岩崎城攻撃は3月から約一ヶ月間。南部の花巻城でのゴタゴタは政宗が山形に兵を送った頃で、
花巻城防衛に南部が成功した後は、関ヶ原終了で南部側も様子見していた。
下手に伊達と大規模紛争したらまかり間違って上杉側と思われるような誤解が怖かったからだ。
政宗から山形へ兵をもらい助けてもらったはずの最上側もさっそく家康に政宗の南部侵攻の暴挙を報告してる。
そのうち雪が降ってきたので岩崎城を放置。すると政宗が岩崎城の兵力と物資を増強。
3月には南部は伊達攻撃について家康から許可をもらったのだろう。
つまり家康は伊達を東軍とは到底認識しておらず見捨てたにも等しい。
伊達厨って伊達が東軍だと固く信じたいみたいだけど実際は単なる蝙蝠で東西両陣営に通じてたから
両者から不信感を買ってただけなんだよね。
おまけに東軍最上を窮地に追いやり東軍南部侵攻までする馬鹿ぶり。
その南部侵攻を最上から家康にチクられるほど関が原後の伊達の最上救援の豹変ぶりに叔父さん怒ってた。
家康も和賀を連れて来いって政宗を恫喝してるしな。
さらに大坂冬の陣が起きると踏み絵とばかりに徳川にとっていまだ信用できない
旧関が原での敵である伊達政宗、上杉景勝、佐竹義宣に
10/15将軍徳川秀忠は大坂攻撃の先発を命じるわけよw 上杉と佐竹と同列視されてるのよ伊達ってw
簡単な話、伊達も関が原負け組仲間なんだよ。
金山利益で財力のある大久保長安・忠輝・政宗による謀反の風聞を聞いた細川忠興らは国許に
「大坂の次は奥州出陣だぜ!」と出陣準備を命じた。
仙台では秀忠を迎え撃つシュミレーションを何回やっても結果は伊達の大敗と松島での政宗の切腹のみ。
絶望した政宗は忠輝公と大久保氏を売りとばし、すぐさま高速の速さで家康公の元へ向かい土下座したので許された。
その後、秀忠公の政宗征伐の噂がひと段落したあとに突然、秀忠公が忠輝公を改易した時の理由は
「将軍の旗本を殺したこと」 「夏の陣で戦いにおいて武門にあるまじき卑怯な行いで追撃しなかったこと」
という利益に狂い嫉妬に狂った義父の政宗の罪をなぜか婿の忠輝がすべてかぶったのでした。
明らかに政宗が信用を得るために幕府に対して自分への非難を
忠輝に責任転嫁して讒言しまくってるのが明白ですwありがとうございました。
その後、失脚した大久保の一族と縁を切って、大久保の政敵だった本多正純に急接近する政宗。
正純に頻繁に面談した政宗は毎回、執拗に百万石の約束をなんとか守って欲しいと土下座を繰り返す。
すると政宗と親しい関係と疑われた正純は秀忠公の激怒を買い見事に最上を巻き添えにして改易。
この時期、例えば上杉家などは
慶長14年には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど優遇されていた。
しかしヘタレ政宗は・・・
>>824のように
卑屈で卑怯な政宗を完全に蔑視してた家康によって
政宗イジメが繰り返し行われ虐げられていた。
プライドが無い譲歩と土下座外交を繰り返した日本と強圧的な中国
どこか政宗が弱腰外交の日本そのもののような感じがしてきますね。