1 :
暇人 :
2005/08/27(土) 14:00:02 ID:wN4Rrb5w
2 :
名無しさん@3周年 :2005/08/27(土) 14:01:58 ID:lmAIeE+r
どうでもいいじゃないか・・・
3 :
暇人 :2005/08/27(土) 14:02:41 ID:wN4Rrb5w
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122591224/745 前スレッド
>>745 【論点2】「paNNya」を属格と考えることは可能か?
について、「paNNya」を属格と読めず、具格であるとする
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122597067/659 を検証します。
まず根拠の複註箇所(@パーリ本文A本文解釈・解説B Aを更に解説したものを複註)を
検討してみよう。
jAtipaccayA jarAmaraNan ti yA jarAmaraNassa kAraNapariggAhikA paJJA uppajji,
tAya uppajjantiyA cassa abhisamayo paTivedho ahosIti attho.
659訳「『・・・生によって老死あり』という老死の原因を把握する慧が生じた、
その生じている[慧]によって、 彼に現観、すなわち理解がある、という意味である」
これのリンク先、文字化けして確認できないが、
この訳は優れていると思う。
電波一派の訳ではなく専門家の訳の引用ではないだろうか、と思うほどである。
まじめなはなし尊敬する。確かに専門家ぽい。私とは大違い。
4 :
暇人 :2005/08/27(土) 14:03:22 ID:wN4Rrb5w
jAtipaccayA (jAti生/paccayA縁/語尾:奪格〜から→縁りて 縁より) jarAmaraNan(jarA老い/maraNan死/語尾:不明Mの誤記ではない? Mであれば主格) ti(〜と) yA(ところのもの:格は、yaの女性・単数・複数・主格) jarAmaraNassa (語尾:予格〜に、〜ために/属格〜の) kAraNapariggAhikA(kAraNa原因/pariggAhikA 不明/恐らくparigaNhAti捕らえる その過去分詞pariggahita捕らえた 把握した/使役動詞pariggaheti 理解する 探す/形容詞pariggAhaka 把握などと関連あるのだろう が不明。一番近いpariggAhakaの誤記であれば、語尾Aは、奪格の 〜から つまり原因の把握から と訳せる) paJJA(智慧の女性 主格) uppajji,( 生じた→uppajjati起きる 生じるのアオリスト) tAya(taそれ女性・単数 具格それによって、与格(のため)に、奪格から、属格それの) 余談「659のギャグ「相関辞の tad の女性具格形 tayA」はサンスクリットの話。 サンスクリットでは、tayAは女性具格系だけで、女性属格は、tasyAsになる。 電波一派特有の癖-梵語知識でパーリを知ったかする愚昧さが端的に現れている」
5 :
暇人 :2005/08/27(土) 14:03:56 ID:wN4Rrb5w
uppajjantiyA(uppajjati「生じる」の現在分詞uppajj+ant(現在分詞語基)+iyA(女性語尾) なのだが、女性単数語尾iyAは、具格、与格、奪格、属格、処格。 更に現在分詞は、@「〜している」「〜しつつある」という形容詞 A「〜しているもの」という名詞 B連続体的に「〜して」という動詞 という使われ方がある。) 余談659の「これは現在分詞の女性具格形 uppajjantiyA (生じている)」も、もしかす ると梵語系からくる誤解かもしれない。梵語では、具格のみyA語尾となり、 属格はyAs語尾となる。yA語尾から属格ではないと文法的に主張ができるのだが、 パーリでは断言できない。 659訳の「その生じている[慧]によって」は、tAyaを「それの」と属格に 訳しuppajjantiyAを現在分詞の名詞用法「しているもの」と採り、「もの」に「慧」を 読み込み、語尾から具格「よって」と読んでもこの訳になる。むしろ文法的にはこっち ではないか。 引用訳との印象は、この部分の訳についての659の説明では、 @tAyaは、具格で「智慧によって」 AuppajjantiyAも具格だから「生じていることによって」 この部分は、「智慧によって生じることによって」になり、「その生じている[慧]によっ て」とはならない。
6 :
暇人 :2005/08/27(土) 14:05:09 ID:zJ0hkD9L
cassa(不明 人称代名詞はso彼 taMそれ sA彼女 与格・属格の語尾変化assaを しているのだが、方言か? 引用訳は「彼に」と、与格に解釈している) abhisamayo(abhisamayaの男性主格)paTivedho (男性主格 貫通 通達 洞察 理解) ahosIti (ahosi hotiのアオリスト/itiかく とて 〜と)attho(男性主格 義、道理、意味). 私訳(具格)『生に縁りて、老いと死がある』と。老いと死の原因の把握から智慧が生じ、 その生じている智慧によって、かの理解つまり、洞察があるという意味である。 私訳(与格) 『生に縁りて、老いと死がある』と。老いと死の原因の把握から智慧が生じ、 智慧の生じていることに、かの理解、つまり洞察があるという意味である。 私訳(奪格) 『生に縁りて、老いと死がある』と。老いと死の原因の把握から智慧が生じ、 その生じている智慧から、かの理解、つまり洞察があるという意味である。 私訳(属格) 『生に縁りて、老いと死がある』と。老いと死の原因の把握から智慧が生じ、 智慧の生じて、かの理解、つまり洞察があるという意味である。 私訳(属格) 『生に縁りて、老いと死がある』と。老いと死の原因の把握から智慧が生じ、 智慧の生じていることにおいて、かの理解、つまり洞察があるという意味である。 わたし的には、この複註部分は、具格、奪格、処格どれでもよいと思う。 私には与格と属格では意味がとりにくい。
7 :
暇人 :2005/08/27(土) 14:08:34 ID:zJ0hkD9L
しかしパーリテキスト原文では属格もよいと思う。 yoniso manasikArA ahu paNNAyA abhisamayoは、 真ん中に動詞のahoがあるので、yoniso manasikArAとpaNNAyAは、 注釈の「〜co〜 co ・と・と」という並列というより、 「根源からの思惟によって」「あった/起こった」「智慧によって/智慧の」「理解」 この語順からは、 「根源よりの思惟によって、起こった。<智慧の/智慧によって>理解が」が自然。 さて以上見たとおり、paNNAyAは、具格 属格どちらにも訳せると私は思う。 どちらかしかダメという立場には今のところ与しない。 どちらにも訳せるが、「私はこう訳する」というのがよいであろう。
8 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/27(土) 14:30:51 ID:yyfbWjjE
> 人間が五感からの刺激を脳で処理して、筋肉を動かす動物に過ぎないとすれば、 > 個人の営みは最終的に脳の電気信号に還元できます。 > だとすれば、 『自分が五体満足な人間であるのか? > どこかの培養液の中の電極付きの脳なのか?』判別は不可能ともいえるでしょう。 この辺に私の考え方の原点があるので、 五蘊に関しては、 色: 身体 受: 五感からの刺激(眼耳鼻舌身) 想: 思考対象(意) 行: 想を識に体系付けようとする思考作業&色と識との調和を図る行動指令 識: 外界モデル。世界観。 ではないかと考えています。 「五感からの刺激を脳で処理して、筋肉を動かす動物」を記述するひとつの方便が五蘊であると考えます。 「空腹感、睡眠」は、受想行識で考えるよりも、色にあらかじめ備わっている安全機能と位置づけたい。
9 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/27(土) 14:40:43 ID:yyfbWjjE
>>1 スレたて、乙。
学会に認められることへの執着、持ち込み禁止。
ということで、よろしく。
10 :
名無しさん@3周年 :2005/08/27(土) 19:24:24 ID:nAvBEAst
2にどうい。
11 :
名無しさん@3周年 :2005/08/27(土) 19:30:26 ID:pHdASom6
隔離スレ
12 :
qqq# :2005/08/27(土) 21:29:05 ID:eYcQpvw8
660 名前:暇人 投稿日:2005/08/22(月) 23:45:40 ID:g+4iAIT7 ID:g+4iAIT7 ■スレッド14の分立に関して■ 私は本家争いをする気ありません。 このスレッドを消費した後は、 原始仏教スレッドはアホダラ君らが本家を自認されてますのでお任せし、 こちらは、こちらでせっかくの流れがでてきましたので、 素人同士で、まったりと原始仏教を考える新スレッドを立ち上げては どうだろうかと思います。 色々ご意見あるかもですが、同じスレッドが分立しているのは 初心の人やかつて遊んだ人たちに不親切ではないかと。 私の不徳ゆえ、新スレッドにも 私を目的とした荒らし諸氏が 来られるかもですが、そのへんはお許し頂き、 楽しく じっくり まったり 原始仏教をそれぞれが それぞれの立場で 研鑽できるスレッドにできたらと思います。 有縁の方々 どうぞ よろしくです。 案@■初心者のための原始仏教■ 案A■原始仏教談話室■ 案B■原始仏教を語ろう■ 教える人-教わる人の固定関係ではなく、知識の多寡を問わず、 同じ立場で、ある時は教わり、ある時は自分の知識が他人を触発し、 それぞれがそれぞれの意見・感想を述べ合う というのはいかがでしょうか。 など。よろしくー
10 名前:名無しさん@3周年 投稿日:2005/08/27(土) 18:00:12 ID:Hn8tKU/M ID:Hn8tKU/M
原始佛教をまずしらんがなぜ論理学なんだ?
11 名前:電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k 投稿日:2005/08/27(土) 18:06:13 ID:KeOXoIyV ID:KeOXoIyV
>>10 ニヤーヤ学派の研究者がインド論理学や西洋論理学の観点から原始仏教に切り込みを入れています。
それ自体はいい事なのですが、論理学の知識の無いものが信者化していくのを防ぐために開講しようと
考えました。原始佛教スレッドでのアナウンスですが、それに限定されることはありません。
第二には、論理学的な素養を培うことによって、魏便を見抜く力を持つという一般的な願いからです。
807 名前:阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A 投稿日:2005/08/27(土) 15:07:29 ID:d4BtOVwr ID:d4BtOVwr
容量超過(?)の対岸に続きの掃き溜めスレが立ったようですが、関わりあうのも無意味でしょうし無視
放置でまいりましょう(笑)。
808 名前:電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k 投稿日:2005/08/27(土) 15:19:53 ID:KeOXoIyV ID:KeOXoIyV
>>807 14と14で答えられない限り、暇人はもう相手にされません。言っていることもすべて説明済み
のことばかりです。根拠の無いサンスクリット比定批判。これは「ガイガー」一言で論破できます。
自分で隔離病棟に入ったので、暴れない限り放置しましょう。
662 名前:素人 投稿日:2005/08/23(火) 00:58:22 ID:jmIdjnQg ID:jmIdjnQg 「原典への信仰と批判のバランスを保ちつつの吟味」なき翻訳は危険すぎる! 100歩譲って、先達の訳出をベースにするとしても、(私訳と断ってはいるものの)、 貴方の望む「素人・一般人・初学者(≒現代人?)の為の訳文を・・」と言うなら 「当時の風土・文化的背景・社会通念etc.への謙虚な眼差し」と、 「現代社会との類似・相違」「現在流通している言葉」への配慮なくしてはありえないでしょう。 また同時に、現在はこの訳(考え方)が主流であるとの併記が必要かと思う。 私的なサークル(例えば、小説家の作品に対してあれこれ感想を言い合うような)、 或いは一寺院の住職が檀家さんのために行うもの等小さなものとしてなら良いでしょうが・・・。 ( それでもトンデモは困りますがね・・・(^^;) けど、やはり主流の提示は必要か・・・w) 別に電波氏始めスレに参加している専門家を意識しての発言ではなく、 学部生ながら仏典に触れたものとして一言レスしておきます。
以下、662の言い訳等を少し記して、去りたいと思います。 >「素人・一般人・初学者(≒現代人?)の為の訳文を・・」 は、 解り易いということ(≒現代口語であるということ) どうしても外せない言い回しの術語でなければなるべく置き換える(ただし、註をしっかりしたものとする) ということをしても構わないだろうと思っている。 この点に関しては暇人さんのスタンスや視点には共感する部分が多い。 ただしそれは、以下三点をかなりの程度で抑えなければならないだろうと・・。 特に、当時のインドにしかないであろう通俗概念・生活用語等をどう訳すか?と言った場合に。 >「当時の風土・文化的背景・社会通念etc.への謙虚な眼差し」 >「現代社会との類似・相違」 >「現在流通している言葉」 693 名前:素人 2/4 投稿日:2005/08/24(水) 00:14:41 ID:WyJFgczq ID:WyJFgczq >また同時に、現在はこの訳(考え方)が主流であるとの併記が必要かと思う。 これは、註がしっかりしていれば、まえがき・あとがきや解題の形で弁明する形でも構わないかも。 順序が逆になったが最後に、 >「原典への信仰と批判のバランスを保ちつつの吟味」 ここが最も重要で、最も複雑で、最も気付き難く、最も見失いがちな点であろうと思う。 採りうるスタンスが幾つもあるということをまず理解しなければならない。 対象が仏教全般である場合 対象が総じての仏菩薩である場合 対象が釈尊である場合 対象が聖典である場合 対象がある集団である場合 対象が一僧侶である場合 (下二つは洒落ですがw)
(一言一句を絶対視) 絶対至上 完全中立 完全批判・非難 @ A B C D E F ┣━━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━┫ 盲信 不遜 信仰の度合い のどこに自分が(相手が)腰を据えているのか?(≒どの集団に属しているのか?)という見究めが必要であろう。 属する集団・立場・人間関係によっては発言に制限が加わることもあるだろう。 そしてさらにそこに、自分の現代的価値観(例えば死後について)との整合性をどうするか?という問題も生じてくる。 694 名前:素人 3/4 投稿日:2005/08/24(水) 00:15:14 ID:WyJFgczq 純粋に学問的に聖典に触れるならばCでもDでも構わないし、 現代的価値観によって切り捨てる(或いは換骨奪胎する)部分が多くてもいいでしょう。 仏教を批判するならFでも構わない。 (電波さんはまだ僧籍をお持ちだそうですがw)一匹狼の電波さん阿呆陀羅さんは BとCの間くらいでしょうか?或いはD? 暇人さんは完璧Cですねw 現代上座部はおそらく@〜Aでしょう。というか伝統仏教を自認するならばそうでなければならない。 そうでなければ黄衣を着る資格はない。(律の問題や学問研究としてはまた別であろうが・・) 番号がずれていればずれているほど、議論が成立しにくい。 少なくとも互いの番号を認め合えなければ・・・。 「原典への信仰と批判のバランスを保ちつつの吟味」と一行にまとめてしまったが、こうした 自身の信仰の対象・信仰の程度・自身の属する世界・自身の拠って立つスタンス・自身の信念・ 2500年というスパンの重さ(→どこまで回帰するのか・現代との相違をどう受け止め処理するか)・ どのように聖典を(訳を)利用するのか・現代社会現代通念との差異・現代社会との類似・ 現代語(現代口語)への冷静な眼差し・・・・等の諸問題への謙虚な自覚
18 :
暇人 :2005/08/28(日) 04:21:44 ID:DeGT7G/J
五蘊 水野弘元「原始仏教」p118以下 rUpa(色) 物質としての肉体 vedanA(受) 苦楽などの感受作用 saNNA(想) 概念表象の取像作用または心像 saNkhAra(行) 意思作用及びその他精神作用 viNNANa(識) 認識判断の意識作用又はその主体 平川彰「インド仏教史 上」p64以下 rUpa(色) いろ・かたちあるもの、特に肉体 vedanA(受) 感受であり苦受・楽受・不苦不楽受 saNNA(想) 表象 saNkhAra(行) 形成する力、ここでは特に意思作用 viNNANa(識) 了別と説明せられ、認識・判断作用
19 :
暇人 :2005/08/28(日) 04:22:16 ID:DeGT7G/J
宮元啓一「ブッダが考えたこと」p177以下 rUpa(色) 色かたちとは、人格的固体のうち、目に見えるものである身体ことだが、 これは視覚として捉えられるモノというニュアンスで「色」であり、ま だ「身体」という実体概念を持っていない段階 vedanA(受) 感受作用。感官によつて外界の情報が取り込まれること。まだ概念化され ていず、言語化されていない段階。 saNNA(想) 識別作用。視覚情報を区画整理する段階。言語学の「文節化」に相当。 まだ名称は与えられていない。 saNkhAra(行) 記憶などの作用(必ず複数形)。物理的なものとメンタルなものがあるが、 ここではメンタル。記憶力とそこから生じる想起作用。 識別された個々のものを過去の記憶に照らして、それに名称づける。 それと仏教では感受・識別・判断作用以外のすべての心の作用をここに いれる。そこから意思作用と訳されることが多い。 viNNANa(識) 判断作用。こうして知覚され、識別され、名称づけられてはじめて、 「これは何々である」と判断ができる。認識の終点がこの判断作用。 私には宮元さんの説明がわかりやすいな。
20 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/28(日) 08:44:12 ID:Xo3qnZCS
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122597067/744 >>744 :電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/26(金) 13:43:14 ID:g6WFgubI
原始仏教では人間、つまり自分というものを洞察した結果、身体と心のに分け、さらに心を四つに
分けて、その合計5つが仮に寄せ集まって出来ただけの存在だと考え至ったのです。このことを五蘊仮和合
というのですが、
受: 快・不快・どちらでもない心の働き(認識過程での心作用であるのかは議論の余地があり)
想: 認識したもの、経験したもの、記憶などを一つ、あるいは多数寄せ集めて考えること
行: 行動に結びつくこころの働き
識: 知覚、物事を認識するこころの働き
と一応考えてから原始仏教を読み勧めながら修正するなり確定していくなりすればよいと思います。
部派以降になると意味が変化していきます。
-----
http://www.j-theravada.net/pali/key-pancakkandha.html PANCAKKHANDHA(パンチャッカンダ):五蘊<ごうん>
-----
>>18-19 暇人さん、おはようございます。
上記ですと、色に対する行動の指示は、行が行うことになりますが、
宮元さんの説明だと、どれが対応しますか?
抜けてませんか?
21 :
629 :2005/08/28(日) 08:47:06 ID:AwDzOPRY
>3-7 あれだけつぶされてるのにまだいうか? tAya uppajjantiyA は、ともに女性具格だ。 uppajjantiyA が現在分詞だとわかっているなら、どうして女性形になっているのか考えなかったのか? paJJA という女性名詞を受けたtayAにかかるから女性形になってるのよ。 だからあんたの>5の結論は成り立たない。 それから、あんたは複註がどういうものかわかってないようだから教えてあげるがね、 アッタカターを受けての註なのよ。アッタカターではpaJJAyaを具格としていたから、 具格形であるという前提で註釈しているわけ。この点でも>5の結論は成り立たない。 >7を言い出すなら、註釈に従わない(=註釈の解釈は適切ではない)という根拠と、あんたの説 が正しいという根拠を示す義務が生じるよ。
22 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/28(日) 09:10:14 ID:Xo3qnZCS
>>21 :629:2005/08/28(日) 08:47:06 ID:AwDzOPRY
> それから、あんたは複註がどういうものかわかってないようだから教えてあげるがね、
> アッタカターを受けての註なのよ。アッタカターではpaJJAyaを具格としていたから、
> 具格形であるという前提で註釈しているわけ。この点でも>5の結論は成り立たない。
よく、わからんが、
昔、アッタカターという大先生が、paJJAyaを具格と解釈した
ということに過ぎんのでしょ?
別に、アッタカターが、paJJAyaを属格と解釈するのは
文法に反するといったわけじゃないでしょ?
23 :
629 :2005/08/28(日) 09:10:20 ID:AwDzOPRY
>4 >tAya(taそれ女性・単数 具格それによって、与格(のため)に、奪格から、属格それの) >余談「659のギャグ「相関辞の tad の女性具格形 tayA」はサンスクリットの話。 >サンスクリットでは、tayAは女性具格系だけで、女性属格は、tasyAsになる。 >電波一派特有の癖-梵語知識でパーリを知ったかする愚昧さが端的に現れている」 原文に tAya となっているのを、うっかり tayA としたのをつついてきたみたいだけど、これはタイプミス。 あんたが何を言っているのか理解できなかったわい。 >21 で言ったとおり、アッタカターが具格と取っている以上、ごれを具格以外に取ったら誤読だ。 そんな常識がわからんバカがいるはずないと思ってたからね。
>623 あんたもわからん人だね。 ティーカーというのは、アッタカターに対する註釈。だから複註という。 ティーカーの文をどう読むか、という話をしているのだから、アッタカターの 本文が前提になるのは当たり前。
>25 >623 は >23 のまちがい。
>22 あなたの発言は間違い。 アッタカターでは、具格とします。
27 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/28(日) 09:22:14 ID:Xo3qnZCS
>>24 :名無しさん@3周年:2005/08/28(日) 09:12:15 ID:AwDzOPRY
> あんたもわからん人だね。
それは、お互い様。
>>23 :629:2005/08/28(日) 09:10:20 ID:AwDzOPRY
> >21 で言ったとおり、アッタカターが具格と取っている以上、ごれを具格以外に取ったら誤読だ。
> そんな常識がわからんバカがいるはずないと思ってたからね。
これって、おれはアッタカターを盲信するぞ。という宣言にしか見えないのですが?
偉い大先生が、昔、どのような解釈をしたのかは知りませんが、
パーリの原文に対して、paJJAyaを属格と解釈するのは文法的に間違い
という根拠にはならないでしょう?
要するに「paJJAyaを属格と解釈するのは間違い」とする、
文法的な根拠はまだ提示されていないということですよね?
28 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/28(日) 09:27:51 ID:I/aHP5vj
>>26 アッタカターやティーカなどの性質をこの場合説明すべきなんだろうけど、「原始仏教」と銘打った
スレッドでは必要ないかもね。各自書物やwebで調べてから発言すべきでしょう。
29 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/28(日) 09:41:03 ID:Xo3qnZCS
http://www.geocities.jp/jfcps873/gb/gb11.html 727 :電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/05/22(日) 20:42:00 ID:/LJAVCPM
>だったのを、なんでわざわざ、「仏」を「佛」にして
それがどうしたのですか?指摘することに何の意味があるのでしょうか?それこそ
どうでもいい衒学的な事柄ですよ。仏ー佛は変換の癖の問題です。経典引用で多用する
から現れ出てくるでけもので、それを癇に障ると明言するのですね。あなたの程度が
よく理解できます。
30 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/28(日) 10:31:37 ID:I/aHP5vj
じゃ、さわりだけおおまかに。 文法関係で、アッタカターやティーカの持つ意義とは。 【アッタカター】 @様々な語形変化は多様だから文意にしたがって特定する A省略語や指示代名詞の指示先が不明瞭な場合補う B統語論的に整理する C文法説明をする Dその他 などが上げられる。変化表などは前提以前の当り前として位置づけられる。(笑) 更に、【ティーカ】はアッタカターが長年支持されて複註となる。つまり、両者ともに 個別の文法書といえば大げさだが、そういう意味で考えて欲しい。 もし、これらに対して、変化表を根拠に無視するのであれば、相手にされない。 異論が有るのなら、両者に対する文法批判と反証を示すべきである。 変化表が根拠だと言うのは愚昧である。
31 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/28(日) 10:38:36 ID:I/aHP5vj
ん、、、。訳で文法を語る(*)は有る意味暇人より程度が悪い。 実際、頓珍漢であれ、暇人は必死にパーリを読んでいる。 読解力も彼よりはましな気がする。事実、あら捜しは天下一品だ。 tayAの指摘なぞ、研究者はしないし気づきにくい。本文の方に 気が取られているからね。 校正の仕事したら重宝されるぞ。>暇人 あんたに私の「公的文章」のチェックをして貰いたい位だ。 揶揄じゃないぞ。
32 :
名無しさん@3周年 :2005/08/28(日) 11:10:56 ID:tWAUZrbe
原子爆弾談話室
33 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/28(日) 14:14:47 ID:Xo3qnZCS
>>30-31 > 文法関係で、アッタカターやティーカの持つ意義とは。
アッタカターやティーカの持つ意義に関する説明ありがとうございました。
つまり、アッタカターやティーカの持つ権威をたてに、属格を否定するわけですね。
こうなると、素人にはもう反論の余地はありませんね。
ああ、そういえば、ガリレオは
協会に聖書の記述を根拠にして、
地動説を否定されたんでしたっけ?
「規則だから駄目」、「定説と違うからダメ」といった紋切り型の理由でなく、
自分の言葉で、
「『知の符合(ひらめき)』などと属格で解釈したら、
これこれ、こういうおかしなことがあるだろう。
だからアッタカターやティーカも具格としてしか解釈していないんだ。」
などという納得のいく説明があれば、そういう人は尊敬に値すると思うのですが、
多分、そういう人は専門家ではなく、啓蒙屋と呼ばれるのでしょうね。
34 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/28(日) 15:01:50 ID:I/aHP5vj
>>33 非論理的です。
>「規則だから駄目」、「定説と違うからダメ」といった紋切り型の理由でなく、
>自分の言葉で、
自分の言葉とは何ですか?
変化表も一つの文法規則であり、定説です。アッタカターやティーカはそれを基底において、
個別の文章を分析しているのです。では変化表によらずに読むのですか?
ガリレオの例は外しています。説明しろと?あんたなら言いそうだ。
その言い分では
聖書の記述:
文法書:変化表など
注釈書:アッタカター・ティーカなど
真実:
文法書や注釈書に頼らないアホ読み
となります。あなたをスルーすることを宣言していました。今回NGワードが外れていてたまたま
私に馬鹿なコメントをしていたので教えてあげました。
以降、間抜けはスルーしますので宜しく。NGワードが働いているときはあなたの発言は消えていますので。
ではさようなら。
35 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/28(日) 15:43:00 ID:Xo3qnZCS
>>34 :電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/28(日) 15:01:50 ID:I/aHP5vj
> 非論理的です。
あなたの方がね。
ユークリッド幾何学の公理と定理に意味に関してはご存知ですか?
一応、わかっていることを前提に話を進めます。
もちろん、幾何学と自然言語を同一の土俵で語ることはできませんが、
それでも有用な対比は可能です。
私は
文法書<=>公理
注釈書<=>定理
と対応すると考えます。
> 変化表も一つの文法規則であり、定説です。
はい。これは無条件に受け入れていいでしょう。
> アッタカターやティーカはそれを基底において、個別の文章を分析しているのです。
肯定です。彼らが、具格と解釈し、属格と解釈しなかったのには、ちゃんと理由があったはずです。
その理由もわからずに、アッタカターやティーカは定説だから属格は間違いというのは
紋切り型の理由による否定であり、自分の言葉でダメな理由を語っていないということです。
> では変化表によらずに読むのですか?
まさか、何を馬鹿なことをいっているのですか。
> 説明しろと?あんたなら言いそうだ。
あなたには期待していません。ご安心を。
> 教えてあげました。
はいはい。余計なお世話でしたが、お手数をお掛けし申し訳ありませんでした。
> 以降、間抜けはスルーしますので宜しく。NGワードが働いているときはあなたの発言は消えていますので。
> ではさようなら。
はい。ワンパターンな捨て台詞、ご苦労様。では、さようなら。
36 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/28(日) 16:09:16 ID:I/aHP5vj
>>35 >ユークリッド幾何学の公理と定理に意味に関してはご存知ですか?
「定理に意味に」って何?「公理」って、定理を証明する前提のことか?
それ以外なら「公理系」とするのが正解だ。前者であっても意味を成さないぞ。
でも、それ自体咀嚼していないのに使うなって。あなたが非論理的なことを
論証しまた。
で、パーリが純粋な自然言語だと考えてるわけね。あとは馬鹿馬鹿しいから
無視します。お幸せに。
37 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/28(日) 16:27:55 ID:Xo3qnZCS
>>36 :電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/28(日) 16:09:16 ID:I/aHP5vj
> >ユークリッド幾何学の公理と定理に意味に関してはご存知ですか?
> 「定理に意味に」って何?
ユークリッド幾何学の公理と定理の意味に関してはご存知ですか?
の間違い。スマソ。
> 「公理」って、定理を証明する前提のことか?
> それ以外なら「公理系」とするのが正解だ。前者であっても意味を成さないぞ。
>
> でも、それ自体咀嚼していないのに使うなって。あなたが非論理的なことを
> 論証しまた。
それってさぁ、
詭弁の特徴のガイドライン でいうところの
http://ton.2ch.net/gline/kako/1028/10288/1028811653.html まさに
■■14:細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる ■■
これに該当するね。
>>35 > > アッタカターやティーカはそれを基底において、個別の文章を分析しているのです。
> 肯定です。彼らが、具格と解釈し、属格と解釈しなかったのには、ちゃんと理由があったはずです。
> その理由もわからずに、アッタカターやティーカは定説だから属格は間違いというのは
> 紋切り型の理由による否定であり、自分の言葉でダメな理由を語っていないということです。
これは、理解可能でしょ? それとも
■■8:知能障害を起こす ■■
これを実践する?
> 無視します。お幸せに。
ありがとう。
>地動説を否定されたんでしたっけ? 自分をガリレイやアインシュタインになぞらえるのはトンデモ馬鹿に ありがちな虚勢。 >14:細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる 致命的ミスを指摘され、基本的無知を証明されて何をごねてる? >8:知能障害を起こす ずっとそうなのはおまえ。
39 :
暇人 :2005/08/29(月) 00:41:26 ID:Oem6Kp8v
何からお話しようかと迷いますが、例えば水野弘元著作選集第三巻p149以下に 所蔵の「書評 森祖道著『パーリ仏教注釈文献の研究』の論文から抜粋してみますと @パーリ(聖典) −経・論・律の三蔵のこと。このスレッドではこれの現代日本語訳中心。 Aアッタカター(義疏)−パーリに対する注釈。 Bティーカー(複註)−アッタカターに対する注釈 Cアヌティーカー(複複註)−ティーカーに対する注釈。 さてアッタカターは、色々あります。 @パーリ三蔵の注釈及び『清浄道論』 Aその他第一次注釈書(例えば『導論』に対する注釈書 B歴史書および歴史資料的説話集 Cその他ティーカーを有する文章
40 :
暇人 :2005/08/29(月) 00:42:12 ID:Oem6Kp8v
今話題のアッタカターは、@パーリ三蔵の注釈の中の相応部「因縁章」のアッタカター。 NidAnavagga-aTThakathAのことですね。話題のティーカーは、NidAnavaggaTIkAです。 アッタカターは、5Cのブッダゴーサ作と言われています。ティーカーはそれより後の人 ですね。 パーリ本文を読み、パーリ本文を注釈している部分の注釈書を確認し、更にその複註も チェックするというのは、まあ伝統的な方法ですね。 ただ、中村元さんの現代語訳註を見てますと、ブッダゴーサの注釈をしばしばをチェック しつつも無視することも多いですね。 5cの分別説部の一解釈が現代的な学問と合う場合と合わない場合が事実としてあります ですね。 アッタカターやティーカーにあるから正しい、こう読まないとマチガイというのは、 信仰の世界の話でありましょう。あるいは古い立場でしょう。 「これは近代の仏教学者が,紀元後5世紀頃に制作されたパーリ注釈書の解釈に従ってき たからである。しかし実際には,仏陀の死後8世紀を経過し,教理体系が整備された時代 の解釈は,テキスト本来の意味としばしば乖離している。」(中谷英明神戸学院大学教授)
41 :
暇人 :2005/08/29(月) 00:44:16 ID:Oem6Kp8v
■NidAnavagga-aTThakathAについて Yoniso manasikArAti upAyamanasikArena pathamanasikArena. 根源よりの思念(a語幹のm)から(奪格)/〜と/思念方法によって(具格)/道の思念によって(具格) Ahu paññAya abhisamayoti paññAya saddhiM jarAmaraNakAraNassa あった/paññAya abhisamayoは、/〜と/智慧(によって/の)/共に/老死の原因(の/に) abhisamayo samavAyo samAyogo ahosi, 理解/結合/正しい瞑想/あった この部分を659さんは、saddhiM支配だから、paññAyaは具格だとのことだったが、 彼の情報は梵語文法をパーリに無原則に持ち込んでいる可能性があり、信用度が 低いと論証した。この「saddhiM支配=具格」という情報は他で確認が取れるまで、 あるいは証拠が提出されるまでは保留したい。 パーリ文法からの可能性としては、このpaññAyaは、属格・具格どちらにも取れます。 しかもパーリ本文のYoniso manasikArAは、奪格(根源的思惟から)しか文法的には、 可能性はないが、aTThakathAは、無理矢理 具格「思念によって」と読み込んでいます。 仮にこのaTThakathAが、paññAyaを具格に読みたいにせよ、これは注釈者ブッダゴーサの 趣味的傾向であり、パーリ本文をaTThakathAどおり読む必要はないというのが一点。 二つ目に、仮にpaññAyaを具格に読んでも、 「ahu paññAya abhisamayo」は、智慧によって共に、老死の原因の理解があった、つまり 正しい瞑想との結合があったということである。 となり、意味的には、「符号」ともとれるのでは、と。
42 :
暇人 :2005/08/29(月) 00:47:16 ID:hcB8mg78
ちなみに二番目の以下もパーリ原文のyoniso manasikArAは、奪格であるのに、 ブッダゴーサは無理に具格に読んでいますね。私にはこっちの方が文法的根拠は不明。 Atha vA yoniso manasikArA ahu paññAyAti 時にまたyoniso manasikArAは、paññAyAである、と。 yoniso manasikArena ca paññAya ca abhisamayo ahu. 根源よりの思念によってと、智慧によってとで理解があった。 ■NidAnavaggaTIkA これを受けてのティーカは、659さんが略した部分で Yoniso manasikArAti hetumhi nissakkavacananti tassa “yoniso manasikArenA”ti hetumhi karaNavacanena Aha. Yoniso manasikArAは、@nissakkavacananti(奪格)AkaraNavacanena(作格=具格)と、 解説していますね。パーリ原文はどう読んでも「奪格」ですし、 ブッダゴーサが無理矢理に具格に読んだ「根源的思惟」を奪格もありうると復活させ てますね。
43 :
暇人 :2005/08/29(月) 01:01:43 ID:hcB8mg78
>>20 電波男さんの五蘊の説明は水準をクリアしています。
むしろわかりやすいです。
ただ私にはそれでもなお「行」と「識」の関係がわかりにくいのです。
私は、「身体」と「心」という大枠があって、
「心」を更に仏教が四種に分ける必然性とその意味が不明確なのです。
宮元さんの説明だと、「感受して識別して、名称づけて」そして「判断」と
いう一連性がクリアになります。
「行」に意思作用を入れるのが普通です。
宮元さんは「行動の指示」がどれでするかについて触れませんが、
心の作用=「感受→識別→想起・概念化→判断」ですから、
判断の識が意思的な行動の指示をすると考えるモデルかもですね
44 :
暇人 :2005/08/29(月) 01:14:01 ID:hcB8mg78
>>42 付記
Atha vA yoniso manasikArA ahu paññAyAti
yoniso manasikArena ca paññAya ca abhisamayo ahu.
この二番目のパターン 〜co〜coの併記は、
<時にまた、「yoniso manasikArA」 は、「paññAyAti 」である>
とあるように、「根源的思惟」=「智慧」という解釈立場ですね。
では おやすみ
45 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/29(月) 13:02:16 ID:iF10vM+H
ちょっと、漠然と考えていることを、
まとまりのないままに、いくつか、書いてみたい。
十二支縁起に関して、私は2つの重要なポイントがあると考えています。
(1)縁起は、相依関係であって、因果関係ではないということ。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html 片方を滅すれば、当然、相依関係も滅するけれども、
因果関係が一旦成立してしまえば、因は滅しようがない。
(2)苦は外界にあるのではなく、識の中にのみ存在するということ。
つまり、老死自体が苦であるのではなく、老死を苦だと認識することこそが苦である。
------------
つまり、一旦生を受けた者は、老死はまぬがれない。
しかし、老死を苦と認識しなければ、それは老死を乗り越えたことにはならないだろうか?
46 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/29(月) 13:03:28 ID:iF10vM+H
十二支縁起で、ひとつの支として ◆六処:眼、耳、鼻、舌、身、意 があるが、五感にとどめず、意も含めたセンスはスゴイと思った。 そうなのだが、 五蘊<ごうん>における、受蘊<じゅうん>は、五感からの受であり、 意の受は、想蘊<そううん>ではないかと考えている。 十二支縁起の各支を五蘊に対応させるとどうなるだろう? 1.rupakkhandha (ルーパッカンダ:色蘊<しきうん>) 2.vedanakkhandha (ヴェーダナーッカンダ:受蘊<じゅうん>) 3.sannakkhandha (サンニャーッカンダ:想蘊<そううん>) 4.sankharakkandha(サンカーラッカンダ:行蘊<ぎょううん>) 5.vinnanakkhanda(ヴィンニャーナッカンダ:識蘊<しきうん>) ◆無明:不明、行蘊<ぎょううん>? ◆行:行蘊<ぎょううん> ◆識:識蘊<しきうん> ◆名色:対応無し、五蘊の外に存在 ◆六処:眼、耳、鼻、舌、身は色蘊<しきうん> 意は、識蘊<しきうん> ◆触:不明、(色蘊->想蘊、識蘊->->想蘊)というメカニズム? ◆受:眼、耳、鼻、舌、身の受は受蘊<じゅうん> 意の受は想蘊<そううん> ◆愛:行蘊<ぎょううん> ◆取:識蘊<しきうん> ◆有:対応無し、五蘊の外に存在 ◆生:不明、色蘊<しきうん>? ◆老死:不明、色蘊<しきうん>? こんな感じかなあ?
47 :
。。。 :2005/08/29(月) 13:15:19 ID:unPszawx
◆無明 ◆行:行蘊 ◆識:識蘊 ◆名:受、想 色:色 ◆六処: ◆触: ◆受: ◆愛: ◆取: ◆有: ◆生: ◆老死: ちょっと考えてみただけですけど。 六処とか触とか、自己(アートマン)で感じる抽象的な 概念なのではと、ちょっと思った。
48 :
。。。 :2005/08/29(月) 13:19:02 ID:unPszawx
>>45 これあればこれあり
これ生じればこれ生じる
これなければこれ無し
これ滅すればこれ滅す
が因縁の法則では? (順不同)
老死は、認識しようがしまいが、すでに「有」となって存在しているから、
認識を変えたところで、どうにもなら無いと思う。
49 :
。。。 :2005/08/29(月) 15:31:23 ID:unPszawx
以上、無宗ださんへ。
50 :
万年救護大本尊の朴蓮 :2005/08/29(月) 16:31:13 ID:ixa+xM7w
なんだかな〜このスレ。 むつかちぃ〜な〜 m9(^O^)チミたち。 暗いよ。
51 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/29(月) 18:20:08 ID:iF10vM+H
>>8 において、
五蘊に関しては、
色: 身体
受: 五感からの刺激(眼耳鼻舌身)
想: 思考対象(意)
行: 想を識に体系付けようとする思考作業&色と識との調和を図る行動指令
識: 外界モデル。世界観。
と、書いたわけだが、別な表現をすると、こうなる。
色: 身体
受: 生データ
想: 前処理済みデータ
行: データ処理アルゴリズム、データ処理プロセス、筋肉への信号生成
識: 情報データベース
52 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/29(月) 18:31:55 ID:iF10vM+H
DNAには、 ・自己保存欲 ・自己複製欲 が、組み込まれていると思う。 これこそが、無明の正体だろう。 なぜ、そんな欲求があるかの答えは無い。 そんな欲求を持った存在が、生物と呼ばれているだけである。
53 :
。。。 :2005/08/29(月) 19:05:01 ID:unPszawx
無宗ださん 【十二因縁】[無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死] 怒り苦しみ愛欲の怨念;霊といってもいいけど。 「愛・取」だけの存在だというんですよね。 生きてはいないのに、激しい怨念のみ残っている。 「無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取」が「有」る(ある)。 生きては居ないから、「生・老死」にはまだ達していない。 無明〜有 までは 「生」以前なのだから。もう少し抽象的なものかも 知れないですね。五蘊も実は抽象的なのかもしれない。「色」などでも 物質要素そのものではなく、その設計図のような概念図のようなものかもしれない。 その「色」に応じて、生を得て、肉体を得る。そして老〜死。 これは、先ほどから考えていることです。
54 :
。。。 :2005/08/29(月) 19:07:39 ID:unPszawx
>>52 DNAの中にはたぶん、愛、取、はないと思う。
逆に言えば、人工生物は作れない。
いくら精密に作ったところで、その「物」は感情を持たない。
アトムじゃないけど、何かを「吹き込む」必要がある。
それが、アートマンであり無明。
55 :
暇人 :2005/08/29(月) 20:56:08 ID:JHEGV333
>私の「公的文章」のチェックをして貰いたい位だ。 今はもう老眼で、公的文章の校正など無理だが、学生の頃は時給463円で校正していたよ。 んじゃ過去ログを一つ校正。 過去ログ倉庫「仏教の根本三法印・四法印について」 143 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss 投稿日: 02/02/10 19:17 あ、ペロさんは私が存じ上げている誰かですか? 修験道、真言密教、上座部の森林派、浄土宗のすべてで最終行を完了 しております。四度加行と言う基本行だけではなく、その数段上も。。 それでえた実感は、輪廻転生はありえないし、それを広めるのは利権や 似非宗教で民衆を誑かす悪魔の所業だというものでした。勿論数え切れ ない沢山の神秘体験がありましたが、これは公表できませんね。 あ、阿含部の「弊宿経」に仏教は生まれ変わり思想とは無縁だと記され ています。 ・・・・・・・・・・・・・ 「阿含部の「弊宿経」に仏教は生まれ変わり思想とは無縁だ」とのことだが、 これも180度逆ですね。 「霊魂と来世」の存在を信じないパーヤーシ王に対して、仏教を代表して 比丘のクマーラ・カッサパが、様々な喩えを説き、遂に王は三宝帰依し、 「私は『来世は存在しない。生まれかわる生存者は存在しない。善悪の行為に よってその報いを受けることはない』という見解をもっていました。しかしわたしは 聖クマーラカッサパによってその悪い見解を退けられました」 (春秋社「原始仏典第二巻 長部経典U「弊宿経」」 p462)
56 :
暇人 :2005/08/29(月) 23:03:42 ID:JHEGV333
これに対して、魂については、東洋大学の森教授は別の解釈をされるが、
輪廻についてまでは動かない。
ttp://www2.toyo.ac.jp/~morimori/cgi-bin/resbbs1/resbbs.cgi [104]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
(略)
中村元先生は『原始仏教の思想・』(中村元選集[決定版]第15巻
1993年8月 春秋社 p.652以下)のなかで、
経蔵の末期においては、積極的に輪廻の主体を想定する思想が、仏教徒の
主張として表明されている、とされています。その典拠として使われている
のが、DN.23の「パーヤーシ・スッタンタ」と長阿含経7の「弊宿経」です。
しかしよく読めば、これをもって仏教が霊魂(jIva)を輪廻の主体であると
認めていたと解釈するのは無理があるように思います。
原始仏教の主張は、私たちは色・受・想・行・識という5つの要素(五蘊と
か五陰といいます)から成り立っていて、この外にアートマンとか霊魂とい
うものはない、というものです。だから生老病死を自由に操ることもできな
いし、輪廻を如何ともしがたいというのです。要するに原始仏教は5つの要素
が和合しながら、昨日から今日そして明日へと生を続けていく、それと同じ
ように前世から今世に生れてきて、解脱しないかぎり来世に生れていくとい
う言うわけです。
(略)
57 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/30(火) 06:37:35 ID:Vb+QfZNY
>>53 :。。。:2005/08/29(月) 19:05:01 ID:unPszawx
> 【十二因縁】[無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死]
>
> 怒り苦しみ愛欲の怨念;霊といってもいいけど。
> 「愛・取」だけの存在だというんですよね。
はあ? いったいどうして、そういう考えを持つにいたったのですか?
と、そういう私も、思いっきり我流の解釈ですが(汗)
私は、
前世:[無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取]
今生:[有・生・老死]
と考えています。
自業自得を真理と考えれば、
取(執着)という自業があれば、自得するための場、有が必要です。
そして有があるからこそ、誕生が可能になるのです。
58 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/30(火) 06:38:53 ID:Vb+QfZNY
>>52 の無明に続いて、行。
【行】
無明があるが故に、生物は生命活動をおこなう。
生命活動とは、なんであろうか?
ひとつは、外部の刺激から、外界に対するモデルを脳内に作り上げることである。
もうひとつは、その脳内モデルに適合した、行動を行うことである。
そして同時に自己に関するモデルも構築されていく。
これらの行為の繰り返しにより、生物はより有利な行動様式を獲得していく。
【識】
そして、行によりて構築されたこの脳内の外界モデルおよび自己モデルこそが識である。
外界を把握し、その中で可能な自己の言動を把握すること、
すなわち識の構築は生命活動を行うために不可欠な働きである。
【名色】
さて、このような脳内モデルに対して、実際の外界は名色である。
名色は、生物にとっての、一切の認識対象を意味する。
59 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/30(火) 06:41:38 ID:Vb+QfZNY
識の構築される過程を詳細にしたのが、以下の六支である [名色・六入・触・受・愛・取] 識の構築は生命活動を行うために不可欠な働きであるが、 これは時として再生の素因となる取(執着)も作り出すことになる。
60 :
暇人 :2005/08/30(火) 07:04:31 ID:EvNL5Eok
過去世・現世・未来世の概念を導入して、12縁起を合理的に解釈したのに 部派仏教の三世両重の因果がありますが、論理的にはすっきりしますが、 経典的根拠はないと思います。 ちなみに、三世両重の因果だと以下になります。 過去世−無明と行 現在世−識・名色・六処・触・受 つまり過去世の無明と行が原因になって、我々の意識体が母胎に宿る 胎児の最初の意識が「識」で、この「識体」が業を担いつつ過去世から現世 来世へと普段に相続していくのだが、母胎内にあって発育する胎児の心身を 名色。胎児が発育するにつれて胎児に具備されてくる「目耳鼻舌身意」が 六処。出産後、根境識の三者和合によって感覚知覚が生じる最初の経験を 「触」。「受」は、触の後に生じる苦楽などの感覚。 そして現在生きている中での「愛」「取」「有」という煩悩的行動が 未来世の「生」「老死」の原因になる、と。 話としてはすっきりするが、原始経典は、12縁起を現世の中でしか 考えてないと 今のところ思っています。
61 :
暇人 :2005/08/30(火) 07:24:09 ID:EvNL5Eok
五蘊でいえば 重要なのは「心身」というわけ方ではないかと思います。 五蘊のそれぞれが何を指すかという記述はほとんどなく、 五蘊は「無常・苦・変易の法(姿形だけではなく本質的に変化し壊れていく もの)、無我」であること説きます。 つまり心身のどこを探しても、「変化しないわたしという実体」はない ということでしょうね。 @わたしは、五蘊以外にあり得ない。 Aしかし五蘊のいづれをとっても「変化しないわたし」はない B五蘊無我つまり、わたしは無我である。 無我とか非我の「我」は、現代日本語の「わたし」とイコールではなく、 「変化しないわたし」(アートマン)に近いのかも。
62 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/30(火) 09:02:05 ID:ouiHEm1+
>>60 :暇人:2005/08/30(火) 07:04:31 ID:EvNL5Eok
> 過去世・現世・未来世の概念を導入して、12縁起を合理的に解釈したのに
> 部派仏教の三世両重の因果がありますが、論理的にはすっきりしますが、
別にすっきりするとは、思えません。
単に、時間的経過と、因果関係を持ち込んでいるだけです。
あくまでも、時間に囚われない、相依関係で縁起は見るべきです.
63 :
。。。 :2005/08/30(火) 10:38:47 ID:PJ50O/bz
>>57 無宗ださん、
前世:[無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取]
今生:[有・生・老死]
↓
前世:[無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有]
今生:[無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死]
じゃないですか?
だって、今だって(今生)しっかり無明はあるじゃないですか。
*反論しているのではなく、遊んでいる(知的遊戯?)だけなので、
お気を悪くなさらずに。
64 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/30(火) 11:08:02 ID:ouiHEm1+
>>60 > 経典的根拠はないと思います。
経典のいたるところで、次のことが主張されています。
カルマあれば来世あり
カルマ生じれば来世生じる
カルマなければ来世無し(解脱する)
カルマ滅すれば来世滅す(涅槃を得る)
カルマとは何かというと、渇愛であり、執着です。
渇愛->愛
執着->取
来世とは何かというと、この世の生まれ、老い死ぬことです。
この世->有
生まれ->生
老い死ぬこと->老死
[愛・取]あれば[有・生・老死]あり
[愛・取]生じれば[有・生・老死]生じる
[愛・取]なければ[有・生・老死]無し(解脱する)
[愛・取]滅すれば[有・生・老死]滅す(涅槃を得る)
これだけのことではないでしょうか?
65 :
。。。 :2005/08/30(火) 11:31:01 ID:PJ50O/bz
66 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/30(火) 12:26:13 ID:ouiHEm1+
>>65 :。。。:2005/08/30(火) 11:31:01 ID:PJ50O/bz
> [愛、取] 滅するには?
<--
http://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html ARIYA ATTANGIKA MAGGA (アリヤ・アッタンギカ・マッガ : 八正道<はっしょうどう>)
煩悩をなくす方法は、この八つの道しかありません。
-->
縁起は相依関係を記述しているだけです。
そこに、因果関係、時間経過、方法論をみるのは誤りだと考えます。
十二支縁起は、四諦における苦諦のためのものでしょう。
> [愛、取] 滅するには?
苦諦の次に集諦を得る必要がありますが、そのためには、
宿命通(過去世を知る)が必要なのではないでしょうか?
67 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/30(火) 12:43:37 ID:ouiHEm1+
>>66 補足です
> 宿命通(過去世を知る)が必要なのではないでしょうか?
業有=苦の因
とすれば、宿命通(過去世を知る)が必須だと考えます。
報有=苦の因
と考えれるなら、宿命通(過去世を知る)は無くてもOKですね。
68 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/30(火) 12:49:51 ID:ouiHEm1+
>>61 :暇人:2005/08/30(火) 07:24:09 ID:EvNL5Eok
> 五蘊でいえば 重要なのは「心身」というわけ方ではないかと思います。
> @わたしは、五蘊以外にあり得ない。
まず、ここを重要視したいですね。
人間の営みの全てを五蘊で記述できないのであれば、
> Aしかし五蘊のいづれをとっても「変化しないわたし」はない
このような観察には、何の意味も無い。
69 :
名無しさん@3周年 :2005/08/30(火) 18:35:01 ID:gCttWOpD
>>61 >「わたしという実体」はない
には賛成できない。
わたしが「変化するわたし」であっても「変化しないわたし」であっても、
>「わたしという実体」はない
には賛成できない。
>「変化しないわたしという実体」はない
仮にこのことばが有効な意味を持つ範囲があるとする。
だとしても範囲指定の設置なしに、つまり前提なしに
>「変化しないわたしという実体」はない
と、宣言されても判断に困る
70 :
暇人 :2005/08/30(火) 20:40:43 ID:g9lLtJd2
>>64 私は、12縁起の各支が説かれる経典のなかで、
各支を具体的に未来世や過去世に配当した経典をしりません。
(但し例えば平川さんに拠れば「識」支と「有」支は、輪廻思想と関係がある。
先に取り上げた十二縁起注釈経の「三有あり 欲有・色有・無色有」を、伝統解釈
され、聖者の涅槃のあり方を「有」と言わないことから、「有」を個人の存在を基礎
づける存在とし、「有を縁として生あり」を各人の生まれが決定される力をもつたもの
とされている。つまり「欲有・色有・無色有」のいづれかの生存が、次の生まれを決定
するという意味で輪廻思想と関連していると氏は考えられていると思われる)
71 :
暇人 :2005/08/30(火) 20:41:55 ID:g9lLtJd2
そのこととは別に悟りの定型句の 「生が尽きた(khINA jAti)、 梵行は完成した(vusitam brahmacariyam)、 作さるべきことは成された(kataM karaNIyam)、 再び此処の状態に至らない(nAparaM itthattAya)」(平川著作集第一巻p474) の「生が尽きた」「再び此処の状態に至らない」は、輪廻が前提されています。 生きているのに悟れば「生が尽きた」ですので、しばしば現代語訳では、 「(迷いの)生存が尽きた」と補われます。 もう輪廻を繰り返す生存(迷いの生存)を超えたということですから、 悟らない普通状態では輪廻は前提されているといえます。 カルマ(kamma)は、「業」としばしば漢訳されますが「行為」のことだと思います。 「カルマあれば来世あり…」は、例えばどの経典のどの箇所でしょうか?
72 :
暇人 :2005/08/30(火) 20:42:39 ID:g9lLtJd2
>>69 言葉は難しいですね。どういう意味を込めているか、いかに意味に読み取るか、
人それぞれで、必ずズレが生じます。
私などに賛成されなくてよいです。大切なのは、「我が身が頷くかどうかです」
「自燈法燈」です。
さて、「変化しないわたしという実体」は、「変化しないわたし=実体」という意味で
使用しています。
哲学的に言うと「さまざまに変化してゆく物の根底にある持続的なもの」
デカルトの定義ですと「それ自身によって存在するもの、その存在の為に他のものを
必要としないもの」です。
仏教で言う「アートマン(我)」とは、「単なるわたし」=「変化するわたし」ではなく、
「変化しないわたし」=「実体」ではなかろうかと愚考しております。
73 :
(*) :2005/08/30(火) 22:20:25 ID:wtax3svU
暇人さん、無宗ださん、註、複註からすれば属格はありえませんね。失礼しました。
やっぱり訳だけから読むのは危険ですね。原文の所在を教えてくれた629氏には感謝します。
ただ原文はこちらですね。
MahAvaggaTThakathA:
http://www.tipitaka.org/tipitaka/s0102a/s0102a-frm.html yonisomanasikArAti upAyamanasikArA pathamanasikArA.
aniccAdIni hi aniccAditova manasikaroto yonisomanasikAro nAma hoti.
ayaJca kismiM nu kho satijAti-AdIni honti, kismiM asati na hontI ti
udayabbayAnupassanAvasena pavattattA tesaM aJJataro
tasmAssa ito yonisomanasikArA iminA upAyamanasikArena ahu paJJAya abhisamayo, bodhisattassa paJJAya yasmiM sati jarAmaraNaM hoti, tena jarAmaraNakAraNena saddhiM samAgamo ahosi.
kiM pana tanti? jAti. tenAha jAtiyA kho sati jarAmaraNaM hoti ti.
yA cAyaM jarAmaraNassa kAraNapariggAhikA paJJA,
tAya saddhiM bodhisattassa samAgamo ahosIti ayamettha attho.
「正思惟から」とは<方便の思惟から、道の思惟から>ということ。
なぜならば、無常などは他ならぬ無常などの思惟から「正思惟」というものがあるからである。
また、これは「いったい何があれば生などがあるのか、何がなければないのか」という
生・滅の随観によって起こるから、それらのうちのいずれかである。
それゆえ、これから、この正思惟から、つまりこの方便の思惟によって「知との符合があった」のである。
菩薩に「知との」それがあれば老死があるというその老死の原因との合致が「あった」のである。
では、それは何かというと、生である。それゆえ「生あれば老死がある」と言った。
そして、何かこの老死の原因を捉える「知」、
菩薩にそれとの合致が「あった」ということ、これがここでの意味である。
MahAvaggaTIkA:
http://www.tipitaka.org/tipitaka/s0102t/s0102t-frm.html jAtiyA kho sati jarAmaraNaM hoti, jAtipaccayA jarAmaraNan ti
yA jarAmaraNassa kAraNapariggAhikA paJJA uppajjati, tAya uppajjantiyA samAgamo ahositi.
「まさに生があるとき老死がある、生の縁から老死がある」という
何か老死の原因を捉える「知」が生じる、その生じている知との合致が「あった」ということ。
74 :
(*) :2005/08/30(火) 22:20:59 ID:wtax3svU
こちらは本来のサンユッタ・ニカーヤに対する註と複註で、微妙に違いますね。
http://www.tipitaka.org/tipitaka/s0302a/s0302a-3.html yoniso manasikArAti upAyamanasikArena pathamanasikArena.
ahu paJJAya abhisamayoti paJJAya saddhiM jarAmaraNakAraNassa abhisamayo samavAyo samAyogo ahosi,
jAtipaccayA jarAmaraNan ti idaM tena diTThan ti attho.
atha vA yoniso manasikArA ahu paJJAyAti yoniso manasikArena ca paJJAya ca abhisamayo ahu.
jAtiyA kho sati jarAmaraNan ti, evaM jarAmaraNakAraNassa paTivedho ahosIti attho.
「正思惟から」とは<方便の思惟によって、道の思惟によって>ということ。
「知との符合があった」とは「知と」ともに老死の原因の「符合」つまり合致、統合があった。
<生の縁から老死がある>というこれは、それによって見られた、という意味である。
あるいは「正思惟と知から起きた」とは、正思惟と知から理解があった。
<まさに生があるとき老死がある>と、そのように老死の原因の洞察があった、という意味である。
http://www.tipitaka.org/tipitaka/s0302t/s0302t-4.html samAyogo ahositi yAthAvato paTivijjhanavasena samAgamo ahosi.
「統合があった」とは<確実な洞察力との合致があった>ということ。
yA jarAmaraNassa kAraNapariggAhikA paJJA uppajji, tAya uppajjantiyA cassa abhisamayo paTivedho ahositi attho.
<まさに生があるとき老死がある、生の縁から老死がある>と、何か老死の原因を捉える「知」が生じ、
そして彼にその生じているものによる理解、洞察があったという意味である。
75 :
(*) :2005/08/30(火) 22:24:10 ID:wtax3svU
ディーガ・ニカーヤの方では唯一の解釈、サンユッタ・ニカーヤの方では二つの解釈がなされてますね。 A説:正思惟という原因から「生あれば老死がある」という知との符合があった。 この解釈ではpaJJAyAは具格ですが、用具・手段・原因・理由を表す「よって」「で」「から」という 意味ではなく同伴・随伴・結合を表す「と」「との」という意味で用いられていることが、 結合を示すsaddhiMと伴って註釈されていることと、abhisamaya の意味が〜との一致、符合、統合を示す samAgamo samavAyo samAyogo で言い換えられていることから分かります。 B説:正思惟と「生あれば老死がある」という知という原因から理解があった。 この解釈ではpaJJAyAは奪格と解釈されyoniso manasikArAと同格と解釈されています。 yoniso manasikArena ca paJJAyaと註釈されているのは具格だと解釈しているのではなく、 用具・手段・原因・理由を表し、yoniso manasikArAと同格、つまり奪格だと解釈しているのでしょう。 この場合、abhisamaya の意味が通達、洞察、理解を示す paTivedho で言い換えられていますから、 abhisamaya を理解と解釈することが支持されるわけです。 このことは既に629氏も「彼に現観、すなわち理解がある」と訳しているように承認されています。 ですからabhisamaya を理解と解釈することは十分根拠があることだということが確認できたと思います。 ですが私はA説の方が原義だったと思います。こちらの方が漢訳によっても支持されますから。 いずれにしても符合も理解もたいして意味はかわらず、懸案の「わかった」と矛盾しないと思います。
76 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/30(火) 22:28:58 ID:Vb+QfZNY
>>71 > 悟らない普通状態では輪廻は前提されているといえます。
>
> カルマ(kamma)は、「業」としばしば漢訳されますが「行為」のことだと思います。
> 「カルマあれば来世あり…」は、例えばどの経典のどの箇所でしょうか?
たとえば、これなんかがそうだと思っています。
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/kokoro/shinjin/fuse_04_1.html 「この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵り退け、
他人が与えようとするのを妨げる人々、
−−かれらは、地獄、畜生の胎内、
ヤマ(閻魔)の世界に生まれる。
もしも人間の状態になっても、貧窮の家に生まれる。
そこでは、衣服、食物、快楽、遊戯を得ることが難しい。
愚者たちは、それを来世で得ようと望むが、
彼らにはそれが得られない。
現世ではこの報いがあり、死後には悪いところに堕ちる」
「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、
もの惜しみをしない人々が、
ブッダと真理の教えとに対して信仰心あり、
修行者の集いに対して熱烈な尊敬心を持っているならば、
彼らは天界に生まれて、そこで輝く。
もしも人間の状態になっても、富貴な家に生まれる。
そこでは、衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。
また〔来世には〕他人の蓄えた財物を、
他化自在天のように、喜び楽しむ。
現世ではこの報いがあり、死後には善いところに生まれる」
(相応部経典1-59『もの惜しみ』)
77 :
名無しさん@3周年 :2005/08/30(火) 22:45:44 ID:kd/4whJR
>74 >atha vA yoniso manasikArA ahu paJJAyAti yoniso manasikArena ca paJJAya ca abhisamayo ahu. yoniso manasikArena と言い換えていますから、具格ではないですか? したがって、二説とも具格であり、saddhim 支配の方は結合の義、後者は手段の義だと思いますよ。
78 :
:2005/08/31(水) 05:34:59 ID:nrms+6EV
>>75 >この場合、abhisamaya の意味が通達、洞察、理解を示す paTivedho で言い換えられていますから、
>abhisamaya を理解と解釈することが支持されるわけです。
>このことは既に629氏も「彼に現観、すなわち理解がある」と訳しているように承認されています。
>ですからabhisamaya を理解と解釈することは十分根拠があることだということが確認できたと思います。
理解の概念を拡張させればそれもあり。それは共通認識だとおもう。けれども、ここから以下の結論
を導きだすのには飛躍がある。説明不足だ。
>いずれにしても符合も理解もたいして意味はかわらず、懸案の「わかった」と矛盾しないと思います。
「理解があった→わかった」であった場合、文法的な曲解がないと言いきれるか?目的語を取らない構文
で、なぜ目的語が必要な意味を見出すのか?abhisamayaを主語としない理由は?主格なら、補語もあり
だがこの場合に適用されないばかりか筋違いだ。まずそのあたりの説明が必要だ。
79 :
暇人 :2005/08/31(水) 07:09:58 ID:jEJzuyCR
80 :
暇人 :2005/08/31(水) 07:36:28 ID:jEJzuyCR
>>76 悪い行為したら死後に「地獄」とか「悪いところ」に行くよ
良い行為をしたら死後に、他化自在天のような喜び楽しめる「良いところ」に
行けるよ。
だから三宝に帰依し、ケチケチ物惜しみせず 気前良く分かち与えうね。
という自因自果の教説ですね。
「カルマあれば来世あり」というより、この部分では、来世は前提されて
おり、「前提された来世」がまずあり、どこへ生まれるかは、
今の生きかた次第だという教説ですね
殊に「来世の生天」が目的化されており、
<カルマなければ来世無し>には直ちにつながらないとおもいます。
良い行為(カルマ)を推奨していますように思います
81 :
:2005/08/31(水) 08:20:43 ID:nrms+6EV
>>79 >詳しい論稿有難うございます。
暇人さんは(*)さんの発言を「論稿」と捉えられるのですか?
私は(*)さん含め、「論稿」などという意識は無いと考えています。
所詮2chですから喫茶店話程度の乗りではないでしょうか?
そんなに力を入れると苦しいですよ。
82 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/31(水) 09:23:06 ID:fNN0Tw64
>>80 152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。
276 争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行僧は、目ざめた人(ブッダ)の説きたもうた理法を、説明されても理解しない。
277 かれは無明に誘われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。
278 実にこのような修行僧は、苦難の場所に陥り、母胎から他の母胎へと生まれかわり、暗黒から暗黒へと赴く。死後には苦しみを受ける。
535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。
スッタニパータ<中村 元訳>
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta0.htm とりあえず、コピペのみ。
コメントは後ほど。
83 :
。。。 :2005/08/31(水) 10:06:15 ID:ZQjkOD0/
>>66 無宗ださん、コメントありがとうございました。
http://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html ARIYA ATTANGIKA MAGGA (アリヤ・アッタンギカ・マッガ : 八正道<はっしょうどう>)
Ariyaは「聖なる」、atthangikaは「八支の」、maggaは「道」。
1.正見(正しい見解)、2.正思惟(正しい考え方)、
3.正語(正しい言葉)、4.正業(正しい行動)、
5.正命(正しい仕事)、6.正精進(正しい努力)、
7.正念(正しい気づき)、8.正定(正しい精神統一)
の八つから成ります。
>煩悩をなくす方法は、この八つの道しかありません。
>ですから八正道は、中道(majjhimâ patipadâ)の具体的な実践法でも
>あるのです。
「正しい」の内容が難しいですねえ。特に「正念」とか。何をどう念じたら
良いのやら。
84 :
名無しさん@3周年 :2005/08/31(水) 20:30:24 ID:vmlDo+Dj
>>72 「「単なるわたし」=「変化するわたし」」も「「さまざまに変化してゆく物の根底にある
持続的なもの」であるわたし」があるからこそわたしと特定できる。
>「さまざまに変化してゆく物の根底にある持続的なもの」はない
とする考え方は建前の上でも実際の面でも妥当とはいえない。
85 :
名無しさん@3周年 :2005/08/31(水) 21:31:41 ID:zagl7FCO
「わたしと特定」していると思うことが実は勘違いでしょう。 いもしない「わたし」を、いるかのように勘違いしてるだけ。1秒前の「あなた」はもう死んでおり、1秒後にはあなたも死ぬ。
86 :
暇人 :2005/08/31(水) 21:34:20 ID:a45FCnRq
>>82 スッタニパータ152「再び母胎に宿ることがない」は、
訳注に拠れば「迷いの生存に戻ることはない」を意味するそうだが、
これが来世として、『カルマなければ来世無し』と言うより、
『正しい行為実践』=「つまりカルマ(行為)あり」なので、
「迷いの生存に戻ることはない」(来世なし)ではないだろうか。
「慈しみのこころ」を起こし、全世界の生きとし生けるものを
分け隔てなく慈しむ。その実践(カルマ)の結果、来世なし、と。
87 :
暇人 :2005/08/31(水) 21:34:59 ID:a45FCnRq
>>81 ( ^-^)_旦~~
談話室なのでまったりされてください。
論稿もあり、雑談もありの茶話会でよろしいのでは、と思います。
>>84 様々なお考えがあると思います。
私は原始佛教の「五蘊無我」の「我」を「実体」と解釈します。
あなたはあなたの解釈をご自由にされてください。
88 :
名無しさん@3周年 :2005/09/01(木) 02:56:15 ID:KPNspXVZ
>「わたしと特定」していると思うことが実は勘違いでしょう。 >いもしない「わたし」を、いるかのように勘違いしてるだけ。1秒前の「あなた」はもう死んでおり、1秒後にはあなたも死ぬ。 仕事上で失敗して関係者にいいわけ。 「1秒前の「わたし」はもう死んでおり、さらに1秒後には今のわたしも死ぬ。」 飲み屋で一杯やっていい気持ちになって、勘定を済ませるときに 「1秒前の「わたし」はもう死んでおり、さらに1秒後には今のわたしも死ぬ。」 苦労のすえ希望の難関校へ合格した後 「1秒前の「わたし」はもう死んでおり、さらに1秒後には今のわたしも死ぬ。」 宝くじの一等三億円が当たったときに 「1秒前の「わたし」はもう死んでおり、さらに1秒後には今のわたしも死ぬ。」 「さまざまに変化してゆく物の根底にある 持続的なもの」があるとする主張は必要である。 あえて「実体」を否定しようとするなら、せめて適用条件を示すべき。
89 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/01(木) 06:43:41 ID:c8ubZU+I
暇人さん、おはようございます。
業報思想、自業自得。そして、断見を否定することは、
今生の自業を、自得するための来世を必要とする。
永遠の輪廻は、常見に堕するが、輪廻からの解脱が説かれていれば常見とはいえない。
>>86 :暇人:2005/08/31(水) 21:34:20 ID:a45FCnRq
> 『正しい行為実践』=「つまりカルマ(行為)あり」なので、
> 「迷いの生存に戻ることはない」(来世なし)ではないだろうか。
私自身、業と、渇愛、執着をかなり、ごっちゃに使ってしまっているが、
良い業は、善趣の来世を約束し、
悪い業は、悪趣の来世を約束する、と考えている。
仏教は輪廻からの解脱を説く。
どうなんでしょう?
> カルマあれば来世あり
> カルマ生じれば来世生じる
> カルマなければ来世無し(解脱する)
> カルマ滅すれば来世滅す(涅槃を得る)
カルマを使わずに、
[愛・取]あれば来世あり
[愛・取]生じれば来世生じる
[愛・取]なければ来世無し(解脱する)
[愛・取]滅すれば来世滅す(涅槃を得る)
なら、同意していただけますか?
90 :
暇人 :2005/09/01(木) 07:14:49 ID:OyfEwaVE
>>88 >1秒後
五蘊無我ならば、刹那に滅するんだ。
刹那滅だが、根底に連続・相続しているものがあるんだ
として、部派仏教時代は、プドガラを主張した部派があったり
したそうです。
まず第一に原始佛教の「五蘊無我」とはどういう意味かを探っています。
経験世界上での正しさ あるいは経験世界のスムースな進行上、仮に
「変化しない連続体」があると見なしていることとは別問題かもですね
それと
一秒後ならば変化は少ないかもわからない。
30年後ならばどうなのだろうか。
「30年前のわたし」と「今の私」と「30年後のわたし」も
また「わたし」であるが、身体も変化しているだろうし、
まして心や考え方、感じ方も変化しているだろうし、
さて何が根底にあって「変化しないわたし」なのであろうか。
私には「変化しつづけているわたし」しか見当たらないが
91 :
暇人 :2005/09/01(木) 07:21:57 ID:OyfEwaVE
>>89 ダンマパダ
15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、
ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、
憂え、悩む。
16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、
ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が淨らかなのを見て、
喜び、楽しむ。
「悪因苦果 善因楽果」が仏教の初等倫理ですね。
解脱は、輪廻(迷いの生存)からの離脱ですね。
「作さるべきことは成された」からだと思います。
その一つに「愛・取」の克服があるかもですね
92 :
暇人 :2005/09/01(木) 07:29:36 ID:OyfEwaVE
ちなみにスッタニパータ偈に業(kamma)がある箇所を検索してみました 127 136 141 142 152 164-166 178 217 234 255 264 265 326 332 363 367 390 409 420 427 540 590 599 602 653-657 664 669 古層の四章 903 904 950 966 970 古層の五章 984 990 996
93 :
名無しさん@3周年 :2005/09/01(木) 10:20:16 ID:2sPZhvWb
(*)が自説を撤回したのに暇人はスルーかよ。
94 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/01(木) 10:38:39 ID:WrXPl7+I
fu-mu (*)氏が自説を撤回した根拠と 暇人氏の主張の根拠との間に 依存関係の無いことがわからん人も存在するんだw
95 :
名無しさん@3周年 :2005/09/01(木) 10:50:21 ID:sopQ7Hsj
>>93 実際には悔しくて撤回しきれてないのな。属格から奪格に変身して再登場。
それをまたまた
>>77 ,
>>78 にあっさり撃破されているから、もう(*)はでてこれないとおもう。
96 :
。。。 :2005/09/01(木) 10:53:04 ID:nlmqeOYj
連続体に目盛りを打っても、その間の連続体が消えるわけでもないし。 実数で区切れば、その間には無理数があるし。またその間には、数式では 表現できない絶対無理数?があるし。時系列が一次元だと思っているけど、 2次元、3次元、〜無限次元の複素時系列がありうるかもしれないし。 時系列を刹那で区切るのは無理でしょう。と、超文系らしくわけの分からぬ 事を書いてみました。 数学の先生、批評してください。(ただいま複素関数で苦しんでいます。)
97 :
。。。 :2005/09/01(木) 12:14:12 ID:nlmqeOYj
本当は「数」は無限次元じゃないの? →先生教えて!
98 :
暇人 :2005/09/02(金) 06:32:01 ID:4HQyyS7u
では閑話休題 ■原始仏教参考文献 ●パーリテキストの現代語訳 中村元「ブッダのことば」(スッタニパータ) 岩波文庫 中村元「ブッダの真理のことば・感興のことば」(ダンマパダ)岩波文庫 中村元「ブッダ神々との対話」(サンユッタ・ニカーヤT)岩波文庫 中村元「ブッダ悪魔との対話」(サンユッタ・ニカーヤU)岩波文庫 中村元「仏弟子の告白」(テーラガーター)岩波文庫 中村元「尼僧の告白」(テーリーガーター)岩波文庫 中村元「ブッダ最後の旅」(長部第16経)岩波文庫 小部経典に属するスッタニパータ・ダンマパダ・長老偈・長老尼偈は、 原始経典の中でも古層に属すると推定され、相応部のうちの古層と 言われる最初の部分を二分冊で訳されている中村元の岩波文庫シリーズは 文庫ならではのリーズナブル価格と、本邦の権威中村元の注釈付きという お得なセットになっている。 ブッダ最後の旅も釈尊の最期を描いた経典として重視されている経典である。 ご参考に
99 :
。。。 :2005/09/02(金) 09:55:46 ID:DMy0oJEY
100 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 11:16:52 ID:X+6l2E15
>90 >「30年前のわたし」と「今の私」と「30年後のわたし」も >また「わたし」である >私には「変化しつづけているわたし」しか見当たらない
101 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/02(金) 12:31:19 ID:dXVUeXMr
>>88 :名無しさん@3周年:2005/09/01(木) 02:56:15 ID:KPNspXVZ
> 「さまざまに変化してゆく物の根底にある
> 持続的なもの」があるとする主張は必要である。
> あえて「実体」を否定しようとするなら、せめて適用条件を示すべき。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism34.html 同じ味噌ラーメン(2)
ここでの議論が面白い。
<--
一秒前のラーメン(原因)と今のラーメン(結果)の間には、
同一存在でもなく別異存在でもない、ある特殊な依存関係がある、というわけです。
それがまさに彼の言う縁起の関係です。
-->
常住不変な実体はなくとも、
常識的な判断により、
その連続性によって同一性の判断は可能だと考える。
逆に、「ラーメンの根底にある持続的なもの」を主張することは不可能なのでは?
102 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 12:49:07 ID:1jIKJsTs
>>88 氏名住所生年月日という個人情報に対して、負債や合格通知や財産がついてくるのです。
山田タロウという名称の形体と、その瞬間自分が山田タロウだと思ってるマインドとは、別個です。
103 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 12:58:03 ID:1jIKJsTs
>>90 たとえばある芝居で複数の役者さんがいて、第1幕では役者1が主人公を演じ、第2幕では役者2が主人公を演じたとする。
演じている役者は別人でも、舞台の上では同一人物としてふるまい、第1幕で得た記憶や財産を、第2幕でも引き続いて所持している。
われわれは、刹那に出番を交替する役者です。
104 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 13:00:37 ID:1jIKJsTs
自分が相手役に交替するかもと思っていたら、相手をいじめることはできない
105 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 16:36:07 ID:jGSr6LIo
ある人にはある名前がある。 ある人はある所に住んでいる。 ある人はある日に生まれた。 ある人にはある額の負債がある。 ある人はある学校に合格した。 ある人には財産がある。 「山田タロウという名称の形体」 ある人には山田タロウという名前がある。 「自分が山田タロウだと思ってるマインド」 ある人は「自分が山田タロウだと思ってるマインド」を持っている。 あなたは「自分が自分だと思ってるマインド」を持っていないのか? あなたが「自分が自分だと思ってるマインド」を持っていないとしても、 あなたのいう「〜という名称の形体」とは情報でもあり事実でもある。
106 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 17:28:21 ID:1jIKJsTs
>>105 訂正。「名称の形体」→「名称と形体」
山田タロウの名称と形体を自分だと思っているマインドが、次の瞬間には別人田中ハナコのマインドに移転しているかもしれません。
山田タロウと田中ハナコは、変化しつづける同一のマインドが一人二役を演じているのかもしれません。ただしそのマインド自体変化している
107 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 18:17:48 ID:1jIKJsTs
何ひとつ「わたし」の所有物が無いのと同時に、すべてのものが「わたし」の所有物でもあります。 「わたし」も「わたし以外」も、すべて「わたし」であり、だからこそ「わたし」など無いのです。 自分の右手から左手にお金を移動させた時、右手君になったつもりで想像したら、右手君は左手君にお金を奪われたと感じることでしょう。 しかし、実は右手君も左手君も同一人物の一部だから、お金が右手から左手に移動しても、悲しむ必要はありません。 同じように、この世で誰が死んで誰が生まれても、悲しむ必要がないのです。
108 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 19:14:23 ID:pnqn9Yfv
ケチャップさんでつか? おかねくだつぁい。
109 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 19:39:28 ID:1jIKJsTs
はい、けちゃっぷどぇす
110 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 20:17:57 ID:1ietZL7j
暇人にしろ無宗だにしろ、なんて失礼なやつなんだ。 (*)の自説撤回をスルーしてやがる。 スレ全体にたいしても不誠実ですなあ。 侘びをしないといけないだろ、侘びを。しっかりあやまったらどうだい。
111 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 20:58:54 ID:ORdBjHgt
登場できないのは、電波、629と思われ。 まったく違う箇所を比定した上、読みも悪かった。 謝るといえば、電波の水野如来衆生説は決定的な誤りだ。 まだ一言もないが、それは不誠実とは思わないかい?
112 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 21:17:03 ID:1ietZL7j
>111 あんたもバカだね。 もともとも問題になっていた経文はサンユッタニカーヤだろ。いきなりDNのアッタカターとティーカーをもって来る方がおかしい。 そもそも(*)がDNのアッタカターの「訳」をもってくるほうがどうかしている。 SNの釈をひっぱってきた629が当たり前のことをしているわけだ。 さらに、DNのあれSNのであれ、同じく佛音の釈で、(*)がいうところの微妙な違いは格形の違いではない。 同じ具格をどう読むかという違いであって、今回問題になっている箇所でいうと、どちらの釈をもってきても 本質的な違いはなかった。
113 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 21:31:38 ID:1ietZL7j
>111 読みが悪いって、あんたパーリを読めないだろ。 アオリストを現在に訳した以外は正確な訳だったな。 (*)の誤読を指摘するにはむしろそっちの方が正解だった。
114 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 21:46:00 ID:1ietZL7j
>111 >112につけたし。 (*)が告白するように、DNのアッタカターは、SNのに示された二つの解釈のうち、一方だけを 挙げたもので、それ以外の違いは無い。 SNのアッタカターに示した解釈は具格をどう読むかという二釈であって、(*)が他人の訳から主張した属格の根拠にはなっていない。
115 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 21:54:54 ID:ORdBjHgt
じゃ、あんたはyonisomanasikArAを具格と読むのかい。 これは奪格としか読めず、paJJAyaは 奪格とも読めるから同格に読めるんだが。 なにより、電波の水野如来衆生説はどうなんだい。 こっちは、いくつも証拠を出されても認めず、ゴネまくったあげく、 動かぬ証拠を突きつけられて、認めざるえなくなったものだ。 これを、なんであんたは避難しないんだい。 しかも、この解釈によって無記説の内容が左右される重要な問題だ。
116 :
暇人 :2005/09/02(金) 22:02:01 ID:zPrp5xCx
水野如来衆生説は、「ちょっとした思い違い」だそうです(笑) まあまあまあ ここでは まったりいきましょう。 バトルは15で
117 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 22:12:08 ID:1ietZL7j
>115 どうして奪格としか読めないの?あんたの言い分は暇人や無宗だと同じ強弁だよ。 >77が指摘している通りで正解。
118 :
名無しさん@3周年 :2005/09/02(金) 22:25:43 ID:ORdBjHgt
強弁は電波だろう。水野衆生説が典型だ。水野衆生説には答えないあんたも強弁の典型だ。 まあ、暇人氏の言葉もあるし、強弁者には何をいっても無駄だな。
119 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/03(土) 06:53:25 ID:rX7e1nKt
120 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/03(土) 06:57:56 ID:rX7e1nKt
>>116 :暇人:2005/09/02(金) 22:02:01 ID:zPrp5xCx
> 水野如来衆生説は、「ちょっとした思い違い」だそうです(笑)
それは、周りにそう思っている人がいるというだけでしょう?
本人は、未だに、
・発言の根拠の提示
・発言の撤回
のどちらも行っていないと私は認識しているのだが。
121 :
名無しさん@3周年 :2005/09/03(土) 07:42:01 ID:y4bv18vt
水野衆生説が目下のの文法議論に何の関係があるんだ?ごっちゃにしてこじつけるほうが はるかに強弁だろう。
122 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/03(土) 07:50:27 ID:rX7e1nKt
>>121 :名無しさん@3周年:2005/09/03(土) 07:42:01 ID:y4bv18vt
> 水野衆生説が目下のの文法議論に何の関係があるんだ?
そうだね。全く関係ないと私も思う。
> ごっちゃにしてこじつけるほうが
> はるかに強弁だろう。
っていうか、論点を分けて論じるのは議論する上での基本だよね。
そして重要なのは、
×誰が主張しているか
ではなくて
○何が主張されているか
だよね?
123 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/03(土) 07:51:39 ID:rX7e1nKt
結論 誰が強弁かを論じることには意味がない。
124 :
名無しさん@3周年 :2005/09/03(土) 08:19:42 ID:XAzKwAvg
>>121 何いってんだ、
110 名前:名無しさん@3周年 メール: 投稿日:2005/09/02(金) 20:17:57 ID:1ietZL7j
暇人にしろ無宗だにしろ、なんて失礼なやつなんだ。
(*)の自説撤回をスルーしてやがる。
スレ全体にたいしても不誠実ですなあ。
侘びをしないといけないだろ、侘びを。しっかりあやまったらどうだい。
この発言、ここでは誠実さといった態度が問われている、
それなら、電波の水野如来衆生説の決定的な誤りが謝罪されてないのに、
何故、そちらはとりあげないんだ、と言ってるだけだろう。
どうせ、電波自身が 1ietZL7j、y4bv18vtだろうから、それはできないだろうが。
125 :
。。。 :2005/09/03(土) 09:22:28 ID:Iukns/bv
原始仏教の談話 しませんか?
126 :
名無しさん@3周年 :2005/09/03(土) 19:57:59 ID:0wA4qFcu
>124 あんたのはごっちゃにしてこじつけ。 そんな理屈が通ったら、白も黒になってしまう。 そんなあんたを世間では バ カ という。 (*)の尻馬にのって629や電波男その他をさんざん罵ったんだから 暇人にしても無宗だにしても、(*)の自説撤回についてはきっかり 侘びを入れてた上で、(*)に対するおのれらの見解を明らかにする 義務がある。
127 :
名無しさん@3周年 :2005/09/03(土) 20:37:17 ID:XAzKwAvg
罵った? それは 629や電波男の所行だろう。特に 電波男な。今、問題の お と こ
128 :
名無しさん@3周年 :2005/09/03(土) 20:59:48 ID:XAzKwAvg
0wA4qFcu等、電波の分身、つまり電波はほんと自分のことは完全棚上げだな。 罵倒が一番多いのは、あんただろ。しかも言葉は恫喝じみて、しかも差別用語満載だ。 そのくせ他人にちょっとでも異見されると、詫びろ詫びろ詫びろ、と。 ほんとに最低の人間だな。はやくその態度を改めないと後悔するぞ。
129 :
暇人 :2005/09/03(土) 21:09:16 ID:aPMo2tIC
まあまあ
>>6 を理解されていない。
つまり流れを読まれていないだけでしょ。
130 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/09/03(土) 22:02:16 ID:2HcDlAKh
自演疑惑、いい加減うざいんだけど?
131 :
名無しさん@3周年 :2005/09/03(土) 23:25:04 ID:XAzKwAvg
水野衆生説については何もなしですか?
132 :
名無しさん@3周年 :2005/09/03(土) 23:59:04 ID:nE71tIYY
>>130 僕ちゃん電波サン好きになったな。僕ちゃん電波さんのファンで〜す。
「談話室」じゃあ紛らわしいな。キリスト系のスレみたいで。
134 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/04(日) 06:24:30 ID:Eza2GC5C
>>91 :暇人:2005/09/01(木) 07:21:57 ID:OyfEwaVE
> 解脱は、輪廻(迷いの生存)からの離脱ですね。
> 「作さるべきことは成された」からだと思います。
> その一つに「愛・取」の克服があるかもですね
つまりは、
解脱なければ来世あり、
解脱すれば来世はない。
ということか。
解脱は涅槃の状態になることだと思うのだが、では涅槃とは何か?
四諦の滅諦は、苦の滅であるが、これを涅槃と考えて良いのか?
水野氏の「仏教要語の基礎知識」p183によれば、
・滅諦
・渇愛が残りなくすべて滅すること(渇愛は一切の煩悩を代表したもの)
・涅槃
・一切の煩悩が滅尽した状態
・貪欲・瞋恚・愚痴の滅尽
はすべて同じものに思われる。
どこかで、苦の滅の後、滅尽定にて、残りの煩悩を滅するという説明を読んだ気がするが、
これは私の読み間違い、記憶違いか?
135 :
暇人 :2005/09/04(日) 06:25:25 ID:cKJEBVEx
あまり知られてないが天理教談話室というのもあります
136 :
暇人 :2005/09/04(日) 06:30:05 ID:cKJEBVEx
「生が尽きた(khINA jAti)、 梵行は完成した(vusitam brahmacariyam)、 作さるべきことは成された(kataM karaNIyam)、 再び此処の状態に至らない(nAparaM itthattAya)」 これが悟りの定型句ですね。
137 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/04(日) 06:37:11 ID:Eza2GC5C
>>92 > ちなみにスッタニパータ偈に業(kamma)がある箇所を検索してみました
暇人さん、おはようございます。
ちなみに、この検索作業は具体的にはどのような手順で行われたのですか?
どこかのWebサイトにアクセスし、webブラウザーの検索機能で実現できるものなのでしょうか?
しかし、訳だけみても、どの語が業(kamma)に対応するのか私には特定できません(汗)
> 古層の四章
> 903 904 950 966 970
> 古層の五章
> 984 990 996
古層というからには、古いんだろうとは予想がつきますが、
具体的に、どう考えればいいのでしょうか?
> 984 990 996
は五章 の◆<1、 序 >◆にあたりますが、
序や結語も合わせて、古層と呼ばれているのでしょうか?
138 :
暇人 :2005/09/04(日) 07:07:00 ID:cKJEBVEx
nibbAnaは、(nir-vA)「吹き消す」という語からできたのではと推定されている そうです。 ・貪欲・瞋恚・愚痴の滅尽 たとえば ダンマパダ369「むさぼりといかりを断ったならば、汝はnibbAnaに趣くであろう。 ・渇愛が残りなくすべて滅すること たとえば ウダナ「すべての愛執の滅尽によって、貪りを残りなく滅することがnibbAnaである」 あと、「無執着」「無漏」「不虚妄法・真実・無為」「不死・不滅」「寂静」「安穏」 「清涼」「解脱」など関連して説かれるnibbAnaはあるみたいですね
139 :
暇人 :2005/09/04(日) 07:14:34 ID:cKJEBVEx
140 :
暇人 :2005/09/04(日) 07:22:46 ID:cKJEBVEx
127. Yo katvà pàpakaü kammaü mà maü ja¤¤àti icchati, Yo pañicchannakammanto taü ja¤¤à vasalo iti. は、「kammaü」です。これは「kammaM」のことで単数の主格か対格です。 136. Na jaccà vasalo hoti na jaccà hoti bràhmaõo, Kammanà vasalo hoti kammanà hoti bràhmaõo. 「Kammanà」は、語尾変化が「anA」ですので具格か奪格とか そんな感じです
141 :
暇人 :2005/09/04(日) 07:29:32 ID:cKJEBVEx
一般的にスッタニパータでは、四章と五章が古い成立と言われています。 個々の偈についてはわかりません。 ただご指摘ありました序部分は古くない可能性がありますね。
142 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/04(日) 07:43:32 ID:Eza2GC5C
143 :
暇人 :2005/09/04(日) 07:48:34 ID:cKJEBVEx
ですね。私のメモガキには 検索結果が以下とあります では でかけます 984. Ugghaññapàdo tasito païkadanto rajassiro, So ca naü upasaïkamma satàni pa¤ca yàcati. 990. Utrastaü dukkhitaü disvà devatà atthakàminã, Bàvariü upasaïkamma idaü vacanamabravã. 996. So hi bràhmaõa sambuddho sabbadhammànapàragu, Sabbàbhi¤¤àbalappatto sabbadhammesu cakkhumà. Sabbakammakkhayaüpatto vimutto upadhikkhayà.
144 :
名無しさん@3周年 :2005/09/04(日) 22:48:33 ID:NrtxSbmf
>>61 >つまり心身のどこを探しても、「変化しないわたしという実体」はない
>ということでしょうね。
>@わたしは、五蘊以外にあり得ない。
わたしは、五蘊以外にあり得ない。
>>90 >経験世界上での正しさ あるいは経験世界のスムースな進行上、仮に
>「変化しない連続体」があると見なしていることとは別問題かもですね
経験世界上での正しさ 進行上、「変化しない連続体」はある
矛 盾
145 :
。。。 :2005/09/05(月) 11:24:08 ID:w/76xDyi
テーラガーターには「五蘊の外に我有り」と書いている。 「それが分からない人には真実が見えないだろう」とも書いている。
146 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/05(月) 12:57:36 ID:xK3+2RZF
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/bunnka/rinne.html 倫理的要請としての輪廻
<--
ニーチェは、キリスト教道徳を否定するために、「神は死んだ」と宣言したが、
その神とは因果にほかならかった。
ニーチェは、すべての倫理を否定し、人間は本能に忠実に従って生きるのが幸せだといったことになる。
近年、わが国では、本能的な衝動に駆られた理不尽きわまりない残虐な事件が頻発しているが、
草葉の陰で、さぞかしニーチェがほくそ笑んでいることであろう。
-->
このあたりを読むと、
ニーチェは、六師外道のひとり、
プーラナ・カッサパ(道徳否定論) [不蘭迦葉]
の生まれ変わり(w)ではないかと思ってしまいます。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/99_03_14a.html <--
プーラナ・カッサパは、「奴隷の子であり、その主人の牛舎で生まれ、主人のもとから逃れ、
そのとき衣を取られて以来、裸形でいたといわれる。
かれによると、生きものおよび人間の体を切断し、苦しめ、悲しませ、おののかせ、生命を奪い、
与えられざるものを取り、家宅侵入・掠奪・強盗・追剥・姦通・虚言などをしても、
少しも悪を為したのではない。
悪業に対する報いも存在しない。
また祭祀を行っても、施し、克己、感官の制御、真実を語ることによっても、善の生ずることはなく、
また善の報いも存在しないという」
-->
147 :
名無しさん@3周年 :2005/09/05(月) 21:13:51 ID:Qv1BvVGv
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。 「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、 耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、 身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と 呼ばれるものです。誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、 と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。 さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。 何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。 (サンユッタニカーヤ 33.1.3)
148 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/05(月) 23:53:40 ID:o46UqYHU
149 :
名無しさん@3周年 :2005/09/06(火) 10:09:04 ID:F3a86L8v
論を 造ってはならない
150 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/06(火) 19:33:02 ID:BWLy5bgE
そうではない。今、この論を造るのは、勝敗のためでも、利益のためでも、名誉のためでもない3。そうではなく、ただ善悪のさまざまなありさまを明らかに示そうとして、この論を造るのである。
151 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/07(水) 06:35:05 ID:EFcNRnsz
今生における自業自得は、簡単に経験できる真理である。 とすれば、これを三世に拡張することは、 ごく自然な心と心の作用である。 冬来たりなば、春遠からじ を信じるのと同じことである。 来世を否定することは、自業自得の否定に他ならない。
152 :
名無しさん@3周年 :2005/09/07(水) 14:14:24 ID:bzgcPhJK
そうだとしても、支離滅裂であることに変わりはありません。 いったい何を主張したいのですか?
153 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/07(水) 23:13:10 ID:EFcNRnsz
五感官によって知られるものは時に誤り(虚偽)がある。 ただ知恵のみが諸法を正しく観ることができる。これが最高である。 例えば、灼熱時の陽炎、旋火輪、蜃気楼は、直接知覚されるけれども、真実ではない。 また、特徴をはっきりと把捉できないため、誤って見ることもある。 例えば、夜に杭を見て人だろうかと疑うように、 目を指で押して見ると、二つの月が見えるように、 誤った知を事実としてしまうようなものである。
154 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/08(木) 06:40:32 ID:5xzvu9re
おそらく、衆生説というのは、 輪廻の否定と深く結びついているのだろう。 輪廻を肯定していれば、 解脱していない人(=衆生)は、死後生まれ変わる ことがあたりまえで、 無記ではある必要はないのだから
155 :
名無しさん@3周年 :2005/09/08(木) 09:16:44 ID:vUND47Ks
>>148 > 優等生のパルメニデスは述べる。
> 「人間は、感覚に頼るべきではなく、理性によって論理的に考えるべきだ」と。
無宗出さん、私の関心あるパルメニデスの名前を挙げてくださいましたね。
縁起と空の思想を理解しているなら、プラトンのパルメニデスはすごく参考になると思います。
そして、勉強する価値があると思います。
156 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/08(木) 12:35:26 ID:pRrIR3iO
157 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/08(木) 12:37:39 ID:pRrIR3iO
諸行無常、諸法無我は、仏教における真理である。 また、 涅槃寂静も、仏教における真理である。 では、涅槃は常住不変か、もしくは、無常か? 涅槃が常住不変とすれば、 これは、諸行無常、諸法無我と矛盾する。 さて、この矛盾をいかにして解消するか? 涅槃は、出世間にあり、三界にはない。 諸行無常、諸法無我は、三界における真理である。 と結論付けることにより、矛盾を解消する。
158 :
名無しさん@3周年 :2005/09/08(木) 21:36:33 ID:vUND47Ks
>>156 ほんの少し紹介しょうか。
パルメニデスより。
いざや、私は汝に告げよう、汝この言葉を聞いてよく受け入れよ。
探求の道として考えられるのは、ただこれらあるのみぞ。
即ちその一つとは「ある」そして「あらぬことは不可能」という道、これは説得の女神の道である「真理に従う故に」。
他の一つとは「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道、この道は全く尋ね得ざる道であることを私は汝に告げる。なぜならば、汝はあらぬものを知ることもできなければ「それは為し得ぬこと」、語ることも出来ないから。
V
なぜならば、「思惟すること」と「あること」とは同じであるから。
W
現前してはいないけれども、知性には現前しているものを、しっかりと見よ。
あるものがあるものにつながっているのを切り離すことは出来ぬであろう、ーーーそれが秩序を為してあらゆるところにあらゆる仕方で散らばっているにせよ、集まっているにせよ。
X
どこらは始めようと、私にとっては同じこと。そこへ私は、何時か再び帰り着くであろう。
Y
あるものがあると語りかつ考えねばならぬ。なぜなら、
それがあることは可能であるが、無があることは不可能だから。
このことをとくと考えるよう、私は汝に命ずる。
探求の道として、私が汝を遠ざけ禁ずるのは先ずこの道「無の道」、
しかし次には死すべき人間どもが何一つ知ること無しに、
頭を二つ持ちながらさ迷い歩く道を汝に禁ずる。
即ち彼ら死すべき者どもの胸の中では、困惑がその迷い心を導き、
彼らは耳しいにしてまた目しい、他だ呆然ともの知り分ち得ぬ群衆となって引き回される。
彼らはあるとあらぬが同じであり、かつ同じでないと見なす。
彼らにはあらゆるものについての逆向きの道がある。
159 :
名無しさん@3周年 :2005/09/09(金) 01:07:42 ID:Akp559ZF
ここに修行者またはバラモンが善なる理法に達することがあるかも しれない。しかし、かれは善なる理法に達しても、他人に宣説しない ほうがいい。 人 は 他 人 に 対 し て 何 を な し 得 よ う ぞ 。 他人に対して説くのは、あたかも古い束縛を断ってさらに新たに 束縛をつくるようなものである。これは悪い、むさぼりの事柄である。
160 :
名無しさん@3周年 :2005/09/09(金) 07:50:40 ID:3T3g+bGW
>>159 意味深なことをおっしゃる。しかし、このような説に対して、釈迦は直ちに同意していなかったと思うよ。
161 :
名無しさん@3周年 :2005/09/09(金) 08:09:49 ID:3T3g+bGW
ニルバーナの扱いをてこずることが多いようなのだ。 パルメニデスは、ニルバーナこそ「有るもの」としていると思う。 ニルバーナ以外は有るものではないのだ。 仏教は、空をニルバーナとしている。この空こそ有るものであり、 諸法は無いのだ。
162 :
名無しさん@3周年 :2005/09/10(土) 00:03:38 ID:7LE3pL9D
また空教のお出ましだ。 >この世は泡沫のごとし、陽炎のごとしとみよ。 >そのように観ずるものは死王も彼をみない。 ニルバーナこそ「有るもの」。なのは間違いないが、空=縁起なのだから 空とは、この世は無自性なものであるということを説明してるにすぎないんだよね。 頭でっかち達は、無理くり屁理屈捏ね回して、空をも、なぜか自性にしてしまう。 なぜ空が、ニルバーナ「在るもの」になるのか理解に苦しむ。 なんでもかんでも空で説明しようとする。連中にとっては空こそ全て。空こそが真理。 空=縁起なら、空は、所詮この世の事を説明しているに過ぎない。 この空教の妄信者達は何度言ってもわからない。 いっとくが、禅宗などは、末法の時代が生んだ邪教。あれは仏教とは別物だ。 空を間違えて解釈するととんでもないカルトを生む。 あの麻原シンパの、空の教えを利用した、開き直りとも取れる能書きを思い出す。 せっかくここはあの原始仏教のスレとは違い、いい流れだなとロムっていたが、 空教の妄信者が居つきだしたら終わりだな。 禅宗の連中が原始仏教を語りだすと、もはや原始仏教じゃなくなっていくんだよね。 この感情は釈迦の教えに反するのは重々知っているが、 この空を妄信している連中や、禅宗の者の能書きを聞くと、なぜかむかっ腹が立つ。
163 :
禅宗の者 :2005/09/10(土) 00:15:18 ID:e8NsYOQu
>>162 禅家気取りの俄か居士が御迷惑をお掛けしているようで誠に申し訳ありません。
罰警&庭詰めさせておきますので、何卒御海容の程願いあげます。 m(_ _)m
164 :
名無しさん@3周年 :2005/09/10(土) 00:26:54 ID:+IdCskQd
>>163 いえいいえ私こそ、自分の心を制することの出来ない未熟者ゆえ、失礼な書き込みを。
お気を悪くされたかた、お許しを。
またしずかにロムっていましょう。興味のない流れになればみなければすむことですし。
165 :
名無しさん@3周年 :2005/09/10(土) 05:28:58 ID:icRwXKpv
>>158 158の紹介文は、プラトンのパルメニデスでは有りません。これは、パルメニデスが、自ら
書き記した著作の抜粋です。
彼は自ら自分の思想を記録しておいたのですね。釈迦、ソクラテス、イエスとここが違うところです。
孔子、孟子、老子はどうだったでしょうか?
166 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/10(土) 11:35:01 ID:t9uSxF29
167 :
名無しさん@3周年 :2005/09/10(土) 13:32:18 ID:icRwXKpv
>166 りょうかい。 俺も少し読んでみよう。
168 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/12(月) 03:58:37 ID:iEBLkxGX
仏教の立場から見た当時の異端邪説を網羅した六十二見論(六十二種の誤った見方)によれば、
その中には四種の常見に対して、七種の断見が教えられている。(省略)
(1)四種の常見とは、過去世を憶念して、有情の身心は生死輪廻するけれども、
我と世界とは生死にわたることなく、常住不変であると主張するものである。(省略)
水野弘元著「原始仏教」p92
-------
この記述を見る限り、
> 過去世を憶念して、有情の身心は生死輪廻する
は、問題なく認証されている。
生死輪廻を信じること自体は常見ではない。
我と世界とは常住不変であると主張するのが常見である。
生死輪廻は、無色界の存在と同じくらい確かなものと言って良いだろう。
http://tetugaku.fc2web.com/butten/bonmo5.htm <--
十 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
「このようにとらわれ、このように執着している状態は、
これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう」
また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことも知るのである。
-->
169 :
名無しさん@3周年 :2005/09/13(火) 22:07:59 ID:WBHjwecE
>>162 >なぜ空が、ニルバーナ「在るもの」になるのか理解に苦しむ。
例えば、よく援用される例えであるが、立方体に日が射して、反対側に影ができているとしょう。
影と物体とは縁起の関係である。物体は確かにある面積を有し、影もまたある確かな面積を有している。
しかし、物体と影は縁起しているもの故に、実体はない。つまり、そこには物体なく、影もないのである。
物体の占めていた面積は何があるのか?影の有していた面積には何があるのか?
確かに当該面積はあるのだよ。空っぽの面積だけが有るのだ。これをあるものといって良いだろう?
空が有るのだよ。しかし、縁起していた物体とその影はないのだよ。
さてこの物体と影のような縁起関係は、あらゆるものにある。善と悪の関係も
縁起と言うべきじゃないか?そうすれば、善もなく悪もないと言うべきだろう?
かくして、「一切は空である」といわなければならないだろう?これを「理法」と
言うのは適切だよね。この理法は理解するに難しいものか?
しかし修行が難しいのだよ。どうしてもこれはありそれにつれてあれもある、と考えてしまうからだ。
つまり執着だ。仏教ではこの執着が悪なんだ。十悪とはこの執着の具体化したものなんだ。
だからこの理法を理解したら、とにかく悪といわれるどんなことでもしないようにしなければならないのだ。
心口意に八正道をする事になる。執着をなくして真理に至る事になるのよ。
170 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/14(水) 06:48:04 ID:mjluzebO
>>169 > しかし、物体と影は縁起しているもの故に、実体はない。つまり、そこには物体なく、影もないのである。
わからん。
物体と影は縁起しているもの故に、自性はない。
物体に自性なく、影にも自性はないのである。
自性のない物体と影があるのである。
> 物体の占めていた面積は何があるのか?
体積の書き間違い?
物体に自性があるかないか? アナタ、日本語ダイジョブデスカ?
172 :
名無しさん@3周年 :2005/09/14(水) 15:11:05 ID:VeI0BDFu
173 :
名無しさん@3周年 :2005/09/14(水) 15:33:00 ID:+5F7Ehdg
般若心経は途中までしかおぼえてないが 空 void その内に世界の構成要素を"ぜんぶ含み" 自分も含めて、一切合財が一体化したもの と、理解している
174 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/14(水) 17:16:05 ID:URxow/JT
175 :
名無しさん@3周年 :2005/09/14(水) 18:14:27 ID:m2jTKf1M
>>170 >わからん。
物体と影は縁起しているもの故に、自性はない。
物体に自性なく、影にも自性はないのである。
自性のない物体と影があるのである。
変化があると言うことはそこに二つのものがあると言うことになる。しかし変化はないと言うのが真理なのだ。
変化していないもの、それがあるのであり、変化はないといいたいのだから、「空」と言う「一つ」のものがある
のであり、変化している個々のものはない、と言うべきではないかと思う。
> 物体の占めていた面積は何があるのか?
体積の書き間違い?
変に思われることを承知の上で書いたが、それは、面積であろうと体積であろうと
縁起を話すときは関係がないからで、面積を否定し、体積を否定する、気持ちあが合ったのだ。
ここはやはり、「体積」、だろうね。
176 :
名無しさん@3周年 :2005/09/14(水) 18:27:40 ID:jzHWFFJV
ちょっとまって。「空」は「もの」ではないでしょう? 「○○は空だ」というのは成り立つけど。 「○○は気持ち悪い」というのが成立するからといって、「気持ち悪い」という物体が存在するわけではない。 「立方体は空だ」けれど、「空」という物体や物質が存在するわけじゃないでしょう? 五大(地・水・火・風・空)にしても、物質世界を構成する属性の説明であって、元素のことじゃないですよね?
177 :
名無しさん@3周年 :2005/09/14(水) 19:07:17 ID:m2jTKf1M
>>176 論理の究極においては、「一つのもの」があるのであり、それは〈空〉である。
このように言わなければならないのだ。
一つのものしか存在しない時、何も存在していないのだ。
178 :
名無しさん@3周年 :2005/09/14(水) 21:27:36 ID:jzHWFFJV
>>177 「一つのものしか存在しない」というように、最終的に「もの」で結ぶ必要があるのでしょうか?
「もの」ではなく「こと」ではないでしょうか?
179 :
名無しさん@3周年 :2005/09/14(水) 23:22:03 ID:m2jTKf1M
事といえば、事実を指す。物は存在を指す。 事実は物と物の関係を指す。物は物質ばかりを指さない。 経典には「物」「もの」としている。 究極の存在を求めているのだから、「もの」で良いんじゃない?
180 :
名無しさん@3周年 :2005/09/14(水) 23:34:31 ID:iJUXQhp0
中観的な万物の相互連関縁起は、初期仏教よりもむしろジャイナ教で主張された ことです。厳密な原始仏教の縁起思想は、有支縁起。
181 :
名無しさん@3周年 :2005/09/15(木) 00:11:53 ID:mwdZSRim
空は、どちらかといえば名詞じゃなく形容詞でしょ? 究極の存在なんかない、すべて空しいんだ、ってことです。
>>180 縁起におけるAがあるからBがある、
というAのBに対する「先行性」は
時間的な先行性ではないだろう。
であれば、表現の問題であって、
最初から相互依存関係を指していたと考えることができる。
183 :
名無しさん@3周年 :2005/09/15(木) 00:21:01 ID:mwdZSRim
>>179 そう、関係性が「こと」です。たとえば、「死」はできごとであって、「死」という物体・物質が存在するわけではありません。
だから、「死」は「空(しい)」なのです。
「死」とは、あいまいなものであり、はっきりした特徴がありません(無相)。ある一つの変化を、一方では生ともとれるし、一方では死ともとれますから。
「無相」ですから、執着に値しない、欲しがる価値はありません(無願)。
空・無相・無願を、三解脱門といいます。
184 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/15(木) 06:31:57 ID:M9ak6rU1
>>181 :名無しさん@3周年:2005/09/15(木) 00:11:53 ID:mwdZSRim
> 空は、どちらかといえば名詞じゃなく形容詞でしょ?
> 究極の存在なんかない、すべて空しいんだ、ってことです。
>>183 :名無しさん@3周年:2005/09/15(木) 00:21:01 ID:mwdZSRim
> 「死」とは、あいまいなものであり、はっきりした特徴がありません(無相)。
(省略)
> 空・無相・無願を、三解脱門といいます。
これらは、原始仏教の経典の中で述べられているのでしょうか?
185 :
暇人 :2005/09/15(木) 06:32:04 ID:w3/k4y1E
ところで 原始経典で「空」が どう書かれているか 具体的なテキストを希望 どなたか ご存知なかた よろしく
186 :
暇人 :2005/09/15(木) 06:49:20 ID:w3/k4y1E
良く知らんが「三解脱門」は『倶舎論』にはありますね。 でも「三解脱門」という整理された解釈は後代のもので 原始経典にはないのでは? 「空・無相・無願」のそれぞれは原始経典にありそうですね。 たとえば『六度集経』つまりジャータカに 「於世得道為天人師。志空.不願.無相之定」とかとはありますね
187 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/15(木) 09:01:26 ID:+Cvbh8HT
188 :
名無しさん@3周年 :2005/09/15(木) 09:14:53 ID:CtLbhTZM
189 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/15(木) 13:01:29 ID:+Cvbh8HT
>>169 :名無しさん@3周年:2005/09/13(火) 22:07:59 ID:WBHjwecE
> さてこの物体と影のような縁起関係は、あらゆるものにある。善と悪の関係も
> 縁起と言うべきじゃないか?そうすれば、善もなく悪もないと言うべきだろう?
縁起を「相依関係」としてとらえれば、
>悪い行いがなければ、善い行ないもない。悪い行いを滅すれば、善い行いも滅する
というのは正しい。
でも、これはあくまでも言葉の遊びに過ぎません。
そしてこれは、
「悪い行いはせずに、善い行いをしましょう」というスローガンと全く矛盾しない。
「悪い行いを滅する」というのは、
「殺生や悪口にそれは悪い行為であるというレッテルを張ることを止める」
ということである。その行為自体が無くなってしまうわけではない。
どんな行為が悪い行為であるかの定義付けをやめれば、
何が善い行為かもわからなくなるので、
それを「善い行いも滅する」と表現しているに過ぎない。
現実問題として、仮に悪い行いがなくなろうと、
善い行いは善い行いとして存在し続けます。
190 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/15(木) 15:47:51 ID:+Cvbh8HT
空 1119 (ブッダが答えた)、 「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」
191 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/15(木) 15:51:03 ID:+Cvbh8HT
無相 342 無相ののおもいを修せよ。心にひそむ傲慢をすてよ。そうすれば汝は傲慢をほろぼして、心静まったものとして日を送るであろう。」
192 :
暇人 :2005/09/15(木) 18:23:11 ID:pGiZDUIw
>>187 190 191
ありがとう。
>智慧を得ようとはからいをする人ではない
なにも希望しない 願わない。 さとりの智慧を獲ようとすら
しない。 これが「無願」。
悟りの智慧は「欲しがる価値のないもの」ではないでしょうし、
無価値だから欲しがらないというのではなく、
なにかにこだわらず自然体でいるというニュアンスなのでしょうか。
193 :
暇人 :2005/09/15(木) 18:28:36 ID:pGiZDUIw
空も「自我の固執」からの脱却と関連して説かれているようですね。 「無相のおもい」342の註には、「ものには定まったすがたはない」と思い為す こととありますね。 「はっきりした特徴がない」「あいまい」というより生滅変化し、 固定的できないという意味でしょうね
>>182 >縁起におけるAがあるからBがある、
>というAのBに対する「先行性」は
>時間的な先行性ではないだろう。
>であれば、表現の問題であって、
>最初から相互依存関係を指していたと考えることができる。
↑それをいっちゃ おしめ〜よ〜 by とらじろ〜
わたしが有支縁起と申したのは、決して「因果異時」という意味で
申したわけではないのです。
因果異時か因果同時か、といった二者択一は、中道を欺くことにもなり
ますので、わたしはただ端的に、有支縁起と申した次第です。
195 :
名無しさん@3周年 :2005/09/15(木) 19:53:27 ID:E+4dxRP5
>>183 これがニヒリズムではないのか?
空はニヒリズムではないよ。八千じゅ般若経に空を賛嘆する章がある。
196 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/16(金) 06:13:10 ID:TA+8dNSt
http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20.html ダンマパダ
<--
92
彼らに、蓄積[たくわえ]が存在せず、彼らが、食のことを知り尽くしているなら−
−また、彼らの解脱の境涯が、空にして相なきものであるなら−
−虚空における鳥たちの〔足取り〕のように、彼らの赴く所は、捉えどころがない。
93
彼の、諸々の煩悩が完全に滅尽し、しかして、〔彼が〕食について依存なき者であるなら−
−彼の、解脱の境涯が空であるがゆえに、しかして、相なきものであるなら−
−彼の境地は、虚空における鳥たちの〔足跡〕のように、捉えどころがない。
-->
中村本の注釈に
「空と無相と無願解脱とはニルヴァーナの三つの名である」(バーリ文註解)
とありました。
197 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/16(金) 06:44:57 ID:TA+8dNSt
>>196 ニルヴァーナは、常住不変で空ではない(自性がある)と考えていたので、納得がいかない
ここでの空は、何もないこと(空=無)を意味しているように思われる。
198 :
暇人 :2005/09/16(金) 07:41:10 ID:MZ8Jf8a0
>>196 パーリ本文には
「空と無相と無願解脱とはニルヴァーナの三つの名である」
などという後代の解釈はなく、
5cのブッダゴーサの注釈つまり解釈には そうあるということですね。
倶舎論を書いた世親と同時代の人ですね、ブッダゴーサは。
199 :
暇人 :2005/09/16(金) 07:47:42 ID:MZ8Jf8a0
>>197 私は逆ですね。
ニルヴァーナに「自性がある」とあったら納得いかない汗
200 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/16(金) 12:48:14 ID:k4yYPaG2
>>199 :暇人:2005/09/16(金) 07:47:42 ID:MZ8Jf8a0
> ニルヴァーナに「自性がある」とあったら納得いかない汗
論点は2つあると思われます。
(1)
常住不変=空ではない=自性がある
これが成立するか?
(2)
>>136 :暇人:2005/09/04(日) 06:30:05 ID:cKJEBVEx
> 「生が尽きた(khINA jAti)、
> 梵行は完成した(vusitam brahmacariyam)、
> 作さるべきことは成された(kataM karaNIyam)、
> 再び此処の状態に至らない(nAparaM itthattAya)」
この「再び此処の状態に至らない」をもって、常住不変といえるか?
私は、(1)(2)共にYESの立場です。
たとえば、現時点で暇人さんはこの世に存在するわけですが、
2100年には、おそらく暇人さんの無が存在する思われます。
そして、「暇人さんの無」が一度成立してしまったら、
これは滅しようがありません。
この「暇人さんの無」は、それ以降、不変なわけですから、
常住不変といえるでしょう。
一度成立した涅槃も、同様に、常住不変といえるでしょう。
201 :
866 :2005/09/16(金) 17:44:44 ID:pc0TTjNE
>>189 >現実問題として、仮に悪い行いがなくなろうと、
善い行いは善い行いとして存在し続けます。
執着が仏教における悪である。
例えば、人殺しを考えてみよう。
真実は肉体などない:これを空と言う:のに、肉体があると考えていること、これは執着によるものである。
この執着による妄見によって、他者の肉体を破壊するのである。肉体の破壊もまた妄見の内に有る。
一方、執着のない立場では、誰においても肉体はないと思っている。その様に思っている彼が、
誰かの肉体を破壊すると言うことはあり得ない。彼は、執着による妄見によって、肉体が有ると思っている
他人を知って、哀れむことが期待できる。
執着のない人には善悪は存在しないのである。
執着を止滅させようと修行している人は、常に、戒めを守る様に心がけているから、
執着を止滅させることを善と考え、執着を野放しにすることを悪と考えるだろう。
202 :
866 :2005/09/16(金) 17:47:32 ID:pc0TTjNE
↑866は無意味です。
203 :
暇人 :2005/09/16(金) 22:44:23 ID:C3z6qM67
100年前「暇人は無」であったが、 現在「暇人は存在」しているので、 「暇人の無」は不変ではないのでは? と私は考えます
204 :
名無しさん@3周年 :2005/09/16(金) 22:59:08 ID:pc0TTjNE
現在する自分も空なんだよ。あのナーガセーナとギリシャ人の王との会話の通り、 人格などない。人格有ると思っているのは、有身見であり、五蘊に執着するものだ。 過去も空であり現在も空であり未来も空である。かくして、不生不滅と言われるのだよ。
205 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 00:04:40 ID:61RWClCw
pc0TTjNEには肉体などない? 彼は、執着による妄見によって、肉体などないと思っている 他人はpc0TTjNEを知って、哀れむことが期待できる。
206 :
城跡 ◆kWe8Iv03RI :2005/09/17(土) 00:08:33 ID:k2lOH/QG
肉体ないならネットできないじゃん。それとも妄想とでも言う気か?俺らが全部お前の脳内自演とでも?
207 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 00:10:24 ID:EowTxnMX
266 ここはあの世ですよ!(小声で)
208 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 00:22:13 ID:C2vVK0tA
>>206 城跡=なんて発音するんですか?
じょうへき
しろあと
209 :
城跡 ◆kWe8Iv03RI :2005/09/17(土) 00:23:38 ID:k2lOH/QG
>>208 しろあと
です。コテの由来は思いつき。
210 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 00:30:11 ID:C2vVK0tA
しろあとさん、了解しました。
211 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 00:39:19 ID:C2vVK0tA
おしゃか様っていがいとマケズギライだよね。 仏典中に、 ムンジャ草の比喩や、悪魔や死に対しての勝利宣言が繰り返し出てくる。 武家の出身だからかな。
212 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 00:57:33 ID:C2vVK0tA
倶舎論で説かれる72の実有の法。 その中の大善地法(善い心の働き)の勤には、 心の敢為であり、善行に対して果敢なことである とある。寂滅をめざす説一切有部の教説にしては表現が強すぎるように感じる。
213 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 01:09:35 ID:C2vVK0tA
菩提心の重要性を説く大乗の坊さんや儲さんの 我が強くなるのは理解できなくもない。 それにしても坊さんは強情で我が強い。>ケチャップさんや某氏他。
214 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/17(土) 09:34:40 ID:RybTjP4H
宮元啓一『インド哲学七つの難問』選書メチエ、講談社、2002年11月 に次の記述がある。 <-- 『勝宗十句義論』における無 『勝宗十句義論』は、右に見たように、五種類の無を説く。 それは、先行無(漢訳では未生無)、破壊無(漢訳では已滅無)、 交互無(漢訳では更互無)、関係無(漢訳では不会無)、絶対無(漢訳では畢竟無)、 以上五つである。 p68 --> 先行無:(生ずる以前に結果は)まだない 破壊無:(消滅したあとにものは)もはやない 絶対無:絶対にありえない 交互無:<牛は馬ではない>、<荷物を運ばないからこれは牛ではない>といった場合の非有 関係無:<家に水がめがない>という、家と水がめとの結合の否定 <-- [249]破壊無と交互無と絶対無とはすべて常住である。(省略) [250]関係無は、常住のものもあれば、無常のものもある。 --> 常住の関係無の例:風には色がない
215 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/17(土) 09:35:16 ID:RybTjP4H
>>203 :暇人:2005/09/16(金) 22:44:23 ID:C3z6qM67
> 100年前「暇人は無」であったが、
> 現在「暇人は存在」しているので、
>
> 「暇人の無」は不変ではないのでは?
たしかにそれは、その通りではあるのだが、
・ 100年前「暇人は無」:先行無(->無常)
・ 100年後「暇人は無」:破壊無(->常住)
そして結局、論点(2)に戻る。
ある時点より、過去に遡れば変化するものを、
それ以降の未来においては常住かつ不変であることを理由に
常住不変と呼ぶことができるか?
私は「できる」と答え、破壊無は空ではないと考えます。
216 :
けちゃっぷ :2005/09/17(土) 09:43:53 ID:/l4FFWgO
>>213 はい、我が強いです。このスレでは名無しで書いてます。
説一切有部時代に倶舎論を書いた世親は、後に大乗に転向し、唯識や浄土教の祖となりました。
無宗ださん、暇人さん、三解脱門について調べていただきありがとうございます。
空・無相・無願を三解脱門としてセットにする見方は、説一切有部の時代からあったということでしょうか。
217 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/17(土) 12:24:43 ID:RybTjP4H
原始経典ではありませんが、参考まで。
http://homepage1.nifty.com/manikana/upayahrdaya/upayahrdaya.html 『方便心論』 後魏西域三蔵吉迦夜訳
<--
一・三・八・三・二【分別論による喩(消去法をふくむもの)】
涅槃には意識は存在しない。どうして楽があるというのか。
又、楽があると説くものもいるが、それはなぜか。楽には三種ある。一つ目の楽は楽を受けることである。
二つ目は悩みや障害が無いことである。三つ目は願望がないことである。涅槃の中においては何も求めることが無いのだから、したがって、涅槃を楽であると言ってもよいのである。
一・三・八・三・三【詰論による喩(帰謬法)】
又、ある人が次のように問うて言う。
【問い】私はもうすでに涅槃は恒常であると知っているが,もろもろの出来事(諸行)と違うものであるのだろうか、どうなのだろうか。
【答え】あなたがすでに涅槃は恒常であると知っているのであれば、どうして諸々の出来事と同じであるなどと言えようか。
諸々の出来事は本質上変化し消滅するものであり、涅槃の本質は恒常であり、楽である。智者であれば、誰が諸々の出来事と同じだと言うであろうか。
二・二・一【敗北しないところ】
(問い)どのような意味内容なら敗北するところにはならないのか。
【答え】諸々の行は、識とともに、作られたものであるから無常である。涅槃は作られたものではないので恒常である。
このような言葉の意味が正しいのである。敗北するところとならないのである。
四・一・二【異】
「異なるもの」とは何であるか。涅槃は作られたものでないから恒常である、諸行は作られたものであるから、無常であると知るようなものである。これを「異なるもの」というのである。
-->
218 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/17(土) 12:58:32 ID:RybTjP4H
>>198 :暇人:2005/09/16(金) 07:41:10 ID:MZ8Jf8a0
> パーリ本文には
> 「空と無相と無願解脱とはニルヴァーナの三つの名である」
> などという後代の解釈はなく、
> 5cのブッダゴーサの注釈つまり解釈には そうあるということですね。
> 倶舎論を書いた世親と同時代の人ですね、ブッダゴーサは。
<--
解釈に当たってはブッダゴーサに帰せられるパーリ文註解をも適宜参照した。
単に字句の註解だけであるときには「パーリ文註解」とのみ記し、
他方積極的な主張をもっている場合には「ブッダゴーサによると」と記した。
p357
-->
とありました。
ブッダゴーサの注釈つまり解釈ではあるようですが、
「空と無相と無願解脱とはニルヴァーナの三つの名である」
に積極的な主張はないと中村氏は考えているようですね。
219 :
暇人 :2005/09/17(土) 17:54:04 ID:VE7ShN42
でしょうね。北伝の世親の『倶舎論』も同様の立場ですし、 南伝のブッダゴーサ特有の解釈ではありませんから。 『倶舎論』やブッダゴーサの注釈を参照しつつも、その解釈を鵜呑みにしない。 釈尊の千年後、5cの解釈であることに留意する。 かように私は考えています
220 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 19:31:38 ID:+Eh8HPZT
>>206 縁起により存在してるものは自性がない。
一切とは五蘊である。
五蘊は縁起しているもんである。
故に五蘊は空である。
身体と言う肉体は、空気のような固体でないものを縁として認識されるものである。
故に肉体と言う固形物はなく、空気と言うものもない。これが知性の命ずるところなのだ。
221 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 21:54:28 ID:lw0ePySm
>この世は泡沫のごとし、陽炎のごとしと観よ。そのように観ずる者は、死王も彼をみない。 この世は空。(縁起=無自性) それは間違いではないが、陽炎の中に真理を見出そうとは、笑止千万。 ま、目暗になにを言っても、聞く耳持たないだろうが。
222 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 22:12:04 ID:vrY2lrDF
お布施が多ければ、極楽浄土に逝けるニダ ウェーハッハッハ \_______________ o〇 _____ / ./ \. / ./ ∧_∧ \ /_____/ <丶`∀´> \  ̄|| || || ||. |っ¢.. .|| ̄ || || || ||. /,,, |ゝ|. || | ̄ ̄ ̄|~~凸 ( ̄) 凸
223 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 22:40:11 ID:+Eh8HPZT
ものが縁起していると言うことを知るのは何によってか? 更に、縁起しているものは、自生がない、と言う判断ができるのは何によってか? 何にこのような判断力があるのだろう? このような判断する主体は、縁起しているものなのか?それとも、独立しているものか?
224 :
名無しさん@3周年 :2005/09/17(土) 22:51:04 ID:+Eh8HPZT
対象なくして知性は生じない。だとすれば、やはり知性も自性のないものか?
225 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/18(日) 06:28:10 ID:MIxVdU+G
>>223 :名無しさん@3周年:2005/09/17(土) 22:40:11 ID:+Eh8HPZT
> ものが縁起していると言うことを知るのは何によってか?
「諸行無常」だから
以下のページ参照
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html (1)存在の構成要素であるすべてのダルマ(法)のひとつひとつに自性は必ず存在する。
(2)自性は作られたものではなく、原因も条件もなく、無条件に自立自存する。
(3)自性は変化せず、消滅することもなく、恒常で不滅である。
(4)自性は未来、現在、過去の三世を通じて存在し、存在しないということは、一時もない。
(7)ナーガールジュナの立場では、自性は無常の現象や無我の思想と矛盾する。
(8)もの(ダルマ)に自性がないことを、ナーガールジュナは空という語で表現した。
226 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/18(日) 06:31:57 ID:MIxVdU+G
>>224 :名無しさん@3周年:2005/09/17(土) 22:51:04 ID:+Eh8HPZT
> 対象なくして知性は生じない。だとすれば、やはり知性も自性のないものか?
「知性」が識蘊のことであれば、やはり自性のないものである。
(五蘊無我 or 五蘊非我)
http://www.j-theravada.net/pali/key-pancakkandha.html 参照
「知性」が認識主体を意味しているのであれば、
これに関して原始仏教は何も語っていないのではないかと私は思う。
<--
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/attan.html したがって、意識現象の実在性を確立するものは意識現象の外部にある実在でしかありえない。
それは、意識現象を担う主体、経験する主体、それ以外にはない。
それこそが「自己」と呼ばれるものであり、
その実在性は、他者との相関性を完全に捨象した純粋な自己反省によってのみ成立する自己性(自己同一性)、
つまり認識主体であるがゆえに決して認識対象とはなりえないという端的な事実によって確立される。
このことを人類史上最初に見抜き、言語化した人物こそ、
西暦紀元前七世紀にインドに現れたヤージュニャヴァルキヤであった。
-->
<--
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/jiko.html かのものは、『に非ず、に非ず』としかいいようのない自己であり、不可捉である。
なぜなら、把捉されないからである。かのものは不壊である。
なぜなら、壊されないからである。かのものは無執着である。
なぜなら、執着されないからである。かのものは、束縛されることなく、よろめくことなく、傷つくことがない。
ああ、知る者を、何によって知ることができるであろうか。
と、マイトレーイーよ、なんじは以上のことを教えられているのである。
ああ、まことに、不死であるとは、このようなことなのである」(四・五・一五)
-->
227 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/18(日) 11:03:40 ID:MIxVdU+G
http://www.geocities.jp/jfcps873/gb/gb10.html <--
280
ラーダ比丘が問い世尊が答える。
正観は何のためですか。正観は厭離のためである。厭離は何のためですか。
厭離は離欲のためである。離欲は何のためですか。離欲は解脱のためである。
解脱は何のためですか。解脱はニルヴァーナのためである。ニルヴァーナは何
のためですか。あなたは問いの範囲を超えている。その問いの究極を捉え得た
ものはいない。実に清浄な修行は確固たるニルヴァーナであり、ニルヴァーナが
依りどころであり、ニルヴァーナで完結する。 『サンユッタニカーヤ』23・1
-->
このように『サンユッタニカーヤ』23・1とあった場合、
これに対応する箇所は、
>>98 :暇人:2005/09/02(金) 06:32:01 ID:4HQyyS7u
> 中村元「ブッダ神々との対話」(サンユッタ・ニカーヤT)岩波文庫
> 中村元「ブッダ悪魔との対話」(サンユッタ・ニカーヤU)岩波文庫
にあるのでしょうか?
どのような対応になっているのかご存知の方がおられたら教えてください。
228 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/18(日) 11:47:39 ID:MIxVdU+G
>>201 :866:2005/09/16(金) 17:44:44 ID:pc0TTjNE
> 例えば、人殺しを考えてみよう。
> 真実は肉体などない:これを空と言う:のに、肉体があると考えていること、これは執着によるものである。
> この執着による妄見によって、他者の肉体を破壊するのである。肉体の破壊もまた妄見の内に有る。
この考えは釈尊の教えではなく、スレ違いではないかと考えます。
なぜなら、釈尊は、不殺生を説いています。
つまり、釈尊は、「肉体の破壊もまた妄見の内に有る」などとは考えていないはずです。
<--
私はこのスレは、
●釈尊が何を悟り、何を説いたのかに関し議論するスレ
だと思っています。
だから、このスレの主な参加者は、「釈尊金口の教え」に興味のある人間であり、
必ずしも仏教信者ではないと考えています。
ですから、釈尊が『一切皆苦』と考えていたとしたら、
何故そう考えたかの仮説の積み重ねを検証することは意味があると思いますが、
いきなり他の考え方と比較したり、優劣を競うことには全く意味が無いと考えます。
-->
http://www.geocities.jp/jfcps873/gb/gb10.html 498 名前:無宗だ ◆4eP.G3wMrs :04/11/03 11:53:41 ID:u0MHEJFE より
229 :
名無しさん@3周年 :2005/09/18(日) 16:49:04 ID:QYJ56FMA
>>226 知性が対象を持つ限り、知性〈色うん〉と見なし得るものも、自性がないものと考えるの相当と思う。
>>227 ニルバーナ以上のものを求めるものではない、と言う教えが、どこかに有ったよ。
多分サンユッタにカーヤかもしれない。もちろん中村元の原始経典の中で。
見つかり次第報告しょう。
しかし、何を知りたくて?
>>228 >なぜなら、釈尊は、不殺生を説いています。
そうです。これに反する教えは釈迦のものでは有りません。
なにか誤解を与えた様ですね。
230 :
名無しさん@3周年 :2005/09/18(日) 20:05:41 ID:QYJ56FMA
>>226 >その実在性は、他者との相関性を完全に捨象した純粋な自己反省によってのみ成立する自己性(自己同一性)、
つまり認識主体であるがゆえに決して認識対象とはなりえないという端的な事実によって確立される。
仏教でも、ブッダのことを「自存者」と言い、また、仏教の聖者は、自分自身を楽しむ、と言われています。
仏陀が不生不滅の存在であることはまた言を待ちません。
認識主体であり、認識対象がある限り、仏教では相関関係にあると見るのですから、認識主体なるものはないと言うべきだと思います。
なんかこの究極的な範囲での弁証が残されている様では有りませんか?
231 :
名無しさん@3周年 :2005/09/18(日) 20:32:15 ID:UxZXv4C5
QYJ56FMA が うそつき で あたまがわるい その事は理解した。 で、なにをしたいの?
232 :
名無しさん@3周年 :2005/09/18(日) 22:01:38 ID:QYJ56FMA
233 :
名無しさん@3周年 :2005/09/18(日) 22:33:07 ID:RWK/XcwL
UxZXv4C5 が 自身を賢いと思ってることは分かる。 やな感じ〜
234 :
暇人 :2005/09/19(月) 04:09:53 ID:EzRnAnx5
> 中村元「ブッダ神々との対話」(サンユッタ・ニカーヤT)岩波文庫
> 中村元「ブッダ悪魔との対話」(サンユッタ・ニカーヤU)岩波文庫
これは、
http://www.metta.lk/tipitaka/2Sutta-Pitaka/3Samyutta-Nikaya/ ここの分類で言うと、Volume 1 (Sagàthavaggo)に相当します。
第一集「有偈の章」ですね。
「ブッダ神々との対話」は、1. Devatà Saüyuttaから3. Kosala Saüyuttaまで
「ブッダ悪魔との対話」は、4. Màra Saüyuttaから11. Sakka Saüyuttaです
『サンユッタニカーヤ』23・1 は、23. Diññhi Saüyuttaの1 Sotàpattivaggo
第二十三編は、Diññhi(謬見) のSaüyutta(集成)ですが、増谷さんは
羅陀相応とされています。これはラーダ長老関係の集成だからでしょう。
第二十三編の第一章は、1 Sotàpatti(預流)vaggo(章)です。
この第二十三編第一章には、18経ありますので、
『サンユッタニカーヤ』23・1 だけでは、そのうちどの経か特定できません。
引用内容からすると、Vàta suttaüのことだと思うが、
つまり23-1-1の「Vàta」ではないかと、しかしこれは「風」という意味だが
増谷さんは「魔羅」と訳されている うむぅ
235 :
暇人 :2005/09/19(月) 04:31:46 ID:EzRnAnx5
そのアホダラさんの訳は どちらからの引用としても
いづれにせよ省略があります。
2ちゃんでよく見る増谷訳は、「筑摩書房 阿含経典 全四巻」でしょう。
これの第二巻p218が「『サンユッタニカーヤ』23・1 魔羅」とされて
いて アホダラさんの訳文に対応すると思われます。
第四巻の最後に南伝相応部経典・漢訳雑阿含経との対応表があり、
「南伝相応部経典 RAdha-saMyutta 23-1 MAro」とありますね。
http://www.metta.lk/tipitaka/2Sutta-Pitaka/3Samyutta-Nikaya/ でいうと、RAdha-saMyutta は、22. Ràdha Saüyuttaですね。
一篇ずれてますね。これの1は、確かにMàra suttaüですね。
こつちに対応しているみたいです 失礼しまた
236 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/19(月) 07:21:41 ID:trphKCy9
237 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/19(月) 07:22:20 ID:trphKCy9
おそらく、 一切は世間の中に限られ、 出世間は、世間にあらず、 世間から、出世間に至ることを解脱といい 涅槃は出世間に常住する。 釈尊は、 アートマン(=認識主体)が出世間に存在することは説かずに 単に世間には存在しないことを説いた。 これも、ひとつのプラサンガ論法といえるのかもしれない。
238 :
暇人 :2005/09/19(月) 10:05:24 ID:I7fD67j+
中村さんはVolume 1が相応部の中でも古い集成とここのみを岩波文庫に入れ 増谷さんは相応部の中で自分が古いと考えられているのだけを抜粋して 訳されています。
239 :
名無しさん@3周年 :2005/09/19(月) 22:46:33 ID:/rUOgpYj
>>237 「空である」 「空ではない」
↓ ↓
「空で有ることない」 「空でないことはない」
「有る「有」」 「無い〈無〉」
↓ ↓
「あると言うことは無い」 「無いと言うことは無い」
以上が絶対の〈空または無〉と言うべきではないであろうか?これが真相であり、真実在である。
〈名称と形態を破壊せよ。〉とは原始経典の教えである。
名称と形態の認識もしないようでなければならないのだと思う。無念無想と言うことか。
240 :
名無しさん@3周年 :2005/09/19(月) 23:24:25 ID:/rUOgpYj
続き 道理に導かれてたどった。道理とはなにか? 知性である。 知性が相対的存在の真相を暴いたのだ、そのようなもんは実体の無い虚妄であると。 真相は空または無であると知性「道理」は言う。 知性と真相である「空または無」は相対的存在である。 そうすれば、知性無く、「空または無」と言う真相は無い。 これが究極の絶対空または無である。 疑問が生じた。 空または無は言語表現である限り、絶対的なものではない。 絶対的なものの下位に有るものである。
ウパニシャッドの梵我一如も釈尊のニルヴァーナも、 おそらくは、生理的現象としては同じではないかと 思うのは、わたしだけだろうか? そうであるなら、わたしもとうの昔にニルヴァーナを 得ていることになるのではあるが……。 ま、完成度においては、きわめて未完に終ってしまってはいるのだが。^_^;
242 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/20(火) 02:55:58 ID:Tpcevrqn
>>240 > 空または無は言語表現である限り、絶対的なものではない。
「空=無」との解釈ですか?
私は以下の考え方に同意し、「空≠無」と考えています。
つまり、空とは「ものが究極的には存在していないこと」を指す言葉ではない!!
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html <--
ナーガールジュナによれば、
空とは、「ものが究極的には存在していないこと」を指す言葉でもなく、
また、「ものの存在の仕方が幻想のように主観の創作にすぎないこと」を指す言葉でもなく、
また「存在の仕方が何となくぼんやりしていること」を指す言葉でもありません。
そうではなくて、空とはものに自性が欠如していることを指す、極めて意味の明確な言葉です。
-->
243 :
名無しさん@3周年 :2005/09/20(火) 19:33:58 ID:tMY+ommA
>>242 有る一つのものに自性がないからそのものは空なんだろう?無数の存在するものも同様に自性が無いのだろう?
これを一切は空であると言ってるのだろう?
自性が無いとは、他と区別する個性が無いと言うことだろう?
従って、一切は差別できないと言うことだろう?と言うことは、一切は一つであると言う事になるだろう?
一つであれば、そこに一つ二つあるいはもっとたくさんの数えられるものがあるのではないのだろう?
ここを注意してね。一つのものが有るといえば、そこに、有る無しの区別が生じる。最初の「一つのものが有るだけである」
の一つと、後の一つはこのような区別が有ることを。
自性に対して、言葉が付けられているのだろう?でも、自性が無いと言うことになれば、言葉の存在価値も無くなるだろう?
言葉も一つしかないことになるからだ。言葉が一つしかなければ、言葉は無いだろう?
だから、空とは無の別名と言うべきじゃないか?
従って、空とは、「ものが究極的に存在していないこと」と言うべきじゃないか?
あなたと反対意見になってしまっているが?
244 :
名無しさん@3周年 :2005/09/20(火) 20:45:47 ID:tMY+ommA
245 :
名無しさん@3周年 :2005/09/20(火) 21:32:09 ID:0Svmef/p
>>243 あるものを、それのみで成立せしめ、かつそれ自体は不変であり、
他によって生じるのでなく他によって滅するのでもなく、
寸分も変わらず永遠に存在し続けるものを自性というのでは?
少なくとも、自性は個性ではありませんw
246 :
名無しさん@3周年 :2005/09/20(火) 21:39:10 ID:tMY+ommA
●あらゆる存在は実体「自性」としてあるのではなく、ただ名称としてのみ語られているに過ぎない。 知とか無知とかもまた、それと同じものとして理解せよ。 ●あらゆる存在は無であって、ここには何も有るのではない。あらゆる存在が無いとき、それが存在の究極のあり方である。 ●あらゆる存在には対立者が存在しない。そうであればあらゆる存在は一相である。そこで一相であるから無相である。 ●あらゆる存在は無いのであるから、それらのものは前世から生じて来ることも無いし、また、また来世に生まれ変わることも無いのである。 そこにものの本姓〈法性〉はあるのである。 ●存在をいささかなりとも認めたり妄想したりしないこと。それが仏陀の菩提であると説かれた。あらゆる存在が把握されたものとしてないこと、それが菩提の相である。 首リョウ厳三昧経 陀羅尼―として詩ジュによる再説から
247 :
名無しさん@3周年 :2005/09/20(火) 21:51:01 ID:tMY+ommA
248 :
暇人 :2005/09/20(火) 21:52:40 ID:u3I3odG/
首楞厳三昧経は大乗経典なのだが。。。 スレ違いかも
249 :
名無しさん@3周年 :2005/09/20(火) 22:00:50 ID:tMY+ommA
>>248 竜樹は大乗の論士でしょう。
原始経典の意味を大乗から検討する、または、大乗の意味を
原始経典から検証する。これは有意義だと思っています。
原始経典の内容と、大乗経典の内容に相違は無いといいたいです。
250 :
名無しさん@3周年 :2005/09/20(火) 22:02:09 ID:0Svmef/p
>>247 その「個性」は、一般的意味の(辞書に載っている意味の)個性ではないんですよねw
貴方的に換骨奪胎した意味の「個性」なわけですねw
251 :
暇人 :2005/09/20(火) 22:15:15 ID:u3I3odG/
252 :
暇人 :2005/09/20(火) 22:17:24 ID:u3I3odG/
とはいえ、ここで語るのがあなたにとり有意義だと 考えられるならば どうぞ 語り尽くされてください。 茶々入れ 失礼しました。
253 :
名無しさん@3周年 :2005/09/20(火) 23:28:24 ID:qLAMXRbO
日本で原始仏教やってる奴は所詮資本主義社会の敗北者。 価値体系の転倒によってコンプレックスを忘れようとしているだけ。
254 :
名無しさん@3周年 :2005/09/20(火) 23:37:46 ID:tMY+ommA
そんなことないと思うよ。真理の探求の精神を持つ人達っているんだよ。 この人たちは、以前に自分で真理の片鱗にでも触れたことが有るからなんだ。 それに真理を体得した人と言うのは、全てを所有した人ででも有るらしいのだ。 最も善いものを得ようとしている人達と言うよ、ギリシャ哲学でも、インド哲学でも。
この程度の煽りはスルーだろw
触るなよ(^^;)
>>254
256 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/21(水) 06:18:23 ID:e9B+IrUb
>>243 :名無しさん@3周年:2005/09/20(火) 19:33:58 ID:tMY+ommA
> 有る一つのものに自性がないからそのものは空なんだろう?
そうだね。
> 無数の存在するものも同様に自性が無いのだろう?
> これを一切は空であると言ってるのだろう?
うん。うん。
> 自性が無いとは、他と区別する個性が無いと言うことだろう?
ちゃうんじゃないか?
個性があったら、自性があることにはならんだろう?
人間には、ひとりひとり個性がある。
一方、五蘊無我というのは、
人(五蘊)には自性にあたる我(アートマン)が存在しないことを主張している。
個性と自性に関連はない。
自性が無いとは、
因により作られたものであることを意味し、
やがて壊れることを保障する。
自性があるとは、常住不変であることを意味する。
257 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 08:57:44 ID:6c/I9lZN
>>256 >人間には、ひとりひとり個性がある。
一方、五蘊無我というのは、
人(五蘊)には自性にあたる我(アートマン)が存在しないことを主張している。
ここが問題個所だ。
複数人にはそれぞれの個性がある。
複数人にはそれぞれの自性が無い。
個性と自性は無関係である。
こう言うことだろう?
258 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/21(水) 10:26:00 ID:lxhwR/5t
>>257 :名無しさん@3周年:2005/09/21(水) 08:57:44 ID:6c/I9lZN
> 個性と自性は無関係である。
>
> こう言うことだろう?
うん。
259 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 17:31:14 ID:6c/I9lZN
>>258 @一切の現象:諸法:は無自性で空である。
しかし、諸法と言えども人間詰まり五蘊各自には個性がある。
個性は諸法の内に入らないのか?入るだろう?
だから個性も空無自性である。
A個性とは、各人のものであり、それは他人とは異なったものである。
同じ個性であれば、個性とは言わない、個性が無いのである。
異なるのは他の個性があるからである。つまり他の個性を縁として自分の個性が生じるのである。
これは縁起しているのである。縁起しているものは無自性である、つまり空である。
つまり個性は無自性で無いのだ。
個性の自性を問うことができるから、個性と自性とは無関係であるとは言えない。
無関係ところか、個性とは個性の自性を言うものなのだ。
しかし個性の自性は否定された。
260 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/21(水) 19:22:41 ID:Mz4P+g4R
>>259 > @だから個性も空無自性である。
> Aつまり個性は無自性で無いのだ。
矛盾してないか?
書き間違い?
261 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 19:50:55 ID:eLLq6G6o
原始仏教は宗教を否定してるから良いよね。
262 :
暇人 :2005/09/21(水) 20:06:33 ID:whf79Bdu
原始仏教は徹頭徹尾 宗教であるけどね。 近代仏教学の中に、原始仏教は宗教というより哲学と考える人は いるが、客観的ではない。
263 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 20:10:46 ID:6c/I9lZN
>>260 私は空=無と解釈している。
だから、Aの無自性で無いのだは、空無自性と言うことを言ったのだが。
どうして矛盾してると思った?
264 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 20:27:22 ID:6c/I9lZN
>>262 私は261に賛成です。釈迦自身が、信仰を捨てよと言っているのだから。
ちなみにソースをきいてもよい。
265 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 20:31:52 ID:qwtMw1nT
神霊への供養を勧めてるじゃないか。ヴァッジ霊域の神霊とか。 馬鹿は黙ってろ。
266 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 20:35:20 ID:OMIgpWyH
QYJ56FMA = tMY+ommA = 6c/I9lZN
267 :
暇人 :2005/09/21(水) 20:42:50 ID:whf79Bdu
>>264 >ちなみにソースをきいてもよい
ではソースの提示お願いします。
私は逆のソースをあげておきましょう
スッタニパータ182偈「この世では信仰が人間の最上の富である」
この偈の註p294
「釈尊の成道直後の詩によると「信仰(saddhA)を捨てよ」ということを
教えている。それはベェーダ以来の祭祀・教学に対する信仰を捨てよと
いうのである。しかしここではブッダの説いた真理・理法に対する信仰を
説いているのである。以下略」
268 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 21:10:31 ID:6c/I9lZN
>>267 >「釈尊の成道直後の詩によると「信仰(saddhA)を捨てよ」ということを
教えている。それはベェーダ以来の祭祀・教学に対する信仰を捨てよと
いうのである。しかしここではブッダの説いた真理・理法に対する信仰を
説いているのである。以下略」
上の意味で釈迦の教えは宗教的ではないと言うのです。
269 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 21:14:57 ID:6c/I9lZN
真理理法を理解しての信仰です。 徹頭徹尾宗教的とは言えないと思う。
270 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 21:24:48 ID:qwtMw1nT
六道輪廻が前提しなかったら仏教は崩壊する。
原始仏教においては、 「誰にとってか」というのが重要ではなかろうか。 釈尊にとっては、明らかに宗教ではないだろう。 初期の直弟子にとっても、微妙な所であろう。 又聞きの弟子にとってはどうか、滅後ずと後代のものにとってはどうであろう? 在家信者にとってはどうであろう? 「宗教」という言葉の定義の仕方にも左右されるだろうが、 時間的な拡がりと、地域的人員的拡がりを考慮すれば、一言で括ることはできないのではなかろうか。
272 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 21:29:01 ID:qwtMw1nT
>>271 >釈尊にとっては、明らかに宗教ではないだろう。
神々・悪魔などの超自然的存在と交流したり、神通を発揮する事は宗教じゃないんですか?
>>272 ああ、そうかw
それぞれの「主観を」現代から眺めた場合しか考えてなかったよ。
純粋に彼釈尊の行動を「外から」分析すれば、宗教的要素は多分にあるだろうね。
| 失礼しました
|彡サッ
|
| _, ,_ あ、実際に神通力を発揮したかどうか、
|;゚∀゚) < 諸霊・悪鬼等アニミズム的な何かの実在があるか、等は
|つ⊂ノ 私個人としては、認めていないので。 念のためw
|
|彡サッ
|
274 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 21:38:04 ID:OfdyvA32
>271 でも 供養は勿論のこと、 経典中でばんばん釈尊に帰衣してますし、 懺悔に当たる律も成立している。 供養、帰衣、懺悔さらに涅槃、悟りと揃ったら宗教というしかないでしょう。
275 :
暇人 :2005/09/21(水) 21:49:07 ID:whf79Bdu
>ブッダの説いた真理・理法に対する信仰を説いているのである 哲学ならばデカルトの説いた真理への信仰を説かない
276 :
暇人 :2005/09/21(水) 21:52:48 ID:whf79Bdu
>釈尊にとっては、明らかに宗教ではないだろう それは あなたの主観ですね。 あなたがそう思いたいならば そう思ってよい。 ただ事実を踏まえるならば、伝承されている限りの教説では 「信仰(saddhA)を捨てよ」は、釈尊以前への宗教への信仰で 釈尊の教法に対する信仰は説いているのですね。 伝承されてないことについてはやぶの中でわからない
278 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 21:54:04 ID:6c/I9lZN
>>275 デカルトは真理としては万全なものじゃなかったからじゃないの?
それにしても、理性信仰と言う人達はデカルトの信者じゃないの?
279 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 22:17:46 ID:OfdyvA32
>277 釈尊が本当の意味で宗教から離れるおつもりなら還俗するはず。 供養をうける意味を考えてみて。 具体的には経典中の 1)供物を断られた事例 2)受けられた供物を浅瀬に流された事例 ここを検証してみて。
280 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 22:18:19 ID:6c/I9lZN
我思う故に我あり、これは釈迦の最も嫌う迷いである。 釈迦は、【我あり問い国王を滅ぼして】と教えている。 釈迦の教えは全て道理に貫かれている。 言葉は、意味内容が縁起していると言う意味で空であるばかりでなく、 最終的に、言葉とは空気の振動であり、大乗の涅槃経によれば、 こだまのような物とされている。こだまと言う物理現象である。 この様な物理現象は、まさに縁起に過ぎない。だから空であるのだ。 言葉などないのだ。言葉からの開放が最終的な解脱か?
281 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 22:23:58 ID:6c/I9lZN
>>279 あなたは釈迦の理法というものを見ていないのはどして?
282 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/21(水) 23:00:13 ID:e9B+IrUb
>>263 :名無しさん@3周年:2005/09/21(水) 20:10:46 ID:6c/I9lZN
> 私は空=無と解釈している。
> だから、Aの無自性で無いのだは、空無自性と言うことを言ったのだが。
>
> どうして矛盾してると思った?
[空無自性]:この言葉は、原始仏教ででてくるのだろうか?
耳慣れない言葉だったので、まさか、ひとつの単語とは思わず、
> だから個性も空無自性である。
を
『だから個性も空であり、無自性である。 』=>(個性は無自性である。)
の意味だと思ったので、矛盾してると思ったのだ。
ちなみに、原始仏教において空無自性というのは、
どのような文脈でどのような意味に説かれているのでしょうか?
283 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 23:17:49 ID:6c/I9lZN
>>282 原始経典では、「全ては虚妄である」「賢者は何もないと思っている」「固定的存在はない」
「一辺に偏しない」「賢者は縁起を見ている」「空を観ぜよ」「二辺にも中間にも偏しない」
等の判断が見られます。これらの判断から竜樹が空無自性と言うのは何の無理もないものと思います。
「空無自性」と言う熟語そのものは見たことはありません。
284 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 23:29:00 ID:6c/I9lZN
空無自性 これは空は無自性であると言う意味に使用しています。 空=無自性です。これは竜樹では一般的だと思っていたのですが?
286 :
暇人 :2005/09/21(水) 23:37:07 ID:whf79Bdu
空無自性←ないでしょう 竜樹用語は「無自性・空」。無自性つまり空という用法でしょう
287 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 23:37:22 ID:6c/I9lZN
288 :
名無しさん@3周年 :2005/09/21(水) 23:39:56 ID:6c/I9lZN
>>286 空=無自性=無
こう言うことだと言います。
>>244 >梵我一如を説明してください。
概念で構築された理論的な説明、そのような客観化された
模範的説明は、改めてしなくても、このレスに参加されて
る方々には既知のことと思われます。
尚、リアルな一人称体験は、控えさせていただきます。m(__)m
お釈迦様はヴェーダの達人でいらっしゃる方ですから、わたしの
意見も、あながち見当外れとはいえないでしょう。
アートマンにしたって否定はしていません。お釈迦様流に換骨奪胎?
して肯定的に用いています。
まさしく言葉は仮名でありますから、ひとつの伝統的定義にこだ
わる必要はないということでしょう。
生まれた者にとって死は必定であり、 死んだ者にとって生は必定である。 それゆえ、 避けられないことを悲しむべきではない。
【個性】の考察 by 289 個性とは個の有する性のこと。 個の有する性とは、個を個と決定づける不変の本質・本性のこと。 個が個だけで個在するプドガラ観は、非仏教的世界観。 仏教の縁起世界観では、事物の現象は縁起によって因縁仮和合した 一時的な存在であり、相無自性・性無自性で、対境として捉えられ る個々の事物は、無本質・無実体である。すなわち、個性→個の性 はなく、空性である。 空に性などあるわけない。性が空だから→空性というのである。 個の性→個性がないから、無自性空というのである。
292 :
暇人 :2005/09/22(木) 01:14:30 ID:sNPJXy56
個性は無いのでも変化せずあり続けるのでもなく 生まれてから死ぬまで一貫して変化し続けている 「環境」や「努力」や具体的生活の中で変化し続けている。 これが無自性故に空であると云われる由縁だと私は思う。
293 :
暇人はいつまでたっても暇人? :2005/09/22(木) 02:31:18 ID:0nHs5EY/
暇人、おまえ、うざいんだよ。 阿含宗のスレにまで出てくるなよ・・・
294 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/22(木) 06:13:24 ID:s4cMdDC8
>>263 :名無しさん@3周年:2005/09/21(水) 20:10:46 ID:6c/I9lZN
> 私は空=無と解釈している。
もし、こうだとすれば、
>>259 :名無しさん@3周年:2005/09/21(水) 17:31:14 ID:6c/I9lZN
> @一切の現象:諸法:は無自性で空である。
これを単純化&変形すれば、
・一切の現象:諸法:は空である。
↓
・一切の現象:諸法:は無である。
↓
・一切の現象:諸法:は存在しない。
となる。
> しかし、諸法と言えども人間詰まり五蘊各自には個性がある。
存在しないものの属性、所有を論ずるのは、そもそもナンセンスである。
また、私がこうして存在し、あなたがそうして存在するという事実と
・一切の現象:諸法:は存在しない。
という命題は矛盾する。
295 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 06:14:59 ID:kT4tr9Gy
>>282 無宗ださん、自性といったり、無自性といったり、一切は空であるといったり、矛盾していることを平気で言ってると思う。
論理的に表現しょうとしているなら、混乱させたでしょうと危惧する。
真理の立場と虚偽の立場が混在するのだ、一人の人間の中において。
まあ、ゆっくりと考えてまた教えてください。
296 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 17:51:50 ID:kT4tr9Gy
>294 > しかし、諸 存在しないものの属性、所有を論ずるのは、そもそもナンセンスである。 そのとおりです。ただし、「諸法と言えども人間詰まり五蘊各自には個性がある。」 と言ったのは私ではなく、あなたでしたよ。私は、これを否定したのでした、個性と言うものはないと。 個性があるかどうかについて、あなたの見解は変わりましたか? > また、私がこうして存在し、あなたがそうして存在するという事実と ・一切の現象:諸法:は存在しない。 という命題は矛盾する。 一切は縁起しているものだから、一切は空=無=無自性である。 私の存在もあなたの存在も、上の一切に含まれ、空であり、無であり、無自性である。 そしてこの一切も、我々の五蘊です。我々の存在は、一切の外にあるのではない。 だから一切が空なら、我々も空:無:無自性である。ここに矛盾はないと思いますが? 空:無:無自性と言う真理が、我々にどの様に利益を与えているのか、このことを論じる必要があるのではないでしょうか? どのような利益を仏教は小乗、大乗に関係なく説いているか、あなたから聞きたいです。
297 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 17:55:51 ID:kT4tr9Gy
>>296 訂正
>294
> しかし、諸
存在しないものの属性、所有を論ずるのは、そもそもナンセンスである
を以下の様に↓
>>294 > しかし、諸法と言えども人間詰まり五蘊各自には個性がある。
存在しないものの属性、所有を論ずるのは、そもそもナンセンスである。
298 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 18:20:38 ID:njYPi22C
>296
引用のしかた。
>296 :名無しさん@3周年:2005/09/22(木) 17:51:50 ID:kT4tr9Gy
>>294 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/22(木)
>
>>259 :名無しさん@3周年:2005/09/21(水)
>>> しかし、諸法と言えども人間詰まり五蘊各自には個性がある。
>>存在しないものの属性、所有を論ずるのは、そもそもナンセンスである。
>そのとおりです。ただし、「諸法と言えども人間詰まり五蘊各自には個性がある。」
>と言ったのは私ではなく、あなたでしたよ。私は、これを否定したのでした、
>個性と言うものはないと。
1)引用元のレス番号がわかるように引用しろ
2)>・>の数で引用の階層を明示しろ
3)、。の切れのいい場所で改行しろ
4)一行は25字〜35字くらいで改行しろ
―――――暇人さんの改行字数ライン――――――――――――
―――――無宗ださんの改行字数ライン――――――――――――――――
299 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 18:33:40 ID:njYPi22C
>296
「諸法と言えども人間詰まり五蘊各自には個性がある。」
このスレで「」内の語句の初出は下記4行目。
>259 :名無しさん@3周年:2005/09/21(水) ID:6c/I9lZN
>
>>258 >@一切の現象:諸法:は無自性で空である。
> しかし、諸法と言えども人間詰まり五蘊各自には個性がある。
300 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 18:45:17 ID:kT4tr9Gy
>>298 >2)>・>の数で引用の階層を明示しろ
これの操作が判らないのですが、いちいち手で打ち込むのですか?
301 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 19:01:22 ID:njYPi22C
300は変な日本語をつかうね。 ところでコテハン(固定ハンドル)とsageは知ってるかね?
302 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/22(木) 19:02:24 ID:z1Gnhk/Y
・a=0 ・a=1 この2つの数式(命題)は、同時には成立しない。 同時に成立するとの主張は矛盾である。 同様に ・Aが存在する ・Aは無である という2つの命題は、同時には成立しない。 同時に成立するとの主張は矛盾である。 ここまでは、OK? (1)空=無を主張している君が存在し、 (2)空≠無を主張している私が存在する。 これは事実である。 この事実にもかかわらず、 (3)君は無である。 (4)私も無である。 を主張するのであれば、矛盾が発生する。 何故ならば、 (1)と(3)は同時には成立しないから。 (2)と(4)は同時には成立しないから。
303 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 19:04:34 ID:O+EfS3K1
ゼウスって仏教の人だっけ?
304 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 19:12:46 ID:njYPi22C
>302 そこでテトラレンマですよ!! ここからが仏教の本領です。 残念ながら300には理解できないと思いますよ>302
305 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 19:55:20 ID:kT4tr9Gy
>>304 304さんが対応してください。見ています。
コテハン sage は知っています。
>>303 ゼウスはギリシャ神話の大神でしょう。
306 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 19:55:35 ID:z16ulr90
>>302 そもそも「同時に」ということがありえないのでは?
「a=0」を読んで信じた次の瞬間に、「a=1」を読んで信じた場合、両方とも信じてた瞬間には成立する。
308 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 20:31:28 ID:kT4tr9Gy
>>302 >同様に
・Aが存在する
・Aは無である
という2つの命題は、同時には成立しない。
同時に成立するとの主張は矛盾である。
ここまでは、OK?
相対的に存在する『有』『無』は実体のないものである、
と言うのはあなたも認めるところじゃないのか?
そこで、上の設問の「有」「無」はとにかく、相対的に存在しているのだ。
しかし、縁起しているもの故に、『有』としての存在「無」としての存在はないのだ。
このことを無自性または無または空といったのだ。
だから、『有』は『空=無=無自性』として存在している。
また『無』は『空=無=無自性』として存在している。
従って、OKではない。
309 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 20:36:28 ID:kT4tr9Gy
続き あなたに言うAなるものは、相対的な存在なんだろう? 例えば、Bと言う存在も認めてのAなんだろう? だとすれば、308のような論になる。
310 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 20:52:19 ID:kT4tr9Gy
>>308-
>>309 上を取り消す。
同様に
・Aが存在する
・Aは無である
という2つの命題は、同時には成立しない。
同時に成立するとの主張は矛盾である。
ここまでは、OK?
OK
>(1)空=無を主張している君が存在し、
(2)空≠無を主張している私が存在する。
これは事実である。
上は、相対的に発生した相違事実である。
従って、自性がない。自性がないと言うことは、そのような
相違が発生していないと言うことだ。
311 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 20:54:16 ID:kT4tr9Gy
>>310 >この事実にもかかわらず、
(3)君は無である。
(4)私も無である。
を主張するのであれば、矛盾が発生する。
自性がない故に発生していない事実だから、何ら矛盾はない。
>何故ならば、
(1)と(3)は同時には成立しないから。
(2)と(4)は同時には成立しないから。
人間としての存在の相違と、意見見解としての存在の相違は区別すべきだ。
今は意見の相違を論じているのだから、矛盾の問題はない
312 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/22(木) 21:24:36 ID:z1Gnhk/Y
>>312 たとえば、目の前の机の上に林檎が1個あったとしよう。
・林檎が存在すると言っていいのか?
それとも
・林檎に自性がなければ、目の前の林檎は存在しないのか?
313 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 21:47:24 ID:kT4tr9Gy
>>312 > ・林檎に自性がなければ、目の前の林檎は存在しないのか?
そうだ、りんごに自性がないから、りんごは存在していない。
314 :
暇人 :2005/09/22(木) 22:02:00 ID:oaxKiwRy
そういえば昨日食べた りんごは美味かった
存在しないリンゴって美味いんか
ヴェーサーリーは美しい。
317 :
暇人 :2005/09/22(木) 22:29:44 ID:oaxKiwRy
キミには存在しなくても 私には存在した
それは良かった、リンゴを美味いと思った君は存在したか
319 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 22:45:04 ID:kT4tr9Gy
321 :
名無しさん@3周年 :2005/09/22(木) 23:00:42 ID:kT4tr9Gy
ニルバーナは美しい。
認知障害をおこしている者に論理をといても無駄。 この人の悩みはすくない、同時に自省するだけの能力もない。 親も介護者もこの人に忍耐することを教えなかった。 せめて数息観を修するくらいの忍耐力があれば、 人に辱められることも少なくなるだろうに。 まっ、本人は幸せそうだしよけいなお世話だな。
323 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/23(金) 09:19:06 ID:oJ4YDTQR
>>313 :名無しさん@3周年:2005/09/22(木) 21:47:24 ID:kT4tr9Gy
> > ・林檎に自性がなければ、目の前の林檎は存在しないのか?
>
> そうだ、りんごに自性がないから、りんごは存在していない。
済まぬ。
自性の有無に関する議論を行う際に、
自性の有無を有無の根拠とする輩と議論するすべを私は知らない。
>>312 > たとえば、目の前の机の上に林檎が1個あったとしよう。
こう仮定した場合、「林檎が1個ある」ことを前提としない議論を
ナンセンスとしか私には思えない。
324 :
東宮 ◆hXtoguu1Lo :2005/09/23(金) 14:47:21 ID:NTsge2ss
>>323 般若心経の「色即是空空即是色」のところ。
目の前にリンゴがありました。
リンゴは自分がどのようにみても、なんの変哲もないリンゴなんです。
ですがそこにほかの人間が数名きて、指を指してリンゴに向かい「これはリンゴじゃない!」といったときからリンゴじゃなくなってしまったのです。
分かりますか?
般若心経の勉強ではありませんが、色即是空空即是色とはそういう意味です。
これであなたの難解は説けますか?
>>324 それは、言葉・音声(ラベル)としてのリンゴでなくなっただけで、
そこに在る物体そのものとして、それが変わったわけではない。
326 :
東宮 ◆hXtoguu1Lo :2005/09/23(金) 15:10:30 ID:NTsge2ss
>>235 心理を必死で見極めようとせず、逆説調子に書いたといったらどうですか?
327 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/23(金) 15:32:00 ID:oJ4YDTQR
>>326 :東宮 ◆hXtoguu1Lo :2005/09/23(金) 15:10:30 ID:NTsge2ss
> 心理を必死で見極めようとせず、逆説調子に書いたといったらどうですか?
これは、
>>325 に書かれてる内容に関する反論ですか?
私には、
>>325 を書いた人物に対する誹謗にしか見えません。
個人に対する誹謗行為は、建設的な議論の役には立ちません。
>>324 :東宮 ◆hXtoguu1Lo :2005/09/23(金) 14:47:21 ID:NTsge2ss
> 目の前にリンゴがありました。
> リンゴは自分がどのようにみても、なんの変哲もないリンゴなんです。
>
> ですがそこにほかの人間が数名きて、指を指してリンゴに向かい「これはリンゴじゃない!」といったときからリンゴじゃなくなってしまったのです。
>
> 分かりますか?
わかりません。
何が変化したのでしょうか?
328 :
東宮 ◆hXtoguu1Lo :2005/09/23(金) 16:35:20 ID:NTsge2ss
>>327 そうゆうつもりで書いた訳じゃありません!
反論だとか誹謗行為だというのであればもう書きません!
失礼いたしました。
ごきげんようm(_ _)m
>>328 こいつは人の発言が中傷発言でもないのに「中傷だ」と大声で喚き散らして
人を中傷する前科者です。スルーしたほうがいいです。
と書いたら必死になるイカレチンポ。
330 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 18:47:33 ID:05wqRtnZ
>>323 >
>>312 > たとえば、目の前の机の上に林檎が1個あったとしよう。
こう仮定した場合、「林檎が1個ある」ことを前提としない議論を
ナンセンスとしか私には思えない。
りんごの自性があるといってるの?つまり、りんごは縁起してそこにあるのではない、と言ってるの?
331 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/23(金) 19:23:58 ID:oJ4YDTQR
>>330 :名無しさん@3周年:2005/09/23(金) 18:47:33 ID:05wqRtnZ
> りんごの自性があるといってるの?つまり、りんごは縁起してそこにあるのではない、と言ってるの?
そうではない。
・りんごの自性があるのか?
それとも
・りんごは縁起してそこにあるのか?
を論ずるためには、
まず、議論するもの同士が、
●りんごはそこにある
ということに同意しなければならない。
と言っているのだ。
自性の有無、縁起か否かによって、
「りんごはそこにある」かどうかが、不定になるのでは、
議論できないと言っているのだ。
332 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 19:31:43 ID:05wqRtnZ
333 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 19:34:46 ID:05wqRtnZ
>>331 りんごはそこにあります。
ハイ、どうぞ。
334 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/23(金) 19:47:23 ID:oJ4YDTQR
>>332-333 > りんごはそこにあります。
> ハイ、どうぞ。
サンクス。
そのりんごは、りんごの木や、日射、降雨、害虫被害の無といった
様々な因縁によって生じたもので、やがて滅するものである。
そのりんごは無常であり、自性がない。したがって空である。
すなわち
・りんごは無ではない。
・りんごは空である。
ゆえに空は無ではない。
・自性がないこと
と
・存在しないこと
は異なる概念である。
335 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 19:58:19 ID:05wqRtnZ
第八章 パータリ村の者
8・1
比丘たちよ、その場所(処:認識対象)は存在する――〔すなわち〕そこには、
まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、虚空無辺処(虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、
識無辺処(心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、
無所有処(いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、
非想非非想処(想う者でもなく想わない者でもない、という瞑想の境地)なく、
この世なく、他世なく、月と日は両者ともに〔ない〕。比丘たちよ、
その〔場所〕を、わたしたちににとって、まさしく、帰る所なきものと、
赴く所なきものと、止[とど]まることなきものと、死滅なきものと、
再生なきものと、依って立つところなきものと、〔対象の〕転起なきものと、
まさしく、〔転起の〕対象なきものと、〔わたしは〕あなたに説く。
これこそは、苦しみの終極[おわり]である。
http://www.j-theravada.net/sakhi/udana.html#8 以上の中の、『なく』は間違いで、『空』と言うべきだったのか?
336 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/23(金) 20:07:30 ID:oJ4YDTQR
>>335 :名無しさん@3周年:2005/09/23(金) 19:58:19 ID:05wqRtnZ
> 以上の中の、『なく』は間違いで、『空』と言うべきだったのか?
いいや。
『なく』で問題ないんじゃないの。
337 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 20:08:51 ID:05wqRtnZ
>>334 >・自性がないこと
と
・存在しないこと
は異なる概念である。
自性がないものは、どの様に存在しているの?
空として存在しているのか?
338 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 20:12:14 ID:Xgb6TMEZ
存在しているのでも、いないのでもない。 存在という概念にとらわれてはいけない。
339 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 20:15:28 ID:Xs2h+Hus
なんか迷いまくってない?
空は、「空なる性質」のこと。 『「空」という存在』ではない。
341 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 20:17:46 ID:05wqRtnZ
>>338 >存在しているのでも、いないのでもない。
存在という概念にとらわれてはいけない。
りんごについてはなんと言うべきか?
342 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/23(金) 20:18:21 ID:oJ4YDTQR
>>337 :名無しさん@3周年:2005/09/23(金) 20:08:51 ID:05wqRtnZ
>
> 自性がないものは、どの様に存在しているの?
> 空として存在しているのか?
YES
343 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 21:16:09 ID:05wqRtnZ
>>342 一切は空であると言う事に同意していたね。
あらゆるものが空として存在しているんだ、あなたの思いでは。
それなら、あらゆるものに差別はないな。つまり無相と言うことだ。
りんごとその机の差別もないのだ。
これでもりんごは『そこにある』『そこにない』とこだわるべきか?
むしろりんごはないと言うべきではないか?
345 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 21:33:17 ID:05wqRtnZ
結構じゃない?
346 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/23(金) 21:43:39 ID:oJ4YDTQR
あらゆる形あるものは、すべて素粒子からなる。
そのことは、あらゆる形あるものが同一であることを意味しない。
>>343 :名無しさん@3周年:2005/09/23(金) 21:16:09 ID:05wqRtnZ
> それなら、あらゆるものに差別はないな。つまり無相と言うことだ。
どういうことですか?
> りんごとその机の差別もないのだ。
差別というか、違いは存在します。
347 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 22:03:58 ID:05wqRtnZ
22生じたもの、あったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住うならざるもの、 老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生ずるもの、____それは喜ぶに足りない。 23それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみの事柄の止滅であり、作る働きの静まった安楽である。 24そこにはすでにあったものが存在せづ、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せづ、月も存在しないその境地を 私はよく知っている。 25来ることもなく、行くこともなく、生ずることもなく、没することもない。 住して留まることもなく、依拠することもない。___それが苦しみの終滅であると説かれる。 26水もなく、地もなく、火も風も侵入しないところ、____そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。 27そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地について自己の沈黙を自ら知るがままに、 かたちからも、かたちなきものからも、一切の苦しみから全く解脱する。 なんか良いな〜と思う。
348 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 22:05:27 ID:05wqRtnZ
347はウダーナヴァルガの第26章安らぎ「ニルバーナ」より。
349 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 22:33:31 ID:05wqRtnZ
>>346 とりあえず以下から行こう。
>> りんごとその机の差別もないのだ。
差別というか、違いは存在します。
どのような違いが存在する?
350 :
暇人 :2005/09/23(金) 22:35:19 ID:AXJvlA4X
りんごは食べれるが 机は食えない
351 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/23(金) 22:35:43 ID:oJ4YDTQR
352 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 23:07:37 ID:05wqRtnZ
>>351 名称とは、意味するところのものである。
例えば、りんごと言う名称は、りんごで無い物からりんごを区別するもんである。
これを個性といったらわかりやすいだろう。しかし個性は前に、無自性で、空で、
無であることの同意を得てるではないか。
形態は言葉を抜きにして、目に見える形を言うとしておこう。
あの立方体とその影を見てみよう。
影の形と、立方体の形の関係であるが、まさに、縁起しているではないか?
縁起してる形は、無自性で空で無であることを否定するか?
以上であるとすれば、名称と形態において、縁起関係が認められるのであるから、
無自性で、空で、無であるといわなければならず、従って、無自性であるもの同士、空であるもの同士
無であるもの同士、そこには何の差別、つまり、違いはないと言うべき出ないか。
この様な見方は、縁起を理解し、縁起しているものは自性がないと言う知性または道理によるもんで、
智慧によって見ると言うのだ。この様な見方こそ見ていると言うべきであり、これに反する見方は、
見ているのではないのだ。
>>350 食える食えないも縁起である。自性がない。だから差別はない。
353 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 23:37:37 ID:p4xKAdtm
うそつき でないなら とりあえず君は机をたべてみなさい。 金具、プラスチックの部分は無理にしても、 2年なり3年なりかければ木製の机の一つくらいたべられるだろうよ。 君はたぶん、あれこれ理由をつけて、机をたべない。たべられるのに。 「君のあたま」はうそと本当の見分けがつかないけど、「君の体」は君がうそつきだと知っている。 君以外の、みんな(君の体でさえも) 君がうそつき だと知っている。
354 :
名無しさん@3周年 :2005/09/23(金) 23:49:17 ID:05wqRtnZ
>>353 >350 :暇人 :2005/09/23(金) 22:35:19 ID:AXJvlA4X
りんごは食べれるが
机は食えない
暇人さんに言いましょう。暇人サンに聞いてみましょう。
356 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 00:09:28 ID:o49g4Y+g
自分に都合が悪くなったら発狂ですか? うそつき で ずるい 人ですね。 暇人さんに責任転嫁するということは、 今までの内容を否定することになりますよ。 あなたと暇人さんの主張は両立しませんから。
357 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/24(土) 00:18:18 ID:L35Ndezk
>>352 :名無しさん@3周年:2005/09/23(金) 23:07:37 ID:05wqRtnZ
> 名称とは、意味するところのものである。
> 例えば、りんごと言う名称は、りんごで無い物からりんごを区別するもんである。
> これを個性といったらわかりやすいだろう。しかし個性は前に、無自性で、空で、
> 無であることの同意を得てるではないか。
どのレスで、私が同意しましたか?
空=無に同意した覚えは全くありません。
君こそ、りんごがあることに同意したのではなかったのか?
撤回するなら、その理由を述べよ。
>>333 :名無しさん@3周年:2005/09/23(金) 19:34:46 ID:05wqRtnZ
> りんごはそこにあります。
> ハイ、どうぞ。
358 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 00:33:51 ID:ZC4BU5/m
なんか分けワカメになってきたね。今夜はこれまで。
359 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 06:13:30 ID:ZC4BU5/m
正常も異常も縁起であるか?だから差別はないか?
360 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/24(土) 07:13:08 ID:L35Ndezk
無常は苦 涅槃は楽 この苦楽と苦楽中道の苦楽は整合がとれるのか?
361 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 07:25:44 ID:ZC4BU5/m
>>360 当然採らなければならないので、経典に、涅槃をも求めない、とあるだろう。
とにかく相対的に存在する段階は全て否定する必要があるのだ。
しかし、無常は苦と言うのは、判らない、その根拠を示してくれ。
一切皆苦と言うのは、形成されているもの、つまり、このことを、縁起しているもの
と言うべきだと思うが、縁起しているものは苦であると言うのは判るんだ。
従って、涅槃とは、縁起しない、ものが起こらない状態である、とされている。
362 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/24(土) 07:51:26 ID:L35Ndezk
>>361 > しかし、無常は苦と言うのは、判らない、その根拠を示してくれ。
阿含経典による仏教の根本聖典 増谷文雄
p90
■無常なるものは苦なり
南伝 相応部経典 35,32 有験
----
この疑問は、
<--
http://homepage1.nifty.com/manikana/upayahrdaya/upayahrdaya.html 一・三・八・二【分別論から詰論へ】
次のような教説がある。
もし、ある人が苦習滅道、十二因縁が有の法と同じであるとか、あるいは、異なっているとか説くならば、
皆正しい理由はない。なぜか。
もし(現世の法と)同じであれば、苦辺に陥るであろうし、異なっているとするならば楽辺に陥ることになろう33。
そこで、ある人が、一つのこともあれば、異なっていることもあると説くならば、二つの極端(二辺)に陥ってしまう。
これらは仏の教義ではない。
-->
に対する、『ブッダ論理学五つの難問』p86-87の記述を読み、浮かんだ。
「涅槃は楽」に関しては、
> 一・三・八・三・二【分別論による喩(消去法をふくむもの)】
を参照。
363 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/24(土) 08:09:41 ID:L35Ndezk
>>361 :名無しさん@3周年:2005/09/24(土) 07:25:44 ID:ZC4BU5/m
> しかし、無常は苦と言うのは、判らない、その根拠を示してくれ。
> 一切皆苦と言うのは、形成されているもの、つまり、このことを、縁起しているもの
> と言うべきだと思うが、縁起しているものは苦であると言うのは判るんだ。
そうだね。
無常だから苦なんで、
無常=苦じゃなかったね。スマソ。
364 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 08:40:17 ID:ZC4BU5/m
無常と言うのは、常なるもの「定」がない、と言う意味に採りたいのだ。 無常が真実であるのに、人は、常なるものがあると錯覚して、あるものとして執着する 事、これが「苦」に他ならない、とこの様に解釈するべきか? これは、一切皆苦につながっているのではないか? 一切皆苦と一切皆空というならば、苦と空は同じものか? 一切は空であるのに、なにかあると妄想して執着をなす、このことが苦しみである と言うのは理解できるよね。これは先に言った、諸行無常であるのに、 常なるものがあると錯覚して、それを求める(執着する)事が、苦しみである と言うのと同じ事だ。 さてと、空と無とが同じかどうか、これは簡単な誤解と言うような問題ではないのだ。 と言うのは、前出の首リョウ厳三昧経に、 38、物質的存在そのものには本性が無いから、ダーラニーには物質的存在が無いと説かれた。 しかし他方、物質的存在なしではダーラニーとして認めることにもならない。 39、物質的存在には本性が無いにもかかわらず、本性が有るといわれる。 そのように本性を知るときダーラニーは生じるのである。 とあるからだ。
365 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 09:20:47 ID:ZC4BU5/m
無宗ださん、精神統一と言うことがよく言われますが、これはどのようなものと考えておられますか?
366 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/24(土) 16:22:58 ID:L35Ndezk
>>364 :名無しさん@3周年:2005/09/24(土) 08:40:17 ID:ZC4BU5/m
<--
無常と言うのは、常なるもの「定」がない、と言う意味に採りたいのだ。
(省略)
常なるものがあると錯覚して、それを求める(執着する)事が、苦しみである
と言うのと同じ事だ。
-->
同意します。一切があるわけです。
一切は空だが、無ではないわけです。
<--
さてと、空と無とが同じかどうか、これは簡単な誤解と言うような問題ではないのだ。
と言うのは、前出の首リョウ厳三昧経に、
(省略)
とあるからだ。
-->
私の知性では理解不能。サルでもわかるような解説希望。
結局、引用部分は、「物質的存在」はあることを前提として、
本性の有無を論じているように私には思えるのだが。
>>365 :名無しさん@3周年:2005/09/24(土) 09:20:47 ID:ZC4BU5/m
> 無宗ださん、精神統一と言うことがよく言われますが、これはどのようなものと考えておられますか?
これが、
無=空か
無≠空か
の議論に関係するの?関係ないのならパス。
367 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 20:43:28 ID:ZC4BU5/m
>>366 迷うと言うことの反対に禅定つまり精神統一と言うものがある。
迷うと言うことは、縁起を悟らず、一方に偏したり、二編に偏したり、その中間に偏したりすることだ。
りんごが良いか梨が良いか?と言う風に。りんごも梨もないのに。また梨を嫌ってりんごを取ったものは
梨を食らいたいと思うことになる。真実ハ梨もりんごも同じだから。
精神統一とは、この様に縁起しているものから離れる心を持することである。
縁起しているものには自性がないと見て。
このとき、りんごもある机もある空気もある、とみていたのでは、ものと物の関係性
つまり縁起を見ていないのであるから、心はりんごに執着し机に執着し、空気に執着し
ているものと言うべきなのだ。これが心が散乱していると言うことだ。縁起を悟り
空無自性を悟り、あるとする執着からはなれる心、これだけが一つの心であり、
精神統一と言う心である。
したがって、空=無と言うべきだと思う。
心は縁起せんのんか
369 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/24(土) 20:57:54 ID:L35Ndezk
もし、仮に、空=無だとすれば、 あなたの考えに反対し、無≠空と言っている私も、存在しないのだ。 あなたに反対している人がいると思うのは、あなたの精神統一が足りないのだ。 一切は空であるのに、なにかあると妄想して執着をなす、このことが苦しみである はよ、執着をなくしなさい。
370 :
素人 :2005/09/24(土) 21:22:03 ID:ssJ2/pRl
もう一度書く。 特に
>>367 へ。
ヴェーサーリーは美しい。
名前欄も入れとく。
あと、「したがって」の前後に何のつながりもないが?
というか、お前の言う「無」は何だ? not か?それとも、nothing か? それとも他のものか?
371 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 22:22:51 ID:ZC4BU5/m
>>368 心が縁起するのだ。
>>370 無執着の無だ。修行僧波なぜ無一物であるのか?
あるとするものはないからだ。その真理に反してなにかを所有するとなると
有る無いの世界に入り、結局地獄に落ちてしまう。無いものを有ると執着しているからだ。
372 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 22:41:41 ID:ZC4BU5/m
>>371 >心が縁起するのだ。
説明不足、うまく説明できていない。
373 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 23:08:17 ID:BeBpljp0
もし、仮に、空=無だとすれば、 あなたの考えに反対し、無≠空と言っている無宗ださんも、存在しないのだ。 無宗ださんがいるとあなたが思うのは、あなたの心が散乱していると言うことだ。 一切は空であるのに、なにかあると妄想して執着をなす、このことが苦しみである はよ、執着をなくしなさい。
374 :
名無しさん@3周年 :2005/09/24(土) 23:21:42 ID:BeBpljp0
ZC4BU5/m = 358、359、361、364、365、367、371、372 こいつは あは じゃないかな。 禅かぶれで、人の話を聞かない、さとり系スレッドの嫌われ者。
歯痛や肩こり、重い病気、喜怒哀楽、食べ物飲み物、こうしたものまで すべて幻である、というときにはもう幻/現実という区別はぬけがらに なっている。幻の金で幻の食事をして幻の腹痛をおこし、幻の医者に さらに幻の金をとられて幻的に怒る、ということになるからである。
376 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 13:29:37 ID:BF4ibyZf
その通りだ。この様なものは全て縁起しているものであり、縁起しているものは、 自性が無く、幻である、と見なすべきである。次に、幻に執着することは愚かであると知り、 無執着の態度を採るようにしなければならない。自分を苦しめるものが一切無いことを知り 歓喜する事になる(歓喜地)。執着心を取る様に心がけていると、ついには完全な無執着の境地に至る。 これが智慧の完成であり、悟りである。 法華経安楽行品 また、次に、菩薩は、この世に存在している一切のものは空である、 ありのままのすがたである、顛倒しておらず、不動であり、退転せず、 虚空の様であって固有の性質がなく、言葉でも口でも説明の出来ないものであり、 生じたのでもなく、出て来たのでもなく、起こったのでもなく、名もなく、 相もなく、所有するものがなく、無量・無辺・無碍・無障であると観察しなさい。 ただ因縁によって存在しているだけであり、判断の顛倒によって生ずるから、 常住であり、安楽であると説くのである。存在するものをこの様に観察すること、 これが菩薩の第二の近づくべき範囲である」と。
377 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 13:35:10 ID:BF4ibyZf
原始経典の修行僧の境地をよく大乗は説明しているんだ。
378 :
暇人 :2005/09/25(日) 13:48:50 ID:Ca0GwaQB
原始経典を否定していると私には思えるが
379 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 13:55:07 ID:BF4ibyZf
具体的にその個所を指摘されてください。
380 :
暇人 :2005/09/25(日) 14:05:23 ID:Ca0GwaQB
まずその法華経の当該箇所の訓読は、 復次に菩薩摩訶薩、一切の法を 観ずるに空なり、如実相なり、顛倒せず、動せず、退せず、転せず、虚空の如 くにして所有の性なし。一切の語言の道断え、生ぜず、出せず、起せず。名な く相なく、実に所有なし。無量・無辺・無碍・無障なり。但因縁を以て有り、 顛倒に従って生ず。故に説く、常に楽って是の如き法相を観ぜよと。是を菩薩 摩訶薩の第二の親近処と名く。
381 :
暇人 :2005/09/25(日) 14:06:31 ID:Ca0GwaQB
>常に楽って是の如き法相を観ぜよと つねにねがって だな。そこを 「常住であり、安楽であると説くのである」とするならば、 原始経典と矛盾すると私は思う
382 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 14:17:10 ID:BF4ibyZf
383 :
暇人 :2005/09/25(日) 14:19:42 ID:Ca0GwaQB
その前に 法華のキミの読みの具体的根拠を述べよ 人に尋ねる前に義務を果たされよ
384 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 15:11:30 ID:BF4ibyZf
>>383 私の義務は、原始経典の修行僧波ニルバーナを求めるもんであり、大乗の言う菩薩も修行僧であり、彼もニルバーナを求める
ものであることを言うことです。以下のものは修行僧の心構えだと思います。
203 飢えは最大の病いであり、形成せられる存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。
このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
204 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、
ニルヴァーナは最上の楽しみである。
385 :
暇人 :2005/09/25(日) 15:15:54 ID:Ca0GwaQB
「常住であり」の例証がないですね それとキミは法華を誤読していると私は例証したのだが それについては?
386 :
暇人 :2005/09/25(日) 15:24:05 ID:Ca0GwaQB
キミの法華箇所あるいはキミの読解にも 「修行僧はニルバーナを求めるものだ」もない。 てか、菩薩は、修行僧とイコールではないじゃん。 ちなみに法華当該箇所の偈の部分に 「常住にして一相なり 是れを近処と名く」とある。 キミのその質の悪い現代語訳は誰の訳なのだね?
387 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 15:24:37 ID:BF4ibyZf
388 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 15:46:04 ID:BF4ibyZf
>「常に楽って是の如き法相を観ぜよ」と「常住であり、安楽であると説くのである」 常に願って」と言うのは、意志を持って見ると言う意味の様に感じられるもするが、 前後からその様に解してはならないと思う。 意志を伴わないで見ると解するなら、「常住であり安楽である」と矛盾しないだろう。
389 :
暇人 :2005/09/25(日) 16:12:20 ID:2b4rTLUd
>>388 いい加減な与太話ではなく きちんと文を読みなされ
当該箇所の漢文は、「従顛倒生故説 常楽観如是法相」
これをどう読み下したら、
「常住であり、安楽であると説くのである」と読めるの?
ここに「常住」の語はない。
岩波「法華経 中」p248では
「顛倒より生ずるが故に常・楽と説くなり かくの如きの法相を観ずる」
p249の梵本現代語訳では
「知覚の誤りによって生じたものと見るのである。
求法者は常にこの世に存在するすべてのものをこのようにみて、暮らすのである」
390 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 17:04:02 ID:BF4ibyZf
常住安楽を単に妄執に基づく「楽」と解し 妄執の故にその楽が「無常ではなく、固定的に常住」であると、勘違いしているのが凡夫である。 故にこのよう見ないで、上の様に無相と見よ、と言うのが、第1の訳である。 第一の解訳が相当だと思います。
391 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 17:20:23 ID:BF4ibyZf
続き、 梵文現代語訳と第一の訳とは文意に相違は無い。 「常に楽って是の如き法相を観ぜよと」これば一番前後関係において 不可解だ。 私は漢文を理解できないから究極の正解は言えないが、 他の三つは意味が同一で、しかも、何とか通じる。 しかしどれも誤解を招いておかしくない訳文だと思う。 要するに、言わんとするところは、一相無相が真実の相であるところ、 凡夫は、智慧の目を持ってみないものだから、転倒して空であるのに、 有る無いといい、しかもそれらが固定的恒常的に存在すると勘違いしているが、 その様に見ないで、智慧の目で、空無相一相と見るようにしなければならない、これを菩薩の 親近と言うのである、とこういうことだと思いますが?
392 :
暇人 :2005/09/25(日) 18:23:31 ID:2b4rTLUd
当該箇所には あなたの引用訳だけが「常住」の語がある。 私の引用 日蓮宗の読み下し 岩波の読み下し 梵本現代語訳 漢訳原文 どれにも「常住」はない。 >空無相一相 「一相」と「常住」については 偈部分に「常住」が二箇所あるのだが、後ろの「常住」箇所をみると キミの引用先の訳だと 「常住であって一相であると観察せよ」 漢訳原文「常住一相 是名近処」 法華訓「常住にして一相なり 是れを近処と名く」 岩波法華「常住にして一相なり、と観ず 是れを近処と名くるなり」 岩波梵本訳「これらこの世に存在するものは常に存在する これが賢者らの 交際範囲と言われている」 梵本以外は「常住=一相」とあり、キミの論は成立しない
393 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 20:08:26 ID:BF4ibyZf
>>392 >偈部分に「常住」が二箇所あるのだが、後ろの「常住」箇所をみると
キミの引用先の訳だと
「常住であって一相であると観察せよ」
漢訳原文「常住一相 是名近処」
法華訓「常住にして一相なり 是れを近処と名く」
岩波法華「常住にして一相なり、と観ず 是れを近処と名くるなり」
岩波梵本訳「これらこの世に存在するものは常に存在する これが賢者らの
交際範囲と言われている」
意義ある資料です。
ゲの文中の意味と散文中の意味と同一を求めるなら、ゲ中の意味はどれも概ね相違はありませんね、
そうするとこれに相当する散文中の文はどれでしょうか?
空=無そう=一相 これらがまた、常住であると言うのです。
どうも上の常住に相当する文が無いですね。
涅槃が常住で、空、無相、一相、であることもまた否定してはいけないです。
私ははじめ、涅槃の意味をくんで解釈していました。これも全く見当違いではなかったと思います。
いずれにしても、言わんとするところは
>>391 に言った事に間違いないと思います。
原文そのものがあいまいに取れるような表現をしていたと結論すべきじゃないでしょうか?
暇人を相手にする場合、本スレの冒頭及び前スレで 暇人がさらした醜態をよく見てからするように。 とにかく、マトモに議論する相手じゃないことだけは分かるはず。
395 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 20:22:51 ID:BF4ibyZf
いやいやがんばる人です。
396 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 20:56:47 ID:cJa+gzyb
>394 ヲィヲィ、、、BF4ibyZfは主張ズラシまくりやん。 、376 、ただ因縁によって存在しているだけであり、判断の顛倒によって生ずるから、 、常住であり、安楽であると説くのである。 常楽我浄と無常苦無我不浄 、384 、私の義務は、、、、ものであることを言うことです。 だれもそんなこと聞いてねぇ 、387 、私が訳したのではないです。 責任転嫁 、388 、で見ると解するなら、、と矛盾しないだろう。 俺様解釈 以下略
397 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 21:01:45 ID:a5oYAHZW
>396 つまり、同類ということで。
398 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 21:09:52 ID:cJa+gzyb
うーむ。 程度の差こそあれ天然**ということでは同類かも、、、。
399 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 21:15:43 ID:BF4ibyZf
そんなことよりも大事なところをよく理解したのか?
400 :
名無しさん@3周年 :2005/09/25(日) 21:23:06 ID:cJa+gzyb
言ってるよww そうそう、そんなことよりも大事なところをよく理解したのか?>397
401 :
名無しさん@3周年 :2005/09/26(月) 19:14:29 ID:VOH3i9Cy
今年四月にたいへんな列車脱線事故があったとき、救出活動と共に、即、 事故の原因究明にエネルギーがそそがれましたよね。事故はあらゆる条件が 絡み合って互いに支え合って生じたとする結論では、わたしたちは 納得できないのではないでしょうか。どんなに困難でもおよそ原因を しぼって、事故の対策とすることがやはり求められているのだと思います。 2149 そもそも、この哲学体系は、自己の内部に矛盾をはらむという、きわめて 扱いにくいものになってしまいます。微妙で繊細なガラス細工のような体系で、 はかない淡雪のようです。バランスが非常にむずかしいように思います。 2117 阿羅漢、菩薩は刹那に入出定をなすという。石飛先生は彼我にかかる橋に 気がついておられる。だから、縁起を相依相関関係とすることを承諾 されないのでしょう(予想
403 :
名無しさん@3周年 :2005/09/27(火) 02:03:49 ID:2fwd94FG BE:29372922-
お〜友よ。 空に対する空論は枝葉末節。 御釈迦様の話をしようよ。 御釈迦様は、空と表現した事はありません、無でもありません。 ないのと同じと言ったのです。
404 :
名無しさん@3周年 :2005/09/27(火) 02:12:19 ID:zAwBK1h8
394 同意
405 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/27(火) 06:28:41 ID:vXQmWaRX
十二支縁起を因果関係とすると、 無明→行→識 六処→触→受→愛→取 生→老死 に関しては、愚者でも理解できる。 識→名色→六処 取→有→生 に因果関係があるというのが、どうも納得いかない。
406 :
暇人 :2005/09/27(火) 07:55:20 ID:6Stsf+cx
うむぅ 私には難解だが。。。よくわからん。 愛→取 を何故区別したのか その必要性がわからんし そもそもは「愛」支で終った縁起に「無明」などを付け加えた理由も 不明だ
407 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/27(火) 12:39:41 ID:aCAk9v/N
>>406 :暇人:2005/09/27(火) 07:55:20 ID:6Stsf+cx
> 愛→取 を何故区別したのか その必要性がわからんし
おお、ナイスな疑問。
閃いちゃいました。こんな解釈はいかがでしょうか?
愛:早期発見、早期治療が可能な業
取:転生確定の業、再生の素因
有:業有
> 識→名色→六処
に関しても、
認識→認識対象→認識手段
と解釈し、認識対象は、自分の意識・関心がある認識対象として解釈すれば、
因果関係になりますね。
認識対象をこの世の一切と考えると、どつぼにはまって出て来れませんが。
> そもそもは「愛」支で終った縁起
これの根拠は?
石飛氏は、その著書の中で、
対機説法で必要な部分しか語らなかったのであって、最初から十二支縁起は完成していた
との立場のようです.
408 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/27(火) 12:44:49 ID:aCAk9v/N
>>407 訂正
訂正前
有:業有
訂正後
有:報有
409 :
名無しさん@3周年 :2005/09/27(火) 20:52:36 ID:rz96nCGg0
無明と明(知)は無明⇔明(知)で合わせ鏡です。 無明とは空性に疎いこと、原始仏教なら四諦の道理に昏いことですから、 無明という理論上の説明概念は重要かと思われます。
410 :
暇人 :2005/09/27(火) 20:57:09 ID:LMNrJ/v80
>>407 >これの根拠は?
( ‥) ン? 六支で完結した経典がある。十二支より古い説を支持するのが
学者の大勢。わたし的にも内容的に六支で完結していると思う。
十二支は意味不明。
>石飛氏
人それぞれだから 色んな立場や推論があっていいと思う。
ただ私はこれに関しては支持しない
411 :
名無しさん@3周年 :2005/09/27(火) 23:09:31 ID:hOrDE4x6 BE:102803472-
>>403 御教示ありがとう御座いました。
正直申しますと、始めに拝見した時は、この人なにを言っているのか
と思いました。何か気になり、数時間後はたと気付きました。
意味も判らず、表面しか見られなかった事をお詫びします。
仏教が中国に渡り、漢訳された時点で表現が硬く成ったと思います。
御釈迦様が新参の弟子に始めに話したのが、漢訳の諸行無常、
諸法無我、だと思われますが、その時の語り口としては、
確かに{ないと同じ}だったと思われます。弟子たちよ、
よく考えて見なさい、確かと思える身体も大地も目に映る全ては、
常に変化している{ないも同じ}ものを拠り所するは苦なり。
私は未熟者ので、このように御教示くださった意味をあてはめ、
今まで初めの一歩を知らず、頭だけでその先に有る、四諦、
八正道、十二縁起を知識だけで捉え、得心出来なかった訳に
気付きました。心中より感謝いたします。
412 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/28(水) 08:58:20 ID:iN+HbnNS
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html 苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか 宮元啓一
当時、出家たち一般の常識としては、輪廻的生存の直接の原因は、行為(業)であった。
「善因楽果、悪因苦果」「自業自得」というようにいい表せられる因果応報では、
業が輪廻の原動力とされるのである。
輪廻←--行為(業)←--欲望
すなわち、ゴータマ・ブッダは、
当時、出家のあいだで常識となっていた輪廻のメカニズムと、
その裏返しである解脱のメカニズムに不備があることに気がついたのである。
ゴータマ・ブッダは、輪廻のメカニズムの根源に根本的な生存欲を置き、
欲望を貪(求める欲望)と瞋(避ける欲望)とで代表させたのである。
輪廻←--善悪の業←--欲望(貪、瞋)←----根本的な生存欲(渇愛、癡、無明)
-----------------
>>410 :暇人:2005/09/27(火) 20:57:09 ID:LMNrJ/v80
> ( ‥) ン? 六支で完結した経典がある。十二支より古い説を支持するのが
> 学者の大勢。わたし的にも内容的に六支で完結していると思う。
> 十二支は意味不明。
六支は、
輪廻←--行為(業)←--欲望
十二支は、
輪廻←--善悪の業←--欲望(貪、瞋)←----根本的な生存欲(渇愛、癡、無明)
に対応すると思われ。
六支では、解脱できないので、十二支に拡張されたのでしょう。
仏説は増広されることはあっても、省略される可能性は低い。 十二支縁起は三世(過去世、現世、来世)に絡めて説かれる。 六支でも解脱できるのではないかと、、、解脱したことはありませんが。
えっと、ローマナイズ君はあれで納得いけて、撃沈ってわけ? 反論は無いの?
無知ー取ー苦というわずか三支の縁起 無知ー愛ー取ー老死と、わずか四支の系列 ぐぐったら出てきました。
>414 あの方はあれで撃沈とはいかんでしょう。 古くからいる方のようですし。 2CHを御卒業されたのなら、それはそれであの方にとって喜ばしいことだと思います。
>>415 三支がもっとも原型だろうね。
愛とは取の一部内容だし、苦の内容が老死などで説明する。
なぜどうしようもない「苦」があるのか
苦はさまざまな執着から生じる
その執着は真実心理にたいする卓見が無いから生まれる
これだけのこと。
あとは電波男さんに聞いとくれ。
418 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/28(水) 13:21:14 ID:iN+HbnNS
419 :
名無しさん@3周年 :2005/09/28(水) 13:38:44 ID:wQPwXzgo
>>413 観察が熟練してきて、より微細な心の動きに気付けるようになっていったのでは?
420 :
名無しさん@3周年 :2005/09/28(水) 20:52:55 ID:aLpqZ4Cl
>>417 そんなヤツ呼び出すなよ。せっかく落ち着いてきてるのに。
というか、あんたも消えてほしい。
>>420 というか、ものすごく下らんスレッドになっているよ。
あんたも含めて。
生きている人間相手なら、バカでも瞬時にわかることがNETではわからない。 現場を知ってる電波さんは貴重よ。 でも、中途で放置はやめてほしいよね。 唯識の読書会とか、ML活動とか、原始仏教の読書会とか、論理学講義とか。 自分で勉強すればすむけどね。
も一つ言えば、NETでの活動だけでは悩みはちっとも減らないし、 善意は消耗するし、迷いは増えてゆく。 新新宗教でも、伝統宗教でも、哲学でも、切実な悩みでも、あるいは仕事でもいい。 自分の核となり同時に社会との接点ともなる何か。 それがないと話にならない。 みんな自分の体があり、生活があるから何かしらあるはずなのにね。
424 :
名無しさん@3周年 :2005/09/28(水) 22:12:24 ID:aLpqZ4Cl
>>421 じゃ、きえて! もうこないこと。最もくだらない罵り相の導き手さん。ばいばい
425 :
源信 :2005/09/28(水) 23:48:42 ID:OaVTx3Nc
岡田光玉の調査とみ教えによれば、 ス神が人類の創造のために使った霊的ひながたを最初に作り上げた場所は、ムー大陸であり古代の日本であったという。 色々な役割を満たさせるために、最初の人類は5種類の色に分けて造られた。すなわち黄、赤、白、青緑、紫、である。 すべての祭典で掲げられる真光の垂れ幕にある五色の縞は、五つの起源である人種すなわち黄色を主とする五色人 (ごしきじん)を思い出させるものである。 より正確には、日本人が主なのであり、中国人や韓国人などの黄色人種は、その他の人種ほど低くはないが、黄色人種の 中でも劣っている部類に属するという。
426 :
名無しさん@3周年 :2005/09/29(木) 00:11:46 ID:V+/m4QpB
自作自演自画自讃
427 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/29(木) 00:56:31 ID:1MzhFyp5
宮元啓一・石飛道子『インド新論理学の知識論 『マニカナ』の和訳と註解』 (山喜房佛書林、1998年11月20日発行) Q 解脱(p119)に、次の記述があった。 <-- [果報を生ずる]作用をいまだ起こしていない罪障は、真理の知識によって滅びるのにたいし、 [果報を生ずる]作用をすでに起こしている罪障は、享楽によって滅びる。 しかるに、享受をもたらす行為によって罪障が生ずることはない。 --> 結局、十二支縁起の縁滅で滅びるのは、[果報を生ずる]作用をいまだ起こしていない罪障だけなんですよね。
>[果報を生ずる]作用をいまだ起こしていない罪障は、真理の知識によって滅びるのにたいし、 >[果報を生ずる]作用をすでに起こしている罪障は、享楽によって滅びる。 真理の知識によって罪障を滅すれば、その果報は法性縁起。享楽によって罪障を 滅ぼすなら、その果報は世俗縁起。 >しかるに、享受をもたらす行為によって罪障が生ずることはない。 享受をもたらす行為によって生ずることのない罪障なら、享楽によって滅びるという こともあり得ない。滅びるというからには、ないものではなく生じたものであろう。
429 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/09/30(金) 06:50:59 ID:7Ft8f19w
> >しかるに、享受をもたらす行為によって罪障が生ずることはない。 むずかしい日本語でもないと思うのだが。 罪障Aが生じて、果報Aを生じた場合、 果報Aの自業自得により罪障Aは滅する。 このときに、新たに罪障Bが生ずることはない。
仏教は考えると解らなくなる宗教なので、 考えないようにしましょう。
>>429 >罪障Aが生じて、果報Aを生じた場合、
>果報Aの自業自得により罪障Aは滅する。
罪障Aが滅するといっても、そこで止まるわけでも尽きるわけでもない。
縁起における形成力としての行(サンカーラ)は、諸法を生みだす原動力
であり、生じては滅し、無常継続変化していく、無尽の潜在的な力・エネ
ルギーである。
>このときに、新たに罪障Bが生ずることはない。
「新たに罪障Bが生ずることはない」のではなく、
「同一でもなく別異でもない罪障Bが生起」します。
「新たに」という発想自体が、縁起継続の観点からすれば、忽然的・断裂的
で、したがって引き合いに出すような論点ではないのです。
>>430 考えると解らなくなる、というのと、
考えることを放棄して気づかない、というのは違います。
むしろ、思考放棄こそ、最も忌むべき行為でしょうね。 原始仏教的には。
433 :
暇人 :2005/10/01(土) 03:00:45 ID:VFkjuC3b
「塵を払え」 単に座って瞑想するだけが思索ではないかもね。 生活の一々の具体的な営みの中で きづきがあるのかもね 私達の具体的な生活から つまり地に足をつけて というのが 大事かもね 釈尊は在家には 自分の仕事に励めと教えたわけだし
434 :
修行者A :2005/10/01(土) 08:09:46 ID:AkgrGnPp
初めまして 宮元さんの本に依れば、ブッダは最初から12支縁起説を考えたとありますが 本を読んでも、つながりがよくわかりません。 どなたからわたしの無明を解き明かしてくださいませんでしょうか。 ブッダの論理では「これがあるとき(そのときのみ)かれがある。 これがないとき(そのときのみ)かれがない」という 厳しい因果律の条件をすべが満たしてるはずですが。 わたしには繋がりさえわからないのです。 何となく直感でわかりそうなのはごく一部です。 やはり輪廻(りんね)的に、ウパニシャッド哲学的 な解釈も必要なのでしょうか。 繰り返しますと、 12支縁起説をわたくしが理解できるように、というか誰にでも わかるように、どなたか解き明かしていただけないでしょうか。
435 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/01(土) 08:32:45 ID:llICJZhu
>>433 :暇人:2005/10/01(土) 03:00:45 ID:VFkjuC3b
> 単に座って瞑想する
(8-1) SAMMA SAMADHI (サンマー・サマーディ : 正定 <しょうじょう>)
八正道の最後は「samma samadhi :正定」−−−「正しい精神統一」です。
> 生活の一々の具体的な営みの中で きづきがある
(7) SAMMA SATI (サンマー・サティ : 正念 <しょうねん>)
八正道の七番目は「samma sati :正念」です。
Sati(サティ)は「念、憶念、記憶」と訳されていますが、普通日本語の意味は「気づくこと」です(英訳はawareness、mindfulness)。
http://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html ARIYA ATTANGIKA MAGGA (アリヤ・アッタンギカ・マッガ : 八正道<はっしょうどう>)
より
436 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/01(土) 08:46:39 ID:llICJZhu
437 :
ブッダ :2005/10/01(土) 08:59:21 ID:AkgrGnPp
相手の利益となることを問われたのに不利益を教え、隠し事をして語る人、──かれを賤しい人であると知れ。
438 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/01(土) 09:09:54 ID:llICJZhu
ちょっと知識を溜め込むとね、 その知識を、自分の価値の根拠にしたり、 他人を批判する道具にする人がよくいるんだよね。 まあ、それが世間というものさw この世は、ものの価値のわからない馬鹿であふれている。 お馬鹿さんに乾杯!
439 :
名無しさん@3周年 :2005/10/01(土) 10:21:49 ID:ZpR0ZHua
440 :
暇人 :2005/10/01(土) 17:27:17 ID:VFkjuC3b
>>434 うん 私も解りません。
いっしょにボチボチ考えていきましょう。
441 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/02(日) 00:51:22 ID:LVVcsukm
「釈尊の歴史的実像」(pp86-87)によれば、 スッタニパータ【 第4 八つの詩句の章 】 ◆<11、争 闘>◆の原テキストはほぼ以下のようになる。 862 争闘と争論は、どこから現われ出たのですか? 863 争闘と争論は愛(piya)にもとづいて起る。 864 世間において、愛は何にもとづいて起るのですか。 865 世の中で愛し好むものは、意欲(chanda)にもとづいて起る。 866 世の中で意欲は何にもとづいて起るのですか? 867 世の中で<快><不快>と称するものに依って、意欲が起る。 869 快と不快とは何にもとづいて起るのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか? 870 快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。 871 世の中で感覚による接触は何にもとづいて生じ、何が消滅すると感覚による接触がはたらかないのですか。 872 名称と形態とに依って感官による接触が起る。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。 873 どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 874 ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。 このように理解した者の形態は消滅する。なぜならば想いを縁として迷妄の意識があるからである。 ------------ 原始縁起説は苦(老死)ではなく、争闘と争論について語るものであった。 名称と形態 - 感官による接触 - 快と不快 - 意欲 - 愛(piya) - 争闘と争論 ここでの愛は、『TANHA(タンハー):渇愛』 ではない。名称と形態は名色、快と不快は受に対応すると考えられる。 また、1037には、「識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」 との記載がある。識別作用は識のことだろう。したがって、十二支縁起のおける 識 - 名色 - 感官による接触 - 受(「感官による接触」は、「六処-触」と置換可能か?) の部分もかなり初期の頃からあったことがわかる。
442 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/02(日) 01:03:22 ID:LVVcsukm
443 :
名無しさん@3周年 :2005/10/02(日) 16:33:07 ID:2dQ8n7bp
445 :
名無しさん@3周年 :2005/10/05(水) 19:56:59 ID:hbCVmhjY
一切は空であるから、病気なんてないんですよね?
446 :
暇人 :2005/10/05(水) 20:07:33 ID:WnAZWsa2
447 :
名無しさん@3周年 :2005/10/05(水) 21:32:41 ID:hbCVmhjY
一切は空だから。
448 :
暇人 :2005/10/05(水) 22:07:53 ID:esMGamQl
一切は変化する という意味よ 空=変化するんだから 健康にもなれば病気にもなる
449 :
名無しさん@3周年 :2005/10/07(金) 16:27:51 ID:gDkjXTIN
陽光子交流掲示板「真光フォーラム」管理人(統一版管理人・千鳥君)無断転載か?
http://jbbs.livedoor.jp/sports/24471/#1 8 / 管理人室 (12) 7 :通りすがり :2005/08/14(日) 21:12:47 ID:4qpKOIY6
管理人様
過去の書き込みを、多数改めて貼り付けておられるようですが、書き込みをされた方々からの了承は
得られているのでしょうか?
いくら本人の書き込みとはいえ、書き込んでからかなり月日の経過したものもあり、本人の許可なく
貼り付けされることで気を悪くされる方もいらっしゃるのではないでしょうか?
時として人の思想は変化するものです。私自身、掲示板に書き込みをしたものの、失敗したと後悔し
たこともこれまでに数回有りました。過去の書き込みをひっぱりだすことで、誤解を招くこともある
のではと少々心配で、老婆心ながら一言述べさせていただきました。
450 :
名無しさん@3周年 :2005/10/07(金) 19:33:35 ID:8sFcXB0E
>>448 諸行むじょうとは、無情ですか?それとも無常ですか?
451 :
暇人 :2005/10/07(金) 20:19:12 ID:YtNSZxJm
452 :
名無しさん@3周年 :2005/10/07(金) 20:56:06 ID:tZMdftt9
>>451 知っているはずだという自分の常識も、空ですもんね。
453 :
暇人 :2005/10/07(金) 21:46:40 ID:YtNSZxJm
常識というより 知っている、わかっているという思い込みは、 往々にして 落とし穴になったりするね それを大乗では「沈空」と云うね ここ原始仏教だが。。。
454 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/08(土) 09:29:03 ID:5qdQ0BHT
>>453 :暇人:2005/10/07(金) 21:46:40 ID:YtNSZxJm
> 常識というより 知っている、わかっているという思い込みは、
> 往々にして 落とし穴になったりするね
そうですね。
次のような主張をする人をみると、そんな気になります。
・釈尊は形而上の事柄は無記として語らなかった
・輪廻は形而上の事柄である。
・ゆえに釈尊は輪廻を説かなかった。
仏典を読んで、どうすれば「釈尊は輪廻を説かなかった」と解釈できるのか謎としかいいようがありません。
455 :
暇人 :2005/10/08(土) 09:55:12 ID:nKz/8cVz
明治以後 輪廻=くだらんたわ言 (大前提) 釈尊=合理的 哲学的 だから、釈尊が輪廻を説くはずがない。 仏典に説かれている←それは後世の挿入だろう こういう推論みたいね 実証的ではない。 これはむしろ近現代的な「釈尊の神格化」ではないかと思います。
456 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 11:28:53 ID:pthOg4XQ
輪廻とは何か?釈尊の言う輪廻とは何か? これを明らめる必要が有ると思うよ。 それは迷いの状態、と言うことだと思う。 悟りを得ないでいる限り、迷いの世界にいるのであり、その世界とは、 生労病死を繰り返す生死の世界だと言うのだ。 釈尊は、悟りの世界を説き、それは、迷いの世界からの解脱だから、 悟りの世界と対比して、輪廻の世界詰まり迷いの世界をとかざるを得なかったんだ。 釈尊が輪廻の世界に触れていても、輪廻の世界が真実の世界であるとか、なんか値打ちのある世界であるとして、 説こうと言う意図があったのではないのよ。
457 :
暇人 :2005/10/08(土) 11:34:09 ID:nKz/8cVz
「輪廻の世界が真実の世界」との見解を釈尊が主張した、と 誰も考えてないと思われます。
458 :
源伸 :2005/10/08(土) 12:20:14 ID:GmcjK332
右から、お札に1)、2)、3)と番号を付けます。 阿比留文字で読めそうな所以外は■で埋めました。 1)めふ■なたかむ 2)はい■ゆ■ろもしすこ 3)さつ■■たも■ 神代文字に詳しい方は補間、修正願います。
459 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 12:24:28 ID:EWo5kVJD
輪廻という言葉を詰めずに、逃げ道をつくってまつね。 何度同じこと繰り返すのでしょうかね。 「輪廻を説く」、この言葉の内容が語られてませんでつね。
460 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/08(土) 12:43:27 ID:LeZ2olF9
>>459 輪廻は、業報思想とワンセットですが何か?
業報思想は、ご存知ですよね?
断見と対比すれば、より理解できると考えます。
461 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 13:03:10 ID:iRjSQJxn
三宝帰依の気持ちがある場合、ブッダが輪廻を説いたらそれを信じます。
462 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 13:26:15 ID:EWo5kVJD
>>460 あなたの場合、佛教における業報思想を理解する能力に欠けると思います。
その理由は断見と対比するなどと、違う話をもってくるからです。
断見と常見とは対立したもののみかた。ブッダはその両方とも採用しない。
説き方によっては断見には常見を、常見には断見を当て馬にするようです。
そしてその両方とも採用しないことへ導くわけです。明治時代の断見といわ
れる主張をする人がいるのでしょうか?
まず、「断見と対比」の意味をわたしはつかめてないのかも。
463 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/08(土) 14:10:45 ID:LeZ2olF9
以下に私の考えを述べます 業報思想とは、業には報いがあるという考えです。 自業自得の原則により、報いを受けるのは業を作った当人です。 断見においては、人は業を作ったとしても 死んでしまえばそれっきりなので、死後に報いを受けることはありません。 しかし、業報思想においては、 死んでもそれっきりとはならず、死後に報いを受けるために、 再び母胎におもむき、生まれ変わることになります。 この業の報いを受けるために、生死を繰り返すことが輪廻です。 ---------- 以上が私の理解です。 十二支縁起の、「取-有-生」の部分がまさに、 業の報いにより生まれ変わることを説いています。
464 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 16:52:53 ID:EWo5kVJD
>>463 業感縁起は原始仏教ではないと散々議論されてきたではありませんか。
原始仏典で今の境遇や苦しみは前世での悪業が原因であるとか言ってますか?
自業自得の原則は当り前ですが、それは死をまたぐと説いているでしょうか?
465 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 18:47:31 ID:pthOg4XQ
>>464 業が輪廻する教説は、「サンユッタにカーヤT」中村元訳
第V篇:第二章:第一〇節:「子がいない(二)」
にあると言えます。
466 :
素人 :2005/10/08(土) 18:49:59 ID:FOBdl2XP
>輪廻とは何か?釈尊の言う輪廻とは何か? >これを明らめる必要が有ると思うよ。 不可能でしょw 推測の域を出ることはない。
467 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 18:52:26 ID:EWo5kVJD
>>465 箇所だけ示すのですか?あなたが今まで散々批判してきた人
と同じしかたですね。
468 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 19:02:29 ID:a77qgAlj
ちょっと覗いてみました。 狂牛病の牛は死んで私がそれを食べる。 牛は形を変えて私の身体となる。 牛の狂牛病と言う業によって私に病気と言う果報がもたらされる。 自業自得ばかりでなく自業他得も他業自得も経験上ありうるかと
469 :
暇人 :2005/10/08(土) 19:14:28 ID:nKz/8cVz
狂牛病の牛の肉を食べる(自業=自分の行為)が、 狂牛病の罹患(自得=自分に結果する) 私からは100% 自業自得に見えるのだが。。。
470 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 19:31:10 ID:EWo5kVJD
>>469 狂牛病だと知らない場合でも自業自得と言うのかい?
471 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/08(土) 19:50:24 ID:5qdQ0BHT
>>464 :名無しさん@3周年:2005/10/08(土) 16:52:53 ID:EWo5kVJD
> 業感縁起は原始仏教ではないと散々議論されてきたではありませんか。
> 原始仏典で今の境遇や苦しみは前世での悪業が原因であるとか言ってますか?
> 自業自得の原則は当り前ですが、それは死をまたぐと説いているでしょうか?
あのさー、その前に、
>>462 :名無しさん@3周年:2005/10/08(土) 13:26:15 ID:EWo5kVJD
> あなたの場合、佛教における業報思想を理解する能力に欠けると思います。
> その理由は断見と対比するなどと、違う話をもってくるからです。
この主張はそのままなの?
まず、「断見と対比」の意味も理解できない人間と議論してもわたしにとってメリットはないと思うのだが。
あなたも能力の欠ける相手の相手をするのは時間の無駄だろうし。
472 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 20:40:33 ID:EWo5kVJD
>>471 あのさーあんた、決定的に議論する姿勢が出来てないよ。「断見と対比」について
説明すべきなのに、能力の欠ける相手だって?あんたは何一つ、理解できていない。
あんたは人と話さないほうがイイヨ。過去ログ読んで見たけど、最低。
473 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/08(土) 21:01:46 ID:5qdQ0BHT
>>472 > 「断見と対比」について説明すべきなのに、
>>463 を嫁
読んだ上でそう言っているのなら、これ以上の議論はお互い時間の無駄ですね。
474 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 21:57:30 ID:EWo5kVJD
>>473 だからそれは業感縁起といって、原始仏教ではなく部派仏教の変化した教義だと言っているのですよ。
それを読んであんたの無能さを指摘しているのです。あんたが発言していることが無駄なのですよ。
475 :
暇人 :2005/10/08(土) 22:05:12 ID:nKz/8cVz
>>474 キミさ 仏教史の本 読んだことある?
業感縁起について まずきちんと調べてご覧。
476 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 22:41:07 ID:EWo5kVJD
>>475 ふうーん。うわさ以上のトンデモだね。
業感縁起は有部の三世にわたって縁起を配置する思想。
原始仏教にあるのかな?仏教史の本のどこに原始仏教に業感縁起があると言ってるのかな?
まずきちんと仏教史の本を読んでご覧。
あんたには先ず
>>470 に答えて欲しいんだけどな。
477 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 22:45:02 ID:MMDmbSF2
478 :
暇人 :2005/10/08(土) 22:47:31 ID:nKz/8cVz
>>463 のどの辺が業感縁起なんだね。
それとね 「三世にわたって縁起を配置する思想」は正確ではない。
大事な部分を落としているな どの縁起をだね?
調べなおしなさい。 電波一家を鵜呑みにせずね
479 :
暇人 :2005/10/08(土) 22:52:19 ID:nKz/8cVz
>>469 で私の考え方を示しましたね
それで理解できないのに これ以上は説明しても無駄かもですね
480 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 23:16:20 ID:EWo5kVJD
ふうーん。電波一家? ぼろくそにされて、まだ恥を晒している人として有名ですよ。 あんたは。
481 :
暇人 :2005/10/08(土) 23:19:29 ID:nKz/8cVz
うんうん 電波さんたちには そうみえるみたいね 私からは逆に見えてるのだけどね
482 :
名無しさん@3周年 :2005/10/08(土) 23:39:11 ID:EWo5kVJD
ほんとうに可哀相な人だね。誰でも電波さんたちに見えるんだね。 だれがどういっても絶対に曲げないからね。 あんたには原始仏教は無理。止めておきなさい。
483 :
暇人 :2005/10/08(土) 23:43:56 ID:nKz/8cVz
あはは あんたには原始仏教は無理。止めておきなさい←電波さん一派の常套句ね それとちゃんと 業感縁起 一度調べたがいいよ
【自業自得】についての考察 自作及び為すものと受けるものとの同一の説は常見 他作及び為すものと受けるものとは異なるの説は断見 中道とは、これら二つの極端を離れること。 原始仏典には、確かそのように記されているはず。 常見の自業自得は、有部の三世実有法体恒有に結びつくようです。
485 :
名無しさん@3周年 :2005/10/09(日) 00:26:44 ID:mP8lozg4
>>483 あはは
あんたには原始仏教は無理。止めておきなさい←あんたの言い草を電波さんがまねたものね。
ほんまおもろいわ。このひと弄ると。
486 :
暇人 :2005/10/09(日) 00:29:54 ID:hwoJpxui
>>485 まあな 電波支持している時点で まともな議論できない
煽りって ばればれだな
487 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/09(日) 07:52:57 ID:yWYyyvqX
>>484 :名無しさん@3周年:2005/10/09(日) 00:09:51 ID:CKTG6H1h
> 【自業自得】についての考察
>
> 自作及び為すものと受けるものとの同一の説は常見
たとえば、あなたがカップラーメンを食べるとしよう。
・カップラーメンにお湯を注ぐ
・3分待つ
・カップラーメンを食べる
この場合に、
お湯を注いだあなたと、
カップラーメンを食べるあなたは、
同一なりや否や?
488 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/09(日) 08:42:04 ID:yWYyyvqX
>>484 :名無しさん@3周年:2005/10/09(日) 00:09:51 ID:CKTG6H1h
> 【自業自得】についての考察
今生の自分と、来世の自分は同一なりや否や?
・同一性を保証するための常住不変のアートマンは存在しない。
・縁起による連続性をもって、自業自得の自の同一性を保証する
というのが仏教的な自業自得と考えます。
>・縁起による連続性をもって、自業自得の自の同一性を保証する 縁起による無常・変化・相続なら、自の同一性という概念は大変に 誤解を受ける言い方でしょう。 仏教的には、同一性というのは考えられません。 「縁生による不一不異」からは、どう考えても「同一性」は相応しくないでしょう。 >この場合に、 >お湯を注いだあなたと、 >カップラーメンを食べるあなたは、 >同一なりや否や? 因としてのお湯を注ぐあなたとかわたしとか、果としてのカップラーメンを食べる あなたとかわたしとが、もしも同一であるなら、お湯を注ぐ行為もラーメンを食べ る行為も、つまり原因も結果も同じということになり、「因縁生起」というよりは 「因中有果」説になってしまうのではないでしょうか。「自よりは生ぜず」として、 ナーガールジュナによって斥けられていますし、もちろん原始仏教でもそうです。 何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身において分かたれた別 のものであることはなく――――中論帰敬序より抜粋(「龍樹」・中村元・講談社)
490 :
名無しさん@3周年 :2005/10/09(日) 10:26:12 ID:YV7Oxmgb
>488 仏教では、 永遠不滅の物質は存在しないとはいうが、 アートマンについては存在を否定しないですよ
491 :
名無しさん@3周年 :2005/10/09(日) 19:45:29 ID:ne2XIRIE
やっぱり,自己と言うものに付いてわかっていないようじゃない? 俺も充分にわかっているわけではないけど,でも二言ぐらいは言えるぞ。 つまり,縁起と言う理法があるだろう?それは少なくとも,二つのものを見ているのだ。 二つが,とにかく,あるのだ。ここがスタートよ。二つのものは別々のものとしてだよ。 しかし、なんだ、この二つのものは縁起していると言うのだよね。だから、縁起している以上 自性のないもの、または、実体のないものと、判断せざるを得ないんだよな。 これと同様に、我々においても、自分と言うものがあり、それに対する他人と言うものがあるんだよ。 または、自分に対して、人ではなく、ものと言うものがあるのだ。例えば、自分のよって立つところの 大地と言うものがある。そこで、自分と他人は縁起している、それ故に、自分と言うもん他人と言うものに 自性または実体がないと言うのだよね。または、自分と言うもの無くまた大地と言うものがない、と言うんだよな。 ここにおける、自分と言うもの、これを自己と言うのだよ。この判断がスタートなんだよ。 そこで、原始経典にたびたび出てくる、自己を整えよ、と言う教えなんだけど、 この自己を整えると言うことが、他者または他物との関係を認識させる事になるんじゃないか? この認識がスタートなんだよ。この認識に基づいて、相対的に存在する自己と他人は自性がないすなわち空であると 言うことに至るのだよ。 だから反対に、自己を整えないとは、縁起を無視すると言うことになるのだといわなければならないだろう。 でも自己を整えるに付いて最高の段階に至ると、全ての縁起をマスターしていると言うことであり、 全き空の境地に至ると言うのではないか?
492 :
名無しさん@3周年 :2005/10/09(日) 19:51:13 ID:ne2XIRIE
続き そこで、この自己と言うものが縁起していることを認めない、若しくは、教えられないならば、 そこで成長が止まるように、自己こそ固定的なものである、縁起していないものである、と と言う無明に陥るのじゃないか?
493 :
名無しさん@3周年 :2005/10/09(日) 20:36:59 ID:ne2XIRIE
自己を整えつつある人を修行僧といい、その完成を果たした人を修行完成者といい それがブッダであるのだ。 大乗の菩薩の十地と言うのも、自己を整える段階を言うのであり、智慧の完成と言うのも、 自己を整えることの完成に他ならないのだ。 声門縁覚は自己の完成にまだ距離があるものと言うのが大乗の主張なのだった。
494 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/10(月) 10:51:59 ID:XEiCjIaD
>>489 :名無しさん@3周年:2005/10/09(日) 10:22:34 ID:HdOqYKMP
> >・縁起による連続性をもって、自業自得の自の同一性を保証する
>
> 縁起による無常・変化・相続なら、自の同一性という概念は大変に
> 誤解を受ける言い方でしょう。
> 仏教的には、同一性というのは考えられません。
> 「縁生による不一不異」からは、どう考えても「同一性」は相応しくないでしょう。
言葉の言い回しについては、誤解の生じない方法があればご教授ください。
いいたいことは、わかると思います。
今生の自分の作った業の報いを、来世の自分が受けるというのが、
断見を否定した自業自得の考え方である。
自分は五蘊からなり無常であり、今生の自分と、来世の自分とは同一ではない。
したがって、この考え方は常見ではない。
以上。
495 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/10(月) 10:54:16 ID:XEiCjIaD
>>489 :名無しさん@3周年:2005/10/09(日) 10:22:34 ID:HdOqYKMP
> 何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身において分かたれた別
> のものであることはなく――――中論帰敬序より抜粋(「龍樹」・中村元・講談社)
内容を理解されているのですか?
中卒くらいでもわかるように、噛み砕いて解説願えないでしょうか?
>今生の自分の作った業の報いを、来世の自分が受けるというのが、 >断見を否定した自業自得の考え方である。 >自分は五蘊からなり無常であり、今生の自分と、来世の自分とは同一ではない。 >したがって、この考え方は常見ではない。 我とか我がものという思いを離れよ、とブッダは説いているようですよ。 文面では、五蘊からなる無常といいながら、同時に今生の自分とか、来世の自分 というのは、有身見から離れていないからではと。それに来世ありきという前提や 思い込みも、悪しき形而上的な実体化です。 わたしが何故常見と指摘したのか、その根拠を提示しておきますね。 苦を業とか、あるいは苦業と置換すれば、解りやすいと思います。 苦は自作・他作・自他作・無因生ではない。苦はある。「作すものと受けるものと同一」 および「苦は自作」の説は、常(sassata)、「作すものと受けるものとは異なる」および 「苦は他作」の説は断(uccheda)。如来はこれら二つの極端を離れて法を説く。以下略。 みずから作して経験するとは一つの極端であり、他が作して経験するとは、第二の極 端である。これらの両極端を離れて、如来は中により法を説く。以下略。 相応部第二巻第12「因縁相応」より
>内容を理解されているのですか? >中卒くらいでもわかるように、噛み砕いて解説願えないでしょうか? 仏教の三法印の第一に「諸行無常」があります。 行とは形成力と訳されます。縁起・縁滅している万物を貫く理法です。 無常というからには、万物は固定的でなく絶えず流動的に流れています。 縁起・縁滅が流動的に変化相続していく無常な状態では、同一のものが他に形成さ れるという事態は考えられませんし、同時に、まるきり別のものが形成されるとい う事態も考えられません。別のものになるということは、そこで縁起相続が絶たれ ることを意味するし、逆に同一であるなら、なにも縁起変化する必要もありません。 ですから「同一でもなく別異でもない」(不一不異)という表現をするのです。 なにも難しくはありませんYO。噛み砕くも噛み砕かないも、当たり前の読解力と 洞察力があれば、充分に理解できることです。
498 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/10(月) 16:50:47 ID:XEiCjIaD
>>496 :名無しさん@3周年:2005/10/10(月) 16:04:23 ID:NjhdSsQL
> それに来世ありきという前提や
> 思い込みも、悪しき形而上的な実体化です。
えーと、あなたの言うところの、
> 縁起相続
なるものは、睡眠によっては絶たれないと思いますが、
それは、死によって絶たれるのでしょうか?
>えーと、あなたの言うところの、 >> 縁起相続 >なるものは、睡眠によっては絶たれないと思いますが、 >それは、死によって絶たれるのでしょうか? 睡眠によっては絶たれない、は常見 死によって絶たれる、 は断見 質問がいつも一つの極端の辺に片寄っていますね それに、睡眠も縁起・縁滅の無常法の流れのなかの一環ですよ。
訂正 睡眠も縁起・縁滅の無常法の流れのなかの一環ですよ。 を 睡眠も死も縁起・縁滅の無常法の流れのなかの一環ですよ。に訂正
501 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/10(月) 18:25:13 ID:XEiCjIaD
>>499 :名無しさん@3周年:2005/10/10(月) 17:52:27 ID:NmtQrDKn
> >> 縁起相続
> >なるものは、睡眠によっては絶たれないと思いますが、
> >それは、死によって絶たれるのでしょうか?
>
> 睡眠によっては絶たれない、は常見
私にはあなたの主張が全く理解できないようです。
睡眠前の五蘊と、睡眠から覚めた五蘊が同一であるといえば、常見
だと思うのですが、
睡眠前の五蘊と、睡眠から覚めた五蘊は縁起相続しているといっても、常見
なわけですか?
あなたは自業自得に関してはどのように考えておられるのでしょうか?
睡眠も死も無常法の流れのなかの一環だから、 縁起・縁滅しています。 ですから、断たれるとか断たれないの二辺から離れています。 そのような意味での発言です。 自業自得に関しては、中論や原始仏典の引用をしましたので、 そのようにお考え下さい。 自業自得は、世間知や倫理道徳からすれば、別に疑問は持たれませんが、 「作すものと受けるものと同一」に相当しますから、常見です。
503 :
暇人 :2005/10/10(月) 19:20:51 ID:HLZtoNxc
>相応部第二巻第12「因縁相応」より 相応部の因縁相応には、(増谷訳 阿含経典第一巻 p160 汝のものにあらず) 「比丘たちよ この身は汝のものではない。また他の者のものでもない。 比丘たちよ、これは過去世の業によって造られたものであり 過去世の業によって考えられたものであり また過去世の業によって感受せられたものであると知るが良い」 というのもあるね >苦は自作・他作・自他作・無因生ではない 同じく因縁相応の(異学12 24 p139)に拠れば、 @苦は自分で作ったと主張するバラモン A苦は他のものが原因と主張するバラモン B苦は自分で他者がというバラモン Cいや原因なく起こると主張したバラモン それに対し仏教は「縁生」を説いたのですね。 あなたは経典を理解してないのでは?
504 :
暇人 :2005/10/10(月) 19:23:45 ID:HLZtoNxc
>縁起相続 相続って部派概念では? 倶舎情報を基にしたあなたの解釈では? 初期経典から「縁起相続」概念を経証できますか? それと「自作・他作・自他作・無因生」解釈に関して、 あなたは竜樹の中論により過ぎていると思います
>それに対し仏教は「縁生」を説いたのですね。 そうですよ >あなたは経典を理解してないのでは? わたしは別に業は否定していませんよ >「比丘たちよ この身は汝のものではない。また他の者のものでもない。 >比丘たちよ、これは過去世の業によって造られたものであり >過去世の業によって考えられたものであり >また過去世の業によって感受せられたものであると知るが良い」 ↑を踏まえて発言していないということですか? そうであるなら、踏まえての発言といいましょう。 釈尊の教えは対機説法ですから、説かれた法のどの部分に主眼を 置くかということでも、意見は微妙に、また著しく変わるでしょう。 変わるからこそ、諸行無常であり諸法無我であるのです。
>相続って部派概念では? 倶舎情報を基にしたあなたの解釈では? >初期経典から「縁起相続」概念を経証できますか? 諸行無常のなかに、すでに縁起相続は含まれているでしょう。 また、縁起相続という概念なしに、断見の否定は考えられません。 >それと「自作・他作・自他作・無因生」解釈に関して、 >あなたは竜樹の中論により過ぎていると思います 中論は釈尊への回帰ですからね。
507 :
暇人 :2005/10/10(月) 20:01:16 ID:HLZtoNxc
>>505 ご都合主義にしか見えないですね
>>506 あなたの意見はいいですから
経証できるのか できないのかを尋ねています。
話は経証されてからですね。
中論、倶舎など後世の解釈を基にした原始経典解釈は
原典に依拠した読みと本質的に異なりますね。
まず中論・倶舎論の解釈が正解としてあり、それを原典に敷衍する
わけですからね。ある意味 逆立ちした読みですね
>ご都合主義にしか見えないですね スレタイが「原始仏教談話室」であるからといっても、 法著は釈尊も諌めているでしょう。 >経証できるのか できないのかを尋ねています。 >話は経証されてからですね 無明〜老死で終る十二支縁起の各支は実体としてあると、経典の どこかに書かれているのですか。書かれていないとしたら、縁起 には始まりも終りもないということです。無始無終の無常縁起継続法です。 十二支縁起は洗練された理論上のひとつの洗練されたサイクルにすぎません。 暇人さんの考えでは、原始経典では縁起相続の経証はできないということですか もしできないのでしたら、どうかそこのところを経証して下さいませんか。 わたしはあなたほどには経典にも詳しくはないので。
509 :
暇人 :2005/10/10(月) 21:46:28 ID:1jritnMB
>>508 経証というのはね。簡単に言うと
経典のどこに「縁起相続」概念がありますか?
ということですね。
例えば誰かが「釈尊は阪神ファンだ」と主張されたとしますね。
「それは 経典に書かれてますか」
こうお尋ねしているだけですね。
「どこの部分に こう書かれている」ということがないならば
話は始まらず 無根拠に勝手に言われているだけ と私は判断する
それだけのことです
>経証というのはね。簡単に言うと >経典のどこに「縁起相続」概念がありますか? >ということですね。 縁起相続概念抜きの仏典ってあるのですか 。 経典の文面を一字一句コピーするよりは、文脈の背後を貫くものを 読み取ることのほうが大切でしょう。 それが、反省する自己、よく調えられた自己というものです。 この場合の自己とは、自我⇔無我をも見据える自己です。 有身見に執らわれる自己ではありません。 >「どこの部分に こう書かれている」ということがないならば >話は始まらず 無根拠に勝手に言われているだけ と私は判断する >それだけのことです 無根拠に勝手にと判断されるなら結構です。 しかし、無根拠とか勝手にとかいうのは、 ↓ 暇人さんの考えでは、原始経典では縁起相続の経証はできないという 判断がなければ、成り立たないことでもあるのですよ。 ま、折をみて調べてはおきますがね。 今日は落ちましょう。 こんなに2chしたのは、久しぶりです。
511 :
初心者 :2005/10/10(月) 22:25:00 ID:Ab08rxWE
はじめまして。 原始仏教の考え方について何点か教えて下さい。 1.縁起はどうして起こるのですか。また縁起の始点というものはあるのですか。 2.無我であるとすれば、ある一瞬から次の一瞬へも縁起の流れだと思いますが、 その場合、因果、または業はどのように継続するのですか。 3.一切法が空だとしたら、五蘊とはどのように捉えたらよいのでしょうか。また、生滅はありますか。 よろしくお願いします。
512 :
暇人 :2005/10/10(月) 22:30:52 ID:1jritnMB
>縁起相続の経証はできないという判断 「文脈の背後を貫くもの」を判断するためには、材料となる経典が いるでしょ?ということですね。 どの経の どの部分を どう解釈し そう云われるのか。とお尋ねしてます
513 :
暇人 :2005/10/10(月) 22:42:57 ID:1jritnMB
>511 よろしくです お教えできるわけではないので よければ ともに学びましょう。 @縁起は 現象(ものごと)は「縁って起こっている」という考え方でしょうから どうして起こるかという設問は ずれているかもですね ちなみに 「死はどうして起こるのか」ですと縁起では「生まれたから」になります。 A一瞬で滅して 次の瞬間新しく生まれと生滅変化を繰り返しているというの は原始仏教ではなく部派仏教の説一切有部の「刹那滅」の発想になります。 無我ですと当然モノゴトは現象しているわけで 生滅変化し続けているの ですが、その変化の時間を「刹那滅」と限定していません。 B法については色んな意味があります。「一切法」が「空」と言う場合の 「法」は「理法」や「教法」の意味ではなく「存在」とか「ものごと-現象」の 意味です。その意味で五蘊も法なのです。だから 五蘊も当然 空ですね
514 :
初心者 :2005/10/10(月) 23:27:44 ID:Ab08rxWE
>>513 ありがとうございます。
たまにしか書けないと思いますが、よろしくお願いいたします。
さっそくですが、お答えから更に疑問点(というかそもそものきっかけとなった
自分の考え)などを書いてみます。
1,たしかにずれている気がします。ただ、「縁って起こっている」というとき、
縁によって何らかの結果が生じたということですね。
その場合、縁が「原因」となるとおもいますが、そうなると、この縁からは
この結果が生じる(例えば生からは死が生じる)というような固定的な
メカニズムを感じてしまいます。
もちろん、実際には複雑に絡み合うとしても、まずはメカニズムが
存在するのではと感じます。
それと、「縁って起こっている」とした時、因果を逆にたどるとその始点は
どうなるのかなぁというのが疑問でした。
2.は、理解できました。原始仏教では業というものはどのように捉えられて
いるのでしょうか。
3.は、実は空ということと、五蘊和合ということとどう両立させるのか
疑問でした。五蘊は何らかの実在なのかどうかという点で悩みました。
516 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/11(火) 05:27:41 ID:CVtn/BIK
>>502 :名無しさん@3周年:2005/10/10(月) 19:12:01 ID:NVllnavN
> 自業自得は、世間知や倫理道徳からすれば、別に疑問は持たれませんが、
> 「作すものと受けるものと同一」に相当しますから、常見です。
回答、ありがとうございます。
つまり、「自業自得は仏教の教えに反する常見である」とお考えなわけですね?
そうだとすれば、あなたにとっては、つぎのような教えも常見になるのではないでしょうか?
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/kokoro/shinjin/fuse_04_1.html <--
「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、
もの惜しみをしない人々が、
ブッダと真理の教えとに対して信仰心あり、
修行者の集いに対して熱烈な尊敬心を持っているならば、
彼らは天界に生まれて、そこで輝く。
もしも人間の状態になっても、富貴な家に生まれる。
そこでは、衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。
また〔来世には〕他人の蓄えた財物を、
他化自在天のように、喜び楽しむ。
現世ではこの報いがあり、死後には善いところに生まれる」
(相応部経典1-59『もの惜しみ』)
-->
517 :
暇人 :2005/10/11(火) 07:45:58 ID:DUSusc6q
>固定的なメカニズム よろしければ詳しくご説明下さい。ピンときません。 苦の原因追求では、「愛」で終る六支縁起や 「無明」まで行き着く十二支縁起などがあり 教説は一つではないですね
518 :
暇人 :2005/10/11(火) 07:53:38 ID:DUSusc6q
「業」は、行為ではないかと思います。 五蘊と和合については「五蘊仮和合」と云い、この「仮」が重要で 「空」に対応すると思います。
519 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/10/11(火) 08:03:29 ID:dW20ZOEp
横レスです。
>>511 仏教というのは「観察者の視点(視座)」ではないのですね。
いわゆるここからの脱却なわけです。
ここのところを、よくよく考えたらいいかとおもう。
暇人氏が書き込みしてますので、私はこれ以上は書き込みを遠慮します。
520 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/10/13(木) 14:22:54 ID:SrvpplMN
久々にのぞいてみたらなんだぁ?暇人の知的誠実さの無さは? (*)も遁走のままか? 業感縁起の主張に対して暇人は持論を言えずに本を読めか? 論点を出さないやり方は相変わらずだな。
521 :
名無しさん@3周年 :2005/10/13(木) 18:51:25 ID:S4fLZkgS
電波さんのものの言い方は、なんか頭がスカッとします。
522 :
名無しさん@3周年 :2005/10/13(木) 20:54:33 ID:sv8Hz2dO
>520 彼奴の不誠実さはいまに始まったことじゃないやろ。 つっこみ入れる気にもならねぇや。 別板の方がよっぽど勉強になります。
523 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/13(木) 21:04:02 ID:bF8uHT1G
663 種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる。──かれ自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで、やたらにかげ口を言うのだが。 664 口穢く、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。不劣を極め、不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。 665 お前は塵を撒いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、長いあいだ深い坑(地獄)に陥る。 666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。
524 :
名無しさん@3周年 :2005/10/13(木) 21:22:43 ID:S4fLZkgS
>>523 こんなスッタニパータの言葉は真似てもいいのでしょうか・?
>>520 電波男
暇人はクリスチャン相手に一説打ってるよ。
ノンクリなのに、何考えてるんだか…(苦笑)
526 :
名無しさん@3周年 :2005/10/13(木) 22:21:50 ID:S4fLZkgS
しかし彼は有名でしょうね?
悪口を少なくしたい
どんなに美しい言葉でも 心に愛が無ければ 相手の胸に響かない
すごい知識もすぐれた洞察力もそれを失ったら 裕福な人の財産の自慢話みたいになって 裕福で有能な強い人の悦と そうでない人を苦しめ傷つける話になってしまうような気がするんです。
仏法も聖書も知識や智恵の宝庫だし非常に優れているけれども 同時にそれらは力であって時には権威であることもあって 全体を捨てて その部品や一部を切り取って貼り付けコラージュするならば 非常に優れた「人を苦しめるための兵器」だってつくれると思うんです。 効果的に誰かを傷つけ損ない苦しめるための道具のような。 そうであるならばそのような時それは形とフレーズがたとえ仏典からの 引用であってその語句に差異がなくても それはもう仏法で無いと思うのです。
532 :
暇人 :2005/10/14(金) 07:15:06 ID:RiBP8615
>>531 うん。更に問題なのは自分の解釈が正しいと信じちゃうと、
その種の暴力を『正義』だと舞い上がってしまう点。
しかも この場合 根が真面目であればあるほど、暴力活動に
邁進しちゃう。。。宗教に付き纏う問題ですね
533 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/10/14(金) 10:57:32 ID:7gWiwU+5
>>524 この人は自分を投影してぶつぶつ言ってるのです。
だけだから近づかない方がいいですよ。
>>525 ハルカさん。
【討論】聖句の解釈をマターリ語るスレ5【議論】
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1124800057/l50 のことですか?なんかねー。文脈の本質外で絡んでるというか、
お呼びじゃないというか、無視されてますね。般若心経への言及
も恥ずかしくないんでしょうかね。
>うん。更に問題なのは自分の解釈が正しいと信じちゃうと、
>その種の暴力を『正義』だと舞い上がってしまう点。
「わかった相応」で懲りてないのでしょうかね。この馬鹿は。
それじゃまたねーー。あまり暇人の言うこと信じちゃ駄目だよ。
論点が明確でないから思い込み読みする初心者にとっては
外でしかないからね。
534 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/10/14(金) 11:46:39 ID:7gWiwU+5
あ、そうそう。信じちゃいけないという例を最近のものであげとくね。 >「業」は、行為ではないかと思います。 「思います」で逃げ切ってるけど、これは間違いだね。 文脈のなかで「行為」といったり訳したりすることはあるだろうけど、 「業とは」と言った場合、「行為とそれが導くその結果の総称」になる。 日本語でより近いものを求めると「おこない」になるかな。 もう少しわかりやすく言うと、 (1)〔結果(果報、報い)をもたらすような〕言動・思惑(行為) (2)(1)による結果(果報、報い) (3)(1)〜(2)を結びつけるもの(これについては多くの異論がある。あるとかないとか含めて) この3つ(2つ)をまとめた形で「業」といいます。 これは皆さん各自調べてみてください。前後の記述で得るものが 多いと思います。
535 :
名無しさん@3周年 :2005/10/14(金) 12:15:18 ID:yUiC+xUd
自分の知識に対してものすごく自信があるのが良く分かる また、その知識もほぼ正しい しかし、 語られる言葉と実際の行為にどれほどの乖離があるのか? 語の行為としてはあまりよろしくない その点は注意しておかなければならない
536 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/14(金) 12:30:33 ID:PuSHFfSx
ごう ごふ 1 【業】
(1)〔仏〕〔梵 karman〕身体・言語・心による人間の働き・行為。行為は必ずその結果をもたらし、また現在の事態は必ずそれを生む行為を過去に持っているとする思想は、インド思想に広く見られる。カルマ。羯磨(かつま)。
⇔果報
かほう くわ― 1 0 【果報】(名・形動)
(2)〔仏〕 前世のおこないによって生じる報い。
⇔業(ごう)
Copyright (C) 2005 Sanseido Co.,Ltd. All rights reserved.
ネット辞書の記述を見る限りにおいては、
業:原因
果報:結果
という意味合いと解釈でき、
> (2)(1)による結果(果報、報い)
という解釈はむずかしい。
このように解釈できるという根拠、
および、仏教における自業自得に対する考え方に関し、
(自業自得は常見という人がいて(
>>502 )、私は驚いているわけだが)
ご存知の方がおられたら、ご教授下さい。
537 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/14(金) 12:31:26 ID:PuSHFfSx
>>534 :電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/10/14(金) 11:46:39 ID:7gWiwU+5
> >「業」は、行為ではないかと思います。
>
> 「思います」で逃げ切ってるけど、これは間違いだね。
しかし、「間違い」とは「きつい」表現ですね。
多分、この人は、
・「円周率は3.14」というのは間違い。
と断言するんだろうね。
538 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/10/14(金) 12:46:23 ID:7gWiwU+5
ネット辞書を根拠にする馬鹿がいますねー。 「業=行為」は円周率3.14の精度もないよー。 小学生の「3」にも満たないよー。 あほらし。
539 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/14(金) 12:59:07 ID:PuSHFfSx
540 :
名無しさん@3周年 :2005/10/14(金) 14:38:00 ID:FXE+MCKq
荒らしは速やかに退去されたし。 荒らしは放置でおながいします。
541 :
暇人 :2005/10/14(金) 22:33:17 ID:FHexh748
電波さんへ 調子はよいの?
くれぐれも無理は召されるな。
今回は 巻き込んでしまったようで 申し訳ないことをした。
ハルカの策動だな ハルカはオレと直接やりやうと恥を欠くだけ
なので キミを煽って 私にぶつけたかったようだな
ご迷惑をかけた。
彼は『善も、悪も、偽善すら無い』という仏教は「無の境地」だの
俗流禅風トンデモだな。
原始仏教は「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」だな。
道元も正法眼蔵で云うてるな
・・・・・・・
324 :ハルカ ◆0tZOcyVq86 :2005/10/14(金) 21:42:08 ID:GQDp7POY
>>313 蓮華
…ん?
お前さん、本当に『佛教者』か?
佛教者なら『善も、悪も、偽善すら無い』って知ってる筈だが。
まぁ…
これが『佛教者』でなく『仏教者』、しかも『仏教信者』なら話は別だが。
>>541 『諸悪莫作』『衆善奉行』を『字面通りにしか捉えられない』小人御苦労www
543 :
暇人 :2005/10/15(土) 00:02:22 ID:FHexh748
>>542 ほう トンデモハルカの文脈解釈は
『諸悪莫作』『衆善奉行』を
『善も、悪も、偽善すら無い』と解釈するのか(笑)
ハルカはだ、山を自分の足で一歩一歩歩むことに意味があるのを
きづかず、
山の頂上にヘリコプターに降り立ち、すべてをわかった気になっている
ようなものだな。
仏教は自覚だ 今私に言われてもわからんだろうが
いつか キミのその愚に キミが心から愧じる時がくることを
願ってやまないよ。
まあ よく来れたね 褒めてやる
( ^-^)_旦~~
お茶でも 飲んでけ
何様俺様仏様
何様貴様仏様
546 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/10/15(土) 11:36:01 ID:5UBrB6D+
なんか訳わからんが、暇人さん。業感縁起については議論進めたほうがいいと思うよ。 議論の勝ち負けじゃなくて、仏教内カルトのキーワードだしね。 身体のほうは大丈夫。ご心配ありがとう。
547 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/15(土) 11:54:35 ID:ZtWZXPvS
アホか?
>>464 :名無しさん@3周年:2005/10/08(土) 16:52:53 ID:EWo5kVJD
>
>>463 > 業感縁起は原始仏教ではないと散々議論されてきたではありませんか。
> 原始仏典で今の境遇や苦しみは前世での悪業が原因であるとか言ってますか?
> 自業自得の原則は当り前ですが、それは死をまたぐと説いているでしょうか?
>>474 :名無しさん@3周年:2005/10/08(土) 21:57:30 ID:EWo5kVJD
>
>>473 > だからそれは業感縁起といって、原始仏教ではなく部派仏教の変化した教義だと言っているのですよ。
> それを読んであんたの無能さを指摘しているのです。あんたが発言していることが無駄なのですよ。
事実は、こんなことをいいながら、
>>478 :暇人:2005/10/08(土) 22:47:31 ID:nKz/8cVz
>
>>463 のどの辺が業感縁起なんだね。
この問いに答えていない人物がいるだけのことである。
> 有部の三世実有法体恒有
を支持している投稿者はこのスレには存在していない。
548 :
けちゃっぷ :2005/10/15(土) 12:33:28 ID:z41Mm8Xf
惑→業→苦→惑…をくりかえしている…という説明自体も誤りということでしょうか? それを輪廻と結びつけて考えるのが誤りということ?
549 :
けちゃっぷ :2005/10/15(土) 12:46:14 ID:z41Mm8Xf
十二縁起を惑業苦にコンパクトにまとめて語ること自体も、誤りなのでしょうか?
550 :
法師 :2005/10/15(土) 18:43:21 ID:VvRbeB7g
>>464 >>業感縁起は原始仏教ではないと散々議論されてきたではありませんか。
>>原始仏典で今の境遇や苦しみは前世での悪業が原因であるとか言ってますか?
>>自業自得の原則は当り前ですが、それは死をまたぐと説いているでしょうか?
業報縁起は原始仏教(阿含経)の教えです。
原始仏典では今の境遇や苦しみは『前世+現世』での悪業が原因であると説いています。
業報は死をまたぐと説かれています。
551 :
法師 :2005/10/15(土) 18:51:23 ID:VvRbeB7g
>>549 >>十二縁起を惑業苦にコンパクトにまとめて語ること自体も、誤りなのでしょうか?
十二因縁をコンパクトにまとめるなら『行→識→名色→行』になります。
552 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 20:49:35 ID:1pnXGenV
悟りの世界が永遠であるのと相対的に、迷いの世界もまた、 永遠なんだと思う。
553 :
法師 :2005/10/15(土) 21:00:36 ID:x/XB5Tnj
>>552 悟りの世界の永遠は、文字通り永遠ですが。
迷いの世界は永遠の輪廻であり、人生としては生死を繰り返す「こまぎれ」
の永遠のようです。
554 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 21:31:23 ID:y1kz4P5D
>>551 あのーできたらでけっこうですので、
>『行→識→名色→行』
の教証の提示と内容の説明をお願いします。
555 :
法師 :2005/10/15(土) 21:52:18 ID:j8ncRIn8
>>554 「無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死」
これが十二因縁ですが、それを簡単にすれば「行→識→名色→行」の繰
り返しとなります。
「行は一切の行為、識は一切の行為の記憶、名色は肉体と心(人間)」
『一生の行為の一切が記憶され、その記憶から肉体と心(人間)が造
られ、その肉体と心(人間)の行為がまた記憶される。』というように
繰り返されるわけです。つまり輪廻です。
556 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 21:55:52 ID:y1kz4P5D
ちなみに一般的に四支縁起とは『無知ー愛ー取ー老死』をさすようです。
557 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 22:02:57 ID:y1kz4P5D
あのーですね。 このスレ的には12支縁起に対しても疑問が投げかえられているのですよ。 (アビダルマ成立以前の原始仏教において、、という枠がこのスレの売りなので。)
558 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 22:17:39 ID:y1kz4P5D
ですので、漢訳阿含経やパーリ仏典から >「行→識→名色→行」の繰り返しとなります ↑ コレの引用をお願いしているのです。
559 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 22:21:25 ID:y1kz4P5D
訂正 557 このスレ的には12支縁起に対しても疑問が投げかけられているのですよ。 558 コレの引用先の提示をお願いします。
560 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 22:21:58 ID:1pnXGenV
>>556 >『無知ー愛ー取ー老死
上には、輪廻がないじゃないか?
561 :
暇人 :2005/10/15(土) 22:27:05 ID:wEkyJf1u
>>546 朝夕は 急に寒くなっておりますし あとストレスにも気をつけ下さい。
仏教内カルトですか なるほど では おいおいに。
>>557 うん。疑問を投げかけているが 十二支縁起は阿含経内にある
重要な原始仏教の教義ですよ。
疑問点は十二支縁起は難しくてわからん。
六支縁起で とりあえず完結してない?という疑問ですね。
(究極の縁起は二支ね かあるとき これある)
562 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 22:28:28 ID:2ONaORDf
仏法三学の戒定慧について、 仏陀は定と慧の二つのうち定(禅定)だけでは足りないとして 慧(知慧)を開いて悟りを得たといいますが、それでは、仏教における 定の役割・必要性とは、どのように説明されているのでしょうか? また定と慧の関係について教えて欲しいです。 また、禅定修行と知慧を開くためのヴィパッサナーのような瞑想とは、 一目見たところ、修行の趣がかなり異なるように見えるので、仏道という 一本道の中において、どういったところに一貫性を見いだせるのでしょうか。
563 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 22:50:19 ID:y1kz4P5D
>>560 どこかにわかりやすくまとめられたサイトがあったんだけど見つからない。
無明(無知)・愛(欲望)・取(しゅ:執着)の三支縁起説
無明・愛・取・苦( 老死ともいう)の四支縁起説
三世両重の因果としての胎生学的な解釈は阿含経にはないがその萌芽は見出される。
と仏教要語の基礎知識にある。
たいへんレスが遅れました。m(__)m
2chも頻繁には書き込めませんが(またそのように心掛けている)、書き逃げ
みたいになってしまうので、一応はレスしておきます。
>>509 >経証というのはね。簡単に言うと
>経典のどこに「縁起相続」概念がありますか?
>ということですね。
★中部
83、マカーデーヴァ経、わたくし(ブッダ)の定めたどのような勝れた【相続法】が、
專一の厭離・離貪・止滅・寂静・神通・正覚・ニルヴァーナに導くか。それは実に聖
なる八支の道、すなわち正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
【相続法】→縁起法が相続するのを読み取る。
★ダンマパダ
277【すべての諸行は無常である】と、智慧によって見るとき、もろもろの苦から遠
ざかり離れる。これが清浄にいたる道である。
【諸行は無常】→縁起相続を読み取る。
★テーラーガーター
716 清らかな【諸法の生起】と清らかな【諸行の連続】とを、ありのままに見る
ものにとって、恐怖は存在しない。
【諸法の生起】【諸行の連続】→縁起相続を読み取る。
続き〜
★雑阿含経
一二(二九六)云何んが因縁法と為すや。謂わく此れ有故彼有。謂わく無明によりて行。
行に縁りて識。乃至是の如し。是の如きは純大苦聚の集なり。云何んが縁生法。謂わく
無明・行。若しは仏出世するも若しは未だ出世せざるも、此の法は【常住、法住、法界】
なり。彼の如来の自ら覚知するところにして等正覚を成ず。人の為に演説し開示し顕発す。
謂わく無明に縁りて行あり、乃至生に縁りて老死あり。謂わく生に縁るが故に老病死憂悲
悩苦あり。此れ等の諸法は【法住・法空・法如・法爾】にして、法は如を離れず、法は如
と異ならず、審諦・真実にして顛倒ならず。是の如き随順の縁起、是れを縁生法と名づく。
謂わく、無明・行・識・名色・六入処・触・受・愛・取・有・生・老病死憂悲悩苦、是れ
を縁生法と名づく。多聞の聖弟子は此の因縁法・縁生法に於いて、正しく知り、善く見る。
【前際を求めず。. . . . . .後際を求めず。】. . . . . .。
【常住】するのは縁起法という無常法が常住ということです。その常住する縁起法とは、
多聞の聖弟子は此の因縁法・縁生法に於いて、正しく知り、善く見る。
【前際を求めず。. . . . . .後際を求めず。】ですから、無辺際、始まりもなく終りも
ない→無始無終無尽無常縁起相続を読み取る。
尚、引用元は、(「初期仏教の思想(下)」・三枝充悳著・レグルス文庫)を参考とさせ
ていただきました。ページ略。
相続(連続)って、原始仏教では御法度なんですか?べつにわたしは、刹那滅の概念とし
ては使ってないのに。相続とは、縁起事象を継続させ成立させるための記憶でしょう。記
憶とは縁生する連続認識能力です。知る法ではあっても、客観的な実体法ではありません。
連続概念や相続概念にはまた時間の概念も当然含まれていますが、縁生の記憶あるいは
縁生の識ですから、実体時間の主張にはなりません。この記憶あるいは識という継続する
縁生の知る法なくば、縁起の順観・逆観はどうなりましょうか。
因みに、言葉(観念)への執らわれは「我語取」(我論取)です。
例えば、相続と聞けば、即座に実有・法有の刹那滅概念に直結させてしまう等。
↓ ↓ ↓
>>504 >相続って部派概念では?
>>516 「作すものと受けるものと同一」に相当しますから、常見です。といったのであり、
「自業自得は仏教の教えに反する常見である」とは言ってはいません。
あなたの質問に対して、あくまでも論理的に解答したまでです。
>そうだとすれば、あなたにとっては、つぎのような教えも常見になるのではないでしょうか?
常見に著せば断見に堕し
断見に著せば常見に堕す
とも仏典(大般涅槃経)には書かれています。(^o^)
↓は佐倉さんのサイトより拝借
初期の仏教教団では、教えの中心はニルヴァーナに達することであったが、在家の信者に対
しては主として「生天」の教えが説かれた。道徳的に善い生活をしたら天に生まれるという
教えである。施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本柱であった。この天
の原語はいろいろあるが、いずれも単数形でのみ用いられている。すなわち、天は一つであ
って、[後代に現れたような]天の細かな内容規定や、階層的な区別はなかったのである。
誰でも能力に応じて布施を行い、道徳的に善であれば、死後に天におもむくとされたのであ
る。この天の思想は、仏教独自のものではなく、当時のインドの一般民衆の信仰であって、
仏教はそれを教義の中に取り入れたのである。ただ、仏教では、この世界に対してどこかに
空間的に存在する天を考えたのではなく、あくまで、絶対の境地を天ということばを借りて
表したのであるが、一般民衆は俗信のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていたのであ
ろう。・・・後世の大乗仏教における浄土の信仰は、この天の思想の発達した形である。浄
土もまた、絶対的な境地を表現したものであり、彼岸とは完成を意味することばであったが、
天の場合と同じく、一般民衆には、死後の理想郷と受け取られたのである。
(中村元『仏教語大辞典』、979頁)
567 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 23:11:35 ID:y1kz4P5D
暇人さん十二支縁起を解釈するにしても、 >十二因縁をコンパクトにまとめるなら『行→識→名色→行』になります。 これは酷すぎです。 その理屈でいくなら >「無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死」 ではなく >「無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死→行」 になるはずでしょ? 法師氏や1pnXGenVが主張しているのは実質は12支縁起ではなく、 13支縁起(困笑 なんですよ。 その上『行→識→名色(→行)』についての引用先提示もなし。 悪質過ぎ(泣
568 :
暇人 :2005/10/15(土) 23:21:34 ID:wEkyJf1u
ごめんね とりあえず
>>562 戒定慧のどれも大切ですね。単純化すれば、
戒なくして定なしです 定なくして慧なしではと思います。
戒は心身をまず平静に整えることですね。
睡眠不足やハードな苦行でボロボロになった心身では ちゃんとした思索
はできない。
次にサマディー(定)というのは精神集中方法ではないかと思います。
そういう基礎的な瞑想訓練を経て、四諦とか縁起とかの知慧を開くための
ヴィパッサナー瞑想を、というのが三学の捉え方ではと思います。
単純化すれば(詳しいは色々ありましょうが)
かような一貫性があるのでは、と。
569 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 23:24:41 ID:y1kz4P5D
所詮は2ch 上のことだけれども、 法師氏や1pnXGenVはなにかいうことないの? ケチャップさんにしたって気がついてスルーしたんだろうけど、 ケチャップさんが振った話でデマが出てそれを真に受けて恥をかく人がでても平気なの?
570 :
暇人 :2005/10/15(土) 23:24:53 ID:wEkyJf1u
>>564 取り急ぎ 経証有難うございました。
私の方は特にいそぎませんので
マイペースで時間の許す時 立ち寄り下さい
では 私もその経証を今から確認したいと思います
>>567 おつかれさまです^^;
571 :
名無しさん@3周年 :2005/10/15(土) 23:27:39 ID:y1kz4P5D
アタマヒヤシテキマス。
572 :
けちゃっぷ :2005/10/16(日) 00:11:40 ID:27k65JLp
>>567 行→識→名色→行→識→名色…をくりかえすという意味で、行を2回書いてるのかと思ったのですが。
惑→業→苦→惑→業→苦…の代替といての意見だったし。
?そういう問題じゃないのかな?
573 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 00:27:48 ID:3y1hyRoA
本職の坊様にこんなこというのはなんだけど、 ケチャップさん還滅縁起って知ってる?
574 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 00:38:03 ID:3y1hyRoA
すまそ、知らないから572みたいな事を聞いてるんだよね。 じゃ仮に惑→業→苦→惑→業→苦…と繰り返すのが人生だったら、 どうやって苦しみから抜け出せるの?
575 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 00:55:14 ID:3y1hyRoA
人生は惑→業→苦→惑→業→苦…と繰り返す コレだけなら の ろ い といったほうが正確じゃないの。
576 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/16(日) 01:17:40 ID:SMiBGsc5
>>566 :名無しさん@3周年:2005/10/15(土) 23:02:58 ID:fLJ5PJST
> 「作すものと受けるものと同一」に相当しますから、常見です。といったのであり、
> 「自業自得は仏教の教えに反する常見である」とは言ってはいません。
自業自得が、
> 「作すものと受けるものと同一」に相当します
ということは、
「自業自得は仏教の教えに反する常見である」と
という意味になります。
それが論理的帰結というものです。
> あなたの質問に対して、あくまでも論理的に解答したまでです。
私にはちっとも論理的だとは思えません。
確認しますが、あなたは、『自業自得は常見である』とみなしているのですよね?
577 :
けちゃっぷ :2005/10/16(日) 01:29:37 ID:27k65JLp
>>574 その繰り返し(生死)を止めるための還滅縁起じゃないのですか?
って、そのあたりのことも原始仏教ではどうなのか知りたくて質問したわけですが。
578 :
暇人 :2005/10/16(日) 01:32:21 ID:AzJWwm+C
>中部83
引用の箇所では、仏陀の教法の中でとりわけ悟りに導く「ブッダの相続法」は、
何か、それは「八正道」だという展開であり、ご主張の「縁起相続」は
語られていないので経証として採用できないと思います。
ちなみにここで言う「相続法」とは、ブッダから「継承した教法」という
意味でしょう。
「相続」と語はいっしょでも意味内容は「縁起相続」とは無関係ですね。
>ダンマパダ277
諸行無常から「縁起相続」がなぜ読み取れるか謎。
>>497 で「まるきり別のものが形成されるという事態も考えられません」と
言われて、理由として「縁起相続」なるものが断たれるからとされてたので
ここでいう「相続」は部派概念では、とお尋ねしております。
といいますのも、「変化」するが変化前と後で「何か根底に共通した部分がある」
それを「縁起相続」との主張とされていたのだと思います。
諸行無常それ自体からは「相続した何か」を導きだせません。
579 :
暇人 :2005/10/16(日) 01:32:55 ID:AzJWwm+C
テーラーガーター716 716. “SuddhaM dhammasamuppAdaM, suddhaM saNkhArasantatiM; passantassa yathAbhUtaM, na bhayaM hoti gAmaNi. SuddhaM純粋に dhamma諸法samuppAdaM生起を suddhaM純粋に saNkhAra行・形成力・現象 santatiM相続・連続を passantassa正見者に yathAbhUtaM如実に naなし bhayaM恐怖 hotiある gAmaNi村長 「純粋に諸現象の生起や純粋に諸現象の連続を ありのままに見る者には、 恐怖はあることないのだよ、頭目よ。」と語られているのだが、 715で「saAkhArA vigamissanti」行の消滅が言われている。つまり 「われには 『われがかつて存在した』としたという思いもないし、またわれには 『われが未来に存在するであろう』という思いもない。潜在的形成力は消滅する であろう。ここになんの悲しみがあるであろうか。(中村元訳) ここでのsaNkhAraの連続とは『消滅』する一時的なものですね。 ただこのsaNkhArasantatiM「行の連続・相続」は、 「われ」が生まれ死ぬまでの一貫性を指しているのでしょうから、 「縁起相続」と読み込める可能性あるいは萌芽はあるかもですね。
580 :
暇人 :2005/10/16(日) 01:34:22 ID:AzJWwm+C
>雑阿含経 巻12 296経
「此法常住。法住法界」の、この法は教法のことですね。
「因緣法及緣生法」という釈尊の教法が、変化しない(常住)で
不変に存続している(法住) 真理(法界)である、というニュアンスですね。
「前際・後際を求めず」は、「過去・未来を求めず」です。
「始まりもなく終りもない」という意味ではなく、
「私は過去世に存在したのかしなかったのか。過去世ではどんな存在だったのか」
などという関心を持たないと書かれているのですね。
「我過去世若有.若無。我過去世何等類 我過去世何如」
相続(連続)、
>>497 の「まるきり別のものが形成されるという事態も考えられません」
とのあなたの相続は部派概念の相続に近似していると思いますね。
581 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 01:41:10 ID:3y1hyRoA
まず確認したいのだけれども、 ケチャップさんの今の十二支縁起の理解では生死は止まらないはずでしょ。 なにしろ繰り返しているんだから。 無上の法であるはずの十二支縁起なのに、 あらあら、の ろ い の人生まっしぐら。
582 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/16(日) 01:45:32 ID:SMiBGsc5
>>548 :けちゃっぷ :2005/10/15(土) 12:33:28 ID:z41Mm8Xf
> 惑→業→苦→惑…をくりかえしている…という説明自体も誤りということでしょうか?
どこで、そのような説明がされているのですか?
説明の根拠は示されていないのですか?
>>549 :けちゃっぷ :2005/10/15(土) 12:46:14 ID:z41Mm8Xf
> 十二縁起を惑業苦にコンパクトにまとめて語ること自体も、誤りなのでしょうか?
十二縁起の各支と惑業苦は、どのように対応するのですか?
583 :
けちゃっぷ :2005/10/16(日) 01:45:41 ID:27k65JLp
十二支因縁と惑業苦は別のものということですね。 で、業感縁起の業と惑業苦の業は別の意味なのでしょうか?
584 :
けちゃっぷ :2005/10/16(日) 02:07:17 ID:27k65JLp
>>582 水野弘元さんの『仏教要語の基礎知識』で、部派仏教が十二支を三世両重の因果として説いているのを説明していました。
「それは十二支の中で、最初の無明・行の二支は過去世の二因を、
次の識・名色・六処・触・受の五支は現在世の五果を示し、
これで過去と現在の一重の因果を説くものであり、
次の愛・取・有の三支は現在世の三因を、
最後の生・老死の二支は未来世の二果を示し、
これで現在と未来の一重の因果を説くものであり、
全体では三世にわたる両重の因果を説いているものとした。」
585 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 02:09:27 ID:3y1hyRoA
>十二支因縁と惑業苦は別のものということですね。 これがわかっただけで十分でしょ? えらそうな物言いすまそ>ケチャップさん
586 :
けちゃっぷ :2005/10/16(日) 02:18:46 ID:27k65JLp
同じ本の煩悩論のところでは、 「十二縁起の十二支は惑・業・苦の三部分に分けられるが、惑というのが煩悩であり、 十二支の中では、無明と愛と取の三支が煩悩であるとされる。 これらの煩悩が基本となって行や有の業を生ぜしめ、 その報果として、識・名色・六処・触・受や生・老死の苦が生ずるというのが 十二縁起の解釈である。」 さらに追記して、 「右はとくに十二縁起の三世両重の因果(168頁以下)を参照のこと。 右の中では取は煩悩とするよりも、有とともに業とする方が適切とも思われる。 取と有を合わせたものが行にあたり、行の表面作用が取で、その潜在力となったものが有であると考えられるからである。」 と書かれていました。
587 :
けちゃっぷ :2005/10/16(日) 02:28:06 ID:27k65JLp
{無明…惑(縁)+行…業(因)}=過去世の二因 {識・名色・六処・触・受…苦(果)}=現在世の五果 {受・取…惑(縁)+有…業(因)}=現在世の三因 {生・老死…苦(果)}=未来世の二果
588 :
法師 :2005/10/16(日) 07:39:43 ID:7ntdwsTa
昨日は失礼しました。 「行→識→名色→行」の話ですが、これは十二因縁を理解すれば誰にでも できますよ。 「行→識→行」でもいいしね。
589 :
法師 :2005/10/16(日) 07:51:38 ID:7ntdwsTa
>>567 >>その理屈でいくなら
>>>「無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死」
>>ではなく
>>>「無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死→行」
>>になるはずでしょ?
もちろんですよ。
「無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死→行→識
→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死→行・・・・・・。」と
何度でも繰り返すのです。これが輪廻です。
最初の「無明」とは 行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老
死」と輪廻して苦しむことを知らないことを「無知」と言っているわけ
です。
590 :
法師 :2005/10/16(日) 07:56:23 ID:7ntdwsTa
すみません。間違えました 「無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死→行→識 →名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死→行・・・・・・。」 ↓↓↓↓ 「無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→行→老死→識 →名色→六入→触→受→愛→取→有→生→行→老死→識→・・・・・・。」 このように訂正します。
591 :
似我 :2005/10/16(日) 08:05:22 ID:m8z7hDlQ
『中論頌』は第二十六章を考えれば十二支を肯定している。 ところで、一部に次のようなものを観る。 「ダルミン無きダルマとしての各支が不可逆的に継起する」 これは正しいのだろうか? しかし、これでは、『中論頌』第五章の 可相無き相が継起する、というに等しくはないか? 故に、ダルミン無きダルマを 肯定しているようには思えないのだが。 正確にはダルミンもダルマも肯定していないように思える。 どう考えるべきなのだろうか。
592 :
法師 :2005/10/16(日) 08:08:41 ID:7ntdwsTa
>>574 その繰り返し(生死)を止めるための還滅縁起じゃないのですか?
>>って、そのあたりのことも原始仏教ではどうなのか知りたくて質問し
>>たわけですが。
生死を止めるために阿含経は説かれたのです。
つまり、輪廻からの脱出が「解脱」なのです。
593 :
似我 :2005/10/16(日) 08:13:15 ID:m8z7hDlQ
第二十六章を鑑みれば、八不で形容される縁起は、 十二支である可能性がある。 しかし八不で「“不生”」としているから、 “単純な”継時性は否定されると思う。 もちろん、縁“起”なのであるから、継時性は基本だけど。
>>580 十二支縁起の無明は実体無明か無自性無明かと問われれば、答えは無自性です
十二支縁起の老死は実体老死か無自性老死かと問われれば、答えは無自性です
これは逆観の無明滅・老死滅も同様です。
十二支それぞれの各支が固定的な実有の法なら、二支間のそれぞれに生起する
現象も永遠に変化はしませんから、こんな馬鹿げたことはありません。よって
この十二支縁起の法は固定的な法ではない→無常法です。しかも無常でありな
がら常住しています。無明で始まり老死で終るのは、理論上の分類での一サイ
クルな説明であって、実際には始まりも終わりもありません。べつに十二支で
なくてもかまわないわけです。ようするに縁起の法という無常法が常住してい
ます。
>「前際・後際を求めず」は、「過去・未来を求めず」です。
>「始まりもなく終りもない」という意味ではなく、
>「私は過去世に存在したのかしなかったのか。過去世ではどんな存在だったのか」
>などという関心を持たないと書かれているのですね。
>「我過去世若有.若無。我過去世何等類 我過去世何如」
続き〜 無常なる縁起法が常住ですから、過去も未来もありません。過去も未来もなく ば、只今の現在さえもありません。但し実体としてはないということです。現 象としてはあります。記憶やあるいは現前する事象として。 >「前際・後際を求めず」のところは、略してあったので想像でもあります。 「過去・未来を求めず」なら、どうして「私は過去世に存在したのかしなかったのか。 過去世ではどんな存在だったのか」と過去世にばかり片寄っているのでしょうか。未 来世のことがなおざりにされていて、いささか不均衡な感じもします。 「前際・後際を求めず」→「始まりもなく終りもない」としたのは、わたしはそこに 中論の不来不去を見て取ったからです。経典の記述どおり、十二支縁起の無明で始ま り老死で終るなら断見になってしまいます。(逆観も同様)。それはあくまでも理論 上の一サイクルで、実際は始まりもなく終わりもありません。文字化された概念に惑 わされてはだめです。無始無終で不来不去です。縁起には始まりも終りもありません 。始まりも終りも超えています。 *漢文の補足ありがとうございます。(漢文は正直難しい。^_^;)
596 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/16(日) 09:20:08 ID:SMiBGsc5
>>584 >>586-587 けちゃっぷ さん、レスありがとうございます。
最初に掲示板に対する考え方なのですが、
掲示板においては、いろいろな情報を教えてもらえますが、
それを受け入れるかどうかの判断、その情報が正しいか誤っているかの判断は、
個人の責任においてなされるものだと考えています。
また、誰もが自分の思うところにしたがって発言する権利があり、
根拠を示し、自分の思うところを述べることは、自由だと考えています。
たとえ、それが結果的に間違った内容だったとしても。
さて、私見ですが、認識論的に
認識(識)、認識対象(名色)、認識手段(六処・触・受)
は相互依存の関係にあり、生きている限り繰り返されるものだと考えています。
三世両重の因果では、「識・名色・六処・触・受」は成長に応じたただ一度の通過点と考えられており、
そのように意味づけすることが苦の滅に役立つとは考えられません。
> 惑→業→苦→惑…をくりかえしている…という説明自体も誤りということでしょうか?
これに関して誤りかどうかの判断は私にはできかねますが、
> 十二縁起を惑業苦にコンパクトにまとめて語ること自体も、誤りなのでしょうか?
このようにまとめることのメリットが私にはわかりません。
スッタニパータ、第三章、12.「2種の観察」にあるように、
無明、行、識、触、受、愛、取を
それぞれ分けて観察することの方が、苦の滅に役立つと考えます。
続き〜
>>578 >>中部83
>「相続」と語はいっしょでも意味内容は「縁起相続」とは無関係ですね。
八正道とは四諦の道諦の内容ですから、縁起の法とは無関係ではないと思います。
それに釈尊から受け継ぐのも縁起の一環です。
>>ダンマパダ277
>諸行無常から「縁起相続」がなぜ読み取れるか謎。
【すべての諸行は無常である】で終っているのではなく、智慧によって見るとき、
もろもろの苦から遠ざかり離れる。これが清浄にいたる道である。と帰結してい
ますから、四諦や縁起の法による洞察が読み取れます。
>
>>497 で「まるきり別のものが形成されるという事態も考えられません」と
>言われて、理由として「縁起相続」なるものが断たれるからとされてたので
>ここでいう「相続」は部派概念では、とお尋ねしております。
>といいますのも、「変化」するが変化前と後で「何か根底に共通した部分がある」
>それを「縁起相続」との主張とされていたのだと思います。
縁起相続が断たれると言ったのは、断常中道を念頭においていたからです。
縁起が断たれて、そこに新たに生じるものがあるとすれば、無因から生じたこと
になるので、「まるきり別のものが形成されるという事態も考えられません」と
言いました。
続き〜
>諸行無常それ自体からは「相続した何か」を導きだせません。
諸行無常で止まるなら、情念的な諸行無情でしょうね。
諸行無常には諸法無我・涅槃寂静の洞察があります。
>>579 >テーラーガーター716
>716. “SuddhaM dhammasamuppAdaM, suddhaM saNkhArasantatiM;
>passantassa yathAbhUtaM, na bhayaM hoti gAmaNi.
>SuddhaM純粋に dhamma諸法samuppAdaM生起を suddhaM純粋に saNkhAra行・形成力・現象
>santatiM相続・連続を passantassa正見者に yathAbhUtaM如実に naなし bhayaM恐怖 hotiある gAmaNi村長
御丁寧にありがとうございます。
しかしわたしには猫に小判です。^_^;
>「縁起相続」と読み込める可能性あるいは萌芽はあるかもですね。
貴重なご意見、痛み入ります。
#これから出かけます。
599 :
法師 :2005/10/16(日) 10:30:27 ID:CBnb/YWi
>>無常なる縁起法が常住ですから、過去も未来もありません。過去も未 >>来もなく ば、只今の現在さえもありません。但し実体としてはないと >>いうことです。現象としてはあります。記憶やあるいは現前する事象 >>として。 まさにおっしゃる通りですね。 >>「前際・後際を求めず」のところは、略してあったので想像でもあり >>ます。「過去・未来を求めず」なら、どうして「私は過去世に存在し >>たのかしなかったのか。 「前際・後際」は阿含経に説かれており、十二因縁の無明の一つとして 「前際を知らず。後際を知らず。」つまり、自分の前世を知らず、後世 を知らない。という無知だと思います。 >>過去世ではどんな存在だったのか」と過去世にばかり片寄っているの >>でしょうか。未来世のことがなおざりにされていて、いささか不均衡 >>な感じもします。 過去世については仏の過去世がいくつも説かれています。未来世につい ては誰かが死ななければいけないので、なかなか解けませんよね。 しかし、ある比丘が死んだときには、「彼はどこそこの世界に生まれた」 とはっきり説いているようですね。
600 :
けちゃっぷ :2005/10/16(日) 11:13:09 ID:27k65JLp
>>596 一般の檀家さん等に説明する場合、惑→業→苦…のくりかえしだから、惑や業を消せば苦も消えると言うのは、
わかりやすくて便利なもので、ついつい使ってしまいます。
602 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/16(日) 13:42:35 ID:htzVfXCN
>>553 >悟りの世界の永遠は、文字通り永遠ですが。
>迷いの世界は永遠の輪廻であり、人生としては生死を繰り返す「こまぎれ」
>の永遠のようです。
生じたものは滅するのが定め。
それはこの世とて同じこと。世は生じた。そして時が来れば滅する。
それが定めだ。この世は生じたものであり、永遠ではない。その時が来て、
世がなくなれば、行き場のなくなった、輪廻の主体はどうなる?
それは無だ。輪廻の鎖から解き放てないでいる無明に囚われたままのものは、永遠の無に帰される。
それは完全な「無」であり、完全なゼロであり、完全な死である。
無明の霧の中を生き、不死の境地、不老の境地、永遠の存在、自性を見出さないものは、
時が来れば、永遠の無に帰す。この第二の死。これこそを真に恐れなければならない。
603 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 14:00:33 ID:QB6Yw5gP
>>602 生じたものが滅したときは、別のものが、前のものの代わりに生じているのです。
これが縁起です。
そもそも生じると言うことは、あるものが変化することでありますから、あるものが
滅したら、別のものが生じていなければならないのです。
しかし、仏教でもパルメニデスでも、変化は真実には生じていないのです。
604 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 14:01:38 ID:QB6Yw5gP
続き、 滅すると言うことが、そもそも変化に他ならないのです。
605 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/16(日) 14:01:45 ID:htzVfXCN
よく釈迦は、我はない、アートマンはない。だから輪廻の主体などはない などとほざくアホがいる。なら今、お前は、いないのか?と、問いたい。 彼らは意味を取り違えている。釈迦の言っている事は正しい。が、「私」も目含め、この世は幻のようなものであるが、 この世も、私も、あなたも、”今ここ” にある。 私もあなたも、この世も所詮幻のようなものであるが、いまここに、あるのだ。 輪廻の主体も、同じこと、幻のようなものであるが、あるのだ。 それがあるので輪廻する。この世とは、いずれ消えてなくなる幻の世界が、今ここにあるようなものだ。 釈迦は、今いるお前も、この世も、引いては、輪廻する主体も、幻だといっているが、 その幻は、今ここに、現実にある。いつかは消えてなくなる、はかないものではあるがね。
606 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 14:15:01 ID:QB6Yw5gP
>>605 幻と言うのは一つの比喩です。大乗経典の中にでも、あなたと同じように
、それなら幻としてあるのであり、空すなわち、何もないのではないではないか?
と反論する外道の話があります。
幻とは、嘘偽りで、取り合うべきものでないもの、そのような認識の支配のもとにあるもの
と言う意味でしょう。あなたが現前のものが幻であると知っているなら、それを実際のものと
間違えることがあるでしょうか?ないでしょう?
また私達は、今森羅万象の中に生きていますが、幻としてみている部分がほとんどでしょう?
アメリカと言う国があり、そこでいろいろな事件が起きていますが、幻としてみていませんか?
それが現実に密接に関係していることはないでしょう。今の自分のいる場所においてもその様に、
幻として存在しているのである、故に、何物にも執着しないでいよう、と言うのが、
真理に従う態度だと言うのではないでしょうか?出家するとは、その真理を信じて、
束縛する全ての物を捨てることを意味しているのです。妻子、財産、栄誉、この世の幸福、不幸
全てが幻であるから、捨てるのでしょう?執着しないと言うのが捨てると言う意味です。行動で示せば
出家するのです。
607 :
法師 :2005/10/16(日) 14:15:32 ID:xFkNYGDc
>>605 >>彼らは意味を取り違えている。釈迦の言っている事は正しい。が、「私」
>>も目含め、この世は幻のようなものであるが、この世も、私も、あな
>>たも、”今ここ” にある。私もあなたも、この世も所詮幻のようなも
>>のであるが、いまここに、あるのだ。輪廻の主体も、同じこと、幻の
>>ようなものであるが、あるのだ。それがあるので輪廻する。この世と
>>は、いずれ消えてなくなる幻の世界が、今ここにあるようなものだ。
>>釈迦は、今いるお前も、この世も、引いては、輪廻する主体も、幻だ
>>といっているが、その幻は、今ここに、現実にある。いつかは消えて
>>なくなる、はかないものではあるがね。
これがまさに「中道」の意味です。
いまだかって、これほどうまく「中道」を説明した人を見たことはあり
ません。
だから仏は『この世は存在しない。この世は存在する。この二極端から
離れ、中道を説く。無明に縁りて行あり・・・・・・生に縁りて老死あ
りと説く』と言っているのです。
つまり、この世は空であるから縁起によって生じていると説いているわ
けです。
608 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/16(日) 14:16:52 ID:htzVfXCN
縁起が支配する世界は、この世の事だ。この世は縁起によって成り、 この世がなくなれば、縁起もなくなる。
609 :
法師 :2005/10/16(日) 14:29:55 ID:xFkNYGDc
>>608 >>縁起が支配する世界は、この世の事だ。この世は縁起によって成り、
>>この世がなくなれば、縁起もなくなる。
人間が死ねばこの世は消える。
だが、『無明の識』だけが残る。この『無明の識』はこの世という『名
色』を造り出す。これが輪廻です。
610 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 14:32:00 ID:QB6Yw5gP
>>608 >この世がなくなれば、縁起もなくなる。
縁起しているものは幻であると知ったら、この世は滅びるのです。
そこに生じるのがニルバーナです。ニルバーナは別名ものが生起しないところとも言われます。
>>608 おまいが縁起しなくなっても、この世は縁起し続けるから安心して逝(ry
612 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/16(日) 14:38:57 ID:htzVfXCN
ところで六道輪廻とは、初期仏典に出てた教えなの? もしそうなら、何の仏典の何処の箇所に出てる話なのか、 どういった内容で書かれてるのかおしえてくれませんか? いえね、六道輪廻の話自体は知ってるんですが、それが何処の経典に載っていたか、 どういう文言で載っているのかが、興味がありましてね。 俺の持ってる、岩波文庫の、仏陀の言葉シリーズに、載ってたっけ? それともこれは、大乗の教えなんですかね?よければ知ってるかた、教えてください。
613 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 14:52:03 ID:QB6Yw5gP
>>612 六道輪廻と言うのは、大乗において言われているもの、初期経典には
六道輪廻と言う教えは今だないと思います。初期経典ででも、教えがだんだん
整えられる様になっているのです。その完成が、大乗経典における六道輪廻だと思います。
初期経典には六道輪廻を成立させる素地が充分にあります。
614 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 14:54:55 ID:QB6Yw5gP
>>613 大乗経典の「大無量寿経」では、六道ではなく、五道としています。
抜けているんは、修羅界です。
615 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/16(日) 15:18:41 ID:9HCzrE/X
>>600 :けちゃっぷ :2005/10/16(日) 11:13:09 ID:27k65JLp
> 一般の檀家さん等に説明する場合、惑→業→苦…のくりかえしだから、惑や業を消せば苦も消えると言うのは、
> わかりやすくて便利なもので、ついつい使ってしまいます。
わかりやすくて便利だと思うのであれば、使えばいいのではないでしょうか?
ただ、気になったことを述べさせていただけば、
仏典における「苦も消える」は、涅槃を意味すると考えます。
涅槃は、無所有で無願で、自分と他者との比較が全くない状態です。
一般の檀家さん等は、「苦も消える」と聞いて、
子や財産や名誉に満足できる状態をイメージするのではないでしょうか?
これは涅槃からは程遠い状況です。
616 :
法師 :2005/10/16(日) 15:35:27 ID:xFkNYGDc
>>615 >>仏典における「苦も消える」は、涅槃を意味すると考えます。
そうでもないですよ。苦があるかないかの二者択一ではなく。
欲望や愛着が少なくなれば、それだけ苦も少なくなるわけです。
だから、解脱といってもいくつもの段階があるのです。
これは因果応報であり、仏は「今世に報い、あるいは後世に報いる」
といっています。
617 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/16(日) 15:58:20 ID:9HCzrE/X
>>616 :法師:2005/10/16(日) 15:35:27 ID:xFkNYGDc
> >>仏典における「苦も消える」は、涅槃を意味すると考えます。
>
> そうでもないですよ。苦があるかないかの二者択一ではなく。
> 欲望や愛着が少なくなれば、それだけ苦も少なくなるわけです。
そうですね。たしかにその通りです。
> だから、解脱といってもいくつもの段階があるのです。
解脱は、「した」か「していない」かの二者択一ではないでしょうか?
苦や煩悩がなくなれば、解脱し、涅槃を得る。
苦や煩悩がわずかでもあれば、解脱できない。
50%解脱したなどということは、ないのではないでしょうか?
618 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/16(日) 16:05:38 ID:9HCzrE/X
>>616 :法師:2005/10/16(日) 15:35:27 ID:xFkNYGDc
> だから、解脱といってもいくつもの段階があるのです。
これが、
・解脱に到るまでにはいくつもの段階があるのです。
の意味であれば、同意致します。
619 :
法師 :2005/10/16(日) 16:19:09 ID:xFkNYGDc
>>617 「欲望と愛着の量=苦の量」であって、苦を滅することが阿含経の修行
です。そこで、苦の量によって、すなわち欲望の量によって死後の生ま
れる世界が異なるわけです。仮に地獄を苦100パーセントとすると、畜
生界が苦80パーセント、餓鬼界は苦60パーセントと仮にしますと、人
間界に生まれる人は苦40パーセントとなるわけです。この上に欲天があ
るのですが、人間界で苦を10パーセントまで滅尽した人は欲天を飛び越
えて、梵天へ生まれるという具合に、苦の量によって死後の世界が決ま
るのです。梵天へ生まれることが出来れば『六道(五趣)からの解脱』
ということになるわけです。
620 :
法師 :2005/10/16(日) 16:21:03 ID:xFkNYGDc
>>618 >>・解脱に到るまでにはいくつもの段階があるのです。
解脱には第一解脱から第八解脱があり、これを『八解脱』といいます。
621 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 16:41:59 ID:QB6Yw5gP
>>620 そのような解脱の段階があることから、大乗の声門縁覚の階位が言われたのではないでしょうか?
622 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 16:48:52 ID:QB6Yw5gP
大乗の菩薩の十地と言うのは、八解脱から来ていいるのだ、きっと。
623 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/16(日) 17:27:39 ID:htzVfXCN
>>613 お答えどうも。
>初期経典には六道輪廻を成立させる素地が充分にあります。
この素地って、具体的に初期仏典の、どの辺に書かれてるんだろう。
もう一回読んでみるかな。もしお手数でなければ、知ってる方よろしく御願いします。
ま、六道輪廻の教えは大乗で完成したということはわかりました。
そういえば、六道輪廻の教えは、原始仏教の根幹だ。みたいなこといってる人がいたように
思えるが、誰だったけか?どうでもいいけど。なんか、どうでもいい人だったように思える。
624 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/16(日) 17:57:26 ID:9HCzrE/X
625 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 18:16:18 ID:QB6Yw5gP
どこかといわれても指摘できないが、その意味するところを記憶を頼りに言ってみよう、貴殿も読んでおられるなら、 心当たりがありましょう。 @神々も形に縛られている、故に時期が来たら地獄に落ちるのである。 Aシャリホツを信じず誹謗したコーカリカ(?)は紅蓮地獄に落ちた。 B人に生まれることは難しい、仏教を聞くことは難しい、仏が見えることは難しい。 C帝釈天(サッカ)の奥さんは修羅界の王の子供(?)である。 D分ち難き物を分かち与え、なし難き行いをなす人々に、悪人は真似て行うことができない。 善き人々の法は、従い行くこと難し。それ故に善人と悪人は死後には異なったところに行く。 悪人は地獄に赴き、善人は天井に生まれる。(サンユッタにカーヤT、サトラッパ群神) 初期経典では、地獄、餓鬼、畜生の区別はほとんどないみたいだね。
626 :
法師 :2005/10/16(日) 18:27:50 ID:e/AWAkeZ
>>623 >>そういえば、六道輪廻の教えは、原始仏教の根幹だ。みたいなことい
>>ってる人がいたように思えるが、誰だったけか?
六道輪廻の教えが、原始仏教の根幹であることは間違いありません。
すべての教えの目的は、六道輪廻からの解脱だからです。
**************************************
(五節輪経)
四聖諦を実の如く知らなければ、五趣を輪廻して、地獄に堕ち、あるい
は畜生に堕ち、あるいは餓鬼に堕ち、ある人は天から還って悪道に堕ち
て、長い間輪廻する。だから、比丘よ。四聖諦を学んでいない者は速や
かに学ぶべきである。
**************************************
これは雑阿含の一部です。
627 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 18:44:57 ID:KDeAG/is
六道輪廻はほぼあらゆるインド思想の前提である。次にそれからの解脱という欲求がある。 だから仏教を含めてあらゆるインド思想は唯心論になる。およそ因果の連鎖の中で自分の 努力できる範囲など、限りなく無に等しい。なのに自分の努力によって解脱できるためには 唯心論でなければならない。もしくは絶対的救済者の力によって解脱するなら、唯神論 (唯仏論)が要請される。つまり六道輪廻は疑われない前提、唯心論は要請なのである。 だから仏教の縁起というのは唯心縁起であって、近代的世界観の因果論とは全く異なる。
628 :
けちゃっぷ :2005/10/16(日) 18:50:30 ID:27k65JLp
>>615 仏教でいう「苦」については、四苦八苦などを例に出して説明します。
仏教では死んたらどうなるとらえているのか、興味がある人が多いと思うんです。
そこで六道輪廻のお話もするわけですが、死後の世界を信じていない人にも納得しやすいように、惑業苦の輪廻についても同時にお話します。
四諦のお話をする時も、惑→業→苦の輪廻を止めるのだと説明することがあります。
629 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 18:50:49 ID:QB6Yw5gP
>>627 >近代的世界観の因果論とは全く異なる。
上をもっと詳しく解説求む。
630 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 18:58:21 ID:QB6Yw5gP
続き 私には、同一なものであるはずと思われるのです。
631 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/16(日) 19:02:46 ID:9HCzrE/X
>>628 :けちゃっぷ :2005/10/16(日) 18:50:30 ID:27k65JLp
>
>>615 仏教でいう「苦」については、四苦八苦などを例に出して説明します。
四苦八苦が苦であることに異論はないのですが、
> 惑や業を消せば苦も消える
における、「苦も消える」というのはどういうことか、
説明を求められることはないのですか?
その場合には、どのような説明をされるのでしょうか?
632 :
法師 :2005/10/16(日) 19:04:33 ID:e/AWAkeZ
けちゃっぷさん。 「惑→業→苦」はどういう意味ですか?
633 :
けちゃっぷ :2005/10/16(日) 19:51:48 ID:27k65JLp
>>631 四苦八苦を、人間にはコントロールできないことと言っていますので。
惑業苦の場合の苦は、苦悩でしょうね。
まちがった考え→まちがった行い→行いの報いに苦悩→苦しいからまた正しい判断ができずにくりかえす…
お釈迦様の教えは、正しい考えと正しい行いを説くので、苦悩もなくなる、と申し上げております。
仏教といえば漠然と先祖供養みたいに思っているような初心者に対して、
10分間ほどで仏教とは何なのかを説明するのは、難しいですね。
634 :
名無しさん@3周年 :2005/10/16(日) 20:12:21 ID:KDeAG/is
>>629 ある人が2億円の宝くじに当選するという幸福を得たケース。
そのある人が宝くじを買っていなければならないが、あとは抽選会でその番号が当たれば
幸運を得る。それだけである。その人の生活態度は無関係であるし、どこの売店で買った
かも無関係である。
仏教でもこういう通常の因果関係は考えるのであるが、無関係なことまでを考え、そのほう
がむしろ重要である。つまり二重の因果関係と、その間の予定調和を要請することになる。
そして結局、客観的な因果関係は無視する独我論的唯心論という非合理に陥るのである。
635 :
法師 :2005/10/16(日) 20:18:35 ID:THOIyGAD
>>624 >>最後の方に書かれている心解脱、慧解脱と、どのような関係にあるの
>>でしょうか?
第一解脱とは『色色を観る』と説き、四禅の初禅を意味します。
初禅が具足すれば、死後は梵天界に生まれるとあり、六道の輪廻から
解脱できます。
636 :
法師 :2005/10/16(日) 20:33:11 ID:THOIyGAD
>>634 >>そして結局、客観的な因果関係は無視する独我論的唯心論という非合
>>理に陥るのである。
唯物論的観点から観るとき、仏教の因果関係は非合理と見なされるが、
唯心論的観点から観るときは、物理的な因果を非合理に陥ると見なすの
です。
637 :
暇人 :2005/10/16(日) 21:20:22 ID:BTayYYSx
>>614 うむぅ。悪趣に関しては他説あります。六が正解で五は一つ欠いた
というより
@三悪趣(三悪道)-地獄・餓鬼・畜生
A五悪趣-三悪趣+天+人
B六道-五悪趣+修羅
普通はこれを実体的に捉えず、比喩的に捉えます。
現実の人間の生に適応すると-地獄(瞋恚・怒り)・餓鬼(貪欲)・畜生(癡・愚かさ)
修羅(争い)・人(普通状態)・天(喜悦)
638 :
暇人 :2005/10/16(日) 21:21:40 ID:BTayYYSx
ちなみ雑阿含では、法師さんが言及された第432経 (輪廻五趣 而速旋轉。或墮地獄。或墮畜生。或墮餓鬼。或人。或天。還墮惡道。長夜輪轉) と406・955の三経が五趣。 三悪道が133経はじめ六経 これに対して六趣は、第155経ただ一つだけですね。 しかしこれは六人の自由思想家の一人マッカリ・ゴーサラの立場を説明した経典ですね。 「受苦楽六趣」(苦楽の六趣を受ける)と133経に漢訳されている箇所の六趣のパーリは、 chasu eva abhijAtisu(六種の生まれ・階級において) 雑阿含に限定するならば 法師さんのレスは厳密ではなく、 五趣と六趣は少し違います。六趣は仏教外他教の説として提示されています。 意味内容にさしたる違いはないですが。。。
639 :
法師 :2005/10/16(日) 21:53:55 ID:HbNWUCU0
>>637 >>普通はこれを実体的に捉えず、比喩的に捉えます。
>>現実の人間の生に適応すると-地獄(瞋恚・怒り)・餓鬼(貪欲)・畜生
>>(癡・愚かさ)・修羅(争い)・人(普通状態)・天(喜悦)
『地獄界・畜生界・餓鬼界・人間界・阿修羅界・欲天界』これらの世界
は比喩でも何でもなく、人間が死後に生まれる世界ですよ。
それが苦だから阿含経にこの六道から解脱する方法が説かれているのです。
>>576 >確認しますが、あなたは、『自業自得は常見である』とみなしているのですよね?
そうですね。そしてそれは在家向けの方便。
>自業自得が、
>> 「作すものと受けるものと同一」に相当します
>>ということは、
>「自業自得は仏教の教えに反する常見である」と
>という意味になります。
仏教の教えに反するものをなぜ方便としてわざわざ教える必要があるのですか?
暴流を渡り終えたら筏は捨てる。きちんとその筏の役目を果たすのが方便です。
わたしがいささか厳しい自業自得解釈に賛同するのは、善因善果や悪因悪果に関してな
ら自業自得も大いに活躍の場があるでしょうが、釈尊の仏教は功利的な世俗道徳には止
まりませんので、それへの自戒も含めてのさようなスタンスなのであります。実際にこ
の解釈は経典に忠実です。
これより何か質問がありましたら、他の人にお願いします。m(__)m
いろいろとありがとう。
ガムバッテくださいね。
>>599 レスありがとうございます。
「前際・後際」はどうも独り合点の飛躍した読みかただったか。
642 :
暇人 :2005/10/16(日) 22:57:32 ID:BTayYYSx
>>639 >比喩でも何でもなく、人間が死後に生まれる世界ですよ
どちらの宗派に属されていますか? あるいは影響を?
比喩でない、死後生まれる世界だと
死んで実際に見たこともないのに断言しうる根拠は何ですか?
何様俺様仏様だからです
何様俺様仏様は彼岸を既に渡った者であって 実際に観て知っていることを記述しているのです
何様俺様仏様は彼岸を既に渡り終え 苦しみをすっかり根絶やしにされた幸せな人であって あらゆる見解と論争を超えておられる それ故何様俺様仏様に論議をふっかけても争う彼など何処にも存在しない
646 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/17(月) 05:49:48 ID:eOPiJ2T1
>>633 :けちゃっぷ :2005/10/16(日) 19:51:48 ID:27k65JLp
> 惑業苦の場合の苦は、苦悩でしょうね。
> まちがった考え→まちがった行い→行いの報いに苦悩→苦しいからまた正しい判断ができずにくりかえす…
> お釈迦様の教えは、正しい考えと正しい行いを説くので、苦悩もなくなる、と申し上げております。
なるほど。
> 仏教といえば漠然と先祖供養みたいに思っているような初心者に対して、
> 10分間ほどで仏教とは何なのかを説明するのは、難しいですね。
そうですね。
次第説法を私は勝手に3段階に分けていますが、
第一段階の説教止まりになっちゃいますね。
第一段階
・布施
・持戒
・生天の法
第二段階
・欲楽のわざわい
・出離の功徳
第三段階
四諦
647 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/17(月) 05:50:32 ID:eOPiJ2T1
>>640 :名無しさん@3周年:2005/10/16(日) 22:30:02 ID:Epf91/Zv
> >確認しますが、あなたは、『自業自得は常見である』とみなしているのですよね?
>
> そうですね。そしてそれは在家向けの方便。
そうですか。
レスありがとうございました。
わたしは、「作す時と受ける時」で時間経過があるので、
「作すものと受けるものと同一ではない」と考えます。
649 :
法師 :2005/10/17(月) 07:59:08 ID:bAXMCIt6
>>642 >>>>比喩でも何でもなく、人間が死後に生まれる世界ですよ
>>どちらの宗派に属されていますか? あるいは影響を?
>>比喩でない、死後生まれる世界だと
>>死んで実際に見たこともないのに断言しうる根拠は何ですか?
阿含経に記されている仏の言葉は見たこともないことばかりですよ。
もし、私たちが見たことばかりが説かれているなら、仏教に何の価値が
ありますか?六道が死後の世界であることは阿含経のあらゆる所で説か
れていますよ。
**************************************
(十力経)
復た次に如来は、天眼浄の人眼に過ぐるを以て、衆生の死時、生時を見
て、妙色・悪色・下色・上色・悪趣に向かひ、善趣に向ひ、業報に随ふ
受を悉く実の如く知るなり。此の衆生は身の黒業成就し、ロ・意の悪業
成就し賢聖を謗毀して邪見業を受くるなり。是の因縁を以て身壊命終し
て悪趣に堕して地獄の中に生ずるなり。此の衆生は身の善行・ロ・意の
善行あり、賢聖を膀らず正見の業法を受くるなり。彼の因彼の縁もて身
壊命終して善趣の天上に生ずるを悉く実の如く知るなり。是れを第九の
如来力と名づく。
**************************************
『身壊命終して悪趣に堕して地獄の中に生ずるなり。』
肉体が壊れて、命が終わって、地獄へ生まれる。すなわち、地獄へ生ま
れるのも天上に生まれるのも、死後の話なのです。これが輪廻です。
650 :
阿含宗 Z :2005/10/17(月) 09:48:39 ID:DyLs+wrE
ここって阿含宗の人、書き込みしているの?
無宗ださんは、あまり阿含宗の感じがしない。
>>648 さんへ
651 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 10:00:17 ID:DyLs+wrE
阿含宗徒って、あまり書き込みはしないでしょうね。 読んでいる人も少ないと思う。では。
652 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 12:51:10 ID:DyLs+wrE
阿含宗では原始仏教と言わずに「根本仏教」って呼ぶんですよね。 これは卓見だと思う。「原始」ではなく「根本」ですよね。 原始人→現代人(ホモ・サピエンス、ホモ・スツルチツシムス(超愚人)→ホモ・エクセレンス あなたはホモエクセレンスになれるか?!
653 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 12:56:40 ID:DyLs+wrE
チャクラから発火したエネルギーを間脳に送り込むのだ。 間脳には言語を超えた霊性の場が存在する。 霊性の場とは;祈りの場なのだろうか?
654 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/17(月) 14:46:50 ID:WvaVa5Tn
>イエスは言われた。”日で満ちた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを >躊躇してはならない。そうすれば彼は生きるであろう。 >多くの最初の者は最後となり、そして彼らは単独者となるであろうから”。〜トマスの福音 実は私はキリスト教徒でしてね。 多くのキリスト教徒といわれる人は私をキリスト教認めませんが 彼らからみると、私は異端だそうで(苦笑)まぁあの人達にどう思われてもかまいませんが。 ところで、なぜ六道輪廻に興味があるかというと、キリスト教の7の意味と リンクしてるんじゃないかと思えましたので。それゆえこの ”六道”輪廻の思想は面白いなと思って。 皆さんも知っていると思いますが、神は、6日かけてこの世を創造した。 そして ”第7の日に全てを休まれ” その日を ”聖別” された。 キリスト教では、7は完全数。聖なる全て。 テーリーガータ >苦しみの法(もの・こと)が多きゆえに、 >怠らないこと(不放逸)に喜びある者、わたしによって、 >渇愛の滅尽は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。 >渇愛〔の思い〕が干上がってから、わたしにとって、今日は、第七夜となる。〜41 >そののち、〔わたしは〕髪を断って、〔家から〕家なきへと出家した。 >渇愛〔の思い〕が干上がってから、わたしにとって、今日は、その第七夜となる。〜156 >しかして、そのとき、〔瞑想の境地がもたらす〕喜と楽によって身体を満たして住した。 >第七〔日〕に、〔両の〕足を伸ばす−−闇の集塊を破って。〜174 そして、釈迦は、簿大樹の下で結跏趺坐を組、七日間、解脱の楽を感受しつつ、座り続け、 七日間を過ぎた後、その三昧より出た。 もちろんこの七日というのは、文字通り七日間結跏趺坐のまま座り続けたというものではなく。 例えの一つだろう。七日も実際に結跏趺坐のまま座ったら、たとえ釈迦といえども、 足が腐るって。
>>>>比喩でも何でもなく、人間が死後に生まれる世界ですよ >>どちらの宗派に属されていますか? あるいは影響を? >>比喩でない、死後生まれる世界だと >>死んで実際に見たこともないのに断言しうる根拠は何ですか? ちょうど実際に事実を見たことも聞いたこともない人が 教科書を著作しそこで史実や宇宙に関して だろう、と思う、のような気がする、とxx先生の本に書いてあった、 などの表現を省略することが当然であるように 実際に見たこともないのに断定表現を使用することは暗黙の了解である、 のような気がする。
656 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 18:27:57 ID:DyLs+wrE
>>654 カラスの唄さん、はじめまして。
ニーチェの思想はとても有名ですが、神のことに言及したのは、
実は仏陀のほうが先なんですよ。
「己が信仰を捨てよ」これは仏陀の言葉です。己が信仰を捨て、
真理を見よ。
真理とは仏教の場合、仏陀が瞑想の上で知見したこと、仏陀の知慧
なのですが。
657 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 18:35:34 ID:DyLs+wrE
>>654 日本人はよく無宗教だといわれますが。
「己が信仰を捨てよ」まではよく実行されているんですよね。
だけど「わが知見(仏陀の知慧)を見よ」の部分は実行されていない。
「己が信仰を捨てよ」 「みんなが言うことを信じろ」 「お金を大切に」 「勝ち組になれ」 「隣の家より我が家を大切に」
659 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 18:42:46 ID:DyLs+wrE
>>654 仏教の場合は、すべては「おもい」です。
渇愛の思いが滅しつくされれば平安の境地(ニルバーナ)なのですが。
イエスは渇愛の思いを滅しつくしていたと思いますよ。
でも、神に対する迷妄、人類の発生以来、何億年、何十億年、あるいは、
他の天体も入れればその無限大の乗数の年限続いた人類の迷妄(衆生の迷妄)
を断ち切れなかったのかもしれない。
(五月雨式連続コメント、失礼しました)
>>657 はは・・(^^;)
各伝統仏教教団の怠慢という批判は、当たってるんだよねぇ・・・ orz
661 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 18:43:57 ID:DyLs+wrE
>>658 己が信仰を捨てよ。
欲の追求をやめて平安に暮らそう。
662 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 18:53:08 ID:DyLs+wrE
>>660 各伝統教団は、仏教の教えに基づく生活原理は良く教えていると思う。
(たぶんですけど)
でも、仏教の根本原理は教えていないよね。
(これも、たぶんです)
663 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 19:04:04 ID:DyLs+wrE
>>654 もちろん渇愛を滅しつくすには、その(川の流れの)上流である、
上流というよりむしろ源流の、無明を滅しつくさねば成らないわけですが。
神の迷妄から逃れられなかったイエスは、無明を滅しつくしたとは言えな
いのかも知れない。(畏れ多いことですが)。
わずかに、ほんの僅かに、渇愛(神という天なる父への渇望)を残していた
のかも知れない。
仏陀の成道後の悩み?がそうなんですよね。
「私には父と言える人がいない、師と呼べる人がいない」
「誰かに付き従って学んで行きたいものだ」。
そういう意味のことが、梵天勧請の項に書かれていたと思います。
(文面は全く違うと思いますが)
最後の結論は「私(仏陀)がみつけた法(真理)をより所として」云々
だったと思います。
>>662 どーんと肝を据えて虚勢とハッタリで断言したらんかーぃ\(゚θ゚)/
665 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 19:11:11 ID:DyLs+wrE
仏教徒がイエスキリストを尊敬し敬愛するのは、 渇愛を(ほぼ)滅しつくしたからでしょうね。 人でありながら、神への愛という一点を残して、 すべての渇愛と迷妄を滅ぼしつくした。 そして、人類に自己犠牲を伴う博愛を教えた。 神は迷妄では有るが、イエスの存在は迷妄ではない。 と考える仏教徒もいるかもしれない。 そして日曜テレビ牧師達はみんな詐欺師なのかなどと 考えたりもしています。(土曜日もやっているよね)。
666 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 19:15:43 ID:DyLs+wrE
>>664 中には素晴らしい僧侶もいらっしゃるかも知れないではないですか。
現代日本の僧侶で「あの人はすごい!」というお人はいないのですか?
小田無道\(゚θ゚)/
顔がすごい!\(゚θ゚)/
670 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/17(月) 19:31:25 ID:WvaVa5Tn
>イエスは言われた。
>”あなたがたを惑わす者たちが[見よ、御国は天にある]あなたがたに言うならば、
>空の鳥があなたがたより先にそこにいるであろう。
>彼らが[それは海にある]とあなたがたに言うならば、
>魚があなたがたより先にそこにいるであろう。
>しかし御国はあなたがたの中にある。そして、外にもある。あなたがたは、
>自分自身を知るならば、知られるであろう。
>そして、自分が生ける父の子らであることを知るであろう。
>しかしあなたがたは、自分自身を知らないならば、
>貧困の中にいるのだ。そしてあなたがた自身が貧困なのだ”。〜トマスの福音
>>656 さん、はじめまして、こんばんわ。
イエスは神といっていないんですよ。その存在のことを、
「アッパ」つまり「父」と呼んでいる。
彼の言う天の父は、それまで信じられてきた、
神の概念とは、まるで違うものを言っている。
旧約に出てくる、自分に従わないものは殺しまくる人格神とは、
ぜんぜん違うものだ。が、そのことに気づくものは少ない。それは今のキリスト教徒しかりである。
私はね、釈迦もイエスも行き着く先は同じだと思っていましてね。
どちらも永遠の命の事を言っている。もちろん永遠の命とは、この世の命の事を言っているのではない。
イエスは、この世に生きる人達を、「死人たち」と呼んでいる。
そして彼も、この世を否定し、お互い、慈悲、慈愛の心を説いた。
これはなにも道徳を説いているのではない。命を得る道を説いている。それを知るものは知る。
冒頭に紹介した、トマスの一文の『貧困』は、「無明」に言い換えても差し支えないものだ。
イエスは中々うまいこと言いますね\(゚θ゚)/
672 :
法師 :2005/10/17(月) 19:43:46 ID:T3RuCS4H
>>670 >>私はね、釈迦もイエスも行き着く先は同じだと思っていましてね。
>>どちらも永遠の命の事を言っている。もちろん永遠の命とは、この世
>>の命の事を言っているのではない。
>>イエスは、この世に生きる人達を、「死人たち」と呼んでいる。
>>そして彼も、この世を否定し、お互い、慈悲、慈愛の心を説いた。
>>これはなにも道徳を説いているのではない。命を得る道を説いている。
>>それを知るものは知る。
まったくその通りですね。
聖書も阿含経も永遠の命を目指しています。
この世の人たちはエデンの園では死んでいるのですね。
永遠の命は死のない永遠に生きる世界仏教では『極楽浄土』キリスト教
では『エデンの国』でしょうね。
キリストとは(虚)空のことであるって誰かが喚いていましたよ\(゚θ゚)/
>>672 松本智津夫さんも全く同様の旨を説いておられましたよ\(゚θ゚)/
675 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 19:53:48 ID:DyLs+wrE
>>670 仏陀の目指すものは生死を乗り越えた世界。
つまりニルバーナ、涅槃の世界。
仏陀は現世での身体を持ったままで涅槃を得た(有余涅槃)わけだけど、
とても楽しい世界であることは確かみたい。だが凡人には分かりにくい。
(仏陀の滅後は無余涅槃に入られるわけです。ここには身体を有するこ
とに基づく苦しみはない。)
人は自分の知らない世界には恐れを持つものだけど、仏陀の成道後の生を
見て、ああ、ニルバーナって素晴らしいんだなと思えるかもしれない。
仏陀の教えは、端的に言えば「すべてを捨てて涅槃を求めよ」。
「生の営みは、みんな一見する華麗さに幻惑されているが、とても苦しいものだよ」。
「この世は暗黒に覆われている」。
この世の目くらましの華麗をすべて捨て去って求める報酬。
すなわち、平安なるニルバーナ、涅槃寂静。
それがどんなものであるか、仏教徒は良く考える、必要があるし、
仏教に興味を持つキリスト教徒も考えるべきかもしれない。
それが、イエスの説く神の国と同じものなのかどうか。
イエスは十字架で神に語りかけたはずだけど、ラテン語で?
その言葉の深い意味は何だったのか。
(キリスト教には全くの無知で申し訳ありません)
仏教は阿含宗というところで勉強していますが、ここは、けっこう各教会
との上層部での交流はあるんです。信者レベルではあまりありませんが。
676 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/17(月) 19:54:41 ID:WvaVa5Tn
前にも何回か書いたが、もし釈迦の教えが、単なるこの世の意識革命だけの事なら、 一生を捧げ、欲を断ち、乞食のような生活をしながら、修行を続けるなんざ、 愚か者のやること。単にこの世の意識革命なら、 自分の能力に応じた、楽を求め、得たほうが、はるかに建設的な生き方である。 ただ、自分の能力以上の楽を求めず、やがて来る死の覚悟だけ、できていればいい。 あと、ゼロだとか、無だとか言う人がいる。 物質世界からみれば、そのようにみえなくもないが、そこに勘違いがある。 ゼロや無などというものは、苦もなければ幸せもない。 我々が慈しみの心を持ち、愛し合う必要もない。 何事も動ぜず、なにも囚われることなく、無の境地でいればいい。 が、釈迦は慈しみの心を説き、八正道を説いた。八正道は、真理に至る確かな道だ。 悟りの世界は、ゼロではなく、自性、つまり「一」なんだと、私は説く。自性は永遠だ。 そこで智慧のあるものは気付く。なんだ、「一」ならば愛し合うのは当然だ。ってね。
単なるこの世の意識革命というものが存在しない それは一切であって部分ではないから 単なるそれということが無い
678 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/17(月) 20:10:47 ID:WvaVa5Tn
ん?なんか文章が偉そうになったかな? キリスト教の話題はスレ違いですね。お気を悪くされた方お許しを。 あと、私は言葉遊びは嫌いなので、あしからず。 言葉遊びは下らない。言葉遊びでは、真理に至れない。
679 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 20:20:09 ID:DyLs+wrE
>>676 八正道は真理に至る道だよ。
悟りの世界はゼロではなくて一だよ。
我々の世界は、業に基づく一だけど、
悟りの世界は業を持たない一の世界なのかもしれない。
(業に基づかない一の世界を空と呼ぶのかも。)
>一生を捧げ、欲を断ち、乞食のような生活をしながら、
>修行を続けるなんざ、 愚か者のやること。単にこの世の意識革命なら、
無限の輪廻の苦しみから逃れるには、最終的にはこの方法しかないみたいだ。
生への欲求を捨て去ることなんだから。
>>678 >ん?なんか文章が偉そうになったかな?
エライとか偉そうとかは興味は少ないですね
また言葉遊びに意識を変化させる要素は少ないので
その動機は存在しない
意識の反転を生じることはこれ以上ないくらいに為し難い
価値を捨離することはこれ以上ないくらいに為し難い
単なる苦しみの消滅などということが決して無い
苦しみの消滅を得ることはこれ以上ないくらいに為し難い
精神現象の終焉の問題を小さな取るに足らない問題として
"単なる"と呼ぶならば
自分はそうは思わないなあ
という1個人意見表示です
681 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 20:22:08 ID:DyLs+wrE
>>679 ニルバーナの自生は永遠だよ。
ただしその永遠は、我々の考える3次元世界の永遠ではないみたいだけど。
682 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 20:26:14 ID:DyLs+wrE
仏教徒は自己の修行に夢中で「愛」忘れちゃう傾向がある。 これは良くない。私もそうだ。 逆にクリスチャンは愛に耽溺していないか? 私の友人のカトちゃんは、ヘルスとかとても好きだぞ。
>>678 悪意や敵意や怒りが存在するのではなく
むしろあなたの詳細な洞察力と観力に敬意すら感じつつ
ただ これは と
思ったことについて主観的意見を述べてみました
684 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 20:29:04 ID:DyLs+wrE
カラスの唄さん。683番さん、お付き合いありがとうございました。 阿含宗徒Z。9時の電車で帰りたいで〜す。(仕事片付けます。) では、また機会がありましたら。
685 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/17(月) 20:32:05 ID:WvaVa5Tn
縁起によって成るこの世は、無論二元世界である。 光あれば闇あり、生もあれば、死もある。 そしてこの世には、善も、悪もある。
686 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 20:32:35 ID:DyLs+wrE
>>679 ↓この言葉遊びは訂正しておきます。
>(業に基づかない一の世界を空と呼ぶのかも。)
因と縁により(業により)物事が存在し、
因と縁の変化により、存在が変化し、
また生じ、滅することを「空」というのです。
687 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/10/17(月) 20:33:41 ID:WvaVa5Tn
>>682 射精や肉欲の恍惚または恋愛の悦びと
キリスト教の説く愛は少し異なると
私は思います
また恍惚は愛であるから欲望成就の時のエクスタシーも
美味しい物を食した時の悦も
性向時のオルガズムも
刹那の愛/無我であるからそれは(苦しみの終焉にとって)良いことだ
という立場からすると
自分とは意見が異なる立ち位置です
689 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 20:36:16 ID:DyLs+wrE
>>687 阿含宗徒はクリスチャンには親しみと愛情(友愛)を感じています。
お互い高めあいましょう。自己を清らかにするという意味では同じですから。
それでは、またね。
690 :
名無しさん@3周年 :2005/10/17(月) 20:37:52 ID:DyLs+wrE
>>688 かなり異なると思うんだけど。
方向性(心の向き)が同じなので、つい混線してしまわない??
では、ほんと、仕事片付けま〜す。またね。
>>684 ∧_∧
⊂<-∀-丶>つ やっぱり会社で仕事サボってたんだニダ…
/// /_/:::::/
|:::|/⊂ヽノ|:::| /」
/ ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
/______/ | |
>>685 私の妄想によりますと
世界は、無辺な1or0であって
光も闇も善も悪も存在せず生も死も存在しない
と。
無辺に辺を形成し区画と隔てと個を創造し
光と闇と善と悪を創造している存在が主体/自であると。
それは何によって差別し偏見し認識が生じ区分が生じるかといえば
それは主体の欲望その他の想いの所有であると。
世界は、無辺な1or0であって 苦しみと苦しみでないことの間には区切りが存在しないのに それが苦しみと苦しみでないことが区切られ すなわち苦が生じるというのは 特定の欲望の想いの所有とその生起とその貪り(行為/実行)が原因であると。 特定の偏りと偏愛と固執の発生があって それが実行起動された際にはその代謝物として 必ず世界(1)から苦しみが区切られて 即ち(独立した)苦が生じる のだと。
見たんかよお前はよ 世界(1)から苦しみがちぎられて発生する現場をよぉ と問われれば 全く見てもいないし 推論とLOGICの域を超えてはいませんが
696 :
名無しさん@3周年 :2005/10/18(火) 12:39:59 ID:JgCdhixS
法師 は 判断停止 思考放棄の マゾヒスト アゴン宗信者 は 現実と小説を混同する 妄想狂 で 桶 ?
697 :
名無しさん@3周年 :2005/10/18(火) 12:44:02 ID:JgCdhixS
ジャンキーカラスは素面のときにかきこめ。
>>646 無宗だはこの発言で阿含宗であることがばれた
>次第説法を私は勝手に3段階に分けていますが、
>第一段階の説教止まりになっちゃいますね。
>
>第一段階
>・布施
>・持戒
>・生天の法
>
>第二段階
>・欲楽のわざわい
>・出離の功徳
>
>第三段階
>四諦
こんなの、阿含宗信者でないと書かないな。
無宗だはこれであぽーーーーーーーーーん。
吉害発言が多かったからな。自業自得だ。
699 :
名無しさん@3周年 :2005/10/18(火) 18:37:41 ID:OfldworE
無宗ださんは勉強家だし、まじめだ。仮に間違いがあっても供に道を追及する仲間においては、問題無いんだ。
700 :
名無しさん@3周年 :2005/10/18(火) 18:56:56 ID:ju1dIyiv
701 :
暇人 :2005/10/18(火) 19:09:43 ID:xlrJldUK
てか698君のほうが 変に見えるな
703 :
暇人 :2005/10/18(火) 20:52:13 ID:Mryu/AKx
704 :
名無しさん@3周年 :2005/10/18(火) 21:25:42 ID:OfldworE
だけどさ、初期経典には、孤独を勧めるのが印象的だ。もちろん布施を勧め、 善行を進め、精進を進め、忍耐を進めるところもしっかりとあるが。
詐欺師はみんな勉強家ですよ。
706 :
名無しさん@3周年 :2005/10/18(火) 21:43:13 ID:OfldworE
[甘露の門は開かれた。信仰を捨てよ。」と言う釈迦の教えから、 今の、神道や、創価学会の教えは、「信仰」に当たるな。 神道や日蓮を捨てよ!と言うことだ。
707 :
名無しさん@3周年 :2005/10/18(火) 21:53:11 ID:OfldworE
「一人が清らかな行いを修めたときに、千人の人が死を免れた。 これからまだ学ばなければならぬ人々は、五百人よりも多い。 百の十倍、更にその十倍の人々、彼らは全て聖者の流れに入った。 もはや畜生として生まれることも無い。 また他の人々も功徳を受ける、と、私は心に思う。 彼らの数を数えることは、私にはできない。 私が嘘をつくと人に言われるのを恐れて。」 「 サンユッタにカーヤU アンダカヴァンダ」 これから、極楽浄土の思想が生まれていると言えないかね? 「 このほかに、聖者のすむ土地は楽しい、」と言うのもある。
708 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/18(火) 22:57:38 ID:1r2ExAqN
次第説法には、「次第」の言葉に恥じないストーリーを感じる。 ・布施 →いいことをしましょう。 ・持戒 →悪いことはしないようにしましょう ・生天の法 →そうしたら天界に生まれるというご褒美があるよ。 第一段階では、布施・持戒を実行してもらうことが目的であり、生天は撒き餌に過ぎない。 ・欲楽のわざわい →人が好ましいものだと思っている欲楽は実はわざわいに過ぎないことを指摘する。 ・出離の功徳 →欲楽から離れ、離欲すれば、苦がなくなるよ。 第二段階において、価値観の転換をはかる。 第一段階の人間に一切皆苦をいきなり説いても、理解は期待できないが、 「欲楽のわざわい」を認識すれば、それを受け入れる素地はできたと考えられる。 そして第三段階において、本真の法である四諦を説く。 ・苦の真理 →すなわち一切皆苦を説き ・苦の集起の真理 →苦に原因があること、すなわち苦は自性をもたず滅するものであることを示し、 ・苦の滅尽の真理 →涅槃寂静を説く。 ・苦の滅尽への道の真理 →そして最後にそのための方法論を説く。 とても論理的であり合理的に感じます。 出離の功徳の「出離」を輪廻的生存からの脱却と解釈した方もいましたが、 この解釈は、いかにも唐突であり不自然に感じられます。 やはりここは、「欲楽のわざわい」を受けて「出離の功徳」を説いたと考えたい。
無宗だ ◆4eP.G3wMrs さんは温良な人です
710 :
名無しさん@3周年 :2005/10/19(水) 03:28:49 ID:+9RKH7cH
ケチャップさんも許しておげようよ。 バラモン教の宿命論と仏教の業論を混ぜこぜにしてしてはいる点では、 法師といっしょだけど、法師みたいに開き直って法螺吹いてないし。
ケチャップさんも温良な人です カラスの唄 ◆S5WLCcUno2さんは真摯な人です
私の同行者たる比丘は他者に対しいかなる罵りもしてはなりません また自慢し嘘偽りを語る者であってはなりません あるいは知識によって智恵によって戒や掟によって 他者を見下してはなりません またどのように他者に罵倒され罵られたときも 私の同行者たる比丘は怒りを以って仕返しの想いを以って 彼に粗暴な言葉で返してはなりません ----此の如く世尊は答えた
713 :
名無しさん@3周年 :2005/10/20(木) 09:23:19 ID:wr/fN4BJ
人を量る(優れているか劣っているかなど)事ができるのは、仏と 等正覚の菩薩だけである、と言う仏陀の言葉が大乗経典にある。 目標は智慧の完成である、皆さんがんばりましょう。
714 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/20(木) 11:46:12 ID:37FZ+2ib
931 虚言をなすことなかれ、知りながら詐りをしないようにせよ。 また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、 自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。 ---------- これに異論はないけれど、 46 しかしもし汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得ないならば、 譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。 47 われわれは実に朋友を得る幸を讃め称える。 自分より勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。 このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。 ---------- やはり、こういう現実的な他人に対する評価・判断も重要かと思います。
>>714 人間として当然の判断であって
実に合理的な妥当な意見であって
正直で嘘偽りが無く
そして自分も全く同意できる意見です
怒りにも触れる表現であっても もしその発信者の想いに嘘や偽りがなく可能な限り正直なものであったら たとえば批判にしても ここがxxのような気がして自分の信念を傷つけるなあ とか、そのようなみんなに比較的わかりやすいものになると思う。 それが見栄とか裸にはならんぞ、みたいな嘘とハッタリと虚勢につつまれた 不愉快さや怒りであれば本当の点を指摘することを避けて あの人はxx派だから・・あいつは・・教だから・・ 大乗仏教はエセ・・ブスのくせに、キチガイが・・などといった 自分に爆風が及ばない悪口を選択し続けるようになって。 爆風の返り風を恐れて本当の気持ちを使用して攻撃することを避ける 態度・・嘘をつく人が良くないと。
自我はますます肥大して大喜びししてやったり と (殺されるというとてつもない恐れと死を背負った)快楽を得るけれども そのような嘘や悪口の流暢さがあって 得た勝利に何かの実りが(本人にも相手にも)少ないと。 半殺し合いでも互いが正直であれば その後互いが得るものがあり得ると。
718 :
名無しさん@3周年 :2005/10/20(木) 18:34:24 ID:wr/fN4BJ
経典は、しきりに「励め」「善いことをせよ」と言うけど、「励め」とか「善いことをせよ」 の意味を解説して欲しい。
>>718 悪しきことは快楽の貪り行為など苦しみの原因になる行為であって
善きことは戒を守るなど苦しみの消滅の原因になる行為と指す
と考える考え方もあります。
8正道を善きこと8正道に反する行為を悪しきことと考えるという風もあります。
もしかしたら仏教で言うところの善き事悪しき事が
必ずしも司法や道徳のそれと合致しない場合もあるのかもしれません。
この考え方でいくと「励め」も8正道をしっかりやりなさいという意味
にも解釈できるかもしれません。
いずれにせよ具体的にはどのようなことが悪でどのような行為が善
であるかということについては経典を読めば記述してあるのではないかと
思いますよ。
720 :
名無しさん@3周年 :2005/10/20(木) 22:06:38 ID:wr/fN4BJ
6 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 スッタニパータ 上の「世の栄枯盛衰を超越」とはどういう意味なのでしょうか?
721 :
名無しさん@3周年 :2005/10/20(木) 22:37:05 ID:yHYqshFj
>>720 文庫本の註には、
『言語の意義は、恐らく「〈このようになりたい、あのようになりたい〉ということを超越した」の意。』
とあります。栄枯盛衰にとらわれないということでは?
722 :
名無しさん@3周年 :2005/10/20(木) 22:56:41 ID:wr/fN4BJ
栄枯も盛衰も縁起関係にあるものだから、実体が無い、だから、実体の無いものを追求してはならない 、と解釈してもいいでしょうか?
原語を見てみたら?
724 :
暇人 :2005/10/21(金) 00:14:59 ID:zB9xFCbI
原語該当部分 itibhavAbhavataM ca vItivatto これの訳が 「〈このようになりたい、あのようになりたい〉ということを超越した」 みたいよ。 iti かく 〜と とて itibhavAbhava かくありなしの ca 〜と そして また vItivatta 超えた 超越した iti〜ca で「〜と〜と」 bhava 有 生存 存在 繁栄 幸福 bhavAbhava 種種の有 (この世の)種種の繁栄・幸福を超越した という意味ぽいですね
725 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/21(金) 12:57:51 ID:xmYJ06WX
そういえば、前スレの ゲッチンゲン帰りの研究者の方はどうされているのでしょう? ------------- 104 名前:名無しさん@3周年 :2005/07/31(日) 08:46:54 ID:a0HrHAfn 1例2例については上記見解から見ると「あほらし」と思います。現観も同じですが、そんなに根拠が 知りたいですか?順観・逆観などで当り前のことですが、ちょうどそれ関係の論文をまとめているので 9月ごろその論文とアップしましょうか?そのときには訳もつけておきましょう。 128 名前:名無しさん@3周年 :2005/08/01(月) 09:20:42 ID:zKA7BbyY 私の論文の試みは部派の援用なしにサンスカーラという観点から原典を分類吟味した上で 縁起を考察するところにあります。もうすでに同じ研究がありますが、視点を少し変えてみます。 ですからもう少しお待ち下さい。
>>725 電波とかPタンとかの物好き以外は2chに定住しないと思うがね。
このあぼん臭め。
>>720 文字通りでもいいかもしれません
栄枯盛衰
繁栄したり枯れたり盛り上がったり衰えたり
goodtimes・・badtimes・・
この世でいうところのいい時悪いとき追い風向かい風
ツイてる時不運な時
を超越した ↓ それに伴う歓喜や憂いをすっかり滅ぼした
この世の幸不幸、運不運の分け隔てと区別と差別を消失した
730 :
名無しさん@3周年 :2005/10/21(金) 19:10:03 ID:G5a7wVja
一人で解ったつもりでいたり、解らないのをそのままにしていることがあるので、 他の意見をお聞きしたいのです。 7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 8 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり越えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 「世間のものは一切虚妄である」と言うことと、「全てこの妄想」と「想念を焼き尽くす」とは同じ 意味だと思うのですが、私達が思う心配とか恐ろしいこととか又は善い、すばらしいと思うことは、全て真実でないとして、 打ち消すように「励む」事、これが必要な「善いこと」と解していいでしょうか?
731 :
名無しさん@3周年 :2005/10/21(金) 19:12:49 ID:G5a7wVja
732 :
フレッド :2005/10/21(金) 20:57:44 ID:bDQyJUp2
>>730 まず「真実」とは何で、何が「真実」でないか。
そして、「虚妄」とは何で、何が「虚妄」でないか。
人はこういう意識、認識の壁に突き当たりますよね。
ゴータマの時代でいうと、誰も梵天を見ずに梵天を語り、
誰も梵天を知らずに、梵天を語る。
人間には、このようなところがあるように思います。
だから一旦、自分の心から煩悩の曇りを取り払うことが
大事であると教えるのでしょう。
だから、真実でないと言って打ち消すのではなく、真実
を見ようと心の眼を開いていくのだろうと思います。
733 :
名無しさん@3周年 :2005/10/21(金) 21:42:35 ID:MkslV/0r
>>730 仏教の目的は、苦悩を消すことです。
そのために役立つことが、「善いこと」でしょう。
逆に自分や他人に苦悩の原因を生んでしまう行為が、「悪いこと」です。
苦悩を消すための修行に励むことは、苦悩を消すために役立つので、善です。
734 :
名無しさん@3周年 :2005/10/21(金) 21:48:59 ID:MkslV/0r
虚妄に執着するのは苦悩の原因になるので悪です。 しかし、真実に執着するのもまた、苦悩の原因になるので悪です。 邪悪な行為は人を苦しめるので悪です。 正義のために悪人を怨み攻撃するのは、悪人を苦しめるから悪です。 楽しいことや正義に浮かれ喜ぶのも、辛いことや悪に怒り悲しむのも、 激しい感情という点で本質的に同じです。 激しい感情は苦悩の原因になります。自分を見失って行動を誤るからです。
735 :
名無しさん@3周年 :2005/10/21(金) 22:11:48 ID:G5a7wVja
>>734 一切が虚妄であると言うことは、悪人であることも善人であることも虚妄であるとし、
故に、悪人であるからといって責めることも、善人であるといって誉めることも
してはならない、と言うことになりますか?
736 :
名無しさん@3周年 :2005/10/21(金) 22:15:11 ID:G5a7wVja
続き そして、この様な差別しない態度こそ、「善い」態度であると言うことですか?
737 :
名無しさん@3周年 :2005/10/21(金) 22:20:30 ID:MkslV/0r
>735 >736 そうだと思います。 善にこだわってしまったら善にならないし、善を無視しても善にならないと思います。 とにかく、善は目的ではなく手段にすぎないのではないでしょうか。 目的は、苦悩を消すことです。 苦悩にこだわっても苦悩は消えないし、苦悩を野放しにしていても苦悩は消えません。難しいですね。
仏道修行や守戒に執着しないとそもそも仏徒でも何でもなくなるから 初期にそれすら捨てるのはおかしいという考えと 般若心経や筏のたとえにみられるように 最終的には捨て去るから・・・聖も法への固執も 少なくとも最終的な段階においては放棄するのだ(苦しみの原因になるから) といったあたりの問題があるにせよ このスレ人は「善」についてそう差異の無い認識をもっている のではないのでしょうか。
739 :
名無しさん@3周年 :2005/10/21(金) 22:24:51 ID:MkslV/0r
まぁ、善を誉めること・悪を嗜めることは、善に導くことなので、苦悩を消すことに役立ちます。 しかし、悪人に怒ったり恨んだりしたら、そのイライラは心のストレスだから苦悩になってしまいます。
740 :
名無しさん@3周年 :2005/10/21(金) 22:37:03 ID:MkslV/0r
善と悪を見分けるのは善いことですが、その分別と感情を接続したら苦悩の原因になります。 感情自体が苦悩の原因です。 しかし、他人の感情を無視しては悪になります。他人を苦しめることになるからです。 死にたくないという感情は苦悩の原因になるので消すべきです。 しかし、死にたくないという感情をもった人を殺すと、その殺された人は苦しむので、殺してはいけません。 自分の執着を断つのは大事ですが、執着をまだ断っていない人への配慮も大事です。 誰もが自分で泳ぐのをめざすべきですが、 自分で泳げない人が溺れている時に助けなければならないのと似ています。
741 :
名無しさん@3周年 :2005/10/21(金) 22:51:02 ID:G5a7wVja
>>740 大乗が特筆するところではないでしょうか?利他の精神。
経典で定義されている悪 1,殺生 2,偸盗(盗み) 3,邪淫(性行為) 4,妄語(うそをつく) 5,悪口(悪口を言う) 6,両舌(仲たがいさせることを言う、煽る) 7,綺語(飾った言葉、意味のない言葉、誇大表現) 8,貪欲(快楽行為に耽る) 9,瞋恚(怒る) 10,邪見(上記1〜9等の動機となる見解の発生について放逸する) など 善とは上記行為を停止したり可能な範囲で少なくとどめること 戒律を守ること
ニーチェは上記行為を悪として その悪を行わず善良な人間でいようとする人たちを 世の権力者にうまくいいくるめられた従順で頭の弱い 家畜の類のカスである、のように語るが 自分は全くそのようには思わない。 仏陀のいうところの「自分以外の他在り方に依存した(快苦が左右される) 解脱などないのである」という言葉に接続しているとも思うから。
ニーチェの「権力や力や美を求める心こそ自然で正当な心であって それこそが善なる心である」という見解には同意できない。 そのような欲求が善であるというのならば 苦しみが人間から離れることは決してなく 苦しみが徐々に縮小する道理もなく 安らぎと精神的な停止が有り得ないと思うから。 ただ欲望の想いをどの程度人の心からもぎとって 小さくすることが可能なのかという大問題があって その点に不安が残ります。
745 :
暇人 :2005/10/22(土) 05:48:22 ID:zV4aPgzP
釈尊はもっと 単純明快だったのではないかと思う。
質的低下が著しいですね。
747 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 11:11:53 ID:pPGNzoIH
>>746 レスの質のこと?
高度な質問をすれば高度なレスが返ってきます。
>>747 それは絶対に望めませんね。人材がいない。
749 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 11:34:03 ID:FUZzWjgi
「9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は」 はや過ぎたり遅過ぎたりするのは、中道を外れたものである。「はや過ぎると言うことも無く」「遅すぎると言うこと喪の無い」 「早い」「遅い」は相対的に存在するもの、換言すると、縁起しているものである。故に「早いと言うことも無く」「遅いと言うことも無い」 と言うのが真実である。だから、走っても、速く走っていると意識することなく、又、遅く走っていると意識することも無い、 この様な心の状態が正しい状態である。 そして、次の「世間における一切のものは虚妄である。」に続き、この意味は、世間では早い遅いと実体があるとして問題にするが、縁起しているもに故に 実体は無く、こればかりでなく一切のものは縁起しているので、実体は無く、空である。と解するのが正解の様に思われるのですが、 よろしいでしょうか? ]16 ひとを生存に縛りつける原因となる<妄執から生ずるもの>をいささかももたない修行者はこの世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 人を生存に結びつける妄執を持ったままで死んだ場合、死後の世界では、その妄執が生きており、その妄執が その人を誕生させて妄執の人生を送らせるのでしょうか?一方修行者は、妄執を滅ぼしているんで、 死後の人生が無い、と。そのことを、「この世とかの世を供に捨て去る。」とこの様に言ったもんでしょうか? 常断を離れることは修行者において言われることですが、凡夫においては、常断が妄執なので、凡夫の死後は、 再び常断の妄執の人生を送る事になる、と言う縁起関係が見とめられると言うことでしょうか? つまりごうはしごにおいてもきえるものではないとして。 17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 五つの覆いとは何でしょうか?
750 :
羅漢 :2005/10/22(土) 11:37:56 ID:nIpWLQDW
嫌いな宗教・宗派のことを羅列するためのスレです。
いかんなく羅列しましょう。
>>1 ペンテコステ派嫌い。
752 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 12:49:40 ID:pPGNzoIH
>>751 ここは談話室だから、初心者も交えていいのではないでしょうか?
原始仏教スレはもうひとつありますから。
753 :
暇人 :2005/10/22(土) 12:52:58 ID:aYiTonBK
うんうん 高度なのは向こうにお任せして こちらは まったり わかりやすくが いいですね
754 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 12:55:54 ID:pPGNzoIH
「9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、 …って、中道を表しているのでしょうか? 僕はこれを読んだ時、 未来はまだ無いのだから未来について妄想せず、 過去は過ぎ去りもう無いのだから過去について妄想せず、 今・ここに専注していなさい…という意味かと思ってしまいました。
>>752 質が高いことと高度なこととでは意味合いが違うと思います。
初心者であっても、質の高い会話というのがあると思うんですよ。
756 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 13:00:42 ID:pPGNzoIH
>>755 ええ、そうかもしれませんね。
何を求めていらっしゃるのかはよくわかりませんが。
まったりでいいのではないでしょうか。
757 :
754 :2005/10/22(土) 13:06:18 ID:pPGNzoIH
>>754 は>749へのレスです。付け忘れました。
時間の流れに対して、心が早まって未来について妄想してもいけないし、心が取り残されて妄想にふけってもいけない。
刻々と変わる今・ここの心身に気をつけていなければいけないのでしょうか
758 :
暇人 :2005/10/22(土) 13:07:57 ID:aYiTonBK
>五つの覆いとは何でしょうか? 中村註によりますと (nIvaraNA蓋 paNca五)です。漢訳では『五蓋』ですね。 心を覆う五つの代表的な煩悩の働きのことですね。 貪欲 いかり(瞋恚) 心沈むこと 心そわそわすること 疑い
759 :
暇人 :2005/10/22(土) 13:15:24 ID:aYiTonBK
>走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく 中村註は、「註によると 努力しすぎず 怠けすぎずという中道と解釈」と 紹介してますね。 まったりかも(笑)
760 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 18:27:39 ID:FUZzWjgi
149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、 無量の(慈しみの)意を起すべし。 150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、 障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。 151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、 この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。 @ 上には「慈しみ」を持つべきことを説いています。慈しみは「愛」とはどの様に異なるとみなすべきでしょうか? A「生き物を慈しむこと」は「一切は空である」こととどの様に整合するのでしょうか?
761 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 22:06:46 ID:s7152zeP
ようするに初心者発言であっても、あまりにも度を越した番外編は中道に相応しくない という仏教的含みでの御発言とお見受けいたします。 2チャンネルは玉石混交でありますから、突っ込みの気力を喪失した人にはお気のどく とも言えるでしょう。
762 :
暇人 :2005/10/22(土) 22:43:06 ID:aYiTonBK
>慈しみは「愛」とはどの様に異なるとみなすべきでしょうか? は? 仏教語の「愛」と世間語の「愛」の意味は違います。 仏教でいう「愛」は「渇愛」です。貪り執着することですね。 仏教も時代が進むと部派時代に愛に二種を想定します。 汚れた愛としての「貪」と汚れない愛として「信」 大乗はそれを受けて二愛を説きます。 妻子などを愛する「欲愛」。一切衆生を慈愛する慈悲心の「法愛」。 >どの様に整合するのでしょうか? てか どのように矛盾すると思うわけ?
763 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 23:15:38 ID:FUZzWjgi
>>762 縁起している以上自性が無いと言うことは理解したのですが、そこで、他の人や生物が
苦しんでいても、それもまた、縁起していると見るのですから、その苦しみは自性「実体」の無いもの
と見ることになります。だとすれば、どうして苦しみを他の生物に見ることがありましょうか?
だとすれば、どうして、他の生物を慈しむことがあるのでしょうか?慈しむべき対象が無いのですから。
764 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 23:29:16 ID:ikLrxnxW
上座部でも北伝大乗でも慈悲喜捨をいう。 >どうして苦しみを他の生物に見ることがありましょうか 他者が苦しむ時、起こすのは悲。慈ではない。 その対象も「他者」にではなく、「他者の苦しみ」に対しておこす。
765 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 23:34:35 ID:FUZzWjgi
>>764 それでは質問を変えて、苦しみは実体の無いものであるにもかかわらず、どうして他者の
苦しみに「悲」を起こすのでしょうか?
766 :
暇人 :2005/10/22(土) 23:37:57 ID:aYiTonBK
てか まず「実体はない」とは何かをもう一度考えた方が良いな 「実体がない」とは「ない」ではない。「ある」のだが 「永遠に変わらずある」のではなく「変化しつつある」という意味では?
767 :
名無しさん@3周年 :2005/10/22(土) 23:41:42 ID:ikLrxnxW
自分が苦しんでいる時。 心から同情してくれる人がいたらどんなに慰められるでしょ。
768 :
暇人 :2005/10/22(土) 23:42:51 ID:aYiTonBK
現にある苦しみは、苦しみが成立している条件を排除したら 消えると仏教は考えているのでは? (苦しみに実体があって 苦しみというものは常に変わらずあるものであれば 人は苦しみを克服できない) 愛するものをなくして生じる悲しみ・苦しみは、 世は常に変化し続けるという事実認識と無くなるものに固執してしまう 煩悩の矛盾から起こるのかもね
>>763 >>765 実体がないといっても苦が存在しないわけではない。 →
>>766 正解
当人はまさに苦しみの真っ只中にいるわけで・・。
禅には、百尺竿頭に一歩を進むという語があるが
763の視点は、菩提樹下から動いていないものでしょう。
苦しんでいる当人にとっては、苦はまさにリアルなものとして
今この瞬間に感じられているわけです。
そこへ思いを寄せることが勝義に抵触するとは思えません。
縁起を見るということは、あくまでも自分自身で気付くということ。
他者に縁起を見たとしても、その当人が、自分の縁起に気付けなければならない。教えは呈示されるのみ。
しかしながら、彼は縁起を見ることができるかもしれない(誰にでもその可能性はあるわけで)。
だとしたならば、彼の苦を取り除く為に法を呈示してあげることに何の問題があろうか。
770 :
名無しさん@3周年 :2005/10/23(日) 00:09:50 ID:HtARItLQ
この問題に有効な真言があると思います。そのときまた触れる機会があるでしょう。 今晩は私はこれにて。ご意見の開陳はご自由に。
771 :
764 :2005/10/23(日) 00:16:48 ID:TutyvGv+
それではわたしも落ちましょう。 おやすみなさい。
772 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/23(日) 06:47:43 ID:cAwonNs8
773 :
暇人 :2005/10/23(日) 09:19:57 ID:qUBjNgN5
>>772 それは南伝のひとりよがり。
愛を下に見、慈悲を上に見る立場ね。
つまり日本仏教が従来、
西洋キリスト教は人間中心だが
東洋の仏教は 生けとし生きるものを云々と。
774 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/23(日) 11:27:27 ID:uBSxYLUw
>>773 :暇人:2005/10/23(日) 09:19:57 ID:qUBjNgN5
> それは南伝のひとりよがり。
> 愛を下に見、慈悲を上に見る立場ね。
どこから、上下という判断が出てくるのか不明。
>>441 の愛(piya)は、
人間同士の関わりについてのものだと思われます。
(含む、国家や一族)
一方、以下は、
<--
スッタニパータ◆<8、慈しみ>◆
149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、
そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。
-->
人間だけではなくすべての生命との関わりでしょう。
775 :
暇人 :2005/10/23(日) 11:30:10 ID:qUBjNgN5
>「慈悲」は人間だけではなくすべての 愛は人間限定の狭い立場だが 慈悲は人間限定『だけでなく』すべての生命という広い立場よ という趣旨ですね 『だけでなく』に端的な価値判断が滲み出てますね
776 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/23(日) 11:57:59 ID:uBSxYLUw
>>775 二つの問題が、ごっちゃになっています。
(1)経典において、愛はどのように使われているか。
(2)経典において、愛と慈悲を比較しているか。
まず、(1)に対する答えは、どうなんでしょう?
---
スッタニパータ◆<8、慈しみ>◆
149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、
そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。
これに関して言えば、
「母の已が独り子に対する思い」と「無量の(慈しみの)意」を
等価に考えているように思います.
777 :
暇人 :2005/10/23(日) 12:16:32 ID:qUBjNgN5
>愛(piya)は人間同士の関わりについてのものだと思われます piyaは愛別離苦の愛や愛語(piyavAda)などで有名ですね。 でもdevatAnaM piyo(神々に愛される人)と人間同士限定の使用ではないです プラトンのエロースの最後段階は真実在を直感しようとする衝動ですし キリスト教のアガペーも神愛ですね。 慈悲と愛を生きるものすべてと人間と単純化できるものではないですね さて、人間同士の交わりを超えた『愛』は、漢語・和語の愛が普通にそうです いつくしむ 親しむ 可愛がる 睦む 大切にする 慕う 世話し育む。。。 人だけではなくモノに対しても使われます。 広辞苑にも 親兄弟のいつくしみ合う心。広く人間や生物への思いやりとありますね
778 :
暇人 :2005/10/23(日) 12:22:41 ID:qUBjNgN5
>(1)経典において、愛はどのように使われているか。 大乗経典の「法愛」は慈悲とイコールでしょう。 原始経典の愛は、渇愛という煩悩的な使用が目立つのではないでしょうか。 肯定的に使われるの場合も無いわけではない。 愛語(piyavAda)などですね ただ思いつくままですね 愛の使用例について調べたわけではないのでなんとも。。。
779 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/23(日) 13:07:03 ID:uBSxYLUw
>>777 :暇人:2005/10/23(日) 12:16:32 ID:qUBjNgN5
> piyaは愛別離苦の愛や愛語(piyavAda)などで有名ですね。
> でもdevatAnaM piyo(神々に愛される人)と人間同士限定の使用ではないです
うまくまとまらないのですが、
・愛のための戦い
という語句は成立するが
・慈悲のための戦い
という語句は成立しないだろうと思います。
そういう意味で、愛には人間的価値観が強く反映されるのではないか?
863 争闘と争論は愛(piya)にもとづいて起る。
864 世間において、愛は何にもとづいて起るのですか。
865 世の中で愛し好むものは、意欲(chanda)にもとづいて起る。
ここにおける愛は慈悲とは相容れないと考えます。
780 :
名無しさん@3周年 :2005/10/23(日) 13:22:48 ID:HtARItLQ
36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。 愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。 37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。 親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。 38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。 筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。 上は独身を進め、更に、真理を知ったものにはは出家を進める教えだと思います。 独身は問題ないとしても、家庭を持っていた者が出家しますと、残された家族は、 路頭に迷う危険性に陥ります。そのような自体が明らかに見とめられるのに、出家する 人は、そのスタートの時点で、生きとし生ける者に「慈愛」をかけることになるのでしょうか? @私は以前テレビで、今現代、インドで、ある宗派において、40歳になると夫が出家すると言う のを見ました。その夫は出家することで、家族に慈愛をかけているのでしょうか? A又、夫婦の間がまずくなれば、離婚を勧める教えと解してもいいでしょうか?
781 :
名無しさん@3周年 :2005/10/23(日) 13:38:29 ID:HtARItLQ
>>780 46 しかしもし汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
上が離婚を勧める教えになるかと。
782 :
名無しさん@3周年 :2005/10/23(日) 21:22:03 ID:HtARItLQ
>>780 @出家すると言うことは、聖者になると言うことだから、精神的に恩恵を与えること大であると考えられる。
しかも、来世に渡っているのだ。そう言う宗派の信者達は、それなりに準備しているに違いなく、生活が困難になる
をカバーして精神的な利益のほうを尊重するのだと考えられませんか?
783 :
名無しさん@3周年 :2005/10/23(日) 21:25:21 ID:HtARItLQ
>>780 A独身のほうを尊重しているのなら、当然それに準じて、離婚のほうを勧めることにならないでしょうか?
ただし今の時代の離婚のようなものではないでしょう。それはむしろ、出家に準じるものであったでしょう。
784 :
暇人 :2005/10/23(日) 22:01:25 ID:zS+QnywL
>愛には人間的価値観が強く反映されるのではないか? 慈悲にだって 元々人間的価値観が反映されています。 慈の原語は一般的に梵maitrIですが、これは梵mitra(友)から作られた 抽象名詞です。最高の友情という意味ですね。 特定の人にではなく、すべての人に友情を持つことが『慈』のそもそもです ので人間的価値観が発祥です。 悲(梵karuNA)の原意は、悲しい気持ちを共にすることですが、これは 他人対するあわれみ・同情を意味しますから、そもそもは人間的な感情が 発祥です。 「愛」だけが人間限定、「慈悲」はすべてのものに対するとは、 原意的には根拠がありません。
785 :
暇人 :2005/10/23(日) 22:25:10 ID:zS+QnywL
>863 争闘と争論は愛(piya)にもとづいて起る。 この部分「PiyappahUtA kalahA vivAdA」ですね。 否定的に用いられるpiyaですね。 スッタニパータには肯定的に使用されるpiyaもあります。 452好ましい言葉のみを語れ の「好ましい言葉」は PiyavAcamevaですが、これは肯定的に使われています。 しかも454で「仏の語る『おだやかな言葉』は言葉のうちで最高」と。 PiyavAcameva→vAcaM khemaですが、この「おだやかな言葉」vAcaM khemaは 他者を涅槃を得させるためのものであり、苦しみを終滅させるものですから 慈悲といっしょのことでは?
修行者としては独身で無所有であるところの出家修行者になることを 仏陀は勧めているように思いますが 同時に在家信者や世俗の生活を営む人がいないと 修行者の生活も成り立たない旨を語っておられたように思います。 原始仏典などの記述によりますと 表現で言うと 立派な在家信者は死後天上界に・・ 出家修行者は解脱・・・ ・・を得られる などのような表現が多かったようには思います。 ただ現代日本社会において 独身で無所有であるところの出家修行者などという存在は ほとんどいないだろうし 在家であれば仏道の精神的な完成の場所に到達し得ない・・ というのであれば少しさびしいですね。
原始仏典などを読んでみますと 仏陀の発言に論理的に矛盾が全く存在しないかといいますと 部分や1センテンスだけを抜き出して比較した場合は つじつまの合わないことを言っていたりするのですが すべてが方便というわけではないのでしょうが 教える相手に適した教えを語っておられるので 当然そうのようなことが生じるはずだと思います。 在家信者への教えと出家修行者への教えが 違ったりしています。 在家信者にその従事する仕事の在り方を語り 出家修行者に労働の類を禁じたり・・など。
釈尊在世当時のような出家修行者を(当時のような形で)サポートすることが、 現代の人々・社会にできるか(→(能動的に)するか)?と言えば、無理でしょうw 個人が遊行生活を望んだとしても、それは 公園でホームレスをするか、(中国日本の聖者のイメージとして)山奥でホームレスをするか の違いしかないでしょう。沐浴して身体を洗える場所も少ないし。 冬場は辛いだろうね(^^;) 北国では出家仏教は無理だなw
789 :
名無しさん@3周年 :2005/10/23(日) 23:07:21 ID:HtARItLQ
冬でも野宿できる気候の地方に行きたいものですね。釈迦の原始経典に言う 出家とは、インドの気候であればこそできるものだったのでしょうか? 日本では乞食は軽犯罪になるように記憶していますが、托鉢は日本ではできないのでしょうか? しかし福井県で托鉢する修行僧をテレビで見ましたけどね。
790 :
暇人 :2005/10/23(日) 23:12:17 ID:zS+QnywL
>出家仏教は無理だなw 遊行 漂泊の仏教者はかつて日本にもいましたね。
各派本山の発行する托鉢免許証という物があるw
792 :
名無しさん@3周年 :2005/10/23(日) 23:15:36 ID:HtARItLQ
>>790 一辺(?)が有名でしょう?他におられますか?
一遍ですな。 中世なら念仏系の聖が多数いたという。 修験道や密教の行者もいた。 江戸時代なら円空、木喰等の作仏遊行聖が有名どころ。
794 :
暇人 :2005/10/23(日) 23:23:00 ID:zS+QnywL
>托鉢免許証 有名無実化してたりして。私の先生は若い頃 貧乏寺だったので 本山へ一々申請せず 無許可で托鉢してたと 笑ってられた。 托鉢は托鉢で学ぶところが色々あったとのこと。 別の宗派の別のお坊さんによると 托鉢していると 通りごとに「優しい空気」や「冷たい空気」を 感じたりするそうだ。その空気どおり「優しい空気」のところでは 托鉢に反応はあるが。。。らしい。 それと印象的だったのは 一日分の托鉢が集まれば、托鉢を止すそうだ 欲張り集めすぎると 悪い結果を招くとか云っておられたなぁ。 表現忘れた。。 一遍さんとか西行さんとか 有名無名たくさんおられたのでは?
795 :
名無しさん@3周年 :2005/10/23(日) 23:29:41 ID:HtARItLQ
彼らの心意気には敬意を表せざるを得ません。 しかし、彼らは仏の教えの布教が目的ですよね。原始経典における 出家は、修行僧は托鉢から帰ると林に入って、瞑想にふける事はしても、 布教と言うことは原始経典にあまりない様ではありませんか? 彼らは布教と言うことをしなかったのでしょうか?
>>795 仏陀の語り方によく
「汝がそう思うならばそうするがよい」
というのがあって
イエスと比較するとそこが好きな一つです。
797 :
名無しさん@3周年 :2005/10/23(日) 23:46:53 ID:HtARItLQ
>>795 いや、托鉢の途上で布教している事例が原始経典にいっぱいあります。
昭和初期なら種田山頭火。 平成は・・・
とりあえず、
>>794 の
>有名無実化してたりして。
に対して、補足を書き込んでおく。
基本的に一度発行されたら生涯使用できる筈。
また、専門道場等に於いては看板袋が免許証の代わりになるので
雲水が普段持ち歩くことはない。
「私鉢」と言ったりすることもあるが、個人で托鉢行脚する場合
もし持っていないことが分かれば、しょっ引かれるのではないか?w
ま、「托鉢免許証を見せてみろ!」なんてツッコミを入れてくる人間はまずいないので
持っていなくても構わないが、不携帯を発見された時の為には身につけていた方がいいと思われるw
その辺は自動車の免許と似ているかな。
怪しい托鉢僧がいたら、提示を求めてみるといいw
802 :
名無しさん@3周年 :2005/10/24(月) 01:30:43 ID:o/q1HTRF
>>795 法は説きましたが、法(の詩句)を説いた見返りに布施をいただくのは禁止していたようですね。
見返りを求めず通りすがりの出家者にさえ布施するのは、
在家信者にもできる修行のひとつであり、それによって功徳を積むことができるわけです。
授業料や拝み賃として施したのなら、それは布施でなくなってしまい、在家信者は修行にならないのですね。
見返りを期待せずに、出家者の衣食住を助けるのが在家者の修行です。
出家者の方も、見返りを期待せずに法を説かねばなりません。法は売りものではなく、与え施すものです。
食物や布施をもらっても僧がお礼をいってよろこんだらいけない というのも書いてありますね。 じつに厳しい。
804 :
名無しさん@3周年 :2005/10/24(月) 01:38:05 ID:o/q1HTRF
>>803 今の日本で坊さんがそれをやったらイメージ悪いですよね。
まぁ、普段の説法であらかじめそう言っておけばいいのでしょうが。
お布施や食物をもらって本当に何一つお礼やみかえりになる何もしない (という最高のお返し)というのであればすごいですね
ただ沈黙のお礼の意味が通じないと予想される人には 苦痛を与えるだけの(沈黙のお礼)行為になってしまうのでお礼を言う というのはアリなのでしょうかねえ。 それとも敢えて嫌悪されても相手に苦痛や怒りを生じさせても 沈黙のお礼を守るのかはどうなのでしょうかねえ。
>>806 時代や文化(慣習・慣例)、或いは世相等に依るでしょうね。
でもよくよく考えてみると たとえお礼をいわない僧がいたとして もしその僧が私有財産を所有しそれなりの暮らしをしていたりする時 それは多分沈黙のお礼なんかしたらしばきあげられるでしょうが たとえお礼をいわない僧がいたとしても その僧が無所有で質素な暮らしをしていて 宣伝や口で言わなくても彼の行為が慈悲に溢れて 戒を守っており貪りの見出せない存在であれば 確かに(時代を超越して)通用する・・・ような。
釈尊がお布施を貯留して宮殿みたいなところに住んで 豪華な食事をして酒池肉林の生活をしていたら たとえ釈尊の語る内容が否定する余地の無い優れた教えであっても そんなに帰依や布施をする人は少なかったように思えます。 例えば解脱者は修行者と異なるのだから 富の有無を超越していて欲望に耽っても耽らなくても良い・・などとして。
イエスキリストが究極の叡智を得た人であるならば このようなことを言えば例えば金持ちの人に怒りや苦しみや憎悪が生じ あるいは自分を殺害に来るだろうし あるいは自分のこのような説教をある人々は決して受け入れないだろう・・ むしろ罪をもっと犯すことをするだろう・・ などということは恐らく容易に分かっていたであろうのに その言動を発しそして殺害され しかしながらそれによって(かよらずか)聖書は民衆にいっそう浸透した。 仏陀はそれに対して相手によって教えを変えて 最も相手を善に導くように説いて敵はそんなにつくらなかった。 また仏教も民衆に広く浸透している。 この違いは何なのだうろか・・ 時代と境遇があって最適値が異なるとという問題があるのか・・。
>>810 釈迦だって九横の大難を受けたと言う。
弟子の目連は殴り殺されたというし、
釈迦だって殺されたとしても不思議ではなかったのではないか?
812 :
名無しさん@3周年 :2005/10/24(月) 18:23:29 ID:G26TUFEV
164 (七岳という神霊がいった)、「聖者の心は行動とことばとをよく具現している。さあ、われらは明知と行いとを完全に具えているゴータマに見えよう。」 ここい言う「明知」とはなんでしょうか?縁起の理法と空(無常、非我)のことでしょうか? 171 「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。 意(の対象)とは何でしょうか?自分の思いに執着することでしょうか?
813 :
名無しさん@3周年 :2005/10/24(月) 18:36:52 ID:G26TUFEV
>>811 >弟子の目連は殴り殺されたというし、
どんな事由で殺されたのでしょうか?仏教徒は争わないと言う特質があるのに。
全ては空ですから、争う対象が無いと言う訳で。
814 :
811 :2005/10/24(月) 22:15:12 ID:3JCk95hW
>>813 相手のあることだ。
争う気はなくとも、相手次第で殺されもする。
悪人は自己の利益のために罪のない者も害する。
当然のことだ。
釈尊も異教徒から命を狙われていたという。
殺されなかったのは運が良かったと言っていいだろう。
目連は釈尊のボディガード的な役割も果たしていたという。
そのために狙われて、殴り殺されたということらしい。
>>810 のようなことを思ったり口にしたりすることは、
むしろ争いを招く源となる、釣りのつもりでないなら気をつけなさい。
815 :
名無しさん@3周年 :2005/10/25(火) 01:22:58 ID:K7aSAb8U
独走しすぎた様で反省しています。
気にするな。 でも、今度からsageでかきこもうね。 チラシの裏に書いて1日寝かすのもいい。 書き込みに内容があれば亀レスでもつきあってくれる。
817 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/26(水) 06:27:35 ID:ilaRB9J2
>>784-785 暇人さん、レスありがとうございました。
愛と慈悲に関して、つらつら考えています。
原始仏教からは少しずれるのですが、
私の持っているイメージでは、どうも、愛と慈悲は別物です。
愛は、その対象を主体が決め、排他的でありかつ、生物とは限らない。
愛を注ぐという行為において、愛の対象は、主体と対等。
慈悲は、基本的に全ての衆生を対象とし、生物のみ。
慈悲をかけるという行為においては、上下関係がある。
愛が慈悲と同じ意味になるのは非常に特殊なケースに限られる気がします。
愛と慈悲に関して色々な想いが存在し様様な信念が在って もしかすれば宗派によるもの、あるいは訳による違いがあって またその定義も厳密には何処かの経典で確実に定義されているかも しれないし確実にそうでないかもしれないし ということがあって もしかしたら我が認識と見解が最も仏道に沿うそれであるという想いが あってまたそれに同意を得られたら喜ばしく安心できる喜びがあって そうでなければ喜ばしくないという想いがあって でもただ愛と慈悲の言葉の定義が別物であっても同一のものであっても 両者の仏道を歩む人の行為が大きく離れるということは 無いような気がして。 愛と慈悲の言葉の定義を別物と想う人も同一に考える人も 人間と人間以外の生類は別で高低があるから 虫はどしどし殺しても良いなどと考える仏道者はいないと思うし それだからかえって見解の差異に苦しみとそれをそのままで許しえない 想いがあるとするならばそれこそがただ自分を苦しめる原因に なる気がして。そのような欲動は信念であって捨離しがたいこと この上ないものであるけれどもでもそれはただ苦しみの原因に なるだろう、ということがあって。
>>無宗だ ◆4eP.G3wMrsさんが 愛と慈悲の言葉の定義の差異の有無の問題の白黒について それをどうしても1つの方に固執することを捨離したのだとしても それによって >>無宗だ ◆4eP.G3wMrsさんが仏道の約束する平安を失う などということは決してなくて。 むしろ逆にどうしても白黒を欲する人よりもおそらくその分だけ かえって平安を良く得るように思えて。
ただ>>無宗だ ◆4eP.G3wMrsさんが仏道のもたらす平安や 苦しみを遠離するといったそのような方面の諸問題よりも 句の翻訳や正確な解釈を最重要にせねばならないたとえば 大学教授等であるというのならば 言語の指し示す概念の問題や解釈と見解の問題はは最重要であって 白黒は確実に定めなくてはならなくて 妥協や保留などは絶対に在り得ない問題だと思います。
821 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/26(水) 12:37:44 ID:WoTYicu+
>>818-820 いろいろお気遣いありがとうございます。
現段階では、特に説得する気も、説得される気もなく、
私の「愛」や「慈悲」に関する認識が
世間の尺度と、どれ位一致しているのか、ずれているのか
経典における意味内容と、どれ位一致しているのか、ずれているのか
を知りたいだけです。
輪廻や生天、タターガタに関しては、私の理解とは
かなり、かけ離れた見解の方達のいることもわかったので、
「愛」や「慈悲」に関しては、どうなのだろうという、素人の興味です。
別に白黒を付ける気も、必要もありません。
822 :
名無しさん@3周年 :2005/10/26(水) 23:29:13 ID:RS0WTzni
原語、サンスクリットかパーリかを研究しないことにはわからないだろうね。 その当時のインド人すら、その区別を曖昧にしているところがあったのじゃない? しかし俺なりに言えば、「愛」は「取」に錬結されていること、「慈悲」は、「取」に連結し得ない趣があるから、 「愛」は「執着」、「慈悲」は、真実の、悟りに導く「心」と言えば間違いではないだろうと思う。 愛していると、返って相手を束縛していることが認められる。そのような愛は何時か破綻するのだ。 束縛は耐え難いので。
823 :
名無しさん@3周年 :2005/10/26(水) 23:47:17 ID:RS0WTzni
215 梭のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正とをつまびらかに考察している人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。 [桧」の様にまっすぐの、「ひ」とはなんの例えでしょうか? まっすぐが重要な意味とすれば、心がまっすぐで、何処かで妥協することの無い心と言うことになります。 ヒノキのことですか?ヒノキはそんなにまっすぐな「木」でしょうか?
824 :
名無しさん@3周年 :2005/10/27(木) 00:18:50 ID:RkxWb1BS
慈愛という言葉になると途端に仏教的になりますね。 慈悲と慈愛の両者は二而不二の関係で一体。 仏菩薩は我れとか我がものという思いから離れているが故に、 煩悩具足な衆生の苦しみがダイレクトに伝わって来る。衆生の 苦しみと一体となれるが故に無報酬の愛を注ぐことができる。 しかし愛の用例としては、822さんの見解が大方だと思います。
次元の違いをはっきりさせて、理解し、受け止めなければならないのではないか? 釈尊その他初期の弟子達のように 実存的に、人々に寄り添った上で出てくる慈なのか悲なのか愛なのか 所謂、仏菩薩のように 衆生との間に(絶対に越えられない)一線を設定した上で述べられる慈・悲・愛なのか 大違いだと思うぞw
826 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/27(木) 12:50:44 ID:DmZYu1Ll
>>822 :名無しさん@3周年:2005/10/26(水) 23:29:13 ID:RS0WTzni
> 原語、サンスクリットかパーリかを研究しないことにはわからないだろうね。
十二支縁起の愛は、
『TANHA(タンハー):渇愛』
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html で、
我々が日常で一般的に使う愛(キリスト教の愛?)に相当するのは、
>>441 の愛(piya)だと思っています。
>>784-785 で暇人さんが原語の解説をされています。
暇人さんの
>>762 の書き込みをみると、
> は? 仏教語の「愛」と世間語の「愛」の意味は違います。
> 仏教でいう「愛」は「渇愛」です。貪り執着することですね。
>
> 仏教も時代が進むと部派時代に愛に二種を想定します。
> 汚れた愛としての「貪」と汚れない愛として「信」
とあるので、
愛は二種に分類でき、
それぞれ渇愛と慈悲に対応するといった
捉え方もあるのかなあと考えているところ。
多分、中国における「愛」の意味に日本人はかなり影響されているのでしょうね。
よくわからんけど。
827 :
フレッド :2005/10/27(木) 21:08:17 ID:BovJftbK
慈悲なんていうと大袈裟だが、世間で親が子を思うような 気持ちと、大して違いはないと思うんだが…。 理屈抜きに「かわいい」という感覚が湧いてくるような。 イエスに至っては、神を「とうちゃん」などと呼ぶ。
828 :
名無しさん@3周年 :2005/10/27(木) 21:26:18 ID:uP771sdh
大乗では、智慧の完成若しくは空諦のことを、仏母と言うし、どの大乗経典であったか 言えないが、空諦のことを「御身」とか呼びかけて、キリストが神を父よと呼ぶ様に 、そのような賛嘆の祈りがあったが。。。
829 :
名無しさん@3周年 :2005/10/27(木) 21:44:19 ID:uP771sdh
宝積教、多分これだ。
>>828 一切の仏と菩薩に礼拝する。十方の果てしなく極まりない世界におられる過去、未来、現在のあらゆる仏と菩薩に礼拝する。尊い神聖な(知恵の完成)に礼拝する。
一 妄想無く、計り知れない(知恵の完成)よ、貴方に礼拝する。完全無欠な者よ、完璧なものが貴方を見る。
二 汚れなく、言葉も文字も離れている虚空のような貴方を見てこそ、まことに人は如来を見る。
三 正しい者達は、月と月の光に違いを認めないように、師徳高い貴方と世間の師である仏との間に違いを認めない。
四 慈悲にあふれた者達は、仏の教えの先頭を良く貴方を、(自らに)踏み行い、比べ物も無い偉大な存在を容易に得る。信を愛するものよ。
五 ひとたび心が清らかとなり、規則に従って貴方を見るとき、その見ることはむなしからず、その人は必ず完成を得る。
六 貴方は他の者の為に身をささげる雄雄しいものを皆、生み育てるやさしい母である。
七 慈悲に満ち世間の師である仏達も、あなたの子供であるゆえ、貴方はあらゆる者の祖母である。幸あるものよ。
八 非難の無いものよ、星を従える新月のように、あなたは常に、汚れの無い全てのパーラミターを従える。
九 至るところで如来達は、導かれる人々の(違い)によって、一人の貴方を、異なった名称で、いろいろの姿として賞賛する。
一〇 露のしずくが太陽の光に当たって消えるように、貴方に会えば、論者達の議論も誤りも消滅する。
一一 同じ貴方が、愚かな者には恐怖を起こして、恐ろしく見え、賢いものには慰安を与えて、親しいものに見える。
830 :
名無しさん@3周年 :2005/10/27(木) 21:45:15 ID:uP771sdh
続き 一二 貴方を寄る辺としながらも、貴方に対して愛着さえしないようなものに、どうして他のものに対する貪りや怒りなどがあるであろうか。 一三 貴方はどこからも来ないし、どこにも行かない。全ての場所において、知者も貴方を捕らえない。 一四 まさに貴方を見ないようなもの達こそ、まことの意味で(貴方を自らに)踏み行うのである。行なって彼等は解脱する。之こそ大きな不思議である。 一五 まさに貴方を見る者は縛される。見ない者も駁される。まさに貴方を見る者は解脱し、見ない者も解脱する。 一六 ああ、誉れ高いものよ、貴方はすばらしい。貴方は深遠である。貴方は量りがたいこと、幻のごとく、且つは現れ、且つは現れない。 一七 諸々の仏や独覚や声門に仕えられた貴方こそ、ただひとつの解脱の道である。他に道の無いことは、決定的である。 一八 世の守護者(である仏達)は、身体を持つものの言葉や概念に合うように、慈悲によって貴方を語り、そして又語らない。 一九 この世の誰が貴方を称えることができようか――無相無垢であり、いかなる者にも依存せず、あらゆる言葉の境を越えている貴方を。 二〇 そうであるけれども我々は、ほとんど称えることもできないほどの貴方を、世の習いに従い、このような言葉を使って、賛嘆しようと望み、心安らかである。
世間で人が矛盾が少なく勝れているとみなす見解を 「最上のもの」「最も正しい見解」であると考えて、 それぞれの見解を確信し、 それに合致しない他の見解すべてを「劣っている」「誤りである」と説く。 それ故に彼らは諸々の論争を超えることは決してない。 彼らは自分の見たこと学んだこと、戒律、道徳、思索したことについて 自分の確信したことのみに優れた実りを見て、それに固執して それにそぐわない見解をつまらないもの、虚偽のものと見なす。 それは実にこだわりであって苦しみの種子であると私は説く。 それ故に修行者はそのこだわりを離れて論争を超え安らいに赴く。
ものすごく下らないスレになったね。 原始仏教とは程遠い。
833 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/28(金) 12:21:11 ID:SiD/QLgj
>>832 :名無しさん@3周年:2005/10/28(金) 11:17:59 ID:2HuMWI/L
> ものすごく下らないスレになったね。
> 原始仏教とは程遠い。
832さんのように、
無自覚に悪口による業を積んでいる人に感じる感情は、
私の場合、愛ではなく、慈悲ですねw
<--
451 自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。
これこそ実に善く説かれたことばなのである。
-->
834 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/28(金) 12:22:34 ID:SiD/QLgj
832 さんへ
>>831 の
> それに合致しない他の見解すべてを「劣っている」「誤りである」と説く。
を
それに合致しない他の見解すべてを
「ものすごく下らないスレ」「原始仏教とは程遠い」と説く。
と差換えて読んでごらんよ。あんたのことだよw。
>>833 >832さんが自称仏道修行者だと言っても自分はそれを信じることは
できないけれども
>832さんのように、 無自覚に悪口による業を積んでいる人
に833さんが、怒りなどでは無く慈悲の心を生じることが
できる方なのだとすれば833さんはまさに仏道修行者と呼ぶに
相応しい方だと自分は思います。
>832さんもこのスレに何か自分の心を苦しくさせて不愉快にさせ 許すことができないところがあれば それを「ここはこのようにしたら自分にとっても役に立つし もっとみんなにとっても役に立つし自分の不愉快も不満も 苦しみも生じなくなる」 という形体で提言してくれれば 多くの人も賛同するだろうし不満も最もだと同調する人もでてきて >832さんにとって下らないことが無いスレに変化するかもしれないし。
このスレはつまらないし次元が低いし憤りと不満しか生じないので ただ罵声をあびせかけてうまくすれば ここに居る人に嫌な想いでも起こすことができるかもしれないし もしそうなったら気が晴れるしスッキリして愉快な気持ちになれる というのであれば、それは多分>832さんにとってこの先の 苦痛の原因にはなってもそれを少なくすることには役に立たない ような気がして。
838 :
名無しさん@3周年 :2005/10/28(金) 21:27:42 ID:EwJAjtDE
ひそかにでも悪いことをしないように、何処か遠いところででも悪いことをしないように、と教えている。 この2チャンネルにおいても、油断してけないのだと思います。修行の場です。
839 :
名無しさん@3周年 :2005/10/29(土) 11:37:55 ID:gkEPGRyO
ここはサンガです。
840 :
名無しさん@3周年 :2005/10/29(土) 15:04:09 ID:3t7Q/qLf
サンガであるなら、尚更に質の向上が求められてしかるべきと思われる。 人間性の問題はもちろん、頭脳の中味も質的に高くなければ優秀なサンガ は育たないだろう。 大乗運動の発生とサンガの質的低下は、どうしても看過できないものが あると思われる。一般に部派仏教といえば、出家専門の難解で煩瑣な哲学 に傾きがちとの認識が先行しがちだが、それにもまして当時のサンガを直 接に打撃したのは、俗世間で食い詰めたあぶれものが食い扶持を求めて寄 生するようになり(修行は単なる口実)、結果的にサンガを維持していく のが困難になったからであるといわれる。そのような点から反省すれば、 人間性はもちろんのこと、頭脳の方も質が高いほうがよろすいのです。
841 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/29(土) 16:11:00 ID:kPNxKzcQ
>>840 :名無しさん@3周年:2005/10/29(土) 15:04:09 ID:3t7Q/qLf
> サンガであるなら、尚更に質の向上が求められてしかるべきと思われる。
> 人間性の問題はもちろん、頭脳の中味も質的に高くなければ優秀なサンガ
> は育たないだろう。
(省略)
> 人間性はもちろんのこと、頭脳の方も質が高いほうがよろすいのです。
なるほど。
ところで、(テーラ・ガーター)557〜562のチューラ・パンタカの話はご存知ですか?
842 :
名無しさん@3周年 :2005/10/29(土) 16:56:06 ID:EZVTg2jL
>>841 >ところで、(テーラ・ガーター)557〜562のチューラ・パンタカの話はご存知ですか?
チューラ・パンタカの話を、サンガには馬鹿が相応しいと考える人はいないでしょう。
精神薄弱者が悟りに近いとはいえないように。
843 :
名無しさん@3周年 :2005/10/29(土) 17:08:15 ID:gkEPGRyO
頭能などありません、まして、優秀とか優秀でないとか言うことはありません。
844 :
名無しさん@3周年 :2005/10/29(土) 17:21:54 ID:EZVTg2jL
優秀とは、四諦の道理に通じることね。 伴侶がそれの道理に優秀でないならば、 犀の角のようにです。 非優秀な人にいつまでも関わらないこと。 後世にまで残され、今もなお老若男女の不朽の道標の依止として、 熱心に読まれている経・律・論は、頭脳の勝れた人によって書かれた ものだと思います。 チューラ・パンタカのような人によって書かれたものではないと思います。
845 :
名無しさん@3周年 :2005/10/29(土) 17:43:51 ID:gkEPGRyO
>>840 5 この僧団が分裂し様としていたときに、若しも汝らがそれぞれ「その人が最も優れている」
と考えるのであるならば、「分裂を」もたらすそれぞれ別の声が上がったのである。_____
汝らが「その人が最も優れていると」思いあがって考えるのであるならば。
6骨を断ち命を奪い、牛・馬・財宝を略奪し、国土をも掠め取るものどもにさえも協和がある。
それなのに、この理法を理解している汝らにどうして協和が無いのだろうか。
ウダーナ第14章「憎しみ」
この「理法」とは何でしょうか?
846 :
暇人 :2005/10/29(土) 23:20:15 ID:YmFBlZiA
伝承に拠れば、経典の結集は八日間で悟った優秀なマハー・カサッパが主宰し、 釈尊に25年付き従ったが悟れなかったボンクラな付き人アナンダが、 (釈尊死後、釈尊の遺法決定会議直前、マハー・カッサパの指導で悟る) 中心になって誦出したわけだが、 実質は非優秀なアナンダが纏めたものですね。 アナンダは釈尊面授の弟子としては最も長生きした一人で、優秀ではなかったが 多くの人より慕われていた性格のよさと長生きで 釈尊グループの中心になった。 というわけで仏教経典は釈尊や優秀な頭脳が作ったのではなく、 25年悟れなかったボンクラな頭脳の記憶によって作られたのですね。
847 :
暇人 :2005/10/29(土) 23:21:11 ID:YmFBlZiA
釈尊グループで最優秀を挙げると東の横綱はシャーリプトラ。彼はジャイナ教から、 釈迦グループのリーダーと見なされた釈尊グループの堂々のナンバー2。 実質は実務面においても、頭脳面においてもナンバー1だが、釈尊を立て続けたの でしょうね。彼は釈尊の説法を聞くまでもなく、釈尊の最初の説法相手の五比丘の 末席の一人の断片的な説明ですべてを察する頭脳ですね。 西の横綱は、ちょー真面目な求道者 釈迦族のホープ提婆達多。彼はその後の仏教から 言われ無き誹謗中傷を受けるが、優秀さにおいては、飛び抜けていたので、 「非優秀な人にいつまでも関われない」と堕落した釈迦-舎利弗グループから離脱・独立 したのですね。シャーリプトラの挽回によって、優秀な人たちの一部を取り戻すが、 提婆達多グループはその後1000年ほど 真面目なグループを維持しますね。
848 :
暇人 :2005/10/29(土) 23:22:35 ID:YmFBlZiA
マハー・カッサパも優秀派で、考え方は提婆達多と同じですね。 たぶんシャーリプトラの説得によって釈尊-舎利弗グループに残ったのでしょうが、 厳しく優秀な修行「頭陀行」の第一人者ですし、釈尊死後の釈迦グループの堕落を 危惧して、経典結集、つまり教法のスタンダードを決めようとしたわけですし、 弟子のうちでも悟った優秀な500人だけを選抜したのですね。 アナンダは非優秀な有学でまだ悟ってなかったので、会議出席資格はなかった。 無理矢理会議に出席させるために集中講座を…。 たぶん悟ったことにしたのでしょうね。 ここは非優秀な人たちに開かれた場であるといいなぁ。 提婆達多とか 優秀な人たちだけで運営したい人たちは それはそれで そういう場を…と。私はご遠慮したいですね
>>848 お詳しいですね。ありがとうございました。
暇人さんはこのスレの前の部分で皮肉っぽい感じで
やりとりされていたのでキツイ嫌な感じの人であると
勝手に思っていましたが誤解していました。すみません。
理解力の豊富な人にわかるように教えることができる人 知識の多い人にわかるように教えることができる人 理解力の平凡なにもわかるように教えることができる人 知識の並程度の人にわかるように教えることができる人 理解力に乏しい人にでもわかるように教えることができる人 知識の乏しい人にわかるように教えることができる人 誰でもできること 誰でもある程度できること 優秀な人にしか為しえないこと
ある優秀な人が存在しある優秀な考えを作り上げた。 その優秀な人は優秀な自分以外に誰1人にもその優秀な考えの道理を 教え理解させることができなかった。 だからその人は誰からも優秀と言われなかったが その人はそれは自分以外の人が優秀でないことをその原因にした。
例えば 義務教育卒業程度の知識と理解力と仏教の本を数冊読んだくらいの人 の程度は一先ず門前払いであって問題外、 大学卒業程度の知識と理解力と仏教の本や専門書を最低でも100冊 読んだ人くらいから論議しましょう、というのなら やはりどちらかというと 【ハイレベル原始仏教ディスカッション◆初心者お断り◆】 というスレを立てて差別化する、のほうが良いような気がするのですが。
853 :
名無しさん@3周年 :2005/10/30(日) 01:35:00 ID:6IYb6TPy
855 :
名無しさん@3周年 :2005/10/30(日) 08:19:01 ID:yvYWqW2C
「悟り」とは一種の体験だから下手に知識が多いとかえって邪魔 になると思うが。
856 :
名無しさん@3周年 :2005/10/30(日) 10:12:45 ID:iIx6udOd
>>852 こういう頭でっかち達が、仏教を駄目にしたんだよね。
ま、
>>852 はただのアホかも知らんが。
857 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/30(日) 11:53:13 ID:YV3M9xoP
>>842 :名無しさん@3周年:2005/10/29(土) 16:56:06 ID:EZVTg2jL
> >ところで、(テーラ・ガーター)557〜562のチューラ・パンタカの話はご存知ですか?
>
> チューラ・パンタカの話を、サンガには馬鹿が相応しいと考える人はいないでしょう。
> 精神薄弱者が悟りに近いとはいえないように。
えーと、要するに「チューラ・パンタカの話はご存知ですか? 」に対する答えは、
YESなわけですね。
>>844 :名無しさん@3周年:2005/10/29(土) 17:21:54 ID:EZVTg2jL
> 優秀とは、四諦の道理に通じることね。
チューラ・パンタカは悟ったわけですから、四諦の道理に通じていたことになります。
つまり、チューラ・パンタカはあなたの論理では優秀だったわけですね。
> チューラ・パンタカのような人によって書かれたものではないと思います。
四諦の道理にも通じていない人が書いたとは信じがたいです。
858 :
名無しさん@3周年 :2005/10/30(日) 16:27:51 ID:6IYb6TPy
-------------------------------------------------------------------------------- 796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。 797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。 798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。 799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。 800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。 801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。 802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか? 803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
859 :
名無しさん@3周年 :2005/10/30(日) 17:33:59 ID:aKXEasP2
>>854 仏教学について低レベルだからって、修道において低レベルとはかぎりませんよね。
860 :
名無しさん@3周年 :2005/10/30(日) 18:03:14 ID:zfIsEXgX
優秀という言葉を特定の人物群に限定して捉えれば、アーナンダは非優秀で、 シャーリープトラやマハーカッサパやダイバダッタは優秀ということになる ようですね。 しかし、その非優秀な?アーナンダでさえもが、我々凡夫から見れば経典の 編纂に関わり尽力した優秀な人物ということになる。 優秀という言葉といえども縁起の理法に照らせば、TPOに応じて様々に変 わるし、一概にこれこれだと決め付けられるものではない。 何分にも伝承でしかないのだから、その伝承を金科玉条の如く判断の基軸と するようでは、自燈明・法燈明の真義に触れることはできないと思う。 本当の奥義といわれる領域は、もしかしたら経典等には記されてはなく、釈迦 伝にしろイエス伝にしろ、わたしたちは何一つとして直接に確かめる術はなく、 そのような限定的な状況にあっても、それでも経典を読み、論書に目を通し、 戒律を守ろうと心掛けたりしている。 この2ちゃんでの優秀の意味合いには、伝承された釈尊の弟子たちの機根の差 異性を持ち出して来る必要性はなく、たとえ初心者ではあっても、それでもも う少し質の高いレスを望みたいというニュアンスくらいに受け取りました。 そして、それは誰しも内心思っていることだと。 #当たり障りのない、傍観者的な仲裁レス?も度々お見受けします。 それを踏まえての質の高い議論も、しかし仏教に反しているとは思えません。 どうも失礼をば致しました。(以後ロムに徹します)
861 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/10/31(月) 02:20:55 ID:QfFyzKtX
優秀・非優秀と分ける考え自体が問題じゃないの。このような分別思考、 物事を2つに分けて考える識別作用を捨て去れと教えていなかったっけ。
862 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 02:23:22 ID:EGBlgxYY
>「冷たい水」を尊いと考える人間は、 >つるべという道具に自分なり工夫を加えるのではないでしょうか? >つまり、教えに熱心であれば熱心であるほど、 >経典に手を加えるという皮肉な現実があったのではないかと考えます。 引用に即して言えば、冷たい水(高い目的)やつるべ(筏)から離れなさい というのが釈尊の言葉。 無宗ださんが、本当の意味で絶望して出離の念を起こさなければ、 宗教としての仏教は永遠にわからないでしょう。 チューラ・パンタカ尊者にしても切実に悩まれた上で御修行なされたと思います。
863 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 02:34:24 ID:EGBlgxYY
ごめんなさい誤爆でした。
864 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 09:17:00 ID:P8n90fFX
>>862 >宗教としての仏教は
この様なものは無いと言うのが仏教。宗教(信仰:何か実体があるとして、
それを信じること)を捨てよと言うのが仏陀の教え。
865 :
私 :2005/10/31(月) 09:30:10 ID:07YXQGqZ
このようなものは無いというのは? 釈尊は具体的な修行法はどのようなものを挙げられているしょう? 勉強不足であまり存じませんので。
866 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 12:21:07 ID:P8n90fFX
837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」 838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」 839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、 清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」 840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、 戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」
867 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 12:23:45 ID:P8n90fFX
841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。 あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。 842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、──かれらはその思いによって論争するであろう。 しかしそれらの三種に関して動揺しない人、──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。 843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか? 『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。 844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、 未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。
868 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 12:24:56 ID:P8n90fFX
845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、 そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。 846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれらの本性はそのようなものではないからである。 かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。 847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
869 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 12:26:53 ID:JlkURTHN
870 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 12:31:28 ID:+yHJvTZq
>>861 おじゃま虫様へ、
>優秀・非優秀と分ける考え自体が問題じゃないの。このような分別思考、
>物事を2つに分けて考える識別作用を捨て去れと教えていなかったっけ。
色即是空⇔空即是色です。
沈空で終る(識別作用の捨)のが仏教ではありませんね。
対立的な識別作用を捨てるのは基本前提であり自明の理。
善智識は不分別を行ぜず、です。
二元的な識別作用を離れた無分別智から、
返照する分別智が、不分別を行ぜずです。
実際の現実生活に即して、犀のように孤高に歩むなら尚更、
実存的に優秀でありたいと思っております。
仏教は弁証法ではありませんが、敢えて弁証法を当てはめるなら、
この実存的な優秀とは「止揚」でしょうか。
あるいは常に反省自覚していく自己=初期仏教でアートマンと言われて
いるもの。→自灯明・法灯明がわたしの修道であります。
くどいようですが、この修道とはもちろん教行一致です。
教では低レヴェルだが行ではハイレヴェルといった、分裂したものではありません。
仏教は事理一体です。
871 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 12:32:24 ID:P8n90fFX
一切のものは縁起しているもの故に、実体(自性、固定的存在)ではない、と言う智慧、 により執着から解脱する。最終的に、最後には智慧をも放棄する。かくして、解脱する。
872 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 12:41:00 ID:P8n90fFX
>>869 三宝と言うのも無執着を説いているので、三宝でしょう?
873 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/10/31(月) 12:50:27 ID:ZU++Wsin
>>862 :名無しさん@3周年:2005/10/31(月) 02:23:22 ID:EGBlgxYY
> 引用に即して言えば、冷たい水(高い目的)やつるべ(筏)から離れなさい というのが釈尊の言葉。
激流を渡るためには、筏は必要です。
まだ、彼岸には到達せず、此岸にいる身には、
善悪の分別は必要で悪からは離れているのが無難です。
筏は、この激流を渡り終えれば、不要になるかも知れません。
しかし、今、このこの激流を渡るためには必要なものです。
煩悩即菩提は、彼岸に立って、はじめて成立する考えでしょう。
此岸にいる身には、煩悩はあくまで煩悩に過ぎず、滅する必要のあるものです。
874 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/10/31(月) 17:21:57 ID:K/2ID/bj
>>870 お釈迦様は形而上的な哲学を説いたのではなく、悟りに至る方法を示した。
教典の言葉は悟った人がどう考えているかを語っているのにすぎない。そし
てそれは、自分ではなく他人の言葉なのです。いくら事細かに読んでみても、
結局は他人事でしかない。
犀の角ではないが自分を解脱させられるのは、自分しかいないということで
はないですか。
875 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 17:31:44 ID:P8n90fFX
>>874 少しずれると思いますが、「>お釈迦様は形而上的な哲学を説いたのではなく」とはよく言われることのようですが、
形而常学的哲学もまた、受想行識の中に含まれると理解すべきだと思うのです。
この受想行識が(空)なんですから、空が形而常学的哲学の解答と言うべきだと思うんです。
876 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 18:21:24 ID:h8+Lu9ZL
馬鹿といわれたら良い気分ではなくなったり苦しくなったり 怒ったりする。 君は優秀だ、すごいと言われたらそんなに悪い気はしない。 もし他者のこのような賞賛や罵声に対し喜びも苦しみも怒りも 抱かないというのであれば 自分はその人は優秀と非優秀を超えている(区別が無い) と思います。 優秀や非優秀など存在しないのだからそうゆう区別をする人が おかしいなどといっても、その人が他者からの罵声に苦しみや怒りを 感じることがある人だとするとそれは口でいうだけに過ぎないと思うのです。 それで問題は優秀非優秀の有無の証明ではなくて それにともなう劣等感や悪く罵られたときに生じる怒りや苦しみが どう停止するのか、どう平安を得るのか、ということであると思うのです。
877 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 18:54:12 ID:JlkURTHN
>>876 「バカ」という言葉をただの音声として聞けばいいのでは?
好きな人に告白する時に、「つり橋効果」ってのがあります。
デートで相手を高い場所に連れていくと、高いところだから緊張してドキドキする。
ところがデート中には、その心拍数の上昇を、相手への恋心だと錯覚してしまうわけです。
逆に言えば、恋心も、恐怖や怒りも、ただの心拍数の上昇にすぎないと、斬り捨てればいい。
「バカ」という言葉に脳が反応しても、それは脳が癖で反応しただけで、「わたし」が反応したわけではない。
脳や心身の反応を、他人事のように処理すればよい。
>>877 興味深い面白いアイデアだと思います。
>脳や心身の反応を、他人事のように処理すればよい。
それが全く徹底されれば「わたし(自我で無い)」は
脳や心身から開放され脱けたともいえるかもしれませんね。
>>877 さんはその境地を獲得されましたか?
ワシは先祖代々知能の優れた家系の生まれであるし それ故学業成績も努力を少なくして優秀、 また知識も豊富であって仏典の知識にも広く深く通じている ということは、そんなことは存在しない、などということは無く 確かにそのような人は通常の感覚では「存在」し 疑いの余地は無いと思うのですが、ただ、そのような優秀な人が 仏教の教えとはこれこれこのようであって しかもこれこれこのようにするとあなたの苦しみも少なくなるでしょ? という風に説くならば誰もが優秀な彼を尊敬することはあっても 奢り高ぶった人などとは思わないだろうし。 ただそれがワシは優秀であって仏教知識も豊富だが 理解力が乏しくて知識の少ない奴にはとうていワシのようにはなれない だろうし、まあ運が悪かったと思うことだろうな。 などという人がいればその人の知能の高さは在り得るとしても その類の言動はそれほどみんなの苦しみを少なくする役に立たないし ましてや彼を尊敬したりはしないだろうし。 例え頭の良い人が語る矛盾の少ない話であっても ワシは頭が良くて金持ちで幸せだがそうでない人はおきのどく、 といった話であれば、そうではない人からすれば何の役にも立たない と思うのです。
同様に この世は空なんだから 苦しみなんてないし優劣もないし つまりお前の認識が間違っているんだよ、 などと言われても、苦しみが少なくなったりしないし つまり 一切皆空が疑いの余地の無い事実であるとしても それでは誤って認識しながら生じる苦楽にふりまわされている人に そうであることや形而常学的真理が役に立つのかなどという ことがあって。
881 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 23:22:10 ID:P8n90fFX
>>880 あなたの言うことは全くもっともです。
食料は悪であるとあります。食料と言うものが有ると思っていることは、
食料に固執しているのですね。食料は有身見に相対している。この世に今だ執着の念があるのですね。
882 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 23:30:22 ID:P8n90fFX
師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。 あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。 私たちの求めるものは、確立された優れた教義、理法ではなく、まさに「心の平安」であることを 忘れていなかったでしょうか?
883 :
名無しさん@3周年 :2005/10/31(月) 23:33:29 ID:P8n90fFX
続き
>>882 の引用はスッパニパータ841でした。
884 :
877けちゃっぷ :2005/11/01(火) 01:02:10 ID:F0UGFsGT
>>878 僕は念仏者ですので、すべての現象は大きく二つに分けられます。
「念仏」と「念仏以外」です。
「念仏以外」は所詮「念仏」ではないので、たいした差異はないのです。
人生は「念仏」のためにあり、「念仏以外」は結局「念仏」を妨げる妄念です。
「念仏」が主人で、「念仏以外」は次々とやって来ては過ぎ去る来客達です。
心拍数に気をとられている時は念仏が中断してしまう。
そのうちまた念仏に戻る。
それで人生OKです。
>>884 さん
それは一貫しているし面白く興味深い話に思えます。
観音や真言系列の教えの真髄がそのような考えに類似してるの
だとすると成る程とうなずけますね。
もしかしたら全然そうでは無いとしても
>>884 さんの意識のあり方は成る程苦しみや想いに対する
1つの方向を示していて確かにその徹底によって
過ぎ去るものに流されない点に(意識が)とどまる極意になり
即ち喜びや苦しみの外側に意識が座居する在り方としては
優れたものを表示しているように思えます。
呪文のように自分自身に言い聞かせたり納得させたり するよりは、それを自然体で為せるように、つまり呪文と化した 思考パターンを思念することさえもなくなるように、 このサンガで学んでまいりましょう!
世親の浄土論と中国や日本の浄土思想との乖離 について語っちゃってください。
>>886 そうですね。
ただ個人的な立場としましては呪文であっても
呪文でなくても暗示であってもそうでなくても
最大限に可能な限りルール無用の苦しみの消滅道であれば
いいなあと思っています。
どのような形態が相応しいとかでなくて
それがどのようにどの程度苦しみを滅ぼすか、ということに興味があります。
真言宗であっても呪文宗であっても はたまた「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽浄土に赴けるという のであっても例えそれが仏陀の最初の教えからの変則であったとしても またすっかり別のものであったとしても 個人的にはそれによって疑うことのできない確かな平安や苦しみの 減少を得ることができるのだとすれば良いと思っています。 ただ原始仏教スレということを強調するというのであれば それはおかしいぞ、という立場はあるのかもしれませんね。 ただ様々の人の信仰や信念のあり方を可能な限り損なわないことが 個人的に良いと頼まれもしないのに余計な心配をしてしまいます。
毎日お経を唱えている在家の仏教徒の人がいて その人はお経を唱えることによって苦しみが少なくなって 生活に満足しているのに 「それは仏教ではないですよ」「間違っています」 「そんなことをしても何にもなりませんよ」 「仏陀はそんなこと一言もいっていません」 などと言えば、それは本当にその人を苦しめるなあ、と。 もちろん違いを説明してその後その人を確実にその時以上の平安に 至らすことを自分が100%保証と全責任を持つというのであれば そこに問題は無いと思うのですが。
891 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/11/01(火) 03:38:52 ID:3LcUQ6NB
念仏だろうが、お題目、座禅、真言、心の平安がえららればなんで もかまわないと思う。ただ念仏だけ、お題目だけ、座禅だけ等が心の 平安を得る唯一の道だとすると、それは違うと言うしかない。
892 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/11/01(火) 06:42:03 ID:/GvgpP5+
>>890 > もちろん違いを説明してその後その人を確実にその時以上の平安に
> 至らすことを自分が100%保証と全責任を持つというのであれば
> そこに問題は無いと思うのですが。
それはありえないでしょう。
如来はただ道を教えるのみ。
涅槃に到達するかどうかは、本人次第。
1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」
1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」
気休めと正見・正思惟…とはどこがどのように違うのですか?
894 :
名無しさん@3周年 :2005/11/01(火) 12:13:51 ID:3H3IhbVQ
>>891 何でも良いのではないと思うよ。
平安があることを理解できる理法が必要だ。
縁起と空と言う理法がそれであるとし、それを正法と大乗では言います。
空と言う一相が真理であると言うのですが、そうであれば、変化と言うものは無いのですから、
私達には、心配が無いのです。生労病死と言うものが無いのです。
そこでこの真理に至るための修行と言うものが生じてくるのですが、37菩提分法と言われるものではないですか?
その要点は、有る無いに迷う心の抑制と言うもんだと思いますが。この迷いが
まさに心の苦しみに他ならないのではないですか?
895 :
名無しさん@3周年 :2005/11/01(火) 12:18:28 ID:F0UGFsGT
>>893 本気でそう思えるかどうかでは?
目の前に虎がいて、虎に対する恐怖が空だと自分に言い聞かせても、
実際に恐怖が消えていなければ悟っていない。
人というのはよくできているもので、その人の人格の許容範囲を越えるような 衝撃的な事実は見ないように、直視しないようにするような仕組みが働いています。 これはトラウマの源になるような衝撃から、生理的な物、社会間に働くものまで、 広い範囲にわたって観察できます。 この場合に限って言いいます。 厳しい自然環境に対して、それを荘厳な美しいものと捉えるか。 あるいは峻厳な殺伐とした物として捉えるかは同一の個人にしても時により異なります。 山篭りをした人に御話をお聴きした中で、山に慣れてくると、 木の枝の伸ばし方一つ、道の曲がり方にも法則性を見るようになり、やがて 普通のひとにはなんでもない林の中に、今刻々と働く生滅相克を見るそうです。 つまり苦を苦と見るためにはそれなりの体力がいるのです。 捨離することによって自然に発生する力ではありますが、 まれに日常生活を送っていてこの苦に気付く人もいないわけではありません。
さらにいえば、精神的な安定を欠いた人の言う苦、これは基本的には修道の対象にはなりません。 なぜなら病気が治ればその人の苦も消えてしまいますから(爆笑
病気が治った上で見えてくる苦。 自分個人の際立った問題を解いた上で見えてくる苦。 病人が使う苦と同一語句を使っていますが違う苦ですね。 本当にはとても関連性があるのですけど。まず病人は病気を治しなさいということで。
病人の苦は苦では無く 健康な人の苦が苦であるとか この苦は苦では無くあの苦は苦であるとか 私の苦は苦であるがあの人の苦は苦以前の問題であるとか そのような違う苦など無い。
貧しい人の苦はお金を稼げばその人の苦も消え 病人の苦は病気が治ればその人の苦も消え 求めるものが得られない苦しみは得られればその人の苦も消える。 だからそのような苦しみは仏教で扱う苦しみの対象になりませんなどと 誰がいえるというのか。
901 :
名無しさん@3周年 :2005/11/01(火) 20:27:51 ID:3H3IhbVQ
病気の苦は、それが原因の結果であること、それから、その苦は相対的に存在しているもの、 要するに、縁起しているもので有ることを、忘れない様にすることが、仏道を学んだものの努めであると 思う。だから、今の苦は必ず消える性質のもの、又、その苦は単独で存在しているものではなく、 快に依存しているもの、との縁起の理法によって見ることを忘れてはならない。 縁起を見ないで、苦を感じているなら、まことに苦に屈服しているのだ。快も求めてはならない、苦を求めないなら。 理屈からこの様に言えるはずともいますが。
>>895 >目の前に虎がいて、虎に対する恐怖が空だと自分に言い聞かせても、
>実際に恐怖が消えていなければ悟っていない。
虎に対する恐怖が空だというのなら、
虎に食われることだって、虎に食われないことだって空といえます。
実はこのような空の使い方は好きではないし、感心もしません。
なんとなれば、空ならざるものはないのですから、こういう場合、空は
無機質的で躍動感のないインクの染み、手っ取り早く使えて便利な記号
であると。
お釈迦さんならどうしたろうか。
恐怖を慈悲に転換して、飢えた虎に我が身を供養するのか、
はたまたそこに神通の妙有が作用して、虎の獣性がいつのまにやら…
903 :
名無しさん@3周年 :2005/11/01(火) 21:27:18 ID:F0UGFsGT
苦受も楽受も不苦不楽受も有為のものなり
気休めの空 言葉の戯れ とんちの一休さん
オマンコの描写が激しいお経を教えて
無欲の獲得を空というのならば なるほどとは思えます。 欲望を削減し小さくすることは容易ではないのだけれども。
>>908 お手数かけて申し訳ないがさわりだけでも書いていただけないだろうか?
>>909 ・・ねんぴーかんのんりき かーきょうへんじょうち
わくひょうるこーかい りゅうぎょしょきーなん
ねんぴーかんのんりき はー ろうふーのうもつ ・・
オマンコのオの字もねえ。
心眼で読め
原始仏教経典で観音なんかそもそも出てくんのか?
急に真顔なこと言い出すんじゃねえ
>>914 お前みたい奴が足利将軍だったら一休さんは
虎屏風のとんちで有無を言わせず撲殺されとるわっ!
せっかく原始うんこ宗教スレなんだからネタも原始うんこ宗教にもとづいてくれ。
>>917 だが断る!
君が自由に原始うんこ宗教スレをたてなさい。
>>917 煽り方にキレがないなw
どうしたんだ?なんかあったのか?
便秘なもんで。
ここはそうゆうスレじゃ無いんですヽ(´Д`;ヽ≡/;´Д`)/ そろそろ許してくださいヽ(´Д`;ヽ≡/;´Д`)/
お釈迦さんは胃腸が弱く、必ず食休みをとり、 右脇を下にして休んでいたらしい。
糞掃衣とは言いえて妙
>>923 言い得て妙じゃなくて、文字通りだからw
死体から剥ぎ取ったかどうかは知らんが、
ゴミ捨て場から拾ったものを洗った(洗って染め直した)もの、
つぎはぎしたものが制服だから。
>>924 >>922 のいうように釈迦が慢性ゲリピーくんだったとしたらウンコ拭くこともあったんだろうなと。
>>925 その辺は当時の文化的習慣に倣っていたでしょうがねw
当時、服で処理することが一般的であればそうしていたであろうし・・
なんとなく、(川や水溜まりの)水を使ってそうなイメージはある (^^;)
ま、その辺は専門家でないと判らん事だが。
誰か古代インドの文化に詳しい香具師はおらんかなw
ここはそうゆうスレじゃ・・・ヽ(´Д`;ヽ≡/;´Д`)/
話は戻るが独角千人みたいなエロイ話キボンヌ。
ふと、想う・・・ アホダラさんや電波さんは こういう部分には興味ないんだろうな・・・(^^;)
>>927 太刀山の存在は別にして、
人間釈尊への興味は無いのかい?
君も、教義しか眼に入らないタイプかい?
>>929 は>922>924>926のことねw
お釈迦のチンポはビッグなチンポ
そろそろ勘弁してくださいヽ(´Д`;ヽ≡/;´Д`)/
>>932 「ご主人さま 勘弁してください。」と
グリセリン浣腸500cc入れられた感じで言ったら勘弁しよう。
>>933 ミ \ ,.ミ'´ ̄ ̄`` `ヽ、| |
(( ミ ミ \' 、 ヽ|
ミ、 ミ \ i. ゙、
| ミ、 ,' l
L.___|_ l l { -─- 、
| l -、 ヽ ,. '´ ヽ
| ! ヽ ヽ ,.' ,、 ヽ
./´ ̄`V ,ヽ、 ,' ,' ; ,. ,: , ハ :, , i
/ 、 | / 、`ー ノ! ; : ; /_'/./_/ Li_l !
./ i | / ヽ ヽ 〃 / | ;:「 ____... リjリ
!. ! / ヽ {{ / (`| il| __.. ` ̄lノ i Σ
`ー‐ゝ、 ' / ヽ___,.-‐'"⌒゙| !| °,,, ,  ̄/,: ハ
`ー--‐' ,. -‐'"´ リi从_ 、 '''ノ_:_ノ ヽ
力 /"ー─------<二/ ´ヽ、-<r"/,ー、 丿
勹 ご主人さま 勘弁してください・・・
何だ荒らしか。
>>935 便秘なんだろ。
自分で入れてみたらどうだ?新しい世界が開けるかも・・・w
>>937 心配してくれて申し訳ないが
>>920 は糞の話しててキレが悪いっていうから
それにひっかけて便秘っていっただけで実際は問題なしよ。
940 :
名無しさん@3周年 :2005/11/01(火) 23:50:35 ID:KQm7yHuA
>>939 約束通りやめてください。
君は自由に原始うんこ宗教スレをたてなさい。
さみしかったら私がそこにいってあげるから。
ある一つの欲望に対する離欲であっても 離欲というのは容易に為し難いことだと思うのですが 戒律を守ることを連続することによって それが得られるものなのでしょうか?
942 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/11/02(水) 05:20:44 ID:HuIyPk5X
ゴルフコースどころかゴルフ練習場にも行ったことがない。そのくせ ゴルフの「〜打法」「こうすればシングルになれる」等という本をいっ ぱい読んで、手首の返しがウンタラナンタラ、体重移動がウンタラナン タラ、ボールの置く位置が右だ左だとやたら詳しい。 さてこの人が実際にゴルフの試合に出て、勝てるだろうか? お釈迦様は実際に自分で悟りを開いて、その方法を私たちに示してくだ さった。お釈迦様の教えてくれた方法を色々調べて研究した方がよいか、 その方法を実際に自分で行った方がよいか、どちらが悟りに近いだろう。
電波男がオカルト板で暴れた結果、この心と宗教板にオカルト板経由の VIP板厨房が流入している。話題が初歩の初歩でループしたり、オカルト、 ニューエイジ用語が飛び交ったり、2chスタンダードの煽りがあちこち のスレッドで見られるのはそのため。留意されたし。
>>942 そのような皮肉にも受け取れるような表現を使用しなくても
同様の内容がより皮肉の無い表現で伝えれると思います。
またそれを心がけることはお釈迦様の教えてくれた方法を
実践することの一つではないでしょうか?
945 :
暇人 :2005/11/02(水) 07:49:49 ID:7GSEmMKC
スレタテ失敗 どなたかお願いします
以下 テンプレ案
■原始仏教談話室 その2■
漢訳阿含経やパーリ仏典に説かれている教えについての談話室です。
参学の途上にある者同士の談話室です。まったり ゆったり学んでいきましょう。
ご関心・興味ある方が気軽にカキコできるように
初心者の方に優しくで お願いします。
以下ご参考に
原始仏教の定義 森ゼミの「原始仏教ってなーに」
www2.toyo.ac.jp/~morimori/naani.html
原始仏教関連過去ログ倉庫
www.geocities.jp/jfcps873/index1.html
パーリ仏典
www.metta.lk/tipitaka/
www.tipitaka.org/index.html
大正大蔵経-中華電子佛典協会
cbeta.twbbs.org/index.htm
難しい話や議論、論争は「原始仏教その16」へ
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1126607382/l50
946 :
暇人 :2005/11/02(水) 07:51:52 ID:7GSEmMKC
>>946 これは良いところを紹介していただいてありがとうございます。
市井の一念仏者ですけど勉強になります。
ただ勉強しすぎないようにおろおろと行きます。
では謝謝そして再会。
948 :
名無しさん@3周年 :2005/11/02(水) 08:58:36 ID:aAmShGZF
>>942 >お釈迦様の教えてくれた方法を色々調べて研究した方がよいか、
その方法を実際に自分で行った方がよいか、どちらが悟りに近いだろう。
学ばないで、行うことはできないじゃない。実は学んでいる時既に行っているんだと思う。
学んでいる時と言うのは、時間を要している。1時間学んでいるなら1時間行っているのだ。
あなたの言うのは、自分で学ばないで、教師のいうことを実践する座禅のようなものを
言っておられるのじゃないの?
949 :
名無しさん@3周年 :2005/11/02(水) 09:04:20 ID:aAmShGZF
>>954 スレタテ失敗なんて事有る?無いと思いますよ。
950 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/11/02(水) 10:12:04 ID:+gzyq00J
>>942 :お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/11/02(水) 05:20:44 ID:HuIyPk5X
> さてこの人が実際にゴルフの試合に出て、勝てるだろうか?
勝てないでしょうね。
> お釈迦様は実際に自分で悟りを開いて、その方法を私たちに示してくだ
> さった。お釈迦様の教えてくれた方法を色々調べて研究した方がよいか、
> その方法を実際に自分で行った方がよいか、どちらが悟りに近いだろう。
「実際に自分で行う」というのは出家するということですか?
まあ、在家でいるよりは、出家した方が悟りには近いのではないでしょうか?
もちろん、出家したからといって、悟れる保証はありませんけど。
たとえば、音楽に関して、
・歌って楽しむ人
・聞いて楽しむ人
・演奏して楽しむ人
・楽譜を創る人
・プロデュースをする人
・人に聞かせて稼ぐ人
いろいろな関わり方があると思います。
あなたは、原始仏教とどのように関わりたいのだろうか?
あなたは、2chのスレをどのような目的で利用したいのだろうか?
951 :
名無しさん@3周年 :2005/11/02(水) 12:20:11 ID:wu9zJZnR
>>950 日本社会の在家生活において可能なかぎりの戒を守り、
実際に瞑想を行なうということでは?
952 :
名無しさん@3周年 :2005/11/02(水) 18:15:16 ID:aAmShGZF
瞑想とはどう言うものなんですか? 座禅は空想お念ずるとは聞いていますが。
953 :
名無しさん@3周年 :2005/11/02(水) 18:46:08 ID:aAmShGZF
ホントに人を馬鹿にしたりするもんではない。ましてそれ以上の悪いことはしてはいけない。 悪い事をすれば自分が穢れるのだ。
954 :
名無しさん@3周年 :2005/11/02(水) 19:12:00 ID:Q5oROUw2
株とかギャンブルではビギナーズラックといって、 初心者が勝つケースは多々あります。 逆にいろいろと分析したり研究するようになると、不思議と勝てなくなります。 この不思議と勝てなくなる背景には、欲が増長されるという理由があります。 テクニカル分析とか研究は、それはそれで法則を見出すことですから悪いことで はありません。ほどほどにやってる分には、新規上場の場合など、馬鹿でもチョン でも勝てるのですが、そのうちにだんだんと欲が増大して信用取引などやりだす と、痛い思いをしますから、御用心!です。何の世界でも欲望の制御は大切です。
955 :
名無しさん@3周年 :2005/11/02(水) 21:02:24 ID:aAmShGZF
>>941 欲に引かれると心は騒ぎ、安らかではない。あらゆる欲を抑制するのに、
心の平安と言う目標を忘れないならば、できるのじゃないでしょうか?
反対に、欲とみなされているものでも、心の平安が乱されないならば、
しても良い事になる。これを善悪に執し無いと言うのではなかろうか?
956 :
名無しさん@3周年 :2005/11/02(水) 21:28:48 ID:aAmShGZF
続き そこで、更に理論武装することができます。一切は空で、実体有るもの無い。 この尊い真理を仏教で学んだので、私の心が平安であるときが真理なのである、と こう信じられるのではないでしょうか?
>>956 それはすごい気休めに聞こえる。
仏教が信じれば救われるとか本当にそういうものなら
どうなんだろう?少なくとも自分は仏教をやめる気がする。
958 :
名無しさん@3周年 :2005/11/02(水) 23:37:16 ID:aAmShGZF
>>957 仏教の信仰とは、縁起の法則が一切に行き渡っていること、それ故に、
一切が空であること、このことを信じることだと思います。
宇宙の彼方のことは、行ってみて解ると言うものではないと思うのです。
それは推定できることです。この推定を信仰と言うべきです。宇宙のかな他のことであれ、
あるいは反対に、素粒子とかの微小な世界に付いても、全て
縁起の法則が支配していると推定できるでしょう?
今どの縁起の法則が支配的に支配しているかどうかなど知らなくても、必ずや、
縁起の法則が支配しており、実体あるものとして自分に対しているのではない、と考えることは、
信仰によると言うべきです。少しの事実から、全ての事物を判断できるのです。いわゆる
一を聞いて百を知るといいます。実際に百をいちいち検分して知るのではないのですが、確かに知っているのです。
検分すればその通りですから。
仏教の信仰とはこの様な理法(法則)を信じることだと思うのです。故に理解を伴わない従前の信仰を
捨てよと、釈迦は言えたのだと思うのです。
959 :
グル :2005/11/02(水) 23:38:24 ID:lhDeqyx2
我 獄中の肉体を離れ 霊と精はヴァジラシァーキニーの胎内に宿る 聖母となりしヴァジラシァーキニーを讃えよ 我聖母の胎内より復活せん
961 :
名無しさん@3周年 :2005/11/02(水) 23:50:40 ID:aAmShGZF
>>958 続き
さて、空と言う「一相」であれば、又、物の変化が無いと言う意味で「無相」であれば、
我々の心は停止します。この停止した心を、安定した心、又は、平安な心と言われるべきでしょう。
心はさまよう必要が無いんですから。
この停止した心こそが真の自分の心であることを理解し、信じたら、これに反する心の動きは
悪い状態の心と言うことになるでしょう。この心は妄想を追い駆けているのです。
962 :
グル :2005/11/02(水) 23:53:31 ID:lhDeqyx2
聖母ヴァジラシァーキニーに訊け 真理に導くであろう
>>962 我らは尊師の教えを授かりたい
又尊師の奇跡を直観したいのです
くだらないことつまらないことなんとでもいえること
は聞きたくありません
我らを驚愕させてください
>>962 尊師を語る詐欺師は大勢います。
どれも犬のようなことしか語りません。
あなたはその言葉によって
あなた以外に尊師と呼べる存在はいない
ことを印してください。
http://www.hannya.net/ けっこう河合塾もビックリの
「土日でマスター2週間完全仏教!!」みたいな感じと
講師の異常なくらいのハイテンション
インド哲学にも詳しい
私は完全に知り尽くしているというスタンス
このサイトの言い分はどうなんでしょう
そんなに荒唐無稽なことをいっているようにもみえないし
うむむ・・と思っています。
ただどうしても好きになれないノリが・・。
>>959 ある程度内容が豊かでないと釣りもできない
ある程度以上の奥行きがないと偽救世主にもなれない
その意味で松本智頭夫さんは
多分相当文献は読んでいる気がする・・・
けどどうしてああなったのだろう・・
性欲や食欲や権威といった欲望は
あまりに美味しいすぎてえもいわれぬ蜜すぎるのだろうか?
最終的に酒池肉林になる教祖の中でかなりの人は
最初は真剣に道を求めていたような気がするのに・・。
967 :
一句為断一切悪 一句為修一切善 ◆3PBp6UNXnA :2005/11/03(木) 04:28:44 ID:SO4l/wd1
オウム儲はアレフのスレッドに移動してください。
前・後期密教に興味のある方は真言・チベット仏教系のスレッドに移動してください。
>暇人
昨日から何度もやっていますがスレ立てできませんね。以下テンプレにこのスレのアドを入れたもの。
漢訳阿含経やパーリ仏典に説かれている教えについての談話室です。
参学の途上にある者同士の談話室です。まったり ゆったり学んでいきましょう。
ご関心・興味ある方が気軽にカキコできるように
初心者の方に優しくで お願いします。
以下ご参考に
原始仏教の定義 森ゼミの「原始仏教ってなーに」
www2.toyo.ac.jp/~morimori/naani.html
原始仏教関連過去ログ倉庫
www.geocities.jp/jfcps873/index1.html
パーリ仏典
www.metta.lk/tipitaka/
www.tipitaka.org/index.html
大正大蔵経-中華電子佛典協会
cbeta.twbbs.org/index.htm
難しい話や議論、論争は「原始仏教その16」へ
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1126607382/l50 前スレッド ■原始仏教談話室■
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1125118802/l50
968 :
名無しさん@3周年 :2005/11/03(木) 06:42:34 ID:1jvcO2gz
969 :
名無しさん@3周年 :2005/11/03(木) 07:27:20 ID:RLq6VlNS