[過大評価]伊達政宗再評価スレ[DQN眼竜]

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33人間七七四年
藤木氏によると
国替で政宗は本領でその年の年貢を収めることも許されぬまま、
一揆のため昨況は三分一と言われた葛西大崎領に移された
政宗は「口惜しき」「知行をすべて秀吉に返上して小姓なみに召し仕われる事より屈辱」
さらに来春は唐入りを命じられ、政宗は「もはや当家は上下てづまり」
さらに出兵では伊達は500の割り当てに対して、雑兵だけで2000余を用意し秀吉への忠誠の証にした。
さらに5月には石田氏が伊達領の戸口調査を終えて「政宗分国中の帳」をまとめた。
これに伴い伊達領では「国替風説」が流れて動揺が領国を震撼させた。
また上方との装備の質的均一化のために伊達は京での市場で調達。
豊臣政権からその援助を受けた最上や南部は堺で、一方の伊達だけは京都市場で、
しかも豊臣政権から援助として南部が兵庫に「御扶持方」、相馬なども「御扶持方一両月分」を与えられたが伊達は冷遇されたようだ。
また名護屋陣では「このたびも、蒲生殿より様々の表裏」と政宗は嘆息するなどイジメを受けていたようだ。
南部信直は「畿内ではどんな小物でも主に奉公をよくこなせば、すぐ身分を引き上げられ侍にしてくれるようで、それを見た者たちも我も劣らないように一層奉公した」ように実力本位。
しかし奥羽では「名字をチェックし縁で上に」と言う古い格式と伝統に縛られたもので「古本」「すたり物」と自重した。
邪魔な政宗は奥羽で一番最初に渡海させられた。
34人間七七四年:2009/11/22(日) 08:33:14 ID:6mDjsv5i
左遷の地たるド田舎の岩出山への移封費用も膨大な上に収入源を2年に渡り途絶えさせて財政破綻に追い詰めていた伊達に対して、国替風説は豊臣政権が故意に流して政宗を試していたと言われる。
この国替風説に恐れおののいた政宗は朝鮮出兵での割り当て兵力を大きく上回る兵を動員して肥前名護屋にやってきて
秀吉への媚び諂いを必死に示したのであった。
しかし蒲生らによってイジメられ惨めになりながら他家に劣らない忠義を示そうとした。
まさに南部信直が書いたように、小物の政宗は必死に仕えて、秀吉から上方の侍の待遇を得ようと卑屈になって秀吉の機嫌をとっていた。
これに失望した無能成実は出奔し相模国でたかが100人頭の仕事レベルの評価しかされなかったがとにかく家康から職にありつけた。
そして成実の家族は政宗に殺されたのであった。
35人間七七四年:2009/11/23(月) 12:34:19 ID:jhImjQOs
>>33
小姓より屈辱
たしかに二年に渡り無収入に近い状態にされて、世間にも家臣にも恥をかき、
しかも恥ゆえの自害も秀吉によって禁止させられて助命をうけると言う生き恥を晒す刑罰だもんなあ。
36人間七七四年:2009/11/25(水) 13:55:54 ID:hvjn8d5T
ふむ
秀吉の会津進駐のため小田原から会津までの横三間の海道と御座所の普請という大土木工事が命じられ
伊達は白河から会津までの奥州側全区間を割り当てられたほどの奴隷使役で膨大な大金の出費をさせられたのに悲惨な待遇が継続してたなんてw
いまで言えば国家事業で高速道路を作らされたようなもんだし。