政宗の「三百余人」と書いてある書状はそもそも感状ではないけど、
感状でも「数多」などは使われるし、直江の戦況報告の書状でも「余」
を使っている。
数多は具体的数字が出てないから別にどうでもいいじゃんよ。
そんなもん褒美査定に反映されないんだから。
直江が余と書いてるのだってかなりふっかけて乗っけてるんだろ。
逆に1桁まで具体的に書いてるものがあったら教えてほしいわ
普通に感状は具体的かつ正確な数字で書いてるだろ…
「敵を数多討ち取った」「軍功が抜きんでいた」「比類ない働き」
軍功はこんな感じじゃないかな。
10人程度ならともかく、342人を討ち取ったとか書いてある例は
知らないんだけど。とりあえず「三百『余』人」だからおかしいとい
うよく分からない指摘は通らないよ。
957 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/04(月) 06:33:03.05
342人も討ち取れる人がいるとかゲーム脳なやつが伊達厨と言うやつか。
感状自体も見たことないのがバレバレ
sub墓穴を掘ってよくわからなくなってる
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/04(月) 18:17:48.21
政宗厨って戦国時代を本当に戦国無双みたいな戦いだと思っているみたいでワロタw
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/04(月) 19:51:10.57
伊達は捏造しかかたれません。
馬鹿すぎる
直江が畑谷で五百余討ち取ったのも、伊達が
福島で三百余討ったのも一人な訳がないだろ。
そしていちいち何百何十何人って数えている
わけもない。だから余なわけだよ。話を盛っ
てる可能性は高いが。
常識的に話したらどうだ、サブさん
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/05(火) 19:42:27.32
まとめ
300余討ちとった戦いは架空
片倉はそんな合戦を見てないと言い物頭2人討たれたと報告
政宗も郵便配達人2、3人討ち取って満足しているのみ
茂庭と屋代の行動は完全に不明
おそらく福島城に残る兵力もあるので1/10を大きく下回る兵力の本庄軍がうまく撤退した為に戦が生じなかったとみるべきだろう。
三百余も討てたら
その3倍から5倍の負傷者が出てるはずなので
軍事的常識からいって
本庄軍は軍隊としてもはや成立していないはずで
100%信夫郡・伊達郡の防衛は不可能であり
伊達の勢力化に併合されているはずである。
よって江戸期を通じて信夫郡・伊達郡は仙台藩のものであり
上杉領というのでデタラメであるのは明らか。
そういう論法はどうなんだろうか。
伊達家文書の政宗書状に村押し、三百余討ち取り
の話がある以上、これが偽文書だとする根拠を示
すか、全く逆のことが書いてある信憑性の高い史
料を提示してどちらが真実に近いかを議論しない
ないことには、それは「歴史」ではなくなる。
965 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/06(水) 06:50:31.93
偽文書なんて一言も言ってないじゃないか。
バカなの?文盲なの?
政宗の虚言癖を考慮して文書内容の一部を
景気良い話で士気を上げるための虚偽だと指摘してるだけ
そもそもその300余りを討ったと思われる茂庭や屋代の書状は何で証拠隠滅したの?
なんでロクに松川で武功を上げてない片倉だけが刈田郡を新たに加増されたの?
茂庭や屋代はロクに褒賞されてないのはなぜなの?
発狂したsubは?や「馬鹿」「アホ」「文盲」を連呼する。
どうして冷静さを保てないのか。
政宗の誇大広告・虚言癖はあるだろうが、野戦で伊達が上
杉を破った、または誇張部分があっても、伊達側がそう受
け取って喧伝するだけのものがあったと考えるべきだろう。
内容を否定するだけの一次史料がないのだから。
>景気良い話で士気を上げるための虚偽
当然ある。だが、300余を討ち取ったのはまったくの架空話としてしまう根拠にはならない。
>そもそもその300余りを討ったと思われる茂庭や屋代の書状は何で証拠隠滅したの?
書状が残っていないと証拠隠滅というのは飛躍した話
>なんでロクに松川で武功を上げてない片倉だけが刈田郡を新たに加増されたの?
>茂庭や屋代はロクに褒賞されてないのはなぜなの?
いわゆる松川の戦いを過大視しているのではないか。日和見していた伊達にとっては多少
の「自分は東軍です」アピールになっただけで、何の益もない戦い。会津征伐の最中にか
すめ取った白石城の戦いの戦功のほうが大きい。
・「片倉が300余討ち取った合戦には参加していない=だから合戦はなかった」
ということにはならない。
・中島が福島周辺の村を占拠して会津への連絡ルートを断ち、おそらく政宗侵攻を
会津に伝える使者2、3人を討ち取った。
これは政宗が「満足ニ候」と言うだけの戦功。上杉VS伊達の合戦では別の時期に
伊達に奪われた書状を取り返した武将が直江に褒められている。
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/06(水) 21:09:24.52
300余を討ち取ったとする伊達家治の戦況記述内容は会津陣物語の戦況記述を盗用しただけであり
一次史料にはそんな戦いを証明できるものは何もないのが実態である。
会津陣物語のストーリーをまるで事実のように誤解しがちだが、それ自体が創作であり
それをパクって幻の戦いを伊達勝利に歪曲した伊達側記述はさらに失笑である。
中島宛て政宗書状は原本が現存する
だから何とは便利な言葉だな
だからなんなの?なにを主張したいの?
>>968 一次史料に証明するものはない
と嘘を言うので挙げたんだけど、
反論できるならどうぞ。
973 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/08(金) 07:07:02.79
実際ないじゃん
中島の書状にも存在を裏付けるような内容は無い
会津陣物語のパクリ戦況記述が一次史料なのかね?
974 :
:2011/04/08(金) 10:06:48.47
三百余人を討ち取ったという政宗の書状は一次史料。
それが会津陣物語のパクりなら書状は偽文書になるが。
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/08(金) 12:25:02.87
政宗の三百討ち取りの話自体が景気づけの架空話で士気を鼓舞しただけであり
それを証明するものは唯一、会津陣物語の戦況記述からの盗用。
その際に活躍したとする茂庭らは報告も感状も加増も無い。
二番隊の片倉もその戦を全く見てない
書状が先で会津陣物語はあと。どうしてそこが順番逆になるのかな。
「会津陣物語のパクリ」をしつこく繰り返しているけど、まずは一次史料
のみで語ってはどうか。
君も言うように、いわゆる松川の合戦は結局は伊達の負け戦。
加増していないからといって10月の戦いで伊達が勝っていないという
ことにはならない。
片倉が見ていないから野戦もなかったということにもならない。
片倉の書状が伊達の勝利を偽造するために治家記録で創作されたなら、
「自分は参加してないけど」という部分はいらないし、実際に戦に参加
したという茂庭らの書状を偽作すればいい。
中島宛ての書状を見る限り、伊達が福島城周辺で軍事的優位に立ち、村々を
占拠したのは確実。その一次史料の内容を批判するなら、まずはその内容の
矛盾を突ける一次史料を示さなければいけないね。
誰も偽作したなどと言ってないのに頭は大丈夫か?
戦況記述が伊達の白石城攻め同様に会津陣物語がソースであり
該当戦闘の内容が創作妄想に拠るものだと指摘したのに順番が逆とか意味不明
何度となく会話が成立してない場面がこれまでも多々あった。
明らかにお前日本人じゃないな。
もし違うと言うなら伊達治家記録に書かれている戦況記述はどこから持ってきたのか一次史料を要求する。
978 :
:2011/04/08(金) 21:29:19.21
政宗の書状の話をしているんだけど。
二次以下の史料にこだわるなあ。
979 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/08(金) 22:22:42.42
結局、伊達治家記録の記述が会津陣物語のパクリだと認めざるおえないみたいね。。
実際、白石城攻めも実際は上杉側による密約譲渡だし
上杉の上山城攻めも一次史料では全く証明できない捏造話だしな。
980 :
:2011/04/09(土) 00:55:12.91
まさか中島宛政宗書状が治家記録にしか
ないと思ってるのかな。サブ君は
>>980 論破されたから反論できずに
また意味不明な解釈を開始www
誰もそんなこと言ってねえよバーカ
発言まで捏造連発するなんてやっぱり伊達厨は日本人じゃねぇな。
982 :
:2011/04/09(土) 08:23:44.90
また発狂か。どうして冷静になれないのかな。
sub認定されて相手にしてもらえないというのは
こういうところに理由があると気づくべきだよ。
政宗の書状にある内容を一次史料で否定できるのか
との問いにひたすら論点をずらして治家記録は会津
陣物語のパクリだと繰り返すだけのsub。「伊達厨は
すぐ東国太平記を持ち出す」と嘲笑していたのに同じ
ことをしている。
983 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/09(土) 15:38:29.64
※政宗は崖のような場所で
およそ人間とは思えない斜め立ちで
討ち取った300余の首をチェックしたが武功をあげた茂庭や屋代らを冷遇しまくり一切の感状も出さず
なぜか該当合戦を見てないと言うまったく活躍しなかった片倉のみ加増した。
984 :
:2011/04/09(土) 17:09:36.84
そうか、subによると白石城は戦ではなく、上杉か
だましとったものだったな。
さんざん論破されたはずだが。
985 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/09(土) 19:25:10.77
神保味方撃ちの薩摩側史料も
月夜畑の戦いの相馬側史料も
最上も佐竹も南部も安東も上杉も結城も対立する史料は全部否定して歩くアホ伊達厨。
伊達に都合が悪い史料はぜんぶ怪しいと却下しまくる基地害脳伊達厨w
蘆名に勝ってた(失笑)
佐竹に勝ってた(失笑)
最上に勝ってた(失笑)
蒲生に勝ってた(失笑)
上杉に勝ってた(失笑)
南部に勝ってた(失笑)
真田に勝ってた(失笑)
神保に勝った(事実www)
>>983 一次史料による批判が一つもないな。
軍記物の中身を批判したところで、例えば首実検の場所が信夫山でなかったかも
しれないというだけ。上杉家の三公外史が分けて記述しているように信夫山と羽
黒山は別物であるかもしれない。
白石城密約説というトンデモ論を持ち出した際は、革籠原決戦を信じていたりと
信じがたい上杉音痴ぶりを発揮していた。上杉厨でないのにそれを装うなら、も
う少し勉強してほしい。サブ君を上杉厨だと勘違いする人間が多く迷惑だ。
988 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/09(土) 23:57:09.02
このスレのどこに一次資料が
989 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/10(日) 05:21:25.84
>>985 伊達厨ほどのキチガイはなかなかいないよな。
やつらにはハンナラ小田原仙台層化連合観光史観って言う
仙台教育機関からの研究資金援助による歴史歪曲が当たり前だから
上杉や輝宗の米沢を憎み敵視して仙台藩祖政宗マンセーで完全に宗教的思想統一されてるからな。
990 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/10(日) 06:31:35.09
>>985 同じ島津の記述でも真田の戦いぶりを聞いて真田は日本一の兵と賞賛された部分だけは無批判に事実認定した挙げ句に
戦闘中に真田が片倉に我が子を託せるのは伊達しかいないと言ったと言う部分をつなぎ合わせる離れ業をするのが糞伊達脳。
そもそも真田が我が子を伊達に預けたとする話自体が何ら根拠のない捏造だし。
991 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/10(日) 10:47:05.02
>>信夫山と羽黒山は別物であるかもしれない。
いやいやw伊達に不利だからって三公外史にチラッ触れているだけの内容で、他史料にも一切出てこない話を根拠にされてもwww
しかも古松川の祓川を黙殺した上で上杉側の地理上の不明を批判してるくせに
伊達側の史料にも載ってすらいない信夫山と羽黒山は別物説だけは正しいとか恣意的にも程が有るわwもうマジキチすぎwww
「であるかもしれない」と言っている。発狂ぶりがすごいね。
サブはこれがなければもう少しまともなのだけど。
後世の編纂物である三公外史や治家記録の内容が否定できても、一次
史料に尾ひれのついた部分にすぎないから、政宗書状の内容を否定す
ることにはなりませんよ。
革籠原決戦の構想は否定できないな。
実際、神指城築城作業をしていた2万人に築城を6/10に中止させて
革籠原の防塁と陣地作業に転用したとされる。
(6月16日に家康、会津攻めに向けて大坂城より出陣。7月25日家康が小山評定を開く)
8/12の岩井あて直江書状でも宇都宮で変化があればすぎ白河へ行く」と伝えており
大阪山西の西原には本庄氏が4000で防備に着任している。
また「継志集」に9/14と15日に白河の関山城の付近において合戦があり(9/15関が原本戦)
東軍伊王野勢が39人、上杉勢が173人亡くなったと報告されている。
家康はこれを受けて背後の黒羽城と大田原城へ後詰めの指示を出している。
また、すでに家康側から上杉へ講和の申し入れをしていたのを知ってか知らずか
それとも戦闘継続を望みウソ報告を続ける政宗を欺き続ける為か
「大嶋文書」慶長6年5/11に今度関山か白河で作戦があるかも知れない」
と黒羽城の岡部長盛が東軍の那須氏配下の大嶋源六に宛てている。
ここから関山&白河を軸に革籠原決戦計画が立てられ
東軍側の最前線が芦野城&伊王野城であり、後詰めが大田原城や黒羽城であるのは明らか。
横田大学が以前からずっと上杉家臣とするのは上杉家記が記す上山城敗戦記や最上合戦記で
後陣を率いて高松・長清水辺へ進軍してたら川口村で隠れていた
最上軍に敗れたエピソードで有名な横田式部少輔旨俊と誤解してると思われる。
この上山での敗報を聞き長谷堂から上泉泰綱が救援に来て戦死したとも書くが
泰綱の戦死は10月朔日でデタラメであり、
敗北したはずの横田式部も敗北の責で降格もしてない。
完全に講談話で上山での上杉の敗走を証明するものは何もないのが実態である。
ここのように敗北してないのに敗北と隠蔽する裏に
実は最上と上杉の山形を前にした2週間で3回しか攻撃していない長谷堂の滞陣も
最上と上杉の講和談判の交渉中だった事実を消すための捏造があると思われる。
横田大学について
慶長三年ニ横田大学と申者 相馬商買之塩荷伊達信夫へ運送之為玉野山中ニ新田を取立
相馬参候塩荷之馬次ニ仕立て 其後福島へ奉行平林蔵人彼地見分仕
と書かれており相馬側で運送の利便を図るために横田大学、
その後に福島側から平林と言う奉行が来たことが記されている。
横田大学が相馬&佐竹から上杉へ派遣された客将であるのは明らか。
伊達史料の戦果報告はデタラメばっかり
「仙台領の戦国誌」は葛西大崎一揆についてしか書かれてないはずだが。
たしか政宗が甘言で大崎葛西一揆の首謀者達を集めて須江山で謀殺した数は葛西側資料には70以上はあり、
秀次の命でやむを得ず殺したと知る成実記は【ウソ】を書いてるし、伊達秘鑑における二十数名を殺したってのも【ウソ】だとしている。
「葛西氏と山内首藤一族」は伊達家治記録をまったくの【デタラメ】と指摘し
やはり大崎葛西一揆鎮圧で政宗は甘言で深谷に呼び出して集合させた武士500農民2000を虐殺したとしてる。
また関ヶ原に絡んだ記述として和賀一揆を支援した政宗に対して反撃した南部側に花巻で敗れた伊達軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
南部軍は4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破し26日には岩崎城を陥落させ、
伊達軍は岩崎が火の海になる中を逃げ惑い伊達領へ壊走した。
その時たまたま家康の鷹匠が現地にいたので南部利直はさっそく井伊直政宛に書状を書いてる。
政宗は家康に対しては、すべて和賀のせいにして無理やり自刃させ、その首を利直へ贈り、あなたの賊は政宗が成敗したから今回の事は水に流して欲しいと哀願。
さらに今井宗薫へ宛て百万石はムリでもせめて堪忍分として十万石でも二十万石でもどっちでもいいから加増させてもらいたいと哀願したと書かれている
伊達家治記録では存在を抹消している岩崎城攻撃は3月から約一ヶ月間。
南部の花巻城でのゴタゴタは政宗が山形に兵を送った頃で、花巻城防衛に南部が成功した後は、関ヶ原終了で南部側も様子見していた。
下手に伊達と大規模紛争したらまかり間違って上杉側と思われるような誤解が怖かったからだ。
政宗から山形へ兵をもらい助けてもらったはずの最上側もさっそく家康に政宗の南部侵攻の暴挙を報告してる。
そのうち雪が降ってきたので岩崎城を放置。
すると政宗が岩崎城の兵力と物資を増強。
3月には南部は伊達攻撃について家康から許可をもらったのだろう。
つまり家康は伊達を東軍とは到底認識しておらず見捨てたにも等しい。
だいたい落城させておきながら家臣への恩賞に関わる大切な討ち取り人数が【数百人】とか曖昧過ぎだろw
奥羽永慶ですら白石城での討ち取り人数はまったく【明記されてすらいない】わけだが
まぁ捏造報告だから曖昧なんだろうが。 商人や鷹匠らによる家康の監視があるから、
最初から密約に基づいて登坂が降伏するわけにはいかないから1日だけちょっと抵抗してみせた自演だろうが。
我等手前抱置候←降将に対する扱いではないな。やはり示し合わせた談合の証拠。
そして誰も見てない刈田郡奥地の湯原城では家康の監視もないので、
白石城のような戦うフリもせずに安心して無血開城して伊達にプレゼントしました。
政宗は秀宗と前年12月に生まれたばかりの赤子の忠宗と愛姫を大坂城で人質に取られ到底、東軍に付く気持ちはなく
それを知る家康は政宗家老衆に百万石の加増を餌に買収して政宗の牽制に使ったのである。
政宗の南部領花巻城攻撃では家康のスパイの鷹商にいち早く知られたと言う。
白石城では狂言の城攻めでうまく誤魔化したと言うことだろう。
白石城主は、甘粕備後が留守で登坂式部勝乃兄弟が城を守っていた。城中には大崎三次、葛西長三郎、…旧葛西
大崎の名のある武士団がかなり籠城していた。伊達家の厳しい残党刈りを逃れ、上杉氏傘下に入ることで再起を期した
ものだろう。」
「激戦の末、白石城兵七百余人が討ち取られ、大崎三次らは戦死し、城は本丸をのこすばかりで、落城必死の形勢と
なった。そのため城代の登坂兄弟は、伊達家武将の石川昭光、片倉景綱を通じ、降参の助命を申し出た。」
「石川、片倉の両将はこれを許し、誓詞を書き送り、開城の運びとなった」
が、籠城軍の中に鹿子田右衛門という過激武士がいて、降伏絶対反対、1人になっても戦うと宣言し、手の者を連れて
城外へ打って出てしまったのである。助命誓詞まで受けた城内の者は、鹿子田のルール違反に手を焼き、
仕方なく城内から鹿子田らを狙って鉄砲を打ち掛け、味方討ちの形にして全員殺してしまった。」
「味方撃ちの中で果てた右衛門の最後は哀れであるが、ここにも歴史の因果がにじみ出ている」
葛西大崎の研究家の紫桃氏によれば、「大崎三次」とは大崎三次義興、「葛西長三郎」とは葛西三郎清高。
前者は葛西十七代太守晴信の子、後者は大崎十三代太守義隆の子だとする家譜があると述べている。
【謎の人物である大崎三次&葛西長三郎について】
家系図や家臣団の中に名前が見つからない。 あくまでも自称で、どこの馬の骨がもわからない人物ではないのかね?
だいたいシナリオ通りに開城する約束を実行しようとして、土壇場で聞かされてなかった反対意見の者達を討つあたりは
やはり密約の存在を証明してるようなもんだな。例えば相馬の記録の補填になる奥相茶話記みたいに
田村旧臣の石川弾正【伊達家治記録では月夜畑の戦いを抹消してる都合上すでに死亡してると捏造】の肝煎りで景勝に紹介され、
相馬旧臣の泉左京胤政が700人扶持で上杉に召し抱えられ、また瀧迫日向がそれに合流。
直江騎下で最上侵攻に相馬衆119人で参加し、相馬流の軍配で功を立て戦後には泉に越後6万石、日向には1万石の内儀の約束があった。
このようなちゃんとした証拠くらいあるのかね?
三陸河北新報社の石巻かほく昭和60年8/20〜12/1連載小説の「危うし独眼竜」に触れているどころかまるまる書いてある。
さてその内容だが、三光録にある白石軍記(白石城攻略)と山中記(白石城攻略後日談で石川義宗の手柄話)と言う軍記を元ネタ種本にした片倉代々記に書いてある内容そのものだ。700人討ち取りのガセもこれ。
もちろん史実にはまったく認定されない妄想話で石川義宗などはとっくに死んだはずの
中野常陸介を討伐して政宗から褒められたりする笑える話が書かれている。
無論、大崎三次や葛西長三郎が当主の息子だとは一切書いてない。
それどころか鹿子田右衛門が二本松畠山義継を唆して輝宗を拉致させた張本人の息子だと書くムリヤリ感があり笑えるw実に講談風だ。
さて葛西氏の系譜は独自の口伝や相伝で30以上あるわけだ。
しかも2つのまったく別系統の系譜がありそれぞれが葛西当主だと主張してる。
>>紫桃氏は再起を期したものであろう、〜とする家譜がある。
さすがに紫桃氏も曖昧さのある書き方をしていて苦笑する。
さて実際に葛西再興運動後に葛西晴信は加賀へ行き慶長2年に死去。さすがに再興の望みを持ってれば白石城に篭るような変な真似はできん。
左沼城撫で切りで百姓2000人武士500と桃生郡江糠塚山の一揆物頭衆騙し討ちで伊達に殺された加西氏は完全に息の根を止められたしな。
大崎義隆は直江の2700石客将だが息子は義満・義道・満隆が確実に存在していたとされる。
大崎三次&葛西長三郎に至っては口伝レベルの史実かの確認がとれない実に怪しい話である。
北越軍記では甘粕が会津の妻の訃報で留守、また白石落城では鹿子田日向守171人討ち死にと記すね。もちろんこれも信用性ゼロの軍記だ。
ちなみに福島県史では甘粕が白河の軍議に参加していて留守と断定してる。
さて白石軍記では米沢から白石までの七ケ宿街道を伊達側の野伏達が支配し白石城から米沢へ向かおうとする鹿子田を襲撃したりしたと書く。
さらに茂庭の足軽隊200にその野伏ら(九代政宗時代からの恩を感じていたらしい)と湯原城守備を担った住民達(これまた政宗時代からの恩〜)が味方を申し入れ新宿攻略に活躍とのこと。
(新宿城主大畠吉兵衛に人質を取られていた湯原の18人も人質を犠牲にしてまで)
さて北越軍談→湯原城で政宗は甘粕備後や岩井備中の前に敗れ渡瀬へ逃走。
政宗→政景9/26「急度申遣候。昨日二十五日湯原へ足軽動申付、彼城即手に入候、内々撫切に可申付候処、普代の筋を以、頻に詫言候条、身命ばかり相助け引出候、新宿峠まで打かけ、悉く郷村放火仕り」
この政宗の文書でわかるのは、湯原城で撫で切りしようとしたが、住人達が詫びをいれたから助けたのち、
新宿城攻めに失敗し村に火を付け帰ったと言うこと。 さらに置賜郡史「米沢地名選」には
遠藤盛利の守る新宿城攻撃で大敗した片倉が湯原まで敗走したと言う。
白石軍記などは七ケ宿村の者達が口伝を書いて藩に提出したそうな。
明らかに七ケ村の者達が自分を擁護して伊達の恩とか主張してるし
片倉代々記が新宿城で大敗した話を黙殺してるのがわかる。
鹿子田日向が畠山家老の子などと言うのは上杉側資料にはないな。
この白石城攻めは白石軍記と北越軍記に記されており双方ともに信憑性ゼロだ。
ここではっきりわかるのは、甘粕が伊達の軍事的圧迫を気にせず白河決戦に向け白石城兵を連れて出撃してること。
七ケ宿街道で悠長に野伏が街道をふさいだりなんてことは伊達に対して貢献したとする嘘だろう。
七ケ宿側がいう新宿城主大畠吉兵衛は会津に帰ったのか?そこには遠藤盛利がいることになってるが遠藤は地元住人なのだろうか。
それとも七ケ村の住人達が大畠の元にいる人質を犠牲にしてまで伊達に尽くしたと主張するのは仙台に対する嘘か?
ただ政宗書状には湯原城に上杉兵がいなかったのがわかる。よって地元住人達が降伏し円滑に受け渡しが可能だった。
つまり刈田郡は伊達との密約で上杉が譲渡する予定だった。 白石城で1日抵抗してみせたのも家康の監視を誤魔化すため。
より奥域の西部にある湯原城では家康の目を気にする必要はなく上杉兵は伊達に渡すために撤退した。
新宿城にいた住人遠藤盛利は湯原の住人とは対立してきてたのか?降伏を潔しとせず抵抗したので片倉が攻め立てたが大敗した。
もちろん上杉の援軍は来ない。北越軍記もデタラメならもちろん片倉代々記も片倉マンセーのデタラメ書。
双方ともに徳川に対する密約の存在を隠蔽する為にもっともらしく捏造軍記を作ったわけだ。
政宗の妄想からくる誰も見ていない
300余を討ち取ったとする
デタラメ戦の存在を思わせるような
傍証は何ひとつ無く
とつぜんパッと現れた300余の戦果は
政宗の妄想でしかないのは明らか。
そもそも一番隊茂庭 三番隊屋代はどっかで油を売ってたようで何をやってたか不明。
二番隊片倉はそんな戦は見てないと書いている。
戦況説明は会津陣物語の盗用である以上は、その戦が無かったのは明白。
だいたい1/10の本庄軍の戦力でまともに正面から戦うなんてのが理解し難いし
その戦いで300余も討ち取ったら、戦傷者などはその4割前後はいるはずで
とてもじゃないが磨耗疲弊した戦力では伊達郡・信夫郡の広範囲を守備することは不可能。
伊達治家記録でも、なんで政宗が撤退したかの最大の疑問にはお茶を濁すような記述で逃げている。
さらに政宗に協力して蜂起した寂光寺は全焼し伊達軍と一緒に仙台に逃亡している動かしがたい事実も存在している。
う〜ん論理的にみて政宗の書状は不審でおかしいんだよね。
まぁ本庄が福島城へ伊達を釣り込むために布陣したんだろうけど
大した被害も出さずに福島城へ撤退に成功したために
伊達軍が福島城で政宗陪臣の2人が討ち死にするほどな大敗北と
背後からの挟撃で政宗本陣まで炎上して
政宗自身も単騎で逃げたから大将が行方不明になった混乱で
伊達全軍が高速の早さで敗走したんだろうね。
全く一次史料をもとに語らず、妄想ばかり
1000 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/10(日) 13:21:45.62
伊達厨大敗
論破不能w
1001 :
1001:
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