[過大評価]伊達政宗再評価スレ[DQN眼竜]

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65人間七七四年
戦国最強の土下座王政宗公は何回土下座したかわからない異能力者なのだ。
政宗って小田原に参陣して命乞いする時、会津から直接に下野に出ようとして南下したけど、
上杉と佐竹に後援された国人の反乱が酷くて
このまま南下すると殺されるってビビッて一度黒川城に引き返してから、上杉に泣いて謝罪して越後路を借りて小田原参陣したんだよなw
あまりにも武人としてみっとも無さ過ぎてワロタ
政宗は須賀川〜白河への道を恐れて、南会津から下野国に出て参陣しようと大内まで行ったけど怖くなって黒川城へ逃げ帰った。
大内宿からは2つの道が考えられる。
1、佐竹に支援され反乱が激しい須賀川を迂回する為に大内宿から右折して白河へ出る→白河結城氏の動きが怪しい。
2、大内宿から南会津を突っ切り日光に出る→上杉が後援する南会津の国人たちが待っている。
つまり政宗は会津や須賀川や白河の平定に完璧に失敗してるわけだ。
街道封鎖で参陣できそうになかったから、伊達存続に危機感持った家臣団が政宗毒殺し弟を擁立して許しを乞おうとしたわけだし。
佐竹や上杉は「それ見たことかw」って、そんな政宗を笑ってたろうね。
しかも転封に反対した家臣団が「転封絶対反対!転封するくらいなら死んだ方がマシ!ということでみんなで
腹を切って抗議することにしたんで政宗様も腹を切りましょう♪」
なんて言われて秀吉の使者に政宗は号泣しながら
「死にたくないから私は転封したいですが、家臣団からこんなこと言われて私にはもう抑えきれません」
と語って「伊達はもうおしまいだ」と声まで出してがっくりしてたとか笑えるwww
それを聞いた秀吉があきれた顔をして、家康も「もう政宗じゃ家臣統御できんみたいだし厄介だから許してあげたら?」
こういうエピが残ってるのがウケるw
宮城県最大の基地害にしてナチのもっとも冷血にして効率的な死刑執行虐殺者
宮城県史上いやこの理不尽さは日本史上!最強の屠殺業者政宗公
政宗が甘言で大崎葛西一揆の首謀者達を集めて須江山で謀殺した数は葛西側資料には70以上はあり、
秀次の命でやむを得ず殺したと知る成実記はウソを書いてるし、伊達秘鑑における二十数名を殺したってのもウソだとしている。
葛西氏と山内首藤一族は
やはり大崎葛西一揆鎮圧で政宗は甘言で深谷に呼び出して集合させた武士500農民2000を虐殺したとしてる。
左沼城撫で切りで百姓2000人武士500と桃生郡江糠塚山の一揆物頭衆騙し討ちで伊達に殺された加西氏は完全に息の根を止められたしな。
岩出山転封の時、その年の米沢などの伊達領での年貢収入を持っていく事を禁止され
しかも大崎葛西の乱の荒廃で翌年の年貢は1/3しかなかったと言うのに
すぐ朝鮮征伐で名護屋行きで多額の費用を浪費。
すると伊達改易の噂が流れてビビる政宗は、京の者たちにいささかも劣らずと対抗意識を燃やして、
石高をはるかに上回る動員で秀吉様に媚びに媚びて忠誠心を示す政宗公は秀吉政権発足時にすでに財政が破綻していた。
藤木氏によると国替で政宗は本領でその年の年貢を収めることも許されぬまま、
一揆のため昨況は三分一と言われた葛西大崎領に移された
政宗は「口惜しき」「知行をすべて秀吉に返上して小姓なみに召し仕われる事より屈辱」
さらに来春は唐入りを命じられ、政宗は「もはや当家は上下てづまり」
さらに出兵では伊達は500の割り当てに対して、雑兵だけで2000余を用意し秀吉への忠誠の証にした。
さらに5月には石田氏が伊達領の戸口調査を終えて「政宗分国中の帳」をまとめた。
これに伴い伊達領では「国替風説」が流れて動揺が領国を震撼させた。
また上方との装備の質的均一化のために伊達は京での市場で調達。
豊臣政権からその援助を受けた最上や南部は堺で、一方の伊達だけは京都市場で、
しかも豊臣政権から援助として南部が兵庫に「御扶持方」、相馬なども「御扶持方一両月分」を与えられたが伊達は冷遇されたようだ。
また名護屋陣では「このたびも、蒲生殿より様々の表裏」と政宗は嘆息するなどイジメを受けていたようだ。
66人間七七四年:2010/10/11(月) 05:09:49 ID:95nDYa4R
邪魔な政宗は奥羽で一番最初に渡海させられた。
左遷の地たるド田舎の岩出山への移封費用も膨大な上に収入源を2年に渡り途絶えさせて財政破綻に追い詰めていた伊達に対して、
国替風説は豊臣政権が故意に流して政宗を試していたと言われる。
この国替風説に恐れおののいた政宗は朝鮮出兵での割り当て兵力を大きく上回る兵を動員して肥前名護屋にやってきて
秀吉への媚び諂いを必死に示したのであった。
しかし蒲生らによってイジメられ惨めになりながら他家に劣らない忠義を示そうとした。
まさに南部信直が書いたように、小物の政宗は必死に仕えて、秀吉から上方の侍の待遇を得ようと卑屈になって秀吉の機嫌をとっていた。
これに失望した無能成実は出奔し相模国でたかが100人頭の仕事レベルの評価しかされなかったがとにかく家康から職にありつけた。
そして成実の家族は政宗に殺されたのであった。
秀吉の会津進駐のため小田原から会津までの横三間の海道と御座所の普請という大土木工事が命じられ
伊達は白河から会津までの奥州側全区間を割り当てられたほどの奴隷使役で膨大な大金の出費をさせられたのに悲惨な待遇が継続してたなんてw
いまで言えば国家事業で高速道路を作らされたようなもんだし。
政宗は小次郎を殺した時に弟の守役栗野藤八郎を殺し損ねた。
秀次の会った時に秀次寵臣に栗野木工之助と言うのがいて驚嘆した。
双方が下手に出ると言う笑える展開だ。栗野はのち政宗が岩出山に帰る時に馬の鞍や帷子を贈り物し
秀次謀反の時はそれが有力な証拠とされ 秀吉の使者は、政宗が土下座して涙ながらに
「もはや天命を尽きた。もう諦めた。」と言ったと報告している。」
政宗コト天道尽果、此事最前ニ言上セズ、運ノ極ミナリト申シ、落涙マデニテ、御請ハ申シ上ゲザル由」
絶望の余り落涙しての政宗三度目の命乞い土下座である。
減転封と政宗の浪費で伊達は財政崩壊してて、豊臣秀次から大金を借金してたんだよな。
金を恵んでもらって秀次の子分になって得意満面になってたら
秀吉の秀次粛正の巻き添えに巻き込まれたバカ政宗。 政宗って政略の才能が致命的に無さ過ぎ。
関ヶ原に絡んだ記述として和賀一揆を支援した政宗に対して反撃した南部側に花巻で敗れた伊達軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
南部軍は4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破し26日には岩崎城を陥落させ、
伊達軍は岩崎が火の海になる中を逃げ惑い伊達領へ壊走した。
その時たまたま家康の鷹匠が現地にいたので南部利直はさっそく井伊直政宛に書状を書いてる。
政宗は家康に対しては、すべて和賀のせいにして無理やり自刃させ、その首を利直へ贈り、あなたの賊は政宗が成敗したから今回の事は水に流して欲しいと哀願。
さらに今井宗薫へ宛て百万石はムリでもせめて堪忍分として十万石でも二十万石でもどっちでもいいから加増させてもらいたいと哀願したと書かれている
67人間七七四年:2010/10/11(月) 05:15:44 ID:95nDYa4R

岩崎城攻撃は3月から約一ヶ月間。南部の花巻城でのゴタゴタは政宗が山形に兵を送った頃で、
花巻城防衛に南部が成功した後は、関ヶ原終了で南部側も様子見していた。
下手に伊達と大規模紛争したらまかり間違って上杉側と思われるような誤解が怖かったからだ。
政宗から山形へ兵をもらい助けてもらったはずの最上側もさっそく家康に政宗の南部侵攻の暴挙を報告してる。
そのうち雪が降ってきたので岩崎城を放置。すると政宗が岩崎城の兵力と物資を増強。
3月には南部は伊達攻撃について家康から許可をもらったのだろう。
つまり家康は伊達を東軍とは到底認識しておらず見捨てたにも等しい。
伊達厨って伊達が東軍だと固く信じたいみたいだけど実際は単なる蝙蝠で東西両陣営に通じてたから
両者から不信感を買ってただけなんだよね。
おまけに東軍最上を窮地に追いやり東軍南部侵攻までする馬鹿ぶり。
その南部侵攻を最上から家康にチクられるほど関が原後の伊達の最上救援の豹変ぶりに叔父さん怒ってた。
家康も和賀を連れて来いって政宗を恫喝してるしな。
さらに大坂冬の陣が起きると踏み絵とばかりに徳川にとっていまだ信用できない
旧関が原での敵である伊達政宗、上杉景勝、佐竹義宣に
10/15将軍徳川秀忠は大坂攻撃の先発を命じるわけよw 上杉と佐竹と同列視されてるのよ伊達ってw
簡単な話、伊達も関が原負け組仲間なんだよ。
金山利益で財力のある大久保長安・忠輝・政宗による謀反の風聞を聞いた細川忠興らは国許に
「大坂の次は奥州出陣だぜ!」と出陣準備を命じた。
仙台では秀忠を迎え撃つシュミレーションを何回やっても結果は伊達の大敗と松島での政宗の切腹のみ。
絶望した政宗は忠輝公と大久保氏を売りとばし、すぐさま高速の速さで家康公の元へ向かい土下座したので許された。
その後、秀忠公の政宗征伐の噂がひと段落したあとに突然、秀忠公が忠輝公を改易した時の理由は
「将軍の旗本を殺したこと」 「夏の陣で戦いにおいて武門にあるまじき卑怯な行いで追撃しなかったこと」
という利益に狂い嫉妬に狂った義父の政宗の罪をなぜか婿の忠輝がすべてかぶったのでした。
明らかに政宗が信用を得るために幕府に対して自分への非難を
忠輝に責任転嫁して讒言しまくってるのが明白ですwありがとうございました。
その後、失脚した大久保の一族と縁を切って、大久保の政敵だった本多正純に急接近する政宗。
正純に頻繁に面談した政宗は毎回、執拗に百万石の約束をなんとか守って欲しいと土下座を繰り返す。
すると政宗と親しい関係と疑われた正純は秀忠公の激怒を買い見事に最上を巻き添えにして改易。

この時期、例えば上杉家などは
慶長14年には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど優遇されていた。
しかしヘタレ政宗は・・・>>824のように
卑屈で卑怯な政宗を完全に蔑視してた家康によって
政宗イジメが繰り返し行われ虐げられていた。

プライドが無い譲歩と土下座外交を繰り返した日本と強圧的な中国
どこか政宗が弱腰外交の日本そのもののような感じがしてきますね。
68人間七七四年:2010/10/11(月) 05:18:46 ID:95nDYa4R
しかしヘタレ政宗は・・・
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1221436716/824
のように
卑屈で卑怯な政宗を完全に蔑視してた家康によって
政宗イジメが繰り返し行われ虐げられていた。

プライドが無い譲歩と土下座外交を繰り返した日本と強圧的な中国
どこか政宗が弱腰外交の日本そのもののような感じがしてきますね。