>>67 和賀一揆における伊達の捏造w
伊達家治家記録では慶長5年9月〜と6年3月〜の合戦を同一に併せた挙げ句に
慶長5年10月に伊達の勝利の戦があっただけと捏造し
白石勢100の犠牲があったが南部200を討ち取り大勝利したものの
南部側に家康の鷲師右衛門がいたので遠慮して白石勢は反乱者の和賀を引き取って水沢に帰った。
と驚くべき捏造をする仙台。
実際は下記である。
花巻城を奪還した南部勢は和賀川を挟んで岩崎城と対峙していたが
伊達が城から出て来ず合戦に発展せず大雪のためひとまず11/16帰陣し盛岡帰還。
3/10に南部軍が再出陣し3/13には和賀川を渡河。
4/4に水沢城から白石若狭の軍を南部軍が捕捉し
伊達の鈴木将監義信(59歳)が討ち死にするなど首93を討ち取る大勝。
(白石宗実は伊達家治記録では慶長4年伏見に死んだ事にして
援軍を撃破され孤立した岩崎城は4/26に落城 。
この時期の戦闘自体が無かったことにしてる為この時期は白石宗直とする)
この時、鷹師大矢小右衛門が4/19に岩崎陣を観戦していて
伊達軍を粉砕し岩崎城を降した南部軍が追撃して一気に水沢城攻めに進軍するのを
あまりに大規模になると南部の立場も悪くなると諫めて
井伊直政に急使を出してくれたので戦争状態がストップして伊達は助かっただけ。
この政宗の侵略については叔父義光からのチクりも聞いた家康は
和賀の件で伊達を糾弾し追い詰められた政宗は
5/17に岩崎一揆之者共を呼び出し成敗し、その耳鼻を江戸に贈り、
さらに24日に和賀主従を暗殺し自殺したことにした。
仙台藩士の和賀氏には政宗書状として代々保管してある
「和賀において白石右衛門左が軍を処々に出して悦口之至候 卯月政宗「花押」」と記す書状の写しがある。
ちなみに南部の遠野城主である阿曾沼広長も最上陣に出陣するが
和賀一揆の連絡を受けて山形から急ぎ撤退命令が来た際に
伊達に内通していたようで主家の南部に対して
「一揆の場所は我が阿曾沼に関係ない場所だし」と無視。
しかし遠野の重臣の裏切りが発生し伊達を頼って気仙沼に亡命。
その後も遠野復帰を伊達が支援していたが見事に失敗した。