たしか義定が死去するや、稙宗の妹である義定未亡人と
それに付いてきていた伊達家臣団が最上の采配をしてて
稙宗が最上支援のために葦名らを引き連れて山形城から出撃して
天童氏の諸城を攻めて首級を挙げてるね。
さらに永正18年7月には、稙宗は葛西、相馬、岩城、葦名、宮城、国分、最上らを引き連れて
寒河江攻めてるね。
そんで中野義清の次男の義守がまだ2歳なのに
強引に最上の跡継ぎに据えたね。
天文5年には大崎義直が稙宗のところに赴いて家中の紛争解決を嘆願したから
義直の養子に自分の子を入嗣させる条件で出兵して速攻で解決したりして
最上宗家の大崎の支配を確立してるね。
そんで稙宗の妹が教育した義守が15歳で元服。
別に問題も起きずに家督決定したんでないのかねぇ。
59 :人間七七四年:2010/03/18(木) 19:47:17 ID:F+ZQ3fFB
家督総督時に、義守に伊達は味方していた。
上山と協力して襲いかかったが、里見を内応させ上山城を攻略。
これらのことから、従属より同盟や親戚づきあいをしていたと判断しました。
61 :人間七七四年:2010/03/19(金) 02:14:24 ID:d98HpCX5
>>59 その出来事はかなり昔の話じゃねーかよ。
しかもその時の輝宗の最上治安維持軍的な出動であり
輝宗自体まったく乗り気じゃなかった。
天正5年に家康の使者の鷹師が伊達の遠藤基信と会談した際に
伊達領内と最上領内を書状を添えて滞りなく往還させたとしており
明らかに最上領が伊達の自由にできた状況である。
この時に輝宗が鷹師を義光にも会わせてる。
明らかに外交において伊達を窓口にしている。
家康も最上からの書について伊達に感謝してる。
村山郡での戦いにおいての義光は
天童や東根攻めで、わざわざ留守政景に断りをいれている。
政宗の二本松攻めに最上軍を従わせている。
大宝寺の嘆願により政宗が奥羽の無事の指導者として、
上から庄内最上の和睦の指示を出している。
天正15年の政宗は義光を表裏があると謀反を警戒している。
義光は政宗が葦名の後継争いで佐竹に政治的敗北をしたのをみた辺りから
伊達にまったく従わない傾向が露骨になってきた。
10月にはとうとう義光が野心を露にして
鮎貝城主の鮎貝宗信を政宗から背かせておいて、
自ら庄内へ侵攻し伊達から離脱した。