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人間七七四年:
政宗が輝宗から家督を譲られたころ
奥羽一の実力で伊達勢力圏150万石にして直接支配75万石→最終政宗62万石
以下は輝宗の支配力を示す事件
1577年輝宗が宇多黒木城(中村城すぐ北)の藤田兄弟を寝返らせて進出し
杉目に伊達の陣を布陣させ金山・丸森城(稙宗隠居城)を攻めた。
1581年の相馬進攻での伊達軍(亘理・名取・宮城・二本松畠山・大内・須賀川二階堂・石川)との小深田の激戦
(相馬側300騎だったが狭い谷という地の利で防戦し、血気の逸った初陣の政宗が片倉を身代わりにして敗走)
1582年の相馬の小斎城の佐藤宮内が援軍の将を斬って伊達に降伏。
小斎城には伊達軍が、城の周囲には伊達騎下の二本松畠山・大内備前親子が布陣し急遽、相馬が冥加山に砦を築く。
1583年3月に氏照から輝宗へ「奥州の伊達と関東の北条はさらに入魂すべき」と東日本を二分して統治しようとの手紙。
6月輝宗から義重へ「奥羽両州諸家のほとんどが私に申し合わせてご挨拶し織田と入魂するから奥羽にちょっかい出すな」
輝宗から岩城へ「相馬攻め出馬よろしく。織田軍がもし関東へ乱入するようなことあらば、葦名ら奥州諸家は伊達に属して戦う」
1584年5月、田村清顕(母が稙宗の娘・妻が相馬盛胤・政宗正室の愛姫は一人娘)が
相馬が譲歩し金山・丸森城を伊達に譲渡しての和睦。これを機に10月輝宗は政宗に家督を譲渡(葦名盛隆が家臣に暗殺される)
このようにほとんどの諸将は輝宗の指示で動くまでになっており
そのほかに黒川氏や最上氏なども傘下におさめている。
大崎氏も伊達に頭を下げて兵を借りる始末だし、葛西も隷属で、すでに国分、留守といった輝宗弟達も支配下にあり石巻周辺まで直接支配。
上杉との新発田を巡る争いに敗れ失意のまま死んだ葦名盛氏死後のこれが所謂、輝宗75万石、支配圏150万石と号される云われである。
寒河江氏とか毛利系も伊達に従属してたろ。義守も義光との争いで輝宗が上山城主と一緒に干渉されたろ
義姫が輝宗に詰問したおかげなくせに。
最上の乱において里見氏の流れを汲むと言う
最上八楯の旗頭である天童氏なんかも武藤義氏らと伊達の後ろ盾を得て
最上を圧迫してるな。そこでスーパーヒーロー白鳥長久が大活躍。
佐竹に奥羽に介入すんなって手紙を書き送った輝宗の対織田構想の伊達の伊達勢力圏150万石を崩壊させ、父殺しを懲らしめるために佐竹にまで介入され
最後は要害制度と言う封権制度で伊達を初代政宗時代まで戻したアホぶりをどう評価すればw
しかも幕府にイジメ折檻された一番悲惨な借金王仙台藩祖だし。最上のように改易されてた方がマシなくらいにw
綱吉時代に自ら改易申請しても許されず生殺しw
輝宗のころは「奥羽で一致団結して上方と戦おうぜ!」と思っていた
たしか本能寺の変の寸前くらいの時期に岩城親隆(実兄)に書いた手紙の事だと思う。
つかこの時期の輝宗って最上はもちろん大崎・葛西も勢力圏ブロックに入れてるからねぇ。
二階堂出身の葦名盛隆&白川を葦名から奪った佐竹の連合軍が田村氏と二階堂氏を巡り須賀川+郡山エリアでひたすら争って疲弊してる感じ。
そんで葦名盛隆(輝宗の姉が母で輝宗の妹を正室にしてる)と輝宗の関係を見ればわかるが従属関係なんよ。
さらに輝宗は相馬氏と和解して城を返却してもらい息子政宗には田村氏から嫁をもらってる。
もう伊達は最強最大勢力なんであながち冗談でもない。
あとは奥州探題として田村と葦名の和解斡旋をするだけで奥羽秩序は完成しちゃうくらい。
伊達って幕府内地位も高く実力も兼ね備えていた巨大勢力で
奥羽で唯一、米沢移転を期に晴宗の改革による家臣統制の中央集権化もできていた奥羽地区の秀吉ポジションだったんだよ。
しかも輝宗は温和かつ篤実で周囲から信用されてもいた。さらに輝宗から政宗に家督移譲も安定してたし
葦名と田村の和睦斡旋中だったから平和な奥羽の完成寸前だった。
稙宗の養子政策に反発した大崎も葛西も晴宗派勝組だった延長から親輝宗政権で想像以上に強固な結びつきだったんだよ。
政宗家督相続時の南陸奥の情勢
伊達 75万石+田村 9万石
相馬 6万石 (田村・岩城・佐竹の仲介で丸森城・金山城を伊達に返還し和議した結果、親政宗派に転向)
岩城 11万5千石(政宗の父の輝宗の実兄で親伊達派)
大内 3万5千石(弱小のザコ)
畠山 3万5千石(弱小のザコ)
葦名 24万石(上杉と長期抗争中で疲弊で仙道(福島県中通り)に興味なし)
二階堂 5万石(弱小のザコ)
石川 3万石(弱小のザコ)
佐竹 11万石(北条戦に全力を挙げてる最中)