73)、「上杉中納言」の文言をありえないと
断定するのは無理だと思うが?
> なんで会津中納言って言う単語をわざわざ抜いてんの?
↑の質問は最上が「上杉中納言」と改竄したというあなたにもかかってくるが?
「中納言」は抜いていないし、「上杉中納言」は「前上杉中納言入道」の短縮という話じゃなかったのか?
> 上記の立場で書いてるだけで擁護そのものなんだが。
だから妄想じゃなく高橋氏の論文のどこにその擁護とやらが書いてあるのか引用してくれ。
高橋氏が書いてないことを、こちらから示すことはできない。
> 義光が南部を陥れようと文書を改竄する動機はちゃんとある
長々と書かれている話のソースを出してくれ。
妄想はもうお腹いっぱいなので、以降は資料に基づいてレスしてくれ。
>>647 >>647で参照されているレスはすべて俺のものではないことを一応断っておく。
横レスになるが、あなた(とサブを含めて何故か入れ代わり現れる「最上が
『上様・中納言様』の文言を『上杉中納言様』に改竄したとする主張者)は、
未だに自説を論証できてないでしょ。
例えば
> 何度書けば分かるんだ?下記に書いてるだろ。
と高橋論文について妄想レスを繰り返している。
長々と文章を書いても出典はなし。
> 不利になると毎回、そうやって話を逸らすんだな。
話を逸らすもなにも、議論から逃げているのはあなただよ。
>>644 そういう煽りたいだけの妄想文はソースといわない。
>(梅宮氏は政宗が本陣を置いた黒沼神社、その神主の末裔)は
梅宮(西坂)茂氏は黒沼神社の神主の末裔ではなく、「宮人」といわれる
羽黒神社の氏子の一家の出。
西坂鎌三郎「跋 信夫山と西坂氏」(梅宮茂『復刻版 信夫山』)
本書の著者西坂茂君は与の同族である。(略)元来拙家は信夫山羽黒神社の
氏子たる宮人の家柄にして(略)拙家は宮人西坂右近と通称し(略)又分家の
茂君の家に(略)
> 信夫山の社寺、山伏村、民家が全て上杉により一字も残さず焼き払われ
以降あなたが
>>644を主張するならソースを出してくれ。
梅宮氏は「上杉により」などとは論じていないのでは?
梅宮茂『復刻版 信夫山』
とに角この松川の合戦で、両軍が山麓の愛宕山の陣を争奪し、彼我乱れて戦い、
山上すべての社寺・仏閣・山伏屋敷・農家はすべて焼き払われた。
ちなみに地元の伝承では伊達勢が焼き払ったとするものもある。
「福島沿革誌」
此勢ニ乗シテ政宗ハ福島城ヲ責落サントシテ進軍 黄昏ニ及ヒ其日ハ羽黒山麓
大日堂ニ宿陣 翌日払焼 福島市街ニ責入
> 伊達氏も米沢、三春、伊達の総鎮守として、代々厚い信仰を捧げてきた関係
> 累代の伊達氏が捧げた願文、宝剣、鎧といった宝の数々が納められていた。
> しかし松川合戦の折、これら貴重な史料の数々が灰になってしまった〜
梁川八幡か何かと勘違いしてるんじゃないの?
梅宮茂氏によると黒沼神社に「貴重な史料の数々」があったとあなたが論じたいの
ならソースを出してくれ。
ついでに
>>523 > (1)政宗は寂光院に有った臼の中へ身を潜めた。 そして隙を見て、裏手から帰った。
梅宮氏はいっていないようだが。
梅宮茂『復刻版 信夫山』
信夫山に伝えられている伝承では、別当慶印が伊達政宗を援けて山上に逃れ、
一時寂光寺にかくれ、夜になって間道づたいに茂庭に走ったといわれている。
こららは後世の民話である。
657 :
人間七七四年:2011/02/21(月) 04:27:49.54 ID:+bU/ICtc
>>656 >梅宮茂『復刻版 信夫山』
伊達に大敗した上杉は信夫山で葉武者まで殺戮されている(主力は福島城へ逃げ込んだ後)。
この民話から地元に強烈トラウマを残した証が伺える。
658 :
人間七七四年:2011/02/21(月) 13:57:20.32 ID:NzKZ+ijC
うわぁ基地害が自演発狂してて気持ち悪い。
しかも偏執な自分で立てたSAB認定工作スレで
見境無く自分の意見に反する人間達を毎日チェックしてる病スレに書き込んだ後に
複数所有PCにトリップつけて別人とか主張w
トリップ入れたの名前欄に数字入れて別人アピールしてた役割の方だよね。
直江vs小早川スレでもSABに噛みついてたパターンと一緒ワロタw
しかも書いてる反論内容は単なる言葉遊びの屁理屈に終始してて内容皆無。
上杉中納言って書いてる書状内容はいつ、誰になんて書かれてるの?なんでそれは書いてないの?
659 :
人間七七四年:2011/02/21(月) 21:02:55.81 ID:FBB/7XQE
>>658 冷静に見ていれば「自演発狂してて気持ち悪い」のはだれなのかすぐに
分かりそうなものだけど。
本題と関係ないどうでもいいことなので一度しか言わないけど604と
書いてる人じゃないほうですよ。ちなみに直江VS小早川では俺は黒田如
水の所領が関ヶ原後の豊後だったり、親密なはずの安国寺を貶めている
ので小早川の遺書は怪しいという書き込みをした。サブとは意見が近か
ったはずだ。隆景は優れた将であるという点は、雑魚だというサブの主
張とは異なってたけど。
要はサブだろうとサブ認定工作人だろうと複数所有PCで書き込んでよう
と論理的に語っていればいいだけではないのかな?
サブはきっと、これまで「サブだから」という理由だけであまり論理的
な反論もしてもらえずにきたことでしょう(もちろん白石密約など妄想
的な論が多いことが原因とも考えられるが)。そんな中でちゃんと反論
してくれているんだから、真摯に真正面からぶつかるべきでは。
学問ってそんなもんでしょ。
よくやってるけど、「発狂」「気持ち悪い」「SAB認定」などと言い出す
のははたから見れば苦しい時の逃げ口上にしか見えないよ。
>>658 いくら自演だ、他のスレでどうだったと喚いたところで、この場の議論に反論できなければ
意味はないんだよ。
俺は自演もしてないし「トリップつけて別人とか主張」やら「直江vs小早川スレ」
(「小早川隆景 VS 直江兼続」のことか?)の人も俺ではない。
> しかも書いてる反論内容は単なる言葉遊びの屁理屈に終始してて内容皆無。
「言葉遊び」とはどこを指してのことか?
「屁理屈」「内容皆無」というのは、妄想レスを連発する人にいうべきこと。
> 上杉中納言って書いてる書状内容はいつ、誰になんて書かれてるの?なんでそれは書いてないの?
俺が
>>654で書状の詳細を書かなかったのは、もちろん相手が逃げてばかりでソースを出さないから。
とりあえず争点となっている以下の点が示されたら、俺が知る範囲で問題の書状について
明らかにするつもり。
(1)高橋明「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾」について、以下のように読み取れる記述の引用
> 卑怯にも最上までもが上杉に内通し政宗は孤立無援だったが
> 孤高にも南部や上杉と挟撃の危機の中で忠節し家康のために無双して大活躍した。
> 結局、政宗が家康から百万石の詐欺にあったわけじゃない!
> 政宗は最上や南部の悪巧みの書状修正で陥れられた被害者!
> 上記の立場で書いてるだけで擁護そのものなんだが。
(2)「金子氏の関が原合戦『慶長五年奥羽合戦』」の正確な出典
(ものによっては引用まで求めるかもしれないことを先に断っておく)
他の人が問題の「上杉中納言」宛の書状をこの場に提示することは別に止めないし、
早急に詳細を知りたいのであれば図書館へでもどうぞ。
サブとそのそっくりさんは、最上が「上様・中納言様」の文言を「上杉中納言様」に
改竄したと主張したいなら、きちんと資料に基づいてレスしてくれ。
661 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 14:22:10.61 ID:F+ouE4Rz
うわっ完全に小早川vs直江スレを筆頭にアンチ上杉長尾のキチガイ自演荒らしの伊達厨房本人じゃんワロタ
662 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 16:55:46.52 ID:cPmdIvZ6
間を持って、片倉や直江の共通点。戦で指揮して勝ったことない。
663 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 17:19:29.13 ID:mbPaUUi2
>>661みたいなことしか言えなくなるとはsabも落ちたな
>>662 長谷堂の印象があるんだろうけど、そもそも攻め落とすつもりではないの
だから戦下手との指摘は違うのではと高橋氏系の研究者は言ってるよ。
大坂冬の陣でも直江隊は戦功挙げているし。
664 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 19:42:29.68 ID:egvT4qNt
大阪では直江隊じゃなくて水原・安田だったような
665 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 21:17:22.22 ID:mbPaUUi2
いや、安田、水原、黒金隊とともに直江山城・平八軍も奮戦して
穴沢鉄可斎などを討ち取っているよ。
666 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 21:47:53.94 ID:egvT4qNt
渋江熊蔵はともかく、
坂田采女って直江配下なの?良くわからないから教えて欲しい
667 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 22:10:49.41 ID:mbPaUUi2
渋江じゃなく渋谷ね。
直江山城守手とあるので直江配下と考えていいと思うけど。
宮沢主殿という武将も直江手の駒形という男が討ち取っている。
668 :
人間七七四年:2011/03/11(金) 08:12:00.16 ID:ogpH3g9d
age
669 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 06:57:28.33 ID:IPV//5jQ
やあ諸君1月末以来だな。
相変わらずなにやら他人を私と思ってくだらぬ諍いをしてたようだが。
ちょっとこちらに来たのは個人的に東松島市の矢本駅近くに知人がいてね、
その延長で仙台百姓の状態はどうなのかと思いつき覗いてみた次第。
いろいろと反論をしているようだが、長くてイチイチ読めないが
抜粋して手短に反論でもしておこう。
私は高橋の論文をちゃんと読んでいるよ。しばしば「高橋はそんなこと書いてない」と
主張してるようだが、そもそも高橋氏はただ単に慶長出羽合戦について書いてるだけで
そんなことも何も・・・あなたは高橋が何を言っていると主張したいんだ?
それに私が主張してたのは
一上様・中納言様御事、粗略存ましき事
一上杉中納言様御事、粗略存ましき事
の解釈が意味するところが伊達擁護ありきだと言っていただけ。
勝手に話の流れを高橋氏が言ってたのはそんなことじゃないと歪曲してるだけでは?
だいたい上杉中納言〜は山形県史資料編にしか出てこない写しでしかないでしょ。
それにあなたが上杉中納言と書かれている文書があると主張しながら
その詳細を一切書こうとしないのは、
その書状が出されたのが何年の正月に出されたのかわからないからでしょ。
まぁ私の理論を援用すればその書状が、
会津を没収された後の景勝に出された書状であるくらいの断定は可能だがね。
梅宮茂は「愛宕山本陣を側面から突かれ多くの戦死者を出し信夫山の上から茂庭を経て逃走」
「この時の戦死者塚が黒沼神社裏の林中にたくさんあった」
「羽黒山別当慶印に守られて羽黒山に登り、別当寺寂光寺に隠れ、さらに茂庭経由で仙台」
「この戦で信夫山の社寺、山伏村・民家がすべて兵火にかかり」
「長海上人が刈田の百余人を率いて合流した他に長倉の屋代軍陣中に羽黒山別当寂光寺法印慶印が信夫山伏精鋭を引きつれ参陣した。慶印は伊達氏ゆかり」
「慶印は政宗に味方し信夫山中は一字も残さず上杉氏に焼き払われ一党を引き連れ仙台へ移った」
口伝の民話における臼に政宗が隠れたとするのもありえる話であろうね。
「トロイア戦争はホメロスの作り話」とされたものをシュリーマンが発掘してトロイアの存在を確認した例もある。
「義姫が世継ぎがなく憂いていた時に長海上人が湯殿山で祈り政宗が生まれたので長海上人は政宗の祈父であり
義姫が青葉山羽黒権現の霊威を聞いて祈らせた」と羽黒権現寂光寺と政宗の深いつながりを指摘し
「信夫山でも黒沼の羽黒の神が柚の枝で片目を傷めた時にこの沼で目を洗ったから黒沼の魚は片目であり
片目の魚は羽黒山に祈って生まれた政宗であり信夫山も政宗と深い関わりがある」
1402年祖父政宗が敗走し松犬丸(11代持宗)が会津の山中に隠れていたが、
1413年には懸田播磨守ら旧臣が集まり500あまりを率いて大仏城に立てこもり
百姓から財を奪い民家に乱入して米殻を運び出しているので追手を派遣して欲しいとあり
懸田播磨守は大仏山を一望できる杉野目郷青葉閣にいた(青葉閣を信夫山としている)
また大仏城落城後に松犬丸・懸田播磨守らが会津へ敗走したが、
落城の翌年信夫山羽黒別当が会津にいることも確認されている。
鎌倉軍8000に長期包囲されながら大仏城がなかなか落城しなかったのは
会津や信夫郡などで強い影響力をもっていた寂光寺と信夫山山伏の支援があったからだと断じてる。
伊達氏の滅亡の危機を救ったといって良いのである。それが上杉によって焼き払われた。
670 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 07:08:28.99 ID:IPV//5jQ
なんつーか、詳細を転載しないで俺は知ってるけど教えない。
自分に有利なこと以外は書かない。
読んでないなら俺の論破wみたいな態度は止めた方がいいよ。
つかそんな尊大な態度で金子拓氏も知らないの?ダメだなそりゃ。
まぁ君の態度に習って自分でさがして読めと懲罰的回答をしておくよ。
671 :
人間七七四年:2011/03/23(水) 00:14:06.10 ID:VAyia6Pr
で、サブ君は当時家康を上様と呼ぶ史料を見つけられたのかな。
「上杉中納言」は伊達擁護ありきだとする根拠は何なのか。
高橋氏が論文の中で政宗マンセーしているのならどう記述している
のか。
672 :
人間七七四年:2011/03/27(日) 12:25:59.62 ID:rr95PNX2
>>671 すべて過去レスですでに触れているじゃん…半年ROMれよ。
673 :
人間七七四年:2011/03/27(日) 16:11:05.98 ID:c60x/5Ke
最強のバカ発見ワロタwww
>>ちなみに地元の伝承では伊達勢が【焼き払った】とするものもある。
>>「福島沿革誌」
>>此勢ニ乗シテ政宗ハ福島城ヲ責落サントシテ進軍
>>黄昏ニ及ヒ其日ハ羽黒山麓 大日堂ニ宿陣【翌日払焼】福島市街ニ責入
【翌日払焼】→【翌日払暁】
払暁の意味→夜明け。明け方。あかつき。黎明
この程度の漢文も読めないとか・・・もうダメ過ぎだろ。
674 :
人間七七四年:2011/03/27(日) 20:33:39.42 ID:xbGaCAPM
>>671 この時期の家康を上様と呼ぶものはない
高橋氏の論が伊達擁護ありきだというのは個人的な妄想
でFA?
675 :
人間七七四年:2011/03/28(月) 08:50:51.33 ID:uhq0JwTu
※過去に直江と上杉を貶すために片桐氏の論を持ち上げまくっていたくせに
政宗を持ち上げようとする高橋氏の論が登場するや、片桐の論はデタラメと喚き出すブタ伊達厨・・・
過去レスに下記のやり取りがあるようだが・・・
上様・中納言様で上様が秀頼なら本格的に中納言が誰だかわからない。
芸中納言なら輝元だし、備前中納言なら秀家。
だけどこの文意で誰か断定するなら上様が家康なら自ずから中納言が秀忠だとわかるし、
そもそも会津征伐で最上口に来て指揮を受ける相手は家康なのだから上様が家康とみるのが自然だろう。
もう屁理屈はいらねーよ。
上様ってのは自分より高貴な身分の人に使用してるに過ぎない。
森蘭丸が信長のことを書状において上様と書いているし
信長公記の記述にも信長を上様と呼んでる。
でも信長は天皇でも将軍でもない。
天皇や将軍くらいのレベルじゃないと上様と呼ばれないなんて
思いつきのデタラメだろ?
当時7歳の秀頼はふつうに秀頼公と呼ばれているに過ぎず
ガキを相手に上様なんて言わねーよ。
>>そもそも「上様」と書いている書状というのを知らないんだが、
例えば
仍上様江二種貮荷御進上候と蘭丸が書状で信長を上様と言ってるし
仍上様江御進上之御樽と大口本正も信長を上様と言ってるし
「信長へ之御返札」今度従上様御朱印 忝令拝領候と島津も信長を上様と言ってる。
平田城の普請の命令の毛利輝元書状の元亀元年の書状のことを上様之御書と但し書きしてある。
おれが思いつく範囲ですら普通に上様って使われてるわ・・・
お前はいつも根拠なんで無くて、ただ自分の意に反してる意見を
絶対に認めたくないから思いつきで文句つけて書いてるだけだろ?
お前は自分で書いた「「上様」はおそらく天皇や将軍くらいのレベルにしか使えないはず」って言葉も忘れたのかw
後から言い訳みたいに条件を追加して屁理屈を繰り返すなよwww
676 :
人間七七四年:2011/03/29(火) 01:55:18.51 ID:RInHqkDD
677 :
人間七七四年:2011/03/29(火) 07:16:29.52 ID:qQUOoXUD
678 :
人間七七四年:2011/03/29(火) 14:45:09.81 ID:lE8NuzYH
>>過去に直江と上杉を貶すために片桐氏の論を持ち上げまくっていたくせに
政宗を持ち上げようとする高橋氏の論が登場するや、片桐の論はデタラメと喚き出すブタ伊達厨・・・
相変わらずアンチ長尾上杉のキチガイ伊達厨は節操ねーな・・・
伊達厨の鮭厨を装う自演のせいで最上スレも崩壊しちまったしよ。
679 :
人間七七四年:2011/03/30(水) 05:08:52.18 ID:L1pE/E7a
直江大河をやってた時の嫉妬キチガイ悪口中傷ぶりは異常過ぎて怖かった。
NHKにまで圧力をかけてたとか偏執狂過ぎる。
おかげで非難を恐れたNHKは政宗を自由に描けず無難な中途半端キャラのままお茶を濁さざる負えなかった。
680 :
人間七七四年:2011/03/30(水) 10:59:23.45 ID:iBVsIx1o
681 :
人間七七四年:2011/03/30(水) 14:02:58.71 ID:Hjh6tVbI
最上義光の銅像のカッコよさは異常
682 :
人間七七四年:2011/03/30(水) 22:35:30.71 ID:b4HaFBti
>>675 「上様」はトップへの尊称でしょう。信長を「上様」と呼ぶのと、豊臣政権の
家老である家康を「上様」と呼ぶのは別だよ。七歳だろうが主君の秀頼の方が
「上様」にはふさわしい。
死ぬまで現役の景勝を「上杉中納言」という用例が見つかっており、所領を没
収されて隠居状態でないとそう呼ばないというSUBの指摘は当たらない。
片桐氏の最上の卑屈な書状は偽書だという話は支持しない。
683 :
人間七七四年:2011/03/31(木) 05:17:19.36 ID:NGa6HSNE
中納言が秀忠だとしたら上様と呼ぶのは家康なのは疑いないところだろう。
しかしガキの秀頼を上様と呼ぶことが不自然な上に、そうなると中納言が誰なんだかさっぱりわからないおかしいな文書になる不自然極まりない。
中納言とは誰を指すと主張するのか?
会津没収後に上杉中納言と呼ばれるのなら納得がいくが、当時は任地名で呼ばれるのが当たり前。
逆になんで任地名を抜いて書いたのか説明が要する。
用例が見つかっているとするならそれらを列挙せよ。
Sabは安芸を召し上げられた輝元が隠居して息子に家督を渡した例をあげただけで
関ヶ原時点で景勝には子がいないんだから隠居の話は別に適用されないだろ。
普通に会津召し上げ後に上杉中納言と呼ばれたと主張してるだけだろ。
だから関ヶ原の時点で上杉中納言と呼ばれることは有り得ないと言う話は説得力があるだろう。
684 :
人間七七四年:2011/03/31(木) 08:14:03.38 ID:gaZt24Ow
>>683 >ガキの秀頼を上様と呼ぶことが不自然な上に、そうなると中納言が誰なんだか〜
ガキだろうが主君。
当時最上や南部が「上様」と呼ぶ対象が誰かといえば秀頼でしょうという話で、書状
の「上様」が秀頼だとは言っていない。書状は「上様中納言様」ではなく「上杉中納
言様」だろうという主張なんだから。
>普通に会津召し上げ後に上杉中納言と呼ばれたと主張してるだけだろ。
米沢時代は「米沢中納言」なのでその指摘は当たらない。
サブの言う「上杉中納言」は領地召し上げ後の呼び名で失礼だというの
も根拠が不明。
用例を列挙せよと言ってるが、何を見れば載っているのか挙げている人
がいるので必要はない。
自分でも確認はした。宛先部分は「上杉中納言参御中」
起請文が「上杉中納言様」宛てだと伊達擁護になるというのは飛躍
しすぎで妄想甚だしいし、歴史の事実すべてが伊達に不利なように
動いていないと気が済まないというのも脳内の架空戦記としか呼べ
ないものだ。
685 :
人間七七四年:2011/03/31(木) 11:19:07.79 ID:91hMD7zZ
最上家伝覚書によると上様・中納言の文書はその由緒書きとして
13日に義光が南部に提出させ、18日に戸沢に提出させ、19日に本堂に
その後、赤尾、六郷、滝沢、内越、秋田、岩屋、丹加保にも提出させたとしており
これに対応する形で8/20付けで義光が神文形式で血判起承文を提出しており
その裏づけとして実際に新庄ふるさと歴史センターで原文を見ることができ
記述内容に信憑性を加える受けと提出の対の辻褄があっている。
逆に上杉中納言の文書は写しである上にその由来までない。
あきらかに突然現れたような文書で偽造説を裏付ける。
>>会津征伐で最上口に来て指揮を受ける相手は家康なのだから上様が家康とみるのが自然だろう。
これは支持できる。実質的に幼君を後見し政務を司る西の丸占有者が政権執行者であり、秀頼に実権はない。
秀頼後見役だった利家も死ぬ間際の遺訓で利長に絶対に西ノ丸から出るなと言っていたし
輝元が家康に降伏する際も、9/19の福島・黒田宛の輝元の書状において
大坂城を明け渡しての領国安堵を条件に輝元が秀吉譜代とも言うべき
実務執行の増田や前田を説得すると申し出てるし。その説得目的が西ノ丸からの退去であるのは、
9/22の輝元の井伊・本多宛て書状において3つの条文があり
彼らの取り成しを感謝・毛利領国の安堵・西の丸の譲渡によって家康への表裏なしを表す。
が記されており、西の丸の帰属が家康への抵抗の可否に当たる権力の源泉たる重要な問題だとわかる。
そこに秀頼の身柄についての言及すらない。
>>米沢時代は「米沢中納言」なのでその指摘は当たらない。
その呼称はSabが下記においてとっくに指摘している。Sabの功績泥棒のようなマネは感心できない。
Sab>>会津召し上げられた1614年11/28政宗宛で景勝は自分のことを米沢中納言と書いてるし。
>>自分でも確認はした。宛先部分は「上杉中納言参御中」
Sabが指摘した下記の文章を黙殺するのかい?
上杉中納言と書かれている文書があると主張しながらその詳細を一切書こうとしないのは、
その書状が出されたのが何年の正月に出されたのかわからないからでしょ
686 :
人間七七四年:2011/03/31(木) 11:40:34.74 ID:UJGQl3JH
10倍以上の的に耐えきった城ってなかなかないけど、長谷堂城って春日山城以上に
難攻不落だったの?
687 :
人間七七四年:2011/03/31(木) 12:14:05.09 ID:bIJ3xstx
山城だが、長谷堂が包囲されたのは二週間。
さらに上杉方は最上を降伏させるつもりなので
積極的に攻撃しなかった
688 :
人間七七四年:2011/03/31(木) 19:15:55.97 ID:0ArUNhkC
687って失策じゃない。冬将軍が援軍に来るから時間稼ぎするだけで撤退に追い込まれるよ、
庄内勢も最上川がある限り、東根を突破しなきゃ直接山形城を攻撃するのは難しい。
さらに、山形城には予備兵力がきっちりあるよ。かと言っていったん引けば、攻撃が再開されるのは春以降になる。
689 :
人間七七四年:2011/03/31(木) 23:40:08.82 ID:gaZt24Ow
結果的にはうまくいってないわけだから、後世から見たら失策と言われるだろうな。
ただ、10月に入るから戦闘ができないわけではないから。
そもそも直江は数日で降伏してくると見ていたわけだし。
690 :
人間七七四年:2011/04/01(金) 00:19:14.02 ID:cff6j7Qq
>>688 冬でも無理すれば戦闘可能だし
直江は最上を潰すのではなく降伏待ち。
そもそも君の書いてることは学界の論文でまったく書かれてない君の妄想でしかない。
691 :
人間七七四年:2011/04/01(金) 14:32:27.57 ID:/bx+OnMF
>無理すれば戦闘可能だし
これの方がよっぽど妄想だろw
692 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 11:03:03.39 ID:Sw6rW1dX
690じゃないけど少なくとも10月下旬、11月、正月にも
伊達が侵攻している。当時の直江の書状を見ても寒くなるから
どうのという話はしていない。
693 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 14:33:25.13 ID:xeT2Oi+9
>>688 冬将軍が来る前まであと2ヵ月ある。また米沢・白鷹からの兵糧確保してるから急ぐ必要は全く無い。冬まで山形城を孤立(→最上降伏もしくは最上重臣の寝返り)させれば良いだけ。
一方、冬将軍が来る前には確実に長谷堂の兵糧は切れる。
鶴岡軍(下隊)は六十里越街道から白岩・寒河江を落とし山形から約20キロ(約1日で行軍可能)の谷地城を占拠中。庄内主力の酒田志駄隊も最上川流域を南進。諸城を次々落としていた。
冬が来ると困る状況にあったのは山形城に主力を集結させて兵糧が厳しかった最上。
694 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 15:03:55.48 ID:xeT2Oi+9
景虎や新発田の時もそうだけど、直江は決して急がない。
犠牲を最小限にして落とす。
695 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 15:08:26.92 ID:xeT2Oi+9
一方、守りに入るととことん粘る。
魚津・関ヶ原後殿・交渉・東禅寺・福島。
696 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 17:33:08.53 ID:piQ+elsC
岩手県を舞台にした前九年の役は
2月の阿久利川事件が開戦にきっかけだし黄海の戦い11月。
秋田県が舞台の後三年の役戦いがやっと終結したのが12月。
冬季だから戦闘ができないなんてのはデタラメ
697 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 18:17:50.89 ID:P7Ht7qXr
>>933 急ぐ必要は全く無い
→伊達の動きは?
確実に長谷堂の兵糧は切れる
→天童城も無事で、その後庄内に向かって進軍しているのに不足しているというソース希望。
庄内方面は最上川以東の城を落としていなように見えるけど、
あと、山形城は南より北から攻めるほうが難しいよ、最上川と東根があるし、天童も無事だから。
谷地の上杉軍はそういや、最上につかまってフルボッコにされていたね。山形城を攻略できる明確な理由がほしい。
一応、雪降っていても戦闘はできるけど、後三年の役でも冬のせいで攻めきれなかったことあるし。
698 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 20:44:57.48 ID:wSL0n9++
>>697 その後に庄内へ進撃って関ヶ原敗報後に庄内軍の谷地に籠城を開始したばかりの下が開城降伏して物資を得ることができたからだろ。
会津征伐で山形に集結した諸軍の兵糧を最上で面倒を見て
米沢を占拠したらそこの物資で補填しろと家康から命令されてたから
すでにかなり兵糧を消費してるし米沢から物資を奪う予定も当てが外れてる。
東根や天童も何も小野寺に長期包囲を受けてる湯沢方面も放置するほど最上に兵力の余力も無い。
後三年の役で雪のせいで攻めきれなかった?なにその妄想小説?ソース希望。
残念だけど論文などで最上の降伏は時間の問題だったとされているから。
片桐先生の意見だけは最上は上杉に負けるわけ無い断定だけど(笑)
相変わらずアンチ上杉の伊達厨のあなたは片桐先生が大好きなようだね。
699 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 21:34:23.21 ID:iA0tEcPC
急いでいれば普通に長谷堂は落ちてたし、山形も落ちてただろ
圧倒的な兵力差がある事に油断したのか、一気に攻め込めば良かったものを
だらだらとした結果、最上に時間を与え、それがあのざま
700 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 21:53:07.65 ID:wSL0n9++
>>699 江戸へ南進する大事のために
最上攻めで貴重な兵力を無駄に消耗しないように温存して庄内軍の到着を待ちながら圧力を加えていた。
直江は最上の武力制圧では無く降伏させて騎下に加えて南進するつもり。
701 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 00:40:05.16 ID:9gUms4wk
>>699 ゲームじゃないんだから強攻しまくって兵を潰しまくるわけないだろ。
だらだらと最上に時間与えたも何も
>>685のように輝元が自分の立場を守る為に大坂城を簡単に明け渡すんだからどうしようもねーだろ。
702 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 01:24:47.72 ID:zdGxbkH6
>>699 上杉の戦略は現実的なものだよ。
あくまで関東侵攻の前哨戦なのだから、上杉軍も、従軍させる予定の
最上も消耗させてはいけない。さんざん卑屈な態度をとってきたし、
上方も西軍有利な状況なので脅してやれば降るだろう、という見方は
当時の認識からすればごく自然。撤退の際も関ヶ原の敗報は届いてお
らず、一度荒砥に退いて最上を再攻撃するとの研究者の指摘もある。
結果論から見ればいか様にも批判はできるけどね。
ちなみに直江は山形城攻撃を企図せず、長谷堂を包囲して威圧し、最上を
屈服させようとしていたという説を唱えているのは、サブになぜか勘違い
されて伊達擁護論者だと非難されている高橋氏。
703 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 01:50:00.38 ID:9gUms4wk
高橋氏が主張する以前から長谷堂包囲して降伏待ちは言われてきてるし
別に高橋が最初に言い出した話じゃない。
つか直江大河が放送される前あたりですでに長谷堂城を力攻めする気はないとsabもそう主張してたし、
その時は最上厨を装った伊達厨が自演でさんざんsabの話を否定しまくってたじゃん。
しかも片桐の話までマンセーして持ち上げたりして三戦板や大河板や日本史板などを横断して直江批判キャンペーンまでやってさ。
いまになって肯定するとか有り得ない酷い変節ぶりだろ。
それにsabはただ単に上様・中納言の書き換えにおける高橋の説を政宗を擁護する為に作られた妄言だと主張してただけだろ…
捏造歪曲を繰り返しまくって伊達厨ってどこまでも汚いやつだな。
704 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 09:17:14.10 ID:zdGxbkH6
sub乙
705 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 11:37:32.51 ID:6z+YYqHY
>>697 長谷堂防衛戦当時、最上が庄内に向かって進軍してた、と?面白い新説ですね。
当時、山形城防御のため山形に兵力集中してたのに庄内に進軍してたとはどの史料のどういう記述から持ってきたの?
通説(最上斯波家伝等)では最上が谷地に進軍したのすら、関ヶ原敗報により直江と志駄が撤退した後(10月20日谷地到着)だよね。
天童も無事だからっておっしゃるけど、9月29日現在で最上の主な拠点で残ってるのは上山と天童および長谷堂(半径10キロ圏内)のみ。
最上はどうやって冬場の山形城の1万人分の兵糧を調達するの?伊達政宗の叔父さんは少数で基本日和見的態度だし、たぶん冬前に帰るでしょう。
706 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 11:39:32.85 ID:CqBZgnUF
しかし肝心要の大河はsubや各厨達の想像を上回るほどの酷い出来だったのであった
アンチにすら同情されるってのはどうなのよ
707 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 11:45:41.81 ID:6z+YYqHY
>>697 >山形城は南より北から攻めるほうが難しいよ
最上川なんて谷地を流れてるんだから山形城からかなり遠いところだよね。
南側には上山があって挟撃危険があり逆に攻め辛いと思うのだが、なぜ南から攻めや易くて北から攻めにくいのか全く解らない。
もっと普通に考えようよ、直江アンチさん。
708 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 18:01:25.12 ID:EspPTfbp
>>703 そういや会津征伐で米沢口に集結した最上以外で出羽諸将の軍1万以上に
家康が「食料は最上から借用して米沢占領して相殺しろ」と命令してたから
朝鮮出兵の重負担はもちろん、その間に小野寺と戦闘までしてたし
最上の食糧にそんなに余裕がないって話もSABが主張してたんだよなあ。
いまじゃそれが認められてんだから隔世の感だよな。
まぁ伊達厨がSABにストーカーのように執拗に粘着して付きまとって、
SABの書くことにはなんでも反対レスをしてまわってただけなのがよくわかるよな。
いまとなってやっとまともに論議できるようになってきたじゃないか。
709 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 19:32:00.05 ID:BdEc0jtU
サブおっさん、相変わらず発狂中すかw
710 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 19:56:42.34 ID:9gUms4wk
711 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 20:42:17.97 ID:zdGxbkH6
subは自説に自信があるなら自演とかしなくていいんじゃないのか
712 :
人間七七四年:2011/04/04(月) 18:34:33.27 ID:tGadvZ+g
subとかだがとか自演連呼すると論破した気分になれる不思議っ!
713 :
人間七七四年:2011/04/04(月) 22:33:35.72 ID:KWl5R241
信長厨って思考停止するとレッテル貼ってファビョりだすんだよ。。。
714 :
人間七七四年:2011/04/05(火) 20:56:50.44 ID:5BduoJx7
逃走はえーなsub
715 :
人間七七四年:2011/04/05(火) 22:42:44.05 ID:NbWSP5vi
結局、思い通りにならないストレスから
子供のようにレッテル貼ってスレを荒らすしかもはや手段がもうないのです。
716 :
人間七七四年:2011/04/06(水) 06:37:50.69 ID:Jbp+pnMX
だがとかsabで工作スレ立てる気持ち悪い共通点から言って織田厨=伊達厨だと思われ
717 :
人間七七四年:2011/04/07(木) 07:00:25.90 ID:lfF/6jPE
そもそもsab自体が精神病患者が常習的に彼に襲われると錯乱し恐れる幻聴や幻覚が伴う架空人物
718 :
人間七七四年:2011/04/07(木) 14:11:07.52 ID:4YPUqYGc
サブ寂しいな
719 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 10:55:02.16 ID:HSQpv5Zj
720 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 19:25:36.09 ID:zekfDEO4
また自演かよ
721 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 21:14:49.76 ID:TZOudsDE
いい加減、スレ違いな伊達の話題なんてすんな…誰も読んでねぇよ。
伊達厨が来ると荒れまくるから来るなよ。
722 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 22:04:58.92 ID:/q1TWcQc
最上の起請文の話を伊達につなげたのはsabくんだったな
723 :
人間七七四年:2011/04/15(金) 07:45:07.80 ID:Cg0DIfeQ
そもそも伊達厨が鮭厨を装ってアンチ長尾上杉やアンチ直江で
曲解や極論ばかり持ち出し荒らしまくるから松川スレも長谷堂スレも議論が成り立たない。
724 :
人間七七四年:2011/04/15(金) 08:59:44.11 ID:9Zg/dP9W
関係ないスレでも伊達の話、史料曲解などはサブの得意技。
上杉厨を装い、史料はストレートの意味ではとらない。
伊達を貶めるためには上杉が道化になっても構わないというスタンス。
伊達が密約で白石城をだまし取ったというサブ独自の白石密約説を持ち
出した際には「上杉が貶められようと関係ねえ」などと本性を露わにした。
白石では「直江が書いていることは嘘」、松川では「政宗が書いている
ことは嘘」という姿勢で、一次史料すら全否定。
一次史料を出せという割に一次史料に対しては軍記物を挙げて語り始め、
スレ末期には反論をさせないためにコピペを連投。自説に自信があるなら
そうしたことは必要がない。
725 :
人間七七四年:2011/04/15(金) 23:34:58.84 ID:LqO8skmL
726 :
人間七七四年:2011/04/16(土) 08:06:30.33 ID:M2s5qd5g
727 :
人間七七四年:2011/04/17(日) 17:20:22.65 ID:6sbxvSPL
論破されると論理的反論ではなくて
レッテル貼りで対抗するとか
情けないとは思わないのかな?
728 :
人間七七四年:2011/04/17(日) 19:18:25.16 ID:GE4sxBQc
直江を貶すために片桐をマンセーしておきながら
今度は伊達を持ち上げるために片桐の説を全力で否定し
高橋の説をマンセーする節操無しが
伊達厨のキチガイぶりを見事に表現していると言えよう。
729 :
724:2011/04/17(日) 21:59:10.63 ID:E9bxVWng
>>728 何回も言ったと思うけど、伊達厨ではないよ。
上杉厨だからといって常に上杉に都合がいいように史料を
解釈するわけではないし、伊達厨も同じ。サブのように、
上杉厨を装って伊達も上杉も貶める人間もいる。
松川の場合は最初は野戦で伊達が勝利したけど、そのあと
はずっと上杉に撃退され続けたと主張している。伊達厨は
そういう主張をするのかな。要はサブは、全てのことにつ
いて伊達に不都合なように歴史を認識していないと気が済
まない人。論理的な反論ができなくなると引退するなどと
言って逃げてしまう。ほとぼりがさめるとまた現れる。
思い込みが激しくて誰かと勘違いしているようだけど、片
桐氏をマンセーしたこともないよ。
730 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 00:54:54.45 ID:/KDbrktR
いまだ誰彼構わずレッテル貼りキャンペーン狂いの伊達厨言い訳に必死過ぎ…
731 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 23:47:49.66 ID:azJXp6lW
subは分かりやすいな
732 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 21:08:14.22 ID:WC7f0fBs
>>729 ある時はアンチ長尾、ある時はアンチ直江、ある時は上杉厨、ある時は鮭厨、
しかしてその実体はキチガイ伊達厨!!!乙!
733 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 22:22:42.33 ID:Uqrmo44v
そういう見方をすれば全部SUBの自演ともいえる
734 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 00:46:39.42 ID:EErOmCE3
>>728 伊達厨ってヒドイ基地害っぷりなんだな。
735 :
人間七七四年:2011/04/25(月) 13:19:36.88 ID:4zr8RmOo
728=734
736 :
人間七七四年:2011/04/26(火) 23:35:05.95 ID:bJ+jmZlS
最上の話って伊達や上杉の資料に頼るからどうしても過小評価されがちだよね
すっかり極悪人という立ち位置が定着してるし
737 :
人間七七四年:2011/04/27(水) 15:02:49.71 ID:GxUr7SOs
>上杉方は過小評価ではないよ。人数も少ないのに奮戦したという記述があるだけ。
738 :
人間七七四年:2011/04/27(水) 16:57:55.91 ID:15+20429
仙台が捏造して義光を悪く書いてるんであって
上杉側は最上を悪く書いてないだろ。
739 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 12:39:28.44 ID:G/9VCGb8
上杉側としては大軍で押し入った直江を退けられたたんだから、
どっちかといえば高評価を与えられる存在だと思う
740 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 23:27:52.22 ID:G3PzN+aw
安田と鮭延がすごい
741 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 18:50:38.97 ID:pKOegzkp
>>729 松川の戦いスレはいつの間にか削除されてた。
伊達厨が伊達が勝ったとする唯一の史料「伊達冶家記録」記載の矛盾点を衝かれ完全論破されたからかな?
742 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 02:16:24.07 ID:MHG6fzuX
743 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 17:39:13.01 ID:KJGXYHRU
上杉は白石でも福島でも伊達に惨敗した事実は変わらないだろ。
松川は上杉の軍記作者の捏造だし。
744 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 18:32:44.12 ID:5IrrhP2X
伊達はまったく関係ないスレなのに
ちょこちょこと介入してきて電波流す
伊達厨まじ気持ち悪いわ・・・また荒れるだろうが。
745 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 22:04:29.57 ID:agnC6ihA
>>741 後世の編纂物である伊達治家記録に頼らずとも一次史料で上杉方は押し
こまれているんだけどね。伊達側が局地戦にすら勝ってはいけないと考
えるサブは、かたくなに治家記録の話しかしないね。
10月7日の戦いで満足な戦果を得られなかった。
>>743のいうような上
杉方の惨敗ならさっさと城獲れよと言う話だ。
だからこそ、政宗は翌春までしつこく攻撃し、家康にも散々上杉を攻撃す
るよう要請している。
746 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 02:58:46.18 ID:KlNRsUTi
慶長5年10月6日に上杉を野戦で殲滅したことは、政宗的には
スカッとしたんだろうな。
しかし足を踏まれた側の上杉が幕末まで根にもったのも事実。
『東国太平記』は行き場を失った上杉のルサンチマンに溢れた軍記だし。
747 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 09:09:00.05 ID:93XF4+to
>>745 片桐や高橋らの説を最上厨を装う時と伊達厨丸出しの時で評価を180度一変させる捏造王乙
>>746 誰も言及しない東国太平記を毎回執拗に持ち出すキチガイ乙
お前らやっぱり同一人物なの?
長谷堂スレにまで毎回出張してきては粘着して蒸し返すあたりやっぱり伊達厨は狂ってるわ。
早く松川の戦いで当事者伊達以外が伊達が勝利していたと記述する
史書でも家譜でも何でもいいから教えてくれよ。
伊達自身からして世間様に
あれは実は勝利だった宣言したのが
明治になってから突然主張し始めた話だろ。
748 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 10:05:32.20 ID:pPG+x1Y6
>>747 >>745だが、
>>741で話を振るから答えただけだよ。
片桐氏を擁護していたとか根拠ないことを言わないで
ほしい。サブ君、妄想が過ぎるよ。
最上攻め前のへりくだった書状は偽書だとか、暗殺は
「多くの人を殺さないため」とかはいまいち納得でき
ないね。郷土史家としては、郷土の英雄を美化する姿
勢はある意味では必要だが。
749 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 10:40:22.18 ID:93XF4+to
>>748 伊達厨戦士として日本史板や三戦板においてアンチ長尾上杉でさんざん荒らしまわり
直江大河が始まるや今度は最上厨になって片桐まで持ち出して
日本史板や大河板や三戦板など広範囲に荒らし爆撃し
大河終了とともに中立なフリしてるがやっぱり伊達厨寄り判断を繰り返すキチガイ君だろお前。
早く当事者の伊達以外で伊達が勝利したとする史書か家譜を出してみせろよ。
750 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 10:48:49.59 ID:pPG+x1Y6
落ちつけよ、サブくん。
具体的にどのような発言をして荒らしまわったのか、伊達厨寄りなのかまったくなく
そんなこと言われても困るんだけど。
松川の話をするなら、家譜などを参考にする前に、伊達勝利の一次史料はあるが、上
杉勝利の一次史料は無いんだよ。むしろ直江は七日の時点で政宗の侵攻すら信用して
おらず、手だてを講じられていない。
751 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 11:38:58.39 ID:93XF4+to
江戸幕府が歴史編纂する時に各藩に史料提出を求めてる。
それなのに結果はどうだい?
そして件の書状がその時点では存在してなかったのか、
存在してたとしてもそれを政宗の宣伝に過ぎず事実に即してなかった認定されたってことだ諦めろ。
752 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 16:02:35.83 ID:zQhK82sx
>>750 伊達勝利の一次史料ってあの矛盾だらけで有名な、野戦で大勝し福島城の眼前急斜面岩だらけの信夫山で首実験したという1670年頃編纂の「伊達冶家記録」以外あるの?
最上が庄内まで奪回したのに白石を掠め取った後、先祖伝来の地である伊達・信夫郡すら攻略できなかった伊達・片倉連合軍。
753 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 19:19:34.76 ID:cqMRg3zi
誰でも彼でも自分の意見以外の人間は
みんなサブとレッテル貼ってるいつものキtガイ伊達厨か。
本人は同一人物であるのがバレてないと思ってんだから
脳内お花畑だわ・・・
754 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 23:03:37.48 ID:pPG+x1Y6
>>752 『伊達家文書』の中島宗勝宛て伊達政宗書状。
三百人討ち取りを報告するとともに、福島城周辺の村を占拠したことと
会津に急報を伝える使者を討ち取ったことを褒めた書状。
三百人と言う数字に誇張があっても別働隊が村を占拠しているのは事実。
これを否定する一次史料はない。後世の編纂物が矛盾しているというのは
一次史料に対しては無意味。
福島周辺を占拠した状態で政宗は、おそらく別の書状にあるように梁川城
を攻撃するために国見に帰還した。
後段の伊達・信夫を攻略できなかったというのは全くその通り。
梁川と福島の挟撃の可能性があったとしても、伊達の史料で抹消された翌
年3月あたりの戦闘であって、10月6日にはまずありえない。
>>753 どう言おうと構わないけど、自分と意見と違う人にレッテルを張る・同一
人物視を批判するなら、自分もやらないことだ。伊達厨じゃないしね。
755 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 02:17:09.79 ID:50+EGz48
直江が畑谷で五百余討ち取ったのも、伊達が福島で三百余討ったのも
景気づけの架空話で士気を鼓舞しただけの誇張宣伝で実数じゃない。
そもそも伊達側の被害も不明で政宗も勝ったとは書いてない。
そもそもその300余りを討った論拠になるはずの茂庭や屋代の書状は何で証拠隠滅したの?
なんでロクに松川で武功を上げてない片倉だけが刈田郡を新たに加増されたの?
茂庭や屋代はロクに褒賞されてないのはなぜなの?
三百余も討てたらその3倍から5倍の負傷者が出てるはずなので
軍事的常識からいって本庄軍は軍隊としてもはや成立していないはずで
100%信夫郡・伊達郡の防衛は不可能であり伊達の勢力化に併合されているはずである。
よって江戸期を通じて信夫郡・伊達郡は仙台藩のものであり上杉領というのでデタラメであるのは明らかだねw
政宗の妄想からくる誰も見ていない300余を討ち取ったとするデタラメ戦の存在を思わせるような傍証は何ひとつ無く
とつぜんパッと現れた300余の戦果は政宗の妄想でしかないのは明らか。
そもそも一番隊茂庭 三番隊屋代はどっかで油を売ってたようで何をやってたか不明。
二番隊片倉はそんな戦は見てないと書いている。
この戦いの戦況説明は完全に会津陣物語の盗用した挙句に伊達勝利に歪曲しただけw
だいたい1/10の本庄軍の戦力でまともに正面から戦うなんてのが理解し難いし
その戦いで300余も討ち取ったら、戦傷者などはその4割前後はいるはずで
とてもじゃないが磨耗疲弊した戦力では伊達郡・信夫郡の広範囲を守備することは不可能。
伊達治家記録でも、なんで政宗が撤退したかの最大の疑問にはお茶を濁すような記述で逃げている。
さらに政宗に協力して蜂起した寂光寺は全焼し伊達軍と一緒に仙台に逃亡している動かしがたい事実も存在している。
※政宗は崖のような場所でおよそ人間とは思えない斜め立ちで
討ち取った300余の首をチェックしたが武功をあげた茂庭や屋代らを冷遇しまくり一切の感状も出さず
なぜか該当合戦を見てないと言うまったく活躍しなかった片倉のみ加増した。
それを証明するものは唯一、会津陣物語の戦況記述からの盗用。
その際に活躍したとする茂庭らは報告も感状も加増も無いし二番隊の片倉もその戦を全く見てない。
まとめ
300余討ちとった話は架空であり片倉はそんな合戦を見てないと言い物頭2人討たれたと報告
政宗も会津への郵便配達人2、3人討ち取って満足しているのみで300余討ちとったと称する茂庭と屋代の行動は完全に不明。
おそらく福島城に残る兵力もあるので1/10を大きく下回る兵力の本庄軍がうまく撤退した為に戦が生じなかったとみるべきだろう。
梅宮茂は「愛宕山本陣を側面から突かれ多くの戦死者を出し信夫山の上から茂庭を経て逃走」
「この時の戦死者塚が黒沼神社裏の林中にたくさんあった」
「羽黒山別当慶印に守られて羽黒山に登り、別当寺寂光寺に隠れ、さらに茂庭経由で仙台」
「この戦で信夫山の社寺、山伏村・民家がすべて兵火にかかり」
「長海上人が刈田の百余人を率いて合流した他に長倉の屋代軍陣中に羽黒山別当寂光寺法印慶印が信夫山伏精鋭を引きつれ参陣した。慶印は伊達氏ゆかり」
「慶印は政宗に味方し信夫山中は一字も残さず上杉氏に焼き払われ一党を引き連れ仙台へ移った」
仙台城の雅名青葉城の名は信夫山の古名である。
松川の戦いにおいて大敗した伊達軍と共に仙台へ敗走した信夫山羽黒権現別当寂光寺の御房慶印は
止む負えず仙台城の鬼門の地を賜り青葉山寂光寺を建て、その背後の山に羽黒権現を遷した。
のち慶長7年青葉山寂光寺境内一帯を二の丸に拡張造営するに当り寂光寺と羽黒山を根白石街道に沿う北山の地に移した。
それ故に二の丸の地青葉山の名が仙台城の別名となったのである。
政宗と慶印がどうしても伊達郡と信夫郡を上杉から奪回したくて執拗に攻め込んできた屈辱に満ちた未練を読み取ることができよう。
梅宮茂は明治9年には開発の煽りを受けていたがまだ戦死者の墓がいまなお12墓残ってると書いてるよね。
また山上甘粕から廃朽した刀も出土してると証拠も出してる。愛宕山の陣の争奪において伊達の敗走は疑いようもない。
756 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 04:53:12.58 ID:c1WWAgun
慶長5年6月10日、上杉が福島表で伊達に掃討された事実は『伊達家文書』の中島宗勝宛て伊達政宗書状の一次資料の
存在で決定的だな。伊達に揶揄された「上杉の瀬上崩れ」ね。
>>755 その福島の地元に残された古老咄の「屈辱に満ちた未練」こそ軍記を含めた上杉側の敗北の実態と
心情。まさに「疑いようもない」位に。
757 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 05:00:40.93 ID:c1WWAgun
慶長5年6月10日→慶長5年10月6日(訂正)。
そして政宗が徳川家康に上杉を野戦で敗退させ、福島表から掃討、
本庄共々福島城へ押し込めたことを報告したのが、慶長5年10月8日だ。
このとき伊達軍は、信夫山で上杉の兵を葉武者にいたるまで大殺戮戦を
行っている。
信夫山に様々な伝承が残されていることから見ても、かつて伊達が須江山で一揆軍を取
り囲み殲滅したぐらいの悪どい殺戮だったのだろう。
758 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 08:02:48.15 ID:5y5fZExl
>>755 6行目までは松川スレで回答済み。
7〜10行目は史料的根拠を伴わない。
それ以下も編纂物のおかしい点を指摘しているだけで一次史料を否定するも
のにはなっていない。
サブ君はいつも持ち出すが、梅原氏の言うことが江戸時代のお話≠フ影響
を受けていないとは言い切れない。そもそも梅原氏の指摘は、伊達が戦闘で
敗北した傍証にはなるが、このあと伊達は半年間数度にわたり、上杉に撃退
されるんだから、それが「10月6日だ」ということを裏付けるものではない。
上杉方にたくさんの感状が残る翌年3月の戦闘でも構わないことになる。
『治家記録』は撤退の理由を梁川の調略が失敗したからか?としている。
政宗の10月6日付片倉宛書状や、直江の10月16日付書状から考えると
別におかしな理由ではない。個人的には直江が被害を最小に抑えて最上表か
ら引き揚げてきたのも影響していると思うが。直江の書状の存在を知ってい
たかは不明だけど、むしろ史書としては優れた考察をしている。
上杉が挟撃したという話は一次史料では全く確認できない。須田は感状どこ
ろか16日には直江から人質を出すように命じられている。
759 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 08:31:34.73 ID:5y5fZExl
>>756 政宗の「心情」(軍記物でなく書状から)
10月6日「今日まず福島、明日梁川を攻撃する」
同 「300討ち取った。全てうまくいっている(キリっ)」
10月9日「今少し心残りが多いけど、まぁよしとしよう」
政宗は目標である福島も梁川も奪取できなかったが、野戦の勝利に「心残り
あるけど、まぁよし」と目標を下方修正することで自分を納得させている。
これは後に家康による会津再征があるとにらんでいるから。ところが、
3月3日 「最上が上洛するということは上杉と徳川の和睦が成立
したのか。10日ごろ攻め込もうと思ってたのに」
3月9日 「景勝が上洛って本当ですか(汗)。うそなら攻
撃するし、本当でもいろいろ言いたいことがあ
るので俺も上洛します!」
3月22日「景勝が上洛を止めるのは確実です(嘘)内府様、
早く上杉討伐の軍勢を出してください(汗)」
徳川と上杉の和平交渉が進んでいた(11月くらいにはもう話が固まり
つつあった)のを知らされず、焦りだした政宗。おまけに上杉領での戦
闘はたびたび敗北。このあとラストチャンスにかけて出陣するも再び敗
北している。「屈辱に満ちた未練」はむしろ政宗のほうにうかがえる。
760 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 09:24:24.08 ID:snxCNwL0
松川で伊達が勝利したとはまったく判定できないし
政宗本人も勝ったとは言ってないだろ…
誇張臭が漂いまくっている伊達側が討ち取った人数が事実だとしても伊達側はそれと同じくらいの被害を受けていた可能が排除できないんだから。
なんせ片倉の物頭が2人も討ち死にして松川の戦いへの参加を阻止させられてるのは本庄側の作戦がうまくいっていた証左だろう。
さらに片倉は福島城でも討ち死にさせてる。
刈田郡を加増してもらった片倉はこの戦役での唯一の伊達への貢献を認められた最も活躍した人物と見るべきで
茂庭や屋代が加増されてないのだからまったく活躍していない証左だと認められる。
しかもたった1日のものすごい速さで北目へ逃走する伊達軍の動揺ぶりは
背後で戦線を維持できない何らかの事件が発生したのは明らかで
伊達側の撤退根拠は史料に基づかない話ばかりで採用できない。
761 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 10:03:24.00 ID:snxCNwL0
会津への使者を討取り満足と政宗が言っているが、
その後すぐ続く三百余人討取りには何らコメントを出さないで撤退話を続けて
あえて言及しないのはウソまたは虚勢だからスルーしてると見るべきで
本庄が城から出撃した話も東国太平記の講談話特有の武勇伝であり
実際には出撃してない。
伊達側がのちに撤退理由として横田大学の内応が露見したからと主張してるが、
これが露見したとする話もこの戦いとリンクしてるとも思えない。
762 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 12:34:56.24 ID:5y5fZExl
>>760 >同じくらいの被害を受けていた可能が排除できない
政宗「残すところ無き手際」「今度の戦は仕合よく、満足に候、
今少し残り多き様に候へども〜」
互角の戦いでこんな話はしない。三百人は誇張の可能性は十分に
あるけど「今少し心残り多き」と素直に言ってる書状で、「満足」
としているのだから。城を落とすまでには至らずとも、それなりの
戦果はあったとの認識。
>なんせ片倉の物頭が2人も討ち死にして松川の戦いへの参加を阻止さ
>せられてるのは本庄側の作戦がうまくいっていた証左だろう。
>さらに片倉は福島城でも討ち死にさせてる。
片倉は政宗の「御意」で別ルートを進んだので「宮代御合戦」に遭遇しなかった。
物頭2人打ち取られたのは福島城での戦い。別々の話ではない。
>茂庭や屋代が加増されてないのだからまったく活躍していない証左だと認められる。
この時の侵略戦では福島も梁川も攻略に失敗しており、加増もなにもない。
片倉は白石城攻略で功があった。
>>761 >何らコメントを出さないで
三百を討ち取って城に押し込めたことを「残すところ無き手際」と自慢しているよ。
>リンクしてるとも思えない
10月4日直江書状「仙道表で不慮の出来」
10月6日伊達書状「七日に梁川を攻撃すると城内の内応者に伝えろ」
10月16日直江書状「横田大学や大崎殿を若松へ移動させろ。須田家中からも
人質を出せ」
史料上確認できない挟撃よりは信憑性があると思う。
厳しい措置によって、直江は伊達に付け入る隙を与えなくなった。
763 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 13:49:45.79 ID:W81bjQzr
伊達政宗・片倉小十郎勢を福島城からの反撃開始後僅か一日で蹴散らし名取北目城へ撤退させ押し込めた。伊達の損害甚大で反撃懸念が無いことを悟った上杉家は福島城主本庄繁長を和平特使として派遣出来る程の余裕。
繁長か12月上洛。伊達本隊を難無く蹴散らした上杉勢の強さを誇示しつつ和平工作に当たった。これには徳川家康も上杉家の強さを認めざるを得ず。
結果はなんと、伊達家先祖伝来の地である伊達・信夫郡は豊臣(徳川)から上杉に安堵されたのであった。これは伊達家にとって庄内を自力奪回した最上とは対照的な結果となった。
764 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 14:19:19.70 ID:7y/IAFU4
>>752 伊達方が首実験したのは信夫山の黒沼神社そばの丘、通称愛宕山だろ?
斜面岩だらけなんかじゃないぞ。
サブは数年来(5年近く?)松川合戦に粘着してるわりに、知識も議論も深まらないな。
765 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 14:44:28.48 ID:W81bjQzr
負けた伊達のことなどどうでもよい。
ここは最上VS直江スレ。
766 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 15:19:14.91 ID:73GIrPDg
自分で伊達の話に持っていって、反論できなくなるとこうだ。
767 :
人間七七四年:2011/05/11(水) 15:39:21.83 ID:2sAGH+iG
義光って開墾や商人を招いたりして、山形を急速に発展させたのになんで上杉との
兵力にここまで差が出たんだろう。
768 :
人間七七四年:2011/05/11(水) 16:18:42.92 ID:2HWlCGTH
国力差わかってる?
769 :
人間七七四年:2011/05/11(水) 19:10:34.50 ID:nHPN6bbM
だって庄内地方獲得する前は27万石対120万石で1万石で養える兵隊を250人としたら妥当でしょ
770 :
人間七七四年:2011/05/12(木) 17:09:23.11 ID:V9eEjX3l
上山で最上に大敗の上杉w
771 :
人間七七四年:2011/05/12(木) 22:26:45.85 ID:QvOoTt3o
>>754 梁川と福島の挟撃が10月と言うのはあり得ず
3月だとする理由はなあに?
>>764の話が正しいなら愛宕山が本陣だから
>>755のように挟撃では無く直接に襲撃を受けて政宗が敗走したってこと?
772 :
人間七七四年:2011/05/12(木) 23:54:31.76 ID:COKzNsoF
上杉って当時120万石もあったのか
そりゃ勝てねーわ
773 :
人間七七四年:2011/05/13(金) 00:38:37.43 ID:qHD2ucNZ
>>771 伊達治家記録は十月の撤退は梁川城内の内応工作が不調に終わった
と推測しているが、内応工作があったことや、直江側にばれたことは
複数の書状で確認できる。江戸時代の編纂物だが、サブが言うほどい
い加減な史料ではない。
政宗は6日に福島の兵を城内に押し込めて、周囲の村を占拠して、政
宗らしく自画自賛するような戦いぶりのまま国見に帰陣している。書
状により、ここまでは事実。
軍記物にあるように国見へ引き揚げる途中に甚大な被害を受けたよう
にはとても見えない。上杉方の一次史料にも挟撃の話はない。
一方、三月は上杉方で多くの感状が出されている。伊達側の史料は三
月の戦闘を無視している。ちなみに戦闘は十月と三月以外にも複数回
あっていずれも伊達が敗北したとみられる。まったくの創作で荷駄隊
を襲撃した話が流布するとも思えないので、政宗が切りつけられたか
はともかく、須田家譜にあるように分捕り品を手に入れるくらいのこ
とはいずれかの機会にあったんだろう。
内応工作失敗のほか、直江がたいして兵を失わずに最上表から米沢帰
還したため、反撃を恐れて撤退したとの見方もできる。それが政宗の
「最上が弱く〜」という愚痴につながる。
774 :
人間七七四年:2011/05/13(金) 03:18:26.08 ID:nZzYB7p2
10月4日直江書状「仙道表で不慮の出来」←内応の話ですらない。
10月6日伊達書状「七日に梁川を攻撃すると城内の内応者に伝えろ」 ←誰だかさっぱりわからんし
10月16日直江書状「横田大学や大崎殿を若松へ移動させろ。須田家中からも人質を出せ」 ←露見し内応失敗してんなら16日とか遅すぎだろ。
これが横田大学の内応の証拠とする根拠は?
伊達厨が横田大学は元々、家康の元にいて
甲冑・脇差に使うヤクの毛(唐の頭)
多量の鉄砲を貰って上杉に送り出されてたから内応は考えられると主張するが講談話でありデタラメでしょ。
さらに横田大学が以前からずっと上杉家臣とする場合、
上杉家記が記す上山城敗戦記や最上合戦記で後陣を率いて
高松・長清水辺へ進軍してたら川口村で隠れていた
最上軍に敗れたエピソードで有名な横田式部少輔旨俊との混同。
この上山での敗報を聞き長谷堂から上泉泰綱が救援に来て戦死したとも書くが
泰綱の実際の戦死は10月朔日であり完全なデタラメであり、
敗北したはずの横田式部も敗北の責で降格もしてない。
完全に講談話で上山での上杉の敗走を証明するものは何もないのが実態である。
ここのように敗北してないのに敗北と隠蔽する裏に
実は最上と上杉の山形を前にした2週間で3回しか攻撃していない長谷堂の滞陣も
最上と上杉の講和談判の交渉中だった事実を消すための捏造があると思われる。
横田大学について
慶長三年ニ横田大学と申者 相馬商買之塩荷伊達信夫へ運送之為玉野山中ニ新田を取立
相馬参候塩荷之馬次ニ仕立て 其後福島へ奉行平林蔵人彼地見分仕
と書かれており相馬側で運送の利便を図るために横田大学、
その後に福島側から平林と言う奉行が来たことが記されている。
横田大学が相馬&佐竹から特に対徳川の戦意ある者たちを選んで上杉へ派遣された客将であるのは明らか。
茂庭や屋代が加増されてないのだからまったく活躍していない証左だと認められる。
この時の侵略戦では福島も梁川も攻略に失敗しており、加増もなにもない。片倉は白石城攻略で功があった。
300も討ち取ったのに茂庭や屋代は武功認定まったく無し?
それじゃ常識的には出奔しちゃうだろ。
では白石攻略における茂庭や屋代を上回る片倉の武功とは具体的にどういうものなの?
775 :
人間七七四年:2011/05/13(金) 06:41:49.10 ID:RsReVVxR
上杉の伊達へのトラウマは凄いな。
白石城を落とされ、福島の野戦で敗北したから。
上杉が恐れたのは伊達と徳川との挟み撃ちによる共同攻撃。
直接的には慶長5年10月6日の伊達への敗北が上杉の講和の
きっかけとなった。
776 :
人間七七四年:2011/05/13(金) 08:29:10.19 ID:qHD2ucNZ
>>774 >これが横田大学の内応の証拠とする根拠は?
16日の書状を見れば、横田大学になにかあったのは確か。
それが軍記物などで内応の話だということが補完できる。
16日では遅いというのはサブ個人の考え。直江は伊達の
動きを見てから、会津に帰って対応を協議したのだろうか
ら、16日で遅いなんてことはない。
一次史料で挟撃の話を語ろうとしないのは、そんな史料が
ないから当然だが、せめて内応説を否定するなら「仙道表
の不慮の出来」をどう考えるか、なぜ横田大学に厳しい処
置がなされたか、上山の敗戦が捏造なら、なぜ戦死したと
される直江側近の本村造酒はその後消えたのかなどについ
て自分なりの考え方を出すべきでは?
777 :
人間七七四年:2011/05/13(金) 08:53:27.74 ID:R07/ha/S
高橋明「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾―奥羽越における関ヶ原支線の顛末」(『福大史学』80号、2009年10月30日発行)
778 :
人間七七四年:2011/05/13(金) 11:54:52.25 ID:2VCMmWAt
まあ伊達治家記録は上杉勝利の会津陣物語をベースのストーリー上に
一次史料の独自解釈で巧みに挟み込み
(梁川城内応失敗を横田大学と断定・伊達側からの一方的報告を聞いて検証せずに返答した家康の書状・恩賞一切なしの戦場での誇張討取り300など)
さらにどっから持ってきたか不明な話で補足説明を組み込んでミスジャッジを誘い
会津陣物語を伊達勝利に改変しただけで
明治になって伊達が突然世間に対して主張し始めた松川勝利説だからなー。
伊達が勝っていたのならなぜ江戸時代に主張しなかったのか。
なんで兵力差1/10の本庄が野戦決戦したのか?
300討ち取られたら戦傷者を含めたら本庄軍は壊滅したも同然なのになぜ福島城を含む伊達郡信夫郡防衛ができたのか?
なぜ伊達はたった1日で神速の速さで急いで逃走したのか?
伊達は大軍で軍費をかけてきたのに梁川城の内応失敗だけで逃走すると言うのは
その後も度々侵略を繰り返してるぼど伊達や家臣たちが代々の故地奪回への執着から説得力がない。
会津陣物語の成立年代からみて多少の誇張や日付間違いがあっても参考にできる話で
(三成と直江を悪人にして責任の全てを負わせる目的で作られたことに保留すべき)
挟撃が原因で伊達が急ぎ北目城に敗走すると言うのは合理的解釈であり謎に解答を与えており排除できない。
779 :
人間七七四年:2011/05/13(金) 14:18:30.47 ID:81/GidEX
史料に基づかずに「(sub的に)合理的」という
話を展開してはもう議論にならないな。
780 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 05:43:28.73 ID:3SyCBafR
781 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 05:56:30.20 ID:3SyCBafR
>>773 >>伊達治家記録は十月の撤退は梁川城内の内応工作が不調に終わったと推測
>>須田戦闘は十月と三月以外にも複数回
>>776 >>軍記物などで内応の話だということが補完できる
伊達の撤退理由は推測&軍記物を根拠にして内応と言う結果を主張し
挟撃による伊達軍の敗走の話は十月と三月以外にも複数回の戦いがあったから違うと否定
こういうデタラメな主張をするのは汚くないか?
782 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 06:10:34.42 ID:cKjWlxU4
>>780 >明暦三年四月
苦笑。単なる60年後の古老咄の域を出てないと思われる。
中島宗勝宛て伊達政宗書状の一次資料がこの戦いの実相を語っているわけで。
そもそも、佐藤次兵衛功名覚を裏付ける上杉の一次資料は?
783 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 06:56:45.78 ID:3SyCBafR
当事者の記録なんだから信憑性高いだろう。
会津陣物語の元ネタは幕府老中となった酒井忠勝(老中在世は1624年〜1638年)の求めに応じて
水原親清が自らの従軍経験を書き残したもの(政宗記や成実記と同じ本人の記録から)
小手六十三騎についての記述・小手郷四郡役を勤めた高橋清左衛門(1636年2月)
随従した甥の次兵衛が書き上げた佐藤次兵衛功名覚(1657年4月)
以下は当事者がすでに死んでいるため伝聞から編集でバイアスがかかっている。
国枝清軒が会津地方の御話を収録し再編集した東国太平記(1680年)
伊達治家記録 元禄年間完成(1688〜1704)
784 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 07:39:42.73 ID:RJ2dV0/m
よせよせ伊達厨に何を言っても無駄。
中島宛で政宗は会津への郵便局員2、3人打ち取りごときで満足したって言ってる男だから。
そのあとに景気よく300余討取りなんてデマカセ書いてるだけだから。
だからそれを討取ったとする茂庭らの武功はまったく認められず
そんな戦いは見てない片倉だけが部下2人(政宗陪臣)が討ち死にしたことに報いられて刈田郡加増になっただけだから。
しかも後付けで300討取り内訳を旧蒲生家臣として複数の名を挙げて信憑性を増そうとしたようだが
蒲生家譜などを見てもそんな人名はまったく発見されない謎人名。
さらに感状すらない始末でまったくお話しにならない。
785 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 07:40:56.54 ID:2BMrcr+k
>>781 一次史料と矛盾しないから軍記物での補完が可能。
10月に挟撃があったとすれば、国見に引き揚げた時点で「残すところ無き手際」と自画自賛し、
戦後でも「仕合せ能く、満足に候、今少し残り多き様に候えども、時節柄の事に候条、よき候と
存じ候」と政宗が言っているので(後世の自己申告よりリアルタイムの書状優先が歴史の原則)、
大勢に影響のない程度の攻撃だったことになる。
覚は日付に間違いがある可能性もある。何度も戦っているんだろうから、どの時の話かというの
を混同しているかもしれない。いずれにしても一次史料より優先することはない。
須田は四月に土豪へ恩賞を与える約束をしているけど、確実にあったのに伊達側の史料がなかっ
たことにしている三月末の戦闘での勝利で、ある程度落ちついた、または恩賞を求める声が高ま
っていたとみることができる。リンク先は土豪が加増されたと記述しているが、須田に加増の権
限があるかは微妙で、案の定、直江に「須大よりの訴え」は拒否されている。
786 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 16:20:05.53 ID:8/H01vWK
鶴岡・酒田を自力で回復した最上と比べ、福島ですら回復できなかったヘタレ伊達。
787 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 18:36:17.60 ID:oBLce9Aw
10月4日直江書状「仙道表で不慮の出来」 ←仙道表なんて書いてない。
ましてや横田大学の内応と解釈するのは無茶すぎる。
「今度不慮出来候様子〜御吉事と存ずる」と書いてるだけ。
これは上杉側の立場だった政宗が裏切り進撃する可能性が生じた注進があったと見るべきで
横田大学内応露見の事を指してるわけじゃない(3日に政宗は侵攻を決意し5日に2万を率いて北目城を出る)
しかもこの後に御吉事と存ずるといってるわけで上杉側ではそれの対策を施していると直江は認識してる。
おそらくその対策が横田大学を偽って伊達に内通させて騙すこと。
6日の朝に開戦し政宗も国見から羽黒山へ進むが夜には伊達がすごい早い勢いで北目城へ逃げてる。
本庄1000や周囲の備えの兵糾合して1000くらいの2000前後?と伊達軍の1/10の寡兵であり
このうち300余りも討取っているのなら戦傷者はその3倍から4倍であり
なぜそんなに急いで逃走する必要があるのか。
そもそもそんな戦力差で正面からガチな戦いを挑むだろうか
(1番隊茂庭や4番隊屋代がまったく戦功を認められなかった300余討ち取りの戦い自体が架空話なのでは?)
このことは「関が原の勝報到るや、政宗急に約に背き兵を率いて福島に迫る。本庄・須田が松川で挟撃し
政宗大敗、輜重を委棄し」との伊佐早謙編景勝卿記中の記述と矛盾しない。
10月6日伊達書状「七日に梁川を攻撃すると城内の内応者に伝えろ」
10月7日直江書状では二本松城の増強について書いており、
福島表への後詰めも「敵の手成いまだ見え申さず条につき」援軍を出すのを延期すると言っており
6日早朝からの戦いの御注進を受けて出された書状の直江は非常に楽観的だ」
つうかいまだ見え申さずとする点からむしろ福島城まで伊達軍は来襲できなかったのではないか?
(2番隊片倉も300討ち取りの戦いを見ていないと言っているのも気になる)
10月16日直江書状では続いて梁川城の防衛の手筈の書状であり
覚 「一 横大若松へ引越之事」
と人事異動を書いてあるだけなのを無理矢理に横大の内応が発覚し
失敗したから伊達は撤退したと解釈してるだけでしょ。
これは3番目の条項である「一 町人地下人によらず不審な者は若松へ差し越し候べく事」の文章を捉えて
横大についての言及も内応が発覚したから「若松へ差し越し候べく」に違いないと歪曲解釈してるだけ。
伊達側が一次史料を都合よく解釈して講談話で歪曲捕捉解説しデッチあげてるだけでしょ。
もし4日の段階で直江が横田大学の内通を察知して泳がしていたのなら、
片倉は完全に騙されて6日夜に実は偽りの内通に騙されてたと分かり
背後の梁川を放置して福島まで釣りこまれ挟撃されたと解釈すべきだろう。
さらに戦が終わって10日も経ってから内通の罪を問うて若松へ連行するには遅すぎて不可解。
むしろ仙境が落ち着いたこともあり今回の挟撃成功に関して褒賞すべく若松への引越しを命じられたとすべき。
そもそも梁川城兵に輜重を奪われ福島城から摺上川まで退却。
その後に愛宕山本陣に諸将を集め軍議を開始しそこで斉藤兵部の内応を聞き進退を石川に相談(梁川の内応話はこれでは?)
石川が政宗に「仙道の兵を糾合し、梁川よりもまた来襲し挟撃をうけるから撤退しろと言われ
部下2人を討たれた片倉も戦況の見通しについて否定的な発言をしたので政宗が急いで撤退準備開始。
(福島虎口へ懸著としたが到達できず物頭2人討死となり悔し紛れに鉄砲をぶっ放した)
この際に石川や片倉が懸念していた事が現実になり
羽黒山全域が上杉によって炎上させられ愛宕山本陣も維持できず
寂光寺慶印が帰るところを失って政宗と一緒に逃げたとする戦況推移に矛盾なんてまったくないじゃないか。
788 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 20:37:14.98 ID:2BMrcr+k
>>787 強引に解釈しすぎではないかな。サブ君。
「不慮の出来」が仙道表のことで横田大学らの内応工作を指すと言うのは、
今福匡氏が著書で指摘している。
伊達は最上表にも援軍を送っているし、直江は9月22日に「政宗が侵攻し
て来たら景勝が出馬すべき」と書いているし、樋口兼豊も政宗来襲の流言を
報告して25日に景勝が対応を指示している。今さら「味方の政宗が攻撃し
てきた」のが「不慮の出来」はないよ。
10月7日直江書状
これも誤読している。伊達の動きが見えないのは、伊達が福島城に迫れていない
からではなく、米沢に情報がうまく伝わっていないから。だから直江は、清野に
会津で情報を収集して届けてくれと言っている。福島城の西側を伊達が占拠した
のは、中島宛て政宗書状で分かる。誇張癖があっても嘘をついてもしょうがない
内容だよ。
>10月16日
横田大学の人事異動・・・・斬新すぎる解釈だな。
もう少し冷静に史料を読もう。
今福氏もだが、木村徳衛氏などこの書状に触れた研究者は
横田大学らの内応への対応に関する書状だとしている。
中盤以降が中盤以降がきつい内容なのに、一番重要な最初の
項が人事異動とはこれいかに。強引にもほどがある。
>むしろ仙境が落ち着いたこともあり
落ちついてないから人質とったり身柄を送らせたりしているわけだよ。
>矛盾なんてまったくないじゃないか
矛盾の前に一次史料がない
789 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 04:24:58.12 ID:7P9f8FQO
9/22の直江書状で自分は山形の近くにいると報告し
福島や梁川への普請と油断するなと命じ
当郡(米沢)の御備えの条については堅固にしているので
政宗の手成が見えないこともあり景勝の米沢御出馬を伸ばすのは御尤も。
伊達政景の山形への出馬について上杉側でも伊達の真意が読めてないのかも知れない。
9/25の景勝の米沢守備の樋口(直江父)への書状では
政宗が堺目への進出の由について米沢口の用心を命じ
景勝より人数を追々米沢へ派兵しそのこと仙道口へもこの旨を申し遣わす。
これにより仙道から米沢への兵力の移動が政宗をして結城秀康への挟撃依頼になった。
しかし政宗の動きに警戒してるが、用心するように言ってるが政宗が裏切ったとは断定してない。
10/4の不慮の出来事とは、「関が原の敗報」がやってきて「政宗が裏切り」
しかも最上と共同しての「米沢攻撃ではなく」「仙道口への南下」ということで
横田大学の内応発覚なんて解釈はデタラメ。
あきらかに横田大学が内応したと決め付けるのは伊達治家記による架空話の解釈に引きずられている。
そもそも横田大学が内通した動機として挙げられていたのが
伊達厨が主張する横田大学は元々、家康の元にいて甲冑・脇差に使うヤクの毛(唐の頭)
多量の鉄砲を貰って上杉に送り出されてたから内応は考えられる言う話からしてデタラメでしょ。
さらに下記のように葦名家臣ですら調査できるのに、
なぜ300討取りした証拠として伊達側で名を挙げた旧蒲生家臣の名前が1人として見つからないの?
なんで上杉家臣は誰1人として討死してないの?上杉家臣で架空名を挙げるとすぐバレるから?
伊達成実の生涯唯一の武功が摺上原の戦いでの金上盛備と佐瀬平八の討ち取りだと大々的に自慢してるが
そもそも金上盛備を成実は討ち取ってないから捏造なのは明白。
それで佐瀬平八とは何者か調べたんだが下記の人物なんだわ。
葦名軍が瓦解敗走中に背後から斬りつけて、このレベルを討ち取って自慢になるなんて伊達ってショボイね。
葦名修理太夫盛氏旗下之大名
佐原氏葦名五黨ト称ス者
葦名四天老中四人並ニ小頭附ケタリ老中同心八十人
若年寄四人並小頭四人附同心
用人五人並取次十人
側用人五人並取次五人
奉行四人並用人役祐筆兼諸役兼勤者八人
郡代十七人並小頭十七人附同心百七十人但同心十人宛
下郡代十七人但シ下郡共勘定頭共云フ
侍大将十二人 同組士外様三百六十人
旗頭八人並與力野士八十人小頭八人其組足軽八十人
弓大将四人並與力士四十人小頭四人足軽四十人
鑓大将四人並與力士四人小頭四人足軽四十人
使番十二人
奏者番十二人
大目付四人
寺社奉行四人並小頭4人附同心四十人但一組十人宛
寺社小役十二人
町奉行四人並小頭四人附同心四十人m一組十人宛
足軽大将三十人並小頭六十人m一組二人宛足軽九百人m一組三十人宛
大番組八人並組士七十二人
8つの組のうちの1人としてやっと佐瀬平八組として登場w
メンバーは下妻市太輔 神原源左エ門 賀ガ見村右エ門 杉田平右エ門 笠尾藤右エ門
神尾利右エ門 関脇十郎兵衛 金山吉右エ門 岩永太左エ門
790 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 05:35:55.61 ID:uirJF2AK
まぁ政宗は福島城攻撃する前後で瀬上まで後退してるんだよね。
その後に夜になり愛宕山本陣まで再度進出してるんだよ。
これは明らかに梁川城兵による背後への奇襲があった証拠で
政宗は背後を安定させる為に瀬上まで後退してる。
そして愛宕山本陣で軍議をした時に石川や片倉から福島城と梁川城との挟撃の恐怖が語られ撤退準備を開始
すると梁川城兵により羽黒山が炎上し上杉軍が愛宕山本陣を見下げるのを見て伊達軍はパニックになり炎上を見た福島城兵もやってきて壊走する。
何とか国見山まで敗走し敗残兵を収容するも
政宗は寂光寺の慶印と抜け道を伝わって北目城へ逃走してる為
伊達軍も上杉軍の再攻撃を恐れて政宗を追って北目城へ逃走したのは明らかだよね。
791 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 07:26:28.95 ID:A+llCUAt
軍記の妄想は妄想として、上杉が野戦で敗退した事実は疑いようもない。
主将の本庄は福島城に籠城を余儀なくされ、自決寸前までいっている。
この福島表での惨敗が上杉の講和を後押ししたわけだ。
792 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 08:38:50.15 ID:mlHluYMb
>>789>>790 最上への再出陣を中止させた「不慮出来」が越後からの庄内攻撃と伊達の
福島方面への進出を指すことは考えられるだろうね。ただ、すでに伊達を
味方だとは認識していないでしょう。サブ君の中では会津征伐時点から伊
達は上杉と密約を交わしていたのだろうから、さぞかし強固な信頼関係が
あったのかもしれないが、そのへんは小説の世界で話してくれ。
が、横田大学の内応も含まれることをデタラメだとする根拠はないよ。
伊達の史料に書いてある話は全部ウソというスタンスはやめたらどうか。
「不慮の出来」が何かは抜きにしても、一次史料をもとにして、軍記物や
編纂物の記述を参考にいていっても、横田の内応がデタラメで、逆に恩賞
を与えられるために会津に呼ばれたなんて話にはならないと思うが。
全部サブ君個人の見解であり、史料的な根拠が一切示されていない。
>伊達側で名を挙げた旧蒲生家臣の名前が1人として見つからないの?
確認できることはすでに述べた。奥州鎮圧の部隊編成を調べるといい。
793 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 12:03:46.59 ID:uirJF2AK
>>791 本庄自決?それはどこの誰だか不明な謎の名前の人物が伊達治家を編纂する時に教えてくれた話だろw
なんせ伊達は会津陣物語を熟読して伊達治家に伊達が勝ったように歪曲して丸パクりしたからね。
伊達に不利な話には全て言及して否定しまくってるし。
>>792 横田大学が内応した証拠はまるでない。
伊達側の完全な歪曲解釈
奥州鎮圧の部隊で確認が取れたのは佐竹や相馬から出向して蒲生へのオブザーバー的な客将になって案内役をしていた車氏だけだろうが。
794 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 12:23:26.59 ID:uirJF2AK
それに横田大学の内応発覚が不慮の出来事なら
それを直江は放置して泳がせているわけで
伊達側は露見していた内応を信じて誘き出された馬鹿っぷりを晒しているだけでしょ。
そして松川の戦いの夜の軍議で騙されていたことを知り
内応工作を担当した片倉は戦況の見通しで否定的発言をし、
騙されて相手側の戦略に誘き出されたことにより背後の梁川城と福島城との挟撃が現実になる事を恐れて手遅れになる前に至急全軍退却と石川が提案したんでしょ。
戦後に政宗が残念だがこの時勢ならと発言したのを勝利宣言とするのもおかしな話で
そもそも当主がこないだの戦いで負けたわ宣言する書状なんて
謙信が和田城攻め失敗で書いてるくらいでほとんど無いと思うが。
武田軍が関東を荒らしながら小田原へ向かった際に北条兄弟も信玄に勝ったとウソばっかり書状に書いてるし。
政宗は北条兄弟と似たような面子を気にして誇張するタイプだろが。
それが残念な結果なんて書いてるのは負けたことを認めてないだけ。
時勢を考えればと言うのは家康と結城秀康からの援軍を得られない為に上杉にかなわない時勢を指して諦めてるだけの話。
795 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 12:55:08.90 ID:mlHluYMb
>>793 軍記物などにある横田の内応を否定する材料を示しては?
直江の10月16日付書状はそれを裏付けるものといえる。
これまでの研究者もそう指摘している。諸史料を照らし合わせ
てそれが適切な理解だからだ。サブ君の主張は、もちろん「本
当にそうなのか?」という視点は大事だが、それを覆すだけの
材料をそろえないまま。個人的な希望的観測の枠を抜け出して
いないんだよ。
>>794 >それを直江は放置して泳がせているわけで
>時勢を考えればと言うのは家康と結城秀康からの援軍を得られない為に上杉にかなわない時勢を指して諦めてるだけの話。
その可能性はあるね。
ただ、挟撃されてサブ君の言うようにぼろ負けしたのに、そんなことも書かないよね。
家康への戦果報告ではなく、実情を隠したって分かる部下への書状なのだから。
中島宛ての書状も、村々を占拠した中島本人へ宛てた書状なわけだし、いくら政宗が
誇張するタイプだといっても、書状の内容が嘘だとするには史料的な根拠がなさすぎるよ。
796 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 13:14:18.74 ID:uirJF2AK
>>795 結城秀康側の話にも出てくるのに
上杉による奇襲は否定するくせに
横田大学の内応は必死に肯定するとか恣意的過ぎるだろ。
横田大学が内応する動機からして捏造された話なのにも関わらず。
御用研究者の書いてる内容なんてまったく役に立たないから。
政宗は領土拡大を求めた家臣たちに
あれはまぁ勝ちだったよ残念だったと慰めてただけ。
あとは秀康らの援軍が望めない以上は百万石の約束を実行させる交渉に本腰をいれる時勢でもあるわけだ。
しかし最上の侵攻がうまくいっている事態になるや政宗は焦っていき
すでに徳川からとっくに和睦の申し出が上杉にあって交渉してるのも知らずに侵攻を続けていくわけだ。
797 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 15:27:45.31 ID:mlHluYMb
>結城秀康側の話にも出てくるのに
>上杉による奇襲は否定するくせに
>横田大学の内応は必死に肯定するとか恣意的過ぎるだろ
どこかおかしいかな。軍記物は一次史料と突き合わせて真実かどうかを
検証すべきで、傍証となる史料がある以上、横田の内応は事実ではないか
と見るのが普通ではないの?
>御用研究者の書いてる内容
本気で言ってるのかな。木村徳衛氏は有名な『直江兼続伝』を書き上げた人。
上杉厨を装うサブ君が知らないはずはないだろう。今福氏の著作も上杉関連の
ものだが。そういう指摘を「デタラメ」というんだよ。
>あれはまぁ勝ちだったよ残念だったと慰めてただけ。
相変わらず根拠がないですな。
>政宗は焦っていき すでに徳川からとっくに和睦の申し出が上杉にあって交
>渉してるのも知らずに侵攻を続けていくわけだ。
その通り。
798 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 15:45:03.79 ID:uirJF2AK
だからね、横田大学が内応したなんて事実はまったく存在しないのに
歪曲解釈で必死に内応は事実と垂れ流す時点でお話にならない。
御用学者の解釈を無批判に転載しただけで提灯でしかないわけ。
まだ現役の人々が生きていた江戸時代初頭での公式である背後を襲われ伊達が敗走した事実を歪曲するべく
17世紀後半に伊達軍が勝ってたけど横田大学の内応が発覚したから退却したとする妄想ストーリーに沿って捏造を作り出しただけ。
799 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 15:47:47.52 ID:mlHluYMb
御用学者とは誰を指しているの?
挟撃があった可能性は否定しないが、10月6日ではないと
言っているのだけど。捏造だとする根拠も示さないのでは話に
ならないよ。
800 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 16:13:50.99 ID:uirJF2AK
はぁ?むしろ10月6日以外と考える方がおかしいだろ。
それ以降にも伊達はたびたび負けているが
福島城近くまでも到達できた証拠すらまったく無いのに
どうやって梁川城が伊達軍の背後を襲える状況が成立すんだよ。
そのくせ横田大学の内応だけは事実だと強弁するから恣意的だと指摘してんだよ。
内応なんて歪曲する為に作られた話で、それを事実化する努力を払ってるのは御用学者だと言ってる。
それに気付かずに無批判に受け入れてるのは提灯だとも言っている。
801 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 16:26:28.25 ID:uirJF2AK
政宗が本当に300人討ち取って首実験してるほどなら
なんで心残りなんて愚痴ってんだよ。
ハッキリと「こたびの大勝利で日頃の鬱憤を晴らせて本望」とか
「こたびの武功を政宗生涯忘れず」って
部下を激賞しても良い話だろうが。
明らかに勝利宣言なんて解釈できねーのに歪曲したりと
常習的に伊達治家は巧みに余分な解説的補填を挟み込み
無意識にミスジャッジ誘導へ導く悪い癖がある。
802 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 17:29:24.83 ID:mlHluYMb
>福島城近くまでも到達できた証拠すらまったく無いのに
福島城近くとはまた漠然としているな
>横田大学の内応
10月16日直江書状などと江戸時代の記録を合わせれば事実だろうと
考えられるでしょう。内応を歪曲したという根拠がない。
>事実化する努力を払っているのは御用学者
誰を指すの?
>「こたびの大勝利で日頃の鬱憤を晴らせて本望」
福島も梁川も落としていないのにかい?
803 :
人間七七四年:2011/05/16(月) 02:57:43.71 ID:RJH8U350
俺は伊達厨じゃないって執拗に主張してるけど、
毎回明らかに伊達厨丸出しな解釈しかしてないんだよな。
まぁ伊達治家記録の言い分だけを採用すると梁川で横田大学が内応約束していたが、
上杉側に発覚したってストーリーだから
横田大学の会津への引越がマイナス解釈になるのであって
バイアスをかけずに一次史料だけみると
そもそも横田大学が内応してたかすらわからないどころか、
治家記録が追加した補足説明である上杉側に内応が露見したとする事態自体がまったく確認できないでっち上げなんだよね。
だから内応を餌に片倉が騙されていたのが6日の午後に発覚するような戦局が生じたと考えるべきで
羽黒山の麓まで本陣を進めていながら
国見山とかなり後方まで撤退する事件が発生してる。
しかし明日は福島へつながる道々すべてに兵を派遣して全街道を抑え逆襲してやると政宗は考えており
敵の全方向からの奇襲を阻止しようとする戦略を取ろうとしている。
その後に夜になり放置していた羽黒山の麓の本陣まで再度やってきて夜の軍議で後退するハメになったこれが問題視され
結果として上杉領からの即時緊急退去に追い込まれてる事実しか無いんだよね。
804 :
人間七七四年:2011/05/16(月) 03:54:10.64 ID:RJH8U350
愛宕山の慶印の助けもあって調子に乗って国見山を過ぎ桑折も過ぎ
摺上川まで渡河し瀬上も通過し、現在の松川も通過し羽黒山の麓(愛宕山)まで進出した政宗(古松川を前に見る)
しかし後方で大事件勃発(須田らの行動だろう)→国見山まで政宗は大後退する。
ここで治家記録では羽黒山本陣にいたが片倉が戦局の見通しの悪さを述べたから国見山へ帰ったと捏造解説をして誤判断に誘導してみせてる。
しかしここで石川により撤退が提案がなされたようだが、
福島への街道筋に派兵して逆襲を考えていた政宗の士気に反してものすごい速さで北目城まで緊急超撤退する理由がわからない。
ここで青葉山寂光院・羽黒大権現が仙台に移設せざるおえなくなる事実が解答になるだろうね。
つまり上杉軍による羽黒山への夜間奇襲が実行され寂光院が焼き討ちを受け伊達軍が緊急撤退を余儀なくされた。
ここで治家記録でまた捏造すべく補足説明が入り
羽黒山から国見山へ戻る途中に屋代景頼に対して武功を讃えて酒杯を与え、
その後に梁川表を遠望して帰ったなどと書いてるが
屋代の武功に対する加増がその後まったくなく成立しない話である。
805 :
人間七七四年:2011/05/16(月) 04:02:07.97 ID:RJH8U350
そんで梁川の内応者ってのは16日の書状内容から考えて
「町人地下人によらず不審な者」達への片倉の調略である可能性が高く
しかも4日の書状の解釈次第では兼続がそれを御吉事であると書いてることから
事前にそれを知っててワザと片倉を騙す為に泳がせていた可能性があると言うこと。
806 :
人間七七四年:2011/05/16(月) 05:43:12.76 ID:j8RlYk/W
慶長5年10月6日福島表から上杉が伊達に大敗。
信夫山で首級実検され、本庄共々福島城に押し込めた戦いは
徳川家康をすこぶる満足させている。
その証拠に、戦勝の結果として家康は11月にはいち早く政宗に
仙台城の築城許可を与えている。
この結果に焦燥した上杉が徳川への講和を決めたのだから、
局地戦であったが、慶長5年10月6日の伊達が上杉を野戦で
敗北させたことは、とりわけ伊達には優位だったわけだ。
勝ち逃げされた格好の上杉がややみじめだがねw
807 :
人間七七四年:2011/05/16(月) 07:09:48.36 ID:Ebds7Yo2
>>806 仙台築城への反論
>>546 そもそも政宗陪臣ほどの高位の大将が2人も討死してると言うことはその部下や兵達がかなりの数討たれているわけだし
伊達の本陣だった国見山を取り仕切ったという宮崎旨元が討たれてるしね。伊達の史料にはそう書かれてるし
上杉の史料にも似た内容がある。本陣を仕切った人物が指揮していた荷駄隊はある程度の大部隊だったと考えるのが自然
でもなければ荷駄隊なんてわざわざ編成する必要が無いんだし実際須田の記録では兵糧、弾薬、
首級(荷駄隊隊長以下警備の者、下人)が梁川城へ運ばれてるこれが一番大きな決め手になったようにしか見えないけどね
巻乃二十下479ページ (政宗)公、白石城御出陣、伊達郡国見山二御本人ヲ備ラル。
同上487ページ 宮崎内蔵助旨元 ハ国見山御陣場ヲ取リ仕廻テ、御幕等ヲ人夫持セ、御跡ヨリ福島表へ来ル。
で、宮崎旨元が梁川勢によって討取られるという内容へと繋がっていく訳だけど
この際奪われた陣幕は亘理伊達家、定宗の荷物に入っていた物かもしれないとも書かれてる
あと俺は面倒だから小荷駄を荷駄と略して書いたけど小荷駄だから小規模だとか、
荷駄だから大規模って区別の仕方はされてないと思うよ。小荷駄=大軍勢を賄う重要な部隊〜という位置付けで
書かれてる話も実際あるし(信玄×内藤の逸話など)宮崎旨元率いる小荷駄隊が公(政宗)の御跡を追って、
国見山から福島表へ来る途中の話。伊達による福島城攻囲とほぼ同時間帯に行われてる話
伊達軍本隊の荷駄を悉く奪って、梁川城へ運び込んだという「戦果」は大きいし
一方伊達の立場から見ると、せっかく攻城用に準備してきた兵糧&弾薬がそっくり敵の城に移ってしまった
福島城どころか途中にある支城=梁川城が強化されたという結果に
この戦いの直後、伊達側の最前線にあった懸田砦が上杉の逆襲に遭い落城。懸田を奪った上杉方の簗田城兵が感状を貰ってる。
そして実際は福島城攻略に失敗した為に恩賞が払えない政宗は窮して10/19宗薫から家康への伝達において
せめて20万石でも15万石でもいいから政宗に対して不満だらけ家臣達への堪忍分で加増してと泣きついてる。
一方の上杉側の動きであるが
10月23日付安田吉親あて直江書状「佐竹口より働き、江戸より無事の内証候に付き、相止め候」
「佐竹口からの働きは、江戸より無事の内証があったので、中止しました」
11月19日付横田式部あて直江書状「上方の儀、御無事の様子、舟岡・中島下着候、これに就き、近日、本庄越州上洛有り候」
佐竹口から関東に攻め込む計画は、江戸の徳川方から和平の話があったので中止した。
「上方から(千坂対馬のところから)舟岡、中島がやってきて無事である 旨伝えたので、近日本庄越州を上洛させます」
10月26日安田能元→甘糟備後「和睦の件は私が強く主張したので大丈夫でしょう」
直江書状と合わせてもこの時点で上杉家は徳川からの和睦の話に乗る方針になっているのが分かる。
12月22日景勝→本庄「お前の上洛について、直江が榊原康政に相談したところ、道中の無事を保障する旨を伝えてきた」
同月23日景勝→千坂「お前が中島、舟岡をこちらに寄越し、本多佐渡、本多中務、榊原式部からの
内々の話をじっくり聞いた。なので本庄を上洛させることにした」
808 :
人間七七四年:2011/05/16(月) 07:28:54.59 ID:Ebds7Yo2
伊達の捏造歪曲は一次史料の文書にデタラメな捏造解説をつけて文意そのものを変えてしまう。さて実例を1つ挙げておこう。
白河義親が政宗と小田原へ同道した時に結城宗広重代相伝の家宝の太刀を秀吉に献上しようと考えていたら
政宗がそれを止めて、太刀は政宗が白河からの献上物として披露しよき様に申し上げると言って預かったが、
秀吉の前で太刀は政宗自身のものとして進上したので義親は重代の太刀を無駄に他家の宝として相伝の所領をも失う結果になった。
この史実に対して、浅野長継→政宗の書状 白河七郎殿進上物は御馬のみと明記。
刀守家は白河からの言付けとは書いてないのに、
この書状を証拠として馬と刀はちゃんと白河から秀吉へ渡されたので政宗に私曲はなかったのは明白とふざけた事を書いて捏造してるしw
だいたい政宗はこの時期に義親が政宗に頼んだ海松黒と言う名馬と逸物の鷹を添えて小田原へ行く政宗に託したが
馬鷹すべて政宗が自身の土産として披露したと白河古事考や東太平記や会津四家合考にハッキリ明記されてる。
義親は大の鷹が好きでかつて佐竹三郎宛てに小型の鷹はいたかを所望して早速贈られて「真実以、快然之至候」と喜び感謝してるほどなのに可哀想。
伊達治家記録は明らかに会津陣物語を熟読して参考にして書かれている。
しかも伊達治家記録における当該戦役の記述にはまったく出典不明な戦況記述が多々あり
どこからそれを持ってきたのかと言う疑問ばかりである。
そもそも軍記ではない藩史としての伊達大本営発表なのにも関わらず
同じ関が原時の対南部戦においても下記のような捏造を平気で行っている。
まずは政宗の書状のデタラメ歪曲ぶりを見てもらおう。
政宗→井伊へ 三月廿二日
南部からも攻撃されてまして伊達軍が討たれてるが家康公から指示がないので南部への対応を控えてます!
(伊達が和賀一揆を引き起こしその支援までしてるのに南部が悪いと言ってるw )
佐竹から景勝へいろいろと話があったそうでどうやら景勝の上洛は取りやめですぜ!
(上杉・徳川間ですでに和睦の話が出来合ってるのも知らないでウソを吐く必死乙状態w)
上記の南部への対応での伊達治家記録による捏造フィルターを通すと・・・
伊達家治家記録では慶長5年9月〜と6年3月〜の合戦を同一に併せた挙げ句に
慶長5年10月に伊達の勝利の戦があっただけと捏造し
白石勢100の犠牲があったが南部200を討ち取り大勝利したものの
南部側に家康の鷲師右衛門がいたので遠慮して白石勢は反乱者の和賀を引き取って水沢に帰った。
と驚くべき捏造をする仙台。
実際は下記である。
花巻城を奪還した南部勢は和賀川を挟んで岩崎城と対峙していたが
伊達が城から出て来ず合戦に発展せず膠着状態に推移したので大雪もありひとまず11/16帰陣し盛岡帰還。
3/10に南部軍が再出陣し3/13には和賀川を渡河。
4/4に水沢城から白石若狭の軍を南部軍が捕捉し伊達の鈴木将監義信(59歳)が討ち死にするなど首93を討ち取る大勝。
(白石宗実は伊達家治記録では慶長4年伏見に死んだ事にして援軍を撃破され孤立した岩崎城は4/26に落城 。
この時期の戦闘自体が無かったことにしてる為この時期は白石宗直とする)
この時、鷹師大矢小右衛門が4/19に岩崎陣を観戦していて伊達軍を粉砕し岩崎城を降した南部軍が追撃して
一気に水沢城攻めに進軍するのをあまりに大規模になると南部の立場も悪くなると諫めて
井伊直政に急使を出してくれたので戦争状態がストップして伊達は助かっただけ。
この政宗の侵略については叔父義光からのチクりも聞いた家康は和賀の件で伊達を糾弾し追い詰められた政宗は
5/17に岩崎一揆之者共を呼び出し成敗し、その耳鼻を江戸に贈りさらに24日に和賀主従を暗殺し自殺したことにした。
南部へは首を贈り「あなたの敵を政宗が討ってあげたので今回の件は水に流してください」と家康への訴えを取り下げるよう懇願。
いくら伊達が濡れ衣と主張し捏造しようが仙台藩士の和賀氏には政宗書状として代々保管してある
「和賀において白石右衛門左が軍を処々に出して悦口之至候 卯月政宗「花押」」と記す書状の写しがある。
ちなみに南部の遠野城主である阿曾沼広長も最上陣に出陣するが和賀一揆の連絡を受けて山形から急ぎ撤退命令が来た際に
和賀氏同様に伊達に内通していたようで主家の南部に対して「一揆の場所は我が阿曾沼に関係ない場所だし」と無視。
しかし遠野の重臣の裏切りが発生し伊達を頼って気仙沼に亡命。その後も遠野復帰を伊達が支援していたが見事に失敗した。
1703年元禄16年に編纂された伊達治家記録はマジ笑えるよな〜www
809 :
人間七七四年:2011/05/16(月) 08:02:51.57 ID:11zIGzl5
>>803 何度も言うけど、伊達は野戦に勝利しただけ。何厨だろうと、一次史料に矛盾する
以上は、10月の侵攻時に上杉側の大きな反撃があったと主張するのは伊達側の史
料を否定するような新史料でも出ない限り難しい。それが歴史だよ。
そこを逸脱すれば個人的な推測、妄想、小説だよ。
「バイアスをかけずに」一次史料を見たら、上杉がこの時、伊達に大打撃を与えた
なんて話は出てこない。君の論法でいけば「まったく確認できないでっち上げ」に
なってしまう。
横田大学の内応も同じ。10月16日付の直江書状を見れば、梁川に何事かがあった
のが分かる。条文だけ見たら、サブ君の指摘通り人事異動にも見えるかもしれない。
ただ、書状全体を見れば緊急対応を記したものであり、後世の史料と突き合わせて
もただの人事異動とは考えにくい。
サブ君はこの時以外は福島城から兵が出張るような機会はなかったと指摘している
けど、翌年3月末の戦いで福島城将たちが「堅固に防戦」して感状をもらっている。
3月26日あたりに合戦があったとみられるが、いわゆる松川合戦を4月26日と
する多くの史料とちょうど1カ月ずれている。
810 :
人間七七四年:2011/05/16(月) 08:12:40.97 ID:GmOBv4Fb
白峰旬「慶長5年の上杉景勝VS徳川家康・伊達政宗・最上義光攻防戦について : 関が原の戦いに関する私戦復活の事例研究(その1)」
(『史学論叢』2010年3月発行)
811 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 03:08:22.08 ID:ljKTZZWF
会津への引越って事は
会津府内に家まで用意されるって事だから逮捕と解釈するのは無理じゃね?
812 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 06:45:06.11 ID:Hm7mJppM
慶長5年10月6日の戦いについては戦術的にも戦略的に伊達の勝ち
と結論づけて間違いはない。
城に引きこもっていた(伊達に押し込められた)本庄の出番は無論
なかった。
更に慶長6年4月26日の所謂「松川合戦」に至っては軍記作者の捏造で
あることがバレ、「日本戦史」からも完全に黙殺されている有様。
813 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 08:51:00.15 ID:l+zO2PCu
>>811 逮捕まで強いかは不明だが、福島方面が落ちついていない時に前線の梁川から
若松に一族郎党引っ越しさせるのは疑われているということ。箇条書きの順番
からも、普通であれば緊急対応の中で、地下人や須田家中から人質を取ること
より、横田や大崎を会津へ呼ぶことのほうが重要案件。
ちなみに
>伊達治家記録は明らかに会津陣物語を熟読して参考にして書かれている。
とあるが、会津陣物語では横田の内応はなく、4月の戦闘にも上杉方で参加
している。
>>812 3月に上杉側がたくさんの感状を出し、伊達側の史料が無視するような
戦闘があったのは確実。
814 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 11:43:29.94 ID:L0kweTJ6
>>809>>813 負けていても誇張して勝ったと宣言するのは戦国の常套手段だし、
上杉側の被害もまったくわからないのに後世の人間が勝敗判定できるものではない。
一 大崎左衛門殿も此方へ呼び申すべく候
となっており横田も大崎も内応したから連行せよって命令じゃないのに脳内で犯罪者認定なんて歪曲し過ぎ。
そもそも戦いも終わって一週間どころか10日も経っており
落ち着いた頃なのに「落ち着いてない」と思考するのが異常。
3月の戦いも築地修理が直江から貰ったのは
福島堅固之防戦し殊更にも「其地より半途乗切て」伊達を撃退したことを賞した内容だし
今度向信夫、政宗罷出候処ニ、「其地より見届けた車氏から」半途乗切り高名の由と
聞いたので直江が小島豊後守に書状出してるし
今度政宗「其地」罷出候処、堅固之防戦就之者と水原から通達があったので
直江が蓬田重秀に書状を出してる。
福島城将の本庄がまったく書状上に関わってないし
其の地(福島城や梁川城)より出撃して撃退しており
これを読んでも福島城が攻められたとは思えないので
梁川城兵が伊達軍の背後を襲うような状況が起きたとは考えがたい。
条件を考えれば10月6日の出来事しか該当しない。
1657年の佐藤次兵衛功名覚でも
十月六日正宗福島江御出陣〜此儀梁川へ聞へ〜正宗御部勢を大分打取
〜正宗之御幕を取指上申候〜首実検被成候所、首数八百余などと書かれており、
この時点で国枝清軒が会津地方の御話を収録し
再編集した東国太平記(1680年)は作られておらず
さらに東国太平記に対抗して作られた1704年完成の伊達家治家記録の
宮代の戦い記述も成立していないので変なバイアスはかかってないはず。
むしろ伊達家治家記録において齋道二・岡左内の功績を偽リナリと断じて
勘解由兵衛の家士である荘子隼人を政宗と誤認したと指摘してるが
そもそも一介の家士を伊達家当主と誤認するバカが常識的に考えているだろうか。
しかも徳川諸家系譜の結城秀康についての記述である浄光公年譜にも記録されているにも関わらず否定?
また陣幕を上杉に奪われた話に至っては理由を一切挙げずに両説不決と決め付ける態度は不審極まりない。
さらに本庄が敗戦し自決を考えたと教えてくれた謎の人物とはいったい何者なのか?
合戦終了から104年を経ている1704年の時点で誰からそれを聞いて完全否定しているのか?
815 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 12:24:45.36 ID:ljKTZZWF
10月14日に政宗が宗薫に戦いの詳細報告をしたが、
すでに10月15日付書状の段階で4日付け書状で最上表の戦況を聞いた家康は政宗宛に会津へ来春出馬し上杉征伐すると伝えていたのに
宗薫を通して戦域の詳細報告を聞くや家康は急ぎ上杉に和議の話を進めてる。
上杉が実際に大敗し弱体化していたら家康側も
さすがに10月23日以前の段階で早くも上杉側へ和睦提案をしていないだろうとは思う。
家康が24日付けで政宗の報告を聞いて政宗8日の書状の内容に触れ数多被討捕りしたことを賞していた裏側で
政宗を欺いてこの和議提案をしているのは政宗の報告が事実ではないからと思われる。
その証拠に19日の宗薫への政宗書状は
せめて15万石でもいいから家臣への堪忍分として加増して欲しいとお願いするまでに低姿勢になっていてまるで罰を恐れているかのよう。
川中島の戦いでは上杉も武田も勝利宣言してるから書状から勝利判定はできないのは同意。
加増の約束とも言える戦功を認める感状は無いの?
816 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 12:36:49.58 ID:ljKTZZWF
訂正
○家康が24日付けで宗薫を通して政宗の報告
宗薫は必ずしも政宗の話だけを報告したわけじゃなくて、
戦域について奥羽の商人ネットワークから得た情報も家康に報告してると思われる。
しかも南部側に家康の目付け鷹師が戦を見物していたように
家康側の目付けから松川での報告を家康は得ているはずで。
そもそも最上表での戦況を聞いた家康が上杉征伐を宣言したのであって
松川の戦いでの戦況を聞いて宣言したわけじゃないのに
松川の戦いの勝利を背景に仙台築城許可を求めたとする話(実際は7月に許可を求めている)と同様に
判断ミスを誘おうとする態度はいかがなものか。
817 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 14:03:52.31 ID:ljKTZZWF
>>814 政宗と誤認と書いてる時点で梁川城からの攻撃があったのを無意識に認めちゃってるのがバカだなw
818 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 15:31:37.93 ID:zvh/1G8d
subの自演はもういいよ
819 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 06:35:17.95 ID:vgSDFfCS
最上義光って戦場じゃあどちらかというと猛将タイプで色々戦術を練ることは少なかったのかな
直江の退却時に調子に乗って追撃したら反撃にあってるし。
戦場以外の戦略面では謀将って感じだけど、戦場では頭が回らなかったの?
820 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 09:18:56.60 ID:U4JVaWmC
>>814 感状貰ったのは築地だけじゃないが、みな福島を堅固に防戦した
とされている。城の際まで攻められたかはともかく、「福島」に
伊達が侵攻したのは間違いない。本庄がでてこないというが、そ
もそも本庄がこの時点で福島にいたかもわからない。
821 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 12:43:25.65 ID:NJXJk6Q/
>>820 横田大学や大崎左衛門のように配置換えしたとする城主レベルの人事移動ソースは?
11月13日に和睦決定で景勝が兼続を福島城の本庄に遣わした後、
本庄がいないのは12月22日景勝→本庄
其方上洛之儀〜早々まかり上がるべき尤もに候、島倉など一両中に差し向けるから召し連れ候
12月23日景勝→千坂
即本庄越前守為指上候
って書いてあるからさすがに3月下旬には福島城にいるはずだが。
なんせ本庄の留守を狙ったのか正月の月夜畑の戦いなど伊達はたびたび上杉を襲ってきては撃退してるとは言え
本庄もずっと留守にはできないのは間違いない話だし
本庄も信夫郡や伊達郡の前線の防備強化の指揮をしないとだからね。
その甲斐あって3月下旬ともなるともはや伊達軍の侵犯なんてザコレベルだよ。
福島城や梁川城に籠城なんてしないどころか前線へ出撃して行って伊達軍を狩ってる姿しか書状からは感じ取れない。
822 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 16:51:01.23 ID:WC6hhR0g
結城はデタラメを書いてる
島津はデタラメを書いてる
最上はデタラメを書いてる
上杉はデタラメを書いてる
佐竹はデタラメを書いてる
相馬はデタラメを書いてる
南部はデタラメを書いてる
蘆名に勝ってた(失笑)
佐竹に勝ってた(失笑)
最上に勝ってた(失笑)
蒲生に勝ってた(失笑)
上杉に勝ってた(失笑)
南部に勝ってた(失笑)
真田に勝ってた(失笑)
神保に勝った(事実www)
他家の史料と真っ向から正反対の記述を連発して書いている伊達史料だけが正しい事を記述している
もう基地外すぎてワロタwww
伊達史料ほど怪しいものはねぇよ。
823 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 17:08:54.53 ID:i4erk18B
>>814 >この時点で国枝清軒が会津地方の御話を収録し
再編集した東国太平記(1680年)は作られておらず
その国枝は伊達との全面戦争があったのは、様々に考証した結果、
慶長6年4月26日だと断定してるわけだが?
これは完全な勘違いだったのか? 随分まぬけな太平記もあったものだが。
824 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 19:11:04.25 ID:WC6hhR0g
>>823 お前本当にそれしか書けないループ脳のバカだな。
もう飽きたよそれ。つまんないよ。
論破されると毎回それを持ち出すパターンだってバレバレだから。
825 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 19:59:54.91 ID:NJXJk6Q/
>>823 その東国太平記の内容を丸パクりして伊達勝利に改造したのが伊達治家記録における戦況詳述なんだがw
東国太平記は軍記小説だから起承転結のストーリー構成になってて松川の大決戦を最後に移動させただけだから。
826 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 23:53:24.61 ID:U4JVaWmC
>>821 本庄は八月下旬に直江の後任として福島城の守将となった。
十二月には上洛を命じられた。帰ってきたかは不明。
帰っても福島に赴任しているかは不明。ちなみに、
直江が福島を離れたあと、この方面を全体的に指揮しているのは岩井信能。
横田大学の内応をただの人事異動だとか、サブ君は史料に基づいた論も史
料自体を嘘・捏造として批判するが、ではどうだったのかと言うことにな
ると、より史料的確度の高い根拠を示せないため、相手の論をただ無理矢
理批判して終わってしまう。東国太平記を丸パクリと言うが、横田大学の
内応の話はこの中にないのではないかな。隅々まで読んだ訳ではないから
見落としがあるのかもしれないが。
827 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 05:35:01.29 ID:AIZaUrSR
>>帰ってきたかは不明
すごく都合がいい妄想脳してますねぇ。伏見留守居役・千坂景親がいたので長期滞在は無用ですね。
本庄繁長1万1000石が長期に渡りずっと戻ってこないとしたいのは完全にあなたの都合でしょ。
繁長の留守の間の岩井信能は城将というより安田能元・大石綱元と同じ直江の部下である奉行として
直江の代わりに代役として派遣され目付けのような立場で一時的にエリア管轄を預かっていただけ
禄も信夫郡宮代城6000石程度であり直江の代役としてでなければ素直に従わない者まで出てくるような立場。
伊達がいまだに毎月侵犯している中で本庄4月になっても戻らないなんてことは常識的に考えてないでしょう。
>>横田大学の内応の話
会津陣物語では10/6の明け方に政宗は瀬上から福島城攻撃をかけ本庄が指揮し撃退。
2月頭の伊達の侵攻でも本庄が指揮を取っている。3/28の戦いでも本庄が指揮してる。
4/26未明に政宗が攻撃をかけた戦いを松川の決戦として本庄指揮の下に
伊達軍の背後に回った梁川城の須田・横田大学・築地修理・車丹後らが
小荷駄・兵糧・弾薬や陣幕を奪い伊達を挟撃して大破して終わり、
次はすべては直江が悪いと家康は知っていたなどと書かれ上洛した景勝に
「本当は本領を変える必要ないけど外部の者への示しもつかないから米沢32万石に」と言っている。
岡佐内は政宗から3万石で誘われたが断り蒲生家に仕えて猪苗代城主に抜擢されたとも。
そして景勝に千徳丸が生まれたことで話を締めている。
よって横田大学の内通話は出てこないし、
本庄も2月頭にはすでに福島城で陣頭指揮してることになってる。
まぁ10/6の戦いを冒頭に描くとつまらないから
話のクライマックスにもってきて4/26の戦いとして描いただろうことは容易に察すことができるね。
828 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 06:06:58.20 ID:dVjHLHI1
やっぱり横田大学の内応話は伊達治家記が作り出したデタラメ話だったんだな…横田大学がもともと家康に仕えてたなんてデタラメまで伊達の仕業か?
829 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 07:37:08.52 ID:yKuoFSli
>>827 本庄が留守でなくても、梁川や福島方面の全体指揮は奉行職の岩井。
>伊達がいまだに毎月侵犯している中で
ならそもそも本庄を上洛させるなと言う話だね。
千坂がいるから〜というなら、そもそも上洛する必要がない。
諸大夫成をしている人物を派遣することで、交渉役に箔をつけた
んだろうと思うから、話がまとまるまで長期に都に滞在した可能
性も否定できないよ。
>福島城将の本庄がまったく書状上に関わってないし
というので、いたのかどうかも分からないと述べたまで。
仮に福島に帰ってきていても、感状をもらっているのは福島と梁川の
城将たちなので、本庄が書状に出てこないから3月の戦闘で挟撃はあ
り得ないという話にはならない。
感状が出されている以上、それなりの規模の戦闘があったと見るべき
で、雑魚レベルという見方はできない。
>横田大学がもともと家康に仕えてたなんてデタラメ
武将の来歴なんてだいたいよくわからないので、家康に仕えていたという
のはデタラメの可能性はある。内応しても神君家康公への恩義が理由なら
正当化されるし、上杉への義理を遥かに上回る家康への思いというのを強
調できる。内応がデタラメだという根拠にはならないがね。
830 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 12:55:22.41 ID:dVjHLHI1
>>829 それ全部、伊達を擁護したい動機に根差す願望妄想だよね。
伊達厨ってかなり頭が悪いの?
自分では伊達厨じゃないと主張してるけどバレバレだよね(笑)
て言うかずっと伊達厨に騙されてて会津陣物語っていきなり4月の戦いだけを描いてる完全なデタラメ内容なのかと誤解してた。
10月の戦いにもちゃんと触れていて、
しかも3月の戦いをはじめとして年明けからのたびたびの伊達の侵犯にも触れてるなんて実はかなり信憑性ある内容だろ。
活躍を過剰に描かれているとされる本庄が上洛してて福島にいない1月の月夜畑の戦いに触れていないと言うなら非常に信憑性が高い。
831 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 13:17:04.43 ID:dVjHLHI1
最上表での報告を聞いた家康が挟撃作戦をしようとしたが
その後に上杉が伊達に圧勝したことで結城秀康と政宗の挟撃作戦を断念させたわけだし
それを確実にさせるために当事者の本庄が家康に会う必要があるわけだ。
ゆえに本庄を上洛させたのも寡兵で伊達に圧勝した戦勝アドバンテージを背景に家康と交渉する為の人選に他ならないだろう。
武人の本庄が伏見に長期滞在する必要は全くない。
それがあったからこそ家康に内応したはずの毛利は輝元が罪に問われ中国8ヶ国の領地を全没収されて出家させられる一方で
関ヶ原を招いた元凶の景勝は何ら罪に問われず30万石に減封したものの景勝も直江も現役続行で誰も罰せられなかったわけだし。
本庄はその後もずっと福島城将をやっていて伊達に敗北した責任で降格もされてないどころかますます厚遇されてる。
あの神と崇める謙信に反逆して信玄に協力した本庄がね。
832 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 14:39:12.85 ID:yKuoFSli
>>830 会津陣物語では慶長5年6月〜慶長6年4月の間、内容がほ
ぼ同じ戦いもあるので、全部をそのまま受け取ることはでき
ないが、何度も戦闘があったとしている。
一方で、有名な直江と石田の密談、栗田刑部の粛清、また戦
闘の内容など、おかしい部分もあるので、一次史料と突き合
わせて検証する必要がある。
どこかでは政宗がふいを突かれて敗走する戦闘があったので
はないかと言っているのに伊達擁護と言われるのが分からな
いな。挟撃も3月なら可能性があるのではとか横田大学は内
応したんだろうという主張のどこが伊達擁護なのか。伊達に
関してはサブ君のほうが詳しいと思うよ。逆に上杉の知識は
ないようだけど。
>>831に至っては全く史料的な根拠を伴わない。
833 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 15:20:26.13 ID:AIZaUrSR
>>832 6月から松川戦域の戦いを描いてはいない捏造すんな。
そうやって誤認させようとする手法ばかりやるな。
10/6から詳述してるのであって直江の最上陣なども言及もせずに含めんな。
また栗田刑部は武田滅亡後に徳川に仕えた経歴があるから内通していた可能性があるが
横田大学が徳川に仕えていた話は捏造であり同列視させて誤認させようとするんじゃねーよ。
ほんと伊達厨はイカレてるな。
>>内容がほぼ同じ戦い
んなもんない。
>>可能性があるのでは
お前の場合は1%でも考えられれば可能性あるという
言ったもん勝ち基準だもんな。
>>どこが伊達擁護
捏造してどうあっても10月の戦いを伊達の勝利に歪曲したいんだろうが。
そもそもそれ以降の戦いで伊達を勝ちとするのは300%無理だからな。
なんせ伊達側がそれらの戦い自体を捏造するためのネタを
伊達治家記録に記さなかったばかりが
戦い自体を南部との戦い同様に存在を抹消してるから。
なぜ横田大学は殺されていないのかね?
なぜ会津陣物語で謀反人が須田ともども大活躍してるのかね?
罪人なら須田や築地や車と一緒に名前を連ねず抹消されてるはずだろう。
834 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 15:40:59.76 ID:AIZaUrSR
>>史料的な根拠を伴わない
>>815 毛利と島津の両当主は剃髪強制隠居の領地召し上げの改易。
その後、家康が毛利秀就と島津忠恒を宛名に新たに主従関係を結ぶことで領地の再交付による安堵。
上杉主従が関が原後に初めて家康と会談した時、
薩摩の記録によると上杉主従はなんら悪びれず堂々と会談に臨んだって言うし、
家康は直江の武功を褒め称えて喜んだとも言う。
本庄氏の米沢藩時代(米沢・信夫郡・伊達郡)の家臣団での席次は福島城将で堂々の第一位
かつて謙信時代に謀反により春日山城での席次は 同族色部氏より格下にされてしまったのに
確かに石高では安田氏のほうが上位だけど席次は格段に本庄氏のほうが上位にされている。
上杉氏側では松川で伊達を撃退し上杉を守ったとされるので優遇される理由はわかる
幕府からの諸大夫尋ねでは直江3万、本庄2万になってるし。
慶長15年の将軍桜田御なりの時も、本庄は将軍から直々に下賜品や献上を行ってる。
直江一族や江戸留守居の千坂はともかく、本庄は対外的にも直江家に次ぐNo.2とみなされてた。
会津時代の分限帳からみると、出奔した藤田や大国を除いても、
須田、甘糟の下、安田、泉澤、清野、中条、色部と
同等に扱われてるから、やはり関ヶ原後地位が上がってる。
伊達に大敗してたら、本庄は家康との和睦で辱めを受ける可能性もあるし、
そもそも敗戦の将は兵を語らずって言われて和睦がうまくいかないから派遣したりしないだろうね。
そもそも福島を空けて交渉に行くくらい福島表の戦線は安定してたと言うことは
伊達の脅威の排除に成功してるわけだし、 伊達に勝ったからこそ
戦功を背景に有利な交渉ができ本庄を派遣した意義が生きてくるわけだし、
伊達の家康への嘘報告の審議をするために家康の指名で本庄が呼ばれた可能性もある。
戦後の伊達への家康の冷遇ぶりから有り得る話だろうね。
その後も本庄の武功の大きさから福島城将の地位も更迭されずに
繁長・充長・重長と継承され繁長の墓所は福島県福島市の長楽寺にある。
835 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 16:49:40.52 ID:D1p0rvnr
小説の中では上杉大勝利だからなあw
それにしても『東国太平記』はつくづく罪な駄本だよ。
松川の戦いを「慶長6年4月26日」のことと一大プロパガンダをしたため、
以下のサイトの人のように「史実」だと信じてしまった気の毒な被害者もいるわけで。
http://tikugo.com/osaka/sonota-os/nenpyo/1601.html >慶長6年 4月26日 上杉家の家臣・本庄繁長、伊達政宗軍を破る
陸軍参謀本部『日本戦史』からは慶長6年4月26日の戦いが抹殺されて
1行も記述がないことが笑えるね。
836 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 17:06:37.64 ID:AIZaUrSR
>>835 論破されると毎回
苦し紛れに同じことを執拗に繰り返すのはなんで?
飽き飽きしてつまんないよ。
837 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 00:29:11.44 ID:D6BqY54t
>>834は10月に伊達が大敗北しなきゃいけない理由にはなっていないよね。
サブ君の推測の域を出ない部分も多い。
>確かに石高では安田氏のほうが上位だけど席次は格段に本庄氏のほうが上位にされている。
本庄繁長自身が従五位下だからであって、福島で伊達を討ったからではないよ。
繁長死後は安田が石高でも格でも上になっている。
繁長存命中は対外的にも、というよりは対外的にはNO2といったほうが適切だと思う。
>>835は無視したらいいのでは。いちいち構っているようだけど。
838 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 02:31:36.50 ID:AXjxTK2F
でもさ、伊達が言うように宮代と呼称する松川の戦いが事実なら
下記のようなブザマな状況にはならないはずだよね。
むしろ最上と並ぶ扱いを受けないとおかしいレベル。
8/24に上杉を会津から米沢へ移す際の備えを奥羽越の諸大名に命令し
最上を総大将に人数を割り当てたが政宗の名だけが見事に除かれている。
839 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 07:56:34.09 ID:D6BqY54t
野戦の勝利はその後の力関係に影響してこそ意味があるものであって、
10月の野戦なんて、どっちが勝ったにしろ、その後も伊達の侵攻が
続いているので、力関係に何かを作用するものではないでしょう。
福島の野戦で勝ったから最上と同等になるとか、米沢移封に加わって
いないとおかしいというのは的外れでは。
840 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 12:35:10.20 ID:9q8gxqAd
などと839は無理やり意味不明な弁解をしており…
現実は百万石の約定すら破棄され
政宗があれほど執着し続けた伊達代々の故地たる信夫郡や伊達郡の加増さえ無し。
最上と同じ有利な政治的状況でありながら
最上と違い一寸の領土も得られずとても勝っていたとは言い難い。
しかも庄内と同じで仙道も景勝本隊がやってこないため伊達は全軍で襲撃し本庄は弧軍だったにも関わらず。
まったく現実との辻褄があわず矛盾した説明を繰り返す伊達厨房。
841 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 17:13:02.52 ID:UPe+Djju
慶長5年10月6日の戦いは、政宗にとっては何が何でも福島城と梁川城を奪取するという
意図はなく、とりあえず「福島表から上杉勢を一掃しておきましたw」「伊達も単に傍観
を決め込んでいたわけではありません」と、家康に政治的にアピールすることが目的だっ
たんだろうね。
実際、この戦いで上杉の領土が寸土も奪われたわけでもない。
842 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 18:13:49.68 ID:y26jcHuB
王である北神の星は、わが殿の星
そして、それを守る北斗の七星は我の星
夜空の王、北神の星はただ一つであらせられれば…
わが殿こそ、この上杉の御大将でございます!
843 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 19:48:19.79 ID:D6BqY54t
>>840 >現実は百万石の約定すら破棄され
>政宗があれほど執着し続けた伊達代々の故地たる信夫郡や伊達郡の加増さえ無し。
>最上と同じ有利な政治的状況でありながら
>最上と違い一寸の領土も得られずとても勝っていたとは言い難い。
全くその通り。10月に伊達が挟撃で敗れた理由にはなっていないが。
>>841 政治的アピールの目的があったのはもちろんだが、片倉への書状を見る限り、
政宗は福島はともかく梁川は奪おうとしていた気配はある。サブの主張にも
言えることだけど、関ヶ原の戦いのように政局を動かすほどの野戦ならとも
かく、「野戦で上杉を一掃したけど、城は落としませんでした」なんてのは
なんのポイントにもならない。
844 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 21:43:40.27 ID:9q8gxqAd
関ヶ原の結果を受けて動揺する寄親寄子の制度の中で
地域の旗頭が野戦決戦で敗死続出の大敗をしたとなると電撃のように知れ渡り
それを知るや相次いで伊達側への離反が雪崩をうって始まり
内乱だらけで治安は崩壊し、それ以上の戦闘継続すら不可能で戦わずして上杉は瓦解するはずなのにおかしいなあ。
国人総領たちも早く勝ち組伊達や家康に乗らないと庶流や家臣に下克上されてしまうはずなのに
そんな変化を微塵も感じさせないどころか正反対にまるで上杉が圧勝したかのように
団結力が強化されているように見えるのは何でなのかなあ。
旗頭による寄親寄子の主従関係や旗頭の権威に依存し家の統御をする総領制も無視される不思議な話もあるものだなあ。
845 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 21:50:00.24 ID:D6BqY54t
う〜ん、どうしてそういう妄想でしか語れないのか。
「〜なはず」なんてのはいらない。
史料に基づかない話はもう相手にしないよ。
>団結力が強化されているように見えるのは何でなのかなあ。
それならこの時期に梁川から人質取る必要はない。
須田が無理矢理地侍を加増してやる必要もない。
人質をとったのと須田が地侍を加増する約束したが直江に拒否
されたのは史料で確認できる。「団結力が強化されているように
みえる」というのは根拠がない。
846 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 22:00:31.58 ID:9q8gxqAd
そりゃあ武功を立てたら加増要求するのは当然の要求でしょ。
逆に武功上げたのに「いやいや加増なんて私の配下は死んだ遺族を含め私に対して誰も突き上げてきませんからいりません」
下々の名誉と生活がかかってるのに、こんな発言されたら逆に怖いわ。
私が言ってるのは離反も無く3月まで伊達の野心を排除してるってこと。
人質を取るのは戦国の習いでなんら不思議なことじゃないわなあ。
特に最前線なら風紀を引き締める意味でなおさら。
847 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 23:39:41.52 ID:D6BqY54t
武功挙げたのにといっても、城は落としていないからね。
人質をとるのは不思議なことではないが、それなら白石を
落とされた時点にでもとればいい。それを10月になって
からやってるんだから、内応工作があったのではとなる。
>離反も無く3月まで伊達の野心を排除してるってこと
全くその通りだが、だからといって10月に挟撃したという根拠に
はならない。
脳内の軍記ばかり話されてもきりがないね。
サブ君の主張は「こういう可能性もあるのでは」というくらいな
ら、「まぁゼロではないね」という話になるが、史料的な根拠が
なく、伊達方(自分の説に合わない場合は時には上杉方も)に残
る一次史料を嘘呼ばわり。何が根拠になっているかと言えば、信
憑性の劣る後世の史料や軍記物。論に無理が出てくるのも当然だ。
冷静さを失ってけなしたりするのも論が手詰まりになったときだろう。
自説に根拠があれば淡々と冷静に答えていけばいい。
これまでの研究者が研究を積み重ねて発表したものさえも、都合が悪い
ものは上杉関係の研究者でも「(伊達の?)御用学者」だのと批判。
上杉厨を装いながら、最近の研究書はほとんど読んでいないようにも見
える。伊達が嫌いなだけで上杉が好きな訳でもなさそうだ。
「白石城は密約で伊達に渡った」「横田大学は内応しておらず、若松に
人事異動になっただけ」こんな珍説を強弁するなら、自分で論文でも書
いてみればいい。
上杉の研究者だって、景勝や直江は素晴らしい。百戦百勝だ。なんてい
まどき言わないよ。個人的にも政宗は好きなわけではないというかあま
り関心がないのだが、だからと言って、安易に「残すところ無き手際」
だったとする書状を無視または嘘呼ばわりして、上杉が大勝利したなん
てことは言えない。
848 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 01:52:26.09 ID:WjsTCjTj
>>847 明らかに伊達厨なのにワロタw
横田大学が内応した証拠がないのに意地でも横田大学の内応が露見したから
伊達は撤退したとする伊達治家記録の妄想ストーリーを強弁。
そもそも
>>815の指摘の通り、
家康は4日付け書状を読んで最上表の戦況から上杉討伐の宣言をしており、
8日に政宗はあくまで自称の戦果を家康に報告してる。
その上杉討伐の意思が180度豹変し上杉との和睦を申し出るのは
14日政宗書状を持参した宗薫の口から家康が
松川の戦いの戦況を聞いてからとしか思えないんだよな。
そして政宗も宗薫へ持たせた家康への19日書状の段階では
15万石でもいいから堪忍分でと弱気になっており
さらに大坂で秀頼に仕えていた長男秀宗の切り捨てつつ
前年12月に生まれたばかりの赤子の忠宗との縁談話を申し込んで家康に必死に媚び諂っている。
家康24日付書状では8日付政宗書状での数多討ったと言う
政宗を褒めて欺きながら実は数日前から上杉との和睦交渉に入ってる。
9/29の政宗が宗薫に託した家康への書状では
最上が滅ばなかったのは伊達のおかげ・秀康と伊達による上杉挟撃要望
南部が謀反気味だから家康の為に俺が脅して仙北への後詰めを命じたなどと
もはや松川の勝利にまったく触れずに、
南部や最上を貶しつつ伊達の捏造功績を持ち出している。
この時点で戦後処理の方針が決定しているので
11月以降の上杉と伊達の勝敗ってのは家康の方針になんら影響を与えていない。
結局、松川の勝敗結果だけで家康は奥羽仕置きを決定した。
最上表での戦況有利と見た家康の上杉征伐の意思から
突如として和睦へ方針変更決定への思考上の参考にされたのは
8日の政宗書状「数多被討捕りしたこと」の真偽
14日に政宗が宗薫に託した書状「福島へ動仕、得大利申候」の真偽
政宗の上記の2通と宗薫の商人情報網と諜報の鷹司からの戦況報告の吟味だろう。
それらを分析した結果、政宗への不信から上杉との和睦交渉を政宗に隠蔽しつつ交渉する家康。
19日に政宗が宗薫に託した書状は上洛中の家康へ届くタイムラグを考えれば考慮外だろう。
なんせ10月23日付安田吉親あて直江書状の時点で
すでに家康→上杉へ和睦の意向がすでに届いていることが確認できる。
「佐竹口より働き、江戸より無事の内証候に付き、相止め候」
「佐竹口からの働きは、江戸より無事の内証があったので、中止しました」
あきらかに政宗が松川で大敗してるのが明白ですが何か?
849 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 06:50:28.29 ID:gPXHXEqG
白石城を1日で落とされ、福島表で伊達に野戦大敗した上杉。
慶長6年至っても伊達の幻影に怯えていたとしても無理はないよ。
850 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 08:55:01.38 ID:PW3gEnhp
>>848 >明らかに伊達厨
伊達の知識はほとんどないのにそう見られるのはある意味褒め言葉だね。
治家記録は内応が露見したのではないか―としているのであって、断言
している訳ではない。一次史料がないものを「明らかだ」と強弁するよ
りは、史書としては正しい姿勢でしょう。
家康は翌年2月末か3月頭くらいまで政宗には上杉との和睦をかくして
いるよ。和睦がまとまるのは翌年春から夏にかけてなので、家康は上杉
に対しては和戦両様なわけで、政宗には黙っておいて、政宗を使って上
杉に北から圧力をかけている。
福島表の戦闘で討伐か和睦かが決まったなんて新説だ。論文を書くとい
い。ぜひ読みたいものだ。福島表のいわゆる「松川の戦い」というもの
は軍記物の世界だけで、政局に大きな影響を与えるようなものではない
と考えられていたから、誰もちゃんと研究していない。サブ君の着眼点
は見事で、その通りであれば関ヶ原の合戦研究に新たな一石を投じるこ
とになる。現時点では通説を否定するには点と点だけで線になっておら
ず、だいぶ説得力に欠けるが、頑張ってまとめて下さい。
上方で15万石よこせというのはたいそうな話であり、下手に出ている
とか媚を売っている訳ではないでしょう。政宗が対外的には自身を正当
化するためにいちいち嘘を書き連ねているというのはその通りだ。
851 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 09:54:13.17 ID:J9FM5wsm
白石は城主不在で落とせたのに福島は同じく城主不在だったときに何故落とせ無かったのか?
852 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 11:09:11.58 ID:bg4Wf4bY
本庄繁長の福島城のみならず若輩須田長義の梁川城も無傷。東軍勝利後圧倒的兵力で攻めながら伊達・信夫郡すら落とせない伊達。
伊達軍のあまりの弱さに福島城主本庄繁長が徳川家との和平交渉に氏名されるという、伊達家にとっては屈辱的な結果を招いてしまった。
853 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 12:41:07.91 ID:IRacuP4C
松川で伊達が自称する謎の人名の数々「名のある蒲生家臣達」を討ち取ったとする一方で、
上杉側は政宗陪臣と言う大兵を率いている高位の人物2人を討ち取っている以上は
上杉側より伊達側の方が被害大なのは歴然明白。
和戦両様ならそもそも挟撃して圧力を加えた方がより良い交渉ができるわけで
結城秀康をもう少し弾力的に動かすのは間違いない。
しかし実際は上杉の武勇に敬意を持つ秀康も武人として上杉との和睦交渉に積極的だったとされる。
直江曰く「安全を確保したので」本庄が年内上洛しており家康に和戦の構えなど全く傍証が無い。
政宗はある時から突然なぜか百万の話を持ち出さなくなる。
それは武功が無いのが明白になったからで、
年が明けてからも侵略を繰り返すのは一つでもいいから武功をあげて百万石の交渉がしたいからである。
そしてそれを家康が指示したわけでもない。
むしろ伊達に上杉とみだりに戦をするなと命じていたと会津陣物語や伊達治家記録は記しているし、
政宗自身も家康の指示が無いから手をこまねいていると対南部戦などで書いている。
明らかに家康の和戦両様の戦略による指示では無く政宗独断による侵略である。
854 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 18:38:37.41 ID:f7vmP+bt
へー
855 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 22:14:38.23 ID:PW3gEnhp
>上杉側より伊達側の方が被害大なのは歴然明白。
史料的根拠なし
>和戦両様
和睦の条件の詰めに本庄が派遣されるのだから、決裂すれば戦にも
なるということだよ。実際に話がまとまるまで半年かかっているわけだから。
デタラメといつもけなしている治家記録を珍しく使ったね。
だから最初からデタラメと言ってはいけないんだよ。
内容を一つ一つ一次史料と合わせて精査しなければ。
856 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 03:37:08.33 ID:GtxX8I5W
和睦が決裂なんてするわけないし。本庄が出発する時点で
事務次官級の折衝は着いてて、あとは全権大使が署名すればいいだけ。
話がまとまるのに半年?バカ言っちゃいけない。
そんなデタラメを信じると毛利は1601年10月に輝元が剃髪出家し家督を譲渡。
この時点で家康と毛利の和睦がやっと決裂せずにうまくまとまったのかね?
それとも1603年に輝元は江戸で家康に謝罪してるが、それまでは戦闘状態だったのかね?
むしろ景勝らはさっさと和睦を決めており、このことで毛利などよりも早い時期に謝罪に出向いている。
そして政宗も3月頭には景勝が上洛して謝罪する噂をキャッチして様子を窺っているわけで
その和睦事実に焦って3月末に上杉領に攻め込んでいるわけで、
決裂したら戦争になるのではなく和睦確定に焦って政宗が戦争の暴挙を起しているわけ。
治家記録だけにしか書かれてなければ採用しないだけ。
857 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 05:13:15.67 ID:5Ps8ZtZl
>>856 >そして政宗も3月頭には景勝が上洛して謝罪する噂をキャッチして様子を窺っているわけで
その和睦事実に焦って3月末に上杉領に攻め込んでいるわけ
慶長5年10月6日に上杉に殲滅的な打撃を与えてるし、これ以上の弱い者苛めをしても意味はない。
政宗は3月下旬は仙台城にいて上杉の窮乏状態を揶揄している。高見の見物といったところか。
ただ、慶長6年に至っても政宗が上杉の国境付近に略奪放火を命じていたことは確実。5月にかけて
配下の石川に福島領をさんざん荒らしまくらせている。
3.4月の上杉領は伊達の手下に蹂躙され(放火程度だろうか)、上杉は徳川への降伏と伊達の
嫌がらせでほとほと弱り果てたことが十分推察される。
858 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 05:37:10.78 ID:GtxX8I5W
>>857 ツマンネ。ただの煽り荒らしかよ。
ぜんぜん話にならないわ。
859 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 06:15:38.32 ID:A1zNvvOx
和睦を嗅ぎとった政宗が
上杉を敗走させて和睦をぶっ壊す為に
3月末に起こした軍は
もともと家康が来春に上杉征伐するって言ってたのを政宗が盲信して挟撃用に準備してきた大兵であることもあり
それまで毎月侵攻してたのとは規模が違うかなりの大作戦だったはずだよ。
まあ上杉も充分に準備してきたようで早速撃って出て応戦したようで
国境付近で伊達軍はまた瞬殺されたようだけど。
860 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 06:55:29.49 ID:5Ps8ZtZl
>>859 >3月末に起こした軍は
「はずだよ」「ようで」「ようだけど」と憶測を語られても。
何分用意周到な政宗が「大兵」を出すに当たって家康の許可をとらない訳がない。
結城秀康にも「これ以上上杉を虐めないでくれ」と慶長5年11頃懇願されている手前もある。
その三月に伊達が大兵を出したって1次資料でもあるの?(憶測だからないか)
念のため「三公外史」「歴代公案」他、梁川町史や川俣町史を調べてみたら、三月に
伊達が攻めてきたという上杉の記載は疑わしいね。(お得意の誤記かな)
>国境付近で伊達軍はまた瞬殺されたようだけど。
伊達の手下が「小勢」で国境付近に進入、小刻みに上杉領に放火・略奪をして上杉を
精神的に追いつめていたと見てよい。
政宗がその様子を聞いて高笑いをしてる有様が5月頃の書状に残ってるよ。
861 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 07:52:42.99 ID:LmNivu1O
>>857 直江は6月5日に「和睦が(景勝の)思し召しのまま相調った」として、
梁川城に武装解除を指示している。「江戸よりの内証」で講和の方針で交
渉していたが、12月の時点で講和が成ったとしていいものか。
それなら政宗が再三会津征伐を要請しているのに対し、「もう和睦したか
ら」で済む。
>>860 >>859のいうように、3月にはそれなりの戦闘があった。
だから景勝や直江が感状を多く出している。
10月や4月とされる戦闘の「お話」の後半部分が3月の
戦闘に当たる可能性がある。
862 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 10:27:28.45 ID:gJH4yCsw
慶長5年10月の伊達・信夫郡での戦い後、上杉景勝の命を受けた福島城主本庄繁長は慶長5年12月上洛。翌年まで本多・榊原らと和平交渉に当たっている。
直江自身も米沢から戻った後前田等と福島城に一旦入る等、福島城衆少人数で伊達片倉の大軍を僅か1日で名取北目城へ追い返した本庄・須田の戦績について直江自身も疑いの目で見ていた節が感じられる。
863 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 13:10:08.60 ID:LmNivu1O
直江が福島城に入ったのは本庄の前。
いわゆる松川の戦い後に福島へ行った形跡はないよ。
864 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 13:55:58.39 ID:A1zNvvOx
>>861 そもそも上杉は家康に降伏する以外の道しかないのに
なんでそんなに交渉を長引かせる必要あんの?
どんな交渉内容なら数ヶ月以上かかり、しかも破談するかも知れない内容なの?
ウソ報告してた政宗を家康が信用してないから黙ってただけでしょ。
だから年が明けてもいまだ西軍内通を根拠に南部とも政宗は戦ってるんだし。
君の論理を採用するなら家康が政宗に南部は敵じゃないと伝えても良いはず。
でもそんなことは言ってないよね。
のちのち和賀を同伴しろと言ってる。
家康からしたら政宗を放置しておいて過失があれば罰するつもりだった。
会津陣物語で2月頭に本庄が伊達と戦ってる部分に矛盾も反対史料も無いのだから
1月内に本庄が戻ってきたとするのを採用してもおかしくないだろ。
3月にあたるわけねーだろw
横田大学が会津に行った後に
再び梁川城を越えて福島城進出などやった証拠は無い。
865 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 13:57:36.80 ID:A1zNvvOx
866 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 14:04:20.17 ID:A1zNvvOx
>>863 違うな。
直江が福島に入ったのは
江戸へ行く前の本庄に
家康との和睦内容について打ち合わせする為に福島に行った時。
伊達側ではそれを上杉による伊達への攻撃開始なのではないかと誤認しただけ。
867 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 14:50:04.10 ID:LmNivu1O
>>864 >3月にあたるわけねーだろw
福島城に押し込められた話をしているわけではないよ?
それでも3月にないと言っているのかな。
>>866 初耳だけど史料的な根拠は?
868 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 19:22:36.45 ID:GtxX8I5W
伊達治家に書いてる11/12石川が「兼続が二本松に出馬し福島へ入る」と政宗に報告してる話じゃないの?
あとお話と断定して否定してるが伊達側の否定にまったく根拠はないどころか
誤認したと言い訳している以上は治家記録に記述されていない
伊達が危機的状況に陥っていた事実を無意識に認めている失敗を犯している。
3月の戦いは否定できないが
>>814のようにブザマな伊達軍の現実。
松川の戦い前
>>白河方面は、岩井信能が長沼に入って指揮していたとみられる。直江はむしろ伊達対策。
12日に直江が伊達対策などまったく考慮にいれてないのは明白。
4日大坂よりの激文が昨日届いたとして家康との対決を前に直江が諸将の士気を鼓舞している。
5日に兼続は白河小峰城の岩井へ小山に家康在陣・佐竹が家康と手切れ・梁川兵も白河へ
などと書いているが、先方衆への伝言も頼んでおり小峰城が最前線に近いことを示している。
よって直江は白河や栃木県藤原町の一次防塁線ではなく
長沼城から郡山市湖南町に築かれた二次防塁線にいたと考えるのが自然であろう。
そして家康が小山からいなくなったので12日に宇都宮から連絡あればすぐそっち行く・白石方面も安定
佐竹の使者がきてるそうだから当然若松へ行くことになるだろうといっており、いまだ二次防塁にいると思われる。
13日に直江は政宗が梁川城へ、政宗がそっちに出てくるような話もあるので、
それならば後詰めしようとウソを言ってるが実際には動かず(会津へ行くから当然)に二次防塁にいるのであろう。
14日に待っていた使者がきて直江は佐竹の件で呼び出しがきたので今日から会津へ出発するが
16日にはまた二次防塁に戻ってくるが、俺が留守の間は篠井を置いておくから
梁川で急があった場合は助けに行かせる。さらに水原・栗林は二本松・高倉(伊達戦線二次防塁)にいるからねと言ってる。
23日に白石に数日中に行くと直江は欺き、25日に泰親・親盛を福島城から会津へ召還し
福島本庄を福島城将に派遣し自分は最上征伐に行くと発表。
9/3伊達が詫びを入れてきていたが条件面について本庄に指示しているので、おそらく会津から米沢へ移動したと思われる。
(家康撤退後まもなく政宗は侘び言を言っていたらしく、最初から白石攻め宣言がウソだったのがわかる)
>>少なくとも12日より以前には政宗から直江に詫びが入っているのが12日書状の白石方面も安定という文面から窺われるね。
松川の戦い後
10/16に梁川城から人質を取ることは珍しいことでなく
直江→清野宛(景勝への取次)18日書状でも
「白河〜御番勢衆証人以下被召置候由」と白河で人質を取っているのがわかる。
「(会津へ)20日に参上申すべく候 本庄所御尋候由」ってのが
ひょっとしたら(米沢→会津への道中で福島へ行く可能性は低いが)
直江が和睦の件で会津へ向かう途中に本庄を訪ねて和睦の件で諮問していたのかも知れない。
また「栗林をはじめとして証人が昨日までに安田のところへ着いている」とも述べている。
そして20日に会津で方針を巡る会議があり23日の直江(会津?)→安田・竹俣・黒河への書状で
江戸から和議の話があったので佐竹口での軍事行動は中止となる。
こう思うと
>>848における14日に政宗が宗薫に託した書状「福島へ動仕、得大利申候」の真偽も
家康の講和への思考決定になんら関係ないタイムスケジュールである。
8日の政宗→家康書状「数多被討捕りしたこと」と書いた書状が大ウソだと即座に露見したのではなかろうか。
だからこそ家康から和睦の申し出が届いたことを受けて
18日付で会津講和方針会議が20日にあると言う知らせが来たと思われる。
869 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 20:15:31.52 ID:LmNivu1O
コピペか。
>12日に直江が伊達対策などまったく考慮にいれてないのは明白。
7月末〜8月初頭は直江は安子島にいたとみられる。
12日には福島城にいるとみられる。
本庄へ伊達対策を指示した書状をしたためたのも福島城の可能性が高い。
13日書状で「明日政宗がそちら(梁川)に攻めてくるということ私も
後詰をするので無二に討ち果たそう」を見れば、詐欺でもなんでもなく、
すでに梁川の近くにきていることが分かる。
>宇都宮から連絡あればすぐそっち行く
>12日以前に伊達が詫びを入れた。
書状には書いていない。上方からの書状があればこちらに回せと言
っているのではないかな。
「上方の情報を政宗も聞いたのだろう」と白石表からの伊達軍撤退
の理由を推測している。詫びを入れたというのは誤り。詫びを入れ
るとしたらこの後だろう。白石は返還していないのだから、どの程
度下手に出たのかは不明だが。
白河でも人質をとっているのはその通りだ。
それが身柄を若松に移送された横田大学の内応を否定するものではない。
>後詰めしようとウソを言ってるが
>政宗→家康書状「数多被討捕りしたこと」と書いた書状が大ウソだと即座に露見
こういうのはいい加減なしにしないか。
書状に書いていることを嘘だとしていてはどうにでも話を転がせる。
そういうのを歴史とは言わない。
三月に梁川の南方まで侵攻していないとほんとに思っているのかい?
870 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 22:32:06.31 ID:A1zNvvOx
家康が撤退した後に直江が福島にきたなんて有り得ない。
伊達が梁川城攻略のため掛田村を土民蜂起で占領させた時に
6月24日梁川城の須田や築地と福島城の上泉泰親・本村親盛らが挟撃して撃破してるし
7月24日には占拠された伊達郡川俣城を福島城から本村と榎並三郎が出撃し、
二本松より石栗将監が支援に出て奪い返してるし
福島城からの別動隊である青柳・上泉隊が小手内や大館を攻め落としてるのは7月27日直江書状でわかる。
8月までには福島城に小田切安芸・車丹波も合流してるのが8月4日直江書状でわかる。
直江は福島城にいる彼らに書状を出しているので直江はずっと郡山にいるはず。
8月13日の直江書状で福島城から梁川城へ車丹波や横田大学が移動しているのがわかる。
8月14日の直江書状から福島城に上泉・本村・小田切・青柳らがいる。
8月23日の直江書状でも福島城に彼らがいるのがわかる。
8月25日景勝書状で最上討伐が始まるに辺り本庄は福島城での序列で年頃だからと派遣が決まっている。
すると福島城への書状に一番最初に名前を書かれていた上泉や本村の名前が出てこなくなる。
そのため本庄と交代になった福島城の指揮官が上泉主水と本村造酒だったとわかる。
871 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 23:22:48.43 ID:LmNivu1O
13日の書状を見るとたしかに福島城までは行ってなかったかもしれないね。
彼らが後詰の前線なのかもしれないが。
ただ、いずれにしても福島方面に行っていたとみてもいいのでは。
「私の軍勢は篠井とともに置いていく。16日にはこちらへ帰って来る」
と言っているので、いずれにしても梁川方面へ実際に部隊を率いて向かっ
ていることが分かる。出陣詐欺などではなかった。
三月の挟撃の可能性は否定しないのだね。
872 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 01:55:17.64 ID:PIFdrz62
>>869 >>上方からの書状があればこちらに回せと言っているのではないかな。
12日書状における宮中より珍敷儀到来とは、最初に白河無事を珍重と言っていて
宮中ってのは白河城にいる宇都宮恵斎宗安(結城朝勝)家中を指していて
佐竹との調整役であり何らかの知らせを持ってきたら早速、
景勝に御状を願って白河表に出馬し佐竹軍と行動すると言っている。
一昨日何も引除候に付き而して 百姓等先以環往申候 上方之様子 政宗聞届候故
直江は「我々の申すことに対して上方の様子もあって兵を引き百姓の往還も聞き届けたゆえ」と
政宗が屈したことを直江が記し
一方の最上も「上説を聞き候て引払候故」と書いており最上には「届」の字が使われない。
伊達が屈したことを最上も知り激しく動揺していると記す。
そして自分は佐竹の使者が会津へ来るようだから伊達については安心放置して会津へ向かうとしている。
13日に政宗が梁川方面に侵攻って話らしいが、もしホントなら幸の儀哉!と
まったく信じてないし、そうならラッキー(哉)で決戦して討ち果たせるのにと言っている。
当然、会津へ行くんだから梁川などに行くわけもない。
14日待っていた会津からの呼び出しの使者がきたから佐竹の使者で会津へ行くわ。
俺がいない期間は手勢に篠井を指し添えて郡山に置いておくから万が一の時は梁川への援軍として待機させとく。
こう書かれているので直江は部隊など率いていないし、会津への出立準備して使者を待って会津へ行った。
>>三月の挟撃の可能性は否定しないのだね
なに言ってんだ?それはお前の願望だろう?
伊達治家記録にも「10/6の合戦において政宗と見間違いして太刀打ちしたのだろう」と
歪曲することで逆に挟撃で危機的な状況になっていた事実を無意識に認めてしまっているだろうが。
3月の合戦では政宗は出馬していないと思われるから該当するのは10/6しかありえない。
873 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 08:05:00.35 ID:vL4zVsto
>宮中ってのは白河城にいる宇都宮恵斎宗安(結城朝勝)家中を指していて
他の書状では結七と記述しており、本当に宇都宮=結城朝勝、そして珍しき儀=佐竹の話を
指していると考えていいのだろうか?
>景勝に御状を願って白河表に出馬し佐竹軍と行動すると言っている。
言っていない。
>直江は「我々の申すことに対して上方の様子もあって兵を引き百姓の往還も聞き届けたゆえ」と
>政宗が屈したことを直江が記し
「ゆえ」で切るのはなぜか。原文では「故と存じ候」つまり「故だと思う」と推測している。
伊達が屈したなど書いていない。
「われわれの申すことに対して」など文中にない。
>一方の最上も「上説を聞き候て引払候故」と書いており最上には「届」の字が使われない。
最上表へは、直江が内府ちがひの条々を流して混乱させた。伊達の屈服に動揺しているわけではない。
>まったく信じてないし
「13日に、明日伊達が攻めてくると言うので、自分も後詰をして一気に討ち果たそう」とし、結局、
伊達の軍事行動が見られなかった14日には「自分は一旦若松に行く。私の軍勢は篠井に任せる。梁
川に急があれば援軍となるよう申し置く。二本松・高倉には水原と栗田刑部が在陣している。油断し
ないように」と書いている。全く信じていないと読むことは困難。
>歪曲することで逆に挟撃で危機的な状況になっていた
一次史料からは読みとれない。
>再び梁川城を越えて福島城進出などやった証拠は無い。
>3月の合戦では政宗は出馬していないと思われるから該当するのは10/6しかありえない。
「〜と思われるからありえない」という表現も奇妙だが、三月に出馬していない
という根拠はあるのかな。伊達には詳しくないのであるなら教えてほしい。
そもそも切りつけたお話はお話としてみておくしかない。
なにしろ切りつけた側も斎道二だったり、岡左内だったり、青木新兵衛
だったりしているのだから。政宗が出てようが出てまいが、伊達軍が3月
に梁川を迂回して福島の東に侵攻したのは間違いないよ。
874 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 11:04:50.10 ID:SuFdm23k
こんなどうでもいい小競り合いに
必死になれるおまえら尊敬するわ
875 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 13:36:10.60 ID:2qPZsFmN
なるほど。まとめると以下になるのかね。
7月23日付で家康が三成らが才覚で雑説を申すと最上に伝える。
7月25日小山会議し翌日には陣を引き払う。
7月29日、1日付真田宛で大坂奉行衆が最上伊達は味方であると伝えてる。
7月29日付で家康が内々に最上へ上洛すると伝える。
8月7日付書状で家康は警戒していたのか政宗に実は江戸に帰っていたと今になってやっと知らせる。
8月12日以前に直江と政宗は再和解していており、最上口を預かる最上がパニックになっている。
政宗が蜂起させた和賀一揆が8月13日にはすでに起きてる。
結局、家康からの和睦で佐竹口からの出陣を取りやめたから宮中との密謀を止めた。
まあ宮中とか珍敷(田村市の珍敷神社で佐竹や相馬を表すのか)は隠語っぽいな。
3月は南部と伊達の両方と戦端を開いているために両戦線の指揮を取る政宗は福島まで出て来れないだろう。
しかも家康が無闇に戦うなって命じてるから政宗自身までは出ずに謹慎しているだろうね。
876 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 13:55:04.20 ID:2qPZsFmN
政宗と直江と佐竹の密約があって家康がそれに気づいてビビッた挙げ句に上方の異変を口実に急いで江戸に逃げて
上方にも行かずにしばらく江戸で様子見してたのと同じで
政宗も家康が小山に来た頃になると動揺し戦況の様子見に転じてたんだろうね。
家康がいなくなるとさっそく和賀一揆を引き起こして最上口を瓦解させることで最上を売って直江に媚びてる。
ゆえに小身の最上が大混乱して全面降伏の書状を上杉に出すのも理解できる。
よって詫びと言うより媚びと言うのが正しい表現。
そして政宗は金山ザクザク南部と戦闘を開始し北奥統一戦を開始するが失敗。
877 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 14:06:54.06 ID:2qPZsFmN
夜間に梁川を東に迂回して福島城を襲おうとして
途中の山間で伊達軍が補足され上杉方の石川弾正に大敗したのは3月ではなく正月の戦い。
敗因が相馬に騙されたからと言っても、
さすがに本庄の留守中を火事場泥棒しようと襲って失敗してる以上は
3月にまた同じ作戦は立てないだろうよ。
878 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 17:13:20.07 ID:oWwjSkX1
確かに慶長6年6月は政宗が出陣するような戦いはなかったろうな。
結局、小競り合い・上杉領が伊達に放火・略奪され、上杉が終始翻弄されただけの
話しで結論が出たな。
慶長5年10月6日に伊達に野戦で惨敗した上杉としてやられっぱなしなのは悔しいだろうがね。
>>877 >途中の山間で伊達軍が補足され上杉方の石川弾正に大敗したのは3月ではなく正月の戦い。
なんだそりゃw まさか茶話咄の「月夜畑」じゃないだろうな。そのソースは何だ?
879 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 17:15:22.79 ID:oWwjSkX1
慶長6年6月→慶長6年3月だったなw(訂正)
この与太咄も。
880 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 18:26:29.56 ID:PIFdrz62
月夜畑の戦いを否定すると
水谷胤重が作成した戦死者名簿のおかげで
相馬改易を免れたという経緯の否定につながる。
では相馬が改易されなかった根拠の説明を
キチンとご説明してもらおうか。
政宗が相馬の改易を救ったとする話は新井白石のデタラメだぞ。
実際の政宗は1602年10月に入ってから相馬が改易されたら伊達にもらえるんじゃないかと密かに期待してたら存続と決まりガッカリしてる。
新井白石は景勝と兼続は衆道関係にあったと断言したり
兼続の父・兼豊の身分を薪炭吏だったと書いたり
小田原陣の時に秀吉を調査する政宗が
忍者太宰金七なるものを用いて有利に動いたなどとデタラメを書いて
影の部隊黒脛巾組という架空団体をデッチあげる論拠にされてんだぞ。
いったい諸家から聞いて書いたと言うが、どの家から聞いたデタラメばっかり採用してんだっていうw
そもそも白石の作った家系図もデタラメだし・・・
881 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 23:08:14.06 ID:vL4zVsto
>>875 家康に戦うなと言われても、政宗は何度も出馬を検討しているので、
それを理由に3月の出陣は否定できないと思う。
>>876 >政宗と直江と佐竹の密約があって家康がそれに気づいてビビッた挙げ句に上方の異変を口実に急いで江戸に逃げて
これは驚きの珍説だ
>>877 正月の戦闘は知らんが、その後も伊達は福島城東に侵攻している。
882 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 14:20:43.50 ID:zOI32kem
岡の話だけをわざわざ抽出分離させて
あえて3月に移動させる意味がわからないし、
そこだけ都合よく分離させるに足る論拠もまったく出て無い。
ただ都合が悪いから3月にしたいって言う願望動機以外に見つからず余りに恣意的。
そもそも3月の岡はどこの城にいたのか。
それに第三者の結城徳川の資料にも出てくる以上は岡の話をお話とは言えない。
事実、岡はその武功から上杉減封後に蒲生家で再雇用抜擢されて城将になってる。
883 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 15:07:06.65 ID:dQZ6/WfN
十月の戦闘は伊達側が国見帰還を「残すところなき手際」、戦後も「心残りもあるが、時節柄これでよし」
三月の戦闘 上杉方の福島方面の守将に感状が出されている。伊達の史料が無視
結城家の史料が軍記物の影響を受けている可能性もあり、結城の史料にあるから
真実だとは言えない。可能性までは否定しないが10月に切りつけられたなんて
ことはないでしょう。本を書くなら「斬りつけたともいわれる」くらい。
>事実、岡はその武功から上杉減封後に蒲生家で再雇用抜擢されて城将になってる。
猪苗代の城将になったのが「事実」であり、伊達を切りつけた武功からという理由には
根拠がない。高名な武将の再雇用は別に珍しいことではなく、左内の場合、出世は一族
(子とも)である岡重政の出頭と関連付けたほうがよほど現実的。
884 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 18:12:25.50 ID:OXxEQ/VX
>>889 >>左内の場合、出世は一族(子とも)である岡重政
また得意の捏造ですか?
岡佐内の父は岡和泉守盛俊であり、出身は若狭なので
近江の重政とは一族であるなんて説はまったくありません。
しかも重政は片岡半七岡重政と呼ばれていてもともとは片岡姓。
ひょっとしてあなたは左内の母親が石田三成の娘であるとする
直江&三成密約説の信奉者ですか?
それですら石田三成の娘を妻にしていた重政の嫡男を岡左内としていて
重政が左内の子としてはいないですが。
もちろん三成の娘と重政の年齢的ギャップでいささか無理があると思いますが。
愛宕山の慶印の助けもあって調子に乗って国見山を過ぎ桑折も過ぎ
摺上川まで渡河し瀬上も通過し、現在の松川も通過し羽黒山の麓(愛宕山)まで進出した政宗(古松川を前に見る)
しかし後方で大事件勃発(須田・岡らの行動だろう)→国見山まで政宗は大後退する。
ここで治家記録では羽黒山本陣にいたが片倉が戦局の見通しの悪さを述べたから国見山へ帰ったと捏造解説をして誤判断に誘導してみせてる。
しかしここで石川により撤退が提案がなされたようだが、
福島への街道筋に派兵して逆襲を考えていた政宗の士気に反してものすごい速さで北目城まで緊急超撤退する理由がわからない。
ここで青葉山寂光院・羽黒大権現が仙台に移設せざるおえなくなる事実が解答になるだろうね。
つまり上杉軍による羽黒山への夜間奇襲が実行され寂光院が焼き討ちを受け伊達軍が緊急撤退を余儀なくされた。
ここで治家記録でまた捏造すべく補足説明が入り
羽黒山から国見山へ戻る途中に屋代景頼に対して武功を讃えて酒杯を与え、
その後に梁川表を遠望して帰ったなどと書いてるが
屋代の武功に対する加増がその後まったくなく成立しない話である。
本当に300討ち取りしたのならハッキリと「こたびの大勝利で日頃の鬱憤を晴らせて本望」とか
「こたびの武功を政宗生涯忘れず」って部下を激賞しても良い話だろうが。
ところがテンション落ちまくりで「残すところなき手際」とし、
自らを慰めるように「心残りもあるが、時節柄これでよし」などと口惜しさ丸出し。
明らかに勝利宣言なんて解釈できねーのに歪曲したりと
常習的に伊達治家は巧みに余分な解説的補填を挟み込み
無意識にミスジャッジ誘導へ導く悪い癖がある。
885 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 18:59:54.43 ID:g7i7kSGJ
>>884 >口惜しさ丸出し
そりゃ悔しいのは上杉側だろ。捏造軍記まで書くほどの屈辱。慶長5年10月6日の戦いに限って
言えば、伊達に一網打尽にぼこられた挙げ句、勝利宣言までされてるわけだから。
(
>>884は動揺のあまりかアンカーミスしてるしw)
一番みっともないのは(同情すべきなのは)、戦意喪失した主将の本庄繁長だな。w
何せ「福島城に押し込められたまま、まさに手も足もでなかった」わけで。
福島城から出撃してくる上杉勢を巧妙に叩いた砂金実常の小勢に福島城に文字通り「押し込められた」。w
治家記録の慶長6年4月の記述を調べてみると、政宗はこの砂金に感状を与えてるよ。
本庄ら福島勢を「虎口に押し込めた」ことへの褒美だろう。w
886 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 19:11:57.31 ID:zOI32kem
へぇ〜会津陣物語でも10月に戦闘記述あるし
物語の性質上、起承転結させるためには
その後の伊達の侵攻がへたれボロクソ過ぎたから
やむなく10月の戦闘内容をラストに移動させた以外で具体的にどんな捏造してるのか教えてくれよ。
つうか3月に岡佐内が梁川城にいた証拠出せよ。
887 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 20:58:36.90 ID:/K7DR2ar
885はそもそも上杉が負ける戦闘すらなかった
といってるやつだから、岡左内がいたのを証明
しろと言われたら、「いなくて結構」ってなるだろ
888 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 02:03:44.14 ID:TZvwL2sd
>>884 >近江の重政とは一族であるなんて説はまったくありません
あります。
>ひょっとしてあなたは左内の母親が石田三成の娘であるとする
>直江&三成密約説の信奉者ですか?
意味が分からない。
>愛宕山以下
繰り返し
>>885 勝利宣言=あくまでの野戦のであり、伊達の作戦自体は失敗
>>886 岡左内がいようがいまいが、たいして大きな問題ではないが、
10月にいた証拠も一次史料上は管見の限りではなかった。
会津陣物語は直江と三成の密会から栗田刑部一家皆殺しまで
さまざま怪しい記述がある。戦闘も10月と4月の戦闘は内
容がものすごくかぶっている。
889 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 03:24:19.34 ID:WkOrys1b
福島からの奇襲に怯え「自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候」
などと勝手な行動をするなと言明し
続いて会津への使者その他2.3人だけ討ったことに「満足に候」と答え、
前線からの恩賞欲しさのデタラメ戦果に触れ
敵が福島への戦略的撤退したのを聞き
「残す所無き手際」だと事実誤認の勘違いをし
釣り込まれた挙句に梁川勢に背後を襲われ「国見へ打返し」
「自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候」と怯えているのが暗闇に包まれた十月六日夜の政宗。
朝になったら7も8もの諸口に兵を送ると反撃したいと逆襲を考えていたが
静寂の闇から突然に背後の寂光寺が炎上して北目城へ逃げることに。
十月九日になるとデタラメ報告の数々が原因で大敗した事実を知った政宗は
桑折宗長・白石宗直・大条宗直ら
当たり障りのない面子に「今少し残り多き様」と茂庭綱元や屋代景頼のことを愚痴り出す始末。
そして戦後まもなく茂庭綱元に対して政宗は三男良元に家督譲渡を強要する。
そして大坂陣の後に宇和島へ左遷。
屋代景頼もチャンスを見計らって改易追放&奉公構えの刑罰で
翌年近江で野たれ死に追い込む。
松川の戦犯は2人とも政宗の目の前から消えてすっきりしたことだろう。
890 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 09:01:21.12 ID:TZvwL2sd
7日に福島ではなく梁川を攻撃するのは予定通り。
福島包囲に加わる中島に「自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候」
は当然。梁川を落としたら福島にかけつけるということだ。
梁川からの出撃もあったと考えられるが、国見に帰ったところまで
「残すところ無き手際」なので、その前に梁川衆が大打撃を与える
不意打ちを食らわすことはありえない。
また、戦後に「満足だけど心残りがある。でも時節柄よしとしよう」
と言っている通り、大きな影響が出るほどの攻撃でなかったと分かる。
つまり、大きな打撃を与える挟撃があったとすれば10月よりは3月
のほうが可能性はある。
891 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 14:37:17.24 ID:cyAevLkM
梁川城から背後を襲われ国見に討ち返しする為にかなり撤退してるので
(兵力的優勢下でわざわざ遠く国見山まで撤退する理由は背後を襲われた以外に合理的説明がつかない)
明日の梁川城攻撃は書状を出した時点ではもはや中止してるだろう。
そもそも梁川城攻撃発案自体が以前から計画された話ではなく
6日朝に突然片倉から湧いてきた話でしか無く
政宗もすでに先陣が出発したからと断ってる。
その後、囮に釣り込まれて先陣が進み過ぎて
後が追いついてきてないからと自制をかけさせようとするが
政宗にはもはや統帥できなくなってる。
戦後にわざわざ「負けたわ」と書く書状は和田城攻撃での謙信以外で見たことない。
本当に勝ったのならもっと自信を持った書状内容になってるはず。
明らかに気落ちしている書状内容。
時節柄よしとするとは関ヶ原で家康が勝ったから、
上杉に負けても加増されるから良しとしてるだけ。
892 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 23:12:34.86 ID:TZvwL2sd
>>891 >明日の梁川城攻撃は書状を出した時点ではもはや中止してるだろう。
政宗「今日の戦闘は、明日の梁川のためである」「明日七日の軍事行動で
梁川へ打ち寄せるべき」
>本当に勝ったのならもっと自信を持った書状内容になってるはず。
>明らかに気落ちしている書状内容。
明らかに気落ちしているなど根拠不明で、こういうことは10月の野
戦で上杉方が勝利したとする一次史料を提示した上で書くべきこと。
893 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 00:26:39.05 ID:84DJSX1l
梁川のことについて文が来たが早や先手が打ち入りて、桑折筋に梁川へと申し下すなら
備えとも違くなるので、まず今日は桑折筋へ行く。今日中はさらに(内応者と)
よく手筈を示し合わせて明日7日の働きでは梁川へ打ち寄せ候
10/6 うしのこく(暗に藁人形に五寸釘を打ち込む呪術を指す)片倉へ政宗。
梁川城攻略などもともと予定にない為、作戦開始時のこの時点で
梁川が目的ではないことがわかると同時に、
政宗は福島城が落ちる前提で明日の梁川城については手筈を示しておけと命じている。
國見へ打返し陣を取候(先陣が政宗の統率から外れて猪突し、政宗が須田に背後を襲われ撤退)
(今日の戦闘が終わり黒沼神社まで戻ってきて明日の作戦としては)
福嶋筋よりの押さえに7手8手も派遣するから勝手に動くな!(もはや梁川城攻略リセット)
(釣り込まれ片倉配下の物頭2人の部隊が半壊している)
しかし押さえに7手8手どころかこの後すぐ北目城へ急逃亡している伊達軍(羽黒山炎上で大パニック)
894 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 00:49:25.19 ID:KJxn0L/W
書状を都合のいいように訳し、それに合う別の史料を示せぬでは話にならない。
895 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 01:45:58.03 ID:84DJSX1l
>>894 それは仙台藩が作った政宗マンセー伊達治家のことを指してるのかw
896 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 02:04:59.07 ID:zfmXacZH
まぁ伊達の史料は全て
>>822路線だから信用性ゼロだし…
897 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 08:03:40.30 ID:KJxn0L/W
>>895 いい加減、治家記録に逃げるのはやめたらどうだ。
原本が存在する中島宛て書状をはじめ、参考にした書状は
治家記録とは関係ない。
898 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 19:20:25.45 ID:ECtVgBGR
最上義光の収めた山形は一揆が一度も起こらなかったって言うけど、それって
そんなに難しい事なの?
899 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 19:42:19.76 ID:zfmXacZH
そもそも一揆によって庄内から叩き出されたのが最上
しかも最上増援軍も一揆のあまりの反発ぶりから庄内侵入を断念し撤退した。
それと伊達は最初から上杉や大坂と内通してて
家康と上杉が白河で戦い始める辺りで
タイミングよく和賀一揆を引き起こして
最上口を瓦解させ、伊達もそれを口実に北上するつもりだった。
政宗は妻子を大坂に取られていたから大坂を裏切ることは考えてない。
書状で政宗が家康に言ってることはデタラメばっかり。
だから家康は百万石の話を反故にしたのは当たり前
900 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 20:07:51.92 ID:E0DxW4GZ
伊達が上杉と最初から内通て…
901 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 03:52:05.65 ID:NPtiouIP
>>895 伊達治家記録のデタラメ捏造ぶりと言うのは実に笑えて
例えば和賀領が南部信濃守に渡ったのを恨んでたのを
政宗が憐れみ招いて住まわせたなどと書いたりしてるが
そもそも和賀郡が南部領になったのは信直の時で信濃守ではないため歪曲がモロバレw
>>900 いやいや実際、上杉と伊達と佐竹はグル。
7月29日、1日付真田宛で大坂奉行衆が最上伊達は味方であると伝えてる。
7月29日付で家康が内々に最上へ上洛すると伝える。
8月7日付書状で家康は警戒していたのか政宗に実は江戸に帰っていたと今になってやっと知らせる。
この時期の使者往復には例えば
小山→院内(秋田南部)の間で11日かかり、院内→江戸13日かかるなど
関所などの警備が厳重なのか異常に日付がかかっている。
そういう状況下で政宗は和賀一揆を起させてる。
急度申入候 御当洞中 一揆少々蜂起之由
乍伝説無御心元候 無申迄候へ共 早々御退治尤に候
若当方境目 迯来者候者則成敗仕 其検可進候由 堅申付候間 可御心安候
先度者御懇之御使忝候 自是も必以使者可申入候
今度者右之仕合無御心元候間 先以飛札申入候 非疎意候恐惶謹言
八月十三日 羽柴越前守政宗
南部信濃守殿御宿所(最上口の陣所か) 元南部伯爵家文書
一揆発生してすぐ政宗が南部に「一揆が起きたんだって?」なんてモロバレなことをやらないだろうから
一揆発生から少なくとも4.5日程度を経てから出しているのは明白で、
政宗もまだ家康が江戸へ帰ったとは知らないだろう。
「奥南旧指録」附載 天和4年「慶長以来拝領物品付御書上写」の中に
慶長五年会津・最上取合之時 親信濃守 加勢被仰付 最上迄人数召連罷出候所
領内和賀一揆有之由申来 比旨出羽守に相断り 罷帰一揆之輩討鎮申事
このように南部は一揆の通報を受けて撤退しており
内々御床敷存 先達従是も 為使者申入候処 御使札忝候
即御報可申入処 他行仕昨夜中帰宅之故 令延引候
其元一揆之者共 無異儀被仰付之由 肝要に候
此度之一揆に此方之百姓も 少々相加之由 言語道断沙汰之限に候
併稗貫其外 以下之者共 互根本好味之有筋目少々罷越候哉
努々於此方不存事に候 境目之者共も 何も家中以下召連 白石表在陣仕之間 是又曾不存候
今度以注文承通 則此方相払可申候
具に書中に不被申候条 委細口上に申渡候間 不能一二候 恐々謹言
九月四日 羽柴越前政宗
南部信濃守殿 御報 元南部伯爵家文書
こののち乱は次々と拡大し遠野・気仙・釜石まで広がっていく。
902 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 07:03:09.71 ID:bKnQ7FUM
最後まで伊達に振り回された上杉は、蒲生氏郷以下だな。
903 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 07:53:52.42 ID:PCWSGZ6y
>>901 >伊達治家記録のデタラメ捏造ぶりと言うのは実に笑えて
そういうバイアスのかかった記事は伊達に限らずどこの史料にもある。
だから一次史料と突き合わせた精査が必要。中島書状などの信憑性が損なわれる
ものではない。
>7月29日、1日付真田宛で大坂奉行衆が最上伊達は味方であると伝えてる。
奉行衆は毎回、最上と伊達をセットに書いている。これを根拠にするなら、
最上もグルという指摘をしなくてはいけない。ただ、奉行衆は「最上や伊達
は自分の妻子だけでなく、家老の妻子もみんな上方にいるので」というのを
理由にしており、味方だと楽観視しているだけ。
また、この時点で政宗が一揆に加担していたかは不明。
最上軍の崩壊は直江が「内府ちがひの条々」をまわしたことなど、会津
征伐の正当性が失われたから。でなければ、南部以外の軍が帰陣した説
明がつかない。
>>902 サブの論の根底には政宗が上杉から白石城をだまし取ったというサブが
生み出した密約説がある。実はサブは伊達とともに上杉を馬鹿にしている。
904 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 12:11:43.11 ID:hydu0wK1
>>903 中島書状を始めとして悉く伊達治家記録の恣意的解釈を
君が踏襲していて改めようとしない態度で
しかも俺は伊達厨じゃないとアピるので笑っているのに気づかないの?
7/29付書状の伊達や最上については景勝談じ申し候者と書いてあり、
景勝から直接確約を得た話で
人質の件は追加情報でありさらにそれを保証する話。
他の諸大名だって大坂に人質がとられてるわけでわざわざ伊達や最上の名をあげるのは確定情報だから。
しかも8月朔日付け長束増田書状でも伊達や最上は味方と書いてる。
この7月内に内府ちがい条が伊達や最上にはまだ届いてないだろう。
最上は家康の命令で安東や南部らが集まってきて最上口の大将として先陣命令を受けて
家康の策によって否応なく米沢攻め責任者に祭り上げられてしまい
おまけに田中清六・中川忠重・津金胤久は家康の目付として最上口にやってきて最上仕置き条書を出している。
伊達は他家の軍が集結してない決定的な違いがある。
内府ちがいの条では無く政宗が一揆を煽り南部帰国と言う最上口瓦解に導いている。
南部は8/13に最上と起請文を書いてるから、それ以降に早々と帰国
しかし内府ちがい条が届いてからも18日に戸沢が19日に本堂が起請文を書き
義光からも返書起請文が20日に出されている。
家康の帰陣命令21日付が月内に最上口に届いたかは疑問で
実際に安東は月内は最上にいたのはわかるから
内府ちがい条が半信半疑であり安東もやっと家康が帰っている情報をつかみ帰ったのかも知れない。
905 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 12:17:46.47 ID:hydu0wK1
わかるとは思うけど念のため
「景勝談じ申し候」とは「景勝断じ申し候」の意だからね。
直接に面と向かって談じた会議じゃないよ。
906 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 12:48:54.72 ID:hydu0wK1
ついでに12日付で直江は岩井に南部が陣を引き払ったと書いてるが
13日に南部は最上に起請文を書いており
まだ撤兵してないため見事な予言文になってしまっている。
これは上杉と伊達が和賀一揆の件で合議しているからこその直江の発言である。
907 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 12:50:23.06 ID:Fq7p0Er/
へうげの言語障害景勝と腹話術師兼続ワロタ
908 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 14:59:56.84 ID:RwdnjnJX
家治と大岡忠光かよorz
909 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 15:01:32.06 ID:RwdnjnJX
家治じゃなくって家重か..
910 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 17:42:22.10 ID:8l2NVrkJ
>>905 張り切ってるとこすまないが、その書状で申し談じるのは上杉と
真田じゃないのかい?「秀頼さまに忠節を尽くすのが肝要です。
その上で上杉と『申し談じ』れば、関東は即時に破滅するでしょう」
伊達最上の話はそのあと。
911 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 18:48:07.81 ID:NPtiouIP
>>910 それはないんじゃないかな。
同日29日付けの輝元や秀家の文書はほぼ同内容で
「景勝申談上者 関東之儀〜」と書いてあり
談じ申し上げたと言う表現なので真田と相談しろとは言ってないだろう。
それに上杉と真田で関東を攻略せよなんてのちの文書でも言ってない。
言及してるのは真田の地の沼田から内通した?越後経由で会津への飛脚の通過についての話や
小諸・深志・川中島・諏訪の仕置きを真田に急いでやれと言ってるだけ(美濃への中仙道をふさげって話)
下野に秀忠や秀康が残留している状況では
とてもじゃないが上杉と真田が相談しての上野挟撃すら覚束無い。
そもそも軍事通路が整備されていないのに
上杉軍が大湿原地帯の尾瀬を通過するのはリスクがありすぎる。
912 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 02:37:59.04 ID:yFwBK3MG
いずれにしても伊達最上と申し談じ候は関係ない
913 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 06:22:28.74 ID:w/2eqGhm
上杉と伊達が和賀一揆を白河決戦のタイミングに合わせて
引き起こそうとしていたのは明らかだな。
伊達軍による北奥攻略が成功していたら面白かったのに。
914 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 08:29:50.00 ID:hMYB8oZ2
12日直江→岩井書状内での南部の動きや
13日政宗→南部書状内での和賀一揆発生を
突き合わせて検討してみると
さすがに伊達と上杉が共謀してたのは認めざる負えない…
915 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 08:46:28.08 ID:diNnGCEh
>>911 よく読むと、上杉と真田で相談という意味でも伊達や最上について上杉が申し断じて
いるという意味でもないようだ。
奉行衆からの書状は「貴殿の御事、太閤様別して御懇、御忘却無く候はば、此の節、
秀頼様へ御忠節肝要に候、其の上景勝申し談じ候は(またははば)、関東即時に破滅
たるべく候、伊達・最上事も〜」
景勝が「関東即時に破滅たるべく候。伊達や最上も〜」と申し談じているのではなく、
「真田が味方になる上に、景勝ともすでに話し合っていて味方なので関東をすぐに滅
ぼせるでしょう」と解釈するのが適当だと思う。
続く「伊達・最上の事」以下は「伊達や最上については大坂に自分の妻はもちろん、
家老まで悉く妻子をこちらにいるので、人質にしています(だからこちらにつくで
しょう)」
「下向する時に秀頼様に忠節を尽くすと言っていた」というのは伊達・最上なのか、
下向中のほとんどの大名たちなのか分からないが、いずれにしてもこの部分は、奉行
衆たちが「『秀頼様に忠節を尽くす』と言っていた大名たちは内府ちがひの条々で反
秀頼勢力とされた家康にはつかない」という見方をしているという意味ととらえる。
三成が挙兵したら味方に付くと事前に打ち合わせていた訳ではないと思う。
916 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 09:07:57.78 ID:diNnGCEh
>>914 南部の最上表からの引き上げと和賀一揆の関連性、さらに蜂起当初
の和賀一揆と政宗の関係は不明。
江戸時代に書かれた編纂物に「会津征伐を命じた家康公が謀反人に
されたから解散した」とは書けない。
「秋田実季・最上義光対決の次第」では、内府ちがひの条々が「直
江山城方より」状を添えて送られてきたので、出羽国に集まってい
た諸将が「色めき立て見え候」という状態になったとしている。
直江の策略なので、南部が引き上げるだろうということも直江は「予
言」できる。
917 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 15:03:43.42 ID:hMYB8oZ2
>>915>>916 すげー曲解ワロタw
輝元や秀家書状でもほぼ同内容で景勝が断じ申し上げたと書いてるし
和賀が伊達領に呼ばれて住んでいて
陰に陽に後援を受けてたのも明白だし
今まで和賀一揆に伊達が関与してた話は否定して来なかったくせに日付付き書状を出したら都合が悪いから突然否定を始める態度ってどうなんだ?
それじゃ聞くが最上口に内府違い条は何日に誰に届いたの?
内府違い条が届いて動揺したなら
なんで南部以外は安東を始め最上からの起承文を貰って月内ずっと最上口に留まってたの?
最上が家康が江戸に帰ったのを知らせずにいたから帰らなかったのであり、
内府違い条で動揺なんてしていないんだよ。
だから和賀一揆と言う理由で撤退した南部と最上に恨みある小野寺以外は帰らなかった。
対決の次第なんて裁判用に作られたものじゃん。
918 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 16:15:32.33 ID:q+eCuPkK
「秋田実季・最上義光対決の次第」によると
前田・長束・増田の三名連署の檄文を受け取ったのは
8/21付の家康の帰陣命令が届いた以後であり
当時、実季自身も院内まで後陣を率いてきた最中で
帰陣命令を読んで先手を山形へ置いたまま
8月〜9月にかけて帰陣し、山形の先手も庄内攻めさせるため
義光の同意を得て撤兵させたとしてる。
実際、21付家康の帰陣命令書状とその福状22日付榊原・有馬・佐々木返書があり
28日までの兵粮米拠出を報告してるので裏が取れる。
激文を受け取った帰陣中に激文を受け取った実季は家康への奉公を六郷・由利衆と
百三段というところで誓って起承文を取り交わし
直江書状と激文を榊原康政に送付したと言っている。
家康の帰陣命令21日付には安東・六郷・仁賀保・小介川に宛てており裏が取れる。
諸将が「色めき立て見え候」したのは実季らが帰陣して秋田に戻っていく途中であり
早くても9月に入ってからであり、直江の岩井へ宛てた南部に関する話は完全に予言。
直江に予知能力がないとするなら
大坂方が景勝から聞いたと言うように上杉と伊達は共謀していて
白河で決戦が始まるタイミングで和賀一揆を起して南部を撤退させ最上口を瓦解させ、
伊達口では政宗が南部領へ攻め込み北奥平定に向かい
越後口もすでに内通しており(怪しげな動きがあれば越後遺民一揆を起す)
上杉と佐竹による徳川挟撃の予定があったのは間違いない。
919 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 16:28:31.00 ID:diNnGCEh
>輝元や秀家書状でもほぼ同内容で景勝が断じ申し上げたと書いてるし
輝元や秀家の書状も意味は同じ。「景勝も申し談じているので関東を平らげ
ることができるだろう」の意味。
ケアレスミスだと思ってスルーしていたけど「断じ申し上げた」って何?
「其上景勝申談候者、関東即時に破滅たるべく候」
をどう読み、どう解釈したのかな。談を先に読んで申に返ったってこと?
なぜあえて「談」を「断」に変えているのか。
景勝の部分は奉行衆も輝元や秀家の書状も同内容だが、伊達最上の話はない。
「申談」と最上・伊達は関係ないということだよ。
>今まで和賀一揆に伊達が関与してた話は否定して来なかったくせに
和賀一揆に詳しくないのでよくわからないが、南部や伊達の史料だと9月下旬とか
10月の蜂起になっているんだが、本当に8月13日には発生していたのか。
上杉には詳しくなくても伊達に詳しいようなので確たる史料があるなら教えてほしい。
>それじゃ聞くが最上口に内府違い条は何日に誰に届いたの?
日付は不明だが、「木村宇右衛門覚書」でも景勝からの廻文がまわったとある。
>なんで南部以外は安東を始め最上からの起承文を貰って月内ずっと最上口に留まってたの?
留まっていない。
920 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 16:54:11.82 ID:q+eCuPkK
>>919 >>ケアレスミス
>>905>>911 >>伊達最上の話はない
輝元や秀家はあくまでも福状だから短く略しただけで同内容。
>>901の書状が偽書状との指摘は聞いたことがない。
八月十三日には「一揆少々蜂起之由 」と書いてあるので
蜂起が開始されたばかりで9月下旬には大拡大していると言うこと。
南部信濃守殿御宿所が最上口の陣所を思わせ時期的にも符号する。
>>日付は不明だが
前田・長束・増田の三名連署の檄文を受け取ったのは
8/21付の家康の帰陣命令が届いた以後
>>留まっていない。
安東・六郷・仁賀保・小介川は同行動をとっていると思われるので
庄内攻めで義光との合意を得て完全撤兵しているので8月内はいた。
921 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 18:01:58.40 ID:diNnGCEh
>>920 なぜ「断じ申し上げる」になるのかと聞いているんだよ。
意味をどうとらえているのかもわからないから教えてほしいのだが。
922 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 18:45:42.50 ID:q+eCuPkK
>>921 書いてある通りだろ。
毎回、伊達厨としてその擁護目的の捏造に加担し
「意地でもそれは認められない」「なんでも反対!万年野党」
と言うスタンスの君の態度では
何を言っても曲解と屁理屈と理解できないフリの繰り返しだから無駄だろうけど。
なんせ和賀一揆における政宗の関与すらも
今になって強烈に否定してくるほどのキチガイだもの。
しかも8/13政宗書状までまったく根拠もないくせに
捏造だと主張し始めるほどの理不尽さ。
923 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 19:00:14.59 ID:q+eCuPkK
そもそも
>>673のような言語力では理解できないだろうけど。
だいたい8/13政宗書状を苦労してやっと探してきてやったのに感謝の念すらないとはな。
>>8月13日の政宗書状というのを知らないので教えてほしいんだけど
>>南部家文書の8/13付の政宗書状がなんて書いてあるのかのほうが気になるが。
南部家文書の8/13付の政宗書状は現在の俺の手持ち史料にないから転記できない
>>南部家文書の8/13付の政宗書状の件も同様だが、出典を明かせないようではお話しにならない
>>出典を明かせないようではお話しにならない
あっそう。勝手にすれば。
>>sub敗北宣言www
こんな三段論法でこちらの意見を完全否定するキチガイ伊達厨を相手にしてきてるから疲れるわ。
924 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 19:13:32.83 ID:diNnGCEh
>>922 >書いてある通りだろ。
書いてない。普通は「申」「談」の順で読むべきでは?「断」でもない。
書いたとおりに読めば伊達・最上の話と「申談」は別の文。
だからサブ君がどう解釈したのか知りたいのだよ。
>>923 >>673も自分ではないし
>>sub敗北宣言wwwみたいなどうしようもないことも書かない。
925 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 20:16:32.51 ID:diNnGCEh
あと、お話にならないと書いたのも別人。
8月13日付政宗書状は青森県史でだいぶ前に入手済みだが、苦労して
探してくれたようでありがとう。ただ、南部家の複数の史料が和賀一揆
の発生を9月としている。また、一緒に最上表にいたはずの六郷は10
月中旬に秋田へ南部領内の一揆発生を報じている。
926 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 23:24:12.03 ID:hMYB8oZ2
当時は文部省も無いから漢字使用に統一基準はない
膝を突き合わせて話し合いしたわけじゃないんだから
談が断と理解するべきなのは明白だろ。
それとも君は城を責めると記述されていたら城に鞭でも入れたと解釈したり
正宗と書かれてたら偽書状だと主張するのか?
927 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 00:07:31.40 ID:rFEKsUTK
誰も偽文書だとは言っていない。
不自然な部分があるから日付なども含め検証が必要ではないかという話をしている。
最上表から引き上げた理由が本当に一揆なのかも含めて。
>談が断と理解するべきなのは明白だろ。
当て字がよくある時代だけど、今回のが「申し談す」でなく「断し申す」
にしなくてはいけない意味がよくわからない。
仮に断じ申すだとどういう意味になるのかもはっきりしない。
ケアレスミスを責めるつもりはないよ。
ただ、あくまで「(伊達や最上のことを?)断し申す」と読まなくては
いけない理由があるのなら教えてほしい。
928 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 02:23:33.67 ID:dt4nCmzY
>>927 お前の脳内で納得したくない気持ちなんて知らないし。
ケアレスミスでもねーし。
政宗13日書状で「一揆少々蜂起」と書いてるんだから
大規模になる前だから、大規模になった9月末とは違うのだろう。
そもそも政宗が「一揆少々蜂起」如きでわざわざ南部に書状を出す不自然さこそ怪しい話。
しかも続く4日付け政宗書状では白石にいて俺ら関係ないとアリバイの言い訳までわざわざしてる。
8/13・9/4政宗書状を読めば和賀一揆で南部が撤退した事実に間違いはないし
だからこそ南部の言い分を了解した家康は、
最上が中傷したところで南部を咎めることはなかった。
直江が添付した大坂方の激文の到着日付も
安東が榊原に提出したと書いており
それがウソなら榊原に聞けばすぐバレるウソをつくとも思えない。
929 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 03:23:27.52 ID:rFEKsUTK
奉行衆の真田宛て書状をどう読んで、どう訳したのか示していないのに納得するも
しないもないでしょう。普通に読めば上杉と伊達や最上が内通していたなんて証拠
にはならないのだから。「この書状が内通の証拠だ」と言いながら「原文をどう解
釈すればそうなるのかは言いません」それなら誰でも新説唱えられるよ。
分からないなら分からないでもいいんだよ。
サブはたまに熱くなってるけど、別に喧嘩するような場所ではないんだし。
ともかく、肝心な部分を明らかにしないのではいつまでたってもまともな議論にな
らないでしょう。
>納得したくない気持ち
根拠も示さずに研究者の誰も唱えていない珍説を納得してくれというほうが無理だよ。
930 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 04:25:57.56 ID:dt4nCmzY
931 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 10:00:55.33 ID:rFEKsUTK
>>930 新説の根拠にしたいならきちんと訳さなくては。
奉行衆の書状には「申談」がほかに2度出てくる。
「(家康が)秀頼様取り立てらるべき儀にあらず候に付きて、各『申談』し、
西の丸の留守居追い出し〜」
「自身(大名)の事は申すに及ばず、家老まで人質を相しめ申候、九州、西
国、北国一篇に『申談』候、但し、羽肥州は〜」
だいたい意味は分かるでしょう。
>>904で
>7/29付書状の伊達や最上については景勝談じ申し候者と書いてあり、
>景勝から直接確約を得た話で
としているようなので、この考えに沿って勝手に訳させてもらえば、
「景勝が決定し(こちらに)申した話では、『関東は即時に破滅
させられるでしょう。伊達や最上も大坂に自分の妻子は申すに及ばず、
家老からも人質を取っている。下向の時も政宗や最上は(または東国の
多くの大名も)いつでも秀頼様へ忠節を申し上げるということを申し置
いていった』ということです。こちらの様子をお伝えしました。あなた
も(こうした状況)に合わせ、是非ともご忠節を尽くす時です」
奉行衆は伊達や最上からも人質をとっていることや、下向の時に秀頼に
忠節を尽くすと申し置いていったことを、景勝から聞いたと解釈したの
かな?
秀家と輝元の書状は
「今度各相談(奉行衆の書状に対応しているのでこれが『申談』と同意)し、
戦に及びました。上方は一篇に申合(これも『申談』)わせ、ことごとく大
名の妻子を人質にとりました。景勝が『申談上者』、関東を平らげることが
できるでしょう。あなたも太閤様の御懇意を忘れていなければ、この節は秀
頼様に忠節を尽くすのが肝要です」
『申談上者』はサブ的な読み下しは『断じ申し上げるは』かな?。こう読む
と意味は「決定して(秀頼様に)申し上げた」または「秀頼様にお味方する
ことを決定した」だろうけど、
>>904によると前者か。
「決定して(秀頼様に)申し上げたことは『関東はきっと平らげられるでし
ょう』」となるのかな
932 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 14:51:56.24 ID:a7hunTbv
またキチガイ伊達厨が歪曲解釈で粘着してるのか。
933 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 16:59:29.10 ID:rFEKsUTK
答えられない時の常套句はいらないよ。
奉行の書状はサブ君の訳を想像して書いたんだよ。
あまりに無理矢理な訳になったので、きっと君の訳とは違うのだろう。
どこが君の訳と違うのかぜひ指摘しておくれ。
934 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 14:56:01.07 ID:rYBQqb84
『直江兼続と関ヶ原〜慶長五年の真相をさぐる』
(福島県文化振興事業団2011)
935 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 22:56:33.07 ID:AJLsLx8m
>>880 新井白石は仙台から金をもらってたんだろうな。
なんせ佐竹義重が義宣に家督を譲渡したのは
秀吉が小田原陣の時に常陸一国安堵を許され水戸城を手に入れてから家督を譲渡したとデタラメを書いて
政宗が葦名を滅ぼし義重に勝ったと言う捏造をしてるからな。
936 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 21:04:57.10 ID:IDPEiSvj
関ヶ原後は最上対上杉は内応の成功で最上の勝ち。
上杉対伊達は梁川との挟撃作戦で上杉の勝ち。
家康から安堵された領土的観点からは間違い無い所だろう。
937 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 17:09:53.16 ID:3R9q82+J
史実では上杉は伊達に惨敗。福島表では完全に掃討されて手も足もでない
状態に陥った。これが上杉の徳川への講和のきっかけとなったことは疑いようがない。
それ以前に白石城はわずか1日で陥落。葛西大崎一揆の鎮圧戦より陥落スピードが速かったわけだ。
白石城の落城の際には上杉は同士討ちの失態までおかしている。
938 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 17:37:40.40 ID:RMBhPoKh
>>937 デタラメばかりで気持ち悪いよ伊達厨くん
939 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 02:18:02.38 ID:kjNYFzr1
ウソをたくさん吐けば事実になると誤解してるのが伊達厨。
940 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 07:32:52.19 ID:cRLV9hqc
サブもサブだが、
>>937も同じことしか言わないな
941 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 09:28:48.15 ID:Z72CEwPp
梁川城(約800名)国見山急襲から一転。
福島城(約2,000名)から討って出た本庄父子や岡らの反撃で
僅か一日で命からがら北目城迄逃げ帰った伊達・片倉主従(本隊約18,000名)。
如何に伊達軍が弱いか判る。
白石を一日で落とせたのは伊達の大軍にビビって登坂式部が内応したため。
内応がないと伊達全軍でも上杉の一城すら落とせない、それが伊達。
942 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 11:47:39.18 ID:AzqrH8NT
943 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 07:43:48.42 ID:e5UANRP2
>941
>福島城(約2,000名)から討って出た本庄父子
すぐに福島城に押し込められたけどね w
944 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 15:14:47.58 ID:6G/WB1b9
伊達はスレ違い。
ここは最上と上杉のスレ。
伊達の話は執拗にループを繰り返すだけになるだけだから
>>942の指摘に従えよ。
話が元に戻り通常運行しそうになるたびに
いちいち伊達の話を蒸し返し粘着すんなよ。
945 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 04:41:13.25 ID:Qm9wVRUw
直江自ら殿(しんがり)となって山形盆地からの撤退を図った長谷堂撤退戦について最上義光は家臣にこう語っている。
「公、誠に景虎勇武残りたりけると斜にならず感じ賜う。直江は古今無双の兵(つわもの)なり、と」
最上記(斯波家伝)
946 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 04:48:59.56 ID:Qm9wVRUw
長谷堂撤退戦のその見事さは後々まで地元で語り草となり、家康も「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者」と評している。
また、旧日本陸軍参謀本部「日本戦史」において撤退作戦の見本として取上げられている。
947 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 04:53:21.01 ID:Qm9wVRUw
ちなみに伊達から派遣され東軍勝利後に上杉追撃に参加した留守政景隊約3,000名は殆ど名を挙げることもなく直江の撤退を許している。
それを最上が弱いため直江を取り逃がしたと政宗に報告している辺りに伊達軍の脆弱さが垣間見える。
948 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 11:21:11.88 ID:oLw3O+iA
結局ダテガーかよww
949 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 11:29:16.66 ID:H+c0J8fq
950 :
人間七七四年:
944で良いことを言っても結局subは…