原始佛教 その14

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暇人氏も(*)氏も反論してこないようですから、もう一つついでに。
(*)が片山訳から孫引きして、「慧によって」を「慧の」と読みかえる
根拠にした、複註の当該箇所は次の通りです。
upAyamanasikArenA ti・・・・(中略)
・・・・jAtipaccayA jarAmaraNan ti yA jarAmaraNassa kAraNapariggAhikA paJJA uppajji,
tAya uppajjantiyA cassa abhisamayo paTivedho ahosIti attho.
( http://www.tipitaka.org/tipitaka/s0302t/s0302t-4.html )

(*)氏は、
>片山さんは「慧(paJJA)によって了解した」と訳してますが複註は《この慧が生起し》としていますので、
>我々の「般若の現観が起きた」の方が支持されると思います。よって我々は「慧によって」を
>「慧の」と読み替えて解釈します。
と「この慧が生起し」とあるように述べますが(http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122591224/564
実際には、
「『・・・生によって老死あり』という老死の原因を把握する慧が生じた、その生じている[慧]によって、
彼に現観、すなわち理解がある、という意味である」。
といった文になっています。
(*)が引用する「この慧が生起し」の「この」は代名詞の属格ではなく、先行する関係代名詞 yA (paJJA) を受ける
相関辞の tad の女性具格形 tayA であり、これは現在分詞の女性具格形 uppajjantiyA (生じている)
と同格関係にあるものです。「この慧が生起し」と訳してあるのは、代名形容詞的に訳したものであり、決して
代名詞の属格形として訳されたものではないです。
もう一つの代名詞 assa は属格ですが、男性(or中性)ですから paJJA を受けたものではなく、菩薩を
受けたものです。

さて、暇人さん、(*)さん、どうします?